長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

【天皇皇后両陛下フィリピン慰霊の旅】両陛下『比島慰霊の碑』慰霊と献花!51万人戦没者へ黙とう

2016年01月29日 15時18分20秒 | 日記









天皇皇后両陛下の比島慰霊の碑への51万人戦没者への慰霊と献花の映像は


ぐっとこみあげるものがあり、思わず泣いてしまった。


日本国の為に命を散らした戦没者の皆様の御霊も泣いたことだろう。


本当は昭和天皇裕仁が


とっくの昔にやらねばならないことだが。


両陛下に侵略戦争の罪はないから。時代ですね。




緑川鷲羽そしてはじまりの2016年へ!臥竜    緑川鷲羽2016ReBORN上杉謙信

伊藤博文 炎にたずねよ!伊藤博文波乱万丈の生涯ブログ特別連載3

2016年01月29日 09時08分10秒 | 日記










 観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
 長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚志を任命した。
 長崎にいくことになった勝海舟も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
  やがて奥田という幕府の男が勝海舟を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
 奥田のこの提案により、勝海舟は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
 勝海舟は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、勝海舟は隊長役をつとめており明るかった。
 雪まじりの風が吹きまくるなか、勝海舟は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から勝海舟のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた勝海舟は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
 勝海舟も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
  安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
  コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。
 短期間で命を落とす乾性コレラであった。
 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。
 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。

 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。
 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。
 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。
 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。

  幕府の小役人従僕と噂された若者は、航海日誌の写しを整理していた。
 全身の発疹がおさまりかけていた。
 その男は馬面でキツネ目である。名を高杉晋作、長州毛利藩で代々百十万石の中士、高杉小忠太のせがれであるという。高杉家は勘定方取締役や藩御用掛を代々つとめた中級の官僚の家系である。
 ひとり息子であったため晋作は家督を継ぐ大事な息子として、大切に育てられた。
 甘やかされて育ったため、傲慢な、可愛くない子供だったという。
 しかし不思議なことにその傲慢なのが当然のように受け入れられたという。
 親戚や知人、同年代の同僚、のみならず毛利家もかれの傲慢をみとめた。
 しかし、その晋作を従えての使節・犬塚は、
「やれやれとんだ貧乏くじひいたぜ」と晋作を認めなかった。
 江戸から派遣された使節団は占領された清国(中国)の視察にいく途中である。
 ひとは晋作を酔狂という。
 そうみえても仕方ない。突拍子もない行動が人の度肝を抜く。
 が、晋作にしてみれば、好んで狂ったような行動をしている訳ではない。その都度、壁にぶつかり、それを打開するために行動しているだけである。
 酔狂とみえるのは壁が高く、しかもぶつかるのが多すぎたからである。
「高杉くん。 だいじょうぶかね?」
 晋作の船室を佐賀藩派遣の中牟田倉之助と、薩摩藩派遣の五代才助が訪れた。
 長崎ですでに知り合っていたふたりは、晋作の魅力にとりつかれたらしく、船酔のあいだも頻繁に晋作の部屋を訪れていた。
「航海日録か……やるのう高杉くん」
 中牟田が関心していった。
 すると、五代が、
「高杉どんも航海術を習うでごわすか?」と高杉にきいてきた。
 高杉は青白い顔で、「航海術は習わない。前にならったが途中でやめた」
「なにとぜ?」
「俺は船に酔う」
「馬鹿らしか! 高杉どんは時化のときも酔わずにこうして航海日録を写しちょうとがか。船酔いする人間のすることじゃなかばい」
 五代が笑った。
 中牟田も「そうそう、冗談はいかんよ」という。
 すると、高杉は、
「時化のとき酔わなかったのは……別の病気にかかっていたからだ」と呟いた。
「別の病気? 発疹かい?」
「そうだ」高杉晋作は頷いた。
 そして、続けて「酒に酔えば船酔いしないのと同じだ。それと同じことだ」
「なるほどのう。そげんこつか?」
 五代がまた笑った。
 高杉晋作はプライドの高い男で、嘲笑されるのには慣れていない。
 刀に自然と手がゆく。しかし、理性がそれを止めた。
「俺は西洋文明に憧れている訳じゃない」
 晋作は憂欝そうにいった。
「てことは高杉どんは壤夷派でごわすか?」
「そうだ! 日本には三千年の歴史がある。西洋などたかだか数百年に過ぎない」
 のちに、三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい……
 という高杉の都々逸はここからきている。

  昼頃、晋作と中牟田たちは海の色がかわるのを見た。東シナ海大陸棚に属していて、水深は百もない。コバルト色であった。
「あれが揚子江の河水だろう」
「……揚子江? もう河口に入ったか。上海はもうすぐだな」
 揚子江は世界最大の川である。遠くチベットに源流をおき、長さ五千二百キロ、幅およそ六十キロである。
 河を遡ること一日半、揚子江の沿岸に千歳丸は辿り着いた。
 揚子江の広大さに晋作たちは度肝を抜かれた。
 なんとも神秘的な風景である。
 上海について、五代たちは「じゃっどん! あげな大きな船があればどけな商いでもできっとじゃ!」と西洋の艦隊に興味をもった、が、晋作は冷ややかであった。
 晋作が興味をもったのは、艦船の大きさではなく、占領している英国の建物の「設計」のみごとさである。
 軍艦だけなら、先進国とはいいがたい幕府の最大の友好国だったオランダでも、また歴史の浅い米国でもつくれる。外国に占領された清国(いまの中国)の人間は、外国人に支配され、通行料金がないというだけで犬コロみたいに蹴られ殴られ、暴行を受ける。日本の尊皇攘夷派と何が違うのか?尊皇攘夷など荒唐無稽である。「日本国を外国の植民地化されたらたまったもんじゃねえ!」晋作は思ったという。
 しかし、建物を建てるのはよっぽどの数学と設計力がいる。
 しかし、中牟田たちは軍艦の凄さに圧倒されるばかりで、英国の文化などどこ吹く風だ。 ……各藩きっての秀才というが、こいつらには上海の景色の意味がわかってない。

  坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。大河ドラマ『花燃ゆ』では、伊原剛志さん演ずる龍馬が長州の松下村塾にやってきて久坂(旧姓・杉)文と出会う設定になっていた(大河ドラマ『花燃ゆ』第十八回「龍馬!登場」の話)。足の汚れを洗う為の桶の水で顔を洗い、勝海舟や吉田松陰に傾倒している、という。松陰亡き後の文の『第二部 幕末篇』のナビゲーター(水先案内人)的な存在である。文は龍馬の底知れない存在感に驚いた。「吉田松陰先生は天下一の傑物じゃったがに、井伊大老に殺されたがはもったいないことじゃったのう」「は、はあ。……あの…失礼ですが、どちらさまで?」「あ、わしは龍馬!土佐の脱藩浪人・坂本竜馬ぜよ。おまんはもしかして松陰先生の身内かえ?」「はい。妹の久坂文です」「ほうか。あんたがお文さんかえ?まあ、数日前の江戸の桜田門外の変はざまあみさらせじゃったがのう」「さ…桜田門外の変?」「おまん、知らんがか?幕府の大老・井伊直弼が桜田門外で水戸浪人たちに暗殺されよったきい」「えっ?!」「まずは維新へ一歩前進ぜよ」「…維新?」桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩郷士の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
  桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「草莽掘起は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。

 和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。
 和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        
 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
 和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
  この頃、文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
  家茂は妻・和宮と話した。
 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」
 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
  薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。
 話しを少し戻す。

長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
 当然、晋作も長崎にら滞在して、出発をまった。
 藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
 使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
 二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
 …それにしてもまたされる。
 窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
 しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
 ……自分のことしか考えられないのである。
 しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
  当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
 しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。大阪経済の発展につとめ、のちに大阪の恩人と呼ばれた男である。
 晋作は上海にいって衝撃を受ける。
 吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
 こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
 ……壤夷鎖国など馬鹿げている!
 それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
 上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
 しかし、すぐに捕まって処刑される。
 日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
 ……俺には回天(革命)の才がある。
 ……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
 高杉晋作は革命の志を抱いた。
 それはまだ維新夜明け前のことで、ある。

  伊藤博文は高杉晋作や井上聞多とともに松下村塾で学んだ。
 倒幕派の筆頭で、師はあの吉田松陰である。伊藤は近代日本の政治家で、立憲君主制度、議会制民主主義の立憲者である。外見は俳優のなべおさみに髭を生やしたような感じだ。 日本最初の首相(内閣総理大臣)でもある。1885年12月22日~1888年4月30日(第一次)。1892年8月8日~1896年8月31日(第二次)。1898年1月12日~1898年6月30日(第三次)。1900年10月19日~1901年5月10日(第四次)。 何度も総理になったものの、悪名高い『朝鮮併合』で、最後は韓国人にハルビン駅で狙撃されて暗殺されている。韓国では秀吉、西郷隆盛に並ぶ三大悪人のひとりとなっている。 天保12年9月2日(1841年10月16日)周防国熊手郡束荷村(現・山口県光市)松下村塾出身。称号、従一位。大勲位公爵。名誉博士号(エール大学)。前職は枢密院議長。                明治42年10月26日(1909年)に旧・満州(ハルビン駅)で、安重根により暗殺された。幼名は利助、のちに俊輔(春輔、瞬輔)。号は春畝(しゅんぽ)。林十蔵の長男として長州藩に生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。
 家が貧しかったために12才から奉公に出された。足軽伊藤氏の養子となり、彼と父は足軽になった。英語が堪能であり、まるで死んだ宮沢喜一元・首相のようにペラペラだった。 英語が彼を一躍『時代の寵児』とした。
 彼は前まで千円札の肖像画として君臨した(今は野口英世)…。


 黙霖は芸州加茂郡(広島県呉市長浜)生まれの本願寺派の僧侶で、やはり僧だった父の私生児である。幼いときに寺にやられ、耳が聞こえず話せないという二重苦を負いながら、和、漢、仏教の学問に通じ、諸国を行脚して勤王を説いた。周防(すおう)の僧、月性は親友である。
 黙霖は松陰に面会を申し込んだが、松陰は「わが容貌にみるべきものなし」と断り、二人は手紙で論争をした。
 実は松陰は、この時期「討幕」の考えをもっていたわけではなかった。彼が説いたのは、「諌幕(かんばく)」である。野山獄にいた頃にも、少年時代に学んだ水戸学の影響から抜け出せてはいなくて、兄の梅太郎に書いた手紙には、「幕府への御忠義は、すなわち天朝への御忠義」といっていた。
しかし、黙霖との論争で、二十七歳の松陰はたたきのめされた。
「茫然自失し、ああこれもまた(僕の考えは)妄動なりとて絶倒いたし候」「僕、ついに降参するなり」「水戸学は口では勤王を説くが、いまだかつて将軍に諫言し、天室を重んじたためしがないではないか」
そして、黙霖は、松陰に山県大弐が明和の昔に著わした『柳子新論』の筆写本を贈った。
松陰は「勤王」「天皇崇拝主義」に目が覚めたという。
そして松陰は安政三年(一八五六)に、松本村にある「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を受け継いだ。萩の実家の隣にある二間の家だ。
長州藩には藩校の明倫館があるが、藩士の子弟だけがはいり、足軽の子などは入学できなかった。村塾にはこの差別がない。吉田栄太郎(稔麿・としまろ・池田屋事件で死亡)、伊藤俊輔(博文)、山県狂介(有朋)などの足軽の子もいる。その教授内容は、藩学の「故書敗紙のうちに彷徨する」文章の解釈ではなく、生きた歴史を教えることであり、松陰は実践学とも呼べる学問を教えた。塾生は七十人、九十人となる。「飛耳長目(ひじちょうもく)」という変わった学科がある。政治・情報科とでもいうか。松陰が集めてきた内外の最新情報が教えられる。イギリスのインド侵略、十年前のアヘン戦争、支那の太平天国の乱、国内では京都、江戸、長崎の最新情報である。藩士の一部は吉田松陰を危険人物視していた。親の反対をおしきってはいってきた塾生がいた。高杉晋作である。松陰は高杉を「暢夫(のぶお)」と呼び、知識は優れているが学問が遅れている自説を曲げず、と分析していた。
高杉晋作は松下村塾後、江戸の昌平黌(しょうへいこう)へ進学している。
だが、吉田松陰は公然と「討幕」を宣言し始める。尊皇攘夷というよりは開国攘夷、外国の優れた知識と技術を学び、世界と貿易しよう、という坂本竜馬のはしりのようなことを宣言した。それが「草莽掘起」な訳である。だが、松陰の主張は「「討幕」のために武力蜂起するべき」とも過激な論調にかわっていくに至り、長州藩は困惑し、吉田松陰を二度目の野山獄に処した。「武力蜂起して「討幕」とは、松陰先生は狂したとしか思えぬ」桂小五郎は言った。江戸にいる久坂玄瑞や高杉晋作らは、師が早まって死に急ぐのを防ごうとして、桜田の藩邸にいる先輩の桂小五郎に相談したのだ。
晋作が先輩の桂を睨むようにして反論した。「桂さん、僕は先生が狂したとは思えぬ。死ぬ覚悟なんじゃ」
久坂は訊ねた。
「いや、とにかく今は、藩の現状からしても、慎むべき時であろうと思います。桂さん、どうすればいいですか?」一同が桂小五郎をみた。
「松陰先生に自重して頂くにはわれら門下弟子がこぞって絶交することだ。そうすれば先生も考え直すだろう」
晋作以外は、吉田松陰への絶交宣言に同意した。絶交書を受け取った松陰は怒った。
「諸君らはもう書物を読むな。読めばこの自分のようになる。それよりは藩の“はしくれ役人”にでもしてもらいなされ。そうすれば立身出世がしたくなり、志を忘れるでしょうから……」「草莽でなければ人物なし」
松陰は妹婿の玄瑞に逆に絶縁状を送りつけた。
斬首にされた首は門人たちに話しかけるようであった。
「もしもこのことが成らずして、半途に首を刎ねられても、それまでなり」
「もし僕、幽囚の身にて死なば、必ずわが志を継ぐ士を、後世に残し置くなり」
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 吉田松陰「異端の思想家」と萩の青年たち」)』榛葉英治(しんば・えいじ)氏著、プレジデント社刊120~136ページ参考引用

