緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

DVD映画『あいときぼうのまち』観賞正直くだらない「原爆」=「原発事故」?幼稚な主張に女の裸だけ

2015年03月31日 14時14分19秒 | 日記






映画『あいときぼうのまち』を観た。

が、お世辞にも言い出来ではない。

原爆と原発事故をリンクさせる大衆宣伝等、

「山本太郎じみた反原発映画」である。


正直くだらない。


監督は福島出身というが


無知や無能が目立つ。


私は震災作品を創るにしろ、


こういう作品にだけはヤダ。

幼稚な主張と女の裸だけ。臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ。

毛利元就 落陽燃ゆ村上海賊と毛利元就伝「三本の矢」は雷鳴!戦国の謀略の風よ!ブログ小説2

2015年03月31日 06時48分41秒 | 日記









  話を変える。
 豊臣秀吉がまだ木下の姓を名乗り、長浜城主の当時召し抱えたのが、後年五奉行の一人として徳川家康に対抗した関ヶ原の立役者、石田三成その人である。この三成の推挙によって秀吉の近習となり、秀吉の一字をもらって吉継と名乗り、秀吉から次第にその才能を認められ、越前敦賀(つるが)城主となって五万石の大名となったのが大谷吉継である。吉継は九州豊後の国主大友宗麟の家臣大谷盛治の子と伝えられ、はじめ紀之介と称した。
 加藤清正や福島正則のように、一番槍の武勇でならす武闘派と、石田三成や大谷吉継のような官僚肌の二極に豊臣政権は分裂していた。
 石田三成はやりたくもない朝鮮侵略で、武功をあげたい福島正則や加藤清正らに恩賞も与えられず、武闘派らの憎しみを秀吉にかわって一身にかぶった。
 明治以前の日本の不治の病がふたつある。明治以前の日本にはひとつに労咳(ろうがい・肺結核)という不治の病と、天刑の病とされる癩病(らいびょう・ハンセン病)である。
 大谷吉継は父親と同じく、癩病にむしばまれており父親は全身不随になって死ぬのだが、息子の吉継も癩病で身体中に膿が出来、殆ど歩けず眼もほとんど見えない状態まで病状は悪化する。そこで或る時の数奇屋(すきや)での秀吉主催の茶会である。大谷吉継も三成も共に招かれて出席した。すでに癩病が進んでいた吉継は、その頃の会合にはめったに出席しなかった。おそらく秀吉は、そんな吉継を慰めようとして招いたらしい。その席での茶は回し飲みであった。
 自分の所に回ってきた茶碗に口を当てた時、吉継の緊張は極度に高まっていた。丹田に力を込めて、吉継は作法通りに茶を啜った。その途端、なにやら鼻水のようなものが一滴、茶碗の中にしたたり落ちてしまった。はっとする吉継は気も転倒する思いであった。列席の武将たちの目は、血膿のはいった茶碗に注がれた。さすがの吉継も手がふるえ、次席の小西行長に茶を回すことができない。不気味な沈黙が一座を支配した。気の毒そうに目を伏せる者もいた。列座の大名たちは成り行きいかんとかたずを飲んで見まもった。その時、かたわらに進み出た石田三成は、刑部の手からとっさに茶碗を受け取ると、並み居る人たちに無礼を詫びた後一息に茶をすすり飲んでしまった。吉継の目には、きらりと涙が光った。この世における二人の友情はこの一瞬、底知れぬ深さに結ばれた。
 関ヶ原での合戦に「お主には人望がないからやめておけ」と何度も諌めた大谷刑部吉継は、佐和山城に三成に呼ばれて駕籠でやってきた。この時、癩病にむしばまれた義継の身体は血膿にまみれ、眼は視力を全く失った姿であった。そこで三成は、家康挟撃の大事をはじめて打ち明けたのである。驚いた吉継は、時期尚早であるとして三成を諌め、この企てを思いとませようとした。しかし、三成の計画はすでに引き返せぬところまで進んでおり、吉継の諌めを聞くことは出来なかった。見えぬ目に涙を流しながら、翌日もまた翌日も、三成を諌め続けた。
 こうして一六〇〇年七月十一日、刑部は意を決して、三成に命を捧げるため佐和山城に入った。迎えに出た三成は吉継の手を取って「刑部」とただ一言、声は涙につまった。
(小説『雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学』田宮友亀雄著作 遠藤書店6~12ページ参考文献参照)
話を戻す。

 浅井長政の裏切り



  織田信長と将軍・足利義昭との確執も顕著になってきていた。
 義昭は将軍となり天皇に元号を「元亀」にかえることにさせた。しかし、信長は「元亀」などという元号は好きではなかった。そこで信長は元号を「天正」とあっさりかえてしまう。足利将軍は当然激怒した。しかし、義昭など信長のロボットみたいなものである。
 義昭は信長に剣もほろろに扱われてしまう。
 かれは信長の元で「殿中五ケ条」を発布、しかし、それも信長に無視されてしまう。
「あなたを副将軍にしてもよい」
 義昭は信長にいった。しかし、信長は餌に食いつかなかった。
 怒りの波が義昭の血管を走った。冷静に、と自分にいいきかせながらつっかえつっかえいった。「では、まろに忠誠を?」
「義昭殿はわしの息子になるのであろう? 忠誠など馬鹿らしい。息子はおやじに従っておればよいのじゃ」信長は低い声でいった。抑圧のある声だった。
「義昭殿、わしのおかげで将軍になれたことを忘れなさるな」
 信長の言葉があまりにも真実を突いていたため、義昭は驚いて、こころもち身をこわばらせた。百本の槍で刺されたように、突然、身体に痛みを感じた。信長は馬鹿じゃない。 しかし、おのれ信長め……とも思った。
 それは感情であり、怒りであった。自分を将軍として崇めない、尊敬する素振りさえみせず、将軍である自分に命令までする、なんということだ!
 その個人的な恨みによって、その感情だけで義昭は行動を起こした。
 義昭は、甲斐(山梨県)の武田信玄や石山本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信、中国の毛利、薩摩(鹿児島県)の島津らに密書をおくった。それは、信長を討て、という内容であったという。
 こうして、信長の敵は六万あまりとふくらんだ。
 そうした密書を送ったことを知らない細川や和田らは義昭をなだめた。
 しかし、義昭は「これで信長もおしまいじゃ……いい気味じゃ」などと心の中で思い、にやりとするのであった。
  義昭と信長が上洛したとき、ひとりだけ従わない大名がいた。
 越前(福井県)の朝倉義景である。かれにしてみれば義昭は居候だったし、信長は田舎大名に過ぎない。ちょっと運がよかっただけだ。義昭を利用しているに過ぎない。
 信長は激怒し、朝倉義景を攻めた。           
 若狭にはいった信長軍はさっそく朝倉方の天筒山城、金ケ崎城を陥した。
「次は朝倉の本城だ」信長は激を飛ばした。
 だが、信長は油断した。油断とは、浅井長政の裏切り、である。
 北近江(滋賀県北部)の浅井長政の存在を軽く見ていた。油断した。
 永禄十年(1567年)浅井長政に信長の命令により、お市の方は嫁いだ。信長にとって浅井はいわば義弟だ。裏切る訳はない、と、たかをくくっていた。お市の共に、利家の弟で、佐脇家の養子にいった佐脇良之が選ばれ、浅井にいき浅井家の家臣となった。良之はおとなしく物静かなタイプだった。…浅井長政は味方のはずである…………
 信長にはそういう油断があった。義弟が自分のやることに口を出す訳はない。そう思って、信長は琵琶湖の西岸を進撃した。東岸を渡って浅井長政の居城・小谷城を通って通告していれば事態は違っていただろうという。しかし、信長は、”美人の妹を嫁にやったのだから俺の考えはわかってるだろう”、という考えで快進撃を続けた。
 しかし、「朝倉義景を攻めるときには事前に浅井方に通告すること」という条約があった。それを信長は無視したのだ。当然、浅井長政は激怒した。
 お市のことはお市のこと、朝倉義景のことは朝倉義景のこと、である。通告もない、しかも義景とは父以来同盟関係にある。信長の無礼に対して、長政は激怒した。
「殿! はやまってはなりませぬ!」お市とは家臣が羨む程の仲の良い夫婦だったが、お市は信長の身を案じた。「市! わしは信長を討つ!」
「……殿?!」お市は動揺した。信長は実の兄であり、長政は愛しい夫である。
 三人の娘、のちに浅井三姉妹と呼ばれる娘にも恵まれたというのに……
(茶々(のちの秀吉側室、秀頼の母)、初(京極高次室)、お江(徳川秀忠室、三代将軍・家光の母)と長男・万福丸、次男・万寿丸が子である)
 信長の政略結婚の駒はほとんどが家臣からの養女であったが、お市の方と松平信康(家康)へ嫁がせた五徳姫は家族だった。また、お市は信長の妹とされ、絶世の美女とされるが、信秀の弟の信光か広良の娘という説もある。また茶々は浅井長政の娘とされるが、晩婚だったためお市の方の『連れ子』という説もある。
 何はともあれ、浅井は信長を裏切った。
 浅井長政は信長に対して反乱を起こした。前面の朝倉義景、後面の浅井長政によって信長ははさみ討ちになってしまう。こうして、長政の誤判断により、浅井家は滅亡の運命となる。それを当時の浅井長政は理解していただろうか。いや、かれは信長に勝てると踏んだのだ。甘い感情によって。
  金ケ崎城の陥落は四月二十六日、信長の元に「浅井方が反信長に動く」という情報がはいった。信長は、お市を嫁がせた義弟の浅井長政が自分に背くとは考えなかった。
 そんな時、お市から陣中見舞である「袋の小豆」が届く。
 布の袋に小豆がはいっていて、両端を紐でくくってある。
 信長はそれをみて、ハッとした。何かある………まさか!
 袋の中の小豆は信長、両端は朝倉浅井に包囲されることを示している。
「御屋形様……これは……」利家が何かいおうとした。利家もハッとしたのだ。
 信長はきっとした顔をして「包囲される。逃げるぞ! いいか! 逃げるぞ!」といった。彼の言葉には有無をいわせぬ響きがあった。戦は終わったのだ。信長たちは逃げるしかない。朝倉義景を殺す気でいたなら失敗した訳だ。だが、このまま逃げたままでは終わらない。まだ前哨戦だ。刀を交えてもいない。時間はかかるかも知れないが、信長は辛抱強く待ち、奇策縦横にもなれる男なのだ。
 ……くそったれめ! 朝倉義景も浅井長政もいずれ叩き殺してくれようぞ!
 長政め! 長政め! 長政め! 長政め! 信長は下唇を噛んだ。そして考えた。    
 ……殿(後軍)を誰にするか……
 殿は後方で追撃くる敵と戦いながら本軍を脱出させる役目を負っていた。そして、同時に次々と殺されて全滅する運命にある。その殿の将は、失ってしまう武将である。誰にしてもおしい。信長は迷った。
「殿は誰がいい?」信長は迷った。
 柴田勝家、羽柴秀吉、そして援軍の徳川家康までもが「わたくしを殿に!」と志願した。 前田利家も「わたくしめを殿に!」と嘆願した。
 信長は四人の顔をまじまじと見て、決めた。
「又左衛門(利家のこと)はわしと一緒にこい! サル、殿をつとめよ」
「ははっ!」サル(秀吉)はそういうと、地面に手をついて平伏した。信長は秀吉の顔を凝視した。サルも見つめかえした。信長は考えた。
 今、秀吉を失うのはおしい。天下とりのためには秀吉と光秀は”両腕”として必要である。知恵のまわる秀吉を失うのはおしい。しかし、信長はぐっと堪えた。
「サル、頼むぞ」信長はいった。
「おまかせくださりませ!」サルは涙目でいった。
 いつもは秀吉に意地悪ばかりしていた勝家も感涙し、「サル、わしの軍を貸してやろうか?」といい、家康までもが「秀吉殿、わが軍を使ってくだされ」といったという。
「又左衛門……やはりお主は御屋形様に愛されておるのう」秀吉は利家にいった。
 占領したばかりの金ケ崎城にたてこもって、秀吉は防戦に努めた。
「悪党ども、案内いたせ」
 信長はこういうときの行動は早い。いったん決断するとグズグズしない。そのまま馬にのって突っ走りはじめた。四月二十八日のことである。三十日には、朽木谷を経て京都に戻った。朽木元綱は信長を無事に案内した。
 この朽木元綱という豪族はのちに豊臣秀吉の家臣となり、二万石の大名となる。しかし、家康の元についたときは「関ケ原の態度が曖昧」として減封されているという。だが、それでもかれは「家禄が安泰となった」と思った。
 朽木は近江の豪族だから、信長に反旗をひるがえしてもおかしくない。しかし、かれに信長を助けさせたのは豪族としての勘だった。この人なら天下をとるかも知れない、と思ったのだ。歴史のいたずらだ。もし、このとき信長や秀吉、そして家康までもが浅井朝倉軍にはさみ討ちにされ戦死していたら時代はもっと混沌としたものになったかも知れない。 とにかく、信長は逃げのびた。秀吉も戦死しなかったし、家康も無事であった。
 京都にかろうじて入った信長は、五月九日に京都を出発して岐阜にもどった。しかし、北近江を通らず、千種越えをして、伊勢から戻ったという。身の危険を感じていたからだ。 浅井長政や朝倉義景や六角義賢らが盛んに一向衆らを煽って、
「信長を討ちとれ!」と、さかんに蜂起をうながしていたからである。
 六角義賢はともかく、信長は浅井長政に対しては怒りを隠さなかった。
「浅井長政め! あんな奴は義弟とは思わぬ! 皆殺しにしてくれようぞ!」
 信長は長政を罵った。
 岐阜に戻る最中、一向衆らの追撃があった。千種越えには蒲生地区を抜けた。その際、蒲生賢秀(氏郷の父)が土豪たちとともに奮起して信長を助けたのだという。
 この時、浅井長政や朝倉義景が待ち伏せでもして信長を攻撃していたら、さすがの信長も危なかったに違いない。しかし、浅井朝倉はそれをしなかった。そして、そのためのちに信長に滅ぼされてしまう運命を迎える。信長の逆鱗に触れて。
 信長は痛い目にあったが、助かった。死ななかった。これは非常に幸運だったといわねばなるまい。とにかく信長は阿修羅の如く怒り狂った。
 皆殺しにしてくれる! そう信長は思った。




         姉川の戦い


  浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃していた。
 秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。
「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。
 しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」 信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。
 岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。
 とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。
 国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。
 目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。そして、いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大変に喜んで、
「よく参られた」と声をかけた。
 とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。そして、信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。
 浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、
「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!
 すると家康が進みでていった。
「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」
 信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。
 家康はうきうきして軍儀の場を去った。
 信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。
 すると利家が「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのででござりましょう? 御屋形様」といった。
「そうよ、イヌ! さすがはイヌじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。
 翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんた。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。
「押せ! 押せ! 押し流せ!」
 朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。
 両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。
 信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。
 浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。このとき、佐脇良之は浅井家臣として戦っていたにも関わらず、あやうくなった利家を救った。浅井を裏切ったのだ。
 佐脇良之は浅井方にも戻れず、利家の屋敷に身をよせ、浪人となった。
「……あれは雀の子かのう?」佐脇良之は茫然と屋根や蒼い空を見上げていた。

「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」
 利家は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。
「ひきあげるぞ、イヌ」
 利家は驚いて目を丸くした。いや、利家だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつもの御屋形らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………
 こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。



         焼き討ち


  石山本願寺は、三好党がたちあがると信長に正式に宣戦布告した。
 織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見たのだ。
 信長は八月二十日に岐阜を出発した。そして、横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。
 将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。
 本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。
 信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。
「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。
 足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。
 反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。
 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。
 信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」
「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。
「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」
「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」
「天罰が下りまするぞ!」
 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。
「わしに反対しようというのか?!」
「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」
 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。    
「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」
 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”秀吉は恐ろしくなった。
 秀吉のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、驚異的な形をとりはじめた。かれの本能のすべてに警告の松明がみえていた。「焼き討ちとは…神仏を?」緊張が肩から首にまわって大変なことになったが、秀吉は悲鳴をあげなかった。
 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。
 佐脇良之は炎上する神社の中から赤子を救いだした。これが利家の養女となる。
 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。

        三方が原の戦い



     
  信長にとって最大の驚異は武田信玄であった。
 信玄は自分が天下人となり、上洛して自分の旗(風林火山旗)を掲げたいと心の底から思っていた。この有名な怪人は、軍略に優れ、長尾景虎(上杉謙信)との川中島合戦で名を知られている強敵だ。剃髪し、髭を生やしている。僧侶でもある。
 武田信玄は本願寺の総帥・光佐とは親戚関係で、要請を受けていた。また、将軍・足利義昭の親書を受け取ったことはかれにいよいよ上洛する気分にさせた。
 元亀三年(一五七二)九月二十九日、武田信玄は大軍を率いて甲府を出発した。
 信玄は、「織田信長をなんとしても討とう」と決めていた。その先ぶれとして信玄は遠江に侵攻した。遠江は家康の支配圏である。しかし、信玄にとって家康は小者であった。 悠然とそこを通り、京へと急いだ。家康は浜松城にいた。
 浜松城に拠点を置いていた家康は、信玄の到来を緊張してまった。織田信長の要請で、滝川一益、佐久間信盛、林通勝などが三千の兵をつけて応援にかけつけた。だが、信長は、「こちらからは手をだすな」と密かに命じていた。
 武田信玄は当時、”神将”という評判で、軍略には評判が高かった。その信玄とまともにぶつかったのでは勝ち目がない。と、信長は思ったのだ。それに、武田が遠江や三河を通り、岐阜をすぎたところで家康と信長の軍ではさみ討ちにすればよい……そうも考えていた。しかし、それは裏目に出る。家康はこのとき決起盛んであった。自分の庭同然の三河を武田信玄軍が通り過ぎようとしている。
「今こそ、武田を攻撃しよう」家康はいった。家臣たちは「いや、今の武田軍と戦うのは上策とは思えません。ここは信長さまの命にしたがってはいかがか」と口々に反対した。 家康はきかなかった。真っ先に馬に乗り、駆け出した。徳川・織田両軍も後をおった。 案の定、家康は三方が原でさんざんに打ち負かされた。家康は馬にのって、命からがら浜松城に逃げ帰った。そのとき、あまりの恐怖に馬上の家康は失禁し、糞尿まみれになったという。とにかく馬を全速力で走らせ、家康は逃げた。
 家康の肖像画に、顎に手をあてて必死に恐怖にたえている画があるが、敗戦のときに描かせたものだという。それを家臣たちに見せ、生涯掲げた。
 ……これが三方が原で武田軍に大敗したときの顔だ。この教訓をわすれるな。決起にはやってはならぬのだ。………リメンバー三方が原、というところだろう。
  佐脇良之は善戦したが、三方が原で武田軍の騎馬にやれ、死んだ。信長に家康のもとに左遷せれてからの死だった。利家は泣いた。まつも泣いた。
 さらに、利家の母・たつも死んだ。利家はショックでしばらく寝込んだという。
 秀吉には子がなかった。そのため、利家はおねに頼まれ、四女を秀吉の養女にした。秀吉はよろこび「豪姫じゃ! この子は豪姫じゃ!」とあやした。               
 利家は織田家臣団の中では佐々成政と大変懇篤な付き合いであったという。

 もし信玄が浜松城に攻め込んで家康を攻めたら、家康は完全に死んでいたろう。しかし、信玄はそんな小さい男ではない。そのまま京に向けて進軍していった。
 だが、運命の女神は武田信玄に微笑まなかった。
 かれの持病が悪化し、上洛の途中で病気のため動けなくなった。もう立ち上がることさえできなくなった。伊那郡の寺で枕元に息子の勝頼をよんだ。
 自分の死を三年間ふせること、遺骨は大きな瓶に入れて諏訪湖の底に沈めること、勝頼は自分の名跡を継がないこと、越後にいって上杉謙信と和睦すること、などの遺言を残した。そして、武田信玄は死んだ。
 信玄の死をふして、武田全軍は甲斐にもどっていった。
 だが、勝頼は父の遺言を何ひとつ守らなかった。すぐに信玄の名跡を継いだし、瓶につめて諏訪湖に沈めることもしなかった。信玄の死も、忍びによってすぐ信長の元に知らされた。信長は喜んだ。織田信長にとって、信玄の死はラッキーなことである。
「天はわしに味方した。好機到来だ」信長は手をたたいて喜んだ。

話を変える。
毛利元就は陶晴賢に反感の心を抱く。そんな中、天文二十二年(一五五三)陶氏は石見国の吉見(よしみ)氏を滅ぼそうと山口県から北上軍勢を動かす。
吉見氏は毛利と同じく大内家に従ってきた戦国大名家。陶晴賢からは毛利元就に加勢してくれと。加勢してくれたら「人質四人出す」と。陶晴賢が事実上の頭領の大内家は山口県と九州らの大領地(二百万石)の大大名であった。毛利元就は弱小大名(四千石)……戦力差は歴然であった。
毛利家・三男・隆景を養子にした小早川家は、陶晴賢に従って吉見氏攻めに参加した。陶晴賢は小早川隆景を“忠義之次第”(忠義はあっぱれ)であると評価した。
毛利元就は迷う。陶晴賢に従うべきか?それとも陶晴賢と戦うべきか?長男の隆元は陶晴賢を討つべきと。陶晴賢と手を切れと。しかし、毛利元就には気がかりなことがあった。当たり前ながら“出雲の尼子氏の動向”である。大内家・陶晴賢と尼子氏が連携して攻めて来たらひとたまりもない。だが、ウィキペディアよりの引用し後述した通りにもはや尼子氏の脅威もなくなった。後は戦力に倍以上の開きがある陶晴賢軍をどのようにして叩き潰すか……?そこで“西の桶狭間”、「厳島合戦」の奇襲戦となるのだった。
映像資料NHK番組内『英雄たちの選択 毛利元就』参考文献引用

 大軍を、動きがとれない場所で奇襲して大勝利をおさめた例として、だれでも挙げるのが桶狭間である。だが、この場合、敵がそこへ来たときを狙ったわけだが、元就の場合は、相手を巧みに厳島へおびき出している。さらにその手段が、亡命者に化けたスパイを、それと知りつつ逆用している(反間の計)ところが並々ではない。
というのは、この謀略は二重三重になっている。元就は、房栄のほかにも、陶晴賢の渡海に必ず反対する者があろうと見ていた。そして事実いた。彼はこれを見越して味方の桂元澄に陶晴賢へ内応の手紙を送らせた。それには、晴賢が厳島に渡れば必ず元就も渡るであろう。そうでなければ船戦(ふな・いくさ)に出るだろう。彼が主力を率いて陸地を離れたら、自分が彼の根拠地郡山城を奇襲して攻略しようと記してあった。慶庵の届けた手紙で渡海を決意した晴賢は、部下の反対で多少ぐらついていたが、この内応で決意を固めた。もし江良房栄が生きていたら、用心深い彼は、絶対に渡海させなかったであろうが、晴賢は元就の策に乗ってすぐに彼を殺していた。
 だが元就は用心に用心を重ね、伊予の村上水軍らに援助をたのみ、晴賢の来島を確認してから厳島の対岸の草津に陣を進め、さらに四方三里に移り、小荷駄人夫、草履取り等の雑役はすべて草津に帰らせた。そして「総勢上下共に、冊一本、縄一房、これを持つべき。三日の飯米を腰につけ、左縄にたすき二つ巻き、合言葉は勝といわば勝と答うべし。総船にはかがり(火)をたくべからず、御座船の火を目当てに渡海すべし」と命じた。
そして、後述するような見事な奇襲戦「厳島合戦」を成功させ、倍以上の軍団である陶晴賢軍をやぶり、陶晴賢の首を取り、毛利元就は中国地方の覇者になるのである。
この時すでに、毛利元就は五十九歳であった。
参考文献『毛利元就 はかりごと多きは勝つ』堺屋太一+山本七平ほか著作、プレジデント社刊18~27ページ文章引用
厳島の戦い[編集]
天文20年(1551年)、防長両国の大名大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害され、養子の大内義長が擁立される(大寧寺の変)。元就は以前からこの当主交代に同意しており、隆房と誼を通じて佐東銀山城や桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握。隆房は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えた。
元就はこれを背景として徐々に勢力を拡大すべく、安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃。平賀隆保の籠もる安芸頭崎城を陥落させ隆保を自刃に追い込み、平賀広相に平賀家の家督を相続させて事実上平賀氏を毛利氏の傘下におさめた。1553年には尼子晴久の安芸への侵入を大内氏の家臣、江良房栄らとともに撃退した。
この際の戦後処理のもつれと毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶隆房は、元就に支配権の返上を要求。元就はこれを拒否したため、徐々に両者の対立は先鋭化していった。そこに石見の吉見正頼が隆房に叛旗を翻した。隆房の依頼を受けた元就は当初は陶軍への参加を決めていたが、陶氏への不信感を抱いていた元就の嫡男・隆元の反対により出兵ができないでいた。そこで隆房は、直接安芸の国人領主たちに出陣の督促の使者を派遣した。平賀広相からその事実を告げられた隆元や重臣達は、元就に対して(安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えるとした)約束に反しており、毛利と陶の盟約が終わったとして訣別を迫った。ここに元就も隆房との対決を決意した(防芸引分)。(異説として、元就は当初から陶氏との訣別も視野に入れていたとされる。それをこの段階まで露わにしなかったのは、陶氏への不信感を抱く隆元達の行動によって毛利氏全体の意見が陶氏からの離反で固まるのを待っていたからだとも言われている)
しかし、陶隆房が動員できる大内軍30,000以上に対して当時の毛利軍の最大動員兵力は4,000~5,000であった。正面から戦えば勝算は無い。更に毛利氏と同調している安芸の国人領主たちも大内・陶氏の圧迫によって動揺し、寝返る危険性もあった。そこで元就は得意の謀略により大内氏内部の分裂・弱体化を謀る。
天文23年(1554年)、出雲では尼子氏新宮党の尼子国久・誠久らが尼子晴久に粛清されるという内紛が起こった。尼子氏が新宮党を粛清の最中、陶晴賢(隆房より改名)の家臣で、知略に優れ、元就と数々の戦いを共に戦った江良房栄が「謀反を企てている」というデマを流し、本人の筆跡を真似て内通を約束した書状まで偽造し、晴賢自らの手で江良房栄を暗殺させた。(異説として、江良房栄は当初から毛利氏に内応しており、その事実をわざと元就が晴賢に明かした、というものもある。実際隆元は、房栄は命を助けてやるだけでも有難いと思うべきなのに、要求する領地が多すぎると不満を手紙で述べている。)
そして同年、「謀りごとを先にして大蒸しにせよ」の言葉通りに後顧の憂いを取り除いた元就は、反旗を翻した吉見氏の攻略に手間取っている陶晴賢に対して反旗を翻した。晴賢は激怒し即座に重臣の宮川房長に3,000の兵を預け毛利氏攻撃を命令。山口を出陣した宮川軍は安芸国の折敷畑山に到着し、陣を敷いた。これに対し元就は機先を制して宮川軍を襲撃した。大混乱に陥った宮川軍は撃破され、宮川房長は討死(折敷畑の戦い)。緒戦は元就の勝利であった。
これにまたもや激怒した陶晴賢は弘治元年(1555年)、今度は自身が大軍を率いて山口を出発した。交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく、厳島に上陸した。しかし厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利方についたこともあり、陶晴賢は自刃。大内氏はその勢力を大きく弱め、衰退の一途を辿っていくことになる。
弘治2年(1556年)、備前遠征から素早く兵を撤兵させた尼子晴久率いる25,000と、尼子と手を結んだ小笠原長雄が大内方であった山吹城を攻撃。これに毛利氏は迎撃に出るも、忍原にて撃破され石見銀山は尼子氏のものとなる。(忍原崩れ)
弘治3年(1557年)、大内氏の内紛を好機とみた元就は、大内氏の当主義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した(防長経略)。
同年、家督を嫡男・隆元に完全に譲ろうとするが、隆元はこれを拒絶。このため元就は、毛利家と両川(吉川家と小早川家)を一括統御する後見役として、一定の影響力を維持するという院政に近い体制とした。(この後、隆元は内政に専念し、元就が外交と軍事を引き続き主導していく。だが、この疑似院政も隆元の急死によって瓦解。結局、元就は死の直前まで毛利家の実権を握り続けることになる)
永禄元年(1558年)、石見銀山を取り戻すべく毛利元就・吉川元春は小笠原長雄の籠る温湯城を攻撃。これに対して尼子晴久も出陣するが、互いに江の川で睨みあったまま戦線膠着。翌永禄2年(1559年)には温湯城を落城させ山吹城を攻撃するも攻めあぐね、撤退中に城主本城常光の奇襲と本城隊に合流した晴久本隊の攻撃を受け大敗している。(降露坂の戦い)
<ウィキペディアよりの引用>
毛利元就は陶晴賢を討つことを決断した。天文二十三年(一五五四)五月十二日、毛利元就は陶晴賢の四つの城を攻め落とす(吉見氏攻めのスキをついて安芸の大内家の城をおとした)。そうして陶晴賢を前述したように厳島(宮島)におびきよせ、奇襲戦で勝利して、陶晴賢を自刃に追い込んだ。こうして毛利元就は陶晴賢に勝利した。
映像資料NHK番組内『英雄たちの選択 毛利元就編』参考文献引用
       

クリエイティブ人間は発想が違う。常に疑問を!答えを探すのでなくゼロから創造!グローバル人間へ!

2015年03月30日 18時37分48秒 | 日記







クリエイティブな人間というものは

絶えず疑問を持つ人間である。


創造にしても議論にしても、

「何でこうなるんだ?」「もっとこうしたら売れるんじゃないか?」

と自己主張したほうがいい。


だが、(学歴エリートからの)盗作には注意せよ。


自分の発想が正しく評価され金になる、当たり前だが大事だ。臥竜





緑川鷲羽そして始まりの2015年へ。

NHK連続テレビ小説(朝ドラ)『マッサン』ドラマ終了シャ-ロット・ケイト・フォックス玉山さん熱演!

