緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

【緑川鷲羽自作小説の大加筆予定】集英社プロ編集者さんに「駄目だし」!「説明せずに人物描写しろ!」

2016年02月29日 16時16分43秒 | 日記










集英社のプロの編集者さんに自作小説の駄目だしをしてもらいありがたかった。


指摘もごもっともで、


まあ、ライトノベルの方の編集者さんなので

これは歴史小説でラノベじゃないと(笑)。


全体的に文章はうまいが説明文が多く


「説明せず人物描写をしろ」と。


なるほどなあ、と。流石はプロ編集者ですよね!


私も目が覚めました。自分の小説を推敲加筆する必要があります。

すいませんがブログへの小説の連載を一旦中止して、

誰でもわかる面白い小説に加筆推敲することとします。

しばらくはブログへの小説連載を休止しますが、どうかわかってください。

もう少し早くプロの方の指摘を受けるべきでした。

すいません。まあ、誰もが納得する小説…

などあるわけもなくどんな小説にも好き嫌いはあります。

ですが、もう少し推敲が必要なのも事実です。

才能がない以前に推敲不足というか読者の望むものが見えていなかった…というか。

とにかく勉強不足でした。

推敲後も文学賞が駄目なら「才能がない」ということ(笑)


そのときは自決するかもですね(笑)

【刺青】キムタク夫妻や宮沢りえも?芸能人の知られざる”タトゥー”事情

2016年02月29日 13時41分20秒 | 日記











【刺青】キムタク夫妻や宮沢りえも?芸能人の知られざる”タトゥー”事情
2016年02月28日
スクープ





1: 砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/
歌手のきゃりーぱみゅぱみゅ(23)のTwitterで22日、ちょっとした騒動が起こった。
男性の毛深い太ももに、きゃりーとおぼしき顔がタトゥーのように彫られた写真が投稿され、騒然となったのだ。

「ダサイ」「似てない」などの失笑を巻き起こして、きゃりー自身も「一生わたしふとももにいるのかな」と否定も肯定もしない冷静なコメントを残している。

有名人のタトゥーといえば、海外ではもはや完全にファッションとして認知されている。
レディー・ガガ(29)、ブラッド・ピット(52)などのハリウッドスターや、スポーツ界でも、デヴィッド・ベッカム(40)にリオネル・メッシ(28)といった超一流選手が当たり前のようにタトゥーを入れている。
それに対して、日本の芸能界にはタトゥーを入れながらもおおっぴらにしているタレントはほとんどいない。

「肩甲骨の上に折り鶴のタトゥーを入れている宮沢りえ(42)、手首にブレス状のタトゥーを入れている夏川りみ(41)、左腕に夫婦で星のタトゥーを入れたつるの剛士(40)などが知られていますが、そこまで周知はされていない。海外が見せる文化だとすれば、日本は隠す文化。所属事務所がまず止めますから」

とは芸能記者の言葉だ。

■テロップをかぶせて“映像処理”

日本の芸能界で仕事をするにあたって、タトゥーがポジティブに働くことは皆無と言っていい。
むしろ、マネジメントする側からは“ご法度”の感すらある。

「元KAT-TUNの田中聖(30)は、下半身がタトゥーまみれでジャニーさんの怒りを買いました。
V6の森田剛も最初はオキニだったのに、タトゥーがバレて干されたのはよく知られた話です。
最近で言うと、清原和博(48)はプロ野球引退後に刺青を入れたのですが、懇意にしていた和田アキ子にそれを告げると、『何考えとるんや!』と、和田のほうから縁を切ったとも。
スキャンダルを起こした芸能人には甘いと言われる芸能界ですが、タトゥーに関しては厳しいですね」(前出の芸能記者)

2月17日に放送された『水曜日のダウンタウン』(TBS系)では、お笑いコンビ・メイプル超合金の安藤なつの腰回りに彫られた羽のようなタトゥーが映り込むという事案が発生し、視聴者からは「放送事故では?」との声まで上がった。
この状況が、国内でのタトゥーの扱いをよく表している。テレビ局関係者が語る。

「日本では“タトゥー=やくざの象徴”というイメージが強く、海外のようにファッションと考える人は少ない。
テレビ局の自主規制も強化され、過去にも、『世界!弾丸トラベラー』(日本テレビ系)の土屋アンナ、『幸せ!ボンビーガール!』(日本テレビ系)の森泉はタトゥーがチラッと映ってしまったとき、モザイク処理やテロップをかぶせたりの編集でなんとか映像処理しました」

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http://dailynewsonline.jp/article/1094221/
デイリーニュースオンライン


2: 砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/
■キムタク夫婦も? 一方で消すタレントも続出

日本ではタトゥーのイメージがヤクザに直結しやすいだけに、公共の電波に乗せにくい。
無難な道を選ぶ現場テレビマンが編集でモザイク処理するのも無理らからぬ話か。
また、近年医師法違反での彫り師の摘発が相次いでおり、彫り師逮捕のニュースが頻繁に流れることも、イメージが悪化する要因となっている。

「SMAP・木村拓哉は妻・工藤静香とおそろいのタトゥーを入れているが、タトゥーが映り込みそうな撮影では、
事前に肌色のテーピングをするなど、テレビに映り込まないように配慮している」(前出・テレビ局関係者)

こうした状況から、タトゥーを消す芸能人も増えている。その最たる例が梅宮アンナ(43)だ。
梅宮は1年がかりでタトゥー除去をした。痛みは想像を絶するものだったようで、

「もう怖くて行けないよ!」
「半端ない痛さ」

と告白している。タトゥーを専門に特集するカルチャー誌の編集者が言う。

「タトゥーは入れるよりも、消すほうが時間がかかります。また、入れる前のきれいな状態に戻すには、費用もかかる。
ファッションとしてタトゥーを入れたい気持ちはわかるのですが、今のご時世、スポンサーや事務所、テレビ局との関係を考えると、芸能人にとってはデメリットしかない気がしますね」

入れるのは簡単だが、除去には時間とかなりの痛みがあるタトゥー。
自己表現の1つだとしても、その代償はあまりに高く、今の芸能人にとってかなりリスキーだと言えそうだ。

11: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
「お金もあるしオシャレしたいからタトゥー入れよう!」って感覚なのか?よくわからん。

14: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
音楽系はイキがって長袖みたいなの入れてるやついるよな
河村隆一は消したようだけど
Charの息子がひょろい身体に刺青だらけなのを見てると、
アメリカみたいにマッチョ+タトゥーじゃなく、青白くてひょろひょろなのをごまかすために入れてるやつも多そう

17: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
夫婦で同じタトゥーって本当に格好悪い
そんな両親嫌だわ

19: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
キムタクはのりピーと同じ足首なんだよな

22: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
今だと漏れなくヤク中疑惑もついてくるもんな

29: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
まいうーの石塚英彦も

31: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
キムタクは足首の絵は消したっぽいな

47: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
なんか定期的に芸能人タトゥースレ立つな

ジャニだとTOKIOの山口(足)と長瀬(胸とリストバンド)もじゃね?

53: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
「刺青」で画像検索すると千原やまいうーが・・・。

72: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
芸能人で一番ダサいタトゥーは間違いなくTAKAHIRO

松本人志、相方・浜田雅功の薬物疑惑に大喜び「めっちゃ笑った」

2016年02月29日 13時38分40秒 | 日記












松本人志、相方・浜田雅功の薬物疑惑に大喜び「めっちゃ笑った」


1: ダークホース ★@\(^o^)/
お笑いコンビ・ダウンタウンの松本人志(52)が、28日に放送されたフジテレビ系トーク番組『ワイドナショー』(毎週日曜10:00~10:55)で、相方・浜田雅功(52)の薬物使用疑惑を笑い飛ばした。

マーリンズのイチロー選手が、浜田直筆デザインのTシャツでキャンプ入りしていることが番組冒頭で取り上げられた。
イチロー選手と面識がないという松本は「会ったら聞いてみたい。なぜこういう"黒い交際"をしているのか」と疑問を投げかけ、「イチロー選手に何の得もない」と冗談を交えて出演者を笑わせた。

さらに"黒い交際"に関連して、薬物使用疑惑の著名人のシルエットが一部で報じられたことに触れ、松本は「どう見ても浜田やった」と判断。
「俺、めっちゃ笑ったけどな」と喜び、司会の東野幸治(48)が「怒ってください!」と突っ込んで笑いを誘っていた。

http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20160228/Cobs_401527.html


引用元: "http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1456636428/
 ネットの反応


5: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
焦ってる 焦ってる

6: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
やっぱり多いのは音楽系でお笑いはそんなでもないな。
浜田雅功は歌手でもあるが。

9: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
芸人はクスリをやらない
クスリであいつおもろかったんやと思われるから
まあ、キャッシー塚本なんてドーピングみたいなもんやったけどな

>>9
今日はね、餃子を作るのよ
7人分作るのよ

>>49
先生どうして7人分なんですか?

>>58
私を犯した人数よ、、、

10: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
浜田はそこいらの歌手よりよっぽど売れた

11: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
疑惑出てるのはお前と友人の中居だけどなw

14: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
浜田はねーわ。ヤク中特有の挙動不審さもないし
家族と住んでるわけだし

15: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
と言っても、実際やってたら泣くのが松本だろうな
浜田は松本がやってても泣かないw

>>15
だな
松本はああ見えて優しい
浜田はああ見えて冷たい

16: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
いや、浜田だと松本自身が気づいてないだけ

もし逮捕されたときにいかに自分が見る目ないか思い知るだろう

>>16
その前に松本自身の方が危ない危ない

18: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
浜田の奇行は薬じゃなくて老いやろ

28: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
まっつんのハマタいじりのパターンは無限
しかも鉄板で面白い
相方をいかすというのはこういうことなんかな

29: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
松本は、自分が週刊誌にこんな疑惑書かれたら烈火のごとく怒り狂うくせにな

32: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
中居はいろいろありすぎてワイドナショーには当分出てこないな。

33: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
浜田は薬よりアルツハイマーとかのが心配なんじゃ・・・

39: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
まあそりゃ笑うだろ

40: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
中居「俺も浜田さんかと思ったよー」

53: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
どんなごまかし方でもできるやろうなこの二人なら

60: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
嘘から飛び出る真実という言葉があってだな。

64: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
金髪で真っ黒の奴のが怪しいよ

71: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
清原も散々やってないって言って、TV出始めたころに逮捕だからな。

どうなるかはわからない

74: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
結果発表~!wwwwwwww

新島八重の桜 大河ドラマ『八重の桜』ふたたび維新回天草莽掘起篇ブログ小説11

2016年02月29日 09時07分10秒 | 日記











  箱館病院の高竜寺分院を官軍が襲撃した。
「やめて~っ!」
 看護婦や医者がとめたが、官軍たちは怪我人らを虐殺した。この”高竜寺分院での虐殺”は官軍の汚点となる。
 箱館病院にも官軍は襲撃してきた。
 高松凌雲は白衣のまま、官軍に嘆願した。
「武士の情けです! みんな病人です! 助けてください!」
 薩摩の山下は「まさか……おんしはあの有名な高松凌雲先生でこごわすか?」と問うた。「そうだ! 医者に敵も味方もない。ここには薩長の病人もいる」
 薩摩隊隊長・山下喜次郎は、
「……その通りでごわす」と感心した。
 そして、紙と筆をもて!、と部下に命じた。
 ………薩州隊改め
 紙に黒々と書く。
「これを玄関に張れば……官軍も襲撃してこんでごわす」
 山下喜次郎は笑顔をみせた。
「………かたじけない」
 高松凌雲は頭をさげた。
  井上ちか子は土方の遺体をみつけた。
「土方様! ……土方さま!」
 号泣し、遺体にすがった。
”誠”の旗は火で燻って、ボロボロで、地面にある。
 ちか子の目からは涙があとからあとから溢れ出た。
 ……土方さま…
 こののち、井上ちか子は、歴史上から姿を消す。彼女がどうなったのか誰にもわからない。そして、新選組も全滅した。
”誠”の旗と、新選組の麻黄色の山形コスチュームを着るものはひとりもいなくなったのだ。こうして、歴史に殺戮集団として有名になった「新選組」は歴史の波に沈んだ。
 土方歳三の遺体は埋められたのだろうが、いったいどこに埋められたのか誰にも知らないという。現在でも遺体は発見されていない。
 こうして、土方も新選組も滅んだ。
 そして、榎本脱走軍と会津藩の命運も尽きようと、していた。

         9 八重よ白虎隊よ永遠に!




話は戻る。
  明治三年(一八六九)九月十九日、鶴ケ城に着弾……
 容保の妹らが爆撃の被害を受けた。
 容保は駆けつけてきた。
「……兄上……われわはもうだめです」
 妹は血だらけ床に横たわっている。
「それは医者が決めるんだ!」
「……会津の夢捨…てな…いで」
 容保の妹は死んだ。

  箱館病院で、高松凌雲と官軍の黒田了介は会談していた。
「もはや勝負はつき申したばい。榎本どんは共順とばいうとるがでごわそ?」
「……そうです」
「ならば」
 黒田了介は続けた。「是非、榎本どんにおとりつぎを…」
「わかりました」
「あれだけの人物を殺したらいかんど!」
 高松凌雲は頷いた。
 五月十五日、千代ケ岡で榎本武揚と官軍の田島は会談をもった。
「共順など……いまさら」
 榎本は愚痴った。
「涙をのんで共順を」田島はせまる。
「……城を枕に討ち死にしたいと俺はおもっている」
 榎本はにえきらない。危機感をもった田島圭蔵は土下座して嘆願した。
「どうぞ! 涙をのんで共順を!」
 榎本武揚は動揺した。
 そして、「俺の夢はな。この蝦夷を日本一にすることだった。でも…それももうおわりだ。俺はここで死ぬ」
 と溜め息をもらした。
 それから榎本は田島に「少年兵たちを逃がしてほしい」と頼んだ。
「わかりもうした」
 田島は起き上がり、頭を下げた。
「これを黒田さんに渡してくれないか」
 榎本武揚は、分厚い本を渡した。
「……これはなんでごわす?」
「海陸全書の写しです。俺のところに置いていたら灰になる」
 武揚は笑顔を無理につくった。
 黒田参謀は島田から手渡された本を読み、
「みごとじゃ! 殺すには惜しか!」と感嘆の声をあげた。
  少年兵や怪我人を逃がし見送る武揚……
 榎本はそれまで攻撃を中止してくれた島田に頭を下げ、礼した。
 そして、戦争がまた開始される。
 弁台場も陥落。
 残るは千代ケ岡と五稜郭だけになった。
 戦闘で、あの若者・英次郎が銃弾をあびて死んだ。兄・恒次郎も重傷をおう。
「………おさえちゃん…」
 恒次郎は血だらけになりながら、おさえの姿をみた。かたわらに病気の青年がいてもがいている。「いけません! 龍造さん!」
 おさえはとめたが、龍造はよろよろと歩く……官軍と戦うんじゃ!
 しかし、龍造は喀血して倒れてそのまま動かなくなった。
「龍造さん! 龍造さん!」
 おさえは泣いた。
 やがて官軍が攻めてきて、恒次郎も斬られて死んだ。
 官軍が侵攻したあと、山田市之丞はふたりの若者の遺体を発見して、
「こげな子供まで……榎本のど阿呆が!」
 と激昴した。
 山田市之丞は戦争後、法律を学び、日本大学の前身日本法律大学をつくることになる。  五稜郭に籠城する榎本脱走軍たちに官軍からさしいれがあった。
 明日の早朝まで攻撃を中止するという。
 もう夜だった。
「さしいれ?」星はきいた。
「鮪と酒だそうです」人足はいった。
 荷車で五稜郭城内に運ばれる。
「……酒に毒でもはいってるんじゃねぇか?」星はいう。
「なら俺が毒味してやろう」
 沢は酒樽の蓋を割って、ひしゃくで酒を呑んだ。
 一同は見守る。
 沢は「これは毒じゃ。誰も呑むな。毒じゃ毒!」と笑顔でまた酒を呑んだ。
 一同から笑いがこぼれた。
 榎本脱走軍たちの最後の宴がはじまった。
 榎本は少年兵を脱出させるとき、こういった。
「皆はまだ若い。本当の戦いはこれからはじまるのだ。五稜郭の戦いが何であったのか……それを後世に伝えてくれ」
 少年兵たちは涙で目を真っ赤にして崩れ落ちたという。

「……城が……城が燃えている! 城が! …し…ろ…が…」
 白虎隊たち少年兵たちは山中の頂きで、城が炎上しているのを見た。実際には城ではなく近くの城下町が燃えていたのだが……
 少年たちは絶望して、がくりと膝を地面についた。
「……もう……おわりだべさ」
「んだども……」
「侍は降伏してはならね。武士道とは死ぬことだべ?」
「……んだな」
 慶応四年八月二十三日夕方、少年たちは自決した。



  ……ふと容保の後ろ姿がおかしいと大塚雀之丞は思った。
 容保は藩主室にこもったままだ。そこで大塚は様子を見にいった。
 松平容保はボタンを外し、チョッキを外し、腹をひろげて、脇差をもった。
「降伏なぞするか!」
 ……会津公が切腹する!
「大変だ! みんな大変だ!」
 大塚は容保に飛びかかり、切腹をとめた。みんなも集まってくる。
「切腹させてくれ!」
 容保は涙声でうったえる。
 しかし、一同はスクラムを組んで松平容保の脇差をとり、切腹をとめた。
 家臣は「殿! 死ぬのはいつでも出来る! はやまるでない!」といった。
「天子さま(天皇)のお裁きを受けましょう」
 一同は涙を流しながらいった。
 恐ろしいほどの静寂が辺りを包む。
 ……もう……おわったのだ。戦は…おわり……だ…
 会津藩は陥落、官軍に降伏した。
  明治三年(一八六九)五月二十七日、榎本武揚らも官軍に投降した。
 黒田了介は榎本武揚と接見した。
 榎本は「この戦の全責任は私にあります。私は斬首でもかまわないが、他の連中のことを頼みます」と頭を下げた。
「よか! よか! もうおわったことばい!」
 黒田了介は武揚と握手をかわした。
 こうして、「蝦夷共和国」は五ケ月だけの幻に消えた。
  東京では田代老人が、木戸考允(桂小五郎改め)につめよっているところだった。
「……会津公たちをどうする気かね?」
 老人は迫った。
「裁判にかけます」木戸はいった。
「殺す気かね?」
「……裁判次第です」
 老人は声を荒げた。
「人材の浪費は駄目だ! 今この国を思えば……たとえ賊軍だったとしても貴重な人材は残すべきじゃ! 違うかね? 木戸さんよ」
 木戸は感銘をうけた。
 ……まさしくその通りだ!
「わかりました。先生」
 明治三年九月、榎本武揚は江戸の牢獄の中にいた。
 一番牢  新井郁之助
      松岡磐吉
 二番牢  松平太郎
 三番牢  大鳥圭介
 四番牢  永井玄蕃
 五番牢  榎本武揚
      沢太郎左衛門


  戌辰戦争後、松平容保は鳥取藩に預けられ、東京に移送されて蟄居するが、嫡男・容大(かたひろ)が家名存続を許されて華族に立てられた。それから間もなく蟄居を許され、1880年(明治十三年)には日光東照宮の宮司となり、正三位の位を得た。
 そして1893年(明治二十六年)十二月五日に東京・目黒の自宅にて肺炎のため松平容保は死去した。享年五十九……死の前日には明治天皇から牛乳を賜る。
 死ぬまで容保は考明天皇から賜った書簡を竹筒に入れて首からぶらさげて死ぬまで話さなかったという。
 維新については戌辰戦争後は一切語らずであったという。

 松平容保は切腹をまぬがれ、隠居させられた。明治となって、白虎隊の供養碑を建てた。                            
……”幾人の涙は石にそそぐともその名はよよに朽ちじとぞ思う”……
 会津家臣たち一行は北海道に向かった。坂井順吉は北海道にいき、福島県にもどり、昭和二十年八十歳で死んだ。飯沼は自決したが死なずにすみ、生き残り、白虎隊のことを後世のひとに伝えたのち昭和二十七年に死んだ。
 また容保も明治を生抜き、明治時代に隠居先で息をひきとった。

  釈放された榎本武揚は、その知恵のおかげで明治政府に重要視され、次々と出世していく。
 明治五年    北海道開拓泰任出仕
   七年    海軍中将
         ロシア派遣特命全権大使
   十二年   条約改正取調御用掛
   十三年   海軍卿
   十五年   皇居造営事務副総裁
         清国駐在特命全権公使
   十八年   逓信大臣
   二十年   子爵の位
   二十二年  文部大臣
   二十四年  外務大臣
   二十七年  農商務大臣

     …………
  大鳥圭介(学習院院長)、永井尚志(元老院書記)、新井郁之助(初代気象庁長官)、松岡磐吉(獄中で死亡)、松平太郎(北海道を開拓し、初代箱館市長に)、沢太郎左衛門(海軍兵学校教授)、星恂太郎(北海道開拓)、高松凌雲(民間看護隊、日本赤十字の先駆け)、林董三郎(外務大臣)、山内六三郎(鹿児島県知事)……
 明治政府はかれらを保釈したあと、能力を発揮させた。
 明治維新の後の日本はかれらが、蝦夷共和国の彼等が支えたといってもいい。

 明治十年(一八七八)、容保は馬車で北国の島道をすすんでいた。
 保釈後の容保は隠居ののち北海道開拓のための資金ぐりの毎日となった。かつての家来たちも北海道で開拓にいそしんでいる。榎本武揚はよくやっていると噂できいていた。
 榎本武揚のみごとな交渉で、樺太とクリル(千島)列島の領有権を確保したのだという。 しかし、それが源で、日露戦争が勃発するのだが……
 松平容保は馬車を降りた。
 島の崖で、激しい風を受けた。荒波のシベリア海にはかつての仲間たち…土方や近藤たち、白虎隊の少年たちの姿が重なり、容保は涙を流した。
 それがどんな涙であったのか……
 もはや松平容保以外知るところではない。

 話しを少し戻す。
1868月11日(明治2年6月3日)、東京で謹慎中の松平容保に実子の松平容大(まつだいら・かたはる)が生まれる。
松平容大の母親は側室の佐久である。
会津戦争で負けた会津藩は家名断絶となるが、降伏から1年後の1869年12月5日(明治2年11月3日)、松平容保の子・松平容大は家名存続が許された。
松平容大には家督を相続した養子・松平喜徳が居たが、家名存続を許されたのは実子の松平容大だった。
養子の松平喜徳は1873年に弟・松平頼之が死亡する。
と、松平容保との養子縁組を解消し、弟・松平頼之の養子となり、弟・松平頼之の家督を継いでる。
家名存続が許された松平容大は、青森県東部に3万石を拝領し、斗南藩(となみはん)を立藩することになる。
斗南は、漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める土地)から名付けたものである。
会津藩は、領地を「青森県東部」か「猪苗代(福島県耶麻郡)」かを選択することが出来た。
会津藩士の中には猪苗代での再興を主張する者多かった。
大河ドラマでは敗北した会津藩士たち男の中に男装した八重もいて、すんでのところで川崎が「女だ! ここに女がいるぞ!」と八重の腕を掴んで官軍に知らせて「逃がす」という場面が見られた。川崎尚之助が八重の命を救った美談だが、本当に大河ドラマの脚本通りの話の流れだったかは謎で、ある。
が、喧々囂々の末、会津藩は青森県東部での存続を選んだ。
会津藩が青森県東部を選んだ理由には諸説があるが、一説によると、重い税金を課していた会津藩は、会津の民から恨まれており、農民もヤーヤー一揆を起こしたことなどから、猪苗代で会津藩・松平家を再興するのは難しいと考え、青森県東部を選んだという。
また、会津藩は多額の借金を作っていたうえ、偽金を製造して流通させていたため、会津地方はハイパーインフレとなり、経済はボロボロになっていたことも青森県東部を選んだ理由とされている。
この新藩で、若き家老となり孤軍奮闘することになる山川大蔵(改名して山川浩)は、荒れ地の不毛地帯のような親藩領土で血のにじむような苦労をしたという。
斗南藩の立藩に伴い、各地で謹慎していた会津藩士は、1870年2月5日(明治3年1月5日)に謹慎が解かれ、1870年5月から新天地となる斗南藩への移住が始まった。
しかし、全ての会津藩士が斗南藩への移住したわけでは無かった。
斗南藩へ行かず、会津に残った会津藩士も多かった。
斗南藩は3万石とされているが、実質は7000石とされる不毛の地だった。
会津23万石(実質30万石とも言われる)から比べれば、実質10分の1以下の収入となり、斗南藩での生活が苦しいことは目に見えていた。
このため、斗南藩士として会津に残った者も居れば、会津藩士の身分を捨てて農民や商人になった者も居た。NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる山本八重も、斗南藩へは行かず、会津に残った。
 会津藩は、青森県東部で斗南藩として存続することになり、農業で生計を立てることとなる。
が、農業が上手くいかず、飢えに苦しんでいた。八重の幼馴染・日向ユキや時尾も新藩に行くが、ユキは飢餓と寒波で死にかける。彼女の命を助けたことで、元・新撰組隊士「斎藤一」と時尾は結婚することになる。結婚式の仲人は蟄居中の会津公・松平容保公が務めたという。容保は「ようやく、ひとつの大きな荷物をひとつ下ろせたような気分である」と祝言の席ではらはらと熱い涙を流し、「ふたりとも幸せになるのだぞ」と言った。ふたりは無言のまま平伏したという。
会津時代は農民から搾り取れば良かったが、斗南藩ではそういう訳にはいかず、斗南藩士も自ら農作業に従事しなければならなかった。
そこで、立ち上がったのが、山本八重の夫・川崎尚之助であった。
川崎尚之助は他の会津藩士と同様に猪苗代を経て東京で謹慎した後、斗南藩へ入った。
ただ、川崎尚之助は謹慎が解けた後に京都で滞在していたため、川崎尚之助が斗南藩へ入ったのは、会津藩士よりも数ヶ月遅れた1870年10月のことである。
斗南藩士となった川崎尚之助は「開産掛」に任命され、商取引で利益を上げる仕事に就いた。
農産物が取れない斗南藩にとって貿易は貴重な収入源であり、開産掛は斗南藩を救う重要な仕事だった。
そして、川崎尚之助は商取引を行うため、斗南藩士・柴太一郎と共に貿易の盛んな北海道・函館へと渡り、斗南藩士を名乗る米座省三(よねざ・しょうぞう)と知り合うのであった。
一方、妻の山本八重は戊辰戦争後、斗南藩へ移らず、会津に残った。
 あるとき、ひとりの青年が、元・米沢藩士の知り合いの米沢(現・山形県米沢市)の家に身をよせている八重とうら、みね、佐久の元に伝えにきた。
「なんだっで?あんっつあまが生ぎでる?」
八重は驚愕した。
「死んだものと思っていだ覚馬が生ぎでるなんでえ、仏様もいるんだなっし」
母親も八重も熱い涙を流した。
そして、死んだと知らされていた兄の山本覚馬が生きていることが判明すると、兄・山本覚馬頼って京都へと移った。
 前述したが、会津藩士が住んでいた自宅は、会津藩が所有する社宅のようなもので、会津藩の降伏後は新政府に没収されたため、会津藩士の家族に帰る家は無くなった。
このため、明治政府は、会津に残った会津藩士の家族に塩川周辺の農地を割り振り、帰農を勧めた。
江戸時代は「士農工商」などの身分制度があり、会津藩士は会津藩の家名断絶にともない、「武士」(会津藩士)の身分を失うことになった。
このため、会津藩士は、農民や商人に身分を移す「帰農工商」をする必要があった(ただし、その後、松平容大は家名存続が許されたため、武士の身分を保った)。
 山本八重は会津藩が降伏したとき、会津藩士に混じって謹慎地の猪苗代へと向かったが、女だとバレてしまい追い返されたというのは前述した。大河ドラマでは川崎が八重を助けたみたいに描かれた。
その後、自宅を失った山本八重は、母・山本佐久や姪「山本峰(山本覚馬の娘)」や嫂「山本うら(覚馬の妻=樋口うら)」とともに、山本家の奉公人だった者の家で世話になり、会津の山村で生活していた。
1869年12月5日(明治2年11月3日)に松平容大が家名存続を許され、青森県東部で斗南藩(となみはん)を立藩すると、謹慎が解けた会津藩士は1870年(明治3年)5月に斗南藩への移住を始めた。
しかし、山本八重は斗南藩へは行かずに会津に残った。会津に残った山本八重一家についての詳細は分からないが、針仕事や農業を手伝って、米や野菜を分けてもらいながら生活をしたとされている。
1870年(明治3年)11月ごろ、山本八重ら家族は、米沢に住む米沢藩士・内藤新一郎の元へ出稼ぎに行く。
米沢藩は戊辰戦争時に米沢藩士を会津藩へ砲術修業に出しており、内藤新一郎も砲術修業で会津を訪れていた。
この米沢藩士に砲術を指南したのが、山本八重の夫で会津藩士の川崎尚之助であり、いわば、内藤新一郎は川崎尚之助の弟子だった。
さらに、戦況が悪化に伴い、川崎尚之助の元で修業していた米沢藩士は米沢に戻ったが、内藤新一郎は連絡役として会津に残り、山本八重らが若松城へ入城した日まで山本家に寄宿していた。
こうした縁で、山本八重らは内藤新一郎を頼って仙台を訪れた。
この時の出稼戸籍簿に、山本八重は「川崎尚之助妻」として記録されていることから、山本八重が川崎尚之助と結婚していたことが証明されている。
 1971(明治4年)、山本八重が内藤新一郎の家で世話になっていたとき、「鳥羽・伏見の戦い」で死んだはずの兄・山本覚馬が京都で生きていることが判明する。
会津の新島八重らには、
「山本覚馬は、京都の蹴上から大津ヘ向かう途中に薩摩軍に捕らえられ、四条河原で処刑された」
と伝わっていたが、兄の山本覚馬が生きていたのだ。
どういう経緯で、兄・山本覚馬が生きていた事が判明したのかは判明していない。
山本覚馬は京都で京都府の顧問をしており、京都と米沢を行き来していた米沢藩士が、山本覚馬のことを山本八重に伝えたという説もある。また、山本覚馬から生存を知らせる手紙が届いたという説もある。