大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂玄瑞役の東出昌大さんが「僕は神様に愛想つかされとんのや」と、松陰の妹の杉文役の井上真央さんにいったのはあながち“八つ当たり”という訳ではなかった。ペリーが二度目に来航した安政元年(一八五四)、長州の藩主は海防に関する献策を玄機に命じた。たまたま病床にあったが、奮起して執筆にとりかかり、徹夜は数日にわたった。精根尽き果てたように、筆を握ったまま絶命したのだ。
それは二月二十七日、再来ペリーを幕府が威嚇しているところであり、吉田松陰が密航をくわだてて、失敗する一か月前のことである。
畏敬する兄の死に衝撃を受け、その涙もかわかない初七日に、玄瑞は父親の急死という二重の不幸に見舞われた。すでに母親も失っている。玄瑞は孤児となった。十五歳のいたましい春だった。久坂秀三郎は、知行高二十五石の藩医の家督を相続し、玄瑞と改名する。六尺の豊かな偉丈夫で色男、やや斜視だったため、初めて彼が吉田松陰のもとにあらわれたとき、松陰の妹文は、「お地蔵さん」とあだ名をつけたが、やがて玄瑞はこの文と結ばれるのである。「筋金入りの“攘夷思想”」のひとである。熊本で会った宮部鼎蔵から松陰のことを聞いて、その思いを述べた。「北条時宗がやったように、米使ハリスなどは斬り殺してしまえばいいのだ」松陰は「久坂の議論は軽薄であり、思慮浅く粗雑きわまる書生論である」と反論し、何度も攘夷論・夷人殺戮論を繰り返す「不幸な人」久坂玄瑞を屈服させる。松陰の攘夷論は、情勢の推移とともに態様を変え、やがて開国論に発展するが、久坂は何処までも「尊皇攘夷・夷狄殺戮」主義を捨てなかった。長州藩は「馬関攘夷戦」で壊滅する。それでも「王政復古」「禁門の変」につながる「天皇奪還・攘夷論」で動いたのも久坂玄瑞であった。これをいいだしたのは久留米出身の志士・真木和泉(まき・いずみ)である。天皇を確保して長州に連れてきて「錦の御旗」として長州藩を“朝敵”ではなく、“官軍の藩”とする。やや突飛な構想だったから玄瑞は首をひねったが、攘夷に顔をそむける諸大名を抱き込むには大和行幸も一策だと思い、桂小五郎も同じ意見で、攘夷親征運動は動きはじめた。
松下村塾では、高杉晋作と並んで久坂玄瑞は、双璧といわれた。いったのは、師の松陰その人である。禁門の変の計画には高杉晋作は慎重論であった。どう考えても、今はまだその時期ではない。長州はこれまでやり過ぎて、あちこちに信用を失い、いまその報いを受けている。しばらく静観して、反対論の鎮静うるのを待つしかない。
高杉晋作は異人館の焼打ちくらいまでは、久坂玄瑞らと行動をともにしたけれども、それ以降は「攘夷殺戮」論には「まてや、久坂!もうちと考えろ!異人を殺せば何でも問題が解決する訳でもあるまい」と慎重論を唱えている。
それでいながら長州藩独立国家案『長州大割拠(独立)』『富国強兵』を唱えている。丸山遊郭、遊興三昧で遊んだかと思うと、「ペリーの大砲は3km飛ぶが、日本の大砲は1kmしか飛ばない」という。「僕は清国の太平天国の乱を見て、奇兵隊を、農民や民衆による民兵軍隊を考えた」と胸を張る。
文久三年馬関戦争での敗北で長州は火の海になる。それによって三条実美ら長州派閥公家が都落ち(いわゆる「七卿落ち」)し、さらに禁門の変…孝明天皇は怒って長州を「朝敵」にする。四面楚歌の長州藩は四国に降伏して、講和談判ということになったとき、晋作はその代表使節を命じられた。ほんとうは藩を代表する家老とか、それに次ぐ地位のものでなければならないのだが、うまくやり遂げられそうな者がいないので、どうせ先方にはわかりゃしないだろうと、家老宍戸備前の養子刑馬という触れ込みで、威風堂々と旗艦ユーリアラス号へ烏帽子直垂で乗り込んでいった。伊藤博文と山県有朋の推薦があったともいうが、晋作というのは、こんな時になると、重要な役が回ってくる男である。
談判で、先方が賠償金を持ち出すと「幕府の責任であり、幕府が払う筋の話だ」と逃げる。下関に浮かぶ彦島を租借したいといわれると、神代以来の日本の歴史を、先方が退屈するほど永々と述べて、煙に巻いてしまった。
だが、長州藩が禁門の変で不名誉な「朝敵」のようなことになると“抗戦派(進発派「正義派」)”と“恭順派(割拠派「俗論党」)”という藩論がふたつにわれて、元治元年十一月十二日に恭順派によって抗戦派長州藩の三家老の切腹、四参謀の斬首、ということになった。周布政之助も切腹、七卿の三条実美らも追放、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)は城崎温泉で一時隠遁生活を送り、自暴自棄になっていた。そこで半分藩命をおびた使徒に(旧姓・杉)文らが選ばれる。文は隠遁生活でヤケクソになり、酒に逃げていた桂小五郎隠遁所を訪ねる。「お文さん………何故ここに?」「私は長州藩主さまの藩命により、桂さんを長州へ連れ戻しにきました」「しかし、僕にはなんの力もない。久坂や寺島、入江九一など…禁門の変の失敗も同志の死も僕が未熟だったため…もはや僕はおわった人物です」「違います!寅にいは…いえ、松陰は、生前にようっく桂さんを褒めちょりました。桂小五郎こそ維新回天の人物じゃ、ゆうて。弱気はいかんとですよ。…義兄・小田村伊之助(楫取素彦)の紹介であった土佐の坂本竜馬というひとも薩摩の西郷隆盛さんも“桂さんこそ長州藩の大人物”とばいうとりました。皆さんが桂さんに期待しとるんじゃけえ、お願いですから長州藩に戻ってつかあさい!」桂は考えた。…長州藩が、毛利の殿さまが、僕を必要としている?やがて根負けした。文は桂小五郎ことのちの木戸孝允を説得した。こうして長州藩の偉人・桂小五郎は藩政改革の檜舞台に舞い戻った。そして龍馬、桂、西郷の薩長同盟に…。周布政之助も切腹、七卿の三条実美らも追放、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)は城崎温泉で一時隠遁生活を送り、自暴自棄になっていた。そこで半分藩命をおびた使徒に(旧姓・杉)文らが選ばれる。文は隠遁生活でヤケクソになり、酒に逃げていた桂小五郎隠遁所を訪ねる。「お文さん………何故ここに?」「私は長州藩主さまの藩命により、桂さんを長州へ連れ戻しにきました」「しかし、僕にはなんの力もない。久坂や寺島、入江九一など…禁門の変の失敗も同志の死も僕が未熟だったため…もはや僕はおわった人物です」「違います!寅にいは…いえ、松陰は、生前にようっく桂さんを褒めちょりました。桂小五郎こそ維新回天の人物じゃ、ゆうて。弱気はいかんとですよ。…義兄・小田村伊之助(楫取素彦)の紹介であった土佐の坂本竜馬というひとも薩摩の西郷隆盛さんも“桂さんこそ長州藩の大人物”とばいうとりました。皆さんが桂さんに期待しとるんじゃけえ、お願いですから長州藩に戻ってつかあさい!」桂は考えた。…長州藩が、毛利の殿さまが、僕を必要としている?やがて根負けした。文は桂小五郎ことのちの木戸孝允を説得した。こうして長州藩の偉人・桂小五郎は藩政改革の檜舞台に舞い戻った。もちろんそれは高杉晋作が奇兵隊で討幕の血路を拓いた後の事であるのはいうまでもない。そして龍馬、桂、西郷の薩長同盟に…。しかし、数年前の禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩薩摩藩により朝敵にされたうらみを、長州人の人々は忘れていないものも多かった。彼らは下駄に「薩奸薩賊」と書き踏み鳴らす程のうらみようであったという。だから、薩摩藩との同盟はうらみが先にたった。だが、長州藩とて薩摩藩と同盟しなければ幕府に負けるだけ。坂本竜馬は何とか薩長同盟を成功させようと奔走した。しかし、長州人のくだらん面子で、十日間京都薩摩藩邸で桂たちは無駄に過ごす。遅刻した龍馬は「遅刻したぜよ。げにまっことすまん、で、同盟はどうなったぜよ?桂さん?」「同盟はなんもなっとらん」「え?西郷さんが来てないんか?」「いや、西郷さんも大久保さんも小松帯刀さんもいる。だが、長州から頭をさげるのは…無理だ」龍馬は喝破する。「何をなさけないこというちょう?!桂さん!西郷さん!おんしら所詮は薩摩藩か?長州藩か?日本人じゃろう!こうしている間にも外国は日本を植民地にしようとよだれたらして狙ってるんじゃ!薩摩長州が同盟して討幕しなけりゃ、日本国は植民地ぜよ!そうなったらアンタがたは日本人になんとわびるがじゃ?!」こうして紆余曲折があり、同盟は成った。話を戻す。「これでは長州藩は徳川幕府のいいなり、だ」晋作は奇兵隊を決起する。最初は80人だったが、最後は800人となり奇兵隊が古い既得権益の幕藩体制派の長州保守派“徳川幕府への恭順派”を叩き潰し、やがては坂本竜馬の策『薩長同盟』の血路を拓き、維新前夜、高杉晋作は労咳(肺結核)で病死してしまう。
高杉はいう。「翼(よく)あらば、千里の外も飛めぐり、よろづの国を見んとしぞおもふ」
長州との和睦に徳川の使者として安芸の宮島に派遣されたのが勝海舟であった。
七日間も待たされたが、勝海舟は髭を毎日そり、服を着替え、長州の藩士・広沢兵助や志道聞多などと和睦した。
「勝さん、あんたは大丈夫ですか?長州に尻尾をふった裏切り者!と責められる可能性もおおいにある。勝さんにとっては損な役回りですよ」
「てやんでぃ!古今東西和平の使者は憎まれるものだよ。なあに俺にも覚悟があるってもんでい」
長州の志士たちの予想は的中した。幕臣たちや慶喜は元・弟子の坂本龍馬の『薩長連合』『倒幕大政奉還』を勝海舟のせいだという。勝は辞表を幕府に提出、それが覚悟だった。
だが、幕府の暴発は続く。薩長同盟軍が官軍になり、錦の御旗を掲げて幕府軍を攻めると、鳥羽伏見でも幕府は敗北していく。すべて勝海舟は負けることで幕府・幕臣を守る。だが、憎まれて死んでいく、ので、ある。
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 久坂玄瑞「蛤御門」で迎えた二十五歳の死」)』古川薫氏著、プレジデント社刊137~154ページ+『徳川慶喜(「三―草莽の志士 高杉晋作「奇兵隊」で討幕の血路を拓く」)』杉森久英氏著、プレジデント社刊154~168ページ+映像資料NHK番組「英雄たちの選択・高杉晋作篇」などから文献引用







【甘利大臣謝罪会見】また秘書にすべてをかぶせ「トカゲの尻尾切り」確実!甘利大臣辞任表明

2016年01月28日 17時29分07秒 | 日記








甘利大臣が辞任表明ということだが、


何故私を民間登用は鬼門みたいに駄目なのだ?(笑)


なら大前研一先生を後任大臣に民間登用してください。


それならば私は主席秘書官として大前師匠をサポートします。


何故緑川大前の戦略がわからないんですか?


安倍首相?(笑)甘利さんよりちゃんと働けますよ!


だが、後任は石原元・幹事長であるという。駄目だ、この内閣(笑)


緑川鷲羽の戦略がわからないのはなんとなくわかるが、大前研一師匠の戦略もわからない程馬鹿なのだ(笑)


甘利大臣の謝罪会見であるが、どうせすべての罪を秘書にかぶせて


「トカゲの尻尾切り」を決め込むのは99%確実である。

こういう大臣は辞任で正解!道徳を示さなければ安倍政権はおわりである。


義のない政治等無能にも等しい。


志の低い戦略もない大臣陣で、なにが一億総活躍社会か?



笑わせる。義を示せ!



緑川鷲羽そして始まりの2016年へ!臥竜    緑川鷲羽2016ReBRON上杉謙信

伊藤博文 炎にたずねよ!伊藤博文波乱万丈の生涯ブログ特別連載2

2016年01月27日 08時09分13秒 | 日記








住居[編集]

開東閣
山口県萩市椿東
山口県光市 - 伊藤博文自身による設計。現伊藤公記念館
山口県光市 - 生家(復元)
兵庫県神戸市 - 大倉喜八郎別邸(現大倉山公園)
東京都品川区西大井(旧・大井伊藤町)
東京都港区高輪四丁目(開東閣)
神奈川県大磯町西小磯(滄浪閣)
横浜市金沢区野島町 野島公園
記念館[編集]
伊藤公記念公園(山口県光市)
伊藤公資料館
伊藤公記念館
銅像[編集]
1904年に神戸の湊川神社に伊藤博文の銅像が建てられたが、翌年、日露戦争の講和に不満を持った民衆が、像を引き倒した上、市中を引きずり回していたぶった。
栄典[編集]
明治10年(1877年)11月2日:勲一等旭日大綬章
明治17年(1884年)7月7日:伯爵授爵
明治18年(1885年)5月25日:スウェーデン王国 ヴァーサ勲章勲一等
明治18年(1886年)9月27日:オーストリア=ハンガリー帝国鉄冠勲章勲一等
明治19年(1886年)12月22日:ドイツ帝国赤鷲勲章勲一等
明治22年(1889年)2月11日:勲一等旭日桐花大綬章
明治28年(1895年)8月5日:大勲位菊花大綬章、侯爵陞爵
明治29年(1896年)3月19日:ロシア帝国 アレクサンドル・ネフスキー勲章一等
明治29年(1896年)10月26日:スペイン王国カルロス三世勲章勲一等
明治30年(1897年)10月4日:ベルギー王国 レオポルド勲章一等
明治31年(1898年)4月29日:フランス共和国 レジオンドヌール勲章勲一等
明治34年(1901年):イェール大学より法学名誉博士号
明治35年(1902年)3月15日:大英帝国バス勲章勲一等
明治35年(1902年)3月15日:イタリア王国受胎告知勲章
明治39年(1906年)4月1日:大勲位菊花章頸飾
明治40年(1907年)9月21日:公爵陞爵
明治42年(1909年)10月26日:従一位
系譜[編集]
林氏(伊藤氏)
林氏は本姓越智河野氏の支流といわれる。家紋はもと「折敷に三文字」だが、伊藤姓に改姓以後「上がり藤」を用いた。
博文自身の語るところ[注釈 6]によれば、「先祖は河野通有の裔で、淡路ヶ峠城主の林淡路守通起である」という。また「実家は周防国熊毛郡束荷村の農家で、博文の祖父林助左衛門は、林家の本家林利八郎の養子となり本家を継いだ。林助左衛門の子十蔵は萩藩の蔵元付中間水井武兵衛の養子となり「水井十蔵」と名乗るが、安政元年(1854年)に水井武兵衛が周防国佐波郡相畑の足軽で藤原姓を称する伊藤弥右衛門の養子となり、伊藤直右衛門と名を改めたため、十蔵も伊藤氏を称した[注釈 7]」という。十蔵の長男が博文である。博文の跡は養子の博邦(盟友井上馨の甥)が継いだ。
林氏系図(博文まで)[表示]
伊藤家
本姓藤原氏を称する。早川隆の著書『日本の上流社会と閨閥』によれば「もともと伊藤の家は水呑み百姓で父親十蔵は馬車ひきなどをしていたが食い詰めて長州藩の伊藤という中間の家に下僕として住み込んでいるうちに子供のない同家の養子になり伊藤を名乗った。博文は幼名を利助といい捨て子だったという説もある。それが武士のはしくれから明治の指導者に出世すると家系が気になりだしたのか孝霊天皇の息子伊予皇子の三男小千王子が祖先とか、河野通有の子孫とか言い出した。系図屋に、りっぱな系図を作らせるのは今も昔もよくある話で、とがめ立てするほどのこともあるまいが、偉くなってからの彼は故郷へはほとんど帰らなかった。昔の素性を知るものには頭が上がらないからである。だが、身分が低かろうが実力さえあれば偉くなれるという混乱期の日本を象徴するように首相、政党総裁、枢密院議長、公爵と位人臣(くらいじんしん)を極めた伊藤の生涯は、いわば明治版太閤記である」としている。
伊藤家系図[表示]
家族・親族[編集]
父:伊藤十蔵(1816年 - 1896年):百姓。始め林姓、後に伊藤直右衛門の養子に入り重蔵と改名。
母:伊藤琴子(1819年 - 1903年):秋山長左衛門の娘
先妻・すみ子(? - ?):入江嘉伝次の娘で入江九一と野村靖(後に内務大臣)の妹。文久3年(1863年)に結婚したが、そりが合わず慶応2年(1866年)に離婚。
継妻・梅子(1848年 - 1924年):木田久兵衛の長女、木田幾三郎の姉。元は下関の芸妓・小梅。慶応2年(1866年)に結婚。
伊藤貞子(1866年 - 1869年):長女。夭逝。母は梅子。
末松生子(1868年 - 1934年):次女。母は梅子。明治22年(1889年)、内務大臣・末松謙澄と結婚。
西朝子(1876年 - 1944年):三女。母は多摩地域出身で伊藤家の女中。明治26年(1893年)、ルーマニア公使・西源四郎と結婚。
藤井清子(? - ?):朝子の娘。チェコスロバキア公使・藤井啓之助の妻。
田付美代子(? - ?):清子の長女。デンマーク大使・田付景一の妻。
藤芙佐子(? - ?):清子の次女。最高裁判所裁判官・藤万里の妻。
藤一郎(1947年 -):芙佐子の息子。駐アメリカ大使、元外務審議官。
鶴見蔦子(? - ?):清子の三女。ジュネーヴ国際機関日本政府代表部大使・鶴見清彦の妻。
松本悦子(? - ?):清子の四女。防衛庁長官・松本十郎の妻。
松本剛明(1959年 -):悦子の息子。衆議院議員。民主党所属。
寺内令子(? -):悦子の娘。財務省大臣官房参事官寺内肇の妻。

毎日新報に掲載された写真。左端で腰掛けているのが安俊生、右端で腰掛けているのが文吉である。
養子・伊藤博邦(1870年 - 1931年):井上光遠の四男。妻は易者・高島嘉右衛門の長女たま子。嘉右衛門は博文と親交深く博文暗殺を易占して本人に忠告した。
博精(1899年 - 1962年):博邦の息子。妻は高橋是福の娘で高橋是清の孫娘。
千家文子(? - ?):博精の三女。出雲国造家の千家達彦の妻。
伊藤文吉(1885年 - 1951年):長男。妾腹の子で庶子。木田幾三郎の長男として育てられたが、後に戸籍上伊藤の養子となる。農商務省参事官。軍需省顧問。日本鉱業社長。後に独立して明治42年(1909年)に男爵。妻は桂太郎の五女・寿満子。昭和14年(1939年)10月16日には、朝鮮ホテルで、伊藤を暗殺した安重根の息子、安俊生と面会し「死んだ父の罪を私が贖罪して全力で報国の最善をつくしたい」と謝罪を受けた。現在でもその時の写真が残っている。
伊藤眞一(1890年 - 1980年):次男。庶子。母は新橋の芸者・歌。
伊藤満洲雄(? - ?):孫。特定非営利活動法人国際福祉環境推進機構代表。[要出典]




  長州藩と英国による戦争は、英国の完全勝利で、あった。
 長州の馬鹿が、たった一藩だけで「攘夷実行」を決行して、英国艦船に地上砲撃したところで、英国のアームストロング砲の砲火を浴びて「白旗」をあげたのであった。
  長州の「草莽掘起」が敗れたようなものであった。
 同藩は投獄中であった高杉晋作を敗戦処理に任命し、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を通訳として派遣しアーネスト・サトウなどと停戦会議に参加させた。
 伊藤博文は師匠・吉田松陰よりも高杉晋作に人格的影響を受けている。

