長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

2015年6月30日『東海道新幹線車内焼身自殺事件』自殺男性の巻き添えで女性心肺停止「自殺なら山中で!」

2015年06月30日 16時18分31秒 | 日記









2015年6月30日、昼頃、


   名古屋方面行の東海道新幹線の車内で、高齢男性が焼身自殺したという。

この騒動で、巻き込まれた女性が心肺停止状態、


何とも迷惑な自殺騒動であった。


  東海道新幹線は運行を一時期停止し、何万人もの足が犠牲になった。


自殺するなら山中とかで。

他人に迷惑をかけるな!臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

なんかサイバー攻撃被害中『ファルコン』のモデル(笑)米沢・山形NEC元・プログラマ舐めちゃ駄目!セカオワ

2015年06月29日 21時12分54秒 | 日記








なんかサイバー攻撃を受けている。


何でわからないかなあ(笑)


私は米沢・山形NECでプログラマだったし、


ファルコンのモデルだって(笑)



”敵を知り己を知らば百戦して危うからず”ですよ。


”警察に捕まる前”にやめる事だ。


SEKAI NO OWARI(セカイの終り)Fukaseの親戚?(笑・正確にはわからない。母方の旧姓が”深瀬”)


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ。

「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹・文の生涯<維新回天 完全版>2015年大河ドラマ原作4

2015年06月27日 06時54分34秒 | 日記










桂小五郎と新選組


  竜馬は江戸の長州藩邸にいき事情をかくかくしかしかだ、と説明した。
 晋作は呆れた。「なにーい?!勝海舟を斬るのをやめて、弟子になった?」
「そうじゃきい、高杉さんすまんちや。約束をやぶったがは謝る。しかし、勝先生は日本のために絶対に殺しちゃならん人物じゃとわかったがじゃ!」
「おんしは……このまえ徳川幕府を倒せというたろうが?」
「すまんちぃや。勝先生は誤解されちょるんじゃ。開国を唱えちょるがは、日本が西洋列強に負けない海軍を作るための外貨を稼ぐためであるし。それにの、勝先生は幕臣でありながら、幕府の延命策など考えちょらんぞ。日本を救うためには、幕府を倒すも辞さんとかんがえちょるがじゃ!」
「勝は大ボラ吹きで、二枚舌も三枚舌も使う男だ!君はまんまとだまされたんだ!目を覚ませ!」
「いや、それは違うぞ、高杉さん。まあ、ちくりと聞いちょくれ!」
 同席の山県有朋や伊藤俊輔(博文)らが鯉口を斬り、「聞く必要などない!こいつは我々の敵になった!俺らが斬ってやる!」と息巻いた。
「待ちい、早まるなち…」
 高杉は「坂本さん、刃向うか?」
「ああ…俺は今、斬られて死ぬわけにはいかんきにのう」
 高杉は考えてから「わかってた坂本君、こちらの負けだ。刀は抜くな!」
「ありがとう高杉さん、わしの倒幕は嘘じゃないきに、信じとうせ」竜馬は場を去った。
 
 夜更けて、龍馬は師匠である勝海舟の供で江戸の屋形船に乗った。
 勝海舟に越前福井藩の三岡八郎(のちの由利公正・ゆりきみまさ)と越前藩主・松平春嶽公と対面し、黒船や政治や経済の話を訊き、大変な勉強になった。
 龍馬は身分の差等気にするような「ちいさな男」ではない。春嶽公も龍馬も屋形船の中では対等であったという。
 そこには土佐藩藩主・山内容堂公の姿もあった。が、殿さまがいちいち土佐の侍、しかも上士でもない、郷士の坂本竜馬の顔など知る訳がない。
 龍馬が土佐勤王党と武市らのことをきくと「あんな連中虫けらみたいなもの。邪魔になれば捻りつぶすだけだ」という。
 容堂は勝海舟に「こちらの御仁は?」ときくので、まさか土佐藩の侍だ、等というわけにもいかず、
「ええ~と、こいつは日本人の坂本です」といった。
「日本人?ほう」
 坂本竜馬は一礼した。……虫けらか……武市さんも以蔵も報われんのう……何だか空しくなった。
 坂本竜馬がのちの妻のおりょう(樽崎龍)に出会ったのは京であった。
 おりょうの妹が借金の形にとられて、慣れない刀で刃傷沙汰を起こそうというのを龍馬がとめた。
「やめちょけ!」
「誰やねんな、あんたさん?!あんたさんに関係あらしません!」
 興奮して激しい怒りでおりょうは言い放った。
「……借金は……幾らぜ?」
「あんたにゃ…関係あらへんていうてますやろ!」
 宿の女将が「おりょうちゃん、あかんで!」と刀を構えるおりょうにいった。
「おまん、おりょういうがか?袖振り合うのも多少の縁……いうちゅう。わしがその借金払ったる。幾らぜ?」
 おりょうは激高して「うちは乞食やあらしまへん!金はうちが……何とか工面するよって…黙りや!」
「何とも工面できんからそういうことになっちゅうろうが?幾らぜ?三両か?五両かへ?」
「……うちは…うちは……乞食やあらへん!」おりょうは涙目である。悔しいのと激高で、もうへとへとであった。
「そうじゃのう。おまんは乞食にはみえんろう。そんじゃきい、こうしよう。金は貸すことにしよう。それでこの宿で、女将のお登勢さんに雇ってもらうがじゃ、金は後からゆるりと返しゃええきに」
 おりょうは絶句した。「のう、おりょう殿」竜馬は暴れ馬を静かにするが如く、おりょうの激高と難局を鎮めた。
「そいでいいかいのう?お登勢さん」
「へい、うちはまあ、ええですけど。おりょうちゃんそれでええんか?」
 おりょうは答えなかった。
 ただ、涙をはらはら流すのみ、である。

  武市半平太らの「土佐勤王党」の命運は、あっけないものであった。
 土佐藩藩主・山内容堂公の右腕でもあり、ブレーンでもあった吉田東洋を暗殺したとして、武市半平太やらは土佐藩の囚われとなった。
 武市は土佐の自宅で、妻のお富と朝食中に捕縛された。「お富、今度旅行にいこう」
 半平太はそういって連行された。
 吉田東洋を暗殺したのは岡田以蔵である。だが、命令したのは武市である。
 以蔵は拷問を受ける。だが、なかなか口を割らない。
 当たり前である。どっちみち斬首の刑なのだ。以蔵は武市半平太のことを「武市先生」と呼び慕っていた。
 だが、白札扱いで、拷問を受けずに牢獄の衆の武市の使徒である侍に「毒まんじゅう」を差し出されるとすべてを話した。
 以蔵は斬首、武市も切腹して果てた。壮絶な最期であった。
 一方、龍馬はその頃、勝海舟の海軍操練所の金策にあらゆる藩を訪れては「海軍の重要性」を説いていた。
 だが、馬鹿幕府は海軍操練所をつぶし、勝海舟を左遷してしまう。
「幕府は腐りきった糞以下だ!」
 勝麟太郎(勝海舟)は憤激する。だが、怒りの矛先がありゃしない。龍馬たちはふたたび浪人となり、薩摩藩に、長崎にいくしかなくなった。
 ちなみにおりょう(樽崎龍)が坂本竜馬の妻だが、江戸・千葉道場の千葉さな子は龍馬を密かに思い、生涯独身で過ごしたという。


  新選組の血の粛清は続いた。
 必死に土佐藩士八人も戦った。たちまち、新選組側は、伊藤浪之助がコブシを斬られ、刀をおとした。が、ほどなく援軍がかけつけ、新選組は、いずれも先を争いながら踏み込み踏み込んで闘った。土佐藩士の藤崎吉五郎が原田左之助に斬られて即死、宮川助五郎は全身に傷を負って手負いのまま逃げたが、気絶し捕縛された。他はとびおりて逃げ去った。 土方は別の反幕勢力の潜む屋敷にきた。
「ご用改めである!」歳三はいった。ほどなくバタバタと音がきこえ、屋敷の番頭がやってきた。「どちらさまで?」
「新選組の土方である。中を調べたい!」
 泣く子も黙る新選組の土方歳三の名をきき、番頭は、ひい~っ、と悲鳴をあげた。
 殺戮集団・新選組……敵は薩摩、長州らの倒幕派の連中だった。
  文久三年。幕府からの要請で、新選組は見回りを続けた。
 ……長州浪人たちが京を焼き討ちするという噂が広がっていた。新選組は毎晩警護にあたった。池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だったという。このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかったという。
 最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。新選組はさっそく捜査を開始した。そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。
 池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。
 桂小五郎は「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。
 ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。
 あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。
 いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にだんだら染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。
「新選組だ! ご用改めである!」近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がそれに続いた。「桂はん…新選組です」のちの妻・幾松が彼につげた。桂は「すまぬ」といい遁走した。そして、十年前………


 桂小五郎は江戸幕府300年の支配体制を崩し、近代日本国家(官僚制と徹底した学歴主義)の礎を築いた。小五郎にはもちろん父親がいた。木戸孝允は名を桂小五郎という。父は和田昌景(まさかげ)であり、彼は息子・小五郎だけでなく息子の弟子的な高杉晋作や久坂玄瑞のひととなりを愛し、ひまがあれば小五郎や高杉少年らに学問や歴史の話をした。
「歴史から学べ。温故知新だ」「苦労は買ってでもせい」「学問で下級武士でもなんとかなる」そう言って憚らなかった。もう一人の教師は長州の偉人・吉田松陰である。
 時代に抜きん出た傑物で、長崎江戸で蘭学、医術を学び、海外にくわしく、航海発達の重要性を理解していた。ハイカラな兄さんで、小五郎や高杉晋作は学ぶことが多かった。
 桂小五郎家は長州下級武士であったが、父・昌景には先妻があり、女子二人をもうけ、長女を養子にとったところ長女が死に、次女をその後妻とした。後妻との間に小五郎と妹が出来た。
 大久保一蔵(利通)と西郷吉之助(隆盛)は島津公の後妻・お由羅と子の久光を嫌っていた。一蔵などは「お由羅と久光はこの薩摩の悪である」といって憚らなかった。
 だが、いわゆる「お由羅騒動」で大久保一蔵(利通)の父親・利世が喜界島に「島流し」にあう。父親の昌景が死ぬと小五郎は急に母親や妹の養育費や生活費にも困る有様に至った。箪笥預金も底をつくと借金に次ぐ借金の生活となった。「また借金か! この貧乏侍!」借金のためにあのプライドの高い桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)も土下座、唾や罵声を浴びせかけられても土下座した。「すんません、どうかお金を貸してくれなんもし!」
 悲惨な生活のユートピアは竹馬の友・高杉晋作、久坂玄瑞、吉田松陰先生との勉強会であった。吉田の塾は「松下村塾」という。
 それにしても圧巻し、尊敬出来るのは吉田松陰公である。桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞ともに最初は「尊皇攘夷派」であった。しかし公は「攘夷などくだらないぞ、草莽掘起だ!」という。何故か?「外国と我が国の戦力の差は物凄い。あんなアームストロング砲やマシンガン、蒸気船を持つ国と戦っても日本は勝てぬ。日本はぼろ負けする。だが、草莽の志士なら勝てるだろう!」
 なるほどな、と桂小五郎と高杉晋作、久坂玄瑞はおもった。さもありなん、である。この吉田松陰(しょういん)公は愚かではない。
  そんなとき、桂小五郎(木戸孝允)は結婚した。相手は芸者・幾松(いくまつ)である。松子と名を改めた。だがなんということだろう。知略に富んだ長州藩の大人物ともでいわれた吉田松陰公が処刑された。桂小五郎も高杉晋作も久坂玄瑞も「松陰公!」と家で号泣し、肩を震わせて泣いた。吉田松陰は船で黒船に近づき、「世界を見たい。乗せてくれ」といい断られ、ご禁制を破った大罪人として処刑されたのだ。何故だ?何故に神仏は松陰公の命を奪ったのですか?吉田松陰公なき長州藩はおわりじゃっ。この時期、薩摩の島津斉彬公も病死する。
 大久保利通や西郷隆盛は成彬公の策をまず実行することとした。薩摩の大名の娘(島津斉彬の養女)篤子(篤姫)を、江戸の徳川将軍家の徳川家定に嫁がせた。
 だが、一蔵も吉之助も驚いた。家定は知恵遅れであったのである。ふたりは平伏しながらも、口からよだれを垂らし、ぼーうっとした顔で上座に座っている家定を見た。呆れた。こんなバカが将軍か。だが、そんな家定もまもなく病死した。後釜は徳川紀州藩主の徳川家茂(いえもち)である。篤子(篤姫)は出家し「天璋院」と名をかえた。
 ここは江戸の貧乏道場で、天気は晴れだった。もう春である。
 土方は「俺もそう思ってた。サムライになれば尊皇壤夷の連中を斬り殺せる」
「しかし…」近藤は戸惑った。「俺たちは百姓や浪人出身だ。幕府が俺たちを雇うか?」「剣の腕があれば」斎藤一は真剣を抜き、バサッと斬る仕種をした。「なれる!」
 近藤らは笑った。
「近藤先生は、流儀では四代目にあらせられる」ふいに、永倉新八がそういった。
 三代目は近藤周助(周斎)、勇は十六歳のときに周斎に見込まれて養子となり、二十五歳のとき、すべてを継承した。
 いかにも武州の田舎流儀らしく、四代目の披露では派手な野試合をやった。場所は府中宿の明神境内東の広場である。安政五年のことだという。
 沖田惚次郎も元服し、沖田総司と名乗った。
 土方歳三は詐欺まがいのガマの油売りのようなことで薬を売っていた。しかし、道場やぶりがバレて武士たちにリンチをうけた。傷だられになった。
「……俺は強くなりたい」痛む体で土方は思った。
 近藤勇も道場の義母に「あなたは百姓です! 身の程を知りなさい」
 といわれ、悔しくなった。土方の兄・為次郎はいった。
「新しい風が吹いている。それは岩をも動かすほどの嵐となる。近藤さん、トシ…国のためにことを起こすのだ!」
 近藤たちは「百姓らしい武士になってやる!」と思った。
 この年(万延元年(一八六〇))勝海舟が咸臨丸でアメリカへいき、そして桜田門外で井伊大老が暗殺された。雪の中に水戸浪人の死体が横たわっている。
 近藤は愕然として、野次馬の中で手を合わせた。「幕府の大老が……」
「あそこに横たわっているのは特別な存在ではない。われわれと同じこの国を思うものたちです」山南敬助がいった。「陣中報告の義、あっぱれである!」酒をのみながら野次馬の中の芹沢鴨が叫んだ。
「俺も武士のようなものになりたい」土方は近藤の道場へ入門した。
 この年、近藤勇は結婚した。相手はつねといった。
 けっこう美人なほうである。

「百姓の何が悪い!」近藤は怒りのもっていく場所が見付からず、どうにも憂欝になった。せっかく「サムライ」になれると思ったのに……くそっ!
「どうでした? 近藤先生」
 道場に戻ると、沖田少年が好奇心いっぱいに尋ねてきた。土方も「採用か?」と笑顔をつくった。近藤勇は「ダメだった……」とぼそりといった。
「負けたのですか?」と沖田。近藤は「いや、勝った。全員をぶちのめした。しかし…」 と口ごもった。
「百姓だったからか?」土方歳三するどかった。ずばりと要点をついてくる。
「……その通りだトシサン」
 近藤は無念にいった。がくりと頭をもたげた。
 ……なにが身分は問わずだ……百姓の何が悪いってんだ?

  この頃、庄内藩(山形県庄内地方)に清河八郎という武士がいた。田舎者だが、きりりとした涼しい目をした者で、「新選組をつくったひと」として死後の明治時代に”英雄”となった。彼は藩をぬけて幕府に近付き、幕府武道指南役をつくらせていた。
  遊郭から身受けた蓮という女が妻である。清河八郎は「国を回天」させるといって憚らなかった。まず、幕府に武装集団を作らせ、その組織をもって幕府を倒す……まるっきり尊皇壤夷であり、近藤たちの思想「佐幕」とはあわない。しかし、清河八郎はそれをひた隠し、「壬生浪人組(新選組の前身)」をつくることに成功する。
 その後、幕府の密偵を斬って遁走する。

  文久三(一八六三)年一月、近藤に、いや近藤たちにふたたびチャンスがめぐってきた。それは、京にいく徳川家茂のボディーガードをする浪人募集というものだった。
 その頃まで武州多摩郡石田村の十人兄弟の末っ子にすぎなかった二十九歳の土方歳三もそのチャンスを逃さなかった。当然、親友で師匠のはずの近藤勇をはじめ、同門の沖田総司、山南敬助、井上源三郎、他流派ながら永倉新八、藤堂平助、原田左之助らとともに浪士団に応募したのは、文久二年の暮れのことであった。
 微募された浪士団たちの初顔合わせは、文久三(一八六三)年二月四日であった。
 会合場所は、小石川伝通院内の処静院であこなわれたという。    
 その場で、土方歳三は初めてある男(芹沢鴨)を見た。
 土方歳三の芹沢鴨への感情はその日からスタートしたといっていいという。
 幕府によって集められた浪人集は、二百三十人だった。世話人であった清河によって、隊士たちは「浪人隊」と名づけられた。のちに新微隊、そして新選組となる。
 役目は、京にいく徳川家茂のボディーガードということであったが、真実は京の尊皇壤夷の浪人たちを斬り殺し、駆逐する組織だった。江戸で剣術のすごさで定評のある浪人たちが集まったが、なかにはひどいのもいたという。
 京には薩摩や長州らの尊皇壤夷の浪人たちが暗躍しており、夜となく殺戮が行われていた。将軍の守護なら徳川家の家臣がいけばいいのだが、皆、身の危険、を感じておよび腰だった。そこで死んでもたいしたことはない”浪人”を使おう……という事になったのだ。「今度は百姓だからとか浪人だからとかいってられめい」
 土方は江戸訛りでいった。
「そうとも! こんどこそ好機だ! 千載一遇の好機だ」近藤は興奮した。
 すると沖田少年が「俺もいきます!」と笑顔でいった。
 近藤が「総司はまだ子供だからな」という。と、沖田が、「なんで俺ばっか子供扱いなんだよ」と猛烈に抗議しだした。
「わかったよ! 総司、お前も一緒に来い!」
 近藤はゆっくり笑顔で頷いた。
  今度は”採用取り消し”の、二の舞い、にはならなかった。”いも道場”試護館の十一人全員採用となった。「万歳! 万歳! これでサムライに取り立てられるかも知れない!」一同は歓喜に沸いた。
 近藤の鬼瓦のような顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいと同時に大人っぽくもある。魅力的な説得力のある微笑だった。
 彼等の頭の中には「サムライの世はもうすぐ終わる…」という思考はいっさいなかったといっても過言ではない。なにせ崩れゆく徳川幕府を守ろう、外国人を追い払おう、鎖国を続けようという「佐幕」のひとたちなのである。


  ある昼頃、近藤勇と土方歳三が江戸の青天の町を歩いていると、「やぁ! 鬼瓦さんたち!」と声をかける男がいた。坂本龍馬だった。彼はいつものように満天の笑顔だった。
「坂本さんか」近藤は続けた。「俺は”鬼瓦さん”ではない。近藤。近藤勇だ」
「……と、土方歳三だ」と土方は胸を張った。
「そうかそうか、まぁ、そんげんことどげんでもよかぜよ」
「よくない!」と近藤。
 龍馬は無視して「そげんより、わしはすごい人物の弟子になったぜよ」
「すごい人物? 前にあった佐久間なんとかというやつですか? 俺を鬼瓦扱いした…」「いやいや、もっとすごい人物じゃきに。天下一の学者で、幕府の重要人物ぜよ」
「重要人物? 名は?」
「勝!」龍馬はいかにも誇らしげにいった。「勝安房守……勝海舟先生じゃけん」
「勝海舟? 幕府の軍艦奉行の?」近藤は驚いた。どうやって知り合ったのだろう。
「会いたいきにか? ふたりとも」
 近藤たちは頷いた。是非、会ってみたかった。
 龍馬は「よし! 今からわしが会いにいくからついてきいや」といった。
  近藤たちは首尾よく屋敷で、勝海舟にあうことができた。勝は痩せた体で、立派な服をきた目のくりりとした中年男だった。剣術の達人だったが、ひとを斬るのはダメだ、と自分にいいきかせて刀の鍔と剣を紐でくくって刀を抜けないようにわざとしていた。
 なかなかの知識人で、咸臨丸という幕府の船に乗りアメリカを視察していて、幅広い知識にあふれた人物でもあった。
 そんな勝には、その当時の祖国はいかにも”いびつ”に見えていた。
「先生、お茶です」龍馬は勝に茶を煎じて出した。
 近藤たちは緊張して座ったままだった。
 そんなふたりを和ませようとしたのか、勝海舟は「こいつ(坂本龍馬のこと)俺を殺そうと押しかけたくせに……俺に感化されてやんの」とおどけた。
「始めまして先生。みどもは近藤勇、隣は門弟の土方歳三です」
 近藤は下手に出た。
「そうか」勝は素っ気なくいった。そして続けて「お前たち。日本はこれからどうなると思う?」と象山と同じことをきいてきた。
「……なるようになると思います」近藤はいつもそれだった。
「なるように?」勝は笑った。「俺にいわせれば日本は西洋列強の中で遅れてる国だ。軍艦も足りねぇ、銃も大砲もたりねぇ……このままでは外国に負けて植民地だわな」
 近藤は「ですから日本中のサムライたちが立ち上がって…」といいかけた。
「それが違う」勝は一蹴した。「もう幕府がどうの、薩長がどうの、会津がどうの黒船がどうのといっている場合じゃないぜ。主権は徳川家のものでも天皇のものでもない。国民皆のものなんだよ」
「……国民? 民、百姓や商人がですか?」土方は興味を示した。
「そうとも! メリケン(アメリカ)ではな。国の長は国民が投票して選ぶんだ。日本みたいに藩も侍も身分も関係ない。能力があればトップになれるんだ」
「………トップ?」
「一番偉いやつのことよ」勝は強くいった。
 近藤は「徳川家康みたいにですか?」と問うた。
 勝は笑って「まぁな。メリケンの家康といえばジョージ・ワシントンだ」
「そのひとの子や子孫がメリケンを支配している訳か?」
 勝の傲慢さに腹が立ってきた土方が、刀に手をそっとかけながら尋ねた。
「まさか!」勝はまた笑った。「メリケンのトップは世襲じゃねぇ。国民の投票で決めるんだ。ワシントンの子孫なんざもう落ちぶれさ」
「そうじゃきぃ。メリケンすごいじゃろう? わが日本国も見習わにゃいかん!」
 今まで黙っていた龍馬が強くいった。
 近藤は訝しげに「では、幕府や徳川さまはもういらぬと?」と尋ねた。
「………そんなことはいうてはいねぇ。ぶっそうなことになるゆえそういう誤解めいたことは勘弁してほしいねえ」勝海舟はいった。
 そして、「これ、なんだかわかるか?」と地球儀をもって近藤と土方ににやりと尋ねた。 ふたりの目は点になった。
「これが世界よ。ここが日本……ちっぽけな島国だろ?ここがメリケン、ここがイスパニア、フランス…信長の時代には日本からポルトガルまでの片道航海は二年かかった。だがどうだ? 蒸気機関の発明で、今ではわずか数か月でいけるんだぜ」
 勝に呼応するように龍馬もいった。「今は世界ぜよ! 日本は世界に出るんぜよ!」


 「浪人隊」の会合はその次の日に行われた。武功の次第では旗本にとりたてられるとのうわさもあり、すごうでの剣客から、いかにもあやしい素性の不貞までいた。処静院での会合は寒い日だった。場所は、万丈百畳敷の間だ。公儀からは浪人奉行鵜殿鳩翁、浪人取締役山岡鉄太郎(のちの鉄舟)が臨席したのだという。
 世話は出羽(山形県)浪人、清河八郎がとりしきった。
 清河が酒をついでまわり、「仲良くしてくだされよ」といった。
 子供ならいざしらず、互いに素性も知らぬ浪人同士ですぐ肩を組める訳はない。一同はそれぞれ知り合い同士だけでかたまるようになった。当然だろう。
 そんな中、カン高い声で笑い、酒をつぎ続ける男がいた。口は笑っているのだが、目は異様にぎらぎらしていて周囲を伺っている。
「あれは何者だ?」
 囁くように土方は沖田総司に尋ねた。この頃十代後半の若者・沖田は子供のような顔でにこにこしながら、
「何者でしょうね? 俺はきっと水戸ものだと思うな」
「なぜわかるんだ?」
「だって……すごい訛りですよ」
 土方歳三はしばらく黙ってから、近藤にも尋ねた。近藤は「おそらくあれば芹沢鴨だろう」と答えた。
「…あの男が」土方はあらためてその男をみた。芹沢だとすれば、有名な剣客である。神道無念流の使い手で、天狗党(狂信的な譲夷党)の間で鳴らした男である。
「あまり見ないほうがいい」沖田は囁いた。


  隊士二百三十四人が京へ出発したのは文久三年二月八日だった。隊は一番から七番までわかれていて、それぞれ伍長がつく。近藤勇は局長でもなく、土方も副長ではなかった。 のちの取締筆頭局長は芹沢鴨だった。清河八郎は別行動である。
 近藤たち七人(近藤、沖田、土方、永倉、藤堂、山南、井上)は剣の腕では他の者に負けない実力があった。が、無名なためいずれも平隊士だった。
  浪人隊は黙々と京へと進んだ。
   途中、近藤が下働きさせられ、ミスって宿の手配で失敗し、芹沢鴨らが野宿するはめになるが、それは次項で述べたい。
  浪人隊はやがて京に着いた。
 その駐屯地での夜、清河八郎はとんでもないことを言い出した。
「江戸へ戻れ」というのである。
 この清河八郎という男はなかなかの策士だった。この男は「京を中心とする新政権の確立こそ譲夷である」との思想をもちながら、実際行動は、京に流入してくる諸国脱・弾圧のための浪人隊(新選組の全身)設立を幕府に献策した。だが、組が結成されるやひそかに京の倒幕派に売り渡そうとしたのである。「これより浪士組は朝廷のものである!」
 浪士たちは反発した。清河はひとりで江戸に戻った。いや、その前に、清河は朝廷に働きかけ、組員(浪士たち)が反発するのをみて、隊をバラバラにしてしまう。
 近藤たちは京まできて、また「浪人」に逆戻りしてしまった。
 勇のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、脅威的な形をとりはじめていた。彼の本能すべてに警告の松明がついていた。その緊張は肩や肘にまでおよんだが、勇は冷静な態度をよそおった。
「ちくしょうめ!」土方は怒りに我を忘れ叫んだ。
 とにかく怒りの波が全身の血管の中を駆けぬけた。頭がひどく痛くなった。
(清河八郎は江戸へ戻り、幕府の密偵を斬ったあと、文久三年四月十三日、刺客に殺されてしまう。彼は剣豪だったが、何分酔っていて敵が多すぎた。しかし、のちに清河八郎は明治十九年になって”英雄”となる)

「近藤さん」土方は京で浪人となったままだった。「何か策はないか?」
 勇は迷ってから、ひらめいた。「そうだ。元々俺たちは徳川家茂さまの守護役できたのではないか。なら、京の治安維持役というのはどうだ?」
「それはいいな。さっそく京の守護職に文を送ろう」
「京の守護職って誰だっけ? トシサン」
「さあな」
「松平…」沖田が口をはさんだ。「松平容保公です。会津藩主の」
  近藤はさっそく文を書いて献上した。…”将軍が江戸にもどられるまで、われら浪士隊に守護させてほしい”
 文を読んだ松平容保は、近藤ら浪士隊を「預かり役」にした。
 この頃の京は治安が著しく悪化していた。浪人たちが血で血を洗う戦いに明け暮れていたのだ。まだ、維新の夜明け前のことである。
 近藤はこの時期に遊郭で深雪太夫という美しい女の惚れ込み、妾にした。
 勇たちは就職先を確保した。
 しかし、近藤らの仕事は、所詮、安い金で死んでも何の保証もないものでしかなかった。 近藤はいう。
 ……天下の安危、切迫のこの時、命捨てんと覚悟………

 ”芹沢の始末”も終り、京の本拠地を「八木邸(京都市中京区壬生)に移した。壬生浪人組。隊士たちは皆腕に覚えのあるものたちばかりだったという。江戸から斎藤一も駆けつけてきて、隊はいっそう強力なものとなった。そして、全国からぞくぞくと剣豪たちが集まってきていた。土方、沖田、近藤らは策を練る。まずは形からだ。あさきく色に山形の模様…これは歌舞伎の『忠臣蔵』の衣装をマネた。そして、「誠」の紅色旗………
 土方は禁令も発する。
 一、士道に背くこと 二、局を脱すること 三、勝手に金策すること 四、勝手の訴訟を取り扱うこと  (永倉日記より)
 やぶれば斬死、切腹。土方らは恐怖政治で”組”を強固なものにしようとした。
  永久三(一八六三)年四月二十一日、家茂のボディーガード役を見事にこなし、初仕事を終えた。近藤勇は満足した顔だった。人通りの多い道を凱旋した。
「誠」の紅色旗がたなびく。
 沖田も土方も満足した顔だった。京の庶民はかれらを拍手で迎えた。
  壬生浪士隊は次々と薩摩や長州らの浪人を斬り殺し、ついに天皇の御所警護までまかされるようになる。登りつめた! これでサムライだ!
 土方の肝入で新たに採用された大阪浪人山崎蒸、大阪浪人松原忠司、谷三十郎らが隊に加わり、壬生浪人組は強固な組織になった。芹沢は粗野なだけの男で政治力がなく、土方や山南らはそれを得意とした。近藤勇の名で恩を売ったり、近藤の英雄伝などを広めた。      
 そのため、パトロンであるまだ若い松平容保公(会津藩主・京守護職)も、
「立派な若者たちである。褒美をやれ」と家臣に命じたほどだった。
 そして、容保は書をかく。
 ……………新選組
「これからは壬生浪人組は”新選組”である! そう若者たちに伝えよ!」
 容保は、近藤たち隊に、会津藩の名のある隊名を与えた。こうして、『新選組』の活動が新たにスタートしたのである。
 新選組を史上最強の殺戮集団の名を高めたのは、かれらが選りすぐりの剣客ぞろいであることもあるが、実は血も凍るようなきびしい隊規があったからだという。近藤と土方は、いつの時代も人間は利益よりも恐怖に弱いと見抜いていた。このふたりは古きよき武士道を貫き、いささかでも未練臆病のふるまいをした者は容赦なく斬り殺した。決党以来、死罪になった者は二十人をくだらないという。
 もっとも厳しいのは、戦国時代だとしても大将が死ぬば部下は生き延びることができたが、新選組の近藤と土方はそれを許さなかった。大将(伍長、組頭)が討ち死にしたら後をおって切腹せよ! …というのだ。
 このような恐怖と鉄の鉄則によって「新選組」は薄氷の上をすすむが如く時代の波に、流されていくことになる。                             



 和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。
 和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        
 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
 和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
  この頃、文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
  家茂は妻・和宮と話した。
 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」
 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
  薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。

「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹・文の生涯<維新回天 完全版>2015年大河ドラマ原作2