1870年9月(明治4年7月)、山本八重は米沢県に通行手形を申請し、1870年9月17日(明治4年8月3日)に山本八重は母・山本佐久や姪(覚馬の娘)「山本みね」を伴って、3人で京都へ向かった。
しかし、山本覚馬の妻「山本うら」は離婚を望んで米沢に残り、その後、斗南藩へ移住した。
妻の「山本うら」が離婚を望んだ理由は不明だが、
「山本覚馬が京都で若い愛人と暮らしている」
という噂を耳にしたため、妻「山本うら」が離婚を望んだという説がある。みねと母・うらは号泣しながら別れたという。
1971年(明治4年)10月、山本八重が母の山本佐久と姪(覚馬の娘)「山本みね」を連れて京都に到着する。
山本八重は数年ぶりに兄・山本覚馬と再開するが、兄との再開は驚きの連続であった。
京都で「鳥羽伏見の戦い」が勃発したとき、山本八重の兄・山本覚馬(やまもと・かくま)は薩摩兵に捕まったが、知り合いの薩摩藩士に助けられ、斬首を免れていた。
そして、山本覚馬は薩摩藩邸で幽閉されていたが、幽閉から1年後の1869年(明治2年)に釈放された。
山本覚馬は幽閉中に、同じく幽閉されていた野沢鶏一に口述筆記を頼み、近代国家のあり方を示した意見書「山本覚馬建白-時勢の儀に付き拙見申し上げ候(通称『管見』)」を書き上げ、新政府軍に提出していた。
山本覚馬が提出した「山本覚馬建白(管見)」は新政府の岩倉具視などに認められたため、山本覚馬は幽閉中も優遇されており、目の治療を受けることが出来たが、1年にわたる幽閉生活で目は完全に失明したうえ、腰を痛めて足を悪くしていた。
釈放後、山本覚馬は兵部省で客員をして働いていたとき、京都府の大参事(現在の副知事に相当)・河田佐久馬(後の河田景与)から顧問就任の要請を受ける。
大参事の河田佐久馬は、山本覚馬が幽閉中に書いた意見書「山本覚馬建白(管見)」を読み、山本覚馬の才能に惚れ込んでいたのである。(実際は、京都復興を推し進めていた部下の槇村正直の要請とも言われている。)
1870年4月28日(明治3年3月28日)、京都府の大参事・河田佐久馬が大政官に山本覚馬の「雇用伺」を提出する。
一方、新政府も山本覚馬が提出した「山本覚馬建白(管見)」を評価しており、山本覚馬を正式に採用しようとしていたところだった。
このころ、京都は1864年8月に起きた「禁門の変(蛤御門の変)」に伴う大火事(どんどん焼け事件)が原因で廃れており、1869年(明治2年)には明治天皇が京都から東京へ引っ越す「東京遷都」が進んでいた。
京都は大政奉還のおかげで、棚からぼた餅的に、首都に返り咲いただけなので、東京に首都が移ることについての影響は少ない。
が、天皇が東京へ引っ越すことは京都の産業にとって大きなダメージだった。
このため、京都府民は東京遷都に大反対した。
新政府は京都府民の反発に頭を抱えていた。
そこで、新政府は、諸外国の情報にも明るい山本覚馬を京都の産業復興の切り札として、京都府の顧問として認めることにした。
そして、「天皇の置き土産」と呼ばれる産業基立金10万両を京都府に残して、東京へと遷都することにした。
京都府は、さらに勧業基立金15万両を新政府から借りることができ、東京遷都と引き替えに、山本覚馬と25万両という大金を手にすることになる。
1870年5月14日(明治3年4月14日)、山本覚馬雇用伺の許可が下り、山本覚馬は京都府の顧問として働くことになる。
その後、木戸孝允の懐刀と言われる槇村正直が、河田佐久馬の後任として京都府の大参事に就任し、1872年(明治5年)に山本覚馬は正式に京都府顧問として就任する。
京都府の知事・長谷信篤(ながたに・のぶあつ)は単なる飾りで、京都府の実権は大参事(府知事)が握っており、槇村正直が京都府の実質的なトップとなる。
槇村正直は長州藩の木戸孝允の懐刀で、産業に関する実績があったため、木戸孝允が京都へ送り込んだ人材とも言われており、京都の産業復興のために辣腕を振うことになる。
一方、山本覚馬は禁門の変(蛤御門の変)のとき、長州軍が立て籠もる鷹司邸を砲撃し、火事を起こして京都を焼け野原にした張本人だった(火事の原因は諸説ある)。
京都を焼け野原にした山本覚馬が、今後は京都府の顧問として京都の産業復興の為に尽力することになる。
京都の産業復興という目的が一致していた山本覚馬と槇村正直の2人は、蜜月の関係で京都改革を推し進めていくのであった。
1869年(明治2年)、幽閉から釈放された山本覚馬(42歳)は、京都で小田時栄(おだ・ときえ)という16歳の少女と同棲を始めた(明治時代に淫行条例のような法律は無いので合法である)。
小田時栄(おだ・ときえ)は小田勝太郎の妹で、目を悪くした山本覚馬の身の回りの世話をし、山本覚馬の目の代わりとなって、山本覚馬の京都時代を支えてきた少女である。
小田時栄は幽閉中も薩摩藩の許可を得て、山本覚馬の世話を続けており、釈放後も山本覚馬と一緒に暮らしていたのである。
1871年(明治4年)、京都府の顧問となった山本覚馬は、京都府の大参事・槇村正直の自宅の隣にある空き家へ引っ越した。
山本覚馬が住むことになる空き家は、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の妾「お芳」の父親で、江戸の町火消しとして有名な新門辰五郎が京都滞在中に住んでいた豪邸(新門辰五郎邸)である。
大参事の槇村正直は、山本覚馬を「山本先生」と呼んで慕っており、槇村正直が山本覚馬に、自宅の隣の空き家を勧めたという。山本覚馬に対する信頼の程がうかがえる。
(注釈:小田時栄の兄・小田勝太郎が、山本覚馬に新門辰五郎邸を斡旋したという説もある。)
山本覚馬への期待はかなりのもので、山本覚馬の月給は30円であったが、後に45円へと昇級している。
新門辰五郎邸は敷地面積は100坪ほどあり、台所の他に5室ある豪邸で、山本覚馬は36円で新門辰五郎邸を購入し、小田時栄と住み始めたのである。
このようななか、会津から妹・山本八重や母「山本佐久」と「山本みね」の3人がやってくる。
山本八重らが京都に着いたのは、山本覚馬の引っ越しも終わり、新居での生活も落ち着いた1871年(明治4年)10月の事であった。
1871年(明治4年)10月、兄の山本覚馬を頼って上洛した山本八重らが京都の山本覚馬の自宅に到着する。
「ごめんなんしょ!」立派な家の門の前で、八重は玄関先でひとを呼んだ。
「へい。どなたはん、どすか?」若い美貌の女性がやってきた。八重は「わたしらはあんっつあま(お兄さん)の家族で…」
「ああ!きいておりますえ。ささっ、長い旅路でおつかれどすやろ?すぐに旦那はんを呼ぶさかい安心してください。さあ、中へ」
 ………旦那さま? 八重は少女のいう事に疑問を抱いた。奉公人や女中じゃねえのがっし?
山本八重らは応対に出た少女・小田時栄の案内で屋内へ入り、山本覚馬と再会する。
山本覚馬は、1862年に会津藩主・松平容保が京都守護職に就任した事に伴い、京都勤務となり、会津を出ていた。
そのとき以来の再会なので、9年ぶりの再会である。
山本覚馬が会津を発つ少し前に、娘の「山本みね」が生まれたばかりだったが、赤子だった「山本みね」は、すっかりと大きくなっていた。
娘の「山本みね」は山本八重と一緒に京都へ来たが、山本覚馬は我が子の成長を見ることが出来なかった。
山本覚馬は「禁門の変(蛤御門の変)」で目を負傷しており、盲目となっていたのだ。
山本八重はすっかりと変わり果てた、兄・山本覚馬に驚いていた。
山本覚馬は盲目となったうえ、腰を痛めて歩けなくなっていたのだ。
山本覚馬と再会した母・山本佐久は、山本覚馬に重い口を開かなければならなかった。妻「山本うら(樋口うら)」の件である。
母・山本佐久が、妻「山本うら(樋口うら)」が離縁を望んで米沢に残った事を伝えると、山本覚馬も母・山本佐久に愛人の小田時栄(おだ・ときえ)を紹介した。
山本覚馬が紹介した小田時栄は、山本八重らが山本家に就いたとき、応対に出た少女だった。
山本八重らは、使用人かと思っていた少女・小田時栄が愛人だったことに驚く。
このとき、山本覚馬は44歳で、愛人の小田時栄(おだ・ときえ)は18歳だった。
山本八重の年齢は26歳なので、山本覚馬は妹の山本八重よりも若い愛人と暮らしていたのである。
通説によると、このとき、山本覚馬は小田時栄との間に、山本久栄という娘が生まれており、山本八重を驚愕させたという。
注釈:小田時栄は愛人だったため、娘・山本久栄の誕生日の記録は残っていない。山本久栄の死亡日と死亡した年齢から逆算すると、生まれた年は1871年(明治4年)となるため、山本八重らが京都へ来たとき、山本久栄は生まれていたとされている。
山本覚馬は妻「山本うら(樋口うら)」が離婚を望んで米沢に残ったことを知ると、山本覚馬は妻「山本うら」と離婚し、愛人の小田時栄と結婚した。
また、山本八重が、父・山本権八や弟・山本三郎が死んだことを伝えると、山本覚馬は夜な夜な、山本八重に若松城籠城戦の様子を話すように頼んだ。
こうして、山本八重は京都で山本覚馬らと暮らすことになったのである。
山本八重はこのころ蟄居中の川崎尚之助から「離縁状」を郵送されたことに大河ドラマではなっている。それにしても八重は、「薩長の犬」の如く「知恵袋」と称して重宝され「奸賊・薩長」に仕えるだけの実兄・山本覚馬に頭に来ていた。「なあんであんっつあまは会津を滅ぼした敵である薩摩や長州の連中に頭下げんのがっす?!あんっつあまは悔しぐねのがっし!あんっつあまは薩長が会津滅ぼしたのわがってんだべ?!なして?!」
「八重!」覚馬は八重を諌めた。「あんっつあまにはわがらねのだっし!あの会津の役で……あのお城に……二千発もの大砲を受けて、ほとんどの藩士や女子や童子が討死した会津鶴ヶ城にいながったがら!あの戦場にいながっだがら!」「八重! これは俺の戦なのだ!」「い………戦?」「そうだ、会津を踏み石にした今の新政府は間違ってる。んだげんじょ、怒りをぶつけて同じ国の人間同志が戦うのはもうやめなばなんねえ。会津の悔しさ、怒り、はそれはそれ。我々生き残った者は、死んでいった者たちの分まで戦わねばなんねえ。これをみろ」覚馬は管見(かんけん・政治経済のご意見書)を見せた。「俺も会津の仇をとりでえ。んだげんじょ、これからは刀や鉄砲を武器にするんではなく、学問や知識でそして言論で日本を、世界を、変える世の中にせねばなんねえんだ」「んだげんじょ、ならば会津は逆賊のままなのがっし!?」「いや。会津の忠義や正義はわがらせねばなんねえ。新政府が見捨てたこの京都に俺は学問の国ばつくる。んだげんじょ、まずは八重「学問」を極めろ!学問の先に答えはあるからなあ!俺と共に戦ってくれ」「本当に答えはあんのがっし?!」「少しはあんっつあまを信じろ」ふたりは号泣した。なんにせよ誤解が晴れた、それは熱い涙、であった。
1871年(明治4年)10月に山本八重らが京都へ到着し、山本覚馬の家で住み始める。
1872年5月20日(明治5年4月14日)に、京都府河原町にある旧九条邸で女学校「新英学校及女紅場」が開校する。
東京では既に、明治5年2月に「官立女学校」(東京女学校)が開校しているので、京都府の新英学校及女紅場は、日本では2校目の女学校で、京都では初の女学校である。
正式には「新英学校及女紅場」だが、単に女紅場(にょこうば)と呼ぶ場合が多い。
「新英学校及女紅場」を「新英学級及女紅場」と呼ぶこともあるようだ。
なお、新英学校及女紅場は、1876年(明治9年)5月に「女学校及紅場」へと改称し、現在の「京都府立鴨沂高等学校」となっている。
一般的な女紅場は、女性が裁縫などを習って手に職を付ける場所で、京都府の新英学校及女紅場は「女紅場」に「新英学校」を併設した女学校である。
新英学校及女紅場の「新英学校」は、華族や士族の女子を教育する学校で、英語や数学を教えた(後に一般身分も入学できるようになった)。
「女紅場」は必須科目で、「新英学校」は希望制だった。新英学校を卒業した者は、教師になる免許を得られた。
山本覚馬は新政府に提出した意見書「山本覚馬建白(管見)」で、女性への教育の重要性を指摘しており、山本覚馬建白で述べたことが、京都で女学校「新英学校及女紅場」として実現することとなった。
一説によると、山本覚馬の母・山本佐久は聡明で、山本覚馬も山本佐久にはつくづく感心されられており、山本覚馬が女性への教育の重要性を悟ったのは、母・山本佐久の存在があったからだという。
 覚馬は「八重、にしは学問を身につけろ。会津の戦いでは鉄砲が武器だったげんじょ、これからは学問で身を立てる時代だ。女子でもにしなら上手ぐ学問を吸収できんべ」という。
「あんっつあま、わがりやした。言う通りにします。本当に学問で答えがわがるがわがらねげんじょ……あんっつあまを信じやす。んだげんじょ、あんっつまの世話はおらはやらなくていいのがっし?あんっつあまは盲目だんべ」
「さすけねえ。おれの心配はいい。時栄がおっがら大丈夫だ。安心して学問に励みなんしょ!」
「はい。」
山本八重は山本覚馬の家で同居するようになって以降、何をしていたのか分からないが、新英学校及女紅場に通学するようになっていた。
その後、山本覚馬の推薦により、権舎長・教導試補として新英学校及女紅場で働くことになる。
新島八重の月給は3円から3円50銭だった。
山本八重は教導試補として新英学校及女紅場で、小笠原流礼法と養蚕とを教えた。
小笠原流礼法は会津藩の日新館が会津藩士に教えていた武士の礼儀作法で、養蚕は会津で盛んだった産業である。
教導試補と同時に権舎長となった山本八重はこれ以降、新英学校及女紅場の宿舎で寝泊まりするようになったため、あまり山本覚馬の自宅には戻らなくなった。
山本覚馬が18歳の愛人・小田時栄と同棲しているところに、山本八重らがやってきたという経緯があるため、山本覚馬は山本八重に権舎長の仕事を任せたのかも知れない。
山本八重が新英学校及女紅場で働き始めたとき、裏千家13代の千宗室(円能斎)の母・猶鹿子(しかこ)が新英学校及女紅場で茶道を教えていた。
京都の新英学校及女紅場は、華族や士族の女子を教育する学校なので、茶道や華道も盛んだった。
山本八重は新英学校及女紅場で猶鹿子(しかこ)と知り合ったことがきっかけで、茶道を始めることになる。
山本八重が本格的に茶道を始めるのはもう少し後のことだが、茶道は、晩年の山本八重の拠り所となっており、猶鹿子との出会いは山本八重にとって運命の出会いであった。
日本初となる博覧会が京都で開かれたのは、山本八重が京都の山本覚馬の元を訪れてから、数日後の事であった。
これまでも、「物産会」「薬品会」などの名称で展示会は開かれていたが、「博覧会」として開催したのは、京都の博覧会が日本初である。

【誰?】 清原容疑者のシャブ仲間、囁かれる名前・・NのO、SのN、司会タレントN、芸人コンビLのT.A

2016年02月28日 14時08分28秒 | 日記














【誰?】 清原容疑者のシャブ仲間、囁かれる名前・・人気コンビNのO、人気アイドルグループSのN、バラエティタレントN、芸人コンビLのT.A
2016年02月27日
スクープ






1: 影のたけし軍団ρ ★@\(^o^)/
清原容疑者が「シャブ仲間」として「大物司会者」の名前を挙げていたと東スポが伝え、一体誰なのかと話題になっています。
記事によると清原容疑者が逮捕前に酒に酔って3人の名前を出していたということで、1人が「プロ野球OB」、そしてもう一人が「大物歌手」で3人目が「大物司会者」だと言います。

「プロ野球OB」が誰を指しているのか、いくつかの名前は出ているもののまだ決め手はなく、「大物歌手」については週刊新潮が名前を出していた長渕剛氏ではないかとの見方が大勢を占めていますが、最も注目を集めているのが「大物司会者」とは誰なのか、という点。

名指しで「ヤク中」と話しているという「大物司会者」は

・長年に渡りバラエティ番組で司会を務めている
・押尾学事件で疑惑が囁かれた
・清原容疑者と少なからず接点があった

という特徴があるようですが、決め手に欠けるため一人に絞り込めていない段階ではあるものの数人の名前が飛び出しています。

まずバラエティ番組で誰もが知る人気コンビNのO。この人物については正体不明の雑誌記事画像が出回っているのが拡散しています。

「人気お笑い芸人Oのシャブ逮捕情報はこうして流れた」と題された記事はいつ頃どの雑誌が掲載したのか定かではありませんが、こう書かれています。

「名前が挙がったのは、冠番組を持つ大物コンビ、NのOです。噂の内容は『深刻な中毒に陥っていてマトリも内偵に入っている』というもの。実際、複数のマスコミが裏取りに走り、所属事務所も火消しに動きました」

記事にはこのOの顔をぼかした写真も掲載されていましたが、一目瞭然だとして話題になっています。

次に名前が出ているのが人気アイドルグループのSのN。彼については以前からそういった噂が多かったことや私生活が明らかになっていないこと、それに清原容疑者を逮捕前、自身の番組に出演させていたことから関係が噂されていましたが、清原容疑者の逮捕後に彼がテレビ出演中に眠そうな表情をしている映像がネットに投稿されるなど憶測を広める情報が相次いだことで名前を出される機会が増えているようです。

そして3人目が週末の昼に番組を持っていることで知られるバラエティタレントのN。
この人物は2005年にマンション販売会社の創業社長が覚醒剤で逮捕された際にも懇意にしていたことから名前が出ていましたが、この社長が清原容疑者ともつながりがあったことに加え、少年野球を通じて清原容疑者と直接つながりがあることもわかっています。

また、ASKAさんの逮捕で名前が出た飯島愛さんと懇意だったことも知られている上に東スポの記事に掲載されているシルエットもこのNが一番近いのではないかとされていることから関心が高まっていますが、押尾学事件との関わりが不明であるなど決定打に欠けているとも言えそうです。

他にもお笑い芸人コンビLのT.Aや清原容疑者を番組でも使っていた東京出身の大物コンビT、それに大物お笑いコンビDの名前も挙がっています。

BV1U2Uk71zvHMIm_10842














http://www.buzznews.jp/?p=2052330


8: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
もうわかった!!

13: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
名前が出てても清原みたいに明らかにおかしいってレベルにならないと
捕まらないんじゃないのか?

25: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
L?ロンブー?

30: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
淳はtwitterで何でも答えるから記事貼り付けて聴いて来いよ

39: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
NのO 岡村?
SのN 中居?
バラエ ヒデ?
芸コン ??淳?

46: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
芸能人、一斉検査掛ければ?

54: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
矢部が突然ラジオを辞めた理由が納得した

112: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
■冠番組を持つ大物コンビ、NのO・・・ナイナイ岡村
■人気アイドルグループのSのN・・・スマップ中居
■週末の昼に番組を持っていることで知られるバラエティタレントのN・・・中山秀征
■お笑い芸人コンビLのT.A・・・ロンブー田村淳
■清原容疑者を番組でも使っていた東京出身の大物コンビT・・・とんねるず
■大物お笑いコンビD・・・ダウンタウン

118: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
清原が捕まった時点で
親しい仲間は一時的に薬断ってるだろ

234: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
ひでえ記事だ

あなたの知らない裏業界転落人生 おごれる者は久しからず (コアコミックス 389)
あなたの知らない裏業界転落人生 おごれる者は久しからず


引用元: ・【芸能】 清原容疑者のシャブ仲間、囁かれる名前・・人気コンビNのO、人気アイドルグループSのN、バラエティタレントN、芸人コンビLのT.A

タグ :清原和博薬物逮捕疑惑噂

新島八重の桜 大河ドラマ『八重の桜』ふたたび維新回天草莽掘起篇ブログ小説10

2016年02月28日 09時13分20秒 | 日記













         7 義の戦い




またも話しがそれる。
  会津湾には官軍艦隊が迫っていた。
 陸上の官軍も侵略の機会を狙っている。
 栃木の黒田了介らは軍儀を開いていた。
「あの餓鬼はどこにいった?!」
 黒田は獅子舞いのかつらをかぶったままだ。餓鬼とは、同じく政府軍会津征伐参謀の山田市之丞のことである。
 ……あの餓鬼が! 軍儀にも出んと昼寝でもしとっとか?!
 栃木の官軍はほとんど薩摩隼人たちである。
「ニセ情報じゃなかとがか?」
 官軍海軍総参謀・石井富之助はそういった。
 黒田は「まだわかんど」という。
「榎本海軍が動きをみせちゅうは本当ではごわさんか?」
「まずは…」黒田了介(のちの清隆。首相)は続けた。「まずはニセ情報かどうかは密偵を出して決めるのがよごわさんか?」
 昼寝から起きたのか、山田市之丞があわててやってきて、
「会津などすぐ陥落する。その前に蝦夷に向かった榎本らに甲鉄艦をとられたらどけんする?」といった。
黒田は激昴して、
「このガキが! なにぬかしとる!」と喝破した。
 しかし山田も負けてはいない。
「アボルタージを知っとっがか?!」
「アボルタージくらいおいも知っとる!」
 黒田は声を荒げた。
「ほんとに知っちゅっがか? あぁ、薩摩(鹿児島県)と違うてすうすうするばい」
「このガキ!」
 黒田は山田に掴み掛かった。
 途端に取っ組み合いの喧嘩になる。
「おいどんをナメるんじゃなか!」
 黒田了介は声を荒げる。
「おいは何も黒田はんばナメとりゃせんが!」
「その言い方が気に入らんのじゃ!」
 官軍の部下たちはふたりをとめた。
「黒田先生も山田先生も……戦うのは薩摩じゃなかど! 戦ばするのは会津ぞ! 榎本ぞ!」
 ふたりはやっと取っ組み合いをやめ、冷静になった。
「……そげなこつ、わかっとっとばい」
 ふたりはいった。

  結局、蟠竜丸ははぐれ、回天丸だけでの「アボルタージ」となった。
 甲鉄艦にはのちの日露戦争の英雄・東郷平八郎が三等士官として乗っていた。
 東郷平八郎まだ若く、軍略も謀略もできない青二才だった。
 東郷は双眼鏡で海原をみながらにやにやと、
「アボルタージって知っとうか?」と仲間にいった。
「……アボルタージ? 知らん」
「まず第三国の国旗を掲げて近付いて、それから自分の旗にして攻撃するのさ」
「そげん卑怯なマネ許されっとでごわすか?」
「いや、卑怯じゃない」
 東郷平八郎は笑った。
「国際法でも認められている立派な策さ」
 そういいながらも、何やら艦船一隻が近付いてくるのが気になった。
「あれはどこの国の艦だ?」
 双眼鏡で覗いて見ると、アメリカの国旗を掲げている。
「………メリケン艦か…」
 東郷平八郎はどこまでも愚鈍だった。
 仲間は「あの船がアボルタージ艦だったら……」という。
「まさか?! 俺は海軍にはいって幕府とも戦ったが実際に”アボルタージ”した艦などみたことないぜ」
 しかし、予想は外れる。
 艦(回天丸)は、米国国旗を下げ、日の丸の国旗にかえた。
 ……”アボルタージ”だ!
「アボルタージ! アボルタージ! 砲撃せよ!」
 東郷たちは動揺を隠せない。
  甲鉄艦に、回天丸はすぐに接近した。
 と、同時に回天丸は砲弾を甲鉄艦に撃ちこむ。が、やはり鉄で弾かれる。
「乗り込め!」
 土方歳三の号令で、回天丸にのっていた榎本脱走軍の兵士や新選組たちが甲鉄艦に乗り込む。目的は、甲鉄艦奪取、アボルタージである。
「斬り込め! 斬り込め!」
 さすがは剣豪・土方歳三である。次々と官軍兵士を斬り殺していく。
 が、もはや時代は剣ではなく銃である。
 すぐに官軍は回転式機関銃を撃ってくると、榎本兵たちはやられていった。
 いわゆる初期のガドリング砲は、大砲ほどの大きさがあった。
 ガドリング砲の銃口が火を吹くたびに、榎本脱走軍兵士たちは撃たれて倒れていく。
「くそったれめ!」
 土方はガドリング砲を撃つ官軍たちの背後から斬り込んだ。そして、ガドリング砲を使って官軍兵士たちを撃っていく。が、戦にはならない。次々と官軍艦隊がやってきて砲撃してくる。土方はひととおりガドリング砲を撃ったところで、回天丸に飛び乗った。
 ……アボルタージは失敗したのだ。
 回天は全速力で甲鉄艦から離れた。遁走した。
 官軍の艦隊や甲鉄艦からも砲撃をうけ、回天丸は大ダメージを受けて、港にもどってきた。アボルタージが失敗したのはいたかった。が、それよりも貴重な兵士たちを失ったのもまたいたかった。
 榎本は、
「こんなことならアボルタージなどしなければよかった。べらぼうめ!」
 と悔がった。
 土方歳三は、なにをいまさらいってやがるんだこの男は! と怒りを覚えた。
 とにかく新選組隊士まで損失を受け、大打撃であった。

  雀之丞の弟・大塚浪次郎が戦死した。
「浪次郎!」
 兄の大塚雀之丞は号泣し、遺体にすがった。
 松平容保がきた。
「君の弟は優秀な人材であった。惜しいことだ」
 とってつけたように、容保はいって労った。
 涙で顔を濡らしながら、雀之丞は、
「弟の死は犬死にですか?! 会津公!」と声を荒げた。
 松平容保は鶴ケ城で立て籠もり、戸惑ってから、
「戦は殺しあいだ。新政府があくまでもわれら会津共和国を認めないなら、戦うしかない。これは”義”の戦ぞ! 会津は新天地だ」
「……しかし…新天地が血に染まりまする!」
「”義”の戦では勝つのはわれらだ。薩長には”義”がない。勝つのはわれらだ!」
 容保はどこまでも強気だった。
「……そうですか……」
 雀之丞は涙を両手でふいて、いった。
「新天地なら義の戦ですね? 弟の死は犬死にではなかったのですね」
「そうだ! 大塚雀之丞……励め!」
「はっ!」
 大塚雀之丞は平伏した。
 そして、ハッとした。
「そうだ! 公! これを!」と何か懐から取り出した。
「……なんだ?」
「これです!」
 大塚雀之丞は赤い財布を差し出した。
「…公の奥様にあってこれを渡されました」
「なに?! 佐久の?!」
 容保は驚いた。
「はい!」雀之丞は笑顔をつくった。「もったいなくて銭は使ってません。これを公に返します」
 容保は無言で何か物思いに耽っていた。
「公!」
「いや、それは君がもっていてくれ……佐久もよろこぶだろうて」
「公の奥様は大変に優しい方で、美人ですし若いですし、公が羨ましいです」
 雀之丞の言葉に、松平容保は笑った。

  明治三年(一八六九)三月十九日江戸……
 勝海舟と妻・たみ子は江戸の屋敷でひなたぼっこをしていた。
 勝は「……徳川家臣にもどって静岡にいこうけぃ」といった。
 たみ子は「それがいいかも知れませんね」と頷く。
 そんな中、「勝の裏切り者! 勝の裏切り者!」と罵声がきこえ、投石された。
 たみ子は驚いて目をとじた。
 ふたたび目を開けると、夫の勝海舟の額から血が流れていた。
「……あ、あなた!」
 しかし、勝海舟は血をふこうともせず、にやりとした。
「裏切り者けっこう! おいらの幕引は間違いじゃねぇってんだ」
 妻・たみ子は唖然として何もいえなかった。
”維新最高の頭脳”勝海舟はその後も長生きし、七十七歳で世を去る。