  ……動けば雷電の如し、発すれば驟雨の如し……

 伊藤博文が、このような「高杉晋作」に対する表現詩でも、充分に伊藤が高杉を尊敬しているかがわかる。高杉晋作は強がった。
「確かに砲台は壊されたが、負けた訳じゃない。英国陸海軍は三千人しか兵士がいない。その数で長州藩を制圧は出来ない」
 英国の痛いところをつくものだ。
 伊藤は関心するやら呆れるやらだった。
  明治四十二年には吉田松陰の松下村塾門下は伊藤博文と山県有朋だけになっている。
 ふたりは明治政府が井伊直弼元・幕府大老の銅像を建てようという運動には不快感を示している。時代が変われば何でも許せるってもんじゃない。  
 松門の龍虎は間違いなく「高杉晋作」と「久坂玄瑞」である。今も昔も有名人である。
 伊藤博文と山県有朋も松下村塾出身だが、悲劇的な若死をした「高杉晋作」「久坂玄瑞」に比べれば「吉田松陰門下」というイメージは薄い。
 伊藤の先祖は蒙古の軍艦に襲撃をかけた河野通有で、河野は孝雷天皇の子に発しているというが怪しいものだ。歴史的証拠資料がない為だ。伊藤家は貧しい下級武士で、伊藤博文の生家は現在も山口県に管理保存されているという。
「あなたのやることは正しいことなのでわたくしめの力士隊を使ってください!」
 奇兵隊蜂起のとき、そう高杉晋作にいって高杉を喜ばせている。
 なお、この物語の参考文献はウィキペディア、ネタバレ、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作、童門冬二著作、池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰せず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史秘話ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ」漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
なおここから数十行の文章は小林よしのり氏の著作・『ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり「大東亜論 第5章 明治6年の政変」』小学館SAPIO誌2014年6月号小林よしのり著作漫画、72ページ~78ページからの文献を参考にしています。
 盗作ではなくあくまで引用です。前述した参考文献も考慮して引用し、創作しています。盗作だの無断引用だの文句をつけるのはやめてください。
  この頃、決まって政治に関心ある者たちの話題に上ったのは「明治6年の政変」のことだった。
 明治6年(1873)10月、明治政府首脳が真っ二つに分裂。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五人の参謀が一斉に辞職した大事件である。
 この事件は、通説では「征韓論」を唱える西郷派(外圧派)と、これに反対する大久保派(内治派)の対立と長らく言われていきた。そしてその背景には、「岩倉使節団」として欧米を回り、見聞を広めてきた大久保派と、その間、日本で留守政府をに司っていた西郷派の価値観の違いがあるとされていた。しかし、この通説は誤りだったと歴史家や専門家たちにより明らかになっている。
 そもそも西郷は「征韓論」つまり、武力をもって韓国を従えようという主張をしたのではない。西郷はあくまでも交渉によって国交を樹立しようとしたのだ。つまり「親韓論」だ。西郷の幕末の行動を見てみると、第一次長州征伐でも戊辰戦争でも、まず強硬姿勢を示し、武力行使に向けて圧倒な準備を整えて、圧力をかけながら、同時に交渉による解決の可能性を徹底的に探り、土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるという方法を採っている。勝海舟との談判による江戸無血開城がその最たるものである。
 西郷は朝鮮に対しても同じ方法で、成功させる自信があったのだろう。
 西郷は自分が使節となって出向き、そこで殺されることで、武力行使の大義名分ができるとも発言したが、これも武力行使ありきの「征韓論」とは違う。
 これは裏を返せば、使節が殺されない限り、武力行使はできない、と、日本側を抑えている発言なのである。そして西郷は自分が殺されることはないと確信していたようだ。
 朝鮮を近代化せねばという目的では西郷と板垣は一致。だが、手段は板垣こそ武力でと主張する「征韓論」。西郷は交渉によってと考えていたが、板垣を抑える為に「自分が殺されたら」と方便を主張。板垣も納得した。
 一方、岩倉使節団で欧米を見てきた大久保らには、留守政府の方針が現実に合わないものに見えたという通説も、勝者の後付けだと歴史家は分析する。
 そもそも岩倉使節団は実際には惨憺たる大失敗だったのである。当初、使節団は大隈重信が計画し、数名の小規模なものになるはずだった。
 ところが外交の主導権を薩長で握りたいと考えた大久保利通が岩倉具視を擁して、計画を横取りし、規模はどんどん膨れ上がり、総勢100人以上の大使節団となったのだ。
 使節団の目的は国際親善と条約改正の準備のための調査に限られ、条約改正交渉自体は含まれていなかった。
しかし功を焦った大久保や伊藤博文が米国に着くと独断で条約改正交渉に乗り出す。だが、本来の使命ではないので、交渉に必要な全権委任状がなく、それを交付してもらうためだけに、大久保・伊藤の2人が東京に引き返した。大使節団は、大久保・伊藤が戻ってくるまで4か月もワシントンで空しく足止めされた。大幅な日程の狂いが生じ、10か月半で帰国するはずが、20か月もかかり、貴重な国費をただ蕩尽(とうじん)するだけに終わってしまったのだ。
 一方で、その間、東京の留守政府は、「身分制度の撤廃」「地租改正」「学制頒布」などの新施策を次々に打ち出し、着実に成果を挙げていた。
 帰国後、政治生命の危機を感じた大久保は、留守政府から実権を奪取しようと策謀し、これが「明治6年の政変」となったのだ。大久保が目の敵にしたのは、板垣退助と江藤新平であり、西郷は巻き添えを食らった形だった。
 西郷の朝鮮への使節派遣は閣議で決定し、勅令まで下っていた。それを大久保は権力が欲しいためだけに握りつぶすという無法をおこなった。もはや朝鮮問題など、どうでもよくなってしまった。
 ただ国内の権力闘争だけがあったのだ。こうして一種のクーデターにより、政権は薩長閥に握られた。
 しかも彼ら(大久保や伊藤ら)の多くは20か月にも及んだ外遊で洗脳されすっかり「西洋かぶれ」になっていた。もはや政治どころではない。国益や政治・経済の自由どころではない。
 西郷や板垣らを失った明治政府は誤った方向へと道をすすむ。日清戦争、日露戦争、そして泥沼の太平洋戦争へ……歴史の歯車が狂い始めた。
(以下文(参考文献ゴーマニズム宣言大東亜論)・小林よしのり氏著作 小学館SAPIO誌7月号74~78ページ+8月号59~75ページ+9月号61~78ページ参考文献)
この頃、つまり「明治6年の政変」後、大久保利通は政治家や知識人らや庶民の人々の怨嗟(えんさ)を一身に集めていた。維新の志を忘れ果て、自らの政治生命を維持する為に「明治6年の政変」を起こした大久保利通。このとき大久保の胸中にあったのは、「俺がつくった政権を後から来た連中におめおめ奪われてたまるものか」という妄執だけだった。
西郷隆盛が何としても果たそうとした朝鮮使節派遣も、ほとんど念頭の片隅に追いやられていた。これにより西郷隆盛ら5人の参議が一斉に下野するが、西郷は「巻き添え」であり…そのために西郷の陸軍大将の官職はそのままになっていた。この政変で最も得をしたのは、井上馨ら長州汚職閥だった。長州出身の御用商人・山城屋和助が当時の国家予算の公金を使い込んだ事件や……井上馨が大蔵大臣の職権を濫用して民間の優良銅山を巻き上げ、自分のものにしようとした事件など、長州閥には汚職の疑惑が相次いだ。だが、この問題を熱心に追及していた江藤新平が政変で下野したために、彼らは命拾いしたのである。
江藤新平は初代司法卿として、日本の司法権の自立と法治主義の確立に決定的な役割を果たした人物である。江藤は政府で活躍したわずか4年の間に司法法制を整備し、裁判所や検察機関を創設して、弁護士・公証人などの制度を導入し、憲法・民法の制定に務めた。
もし江藤がいなければ、日本の司法制度の近代化は大幅に遅れたと言っても過言ではない。そんな有能な人材を大久保は政府から放逐したのだ。故郷佐賀で静養していた江藤は、士族反乱の指導者に祭り上げられ、敗れて逮捕された。江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に3日前に作られた裁判所で、十分な弁論の機会もなく、上訴も認めない暗黒裁判にかけられ、死刑となった。新政府の汚職の実態を知り尽くしている江藤が、裁判で口を開くことを恐れたためである。それも斬首の上、さらし首という武士に対してあり得ない屈辱的な刑で……しかもその写真が全国に配布された。(米沢藩の雲井龍雄も同じく死刑にされた)すべては大久保の指示による「私刑」だった。
「江藤先生は惜しいことをした。だが、これでおわりではない」のちの玄洋社の元となる私塾(人参畑塾)で、武部小四郎(たけべ・こしろう)はいった。当時29歳。福岡勤皇党の志士の遺児で、人参畑塾では別格の高弟であった。身体は大きく、姿は颯爽(さっそう)、親しみ易いが馴れ合いはしない。質実にて華美虚飾を好まず、身なりを気にせず、よく大きな木簡煙管(きせる)を構えていた。もうひとり、頭山満が人参畑塾に訪れる前の塾にはリーダー的な塾生がいた。越智彦四郎(おち・ひこしろう)という。武部小四郎、越智彦四郎は人参畑塾のみならず、福岡士族青年たちのリーダーの双璧と目されていた。だが、二人はライバルではなく、同志として固い友情を結んでいた。それはふたりがまったく性格が違っていたからだ。越智は軽薄でお調子者、武部は慎重で思慮深い。明治7年(1874)2月、江藤新平が率いる佐賀の役が勃発すると、大久保利通は佐賀制圧の全権を帯びて博多に乗り込み、ここを本営とした。全国の士族は次々に社会的・経済的特権を奪われて不平不満を強めており、佐賀もその例外ではなかったが、直ちに爆発するほどの状況ではなかった。にもかかわらず大久保利通は閣議も開かずに佐賀への出兵を命令し、文官である佐賀県令(知事にあたる)岩村高俊にその権限を与えた。文官である岩村に兵を率いさせるということ自体、佐賀に対する侮辱であり、しかも岩村は傲慢不遜な性格で、「不逞分子を一網打尽にする」などの傍若無人な発言を繰り返した。こうして軍隊を差し向けられ、挑発され、無理やり開戦を迫られた形となった佐賀の士族は、やむを得ず、自衛行動に立ち上がると宣言。休養のために佐賀を訪れていた江藤新平は、やむなく郷土防衛のため指揮をとることを決意した。これは、江藤の才能を恐れ、「明治6年の政変」の際には、閣議において西郷使節派遣延期論のあいまいさを論破されたことなどを恨んだ大久保利通が、江藤が下野したことを幸いに抹殺を謀った事件だったという説が今日では強い。そのため、佐賀士族が乱をおこした佐賀の乱というのではなく「佐賀戦争」「佐賀の役」と呼ぶべきと提唱されている。その際、越智彦四郎は大久保利通を訪ね、自ら佐賀との調整役を買って出る。大久保は「ならばおんしに頼みたか。江藤ら反乱軍をば制圧する「鎮撫隊」をこの福岡に結成してくれもんそ」という。越智彦四郎は引き受けた。だが、越智は策士だった。鎮撫隊を組織して佐賀の軍に接近し、そこで裏切りをして佐賀の軍と同調して佐賀軍とともに明治政府軍、いや大久保利通を討とう、という知略を謀った。武部は反対した。
「どこが好機か?大久保が「鎮撫隊」をつくれといったのだ。何か罠がある」
だが、多勢は越智の策に乗った。だが、大久保利通の方が、越智彦四郎より一枚も二枚も上だった。大久保利通は佐賀・福岡の動静には逐一、目を光らせていて、越智の秘策はすでにばれていた。陸軍少佐・児玉源太郎は越智隊に鉄砲に合わない弾丸を支給して最前線に回した。そのうえで士族の一部を率いて佐賀軍を攻撃。福岡を信用していなかった佐賀軍は越智隊に反撃し、同士討ちの交戦となってしまった。越智隊は壊滅的打撃を受け、ようやくの思いで福岡に帰還した。その後、越智彦四郎は新たな活動を求めて、熊本・鹿児島へ向かった。武部はその間に山籠もりをして越智と和解して人参畑塾に帰還した。
「明治6年の政変」で下野した板垣退助は、江藤新平、後藤象二郎らと共に「愛国公党」を結成。政府に対して「民選議員設立建白書」を提出した。さらに政治権力が天皇にも人民にもなく薩長藩閥の専制となっていることを批判し、議会の開設を訴えた。自由民権運動の始まりである。だが間もなく、佐賀の役などの影響で「愛国公党」は自然消滅。そして役から1年近くが経過した明治8年(1875)2月、板垣は旧愛国公党を始めとする全国の同志に結集を呼びかけ「愛国社」を設立したのだった。板垣が凶刃に倒れた際「板垣死すとも自由は死せず」といったというのは有名なエピソードだが、事実ではない。
幕末、最も早く勤王党の出現を見たのが福岡藩だった。だが薩摩・島津家から養子に入った福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は、一橋家(徳川将軍家)と近親の関係にあり、動乱の時代の中、勤王・佐幕の両派が争う藩論の舵取りに苦心した。黒田長溥は決して愚鈍な藩主ではなかった。だが次の時代に対する識見がなく、目前の政治状況に過敏に反応してしまうところに限界があった。大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)という幕府始まって以来の不祥事を機に勤王の志士の動きは活発化。これに危機感を覚えた黒田長溥は筑前勤王党を弾圧、流刑6名を含む30余名を幽閉等に処した。これを「庚申(こうしん)の獄」という。その中にはすでに脱藩していた平野國臣もいた。女流歌人・野村望東尼(ぼうとうに)は獄中の國臣に歌(「たぐいなき 声になくなる 鶯(ウグイス)は 駕(こ)にすむ憂きめ みる世なりけり」)を送って慰め、これを機に望東尼は勤王党を積極的に支援することになる。尼は福岡と京都をつなぐパイプ役を務め、高杉晋作らを平尾山荘に匿い、歌を贈るなどしてその魂を鼓舞激励したのだった。
この頃、坂本竜馬らよりもずっと早い時点で、薩長連合へ向けた仲介活動を行っていたのが筑前勤王党・急進派の月形洗蔵(つきがた・せんぞう、時代劇「月形半平太(主演・大川橋蔵)」のモデル)や衣斐茂記(えび・しげき)、建部武彦らだった。また福岡藩では筑前勤王党の首領格として羨望があった加藤司書(かとう・ししょ)が家老に登用され、まさしく維新の中心地となりかけていたという。だが、すぐに佐幕派家老が勢力を取り戻し、さらに藩主・黒田長溥が勤王党急進派の行動に不信感を抱いたことなどから……勤王党への大弾圧が行われたのだ。これを「乙丑(いっちゅう)の獄」という。加藤、衣斐、建部ら7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首。野村望東尼ら41名が流罪・幽閉の処分を受け、筑前勤王党は壊滅した。このとき、姫島に流罪となる野村望東尼を護送する足軽の中に15歳の箱田六輔がいた。そして武部小四郎は「乙丑の獄」によって切腹した建部武彦の遺児であった(苗字は小四郎が「武部」に改めた)。福岡藩は佐幕派が多かったが、戊辰の役では急遽、薩長官軍についた。それにより福岡藩の家老ら佐幕派家老3名が切腹、藩士23名が遠島などの処分となった。そして追い打ちをかけるように薩長新政府は福岡藩を「贋札づくり」の疑惑で摘発した。当時、財政難だった藩の多くが太政官札の偽造をしていたという。西郷隆盛は寛大な処分で済まそうと尽力した。何しろ贋札づくりは薩摩藩でもやっていたのだ。だが大久保利通が断固として、福岡藩だけに過酷な処罰を科し、藩の重職5名が斬首、知藩事が罷免となった。これにより福岡藩は明治新政府にひとりの人材も送り込めることも出来ず、時代から取り残されていった。この同じ年、明治8年9月、近代日本の方向性を決定づける重大な事件が勃発した。「江華島(こうかとう・カンファンド)事件」である。これは開国要請に応じない朝鮮に対する砲艦外交そのものであった。そもそも李氏朝鮮の大院君はこう考えていた。「日本はなぜ蒸気船で来て、洋服を着ているのか?そのような行為は華夷秩序(かいちつじょ)を乱す行為である」
華夷秩序は清の属国を認める考えだから近代国家が覇を競う時代にあまりに危機感がなさすぎる。だからといって、砲艦外交でアメリカに開国させられた日本が、朝鮮を侮る立場でもない。どの国も、力ずくで国柄を変えられるのは抵抗があるのだ。日本軍艦・雲揚(うんよう)は朝鮮西岸において、無許可の沿海測量を含む挑発行動を行った。さらに雲揚はソウルに近い江華島に接近。飲料水補給として、兵を乗せたボートが漢江支流の運河を遡航し始めた時、江華島の砲台が発砲!雲揚は兵の救援として報復砲撃!さらに永宗島(ヨンジュンド)に上陸して朝鮮軍を駆逐した。明治政府は事前に英米から武力の威嚇による朝鮮開国の支持を取り付け、挑発活動を行っていた。そしてペリー艦隊の砲艦外交を真似て、軍艦3隻と汽船3隻を沖に停泊させて圧力をかけた上で、江華島事件の賠償と修好条約の締結交渉を行ったのだった。この事件に、鹿児島の西郷隆盛は激怒した。
「一蔵(大久保)どーん!これは筋が違ごうじゃろうがー!」
大久保らは、「明治6年の政変」において、「内治優先」を理由としてすでに決定していた西郷遣韓使節を握りつぶしておきながら、その翌年には台湾に出兵、そしてさらに翌年にはこの江華島事件を起こした。「内治優先」などという口実は全くのウソだったのである。特に朝鮮に対する政府の態度は許しがたいものであった。
西郷は激昴して「ただ彼(朝鮮)を軽蔑して無断で測量し、彼が発砲したから応戦したなどというのは、これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきの行為といわにゃならんど!政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす!」
西郷は、測量は朝鮮の許可が必要であり、発砲した事情を質せず、戦端を開くのは野蛮と考えた。
「そもそも朝鮮は幕府とは友好的だったのでごわす!日本人は古式に則った烏帽子直垂(えぼしひたたれ)の武士の正装で交渉すべきでごわす!軍艦ではなく、商船で渡海すべきでごわんそ!」
西郷は政府参与の頃、清と対等な立場で「日清修好条規」の批准を進め、集結した功績がある。なのに大久保ら欧米使節・帰国組の政府要人は西郷の案を「征韓論」として葬っておきながら、自らは、まさに武断的な征韓を行っている。西郷隆盛はあくまでも、東洋王道の道義外交を行うべきと考えていた。西郷は弱を侮り、強を恐れる心を、徹底的に卑しむ人であった。大久保は西洋の威圧外交を得意とし、朝鮮が弱いとなれば侮り、侵略し、欧米が強いとなれば恐れ、媚びへつらい、政治体制を徹底的に西洋型帝国の日本帝国を建設しようとしたのだ。西郷にとっては、誠意を見せて朝鮮や清国やアジア諸国と交渉しようという考えだったから大久保の考えなど論外であった。だが、時代は大久保の考える帝国日本の時代、そして屈辱的な太平洋戦争の敗戦で、ある。大久保にしてみれば欧米盲従主義はリアリズム(現実主義)であったに違いない。そして行き着く先がもはや「道義」など忘れ去り、相手が弱いと見れば侮り、強いと見れば恐れ、「WASPについていけば百年安心」という「醜悪な国・日本」なのである。

<ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり著作「大東亜論 血風士魂篇」第9章前原一誠の妻と妾>2014年度小学館SAPIO誌10月号59~78ページ参照(参考文献・漫画文献)
明治初期、元・長州藩(山口県)には明治政府の斬髪・脱刀令などどこ吹く風といった連中が多かったという。長州の士族は維新に功ありとして少しは報われている筈であったが、奇兵隊にしても長州士族にしても政権奪還の道具にすぎなかった。彼らは都合のいいように利用され、使い捨てされたのだ。報われたのはほんの数人(桂小五郎こと木戸孝允や井上馨(聞多)や伊藤博文(俊輔)等わずか)であった。明治維新が成り、長州士族は使い捨てにされた。それを憤る人物が長州・萩にいた。前原一誠である。前原は若い時に落馬して、胸部を強打したことが原因で肋膜炎を患っていた。明治政府の要人だったが、野に下り、萩で妻と妾とで暮らしていた。妻は綾子、妾は越後の娘でお秀といった。
前原一誠は吉田松陰の松下村塾において、吉田松陰が高杉晋作、久坂玄瑞と並び称賛した高弟だった。「勇あり知あり、誠実は群を抜く」。晋作の「識」、玄瑞の「才」には遠く及ばないが、その人格においてはこの二人も一誠には遠く及ばない。これが松陰の評価であった。そして晋作・玄瑞亡き今、前原一誠こそが松陰の思想を最も忠実に継承した人物であることは誰もが認めるところだった。一誠の性格は、頑固で直情径行、一たび激すると誰の言うことも聞かずやや人を寄せつけないところもあったが、普段は温厚ですぐ人を信用するお人好しでもあった。一誠は戊辰戦争で会津征討越後口総督付の参謀として軍功を挙げ、そのまま越後府判事(初代新潟県知事)に任じられて越後地方の民政を担当する。
いわば「占領軍」の施政者となったわけだが、そこで一誠が目にしたものは戦火を受けて苦しむ百姓や町民の姿だった。「多くの飢民を作り、いたずらに流民を作り出すのが戦争の目的ではなかったはずだ。この戦いには高い理想が掲げられていたはず!これまでの幕府政治に代って、万民のための国造りが目的ではなかったのか!?」
少年時代の一誠の家は貧しく、父は内職で安物の陶器を焼き、一誠も漁師の手伝いをして幾ばくかの銭を得たことがある。それだけに一誠は百姓たちの生活の苦しさをよく知り、共感できた。さらに、師・松陰の「仁政」の思想の影響は決定的に大きかった。
「機械文明においては、西洋に一歩を譲るも、東洋の道徳や治世の理想は、世界に冠たるものである!それが松陰先生の教えだ!この仁政の根本を忘れたからこそ幕府は亡びたのだ。新政府が何ものにも先駆けて行わなければならないことは仁政を行って人心を安らかにすることではないか!」一誠は越後の年貢を半分にしようと決意する。中央政府は莫大な戦費で財政破綻寸前のところを太政官札の増発で辛うじてしのいでいる状態だったから、年貢半減など決して許可しない。だが、一誠は中央政府の意向を無視して「年貢半減令」を実行した。さらに戦時に人夫として徴発した農民の労賃も未払いのままであり、せめてそれだけでも払えば当面の望みはつなげられる。未払い金は90万両に上り、そのうち40万両だけでも出せと一誠は明治政府に嘆願を重ねた。だが、政府の要人で一誠の盟友でもあった筈の木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治・松陰門下)は激怒して、「前原一誠は何を考えている!越後の民政のことなど単なる一地方のことでしかない!中央には、一国の浮沈にかかわる問題が山積しているのだぞ!」とその思いに理解を示すことは出来なかった。
この感情の対立から、前原一誠は木戸に憎悪に近い念を抱くようになる。一誠には越後のためにやるべきことがまだあった。毎年のように水害を起こす信濃川の分水である。一誠は決して退かない決意だったが、中央政府には分水工事に必要な160万両の費用は出せない。政府は一誠を中央の高官に「出世」させて、越後から引き離そうと画策。一誠は固辞し続けるが、政府の最高責任者たる三条実美が直々に来訪して要請するに至り、ついに断りきれなくなり参議に就任。信濃川の分水工事は中止となる。さらに一誠は暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔となるが、もともと中央政府に入れられた理由が理由なだけに、満足な仕事もさせられず、政府内で孤立していた。一誠は持病の胸痛を口実に政府会議にもほとんど出なくなり、たまに来ても辞任の話しかしない。「私は参議などになりたくはなかったのだ!私を参議にするくらいならその前に越後のことを考えてくれ!」
木戸や大久保利通は冷ややかな目で前原一誠を見ているのみ。
「君たちは、自分が立派な家に住み、自分だけが衣食足りて世に栄えんがために戦ったのか?私が戦ったのはあの幕府さえ倒せば、きっと素晴らしい王道政治が出来ると思ったからだ!民政こそ第一なのだ!こんな腐った明治政府にはいたくない!徳川幕府とかわらん!すぐに萩に帰らせてくれ!」大久保や木戸は無言で前原一誠を睨む。三度目の辞表でやっと前原一誠は萩に帰った。明治3年(1870)10月のことだった。政府がなかなか前原一誠の辞任を認めなかったのは、前原一誠を帰してしまうと、一誠の人望の下に、不平士族たちが集まり、よりによって長州の地に、反政府の拠点が出来てしまうのではないかと恐れたためである。当の一誠は、ただ故郷の萩で中央との関わりを断ち、ひっそりと暮らしたいだけだった。が、周囲が一誠を放ってはおかなかった。維新に功のあった長州の士族たちは「自分たちは充分報われる」と思っていた。しかし、実際にはほんの数人の長州士族だけが報われて、「奇兵隊」も「士族」も使い捨てにされて冷遇されたのだった。そんなとき明治政府から野に下った前原一誠が来たのだ。それは彼の周囲に自然と集まるのは道理であった。しかも信濃川の分水工事は「金がないので工事できない」などといいながら、明治政府は岩倉具視を全権大使に、木戸、大久保、伊藤らを(西郷らは留守役)副使として数百人規模での「欧米への視察(岩倉使節団)」だけはちゃっかりやる。一誠は激怒。
江藤新平が失脚させられ、「佐賀の役」をおこすとき前原一誠は長州士族たちをおさえた。「局外中立」を唱えてひとりも動かさない。それが一誠の精一杯の行動だった。
長州が佐賀の二の舞になるのを防いだのだ。前原一誠は激昴する。「かつての松下村塾同門の者たちも、ほとんどが東京に出て新政府に仕え、洋風かぶれで東洋の道徳を忘れておる!そうでなければ、ただ公職に就きたいだけの、卑怯な者どもだ!井上馨に至っては松下村塾の同窓ですらない!ただ公金をかすめ取る業に長けた男でしかないのに、高杉や久坂に取り入ってウロチョロしていただけの奴!あんな男までが松下村塾党のように思われているのは我慢がならない!松陰先生はよく「天下の天下の天下にして一人の天下なり」と仰っていた。すなわち尊皇である。天子様こそが天下な筈だ!天下一人の君主の下で万民が同じように幸福な生活が出来るというのが政治の理想の根本であり、またそのようにあらしめるのが理想だったのだ!孔孟の教えの根本は「百姓をみること子の如くにする」。これが松陰先生の考えである!松陰先生が生きていたら、今の政治を認めるはずはない!必ずや第二の維新、瓦解を志す筈だ!王政復古の大号令は何処に消えたのだ!?このままではこの国は道を誤る!」その後、「萩の乱」を起こした前原一誠は明治政府に捕縛され処刑された。


岩倉具視が「果断、勇決、その志は小ではない。軽視できない強敵である」と評し、長州の桂小五郎(木戸孝允)は「慶喜の胆略、じつに家康の再来を見るが如し」と絶賛――。
敵方、勤王の志士たちの心胆を寒からしめ、幕府側の切り札として登場した十五代将軍。その慶喜が、徳川三百年の幕引き役を務める運命の皮肉。
徳川慶喜とは、いかなる人物であったのか。また、なぜ従来の壮大で堅牢なシステムが、機能しなくなったのか。
「視界ゼロ、出口なし」の状況下で、新興勢力はどのように旧体制から見事に脱皮し、新しい時代を切り開いていったのか。
閉塞感が濃厚に漂う今、慶喜の生きた時代が、尽きせぬ教訓の新たな宝庫となる。
『徳川慶喜(「徳川慶喜 目次―「最後の将軍」と幕末維新の男たち」)』堺屋太一+津本陽+百瀬明治ほか著作、プレジデント社刊参考文献参照引用
著者が徳川慶喜を「知能鮮し」「糞将軍」「天下の阿呆」としたのは、他の主人公を引き立たせる為で、慶喜には「悪役」に徹してもらった。
だが、慶喜は馬鹿ではなかった。というより、策士であり、優秀な「人物」であった。
慶喜は「日本の王」と海外では見られていた。大政奉還もひとつのパワー・ゲームであり、けして敗北ではない。しかし、幕府憎し、慶喜憎しの大久保利通らは「王政復古の大号令」のクーデターで武力で討幕を企てた。
実は最近の研究では大久保や西郷隆盛らの「王政復古の大号令」のクーデターを慶喜は事前に察知していたという。
徳川慶喜といえば英雄というよりは敗北者。頭はよかったし、弱虫ではなかった。慶喜がいることによって、幕末をおもしろくした。最近分かったことだが、英雄的な策士で、人間的な動きをした「人物」であった。
「徳川慶喜はさとり世代」というのは脳科学者の中野信子氏だ。慶喜はいう。「天下を取り候ほど気骨の折れ面倒な事なことはない」
幕末の”熱い時代”にさとっていた。二心公ともいわれ、二重性があった。
本当の徳川慶喜は「阿呆」ではなく、外交力に優れ(二枚舌→開港していた横浜港を閉ざすと称して(尊皇攘夷派の)孝明天皇にとりいった)
その手腕に、薩摩藩の島津久光や大久保利通、西郷隆盛、長州藩の桂小五郎らは恐れた。
孝明天皇が崩御すると、慶喜は一変、「開国貿易経済大国路線」へと思考を変える。大阪城に外国の大使をまねき、兵庫港を開港。慶喜は幕府で外交も貿易もやる姿勢を見せ始める。
まさに、策士で、ある。
歴代の将軍の中でも慶喜はもっとも外交力が優れていた。将軍が当時は写真に写るのを嫌がったが、しかし、徳川慶喜は自分の写真を何十枚も撮らせて、それをプロパガンダ(大衆操作)の道具にした。欧米の王族や指導者層にも配り、日本の国王ぶった。
大久保利通や岩倉具視や西郷隆盛ら武力討幕派は慶喜を嫌った。いや、おそれていた。討幕の密勅を朝廷より承った薩長に慶喜は「大政奉還」という策略で「幕府をなくして」しまった。
大久保利通らは大政奉還で討幕の大義を失ってあせったのだ。徳川慶喜は敗北したのではない。策を練ったのだ。慶喜は初代大統領、初代内閣総理大臣になりたいと願ったのだ。
新政府にも加わることを望んでいた。慶喜は朝廷に「新国家体制の建白書」を贈った。だが、徳川慶喜憎しの大久保利通らは王政復古の大号令をしかける。日本の世論は「攘夷」だが、徳川慶喜は坂本竜馬のように「開国貿易で経済大国への道」をさぐっていたという。
大久保利通らにとって、慶喜は「(驚きの大政奉還をしてしまうほど)驚愕の策士」であり、存在そのものが脅威であった。
「慶喜だけは倒さねばならない!薩長連合は徳川慶喜幕府軍を叩き潰す!やるかやられるかだ!」
 慶喜のミスは天皇(当時の明治天皇・16歳)を薩長にうばわれたことだ。薩長連合新政府軍は天皇をかかげて官軍になり、「討幕」の戦を企む。
「身分もなくす!幕府も藩もなくす!天子さま以外は平等だ!」
 大久保利通らは王政復古の大号令のクーデターを企む。事前に察知していた徳川慶喜は「このままでは清国(中国)やインドのように内乱になり、欧米の軍事力で日本が植民地とされる。武力鎮圧策は危うい。会津藩桑名藩五千兵をつかって薩長連合軍は叩き潰せるが泥沼の内戦になる。”負けるが勝ち”だ」
 と静観策を慶喜はとった。まさに私心を捨てた英雄!だからこそ幕府を恭順姿勢として、官軍が徳川幕府の官位や領地八百万石も没収したのも黙認した。
 だが、大久保利通らは徳川慶喜が一大名になっても、彼がそのまま新政府に加入するのは脅威だった。
 慶喜は謹慎し、「負ける」ことで戊辰戦争の革命戦争の戦死者をごくわずかにとどめることに成功した。官軍は江戸で幕府軍を挑発して庄内藩(幕府側)が薩摩藩邸を攻撃したことを理由に討幕戦争(戊辰戦争)を開始した。
 徳川慶喜が大阪城より江戸にもどったのも「逃げた」訳ではなく、内乱・内戦をふせぐためだった。彼のおかげで戊辰戦争の戦死者は最低限度で済んだ。
 徳川慶喜はいう。「家康公は日本を統治するために幕府をつくった。私は徳川幕府を終わらせる為に将軍になったのだ」
NHK番組『英雄たちの選択 徳川慶喜編』参考文献引用

  

  風が強い。
 文久二年(一八六二)、東シナ海を暴風雨の中いく艦船があった。
 海面すれすれに黒い雲と強い雨風が走る。
 嵐の中で、まるで湖に浮かぶ木の葉のように、三百五十八トンの艦船が揺れていた。
 この船に、高杉晋作は乗っていた。
「面舵いっぱい!」
 艦長のリチャードソンに部下にいった。
「海路は間違いないだろうな?!」
 リチャードソンは、それぞれ部下に指示を出す。艦船が大嵐で激しく揺れる。
「これがおれの東洋での最後の航海だ! ざまのない航行はするなよ!」
 リチャードソンは、元大西洋航海の貨物船の船長だったという。それがハリファクス沖で時化にであい、坐礁事故を起こしてクビになった。
 船長の仕事を転々としながら、小船アーミスチス(日本名・千歳丸)を手にいれた。それが転機となる。東洋に進出して、日本の徳川幕府との商いを開始する。しかし、これで航海は最後だ。
 このあとは引退して、隠居するのだという。
「取り舵十五度!」
 英国の海軍や船乗りは絶対服従でなりたっているという。リチャードソンのいうことは黒でも白といわねばならない。
「舵輪を動かせ! このままでは駄目だ!」
「イエス・サー」
 部下のミスティは返事をして命令に従った。
 リチャードソンは、船橋から甲板へおりていった。すると階段下で、中年の日本人男とあった。彼はオランダ語通訳の岩崎弥四郎であった。
 岩崎弥四郎は秀才で、オランダ語だけでなく、中国語や英語もペラペラ喋れる。
「どうだ? 日本人たち一行の様子は? 元気か?」
 岩崎は、
「みな元気どころかおとといの時化で皆へとへとで吐き続けています」と苦笑した。
「航海は順調なのに困ったな。日本人はよほど船が苦手なんだな」
 リチャードソンは笑った。
「あの時化が順調な航海だというのですか?」
 長崎港を四月二十九日早朝に出帆していらい、確かに波はおだやかだった。
 それが、夜になると時化になり、船が大きく揺れ出した。
 乗っていた日本人は船酔いでゲーゲー吐き始める。
「あれが時化だと?」
 リチャードソンはまた笑った。
「あれが時化でなければ何だというんです?」
「あんなもの…」
 リチャードソンはにやにやした。「少しそよ風がふいて船がゆれただけだ」
 岩崎は沈黙した。呆れた。
「それよりあの病人はどうしてるかね?」
「病人?」
「乗船する前に顔いっぱいに赤い粒々をつくって、子供みたいな病気の男さ」
「ああ、長州の」
「……チョウシュウ?」
 岩崎は思わず口走ってしまったのを、リチャードソンは聞き逃さなかった。
 長州藩(現在の山口県)は毛利藩主のもと、尊皇壤夷の先方として徳川幕府から問題視されている。過激なゲリラ活動もしている。
 岩崎は慌てて、
「あれは江戸幕府の小役人の従僕です」とあわてて取り繕った。
「……従僕?」
「はい。その病人がどうかしたのですか?」
 リチャードソンは深く頷いて、
「あの男は、他の日本人が船酔いでまいっているときに平気な顔で毎日航海日誌を借りにきて、写してかえしてくる。ああいう人間はすごい。ああいう人間がいえば、日本の国が西洋に追いつくまで百年とかかるまい」と関心していった。
 極東は西洋にとってはフロンティアだった。
 英国はインドを植民地とし、清国(中国)もアヘン(麻薬)によって支配地化した。
 フランスと米国も次々と極東諸国を植民地としようと企んでいる。

 

【鬱状態からの脱却】NHK大河ドラマいっき観!もはや無駄な徒労はもったいない!日本再起動計画

2016年01月26日 21時03分04秒 | 日記









最近、鬱状態が続きNHKの大河ドラマDVD


『龍馬伝』『天地人』『花燃ゆ』『平清盛』等を観まくった。


鬱状態でとてもつらい。


だが、もう再起動せねばならない。


小説執筆も音楽活動もなにもかも再起動しなければならない。


時は金なり!



とにかく動くしかない!歴史的な偉業を成すのは我にあり!臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2016年へ!臥竜  緑川鷲羽2016ReBORN上杉謙信

NHK大河ドラマ『真田丸』最高!凡人の嫉妬や逆恨みに負けるな!天才・三谷幸喜の活躍に期待!

2016年01月25日 17時37分25秒 | 日記









NHK大河ドラマ『真田丸』はかなり面白い。


やはり三谷幸喜は天才だ。


ある凡人が悪口で

「幕末戦国のミーハーな主人公が好きな三谷幸喜」


等と馬鹿馬鹿しいことをいっていたが、


「ゼロから1も生みだせない凡人が嫉妬してんじゃないよ(笑)」

と正直思う。


凡人は嫉妬か逆恨みしか出来ない(笑)いらんよ、凡人。



緑川鷲羽そして始まりの2016年へ!臥竜   緑川鷲羽2016ReBRON上杉謙信

【漫画テレビドラマBLOODYMONDAY】『ファルコン(高木藤丸)のようになりたい!』は馬鹿!