2015年06月25日 06時55分30秒 | 日記










<ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり著作「大東亜論 血風士魂篇」第9章前原一誠の妻と妾>2014年度小学館SAPIO誌10月号59~78ページ参照(参考文献・漫画文献)
明治初期、元・長州藩(山口県)には明治政府の斬髪・脱刀令などどこ吹く風といった連中が多かったという。長州の士族は維新に功ありとして少しは報われている筈であったが、奇兵隊にしても長州士族にしても政権奪還の道具にすぎなかった。彼らは都合のいいように利用され、使い捨てされたのだ。報われたのはほんの数人(桂小五郎こと木戸孝允や井上馨(聞多)や伊藤博文(俊輔)等わずか)であった。明治維新が成り、長州士族は使い捨てにされた。それを憤る人物が長州・萩にいた。前原一誠である。前原は若い時に落馬して、胸部を強打したことが原因で肋膜炎を患っていた。明治政府の要人だったが、野に下り、萩で妻と妾とで暮らしていた。妻は綾子、妾は越後の娘でお秀といった。
前原一誠は吉田松陰の松下村塾において、吉田松陰が高杉晋作、久坂玄瑞と並び称賛した高弟だった。「勇あり知あり、誠実は群を抜く」。晋作の「識」、玄瑞の「才」には遠く及ばないが、その人格においてはこの二人も一誠には遠く及ばない。これが松陰の評価であった。そして晋作・玄瑞亡き今、前原一誠こそが松陰の思想を最も忠実に継承した人物であることは誰もが認めるところだった。一誠の性格は、頑固で直情径行、一たび激すると誰の言うことも聞かずやや人を寄せつけないところもあったが、普段は温厚ですぐ人を信用するお人好しでもあった。一誠は戊辰戦争で会津征討越後口総督付の参謀として軍功を挙げ、そのまま越後府判事(初代新潟県知事)に任じられて越後地方の民政を担当する。
いわば「占領軍」の施政者となったわけだが、そこで一誠が目にしたものは戦火を受けて苦しむ百姓や町民の姿だった。「多くの飢民を作り、いたずらに流民を作り出すのが戦争の目的ではなかったはずだ。この戦いには高い理想が掲げられていたはず!これまでの幕府政治に代って、万民のための国造りが目的ではなかったのか!?」
少年時代の一誠の家は貧しく、父は内職で安物の陶器を焼き、一誠も漁師の手伝いをして幾ばくかの銭を得たことがある。それだけに一誠は百姓たちの生活の苦しさをよく知り、共感できた。さらに、師・松陰の「仁政」の思想の影響は決定的に大きかった。
「機械文明においては、西洋に一歩を譲るも、東洋の道徳や治世の理想は、世界に冠たるものである!それが松陰先生の教えだ!この仁政の根本を忘れたからこそ幕府は亡びたのだ。新政府が何ものにも先駆けて行わなければならないことは仁政を行って人心を安らかにすることではないか!」一誠は越後の年貢を半分にしようと決意する。中央政府は莫大な戦費で財政破綻寸前のところを太政官札の増発で辛うじてしのいでいる状態だったから、年貢半減など決して許可しない。だが、一誠は中央政府の意向を無視して「年貢半減令」を実行した。さらに戦時に人夫として徴発した農民の労賃も未払いのままであり、せめてそれだけでも払えば当面の望みはつなげられる。未払い金は90万両に上り、そのうち40万両だけでも出せと一誠は明治政府に嘆願を重ねた。だが、政府の要人で一誠の盟友でもあった筈の木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治・松陰門下)は激怒して、「前原一誠は何を考えている!越後の民政のことなど単なる一地方のことでしかない!中央には、一国の浮沈にかかわる問題が山積しているのだぞ!」とその思いに理解を示すことは出来なかった。
この感情の対立から、前原一誠は木戸に憎悪に近い念を抱くようになる。一誠には越後のためにやるべきことがまだあった。毎年のように水害を起こす信濃川の分水である。一誠は決して退かない決意だったが、中央政府には分水工事に必要な160万両の費用は出せない。政府は一誠を中央の高官に「出世」させて、越後から引き離そうと画策。一誠は固辞し続けるが、政府の最高責任者たる三条実美が直々に来訪して要請するに至り、ついに断りきれなくなり参議に就任。信濃川の分水工事は中止となる。さらに一誠は暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔となるが、もともと中央政府に入れられた理由が理由なだけに、満足な仕事もさせられず、政府内で孤立していた。一誠は持病の胸痛を口実に政府会議にもほとんど出なくなり、たまに来ても辞任の話しかしない。「私は参議などになりたくはなかったのだ!私を参議にするくらいならその前に越後のことを考えてくれ!」
木戸や大久保利通は冷ややかな目で前原一誠を見ているのみ。
「君たちは、自分が立派な家に住み、自分だけが衣食足りて世に栄えんがために戦ったのか?私が戦ったのはあの幕府さえ倒せば、きっと素晴らしい王道政治が出来ると思ったからだ!民政こそ第一なのだ!こんな腐った明治政府にはいたくない!徳川幕府とかわらん!すぐに萩に帰らせてくれ!」大久保や木戸は無言で前原一誠を睨む。三度目の辞表でやっと前原一誠は萩に帰った。明治3年(1870)10月のことだった。政府がなかなか前原一誠の辞任を認めなかったのは、前原一誠を帰してしまうと、一誠の人望の下に、不平士族たちが集まり、よりによって長州の地に、反政府の拠点が出来てしまうのではないかと恐れたためである。当の一誠は、ただ故郷の萩で中央との関わりを断ち、ひっそりと暮らしたいだけだった。が、周囲が一誠を放ってはおかなかった。維新に功のあった長州の士族たちは「自分たちは充分報われる」と思っていた。しかし、実際にはほんの数人の長州士族だけが報われて、「奇兵隊」も「士族」も使い捨てにされて冷遇されたのだった。そんなとき明治政府から野に下った前原一誠が来たのだ。それは彼の周囲に自然と集まるのは道理であった。しかも信濃川の分水工事は「金がないので工事できない」などといいながら、明治政府は岩倉具視を全権大使に、木戸、大久保、伊藤らを(西郷らは留守役)副使として数百人規模での「欧米への視察(岩倉使節団)」だけはちゃっかりやる。一誠は激怒。
江藤新平が失脚させられ、「佐賀の役」をおこすとき前原一誠は長州士族たちをおさえた。「局外中立」を唱えてひとりも動かさない。それが一誠の精一杯の行動だった。
長州が佐賀の二の舞になるのを防いだのだ。前原一誠は激昴する。「かつての松下村塾同門の者たちも、ほとんどが東京に出て新政府に仕え、洋風かぶれで東洋の道徳を忘れておる!そうでなければ、ただ公職に就きたいだけの、卑怯な者どもだ!井上馨に至っては松下村塾の同窓ですらない!ただ公金をかすめ取る業に長けた男でしかないのに、高杉や久坂に取り入ってウロチョロしていただけの奴!あんな男までが松下村塾党のように思われているのは我慢がならない!松陰先生はよく「天下の天下の天下にして一人の天下なり」と仰っていた。すなわち尊皇である。天子様こそが天下な筈だ!天下一人の君主の下で万民が同じように幸福な生活が出来るというのが政治の理想の根本であり、またそのようにあらしめるのが理想だったのだ!孔孟の教えの根本は「百姓をみること子の如くにする」。これが松陰先生の考えである!松陰先生が生きていたら、今の政治を認めるはずはない!必ずや第二の維新、瓦解を志す筈だ!王政復古の大号令は何処に消えたのだ!?このままではこの国は道を誤る!」その後、「萩の乱」を起こした前原一誠は明治政府に捕縛され処刑された。

岩倉具視が「果断、勇決、その志は小ではない。軽視できない強敵である」と評し、長州の桂小五郎(木戸孝允)は「慶喜の胆略、じつに家康の再来を見るが如し」と絶賛――。
敵方、勤王の志士たちの心胆を寒からしめ、幕府側の切り札として登場した十五代将軍。その慶喜が、徳川三百年の幕引き役を務める運命の皮肉。
徳川慶喜とは、いかなる人物であったのか。また、なぜ従来の壮大で堅牢なシステムが、機能しなくなったのか。
「視界ゼロ、出口なし」の状況下で、新興勢力はどのように旧体制から見事に脱皮し、新しい時代を切り開いていったのか。
閉塞感が濃厚に漂う今、慶喜の生きた時代が、尽きせぬ教訓の新たな宝庫となる。
『徳川慶喜(「徳川慶喜 目次―「最後の将軍」と幕末維新の男たち」)』堺屋太一+津本陽+百瀬明治ほか著作、プレジデント社刊参考文献参照引用
著者が徳川慶喜を「知能鮮し」「糞将軍」「天下の阿呆」としたのは、他の主人公を引き立たせる為で、慶喜には「悪役」に徹してもらった。
だが、慶喜は馬鹿ではなかった。というより、策士であり、優秀な「人物」であった。
慶喜は「日本の王」と海外では見られていた。大政奉還もひとつのパワー・ゲームであり、けして敗北ではない。しかし、幕府憎し、慶喜憎しの大久保利通らは「王政復古の大号令」のクーデターで武力で討幕を企てた。
実は最近の研究では大久保や西郷隆盛らの「王政復古の大号令」のクーデターを慶喜は事前に察知していたという。
徳川慶喜といえば英雄というよりは敗北者。頭はよかったし、弱虫ではなかった。慶喜がいることによって、幕末をおもしろくした。最近分かったことだが、英雄的な策士で、人間的な動きをした「人物」であった。
「徳川慶喜はさとり世代」というのは脳科学者の中野信子氏だ。慶喜はいう。「天下を取り候ほど気骨の折れ面倒な事なことはない」
幕末の”熱い時代”にさとっていた。二心公ともいわれ、二重性があった。
本当の徳川慶喜は「阿呆」ではなく、外交力に優れ(二枚舌→開港していた横浜港を閉ざすと称して(尊皇攘夷派の)孝明天皇にとりいった)
その手腕に、薩摩藩の島津久光や大久保利通、西郷隆盛、長州藩の桂小五郎らは恐れた。
孝明天皇が崩御すると、慶喜は一変、「開国貿易経済大国路線」へと思考を変える。大阪城に外国の大使をまねき、兵庫港を開港。慶喜は幕府で外交も貿易もやる姿勢を見せ始める。
まさに、策士で、ある。
歴代の将軍の中でも慶喜はもっとも外交力が優れていた。将軍が当時は写真に写るのを嫌がったが、しかし、徳川慶喜は自分の写真を何十枚も撮らせて、それをプロパガンダ(大衆操作)の道具にした。欧米の王族や指導者層にも配り、日本の国王ぶった。
大久保利通や岩倉具視や西郷隆盛ら武力討幕派は慶喜を嫌った。いや、おそれていた。討幕の密勅を朝廷より承った薩長に慶喜は「大政奉還」という策略で「幕府をなくして」しまった。
大久保利通らは大政奉還で討幕の大義を失ってあせったのだ。徳川慶喜は敗北したのではない。策を練ったのだ。慶喜は初代大統領、初代内閣総理大臣になりたいと願ったのだ。
新政府にも加わることを望んでいた。慶喜は朝廷に「新国家体制の建白書」を贈った。だが、徳川慶喜憎しの大久保利通らは王政復古の大号令をしかける。日本の世論は「攘夷」だが、徳川慶喜は坂本竜馬のように「開国貿易で経済大国への道」をさぐっていたという。
大久保利通らにとって、慶喜は「(驚きの大政奉還をしてしまうほど)驚愕の策士」であり、存在そのものが脅威であった。
「慶喜だけは倒さねばならない!薩長連合は徳川慶喜幕府軍を叩き潰す!やるかやられるかだ!」
 慶喜のミスは天皇(当時の明治天皇・16歳)を薩長にうばわれたことだ。薩長連合新政府軍は天皇をかかげて官軍になり、「討幕」の戦を企む。
「身分もなくす!幕府も藩もなくす!天子さま以外は平等だ!」
 大久保利通らは王政復古の大号令のクーデターを企む。事前に察知していた徳川慶喜は「このままでは清国(中国)やインドのように内乱になり、欧米の軍事力で日本が植民地とされる。武力鎮圧策は危うい。会津藩桑名藩五千兵をつかって薩長連合軍は叩き潰せるが泥沼の内戦になる。”負けるが勝ち”だ」
 と静観策を慶喜はとった。まさに私心を捨てた英雄!だからこそ幕府を恭順姿勢として、官軍が徳川幕府の官位や領地八百万石も没収したのも黙認した。
 だが、大久保利通らは徳川慶喜が一大名になっても、彼がそのまま新政府に加入するのは脅威だった。
 慶喜は謹慎し、「負ける」ことで戊辰戦争の革命戦争の戦死者をごくわずかにとどめることに成功した。官軍は江戸で幕府軍を挑発して庄内藩(幕府側)が薩摩藩邸を攻撃したことを理由に討幕戦争(戊辰戦争)を開始した。
 徳川慶喜が大阪城より江戸にもどったのも「逃げた」訳ではなく、内乱・内戦をふせぐためだった。彼のおかげで戊辰戦争の戦死者は最低限度で済んだ。
 徳川慶喜はいう。「家康公は日本を統治するために幕府をつくった。私は徳川幕府を終わらせる為に将軍になったのだ」
NHK番組『英雄たちの選択 徳川慶喜編』参考文献引用


 立志


 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたために萩藩(はぎはん)とも呼ばれていたが、幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれることとなった。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。幕末には討幕運動の中心となり、続く明治維新では長州藩の中から政治家を多数輩出し、日本の政治を支配した藩閥政治の一方の政治勢力「長州閥」を形成した。毛利元就、藩祖の毛利氏は大江広元の4男を祖とする一族。戦国時代に安芸に土着していた分家から毛利元就が出ると一代にして国人領主から戦国大名に脱皮、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国地方十国と北九州の一部を領国に置く最大級の大名に成長した。元就の孫の毛利輝元は豊臣秀吉に仕え、安芸・周防・長門・備中半国・備後・伯耆半国・出雲・石見・隠岐の120万5000石を安堵(石見銀山50万石相当、また以前の検地では厳密にこれを行っていなかったことを考慮すると実高は200万石超)され、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島に移す。秀吉の晩年には五大老に推され、関ヶ原の合戦では西軍石田三成方の名目上の総大将として担ぎ出され大坂城西の丸に入ったが、主家を裏切り東軍に内通していた従弟の吉川広家により徳川家康に対しては敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。ところが戦後家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分とし、輝元は隠居となし、嫡男の秀就に周防・長門2国を与えることとした。実質上の初代藩主は輝元であるが、形式上は秀就である。また、秀就は幼少のため、当初は輝元の従弟の毛利秀元と重臣の福原広俊・益田元祥らが藩政を取り仕切っていた。周防・長門2国は慶長5年の検地によれば29万8480石2斗3合であった。これが慶長10年(1605年)御前帳に記された石高である。慶長12年(1607年)、領国を4分の1に減封された毛利氏は新たな検地に着手し、慶長15年(1610年)に検地を終えた。少しでも石高をあげるため、この検地は苛酷を極め、山代地方(現岩国市錦町・本郷町)では一揆も起きている。この検地では結果として53万9268石余をうちだした。慶長18年(1613年)、今次の江戸幕府に提出する御前帳が今後の毛利家の公称高となるため、慎重に幕閣と協議した。ところが、思いもよらぬ50万石を超える高石高に驚いた幕閣(取次役は本多正信)は、敗軍たる西軍の総大将であった毛利氏は50万石の分限ではないこと(特に東軍に功績のあった隣国の広島藩主福島正則49万8000石とのつりあい)、毛利家にとっても高石高は高普請役負担を命じられる因となること、慶長10年御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認した。この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発等により実高(裏高)は寛永2年(1625年)には65万8299石3斗3升1合、貞享4年(1687年)には81万8487石余であった。宝暦13年(1763年)には新たに4万1608石を打ち出している。幕末期には100万石を超えていたと考えられている。また新しい居城地として防府(ほうふ)・山口・萩(はぎ)の3か所を候補地として伺いを出したところ、これまた防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府に命じられた。萩は、防府や山口と異なり、三方を山に囲まれ日本海に面し隣藩の津和野城の出丸の遺構が横たわる鄙びた土地であった。長州藩士はこの毛利家が防長二州に転じた際に、一緒に山口に移った毛利家の家臣をルーツに持つといわれる。彼らは元来が広島県-安芸・備後を本拠としたために非常に結束が固かった。輝元はかつての膨大な人数を養う自信がなかったので「ついて来なくてもいい」と幾度もいったが、みな聞かなかった。戦国期までは山陽山陰十ヵ国にまたがる領地を持ち、表日本の瀬戸内海岸きっての覇府というべき広島から裏日本の萩へ続く街道は、家財道具を運ぶ人のむれで混雑し、絶望と、徳川家への怨嗟の声でみちた。家臣のうち、上級者は家禄を減らされて萩へ移ったが、知行も扶持も貰えない下級者は農民になり山野を開墾した。幕末、長州藩が階級・身分を越えて結束が強かったのは、江戸期に百姓身分であった者も先祖は安芸の毛利家の家来であったという意識があり、それが共有されていたためともいわれる。前述のような辛酸を舐めたことから、長州藩では江戸時代を通じて「倒幕」が極秘の「国是」で、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立てると、藩主は毎年「時期尚早」と答えるのが習わしだったという。この伝説について、毛利家現当主・毛利元敬は「あれは俗説」と笑い、「明治維新の頃まではあったのではないか」という問いに「あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった」と答えている。ただ長州藩主導により倒幕・明治維新を迎え借りは利息をつけて返したわけであるから、維新も遠くなった昭和初年の生まれである現当主に、そのような教育はむしろ弊害としてされなかったことは考えられるかもしれない(当時華族は学習院に学ぶわけであるから、徳川家と先輩・後輩関係、同級生関係になる可能性はあった。実際、元敬は水戸徳川家と同級生で仲良くしていたことも言及している)。また、藩士は江戸に足を向けて寝るのが習慣となった(ただし、参勤交代時は藩主が江戸に在住している訳であり、また正室・世子は常に江戸に在住していること、萩から江戸方向は天子のおわす京と同方向であることをどう考えたのかは疑問が残るところである。しかし今でも旧藩士の家ではその伝統が伝えられている家がある)。
毛利重就。江戸時代中期には、第7代藩主毛利重就が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。天保3年(1831年)には、大規模な長州藩天保一揆が発生。その後の天保8年(1836年)4月27日には、後に「そうせい侯」と呼ばれた毛利敬親が藩主に就くと、村田清風を登用した天保の改革を行う。改革では相次ぐ外国船の来航や中国でのアヘン戦争などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得る。村田の失脚後は坪井九右衛門、椋梨藤太、周布政之助などが改革を引き継ぐが、坪井、椋梨と周布は対立し、藩内の特に下級士層に支持された周布政之助が安政の改革を主導する。幕末。幕末になると長州藩は公武合体論や尊皇攘夷を拠り所にして、おもに京都で政局をリードする存在になる。また藩士吉田松陰の私塾(当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされ事実上幽閉)松下村塾で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながってゆく。
1863年(文久3年)旧4月には、激動する情勢に備えて、幕府に無断で山口に新たな藩庁を築き、「山口政事堂」と称する。敬親は萩城から山口(中河原の御茶屋)に入り、幕府に山口移住と新館の造営を正式に申請書を提出し、山口藩が成立した。これにより、萩藩は(周防)山口藩と呼ばれることとなった。 この年、会津藩と薩摩藩が結託した八月十八日の政変で京都から追放された。
長州藩は攘夷も決行した。下関海峡と通る外国船を次々と砲撃した。結果、長州藩は欧米諸国から敵と見做され、1863年(文久三年)5月と1864年(元治元年)7月に、英 仏 蘭 米の列強四国と下関戦争が起こった。長州藩はこの戦争に負け、賠償金を支払うこととなった。
禁門の変。1864年(元治元年)の池田屋事件、禁門の変で打撃を受けた長州(山口)藩に対し、幕府は尾張藩主徳川慶勝を総督とした第一次長州征伐軍を送った。長州(山口)藩では椋梨ら幕府恭順派が実権を握り、周布や家老・益田親施らの主戦派は失脚して粛清され、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ降伏した。その後、完成したばかりの山口城を一部破却して、毛利敬親・元徳父子は長州萩城へ退いた。
恭順派の追手から逃れていた主戦派の藩士高杉晋作は、伊藤俊輔(博文)らと共に、民兵組織である力士隊と遊撃隊を率いてクーデター(元治の内戦)を決行した。初めは功山寺で僅か80人にて挙兵した決起隊に、民兵組織最強の奇兵隊が呼応するなど、各所で勢力を増やして萩城へ攻め上り、恭順派を倒した。この後、潜伏先より帰って来た桂小五郎(木戸孝允)を加え、再び主戦派が実権を握った長州藩は、奇兵隊を中心とした諸隊を正規軍に抜擢し、幕府の第二次長州征伐軍と戦った。高杉と村田蔵六(大村益次郎)の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を打ち破り、第二次幕長戦争(四境戦争)に勝利する。長州藩に敗北した幕府の力は急速に弱まった。
更に、1866年(慶応2年)には、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において土佐藩の坂本龍馬を仲介として議論された末、京都薩摩藩邸(京都市上京区)で薩摩藩との政治的・軍事的な同盟である薩長同盟を結んだ。又、旧5月に敬親が山口に戻った事で(周防・ほうふ)山口藩が再び成立する。
鳥羽・伏見の戦い。左が桑名藩などの幕府軍、右が長州藩などの新政府軍。
薩長による討幕運動の推進によって、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府は崩壊した。そして、王政復古が行われると、薩摩藩と共に長州藩は明治政府の中核となっていく。戊辰戦争では、藩士の大村益次郎が上野戦争などで活躍した。
だが、1869年(明治2年)旧11月、山口藩の藩兵による反乱(萩の乱)が起こり、一時は山口藩庁が包囲されたこともある。
明治4年(1871年)旧6月、山口藩は支藩の徳山藩と合併し、同年8月29日(旧7月14日)の廃藩置県で山口藩は廃止され、山口県となった。毛利家当主元徳は藩知事を免官されて東京へ移り、第15国立銀行頭取、公爵、貴族院議員となった。
尚、戊辰戦争の戦後処理と明治期における山縣有朋に代表される長州閥の言動の影響から、戦闘を行った会津藩(会津若松市)と長州藩(萩市)の間には今でも複雑な感情が残っているとも言われる。実際は、長州藩軍は進軍が遅れたため、会津戦争では戦闘を行なっておらず、また、占領統治を指揮する立場でもなかった。 現代の観光都市化の流れの中で現れた戦後会津の観光史学により、事実が歪められているという議論も行われている。
 
 吉田松陰は吉田矩方という本名で、人生は1830年9月20日(天保元年8月4日)から1859年(安政6年10月27日)までの生涯である。享年30歳……
 通称は吉田寅次郎、吉田大次郎。幼名・寅之助。名は矩方(よりかた)、字(あざな)は義卿(ぎけい)または子義。二十一回猛士とも号する。変名を松野他三郎、瓜中万二ともいう。長州藩士である。江戸(伝馬町)で死罪となっている。
 尊皇壤夷派で、井伊大老のいわゆる『安政の大獄』で密航の罪により死罪となっている。名字は杉寅次郎ともいう。養子にはいって吉田姓になり、大次郎と改める。
 字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の名は尊皇家の高山彦九郎おくり名である。1830年9月20日(天保元年8月4日)、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)に叔父である山鹿流兵学師範である吉田大助の養子になるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた塾で指導を受けた。吉田松陰の初めての伝記を示したのは死後まもなく土屋瀟海(しょうかい)、名を張通竹弥之助という文筆家で「吉田松陰伝」というものを書いた。が、その出版前の原稿を読んだ高杉晋作が「何だ! こんなものを先生の伝記とすることができるか!」と激高して破り捨てた為、この原稿は作品になっていない。
 また別の文筆家が「伝記・吉田松陰」というのを明治初期にものし、その伝記には松陰の弟子の伊藤博文や山県有朋、山田顕義(よしあき)らが名を寄せ寄稿し「高杉晋作の有名なエピソード」も載っている。天保六年(1835年)松陰6歳で「憂ヲ憂トシテ…(中訳)…楽ヲ享クル二至ラサラヌ人」と賞賛されている。
 ここでいう吉田松陰の歴史的意味と存在であるが、吉田松陰こと吉田寅次郎は「思想家」である前に「維新の設計者」である。当時は松陰の思想は「危険思想」とされ、長州藩も幕府を恐れて彼を幽閉したほどだ。我々米沢や会津にとっては薩摩藩長州藩というのは「官軍・明治政府軍」で敵なのかも知れない。が、会津の役では長州藩は進軍に遅れて参戦しておらず、米沢藩とも戦っていないようだ。ともあれ150年も前の戊辰戦争での恨み、等「今更?」だろう。吉田松陰は本名を吉田寅次郎といい号が松陰(しょういん)である。
「死にもの狂いで学ばなければこの日本国はもはや守れん!」松陰は貪欲に学んでいく。
文政13年(1830年)9月20日長州萩藩(現在・山口県萩市)生まれで、没年が安政6年(1859年)11月21日東京での処刑までの人生である。そして、この物語「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹の生涯」の主人公・杉文(すぎ・ふみ)の13歳年上の実の兄である。ちなみに兄の吉田松陰に塾を開くようにアドバイスしたのも文、「寅次郎兄やん、私塾をやるのはどげんと?」「私塾?僕が?」「そうや。寅にいの素晴らしい考えを世の中に知らせるんや」。おにぎりや昼飯を甲斐甲斐しくつくって松門の教え子たち(久坂や高杉や伊藤博文ら)を集め「皆さん兄の私塾で学びませんか?」「はあ?!」「そのかわり毎日おいしいご飯食べさせますばい」、励ましたのも文、「みなさん、御昼ごはん!握り飯ですよー!」「おーっ!うまそうだ!」「皆さんがこの長州、日本国を変える人材になるのです」。姉の寿の前に小田村(楫取)を好きになり「お嫁さんにしてつかあさい!」と頼むが叶わず母の死に落ち込む楫取を励まし、のちに姉寿死後、楫取と再婚し、最後は鹿鳴館の花となるのも文、である。大河ドラマとは少し違うかも知れないがこの作品が緑川流「花燃ゆ」なのである。
  松陰は後年こういっている。
「私がほんとうに修行したのは兵学だけだ。私の家は兵学の家筋だから、父もなんとか私を一人前にしようと思い、当時萩で評判の叔父の弟子につけた。この叔父は世間並みの兵学家ではなくて、いまどき皆がやる兵学は型ばかりだ。あんたは本当の兵学をやりなさい、と言ってくれた。アヘン戦争で清が西洋列強国に大敗したこともあって嘉永三年(1850年)に九州に遊学したよ。そして江戸で佐久間象山先生の弟子になった。
 嘉永五年(1852年)長州藩に内緒で東北の会津藩などを旅行したものだから、罪に問われてね。士籍剥奪や世禄没収となったのさ」
 吉田松陰は「思想家」であるから、今時にいえばオフィスワーカーだったか?といえば当然ながら違うのである。当時はテレビもラジオも自動車もない。飛脚(郵便配達)や駕籠(かご・人足運搬)や瓦版(新聞)はあるが、蒸気機関による大英帝国の「産業革命・創成期」である。この後、日本人は「黒船来航」で覚醒することになる。だが、吉田松陰こと寅次郎は九州や東北北部まで歩いて「諸国漫遊の旅」に(弟子の宮部鼎蔵(みやべ・ていぞう)とともに)出ており、この旅により日本国の貧しさや民族性等学殖を深めている。当時の日本は貧しい。俗に「長女は飯の種」という古い諺がある。これはこの言葉どうり、売春が合法化されてていわゆる公娼(こうしょう)制度があるときに「遊郭・吉原(いまでいうソープランド・風俗業)」の店に残念ながらわずかな銭の為に売られる少女が多かったことを指す。公娼制度はGHQにより戦後撤廃される。が、それでも在日米軍用に戦後すぐに「売春婦や風俗業に従事する女性たち」が集められ「強姦などの治安犯罪防止策」を当時の日本政府が展開したのは有名なエピソードである。
 松陰はその田舎の売られる女性たちも観ただろう。貧しい田舎の日本人の生活や風情も視察しての「倒幕政策」「草莽掘起」「維新政策」「尊皇攘夷」で、あった訳である。
 当時の日本は本当に貧しかった。物流的にも文化的にも経済的にも軍事的にも、実に貧しかった。長州藩の「尊皇攘夷実行」は只の馬鹿、であったが、たった数隻の黒船のアームストロング砲で長州藩内は火の海にされた。これでは誰でも焦る訳である。このまま国内が内乱状態であれば清国(現在の中国)のように植民地にされかねない。だからこその早急な維新であり、戊辰戦争であり、革命であるわけだ。すべては明治維新で知られる偉人たちの「植民地化への焦り」からの維新の劇場型政変であったのだ。
そんな長州藩萩で、天保14年(1843年)この物語の主人公の杉文(すぎ・ふみ)は生まれた。あまり文の歴史上の資料やハッキリとした若き日の写真や似顔絵といったものはないから風体や美貌は不明ではある。
 だが、吉田松陰は似顔絵ではキツネ目の馬面みたいだ。
 であるならば十三歳歳の離れた松陰の実妹は美貌の人物の筈はない。2015年大河ドラマ「花燃ゆ」で文役を演ずる井上真央さんくらい美貌なのか?は、少なくとも2013年大河ドラマ「八重の桜」の新島八重役=綾瀬はるかさん、ぐらい(本当の新島八重はぶくぶくに太った林檎ほっぺの田舎娘)、大河ドラマ「花燃ゆ」の杉文役=井上真央さんは、本人に遠い外見であることだろう。「文よ、お前はどう生きる?」寅にいこと松陰は妹に問う。 
この物語と大河ドラマでは、家の強い絆と、松蔭の志を継ぐ若者たちの青春群像を描く!吉田松陰の実家の杉家は、父母、三男三女、叔父叔母、祖母が一緒に暮らす多い時は11人の大家族。杉家のすぐそばにあった松下村塾では、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら多くの若者たちが松陰のもとで学び、日夜議論を戦わせた。若者の青春群像を描くとされていることから中心になる長州藩士 久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎らは20代後半の役者がキャスティング(配役)されてましたよね。吉田松陰の妹 杉文(美和子)とは?天保14年(1843年)、杉家の四女の文が生まれる。1843年に文が誕生。文は大河ドラマ『八重の桜』新島八重の2つ年上。文の生まれた年は1842年と1843年の二つの説があり。文(美和子)(松陰の四番目の妹で、久坂玄瑞の妻であったが、後に、楫取の二番目の妻となる)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─長州藩士、吉田松蔭の妹。久坂玄端の妻、楫取素彦の後妻(最初の妻は美和子の姉)。家格は無給通組(下級武士上等)、石高26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立て、7人の子供を育てていた。杉常道 - 父は長州藩士の杉常道、 母は滝子。杉家は下級武士だった。大正10までの79年間の波乱の生涯はドラマである。名前は杉文(すぎふみ)→久坂文→小田村文→楫取文→楫取美和子と変遷している。楫取美和子(かとりみわこ)文と久坂玄端の縁談話。しかし、面食いの久坂は、なんと師匠・松蔭の妹との結婚を一度断った。理由は「器量が悪い」から。1857年(安政4年)、吉田松陰の妹・文(ふみ)と結婚しました。玄瑞18歳、文15歳の時でした。久坂玄瑞:高杉晋作 1857年 文は久坂玄端と結婚。1859年 兄・松蔭は江戸で処刑される。1863年 禁門の変(蛤御門の変)で夫・久坂は自刃。文はというと、39歳の時に再婚。文はすぐさま返事はしなかったが「玄瑞からもらった手紙を持って嫁がせてくれるなら」ということに。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚。生前の久坂から、届いたただ一通の手紙。その手紙と共に39歳の時に、文は再婚。1883(明治16)年 松陰の四人の妹のうち、四番目の妹(参考 寿子は二番目)で、久坂玄瑞(1840年~1864年)に嫁ぎ、久坂の死で、22歳の時から未亡人になっていた文(美和子)と再婚(この時 、楫取 55歳)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─1883年 文は39~40歳。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深い。NHK大河「花燃ゆ」はないないづくし 識者は「八重の桜」の“二の舞”を懸念していたという (日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚し、79歳まで生きました。1912年 文の夫・楫取素彦が死去。1921年 文(楫取美和子)が死去。1924年 文の姉・千代が死去。
 杉千代(吉田松陰の妹・文の姉)千代は松陰より2歳年下の妹であった。1832年 萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助(常道)の長女として生まれる。杉寿(吉田松陰の妹・文の姉)杉 常道(すぎ つねみち、文化元年2月23日(1804年4月3日) - 慶応元年8月29日(1865年10月18日))は、江戸時代後期から末期(幕末)の長州藩士。吉田松陰の父。杉常道 - 杉瀧子(吉田松陰・文の母)家族から見た吉田松陰。 杉瀧子 吉田松陰の母。久坂 玄瑞(くさか げんずい)は、幕末の長州藩士。幼名は秀三郎、名は通武、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。天保11年(1840年)長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪の三男・秀三郎として生まれる。安政4年(1857年)松門に弟子入り。安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を久坂に嫁がせた。元治元年(1864年)禁門の変または蛤御門の変で鷹司邸内で自刃した。享年25。高杉 晋作(たかすぎ しんさく)は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。高杉晋作 - 1839年 長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太・みちの長男として生まれる。1857年 吉田松陰が主宰していた松下村塾に入る。1859年 江戸で松陰が処刑される。万延元年(1860年)11月 防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚。文久3年(1863年)6月 志願兵による奇兵隊を結成。慶応3年4月14日(1867年5月17日)肺結核でこの世を去る。楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日(1829年4月18日) - 大正元年(1912年)8月14日)は、日本の官僚、政治家。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵。楫取素彦 - 吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹二人が楫取の妻であった。最初の妻は早く死に、久坂玄瑞の未亡人であった松陰の末妹と再婚したのである。通称は米次郎または内蔵次郎→小田村伊之助→小田村文助・素太郎→慶応3年(1867年)9月に楫取素彦と改める。1829年 長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。1867年 鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制する。明治5年(1872年)に群馬 県参与、明治7年(1874年)に熊谷県権令。明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令(知事)となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定。明治14年(1881年) 文の姉・寿子と死別。明治16年(1883年) 文と再婚。1884年 元老院議官に転任。1887年 男爵を授けられる。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳。木戸 孝允 / 桂 小五郎(きど たかよし / かつら こごろう)幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町に藩医・和田昌景の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される。元治元年(1864年)禁門の変。明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発。5月26日、朦朧状態の中、大久保利通の手を握り締め、「西郷いいかげんにせいよ!」と明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去る。伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。幼年期には松下村塾に学び、吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。1941年 周防国熊毛郡束荷村字野尻の百姓・林十蔵の長男として生まれる。安政4年(1857年)2月、吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていた。松蔭が安政の大獄で斬首された際、師の遺骸をひきとることになる。明治18年(1885年)伊藤は初代内閣総理大臣となる。明治42年(1909年)10月、ハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家テロリスト・安重根によって射殺された。心に残る 吉田松陰 エピソード。「いやしくも一家を構えている人は、何かにつけて、色々と大切な品物が多いはずです。ですから、一つでも多く持ち出そうとしました。私の所持品のようなものは、なるほど私にとっては大切なものですが、考えてみれば、たいしたものではありません。」吉田 松陰先生の2歳年下の妹千代兄を語る。松陰の先生の家が火事になり、松蔭が自分のものを持ち出さなかった理由について語った言葉。人間にとって、利他の心を持ち、相手の立場に立って行動するということは、大切なことです。と妹・千代は語った。杉寿は兄・松陰のことは嫌いではなかったが、兄の親友の小田村伊之助と結婚すると、何かとトラブルばかり起こす松陰に対して愛情ゆえの手厳しい言葉と行動で当たった。その為に「杉家の烈女」等というありがたくない別名で呼ばれることが多い。
 とにもかくにも美人なんだかブスなんだか不明の吉田松陰の十三歳年下の妹・杉文(すぎ・ふみ)は、天保14年(1843年)に誕生した。母親は杉瀧子という巨漢な女性、父親は杉百合之助(常道)である。
 赤子の文を可愛いというのは兄・吉田寅次郎こと松陰である。寅次郎は赤子の文をあやした。子供好きである。
 大河ドラマとしては異常に存在感も歴史的に無名な杉文が主人公ではあった。大河ドラマ「篤姫」では薩摩藩を、大河ドラマ「龍馬伝」では土佐藩を、大河ドラマ「八重の桜」では会津藩を、大河ドラマ「花燃ゆ」では長州藩を描いた。
 大河ドラマ「江 姫たちの戦国」のような低視聴率になることはほぼ決まりのようだったが誤算になった。が、NHKは大河ドラマ「篤姫」での成功体験が忘れられない。
 だが、朝の連続テレビ小説「あまちゃん」「ごちそうさん」「花子とアン」並みの高視聴率等期待するだけ無駄だろう。
  話しを戻す。
 長州藩の藩校・明倫館に出勤して家学を論じた。次第に松陰は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。文にとって兵学指南役で長州藩士からも一目置かれているという兄・吉田寅次郎(松陰)の存在は誇らしいものであったらしい。松陰は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」松陰は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで松陰は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら松陰はきいた。
「大町にお住まいの与力某様でござります」
 松陰は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると松陰は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、松陰は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い吉田松陰でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  松陰は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 松陰の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、松陰は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。松陰は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。松陰は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  松陰は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により松陰の名声は世に知られるようになっていく。松陰はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」

