長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

【緑川鷲羽自作小説の大加筆予定】集英社プロ編集者さんに「駄目だし」!「説明せずに人物描写しろ!」

2016年02月29日 16時16分43秒 | 日記










集英社のプロの編集者さんに自作小説の駄目だしをしてもらいありがたかった。


指摘もごもっともで、


まあ、ライトノベルの方の編集者さんなので

これは歴史小説でラノベじゃないと(笑)。


全体的に文章はうまいが説明文が多く


「説明せず人物描写をしろ」と。


なるほどなあ、と。流石はプロ編集者ですよね!


私も目が覚めました。自分の小説を推敲加筆する必要があります。

すいませんがブログへの小説の連載を一旦中止して、

誰でもわかる面白い小説に加筆推敲することとします。

しばらくはブログへの小説連載を休止しますが、どうかわかってください。

もう少し早くプロの方の指摘を受けるべきでした。

すいません。まあ、誰もが納得する小説…

などあるわけもなくどんな小説にも好き嫌いはあります。

ですが、もう少し推敲が必要なのも事実です。

才能がない以前に推敲不足というか読者の望むものが見えていなかった…というか。

とにかく勉強不足でした。

推敲後も文学賞が駄目なら「才能がない」ということ(笑)


そのときは自決するかもですね(笑)

【刺青】キムタク夫妻や宮沢りえも?芸能人の知られざる”タトゥー”事情

2016年02月29日 13時41分20秒 | 日記











【刺青】キムタク夫妻や宮沢りえも?芸能人の知られざる”タトゥー”事情
2016年02月28日
スクープ





1: 砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/
歌手のきゃりーぱみゅぱみゅ(23)のTwitterで22日、ちょっとした騒動が起こった。
男性の毛深い太ももに、きゃりーとおぼしき顔がタトゥーのように彫られた写真が投稿され、騒然となったのだ。

「ダサイ」「似てない」などの失笑を巻き起こして、きゃりー自身も「一生わたしふとももにいるのかな」と否定も肯定もしない冷静なコメントを残している。

有名人のタトゥーといえば、海外ではもはや完全にファッションとして認知されている。
レディー・ガガ(29)、ブラッド・ピット(52)などのハリウッドスターや、スポーツ界でも、デヴィッド・ベッカム(40)にリオネル・メッシ(28)といった超一流選手が当たり前のようにタトゥーを入れている。
それに対して、日本の芸能界にはタトゥーを入れながらもおおっぴらにしているタレントはほとんどいない。

「肩甲骨の上に折り鶴のタトゥーを入れている宮沢りえ(42)、手首にブレス状のタトゥーを入れている夏川りみ(41)、左腕に夫婦で星のタトゥーを入れたつるの剛士(40)などが知られていますが、そこまで周知はされていない。海外が見せる文化だとすれば、日本は隠す文化。所属事務所がまず止めますから」

とは芸能記者の言葉だ。

■テロップをかぶせて“映像処理”

日本の芸能界で仕事をするにあたって、タトゥーがポジティブに働くことは皆無と言っていい。
むしろ、マネジメントする側からは“ご法度”の感すらある。

「元KAT-TUNの田中聖(30)は、下半身がタトゥーまみれでジャニーさんの怒りを買いました。
V6の森田剛も最初はオキニだったのに、タトゥーがバレて干されたのはよく知られた話です。
最近で言うと、清原和博(48)はプロ野球引退後に刺青を入れたのですが、懇意にしていた和田アキ子にそれを告げると、『何考えとるんや!』と、和田のほうから縁を切ったとも。
スキャンダルを起こした芸能人には甘いと言われる芸能界ですが、タトゥーに関しては厳しいですね」(前出の芸能記者)

2月17日に放送された『水曜日のダウンタウン』(TBS系)では、お笑いコンビ・メイプル超合金の安藤なつの腰回りに彫られた羽のようなタトゥーが映り込むという事案が発生し、視聴者からは「放送事故では?」との声まで上がった。
この状況が、国内でのタトゥーの扱いをよく表している。テレビ局関係者が語る。

「日本では“タトゥー=やくざの象徴”というイメージが強く、海外のようにファッションと考える人は少ない。
テレビ局の自主規制も強化され、過去にも、『世界!弾丸トラベラー』(日本テレビ系)の土屋アンナ、『幸せ!ボンビーガール!』(日本テレビ系)の森泉はタトゥーがチラッと映ってしまったとき、モザイク処理やテロップをかぶせたりの編集でなんとか映像処理しました」

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http://dailynewsonline.jp/article/1094221/
デイリーニュースオンライン


2: 砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/
■キムタク夫婦も? 一方で消すタレントも続出

日本ではタトゥーのイメージがヤクザに直結しやすいだけに、公共の電波に乗せにくい。
無難な道を選ぶ現場テレビマンが編集でモザイク処理するのも無理らからぬ話か。
また、近年医師法違反での彫り師の摘発が相次いでおり、彫り師逮捕のニュースが頻繁に流れることも、イメージが悪化する要因となっている。

「SMAP・木村拓哉は妻・工藤静香とおそろいのタトゥーを入れているが、タトゥーが映り込みそうな撮影では、
事前に肌色のテーピングをするなど、テレビに映り込まないように配慮している」(前出・テレビ局関係者)

こうした状況から、タトゥーを消す芸能人も増えている。その最たる例が梅宮アンナ(43)だ。
梅宮は1年がかりでタトゥー除去をした。痛みは想像を絶するものだったようで、

「もう怖くて行けないよ!」
「半端ない痛さ」

と告白している。タトゥーを専門に特集するカルチャー誌の編集者が言う。

「タトゥーは入れるよりも、消すほうが時間がかかります。また、入れる前のきれいな状態に戻すには、費用もかかる。
ファッションとしてタトゥーを入れたい気持ちはわかるのですが、今のご時世、スポンサーや事務所、テレビ局との関係を考えると、芸能人にとってはデメリットしかない気がしますね」

入れるのは簡単だが、除去には時間とかなりの痛みがあるタトゥー。
自己表現の1つだとしても、その代償はあまりに高く、今の芸能人にとってかなりリスキーだと言えそうだ。

11: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
「お金もあるしオシャレしたいからタトゥー入れよう!」って感覚なのか?よくわからん。

14: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
音楽系はイキがって長袖みたいなの入れてるやついるよな
河村隆一は消したようだけど
Charの息子がひょろい身体に刺青だらけなのを見てると、
アメリカみたいにマッチョ+タトゥーじゃなく、青白くてひょろひょろなのをごまかすために入れてるやつも多そう

17: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
夫婦で同じタトゥーって本当に格好悪い
そんな両親嫌だわ

19: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
キムタクはのりピーと同じ足首なんだよな

22: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
今だと漏れなくヤク中疑惑もついてくるもんな

29: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
まいうーの石塚英彦も

31: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
キムタクは足首の絵は消したっぽいな

47: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
なんか定期的に芸能人タトゥースレ立つな

ジャニだとTOKIOの山口(足)と長瀬(胸とリストバンド)もじゃね?

53: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
「刺青」で画像検索すると千原やまいうーが・・・。

72: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
芸能人で一番ダサいタトゥーは間違いなくTAKAHIRO

松本人志、相方・浜田雅功の薬物疑惑に大喜び「めっちゃ笑った」

2016年02月29日 13時38分40秒 | 日記












松本人志、相方・浜田雅功の薬物疑惑に大喜び「めっちゃ笑った」


1: ダークホース ★@\(^o^)/
お笑いコンビ・ダウンタウンの松本人志(52)が、28日に放送されたフジテレビ系トーク番組『ワイドナショー』(毎週日曜10:00~10:55)で、相方・浜田雅功(52)の薬物使用疑惑を笑い飛ばした。

マーリンズのイチロー選手が、浜田直筆デザインのTシャツでキャンプ入りしていることが番組冒頭で取り上げられた。
イチロー選手と面識がないという松本は「会ったら聞いてみたい。なぜこういう"黒い交際"をしているのか」と疑問を投げかけ、「イチロー選手に何の得もない」と冗談を交えて出演者を笑わせた。

さらに"黒い交際"に関連して、薬物使用疑惑の著名人のシルエットが一部で報じられたことに触れ、松本は「どう見ても浜田やった」と判断。
「俺、めっちゃ笑ったけどな」と喜び、司会の東野幸治(48)が「怒ってください!」と突っ込んで笑いを誘っていた。

http://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20160228/Cobs_401527.html


引用元: "http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1456636428/
 ネットの反応


5: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
焦ってる 焦ってる

6: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
やっぱり多いのは音楽系でお笑いはそんなでもないな。
浜田雅功は歌手でもあるが。

9: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
芸人はクスリをやらない
クスリであいつおもろかったんやと思われるから
まあ、キャッシー塚本なんてドーピングみたいなもんやったけどな

>>9
今日はね、餃子を作るのよ
7人分作るのよ

>>49
先生どうして7人分なんですか?

>>58
私を犯した人数よ、、、

10: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
浜田はそこいらの歌手よりよっぽど売れた

11: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
疑惑出てるのはお前と友人の中居だけどなw

14: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
浜田はねーわ。ヤク中特有の挙動不審さもないし
家族と住んでるわけだし

15: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
と言っても、実際やってたら泣くのが松本だろうな
浜田は松本がやってても泣かないw

>>15
だな
松本はああ見えて優しい
浜田はああ見えて冷たい

16: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
いや、浜田だと松本自身が気づいてないだけ

もし逮捕されたときにいかに自分が見る目ないか思い知るだろう

>>16
その前に松本自身の方が危ない危ない

18: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
浜田の奇行は薬じゃなくて老いやろ

28: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
まっつんのハマタいじりのパターンは無限
しかも鉄板で面白い
相方をいかすというのはこういうことなんかな

29: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
松本は、自分が週刊誌にこんな疑惑書かれたら烈火のごとく怒り狂うくせにな

32: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
中居はいろいろありすぎてワイドナショーには当分出てこないな。

33: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
浜田は薬よりアルツハイマーとかのが心配なんじゃ・・・

39: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
まあそりゃ笑うだろ

40: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
中居「俺も浜田さんかと思ったよー」

53: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
どんなごまかし方でもできるやろうなこの二人なら

60: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
嘘から飛び出る真実という言葉があってだな。

64: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
金髪で真っ黒の奴のが怪しいよ

71: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
清原も散々やってないって言って、TV出始めたころに逮捕だからな。

どうなるかはわからない

74: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
結果発表~!wwwwwwww

【誰?】 清原容疑者のシャブ仲間、囁かれる名前・・NのO、SのN、司会タレントN、芸人コンビLのT.A

2016年02月28日 14時08分28秒 | 日記














【誰?】 清原容疑者のシャブ仲間、囁かれる名前・・人気コンビNのO、人気アイドルグループSのN、バラエティタレントN、芸人コンビLのT.A
2016年02月27日
スクープ






1: 影のたけし軍団ρ ★@\(^o^)/
清原容疑者が「シャブ仲間」として「大物司会者」の名前を挙げていたと東スポが伝え、一体誰なのかと話題になっています。
記事によると清原容疑者が逮捕前に酒に酔って3人の名前を出していたということで、1人が「プロ野球OB」、そしてもう一人が「大物歌手」で3人目が「大物司会者」だと言います。

「プロ野球OB」が誰を指しているのか、いくつかの名前は出ているもののまだ決め手はなく、「大物歌手」については週刊新潮が名前を出していた長渕剛氏ではないかとの見方が大勢を占めていますが、最も注目を集めているのが「大物司会者」とは誰なのか、という点。

名指しで「ヤク中」と話しているという「大物司会者」は

・長年に渡りバラエティ番組で司会を務めている
・押尾学事件で疑惑が囁かれた
・清原容疑者と少なからず接点があった

という特徴があるようですが、決め手に欠けるため一人に絞り込めていない段階ではあるものの数人の名前が飛び出しています。

まずバラエティ番組で誰もが知る人気コンビNのO。この人物については正体不明の雑誌記事画像が出回っているのが拡散しています。

「人気お笑い芸人Oのシャブ逮捕情報はこうして流れた」と題された記事はいつ頃どの雑誌が掲載したのか定かではありませんが、こう書かれています。

「名前が挙がったのは、冠番組を持つ大物コンビ、NのOです。噂の内容は『深刻な中毒に陥っていてマトリも内偵に入っている』というもの。実際、複数のマスコミが裏取りに走り、所属事務所も火消しに動きました」

記事にはこのOの顔をぼかした写真も掲載されていましたが、一目瞭然だとして話題になっています。

次に名前が出ているのが人気アイドルグループのSのN。彼については以前からそういった噂が多かったことや私生活が明らかになっていないこと、それに清原容疑者を逮捕前、自身の番組に出演させていたことから関係が噂されていましたが、清原容疑者の逮捕後に彼がテレビ出演中に眠そうな表情をしている映像がネットに投稿されるなど憶測を広める情報が相次いだことで名前を出される機会が増えているようです。

そして3人目が週末の昼に番組を持っていることで知られるバラエティタレントのN。
この人物は2005年にマンション販売会社の創業社長が覚醒剤で逮捕された際にも懇意にしていたことから名前が出ていましたが、この社長が清原容疑者ともつながりがあったことに加え、少年野球を通じて清原容疑者と直接つながりがあることもわかっています。

また、ASKAさんの逮捕で名前が出た飯島愛さんと懇意だったことも知られている上に東スポの記事に掲載されているシルエットもこのNが一番近いのではないかとされていることから関心が高まっていますが、押尾学事件との関わりが不明であるなど決定打に欠けているとも言えそうです。

他にもお笑い芸人コンビLのT.Aや清原容疑者を番組でも使っていた東京出身の大物コンビT、それに大物お笑いコンビDの名前も挙がっています。

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http://www.buzznews.jp/?p=2052330


8: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
もうわかった!!

13: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
名前が出てても清原みたいに明らかにおかしいってレベルにならないと
捕まらないんじゃないのか?

25: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
L?ロンブー?

30: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
淳はtwitterで何でも答えるから記事貼り付けて聴いて来いよ

39: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
NのO 岡村?
SのN 中居?
バラエ ヒデ?
芸コン ??淳?

46: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
芸能人、一斉検査掛ければ?

54: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
矢部が突然ラジオを辞めた理由が納得した

112: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
■冠番組を持つ大物コンビ、NのO・・・ナイナイ岡村
■人気アイドルグループのSのN・・・スマップ中居
■週末の昼に番組を持っていることで知られるバラエティタレントのN・・・中山秀征
■お笑い芸人コンビLのT.A・・・ロンブー田村淳
■清原容疑者を番組でも使っていた東京出身の大物コンビT・・・とんねるず
■大物お笑いコンビD・・・ダウンタウン

118: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
清原が捕まった時点で
親しい仲間は一時的に薬断ってるだろ

234: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
ひでえ記事だ

あなたの知らない裏業界転落人生 おごれる者は久しからず (コアコミックス 389)
あなたの知らない裏業界転落人生 おごれる者は久しからず


引用元: ・【芸能】 清原容疑者のシャブ仲間、囁かれる名前・・人気コンビNのO、人気アイドルグループSのN、バラエティタレントN、芸人コンビLのT.A

タグ :清原和博薬物逮捕疑惑噂

西郷隆盛 おいどん!巨眼の男 西郷隆盛<維新回天草莽掘起篇>鹿児島の英雄ブログ1

2016年02月27日 08時53分35秒 | 日記











小説
おいどん!
巨眼の男
   西郷隆盛


       saigo takamori oidon!Kyogan no otoko ~the last samurai ~~鹿児島のおいどん! 西郷隆盛の「明治維新」。
                 「江戸無血開城」はいかにしてなったか。~
                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

 西郷隆盛は名を吉之助という。薩摩藩士である。この巨眼の男は明治維新の英雄としてあまりにも有名だ。西郷は二度、島流しにあって、島の女・愛加那とのあいだに子供をもうける。菊次郎と菊草である。薩英戦争、禁門の変のあと、長州と連合をつくり、朝廷と提携して錦の御旗をたてて官軍となる。勝海舟との会談で「江戸無血開城」をなしとげる。 その後、明治新政府をつくるが、征韓論でやぶれて、野に下る。
 鹿児島にもどった西郷は私塾をつくる。その塾生は二万人にものぼった。諸国の士族たち(元・侍、藩士)は西郷がなんとかしてくれるだろうと期待し、西郷は思わず御輿にのせられて西南戦争を初めてしまう。しかし、薩摩軍に勝ち目はない。西郷は城山からでたところを狙撃され、部下に首をはねられて自決…これにより明治維新は本当におわったのである。      おわり

         1 英雄野に下る





  その日の午前、東京はどしゃぶりの雨であった。
 明治三年四月十一日、西郷隆盛は『征韓論』にやぶれた。
「西郷先生はどこじゃ?! 西郷先生はどこじゃ?!」足にゲートルをまき、黒い服に黄色い縁帽子をかぶった官軍(明治政府軍)兵士たちは雨でずぶ濡れになりながら、駆けた。                
 当の西郷吉之助(隆盛)は麻の羽織りをきて、傘をさして陰にいる。
 兵士たちは彼には気付かなかった。
 西郷は神妙な面持ちで、暗い顔をしていた。今にも世界が破滅するような感覚を西郷隆盛は覚えた。……おいの負けじゃっどん。
 実はこのとき、西郷吉之助は参議(明治政府の内閣)に辞表を提出し、野に下ったのである。西郷は維新後の薩長政府の腐敗ぶりをなげく。
”人民が「あんなに一生懸命働いては、お気の毒だ」というほどに国事をつかさどる者が働きぬかなくては、よい政治はおこなえない。理想的な政治家なら、薩摩も長州もないはずだ。しかるに、草創のはじめにたちながら、政治家も官僚も色食や銭にまみれている。 働く場所をうしなった侍(士族)たちの不満が爆発しそうだ。「そいを、わしゃ最もおそれる」”
 辞表をうけとった親友でもある参議・大久保利道(一蔵)は悔しさに顔をゆがませた。「わかりもはん。なぜごて、西郷どんは辞めるのでごわすか?」
 大久保は耳元から顎までのびる黒髭を指でなでた。「朝鮮などどうでもよかとに」                           
 伊藤博文は「西郷先生は何故に朝鮮にこだわるのでしょう?」と大久保にきいた。
「西郷どんは思いきりがよすぎとる。困り申した。あの頑固さは昔から禅をやっていたせいでごわそ」
  西郷隆盛の弟の西郷従道(慎吾)がやってきて「兄さんが辞めとうたとは本当でごわすか?」ときいた。子供のときから西郷隆盛と過ごした大久保は残念がった。
  吉之助は山岡鉄太郎(鉄舟)の屋敷にころがりこんだ。山岡鉄太郎は、清河八郎とともに『新選組』の発足に尽力したひとである。
「どうしました? 西郷先生?」鉄太郎はゆっくりと尋ねた。
「………やぶれもうした」
 力なく、呟くように吉之助はいった。
「それは、『征韓論』ですか?」
「そいでごわそ。死に場所をなくし申した」西郷はうなった。
 山岡鉄太郎は「なぜ西郷先生は朝鮮にこだわり、攻めようとするのです?」ときいた。「攻める訳ではござりもはん」西郷は続けた。「ただ、朝鮮においがいき、友好関係をば築くのでごわす」
「…では『征韓論』ではなく『親韓論』ですな?」
「そうでごわす」西郷は頷いた。「おいの考えがいつの間にか朝鮮を征伐する……などとごて変えられたのでごわす。何とも情けなく思っちょる」
 こうして、西郷隆盛は野に下った。
 そして、明治十年二月、『西南戦争』が勃発する。