2015年03月28日 18時51分27秒 | 日記







nhk連続テレビ小説(朝ドラ)『マッサン』



が無事に終了した。


昨日のエリーの死には思わず涙が瞼にあふれて号泣したが、


この朝ドラはエリー役のシャーロット・ケイト・フォックスさんと


マッサン役の玉山さんの熱演で嵌った。

特にエリー役は


日本語がまったく話せないのに熱演したのには

只々脱帽。臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ。

毛利元就 落陽燃ゆ村上海賊と毛利元就伝「三本の矢」は雷鳴!戦国の謀略の風よ!ブログ小説1

2015年03月28日 07時53分32秒 | 日記







小説 落陽燃ゆ!
 村上海賊と
毛利元就伝
~三本の矢は天下の雷鳴!謀略の戦国の風よ!~
―毛利元就の戦略と戦術・元就の三本の矢、厳島合戦の真実!―
                            
                total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

  お江は元亀四年(1573年)、近江国(滋賀県)小谷城主・浅井長政と織田信長の妹・お市の三女として生まれた。姉は茶々(のちの淀君)、初。
 生まれたときに父・浅井長政は織田信長にやぶれて自害。お江ら浅井三姉妹はお市とともに信長の庇護下に。やがて織田信長が光秀に「本能寺の変」で殺されると秀吉の庇護下にはいる。茶々は秀吉の側室・淀として秀頼を生む。初は京極高次の正室に。お江は徳川家康の息子で二代将軍・秀忠の正室として三代将軍・家光を生む。豊臣家は家康に滅ぼされ淀・秀頼は自害。徳川の天下へ。信長を伯父さん、秀吉をお義兄さん、家康をお義父さん、とよべる江の生涯はまさに「大河ドラマ」である。

<ウィキペディアでの毛利元就のプロフィール>
毛利 元就

毛利元就寿像/山口県豊榮神社蔵
時代 戦国時代
生誕 明応6年3月14日(1497年4月16日)
死没 元亀2年6月14日(1571年7月6日)
改名 松寿丸(幼名)→元就
別名 通称:少輔次郎
渾名:乞食若殿、謀神
戒名 洞春寺殿日頼洞春大居士
墓所 大通院(安芸吉田)、洞春寺(安芸吉田、後に萩)
官位 従四位上 右馬頭 治部少輔 陸奥守、贈従三位、贈正一位
主君 尼子経久→大内義隆
氏族 毛利氏
父母 父:毛利弘元 母:福原広俊女
兄弟 興元、元就、北就勝、相合元綱、見付元氏、女(武田氏室)
妻 正室:妙玖(吉川国経女)
側室:乃美大方、三吉氏(三吉隆亮妹)、中の丸
子 隆元、吉川元春、小早川隆景、穂井田元清、元秋、出羽元倶、天野元政、末次元康、秀包、二宮就辰、女(夭折)、五龍局(宍戸隆家室)

毛利 元就(もうり・もり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸(現在の広島県西部)の国人領主・戦国大名。本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。
安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)、通称は少輔次郎(しょうのじろう)。
安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大、中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと後世評される。用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。
                           おわり


         1 関ヶ原


石田三成は安土桃山時代の武将である。
 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大阪城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大阪城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「お主はバカなヤツです、三成!」お江はしたり顔で、彼を非難した。一緒に晒されているのは宇喜多秀家と安国寺恵瓊、というのはあまりに皮肉である。宇喜多も恵瓊もこんなにボロ負けするとは思わなかっただろう。石田三成に人望がないのはわかっていただろうが、頭はあの毛利輝元であり、旗頭は豊臣秀頼なのだ。これはすなわち“徳川東軍の勝ち”というより“豊臣西軍の負け”を意味していた。家康は確かに天下を狙っていた。だが、ハッキリ言うが秀吉や秀頼を殺す機会などいくらでもあった。だが、徳川家康は殺さなかった。
謀略をしかけて自滅させたのだ。だからこその、石田三成征伐であり、毛利封じであり、黒田如水・上杉・伊逹・島津封じ、関ヶ原合戦、大坂冬の陣、大坂夏の陣、であるのだ。
徳川家康程のたくみな謀略家も珍しい。元就はそれ以上の謀略家だが。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに」
 三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」とお江をきっと睨んだ。
「たわけ!お義父(徳川家康)さまや主人・秀忠が三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、お江殿!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、お義父上(徳川)さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」お江は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「いいえ。でも姉上(茶々(淀君))や姉様(初・京極高次正室(常高院))からきいた。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したという。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放ったらしいぞ」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうじゃ?」
「いや、いらぬ」
 お江は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人が領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「ふん。姉上や秀頼を利用する方が武士の風上にもおけぬわ」お江は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「お江殿」
「なんじゃ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公とあなたの姉上・淀君様が危ないのだぞ!」
  お江は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、お義父上(徳川)さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そう」
 お江は拍子抜けして去った。嘲笑する気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴じゃな」苦笑した。
 次に黒田長政がきた。長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。
黒田如水(じょすい・官兵衛)の息子である黒田長政(ながまさ)は安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい、毛利家の軍師の僧侶であり武将)には同情的であった。
「恵瓊殿………今回は策略が狂ったようですな?」
「………黒田殿。……さすがはあの名軍師・黒田如水殿の嫡男でござるな。手前は戦をする前から負けておった。毛利の軍師の筈のこのわしが、まさか吉川家、小早川家(毛利両川)がとっくに調略されていることに気付かないとは。おそれいった」
「いや、これも時の運でござる。小早川隆景殿や吉川元春殿(毛利元就の子・長男が毛利輝元の父親・毛利隆元。次男が吉川元春。三男が小早川隆景(元春は吉川家の養子・隆景は小早川の養子。毛利隆元とともに『三本の矢の教え』を受けたとされる兄弟))が生きておられていたら東軍は負けでござった」
「さようですかなあ」恵瓊はもう心は冥途に一歩はいったように唸った。
大河ドラマでは度々敵対する石田治部少輔三成と黒田官兵衛。言わずと知れた豊臣秀吉の2トップで、ある。黒田官兵衛は政策立案者(軍師)、石田三成はスーパー官僚である。
参考映像資料NHK番組『歴史秘話ヒストリア「君よ、さらば!~官兵衛VS.三成それぞれの戦国乱世~」』<2014年10月22日放送分>
三成は今でいう優秀な官僚であったが、戦下手、でもあった。わずか数千の北条方の城を何万もの兵士で囲み水攻めにしたが、逆襲にあい自分自身が溺れ死ぬところまでいくほどの戦下手である。(映画『のぼうの城』参照)*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。
三成は御屋形さまである太閤秀吉と家臣たちの間を取り持つ官僚であった。
石田三成にはこんな話がある。あるとき秀吉が五百石の褒美を三成にあげようとするも三成は辞退、そのかわりに今まで野放図だった全国の葦をください、等という。秀吉も訳が分からぬまま承諾した。すると三成は葦に税金をかけて独占し、税の収入で1万石並みの軍備費を用意してみせた。それを見た秀吉は感心して、三成はまた大出世した。
三成の秀吉への“茶の三顧の礼”は誰でも知るエピソードである。*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。


   関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・白河口の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。
 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。
 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。
 直江らは「何故にございますか?いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか?御屋形さま!」
 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ」
 直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ!刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。
 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。
ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「毛利元就 はかりごと多きは勝つ」堺屋太一山本七平ほか著作(プレジデント社)、「上杉景勝」児玉彰三郎著作(ブレインネクスト)、「上杉謙信」筑波栄治著作(国土社)、「上杉謙信」松永義弘著作(学陽書房)、「聖将 上杉謙信」小松秀男著作(毎日新聞)、「ネタバレ」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、『バサラ武人伝 戦国~幕末史を塗りかえた異能の系譜』『真田幸村編』『前田慶次編』永岡慶之助著作Gakken(学研)、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」「英雄たちの選択」「天地人」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)、角川ザテレビジョン「大河ドラマ 天地人ガイドブック」角川書店、等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。

「北条氏政め、この小田原で皆殺しにでもなるつもりか?日本中の軍勢を前にして呑気に籠城・評定とはのう」
 秀吉は笑った。黒の陣羽織の黒田官兵衛は口元に髭をたくわえた男で、ある。顎髭もある。禿頭の為に頭巾をかぶっている。
「御屋形さま、北条への使者にはこの官兵衛をおつかい下され!」
秀吉は「そうか、官兵衛」という。「軍師・官兵衛の意見をきこう」
「人は殺してしまえばそれまで。生かしてこそ役に立つのでございます」続けた。「戦わずして勝つのが兵法の最上策!わたくしめにおまかせを!」
 そういって、一年もの軟禁生活の際に患った病気で不自由な左脚を引きずりながら羽柴秀吉が集めた日本国中の軍勢に包囲された北条の城門に、日差しを受け、砂塵の舞う中、官兵衛が騎馬一騎で刀も持たず近づいた。
「我は羽柴秀吉公の軍師、黒田官兵衛である!「国滅びて還らず」「死人はまたと生くべからず」北条の方々、命を粗末になされるな!開門せよ!」
 小田原「北条攻め」で、大河ドラマでは岡田准一氏演ずる黒田官兵衛が、そういって登場した。堂々たる英雄的登場である。この無血開城交渉で、兵士2万~3万の死者を出さずにすんだのである。
ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、山岡荘八著作、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)、大河ドラマ「毛利元就」「江 姫たちの戦国」等の多数の文献である。ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。

家康が国民的英雄になったのは、戦後も大分過ぎてからで(作家の山岡荘八氏(現・故人)が『(律義者としての)徳川家康』の数十巻にもおよぶ長編伝記小説をものして、それが人気になり大河ドラマにもなったから)、それまでは、評価も人気も決して高くない。これは徳川時代の「神君」を明治が抹消した結果ともいえるが、彼を「狸おやじ」と見る見方は、決して明治に発生したものではない。
「狸おやじ」は、秀吉の「サル」「はげネズミ」のような渾名ではなく、秀吉死後か、大坂落城以後の渾名らしい。それ以前は「律儀」な人で通っていた。確かに彼は戦国武将としては律儀であり、秀吉・秀頼のいずれをも、決して謀殺しようとしなかった。しようと思えば、その機会はいくらでもあったのである。
大坂冬の陣・夏の陣は決して「謀殺」ではなく、光秀のような裏切りでもなく、また不意討ちでもない。(外堀だけでなく内堀も埋めて大坂城を丸裸城としたが)正々堂々の戦争であった。彼は何度も、自分の要求に従わなければ戦争になるぞというシグナル(合図・意図)を発している。だが淀君は感度が鈍すぎたし、「関ヶ原は小早川秀秋の裏切りのための敗戦、もう一戦を」と夢見る西軍の残党も多すぎた。
さらに重要なことは、大坂側が「太閤恩顧の大名」をあてにしすぎたことである。だが大坂の招きに応ずる現役大名は一人もいなかった。こんなことは、戦国大名の常識からすれば当然である。だれも、淀君や秀頼が、戦国生き残りの猛者を統率しうる将帥とは思っていない。また、その下にいる大野治長などの指揮を受けることは、彼らのプライド(誇り・名誉)が許さない。生き延びるためとあらば、自分の一族や息子・娘を犠牲にするのが戦国の常識である。家康は自分の婿を見捨てた。信玄は自分の息子を殺した。元就も伊逹政宗も織田信長も自分の弟を殺した。さらに人質を取っても安心できないという過去の例を見ながら、人質もないのに「恩顧」だけをあてにするのは、自分が勝ち取ったのでもない過去の威勢の夢の中に生きている人間のすることにすぎない。
だがこの夢をもとに大名に“召集令状”を発したら(豊臣家の建立寺の鐘に“国家安康”…家康の挑発に乗った形であったが)、それは宣戦布告であり、これを受けなければ自ら権力を放棄したことになる。家康が立ったのは当然だが、彼は攻城戦は得意ではない。そこにさまざまな策謀があっても、それは戦場の常である。後から見ればすべて巧みに仕込まれていたように見えても、それは、大坂側が自らそこに落ち込んだにすぎず、同時代の他者に比して家康が特に狡猾だったわけではない。毛利元就の謀略などはもっと手の込んだものである。(中略)
 こういった点で、家康を見るとき、あくまでその時代の中で、同時代人との対比で見なければならぬ。信長・秀吉との比較はすでに多くの人によってなされているので、今さら取り上げる必要はないであろう。ただ私が少々不思議に思うのは、毛利元就が一向に登場しないことである。秀吉も家康も師としたと思われる「不倒翁」とは彼のことである。
事実、彼は地味な超人であった。元就は、戦闘に於いては桶狭間以上、調略に於いては小田原城包囲以上、生涯的な持続力に於いては家康以上であった。(中略)
家康が有能であったとはいえ、彼に比較しうる人間、否、あらゆる面で彼以上と思える同時代人か、やや先輩は決して少なくなかったからである。
ただ人間はみな、生まれる場所と時代を自ら選ぶことはできない。そこで能力の発揮には常に時代と場所という限界がある。島津義弘や毛利元就が中央に生まれていれば天下を取れた可能性がある。上杉謙信も武田信玄も病死しなければ天下人であったかも知れない。だが、一方は薩摩、一方は安芸、越後、甲斐・信濃だが時代が少し古い。時代や場所が違えば可能性もまた違う。よって対比して、その人物を明らかにしなければならない場合は、広い意味での同時代人という枠内で、時代と場所の限定をある程度、棚上げして、能力・資質・性格・実績等だけを対比してみなければなるまい。
参考文献『毛利元就 はかりごと多きは勝つ』堺屋太一+山本七平ほか著作、プレジデント社刊3~8ページ引用

厳島神社(現在・広島県宮島・日本三景のひとつ)弘治元年(一五五五年)十月に毛利元就(もうり・もとなり)と陶晴賢(すえ・はるかた)による合戦である「厳島合戦」があった元・戦場でもある。年間四百万人の観光客を誇る。この厳島合戦を行いその勝利で現在の山口県+島根県+鳥取県+広島県+岡山県ら中国地方を手中にしたのが毛利元就である。信長や秀吉を苦しめ、関ヶ原では最後まで家康を苦しめたのも毛利家。幕末の倒幕も薩摩藩と毛利家の長州藩だった。
元就以降、毛利家は日本を左右する存在となったのだった。厳島合戦までは毛利元就は独立さえできていなかった。当時、毛利元就の領地は安芸(広島県)、備後(岡山県)だけ。「現在の山口県広島県」は大内家の領地で、当時の陶晴賢は武田信玄のような勇猛な戦国武将である。大内家の最高実力者が陶晴賢。毛利元就は厳島で陶晴賢に合戦を挑んだのだった。毛利元就“小よく大を制す”。元就は山と海をはさんだ驚きの奇襲に出た。それを支えたのが毛利隆元(若死にした)、吉川元春、小早川隆景の三本の矢の息子たちであった。
ちなみに関ヶ原合戦で大坂城にはいり、西軍総大将になった毛利輝元は毛利隆元の嫡男であり、“裏切りのイメージ”が根強い小早川秀秋は、小早川隆景の養子で、元・秀吉の親戚の金吾中納言秀秋、である。後述するが、吉川(きっかわ)・小早川(こばやかわ)とは毛利元就が本家の毛利家を支えるために有力豪族の吉川家と小早川家に自分の息子を養子として差出し、家を継がせた『毛利両川(もうり・りょうせん)』という立場の武将家系だ。
知略と謀略と人材を駆使した毛利元就。その人生最大の選択にせまる。
“深謀遠慮のひと・毛利元就”とは経営学者の後藤氏は「毛利元就は三人の息子と両川毛利本家をつくりだした(大内家の人質に隆元、吉川へは元春を、小早川へは隆景を養子に差し出した)。まるで現代なら松下幸之助翁だ。ネットワーク(情報網)が素晴らしい。二人の息子を養子(吉川家・小早川家)に出したのも(瀬戸内海の)情報ネットワークの為だ。当然ながら当時は間者(スパイ・忍者)もいたが、元就は情報の価値を知る数少ない戦国武将ではないか」という。
精神科医の香山リカさんは「毛利元就はファミリー的な人間で「毛利は天下を狙うな!」などヒューマニズムですね」という。そして「義の武将・上杉謙信と似ている。“ひとを愛したひと”ではないか?」ともいう。評論家の宮崎氏は「下剋上の時代の大人物!」と太鼓判を押す。「反間の計(敵のスパイに偽情報を握らせ敵をあやつる計略)が抜群にうまい。こんな謀略家の戦国大名は他に見当たらない。凄い!」
映像資料NHK番組内『英雄たちの選択 毛利元就厳島合戦編』資料より引用。
<ウィキペディアよりの引用文章>
生涯[編集]
家督相続[編集]
明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人領主毛利弘元と福原氏との間に次男として誕生。幼名は松寿丸。出生地は母の実家の鈴尾城(福原城)と言われ、現在は毛利元就誕生の石碑が残っている。
明応9年(1500年)に幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意。嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて多治比猿掛城に移り住む。翌文亀元年(1501年)には実母が死去し、松寿丸10歳の永正3年(1506年)に、父・弘元が酒毒が原因で死去。松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。松寿丸はその哀れな境遇から「乞食若殿」と貶されていたという。この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。」「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」と養母の杉大方について書き残している。永正8年(1511年)杉大方は、京都にいた興元に使いを出して松寿丸の元服について相談し、兄の許可を貰って松寿丸は元服。多治比(丹比)元就を名乗って分家を立て、多治比(「たじひ」だが地元では「たんぴ」と読む)殿と呼ばれるようになった。
永正13年(1516年)、長兄・興元が急死した。死因は酒毒であった。父・兄を酒毒でなくしたため、元就は酒の場には出ても自らは下戸だと口をつけなかったという。家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。毛利弘元、興元と2代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺する。毛利家中の動揺をついて、佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻。武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣する。元就にとっては毛利家の命運を賭けた初陣であった。
安芸武田氏重鎮であり、猛将として知られていた武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死。有田城攻囲中の武田元繁はその報に接するや怒りに打ち震えた。一部の押さえの兵を有田城の包囲に残し、ほぼ全力で毛利・吉川連合軍を迎撃し、両軍は激突する。戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討死するに至り、武田軍は混乱して壊滅。安芸武田氏は当主の元繁だけではなく、多くの武将を失い退却する。この有田中井手の戦いは「西国の桶狭間」と呼ばれ、武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大の分水嶺となった。そしてこの勝利により、安芸国人「毛利元就」の名は、ようやく世間に知られるようになる。この戦いの後、尼子氏側へ鞍替えした元就は、幸松丸の後見役として安芸国西条の鏡山城攻略戦(鏡山城の戦い)でも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。
*戦国時代の二大奇襲が(1)桶狭間合戦(2)厳島合戦、である。だが、厳島合戦を「西国の桶狭間」というのは間違い。厳島合戦こそ信長の桶狭間の五年前であり、時代的に桶狭間合戦を「東の厳島合戦」と呼ぶべきである。*
詳細な時期は不明であるが、この頃に吉川国経の娘(法名「妙玖・みょうきゅう」)を妻に迎える。27歳で長男の隆元が生まれているので、初陣から27歳までの間で結婚したと言われているが、戦国武将としては初陣も遅ければ、結婚も遅い方である。
甥の毛利幸松丸が大永3年(1523年)にわずか9歳で死去すると、分家の人間とはいえ毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が志道広良ら重臣達の推挙により、27歳で家督を継ぎ、毛利元就と名乗ることになった。しかし毛利家内では家督について揉め事があったらしく、この家督相続に際して、重臣達による「元就を当主として認める」という連署状が作成されている。8月10日に元就は、吉田郡山城に入城した。
元就の継承に不満を持った坂氏・渡辺氏等の有力家臣団の一部が、尼子経久の指示を受けた尼子氏重臣・亀井秀綱支援の下、元就の異母弟・相合元綱を擁して対抗したが、元就は執政・志道広良らの支援を得て元綱一派を粛清・自刃させるなどして家臣団の統率をはかった。ただし、元綱は異母弟とはいえ兄弟仲は良かったと伝わっており、元綱は尼子氏の計略に乗ったことを恥じて憤死したという説もある。
元綱粛清後、元綱の子は男子であったが助けられ、後に備後の敷名家を与えられている。元就自身が書いたとされる家系図にはこの元綱の子だけでなく三人の孫まで書かれており、この事件は元就の心に深く残ったらしい。また、元綱を亡くした寂しさから、僧侶になっていた末弟(元就・元綱の異母弟)の就心に頼みこんで還俗させ、就勝の名を与え、北氏の跡を継がせて側に置いた。
なお、この事件はこれで収まらず、謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂広澄は事件に直接関係はなかったが、元就が止めるのも聞かず、一族の責任を取って自害してしまった。元就の命を聞かずに勝手に自害したことで桂一族では粛清を受けるものと思い、桂元澄を中心に一族で桂城に籠った。驚いた元就は児玉就忠を遣わして説得したが、桂元澄は応じなかったため、元就自らが桂城に単身乗り込み、元澄を説得して許したという。なお。この事は毛利家中に広く伝わったらしく、後に防芸引き分けの際に隆元が元澄に、元就にあの時命を助けられたのだから今こそその恩を返すべく元就が陶氏に加勢しに行くのを引きとめてほしいと要請している。また、この時謀反を起こし粛清された渡辺勝の息子、通は乳母に助けられ備後の山内家へ逃げている。
<ウィキペディアよりの引用>

毛利元就は三矢の息子を養子にだして領地拡大を狙うが、頼みの大内氏にかげりがみえ始める。当主の大内義隆が京都との交流ばかりに入れあげて政治をやらなくなったのだった。
大内氏は領地(山口県)を“西の京都”にしようと無謀な理想を夢うつつに考えた。領民は当然ながら怒った。いらぬ出費が増税という形ではねかえってきたからだった。この事件で大内氏の家臣の陶晴賢が台頭してくる。
そして天文二十年(一五五一年)陶晴賢が主君・大内義隆へ謀反を起こした。
大内義隆を切腹(享年・四十五歳)に追い込んだ。こうして陶晴賢のクーデターは成功した。新たな当主には義隆のおいで陶晴賢のパペット(操り人形)・大内義長をすえた。
実は毛利元就は陶晴賢のクーデターに参加している。“大内がしっかりしてくれなければ毛利家は困る”
「陶晴賢につけば安堵」と思っていた毛利家は驚くべき情報を耳にする。
それは厳島の棚守房顕(たなもり・ふさあき)からの情報であった。
棚守は陶晴賢とも交流があった。それは「野坂文書」(棚守房顕→毛利元就)で確認できる。
棚守が伝えきいた陶晴賢の野望は“防州(陶晴賢)、大内家の勢力滅亡我無力させらるべき由”。陶晴賢の行動には裏がある。陶晴賢は毛利元就を毛利本家・両川ともに滅亡させる算段だ、と。
三十年も大内家に従ってきた毛利を滅ぼし、陶晴賢がすべての領土を手にしようとしている!このまま黙っている訳にはいかない。毛利元就は陶晴賢を倒す必要に迫られた。
だが、歴史にくわしい方ならご存知の通り、この頃の毛利元就や両川体制はもろく独立さえままならないものであった。だが、ここからが毛利元就の謀略家の本領発揮である。
映像資料NHK番組内『英雄たちの選択 毛利元就厳島合戦編』資料引用
<ウィキペディアからの文章引用>
勢力拡大[編集]
家督相続問題を契機として、元就は尼子経久と次第に敵対関係となり、ついには大永5年(1525年)に尼子氏と手切れして大内義興の傘下となる立場を明確にした。そして享禄2年(1529年)には、かつて毛利幸松丸の外戚として元就に証人を出させるほどの強大な専権を振るい、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋氏一族を討伐。高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れた(高橋一族討伐の際、元就は高橋氏の人質となっていた長女を殺害されたと言われるがそれを裏付ける一次史料はない)。天文4年(1535年)には、隣国の備後の多賀山城の多賀山如意を攻め、降伏させた。
一方で、長年の宿敵であった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、娘を宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。元就が宍戸氏との関係を深めたのには父・弘元の遺言があった。元就が後年手紙で、「父・弘元は宍戸氏と仲をよくしろと言い遺されたが、兄の興元の時は戦になってそのまま病でなくなってしまい、父の遺言は果たせなかった。しかし、それは兄はまだ若かったからしかたなかったことだ。だが、元源殿はなぜか自分の事を気に入って下さって水魚の交わりのように親しくつきあってくださった。」と述べている。元就は宍戸元源の方から親しく思ってくれたとしているが、実際は宍戸氏とも争っていた高橋氏の旧領の一部を譲る等、積極的に働きかけていた。宍戸家家譜によると正月に数人の伴を引き連れて元就自身が宍戸氏の五龍城を訪れ、元源と馬が合ったため、そのまま2人で枕を並べて夜遅くまで語り合い、その中で元源の孫の隆家と娘(後の五龍)との婚約が決まったと伝わる。なお、宍戸隆家は生まれる前に父を亡くしており、母の実家の山内家で7歳まで育ったため、宍戸氏と誼を結ぶことで山内氏とも繋がりができた。前述の渡辺氏の生き残りである渡辺通が許されて毛利家に戻って元就に仕えたのもこの頃と考えられている。
その他、一時大内氏に反乱を起こし窮地に追いやられた天野氏や、安芸武田氏と関係が悪化した熊谷氏とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保した。毛利家中においても、天文元年(1532年)に家臣32名が、逃亡した下人らを匿わずに人返しすることなどの3カ条を守り、違反者は元就が処罰するという起請文を連署して捧げている。
天文2年(1533年)9月23日付けの『御湯殿上日記』(宮中の日誌)に、大内義隆より「大江のなにがし」を応永の先例に倣って官位を授けるように後奈良天皇に申し出があったという記事がある。これは毛利(大江)元就をその祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事に倣って同様の任命を行うようにという趣旨であった。元就は義隆を通じて4,000疋を朝廷に献上する事で叙任が実現の運びとなった。これによって推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。また、同時期には安芸有力国人である吉川氏当主吉川興経から尼子氏との和睦を斡旋されるが、逆に尼子方に断られてしまっている。また天文6年(1537年)には、長男の毛利隆元を人質として、大内氏へ差し出して関係を強化した。
天文8年(1539年)、従属関係にあった大内氏が、北九州の宿敵少弐氏を滅ぼし、大友氏とも和解したため、安芸武田氏の居城佐東銀山城を攻撃。尼子氏の援兵を武田氏は受けたものの、これにより、城主武田信実は一時若狭へと逃亡している。後に信実は出雲の尼子氏を頼っている。
天文9年(1540年)には経久の後継者である尼子詮久率いる3万の尼子軍に本拠地・吉田郡山城を攻められるが(吉田郡山城の戦い)、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、安芸国の中心的存在となる。同年、大内氏とともに尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏当主・武田信実の佐東銀山城は落城し、信実は出雲へと逃亡。安芸武田氏はこれにより滅亡した。また、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。
天文11年(1542年)から天文12年(1543年)にかけて、大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いにも、元就は従軍。しかし吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎたこともあり、補給線と防衛線が寸断され、更には元就自身も4月に富田城塩谷口を攻めるも大敗し、大内軍は敗走する。この敗走中に元就も死を覚悟するほどの危機にあって渡辺通らが身代わりとして奮戦の末に戦死、窮地を脱して無事に安芸に帰還することができた。しかし大内・尼子氏の安芸国内における影響力の低下を受けて、常に大大名の顔色を窺う小領主の立場から脱却を考えるようになる。
天文13年(1544年)、元就は手始めに強力な水軍を擁する竹原小早川氏の養子に三男・徳寿丸(後の小早川隆景)を出した。小早川家には元就の姪(兄・興元の娘)が嫁いでおり、前当主の興景は吉田郡山城の戦いで援軍に駆けつけるなど元就と親密な仲であった。天文10年、興景が子もなく没したため、小早川家の家臣団から徳寿丸を養子にしたいと要望があったが、徳寿丸がまだ幼いことを理由に断っている。一説には妙玖が手放したくなかったためとも言われている。しかし、当主不在のまま何度か戦があり、困った小早川家家臣団は今度は大内義隆に、元就が徳寿丸を小早川家へ養子に出すように頼みこんだ。元就も義隆の頼みを断ることはできず、興景没後3年経ってようやく徳寿丸は小早川家へ養子へ行った。なお、興景を失った竹原小早川氏に対しては、備後神辺城主である山名理興(尼子派)が天文12年に攻め寄せたため、大内軍と共に毛利軍も救援に赴いている。6年後の神辺城陥落(神辺合戦)まで戦いは続いたが、この陣中で徳寿丸は元服して隆景を名乗るようになった。一方同年には、備後三吉氏へ遠征に出た尼子軍を撃退すべく、児玉就忠・福原貞俊を派遣したが敗北している(布野崩れ)。ただし、三吉軍の夜襲が成功したため、最終的に尼子軍は退却した。
天文14年(1545年)、妻・妙玖と養母・杉大方を相次いで亡くしている。特に妙玖が亡くなった時には3日間部屋に籠ったまま出てこなかったと伝わるが、後に手紙で「近頃妙玖のことばかり思い出されてならない」「妙玖が生きていれば・・・」「内をば妻を以て治めというが本当にその通りだと思う」と書いており、妻を追慕する気持ちが溢れている。また春霞集にも「問かしな 契しままの 我心 程はふるとも いかてわすれむ」という亡妻を懐かしむ歌を残している。
天文15年(1546年)、元就が隠居を表明。隆元が毛利家当主となる。ただし、完全に隠居したわけではなく実権はほぼ元就が握っていたため、隆元もこの時は元就の隠居に反対しなかった。
天文16年(1547年)、妻・妙玖の実家である吉川家へ元春を送りこむ。当時吉川家当主であった吉川興経は新参の家臣団を重用していたため、吉川経世ら一族や重鎮と対立が激しくなっており、家中の統制ができなくなっていた。そこで反興経派は元就に、吉川国経の外孫に当たる次男・元春を吉川氏に養子にしたいと申し出た。元就は初め、元春を子の無かった異母弟・北就勝の養子にする約束があったため断ったが、吉川家の再三の要求に応じて元春を養子に出した。一方、吉川家当主の吉川興経は家臣団によって強制的に隠居させられた。隠居させられた興経は、吉川家家臣団との約束で吉川氏の領内に隠居させる予定であったが、元就は興経派らの動きを封じるため興経を深川に移した。それでも興経派へを警戒していた元就は吉川家の当主となった元春をなかなか吉川家の本城へ送らなかった。
因みに吉川家相続前に元春は熊谷信直の娘と独断で婚約を結び、元就は熊谷信直へ侘びの手紙と「あいつは犬ころの様なやつだが息子をどうかよろしく頼む」と一言書いている。元春夫婦は結婚後も、吉川家相続の後も吉田郡山城におり、長男の元資(元長)が生まれてもまだ吉田郡山城に留まっていた。元春が吉川氏の本城に入るのは、興経の隠居後の天文19年(1550年)に、将来の禍根を断つため興経とその一家を元就の命で熊谷氏が殺害してからである。
一方で、先の月山富田城の戦いで当主・小早川正平を失っていた沼田小早川氏の後継問題にも介入した。当主・小早川繁平が幼少かつ盲目であったのを利用して家中を分裂させ、後見役の重臣であった田坂全慶を謀殺した上で繁平を出家に追い込み、分家の竹原小早川当主で元就の実子である小早川隆景を後嗣にさせている。これにより、小早川氏の水軍を手に入れ、また「毛利両川体制」が確立、毛利氏の勢力拡大を支えることになるのである。
これにより安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。
天文18年(1549年)2月、元春と隆景を伴い山口へ下向する。この時大内家は陶隆房を中心にした武断派と相良武任を中心とした文治派で対立が起こっていた。また、当主の大内義隆は月山富田城で負けて以来、戦に関心を持たなくなっていた事もあり、不満に思っていた陶隆房が山口下向中に元就達の宿所に何度か使いをやっている。なお、元就はこの山口滞在中に病気にかかったようで、そのため逗留が3カ月近くかかり、吉田に帰国したのは5月になってからである。なお、この時元就を看病した井上光俊は懸命に看病したことで隆元から書状を貰っている。
天文19年(1550年)7月13日に家中において専横を極めていた井上元兼とその一族を殺害し、その直後に家臣団に対して毛利家への忠誠を誓わせる起請文に署名させ、集団の統率力を強化。後に戦国大名として飛躍するための基盤を構築していく。が、井上一族を全て殺したわけではない。先の井上光俊のように看病してもらった者や、井上一族の長老である光兼は元就が太陽を拝むきっかけとなった客僧を招いた屋敷の主であったことなど恩があるものは助命しており、主だった30名のみ処分している。元就自身はこの誅伐に関して手紙で、幼いころに所領を横取りされたことなど積年の恨みつらみを書きしたためているが、家臣を切るのは自分の手足を切るような悪い事であるから決してしてはならないことであると隆景に宛てて書いている。
<ウィキペディアよりの引用>

