緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

2015年6月30日『東海道新幹線車内焼身自殺事件』自殺男性の巻き添えで女性心肺停止「自殺なら山中で!」

2015年06月30日 16時18分31秒 | 日記









2015年6月30日、昼頃、


   名古屋方面行の東海道新幹線の車内で、高齢男性が焼身自殺したという。

この騒動で、巻き込まれた女性が心肺停止状態、


何とも迷惑な自殺騒動であった。


  東海道新幹線は運行を一時期停止し、何万人もの足が犠牲になった。


自殺するなら山中とかで。

他人に迷惑をかけるな!臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹・文の生涯<維新回天 完全版>2015年大河ドラマ原作7

2015年06月30日 08時40分29秒 | 日記









   話を元に戻す。


 嘉永二年(1849年)、20歳となった吉田松陰は6月、藩命で、日本海沿岸から赤馬が関(下関)にかけて海防の事情を調査してこんな感想を歴史に残している。「余遠(おとこ)に於いて懐を発し食を忘れ、辺防を論究す「講孟余話」「講孟箚記」」
 嘉永三年(1850年)、21歳となった吉田松陰は九州に遊学し、長崎・平戸で「海外情報」「国際情報」を生で体感したという。この経験が、吉田松陰の一番最初の伝記本では「ここで「草莽掘起」という革命思想に至った」と書いているが、本当のところは?でしかない。
 寛永四年(1851年)、22歳となった吉田松陰は兵学のため藩主らと江戸に向かった。若き藩主・毛利敬親公にとって松陰は「便利な懐刀」である。頭が切れ、世界情勢に詳しい。
「知恵袋」
 と言っても過言ではない。そんな「知恵袋」は江戸で安穂良斎、古賀茶渓、山鹿楽水、佐久間象山、勝麟太郎(勝海舟)らに学んだ。島山新三郎、宮部鼎蔵らとも友好な関係になりさらに「知恵」と「徳」を積んだ。しかし、吉田松陰は感情を抑えるのは苦手である。
 不当手形で、諸国漫遊し、全国を観て回り、南は薩摩の諸島から北は東北の奥までひとりで「視察」に行ってしまう。当然、幕府や長州藩にも内緒の「諸国漫遊」であるから、当時は許されざる大罪人である。でも、松陰は「諸国漫遊」が何故「幕府の許可・藩の許可」が必要なのか?わからない。だから東北の小さな小藩に「亡命したい」と申し出た。
 その藩も「なんだか胡散くさい輩がきたな」と思い、幕府に通報した。
 幕府は最初酷く怒った。
 しかし毛利公が庇い、死罪はまぬがれた。が、結局、江戸に戻ったところを「藩命」がきて、松陰は渋々ながら長州藩に帰った。毛利公は「泣いて馬謖を斬る」思いで、家禄を没収して、一家離散、松陰は杉家の育(はぐくみ・居候)となる。
 だが、長州藩には吉田松陰あり、である。彼の学識はいまや国士無双とまでになっている。こんな重要な人物を長州藩は「捨てる」訳はない。「捨てる」というより「殺してなくそう」とするとすれば、それは徳川幕府だろう。井伊大老の「安政の大獄」の前夜、時期なら今だ。
    話を戻す。

         4 奇策謀策






  伊藤博文と井上聞多が「岩倉使節団(団長・岩倉具視)」に参加したのは阿呆でも知っている。伊藤はアメリカ春蔵ことジョセフ・ヒコとアーネスト・サトウと知り合った。高杉晋作は天才であり、天才特有の破滅型の高飛車な面もある。自分より偉いと思ったのは結局・師匠・吉田松陰だけだったろう。仲間は兄貴分の桂小五郎と同期の久坂玄瑞だけであったろう。
 西郷吉之助(隆盛)も天才ではあったろう。が、この「鹿児島のおいどん」は維新後は大コケ、元武士らの神輿にのせられて「西南戦争」など起こしている。訳のわからぬ人物である。     
  長州藩(山口県)に戻るとき、高杉晋作は歩くのではなく「駕籠」をつかった。
 歩くと疲れるからである。
 しかし、銭がかかる。
 が、銭はたんまりもっている。
 ここらあたりが高杉らしい。
 駕籠に乗り、しばらくいくと関所が見えてきた。
 晋作は駕籠を降りずに通過しようとして、
「長州藩士高杉晋作、藩命によりまかり通る!」
 と叫んで通過しかけた。
 関所での乗り打ちは大罪であり、小田原の関所はパニックになる。押し止めようとした。 晋作は駕籠の中で鯉口を切り、
「ここは天下の公道である。幕府の法こそ私法ではないか! そんな法には俺は従わぬわ!」といって、関所を通過してしまった。
 晋作が京に到着したのは三月九日であった。
 ……学習院御用掛を命ずる。
 晋作のまっていたのはこの藩命だった。
「……なんで俺ばっかなんだ」
 晋作は愚痴った。
 同僚は「何がだ?」ときく。
「俺ばっかりコキ使われる。俺の論文はロクに読まなかったくせに…」
「まぁ、藩は高杉くんに期待しておるのだろう」
「期待? 冗談じゃない。幕府の顔色ばかり気にしているだけだよ」
 同僚は諫めた。
「あまり突出するのはいいことじゃないぞ。この国では出る杭は打たれるって諺もある」 とってつけたような同僚の言葉に、晋作は苦笑した。
 ……俺は出る杭なのだ。何もわかっちゃいねえ。
 徳川家茂は「公武合体」によって、京にいき天皇に拝謁しなければならなくなっていた。 ……将軍に天皇を拝ませる。
 壤夷派は昴揚した。将軍が天皇に拝謁すれば、この国の一番上は天皇だと国民に知らしめることができる。
 それを万民に見せようと、行幸が企画された。
 晋作より先に京に入った久坂は、得意満面だったという。
 将軍上洛、行幸扈従は、長州藩の画策によりなったのである。いや、というより久坂の企画によって決まったのである。
 ……馬鹿らしい。
 晋作は冷ややかだった。
 学習院集議堂はうららかな春の暖かさに満ちている。
「もったいない。それだけ金を使う余裕があるなら軍艦が買えるじゃないか」
「お前に軍艦の話をされるとは思わなかった」
 久坂は苦笑した。晋作が船酔いするのを知っている。
 家茂上洛による朝廷の入費は長州藩の負担だった。計画したのが長州藩だから当然だが、その額は十万両を越えたという。
 久坂は、
「この行幸は無駄ではない」といい張る。
「義助よ、天子(天皇)にもうでただけで天下が動くか?」
「動くきっかけにはなる」
 久坂玄瑞は深く頷いた。

  行幸では、将軍の周りを旗本が続いた。天皇御座の車駕、関白は輿、公家は馬にのっていた。後陣が家茂である。十七歳の色白の貴公子は白馬の蒔絵鞍にまたがり、単衣冠姿で太刀を帯びた姿は華麗である。
 行列が後陣に差し掛かったとき、晋作が
「いよっ! 征夷大将軍!」
 と囃して、並いる長州藩士たちの顔色を蒼白にさせた……
 というのは俗説である。
 いかに壤夷の敵であってもあの松陰門下の晋作が天子行幸の将軍を野次る訳がない。
 もし、野次ったのなら捕りおさえられられるだろうし、幕府が発声者の主を詮議しないはずがない。しかし、そうした事実はない。
 京にきて、晋作は予想以上に自分の名が有名になっていることを知った。有名なだけでなく、期待と人望も集まっていた。米国公使暗殺未遂、吉田松陰の改葬、御殿山焼討ち、壤夷派は晋作に期待していた。
 学習院ではみな開国とか壤夷とか佐幕とかいろいろいってるが、何の力もない。
 しかし、晋作とてこの頃、口だけで何も出来ない藩士であった。
 この頃、西郷吉之助(隆盛)は薩摩と会津をふっつけて薩会同盟をつくり、長州藩追い落としにかかる。長州藩の大楽源太郎は「異人が嫌い」という人種差別で壤夷に走った狂人で、のちに勝海舟や村田蔵六(大村益次郎)や西郷隆盛や大久保一蔵(利道)らを狙い、晋作や井上聞多まで殺そうとしたことがある。
 大楽は頭が悪いうえに単純な性格で、藩からも「人斬り」として恐れられた。
 維新後までかれは生き残るが、明治政府警察に捕まり、横死している。
 晋作は何もできない。好きでもない酒に溺れるしかなかった。
 晋作は将軍家茂暗殺の計画を練るが、またも失敗した。
 要するに、手詰まり状態になった。
「誰だ?」
 廊下に人の気配があった。
「晋作です」
「そうか、はいれ」
 説教してやらねばならぬ。そう思っていた周布はぎょっとした。
「なんだその様は?!」
 晋作は入ってきたが、頭は剃髪していて、黒い袈裟姿である。
「坊主になりました。名は西行法師にあやかって……東行法師とはどうでしょう?」
「馬鹿らしい。お前は馬鹿だ」
 周布は呆れていった。

「晋作どうすればいい。長州は手詰まり状態だ」
 久坂はいった。
 すると晋作はにやりと笑って、
「戦の一字、あるのみ。戦いを始めろ」
「幕府とか?」
「違う」晋作は首を横にふった。「外国とだ」
 この停滞した時局を打破するには、外国と戦うしかない。
「しかし……勝てる訳がない」
「勝てなくてよい。すぐに負けて幕府に責任をとらせろ」
「……悪知恵の働くやつだな、お前は」
 久坂は唖然としていった。
「おれは悪人だよ」晋作は笑った。


  大阪より勝海舟の元に飛脚から書状が届いたのは、六月一日のことだった。
 なんでも老中並小笠原図書頭が先月二十七日、朝陽丸で浦賀港を出て、昨日大阪天保山沖へ到着したという。
 何事であろうか? と勝海舟は思いつつ龍馬たちをともない、兵庫港へ帰った。
「この節は人をつかうにもおだててやらなけりゃ、気前よく働かねぇからな。機嫌をとるのも手間がかからぁ。近頃は大雨つづきで、うっとおしいったらありゃしねぇ。図書頭殿は、いったい何の用で来たんだろう」
 矢田堀景蔵が、日が暮れてから帆柱を仕立てて兵庫へ来た。
「図書頭殿は、何の用できたのかい?」
「それがどうにもわからん。水野痴雲(忠徳)をはじめ陸軍奉行ら、物騒な連中が乗ってきたんだ」
 水野痴雲は、旗本の中でも武闘派のリーダー的存在だ。
「図書頭殿は、歩兵千人と騎兵五百騎を、イギリス汽船に乗り込ませ、紀伊由良港まで運んでそこから大阪から三方向に別れたようだ」
「京で長州や壤夷浮浪どもと戦でもしようってのか?」
「さあな。歩兵も騎兵もイギリス装備さ。騎兵は六連発の銃を持ってるって話さ」
「何を考えているんだか」
 大雨のため二日は兵庫へとどまり、大阪の塾には三日に帰った。

 イギリスとも賠償問題交渉のため、四月に京とから江戸へ戻っていた小笠原図書頭は、やむなく、朝廷の壤夷命令違反による責めを一身に負う覚悟をきめたという。
 五月八日、彼は艦船で横浜に出向き、三十万両(四十四万ドル)の賠償金を支払った。 受け取ったイギリス代理公使ニールは、フランス公使ドゥ・ペルクールと共に、都の反幕府勢力を武力で一掃するのに協力すると申しでた。
 彼らは軍艦を多く保有しており、武装闘争には自信があった。
 幕府のほうでも、反幕府勢力の長州や壤夷浮浪どもを武力弾圧しようとする計画を練っていた。計画を練っていたのは、水野痴雲であった。
 水野はかつて外国奉行だったが、開国の国是を定めるために幕府に圧力をかけ、文久二年(一八六二)七月、函館奉行に左遷されたので、辞職したという。
 しばらく、痴雲と称して隠居していたが、京の浮浪どもを武力で一掃しろ、という強行論を何度も唱えていた。
 勝海舟は、かつて長崎伝習所でともに学んだ幕府医師松本良順が九日の夜、大阪の塾のある専称寺へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。
「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃した。商船は逃げたが、一万ドルの賠償金を請求してきた。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃した。
 水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきたのでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出た。
 その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたんだ」
 アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。
「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたという」
「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」
「そう。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げたが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうだ。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はない。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だとさ」
 将軍家茂は大阪城に入り、勝海舟の指揮する順動丸で、江戸へ戻ることになった。
 小笠原図書頭はリストラされ、大阪城代にあずけられ、謹慎となった。

  由良港を出て串本浦に投錨したのは十四日朝である。将軍家茂は無量寺で入浴、休息をとり、夕方船に帰ってきた。空には大きい月があり、月明りが海面に差し込んで幻想のようである。
 勝海舟は矢田堀、新井らと話す。
「今夜中に出航してはどうか?」
「いいね。ななめに伊豆に向かおう」
 勝海舟は家茂に言上した。
「今宵は風向きもよろしく、海上も静寂にござれば、ご出航されてはいかがでしょう?」 家茂は笑って「そちの好きにするがよい」といった。
 四ケ月ぶりに江戸に戻った勝海舟は、幕臣たちが激動する情勢に無知なのを知って怒りを覚えた。彼は赤坂元氷川の屋敷の自室で寝転び、蝉の声をききながら暗澹たる思いだった。
 ………まったくどいつの言うことを聞いても、世間の動きを知っちゃいねえ。その場しのぎの付和雷同の説ばかりたてやがって。権威あるもののいうことを、口まねばかりしてやがる。このままじゃどうにもならねぇ………
 長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる”報復”だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。
 セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。
 コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。
 長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。
 高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。
 武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。  薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。
 鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。その日、生麦でイギリス人を斬り殺した海江田武次(信義)が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。
 翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。
 ニールは応じなかったという。
「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」

 島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜にきた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。
 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
 奈良原は答書を持参していた。
 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
 ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」
 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。
 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
 薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」
 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。
 それもどうにも噛み合わない。
 一、加害者は行方不明である。
 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなに ごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。

        
  キューパ総督は薩摩藩の汽船を拿捕することにした。
 四つ(午前十時)頃、コケット号、アーガス号、レースホース号が、それぞれ拿捕した汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。
 鶴丸城がイギリス艦隊の射程距離にあるとみて、久光、忠義親子は本陣を千眼寺に移した。三隻が拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。
 七月二日は天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。
 ニールたちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。
 正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、イギリス兵たちは驚いて飛び上がった。
 たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であったという。
 イギリス艦隊も砲弾の嵐で応戦した。
 薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如くイギリス艦隊から砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。
 左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だったという。そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。
 イギリス艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。
 紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシヤンパンで祝った。
  イギリス艦隊が戦艦を連れて鹿児島にいくと知ったとき、勝海舟は英国海軍と薩摩藩のあいだで戦が起こると予知していた。薩摩藩前藩主斉彬の在世中、咸臨丸の艦長として接してきただけに「斉彬が生きておればこんな戦にはならなかったはずでい」と惜しく思った。「薩摩は開国を望んでいる国だから、イギリスがおだやかにせっすればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみてたから火傷させられたのさ。 しかし、薩摩が勝つとは俺は思わなかったね。薩摩と英国海軍では装備が違う。
 いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわってねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからのイギリスの対応が見物だぜ」

  幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。
 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。

  毛利藩(長州藩)藩主らは「そうせい候」と仇名を残した。
 幕政改革案をだしてくると、「ようろう。そうせい」という。また、勤皇派弾圧意見をいっても「そうせい」という。
 だが、毛利敬親・元徳が愚か者だった訳ではないという。
 幕末の混乱期の長州藩は、他藩とは事情がことなっていた。長州藩の「日本改革思想」というのは幕府を改革するだけで、倒幕までは考えていなかった。しかし、晋作や久坂やらが暴走し、「そうせい」としかいえなかった。
 佐幕の会津松平や桑名松平や水戸の徳川斉昭にしても倒幕までは考えていなかった。
  薩摩の島津斉彬にしても、越前福井の松平春嶽、土佐の山内容堂にしても口では壤夷とはいうが、倒幕までは考えていなかった。
 しかし、長州藩には吉田松陰という思想家がつくりあげた画期的な政治思想が劇的に藩内に広がり倒幕派になってしまった。
 松陰の思想は、
「天下万人は天皇の臣である。幕府は天皇より御委任をうけた政治代表者であり、任に適さなければ、ただちに大政奉還すべきである」
 という、尊皇壤夷、大政奉還、であった。
 そんな中、井上聞多と伊東博文が長州藩留学生としてロンドンにいくことになった。 晋作もいきたいと思ったが、晋作は長州藩の「知恵袋」である。
 いかせる訳にはいかない。

  山口に着いた晋作は外国人のように裾を刈りあげ、髪形を洋風にした。彼は死ぬまでその髪形のままだったという。
 毛利父子は晋作の帰郷に喜んだ。
「馬関の守りが破れ、心もとない。その方を頼みとしたい」
 毛利敬親(もうり・たかちか)はそう命じた。
「おそれながら、手前は十年のお暇を頂いております」
「お暇はいずれやる。今は非常の時である」
 毛利元徳(もうり・もとのり)はいう。
「うけたまわりました」
 晋作は意外とあっさり承諾し、騎馬隊をつれて馬関(下関)にむかった。その夜のうちにはついたのだから、まさに「動けば雷電の如し」の疾さである。
 この頃、白石正一郎という富豪が幕末の勇士たちに金銭面で支援していたという。
 …周布政之助、久坂玄瑞、桂小五郎、井上聞多、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保一蔵、月照……
 その中で、白石が最大の後援を続けたのが高杉晋作であり、財を傾け尽くした。

「俺は様式の軍隊を考えている。もはや刀や鎧の時代ではない。衣服は筒袖にズボン、行軍用に山笠、足は靴といきたいが草鞋で代用しよう。
 銃も西洋的な銃をつかう。それに弾薬、食費に宿舎……ひとり半年分で一人当たり四百両というところかな」
 ……小倉白石家をつぶす気か…?
「民兵軍の名は『奇兵隊』である」晋作は自慢気にいう。これが借金する男の態度か。
たった長州一藩で『尊皇攘夷』の攘夷決行をして、夷狄艦隊に大砲で攻撃したのは久坂玄瑞をリーダーとする長州藩士である。だが、“尊皇攘夷”など荒唐無稽であった。
すぐに武器弾薬軍艦で勝る外国艦船隊による報復の雨あられのアームストロング砲の報復攻撃を受けて、長州藩の領地・下関は火の海にされ焼野原と化す。外国をみてきた高杉晋作は久坂玄瑞の攘夷をこころよく思っていなかった。そこで身分を問わず百姓・商人や下級武士や漁民、力士、町人などで『奇兵隊』を結成する。結成場は小倉白石家の豪邸。
「ここに奇兵隊を結成する!君たちに身分の差は関係ない。だが、僕は例え百姓だろうが町人だろうが侍の操り人形になれというのではない。自らの知恵と志で最新銃で松陰先生の志を貫徹するのじゃ!」
高杉晋作は奇兵隊の総裁だった。銃・大砲や剣の訓練をする。軍規を制定した。
一方の久坂は長州藩巻き返しの為に京都の三条実美らと『もう一度の攘夷決行』『今度は全藩での攘夷決行』を謀ろうとする。
「危険です!久坂さんが今、京に出れば長州下関の大敗で勢いづいている開国派やら勤皇攘夷反対派に命を狙われますよ!」しかし久坂は「この国を変える為に尊皇攘夷が必要なんだ!俺の命などくれてやる!攘夷を天子さまにもう一度お考え頂くのだ!」
高杉は「くだらん!久坂、現実をみろ!長州藩、いやお前は負けたんじゃ!これから我らは長州の為にふたりでいかねば!その為の奇兵隊なんじゃ」
「それはお前がやればいい」
「久坂!攘夷など成らん!外国とは戦をしてはならんのだ。僕は奇兵隊で長州を救う為に働く覚悟じゃ!その為に松下村塾の双璧の僕と久坂、お前が必要なんじゃ!」
「わかっている。ああ、俺は外国に完膚なきまでに敗北した。下関は火の海と化し、焦土と化した。大勢の同志も死んだ。だが、だから、攘夷なんだ!」
「異国にあれだけ負けたんだ。他藩は動かん。奇兵隊こそ長州藩に必要なんだ。僕は必ず奇兵隊で歴史を動かす大業を遂げるつもりだ!一緒にやろう、久坂!」
「俺は京で朝廷工作だ。俺は死ぬかもしれんが後の戸締りは頼んだぞ、晋作」
「死して大業が成るなら死すべし、生きて大業が成るなら生きるべし!……松陰先生のおっしゃったことだ!久坂、無駄死にはするなよ!」
「ああ、当たり前だ」久坂はひとり、京へ向かった。
そして薩摩会津藩同盟軍からの屈辱の『八月十八日の政変』『七卿落ち』である。
もはや長州藩は久坂玄瑞は追い込まれていた。

         5 禁門の変






 のちに『禁門の変』または『蛤御門の変』と呼ばれる事件を引き起こしたとき、久坂玄瑞は二十五歳の若さであった。妻の久坂(旧姓・杉)文は二十二歳でしかない。得意の学問で故郷の長州藩萩で「女子・松陰」等とも呼ばれるようにまで成長していた。若者は成長が早い。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と会津藩(福島県)の薩会同盟ができ、長州藩が幕府の敵とされた時期だった。
  吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
 伊藤は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の松陰が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。「先生!」意外にも松陰は微笑んだ。
「……伊藤くん。文。ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」
「先生! せ…先生!」「寅にい!にいやーん!にいやーん!」
 やがて松陰は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。鋭い光を放つ刀が天に構えられる。「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」「ごめん!」閃光が走った……
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。
  文久二(一八六二)年十二月、久坂玄瑞は兵を率いて異人の屋敷に火をかけた。紅蓮の炎が夜空をこがすほどだったという。玄瑞は医者の出身で、武士ではなかった。
 しかし、彼は”尊皇壤夷”で国をひとつにまとめる、というアイデアを提示し、朝廷工作までおこなった。それが公家や天子(天皇)に認められ、久坂玄瑞は上級武士に取り立てられた。彼の長年の夢だった「サムライ」になれたのである。
 京での炎を、勝海舟も龍馬も目撃したという。
 久坂玄瑞は奮起した。
  文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。
 薩摩からの使者は西郷隆盛だった。
「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じやっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」
 軟弱にして知能鮮しといわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放してしまう。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。
 かれは納得がいかず、長州の二千の兵をひきいて京にむかった。
 幕府と薩摩は、御所に二万の兵を配備した。
  元治元年(一八六四)七月十七日、石清水八幡宮で、長州軍は軍儀をひらいた。
 軍の強攻派は「入廷を認められなければ御所を攻撃すべし!」と血気盛んにいった。
 久坂は首を横に振り、「それでは朝敵となる」といった。
 怒った強攻派たちは「卑怯者! 医者坊主に何がわかる?!」とわめきだした。
 久坂玄瑞は沈黙した。
 頭がひどく痛くなってきた。しかし、久坂は必死に堪えた。
  七月十九日未明、「追放撤回」をもとめて、長州軍は兵をすすめた。いわゆる「禁門の変」である。長州軍は蛤御門を突破した。長州軍優位……しかし、薩摩軍や近藤たちの新選組がかけつけると形勢が逆転する。
「長州の不貞なやからを斬り殺せ!」近藤勇は激を飛ばした。
 久坂玄瑞は形勢不利とみるや顔見知りの公家の屋敷に逃げ込み、
「どうか天子さまにあわせて下され。一緒に御所に連れていってくだされ」と嘆願した。 しかし、幕府を恐れて公家は無視をきめこんだ。
 久坂玄瑞、一世一代の危機である。彼はこの危機を突破できると信じた。祈ったといってもいい。だが、もうおわりだった。敵に屋敷の回りをかこまれ、火をつけられた。
 火をつけたのが新選組か薩摩軍かはわからない。
この禁門の変で長州軍として戦った土佐郷士の中には、吉村寅次郎・那須信吾らと共に大和で幕府軍と戦い、かろうじて逃げのびた池内蔵太(いけ・くらた)もいた。そして中岡慎太郎も……。桂小五郎と密約同盟を結んだ因州(鳥取藩)は、当日約束を破り全く動かない。桂小五郎は怒り、有栖川宮邸の因州軍に乗り込んだ。
「御所御門に発砲するとは何ごとか?!そのような逆賊の長州軍とは、とても約束など守れぬわ!」
「そんな話があるかー!」
 鯉口を斬る部下を桂小五郎がとめた。「……それが因州のお考えですか……では……これまでであります!」
 武力抗争には最後まで反対した久坂玄瑞は、砲撃をくぐり抜け、長州に同情的であった鷹司卿の邸に潜入し、鷹司卿に天皇への嘆願を涙ながらに願い出たが、拒絶された。鷹司邸は幕府軍に包囲され、砲撃を受けて燃え始めた。久坂の隊は次々と銃弾に倒れ、久坂も足を撃たれもはや動かない。
「入江、長州の若様は何も知らず上京中だ。君はなんとか切り抜けてこの有様を報告してくれ。僕たちはここで死ぬから……」
 入江九一(いりえくいち)、久坂玄瑞、寺島忠三郎……三人とも松陰門下の親友たちである。
 右目を突かれた入江九一は門内に引き返し自決した。享年二十六歳。……文。すまぬ。久坂は心の中で妻にわびた。
「むこうで松陰先生にお会いしたら…ぼくたちはよくやったといってもらえるだろうかのう」
「ああ」
「晋作……僕は先にいく。後の戸締り頼むぞ!」
 久坂玄瑞享年二十五歳、寺島忠三郎享年二十一歳………。
 やがて火の手は久坂らの遺体数十体を焼け落ちた鷹司卿邸に埋まった。風が強く、京の街へと燃え広がった。  
 元治元年(一八六四)七月十九日、久坂玄瑞は炎に包まれながら自決する。
「文、文、……あいすまぬ!先に涅槃にいく俺を許してくれ……」文……!久坂は鋭い一撃を自分の首に与え、泣きながら自決した。
 享年二十五 火は京中に広がった。そして、この事件で、幕府や朝廷に日本をかえる力はないことが日本人の誰もが知るところとなった。
  勝海舟の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、勝海舟は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのりジエノサイド(大量殺戮)を繰り返しているという。
 勝海舟は有志たちの死を悼んだ。長州の久坂文の元に、生前の夫・久坂玄瑞から手紙が届いた。それは遺書のようでもあり、志を示したような手紙でもあった。その手紙は結局、久坂玄瑞が妻・文におくった最初で最後のたった一通の手紙となる。
 のちに久坂文は未亡人となり、杉家に戻り、長州藩邸宅で女中として働くようになる。文は39~40歳。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府(ほうふ)の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深い。
 この時期姉の小田村寿こと楫取寿が病死し、文がやがて後妻として楫取素彦と再婚する際に「最初の旦那様・久坂玄瑞の手紙とともに輿入れ」することを条件にしたのは有名な話である。
 楫取素彦は討幕派志士として活躍した松島剛蔵の弟で、長州藩の藩校・明倫館で学んだ。松陰の死後は久坂文とともに松下村塾で塾生たちを指導し、松陰の意思を受け継ぐ教育者として有名になる。
 のちに楫取素彦は群馬県令(知事)となる。当然、再婚した文は群馬までついていく。子供は出来ないなりに、養子をもらうが思春期となった養子は若い異性と「かけおち」しようとしたり、素彦が不倫したりと、楫取文の人生はまるで小説のようだ。 
(注訳・この小説の架空の設定。実際は→*久坂玄瑞、楫取素彦のいずれの間にも子はいない。久坂家は素彦と前妻である寿の次男である粂次郎(くめじろう)を養子にして跡を継がせたが、後に玄瑞の京都妻・辰路の子・秀次郎を跡継ぎとし、粂次郎は楫取家へ戻している。粂次郎はその後、楫取道明を名乗って楫取家を継ぎ、道明の死後はその子・三郎が跡を継いだ。道明の兄(素彦と寿の長男)希家は、素彦の元の養家である小田村の家名を継いでいる。)
最初の旦那様である久坂玄瑞を失った久坂(杉)文は長州藩の藩内の仕事につくことになる。とはいっても政(まつりごと・政治)にあらず。殿様やその女房さまらの世話や江戸藩邸の“世子(次の藩士の嫡男)”らの教育係である。
文は立派な内掛けを着せてもらい、藩の大奥のようなところでもまれていく。当然、人間関係にも苦労したことだろう。何せあの“禁門の変”の久坂玄瑞の元・嫁、である。
大河ドラマ『篤姫』のような事件も多かったし、当然、身分の違いによるいじめもあったに違いない。大河ドラマ『花燃ゆ』はドラマだから架空の展開も多かった。慣れぬ習慣…
だが、文は気丈に振る舞った。毛利藩の第十三代藩主は毛利敬親(たかちか)公で正室は都美子さまといった。文は幼い世子の教育にも力をいれたという。
2015年7月12日(日)放送から第3部“大奥編”に突入した大河ドラマ「花燃ゆ」(NHK総合ほか)。放送に先駆けて会見が行われ、主演の井上真央、銀姫役の田中麗奈、都美姫役の松坂慶子が登壇した。(当時)
「花燃ゆ」は吉田松陰の妹・文(井上)を主人公に、幕末の動乱や長州志士たちの攘夷・倒幕への戦いを描く。“大奥編”では、文は美和と名を変え、長州藩の政治の実態を自分の目で見極めるため、奥御殿で働き始める。
会見に出席した井上は「実は、私は大河のオファーを頂いた時から、この第3部、奥御殿の話をとても楽しみにしていました」と明かし、「それまでは待つことしかできなかった美和が、いろんな思いを抱えて自ら奥御殿にやってきて。今まで見ることのなかった世界を見て、女性としてもすごく成長していく」と理由を語っていた。
また、“大奥編”から加わる田中は「私が演じる銀姫は、いつも美和に厳しい言葉を投げ掛けるんですが、家族の愛情を受けて育った美和のぬくもりのようなものに触れて、銀姫自身もどんどん変わっていきます。銀姫は炎のように刺激的な人で、いろいろ挑戦できる役だと思います」と語っていた。慶応元年(一八六五)、久坂文は美和子(美和)と改名し、山口の毛利家の藩主世子毛利広封(ひろあつ)の正室銀姫(長府藩毛利元運・もとゆき・次女、のちの毛利安子)の御次女中(奥女中)として奉仕することになったのだ(道迫真吾「杉文の毛利家奥入りは史実だった!」『萩ネットワーク・一一九号』平成二十六年)。そのさい「美和」と名乗った。また、「幼君」(慶応元年二月七日生まれの世子夫婦の長男興丸・おきまる、のちの毛利元昭・もとあきら)の「傅役(もりやく)」を務めたりした(福本義亮『吉田松陰の母』)。正確な年月は不明だが、数年間はこの役を務め、姉の寿死後、母滝のすすめもあり久坂文(美和・美和子)はやがて楫取素彦と再婚するのである。美和子にとり、つらかったであろうことは、維新後、久坂玄瑞の京都妻の子供が明治二年(一八六九)十一月七日、秀次郎(ひでじろう、六歳)が山口にきて、藩に認知されたことだろう。秀次郎は元治元年(一八六四)九月九日生まれで、同年七月に他界した父親とは会ったことがない。母は芸子の辰路(たつじ)というが詳しくは不明だ。久坂家では「戸籍で証明できる井筒タツをもって秀次郎の生母名とした」(久坂恵一『久坂家略伝・改訂版』平成元年)。誰の何をもって久坂玄瑞の実子としたのか研究がまたれるが、久坂玄瑞と顔がそっくりなイケメンで、例の鉢巻を巻いた肖像画は、秀次郎をモデルに後年「久坂玄瑞の肖像画」として描かれたものである。こんなに顔が似ているなら多分本当に実子なのだろう。『楫取素彦と吉田松陰の妹・文』一坂太郎著作・新人物文庫235~242ページ)
「さあ、若君。まずは大学の本からはじめまするよ。次に論語、儒教を学びましょう」
「……藩主は民の父・母。天下は天下の天下なり」
「よろしい。では、次の行を」
文は自らの子供には恵まれなかったが、幼い世子の教育や養育で、癒された気分になったことだろう。玄瑞の死を受け止められるようになるにはまだまだ時間がかかった。だが、時間が解決してくれそうだった。文はこうして笑顔をとりもどしていく。
(玄瑞は結婚後まもなく京都・江戸に遊学したり尊皇攘夷運動を率いて京都を拠点に活動するなど不在がちであり、元治元年7月19日(1864年8月20日)、禁門の変が起こり玄瑞は奮闘ののち自害した。玄瑞の死後、次姉の夫・小田村伊之助が玄瑞の遺稿や文に宛てた書簡21通をまとめて「涙袖帖(るいしゅんちょう)」と題した。また、伊之助は22歳にして未亡人となった文の境遇を憐れみ、その身を案じている。
慶応元年(1865年)、文は藩世子毛利定広正室・安子の女中、およびその長男興丸の守役を勤めており、美和子(美和)の名もこの頃から使い始めている。)