 文は幼少の頃より、兄・松陰に可愛がられ、「これからは女子も学問で身をたてるときが、そんな世の中がきっとくる」という兄の考えで学問を習うようになる。吉田松陰は天才的な思想家であった。すでに十代で藩主の指南役までこなしているのだ。それにたいして杉文なる人物がどこまで学問を究めたか?はさっぱり資料もないからわからない。
 2015年度の大河ドラマ「花燃ゆ」はほとんどフィクションの長州藩の維新の志士達ばかりがスポットライトが当たるドラマになった。
 歴史的な資料がほとんどない。ということは小説家や脚本家が「好きに脚色していい」といわれているようなものだ。吉田松陰のくせは顎をさすりながら、思考にふけることである。
 しかも何か興味があることをあれやこれやと思考しだすと周りの声も物音も聞こえなくなる。「なんで、寅次郎にいやんは、考えだすと私の声まできこえんとなると?」文が笑う。と松陰は「う~ん、学者やからと僕は思う」などと真面目な顔で答える。それがおかしくて幼少の文は笑うしかない。
 家庭教師としては日本一優秀である。が、まだ女性が学問で身を立てる時代ではなかった。まだ幕末の混迷期である。当然、当時の人は「幕末時代」等と思う訳はない。徳川幕府はまだまだ健在であった時代である。「幕末」「明治維新」「戊辰戦争」等という言葉はのちに歴史家がつけたデコレーションである。
 大体にして当時のひとは「明治維新」等といっていない。「瓦解」といっていた。つまり、「徳川幕府・幕藩体制」が「瓦解」した訳である。
 あるとき吉田松陰は弟子の宮部鼎蔵とともに諸国漫遊の旅、というか日本視察の旅にでることになった。松陰は天下国家の為に自分は動くべきだ、という志をもつようになっていた。この日本という国家を今一度洗濯するのだ。
 「文よ、これがなんかわかるとか?」松陰は地球儀を持ってきた。「地球儀やろう?」「そうや、じゃけん、日本がどこにばあるとかわからんやろう?日本はこげなちっぽけな島国じゃっと」
 「へ~つ、こげな小さかと?」「そうじゃ。じゃけんど、今一番経済も政治も強いイギリスも日本と同じ島国やと。何故にイギリス……大英帝国は強いかわかると?」「わからん。何故イギリスは強いと?」
 松陰はにやりと言った。「蒸気機関等の産業革命による経済力、そして軍艦等の海軍力じゃ。日本もこれに習わにゃいかんとばい」
 「この国を守るにはどうすればいいとか?寅次郎にいやん」「徳川幕府は港に砲台を築くことじゃと思っとうと。じゃが僕から見れば馬鹿らしかことじゃ!日本は四方八方海に囲まれとうと。大砲が何万台あってもたりんとばい」
 徳川太平の世が二百七十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 吉田松陰はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、松陰も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
  この年から数年後、幕府の井伊直弼大老による「安政の大獄」がはじまる。
 松陰は「世界をみたい! 外国の船にのせてもらいたいと思っとうと!」
 と母親につげた。
 すると母親は「せわぁない」と笑った。
 松陰は風呂につかった。五衛門風呂である。
 星がきれいだった。
 ……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
 松陰は参禅を二十三、四歳までやっていた。
 もともと彼が蘭学を学んだのは師匠・佐久間象山の勧めだった。剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。松陰が蘭学を習ったのは幕府の馬医者である。
 吉田松陰は遠くは東北北部まで視察の旅に出た。当然、当時は自動車も列車もない。徒歩で行くしかない。このようにして松陰は視察によって学識を深めていく。
 旅の途中、妹の文が木登りから落ちて怪我をした、という便りには弟子の宮部鼎蔵とともに冷や冷やした。が、怪我はたいしたことない、との便りが届くと安心するのだった。 
  父が亡くなってしばらくしてから、松陰は萩に松下村塾を開いた。蘭学と兵学の塾である。「学ぶのは何の為か?自分の為たい!自分を、己を、人間を磨くためばい!」
 久坂玄瑞と高杉晋作は今も昔も有名な松下村塾の龍・虎で、ある。ふたりは師匠の実妹・文を「妹のように」可愛がったのだという。
 塾は客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が松陰の元に舞い込むようになった。
 

「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹・文の生涯<維新回天 完全版>2015年大河ドラマ原作1

2015年06月24日 14時25分56秒 | 日記










「花燃(はなも)ゆ」 とその時代 吉田松陰と妹・文の生涯
<維新回天決起特別編 完全版>
 



                「はな・もゆ」とそのじだい  よしだしょういんといもうとふみのしょうがい
~三千世界の烏を殺し~
               ~開国へ! 奇兵隊!
               吉田松陰の「草莽掘起」はいかにしてなったか。~
                セミ・ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  MIDORIKAWA washu
                   緑川  鷲羽
         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

          あらすじ

2015年のNHK大河ドラマが発表され、幕末の長州藩士で思想家の吉田松陰の妹・文(ふみ)が主役のオリジナル作品「花燃ゆ」に決まり、女優の井上真央さんが主演を務めた。井上さんが大河ドラマに出演するのは初めてで、NHKのドラマに出演するのは11年のNHK連続テレビ小説「おひさま」で主演を務めて以来、約4年ぶりとなった。同日、NHKふれあいホール(東京都渋谷区)で制作発表会見が開かれ、井上さんは「勉強しないといけないこともある。責任を持って頑張りたい」と意気込みを語った。「花燃ゆ」に高まる萩市、 観光客誘致の起爆剤に期待 山口。2013.12.13 02:05■維新150年に弾み。平成27年のNHK大河ドラマが吉田松陰の妹、文(ふみ)が主人公の「花燃ゆ」と決まり、舞台となる山口県萩市は、観光振興の起爆剤になると期待を高めていた。萩が舞台の大河は昭和52年の中村梅之助さん主演「花神」(司馬遼太郎原作)以来38年ぶり。萩市は30年の明治維新150年に向け、観光客誘致を進めており、大河放送で弾みがついた。(将口泰浩)「偉人ではないので不安もあるけど、私みたいに歴史に疎い方でも身近に感じられると思う」2013年12月3日に東京で開かれた記者発表で、主演の井上真央さん(28)がこう語ったように、文の経歴はほとんど知られていない。文は天保14(1843)年に杉百合之助の4女として誕生した。13歳年上の兄・松陰が開いた松下村塾に学ぶ高杉晋作や久坂玄瑞に妹のようにかわいがられて育った。その後、玄瑞と結婚、玄瑞18歳、文15歳だった。晋作と並び「村塾の双璧」といわれた玄瑞に嫁がせたことで、松陰の妹への愛情、玄瑞への高い評価がうかがい知れる。しかし、玄瑞は元治元(1864)年の禁門の変(蛤御門の変)で負傷、同じ塾生の寺島忠三郎とともに鷹司邸内で自刃した。享年25。若すぎる死だった。維新後、西郷隆盛は「もし久坂さんが生きていたら、私は参議などと大きな顔をしていられない」と語ったといわれる俊才だった。文は若くして未亡人となる。その後は藩主である毛利家の奧女中として長く仕えていたが、明治14(1881)年、楫取(かとり)素彦の妻であった姉の寿子(杉寿・すぎ・ひさ(こ))が死亡、2年後、文は素彦と再婚、美和子と改名した。素彦は、倒幕派志士として活躍した松島剛蔵の弟で、長州藩の藩校明倫館で学んだ。松陰の死後は松下村塾で塾生を指導し、教育者、松陰の遺志を受け継いだ男でもある。維新後は官界に入り、初代群馬県令(知事)となった。 松陰、玄瑞…。79歳で亡くなるまでの間、文は時代から愛する男たちを奪われる。「運命に翻弄(ほんろう)されながらも、芯の強い女性を表現できたらいい」と井上さんは意気込む。ドラマのテーマは「明治維新はこの家族から始まった」。心優しい松陰や文を育てた杉家のおおらかな家族愛と絆も重要な要素という。平成27年1月から放送された。井上さんは「地域密着型で山口県を盛り上げて、ロケしながらおいしい物を食べたい」と話していた。萩市の野村興児市長は「大河ドラマは萩観光の起爆剤になる」と期待を高めていた。もう一つのドラマの見所として、松下村塾での教育のあり方も興味深かった。「学は人たる所以を学ぶなり」(学問とは、人間とは何かを学ぶもの)「志を立ててもって万事の源となす」(志を立てることがすべての源となる)「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」(誠を尽くせば動かすことができないものはない)松陰が語りかける言葉の一つ一つに感銘を受ける若き久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら。人間形成にとって教育とはいかなるものか。われわれに問いかける。黒船来航…幕末、伊藤博文は吉田松陰の松下村塾で優秀な生徒だった。親友はのちに「禁門の変」を犯すことになる高杉晋作、久坂玄瑞である。高杉は上海に留学して知識を得た。長州の高杉や久坂にとって当時の日本はいびつにみえた。彼らは幕府を批判していく。
 将軍が死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。幕府に不満をもつ晋作は兵士を農民たちからつのり「奇兵隊」を結成。やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。
 勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、榎本幕府残党は奥州、蝦夷へ……
 しかし、晋作は維新前夜、幕府軍をやぶったのち、二十七歳で病死してしまう。晋作の死をもとに長州藩士たちはそれぞれ明治の時代に花開いた。       おわり


         1 草莽掘起


 坂本竜馬はいつぞやの土佐藩の山内容堂公の家臣の美貌の娘・お田鶴(たず)さまと、江戸で偶然出会った。お田鶴は徳川幕府の旗本のお坊ちゃまと結婚し、江戸暮らしをはじめていて、龍馬は江戸の千葉道場に学ぶために故郷・土佐を旅立っていた。
「お田鶴さまお久ぶりです」「竜馬……元気そうですね。」ふたりは江戸の街を歩いた。「江戸はいいですね。こうして二人で歩いてもとがめる人がいない……」「ああ!ほんに江戸はええぜよ!」
 忘れてはならないのは龍馬とお田鶴さまは夜這いや恋人のような仲であったことである。二人は小さな神社の賽銭箱横にすわった。まだ昼ごろである。
「幸せそうじゃの、お田鶴さま。旦那様は優しい人ですろうか?」「つまらぬ人です。旗本のたいくつなお坊ちゃま。幸せそうに見えるなら今、龍馬に会えたからです」「は……はあ」「わたしはあの夜以来、龍馬のことを想わぬ日は有りませぬ。人妻のわたしは抜け殻、夜……抱かれている時も、心は龍馬に抱かれています。お前はわたしのことなど忘れてしまいましたか?」「わ、忘れちょりゃせんですきに」
 二人はいいムードにおちいり、境内、神社のせまい中にはいった。「お田鶴さま」「竜馬」
「なぜお田鶴さまのような方が、幸せな結婚ができなかったんじゃ…どうしちゅうたらお田鶴さまを幸せに出来るんじゃ?!」
そんなとき神社の鈴を鳴らし、柏手を打ち、涙ながらに祈る男が訪れた。面長な痩せた男・吉田松陰である。
「なにとぞ護国大明神!この日の本をお守りくだされ!我が命に代えても、なにとぞこの日の本をお守りくだされ!」
 龍馬たちは唖然として音をたててしまった。
「おお!返事をなさった!護国大明神!わが祈りをお聞き入れくださりますか!」松陰は門を開けて神社内にはいり無言になった。
 龍馬とお田鶴も唖然として何も言えない。
「お二人は護国大明神でありますか?」
「いや、わしは土佐の坂本竜馬、こちらはお田鶴さまです。すまんのう。幼馴染なものでこんな所で話し込んじょりました」
 松陰は「そうですか。では、どうぞごゆっくり…」と心ここにあらずでまた仏像に祈り続けた。
「護国大明神!このままではこの日の本は滅びます。北はオロシア、西にはフランス、エゲレス、東よりメリケンがこの日の本に攻めてまいります!吉田松陰、もはや命は捨てております!幕府を倒し、新しき政府をつくらねばこの国は夷人(えびすじん)どもの奴隷国となってしまいます!なにとぞわたくしに歴史を変えるほどの力をお与えください」
 松陰は涙をハラハラ流し祈り続けた。龍馬とお田鶴は唖然とするしかない。しばらくして松陰は「お二人とも私の今の祈願は、くれぐれも内密に…」といい、龍馬とお田鶴がわかったと頷くと駿馬の如くどこぞかに去った。
 すると次に四人の侍が来た。「おい、武家姿の御仁を見かけなかったか?」狐目の男が竜馬たちにきいた。
「あっ、見かけた」
「なに!どちらにいかれた?!」
「それが……秘密といわれたから…いえんぜよ」
「なにい!」狐目の男が鯉口を切ろうとした。「まあ、晋作」
「わたしは長州藩の桂小五郎と申します。捜しておられるのは我らの師吉田松陰という御仁です。すばらしいお方じゃが、まるで爆弾のようなお人柄、弟子として探しているんだ。頼む!お教え願いたい」
 四人の武士は高杉晋作、桂小五郎(のちの木戸孝允)、久坂玄瑞、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)であった。
 龍馬は唖然としながらも「なるほど、爆弾のようなお方じゃった。確かに独り歩きはあぶなそうな人だな、その方は前の道を右へ走って行かれたよ」
「かたじけない。ごめん!」
 四人も駿馬の如しだ。だが、狐目の男(高杉晋作)は「おい!逢引も楽しかろうが……世間ではもっと楽しい事が起きてるぞ!」と振り返り言った。
「なにが起こっちゅうがよ?」
「浦賀沖に、アメリカ国の黒船が攻めてきた!いよいよ大戦がはじまるぜ!」そういうと晋作も去った。
「黒船……?」竜馬にはわからなかった。
  
 吉田松陰は黒船に密航しようとして大失敗した。松陰は、徳川幕府で三百年も日本が眠り続けたこと、西欧列強に留学して文明や蒸気機関などの最先端技術を学ばなければいかんともしがたい、と理解する稀有な日本人であった。
 だが、幕府だって馬鹿じゃない。黒船をみて、外国には勝てない、とわかったからこその日米不平等条約の締結である。
 吉田松陰はまたも黒船に密航を企て、幕府の役人に捕縛された。幕府の役人は殴る蹴る。野次馬が遠巻きに見物していた。「黒船に密航しようとしたんだとさ」「狂人か?」
「先生!先生!」「下がれ!下がれ!」長州藩の例の四人は号泣しながら、がくりと失意の膝を地面に落とし、泣き叫ぶしかない。
 松陰は殴られ捕縛されながらも「私は、狂人です!どうぞ、狂人になってください!そうしなければこの日の本は異国人の奴隷国となります!狂い戦ってください!二百年後、三百年後の日本の若者たちのためにも、今、あなた方のその熱き命を、捧げてください!!」
「先生!」晋作らは泣き崩れた。
 

 日本の歴史に『禁門の変』と呼ばれる事件を引き起こしたとき、久坂玄瑞は二十五歳の若さであった。久坂の妻となっていた女性こそこの物語の主人公・久坂(旧姓・杉)文で、ある。「あや」ではない。「ふみ」である。松陰の妹は四人で、上から千代(ちよ・児玉家に嫁いだ)、寿(ひさ)、艶(つや、夭逝した)、文(ふみ)、である。成人したのは三人で、兄が梅太郎(のちの民治)、弟がろうあ者の敏三郎で、ある。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と会津藩(福島県)の薩会同盟ができ、長州藩が幕府の敵とされた時期だった。
  文の十三歳年上の実兄・吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「留魂録(草奔掘起)」である。
 伊藤と文は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の松陰が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。「先生!」意外にも松陰は微笑んだ。
「……伊藤くん文…。ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」
「先生! せ…先生!」「寅にい!寅次郎にいやん!にいーやん!」
 やがて松陰は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。鋭い光を放つ刀が天に構えられる。「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」「ごめん!」閃光が走った……
「寅にい!にいやーん!」文は号泣しながら絶叫した。暗黒の時代である。幕末の天才・思想家「吉田松陰の「死」」……
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。
NHK大河ドラマ『花燃ゆ』第一話「人むすぶ妹」では、少女の頃の杉文が極端な人見知りという設定で、末の弟でろうあ者(耳に生まれながらの障害があり手話でしか話せない)の敏三郎としか交われない、という。若き小田村伊之助が川辺で禁書の本を落とし、義母との不仲でひとり泣いていた為に文が伊之助を庇って叔父さんに「なぜこのような本を持っておる!」と殴られる。だが、庇って小田村伊之助の名前を告げ口しない。「誰のものか言うまで外におれ!」だが、十三歳年上の兄・寅次郎(のちの松陰)が励まし、「禁書と言うが「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」という。何故われわれは学ぶのか?“禁書を破り捨てる”ことは出来ても“知識は破れない”。ひとも本も同じじゃ」といい、文の人見知りが治り、吉田寅次郎と小田村伊之助も親友になる。脳科学者の中野信子氏は「吉田松陰はプライドの高い“変人”」という。叔父の玉木文之進の養子に5歳でなり、蚊に額を刺されて指で掻いただけでも「蚊に刺されても気にするな!蚊は私事だろう!」とスパルタ教育で、おもいっきり青あざや出血するまで殴られ続けた。「だがのう、文。叔父上は厳しいが真面目な方じゃ。叔父上は僕の学問の栄達の為に僕を殴り続けたがじゃ」寅次郎は長崎に学問留学に行って、アヘン戦争で清国(当時の中国)と英国のアヘン戦争を知り、欧米の武力の圧倒的性能の高さを知る。そして“不羈(ふき)独立”の歴史も。つまり、メリケン(アメリカ)が英国より独立したことを、だ。「今のままでの山鹿兵法を含めて、このままの日本の武器では欧米列強に勝てない」吉田松陰は「僕は私事より公事を大切にする!ひとは“公のひと”となれ!」と。「日本国が清国と同じように侵略・植民地化されるのは御免じゃ!日本国もメリケンのように“不羈独立”や!」。松陰は松下村塾で弟子たちに言う。「もはや古い兵法も考えも武器も主義も世界にはこの日本国には通用しない。諸君、狂いたまえ!狂って維新回天の志士となれ!」「おおっ!」弟子たちが声をあげた。吉田松陰の命日は10月28日。山口県の萩市では毎年「慰霊祭」が営まれている。
松下村塾から輩出した主な「人材」は次のとおりだ。幕末、「志士」として活動し、若い命を散らしたのが、高杉晋作・久坂玄瑞(義助・よしすけ)・吉田栄太郎(稔麿・としまろ)・入江杉蔵(すぎぞう・九一)・松浦亀太郎(松洞)・杉山松介(まつすけ)・寺島(作間・さくま)忠三郎・有吉熊次郎・赤禰武人(あかね・たけと)・時山直八・駒井政五郎など。
 明治まで生き延び、政治家や軍人として新政府の指導者となったのが、佐世八十郎(させ・よそろう 前原一誠)・伊藤俊輔(博文)・山県狂介(有朋・ありとも)・品川弥二郎・野村和作(わさく・靖)・山田顕義(あきよし)・桂小五郎(木戸孝允)など。
(『楫取素彦と吉田松陰の妹・文』一坂太郎著作・新人物文庫71ページ)話を戻す。吉田寅次郎、小田村伊之助らは共に江戸に遊学し、やがて運命に翻弄されていくのである。寅次郎と文と小田村伊之助の関係が巧みに交錯し、第二話では「波乱の恋文」と題して杉文が小田村伊之助に「お嫁さんにしてつかあさい!」と懸想をいいふられ、伊之助は文の姉の寿(ひさ)と結婚してしまう。で、寅次郎が脱藩するので、ある。

  長州藩と英国による戦争は、英国の完全勝利で、あった。
 長州の馬鹿が、たった一藩だけで「攘夷実行」を決行して、英国艦船に地上砲撃したところで、英国のアームストロング砲の砲火を浴びて「白旗」をあげたのであった。
  長州の「草莽掘起」が敗れたようなものであった。
 同藩は投獄中であった高杉晋作を敗戦処理に任命し、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を通訳として派遣しアーネスト・サトウなどと停戦会議に参加させた。
 伊藤博文は師匠・吉田松陰よりも高杉晋作に人格的影響を受けている。