 

hyper groove女性リーダー育成論大島優子・篠田麻里子・芹那・大島麻衣・光宗薫・秋元才加

2015年03月27日 14時55分24秒 | 日記







<新人女性を確実にリーダーに育てるシナリオ>
2014/12/25
大久保幸夫、石原直子氏
 いきなり管理職になれと言われてもそれは無理です。それまでの間の育成をしっかりとやっておくことが大事です。女性の場合、特に初級キャリアの段階の育成にポイントがありそうです。
女性の得意技はスタートダッシュ
 多くの採用担当者が、「純粋に能力の高い順に採ったら、内定するのは女性ばかりになってしまう」と言います。特に若いうちは、コミュニケーション能力や、場の空気を読んで適切な反応をするといった社会性に関わる能力では、女性の方が秀でていることが多いのです。
 若い女性が高い社会性を持っているというのなら、この時期にしっかりスタートダッシュしてもらうことを考えるのが得策です。
 そのための燃料投入の、最初の場が入社式です。
入社時点での「期待」で女性は「覚悟」を決める
 多くの企業で、入社式は、企業のトップが初めて新入社員に向かって話をする場です。
 社長の皆さんにお願いしたいのは、男女の別なく、すべての新入社員が、自社の将来を担うリーダーになっていくことを期待する、全員がそのために努力し絶え間ない成長を実現することを要求する、と明確に宣言することです。
 「期待」は、人の「やる気」や「覚悟」に火をつけます。入社時点で、社長からの「期待」を感じ取ることで、より意義を感じながら働くことができるようになるはずです。
 そして、この入社式以降のどんな場面でも、社長だけでなく、現場の上司や人事が女性社員に対してまず「期待」を表明する、という基本姿勢を共通して持ってほしいと思います。
 覚悟や希望というのは、自分が期待され、評価されていると思えるからこそ生まれるものです。
それなのに、女性の活躍を支援すべき立場の上司が、
「あいつは女性だからもう少ししたら両立に悩むだろうな」
「結婚したら辞めてしまうんだろうな」
などと思って、徐々にその人たちにかける期待の「量」を減らしてしまってはいないでしょうか。
「こいつはきっとよい管理職になる」
「このままハイパフォーマーとして成長し続けてほしい」
という心からの期待を、まずはかけ続けてやらねばなりません。
 その言葉を受けた女性たちが、
「この上司は私に期待してくれている」
「私の成長を信じてくれている」
と思えた時にはじめて、多少の困難が待ち受けていてもそれに負けることなく前進していこうという肚(はら)が決まります。
 先に期待をすれば、覚悟はあとからついてくるのです。
 現状では、残念ながら多くの女性が、「会社は女性には期待していない」と感じています。女性リーダーを生み出したいならば、女性の心の中にある、この「不信」を払拭しなくてはなりません。
 そして実際に、将来のわが社を担うリーダーを育てているという自覚のもとに、彼女たちの業務や目標を設計し能力開発を助け、異動と任用のプランニングをしましょう。言葉だけでなく行動で「期待」を示すのです。
 なかでも、特に重要なのは上司の役割です。「女性が何を考えているのかよくわからない」「自分は女性のキャリアについて何の知見もない」というのは、もう通用しません。女性社員に「会社からの期待」を日常的に感じさせられるのは、上司にほかならないのですから、責任は重大です。
 周囲からの期待を常に感じ続けることは、もちろん当の本人にとってはプレッシャーでもあります。しかし、プレッシャーをバネに変えられる人こそが大きな成長を遂げられる、というのは男女を問わない真実です。「期待されているから頑張れる」人が、将来のリーダーになっていくのです。
入社直後からトップギアで走るための事前準備
 このように、入社直後から女性がトップギアで走れるようになるために、女性たち自身に入社より前の段階でいくつか経験しておいてほしいことがあります。これは、企業の人事に対して言うと、こういうポイントで採用希望者をみてほしいと思うことでもあります。
 ひとつは、期間の長いインターンシップへの参加です。
 1週間だけとか2日だけとかのごく短い期間、企業にお客さんとして迎え、適当なゲームやグループワークに参加させ、新規事業プランのプレゼンをさせて帰ってもらう、というよくある「イベント」型のインターンシップではありません。
 事業の現場に、実際に働く社員とともに身を置いて、「企業で働く」というのがどういうことなのかを肌身に染みて理解できるくらいの、「じっくり型」のインターンシップを、(女性だけでなく男性でも)学生のうちにぜひ経験しておいてほしいと思いますし、企業にもこういう対応のインターンシップを実施してほしいものです。
 1カ月かそれ以上、他の社員が働いている場に身を置いて、働くことのリアリティをつかみとる経験は、入社後のとまどいやギャップを軽減してくれる、貴重な財産になるでしょう。
 この「じっくり型」のインターンシップは男性にとっても女性にとっても有意義なものになりますが、もうひとつ、特に女子学生が企業に入る前に学んでいるかどうかを見極めたいのが「リーダーシップ」です。
 日本という社会では、女性は物心ついた時から、さまざまな場面で「なるべく差し出がましいことをしないように」「人の前に立たないように」と陰に陽に教えられながら育ちます。男性を差し置いて意見を言うような女性は、集団のなかで「悪目立ち」すると言われ、男性ばかりでなく女性からも敬遠されることがあります。
 このことは、企業で働く女性達が管理職(=人の上に立つこと)を目指さない、ということにも、企業で働く人々が「女性の管理職」に何となく違和感をおぼえてしまうことにも、大きな影響を与えていると思います。
 若い女性の多くは、部下を持ちチームで成果を出すことに責任を持つ、という働き方は自分に縁遠いものだと認識しています。若い男性のほとんどが、自分は「普通に」昇進して、そのうちチームを率いる存在になるだろうということを、ほぼ前提に働いているのとは、あまりに対照的です。
実際には企業のなかで働き続けようとすれば、年月の経過とともに、単独でやる仕事ではなく、チームで進める仕事のなかで采配をふるう力を要求されるようになります。
 これは、「手に職」といわれるような専門職的要素の高い仕事であっても同じです。そういう仕事であっても、やはり誰かが、仕事を切り分け、人に任せ、結果を吟味する仕事をしなければならないのですから。人をまとめ、チームを率いるという役割を忌避し続けることは、自分の仕事の価値を狭めることに結果的になってしまうのです。
 リーダーシップとは「他者の力を借りてチームの目的を達する力」です。
 多くの研究が明らかにしているのは、リーダーシップは、先天的な才能ではなく、練習と経験によって獲得できるスキル・能力であるということです。
 大学時代に、リーダーシップというものを理解し、リーダーシップを発揮するためのコミュニケーションの方法、ゴールとマイルストーンをセットする方法、他者のモチベーションをあげさせる方法、といった基本的なスキルについての教育が行われていることは、社会に出るにあたって、大きな武器を与えることになるでしょう。企業も、このようなリーダーシップ講座を持っている大学で学んだ女性に、もっと着目してはどうでしょうか。
 また、実際にリーダーシップを発揮すべき場に身を置いた経験があるかどうかを知ることも必要です。
 共学の大学で過ごす女子学生の多くは、サークルやゼミなどでリーダーを決める時にも男性にその場を「譲り」ます。女子が男子を差し置いて代表のポジションにつくのは、なんとなく「イタい」し「モテない」感じがするからです。
 しかし、どんなに小さいグループであろうと、チームのリーダーという立場で何かひとつのことを成し遂げようとしたら、全員の力を引き出すことのむずかしさに直面し、試行錯誤を経て、どのように行動すべきかを学ばざるを得ない状況に置かれます。
 これを経験しているのといないのとでは、社会に出てからの「チームでの協業」における活躍度がまったく違うということは、企業で人を育てたことのある人ならば、実感しているのではないでしょうか。
 女子学生にこそ、リーダーシップ教育とリーダー経験を積んで、来る日に備えておいてほしいと思いますし、企業もこういう視点から女子学生のリーダーとしてのポテンシャルを見極めてほしいと思います。
しっかりジョブローテーション
 女性にとって、仕事における成長やキャリアの蓄積は、常に時間との競争です。
 20代後半から多くのライフイベントが待ち構えている女性には、成長と経験を「先取り」することが、とても重要になります。
 男女にかかわらず多くの人にとって、入社後しばらくは、仕事以外の世界からの干渉や制約が最も少ない期間になります。そこで、入社からの5年間を、「成長のアクセラレーター(加速機)」として有効利用することを推奨します。
最初の5年で3つの仕事
 具体的には、入社から5年で、すべての社員に、最低3つの仕事を経験させるジョブローテーションを設計するのです。
 日本企業の慣習では、入社5年で2回も異動させるというのは、ちょっと頻繁すぎる感じがするかもしれません。
 新人にとって、最初の数カ月は、会社というよりも社会人生活そのものに馴染む期間でしたし、仕事を覚えるのに半年程度の猶予は与えられてきたからです。また、成果を出せるようになってからの数年間は、その部署の重要な戦力として活躍してもらいたいため、そう簡単にはそのクラスの人材を「放出」しないのが普通です。
 しかし、このスピード感では、のちにリーダーになることを期待される人材の成長速度としては遅すぎるとも言えますし、特に女性には、後に待ち構えているライフイベントの前に経験を「先取り」するという意味でも、もっと早い異動を計画的に実施する必要があります。
 「1年半・1年半・2年」「1年・2年・2年」といったテンポで、中身の異なる職務を経験して、経験の幅と成功体験を早く獲得してもらうように育成計画を立ててほしいと思います。
この「5年で3職務」のジョブローテーションで気をつけてほしいのは、女性社員の配属先と異動の時期です。
 「この職務には男性しか就かせない」とか「女性にこの仕事は無理」というように、あからさまに女性と男性の配属に差がつくような職場は、現代の日本企業には珍しくなっているかもしれません。
 しかし、女性はフロントオフィスよりはミドルやバックオフィスに配属されやすいとか、顧客担当にする時に、女性をほんの少しだけ難易度の低い顧客の担当にするといったように、配属にあたって男女で「微かな差」をつけてしまっている企業は、今も少なからず存在します。
 また、仕事ぶりのよい女性であればあるほど、ひとつの仕事に固定されるという傾向もあります。
 一つひとつの配属の決定には、それほど大きな意味はなかったかもしれません。また、女性が外勤よりは内勤に配属されやすいのも、ある意味の「配慮」の表れだったのかもしれません。
 しかし、この最初の5年間の育成期間では、男女における配属傾向と異動時期の差を完全になくさなくてはなりません。配属先や異動タイミングのちょっとした差こそが、のちに昇格や登用の時期を迎えた女性に対する、「経験の幅が狭い」「社内に人脈がない」というマイナス評価の原因になっていくからです。
 この5年に限らず、伸びる可能性のある人ほど、早めに異動させて、経験の幅を広げることが重要なのです。
「一人前になるのに10年」では遅すぎる
 ある大企業の人材開発部長と話していたら、「うちの会社では、一人前になるのに必要な時間は昔からだいたい10年と言われています。どうして5年でなくてはいけないのですか。10年ではダメなのですか」と訊かれました。
 この問いに対する私たちの答えは、
「10年ではダメ」
です。
 女性の平均初婚年齢は2012年時点で29.2歳。晩婚化はこの20年で年々進んできましたから、この先、初婚年齢は30歳くらいまで上昇するかもしれません。また第1子出生時の母の平均年齢は2012年で30.3歳です。
 一人前になるのが入社後10年だとしたら、大卒の新人が一人前になるとき32歳。これでは平均的な女性は一人前になる前に仕事から一時的にせよ離脱することになってしまいます。
 一人前になる前に戦線離脱してしまえば、復帰後に、本人も周囲の人も戸惑うことになります。だからこそ、「5年で一人前」に頭を切り替えてほしいと思うのです。
大久保幸夫、石原直子 著 『女性が活躍する会社』(日本経済新聞出版社、2014年)第5章「新人女性を確実にリーダーに育てるシナリオ」から


武田信玄「風林火山」風林火山の御屋形さまと軍師・山本勘助アンコールブログ連載小説5

2015年03月27日 05時19分42秒 | 日記







         5 桶狭間合戦







 戦国時代の二大奇跡がある。ひとは中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦、もうひとつが織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。
 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。
  斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長が弟・信行を謀殺したのは前述した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。
 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。
 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。
「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。
「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。
「は?」
「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。
 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。
 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。
 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのよい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。
 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。
 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。
 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。
「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。
 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。
 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。信長の勝つ確率は極めて低い。
  今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。
  特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。
 今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。
 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。しかし当の松平元康(のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。
 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。
 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。
 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。なにを夢ごとを。家臣たちは訝しがった。





  松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。
 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。
 今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。今川義元は軍議をひらいた。
「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。
 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」
 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。
 柴田勝家は「そうか……とは? …御屋形! 何か策は?」と口をはさんだ。
 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。宮福太夫という猿楽師に、羅生門を舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。
「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」
 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。
 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。
「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。
「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」
「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」
「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。
「なんて御屋形だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」
「まったくあきれる。あれでも大将か?」
 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」
  信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。
「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」
「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」
「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」
 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。
「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の男がいった。この男こそ、のちの豊臣秀吉である。秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」
「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」
 日吉は迷ってから「奇襲にでればと」
「奇襲?」信長は茫然とした。
「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」
「さしでがましいわ!」信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。
「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。
 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。
「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。
「なんじゃ、猿」
「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」
「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」
「八百あまり」
「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。
「いま何刻じや?」
「うしみつ(午前2時)でごさりまする」猿はいった。
「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」
 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。そして有名な「敦盛」を舞い始める。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。
「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。わずかに長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎の五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。
 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。
「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」
 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。
 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。
 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。
 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」
 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。
「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。
 信長は叫んだ。
「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」
 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。
 たい し が ね                                   「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」
 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせ、にやりとした。
「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形である」と感心した。
 織田軍は密かに進軍を開始した。








                 
  太子ケ根を登り、丘の上で信長軍は待機した。
 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。嵐の中で部下は「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。
 しかし、信長はその策をとらなかった。
「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」
 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」
 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。山の上から喚声をあげて下ってくる軍に今川本陣は驚いた。
「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。
「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」
 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!
 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。
 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!
「御屋形様をお守りいたせ!」
 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。
「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、新助の人差し指に噛みつき、それを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。
 義元はこの時四十二歳である。
「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。
 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。
「勝った! われらの勝利じゃ!」
 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。
  かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。
「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」
「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。
「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。
 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。
 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。
  今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。
 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。
 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。
 これに対して信長は「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。
 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。
 清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方にけっそうをかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。
  清洲城に戻り、酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。
 信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」
 家臣たちは意味がわからず顔を見合わせたという。
 晴信はこの桶狭間合戦を知り、「信長という男は強敵ぞ!」といった。       

鬱病の理解が足りない?!まだまだいる『鬱病無理解者』鬱病=怠け者「偏見悪口」人間の跋扈

2015年03月26日 17時27分23秒 | 日記







鬱病患者に

「病気に甘えてる」「怠け者」


「大人だと認めていない」「しっかりしろ!」


「頑張れ!」「だらだら過ごすな」


「ちゃんと仕事しろ!」等と、


何の理解もなく、


只、勘だけで悪口をいう人が残念ながら多い。


鬱病の病状どころか病名さえ知らないで、


鬱病=怠け者、と偏見を言う。まさに無知。臥竜


緑川鷲羽そして始めまりの2015年へ。

紅蓮の炎<真田丸>真田幸村(信繁)家康が最も恐れた男アンコール連載真田幸村小説7

2015年03月26日 07時44分23秒 | 日記







 秀吉の天下統一


  秀吉の天下統一作戦は始まった。
 秀吉は牙をむきだしにして、各個撃破の戦を開始する。天正十二年三月、紀州に出兵して、根来寺・雑賀衆を制圧した。六月には四国に出兵し、長曽我部を屈服させ、引き続き、北陸に出兵し、佐々成政を降ろす。秀吉は抵抗勢力の抹殺を行った。
 そして、秀吉は十二万の大軍で九州を制圧した。そんなおり、側室となっていた淀(茶々)が秀吉の子を産む。天正十七年五月のことである。名は鶴丸。男の子だった。
 秀吉は大変な喜びようで、妻のおね(北政所)とは子がなかったから、やっと世継ぎが出来た、とおおはしゃぎした。
 あとは関東の北条と奥州の伊達だけが敵である。
 そんなとき、伊達政宗は六月になって”秀吉軍には勝てない”と悟り、白無垢で秀吉の元に現れた。前田慶次も一緒である。まだ政宗らは若かったが、判断は正しかった。トゥ レート、ではあったが、判断は正しかった。だが、秀吉は「お主ら、白無垢で切腹すると申したのう? なら此の場で腹を斬れ!」秀吉は大声で怒鳴った。
 前田利家が助け舟をだした。「関白様、お許し下され! まだまだ若造たち、この利家にこの伊達政宗なる者と甥の前田慶次郎利益をおあずけくだされ! 関白秀吉公のために死ねる家臣に教育いたしまする」
 秀吉はにやりとして「小僧ら、危なく死ぬところであったのう? 前田殿がいなければ命はなかったぞ」といい、鞘に刀剣を戻した。
 とりあえず奥州の伊達はこちらについた。あとは関東の北条だけが敵である。
 秀吉は三十万の兵を率いて関東にむかった。
「寒いのう」秀吉は小田原城の近くの城でいった。家康は「そうですな、閣下」と下手にでた。まさに狸である。
「小田原城内の兵糧にも限りがあろう。兵糧攻めじゃ」秀吉はわらった。
 三月十九日、開戦。四月六日には小田原城を包囲し、秀吉は”兵糧攻め”を開始した。船に敵の子女を乗せて、小田原城にたてこもる北条氏たちにみせた。北条氏側は上杉謙信が北条氏の小田原城を攻めたときのことを思いだしていた。上杉は一ケ月で兵糧が尽き、撤退した。秀吉もそうなるに違いない。北条氏政は思った。
しかし、秀吉の兵糧は尽きない。加藤や久鬼の水軍が海上から兵糧をどんどん運んでくる。二十万石(二十五万人の兵を一ケ月もたせる)が次々と船でやってくる。
「わははは」秀吉は陣でわらった。「日本中の軍勢を敵にまわしてはさすがの北条も勝ち目なしじゃ!」
 秀吉はまた奇策を考える。一夜城である。六月二十八日、小田原城の近くの石岡山に一夜城をつくった。山の木に隠れてつくっていた城を、木を伐採して北条氏たちにみせたのだ。忽然と、城が現れ、北条氏たちはこのとき唖然とし、格闘を諦めようと決意した。もともと勝ち目はない。日本中の軍勢を敵にまわしているのだ。
 天正十八年七月五日、北条氏政は切腹し、息子の氏直は切腹をまぬがれた。こうして、北条氏は滅亡した。
「家康殿、こたびは小田原攻めに協力かたじけない。お礼として今の領地のかわりに旧北条氏の領地だった関東を与えよう。さぁ、遠慮はいらぬぞ」
 秀吉はにやりとした。
 家康はしぶしぶ受け入れた。今、関東は都会ではあるが、この頃は、草が生い茂る一面の湿地帯で、”田舎”であった。家康はそれを知りながらも受け入れた。家康は関東を江戸と称して開拓にあたった。大都会・江戸(東京)をつくるのに邁進した。
「ふん、家康を関東の田舎におっぱらってやったぞ。京都と大阪はがっちり守っていかねばのう」秀吉は高笑いをした。これで………天下を獲れる。そう思うと、胸がうち震えた。 天下人じゃ! 天下人じゃ!  秀吉は興奮した。
「おめでとうござりまする、閣下」利家は頭をさげた。利家はもう秀吉のブレーンとなっていた。「おお、次の天下人さま」秀吉は冗談をいった。

豊臣秀吉の朝鮮侵攻ならびに唐入り(明への侵略)を黒田官兵衛に知らされたのは天下人・秀吉のその口からであった。
 千利休との茶室で、秀吉の口から聞いたのだ。というより、またしても奸臣・石田三成が相席して「関白殿下は朝鮮、果ては明(現在の中国)を支配するのが夢にございます」
 と、言ったのだ。官兵衛は激昴して「黙られよ、三成殿!わしは関白殿下にもうしあげておるのだ!唐入り、明国制覇等………正気の沙汰ではござりません。もう少しで戦乱の世から天下泰平の戦なき世が出来るのですぞ」
 官兵衛は土下座した。「どうか!どうか、御考え直しを!太閤殿下!」「貴様、この太閤のわしの夢が正気の沙汰じゃないじゃと?!」
 また三成が「太閤殿下の夢を馬鹿になさるのか?」等と口をはさむ。
 この頃、加藤清正や黒田長政、福島正則らが「茶々さまは所詮は小娘……裏で糸を引いて豊臣政権の権勢を握って操っているのは奸臣・石田治部!あやつだけは我慢がならぬ!」
 と、口々に言い合っていた。石田三成は本当に歴史ドラマのように奸臣で、茶々や秀吉を騙したのか?それは徳川の世になれば石田三成=悪人、と描かれたのは多分にあるだろう。それにしてもやややり過ぎ。
 「耳が痛いことをいってくれる人物がいるうちが花」という利休が自害させられたのも、石田治部の謀略で、ある。
 茶々に「豊臣家に一泡吹かせる為に秀吉さまの御子を産みなされ。関白殿下は茶々さま(のちの淀君)にそれはもう夢中、あらゆる贈り物も金銀も茶々さま専用のお城も築城します」
 「されど、秀吉は猿のように醜く、父上や母上の仇!そんな猿に抱かれよと?」
 「女子は子供を産めば寵愛されます。なあに、殿下が”種無し”で”子供をつくれぬ”でも、父親がだれかなど誰にもわかりませぬ。子供をつくり、「殿下の子をわらわは産みたい」と甘く囁けば殿下はいちころでござる」
 さすがにその三成の危険性を黒田官兵衛は察した。
 秀吉は馬鹿みたいに小娘の茶々にいれあげ、正室のおね(北政所)をそっちのけで、茶々に贈り物や贅沢をさせる。
 そして秀吉の子供を二度も妊娠するのだが、果たして本当に秀吉の子供か?怪しいものだ。いままでどんな側室も一度も妊娠・出産などなかったのに。
 豊前で秀吉の命令で、旧豊前領主・宇都宮氏らを泣く泣く黒田家は謀殺したが、千利休の茶会で、徳川家康に会い、秀吉が「次の天下人は?」と御伽衆に聞き、「家康殿でしょう?」「いや、前田利家さま?」「上杉もあなどれませぬなあ」との答えに「わしのつぎの天下人は黒田官兵衛じゃ!あやつはわしが何日も考える軍略を瞬時に考え、何百万の大軍を率いる」
 ときき、衝撃を受けた。無論、官兵衛には謀反も豊臣征伐の野心もない。それをするのは狸・家康である。
 だが、秀吉に警戒され、茶会で「わしの明国制覇の夢を馬鹿にするのか?!官兵衛!」と罵倒され、千利休の(石田三成の謀略で)自害を知ると、家督を息子の黒田長政に譲り、隠居した。
 秀吉の正室のおねから「黒田殿だけが頼りであったのに……。秀吉はかわりました。天下人になるとこうも人間は変わるとは。その上、朝鮮や明国まで攻めようとは…あの男は阿呆です!」
 といわれても、もう隠居すると決めていた。現役復帰を固辞し、黒田家を豊臣から徳川側に静かに動かしたのだ。
 軍師・官兵衛は「朝鮮戦争」「明国との合戦」の敗北、無意味さを予見していたのである。
 茶々は淀君と名前を変え、おねに挨拶もしない程の慇懃無礼な態度と企みを秘めた微笑をするのだった。
 だが、軍師以外、誰もその企みを知らなかった。
 石田三成・淀君等の近江衆こそ豊臣の絶望の癌、で、あった。

 漫画・劇画『花の慶次』の第九巻から一部のストーリー展開を引用したい。なお、本物の前田慶次は琉球(現在の沖縄県)には行っていないことが歴史文献でも確実ではないがわかる為、劇画・漫画『花の慶次』第十巻、第十壱巻は省く。
 つまり、引用しない。『花の慶次<琉球編>』は映像化のときのみ参照してください(笑)。


「旦那!石田三成様がおいでになりました」
 慶次のかまえる京の屋敷に三成が訪ねてきた。しかも武装兵に屋敷を取り囲ませて。
「きっと旦那が京に戻ったことを嗅ぎつけてきたんでしょう。どうしますか?」
「かまわんさ!とおせ!」
 慶次は言った。部下は、慶次が京のキリシタンの木像を磔にしたのを見て、昔、「へいへい!これが治部だ!こせこせしていて滑稽でしかも残忍極まる。とても人間の類とは思えんな!」と大声で罵倒して、京を去ったのを思い出していた。
 今や石田治部は豊臣天下の大宰相である。
 そのことで三成が現れたのは明白であった。
「慶次殿、京での暴言、堺沖での大騒動…これはもはや太閤殿下に対する反駁以外の何ものでもない!」
「………で、手前にどうしろと?」
 三成はにやりとした。「なにも追放にしようと言っている訳ではありません。ただ………朝鮮に行ってもらいたい。そして現地で朝鮮の内情をつぶさに調べ、太閤殿下に見たままをご報告して頂きたい…この戦がいかに無益であるかを…」
 同席していた直江兼続は、三成ほどの男がわざわざ一介の浪人である慶次のところまで来た意味を悟った。
 三成たちはこれまで秀吉に対し、朝鮮・明国の状態を隠し、秀吉が知らないのをいいことに嘘の情勢を知らせてきた。しかし、これ以上嘘をつき通せなくなったときに慶次に真実を語らせ、これまでの嘘をごまかそうと。三成はただ莫大な戦費を費やすことによって豊臣政権の基盤が弛むのが心配だった。そのため慶次を使って時間かせぎをしたかったのだ。
「返事は?」
「…まずは茶でも飲め」
 三成はお椀のお茶を飲み「さすがは天下無双の傾奇者、茶もうまい」と褒めた。
「だろう、馬のしょうべんをまぜたからな」慶次はにやりとした。慶次のいたずらぶりは有名である。三成は「貴様!」と怒鳴り、お茶碗を投げつけた。
 慶次は三成をボコボコにする。
「治部、貴様のやることはいちいち手が込みすぎておる!石田三成ともいわれる者が首一つ失うのがそれほど恐いか?命が惜しいのか!」
 三成は顔面蒼白である。
「そんなにこの”いくさ”を止めたければ命懸けで太閤に掛け合えばいいではないか!わざわざ俺を使ってまわりくどいことをするな!自分でまいた種は自分で刈りとれ!死してこの”いくさ”を止めてみろ!」
 慶次は喝破した。兼続は………確かにその通りだが、それは慶次殿だからこそ言えること…並の人間にはそれは出来ぬのだ………「前田殿、この男は仮にも治部少輔(じぶしょうゆう)、それまでになされ、さっ、三成殿手をかしましょう」
 三成は醜態を見せた。
「うう………うるさい!うるさい!馬鹿!阿呆!鬼畜!天魔!」涙を流し「貴様に何が…何がわかる!天下百年の計のかけらも判るまい!」
 醜態は続く。「だいたい貴様は今まで何をした!?この無益で無謀で残忍な”いくさ”を避けるために一体何をしたというのだ!?古今未曾有の”いくさ”が迫るのも知らず、知っても止めようとせず太平楽に、だらだらと生きてきた貴様たちにわしらを裁くどんな資格がある!言ってみろ!どんな資格があるんだ!」
 前田慶次は号泣しながら迫る三成に懐から洟紙を取りだし、
「洟(はな)をふかれよ」といった。
 三成は洟をふいた。直江山城は「治部殿、今日のことは見なかったことにしまする。いきましょう」といった。
「そうだな」
 三成は意味深な顔で頷いたという。


          唐入り


  小一郎秀長が大和と河内、紀州の一部をふくめ百万石の大名となると、神社仏閣からいろいろ文句がではじめた。しかし、一年もたたないうちに抗議がなくなった。秀吉は不思議に思い「小一郎、大和はどうかな?」と尋ねると「うるさくてこまっている」という。「具体的にはどうしておるのじゃ?」ときくと「金でござるよ」といったという。
 これは今でこそ珍しくないが、領土の代わりに銭を渡して納得させた訳だ。「新しい領土は与えられないけれども、そのかわり銭をやる」……ということだ。米や土地ではなく、銭、これは新しいアイデアだったに違いない。
 しかし、そんな小一郎秀長は死んでしまった。病気で早死にしたのだ。
 秀吉はそんな弟の亡骸にふっして「小一郎! おまえがいなければ豊臣家はどうなるのじゃ?」と泣いたという。小一郎は秀吉のために銭をたんまりと残した。矢銭である。
 しかし、秀吉は暴走していく。”良き弟”を亡くしたために……
「家康や大名たちをしたがわせるためには、豊臣の戦力を拡大することだ。それには矢銭(軍資金)をしっかりためこむことだ。まず農民からきびしく年貢米を取り立てよう」
 太閤となった秀吉は、一五八二年から太閤検地で農民から厳しく年貢を取り立てた。次に、農村に住んでいた武士を城下町に集合させ、身分をはっきりとわけた。
「次は、農民が一揆をおこせないように武器をとりあげることじゃ」秀吉はいった。「一向一揆や土一揆にはまいったからのう。信長公も刀狩をやられたがこの秀吉はもっと大掛かりな刀狩をやるぞ!」
 京都や奈良の大仏よりもでっかい大仏をつくる、そんな理由で秀吉は刀狩を行った。農民や僧侶から刀をとり、反乱をおこせなくした。
「年貢にはかぎりがある。商業をおこしてお金をがっぽりもうけるのじゃ。信長公のまねをして、市場の税や座という組合をなくそう! いままでは大名の領地によって違った銭が流通しているが、全国に通用する銭をつくろうぞ!」
 秀吉は経済政策をうった。大名用の天正菱大判をつくった。商工業がさかんになった。秀吉は貿易は自由にしなかった。主君よりも神をとうとぶキリスト教を弾圧した。キリスト教を禁止し、貿易だけできるようにしたのだ。
 そんなおり、息子の鶴丸が死んだ。まだ赤子だった。
 秀吉はショックをうけた。何ともいわなかった。当然だろう。世界の終わりがきたときになにがいえるだろう。全身の血管の血が氷になり、心臓が石のようにずしっと垂れ下がったような気分だった。
  北政所(おね)は眉をひそめたが、また秀吉のほうを見た。秀吉はその場で凍りつき、一瞬目をとじた。秀吉は急に「そうじゃ、唐入りじゃ! 唐入りじゃ! 鶴丸は死んで唐入りをわしに命じたのじゃ」とぶつぶついいはじめた。もう全国を平定して、大名たちに与える領地はない。開拓されていない東北北部と北海道くらいだ。そうだ! 明国だ。朝鮮を平定し、明まで攻め入り大陸の領地をとるのだ!
 北政所はなぐられたかのようにすくみあがり、唇をきゅっと結び、秀吉が四方八方から受けているであろう圧力について考えた。秀吉は圧力釜に長いこと入りすぎていたためすべてのものがこぼれて、とんでもないことになっている。もう誰も秀吉をとめられなかった。「信長公以上の天下人となるのだ」秀吉は念仏のようにいった。