  西郷吉之助は、文政十年(一八二七)十二月七日、薩摩七十七万石、島津家の城下、鹿児島加治屋町に生まれた。大久保一蔵(利道)も同じ加治屋町の西郷家より二町ほどはなれた猫薬小路で生まれたという。大名はどこでもそうだが、この時代、上級、下級藩士の区別がやかましかった。西郷の父は小姓組という家柄で、藩士の身分は下から二番目だ。        長男の吉之助の後に、お琴、吉次郎、おたか、おやす、慎吾(西郷従道)、小兵衛とたてつづけに生まれ、貧乏がさらに貧乏になった。
 吉之助は後年、六尺近い体躯をして、巨眼な堂々たる英雄らしい体型になる。無口だが、すもう好きで、相手をまかした。力は強い。しかし、読み書きは苦手であったという。
 ちなみに述べると、西郷は大久保の父・次右衛門からも学徳を受けている。大久保の父は町医者から昇格して士分になったほどの人物であった。
 吉之助の風貌は英雄たるものだが、人格も徳をつんだ男である。西郷隆盛といえば、例の肖像画と銅像だけだが、それ以外には彼の顔を知ることは出来ない。写真嫌いであったため、西郷隆盛といえば「上野の西郷どん」という銅像のイメージが強い。
 西郷が動けば薩摩も動くとさえいわれたのも、その風貌と島津斉彬との仲でのことである。西郷は巨眼な堂々たる英雄であった。
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、『ネタバレ』、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』、津本陽著作『私に帰せず 勝海舟』、司馬遼太郎著作『竜馬がゆく』、『陸奥宗光』上下 荻原延濤(朝日新聞社)、『陸奥宗光』上下 岡崎久彦(PHP文庫)、『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦(PHP文庫)、『勝海舟全集』勝部真長ほか編(頸草書房)、『勝海舟』松浦玲(中公新書)、『氷川清話』勝海舟/勝部真長編(角川文庫)、『坂本龍馬』池田敬正(中公新書)、『坂本龍馬』松浦玲(岩波新書)、『坂本龍馬 海援隊始末記』平尾道雄(中公文庫)、『一外交官の見た明治維新』上下 アーネスト・サトウ/坂田精一(岩波文庫)、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一(東洋文庫)、『幕末外交談』田辺太一/坂田精一校注・訳(東洋文庫)、『京都守護職始末』山川浩/遠山茂樹校注/金子光晴訳(東洋文庫)、『日本の歴史 19 開国と攘夷』小西四郎(中公文庫)、『日本の歴史 18 開国と幕末変革』井上勝生(講談社文庫)、『日本の時代史 20 開国と幕末の動乱』井上勲編(吉川弘文館)、『図説和歌山県の歴史』安藤精一(河出書房新刊)、『荒ぶる波濤』津本陽(PHP文庫)、日本テレビドラマ映像資料『田原坂』『五稜郭』『奇兵隊』『白虎隊』『勝海舟』、NHK映像資料『歴史秘話ヒストリア』『その時歴史が動いた』大河ドラマ『龍馬伝』『篤姫』『新撰組!』『八重の桜』『坂の上の雲』、『花燃ゆ』漫画『おーい!竜馬』一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、NHK『大河ドラマ 龍馬伝ガイドブック』角川ザテレビジョン、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
『竜馬がゆく(日本テレビ・テレビ東京)』『田原坂(日本テレビ)』『五稜郭(日本テレビ)』『奇兵隊(日本テレビ)』『勝海舟(日本テレビ)』映像資料『NHKその時歴史が動いた』『歴史秘話ヒストリア』映像参考資料等。
 「文章や物語が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく、引用です。
大河ドラマ『飛ぶが如く』、司馬遼太郎著作『飛ぶが如く』、他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
なおここから数十行の文章は小林よしのり氏の著作・『ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり「大東亜論 第5章 明治6年の政変」』小学館SAPIO誌2014年6月号小林よしのり著作漫画、72ページ~78ページからの文献を参考にしています。
 盗作ではなくあくまで引用です。前述した参考文献も考慮して引用し、創作しています。盗作だの無断引用だの文句をつけるのはやめてください。
  この頃、決まって政治に関心ある者たちの話題に上ったのは「明治6年の政変」のことだった。
 明治6年(1873)10月、明治政府首脳が真っ二つに分裂。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五人の参謀が一斉に辞職した大事件である。
 この事件は、通説では「征韓論」を唱える西郷派(外圧派)と、これに反対する大久保派(内治派)の対立と長らく言われていきた。そしてその背景には、「岩倉使節団」として欧米を回り、見聞を広めてきた大久保派と、その間、日本で留守政府をに司っていた西郷派の価値観の違いがあるとされていた。しかし、この通説は誤りだったと歴史家や専門家たちにより明らかになっている。
 そもそも西郷は「征韓論」つまり、武力をもって韓国を従えようという主張をしたのではない。西郷はあくまでも交渉によって国交を樹立しようとしたのだ。つまり「親韓論」だ。西郷の幕末の行動を見てみると、第一次長州征伐でも戊辰戦争でも、まず強硬姿勢を示し、武力行使に向けて圧倒な準備を整えて、圧力をかけながら、同時に交渉による解決の可能性を徹底的に探り、土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるという方法を採っている。勝海舟との談判による江戸無血開城がその最たるものである。
 西郷は朝鮮に対しても同じ方法で、成功させる自信があったのだろう。
 西郷は自分が使節となって出向き、そこで殺されることで、武力行使の大義名分ができるとも発言したが、これも武力行使ありきの「征韓論」とは違う。
 これは裏を返せば、使節が殺されない限り、武力行使はできない、と、日本側を抑えている発言なのである。そして西郷は自分が殺されることはないと確信していたようだ。
 朝鮮を近代化せねばという目的では西郷と板垣は一致。だが、手段は板垣こそ武力でと主張する「征韓論」。西郷は交渉によってと考えていたが、板垣を抑える為に「自分が殺されたら」と方便を主張。板垣も納得した。
 一方、岩倉使節団で欧米を見てきた大久保らには、留守政府の方針が現実に合わないものに見えたという通説も、勝者の後付けだと歴史家は分析する。
 そもそも岩倉使節団は実際には惨憺たる大失敗だったのである。当初、使節団は大隈重信が計画し、数名の小規模なものになるはずだった。
 ところが外交の主導権を薩長で握りたいと考えた大久保利通が岩倉具視を擁して、計画を横取りし、規模はどんどん膨れ上がり、総勢100人以上の大使節団となったのだ。
 使節団の目的は国際親善と条約改正の準備のための調査に限られ、条約改正交渉自体は含まれていなかった。
しかし功を焦った大久保や伊藤博文が米国に着くと独断で条約改正交渉に乗り出す。だが、本来の使命ではないので、交渉に必要な全権委任状がなく、それを交付してもらうためだけに、大久保・伊藤の2人が東京に引き返した。大使節団は、大久保・伊藤が戻ってくるまで4か月もワシントンで空しく足止めされた。大幅な日程の狂いが生じ、10か月半で帰国するはずが、20か月もかかり、貴重な国費をただ蕩尽(とうじん)するだけに終わってしまったのだ。
 一方で、その間、東京の留守政府は、「身分制度の撤廃」「地租改正」「学制頒布」などの新施策を次々に打ち出し、着実に成果を挙げていた。
 帰国後、政治生命の危機を感じた大久保は、留守政府から実権を奪取しようと策謀し、これが「明治6年の政変」となったのだ。大久保が目の敵にしたのは、板垣退助と江藤新平であり、西郷は巻き添えを食らった形だった。
 西郷の朝鮮への使節派遣は閣議で決定し、勅令まで下っていた。それを大久保は権力が欲しいためだけに握りつぶすという無法をおこなった。もはや朝鮮問題など、どうでもよくなってしまった。
 ただ国内の権力闘争だけがあったのだ。こうして一種のクーデターにより、政権は薩長閥に握られた。
 しかも彼ら(大久保や伊藤ら)の多くは20か月にも及んだ外遊で洗脳されすっかり「西洋かぶれ」になっていた。もはや政治どころではない。国益や政治・経済の自由どころではない。
 西郷や板垣らを失った明治政府は誤った方向へと道をすすむ。日清戦争、日露戦争、そして泥沼の太平洋戦争へ……歴史の歯車が狂い始めた。
(以下文(参考文献ゴーマニズム宣言大東亜論)・小林よしのり氏著作 小学館SAPIO誌7月号74~78ページ+8月号59~75ページ+9月号61~78ページ参考文献)
この頃、つまり「明治6年の政変」後、大久保利通は政治家や知識人らや庶民の人々の怨嗟(えんさ)を一身に集めていた。維新の志を忘れ果て、自らの政治生命を維持する為に「明治6年の政変」を起こした大久保利通。このとき大久保の胸中にあったのは、「俺がつくった政権を後から来た連中におめおめ奪われてたまるものか」という妄執だけだった。
西郷隆盛が何としても果たそうとした朝鮮使節派遣も、ほとんど念頭の片隅に追いやられていた。これにより西郷隆盛ら5人の参議が一斉に下野するが、西郷は「巻き添え」であり…そのために西郷の陸軍大将の官職はそのままになっていた。この政変で最も得をしたのは、井上馨ら長州汚職閥だった。長州出身の御用商人・山城屋和助が当時の国家予算の公金を使い込んだ事件や……井上馨が大蔵大臣の職権を濫用して民間の優良銅山を巻き上げ、自分のものにしようとした事件など、長州閥には汚職の疑惑が相次いだ。だが、この問題を熱心に追及していた江藤新平が政変で下野したために、彼らは命拾いしたのである。
江藤新平は初代司法卿として、日本の司法権の自立と法治主義の確立に決定的な役割を果たした人物である。江藤は政府で活躍したわずか4年の間に司法法制を整備し、裁判所や検察機関を創設して、弁護士・公証人などの制度を導入し、憲法・民法の制定に務めた。
もし江藤がいなければ、日本の司法制度の近代化は大幅に遅れたと言っても過言ではない。そんな有能な人材を大久保は政府から放逐したのだ。故郷佐賀で静養していた江藤は、士族反乱の指導者に祭り上げられ、敗れて逮捕された。江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に3日前に作られた裁判所で、十分な弁論の機会もなく、上訴も認めない暗黒裁判にかけられ、死刑となった。新政府の汚職の実態を知り尽くしている江藤が、裁判で口を開くことを恐れたためである。それも斬首の上、さらし首という武士に対してあり得ない屈辱的な刑で……しかもその写真が全国に配布された。(米沢藩の雲井龍雄も同じく死刑にされた)すべては大久保の指示による「私刑」だった。
「江藤先生は惜しいことをした。だが、これでおわりではない」のちの玄洋社の元となる私塾(人参畑塾)で、武部小四郎(たけべ・こしろう)はいった。当時29歳。福岡勤皇党の志士の遺児で、人参畑塾では別格の高弟であった。身体は大きく、姿は颯爽(さっそう)、親しみ易いが馴れ合いはしない。質実にて華美虚飾を好まず、身なりを気にせず、よく大きな木簡煙管(きせる)を構えていた。もうひとり、頭山満が人参畑塾に訪れる前の塾にはリーダー的な塾生がいた。越智彦四郎(おち・ひこしろう)という。武部小四郎、越智彦四郎は人参畑塾のみならず、福岡士族青年たちのリーダーの双璧と目されていた。だが、二人はライバルではなく、同志として固い友情を結んでいた。それはふたりがまったく性格が違っていたからだ。越智は軽薄でお調子者、武部は慎重で思慮深い。明治7年(1874)2月、江藤新平が率いる佐賀の役が勃発すると、大久保利通は佐賀制圧の全権を帯びて博多に乗り込み、ここを本営とした。全国の士族は次々に社会的・経済的特権を奪われて不平不満を強めており、佐賀もその例外ではなかったが、直ちに爆発するほどの状況ではなかった。にもかかわらず大久保利通は閣議も開かずに佐賀への出兵を命令し、文官である佐賀県令(知事にあたる)岩村高俊にその権限を与えた。文官である岩村に兵を率いさせるということ自体、佐賀に対する侮辱であり、しかも岩村は傲慢不遜な性格で、「不逞分子を一網打尽にする」などの傍若無人な発言を繰り返した。こうして軍隊を差し向けられ、挑発され、無理やり開戦を迫られた形となった佐賀の士族は、やむを得ず、自衛行動に立ち上がると宣言。休養のために佐賀を訪れていた江藤新平は、やむなく郷土防衛のため指揮をとることを決意した。これは、江藤の才能を恐れ、「明治6年の政変」の際には、閣議において西郷使節派遣延期論のあいまいさを論破されたことなどを恨んだ大久保利通が、江藤が下野したことを幸いに抹殺を謀った事件だったという説が今日では強い。そのため、佐賀士族が乱をおこした佐賀の乱というのではなく「佐賀戦争」「佐賀の役」と呼ぶべきと提唱されている。その際、越智彦四郎は大久保利通を訪ね、自ら佐賀との調整役を買って出る。大久保は「ならばおんしに頼みたか。江藤ら反乱軍をば制圧する「鎮撫隊」をこの福岡に結成してくれもんそ」という。越智彦四郎は引き受けた。だが、越智は策士だった。鎮撫隊を組織して佐賀の軍に接近し、そこで裏切りをして佐賀の軍と同調して佐賀軍とともに明治政府軍、いや大久保利通を討とう、という知略を謀った。武部は反対した。
「どこが好機か?大久保が「鎮撫隊」をつくれといったのだ。何か罠がある」
だが、多勢は越智の策に乗った。だが、大久保利通の方が、越智彦四郎より一枚も二枚も上だった。大久保利通は佐賀・福岡の動静には逐一、目を光らせていて、越智の秘策はすでにばれていた。陸軍少佐・児玉源太郎は越智隊に鉄砲に合わない弾丸を支給して最前線に回した。そのうえで士族の一部を率いて佐賀軍を攻撃。福岡を信用していなかった佐賀軍は越智隊に反撃し、同士討ちの交戦となってしまった。越智隊は壊滅的打撃を受け、ようやくの思いで福岡に帰還した。その後、越智彦四郎は新たな活動を求めて、熊本・鹿児島へ向かった。武部はその間に山籠もりをして越智と和解して人参畑塾に帰還した。
「明治6年の政変」で下野した板垣退助は、江藤新平、後藤象二郎らと共に「愛国公党」を結成。政府に対して「民選議員設立建白書」を提出した。さらに政治権力が天皇にも人民にもなく薩長藩閥の専制となっていることを批判し、議会の開設を訴えた。自由民権運動の始まりである。だが間もなく、佐賀の役などの影響で「愛国公党」は自然消滅。そして役から1年近くが経過した明治8年(1875)2月、板垣は旧愛国公党を始めとする全国の同志に結集を呼びかけ「愛国社」を設立したのだった。板垣が凶刃に倒れた際「板垣死すとも自由は死せず」といったというのは有名なエピソードだが、事実ではない。
幕末、最も早く勤王党の出現を見たのが福岡藩だった。だが薩摩・島津家から養子に入った福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は、一橋家(徳川将軍家)と近親の関係にあり、動乱の時代の中、勤王・佐幕の両派が争う藩論の舵取りに苦心した。黒田長溥は決して愚鈍な藩主ではなかった。だが次の時代に対する識見がなく、目前の政治状況に過敏に反応してしまうところに限界があった。大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)という幕府始まって以来の不祥事を機に勤王の志士の動きは活発化。これに危機感を覚えた黒田長溥は筑前勤王党を弾圧、流刑6名を含む30余名を幽閉等に処した。これを「庚申(こうしん)の獄」という。その中にはすでに脱藩していた平野國臣もいた。女流歌人・野村望東尼(ぼうとうに)は獄中の國臣に歌(「たぐいなき 声になくなる 鶯(ウグイス)は 駕(こ)にすむ憂きめ みる世なりけり」)を送って慰め、これを機に望東尼は勤王党を積極的に支援することになる。尼は福岡と京都をつなぐパイプ役を務め、高杉晋作らを平尾山荘に匿い、歌を贈るなどしてその魂を鼓舞激励したのだった。
この頃、坂本竜馬らよりもずっと早い時点で、薩長連合へ向けた仲介活動を行っていたのが筑前勤王党・急進派の月形洗蔵(つきがた・せんぞう、時代劇「月形半平太(主演・大川橋蔵)」のモデル)や衣斐茂記(えび・しげき)、建部武彦らだった。また福岡藩では筑前勤王党の首領格として羨望があった加藤司書(かとう・ししょ)が家老に登用され、まさしく維新の中心地となりかけていたという。だが、すぐに佐幕派家老が勢力を取り戻し、さらに藩主・黒田長溥が勤王党急進派の行動に不信感を抱いたことなどから……勤王党への大弾圧が行われたのだ。これを「乙丑(いっちゅう)の獄」という。加藤、衣斐、建部ら7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首。野村望東尼ら41名が流罪・幽閉の処分を受け、筑前勤王党は壊滅した。このとき、姫島に流罪となる野村望東尼を護送する足軽の中に15歳の箱田六輔がいた。そして武部小四郎は「乙丑の獄」によって切腹した建部武彦の遺児であった(苗字は小四郎が「武部」に改めた)。福岡藩は佐幕派が多かったが、戊辰の役では急遽、薩長官軍についた。それにより福岡藩の家老ら佐幕派家老3名が切腹、藩士23名が遠島などの処分となった。そして追い打ちをかけるように薩長新政府は福岡藩を「贋札づくり」の疑惑で摘発した。当時、財政難だった藩の多くが太政官札の偽造をしていたという。西郷隆盛は寛大な処分で済まそうと尽力した。何しろ贋札づくりは薩摩藩でもやっていたのだ。だが大久保利通が断固として、福岡藩だけに過酷な処罰を科し、藩の重職5名が斬首、知藩事が罷免となった。これにより福岡藩は明治新政府にひとりの人材も送り込めることも出来ず、時代から取り残されていった。この同じ年、明治8年9月、近代日本の方向性を決定づける重大な事件が勃発した。「江華島(こうかとう・カンファンド)事件」である。これは開国要請に応じない朝鮮に対する砲艦外交そのものであった。そもそも李氏朝鮮の大院君はこう考えていた。「日本はなぜ蒸気船で来て、洋服を着ているのか?そのような行為は華夷秩序(かいちつじょ)を乱す行為である」
華夷秩序は清の属国を認める考えだから近代国家が覇を競う時代にあまりに危機感がなさすぎる。だからといって、砲艦外交でアメリカに開国させられた日本が、朝鮮を侮る立場でもない。どの国も、力ずくで国柄を変えられるのは抵抗があるのだ。日本軍艦・雲揚(うんよう)は朝鮮西岸において、無許可の沿海測量を含む挑発行動を行った。さらに雲揚はソウルに近い江華島に接近。飲料水補給として、兵を乗せたボートが漢江支流の運河を遡航し始めた時、江華島の砲台が発砲!雲揚は兵の救援として報復砲撃!さらに永宗島(ヨンジュンド)に上陸して朝鮮軍を駆逐した。明治政府は事前に英米から武力の威嚇による朝鮮開国の支持を取り付け、挑発活動を行っていた。そしてペリー艦隊の砲艦外交を真似て、軍艦3隻と汽船3隻を沖に停泊させて圧力をかけた上で、江華島事件の賠償と修好条約の締結交渉を行ったのだった。この事件に、鹿児島の西郷隆盛は激怒した。
「一蔵(大久保)どーん!これは筋が違ごうじゃろうがー!」
大久保らは、「明治6年の政変」において、「内治優先」を理由としてすでに決定していた西郷遣韓使節を握りつぶしておきながら、その翌年には台湾に出兵、そしてさらに翌年にはこの江華島事件を起こした。「内治優先」などという口実は全くのウソだったのである。特に朝鮮に対する政府の態度は許しがたいものであった。
西郷は激昴して「ただ彼(朝鮮)を軽蔑して無断で測量し、彼が発砲したから応戦したなどというのは、これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきの行為といわにゃならんど!政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす!」
西郷は、測量は朝鮮の許可が必要であり、発砲した事情を質せず、戦端を開くのは野蛮と考えた。
「そもそも朝鮮は幕府とは友好的だったのでごわす!日本人は古式に則った烏帽子直垂(えぼしひたたれ)の武士の正装で交渉すべきでごわす!軍艦ではなく、商船で渡海すべきでごわんそ!」
西郷は政府参与の頃、清と対等な立場で「日清修好条規」の批准を進め、集結した功績がある。なのに大久保ら欧米使節・帰国組の政府要人は西郷の案を「征韓論」として葬っておきながら、自らは、まさに武断的な征韓を行っている。西郷隆盛はあくまでも、東洋王道の道義外交を行うべきと考えていた。西郷は弱を侮り、強を恐れる心を、徹底的に卑しむ人であった。大久保は西洋の威圧外交を得意とし、朝鮮が弱いとなれば侮り、侵略し、欧米が強いとなれば恐れ、媚びへつらい、政治体制を徹底的に西洋型帝国の日本帝国を建設しようとしたのだ。西郷にとっては、誠意を見せて朝鮮や清国やアジア諸国と交渉しようという考えだったから大久保の考えなど論外であった。だが、時代は大久保の考える帝国日本の時代、そして屈辱的な太平洋戦争の敗戦で、ある。大久保にしてみれば欧米盲従主義はリアリズム(現実主義)であったに違いない。そして行き着く先がもはや「道義」など忘れ去り、相手が弱いと見れば侮り、強いと見れば恐れ、「WASPについていけば百年安心」という「醜悪な国・日本」なのである。

<ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり著作「大東亜論 血風士魂篇」第9章前原一誠の妻と妾>2014年度小学館SAPIO誌10月号59~78ページ参照(参考文献・漫画文献)
明治初期、元・長州藩(山口県)には明治政府の斬髪・脱刀令などどこ吹く風といった連中が多かったという。長州の士族は維新に功ありとして少しは報われている筈であったが、奇兵隊にしても長州士族にしても政権奪還の道具にすぎなかった。彼らは都合のいいように利用され、使い捨てされたのだ。報われたのはほんの数人(桂小五郎こと木戸孝允や井上馨(聞多)や伊藤博文(俊輔)等わずか)であった。明治維新が成り、長州士族は使い捨てにされた。それを憤る人物が長州・萩にいた。前原一誠である。前原は若い時に落馬して、胸部を強打したことが原因で肋膜炎を患っていた。明治政府の要人だったが、野に下り、萩で妻と妾とで暮らしていた。妻は綾子、妾は越後の娘でお秀といった。
前原一誠は吉田松陰の松下村塾において、吉田松陰が高杉晋作、久坂玄瑞と並び称賛した高弟だった。「勇あり知あり、誠実は群を抜く」。晋作の「識」、玄瑞の「才」には遠く及ばないが、その人格においてはこの二人も一誠には遠く及ばない。これが松陰の評価であった。そして晋作・玄瑞亡き今、前原一誠こそが松陰の思想を最も忠実に継承した人物であることは誰もが認めるところだった。一誠の性格は、頑固で直情径行、一たび激すると誰の言うことも聞かずやや人を寄せつけないところもあったが、普段は温厚ですぐ人を信用するお人好しでもあった。一誠は戊辰戦争で会津征討越後口総督付の参謀として軍功を挙げ、そのまま越後府判事(初代新潟県知事)に任じられて越後地方の民政を担当する。
いわば「占領軍」の施政者となったわけだが、そこで一誠が目にしたものは戦火を受けて苦しむ百姓や町民の姿だった。「多くの飢民を作り、いたずらに流民を作り出すのが戦争の目的ではなかったはずだ。この戦いには高い理想が掲げられていたはず!これまでの幕府政治に代って、万民のための国造りが目的ではなかったのか!?」
少年時代の一誠の家は貧しく、父は内職で安物の陶器を焼き、一誠も漁師の手伝いをして幾ばくかの銭を得たことがある。それだけに一誠は百姓たちの生活の苦しさをよく知り、共感できた。さらに、師・松陰の「仁政」の思想の影響は決定的に大きかった。
「機械文明においては、西洋に一歩を譲るも、東洋の道徳や治世の理想は、世界に冠たるものである!それが松陰先生の教えだ!この仁政の根本を忘れたからこそ幕府は亡びたのだ。新政府が何ものにも先駆けて行わなければならないことは仁政を行って人心を安らかにすることではないか!」一誠は越後の年貢を半分にしようと決意する。中央政府は莫大な戦費で財政破綻寸前のところを太政官札の増発で辛うじてしのいでいる状態だったから、年貢半減など決して許可しない。だが、一誠は中央政府の意向を無視して「年貢半減令」を実行した。さらに戦時に人夫として徴発した農民の労賃も未払いのままであり、せめてそれだけでも払えば当面の望みはつなげられる。未払い金は90万両に上り、そのうち40万両だけでも出せと一誠は明治政府に嘆願を重ねた。だが、政府の要人で一誠の盟友でもあった筈の木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治・松陰門下)は激怒して、「前原一誠は何を考えている!越後の民政のことなど単なる一地方のことでしかない!中央には、一国の浮沈にかかわる問題が山積しているのだぞ!」とその思いに理解を示すことは出来なかった。
この感情の対立から、前原一誠は木戸に憎悪に近い念を抱くようになる。一誠には越後のためにやるべきことがまだあった。毎年のように水害を起こす信濃川の分水である。一誠は決して退かない決意だったが、中央政府には分水工事に必要な160万両の費用は出せない。政府は一誠を中央の高官に「出世」させて、越後から引き離そうと画策。一誠は固辞し続けるが、政府の最高責任者たる三条実美が直々に来訪して要請するに至り、ついに断りきれなくなり参議に就任。信濃川の分水工事は中止となる。さらに一誠は暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔となるが、もともと中央政府に入れられた理由が理由なだけに、満足な仕事もさせられず、政府内で孤立していた。一誠は持病の胸痛を口実に政府会議にもほとんど出なくなり、たまに来ても辞任の話しかしない。「私は参議などになりたくはなかったのだ!私を参議にするくらいならその前に越後のことを考えてくれ!」
木戸や大久保利通は冷ややかな目で前原一誠を見ているのみ。
「君たちは、自分が立派な家に住み、自分だけが衣食足りて世に栄えんがために戦ったのか?私が戦ったのはあの幕府さえ倒せば、きっと素晴らしい王道政治が出来ると思ったからだ!民政こそ第一なのだ!こんな腐った明治政府にはいたくない!徳川幕府とかわらん!すぐに萩に帰らせてくれ!」大久保や木戸は無言で前原一誠を睨む。三度目の辞表でやっと前原一誠は萩に帰った。明治3年(1870)10月のことだった。政府がなかなか前原一誠の辞任を認めなかったのは、前原一誠を帰してしまうと、一誠の人望の下に、不平士族たちが集まり、よりによって長州の地に、反政府の拠点が出来てしまうのではないかと恐れたためである。当の一誠は、ただ故郷の萩で中央との関わりを断ち、ひっそりと暮らしたいだけだった。が、周囲が一誠を放ってはおかなかった。維新に功のあった長州の士族たちは「自分たちは充分報われる」と思っていた。しかし、実際にはほんの数人の長州士族だけが報われて、「奇兵隊」も「士族」も使い捨てにされて冷遇されたのだった。そんなとき明治政府から野に下った前原一誠が来たのだ。それは彼の周囲に自然と集まるのは道理であった。しかも信濃川の分水工事は「金がないので工事できない」などといいながら、明治政府は岩倉具視を全権大使に、木戸、大久保、伊藤らを(西郷らは留守役)副使として数百人規模での「欧米への視察(岩倉使節団)」だけはちゃっかりやる。一誠は激怒。
江藤新平が失脚させられ、「佐賀の役」をおこすとき前原一誠は長州士族たちをおさえた。「局外中立」を唱えてひとりも動かさない。それが一誠の精一杯の行動だった。
長州が佐賀の二の舞になるのを防いだのだ。前原一誠は激昴する。「かつての松下村塾同門の者たちも、ほとんどが東京に出て新政府に仕え、洋風かぶれで東洋の道徳を忘れておる!そうでなければ、ただ公職に就きたいだけの、卑怯な者どもだ!井上馨に至っては松下村塾の同窓ですらない!ただ公金をかすめ取る業に長けた男でしかないのに、高杉や久坂に取り入ってウロチョロしていただけの奴!あんな男までが松下村塾党のように思われているのは我慢がならない!松陰先生はよく「天下の天下の天下にして一人の天下なり」と仰っていた。すなわち尊皇である。天子様こそが天下な筈だ!天下一人の君主の下で万民が同じように幸福な生活が出来るというのが政治の理想の根本であり、またそのようにあらしめるのが理想だったのだ!孔孟の教えの根本は「百姓をみること子の如くにする」。これが松陰先生の考えである!松陰先生が生きていたら、今の政治を認めるはずはない!必ずや第二の維新、瓦解を志す筈だ!王政復古の大号令は何処に消えたのだ!?このままではこの国は道を誤る!」その後、「萩の乱」を起こした前原一誠は明治政府に捕縛され処刑された。