  ……動けば雷電の如し、発すれば驟雨の如し……

 伊藤博文が、このような「高杉晋作」に対する表現詩でも、充分に伊藤が高杉を尊敬しているかがわかる。高杉晋作は強がった。
「確かに砲台は壊されたが、負けた訳じゃない。英国陸海軍は三千人しか兵士がいない。その数で長州藩を制圧は出来ない」
 英国の痛いところをつくものだ。
 伊藤は関心するやら呆れるやらだった。
  明治四十二年には吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)門下は伊藤博文と山県有朋だけになっている。
 ふたりは明治政府が井伊直弼元・幕府大老の銅像を建てようという運動には不快感を示している。時代が変われば何でも許せるってもんじゃない。  
 松門の龍虎は間違いなく「高杉晋作」と「久坂玄瑞」である。今も昔も有名人である。
 伊藤博文と山県有朋も松下村塾出身だが、悲劇的な若死をした「高杉晋作」「久坂玄瑞」に比べれば「吉田松陰門下」というイメージは薄い。
 伊藤の先祖は蒙古の軍艦に襲撃をかけた河野通有で、河野は孝雷天皇の子に発しているというが怪しいものだ。歴史的証拠資料がない為だ。伊藤家は貧しい下級武士で、伊藤博文の生家は現在も山口県に管理保存されているという。
「あなたのやることは正しいことなのでわたくしめの力士隊を使ってください!」
 奇兵隊蜂起のとき、そう高杉晋作にいって高杉を喜ばせている。
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、『ネタバレ』、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』、津本陽著作『私に帰せず 勝海舟』、司馬遼太郎著作『竜馬がゆく』、一坂太郎著作『楫取素彦と吉田松陰の妹・文』(新人物文庫)、『陸奥宗光』上下 荻原延濤(朝日新聞社)、『陸奥宗光』上下 岡崎久彦(PHP文庫)、『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦(PHP文庫)、『勝海舟全集』勝部真長ほか編(頸草書房)、『勝海舟』松浦玲(中公新書)、『氷川清話』勝海舟/勝部真長編(角川文庫)、『坂本龍馬』池田敬正(中公新書)、『坂本龍馬』松浦玲(岩波新書)、『坂本龍馬 海援隊始末記』平尾道雄(中公文庫)、『一外交官の見た明治維新』上下 アーネスト・サトウ/坂田精一(岩波文庫)、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一(東洋文庫)、『幕末外交談』田辺太一/坂田精一校注・訳(東洋文庫)、『京都守護職始末』山川浩/遠山茂樹校注/金子光晴訳(東洋文庫)、『日本の歴史 19 開国と攘夷』小西四郎(中公文庫)、『日本の歴史 18 開国と幕末変革』井上勝生(講談社文庫)、『日本の時代史 20 開国と幕末の動乱』井上勲編(吉川弘文館)、『図説和歌山県の歴史』安藤精一(河出書房新刊)、『荒ぶる波濤』津本陽(PHP文庫)、日本テレビドラマ映像資料『田原坂』『五稜郭』『奇兵隊』『白虎隊』『勝海舟』、NHK映像資料『歴史秘話ヒストリア』『その時歴史が動いた』大河ドラマ『龍馬伝』『篤姫』『新撰組!』『八重の桜』『坂の上の雲』、『花燃ゆ』漫画『おーい!竜馬』一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、NHK『大河ドラマ 龍馬伝ガイドブック』角川ザテレビジョン、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
『竜馬がゆく(日本テレビ・テレビ東京)』『田原坂(日本テレビ)』『五稜郭(日本テレビ)』『奇兵隊(日本テレビ)』『勝海舟(日本テレビ)』映像資料『NHKその時歴史が動いた』『歴史秘話ヒストリア』映像参考資料等。
 「文章や物語が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく、引用です。
他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
なおここから数十行の文章は小林よしのり氏の著作・『ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり「大東亜論 第5章 明治6年の政変」』小学館SAPIO誌2014年6月号小林よしのり著作漫画、72ページ~78ページからの文献を参考にしています。
 盗作ではなくあくまで引用です。前述した参考文献も考慮して引用し、創作しています。盗作だの無断引用だの文句をつけるのはやめてください。
  この頃、決まって政治に関心ある者たちの話題に上ったのは「明治6年の政変」のことだった。
 明治6年(1873)10月、明治政府首脳が真っ二つに分裂。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五人の参謀が一斉に辞職した大事件である。
 この事件は、通説では「征韓論」を唱える西郷派(外圧派)と、これに反対する大久保派(内治派)の対立と長らく言われていきた。そしてその背景には、「岩倉使節団」として欧米を回り、見聞を広めてきた大久保派と、その間、日本で留守政府をに司っていた西郷派の価値観の違いがあるとされていた。しかし、この通説は誤りだったと歴史家や専門家たちにより明らかになっている。
 そもそも西郷は「征韓論」つまり、武力をもって韓国を従えようという主張をしたのではない。西郷はあくまでも交渉によって国交を樹立しようとしたのだ。つまり「親韓論」だ。西郷の幕末の行動を見てみると、第一次長州征伐でも戊辰戦争でも、まず強硬姿勢を示し、武力行使に向けて圧倒な準備を整えて、圧力をかけながら、同時に交渉による解決の可能性を徹底的に探り、土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるという方法を採っている。勝海舟との談判による江戸無血開城がその最たるものである。
 西郷は朝鮮に対しても同じ方法で、成功させる自信があったのだろう。
 西郷は自分が使節となって出向き、そこで殺されることで、武力行使の大義名分ができるとも発言したが、これも武力行使ありきの「征韓論」とは違う。
 これは裏を返せば、使節が殺されない限り、武力行使はできない、と、日本側を抑えている発言なのである。そして西郷は自分が殺されることはないと確信していたようだ。
 朝鮮を近代化せねばという目的では西郷と板垣は一致。だが、手段は板垣こそ武力でと主張する「征韓論」。西郷は交渉によってと考えていたが、板垣を抑える為に「自分が殺されたら」と方便を主張。板垣も納得した。
 一方、岩倉使節団で欧米を見てきた大久保らには、留守政府の方針が現実に合わないものに見えたという通説も、勝者の後付けだと歴史家は分析する。
 そもそも岩倉使節団は実際には惨憺たる大失敗だったのである。当初、使節団は大隈重信が計画し、数名の小規模なものになるはずだった。
 ところが外交の主導権を薩長で握りたいと考えた大久保利通が岩倉具視を擁して、計画を横取りし、規模はどんどん膨れ上がり、総勢100人以上の大使節団となったのだ。
 使節団の目的は国際親善と条約改正の準備のための調査に限られ、条約改正交渉自体は含まれていなかった。
しかし功を焦った大久保や伊藤博文が米国に着くと独断で条約改正交渉に乗り出す。だが、本来の使命ではないので、交渉に必要な全権委任状がなく、それを交付してもらうためだけに、大久保・伊藤の2人が東京に引き返した。大使節団は、大久保・伊藤が戻ってくるまで4か月もワシントンで空しく足止めされた。大幅な日程の狂いが生じ、10か月半で帰国するはずが、20か月もかかり、貴重な国費をただ蕩尽(とうじん)するだけに終わってしまったのだ。
 一方で、その間、東京の留守政府は、「身分制度の撤廃」「地租改正」「学制頒布」などの新施策を次々に打ち出し、着実に成果を挙げていた。
 帰国後、政治生命の危機を感じた大久保は、留守政府から実権を奪取しようと策謀し、これが「明治6年の政変」となったのだ。大久保が目の敵にしたのは、板垣退助と江藤新平であり、西郷は巻き添えを食らった形だった。
 西郷の朝鮮への使節派遣は閣議で決定し、勅令まで下っていた。それを大久保は権力が欲しいためだけに握りつぶすという無法をおこなった。もはや朝鮮問題など、どうでもよくなってしまった。
 ただ国内の権力闘争だけがあったのだ。こうして一種のクーデターにより、政権は薩長閥に握られた。
 しかも彼ら(大久保や伊藤ら)の多くは20か月にも及んだ外遊で洗脳されすっかり「西洋かぶれ」になっていた。もはや政治どころではない。国益や政治・経済の自由どころではない。
 西郷や板垣らを失った明治政府は誤った方向へと道をすすむ。日清戦争、日露戦争、そして泥沼の太平洋戦争へ……歴史の歯車が狂い始めた。
(以下文(参考文献ゴーマニズム宣言大東亜論)・小林よしのり氏著作 小学館SAPIO誌7月号74~78ページ+8月号59~75ページ+9月号61~78ページ参考文献)
この頃、つまり「明治6年の政変」後、大久保利通は政治家や知識人らや庶民の人々の怨嗟(えんさ)を一身に集めていた。維新の志を忘れ果て、自らの政治生命を維持する為に「明治6年の政変」を起こした大久保利通。このとき大久保の胸中にあったのは、「俺がつくった政権を後から来た連中におめおめ奪われてたまるものか」という妄執だけだった。
西郷隆盛が何としても果たそうとした朝鮮使節派遣も、ほとんど念頭の片隅に追いやられていた。これにより西郷隆盛ら5人の参議が一斉に下野するが、西郷は「巻き添え」であり…そのために西郷の陸軍大将の官職はそのままになっていた。この政変で最も得をしたのは、井上馨ら長州汚職閥だった。長州出身の御用商人・山城屋和助が当時の国家予算の公金を使い込んだ事件や……井上馨が大蔵大臣の職権を濫用して民間の優良銅山を巻き上げ、自分のものにしようとした事件など、長州閥には汚職の疑惑が相次いだ。だが、この問題を熱心に追及していた江藤新平が政変で下野したために、彼らは命拾いしたのである。
江藤新平は初代司法卿として、日本の司法権の自立と法治主義の確立に決定的な役割を果たした人物である。江藤は政府で活躍したわずか4年の間に司法法制を整備し、裁判所や検察機関を創設して、弁護士・公証人などの制度を導入し、憲法・民法の制定に務めた。
もし江藤がいなければ、日本の司法制度の近代化は大幅に遅れたと言っても過言ではない。そんな有能な人材を大久保は政府から放逐したのだ。故郷佐賀で静養していた江藤は、士族反乱の指導者に祭り上げられ、敗れて逮捕された。江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に3日前に作られた裁判所で、十分な弁論の機会もなく、上訴も認めない暗黒裁判にかけられ、死刑となった。新政府の汚職の実態を知り尽くしている江藤が、裁判で口を開くことを恐れたためである。それも斬首の上、さらし首という武士に対してあり得ない屈辱的な刑で……しかもその写真が全国に配布された。(米沢藩の雲井龍雄も同じく死刑にされた)すべては大久保の指示による「私刑」だった。
「江藤先生は惜しいことをした。だが、これでおわりではない」のちの玄洋社の元となる私塾(人参畑塾)で、武部小四郎(たけべ・こしろう)はいった。当時29歳。福岡勤皇党の志士の遺児で、人参畑塾では別格の高弟であった。身体は大きく、姿は颯爽(さっそう)、親しみ易いが馴れ合いはしない。質実にて華美虚飾を好まず、身なりを気にせず、よく大きな木簡煙管(きせる)を構えていた。もうひとり、頭山満が人参畑塾に訪れる前の塾にはリーダー的な塾生がいた。越智彦四郎(おち・ひこしろう)という。武部小四郎、越智彦四郎は人参畑塾のみならず、福岡士族青年たちのリーダーの双璧と目されていた。だが、二人はライバルではなく、同志として固い友情を結んでいた。それはふたりがまったく性格が違っていたからだ。越智は軽薄でお調子者、武部は慎重で思慮深い。明治7年(1874)2月、江藤新平が率いる佐賀の役が勃発すると、大久保利通は佐賀制圧の全権を帯びて博多に乗り込み、ここを本営とした。全国の士族は次々に社会的・経済的特権を奪われて不平不満を強めており、佐賀もその例外ではなかったが、直ちに爆発するほどの状況ではなかった。にもかかわらず大久保利通は閣議も開かずに佐賀への出兵を命令し、文官である佐賀県令(知事にあたる)岩村高俊にその権限を与えた。文官である岩村に兵を率いさせるということ自体、佐賀に対する侮辱であり、しかも岩村は傲慢不遜な性格で、「不逞分子を一網打尽にする」などの傍若無人な発言を繰り返した。こうして軍隊を差し向けられ、挑発され、無理やり開戦を迫られた形となった佐賀の士族は、やむを得ず、自衛行動に立ち上がると宣言。休養のために佐賀を訪れていた江藤新平は、やむなく郷土防衛のため指揮をとることを決意した。これは、江藤の才能を恐れ、「明治6年の政変」の際には、閣議において西郷使節派遣延期論のあいまいさを論破されたことなどを恨んだ大久保利通が、江藤が下野したことを幸いに抹殺を謀った事件だったという説が今日では強い。そのため、佐賀士族が乱をおこした佐賀の乱というのではなく「佐賀戦争」「佐賀の役」と呼ぶべきと提唱されている。その際、越智彦四郎は大久保利通を訪ね、自ら佐賀との調整役を買って出る。大久保は「ならばおんしに頼みたか。江藤ら反乱軍をば制圧する「鎮撫隊」をこの福岡に結成してくれもんそ」という。越智彦四郎は引き受けた。だが、越智は策士だった。鎮撫隊を組織して佐賀の軍に接近し、そこで裏切りをして佐賀の軍と同調して佐賀軍とともに明治政府軍、いや大久保利通を討とう、という知略を謀った。武部は反対した。
「どこが好機か?大久保が「鎮撫隊」をつくれといったのだ。何か罠がある」
だが、多勢は越智の策に乗った。だが、大久保利通の方が、越智彦四郎より一枚も二枚も上だった。大久保利通は佐賀・福岡の動静には逐一、目を光らせていて、越智の秘策はすでにばれていた。陸軍少佐・児玉源太郎は越智隊に鉄砲に合わない弾丸を支給して最前線に回した。そのうえで士族の一部を率いて佐賀軍を攻撃。福岡を信用していなかった佐賀軍は越智隊に反撃し、同士討ちの交戦となってしまった。越智隊は壊滅的打撃を受け、ようやくの思いで福岡に帰還した。その後、越智彦四郎は新たな活動を求めて、熊本・鹿児島へ向かった。武部はその間に山籠もりをして越智と和解して人参畑塾に帰還した。
「明治6年の政変」で下野した板垣退助は、江藤新平、後藤象二郎らと共に「愛国公党」を結成。政府に対して「民選議員設立建白書」を提出した。さらに政治権力が天皇にも人民にもなく薩長藩閥の専制となっていることを批判し、議会の開設を訴えた。自由民権運動の始まりである。だが間もなく、佐賀の役などの影響で「愛国公党」は自然消滅。そして役から1年近くが経過した明治8年(1875)2月、板垣は旧愛国公党を始めとする全国の同志に結集を呼びかけ「愛国社」を設立したのだった。板垣が凶刃に倒れた際「板垣死すとも自由は死せず」といったというのは有名なエピソードだが、事実ではない。
幕末、最も早く勤王党の出現を見たのが福岡藩だった。だが薩摩・島津家から養子に入った福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は、一橋家(徳川将軍家)と近親の関係にあり、動乱の時代の中、勤王・佐幕の両派が争う藩論の舵取りに苦心した。黒田長溥は決して愚鈍な藩主ではなかった。だが次の時代に対する識見がなく、目前の政治状況に過敏に反応してしまうところに限界があった。大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)という幕府始まって以来の不祥事を機に勤王の志士の動きは活発化。これに危機感を覚えた黒田長溥は筑前勤王党を弾圧、流刑6名を含む30余名を幽閉等に処した。これを「庚申(こうしん)の獄」という。その中にはすでに脱藩していた平野國臣もいた。女流歌人・野村望東尼(ぼうとうに)は獄中の國臣に歌(「たぐいなき 声になくなる 鶯(ウグイス)は 駕(こ)にすむ憂きめ みる世なりけり」)を送って慰め、これを機に望東尼は勤王党を積極的に支援することになる。尼は福岡と京都をつなぐパイプ役を務め、高杉晋作らを平尾山荘に匿い、歌を贈るなどしてその魂を鼓舞激励したのだった。
この頃、坂本竜馬らよりもずっと早い時点で、薩長連合へ向けた仲介活動を行っていたのが筑前勤王党・急進派の月形洗蔵(つきがた・せんぞう、時代劇「月形半平太(主演・大川橋蔵)」のモデル)や衣斐茂記(えび・しげき)、建部武彦らだった。また福岡藩では筑前勤王党の首領格として羨望があった加藤司書(かとう・ししょ)が家老に登用され、まさしく維新の中心地となりかけていたという。だが、すぐに佐幕派家老が勢力を取り戻し、さらに藩主・黒田長溥が勤王党急進派の行動に不信感を抱いたことなどから……勤王党への大弾圧が行われたのだ。これを「乙丑(いっちゅう)の獄」という。加藤、衣斐、建部ら7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首。野村望東尼ら41名が流罪・幽閉の処分を受け、筑前勤王党は壊滅した。このとき、姫島に流罪となる野村望東尼を護送する足軽の中に15歳の箱田六輔がいた。そして武部小四郎は「乙丑の獄」によって切腹した建部武彦の遺児であった(苗字は小四郎が「武部」に改めた)。福岡藩は佐幕派が多かったが、戊辰の役では急遽、薩長官軍についた。それにより福岡藩の家老ら佐幕派家老3名が切腹、藩士23名が遠島などの処分となった。そして追い打ちをかけるように薩長新政府は福岡藩を「贋札づくり」の疑惑で摘発した。当時、財政難だった藩の多くが太政官札の偽造をしていたという。西郷隆盛は寛大な処分で済まそうと尽力した。何しろ贋札づくりは薩摩藩でもやっていたのだ。だが大久保利通が断固として、福岡藩だけに過酷な処罰を科し、藩の重職5名が斬首、知藩事が罷免となった。これにより福岡藩は明治新政府にひとりの人材も送り込めることも出来ず、時代から取り残されていった。この同じ年、明治8年9月、近代日本の方向性を決定づける重大な事件が勃発した。「江華島(こうかとう・カンファンド)事件」である。これは開国要請に応じない朝鮮に対する砲艦外交そのものであった。そもそも李氏朝鮮の大院君はこう考えていた。「日本はなぜ蒸気船で来て、洋服を着ているのか?そのような行為は華夷秩序(かいちつじょ)を乱す行為である」
華夷秩序は清の属国を認める考えだから近代国家が覇を競う時代にあまりに危機感がなさすぎる。だからといって、砲艦外交でアメリカに開国させられた日本が、朝鮮を侮る立場でもない。どの国も、力ずくで国柄を変えられるのは抵抗があるのだ。日本軍艦・雲揚(うんよう)は朝鮮西岸において、無許可の沿海測量を含む挑発行動を行った。さらに雲揚はソウルに近い江華島に接近。飲料水補給として、兵を乗せたボートが漢江支流の運河を遡航し始めた時、江華島の砲台が発砲!雲揚は兵の救援として報復砲撃!さらに永宗島(ヨンジュンド)に上陸して朝鮮軍を駆逐した。明治政府は事前に英米から武力の威嚇による朝鮮開国の支持を取り付け、挑発活動を行っていた。そしてペリー艦隊の砲艦外交を真似て、軍艦3隻と汽船3隻を沖に停泊させて圧力をかけた上で、江華島事件の賠償と修好条約の締結交渉を行ったのだった。この事件に、鹿児島の西郷隆盛は激怒した。
「一蔵(大久保)どーん!これは筋が違ごうじゃろうがー!」
大久保らは、「明治6年の政変」において、「内治優先」を理由としてすでに決定していた西郷遣韓使節を握りつぶしておきながら、その翌年には台湾に出兵、そしてさらに翌年にはこの江華島事件を起こした。「内治優先」などという口実は全くのウソだったのである。特に朝鮮に対する政府の態度は許しがたいものであった。
西郷は激昴して「ただ彼(朝鮮)を軽蔑して無断で測量し、彼が発砲したから応戦したなどというのは、これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきの行為といわにゃならんど!政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす!」
西郷は、測量は朝鮮の許可が必要であり、発砲した事情を質せず、戦端を開くのは野蛮と考えた。
「そもそも朝鮮は幕府とは友好的だったのでごわす!日本人は古式に則った烏帽子直垂(えぼしひたたれ)の武士の正装で交渉すべきでごわす!軍艦ではなく、商船で渡海すべきでごわんそ!」
西郷は政府参与の頃、清と対等な立場で「日清修好条規」の批准を進め、集結した功績がある。なのに大久保ら欧米使節・帰国組の政府要人は西郷の案を「征韓論」として葬っておきながら、自らは、まさに武断的な征韓を行っている。西郷隆盛はあくまでも、東洋王道の道義外交を行うべきと考えていた。西郷は弱を侮り、強を恐れる心を、徹底的に卑しむ人であった。大久保は西洋の威圧外交を得意とし、朝鮮が弱いとなれば侮り、侵略し、欧米が強いとなれば恐れ、媚びへつらい、政治体制を徹底的に西洋型帝国の日本帝国を建設しようとしたのだ。西郷にとっては、誠意を見せて朝鮮や清国やアジア諸国と交渉しようという考えだったから大久保の考えなど論外であった。だが、時代は大久保の考える帝国日本の時代、そして屈辱的な太平洋戦争の敗戦で、ある。大久保にしてみれば欧米盲従主義はリアリズム(現実主義)であったに違いない。そして行き着く先がもはや「道義」など忘れ去り、相手が弱いと見れば侮り、強いと見れば恐れ、「WASPについていけば百年安心」という「醜悪な国・日本」なのである。


武田信玄「風林火山」 風林火山の軍師と御屋形さま <軍師 山本勘助と甲斐の虎 武田信玄>小説5

2015年06月21日 07時52分53秒 | 日記








         5 桶狭間合戦







 戦国時代の二大奇跡がある。ひとは中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦、もうひとつが織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。
 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。
  斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長が弟・信行を謀殺したのは前述した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。
 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。
 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。
「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。
「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。
「は?」
「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。
 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。
 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。
 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのよい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。
 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。
 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。
 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。
「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。
 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。
 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。信長の勝つ確率は極めて低い。
  今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。
  特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。
 今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。
 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。しかし当の松平元康(のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。
 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。
 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。
 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。なにを夢ごとを。家臣たちは訝しがった。





  松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。
 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。
 今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。今川義元は軍議をひらいた。
「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。
 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」
 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。
 柴田勝家は「そうか……とは? …御屋形! 何か策は?」と口をはさんだ。
 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。宮福太夫という猿楽師に、羅生門を舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。
「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」
 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。
 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。
「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。
「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」
「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」
「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。
「なんて御屋形だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」
「まったくあきれる。あれでも大将か?」
 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」
  信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。
「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」
「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」
「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」
 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。
「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の男がいった。この男こそ、のちの豊臣秀吉である。秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」
「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」
 日吉は迷ってから「奇襲にでればと」
「奇襲?」信長は茫然とした。
「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」
「さしでがましいわ!」信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。
「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。
 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。
「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。
「なんじゃ、猿」
「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」
「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」
「八百あまり」
「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。
「いま何刻じや?」
「うしみつ(午前2時)でごさりまする」猿はいった。
「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」
 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。そして有名な「敦盛」を舞い始める。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。
「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。わずかに長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎の五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。
 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。
「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」
 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。
 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。
 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。
 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」
 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。
「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。
 信長は叫んだ。
「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」
 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。
 たい し が ね                                   「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」
 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせ、にやりとした。
「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形である」と感心した。
 織田軍は密かに進軍を開始した。








                 
  太子ケ根を登り、丘の上で信長軍は待機した。
 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。嵐の中で部下は「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。
 しかし、信長はその策をとらなかった。
「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」
 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」
 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。山の上から喚声をあげて下ってくる軍に今川本陣は驚いた。
「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。
「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」
 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!
 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。
 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!
「御屋形様をお守りいたせ!」
 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。
「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、新助の人差し指に噛みつき、それを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。
 義元はこの時四十二歳である。
「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。
 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。
「勝った! われらの勝利じゃ!」
 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。
  かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。
「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」
「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。
「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。
 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。
 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。
  今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。
 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。
 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。
 これに対して信長は「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。
 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。
 清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方にけっそうをかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。
  清洲城に戻り、酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。
 信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」
 家臣たちは意味がわからず顔を見合わせたという。
 晴信はこの桶狭間合戦を知り、「信長という男は強敵ぞ!」といった。       

おいどん!巨眼の男 西郷隆盛 鹿児島のおいどん西郷吉之助の維新と西南戦争の真実!小説3

2015年06月20日 04時12分05秒 | 日記









         3 久光との確執





  吉之助は三年間島にいたあと、やっと鹿児島にもどった。
「鹿児島じゃ! なつかしいでごわす」
 桜島はいつものように噴煙をあげていて、雄大である。
 親友の大久保一蔵が出迎えた。
「西郷どん!」
「一蔵どん!」
 ふたりは抱き合った。           
「一蔵どんのおかげで鹿児島にもどれもうしたばい。感謝感激でごわす」
 吉之助は礼を述べた。
「いやいや、西郷どんはわが薩摩の英雄じゃっど。天下がおまんさんを必要としておるっちゅうことでごわそ」
「西郷どん、よかとでごわした」
 大久保一蔵は笑みを浮かべた。……なんにしてもこれで倒幕ができる。
「西郷どん! 西郷どんではごわさんか?!」
 薩摩藩士の男たちが集まってきて、握手した。みんな西郷吉之助の帰還を喜んだ。
  西郷は「いよいよ腐りきった幕府を倒すべきでごわそ?」と一蔵にきいた。
 大久保一蔵(利道)は顔をしかめて、
「久光公は幕制改革というとおりもんそ……倒幕とは考えておりもうさん」
 といった。
「そいは反対でごわそ! 幕府を倒さねばなんもなりもんそ」
 西郷は強くいった。
「そげんこついうても、久光公には才能がござらん」
「……なさけなか。藩主がこげな状況では藩に命を捧げたひとたちが浮かばれもんそ」
 西郷吉之助(隆盛)は嘆いた。
 やがて、島津久光は隠居した。
 その隠居は、宮中や朝廷に知らせ、久光は薩摩藩主ではなくなった。
「何の理由もなく兵を動かせば壤夷派にしてやられる」
 薩摩藩士たちは、血判状をつくって久光に迫った。
 島津久光は、
「よし! わかった! 上洛じゃ!」
 と息巻いた。
 家臣たちは「やっとごて公がわかってくれもした!」と喜んだ。
『精忠組』も同じように喜んだ。
 しかし、久光はいつまでもぐすぐすしている。
「殿! ………はやく行動をば!」
 久光は押し黙った。そして、オドオドとなって「わかっとか!」といった。

「西郷どん! ご無事でよかごわした!」
 吉之助の元に、薩摩藩士仲間の村田新八と森山新蔵がやってきた。
「新八どん! 新蔵どん! ひさしゅうごわす!」
 吉之助は笑顔をふたりにみせた。
「西郷どん、大変じゃったでごわそ?」
 と村田。
「まぁそうでごわすな」
 吉之助は苦い顔をした。「おいが掃除も洗濯もひとりでしよった」
 すると森山がにやりとして、
「じゃっどん西郷どん」
「なにとぜ?」
「奄美で結婚したとでごわそ?」森山はにやにやした。
 吉之助はにこりと白い歯をみせ、巨眼と太い眉を細め、
「そうでござりもそ。島の女と結婚しよった」といった。しあわせそうな顔だった。
「……そぜ?」
 村田は吉之助に尋ねた。
「そぜ? ってなんじゃっとん?」
「子までできたんでごわそ?」
「ははは」吉之助は大笑いして「そでごわすそでごわす」
「めでたいでごわすな」
 一同は笑った。
 西郷は「いよいよ腐りきった幕府を倒すべきでごわそ?」と森山にきいた。
 一蔵は顔をしかめて、
「久光公は幕制改革というとおりもんそ……倒幕とは考えておりもうさん」
 といった。
「なんどもいうどん。そいは反対でごわそ! 幕府を倒さねばなんもなりもんそ」
 西郷は強くいった。
「まず幕府を倒すためには二条城をせめ、彦根城を攻め一挙に江戸に攻め入るのが最高の策でごわす」
「そげんこついうても……」一蔵は首をふった。
「久光公は”わかっとか!”いうたばってん。ほんとげにわかっちょっとがか?」
 村田新八と森山新蔵も、「久光公には倒幕は無理でごわす。西郷どん…」
 吉之助は口をつぐんだ。
「西郷どん。あんさんがたつしかなか」
 一同の目が西郷吉之助(隆盛)に集まった。吉之助は頭をかいて、
「じゃっどん。おいは幽霊でごわそ?」と冗談をいった。

  諸国の志士たちが西郷吉之助によせる期待はただならぬものがあった。
「西郷が動けば薩摩は動く」といわれるほどで、故・斉彬の助手として活躍し、顔も知られていた。
 西郷は島津久光との約束を忘れ、急ぎ馬関(下関)を発して京へと向かった。
 それを知った久光は、激昴して、
「おのれ! 余をばかにすっとか?!」
 といった。
「吉之助め、余の命にそむいて……何をばするつもりか! あの男は余をあなどっておるのではなかか!」
「久光さま。そのようなことは…」
「黙れ! 一蔵!」
 大久保は久光をなだめた。
「西郷どんはどげんこつで京へいきもはんじゃろうですか?」
「知るか!」久光は強い口調でまくしたてる。「あの男ばゆるすわけにはいかん!」
「落ち着いてくだされ! 久光さま!」
「一蔵! 誰のおかげで偉くなれもうした?」
 大久保一蔵(利道)は押し黙った。…確かに偉くなったのは久光のおかげである。
「いつやめてもよかとぞ? 一蔵」
 久光は低い声でつめよった。
 大久保一蔵(利道)は押し黙ったままだ。
「吉之助はまた島へ流す! おいを馬鹿にした罰じゃ!」
 久光は顔を真っ赤にしていった。よほど腹が立っていたのであろう。
「久光さま。そのようなことは…おいが連れ戻すばってんそれは平にご容赦を!」
「そげんこつはいかん! 吉之助はまた島へ流す!」
「……久光さま!」
「あれはわが藩と幕府を戦わせるつもりぞ。流さねばなりもうさん」
 久光は、ふん、と鼻を鳴らすと場を去った。
 大久保一蔵は愕然として、城内の庭園でがくりと膝をついた。なんともやりきれない思いであった。………なんてごてじゃっどん。
 また西郷どんが島流しにあうとがか?!
 目の前が真っ暗になる思いだった。
  大久保一蔵はさっそく急いで京へと向かった。
 京の薩摩藩邸には西郷がいた。
「おや? 一蔵どんじゃなか! どげんしたでごわす?」
 何も知らない吉之助は明るい声でいった。
「西郷どん……」
「?!」
 吉之助は驚いた。大久保一蔵が土下座したからだ。
「なにしよっとぞ?! 一蔵どん」
「悪いことしよった……西郷どん…またあんさんを島流しにするちゅうて…」
 一蔵は涙を流した。
「島流し? おいを? また久光がそういったでごわすか?」
「……そうでごわす…悪かことしよっとばい」
「頭をあげとせ! 一蔵どん! あんさんが悪いのじゃなかが…」
 吉之助は手を差し向けた。
「……じゃっどん…」
「すべては久光の無能のためでごわす」     
 大久保一蔵は起き上がり、眩暈を覚えながら、
「おいは久光公がわからんとなったでごわす。西郷どんのような人物が今、必要なときになにとぜ島流しなんぞに…」と呟くようにいった。
「一蔵どん………おいはよかとぞ。島流しなんぞなんでもなか。どうせ一度はなくしかけた命じゃっどん。なんでもなかと」
「……おいは…おいは…」
「?!」
 吉之助は驚愕した。大久保が切腹しようとしたからである。
「…な?! なにしよっとか一蔵どん?!」吉之助は一蔵のもつ脇差しをとめた。
「馬鹿なことするもんじゃなか?!」
「…死なせて…もうせ! 西郷どん! わしが腹をきってお詫びを…」
「馬鹿ちんが!」
 吉之助は一蔵の頬を平手打ちした。
「”死んではつまらん”いうたのはあんさんでなかが?!」
 一蔵は脇差しを畳に落とし、茫然とした。
「どうせ死ぬなら…」
 吉之助は続けた。「どうしても死ぬなら、天下のために命を捧げもうせ! 犬死はつまらん! 犬死だけはつまらんど」
「……じゃっどん」
「今は乱世のときぞ。あんさんがいのうなったら天下はどげんなっとか?!」
 吉之助は諭した。
 大久保はしばらく茫然としてから、
「……西郷どん」と囁くようにいった。

  村田新八は徳之島へ、西郷吉之助も島へ流された。
  久光は大阪へ入った。西郷のいとこ大山弥助(のちの巌)、西郷の弟・西郷慎吾(従道)がやってきた。
 久光への意見は、「あにさんを帰してくれもんそ」ということである。
 しかし、島津久光の考えはかわらなかった。
 そんな最中、文久二年(一八六二)『寺田屋事件』が起こる。
「九州諸藩からぬけだした連中が京へきて何かしようとしちょる。おいどんをかつぎだして久光公のご出馬をこうとる」
 吉之助は島流しの前に一蔵にいっていた。
「なぜとめくれなんじゃ?」
「なれどな一蔵どん……久光公の怒りはな……そりゃきびしいど」
「わかっちょる」
  いま京で騒ぎをおこそうとしているのは田中河内介である。田中に操られて、薩摩藩浪人が、尊皇壤夷のために幕府要人を暗殺しようとしている。それを操っているのは出羽庄内藩浪人の清河八郎であったが、一蔵にはそれは知らなかった。
 幕府要人の暗殺をしようとしている。
「もはや久光公をたよる訳にはいかもんそ!」
 かねてからの計画通り、京に潜伏していた薩摩浪人たちは、京の幕府要人を暗殺するために、伏見の宿・寺田屋へ集結した。
 総員四十名で、中には久光の行列のお供をした有馬新七の姿もあったという。
「もはやわが藩を頼れないでごわす! 京の長州藩と手をむすび、事をおこすでごわそ!」 と、有馬は叫んだ。
「なにごてそんなことを……けしからぬやつらじゃ!」
 久光はその情報を得て、激昴した。寺田屋にいる四十名のうち三十名が薩摩の志士なのである。「狼藉ものをひっとらえよ!」
 京都藩邸から奈良原喜八郎、大山格之助以下九名が寺田屋の向かった。
 のちにゆう『寺田屋事件』である。
「久光公からの命である! 御用あらためである!」
  寺田屋への斬り込みは夜だった。このとき奈良原喜八郎の鎮撫組は二隊に別れた。大山がわずか二、三人をつれて玄関に向かい、奈良原が六名をつれて裏庭にむかった。
 そんな中、玄関門の側で張り込んでいた志士が、鎮撫組たちの襲撃を発見した。又左衛門は襲撃に恐れをなして逃げようとしたところを、矢で射ぬかれて死んだ。
 ほどなく、戦闘がはじまった。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」大山は囁くように命令した。
 あとは大山と三之助、田所、藤堂の四人だけである。
 いずれもきっての剣客である。柴山は恐怖でふるえていた。襲撃が怖くて、柱にしがみついていた。
「襲撃だ!」
 有馬たちは門をしめ、中に隠れた。いきなり門が突破され、刀を抜いた。二尺三寸五分政宗である。田所、藤堂が大山に続いた。
「なにごてでごわそ?」二階にいた西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌は驚いた。悲鳴、怒号……
 大山格之助は廊下から出てきた有馬を出会いがしらに斬り殺した。
 倒れる音で、志士たちがいきり立った。
「落ち着け!」そういったのは大山であった。刀を抜き、道島の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて道縞五郎兵衛の頭を斬りつけた。乱闘になった。
 志士たちはわずか七名となった。
「手むかうと斬る!」
 格之助は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、格之助はすぐに起き上がることができなかった。
 そのとき、格之助は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
 なおも敵が襲ってくる。そのとき、格之助は無想で刀を振り回した。格之助はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
 一階ではほとんど殺され、残る七名も手傷をおっていた。
 これほどですんだのも、斬りあいで血みどろになった奈良原喜八郎が自分の刀を捨てて、もろはだとなって二階にいる志士たちに駆けより、
「ともかく帰ってくだはれ。おいどんとて久光公だて勤王の志にかわりなか! しかし謀略はいけん! 時がきたら堂々と戦おうではなかが!」といったからだ。
 その気迫におされ、田中河内介も説得されてしまった。
 京都藩邸に収容された志士二十二名はやがて鹿児島へ帰還させられた。
 その中には、田中河内介や西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌の姿もあった。  ところが薩摩藩は田中親子を船から落として溺死させてしまう。
 吉之助はそれを知り、
「久光は鬼のようなひとじゃ」と嘆いた。

  奄美大島の愛加那と子供ふたりは「吉之助がふたたび島流しにあった」ときいて、思わず興奮した。やっとあえるのだ。
 しかし、西郷吉之助が流されたのは大島ではなく、徳之島であった。徳之島は奄美大島につぐ二番目に大きな島で、久光が、
「大島にやったのでは家族がいて罰にならない」
 と、いったためにこの島が流刑場所に選ばれたのである。
 しかし、待ち切れない。
 愛加那は興奮して徳之島まで舟でむかった。そして、再会した。
「おお! 愛加那でごわそか!」
「旦那さん!」
 ふたりは抱きあった。吉之助は息子と女の子をみた。
「これが菊次郎でごわそ?」
「…はい。こちらは菊草という旦那さまの娘です」愛加那は笑顔をつくった。
「そうでごわすか。そうでごわすか」
 吉之助の笑顔はわずかだった。すぐに暗い顔をして「……久光公に…嫌われ申した」 
 と、慙愧の顔をした。
 すると、見知らぬじじいとばばあがやってきて、
「おんしは極悪人じゃ!」といった。
「……なにごて?」吉之助は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「ふつうの人間は一度島流しにあえばこりて悪さしないものじゃっどん。おんしは二度も島流しにおうてる。極悪人じゃで」
「じじい、ばばあ」吉之助は顔をしかめて「おいどんは極悪人じゃ。その杖でおいを叩きのめしてごわせ!」
 やがてばばあとじじいは吉之助を杖で叩きはじめた。
「………旦那はん!」
「愛加那! ……子らに見せんじゃなか! 行け! はよ行け!」
 愛加那は子供たちに、ボコボコに叩かれる吉之助をみせて、「よくみとらんせ。あれがあんさんたちの父ど!」と諭した。
 吉之助は傷だらけになった。
  久光はそれをきき笑ったが、妻子にあえるのは駄目じゃな。とも思い、島流しの場所をかえさせたという。
   
 吉之助は沖永良部島へと流された。
 島は石がいっぱいあって、太陽がぎらぎらまぶしく、そんな海岸の炎天下のちいさな檻に西郷吉之助(隆盛)はいれられた。食事はおそまつで、風呂にもはいれない。
 雪隠(トイレ)もない。しかも、暑苦しい。狭い。外にでれない。
 吉之助は髭をぼうぼうに生やしっぱなし、服も汚れ、さすがに痩せて、頬はこけ、風呂にはいってないから臭くなった。
 吉之助は座禅を組んで耐えた。三年間そんな日々が続いた。
 島には陽気な薩摩隼人・川口雪篷がいて、酒をラッパ呑みしながら檻にやってきた。昼頃だった。「西郷どん……酒はどうじゃ?」
 雪篷がいうと、西郷は目をまわし、気絶した。
「おい! 西郷どんが気絶しよったぞ!」
 雪篷はあわてて役人をよびにいった。しかし、吉之助は、死ななかった。

         4 薩英戦争



   文久二年(一八六二)八月二十一日、『生麦事件』が勃発した。
 参勤交替で江戸にいた島津久光は得意満々で江戸を発した。五百余りの兵をともない京へむかった。この行列が神奈川宿の近くの生麦村へさしかかったところ、乗馬中のイギリス人(女性ひとりをふくむ)四名が現れ、行列を横切ろうとした。
「さがれ! 無礼ものどもが!」
 寺田屋事件で名を馳せた奈良原が外国人たちにいって、駆け寄り、リチャードソンという白人を斬りつけて殺した。他の外国人は悲鳴をあげて逃げていった。
 これが『生麦事件』である。