  家康と秀吉は会談した。
 家康は五十歳になり、秀吉は六十代であった。家康は朝鮮・中国出兵に反対しなかった。というより、これで豊臣家の軍費がかさみ、徳川方有利となる。朝鮮や明国など屈服できる訳はない。これで、勝てる……家康は顔はポーカー・フェイスだったが内心しめしめと思ったことだろう。バカなことを……
 前田利家は朝鮮出兵に猛反対したが、もう立場は違っていた。利家は豊臣家の家臣にすぎない。それにボケはじめた秀吉には何をいっても無駄であった。
 秀吉と家康は京を発して九州の名護屋城へ入った。
 秀吉の朝鮮戦争はバカげたことであった。それ自体があまり意味があるとは思えないし、秀吉の情報不足は大変なものだった。秀吉は朝鮮の軍事力、政治、人心についてまったく情報をもっていなかったのだ。家康は腹の底でしめしめと笑った。
 加藤清正と小西行長が先発隊としていき、文禄元年(一五九二年)六月から十一月ぐらいまでの最初の六ケ月は実にうまくいき、京城、平譲を取り、さらに二王子を虜にすると、秀吉はずっといけると思った。しかし、この六ケ月の日本軍の勝利は、属国に鉄砲を持たせないという、明国の政策によって、朝鮮軍が鉄砲を持っていなかったからにすぎない。    で、十二月、李如松という明の将軍が大軍を率いて鴨緑江を渡ってくると、明軍は鉄砲どころか大砲まで装備していたそうで、日本軍はたちまち負けてしまったのだという。
 秀吉は、朝鮮を属国にして明国を攻める足場にしたいと考えていた。つまり、明と朝鮮との関係に関しても無知だったのだ。
  小西行長と宗義智はそれを知っていたため必死にとめようとしたのだ。家康も知っていた。朝鮮や大陸での戦がいかに難しいか、を。本来なら二人の王子を捕虜にした時点で、その王子たちを立てて傀儡政権をつくって内部分裂をおこさせるのが普通であろう。しかし、秀吉はそれさえしなかった。若き日、あれだけ謀略の限りで勝利していた秀吉ではあったが、晩年はすっかりボケたようだ。
 やはり”絶対的権力は絶対的に腐敗する”という西洋の格言通りなのである。天下人となった秀吉は頭がまわらなくなった。
「なんたることじゃ!」日本軍不利の報に、秀吉は名護屋城の前線基地でじだんだをふんだ。「太閤殿下、そう焦らずとも……まだ先がごさりまする」家康はなだめた。
(もっと苦しめ、秀吉のもっている銭がなくなるまで……戦させよう)
 家康は自分の謀略に心の底でにやりとした。
 しかし、狸ぶりも見せ「私を朝鮮攻めの前線へ!」と真剣に秀吉にいった。ふくみ笑いを隠し通して。石田三成も黙ってはいない。「いや! おやじさま、この三成を前線へ!」「よくぞ申した!」秀吉は感涙した。
  すっかり老いぼれた大政所(なか)は、名護屋城を訪ねてきた。なかは秀吉の顔をみると飛びかかり、「これ! 秀吉!」と怒鳴った。家臣たちは唖然とした。
「なんじゃい? おっかあ」
 なかは「朝鮮のひとがおみゃあになにをした?! 朝鮮や明国を攻めるなどと……このバチ当たりめ!」と怒鳴った。
 秀吉はうんざりぎみに「おっかあには関係ねぇごとじゃで」と首をふった。
「おみゃあはこのかあちゃんを魔王のかあちゃんにしたいんか?! 朝鮮を攻める、明国を攻める、何にもしとらんものたちを殺すのは魔王のすることじゃ!」
(魔王とは…)
 家康は思わず笑いそうになったが、必死に堪えた。
 秀吉は逃げた。なかはそれを追った。すると座敷には家康と前田利家しかいなくなった。「魔王だそうですな」家康はにやりとした。利家は笑わなかった。
秀吉の栄華は長くは続かなかったが、慶次郎が関白・豊臣秀吉の前で「猿踊り」をしたのは有名な話だ。ときは定かではないが場所は秀吉の豪邸・聚楽第(じゅらくてい)の大広間で諸大名が酒席で盛り上がっているとき、末座のほうから猿の面を被った男が現れた。猿の面をつけ、小袖を尻はしょいにした芸人風の大男。背をかがめた男は扇子を器用に操り、猿踊りをはじめた。大名たちは青ざめた。大名たちの膝にすわり、(宇喜多秀家や徳川家康、伊達政宗、毛利輝元らの膝には乗ったが上杉景勝の前は何故か素通りした)最期に前田利家の膝にすわり猿面をとった。前田慶次郎利益だった。「貴様、わしに恥をかかせるか!」前田利家は刀にてをかけた。が、秀吉が大笑いして腹をかかえて笑い「利家殿よい、若造、お前さんおもろいぎゃあ!」と笑っておさまったという。慶次郎はこの一件で「日本一のカブキ者」といわれた。





         秀吉の母の死とやや



  大政所(なか)が死んだ。北政所(おね)に見守られての死だった。
 秀吉は名護屋城であせっていた。うまいこと朝鮮戦争がいかない。そこに文が届く。またしても淀(茶々)が身籠もったというのだ。これをきいて、関白となっていた秀次は狂い、家臣や女たちを次々殺した。殺生関白とよばれ、この頭の悪いのぼせあがりは秀吉の命令によって切腹させられる。秀次は泣きながら切腹した。
 朝鮮の使者がきて、両国は和平した。文禄六年(一五九八年)お拾い(のちの秀頼)が産まれた。秀吉にとってたったひとりの世継ぎである。秀吉は小躍りしてうれしがった。「でかしたぞ! 淀!」秀吉はひとりで叫んだ。
 明国からの使者がきた。「豊臣秀吉公を日本国の王とみとめる」と宣言した。
 当然だろう。いや、わしはもうこの国の王だ。いまさら明国などに属国するものか!
「ふざけるな! わしをなめるな!」秀吉は怒った。
 戦前の日本では、これは秀吉が”天皇が日本国の王なのにそれを明国が認めなかったこと”に腹を立てた……などと教えていたらしい。が、それはちがう。秀吉にとって天皇など”帽子飾り”にすぎない。もうこの国の王だ。いまさら明国などに属国するものか、と思って激怒しただけだ。それで、和睦はナシとなり、家康の思惑通り、秀吉は暴走していく。出陣。秀吉は大陸に十二万の兵をおくった。
 そんなおり、秀吉は春、”お花見会”を開いた。秀吉は家臣や大名たちとひさしぶりのなごやかな日を過ごした。桜は満開で、どこまでもしんと綺麗であった。
 秀吉は家康とふたりきりになったとき、いった。
「わしが死んだら朝鮮から手をひいて、秀頼を天下人に奉り上げてくだされ」
 家康は「わかりもうした」と下手にでた。秀吉が死ぬのは時間の問題だった。家康は心の底でふくみ笑いをしていたに違いない。
黒田官兵衛『秀吉の九州平定』のとき、まず九州の一領主を滅ぼし、休戦して全九州の城持ち大名たちに密書を送り、「秀吉さまの軍のこわさがわかったであろう?今、秀吉軍に御味方すれば所領地安堵!」とやった。信長のように武力に頼らず知略をつかうことで、九州の城持ち大名たちは雪崩をうって秀吉傘下となる。官兵衛の知略により、秀吉軍はほぼ戦わずして九州・四国で勝つのである。
だが、秀吉は“備中高松城水攻め”の際に、信長の死を知った黒田官兵衛が「殿、御武運が開けましたな」とにやりと言ったのを忘れていなかった。その言葉を聞いて以来、秀吉は黒田官兵衛を信じなくなった。その証拠が、歴史家たちにいわせると官兵衛の豊前16万石にたいしての三成の近江佐和山19万石の差なのだ、という。
三成は歴史書では、この後、どんどんあらぬこともあることも黒田官兵衛の「悪口」を秀吉に告げ口していたのだ、とも。
秀吉は朝鮮・明国(中国)への野望も見せた。名護屋城(城跡・佐賀県唐津市)を黒田につくらせた。名護屋城は当時、大阪城の次に大きな城だったという。天正20(1592)年文禄の役では官兵衛や三成が見送る中、およそ十六万もの兵が海を渡ったという。
秀吉軍は最初の戦だけは破竹の勢いだった。釜山(プサン)から、ハンソン(ソウル)、平壌(ピョンヤン)まで進撃した。だが、朝鮮の王を逃がしたのは痛かった。翌年の戦では朝鮮水軍からの反撃に民衆の武装蜂起、兵糧攻め、飢え、寒さ、熱病などの流行病で、日本軍の士気は下がる一方だった。さすがに「このままでは日本国が死ぬ」とばかりに、三成と共に朝鮮に渡っていた官兵衛は、名護屋城の秀吉に「和平工作」をもちかける。
 だが、秀吉の要求は支離滅裂だった。明国の王女を豊臣に嫁がせ、朝鮮の王子と大臣を人質に日本に送れ……?黒田官兵衛も小西行長も総大将代理の宇喜多秀家も唖然となった。
事実上日本秀吉軍は敗北しているのに……。明国はそれでも「要求は受け入れられないが秀吉公が“日本の王”とは認めるので和平を」と持ちかける。戦前の日本では、秀吉は「日本の王は天皇陛下なのに天皇陛下を馬鹿にしたので秀吉が怒った」等と学校で教わったらしい。だが、全然違う。秀吉にとって天皇等『帽子飾り』に過ぎない。
秀吉は自分の主張が断られたので激怒したのだ。で、また戦争(慶長の役・慶長2(1597)年)が起きたが、その途中で秀吉が死んでやっと日本軍は朝鮮から手をひくことになる。
三成は狂った暴君の秀吉の命令を大名たちに命令して憎まれまくり、秀吉の死後、関ヶ原で敗北、逃亡中に捕縛され死刑になった。一方の黒田官兵衛は出家して黒田如水と号して徳川方についた。だが、福岡県の博多の祭りの山車には石田三成と黒田官兵衛の姿がある。『太閤町割り』としてふたりが福岡の町を復興させたエピソードからであるという。


 だが、桜はどこまでもきれいであった。


          前田利家とまつ


  秀吉は伏見城で病に倒れた。
 秀吉は空虚な落ち込んだ気分だった。朝鮮のことはあるが、世継ぎはできた。気分がよくていいはずなのに、病による熱と痛みがひどくかれを憂欝にさせていた。秀吉の死はまもなくだった。利家たちは大広間で会議中だった。石田三成らと長束、小西が激突しようと口ゲンカをしていた。利家は「よさぬか!」と抗議した。自分の武装した兵士たちにより回りを囲み「騒ぐでない!」といった。冷酷な声だった。利家の目は危険な輝きをもっていた。「ここより誰も一歩たりとも出てはならん!」
 そして、慶長三年(一五九八年)八月十八日、秀吉は「秀頼を頼む…秀頼を頼む…」と苦しい息のままいい、涙を流しながら息をひきとった。前田利家は涙を流した。が、家康は悲しげな演技をするだけだった。
 こうして、波乱の風雲児・豊臣秀吉は死んだ。
 享年・六十三歳。秀頼はわずかに六歳のことで、あった。

  加賀藩主を利家の嫡男・利長が相続した。利家は隠居した。
 家康と利家は対峙した。
 しかし、利家には勝ち目がなかった。策略家の家康と、律義だが正直者でうそもつけない利家では家格が違いすぎる。やがて、利家は病の床にふした。
 何度か死にそうになった。皆は家康に気にいられようと画策していた。が、浅野長政だけは「家康を暗殺してやる」と利家にいった。
 利家は諫めた。「よせ、みな殺しにされるぞ! このわしでさえ頭を下げたのだぞ」
 利家は苦しい息のままいった。こののち浅野長政は失脚し、石田三成もどこかへ姿をくらました。利家は妻・まつに見守られながら死んだ。慶長四年(一五九九)享年六十二才。 秀吉の死から、わずか一年後のことであった。まつは号泣し、夫の遺骸に泣き伏した。「利家殿! あなた……」
 今まで抑えていた感情……いや、思いが熱い涙となって、瞳から掌へとぽたぽた落ちた。 まつは泣いた。やりきれない思いで。憔悴の感情が、全身の血管を駆けめぐった。
 形成は徳川方優位だった。まつは出家し、『芳春院』と号した。
 そんな中、庵に徳川家康が訪ねてきた。
 家康は、加賀藩主前田利長に謀反の疑いあり…といった。
 それは嘘だった。利長は烈火の如く激怒し、家康を討つ! とまでいった。
「およしなさい!」まつが利長を諫めた。「家康殿に勝てるわけはありません」
 まつは家康の命により、”人質”として江戸にきた。そして、そこで十四年間も人質として暮らした。江戸では、老家臣となった村井長頼(又兵衛)が死んだ。
 世の中では、関ケ原の合戦、大阪冬の陣、夏の陣があったが、まつにはなんともしようがなかった。只、まつは必死に人質として暮らした。
 十四年後、利長が死んだことにより、まつは故郷に帰ることを許された。代わりの人質は千代保がなった。まつが加賀に帰ると、家臣や領民が拍手と涙で彼女をむかえたという。 まつとおね(高台院)は庵で再会した。もう、夫の秀吉も利家もいない。ひさしぶりの再会で話が弾んだという。「……本当に…すばらしい男たちでござりました」まつは目尻に皺をよせて、微笑んだ。
 その年、まつは死んだ。魂は最愛の夫・利家のもとへ飛んでいったのかも知れない。
 早朝、まつは静かに息をひきとった。その顔は、おだやかに微笑んでいた。

 






        4 関ケ原合戦






劇画・漫画『花の慶次』の最終巻・第十弐巻から一部を引用したい。前田慶次の最期の活躍である。
 なお、躍動感のある文章にしたつもりではあるが、前述したように「劇画・漫画」「映像」には「活字」はやはり敵わない。
 若者が漫画やアニメや映像など楽な方に流れるのは責めようもない。幼い時の私も「馬鹿ではないか?」というほど「テレビ」や「アニメ」に傾倒したものだ。
 だが、そこで、「ひとつの「想像力」「創造力」開発の手段」として「活字」を考えて欲しいのだ。小説という昔からの文学の歴史観・存在感・歴史的意義をよく知って欲しい。
 漫画やアニメやテレビを卒業しろ、とは言わない。只、小説でなくてもいい。新聞のベタ記事、連載小説数行でもいいから読んでほしい。
だが、劇画・漫画『花の慶次』を参照して以下の章の内容を引用し、加筆したい。


  秀吉が死んだあと、五大老の筆頭で二百五十万石の巨大大名である家康は、秀吉が豊臣家を守るために決めておいた掟をやぶり、何事もひとりで決めていた。
 当然、豊臣家恩顧の大名たちに不満が生まれていた。
 しかし、時代はもう徳川だ、とするどい見方をする大名も多かった。
 家康は大阪城に入って、秀吉の子・秀頼とあった。守り役は前田利家である。前田利家は加賀百万石の大名で、秀吉の無二の親友でもあった。
「わしが秀頼さま、ひいては豊臣家を守る」前田利家そういって憚らなかった。
 しかし、そんな利家も病死した。
 家康にとっては煩いやつがいなくなって、ラッキーに思っただろう。
「このままでは豊臣家は危ない。家康さえいなくなれば…」
 石田三成は家康の暗殺を企てた。が、失敗した。慶長九年九月、秀吉の葬儀が行われた。これを機に、徳川方の武将・加藤清正が三成を殺そうとして兵をだした。
 だが、それに気付いたのか、石田三成は夜陰に乗じて船で逃げていた。
 三成は複雑な心境だったに違いない。秀吉の生きているうちは我が物顔でなんでもやってきたのに、秀吉が死ねば、自分は暗殺の対象にまでなってしまう。
 かれはリターン・マッチを誓った。「豊臣家に恩のある大名を集めて、家康と一戦交える!」とにかく、かれはそのことで頭がいっぱいだった。
 石田三成の政治目標は、太閤の死で先行きが不安となった豊臣政権の護待と安泰、発展を計ることであったという。そのためには太閤の政権を破壊する危険のある家康を殺すことだった。家康さえ殺せば、諸大名はなびく。幼主・秀頼をトップに、三成が宰相となって天下に号令する。戦略としては正しかった。近江佐和山二〇万石の下級大名の三成が、上杉や毛利、島津という大大名を美濃の山奥・関ケ原まで出兵させるのに成功したからだ。 上杉らは西側が勝つと思ったから出兵したのだ。結局は負けたが、石田三成の企てだけは正しかった。まず大義名分を掲げ、有力なスポンサーを確保し、有名な大物を旗頭にすえる……まさに企てとしては正確である。
 しかし、しょせん石田三成など近江佐和山二〇万石の下級大名に過ぎない。家康のような知謀や軍事力がない。だから負けたのだ。
  さて、徳川方の武将・加藤清正が三成を殺そうとして兵をだして、それに気付き逃げた三成は、なぜか家康のところへ助けを求めにきた。なぜだろう? よく分からない。
「三成殿、腹は空いておらぬか?」家康は上座で、石田三成を労った。
「いいえ」三成は続けた。「ひとつおききしたいことがごさる」
「なにかのう?」
「家康殿は……豊臣家を何とこころえるのか?」
「……三成殿」家康はかれを諭した。「何事もせいてはことをしそんじまするぞ。三成殿、まずは頭を冷やし、佐和山に帰参してそれから考えてはいかがか?」
 石田三成は何もいわなかった。只、無言のまま下唇を噛むのだった。







  九月九日、家康は大阪城に入城した。
「よくまいられた、家康殿」
 幼少の秀頼とともに上座にすわった淀殿は笑った。淀殿(茶々)は秀吉の側室として秀頼を産んで権威をもっていた。元々、彼女の父は信長にやぶれた北近江の浅井長政で、母は信長の妹・お市の方である。牋ケ岳の戦いで義父・柴田勝家と母・お市が自害して、はや数十年が経っていた。淀殿とて、目尻の皺までは隠せない。
 しかし家康は、淀殿の端正な美顔をながめ、そして男心をそそらずにはおけない愛らしい豊満な身体をながめた。なぜこれほどの美女が秀吉なんぞに……。家康はもう六十代だったが、絶倫だった。
 この淀殿もてごめにしたい……家康は彼女との夜のことを考えた。
 しかし、口では次のようにいった。
「世の中は物騒であります。しかし、ご安心くだされ。この家康、この大阪城にあって秀頼さまをお守り申す」
「よくぞ、よくぞ申された、家康殿!」淀殿は感激した。
 家康の演技を見抜けなかったのである。
羽柴秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、加藤清正や福島正則や黒田長政ら『武闘派』が活躍し、“賤ヶ岳七本槍”等ともてはやされたが、石田三成だって大活躍した。
三成は賤ヶ岳に先回りして地元の百姓たちに銭を渡し、夜に照明用に松明を行軍の道に居並ばせあたかも夜の山脈に火の道ができたようだったという。また、「腹が減っては戦が出来ぬ」とばかりに銭を渡して、行軍兵用の握り飯を付近の百姓たちにつくらせ、配らせた。
これで秀吉軍が柴田軍に勝利できたのである。この功績によって、石田三成は武器や食糧の調達を一挙に任されるようになった。戦での武功こそないも、官僚的に優秀だった。
秀吉は三成のどこを気にいったか?「石田は忠告する時には機嫌をうかがったりしない」(『太閤記』より)お茶々(淀君)や朝鮮戦争あたりから、石田三成は秀吉のご機嫌をうかがい、大名にほとんど認知症気味の太閤秀吉の命令を忠実に従い、無理難題を三成は大名たちもしくは利休のような茶人たちや商人に命令して忌み嫌われていく。が、これは歴史家はスケープゴートで、三成が『憎まれ役』を買って出た、という。最近の資料では秀吉だって信長のように虐殺も命令していることがわかっている。秀吉が「血を見るのが嫌い」というのは殺さず調略……というより自分で刀で斬って血を浴びるのが嫌い、という意味でとらえるべきである。キリシタン虐殺や一揆勢力皆殺し、等秀吉も魔王だった。
*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。
三成は一五八二年の『太閤検地』『刀狩り』等の政策実行のプランナー(計画者)でもある。今まで全国の田畑の領地は百姓たちの自己申告だったが、全国一律の基準をつくり、年貢をしっかりと取りたてるようにした。それから、農兵分離の為の『刀狩り』である(というより、秀吉は自分と同じような百姓上がりの人間が台頭してこないように反乱の根を摘んだのだ)。『太閤検地』によって秀吉は二百二十万石もの禄高をほこった。
*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。


 近江・佐和山城では石田三成の妻・お袖が「殿……家康と戦って下され!」とかれにせまっているところだった。三成は決心した。
「わが命、豊臣家に捧げようぞ! あのにっくき家康を討つ!」
  太閤亡きあとの豊臣家は内ゲバだらけだった。石田三成たちと加藤、福島、浅野らの抗争は激化していた。家康が逃げ込んできた石田三成を殺さなかったのも、かれの策略を読んだからだ。もし三成を殺せば、豊臣家の内ゲバはピタッとおさまってしまう。
 三成だけが死んでも、増田、長束、前田玄以、大谷吉継、小西行長などの官僚は生き残ってしまう。できるだけ内ゲバを長引かせ、崩壊に導く。そのためにあえてリスクを覚悟で、家康は石田三成を野に放ったのである。
 まことに狸としかいいようがない。


 豊臣秀吉がまだ木下の姓を名乗り、長浜城主の当時召し抱えたのが、後年五奉行の一人として徳川家康に対抗した関ヶ原の立役者、石田三成その人である。この三成の推挙によって秀吉の近習となり、秀吉の一字をもらって吉継と名乗り、秀吉から次第にその才能を認められ、越前敦賀(つるが)城主となって五万石の大名となったのが大谷吉継である。吉継は九州豊後の国主大友宗麟の家臣大谷盛治の子と伝えられ、はじめ紀之介と称した。
 加藤清正や福島正則のように、一番槍の武勇でならす武闘派と、石田三成や大谷吉継のような官僚肌の二極に豊臣政権は分裂していた。
 石田三成はやりたくもない朝鮮侵略で、武功をあげたい福島正則や加藤清正らに恩賞も与えられず、武闘派らの憎しみを秀吉にかわって一身にかぶった。
 明治以前の日本の不治の病がふたつある。明治以前の日本にはひとつに労咳(ろうがい・肺結核)という不治の病と、天刑の病とされる癩病(らいびょう・ハンセン病)である。
 大谷吉継は父親と同じく、癩病にむしばまれており父親は全身不随になって死ぬのだが、息子の吉継も癩病で身体中に膿が出来、殆ど歩けず眼もほとんど見えない状態まで病状は悪化する。そこで或る時の数奇屋(すきや)での秀吉主催の茶会である。大谷吉継も三成も共に招かれて出席した。すでに癩病が進んでいた吉継は、その頃の会合にはめったに出席しなかった。おそらく秀吉は、そんな吉継を慰めようとして招いたらしい。その席での茶は回し飲みであった。
 自分の所に回ってきた茶碗に口を当てた時、吉継の緊張は極度に高まっていた。丹田に力を込めて、吉継は作法通りに茶を啜った。その途端、なにやら鼻水のようなものが一滴、茶碗の中にしたたり落ちてしまった。はっとする吉継は気も転倒する思いであった。列席の武将たちの目は、血膿のはいった茶碗に注がれた。さすがの吉継も手がふるえ、次席の小西行長に茶を回すことができない。不気味な沈黙が一座を支配した。気の毒そうに目を伏せる者もいた。列座の大名たちは成り行きいかんとかたずを飲んで見まもった。その時、かたわらに進み出た石田三成は、刑部の手からとっさに茶碗を受け取ると、並み居る人たちに無礼を詫びた後一息に茶をすすり飲んでしまった。吉継の目には、きらりと涙が光った。この世における二人の友情はこの一瞬、底知れぬ深さに結ばれた。
 関ヶ原での合戦に「お主には人望がないからやめておけ」と何度も諌めた大谷刑部吉継は、佐和山城に三成に呼ばれて駕籠でやってきた。この時、癩病にむしばまれた義継の身体は血膿にまみれ、眼は視力を全く失った姿であった。そこで三成は、家康挟撃の大事をはじめて打ち明けたのである。驚いた吉継は、時期尚早であるとして三成を諌め、この企てを思いとませようとした。しかし、三成の計画はすでに引き返せぬところまで進んでおり、吉継の諌めを聞くことは出来なかった。見えぬ目に涙を流しながら、翌日もまた翌日も、三成を諌め続けた。
 こうして一六〇〇年七月十一日、刑部は意を決して、三成に命を捧げるため佐和山城に入った。迎えに出た三成は吉継の手を取って「刑部」とただ一言、声は涙につまった。
(小説『雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学』田宮友亀雄著作 遠藤書店6~12ページ参考文献参照)



  徳川家康から謀反の疑いをかけられた上杉家からは、兼続が家康の元に参陣した。
 家康は問うた。「景勝殿の治政が謀反の様に見える。景勝殿に上洛して頂きたい」
 兼続は「上杉家は一昨年、太閤秀吉殿下の御命令で国替えしたばかりでござる。国替え直後に上洛し、先程国に戻れた矢先すぐに上洛しろと言われるが、それではいつ我が国が国の治政を進める事が出来ますでしょうか? 景勝公が逆心などといわれるのは理解しがたい」と書状(直江状)で答えた。
 家康は怒りをおさえならも「近頃、橋を架けたり、道を造ったりしているそうだが…?」「道を造るのは国の行き来をよくするためであり、石垣・城の修築をするのは当然の事」「前田家が謀反しない証しとして、人質を送ってこられた。景勝殿も考慮してみてはいかがか?」
「それは家康殿の御威光でございましょう。上杉家は前田家とは違いますぞ。
 名門・上杉家は潔い覚悟をもって徳川のご軍勢をお引き受け致そう!」
 兼続はいいきった。
慶長五年(一六〇〇年)五月八日京の借家早朝、慶次は傾奇者らしい鮮やかな甲冑陣羽織姿で巨馬にのった。これは出陣であった。いま慶次は幕逆の友・直江兼続のために会津に参戦しようとしていた。
「まあ、素敵」
「惚れ直したか?利沙」
「はい、惚れています」美貌の女房は「だ…だから死なないで。生きて私を迎えに来て」と指切りげんまんをした。
 ♪指切りげんまん嘘つたら針千本のーます、指切った……
 慶次のお供は捨丸と巨大な武蔵坊弁慶のような男たちのみ。慶次たちはいつもの若狭路から北国街道を辿り会津に向かった。
 時候は風薫る若葉の季節である。
 徳川家康は慶長五年(一六〇〇年)六月二日、譜代の三河軍団に出陣準備の命令を発し、六月六日に諸大名の部署を定めて発令した。
「まずわしと秀忠(徳川二代将軍・家康の息子)は白河口を進む。仙道口は佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)、家康本陣は秀忠、信夫(しのぶ)口は伊逹政宗殿、米沢口は最上義光殿が当たり、仙北諸将がそれぞれこれに所属する」
「ははっ!」
「さらに津川口は前田利長(としなが・前年病死した前田利家の息子)殿、堀秀治(ひではる)殿にお願い致す」
「ははっ!」
「とにかくこの戦、亡き太閤殿下の豊臣家に弓引く上杉軍勢と奸臣・石田三成を成敗する聖なる大戦である!皆の者、心して戦おう!」
 おおおおおっ!
 家康が囃すと、武将たちが勝ち名乗りのような大声を挙げた!
 さすがは狸将軍だ。徳川家のためだのいわないし、豊臣恩顧の武将たちに「嫌われ者の石田三成を討つ、成敗する」と思わせる。
 これなら勝ったも同然である。石田方は会津の上杉、大阪城の毛利輝元、若輩ながら数万の兵を有する小早川秀秋、大谷義継らだけだ。
 蹴散らしてくれる! 泣き虫石田三成め! 人望のないお前が大軍の指揮など無理難題をするようなものだ。家康はにやりとした。    
「三成め、会津(福島県)の上杉景勝と手を組んだらしい」
 家康は伏見城の上座で、いった。それにたいして家臣の鳥居元忠が「それで上杉が戦の準備をして、挑戦状をよこしたのですな」と頷いた。
 上杉景勝は上杉謙信の甥(謙信の姉の子、謙信は結婚もせず子ももうけようとはしなかった)で、越後(新潟県)より領地を会津170万石に転封されていた。
 兼続は米沢城主となった。
「上杉との戦いに出陣する前にこの伏見城によったのは、じつはその方に話しておきたいことがあったからじゃ」
「ははっ」元忠は平伏した。
「わしが関東へ向かって出陣すれば三成は秀頼の名において、この伏見城を攻めるであろう」
「そうなればわが徳川は正々堂々と豊臣と戦える名目ができまするな」
「しかし……主力を率いての今度の出陣だ。この城にはいくらも兵は残せぬのだ」
 元忠は頷いた。強くいった。「ご心配にはおよびません。この鳥居元忠、徳川家のためなら堂々と戦ってごらんにいれます!」
「よくもうした!」家康は感激で、目がしらに涙がうっすらうかんだ。
 徳川家康に軍による上杉征伐は慶長五年(一六〇〇年)四月におこなわれた。
  こうして、家康軍は伏見城にわずかな兵だけ残し、会津に向けて出陣した。しかし、家康は軍をゆっくりゆっくりすすませ、なかなか上杉を攻撃しようとはしなかった。
「殿、上杉を早く討ちましょう!」家臣が催促した。
「まて、せいてはことをしそんじる」
 家康はどこまでも冷静だった。
 景勝と兼続は「とうとう家康がきたか! 討ちくずせ!」と激を飛ばした。
 しかし、軍は城にあったままだ。
  家康に早馬の伝令が届く。
「殿、三成は四万の軍勢で伏見城を攻め落としました」
「三成め、やりおったか!」
「元忠殿はよく戦い、自害して果てました」
「元忠…が」家康は暗くいった。
 家臣のものが「すぐに引き返し、豊臣の軍を打ち破りましょう!」といった。すると家康は右手をあげて掌で制し、「この中には秀吉公の恩を受けた武将もおられよう。その大名の方は大阪へ帰って、三成に味方してもこの家康決してうらみはせぬ」
 陣の一同はしんとなった。さすがは狸おやじだ。嫌われ者の三成征伐とはいうが、上杉や毛利、島津、豊臣家の名は一切ふせる。こうなると諸大名の代表・徳川家康対奸臣・石田三成という構図になる。
「この福島正則、秀吉公の恩を受けたとはいえ、三成ごときめの味方などできません」
 正則がいうと、続けて鎧に陣羽織姿の大名たちは「われらに指図しようなどかたはら痛いわ」といった。
「この黒田長政、あんなやつに天下をとられては腹の虫がおさまらん」
 家康は意を決した。
 そして「元忠、おぬしの死を無駄にはせぬぞ。……よし! 出陣じゃ! 西方にむけて出陣! 三成の首をとるぞ!」と全軍に激を飛ばした。
 こうして、西へむかって進む家康軍(東軍)は、福島正則を先頭とて、以下、黒田長政、細川忠興、池田輝政など総勢十万五千であった。
 家康の政治目標は天下統一であった。そのため一六〇〇年になると、石田三成たち豊臣家の官僚たちを一掃する必要があった。また、石田三成たち豊臣家の官僚たちは標的を家康一本にしぼっていた。三成は幼少の秀頼を頭にしているから大義名分もたつ。
 しかし、家康はそんな錦の御旗もない。
 家康は情報戦もやった。関ケ原合戦までに諸大名におくった書状は三ケ月で百八十四通にもなるという。こうして、三成嫌いの福島正則や”風見鶏”伊達政宗たちを虜にした。 つまり、勝ったら褒美の領土をやる……ということだ。
 これは二百万石以上の大大名の家康にしかできないことだ。所詮、三成など二〇万石の小大名にしか過ぎない。
  しかし、西軍には大儀があった。東軍にはうしろめたい影があったという。豊臣系は、北政所(おね)を中心とする尾張閥と、淀と秀頼、三成を中心とした近江閥に分裂した。 毛利家も、恵瓊と吉川・小早川の門閥に割れた。
 福島正則などの東軍の先発隊は、八月十四日、正則の居城である清洲城に入った。一方、伏見城をおとしていた三成の西軍は、八月十日、大垣城に入っていたのだった。家康は三成の動向を江戸で眺め、そして、江戸を出発、九月十四日には赤坂南方の、岡山の本陣にはいったのである。
 上杉は景勝の家康嫌いもあり、義に反する家康を討つ、とばかり奥州(東北)で、出羽の最上義光と伊達政宗と戦う。いわゆる長谷堂の戦いである。
 上杉軍には牢人衆も加勢したという。主だった者の名を挙げると関東牢人では上泉主水(かみいずみ・もんど)、車丹波守(くるま・たんばのかみ)、山上道及(やまがみ・どうきゅう)、そして上方牢人では前田慶次(まえだ・けいじ)、水野藤兵衛(みずの・とうべい)、宇佐美弥五左衛門(うさみ・やござえもん)………これらの名が「上杉将士書状」にある。
「あれは天下無双の傾奇者前田慶次殿じゃ!」
 上杉軍がわいた。慶次や彼らや他の牢人どもにとって禄高などどうでもいいのである。彼らはひとしく戦いがしたくて会津くんだりまで来たのである。或いは死にたいためにきたのである。いくさ人にとって戦場こそ死に場所なのである。
 そんなことより、牢人どもには慶次の皆朱(かいしゅ)の槍(やり)が問題になった。
 皆朱の槍を持てるのは軍団で一番強い武将が持つものなのだ。文句をつけてきたのは宇佐美弥五左衛門(うさみ・やござえもん)を筆頭として、藤田森右衛門(ふじた・もりえもん)、水野藤兵衛(みずの・とうべい)、薤塚理右衛門(にらつか・りえもん)の四人だったと『可観小説』にある。
 直江兼続に直談判をしたのだ。そこで困って慶次に相談すると、慶次は「じゃあ、四名全員に皆朱の槍をもたせたらいかがか?」
 こうして、慶次を含む五人が「一番槍の武功をあげるべく戦をする先陣にたつ」ことになった。
 兼続は愛の兜(金小札浅葱糸威二枚胴具足)とともに景勝とともに戦をした。その愛とは慈愛、民への愛…すべての人類への愛……
「押し流せ~っ!」景勝は馬上より、激を飛ばした。
  