 そして再び「会津の役」に話しと時代を戻そう。
母成峠を突破して、一気に若松城まで兵を進めた新政府軍だったが、会津藩の猛反撃もあり、東北一と称される会津若松城は簡単に落とせなかった。
新政府軍は兵を退いて、外郭(がいかく=外側の塀)から会津若松城を包囲しており、膠着状態が続いていた。
しかし、新政府軍の別部隊は着々と奥羽越列藩同盟を制圧していた。
元々、東北諸藩の中にも勤王派の藩も存在しており、新政府よりの藩もあった。
が、そのような藩も仙台藩・米沢藩・会津藩に脅迫されて奥羽越列藩同盟に参加させられていた。
このため、新発田藩(新潟県)や三春藩(福島県)のように奥羽越列藩同盟を裏切って、新政府軍に味方したり、特に戦いもせずに簡単に新政府軍に降伏したり、奥羽越列藩同盟を離脱したりする藩もあり、奥羽越列藩同盟は簡単に崩壊した。
1868年10月19日(慶応4年9月4日=籠城12日目)、奥羽越列藩同盟の盟主・米沢藩が新政府軍に降伏する。
米沢藩と新政府側の土佐藩とは縁戚関係にあり、土佐藩が米沢藩に降伏を勧告していた。
藩主の命は保障されていたほか、寛大な処分が約束されていたため、米沢藩は新政府軍に降伏したのだ。
前述しているが米沢藩の子孫として著者がもう一度説明する。元々、米沢藩・上杉家は越後(新潟県)で豊臣秀吉に仕えて(会津・福島県)120万石を有していたが、関ヶ原の戦いでは西軍についたため、徳川家康によって(出羽米沢(山形県米沢市・置賜地方))30万石に減封されていた経緯がある。
米沢藩・上杉家は初代会津藩主・保科正之に御家断絶の危機を救ってもらっており、会津藩には恩義があったが、徳川家には恨みこそあれ、恩義など無かったのだ。
新政府軍への降伏に伴う処罰として米沢藩主・上杉斉憲が隠居すると、上杉茂憲が家督を継ぎ、米沢藩主になる。
すると、上杉茂憲は新政府軍に会津討伐の先鋒を願い出て、朝敵の庄内藩討伐に加わった。
1868年10月25日(籠城18日目)、奥羽越列藩同盟の盟主・仙台藩までもが新政府軍に降伏し、奥羽越列藩同盟が消滅する。
仙台藩は米沢藩からの降伏勧告を受けて、降伏の議論を行う。抗戦派も多かったが、戦況の悪化により、降伏を決定。和睦を打診してみたが、認められず、降伏した。
こうして、奥羽越列藩同盟の盟主となっていた仙台藩・米沢藩が新政府軍に降伏したため、奥羽越列藩同盟は完全に消滅し、会津藩は孤立した。
会津藩は奥羽越列藩同盟からの援軍を頼みの綱に籠城戦を戦っていたが、奥羽越列藩同盟が消滅したため、会津藩は孤立していた。
さらに、各方面を鎮圧した新政府軍が続々と会津に集結しており、会津藩の運命は風前の灯火となっていた。
会津藩が期待できるのは、もはや冬の到来だけだった。
「おらだの味方は冬将軍だげがあ」
会津若松城は、糞尿が溢れ、異臭が甚だしい。
井戸は死体で埋まり、死人は廊下にまであふれていた。
食料の補給路が断たれ、生きている者は黒い飯を食べていた。
城から逃げ出す会津藩士もいた。この会津の役で、八重は鳥羽伏見での弟・三郎に続いて父親・山本権八も亡くしている。父は城に兵糧を運ぶ「決死隊」に志願して、官軍の銃弾に貫かれたのだ。「八重、にしは山本家…の……誇りだ。」担架で城内に運ばれた瀕死の父親はそういって死んだ。「おとっつあまあ!」八重は遺体にすがって号泣したという。
三春藩(福島県)など東北諸藩の裏切りに至り、奥羽越列藩同盟は崩壊。
奥羽越列藩同盟の中心となっていたた仙台藩と米沢藩の両藩も既に新政府軍に降伏したため、会津藩が頼みの綱としていた奥羽越列藩同盟は消滅していた。
さらに会津藩は食糧補給路や連絡路も絶たれており、新政府軍に包囲された会津藩は将棋で言う「詰み」の状態であった。
このようななか、新政府軍の土佐藩士・板垣退助の意向を受けた米沢藩が、会津藩の家老・萱野権兵衛に手紙を送り、降伏を勧告したのである。
新政府軍に降伏した米沢藩も藩主の命は保障されており、会津藩主・松平容保は軍議の結果、降伏の交渉を決定した。
こうして、会津若松城は事実上の落城となった。
1868年11月3日(慶応4年9月19日=籠城27日目)、会津藩主・松平容保は、手代木直右衛門と秋月悌次郎の2人を使者として、米沢陣営に向かわせ、米沢藩を通じて新政府軍の板垣退助に降伏の意志を示した。
(注釈:後に山本八重は甘粕初子を養女にしている。甘粕初子の母方祖父は、会津藩の降伏の使者として活躍した会津藩士・手代木直右衛門である。)
1868年11月4日(慶応4年9月20日=籠城28日目)、新政府軍の板垣退助が、会津藩の使者の手代木直右衛門と秋月悌次郎に対して、降伏を提示する。
降伏の条件は以下の6つだった。
1・22日辰刻を期して、大手門外に降伏と大書した白旗をかかげる。
2・松平容保・喜徳父子は政府軍の軍門に来て降伏を請う。
3・家臣の男子は猪苗代に移って謹慎する。
4・14歳以下60歳以上の男子ならびに女子はどこに居住してもよい。
5・城中の傷病者は青木村に退いて引きこもる。
6・銃器・弾薬はとりまとめて、開城の日に官軍へ引き渡す。
1868年11月5日(慶応4年9月21日=籠城29日目)、手代木直右衛門と秋月悌次郎の2人が帰城した。秋月は白旗をもって官軍が包囲する鶴ヶ城城門前に現れ「開門!降伏すっべ!」と声を張り上げたという。残念なことに真新しい白旗は官軍に没収されてしまう。
降伏の条件を承諾した会津藩主・松平容保は降伏を正式に決定し、全軍に降伏を命じた。やっと一か月ぶりに官軍による砲撃が止んだ。そして、女性には白い旗を縫うように命じた。
しかし、城外を転戦していた佐川官兵衛は、藩主・松平容保の停戦命令を無視して新政府軍と戦った。
1868年11月5日(慶応4年9月21日=籠城29日目)夜、会津若松城の一室では、女性が泣きながら白旗を縫っていた。
白い布は全て包帯として負傷兵に使用していたため、白旗を作るための布が無く、女性は端切れを集めて縫い合わせた。
山本八重はこの時の様子を
「降参の旗は長さ3尺、幅2尺ぐらい、それも小布を多数集め、ようやく縫合したもので、これを縫う者は泣ぎの涙で針先は少しも進まながっだと申しておりやすだ」
と話している。
山本八重は白旗縫いの様子を「申しでおりやすだ」と伝聞として話していることから、山本八重は白旗縫いには参加していなかった、とされている。
1868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)午前10時、若松城の大手門や黒手門などに降伏の白旗が揚がる。
白旗には大きく「降参」と書いてあった。松平容保の義姉・照姫が墨筆で書いたものだ。
会津藩は白旗を掲げ、1ヶ月にわたる籠城戦は終止符を打った。会津藩が降伏して、ついに若松城が落城したのである。
やがて、停戦命令を無視して城外で戦っていた佐川官兵衛も戦いを止め、会津戦争は完全に終わった。
1ヶ月間の籠城戦に耐えた会津若松城は、大量の大砲を浴びており、無残な姿になっていた。
1868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)、甲賀町通の降伏式場で降伏式が行われた。
新政府軍の代表は、薩摩藩の中村半次郎(桐野利秋)だった。
降伏式に出席した松平容保は、降伏書に調印し、中村半次郎に「謝罪書」を提出した。
また、家老・萱野権兵衛は松平容保の寛大な処分を求めて、嘆願書を提出した。
その後、松平容保は若松城へ戻り、家臣に別れを告げ、戦死者に花を手向けると、若松城を出て、妙国寺で謹慎した。
なお、新政府軍を代表として降伏式に出席した中村半次郎は幕末時代に「人斬り半次郎」と恐れられていた剣客だったが、無学だったため、会津藩から受け取った書類の内容を理解できなかったという説もある。
11868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)午後、調印式が終わると、城の受け渡しが行われた。
籠城していた山本八重らは会津若松城の三の丸へと移された。
同日夕方、新政府軍が人員を調べるため、山本八重ら籠城者を桜馬場に集めたが、日が暮れて中止となり、山本八重ら籠城者は三の丸へと戻された。
桜馬場へ集まる時には通路に会津葵(会津藩・松平家の家紋)の提灯がかかっていたが、三の丸へ帰る時には揚羽蝶(あげはちょう)の提灯に変わっていた。
新島八重は揚羽蝶の提灯を観て、
「汚らわしい奸賊どもの提灯が…無念」
と怒りを噛み締めた。奸賊(かんぞく)とは「卑怯な悪人」という意味である。
11868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)深夜12時、山本八重が空を見上げると、見事な月が輝いていた。
山本八重は三の丸を出ると、
「明日の夜は、何国(いづこ)の誰か、ながむらん、なれし御城に、残す月かげ」
という詩を詠み、若松城三の丸の近くにある雑物蔵の壁に詩を刻んだ。
山本八重は「カンザシ」を使って雑物蔵の壁に詩を刻んでいる。この「カンザシ」は髪に差す「簪(かんざし)」とされているが、簪ではなく、鉄砲の部品だったという説もある。
なお、山本八重が雑物蔵の壁に刻んだ詩は、資料により若干の違いがあり、4パターンが記録されている。どれが正しいのか分からない。
1868年11月7日(慶応4年9月23日=籠城31日目)、新政府軍(長州藩)の山県小太郎が入城する。
降伏した松平容保は、新政府軍の山県小太郎に若松城を明け渡す。
開城時に若松城に居た人数(籠城者)は5239人だった。若松城には、大砲51門・小銃2845丁・弾薬22000発・槍1320筋・長刀81振のほか多額の借金が残っていた。
会津藩の死傷者の数は計2977人だった。
その日の朝、新政府軍は籠城して腹を空かした会津藩士のために、握り飯を配った。
新政府軍の配った握り飯は、白米でピカピカしていたため、若松城内では「新政府軍が配る飯には毒が入っている」という噂が流れた。
山本八重は久しぶりに見た白米を気味悪がりながらも、新政府軍が配ってくれたおにぎりを食べた。もちろん、おにぎりに毒は入っていなかった。
また、若松城では
「女は追放になり、男は全員、切腹を命じられる」
などという噂が流れたが、新政府軍の処分は、
「女子供および60歳以上の老人は罪に問わぬものとして放免とし、その他の者は猪苗代で謹慎」
というものだった。
松平容保は会津の役を起こした首謀者として死ぬ覚悟をしていた。が、死罪はまぬかれ蟄居とあいなった。そのかわり、会津藩の家老・萱野権兵衛が容保の罪を一身に被り、白無垢の死に装束で切腹して果てた。
こうして、若松城の城内に居た会津藩士は猪苗代で謹慎し、城外に居た会津藩士は塩川村で謹慎することとなった。
 山本八重は女性なので自由の身となるずだったが、亡き弟・山本三郎を名乗って、他の会津藩士と供に猪苗代へと向かった。
ただ、途中で女だと知られてしまい、「女だ、女が居るぞ」と叫ばれた。大河ドラマでは夫の川崎尚之助が八重を助ける為に叫んだ、とされた。
山本八重は右へ左へと身を隠しながら、猪苗代へ向かうのだが、結局は女だと知られてしまい、追い返されてしまった。
 一方、大砲隊を指揮していた夫・川崎尚之助は、他の会津藩士と同様に猪苗代へ行き謹慎した。
通説では「川崎尚之助は会津藩士では無かったため、若松城開城前に若松城を出た」とされていたが、川崎尚之助は会津藩士として猪苗代を経て東京で謹慎していた事が明になっている。
また、通説では「川崎尚之助は戊辰戦争の最終に山本八重と離婚した」とされているが、川崎尚之助が山本八重と離婚した事を示す資料は見つかっていない。
朝敵となった会津藩は「会賊」と呼ばれていたが、新政府軍に降伏して捕虜となった会津藩士は「会津降人」と呼ばれるようになる。
武士道を重んじる会津藩士にとって、「会賊」「会津降人」と呼ばれることは、非常に屈辱的だったという。
ただし、会津藩士は新政府軍(官軍)を「奸賊(かんぞく)」「官賊」「薩賊長奸」などと呼んでおり、お互い様のようだ。


 話を少し戻そう。
  会津軍の全軍の兵力は二千に過ぎない。
 猪苗代に三百
 郡山に四百 
 白虎隊わずか十九名……
 二本松隊二百
 鶴ケ城隊八百
 城に大砲を設置
 猪苗代にも大砲を設置

           
  若く可愛い看護婦と、会津軍の兵士の若者・英次郎はおさえとデートした。
「君、今好きなひととかいるの?」
 英次郎は勇気をふりしぼってきいた。
 是非とも答えがききたかった。
 おさえは頬を赤らめ、
「えぇ」
 といった。
 純朴な少年の感傷と笑うかも知れないが、英次郎はおさえが自分のことを好きになっていると思った。
「それは誰?」
「…ある人です」おさえは顔を真っ赤にした。
 そして「あのひとはもう治らないとやけになってるんです」と吐露した。
「………治らない? なんだ……俺のことじゃないのか」
「すいません」
「いや!」英次郎は逆に恐縮した。「いいんだよ! そのひと病気治るといいね」
「……はい」
 おさえは可憐に去った。
「ふられたか? 英次郎」
 兄・恒次郎はからかった。弟は「そんなんじゃねぇや!」といった。
 ふたりは相撲を取り始めた。
 兄が勝った。
「元気だせ。もっと可愛い娘がいっぱいいるって」
「だから! ……そんなんじゃねぇって」
 ふたりは笑った。
 まだ恋に恋する年頃である。

  白虎隊の行軍では、若者たちが英雄をかこんでいた。
 英雄とは、あの土佐の坂本龍馬を斬った男・今井信助である。
「今井さんはあの龍馬を斬ったそうですね?!」
「…まぁな」
「龍馬を斬ったときどんな気持ちでしたか?!」
 若者たちは興奮して笑みを浮かべながらきいた。
「うれしかったよ。なんせ薩長をふっつけた売国の男だからな」
「龍馬はどういってましたか? 死ぬとき…」
 若者は興奮で顔をむけてくる。
「なんもいわなかったよ。でもやつは頭を斬られて死んだんだな」
「へぇ~っ」
 若者たちが笑顔で頷いた。
 かれらにとっては龍馬は明らかな”敵”である。

  八月二十六日 猪苗代…
 暴風雨が襲ってきた。白虎隊は指令者を失い迷走した。
 薩摩藩、長州藩など官軍三万が猪苗代へ上陸した。
 会津並びに蝦夷征伐参謀は山田市之丞(二十五歳)である。かれは大村益次郎の弟子であった。
 会津軍は敗退、官軍は鶴ケ城まで迫った。
 城に官軍が艦砲射撃をする。
 次々と会津軍はやられている。会津軍の大砲の弾丸は、官軍の艦隊に届かない。
 猪苗代でも、圧倒的人海戦力で官軍が圧倒的優位にたつ。
 銃撃戦は続く!
 八月三日午前四時、雨があがった。官軍り総攻撃が始まった。
 白虎隊のリーダー篠田義三郎は、「剣のたつやつを集めろ!」と命じた。
「はい!」
 官軍との戦いになった。
 陣内の山田市之丞に黒田了介は、
「ひきのばし策など愚策でごわす!」と文句をいった。
 山田市之丞は、
「……ひきのばしけっこう。どうせ会津軍は自滅する」
「そげんこつわかっとか!」
「そうでごわすか?」
「ふん!」黒田了介は「会津公は賊軍ながらあっぱれな男じゃ。敵ながらあっぱれじゃっどん。殺すには惜しか男じゃ」
 二本松で、郡山で、会津軍やぶれる。
 木之内でもやぶれる。
 湾、でも形勢不利……
 福島海岸でも会津大砲の砲弾は官軍戦艦に当たらない。官軍が城下に迫ったとき会津の女たちは200名が自害したという。幕末のジャンヌダルクというのが山本八重である。斬髪し恐ろしい正確な狙撃で官軍たちを狙撃して殺した。男たちに反対されてもならば死ぬと啖呵をきって戦する女たちもいた。中野竹子優子らの会津娘子隊である。容保の姉・照姫もがんばった。怪我人たちの包帯が尽きると自分の着物を差し出した。

「なにをしている?!」
 会津の家老は直々にやってきた。銃弾や砲弾が飛びかう中でのことである。
「……あ! ご家老!」
「わしがやる!」
 家老は大砲を撃ち始めた。しかし、なかなか当たらない。
 が、奇跡か、砲弾一発が官軍艦に当たり爆発して海に沈んだ。
  猪苗代では白虎隊は飢えと疲れで戦えない……しかし、篠田は敗退を続ける隊員を尻目に、銃弾が飛び交う中を進軍した。森の中で、隊士たちは「これは義の戦だ!」といいあった。
 篠田は、「まだ自決には早いべ! おれらばいなぐなっだら会津は終りだべ?!」ときく。 しかし、隊のものは「んだども官軍には勝でね! 自決しでこそサムライだべ」
「違うべ!」篠田義三郎はにやりとして、「官軍の首ばとるのが侍だべ?!」
 といった。
 そんな中砲撃があり、爆発が近くで起こった。篠田は額から出血した。
 しかし、伊庭八郎は直撃を受けて血だらけで倒れていた。
「伊庭?! だいじょうぶか?」
「………篠田さん…」
 伊庭八郎は脇差しをもって切腹した。「かいしゃぐを!」
 篠田は動揺したが、「分がっだべさ」といい首をはねた。
 砲弾が飛び交う。
「やあああ~っ!」
 大森は進軍する官軍に剣を抜いて叫んだ。
 しかし、官軍は「餓鬼にかまうな!」とかれを無視して進軍していった。
 官軍絶対的優位で、ある。

                           
         8 少年たちの決断




話はまたしても戻り「白虎隊自刃の役」である。
  埃まみれの軍服の坂井順吉は彷徨った。
 あたりには銃弾や砲弾が乱れ飛ぶ。
「みんな…どごさいるだ?」
 坂井は隊からはぐれて生き残った。戦ののち畜産指導などに従事して明治七年福島県で病死している。最期まで、故郷に執着した日本人であった。
 戦がひとやすみしたところで、激しい雨が降ってきた。
 白虎隊の不幸はつづく。
 暴風雨で、また道にまよった。
「城の安否を確かめるまで死ぬ訳にはいがね!」
 西川勝太郎は焦りを感じながらいった。
  八月二十三日午前十一時、官軍と会津軍は市街戦となった。松平容保は城を枕に討ち死にする覚悟であった。城に砲弾が浴びせられる。
「みなのもの! 城を枕に討ち死にするぞ!」
 松平容保は仁羽織りの姿で息巻いた。
 侍の女子たちは強姦されて殺されるくらいなら、と、自殺した。
「くそっ! なぜわれらが賊軍なのじゃ?! 京都で朝廷と天子さまをお守りしたのは会津藩ではないか! 薩長などに屈してなるものか!」
 白虎隊は只、血だらけで山中を進んだ。
 何の希望もなかった。敗戦濃厚である。
「……城はどうなってんだべ」と考えた。
  八月二十三日午前、白虎隊のもとに山内小隊長が現れた。
「隊長!」少年たちは声をあげた。
「敵は大軍……撤退して再起を計れ! 犬死はいがんぞ!」
「しかし……隊長…これは…義の戦でしょう?! 薩長などに屈してなるものか!」
「んだども……人間死んだらおしめぇだべ?」
 そして、また少年たちは隊長を見失った。
 坂井順吉もこのときはぐれている。
 八月二十三日午後、鶴ケ城の近くが炎上した。城はまだ陥落していない……

  榎本は激しい怒りを感じていた。開陽丸を失っただけでなく、蟠竜丸、回天丸、千代田形まで失うとは………なんたることだ!
 沢は「どういうことなんだ?! 森本!」とせめた。
 森本は下を向き、
「坐礁してもう駄目だと思って……全員避難を……」と呟くようにいった。
「馬鹿野郎!」沢は森本を殴った。
「坐礁したって、波がたってくれば浮かんだかも知れないじゃないか! 現に官軍が艦隊を奪取しているではないか! 馬鹿たれ!」
 森本は起き上がり、ヤケになった。
「……負けたんですよ」
「何っ?!」
 森本は狂ったように「負けです。……ジャンプです! ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ!」と踊った。
 沢太郎左衛門も榎本武揚も呆気にとられた。
 武揚は茫然ともなり、眉間に皺をよせて考えこんだ。
 いろいろ考えたが、あまり明るい未来は見えてはこなかった。
  ごりょうかく         
  五稜郭城で、夜を迎えた。
 官軍の攻撃は中断している。
 中島三郎助や土方らは辞世の句を書いていた。
 ……もう負けたのだ。榎本脱走軍たちのあいだには敗北の雰囲気が満ちていた。
「土方くん出来たかね?」
「できました」
「どれ?」
 ………叩かれて頭もたげる菜ずなかな……
 これが土方歳三の辞世の句である。

「土方くん」
 榎本は土方を呼んだ。
「なんですか? 榎本総裁」
 土方歳三は榎本の部屋に向かった。榎本は「実は最後の戦にあたり、君に話がある。近くの農家を用意してある。そこにいって待っていてくれないか?」といった。
「農家? ……なんの話ですか?」
「それはそこで話す。案内させよう」
 榎本は無理に笑顔をつくった。
 土方は訳がわからず、首をかしげた。
 その深夜、案内されて農家についたが、誰もいない。
 土方歳三は農家の中にはいって、蝋燭の薄明りの中、腰の刀を抜き腰掛けた。
「榎本総裁は何を考えているのだ?」
 すると、奥から井上ちか子がきた。
「ちか子さん!」
 土方歳三は驚いた。「なぜここに?」
「榎本総裁にお願いいたしましたの……」ちか子はいった。
「そうですか。……しかし、私はゆっくりとあなたと話していられません。もうすぐ戦もおわるでしょう」
「そうですか…」
「あの世にいったら待っている近藤さんや総司がなんというか。実は楽しみなんですよ」 土方は苦笑した。
「駄目です!」
 ちか子は声をあげた。
 土方は無言になった。
「駄目です! 生き残ってください! 死なないでください!」
 井上ちか子は土方にすがった。
「………ちか子さん」
 ふたりはそのまま一夜を明かした。

  榎本武揚は最後まで一緒だったフランス人ふたりを脱出させることにした。
 カズヌーブとブリュネである。
 外国人ふたりは涙を流した。
 榎本は観極まりながら「カズヌーブさん。ブリュネさん。これは日本人同士の戦いだ。あとはもうよいのです。品川では一緒にジャンプしましたが、もうわれらとともに討ち死にしなくてもよい。お国にかえって活躍してください」
 と頭を下げた。
「いままでありがとう」
 カズヌーブは「日本にあなたのようなひといるかぎり、西洋に追いつくのに百年かからないだろう」と涙声でいった。
 ブリュネは「日本人、少し命そまつにしすぎます。命は大切なものです」
 といい続けた。
「蝦夷共和国万歳! 命大切に……パリであいましょう」
 ふたりは榎本と堅い握手をかわした。
 ブリュネはフランスに戻ったのちに陸軍将軍となり、明治四十四年に死亡している。

  榎本脱走軍は早朝に官軍陣地へ奇襲をかけた。
 榎本軍と官軍がはげしくぶつかりあう。しかし、官軍は多勢に武勢……榎本軍は遁走をよぎなくされる。
 五月十一日、箱館湾の官軍艦隊に「錦の御旗」が掲げられた。
 それを双眼鏡で見て、榎本は深い溜め息をもらし、肩をすくめた。
 榎本はいう。
「十年先、五十年先に俺の考えを誰かが叶えてくれればいい。しかし……百年先では遅過ぎる……」
「……釜さん」沢はなんといっていいかわからなかった。
「この戦は義の戦ぞ! 官軍こそ賊軍だ!」
 榎本は強がりをいった。
「蝦夷共和国は永遠に不滅だ」
  五月十一日、弁台場に砲弾の嵐が舞い飛ぶ。あたりは爆発で、次々と榎本脱走軍の兵士たちが爆死していく。官軍の艦隊は艦砲を雨あられのように撃ってくる……
「べらぼうめ!」
 榎本が大砲設置場にきた。
「総裁! 危険です! 城にいてください!」
「てやんでい! こんなときに城でのんびりしてられるか!」
 榎本武揚は大砲を構え、撃った。撃ち続けた。
 すると、幸運なことに官軍の艦船に命中し、艦隊一隻が撃沈した。
「やったぞ!」
 武揚は歓声をあげた。
 しかし、戦況は榎本脱走軍の不利であった。
 千代ケ岡台の陣地も崩壊寸前、五稜郭にも官軍が迫ってくる………
 榎本は五稜郭城に戻った。
 急ごしらえで軍儀をひらく。
「このままではいかん」
 榎本はいった。
 まさしくその通りである。
 沢太郎左衛門は「官軍とわが軍では兵力が違いすぎるぜ、釜さん……いや、総裁!」
 といって頭をふった。
 榎本武揚は、
「そんなことぐらいわかってるぜ」という。
「じゃあどうする?」
 松平太郎が口をはさんだ。
「……それを今考えるためにこうして軍儀をひらいてるんでぃ」
「しかし……小田原評定じゃねぇんですか?」
 そういったのは星だった。
「とにかく……」
 榎本はいう。
「軍を効果的につかって、奇襲でもなんでもして薩長軍を叩き潰せ!」
 沢は首をひねりながら、
「釜……いや、総裁。そんなことが出来るんなら今頃やってるぜ」という。
 実は、一同は不安でいっぱいなのである。
「……降伏…」
 榎本の首のあたりまでその言葉がでかかった。
 しかし、榎本はそうはいわなかった。
 一同が沈黙する。
「じゃあ、今度は樺太にでもジャンプしますか?」
 星がいったが、誰も笑わなかった。
 榎本は咳払いをしてから、
「とにかくわが軍は徹底交戦のかまえでいく!」と強くいった。
 ……もう負けるのはわかってるじゃねぇか。
 ……総裁はやけになっている。
 一同はそう感じた。

  一本木では、新選組が藪の中にひそんでいた。
 官軍の関所らしいところがあり、官軍の馬や兵士がちらほらと見える。
「島田」
 土方は新選組隊士・島田魁を小声で呼んだ。
「はっ!」
 島田がやってくる。
「……俺が馬にのって近付くから、合図をしたら斬り込め。いいな?」
 土方の言葉に、島田は頷いた。
 新選組はわずか十名まで減っていた。
 しかし、皆、剣客ぞろいである。
 土方は馬にのり、ゆっくりと前にすすんだ。
 かれは新選組の羽織りは着てない。黒い軍服である。
 やがて、官軍の誰かが土方に気付いて、
「おんしら~っ。どこぞのもんじゃ~っ?」と呑気にきく。
 それでも土方は答えず、馬をゆっくりと前にすすませた。側には榎本脱走軍兵士たち数名がひかえている。
「俺が誰だか知ってるか?」
 土方歳三はゆっくりと低い声でいった。
「そげんこつ知らんばい」
 官軍兵士は呑気にいった。
「なら教えてやる」
 土方歳三はゆっくりと低い声で続けた。
「俺の名は土方歳三。新選組副長・土方歳三だ!」
”鬼の土方”の名をきいて、官軍たちは、
 ひいいぃ~っ!
 と悲鳴をあげた。
「かかれ!」
 土方は新選組たちに合図をおくる。
 やあぁあ~っ!
 新選組隊士たちは剣を抜いて襲撃を開始した。
「ひいいぃ~っ! 新選組だぁっ!」
 官軍たちは斬られて地面に横たわっていく。
 血で血を洗う惨状になる。
 土方は自慢の剣で、バッタバッタと官軍を斬り殺していく。
 しかし、それもつかの間だった。
 官軍は銃弾を土方に浴びせかけた。新選組や榎本脱走軍兵士にも……
 土方は胸や脚に銃弾をあびて、落馬し、そのまま動かなくなった。
「……近藤さん…総司……」
 土方歳三は死んだ。
 享年、三十五歳だった。
 新選組も全滅し、”誠”の旗もボロボロになり、地面に散った。


西郷隆盛 おいどん!巨眼の男 西郷隆盛<維新回天草莽掘起篇>鹿児島の英雄ブログ1

2016年02月27日 08時53分35秒 | 日記











小説
おいどん!
巨眼の男
   西郷隆盛


       saigo takamori oidon!Kyogan no otoko ~the last samurai ~~鹿児島のおいどん! 西郷隆盛の「明治維新」。
                 「江戸無血開城」はいかにしてなったか。~
                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

 西郷隆盛は名を吉之助という。薩摩藩士である。この巨眼の男は明治維新の英雄としてあまりにも有名だ。西郷は二度、島流しにあって、島の女・愛加那とのあいだに子供をもうける。菊次郎と菊草である。薩英戦争、禁門の変のあと、長州と連合をつくり、朝廷と提携して錦の御旗をたてて官軍となる。勝海舟との会談で「江戸無血開城」をなしとげる。 その後、明治新政府をつくるが、征韓論でやぶれて、野に下る。
 鹿児島にもどった西郷は私塾をつくる。その塾生は二万人にものぼった。諸国の士族たち(元・侍、藩士)は西郷がなんとかしてくれるだろうと期待し、西郷は思わず御輿にのせられて西南戦争を初めてしまう。しかし、薩摩軍に勝ち目はない。西郷は城山からでたところを狙撃され、部下に首をはねられて自決…これにより明治維新は本当におわったのである。      おわり