  京都にしばらくいた勝麟太郎(勝海舟)は、門人の広井磐之助の父の仇の手掛かりをつかんだ話をきいた。なんでも彼の父親を斬り殺したのは棚橋三郎という男で、酒に酔っての犯行だという。
「紀州藩で三郎を捕らえてもらい、国境の外へ追い出すよう、先生から一筆頼んでくださろうか?」
 麟太郎は龍馬の依頼に応じ、馬之助に書状をもたせてやった。
 馬之助は二十七日の朝に戻ってきて、「棚橋らしい男は、紀州家にて召しとり、入牢させ吟味したところ、当人に相違ないとわかったがです」
  麟太郎は海軍塾の塾長である出羽庄内出身の佐藤与之助、塾生の土州人千屋寅之助と馬之助、紀州人田中昌蔵を、助太刀として紀州へ派遣した。龍馬は助太刀にいかなかった。「俺は先生とともに兵庫へいく。俺までいかいでも、用は足るろう」龍馬はいった。
  棚橋は罠にかかった鼠みたいな者である。不埒をはたらいた罰とはいえ、龍馬は棚橋の哀れな最期を見たくなかった。
 六月二日、仇討ちは行われた。場所は紀州藩をでた、和泉山中村でおこなわれた。
 見物人が数百人も集まり、人垣をつくり歓声をあげる中、広井磐之助と助太刀らと棚橋三郎による決闘が行われた。広井と棚橋のふたりは互いに対峙し、一刻(二時間)ほど睨み合っていた。そして、それから広井が太刀を振ると、棚橋の右小手に当たり血が流れた。さらに斬り合いになり、広井が棚橋の胴を斬ると、棚橋は腸をはみだしたまま地面に倒れ、広井はとどめをさした。

「あにさん! ご無事で!」
 島から帰った吉之助を、弟の慎吾といとこの大山巌が鹿児島で出迎えた。
 抱き合った。そして、吉之助は「村田新八どんももどしとせ」と頼んだ。
 ほどなく、村田新八も鹿児島へ帰還させられた。
 西郷隆盛の勝負は、いよいよここから始まった。

 イギリスとも賠償問題交渉のため、四月に京とから江戸へ戻っていた小笠原図書頭は、やむなく、朝廷の壤夷命令違反による責めを一身に負う覚悟をきめたという。
 五月八日、彼は艦船で横浜に出向き、三十万両(四十四万ドル)の賠償金を支払った。 受け取ったイギリス代理公使ニールは、フランス公使ドゥ・ペルクールと共に、都の反幕府勢力を武力で一掃するのに協力すると申しでた。
 彼らは軍艦を多く保有しており、武装闘争には自信があった。
 幕府のほうでも、反幕府勢力の長州や壤夷浮浪どもを武力弾圧しようとする計画を練っていた。計画を練っていたのは、水野痴雲であった。
 水野はかつて外国奉行だったが、開国の国是を定めるために幕府に圧力をかけ、文久二年(一八六二)七月、函館奉行に左遷されたので、辞職したという。
 しばらく、痴雲と称して隠居していたが、京の浮浪どもを武力で一掃しろ、という強行論を何度も唱えていた。
 麟太郎は、かつて長崎伝習所でともに学んだ幕府医師松本良順が九日の夜、大阪の塾のある専称寺へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。
「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃した。商船は逃げたが、一万ドルの賠償金を請求してきた。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃した。
 水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきたのでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出た。
 その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたんだ」
 アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。
「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたという」
「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」
「そう。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げたが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうだ。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はない。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だとさ」
 将軍家茂は大阪城に入り、麟太郎の指揮する順動丸で、江戸へ戻ることになった。
 小笠原図書頭はリストラされ、大阪城代にあずけられ、謹慎となった。

  由良港を出て串本浦に投錨したのは十四日朝である。将軍家茂は無量寺で入浴、休息をとり、夕方船に帰ってきた。空には大きい月があり、月明りが海面に差し込んで幻想のようである。
 麟太郎は矢田堀、新井らと話す。
「今夜中に出航してはどうか?」
「いいね。ななめに伊豆に向かおう」
 麟太郎は家茂に言上した。
「今宵は風向きもよろしく、海上も静寂にござれば、ご出航されてはいかがでしょう?」 家茂は笑って「そちの好きにするがよい」といった。
 四ケ月ぶりに江戸に戻った麟太郎は、幕臣たちが激動する情勢に無知なのを知って怒りを覚えた。彼は赤坂元氷川の屋敷の自室で寝転び、蝉の声をききながら暗澹たる思いだった。
 ………まったくどいつの言うことを聞いても、世間の動きを知っちゃいねえ。その場しのぎの付和雷同の説ばかりたてやがって。権威あるもののいうことを、口まねばかりしてやがる。このままじゃどうにもならねぇ………
 長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる”報復”だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。
 セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。
 コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。
 長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。
 高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。
 武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。  薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。
 鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。 その日、生麦でイギリス人を斬り殺した奈良原喜八郎が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。 彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。
  翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。
 ニールは応じなかったという。
「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」

  島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である奈良原喜八郎を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜きた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛                
門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。
 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
 奈良原は答書を持参していた。
 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
 ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」
 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。
 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
 薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」
 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩・家老の川上に答書を届けた。
 それもどうにも噛み合わない。
 一、加害者は行方不明である。
 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなに ごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。

     
  キューパ総督は薩摩藩の汽船を拿捕することにした。
 四つ(午前十時)頃、コケット号、アーガス号、レースホース号が、それぞれ拿捕した汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。
 鶴丸城がイギリス艦隊の射程距離にあるとみて、久光、忠義親子は本陣を千眼寺に移した。三隻が拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。
 七月二日は天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。
 ニールたちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。
 正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、イギリス兵たちは驚いて飛び上がった。
 たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であったという。
 イギリス艦隊も砲弾の嵐で応戦した。
 薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如くイギリス艦隊から砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。
 左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だったという。そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。
 イギリス艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。
 紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシヤンパンで祝った。
  イギリス艦隊が戦艦を連れて鹿児島にいくと知ったとき、勝海舟は英国海軍と薩摩藩軍のあいだで戦が起こると予知していた。薩摩藩前藩主斉彬の在世中、咸臨丸の艦長として接してきただけに「斉彬が生きておればこんな戦にはならなかったはずでい」と惜しく思った。「薩摩は開国を望んでいる国だから、イギリスがおだやかにせっすればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみてたから火傷させられたのさ。 しかし、薩摩が勝つとは俺は思わなかったね。薩摩と英国海軍では装備が違う。
 いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわってねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからのイギリスの対応が見物だぜ」

  幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。
 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。

  この頃、庄内藩(山形県庄内地方)に清河八郎という武士がいた。田舎者だが、きりりとした涼しい目をした者で、「新選組をつくったひと」として死後の明治時代に”英雄”となった。彼は藩をぬけて幕府に近付き、幕府武道指南役をつくらせていた。
 遊郭から身受けた蓮という女が妻である。清河八郎は「国を回天」させるといって憚らなかった。まず、幕府に武装集団を作らせ、その組織をもって幕府を倒す……まるっきり尊皇壤夷であり、近藤たちの思想「佐幕」とはあわない。しかし、清河八郎はそれをひた隠し、「壬生浪人組(新選組の前身)」をつくることに成功する。
 その後、幕府の密偵を斬って遁走し暗殺されることになる。

 文久三(一八六三)年一月、近藤勇に、いや近藤たちにチャンスがめぐってきた。そ                        
れは、京にいく徳川家茂のボディーガードをする浪人募集というものだった。
 その頃まで武州多摩郡石田村の十人兄弟の末っ子にすぎなかった二十九歳の土方歳三もそのチャンスを逃さなかった。当然、親友で師匠のはずの近藤勇をはじめ、同門の沖田総司、山南敬助、井上源三郎、他流派ながら永倉新八、藤堂平助、原田左之助らとともに浪士団に応募したのは、文久二年の暮れのことであった。
 微募された浪士団たちの初顔合わせは、文久三(一八六三)年二月四日であった。
 会合場所は、小石川伝通院内の処静院であこなわれたという。
 幕府によって集められた浪人集は、二百三十人だった。世話人であった清河によって、隊士たちは「浪人隊」と名づけられた。のちに新微隊、そして新選組となる。
 役目は、京にいく徳川家茂のボディーガードということであったが、真実は京には尊皇壤夷の浪人たちを斬り殺し、駆逐する組織だった。江戸で剣術のすごさで定評のある浪人たちが集まったが、なかにはひどいのもいたという。
 京には薩摩や長州らの尊皇壤夷の浪人たちが暗躍しており、夜となく殺戮が行われていた。将軍の守護なら徳川家の家臣がいけばいいのだが、皆、身の危険、を感じておよび腰だった。そこで死んでもたいしたことはない”浪人”を使おう……という事になったのだ。「今度は百姓だからとか浪人だからとかいってられめい」
 土方は江戸訛りでいった。
「そうとも! こんどこそ好機だ! 千載一遇の好機だ」近藤は興奮した。
 すると沖田少年が「俺もいきます!」と笑顔でいった。
 近藤が「総司はまだ子供だからな」という。と、沖田が、「なんで俺ばっか子供扱いなんだよ」と猛烈に抗議しだした。
「わかったよ! 総司、お前も一緒に来い!」
 近藤はゆっくり笑顔で頷いた。

 「浪人隊」の会合はその次の日に行われた。武功の次第では旗本にとりたてられるとのうわさもあり、すごうでの剣客から、いかにもあやしい素性の不貞までいた。
 処静院での会合は寒い日だった。場所は、万丈百畳敷の間だ。公儀からは浪人奉行鵜殿翁、浪人取締役山岡鉄太郎(のちの鉄舟)が臨席したのだという。
 世話は出羽(山形県)浪人、清河八郎がとりしきった。
 清河が酒をついでまわり、「仲良くしてくだされよ」といった。
 子供ならいざしらず、互いに素性も知らぬ浪人同士ですぐ肩を組める訳はない。一同はそれぞれ知り合い同士だけでかたまるようになった。当然だろう。
 そんな中、カン高い声で笑い、酒をつぎ続ける男がいた。口は笑っているのだが、目は異様にぎらぎらしていて周囲を伺っている。
「あれは何者だ?」
 囁くように土方は沖田総司に尋ねた。この頃十代後半の若者・沖田は子供のような顔でにこにこしながら、
「何者でしょうね? 俺はきっと水戸ものだと思うな」
「なぜわかるんだ?」
「だって……すごい訛りですよ」
 土方歳三はしばらく黙ってから、近藤にも尋ねた。近藤は「おそらくあれば芹沢鴨だろう」と答えた。
「…あの男が」土方はあらためてその男をみた。芹沢だとすれば、有名な剣客である。神道無念流の使い手で、天狗党(狂信的な譲夷党)の間で鳴らした男である。
「あまり見ないほうがいい」沖田は囁いた。


  隊士二百三十四人が京へ出発したのは文久三年二月八日だった。隊は一番から七番までわかれていて、それぞれ伍長がつく。近藤勇は局長でもなく、土方も副長ではなかった。 近藤たち七人(近藤、沖田、土方、永倉、藤堂、山南、井上)は剣の腕では他の者に負けない実力があった。が、無名なためいずれも平隊士だった。
 浪人隊は黙々と京へと進んだ。
  浪人隊はやがて京に着いた。
 その駐屯地での夜、清河八郎はとんでもないことを言い出した。
「江戸へ戻れ」というのである。「これより浪士組は朝廷のものとなった!」
 この清河八郎という男はなかなかの策士だった。この男は「京を中心とする新政権の確立こそ壤夷である」との思想をもちながら、実際行動は、京に流入してくる諸国脱藩弾圧のための浪人隊(新選組の全身)設立を幕府に献策した。だが、組が結成されるやひそかに京の倒幕派に売り渡そうとしたのである。
 浪士たちは反発した。清河はひとりで江戸に戻った。いや、その前に、清河は朝廷に働きかけ、組員(浪士たち)が反発するのをみて、隊をバラバラにしてしまう。
 近藤たちは京まできて、また「浪人」に逆戻りしてしまった。
 勇のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、脅威的な形をとりはじめていた。彼の本能すべてに警告の松明がついていた。その緊張は肩や肘にまでおよんだが、勇は冷静な態度をよそおった。
「ちくしょうめ!」土方は怒りに我を忘れ叫んだ。
 とにかく怒りの波が全身の血管の中を駆けぬけた。頭がひどく痛くなった。
(清河八郎は江戸へ戻り、幕府の密偵を斬ったあと、文久三年四月十三日、刺客に殺されてしまう。彼は剣豪だったが、何分酔っていて敵が多すぎた。しかし、のちに清河八郎は明治十九年になって”英雄”となる)

  壬生浪士隊は次々と薩摩や長州らの浪人を斬り殺し、ついに天皇の御所警護までまかされるようになる。登りつめた! これでサムライだ!
  土方の肝入で新たに採用された大阪浪人山崎蒸、大阪浪人松原忠司、谷三十郎らが隊に加わり、壬生浪人組は強固な組織になった。芹沢は粗野なだけの男で政治力がなく、土方や山南らはそれを得意とした。近藤勇の名で恩を売ったり、近藤の英雄伝などを広めた。           
 そのため、パトロンであるまだ若い松平容保公(会津藩主・京守護職)も、
「立派な若者たちである。褒美をやれ」と家臣に命じたほどだった。
 そして、容保は書をかく。
 ……………新選組
「これからは壬生浪人組は”新選組”である! そう若者たちに伝えよ!」
 容保は、近藤たち隊に、会津藩の名のある隊名を与えた。こうして、『新選組』の活動が新たにスタートしたのである。
 新選組を史上最強の殺戮集団の名を高めたのは、かれらが選りすぐりの剣客ぞろいであることもあるが、実は血も凍るようなきびしい隊規があったからだという。近藤と土方は、いつの時代も人間は利益よりも恐怖に弱いと見抜いていた。このふたりは古きよき武士道を貫き、いささかでも未練臆病のふるまいをした者は容赦なく斬り殺した。決党以来、死罪になった者は二十人をくだらないという。
 もっとも厳しいのは、戦国時代だとしても大将が死ぬば部下は生き延びることができたが、新選組の近藤と土方はそれを許さなかった。大将(伍長、組頭)が討ち死にしたら後をおって切腹せよ! …というのだ。
 このような恐怖と鉄の鉄則によって「新選組」は薄氷の上をすすむが如く時代の波に、流されていくことになる。
 吉之助は「新選組」のことをきいて、「馬鹿らしかでごわす」と思った。「そげな農民や浪人出身の連中に身辺警護をまかせなければなんほど悪い世になったでごわすか?」
 西郷にはそれが馬鹿らしい行為であるとわかっていた。
 だが、京は浪人たちが殺戮の限りを尽くしている。浪人でもいないよりはマシだ。
 そんなおり幕府が長州藩の追放を決定した。どうやら薩摩の謀略らしい……
「世の中、どげんなっちゃろう?」吉之助は頭をひねった。

SEKAI NO OWARI(世界の終わり)又吉氏芥川賞候補「話題性だけ」セカオワFukaseやめろー!

2015年06月19日 16時30分17秒 | 日記









お笑いタレントの又吉直樹氏の著作が芥川賞候補だという。


これに関しては日本の文壇はいい加減にして欲しい、としか言えない。


綿矢金原”小娘作戦”、ゴーストの”水嶋ヒロ作戦”、


何度もやる”女子高生が書いた!”の”小娘作戦”。


いい加減にしろ!という。


話題性だけで選ぶな!


もっと神聖な賞だろ!臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

武田信玄「風林火山」 風林火山の軍師と御屋形さま <軍師 山本勘助と甲斐の虎 武田信玄>小説4

2015年06月19日 07時59分50秒 | 日記







  第二章 林の章

         4 長尾景虎



  正式な手続きは済んでないけれど、長尾景虎が関東管領上杉憲政の後をつぐということを真っ先に知って危機感を抱いたのは、甲斐(山梨県)の武田晴信(信玄)だった。
 武田晴信(信玄)は天文十一年、実父・信虎を駿河(静岡の中心部)に追放して、つぎつぎと隣国・信濃(長野県)を侵略して領地を広げた。……もちろんそのことを景虎が知らないハズはないが、まさか自分も巻き込まれることになろうとは思ってもみなかった。 前途洋々の年も暮れて、あけて天文二十二年の二月十日、景虎の兄長尾晴景が府内(直江津)の隠居所でひっそりと死んだ。享年は、四十二歳だった。
 憎み、追い落とした人物なれど、景虎にとってはたったひとりの兄である。こんなに早く死ぬのなら、もっと懇篤な付き合いをしていればよかった……。景虎は悔やんだ。
 葬儀も終わると、ふたたび混沌とした時代が幕をあけた。
 ……武田信玄勢、侵攻である。
 甲斐の武田勢が、ふたたび葛尾城を攻めている、こんどは村上勢のほうが不利……という情報はすでに景虎はつかんでいた。
「新兵衛、着替えて屋敷にまいる。そちたちも着替えてまいれ」
「はっ」
 こうして侍臣、重臣たちに「衣服を改めて御屋敷へ参じよ」という命令が伝えられた。ちなみに「御屋敷」とは、春日山城の城主屋敷のことである。
 ざんばら髪に血だらけの陣羽織姿の村上義清と家来たちも、すぐに湯浴みなどの接待をうけ、こざっぱりした着物を与えられた。
「さあ、食べてくだされ」
 食事を差し出しててきぱきとやっているのは、金津以太知之介であった。村上勢の落ち武者が春日山に向かっている、という情報が鳥坂城や箕冠城から届くや、すぐさま家臣たちを連れて着物などを用意しておいたのだ。
「これはかたじけない」
 村上義清らが礼を述べた。
「この度はまことに何とお礼を申し上げてよいやら…」
 とうに五十を過ぎた村上義清は、まだ二十四歳の景虎に家臣のような口を利き、ふかぶかと頭を下げた。
「……うむ」
 景虎は恭しく言った。まだ、正式な手続きは済んでないけれど、長尾景虎が関東管領上杉憲政の後をつぐということを皆知っているのだから、ここで威厳を見せなければならない。そのため、景虎は威厳あらたかな態度をとった。
 ……どうだ?これでよいか?…新兵衛に目くばせすると、新兵衛は「よろしい」と頷いた。……これでよいのだ…。しかし、
 ………政景め、まだ諦めておらぬな。
 並んだ国人衆の中で、ひとりだけ面白くない態度をとった政景をみて、景虎は思った。「村上殿」
「ははっ」
「もう少し近うに」
「ははっ」村上はもう一度、平伏したけれど、そのまま座を動かなかった。
 無理もない。すっかり緊張して、敗北のトラウマで堅くなっているのだ。
「村上殿の武勇はそれがし、つとにきいております」
 景虎はにこりと言った。すると、村上が、
「いえいえ、武勇など……それがしなど殿の足元にもおよびません」と、また平伏した。「今回は大変であったのう」
 景虎がそういうと、くやしくて、仕方ない…武田晴信(信玄)を倒し、領地を奪還したいけれども兵がたりない…。と、村上は不満を口惜しく語った。
「それならばわれらの兵馬をお使いくだされ」
「………まことにございますか?」
 村上義清の声がうわずった。…信じられない思いだった。なにせ長尾衆と村上は、永年いがみあってきた仲である。しかし、聖将といわれる景虎が嘘をつく訳もない。
 その村上の問いに、景虎は笑って答えるだけだった。
 ひととおり会話が終わると、本庄が村上に挨拶した。
「村上殿、よく存じませぬが、ご挨拶が遅れまして失礼申した。なにとぞ、許してくだされ」
「いえいえ、とんでもございません」
 村上はふたたび平伏した。…どうせ弱敗の情ない落ち武者…と考えていただろうと思っていたが、そうではなかった。村上は、手厚い対応に感激してしまった。
 彼は、涙さえ流したとも言われる。
 ……こんな俺を褒めて、尊敬してくれる。いっそのこと……ここの家臣となりたい!… 村上義清がそう心の中で思っていると、
「皆の者、村上殿がたらふく食べ、精がついたところで出陣じゃ!」
 と、景虎は言った。そして続けて、「武田晴信(信玄)は戦上手な男じゃ。けして抜かるでないぞ!われらが村上殿の諸城を取り上げられぬとな、こんどは越後まで攻めてくる。皆の者、出陣の準備はよいか!」
「おおっ!」
 雄叫びがあがった。
 こうして、武田晴信(信玄)vs長尾景虎(上杉謙信)の因縁の戦いがスタートする。いわゆる、川中島の戦い、である。
  川中島とは、信濃国更級郡の東北、千曲川と犀川が合流する三角地帯のことで、幅八キロメートル、長さは約四〇キロメートル、面積は約二六二平方キロメートルもある。川を下れば、美濃(岐阜の南部)や飛騨(岐阜県の北部)へ行くことができる。すでに信府をとった武田晴信(信玄)が、この要所(川中島)をとろうとするのは火を見るよりあきらかである。川中島から甲府へは一五〇キロだが、越府までは半分の八〇キロ…ここをとられてしまってはまずい。こうした危機感から天文二十二年(一五五三)八月、「第一次・川中島の戦い」が始まる。
「行け!」
 景虎は号令を出した。

  武田側の兵は史実では一万、上杉側は八千人とされる。
 天文二十三年、武田信玄が支配していた地域は甲斐および信濃のうち諏訪・佐久・上伊那・上田・松本地方で、合計四三万石になる。その兵は合計一万一千人…。
 景虎(謙信)の元には信玄の侵略に恐怖していた豪族たちが集まり、一万人もの兵ができた。しかし、「第一次・川中島の戦い」では八千人しか動かしてない。急な戦役だったし、揚北衆も間に合わなかったのだ。
 上杉と武田軍との最初の戦いは、景虎の天才的な軍術によって上杉謙信(景虎)の圧勝に終わった。この結果、信玄は川中島へ勢力を伸ばすことに失敗した。
「第一次・川中島の戦い」は、長尾景虎(上杉謙信)の勝利だったといってよい。






  長尾景虎(上杉謙信)は、なんとしても上洛しなくてはならない、と心に強く願っていた。堅く心に決めていた。
 すでに手土産として献上物を都に届けてあるのに、当人の景虎が来なければ、
「やつは武田晴信(信玄)の侵略をふせぐのに精一杯で、上洛できなかったのだ」
 …などと言われて嘲笑を受けてしまう。それは避けたかった。
 一度は国主を引退し、高野山の寺に入信し、謙信と号した。そこに勘助がやってきて刀の鍔迫り合いになったが僧侶に「やめんか!」ととめられた。
 勘助は命を狙ったのではないとわび、そののち出家して剃髪し「道鬼(どうき)」と号した。それをうけて武田晴信も出家し、「信玄入道(法名・徳栄軒、または信玄)」と号し頭を丸めた。 上洛の目的は昨年(天文二十一年)、弾正少弼(弾正台の次官、正五位下相当)に任命されたので、主上(後奈良天皇)と、将軍(足利義輝)などに御礼を言上するためである。 献上物は、剣や黄金、巻絹などさまざまな豪華品だった。
 しかし、新兵衛は、
「もう少し、武田側の動きをみてから上洛したほうが…」と意見していた。
「武田が北信濃を荒らしていることは、おそらく都へも聞こえているハズ…」
 と諫めていた。すると、景虎が珍しく怒り、
「たわけ!なればなおさらいかねばならぬ」と怒鳴った。
「ならば私がお供を…」
「ならぬ!お主がこの城を留守にしてどうする?」
「いや、しかし…」
「上洛までの旅は、金津以太知之介ら四人だけでいく。はよう伝えよ」
「…はっ」
 新兵衛は平伏した。
  こうして、景虎ら一向は、野を越え、山を越え…都へと急いだ。







  実は、景虎が留守中、国元ではごたごたが起きていた。
 いまは臣従している地侍同士のごたごたで、ある。双方の言い分はもっともで、要するに土地争いだった。
 その争いを止めようと調停した重臣、すなわち本庄、大熊朝秀、直江実網が乗り出したとたん、今度はその三人の争いになった。いわゆる「内ゲバ」である。
 本庄実仍と直江実網は景虎擁立の面々で、重要視されている。しかし、大熊朝秀は父・政秀からの段銭方(年貢金の徴収役)として財政を掌握している。つまり、景虎派閥と昔からの官僚の間がうまくいかなくなったのである。
 景虎はこれを裁かなければならない。
 上洛して、天皇や足利将軍にあっていた景虎は、この内ゲバ情報をきくと、すぐに郷里にとって帰した。そして、すぐに家臣を、
「仲間割れしているようでは今度は負ける!」
 と罵倒した。
「……しかし、土地の問題は複雑、意見も割れます」
「馬鹿者!」景虎は怒鳴った。
「そちらが考えなければならないのは、自分の私利私欲ではないはずだ!まず……考えなければならないのは領民の幸せだろう。民の模範とならなければならぬ武士が、そんなざまでどうする?!しっかりいたせ!」
「……ははっ」
 家臣たちは平伏した。
  それから間もなく、北条勢との戦になった。
 この辺りも豪雪地帯である。まるっきり孤立無援の北条勢はとっぷりと雪に囲まれた城で籠城を続けた。ようやく雪が溶け出しても、黒滝城の時のように景虎が皆殺しにするのではないか?……という恐怖に襲われて、北条側は戦意を失っていた。
 その頃合をみはからって、景虎は、安田景元に「降伏せよ」と北条高広に言わせた。
「いま俺のいうとおりにすれば、北条高広以下の者を皆たすけて、領土も遣わすぞ。降伏すれば殺しはしない」
「はっ、かたじけなく存じまする」
 と、北条高広に代わって安田景元が礼を述べたけれど、とても景虎が言葉通りにするとは思えなかった。今は下剋上の時代だ。平和な時代ならまだしも、約束などあってなきようなもの……皆殺しにするに決まっている……。
 しかし、籠城の将兵たちはその言葉を信じた。
「あの方は、皆殺しにする、といえば殺すし、助ける、といえば助ける方……信じて降伏しよう」
「そうだ!そうだ!」
 家臣たちに押されて、北条高広は単身、まる腰で景虎の元へいき、平伏した。
「高広、面を上げよ」
「……ははっ」
「おぬし、直垂の下は白無垢じゃな」
「おうせの通りにございます」
「なにゆえ死装束など?」
「……切腹をおおせつかった時、着替えるに寒うございますゆえ」
「馬鹿者!切腹せよなどと申さぬわ!俺が助けるといえば助ける」
「……ははっ」
 こうして景虎は春日山に帰ったが、帰る途中ビクビクものだった。…北条高広が追撃してくるかも…と恐れたのだ。
 ……切腹をおおせつかった時、着替えるに寒うゆえ死装束を着てきた…などと堂々とぬかしおった。それに比べて俺は……。なんとも情ない…。
 そういえば、和尚が言っておったのう。
”人間、死ねば土に帰るのみ…”
 …と。
 景虎はひとり苦笑してしまった。”人間、死ねば土に帰るのみ…”か、なるほど。
 わしも「生涯不犯」を通す身なれば、そういう気構えがほしいものじゃ。
 …ちかぢか、修行にまいろう…。

  明けて天文二十四年(一五五五)の七月、ついこの間、それぞれの本拠地に帰ったばかりの武将たちにふたたび動員令を発する次第となった。また、武田晴信(信玄)が川中島へ侵攻してきたのだ。いわゆる第二次川中島合戦である。
 その前年の天文二十三年(一五五四)の八月、武田晴信(信玄)はまだ支配下に置いてない下伊那地方に侵攻し、これを制した。これにより川中島以北を除く信濃のほぼ全域を支配下に収めた。信玄は、謙信の家臣・北条高広をそそのかして謀反を起こさせ、謙信こと景虎はすぐに鎮圧した(前述)。だが、これに怒り、謙信は武田征伐のため川中島に出陣したのである。
 第二次川中島合戦は、景虎がしかけて、武田晴信が対応する形となった。結果は、引き分けのような感じだったが、実態は武田晴信はまたしても川中島を制することは出来なかった。講和条約は上杉有利だったという。つまり、武田信玄は苦しい状況に立たされていた訳だ。しかし、合戦も後半になると、家臣たちの士気低下も著しく、両軍大将とも苦しんだ。だが、またも謙信有利のままに合戦は終わったので、ひと安心したという。
  上杉謙信(長尾景虎)は、「大儀」で動く。
 しかし、
 家臣たちは「利害」でしか動かない。私利私欲や利益でしか動かない。
 春日山城に戻ると、景虎は不満をもらした。
 新兵衛は、「それもいたしかたなし」と諫めたが、どうにも納得いかなかった。景虎はもともと欲望や野心の強い男ではない。ものにこだわらない性格で、気弱さを酒でカヴァーしている男だ。そして何より「大儀」を重んじる男である。それが、度々の「内ゲバ」で、苦しんでいた。そして、
 なにを思ったか、景虎は「出家する」といい、寺に籠ってしまった。
 それで、金津新兵衛らはパニックになった。
「どうしよう?」
「どうすれば…」
「そうだ!」新兵衛は言った。「殿は”生涯不犯”などと浮き世離れたことをいってるが、女子の味でも知ってもらって……まともな大将になっていただこう」
「まとも?」
「あぁ」
 新兵衛は頷いた。
 そして、さっそく彼は、琴(千代)に逢い、「そなた、思い切って景虎様と睦びおうてくれぬか?」と頼んだ。
「……なぜ私が…?」
 琴は真っ赤になって言った。
「……隠さずともよい。そなたは景虎様のことが好きなのであろう?殿もそなたのことを…」
「………」
「だから、愛しあって、殿に女犯の悦びを覚えさせて、まともな男にしておくれ。もちろん褒美も出す」
「……わかりました。でも、褒美はいりません」
 琴は興奮した。景虎が『義経記』を読んで泣くのを知って、恋して以来十年……。やっと思いが届く、通じるのだ。愛しあい、愛を育めるのだ。
 こうして、琴は寺までひとりで行った。
 その部屋には景虎が、ひとりでいた。
「……景虎様!」
 琴はそういって部屋にはいると、すかさず着物を全部脱いで丸裸になった。痩せた華奢な体に手足…。ふくよかな胸、くびれた腰、可愛い表情…。琴は景虎を誘惑するように裸のまま、彼に抱きついた。
「むむむ……琴殿か。ど…ど…どう…した?」
「抱いてください、景虎様!」
 琴が彼に覆い被さるような形になった。
「………むむ」
 そういったきり、景虎は肩を抱いた。……うれしい!その気になってくれたわ……琴がそう思った瞬間、景虎は奇怪なことをいって琴を周章狼狽させた。
「よくぞ試してくれた。礼を申す」
「……え?」
「見ろ!わしの物がぴくりとも動かない。つい前まで、そなたのことを思うだけで、わしの物が帆柱立っていたのに……いまは静かなままじゃ」
「………ほんと…」
「これも修行のおかげじゃ………これで城に戻り、戦や政に専念できる。おぬしがみだらな裸でせまってきて、心臓は高鳴ったが、肝心の物がこれではそなたのものを突くこともできぬ」
「………失礼しました」
 琴はすばやく服を着ると、部屋を出た。そのとたん、瞳から涙があふれでた。…自分はそんなに魅力がないのかしら?女として、くやしかった。実は、琴は処女だった。…最初の男は、やはり景虎と決めていたのだ。その彼に拒絶され、ショックだった。
 琴は、新兵衛のところへいって説明し、詫びた。すると、新兵衛は、
「ははは…。琴殿は初々しいことじゃのう」と、彼女が処女であることを知ってか、からから笑った。そして、「帆柱立たなかったのは、大酒のせいじゃ」と教えてくれた。
 しかし、当の景虎は「修行のたまもの」と思った。                