武田信玄「風林火山」風林火山の御屋形さまと軍師・山本勘助アンコールブログ連載小説4

2015年03月25日 07時49分23秒 | 日記







  第二章 林の章

         4 長尾景虎



  正式な手続きは済んでないけれど、長尾景虎が関東管領上杉憲政の後をつぐということを真っ先に知って危機感を抱いたのは、甲斐(山梨県)の武田晴信(信玄)だった。
 武田晴信(信玄)は天文十一年、実父・信虎を駿河(静岡の中心部)に追放して、つぎつぎと隣国・信濃(長野県)を侵略して領地を広げた。……もちろんそのことを景虎が知らないハズはないが、まさか自分も巻き込まれることになろうとは思ってもみなかった。 前途洋々の年も暮れて、あけて天文二十二年の二月十日、景虎の兄長尾晴景が府内(直江津)の隠居所でひっそりと死んだ。享年は、四十二歳だった。
 憎み、追い落とした人物なれど、景虎にとってはたったひとりの兄である。こんなに早く死ぬのなら、もっと懇篤な付き合いをしていればよかった……。景虎は悔やんだ。
 葬儀も終わると、ふたたび混沌とした時代が幕をあけた。
 ……武田信玄勢、侵攻である。
 甲斐の武田勢が、ふたたび葛尾城を攻めている、こんどは村上勢のほうが不利……という情報はすでに景虎はつかんでいた。
「新兵衛、着替えて屋敷にまいる。そちたちも着替えてまいれ」
「はっ」
 こうして侍臣、重臣たちに「衣服を改めて御屋敷へ参じよ」という命令が伝えられた。ちなみに「御屋敷」とは、春日山城の城主屋敷のことである。
 ざんばら髪に血だらけの陣羽織姿の村上義清と家来たちも、すぐに湯浴みなどの接待をうけ、こざっぱりした着物を与えられた。
「さあ、食べてくだされ」
 食事を差し出しててきぱきとやっているのは、金津以太知之介であった。村上勢の落ち武者が春日山に向かっている、という情報が鳥坂城や箕冠城から届くや、すぐさま家臣たちを連れて着物などを用意しておいたのだ。
「これはかたじけない」
 村上義清らが礼を述べた。
「この度はまことに何とお礼を申し上げてよいやら…」
 とうに五十を過ぎた村上義清は、まだ二十四歳の景虎に家臣のような口を利き、ふかぶかと頭を下げた。
「……うむ」
 景虎は恭しく言った。まだ、正式な手続きは済んでないけれど、長尾景虎が関東管領上杉憲政の後をつぐということを皆知っているのだから、ここで威厳を見せなければならない。そのため、景虎は威厳あらたかな態度をとった。
 ……どうだ?これでよいか?…新兵衛に目くばせすると、新兵衛は「よろしい」と頷いた。……これでよいのだ…。しかし、
 ………政景め、まだ諦めておらぬな。
 並んだ国人衆の中で、ひとりだけ面白くない態度をとった政景をみて、景虎は思った。「村上殿」
「ははっ」
「もう少し近うに」
「ははっ」村上はもう一度、平伏したけれど、そのまま座を動かなかった。
 無理もない。すっかり緊張して、敗北のトラウマで堅くなっているのだ。
「村上殿の武勇はそれがし、つとにきいております」
 景虎はにこりと言った。すると、村上が、
「いえいえ、武勇など……それがしなど殿の足元にもおよびません」と、また平伏した。「今回は大変であったのう」
 景虎がそういうと、くやしくて、仕方ない…武田晴信(信玄)を倒し、領地を奪還したいけれども兵がたりない…。と、村上は不満を口惜しく語った。
「それならばわれらの兵馬をお使いくだされ」
「………まことにございますか?」
 村上義清の声がうわずった。…信じられない思いだった。なにせ長尾衆と村上は、永年いがみあってきた仲である。しかし、聖将といわれる景虎が嘘をつく訳もない。
 その村上の問いに、景虎は笑って答えるだけだった。
 ひととおり会話が終わると、本庄が村上に挨拶した。
「村上殿、よく存じませぬが、ご挨拶が遅れまして失礼申した。なにとぞ、許してくだされ」
「いえいえ、とんでもございません」
 村上はふたたび平伏した。…どうせ弱敗の情ない落ち武者…と考えていただろうと思っていたが、そうではなかった。村上は、手厚い対応に感激してしまった。
 彼は、涙さえ流したとも言われる。
 ……こんな俺を褒めて、尊敬してくれる。いっそのこと……ここの家臣となりたい!… 村上義清がそう心の中で思っていると、
「皆の者、村上殿がたらふく食べ、精がついたところで出陣じゃ!」
 と、景虎は言った。そして続けて、「武田晴信(信玄)は戦上手な男じゃ。けして抜かるでないぞ!われらが村上殿の諸城を取り上げられぬとな、こんどは越後まで攻めてくる。皆の者、出陣の準備はよいか!」
「おおっ!」
 雄叫びがあがった。
 こうして、武田晴信(信玄)vs長尾景虎(上杉謙信)の因縁の戦いがスタートする。いわゆる、川中島の戦い、である。
  川中島とは、信濃国更級郡の東北、千曲川と犀川が合流する三角地帯のことで、幅八キロメートル、長さは約四〇キロメートル、面積は約二六二平方キロメートルもある。川を下れば、美濃(岐阜の南部)や飛騨(岐阜県の北部)へ行くことができる。すでに信府をとった武田晴信(信玄)が、この要所(川中島)をとろうとするのは火を見るよりあきらかである。川中島から甲府へは一五〇キロだが、越府までは半分の八〇キロ…ここをとられてしまってはまずい。こうした危機感から天文二十二年(一五五三)八月、「第一次・川中島の戦い」が始まる。
「行け!」
 景虎は号令を出した。

  武田側の兵は史実では一万、上杉側は八千人とされる。
 天文二十三年、武田信玄が支配していた地域は甲斐および信濃のうち諏訪・佐久・上伊那・上田・松本地方で、合計四三万石になる。その兵は合計一万一千人…。
 景虎(謙信)の元には信玄の侵略に恐怖していた豪族たちが集まり、一万人もの兵ができた。しかし、「第一次・川中島の戦い」では八千人しか動かしてない。急な戦役だったし、揚北衆も間に合わなかったのだ。
 上杉と武田軍との最初の戦いは、景虎の天才的な軍術によって上杉謙信(景虎)の圧勝に終わった。この結果、信玄は川中島へ勢力を伸ばすことに失敗した。
「第一次・川中島の戦い」は、長尾景虎(上杉謙信)の勝利だったといってよい。






  長尾景虎(上杉謙信)は、なんとしても上洛しなくてはならない、と心に強く願っていた。堅く心に決めていた。
 すでに手土産として献上物を都に届けてあるのに、当人の景虎が来なければ、
「やつは武田晴信(信玄)の侵略をふせぐのに精一杯で、上洛できなかったのだ」
 …などと言われて嘲笑を受けてしまう。それは避けたかった。
 一度は国主を引退し、高野山の寺に入信し、謙信と号した。そこに勘助がやってきて刀の鍔迫り合いになったが僧侶に「やめんか!」ととめられた。
 勘助は命を狙ったのではないとわび、そののち出家して剃髪し「道鬼(どうき)」と号した。それをうけて武田晴信も出家し、「信玄入道(法名・徳栄軒、または信玄)」と号し頭を丸めた。 上洛の目的は昨年(天文二十一年)、弾正少弼(弾正台の次官、正五位下相当)に任命されたので、主上(後奈良天皇)と、将軍(足利義輝)などに御礼を言上するためである。 献上物は、剣や黄金、巻絹などさまざまな豪華品だった。
 しかし、新兵衛は、
「もう少し、武田側の動きをみてから上洛したほうが…」と意見していた。
「武田が北信濃を荒らしていることは、おそらく都へも聞こえているハズ…」
 と諫めていた。すると、景虎が珍しく怒り、
「たわけ!なればなおさらいかねばならぬ」と怒鳴った。
「ならば私がお供を…」
「ならぬ!お主がこの城を留守にしてどうする?」
「いや、しかし…」
「上洛までの旅は、金津以太知之介ら四人だけでいく。はよう伝えよ」
「…はっ」
 新兵衛は平伏した。
  こうして、景虎ら一向は、野を越え、山を越え…都へと急いだ。







  実は、景虎が留守中、国元ではごたごたが起きていた。
 いまは臣従している地侍同士のごたごたで、ある。双方の言い分はもっともで、要するに土地争いだった。
 その争いを止めようと調停した重臣、すなわち本庄、大熊朝秀、直江実網が乗り出したとたん、今度はその三人の争いになった。いわゆる「内ゲバ」である。
 本庄実仍と直江実網は景虎擁立の面々で、重要視されている。しかし、大熊朝秀は父・政秀からの段銭方(年貢金の徴収役)として財政を掌握している。つまり、景虎派閥と昔からの官僚の間がうまくいかなくなったのである。
 景虎はこれを裁かなければならない。
 上洛して、天皇や足利将軍にあっていた景虎は、この内ゲバ情報をきくと、すぐに郷里にとって帰した。そして、すぐに家臣を、
「仲間割れしているようでは今度は負ける!」
 と罵倒した。
「……しかし、土地の問題は複雑、意見も割れます」
「馬鹿者!」景虎は怒鳴った。
「そちらが考えなければならないのは、自分の私利私欲ではないはずだ!まず……考えなければならないのは領民の幸せだろう。民の模範とならなければならぬ武士が、そんなざまでどうする?!しっかりいたせ!」
「……ははっ」
 家臣たちは平伏した。
  それから間もなく、北条勢との戦になった。
 この辺りも豪雪地帯である。まるっきり孤立無援の北条勢はとっぷりと雪に囲まれた城で籠城を続けた。ようやく雪が溶け出しても、黒滝城の時のように景虎が皆殺しにするのではないか?……という恐怖に襲われて、北条側は戦意を失っていた。
 その頃合をみはからって、景虎は、安田景元に「降伏せよ」と北条高広に言わせた。
「いま俺のいうとおりにすれば、北条高広以下の者を皆たすけて、領土も遣わすぞ。降伏すれば殺しはしない」
「はっ、かたじけなく存じまする」
 と、北条高広に代わって安田景元が礼を述べたけれど、とても景虎が言葉通りにするとは思えなかった。今は下剋上の時代だ。平和な時代ならまだしも、約束などあってなきようなもの……皆殺しにするに決まっている……。
 しかし、籠城の将兵たちはその言葉を信じた。
「あの方は、皆殺しにする、といえば殺すし、助ける、といえば助ける方……信じて降伏しよう」
「そうだ!そうだ!」
 家臣たちに押されて、北条高広は単身、まる腰で景虎の元へいき、平伏した。
「高広、面を上げよ」
「……ははっ」
「おぬし、直垂の下は白無垢じゃな」
「おうせの通りにございます」
「なにゆえ死装束など?」
「……切腹をおおせつかった時、着替えるに寒うございますゆえ」
「馬鹿者!切腹せよなどと申さぬわ!俺が助けるといえば助ける」
「……ははっ」
 こうして景虎は春日山に帰ったが、帰る途中ビクビクものだった。…北条高広が追撃してくるかも…と恐れたのだ。
 ……切腹をおおせつかった時、着替えるに寒うゆえ死装束を着てきた…などと堂々とぬかしおった。それに比べて俺は……。なんとも情ない…。
 そういえば、和尚が言っておったのう。
”人間、死ねば土に帰るのみ…”
 …と。
 景虎はひとり苦笑してしまった。”人間、死ねば土に帰るのみ…”か、なるほど。
 わしも「生涯不犯」を通す身なれば、そういう気構えがほしいものじゃ。
 …ちかぢか、修行にまいろう…。

  明けて天文二十四年(一五五五)の七月、ついこの間、それぞれの本拠地に帰ったばかりの武将たちにふたたび動員令を発する次第となった。また、武田晴信(信玄)が川中島へ侵攻してきたのだ。いわゆる第二次川中島合戦である。
 その前年の天文二十三年(一五五四)の八月、武田晴信(信玄)はまだ支配下に置いてない下伊那地方に侵攻し、これを制した。これにより川中島以北を除く信濃のほぼ全域を支配下に収めた。信玄は、謙信の家臣・北条高広をそそのかして謀反を起こさせ、謙信こと景虎はすぐに鎮圧した(前述)。だが、これに怒り、謙信は武田征伐のため川中島に出陣したのである。
 第二次川中島合戦は、景虎がしかけて、武田晴信が対応する形となった。結果は、引き分けのような感じだったが、実態は武田晴信はまたしても川中島を制することは出来なかった。講和条約は上杉有利だったという。つまり、武田信玄は苦しい状況に立たされていた訳だ。しかし、合戦も後半になると、家臣たちの士気低下も著しく、両軍大将とも苦しんだ。だが、またも謙信有利のままに合戦は終わったので、ひと安心したという。
  上杉謙信(長尾景虎)は、「大儀」で動く。
 しかし、
 家臣たちは「利害」でしか動かない。私利私欲や利益でしか動かない。
 春日山城に戻ると、景虎は不満をもらした。
 新兵衛は、「それもいたしかたなし」と諫めたが、どうにも納得いかなかった。景虎はもともと欲望や野心の強い男ではない。ものにこだわらない性格で、気弱さを酒でカヴァーしている男だ。そして何より「大儀」を重んじる男である。それが、度々の「内ゲバ」で、苦しんでいた。そして、
 なにを思ったか、景虎は「出家する」といい、寺に籠ってしまった。
 それで、金津新兵衛らはパニックになった。
「どうしよう?」
「どうすれば…」
「そうだ!」新兵衛は言った。「殿は”生涯不犯”などと浮き世離れたことをいってるが、女子の味でも知ってもらって……まともな大将になっていただこう」
「まとも?」
「あぁ」
 新兵衛は頷いた。
 そして、さっそく彼は、琴(千代)に逢い、「そなた、思い切って景虎様と睦びおうてくれぬか?」と頼んだ。
「……なぜ私が…?」
 琴は真っ赤になって言った。
「……隠さずともよい。そなたは景虎様のことが好きなのであろう?殿もそなたのことを…」
「………」
「だから、愛しあって、殿に女犯の悦びを覚えさせて、まともな男にしておくれ。もちろん褒美も出す」
「……わかりました。でも、褒美はいりません」
 琴は興奮した。景虎が『義経記』を読んで泣くのを知って、恋して以来十年……。やっと思いが届く、通じるのだ。愛しあい、愛を育めるのだ。
 こうして、琴は寺までひとりで行った。
 その部屋には景虎が、ひとりでいた。
「……景虎様!」
 琴はそういって部屋にはいると、すかさず着物を全部脱いで丸裸になった。痩せた華奢な体に手足…。ふくよかな胸、くびれた腰、可愛い表情…。琴は景虎を誘惑するように裸のまま、彼に抱きついた。
「むむむ……琴殿か。ど…ど…どう…した?」
「抱いてください、景虎様!」
 琴が彼に覆い被さるような形になった。
「………むむ」
 そういったきり、景虎は肩を抱いた。……うれしい!その気になってくれたわ……琴がそう思った瞬間、景虎は奇怪なことをいって琴を周章狼狽させた。
「よくぞ試してくれた。礼を申す」
「……え?」
「見ろ!わしの物がぴくりとも動かない。つい前まで、そなたのことを思うだけで、わしの物が帆柱立っていたのに……いまは静かなままじゃ」
「………ほんと…」
「これも修行のおかげじゃ………これで城に戻り、戦や政に専念できる。おぬしがみだらな裸でせまってきて、心臓は高鳴ったが、肝心の物がこれではそなたのものを突くこともできぬ」
「………失礼しました」
 琴はすばやく服を着ると、部屋を出た。そのとたん、瞳から涙があふれでた。…自分はそんなに魅力がないのかしら?女として、くやしかった。実は、琴は処女だった。…最初の男は、やはり景虎と決めていたのだ。その彼に拒絶され、ショックだった。
 琴は、新兵衛のところへいって説明し、詫びた。すると、新兵衛は、
「ははは…。琴殿は初々しいことじゃのう」と、彼女が処女であることを知ってか、からから笑った。そして、「帆柱立たなかったのは、大酒のせいじゃ」と教えてくれた。
 しかし、当の景虎は「修行のたまもの」と思った。                

沖縄県米軍基地(宜野湾市普天間)辺野古移転工事に翁長知事「工事停止令」密約知らぬ無知

2015年03月24日 20時05分30秒 | 日記







沖縄県宜野湾市普天間基地の辺野古への基地移転工事を、


沖縄県知事・翁長雄志氏は


「許可取り消し・工事中止」と現実離れしたことを言っている。



沖縄が日本に返還される際、

日本政府(政府自民党(当時))と米国で密約が交わされ


「米軍の軍政は日本国民・地方自治体不介入」等を約束し


永久有効状態なのだ。


翁長雄志知事は歴史をまったく知らない。憐れ也。臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ。

紅蓮の炎<真田丸>真田幸村(信繁)家康が最も恐れた男アンコール連載真田幸村小説6

2015年03月24日 06時34分48秒 | 日記








  上杉政虎(謙信)が二度目の上洛のときとなった。
 朝廷から正式に関東守護に任命された。京は殺伐としていたが、上杉の行列が続いた。そして、事件は起こった。
 春日山城にいた宇佐美定満(フィクションの上杉謙信の大軍師・宇佐美定行とは一字違いだがこちらは実在の人物)は兼続を呼び止めた。深刻な顔だった。
「与六、そち、御屋形様をどう思う?」
 謙信に三願の礼をもって向かいいれられた宇佐美は、また謙信の弱さも見抜いていた。 兼続は、「御屋形様はまるで戦神のようでござりまする」という。
 宇佐美の白髪頭の眉間に皺がよった。
「戦神か……そうであればよいがな。領国の衆もそう見ていよう。しかし…所詮は御屋形様とて人間に過ぎぬ。怒りや癇癪や涙……人間なればこそだが失敗もしよう。そうすれば神話も消え失せようて…」
「何か上洛のおりありましたのでございましょうか?」
 兼続はわざと知らぬふりをした。宇佐美にはわかっていたが、あえて口にしない。
「上洛し、行列していたところ下馬せず見ていたものがおった」
「成田長政にございますな?」
 兼続はにやりといった。
「やはり…」宇佐美は唸った。「そちは只者ではないな。やはり知っておったか」
「いえ。只、わが耳に早く届いただけにござりまする」
「御屋形様は怒り身頭に達したのか鬼のような形相で伽籠からおりて近付き……成田を馬の上から引き摺り下ろし、鞭うった」
「『無礼者めが!』とでしょう?」
「うむ。まずいことだ。”人間”を出しては御屋形様でなくなる。他国の御屋形なればそれでもよかろうがのう」
「北条の籠城中にひとりでむかい、矢の霰の中、酒を飲んで死中に活を得たこともありましたとか…」
「うむ」宇佐美は顎を軽く撫でて「それもこれもすべては演技であれば上杉家を継いでも意味なしじゃ。義だの仁などと申したとて領民は見限ようて…」
「それで関東出兵のおり、成田勢が裏切って北条側についたのですな? 人質の伊勢夫人が越後におるというのに……こまりましたな」
 まるで宇佐美定満がふたりいるようである。謙信にとっての宇佐美と、景勝にとっての宇佐美……。ふたりは深刻な顔で黙り込むしかなかった。
しかし、当の本人・上杉謙信はいっこうに気にもせず上洛ののち、武田攻めのために武楴式をとり行なうのみだ。武楴式とは謙信が出陣前にとり行なう儀式であり、現在の米沢市の上杉祭りでも川中島合戦ショーの前日のとり行なわれている。
 政虎から輝虎となり、出家してこの年、上杉謙信となった御屋形様は武楴式を行う。
「天はわれにあり、鎧は胸にあり…われこそ毘沙門天なり!」
 おおおおっ~っ!
 謙信の激で、軍の兵士たちからどよめきが起こる。「いざ出陣!」…おおおお~っ!
 川中島の戦いは七度行われたが、結局痛み分けでおわる。
 このために信玄は天下を獲ることもなく肺病で死んでしまう。


  上杉謙信は与六兼続を弟子のように見ていた。
「兼続……そちはまだ若い」
 謙信は座敷でいった。兼続は下座で平伏している。
 謙信は剃髪しているために白いスカーフのようなものをかぶっている。「若いからこそ義を軽んずる」
「申し訳ござりません」兼続は再び平伏する。
「たが、それはいい。若いとはいいものじゃ。われもそちのようなときがあった」
「御屋形様が?!」
 謙信の思わぬ言葉に、兼続は驚いてみせた。義に劣る行為とは、兄・長尾晴景を追い落として領首になったことだという。兼続の生まれる前ではある。
「わしの義を受け継ぐのは養子の景勝でも三郎景虎でもない。そちじゃ」
 兼続は恐縮して、「恐れ多いことで…」と平伏した。
「正直な気持ちじゃ。期待しておるぞ。上杉家が生きるも死ぬるもすべてはそち次第じゃ」謙信は正直に本音を吐露した。
 天才軍神は、宇佐美定満の後釜となるであろう兼続の天才を理解していた。さすがは英雄である。こののち謙信と兼続は本当の師弟関係になっていくことになる。
  慶次の妻は、前田利家の子女であった。
 妻はじゃじゃ馬をならして、慶次と再会した。騒ぎをおこしお供のものを困らせた。
 そして、間者だと思っていた女は慶次と結婚し、前田慶次に「うつけ!」とふざけてみせた。「…何じゃと?」「昔とかわりありませんね? 幼い頃わらわたちは遊んでおって…旦那さまは木に登ったはよいがおりられなくなってふざけました。同じです…うつけ! 旦那様がそのようなうつけでは困りまするよ」
 妻は可愛い顔で、いった。
「わかった。もううつけはやめじゃ!」
 妻が乙女心をみせると、慶次は「なんじゃ?」ときいた。
 何にしてもこれで慶次は年上の嫁をもらった。しかし、子はすぐに夭生してしまう。前田慶次は側室を生涯もたなかった。妻だけを愛した。
 その頃、慶次は前田利家の甥として放浪していた。                 



         3 謙信死す
             前田慶次と秀吉「天下人VS天下無双の傾奇者」





前田利家の父親・利昌が死ぬと、長男・利久は信長の命令で荒子城をおわれ、かわりに利家が荒子城主となった。信長がきめたのだ。利久は反発したが、御屋形の命令ではしかたない。妻・つねと幼い慶次郎を連れて、荒子を出た。家臣・奥村家福も利久とともに浪人となった。まつが、秀吉殿は四千の兵をもったとか…というと、利家は「又兵衛は一騎当千だ」といったという。
イヌ(前田利家)とサル(羽柴藤吉郎秀吉)は信長の右腕左腕であり、信長が腹を割って話せる数少ない家臣であった。だが、信長は前田利家の兄・利久を毛嫌いしていた。屋敷にまねいて「お主に子はおるか?」ときく。「慶次郎と申す息子が…」「それは養子であろうが! この大馬鹿者! 去れ! 前田家はイヌに継がせる。お前は用なしだ!」
 信長の逆鱗に触れて、(とはいえ利久には逆鱗に触れた理由がわからんのだが)利久親子は荒子城を出た。浪人となった。ちなみに養子の慶次郎とはかぶき者として奇行で有名な人物であり、利家が親類みたいな者だから、「俺の家臣になれ」と誘った。
 が、慶次郎は「ひょっとこ斎」と号して、ついに利家の家臣にはならなかった。「わしは信長が嫌いだ」慶次がいった。「御屋形様を呼び捨てにするな!」利家は諌めた。だが慶次は「あいつの名前は「御屋形さま」ではなく「織田信長」であろう?」という。後に越後・会津・出羽米沢にいく上杉景勝・直江兼続の元にいって家臣となった風変わりな「変人」である。
 上杉の参謀で執政・直江山城守兼続を尊敬し、景勝の武勇に憧れて、関ヶ原・大阪の陣後、米沢にきて上杉家の家臣となった風流人でもある。