大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂玄瑞役の東出昌大さんが「僕は不幸の星の下に生まれたんや」と、松陰の妹の杉文役の井上真央さんにいったのはあながち“八つ当たり”という訳ではなかった。ペリーが二度目に来航した安政元年(一八五四)、長州の藩主は海防に関する献策を玄機に命じた。たまたま病床にあったが、奮起して執筆にとりかかり、徹夜は数日にわたった。精根尽き果てたように、筆を握ったまま絶命したのだ。
それは二月二十七日、再来ペリーを幕府が威嚇しているところであり、吉田松陰が密航をくわだてて、失敗する一か月前のことである。
畏敬する兄の死に衝撃を受け、その涙もかわかない初七日に、玄瑞は父親の急死という二重の不幸に見舞われた。すでに母親も失っている。玄瑞は孤児となった。十五歳のいたましい春だった。久坂秀三郎は、知行高二十五石の藩医の家督を相続し、玄瑞と改名する。六尺の豊かな偉丈夫で色男、やや斜視だったため、初めて彼が吉田松陰のもとにあらわれたとき、松陰の妹文は、「お地蔵さん」とあだ名をつけたが、やがて玄瑞はこの文と結ばれるのである。「筋金入りの“攘夷思想”」のひとである。熊本で会った宮部鼎蔵から松陰のことを聞いて、その思いを述べた。「北条時宗がやったように、米使ハリスなどは斬り殺してしまえばいいのだ」松陰は「久坂の議論は軽薄であり、思慮浅く粗雑きわまる書生論である」と反論し、何度も攘夷論・夷人殺戮論を繰り返す「不幸な人」久坂玄瑞を屈服させる。松陰の攘夷論は、情勢の推移とともに態様を変え、やがて開国論に発展するが、久坂は何処までも「尊皇攘夷・夷狄殺戮」主義を捨てなかった。長州藩は「馬関攘夷戦」で壊滅する。それでも「王政復古」「禁門の変」につながる「天皇奪還・攘夷論」で動いたのも久坂玄瑞であった。これをいいだしたのは久留米出身の志士・真木和泉(まき・いずみ)である。天皇を確保して長州に連れてきて「錦の御旗」として長州藩を“朝敵”ではなく、“官軍の藩”とする。やや突飛な構想だったから玄瑞は首をひねったが、攘夷に顔をそむける諸大名を抱き込むには大和行幸も一策だと思い、桂小五郎も同じ意見で、攘夷親征運動は動きはじめた。
松下村塾では、高杉晋作と並んで久坂玄瑞は、双璧といわれた。いったのは、師の松陰その人である。禁門の変の計画には高杉晋作は慎重論であった。どう考えても、今はまだその時期ではない。長州はこれまでやり過ぎて、あちこちに信用を失い、いまその報いを受けている。しばらく静観して、反対論の鎮静うるのを待つしかない。
高杉晋作は異人館の焼打ちくらいまでは、久坂玄瑞らと行動をともにしたけれども、それ以降は「攘夷殺戮」論には「まてや、久坂!もうちと考えろ!異人を殺せば何でも問題が解決する訳でもあるまい」と慎重論を唱えている。
それでいながら長州藩独立国家案『長州大割拠(独立)』『富国強兵』を唱えている。丸山遊郭、遊興三昧で遊んだかと思うと、「ペリーの大砲は3km飛ぶが、日本の大砲は1kmしか飛ばない」という。「僕は清国の太平天国の乱を見て、奇兵隊を、農民や民衆による民兵軍隊を考えた」と胸を張る。
文久三年馬関戦争での敗北で長州は火の海になる。それによって三条実美ら長州派閥公家が都落ち(いわゆる「七卿落ち」「八月十八日の政変」)し、さらに禁門の変…孝明天皇は怒って長州を「朝敵」にする。四面楚歌の長州藩は四国に降伏して、講和談判ということになったとき、晋作はその代表使節を命じられた。ほんとうは藩を代表する家老とか、それに次ぐ地位のものでなければならないのだが、うまくやり遂げられそうな者がいないので、どうせ先方にはわかりゃしないだろうと、家老宍戸備前の養子刑馬という触れ込みで、威風堂々と旗艦ユーリアラス号へ烏帽子直垂で乗り込んでいった。伊藤博文と山県有朋の推薦があったともいうが、晋作というのは、こんな時になると、重要な役が回ってくる男である。
談判で、先方が賠償金を持ち出すと「幕府の責任であり、幕府が払う筋の話だ」と逃げる。下関に浮かぶ彦島を租借したいといわれると、神代以来の日本の歴史を、先方が退屈するほど永々と述べて、煙に巻いてしまった。
だが、長州藩が禁門の変で不名誉な「朝敵」のようなことになると“抗戦派(進発派「正義派」)”と“恭順派(割拠派「俗論党」)”という藩論がふたつにわれて、元治元年十一月十二日に恭順派によって抗戦派長州藩の三家老の切腹、四参謀の斬首、ということになった。周布政之助も切腹、七卿の三条実美らも追放、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)は城崎温泉で一時隠遁生活を送り、自暴自棄になっていた。そこで半分藩命をおびた使徒に(旧姓・杉)文らが選ばれる。文は隠遁生活でヤケクソになり、酒に逃げていた桂小五郎隠遁所を訪ねる。「お文さん………何故ここに?」「私は長州藩主さまの藩命により、桂さんを長州へ連れ戻しにきました」「しかし、僕にはなんの力もない。久坂や寺島、入江九一など…禁門の変の失敗も同志の死も僕が未熟だったため…もはや僕はおわった人物です」「違います!寅にいは…いえ、松陰は、生前にようっく桂さんを褒めちょりました。桂小五郎こそ維新回天の人物じゃ、ゆうて。弱気はいかんとですよ。…義兄・小田村伊之助(楫取素彦)の紹介であった土佐の坂本竜馬というひとも薩摩の西郷隆盛さんも“桂さんこそ長州藩の大人物”とばいうとりました。皆さんが桂さんに期待しとるんじゃけえ、お願いですから長州藩に戻ってつかあさい!」桂は考えた。…長州藩が、毛利の殿さまが、僕を必要としている?やがて根負けした。文は桂小五郎ことのちの木戸孝允を説得した。こうして長州藩の偉人・桂小五郎は藩政改革の檜舞台に舞い戻った。もちろんそれは高杉晋作が奇兵隊で討幕の血路を拓いた後の事であるのはいうまでもない。そして龍馬、桂、西郷の薩長同盟に…。しかし、数年前の禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩薩摩藩により朝敵にされたうらみを、長州人の人々は忘れていないものも多かった。彼らは下駄に「薩奸薩賊」と書き踏み鳴らす程のうらみようであったという。だから、薩摩藩との同盟はうらみが先にたった。だが、長州藩とて薩摩藩と同盟しなければ幕府に負けるだけ。坂本竜馬は何とか薩長同盟を成功させようと奔走した。しかし、長州人のくだらん面子で、十日間京都薩摩藩邸で桂たちは無駄に過ごす。遅刻した龍馬は「遅刻したぜよ。げにまっことすまん、で、同盟はどうなったぜよ?桂さん?」「同盟はなんもなっとらん」「え?西郷さんが来てないんか?」「いや、西郷さんも大久保さんも小松帯刀さんもいる。だが、長州から頭をさげるのは…無理だ」龍馬は喝破する。「何をなさけないこというちゅう?!桂さん!西郷さん!おんしら所詮は薩摩藩か?長州藩か?日本人じゃろう!こうしている間にも外国は日本を植民地にしようとよだれたらして狙ってるんじゃ!薩摩長州が同盟して討幕しなけりゃ、日本国は植民地ぜよ!そうなったらアンタがたは日本人になんとわびるがじゃ?!」こうして紆余曲折があり、同盟は成った。話を戻す。「これでは長州藩は徳川幕府のいいなり、だ」晋作は奇兵隊を決起(功山寺挙兵)する。最初は80人だったが、最後は800人となり奇兵隊が古い既得権益の幕藩体制派の長州保守派“徳川幕府への恭順派”を叩き潰し、やがては坂本竜馬の策『薩長同盟』の血路を拓き、維新前夜、高杉晋作は労咳(肺結核)で病死してしまう。
高杉はいう。「翼(よく)あらば、千里の外も飛めぐり、よろづの国を見んとしぞおもふ」
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 久坂玄瑞「蛤御門」で迎えた二十五歳の死」)』古川薫氏著、プレジデント社刊137~154ページ+『徳川慶喜(「三―草莽の志士 高杉晋作「奇兵隊」で討幕の血路を拓く」)』杉森久英氏著、プレジデント社刊154~168ページ+映像資料NHK番組「英雄たちの選択・高杉晋作篇」などから文献引用


【高学歴なら万能?優秀?】小笹芳央氏「採用試験で学歴が最大のフィルター」の間抜け(笑)学歴至上主義

2016年02月26日 20時12分30秒 | 日記








小笹芳央という間抜けが

「採用に於いて学歴が最大のフィルターだ」と抜かし炎上していると聞く。


こういう奴を見ると「学歴至上主義」「高学歴しか優秀じゃない」


という間抜けの発想で可哀想に思う。


日本の会社が高学歴でなければ事務職を採用しないのは


こういう人の思想のせい。高学歴=万能なのかよ?違うだろうが!



なら高学歴の政治家や官僚が何故日本の維新を出来ないのだ???


日本は経済も政治もビジネスもよくならないのだ?


小笹!もう少し考えろよ(笑)

大阪・梅田、乗用車が歩道に突っ込む 1人死亡2人重体

2016年02月25日 16時46分51秒 | 日記












歩道に車、1人死亡2人心肺停止
大阪・梅田、乗用車が歩道に突っ込む 1人死亡2人重体





15:14

騒然とする事故現場(25日午後0時47分、大阪市北区で)=枡田直也撮影 【読売新聞社】
騒然とする事故現場(25日午後0時47分、大阪市北区で)=枡田直也撮影 【読売新聞社】
(読売新聞)
 25日午後0時35分ごろ、大阪市北区芝田1丁目の国道176号交差点付近で歩道に乗用車が突っ込み、複数の歩行者がけがをしている、と通行人の男性から110番通報があった。大阪府警や大阪市消防局によると、男女11人が負傷し、うち男女3人が心肺停止の状態で病院に運ばれた。3人のうちの歩行者の男性が間もなく死亡した。残る2人は、車を運転していた50代くらいの男性と歩行者の若い女性という。
死亡した運転手は奈良県出身の大橋篤(51)容疑者(死亡、運転中心臓の動脈破裂で倒れ自動車がそのまま突っ込んだ)。
 曽根崎署によると、車は西から東に交差点に入って来て歩道に乗り上げて次々に歩行者をはねた後、大阪新阪急ホテル前の花壇に突っ込んで止まった。車には男性が1人で乗っていたという。署はけがをした人の身元や事故原因を調べている。

 複数の目撃者によると、車は速度を緩めず、歩道に乗り上げたという。現場はホテルや商業施設が立ち並ぶJR大阪駅近くの都心部。

事故を見守る通行人や救急車などで、現場は一時騒然

梅田の繁華街 車歩道に突っ込み11人負傷、20代女性、運転手ら3人心肺停止
(産経新聞) 13:09

【植毛手術が一番コスパよし!】草刈正雄さん福山雅治さんら賢者はみんな選んでる!植毛手術

2016年02月25日 16時40分53秒 | 日記








草刈正雄さんと福山雅治さんはともに植毛手術をしている。


福山さんは最近だから後頭部の抜糸後も目だたないが、


草刈さんはまだ医学の技術がまだまだの時だから


”大河の真田丸の真田昌幸役”


で後頭部の縫い目がくっきり見えていて可哀想だった。


カツラとかより彼らは賢明。植毛手術が一番コスパがいい!


子供の3DSを破壊した高嶋ちさ子のウソ

2016年02月25日 13時35分41秒 | 日記










2016年02月25日
子供の3DSを破壊した高嶋ちさ子のウソ




最初に炎上したときは、3DSを破壊したことにイラッとしつつも、他人の家庭の事情だしわざわざ首を突っ込むのもおとなげないなーと思ってスルーしてたが、ちょっと看過できない感じになったので少し首を突っ込むことにした。
まずは、本件の経緯説明から。

※本記事ではいらすとやさんのイラストを使用しております。非常に便利で素敵なイラストが多数掲載された素晴らしいサイトです。

登場人物
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バイオリニストの高嶋ちさ子(47)さん(俳優の高嶋政宏・政伸兄弟のいとこ)、長男(9歳)、次男(6歳)


教育熱心な高嶋ちさ子さんは、子供たちにゲームで遊ぶ時間などのルールを決め、それを順守させていた。


だが、長男がゲームで遊んではいけないはずの金曜の夜に、宿題を終えていない状態で3DSで遊んでいることが発覚。


高嶋ちさ子さんは「怒り狂い」、ニンテンドー3DSを破壊してしまう。


さらに、チェロの練習をしなかった次男の3DSも破壊する。


2015年10月23日に、破壊した3DSの写真をTwitterに投稿。



その経緯を翌2016年2月12日付の東京新聞コラム「ゲーム機バキバキ事件」で告白、Twitterが炎上する。

以上が、2月上旬までの経緯である。
「ゲーム機バキバキ事件」において、破壊後の経緯は以下のように記述されている。
でも翌週、長男は算数のテストで満点。同級生から「おまえんち、ゲーム機折られたんだろ」と言われた時、「けど折られたおかげで、おれ満点とれたんだよ」と自慢し、みんなが「へーえ」と言ったとか

自分が9歳のころを思い返すと、にわかに信じがたい出来事だが、あいにくこの内容を否定するだけの情報を持ち合わせていない。
その後、高嶋ちさ子さんは沈黙を続け、新たな情報が入らないことから炎上は沈静化していた。

しかし、2月24日になってセンテンススプリングこと週刊文春が高嶋ちさ子さんの釈明記事を掲載した。

“大炎上中”高嶋ちさ子が初めて明かす「ゲーム機バキバキ事件」の真相 | スクープ速報 - 週刊文春WEB

「あれはカッとなって壊したのではなく、あくまで子供達との“約束”だったんです。我が家では子供達は自分のスケジュールを自分で決めます。そしてそれを守らなかった時のルール(ペナルティ)も子供が自分で決める。DSに関しても長男が自分で『今度ルールを破ったら折っていいよ!』と言ったんです」
しかも、“計算された”壊し方だったという。

「実は、事前にいろいろと調べておいたんです。折る時はテコの原理で(蝶番の部分を)真っ二つにしましたが、ソフトは一切傷つけないように注意しました。壊した端末は任天堂さんに持って行くと、3~4日で以前と全く同じように修理してくれます。値段は3~4千円くらいです。私が壊したものも、(壊してから)2カ月後のクリスマスに、“サンタさんから”と言って二人のところに戻しました」

週刊文春と東京新聞の記事を整理すると、(1)「破壊は衝動的なものではなく修理を見越したものであった」(2)「自分の3DSを破壊された長男は、破壊されたことによって成績が上がったことを自慢した」の二点がポイントとなる。
(1)の部分から「怒りに任せた行為ではなくしつけの一環であった」、(2)から「破壊は結果として教育的な効果があった」という主張が伺える。

双方が事実であれば、赤の他人が首を突っ込む問題ではない。独自の教育方針が期待したとおりの効果を発揮しただけの話だ。

冒頭で「看過できない」と書いたが、それはこの主張に明確な"ウソ"が含まれるためだ。


10月23日、3DS破壊写真から繋がるツイートである。
リプライ元のツイートは削除済みだが、5,000円ほどで修理できるというアドバイスが寄せられ、それに対する反応である。

このツイートからは「これほどまでに破壊された3DSを修理できるとは思っていなかった」「修理可能だと知ったあとも、修理する意志はなかった」という事実が明らかになる。
だとすると、文春における釈明は完全なウソ、後付の言い訳ということになる。

そもそも、東京新聞において「私は怒り狂って」と記述している。計画性のある破壊でそのような表現をするはずがない。

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だいたい、「叱る」と「怒る」はまったく違う。子供に対して怒りをぶつけてはいけない。

では、もう一つの論点である「破壊は結果として教育的な効果があった」という部分はどうだろうか。高嶋ちさ子さんは東京新聞において、真実を書いているのだろうか。
こちらに関しては覆すだけの材料を持ち合わせていないものの、すでに釈明でウソをついていることが明らかとなっているので鵜呑みにするのはちょっと難しいなという印象を受ける。

一連の出来事でお子様たちが心に深い傷を負っていないこと、もし傷ついていたとしたら周りの他の大人が手を差し伸べてくれることを祈るだけだ。

たいへん胸クソ悪い話ではあるが、一ついい話もある。


文春とTwitterに掲載された、修理後のニンテンドー3DS(左)と、バキバキにされた直後の3DS(右)の写真を並べてみた。
本体が上下に分離された状態からの修理となると、いちいち細かいパーツを接着するわけにはいかないので、基本的に外装の交換もしくは新品と交換となる。
しかし、この二台を見比べると同じシールが貼られている。

まず、注目して欲しいのは赤い丸で囲んだ部分。
大きなシールの下に小さなシールが貼られているが、修理後に消えている。
そして、黄色い丸の部分。
こちらは小さなシールも残っているが、端からの距離が変化している。

つまり、これはもとの本体からシールを丁寧に剥がし、新しい本体に貼り直しているのである。赤丸部分のシールはうまく移植できなかったのであろう。

愛着のある持ち物に好きなシールを貼って、自分だけのものにするのはとても楽しい。
修理に出して、シールの貼られていない本体が戻ってきたら、それは自分のものではなくなってしまったような感覚になる。そんな悲しい思いをさせないよう、任天堂の修理スタッフは手間ひまをかけてシールを移植しているのである。

怒り狂ってゲーム機を破壊する母親、そのゲーム機をなるべく元の状態で返そうとする任天堂。
子供のことを大事にしているのはどっちだろうか?
この丁寧な仕事が、すこしでもお子様たちの心を癒やしてくれることを願っている。

爆破予告犯逮捕安藤良太(埼玉上尾市)容疑者1995年4月19日(20歳)

2016年02月24日 17時26分33秒 | 日記












爆破予告犯逮捕安藤良太(埼玉上尾市)容疑者1995年4月19日(20歳)
出身 静岡県静岡市
職業 大学生・デイトレーダー(2013年死亡した母親の遺産2000万円を株取引で5000万円に)
爆破予告はしたが爆弾は仕掛けてない。
パソコンや携帯スマホを警察押収(証拠確認中)


爆破予告で出頭した男逮捕についてのメモ


爆破予告の犯人と思われるTwitter

多くの自治体に爆破予告が送られた事件で、千葉県松戸東署に出頭してきた20歳の男性が逮捕されました(逮捕容疑は住所プレートを盗んだ疑い)。
爆破予告で出頭の男 盗みの疑いで逮捕(NHK)
この事件では、犯人が自らTwitterで犯行の様子を事前に述べています。
ネット上の情報整理と筆者が考える背景について、メモを書いておきます。新しい情報をつかんでいるわけではないのでメモ書きのみです。間違った部分もあると思うので、あとで直す可能性があります。

●犯人
・松戸署に出頭した20歳の男、日刊スポーツなどでは実名報道。
・Twitterで自らが犯行予告をやっているとして、自治体への問い合わせフォーム記入の動画などを流す。逮捕当日に「警察北」などと流したり、動画の内容から犯人であることはほぼ確定
・フジテレビは24日に逮捕前に撮影した本人インタビューを放映(Twitterでフジテレビのみにインタビューを受けると書いていた)。SPA!も23日売りの号で、彼の生い立ちも含めたインタビュー掲載。いずれも犯人自らがメディアのアプローチしたことがきっかけ

●時系列(彼のTwitterによる)
・2015年6月と10月に朝霞市役所に爆破予告
・2016年1月に朝霞市や東京23区の区役所に爆破予告
・1月20日 松戸東警察署に出頭。取り調べを受けるも拘束されず。21日にPCなど押収
・2月8日 爆破予告書き込み動画を撮影しTwitter投稿
・2月上旬 各メディアに自ら連絡
・逮捕されないことから、さらに18日に爆破予告メールを各地に送る
・2月23日 インタビュー記事がSPA!に掲載
・2月24日 早朝逮捕
爆破予告をし、出頭までしたのに、逮捕されないことから、第二波の犯行予告を送った形

●送信方法(彼のTwitterによる)
・Tor利用、書き込み側のPCにTails利用
・プロキシサーバーも利用(Torからの接続を遮断しているサイトに書き込むため?)
・予告の時刻「3時34分」や、犯行文の「ナリ」「ですを」は、特定の掲示板の一部で使われているスラング。

●背景
・2ちゃんねるの実況掲示板、及びしたらばなどの関連掲示板での騒動が背景に
・掲示板での、ある学生と弁護士の行動がバックボーンにあり、それが原因でネット上で総攻撃にあっている。
・攻撃しているのは特定の掲示板の一部。いわゆる「恒心教」。「○○○○民」という名称も(個人名の略称が入る)
・自宅突撃、個人情報公開、写真公開など
・関連事件に「Googleマップの書き換え」「掲示板での殺害予告」「顔イラスト入りのランサムウェア配布」「出版社サイトへの不正アクセス」「Twitter乗っ取り」などがあり、いずれも「恒心教」が関連した事件。
・殺害予告、不正アクセスなどで、関係した複数の人が逮捕されている(0chiaki、0chiakiにあこがれていた少年、Googleマップ書き換えの3名、殺害予告をした人物など)
16歳少年が不正アクセス…多発する少年サイバー事件の背景:筆者記事
・今回の犯人は、昨年6月から爆破予告などを行っていた
・目的は二人の人物への個人攻撃、過去の騒動を周知させるデモンストレーション
・ネット上では珍しい「継続する祭り・炎上」。燃料が繰り返し投下される、燃料を自ら作ってしまう(過激な人物が騒動を起こす)ためか。