2016年01月23日 18時20分45秒 | 日記








TBS「ブラッディ・マンデイ」
[・・・]
サイバーディフェンス研究所
[・・・]
《ScanNetSecuri***

 ちなみにハッカー(ハッキング)は悪でも罪でもありません。
クラッカー(クラッキング)が『不正アクセス禁止法違法』なんです。まあ、わかりやすくいうと逮捕された猫男や30年前にペンタゴン(米国国防省)に不正アクセスして逮捕された当時の高校生です。私がファルコンのモデルのひとりなのは十数年前新聞やマスコミの投稿記事などで『天才』『臥竜』として、個人情報が載せられ、その後、元・米沢・山形NECのプログラマだと知れ渡ったのと、もうひとりが高校生時代ペンタゴン(米国国防総省)にハッキングして逮捕補導された当時の高校生の過去の出来事をミックスしてこの漫画(とテレビドラマ)が着想され、天才ウィザード(魔法使い)級ハッカー・ファルコン(高木藤丸)が誕生して、人気マンガの誕生となったのです。私は白状するとウィザード級のハッカーではありません。勿論悪質なクラッカーでもありません。
確かにプログラマでした。でも、ウィザード級ハッカーならウィキリークスのスノーデンとかゆう”覗き魔”の馬鹿でしょう(笑)ああいうやり方はハッカーというよりクラッカーで、知らなくてもいい国家機密を暴露して国際秩序を乱して世界政治世界経済を混乱させている”テロリスト・覗き魔”です。米国政府が頭にきて”国際指名手配”しているのもわかります。あの人物のやらかしていることは意味がなく、只の『自己顕示力誇示』『クラッカー技術誇示』…それだけです。しかも、ウィザード級とはいかないまでも優秀なハッカーは逮捕などされません。尻尾をつかまれないし、ハッキングや侵入の痕跡さえ残さない。国際指名手配とか逮捕される時点で甘い人間ですよ。下手糞です(笑)スノーデン氏はかなしいコンピュータヲタクであり、あのひとは確実に”正義の人”ではありません。人間あゝなったらおしまいです。早く捕まって刑務所にはいってもらうしかない人間です。だいたいにしてエシュロンがあるのは誰でも知っているのに「ドイツやフランスや英国カナダ日本の首脳の会話が盗聴されている」等今更「誰でも知っているよ!」です(笑)。かなしいパソコンヲタクです。あいつがもっと正義な事にコンピュータ技術をつかえば世界がよくなるがあんな輩に”覗き魔”以外のことなど出来ませんよ(笑)かなしい人間ですよね(笑)高校生当時ペンタゴンに侵入して逮捕された今はおじさんの日本人と同じですよ(笑)
 僕ではありません(笑)逮捕されていたら前科があることになってしまいます(笑)確かにテレビドラマ『ブラッディマンデイ』のハッキングは荒唐無稽です。あんなことしたらお金がかかるし、犯罪者を'つかまえるにせよ、警察から必要経費ぐらいもらわないと高木藤丸(ファルコン)みたいな活動はできませんよ。
パート2の高木藤丸のもっていた馬鹿でかいパソコンは1台で100万円以上します。
 大学生が(設定では浪人生(笑))がどうやってあんなパソコンと基地(秘密のアジト)の家賃を払うのですか?所詮は漫画であり、ドラマです。どこかのシステムにハッキングして現金を盗む(これはハッキングではなくクラッキングやフィッシング詐欺)とかじゃなきゃ話にならない。犯罪ですけどね。
 プログラム言語を学ぶのはいいでしょう。そういうSEやプログラマになる、そういう企業(僕のようにNEC関連とか)に就職するなら。でも、『趣味でハッキング』や『ファルコンのようになりたい!』等馬鹿ですよね。漫画やフィクションだとわかってない。あれは架空の物語です。現実じゃない。あんな物語みたいな犯罪組織がありますか?あんな話の展開になりますか?数分で巨大政府のシステムをストップさせたり、露国の軌道衛星を操ったり(笑)荒唐無稽ですよ(笑)でも、ウィザード(魔法使い)級のハッカーは逮捕されたりしません。ハックの痕跡を残さないんですよね。なお、スマホだってハックやクラックできる。予防はスマホやPCの電源を落とし、有線LANケーブルは抜いておく事です。無線LANは情報ダダ漏れの状態です。まずはオンラインゲームとか扉を開けっ放しにしないこと。正義のハッカーよりも悪辣なクラッカーのほうが大勢いますから(笑)2015年9月14日NHK放送の『プロフェッショナル仕事の流儀』の名和利男さんを観ましたか?ウィザード級のハッカーとはああいうひとです。
確かに凄い人でした。でも、かっこよかったですか?おじさんファルコン(名和利男さん(44))は?確かに凄いスキルですが、名和さんに有望な後継者がいない、ひとりで”日本へのサイバー攻撃”を防いでいる。でも、ひとりでは所詮無理が来ます。同じクラスの仲間が必要です。
あなたが後継者になりたいなら、名和利男さんみたいにPCのスキルを上げなければならない。出来ますか?誰からも感謝されず敵から殺したい程憎まれるだけのタイトな仕事を?すべてのPC言語をマスターし、世界を相手にひとりで戦う。(テレビカメラもなにもないところで安月給で。称賛も何の賞ももらえない。ファンもいない。ひたすらパソコン画面とにらめっこ。)
 だから、僕は”金になる”小説や音楽の作詞作曲や絵とか特許とかのジャンルにステップアップしたんです。ハッカー等儲かりませんよ。ウィザード級のハッカーでも儲かりません。そういう人間もいますが(猫男よりは高度な技術を持っていますが)所詮、只の『パソコンヲタク』です。30年前の高校生のように(現在おじさん)誰かに教えて暮らす惨めな人生です。ドラマのようなスターにはなれません。
 あの米国から指名手配されているウィキリークスの馬鹿と同じです。
只の”覗き魔””盗聴盗撮魔”………それが現実の世界です。

―――ファルコン(高木藤丸)のような人物はいるのか?
います。ロシアのサイトですが
Exploiteを月1で公開してた人たちがいましたし
この前、JRのサイトも落とされてましたし
googleのソースが盗まれました
経路には100社以上あったようです

藤丸君がやってることは普通にムチャクチャですが
(理論的に違う気がするという意味で)
います、すごい人は。

コマンドプロントを使えなかったから
絶対ハッカーにはなれません

コマンドプロントから始めるべきというのは
単純な話、「GUI操作をせずともパソコンを楽しめるかどうか?」
が問われてると思います。コマンドプロントが使えても
Linux・Unixに慣れなければあまり意味はありません。
ほとんどのハッキングツールはLinux起動ですから

ブラッディマンデイで使用されているコマンド(命令文)を見る限り
プログラムの元はPythonかと思われます
(モグラのアレはphp・証明書などを改変してサイトを0で上書きしたと思われ)
(モグラのフラッシュの意味は不明)
Pythonは今じゃあんまり使われてないマイナーな言語
だと思います。マイナーなだけセキュリティに引っ掛かりにくいのでしょう。
良くは分かりませんが、基本的なクラッキングは
Dos・DDos攻撃によりセキュリティサービスを停止
→ゲスト権限で管理者権限の場所に接続(Explite等で)
→ls(詳細不明)の部分などを改変して管理者権限(admin/root)を取得
→目的を達成
→ログを削除、復元できないように0/nullで上書き→切断
の流れが2000~2002年当時の流行りのようでした

トロイ・ウイルスが現在は主力かとは思ってます
usbウイルスはずいぶん長いですし、
ちょっと前に流行ったガンブラー式も結構危険でした

とにかく英数字の羅列を見てるだけでも楽しい
って言うような人でもないと多分慣れないと
その前に普通、挫折します

でも、どうしてもハッカーになりたいというのなら
気分だけでも味わってわどうでしょうか?
BackTrack4 と検索してみてください
私が今、ココで言った分からない言葉の意味をすべて検索して調べ
BackTrack4をUSBやHDDに焼いてCDBootで起動してみてください
中には10年前ほど現役だったハッキングツールが入ってます
今はさほど役に立ちませんが
自分の家のパソコンをクラックするなら違法じゃありませんし
やる気があるなら楽しめると思います。
使い方も自分で調べること。そうしないと気分も味わえませんよ?

2010/4/609:49:49
[・・・]
擬似的にハッキングできます。

 以上、ファルコンのモデル緑川鷲羽でした。そして始まりの2016年へ!

【待ってましたよ、宇多田ヒカル!】宇多田ヒカル活動再開!NHK「とと姉ちゃん」で主題歌担当

2016年01月21日 06時04分00秒 | 日記











4月開始の朝ドラ 宇多田が主題歌
宇多田ヒカル活動再開!NHK「とと姉ちゃん」で主題歌担当






(スポニチアネックス) 01月20日 16:19

宇多田ヒカル
宇多田ヒカル
(スポニチアネックス)
 女優の高畑充希(24)がヒロインを演じるNHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」(4月4日スタート、月〜土曜前8・00)の主題歌を、活動休止中の歌手、宇多田ヒカル(32)が担当することになった。20日に行われた放送総局長会見で発表された。宇多田の所属レコード会社によると、この曲で本格的に音楽活動を再開するという。

 宇多田にとってはNHKドラマへの初めての書き下ろし楽曲の提供。NHKでは2006年に「みんなのうた」の「ぼくはくま」以来の提供となる。楽曲名などは未定。宇多田は2010年8月、「人間活動に専念する」として年内でアーティスト活動を無期限休止すると発表。その後、12年にアニメ「新世紀ヱヴァンゲリヲン」劇場版に主題歌を提供、13年には月1回放送のラジオ番組をスタートさせたが(14年3月終了)、いずれも「人間活動の一環」だった。

続きを読む
「あさが来た」は放送初週から15週連続で週平均20%超え

『あさが来た』18〜19日の2回連続で視聴率25%超を記録 - 今年に入って初
(マイナビニュース) 01月20日 12:24
五代さま“ラストウイーク”に突入、「ロス怖い」の声も
(デイリースポーツ) 01月19日 06:58
首相、軽減税率の対象拡

ショパン 神からの旋律フレデリク・ショパン<革命・雨だれ・別れの曲・英雄>ブログ特別連載5

2016年01月20日 08時47分31秒 | 日記










         パリへ




  ぼくが着いた頃のパリは七月革命後のルイ・フィリップ王政下にあった。
 そこでは、依然として現状打破を声高に叫ぶ革命派と、現状維持の保守派による対立が続いていた。ぼくはそういうのは苦手なので、関わらなかった。
 パリにも、ロマン派の波が押し寄せていた。そのひとつが一八三〇年『エルナニ』(ヴィクトル・ユゴー)やドラクロワの絵画、そして、ベルリオーズの『幻想交響曲』をあげることが出来るであろう。
 ぼくもしだいにそういう動きのなかにのみこまれていくことになる。が、ロマン派の波というものがそんなに強烈だとは、その時のぼくは考えもしなかった。
 ただ、この西欧の大都市の喧騒に圧倒され、自分自身の志をあらたにするしかなかった。「必ず成功しなくては」
 ぼくは心の中で、何度もそう誓った。
 ………必ず成功しなくては!そうでなきゃ終りだ!

”それは最大の美徳であり、また最大の悪徳でもある。一歩あるくごとに性病の薬の広告にぶつかる。騒音や馬鹿騒ぎなど、想像をはるかに越えている。ひとはその「天国」のなかに姿を没してしまうが、それはなにより好都合だ。他人がどんな生活をしているか誰も知りもしないのだから”



 ぼくは、パリの北の地区にあるポアソニエール大通りに「しんと光るような小さな部屋」を借りた。そこは五階にあって、見晴らしがすごくよかった。
 モンマルトルからパンテオンまでパリの一番綺麗なところが見渡せる、信じられない程魅惑的なところだった。
 空は一面のブルーだった。
 そんな青に、ふわふわと雲がゆれて、ほんわりした陽の光りが窓から差し込む。それは幻想的なような景色だった。
 そう、幻想、だ。
 そういうしんと光るような風景は、目の前の不安を少なからず和らげてくれた。
 ぼくは思う。
「……この空はすべての始まりだ」って。
 ぼくは、都会の喧騒の中で、ひとりの芸術家として生きる意味について深く考えた。
 そして、
「ぼくは、必ず成功する」と念じた。それは、マインド・コントロールであった。というより、自己暗示か?とにかく、ポジティヴに考えた。…心の中で。ひっかかるものがないとはいいきれないまでも、とにかく念じた。
「ぼくは、必ず成功する」と。いや、
「成功しなければならないのだ」
 と。

  ぼくを迎えたのは、旧知のラジーヴィウ公爵や、美しいデルフィーヌ・ポトツカ伯爵夫人、そして祖国を追われていた愛国詩人ミツキェヴィチなどのポーランド人だった。
「やあ、ショパン君」
「こぶさたしてます」
 ぼくらは握手を交わした。
「…無事でなによりだ」ラジーヴィウ公爵は笑顔を見せた。
 それから、ワルシャワやウィーンで得た多くの紹介状のおかげでパリの有名な音楽家たち、ロッシーニ、ケルビーニ、パエールなどにも会うことができた。
 しかし、この大都会ではそうしたことは音楽家としての道を開く要因にはならなかった。ただ、会っただけで、”顔みせ”の意味くらいにしかならなかった。
 けして、しんと光るような出会いではない。
 そんなに簡単に光るもんか!
 ぼくが本当に関係をもったのは、当時のピアノの巨匠カルクブレンナーだった。彼はぼくの演奏会をきいて興味を示し、
「君はフィールドの弟子か?」
 と、尋ねた。
「いいえ、違います」ぼくは答えた。
「では誰の弟子だ?」
「ぼくは誰の弟子でもありません」
 ぼくはにこりと言った。
 ぼくの方でもカルクブレンナーのひくピアノに強く魅かれた。
 カルクブレンナーは当時の大家に違いないが、当時の新しい音楽の風潮の中ではいささか時代遅れ……とみられていた。でも、ぼくはそんな風には思わなかった。
 カルクブレンナーは「誰にもくらべられぬほど素晴らしい」そして、「その静かで魅力的なタッチ、比類のない均整感」は神懸かりのように素晴らしい。
 それに比べて、ウィーンできいた若い人気ピアニスト、タールベルクの弾くピアノはあまりいいものではなかった。ひとことでいうと、
「華やかだが、内容に乏しい」のだ。
 その点、カルクブレンナーは「誰にもくらべられぬほど素晴らしい」。




  パリにきてしばらくしたある夜…。
 ぼくはカルクブレンナー氏の邸宅に招かれた。
 月が高く、漆黒の闇が広がり、ときおり月明りが差し込んで辺りをしんと光らせていた。とても静かな夜だった。すべてを包み込むような夜だ。
 ふわふわとした夜だ。
 カルクブレンナーは、
「君はもっと基本を学ぶことだ」とぼくにいった。
「基本ですか?」
「うむ」カルクブレンナーは続けた。「すべては基本が大事なのだ。家を建てるのでもそうだろう?土台がきっちりしてなくて曲がってたりひびがはいったりしたら潰れてしまう。音楽もしかり。基本さえしっかりすれば演奏も魅惑的になる。
 ショパン君、君の演奏は素晴らしい。しかし、私について基本を学べばもっとすごい演奏……聴衆を感動させられるような演奏ができるのだ」
「……聴衆を感動…ですか?」
「うむ。私と三年間一緒に勉強しないか?」
「三年間?」
「うむ」
「………わかりました。考えておきます」
 ぼくは答えた。そして、悪くない、と思った。
 しかし、父さんにそのことを伝えると、父さんとエルスナー氏はかなり厳しいことをいってきた。要するに、ぼくは騙されている……というのだ。
 エルスナー氏は、
「自分の才能の命ずるところに従うべき」だといい、また、
「演奏家であるよりも、作曲家としての道を歩め」
 と言った。
 ぼくはよくよく考えて、その忠告に従ったが、カルクブレンナー氏への信頼の気持ちはかわらなかった。ぼくは、
『ピアノ協奏曲』ホ短調
 をカルクブレンナー氏に捧げた。
 カルクブレンナー氏は、普段はごく普通のひとだが、ピアノを演奏している時は神仏のようにしんと光り輝く。ぼくはそこに魅かれた。

  パリでのデビュー演奏会は、その年の十二月二十五日に予定されたが、都合で翌年に延期され、カルクブレンナー氏の突然の病気などで、やっと二月二十六日に実現した。
 それは、本当にやっとのことだった。
 場所はカデ通りのサル・プレイエルで、プログラムには「声楽・器楽大演奏会」と印刷されていた。当時はいわゆる独奏会は例外的にしかおこなわれておらず、器楽の間に歌や踊りが入るのが普通だった。
 ほくはこの演奏会でヘ短調の協奏曲と『ラ・チ・ダレム・ラ・マーノによる変奏曲』を弾き、聴衆にも快くうけいれられた。それは、新しいロマン派の勃興の時代が到来したというような評価をうけた。それは多分当たりだろう。ぼくはそう思う。
 演奏会が終わると、ぼくは拍手を背に楽屋に戻った。
 そして、ジュースを飲んだ。
 喉が乾いていたし、とても美味しいジュースだった。確か、オレンジ・ジュースだったかな?よく覚えていない。
 楽屋で帰り支度をしていると、若い青年らが訪ねてきた。
 それが、リストとメンデルスゾーンだった。彼等も、ぼくとともに同年期としてロマン派音楽をリードする人物たちであり、ぼくの演奏に”なにか”を発見したようだ。
 それは嬉しいことで、リストとメンデルスゾーンは、
「君を尊敬する」
 と言ってくれた。ぼくはもちろん嬉しかったし、きらきら光る友情のようなものを微かに感じた。それは運命だったのかも知れない。
 陳腐だが、そう思う。
 なぜなら、この後、リストとメンデルスゾーンとは親友同士になったのだから。