  
  上杉謙信は厠で倒れた。
「きゃあ~っ!」
「御屋形様が……!」
女たちの悲鳴が春日山城に響いた。
 謙信は厠で意識を失って前のめりに倒れたのだ。
 この何日も前から、謙信は、
「頭がいたい…」と頭をかかえては酒を呑んだが、重い病に侵されていた。
 いわゆる大酒による脳溢血で倒れた訳だが、その数日前から食事が喉を通らなくなり、雪室で冷やした水しか飲めなくなっていた。
 無理して起きて厠にいって、中で前のめりに倒れたのだ。
「これは中風でござろう。もうちとそっとそっとお運びあれ!」
 駆けつけた医師がいった。
 まだ脈はあったが、意識はなかった。即死ではなかった。
 それから五日後この世を去った。
 天正六年(一五七八)三月十三日のことであった。
 毘沙門天の旗のもと、智将、義将といわれて一世を風靡した上杉謙信もあの世にいった。上杉謙信は辞世の句を用意していた。
   四十九年一睡の夢
   一期の栄華一盃の酒
 謙信の遺骸は甲冑を着せ、甕に納めて密封したそうである。
 謙信死すの情報は疾風の如く越後に知れ渡った。
 信濃川の川筋をたどって、遠くは揚北まで知れ渡った。
 越後の国とは今の新潟県のことで、北は念珠ケ関から南の親不知に至る細長い大国であるという。
 越後には多数の豪族が住んでおり、虎視眈々と後継者が誰になるのか探っていた。
  謙信はこのとき、関東をまた攻めると宣言していた。
 関東は越後よりも豊かな国である。
 越後では関東攻めがなければ暮らしがなりたたないのだという。
 関東にいって、北条を攻め、ここで手当たり次第、銭や女、食料などの物資を略奪して越後にもってかえる……
 それをもっているのは女が多かった。
 戦国の世で合戦といえば、所詮は「殺戮」と「略奪」ということだった。
 謙信が病に侵されてから、家臣団はふたつに割れていた。
 後継者はふたりいた。
 まず、謙信の姉の子で養子にした景勝、もうひとりは北条からの養子で景虎である。
(上杉謙信に子はない。結婚しなかったし、女を近付けなかったからだ。一族親類が絶対的な権力になる時代、あえて子をつくらなかったとすれば『変人』という他ない)
 景勝も景虎も養子で、しかも義兄弟である。
 弘治元年(一五五五)景勝は、坂戸城主長尾政景の次男として生まれた。
 坂戸とは現在の新潟県南魚沼郡六日町である。峠を越えて関東に出る交通の要所である。 標高がなんと六百三十四メートルもの山城で、周囲は土塁に囲まれ、冬になれば豪雪ですべて閉ざされ誰もこの城を攻めることは出来ない。
 景勝の母は謙信の姉・仙桃院であった。
 謙信と政景は仲が悪かった。景勝の父・政景は野尻池で不審な死をとげ、景勝は十歳の頃から春日山城で育った。
 政景の死は、一説には謙信による暗殺ではないか……ともいわれている。
 いっぽう、景虎のほうは関東の人間である。
 小田原城主北条氏康を父に、天文二十三年(一五五四)に生まれた。元亀元年、謙信と氏康が合戦をして和睦してから差し出された人質であり、春日山城にやってきた。
 景虎とは謙信の幼い頃の名前である。
 春日山城の二の郭に住み、妻は景勝の妹(華姫)だったという。景勝の母・仙桃院は景虎のところで暮らしていた。
 ふたりの後継者のうちどちらがいいのか、そう明言しないままに謙信は倒れた。
 だが、景勝には知恵袋がいた。
 側近の直江兼続である。
 ふたりの出会いは越後(新潟県)の雲洞庵の寺である。景勝はその頃、父親の長尾政景を亡くして、母は仙桃院と号して尼となった。それに目をつけた謙信(その頃、上杉輝虎)が景勝(当時、卵の松、喜平次)を養子にした。景勝と兼続は北高全祝僧侶に学んだ。
 兼続(当時、樋口与六)は五歳で寺に入れられ、喜平次の家臣となった。のちの天才・軍師は謙信や、実姉・仙桃院に見込まれた。養子はもうひとり景虎がいた。
(上杉(北条)景虎は関東の北条氏康からの人質だった。が、北条は裏切って戦を企む) 兼続(与六)と景勝(喜平次)は幼いときより馬があった。景勝は寡黙で、一生のうちこの男が笑ったのは一度だけ。猿が自分の席で猿真似をしたときだったという。
 ひとと話すのは苦手である。そして、樋口与六は、謙信に軍略を学ぶことになる。
 大河ドラマでは、幼い兼続(与六)が真冬に実家へ戻り、景勝(喜平次)におんぶされて寺へ戻るというシーンがあった。まあ、ドラマだから架空でも仕方ない。
「与六いつまでもわしの側にいよ、泣き虫な与六め」「わしはずっと喜平次の側にいる」軍師・直江兼続によってこののち『御館の乱』で景勝の勝利を掴ませる。
 兼続は、
「そうだ。こうすればいいのだ」と閃いた。
 つまり、兼続が閃いたのは、謙信から
 ……「景勝が後継者である」
 という御墨付きをもらうことだった。
 だが、もう謙信は口もきけないくらい死にそうだ。
「こうなったら遺言をつくるしかありますまい」
 兼続はいった。
 景勝は「どうやって? もう義父上は口もきけぬぞ」と首をひねる。
「拙者に名案がござります」
 兼続はにやりとした。
 兼続は「策士」なのである。
 謙信の寝所には与板城主直江実綱の娘が仕えていた。
 芳乃という名前で、けっこう美人である。
 兼続は襖をそっと開けて、芳乃の耳元でささやいた。
「御屋形様の耳元でささやくのだ。どちらでござりまするか? とな」
「えっ?」
 芳乃は唖然とした。
 意味がよくわからなかったからだ。
「よいか」
 兼続は続けた。「始めにわが殿、景勝さまの名を申すのだ。うなずく素振りがあったら、もうそれでよい」
「……うなずく?」
「そうだ」
 芳乃は「はい」といった。
 与板城主直江実綱は景勝の後見人である。
 異存などあろうはずもない。
 芳乃は深夜、謙信の寝所に入った。誰もいない隙を狙ったのだった。
「どちらでごさりまするか? 景勝さま…?」
 すると、病床の謙信の首が微かに動いた気がした。
「御屋形様が! 御屋形様が! ……」
 芳乃が叫び出した。
「どうした?!」
 兼続は飛び込んできた。
「……跡継ぎは景勝さまだと」
「うなずかれたのか?」
「はい!」
「そうか……皆の者、きいたであろうな!」
 兼続は大声でいった。
 それが、謙信の遺言となった。それから五日後、謙信が息を引き取るや武装した与板兵士たちが何重にも城を取り囲み、景勝が葬儀を仕切った。
 葬儀がおわるや、景勝は電光石火、本丸を占拠した。
 本丸には金銀財宝が保管してあったからだ。
 金庫の銭は三万両、いまの数億円の金額だった。
 景虎はそれを知って中城にはいってきたが、景勝が鉄砲を撃ちかけて追っ払ったという。 この景勝の武装蜂起はたちまち知れ渡り、豪族たちが次々と蜂起して景勝についた。
 景勝が景虎より一歩リードしたのだ。
 景勝も景虎もともに二十代中頃で、ともに一歳しか年が違わない。
 その頃、直江兼続は樋口与六と名乗っていたらしいが、ややこしいのでこのまま直江兼続でいく。
 兼続はまだ二十歳くらいなのに、物凄い分析力と策略、謀略に優れていた。
 そんな諸葛孔明のような男が、景勝の側についたのである。
 景勝が勝つはずだ。
 しかし、景虎派も負けてはいない。
「遺言といっても、遺言書がないではないか!」
 確かに、遺言書はなかった。あろうはずもない。
「あの話しはつくりばなしだ!」
 景虎派は猛反発する。
 景勝は二ノ丸(中城)を預けられ、独自の軍隊をもっていた。
 御中城さまと呼ばれて、弾正少弼の官位も与えられ、景勝こそ後継者の筆頭であったという。村上国清、上条政繁、長尾景通、山本寺定長らが景勝についた。そして、揚北衆(中条、黒川、色部、水原、竹俣、新発田、五十公野、加地、安田、下条)も景勝についた。
 いずれも北越の豪族たちであった。
 揚北衆二とって、山脈や大河が国境みたいなものである。豪族たちはときに出羽(山形県)や会津(福島県)、米沢とも提携し、ひとつの独立地帯をつくっていた。

  景勝と兼続は『御館(おたて)の乱』で、初戦勝利した。
 だが、各地から次々と不安な情報が入ってくる。
「景勝は将の器にあらず、笑ったこともない。遺言などつくり話だ!」
 もともと景勝は苦労知らずで育った。
 感情をすぐに剥きだしにしては嫌われた。
 その点、景虎はクールなままである。ひとに扱われやすい。
 景勝は苦労知らずのため、頑固であった。
 確かに、かれらの考えも一理ある、と兼続は思っていた。
「殿、ここは威張るだけでは民は動きませんぞ」
 兼続はいった。
「……どういうことだ?」
 景勝は不思議な顔で尋ねた。「殿様が威張らず、いかにして民がついてこようか」
「殿、まずは自信をもってくだされ」
 景勝は鎧に陣羽織のまま、陣で考えこんだ。
 そして、「とにかく景虎を殺すしかない。しかし、自信がない…」
 兼続は「殿は謙信公とは違いまする。しかし、寡黙にし、公のように死中に身をおけば必ずや家臣たちはついてきます」といった。
「……そうだろうか?」
 景勝は思った。
 難しい顔をして黙り込んだ。
 もともと人と会ったり話したりするのが苦手で、人見知りした。
 ろくに挨拶もできなかった。
 それに感情の起伏も激しく、ひどく暴君になることがあった。
 謙信もどちらがいいか迷ったに違いない。
「…これは困った」
 兼続はいった。天守閣に登ってみた。
 直江兼続を景勝の近習にしたのは、景勝の母である。
「…お前たちは越後のことを考えなさい」そういわれて兼続は景勝に従った。
 春日山城を追われた景虎は、妻子をつれて前関東管領上杉憲政の屋敷に逃げ込んできた。 確かに、上杉謙信は上杉憲政を手厚く迎えた。上杉の名ももらった。
 しかし、上杉憲政など「過去のひと」である。
 なんの力も軍事力もない。
 景虎軍はおちおちしてられない。
 周囲を土塁と壕でかため、鉄砲を配置した。
 一日、二日では陥落しないだろうが、兵糧攻めにすれば方がつくだろう……
 兼続はそう読んだ。ただ困るのは周囲に寺や商家があることだった。攻めれば、上杉家の菩提寺至徳寺、名刹案国寺などの神社まで火につつまれる。それが総攻撃をためらわせた。この頃、信長が死に秀吉の天下となると前田利家は兄・利久と甥の慶次を呼び寄せ、利久に二千石、慶次に五千石を与えて越中に呼んだ。しかし、平穏な世界など慶次の身にあわない。京にいって直江兼続に惚れ込んだ。そして、たった一千石で上杉に仕えた。



  漫画・劇画『花の慶次』では、慶次が、忍者の里に行って決闘したり、忍者軍団を一刀両断にする展開になるがフィクションである。
 大体にして本当の忍者(いわゆる間者)は上杉(上杉家の間者は「軒猿(のきざる)」という)であれ武田であれ織田、羽柴であれ諜報工作員である。英語で言うならスパイだ。
 映画や劇画で登場するような、空を飛んだり、木々の枝上から枝上をムササビが走るように飛んだりできる訳がない。
 いかに忍者といえど人間であり、そんなことが出来るなら何でもありになってしまう。本来は要人警護と諜報活動と暗殺等が仕事である。
 所詮は「漫画的表現」でしかない。でも、映像化では、CGとか特撮やワイヤーアクションやアニメーションでいいのではないか?
 前田慶次と直江兼続・上杉景勝・伊逹政宗との出会いは史実通りである。
 が、摩利支天のおばばさまが二十歳程の美貌のまま年をとらず戦神として雨を降らす等はよくわからない。いかにも漫画的でもあるし、そういうカリスマ教祖が戦国の世にもいたとしても不思議ではない。
 上杉景勝と直江兼続との「佐渡の役」は歴史上の事実ではあるがここでは触れないでおく。
 また、「佐渡の役」に前田慶次が参戦したかはよくわからない。
 本当に「佐渡の役」で前田慶次が八面六臂な活躍をしたのか?そういう参考文献と運悪く出会えずよくわからない。
 すくなくとも米沢市立図書館の「上杉家の歴史」を調べたが発見できなかった。「佐渡の役」は省く。原稿の枚数に限りがあるのだ。
 それに戦闘やアクションシーンをどう活字で表現すればいいのか?私は脚本家ではない。映画監督でも映像作家でもない。作家・プランナー・ストラテジスト・フリージャーナリストであり、それ以上でもそれ以下でもない。そういうのは映像化で存分にやって欲しい。
 人生のほとんどを大国の人質として過ごした真田幸村と、前田慶次の出会いは歴史上は正しいかはよくわからない。
 また、幸村の元・部下の猿飛佐助(真田十勇士のひとりの架空の人物)の妹で想い人・沙霧(さぎり・架空の逸話上の人物)が盲目となり、一度は自殺しようとして兄にとめられて、
「わしがお主の目や手足になる」と兄・猿飛佐助が坊主になり沙霧が「幸村さまには沙霧は死んだとお伝えください。今の盲目の私をみれば…お優しい方ゆえきっと私めを妻にしようとするでしょう。でも、目の見えない私が嫁では足手纏いになるだけです」
 と涙した。そこで幸村は正体を明かさずに沙霧と対面し、涙の別離になるのは歴史上の真実ではない。テレビの歴史の番組でも放送されていたが、当然ながら猿飛佐助、霧隠才蔵などの真田十勇士(猿飛佐助・霧隠才蔵・三好伊三入道・穴山小助・望月六郎・筧十蔵・根津甚八・海野六郎・由利鎌之助・三好清海入道)等というのは架空の家臣である。江戸時代、明治・大正・昭和初期に子供向けの小説などであまりの真田幸村人気で「架空の十勇士」が生まれた。
 当然、猿飛佐助などという人物は存在しないから、盲目になった猿飛佐助の妹(漫画『花の慶次第七巻』(原作・隆慶一郎氏・作画・原哲夫氏)のエピソードは架空小説・漫画上の架空のお話である。
 話が重複しますが、歴史に詳しい方ならご存知かもしれませんが「真田十勇士」なる猿飛佐助、雲隠才蔵などというのはフィクションの架空の忍者軍団である。
 慶次は秀吉の北条攻めでも活躍しているが、ここでは省く。
 また劇画・漫画『花の慶次』では後半、慶次が琉球(沖縄県)に行って八面六臂な活躍をしたかのようなストーリーとなっている。
 前田慶次が琉球に現れたという参考文献や歴史書を少なくとも私(著者)は知らないからこれも省く。
 どうも慶次ほどの「天下無双の傾奇者」にもなると話に尾ひれ背びれがつく。
 歴史家もいかにも「いい加減」であるものだ。
 しかし、それであっても劇画・漫画『花の慶次』の息もつかせぬようなストーリー展開は「さすが!」である。この漫画が1989年に週一のペースで漫画雑誌に連載されていたという事実も驚愕するしかない。こんな凄い上手な話の基盤もしっかりした面画を一週間たらずの〆切で連載するとは、もはや脱帽するしかない。
 なお、参考までに以下に劇画『花の慶次』第四巻、第五巻、六巻、七巻、八巻の一部を引用したい。この物語(小説)を読んだ後、劇画・漫画『花の慶次』を読むもよいし、漫画『花の慶次』を読んでからこの物語(小説)を読むのもいずれも個人の自由である。
 詳しい痛快な戦闘シーンや喧嘩沙汰はやはり、「映像」や「劇画」の力には勝てない。悔しいが、活字離れが進んでいる原因は、「映像」や「劇画いわゆる漫画」では想像力がいらずそのまま直接にダイレクトに伝わる為に「見ているだけでいいから楽」ということだ。
 だから、楽しみたい世代には「漫画」や「映像」が愛される。活字では「読めない漢字の解読」や「想像力を働かせて読む」という困難がともなう。これが、意外に脳の運動に良いし、IQ(知能指数)を高める手段とおとなとしての成長になる。しかし、水は高い所から低い所に流れるのは道理で、楽に逃げる若者たちを私緑川鷲羽は責めることは出来ない。若き日の私もそうだったから(笑)。
 だが、それでも劇画・漫画『花の慶次』から物語の一部を引用したい。
 季節は風薫る五月である。京の借家の縁側で、慶次は「ひどいもんだ………だから、女はいかん」と横になり、右手で頭をぼりぼりかいてごろごろして考え込んでいた。
 前田利家の正室のまつに、
「お目見えとなったら関白殿を怒らせるのだけはやめて頂きます。精々笑わせて差し上げればいい。さもないと前田家は潰れ、私は路頭に迷うことになります」
 と、天女のような微笑みでいわれたことを頭の中で回想していた。「勝手なもんだ」慶次はごろんと仰向けになった。
「旦那………なにボケッとしてるんですか?逃げましょ!旦那と秀吉のこった、合う筈がない。会いに行くのは死ににいくのと同じだ」
 捨丸は小柄な元・加賀忍者である。荷造りして、逃げよう、という。元・忍びの勘が慶次の死を察したのかも知れない。
「たわけ!」慶次は怒鳴った。「それでは利家殿がそうしむけたと秀吉が邪推するに決まってるだろ!おまつ殿が路頭に迷う!」
 慶次はどうしたものか迷いに迷った。京の徳川屋敷では家康と服部半蔵が囲碁を打っていた。「家康さま、前田慶次の関白殿下へのお目見えでは慶次殿は不利かと」
「そうだのう。傾奇者は自己流の傾奇者としての流儀しか持たない。変に秀吉殿の気に入る挨拶をしただけでは命も危ない」
「万事休す、ですな」
「惜しい。あれほどの天下無双の傾奇者。傾奇者の意地を通せば…死ぬか………惜しいのう。惜しい命じゃ。」
「慶次殿が秀吉にうまく取り入る様なマネをしたら、傾奇者の恥さらしだと京中の嘲笑の的…もはや京にはおられますまい」
 家康は、囲碁の碁石を右手でいっぱい掴んで囲碁版のうえにざああっと落として「打つ手なしか」という。
「御意!」
 前田利家はもう絶望と緊張と慚愧で、どうにかなりそうだった。関白秀吉の前で甥の慶次が失礼な態度をとったら慶次は打ち首、前田家・加賀百万石も没収され路頭にまよう。
 屋敷で盆栽の剪定ではさみを使うが心ここにあらずで、枝をすべて切ってしまう。
「殿!ああっ盆栽の枝が…」「ああっ!しもうた!うう」「殿、御気を確かに!」
「やかましい!糞慶次~~く~慶次のせいで前田家もわしもおわる……クソッタレ!」
 慶次はしばらく悩んでいたが、釣りで釣って魚を入れて置いた桶に、死んだ魚が浮いているのに発想を得た。そうか!
 さらに奇行は続く。明日には関白殿下にお目見えするのに夕方の暮れなずむ陽の外で遊女らと歌い踊りどんちゃん騒ぎをしてしまう。
「旦那!いいんですかい?!明日はお目見えでしょう?こんなところでこんなことしてる場合ですか?」
「捨丸、実はな。いい方法を考えたんだ。これなら、前田家も安泰だし、おまつ殿も路頭に迷うこともなく…いやそれどころか叔父御が天下をとれるかも知れねえぜ」
「どんな方法です?」
「死んだ魚は水をはねない」
「は?!」
「誰もぬれずにすむ」
「だ…旦那そいつはまさか」
「殺るんだよ、秀吉を」慶次の目は真剣である。
 
 慶次はやはり傾奇者らしい服装を注文し、普通の三倍は厚いのではないかとも思われる短刀を、手にした。
 ………まさか?本当に秀吉を?馬鹿な?冗談だろう?捨丸はびくびくものである。
 一方で、京都奉行職の前田玄以は嬉しくて仕方ない。あの自分に恥をかかせた慶次が、関白殿下の前で馬鹿な事をやって処刑されるのは九分九厘確実である。
 前田慶次はこれでおわり、だ。何が傾奇者だ…何が天下無双の傾奇者だ! この玄以さまに恥をかかせおって!
 そして、いよいよ、聚楽第で、秀吉と天下無双の傾奇者・前田慶次とのお目見えの日となった。
 巨大な馬に乗り、慶次は門前で降り立った。「髑髏(しゃれこうべ・どくろ)の紋所に…虎皮の裃とは………!!」「そのような姿で御前に出るなど不謹慎な!」家臣たちは反発した。
「そうですか?」
 しかし、前田玄以は心の中で………”ふふ、いいぞ。それがお前の死に装束だ”…とほくそ笑んでから言葉では次のように言った。
「いやいや、殿下には当節はやりの傾奇者が見たいとの所望でござる。本日ばかりは多少無礼な服装でも差し支えござるまい」 
「それはありがたきお言葉、さればとくとご覧(ろう)ぜよ!」
 慶次は背中を向けた。そして両足の股を開くと、陣羽織の隙間から、ぽん!、といえばいいのか尻に”猿の赤いケツ”があしらわれている。
「そ…それはサルのケツ……!!」玄以は戦慄した。冷や汗と体の震えが止まらない。
「はい!いや~~玄以殿にそのようにほめていただけるとは」
 玄以は愕然とした。恐怖で失禁しそうだった。「い…いかん、いかん!それはいかん!」
 ………こやつ…わしを道連れにする魂胆か!!
「いやあ~~玄以殿にお許しを頂き安心しもうしたぞ!!」慶次は顔を振り向いてウインクをした。どこまで豪胆な男なんだ?!
やがて聚楽第の謁見の間である。
 間には全国の有力大名20名はどが勢ぞろいしていた。
 そこには落ち着かぬで冷や汗をかいている前田利家の姿もあるのである。秀吉はにやりとした。……ふん、わしのことを”サルサル”いっていた”槍の又左”もこれでおわりか?くくく、こりゃあいい。立場はもう逆転してるんだぎゃあ!
 やがて慶次がやってきた。「前田慶次にござりまする!」大男なので鴨居(かもい)で頭が隠れている。
 ………ほおっ。大男とは聞いていたが、おおきすぎて頭が鴨居に隠れている。ぬう、慶次が頭をさげて鴨居をくぐる。ぽん!
 慶次は髪の毛を右片方に思い切り片寄せ、髷(まげ)を結っていた。そのためまるで顔がひきつった様な錯覚をおこさせた。
 当然、見物人の大名たちは両横に列して座っている。……何だ?天下無双の傾奇者ときいていたが? こけおどしか? 恰好だけは派手だが、たいしたことないな。
 う…何い?!
 慶次が平伏するとともに首をまげ顔を右に向けて、平伏した。「!?」「ああっ!」「なっ!」
 この時、全員が初めてこの髷の意味がわかった。見事な傾きぶりだった。たしかに、髷は秀吉に正対している。頭を見る限り慶次は平伏して見えるのである。だが、顔は横を向いている。
 つまり、慶次は秀吉に頭をさげることを平然と拒絶したのだ。これは歴史上の実話であり、漫画的表現や小説的架空話でもない。傾奇者にとって天下人など何者でもない。この髷はその思いを露骨に示していた。
 髷だけは平伏するが、本当の俺はそっぽを向いているんだよ。そういっているのである。見事な根性であった。大名たちは寂(せき)として声も出ない。正直の所、度肝を抜かれていた。
 だが、秀吉もまた一箇(こ)の傾奇者である。そんな慶次の気持ちなど一目でわかっていた。ならばこそここで怒るような秀吉ではなかった。
「うわはははは」秀吉は大笑いした。大名たちは冷や汗ものだが、つられて笑った。顔がひきつった。
「面白いな。こんな趣向は初めて見た。なんとも変わった髷ではないか…ははは」
 慶次は頭を挙げてにこりとした。と、同時に聚楽第の謁見の間が広すぎて秀吉を刺し殺すのは無理だと悟った。
 ならば、と、慶次は猿踊りをはじめた。ひとりで猿回しの踊りを踊ったのである。それは滑稽だが笑いをさそう芸でもあった。
 秀吉が猿面冠者(さるめんかんじゃ)と呼ばれるほど猿に似ていたのは周知の事実である。あの尻を関白殿下に見せたら大変なことになる。大名たちは戦慄し、全員の顔が顔面蒼白である。
 そして慶次は赤い”サルのケツ”を秀吉に見せた。
 秀吉は笑い続けたが、……なんでこいつはわざわざわしを怒らせようとしているのか?死にたいのか?と疑問に思っていた。
「はははは」「うきぃ!うきぃ!」……しかしこの猿芸は行き過ぎじゃ!笑い転げて見せるのも限度がある。いつまでも馬鹿にされ続けては関白の沽券(こけん)に関わる。
 秀吉が隣の小姓の刀にすすっと手をそっとのばすと家康が驚愕と戦慄の顔をした。
「ふかははは」……家康のやつなにに驚いておったのか……?まさかあの舞いにはなにか理由が……!!
「はははは」……試すか……秀吉は鮮やかな絵柄の扇子をひろげ、何尺もの遠きにいる慶次へゆっくり投げてみた。
 ばしっ!慶次が扇子をばしっとつかんだ。ぐく!……今、見たのは確かに殺気!この男、死ぬ気どころか、わしを殺す気なのだ!!きゃつはわしを誘い出そうとしておったのだ!
 ……ちい! ばれたか!狒々親爺(ひひおやじ)がいくさ人(にん)の顔になったわ!
「どうも!」慶次は今にも飛びかかろうという感じだが、遠い。届かないだろう。
 猿踊りで誘い込もう、そして斬り殺そうとしたがダメだ。
「まずは座れ!」慶次は諦めて深いため息を吐くとどかりと不敵にその場に座った。
「……で、なぜだ?」
 ……そうだ。なんでわざわざ猿芸など……するのだ? そんなに死にたいのか信じられん奴だ。
 居並ぶ諸大名たちはこの言葉の意味をとり違えていた。これは、なぜ自分を殺そうと決意したのかという意だ。慶次と家康だけがその真の意味を悟った。
「……さて~~」
「何びとかのためか!?」
「まさか!ははは」慶次は笑った。そして本当に考えた。おまつのため……ではないなあ。本当は、何故、なんだろう……
 とうとう秀吉が怒鳴った。「理由(わけ)がない筈はあるまい!よく考えろ!」……理由もなく殺されてたまるか!
 大名たちは……よく考えろとは異な仰せ……!と戦慄する。
「あ……」慶次は思いついた。「左様……強いて申さば……意地とでも申しましょうか」
「?! 意地だと?! ……傾奇者の意地と申すか」
「人としての意地でござる!」
 慶次はいった。
 そ……そうかわかった!! 関白であろうと牢人であろうと同じ人である。面白半分に人が人を呼びつけて晒し者にしていいわけがない。慶次は秀吉を刺すことで、秀吉もまた一人の人であるということを証明し、その思い上がりに鉄槌を下そうとしたのだ。
 この男……絶対に飼い慣らぜぬ獣…殺すか!! 秀吉のこの反応は恐怖に対する最も自然な反応である。そして、一座の諸大名もこの息の詰まる状態を抜け出すために秀吉が慶次を斬ることを期待していた。
 だが、秀吉もまた一箇の傾奇者である。当たり前の反応に身を委せることを嫌う性癖がある。ゆえに、大名たちの思い通りに振る舞うのは癪だった。それに、自分がこの男に恐怖を抱いたことを知られたくなかった。
「…………その意地……あくまで立て通すつもりか……?!」
「やむを得ませんな」
「……立て通せると思うか!!」
「手前にはわかりませぬ」慶次は悪戯小僧のようなほわっとした笑みで答えた。
「!」……こやつなんとも素直な男じゃ。なんとも素直な含羞(はにかみ)の微笑み……秀吉は、昔、浅井朝倉軍に追い詰められた信長軍の殿(しんがり)をつとめて信長公を助けた時の、加勢してくれた若き家康のような人物を見て、惚れた。惚れこんだ。
「見事にかぶいたものよ。大義であった!」
「はっ!」慶次は「大義であったとは家名を背負わぬ一傾奇者に仰せられておるのか?」
「ん?」
 自分の振るまいは利家とは関係ないと大名たちの前で明言することによって、前田家に非を及ばせぬように秀吉に釘を刺しているのだ。それは、まさしく慶次がおまつに対する思い以外の何ものでもなかった。
「ふ……無論だ。わしは傾奇者を見たいと所望した。それが叶い、もう用は済んだ」
 慶次は微笑してまた顔を横にして平伏する。「手前にはとうてい真似ができません。天下人たるもの思い通りに振る舞えぬことさぞや難儀でござりましょう」
 見破られたか。ふっ。秀吉は何故か爽快な気分になった。
 慶次が去る。
 と、秀吉は「誰か舞わぬか?」と所望した。
 諸大名たちは躊躇した。慶次のあとに下手な踊りを舞えば首が飛ぶ。
「ならばこの家康が百姓踊りを」家康は頭巾を頭に巻いて、百姓踊りをしたという。極端な短足にでっぽりと家康は肥えている。
 百姓踊りは笑いをさそう滑稽さであった。秀吉は腹を抱えて笑った。そして「慶次を呼び戻せ!褒美をやるのを忘れた」という。
 慶次は「半刻後に出頭する」と伝えてくれ、といい、きっちり半刻後慶次は現れた。
 今度はちゃんとした鮮やかな色どりの裃姿である。おお!なんと見事な!「可観小説」にあるこのくだりの描写を引用して見よう。
「今度(このたび)は成程くすみたる程に古代に作りし、髪をも常に決直し、上下衣服等迄平生に改め、御前進退度に当り、見事なる体也。」
 秀吉は「何故その恰好を?」と訊いた。
「傾奇者はもう用がないと申されたので、こたびはひとりの武士(もののふ)として前田慶次郎利益(とします)まかりこしました」
 そしてちゃんと平伏した。礼儀をちゃんと守った、げにもゆかしい武者ぶりであった。古典はおろか古今の典礼にも通じ、諸芸能まで極めたと噂される当代稀有の教養人の姿がそこにはあった。
 大柄な躰がいっそう涼しげで匂うような男ぶりである。とても半刻前の『傾奇者』とは思われなかった。
「気に入った!今後どこでもその意地を立て通せ、余が許す!」秀吉の傾奇御免の御意は慶次に今後どこででも誰が相手でも勝手気ままに振るまっていい、ということである。

 そしてこの『傾奇御免の令』のおかげか慶次はあらゆる武者たちに命を狙われることにもつながる。
 眩しすぎる陽の光は無能ものにとって無性にムカムカするものだ。凡人は天才の心の苦労がわからず、天才の血反吐の努力も判断もできず、ただ嫉妬して、嫌味や悪罵やいやがらせや罵倒や批判をするのみである。
 慶次が「この男は凄い」という男がいた。
 それは秀吉政権の五大老のうちの会津百二十万石もの大大名の上杉景勝と、執政・直江兼続である。
 上杉謙信の名声からだけではなかった。上杉の人間が骨の髄まで義、仁義で出来ている、と理解したからだ。
 上杉の義、忠義は質素倹約だけではなく、家臣も領民も心優しく、温かい。
 慶次は『上杉家』に『上杉の義』『上杉謙信』『上杉景勝』『直江兼続』に、漢(おとこ)として惚れたのである。
 だからこその、上杉家への仕官であったのだ。
(劇画・漫画『花の慶次』隆慶一郎著作(原作)原哲夫作画(漫画・絵)新潮社コミックス参考文献参照)


蒼天の白虎隊 会津藩と八重と桜と(特別一部先行公開)ブログ掲載版小説プロローグVOL.1

2015年03月23日 20時09分56秒 | 日記






蒼天の白虎隊 
会津藩と八重と桜と


                会津藩の義の戦い!
               ~少年たちの決断!
               松平容保たちの「会津戦争」はいかにしてなったか。~
                フィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  MIDORIKAWA washu
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

*(本作中の歴史説明文群は一部インターネットによるウィキペディア記事「ネタバレ記事」等を参照しています。なお、この物語の参考文献は池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰らず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」「白虎隊」、NHK映像資料「歴史秘話ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ」漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、NHK大河ドラマ「八重の桜 ガイドブック」NIKKO ムック、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。裁判とか勘弁してください。盗作ではなくあくまで引用です。)
また日本テレビで80年代後半大晦日放送された里見浩太朗・森繁久彌主演の時代劇歴史ドラマ『白虎隊』<第一部 京都動乱><第二部 落城の賊(うた)>から参照してこの作品『蒼天の白虎隊 会津藩と八重と桜と』を執筆しました。
ちなみに盗作ではなく引用です。日本テレビドラマ『白虎隊』のキャスト(当時)もご紹介します。
井上丘隅(おかずみ・森繁久彌)松平容保(かたもり・風間杜夫)ちか子(坂口良子)神保修理(しゅり・国広冨之)秋月梯次郎(ていじろう・露口茂)近藤勇(いさみ・夏八木勲)山本八重(田中好子)とめ(山岡久乃)千恵(野川由紀子)中野竹子(岩崎良美)中川宮(秋本克太郎)松平定敬(ただあき・中村橋之助)田中土佐(とさ・佐藤慶)野村左兵衛(さひょうえ・竹脇無我)坂本竜馬(中村雅俊)神保内蔵助(丹波哲郎)山本覚馬(竜雷太)沖田総司(中川勝彦)ゆみ子(工藤夕貴)キク(佐藤貴子)川崎尚之助(田中健)雪(池上季実子)土方歳三(ひじかた・としぞう・近藤正臣)西郷頼母(たのも・里見浩太朗)他。
          