         1 英雄野に下る





  その日の午前、東京はどしゃぶりの雨であった。
 明治三年四月十一日、西郷隆盛は『征韓論』にやぶれた。
「西郷先生はどこじゃ?! 西郷先生はどこじゃ?!」足にゲートルをまき、黒い服に黄色い縁帽子をかぶった官軍(明治政府軍)兵士たちは雨でずぶ濡れになりながら、駆けた。                
 当の西郷吉之助(隆盛)は麻の羽織りをきて、傘をさして陰にいる。
 兵士たちは彼には気付かなかった。
 西郷は神妙な面持ちで、暗い顔をしていた。今にも世界が破滅するような感覚を西郷隆盛は覚えた。……おいの負けじゃっどん。
 実はこのとき、西郷吉之助は参議(明治政府の内閣)に辞表を提出し、野に下ったのである。西郷は維新後の薩長政府の腐敗ぶりをなげく。
”人民が「あんなに一生懸命働いては、お気の毒だ」というほどに国事をつかさどる者が働きぬかなくては、よい政治はおこなえない。理想的な政治家なら、薩摩も長州もないはずだ。しかるに、草創のはじめにたちながら、政治家も官僚も色食や銭にまみれている。 働く場所をうしなった侍(士族)たちの不満が爆発しそうだ。「そいを、わしゃ最もおそれる」”
 辞表をうけとった親友でもある参議・大久保利道(一蔵)は悔しさに顔をゆがませた。「わかりもはん。なぜごて、西郷どんは辞めるのでごわすか?」
 大久保は耳元から顎までのびる黒髭を指でなでた。「朝鮮などどうでもよかとに」                           
 伊藤博文は「西郷先生は何故に朝鮮にこだわるのでしょう?」と大久保にきいた。
「西郷どんは思いきりがよすぎとる。困り申した。あの頑固さは昔から禅をやっていたせいでごわそ」
  西郷隆盛の弟の西郷従道(慎吾)がやってきて「兄さんが辞めとうたとは本当でごわすか?」ときいた。子供のときから西郷隆盛と過ごした大久保は残念がった。
  吉之助は山岡鉄太郎(鉄舟)の屋敷にころがりこんだ。山岡鉄太郎は、清河八郎とともに『新選組』の発足に尽力したひとである。
「どうしました? 西郷先生?」鉄太郎はゆっくりと尋ねた。
「………やぶれもうした」
 力なく、呟くように吉之助はいった。
「それは、『征韓論』ですか?」
「そいでごわそ。死に場所をなくし申した」西郷はうなった。
 山岡鉄太郎は「なぜ西郷先生は朝鮮にこだわり、攻めようとするのです?」ときいた。「攻める訳ではござりもはん」西郷は続けた。「ただ、朝鮮においがいき、友好関係をば築くのでごわす」
「…では『征韓論』ではなく『親韓論』ですな?」
「そうでごわす」西郷は頷いた。「おいの考えがいつの間にか朝鮮を征伐する……などとごて変えられたのでごわす。何とも情けなく思っちょる」
 こうして、西郷隆盛は野に下った。
 そして、明治十年二月、『西南戦争』が勃発する。

  西郷吉之助は、文政十年(一八二七)十二月七日、薩摩七十七万石、島津家の城下、鹿児島加治屋町に生まれた。大久保一蔵(利道)も同じ加治屋町の西郷家より二町ほどはなれた猫薬小路で生まれたという。大名はどこでもそうだが、この時代、上級、下級藩士の区別がやかましかった。西郷の父は小姓組という家柄で、藩士の身分は下から二番目だ。        長男の吉之助の後に、お琴、吉次郎、おたか、おやす、慎吾(西郷従道)、小兵衛とたてつづけに生まれ、貧乏がさらに貧乏になった。
 吉之助は後年、六尺近い体躯をして、巨眼な堂々たる英雄らしい体型になる。無口だが、すもう好きで、相手をまかした。力は強い。しかし、読み書きは苦手であったという。
 ちなみに述べると、西郷は大久保の父・次右衛門からも学徳を受けている。大久保の父は町医者から昇格して士分になったほどの人物であった。
 吉之助の風貌は英雄たるものだが、人格も徳をつんだ男である。西郷隆盛といえば、例の肖像画と銅像だけだが、それ以外には彼の顔を知ることは出来ない。写真嫌いであったため、西郷隆盛といえば「上野の西郷どん」という銅像のイメージが強い。
 西郷が動けば薩摩も動くとさえいわれたのも、その風貌と島津斉彬との仲でのことである。西郷は巨眼な堂々たる英雄であった。
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、『ネタバレ』、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』、津本陽著作『私に帰せず 勝海舟』、司馬遼太郎著作『竜馬がゆく』、『陸奥宗光』上下 荻原延濤(朝日新聞社)、『陸奥宗光』上下 岡崎久彦(PHP文庫)、『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦(PHP文庫)、『勝海舟全集』勝部真長ほか編(頸草書房)、『勝海舟』松浦玲(中公新書)、『氷川清話』勝海舟/勝部真長編(角川文庫)、『坂本龍馬』池田敬正(中公新書)、『坂本龍馬』松浦玲(岩波新書)、『坂本龍馬 海援隊始末記』平尾道雄(中公文庫)、『一外交官の見た明治維新』上下 アーネスト・サトウ/坂田精一(岩波文庫)、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一(東洋文庫)、『幕末外交談』田辺太一/坂田精一校注・訳(東洋文庫)、『京都守護職始末』山川浩/遠山茂樹校注/金子光晴訳(東洋文庫)、『日本の歴史 19 開国と攘夷』小西四郎(中公文庫)、『日本の歴史 18 開国と幕末変革』井上勝生(講談社文庫)、『日本の時代史 20 開国と幕末の動乱』井上勲編(吉川弘文館)、『図説和歌山県の歴史』安藤精一(河出書房新刊)、『荒ぶる波濤』津本陽(PHP文庫)、日本テレビドラマ映像資料『田原坂』『五稜郭』『奇兵隊』『白虎隊』『勝海舟』、NHK映像資料『歴史秘話ヒストリア』『その時歴史が動いた』大河ドラマ『龍馬伝』『篤姫』『新撰組!』『八重の桜』『坂の上の雲』、『花燃ゆ』漫画『おーい!竜馬』一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、NHK『大河ドラマ 龍馬伝ガイドブック』角川ザテレビジョン、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
『竜馬がゆく(日本テレビ・テレビ東京)』『田原坂(日本テレビ)』『五稜郭(日本テレビ)』『奇兵隊(日本テレビ)』『勝海舟(日本テレビ)』映像資料『NHKその時歴史が動いた』『歴史秘話ヒストリア』映像参考資料等。
 「文章や物語が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく、引用です。
大河ドラマ『飛ぶが如く』、司馬遼太郎著作『飛ぶが如く』、他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
なおここから数十行の文章は小林よしのり氏の著作・『ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり「大東亜論 第5章 明治6年の政変」』小学館SAPIO誌2014年6月号小林よしのり著作漫画、72ページ~78ページからの文献を参考にしています。
 盗作ではなくあくまで引用です。前述した参考文献も考慮して引用し、創作しています。盗作だの無断引用だの文句をつけるのはやめてください。
  この頃、決まって政治に関心ある者たちの話題に上ったのは「明治6年の政変」のことだった。
 明治6年(1873)10月、明治政府首脳が真っ二つに分裂。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五人の参謀が一斉に辞職した大事件である。
 この事件は、通説では「征韓論」を唱える西郷派(外圧派)と、これに反対する大久保派(内治派)の対立と長らく言われていきた。そしてその背景には、「岩倉使節団」として欧米を回り、見聞を広めてきた大久保派と、その間、日本で留守政府をに司っていた西郷派の価値観の違いがあるとされていた。しかし、この通説は誤りだったと歴史家や専門家たちにより明らかになっている。
 そもそも西郷は「征韓論」つまり、武力をもって韓国を従えようという主張をしたのではない。西郷はあくまでも交渉によって国交を樹立しようとしたのだ。つまり「親韓論」だ。西郷の幕末の行動を見てみると、第一次長州征伐でも戊辰戦争でも、まず強硬姿勢を示し、武力行使に向けて圧倒な準備を整えて、圧力をかけながら、同時に交渉による解決の可能性を徹底的に探り、土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるという方法を採っている。勝海舟との談判による江戸無血開城がその最たるものである。
 西郷は朝鮮に対しても同じ方法で、成功させる自信があったのだろう。
 西郷は自分が使節となって出向き、そこで殺されることで、武力行使の大義名分ができるとも発言したが、これも武力行使ありきの「征韓論」とは違う。
 これは裏を返せば、使節が殺されない限り、武力行使はできない、と、日本側を抑えている発言なのである。そして西郷は自分が殺されることはないと確信していたようだ。
 朝鮮を近代化せねばという目的では西郷と板垣は一致。だが、手段は板垣こそ武力でと主張する「征韓論」。西郷は交渉によってと考えていたが、板垣を抑える為に「自分が殺されたら」と方便を主張。板垣も納得した。
 一方、岩倉使節団で欧米を見てきた大久保らには、留守政府の方針が現実に合わないものに見えたという通説も、勝者の後付けだと歴史家は分析する。
 そもそも岩倉使節団は実際には惨憺たる大失敗だったのである。当初、使節団は大隈重信が計画し、数名の小規模なものになるはずだった。
 ところが外交の主導権を薩長で握りたいと考えた大久保利通が岩倉具視を擁して、計画を横取りし、規模はどんどん膨れ上がり、総勢100人以上の大使節団となったのだ。
 使節団の目的は国際親善と条約改正の準備のための調査に限られ、条約改正交渉自体は含まれていなかった。
しかし功を焦った大久保や伊藤博文が米国に着くと独断で条約改正交渉に乗り出す。だが、本来の使命ではないので、交渉に必要な全権委任状がなく、それを交付してもらうためだけに、大久保・伊藤の2人が東京に引き返した。大使節団は、大久保・伊藤が戻ってくるまで4か月もワシントンで空しく足止めされた。大幅な日程の狂いが生じ、10か月半で帰国するはずが、20か月もかかり、貴重な国費をただ蕩尽(とうじん)するだけに終わってしまったのだ。
 一方で、その間、東京の留守政府は、「身分制度の撤廃」「地租改正」「学制頒布」などの新施策を次々に打ち出し、着実に成果を挙げていた。
 帰国後、政治生命の危機を感じた大久保は、留守政府から実権を奪取しようと策謀し、これが「明治6年の政変」となったのだ。大久保が目の敵にしたのは、板垣退助と江藤新平であり、西郷は巻き添えを食らった形だった。
 西郷の朝鮮への使節派遣は閣議で決定し、勅令まで下っていた。それを大久保は権力が欲しいためだけに握りつぶすという無法をおこなった。もはや朝鮮問題など、どうでもよくなってしまった。
 ただ国内の権力闘争だけがあったのだ。こうして一種のクーデターにより、政権は薩長閥に握られた。
 しかも彼ら(大久保や伊藤ら)の多くは20か月にも及んだ外遊で洗脳されすっかり「西洋かぶれ」になっていた。もはや政治どころではない。国益や政治・経済の自由どころではない。
 西郷や板垣らを失った明治政府は誤った方向へと道をすすむ。日清戦争、日露戦争、そして泥沼の太平洋戦争へ……歴史の歯車が狂い始めた。
(以下文(参考文献ゴーマニズム宣言大東亜論)・小林よしのり氏著作 小学館SAPIO誌7月号74~78ページ+8月号59~75ページ+9月号61~78ページ参考文献)
この頃、つまり「明治6年の政変」後、大久保利通は政治家や知識人らや庶民の人々の怨嗟(えんさ)を一身に集めていた。維新の志を忘れ果て、自らの政治生命を維持する為に「明治6年の政変」を起こした大久保利通。このとき大久保の胸中にあったのは、「俺がつくった政権を後から来た連中におめおめ奪われてたまるものか」という妄執だけだった。
西郷隆盛が何としても果たそうとした朝鮮使節派遣も、ほとんど念頭の片隅に追いやられていた。これにより西郷隆盛ら5人の参議が一斉に下野するが、西郷は「巻き添え」であり…そのために西郷の陸軍大将の官職はそのままになっていた。この政変で最も得をしたのは、井上馨ら長州汚職閥だった。長州出身の御用商人・山城屋和助が当時の国家予算の公金を使い込んだ事件や……井上馨が大蔵大臣の職権を濫用して民間の優良銅山を巻き上げ、自分のものにしようとした事件など、長州閥には汚職の疑惑が相次いだ。だが、この問題を熱心に追及していた江藤新平が政変で下野したために、彼らは命拾いしたのである。
江藤新平は初代司法卿として、日本の司法権の自立と法治主義の確立に決定的な役割を果たした人物である。江藤は政府で活躍したわずか4年の間に司法法制を整備し、裁判所や検察機関を創設して、弁護士・公証人などの制度を導入し、憲法・民法の制定に務めた。
もし江藤がいなければ、日本の司法制度の近代化は大幅に遅れたと言っても過言ではない。そんな有能な人材を大久保は政府から放逐したのだ。故郷佐賀で静養していた江藤は、士族反乱の指導者に祭り上げられ、敗れて逮捕された。江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に3日前に作られた裁判所で、十分な弁論の機会もなく、上訴も認めない暗黒裁判にかけられ、死刑となった。新政府の汚職の実態を知り尽くしている江藤が、裁判で口を開くことを恐れたためである。それも斬首の上、さらし首という武士に対してあり得ない屈辱的な刑で……しかもその写真が全国に配布された。(米沢藩の雲井龍雄も同じく死刑にされた)すべては大久保の指示による「私刑」だった。
「江藤先生は惜しいことをした。だが、これでおわりではない」のちの玄洋社の元となる私塾(人参畑塾)で、武部小四郎(たけべ・こしろう)はいった。当時29歳。福岡勤皇党の志士の遺児で、人参畑塾では別格の高弟であった。身体は大きく、姿は颯爽(さっそう)、親しみ易いが馴れ合いはしない。質実にて華美虚飾を好まず、身なりを気にせず、よく大きな木簡煙管(きせる)を構えていた。もうひとり、頭山満が人参畑塾に訪れる前の塾にはリーダー的な塾生がいた。越智彦四郎(おち・ひこしろう)という。武部小四郎、越智彦四郎は人参畑塾のみならず、福岡士族青年たちのリーダーの双璧と目されていた。だが、二人はライバルではなく、同志として固い友情を結んでいた。それはふたりがまったく性格が違っていたからだ。越智は軽薄でお調子者、武部は慎重で思慮深い。明治7年(1874)2月、江藤新平が率いる佐賀の役が勃発すると、大久保利通は佐賀制圧の全権を帯びて博多に乗り込み、ここを本営とした。全国の士族は次々に社会的・経済的特権を奪われて不平不満を強めており、佐賀もその例外ではなかったが、直ちに爆発するほどの状況ではなかった。にもかかわらず大久保利通は閣議も開かずに佐賀への出兵を命令し、文官である佐賀県令(知事にあたる)岩村高俊にその権限を与えた。文官である岩村に兵を率いさせるということ自体、佐賀に対する侮辱であり、しかも岩村は傲慢不遜な性格で、「不逞分子を一網打尽にする」などの傍若無人な発言を繰り返した。こうして軍隊を差し向けられ、挑発され、無理やり開戦を迫られた形となった佐賀の士族は、やむを得ず、自衛行動に立ち上がると宣言。休養のために佐賀を訪れていた江藤新平は、やむなく郷土防衛のため指揮をとることを決意した。これは、江藤の才能を恐れ、「明治6年の政変」の際には、閣議において西郷使節派遣延期論のあいまいさを論破されたことなどを恨んだ大久保利通が、江藤が下野したことを幸いに抹殺を謀った事件だったという説が今日では強い。そのため、佐賀士族が乱をおこした佐賀の乱というのではなく「佐賀戦争」「佐賀の役」と呼ぶべきと提唱されている。その際、越智彦四郎は大久保利通を訪ね、自ら佐賀との調整役を買って出る。大久保は「ならばおんしに頼みたか。江藤ら反乱軍をば制圧する「鎮撫隊」をこの福岡に結成してくれもんそ」という。越智彦四郎は引き受けた。だが、越智は策士だった。鎮撫隊を組織して佐賀の軍に接近し、そこで裏切りをして佐賀の軍と同調して佐賀軍とともに明治政府軍、いや大久保利通を討とう、という知略を謀った。武部は反対した。
「どこが好機か?大久保が「鎮撫隊」をつくれといったのだ。何か罠がある」
だが、多勢は越智の策に乗った。だが、大久保利通の方が、越智彦四郎より一枚も二枚も上だった。大久保利通は佐賀・福岡の動静には逐一、目を光らせていて、越智の秘策はすでにばれていた。陸軍少佐・児玉源太郎は越智隊に鉄砲に合わない弾丸を支給して最前線に回した。そのうえで士族の一部を率いて佐賀軍を攻撃。福岡を信用していなかった佐賀軍は越智隊に反撃し、同士討ちの交戦となってしまった。越智隊は壊滅的打撃を受け、ようやくの思いで福岡に帰還した。その後、越智彦四郎は新たな活動を求めて、熊本・鹿児島へ向かった。武部はその間に山籠もりをして越智と和解して人参畑塾に帰還した。
「明治6年の政変」で下野した板垣退助は、江藤新平、後藤象二郎らと共に「愛国公党」を結成。政府に対して「民選議員設立建白書」を提出した。さらに政治権力が天皇にも人民にもなく薩長藩閥の専制となっていることを批判し、議会の開設を訴えた。自由民権運動の始まりである。だが間もなく、佐賀の役などの影響で「愛国公党」は自然消滅。そして役から1年近くが経過した明治8年(1875)2月、板垣は旧愛国公党を始めとする全国の同志に結集を呼びかけ「愛国社」を設立したのだった。板垣が凶刃に倒れた際「板垣死すとも自由は死せず」といったというのは有名なエピソードだが、事実ではない。
幕末、最も早く勤王党の出現を見たのが福岡藩だった。だが薩摩・島津家から養子に入った福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は、一橋家(徳川将軍家)と近親の関係にあり、動乱の時代の中、勤王・佐幕の両派が争う藩論の舵取りに苦心した。黒田長溥は決して愚鈍な藩主ではなかった。だが次の時代に対する識見がなく、目前の政治状況に過敏に反応してしまうところに限界があった。大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)という幕府始まって以来の不祥事を機に勤王の志士の動きは活発化。これに危機感を覚えた黒田長溥は筑前勤王党を弾圧、流刑6名を含む30余名を幽閉等に処した。これを「庚申(こうしん)の獄」という。その中にはすでに脱藩していた平野國臣もいた。女流歌人・野村望東尼(ぼうとうに)は獄中の國臣に歌(「たぐいなき 声になくなる 鶯(ウグイス)は 駕(こ)にすむ憂きめ みる世なりけり」)を送って慰め、これを機に望東尼は勤王党を積極的に支援することになる。尼は福岡と京都をつなぐパイプ役を務め、高杉晋作らを平尾山荘に匿い、歌を贈るなどしてその魂を鼓舞激励したのだった。
この頃、坂本竜馬らよりもずっと早い時点で、薩長連合へ向けた仲介活動を行っていたのが筑前勤王党・急進派の月形洗蔵(つきがた・せんぞう、時代劇「月形半平太(主演・大川橋蔵)」のモデル)や衣斐茂記(えび・しげき)、建部武彦らだった。また福岡藩では筑前勤王党の首領格として羨望があった加藤司書(かとう・ししょ)が家老に登用され、まさしく維新の中心地となりかけていたという。だが、すぐに佐幕派家老が勢力を取り戻し、さらに藩主・黒田長溥が勤王党急進派の行動に不信感を抱いたことなどから……勤王党への大弾圧が行われたのだ。これを「乙丑(いっちゅう)の獄」という。加藤、衣斐、建部ら7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首。野村望東尼ら41名が流罪・幽閉の処分を受け、筑前勤王党は壊滅した。このとき、姫島に流罪となる野村望東尼を護送する足軽の中に15歳の箱田六輔がいた。そして武部小四郎は「乙丑の獄」によって切腹した建部武彦の遺児であった(苗字は小四郎が「武部」に改めた)。福岡藩は佐幕派が多かったが、戊辰の役では急遽、薩長官軍についた。それにより福岡藩の家老ら佐幕派家老3名が切腹、藩士23名が遠島などの処分となった。そして追い打ちをかけるように薩長新政府は福岡藩を「贋札づくり」の疑惑で摘発した。当時、財政難だった藩の多くが太政官札の偽造をしていたという。西郷隆盛は寛大な処分で済まそうと尽力した。何しろ贋札づくりは薩摩藩でもやっていたのだ。だが大久保利通が断固として、福岡藩だけに過酷な処罰を科し、藩の重職5名が斬首、知藩事が罷免となった。これにより福岡藩は明治新政府にひとりの人材も送り込めることも出来ず、時代から取り残されていった。この同じ年、明治8年9月、近代日本の方向性を決定づける重大な事件が勃発した。「江華島(こうかとう・カンファンド)事件」である。これは開国要請に応じない朝鮮に対する砲艦外交そのものであった。そもそも李氏朝鮮の大院君はこう考えていた。「日本はなぜ蒸気船で来て、洋服を着ているのか?そのような行為は華夷秩序(かいちつじょ)を乱す行為である」
華夷秩序は清の属国を認める考えだから近代国家が覇を競う時代にあまりに危機感がなさすぎる。だからといって、砲艦外交でアメリカに開国させられた日本が、朝鮮を侮る立場でもない。どの国も、力ずくで国柄を変えられるのは抵抗があるのだ。日本軍艦・雲揚(うんよう)は朝鮮西岸において、無許可の沿海測量を含む挑発行動を行った。さらに雲揚はソウルに近い江華島に接近。飲料水補給として、兵を乗せたボートが漢江支流の運河を遡航し始めた時、江華島の砲台が発砲!雲揚は兵の救援として報復砲撃!さらに永宗島(ヨンジュンド)に上陸して朝鮮軍を駆逐した。明治政府は事前に英米から武力の威嚇による朝鮮開国の支持を取り付け、挑発活動を行っていた。そしてペリー艦隊の砲艦外交を真似て、軍艦3隻と汽船3隻を沖に停泊させて圧力をかけた上で、江華島事件の賠償と修好条約の締結交渉を行ったのだった。この事件に、鹿児島の西郷隆盛は激怒した。
「一蔵(大久保)どーん!これは筋が違ごうじゃろうがー!」
大久保らは、「明治6年の政変」において、「内治優先」を理由としてすでに決定していた西郷遣韓使節を握りつぶしておきながら、その翌年には台湾に出兵、そしてさらに翌年にはこの江華島事件を起こした。「内治優先」などという口実は全くのウソだったのである。特に朝鮮に対する政府の態度は許しがたいものであった。
西郷は激昴して「ただ彼(朝鮮)を軽蔑して無断で測量し、彼が発砲したから応戦したなどというのは、これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきの行為といわにゃならんど!政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす!」
西郷は、測量は朝鮮の許可が必要であり、発砲した事情を質せず、戦端を開くのは野蛮と考えた。
「そもそも朝鮮は幕府とは友好的だったのでごわす!日本人は古式に則った烏帽子直垂(えぼしひたたれ)の武士の正装で交渉すべきでごわす!軍艦ではなく、商船で渡海すべきでごわんそ!」
西郷は政府参与の頃、清と対等な立場で「日清修好条規」の批准を進め、集結した功績がある。なのに大久保ら欧米使節・帰国組の政府要人は西郷の案を「征韓論」として葬っておきながら、自らは、まさに武断的な征韓を行っている。西郷隆盛はあくまでも、東洋王道の道義外交を行うべきと考えていた。西郷は弱を侮り、強を恐れる心を、徹底的に卑しむ人であった。大久保は西洋の威圧外交を得意とし、朝鮮が弱いとなれば侮り、侵略し、欧米が強いとなれば恐れ、媚びへつらい、政治体制を徹底的に西洋型帝国の日本帝国を建設しようとしたのだ。西郷にとっては、誠意を見せて朝鮮や清国やアジア諸国と交渉しようという考えだったから大久保の考えなど論外であった。だが、時代は大久保の考える帝国日本の時代、そして屈辱的な太平洋戦争の敗戦で、ある。大久保にしてみれば欧米盲従主義はリアリズム(現実主義)であったに違いない。そして行き着く先がもはや「道義」など忘れ去り、相手が弱いと見れば侮り、強いと見れば恐れ、「WASPについていけば百年安心」という「醜悪な国・日本」なのである。

<ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり著作「大東亜論 血風士魂篇」第9章前原一誠の妻と妾>2014年度小学館SAPIO誌10月号59~78ページ参照(参考文献・漫画文献)
明治初期、元・長州藩(山口県)には明治政府の斬髪・脱刀令などどこ吹く風といった連中が多かったという。長州の士族は維新に功ありとして少しは報われている筈であったが、奇兵隊にしても長州士族にしても政権奪還の道具にすぎなかった。彼らは都合のいいように利用され、使い捨てされたのだ。報われたのはほんの数人(桂小五郎こと木戸孝允や井上馨(聞多)や伊藤博文(俊輔)等わずか)であった。明治維新が成り、長州士族は使い捨てにされた。それを憤る人物が長州・萩にいた。前原一誠である。前原は若い時に落馬して、胸部を強打したことが原因で肋膜炎を患っていた。明治政府の要人だったが、野に下り、萩で妻と妾とで暮らしていた。妻は綾子、妾は越後の娘でお秀といった。
前原一誠は吉田松陰の松下村塾において、吉田松陰が高杉晋作、久坂玄瑞と並び称賛した高弟だった。「勇あり知あり、誠実は群を抜く」。晋作の「識」、玄瑞の「才」には遠く及ばないが、その人格においてはこの二人も一誠には遠く及ばない。これが松陰の評価であった。そして晋作・玄瑞亡き今、前原一誠こそが松陰の思想を最も忠実に継承した人物であることは誰もが認めるところだった。一誠の性格は、頑固で直情径行、一たび激すると誰の言うことも聞かずやや人を寄せつけないところもあったが、普段は温厚ですぐ人を信用するお人好しでもあった。一誠は戊辰戦争で会津征討越後口総督付の参謀として軍功を挙げ、そのまま越後府判事(初代新潟県知事)に任じられて越後地方の民政を担当する。
いわば「占領軍」の施政者となったわけだが、そこで一誠が目にしたものは戦火を受けて苦しむ百姓や町民の姿だった。「多くの飢民を作り、いたずらに流民を作り出すのが戦争の目的ではなかったはずだ。この戦いには高い理想が掲げられていたはず!これまでの幕府政治に代って、万民のための国造りが目的ではなかったのか!?」
少年時代の一誠の家は貧しく、父は内職で安物の陶器を焼き、一誠も漁師の手伝いをして幾ばくかの銭を得たことがある。それだけに一誠は百姓たちの生活の苦しさをよく知り、共感できた。さらに、師・松陰の「仁政」の思想の影響は決定的に大きかった。
「機械文明においては、西洋に一歩を譲るも、東洋の道徳や治世の理想は、世界に冠たるものである!それが松陰先生の教えだ!この仁政の根本を忘れたからこそ幕府は亡びたのだ。新政府が何ものにも先駆けて行わなければならないことは仁政を行って人心を安らかにすることではないか!」一誠は越後の年貢を半分にしようと決意する。中央政府は莫大な戦費で財政破綻寸前のところを太政官札の増発で辛うじてしのいでいる状態だったから、年貢半減など決して許可しない。だが、一誠は中央政府の意向を無視して「年貢半減令」を実行した。さらに戦時に人夫として徴発した農民の労賃も未払いのままであり、せめてそれだけでも払えば当面の望みはつなげられる。未払い金は90万両に上り、そのうち40万両だけでも出せと一誠は明治政府に嘆願を重ねた。だが、政府の要人で一誠の盟友でもあった筈の木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治・松陰門下)は激怒して、「前原一誠は何を考えている!越後の民政のことなど単なる一地方のことでしかない!中央には、一国の浮沈にかかわる問題が山積しているのだぞ!」とその思いに理解を示すことは出来なかった。
この感情の対立から、前原一誠は木戸に憎悪に近い念を抱くようになる。一誠には越後のためにやるべきことがまだあった。毎年のように水害を起こす信濃川の分水である。一誠は決して退かない決意だったが、中央政府には分水工事に必要な160万両の費用は出せない。政府は一誠を中央の高官に「出世」させて、越後から引き離そうと画策。一誠は固辞し続けるが、政府の最高責任者たる三条実美が直々に来訪して要請するに至り、ついに断りきれなくなり参議に就任。信濃川の分水工事は中止となる。さらに一誠は暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔となるが、もともと中央政府に入れられた理由が理由なだけに、満足な仕事もさせられず、政府内で孤立していた。一誠は持病の胸痛を口実に政府会議にもほとんど出なくなり、たまに来ても辞任の話しかしない。「私は参議などになりたくはなかったのだ!私を参議にするくらいならその前に越後のことを考えてくれ!」
木戸や大久保利通は冷ややかな目で前原一誠を見ているのみ。
「君たちは、自分が立派な家に住み、自分だけが衣食足りて世に栄えんがために戦ったのか?私が戦ったのはあの幕府さえ倒せば、きっと素晴らしい王道政治が出来ると思ったからだ!民政こそ第一なのだ!こんな腐った明治政府にはいたくない!徳川幕府とかわらん!すぐに萩に帰らせてくれ!」大久保や木戸は無言で前原一誠を睨む。三度目の辞表でやっと前原一誠は萩に帰った。明治3年(1870)10月のことだった。政府がなかなか前原一誠の辞任を認めなかったのは、前原一誠を帰してしまうと、一誠の人望の下に、不平士族たちが集まり、よりによって長州の地に、反政府の拠点が出来てしまうのではないかと恐れたためである。当の一誠は、ただ故郷の萩で中央との関わりを断ち、ひっそりと暮らしたいだけだった。が、周囲が一誠を放ってはおかなかった。維新に功のあった長州の士族たちは「自分たちは充分報われる」と思っていた。しかし、実際にはほんの数人の長州士族だけが報われて、「奇兵隊」も「士族」も使い捨てにされて冷遇されたのだった。そんなとき明治政府から野に下った前原一誠が来たのだ。それは彼の周囲に自然と集まるのは道理であった。しかも信濃川の分水工事は「金がないので工事できない」などといいながら、明治政府は岩倉具視を全権大使に、木戸、大久保、伊藤らを(西郷らは留守役)副使として数百人規模での「欧米への視察(岩倉使節団)」だけはちゃっかりやる。一誠は激怒。
江藤新平が失脚させられ、「佐賀の役」をおこすとき前原一誠は長州士族たちをおさえた。「局外中立」を唱えてひとりも動かさない。それが一誠の精一杯の行動だった。
長州が佐賀の二の舞になるのを防いだのだ。前原一誠は激昴する。「かつての松下村塾同門の者たちも、ほとんどが東京に出て新政府に仕え、洋風かぶれで東洋の道徳を忘れておる!そうでなければ、ただ公職に就きたいだけの、卑怯な者どもだ!井上馨に至っては松下村塾の同窓ですらない!ただ公金をかすめ取る業に長けた男でしかないのに、高杉や久坂に取り入ってウロチョロしていただけの奴!あんな男までが松下村塾党のように思われているのは我慢がならない!松陰先生はよく「天下の天下の天下にして一人の天下なり」と仰っていた。すなわち尊皇である。天子様こそが天下な筈だ!天下一人の君主の下で万民が同じように幸福な生活が出来るというのが政治の理想の根本であり、またそのようにあらしめるのが理想だったのだ!孔孟の教えの根本は「百姓をみること子の如くにする」。これが松陰先生の考えである!松陰先生が生きていたら、今の政治を認めるはずはない!必ずや第二の維新、瓦解を志す筈だ!王政復古の大号令は何処に消えたのだ!?このままではこの国は道を誤る!」その後、「萩の乱」を起こした前原一誠は明治政府に捕縛され処刑された。