 
会津藩預かり新選組の近藤と土方は喜んだ。”禁門の変”から一週間後、朝廷から今の金額で一千万円の褒美をもらったのだ。それと感謝状。ふたりは小躍りしてよろこんだ。 銭はあればあっただけよい。
 これを期に、近藤は新選組のチームを再編成した。
 まず、局長は近藤勇、副長は土方歳三あとはバラバラだったが、一番隊から八番隊までつくり、それぞれ組頭をつくった。一番隊の組頭は、沖田総司である。
 軍中法度もつくった。前述した「組頭が死んだら部下も死ぬまで闘って自決せよ」という目茶苦茶な恐怖法である。近藤は、そのような”スターリン式恐怖政治”で新選組をまとめようした。ちなみにスターリンとは旧ソ連の元首相である。
  そんな中、事件がおこる。
 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このままではわが国は外国の植民地になる!」
 勝海舟は危機感をもった。
「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。
「そうだな……」勝海舟は溜め息をもらした。



  雨戸を叩く音がした。
「誰だ?」
 我に返った晋作の声に、戸外の声が応じた。
「山県であります」  
 奇兵隊軍監の山県狂介(のちの有朋)であった。
 秋のすずしい季節だったが、夜おとずれた山県は汗だくだった。しかし、顔色は蒼白であった。晋作の意中を、すでに察しているかのようだった。
 晋作は自ら農民たちを集めて組織していた『奇兵隊』と縁が切れていた。禁門の変のあと、政務役新知百六十石に登用されたのち、奇兵隊総監の座を河上弥市にゆずっていたのである。しかし、そんな河内も藩外にはなれた。三代目奇兵隊総監は赤根武人である。 しかし、奇兵隊士は晋作を慕っていた。
 ちなみに松下村塾生の中で、久坂玄瑞は医者ながらも藩医であったため、二十五石の禄ながら身分は藩士だった。山県狂介は中間、赤根武人は百姓身分。伊東俊輔(のちの博文)は百姓だったが、桂小五郎に気にいられ、「桂小五郎育」であった。

「おそうなってすんません」
 襖が開いて、鮮やかな色彩の芸者がやってきて、晋作の目を奪った。年の頃は十七、八くらいか。「お糸どす」
 京の芸者宿だった。
 お糸は美貌だった。白い肌、痩体に長い手足、つぶらな大きな瞳、くっきりとした腰周り、豊かな胸、赤い可愛い唇……
「あら、うちお座敷まちがうたようどす」
 晋作は笑って、
「お前、お糸というのか? いい女子だ。ここで酌をせい」
「……せやけど…」
「ここであったのも何かの縁だ」晋作はいった。
 高杉晋作はお糸に一目惚れした。しかし、本心は打ち明けなかったという。
 恋というものは、「片思い」のほうが素晴らしいものだ。
 いったんつきあえば、飯の世話や銭、夜、いろいろやらねばならない。しかし「片思い」ならそんな余計なことはほっておける。
 そんな中、徳川幕府は長州に追い討ちをかけるように、三ケ条の要求をつきつけた。
 一、藩主は城を出て寺院に入り、謹慎して待罰のこと。
 一、長州藩が保護する五名の勤王派公家の身柄を九州に移すこと。 
 一、山口城を破毀すること。
 どれも重い内容である。
 この頃、幕府は第二次長州征伐軍を江戸より移動させていた。
 その数は十五万だった。

 島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜きた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。
 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
 奈良原は答書を持参していた。
 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
 ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」
 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。
 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
 薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」
 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。
 それもどうにも噛み合わない。
 一、加害者は行方不明である。
 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。

  幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。
 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。


なんかサイバー攻撃被害中『ファルコン』のモデル(笑)米沢・山形NEC元・プログラマ舐めちゃ駄目!セカオワ

2015年06月29日 21時12分54秒 | 日記








なんかサイバー攻撃を受けている。


何でわからないかなあ(笑)


私は米沢・山形NECでプログラマだったし、


ファルコンのモデルだって(笑)



”敵を知り己を知らば百戦して危うからず”ですよ。


”警察に捕まる前”にやめる事だ。


SEKAI NO OWARI(セカイの終り)Fukaseの親戚?(笑・正確にはわからない。母方の旧姓が”深瀬”)


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ。

「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹・文の生涯<維新回天 完全版>2015年大河ドラマ原作6

2015年06月29日 07時21分10秒 | 日記








  幕末、近藤の”貧乏”道場は「試衛館」、”いも道場”と呼ばれていた。
 田舎者の百姓ばかり集まっていたことからそう呼ばれた。道場には土方も藤堂平助も永倉新八もいた。道場主は近藤周助(隠居して周斎)、その男の養子が勇だった。勇の道着の背中にはドクロの刺繍があったという。常に「死」と背中あわせ……というところか。 新選組とは要するに、武州南多摩の農村に流布されていた天然理心流の剣術道場から成立したようなものだという。沖田も土方もその門人だった。
 なぜ農民の多摩地方の人物が国政に興味をもったのか? それは、武州南多摩というのは元々武田信玄からの家臣が戦乱の中でやぶれて、徳川家康にひろわれて移り住んだ地方であるからだ。だから徳川には非常に義理を感じている。多摩「八王子人同心」という。 だから徳川に一大事あれば駆けつける……という地域の農民たちなのである。
 その”いも道場”に天才少年がいた。名は沖田惚次郎、のちの沖田総司である。
 まだガキなのに恐ろしく剣の腕がたった。まさに天才である。

  近藤が帰ってくると、義母・ふでが文句をいった。
「勇さん、もうあなたは近藤家の跡取りなのですよ。あんな素性もわからないものと一緒になって…」
「土方は素性もわからないものではありません。幼馴染みの農民です」
 近藤はいった。鬼瓦みたいな顔に笑顔が見えた。ふでは「左様ですか」とふて腐れて去った。近藤が部屋に戻ると、沖田惚次郎(のちの沖田総司)の姉・みつが話かけてきた。 結構美人で、気立てのいい娘である。
「勇さん、黒船見にいくんですって?」すばやい情報収集能力である。
「え?」近藤は驚いた。「なぜそれを知ってらっしゃるので…?」
「町でお侍さんたちと話してるのを盗み聞きしたの」みつは平然といった。
 近藤は「そうですか」と素っ気なくいう。と、みつが「異人さんたちは何て幕府にいってらっしゃるのかしら?」と問うた。
「船を内海までいれろとか、鎖国を廃止して開国して交渉しろとか……好き勝手なことをいっているらしい」
「まぁ、そんなことを!」みつは驚いた顔をした。
「俺にいわせれば幕府の役人が腑甲斐無い。ガイジンのいいなりになってる。これから多分、戦、になります。尊皇壤夷です」
「まぁ、戦?!」
「はい。日本中の侍がたちあがります。ガイジンたちを追い払い倒すのです」
 近藤がいうと、ふでがいつの間にか通路にいて「百姓に何ができます?」と嫌味をいう。「……俺は侍になります」
「ははは、どうやって」ふでは笑った。

  次の日の早朝、朝靄の中、近藤と土方の若いふたりが集合場所に向かって歩いていた。人通りはない。天気はよかった。
「黒船に乗り込む」と近藤。
 土方はにやりとして「斬るのか?」といった。
「日本人の中にも気骨のある人間もいるのだとガイジンにみせつけてやる」
「じゃあ、斬るのか?」土方はしつこくいった。
 人足姿の桂小五郎はふたりに気付き「おや? どうしたんだ?」と問うた。
 近藤たちは頭をかきながら「坂本さんに誘われたんです。黒船を見にいくと…」
 すると「いゃあ、遅刻したぜよ」と当人に坂本竜馬がやってきた。
 立派な服をきた初老の男が「坂本くん、遅い遅い」と笑った。
「すいません佐久間先生」竜馬はわらった。
 この初老の男が佐久間象山だった。佐久間は「おい鬼瓦!」と近藤にいった。
「……俺は近…」
「黒船をみてみたいか?」
「は?」近藤は茫然としながら「一度もみたことのないものは見てみたいです」
「よし! 若いのはそれぐらいでなければだめだ。よし、ついてこい!」
 桂小五郎は「先生いいのですか?」と動揺した。
 しかし、象山は「よいよい! どうせ二度と会わぬふたりじゃ」と笑った。
 象山は馬にのった。桂や近藤らは人足にバケて、荷を運んで浦賀へと進んだ。
 途中、だんご屋で休息した。
 坂本竜馬はダンゴを食べながら「おまんら百姓か?」と近藤と土方にきいた。ふたりは答えなかった。竜馬は続けた。「わしは土佐藩の郷士だったんだが脱藩したんじゃきに」「……郷士?」土方はきいた。
 竜馬はにやりとして「土佐では上士と郷士に別れている。上士がサムライで、郷士は商人みてぇなもんじゃ。俺は侍になりたかったんじゃ。お前らも侍になりたいのじゃろ?」 近藤は「もちろん、サムライになりたい!」と志を語った。「俺も俺も」とは土方。
「おい鬼瓦」象山はいった。「日本はこれからどうなると思う?」
 近藤は無邪気に「日本はなるようになると思いまする」と答えた。
「ははは、なるようにか? ……いいか? 鬼瓦。人は生まれてから十年は己、それから十年は家族のことを、それから十年は国のことを考えなければダメなのじゃぞ」
 佐久間象山は説教を述べた。
  やがて一行は関所をパスして、岬へついた。近藤と土方は圧倒されて声もでなかった。すごい船だ! でかい! なんであんなものつくれるんだ?!
 浦賀の海上には黒船が四船あった。象山は「あれがペリーの乗るポーハタン、あちらがミシシッピー…」と指差した。竜馬は丘の上に登った。
「乗ってみたいなぁ。わしもあれに乗って世界を見たいぜよ!」
 近藤たちは砂浜に下り「なんてでかい船だ!」と圧倒されていた。全身の血管を、感情が、とてつもない感情が走り抜けた。近藤たちは頭から冷たい水を浴びせ掛けられたような気分だった。圧倒され、言葉も出ない。
 桂は「あのような巨大な船をつくる国との戦では…勝てないのでは…」と動揺していた。 象山は「桂くん。日本人はこれからふたつに別れるぞ。ひとつは何でも利用しようとするもの。もうひとつは過去に縛られるもの。第三の道は開国して日本の力を蓄え、のちにあいつらに勝つ。………それが壤夷というものぞ」といった。
 近藤勇二十歳、土方歳三十九歳……それぞれ志を新たにしていた。
「かっちゃん! ガイジンを斬り殺そうぞ!」
「佐幕だ! 佐幕だ!」
 ふたりは興奮して叫んで、いた。


 黙霖は芸州加茂郡(広島県呉市長浜)生まれの本願寺派の僧侶で、やはり僧だった父の私生児である。幼いときに寺にやられ、耳が聞こえず話せないという二重苦を負いながら、和、漢、仏教の学問に通じ、諸国を行脚して勤王を説いた。周防(すおう)の僧、月性は親友である。
 黙霖は松陰に面会を申し込んだが、松陰は「わが容貌にみるべきものなし」と断り、二人は手紙で論争をした。
 実は松陰は、この時期「討幕」の考えをもっていたわけではなかった。彼が説いたのは、「諌幕(かんばく)」である。野山獄にいた頃にも、少年時代に学んだ水戸学の影響から抜け出せてはいなくて、兄の梅太郎に書いた手紙には、「幕府への御忠義は、すなわち天朝への御忠義」といっていた。
しかし、黙霖との論争で、二十七歳の松陰はたたきのめされた。
「茫然自失し、ああこれもまた(僕の考えは)妄動なりとて絶倒いたし候」「僕、ついに降参するなり」「水戸学は口では勤王を説くが、いまだかつて将軍に諫言し、天室を重んじたためしがないではないか」
そして、黙霖は、松陰に山県大弐が明和の昔に著わした『柳子新論』の筆写本を贈った。
松陰は「勤王」「天皇崇拝主義」に目が覚めたという。
そして松陰は安政三年(一八五六)に、松本村にある「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を受け継いだ。萩の実家の隣にある二間の家だ。
長州藩には藩校の明倫館があるが、藩士の子弟だけがはいり、足軽の子などは入学できなかった。村塾にはこの差別がない。吉田栄太郎(稔麿・としまろ・池田屋事件で死亡)、伊藤俊輔(博文)、山県狂介(有朋)などの足軽の子もいる。その教授内容は、藩学の「故書敗紙のうちに彷徨する」文章の解釈ではなく、生きた歴史を教えることであり、松陰は実践学とも呼べる学問を教えた。塾生は七十人、九十人となる。「飛耳長目(ひじちょうもく)」という変わった学科がある。政治・情報科とでもいうか。松陰が集めてきた内外の最新情報が教えられる。イギリスのインド侵略、十年前のアヘン戦争、支那の太平天国の乱、国内では京都、江戸、長崎の最新情報である。藩士の一部は吉田松陰を危険人物視していた。親の反対をおしきってはいってきた塾生がいた。高杉晋作である。松陰は高杉を「暢夫(のぶお)」と呼び、知識は優れているが学問が遅れている自説を曲げず、と分析していた。
高杉晋作は松下村塾後、江戸の昌平黌(しょうへいこう)へ進学している。
だが、吉田松陰は公然と「討幕」を宣言し始める。尊皇攘夷というよりは開国攘夷、外国の優れた知識と技術を学び、世界と貿易しよう、という坂本竜馬のはしりのようなことを宣言した。それが「草莽掘起」な訳である。だが、松陰の主張は「「討幕」のために武力蜂起するべき」とも過激な論調にかわっていくに至り、長州藩は困惑し、吉田松陰を二度目の野山獄に処した。「武力蜂起して「討幕」とは、松陰先生は狂したとしか思えぬ」桂小五郎は言った。江戸にいる久坂玄瑞や高杉晋作らは、師が早まって死に急ぐのを防ごうとして、桜田の藩邸にいる先輩の桂小五郎に相談したのだ。
晋作が先輩の桂を睨むようにして反論した。「桂さん、僕は先生が狂したとは思えぬ。死ぬ覚悟なんじゃ」
久坂は訊ねた。
「いや、とにかく今は、藩の現状からしても、慎むべき時であろうと思います。桂さん、どうすればいいですか?」一同が桂小五郎をみた。
「松陰先生に自重して頂くにはわれら門下弟子がこぞって絶交することだ。そうすれば先生も考え直すだろう」
晋作以外は、吉田松陰への絶交宣言に同意した。絶交書を受け取った松陰は怒った。
「諸君らはもう書物を読むな。読めばこの自分のようになる。それよりは藩の“はしくれ役人”にでもしてもらいなされ。そうすれば立身出世がしたくなり、志を忘れるでしょうから……」「草莽でなければ人物なし」
松陰は妹婿の玄瑞に逆に絶縁状を送りつけた。
斬首にされた首は門人たちに話しかけるようであった。
「もしもこのことが成らずして、半途に首を刎ねられても、それまでなり」
「もし僕、幽囚の身にて死なば、必ずわが志を継ぐ士を、後世に残し置くなり」
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 吉田松陰「異端の思想家」と萩の青年たち」)』榛葉英治(しんば・えいじ)氏著、プレジデント社刊120~136ページ参考引用

大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂玄瑞役の東出昌大さんが「僕は神様に愛想つかされとんのや」と、松陰の妹の杉文役の井上真央さんにいったのはあながち“八つ当たり”という訳ではなかった。ペリーが二度目に来航した安政元年(一八五四)、長州の藩主は海防に関する献策を玄機に命じた。たまたま病床にあったが、奮起して執筆にとりかかり、徹夜は数日にわたった。精根尽き果てたように、筆を握ったまま絶命したのだ。
それは二月二十七日、再来ペリーを幕府が威嚇しているところであり、吉田松陰が密航をくわだてて、失敗する一か月前のことである。
畏敬する兄の死に衝撃を受け、その涙もかわかない初七日に、玄瑞は父親の急死という二重の不幸に見舞われた。すでに母親も失っている。玄瑞は孤児となった。十五歳のいたましい春だった。久坂秀三郎は、知行高二十五石の藩医の家督を相続し、玄瑞と改名する。六尺の豊かな偉丈夫で色男、やや斜視だったため、初めて彼が吉田松陰のもとにあらわれたとき、松陰の妹文は、「お地蔵さん」とあだ名をつけたが、やがて玄瑞はこの文と結ばれるのである。「筋金入りの“攘夷思想”」のひとである。熊本で会った宮部鼎蔵から松陰のことを聞いて、その思いを述べた。「北条時宗がやったように、米使ハリスなどは斬り殺してしまえばいいのだ」松陰は「久坂の議論は軽薄であり、思慮浅く粗雑きわまる書生論である」と反論し、何度も攘夷論・夷人殺戮論を繰り返す「不幸な人」久坂玄瑞を屈服させる。松陰の攘夷論は、情勢の推移とともに態様を変え、やがて開国論に発展するが、久坂は何処までも「尊皇攘夷・夷狄殺戮」主義を捨てなかった。長州藩は「馬関攘夷戦」で壊滅する。それでも「王政復古」「禁門の変」につながる「天皇奪還・攘夷論」で動いたのも久坂玄瑞であった。これをいいだしたのは久留米出身の志士・真木和泉(まき・いずみ)である。天皇を確保して長州に連れてきて「錦の御旗」として長州藩を“朝敵”ではなく、“官軍の藩”とする。やや突飛な構想だったから玄瑞は首をひねったが、攘夷に顔をそむける諸大名を抱き込むには大和行幸も一策だと思い、桂小五郎も同じ意見で、攘夷親征運動は動きはじめた。
松下村塾では、高杉晋作と並んで久坂玄瑞は、双璧といわれた。いったのは、師の松陰その人である。禁門の変の計画には高杉晋作は慎重論であった。どう考えても、今はまだその時期ではない。長州はこれまでやり過ぎて、あちこちに信用を失い、いまその報いを受けている。しばらく静観して、反対論の鎮静うるのを待つしかない。
高杉晋作は異人館の焼打ちくらいまでは、久坂玄瑞らと行動をともにしたけれども、それ以降は「攘夷殺戮」論には「まてや、久坂!もうちと考えろ!異人を殺せば何でも問題が解決する訳でもあるまい」と慎重論を唱えている。
それでいながら長州藩独立国家案『長州大割拠(独立)』『富国強兵』を唱えている。丸山遊郭、遊興三昧で遊んだかと思うと、「ペリーの大砲は3km飛ぶが、日本の大砲は1kmしか飛ばない」という。「僕は清国の太平天国の乱を見て、奇兵隊を、農民や民衆による民兵軍隊を考えた」と胸を張る。
文久三年馬関戦争での敗北で長州は火の海になる。それによって三条実美ら長州派閥公家が都落ち(いわゆる「七卿落ち」「八月十八日の政変」)し、さらに禁門の変…孝明天皇は怒って長州を「朝敵」にする。四面楚歌の長州藩は四国(米軍、英軍、仏軍、蘭軍)に降伏して、講和談判ということになったとき、晋作はその代表使節を命じられた。ほんとうは藩を代表する家老とか、それに次ぐ地位のものでなければならないのだが、うまくやり遂げられそうな者がいないので、どうせ先方にはわかりゃしないだろうと、家老宍戸備前の養子刑馬という触れ込みで、威風堂々と旗艦ユーリアラス号へ烏帽子直垂で乗り込んでいった。伊藤博文と山県有朋の推薦があったともいうが、晋作というのは、こんな時になると、重要な役が回ってくる男である。
談判で、先方が賠償金を持ち出すと「幕府の責任であり、幕府が払う筋の話だ」と逃げる。下関に浮かぶ彦島を租借したいといわれると、神代以来の日本の歴史を、先方が退屈するほど永々と述べて、煙に巻いてしまった。
だが、長州藩が禁門の変で不名誉な「朝敵」のようなことになると“抗戦派(進発派・「正義派」)”と“恭順派(割拠派・「俗論党」)” という藩論がふたつにわれて、元治元年十一月十二日に恭順派によって抗戦派長州藩の三家老の切腹、四参謀の斬首、ということになった。周布政之助も切腹、七卿の三条実美らも追放、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)は城崎温泉で一時隠遁生活を送り、自暴自棄になっていた。小田村伊之助は一時期、野山獄に投獄され小田村「素太郎(もとたろう)」と改名した。小田村の正妻・寿は二人の息子(次男は久坂家に養子にやった粂次郎だが、このころは実父母と同居していたのだろう)をつれて獄にいき、食物や衣類などを差し入れた。その頃の野山獄は、凄惨な空気が漂っていたから、文は恐怖を感じておののいたが、寿は少しも恐怖を感じず、かえって興味津々だったという。こうした寿の行為を獄中で知った楫取は驚き、喜び、感謝したという。小田村(楫取)には寿が必要であり、愛していたのだった。(『楫取素彦と吉田松陰の妹・文』一坂太郎著作・新人物文庫142~157ページ)話を戻す。そこで半分藩命をおびた使徒に(旧姓・杉)文が選ばれる。文らは隠遁生活でヤケクソになり、酒に逃げていた桂小五郎隠遁所を訪ねる。「お文さん、………何故ここに?」「私は長州藩主さまの藩命により、桂さんを長州へ連れ戻しにきました」「しかし、僕にはなんの力もない。久坂や寺島、入江九一など…禁門の変の失敗も同志の死も僕が未熟だったため…もはや僕はおわった人物です」「違います!寅にいは…いえ、松陰は、生前にようっく桂さんを褒めちょりました。桂小五郎こそ維新回天の人物じゃ、ゆうて。弱気はいかんとですよ。…義兄・小田村伊之助(楫取素彦)の紹介であった土佐の坂本竜馬というひとも(小田村伊之助のちの楫取素彦は、長崎で、長州藩のために藩命で武器や軍艦を武器商人トーマス・グラバーと交渉し調達する役目になり、その長崎で坂本龍馬と出会ったことが、のちに薩長同盟のきっかけとなる。楫取が龍馬を桂小五郎に紹介したのだ)薩摩の西郷隆盛さんも“桂さんこそ長州藩の大人物”とばいうとりました。皆さんが桂さんに期待しとるんじゃけえ、お願いですから長州藩に戻ってつかあさい!」桂は考えた。…長州藩が、毛利の殿さまが、僕を必要としている?やがて根負けした。文らは桂小五郎ことのちの木戸孝允を説得した。こうして長州藩の偉人・桂小五郎は藩政改革の檜舞台に舞い戻った。もちろんそれは高杉晋作が奇兵隊で討幕の血路を拓いた後の事であるのはいうまでもない。そして龍馬、桂、西郷の薩長同盟に…。しかし、数年前の禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩薩摩藩により朝敵にされたうらみを、長州人の人々は忘れていないものも多かった。彼らは下駄に「薩奸薩賊」と書き踏み鳴らす程のうらみようであったという。だから、薩摩藩との同盟はうらみが先にたった。だが、長州藩とて薩摩藩と同盟しなければ幕府に負けるだけ。坂本竜馬と小田村は何とか薩長同盟を成功させようと奔走した。しかし、長州人のくだらん面子で、十日間京都薩摩藩邸で桂たちは無駄に過ごす。遅刻した龍馬は「遅刻したぜよ。げにまっことすまん、で、同盟はどうなったぜよ?桂さん?」「同盟はなんもなっとらん」「え?西郷さんが来てないんか?」「いや、西郷さんも大久保さんも小松帯刀さんもいる。だが、長州から頭をさげるのは…無理だ」龍馬は喝破する。「何をなさけないこというちゅう?!桂さん!西郷さん!おんしら所詮は薩摩藩か?長州藩か?日本人じゃろう!こうしている間にも外国は日本を植民地にしようとよだれたらして狙ってるんじゃ!薩摩長州が同盟して討幕しなけりゃ、日本国は植民地ぜよ!そうなったらアンタがたは日本人になんとわびるがじゃ?!」こうして紆余曲折があり、同盟は成った。話を戻す。「これでは長州藩は徳川幕府のいいなり、だ」晋作は奇兵隊を決起(功山寺挙兵)する。最初は80人だったが、最後は800人となり奇兵隊が古い既得権益の幕藩体制派の長州保守派“徳川幕府への恭順派”を叩き潰し、やがては坂本竜馬の策『薩長同盟』の血路を拓き、維新前夜、高杉晋作は労咳(肺結核)で病死してしまう。
高杉はいう。「翼(よく)あらば、千里の外も飛めぐり、よろづの国を見んとしぞおもふ」
長州との和睦に徳川の使者として安芸の宮島に派遣されたのが勝海舟であった。
七日間も待たされたが、勝海舟は髭を毎日そり、服を着替え、長州の藩士・広沢兵助や志道聞多などと和睦した。
「勝さん、あんたは大丈夫ですか?長州に尻尾をふった裏切り者!と責められる可能性もおおいにある。勝さんにとっては損な役回りですよ」
「てやんでぃ!古今東西和平の使者は憎まれるものだよ。なあに俺にも覚悟があるってもんでい」
長州の志士たちの予想は的中した。幕臣たちや慶喜は元・弟子の坂本龍馬の『薩長連合』『倒幕大政奉還』を勝海舟のせいだという。勝は辞表を幕府に提出、それが覚悟だった。
大政奉還の年、小田村素太郎は藩命により「楫取素彦」と改名した。舟をこぐ、「楫(かじ)」を「取」るの意味である。(『楫取素彦と吉田松陰の妹・文』一坂太郎著作・新人物文庫192ページ)だが、幕府の暴発は続く。薩長同盟軍が官軍になり、錦の御旗を掲げて幕府軍を攻めると、鳥羽伏見でも幕府は敗北していく。すべて勝海舟は負けることで幕府・幕臣を守る。だが、憎まれて死んでいく、ので、ある。
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 久坂玄瑞「蛤御門」で迎えた二十五歳の死」)』古川薫氏著、プレジデント社刊137~154ページ+『徳川慶喜(「三―草莽の志士 高杉晋作「奇兵隊」で討幕の血路を拓く」)』杉森久英氏著、プレジデント社刊154~168ページ+映像資料NHK番組「英雄たちの選択・高杉晋作篇」などから文献引用