●論点
・ネットの個人攻撃が社会を騒がせる問題に
・幼稚な動機に対して、匿名化の技術が進んでいる、両者の対比
・片山氏が起こした遠隔操作事件の影響(出頭してきたのに警察の逮捕が遅れたのは、遠隔操作事件での誤認逮捕の影響か。犯人の行動も片山被告や0chiakiの行動に似た部分がある)
パソコン遠隔操作事件が残したもの(片山氏事件:筆者記事)

間違った部分もあると思うので、あとで直す可能性があります。

【神戸児童連続殺傷事件】元少年Aの住んでいた場所が「東京都足立区花畑」

2016年02月23日 15時43分34秒 | 日記









【神戸児童連続殺傷事件】元少年Aの住んでいた場所が「東京都足立区花畑」
2016年02月22日
事件・事故







1: ニライカナイφ ★@\(^o^)/
◆【衝撃】元少年Aが住んでいた場所が「東京都足立区花畑」と判明 / 住所など詳細を公開 住民の安全のため詳細を公開

1997年に発生した、神戸連続児童殺傷事件。児童2名が死亡し、3名が重軽傷を負った痛ましい事件である。
事件発生から数日後、犯人として逮捕された元少年A(酒鬼薔薇聖斗)。その元少年Aの現在の顔写真が、人気雑誌「週刊文春」(2016年2月18日発売)に掲載され、物議をかもしている。

●住民の安全のため詳細を公開する
「週刊文春」には、元少年Aの写真が4枚掲載されており、うち2枚は非常に鮮明に写されている。
もし街中で元少年Aを見かければ、すぐにわかるほど鮮明だ。
同時に、写真の背景から元少年Aが住んでいる地域が容易にわかるものでもあった。

●現在は東京から離れた
現在、元少年Aは東京から離れたと「週刊文春」が報じている。
本来は地域住民に配慮して元少年Aが住んでいた地域は伏せるべきだが、以下の状況であることもあり、住民の安全のため、2016年1月末まで住んでいた地域の詳細情報を公開する。

●情報を公開する理由
1. 元少年Aは過去に神戸連続児童殺傷事件を起こしている
2. 記者に対し元少年Aが自転車を叩きつけて暴力的行為をしている
3. 記者に対し元少年Aが「命がけで来てんだろ」等の恫喝行為をしている
4. 記者に対し元少年Aが執拗に追いかける行為をしている
5. 足立区やこの近辺で動物の首なし死体等が複数発見されている
6. 元少年Aは過去に荷物を残して退去した前例がある(戻ってくる可能性があるということ)

●のどかでありながら便利な地域
元少年Aが2015年12月~2016年1月末まで住んでいた地域は、東京都足立区花畑の近辺。
東武鉄道伊勢崎線の竹ノ塚駅からバスで15~20分ほどの場所にあり、緑地と道路がしっかり整備されており、UR団地の大型団地が立ち並ぶ地域。小学校やショッピングモール(スーパー)もあり、のどかでありながら便利な地域でもある。

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●UR団地沿いの歩道から元少年Aを撮影
「週刊文春」に掲載されているバス停に向かって走る元少年Aの写真は、花畑五丁目(ショッピングモール前)のバス停から80メートルほど東の歩道を走っている際に撮られたもの。
「週刊文春」の記者は、横断歩道を渡ったUR団地沿いの歩道から元少年Aを撮影。
その後、元少年Aはバス停からバスに乗り、竹ノ塚駅に向かった。

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http://buzz-plus.com/article/2016/02/19/sakakibara-address/

※>>2以降へ続きます。


2: ニライカナイφ ★@\(^o^)/
※>>1の続きです。

●およそ1キロにわたって記者が逃げる
記者の取材に激怒した元少年Aは、自宅アパートからショッピングモールまで記者を追いかけ、さらに追いかけてアパートまで戻っている。
「週刊文春」の記者によると、およそ1キロにわたって逃走したとのこと。
逃げながらショッピングモールの駐車場に入り、一気に元少年Aアパート前まで戻り、そこに停めていた自動車に乗り、逃げきることに成功している。

●元少年Aのアパートはモール東側か
アパート→ショッピングモール→アパートという逃走経路で1キロということは、ショッピングモールから元少年Aのアパートまでの距離は、単純計算で500メートルということになる。
また、バス停へと走る元少年Aの方角もふまえて推測すると、元少年Aのアパートはショッピングモールよりも東側ということになる。

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●「週刊文春」に続報が掲載される?
「週刊文春」が元少年Aを取材したのは、2016年1月26日。
改めていうが、その数日後に元少年Aは東京を離れていると報じられている。
「引っ越した」や「退去した」という表現でないことから、荷物を運び出すなど、引っ越しといえる行為はしていない可能性がある。
現在どこにいるのか不明だが、今後、「週刊文春」に続報が掲載されるかもしれない。
※以上です。

7: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
今どこだよ

16: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
花畑とか笑わすなw

28: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
管轄がどこか知らんけど役所は居場所を把握してんのかね?
凶悪な犯罪者予備軍を野放しはマズイよなあ

30: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
このバズプラスというメディアどの程度信頼できるメディアなんだ

33: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
慰謝料とか払ってるのかな?

38: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
次は整形に入りそう

49: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
文春のお陰で出ていってくれたから一安心
出ていった後に話題になって良かったよ

54: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
こんな溶け込んでたら気づかないわ
no title

80: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
今は身軽なウィークリーあたりを転々とかな?

91: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
この人仕事はどうしてるの?

101: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
>>91
文春の記事によると、たまに買い物に出るくらいでほとんど部屋に引きこもってるみたいだね
Amazonの荷物がしょっちゅう届くってあったし仕事はしてないでしょ
だから本書いたりメルマガやろうとしたり家から出なくても収入が得られるようにって考えたんだろな

127: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
あんまり話題にならないけど、
バックにいる支援者にもスポットライトを当てて欲しい

134: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
警察も監視してるんでしょ。そうでなければ怖すぎる

元「少年A」を斬る! (別冊宝島Real)
元「少年A」を斬る!


引用元: ・【神戸児童連続殺傷事件】元少年Aの住んでいた場所が「東京都足立区花畑」と判明 バズプラスが“住民の安全のため”詳細公開★5

タグ :事件警察あの人は今噂

新島八重の桜 大河ドラマ『八重の桜』ふたたび維新回天草莽掘起篇ブログ小説7

2016年02月22日 07時46分59秒 | 日記










  官軍による江戸攻撃予定日三月十四日の前日、薩摩藩江戸藩邸で官軍代表西郷隆盛と幕府代表の勝海舟(麟太郎)が会談した。その日は天気がよかった。陽射しが差し込み、まぶしいほどだ。
 西郷隆盛は開口一発、条件を出してきた。
      
 一、慶喜を備前藩にお預かり
 一、江戸城明け渡し
 一、武器・軍艦の没収
 一、関係者の厳重処罰
  いずれも厳しい要求だった。勝は会談前に「もしものときは江戸に火を放ち、将軍慶喜を逃がす」という考えをもって一対一の会談にのぞんでいた。
 勝はいう。
「慶喜公が共順とは知っておられると思う。江戸攻撃はやめて下され」
 西郷隆盛は「では、江戸城を明け渡すでごわすか?」とゆっくりきいた。
 勝は沈黙する。
 しばらくしてから「城は渡しそうろう。武器・軍艦も」と動揺しながらいった。
「そうでごわすか」
 西郷の顔に勝利の表情が浮かんだ。
 勝は続けた。
「ただし、幕府の強行派をおさえるため、武器軍艦の引き渡しはしばらく待って下さい」 今度は西郷が沈黙した。
 西郷隆盛はパークス英国大使と前日に話をしていた。パークスは国際法では”共順する相手を攻撃するのは違法”ときいていた。
 つまり、今、幕府およんで徳川慶喜を攻撃するのは違法で、官軍ではなくなるのだ。
 西郷は長く沈黙してから、歌舞伎役者が唸るように声をはっしてから、
「わかり申した」と頷いた。
  官軍陣に戻った西郷隆盛は家臣にいう。
「明日の江戸攻撃は中止する!」
 彼は私から公になったのだ。もうひとりの”偉人”、勝海舟は江戸市民に「中止だ!」と喜んで声をはりあげた。すると江戸っ子らが、わあっ!、と歓声をあげたという。
(麟太郎は会見からの帰途、三度も狙撃されたが、怪我はなかった)
 こうして、一八六八年四月十三日、江戸無血開城が実現する。
 西郷吉之助(隆盛)は、三月十六日駿府にもどり、大総督宮の攻撃中止を報告し、ただちに京都へ早く駕籠でむかった。麟太郎の条件を受け入れるか朝廷と確認するためである。 この日より、明治の世がスタートした。近代日本の幕開けである。          

そして話しは再び「会津の役」である。
会津藩は朝敵となってしまった。
会津藩は京都守護職について京都から討幕派を排除し、庄内藩は江戸市中取締役に就いて江戸から討幕派を排除していた。
このため、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍(明治政府)は会津藩・庄内藩を「朝敵」として討伐に乗り出した。
会津藩主の松平容保は、新撰組などを使って京都から尊王攘夷派(長州藩士)を排除したうえ、第1次長州討伐で陸軍総裁を勤めたことから、新政府側の長州藩から強く恨まれていたのである。
一方、江戸市中取締役についていた庄内藩は、江戸の薩摩藩邸を襲撃しており、新政府側の薩摩藩と強い遺恨があった。
このようななか、江戸から会津藩に戻った藩主・松平容保は、養子の松平喜徳(まつだいら・のぶのり)へ家督を譲って謹慎して、恭順を示した。
ただ、会津藩の姿勢は「武装恭順」であった。
長州藩は第1次長州討伐の結果、主戦派が粛正され、非戦派となった。
が、その後、高杉晋作らのクーデターにより、主戦派が台頭し、長州藩は武装恭順へと転身した。
しかし、江戸幕府は長州藩の武装恭順を認めず、再び長州藩を討伐するため、兵を挙げた(第2次長州討伐)。
そもそも江戸幕府側が長州藩の武装恭順を認めなかったのだから、会津藩の武装恭順など認められはずがないことは明だった。
 1868年2月10日(慶応4年1月17日)、新政府軍は「会津攻めの希望を聞き入れる」として、仙台藩に会津藩の討伐を命じる。
しかし、仙台藩は会津攻めなど主張しておらず、抗議する。
1868年2月10日(明治4年1月17)、新政府は米沢藩に仙台藩の補佐を命じる。
米沢藩は会津藩に恩義があるため、勅命といえど簡単に従うことは出来ない。
初代会津藩主・保科正之のとき、米沢藩の第3代藩主・上杉綱勝は実子も養子も無いまま急死した。
跡取りを決めずに米沢藩主・上杉綱勝が死んだため、米沢藩・上杉家は御家断絶になるはずであったが、初代会津藩主・保科正之の取り計らいにより、家名存続が許されていた。(「忠臣蔵」で有名な吉良上野介の息子の吉良三郎(上杉綱憲・上杉綱勝の遠縁の子供))
このため、米沢藩は会津藩に強い恩義があり、会津藩を裏切って会津を攻めることは出来ない。
なお、米沢藩・上杉家は御家断絶を免れ、上杉綱憲が家督を継いだが、米沢藩は30万石から15万石へと減封となり、財政難に陥っている。
減封された15万石の領地は幕府直轄となり、その後、福島藩なっている。あまり八重とは関係ないが米沢藩といえば「中興の祖・上杉鷹山公」が有名である。
一方、新政府は東北諸藩に檄を飛ばして、会津藩・庄内藩への討伐を命じる。
が、東北諸藩は東北同士で無駄な戦争をしたくないという思惑があり、態度を決めかねていた。
 1868年3月(慶応4年2月)、新政府は東北を平定するため、奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)を組織した。奥羽鎮撫総督府は討伐軍ではなく、東北を鎮撫(ちんぶ)する組織だった。
奥羽(おうう)とは、東北地方の古い呼び方で、鎮撫(ちんぶ)とは、暴動を鎮めて民を安心させることである。
新政府は「東北の平定は東北の兵を持って行う」との方針を取っており、奥羽鎮撫総督府に与えられた兵はわずかであった。
これは、東征大総督(征討大将軍)の有栖川宮熾仁親王が率いる新政府軍が江戸城攻略にあたるため、奥羽鎮撫総督府に兵力を割けなかったため、とされている。
 奥羽鎮撫総督府の発足早々、参謀に就任していた薩摩藩の黒田清隆や長州藩の品川弥二郎ら首脳陣数名が辞任していまう。
このため、公卿の九条道孝を総督とした首脳陣に一新する。
こうして、黒田清隆らの後任として、長州藩の世良修蔵(せら・しゅうぞう)と薩摩藩の大山格之助の2人が、下参謀に就任することなったのである。
首脳を一新した奥羽鎮撫総督府は、公卿の九条道孝(くじょう・みちたか)が総督を務めた。
副総督は公卿の沢為量(さわ・ためかず)で、参謀は公卿の醍醐忠敬である。
世良修蔵と大山格之助の2人は下参謀であった。
が、これは公卿と位を同列にしないための配慮であり、形式上の物だった。
要職についた公卿3人は戦いの経験なども無く、半分は飾り物であり、実質的には下参謀の世良修蔵と大山格之助の2人が奥羽鎮撫総督府の主導権を握っていた。
この結果、奥羽鎮撫総督府は討伐派が体勢を占めることとなり、鎮撫とは名ばかりで、実質的な討伐軍になるのであった。
しかし、奥羽鎮撫総督府の兵力はわずか570人で、奥羽鎮撫総督府が単独で会津藩・庄内藩を攻略することは不可能だった。
そこで、奥羽鎮撫総督府は東北の雄藩・仙台藩に強く出兵を迫ったのである。
会津藩に同情的な仙台藩は、奥羽鎮撫総督府に、会津藩の降伏を受け入れる条件を尋ねた。
これに対して世良修蔵が突き付けた条件は、松平容保の斬首に加え、松平喜徳の監禁と若松城の開城という厳しい内容だった。
会津藩がこのような条件を飲むはずがなかった。
1868年4月19日、会津藩に同情的な仙台藩であった。
が、仙台藩内にも
「新政府軍の命令に従うべき」との意見もあり、会津藩へ進軍することとなった。
仙台藩の進軍を知った会津藩は、仙台藩に降伏の使者を送る。
会津藩に同情する仙台藩は、表向きは藩境で戦争をするふりをして、裏で署名嘆願について協議することにした(会津救済運動)。
1861年5月(慶応4年4月29)、会津藩・仙台藩・米沢藩の家老が、宮城県の関宿に集まり、署名嘆願について協議する(関宿会議)。
会津藩・松平容保は第1次長州討伐で陸軍総裁を務めたとき、長州藩の家老3人を切腹させ、参謀4人を斬首している。
このため、仙台藩は奥羽鎮撫総督府に謝罪嘆願を取り次ぐ条件として、会津藩に「鳥羽・伏見の戦い」の首謀者の首を差し出すことを求めた。
会津藩の家老・梶原平馬は、
「帰って戦の準備をする」
と激怒するが、戦を避けたい仙台藩・米沢藩は、
「会津一国の命と、1人の命とどちらが大事か考えろ。首を差し出せば、後のことは責任を持つ」
と言って家老・梶原平馬を説得し、関宿会議は終了した。
一方、奥羽鎮撫総督府の総督・九条道孝は、会津藩に、
「謝罪嘆願すれば、寛大な処分を下す」と謝罪を勧告する。
仙台藩・米沢藩による会津嘆願運動に加え、奥羽鎮撫総督府の総督・九条道孝からの謝罪勧告があったため、「鳥羽伏見の戦い」での首謀者の首を差し出せば、会津藩の謝罪は認められる公算が大きかった。
そのころ、江戸では江戸城の無血開城が行われ、徳川慶喜に寛大な処分が下されており、会津藩も謝罪嘆願すれば、九条道孝の勧告通りに寛大な処分が下る見込みだった。
しかし、会津藩では、
「『鳥羽・伏見の戦い』の責任は徳川慶喜の処分で決着している」
という意見も強く、意見が分かれていた。
その結果、会津藩主の松平容保は関宿会議の結果を無視して、奥羽鎮撫総督府に、
「会津藩は徳川家の処分を見届けるまでは、謝罪はできない」
という宣戦布告を叩き付けたのである。
 1868年(慶応4年)6月10日、仙台藩士・姉歯武之進(あねは・たけのしん)らが、福島藩の城下町にある宿屋「金沢屋」に宿泊している奥羽鎮撫総督府の参謀・世良修蔵を襲撃して暗殺する。
同日、会津藩が奥州街道の要となる白河城(別名「小峰城」)へと兵を進める。
白河城は白河藩(福島県白河市)阿部家が治めていたが、このとき、白河城は城主不在のまま、二本松藩と仙台藩の兵が駐留していた。
白河藩の藩主・阿部正外(あべ・まさとう)は1866年に神戸開港問題で江戸幕府老中を罷免となり、阿部正静が家督を受け継いだ。
が、阿部正静は棚倉城(福島県東白川郡)への国替えを命じられたため、白河城は江戸幕府直轄となっていた。
このため、白河藩は城主がおらず、幕府の命令で二本松藩が白河城に駐留していた。
その後、新政府成立後は奥羽鎮撫総督府から会津藩討伐命令を受けた仙台藩と二本松藩の兵が白河城に駐留していた。
 会津藩が白河城を攻めると、白河城に駐留していた仙台藩と二本松藩は、示し合わせたかのように撤退する。
白河城には奥羽鎮撫総督府の兵も駐留していた。
が、ごく少数だったため、仙台藩らの兵が撤退すると、奥羽鎮撫総督府の兵は撤退を余儀なくされた。
こうして会津藩は白河城を無傷で手に入れると、新政府軍を迎え撃つために守りを固めた。
白河城は東北地方の入り口となる重要な場所で、白河城を押さえていれば会津のみならず、東北諸藩の本土が安全になるため、白河城の墨守は戦略上の最重要課題だった。
さらに、白河城を押さえていれば、恭順派の三春藩(福島県)の裏切りを監視できるため、白河城を守ることには大きな意味があった。
1868年6月12日、斉藤一が率いる新撰組130名が白河城に入城する。
6月19日には家老に復帰した西郷頼母(さいごう・たのも)や若年寄・横山主税らも入城する。
奥羽越列藩同盟が成立すると、二本松藩などの援軍も加わり、東北の防衛拠点となる白河城の兵力は2500人に膨れあがった。
会津軍を指揮する総大将は、会津藩の家老・西郷頼母である。非戦派で実戦経験の無い西郷頼母が、東北の運命を背負う一戦で総大将を務める理由は分らない。
 一方、宇都宮城(栃木県)を攻撃していた新政府軍の参謀・伊地知正治(いぢち・まさはる=薩摩藩)は、白河藩が会津藩の手に落ちたことを知ると、兵を北へと進め、会津藩が守る白河城へと迫った。
会津軍勢2500人に対して、新政府軍の伊地知正治の手勢は、わずか700人余りだったが、伊地知正治の軍は精鋭揃いだった。
1868年6月20日、新政府軍の伊地知正治が白河城に攻撃を開始する。
伊地知正治は軍を3つに分け、正面の本隊が敵の注意を引きつけると、左右に回った2部隊が側面から攻撃をかけた。
兵力の差では勝っていた会津藩であった。
が、洋式銃を有する新政府軍の前に惨敗し、白河城はあっさりと新政府軍の手に落ちてしまった。
白河城は奥州街道の要所であり、東北への入り口となる。
白河城を新政府軍に押さえられると、会津本国が危険にさらされる。
会津藩は奥羽越列藩同盟の援軍を得て体制を立て直すと、白河城を奪還するため新政府軍を攻め立てた。
一方、白河城の新政府軍にも新政府軍の参謀・板垣退助らが援軍に駆け付けており、士気は益々盛んになっており、会津軍を寄せ付けなかった。
このようななか、援軍に駆け付けていた新政府軍の参謀・板垣退助が、手薄となった棚倉藩(福島県)を攻撃するため、白河城から棚倉藩へと兵を進めた。
これを好機とみた会津藩は、棚倉藩へ援軍を向けず、白河城を奪い返す作戦に出た。
しかし、会津藩は7度も白河城を攻めたものの、洋式銃を有する新政府軍に歯が立たたなかった。
激戦に次ぐ激戦の末、1868年8月31日、会津軍は最後の攻撃に出るが、白河城を落とすことは出来ず、白河城を諦めた。
1868年9月14日には周辺での小競り合いも無くなり、100日間にわたる「白河口の戦い」が終結する。
同盟軍の死者は927人、新政府軍の死者は113人だったとされている。
会津藩は「白河口の戦い」で、横山主税など優秀な指揮官を失い、大きな損失を出した。
そして、戦略上で重要な白河城を失ったことで、奥羽越列藩同盟には崩壊の序曲が流れ始める。
 手薄となった棚倉藩(福島県棚倉町)へ進軍した新政府軍の板垣退助が棚倉藩を落とすと、三春藩(福島県三春町)は奥羽越列藩同盟を裏切って新政府軍に降伏する。
仙台藩は三春藩に監視の兵を配置していたのだ。
が、白河城を新政府軍に奪われたため、監視の兵に三春藩を拘束するほどの力は無くなっており、新政府軍が棚倉藩を落とすと、三春藩は新政府軍に使者を送って恭順を示したのだ。
奥羽諸藩からみれば三春藩が新政府軍に寝返ったようにみえる。
が、元々、三春藩は勤王派(新政府側)で、仙台藩の圧力を受けて奥羽列藩同盟に参加した経緯がある。
三春藩は奥羽列藩同盟に参加する際も、新政府に、
「同盟に参加しなければ、滅ぼされるため、仕方なく同盟に参加する」
と事情を説明しており、本来は新政府側の立場にあった。
しかし、三春藩は東北の裏切り者とされ、
「三春狐」
と呼ばれて東北諸藩から批判されて遺恨を残した。
特に仙台藩からは強く恨まれていたという。
一説によると、「淺川の戦い」でも三春藩の裏切り行為があったとされているが、真相は分からない。
ちなみに、奥羽越列藩同盟を裏切ったのは三春藩だけでなく、本荘藩や秋田藩や弘前藩も新政府に寝返った。
本荘藩や秋田藩などのように新政府側に寝返り、東北戦争後の処分で知行が増えている藩もある。
また、積極的に動かず、処分を受けなかった藩も多い。
 三春藩(福島県)が奥羽越列藩同盟を裏切って新政府軍に寝返ると、三春藩の後を追うように守山藩(福島県)も新政府軍に恭順を示して降伏する。
守山藩の藩主・松平家は水戸藩・徳川家の流れをくむ。
が、守山藩は特に行動を起こすこと無く、新政府軍に降伏している。
こうして三春藩・守山藩が降伏したため、新政府軍の板垣退助は無傷で三春藩を通過。
地の利を知る三春藩の道案内で、新政府軍の板垣退助は、二本松藩(福島県)へと兵を進めたのである。
 1868年9月15日、新政府軍の参謀・板垣退助に攻められた二本松城が落城し、二本松藩が降伏する。
二本松藩は白河城(白河口の戦い)などに主力部隊を派遣しており、新政府軍の板垣退助に留守を突かれる形となっていた。
三春藩・守山藩が抵抗せずに降伏したため、新政府軍の板垣退助は一気に兵を北へと進めて二本松藩へ迫っており、二本松藩には主力部隊を呼び戻す程の時間は無かった。
さらに、新政府軍の別部隊が側面から二本松藩へ迫っており、二本松藩は絶体絶命の危機に瀕していた。
老兵しか居ない二本松藩は降伏しても仕方の無い状況だった。
が、家老の丹羽富穀(にわ・とみたけ)が、
「死を賭して信義を守るは、二本松武士の本懐である」
と徹底抗戦を主張したため、二本松藩は新政府軍に交戦することになった。
このため、二本松藩は少年兵までも戦場へ投入することになる。少年兵は最新式の洋式銃(元込式のスナイドル銃とされている)を装備しており、新政府軍を困らせたが、多勢に無勢で新政府軍の勢いを止めることが出来ず、二本松城は陥落してしまう。
二本松藩の少年兵は15歳と16歳で構成されていた。
が、藩存亡の危機に直面しているため、特例により年齢を引き下げられ、12歳から17歳の少年で構成されていた(指揮官は除く)。
二本松城の戦いで散った二本松藩の少年兵は正規軍ではなく、隊に名前は無かったが、後に「二本松少年隊」と呼ばれるようになり、会津藩の白虎隊と並ぶ戊辰戦争の悲劇として知られることになる。
一般的に「二本松少年隊の悲劇」として知られるのは、二本松少年隊62名のうち、木村銃太郎が率いて大壇口で戦った二本松少年隊25名である。
二本松藩士の家庭では食事の度、母親が子供に切腹の作法を教え、武士の心得を教えており、少年兵といえども、地元の農民が「武士の子とマムシには手を出すな」として恐れるほどであった。
「二本松少年隊の悲劇」となる大壇口の戦いは、戊辰戦争で最も激しい戦いだったとされるが、会津藩の白虎隊や若松城籠城戦が有名になったため、二本松少年隊の悲劇はあまり知られていない。
 白河城と二本松城を落とした新政府軍は、攻略方針で意見が分かれた。
速やかに東北を平定するためには、根っ子となる会津藩を枯らすべきか、枝葉となる奥州列藩同盟の東北諸藩を刈るべきか。
江戸に居る参謀・大村益次郎は「枝葉を刈れば、根っ子は枯れる」と主張した。
一方、二本松城に居る参謀・伊地知正治と板垣退助の2人は、「根っ子を刈れば、枝葉は枯れる」と主張した。
軍議の結果、現地に居る伊地知正治らの意見が採用され、新政府軍は根っ子(会津藩)を刈って枝葉(奥州列藩同盟)を枯らす作戦に出た。
既に秋が訪れており、冬になって東北地方が雪で覆われれば、薩摩や長州が中心となっている新政府軍は不利になる。
「冬がくれんば戦は会津の優位になるはずだんべ!」
冬が来る前に逆賊の会津藩を討つ必要があった。
 川崎尚之助との結婚を機に砲術を禁止されていた山本八重(後の新島八重)であった。
が、「鳥羽・伏見の戦い」や「白河口の戦い」の戦況を聞き、1968年6月ごろから、戦争に備えて砲術の訓練を再開する。
22歳になった山本八重の砲術は、人に教えるレベルまで達しており、山本家に遊びに来た白虎隊にも砲術を教えていた。
ただ、白虎隊はフランス式の訓練を取り入れており、遊びに来た白虎隊員は、山本八重が教えるまでもなく、一通りのことは出来ていた。
会津藩の上級藩士は、
「鉄砲は下級武士の武器だ」
「武士が腹ばいになれるか」
と激怒していたが、若い白虎隊にはそのような抵抗が無く、洋式銃を受け入れて積極的に射撃の訓練を受けていたのだ。
 白虎隊は15歳から17歳までで編成される予定だったが、
「15歳では重い銃を扱うのは難しい」
という理由で16歳と17歳で編成することになった。
山本八重の東隣に住んでいた伊東悌次郎(いとう・ていじろう=15歳)は年齢が1歳足りないため、白虎隊に入れずに悔しがり、山本八重に砲術を習いに来ていた。
山本八重は機を織りながら伊東悌次郎に鉄砲の撃ち方を教えるが、発砲すると大きな音がするため、伊東悌次郎は驚いて目を閉じてしまう。
新島八重は
「臆病者!臆病者!お前のような臆病者には教えぬ」
と罵倒すると、伊東悌次郎は
「次は目を閉じない」と言い、再び銃を構える。
結局、伊東悌次郎は3度目で発砲しても目を閉じなくなったため、山本八重は伊東悌次郎に鉄砲の撃ち方を教えてやった。
やがて、伊東悌次郎が一通りのことが出来るようになると、山本八重は射撃の動作を妨げになることを理由に、伊東悌次郎の下髪を切り落とす。
すると、山本八重は母・山本佐久に
「厳格な伊東家の許可無しに、髪を切るとは何事ですか」
と、こっぴどく叱られてしまうのであった。
その後、伊東悌次郎は年齢を改竄して白虎隊(士中二番隊)に入り、「戸ノ口原の戦い」で死んでいる。山本八重は死ぬまで、戦死した伊東悌次郎のことを悲しんだ。
 山本八重の2番目の夫になる新島襄は、山本八重(新島八重)との結婚生活を通じて、そして山本八重から聞いた戊辰戦争の話しから、会津人は「スパルタ人」のような人種だと考えていた。
スパルタとは、古代ギリシャ時代の軍事国家で、独特の軍事教育制度を有することから「スパルタ教育」の語源になった国である。