大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂玄瑞役の東出昌大さんが「僕は不幸の星の下に生まれたんや」と、松陰の妹の杉文役の井上真央さんにいったのはあながち“八つ当たり”という訳ではなかった。ペリーが二度目に来航した安政元年(一八五四)、長州の藩主は海防に関する献策を玄機に命じた。たまたま病床にあったが、奮起して執筆にとりかかり、徹夜は数日にわたった。精根尽き果てたように、筆を握ったまま絶命したのだ。
それは二月二十七日、再来ペリーを幕府が威嚇しているところであり、吉田松陰が密航をくわだてて、失敗する一か月前のことである。
畏敬する兄の死に衝撃を受け、その涙もかわかない初七日に、玄瑞は父親の急死という二重の不幸に見舞われた。すでに母親も失っている。玄瑞は孤児となった。十五歳のいたましい春だった。久坂秀三郎は、知行高二十五石の藩医の家督を相続し、玄瑞と改名する。六尺の豊かな偉丈夫で色男、やや斜視だったため、初めて彼が吉田松陰のもとにあらわれたとき、松陰の妹文は、「お地蔵さん」とあだ名をつけたが、やがて玄瑞はこの文と結ばれるのである。「筋金入りの“攘夷思想”」のひとである。熊本で会った宮部鼎蔵から松陰のことを聞いて、その思いを述べた。「北条時宗がやったように、米使ハリスなどは斬り殺してしまえばいいのだ」松陰は「久坂の議論は軽薄であり、思慮浅く粗雑きわまる書生論である」と反論し、何度も攘夷論・夷人殺戮論を繰り返す「不幸な人」久坂玄瑞を屈服させる。松陰の攘夷論は、情勢の推移とともに態様を変え、やがて開国論に発展するが、久坂は何処までも「尊皇攘夷・夷狄殺戮」主義を捨てなかった。長州藩は「馬関攘夷戦」で壊滅する。それでも「王政復古」「禁門の変」につながる「天皇奪還・攘夷論」で動いたのも久坂玄瑞であった。これをいいだしたのは久留米出身の志士・真木和泉(まき・いずみ)である。天皇を確保して長州に連れてきて「錦の御旗」として長州藩を“朝敵”ではなく、“官軍の藩”とする。やや突飛な構想だったから玄瑞は首をひねったが、攘夷に顔をそむける諸大名を抱き込むには大和行幸も一策だと思い、桂小五郎も同じ意見で、攘夷親征運動は動きはじめた。
松下村塾では、高杉晋作と並んで久坂玄瑞は、双璧といわれた。いったのは、師の松陰その人である。禁門の変の計画には高杉晋作は慎重論であった。どう考えても、今はまだその時期ではない。長州はこれまでやり過ぎて、あちこちに信用を失い、いまその報いを受けている。しばらく静観して、反対論の鎮静うるのを待つしかない。
高杉晋作は異人館の焼打ちくらいまでは、久坂玄瑞らと行動をともにしたけれども、それ以降は「攘夷殺戮」論には「まてや、久坂!もうちと考えろ!異人を殺せば何でも問題が解決する訳でもあるまい」と慎重論を唱えている。
それでいながら長州藩独立国家案『長州大割拠(独立)』『富国強兵』を唱えている。丸山遊郭、遊興三昧で遊んだかと思うと、「ペリーの大砲は3km飛ぶが、日本の大砲は1kmしか飛ばない」という。「僕は清国の太平天国の乱を見て、奇兵隊を、農民や民衆による民兵軍隊を考えた」と胸を張る。
文久三年馬関戦争での敗北で長州は火の海になる。それによって三条実美ら長州派閥公家が都落ち(いわゆる「七卿落ち」「八月十八日の政変」)し、さらに禁門の変…孝明天皇は怒って長州を「朝敵」にする。四面楚歌の長州藩は四国に降伏して、講和談判ということになったとき、晋作はその代表使節を命じられた。ほんとうは藩を代表する家老とか、それに次ぐ地位のものでなければならないのだが、うまくやり遂げられそうな者がいないので、どうせ先方にはわかりゃしないだろうと、家老宍戸備前の養子刑馬という触れ込みで、威風堂々と旗艦ユーリアラス号へ烏帽子直垂で乗り込んでいった。伊藤博文と山県有朋の推薦があったともいうが、晋作というのは、こんな時になると、重要な役が回ってくる男である。
談判で、先方が賠償金を持ち出すと「幕府の責任であり、幕府が払う筋の話だ」と逃げる。下関に浮かぶ彦島を租借したいといわれると、神代以来の日本の歴史を、先方が退屈するほど永々と述べて、煙に巻いてしまった。
だが、長州藩が禁門の変で不名誉な「朝敵」のようなことになると“抗戦派(進発派「正義派」)”と“恭順派(割拠派「俗論党」)”という藩論がふたつにわれて、元治元年十一月十二日に恭順派によって抗戦派長州藩の三家老の切腹、四参謀の斬首、ということになった。周布政之助も切腹、七卿の三条実美らも追放、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)は城崎温泉で一時隠遁生活を送り、自暴自棄になっていた。そこで半分藩命をおびた使徒に(旧姓・杉)文らが選ばれる。文は隠遁生活でヤケクソになり、酒に逃げていた桂小五郎隠遁所を訪ねる。「お文さん………何故ここに?」「私は長州藩主さまの藩命により、桂さんを長州へ連れ戻しにきました」「しかし、僕にはなんの力もない。久坂や寺島、入江九一など…禁門の変の失敗も同志の死も僕が未熟だったため…もはや僕はおわった人物です」「違います!寅にいは…いえ、松陰は、生前にようっく桂さんを褒めちょりました。桂小五郎こそ維新回天の人物じゃ、ゆうて。弱気はいかんとですよ。…義兄・小田村伊之助(楫取素彦)の紹介であった土佐の坂本竜馬というひとも薩摩の西郷隆盛さんも“桂さんこそ長州藩の大人物”とばいうとりました。皆さんが桂さんに期待しとるんじゃけえ、お願いですから長州藩に戻ってつかあさい!」桂は考えた。…長州藩が、毛利の殿さまが、僕を必要としている?やがて根負けした。文は桂小五郎ことのちの木戸孝允を説得した。こうして長州藩の偉人・桂小五郎は藩政改革の檜舞台に舞い戻った。もちろんそれは高杉晋作が奇兵隊で討幕の血路を拓いた後の事であるのはいうまでもない。そして龍馬、桂、西郷の薩長同盟に…。しかし、数年前の禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩薩摩藩により朝敵にされたうらみを、長州人の人々は忘れていないものも多かった。彼らは下駄に「薩奸薩賊」と書き踏み鳴らす程のうらみようであったという。だから、薩摩藩との同盟はうらみが先にたった。だが、長州藩とて薩摩藩と同盟しなければ幕府に負けるだけ。坂本竜馬は何とか薩長同盟を成功させようと奔走した。しかし、長州人のくだらん面子で、十日間京都薩摩藩邸で桂たちは無駄に過ごす。遅刻した龍馬は「遅刻したぜよ。げにまっことすまん、で、同盟はどうなったぜよ?桂さん?」「同盟はなんもなっとらん」「え?西郷さんが来てないんか?」「いや、西郷さんも大久保さんも小松帯刀さんもいる。だが、長州から頭をさげるのは…無理だ」龍馬は喝破する。「何をなさけないこというちゅう?!桂さん!西郷さん!おんしら所詮は薩摩藩か?長州藩か?日本人じゃろう!こうしている間にも外国は日本を植民地にしようとよだれたらして狙ってるんじゃ!薩摩長州が同盟して討幕しなけりゃ、日本国は植民地ぜよ!そうなったらアンタがたは日本人になんとわびるがじゃ?!」こうして紆余曲折があり、同盟は成った。話を戻す。「これでは長州藩は徳川幕府のいいなり、だ」晋作は奇兵隊を決起(功山寺挙兵)する。最初は80人だったが、最後は800人となり奇兵隊が古い既得権益の幕藩体制派の長州保守派“徳川幕府への恭順派”を叩き潰し、やがては坂本竜馬の策『薩長同盟』の血路を拓き、維新前夜、高杉晋作は労咳(肺結核)で病死してしまう。
高杉はいう。「翼(よく)あらば、千里の外も飛めぐり、よろづの国を見んとしぞおもふ」
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 久坂玄瑞「蛤御門」で迎えた二十五歳の死」)』古川薫氏著、プレジデント社刊137~154ページ+『徳川慶喜(「三―草莽の志士 高杉晋作「奇兵隊」で討幕の血路を拓く」)』杉森久英氏著、プレジデント社刊154~168ページ+映像資料NHK番組「英雄たちの選択・高杉晋作篇」などから文献引用


【高学歴なら万能?優秀?】小笹芳央氏「採用試験で学歴が最大のフィルター」の間抜け(笑)学歴至上主義

2016年02月26日 20時12分30秒 | 日記








小笹芳央という間抜けが

「採用に於いて学歴が最大のフィルターだ」と抜かし炎上していると聞く。


こういう奴を見ると「学歴至上主義」「高学歴しか優秀じゃない」


という間抜けの発想で可哀想に思う。


日本の会社が高学歴でなければ事務職を採用しないのは


こういう人の思想のせい。高学歴=万能なのかよ?違うだろうが!



なら高学歴の政治家や官僚が何故日本の維新を出来ないのだ???


日本は経済も政治もビジネスもよくならないのだ?


小笹!もう少し考えろよ(笑)

ベッキーは川谷絵音に騙されていた事が判明 川谷絵音がついた7つの嘘

2016年02月26日 13時35分22秒 | 日記








ベッキーは川谷絵音に騙されていた事が判明 川谷絵音がついた7つの嘘
 ガチでクズのゲス野郎だった 嘘に惑わされたベッキー
2016年02月25日15:54
カテゴリ芸スポ
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1: ニライカナイφ ★@\(^o^)/:2016/02/25(木) 13:47:53.86 ID:CAP_USER*.net
◆【不倫】ベッキーは川谷絵音に騙されていた事が判明! 川谷絵音がついた7つの嘘 / ガチでクズのゲス野郎だった 嘘に惑わされたベッキー

美人タレントのベッキーが、人気バンド「ゲスの極み乙女」のボーカル川谷絵音と不倫関係にあった騒動で、新たな事実が判明した。
ベッキーは川谷絵音に数々の嘘をつかれ、騙されていた可能性が濃厚になったのである。

●「この恋愛は不倫じゃない」と勘違い
さらに、ベッキーが川谷絵音の嘘を信じてしまったことにより、「この恋愛は不倫じゃない」と勘違いしてもおかしくないことが判明した。
現在、最新情報として判明している情報をまとめると「川谷絵音がベッキーや周囲についた嘘」は少なくとも7つ。
現状、以下の嘘が発覚している。

●川谷絵音がついた7つの嘘
1. ベッキーに当初は妻がいることを隠していた → 実際は妻がいた
2. 周囲には妻ではなく「彼女」がいると話していた → 実際は妻がいた
3. ベッキーに「妻が家を出て行った」と話していた → 実際は川谷のほうが避けていた
4. ベッキーに「年内には離婚する」と話していた → 実際はまだ既婚
5. ベッキーに「姪がファンだから」と話して長崎に誘っていた → 実際は両親に紹介するため
6. ベッキーに「妻のほうから離婚の話になった」と話していた → 実際は川谷が一方的に離婚を迫っていた
7. ベッキーに「妻と離婚協議してる」と話していた → 実際は妻は離婚を求めていなかった

●嘘に惑わされたベッキー
もし本当に「妻から離婚を切り出した」「妻が家を出て行った」「妻と離婚協議してる」「2015年内に離婚予定」という情報が本当ならば、ケースにもよるが川谷絵音との交際は不倫にならない可能性がある。
とはいえ川谷絵音の嘘なので不倫は成立する。
そこで思い出してほしいのが、ベッキーと川谷絵音が交わしたLINEメッセージの内容である(クーロンiPhoneから流出したもの)。
その内容は以下のとおり。

●LINEのやり取り(2016年1月5日)
ベッキー: 友達で押し通す予定!笑 (編集部注: 謝罪会見のこと)
川谷: 逆に堂々とできるキッカケになるかも
ベッキー: 私はそう思ってるよ!
川谷: よし!
ベッキー: そうとしか思えない。
川谷: ありがとう文春!
ベッキー: オフィシャルになるだけ!
ベッキー: ありがとう文春!
川谷: 感謝しよう
ベッキー: うん!
ベッキー: それに不倫じゃありません!
川谷: うん!
ベッキー: 略奪でもありません!
川谷: うん!
ベッキー: センテンス スプリング!

●ベッキーは被害者なのである
ベッキーは「それに不倫じゃありません!」「略奪でもありません!」と断言している。
それは、川谷絵音の「妻から離婚を切り出した」「妻が家を出て行った」「妻と離婚協議してる」「2015年内に離婚予定」という情報を信じたためだ。
それなら不倫ではないと判断したのである。
すべては川谷絵音の欲望のため、ベッキーが振り回されたのだった。
すなわち、ベッキーは被害者なのである。

●彼女が被害者という事実は覆らない
「そうはいっても既婚者だと知ってて恋愛に走ったベッキーは悪い」という声があるのも確かだ。
しかし、重ねて言うが「川谷絵音がベッキーに話したこと」が本当だった場合、不倫は成立しない可能性がある。
しかし川谷絵音の嘘だったため、不倫は成立する。

この恋愛は不倫ではないと信じ込んでしまったベッキー。
彼女が被害者という事実は覆らないのである。
ちなみに「ベッキーが泥沼にハマるまでの流れ」もすべて判明している。

バズプラス 2016.02.25
http://buzz-plus.com/article/2016/02/25/becky-kawatani-uso/



115: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:03:05.03 ID:mJawibG80.net
>>1
いつ知ったかが問題ではない
知った後の言動が問題なの
212: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:15:06.68 ID:ZLfto15f0.net
>>1
新潮スレ
便器事務所から違約金の半分二億円支払えないなら
筋書き通りにしたら免除したると便器事務所から
持ちかけられたんじゃないのか
231: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:17:40.86 ID:NNs5tPhX0.net
>>1
>>212
サンミュージックに金もらってるなw
268: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:23:53.40 ID:m6SOGKWe0.net
>>1
言いたいことは良くわかったが、
賞味期限が過ぎた若作りのババアに需要はない。
このまま引退させろ!
34: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 13:54:03.32 ID:+gSHlugV0.net
ベッキーのことをしつこく叩いてるやつに聞きたい。

おまえら、ベッキーが東日本大震災にいくら寄付したか
それ知ってて叩いてるのか?
36: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 13:54:10.51 ID:uICVjh/F0.net
>>34
これな
55: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 13:55:47.05 ID:3yswtiKI0.net
>>34
ほんとこれな
70: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 13:57:39.55 ID:kvFbbN0s0.net
>>34
いくら寄付したんだ?大したことねえんだろ
100万円以上なら今から裸で犬の散歩行ってもいいわ
72: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 13:57:53.27 ID:AH/Rnou90.net
>>70
120億
76: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 13:58:23.37 ID:w9l3J0Ab0.net
>>72
かっこよすぎ
41: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 13:54:33.62 ID:WJCEufiw0.net

既出?
46: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 13:54:56.17 ID:teMkIhPm0.net
名字に口がつく姓で、
口をぐちと読むのは、実は、
戸口と平口、山口の3つしかない。
豆知識な
526: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:53:46.95 ID:U5s1KO8y0.net
>>46
野口
滝口
60: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 13:56:29.18 ID:tlpyt5Ea0.net
本日発売の新潮まとめ

1、川谷が早期離婚を匂わせて交際。ベッキーはかわいなそうな被害者。
2、川谷は両親に離婚は秒読みだといっている。それに対し両親は「早く別れてベッキーさんを幸せにしてあげなさい」と論すような言葉をかけた。
3、ベッキーは長崎の実家に行くのを拒否していたが、川谷がしつこく誘った。
4、ベッキーは離婚届が遅かれ早かれ提出されるものと本気で信じていた。
5、ベッキーは文春第2弾・ゲス奥さん激白で、川谷が一方的に離婚を迫っているという事実を知りようやく醒め、1月12日、川谷と絶交した。
6、ベッキはーユニセフに募金をしている優しい女性。

結論
悪いのはゲス川谷。ベッキーはちっとも悪くない。

98: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:01:19.25 ID:m+QYpUn90.net
>>60
最悪だ。新潮、幾らで買収されたのか
488: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:49:00.38 ID:neMkbioI0.net
>>60

> 6、ベッキはーユニセフに募金をしている優しい女性。


このユニセフが
黒柳徹子のユニセフに募金したのか、それとも、アグネスちゃんの日本ユニセフに募金したのか、が重要だぞ
どっちだ???
関が原の戦いで東軍につくか西軍につくかくらい重要だぞ
79: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 13:58:54.92 ID:kz/Dn2Fl0.net
> 3. ベッキーに「妻が家を出て行った」と話していた → 実際は川谷のほうが避けていた

ベッキー、不倫の認識在り!!!!
123: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:04:11.17 ID:XxSAjniR0.net
ミヤネでベッキー擁護やるぞ
あくまで被害者ということにする模様
196: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:13:12.86 ID:RtB/6KD70.net
これって完全にベッキーが被害者じゃん
騙された被害者のベッキーが悪人扱いでCM10本、レギュラー10本を失って
あまりにも理不尽でかわいそすぎる
被害者なんだから近いうちのベッキーの復帰は確実でしょう
205: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:14:23.94 ID:cs83nqqx0.net
2015年内に離婚するって言うから身も心も捧げたのに!とか
ベッキー言い出しそう
263: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:22:58.54 ID:NrI5L3bI0.net
真実はこれ

【芸能】ベッキーに罪なし!「週刊新潮」の“擁護記事”は事務所に頼まれた!? [無断転載禁止]©2ch.net
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1456377318/

同情を引いて復帰させようと画策
293: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:27:29.33 ID:cs83nqqx0.net
ゲスも内心ベッキーのお花畑に呆れつつ相手してたんかな
303: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:29:15.91 ID:uYLtye5a0.net
lineとベッキーの会見の映像のインパクトは強い

ゲスが出てきて7項目を自分の口で言わない限りはベッキー主犯の印象の方が強いまま
322: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:31:05.66 ID:mBaTO3Ru0.net
そもそも不倫したからというより

友達で押し通す予定!笑 という性根の悪さがバレた事のが大きい

ミヤネ屋が露骨に、擁護論調で笑える
本当クズだな、この番組
361: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:35:25.09 ID:/RdnYq+f0.net
やはり新潮は文春を超えられないか
375: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:36:55.15 ID:pWQVztqp0.net
12月18日
ゲス川谷「話し合いしてた。あんまり話し合いせずに待った方がいいのかもしれない。
感情的になってしまうから。時間かかってしまうけどちゃんと卒論書くから待ってて
欲しいな。こんな感じで待たせるのは本当に心苦しいけど、待ってて欲しい」
ベッキー「大丈夫だよ!待ってる。だからけんちゃんも待ってあげて。
大丈夫だよ!卒論提出できたら、けんちゃんにいっぱいワガママ聞いて
もらおうっとー!笑」

12月末
ベッキー「(奥さん)いやだって?」
ゲス川谷「って言われたから」
ベッキー「うん」
ゲス川谷「大切にしたい人がいるって言った」
ベッキー「うん」
ゲス川谷「でもそれってアウトだよね?って言われた」
ベッキー「なるほど」
ゲス川谷「けどこれがプラスになったかマイナスになったかはわからない。とりあえずここまで」
ベッキー「プラスだよ 大丈夫」

これで離婚寸前だと思い込んでたんだー(棒)
376: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:36:57.27 ID:nS+FzkbN0.net
よくよく考えればアイドルでもないし不倫と芸能活動は何も関係ないからな
378: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:38:07.51 ID:AWoFR/bY0.net
実家に行ったのは4日だろう。1,2,3、をどう過ごしてた。1の夜に着いて何をしてた。
384: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:38:47.89 ID:wUJlUKvi0.net
>>378
何って決まってんだろ
399: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:40:21.87 ID:Q6z1MRiv0.net
川谷から既婚であると伝えられたベッキーは

「逆に、いいタイミング!」「何もないときで良かった!」
404: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:40:52.95 ID:/RdnYq+f0.net
で、新潮は売れてるの?
420: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:41:58.63 ID:J06k5Aom0.net
>>404
ケツふく紙にもならんだろう
434: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:43:19.30 ID:gIr9QBeK0.net
>>420
ワロタ
新潮は便所紙
443: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:43:58.27 ID:UhQrmwlb0.net
>>434
新潮流したら便所詰まるだろ
459: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:46:31.10 ID:J06k5Aom0.net
>>443
揉んで使えば流れるよ(笑)一流誌なら新潮はつまるな(笑)
425: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:42:32.38 ID:mBaTO3Ru0.net
ざwんwげwの日々

被害者で押し通す予定!笑
442: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:43:52.95 ID:AWoFR/bY0.net
どう見ても別記ーは不倫慣れしている
449: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:45:04.09 ID:UhQrmwlb0.net
>>442
ゲス以前にも不倫経験あるのは間違いないわな
448: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:45:03.90 ID:nS+FzkbN0.net
ただモニタリングとかイッテQとかにじいろジーンとかの違和感を見てると、タレントとしては番組に欠かせない人材なのは確かだしなあ
491: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:49:54.51 ID:8qkVJtyW0.net
だったら何故会見でそう言わなかったの?

で全てが終わってしまう提灯記事。
502: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:51:02.63 ID:nS+FzkbN0.net
結局LINEの流出も捏造である可能性はまだ否定できないんだよな
522: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:53:35.39 ID:8qkVJtyW0.net
>>502
それすら捏造だったらそもそもなんでベッキーは謝罪する必要があったの?
結局矛盾しか生まれない
563: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:58:26.14 ID:nS+FzkbN0.net
>>522
写真は本物だとして、会見で事務所に嘘をつかされたわけだから今さら否定できないじゃん
LINE自体はそこを見越した上の何者かの工作の可能性が高いと思う
579: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:00:01.36 ID:8qkVJtyW0.net
>>563
だから捏造なら捏造だって証明すれば済むだけの話
593: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:02:11.04 ID:nS+FzkbN0.net
>>579
頭悪いの?
会見で友達だと言わされたんだから、否定した瞬間に「じゃあ友達というのは嘘だったんですか?」で終わりじゃん
539: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 14:55:31.83 ID:YUFUqWibO.net
ベッキーが本格的にクビになった原因は不倫じゃない
記者会見で嘘をついたこと
主要取引先様であるスポンサーを公の場で騙した

川谷のウソで不倫じゃないとしても、ベッキーが「友達関係」を越えた「恋愛関係」だったのは事実
友達関係です。と虚偽の発言で取引先騙したらそりゃクビになるわいな
588: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:01:17.54 ID:/RdnYq+f0.net
私のことを嫌いになっても、便器のことを嫌いにならないでください
604: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:03:17.84 ID:OjBsTL/B0.net
新潮の記事の文章監修はサンミュージック
手紙が涙で濡れては余計だったw
620: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:05:13.40 ID:J06k5Aom0.net
>>604
手紙が涙で濡れて(笑)逆におちょくってるんじゃね?
633: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:06:47.49 ID:aAuFgeQH0.net
>>620
濡れ跡が点々とついた謝罪の手紙来たら俺なら「昭和かよ!」って爆笑するわ
606: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:03:31.58 ID:LEQ64/r70.net
ベッキー「直接謝罪したい」

これは許した
626: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:06:13.61 ID:kJ5nnLI50.net
>>606
奥さんがその謝罪を受け入れて、初めてこの騒動は終息するんだよ

謝罪を受け入れてないなら、終わり
635: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:07:12.91 ID:AWoFR/bY0.net
>>626
自分を庇ってくれてるデヴィ夫人の面会依頼すら断り続けてるらしいぞwww
646: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:08:26.86 ID:aAuFgeQH0.net
>>635
いや、誰でもアレとは面会しないだろ
641: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:07:48.04 ID:LEQ64/r70.net
>>626
そもそも川谷に騙されてたんだから
謝罪もいらないんだけど
LINE犯が謝ればいいだけの話
668: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:10:53.48 ID:kJ5nnLI50.net
>>641
騙されてたっていっても不倫であることは途中で川谷から知らされてたんだよなぁ
これは弁解できない
682: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:12:31.64 ID:YUFUqWibO.net
>>668
それに加えて離婚届早く出せよとせっついてたわけだからねぇ

ゲス川谷が悪いからベッキーが悪くない、とはならないんだよな

両成敗が止まらない
628: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:06:31.29 ID:0lnOdQ6J0.net
ベッキーは川谷絵音に騙されていたで押し通す予定(笑)
634: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:06:48.09 ID:LE39j3ug0.net
ここで厠が別の女と同棲発覚とかしたら面白いな
643: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:08:01.62 ID:qkLSNopl0.net
涙かどうか鑑定しろよ、ヨダレかラーメンの汁かもしれないだろ
650: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:08:59.11 ID:d2H9Z3B10.net
単純に
川谷)既婚でした→ベッキー)別れようとする→川谷)離婚するからと引き止める→ベッキー)分かった信じる
だとしたら川谷が全面的に悪い、ベッキーは被害者で納得できる
知りたいのはそれだけだなー

会見の時の発言はとか、LINEのやりとりがとか、どうでもいい
669: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:10:56.62 ID:J06k5Aom0.net
違約金八億来たもんだからサンミュージック慌てふためいて新潮使った感ありあり
677: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:12:04.22 ID:AWoFR/bY0.net
>>669
しかも安達祐美が産休に入ったらもうダメぽ 稼ぎ手がいない!!
705: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:15:15.23 ID:a00MF6Ec0.net
>>669
違約金がその金額できたなんて
ソースがないだろ?

記事にしても そのような額の損失が~らしい とかさ
確定ソースじゃないでしょ

それにCMにおいても その月で契約終了のも多かったんだから

本当にそれだけの損害を請求されてるの?w
額だけが一人歩きしてるが 実際にべー事務所に請求されてる事実はあるのか?
728: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:17:28.54 ID:J06k5Aom0.net
>>705
仮に言われていた4億でも、資本金3000万円のサンミュージックには、ヤバイ金額。どぶに捨てる金
748: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:19:14.11 ID:0yM2toX/0.net
>>728
仮にって8億は適当な嘘かよww
ソース出せ
770: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:21:16.94 ID:a00MF6Ec0.net
>>728
だから「仮」だろ?

実際にベーが契約していた10社のCM会社において
事務所は損害を請求されてる事実があるわけ?

損害を請求されていたら4億とか そうなるって話でしょ?

その月で契約終了の企業もあったわけで
実際に4億が請求されてるかは別だろ?
674: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:11:43.58 ID:al7UbGVY0.net
ここまできてまだべッキーに対して叩いて文句言う人が性格悪いわ
べッキーたたき馬鹿は自分がそんなに清らかに生きてるのか
686: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:13:07.23 ID:EpKrH0cu0.net
ベッキーはその辺のことを明らかにして被害者ですって言えば復帰できるよ
奥さんとも和解すれば悪いのはゲスだけになる
ベッキー頑張れ
704: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:15:13.59 ID:YUFUqWibO.net
>>686
公の場で主要取引先様を騙した加害者のベッキー

タレントがスポンサーに詐欺まがい(嘘が違約金逃れと認定されたら詐欺になる)やっといて復帰はない

タレントがスポンサーに逆らって生きてはいけない
710: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:15:44.50 ID:kJ5nnLI50.net
>>686
もう手遅れなんだよなー
731: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:17:41.86 ID:a00MF6Ec0.net
>>686
それはこの記事が正しいことが前提だろ?
この7つの嘘が本当だというのはどこからくるの?

取材において 誰に対してどうおこなって
その嘘が判明したわけ?