         3 艱難辛苦



 


  上海から長崎に帰ってきて、高杉晋作がまずしたことは、船の買いつけだった。
 ………これからは船の時代だ。しかも、蒸気機関の。
 高杉は思考が明瞭である。
 …ペリー艦隊来訪で日本人も目が覚めたはずだ。
 ……これからは船、軍艦なんだ。ちゃんとした軍艦をそろえないとたちまちインドや清国(中国)のように外国の植民地にされちまう。伊藤博文の目は英会話だった。
 一緒に上海にいった薩摩の五代は同年一月、千歳丸の航海前に蒸気船一隻を購入したという。長崎の豪商グラバーと一緒になって、十二万ドル(邦価にして七万両)で買ったという。
 いっているのが薩摩の藩船手奉行副役である五代の証言なのだから、確実な話だ。
 上海で、蒸気船を目にしているから、高杉晋作にとっては喉から手がでるほど船がほしい。そこへ耳よりな話がくる。長崎に着くと早々、オランダの蒸気船が売りにだされているという。値段も十二万ドルとは手頃である。
「買う」
 即座に手にいれた。
 もちろん金などもってはいない。藩の後払いである。
 ……他藩より先に蒸気船や軍艦をもたねば時流に遅れる。
 高杉の二十三歳の若さがみえる。
 奇妙なのは晋作の革命思想であるという。
 ……神州の士を洋夷の靴でけがさない…
という壤夷(武力によって外国を追い払う)思想を捨てず、
 ……壤夷以外になにがあるというのだ!
 といった、舌の根も乾かないうちに、洋夷の蒸気船購入に血眼になる。
 蒸気船購入は、藩重役の一決で破談となった。
「先っぱしりめ! 呆れた男だ!」
 それが長州藩の、晋作に対する評価であった。
 当然だろう。時期が早すぎたのだ。まだ、薩長同盟もなく、幕府の権力が信じられていた時代だ。晋作の思想は時期尚早過ぎた。

  蒸気船購入の話は泡と消えたが、重役たちの刺激にはなった。
 この後、動乱期に長州藩は薩摩藩などから盛んに西洋式の武器や軍艦を購入することになる。
 藩にかえった晋作は、『遊清五録』を書き上げて、それを藩主に献上して反応をまった。 だが、期待するほどの反応はない。
「江戸へおもむけ」
 藩命は冷ややかなものだった。
 江戸の藩邸には、桂小五郎や晋作の上海航海を決めた周布政之助がいる。また、命令を下した藩世子毛利元徳も江戸滞在中であった。
 晋作は、
「しかたねぇな」と、船で江戸へ向かった。
 途中、大阪で船をおり、京に足をのばし藩主・毛利敬親とあった。敬親は京で、朝廷工作を繰り広げていた。
 晋作は上海のことを語り、また壤夷を説くと、敬親は、
「くわして話しは江戸でせい」
 といって晋作の話しをとめた。
「は?」
 晋作は唖然とする。
 敬親には時間がなかった。朝廷や武家による公武合体に忙しかった。
 京での長州藩の評判は、すこぶる悪かった。
 ……長州は口舌だが、実がない!
 こういう悪評を煽ったのは、薩摩藩だった。
 中でも謀略派藩士としても知られる薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)が煽動者である。
 薩摩は尊皇壤夷派の志士を批判し、朝廷工作で反長州の画策を実行していた。
 しかし、薩摩とて尊皇壤夷にかわりがない。
 薩摩藩の島津久光のかかげる政策は、「航海遠略策」とほとんど変りないから質が悪い。 西郷は、
「長州は口舌だが、実がないでごわす」と、さかんに悪口をいう。
 高杉は激昴して、「薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではないか! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけだ!」
 といった。
 そして、続けて、
「壤夷で富国強兵をすべし!」と述べる。
 ……時代は壁を乗り越える人材を求めていた。
 晋作は江戸についた。
 長州藩の江戸邸は、上屋敷が桜田門外、米沢上杉家の上屋敷に隣接している。
 その桜田門外の屋敷が、藩士たちの溜まり場であったという。
 ………薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではない! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけです。
 ……壤夷で富国強兵をすべし!
 ……洋夷の武器と干渉をもって幕府をぶっつぶす!
 討幕と、藩の幕政離脱を、高杉はもとめた。
 ……この国を回天(革命)させるのだ!
 晋作は血気盛んだった。
 が、藩世子は頷いただけであった。
「貴公のいうこと尤もである。考えておこう」
 そういっただけだ。
 続いて、桂小五郎(のちの木戸考允)や周布にいうが、かれらは慰めの顔をして、
「まぁ、君のいうことは尤もだが…焦るな」というだけだった。
「急いては事を仕損じるという諺もあるではないか」
 たしかにその通りだった。
 晋作は早すぎた天才であった。
 誰もかれに賛同しない。薩摩長州とてまだ「討幕」などといえない時期だった。
「高杉の馬鹿がまた先はしりしている」
 長州藩の意見はほとんどそのようなものであった。
 他藩でも、幕府への不満はあるが、誰も異議をとなえられない。
 ……わかってない!
 高杉晋作は憤然たる思いだったが、この早すぎた思想を理解できるものはいなかった。
 長州の本城萩は、現在でも人口五万くらいのちいさな町で、長州藩士たちがはめを外せる遊興地はなかった。そのため、藩士たちはいささか遠い馬関(下関)へ通ったという。 晋作は女遊びが好きであった。
 この時代は男尊女卑で、女性は売り買いされるのがあたり前であった。
 銭され払えば、夜抱くことも、身請けすることも自由だった。
 晋作はよく女を抱いた。
 そして、晋作は急に脱藩を思いたった。
 脱藩にあたり、国元の両親に文を送るあたりが晋作らしい。
「私儀、このたび国事切迫につき、余儀なく亡命仕り候。御両人様へ御孝行仕り得ざる段、幾重にも恐れ入り候」
 晋作は国事切迫というが、切迫しているのは晋作ひとりだった。余儀も晋作がつくりだしたのである。この辺が甘やかされて育ったひとりよがりの性格が出ている。
 晋作は走った。
 しかし、田舎の小藩に頼ったが、受け入れてもらえなかった。
 口では壤夷だのなんだのと好きなだけいえるが、実行できるほどの力はない。
「人間、辛抱が肝心だ。辛抱してれば藩論などかわる」
 晋作はとってつけたような言葉をきき、おのれの軽率を知った。
 ……ちくしょう!
 晋作は、自分の軽率さや若さを思い知らされ、力なく江戸へと戻った。

 天保五年、水野忠邦が老中となり改革をおこなったが、腐りきった幕府の「抵抗勢力」に反撃をくらい、数年で失脚してしまった。勝海舟は残念に思った。
「幕府は腐りきった糞以下だ! どいつもこいつも馬鹿ばっかりでい」
 水野失脚のあと、オランダから「日本国内の政治改革をせよ」との国王親書が届いた。しかし、幕府は何のアクションもとらなかった。
 清国がアヘン戦争で英国に敗れて植民地となった……という噂は九州、中国地方から広まったが、幕府はその事実を隠し通すばかりであった。
 ペリー提督の率いるアメリカ艦隊渡来(嘉永六年(一八五三))以降の変転を勝海舟は思った。勝海舟は、水戸斉昭が世界情勢を知りながら、内心と表に説くところが裏腹であったひとという。真意を幕府に悟られなかったため、壤夷、独立、鎖国を強く主張し、士気を鼓舞する一方、衆人を玩弄していたというのである。
 勝海舟は、水戸斉昭の奇矯な振る舞いが、腐りきった幕府家臣への憤怒の現れとみる。斉昭が終始幕府を代表して外国と接すれば今のようなことににはならなかっただろうと残念がる。不遇であるため、鎖国、壤夷、などと主張し、道をあやまった。
「惜しいかな、正大高明、御誠実に乏し」
 勝海舟は斉昭の欠点を見抜いた。
「井伊大老にすれば、激動する危険な中で、十四代将軍を家茂に定めたのは勇断だが、大獄の処断は残酷に過ぎた」
 勝海舟は幕臣は小人の群れだとも説く。小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。斉昭にしても井伊大老にしても大人物ではあったが、周りが小人物ばかりであったため、判断を誤った。
「おしいことでい」勝海舟は悔しい顔で頭を振った。
 赤坂の勝海舟の屋敷には本妻のたみと十歳の長女夢と八歳の孝、六歳長男の小鹿がいる。益田糸という女中がいて、勝海舟の傍らにつきっきりで世話をやく。勝海舟は当然手をつける。そして当然、糸は身籠もり、万延元年八月三日、女児を産んだ。三女逸である。 他にも勝海舟には妾がいた。勝海舟は絶倫である。
 当時、武士の外泊は許されてなかったので、妻妾が一緒に住むハメになった。

 京は物騒で、治安が極端に悪化していた。
 京の町には、薩摩藩、長州藩、土佐藩などの壤夷派浪人があふれており、毎晩どこかで血で血を洗う闘争をしていた。幕府側は会津藩が京守護職であり、守護代は会津藩主・松平容保であった。会津藩は孤軍奮闘していた。
 なかでも長州藩を後ろ盾にする壤夷派浪人が横行し、その数は千人を越えるといわれ、天誅と称して相手かまわず暗殺を行う殺戮行為を繰り返していた。
「危険極まりない天下の形勢にも関わらず、万民を助ける人物が出てこねぇ。俺はその任に当たらねぇだろうが、天朝と幕府のために粉骨して、不測の変に備える働きをするつもりだ」勝海舟はそう思った。とにかく、誰かが立ち上がるしかない。
 そんな時、「生麦事件」が起こる。
 「生麦事件」とは、島津久光が八月二十一日、江戸から京都へ戻る途中、神奈川の手前生麦村で、供先を騎馬で横切ろうとしたイギリス人を殺傷した事件だ。横浜の英国代理公使は「倍賞金を払わなければ戦争をおこす」と威嚇してきた。
「横浜がイギリスの軍港のようになっている今となっては、泥棒を捕まえて縄をなうようなものだが仕方がなかろう。クルップやアームストロングの着発弾を撃ち込まれても砕けねえ石造砲台は、ずいぶん金がかかるぜ」
 勝海舟は幕府の無能さを説く。
「アメリカ辺りでは、一軒の家ぐらいもあるような大きさの石を積み上げているから、直撃を受けてもびくともしねえが、こっちには大石がないから、工夫しなきゃならねえ。砲台を六角とか五角にして、命中した砲弾を横へすべらせる工夫をするんだ」
 五日には大阪の宿にもどった勝海舟は、鳥取藩大阪屋敷へ呼ばれ、サンフランシスコでの見聞、近頃の欧米における戦争の様子などを語った。
 宿所へ戻ってみると、幕府大目付大井美濃守から、上京(東京ではなく京都にいくこと)せよ、との書状が届いていた。目が回りそうな忙しさの中、勝海舟は北鍋屋町専称寺の海軍塾生たちと話し合った。
「公方様が、この月の四日に御入京されるそうだ。俺は七日の内に京都に出て、二条城へ同候し、海岸砲台築き立ての評定に列することになった。公方様は友の人数を三千人お連れになっておられるが、京の町中は狂犬のような壤夷激徒が、わが者顔に天誅を繰り返している。ついては龍馬と以蔵が、身辺護衛に付いてきてくれ」
 龍馬はにやりと笑って、
「先生がそういうてくれるのを待っとうたがです。喜んでいきますきに」
 岡田以蔵も反歯の口元に笑顔をつくり、
「喜んでいきますきに!」といった。
 勝海舟は幕府への不満を打ち明ける。
「砲台は五ケ所に設置すれば、十万両はかかる。それだけの金があれば軍艦を買ったほうがよっぽどマシだ。しかし、幕府にはそれがわからねぇんだ。幕府役人は、仕事の手を抜くこと、上司に諂うことばかり考えている。馬鹿野郎どもの目を覚まさせるには戦争が一番だ」
「それはイギリスとの戦争じゃきにですか?」龍馬はきいた。
 勝海舟は「そうだ」と深く頷いた。
「じゃきに、先生はイギリスと戦えば絶対に負けるとはいうとりましたですろう?」
「その通りだ」
「じゃきに、なんで戦せねばならぬのです?」
「一端負ければ、草奔の輩も目を覚ます。一度血をあびれば、その後十年で日本は立て直り、まともな考えをもつ者が増えるようになる。これが覚醒だぜ」
「そりゃあええですのう」龍馬は頷いた。

  京で、勝海舟は長州藩の連中と対談した。
「今わが国より艦船を出だして、広くアジア諸国の主に説き、縦横連合して共に海軍を盛大にし、互いに有無を通じ合い、学術を研究しなければ、ヨーロッパ人に蹂躙されるのみですよ。まず初めに隣国の朝鮮と協調し、次に支那に及ぶことですね」
 桂たちは、勝海舟の意見にことごとく同意した。
 勝海舟はそれからも精力的に活動していく。幕府に資金援助を要求し、人材を広く集め、育成しだした。だが、勝海舟は出世を辞退している。「偉くなりたくて活動してるんじゃねぇぜ、俺は」そういう思いだった。
 そんな中、宮中で公家たちによる暗殺未遂事件があった。

「暗殺か…」
 晋作は苦い顔をする。
 壤夷のために行動する晋作であったが、暗殺という陰湿な行為は好きではなかった。
 そのくせ、長井雅楽を暗殺する!、といいだしたりしたのも晋作である。
 しかし、計画企画はするが、実行はしていない。
 いつも言い出すのは晋作だったが、暗殺を成功させたことはない。一件も遂行に至っていない。
「よし、俺たちも生麦やろう!」
 大和弥八郎が甲高い声をあげた。
 ……高杉は江戸で豪遊している。
血気盛んな者たちが、集まってくる。寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤根武人……
 計画だけは着々とすすんでいた。
 暗殺目標は米国公使タウンゼント・ハリス、場所は横浜、決行日は十一月十三日と決めた。その日は日曜日で、ハリスはピクニックにいくことになっていたという。
「井上、百両用意してくれ。軍資金だ」
「しかし……」
「なんだ?」
 井上聞多は困った顔をして「百両などという大金は俺には用意できん。どうすればいいのだ?」という。
 高杉は渋い顔になり、
「それは俺もわからん」といった。
 だが、その暗殺計画も瓦解してしまう。
 しかし、「外国の公使を殺せば国が滅びる」といわれていた時代に公使暗殺を思いつく晋作は、ずばぬけていたともいえる。
 久坂は晋作が暗殺犯とならないかったのを見てほっとした。
 と、同時に「俺が暗殺する。公使の館を焼き討ちするのだ」と心の中で思った。
 久坂玄瑞は盟約書を作成した。
 長州藩士たちの革命分子をひとつにまとめる規則とリストである。
 その数は二十二人……
 高杉晋作、久坂玄瑞、山田顕義、野村和作、白井小助、堀真五郎、佐々木男也、滝弥太郎、滝鴻二郎、佐々木次郎四郎、伊藤俊輔(博文)……
 長州藩の中核を担う連中が名をつらねた。
「藩内に三十人の死士が得れば、長州藩を掌握できる。長州藩を握れば天下の事は成る」 晋作の持論だという。
 しかし、晋作の思い通りになるほど世の中は簡単には動かない。
「晋作は何を始める気だ?」
 久坂玄瑞は晋作に疑問をもった。

  吉田松陰が死罪になってから三年がたつ。
 晋作は江戸を発して長州にもどっていった。師の墓に手をあわせ、涙した。
 以後、晋作は死ぬまで江戸の地を踏むことはなかった。

 少し話を戻す。
弘化二年(1845年)吉田松陰は十六歳で、山田亦介(またすけ、羽田清風の甥)について長沼流兵学術を学んだ。亦介は世界情勢に明るく、松陰はこの男によって「本物の世界」を体感した。亦介は「これが地球儀だ。我が国は何処だと思う?」ときく。松陰は初めて地球儀を見たのだわかる訳はない。ちなみに最初に丸い地球儀を見たのは織田信長である。400年前に信長は「地球が丸いこと」「日本はちっぽけな島国なこと」「世界には強国が有象無象にあること」を理解したのだからさすがは「戦国時代の天才」である。
 吉田松陰はおくればせながら「地球が丸いこと」「日本はちっぽけな島国なこと」「世界には強国が有象無象にあること」を理解した。「我が国はこんなに小さいのですねえ。まいりました」松陰は唖然という。だが、キツネ目の眼光は「世界への興味心」でギラギラ輝いている。この感動がのちの「草莽掘起」「外国船への亡命」へと繋がる。
 弘化三年(1846年)17歳となった松陰は外患に深い関心をもち、海防のことを論究している。「我が国は海で囲まれている。あのペルリ(ペリー)と申す舶来人が乗る黒船艦隊をやぶるには海防を徹底的に考慮せねば我が国は夷狄により瓦解する」
 吉田松陰が「尊皇攘夷派」というのは間違いだ。「草莽の志士」とやらは「外国の軍事力」を軽く観ていたが、あの松陰が「外国軍と長州藩・薩摩藩・徳川幕府軍との格差」がわからなかった訳はない。吉田松陰が「尊皇思想」というのも嘘だ。
 もしその(尊皇思想)考えがあったにせよ、のちの「官軍」つまり薩長同盟軍が「錦の御旗」や天皇を利用したように「将棋の王将の駒」「天皇という名の道具」としてからの思想だろう。吉田松陰は日本共産党や皇民党ではないのだ。
  嘉永元年(1848年)19歳となった吉田松陰は1月、初めて独立の師範となった。
  そんな松陰だから黒船浦賀来航の報を江戸でえた彼の心は躍った。
「心甚だ急ぎ飛ぶが如し、飛ぶが如し」(六月四日、瀬能吉次郎宛)
 それと同時に、この黒船を目の前に見た松陰は、来るべき天下の動勢を予見した。
「敦れ天下の瓦解遠からざるべし。方今天下疲弊の余、江戸に大戦始まり、諸候これの役に駆使せられれば必ず命に甚へざらん。且つ又幕府天下の心を失ふこと久し」(七月二十六日、杉梅太郎宛)
 外圧を前にして当面のことを糊塗(こと)しようとする幕府、幕臣の中では「夷狄排除論」的な意見が多い。その中で勝麟太郎(勝海舟)と佐久間象山だけが「世界情勢」を見抜いている。吉田松陰は佐久間象山や勝麟太郎に文をよせるとともに独自の政治思想「草莽掘起(そうもうくっき)」を発案して長州藩を「草莽の志士たち」でまとめようとした。
 だが、「外国にいきたい! 外国の文化・経済・政治・言語…それらを自分の眼で見たい」という感情、いやもう欲望であり夢であり。それを叶えたいと門人の金子重輔(じゅうのすけ、重之助)と共にとうとう小舟で黒船に近づき「プリーズ・オン・ザ・シップ!(黒船にのせてくれ)」と嘆願するに至る。しかし、外人さんたちの答えは「ノー(駄目だ)!」である。
 なら銭金を見せたが「そういう問題ではない」という風に外国人たちは首を横にふるばかりだ。かくして吉田松陰の外国への亡命は瓦解した。なら幕府や長州藩にそのことを「秘密」にすればまだ松陰にも「勝機」はあったかもしれない。ジョン万次郎というラッキーな輩もいたのだから。だが、くそ真面目な松陰はこの「亡命失敗」をカクカクシカジカだ、と江戸の奉行所にいい自首してしまう。こうして彼は囹圄(れいご)の人となった。
  ……かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂………
 吉田松陰は自己を忠臣蔵の赤穂浪士の已むに已まれぬ魂と重ねた。
「馬鹿なやつ」江戸の侍や町民はかわら版やかぜの噂できき、嘲笑した。「一体何をしたかったんだ?、その馬鹿」 
奉行所で吉田松陰と弟子の金子を取り調べたのは黒川嘉兵衛という「いいひと」であった。黒川はよく「いいひと」「物腰が柔らかい」「聞き上手」といわれる。人間というものは大体にして「自分のこと」は話すが、「他人のこと」には注意を払わないものだ。
 だが、黒川はまず他人の話を粘り強く聴いてから、「なるほど。だがこういうこともあるんではないかい?」と反駁した。しかし、吉田松陰はどんなことがあっても「師匠の佐久間象山に密航をそそのかされた」ことだけは話さない気でいた。
 徳川幕府にとって「攘夷など無理、すみやかに開国して外国の武力、文化、教育を取り入れろ!」という開国派な象山は「目の上のたんこぶ」であり、「俺は日本のナポレオンだ!」と豪語する傲慢チキな佐久間象山は幕臣にとって「恥」でしかない。
「俺にどんどんと腰の強い女をよこせ! 俺の子供は「天才」だろうから俺の子供たちで日本を改革する!」象山は確かに天才学者だったのだろうが、こんなことばかりゆうひとは幕府にとっては邪魔であり、死んでほしい人物である。
「なんのために外国船にのりこもうとしたのだい?」
「外国にいって外国の文化、教育、軍事力、外交力など学びたかったのです」
「…この英文の紙は佐久間象山の筆跡のようだが」
「いいえ。確かにぼくは先生に書いてもらいましたが密航はぼくのアイデアです」
「アイデアとは何だい?」
「アイデアとは発想です」
「あくまで佐久間象山は関係ないと申すのかい?」
「オフコースであります」
「今度は何だ?」
「オフコースとはその通りという英語であります」
「佐久間象山の関与さえ認めれば罰しない。それでも佐久間象山の関与を認めないのか?」
「オフコース」
 黒川は吉田松陰という男が哀れに思えた。別に密航くらい自首しなければ罰せられない。なんでこの男は自首したのか?佐久間象山は許せないが、この男は許したい。弟子の金子重輔という長州の足軽という男も…。だが、江戸町奉行・井戸対馬守は「死罪」を命じた。
 対馬守の眼は怒りでぎらついていたが、その怒りは吉田松陰や金子にではなかった。
「死罪」は裏で糸を引いているであろう奸物・佐久間象山へのあてつけであった。
 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?
 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。
 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。
 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……
 松陰は思う。
 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……
 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。
 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。
 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。
安政元年(1854年)、25歳になった吉田松陰は上陸した米軍に「投夷書」を渡し、夜、門人・金子重輔とともに小舟で黒船に向かった。港では、「やめてください、先生!」と止める桂小五郎と友人の坂本龍馬がいた。龍馬は松陰の「異国への熱い思い」を知り、
「吉田松陰先生、わしも黒船に乗りたいがです!」という。
「馬鹿者!」
 吉田松陰は龍馬の頬を平手打ちした。「異国に行く道は僕と金子の道だ。君は自分の道をいけ!」
「…じゃきに。わしも世界をば観てみたいががです!」
「そうか。ならあとで来なさい。メリケン(アメリカ)で待っておるぞ」
「…先生!駄目です!幕府に見つかれば死罪ですよ!」
 桂小五郎は止めるが、松陰は聞かず沖にでてしまった。そして前述の通り、世界漫遊の夢はもろくも瓦解、松陰は江戸の奉行所に自首した。4月、江戸伝馬町牢獄に、やがて野山獄に移された。金子重輔は獄中で病死した。松陰は金子の獄死に号泣したという。元々、金子重輔は染物屋の商人だった。それを足軽として「藩士」へと推薦したのが吉田松陰である。ぼくのせいで金子くんが…ぼくのせいだ。だが、牢獄には高須久子という女と富永有隣らと同囚となった。高須という女は知識に明るく、吉田松陰も驚く程の「博学」で「歌詠み」であった。個人的につまり、女性として懸想(けそう・ラブ)したかどうかは知らない。
  吉田松陰は男であり、男色(ホモ)ではなく、しかも「絶倫であった」ときくから、懸想くらいはしたのであろう。久子がデブスなら話は別だが。
 歴史記には高須久子は相当「美人」であったとされている。
 そのうえ「博学」「薄幸」であれば惚れない方がどうかしている。吉田松陰は囚人たちの間で「獄内俳句の会」を結成していく。どこまでも「学問」のひとである。
  ……かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂……
  ……親思ふこころにまさる親ごころけふの育ずれ何ときくらん………