         4 幕臣遁走





またしても話しを戻す。
  幕府側陸海軍の有志たちの官軍に対する反抗は、いよいよもって高まり、江戸から脱走をはじめた。もう江戸では何もすることがなくなったので、奥州(東北)へ向かうものが続出した。会津藩と連携するのが大半だった。
 その人々は、大鳥圭介、秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人にも達したという。
 大鳥圭介は陸軍歩兵奉行をつとめたほどの高名な人物である。
 幕府海軍が官軍へ引き渡す軍艦は、開陽丸、富士山丸、朝陽丸、蟠龍丸、回天丸、千代田形、観光丸の七隻であったという。
 開陽丸は長さ七十三メートルもの軍艦である。大砲二十六門。
 富士山丸は五十五メートル。大砲十二門。
 朝陽丸は四十一メートル。大砲八門。
 蟠龍丸は四十二メートル。大砲四門。
 回天丸は六十九メートル。大砲十一門。
 千代田形は十七メートル。大砲三門。
 観光丸は五十八ルートル。
 これらの軍艦は、横浜から、薩摩、肥後、久留米三藩に渡されるはずだった。が、榎本武揚らは軍艦を官軍に渡すつもりもなく、いよいよ逃亡した。

  案の定、近藤たちが道草を食ってる間に、官軍が甲府城を占拠してしまった。錦の御旗がかかげられる。新選組は農民兵をふくめて二百人、官軍は二千人……
 近藤たちは狼狽しながらも、急ごしらえで陣をつくり援軍をまった。歳三は援軍を要請するため江戸へ戻っていった。近藤は薪を大量にたき、大軍にみせかけたという。
 新選組は百二十人まで減っていた。しかも、農民兵は銃の使い方も大砲の撃ち方も知らない。官軍は新選組たちの七倍の兵力で攻撃してきた。
 わあぁぁ~っ! ひいいぃ~っ!
 新選組たちはわずか一時間で敗走しだす。近藤はなんとか逃げて生き延びた。歳三は援軍を要請するため奔走していた。一対一の剣での戦いでは新選組は無敵だった。が、薩長の新兵器や銃、大砲の前では剣は無力に等しかった。
 三月二十七日、永倉新八たちは江戸から会津(福島県)へといっていた。近藤は激怒し、「拙者はそのようなことには加盟できぬ」といったという。
 近藤はさらに「俺の家来にならぬか?」と、永倉新八にもちかけた。
 すると、永倉は激怒し、「それでも局長か?!」といい去った。
 近藤勇はひとり取り残されていった。

  近藤勇と勝は会談した。勝の屋敷だった。
 近藤は「薩長軍を江戸に入れぬほうがよい!」と主張した。
 それに対して勝はついに激昴して、「もう一度戦いたいなら自分たちだけでやれ!」
 と怒鳴った。
 その言葉通り、新選組+農民兵五五〇人は千住に布陣、さらに千葉の流山に移動し布陣した。近藤たちはやぶれかぶれな気持ちになっていた。
 流山に官軍の大軍勢がおしよせる。
「新選組は官軍に投降せよ!」官軍は息巻いた。もはや数も武器も官軍の優位である。剣で戦わなければ新選組など恐るるに足りぬ。
 近藤の側近は二~三人だけになった。
「切腹する!」
  近藤は陣で切腹して果てようとした。しかし、土方歳三がとめた。「近藤さん! あんたに死なれたんじゃ新選組はおわりなんだよ!」
「よし……俺が大久保大和という偽名で投降し、時間をかせぐ。そのすきにトシサンたちは逃げろ!」
 近藤は目をうるませながらいった。……永久の別れになる……彼はそう感じた。
「新選組は幕府軍ではない。治安部隊だという。安心してくれ」
 歳三はいった。
 こうして近藤勇は、大久保大和という偽名で官軍に投降した。官軍は誰も近藤や土方の顔など知らない。まだマスコミもテレビもなかった時代である。
 近藤の時間かせぎによって、新選組はバラバラになったが、逃げ延びることができた。「近藤さん、必ず助けてやる!」
 土方歳三は下唇を噛みながら、駆け続けた。

  四月十七日、近藤への尋問がはじまった。
 近藤は終始「新選組は治安部隊で幕府軍ではありませぬ」「わしの名は大久保大和」とシラをきりとおした。
「やめろよ、おい!」
 こらえきれなくなって、官軍屋敷の奥で見ていた男がくってかかった。
「お前は新選組局長、近藤勇だろ!」
「ほざけ!」
「近藤! 俺の顔を忘れたか?!」
男は慇懃にいった。そう、その男こそ新選組元隊士・篠原泰之進だった。
「た……泰之進」
 近藤は凍りついた。何かの間違いではないだろうか? なぜ篠原泰之進が官軍に…?
「近藤! なぜ俺が官軍にいるのか? と思ったろう?」
 彼の勘はさえていた。「俺は勝ってる方になびくんだ。風見鶏といわれようと、俗物とよばれようともかまわんさ! 近藤! お前はおわりだ!」
 近藤勇は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえるだろう。心臓がかちかちの石のようになると同時に、全身の血管が氷になっていくのを感じた。 やつがいったようにすべておわりだ。何も考えることができなかった。
 近藤は頭のなかのうつろな笑い声が雷のように響き渡るのを聞いた。
「死罪だ! 切腹じゃない! 首斬りだ!」
 篠原泰之進は大声で罵声を、縄でしばられている近藤勇に浴びせかけた。これで復讐できた。新選組の中ではよくも冷遇してくれたな! ザマアミロだ!
 近藤は四月二十五日に首を斬られて死んだ。享年三十五だった。最後まで武士のように切腹もゆるされなかったという。近藤は遺書をかいていた。
 ……”孤軍頼け絶えて囚人となる。顧みて君恩を思えば涙更に流れる。義をとり生を捨てるは吾が尊ぶ所。快く受けん電光三尺の剣。兄将に一死、君恩に報いん”
 近藤勇の首は江戸と京でさらされた。

官軍の措置いかんでは蝦夷(北海道)に共和国をひらくつもりである。…麟太郎は榎本の内心を知っていた。
 麟太郎は四月も終りのころ危うく命を落とすところだった。
 麟太郎は『氷川清話』に次のように記す。
「慶応四年四月の末に、もはや日の暮れではあるし、官軍はそのときすでに江戸城へはいっておった頃だから、人通りもあまりない時に、おれが半蔵門外を馬にのって静かに過ぎておったところが、たちまちうしろから官兵三、四人が小銃をもっておれを狙撃した。
 しかし、幸い体にはあたらないで、頭の上を通り過ぎたけれども、その響きに馬が驚いて、後ろ足でたちあがったものだから、おれはたまらずあおむけざまに落馬して、路上の石に後脳を強く打たれたので一時気絶した。
 けれどもしばらくすると自然に生き返って、あたりを見回したら誰も人はおらず、馬は平気で路ばたの草を食っていた。
 官兵はおれが落馬して、それなりに気絶したのを見て、銃丸があたったものとこころえて立ち去ったのであろう。いやあの時は実に危ないことであったよ」
 大鳥圭介を主将とする旧幕府軍は宇都宮へむかった。
四月十六日の朝、大山(栃木県)に向かおうといると銃砲の音がなり響いた。
 官軍との戦闘になった。
 秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人は官軍と激突。そのうち二隊は小山を占領している官軍に攻撃を加えた。
 脱走兵(旧幕府軍)は小山の官軍に包囲攻撃をしかけた。たまらず小山の官軍は遁走した。脱走兵(旧幕府軍)そののち東北を転々と移動(遁走)しだす。
彼等は桑名藩、会津藩と連携した。
 江戸では、脱走兵が絶え間なかった。
 海軍副総裁榎本武揚は、強力な艦隊を率いて品川沖で睨みをきかせている。かれは麟太郎との会合で暴言を吐き、「徳川家、幕府、の問題が解決しなければ強力な火力が官軍をこまらせることになる」といった。麟太郎は頭を抱えた。
 いつまでも内乱状態が続けば、商工業が衰えて、国力が落ちる。植民地にされかねない。「あの榎本武揚って野郎はこまった輩だ」麟太郎は呟いた。
 榎本武揚は外国に留学して語学も達者で、外国事情にもくわしい筈だ。しかし、いまだに過去にしがみついている。まだ幕府だ、徳川だ、といっている。
 麟太郎には榎本の気持ちがしれなかった。
  江戸の人心はいっこうに落ち着かない。脱走兵は、関東、東北でさかんに官軍と戦闘を続けている。
 西郷吉之助(隆盛)は非常に心配した。
「こげん人心が動揺いたすは徳川氏処分の方針が定まらんためでごわす。朝廷ではこの際すみやかに徳川慶喜の相続人をお定めなされ、あらためてその領地、封録をうけたまわるなら人心も落ち着くでごあんそ」

  麟太郎が繰り返し大総督府へ差し出した書状は、自分のような者ではとても江戸の混乱を静めることができない、水戸に隠居している徳川慶喜を江戸に召喚し、人心を安定させることが肝要である……ということである。
 官軍は江戸城に入り、金品を物色しはじめ狼藉を働いた。蔵に金がひとつも残ってない。本当に奉行小栗上野介がどこかへ隠したのか? だが、小栗は官軍に処刑され、実態はわからない。例の徳川埋蔵金伝説はここから生まれている。
 江戸には盗賊や暴力、掠奪、殺人が横行し、混乱の最中にあった。
 麟太郎は西郷に書を出す。
「一 今、苗を植えるべきときに、東三十余国の農民たちは、官軍、諸藩の人夫に駆りだされ苦しんでおり、このままでは今年の秋の収穫がない。来年はどうして生きていくのか。民は国の基本である。
 二 すでに大総督府へ献言しているのに、返答がない。
 三 王政維新について、わが徳川氏の領国を用途に当てられるということである。徳川氏の領土は狭小で、たとえ残らず召し上げられても、わずか四百万石に過ぎない。三百六十万俵前後の実収を、いままったく召しあげられても、大政に従事する諸官の棒給にも足りぬであろう。いわんや海陸の武備は、とてもできないであろう。
 まだ、その名分は正しいとはいえない。もし領国のなかばを減ぜられたとしても、罪のない家臣、その家族をどのようにして養うのか。人の怨みはどこにおちつくだろう。
 今寛典のご処置で、寡君(慶喜)ご宥免のうえ、領国をそのまま下されても、幾何かを朝廷に進献するのは当然である。そうすれば、寡君の誠心により出たものとして、国内の候伯はこれをみて黙止しているだろうか。かならず幾何かの領地を進献するだろう。 そうなれば、大政の御用途、海内の諸事の費用にあてるに充分であろう。そのようにすれば何事もうまく運ぶだろう。
 四 一家に不和を生じたときは、一家は滅亡する。一国不和を生じたときは、その国は滅亡する。国の内外の人心を離散させれば、どうなるのか。
 五 外国のひとたちは朝廷のご処置如何をもって、目を拭い、耳をそばたてて見聞きしている。もしご不当のこがあれば、噂は瞬間に、海外に聞こえるだろう(後訳)」
 官軍が天下をとったことで、侍たちの禄支給が延期されていた。麟太郎は、不測の事態を危惧していた。

                
  彰義隊と官軍は上野で睨み合っていた。
 彰義隊とは、はじめ一橋家の家中有志たちが主君慶喜のために、わずか十七名のて血判状によりできたもので、江戸陥落の今となってやぶれかぶれの連中が大勢集まってきたという。彰義隊は上野に陣をひき、官軍と対峙していた。
上野には法親王宮がいるので、官軍はなかなか強硬な手段がとれない。
 すべては彰義隊の戦略だった。
 江戸はますます物騒になり、夜は戸締まりをしっかりしないといつ殺されてもおかしくないところまで治安は悪化していた。
 彰義隊にあつまる幕臣、諸藩士は増えるばかりであった。
二十二歳の輪王寺宮公現法親王は、旧幕府軍たちに従うだけである。
 彰義隊がふえるにしたがい、市内で官軍にあうと挑発して乱闘におよぶ者も増えたという。西郷は、”彰義隊を解散させなければならぬ”と思っていた。
 一方、勝海舟(麟太郎)も、彰義隊の無謀な行動により、せっかくの徳川幕府の共順姿勢が「絵にかいた餅」に帰しはしないか、と危惧していた。
「これまでの俺の努力が無駄になっちまうじゃねぇか!」麟太郎は激昴した。
 榎本武揚は品川沖に艦隊を停泊させ、負傷者をかくまうとともに、彰義隊に武器や食料を輸送していた。
江戸での大総督府有栖川宮は名だけの者で、なんの統治能力もなかった。
 さらに彰義隊は無謀な戦をおこそうとしていた。
 彰義隊は江戸を占拠し、官軍たちを殺戮していく。よって官軍は危なくて江戸にいられなくなった。安全なところは東海道に沿う狭い地域と日本橋に限られていた。
 江戸市中の取り締まりを行うのも旧幕府だった。
 江戸では、彰義隊を動かしているのが麟太郎で、榎本武揚が品川沖に艦隊を停泊させ、負傷者をかくまうという行動も麟太郎が命令しているという噂が高まった。もちろんそんなものはデマである。
 麟太郎は、彰義隊討伐が実行されないように懸命に努力を続けていた。
 しかし、それは阻止できそうもなかった。

  ある日、薩兵たちが上野で旧幕臣たちと斬りあう事件がおきた。
 薩兵の中に剣に秀でた者がいて、たちまち旧幕臣兵たちふたりが斬られた。そしてたちまちまた六人を殺した。
  彰義隊は本隊五百人、付属諸隊千五百人、総勢二千を越える人数となり、上野東叡山寛永寺のほかに、根岸、四谷に駐屯していた。
 彰義隊は江戸で官軍を殺しまくった。そのため長州藩大村益次郎が、太政官軍務官判事兼東京府判事として、江戸駐屯の官軍の指揮をとり、彰義隊討伐にとりかかることになった。
 西郷隆盛はいう。
「彰義隊といい、何隊というてん、烏合の衆であい申す。隊長はあれどもなきがごとく、規律は立たず、兵隊は神経(狂人)のごたる。紛々擾々たるのみじゃ。ゆえ条理をもって説論できなんだ」
 麟太郎は日記に記す。
「九日 彰義隊東台に多数集まり、戦争の企てあり。官軍、これを討たんとす」
大総督府には西郷以下の平和裡に彰義隊を解散させよう、という穏健派がいたという。 かれらは麟太郎や山岡鉄太郎らと親交があり、越後、東北に広がろうとしていた戦火をおさえようと努力していた。
 彰義隊などの旧幕府軍を武力をもって駆逐しようという過激派もいた。長州藩大村益次郎らである。
  官軍が上野の彰義隊らを攻撃したのは、五月十五日であった。連日降り続く雨で、道はむかるんでいた。彰義隊は大砲をかまえ、応戦した。官軍にはアームストロング砲がある。大砲の命中はさほど正確ではなかったが、アームストロング砲は爆発音が凄い。
 上野に立て籠もる諸隊を動揺させるのに十分な兵器だった。
 やがて砲弾が彰義隊たちを追い詰めていく。西郷も戦の指揮に加わった。
 午前七時からはじまった戦いは、午後五時に終わった。

  彰義隊討伐の作戦立案者は、大村益次郎であった。計画ができあがると、大村は大総督府で西郷吉之助(隆盛)に攻撃部署を指示した。
 西郷は書類をみてからしばらくして、
「彰義隊をみなごろしにされるおつもりでごわすか?」ときいた。
 大村は扇子をあけたり閉じたりしてから、天井を見上げ、しばらく黙ってから、
「さようであります」と答えたという。
 麟太郎は『氷川清話』に記す。
「大村益次郎などという男がおれを憎んで、兵隊なんかさしむけてひどくいじめるので、あまりばかばかしいから家へひっこんで、それなりに打ったゃっておいた。
 すると大久保利道がきて、ぜひぜひねんごろにと頼むものだから、それではとて、おれもいよいよ本気で肩入れするようになったのだ。
 なにしろ江戸市民百五十万という多数の人民が食うだけの仕事というものは容易に達せられない。そこでおれはその事情をくわしく話したら、さすがに大久保だ。それでは断然遷都の事に決しようと、こういった。すなわちこれが東京今日の繁昌の本だ」      
     