全く書かれてないじゃん
688: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:13:21.80 ID:al7UbGVY0.net
正直あんたらそんなに清らかな性格と思えないよべッキーのこと言えるのかよ
702: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:15:07.62 ID:LEQ64/r70.net
ベッキーの反撃が始まったな
復帰も秒読み
アンチどもざまああああああああああ
713: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:15:59.84 ID:53qshlbYO.net
なんで、テレビはゲス川谷に直撃取材しないのかね?
761: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:20:11.18 ID:YDqGpT5H0.net
まぁしれっと復帰したその時はスポンサーへ電凸祭りですけどねw
779: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:22:15.73 ID:wMMk2x/s0.net
>>761
4月は仕事の繁忙期おわるから、受話器持って待機だ!!
786: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:23:02.58 ID:al7UbGVY0.net
でも最初に既婚者と知らなくて川谷がその気だったんだろ
夫婦関係も冷めてるのも事実、べッキーがそこらの女なら被害者扱いだよ
830: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/:2016/02/25(木) 15:28:27.70 ID:qkLSNopl0.net
新潮は、何がいいたいの。
ベッキーが不倫、略奪婚を狙っていたのを証明しただけだろ。

新島八重の桜 大河ドラマ『八重の桜』ふたたび維新回天草莽掘起篇ブログ小説9

2016年02月26日 07時48分09秒 | 日記










一方、若松城まで到達した新政府軍・土佐藩の中島信行は、若松城の近くにある屋敷を一軒一軒、調べていた。中島信行は大きな屋敷に鉄砲を撃ち込む。しかし、反応が無いので、屋敷内を捜索した。
土佐藩士・中島信行が長い廊下を渡って1室の障子を開けると、女子供が自刃に倒れて死んでいた。
それは西郷頼母の一族21人だった。
しかし、17~18歳の女が1人まだ息を残していた。
年齢から考えて、女は西郷頼母の長女・西郷細布子(16歳)だとされている。
西郷細布子は母に頼らずに自害したが、急所を外して自殺に失敗し、意識がもうろうとしていた。西郷細布子はもうろうとしながらも、障子を開けた中島信行の気配に気づくと、
「敵か、味方か」と問うた。
土佐藩士の中島信行が
「安心せい、味方じゃ」
と答えると、西郷細布子は力を振り絞って懐刀を差し出し、介錯を頼んだ。
中島信行は「御免」と言い、西郷細布子の首を落としてやった。
(注釈:西郷頼母の家老屋敷に入ったのは、土佐藩士・中島信行とされているが、中島信行は土佐藩を脱藩しており、会津戦争に加わっていないため、別人の可能性がある。多分、板垣退助であろう)
会津藩士の家族の中には、西郷頼母一族と同じように新政府軍の辱めを受けることを危惧して、自害した者が大勢居た。
柴五郎の家族も自害している。
内藤介右衛門の家族も面川泰雲寺で自害している。
戊辰戦争で死んだ会津藩の女性の数は計230人に上ったという。
1868年10月8日(慶応4年8月23日=籠城戦の初日)、籠城初日の会津城には老兵や予備隊のはか水戸藩の兵など約300人の兵士しか残っていなかった。
会津藩は主力部隊を国境に展開しており、帰城命令は出ていたが、主力部隊は未だに帰ってきていなかった。
会津藩は籠城戦を想定していなかったので、籠城の準備は出来ておらず、弾薬や食糧の搬入も出来ていなかった。
山本八重が若松城に入城したとき、会津兵は城内で刀を抜き、入城してきた婦女子に
「例え女中でも、卑怯なまねは許しませんぞ」と叫んでいた。
足手まといになる乳飲み子を殺してきたのだろうか、入城してきた女性の中には服が血に染まった者も居り、城内は殺伐としていた。
会津藩は若松城三の丸に進入していた新政府軍の間者3人が捕まえ、拷問の末、首を切り、間者3人の首を廊下に吊して晒し首にしていた。
そのころ、若松城の外では、会津藩の家老・神保内蔵助と家老・田中土佐の2人が甲賀町口の守備にあたり、新政府軍を食い止めていた。
しかし、多勢に無勢で、敵に包囲されると、
「んだげんじょ、会津の未来だげが心残りだべ。逆賊などといわっちぇ…悔しいだげだべした」
「もうこれでおわりだべなあ」
「んだなあ、死んで会津の汚名が晴れだらいいげんじょなあ」
「悔やまれんのは若殿さまが京都守護職になられたどぎ、わしら家老が一斉に腹かっさばいでお止しどげば…」
「んだなあ、会津が守護職にさえならねば……いまさらながら悔やまれるべ」
「死んだあとに生まれ変わっても…会津……会津に生まれでくんべ」
長い沈黙の末、辞世の句を書くと、
 神保内蔵助や田中土佐は自害した。
町奉行の日向左衛門も出陣し、大町口郭門の守備について新政府軍を食い止めていた。
日向左衛門は、山本八重の幼なじみ日向ユキの父である。
日向左衛門は銃撃戦の末に負傷し、祖母の実家へ落ち延びて竹藪の中で自害した。
会津藩の必死の抵抗も空しく、新政府軍は怒濤のごとく若松城へ押し寄せた。
最初に若松城に到達したのは、甲賀町口郭門を突破してきた土佐藩であった。
雷鳴のごとく会津軍を切り裂いて侵攻した新政府軍であったが、ここで勢いが止まる。
天下の要塞・若松城の門は固く閉ざされていたのだ。
台風の影響で雨が降っていたため、城外では火縄銃や旧式の洋式銃は全く役に立たなかった。
が、若松城には狙撃用の窓があるため、火縄銃がようやく効果を発揮し、近づく新政府軍を寄せ付けなかった。
一方、若松城へ入城した山本八重は、スペンサー銃を担いで戦闘が始まっている北出丸へ駆け付けた。
 いわゆる戊辰戦争の末期、会津藩(現在の福島県)に薩長官軍が「天皇の印」である「錦の御旗」を掲げて、会津城下まで進攻し、会津藩士たちや藩主・松平容保の籠城する「鶴ヶ城(会津若松城)」に雨霰の如く大砲弾や鉄砲を浴びせかける。「いいが?!よぐ狙っで撃ちなんしょ!」若松城には、この物語の主人公・山本八重が、スペンサー銃で武装し、男装して少年鉄砲隊を率いている。
「確かに薩長軍は数は多い。んだげんじょ、軍を指揮する敵を倒せばいいがら!」そういって城壁から官軍の指揮者を狙った。さすがに、「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサム・ウーマン」である。官軍指揮者の獅子舞のかつらのようなものをかぶった大山巌(西郷隆盛のいとこ)の脚に弾丸を命中させる。
「よし、命中んだ」
少年兵たちも笑顔になった。
「やっだあ!」
「ほれ、にしらもようっぐ狙っで撃ちなんしょ」
「はい!」
 会津藩の戊辰戦争はまだまだおわりそうもない。
八重は髪も短くして、若い少年兵のリーダー的な存在にまでなった。
「なして会津が逆賊なんだず!会津は京の都で天子さま(考明天皇のこと)や幕府を守っで戦ったのだべした。なら会津に義があるべず!」八重は男装のまま下唇を噛んだ。
味方の兵に
「女に何が出来る」
と笑われたが、山本八重はスペンサー銃を構えると、次々と土佐兵を撃ち殺していく。
山本八重が持つスペンサー銃は、最新式の洋式銃で、元込め式の7連発のライフル銃だった。
元込め式なので弾の挿入も早く、バネ仕掛けになっており、7連射できる。
火縄銃を2発撃つ間に、スペンサー銃は数発も撃てる。
スペンサー銃は、当時「元込め7連発」と呼ばれて恐れられた銃である。
若松城へ詰め寄った新政府軍の土佐藩は、山本八重の正確な狙撃に苦しみ、後退を余儀なくされた。
山本八重は見事に土佐兵を退けたのである。
1868年10月8日午前、会津藩は若松城の西隣にある藩校「日新館」が新政府軍の拠点に利用されることを恐れ、日新館に火矢を放って焼き払った(日新館の放火事件)。
さらに会津藩は新政府軍が隠れる場所を無くすため、城外の屋敷にも火矢を放って燃やした。
戸ノ口原へ援軍に向かった白虎隊(士中二番隊)のうち16人が、飯盛山へたどり着いたのは、会津藩が藩校「日新館」に火矢を放ったころだった。
1868年10月8日午前11時ごろ、戸ノ口原の戦いで敗走した白虎隊(士中二番隊)16名が飯盛山へと落ち延びた。
飯盛山から城下町を観ると、若松城は燃えており、城下町の至るところから火の手が上がっていた。
一説によると、藩校「日新館」は若松城の西に隣接しており、飯盛山から若松城を観ると、日新館が燃えると、あたかも若松城が燃えているように見えるという。
前述したが、白虎隊(士中二番隊)の中には「敵陣に切り込んで討ち死にしよう」という意見もあったが、「敵の手に落ちて辱めを受けては、主君の名を汚す」として、白虎隊(士中二番隊)16人は自害したのであった。
やがて、新政府軍の後続部隊が到着する。攻めあぐねた土佐藩に変わり、若松城を攻撃するのが薩摩藩士・大山巌(おおやまいわお)である。
1868年10月8日(慶応4年8月23日)午後、大砲隊を指揮する薩摩藩士・大山巌は火縄銃の届かない安全圏に大砲を配置し、若松城をめがけて砲撃を開始した。
薩摩藩士・大山巌は火縄銃の射程外に布陣しているため、火縄銃しかない会津兵はなすすべ無く、砲撃を受けるだけだった。
しかし、山本八重はスペンサー銃を構えて1発の銃弾を放つと、薩摩兵の大砲が止んだ。
山本八重が放った銃弾は薩摩藩士・大山巌の右大腿部を貫いたのだ。
正確に言えば、山本八重が薩摩藩士・大山巌を撃ったという証拠は無い。
が、火縄銃の射程200メートルに対してスペンサー銃は射程800メートルあり、遠方の大山巌に弾が届く銃は山本八重のスペンサー銃だけだったため、山本八重が大山巌を狙撃したとされている。
山本八重に撃たれた薩摩藩士・大山巌は戦線を離脱し、新政府軍は攻勢を弱める。山本八重は再び新政府軍を退けた。
一方、国境の警備に当たっていた家老・西郷頼母や家老・原田対馬(はらだ・つしま)などの部隊が、敵の隙を尽きて若松城へ帰城した。
国境警備に当たっていた会津藩の主力部隊の一部だが、家老・西郷頼母らの帰城により、会津藩の士気があがった。
さらに、山本八重らは城壁の石垣を押し出し、穴を開けると、大砲を突っ込み、城壁に空いた穴から新政府軍を砲撃した。
この時に山本八重らが落とした石垣は、今も若松城のお堀に沈んでおり、お堀の水が少なくなると、石垣が出現する。
新政府軍はその後も攻撃を続けたが、日が暮れ始めたため、攻撃を終了し、一度兵を退いた。会津藩は山本八重のおかけで、籠城戦の初日を無事に乗り切ったのである。
しかし、会津藩は籠城戦の備えをしていないうえ、多くの指揮官を失っており、首脳陣は抗戦派と降伏派に別れていた。
1868年10月8日(籠城戦の初日)昼、土佐軍を退けた山本八重は藩主・松平容保に出陣を談判したが、藩主・松平容保は
「女まで出陣させたとしては会津藩の恥だ」と言い、山本八重の出陣を禁じた。
山本八重以外にも、多くの女性が薙刀を持ち、出陣の許可を求めたが、
「会津藩士が女の手を借りたとあっては、末代までの恥である」
として、誰一人として出陣は許可されなかった。
女を戦いに参加させることは、武士道を貫く会津藩士にとっては恥ずべき行為なのである。
さらに、会津藩の家訓「会津家訓十五箇条(御家訓)」の第4条には「婦人女子の言、一切聞くべからず」と記されており、女性の山本八重が出陣を懇願しても、一切、聞き入れてもらえるはずも無かった。
山本八重らがいくら談判しても女の出陣は認められない。会津藩の教え「什の掟」にも「ならぬことは、ならぬものです」とある。
仕方なく出陣を諦めた山本八重は、負傷兵の治療にあたっていたが、会津兵が新政府軍に夜襲を行う計画があることを知る。
これも前述したが、そこで、山本八重は夜襲なら、敵兵も女か男か判断できないと思い、髪を切り落として男装し、亡き弟・山本三郎として夜襲に加わることにした。
山本八重は髪を切り落とそうとするが、自分ではなかなか切れないため、自宅の裏側に住んでいる幼なじみの高木時尾(たかぎ・ときを)に頼んで髪を切り落としてもらった。
男装をして戦ったのは山本八重だけではなく、娘子隊(婦女隊)らも男装で新政府軍と戦ったが、城内で断髪した女性は山本八重が初めだという。
髪を切り落とした山本八重は腰に刀を差し、ゲベール銃を担いで、夜襲隊に加わって城外へ出ると、闇夜に紛れて敵兵に切り込んだ。
夜襲を受けた新政府軍は混乱して同士討ちを始めたが、援軍が到着すると、体制を立て直し、反撃してきた。
当初より、夜襲隊は深入りしないと決めていたため、山本八重らは適度に新政府軍の兵士に攻撃を加えると、裏道を通って早々と若松城へと引き上げた。
なお、山本八重はこのような活躍から、「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれている。
しかし、当時、山本八重のことを「幕末のジャンヌダルク」と呼んだ事を示す文献はないため、「幕末のジャンヌダルク」は近代になってメディアが付けたキャッチフレーズだとされている。
また、山本八重といえばスペンサー銃だが、若松城篭城戦の初日の夜襲からはゲベール銃を使用しており、以降はスペンサー銃は登場しない。
ゲベール銃は洋式銃だが、先込め式で火縄銃に毛の生えた程度の性能しかない旧式銃である。
最新式のスペンサー銃と比べれば、性能の差は雲泥である。
山本八重は最新式のスペンサー銃と銃弾100発を持って若松城へ入場していたが、初日に100発全てを撃ちつくし弾切れになったため、以降はゲベール銃を使用したとされている。
旧式銃の弾は若松城で製造できたのだが、スペンサー銃は最新式だったため、弾が製造できなかったのだ。

         6 官軍迫る



またまた話しを変える。まるで落ち着きのない独楽の如く。
  鶴ケ城の庭で、集まった家臣や少年たちに松平容保は激をとばした。
「日本の近代化は余たちがやる! 薩長なにするものぞ! ジャンプだ! この新天地でジャンプだ!」
 一同からは拍手喝采がおこる。
 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……
 会津藩三千余名、福島でのことである。
 少年たちはナギナタをもった姉たちをからかった。
「これ! 貞吉! ふざけている場合ではないですよ!」
 姉のおみねが諫めた。すると弟が、
「ぼくは姉上が母上の御腹の中に落としていったものをつけて生まれたんだ」
 といった。
 意味がわかっておみねは「これ!」と顔を赤くした。
 慶応四年(一六七八)一月二十八日、いよいよ官軍が迫ってきた。
 同年八月には藩主・松平容保は「薩長と戦う! 奸族どもを始末するのだ!」
 と激を飛ばした。
 八月二十三日には食料や弾薬が底をついてきた。
 会津軍八千、官軍二万……
 とても勝てそうにもなかった。
 しかし、会津白虎隊少年たちは火縄銃で交戦していた。
「おれらが負げる訳ね!」
「んだ! おれらが正義だ!」
 しかし、会津は次々と敗走しだす……

  明治二年、榎本脱走軍は蝦夷全土を占領した。
 そこで、榎本武揚らは「蝦夷共和国」の閣僚を士官以下の投票により選出した。
 選挙の結果は左のとおりである。

 総裁      榎本武揚
 副総裁     松平太郎
 海軍奉行    荒井郁之助
 陸軍奉行    大鳥圭助
 箱館奉行    永井玄蕃
 開拓奉行    沢太郎左衛門
 陸軍奉行並   土方歳三

 なお土方は、箱館市中取締裁判局頭取を兼ねることになったという。
 一同はひとりずつ写真をとった。
 土方歳三の有名なあの写真である。しかし、「蝦夷共和国」はつかのまの夢であった。 同年一月中旬、明治政府がついに列強国との局外中立交渉に成功した。ということはつまり米国最新甲鉄艦の買いつけに成功したことを意味する訳だ。
 それまでの榎本武揚は開陽丸を失ったとはいえ、海軍力には自信をもち、いずれは明治政府も交渉のテーブルにつくだろうと甘くみていた。よって、蝦夷での事業はもっぱら殖産に力をいれていた。
 とくに七重村でのヨーロッパ式農法は有名であるという。林檎、桜桃、葡萄などの果樹津栽培は成功し、鉱山などの開発も成功した。
 しかし、「蝦夷共和国」は開陽丸を失ったかわりに官軍(明治政府軍)は甲鉄艦を手にいれたのである。力関係は逆転していた。


  明治二年(一八六七)二月昼頃、江戸の官軍による収容所に訪ねる一行があった。
 佐久とその父・林洞海と兄である。
「良順おじさまにあえないわ」
 佐久はいった。「良順おじさまは賊軍ではないわ。だってお医者さまだもの」
 だが、加賀藩用人・深沢右衛門は「松本良順は賊軍、面会は駄目じゃ」というばかりだ。 林洞海は「今何時かわかりまするか?」とにやりといった。
 深沢は懐中時計を取り出して「何時何分である」と得意になった。
 すると、洞海は最新式の懐中時計を取りだして、
「……この時計はスイス製品で最新型です。よかったらどうぞ」と賄賂を渡した。
「しかし……」
「どうぞ」
 深沢はついに誘惑におれた。
「三十分だけだぞ」
 佐久とその父・林洞海と兄は刑務所の檻に入れられた松本良順と再会した。
「おお! 佐久! それに林殿も…」
 松本良順は歓喜の声をあげた。
 松本良順は仙台で土方歳三らと合流するつもりだったが、持病のリウマチが悪化し神奈川に帰ったところを官軍に捕らえられていた。
「……お元気でしたか?」
 佐久は気遣った。
 すると良順は「わしはとくになんともない。それより……」
 と何かいいかけた。
「…なんですの?」
「官軍が会津まで到達したそうじゃ。公たちを倒すために会津征伐隊などと称しておるそうで……馬鹿らしいだけだ」
「まぁ!」佐久は驚いた。
「公は会津を貸してほしいと明治政府に嘆願しておるという」
「会津は上様さまにとって藩地、十五歳の頃に藩主になって以来ずっと会津のことを考えてきたそうです」
 佐久の兄は、
「公は夢を食うバクだ」と皮肉をいった。
 佐久は「会津公さまは確かにバクですわ。でも、食べるのは夢ばかりではありません。明治政府をも食べておしまいになられますわ」
「これ! 佐久、官軍にきかれたらただじゃおさまらん。物騒なこというな!」
 父は諫めた。
 松平容保の会津処理を岩倉具視は拒否し、容保の「会津共和国」ひいては「榎本脱走軍」は正式に”賊軍”となった。
 同年三月七日、政府海軍は、甲鉄艦を先頭に八隻の艦隊で品川沖を出港した。
 同年三月二十日、榎本脱走軍は軍儀をこらし、政府軍の甲鉄艦を奪取する計画を練った。アイデアは榎本が出したとも土方がだしたともいわれ、よくわからない。

「さぁ、君達はもう自由だ。猪苗代にいる官軍までもどしてあげよう」
 容保たちは捕らえた薩摩藩士たちを逃がしてやった。
 もう三月だが、会津は雪の中である。
 薩摩藩士・田島圭蔵の姿もその中にあった。
 ……なんといいひとじゃ。どげんこつしてもこのお方は無事でいてほしいものでごわす。 田島は涙を流した。
 容保たちにとって薩摩藩士らは憎むべき敵のはずである。しかし、寛大に逃がしてくれるという。なんとも太っ腹な松平容保であった。

 舞台は蝦夷(北海道)である。
「箱館戦争」の命運をわけたのが、甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)であった。最強の軍艦で、艦隊が鉄でおおわれており、砲弾を弾きかえしてしまう。
 官軍最強の艦船であった。
 それらが蝦夷にせまっていた。
 榎本たちは焦りを隠せない。
 ……いまさらながら惜しい。開陽丸が沈まなければ……

  箱館病院では高松凌雲はまだ忙しくはなかった。
 まだ戦は始まってはいない。看護婦はおさえという可愛い顔の少女である。
 土方は龍造という病人をつれてきた。
「凌雲先生、頼みます!」
 土方歳三は凌雲に頭をさげた。
「俺は足軽だ! ごほごほ…病院など…」
 龍造はベットで暴れた。
 おさえは「病人に将軍も足軽もないわ! じっとしてて!」
 とかれをとめた。龍造は喀血した。
 高松凌雲は病室を出てから、
「長くて二~三ケ月だ」と土方にいった。
 土方は絶句してから、「お願いします」と医者に頭をさげた。
「もちろんだ。病人を看護するのが医者の仕事だ」
「……そうですか…」
 土方は廊下を歩いた。
「官軍の艦隊が湾に入りました!」と伝令がきた。
「なにっ?!」
 土方はいい、「すぐにいく!」といって駆け出した。


  すぐに榎本たちは軍儀を開いた。
 大鳥圭介は「なんとしても勝つ!」と息巻いた。
 すると、三鳥が「しかし、官軍のほうが軍事的に優位であります」と嘆いた。
 回天丸艦長の甲賀源吾が「官軍の艦隊の中で注意がいるのが甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)です! 艦体が鉄でできているそうで大砲も貫通できません」
 海軍奉行荒井郁之助は「あと一隻あれば……」と嘆いた。
 土方はきっと怖い顔をして、
「そんなことをいってもはじまらん!」と怒鳴った。
 榎本武揚は閃いたように「ならもう一隻ふやせばいい」とにやりとした。
「……どうやってですか?」
 一同の目が武揚に集まった。
「甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)をかっぱらう!」
 武揚は決起した。「アボルタージだ!」
 アボルタージとは、第三国の旗を掲げて近付き、近付いたら旗を自分たちの旗にかえて攻撃する戦法である。
 荒井郁之助は「アボルタージですか! それはいい!」と同感した。
 家臣たちからは、
「……本当にそれでいいのでしょうか? そんな卑怯なマネ…」
 と心配の声があがった。
 武揚は笑って「なにが卑怯なもんか! アボルタージは国際法で認められた立派な戦法だぜ! 卑怯といえば薩長じゃねぇか。天子さまを担いで、錦の御旗などと抜かして…」「それはそうですが……」
 土方は無用な議論はしない主義である。
「それには私がいきましょう!」
 土方は提案した。
 武揚は躊躇して、
「土方くん。君の気持ちは嬉しいが……犠牲は少ないほうがいい」
 といった。声がうわずった。
「どちらにしても戦には犠牲はつきものです」
「君がいなくなったら残された新選組はどうなるのか考えたことはないのか?」
「ありません。新選組は元々近藤勇先生のもので、私のものではありません」
「しかし……その近藤くんはもうこの世にはいない」
 土方は沈黙した。
「とにかく……私は出陣します! 私が死んだら新選組をお願いします」
 やっと、土方は声を出した。
「……土方くん………」
 榎本は感激している様子だった。
「よし! 回天と蟠竜でやろう!」
 回天丸艦長の甲賀源吾が「よし!」と決起した。
 荒川も「よし! いこう! 甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)をかっぱらう!」
 と決起した。
「よし! よし!」
 榎本は満足して何度も頷いた。
 そして、
「アボルタージだ!」と激を飛ばした。
 ……アボルタージ! アボルタージ! アボルタージ! アボルタージ! ……

  さっそく回天丸に戦闘員たちが乗り込んでいった。
 みな、かなり若い。
 土方歳三も乗り込んだ。
 しかし、土方とてまだ三十五歳でしかない。
 海軍士官・大塚浪次郎も乗り込む。彼は前記した元・彰義隊隊士・大塚雀之丞の弟である。「兄上! しっかりやりましょう! アボルタージを!」
「おう! 浪次郎、しっかりいこうや!」
 大塚雀之丞は白い歯を見せた。
 英語方訳の山内六三郎も乗り込む。
「アボルタージだ!」
 若さゆえか、決起だけは盛んだ。
 しかし、同じ英語方訳の林董三郎だけは乗せてもらえなかった。
「私も戦に参加させてください!」
 董三郎は、回天丸艦長の甲賀源吾に嘆願する。
 が、甲賀は「榎本総裁がおぬしは乗せるなというていた」と断った。
「なぜですか?! これは義の戦でしょう? 私も義を果たしとうごりまする!」
 林董三郎はやりきれない思いだった。
 高松凌雲がそんなかれをとめた。
「榎本さんは君を大事に思っているのだ。英語方訳が蝦夷からいなくなっては困るのだ」「…しかし……」
「君も男ならききわけなさい!」
 董三郎を高松凌雲は説得した。
 こうして、回天丸と蟠竜丸が出帆した。

「官軍がせめて……きたのでしょう?!」
 病院のベットで、龍造は暴れだした。看護婦のおさえは、
「……龍造さん、おとなしくしてて!」ととめた。
 龍造は官軍と戦う、といってきかない。そして、また喀血した。
「龍造のことを頼みます」
 船に乗り込む前に土方は病院により、おさえに頼んでいた。看護のことである。

 舞台はふたたび会津である。
  病院に松平容保がきた。
「あなたが土方さんのお知り合いの女性ですか?」
 容保は不躾な言葉で、井上ちか子に声をかけた。
 ……いやらしい気持ちはない。
「はい殿。京で一緒でした。しかし、もう京はありません。みな死にました。好きな人のために女でもここで戦って死にとうござりまする」
 井上ちか子の言葉を、容保は佐久の声のようにきこえてたまらなくなった。
「井上さん」
「はい」
「……元気で。お体を大切になさってください。戦は必ずこちらが勝ちます」
「しかし……」
「心配はいりません。わが軍の姿勢はあくまで旧幕府と同じ共順……会津は共和国です。明治政府とも仲良くやっていけます」
 容保自身にも、自分の言葉は薄っぺらにきこえた。
「誰か! 誰かきて!」
 おさえが声をあげた。「龍造さんが……!」
「……す、すいません!」
 井上ちか子は病室にむけ駆け出した。
 容保はひとり取り残された。
 かれはひとりであり、また悪いことに孤独でもあった。そうなのだ! 困った!
「……佐久、シャボンをつくってやる約束は果たせそうもない」
 松平容保は、深い溜め息とともに呟いた。
「…佐久……」容保は沈んだ気持ちだった。
 湾には官軍の艦隊が迫ってくる。
 白虎隊が出陣するときはいつも嵐の中であった。
 それは、白虎隊の未来を暗示しているかのよう、であった。