   しかし、松陰は諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。幕府に睨まれるのを恐れた長州藩(薩摩との同盟前)はかれを処刑してしまう。
 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。
 …吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
「何をいうのだ?その吉田松陰とやらは…」
 井伊直弼大老は「草莽掘起論」を長州藩の過激派が主張する「尊皇攘夷論」と勘違いした。
「この国の為にならぬ尊皇攘夷派は一掃(皆殺し)してしまえ」
 井伊大老の「安政の大獄」とは一言で言えばそういうことで、ある。
「何故に私の志がわからぬ! 徳川幕府は開国しかないと知りながら只、今あることに糊塗するだけだ。このまんまではこの国が瓦解して、外国の植民地にされてしまう!」
「黙れ! 何が草莽掘起じゃっ?! 攘夷など出来ると思うとるのか、おまはんは!」
 吉田松陰は牢獄で拷問を受け、痣や傷だらけになりながら「攘夷ではない! 開国だ! 外国の軍備や知識をとりいれ、開国するのが「草莽掘起論」です!」
「せからしか!」
 後ろ手で縄縛りにされ、木刀で殴られた松陰は気絶した。しかし、容赦なく冷水が浴びせられる。「おまはんは危険分子じゃっ! どうせ死罪じゃ!」
 気絶した松陰は悪夢を見た。いや、実際「悪夢」は「現実」であるのだ。今度ばかりは、毛利公も「助け舟」を出せない。奉行所の裁きは、当たり前のように「死罪」であった。
 吉田松陰は白い囚人服のまま、その夜、此の世で最後の夜月をみた。涙が溢れてきた。ああ、この思いをいったいこの広い世界で、誰が、誰が、理解できるだろう。
 …桂くん、久坂くん、高杉くん、佐久間さん、文、勝さん、殿、天子さま……
  吉田松陰はそのときはじめて「自己の完成」を知った。「成程、ひとしらずして憤らず、とはこういうことか、孔子とはこういうことで語ったのだな?」
 思わず、口元が緩んだ。最期だからこうなったんだ。なるほどな。
  
  安政六年(1859年)、30歳の吉田松陰は牢獄にいた。10月27日の朝があけると靄が晴れ、満天の青空になった。虹まで架かっている。「これは…」吉田の心はもう昇天していた。
 もう何の憂いもない。只、自分なきあとの長州藩、日本国、天子様、いや憂いはある。だが、もうおわりなのだ。「もうおわりなのだ」言葉にすると楽になった。
 だが、松陰は斬首になるときに涙を流した。
 命惜しさからではない。日本の行く末を憂いての涙だった。
 ……草奔掘起を! 桂くん…久坂くん……高杉くん……伊藤くん…文…
 さらばじゃ!
  柵外では涙をいっぱい目にためた伊藤俊輔(博文)と妹の文が、白無垢の松陰を見守っていた。「せ…先生!」「寅にい!にいやーん」松陰はいった。「至誠にして動かざるもの、いまもってあらざるや」
  首がはねられる。すべてはおわった。少なくとも吉田松陰が生きていたなら、維新はもっと早くに終り、明治政府も円滑に動いたろう。西郷隆盛の内戦もなかったろうし、朝鮮や清国(中国)との軋轢や、露国や米国との関係もかわっていたろう。
 しかし、すべては無能の徳川幕府の罪である。
 歴史は動く。
 少なくとも、死んだ彼の弟子たちは動かさなければと思っていた。
 十月二十九日、桂小五郎らが吉田松陰の遺骸を受け取りに奔走し、小塚原回向院大屋敷・常安寺に葬った。享年・三十歳……それは壮絶な最期で、あった。

「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹・文の生涯<維新回天 完全版>2015年大河ドラマ原作5

2015年06月28日 06時05分41秒 | 日記









話しを少し戻す。

長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
 当然、晋作も長崎にら滞在して、出発をまった。
 藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
 使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
 二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
 …それにしてもまたされる。
 窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
 しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった(遊郭からもらいうけたというのはこの作品上の架空の設定。事実は萩城下一番の美女で、武家の娘の井上雅(結婚当時十五歳)を、高杉晋作は嫁にした。縁談をもってきたのは父親の高杉小忠太で、息子の晋作を吉田松陰から引き離すための縁談であったという。吉田松陰は、最後は井伊大老の怒りを買い、遺言書『留魂録』を書いたのち処刑される。処刑を文たちが観た、激怒…、は小説上の架空の設定)。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
 ……自分のことしか考えられないのである。
 しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
  当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
 しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚(ともあつ)と改名し、民間に下って商工会を設立する。大阪経済の発展につとめ、のちに大阪の恩人と呼ばれた男である。
 晋作は上海にいって衝撃を受ける。
 吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
 こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
 ……壤夷鎖国など馬鹿げている!
 それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
 上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
 しかし、すぐに捕まって処刑される。
 日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
 ……俺には回天(革命)の才がある。
 ……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
 高杉晋作は革命の志を抱いた。
 それはまだ維新夜明け前のことで、ある。

  伊藤博文は高杉晋作や井上聞多とともに松下村塾で学んだ。
 倒幕派の筆頭で、師はあの吉田松陰である。伊藤は近代日本の政治家で、立憲君主制度、議会制民主主義の立憲者である。外見は俳優のなべおさみに髭を生やしたような感じだ。 日本最初の首相(内閣総理大臣)でもある。1885年12月22日~1888年4月30日(第一次)。1892年8月8日~1896年8月31日(第二次)。1898年1月12日~1898年6月30日(第三次)。1900年10月19日~1901年5月10日(第四次)。 何度も総理になったものの、悪名高い『朝鮮併合』で、最後は韓国人にハルビン駅で狙撃されて暗殺されている。韓国では秀吉、西郷隆盛に並ぶ三大悪人のひとりとなっている。 天保12年9月2日(1841年10月16日)周防国熊手郡束荷村(現・山口県光市)松下村塾出身。称号、従一位。大勲位公爵。名誉博士号(エール大学)。前職は枢密院議長。              明治42年10月26日(1909年)に旧・満州(ハルビン駅)で、安重根により暗殺された。幼名は利助、のちに俊輔(春輔、瞬輔)。号は春畝(しゅんぽ)。林十蔵の長男として長州藩に生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。
 家が貧しかったために12才から奉公に出された。足軽伊藤氏の養子となり、彼と父は足軽になった。英語が堪能であり、まるで死んだ宮沢喜一元・首相のようにペラペラだった。 英語が彼を一躍『時代の寵児』とした。
 彼は前まで千円札の肖像画として君臨した(今は野口英世)…。

         2 維新前夜





  伊藤博文の出会いは吉田松陰と高杉晋作と桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)であり、生涯の友は井上聞多(馨)である。伊藤博文は足軽の子供である。名前を「利助」→「利輔」→「俊輔」→「春輔」ともかえたりしている。伊藤が「高杉さん」というのにたいして高杉晋作は「おい、伊藤!」と呼び捨てである。吉田松陰などは高杉晋作や久坂玄瑞や桂小五郎にはちゃんとした号を与えているのに伊藤博文には号さえつけない。
 伊藤博文は思った筈だ。
「イマニミテオレ!」と。
  明治四十一年秋に伊藤の竹馬の友であり親友の井上馨(聞多)が尿毒症で危篤になったときは、伊藤博文は何日も付き添いアイスクリームも食べさせ「おい、井上。甘いか?」と尋ねたという。危篤状態から4ヶ月後、井上馨(聞多)は死んだ。
 井上聞多の妻は武子というが、伊藤博文は武子よりも葬儀の席では号泣したという。
 彼は若い時の「外国人官邸焼き討ち」を井上聞多や高杉晋作らとやったことを回想したことだろう。実際には官邸には人が住んでおらず、被害は官邸が全焼しただけであった。
 伊藤は井上聞多とロンドンに留学した頃も回想したことだろう。
 ふたりは「あんな凄い軍隊・海軍のいる外国と戦ったら間違いなく負ける」と言い合った。
 尊皇攘夷など荒唐無稽である。
 

 若くして「秀才」の名をほしいままにした我儘坊っちゃんの晋作は、十三歳になると藩校明倫館小学部に入学した。のちの博文こと伊藤俊輔もここに在席した。
 伊藤は井上聞多とともに高杉の親交があった。
 ふつうの子供なら、気をよくしてもっと勉強に励むか、あるいは最新の学問を探求してもよさそうなものである。しかし、晋作はそういうことをしない。
 悪い癖で、よく空想にふける。まあ、わかりやすくいうと天才・アインシュタインやエジソンのようなものである。勉強は出来たが、集中力が長続きしない。
 いつも空想して、経書を暗記するよりも中国の項羽や劉邦が……とか、劉備や諸葛孔明が……などと空想して先生の言葉などききもしない。
 晋作が十三歳の頃、柳生新陰流内藤作兵衛の門下にはいった。
 しかし、いくらやっても強くならない。
 桂小五郎(のちの木戸孝允)がたちあって、
「晋作、お前には剣才がない。他の道を選べ」という。
 桂小五郎といえば、神道無念流の剣客である。
 桂のその言葉で、晋作はあっさりと剣の道を捨てた。
 晋作が好んだのは詩であり、文学であった。
 ……俺は詩人にでもなりたい。
 ……俺ほど漢詩をよめるものもおるまい。
 高杉少年の傲慢さに先生も手を焼いた。
 晋作は自分を「天才」だと思っているのだから質が悪い。
 自称「天才」は、役にたたない経書の暗記の勉強が、嫌で嫌でたまらない。
  晋作には親友がいた。
久坂義助、のちの久坂玄瑞である。
 久坂は晋作と違って馬面ではなく、色男である。
 久坂家は代々藩医で、禄は二十五石であったという。義助の兄玄機は衆人を驚かす秀才で、皇漢医学を学び、のちに蘭学につうじ、語学にも長けていた。
 その弟・義助は晋作と同じ明倫館に進学していたが、それまでは城下の吉松淳三塾で晋作とともに秀才として、ともに争う仲だったという。
 その義助は明倫館卒業後、医学所に移った。名も医学者らしく玄瑞と改名した。
 明倫館で、鬱憤をためていた晋作は、
「医学など面白いか?」
 と、玄瑞にきいたことがある。
 久坂は、「医学など私は嫌いだ」などという。
 晋作にとっては意外な言葉だった。
「なんで? きみは医者になるのが目標だろう?」
 晋作には是非とも答えがききたかった。
「違うさ」
「何が? 医者じゃなく武士にでもなろうってのか?」
 晋作は冗談まじりにいった。
「そうだ」
 久坂は正直にいった。
「なに?!」
 晋作は驚いた。
「私の願望はこの国の回天(革命)だ」
 晋作はふたたび驚いた。俺と同じことを考えてやがる。
「吉田松陰先生は幕府打倒を訴えてらっしゃる。壤夷もだ」
「……壤夷?」
 久坂にきくまで、晋作は「壤夷」(外国の勢力を攻撃すること)の言葉を知らなかった。「今やらなければならないのは長州藩を中心とする尊皇壤夷だ」
「……尊皇壤夷?」
「そうだ!」
「吉田松陰とは今、蟄去中のあの吉田か?」
 晋作は興味をもった。
 しかし、松陰は幕府に睨まれている。
「よし。おれもその先生の門下になりたい」晋作はそう思い、長年したためた詩集をもって吉田松陰の元にいった。いわゆる「松下村塾」である。
「なにかお持ちですか?」
 吉田松陰は、馬面のキツネ目の十九歳の晋作から目を放さない。
「……これを読んでみてください」
 晋作は自信満々で詩集を渡す。
「なんです?」
「詩です。よんでみてください」
 晋作はにやにやしている。
 ……俺の才能を知るがいい。
 吉田松陰は「わかりました」
 といってかなりの時間をかけて読んでいく。
 晋作は自信満々だから、ハラハラドキドキはしない。
 吉田松陰は異様なほど時間をかけて晋作の詩をよんだ。
 そして、
「……久坂くんのほうが優れている」
 といった。
 高杉晋作が長年抱いていた自信がもろくもくずれさった。
 ……審美眼がないのではないか?
 人間とは、自分中心に考えるものだ。
 自分の才能を否定されても、相手が審美眼のないのではないか?、と思い自分の才能のなさを認めないものだ。しかし、晋作はショックを受けた。
 松陰はその気持ちを読んだかのように「ひと知らずして憤らず、これ君子なるや」といった。「は?」…松陰は続けた。「世の中には自分の実力を実力以上に見せようという風潮があるけど、それはみっともないことだね。悪いことでなく正道を、やるべきことをやっていれば、世の中に受け入れられようがられまいがいっこうに気にせず…これがすなわち”ひと知らずして憤らなず”ですよ」
「わかりました。じゃあ、先生の門下にして下さい。もっといい詩を書けるようになりたいのです」
 高杉晋作は初めて、ひとを師匠として感銘を受けた。門下に入りたいと思った。
「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」松陰はいった。

             
  長州の久坂玄瑞(義助)は、吉田松陰の門下だった。
 久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期は高杉晋作である。ともに若いふたりは吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。
 玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。
 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?
 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。
 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。
 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……
  松陰はまた晋作の才能も見抜いていた。
「きみは天才である。その才は常人を越えて天才的といえるだろう。だが、きみは才に任せ、感覚的に物事を掴もうとしている。学問的ではない。学問とはひとつひとつの積み重ねだ。本質を見抜くことだ。だから君は学問を軽視する。
 しかし、感覚と学問は相反するものではない。
 きみには才能がある」
 ……この人は神人か。
 後年、晋作はそう述懐しているという。

  松下村塾での晋作の勉強は一年に過ぎない。
 晋作は安政五年七月、十九歳のとき、藩命によって幕府の昌平黌に留学し、松下村塾を離れたためだ。
 わずか一年で学んだものは学問というより、天才的な軍略や戦略だろう。
 松陰はいう。
「自分は、門下の中で久坂玄瑞を第一とした。後にやってきた高杉晋作は知識は豊富だが、学問は十分ではなく、議論は主観的で我意が強かった。
 しかし、高杉の学問はにわかに長じ、塾の同期生たちは何かいうとき、暢夫(高杉の号)に問い、あんたはどう思うか、ときいてから結論をだした」
 晋作没後四十四年、維新の英雄でもあり松下村塾の同期だった伊藤博文が彼の墓碑を建てた。その碑にはこう書かれている。

              
 動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するも漠し…

 高杉晋作は行動だけではなく、行動を発するアイデアが雷電風雨の如く、まわりを圧倒したのである。
 吉田松陰のすごいところは、晋作の才能を見抜いたところにある。
 久坂玄瑞も、
「高杉の学殖にはかないません」とのちにいっている。
 久坂の妻となった久坂(旧姓・杉)文は苦手な料理や洗濯などかいがいしくこなしていたが、やがて久坂との大事な赤子を死産してしまう。ふたりは号泣したという。この事がきっかけでかはわからないが、文は「子供が産めない体」になるのだ。が、それは後述するとしよう。
  安政五年、晋作は十九歳になった。
 そこで、初めて江戸に着いた。江戸の昌平黌に留学したためである。
 おりからの「安政の大獄」で、師吉田松陰は捕らえられた。
  松陰は思う。
 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……
 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ(プリーズ、オン・ザ、シップ!)、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。
 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。
 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。
 しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。
  松陰は江戸に檻送されてきた。
高杉は学問どころではなく、伝馬町の大牢へ通った。
 松陰もまた高杉に甘えきった。
 かれは晋作に金をたんまりと借りていく。牢獄の役人にバラまき、執筆の時間をつくるためである。
 晋作は牢獄の師匠に手紙をおくったことがある。
「迂生(自分)はこの先、どうすればよいのか?」
 松陰は、久坂らには過激な言葉をかけていたが、晋作だけにはそうした言葉をかけなかった。
「老兄(松陰は死ぬまで、晋作をそう呼んだという)は江戸遊学中である。学業に専念し、おわったら国にかえって妻を娶り、藩庁の役職につきたまえ」
  晋作は官僚の息子である。
 そういう環境からは革命はできない。
 晋作はゆくゆくは官僚となり、凡人となるだろう。
 松陰は晋作に期待していなかった。
 松陰は長州藩に疎まれ「幽閉」される身となる。それでも我儘坊ちゃん高杉晋作の豪遊癖は直らない。久坂義助は玄瑞と号し、長州藩の奥医師の立場から正式な侍・武士になろうと奮起する。
 だが、そうそう自分の思い通りにいく程世の中は甘くない。酒に逃げる久坂を文は叱り、そして励ました。まさに内助の功である。
 松陰が幽閉されたのは長州藩萩の野山獄である。しかし、幕府により松陰は江戸に連行され殺される運命なのである。文やのちの伊藤博文となる伊藤俊輔らは江戸の処刑場までいき「吉田松陰の斬首」を涙を流しながら竹柵にしがみつきながら見届けた。  
 幕府は吉田松陰を処刑してしまう。
 「先生!せ……先生!松陰先生!」
 「寅にい!寅次郎にいやーん!にいーやーん!」
 このとき久坂文が号泣したのは当たり前だ。が、あまりに激怒したため幕府の役人を「卑怯者!身の程をしれ!」と口汚く罵った為に一時期軟禁状態にされ、高杉晋作か誰かが役人に賄賂金を渡して久坂文が釈放された、というのは小説やドラマのフィクションである。
 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。
…吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。

  晋作の父は吉田松陰の影響を恐れ、晋作を国にかえした。
「嫁をもらえ」という。
 晋作は反発した。
 回天がまだなのに嫁をもらって、愚図愚図してられない………
 高杉晋作はあくまで、藩には忠実だった。
 革命のため、坂本龍馬は脱藩した。西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利道)は薩摩藩を脱藩はしなかったが藩士・島津久光を無視して”薩摩の代表づら”をしていた。
 その点では、高杉晋作は長州藩に忠実だった。
 ……しかし、まだ嫁はいらぬ。

坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。杉文の二番目の夫となる小田村伊之助(慶応三年・1867年藩命で楫取素彦と改名)が大宰府で坂本竜馬と会ったのが、薩長同盟の端緒となってもいる。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
 話を少し戻す。

「萩軍艦教授所に入学を命ず」
 そういう藩命が晋作に下った。
 幕末、長州藩は急速に外国の技術をとりいれ、西洋式医学や軍事、兵器の教育を徹底させていた。学問所を設置していた。晋作にそこへ行けという。
 長州藩は手作りの木造軍艦をつくってみた。
名を丙辰丸という。
 小さくて蒸気機関もついていない。ヨットみたいな軍艦で、オマケ程度に砲台が三門ついている。その丙辰丸の船上が萩軍艦教授所であった。
「これで世界に出られますか?」
 乗り込むとき、晋作は艦長の松島剛蔵に尋ねた。
 松島剛蔵は苦笑して、
「まぁ、運しだいだろう」という。
 ……こんなオモチャみたいな船で、世界と渡り合える訳はない。
「ためしに江戸まで航海しようじゃねぇか」
 松島は帆をかかげて、船を動かした。
 航海中、船は揺れに揺れた。
 晋作は船酔いで吐きつづけた。
 品川に着いたとき、高杉晋作はヘトヘトだった。品川で降りるという。
 松島は「軍艦役をやめてどうしようというのか?」と問うた。
 晋作は青白い顔のまま「女郎かいでもしましょうか」といったという。
 ……俺は船乗りにもなれん。
 晋作の人生は暗澹たるものになった。
 品川にも遊郭があるが、宿場町だけあって、ひどい女が多い。おとらとかおくまとか名そのままの女がざらだった。
 その中で、十七歳のおきんは美人ではないが、肉付きのよい体をして可愛い顔をしていた。晋作は宵のうちから布団で寝転がっていた。まだ船酔いから回復できていない。
 粥を食べてみたが、すぐ吐いた。
 ……疲れているからいい。
 ふたりはふとんにぐったりと横になった。
 ……また藩にもどらねば。
 晋作には快感に酔っている暇はなかった。

           
 この頃、晋作は佐久間象山という男と親交を結んだ。
 佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
 象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
 佐久間象山が勝海舟の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。
 勝海舟は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。

 嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、勝海舟が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。勝海舟は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。
  勝海舟が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝海舟は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。
 咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。
 四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣ったという。そしてそれから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。
「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」
 咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。
 午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。
 幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺されたという。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。
 勝海舟は激昴して「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。 役人はいう。
「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」
 勝海舟は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、
「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。
 幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。

 勝海舟は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終えたのち、将軍家茂に謁した。
 勝海舟は老中より質問を受けた。
「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびやかに申すがよい」
 勝海舟は平然といった。
「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」
「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」
 勝海舟は苦笑いした。そしてようやく「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」
 老中は激怒して「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。
 勝海舟は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。
「この無礼者め!」
 老中の罵声が背後からきこえた。
 勝海舟が井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、
「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだという。
 それをきいて呆れた木村摂津守が、「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」 と諫めた。
 この一件で、幕府家臣たちから勝海舟は白い目で見られることが多くなった。
 勝海舟は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば勝海舟は「裏切り者」にみえる。
 実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。
 しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。
 勝海舟の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。
 友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあったという。
 久坂玄瑞や真木和泉(まき・いずみ)ら長州藩士・不貞分子ら一大勢力や三条実美ら公家が京の都で、「天子さま(天皇陛下のこと)を奪還して長州藩に連れ出し政権を握る」という恐るべき計画を立てていた。当然ながら反対勢力も多かったという。
 のちの木戸孝允こと桂小五郎も「私は反対だ!無謀過ぎる!」と反対した。「畏れ多くも御所に火を放ち鉄砲・弓・矢を向けるなどとんでもないことだ」
 当たり前の判断である。だが、長州藩は追い込まれていた。ほかならぬ薩摩藩・会津藩にである。
 窮鼠猫を噛む、ではないが長州藩危険分子は時代に追い込まれていた。この頃、久坂文は亡き兄の忘れ形見でもある松下村塾で教える立場のようなものにもなり、久坂玄瑞はたんと嫁自慢をしたという。
 だが、乱世は近づいていた。文は子供の産めない体になり、文は号泣しながら崩れる夫・久坂玄瑞に泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝り続けた。それが今生の別れとなるとは、誰も考えられなかったことだろう。
  勝海舟は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。
 内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものであるという。
 アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。
「歴史を振り返っても、国家多端な状況が今ほど激しい時はなかった。
 昔から栄枯盛衰はあったが、海外からの勢力が押し寄せて来るような事は、初めてである。泰平の世が二百五十年も続き、士気は弛み放題で、様々の弊害を及ぼす習わしが積み重なってたところへ、国際問題が起こった。
 文政、天保の初めから士民と友にしゃしを競い、士気は地に落ちた。国の財政が乏しいというが、賄賂が盛んに行われ上司に媚諂い、賄賂を使ってようやく役職を得ることを、世間の人は怪しみもしなかった。
 そのため、辺境の警備などを言えば、排斥され罰を受ける。
 しかし世人は将軍家治様の盛大を祝うばかりであった。
 文政年間に高橋作左衛門(景保)が西洋事情を考究し、刑せられた。天保十年(一八三九)には、渡辺華山、高野長英が、辺境警備を私議したとして捕縛された。
 海外では文政九年(一八一二)にフランス大乱が起こり、国王ナポレオンがロシアを攻め大敗し、流刑に処せられた後、西洋各国の軍備がようやく盛んになってきた。
 諸学術の進歩、その間に非常なものであった。
 ナポレオンがヘレナ島で死んだ後、大乱も治まり、東洋諸国との交易は盛んになる一方であった。
 天保二年、アメリカ合衆国に経済学校が開かれ、諸州に置かれた。この頃から蒸気機関を用い、船を動かす技術が大いに発達した。
 天保十三年には、イギリス人が蒸気船で地球を一周したが、わずか四十五日間を費やしたのみであった。
 世の中は移り変り、アジアの国々は学術に明るいが実業に疎く、インド、支那のように、ヨーロッパに侮られ、膝を屈するに至ったのは、実に嘆かわしいことである」
 世界情勢を知った勝海舟には、腐りきった幕府が嘆かわしく思えた。

  井伊大老のあとを受けて大老となった安藤信正は幕臣の使節をヨーロッパに派遣した。 パリ、マルセーユを巡りロンドンまでいったらしいが、成果はゼロに等しかった。
 小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。只、指をくわえて見てきただけのことである。現在の日本政治家の”外遊”に似ている。
 その安藤信正は坂下門下門外で浪人に襲撃され、負傷して、四月に老中を退いた。在職中に英国大使から小笠原諸島は日本の領土であるか? と尋ねられ、外国奉行に命じて、諸島の開拓と巡察を行ったという。開拓などを命じられたのは、大久保越中守(忠寛)である。彼は井伊大老に睨まれ、左遷されていたが、文久二年五月四日には、外国奉行兼任のまま大目付に任命された。
 幕府のゴタゴタは続いた。山形五万石の水野和泉守が、将軍家茂に海軍白書を提出した。軍艦三百七十余隻を備える幕臣に操縦させて国を守る……というプランだった。
「かような海軍を全備致すに、どれほどの年月を待たねばならぬのか?」
 勝海舟は、将軍もなかなか痛いところをお突きになる、と関心した。
 しかし、列座の歴々方からは何の返答もない。皆軍艦など知らぬ無知者ばかりである。 たまりかねた水野和泉守が、
「なにか申すことがあるであろう? 申せ」
 しかし、何の返答もない。
 大久保越中守の目配せで、水野和泉守はやっと勝海舟に声をかけた。
「勝麟太郎、どうじゃ?」
 一同の目が勝海舟に集まった。
 ”咸臨丸の艦長としてろくに働きもしなかったうえに、上司を憚らない大言壮語する” という噂が広まっていた。
 勝海舟が平伏すると、大久保越中守が告げた。
「勝海舟、それへ参れとのごじょうじゃ」
「ははっ!」
 勝海舟は座を立ち、家茂の前まできて平伏した。
 普通は座を立たずにその場で意見をいうのがしきたりだったが、勝海舟はそれを知りながら無視した。勝海舟はいう。
「謹んで申し上げます。これは五百年の後ならでは、その全備を整えるのは難しと存じまする。軍艦三百七十余隻は、数年を出ずして整うべしといえども、乗組みの人員が如何にして運転習熟できましょうか。
 当今、イギリス海軍の盛大が言われまするが、ほとんど三百年の久しき時を経て、ようやく今に至れるものでござります。
 もし海防策を、子々孫々にわたりそのご趣意に背かず、英意をじゅんぼうする人にあらざれば、大成しうるものにはございませぬ。
 海軍の策は、敵を征伐するの勢力に、余りあるものならざれば、成り立ちませぬ」
 勝海舟(麟太郎)は人材の育成を説く。武家か幕臣たちからだけではなく広く身分を問わずに人材を集める、養成するべき、と勝海舟は説く。