  パリでのリサイタルは基本的には「成功」だった。
 だが、その成功が音楽家としてのぼくの生活を保証したことにはならなかった。ぼくの演奏も作品も評論家筋には高く評価されたのだが、一般聴衆に大ブームを巻き起こすようなことはなかった。
 オペラ一辺倒の人々にとっては、ぼくの演奏はいささか繊細過ぎて聞きずらい…というようなことでどうもあったらしい。
 確かに、ぼくの演奏は、リストのような派手さで聴衆を圧倒するものでもなければ、タールベルクのように安易な抒情性でひとを喜ばせるようなのではない。そういう意味において、ぼくの繊細なピアノの調べは「うけいれるのに手間がかかる」といったところだろうか?なんにしても、ぼくは限られた聴衆しかもつことができなかった。
 それにしても、ぼくは一八三〇年代の前半には多くのリサイタルをやった。にも関わらず、生活はジリ貧だった。金が儲からず、客が来ず……悲惨な日々が続いた。
「……くそったれめ!」
 ぼくはひとり、舌打ちした。なんてことだろう!所持金がなくなってきて、ズボンの破けたのも直せず、靴もすりきれてきた。食べ物も少なく、病気がまた悪化しだしたり……とにかく悲惨だった。
 明らかに生活に息詰まった。
 ぼくは、
「アメリカに移住しよう」と真剣に考えるようになる。
 しかし……アメリカにいってなんになるのか?
 とにかく、ぼくは悩み、貧乏に頭を抱える日々が続いた。
  しかし、幸福は足早に訪れる。
 ラジーヴィウ公によってロチルド家(イギリス名はロスチャイルド)に紹介され、ぼくはパリの上流階級での名声を確実なものにした。
 また、サロンか?だって?
 それは言わないでほしいな。とにかく、これでぼくは救われたのだから…。
 彼らサロンに集まる人々は、ぼくの音楽に共感し、その子女たちの音楽教師としての仕事がぼくの収入を保証することになった。一八三三年頃にはぼくはパリで一番裕福なポーランド移民の一人となっていた。
 ぼくとサロンのことを少し語ると、ぼくはポーランド時代から上流階級のサロンを中心に演奏やってきていた。ぼく自身、サロンが好きだった。
 極めてリアリストなぼくはサロンの実態をよく分析していて、実態は分かっていた。しかし、同時に、そういう社会でしか自分の音楽は受け入れられないという現実もわかっていた。
 ぼくは自分の心を他人に打ち明けるのは嫌いだ。で、サロンという洗練された社交の場でこそ自分を守れる……ということをぼくは知っていた。
 だから、サロンを中心に演奏をやってきた。
 それのどこが悪いとか悪くないとかそんな問題じゃない!食べていくためにサロンで演奏をやり続けただけだ。
 …………なにが悪い?
 この頃、音楽は大衆のものになりつつあったが、ぼくは大衆と距離をおくような道をあえて選んだ。そして、外の世界との接触の拒否をうけ入れてくれるサロンに住むことを選んだ。
 ぼくは金持ちになって、ひとりの召使いと自家用の馬車をもつような生活を送れるようにまでなった。さらに、社交界では花形のスターにまでのしあがり、パリの著名な音楽家や詩人のハイネとも親交を結んだ。しかし、いつも
「……このままでいいのだろうか…?」
 とは思っていた。
 ぼくの心の中のどんよりした影や孤独が、しだいにぼくの身体を蝕み、ずたずたにしていった。いいようもない孤独感……いいようもない心痛…いいようもない感傷…。
 金持ちになっても、ぼくはそうしたものから逃げることは出来なかった。
 それは、きりりと心を締めつける心痛だ。
 しんとした感傷だ。

 この時期のぼくの作品はけして多くない。といっても、ぼくは小品であっても長く推敲を重ねるので「これは何年の何月に作った作品」ということは不可能だ。
 しかし、このパリでの作品は『スケルツォ』第一番、『バラード』第一番を除けば小品がほとんどである。しかし、この当時のぼくの生活からすれば、それでもましな方だ。
 一八三三年から四年にかけてぼくの生活は、少なくても外見上は順調であった。三三年にはベルリオーズ主催の音楽会にリストとともに出演し、メンデルスゾーンの招待でライン音楽祭に出席するなど、ぼくの活動は幅を広げ、それにつれて音楽家としての名声も上り、交友関係も広がった。ぼくの作品もリストなどのピアニストたちの演奏でしばしば演奏されるようになっていった。
 まさに順調だった。
 しかし、孤独は消えなかった。
 この当時、『ポロネーズ』(作品二六の一と二)の二曲を作曲した。これはかなりぼくも気にいっており、ぼくの代表作といえる。
 ポーランド時代の『ポロネーズ』に比べ、このパリの『ポロネーズ』(作品二六の一と二)は格段の音楽的充実が見られることは間違いがない。                    
 ぼくは二十五歳をむかえ、漸く音楽家としての成熟期に入ったのである。



【誰?P.N.福本清二?誰?】練馬区役所へ爆破予告3回 脅迫文の特徴から囁かれる犯人像

2016年01月19日 17時40分12秒 | 日記










【誰?P.N.福本清二?誰?】練馬区役所へ爆破予告3回 脅迫文の特徴から囁かれる犯人像

*写真はP.N.福本清二?彼がアップした顔写真


**よくわからないが2ちゃんねるで誹謗中傷を極めたのが谷〇亮〇という人物で、弁護士が唐〇貴〇氏
誹謗中傷の弟が〇史といい16歳の時に集団暴行イジメ後、自殺とか…なんだかよくわかりませんね。
2ちゃんねるは酷い書き込みが多いのでパスしているので(笑)***

練馬区

東京都練馬区市所庁舎を爆破する、などといった脅迫文がネット上の掲示板で相次いで見つかり、今度は直接区役所に「ガチで爆破しますを 覚悟しろナリ 全員ポアナリ」といったメールが送られた。警視庁は威力業務妨害の疑いで捜査を続けている。

なぜ執拗に区役所庁舎を狙っているのか、理由は全く分かっていないが区役所庁舎と一緒にある法律事務所も爆破すると書かれていて、独特の言い回しの脅迫文から、あるネット上の「事件」を連想する人もいる。

爆破予告の裏に、ネットで起こった「ある事件」が?(画像は練馬区の公式サイトより)
爆破予告の裏に、ネットで起こった「ある事件」が?(画像は練馬区の公式サイトより)
「当職は本気ナリよ 覚悟しろナリ 全員ポアなり」

2015年6月14日にネットの「したらば掲示板」で見つかったのは、

「無能警察は早く私を逮捕してみなさいよ 無理だがね 日本の時代遅れポリスじゃ無理よむーり この書き込みのIPでも開示したら???? ムダだけどなー バカポリ 明日6月15日東京都練馬区の練馬区役所に爆発物を仕掛け爆破する」
などという書き込みだった。

15年10月13日には、

「10月14日に練馬区役所をプラスチック爆弾で爆破する 覚悟しろ無能 掛かってこいや無能警察」
という書き込みが掲示板「Unionbbs」に出た。何れにも法律事務所も爆発すると書かれていて、13日の書き込みの中に自己紹介として氏名と住所があった。練馬区役所危機管理室によれば、6月14日のものは区役所に発見者から直接連絡が入り警察に通報した。10月13日のものは発見者が110番通報した。そして10月23日にこんな脅迫文が区役所にメールで送られてきた。

「この前予告した者ですが 爆発が起こらずになによりです 今回はガチで爆発しますを 高性能な爆薬を入手したナリ 当職は練馬区役所の施設内複数個所に 爆弾を仕掛けさせていただきましたを」
そして爆破時間は10月26日の午前11時23分と指定し、爆破する目的は自分が目指す優しい世界を創るためだと説明した。最後に、

「ではさよなら練馬区役所職員諸君 当職は本気ナリよ 覚悟しろナリ 全員ポアなり」
と終えた。この3番目の脅迫文には法律事務所の名前は出てこなかったけれども、この言葉使いから、ネットでは法律事務所と関係しているという声があがった。
「警察に捜査を依頼している段階でまだ何もわかっていません」

脅迫文が発見される度に区役所では対応に追われ、不測の事態に備えるため不要不急の来庁は控えるように呼びかけた。警備員も従来の11人から40人に増強し警戒し、警察も15人態勢で配備された。

これで脅迫は3件続き、これまでのところ何事もなく騒動は収まっている。それにしても、なぜ練馬区役所が狙われたのか。危機管理室は10月29日、

「警察に捜査を依頼している段階でまだ何もわかっていません」
と答えた。一緒に爆破すると書かれた法律事務所についても、全く関係はない、ということだった。法律事務所に話を聞くと、答えは危機管理室と同じだった。

犯人が一人なのか複数なのかはわからないが、この3件の脅迫文に共通していることがある。それはネット上で起こった、ある「事件」だ。掲示板「2ちゃんねる」で誹謗中傷を繰り返す人物がいて、不快だと思ったユーザー達はその人物を特定しネット上で吊し上げる報復に出た。吊し上げられた人物は身の危険を感じ弁護士に助けを依頼する。その弁護士は有能だったこともあり「2ちゃん」ユーザーからバッシングの対象となり、弁護士のまとめサイトやwikiが多数つくられ、「尊師」などと呼ばれ、あることないことが書き込まれた。自宅は練馬にあるなどというデマが飛び、口癖は「当職」「ナリ」などと言われた。第二の脅迫文に書かれた名前と住所はこの弁護士を依頼した人物とされ、第三の脅迫文の口調はこの弁護士を意識したものだとネットで囁かれている。ネットで起こった諍いが区役所と弁護士事務所の爆破予告という形に変わったという見方をする人もいて、事件の早期解決が求められている。

【SMAP解散なし?】SMAP生謝罪「スマスマ」平均31・2%、瞬間最高37・2%の高視聴率

2016年01月19日 11時43分01秒 | 日記






SMAP生謝罪「スマスマ」平均31・2%、瞬間最高37・2%の高視聴率

09:08スポニチアネックス






SMAP生謝罪「スマスマ」平均31・2%、瞬間最高37・2%の高視聴率
18日、一部生放送になった「SMAP×SMAP」(C)フジテレビ
(スポニチアネックス)
 分裂の危機にあったSMAPが5人そろって生出演し、グループ存続を表明した18日のフジテレビ「SMAP×SMAP」(月曜後10・00)の平均視聴率は31・2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だったことが19日、分かった。瞬間最高視聴率は午後10時22分の37・2%。メンバーのあいさつが終了した後、木村拓哉(43)が「これから自分たちは何があっても前を見て、ただ前を見て進みたい」と締めくくり、5人が頭を下げた場面だった。

 関西地区は平均29・7%、瞬間最高33・8%(午後10時22分)だった。

 13日に騒動が発覚してから6日。国民的スーパースターの肉声に列島の注目が集まり、あらためてSMAPの存在の大きさを示した。18日にスタートした月9ドラマ「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」(月曜後9・00)が初回15分拡大のため、午後10時15分からオンエアされた。スーツ姿の5人は午後10時19分に登場。約3分、1人1人が心境を明かし、騒動への謝罪やファンへの感謝を口にした。

 フジテレビは18日午後、同日夜の「SMAP×SMAP」が一部生放送になり、メンバー5人が視聴者にメッセージを送ることを発表。ジャニーズ事務所はファクスで「先週より報道されております騒動につきまして、社内協議を重ねました結果、今まで支えてくださっているファンの皆さまをはじめとする、より多くの皆さまに5人のメンバーの口から直接、現在の心境を語らせていただくことが、せめてもの誠意を尽くせることと考え」と生放送に踏み切った理由を説明。メンバー5人が揃う唯一の全国放送レギュラー番組を報告の場に選んだ。

 番組の歴代最高視聴率は2002年1月14日に放送された「SMAP×SMAP ’02緊急生放送! 今夜5人そろってスマップが出演します。」で記録した平均34・2%。01年8月末から謹慎していた稲垣吾郎(42)が生放送で芸能活動を再開した時だった。





【どうなる?】SMAP、解散回避が決定的に…移籍後も活動安泰
2016年01月18日
トラブルジャニーズ

1: ニライカナイφ ★@\(^o^)/
◆SMAP、解散回避が決定的に…ジャニーズ事務所の横暴がアダに、移籍後も活動安泰

SMAP解散をめぐる騒動が、連日世間を賑わせている。

一連の報道を総合すると、当初は木村拓哉だけがジャニーズ事務所に残り、中居正広、稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾は独立する可能性が濃厚とされていたが、木村がメンバー全員に直接電話をかけるなどして、解散回避に向けて動いているとも
一部で報道されている。事情を知る大手芸能事務所関係者は語る。

「SMAPメンバー内でカギを握る木村と中居が、周囲の忠告などの影響もあり解散回避を決心したことで、どのようなかたちであれ『解散はしない』ことが決定的となったようです。
SMAPが今後もグループとして継続する場合、選択肢としては2つあります。
ひとつは、中居ら4人の独立が撤回され、ジャニーズに残ってこれまで同様に活動を続けるパターン。
もうひとつは、SMAP全員が別の事務所に所属するパターンです。
SMAPはどちらの形態になったとしても、グループの存続を最優先にする方針を固めたようですが、ジャニーズのメリー喜多川副社長は中居らの残留を固くなに拒んでいるため、後者になる可能性が高いです」

そこで気になるのが、ジャニーズを離れたSMAPを迎え入れる、いわば渦中の栗を拾う事務所があるのかという点である。
ジャニーズといえば、数多くの人気タレントを抱える老舗の大手事務所ゆえに、テレビ局のみならず芸能界全体に大きな影響力を持つとされる。過去には田原俊彦や諸星和己(光GENJI)をはじめとして、ジャニーズを独立した直後に露出が激減するケースも多く、「ジャニーズが徹底的に干したため」(週刊誌記者)ともいわれている。

「実はすでに、ある大手事務所グループがSMAPを引き受ける意向を示しています。
今回一連の騒動で明らかとなったのは、SMAPは解散しようにも世間がそれを許さないほどの存在だということです。
そもそもビジネス的にみても、SMAPはグループの活動だけで年間200億円以上の収入をもたらすともいわれており、これに各メンバーの活発なソロ活動の分も加わる。
そしてなんといっても、デビューから25周年を迎えた現在でもライブツアーで100万人以上を動員するほど人気は盤石。
こうしたさまざまな条件を勘案して、事務所としてはSMAPを抱えることによるデメリットよりもメリットのほうが大きいと判断したようです。いずれにせよ、SMAPはジャニーズを離れてもグループとしての活動を続けることが可能になりました」(同)

●移籍後も活動は安泰か

しかし、テレビ局としては、別の事務所に移籍したSMAPを起用することは、ジャニーズ全体に喧嘩を売る行為に等しい。
その代償として、ジャニーズのタレントを起用したくても拒否されてしまう恐れもあるのではないか。

「たしかに過去の例をみる限り、その可能性はあるかもしれません。
しかし逆にいえば、テレビ局側としてはジャニーズと手を切れるチャンスともいえます。
ジャニーズは所属タレントが出演する番組の内容や演出について露骨に口を出してきたり、『Aを起用するならBも使え』というようなバーターを当然のように求めてくる。
そんなジャニーズの手法に辟易としている局関係者が多いのも事実です。
そして、テレビのメイン視聴者層が40~60代になった今、ジャニーズ抜きでもテレビは十分に成り立つ。
SMAP受け入れを認めた事務所は、各テレビ局サイドにこうした“感触”があることをすでに確認しています」(同)

さらにこのほかにも、SMAPは移籍してもその活動に懸念は少ないと考える理由があると、同関係者は語る。

「今回の騒動で露呈したのは、ジャニーズのあまりに横暴な振る舞いです。
事務所の都合で超人気グループを潰そうとするなど、常軌を逸しています。
そうしたジャニーズの体質が世間的に明らかとなった今、テレビ局も芸能事務所も、ジャニーズ寄りの態度をみせることは現実問題として難しい。
芸能界・マスコミ界全体が、露骨な“SMAP切り”などできない状況が整ったのです」(同)

騒動は今後どのような着地をみせるのか、動向から目が離せない。 

Business Journal
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160117-00010004-bjournal-ent
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160117-00010004-bjournal-ent&p=2

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3: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
この際、ジャニーズ事務所をツブそうぜw

6: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
東京五輪みたいだよなあ
色んな所からおせっかいが出てきてわけのわからんことになるの

8: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
え、木村も他事務所に行くの?wそれは無いと思うんだが

12: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
移籍金を要求するジャニーズなら笑える。

16: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
解散回避で移籍後も安泰ってなに?
意味わかんね

17: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
移籍するとしたらどこの事務所が手をあげてどこへ入るのかが気になる
それから移籍後もスマップを名乗れてスマップの歌を歌えるのかと
いうことが

25: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
メリーを首にすれば丸く収まる

26: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
確かにSMAPがなくなればジャニの力も落ちるだろうしな
嵐じゃ数字とれねーし

27: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
AKBの事務所がバラバラなのといっしょか

43: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
マッチ涙目

54: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
子会社作ってマネージャー社長にしてスマップをそこに移せばいいんじゃないの
経営方針にジュリーは口出しせずに上納金だけ貰う

64: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
まさにジャニ切りの千載一遇のチャンスだよな

68: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
キムタクとゲス谷を入れ替えれば全て丸く収まるんじゃね






【どうなの?】 「嵐が本流、SMAPは傍流」一般人には理解不能なジャニーズ事務所ってよwwwwwww
2016年01月18日
ジャニーズ

1: ダークホース ★@\(^o^)/
国民的アイドルグループのSMAP解散報道に日本中が揺れている。
まだ解散が決定したわけでもないアイドルグループが、NHKのニュースや朝日新聞等の全国紙の1面記事になることなど、これまでにはなかったことだ。
それほどまでにSMAPは年代性別を問わずよく知られ、注目されていると言えるだろう。

「しかし、ジャニーズ事務所の幹部からすると、SMAPは本流グループではなくあくまで傍流。それゆえこれまで冷遇され続けてきたのです」

と語る芸能事務所関係者が続けて言う。

「それでは本流グループは誰かと言えば、もちろん嵐です。幹部の間では、ジャニーズタレントはあくまでも
『歌って踊れること』が第一条件。SMAPは人気こそトップですが、木村拓哉を除く4人は『踊れない』という理由から、これまでずっと落ちこぼれ扱いされてきました。中でも中居正広と香取慎吾の2人は、踊れない上に歌えない“究極の落ちこぼれ”というレッテルを貼られてきた。中居はグループの中でいちばんの年長者。対して香取はいちばんの年少者。中居は香取をかばいながら、司会という生きる術を究め、香取に教えてきた。稲垣吾郎も草なぎ剛も同様に踊れないというレッテルを貼られていたため、役者という道を究めてきたんです」

近年、嵐の台頭が際立つとはいえ、あのSMAPが傍流扱いとは、事務所幹部と一般人の感覚差に驚くばかりだ。

http://news.infoseek.co.jp/article/asageiplus_50921/

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4: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
ただの社内の権力争いだからな。
本来であればタレントはノータッチであるべき。

5: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
ジャニー派が本流、メリジュリー派が主流、飯島派は傍流。

11: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
村作ったり家を建てられるアイドルも傍流ですか?