そして再び「会津の役」に戻ろう。
1868年10月11日(慶応4年8月26日=籠城3日目)、若松城を包囲する新政府軍の陣中に笛や太鼓が鳴り響き、会津地方に伝わる獅子舞「彼岸獅子(ひがんじし)」が乱舞する。
何かのお祭りだろうか。
彼岸獅子は賑やかな笛や太鼓に合わせて踊りながら新政府軍の陣中を通って若松城の方へ進んでいく。
新政府軍は薩摩藩と土佐藩を中心とした諸藩の集まりで、様々な武具を着けており、彼岸獅子の一行が敵なのか味方なのかも判断できない常態だった。
新政府軍は呆然と獅子舞の一行を眺めるだけだった。
新政府軍の陣中を抜けた彼岸獅子が若松城へ近づくと城門が開き、彼岸獅子の一行は若松城に入ってしまった。
呆気にとられる新政府軍。
一体、あれは何だったのだろうか。
数日前、新政府軍の侵攻に備えて国境の日光街道の警備にあたっていた会津軍の山川大蔵(後の山川浩)の元に、帰城命令が届いていた。
「城の守りが手薄になっている。敵との戦闘を避けて速やかに帰城せよ」との命令であった。
若松城の危機を知った山川大蔵は急いで若松城へ引き返すが、若松城は新政府軍に包囲されており、無傷で若松城までたどり着くことができない。
そこで、会津藩士の水島純が一計を案じ、会津地方に伝わる獅子舞「彼岸獅子」の行列に扮装して包囲網を突破する計略を、山川大蔵に進言したのだ。
彼岸獅子の計は、新政府軍を欺くことができることと同時に、若松城に居る兵に味方だと教えることが出来る名案だった。
山川大蔵は彼岸獅子の伝わる小松村の村長・大竹重左衛門や斎藤孫左衛門を呼び、彼岸獅子の協力を求めた。
失敗すれば全員が死ぬ危険な作戦であったが、大竹重左衛門は「今こそ、松平家300年の恩顧に報いる時だ」と言い承諾した。
直ぐさま、村長・大竹重左衛門は村人を集めて協議した結果、高野茂吉(30歳)を隊長とした決死隊とも言える彼岸獅子隊10人を編成した。
雄獅子は大竹巳之吉(12歳)、雌獅子は中島善太郎(14歳)に任せた。隊長の高野茂吉(30歳)以外の9人は少年で、最年少は弓持の藤田与二郎(11歳)であった。
そして、1868年10月11日(慶応4年8月26日=籠城3日目)、高野茂吉が率いる彼岸獅子を先頭に、山川大蔵の部隊は敵陣へと進んだのである。
少年達は一瞬たりとも気を許さずに彼岸獅子を演じきり、見事に新政府軍の陣中を突破し、無傷で若松城へ入ることに成功した。
新政府軍はただただ、呆気にとられて彼岸獅子を見送ったという。
彼岸獅子は春の彼岸に行われる、家族の無病息災を願う祭りで、会津に雪解けと春の訪れを知らせる行事でもあった。
当時は娯楽が無く、会津藩士の中にも彼岸獅子を楽しみにしている者が多かった。
「大蔵さあ、援軍にきでくれだのがっす!頼もしいべ」一同は微笑んだ。
山川大蔵の彼岸獅子は、籠城する会津兵に大いに勇気を与えることが出来たという。
その後、見事に役目を果たした彼岸獅子隊は無事に小松村に戻り、1人の被害者も出さなかった。
会津藩の敗戦後の明治4年、小松村の彼岸獅子は、山川大蔵の配慮により、会津藩主・松平容保に彼岸獅子を披露する機会に恵まれた。
このとき、松平容保は「彼岸獅子の入城」の勇気を称えて、小松村の彼岸獅子に会津松平家の会津葵紋の使用を許可した。
現在も会津葵紋の使用が許されているのは、小松彼岸獅子だけである。
籠城2日目から3日目にかけて、会津藩が国境に展開していた主力部隊が続々と帰城してきた。
若松城に籠城する人数は、戦闘員と非戦闘員とを合わせて5000人を超えたという。
山川大蔵の彼岸獅子の入城により、会津藩の士気は高まっていたが、新政府軍に包囲された若松城内は、籠城派と降伏派とに別れて喧々囂々の議論となっていた。
極楽寺の裏切りにより、若松城の弱点となる小田山を新政府軍に占領されたうえ、会津藩は籠城の準備をしていなかったため、若松城には籠城戦に備えるだけの武器や兵糧が無かった。
武器商人から購入したゲベール銃は不良品が多く、会津藩は火縄銃まで持ち出す始末であった。
ゲベール銃は不良品を売りつけられたという説もある。
会津藩の家老は世襲制で、会津の名門9家(会津9家)の出身者しか家老になることが出来ず、身分意識が強いうえ、保守的だった。
このため、会津藩の首脳陣は没落していた。
会津藩は身分制度が強く、優秀でも身分が低ければ出世することができなかった。
秀才と言われた秋月悌次郎が左遷されたのも、下級藩士だったからだ。
また、改革を主張しようものなら、家老の怒りを買い、処罰されるのは必至だった。
西洋銃の導入を訴えた山本覚馬も1年間の禁足を食らったのも、会津藩の家老の反感を買ったからだった。
会津藩は、西日本諸藩の事情に通じていた秋月悌次郎が左遷し、薩摩藩・長州藩と対等に話が出来る神保修理を無実の罪で自害に追いやった。
新政府軍とのパイプ役を切り捨てて、会津藩を戦争へ追いやったのは、会津藩自身であった。
会津藩が恭順派と抗戦派に別れるなか、家老の西郷頼母(さいごう・たのも)は、藩主・松平容保に切腹を迫り、全員玉砕を主張した。
非戦恭順派だった西郷頼母が、藩主・松平容保の切腹および会津藩の玉砕を主張した理由は分からない。
西郷頼母は過去に、京都守護職の就任に反対し続けて、藩主・松平容保の怒りを買い、家老を解任されたていた。
その後、家老に復帰した西郷頼母は、「白河口の戦い」で大軍を率いて白河城の守備にあたったが、新政府軍の参謀・伊地知正治の手勢700人に惨敗し、白河城を奪われるという大失態を犯した。
(実戦経験の無い西郷頼母に、東北諸藩の運命がかかっている白河城の守備を任せたのは、身分が理由との説もある。)
その西郷頼母が、この場に及んで藩主・松平容保に切腹を迫ったため、藩主・松平容保ほか会津藩士が激怒した。
このため、身の危険を感じた西郷頼母は、城の外にいる部隊への伝令を口実に、長男の西郷吉十郎を連れて若松城を抜け出して逃げた。
一説によると、西郷頼母に刺客が送られたが、刺客はあえて西郷頼母を追わなかったとされている。
ただし、刺客説の真相は分からない。
西郷頼母はその後、旧幕府軍の榎本武揚と合流し、北海道の函館へ渡った。
そして、旧幕府軍が降伏すると、西郷頼母は館林藩に幽閉された。
西郷頼母を追放してもなお、会津藩は恭順派と抗戦派に別れて、喧々囂々の議論を続けていた。
しかし、藩主・松平容保は籠城を決め、山川大蔵を軍事総督に抜擢し、梶原平馬を政務総督に抜擢する英断を下した。
こうして、20歳代の2人が、会津藩の軍事・政務の責任者に就き、旧態依然としていた会津藩に新しい風が吹いた。
さらに、藩主・松平容保は、原田対馬に西出丸の守備に就け、海老名季昌を北出丸の守備を任せるなどして、若松城の防衛の責任者に若手を起用。
佐川官兵衛を総督に任命し、首脳陣を一新した。
そして、秋月悌次郎を軍事奉行添役に抜擢するなどして、優秀な若手を次々と起用した。
主・松平容保は、保守的な旧体質を壊し、新しい会津藩を誕生させた。
本当の意味での会津藩の改革が行われたのは、この時である。
会津藩は新体制の元、一致団結し、士気は益々高まった。
いつの世も時代を作るのは若い力なのだ。
会津藩の頼みの綱は、奥羽越列藩同盟の援軍と冬の到来だった。
雪が降れば、新政府軍は移動も食料の搬送も困難となる。
冬まで持ちこたえれば、会津藩にも勝機が出てくる。
1868年10月13日(慶応4年8月28日)、籠城6日目にして若松城に入城した娘子隊(別名「婦女隊」)の中野こう子が、卑怯者の山本八重に
「なぜ娘子隊に加わらなかったのですか」と問うた。
1868年10月8日(籠城1日目)早朝、若松城の城下町に早鐘が鳴り響いたとき、山本八重は若松城に入城することができたが、敵の侵入は早く、早々に城門は閉ざされ、城内に入れなかった者も多かった。
中野竹子は会津藩主・松平容保の義姉・照姫を警護するため、母・中野こう子と妹・中野優子を連れて、若松城へ向かったが、時は既に遅く、若松城の城門は閉ざされていた。
中野竹子は、会津藩士・中野平内の長女で、江戸の会津藩上屋敷で生れ、江戸で育った。
中野竹子は幼い頃から聡明で、文武に優れ、かなりの美人だったという。
また、中野竹子は幼少期から赤岡大助に師事して薙刀(なぎなた)を学び、道場では師範代を務めるほどの腕前であった。
中野竹子は江戸で生活していたが、「鳥羽・伏見の戦い」の後、藩主・松平容保が徳川慶喜から登城禁止を言い渡されて会津へ戻ったことに伴い、中野竹子一家も会津に引き上げていた。
会津の風呂屋は混浴だったため、江戸で生まれ育った中野竹子は風呂屋へは行かず、自宅のタライで入浴していた。
中野竹子は絶世の美女だったため、会津の男はこぞって風呂場を覗きに行ったという。
覗かれたことに激怒した中野竹子は薙刀を振り回し、覗きに来た男を追い払ったという逸話が残っている。
1868年10月8日(籠城1日目)、若松城へ入城できなかった中野竹子は、同じように逃げ遅れた依田まき子・依田菊子(後の水島菊子)・岡村ます子の3人と出会い、娘子隊(婦女隊)を結成した。
(この時、依田菊子は既に髪を切り落としていた。山本八重が髪を切るのは、籠城1日目の夕方あたりなので、依田菊子が髪を切るのは早かった。)
さらに、入城できなかった神保雪子(切腹させられた神保修理の妻)などが続々と薙刀を持って集まり、娘子隊(婦女隊)は20数名に発展した。
娘子隊(婦女隊)は、会津藩が設置した正規軍ではなく、逃げ遅れた女性らが中野竹子らに合流して自然発生した義勇軍的なものである。
この点は、正規軍の白虎隊とは大きく異なる。
娘子隊(婦女隊)は義勇軍なので部隊に名前は無く、後に「娘子隊」または「婦女隊」と呼ばれるようになった。
後に名称が付いた点は、二本松藩の悲劇として知られる「二本松少年兵」と同じである。
 1868年10月8日(籠城1日目)、娘子隊(婦女隊)を結成した中野竹子らは、会津兵から会津藩主・松平容保の義姉・照姫が坂下へ避難したという情報を聞き、照姫を警護するため、坂下へと向かった。
しかし、情報は間違っており、坂下に照姫は居なかった。
中野竹子らはこの日、坂下の法界寺で宿泊し、翌日、照姫を警護するため、若松城へ向かうことにした。
1868年10月9日(籠城2日目)、中野竹子ら娘子隊(婦女隊)は高瀬村に会津軍が駐留している事を知り、高瀬村に駐留している会津藩の家老・萱野権兵衛に従軍を願い出た。
しかし、娘子隊は女ばかりだったため、家老・萱野権兵衛は
「城に帰って女中の仕事をして欲しい」
と言い、従軍を拒否する。会津藩士にとって、女を戦わせることは末代までの恥なのだ。
しかし、中野竹子らは
「戦に加えてくれなければ、この場で自決します」
と言って後に退かないため、家老・萱野権兵衛は仕方なく、旧江戸幕府軍の衝鋒隊への従軍を認めた。
会津藩の「什の掟」には、
「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」
「ならぬことはならぬものです」
という掟があるが、
「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」
という掟があるとおり、「什の掟」は男子のための教えであり、女子には関係が無い。




大阪・梅田、乗用車が歩道に突っ込む 1人死亡2人重体

2016年02月25日 16時46分51秒 | 日記












歩道に車、1人死亡2人心肺停止
大阪・梅田、乗用車が歩道に突っ込む 1人死亡2人重体





15:14

騒然とする事故現場(25日午後0時47分、大阪市北区で)=枡田直也撮影 【読売新聞社】
騒然とする事故現場(25日午後0時47分、大阪市北区で)=枡田直也撮影 【読売新聞社】
(読売新聞)
 25日午後0時35分ごろ、大阪市北区芝田1丁目の国道176号交差点付近で歩道に乗用車が突っ込み、複数の歩行者がけがをしている、と通行人の男性から110番通報があった。大阪府警や大阪市消防局によると、男女11人が負傷し、うち男女3人が心肺停止の状態で病院に運ばれた。3人のうちの歩行者の男性が間もなく死亡した。残る2人は、車を運転していた50代くらいの男性と歩行者の若い女性という。
死亡した運転手は奈良県出身の大橋篤(51)容疑者(死亡、運転中心臓の動脈破裂で倒れ自動車がそのまま突っ込んだ)。
 曽根崎署によると、車は西から東に交差点に入って来て歩道に乗り上げて次々に歩行者をはねた後、大阪新阪急ホテル前の花壇に突っ込んで止まった。車には男性が1人で乗っていたという。署はけがをした人の身元や事故原因を調べている。

 複数の目撃者によると、車は速度を緩めず、歩道に乗り上げたという。現場はホテルや商業施設が立ち並ぶJR大阪駅近くの都心部。

事故を見守る通行人や救急車などで、現場は一時騒然

梅田の繁華街 車歩道に突っ込み11人負傷、20代女性、運転手ら3人心肺停止
(産経新聞) 13:09

【植毛手術が一番コスパよし!】草刈正雄さん福山雅治さんら賢者はみんな選んでる!植毛手術

2016年02月25日 16時40分53秒 | 日記








草刈正雄さんと福山雅治さんはともに植毛手術をしている。


福山さんは最近だから後頭部の抜糸後も目だたないが、


草刈さんはまだ医学の技術がまだまだの時だから


”大河の真田丸の真田昌幸役”


で後頭部の縫い目がくっきり見えていて可哀想だった。


カツラとかより彼らは賢明。植毛手術が一番コスパがいい!


子供の3DSを破壊した高嶋ちさ子のウソ

2016年02月25日 13時35分41秒 | 日記










2016年02月25日
子供の3DSを破壊した高嶋ちさ子のウソ




最初に炎上したときは、3DSを破壊したことにイラッとしつつも、他人の家庭の事情だしわざわざ首を突っ込むのもおとなげないなーと思ってスルーしてたが、ちょっと看過できない感じになったので少し首を突っ込むことにした。
まずは、本件の経緯説明から。

※本記事ではいらすとやさんのイラストを使用しております。非常に便利で素敵なイラストが多数掲載された素晴らしいサイトです。

登場人物
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バイオリニストの高嶋ちさ子(47)さん(俳優の高嶋政宏・政伸兄弟のいとこ)、長男(9歳)、次男(6歳)


教育熱心な高嶋ちさ子さんは、子供たちにゲームで遊ぶ時間などのルールを決め、それを順守させていた。


だが、長男がゲームで遊んではいけないはずの金曜の夜に、宿題を終えていない状態で3DSで遊んでいることが発覚。


高嶋ちさ子さんは「怒り狂い」、ニンテンドー3DSを破壊してしまう。


さらに、チェロの練習をしなかった次男の3DSも破壊する。


2015年10月23日に、破壊した3DSの写真をTwitterに投稿。



その経緯を翌2016年2月12日付の東京新聞コラム「ゲーム機バキバキ事件」で告白、Twitterが炎上する。

以上が、2月上旬までの経緯である。
「ゲーム機バキバキ事件」において、破壊後の経緯は以下のように記述されている。
でも翌週、長男は算数のテストで満点。同級生から「おまえんち、ゲーム機折られたんだろ」と言われた時、「けど折られたおかげで、おれ満点とれたんだよ」と自慢し、みんなが「へーえ」と言ったとか

自分が9歳のころを思い返すと、にわかに信じがたい出来事だが、あいにくこの内容を否定するだけの情報を持ち合わせていない。
その後、高嶋ちさ子さんは沈黙を続け、新たな情報が入らないことから炎上は沈静化していた。

しかし、2月24日になってセンテンススプリングこと週刊文春が高嶋ちさ子さんの釈明記事を掲載した。

“大炎上中”高嶋ちさ子が初めて明かす「ゲーム機バキバキ事件」の真相 | スクープ速報 - 週刊文春WEB

「あれはカッとなって壊したのではなく、あくまで子供達との“約束”だったんです。我が家では子供達は自分のスケジュールを自分で決めます。そしてそれを守らなかった時のルール(ペナルティ)も子供が自分で決める。DSに関しても長男が自分で『今度ルールを破ったら折っていいよ!』と言ったんです」
しかも、“計算された”壊し方だったという。

「実は、事前にいろいろと調べておいたんです。折る時はテコの原理で(蝶番の部分を)真っ二つにしましたが、ソフトは一切傷つけないように注意しました。壊した端末は任天堂さんに持って行くと、3~4日で以前と全く同じように修理してくれます。値段は3~4千円くらいです。私が壊したものも、(壊してから)2カ月後のクリスマスに、“サンタさんから”と言って二人のところに戻しました」

週刊文春と東京新聞の記事を整理すると、(1)「破壊は衝動的なものではなく修理を見越したものであった」(2)「自分の3DSを破壊された長男は、破壊されたことによって成績が上がったことを自慢した」の二点がポイントとなる。
(1)の部分から「怒りに任せた行為ではなくしつけの一環であった」、(2)から「破壊は結果として教育的な効果があった」という主張が伺える。

双方が事実であれば、赤の他人が首を突っ込む問題ではない。独自の教育方針が期待したとおりの効果を発揮しただけの話だ。

冒頭で「看過できない」と書いたが、それはこの主張に明確な"ウソ"が含まれるためだ。


10月23日、3DS破壊写真から繋がるツイートである。
リプライ元のツイートは削除済みだが、5,000円ほどで修理できるというアドバイスが寄せられ、それに対する反応である。

このツイートからは「これほどまでに破壊された3DSを修理できるとは思っていなかった」「修理可能だと知ったあとも、修理する意志はなかった」という事実が明らかになる。
だとすると、文春における釈明は完全なウソ、後付の言い訳ということになる。

そもそも、東京新聞において「私は怒り狂って」と記述している。計画性のある破壊でそのような表現をするはずがない。

UntitledUntitled
だいたい、「叱る」と「怒る」はまったく違う。子供に対して怒りをぶつけてはいけない。

では、もう一つの論点である「破壊は結果として教育的な効果があった」という部分はどうだろうか。高嶋ちさ子さんは東京新聞において、真実を書いているのだろうか。
こちらに関しては覆すだけの材料を持ち合わせていないものの、すでに釈明でウソをついていることが明らかとなっているので鵜呑みにするのはちょっと難しいなという印象を受ける。

一連の出来事でお子様たちが心に深い傷を負っていないこと、もし傷ついていたとしたら周りの他の大人が手を差し伸べてくれることを祈るだけだ。

たいへん胸クソ悪い話ではあるが、一ついい話もある。


文春とTwitterに掲載された、修理後のニンテンドー3DS(左)と、バキバキにされた直後の3DS(右)の写真を並べてみた。
本体が上下に分離された状態からの修理となると、いちいち細かいパーツを接着するわけにはいかないので、基本的に外装の交換もしくは新品と交換となる。
しかし、この二台を見比べると同じシールが貼られている。

まず、注目して欲しいのは赤い丸で囲んだ部分。
大きなシールの下に小さなシールが貼られているが、修理後に消えている。
そして、黄色い丸の部分。
こちらは小さなシールも残っているが、端からの距離が変化している。

つまり、これはもとの本体からシールを丁寧に剥がし、新しい本体に貼り直しているのである。赤丸部分のシールはうまく移植できなかったのであろう。

愛着のある持ち物に好きなシールを貼って、自分だけのものにするのはとても楽しい。
修理に出して、シールの貼られていない本体が戻ってきたら、それは自分のものではなくなってしまったような感覚になる。そんな悲しい思いをさせないよう、任天堂の修理スタッフは手間ひまをかけてシールを移植しているのである。

怒り狂ってゲーム機を破壊する母親、そのゲーム機をなるべく元の状態で返そうとする任天堂。
子供のことを大事にしているのはどっちだろうか?
この丁寧な仕事が、すこしでもお子様たちの心を癒やしてくれることを願っている。

爆破予告犯逮捕安藤良太(埼玉上尾市)容疑者1995年4月19日(20歳)

2016年02月24日 17時26分33秒 | 日記












爆破予告犯逮捕安藤良太(埼玉上尾市)容疑者1995年4月19日(20歳)
出身 静岡県静岡市
職業 大学生・デイトレーダー(2013年死亡した母親の遺産2000万円を株取引で5000万円に)
爆破予告はしたが爆弾は仕掛けてない。
パソコンや携帯スマホを警察押収(証拠確認中)


爆破予告で出頭した男逮捕についてのメモ


爆破予告の犯人と思われるTwitter

多くの自治体に爆破予告が送られた事件で、千葉県松戸東署に出頭してきた20歳の男性が逮捕されました(逮捕容疑は住所プレートを盗んだ疑い)。
爆破予告で出頭の男 盗みの疑いで逮捕(NHK)
この事件では、犯人が自らTwitterで犯行の様子を事前に述べています。
ネット上の情報整理と筆者が考える背景について、メモを書いておきます。新しい情報をつかんでいるわけではないのでメモ書きのみです。間違った部分もあると思うので、あとで直す可能性があります。

●犯人
・松戸署に出頭した20歳の男、日刊スポーツなどでは実名報道。
・Twitterで自らが犯行予告をやっているとして、自治体への問い合わせフォーム記入の動画などを流す。逮捕当日に「警察北」などと流したり、動画の内容から犯人であることはほぼ確定
・フジテレビは24日に逮捕前に撮影した本人インタビューを放映(Twitterでフジテレビのみにインタビューを受けると書いていた)。SPA!も23日売りの号で、彼の生い立ちも含めたインタビュー掲載。いずれも犯人自らがメディアのアプローチしたことがきっかけ

●時系列(彼のTwitterによる)
・2015年6月と10月に朝霞市役所に爆破予告
・2016年1月に朝霞市や東京23区の区役所に爆破予告
・1月20日 松戸東警察署に出頭。取り調べを受けるも拘束されず。21日にPCなど押収
・2月8日 爆破予告書き込み動画を撮影しTwitter投稿
・2月上旬 各メディアに自ら連絡
・逮捕されないことから、さらに18日に爆破予告メールを各地に送る
・2月23日 インタビュー記事がSPA!に掲載
・2月24日 早朝逮捕
爆破予告をし、出頭までしたのに、逮捕されないことから、第二波の犯行予告を送った形

●送信方法(彼のTwitterによる)
・Tor利用、書き込み側のPCにTails利用
・プロキシサーバーも利用(Torからの接続を遮断しているサイトに書き込むため?)
・予告の時刻「3時34分」や、犯行文の「ナリ」「ですを」は、特定の掲示板の一部で使われているスラング。

●背景
・2ちゃんねるの実況掲示板、及びしたらばなどの関連掲示板での騒動が背景に
・掲示板での、ある学生と弁護士の行動がバックボーンにあり、それが原因でネット上で総攻撃にあっている。
・攻撃しているのは特定の掲示板の一部。いわゆる「恒心教」。「○○○○民」という名称も(個人名の略称が入る)
・自宅突撃、個人情報公開、写真公開など
・関連事件に「Googleマップの書き換え」「掲示板での殺害予告」「顔イラスト入りのランサムウェア配布」「出版社サイトへの不正アクセス」「Twitter乗っ取り」などがあり、いずれも「恒心教」が関連した事件。
・殺害予告、不正アクセスなどで、関係した複数の人が逮捕されている(0chiaki、0chiakiにあこがれていた少年、Googleマップ書き換えの3名、殺害予告をした人物など)
16歳少年が不正アクセス…多発する少年サイバー事件の背景:筆者記事
・今回の犯人は、昨年6月から爆破予告などを行っていた
・目的は二人の人物への個人攻撃、過去の騒動を周知させるデモンストレーション
・ネット上では珍しい「継続する祭り・炎上」。燃料が繰り返し投下される、燃料を自ら作ってしまう(過激な人物が騒動を起こす)ためか。

●論点
・ネットの個人攻撃が社会を騒がせる問題に
・幼稚な動機に対して、匿名化の技術が進んでいる、両者の対比
・片山氏が起こした遠隔操作事件の影響(出頭してきたのに警察の逮捕が遅れたのは、遠隔操作事件での誤認逮捕の影響か。犯人の行動も片山被告や0chiakiの行動に似た部分がある)
パソコン遠隔操作事件が残したもの(片山氏事件:筆者記事)

間違った部分もあると思うので、あとで直す可能性があります。

新島八重の桜 大河ドラマ『八重の桜』ふたたび維新回天草莽掘起篇ブログ小説8

2016年02月24日 09時11分01秒 | 日記









         5 白虎隊



またまた話しは遡る。龍の如く。
「これからどうなさりますの?」
 佐久は大塚雀之丞に尋ねた。「やはり上様さまとご一緒にいかれますの?」
 大塚は恐縮しながら、「会津公の藩邸とは存じませんで…」
「よいのです」
「榎本副総裁が蝦夷にいくというので乗せてもらおうと…」
「えっ?!」
 佐久は驚いた。「榎本さまたちは蝦夷(北海道)へいかれるのですか?」
「そうです。会津公も一緒です。まず、会津、仙台や青森を経て、最終的には蝦夷です」「……蝦夷…」
 佐久は言葉もなかった。
「江戸のかたきは蝦夷です!」大塚雀之丞はそういって、頭を下げて去った。
 義母の古森が、「どうしました? 佐久さん。誰かきましたか?」と起きてきた。
「いいえ。……上様さまかと思いましたが、違いましたわ」
 佐久は動揺しながらいった。
「左様ですか」
 義母が去ると、佐久はひとりきりになって寂しくなった。
 涙が後から後から大きな瞳からこぼれた。
 ………上様さま……このまま会津にいっておしまいになるのですか? ……
 佐久は号泣し、床に崩れおちた。
 …上様さま! 上様さま!
 すると、肩に黒のコートをかける者があった。それは松平容保だった。
「…う…上様さま!」
「佐久!」
 ふたりは抱き合った。佐久は涙を流したままだった。
「上様さまは……蝦夷にいかれるのですね?」
 容保は首をふり「いいや。余は蝦夷にはいかない。会津藩にもどり官軍と好戦する」
「佐久…も……会津にいきとうござりまする…」
「佐久! 頼みがある」松平容保は笑顔を無理につくり頼んだ。「余のまげを切ってくれい。もう武士の世はおわった」
「……わかりました」
 蝋燭の薄明りの中、佐久は旦那・松平容保のちょんまげを鋏で少しづつ切り落とした。容保の全身の血管の中を、なんともいえない感情が……ひとしれぬ感情が駆けめぐり、容保は涙を流した。さまざまな思い出、すでに忘れたとおもっていた感情や風景が、頭の中に走馬燈のように駆けめぐり、一瞬、自分が誰なのかも忘れてしまった。
「佐久! もう……いかねば…」
 最期の別れになる、容保も佐久もそう思った。
 ふたりは抱き合い、抱擁し、そして別れた。
  容保が部下に与えたのは何も軍艦占領法や、航海術だけではなかった。開墾や鉱物、畜産など容保にはそれらは得意分野だった。そこで、まだ新政府が開拓以前だった会津つまり福島県にいき、「新天地」をつくり開拓し、「会津共和国」をつくろうというアイデアに至ったのである。もう藩ではない。共和国だ!

  榎本らは船のデッキにいた会津公・松平容保の前で平伏していた。
 容保は謹慎中だった。
 幕府はいまや風前の灯……
 しかし、幕臣たちにとって松平容保は絶対的な存在であった。
「和泉守(榎本武揚)、戦は余ののぞむところではない」
 容保は平伏している家臣たちにいった。涙声だった。
 武揚たちは平伏したままだ。
「路頭に迷う家臣たちのことを思うと……夜も寝れぬ」
 容保はめずらしく感情的になっていた。涙を流した。武揚らはさらに平伏した。
「和泉守、家臣たちの力になってやれ」
「上様!」
 武揚は声をあげた。
「なんだ? 和泉守」
「われら幕臣たちは「新天地」にいきとうござりまする!」
 平伏したまま武揚はいった。
「”新天地”とは? どこじゃ?」
「蝦夷……にござりまする」
「蝦夷(北海道)?」容保は頭を回転させながら「蝦夷にいって何とする?」
 とやっときいた。
「われら幕臣たちは「新天地」……”蝦夷”にいって共和国をつくり申しまする!」
 榎本武揚はいった。
「共和国?」
 容保の目が点になった。
「蝦夷共和国にござる!」
「……しかしのう、和泉守。幕府の姿勢は共順じゃ。新政府が許すか?」
 武揚は顔をあげた。
「われらの姿勢はあくまで幕府と同じ共順です。只、蝦夷で共和制の一翼になるだけにござりまする。いわば蝦夷藩といったところでしょうか…」
「蝦夷藩?」
「はっ!」
 武揚はまた顔を下げ、平伏した。
 容保は何がなんだかわからなくなり、「ええい。苦しゅうない。みな面をあげい」
 といった。急に平伏していた幕臣たちが顔を向けた。
 ぎょっ、とした。
 みな揚々たる顔である。
 みなの顔には「新天地」への希望がある。
「すぐに蝦夷へ向かうのか?」
 容保は是非とも答えがききたかった。
 武揚は「いえ。まずは会津、仙台に立ち寄ります」と答えた。
「なるほどのう。会津であるか…余の故郷であるな」
 容保がどこまで理解しているのか、榎本武揚には解明するすべもなかった。
「会津から…せ……仙台から蝦夷へか。それはよいな」
「はっ!」
 榎本武揚らは再び平伏した。「会津さま!」榎本は催促した。
「とにかく私も会津にいきまする。官軍と一戦交えまする! 榎本武揚と励みまする!」「そうか」
 容保はそういうと、船のデッキにいった。
 蟠竜丸、慶応四年(一八六七)七月二十八日のことである。
「兄上! お達者で!」
 松平容保や兄・徳川慶勝は手をふった。

  松平容保はさっそく筆をとる。
「王政復古の大号令が発せられるも、それは薩長が朝廷工作のために発せられたに過ぎない。当然ながら天子さま(天皇のこと)はお大事ではあるが、その天子さまを掲げて、官軍などといっては、これまで三百年も朝廷や天子さまをお守りしてきた徳川幕府はどうなるのか。さてさて、幕府以外にこの日本国を束ねる力があるだろうか。
 私はないという。
 なぜならば、薩長には外交力も軍事力も欠けているからである。
錦切れどもは尊皇壤夷などといってはいるが、尊皇はいいとしても、壤夷などと本気でできると思っているのか。
 思っているとしたら救いがたい。
 今やらなければならないのは徳川家を中心とした共和制をつくり、軍備を整え、慶喜公がこの国の大統領となって「開国」することである。
 この国を外国にも誇れる国にすることである。
 そこで外国との窓口として「会津共和国」「蝦夷共和国」が必要なのだ。
 国の礎は、経済である。あの広大な大地をもつ蝦夷なら、開拓すれば経済的に自立できる。そして、会津藩、桑名藩、蝦夷藩ともいうべき「新天地」となるのである。
 新政府とわれらは争う気はない。
 われらの姿勢は幕府と同じ共順である。
 しかし、新政府が「会津、蝦夷共和国」を認めないなら、一戦交える覚悟である」

  このような内容の激文を、松平容保は書き、二通は勝海舟のもとへ送った。
 勝海舟はそれを読み、深刻な顔をした。
 ……まだ戦う気でいやがるのか。救いようもねぇやつだ。……
 勝は大きな溜め息をもらした。
「会津はとんでもねぇやつを藩主にしちまったもんだ」
 勝には、幕臣軍(今後は榎本脱走軍と呼ぶ)に勝ち目がないのがわかっていた。確かに、軍艦はある。大阪城から盗んだ軍資金もあるだろう。
 しかし、榎本脱走軍には勝ち目がない。
 錦切れどもは天子さまを掲げている。
 て、こたぁ官軍だ。榎本脱走軍は、賊軍、となるのだ。
 まだ会津藩らが戦うらしいが、どうせすぐに負ける。
 ……わかりきったことじゃねぇか。
 維新最大の頭脳、勝海舟には榎本脱走軍の将来がみえていた。
 しかし、それは明るいものではなかった。


「お父上、上様さまはもう会津へいかれたのですか?」
 朝、佐久は心配顔で父親にきいた。実家の父が会津江戸藩邸に訪ねてきていた。
 佐久の父・田代孫兵衛は、
「いや、まだ榎本副総裁の開陽丸は品川沖にあるそうだ」
 と答えた。
「まぁ!」
 佐久は驚いた顔をした。
「まだ品川にいて官軍にやられないのですか?」
「今、大急ぎで、幕臣たちが舟で開陽丸に向かっているそうだ」
「……そうですの…」
 佐久の不安は消えない。
 そんな中、大好きなおじいちゃま、こと田代老人が供をつれて訪ねてきた。
「まぁ! おじいちゃま!」
 佐久はお転婆娘のようにはしゃいだ。
「佐久! 元気でおったか?!」
「はい」
 すると、青年がふたり頭を下げた。
 それは英国留学よりもどった林洞海の五男・英国留学生、林董三郎とその甥、パリ万博随行員・山内六三郎である。
「まぁ、董三郎。六ちゃんも」
 いよいよ佐久はうれしくなった。
「姉上! 会津公に輿入れなされたとか……おめでとう」
 董三郎は遅ればせながらお祝いを述べた。
 父の友人・林洞海は浮かない顔をする。
「……どうしましたの? 先生」
「いやあ、董三郎たちが釜さんと一緒に蝦夷にいくってきかぬのだ」
「まぁ!」佐久は驚いた。
「われらは蝦夷にいきます! こうして英国留学できたのも幕府のおかげです!」
 董三郎たちは決起盛んな質である。
 それに若さも手伝っている。
「……しかし…蝦夷など…」林洞海は訝しがった。
「幕府がいま危ないからこそ、われわれが立ち上がるのです! 薩長だけで維新はなりません、蝦夷でこそ壤夷ができるのではないでしょうか?」
 田代老人がハッとした。
「この連中のいう通りじゃ。幕府のおかげで留学までできた!」
 林洞海は「先生!」と諫めた。
 すると老人は涙声になって、土下座して「このふたりを開陽丸に乗せてやってくれ!」 と嘆願した。「……先生…」
 董三郎たちは「これは義の戦です! 幕府軍(榎本脱走軍)は多勢に武勢……薩長なんぞに負ける訳がありません。江戸のかたきは会津…そして蝦夷です!」
 と息巻いた。
 そして、土下座して父に許しを乞うた。
「勝手にせい!」
 林洞海は訝しい顔でいった。
  船着き場では小舟にのり、幕臣たちが海原に浮かぶ開陽丸に乗るために急いでいた。 林董三郎とその甥、山内六三郎も舟にのった。
 そんな騒動の中、船着き場に白衣の医者が現れた。自分も乗せてくれ、という。
「あなたは?」
「わたしは元・幕府奥医師、高松凌雲だ」
 高松凌雲はいった。
 高松凌雲といえば幕府医師の中でも名医として知られ、フランスに留学して知識を得て、のちに日本赤十字運動の草分けとなる医者である。
「これは! 凌雲先生でしたか! 先生もわれらとともに行って頂けるとは…ありがたいかぎりです!」
 幕臣のひとりは笑顔になった。
 凌雲は「いっておくが、わたしは戦をしにいくんじゃない。負傷したひとたちをたすける、治療するためにいくのだ。その負傷者が例え幕臣でも薩長でも、差別なく治療する」「……そうですか」
「それでもいいなら乗せてくれ!」
 高松凌雲は舟に乗り、海原に浮かぶ開陽丸に向かった。
  その頃、榎本武揚と勝海舟は江戸で会談していた。
「榎本さんよ、どうしてもいくっていうのかい? 会津蝦夷くんだりまで?」
「勝さん、幕府軍(榎本脱走軍)を甘くみちゃいけない。ぜったいに会津…蝦夷で勝つよ」 いよいよ勝は激昴する。
「目を覚ませ! 榎本武揚! 歴史に愚をさらすだけだ!」
「われらは勝つ!」
「この……大馬鹿野郎!!」
 勝海舟は席を蹴って去った。「おいらの幕引は間違いじゃなかったな」
 しかし、勝はあの高松凌雲まで榎本脱走軍に合流したことを知って唖然としたという。 ……なんてこった!