  長州藩に「このひとあり」という男がいた。
 長井雅楽(ながい・うた)である。
 長井雅楽は根っからの保守派で、聡明、弁舌に長じ、見識もあり、優れた人物だったという。尊皇壤夷思想の吉田松陰でさえ、
「長井は、家中屈指の人物である」と認めている。
 長州藩の失敗は吉田松陰を死においやったことだ。
 だが、悪気があった訳ではない。長井も悩み、松陰を遠くの牢に閉じ込めていたのだが、幕府に命令されて江戸に檻送し、殺された……ということである。
 しかし、長州藩士は「長井は思想を違うとする松陰を死においやった!」ととった。
 長井は、文久元年、「航海遠略策」という政策案をつくり、藩主に献上した。
 ……開国か鎖国かと日本人が議論に紛糾しているあいだに、外敵がそれにつけこんで、術中におとし入れてしまう……
 と、長井は説く。
 江戸にいた久坂玄瑞や井上聞多(のちの馨)、伊藤俊輔(のちの博文)などが、過激分子としてあった。高杉晋作などもそのひとりで、
「長井雅楽を斬る!」
 といって憚らなかった。本気で暗殺しようとしたかはわからない。
 しかし、その暗殺計画が有名になり、桂がやめさせるために上海に晋作を送ったのである。だが、長井雅楽は、晋作が上海に向かっているあいだに失脚してしまった。


 幾松は京三本木(現・京都市上京区三本木通り)の芸子として知られるが、元々は芸者をやるような卑しい身分の者ではなかった。
 幾松こと後の木戸松子は天保十四年(1843年)に若狭国小浜藩士・山崎市兵衛と、小浜藩医学師・細井太仲の娘・未子の娘として生まれている。
 名は計(かず)、のちに芸者として幾松と知られ、維新後に桂小五郎(木戸孝允)の妻・木戸松子になり、夫の死後、翠香院と号した。
 武家の娘としてなに不自由なく育った計だったが、不幸は後から後からやってくる。
 実家が生活苦になったため、公家の九条家諸太夫の次男・難波恒次郎の養女となることになったのもまた運命である。
「お父上様、お母上様、お世話になりました。計は養女にまいりまする」
 計は幼いながらも父母に平伏して別れの挨拶をした。武家の身から公家の太夫に養女に出された。計は涙を堪えていた。「許せ、計!」父は涙を流していった。
 しかし、養女として出されたものの、義父・恒次郎は苦労知らずののぼせあがりであり、またそれも更なる不幸に繋がった。恒次郎は享楽に耽り、遊ぶ金が底をついた。
 そして、義父・恒次郎は遊ぶ金欲しさに計を芸子にしてしまう。
 こうして、京三本木の芸子・幾松(二代目)となった計は、覚悟を決めた。
「うちにはもう何もあらへん。これからは幾松として……芸者として身を立てにゃあかん」 麗しい芸子・幾松は三本木でも有名になっていく。
 そして、桂と出会った。それは文久元年(1861年)、幾松十八歳の頃だった。
 桂小五郎は長州藩士で、色男で、いろいろな女子にもてた。が、やがて幾松に夢中になり、恋人関係となっていく………


「いやぁ、かっちゃんには借りができちまった」
 若き土方歳三は江戸の町を歩きながらいった。”かっちゃん”とは島崎勝太、のちの近藤勇である。昼時で、空は限りなく蒼天だった。嘉永六年(一八五三)一月のことである。「かっちやんじやないよもう俺は…」近藤は頬に手を当てながらいった。「近藤先生の養子で次期宗家の”近藤勇”だ」
「いさみ? 何でいさむじゃないんだ?」
「知らないよ。先生がつけた名前だから」
 土方はおどけて「いさみ足のいさみか?」と笑った。
「そりゃないよトシさん」近藤はふくれた。「今だってトシさんの女に別れ話して平手打ちされたんだぜ。俺が……付き合ってもない女子に」
「ははは…」土方は笑った。「だから借りが出来たっていったろ?」
 近藤は呆れた。
 土方は誰もいないときは近藤勇を「近藤さん」とぞんざいに呼んだという。近藤は土方のことを「トシサン」で呼ぶ。同じ多摩の百姓出身である。近藤は、武州多摩郡上石原の出で、近在の田舎道場の天然理心流の指南役・近藤周助の養子となる。十代から二十代にかけて関東(八王子周辺)の村々をまわって農民相手に剣を教えたという。
 たまたま多摩郡日野村に斎藤彦五郎という郷土があり、彦五郎は土方にとって姉婿で、彦五郎は天然理心流の保護者であったともいわれている。それが近藤と土方の縁となった。 ともに親友で、青年時代を共にしてきたふたりは、緊密、なものがあった。
「トシさんはいつも女の尻ばかり追いかけてる」
 近藤は愚痴った。「もっと他にいいことないのか?」
「いいことって?」
「例えば、この日本国のために何かするとか…」
「日本国? へん、でかいこというね」土方は笑った。「それでかっちゃんは日本のために何をする?」
「まず剣で世の中を渡っていく。そして幕府を守るんだ」
「幕府? 百姓に何ができる?」
「百姓出身だって…」近藤は口をくもらせた。「秀吉だって百姓から天下人になった」
 その言葉は近藤自身にも薄っぺらに聞こえた。
 土方は「時代が違うよ、時代が! 戦国時代と今の幕藩体制では違うよ。今、秀吉が生まれてたら天下はとれないぜ、きっと」と嘲笑気味にいった。
「そりゃそうだがトシさん…」
 近藤は口をつぐんだ。とにかく土方は聞く耳をもたない。そんな相手に何をいってもムダというものだ。土方は「腹減ったな。蕎麦でも食べようぜ」といった。
 本当に聞く耳がない。
 町の蕎麦屋にいって近藤と土方は蕎麦をずるずるすすった。すると、遠くの席にいた男が「やはり江戸の蕎麦はマズイ!」とハッキリいった。
 ふたりはその男をみた。その男こそ長州の桂小五郎だった。りっぱな服を着て、きりりとした涼しい目をしたハンサムな男であった。「マズイ!」はっきりいった。
「……なんだと…この野郎」
 そういったのは店のものではない。土方だった。しかし、近藤がとめた。そして、
「あれ? 桂さん!」と気付いた。
「おう! 近藤くん」桂小五郎はにやりとした。近藤は「トシさん、こちらの方は長州の桂小五郎さん。近くの道場の師範だ」と土方に紹介した。しかし、土方は何も言わなかった。ムカムカしていた。よくも江戸の食べ物を馬鹿にしやがって!
 桂は席を立った。まだ蕎麦は一口つけただけである。
「桂さん蕎麦食べないのですか? 随分残ってますけど…」と近藤。
「マズイものはいらぬ」桂小五郎は冷ややかにいった。「君達の分も私が奢ろう」
 桂小五郎は代金三十六文を払った。
「桂さん、奢ってもらわなくても…」近藤は狼狽すると、土方が「江戸の食べ物を馬鹿にしやがって! 斬り殺してやる!」と殺気だった。
「馬鹿いうなトシサン。相手は神道無心流免許皆伝……かなう相手ではない」
 ふたりは店を出た。桂を追いかけた。「なんだね?」
「桂さん、俺たちはあなたに奢ってもらう訳にはいきません。銭は返します」
「断る!」桂小五郎はキッパリいった。
「どげんしたぜよ? 桂さん」急にやってきた男がいった。浅黒い肌の、近視のもじゃもじゃチヨンマゲの男だった。足には草履ではなくブーツを履いている。面長な男…
「やあ、坂本くんか」桂小五郎はにこりとした。そう、この若い男こそ坂本龍馬であった。これが初対面であったという。「わしは坂本龍馬じゃけんど、おぬしらは誰ぜよ?」
 桂はにやりとして「このふたりは貧乏道場の…」”貧乏は余計だ”近藤は思った。「天然なんとか流のもので」”理心流だ”近藤は思って舌打ちした。「近藤くんたちだ」
「よろしくぜよ!」龍馬は近藤らと握手した。ふたりは戸惑った。
 そんなとき、桂小五郎はもう橋の上だった。「坂本くん! 明日忘れるなよ」
 そういって桂は去った。
 土方は「あいついつかぶっ殺してやる!」と息巻いた。
「おいおいぶっそうなことはなしぜよ。おんなじ日本人同士じゃなかが」竜馬は笑った。 そして「明日、浦賀の黒船を見にいく。おぬしらも来るか?」と尋ねた。
「黒船? 桂さんと?」とは近藤。
 竜馬は「そう。そしてなんと佐久間象山先生も一緒ぜよ。象山先生はわしの砲術の先生でな」と平然といった。近藤と土方は興味津々だった。……黒船か……見てみたい…
「黒船みたら人生が変わるぜよ」竜馬はにやりといった。


「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹・文の生涯<維新回天 完全版>2015年大河ドラマ原作4

2015年06月27日 06時54分34秒 | 日記










桂小五郎と新選組


  竜馬は江戸の長州藩邸にいき事情をかくかくしかしかだ、と説明した。
 晋作は呆れた。「なにーい?!勝海舟を斬るのをやめて、弟子になった?」
「そうじゃきい、高杉さんすまんちや。約束をやぶったがは謝る。しかし、勝先生は日本のために絶対に殺しちゃならん人物じゃとわかったがじゃ!」
「おんしは……このまえ徳川幕府を倒せというたろうが?」
「すまんちぃや。勝先生は誤解されちょるんじゃ。開国を唱えちょるがは、日本が西洋列強に負けない海軍を作るための外貨を稼ぐためであるし。それにの、勝先生は幕臣でありながら、幕府の延命策など考えちょらんぞ。日本を救うためには、幕府を倒すも辞さんとかんがえちょるがじゃ!」
「勝は大ボラ吹きで、二枚舌も三枚舌も使う男だ!君はまんまとだまされたんだ!目を覚ませ!」
「いや、それは違うぞ、高杉さん。まあ、ちくりと聞いちょくれ!」
 同席の山県有朋や伊藤俊輔(博文)らが鯉口を斬り、「聞く必要などない!こいつは我々の敵になった!俺らが斬ってやる!」と息巻いた。
「待ちい、早まるなち…」
 高杉は「坂本さん、刃向うか?」
「ああ…俺は今、斬られて死ぬわけにはいかんきにのう」
 高杉は考えてから「わかってた坂本君、こちらの負けだ。刀は抜くな!」
「ありがとう高杉さん、わしの倒幕は嘘じゃないきに、信じとうせ」竜馬は場を去った。
 
 夜更けて、龍馬は師匠である勝海舟の供で江戸の屋形船に乗った。
 勝海舟に越前福井藩の三岡八郎(のちの由利公正・ゆりきみまさ)と越前藩主・松平春嶽公と対面し、黒船や政治や経済の話を訊き、大変な勉強になった。
 龍馬は身分の差等気にするような「ちいさな男」ではない。春嶽公も龍馬も屋形船の中では対等であったという。
 そこには土佐藩藩主・山内容堂公の姿もあった。が、殿さまがいちいち土佐の侍、しかも上士でもない、郷士の坂本竜馬の顔など知る訳がない。
 龍馬が土佐勤王党と武市らのことをきくと「あんな連中虫けらみたいなもの。邪魔になれば捻りつぶすだけだ」という。
 容堂は勝海舟に「こちらの御仁は?」ときくので、まさか土佐藩の侍だ、等というわけにもいかず、
「ええ~と、こいつは日本人の坂本です」といった。
「日本人?ほう」
 坂本竜馬は一礼した。……虫けらか……武市さんも以蔵も報われんのう……何だか空しくなった。
 坂本竜馬がのちの妻のおりょう(樽崎龍)に出会ったのは京であった。
 おりょうの妹が借金の形にとられて、慣れない刀で刃傷沙汰を起こそうというのを龍馬がとめた。
「やめちょけ!」
「誰やねんな、あんたさん?!あんたさんに関係あらしません!」
 興奮して激しい怒りでおりょうは言い放った。
「……借金は……幾らぜ?」
「あんたにゃ…関係あらへんていうてますやろ!」
 宿の女将が「おりょうちゃん、あかんで!」と刀を構えるおりょうにいった。
「おまん、おりょういうがか?袖振り合うのも多少の縁……いうちゅう。わしがその借金払ったる。幾らぜ?」
 おりょうは激高して「うちは乞食やあらしまへん!金はうちが……何とか工面するよって…黙りや!」
「何とも工面できんからそういうことになっちゅうろうが?幾らぜ?三両か?五両かへ?」
「……うちは…うちは……乞食やあらへん!」おりょうは涙目である。悔しいのと激高で、もうへとへとであった。
「そうじゃのう。おまんは乞食にはみえんろう。そんじゃきい、こうしよう。金は貸すことにしよう。それでこの宿で、女将のお登勢さんに雇ってもらうがじゃ、金は後からゆるりと返しゃええきに」
 おりょうは絶句した。「のう、おりょう殿」竜馬は暴れ馬を静かにするが如く、おりょうの激高と難局を鎮めた。
「そいでいいかいのう?お登勢さん」
「へい、うちはまあ、ええですけど。おりょうちゃんそれでええんか?」
 おりょうは答えなかった。
 ただ、涙をはらはら流すのみ、である。

  武市半平太らの「土佐勤王党」の命運は、あっけないものであった。
 土佐藩藩主・山内容堂公の右腕でもあり、ブレーンでもあった吉田東洋を暗殺したとして、武市半平太やらは土佐藩の囚われとなった。
 武市は土佐の自宅で、妻のお富と朝食中に捕縛された。「お富、今度旅行にいこう」
 半平太はそういって連行された。
 吉田東洋を暗殺したのは岡田以蔵である。だが、命令したのは武市である。
 以蔵は拷問を受ける。だが、なかなか口を割らない。
 当たり前である。どっちみち斬首の刑なのだ。以蔵は武市半平太のことを「武市先生」と呼び慕っていた。
 だが、白札扱いで、拷問を受けずに牢獄の衆の武市の使徒である侍に「毒まんじゅう」を差し出されるとすべてを話した。
 以蔵は斬首、武市も切腹して果てた。壮絶な最期であった。
 一方、龍馬はその頃、勝海舟の海軍操練所の金策にあらゆる藩を訪れては「海軍の重要性」を説いていた。
 だが、馬鹿幕府は海軍操練所をつぶし、勝海舟を左遷してしまう。
「幕府は腐りきった糞以下だ!」
 勝麟太郎(勝海舟)は憤激する。だが、怒りの矛先がありゃしない。龍馬たちはふたたび浪人となり、薩摩藩に、長崎にいくしかなくなった。
 ちなみにおりょう(樽崎龍)が坂本竜馬の妻だが、江戸・千葉道場の千葉さな子は龍馬を密かに思い、生涯独身で過ごしたという。


  新選組の血の粛清は続いた。
 必死に土佐藩士八人も戦った。たちまち、新選組側は、伊藤浪之助がコブシを斬られ、刀をおとした。が、ほどなく援軍がかけつけ、新選組は、いずれも先を争いながら踏み込み踏み込んで闘った。土佐藩士の藤崎吉五郎が原田左之助に斬られて即死、宮川助五郎は全身に傷を負って手負いのまま逃げたが、気絶し捕縛された。他はとびおりて逃げ去った。 土方は別の反幕勢力の潜む屋敷にきた。
「ご用改めである!」歳三はいった。ほどなくバタバタと音がきこえ、屋敷の番頭がやってきた。「どちらさまで?」
「新選組の土方である。中を調べたい!」
 泣く子も黙る新選組の土方歳三の名をきき、番頭は、ひい~っ、と悲鳴をあげた。
 殺戮集団・新選組……敵は薩摩、長州らの倒幕派の連中だった。
  文久三年。幕府からの要請で、新選組は見回りを続けた。
 ……長州浪人たちが京を焼き討ちするという噂が広がっていた。新選組は毎晩警護にあたった。池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だったという。このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかったという。
 最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。新選組はさっそく捜査を開始した。そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。
 池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。
 桂小五郎は「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。
 ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。
 あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。
 いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にだんだら染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。
「新選組だ! ご用改めである!」近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がそれに続いた。「桂はん…新選組です」のちの妻・幾松が彼につげた。桂は「すまぬ」といい遁走した。そして、十年前………


 桂小五郎は江戸幕府300年の支配体制を崩し、近代日本国家(官僚制と徹底した学歴主義)の礎を築いた。小五郎にはもちろん父親がいた。木戸孝允は名を桂小五郎という。父は和田昌景(まさかげ)であり、彼は息子・小五郎だけでなく息子の弟子的な高杉晋作や久坂玄瑞のひととなりを愛し、ひまがあれば小五郎や高杉少年らに学問や歴史の話をした。
「歴史から学べ。温故知新だ」「苦労は買ってでもせい」「学問で下級武士でもなんとかなる」そう言って憚らなかった。もう一人の教師は長州の偉人・吉田松陰である。
 時代に抜きん出た傑物で、長崎江戸で蘭学、医術を学び、海外にくわしく、航海発達の重要性を理解していた。ハイカラな兄さんで、小五郎や高杉晋作は学ぶことが多かった。
 桂小五郎家は長州下級武士であったが、父・昌景には先妻があり、女子二人をもうけ、長女を養子にとったところ長女が死に、次女をその後妻とした。後妻との間に小五郎と妹が出来た。
 大久保一蔵(利通)と西郷吉之助(隆盛)は島津公の後妻・お由羅と子の久光を嫌っていた。一蔵などは「お由羅と久光はこの薩摩の悪である」といって憚らなかった。
 だが、いわゆる「お由羅騒動」で大久保一蔵(利通)の父親・利世が喜界島に「島流し」にあう。父親の昌景が死ぬと小五郎は急に母親や妹の養育費や生活費にも困る有様に至った。箪笥預金も底をつくと借金に次ぐ借金の生活となった。「また借金か! この貧乏侍!」借金のためにあのプライドの高い桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)も土下座、唾や罵声を浴びせかけられても土下座した。「すんません、どうかお金を貸してくれなんもし!」
 悲惨な生活のユートピアは竹馬の友・高杉晋作、久坂玄瑞、吉田松陰先生との勉強会であった。吉田の塾は「松下村塾」という。
 それにしても圧巻し、尊敬出来るのは吉田松陰公である。桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞ともに最初は「尊皇攘夷派」であった。しかし公は「攘夷などくだらないぞ、草莽掘起だ!」という。何故か?「外国と我が国の戦力の差は物凄い。あんなアームストロング砲やマシンガン、蒸気船を持つ国と戦っても日本は勝てぬ。日本はぼろ負けする。だが、草莽の志士なら勝てるだろう!」
 なるほどな、と桂小五郎と高杉晋作、久坂玄瑞はおもった。さもありなん、である。この吉田松陰(しょういん)公は愚かではない。
  そんなとき、桂小五郎(木戸孝允)は結婚した。相手は芸者・幾松(いくまつ)である。松子と名を改めた。だがなんということだろう。知略に富んだ長州藩の大人物ともでいわれた吉田松陰公が処刑された。桂小五郎も高杉晋作も久坂玄瑞も「松陰公!」と家で号泣し、肩を震わせて泣いた。吉田松陰は船で黒船に近づき、「世界を見たい。乗せてくれ」といい断られ、ご禁制を破った大罪人として処刑されたのだ。何故だ?何故に神仏は松陰公の命を奪ったのですか?吉田松陰公なき長州藩はおわりじゃっ。この時期、薩摩の島津斉彬公も病死する。
 大久保利通や西郷隆盛は成彬公の策をまず実行することとした。薩摩の大名の娘(島津斉彬の養女)篤子(篤姫)を、江戸の徳川将軍家の徳川家定に嫁がせた。
 だが、一蔵も吉之助も驚いた。家定は知恵遅れであったのである。ふたりは平伏しながらも、口からよだれを垂らし、ぼーうっとした顔で上座に座っている家定を見た。呆れた。こんなバカが将軍か。だが、そんな家定もまもなく病死した。後釜は徳川紀州藩主の徳川家茂(いえもち)である。篤子(篤姫)は出家し「天璋院」と名をかえた。
 ここは江戸の貧乏道場で、天気は晴れだった。もう春である。
 土方は「俺もそう思ってた。サムライになれば尊皇壤夷の連中を斬り殺せる」
「しかし…」近藤は戸惑った。「俺たちは百姓や浪人出身だ。幕府が俺たちを雇うか?」「剣の腕があれば」斎藤一は真剣を抜き、バサッと斬る仕種をした。「なれる!」
 近藤らは笑った。
「近藤先生は、流儀では四代目にあらせられる」ふいに、永倉新八がそういった。
 三代目は近藤周助(周斎)、勇は十六歳のときに周斎に見込まれて養子となり、二十五歳のとき、すべてを継承した。
 いかにも武州の田舎流儀らしく、四代目の披露では派手な野試合をやった。場所は府中宿の明神境内東の広場である。安政五年のことだという。
 沖田惚次郎も元服し、沖田総司と名乗った。
 土方歳三は詐欺まがいのガマの油売りのようなことで薬を売っていた。しかし、道場やぶりがバレて武士たちにリンチをうけた。傷だられになった。
「……俺は強くなりたい」痛む体で土方は思った。
 近藤勇も道場の義母に「あなたは百姓です! 身の程を知りなさい」
 といわれ、悔しくなった。土方の兄・為次郎はいった。
「新しい風が吹いている。それは岩をも動かすほどの嵐となる。近藤さん、トシ…国のためにことを起こすのだ!」
 近藤たちは「百姓らしい武士になってやる!」と思った。
 この年(万延元年(一八六〇))勝海舟が咸臨丸でアメリカへいき、そして桜田門外で井伊大老が暗殺された。雪の中に水戸浪人の死体が横たわっている。
 近藤は愕然として、野次馬の中で手を合わせた。「幕府の大老が……」
「あそこに横たわっているのは特別な存在ではない。われわれと同じこの国を思うものたちです」山南敬助がいった。「陣中報告の義、あっぱれである!」酒をのみながら野次馬の中の芹沢鴨が叫んだ。
「俺も武士のようなものになりたい」土方は近藤の道場へ入門した。
 この年、近藤勇は結婚した。相手はつねといった。
 けっこう美人なほうである。

「百姓の何が悪い!」近藤は怒りのもっていく場所が見付からず、どうにも憂欝になった。せっかく「サムライ」になれると思ったのに……くそっ!
「どうでした? 近藤先生」
 道場に戻ると、沖田少年が好奇心いっぱいに尋ねてきた。土方も「採用か?」と笑顔をつくった。近藤勇は「ダメだった……」とぼそりといった。
「負けたのですか?」と沖田。近藤は「いや、勝った。全員をぶちのめした。しかし…」 と口ごもった。
「百姓だったからか?」土方歳三するどかった。ずばりと要点をついてくる。
「……その通りだトシサン」
 近藤は無念にいった。がくりと頭をもたげた。
 ……なにが身分は問わずだ……百姓の何が悪いってんだ?

  この頃、庄内藩(山形県庄内地方)に清河八郎という武士がいた。田舎者だが、きりりとした涼しい目をした者で、「新選組をつくったひと」として死後の明治時代に”英雄”となった。彼は藩をぬけて幕府に近付き、幕府武道指南役をつくらせていた。
  遊郭から身受けた蓮という女が妻である。清河八郎は「国を回天」させるといって憚らなかった。まず、幕府に武装集団を作らせ、その組織をもって幕府を倒す……まるっきり尊皇壤夷であり、近藤たちの思想「佐幕」とはあわない。しかし、清河八郎はそれをひた隠し、「壬生浪人組(新選組の前身)」をつくることに成功する。
 その後、幕府の密偵を斬って遁走する。

  文久三(一八六三)年一月、近藤に、いや近藤たちにふたたびチャンスがめぐってきた。それは、京にいく徳川家茂のボディーガードをする浪人募集というものだった。
 その頃まで武州多摩郡石田村の十人兄弟の末っ子にすぎなかった二十九歳の土方歳三もそのチャンスを逃さなかった。当然、親友で師匠のはずの近藤勇をはじめ、同門の沖田総司、山南敬助、井上源三郎、他流派ながら永倉新八、藤堂平助、原田左之助らとともに浪士団に応募したのは、文久二年の暮れのことであった。
 微募された浪士団たちの初顔合わせは、文久三(一八六三)年二月四日であった。
 会合場所は、小石川伝通院内の処静院であこなわれたという。    
 その場で、土方歳三は初めてある男(芹沢鴨)を見た。
 土方歳三の芹沢鴨への感情はその日からスタートしたといっていいという。
 幕府によって集められた浪人集は、二百三十人だった。世話人であった清河によって、隊士たちは「浪人隊」と名づけられた。のちに新微隊、そして新選組となる。
 役目は、京にいく徳川家茂のボディーガードということであったが、真実は京の尊皇壤夷の浪人たちを斬り殺し、駆逐する組織だった。江戸で剣術のすごさで定評のある浪人たちが集まったが、なかにはひどいのもいたという。
 京には薩摩や長州らの尊皇壤夷の浪人たちが暗躍しており、夜となく殺戮が行われていた。将軍の守護なら徳川家の家臣がいけばいいのだが、皆、身の危険、を感じておよび腰だった。そこで死んでもたいしたことはない”浪人”を使おう……という事になったのだ。「今度は百姓だからとか浪人だからとかいってられめい」
 土方は江戸訛りでいった。
「そうとも! こんどこそ好機だ! 千載一遇の好機だ」近藤は興奮した。
 すると沖田少年が「俺もいきます!」と笑顔でいった。
 近藤が「総司はまだ子供だからな」という。と、沖田が、「なんで俺ばっか子供扱いなんだよ」と猛烈に抗議しだした。
「わかったよ! 総司、お前も一緒に来い!」
 近藤はゆっくり笑顔で頷いた。
  今度は”採用取り消し”の、二の舞い、にはならなかった。”いも道場”試護館の十一人全員採用となった。「万歳! 万歳! これでサムライに取り立てられるかも知れない!」一同は歓喜に沸いた。
 近藤の鬼瓦のような顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいと同時に大人っぽくもある。魅力的な説得力のある微笑だった。
 彼等の頭の中には「サムライの世はもうすぐ終わる…」という思考はいっさいなかったといっても過言ではない。なにせ崩れゆく徳川幕府を守ろう、外国人を追い払おう、鎖国を続けようという「佐幕」のひとたちなのである。