新島八重の桜 大河ドラマ『八重の桜』ふたたび維新回天草莽掘起篇ブログ小説6

2016年02月21日 08時41分11秒 | 日記










  江戸は治安が悪化していた。
 また不景気と不作で、米価が鰻のぼりになり百姓一揆までおこる有様だった。盗賊も増え、十一月には貧民たちが豪商の館を取り囲み威嚇する。
 民衆は、この不景気は幕府の”無能”のためだと思っていた。
 幕府強行派の小栗上野介らは、京坂の地において、薩長と幕府の衝突は避けられないと見ていたので、薩摩三田藩邸に強引でも措置をとるのは、やむえないと考えていた。
 江戸にいる陸海軍士官らは、兵器の威力に訴え、藩邸を襲撃するのを上策として、小栗にすすめた。小栗はこれを受け、閣老に伝える。
 小栗たち過激派は、薩摩の江戸藩邸を焼き討ちにすれば、大阪にいる閣老たちも、憤然として兵をあげるだろうと考えていた。しかし、朝比奈たちは「一時の愉快を得るために軽挙をなせば大事態を招く」と反対した。
 だが、十二月二十五日、薩摩の江戸藩邸は何の前触れもなく、かたっぱしから大砲をどんどんと撃ちこまれた。たちまち出火し、藩邸は紅蓮の炎に包まれ、焼失した。
 砲撃家たちはまことに愉快な気持ちだった。八王子へと逃げた薩摩浪人三十人ほどは、その地で召し捕られた。相摸へ逃げた浪士たちは、相州萩野山中の大久保出雲守陣屋へ放火した。不意打ちをくらった陣屋では怪我人もでて、武器を奪われた。
 薩摩藩では、薩摩屋敷が焼き討ちされたとき、約五百人のうち邸内にいたのは百人ほどであったという。
 薩摩藩邸焼き討ちについては、幕府海軍局にはまったく知らされてなかった。当時軍艦奉行をつとめていた木村兵庫守(芥舟)は目を丸くして驚いたという。
  慶喜は十二月、将軍の格式をもって、フランス、イギリス、イタリア、アメリカ、プロシア(ロシア)、オランダの、六カ国公使に謁見を許した。
 慶喜は各大使に次のように挨拶した。
「あいかわらず親睦を続けたい」
 六カ国公使たちに同じような言葉を発した。これをきいた大久保(利通)が、岩倉具視に書状を送り、徳川家の勢力を撲滅するのは武力しかない……と説いた。
 そんな中、薩摩藩邸焼き討ち事件が起こったのである。

  慶応三年(一八六七)京では、慶喜の立場が好転していた。尾張、土佐、越前諸藩の斡旋により、領地返上することもなく、新政府に参加する可能性が高くなっていった。
 しかし、十二月、上方にいる会津、桑名や幕府旗本たちに薩摩藩邸焼き討ち事件が知られるようになると、戦意は沸騰した。「薩長を倒せ! 佐幕だ!」いつ戦がおこってもおかしくない状況だった。蟠竜丸という艦船には榎本和泉守(武揚)が乗っており、戦をするしかない、というようなことを口を開くたびにいっていた。
 やがて、薩長と幕府の海軍は戦争状態になった。
 風邪で元旦から寝込んでいた慶喜も、のんびりと横になっている訳にもいかなくなった。寝ている彼のもとに板倉伊賀守がきて「このままでは済む訳はありません。結局上洛しなければ収拾はつかないでしょう」という。
 慶喜は側にあった孫子の兵法をみて、
 「彼を知り、己を知らば百戦危うからず、というのがある。そのほうに聞く、いま幕臣に西郷吉之助(隆盛)に匹敵する人材はおるか?」と尋ねた。
 板倉はしばらく沈黙したのち「………おりませぬ」といった。
「では、大久保一蔵(利通)ほどの人材はおるか?」
「………おりませぬ」
 慶喜は薩長の有名人たちの名をあげたが、板倉はそれらに匹敵する幕臣はおりませんというばかりである。慶喜は殺されないだろうか? と怖くなった。
 この板倉のいう通りだとすれば幕臣に名将がいないことになる。戦は負けるに決まっている。………なんということだ。
 もはや慶喜には、麾下将士の爆発をおさえられない。
 動乱を静めるような英雄的資質はもちあわせていない。
   だが、慶喜は元日に薩賊誅戮の上奉文をつくり、大目付滝川播磨守に持参させたという。つまり、只の傍観者ではなかったということだ。
「討薩表」と呼ばれる上奉文は、つぎのようなものだった。
「臣慶喜が、つつしんで去年九日(慶応三年十二月九日)以来の出来事を考えあわせれば、いちいち朝廷の御真意ではなく、松平修理太夫(薩摩藩主島津忠義)の奸臣どもの陰謀より出たことであるのは、天下衆知の所であります。(中訳)
 奸臣とは西郷、大久保らを指す」
 別紙には彼等の罪状を列挙した。
「薩摩藩奸党の罪状の事。
 一、大事件に衆議をつくすと仰せ出されましたが、去年九日、突然非常御改革を口実として、幼帝を侮り奉り、さまざまの御処置に私論を主張いたしたこと。
 一、先帝(考明天皇)が、幼帝のご後見をご依託された摂政殿下を廃し、参内を止めたこと。
 一、私意をもって官、堂上方の役職をほしいままに動かしたこと。
 一、九門そのほかの警護と称して、他藩を煽動し、武器をもって御所に迫ったことは、朝廷をはばからない大不尊であること。
 一、家来どもが浮浪の徒を呼び集め、屋敷に寝泊まりさせ、江戸市内に押し込み強盗をはたらき、酒井左衛門尉の部下屯所へ銃砲を撃ち込む乱暴をはたらき、そのほか野州、相州方々で焼き討ち強盗をした証拠はあきらかであること」
  当時、京も大坂も混乱の最中にあった。町には乞食や強盗があふれ、女どもは皆てごめにされ、男どもは殺され、さらに官軍が江戸へ向けて出発しつつある。
 しかも、”錦の御旗”(天皇家の家紋)を掲げて……
 京とに向かう幕府軍の総兵力は一万五千であった。伏見街道で直接実戦に参加したのはその半分にも満たない。薩長連合軍(官軍)は一万と称していたが、実際は二千から三千程度である。比較すると十対二、三である。
 幕府軍の総兵力一万五千の一部は、伏見街道で直接実戦に参加した。
 幕府軍の指揮者は、「何倍もの兵力をもつ幕府軍に薩長が戦をしかけてくるはずはない」とたかをくくっている。見廻組が薩長軍の偵察にいき、引き、また引きしているうちに幕府軍は後退をよぎなくされた。幕府軍は脆かった。
 滝川播磨守は、幕軍縦隊を前進させると、薩長は合図のラッパを吹き、街道に設置しておいた大砲が火を噴いた。左右から幕府軍はたたかれた。
 滝川は大目付で、軍隊の指揮能力に欠ける。彼は大砲の轟音にびくつき馬で遁走した。指揮者がこの調子だから、勝てる戦ではない。砲弾で幕府軍たちは殺されたり、怪我したりして皆遁走(逃走)しだす。兵数は五倍の幕府軍はびくつき混乱しながら逃げた。
 幕府軍は大損害を受け、下鳥羽へ退いた。
 江戸にいる麟太郎は、九日に、鳥羽、伏見の戦の情報をはじめて知った。
 麟太郎は日記に記す。
「正月の何日だったか、急に海軍局の奴がきて、偉い方が軍艦でおつきになったという。俺は上様だろうと何だろうと関係ねぇ。今はでる幕じゃねぇといってやったさ。しかし、勝安房守を呼び出せとしきりにいう。いけないといって出なかった。
 それでも安房をよべとうるさい。俺を呼ぶ前にもっとやることがあるだろうに、こんなんだから薩長に負けるんだ」
 慶喜が大坂を放棄したことで幕府の運命がまた暗転した。
 麟太郎は「このままではインドの軼を踏む。今はうちわで争っているときじゃねぇ。このままじゃすきを付かれ日本は外国の植民地になっちまう」と危惧した。
 それは、杞憂ではないことを、麟太郎は誰よりもわかっていた。           


救会・救庄のための同盟

 慶應四年(1868年)三月、遅まきながら会津藩では軍制改革が図られた。歳かさの順に「玄武隊」「青龍隊」「朱雀(すざく)隊」「白虎隊」が組織された。
会津藩は京都守護職、庄内藩は江戸市中取締を命ぜられ旧幕府の要職にあり、薩長と対立したために「朝敵」として新政府からの攻撃対象とされ、特に会津藩は幕府派の首魁と目されていた。
会庄両藩の外交の動きは、2011年2月、東京大学史料編纂所箱石大准教授らにより、両藩が当時のプロイセン代理公使マックス・フォン・ブラントを通じて、領有する北海道の根室や留萌の譲渡と引き換えにプロイセンとの提携を模索していたことを示す、ブラントから本国への書簡がドイツ国立軍事文書館で発見されたことにより、明らかになってきた。
この文書において、プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクは中立の立場から会庄両藩の申し出を断っている。
しかしプロイセン海軍大臣は、日本が混迷している隙をつき、他国同様、領土確保に向かうべきであると進言している。
会津藩内では武装恭順派と抗戦派が対立したが、藩主松平容保は家督を養子の喜徳へ譲り謹慎を行い恭順の意志を示した。
しかし、この武装恭順は認められず、慶応4年(1868年)1月17日、新政府は仙台藩・米沢藩をはじめとする東北の雄藩に会津藩追討を命じた。
3月2日、奥羽鎮撫総督九条道孝が京都をたって3月23日仙台に入った。
鎮撫使は仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫ったため3月27日に会津藩境に出兵した。
が、この間も仙台藩・米沢藩等は会津藩と接触を保って謝罪嘆願の内容について検討を重ねていた。
4月29日、七が宿・関宿にて仙台・米沢・会津藩による談判がもたれ、会津藩が謀主の首級を出し降伏することに一旦同意した。
しかし、数日後にはそれを翻した内容の嘆願書を持参する。これを見て仙台藩は説得を諦めることとなる。
一方、庄内藩では、江戸市中警備を行っていた新徴組を引き上げるのに当たって、その褒賞として最上川西岸の天領を接収してしまう。
4月10日、このことを口実に奥羽鎮撫府は庄内征伐を決め、久保田、弘前両藩に討ち入りを命じた。
14日には副総督沢為量ら討庄軍が仙台を出発して庄内藩の討伐に向かい、奥羽諸藩の兵とともに新庄城を拠点に庄内藩へ侵攻した。
24日に清川口で最初の戦闘が発生したが、庄内軍が薩長軍を撃退する。
この段階では各藩とも戦闘に消極的であった。
会津藩と庄内藩はともに朝敵とされたことから、会津藩は南摩綱紀を庄内藩に派遣、4月10日に庄内藩重役の松平権十郎らと会合を持ち、会庄同盟を結成する。
なお、松平権十郎は米沢藩が同盟に加われば仙台藩も同盟に加わると意見を述べており、この時期に「奥羽列藩同盟」構想の胚芽が出ていると言える。
そのころ庄内藩は、当時日本一の大地主と言われ藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入するなど軍備の強化を進めており、それが会津藩を勇気づけることとなった。
結局、前述の仙台藩の会津出兵による説得は功をなさないものであったと言えよう。
こうした中、閏4月4日米沢藩・仙台藩4家老の名前で、奥羽諸藩に対して列藩会議召集の回状が回された。
閏4月11日、奥羽14藩は仙台藩領の白石城において列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」などを奥羽鎮撫総督に提出した。
しかしこれが却下されたため、閏4月19日諸藩は会津・庄内の諸攻口における解兵を宣言した。
奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵は4月12日に仙台を出発して白河方面に赴き、各地で会津藩への進攻を督促していた。
が、閏4月19日に福島に入り旅宿金沢屋に投宿していた。ここで、同じく下参謀であった薩摩藩大山格之助に密書を書いた。
内容は、鎮撫使の兵力が不足しており奥羽鎮撫の実効が上がらないため、奥羽の実情を総督府や京都に報告して増援を願うものであった。
が、この密書が仙台藩士瀬上主膳や姉歯武之進らの手に渡った。姉歯らは以前から世良修蔵の動向を警戒していたが、密書の中にある「奥羽皆敵」の文面を見て激昂した彼らは、翌日金沢屋において世良修蔵を襲撃した。
世良はピストルで応戦するが不発、あえなく捕らえられ、阿武隈川の河原にて斬首された。
会津赦免の嘆願の拒絶と世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に変更することとなった。
そのためには奥羽諸藩の結束を強める必要があることから、閏4月23日新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。
その後、仙台において白石盟約書における大国強権の項の修正や同盟諸藩の相互協力関係を規定して、5月3日に25藩による盟約書が調印された。
同時に会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。
奥羽列藩同盟成立の月日については諸説あるが、仙台にて白河盟約書を加筆修正し、太政官建白書の合意がなった5月3日とするのが主流のようである。
翌4日には、新政府軍との会談に決裂した越後長岡藩が加盟、6日には新発田藩等の北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による奥羽越列藩同盟が成立した。
幕府総監沢為量率いる新政府軍は庄内討伐のため秋田に滞在しており、世良が暗殺された後は、九条は仙台藩において軟禁状態になっていた。
5月1日、松島に新政府軍の佐賀藩、小倉藩の兵が上陸し、九条の護衛のため仙台城下に入った。
九条は、奥羽諸藩の実情を報告するために副総督沢と合流して上京する旨を仙台藩側に伝えた。
翌15日列藩会議が開かれてこの問題が討議され、九条の解放に反対する意見も出たが、結局九条の転陣が内定し、18日仙台を発って盛岡に向かった。
 奥羽越列藩同盟の政策機関として奥羽越公議府(公議所とも)がつくられ、諸藩の代表からなる参謀達が白石城で評議を行った。
奥羽越公議府において評議された戦略は、「白河処置」及び「庄内処置」、「北越処置」、「総括」であり、全23項目にのぼる。
主に次のような内容で構成される。
白河以北に薩長軍を入れない、主に会津が担当し仙台・二本松も出動する
庄内方面の薩長軍は米沢が排除する
北越方面は長岡・米沢・庄内が当たる
新潟港は列藩同盟の共同管理とする
薩長軍の排除後、南下し関東方面に侵攻し、江戸城を押さえる
世論を喚起して、諸外国を味方につける
このほか、プロシア領事、アメリカ公使に使者を派遣し貿易を行うことを要請している。
上野戦争から逃れ、6月6日に会津に入っていた輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)を同盟の盟主に戴こうとする構想が浮上した。
当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請された。
が、結局6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に出席した。
また、輪王寺宮の「東武皇帝」への推戴も構想にあったとされるが、よくわかっていない。
確かなのは輪王寺宮が会津入りする以前の4月の段階で用語などが天皇扱いされていたこと。
それと、「東武皇帝の閣僚名簿」としていくつかの文書が知られているだけである。
当時の日本をアメリカ公使は本国に対して、
「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」
と伝えており、新聞にも同様の記事が掲載されている。
なお、輪王寺宮は列藩会議への出席に先立ち、7月10日に全国の10万石以上の大名に対して、「動座布告文」と「輪王寺宮令旨」を発令している。
この中で輪王寺宮は諸大名に対して、
『幼君(明治天皇)を操る君側の奸、薩摩・長州を取り除く』
ことを強く主張している。
幼君を字義通りに解釈すれば明治天皇の帝位を認めていることになるが、必ずしも輪王寺宮の即位を否定する根拠とならない。
したがって、輪王寺宮が奥羽越列藩同盟の事実上の元首であったことは間違いない。
が、東武皇帝として即位したかどうか、統一した見解は得られていない。
 奥羽越列藩同盟は、まず列藩会議があり、その下に白石に奥羽越公議府が置かれた。
その後輪王寺宮が盟主に就任し、旧幕府の閣老である板倉勝静、小笠原長行にも協力を仰ぎ、次のような組織構造が成立した。
盟主 : 輪王寺宮
総督 : 仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲
参謀 : 小笠原長行、板倉勝静
政策機関 : 奥羽越公議府(白石)
大本営 : 軍事局(福島)
最高機関 : 奥羽越列藩会議
この結果、形式的には京都新政府に対抗する権力構造が整えられたとする評価もあるが、これらが実際に機能する前に同盟が崩壊してしまったとする説もあり、奥羽越政権としての評価は定まっていない。
戦闘は大まかに庄内・秋田戦線、北越戦線、白河戦線、平潟戦線に分けることができる。
このうち、秋田戦線については久保田藩の新政府への恭順により加わったものである。
なお、同様に新政府側となった弘前藩との間では野辺地で盛岡・八戸両藩と戦闘となっている(野辺地戦争)。
江戸警護役として「薩摩藩邸焼き討ち」を断行した庄内藩(酒井氏)と、列藩同盟に軟禁されていた九条総督を迎え新政府側に転じた久保田藩(佐竹氏)を中心とする戦い。
薩摩藩、長州藩を中心とする新政府は、薩摩藩士、大山綱良を下参謀に、公家、九条道孝を総督にそれぞれ任命して奥羽鎮撫総督府をつくると、薩摩藩兵を海路、仙台藩に送り込んだ。
仙台藩に会津追討を命じた総督府は、庄内藩を討つため仙台から出陣した。
4月24日、いわれなき「朝敵」の汚名を着せられた庄内藩は、清川口から侵攻してきた大山綱良率いる新政府軍を迎え撃った。
新政府軍の侵攻を予想して、豪商、本間家からの献金で最新鋭の小銃を購入し洋化を進めていた庄内藩は、戦術指揮も優秀であったため、新政府軍を圧倒した。
 5月18日に仙台を出た九条総督一行は「伊達の敵といえば」と6月3日に盛岡に入ったが、盛岡藩はいまだ藩論統一をみない、新政府側家老暗殺の動きすらある状態であったことからこれを諦め、盛岡藩は金銭を支払う形で領内退去を願い、総督は6月24日秋田へ出発した。
7月1日、九条一行は秋田にて沢副総督と再会し、東北の新政府軍が秋田に集結することになった。
同藩出身である平田篤胤の影響で尊王論の強かった久保田藩においては、同盟か朝廷かで藩論が二分された。
が、平田学の影響を受けた若い武士により、仙台藩からの使者を斬殺するに至って(このとき盛岡藩士も巻き込まれているが泣き寝入りとなった)、政府軍への参加と庄内藩への進攻を決定した。
仙台藩はこれに怒り久保田領内に侵攻し、庄内藩と共同作戦をとりつつ横手城を陥落させ、久保田城へ迫った。
庄内藩は新政府軍側についた新庄藩、本荘藩、久保田藩へと侵攻する。藩論統一が成されていなかった盛岡藩は仙台藩に恫喝される形で軍を発し、久保田藩領内北部から進入、かねてより仙台藩と親しかった家老楢山佐渡の指揮のもと、町村を焼き払いながら侵攻し、大館城を陥落させ、さらに久保田城の方向に攻め入った。
秋田南部での戦いでは、薩長兵や新庄兵が守る新庄城を数で劣る庄内藩が激戦の末に撃破し、秋田に入った後も、列藩同盟側は極めて優勢に戦いを進めていた。
特に、庄内藩の鬼玄蕃と呼ばれた家老酒井吉之丞は二番大隊を率い奮戦した。
彼は、最初から最後まで負け戦らしい戦闘を経験せず、同盟側の多くが降伏し、庄内領内にも敵が出没するという情勢を受けて、現在の秋田空港の近くから庄内藩領まで無事撤退を完了させて、その手腕を評価された。
秋田北部の戦いでは盛岡藩は大館城を攻略した後、きみまち坂付近まで接近するものの、新政府軍側の最新兵器を持った兵が応援に駆けつけると形勢は逆転し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。
盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた。
結果として、久保田領内はほぼ全土が戦火にさらされることになった。
長岡・米沢藩を中心とした列藩同盟軍と新政府軍との長岡藩周辺及び新潟攻防戦を中心とした一連の戦闘。
北越においては、5月2日(6月21日)の小千谷談判の決裂後、長岡藩は奥羽越列藩同盟に正式に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。
これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた。
家老河井継之助率いる長岡藩兵は強力な火力戦により善戦するが、5月19日には長岡城が陥落した。
しかし、その後も長岡藩は奮闘し、7月末には長岡城を一時的に奪還したが、この際の負傷が原因で河井継之助は死亡した。
結局長岡城は新政府軍に奪われ、会津へ敗走した。
新潟は列藩同盟側の武器調達拠点であるとともに、阿賀野川を制することにより庄内・会津方面の防衛線としても重要な拠点であった。
新潟は米沢藩を中心に守りを固めていたが、7月25日、新政府軍に寝返った新発田藩の手引きによって新政府軍が上陸。
同月29日には新潟は制圧され、米沢藩は敗走した。謙信公以来、関ヶ原で西軍について負けた以外「無敗伝説」を誇っていたさすがの米沢・上杉藩も最新兵器や物量で優る官軍には、勝てなかった。
会津藩及び奥羽越列藩同盟軍と北上してきた新政府軍との白河口、二本松、日光口、母成峠から若松城下の戦いに至る一連の戦闘。
同盟結成後直ちに白河城を制圧した同盟軍であった。
が、5月1日、薩摩藩士、伊地知正治率いる新政府軍は同盟軍から白河城を奪還する。
以後、白河城をめぐり3か月余りも攻防戦(白河口の戦い)が行われた。
5月1日仙台藩・会津藩等の連合軍は2500以上の大兵を擁しながら白河口の戦いで新政府軍700に大敗し白河城も陥落する。
6月12日には仙台藩・会津藩・二本松藩連合軍が、白河城を攻撃したものの、失敗に終わった。
6月26日には列藩同盟軍が白河から撤退し須賀川へ逃れることとなる。
一方、太平洋側では、6月16日、土佐藩士、板垣退助率いる新政府軍が、海路、常陸国(茨城県)平潟に上陸した。
6月24日、仙台藩兵を主力とする同盟軍は、新政府軍と棚倉で激突した。6月24日には棚倉城が陥落。
さらに、7月13日には、「平城の戦い」が行われた。列藩同盟の準盟主格の米沢藩はこの戦闘には不参加で、同盟軍は平城の戦いに敗れた。
仙台藩兵が退却すると、新政府軍は仙台藩兵を追撃。
7月26日、同盟軍と新政府軍は広野で再び戦い、新政府軍は同盟軍を破った。
その後8月6日には相馬中村藩の降伏により完全に新政府軍が制圧する。
7月26日には勤皇派が実権を得た三春藩が新政府軍に恭順し、二本松方面へ攻撃準備に加わり、7月29日に二本松城が陥落した。
二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標を会津にするか仙台・米沢にするかで意見が分かれた。
が、会津を攻撃することとなった。会津戦争の始まりである。
会津は江戸占領を意図し、南方の日光口を中心に若松から遠く離れた各所に部隊を送っていたが、二本松まで北上していた新政府軍は若松の東の母成峠から攻め、敏速に前進し8月23日には若松城下に突入した。
遠方に兵力があった会津藩は新政府軍の前進を阻止できず、各地の戦線は崩壊し、各地の部隊は新政府の前進を阻止するでもなく若松への帰還を志向し、城下では予備部隊である白虎隊まで投入するがあえなく敗れた。
7月26日まず三春藩が降伏、28日には松前藩で尊王派の正議隊による政変(正議隊事件)が起きて降伏した。
続いて、29日に二本松藩の本拠二本松城が落城した。
次いで8月6日相馬中村藩が降伏。
日本海側の戦線では、新政府軍は新潟に上陸した後、8月いっぱいは下越を戦場に米沢藩と戦っていたが、遂に羽越の国境に迫られた米沢藩は9月4日に降伏、そして12日には仙台藩と、盟主格の二藩が相次いで降伏した。
その後、15日福島藩、上山藩、17日山形藩、18日天童藩、19日会津藩、20日盛岡藩、23日庄内藩と主だった藩が続々と降伏し、奥羽越列藩同盟は完全に崩壊した。
盛岡藩降伏後の9月23日未明、突如として弘前・黒石両藩が盛岡・八戸両藩が守備する野辺地へ侵攻した。
一旦は盛岡・八戸藩が退却するも、反撃に転じ弘前・黒石軍を撃破する。
双方の戦死者は盛岡・八戸両藩が8名なのに対し、弘前・黒石両藩が29名(或いは43名とされる)であり津軽側の大敗であった。
この戦闘の原因は津軽側の実績作りといわれるが不明である。
同様の小競り合いは鹿角郡濁川でも起こっているが、いずれも戦後処理においては私闘とされた。
白石列藩会議から参加した14藩
仙台藩
米沢藩
二本松藩
湯長谷藩
棚倉藩
亀田藩
相馬中村藩
山形藩
福島藩
上山藩
一関藩
矢島藩
盛岡藩
三春藩*
新たに奥羽同盟に参加した11藩
久保田藩(秋田藩)*
弘前藩*
守山藩*
新庄藩*
八戸藩
平藩
松前藩*
本荘藩*
泉藩
下手渡藩
天童藩
奥羽越列藩同盟に参加した北越6藩
長岡藩
新発田藩*
村上藩
村松藩
三根山藩
黒川藩
その他
請西藩
注)*は新政府軍に寝返った藩(進退窮まっての降伏は除く)