12: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
両方のファンでもない国民にメンバーのフルネーム言えるか聞いてみたらわかるよ
認知度でSMAPが圧勝する



<SMAP解散> メリー副社長が勝利宣言「SMAPはジャニーズでやる。飯島は許さない」
トラブルジャニーズ

1: ニライカナイφ ★@\(^o^)/
◆「SMAPはジャニーズでやるから心配しないで。飯島は許さない」メリー副社長が勝利宣言

SMAP解散をめぐる騒動が、連日世間を賑わせている。

一連の報道を総合すると、当初は木村拓哉だけがジャニーズ事務所に残り、中居正広、稲垣吾郎、草なぎ剛、香取慎吾は独立する可能性が濃厚とされていたが、木村がメンバー全員に直接電話をかけるなどして、解散回避に向けて動いているとも一部で報道されている。

世間一般の人々の間では、ジャニーズ事務所を取り仕切るメリー喜多川副社長よりも、ジャニーズを離れる“SMAP育ての親”でチーフマネージャー・飯島三智氏と、恩義から同氏に同調する動きをみせていた中居らメンバー4人に同情的な声が多いようである。

だが、そうした世間の声に反して、スポーツ紙やテレビ局の報道は日増しにジャニーズ寄りになっている。
特にジャニーズ残留を決めた木村を持ち上げる報道が増える半面、飯島氏や中居に対する風当たりは強い。

「ジャニーズと日頃から付き合いの深いテレビ局やスポーツ紙は、早い段階でジャニーズ側からSMAP解散の情報をリークされた一部を除き、当初こそ飯島氏の独立をバックアップすると目された芸能界の複数の勢力の存在もあり、中立に近い立場で成り行きを見守っていました。
しかし、形勢がジャニーズ有利と見るや、どちらに味方すべきかの判断を下したのでしょう。
中居さんに対する風当たりが強いのは、4人のなかでも独立に積極的な姿勢を見せていたことや、バラエティ番組で近藤真彦さんをネタにするエピソードを話したことにメリーさんが激怒しているから。
メリーさんにとって近藤さんは息子同然の存在ですからね。
もちろん、中居さんの“マッチネタ”にゴーサインを出したのは飯島さんです」(広告代理店関係者)

このようにマスコミが一気にジャニーズ寄りに動いた背景には、飯島氏の大きな誤算があったという。
芸能事務所マネージャーは語る。

「当初、飯島さんをバックアップすると目された存在としては、複数の大手芸能事務所幹部に加えて、芸能界に興味を持つある政財界関係者の名前も取り沙汰されていました。
しかし、それはあくまでSMAPのメンバー全員が揃って独立するというのが条件でした。
ところが、蓋を開けてみれば木村さんが残留を表明した。
これを見てバックアップを予定していた勢力も、『5人セットじゃなきゃ話にならない』『なぜキムタクを調整できなったんだ』とトーンダウンしてしまったようです。
ようは、木村さんを残留させたメリーさんの作戦勝ちです。
ライバル事務所からしてみれば、仮にSMAPを引き抜けなくても、今回の騒動でジャニーズに十分ダメージを与えられたし、ジャニー喜多川社長も、メリーさんは高齢なので勝負を焦る必要はないと思っているのではないでしょうか。
メリーさんも、跡を継ぐ娘で副社長の藤島ジュリー景子さんのために、芸能界とは別の業界の大物たちと独自のパイプを強化しているようです」

●メリー副社長の勝利宣言

そこで気になるのは、なぜ木村がジャニーズ残留を決断したのかという点である。

「すでに一部で報じられているように、やはり奥さんの工藤静香さんの存在が大きいのでしょう。工藤さんは、メリーさんやジュリーさんとかなり懇意にしていましたからね。
工藤さんにしてみれば、2人に対しては当時人気絶頂だった木村さんとの結婚という“特例”を認めてもらったという大きな恩義がありますしね」(同)

こうして、ジャニーズ優勢で進んでいる今回の騒動だが、このままSMAPは解散してしまうのだろうか。
すでに勝利を確信しているゆえか、メリー氏は最近こんな言葉を口にしているという。
テレビ局関係者が絶対匿名との条件で、その言葉を明かす。

「飯島は許さないけど、あの4人もどうせ必死に謝ってくるだろうし、最終的にはSMAPはウチ(=ジャニーズ)でやるから心配しないで。その時は日本テレビの『24時間テレビ』に出して、100kmマラソンをさせるから」

この発言を聞く限り、“造反組”に対して徹底的にお灸をすえたうえで、最後は4人の出戻りを認めるとも受け取れる。

果たしてSMAP解散騒動は、どのような決着を見せるのだろうか。

Business Journal 
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160117-00010007-bjournal-ent
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160117-00010007-bjournal-ent&p=2

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4: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
世間はBBAを許さないけどなw

6: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
もう40半ば、一番若い香取でも40近いんだし解散のタイミングとしては絶好だと思う

ただ、誰とは共演させないとか何年干すとか
ペナルティって言葉に置き換えられて芸能界のルールみたいに報道されてるけど
一般社会でそんなことがあればパワハラ・ブラックの烙印押されて場合によっては裁判沙汰だよ

視聴者は許さない姿勢を見せ始めたけど、各メディアはどう出るんだろうか
長いものに巻かれ続けるならいよいよテレビを視る人も減っていくよね

8: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
今回のよくわからん騒動で一つだけわかったのがジャニーズ、ってかメリージュリーマチーが最悪だってことだ。
中居はよく戻れるな。同情するぜ。

Comfort women issue "sex slaves" of Seiji Yoshida Atonement?

2016年01月18日 16時01分32秒 | 日記











Comfort women issue "sex slaves" of Seiji Yoshida Atonement?
 
By the Korean comfort women issue agreed day in 2016, but the "comfort women issue is resolved," has been and, I think I have not been resolved at all.
Why the military and authorities, like as in the "Nazi Jew hunting", the Imperial Japanese Army abducted by kidnapping a young woman than 20 million people, "comfort women" as was "sex slaves", haphazard that such whether the story has been circulated to the true as the world? Again, it is unavoidable even hit the whip to the dead, Seiji yoshida's crazy old man and the Asahi newspeapar Yoshida must say that it is a ringleader.
By Yoshida and the Asahi Shimbun(newspeapar), by the press, "The Japanese made was latches the sex slaves" "The Japanese came to be reviled terrible thing was the" and forever. Although Seiji Yoshida also terrible Asahi Shimbun(newspeapar) also terrible. If no Asahi Shimbun reports is "sex slaves" "There was no misunderstanding or rather an issue of comfort women." If the "comfort women the image of" such as South Korea and the United States if you really Japan and South Korea comfort women problem solving has paid off also should be removed, or it is not than not solved if not been made? The first place "sex slaves" "The Japanese can not be said about the if misconception that" was in the comfort women was also latched 200,000 young women in the past is not solved "resolution" and the like around the world.
To be eliminated misunderstanding of people of the world Japan-Korea comfort women dialogue is only only ceremony. Seiji Mr. Yoshida of Atonement?
Certainly comfort women as sex Miss probably had. But recognition is not correct that like saying a person of some of ignorance "comfort women's Granny of the original-prostitutes". Do exactly what but prejudice and discrimination, such wording is, how ignite women and intellectuals of the anger of the world? I think it's a statement that is not known for. If what it is you do? Again, with pilgrimage world, or in the media scrum, there is no choice but to place a "truth of comfort women issue" in the world. If lowering the head, if the apology, the world is better that you do not think like ...... who will know.
People lie. Seiji Yoshida per the great lie, Asahi Shimbun was also piggyback on the big lie. And Japanese was called gave birth "terrible man" with "sex slaves". The Japanese honor wounded greatly, we have received a misunderstanding and "sex slaves of the country" from about women all over the world.
At all, no, not at all, the problem is solved! If this remains in the recovery honor of Japanese past Japanese undergo forever be "rape magic" treatment. There is no reason to say in this state. It is not only a ceremony one hundred million total active society there if abenomics be solved a world of misunderstanding. Now is the time I have the biggest chance to solve the misunderstanding! Life Japanese If you miss this great opportunity is "rape magic treatment". Japan's Ministry of Foreign Affairs and Foreign Affairs officials doing! More decent not and Foreign Affairs officials would not escape the reproach of "tax thief".
 
Freelance journalist, Yamagata Prefecture (age real name published) Midorikawa Washu

従軍慰安婦問題「性奴隷」吉田清治の贖罪は?

2016年01月18日 15時54分47秒 | 日記










従軍慰安婦問題「性奴隷」吉田清治の贖罪は?

 2016年日韓慰安婦問題合意によって、『慰安婦問題は解決』とされたが、私はまったく解決されていないと思う。
何故に軍や官憲が、まるで『ナチスのユダヤ人狩り』の如く、旧日本軍が20万人も若い女性をさらって拉致し、”従軍慰安婦”として”性奴隷”とした、などという出鱈目な話が真の如く世界中に流布されたのか?やはり、死者に鞭を打っても仕方ないが、吉田清治なるクレイジーな爺さんと朝日新聞が元凶であるということはいわなければならない。
吉田氏や朝日新聞によって、報道によって、”日本人は性奴隷を拉致してつくった””日本人は酷いことをした”と未来永劫ののしられることになった。吉田清治氏も酷いが朝日新聞も酷い。朝日新聞の報道がなければ”性奴隷””従軍慰安婦”の問題というか誤解もなかった。もし、本当に日韓慰安婦問題解決が実ったのなら韓国や米国などの『慰安婦の像』も撤去されるべきで、それがなされていないならば解決していないのではないか?そもそも世界中に”性奴隷””日本人は過去に若い女性を20万人も拉致して慰安婦にした”という誤解が解けないなら『解決』等とはおよそ言えない。
 世界の人の誤解が解消されなければ日韓慰安婦対話はセレモニーにしかすぎない。吉田清治氏の贖罪は?
確かに風俗嬢としての慰安婦はいたのだろう。だが、一部の無知の者がいうような「慰安婦は元・売春婦のばあさんだ」という認識は正しくない。まさに偏見や差別だが、そういう言い回しが、いかに世界の女性や知識人の怒りに火をつけるか?をわかっていない発言だと思う。ならばどうすればいいか?やはり、世界行脚して、もしくはメディアスクラムで、”慰安婦問題の真実”を世界中に発信するしかない。頭を下げれば、謝罪すれば、世界はわかってくれる……などと思わない方がよい。
ひとは嘘をつく。吉田清治氏は大嘘をつき、朝日新聞もその大嘘に便乗した。そして日本人は”性奴隷”を生んだ”酷い人間”と呼ばれた。日本人の名誉はおおいに傷つき、世界中でおよそ女性から”性奴隷の国”と誤解を受けている。
まったく、いや、全然、問題は解決していない!このままでは日本人の名誉が回復されなければ過去の日本人は未来永劫も”強姦魔”扱いを受ける。このままでいい訳はない。世界の誤解を解くことがなければアベノミクスだの一億総活躍社会だのセレモニーでしかない。今こそ誤解を解く最大のチャンスである!この絶好の機会を逃せば一生日本人は”強姦魔扱い”である。何をしている日本の外務省や外務職員!もっとちゃんとしないと外務関係者は『税金泥棒』のそしりを免れないであろう。

フリージャーナリスト 山形県(年齢本名非公開)緑川鷲羽


【さすが三谷幸喜!】「真田丸」第2話視聴率は20・1%!初回上回り、3年ぶり大台超え

2016年01月18日 11時22分05秒 | 日記












「真田丸」第2話視聴率は20・1%!初回上回り、3年ぶり大台超え






10:01スポニチアネックス

「真田丸」第2話視聴率は20・1%!初回上回り、3年ぶり大台超え
NHK大河ドラマ「真田丸」の主演を務める堺雅人
(スポニチアネックス)
 俳優の堺雅人(42)が主演を務めるNHK大河ドラマ「真田丸」(日曜後8・00)の第2話が17日に放送され、平均視聴率は20・1%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だったことが18日、分かった。初回は3年ぶりの大台スタートを逃したが、19・9%の好発進。初回を上回り、早くも“大台”を突破した。

 NHK大河ドラマの20%超えは2013年「八重の桜」の初回21・4%以来、3年ぶり。

 大河ドラマ55作目。戦国時代最後の名将・真田幸村=本名・真田信繁(のぶしげ)の生涯を描く。ヒットメーカー・三谷幸喜氏(54)が「新選組!」(2004年)以来、2度目の大河脚本。タイトルの「真田丸」は大坂冬の陣で、信繁が築いた最強の砦。同時に、家族の物語として一艘の船に例えた。演出は木村隆文氏ほか。

 第2話は「決断」。信幸(大泉洋)信繁(堺)ら真田家の一行は、武田家の本拠地・新府から父・昌幸(草刈正雄)の待つ岩櫃(いわびつ)城へ落ち延びようとしていた。道中、岩殿城へ逃げた武田家当主・勝頼(平岳大)が裏切りに遭ったとの知らせが一行に届く。武田家の滅亡を受け、事態は一気に流動化。東海の有力大名・徳川家康(内野聖陽)も旧武田領を虎視眈々と狙う。主家を失った真田家は、北条につくか上杉につくかの判断を迫られる。やがて昌幸は息子たちの前で思いも寄らぬ決断を下す…という展開だった。

ショパン 神からの旋律フレデリク・ショパン<革命・雨だれ・別れの曲・英雄>ブログ特別連載4

2016年01月18日 09時24分37秒 | 日記










         ワルシャワ陥落




  ぼくの作品は一八二九年になって増えていく。
 数が増えただけでなく、そこにぼくの音楽の格段の成熟が見られるというのは、誰の眼でも明らかだ。それ以前の作品は、いまでは演奏されることはあまりないが、この時期以後の作品は盛んに演奏される。
 ぼくは運命の星から黄金の翼を得たのだ。
 そして、その翼でぼくは大空に羽ばたきいろいろな音楽的収穫を手にしたのだ。さらにぼくは、暗い漆黒の夜をもきらきらと明るく照らすように作品をつくり続けた。
 ぼくの音楽的成熟は明らかであった。
 それは、きらきら光る太陽というより、しんと光る満月のような静かな成熟だ。
 この頃、ぼくのポピュラーな作品、『協奏曲』(作品二一)や、『練習曲』(作品一〇)などを書いた。
 ぼくは調子がよかった。
 センスが光っていた。
 あまり知られてないが、この頃、数曲の歌曲も作った。そして、この頃より、「ノクチュルヌ」技法がスタートする。
 この頃を、ぼくの音楽的成熟とみるのはいささか早合点というものかも知れない。というのは、この当時、まだぼくは過去の巨匠の影をひきずっていた。不得意なオーケストレーションでは特にそうで、まだ、成熟期とまではいってないって感じだった。
『協奏曲』第二番(ヘ短調)は、ひきつづいて書いた第一番(ホ短調)(順番が逆になっているのは出版の順)とともにぼくの「初期」の様式の集大成といっても過言ではない。 ただ、しんと光るような成熟期とまではいってないって感じだ。
 ぼくは音楽家としての出発としてオーケストラつきの華やかな楽曲を選んだ。その中の、第一楽章のフンメル風、第二楽章のノクターン風、そして第三楽章の民謡風の楽想は、
いずれもぼくの初期の作品の特徴を示すものだと思う。
 それに比べると、『練習曲』はぼくの個性を示すものといえるかも知れない。
 多分に、オリジナリティがあるのだ。
 多分に、独創性があるのだ。
 ピアノの大家たちは、新しく開発された楽器の特徴を活かすような練習曲を書いており、ぼくはそこからかなりの影響をうけ、自分でも『練習曲』を書こうと思ったのだった。
 とくに、チェルニーの『練習曲』にはかなりの影響を受けた。
 カール・チェルニーはウィーンの作曲家で教師のひとである。
 チェルニー氏は、
「ショパン君、君は天才だ」
「ショパン君、君の演奏は神懸かりのように素晴らしい」
「ショパン君、君の作品は素晴らしい」
 と、沢山お世辞をいってくれた。
 ぼくは、このひとと非常に親しくなって、彼の家に招かれ、二台のピアノで幾度も合わせた。とてもいいひとだが、それだけのひとです。
 性格は優しく、演奏も上手なのだけれど、それだけのひとです。
 天才ではなく、凡人のひとです。
 それだけです。


  ブルーの空にうっすらと雲が流れ、ゆらゆらと揺れていた。
 なんとも静かで、きらりと太陽が光る。それはしんとした感傷だった。なんとも幻想的な風景やパノラマだった。金色の風景のような。
 ぼくは、ティテュスの別荘のテラスの椅子に座り、そんなブルーを見ていた。
 とてもいい眺めで、目の前の不安を少なからずやわらげてくれるかのようだった。
「フリデリク」
 ティテュスがやってきて言った。
「やぁ、ティテュス。何処にいってたんだい?」
「これさ」
 ティテュスは、ジュース入りのグラスを手にもって、掲げた。
「喉が乾いたかと思ってな」
「そう、ありがとう」
 ぼくはジュースを受け取ると、一気に喉に流しこんだ。とても美味しかった。
「フリデリク。君は今…」
「え?」
「君は今…」ティテュスは続けた。「大活躍だな」
「そりゃあどうも」
 ぼくは皮肉をこめて礼をいった。
「ぼくには音楽の才がないから、君の作品の質がわからないが、きいてるととてもいい」「そうかい?」
 ぼくはうけおった。「まぁ、……音楽なんてものは音に依る思想の表現だから、なにもこむずかしいことではないんだ」
「というと?」
「つまり、耳できいて、これはいいな、いい音楽だな、と感じればそれはいい音楽だし、感じなければそれはいい音楽ではないんだ」
「そんなものかい?」
「まぁね」
 ぼくは笑った。
「……ところで」
 ティテュスは話しをかえた。そして、不安気な顔になって、
「連中とまだ密かに会ってるのか?」
「………」
「どうなんだい?」
 ぼくは言葉を飲んだ。そして、心臓が二回打ってから、「革命思想家どもとか?」
「あぁ」
 ティテュスは頷いた。それにたいしてぼくは、
「……なにか問題でも?」
 と逆質問した。
 ティテュスは、「君は当局に睨まれてるぞ」と言った。
「……かまわないさ」
「連中と会うのはやめたほうがいい」
「なんで?」
「当局との軋轢がある。現に、君は政府から金をもらえなかったではないか」
「かまわんさ」ぼくは苦笑いをした。「…当局なんて怖いもんか」
「君は利用されているだけだ。君はこの国一番の音楽家だ。知名度も抜群……人寄せパンダに利用されているだけだ」
「……そうかい?」
「殺される」ティテュスは脅した。「もし革命でも起こって、それで失敗したら……君は殺されるぞ」
「……」 
「生け贄さ」
「ふん」
「象に立ち向かう鼠だ。勝ち目はないぞ」
「…………わからんさ」
 ぼくはとりあえずそう答えた。確かに、象に立ち向かう鼠だ。勝ち目はない。
 それはわかっている。ぼくだって馬鹿じゃない。