SEKAI NO OWARI(世界の終わり)「散々周りにバカにされても自分達を信じてた」セカオワFukase

2015年06月18日 16時19分18秒 | 日記










最後は「執念深さ」ではないか?。


私は執念深く、こうなりたい、と思ったら何十年でも努力する。


が、凡人はそうはいかぬ。


私の妹は、非常に粘り弱く、努力を嫌う。


だから、目標は大抵叶わない。


セカオワの深瀬君も


「散々周りにバカにされても自分達を信じてきた」、という。


努力なき成功なし、だ。臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

おいどん!巨眼の男 西郷隆盛 鹿児島のおいどん西郷吉之助の維新と西南戦争の真実!小説2

2015年06月18日 07時06分46秒 | 日記









岩倉具視が「果断、勇決、その志は小ではない。軽視できない強敵である」と評し、長州の桂小五郎(木戸孝允)は「慶喜の胆略、じつに家康の再来を見るが如し」と絶賛――。
敵方、勤王の志士たちの心胆を寒からしめ、幕府側の切り札として登場した十五代将軍。その慶喜が、徳川三百年の幕引き役を務める運命の皮肉。
徳川慶喜とは、いかなる人物であったのか。また、なぜ従来の壮大で堅牢なシステムが、機能しなくなったのか。
「視界ゼロ、出口なし」の状況下で、新興勢力はどのように旧体制から見事に脱皮し、新しい時代を切り開いていったのか。
閉塞感が濃厚に漂う今、慶喜の生きた時代が、尽きせぬ教訓の新たな宝庫となる。
『徳川慶喜(「徳川慶喜 目次―「最後の将軍」と幕末維新の男たち」)』堺屋太一+津本陽+百瀬明治ほか著作、プレジデント社刊参考文献参照引用
著者が徳川慶喜を「知能鮮し」「糞将軍」「天下の阿呆」としたのは、他の主人公を引き立たせる為で、慶喜には「悪役」に徹してもらった。
だが、慶喜は馬鹿ではなかった。というより、策士であり、優秀な「人物」であった。
慶喜は「日本の王」と海外では見られていた。大政奉還もひとつのパワー・ゲームであり、けして敗北ではない。しかし、幕府憎し、慶喜憎しの大久保利通らは「王政復古の大号令」のクーデターで武力で討幕を企てた。
実は最近の研究では大久保や西郷隆盛らの「王政復古の大号令」のクーデターを慶喜は事前に察知していたという。
徳川慶喜といえば英雄というよりは敗北者。頭はよかったし、弱虫ではなかった。慶喜がいることによって、幕末をおもしろくした。最近分かったことだが、英雄的な策士で、人間的な動きをした「人物」であった。
「徳川慶喜はさとり世代」というのは脳科学者の中野信子氏だ。慶喜はいう。「天下を取り候ほど気骨の折れ面倒な事なことはない」
幕末の”熱い時代”にさとっていた。二心公ともいわれ、二重性があった。
本当の徳川慶喜は「阿呆」ではなく、外交力に優れ(二枚舌→開港していた横浜港を閉ざすと称して(尊皇攘夷派の)孝明天皇にとりいった)
その手腕に、薩摩藩の島津久光や大久保利通、西郷隆盛、長州藩の桂小五郎らは恐れた。
孝明天皇が崩御すると、慶喜は一変、「開国貿易経済大国路線」へと思考を変える。大阪城に外国の大使をまねき、兵庫港を開港。慶喜は幕府で外交も貿易もやる姿勢を見せ始める。
まさに、策士で、ある。
歴代の将軍の中でも慶喜はもっとも外交力が優れていた。将軍が当時は写真に写るのを嫌がったが、しかし、徳川慶喜は自分の写真を何十枚も撮らせて、それをプロパガンダ(大衆操作)の道具にした。欧米の王族や指導者層にも配り、日本の国王ぶった。
大久保利通や岩倉具視や西郷隆盛ら武力討幕派は慶喜を嫌った。いや、おそれていた。討幕の密勅を朝廷より承った薩長に慶喜は「大政奉還」という策略で「幕府をなくして」しまった。
大久保利通らは大政奉還で討幕の大義を失ってあせったのだ。徳川慶喜は敗北したのではない。策を練ったのだ。慶喜は初代大統領、初代内閣総理大臣になりたいと願ったのだ。
新政府にも加わることを望んでいた。慶喜は朝廷に「新国家体制の建白書」を贈った。だが、徳川慶喜憎しの大久保利通らは王政復古の大号令をしかける。日本の世論は「攘夷」だが、徳川慶喜は坂本竜馬のように「開国貿易で経済大国への道」をさぐっていたという。
大久保利通らにとって、慶喜は「(驚きの大政奉還をしてしまうほど)驚愕の策士」であり、存在そのものが脅威であった。
「慶喜だけは倒さねばならない!薩長連合は徳川慶喜幕府軍を叩き潰す!やるかやられるかだ!」
 慶喜のミスは天皇(当時の明治天皇・16歳)を薩長にうばわれたことだ。薩長連合新政府軍は天皇をかかげて官軍になり、「討幕」の戦を企む。
「身分もなくす!幕府も藩もなくす!天子さま以外は平等だ!」
 大久保利通らは王政復古の大号令のクーデターを企む。事前に察知していた徳川慶喜は「このままでは清国(中国)やインドのように内乱になり、欧米の軍事力で日本が植民地とされる。武力鎮圧策は危うい。会津藩桑名藩五千兵をつかって薩長連合軍は叩き潰せるが泥沼の内戦になる。”負けるが勝ち”だ」
 と静観策を慶喜はとった。まさに私心を捨てた英雄!だからこそ幕府を恭順姿勢として、官軍が徳川幕府の官位や領地八百万石も没収したのも黙認した。
 だが、大久保利通らは徳川慶喜が一大名になっても、彼がそのまま新政府に加入するのは脅威だった。
 慶喜は謹慎し、「負ける」ことで戊辰戦争の革命戦争の戦死者をごくわずかにとどめることに成功した。官軍は江戸で幕府軍を挑発して庄内藩(幕府側)が薩摩藩邸を攻撃したことを理由に討幕戦争(戊辰戦争)を開始した。
 徳川慶喜が大阪城より江戸にもどったのも「逃げた」訳ではなく、内乱・内戦をふせぐためだった。彼のおかげで戊辰戦争の戦死者は最低限度で済んだ。
 徳川慶喜はいう。「家康公は日本を統治するために幕府をつくった。私は徳川幕府を終わらせる為に将軍になったのだ」
NHK番組『英雄たちの選択 徳川慶喜編』参考文献引用

大久保利通を漫画家の小林よしのり氏は『大悪人』『拝金主義者』『私利私欲に明け暮れた謀略家』と見ているようだ。
頭山満や玄洋社なる幕末・明治初期の極右過激派集団を英雄視させるための詭弁ではあるが、大久保利通は大悪人でもなければ謀略で私腹を肥やした訳でもない。
あまりに現実的で、冷徹なリアリスト(現実主義者)であるから大久保利通も岩倉具視も歴史的偉業を成し遂げたわりには人気がない。
だが、それもむべからぬことだ。権謀術数をつかい、明治政府の舵取りをした功績は、西郷や大隈や前原一誠のような(夢遊病的な)”非現実主義者”の「非現実な理想論」より卑怯に見える。
だが、政治や経済や国家運営には確かに理想も必要だが、それ以上に権謀も必要なのだ。革命が成功するには理想論だけではなく、政敵や敵を謀殺する覚悟がなければ何も成らない。
綺麗ごとだけで物事がうまくいくなら誰も苦労はしないのである。
他の路線を切り捨てる大久保の強さは現実路線だ。徹底した現実主義者であった大久保は綺麗事の非現実理想論をもっとも嫌ったという。
島津斉彬が在命中には寵臣・西郷隆盛(吉之助)がいて、大久保の出番はなかった。だが、斉彬は薩摩軍を率いて京に上る時期に病死してしまう。西郷は僧侶・月照とともに入水自殺を図り、自分だけ死なず島流しにあう。
いよいよ大久保の出番である。藩主として斉彬の何段も下の、人間的にも下賤で凡人の島津久光に、とりいる。これは西郷には出来ない技である。斉彬の毒殺説が本当なら「仇」であるからだ。
だが、現実には久光しかいない。現実主義である大久保利通は島津久光という愚鈍な凡人に取り入る為に久光の趣味の囲碁を練習した。
おかげで、無趣味の謀略家の大久保利通のたったひとつの趣味が囲碁、という笑えることになった。
大久保にとっては藩主・久光など「将棋の駒」でしかない。だが、久光は愚鈍であったが薩長同盟の利点を理解することだけは出来た。
久光は何もわからないから大久保の方針を妄信するしかない。王政復古の大号令のクーデターも戊辰戦争も”大久保頼り”であった。
廃藩置県で武家も大名も幕藩体制もなくなり、島津久光は殿様でもなんでもない平民となり、はじめて「騙された!」と気づくほどの愚鈍なひとであった。
大久保利通も岩倉具視も『闇の陰謀家』『闇の権謀術数家』と描かれることが多い。だが、世の中は綺麗事だけで偉業が成る訳ではない。
明治維新も理想論だけで成った訳ではない。大久保や岩倉を『大悪人』と考えても結構だが、夜郎自大も甚だしい。
すべての革命がそうであるように、権謀、駆け引き、遠慮なくしてことは成就しがたい。あるときは権謀が力を制して、時の主役になるときがある。
王政復古のクーデターは完全に岩倉具視が主役であった。
坂本竜馬や高杉晋作、久坂玄瑞、吉田松陰、等の明治維新の英雄は血気にまかせ一途に理想に向かって走るタイプの人間である。若死にした為にダントツの人気がある英雄だ。
だが、大久保利通、岩倉具視ら「謀略家」は、ときに権謀術数をつかい、陰険な印象を人に与える。目的の為には犠牲を出すことも恐れないので、あまり維新の志士の中では人気がない。
果たした維新回天の功績・偉業の割には誤解され、ときに怨嗟の的となり、ときに悪役の俗物・大悪人と描かれたりする。
だが、世の中は綺麗事だけでは動かないのだ。綺麗ごとだけ声高に叫んで歴史が動くならそんなものは革命でも維新でもない。そんなことで物事も人心も動かない。
リアリスト、現実主義者が政府や組織にいなければすぐに”瓦解”するのがオチだ。大久保利通も岩倉具視も「綺麗事だけの非現実理想主義」より「現実の政策施策」で日本を近代化したかったのかもしれない。
だから、馬鹿げた元・侍たちに暗殺された大久保利通も、明治政府の知恵袋であったが病死した岩倉具視も最期は無念、であったろう。
『徳川慶喜(「五―王政復古 大久保利通「近代」を拓いた偉大なるリアリスト」)』松浦玲著作、プレジデント社刊+『徳川慶喜(五―王政復古 岩倉具視「王政復古」に賭けた「権謀術数」の人)』南原幹雄著作、プレジデント社刊(一部)+(参考資料)『岩倉具視』(中公新書)、『大久保利通』(中公新書)、『大久保利通の研究』(プレジデント社)、『歴史の群像・黒幕』(集英社)、『日本の歴史』(中公文庫)他。


 …………十年前。
 安政三年(一八五七)七月二十日。薩摩藩主・島津斉彬が死んだ。薩摩の名君とよばれたこの人物の死は、西郷吉之助にとって絶大なショック(衝撃)とうつった。
 後釜は、最低の島津久光である。只でさえ、藩が困窮し、腐敗していく中で、名君・島津斉彬が急逝したのは痛かった。
「なんという……なんということでごわすか」吉之助は屋敷の部屋で、落胆した。目頭に涙が潤んだ。
 吉井友供も「なんてごてことじゃ…」と泣いた。
「あの女だ」吉之助はふいに憎しみを、大きなる憎しみを込めていった。「お由良じゃ」「西郷どん!」
 吉井が咎めると、吉之助は巨体を動かしながら、「あの女子が悪いのでごわす」といった。薩摩藩は『お由良くずれ』と呼ばれる御家騒動が頂点に達していた。
 亡くなった薩摩藩主・島津斉輿は、正室との間に嫡男斉彬、次男斉敏をもうけ、側室
由良に三男久光を生ませていた。
 お由良は、江戸の三田四国町に住む大工の娘といわれたが、斉輿の寵愛をほしいままにして久光を生むや、「なんとしても自分の腹を痛めて産んだ子を薩摩藩主にしたい」という野望を抱くようになった。
 次男の斉敏は、因州・鳥取藩三十五万五千石を継いだから、あとは斉彬が死ねば次の薩摩藩主は久光しかいない。島津斉彬は薩摩藩主として誰がみてもふさわしい人物だった。 だから、いかにお由良が謀殺したくてもできなかった。父・斉輿も久光がかわいいのだ   
が、斉彬をしりぞける理由もない。当然、斉彬派(精忠組)とお由良派ができる。
 殿さまの斉輿がお由良派の意見をききいれ、精忠組を弾圧しだす。島津壱岐、近藤隆右衛門(町奉行)、高崎五郎右衛門ら十四名が切腹させられ、遠島の刑になったものが九名にものぼった。大久保の父も鬼界ケ島へ流刑にされ、大久保も役目をとりあげられている。 西郷吉之助もまた精忠組のひとりであった。
 のちにお由良騒動と呼ばれるその事件から八年目の年に、斉彬は死んだ。
 吉之助は亡き薩摩藩主・島津斉彬の供をして江戸にいったことを忘れない。その当時ペリー提督率いる黒船をみて唖然としたものだ。ときの十三代将軍・徳川家定にも謁見した。病弱のうえに子もなく……将軍はそんなひとだった。
 また島津斉彬は尊皇壤夷の志をもったひとで、西郷はそれを知って、
「おいにとって斉彬公は神のごときひとでごわすが、殿の異臭紛々たるには困りもす」
 と顔をしかめている。
 また、吉之助は斉彬が自分を重用してくれた恩も忘れてはいない。公は小役人から見出だしてくれ、右大臣・近衛家に娘を養女に迎えさせる使者にまでしてくれた。
「何事で、ござりもそ?」
「吉之助よ。いささか重い任務なれど引き受けてくれぬか?」公は笑顔でいったものだ。「ただひとつ、まごころであたれ」
 吉之助は島津家の娘・篤子を近衛家の養女にすることに成功した。そして安政五年、井伊直弼が大老になると、斉彬は「いよいよ決起のときがきた」といったのだ。
「いよいよ出兵でござりもそ?」
「そうだ。吉之助、はげめ!」斉彬はいった。薩摩に西郷あり、吉之助は名を知られるようになる。すべては公のおかげだった。
      
 ……そんな斉彬も死んでしまった。ときの十三代将軍・徳川家定も死んだという。
「あの女だ! おの女が殺したのんじゃ!」西郷は切腹しようとした。              
「やめなはん!」とめたのは勤王僧・月照だった。「月照どん! 死なせとうせ!」
「吉之助殿! やめなはん! 死んではならん……どうせ死ぬなら天下に命を捧げよ!」 月照はさとした。
 こののち井伊大老による『安政の大獄』が始まる。これは尊皇壤夷派の大弾圧で、長州の吉田松陰らが次々と捕らえられ処刑されていった。すべては幕府の延命のためだったが、諸藩の反発はますます高まった。            
 幕府の敵は薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)といっても過言ではなかった。
 当然、薩摩の壤夷派・西郷吉之助(隆盛)と月照も狙われた。

  その日の天気は快晴だった。
 馬関(下関)に吉之助と月照たちの姿があった。前面に海が広がる。
「西郷どん。あんさたちは狙われもんそ」付き添っていた有馬はいった。
 吉之助は「有馬どん……心配かけもうす」
「西郷どんは薩摩の英雄じゃっどん、死んではなかとぞ」
 西郷吉之助(隆盛)と月照は、弾圧の手を逃れ舟にのり鹿児島へ帰郷した。              
 また大久保一蔵(利道)も追っ手を逃れ、鹿児島へ戻った。
「西郷どん、死んではつまらんでごわすぞ」大久保は何度もそういった。
  西郷吉之助は一度結婚に失敗している。貧乏で、家族五人でボロ屋敷に住み、そんな生活に嫌気がさしていた当時の妻は、吉之助が江戸に出張したときに実家に逃げ帰ってしまったのだ。
 鹿児島では西郷吉之助は小姓組で、勘定頭わずか八十石の禄高の侍にすぎない。両親はすでに亡く、家は次男の吉二郎がみている。しかし、吉二郎は結婚していなかった。
 吉二郎は、いつも南国鹿児島の桜島の噴煙をながめながら、ゴロゴロと昼寝ばかりしていたという。大変に呑気なひとだったようだ。                                
「兄さん、ごろごろ昼寝ばかりしとんと、はよう嫁もらいたらどげかね?」
 妹のたかがいった。
「嫁など…」吉二郎は頭をかいた。「いらぬ。おいはひとりでじゅうぶんでごわす」
「またそげなこというて……吉之助兄さんが怒りはるで」
「吉之助兄さんは藩のために働いとる。おいはこの家を守っちょる。そげでごわそ?」
 妹は呆れて「どこが家守っちょるとでごわすか? はよう嫁もらわなんだら兄さんが困るんですえ?」といった。
 しかし、吉二郎は頭をかくばかりだった。

 大久保は「吉之助どん、無事でごわしたか!」と、鹿児島藩邸で再会を喜んだ。
「一蔵どんも……元気で何よりでごわす」
 吉之助は巨体を揺らして抱擁した。「何よりも無事が大事でごわす。天下乱れごっつときに死んだらつまらん」
「西郷どん、死んではつまらんでごわすぞ」大久保は何度もそういった。
「それにしても…」西郷はいった。「あのお由良……ゆるせなか」
「西郷どん!」吉之助より五歳年下の大久保は、まるで西郷の父のように諫めた。
「……おいたちはあの女に島流しにあいもうしたぞ。忘れたでごわすか?」
「忘れたばい」大久保は冷静にいった。「今は又次郎(のちの久光)さまの天下、あまり軽はずみなごていうとると足をすくわれござんそ」
「おいはかまわんでごわす」
 吉之助はどこまでも頑固だった。
  西郷吉之助(隆盛)と大久保一蔵は親友であり、同じ郷中の身分だった。斉彬公亡きあと、薩摩藩はお由良の子・又次郎(のちの久光)の世となっていた。
 吉之助はそれがどうにも我慢できない。
 斉彬公亡きあとの薩摩藩などないに等しい。……なにが藩制改革でごわすか?!            
「兄さん! よくご無事で!」
 まだ青年の末弟、西郷小兵衛がやってきて笑顔になり、白い歯を見せた。
「おう! 小兵衛じゃなかと」吉之助は笑顔をつくった。
 大久保もそんな兄弟の再会がほほえましい。何だかしあわせな気分になった。
  やがて藩の重鎮・柳瀬がやってきた。
 西郷たちは平伏する。
 柳瀬は「吉之助…」と声をかけたあと「わかっとっておろうな?」といった。
「は?」
「僧侶・月照のことである!」
 吉之助は緊張した声で「月照どんがどげんしたんでごわす?」と問うた。
 どうやら薩摩藩は幕府が怖くて、”壤夷派”の月照老師を”始末”するつもりらしい。……つまり「殺せ」ということだ。
「じゃっどん……なして月照どんを殺さねばならんとでごわす?」
 柳瀬は答えない。
「それで、薩摩がよくなりござそうろうや?」
 柳瀬はまた答えない。
「柳瀬どん?!」
 柳瀬はようやく「殺せ! それが幕府からの命令じゃ」と唸るようにいった。
「じゃっどん……」
「じゃっどん、はいらぬごで。始末せい西郷吉之助!」柳瀬は吐き捨てるようにいうと座を去った。一同は顔を見合わせ、深い溜め息をついた。
 ……薩摩は幕府のいいなりでごわすか?

          
「兄さん! ご無事で!」
 半年ぶりに帰宅すると、吉之助は大歓迎された。しかし、心は晴れない。
 いつも西郷吉之助の心の中には”月照上人”のことがあった。殺す? それでよかでごわすか? あの月照どんのような知恵者を殺してよかじゃろうか?
「どげんしたでごわす? 兄さん」
 親類たちは不安気にきいた。
「わかりもうさん……わかりもうさん」吉之助は頭を抱え、苦悩した。
 斉彬死後、すべてがかわってしまった。斉彬生存中は活躍していた藩士たちも粛清されていった。月照上人もそのひとりだった。

  間もなく藩の船は鹿児島湾へ漕ぎ出した。
 西郷吉之助、月照とともに、下男・重助、平野国臣と、藩がつけてよこした坂口周右衛門という上士が乗船している。
 もう夜で、屋形船からも障子を開けるとまるい月が見える。
 安政五年十一月十五日の満月は、陸も海も銀色に光らせていた。
「月がきれいどすなあ」
 月照はいった。
「まっこと」吉之助は笑顔をつくり答えた。もう覚悟はできている。
 月照は酒をうまそうに呑むと、さらさらと辞世の歌を書いて紙を西郷に渡した。


  くもりなき心の月の薩摩潟
   沖の波間にやがて入りぬ
  おおきみ            
  大君のためには何か惜しからむ
       
   薩摩の迫門に身は沈むとも

「……月照どん!」
 吉之助は涙声になった。辞世の歌を渡すや、月照は何事もないように立ち上がり、月を仰いで、海に身を投げようとした。そのとき瞬時に、吉之助が、
「月照どん! お供しまんぞ!」といって抱き合うように海に落ちた。
 ふたりがひきあげられたとき、月照は息絶えていた。享年四十六才だった。
 役所にふたりの遺体がひきあげられたと知り、大久保一蔵や吉之助の弟の慎吾や有村俊斎、大山格之助が目の色をかえて駆けつけた。
「月照どん! 西郷どん!」
 月照はすでに息がない。しかし、不思議なことに吉之助は息をふきかえした。
「……西郷どんが生きとる!」一同は喜んだ。
 当の西郷はいびきまでかいて、床に横になって藁に包まれ眠りこくっている。
 西郷吉之助はどこまでも運がいい。
 月照の死体は、西郷の菩提寺でもある南林禅寺へほうむられた。
 生き残った西郷の処置に、薩摩藩はこまった。幕府に睨まれている人物ではあるが、なにしろ故・斉彬の寵臣でもある。
 重役の中にも、吉之助を愛する者も多い。
「名をかえて、島へ流してしまえば幕府もうるさくいうまい」
 ついに薩摩藩はそういう措置をとった。
 よって、寺には月照と西郷吉之助(隆盛)の墓が建てられ、幕府には西郷は死んだこと           
になった。西郷は「菊池源吾」と名を変えられ、奄美大島へと『島流し』にされた。
 吉之助は「おいは幽霊でごわす」と苦笑したという。

         2 島流し





  西郷隆盛が菊池源吾と名をかえ、奄美大島に島流しにあったのは、安政六年一月である。奄美大島は南国の島で、気温は高く、湿気はないから過ごしやすい。
 椰子の木や色鮮やかな植物が豊富にある。さとうきび畑がいたるところにあり、ぎらぎらした太陽がまぶしい。
「よかとこじゃ」吉之助は、舟から降りて笑顔をつくった。
 しかし、島は”よかところ”ではなかった。薩摩藩領地でもあるこの奄美大島は「搾取」の地でもあった。薩摩は島民に、米のかわりにさとうきびからとれる砂糖を年貢として差し出させていたのである。搾取につぐ搾取で、島民は皆怒りを覚えていた。
 確かに、大島は素晴らしい景色と自然をもつ。しかし、その陰は暗い搾取……であった。 西郷は鹿児島城下から約三百キロ海路を離れた奄美大島の竜郷村の民家に住むことになった。吉之助は三十一歳になっている。
 別に罪人というわけではなく、藩が、この島に西郷を隠して幕府の眼を逃れさせるために島へ流したのだ。吉之助の苦手とする炊事、洗濯も自分でしなければならず、そのため面倒なときは二日も何も食べない日もあったという。
  それから一年後の万延元年(一八六六)四月、吉之助はボロボロの着物をきて、髭ぼうぼうでボロ小屋で写経にあたっていた。島のガキたちが窓から、珍しい巨眼の男、を覗きみている。
「みせもんじゃなか!」吉之助は紙を丸めて投げつけた。
 すると役人がきて、「西郷どん。文にござる」と吉之助に手紙を届けた。
 それは三月三日、幕府の大老・井伊直弼が水戸浪士の襲撃を受け、桜田門外で暗殺されたという内容だった。世にいう『桜田門外の変』である。
 この襲撃隊の中には、有村俊斎の弟・次左衛門が薩摩藩からひとり参加し、大老の首を討ちおとしたという。そのことで薩摩隼人たちは多いに勇気づけられたという。
 井伊大老は幕府の象徴、それがなくなるということは幕府がなくなるということだ。
 吉之助は涙を流し嘆いた。
「こげなときに……おいは何しよっとか! なさけなか!」
 吉之助は机をたたき、ボロ屋をでて天を仰いだ。「情なか! おいどんはなさけなか男じゃ!」巨大な両眼から、涙があとからあとから溢れ出た。
 吉之助は上をむいて堪えようとしたが、無駄であった。
 ……おいは…なにしょっとか?! なさけなか! くやしか! ……
  そんなある日、島民たちが大勢駆けていくのがみえた。役所にむかって怒号を発しながら西郷の背後から駆け抜けていった。男も女も老人もいる。
「大官を出せ! 大官を出せ!」島民は役所の前でシュプレキコールを繰り出す。
 西郷は疑問の顔のまま、巨体を揺らしながら島民に近付き、
「どげんしたと?」と島民のひとりにきいた。
「あんさんは?」
「………幽霊でごわす」
 島民は冗談だと思った。「役人が悪さしたとばってん。怒っちょる!」
「これです」島の女は傷だらけの幼子を抱き抱えて、吉之助にみせた。「さとうきびを齧っただけで百たたきの刑にあい、死にもうしました」
 まだいたいけな子供である。傷だらけの……
 吉之助の全身の血管の中を、怒りが、激しい怒りが駆け抜けた。なんということじゃ! 激昴のあまり、顔が真っ赤になった。
「ほんでごつ…こげな子供を百たたきしよったでごわすか?! こげな子供を?!」

  村長の龍左民は、西郷に薩摩藩からの搾取をすべて話した。西郷はそれを知り、ますます怒りに震えた。あたりは晴天で、太陽がぎらぎらしているが、吉之助には暗闇のように感じた。……ほんでごつ…あげな子供を百たたきしよったでごわすか?!
 また島民が役人にひきずり暴力をうけた。島民は反発して、役所におしかけた。
 西郷吉之助も急いでやってきた。
「また、どげんしよったでごわす?」
「さとうきびを………齧ったというて…」村の女は泣きながらいった。
 いよいよ吉之助は激昴した。吉之助は護衛を叩きのめし、役所の中へと単身おしいった。 さがら              
「相良どん! 相良どんおるか?!」
 吉之助は護衛の役人をはねのけながらすすんだ。奄美大島の役所所長は、相良角兵衛という男である。
「なにとぜ? 西郷どん」相良角兵衛はすっとぼけていった。
「どげんことでごわすか? 相良どん」
「……なんが?」
 西郷は相良に掴みかかった。
「斉彬公亡きあと、お由良の政になって、領民は搾取につぐ搾取のみにあってごわす!」「……それとおいになんの関係があるとでごわす?」
 相良はあくまでもしらばっくれた。
「島民を連行したでごわそ? さとうきび齧ったいうて………たかがさとうきびじゃなかか!」
「……罪は…罪でごわそ…」
 相良は震えながらいった。
 西郷吉之助のゲンコツが飛ぶ。相良は倒れた。
「島民は連れてかえる。それでよかか?」
 吉之助は気絶している相良の頭をふった。
 そして、相良の部下に「相良どんが許してやるいうておりもうそ。早く連行した島民を釈放せい!」と強くいった。
 しばらくして、連行された島民は自由の身になり、西郷も無傷で役所から出てきた。
 役所前に集まっていた島民たちから歓声があがった。
「ありがとさんでもうそ!」
 村長の龍左民は、ハッとして、
「……そういえばあんさんの名ばきいとらんかった。あんさんの名は?」といまさらながら尋ねた。
「菊池……」吉之助は口をつぐんだ。そして、笑顔になり「西郷、西郷吉之助でごわす」          
 島民の中にいた美貌の女性(のちの愛加那)が、ぽっと頬を赤くして、
「……吉之助さま…」と囁くようにいう。そして、その女性は恥ずかしそうに場を去った。 母親らしい女は「あれまぁ、色気づきじゃっどん」といい、一同は笑った。
 吉之助はその若い女性に興味をもった。
 ……なかなかの美人ではなかが。
 ぎらぎらとした太陽がすべてを美しく照らしている。南国、常夏の風景は西郷の心をなごませた。
 やがて夜になった。
 しかし、月光が辺りを銀色に染め、なにやら幻想的でもあった。
 吉之助はさっそくその女性を家によんだ。女性は恥ずかしそうに清楚に名乗った。
「加那といいます……吉之助さま」
 吉之助は笑って「おいにさまはいらなか。幽霊でもうそな」
「まぁ、幽霊? 島にはなぜこられたのですか?」
「まぁ」吉之助は頭をかいた。「罪人ということでもなかが、まぁ、幕府の手を逃れということでごわすか」
 加那は吉之助の興味を抱いた。
「……ご両親はなんと?」
「おいの両親は…おいが二十一歳のときに死にもうした」
 加那は吉之助に頭をさげた。「失礼し申しました」
「いや」
 吉之助は口元に笑みを浮かべた。
 しばらく静寂が辺りを包む。波の音だけが耳にきこえる。
 加那は、
「吉之助さまはご結婚はどげとです?」ときいた。
 是非とも答えがききたかった。
「おいは一度結婚に失敗したばい。妻は貧乏が嫌で実家に駆け戻りおった。それいらい女子とは縁がないでごわす」
 吉之助は笑った。
 加那は「ならばあたくしを妻にしてください!」とうとう本心をいった。
「おいの? 妻に? 苦労するだけでごわすぞ」
「かまいもはん」
 加那は吉之助にすがった。吉之助は気になっていることがあった。
 ……加那の左手の甲の蒼い入れ墨である。
「おいはさっきから気になってたのじゃが……その左手の入れ墨はなんぞ? なにかの呪いでごわすか?」
「ああ、これでごわすか?」
 加那は、左手の甲の蒼い入れ墨をみせながら、
「これは、ハズキ、いいます。結婚前に堀り、結婚したら右手の甲にも入れ墨を堀るのです」と答えた。
「そげんことはいかん! もう痛い思いはしなくてもよかぞ?!」
「なら、結婚してくださりまするか?」
 西郷は加那を抱擁し、「よかとよかと。結婚するもうそ」と答えた。
「結婚したら、島では旦那さまに上の名前をつけてもらうしきたりでごわす」
「そうか? ……なら愛じゃ」
「愛?」
「そうじゃ。おまはんはこれからは愛加那じゃ」
 ふたりは抱擁し、抱き合った。
 当然ながら、間もなく愛加那は身籠もった。
 ふたりは結婚した。
  大島の台風はすざまじいものだが、天気はほとんどよく、冬になっても暖かいし、米も年に二度とれる。さとうきびも豊作だ。西郷が大島にいたころ、台風でさとうきびが被害にあったが、「砂糖を隠しておるのであろう!」と役人は島民をいじめた。 
 吉之助と愛加那の間に長男が生まれた。菊次郎である。

  文久元年(一八六一)一月、知らせが届いた。
「産まれもうしたか?!」吉之助は喜んだ。
 鹿児島の薩摩藩邸では、久光と側役にまでなっていた大久保が話ていた。
 島津久光は「お由良」事件とは関わっていない。
 というよりも「幕府を一新しよう」とまでいっていた。
 兵をすすめ、幕府に改革を進言するという。しかし、久光には幕府を倒すまでの考えがない。そこが西郷や大久保ら『精忠組』にはものたりない。
「幕府の改革なんどといってるばあいじゃなかとでごわす。むしろ、一挙に幕府を倒すのが最高の策でごわそ」
 『精忠組』の意見とはまさしくそういうことである。

「何? 西郷?」
 島津久光は側近の大久保一蔵(利道)に尋ねた。
 大久保は「はっ! 今こそ薩摩には西郷どんが必要でござりもんそ」と答えた。
「西郷吉之助を大島から戻せというのか?」
「……はい。是非」
「しかし…」島津久光は言葉を呑んだ。「幕府には死んだことにしておる」
「このさい、幕府なんど関係なかではござりもんそ? 久光さま」
「じやけんど……」
 大久保は強くいった。「わが薩摩藩に不忠なものなどひとりもござもうさん」
「うむ」
 久光は天を仰いだ。晴天で、鳶が飛んでいた。桜島は何ごともないように噴煙をあげている。島津久光は意を決した。
「西郷吉之助を大島から戻せ!」
「はっ!」大久保は頭を下げた。
 やっと自分の尽力が実を結んだのだ。やっと西郷どんが戻される。
  奄美大島には新しい西郷の家が完成していた。
 そこに妻の愛加那と子・菊次郎と吉之助が住むのだ。
「立派な家でごわす」西郷たちは家を見上げた。思わず笑みがこぼれる。
 大島に相良にかわって新しい大官がやってきた。
「よお! 西郷どん!」        
 それは、吉之助の親友でもある桂久武である。「桂どん!」
 ふたりは抱き合った。
 そして、桂は西郷の妻と子を見た。……あちゃあ! 島嫁と子でごわすか……
 桂は武家の出身で、およそ未開地大島の大官ごときになる器ではない。しかし、西郷を慕って藩に進言してやってきたのだった。
 桂は大久保一蔵の近況を、吉之助に話した。
「囲碁? あの一蔵が囲碁でごわすか?」
 桂は笑った。西郷もつられて笑う。
「久光公に近付くために、必死で囲碁を覚えたんじゃそうでごわすぞ」
「あの一蔵が囲碁のう」西郷は腹が痛くなるほど笑った。
 桂はしばらく笑ってから、「西郷どん。鹿児島への帰還の命がでたでごわすぞ! めでたいことじゃろう?」といった。
       
「…鹿児島へ? ほんとでごわすか?」
 お茶を運んでいた愛加那は、廊下でそれをきき衝撃をうけた。……旦那さんが鹿児島へ戻られる! 彼女は思わずもっていたおぼんを落とした。涙がでて、駆けて逃げた。
「……愛加那!」
 吉之助は桂を残して、追いかけた。「……愛加那!」
 やがて、吉之助は島妻においついた。
「旦那さまは鹿児島に帰られるのですね?」愛加那は両目から涙を流して、とぎれとぎれいった。
「……愛加那! 許せ! 辛抱してくれ!」
 吉之助は土下座した。
「旦那さま! やめてくだされ!」
 西郷は立ち上がり、ふたりは抱き合った。長い長い抱擁、そして口付け……
「……愛加那!」
「…だ…旦那…さま……偉き……ひと…に…なりもうして…」
 島の妻は涙声でいった。それが吉之助との最後の抱擁となり、最後の別れとなる。
 このとき、愛加那はふたり目の子供を身籠もっていた。
 女の子で、のちに菊草とよばれる吉之助の子で、ある。

SEKAI NO OWARI(世界の終わり)公職選挙法改正「18歳からの選挙権」セカオワFukaseやったー!