         3 江戸無血開城





話を少し戻す。
 大坂からイギリスの蒸気船で江戸へと戻ったのち、福地源一郎(桜痴)は『懐従事談』という著書につぎのようなことを書いている。
「国家、国体という観念は、頭脳では理解していたが、土壇場に追いつめられてみると、そのような観念は忘れはてていた。
 常にいくらか洋書も読み、ふだんは万国公法がどうである、外国交際がこうである、国家はこれこれ、独立はこういうものだなどと読みかじり、聴きかじりで、随分生意気なこともいった。
 そして人を驚かし、自分の見識を誇ったものだが、いま幕府の存廃が問われる有様のなかに自分をおいてみると、それまでの学問、学識はどこかへ吹き飛んだ。
 将来がどうなり、後の憂いがどうなろうとも、かえりみる余裕もなく、ただ徳川幕府が消滅するのが残念であるという一点に、心が集中した」
 外国事情にくわしい福地のようなおとこでも、幕府の危機はそのようなとらえかただった。「そのため、あるいはフランスに税関を抵当として外債をおこし、それを軍資金にあて、援兵を迎えようという意見があれば、ただちに同意する。
 アメリカからやってくる軍艦を、海上でだまし取ろうといえば、意義なく応じる。横浜の居留地を外国人に永代売渡しにして軍用金を調達しようという意見に、名案であるとためらいなく賛成する。(中訳)
 謝罪降伏論に心服せず、前将軍家(慶喜)をお怨み申しあげ、さてもさても侮悟、謝罪、共順、謹慎とはなにごとだ。
 あまりにも気概のないおふるまいではないか。徳川家の社稷に対し、実に不孝の汚名を残すお方であると批判し、そんな考えかたをおすすめした勝(安房・麟太郎)、大久保越中守のような人々を、国賊のように罵り、あんな奸物は天誅を加えろと叫び、朝廷への謝罪状をしるす筆をとった人々まで、節義を忘れた小人のように憎んだ」
 当時の江戸の様子を福沢諭吉は『福翁自伝』で記している。
「さて慶喜さんが、京都から江戸に帰ってきたというそのときに、サァ大変、朝夜ともに物論沸騰して、武家はもちろん、長袖の学者も、医者も、坊主も、皆政治論に忙しく、酔えるかせこせとく、狂するがごとく、人が人の顔をみれば、ただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。
 ふだんなれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名のいるところで、なかなかやかましいのが、まるで無住のお寺を見たようになって、ゴロゴロあぐらをかいて、どなる者もあれば、ソッと袖下からビンを出して、ブランデーを飲んでる者もあるというような乱脈になりはてたけれども、私は時勢を見る必要がある。
 城中の外国方の翻訳などの用はないけれども、見物半分に城中に出ておりましたが、その政論良好の一例を見てみると、ある日加藤弘之といま一人誰だったか、名は覚えてませんが、二人が裃を着て出てきて、外国方の役所に休息しているから、私がそこにいって、『やあ、加藤くん、裃など着て何事できたのか?』というと、『何事だって、お逢いを願う』という。
 というのはこのとき慶喜さんが帰ってきて、城中にいるでしょう。
 論客、忠臣、義士が躍起になって『賊を皆殺しにしろ』などとぶっそうなことをいいあっている」

 麟太郎が突然、慶喜から海軍奉行並を命じられたのは慶応四年(一八六八)正月十七日夜、のことである。即座に、麟太郎は松平家を通じて、官軍に嘆願書を自ら持参すると申しでた。
 閣老はそれを許可したが、幕府の要人たちは反対した。
「勝安房守先生にもしものことがあればとりかえしがつかない。ここは余人にいかせるべきだ」
 結局、麟太郎の嘆願書は大奥の女中が届けることになった。
 正月十八日、麟太郎は、東海道、中仙道、北陸道の諸城主に、”長州は蛤御門の変(一八六四 元治元年)を起こしたではないか”という意味の書を送った。
 一月二十三日の夜中に、麟太郎は陸軍総裁、若年寄を仰せつけられた。
「海軍軍艦奉行だった俺が、陸軍総裁とは笑わせるねえ。大変動のときにあたり、三家三卿以下、井伊、榊原、酒井らが何の面目ももたずわが身ばかり守ろうとしている。
 誰が正しいかは百年後にでも明らかになるかもしれねぇな」
 麟太郎は慶喜にいう。
「上様のご決心に従い、死を決してはたらきましょう。
 およそ関東の士気、ただ一時の怒りに身を任せ、従容として条理の大道を歩む人はすくなくないのです。
 必勝の策を立てるほどの者なく、戦いを主張する者は、一見いさぎよくみえますが勝算はありません。薩長の士は、伏見の戦いにあたっても、こちらの先手を取るのが巧妙でした。幕府軍が一万五、六千人いたのに、五分の一ほどの薩長軍と戦い、一敗地にまみれたのは戦略をたてる指揮官がいなかったためです。
 いま薩長勢は勝利に乗じ、猛勢あたるべからざるものがあります。
 彼らは天子(天皇)をいただき、群衆に号令して、尋常の策では対抗できません。われらはいま柔軟な姿勢にたって、彼等に対して誠意をもってして、江戸城を明け渡し、領土を献ずるべきです。
 ゆえに申しあげます。上様は共順の姿勢をもって薩長勢にあたってくだされ」
 麟太郎は一月二十六日、フランス公使(ロッシュ)が役職についたと知ると謁見した。その朝、フランス陸軍教師シャノワンが官軍を遊撃する戦法を図を広げて説明した。和睦せずに戦略を駆使して官軍を壊滅させれば幕府は安泰という。
 麟太郎は思った。
「まだ官軍に勝てると思っているのか……救いようもない連中だな」
  麟太郎の危惧していたことがおこった。
 大名行列の中、外国人が馬でよこぎり刀傷事件がおこったのだ。生麦事件の再来である。大名はひどく激昴し、外人を殺そうとした。しかし、逃げた。
 英国公使パークスも狙われたが、こちらは無事だった。襲ってきた日本人が下僕であると知ると、パークスは銃を発砲した。が、空撃ちになり下僕は逃げていったという。
 二月十五日まで、会津藩主松平容保は江戸にいたが、そのあいだにオランダ人スネルから小銃八百挺を購入し、海路新潟に回送し、品川台場の大砲を借用して箱館に送り、箱館湾に設置した大砲を新潟に移すなど、官軍との決戦にそなえて準備をしていたという。
(大山伯著『戊辰役戦士』)

  薩長の官軍が東海、東山、北陸の三道からそれぞれ錦御旗をかかげ物凄い勢いで迫ってくると、徳川慶喜の抗戦の決意は揺らいだ。越前松平慶永を通じて、「われ共順にあり」という嘆願書を官軍に渡すハメになった。
 麟太郎は日記に記す。
「このとき、幕府の兵数はおよそ八千人もあって、それが機会さえあればどこかへ脱走して事を挙げようとするので、おれもその説論にはなかなか骨がおれたよ。
 おれがいうことがわからないなら勝手に逃げろと命令した。
そのあいだに彼の兵を越えた三百人ほどがどんどん九段坂をおりて逃げるものだから、こちらの奴もじっとしておられないと見えて、五十人ばかり闇に乗じて後ろの方からおれに向かって発砲した。
 すると、かの脱走兵のなかに踏みとどまって、おれの提灯をめがけて一緒に射撃するものだから、おれの前にいた兵士はたちまち胸をつかれて、たおれた。
 提灯は消える。辺りは真っ暗になる。おかげでおれは死なずにすんだ。
 雨はふってくるし、わずかな兵士だけつれて撤退したね」


  旧幕府軍と新選組は上方甲州で薩長軍に敗北。
 ぼろぼろで血だらけになった「誠」の旗を掲げつつ、新選組は敗走を続けた。
 慶応四年一月三日、旧幕府軍と、天皇を掲げて「官軍」となった薩長軍がふたたび激突した。鳥羽伏見の戦いである。新選組の井上源三郎は銃弾により死亡。副長の土方歳三が銃弾が飛び交う中でみずから包帯を巻いてやり、源三郎はその腕の中で死んだ。
「くそったれめ!」歳三は舌打ちをした。
 二週間前に銃弾をうけて、近藤は療養中だった。よってリーダーは副長の土方歳三だった。永倉新八は決死隊を率いて攻め込む。官軍の攻撃で伏見城は炎上…旧幕府軍は遁走しだした。
 土方は思う。「もはや刀槍では銃や大砲には勝てない」
 そんな中、近藤は知らせをきいて大阪まで足を運んだ。「拙者の傷まだ癒えざるも幕府の不利をみてはこうしてはいられん」
 それは決死の覚悟であった。
 逃げてきた徳川慶喜に勝海舟は「新政府に共順をしてください」と説得する。勝は続ける。「このまま薩長と戦えば国が乱れまする。ここはひとつ慶喜殿、隠居して下され」
 それに対して徳川慶喜はオドオドと恐怖にびくつきながら何ひとつ言葉を発せなかった。 ……死ぬのが怖かったのであろう。
 勝は西郷を「大私」と呼んで、顔をしかめた。

 西郷隆盛は「徳川慶喜の嘘はいまにはじまったことではない。慶喜の首を取らぬばならん!」と打倒徳川に燃えていた。このふとった大きな眼の男は血気さかんな質である。
 鹿児島のおいどんは、また戦略家でもあった。
 ……慶喜の首を取らぬば災いがのこる。頼朝の例がある。平家のようになるかも知れぬ。幕府勢力をすべて根絶やしにしなければ、維新は成らぬ……
  江戸に新政府軍が迫った。江戸のひとたちは大パニックに陥った。共順派の勝海舟も狙われる。一八六八年(明治元年)二月、勝海舟は銃撃される。しかし、護衛の男に弾が当たって助かった。勝は危機感をもった。
 もうすぐ戦だっていうのに、うちわで争っている。幕府は腐りきった糞以下だ!
 勝海舟は西郷隆盛に文を送る。
 ……”わが徳川が共順するのは国家のためである。いま兄弟があらそっているときではない。あなたの判断が正しければ国は救われる。しかしあなたの判断がまちがえば国は崩壊する”………
  官軍は江戸へ迫っていた。
  慶喜は二月十二日朝六つ前(午前五時頃)に江戸城をでて、駕籠にのり東叡山塔中大慈院へ移ったという。共は丹波守、美作守……
 寺社奉行内藤志摩守は、与力、同心を率いて警護にあたった。
                    
 慶喜は水戸の寛永寺に着くと、輪王寺宮に謁し、京都でのことを謝罪し、隠居した。
 山岡鉄太郎(鉄舟)、関口ら精鋭部隊や、見廻組らが、慶喜の身辺護衛をおこなった。  江戸城からは、静寛院宮(和宮)が生母勧行院の里方、橋本実麗、実梁父子にあてた嘆願書が再三送られていた。もし上京のように御沙汰に候とも、当家(徳川家)一度は断絶致し候とも、私上京のうえ嘆願致し聞こえし召され候御事、寄手の将御請け合い下され候わば、天璋院(家定夫人)始めへもその由聞け、御沙汰に従い上京も致し候わん。
 再興できぬときは、死を潔くし候心得に候」
 まもなく、麟太郎が予想もしていなかった協力者が現れる。山岡鉄太郎(鉄舟)、である。幕府旗本で、武芸に秀でたひとだった。
 文久三年(一八六三)には清河八郎とともにのちの新選組をつくって京都にのぼったことがある人物だ。山岡鉄太郎が麟太郎の赤坂元氷川の屋敷を訪ねてきたとき、当然ながら麟太郎は警戒した。
 麟太郎は「裏切り者」として幕府の激徒に殺害される危険にさらされていた。二月十九日、眠れないまま書いた日記にはこう記する。
「俺が慶喜公の御素志を達するため、昼夜説論し、説き聞かせるのだが、衆人は俺の意中を察することなく、疑心暗鬼を生じ、あいつは薩長二藩のためになるようなことをいってるのだと疑いを深くするばかりだ。
 外に出ると待ち伏せして殺そうとしたり、たずねてくれば激論のあげく殺してしまおうとこちらの隙をうかがう。なんの手のほどこしようもなく、叱りつけ、帰すのだが、この難儀な状態を、誰かに訴えることもできない。ただ一片の誠心は、死すとも泉下に恥じることはないと、自分を励ますのみである」
 鉄太郎は将軍慶喜と謁見し、頭を棍棒で殴られたような衝撃をうけた。
  隠居所にいくと、側には高橋伊勢守(泥舟)がひかえている。顔をあげると将軍の顔はやつれ、見るに忍びない様子だった。
 慶喜は、自分が新政府軍に共順する、ということを書状にしたので是非、官軍に届けてくれるように鉄太郎にいった。
 慶喜は涙声だったという。
 麟太郎は、官軍が江戸に入れば最後の談判をして、駄目なら江戸を焼き払い、官軍と刺し違える覚悟であった。
 そこに現れたのが山岡鉄太郎(鉄舟)と、彼を駿府への使者に推薦したのは、高橋伊勢守(泥舟)であったという。
 麟太郎は鉄太郎に尋ねた。
「いまもはや官軍は六郷あたりまできている。撤兵するなかを、いかなる手段をもって駿府にいかれるか?」
 鉄太郎は「官軍に書状を届けるにあたり、私は殺されるかも知れません。しかし、かまいません。これはこの日本国のための仕事です」と覚悟を決めた。
 鉄舟は駿府へ着くと、宿営していた大総督府参謀西郷吉之助(隆盛)が会ってくれた。鉄太郎は死ぬ覚悟を決めていたので銃剣にかこまれても平然としていた。
 西郷吉之助は五つの条件を出してきた。
 一、慶喜を備前藩にお預かり
 一、江戸城明け渡し
 一、武器・軍艦の没収
 一、関係者の厳重処罰
 西郷吉之助は「これはおいどんが考えたことではなく、新政府の考えでごわす」
 と念をおした。鉄舟は「わかりました。伝えましょう」と頭を下げた。
「おいどんは幕府の共順姿勢を評価してごわす。幕府は倒しても徳川家のひとは殺さんでごわす」
 鉄舟はその朗報を伝えようと馬に跨がり、帰ろうとした。品川宿にいて官軍の先発隊がいて「その馬をとめよ!」と兵士が叫んだ。
 鉄舟は聞こえぬふりをして駆け過ぎようとすると、急に兵士三人が走ってきて、ひとりが鉄舟の乗る馬に向け発砲した。鉄舟は「やられた」と思った。が、何ともない。雷管が発したのに弾丸がでなかったのである。
 まことに幸運という他ない。やがて、鉄太郎は江戸に戻り、報告した。麟太郎は「これはそちの手柄だ。まったく世の中っていうのはどうなるかわからねぇな」といった。
 官軍が箱根に入ると幕臣たちの批判は麟太郎に集まった。
 しかし、誰もまともな戦略などもってはしない。只、パニックになるばかりだ。
 麟太郎は日記に記す。
「官軍は三月十五日に江戸城へ攻め込むそうだ。錦切れ(官軍)どもが押しよせはじめ、戦をしかけてきたときは、俺のいうとおりにはたらいてほしいな」
 麟太郎はナポレオンのロシア遠征で、ロシア軍が使った戦略を実行しようとした。町に火をかけて焦土と化し、食料も何も現地で調達できないようにしながら同じように火をかけつつ遁走するのである。



アメリカ合衆国大統領選挙の陳腐さ

2016年02月20日 12時17分30秒 | 日記







アメリカ合衆国大統領選挙の陳腐さ

 現在(2016年2月)、アメリカ大統領選挙が激しい。過激な発言で物議を醸すドナルド・トランプ氏(不動産王・大富豪)、民主社会主義者バーニー・サンダース氏、本命ながら女性初大統領ながらハブかれているヒラリー・ロダム・クリントン氏……
まあ、国民が直接大統領を選べる大統領制(日本は議院内閣制)は魅力がある。
だが、トランプ氏やサンダース氏の発言をきくと「本当に大丈夫なのか???」と疑問ばかり残る。
トランプ氏は「移民を拒絶して受け入れない!メキシコとの国境に壁を築く!!」。サンダース氏は「学生の授業料無料(ハーバードなら1年間で500万円の授業料)」「財源は1%の富裕層に払わせる!」「格差をなくす!」等無茶苦茶なことをいっている。
本命馬のヒラリー・ロダム・クリントン元国務長官は飽きられている。日本の政治家と何が違うというのか???
あまりにもポピュリズム(大衆迎合主義)である。
米国は「”世界の警察官”をやめたい」とまで言っており看過できない。
米国は世界一の大富豪(国民の1%)国家だ。いわば世界のリーダーであり、それなりの責任と権限が伴う。
トランプ氏のような過激な本音を言っていれば「戦争」になるだけだし、サンダース氏のような民主主義的社会主義では中国と同じになる。何が良くて何が悪いのかそういうこともわからないなら日本の政治家と何が違うのか?
日本の政治家は高学歴なだけか馬鹿。「アメリカの大統領は黒人、奴隷ですよ」(丸山議員)「えーと、はぼ…なんていうんだっけ(歯舞)」(某女性大臣)「福島の除染基準は適当だ」(某女性大臣)「パートタイマーの月収は25万円」(首相)こんな連中が政治家では国がおかしくなっても道理だ。こんな連中とアメリカ大統領候補は似ている。どちらも馬鹿で無知で国際感覚がない。
いい加減な政治活動はもうやめて欲しい。もっとちゃんとしてほしいのだ!