             あらすじ

<記事の一部に「ネタバレ」からの引用がある為「出版時」に印税の0.39%を引用元に>

 1868年10月6日(慶応4年8月21日)に新政府軍が国境の母成峠を突破して会津に侵攻する。これの一報を受けた会津藩は1868年10月7日の朝と夜の2回、「屋並触(やなみぶれ)」を行った。
屋並触(やなみぶれ)とは、会津藩の役人が藩士の家々を戸別訪問して廻り、会津藩の方針や指示を告げていく行為である。役人は夕方の屋並触で、藩士の家を一軒一軒廻り、留守を守る婦女子に「鐘が鳴ったら、若松城の三の丸へ集まれ」と籠城に関する指示をしていく。
やがて、山本家にも役人がやってきた。屋並触を受けた母・山本佐久は、「女は足手まといになる。無駄に食料を消費するのは忍びない。市外へ逃げよう」と言うが、山本八重は「死んだ弟・山本三郎のため、主君のため、私は決死の覚悟で入城します」と言い放った。
それを聞いた屋並触の役人は、山本八重の意見を絶賛し、「女性は女中の仕事を頼みます。男が女中の仕事をしていては戦力が減ります」と言い、山本佐久にも入城を促した。こうして、母・山本佐久も若松城で籠城することを決めた。
山本八重は自宅で飼っている馬に乗って威風堂々と入城しようとしたのだが、役人に「状況は切迫している」と止められたため、馬での入城を中止して歩いて入城することにした。
1868年10月8日(慶応4年8月23日)早朝、台風の影響で雨が降りしきるなか、若松城の城下町に早鐘が鳴り響く。
早鐘の音は、屋並触で通達した通り、城に逃げ込めという相図だったが、大砲や鉄砲の音にかき消されていた。既に新政府軍は戸ノ口原を突破し、そこまで迫っており、城下町は大混乱となった。
一方、山本八重は、山本家に寄宿していた仙台藩士の内藤新一郎と蔵田熊之助を見送っていた。
仙台藩は新政府軍との戦争に備えて、仙台藩士の内藤新一郎ら40数名を会津藩へ砲術修業へ出していた。
そして、内藤新一郎らに砲術を指南したのが、山本八重の夫・川崎尚之助であった。
戦争が近づくと、砲術修業に来ていた40数名は仙台へ戻ったが、内藤新一郎と蔵田熊之助は連絡役として会津に残ることを命じられ、山本家に寄宿していた。
やがて会津戦争が始まり、新政府軍は一気に会津領内に進入してきた。内藤新一郎らはこの状況を報告するため、仙台へと引き上げたのである。
内藤新一郎らを見送ると、山本八重は亡き弟・山本三郎の形見の紋付袴を着て、両刀を腰に差し、7連発スペンサー銃を担ぎ、飛んでくる銃弾をくぐり抜けながら、母・山本佐久や姪「山本峰(山本覚馬の娘)」と嫂「山本うら(覚馬の妻=樋口うら)」を伴って若松城へと向かった。
飛んできた鉄砲の弾が山本八重の耳元をかすめると、山本八重は思わず怯んだ。すると、母・山本佐久は「それでも藩士の家族ですか」と叱咤し、若松城を目指し、無事に若松城までたどり着いた。
なお、山本八重(新島八重)は54歳のとき、周囲の人間に促され、紋付き袴を着て若松城に入城した時の姿を再現し、写真を撮影している。
会津藩士の家族が取った行動は主に「若松城へ入城する」「食料を消費するのは申し訳ないため、自害する」「市外へ逃げる」の3つであった。
しかし、市外へ逃げようとした者は、卑怯者として身内の手で殺される者もいた。乳飲み子は足手まといになるとして、乳飲み子を殺して若松城へ向かう母親も居た。西郷頼母の一族のように、一族揃って自害する者も居た。
若松城に入城した会津藩士の家族には、着物が鮮血で染まった者も多く、山本八重が入城したとき、城内は殺伐としていた。
新政府軍の進軍は早く、若松城の直ぐに閉ざされた。若松城に入れなかった者も多かった。城外に残された者は市外へと逃げた。自宅に火を放ち、自刃に倒れた者も居た。
国境の母成峠が破られたことは、早々に若松城にも伝わっていたが、薩摩藩などから「鬼の官兵衛」と恐れられている会津一の猛将・佐川官兵衛が「敵を戸ノ口原で防ぎ、十六橋の東へ追い払う」と豪語して戸ノ口原へ出陣したため、城下町に避難命令は出ていなかった。
もし、前日に会津藩の役人が屋並触(やなみぶれ)を行った時に避難していれば、籠城初日の大混乱を起こすことは無かったに違いない。
黒船来航…幕末、松平容保は幕府の京守護職に抜擢された。会津藩主の殿様である。奮起して新選組とともに京都を守っていく。先進国を視察した容保にとって当時の日本はいびつにみえた。彼は幕府を批判していく。だが彼は若き将軍徳川家茂を尊敬していた。しかし、その将軍も死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。勝海舟に不満をもつ榎本武揚らは海軍を保持するが、やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、会津藩の容保は官軍と戦う。幕府残党は奥州、蝦夷へ……
 そして会津戦争勃発。松平容保の「会津藩」は五ケ月で官軍につぶされる。切腹しようとしてとめられれた容保は官軍に投降、やがて投獄されるがあまりの知識をもっていたため新政府の要職へ。少年たちの死をもとに容保は明鏡止水の心だった。
 今から百数十年前、福島県・会津藩、戊辰戦争は会津戦争終結の明治二年夏までまたなくてはならない。その会津に共和国をつくったのが松平容保である。
「会津には心儀がある! 官軍何するものぞ!」
 幕府海軍副総裁の榎本武揚らは薩長官軍に反発して、奥州(東北)、そして蝦夷(北海道)まで旧幕臣「榎本脱走兵」たちとともにいく。そこで共和国をつくるが、わずか五ケ月で滅ぼされてしまう。
 その間も松平容保は会津の鶴ケ城で官軍と対峙する。松平容保の戦略とは何だったのか?
「白虎隊」と呼ばれて組織された少年たちとは何だったのか?
 それを拙書であきらかにしたい。幕末の英雄・松平容保とは新島八重とは………


         1 江戸最後の日


 いわゆる戊辰戦争の末期、会津藩(現在の福島県)に薩長官軍が「天皇の印」である「錦の御旗」を掲げて、会津城下まで進攻し、会津藩士たちや藩主・松平容保の籠城する「鶴ヶ城(会津若松城)」に雨霰の如く大砲弾や鉄砲を浴びせかける。「いいが?!よぐ狙っで撃ちなんしょ!」若松城には、この物語の主人公・山本八重が、スペンサー銃で武装し、男装して少年鉄砲隊を率いている。銃弾が飛び交い、八重の近くでも大砲の砲弾がさく裂する。会津若松城はもう砲撃でぼろぼろだ。
「確かに薩長軍は数は多い。んだげんじょ、軍を指揮する敵を倒せばいいがら!……会津は渡さねえ。会津の地を土足で踏み荒らす薩長をわだすは許さねえ。ならぬものはならぬものです」そういって城壁から官軍の指揮者を狙った。さすがに、「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサム・ウーマン」である。官軍指揮者の獅子舞のかつらのようなものをかぶった大山巌(西郷隆盛のいとこ)の脚に弾丸を命中させる。
「よし、命中んだ」少年兵たちも笑顔になった。「やっだあ!薩摩の大将に当だっだ!」「さすけねが?ほれ、にしらもようっぐ狙っで撃ちなんしょ」「はい!」
 会津藩の戊辰戦争はまだまだおわりそうもない。八重は髪も短くして、若い少年兵のリーダー的な存在にまでなった。「なして会津が逆賊なんだず!会津は京の都で天子さま(公明天皇のこと)や幕府を守っで戦っだのだべした。なら会津に義があるべず!会津の地を渡ざねえ!」八重は男装のまま下唇を噛んだ。
この物語の参考文献はウィキペディア、ネタバレ、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作、童門冬二著作、池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰らず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史秘話ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ」漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
なおここから数十行の文章は小林よしのり氏の著作・『ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり「大東亜論 第5章 明治6年の政変」』小学館SAPIO誌2014年6月号小林よしのり著作漫画、72ページ~78ページからの文献を参考にしています。
 盗作ではなくあくまで引用です。前述した参考文献も考慮して引用し、創作しています。盗作だの無断引用だの文句をつけるのはやめてください。
  この頃、決まって政治に関心ある者たちの話題に上ったのは「明治6年の政変」のことだった。
 明治6年(1873)10月、明治政府首脳が真っ二つに分裂。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五人の参謀が一斉に辞職した大事件である。
 この事件は、通説では「征韓論」を唱える西郷派(外圧派)と、これに反対する大久保派(内治派)の対立と長らく言われていきた。そしてその背景には、「岩倉使節団」として欧米を回り、見聞を広めてきた大久保派と、その間、日本で留守政府をに司っていた西郷派の価値観の違いがあるとされていた。しかし、この通説は誤りだったと歴史家や専門家たちにより明らかになっている。
 そもそも西郷は「征韓論」つまり、武力をもって韓国を従えようという主張をしたのではない。西郷はあくまでも交渉によって国交を樹立しようとしたのだ。つまり「親韓論」だ。西郷の幕末の行動を見てみると、第一次長州征伐でも戊辰戦争でも、まず強硬姿勢を示し、武力行使に向けて圧倒な準備を整えて、圧力をかけながら、同時に交渉による解決の可能性を徹底的に探り、土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるという方法を採っている。勝海舟との談判による江戸無血開城がその最たるものである。
 西郷は朝鮮に対しても同じ方法で、成功させる自信があったのだろう。
 西郷は自分が使節となって出向き、そこで殺されることで、武力行使の大義名分ができるとも発言したが、これも武力行使ありきの「征韓論」とは違う。
 これは裏を返せば、使節が殺されない限り、武力行使はできない、と、日本側を抑えている発言なのである。そして西郷は自分が殺されることはないと確信していたようだ。
 朝鮮を近代化せねばという目的では西郷と板垣は一致。だが、手段は板垣こそ武力でと主張する「征韓論」。西郷は交渉によってと考えていたが、板垣を抑える為に「自分が殺されたら」と方便を主張。板垣も納得した。
 一方、岩倉使節団で欧米を見てきた大久保らには、留守政府の方針が現実に合わないものに見えたという通説も、勝者の後付けだと歴史家は分析する。
 そもそも岩倉使節団は実際には惨憺たる大失敗だったのである。当初、使節団は大隈重信が計画し、数名の小規模なものになるはずだった。
 ところが外交の主導権を薩長で握りたいと考えた大久保利通が岩倉具視を擁して、計画を横取りし、規模はどんどん膨れ上がり、総勢100人以上の大使節団となったのだ。
 使節団の目的は国際親善と条約改正の準備のための調査に限られ、条約改正交渉自体は含まれていなかった。
しかし功を焦った大久保や伊藤博文が米国に着くと独断で条約改正交渉に乗り出す。だが、本来の使命ではないので、交渉に必要な全権委任状がなく、それを交付してもらうためだけに、大久保・伊藤の2人が東京に引き返した。大使節団は、大久保・伊藤が戻ってくるまで4か月もワシントンで空しく足止めされた。大幅な日程の狂いが生じ、10か月半で帰国するはずが、20か月もかかり、貴重な国費をただ蕩尽(とうじん)するだけに終わってしまったのだ。
 一方で、その間、東京の留守政府は、「身分制度の撤廃」「地租改正」「学制頒布」などの新施策を次々に打ち出し、着実に成果を挙げていた。
 帰国後、政治生命の危機を感じた大久保は、留守政府から実権を奪取しようと策謀し、これが「明治6年の政変」となったのだ。大久保が目の敵にしたのは、板垣退助と江藤新平であり、西郷は巻き添えを食らった形だった。
 西郷の朝鮮への使節派遣は閣議で決定し、勅令まで下っていた。それを大久保は権力が欲しいためだけに握りつぶすという無法をおこなった。もはや朝鮮問題など、どうでもよくなってしまった。
 ただ国内の権力闘争だけがあったのだ。こうして一種のクーデターにより、政権は薩長閥に握られた。
 しかも彼ら(大久保や伊藤ら)の多くは20か月にも及んだ外遊で洗脳されすっかり「西洋かぶれ」になっていた。もはや政治どころではない。国益や政治・経済の自由どころではない。
 西郷や板垣らを失った明治政府は誤った方向へと道をすすむ。日清戦争、日露戦争、そして泥沼の太平洋戦争へ……歴史の歯車が狂い始めた。
(以下文(参考文献ゴーマニズム宣言大東亜論)・小林よしのり氏著作 小学館SAPIO誌7月号74~78ページ+8月号59~75ページ+9月号61~78ページ参考文献)
この頃、つまり「明治6年の政変」後、大久保利通は政治家や知識人らや庶民の人々の怨嗟(えんさ)を一身に集めていた。維新の志を忘れ果て、自らの政治生命を維持する為に「明治6年の政変」を起こした大久保利通。このとき大久保の胸中にあったのは、「俺がつくった政権を後から来た連中におめおめ奪われてたまるものか」という妄執だけだった。
西郷隆盛が何としても果たそうとした朝鮮使節派遣も、ほとんど念頭の片隅に追いやられていた。これにより西郷隆盛ら5人の参議が一斉に下野するが、西郷は「巻き添え」であり…そのために西郷の陸軍大将の官職はそのままになっていた。この政変で最も得をしたのは、井上馨ら長州汚職閥だった。長州出身の御用商人・山城屋和助が当時の国家予算の公金を使い込んだ事件や……井上馨が大蔵大臣の職権を濫用して民間の優良銅山を巻き上げ、自分のものにしようとした事件など、長州閥には汚職の疑惑が相次いだ。だが、この問題を熱心に追及していた江藤新平が政変で下野したために、彼らは命拾いしたのである。
江藤新平は初代司法卿として、日本の司法権の自立と法治主義の確立に決定的な役割を果たした人物である。江藤は政府で活躍したわずか4年の間に司法法制を整備し、裁判所や検察機関を創設して、弁護士・公証人などの制度を導入し、憲法・民法の制定に務めた。
もし江藤がいなければ、日本の司法制度の近代化は大幅に遅れたと言っても過言ではない。そんな有能な人材を大久保は政府から放逐したのだ。故郷佐賀で静養していた江藤は、士族反乱の指導者に祭り上げられ、敗れて逮捕された。江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に3日前に作られた裁判所で、十分な弁論の機会もなく、上訴も認めない暗黒裁判にかけられ、死刑となった。新政府の汚職の実態を知り尽くしている江藤が、裁判で口を開くことを恐れたためである。それも斬首の上、さらし首という武士に対してあり得ない屈辱的な刑で……しかもその写真が全国に配布された。(米沢藩の雲井龍雄も同じく死刑にされた)すべては大久保の指示による「私刑」だった。
「江藤先生は惜しいことをした。だが、これでおわりではない」のちの玄洋社の元となる私塾(人参畑塾)で、武部小四郎(たけべ・こしろう)はいった。当時29歳。福岡勤皇党の志士の遺児で、人参畑塾では別格の高弟であった。身体は大きく、姿は颯爽(さっそう)、親しみ易いが馴れ合いはしない。質実にて華美虚飾を好まず、身なりを気にせず、よく大きな木簡煙管(きせる)を構えていた。もうひとり、頭山満が人参畑塾に訪れる前の塾にはリーダー的な塾生がいた。越智彦四郎(おち・ひこしろう)という。武部小四郎、越智彦四郎は人参畑塾のみならず、福岡士族青年たちのリーダーの双璧と目されていた。だが、二人はライバルではなく、同志として固い友情を結んでいた。それはふたりがまったく性格が違っていたからだ。越智は軽薄でお調子者、武部は慎重で思慮深い。明治7年(1874)2月、江藤新平が率いる佐賀の役が勃発すると、大久保利通は佐賀制圧の全権を帯びて博多に乗り込み、ここを本営とした。全国の士族は次々に社会的・経済的特権を奪われて不平不満を強めており、佐賀もその例外ではなかったが、直ちに爆発するほどの状況ではなかった。にもかかわらず大久保利通は閣議も開かずに佐賀への出兵を命令し、文官である佐賀県令(知事にあたる)岩村高俊にその権限を与えた。文官である岩村に兵を率いさせるということ自体、佐賀に対する侮辱であり、しかも岩村は傲慢不遜な性格で、「不逞分子を一網打尽にする」などの傍若無人な発言を繰り返した。こうして軍隊を差し向けられ、挑発され、無理やり開戦を迫られた形となった佐賀の士族は、やむを得ず、自衛行動に立ち上がると宣言。休養のために佐賀を訪れていた江藤新平は、やむなく郷土防衛のため指揮をとることを決意した。これは、江藤の才能を恐れ、「明治6年の政変」の際には、閣議において西郷使節派遣延期論のあいまいさを論破されたことなどを恨んだ大久保利通が、江藤が下野したことを幸いに抹殺を謀った事件だったという説が今日では強い。そのため、佐賀士族が乱をおこした佐賀の乱というのではなく「佐賀戦争」「佐賀の役」と呼ぶべきと提唱されている。その際、越智彦四郎は大久保利通を訪ね、自ら佐賀との調整役を買って出る。大久保は「ならばおんしに頼みたか。江藤ら反乱軍をば制圧する「鎮撫隊」をこの福岡に結成してくれもんそ」という。越智彦四郎は引き受けた。だが、越智は策士だった。鎮撫隊を組織して佐賀の軍に接近し、そこで裏切りをして佐賀の軍と同調して佐賀軍とともに明治政府軍、いや大久保利通を討とう、という知略を謀った。武部は反対した。
「どこが好機か?大久保が「鎮撫隊」をつくれといったのだ。何か罠がある」
だが、多勢は越智の策に乗った。だが、大久保利通の方が、越智彦四郎より一枚も二枚も上だった。大久保利通は佐賀・福岡の動静には逐一、目を光らせていて、越智の秘策はすでにばれていた。陸軍少佐・児玉源太郎は越智隊に鉄砲に合わない弾丸を支給して最前線に回した。そのうえで士族の一部を率いて佐賀軍を攻撃。福岡を信用していなかった佐賀軍は越智隊に反撃し、同士討ちの交戦となってしまった。越智隊は壊滅的打撃を受け、ようやくの思いで福岡に帰還した。その後、越智彦四郎は新たな活動を求めて、熊本・鹿児島へ向かった。武部はその間に山籠もりをして越智と和解して人参畑塾に帰還した。
「明治6年の政変」で下野した板垣退助は、江藤新平、後藤象二郎らと共に「愛国公党」を結成。政府に対して「民選議員設立建白書」を提出した。さらに政治権力が天皇にも人民にもなく薩長藩閥の専制となっていることを批判し、議会の開設を訴えた。自由民権運動の始まりである。だが間もなく、佐賀の役などの影響で「愛国公党」は自然消滅。そして役から1年近くが経過した明治8年(1875)2月、板垣は旧愛国公党を始めとする全国の同志に結集を呼びかけ「愛国社」を設立したのだった。板垣が凶刃に倒れた際「板垣死すとも自由は死せず」といったというのは有名なエピソードだが、事実ではない。
幕末、最も早く勤王党の出現を見たのが福岡藩だった。だが薩摩・島津家から養子に入った福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は、一橋家(徳川将軍家)と近親の関係にあり、動乱の時代の中、勤王・佐幕の両派が争う藩論の舵取りに苦心した。黒田長溥は決して愚鈍な藩主ではなかった。だが次の時代に対する識見がなく、目前の政治状況に過敏に反応してしまうところに限界があった。大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)という幕府始まって以来の不祥事を機に勤王の志士の動きは活発化。これに危機感を覚えた黒田長溥は筑前勤王党を弾圧、流刑6名を含む30余名を幽閉等に処した。これを「庚申(こうしん)の獄」という。その中にはすでに脱藩していた平野國臣もいた。女流歌人・野村望東尼(ぼうとうに)は獄中の國臣に歌(「たぐいなき 声になくなる 鶯(ウグイス)は 駕(こ)にすむ憂きめ みる世なりけり」)を送って慰め、これを機に望東尼は勤王党を積極的に支援することになる。尼は福岡と京都をつなぐパイプ役を務め、高杉晋作らを平尾山荘に匿い、歌を贈るなどしてその魂を鼓舞激励したのだった。
この頃、坂本竜馬らよりもずっと早い時点で、薩長連合へ向けた仲介活動を行っていたのが筑前勤王党・急進派の月形洗蔵(つきがた・せんぞう、時代劇「月形半平太(主演・大川橋蔵)」のモデル)や衣斐茂記(えび・しげき)、建部武彦らだった。また福岡藩では筑前勤王党の首領格として羨望があった加藤司書(かとう・ししょ)が家老に登用され、まさしく維新の中心地となりかけていたという。だが、すぐに佐幕派家老が勢力を取り戻し、さらに藩主・黒田長溥が勤王党急進派の行動に不信感を抱いたことなどから……勤王党への大弾圧が行われたのだ。これを「乙丑(いっちゅう)の獄」という。加藤、衣斐、建部ら7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首。野村望東尼ら41名が流罪・幽閉の処分を受け、筑前勤王党は壊滅した。このとき、姫島に流罪となる野村望東尼を護送する足軽の中に15歳の箱田六輔がいた。そして武部小四郎は「乙丑の獄」によって切腹した建部武彦の遺児であった(苗字は小四郎が「武部」に改めた)。福岡藩は佐幕派が多かったが、戊辰の役では急遽、薩長官軍についた。それにより福岡藩の家老ら佐幕派家老3名が切腹、藩士23名が遠島などの処分となった。そして追い打ちをかけるように薩長新政府は福岡藩を「贋札づくり」の疑惑で摘発した。当時、財政難だった藩の多くが太政官札の偽造をしていたという。西郷隆盛は寛大な処分で済まそうと尽力した。何しろ贋札づくりは薩摩藩でもやっていたのだ。だが大久保利通が断固として、福岡藩だけに過酷な処罰を科し、藩の重職5名が斬首、知藩事が罷免となった。これにより福岡藩は明治新政府にひとりの人材も送り込めることも出来ず、時代から取り残されていった。この同じ年、明治8年9月、近代日本の方向性を決定づける重大な事件が勃発した。「江華島(こうかとう・カンファンド)事件」である。これは開国要請に応じない朝鮮に対する砲艦外交そのものであった。そもそも李氏朝鮮の大院君はこう考えていた。「日本はなぜ蒸気船で来て、洋服を着ているのか?そのような行為は華夷秩序(かいちつじょ)を乱す行為である」
華夷秩序は清の属国を認める考えだから近代国家が覇を競う時代にあまりに危機感がなさすぎる。だからといって、砲艦外交でアメリカに開国させられた日本が、朝鮮を侮る立場でもない。どの国も、力ずくで国柄を変えられるのは抵抗があるのだ。日本軍艦・雲揚(うんよう)は朝鮮西岸において、無許可の沿海測量を含む挑発行動を行った。さらに雲揚はソウルに近い江華島に接近。飲料水補給として、兵を乗せたボートが漢江支流の運河を遡航し始めた時、江華島の砲台が発砲!雲揚は兵の救援として報復砲撃!さらに永宗島(ヨンジュンド)に上陸して朝鮮軍を駆逐した。明治政府は事前に英米から武力の威嚇による朝鮮開国の支持を取り付け、挑発活動を行っていた。そしてペリー艦隊の砲艦外交を真似て、軍艦3隻と汽船3隻を沖に停泊させて圧力をかけた上で、江華島事件の賠償と修好条約の締結交渉を行ったのだった。この事件に、鹿児島の西郷隆盛は激怒した。
「一蔵(大久保)どーん!これは筋が違ごうじゃろうがー!」
大久保らは、「明治6年の政変」において、「内治優先」を理由としてすでに決定していた西郷遣韓使節を握りつぶしておきながら、その翌年には台湾に出兵、そしてさらに翌年にはこの江華島事件を起こした。「内治優先」などという口実は全くのウソだったのである。特に朝鮮に対する政府の態度は許しがたいものであった。
西郷は激昴して「ただ彼(朝鮮)を軽蔑して無断で測量し、彼が発砲したから応戦したなどというのは、これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきの行為といわにゃならんど!政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす!」
西郷は、測量は朝鮮の許可が必要であり、発砲した事情を質せず、戦端を開くのは野蛮と考えた。
「そもそも朝鮮は幕府とは友好的だったのでごわす!日本人は古式に則った烏帽子直垂(えぼしひたたれ)の武士の正装で交渉すべきでごわす!軍艦ではなく、商船で渡海すべきでごわんそ!」
西郷は政府参与の頃、清と対等な立場で「日清修好条規」の批准を進め、集結した功績がある。なのに大久保ら欧米使節・帰国組の政府要人は西郷の案を「征韓論」として葬っておきながら、自らは、まさに武断的な征韓を行っている。西郷隆盛はあくまでも、東洋王道の道義外交を行うべきと考えていた。西郷は弱を侮り、強を恐れる心を、徹底的に卑しむ人であった。大久保は西洋の威圧外交を得意とし、朝鮮が弱いとなれば侮り、侵略し、欧米が強いとなれば恐れ、媚びへつらい、政治体制を徹底的に西洋型帝国の日本帝国を建設しようとしたのだ。西郷にとっては、誠意を見せて朝鮮や清国やアジア諸国と交渉しようという考えだったから大久保の考えなど論外であった。だが、時代は大久保の考える帝国日本の時代、そして屈辱的な太平洋戦争の敗戦で、ある。大久保にしてみれば欧米盲従主義はリアリズム(現実主義)であったに違いない。そして行き着く先がもはや「道義」など忘れ去り、相手が弱いと見れば侮り、強いと見れば恐れ、「WASPについていけば百年安心」という「醜悪な国・日本」なのである。

<ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり著作「大東亜論 血風士魂篇」第9章前原一誠の妻と妾>2014年度小学館SAPIO誌10月号59~78ページ参照(参考文献・漫画文献)
明治初期、元・長州藩(山口県)には明治政府の斬髪・脱刀令などどこ吹く風といった連中が多かったという。長州の士族は維新に功ありとして少しは報われている筈であったが、奇兵隊にしても長州士族にしても政権奪還の道具にすぎなかった。彼らは都合のいいように利用され、使い捨てされたのだ。報われたのはほんの数人(桂小五郎こと木戸孝允や井上馨(聞多)や伊藤博文(俊輔)等わずか)であった。明治維新が成り、長州士族は使い捨てにされた。それを憤る人物が長州・萩にいた。前原一誠である。前原は若い時に落馬して、胸部を強打したことが原因で肋膜炎を患っていた。明治政府の要人だったが、野に下り、萩で妻と妾とで暮らしていた。妻は綾子、妾は越後の娘でお秀といった。
前原一誠は吉田松陰の松下村塾において、吉田松陰が高杉晋作、久坂玄瑞と並び称賛した高弟だった。「勇あり知あり、誠実は群を抜く」。晋作の「識」、玄瑞の「才」には遠く及ばないが、その人格においてはこの二人も一誠には遠く及ばない。これが松陰の評価であった。そして晋作・玄瑞亡き今、前原一誠こそが松陰の思想を最も忠実に継承した人物であることは誰もが認めるところだった。一誠の性格は、頑固で直情径行、一たび激すると誰の言うことも聞かずやや人を寄せつけないところもあったが、普段は温厚ですぐ人を信用するお人好しでもあった。一誠は戊辰戦争で会津征討越後口総督付の参謀として軍功を挙げ、そのまま越後府判事(初代新潟県知事)に任じられて越後地方の民政を担当する。
いわば「占領軍」の施政者となったわけだが、そこで一誠が目にしたものは戦火を受けて苦しむ百姓や町民の姿だった。「多くの飢民を作り、いたずらに流民を作り出すのが戦争の目的ではなかったはずだ。この戦いには高い理想が掲げられていたはず!これまでの幕府政治に代って、万民のための国造りが目的ではなかったのか!?」
少年時代の一誠の家は貧しく、父は内職で安物の陶器を焼き、一誠も漁師の手伝いをして幾ばくかの銭を得たことがある。それだけに一誠は百姓たちの生活の苦しさをよく知り、共感できた。さらに、師・松陰の「仁政」の思想の影響は決定的に大きかった。
「機械文明においては、西洋に一歩を譲るも、東洋の道徳や治世の理想は、世界に冠たるものである!それが松陰先生の教えだ!この仁政の根本を忘れたからこそ幕府は亡びたのだ。新政府が何ものにも先駆けて行わなければならないことは仁政を行って人心を安らかにすることではないか!」一誠は越後の年貢を半分にしようと決意する。中央政府は莫大な戦費で財政破綻寸前のところを太政官札の増発で辛うじてしのいでいる状態だったから、年貢半減など決して許可しない。だが、一誠は中央政府の意向を無視して「年貢半減令」を実行した。さらに戦時に人夫として徴発した農民の労賃も未払いのままであり、せめてそれだけでも払えば当面の望みはつなげられる。未払い金は90万両に上り、そのうち40万両だけでも出せと一誠は明治政府に嘆願を重ねた。だが、政府の要人で一誠の盟友でもあった筈の木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治・松陰門下)は激怒して、「前原一誠は何を考えている!越後の民政のことなど単なる一地方のことでしかない!中央には、一国の浮沈にかかわる問題が山積しているのだぞ!」とその思いに理解を示すことは出来なかった。
この感情の対立から、前原一誠は木戸に憎悪に近い念を抱くようになる。一誠には越後のためにやるべきことがまだあった。毎年のように水害を起こす信濃川の分水である。一誠は決して退かない決意だったが、中央政府には分水工事に必要な160万両の費用は出せない。政府は一誠を中央の高官に「出世」させて、越後から引き離そうと画策。一誠は固辞し続けるが、政府の最高責任者たる三条実美が直々に来訪して要請するに至り、ついに断りきれなくなり参議に就任。信濃川の分水工事は中止となる。さらに一誠は暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔となるが、もともと中央政府に入れられた理由が理由なだけに、満足な仕事もさせられず、政府内で孤立していた。一誠は持病の胸痛を口実に政府会議にもほとんど出なくなり、たまに来ても辞任の話しかしない。「私は参議などになりたくはなかったのだ!私を参議にするくらいならその前に越後のことを考えてくれ!」
木戸や大久保利通は冷ややかな目で前原一誠を見ているのみ。
「君たちは、自分が立派な家に住み、自分だけが衣食足りて世に栄えんがために戦ったのか?私が戦ったのはあの幕府さえ倒せば、きっと素晴らしい王道政治が出来ると思ったからだ!民政こそ第一なのだ!こんな腐った明治政府にはいたくない!徳川幕府とかわらん!すぐに萩に帰らせてくれ!」大久保や木戸は無言で前原一誠を睨む。三度目の辞表でやっと前原一誠は萩に帰った。明治3年(1870)10月のことだった。政府がなかなか前原一誠の辞任を認めなかったのは、前原一誠を帰してしまうと、一誠の人望の下に、不平士族たちが集まり、よりによって長州の地に、反政府の拠点が出来てしまうのではないかと恐れたためである。当の一誠は、ただ故郷の萩で中央との関わりを断ち、ひっそりと暮らしたいだけだった。が、周囲が一誠を放ってはおかなかった。維新に功のあった長州の士族たちは「自分たちは充分報われる」と思っていた。しかし、実際にはほんの数人の長州士族だけが報われて、「奇兵隊」も「士族」も使い捨てにされて冷遇されたのだった。そんなとき明治政府から野に下った前原一誠が来たのだ。それは彼の周囲に自然と集まるのは道理であった。しかも信濃川の分水工事は「金がないので工事できない」などといいながら、明治政府は岩倉具視を全権大使に、木戸、大久保、伊藤らを(西郷らは留守役)副使として数百人規模での「欧米への視察(岩倉使節団)」だけはちゃっかりやる。一誠は激怒。
江藤新平が失脚させられ、「佐賀の役」をおこすとき前原一誠は長州士族たちをおさえた。「局外中立」を唱えてひとりも動かさない。それが一誠の精一杯の行動だった。
長州が佐賀の二の舞になるのを防いだのだ。前原一誠は激昴する。「かつての松下村塾同門の者たちも、ほとんどが東京に出て新政府に仕え、洋風かぶれで東洋の道徳を忘れておる!そうでなければ、ただ公職に就きたいだけの、卑怯な者どもだ!井上馨に至っては松下村塾の同窓ですらない!ただ公金をかすめ取る業に長けた男でしかないのに、高杉や久坂に取り入ってウロチョロしていただけの奴!あんな男までが松下村塾党のように思われているのは我慢がならない!松陰先生はよく「天下の天下の天下にして一人の天下なり」と仰っていた。すなわち尊皇である。天子様こそが天下な筈だ!天下一人の君主の下で万民が同じように幸福な生活が出来るというのが政治の理想の根本であり、またそのようにあらしめるのが理想だったのだ!孔孟の教えの根本は「百姓をみること子の如くにする」。これが松陰先生の考えである!松陰先生が生きていたら、今の政治を認めるはずはない!必ずや第二の維新、瓦解を志す筈だ!王政復古の大号令は何処に消えたのだ!?このままではこの国は道を誤る!」その後、「萩の乱」を起こした前原一誠は明治政府に捕縛され処刑された。