  ある昼頃、近藤勇と土方歳三が江戸の青天の町を歩いていると、「やぁ! 鬼瓦さんたち!」と声をかける男がいた。坂本龍馬だった。彼はいつものように満天の笑顔だった。
「坂本さんか」近藤は続けた。「俺は”鬼瓦さん”ではない。近藤。近藤勇だ」
「……と、土方歳三だ」と土方は胸を張った。
「そうかそうか、まぁ、そんげんことどげんでもよかぜよ」
「よくない!」と近藤。
 龍馬は無視して「そげんより、わしはすごい人物の弟子になったぜよ」
「すごい人物? 前にあった佐久間なんとかというやつですか? 俺を鬼瓦扱いした…」「いやいや、もっとすごい人物じゃきに。天下一の学者で、幕府の重要人物ぜよ」
「重要人物? 名は?」
「勝!」龍馬はいかにも誇らしげにいった。「勝安房守……勝海舟先生じゃけん」
「勝海舟? 幕府の軍艦奉行の?」近藤は驚いた。どうやって知り合ったのだろう。
「会いたいきにか? ふたりとも」
 近藤たちは頷いた。是非、会ってみたかった。
 龍馬は「よし! 今からわしが会いにいくからついてきいや」といった。
  近藤たちは首尾よく屋敷で、勝海舟にあうことができた。勝は痩せた体で、立派な服をきた目のくりりとした中年男だった。剣術の達人だったが、ひとを斬るのはダメだ、と自分にいいきかせて刀の鍔と剣を紐でくくって刀を抜けないようにわざとしていた。
 なかなかの知識人で、咸臨丸という幕府の船に乗りアメリカを視察していて、幅広い知識にあふれた人物でもあった。
 そんな勝には、その当時の祖国はいかにも”いびつ”に見えていた。
「先生、お茶です」龍馬は勝に茶を煎じて出した。
 近藤たちは緊張して座ったままだった。
 そんなふたりを和ませようとしたのか、勝海舟は「こいつ(坂本龍馬のこと)俺を殺そうと押しかけたくせに……俺に感化されてやんの」とおどけた。
「始めまして先生。みどもは近藤勇、隣は門弟の土方歳三です」
 近藤は下手に出た。
「そうか」勝は素っ気なくいった。そして続けて「お前たち。日本はこれからどうなると思う?」と象山と同じことをきいてきた。
「……なるようになると思います」近藤はいつもそれだった。
「なるように?」勝は笑った。「俺にいわせれば日本は西洋列強の中で遅れてる国だ。軍艦も足りねぇ、銃も大砲もたりねぇ……このままでは外国に負けて植民地だわな」
 近藤は「ですから日本中のサムライたちが立ち上がって…」といいかけた。
「それが違う」勝は一蹴した。「もう幕府がどうの、薩長がどうの、会津がどうの黒船がどうのといっている場合じゃないぜ。主権は徳川家のものでも天皇のものでもない。国民皆のものなんだよ」
「……国民? 民、百姓や商人がですか?」土方は興味を示した。
「そうとも! メリケン(アメリカ)ではな。国の長は国民が投票して選ぶんだ。日本みたいに藩も侍も身分も関係ない。能力があればトップになれるんだ」
「………トップ?」
「一番偉いやつのことよ」勝は強くいった。
 近藤は「徳川家康みたいにですか?」と問うた。
 勝は笑って「まぁな。メリケンの家康といえばジョージ・ワシントンだ」
「そのひとの子や子孫がメリケンを支配している訳か?」
 勝の傲慢さに腹が立ってきた土方が、刀に手をそっとかけながら尋ねた。
「まさか!」勝はまた笑った。「メリケンのトップは世襲じゃねぇ。国民の投票で決めるんだ。ワシントンの子孫なんざもう落ちぶれさ」
「そうじゃきぃ。メリケンすごいじゃろう? わが日本国も見習わにゃいかん!」
 今まで黙っていた龍馬が強くいった。
 近藤は訝しげに「では、幕府や徳川さまはもういらぬと?」と尋ねた。
「………そんなことはいうてはいねぇ。ぶっそうなことになるゆえそういう誤解めいたことは勘弁してほしいねえ」勝海舟はいった。
 そして、「これ、なんだかわかるか?」と地球儀をもって近藤と土方ににやりと尋ねた。 ふたりの目は点になった。
「これが世界よ。ここが日本……ちっぽけな島国だろ?ここがメリケン、ここがイスパニア、フランス…信長の時代には日本からポルトガルまでの片道航海は二年かかった。だがどうだ? 蒸気機関の発明で、今ではわずか数か月でいけるんだぜ」
 勝に呼応するように龍馬もいった。「今は世界ぜよ! 日本は世界に出るんぜよ!」


 「浪人隊」の会合はその次の日に行われた。武功の次第では旗本にとりたてられるとのうわさもあり、すごうでの剣客から、いかにもあやしい素性の不貞までいた。処静院での会合は寒い日だった。場所は、万丈百畳敷の間だ。公儀からは浪人奉行鵜殿鳩翁、浪人取締役山岡鉄太郎(のちの鉄舟)が臨席したのだという。
 世話は出羽(山形県)浪人、清河八郎がとりしきった。
 清河が酒をついでまわり、「仲良くしてくだされよ」といった。
 子供ならいざしらず、互いに素性も知らぬ浪人同士ですぐ肩を組める訳はない。一同はそれぞれ知り合い同士だけでかたまるようになった。当然だろう。
 そんな中、カン高い声で笑い、酒をつぎ続ける男がいた。口は笑っているのだが、目は異様にぎらぎらしていて周囲を伺っている。
「あれは何者だ?」
 囁くように土方は沖田総司に尋ねた。この頃十代後半の若者・沖田は子供のような顔でにこにこしながら、
「何者でしょうね? 俺はきっと水戸ものだと思うな」
「なぜわかるんだ?」
「だって……すごい訛りですよ」
 土方歳三はしばらく黙ってから、近藤にも尋ねた。近藤は「おそらくあれば芹沢鴨だろう」と答えた。
「…あの男が」土方はあらためてその男をみた。芹沢だとすれば、有名な剣客である。神道無念流の使い手で、天狗党(狂信的な譲夷党)の間で鳴らした男である。
「あまり見ないほうがいい」沖田は囁いた。


  隊士二百三十四人が京へ出発したのは文久三年二月八日だった。隊は一番から七番までわかれていて、それぞれ伍長がつく。近藤勇は局長でもなく、土方も副長ではなかった。 のちの取締筆頭局長は芹沢鴨だった。清河八郎は別行動である。
 近藤たち七人(近藤、沖田、土方、永倉、藤堂、山南、井上)は剣の腕では他の者に負けない実力があった。が、無名なためいずれも平隊士だった。
  浪人隊は黙々と京へと進んだ。
   途中、近藤が下働きさせられ、ミスって宿の手配で失敗し、芹沢鴨らが野宿するはめになるが、それは次項で述べたい。
  浪人隊はやがて京に着いた。
 その駐屯地での夜、清河八郎はとんでもないことを言い出した。
「江戸へ戻れ」というのである。
 この清河八郎という男はなかなかの策士だった。この男は「京を中心とする新政権の確立こそ譲夷である」との思想をもちながら、実際行動は、京に流入してくる諸国脱・弾圧のための浪人隊(新選組の全身)設立を幕府に献策した。だが、組が結成されるやひそかに京の倒幕派に売り渡そうとしたのである。「これより浪士組は朝廷のものである!」
 浪士たちは反発した。清河はひとりで江戸に戻った。いや、その前に、清河は朝廷に働きかけ、組員(浪士たち)が反発するのをみて、隊をバラバラにしてしまう。
 近藤たちは京まできて、また「浪人」に逆戻りしてしまった。
 勇のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、脅威的な形をとりはじめていた。彼の本能すべてに警告の松明がついていた。その緊張は肩や肘にまでおよんだが、勇は冷静な態度をよそおった。
「ちくしょうめ!」土方は怒りに我を忘れ叫んだ。
 とにかく怒りの波が全身の血管の中を駆けぬけた。頭がひどく痛くなった。
(清河八郎は江戸へ戻り、幕府の密偵を斬ったあと、文久三年四月十三日、刺客に殺されてしまう。彼は剣豪だったが、何分酔っていて敵が多すぎた。しかし、のちに清河八郎は明治十九年になって”英雄”となる)

「近藤さん」土方は京で浪人となったままだった。「何か策はないか?」
 勇は迷ってから、ひらめいた。「そうだ。元々俺たちは徳川家茂さまの守護役できたのではないか。なら、京の治安維持役というのはどうだ?」
「それはいいな。さっそく京の守護職に文を送ろう」
「京の守護職って誰だっけ? トシサン」
「さあな」
「松平…」沖田が口をはさんだ。「松平容保公です。会津藩主の」
  近藤はさっそく文を書いて献上した。…”将軍が江戸にもどられるまで、われら浪士隊に守護させてほしい”
 文を読んだ松平容保は、近藤ら浪士隊を「預かり役」にした。
 この頃の京は治安が著しく悪化していた。浪人たちが血で血を洗う戦いに明け暮れていたのだ。まだ、維新の夜明け前のことである。
 近藤はこの時期に遊郭で深雪太夫という美しい女の惚れ込み、妾にした。
 勇たちは就職先を確保した。
 しかし、近藤らの仕事は、所詮、安い金で死んでも何の保証もないものでしかなかった。 近藤はいう。
 ……天下の安危、切迫のこの時、命捨てんと覚悟………

 ”芹沢の始末”も終り、京の本拠地を「八木邸(京都市中京区壬生)に移した。壬生浪人組。隊士たちは皆腕に覚えのあるものたちばかりだったという。江戸から斎藤一も駆けつけてきて、隊はいっそう強力なものとなった。そして、全国からぞくぞくと剣豪たちが集まってきていた。土方、沖田、近藤らは策を練る。まずは形からだ。あさきく色に山形の模様…これは歌舞伎の『忠臣蔵』の衣装をマネた。そして、「誠」の紅色旗………
 土方は禁令も発する。
 一、士道に背くこと 二、局を脱すること 三、勝手に金策すること 四、勝手の訴訟を取り扱うこと  (永倉日記より)
 やぶれば斬死、切腹。土方らは恐怖政治で”組”を強固なものにしようとした。
  永久三(一八六三)年四月二十一日、家茂のボディーガード役を見事にこなし、初仕事を終えた。近藤勇は満足した顔だった。人通りの多い道を凱旋した。
「誠」の紅色旗がたなびく。
 沖田も土方も満足した顔だった。京の庶民はかれらを拍手で迎えた。
  壬生浪士隊は次々と薩摩や長州らの浪人を斬り殺し、ついに天皇の御所警護までまかされるようになる。登りつめた! これでサムライだ!
 土方の肝入で新たに採用された大阪浪人山崎蒸、大阪浪人松原忠司、谷三十郎らが隊に加わり、壬生浪人組は強固な組織になった。芹沢は粗野なだけの男で政治力がなく、土方や山南らはそれを得意とした。近藤勇の名で恩を売ったり、近藤の英雄伝などを広めた。      
 そのため、パトロンであるまだ若い松平容保公(会津藩主・京守護職)も、
「立派な若者たちである。褒美をやれ」と家臣に命じたほどだった。
 そして、容保は書をかく。
 ……………新選組
「これからは壬生浪人組は”新選組”である! そう若者たちに伝えよ!」
 容保は、近藤たち隊に、会津藩の名のある隊名を与えた。こうして、『新選組』の活動が新たにスタートしたのである。
 新選組を史上最強の殺戮集団の名を高めたのは、かれらが選りすぐりの剣客ぞろいであることもあるが、実は血も凍るようなきびしい隊規があったからだという。近藤と土方は、いつの時代も人間は利益よりも恐怖に弱いと見抜いていた。このふたりは古きよき武士道を貫き、いささかでも未練臆病のふるまいをした者は容赦なく斬り殺した。決党以来、死罪になった者は二十人をくだらないという。
 もっとも厳しいのは、戦国時代だとしても大将が死ぬば部下は生き延びることができたが、新選組の近藤と土方はそれを許さなかった。大将(伍長、組頭)が討ち死にしたら後をおって切腹せよ! …というのだ。
 このような恐怖と鉄の鉄則によって「新選組」は薄氷の上をすすむが如く時代の波に、流されていくことになる。                             



 和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。
 和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        
 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
 和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
  この頃、文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
  家茂は妻・和宮と話した。
 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」
 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
  薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。

「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹・文の生涯<維新回天 完全版>2015年大河ドラマ原作3

2015年06月26日 07時49分58秒 | 日記









外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を父の借金の返済にあてた。
 しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。松陰はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! ぼくの名を汚すようなマネは許さんぞ!」
 松陰の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。
「“兵学”の吉田(松陰)、“儒学”の小田村(伊之助)がいれば長州藩も安泰じゃ」
 のちの文の二番目の旦那さんとなる楫取素彦(かとり・もとひこ)こと小田村伸之介が、文の姉の杉寿(すぎ・ひさ)と結婚したのはこの頃である。文も兄である吉田寅次郎(松陰)も当たり前ながら祝言に参加した。まだ少女の文は白無垢の姉に、
「わあ、寿姉やん、綺麗やわあ」
 と思わず声が出たという。松陰は下戸ではなかったが、粗下戸といってもいい。お屠蘇程度の日本酒でも頬が赤くなったという。
 少年時代も青年期も久坂玄瑞は色男である。それに比べれば高杉晋作は馬顔である。
 当然ながら、というか杉文は久坂に淡い懸想(けそう・恋心)を抱く。現実的というか、歴史的な事実だけ書くならば、色男の久坂は文との縁談を一度断っている。何故なら久坂は面食いで、文は「器量が悪い(つまりブス)」だから。
 だが、あえて大河ドラマ的な場面を踏襲するならば文は初恋をする訳である。それは兄・吉田松陰の弟子の色男の少年・久坂義助(のちの玄瑞)である。ふたりはその心の距離を縮めていく。最初、杉文は尊兄・吉田松陰の親友の小田村伊之助(楫取素彦)に恋い焦がれていた。しかし、あえなく失恋。小田村が杉文の姉・杉寿と祝言をあげたためだ。
そして久坂玄瑞との運命。
 若い秀才な頭脳と甘いマスクの少年と、可憐な少女はやがて恋に落ちるのである。雨宿りの山小屋での淡い恋心、雷が鳴り、文は義助にきゃあと抱きつく。可憐な少女であり、恋が芽生える訳である。
 今まで、只の妹のような存在であった文が、懸想の相手になる感覚はどんなものであったろうか。これは久坂義助にきく以外に方法はない。久坂玄瑞は神社でおみくじを引けば大凶ばかりでる“貧乏・親の借金・低い身分”の不幸人・苦労人であった。
しかし、文が励ました。
「大凶がでても何度でも何回でも引けば必ず吉が出ます。人生も同じです!おみくじ箱には大吉も必ずはいってるんじゃけえ。さあ、何度もおみくじをひきなされ!」
「あんたになにがわかるんや?!おみくじだけじゃない!僕はいつも人生で不幸ばかりする!貧乏で、運が悪い、不幸な星の生まれなんや、僕は!」
癇癪を起こす久坂に文は「いいや!あなたは才能がある!私にはわかります。きっとこの長州を、日本国を回天させる人物やと思うとうとですよ、あたしは!」
「せやけど、文さんの尊兄・松陰先生に「出て来い国賊・吉田寅次郎!この久坂が斬り捨ててやる!」と抜刀して騒動を起こしたのはただならぬ僕ですよ?」
「それは寅にい、が国禁を犯したための怒り……日本人なら当然やわ」
「日本人?」
「そうや!日本人や!長州でも徳川幕府でも薩摩でもない、これからは日本です!」
こうして杉文と久坂玄瑞の中は急接近してゆく。そしていずれ夫婦に、そして悲劇の別れ、が待ち受けているのだ。
 文や寅次郎や寿(ひさ)の母親・杉瀧子(杉滝)が病気になり病床の身になる。「文や、学問はいいけんど、お前は女子なのだから料理や裁縫、洗濯も大事なんじゃぞ。そのことわかっとうと?」
 「……は…はい。わかっとう」母親は学問と読書ばかりで料理や裁縫をおろそかにする文に諭すようにいった。
 杉家の邸宅の近くに吉田家と入江家というのがあり、そこの家に同じ年くらいの女の子がいた。それが文の幼馴染の吉田稔麿の妹・吉田ふさや入江九一の妹・入江すみらの御嬢さんで親友であった。
 近所には女子に裁縫や料理等を教える婆さまがいて、文はそこに幼馴染の娘らと通うのだが、
「おめは本当に下手糞じゃ、このままじゃ嫁にいけんど。わかっとうとか?」などと烙印を押される。
 文はいわゆる「おさんどん」は苦手である。そんなものより学問書や書物に耽るほうがやりがいがある、そういう娘である。
 だからこそ病床の身の母親は諭したのだ。だが、諸国漫遊の旅にでていた吉田寅次郎が帰郷するとまた裁縫や料理の習いを文はサボるようになる。
「寅次郎兄やん、旅はどげんとうとですか?」
「いやあ、非常に勉強になった。百は一見にしかず、とはこのことじゃ」
「何を見聞きしたとですか?先生」
 あっという間に久坂や高杉や伊藤や品川ら弟子たちが「松陰帰郷」の報をきいて集まってきた。
「う~ん、僕が見てきたのはこの国の貧しさじゃ」
「貧しい?せやけど先生はかねがね「清貧こそ志なり」とばいうとりましたでしょう?」
「そうじゃ」吉田松陰は歌舞伎役者のように唸ってから、「じゃが、僕が見聞きしたのは清貧ではない。この国の精神的な思想的な貧しさなんや。東北や北陸、上州ではわずかな銭の為に娘たちを遊郭に売る者、わずかな収入の為に口減らしの為に子供を殺す者……そりゃあ酷かった」
 一同は黙り込んで師匠の言葉をまっていた。吉田松陰は「いやあ、僕は目が覚めたよ。こんな国では駄目じゃ。今こそ草莽掘起なんだと、そう思っとうと」
「草莽掘起……って何です?」
「今、この日本国を苦しめているのは「士農工商」「徳川幕府や幕藩体制」という身分じゃなかと?」
 また一同は黙り込んで師匠の言葉を待つ。まるで禅問答だ。「これからは学問で皆が幸せな暮らしが出来る世の中にしたいと僕は思っとうと。学問をしゃかりきに学び、侍だの百姓だの足軽だのそんな身分のない四民平等な社会体制、それが僕の夢や」
「それで草莽掘起ですとか?先生」
 さすがは久坂である。一を知って千を知る天才だ。高杉晋作も「その為に長州藩があると?」と鋭い。
「そうじゃ、久坂君、高杉君。「志を立ててもって万事の源となす」「学は人たる所以を学ぶなり」「至誠をもって動かざるもの未だこれ有らざるなり」だよ」
 とにかく長州の人々は松門の者は目が覚めた。そう覚醒したのだ。
 嘉永六年(1853年)六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、松陰が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。松陰は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 幕府の勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。

  勝が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用視した為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。松下村塾からは維新三傑のひとり桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸考充)や、禁門の変の久坂玄瑞や、奇兵隊を組織することになる高杉晋作など優れた人材を輩出している。
 吉田松陰は「外国にいきたい!」
 という欲望をおさえきれなくなった。
 そこで小船で黒船まで近付き、「乗せてください」と英語でいった。(プリーズ、オン・ザ・シップ)しかし、外国人たちの答えは「ノー」だった。
 この噂が広まり、たちまち松陰は牢獄へ入れられてしまう。まさに大獄の最中である…
だが、吉田松陰は密航に失敗したものの黒船に載れなかった訳でもない。松陰が密航しようとした黒船はぺルリ(ペリー)らの黒船であったというから驚く。その際、ぼろい舟の櫂(かい)がこわれていて金子重輔と吉田松陰が“ふんどし”をほどいて櫂を結んでこいだ逸話は有名な話である。そこで甲板上で松陰と弟子の金子重輔は“佐久間象山より書いてもらった英文の密航の嘆願書”を見せて外国人船員たちに渡した。だが、それでも答えは「ノー」だったのだ。そして、その行動ののちにペリーは「あの日本人の知識への貪欲さにはいささか驚いた。ああした日本人が大半になれば日本国は間違いなく大国になれるであろう」と感想を述べている。
とにかく松陰と弟子の金子は囹圄のひととなった。その報はすぐに長州藩萩の杉家にも伝えられた。父親の杉百合之助らが畑を耕していると飛脚が文をもってきた。というか、長男の杉梅太郎(民治・みんじ)が急いでやってきて父・百合之助や母・滝らにしらせた。
「な、なにっ?!寅次郎が黒船で密航しようとして幕府に捕えられた」一同は驚愕するしかない。妹の杉文も驚愕のあまりへたり込んでしまった。「……何でや?寅にい…」
吉田松陰は武士だから“侍用の監獄”『野山獄(ひとりに一部屋)』にいれられたが、弟子の金子重輔は“足軽・百姓用の監獄”『岩倉獄(雑居房)』にいれられた。金子はそこで獄死してしまう。松陰は『野山獄』で二十一回孟子(二十一回戦うひと)と称して「孟子」の講義を始める。いかつい罪人や牢獄の美女・高須久子らも吉田寅次郎(松陰)を先生と呼んで慕うようになる。そののち獄を出て蟄居中に開いた私塾が「松下村塾」である。
山口県萩市に現在も塾施設が大切に保存されている。「松下村塾」の半径数十キロメートル以内に九十人の人材を輩出したという。だが、罪人である吉田松陰に自分の子供を任せるのに難色を示す親も多かったという。高杉晋作の両親もそうしたひとりであったが、晋作が「どうしても吉田松陰先生に学びたい」と隠れて通塾したともいう。
松陰は『徳川幕府は天下の賊(ぞく・悪人)』と建白書をしたためる。また、幕府の老中らを暗殺するべきとも。大河ドラマ『花燃ゆ』「さらば青春」の話では、吉田寅次郎(松陰)が塾生たちをそそのかし(あくまで救国の志のためだが)、幕府の井伊直弼大老の世にゆう“安政の大獄”に反発して、塾生たちに建白書(血判書)を書かせる。「僕らは井伊大老よりも、まずは京の徳川幕府の窓口である間部詮勝(まなべ・あきかつ)老中を暗殺するのです!そうすれば幕府に、奸賊・井伊大老に、強烈な一撃を食らわすことが出来ます!国の為に行動するのは今です!」と主張する。ドラマではその暗殺密談を、妹の文が盗み聴いてしまう。“建白書”は塾生・吉田稔麿が預かり「長州藩の家老周布さまにわたくしが渡します」と約束する。だが、吉田稔麿は世情に明るく、これは無謀な計画、と分かっていた。だが、尊敬する松陰先生のいうことである。死を覚悟して稔麿は周布政之助に建白書を提出する。「馬鹿野郎!」「国の為です!」「国の為ではなく師匠の寅次郎の為ではないのか?」「………師匠がいう以上仕方ありません」周布も小田村伊之助(のちの楫取素彦)も、もう庇いきれなくなった。考え悩んだ挙句、文は叔父上・玉木文之進と父母に寅次郎の計画を知らせた。寅次郎の叔父は烈火の如く怒り、寅次郎を殴りつける。馬鹿者!馬鹿者!寅次郎の父親・杉百合之助も「お前は国の為に死ぬというが…お前の狂った行動で、弟子の塾生たちがどうなるか!考えたことがあるのか?!国の為に立派に死ぬより…生き続けろ!馬鹿者!人を殺して救国になるがか?!」と号泣して松陰を殴り続けた。そして、大河ドラマでは、父は抜刀し、刀を寅次郎に渡し、「父を斬ってから行動をおこしなさい!………父を斬れ!」と迫る。「国が…よくならねば長州も幕府もない!僕は腐った幕府を……愚かな幕府の政を…変えたいのです!行動をおこさない藩や藩主なら…なくてもいい。長州じゃなく……日本国です!違いますか?!」松陰は泣き崩れる。文は「この松下村塾は何の為の…塾なんなん?寅にい。人殺しの算段の塾なん?学問のためじゃろう?!」だが、すべてはおわった。“安政の大獄”で吉田寅次郎は塾を閉鎖させられ、再び囹圄のひとになった。よりによって幕府の家老を暗殺しようと計画した、松陰。当然、幕府も長州藩もカンカンになって怒った。長州藩の重臣・椋梨藤太(むくなし・とうた)や周布政之助(すふ・まさのすけ)も吉田松陰の罪を藩主・毛利敬親公にあげつらった。こうして松陰は遺言書『留魂録(志をしたためた書。『留魂録』(りゅうこんろく)は、幕末長州藩の思想家である吉田松陰が、1859年(安政6年)に処刑前に獄中で松下村塾の門弟のために著した遺書である。この遺書は松下村塾門下生のあいだでまわし読みされ、松門の志士達の行動力の源泉となった)』を書いてのち処刑される。弟子の高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞らが松陰の遺髪を奉じて墓を建てた。墓には“二十一回孟子”とも掘られたということである。(NHK番組内『歴史秘話ヒストリア』より)
大河ドラマ『花燃ゆ』の第十五回「塾を守れ!」篇・第十六回「最後の食卓」篇では、ふたたび野山獄につながれた吉田寅次郎(松陰)と元・塾生たちの仲に亀裂が入りはじめる。塾生と松陰との仲は絶交状態にまで悪化、入江九一・野村靖兄弟も松陰の幕臣叛逆策を、つまり松陰の主張する「尊皇攘夷」を実行しようとする。だが、所詮は草莽掘起(そうもうくっき)、尊皇攘夷(そんのうじょうい)など荒唐無稽である。
しだいに孤立する松陰。久坂の嫁となっていた久坂(旧姓・杉)文は獄にいって、号泣しながら、
「寅にい!………英雄なんかにならんでええから…生きてつかあさい!危険なことを考えんと………ご自分を、弟子たちを…皆を守って、おとなしゅう生きてつかあさい!」
小田村伊之助(楫取素彦)も「寅次郎!お前の死に場所はこげな獄じゃない!目を覚ませ!」
だが、松陰は、「……僕は………死にたいんじゃ、文。…僕は死ぬ事によって、日本国中の志士達が立ち上がるんじゃ!……僕は今、死あるのみ!」等という。
小田村は泣きながら「お前、まだそんなことをいうとるんか!死んだらおわりじゃろうが?!」
松陰は号泣して、
「行動しないものにはわからん!…主張しないもの、大志のない、負けたことのないものには……わからんのじゃ!至誠を持って動かざるものいまもってあらざるなりじゃ!死ねば…死ぬことで…僕が死ぬことで、国が志士たちの魂が動くのじゃ!僕は……死ぬことで国を動かしたいのじゃ!」
松陰がそういう覚悟ならもうなにも言えない。文も伊之助も松陰自身も号泣し尽くすのみである。そして、まるでキリストの“最後の晩餐”のように野山獄の役人の”武士の情け”で、松陰は杉家で“最後の食卓”を囲み、風呂に入って母とも家族、愛するものたちとも涙の別れをし、
「父上、母上叔父上文敏兄さん亀義姉さん、申し訳ありません。これで僕は…あの世に行きます。お世話になりました」松陰は五右衛門風呂に入りながら泣いた。「思えば…僕は、なんちゃあ、まともな親孝行もせず、恩をあだでかえすような人間でありました。………そして、なんちゃあ、親孝行もせぬまま、僕はもうすぐ首をば刎ねられ…死んでしまうでしょう。親より先に死ぬ、それが情けない、だけどそれが今の僕です。ですが、…いままで本当にありがとうござりました。僕はこの家の恥さらし…です。すみません!」
「寅…あなたはあなたなりに立派に生き、行動しました。何も母も父上も叔父上も文も敏三郎梅太郎亀寿もお弟子さん達………誰も寅を憎んだり蔑んだり恥に思うたりはしません。」
「………母上、すみませ…ん!僕は…僕は…」
母親の瀧は「せ………世話あぁない」と頬の涙をぬぐった。
家族は明るく振る舞い、寅次郎に笑顔で接したが心の中で号泣していた。
「寅にい、………うちとお弟子さんたちに約束してつかあさい。寅にいが死ぬそのまさに刹那(せつな)までその立派な志をつらぬきとおすと!」
松陰は「ああ、約束…する。文、久坂くん、高杉くん、母上父上叔父上、みんな………すべてはこれからじゃ!僕は最後まで志を捨てん!これより長州男児の意地を、誇りを、志を見せん!尊皇攘夷、草莽掘起じゃ!至誠を持って動かざる者今もってあらざるなり」
松陰は萩を後にし、大いなる至誠を持って、井伊大老と対峙した。
そして、松陰は幕府・井伊直弼大老の『安政の大獄』で江戸で処刑されるので、ある。