2015年06月17日 17時20分27秒 | 日記








公職選挙法が改正され18歳からの選挙権が実現した。



よく「誰が(政治家に)なっても同じだ」という意見をきく。


老人から若者までよくいう日本語流行語だが、


若者が選挙にいかないからこそ


有力政党のマニュフエストが「老人向け」になるという事。



子育て教育食費職業安定、投票で変わる事もある。臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

武田信玄「風林火山」 風林火山の軍師と御屋形さま <軍師 山本勘助と甲斐の虎 武田信玄>小説3

2015年06月17日 05時22分06秒 | 日記









         3 信虎追放







  甲斐は枯れ果てていた。
 のちの信玄、武田晴信は父、信虎を追放して国主となった。
 甲斐はすぐに洪水や冷害に襲われ、荒れ果てていた。小国だった。しかし、晴信の戦略と政治力によって甲斐(山梨県)とのちに信州(長野県)を領土とすることになる。
 甲斐には二十以上の金鉱があったという。
 しかし、豪族の金山衆が握っていた。
 晴信はそこを攻め、支配した。矢銭(軍事費)のためである。
  信虎は駿府に無理やり隠居させられた。
 かれは不満だった。殺戮の限りをつくした信虎の追放に、甲斐の人々は喜んだという。「くそったれめ!」
 信虎は激昴し、刀を抜いた。
 夜だった。
 隠居屋敷の庭で枝を斬りおとし、暴れた。
 信虎は、白髪まじりのおいぼれ爺さんになっていた。ひと殺しの好きな質である。
「死んでくれるわ! 晴信め!」
 かれは刀を首にあて、「死んでやる!」とさけんで力んだ。
 しかし、息を荒くして地面に崩れ落ちた。
 ……はあ…はあ…はあ……晴信!
 女中は笑った。
「死ぬことも出来ない」
「……やかましい!」
「大殿は他人は殺せても自分は殺せない。無理なことは無理なのです」
 年増の女中は惨めな信虎を嘲笑した。
「うるさいわい!」
 信虎にはどうしようもなかった。
 確かに、他人は殺せる。しかし、自分は殺せないのだ。
 ちなみに、かれの生活費は晴信が払っていたという。
「糞ったれめ!」
 信虎は刀をぶんぶん振って、荒い息で木を斬りつけた。
 女中の嘲笑はやまない。
 信虎は、こんな惨めな生活をさせる息子に我慢がならなかった。
 しかし……何もできない。
 信虎はやっと自分が無力だと感じはじめていた……。




  晴信の労咳(肺結核)がひどくなり、かれは咳き込むことが多くなった。
 医者は診察して、
「労咳を治す薬はありませぬ。ここ二~三年は静かに暮らしたほうがよいと考えまする」 という。
 晴信は激昴して、
「二~三年も動かなんだら甲斐の国は他国の武将に蹂躙されてしまうわ! 馬鹿を申すな!  この藪め!」と叫んだ。
「御屋形様!」
 家臣の板垣信方がいった。
「なんじゃ? 板垣」
「志磨の湯へ湯治にいかれてはいかがでしょうか? 病にもききますでしょうて」
「湯治? ………まぁそれもいいかも知れぬな」
 晴信は苦笑した。武将が湯につかって湯治か? ……情ない。
 しかし、晴信には湯で疲れをとる暇はなかった。
 北信の村上義清との合戦があったからである。
 武田晴信率いる二千の兵は、依田から千曲川をそって西北方へすすんで来て、中之条あたりに陣をひき、村上義清の軍と対峙していた。
 諸将軍を集めて、晴信はいった。
「今度の戦は村上義清の首をとることである! 敵を全滅させることにある。敵を包囲し、壊滅させるのだ!」
「おう!」
 諸将軍はいきりたった。
 天文十七年二月十四日、開戦となった。
 両軍数千がいりみだれる。
 槍が無数に重なり、雲霞の如く矢が飛ぶ。
 そんななか、板垣信方が戦死した。
「くたばれ!」
 敵がそう叫んで刀を振るのを討ちしそんじて、晴信はうちももあたりに傷を受けた。
 痛みは感じなかった。晴信は馬上から敵を斬り殺した。
 さらに敵がやってくる。
 合戦は長期戦となった。
 夜になると「のろし」が岩鼻城からあがった。それに呼応するように葛尾城からも狼煙があがった。村上義清は恐怖におののいた。
「やはり武田は強い」
 武将らしからぬことを村上は呟いて陣を離れた。
 晴信は二千の兵を率いて上野城に入った。
「御屋形様! 夜食を調達しましょう」
 家臣がいった。
「すまぬ」晴信は鎧兜をはずしていった。
 ……それにしても板垣信方が死んだのは残念である。
  山本勘助がやってきた。
「御屋形様、越後にいってきました」勘助はいった。
「越後といえば…」
 晴信は続けた。「長尾景虎という武将が名をあげているというな。まだ二十歳だそうではないか」
「いかにも長尾景虎(のちの上杉謙信)はまだ二十歳です」
「余より十歳も若い。なのに越後中に恐れられているとか…」
「そうです」
「勘助、越後へもう一度行き、長尾景虎を調べよ」
 晴信は命令した。
「はっ!」
 山本勘助はさっそく越後へ向かった。
勘助は越後(新潟県)に潜入した。越後では越後の百姓や兵士に化けて情報を集めた。が、怪しまれ春日山城で長尾の御屋形様(景虎・のちの上杉謙信)の姿を拝んだところで捕らえられた。謙信は若く、女のように青白く長髪で、手足も細い。まるで弁財天が如しだ。
 だが、本人は「毘沙門天の化身」という。毘沙門天の替りに正義の「義の戦」をするという。「そなたは甲斐武田の間者であろう?」
 勘助は縄で縛られたまま「いいえ、あっしたちは越後の百姓でがんす」とシラをきる。
「ならば何故春日山にきたのじゃ?」景虎の右腕で参謀の宇佐美定満が「死にたいか?!」と脅しをかける。すると上座の館でだまってきいていた青年が「やめい!」と手を翳した。
 男の声だが、風貌はまるで見目麗しき姫の如しだ。
「そこの雙眼! 仲間を皆殺しにされねばいわぬか?」
「わしは百姓でがんす!」
「黙れ!」景虎は刀を抜いて、館近くの木に後ろでに縛られている勘助にせまった。
「死ぬのが怖いであろう? 間者と認めれば放してやろう」
「間者ではありませぬ。それがしは百姓! 好みは土いじりでがんす」
 景虎は勘助の右太ももを浅く刺した。それでも勘助は激痛を耐えて、自分は百姓である、という。のちの上杉謙信もなかなかの風流人で、「ならいい。甲斐・信濃に戻りし折は武田晴信によろしゅうな」とにやりと笑い、
「こやつらの縄をほどき甲斐・信濃に戻せ」と寛大さもみせる。
 皆殺しにする程、景虎は了見がせまくない。




  塩尻峠で、また合戦があった。
 天文十七年(一五四八)七月十五日、寅の上刻(午前四時)三百騎が塩尻峠を越えた。武田軍は今井にむけて走った。
 対小笠原合戦である。
 陣の中で、晴信は吉報をまった。
「千野弥兵衛殿、土屋信義殿、今福平蔵殿討死……」
 早馬の伝令は訃報ばかりを伝えてくる。
 晴信は頭巾をかぶり、陣の中央でどんとかまえている。顔色ひとつかえない。
 晴信の本陣は今井の北方にあった。
 雨がふってきた。
 やがて夜となり、朝がくると小笠原軍は驚いた。
 武田軍がいないのである。撤退したのだ。
「くそったれ! 逃げやがったか!」
 それは、それは晴信の「走為上の計」だった。
 軍の態勢を立て直すと、晴信は二千の兵を動かし、小笠原長時を塩尻峠から追い落とした。さらに晴信は兵を村井まですすめた。
 小笠原が逃げて空城になった城を、急いで修復させた。
 晴信は勝ち名乗りをあげた。
 かれはいう。
「金をつかうことを惜しむな。必要なときはいつでも古府中にいってくるがよい。中信濃を完全に手中に治めるためにはまず民の心をつかまなければならない。人だ…」
 晴信は有名な言葉をいう。
「人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、あだは敵…」
 この言葉通り、晴信は立派な堀のある城はつくらなかった。
 武田の城は、人が守る。外堀も内堀もいらぬ。館さえあればよい。
 それが武田晴信の考えだった。
 晴信は武田と戦って負けて、武田に忠誠を示したものは金山には送らない。が、負けてそむいたのもは金山に送った。
 武田の金山は二十四鉱もあったという。
 晴信は捕らえた男を金山におくり、女は家臣に与え、ブスな女は鉱山の遊び女とした。 美女だったら、側室として館に住まわせた。
 晴信は風邪ということで館で寝込んだが、周囲は風邪ではないことを知っていた。

  晴信は湖衣姫と夜、愛の行為をした。
 晴信の疲れがひどすぎてゆっくりするしかなかったためか、愛の行為は素晴らしいものだった。湖衣姫はあえぎ、甘い息をもらした。
「うれしうございまする! はあはあ…御屋形様! 御屋形様!」
 湖衣姫は絶頂を迎えた。
 里美は嫉妬した。
「湖衣姫殿ばかり御屋形様は抱かれる。……里美は寂しゅうござりまする」
 ある日、夜、晴信の館に裸の里美がやってきた。
「……里美か?」
「抱いてくだされ! 御屋形様!」
 しかし、晴信は女を抱いてばかりいる訳にもいかない。
 対小山田信有の合戦となった。
 陣では気分がすぐれぬ甲冑姿の晴信が、咳をしながら戦況報告をまっていた。
「……小山田信有の首、討ち取りましてござりまする!」
 吉報がきた。
「そうか! よし!」
 晴信ははじめて感情をみせた。笑顔だった。
 晴信の側には初陣の息子、勝頼の姿もある。
「おめでとうござりまする、父上!」
「……勝頼、勝ち戦じゃ」
 晴信はいった。


  晴信の館に今川義元からの使者がきていた。今川の老臣・岡部美濃守だった。
 晴信は「……ついにきたな」とにやりとした。
なんでも関東管領・上杉憲政が北条氏に追われ、越後(新潟県)に逃げたという。
「上杉が?」
「はっ!」岡部は平伏してから「なんでも長尾景虎を頼っていったときいておりまする」「……長尾景虎……越後の龍か」
 晴信は息子に目をやった。
「勝頼、どうおもう?」
 晴信は息子をためした。
「上杉憲政など恐るるにたりません。放っておいてもよいかと…」
「………そうか」
 晴信はがっかりした。もっとゆうこともあろうに……

  武田は十五年にもおよぶ治水工事をしていた。釜無川と御勅使川が度々けっかいするので一本にまとめようとする工事だった。
 その堤はいまでも信玄堤と呼ばれ、利用されているという。

  今川の人質だったのちの徳川家康(松平竹千代(松平元康))少年が織田家に転がりこんだのは、まだ、信秀が生存中のことだ。その頃、織田信秀は斎藤道三の美濃(岐阜)の攻略を考えていた。道三は主君だった美濃国守護土岐頼芸を居城桑城に襲って、彼らを国外に追放したという。国を追われた土岐頼芸らは織田信秀を頼ってきた。
 いくら戦国時代だからといって何の理由もなく侵略攻撃はできない。しかし、これで大義名分が出来た訳だ。「どうかわが国を取り戻してくだされ」と頼ってきたのだ。
「わかり申した」織田信秀強く頷いた。「必ずや逆臣・道三を討ち果たしてみせましょう」 こうして、戦いは始まった。
 吉法師もこの頃、元服し、信長と名乗る。そして、初陣となった。斎藤氏との同盟軍・駿河(静岡)の今川の拠点を攻撃することとなった。信長少年の武者姿はそれは美しいものであったそうだ。織田勢は今川の拠点の漁村に放火した。
 ごうごうと炎が瞬く間に上り、炎に包まれていく。村人たちは逃げ惑い、皆殺しにされた。信長少年はその炎を茫然とみつめ、「これが……戦か」と、力なく呟いたという。
「信長はどうかしたのか?」信秀は平手に尋ねた。
「いや。わかりませぬ」平手政秀は首をかしげた。たかが放火と皆殺しだけで、なぜ若大将がそんなに心を痛め、傷ついてしまったのか…。典型的な戦国武士・平手政秀には理解できなかった。父・信秀も、あんな軟弱な肝っ玉で、大将になれるのか、と不安になった。 この頃、織田家に徳川家康(松平竹千代(松平元康))少年が転がりこむ。
 なんでも渥美半島の田原に城をかまえる戸田康光という武将が、信秀のところにひとりの少年を連れてやってきたという。
 戸田は「この童子は、松平広忠の嫡男竹千代です」といって頭をさげた。
「なんじゃと?」信秀は驚きの声をあげた。
 戸田が隣で平伏する少年をこずくと、「松平竹千代(松平元康、徳川家康)…に…ござります」と、あえぎあえぎだが少年は、やっと声を出して名乗り、また平伏した。
「戸田殿、その童子をどこで手に入れたのじゃ?」
「はっ、もともとこの童子は三河の当主・松平広忠の嫡男で、今川と同盟を結ぶための人質でござりました。それを拙者が途中で奪ってつれてきたのでござります」
 戸田はにやりとした。してやったりといったところだろう。
 織田信秀は当然喜んだ。「でかした、戸田殿!」彼はいった。「これで…三河は思いどおりになる」
 そして、信秀は松平竹千代を熱田近辺の寺に閉じ込めた。
  この頃、尾張(愛知県)の当主・織田信秀は三河(愛知県東部)攻撃がうまくいかず苛立っていた。当主の松平広忠の父松平清康が勇猛な武将で、結束したその家臣団は小規模な集団ながら、西からは織田、東からは今川に攻められたが孤軍奮闘していた。
 しかし、やはり織田か今川につくことにして、結局、今川につこうということで今川に人質・竹千代を送ったのである。
 松平は拡大を続け、次第に松平姓を名乗る部族が増えていった。しかし、数がふえれば諍いが起こる。松平家は内部分裂寸前になり、そこに尾張の織田信秀と駿河(静岡)の今川義元が入り込んできた。
 義元はすでに「京都に上洛して自分の旗をたてる」という野望があった。
 この有名な怪人は、顔をお白いで真っ白にし、口紅をつけ、眉を反り落とし、まるで平安時代の公家のような外見だったという。自分のことを「まろ」とも称した。
 上洛といっても京都の足利将軍を追い立てて、自分が将軍になるという訳ではない。
 今川家はもともと足利支族で、もし足利本家に相続人がいなければ、今川家から相続人をだせる家柄である。ただ、今川義元とすれば駿河一国の守護として終わるより、足利幕府の管領となるのが目標であった。それの邪魔になるのは尾張の織田と三河の松平だ。
 美濃(岐阜)の斎藤氏については織田などをやぶったあとで始末してやる…と思っていたという。そんな野望のある今川義元は、伊勢に逃れた松平広忠を救済した。
「まろが織田を抑えるうえ、三河にもどられよ」
 当然、松平広忠は感謝した。今川義元は大軍を率いて三河に出陣した。そんな頃、人質・竹千代が戸田に奪われ、織田家にやってきたのだ。
 織田信秀は松平家の弱体と、小豆板での勝利に狂喜乱舞した。今川は策を練った。
「松平広忠殿、もはや織田家に下った竹千代は帰ってはこぬ。そこで、まろの今川の家来となったらいかがか?」
 当然、小勢力の松平家は家臣となろうとした。しかし、「そんなことはできない。竹千代様の帰りをあくまでも待って、われらは松平家を再興するのじゃ」と頑張る者たちもいた。それがのちに徳川家普代の家臣群になっていったという。

 美濃の斎藤道三は、尾張と美濃の狭間にある富田の正徳寺で会見しよう、と信長にもちかけてきた。信長はその会見を受けることにした。
 興味深々なのは舅の斎藤道三の方である。尾張のうつけ(阿呆)殿というのは本当なのかどうか? もし、うつけが演技で、本当は頭のいい策士ならどえらいやつを敵にまわすことになる。しかし、うつけは演技ではなく、只の阿呆なら、尾張はまちがいなく自分の手に落ちる。阿呆だったら、攻撃も楽なものだ。しかし……本当の正体は……
 斎藤道三は、自分の家臣八百人あまりを寺のまわりに配置し、全員お揃いの織目高の片衣を着せた。そして、自分は町の入口にある小屋に潜んだ。信長の行列をここから密かに眺めようという魂胆である。やがて、信長一行が土埃をたててやってきた。信長は無論、斎藤道三が密かに見ていることなど知らない。
 信長のお共の者も八百人くらいだ。ところが、その者たちは片衣どころか鎧姿であったという。完全武装で、まるで戦場にいくようであった。家臣の半分は三メートルもの長い槍をもち、もう半分が鉄砲をもっている。当時の戦国武将で鉄砲を何百ももっているものはいなかったから、道三は死ぬほどびっくりした。
「信長という若僧は何を考えておるのだ?!」彼は呟いた。
 側には腹心の猪子兵助という男がいた。道三は不安になって、「信長はどいつだ?」ときいた。すると、猪子兵助は「あの馬にまたがった若者です」と指差した。
 道三は眉をひそめて馬上の若者を見た。
 茶せんにしたマゲをもえぎ色の糸で結び、カタビラ袖はだらだらと外れて、腰には瓢箪やひうち袋を何個もぶらさげている。例によって、瓜をほうばって馬に揺られている。
 通りの庶民の嘲笑を薄ら笑いで受けている。道三は圧倒された。
「噂とおりのうつけでございますな、殿」猪子兵助は呆れていった。
 道三は考えていた。舅の俺にあいにくるのにまるで戦を仕掛けるような格好だ。しかも、あれは織田のほんの一部。信長は城にもっと大量の槍や鉄砲をもっているだろう。若僧め、鉄砲の力を知っておる。あなどれない。
 道三は小屋を出て、急ぎ富田の正徳寺にもどった。
 寺につくと信長は水で泥や埃を払い、正装を着て、立派ないでたちで道三の前に現れた。共の者も、道三の家臣たちもあっと驚いた。美しい若武者のようである。
「あれが……うつけ殿か?」道三の家臣たちは呆気にとられた。
「これはこれは婿殿、わしは斎藤道三と申す」頭を軽く下げた。
「織田信長でござりまする、舅殿」
 信長は笑みを口元に浮かべた。
「信長殿、尾張の政はいかがですかな?」
「散々です。しかし、もうすぐ片付くでござりましょう」
「さようか。もし、尾張国内のゴタゴタで、わしの力が借りたい時があれば、いつでも遠慮なく申しあげられよ。すぐ応援にいく。なにせお主は、可愛い娘の立派な婿殿だからな」「ありがたき幸せ」信長は頭を下げた。
「ところで駿河の今川が上洛の機会をうかがっておるそうじゃ。今川の兵は織田の十倍……いかがする気か? 軍門に下るのも得策じゃと思うが」
「いいえ」信長は首をふった。「今川などにくだりはしませぬ。わしは誰にも従うことはありませぬ。今川に下るということは犬畜生に成りさがるということでござる」
「犬畜生? 勝ち目はござるのか?」
「はっ」信長は言葉をきった。「………戦の勝敗は時の運、勝ってみせましょう」
「そうか」道三は笑った。「さすが育ちのいい婿殿だ。ガマの油売り上りのわしとは違う気迫じゃ」
「舅殿がガマの油売り上りなら、わしはうつけ上りでごさる」
 ふたりは笑った。こうして舅と婿は酒を呑み、おおいに語り合った。斎藤道三は信長にいかれた。そして、それ以後、誰も信長のことをうつけという者はいなくなったという。 信長二十歳、道三六十歳のことである。
  信長は嘲笑や批判にはいっさい動じることはなく、逆に、自分にとってかわろうとした弟や重臣たちを謀殺した。病だといつわって、信長を見舞いにきた弟・信行を斬り殺して始末したのだ。共の柴田勝家は茫然とし、前田利家は憤った。しかし、信長は怒りの炎を魂に宿らせ、横たわる信行の死骸を睨みつけるだけであった。
 こうして、織田家中のゴタゴタはなくなった。
 そして、いよいよ織田信長の天下取りの勝負が始まるのであった。それは武田晴信をも恐れさせる勢力に、織田信長がなることを意味していた。              

おいどん!巨眼の男 西郷隆盛 鹿児島のおいどん西郷吉之助の維新と西南戦争の真実!小説1

2015年06月16日 05時46分46秒 | 日記









小説
おいどん!
巨眼の男
   西郷隆盛


       saigo takamori oidon!Kyogan no otoko ~the last samurai ~~鹿児島のおいどん! 西郷隆盛の「明治維新」。
                 「江戸無血開城」はいかにしてなったか。~
                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

 西郷隆盛は名を吉之助という。薩摩藩士である。この巨眼の男は明治維新の英雄としてあまりにも有名だ。西郷は二度、島流しにあって、島の女・愛加那とのあいだに子供をもうける。菊次郎と菊草である。薩英戦争、禁門の変のあと、長州と連合をつくり、朝廷と提携して錦の御旗をたてて官軍となる。勝海舟との会談で「江戸無血開城」をなしとげる。 その後、明治新政府をつくるが、征韓論でやぶれて、野に下る。
 鹿児島にもどった西郷は私塾をつくる。その塾生は二万人にものぼった。諸国の士族たち(元・侍、藩士)は西郷がなんとかしてくれるだろうと期待し、西郷は思わず御輿にのせられて西南戦争を初めてしまう。しかし、薩摩軍に勝ち目はない。西郷は城山からでたところを狙撃され、部下に首をはねられて自決…これにより明治維新は本当におわったのである。      おわり

         1 英雄野に下る





  その日の午前、東京はどしゃぶりの雨であった。
 明治三年四月十一日、西郷隆盛は『征韓論』にやぶれた。
「西郷先生はどこじゃ?! 西郷先生はどこじゃ?!」足にゲートルをまき、黒い服に黄色い縁帽子をかぶった官軍(明治政府軍)兵士たちは雨でずぶ濡れになりながら、駆けた。                
 当の西郷吉之助(隆盛)は麻の羽織りをきて、傘をさして陰にいる。
 兵士たちは彼には気付かなかった。
 西郷は神妙な面持ちで、暗い顔をしていた。今にも世界が破滅するような感覚を西郷隆盛は覚えた。……おいの負けじゃっどん。
 実はこのとき、西郷吉之助は参議(明治政府の内閣)に辞表を提出し、野に下ったのである。西郷は維新後の薩長政府の腐敗ぶりをなげく。
”人民が「あんなに一生懸命働いては、お気の毒だ」というほどに国事をつかさどる者が働きぬかなくては、よい政治はおこなえない。理想的な政治家なら、薩摩も長州もないはずだ。しかるに、草創のはじめにたちながら、政治家も官僚も色食や銭にまみれている。 働く場所をうしなった侍(士族)たちの不満が爆発しそうだ。「そいを、わしゃ最もおそれる」”
 辞表をうけとった親友でもある参議・大久保利道(一蔵)は悔しさに顔をゆがませた。「わかりもはん。なぜごて、西郷どんは辞めるのでごわすか?」
 大久保は耳元から顎までのびる黒髭を指でなでた。「朝鮮などどうでもよかとに」                           
 伊藤博文は「西郷先生は何故に朝鮮にこだわるのでしょう?」と大久保にきいた。
「西郷どんは思いきりがよすぎとる。困り申した。あの頑固さは昔から禅をやっていたせいでごわそ」
  西郷隆盛の弟の西郷従道(慎吾)がやってきて「兄さんが辞めとうたとは本当でごわすか?」ときいた。子供のときから西郷隆盛と過ごした大久保は残念がった。
  吉之助は山岡鉄太郎(鉄舟)の屋敷にころがりこんだ。山岡鉄太郎は、清河八郎とともに『新選組』の発足に尽力したひとである。
「どうしました? 西郷先生?」鉄太郎はゆっくりと尋ねた。
「………やぶれもうした」
 力なく、呟くように吉之助はいった。
「それは、『征韓論』ですか?」
「そいでごわそ。死に場所をなくし申した」西郷はうなった。
 山岡鉄太郎は「なぜ西郷先生は朝鮮にこだわり、攻めようとするのです?」ときいた。「攻める訳ではござりもはん」西郷は続けた。「ただ、朝鮮においがいき、友好関係をば築くのでごわす」
「…では『征韓論』ではなく『親韓論』ですな?」
「そうでごわす」西郷は頷いた。「おいの考えがいつの間にか朝鮮を征伐する……などとごて変えられたのでごわす。何とも情けなく思っちょる」
 こうして、西郷隆盛は野に下った。
 そして、明治十年二月、『西南戦争』が勃発する。

  西郷吉之助は、文政十年(一八二七)十二月七日、薩摩七十七万石、島津家の城下、鹿児島加治屋町に生まれた。大久保一蔵(利道)も同じ加治屋町の西郷家より二町ほどはなれた猫薬小路で生まれたという。大名はどこでもそうだが、この時代、上級、下級藩士の区別がやかましかった。西郷の父は小姓組という家柄で、藩士の身分は下から二番目だ。        長男の吉之助の後に、お琴、吉次郎、おたか、おやす、慎吾(西郷従道)、小兵衛とたてつづけに生まれ、貧乏がさらに貧乏になった。
 吉之助は後年、六尺近い体躯をして、巨眼な堂々たる英雄らしい体型になる。無口だが、すもう好きで、相手をまかした。力は強い。しかし、読み書きは苦手であったという。
 ちなみに述べると、西郷は大久保の父・次右衛門からも学徳を受けている。大久保の父は町医者から昇格して士分になったほどの人物であった。
 吉之助の風貌は英雄たるものだが、人格も徳をつんだ男である。西郷隆盛といえば、例の肖像画と銅像だけだが、それ以外には彼の顔を知ることは出来ない。写真嫌いであったため、西郷隆盛といえば「上野の西郷どん」という銅像のイメージが強い。
 西郷が動けば薩摩も動くとさえいわれたのも、その風貌と島津斉彬との仲でのことである。西郷は巨眼な堂々たる英雄であった。
この物語はインターネット上のウイッキペディアや日本テレビ番組「田原坂」、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰せず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」「白虎隊」「勝海舟」、NHK映像資料「歴史秘話ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ」漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。