さては歴史時代劇ドラマ『白虎隊』である。ドラマは井伊大老暗殺、つまり幕府の要人・彦根藩主・井伊直弼(いい・なおすけ)大老が暗殺された『桜田門外の変』から始まる。時代は万延元年三月三日の雪の早朝である。薩摩藩士ひとりと水戸浪人十七人での襲撃であった。
この襲撃で大老の井伊直弼が暗殺されるが、まさかそれが会津藩士たちにとって七年後にやってくる悲劇とは思わない。

場所は会津若松城下、桜田門外の変から二年後の文久二年夏である。
井上丘隅の邸宅では料理の支度でおおわらわである。丘隅の妻・とめや家僕の七兵衛や妻のもよも忙しく動いていた。なんせ丘隅の娘・雪の婚礼は明日である。
井上丘隅の長女・雪は、会津藩の要職をつとめる家老・神保修理(しゅり)に嫁ぐのだ。
白無垢の雪の姿に次女のちか子もまだ幼い末女・ゆみ子も思わずうっとりした。
井上丘隅と昵懇の仲の会津藩家老・野村左兵衛(さひょうえ)は縁側で話をしていた。いい天気だった。
「いやあ、まんず、井上先生、いがったなっし」
「まんずまんず、んだなあ。ほんでもおらの家は女子しがいねがらなっし。跡取りがなあ」
「んだげんじょ、井上先生」野村は笑顔で「ご養子のお話が殿から出てるんだべ?」
「ああ、養子の話がっす?んだども俺らの禄高は左兵衛殿の半分以下だがらなあ」
「そげなごどねっぺ。井上先生ほどの人格者なら大勢の養子候補の童子が集まるべした」
「んだどいいげんどなあ。」丘隅は笑った。
「まあ、んだげんじょ雪が神保修理さまに嫁ぐんだがら、まあいがっだっぺ?」
「んだなあ、いがっだなっし」
ふたりは白無垢姿の雪にみとれていた。まだ幼い末娘のゆみ子等は「んだげんじょ、かぐや姫みだいだなっし!」などという。次女のちか子も「ほんに」という。
丘隅は「雪や。神保家に嫁ぐならいいげんじょ、月に行っではなんねえぞ」と冗談を言った。一同は爆笑の中にいた。井上丘隅、会津藩士、六十歳、二〇〇石家禄。代々、教職の家柄である。学問こそが井上丘隅のすべてであった。
のちに『悲劇の少年兵士隊 白虎隊』として歴史に名を残す少年たちも教え子である。彼らは井上丘隅や藩校・日新館で学んだ元・会津童子である。
ある日、井上丘隅と幼少の少年たちは釣りをした。
あまり釣りの成果はかんばしくなかった。だが、帰りの午後、ある邸宅の低い垣根から『若い女子たちの水浴』が無意識に覗けた。丘隅はいやらしい気持ちはなかったが、少し興味ありげに覗いた。少年たちは「なにしでんのがっす?先生」などという。
軽服の中野竹子が薙刀を構え、「こらっ!卑怯者め!」と門から出てきた。
井上丘隅も少年たちも逃げた。
「あ!いげねえ、釣竿なぐしだ」
少年たちは「井上先生、ならぬものはならぬものです!」と声をそろえていう。
日新館や会津藩内で教わる“什の掟”で、あった。
丘隅は苦笑して「んだな、おれが助兵衛であっだ。あいすまねえなっし!」
と頭を下げた。(「什の掟」は後述する)少年たちは笑った。
 会津磐梯山のふもとの猪苗代湖では、会津藩士で砲術指南役の山本覚馬と妹の山本八重(2013年度NHK大河ドラマ『八重の桜』の主人公)と、覚馬の弟子の川崎尚之助が砲術指南をまさに受けているところであった。オランダ製の砲術ではあったが命中力は高かった。だが、薩長軍は打撃力の物凄いアームストロング砲を持っている。
確かに会津藩の旧式砲門でも的には当たる。だが、アームストロング砲には逆立ちしても敵わない。
井上丘隅が「よう、覚馬殿!きばりんしゃい!」と励ます。
「ながなが板についできでるようだんべ」
すると覚馬が「いや、これでは駄目だんべした。アームストロング砲にはこれでは勝てね」
と弱音を吐く。八重は「んだげんじょ、アームストロング砲はそげに日本中にいっぺいあるのがっす?あんつぁま」と訊く。
覚馬は「今はそんげにないみだいだげんじょ、薩摩藩長州藩は隠れでどんげな砲門もってっかわがんね。会津の軍備は遅れでるがらなあ。まずは用心が肝要だべ」
丘隅は感心して「覚馬殿は会津の誇りだべず。会津藩ももっといい砲門を用意せねばのう」
「まったくです。ですが会津藩の家老たちは「金がないから無理だ」の一辺倒…このままでは危うい」川崎尚之助は嘆いた。
「他藩出身の川崎さんも会津のことをそげに心配しでぐれるなんでありがでいなっし」
丘隅は感激までした。そして「のう八重、にしももう嫁に行く歳だんべ?相手は決まったが?なんならこの井上丘隅が相手ばみつくろってやるが?」と訊いた。
八重は「相手はおりやす。尚之助さまです」などという。
「んだが?八重、いがったなっし」
「んだなっし、ありがどなっし井上先生」
八重は微笑んだ。
結婚式の為に会津に向かっていた神保修理が歩いてやってきた。
現代のように自動車も列車も自転車もバスも飛行機もない時代、陸上移動はもっぱら徒歩である。丘隅が「修理殿!」と声をかける。
「これは義父上!ごぶさたぶりにござる」旅姿のまま頭をさげる。
「おれはいいがら、修理殿、雪にばはよう顔ばみせでやってくれなんもし。娘は首ば長うしでまってんがら」と笑顔になる。
「これは修理殿」山本覚馬や妹の八重や川崎は頭をさげた。「いがっだなっし、修理殿」
次の日、神保修理と井上丘隅の娘・雪が祝言をあげた。
式には会津藩家老の西郷頼母(たのも)の姿もあった。野村左兵衛(さひょうえ)夫妻の詩吟で、井上丘隅は日本舞踊を舞った。神保修理は緊張の為かぐいぐいと酒をのどに流しこんだ。雪はきれいな花嫁である。のちにまさかの最期を飾る『悲運の会津女性』でもある。神保修理自身も歴史の仇花というか、なんというか壮絶な最期をのちに遂げる。
だが、それはまだ歴史の上では先のことである。
西郷頼母や田中土佐、野村左兵衛ら家老はその夜、早馬にて『会津藩の京都守護職就任要請』を知らされる。一同は驚いた。
「京都守護職じゃと?!」
「ばかな!」
「誰がそげな要請しよっだんだべ?松平春嶽公と一橋慶喜?!そげな…」
一同の返答はもう決まっていた。「とにかく反対!絶対に反対である!」
会津に戻った会津藩主・松平容保にもすぐにその旨を伝えた。誰が考えても損な役回りである。絶対反対!この四文字に尽きる。
「殿!会津藩が京都守護職を受ける事だけはやめでぐなんしょ!末代まで会津に禍根を残すことになりまする!」頼母は強調した。
「絶対に御引き受けはしないでくなんしょ!お殿様!」
「わたしからもお願いします!どうが辛抱を!」田中土佐も西郷頼母も平伏するのみである。「今、京を荒らしまくっている攘夷派の浪人どもを敵に回しては井伊大老の二の舞です」
「強大な強い力ははじめはありがたがられますが次に疎まれ、最後は憎まれます。会津が火中の栗をわざわざ拾う必要はありません!どうか守護職就任だけはご辞退を………!」
だが、容保は「わしはこの話受けようと思う」という。
「なじょしてで御座りまするか?」
「徳川家の為じゃ!藩祖・保科正之公の御家訓(ごかきん)じゃ!」
西郷頼母も田中土佐らも無言で平伏する。
「会津藩御家訓「将軍のため一心大切に忠勤に励まなければならない。もし二心を抱く藩主がいれば私の子孫ではない」(保科正之公)」
「……殿は…生真面目すぎる」
頼母は言うが御家訓や保科正之公まで出されては手足も出せない。
損ばかりの“火中の栗を拾う”が如しの会津藩の京都守護職就任なれど、もはや、策なし、というものだ。
<松平容保。天保6年(1836年2月15日)に江戸の四谷にあった高須藩邸で藩主・松平義建の六男として生まれる。母は側室の古森氏。弘化3年(1846年)に叔父の会津藩第8代藩主・容敬(高須松平家出身)の養子となり、嘉永5年(1852年)に家督を継ぐ。安政7年(1860年)に桜田門外の変が起こった際には、水戸藩討伐に反対し、幕府と水戸藩との調停に努めた。美貌の姫として歴史上に知られる照姫は義理の姉さまである。>
もうどうしようもない。頭を抱えるしかない。家老たちは泣いた。
会津藩の地獄の日々の始まりであった。
かくして松平容保率いる会津藩士たちは『京都守護職就任』の為に京都(明治維新まで京都が日本の首都)に向けて出陣した。松平容保公らの陣列に領民どもは頭をさげて平伏している。井上丘隅らは旅立つ藩士たちに「さすけねえ、京都で悪い女郎に手えだすんでねえど。深酒にはきいつけんだぞ」という。「修理殿、娘ば頼んます」
「父上!」「義父上!まかせてください!」
「んだが?さすけねえが?」
山本覚馬と弟の三郎も京都に向かうことになった。「ちゃんと母上や父上の面倒みるのだぞ、八重」兄貴の山本覚馬は微笑んだ。
「はい!さすけねえ、あんつぁま!まがせでくれなっし!」
八重は弟の三郎に「いいが、三郎!山本家の名前に泥をかげねようにきばらんとだめだじょ!」という。すると三郎が「でも、僕より八重姉さんのほうが鉄砲の腕も腕力もうえなのだがら八重姉ちゃんが本当はいぐべきなんだず」などという。
「なにを情げねえごといっでんだ?三郎、それでも会津藩士が?!」
「僕は八重姉さんが母上のお腹の中に忘れてきたものをつけて生まれてきたんだもの」
三郎は冗談を言った。「母上のお腹の中に忘れてきた………?」
覚馬と尚之助らはにやりとなる。やっとわかった山本八重は頬を赤らめ、
「三郎の馬鹿者!」と笑った。
井上丘隅は「これは会津藩の国難じゃ。………会津のこの美しい土地が汚されねばいいがのう」とうつろな溜息をついた。
まさに国難で、ある。
『会津戦争』まで数年の、地獄の日々の始まり、であった。






I feel coke.コーラ・ファン『(いわゆるコーラのコアファン)コーラー』の緑川鷲羽毎日コーラの下戸甘党

2015年03月23日 18時52分14秒 | 日記








私事で他人には関係ない事ですが


僕は下戸です。


そしてコーラ・フリーク(いわゆるコーラのコアファン『コーラー』)です。


ペプシも好きなのですが


日本コカコーラのコーラを箱ごと買って毎日自宅で飲んでいます。


コーラ、最高ですよね(笑)


あの炭酸感、のどごし、お風呂後のコーラはたまりません。臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ。

武田信玄「風林火山」風林火山の御屋形さまと軍師・山本勘助アンコールブログ連載小説3

2015年03月23日 06時58分44秒 | 日記






         3 信虎追放







  甲斐は枯れ果てていた。
 のちの信玄、武田晴信は父、信虎を追放して国主となった。
 甲斐はすぐに洪水や冷害に襲われ、荒れ果てていた。小国だった。しかし、晴信の戦略と政治力によって甲斐(山梨県)とのちに信州(長野県)を領土とすることになる。
 甲斐には二十以上の金鉱があったという。
 しかし、豪族の金山衆が握っていた。
 晴信はそこを攻め、支配した。矢銭(軍事費)のためである。
  信虎は駿府に無理やり隠居させられた。
 かれは不満だった。殺戮の限りをつくした信虎の追放に、甲斐の人々は喜んだという。「くそったれめ!」
 信虎は激昴し、刀を抜いた。
 夜だった。
 隠居屋敷の庭で枝を斬りおとし、暴れた。
 信虎は、白髪まじりのおいぼれ爺さんになっていた。ひと殺しの好きな質である。
「死んでくれるわ! 晴信め!」
 かれは刀を首にあて、「死んでやる!」とさけんで力んだ。
 しかし、息を荒くして地面に崩れ落ちた。
 ……はあ…はあ…はあ……晴信!
 女中は笑った。
「死ぬことも出来ない」
「……やかましい!」
「大殿は他人は殺せても自分は殺せない。無理なことは無理なのです」
 年増の女中は惨めな信虎を嘲笑した。
「うるさいわい!」
 信虎にはどうしようもなかった。
 確かに、他人は殺せる。しかし、自分は殺せないのだ。
 ちなみに、かれの生活費は晴信が払っていたという。
「糞ったれめ!」
 信虎は刀をぶんぶん振って、荒い息で木を斬りつけた。
 女中の嘲笑はやまない。
 信虎は、こんな惨めな生活をさせる息子に我慢がならなかった。
 しかし……何もできない。
 信虎はやっと自分が無力だと感じはじめていた……。




  晴信の労咳(肺結核)がひどくなり、かれは咳き込むことが多くなった。
 医者は診察して、
「労咳を治す薬はありませぬ。ここ二~三年は静かに暮らしたほうがよいと考えまする」 という。
 晴信は激昴して、
「二~三年も動かなんだら甲斐の国は他国の武将に蹂躙されてしまうわ! 馬鹿を申すな!  この藪め!」と叫んだ。
「御屋形様!」
 家臣の板垣信方がいった。
「なんじゃ? 板垣」
「志磨の湯へ湯治にいかれてはいかがでしょうか? 病にもききますでしょうて」
「湯治? ………まぁそれもいいかも知れぬな」
 晴信は苦笑した。武将が湯につかって湯治か? ……情ない。
 しかし、晴信には湯で疲れをとる暇はなかった。
 北信の村上義清との合戦があったからである。
 武田晴信率いる二千の兵は、依田から千曲川をそって西北方へすすんで来て、中之条あたりに陣をひき、村上義清の軍と対峙していた。
 諸将軍を集めて、晴信はいった。
「今度の戦は村上義清の首をとることである! 敵を全滅させることにある。敵を包囲し、壊滅させるのだ!」
「おう!」
 諸将軍はいきりたった。
 天文十七年二月十四日、開戦となった。
 両軍数千がいりみだれる。
 槍が無数に重なり、雲霞の如く矢が飛ぶ。
 そんななか、板垣信方が戦死した。
「くたばれ!」
 敵がそう叫んで刀を振るのを討ちしそんじて、晴信はうちももあたりに傷を受けた。
 痛みは感じなかった。晴信は馬上から敵を斬り殺した。
 さらに敵がやってくる。
 合戦は長期戦となった。
 夜になると「のろし」が岩鼻城からあがった。それに呼応するように葛尾城からも狼煙があがった。村上義清は恐怖におののいた。
「やはり武田は強い」
 武将らしからぬことを村上は呟いて陣を離れた。
 晴信は二千の兵を率いて上野城に入った。
「御屋形様! 夜食を調達しましょう」
 家臣がいった。
「すまぬ」晴信は鎧兜をはずしていった。
 ……それにしても板垣信方が死んだのは残念である。
  山本勘助がやってきた。
「御屋形様、越後にいってきました」勘助はいった。
「越後といえば…」
 晴信は続けた。「長尾景虎という武将が名をあげているというな。まだ二十歳だそうではないか」
「いかにも長尾景虎(のちの上杉謙信)はまだ二十歳です」
「余より十歳も若い。なのに越後中に恐れられているとか…」
「そうです」
「勘助、越後へもう一度行き、長尾景虎を調べよ」
 晴信は命令した。
「はっ!」
 山本勘助はさっそく越後へ向かった。
勘助は越後(新潟県)に潜入した。越後では越後の百姓や兵士に化けて情報を集めた。が、怪しまれ春日山城で長尾の御屋形様(景虎・のちの上杉謙信)の姿を拝んだところで捕らえられた。謙信は若く、女のように青白く長髪で、手足も細い。まるで弁財天が如しだ。
 だが、本人は「毘沙門天の化身」という。毘沙門天の替りに正義の「義の戦」をするという。「そなたは甲斐武田の間者であろう?」
 勘助は縄で縛られたまま「いいえ、あっしたちは越後の百姓でがんす」とシラをきる。
「ならば何故春日山にきたのじゃ?」景虎の右腕で参謀の宇佐美定満が「死にたいか?!」と脅しをかける。すると上座の館でだまってきいていた青年が「やめい!」と手を翳した。
 男の声だが、風貌はまるで見目麗しき姫の如しだ。
「そこの雙眼! 仲間を皆殺しにされねばいわぬか?」
「わしは百姓でがんす!」
「黙れ!」景虎は刀を抜いて、館近くの木に後ろでに縛られている勘助にせまった。
「死ぬのが怖いであろう? 間者と認めれば放してやろう」
「間者ではありませぬ。それがしは百姓! 好みは土いじりでがんす」
 景虎は勘助の右太ももを浅く刺した。それでも勘助は激痛を耐えて、自分は百姓である、という。のちの上杉謙信もなかなかの風流人で、「ならいい。甲斐・信濃に戻りし折は武田晴信によろしゅうな」とにやりと笑い、
「こやつらの縄をほどき甲斐・信濃に戻せ」と寛大さもみせる。
 皆殺しにする程、景虎は了見がせまくない。




  塩尻峠で、また合戦があった。
 天文十七年(一五四八)七月十五日、寅の上刻(午前四時)三百騎が塩尻峠を越えた。武田軍は今井にむけて走った。
 対小笠原合戦である。
 陣の中で、晴信は吉報をまった。
「千野弥兵衛殿、土屋信義殿、今福平蔵殿討死……」
 早馬の伝令は訃報ばかりを伝えてくる。
 晴信は頭巾をかぶり、陣の中央でどんとかまえている。顔色ひとつかえない。
 晴信の本陣は今井の北方にあった。
 雨がふってきた。
 やがて夜となり、朝がくると小笠原軍は驚いた。
 武田軍がいないのである。撤退したのだ。
「くそったれ! 逃げやがったか!」
 それは、それは晴信の「走為上の計」だった。
 軍の態勢を立て直すと、晴信は二千の兵を動かし、小笠原長時を塩尻峠から追い落とした。さらに晴信は兵を村井まですすめた。
 小笠原が逃げて空城になった城を、急いで修復させた。
 晴信は勝ち名乗りをあげた。
 かれはいう。
「金をつかうことを惜しむな。必要なときはいつでも古府中にいってくるがよい。中信濃を完全に手中に治めるためにはまず民の心をつかまなければならない。人だ…」
 晴信は有名な言葉をいう。
「人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、あだは敵…」
 この言葉通り、晴信は立派な堀のある城はつくらなかった。
 武田の城は、人が守る。外堀も内堀もいらぬ。館さえあればよい。
 それが武田晴信の考えだった。
 晴信は武田と戦って負けて、武田に忠誠を示したものは金山には送らない。が、負けてそむいたのもは金山に送った。
 武田の金山は二十四鉱もあったという。
 晴信は捕らえた男を金山におくり、女は家臣に与え、ブスな女は鉱山の遊び女とした。 美女だったら、側室として館に住まわせた。
 晴信は風邪ということで館で寝込んだが、周囲は風邪ではないことを知っていた。

  晴信は湖衣姫と夜、愛の行為をした。
 晴信の疲れがひどすぎてゆっくりするしかなかったためか、愛の行為は素晴らしいものだった。湖衣姫はあえぎ、甘い息をもらした。
「うれしうございまする! はあはあ…御屋形様! 御屋形様!」
 湖衣姫は絶頂を迎えた。
 里美は嫉妬した。
「湖衣姫殿ばかり御屋形様は抱かれる。……里美は寂しゅうござりまする」
 ある日、夜、晴信の館に裸の里美がやってきた。
「……里美か?」
「抱いてくだされ! 御屋形様!」
 しかし、晴信は女を抱いてばかりいる訳にもいかない。
 対小山田信有の合戦となった。
 陣では気分がすぐれぬ甲冑姿の晴信が、咳をしながら戦況報告をまっていた。
「……小山田信有の首、討ち取りましてござりまする!」
 吉報がきた。
「そうか! よし!」
 晴信ははじめて感情をみせた。笑顔だった。
 晴信の側には初陣の息子、勝頼の姿もある。
「おめでとうござりまする、父上!」
「……勝頼、勝ち戦じゃ」
 晴信はいった。

  晴信の館に今川義元からの使者がきていた。今川の老臣・岡部美濃守だった。
 晴信は「……ついにきたな」とにやりとした。
なんでも関東管領・上杉憲政が北条氏に追われ、越後(新潟県)に逃げたという。
「上杉が?」
「はっ!」岡部は平伏してから「なんでも長尾景虎を頼っていったときいておりまする」「……長尾景虎……越後の龍か」
 晴信は息子に目をやった。
「勝頼、どうおもう?」
 晴信は息子をためした。
「上杉憲政など恐るるにたりません。放っておいてもよいかと…」
「………そうか」
 晴信はがっかりした。もっとゆうこともあろうに……

  武田は十五年にもおよぶ治水工事をしていた。釜無川と御勅使川が度々けっかいするので一本にまとめようとする工事だった。
 その堤はいまでも信玄堤と呼ばれ、利用されているという。

  今川の人質だったのちの徳川家康(松平竹千代(松平元康))少年が織田家に転がりこんだのは、まだ、信秀が生存中のことだ。その頃、織田信秀は斎藤道三の美濃(岐阜)の攻略を考えていた。道三は主君だった美濃国守護土岐頼芸を居城桑城に襲って、彼らを国外に追放したという。国を追われた土岐頼芸らは織田信秀を頼ってきた。
 いくら戦国時代だからといって何の理由もなく侵略攻撃はできない。しかし、これで大義名分が出来た訳だ。「どうかわが国を取り戻してくだされ」と頼ってきたのだ。
「わかり申した」織田信秀強く頷いた。「必ずや逆臣・道三を討ち果たしてみせましょう」 こうして、戦いは始まった。
 吉法師もこの頃、元服し、信長と名乗る。そして、初陣となった。斎藤氏との同盟軍・駿河(静岡)の今川の拠点を攻撃することとなった。信長少年の武者姿はそれは美しいものであったそうだ。織田勢は今川の拠点の漁村に放火した。
 ごうごうと炎が瞬く間に上り、炎に包まれていく。村人たちは逃げ惑い、皆殺しにされた。信長少年はその炎を茫然とみつめ、「これが……戦か」と、力なく呟いたという。
「信長はどうかしたのか?」信秀は平手に尋ねた。
「いや。わかりませぬ」平手政秀は首をかしげた。たかが放火と皆殺しだけで、なぜ若大将がそんなに心を痛め、傷ついてしまったのか…。典型的な戦国武士・平手政秀には理解できなかった。父・信秀も、あんな軟弱な肝っ玉で、大将になれるのか、と不安になった。 この頃、織田家に徳川家康(松平竹千代(松平元康))少年が転がりこむ。
 なんでも渥美半島の田原に城をかまえる戸田康光という武将が、信秀のところにひとりの少年を連れてやってきたという。
 戸田は「この童子は、松平広忠の嫡男竹千代です」といって頭をさげた。
「なんじゃと?」信秀は驚きの声をあげた。
 戸田が隣で平伏する少年をこずくと、「松平竹千代(松平元康、徳川家康)…に…ござります」と、あえぎあえぎだが少年は、やっと声を出して名乗り、また平伏した。
「戸田殿、その童子をどこで手に入れたのじゃ?」
「はっ、もともとこの童子は三河の当主・松平広忠の嫡男で、今川と同盟を結ぶための人質でござりました。それを拙者が途中で奪ってつれてきたのでござります」
 戸田はにやりとした。してやったりといったところだろう。
 織田信秀は当然喜んだ。「でかした、戸田殿!」彼はいった。「これで…三河は思いどおりになる」
 そして、信秀は松平竹千代を熱田近辺の寺に閉じ込めた。
  この頃、尾張(愛知県)の当主・織田信秀は三河(愛知県東部)攻撃がうまくいかず苛立っていた。当主の松平広忠の父松平清康が勇猛な武将で、結束したその家臣団は小規模な集団ながら、西からは織田、東からは今川に攻められたが孤軍奮闘していた。
 しかし、やはり織田か今川につくことにして、結局、今川につこうということで今川に人質・竹千代を送ったのである。
 松平は拡大を続け、次第に松平姓を名乗る部族が増えていった。しかし、数がふえれば諍いが起こる。松平家は内部分裂寸前になり、そこに尾張の織田信秀と駿河(静岡)の今川義元が入り込んできた。
 義元はすでに「京都に上洛して自分の旗をたてる」という野望があった。
 この有名な怪人は、顔をお白いで真っ白にし、口紅をつけ、眉を反り落とし、まるで平安時代の公家のような外見だったという。自分のことを「まろ」とも称した。
 上洛といっても京都の足利将軍を追い立てて、自分が将軍になるという訳ではない。
 今川家はもともと足利支族で、もし足利本家に相続人がいなければ、今川家から相続人をだせる家柄である。ただ、今川義元とすれば駿河一国の守護として終わるより、足利幕府の管領となるのが目標であった。それの邪魔になるのは尾張の織田と三河の松平だ。
 美濃(岐阜)の斎藤氏については織田などをやぶったあとで始末してやる…と思っていたという。そんな野望のある今川義元は、伊勢に逃れた松平広忠を救済した。
「まろが織田を抑えるうえ、三河にもどられよ」
 当然、松平広忠は感謝した。今川義元は大軍を率いて三河に出陣した。そんな頃、人質・竹千代が戸田に奪われ、織田家にやってきたのだ。
 織田信秀は松平家の弱体と、小豆板での勝利に狂喜乱舞した。今川は策を練った。
「松平広忠殿、もはや織田家に下った竹千代は帰ってはこぬ。そこで、まろの今川の家来となったらいかがか?」
 当然、小勢力の松平家は家臣となろうとした。しかし、「そんなことはできない。竹千代様の帰りをあくまでも待って、われらは松平家を再興するのじゃ」と頑張る者たちもいた。それがのちに徳川家普代の家臣群になっていったという。

 美濃の斎藤道三は、尾張と美濃の狭間にある富田の正徳寺で会見しよう、と信長にもちかけてきた。信長はその会見を受けることにした。
 興味深々なのは舅の斎藤道三の方である。尾張のうつけ(阿呆)殿というのは本当なのかどうか? もし、うつけが演技で、本当は頭のいい策士ならどえらいやつを敵にまわすことになる。しかし、うつけは演技ではなく、只の阿呆なら、尾張はまちがいなく自分の手に落ちる。阿呆だったら、攻撃も楽なものだ。しかし……本当の正体は……
 斎藤道三は、自分の家臣八百人あまりを寺のまわりに配置し、全員お揃いの織目高の片衣を着せた。そして、自分は町の入口にある小屋に潜んだ。信長の行列をここから密かに眺めようという魂胆である。やがて、信長一行が土埃をたててやってきた。信長は無論、斎藤道三が密かに見ていることなど知らない。
 信長のお共の者も八百人くらいだ。ところが、その者たちは片衣どころか鎧姿であったという。完全武装で、まるで戦場にいくようであった。家臣の半分は三メートルもの長い槍をもち、もう半分が鉄砲をもっている。当時の戦国武将で鉄砲を何百ももっているものはいなかったから、道三は死ぬほどびっくりした。
「信長という若僧は何を考えておるのだ?!」彼は呟いた。
 側には腹心の猪子兵助という男がいた。道三は不安になって、「信長はどいつだ?」ときいた。すると、猪子兵助は「あの馬にまたがった若者です」と指差した。
 道三は眉をひそめて馬上の若者を見た。
 茶せんにしたマゲをもえぎ色の糸で結び、カタビラ袖はだらだらと外れて、腰には瓢箪やひうち袋を何個もぶらさげている。例によって、瓜をほうばって馬に揺られている。
 通りの庶民の嘲笑を薄ら笑いで受けている。道三は圧倒された。
「噂とおりのうつけでございますな、殿」猪子兵助は呆れていった。
 道三は考えていた。舅の俺にあいにくるのにまるで戦を仕掛けるような格好だ。しかも、あれは織田のほんの一部。信長は城にもっと大量の槍や鉄砲をもっているだろう。若僧め、鉄砲の力を知っておる。あなどれない。
 道三は小屋を出て、急ぎ富田の正徳寺にもどった。
 寺につくと信長は水で泥や埃を払い、正装を着て、立派ないでたちで道三の前に現れた。共の者も、道三の家臣たちもあっと驚いた。美しい若武者のようである。
「あれが……うつけ殿か?」道三の家臣たちは呆気にとられた。
「これはこれは婿殿、わしは斎藤道三と申す」頭を軽く下げた。
「織田信長でござりまする、舅殿」
 信長は笑みを口元に浮かべた。
「信長殿、尾張の政はいかがですかな?」
「散々です。しかし、もうすぐ片付くでござりましょう」
「さようか。もし、尾張国内のゴタゴタで、わしの力が借りたい時があれば、いつでも遠慮なく申しあげられよ。すぐ応援にいく。なにせお主は、可愛い娘の立派な婿殿だからな」「ありがたき幸せ」信長は頭を下げた。
「ところで駿河の今川が上洛の機会をうかがっておるそうじゃ。今川の兵は織田の十倍……いかがする気か? 軍門に下るのも得策じゃと思うが」
「いいえ」信長は首をふった。「今川などにくだりはしませぬ。わしは誰にも従うことはありませぬ。今川に下るということは犬畜生に成りさがるということでござる」
「犬畜生? 勝ち目はござるのか?」
「はっ」信長は言葉をきった。「………戦の勝敗は時の運、勝ってみせましょう」
「そうか」道三は笑った。「さすが育ちのいい婿殿だ。ガマの油売り上りのわしとは違う気迫じゃ」
「舅殿がガマの油売り上りなら、わしはうつけ上りでごさる」
 ふたりは笑った。こうして舅と婿は酒を呑み、おおいに語り合った。斎藤道三は信長にいかれた。そして、それ以後、誰も信長のことをうつけという者はいなくなったという。 信長二十歳、道三六十歳のことである。
  信長は嘲笑や批判にはいっさい動じることはなく、逆に、自分にとってかわろうとした弟や重臣たちを謀殺した。病だといつわって、信長を見舞いにきた弟・信行を斬り殺して始末したのだ。共の柴田勝家は茫然とし、前田利家は憤った。しかし、信長は怒りの炎を魂に宿らせ、横たわる信行の死骸を睨みつけるだけであった。
 こうして、織田家中のゴタゴタはなくなった。
 そして、いよいよ織田信長の天下取りの勝負が始まるのであった。それは武田晴信をも恐れさせる勢力に、織田信長がなることを意味していた。