  吉田松陰はあっぱれな「天才」であった。彼の才能を誰よりも認めていたのは長州藩藩主・毛利敬親(たかちか)公であった。公は吉田松陰の才能を「中国の三国志の軍師・諸葛亮孔明」とよくだぶらせて話したという。「三人寄れば文殊の知恵というが、三人寄っても吉田松陰先生には敵わない」と笑った。なにしろこの吉田松陰という男は十一歳のときにはもう藩主の前で講義を演じているのである。
「個人主義を捨てよ。自我を没却せよ。我が身は我の我ならず、唯(た)だ天皇の御為め、御国の為に、力限り、根限り働く、これが松陰主義の生活である。同時に日本臣民の道である。職域奉公も、この主義、この精神から出発するのでなければ、臣道実践にはならぬ。松陰主義に来たれ!しこうして、日本精神の本然に立帰れ!」
  これは山口県萩市の「松陰精神普及会本部」の「松陰精神主義」のアピール文であり、吉田松陰先生の精神「草莽掘起」の中の文群である。第二次世界大戦以前は、吉田松陰の「尊皇思想」が軍事政権下利用され、「皆、天皇に命を捧げる吉田松陰のようになれ」と小学校や中学校で習わされたという。天皇の為に命を捧げるのが「大和魂」………?
 さて、では吉田松陰は「天皇の為に身を捧げた愛国者」であったのであろうか?そんな者であるなら私はこの「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹の生涯」という小説を書いたりしない。そんなやつ糞くらえだ。
 確かに吉田松陰の「草莽掘起」はいわゆる「尊皇攘夷」に位置するようにも映る。だが、吉田松陰の「草莽掘起」「尊皇攘夷」とは日本のトップを、「将軍」から「天皇」に首を挿げ替える「イノベーション(刷新)」ではないと思う。
 確かに300年もの徳川将軍家を倒したのは薩長同盟軍だ。中でも吉田松陰門下の長州藩志士・桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、井上聞多(馨)などは大活躍である。しかるに「吉田松陰=尊皇攘夷派」と単純解釈する者が多い。
 それこそ「木を見て森を見ず論」である。
 「草莽掘起=尊皇攘夷」だとしたら明治維新の志士たちの「開国政策」「脱亜入欧主義」「軍備拡張主義」「富国強兵政策」は何なのか? 彼らは松陰の意に反して「突然変異」でもしたというのか? それこそ「糞っくらえ」だ。
 ちなみに著者(緑川鷲羽わしゅう)のブログ(インターネット上の日記)のタイトルも「緑川鷲羽 上杉奇兵隊日記「草莽掘起」」だ。だが、著者は「尊皇思想」も「拝皇主義」でもない。吉田松陰は戦前の「軍国主義のプロパガンダ(大衆操作)」の犠牲者なのである。
 吉田松陰は「尊皇攘夷派」ではなく「開国派」いや、「世界の情勢を感じ取った「国際人」」であるのだ。それを忘れないで欲しいものだ。
 黒船密航の罪で下田の監獄に入れられていた吉田松陰は、判決が下り、萩の野山獄へと東海道を護送されていた。
 唐丸籠(とうまるかご)という囚人用の籠の中で何度も殴られたのか顔や体は傷血だらけ。手足は縛られていた。だが、吉田松陰は叫び続けた。
「もはや、幕府はなんの役にも立ちませぬ!幕府は黒船の影におびえ、ただ夷人にへつらいつくろうのみ!」役人たちは棒で松陰を突いて、ボコボコにする。
「うるさい!この野郎!」「いい加減にだまらぬか!」
「若者よ、今こそ立ち上がれ!異国はこの日の本を植民地、奴隷国にしようとねらっているのだぞ!若者たちよ、腰抜け幕府にかわって立ち上がれ!この日の本を守る、熱き志士となれ!」
 またも役人は棒で松陰をぼこぼこにした。桂小五郎たちは遠くで下唇を噛んでいた。
「耐えるんだ、皆!我々まで囚われの身になったら、誰が先生の御意志を貫徹するのだ?!」涙涙ばかりである。
萩近くでは杉家のものたちも唐丸籠で護送される吉田松陰をすがるように見届けた。妹も兄も涙ながらに「なんでや?!寅にい!なんで国禁を犯して…密航なん?!なんでや!」という。
松陰は泣くばかりで答えなかった。


 江戸伝馬町獄舎……松陰自身は将軍後継問題にもかかわりを持たず、朝廷に画策したこともなかったが、その言動の激しさが影響力のある危険人物であると、井伊大老の片腕、長野主膳に目をつけられていた。安政六年(一八五九年)遠島であった判決が井伊直弼自身の手で死罪と書き改められた。それは切腹でなく屈辱的な斬首である。そのことを告げられた松陰は取り乱しもせず、静かに獄中で囚人服のまま歌を書き残す。
 やがて死刑場に松陰は両手を背中で縛られ、白い死に装束のまま連れてこられた。
 柵越しに伊藤や妹の文、桂小五郎らが涙を流しながら見ていた。「せ、先生!先生!」「兄やーん!兄やーん!」
 座らされた。松陰は「目隠しはいりませぬ。私は罪人ではない」といい、断った。強面の抑えのおとこふたりにも「あなた方も離れていなされ、私は決して暴れたりいたせぬ」と言った。
 介錯役の侍は「見事なお覚悟である」といった。
 松陰はすべてを悟ったように前の地面の穴を見ながら「ここに……私の首が落ちるのですね……」と囁くように言った。雨が降ってくる。松陰は涙した。
 そして幕府役人たちに「幕府のみなさん、私たちの先祖が永きにわたり…暮らし……慈(いつく)しんだこの大地、またこの先、子孫たちが、守り慈しんでいかねばならぬ、愛しき大地、この日の本を、どうか……異国に攻められないよう…お願い申す……私の愛する…この日の本をお守りくだされ!」
 役人は戸惑った顔をした。松陰は天を仰いだ。もう未練はない。「百年後……二百年後の日本の為に…」
 しばらくして松陰は「どうもお待たせいたした。どうぞ」と首を下げた。
「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!」松陰は言った。この松陰の残した歌が、日の本に眠っていた若き志士たちを、ふるい立たせたのである。
「ごめん!」
 吉田松陰の首は落ちた。
 雨の中、長州藩の桂小五郎らは遺体を引き取りに役所の門前にきた。皆、遺体にすがって号泣している。掛けられたむしろをとると首がない。
 高杉晋作は怒号を発した。「首がないぞ!先生の首はどうしたー!」
「大老井伊直弼様が首を検めますゆえお返しできませぬ」
 長州ものは顔面蒼白である。雨が激しい。
「拙者が介錯いたしました……吉田殿は敬服するほどあっぱれなご最期であらせられました」
 ……身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!
 長州ものたちは号泣しながら天を恨んだ。晋作は大声で天に叫んだ、
「是非に大老殿のお伝えくだされ!松陰先生の首は、この高杉が必ず取り返しに来ると!聞け―幕府!きさまら松陰先生を殺したことを、きっと悔やむ日が来るぞ!この高杉晋作がきっと後悔させてやる!」
 雨が激しさを増す。まるで天が泣いているが如し、であった。


  風が強い。
 文久二年(一八六二)、東シナ海を暴風雨の中いく艦船があった。
 海面すれすれに黒い雲と強い雨風が走る。
 嵐の中で、まるで湖に浮かぶ木の葉のように、三百五十八トンの艦船が揺れていた。
 この船に、高杉晋作は乗っていた。
「面舵いっぱい!」
 艦長のリチャードソンに部下にいった。
「海路は間違いないだろうな?!」
 リチャードソンは、それぞれ部下に指示を出す。艦船が大嵐で激しく揺れる。
「これがおれの東洋での最後の航海だ! ざまのない航行はするなよ!」
 リチャードソンは、元大西洋航海の貨物船の船長だったという。それがハリファクス沖で時化にであい、坐礁事故を起こしてクビになった。
 船長の仕事を転々としながら、小船アーミスチス(日本名・千歳丸)を手にいれた。それが転機となる。東洋に進出して、日本の徳川幕府との商いを開始する。しかし、これで航海は最後だ。
 このあとは引退して、隠居するのだという。
「取り舵十五度!」
 英国の海軍や船乗りは絶対服従でなりたっているという。リチャードソンのいうことは黒でも白といわねばならない。
「舵輪を動かせ! このままでは駄目だ!」
「イエス・サー」
 部下のミスティは返事をして命令に従った。
 リチャードソンは、船橋から甲板へおりていった。すると階段下で、中年の日本人男とあった。彼はオランダ語通訳の岩崎弥四郎であった。
 岩崎弥四郎は秀才で、オランダ語だけでなく、中国語や英語もペラペラ喋れる。
「どうだ? 日本人たち一行の様子は? 元気か?」
 岩崎は、
「みな元気どころかおとといの時化で皆へとへとで吐き続けています」と苦笑した。
「航海は順調なのに困ったな。日本人はよほど船が苦手なんだな」
 リチャードソンは笑った。
「あの時化が順調な航海だというのですか?」
 長崎港を四月二十九日早朝に出帆していらい、確かに波はおだやかだった。
 それが、夜になると時化になり、船が大きく揺れ出した。
 乗っていた日本人は船酔いでゲーゲー吐き始める。
「あれが時化だと?」
 リチャードソンはまた笑った。
「あれが時化でなければ何だというんです?」
「あんなもの…」
 リチャードソンはにやにやした。「少しそよ風がふいて船がゆれただけだ」
 岩崎は沈黙した。呆れた。
「それよりあの病人はどうしてるかね?」
「病人?」
「乗船する前に顔いっぱいに赤い粒々をつくって、子供みたいな病気の男さ」
「ああ、長州の」
「……チョウシュウ?」
 岩崎は思わず口走ってしまったのを、リチャードソンは聞き逃さなかった。
 長州藩(現在の山口県)は毛利藩主のもと、尊皇壤夷の先方として徳川幕府から問題視されている。過激なゲリラ活動もしている。
 岩崎は慌てて、
「あれは江戸幕府の小役人の従僕です」とあわてて取り繕った。
「……従僕?」
「はい。その病人がどうかしたのですか?」
 リチャードソンは深く頷いて、
「あの男は、他の日本人が船酔いでまいっているときに平気な顔で毎日航海日誌を借りにきて、写してかえしてくる。ああいう人間はすごい。ああいう人間がいえば、日本の国が西洋に追いつくまで百年とかかるまい」と関心していった。
 極東は西洋にとってはフロンティアだった。
 英国はインドを植民地とし、清国(中国)もアヘン(麻薬)によって支配地化した。
 フランスと米国も次々と極東諸国を植民地としようと企んでいる。

  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
 長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚志を任命した。
 長崎にいくことになった勝海舟も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
  やがて奥田という幕府の男が勝海舟を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
 奥田のこの提案により、勝海舟は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
 勝海舟は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、勝海舟は隊長役をつとめており明るかった。
 雪まじりの風が吹きまくるなか、勝海舟は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から勝海舟のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた勝海舟は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
 勝海舟も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
  安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
  コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。
 短期間で命を落とす乾性コレラであった。
 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。
 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。

 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。
 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。
 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。
 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。

  幕府の小役人従僕と噂された若者は、航海日誌の写しを整理していた。
 全身の発疹がおさまりかけていた。
 その男は馬面でキツネ目である。名を高杉晋作、長州毛利藩で代々百十石の中士、高杉小忠太のせがれであるという。高杉家は勘定方取締役や藩御用掛を代々つとめた中級の官僚の家系である。
 ひとり息子であったため晋作は家督を継ぐ大事な息子として、大切に育てられた。
 甘やかされて育ったため、傲慢な、可愛くない子供だったという。
 しかし不思議なことにその傲慢なのが当然のように受け入れられたという。
 親戚や知人、同年代の同僚、のみならず毛利家もかれの傲慢をみとめた。
 しかし、その晋作を従えての使節・犬塚は、
「やれやれとんだ貧乏くじひいたぜ」と晋作を認めなかった。
 江戸から派遣された使節団は西洋列強国に占領された清国(中国)の視察にいく途中である。
 ひとは晋作を酔狂という。
 そうみえても仕方ない。突拍子もない行動が人の度肝を抜く。
 が、晋作にしてみれば、好んで狂ったような行動をしている訳ではない。その都度、壁にぶつかり、それを打開するために行動しているだけである。
 酔狂とみえるのは壁が高く、しかもぶつかるのが多すぎたからである。
「高杉くん。 だいじょうぶかね?」
 晋作の船室を佐賀藩派遣の中牟田倉之助と、薩摩藩派遣の五代才助が訪れた。
 長崎ですでに知り合っていたふたりは、晋作の魅力にとりつかれたらしく、船酔のあいだも頻繁に晋作の部屋を訪れていた。
「航海日録か……やるのう高杉くん」
 中牟田が関心していった。
 すると、五代が、
「高杉どんも航海術を習うでごわすか?」と高杉にきいてきた。
 高杉は青白い顔で、「航海術は習わない。前にならったが途中でやめた」
「なにとぜ?」
「俺は船に酔う」
「馬鹿らしか! 高杉どんは時化のときも酔わずにこうして航海日録を写しちょうとがか。船酔いする人間のすることじゃなかばい」
 五代が笑った。
 中牟田も「そうそう、冗談はいかんよ」という。
 すると、高杉は、
「時化のとき酔わなかったのは……別の病気にかかっていたからだ」と呟いた。
「別の病気? 発疹かい?」
「そうだ」高杉晋作は頷いた。
 そして、続けて「酒に酔えば船酔いしないのと同じだ。それと同じことだ」
「なるほどのう。そげんこつか?」
 五代がまた笑った。
 高杉晋作はプライドの高い男で、嘲笑されるのには慣れていない。
 刀に自然と手がゆく。しかし、理性がそれを止めた。
「俺は西洋文明に憧れている訳じゃない」
 晋作は憂欝そうにいった。
「てことは高杉どんは壤夷派でごわすか?」
「そうだ! 日本には三千年の歴史がある。西洋などたかだか数百年に過ぎない」
 のちに、三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい……
 という高杉の名文句はここからきている。

  昼頃、晋作と中牟田たちは海の色がかわるのを見た。東シナ海大陸棚に属していて、水深は百もない。コバルト色であった。
「あれが揚子江の河水だろう」
「……揚子江? もう河口に入ったか。上海はもうすぐだな」
 揚子江は世界最大の川である。遠くチベットに源流をおき、長さ五千二百キロ、幅およそ六十キロである。
 河を遡ること一日半、揚子江の沿岸に千歳丸は辿り着いた。
 揚子江の広大さに晋作たちは度肝を抜かれた。
 なんとも神秘的な風景である。
 上海について、五代たちは「じゃっどん! あげな大きな船があればどけな商いでもできっとじゃ!」と西洋の艦隊に興味をもった、が、晋作は冷ややかであった。
 晋作が興味をもったのは、艦船の大きさではなく、占領している英国の建物の「設計」のみごとさである。軍艦だけなら、先進国とはいいがたい幕府の最大の友好国だったオランダでも、また歴史の浅い米国でもつくれる。
 しかし、建物を建てるのはよっぽどの数学と設計力がいる。
 しかし、中牟田たちは軍艦の凄さに圧倒されるばかりで、英国の文化などどこ吹く風だ。 ……各藩きっての秀才というが、こいつらには上海の景色の意味がわかってない。晋作やのちの木戸孝允(桂小五郎)は西洋列強の植民地化した清国(今の中国)の悲惨さを理解した。そう「このまま日本国が幕府だのなんとか藩だのと内乱が続けば、清国のように日本が西洋列強国の植民地化とされかねない」と覚醒したのだ。
 坂本竜馬が上海に渡航したのはフィクションである。だが、高杉晋作は本当に行っている。その清国(現在の中国)で「奴隷国になるとはどういうことか?」を改めて知った。
「坂本さん、先だっての長崎酒場での長州ものと薩摩ものの争いを「鶏鳥小屋や鶏」というのは勉強になりましたよ。確かに日本が清国みたいになるのは御免だ。いまは鶏みたいに「内輪もめ」している場合じゃない」
「わかってくれちゅうがか?」
「ええ」晋作は涼しい顔で言ったという。「これからは長州は倒幕でいきますよ」
 竜馬も同意した。この頃土佐の武市半平太ら土佐勤王党が京で「この世の春」を謳歌していたころだ。場所は京都の遊郭の部屋である。
 武市に騙されて岡田以蔵が攘夷と称して「人斬り」をしている時期であった。
 高杉晋作は坊主みたいに頭を反っていて、「長州のお偉方の意見など馬鹿らしい。必ず松陰先生が正しかったとわからせんといかん」
「ほうじゃき、高杉さんは奇兵隊だかつくったのですろう?」
「そうじゃ、奇兵隊でこの日の本を新しい国にする。それがあの世の先生への恩返しだ」
「それはええですろうのう!」
 竜馬はにやりとした。「それ坂本さん!唄え踊れ!わしらは狂人じゃ!」
「それもいいですろうのう!」
 坂本竜馬は酒をぐいっと飲んだ。土佐ものにとって酒は水みたいなものだ。

 話を過去に戻す。
  坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。大河ドラマ『花燃ゆ』では、伊原剛志さん演ずる龍馬が長州の松下村塾にやってきて久坂(旧姓・杉)文と出会う設定になっていた(大河ドラマ『花燃ゆ』第十八回「龍馬!登場」の話)。足の汚れを洗う為の桶の水で顔を洗い、勝海舟や吉田松陰に傾倒している、という。松陰亡き後の文の『第二部 幕末篇』のナビゲーター(水先案内人)的な存在である。文は龍馬の底知れない存在感に驚いた。「吉田松陰先生は天下一の傑物じゃったがに、井伊大老に殺されたがはもったいないことじゃったのう」「は、はあ。……あの…失礼ですが、どちらさまで?」「あ、わしは龍馬!土佐の脱藩浪人・坂本竜馬ぜよ。おまんはもしかして松陰先生の身内かえ?」「はい。妹の久坂文です」「ほうか。あんたがお文さんかえ?まあ、数日前の江戸の桜田門外の変はざまあみさらせじゃったがのう」「さ…桜田門外の変?」「おまん、知らんがか?幕府の大老・井伊直弼が桜田門外で水戸浪人たちに暗殺されよったきい」「えっ?!」「まずは維新へ一歩前進ぜよ」「…維新?」桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩郷士の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
 話を過去に戻そう。
 この頃、長州藩では藩主が若い毛利敬親(もうり・たかちか)に世代交代した。天才の長州藩士で藩内でも学識豊富で一目置かれている吉田寅次郎は松陰と号して公の教育係ともなる。文には誇らしい兄者と映ったことであろう。だが、歴史に詳しい者なら知っている事であるが、吉田松陰の存在はある人物の台頭で「風前の灯」となる。そう徳川幕府大老の井伊直弼の台頭である。
 吉田松陰は井伊大老の「安政の大獄」でやがては「討幕派」「尊皇攘夷派」の「危険分子」「危険思想家」として江戸(東京)で斬首になるのは阿呆でも知っていることだ。
 そう、世の中は「意馬心猿(いばしんえん・馬や猿を思い通りに操るのが難しいように煩悩を抑制するのも難しい)」だ。だが吉田松陰のいう「知行合一(ちこうごういつ・智慧と行動は同じでなければならない)」だ。世の中は「四海兄弟(しかいけいだい・世界はひとつ人類皆兄弟)」であるのだから。
 世の中は「安政の大獄」という動乱の中である。そんななかにあって松陰は大罪である、脱藩をしてしまう。井伊大老を恐れた長州藩は「恩を仇でかえす」ように松陰を左遷する。
 当然、松門門下生は反発した。「幕府や井伊大老のいいなりだ!」というのである。もっともだ。この頃、小田村伸之助(のちの楫取素彦)は江戸に行き、松陰の身を案じて地元長州に連れ帰り、こののち吉田松陰は「杉家・育(はぐくみ)」となるのである。
 桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
「攘夷決行」計画の指揮者は久坂玄瑞、である。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
久坂文や他の武家などの女房さまら女子たちは、長州の男たちのように戦う訳にはいかない。が、汗だくになって共同で土塁を幾つもつくり「台場」を防府や海岸沿いにつくった。それは「女台場(おなごだいば)」と呼ばれて現在でも台場跡が残っているという。 
そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「尊皇攘夷は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。
 この時期から長州藩は吉田松陰を幕府を恐れて形だけの幽閉とした。
寅次郎は牢獄に入っている。妹の杉文は格子越しに、涙ながらに兄・松陰に訴える。
「何で寅次郎にいやんは国禁を犯して密航なんぞやらかしたとですか?」
「世界を知りたかったんや!文ならわかるとやろう?世界は夢の最先端の技術がある!」
「なら私等はどうでもよかとですか?」
「光が見えたんや!この国の希望が………これからはこの日本国も軍艦・西洋の武器・文化・政治制度・民主主義…すべてこの国の為じゃけえ。わかってくれ、文!」
「わたしたちの光は?」
「いずれわかると!僕を信じてくれ!すべてゃこの国や長州の為ばい!」
「なら私らにもみせてつかあさい!寅にいの志で見えた光りが、けっして一刻の私事ではなく“国の為道の為”の救国の光であることを!天下国家の為に寅にいの学識があるのだということを!」
吉田寅次郎(松陰)も文も号泣した。松陰は「僕は天下国家の救国の為に命を…捧げる覚悟じゃ!至誠を持って動かざる者未だなし!すべてこの国のためなんじゃ!」
「………わかったとばい。寅にいはこの国の回天・改革の為に命を捧げるとですね?」
「そうじゃ!文、わかってくれとうとか?!」
「わかりました。兄やんを信じます」文は悟ったようにいった。「これからは自由に旅も学問も出来ない寅にいのかわりに私が寅にいの耳と目になりまする!」
それからの文は兄が好きな節句餅を食べさせたくて料理を頑張ってつくり、幽閉先の牢屋にもっていく。牢獄の仲間に高須久子も、いた。 
「この節句餅は上手か~あ、文が僕の為につくったとか?」
「そうや。寅次郎にいやんは天才なんじゃけえくじけたらあかんよ。冤罪は必ず晴れるんじゃけえ」
「おおきになあ、僕はうれしか」松陰と文は熱い涙を流した。
 こののち久坂玄瑞(十八歳)と杉文(十五歳)は祝言をあげて結婚する。
 そして病床の身であった母親・杉瀧子が、死ぬのである。(注訳・この小説上の架空の設定。本当の杉文の母親は明治23年(1890年)、母・瀧が死去)


「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹・文の生涯<維新回天 完全版>2015年大河ドラマ原作2

2015年06月25日 06時55分30秒 | 日記










<ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり著作「大東亜論 血風士魂篇」第9章前原一誠の妻と妾>2014年度小学館SAPIO誌10月号59~78ページ参照(参考文献・漫画文献)
明治初期、元・長州藩(山口県)には明治政府の斬髪・脱刀令などどこ吹く風といった連中が多かったという。長州の士族は維新に功ありとして少しは報われている筈であったが、奇兵隊にしても長州士族にしても政権奪還の道具にすぎなかった。彼らは都合のいいように利用され、使い捨てされたのだ。報われたのはほんの数人(桂小五郎こと木戸孝允や井上馨(聞多)や伊藤博文(俊輔)等わずか)であった。明治維新が成り、長州士族は使い捨てにされた。それを憤る人物が長州・萩にいた。前原一誠である。前原は若い時に落馬して、胸部を強打したことが原因で肋膜炎を患っていた。明治政府の要人だったが、野に下り、萩で妻と妾とで暮らしていた。妻は綾子、妾は越後の娘でお秀といった。
前原一誠は吉田松陰の松下村塾において、吉田松陰が高杉晋作、久坂玄瑞と並び称賛した高弟だった。「勇あり知あり、誠実は群を抜く」。晋作の「識」、玄瑞の「才」には遠く及ばないが、その人格においてはこの二人も一誠には遠く及ばない。これが松陰の評価であった。そして晋作・玄瑞亡き今、前原一誠こそが松陰の思想を最も忠実に継承した人物であることは誰もが認めるところだった。一誠の性格は、頑固で直情径行、一たび激すると誰の言うことも聞かずやや人を寄せつけないところもあったが、普段は温厚ですぐ人を信用するお人好しでもあった。一誠は戊辰戦争で会津征討越後口総督付の参謀として軍功を挙げ、そのまま越後府判事(初代新潟県知事)に任じられて越後地方の民政を担当する。
いわば「占領軍」の施政者となったわけだが、そこで一誠が目にしたものは戦火を受けて苦しむ百姓や町民の姿だった。「多くの飢民を作り、いたずらに流民を作り出すのが戦争の目的ではなかったはずだ。この戦いには高い理想が掲げられていたはず!これまでの幕府政治に代って、万民のための国造りが目的ではなかったのか!?」
少年時代の一誠の家は貧しく、父は内職で安物の陶器を焼き、一誠も漁師の手伝いをして幾ばくかの銭を得たことがある。それだけに一誠は百姓たちの生活の苦しさをよく知り、共感できた。さらに、師・松陰の「仁政」の思想の影響は決定的に大きかった。
「機械文明においては、西洋に一歩を譲るも、東洋の道徳や治世の理想は、世界に冠たるものである!それが松陰先生の教えだ!この仁政の根本を忘れたからこそ幕府は亡びたのだ。新政府が何ものにも先駆けて行わなければならないことは仁政を行って人心を安らかにすることではないか!」一誠は越後の年貢を半分にしようと決意する。中央政府は莫大な戦費で財政破綻寸前のところを太政官札の増発で辛うじてしのいでいる状態だったから、年貢半減など決して許可しない。だが、一誠は中央政府の意向を無視して「年貢半減令」を実行した。さらに戦時に人夫として徴発した農民の労賃も未払いのままであり、せめてそれだけでも払えば当面の望みはつなげられる。未払い金は90万両に上り、そのうち40万両だけでも出せと一誠は明治政府に嘆願を重ねた。だが、政府の要人で一誠の盟友でもあった筈の木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治・松陰門下)は激怒して、「前原一誠は何を考えている!越後の民政のことなど単なる一地方のことでしかない!中央には、一国の浮沈にかかわる問題が山積しているのだぞ!」とその思いに理解を示すことは出来なかった。
この感情の対立から、前原一誠は木戸に憎悪に近い念を抱くようになる。一誠には越後のためにやるべきことがまだあった。毎年のように水害を起こす信濃川の分水である。一誠は決して退かない決意だったが、中央政府には分水工事に必要な160万両の費用は出せない。政府は一誠を中央の高官に「出世」させて、越後から引き離そうと画策。一誠は固辞し続けるが、政府の最高責任者たる三条実美が直々に来訪して要請するに至り、ついに断りきれなくなり参議に就任。信濃川の分水工事は中止となる。さらに一誠は暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔となるが、もともと中央政府に入れられた理由が理由なだけに、満足な仕事もさせられず、政府内で孤立していた。一誠は持病の胸痛を口実に政府会議にもほとんど出なくなり、たまに来ても辞任の話しかしない。「私は参議などになりたくはなかったのだ!私を参議にするくらいならその前に越後のことを考えてくれ!」
木戸や大久保利通は冷ややかな目で前原一誠を見ているのみ。
「君たちは、自分が立派な家に住み、自分だけが衣食足りて世に栄えんがために戦ったのか?私が戦ったのはあの幕府さえ倒せば、きっと素晴らしい王道政治が出来ると思ったからだ!民政こそ第一なのだ!こんな腐った明治政府にはいたくない!徳川幕府とかわらん!すぐに萩に帰らせてくれ!」大久保や木戸は無言で前原一誠を睨む。三度目の辞表でやっと前原一誠は萩に帰った。明治3年(1870)10月のことだった。政府がなかなか前原一誠の辞任を認めなかったのは、前原一誠を帰してしまうと、一誠の人望の下に、不平士族たちが集まり、よりによって長州の地に、反政府の拠点が出来てしまうのではないかと恐れたためである。当の一誠は、ただ故郷の萩で中央との関わりを断ち、ひっそりと暮らしたいだけだった。が、周囲が一誠を放ってはおかなかった。維新に功のあった長州の士族たちは「自分たちは充分報われる」と思っていた。しかし、実際にはほんの数人の長州士族だけが報われて、「奇兵隊」も「士族」も使い捨てにされて冷遇されたのだった。そんなとき明治政府から野に下った前原一誠が来たのだ。それは彼の周囲に自然と集まるのは道理であった。しかも信濃川の分水工事は「金がないので工事できない」などといいながら、明治政府は岩倉具視を全権大使に、木戸、大久保、伊藤らを(西郷らは留守役)副使として数百人規模での「欧米への視察(岩倉使節団)」だけはちゃっかりやる。一誠は激怒。
江藤新平が失脚させられ、「佐賀の役」をおこすとき前原一誠は長州士族たちをおさえた。「局外中立」を唱えてひとりも動かさない。それが一誠の精一杯の行動だった。
長州が佐賀の二の舞になるのを防いだのだ。前原一誠は激昴する。「かつての松下村塾同門の者たちも、ほとんどが東京に出て新政府に仕え、洋風かぶれで東洋の道徳を忘れておる!そうでなければ、ただ公職に就きたいだけの、卑怯な者どもだ!井上馨に至っては松下村塾の同窓ですらない!ただ公金をかすめ取る業に長けた男でしかないのに、高杉や久坂に取り入ってウロチョロしていただけの奴!あんな男までが松下村塾党のように思われているのは我慢がならない!松陰先生はよく「天下の天下の天下にして一人の天下なり」と仰っていた。すなわち尊皇である。天子様こそが天下な筈だ!天下一人の君主の下で万民が同じように幸福な生活が出来るというのが政治の理想の根本であり、またそのようにあらしめるのが理想だったのだ!孔孟の教えの根本は「百姓をみること子の如くにする」。これが松陰先生の考えである!松陰先生が生きていたら、今の政治を認めるはずはない!必ずや第二の維新、瓦解を志す筈だ!王政復古の大号令は何処に消えたのだ!?このままではこの国は道を誤る!」その後、「萩の乱」を起こした前原一誠は明治政府に捕縛され処刑された。