  松平容保が開陽丸に戻ると、いよいよ一同はいき揚々たる顔になる。
 いよいよ「新天地」に向かうのだ!
 一同は甲板の中央に立つ松平容保に注目している。
「冗談ではない! この船を幕府の幕引につかわれては余はたまらない!」
 容保はいう。すると沢が、「その通りです! 冗談じゃねぇ!」
 家臣たちも「会津公がまげを落としたなら、俺たちも…」
 といって、刀を抜き、ちょんまげを切りおとした。
「まずは奥州(東北)戦争を助けるために会津、仙台にいく!」
 榎本は激を飛ばす。
「そして、「新天地」に向かうのだ!」
 部下たちは揚々たる顔である。
「蝦夷に新しい国をつくる! 蝦夷共和国だ! 薩長の新政府なんぞ糞くらえだ! 共順など糞くらえだ! 我々は「新天地」に向けてジャンプする!」
 一同は歓声をあげた。
 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……
 高松凌雲も甲板でそんな幕臣たちを笑顔でみている。
「榎本さん。わたしは軍にはいったわけじゃない。赤十字の精神で治療や介護をしていく」「……凌雲先生! それでいいですよ」
 武揚は笑った。
 そんな中、フランス人ふたりが軍服のままやってきた。
 流暢な日本語で「榎本さん、わたしたちも仲間にいれてください」と嘆願した。
「しかし、フランス軍の兵士を乗せていく訳にはいかん」
松平容保はしぶり、榎本武揚は躊躇した。
「それでは旧幕府軍(榎本脱走軍)とフランス軍がふっついたことになる。蝦夷共和国そのものが朝敵にされかねない」
「会津公も困るぞ」
 フランス人のひとりカズヌーブは「わたしたちは仏軍抜けてきました」という。
 もうひとりのフランス人、ブリュネは、
「わたしたちあなたたちと同じサムライになります。フランスのサムライです。どうかお供させてください」と頭を下げた。
 榎本は笑顔になり、
「わかった! フランスのサムライもふくめて我々は「新天地」に向けてジャンプする!」 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……
 林董三郎、山内六三郎を英語方にした。
 慶応四年(一八六七)八月十八日、八隻の幕府艦隊を引き連れ、松平容保らは「榎本脱走軍」を東京から会津、仙台へと向かわせた。
 田代老人はその艦隊を見送った。
 孫娘で、容保の側室である佐久も涙で見送った。
「佐久、会津公たちは確かに賊軍になったが……歴史が、ふたたび公たちを評価してくれる日がくる」
「……そうでしょうか?」
「何年後か、何十年後か……もしかしたら百年ののち公たちの戦がけして無駄ではなかったということを日本人は知るのじゃ。そうでなきゃいかんのよ」
 佐久は何も答えなかった。
 只、遠ざかる艦隊を見送っていた。

  大時化となり、台風の暴風雨が榎本脱走艦隊を襲った。
 艦隊が横に縦に揺れ続ける。
 …それは榎本脱走軍の未来を暗示しているような天候だった。
  いっぽう会津では八月二十五日、会津公が藩にもどった。桑名藩、米沢藩、庄内藩、仙台藩があいついで官軍に降伏していた。会津近辺でも戦闘が開始された。
 会津同新館(病院)で治療にあたるのは松本良順である。
「ちか子さん、もっと包帯だ! 早く!」
 看護士は、井上ちか子ら数名のみである。井上ちか子はまだ若い女だ。しかし、病人の看護で埃まみれ、汗まみれで看護にあたっていた。
 そんな病院に土方歳三が軍服姿で刀をもち、現れた。
「土方さま!」
 井上ちか子は驚いて声をあげた。京であっていらい四年ぶりの再会であった。
「……ちか子さん。わたしはこれから仙台にいき、榎本武揚海軍副総裁と合流します」
「どこへ? もう新選組の役目はおわったでしょうに…」
 土方は沈黙した。
 そして、やっと「蝦夷にいきます。なんでも旧幕臣たちで蝦夷を開拓して”蝦夷共和国”をつくるとか……」と答えた。
 明治元年(一八六八)のことである。
 榎本脱走軍が仙台についたのは、なんと宇都宮からの敗戦から半年後であったという。 土方はいう。
「わかりません。幕府が滅んだのに幕臣だけは生き延び蝦夷に共和国をつくることは納得できません。幕府の死は私の死です。侍らしく、戊辰戦争もおわれば切腹しましょう」
「いや…」榎本は説得する。「命を粗末にしてはならない。まず、将来、日本や蝦夷の将来を考えてもらいたい。土方くん、新選組にだって未来があったはずだ。幕臣にだって未来があってもいい」
 榎本脱走艦隊は土方ら新選組や会津藩士ら旧幕臣三千名をつれて蝦夷へむかった。
 蝦夷とは現在の北海道のことである。もう冬で、雪が強風にあおられて降っていた。

  榎本脱走艦隊が蝦夷鷲木湾へ着いたとき、もう真冬で蝦夷は真っ白な冬景色だった。 開陽丸の甲板もすぐに白い雪におおわれた。
「蝦夷は寒いのう」
 榎本武揚脱走軍は北海道に着くと、全軍を二軍に分かち、大鳥圭介は、第二大隊遊撃隊、伝習第二小隊、第一大隊一小隊を総監し、本道大野から箱館に向かうことになった。
いっぽう土方たち新選組残党と額兵隊(隊長星恂太郎)と陸軍隊とを率いて川汲の間道から進軍した。
 土方歳三は陸軍奉行並という。その他、竹中重固(陸軍奉行)、桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静、唐津藩主小笠原長行ら大名が蝦夷地に着いていた。
 深い雪の中の進軍であった。
 土方歳三は五稜郭に向かった。
 中には怪我人の幕臣まで出陣するといい、高松凌雲に止められた。
 
  のちに青森の松前藩士が榎本脱走軍のひとりを斬ったことで、松前藩と榎本脱走軍との戦いが始まった。戦闘は数時間でおわり、剣で土方たち新選組残党が奮起した。
「土方くんたちを暖かく迎えてやれ」
 榎本武揚は江差に上陸して五稜郭城を占拠していた。
 しかし、そんなとき不運はおこる。
 暴風雨で波は高かったが、まさか船が沈むとは榎本武揚ですら思っていない。しかし、激しい風と雪、波でしだいに開陽丸の船体がかたむき、沈みかけた。
 それを海岸でみていた榎本武揚は動揺して、
「船が……! 開陽丸が沈む!」と狼狽して叫んだ。
 家臣たちに止められなければ海の中に歩いていったことであろう。
 土方がやってきた。
「俺の四年間の結晶が……開陽丸が沈む!」
 武揚は涙声だった。
 土方はそんな情ない榎本を殴り「この西洋かぶれが!」と罵倒した。
 そうしているあいだにも遠くで開陽丸が沈んでいく。
「開陽丸が! 開陽丸が! あの船がなくなれば蝦夷共和国はおわりだ…あぁ」
 土方は「蝦夷共和国?! そんなもの幻だ!」といった。
 やがて、巨大な開陽丸の船体は海に沈み、海の藻屑へと消えた。
「あぁ……開陽丸が…………すまない皆、すまぬ」
 榎本は涙を流して部下たちにわびた。
 土方は何もいわなかった。
 その頃、会津にまで官軍は迫っていた。
 会津征伐軍参謀には山田市之丞と、同じく征伐軍参謀・黒田了介(のちの黒田清隆首相)が福島県まで進軍していた。ゆくゆくは蝦夷である。
 参謀は獅子舞のようなかつらをつけている。
「まずは飯じゃ! 飯! おお寒い。東北は薩摩と比べようもないほどさむいのう」
 山田はそういうと栃木城で暖をとった。
「この餓鬼が……当たり前じゃっどん。薩摩と東北では天気がちがうでごわそ!」
 参謀・黒田了介は、まだ若い二十五歳の山田市之丞と同じ位なのが我慢がならない。
「おいどんだけで会津や蝦夷にいった幕府残党を征伐ばするでごわす!」
 黒田はいったが受け入れられなかった。
 その間も、山田の若造は「飯じゃっどん! 温こう飯じゃっどん!」
 とさわいでいる。
 ……この糞餓鬼が……
 参謀・黒田了介は舌打ちした。

「来るならこい!」
 松平容保は鶴ケ城でそう呟いた。
 官軍なにするものぞ、会津藩の力みせてくれようぞ!
 ……今度の官軍との戦いでは藩士だけでなく女子や少年たちも戦ってもらうしかない。彼は少年たちの突撃隊の名前を紙に筆が書いた。
 ”白虎隊”……
 集められた少年たちは十九~二十歳たち十九名、女子も武装して集まった。
 官軍は猪苗代まで迫っている。少年たちは鶴ケ城から出陣しなければならない。
 その中には生き残りの少年、当時十六歳の飯沼貞吉の姿もあった。

 そして再び話しは「会津の役」である。
1868年10月7日、十六橋を押さえた新政府軍は、若松城の北東わずか数kmに位置する戸ノ口原まで迫った。
新政府軍は援軍が加わり、ますます勢いは盛んになっていた。
「なにが官軍だ!会津は逆賊じゃねえず!」
これを迎え撃つのは、「鬼の官兵衛」という異名をもつ、会津藩一の猛将・佐川官兵衛(さがわ・かんべえ)である。
「敵を戸ノ口原で防ぎ、十六橋の東へ追い払う」
と豪語する佐川官兵衛は、強清水村(こわしみず村)に本陣を置き、戸ノ口原で新政府軍を迎え撃つ準備をしていた。
しかし、会津軍は主力部隊を国境に展開しており、若松城に残っている兵はわずかで、戸ノ口原に集まった兵は、敢死隊(かんしたい)や奇勝隊(きしょうたい)などの義勇軍(非正規軍)を主とする1000人程度であった。
このため、白虎隊は予備隊という位置づけで、戦争に参加する予定は無かったが、戦争に駆り立てられることになる。
1868年10月7日午後2時、会津藩主の松平容保は警護の白虎隊(士中一番隊と士中二番隊)を従え、滝沢本陣に到着する。
(注釈:松平容保は松平喜徳に家督を譲っており、松平容保を前藩主であるが、便宜上、松平容保を藩主と表記する。)
そのころ、滝沢本陣には十六橋から敗走してきた会津兵が続々と押し寄せていた。
さらに、戸ノ口原から戻ってきた会津藩士・塩見常四郎が援軍を求めてきた。
すると、隊長の日向内記(ひなた・ないき)が率いる白虎隊(士中二番隊)が援軍に名乗りを上げた。
藩主・松平容保はこれを許可し、白虎隊(士中二番隊)を戸ノ口原への援軍に向かわせる。
と、白虎隊(士中一番隊)を引き連れて若松城へと引き返した。
予備隊として編成された白虎隊(士中二番隊)は実戦経験を積んでおらず、白虎隊(士中二番隊)にとってはこれが初陣である。
白虎隊(士中二番隊)は当初、ヤーゲル銃という火縄銃に毛の生えた程度の洋式銃を装備していた。
が、ヤーゲル銃は役に立たないため、武器担当役人を脅迫し、馬上銃を手に入れていた。馬上銃はヤーゲル銃とは比べものにならないほど扱いやすかったという。
白虎隊(士中二番隊)が装備していた馬上銃は「マンソー銃」(マンソー騎銃)だと推測されている。馬上銃がマンソー銃だった事を裏付ける資料は無いが、ここではマンソー銃としておく。
一方、白虎隊(士中一番隊)も出陣を懇願したが、藩主・松平容保を警護する任務があるため、仕方なく、藩主・松平容保に伴って若松城へと引き上げた。
初陣となる白虎隊(士中二番隊)37名は、隊を2つに別れて戸ノ口原を目指した(その後、合流している)。
(注釈:白虎隊士中二番隊の人数については諸説があるが、ここでは定説となっている37人説を採用する。)
合流した白虎隊(士中二番隊)37名は舟石(地名)に達すると、戦場から砲撃の音などが聞こえ始めたため、白虎隊(士中二番隊)は舟石茶屋に携帯品を預け、馬上銃(マンソー銃)に銃弾を込めた。
このとき、白虎隊(士中二番隊)は携帯していた食料も舟石茶屋に預けたという説もある。
1868年10月7日午後4時、舟石茶屋に携帯品を預けて身軽になった白虎隊(士中二番隊)37名は、強清水村を経由して、戸ノ口原の側にある菰槌山(こもづちやま)に到着する。
白虎隊(士中二番隊)は菰槌山に布陣し、塹壕を掘って菰槌山から新政府軍を狙撃した。菰槌山では敢死隊(かんしたい)も戦っていた。
大砲の援軍も駆け付け、会津軍は新政府軍をいったん退けることに成功した。
この日、白虎隊(士中二番隊)は食料を携帯していないため、敢死隊から握り飯を分けてもらい飢えをしのいだ。
白虎隊(士中二番隊)は敢死隊と供に菰槌山で新政府軍を迎え撃つ予定であったが、篠田儀三郎が進軍を主張する。
白虎隊員も篠田儀三郎の意見に賛同し、白虎隊(士中二番隊)は菰槌山を敢死隊に任せて前線へと向かうことにした。
ここから、酒井峰治と飯沼貞吉の証言が大きく違うため、白虎隊(士中二番隊)は、
「挟撃作戦部隊(酒井峰治)」と
「前線突入部隊(飯沼貞吉)」
の2手に別れた可能性がある。ただ、詳しいことは分からない。
ここでは、飯盛山で自害する白虎隊(士中二番隊)16名が焦点を当てたあらすじを紹介するため、「前線突入部隊(飯沼貞吉)」のあらすじを紹介する。
1868年10月7日夜、日が暮れ、雨も降り出したため、前戦を目指していた白虎隊(士中二番隊)は進軍を停止し、野営することにした(台風が近づいており、天候は悪かった)。
その後、隊長の日向内記(ひなた・ないき)は軍議に参加するため、1人で白虎隊(士中二番隊)を離れた。
隊長の日向内記が白虎隊を離れた理由は、食料を調達するためとされてる。
強清水村の本陣での軍議に参加するためという説もあるが、真相は分からない。
1868年10月8日午前5時ごろ、夜が明け始めても隊長・日向内記が戻ってこないため、日向内記に変わって篠田儀三郎が指揮を執り、白虎隊(士中二番隊)を進軍させた。
やがて、白虎隊(士中二番隊)は、水の無い溝を発見し、溝に身を隠した。
そして、進軍して来た新政府軍をめがけて側面から発砲する。
奇襲攻撃を受けた新政府軍は一時、混乱したものの、直ぐに応戦。
多勢に武勢で、新政府軍の反撃に遭った白虎隊(士中二番隊)は総崩れとなり、ちりぢりとなって敗走する。
追っての兵から逃れて、白虎隊(士中二番隊)は野営地までたどり着くと、白虎隊員は、わずか16人となっていた。
白虎隊(士中二番隊)はここで休息を取る。
白虎隊員16人の中には昨夜の残飯を所持している者がいたため、残飯を水の中に放り込み、16名はそれを食べて飢えをしのいだ。
そして、16人では戦うことも出来ないことから、白虎隊(士中二番隊)は若松城まで退却し、体勢を立て直すことにした。
白虎隊(士中二番隊)は菰槌山で握り飯を分けて貰った敢死隊(かんしたい)の宿舎にたどり着くが、既に新政府軍に攻撃された後で、死体が散乱していた。
白虎隊(士中二番隊)は敵兵を避けつつ若松城を目指していたが、滝沢峠で敵兵に遭遇。
白虎隊(士中二番隊)は敵兵だとは気づかず、合い言葉をかけるが、敵兵が発砲してきた。
この砲撃で白虎隊(士中二番隊)の永瀬雄治が腰を負傷する。
白虎隊(士中二番隊)は永瀬雄治を背負って敵兵から逃げた。
やがて、白虎隊(士中二番隊)16名は洞窟「弁天洞門」を通って飯盛山に落ち延びた。
16名が飯盛山の山頂に着いたのは1868年10月8日午前11時頃のことであった。
藩主の松平容保は負傷兵のために、若松城の西隣にある藩校「日新館」を解放し、救護所(病院)としていた。
日新館には、江戸から逃れてきた医師・松本良順と弟子が居り、松本良順の指揮の下で負傷兵の治療が行われていた。
会津藩の女性は日新館で負傷兵の治療を行っており、ボランティア看護婦のようなことをやっていた。
1868年10月8日早朝、戸ノ口原を突破した新政府軍が城下町へ押し寄せると、会津藩は若松城の城門を閉ざした。
そして、会津藩は、若松城の西に隣接する藩校「日新館」が敵の拠点に使われることを恐れ、日新館に火矢を放ったのである。
火は瞬く間に藩校「日新館」を包んで燃え上がった(日新館の焼き討ち事件)。
一説によると、藩校「日新館」の火事を飯盛山から見ると、まるで若松城が燃えているように見えるという。
白虎隊が見た火には諸説あり、山本八重は自害した白虎隊について、
「官軍に来られ、仕方なぐ米を運べれるだけ城内に運んで、十八倉(米倉)を焼いてしまったのっす。んだげんじょ、味方がこごから見んど、ちょうど三の丸の森がございやして、城の方へ見えがから、城が焼けでしまったと思って、みんな割腹して死んだんだべなあ」と話している。
飯盛山の山頂に登った白虎隊(士中二番隊)が若松城を見ると、既に若松城が炎上していた。
大砲の音も絶え間なく鳴り響いている。
城下町からも火の手が上がっている。滝沢街道を見ると、新政府軍の長蛇の列が街道を埋め尽くしていた。
「し……城が燃えでる。あああぁ…」
「おれらの会津が負げだ。もう、おわりだんべ」
白虎隊(士中二番隊)の井深茂太は
「んだげんじょ、若松城は天下の名城じゃ、燃えででも、まだ落ちてないず。君主さまが健在である以上、無益な死は避けるべきだべ。南方から入城すっぺ」と主張する。
一方、敵陣に切り込んで1人でも多くの敵を殺すべきだ、と主張する隊員もおり、白虎隊は喧々囂々の議論となった。
しかし、最終的に篠田儀三郎が
「敵陣に突入するにしても、若松城へ戻るにしても、16人では成功の可能性が低い。もし、敵に捕まって辱めを受ければ、藩主の名を汚すことになる。潔く自害することこそ、武士の本分である」
と説得し、白虎隊(士中二番隊)16人は自害することになった。
腹を切る者も居れば、喉を突く者も居る。白虎隊(士中二番隊)の篠田儀三郎ら16人は会津藩士としての誇りを貫き、見事に自刃に倒れたのである。
なお、山本八重が砲術を教えた伊東悌次郎は、白虎隊(士中二番隊)の隊員として戦ったが、飯盛山に到達する前に戸ノ口原(不動滝)で戦死したとされている。
一般的に飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)は19名とされているのは、飯盛山で自害した16人に、戸ノ口原(不動滝)で戦死した白虎隊(士中二番隊)の伊東悌次郎・津田捨蔵・池上新太郎の3人を加えたものである。
さらに、その後、別行動で飯盛山へとたどり着いて、自害した石山虎之助を加えて、自害した白虎隊(士中二番隊)を20人とする説もある。
また、白虎隊は総数340人程度の部隊だが、一般的に白虎隊といえば、飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)20人を差す場合が多い。
白虎隊15人が自刃に倒れ、介錯の役目を終えた白虎隊(士中二番隊)の西川勝太郎が最後に自害しようとしたところ、山下を通る農民を見つけた。西川勝太郎は農民を呼び寄せて問うと、農民は滝沢に住む農民だという。
そこで、西川勝太郎は、
「我々は若干の金を持っている。みんなの金と刀を報酬とするので、我々の死体を地中深くに埋め、我々の首が敵の手に渡らないようにして欲しい」
と頼んで、自害した。
こうして、飯盛山へ落ち延びた白虎隊(士中二番隊)16人が自害すると、埋葬を頼まれた農民は、自害した白虎隊(士中二番隊)の体をまさぐり、金や刀を奪っていく。
農民が白虎隊(士中二番隊)の飯沼貞吉(いいぬま・さだきち)の懐に手を入れて金品を探していとき、意識を取り戻した飯沼貞吉は、敵かと思い、農民の腕を掴んだ。飯沼貞吉は何か言おうとしたが、喉から空気が漏れて、上手く喋れない。
飯沼貞吉は刀で喉を突いて、他の白虎隊(士中二番隊)とともに自害していたが、急所を外して死に切れずに気を失っていた。
そこで、農民が懐に手を入れたため、飯沼貞吉は意識を取り戻したのだ。
驚いた農民は
「死に急ぎなさるな。私達の隠れている山までお連れいだします」
と言い、その場を誤魔化し、飯沼貞吉を八ヶ森の岩山まで運んだ。
そして、農民は
「水をくんで参ります」
と言い残して、飯沼貞吉の刀を盗んで姿を消した。もちろん、農民が戻ってくることは無かった。
農民は白虎隊(士中二番隊)の西川勝太郎から白虎隊の死体を埋めるように頼まれていた。
が、農民は白虎隊の死体を埋めずに、金や刀だけ盗んで逃げ去ったのだ。
その後、近くを通りかかった農民・渡部佐平が、うめき声のようなものを聞き、飯沼貞吉を発見する。
渡部佐平は山に隠れ住んでおり、薪を取りに向かうところだった。
このとき、渡部佐平は隠れ家で「印出ハツ」という女性をかくまっていた。
印出ハツは会津兵の足軽・印出新蔵の妻で、「戦争に行く」と言って家を飛び出した息子を探しており、渡部佐平の隠れ家で世話になっていた。
(注釈:印出ハツの息子は白虎隊に入隊しているという説があるが、白虎隊の名簿にはそれらしき人物は見当たらない。)
隠れ家に戻った渡部佐平が、印出ハツに、負傷した白虎隊員を見かけたことを教えると、印出ハツは「私の息子かもしれない」と言い、飯沼貞吉が倒れている場所へと急いだ。
残念ながら、印出ハツは息子と再会できなかったが、負傷した飯沼貞吉を隠れ家へ連れて帰って手当てしてやった。
3日3晩、寝ずの看病をした結果、飯沼貞吉は一命を取り留めた。
しかし、新政府軍による残党狩りが始まったため、印出ハツは飯沼貞吉を連れ出し、塩川を経て山中の不動堂にたどり着いた。
そして、飯沼貞吉は不動堂で会津藩の敗戦を迎えた。
会津藩降伏後の飯沼貞吉の行動は分からない。
会津藩の敗戦後は他の会津藩士と同様に、猪苗代や東京で謹慎したという説もあるが、真偽は不明である。
飯沼貞吉はその後、飯沼貞雄と改名し、逓信省の電信技師として働いた。
晩年は仙台に住み、1931年(昭和6年)に死亡した。
享年79歳であった。
墓は宮城県仙台市にある輪王寺に建てられた。
飯沼貞吉は生涯、故郷の会津に戻ることは無かった。
その後、会津出身者が仙台に飯沼貞吉の墓があることを知る。
これが合祀運動に発展し、1957年(昭和32年)に行われた「戊辰戦争後九十年祭」で、飯盛山に飯沼貞吉の墓が建てられた。
飯沼貞吉は息子に
「会津で祭りたいという希望があれば、これを渡せ」
と遺言し、歯と髪を託しており、飯盛山の墓には歯と髪が納められている。
なお、飯沼貞吉の合祀については会津藩関係者の反対もあり、飯沼貞吉の墓は、自害した白虎隊(士中二番隊)19人の墓から離れた場所に建てられている。
飯沼貞吉の墓を建てたのも財団法人「前島会仙台支部」となっている。
当時は
「切腹に失敗するなど、会津藩士の恥」
「少年ばかりの墓に、年寄りを入れるのは不釣り合いだ」
などと、飯沼貞吉の墓を白虎隊の墓に入れる事に反対する声があったという。
埋葬を頼まれた農民(盗賊)が自害した白虎隊(士中二番隊)から盗んだ刀などは、会津藩城下町の骨董品屋などで売られていた。
会津藩の敗戦後、飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)・西川勝太郎の母親・西川せき子は、偶然、骨董品屋で息子・西川勝太郎の刀を見つけ、買い戻すことができたのであった。
若松城の城門近くに、会津藩の家老の西郷頼母(さいごう・たのも)の家老屋敷があり、この家老屋敷で西郷頼母一族21人が自刃に倒れた。
西郷頼母一族の自刃があったのは、家老の西郷頼母が国境警備にあたっている時のことである。
1868年10月8日(慶応4年8月23日)早朝、城下町に早鐘が鳴り響き、藩士の家族が続々と若松城に向かうなか、西郷頼母の一族21人は西郷頼母の家老屋敷に集まっていた。
西郷頼母の母親・西郷律子は
「女が城に居ては足手まといになる。されど、敵の手に落ちて辱めを受けるわけにはいかない」
と言い、辞世の句を詠むと、自刃に倒れた。
西郷頼母の妻・西郷千恵子は義母・西郷律子の後に続き、まだ自害できない幼い我が子を刺した。
そして、妻の西郷千恵子は我が子の死を確認すると、返す刀で自分の喉を貫き、会津藩士の妻としての役目を果たした。こうして、西郷頼母の家族9人が自害した。
また、別室に集まった西郷頼母の縁者12人も西郷律子らに続き自害した。この日、西郷頼母の家老屋敷では一族21人が自殺した。
「むごかぁ、じゃけんど会津の女子は立派じゃきに」
そのむごたらしい遺体を発見して、合掌したのは官軍の板垣退助と中島信行であったとされる。