  それにしても、この頃、ぼくは二十歳になるかならないかの学生だったのだから、その立場で、『練習曲』を書いた意義は大きい。先人たちのものとはやはり違った視点で見られていいものだろう。しんと光るような曲たちだ。
 ぼくは作品一〇の『練習曲』十二曲につづいてやはり十二曲からなる作品二五の『練習曲』を書いた。その創作期間は一八二九年から一八三六年である。
 ぼくが音楽様式を確立しようとしていた時期に、この『練習曲』を書いた意味は大きい。ぽくはピアノという楽器を、ほかの誰とも違う意味で音楽による表現の武器としたのだ。 この頃より、オーケストラつきの音楽は捨ててしまった。
 その点も、ぼくと他のロマン派音楽家たちとは明らかに違う。
 とにかく、ピアノだけでいこうと決めたのだ。
 それは、きらきら光る太陽のような決意だ。しんと光る満月をやめて、金の翼を得ようと、心に決めたのだ。その金の翼こそ、ぼくの場合はプレイエルのピアノだった訳だ。
 その意味で、『練習曲』の作曲は、ぼくにとっては「音の発見」であった。
『協奏曲』が、ぼくの音楽的青春の総括であるなら、『練習曲』は新たな音の探求に他ならない。さすれば、『ノクチュルヌ』は音楽的成熟の結晶ともいえる。
『協奏曲』も『練習曲』も、やがてぼくは捨ててしまうが、『ノクチュルヌ』は今でもずっと続けている。バラードも一種の大きな『ノクチュルヌ』に他ならない。
(『ノクチュルヌ』というのは、ご存じの通り、フィールドが自分のピアノ小曲を呼ぶのに使った名称だ。フィールドはアイルランド系の出身のピアノの名手で、ぼくはその清らかな旋律に心動かされた。)
 もちろん、フィールドの旋律がぼくの心をティックしたのも事実だが、二十歳のぼくはそれ以上にきらめくような旋律を考えたって訳である。
 ぼくは、金の翼で大空に羽ばたいたのだ。
 むき出しの旋律で、大空に羽ばたいたのだ。
 そんな気がするな、ぼくは。





  一八三〇年をつらつらおもんみると、この年の三月、ぼくはワルシャワの国立劇場で演奏会をひらいた。それは、ウィーンでの報告会という意味もあったが、正式な意味で祖国におけるデビューとなった。切符は三日前には売り切れ。
 ……ぼくは出来たばかりの『協奏曲』(ヘ短調)と旧作(一八二八年)の『ピアノとオーケストラつきの幻想曲』(作品一三)をひいたが、聴衆の反応はきわめて温かいものであった。
 ………『協奏曲』の最初のアレグロは比較的少数の人にしか受け入れられぬはずの曲だったのに、拍手かっさいがわきおこった。しかしそれは、人々が関心をもっているように見せ、玄人ぶるのを上品とした結果だ。アンダージョとロンドは最大の効果を発揮し、ほんとうの感嘆の叫びがきこえた。
 それは、きらきらした”希望”の光であった。
 聴衆の温かい反応に励まされ、ぼくは二回目の演奏会を開いた。それは、第一回に切符を買えなかったひとのためだった。前回にピアノがよく響かなかったという不満に答え、今度はさるロシア軍人のもっていたウィーン製のピアノを使い、評判は更に高まった。
  しかし、それに対してのマスコミの大袈裟な賛辞は、やり切れないほどの馬鹿げたもののように感じた。
 確かに、ほくだって人間だ。褒められれば嬉しい。
 しかし、天才、天才、というだけでは芸がない。自分では、最初のピアノの方がよかったと思っている。それが、わかっちゃいない。
 それに、ぼくはチヤホヤされるのは好きじゃない。群れられるのは御免こうむる。ぼくは狼のように孤高でいたい。演奏会を開いてからというもの、「サイン下さい」「握手して下さい」とばかりいわれ、馬鹿らしく思っている。
 アイドル・タレントじゃないんだから…。


  二度の演奏会を終わって、ぼくは次の『協奏曲』(ホ短調)の作曲にかかった。その頃には、ぼくの出国は周囲の人々の共通の話題となっていて、ぼく自身もそれを天職の命ずる道だと考えていた。しかし、不安もあって、なかなか割り切れなかった。
 ぼくがどうしたかって?
 まだ『協奏曲』を仕上げなければならないと思っていた。「ロンド」はもう出来ていた。だけど、外国なんてぼくをひきつけるものは何もない。来週には、外国に行くことが決まっていたが、それは、天職と常識に従ったまでだった。
 その頃、ぼくは気の狂ったような状態だった。まだ、ワルシャワにいる。出発の日を決める勇気がなかった。もし出てしまったら、一生家に帰れないような気がしたからだ。
 ただ、死ぬために出発するような気がした。
 いずれにしても、聖ミカエル祭までにはウィーンへ旅立つだろう。
 ………永遠に悩み苦しむために運命づけられて…。いや、ぼくの書いていることは皆馬鹿げている。


 ぼくは当時、精神的危機の状態にあった。それは、病気がちの体で、過度にデリケートなぼくが両親や親しいひとたちと離れるにあたってのしんとした感傷に他ならない。
 もちろん、コンスタンツィヤへの忘れがたい思い出や愛着が、ぼくの心の中を嵐のようにごうごうと吹き荒れていたことは否定できない。
 ぼくにとっては、非常に精神的危機の状態であり、青年ショパンの生涯的危機でもあった。それは当たりで、ぼくはそれから祖国へは二度と帰れなくなった…。それは後述する。
  ぼくは身支度を整えて、教会へと向かった。
 空はブルー一色で、透明なものだった。雲がうっすらとゆらゆら揺れていて、とてもいい天気だった。このようないい天気は、目の前の恐怖を少なからずやわらげてくれるかの様だった。秋の幻想のような。
 入り口にいって、立っている男に、
「ワルシャワの青空」
 と言った。暗号なのだ。
「……それと?」
「ロシアの夕暮れ」
 男の問いに、ぼくは無表情のまま答えた。
「…よし」
 男は中に案内した。
 といっても、ぼくは有名人だから、暗号なんて必要ないのだ。本当は。だが、この暗号は「儀礼」なようなものだから必要だったのだ。
 中は殺伐としていて、汚かった。
 しかし、革命家たちのアジトとしては、ピッタリとくるものだ。あまり、革命家たちが綺麗なサロンに集まって暴動の計画を練る……なんてのはきかないから、こうした殺伐とした場所のほうがピッタリとくる。
 なかでは、長椅子がしんと光っていた。そこに男達がいた。
 ぼくは、そんな中で、革命思想家たちと話した。それは、密談で、詳しくは言えない。しかし、そこで「ぼくの名が」当局のブラック・リストに載せられているのを知った。つまり、そういうことで奨学金もダメになったのだ。
 のちに暴動を起こす革命思想家たちは、ぼくに国外脱出を提案した。ぼくは有名人だから、暴動を起こして捕まったら、スケープ・ゴート(生け贄の羊)として殺されるだろう。……というのだ。
 見せしめのために…。
 ぼくは怖くなった。正直、震えた。誰だって命は惜しい。それはぼくだって例外ではないのだ。
「……とにかく、国外へ逃げたほうがよい」
 男は言った。
「それが君のためだ」
「………。」
 ぼくは無言になった。そして、教会を後にした。

 ポーランド出国が、祖国との永遠の別れとなることをぼくは予想していた。
 だが、逃げなければ投獄されるか殺される。そんなのは嫌だ!
 だから、ぼくは出国することに決めた。
 ぼくの「告別演奏」は、十月十二日に行われた。が、政府もマスコミもそれを一切無視した。……当局のブラック・リストにぼくの名が載せられていたからだ。
 それから二十日後の十一月二日にはぼくは祖国を離れるが、暴動の勃発はその月の終りである。だから、ぼくは暴動には加わっていない。
 出発の日、家族とともに馬車でワルシャワ郊外のヴォーラに到着した。その時、エルスナー先生が先にきていて、ギター伴奏つきの男声合唱による自作のカンタータをはなむけとして演奏してくれた。
 エルスナー先生は、
「ショパン君。国外での君の活躍を期待してるよ」
 と励ましてくれた。
「ありがとうございます。頑張ります」
 ぼくは答えた。なんにせよ、頑張ります、と言った。
「これを」
 皆は、銀製のカップをぼくにプレゼントしてくれた。
 ぼくは、
「これは?」と尋ねた。すると彼等は、
「ポーランドの土を入れた銀製のカップだ」
 といった。
「この土を見て、祖国のことを思い出してくれ」
「……土で?」
「あぁ。何か苦しいことや辛いことがあったら、それを見て、元気を出してくれたまえ」「そうか。………ありがとう」
 ぼくは頭を下げた。なんだかとても嬉しかった。ちょうどよい贈物だ。
 きらきら光るような贈物だ。
 送別会では、すべての椅子も窓も壁も、しん光ってみえた。それはきっと、感傷のせいであろう。だけど、ぼくはそういうものを大切にしようと思った。
 神はすべてを救ってはくれない。愛さえもすべては救ってはくれない。でも、ぼくは神のご加護を信じようと思った。いるんだかいないんだかわからない神ではあるが、とにかく信じてみよう、と思った。
 ぼくはここを去る。
 新たな出発。新たな旅立ちだ。
 神と祖国の仲間との別れだ。……そんな気がした。
  旅にはティテュスが同行した。
 ぼくら二人は、ドレスデン、プラハを経て十一月二十三日にウィーンに到着した。
 ワルシャワに暴動がおこるのはその直後の十一月二十九日である。ティテュスはその報をきいてすぐ帰国したが、ぼくはウィーンにとどまった。ぼくもティテュスの後を追ったが馬車にのりおくれてあきらめた、というのは作り話だ。
 真実は、ぼくは帰りたくても帰れなかったのだ。
 もし帰ったら捕まって投獄されるか殺される……ぼくは震えた。
 ………もう母はいないかも知れない、ロシア人に殺されたかも知れない。ぼくは思った。姉や妹は狂わんばかりに抵抗し、父はなすすべもなく…。ぼくはなすすべもなくウィーンにいた。いるだけだった。時おり呻き声を発し、悩み、その苦しみをピアノにぶつけて吐き出した。それしか出来なかった。
 そして、「革命」が生まれた。

  ウィーンは冷たかった。
 学生の頃は優しくしてくれた音楽関係者も、今回はぼくに寛容ではなかった。無料の演奏会の誘いはあったが、そんなもの受け入れられる訳がない。ぼくはボランティア活動している訳じゃないんでから。金がもらえなければ生活していけないではないか。
 出版社のハスリンガーも、ぼくの作品をタダで出版することばかり考えていた。
 八方ふさがりのぼくは「絶対に音楽家として成功しなくては!」と心で叫んだ。
 ぼくの立場を一層悪いものにしたのは、ポーランドの事変であることはいうまでもない。 オーストリーは従来もポーランド分割の当事者だったし、革命の余波を恐れて軍隊を動員していた。で、当然、ぼくは好ましい人物ではなくなっていたのだ。
 ぼくはウィーンの街角で、
「ポーランド人をつくったのは神様の失敗だ」
 という人々の悪口をきかざる得なかった。
「くそったれめ!」
 ぼくは苦虫を噛み潰したような気分で、街を歩いた。そして、「必ず成功しなくては」 と思った。
 ……もうポーランドへは帰れないのだから。父さんの邪魔にならなければ帰れるが、それは無理だ。もう、帰れない。成功するしか道はないのだ。だめなら、自殺だ。
 更に、ウィーンの音楽文化は大家たちの亡きあと廃れてきており、とりあえず音楽消費都市として存在しているだけだった。音楽の中心は北方のドイツに移っていたのだ。
 ウィーンで喜ばれるのは、ランナーやシュトラウスのワルツで、ぼくは”ウィーンの聴衆の趣味はあてにならない…”と感じた。
 そして、
「ウィーンにきたのは失敗だった」
 と思った。
 ティテュスが帰ってからというもの、ぼくにはいろいろな面倒なことばかり一度にふりかかってきた。音楽会、晩餐会、夜会、舞踏会……もううんざりだった。すべてが憂欝で悲しく、そして無気力だった。こんな悪い状態でなければ、ぼくはそういうのは好きなのだが……。
 洋服を着て、靴を履き、サロンでは平静をよそおい、そしてぼくは部屋にかえってピアノの前で荒れ狂った。すべてが憂欝で悲しく、そして無気力だった。
 絶対に音楽家として成功したい、成功しなければならない…というぼくにとって、事態は八方ふさがりだった。そのなかでぼくがとった行動は、必ずしも積極的なものではなかったように今は思う。というより、何にしても無気力だった。
 そうしたなかで、ぼくは毎晩夜会やサロンにでる毎日を送った。
 思えば、ぼくはポーランド時代からずっとサロンに通いつめていた。それは、もちろん踊りにいくのでもなく、食事や談笑するのでもない。ピアノを弾いて金を貰うためだ。
 ぼくはサロンが好きだった。
 そうしたハイソサエティ(高級社会)は、ぼくの心を慰めてくれた。癒してくれた。目の前の恐怖や病気を忘れさせてくれた。
 しかし、ぼくのサロン通いがあまり度が過ぎる…というので、父さんやティテュスや、さらにパリに亡命していたポーランドの愛国詩人ミツキェヴィチなどに度々忠告を受けた。 だが、ぼくはサロンに通いをやめなかった。
 金が手に入るからだ。
 生活のために、食べていくためには金がいる。金ですべてが買える訳ではないが、ほとんどのものや心の安らぎを与えてくれるのはやはり金なのだ。
 聖人ぶって「金などいらぬ」などと言ってみたところで、金がなければ一切のパンさえ買えない。それが現実なのだ。

 ウィーンにおけるぼくの生活を、多くのひとが「無為の期間」と呼ぶ。
 それは明らかに正しく、正確かも知れない。実際、ぼくはその「無為の期間」を、無気力なまま生活した。その八カ月は、惰性で生きていたような気もする。
 今思えば、本当に「無意味」な時期だった。惰性の時期だった。
 はっきりいって、ぼくはウィーンを最初の訪問地に選んだ。が、そこでダメだった場合どうするか?……それを考えてもいなかった。必ず、ウィーンにいけば成功すると確信していたからだ。
 だが、現実はそうはならない。
 じゃあ、何処へ……?ぼくはパリ行きを考えた。両親やティテュスらはぼくをイタリアにいかせたかったようだが、混乱の中、ヴィザをとるのが困難であった。
 とにかく、ぼくはパリに行くことに決めた。
 フランスは、当時のポーランド人にとって希望の象徴だった。
 フランス革命の自由の思想が彼らを導いており、三国干渉に対抗してポーランドの独立運動を助けるのはフランス以外ないと思われたからだ。事実、暴動の失敗で、こと破れた人々はパリに亡命した。しかし、結局フランスはぼくになんの支援もしなかったし、暴動も傍観した。ぼくはそれにたいして激しく失望し、呪った。
 だが、ぼくは結局パリに行った。
 漸く音楽をリードしようとしていたドイツ人とぼくとの間に軋轢があったこともある。それも原因のひとつだ。
 ぼくがウィーンを発つのはこの年の七月である。
 この時、ぼくはロシア大使館(ぼくは正式にはロシア国籍)で、パスポートのことでごたごたがあったが、結局パリにいくことになった。
 大使館員は、
「ポーランドへ帰ったら?」
 と言った。ぼくは、(帰ったら殺されるので)「それは出来ません」と言った。
「なぜ?」
「……」
「じゃあどこかへ行くのか?」
「はい。フランスにいきます」
「何しに?」
「音楽活動です」ぼくは答えた。それでまたごたごたが起こったが、結局”糞ったれの”ロシア人は承諾した。

「無為の期間」と呼ばれる通り、ぼくがウィーンで制作した作品はあまり多くない。ワルツや歌曲などの小品がほとんどである。しかし、ぼくの代表作ともいえる、「スケルツォ第一番」ロ短調と「バラード第一番」ト短調を作っていることに注目してもらいたい。
「革命」もこの頃生まれている。
 これで、”創作活動では低迷”といえるだろうか?
 出来ることなら、ぼくの心の中に渦巻いている盲目で狂暴な感情に呼びおこされたすべてのひびきをつかって音楽をかいてみたい。ぼくはそう強烈に思う。
 それは、ぎらりと光るような感情だ。それは確実に、しんと光る満月ではない。
 ぼくはやっと太陽になったのだ。

  ぼくはザルツブルグを発ってミュンヘンにいったが、そこで(父親から送られてくるはずの金が届かないので)しばらく滞在し、八月末には演奏会も開いた。そして、その十日後にシュトゥットガルトに着いた時、革命軍の敗北とワルシャワ陥落の報を知った。
ぼくは激しく動揺し、悲しみと無力感に苛まれた。
 ぼくは絶望的な気持ちのまま、手記をしたためた。
 それは、以下のような内容だ。

”…シュトゥットガルトのあちこちの塔の時計が真夜中をつげている。この瞬間にどれだけ多くの人が死体になることだろう。……ワルシャワの郊外は焼かれてしまった。ヤシウはどこにいるのか。ヴィルヘルムはきっと城壁の上で死んだだろう。マルセルは捕虜になったか。神よ、あなたは本当においでなのですか。あなたは復讐はなさらないのですか。モスクワ人たちの犯罪をまだ見足りないのですか。あなた自身がモスクワ人なのですか。……ぼくは一人でここにいる。何もできない。神よ、地球を揺り動かし、いま世に生きるものをそのなかにのみ込ませて下さい。私たちを救いに来ないフランス人を、かぎりなく残酷な苦痛で悩まして下さい……”

 ぼくは絶望し、無力感に苛まれた。そして、ひとり頭を抱え、うつぶして、自分の部屋でおいおいと泣いた。
「ぼくは何も…できない」
 ぼくは涙ながらに独り言をいうことしか出来なかった。