緑川鷲羽 山形県 本名年齢非公開

新島八重の桜 大河ドラマ『八重の桜』ふたたび維新回天草莽掘起篇ブログ小説5

2016年02月19日 08時39分56秒 | 日記










 1868年1月3日、徳川慶喜の大政奉還に対抗するため、倒幕派の薩摩藩が動いた。
公武合体派の薩摩藩は会津藩とも共に戦い、京都から長州藩を追放した仲であった。
が、西郷隆盛らの台頭により倒幕派に転身し、1866年には坂本龍馬の仲介で長州藩と同盟を結んでいた(薩長同盟)。
明治天皇を擁する薩摩藩らは、京都を封鎖し、1868年1月8日に「王政復古の大号令」を布告する。
これにより、江戸幕府は廃止され、新政府(明治政府)が成立する。
1868年1月11日、二条城(京都)に居た徳川慶喜は、新政府軍に恭順を示すため、大阪城へと移る。
 一方、江戸では、以前から薩摩藩を中心とする倒幕派が度重なる挑発行為を繰り返しており、薩摩藩(佐土原藩)の藩士が、江戸市中を取り締まる庄内藩の駐屯地に発砲していた。
1868年1月19日、度重なる挑発に耐えかねた庄内藩士は、江戸の薩摩藩邸を襲撃し、薩摩藩邸を焼き払った(薩摩藩邸の焼討事件)。
薩摩藩邸の焼討事件を切っ掛けに、江戸では倒幕派と佐幕派とが交戦状態に入る。
「こいでいいじゃっどなあ。おいどんの狙いどうりじゃっどん」
報告を聞いた薩摩藩の西郷隆盛はほくそ笑んだという。
 薩摩藩邸の焼討事件が大阪に伝わると、会津藩を中心に「薩摩藩を討つべし」との声が強まった。
二条城(京都)から大阪城へと退いていた徳川慶喜は、会津藩・桑名藩に檄を飛ばして挙兵した。
旧幕府軍・会津藩・桑名藩が薩摩藩を排除するため、京都へ軍を進めた。山本八重の弟・山本三郎の姿もこの中にあった。
1868年1月27日、京都へ向かって進軍する旧幕府軍は、街道を封鎖する薩摩藩と衝突する。
会津藩は伏見方面で薩摩兵と対峙していたが、どこからともなく聞こえた1発の砲音により交戦状態へと入る(鳥羽・伏見の戦い)。
薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍5000人に対して、旧幕府軍は1万5000人という兵力を有していた。
が、西洋式銃を有する新政府軍の精鋭部隊の前では赤子も同然だった。
薩摩藩は生麦事件を発端としてイギリスとの戦争を経験していた。長州藩も「下関戦争」でイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊と戦争していた。
身をもって西洋式銃の威力を知り、西洋式の軍制を導入していた薩摩藩や長州藩は強かった。
新政府軍との火器の性能差は歴然としており、旧幕府軍は敗走する。
しかも新政府は天皇のご家紋・錦の御旗を掲げている。
かつて、山本覚馬は、会津藩に西洋式銃の導入を主張したが、保守派の怒りを買い、1年間の禁足となってしまった。
あのとき、会津藩が山本覚馬の意見を十分に取り入れていれば、新政府軍に惨敗することも無かったのかもしれない。
禁足となった山本覚馬を助けてくれた大砲奉行の林権助は、この「鳥羽伏見の戦い」で負傷し、大阪から江戸へ向かう船中で死亡した。
一方、山本八重の弟・山本三郎も「鳥羽伏見の戦い」で敵の銃撃を受けて負傷。山本三郎は大阪から海路で江戸へ逃れるも、1868年1月29日に江戸の会津藩下屋敷で死亡した。
山本三郎は享年20歳であった。
弟・山本三郎の遺髪と着衣は、会津の山本家に送り届けられた。
「ひど違いだし!三郎は江戸に行ってるのだべ?京にはいってねえべした」
「いえ八重さん、三郎さんは…」尚之助は言葉を飲んだ。
「なして尚之助さんはそげな嘘いうのだべが?こんなどごにでもある軍服……」そして「なんてん」の刺繍を発見する。八重は号泣した。
権八は「尚之助さん、覚馬は?」
「よくわからないのですが都から逃げてきた方の話によると京都の四条河原で……処刑されたと…」
「……そうが。討死は武士の本懐。ふたりの息子も本懐を遂げたっでごどだべ」
「尚之助さん…教えでくなんしょ?!どうしたら……三郎とあんっつあまの仇とれるのがっす?!」
「八重さん……」
「三郎……三郎!」山本三郎の形見を見た山本八重は泣き崩れたという。
 八重は泣きながら鉄砲を持って玄関を飛び出した。「八重さん!何処に行くのです!誰を撃つつもりですか?!」
「離してくなんしょ!あたしが……あたしが三郎のかわりに行げばよがっだ。…わだしのほうが強ええのだ…がら……三郎とあんっつあまの仇ば…とりてえ!」もう涙涙、である。
「鳥羽伏見の戦い」が開戦した翌日、朝廷は仁和寺宮嘉彰法親王を征夷大将軍に任命する。
そして、薩摩藩の本陣に「錦の御旗」が掲げられ、江戸幕府軍が朝敵となった。
「錦の御旗」は「朝廷の軍」を意味しており、大阪城に居た徳川慶喜はこの知らせを聞いて大いに動揺したという。
「何でだず!会津は天子さまをお守りしていだだげでねがす!なして会津が朝敵なんだ?!おがしべした!」会津藩のいうこともごもっとも、ではある。
朝敵となった徳川慶喜は、
「江戸で戦う」と言い、
大阪城を捨てて海路で江戸へ逃走する。容保は激しく抵抗した。が、慶喜はまがりなりにも将軍である。
会津藩主の松平容保も徳川慶喜に従い、大阪から江戸へと逃れた。
総大将の戦線離脱という予期せぬ事態により、江戸幕府軍は総崩れとなって新政府軍に大敗した。
そこで、会津藩士・佐川官兵衛ら抗戦派の怒りは、
「総大将の徳川慶喜が江戸へ逃げたのは神保修理(じんぼ・しゅり)の助言によるものではないか」
として、恭順を主張していた非戦派の会津藩士・神保修理に向けられた。
神保修理の身を案じた会津藩主の松平容保は、抗戦派の会津藩士から身を守るために神保修理を幽閉して匿った。
が、それでもなお、神保修理は新政府軍への恭順を訴え続けた。
一連の騒動を知った勝海舟は徳川慶喜に進言。
進言を受けた徳川慶喜は、会津藩に神保修理の身柄を幕府に引き渡すように命じた。
しかし、抗戦派の会津藩士が引き渡しを拒否。
そして、徳川慶喜の要求に怒った抗戦派の会津藩士は「藩命だ」と言い、神保修理に切腹を命じたのである。
神保修理は会津藩主・松平容保との面会を求めたが、面会は許可されず、偽りの藩命だと知りながらも、藩命に従って自害した。
神保修理が切腹する前日に勝海舟へ送った手紙には、
「遺言す、後世吾れを弔う者、請う岳飛(がくひ)の罪あらざらんことをみよ」と書かれていた。
岳飛(がくひ)とは、中国・南宋時代の武将で、無実の罪によって陥れられたが、その後に冤罪が判明し、中国を代表する英雄となった人である。
神保修理は自分を岳飛になぞらえる事で、無罪を訴えていたのだ。
こうして、会津藩は神保修理という優秀な人材を1人失ってしまったのであった。
一方、徳川慶喜は上野にある寛永寺に謹慎して新政府に恭順を示すと、会津藩主・松平容保に江戸城への登城を禁じた。
これを受けた会津藩主・松平容保は数人の警護を連れて江戸を去り、会津へと引き上げていった。
そして、この「鳥羽伏見の戦い」が発端となり、会津藩の運命を左右する戊辰戦争が発展するのであった。
 1868年1月、薩摩藩などが、
「王政復古の大号令」
で新政府を宣言すると、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜や会津藩主の松平容保は、二条城(京都)から大阪城へ退いていた。
慶喜は弱気な臆病者で、徳川将軍家のなかで一番の無能である、とする歴史家もいる。だが、「知恵遅れの家定よりはマシだが」というエクスキューズがそこにつくのである。
会津藩士も藩主・松平容保と供に大阪へ下った。
が、ほとんど失明していた山本覚馬は京都に残り、静養していた。
1868年1月27日、江戸で起きた「薩摩藩邸の焼討事件」が大阪に伝わると、会津藩から、
「薩摩を討つべし」との声が挙り、大阪城に居た徳川慶喜は討薩を決め、旧幕府軍・会津藩・桑名藩が京都へ兵を進めた。
京都に刃を向けてはいけない。会津藩の進軍を知った山本覚馬は、会津藩が逆賊の汚名を着せられることを憂いて、進軍の中止を訴えるために大阪へ向かう。
しかし、街道は薩摩兵により封鎖されていた。
山本覚馬は京都へ引き返して朝廷に敵意が無いことを訴えようとしたが、途中で薩摩兵に捕まってしまう。
この一件は、会津の山本家には
「山本覚馬は、京都の蹴上から大津ヘ向かう途中に薩摩軍に捕らえられ、四条河原で処刑された」と伝えられた。
山本家にとっては、弟・山本三郎の死に続く訃報だった。山本覚馬の訃報に、山本八重や妻・樋口うらは泣き崩れたが、母親の山本佐久は山本覚馬の訃報を信じずに凜としていた。
会津の山本家には山本覚馬が処刑されたと伝わったが、本当は、山本覚馬は京都にある薩摩藩邸に幽閉されていた。
山本覚馬を捕らえたのが薩摩藩だったことは、不幸中の幸いであった。
山本覚馬が長州藩に捕まっていれば、命は無かったかもしれない。
会津藩は「八月十八日の政変」で、京都から尊王攘夷派の長州藩を追い出しており、長州藩は会津藩を恨んでいた。
しかし、薩摩藩は「八月十八日の政変」で会津藩と手を組んでいた。
このとき、山本覚馬は聡明だったため、薩摩藩にも名前が知れ渡り、薩摩藩には山本覚馬の才能を認める者が多かった。
捕らえられた山本覚馬は斬首されそうになったが、山本覚馬の才能を認める薩摩藩士に助けられ、九死に一生を得た。
そして、山本覚馬は囚われの身となりながらも、山本覚馬の才能を認める薩摩藩士のおかげで優遇された。
「西郷さん、会津は恭順している。会津だけは戦の火の海にしねでげんじょ!」西郷吉之助(西郷隆盛)に不自由な体で、覚馬は訴え続けた。
 1868年6月、ほとんど失明していた山本覚馬は、同じように幽閉されていた野沢鶏一に口述筆記を頼み、
意見書「山本覚馬建白(管見)」
を書き上げ、新政府(薩摩藩)に提出した。
野沢鶏一は、山本覚馬が京都で開いた蘭学所の教え子である。
山本覚馬建白には、「政権」「議事院」「建国術」「女学」など23項目にわたり、「三権分立」「2議院制」「女性の教育」「学校建設」「西暦の採用」などの近代国家の方針が述べられていた。
この意見書「山本覚馬建白」は、俗に「管見(かんけん)」と呼ばれている。
管見とは、自分の意見をへりくだる時に使用する言葉である。
山本覚馬の意見書「山本覚馬建白(管見)」を読んだ薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀(こまつ・たてわき)らは、山本覚馬の才能を認め、幽閉中の山本覚馬に酒などを差し入れて、さらに優遇した。
山本覚馬が提出した「山本覚馬建白(管見)」は、山本覚馬自身にも、明治政府にも大きな影響を与えることになる。
その後、山本覚馬が京都府大参事(副知事に相当)に認められて京都府顧問になるのも、幽閉中に提出した「山本覚馬建白(管見)」が評価されたからだった。
ちなみに、山本覚馬が幽閉されている薩摩藩邸は、後に山本覚馬が購入し、山本八重の夫となる新島襄が設立した同志社英学校の建設地となっている(現在の同志社大学今出川校)。
一方、山本覚間の世話をしていた少女・小田時栄は、薩摩藩の許可を得て、幽閉中も山本覚馬の世話を続けた。
山本覚馬は幽閉中も優遇されていたものの、1年にわたる幽閉生活中に完全に失明したうえ、脊髄を痛めて足を悪くしてしまうのであった。


  話を少し前に戻す。……
 暗殺された龍馬の策により薩摩藩と長州藩が連携して天子さまを奉って官軍となりせめてきた。容保たちは京にいたが慶喜らとともに遁走しだした。
 逃げてきた徳川慶喜に勝海舟は「新政府に共順をしてください」と説得する。勝は続ける。「このまま薩長と戦えば国が乱れまする。ここはひとつ慶喜殿、隠居して下され」
 それに対して徳川慶喜はオドオドと恐怖にびくつきながら何ひとつ言葉を発せなかった。 ……死ぬのが怖かったのであろう。
 勝は西郷を「大私」と呼んで、顔をしかめた。

  大阪に逃げてきた徳川慶喜は城で、「よし出陣せん! みな用意いたせ!」と激を飛ばした。すわ決戦か……と思いきや、かれの行動は異常だった。それからわすが十時間後、徳川慶喜は船で江戸へと遁走したのだ。
 リーダーが逃げてしまっては戦にならない。
 新選組の局長近藤勇はいう。「いたしかたなし」
 それに対して土方は「しかし、近藤さん。わずか二~三百の兵の前でひれ伏すのは末代までの恥だ。たとえ数名しかいなくなっても戦って割腹して果てよう!」といった。
「いや」近藤はその考えをとめた。「まだ死ぬときじゃない。俺たちの仕事は上様を守ること。上様が江戸にいったのならわれら新選組も江戸にいくべきだ」
「しかし…逃げたんだぜ」
 近藤は沈黙した。そして、新選組は一月十日、船で江戸へと向かった。
  江戸に到着したとき、新選組隊士は百十人に減っていた。

 徳川慶喜の大政奉還の報をうけた江戸の幕臣たちは、前途暗澹となる思いだった。
 大政奉還をしたとしても、天下を治める実力があるのは幕府だけである。名を捨てて実をとったのだと楽観する者や、いよいよ薩長と戦だといきまく者、卑劣な薩長に屈したと激昴する者などが入り乱れたという。
 しかし何もしないまま、十数日が過ぎた。
 京都の情勢が、十二月になってやっとわかってきた。幕臣たちはさまざまな議論をした。 幕臣たちの中で良識ある者はいった。
「いったん将軍家が大政奉還し、将軍職を辞すれば、幕府を見捨てたようなもので、急に回復することはむずかしい。このうえは将軍家みずから公卿、諸候、諸藩会議の制度をたて、その大統領となって政のすべてを支配すべきである。
 そうすれば、大政奉還の目的が達せられる。このように事が運ばなければ、ナポレオンのように名義は大統領であっても、実際は独裁権を掌握すべきである。
 いたずらに大政奉還して、公卿、薩長のなすところに任するのは、すぐれた計略とはいえない」
 小栗忠順(上野介)にこのような意見を差し出したのは、幕臣福地源一郎(桜痴)であったという。福地は続けた。「この儀にご同意ならば、閣老方へ申し上げられ、京都へのお使いは、拙者が承りとうございます」
 小栗は、申出を拒否した。
「貴公が意見はすこぶる妙計というべきだが、第一に、将軍家がいかが思し召しておられるかはかりがたい。
 第二に、京都における閣老その他の腰抜け役人には、とてもなしうることができないであろう。
 しかるに、なまじっかような説をいいたてては、かえって薩長に乗ずられることになり、ますます幕府滅亡の原因となるだろう。だから、この説はいいださないほうがよかろう」 小栗は、福地がいったような穏やかな手段が薩長に受け入れられるとは思っていなかった。
 彼は、薩長と一戦交えるしかないという強行派だったのだ。
  官軍(薩長)の朝廷工作により、徳川幕府の官位をとりあげられ領地も四百万石から二百万石に取り下げられた。これは徳川家滅亡に等しい内容であったという。
 慶喜はいう。
「朝命に異存はないが、近頃旗本らの慷概はいかにもおさえがたい。幕府の石高は、四百万石といわれいるが、実際には二百万石に過ぎない。
 そのすべてを献上すれば、徳川家としてさしつかえることははなはだしいことになる。いたおうは老中以下諸役人へその旨をきかせ、人心鎮定のうえ、お請けいたす。その旨、両人より執秦いたすべし」
 慶喜は、諸藩が朝廷に禄を出すのは別に悪いことではないが、幕府徳川家だけが二百万石も献上しなければならないのに納得いかなかった。
 閣老板倉伊賀守勝静は、慶喜とともに大坂城に入ったとき、情勢が逼迫しているのをみた。いつ薩長と一戦交える不測の事態ともなりかねないと思った。
「大坂にいる戦死たちは。お家の存亡を決する機は、もはやいまをおいてないと、いちずに思い込んでいる。
 今日のような事態に立ち至ったのは、薩藩の奸計によるもので、憎むべききわみであると思いつめ、憤怒はひとかたならないと有様である。会、桑二藩はいうに及ばず、陸軍、遊撃隊、新選組そのほか、いずれも薩をはじめとする奸藩を見殺しにする覚悟きめ、御命令の下りしだいに出兵すると、議論は沸騰している。
 上様(慶喜)も一時はご憤怒のあまり、ご出兵なさるところであったが、再三ご熟慮され、大坂に下ったしだいであった」
 幕府の藩塀として武勇高い諸候も、長州征伐の失敗で自信喪失状態であった。
 幕府の敵は、薩長と岩倉具視という公家であった。
 新政府は今まさに叩き壊そうという幕府の資金で運用されることとなった。
  アーネスト・サトウは、イギリス公使パークスに従い大坂いたとき、京都から遁走して大坂に入る慶喜を見た。彼は、幕府部隊司令官のひとりと道端で立っていた。
 そのときの様子を記している。
「私たちが、ちょうど城の壕に沿っている従来の端まできたとき、進軍ラッパが鳴り響いて、洋式訓練部隊が長い列をつくって行進しているのに会った。
 部隊が通過するまで、私たちは華美な赤い陣羽織を着た男のたっている、反対側の一隅にたたずんでいた。(中訳)
 それは慶喜と、その供奉の人々だった。私たちは、この転落の偉人に向かって脱帽した。慶喜は黒い頭巾をかぶり、ふつうの軍帽をかぶっていた。
 見たところ、顔はやつれて、物悲しげであった。彼は私たちには気付かなかった様子だ。 これにひきかえ、その後に従った老中の伊賀守と備前守は、私たちの敬礼に答えて快活に会釈した。
 会津候や桑名候も、そのなかにいた。そのあとからまた、遊撃隊がつづいた。そして、行列のしんがりには、さらに多数の洋式訓練部隊がつづいた」
 (坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』岩波書店)

 薩長に膝をまげてまで平和は望まないが、幕府の方から戦をしかけるのは愚策である。 と、麟太郎はみていた。戦乱を望まずに静かに事がすすめばよし。慶喜が新政府の首相になればよし。
 麟太郎は日記に記す。
「私は今後の方針についての書付を、閣老稲葉殿に差し出し、上様に上呈されるよう乞うた。
 しかし諸官はわが心を疑い、一切の事情をあかさず、私の意見書が上達されたか否かもわからない。
 江戸の諸候は憤怒するばかりで、戦をはじめようとするばかり。
 ここに至ってばかどもと同じ説などうたえるものか」
 江戸城の二の丸大奥広敷長局あたりより出火したのは、十二月二十三日早朝七つ半(午前五時)過ぎのことであった。
 放火したのは三田薩摩屋敷にいる浪人組であった。
 のちに、二の丸に放火したのは浪人組の頭目、伊牟田尚平であるといわれた。尚平は火鉢を抱え、咎められることもなく二の丸にはいったという。
 途中、幕臣の小人とあったが逃げていった。
 将軍留守の間の警備手薄を狙っての犯行であった。
 薩摩藩の西郷(隆盛)と大久保(利通)は京で騒ぎがおこったとき、伊牟田を使い、江戸で攪乱行動をおこさせ江戸の治安を不安定化することにした。
 家中の益満休之助と伊牟田とともに、慶応二年(一八六六)の秋に江戸藩邸におもむき、秘密の任務につくことにした。ふたりは江戸で食うものにも困っている不貞な浪人たちを集めて、飯を与え稽古をさせ、江戸で一大クーデターを起こすつもりだった。
 薩摩藩は平然と人数を集めた。

  麟太郎の本意をわかってくれるひとは何人いるだろうか? 天下に有識者は何人いるだろうか?
 麟太郎は辞職願をこめて書を提出した。
「こののち天下の体勢は、門望(声望)と名分に帰せず、かならず正に帰すであろう。
 私に帰せずして、公に帰するにきまっている。これはわずかの疑いもいれないことである。
 すみやかに天下の形勢が正に帰せざるは、国政にたずさわる要人が無学であることと、鎖国の陋習(ろうしゅう)が正しいと信じ込んでいるからである。
 いま世界の諸国は従来が容易で、民衆は四方へ航行する。このため文明は日にさかんになり、従前の比ではない。
 日本では下民が日々に世界の事情にあきらさまになっており、上層部の者が世情にくらい。このため紛争があいついでおこるのだ。
 硬化した頭脳で旧来の陋法を守っていては、天下は治められない。最近の五、六年間はただ天朝と幕府の問題ばかりをあげつらい、諸候から土民に至るまで、京都と江戸のあいだを奔走し、その結果、朝廷はほしいままに国是を定めようとしている。
 これは名分にこだわるのみで、真の国是を知らないからである。
 政府は全国を鎮撫し、下民を撫育し、全国を富ませ、奸者をおさえ、賢者を登用し、国民にそのむかうところを知らしめ、海外に真を失わず、民を水火のなかに救うのをもって、真の政府といえるだろう。
 たとえばワシントンの国を建てるとき、天下に大功あってその職を私せず、国民を鎮静させることは、まことに羨望敬服するに堪えないところである。
 支配者の威令がおこなわれないのは、政治に私ことがあるからである。奸邪を責めることがてきないのは、おのれが正ではないからである。兵数の多少と貧富によって、ことが定まるものではない。
 ここにおいていう。天下の大権はただひとつ、正に帰するのである。
   当今、徳川家に奸者がいる。陋習者もいる。大いに私利をたくましくする者もいる。怨み憤る者もいる。徒党をつくるやからもいる。大盗賊もいる。
 紛じょうして、その向かうところを知らない。これらの者は、廃することができないものか。私はその方途を知っているが、なにもいわない。
 識者はかならず、これを察するだろう。
 都下(江戸)の士は、両国の候伯に従わないことを憎み、あるいは疑って叛くことを恐れる。これは天下の大勢を知らないからである。両国の候伯が叛いたたところで、決して志を達することはできない。
 いわんやいま候伯のうちに俊傑がいない。皆小さな私心を壊き、公明正大を忘れている。いちど激して叛けば、その下僚もまた主候に叛くだろう。
 大候伯が恐るるに足りないことは、私があきらかに知っている。然るに幕府はそれを察せず、群羊にひとしい小候を集め、これと戦おうとしている。自ら瓦解をうながすものである。なんともばかげたものだ。
 大勢の味方を集めればそれだけ、いよいよ益のないことになる。ついに同胞あい争う原因をつくれば、下民を離散させるだけのことだ。人材はいずれ下民からでるであろう。
 いまの大名武士は、人格にふさわしい待遇を受けているとはいえない。生まれたまま繭にかこまれたようなもので、まったく働かず、生活は下民をはたらかせ、重税を課して、その膏血を吸っている。
 国を宰いる者の面目は、どこにあるのか。
 (中訳)天下に有識者はなく、区々として自説に酔い、醒めた者がいない。
 今日にいたって、開国、鎖国をあげつらう者は、時代遅れとなってしまった。いまに至って、議会政治の議論がおこっている。
 (中訳)こののち人民の識見が進歩すれば公明正大な政治がおこなわれなければならない。権謀によらず、誠実高明な政事をおこなえば、たやすく天下を一新できるだろう。
 才能ある者が世に立ち、天子を奉じ、万民を撫育し、国家を鎮撫すれば、その任を果たすだろう。事情を察することなく戦えば、かならず敗北し、泰平の生活に慣れ、自らの棒禄をもって足りるとせず、重税を万民に課して苦しめ、なお市民にあわれみを乞うて、日を送るとは、武士といえようか。(中訳)
 ねがわくば私心を去って、公平の政事を願うのみである。      海舟狂夫」
 麟太郎は官軍と戦わずして日本を一新しようと思っていた。しかし、小栗上野介ら強行派は薩長との戦の準備をしていた。麟太郎の意見はまったく届かず、また麟太郎のような存在は幕府にとって血祭りにあげられてもおかしくない、緊迫した形勢にあった。

”われ死すときは命を天に託し、高き官にのぼると思い定めて死をおそるるなかれ”
 一八六七年十一月十五日夜、京の近江屋で七人の刺客に襲われ、坂本龍馬は暗殺された。享年三十三歳だった。
 そんな中、新選組に耳よりな情報が入ってきた。
 敗戦の連続で、鬱気味になっていたときのことである。

「何っ? 甲府城に立て籠もって官軍と一戦する?」
 勝安房守海舟は驚いた声でききかえした。近藤は江戸城でいきまいた。
「甲府城は要塞……あの城と新選組の剣があれば官軍などには負けません!」
 勝は沈黙した。
 ……もう幕府に勝ち目はねぇ。負けるのはわかっているじゃねぇか…
 言葉にしていってしまえばそれまでだ。しかし、勝はそうはいわなかった。
 勝は負けると分かっていたが、近藤たち新選組に軍資金二百両、米百表、鉄砲二百丁、などを与えて労った。近藤は「かたじけない、勝先生!」と感涙した。
「百姓らしい武士として、多摩の武士魂いまこそみせん!」
 近藤たちは決起した。
 やぶれかぶれの旧幕府軍は近藤たちをまた出世させる。近藤は若年寄格に、土方を寄合席格に任命した。百姓出身では異例の大出世である。近藤はいう。
「甲州百万石手にいれれば俺が十万石、土方が五万石、沖田たち君達は三万石ずつ与えられるぞ!」
 新選組からは、おおっ! と感激の声があがった。
 皆、百姓や浪人出身である。大名並の大出世だ。喜ぶな、というほうがどうかしている。 この頃、近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と名のりだす。
 甲陽鎮部隊(新選組)は、九月二十八日、甲州に向けて出発した。
「もっと鉄砲や大砲も必要だな、トシサン」
 近藤はいった。歳三は「江戸にもっとくれといってやるさ」とにやりとした。
  勝海舟(麟太郎)にとっては、もう新選組など”邪魔者”でしかなかった。
 かれは空虚な落ち込んだ気分だった。自分が支えていた幕府が腐りきっていて、何の役にもたたず消えゆく運命にある。自分は何か出来るだろうか?
 とにかく「新選組」だの「幕府保守派」だの糞くらえだ!
 そうだ! この江戸を守る。それが俺の使命だ!
「勝利。勝利はいいもんだな……だが、勝ったのは幕府じゃねぇ。薩摩と長州の新政権だ」 声がしぼんだ。「しかし、俺は幕府の代表として江戸を戦火から守らなければならぬ」 勝は意思を決した。平和利に武力闘争を廃する。
 そのためには知恵が必要だ。俺の。知恵が。
  近藤たちは故郷に錦をかざった。
 どうせなら多摩の故郷にたちよって、自慢したい……近藤勇も土方歳三もそう思った。それが、のちに仇となる。しかし、かれらにはそんなことさえわからなくなっていた。
 只、若年寄格に、寄合席格に、と無邪気に喜んでいた。
 近藤は「左肩はまだ痛むが、こっちの手なら」とグイグイ酒を呑んだという。
 数が減った新選組には、多摩の農民たちも加わった。
 多摩の農民たちは、近藤が試衛館の出張稽古で剣術を教えた仲である。
 土方歳三は姉に、「出世しました!」と勝利の報告をした。
「やりましたね、トシさん」姉は涙ぐんだ。
「それにしても近藤先生」農民のひとりがいった。「薩長が新政府をつくったって? 幕府は勝てるのですか?」
 近藤は沈黙した。
 そして、やっと「勝たねばなるまい!」とたどたどしくいった。「今こそ、多摩の魂を見せん!」