この物語の参考文献はウィキペディア、ネタバレ、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作「飛ぶが如く」、童門冬二著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰せず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史秘話ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ」漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
なおここから数十行の文章は小林よしのり氏の著作・『ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり「大東亜論 第5章 明治6年の政変」』小学館SAPIO誌2014年6月号小林よしのり著作漫画、72ページ~78ページからの文献を参考にしています。
 盗作ではなくあくまで引用です。前述した参考文献も考慮して引用し、創作しています。盗作だの無断引用だの文句をつけるのはやめてください。
  この頃、決まって政治に関心ある者たちの話題に上ったのは「明治6年の政変」のことだった。
 明治6年(1873)10月、明治政府首脳が真っ二つに分裂。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五人の参謀が一斉に辞職した大事件である。
 この事件は、通説では「征韓論」を唱える西郷派(外圧派)と、これに反対する大久保派(内治派)の対立と長らく言われていきた。そしてその背景には、「岩倉使節団」として欧米を回り、見聞を広めてきた大久保派と、その間、日本で留守政府をに司っていた西郷派の価値観の違いがあるとされていた。しかし、この通説は誤りだったと歴史家や専門家たちにより明らかになっている。
 そもそも西郷は「征韓論」つまり、武力をもって韓国を従えようという主張をしたのではない。西郷はあくまでも交渉によって国交を樹立しようとしたのだ。つまり「親韓論」だ。西郷の幕末の行動を見てみると、第一次長州征伐でも戊辰戦争でも、まず強硬姿勢を示し、武力行使に向けて圧倒な準備を整えて、圧力をかけながら、同時に交渉による解決の可能性を徹底的に探り、土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるという方法を採っている。勝海舟との談判による江戸無血開城がその最たるものである。
 西郷は朝鮮に対しても同じ方法で、成功させる自信があったのだろう。
 西郷は自分が使節となって出向き、そこで殺されることで、武力行使の大義名分ができるとも発言したが、これも武力行使ありきの「征韓論」とは違う。
 これは裏を返せば、使節が殺されない限り、武力行使はできない、と、日本側を抑えている発言なのである。そして西郷は自分が殺されることはないと確信していたようだ。
 朝鮮を近代化せねばという目的では西郷と板垣は一致。だが、手段は板垣こそ武力でと主張する「征韓論」。西郷は交渉によってと考えていたが、板垣を抑える為に「自分が殺されたら」と方便を主張。板垣も納得した。
 一方、岩倉使節団で欧米を見てきた大久保らには、留守政府の方針が現実に合わないものに見えたという通説も、勝者の後付けだと歴史家は分析する。
 そもそも岩倉使節団は実際には惨憺たる大失敗だったのである。当初、使節団は大隈重信が計画し、数名の小規模なものになるはずだった。
 ところが外交の主導権を薩長で握りたいと考えた大久保利通が岩倉具視を擁して、計画を横取りし、規模はどんどん膨れ上がり、総勢100人以上の大使節団となったのだ。
 使節団の目的は国際親善と条約改正の準備のための調査に限られ、条約改正交渉自体は含まれていなかった。
しかし功を焦った大久保や伊藤博文が米国に着くと独断で条約改正交渉に乗り出す。だが、本来の使命ではないので、交渉に必要な全権委任状がなく、それを交付してもらうためだけに、大久保・伊藤の2人が東京に引き返した。大使節団は、大久保・伊藤が戻ってくるまで4か月もワシントンで空しく足止めされた。大幅な日程の狂いが生じ、10か月半で帰国するはずが、20か月もかかり、貴重な国費をただ蕩尽(とうじん)するだけに終わってしまったのだ。
 一方で、その間、東京の留守政府は、「身分制度の撤廃」「地租改正」「学制頒布」などの新施策を次々に打ち出し、着実に成果を挙げていた。
 帰国後、政治生命の危機を感じた大久保は、留守政府から実権を奪取しようと策謀し、これが「明治6年の政変」となったのだ。大久保が目の敵にしたのは、板垣退助と江藤新平であり、西郷は巻き添えを食らった形だった。
 西郷の朝鮮への使節派遣は閣議で決定し、勅令まで下っていた。それを大久保は権力が欲しいためだけに握りつぶすという無法をおこなった。もはや朝鮮問題など、どうでもよくなってしまった。
 ただ国内の権力闘争だけがあったのだ。こうして一種のクーデターにより、政権は薩長閥に握られた。
 しかも彼ら(大久保や伊藤ら)の多くは20か月にも及んだ外遊で洗脳されすっかり「西洋かぶれ」になっていた。もはや政治どころではない。国益や政治・経済の自由どころではない。
 西郷や板垣らを失った明治政府は誤った方向へと道をすすむ。日清戦争、日露戦争、そして泥沼の太平洋戦争へ……歴史の歯車が狂い始めた。
(以下文(参考文献ゴーマニズム宣言大東亜論)・小林よしのり氏著作 小学館SAPIO誌7月号74~78ページ+8月号59~75ページ+9月号61~78ページ参考文献)
この頃、つまり「明治6年の政変」後、大久保利通は政治家や知識人らや庶民の人々の怨嗟(えんさ)を一身に集めていた。維新の志を忘れ果て、自らの政治生命を維持する為に「明治6年の政変」を起こした大久保利通。このとき大久保の胸中にあったのは、「俺がつくった政権を後から来た連中におめおめ奪われてたまるものか」という妄執だけだった。
西郷隆盛が何としても果たそうとした朝鮮使節派遣も、ほとんど念頭の片隅に追いやられていた。これにより西郷隆盛ら5人の参議が一斉に下野するが、西郷は「巻き添え」であり…そのために西郷の陸軍大将の官職はそのままになっていた。この政変で最も得をしたのは、井上馨ら長州汚職閥だった。長州出身の御用商人・山城屋和助が当時の国家予算の公金を使い込んだ事件や……井上馨が大蔵大臣の職権を濫用して民間の優良銅山を巻き上げ、自分のものにしようとした事件など、長州閥には汚職の疑惑が相次いだ。だが、この問題を熱心に追及していた江藤新平が政変で下野したために、彼らは命拾いしたのである。
江藤新平は初代司法卿として、日本の司法権の自立と法治主義の確立に決定的な役割を果たした人物である。江藤は政府で活躍したわずか4年の間に司法法制を整備し、裁判所や検察機関を創設して、弁護士・公証人などの制度を導入し、憲法・民法の制定に務めた。
もし江藤がいなければ、日本の司法制度の近代化は大幅に遅れたと言っても過言ではない。そんな有能な人材を大久保は政府から放逐したのだ。故郷佐賀で静養していた江藤は、士族反乱の指導者に祭り上げられ、敗れて逮捕された。江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に3日前に作られた裁判所で、十分な弁論の機会もなく、上訴も認めない暗黒裁判にかけられ、死刑となった。新政府の汚職の実態を知り尽くしている江藤が、裁判で口を開くことを恐れたためである。それも斬首の上、さらし首という武士に対してあり得ない屈辱的な刑で……しかもその写真が全国に配布された。(米沢藩の雲井龍雄も同じく死刑にされた)すべては大久保の指示による「私刑」だった。
「江藤先生は惜しいことをした。だが、これでおわりではない」のちの玄洋社の元となる私塾(人参畑塾)で、武部小四郎(たけべ・こしろう)はいった。当時29歳。福岡勤皇党の志士の遺児で、人参畑塾では別格の高弟であった。身体は大きく、姿は颯爽(さっそう)、親しみ易いが馴れ合いはしない。質実にて華美虚飾を好まず、身なりを気にせず、よく大きな木簡煙管(きせる)を構えていた。もうひとり、頭山満が人参畑塾に訪れる前の塾にはリーダー的な塾生がいた。越智彦四郎(おち・ひこしろう)という。武部小四郎、越智彦四郎は人参畑塾のみならず、福岡士族青年たちのリーダーの双璧と目されていた。だが、二人はライバルではなく、同志として固い友情を結んでいた。それはふたりがまったく性格が違っていたからだ。越智は軽薄でお調子者、武部は慎重で思慮深い。明治7年(1874)2月、江藤新平が率いる佐賀の役が勃発すると、大久保利通は佐賀制圧の全権を帯びて博多に乗り込み、ここを本営とした。全国の士族は次々に社会的・経済的特権を奪われて不平不満を強めており、佐賀もその例外ではなかったが、直ちに爆発するほどの状況ではなかった。にもかかわらず大久保利通は閣議も開かずに佐賀への出兵を命令し、文官である佐賀県令(知事にあたる)岩村高俊にその権限を与えた。文官である岩村に兵を率いさせるということ自体、佐賀に対する侮辱であり、しかも岩村は傲慢不遜な性格で、「不逞分子を一網打尽にする」などの傍若無人な発言を繰り返した。こうして軍隊を差し向けられ、挑発され、無理やり開戦を迫られた形となった佐賀の士族は、やむを得ず、自衛行動に立ち上がると宣言。休養のために佐賀を訪れていた江藤新平は、やむなく郷土防衛のため指揮をとることを決意した。これは、江藤の才能を恐れ、「明治6年の政変」の際には、閣議において西郷使節派遣延期論のあいまいさを論破されたことなどを恨んだ大久保利通が、江藤が下野したことを幸いに抹殺を謀った事件だったという説が今日では強い。そのため、佐賀士族が乱をおこした佐賀の乱というのではなく「佐賀戦争」「佐賀の役」と呼ぶべきと提唱されている。その際、越智彦四郎は大久保利通を訪ね、自ら佐賀との調整役を買って出る。大久保は「ならばおんしに頼みたか。江藤ら反乱軍をば制圧する「鎮撫隊」をこの福岡に結成してくれもんそ」という。越智彦四郎は引き受けた。だが、越智は策士だった。鎮撫隊を組織して佐賀の軍に接近し、そこで裏切りをして佐賀の軍と同調して佐賀軍とともに明治政府軍、いや大久保利通を討とう、という知略を謀った。武部は反対した。
「どこが好機か?大久保が「鎮撫隊」をつくれといったのだ。何か罠がある」
だが、多勢は越智の策に乗った。だが、大久保利通の方が、越智彦四郎より一枚も二枚も上だった。大久保利通は佐賀・福岡の動静には逐一、目を光らせていて、越智の秘策はすでにばれていた。陸軍少佐・児玉源太郎は越智隊に鉄砲に合わない弾丸を支給して最前線に回した。そのうえで士族の一部を率いて佐賀軍を攻撃。福岡を信用していなかった佐賀軍は越智隊に反撃し、同士討ちの交戦となってしまった。越智隊は壊滅的打撃を受け、ようやくの思いで福岡に帰還した。その後、越智彦四郎は新たな活動を求めて、熊本・鹿児島へ向かった。武部はその間に山籠もりをして越智と和解して人参畑塾に帰還した。
「明治6年の政変」で下野した板垣退助は、江藤新平、後藤象二郎らと共に「愛国公党」を結成。政府に対して「民選議員設立建白書」を提出した。さらに政治権力が天皇にも人民にもなく薩長藩閥の専制となっていることを批判し、議会の開設を訴えた。自由民権運動の始まりである。だが間もなく、佐賀の役などの影響で「愛国公党」は自然消滅。そして役から1年近くが経過した明治8年(1875)2月、板垣は旧愛国公党を始めとする全国の同志に結集を呼びかけ「愛国社」を設立したのだった。板垣が凶刃に倒れた際「板垣死すとも自由は死せず」といったというのは有名なエピソードだが、事実ではない。
幕末、最も早く勤王党の出現を見たのが福岡藩だった。だが薩摩・島津家から養子に入った福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は、一橋家(徳川将軍家)と近親の関係にあり、動乱の時代の中、勤王・佐幕の両派が争う藩論の舵取りに苦心した。黒田長溥は決して愚鈍な藩主ではなかった。だが次の時代に対する識見がなく、目前の政治状況に過敏に反応してしまうところに限界があった。大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)という幕府始まって以来の不祥事を機に勤王の志士の動きは活発化。これに危機感を覚えた黒田長溥は筑前勤王党を弾圧、流刑6名を含む30余名を幽閉等に処した。これを「庚申(こうしん)の獄」という。その中にはすでに脱藩していた平野國臣もいた。女流歌人・野村望東尼(ぼうとうに)は獄中の國臣に歌(「たぐいなき 声になくなる 鶯(ウグイス)は 駕(こ)にすむ憂きめ みる世なりけり」)を送って慰め、これを機に望東尼は勤王党を積極的に支援することになる。尼は福岡と京都をつなぐパイプ役を務め、高杉晋作らを平尾山荘に匿い、歌を贈るなどしてその魂を鼓舞激励したのだった。
この頃、坂本竜馬らよりもずっと早い時点で、薩長連合へ向けた仲介活動を行っていたのが筑前勤王党・急進派の月形洗蔵(つきがた・せんぞう、時代劇「月形半平太(主演・大川橋蔵)」のモデル)や衣斐茂記(えび・しげき)、建部武彦らだった。また福岡藩では筑前勤王党の首領格として羨望があった加藤司書(かとう・ししょ)が家老に登用され、まさしく維新の中心地となりかけていたという。だが、すぐに佐幕派家老が勢力を取り戻し、さらに藩主・黒田長溥が勤王党急進派の行動に不信感を抱いたことなどから……勤王党への大弾圧が行われたのだ。これを「乙丑(いっちゅう)の獄」という。加藤、衣斐、建部ら7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首。野村望東尼ら41名が流罪・幽閉の処分を受け、筑前勤王党は壊滅した。このとき、姫島に流罪となる野村望東尼を護送する足軽の中に15歳の箱田六輔がいた。そして武部小四郎は「乙丑の獄」によって切腹した建部武彦の遺児であった(苗字は小四郎が「武部」に改めた)。福岡藩は佐幕派が多かったが、戊辰の役では急遽、薩長官軍についた。それにより福岡藩の家老ら佐幕派家老3名が切腹、藩士23名が遠島などの処分となった。そして追い打ちをかけるように薩長新政府は福岡藩を「贋札づくり」の疑惑で摘発した。当時、財政難だった藩の多くが太政官札の偽造をしていたという。西郷隆盛は寛大な処分で済まそうと尽力した。何しろ贋札づくりは薩摩藩でもやっていたのだ。だが大久保利通が断固として、福岡藩だけに過酷な処罰を科し、藩の重職5名が斬首、知藩事が罷免となった。これにより福岡藩は明治新政府にひとりの人材も送り込めることも出来ず、時代から取り残されていった。この同じ年、明治8年9月、近代日本の方向性を決定づける重大な事件が勃発した。「江華島(こうかとう・カンファンド)事件」である。これは開国要請に応じない朝鮮に対する砲艦外交そのものであった。そもそも李氏朝鮮の大院君はこう考えていた。「日本はなぜ蒸気船で来て、洋服を着ているのか?そのような行為は華夷秩序(かいちつじょ)を乱す行為である」
華夷秩序は清の属国を認める考えだから近代国家が覇を競う時代にあまりに危機感がなさすぎる。だからといって、砲艦外交でアメリカに開国させられた日本が、朝鮮を侮る立場でもない。どの国も、力ずくで国柄を変えられるのは抵抗があるのだ。日本軍艦・雲揚(うんよう)は朝鮮西岸において、無許可の沿海測量を含む挑発行動を行った。さらに雲揚はソウルに近い江華島に接近。飲料水補給として、兵を乗せたボートが漢江支流の運河を遡航し始めた時、江華島の砲台が発砲!雲揚は兵の救援として報復砲撃!さらに永宗島(ヨンジュンド)に上陸して朝鮮軍を駆逐した。明治政府は事前に英米から武力の威嚇による朝鮮開国の支持を取り付け、挑発活動を行っていた。そしてペリー艦隊の砲艦外交を真似て、軍艦3隻と汽船3隻を沖に停泊させて圧力をかけた上で、江華島事件の賠償と修好条約の締結交渉を行ったのだった。この事件に、鹿児島の西郷隆盛は激怒した。
「一蔵(大久保)どーん!これは筋が違ごうじゃろうがー!」
大久保らは、「明治6年の政変」において、「内治優先」を理由としてすでに決定していた西郷遣韓使節を握りつぶしておきながら、その翌年には台湾に出兵、そしてさらに翌年にはこの江華島事件を起こした。「内治優先」などという口実は全くのウソだったのである。特に朝鮮に対する政府の態度は許しがたいものであった。
西郷は激昴して「ただ彼(朝鮮)を軽蔑して無断で測量し、彼が発砲したから応戦したなどというのは、これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきの行為といわにゃならんど!政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす!」
西郷は、測量は朝鮮の許可が必要であり、発砲した事情を質せず、戦端を開くのは野蛮と考えた。
「そもそも朝鮮は幕府とは友好的だったのでごわす!日本人は古式に則った烏帽子直垂(えぼしひたたれ)の武士の正装で交渉すべきでごわす!軍艦ではなく、商船で渡海すべきでごわんそ!」
西郷は政府参与の頃、清と対等な立場で「日清修好条規」の批准を進め、集結した功績がある。なのに大久保ら欧米使節・帰国組の政府要人は西郷の案を「征韓論」として葬っておきながら、自らは、まさに武断的な征韓を行っている。西郷隆盛はあくまでも、東洋王道の道義外交を行うべきと考えていた。西郷は弱を侮り、強を恐れる心を、徹底的に卑しむ人であった。大久保は西洋の威圧外交を得意とし、朝鮮が弱いとなれば侮り、侵略し、欧米が強いとなれば恐れ、媚びへつらい、政治体制を徹底的に西洋型帝国の日本帝国を建設しようとしたのだ。西郷にとっては、誠意を見せて朝鮮や清国やアジア諸国と交渉しようという考えだったから大久保の考えなど論外であった。だが、時代は大久保の考える帝国日本の時代、そして屈辱的な太平洋戦争の敗戦で、ある。大久保にしてみれば欧米盲従主義はリアリズム(現実主義)であったに違いない。そして行き着く先がもはや「道義」など忘れ去り、相手が弱いと見れば侮り、強いと見れば恐れ、「WASPについていけば百年安心」という「醜悪な国・日本」なのである。

<ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり著作「大東亜論 血風士魂篇」第9章前原一誠の妻と妾>2014年度小学館SAPIO誌10月号59~78ページ参照(参考文献・漫画文献)
明治初期、元・長州藩(山口県)には明治政府の斬髪・脱刀令などどこ吹く風といった連中が多かったという。長州の士族は維新に功ありとして少しは報われている筈であったが、奇兵隊にしても長州士族にしても政権奪還の道具にすぎなかった。彼らは都合のいいように利用され、使い捨てされたのだ。報われたのはほんの数人(桂小五郎こと木戸孝允や井上馨(聞多)や伊藤博文(俊輔)等わずか)であった。明治維新が成り、長州士族は使い捨てにされた。それを憤る人物が長州・萩にいた。前原一誠である。前原は若い時に落馬して、胸部を強打したことが原因で肋膜炎を患っていた。明治政府の要人だったが、野に下り、萩で妻と妾とで暮らしていた。妻は綾子、妾は越後の娘でお秀といった。
前原一誠は吉田松陰の松下村塾において、吉田松陰が高杉晋作、久坂玄瑞と並び称賛した高弟だった。「勇あり知あり、誠実は群を抜く」。晋作の「識」、玄瑞の「才」には遠く及ばないが、その人格においてはこの二人も一誠には遠く及ばない。これが松陰の評価であった。そして晋作・玄瑞亡き今、前原一誠こそが松陰の思想を最も忠実に継承した人物であることは誰もが認めるところだった。一誠の性格は、頑固で直情径行、一たび激すると誰の言うことも聞かずやや人を寄せつけないところもあったが、普段は温厚ですぐ人を信用するお人好しでもあった。一誠は戊辰戦争で会津征討越後口総督付の参謀として軍功を挙げ、そのまま越後府判事(初代新潟県知事)に任じられて越後地方の民政を担当する。
いわば「占領軍」の施政者となったわけだが、そこで一誠が目にしたものは戦火を受けて苦しむ百姓や町民の姿だった。「多くの飢民を作り、いたずらに流民を作り出すのが戦争の目的ではなかったはずだ。この戦いには高い理想が掲げられていたはず!これまでの幕府政治に代って、万民のための国造りが目的ではなかったのか!?」
少年時代の一誠の家は貧しく、父は内職で安物の陶器を焼き、一誠も漁師の手伝いをして幾ばくかの銭を得たことがある。それだけに一誠は百姓たちの生活の苦しさをよく知り、共感できた。さらに、師・松陰の「仁政」の思想の影響は決定的に大きかった。
「機械文明においては、西洋に一歩を譲るも、東洋の道徳や治世の理想は、世界に冠たるものである!それが松陰先生の教えだ!この仁政の根本を忘れたからこそ幕府は亡びたのだ。新政府が何ものにも先駆けて行わなければならないことは仁政を行って人心を安らかにすることではないか!」一誠は越後の年貢を半分にしようと決意する。中央政府は莫大な戦費で財政破綻寸前のところを太政官札の増発で辛うじてしのいでいる状態だったから、年貢半減など決して許可しない。だが、一誠は中央政府の意向を無視して「年貢半減令」を実行した。さらに戦時に人夫として徴発した農民の労賃も未払いのままであり、せめてそれだけでも払えば当面の望みはつなげられる。未払い金は90万両に上り、そのうち40万両だけでも出せと一誠は明治政府に嘆願を重ねた。だが、政府の要人で一誠の盟友でもあった筈の木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治・松陰門下)は激怒して、「前原一誠は何を考えている!越後の民政のことなど単なる一地方のことでしかない!中央には、一国の浮沈にかかわる問題が山積しているのだぞ!」とその思いに理解を示すことは出来なかった。
この感情の対立から、前原一誠は木戸に憎悪に近い念を抱くようになる。一誠には越後のためにやるべきことがまだあった。毎年のように水害を起こす信濃川の分水である。一誠は決して退かない決意だったが、中央政府には分水工事に必要な160万両の費用は出せない。政府は一誠を中央の高官に「出世」させて、越後から引き離そうと画策。一誠は固辞し続けるが、政府の最高責任者たる三条実美が直々に来訪して要請するに至り、ついに断りきれなくなり参議に就任。信濃川の分水工事は中止となる。さらに一誠は暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔となるが、もともと中央政府に入れられた理由が理由なだけに、満足な仕事もさせられず、政府内で孤立していた。一誠は持病の胸痛を口実に政府会議にもほとんど出なくなり、たまに来ても辞任の話しかしない。「私は参議などになりたくはなかったのだ!私を参議にするくらいならその前に越後のことを考えてくれ!」
木戸や大久保利通は冷ややかな目で前原一誠を見ているのみ。
「君たちは、自分が立派な家に住み、自分だけが衣食足りて世に栄えんがために戦ったのか?私が戦ったのはあの幕府さえ倒せば、きっと素晴らしい王道政治が出来ると思ったからだ!民政こそ第一なのだ!こんな腐った明治政府にはいたくない!徳川幕府とかわらん!すぐに萩に帰らせてくれ!」大久保や木戸は無言で前原一誠を睨む。三度目の辞表でやっと前原一誠は萩に帰った。明治3年(1870)10月のことだった。政府がなかなか前原一誠の辞任を認めなかったのは、前原一誠を帰してしまうと、一誠の人望の下に、不平士族たちが集まり、よりによって長州の地に、反政府の拠点が出来てしまうのではないかと恐れたためである。当の一誠は、ただ故郷の萩で中央との関わりを断ち、ひっそりと暮らしたいだけだった。が、周囲が一誠を放ってはおかなかった。維新に功のあった長州の士族たちは「自分たちは充分報われる」と思っていた。しかし、実際にはほんの数人の長州士族だけが報われて、「奇兵隊」も「士族」も使い捨てにされて冷遇されたのだった。そんなとき明治政府から野に下った前原一誠が来たのだ。それは彼の周囲に自然と集まるのは道理であった。しかも信濃川の分水工事は「金がないので工事できない」などといいながら、明治政府は岩倉具視を全権大使に、木戸、大久保、伊藤らを(西郷らは留守役)副使として数百人規模での「欧米への視察(岩倉使節団)」だけはちゃっかりやる。一誠は激怒。
江藤新平が失脚させられ、「佐賀の役」をおこすとき前原一誠は長州士族たちをおさえた。「局外中立」を唱えてひとりも動かさない。それが一誠の精一杯の行動だった。
長州が佐賀の二の舞になるのを防いだのだ。前原一誠は激昴する。「かつての松下村塾同門の者たちも、ほとんどが東京に出て新政府に仕え、洋風かぶれで東洋の道徳を忘れておる!そうでなければ、ただ公職に就きたいだけの、卑怯な者どもだ!井上馨に至っては松下村塾の同窓ですらない!ただ公金をかすめ取る業に長けた男でしかないのに、高杉や久坂に取り入ってウロチョロしていただけの奴!あんな男までが松下村塾党のように思われているのは我慢がならない!松陰先生はよく「天下の天下の天下にして一人の天下なり」と仰っていた。すなわち尊皇である。天子様こそが天下な筈だ!天下一人の君主の下で万民が同じように幸福な生活が出来るというのが政治の理想の根本であり、またそのようにあらしめるのが理想だったのだ!孔孟の教えの根本は「百姓をみること子の如くにする」。これが松陰先生の考えである!松陰先生が生きていたら、今の政治を認めるはずはない!必ずや第二の維新、瓦解を志す筈だ!王政復古の大号令は何処に消えたのだ!?このままではこの国は道を誤る!」その後、「萩の乱」を起こした前原一誠は明治政府に捕縛され処刑された。


大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂玄瑞役の東出昌大さんが「僕は不幸の星の下に生まれたんや」と、松陰の妹の杉文役の井上真央さんにいったのはあながち“八つ当たり”という訳ではなかった。ペリーが二度目に来航した安政元年(一八五四)、長州の藩主は海防に関する献策を玄機に命じた。たまたま病床にあったが、奮起して執筆にとりかかり、徹夜は数日にわたった。精根尽き果てたように、筆を握ったまま絶命したのだ。
それは二月二十七日、再来ペリーを幕府が威嚇しているところであり、吉田松陰が密航をくわだてて、失敗する一か月前のことである。
畏敬する兄の死に衝撃を受け、その涙もかわかない初七日に、玄瑞は父親の急死という二重の不幸に見舞われた。すでに母親も失っている。玄瑞は孤児となった。十五歳のいたましい春だった。久坂秀三郎は、知行高二十五石の藩医の家督を相続し、玄瑞と改名する。六尺の豊かな偉丈夫で色男、やや斜視だったため、初めて彼が吉田松陰のもとにあらわれたとき、松陰の妹文は、「お地蔵さん」とあだ名をつけたが、やがて玄瑞はこの文と結ばれるのである。「筋金入りの“攘夷思想”」のひとである。熊本で会った宮部鼎蔵から松陰のことを聞いて、その思いを述べた。「北条時宗がやったように、米使ハリスなどは斬り殺してしまえばいいのだ」松陰は「久坂の議論は軽薄であり、思慮浅く粗雑きわまる書生論である」と反論し、何度も攘夷論・夷人殺戮論を繰り返す「不幸な人」久坂玄瑞を屈服させる。松陰の攘夷論は、情勢の推移とともに態様を変え、やがて開国論に発展するが、久坂は何処までも「尊皇攘夷・夷狄殺戮」主義を捨てなかった。長州藩は「馬関攘夷戦」で壊滅する。それでも「王政復古」「禁門の変」につながる「天皇奪還・攘夷論」で動いたのも久坂玄瑞であった。これをいいだしたのは久留米出身の志士・真木和泉(まき・いずみ)である。天皇を確保して長州に連れてきて「錦の御旗」として長州藩を“朝敵”ではなく、“官軍の藩”とする。やや突飛な構想だったから玄瑞は首をひねったが、攘夷に顔をそむける諸大名を抱き込むには大和行幸も一策だと思い、桂小五郎も同じ意見で、攘夷親征運動は動きはじめた。
松下村塾では、高杉晋作と並んで久坂玄瑞は、双璧といわれた。いったのは、師の松陰その人である。禁門の変の計画には高杉晋作は慎重論であった。どう考えても、今はまだその時期ではない。長州はこれまでやり過ぎて、あちこちに信用を失い、いまその報いを受けている。しばらく静観して、反対論の鎮静うるのを待つしかない。
高杉晋作は異人館の焼打ちくらいまでは、久坂玄瑞らと行動をともにしたけれども、それ以降は「攘夷殺戮」論には「まてや、久坂!もうちと考えろ!異人を殺せば何でも問題が解決する訳でもあるまい」と慎重論を唱えている。
それでいながら長州藩独立国家案『長州大割拠(独立)』『富国強兵』を唱えている。丸山遊郭、遊興三昧で遊んだかと思うと、「ペリーの大砲は3km飛ぶが、日本の大砲は1kmしか飛ばない」という。「僕は清国の太平天国の乱を見て、奇兵隊を、農民や民衆による民兵軍隊を考えた」と胸を張る。
文久三年馬関戦争での敗北で長州は火の海になる。それによって三条実美ら長州派閥公家が都落ち(いわゆる「七卿落ち」「八月十八日の政変」)し、さらに禁門の変…孝明天皇は怒って長州を「朝敵」にする。四面楚歌の長州藩は四国に降伏して、講和談判ということになったとき、晋作はその代表使節を命じられた。ほんとうは藩を代表する家老とか、それに次ぐ地位のものでなければならないのだが、うまくやり遂げられそうな者がいないので、どうせ先方にはわかりゃしないだろうと、家老宍戸備前の養子刑馬という触れ込みで、威風堂々と旗艦ユーリアラス号へ烏帽子直垂で乗り込んでいった。伊藤博文と山県有朋の推薦があったともいうが、晋作というのは、こんな時になると、重要な役が回ってくる男である。
談判で、先方が賠償金を持ち出すと「幕府の責任であり、幕府が払う筋の話だ」と逃げる。下関に浮かぶ彦島を租借したいといわれると、神代以来の日本の歴史を、先方が退屈するほど永々と述べて、煙に巻いてしまった。
だが、長州藩が禁門の変で不名誉な「朝敵」のようなことになると“抗戦派(進発派「正義派」)”と“恭順派(割拠派「俗論党」)”という藩論がふたつにわれて、元治元年十一月十二日に恭順派によって抗戦派長州藩の三家老の切腹、四参謀の斬首、ということになった。周布政之助も切腹、七卿の三条実美らも追放、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)は城崎温泉で一時隠遁生活を送り、自暴自棄になっていた。小田村伊之助は一時期、野山獄に投獄され小田村「素太郎(もとたろう)」と改名した。小田村の正妻・寿は二人の息子(次男は久坂家に養子にやった粂次郎だが、このころは実父母と同居していたのだろう)をつれて獄にいき、食物や衣類などを差し入れた。その頃の野山獄は、凄惨な空気が漂っていたから、文は恐怖を感じておののいたが、寿は少しも恐怖を感じず、かえって興味津々だったという。こうした寿の行為を獄中で知った楫取は驚き、喜び、感謝したという。小田村(楫取)には寿が必要であり、愛していたのだった。(『楫取素彦と吉田松陰の妹・文』一坂太郎著作・新人物文庫142~157ページ)話を戻す。そこで半分藩命をおびた使徒に(旧姓・杉)文らが選ばれる。文は隠遁生活でヤケクソになり、酒に逃げていた桂小五郎隠遁所を訪ねる。「お文さん………何故ここに?」「私は長州藩主さまの藩命により、桂さんを長州へ連れ戻しにきました」「しかし、僕にはなんの力もない。久坂や寺島、入江九一など…禁門の変の失敗も同志の死も僕が未熟だったため…もはや僕はおわった人物です」「違います!寅にいは…いえ、松陰は、生前にようっく桂さんを褒めちょりました。桂小五郎こそ維新回天の人物じゃ、ゆうて。弱気はいかんとですよ。…義兄・小田村伊之助(楫取素彦)の紹介であった土佐の坂本竜馬というひとも(小田村伊之助のちの楫取素彦は、長崎で、長州藩のために藩命で武器や軍艦を武器商人トーマス・グラバーと交渉し調達する役目になり、その長崎で坂本龍馬と出会ったことが、のちに薩長同盟のきっかけとなる。楫取が龍馬を桂小五郎に紹介したのだ)薩摩の西郷隆盛さんも“桂さんこそ長州藩の大人物”とばいうとりました。皆さんが桂さんに期待しとるんじゃけえ、お願いですから長州藩に戻ってつかあさい!」桂は考えた。…長州藩が、毛利の殿さまが、僕を必要としている?やがて根負けした。文は桂小五郎ことのちの木戸孝允を説得した。こうして長州藩の偉人・桂小五郎は藩政改革の檜舞台に舞い戻った。もちろんそれは高杉晋作が奇兵隊で討幕の血路を拓いた後の事であるのはいうまでもない。そして龍馬、桂、西郷の薩長同盟に…。しかし、数年前の禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩薩摩藩により朝敵にされたうらみを、長州人の人々は忘れていないものも多かった。彼らは下駄に「薩奸薩賊」と書き踏み鳴らす程のうらみようであったという。だから、薩摩藩との同盟はうらみが先にたった。だが、長州藩とて薩摩藩と同盟しなければ幕府に負けるだけ。坂本竜馬は何とか薩長同盟を成功させようと奔走した。しかし、長州人のくだらん面子で、十日間京都薩摩藩邸で桂たちは無駄に過ごす。遅刻した龍馬は「遅刻したぜよ。げにまっことすまん、で、同盟はどうなったぜよ?桂さん?」「同盟はなんもなっとらん」「え?西郷さんが来てないんか?」「いや、西郷さんも大久保さんも小松帯刀さんもいる。だが、長州から頭をさげるのは…無理だ」龍馬は喝破する。「何をなさけないこというちゅう?!桂さん!西郷さん!おんしら所詮は薩摩藩か?長州藩か?日本人じゃろう!こうしている間にも外国は日本を植民地にしようとよだれたらして狙ってるんじゃ!薩摩長州が同盟して討幕しなけりゃ、日本国は植民地ぜよ!そうなったらアンタがたは日本人になんとわびるがじゃ?!」こうして紆余曲折があり、同盟は成った。話を戻す。「これでは長州藩は徳川幕府のいいなり、だ」晋作は奇兵隊を決起(功山寺挙兵)する。最初は80人だったが、最後は800人となり奇兵隊が古い既得権益の幕藩体制派の長州保守派“徳川幕府への恭順派”を叩き潰し、やがては坂本竜馬の策『薩長同盟』の血路を拓き、維新前夜、高杉晋作は労咳(肺結核)で病死してしまう。
高杉はいう。「翼(よく)あらば、千里の外も飛めぐり、よろづの国を見んとしぞおもふ」
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 久坂玄瑞「蛤御門」で迎えた二十五歳の死」)』古川薫氏著、プレジデント社刊137~154ページ+『徳川慶喜(「三―草莽の志士 高杉晋作「奇兵隊」で討幕の血路を拓く」)』杉森久英氏著、プレジデント社刊154~168ページ+映像資料NHK番組「英雄たちの選択・高杉晋作篇」などから文献引用


SEKAI NO OWARI(世界の終わり)ボーカルGt.FUKASE「自宅(セカオワハウス都内一軒家)に来ないで!」

2015年06月15日 16時54分59秒 | 日記





  いまや飛ぶ鳥落とす勢いの


J-POPバンドのSEKAI NO OWARI(セカイの終わり)。


 メンバーは都内一軒家(セカオワハウス)で共同生活しているが、


セカオワファンの何人かが、訪ねてくることもあり


「来ないで!プライベートがなくなっちゃう!」と


ボーカルのFukaseくんも困惑している。週刊誌に書かれた周辺住民とのトラブルはないが、


確かにファンにしても自宅まで訪ねられるのは迷惑に違いない。


誰だって嫌だと想像がつくはずだが、ファンじゃないのかな?

普通、ファンならアーティストのプライベートを侵害したりしないよ。


特に住所を特定している訳ではないが、コンサートホールからの尾行等

悪質なファン(本当にファンなの?)もいるという。

やめてください。かわいそうです。自分がされたら?と考えてください。

有名税以前の話です。ファンならこんな悪質なマネしないよね?

最近は「ゆとり教育」とかでファンの頭がバカになって被害の想像も出来ないのかなあ(笑)

とにかく困ったファン(ファンなのか?)です。よく他人の迷惑を想像してから行動を。


ストーカーみたいな真似はやめなさい。他人がどう思うか。社会常識を身に着けよ。