岩倉具視が「果断、勇決、その志は小ではない。軽視できない強敵である」と評し、長州の桂小五郎(木戸孝允)は「慶喜の胆略、じつに家康の再来を見るが如し」と絶賛――。
敵方、勤王の志士たちの心胆を寒からしめ、幕府側の切り札として登場した十五代将軍。その慶喜が、徳川三百年の幕引き役を務める運命の皮肉。
徳川慶喜とは、いかなる人物であったのか。また、なぜ従来の壮大で堅牢なシステムが、機能しなくなったのか。
「視界ゼロ、出口なし」の状況下で、新興勢力はどのように旧体制から見事に脱皮し、新しい時代を切り開いていったのか。
閉塞感が濃厚に漂う今、慶喜の生きた時代が、尽きせぬ教訓の新たな宝庫となる。
『徳川慶喜(「徳川慶喜 目次―「最後の将軍」と幕末維新の男たち」)』堺屋太一+津本陽+百瀬明治ほか著作、プレジデント社刊参考文献参照引用
著者が徳川慶喜を「知能鮮し」「糞将軍」「天下の阿呆」としたのは、他の主人公を引き立たせる為で、慶喜には「悪役」に徹してもらった。
だが、慶喜は馬鹿ではなかった。というより、策士であり、優秀な「人物」であった。
慶喜は「日本の王」と海外では見られていた。大政奉還もひとつのパワー・ゲームであり、けして敗北ではない。しかし、幕府憎し、慶喜憎しの大久保利通らは「王政復古の大号令」のクーデターで武力で討幕を企てた。
実は最近の研究では大久保や西郷隆盛らの「王政復古の大号令」のクーデターを慶喜は事前に察知していたという。
徳川慶喜といえば英雄というよりは敗北者。頭はよかったし、弱虫ではなかった。慶喜がいることによって、幕末をおもしろくした。最近分かったことだが、英雄的な策士で、人間的な動きをした「人物」であった。
「徳川慶喜はさとり世代」というのは脳科学者の中野信子氏だ。慶喜はいう。「天下を取り候ほど気骨の折れ面倒な事なことはない」
幕末の”熱い時代”にさとっていた。二心公ともいわれ、二重性があった。
本当の徳川慶喜は「阿呆」ではなく、外交力に優れ(二枚舌→開港していた横浜港を閉ざすと称して(尊皇攘夷派の)孝明天皇にとりいった)
その手腕に、薩摩藩の島津久光や大久保利通、西郷隆盛、長州藩の桂小五郎らは恐れた。
孝明天皇が崩御すると、慶喜は一変、「開国貿易経済大国路線」へと思考を変える。大阪城に外国の大使をまねき、兵庫港を開港。慶喜は幕府で外交も貿易もやる姿勢を見せ始める。
まさに、策士で、ある。
歴代の将軍の中でも慶喜はもっとも外交力が優れていた。将軍が当時は写真に写るのを嫌がったが、しかし、徳川慶喜は自分の写真を何十枚も撮らせて、それをプロパガンダ(大衆操作)の道具にした。欧米の王族や指導者層にも配り、日本の国王ぶった。
大久保利通や岩倉具視や西郷隆盛ら武力討幕派は慶喜を嫌った。いや、おそれていた。討幕の密勅を朝廷より承った薩長に慶喜は「大政奉還」という策略で「幕府をなくして」しまった。
大久保利通らは大政奉還で討幕の大義を失ってあせったのだ。徳川慶喜は敗北したのではない。策を練ったのだ。慶喜は初代大統領、初代内閣総理大臣になりたいと願ったのだ。
新政府にも加わることを望んでいた。慶喜は朝廷に「新国家体制の建白書」を贈った。だが、徳川慶喜憎しの大久保利通らは王政復古の大号令をしかける。日本の世論は「攘夷」だが、徳川慶喜は坂本竜馬のように「開国貿易で経済大国への道」をさぐっていたという。
大久保利通らにとって、慶喜は「(驚きの大政奉還をしてしまうほど)驚愕の策士」であり、存在そのものが脅威であった。
「慶喜だけは倒さねばならない!薩長連合は徳川慶喜幕府軍を叩き潰す!やるかやられるかだ!」
 慶喜のミスは天皇(当時の明治天皇・16歳)を薩長にうばわれたことだ。薩長連合新政府軍は天皇をかかげて官軍になり、「討幕」の戦を企む。
「身分もなくす!幕府も藩もなくす!天子さま以外は平等だ!」
 大久保利通らは王政復古の大号令のクーデターを企む。事前に察知していた徳川慶喜は「このままでは清国(中国)やインドのように内乱になり、欧米の軍事力で日本が植民地とされる。武力鎮圧策は危うい。会津藩桑名藩五千兵をつかって薩長連合軍は叩き潰せるが泥沼の内戦になる。”負けるが勝ち”だ」
 と静観策を慶喜はとった。まさに私心を捨てた英雄!だからこそ幕府を恭順姿勢として、官軍が徳川幕府の官位や領地八百万石も没収したのも黙認した。
 だが、大久保利通らは徳川慶喜が一大名になっても、彼がそのまま新政府に加入するのは脅威だった。
 慶喜は謹慎し、「負ける」ことで戊辰戦争の革命戦争の戦死者をごくわずかにとどめることに成功した。官軍は江戸で幕府軍を挑発して庄内藩(幕府側)が薩摩藩邸を攻撃したことを理由に討幕戦争(戊辰戦争)を開始した。
 徳川慶喜が大阪城より江戸にもどったのも「逃げた」訳ではなく、内乱・内戦をふせぐためだった。彼のおかげで戊辰戦争の戦死者は最低限度で済んだ。
 徳川慶喜はいう。「家康公は日本を統治するために幕府をつくった。私は徳川幕府を終わらせる為に将軍になったのだ」
NHK番組『英雄たちの選択 徳川慶喜編』参考文献引用


 立志


 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたために萩藩(はぎはん)とも呼ばれていたが、幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれることとなった。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。幕末には討幕運動の中心となり、続く明治維新では長州藩の中から政治家を多数輩出し、日本の政治を支配した藩閥政治の一方の政治勢力「長州閥」を形成した。毛利元就、藩祖の毛利氏は大江広元の4男を祖とする一族。戦国時代に安芸に土着していた分家から毛利元就が出ると一代にして国人領主から戦国大名に脱皮、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国地方十国と北九州の一部を領国に置く最大級の大名に成長した。元就の孫の毛利輝元は豊臣秀吉に仕え、安芸・周防・長門・備中半国・備後・伯耆半国・出雲・石見・隠岐の120万5000石を安堵(石見銀山50万石相当、また以前の検地では厳密にこれを行っていなかったことを考慮すると実高は200万石超)され、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島に移す。秀吉の晩年には五大老に推され、関ヶ原の合戦では西軍石田三成方の名目上の総大将として担ぎ出され大坂城西の丸に入ったが、主家を裏切り東軍に内通していた従弟の吉川広家により徳川家康に対しては敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。ところが戦後家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分とし、輝元は隠居となし、嫡男の秀就に周防・長門2国を与えることとした。実質上の初代藩主は輝元であるが、形式上は秀就である。また、秀就は幼少のため、当初は輝元の従弟の毛利秀元と重臣の福原広俊・益田元祥らが藩政を取り仕切っていた。周防・長門2国は慶長5年の検地によれば29万8480石2斗3合であった。これが慶長10年(1605年)御前帳に記された石高である。慶長12年(1607年)、領国を4分の1に減封された毛利氏は新たな検地に着手し、慶長15年(1610年)に検地を終えた。少しでも石高をあげるため、この検地は苛酷を極め、山代地方(現岩国市錦町・本郷町)では一揆も起きている。この検地では結果として53万9268石余をうちだした。慶長18年(1613年)、今次の江戸幕府に提出する御前帳が今後の毛利家の公称高となるため、慎重に幕閣と協議した。ところが、思いもよらぬ50万石を超える高石高に驚いた幕閣(取次役は本多正信)は、敗軍たる西軍の総大将であった毛利氏は50万石の分限ではないこと(特に東軍に功績のあった隣国の広島藩主福島正則49万8000石とのつりあい)、毛利家にとっても高石高は高普請役負担を命じられる因となること、慶長10年御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認した。この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発等により実高(裏高)は寛永2年(1625年)には65万8299石3斗3升1合、貞享4年(1687年)には81万8487石余であった。宝暦13年(1763年)には新たに4万1608石を打ち出している。幕末期には100万石を超えていたと考えられている。また新しい居城地として防府(ほうふ)・山口・萩(はぎ)の3か所を候補地として伺いを出したところ、これまた防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府に命じられた。萩は、防府や山口と異なり、三方を山に囲まれ日本海に面し隣藩の津和野城の出丸の遺構が横たわる鄙びた土地であった。長州藩士はこの毛利家が防長二州に転じた際に、一緒に山口に移った毛利家の家臣をルーツに持つといわれる。彼らは元来が広島県-安芸・備後を本拠としたために非常に結束が固かった。輝元はかつての膨大な人数を養う自信がなかったので「ついて来なくてもいい」と幾度もいったが、みな聞かなかった。戦国期までは山陽山陰十ヵ国にまたがる領地を持ち、表日本の瀬戸内海岸きっての覇府というべき広島から裏日本の萩へ続く街道は、家財道具を運ぶ人のむれで混雑し、絶望と、徳川家への怨嗟の声でみちた。家臣のうち、上級者は家禄を減らされて萩へ移ったが、知行も扶持も貰えない下級者は農民になり山野を開墾した。幕末、長州藩が階級・身分を越えて結束が強かったのは、江戸期に百姓身分であった者も先祖は安芸の毛利家の家来であったという意識があり、それが共有されていたためともいわれる。前述のような辛酸を舐めたことから、長州藩では江戸時代を通じて「倒幕」が極秘の「国是」で、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立てると、藩主は毎年「時期尚早」と答えるのが習わしだったという。この伝説について、毛利家現当主・毛利元敬は「あれは俗説」と笑い、「明治維新の頃まではあったのではないか」という問いに「あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった」と答えている。ただ長州藩主導により倒幕・明治維新を迎え借りは利息をつけて返したわけであるから、維新も遠くなった昭和初年の生まれである現当主に、そのような教育はむしろ弊害としてされなかったことは考えられるかもしれない(当時華族は学習院に学ぶわけであるから、徳川家と先輩・後輩関係、同級生関係になる可能性はあった。実際、元敬は水戸徳川家と同級生で仲良くしていたことも言及している)。また、藩士は江戸に足を向けて寝るのが習慣となった(ただし、参勤交代時は藩主が江戸に在住している訳であり、また正室・世子は常に江戸に在住していること、萩から江戸方向は天子のおわす京と同方向であることをどう考えたのかは疑問が残るところである。しかし今でも旧藩士の家ではその伝統が伝えられている家がある)。
毛利重就。江戸時代中期には、第7代藩主毛利重就が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。天保3年(1831年)には、大規模な長州藩天保一揆が発生。その後の天保8年(1836年)4月27日には、後に「そうせい侯」と呼ばれた毛利敬親が藩主に就くと、村田清風を登用した天保の改革を行う。改革では相次ぐ外国船の来航や中国でのアヘン戦争などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得る。村田の失脚後は坪井九右衛門、椋梨藤太、周布政之助などが改革を引き継ぐが、坪井、椋梨と周布は対立し、藩内の特に下級士層に支持された周布政之助が安政の改革を主導する。幕末。幕末になると長州藩は公武合体論や尊皇攘夷を拠り所にして、おもに京都で政局をリードする存在になる。また藩士吉田松陰の私塾(当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされ事実上幽閉)松下村塾で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながってゆく。
1863年(文久3年)旧4月には、激動する情勢に備えて、幕府に無断で山口に新たな藩庁を築き、「山口政事堂」と称する。敬親は萩城から山口(中河原の御茶屋)に入り、幕府に山口移住と新館の造営を正式に申請書を提出し、山口藩が成立した。これにより、萩藩は(周防)山口藩と呼ばれることとなった。 この年、会津藩と薩摩藩が結託した八月十八日の政変で京都から追放された。
長州藩は攘夷も決行した。下関海峡と通る外国船を次々と砲撃した。結果、長州藩は欧米諸国から敵と見做され、1863年(文久三年)5月と1864年(元治元年)7月に、英 仏 蘭 米の列強四国と下関戦争が起こった。長州藩はこの戦争に負け、賠償金を支払うこととなった。
禁門の変。1864年(元治元年)の池田屋事件、禁門の変で打撃を受けた長州(山口)藩に対し、幕府は尾張藩主徳川慶勝を総督とした第一次長州征伐軍を送った。長州(山口)藩では椋梨ら幕府恭順派が実権を握り、周布や家老・益田親施らの主戦派は失脚して粛清され、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ降伏した。その後、完成したばかりの山口城を一部破却して、毛利敬親・元徳父子は長州萩城へ退いた。
恭順派の追手から逃れていた主戦派の藩士高杉晋作は、伊藤俊輔(博文)らと共に、民兵組織である力士隊と遊撃隊を率いてクーデター(元治の内戦)を決行した。初めは功山寺で僅か80人にて挙兵した決起隊に、民兵組織最強の奇兵隊が呼応するなど、各所で勢力を増やして萩城へ攻め上り、恭順派を倒した。この後、潜伏先より帰って来た桂小五郎(木戸孝允)を加え、再び主戦派が実権を握った長州藩は、奇兵隊を中心とした諸隊を正規軍に抜擢し、幕府の第二次長州征伐軍と戦った。高杉と村田蔵六(大村益次郎)の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を打ち破り、第二次幕長戦争(四境戦争)に勝利する。長州藩に敗北した幕府の力は急速に弱まった。
更に、1866年(慶応2年)には、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において土佐藩の坂本龍馬を仲介として議論された末、京都薩摩藩邸(京都市上京区)で薩摩藩との政治的・軍事的な同盟である薩長同盟を結んだ。又、旧5月に敬親が山口に戻った事で(周防・ほうふ)山口藩が再び成立する。
鳥羽・伏見の戦い。左が桑名藩などの幕府軍、右が長州藩などの新政府軍。
薩長による討幕運動の推進によって、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府は崩壊した。そして、王政復古が行われると、薩摩藩と共に長州藩は明治政府の中核となっていく。戊辰戦争では、藩士の大村益次郎が上野戦争などで活躍した。
だが、1869年(明治2年)旧11月、山口藩の藩兵による反乱(萩の乱)が起こり、一時は山口藩庁が包囲されたこともある。
明治4年(1871年)旧6月、山口藩は支藩の徳山藩と合併し、同年8月29日(旧7月14日)の廃藩置県で山口藩は廃止され、山口県となった。毛利家当主元徳は藩知事を免官されて東京へ移り、第15国立銀行頭取、公爵、貴族院議員となった。
尚、戊辰戦争の戦後処理と明治期における山縣有朋に代表される長州閥の言動の影響から、戦闘を行った会津藩(会津若松市)と長州藩(萩市)の間には今でも複雑な感情が残っているとも言われる。実際は、長州藩軍は進軍が遅れたため、会津戦争では戦闘を行なっておらず、また、占領統治を指揮する立場でもなかった。 現代の観光都市化の流れの中で現れた戦後会津の観光史学により、事実が歪められているという議論も行われている。
 
 吉田松陰は吉田矩方という本名で、人生は1830年9月20日(天保元年8月4日)から1859年(安政6年10月27日)までの生涯である。享年30歳……
 通称は吉田寅次郎、吉田大次郎。幼名・寅之助。名は矩方(よりかた)、字(あざな)は義卿(ぎけい)または子義。二十一回猛士とも号する。変名を松野他三郎、瓜中万二ともいう。長州藩士である。江戸(伝馬町)で死罪となっている。
 尊皇壤夷派で、井伊大老のいわゆる『安政の大獄』で密航の罪により死罪となっている。名字は杉寅次郎ともいう。養子にはいって吉田姓になり、大次郎と改める。
 字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の名は尊皇家の高山彦九郎おくり名である。1830年9月20日(天保元年8月4日)、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)に叔父である山鹿流兵学師範である吉田大助の養子になるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた塾で指導を受けた。吉田松陰の初めての伝記を示したのは死後まもなく土屋瀟海(しょうかい)、名を張通竹弥之助という文筆家で「吉田松陰伝」というものを書いた。が、その出版前の原稿を読んだ高杉晋作が「何だ! こんなものを先生の伝記とすることができるか!」と激高して破り捨てた為、この原稿は作品になっていない。
 また別の文筆家が「伝記・吉田松陰」というのを明治初期にものし、その伝記には松陰の弟子の伊藤博文や山県有朋、山田顕義(よしあき)らが名を寄せ寄稿し「高杉晋作の有名なエピソード」も載っている。天保六年(1835年)松陰6歳で「憂ヲ憂トシテ…(中訳)…楽ヲ享クル二至ラサラヌ人」と賞賛されている。
 ここでいう吉田松陰の歴史的意味と存在であるが、吉田松陰こと吉田寅次郎は「思想家」である前に「維新の設計者」である。当時は松陰の思想は「危険思想」とされ、長州藩も幕府を恐れて彼を幽閉したほどだ。我々米沢や会津にとっては薩摩藩長州藩というのは「官軍・明治政府軍」で敵なのかも知れない。が、会津の役では長州藩は進軍に遅れて参戦しておらず、米沢藩とも戦っていないようだ。ともあれ150年も前の戊辰戦争での恨み、等「今更?」だろう。吉田松陰は本名を吉田寅次郎といい号が松陰(しょういん)である。
「死にもの狂いで学ばなければこの日本国はもはや守れん!」松陰は貪欲に学んでいく。
文政13年(1830年)9月20日長州萩藩(現在・山口県萩市)生まれで、没年が安政6年(1859年)11月21日東京での処刑までの人生である。そして、この物語「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹の生涯」の主人公・杉文(すぎ・ふみ)の13歳年上の実の兄である。ちなみに兄の吉田松陰に塾を開くようにアドバイスしたのも文、「寅次郎兄やん、私塾をやるのはどげんと?」「私塾?僕が?」「そうや。寅にいの素晴らしい考えを世の中に知らせるんや」。おにぎりや昼飯を甲斐甲斐しくつくって松門の教え子たち(久坂や高杉や伊藤博文ら)を集め「皆さん兄の私塾で学びませんか?」「はあ?!」「そのかわり毎日おいしいご飯食べさせますばい」、励ましたのも文、「みなさん、御昼ごはん!握り飯ですよー!」「おーっ!うまそうだ!」「皆さんがこの長州、日本国を変える人材になるのです」。姉の寿の前に小田村(楫取)を好きになり「お嫁さんにしてつかあさい!」と頼むが叶わず母の死に落ち込む楫取を励まし、のちに姉寿死後、楫取と再婚し、最後は鹿鳴館の花となるのも文、である。大河ドラマとは少し違うかも知れないがこの作品が緑川流「花燃ゆ」なのである。
  松陰は後年こういっている。
「私がほんとうに修行したのは兵学だけだ。私の家は兵学の家筋だから、父もなんとか私を一人前にしようと思い、当時萩で評判の叔父の弟子につけた。この叔父は世間並みの兵学家ではなくて、いまどき皆がやる兵学は型ばかりだ。あんたは本当の兵学をやりなさい、と言ってくれた。アヘン戦争で清が西洋列強国に大敗したこともあって嘉永三年(1850年)に九州に遊学したよ。そして江戸で佐久間象山先生の弟子になった。
 嘉永五年(1852年)長州藩に内緒で東北の会津藩などを旅行したものだから、罪に問われてね。士籍剥奪や世禄没収となったのさ」
 吉田松陰は「思想家」であるから、今時にいえばオフィスワーカーだったか?といえば当然ながら違うのである。当時はテレビもラジオも自動車もない。飛脚(郵便配達)や駕籠(かご・人足運搬)や瓦版(新聞)はあるが、蒸気機関による大英帝国の「産業革命・創成期」である。この後、日本人は「黒船来航」で覚醒することになる。だが、吉田松陰こと寅次郎は九州や東北北部まで歩いて「諸国漫遊の旅」に(弟子の宮部鼎蔵(みやべ・ていぞう)とともに)出ており、この旅により日本国の貧しさや民族性等学殖を深めている。当時の日本は貧しい。俗に「長女は飯の種」という古い諺がある。これはこの言葉どうり、売春が合法化されてていわゆる公娼(こうしょう)制度があるときに「遊郭・吉原(いまでいうソープランド・風俗業)」の店に残念ながらわずかな銭の為に売られる少女が多かったことを指す。公娼制度はGHQにより戦後撤廃される。が、それでも在日米軍用に戦後すぐに「売春婦や風俗業に従事する女性たち」が集められ「強姦などの治安犯罪防止策」を当時の日本政府が展開したのは有名なエピソードである。
 松陰はその田舎の売られる女性たちも観ただろう。貧しい田舎の日本人の生活や風情も視察しての「倒幕政策」「草莽掘起」「維新政策」「尊皇攘夷」で、あった訳である。
 当時の日本は本当に貧しかった。物流的にも文化的にも経済的にも軍事的にも、実に貧しかった。長州藩の「尊皇攘夷実行」は只の馬鹿、であったが、たった数隻の黒船のアームストロング砲で長州藩内は火の海にされた。これでは誰でも焦る訳である。このまま国内が内乱状態であれば清国(現在の中国)のように植民地にされかねない。だからこその早急な維新であり、戊辰戦争であり、革命であるわけだ。すべては明治維新で知られる偉人たちの「植民地化への焦り」からの維新の劇場型政変であったのだ。
そんな長州藩萩で、天保14年(1843年)この物語の主人公の杉文(すぎ・ふみ)は生まれた。あまり文の歴史上の資料やハッキリとした若き日の写真や似顔絵といったものはないから風体や美貌は不明ではある。
 だが、吉田松陰は似顔絵ではキツネ目の馬面みたいだ。
 であるならば十三歳歳の離れた松陰の実妹は美貌の人物の筈はない。2015年大河ドラマ「花燃ゆ」で文役を演ずる井上真央さんくらい美貌なのか?は、少なくとも2013年大河ドラマ「八重の桜」の新島八重役=綾瀬はるかさん、ぐらい(本当の新島八重はぶくぶくに太った林檎ほっぺの田舎娘)、大河ドラマ「花燃ゆ」の杉文役=井上真央さんは、本人に遠い外見であることだろう。「文よ、お前はどう生きる?」寅にいこと松陰は妹に問う。 
この物語と大河ドラマでは、家の強い絆と、松蔭の志を継ぐ若者たちの青春群像を描く!吉田松陰の実家の杉家は、父母、三男三女、叔父叔母、祖母が一緒に暮らす多い時は11人の大家族。杉家のすぐそばにあった松下村塾では、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら多くの若者たちが松陰のもとで学び、日夜議論を戦わせた。若者の青春群像を描くとされていることから中心になる長州藩士 久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎らは20代後半の役者がキャスティング(配役)されてましたよね。吉田松陰の妹 杉文(美和子)とは?天保14年(1843年)、杉家の四女の文が生まれる。1843年に文が誕生。文は大河ドラマ『八重の桜』新島八重の2つ年上。文の生まれた年は1842年と1843年の二つの説があり。文(美和子)(松陰の四番目の妹で、久坂玄瑞の妻であったが、後に、楫取の二番目の妻となる)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─長州藩士、吉田松蔭の妹。久坂玄端の妻、楫取素彦の後妻(最初の妻は美和子の姉)。家格は無給通組(下級武士上等)、石高26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立て、7人の子供を育てていた。杉常道 - 父は長州藩士の杉常道、 母は滝子。杉家は下級武士だった。大正10までの79年間の波乱の生涯はドラマである。名前は杉文(すぎふみ)→久坂文→小田村文→楫取文→楫取美和子と変遷している。楫取美和子(かとりみわこ)文と久坂玄端の縁談話。しかし、面食いの久坂は、なんと師匠・松蔭の妹との結婚を一度断った。理由は「器量が悪い」から。1857年(安政4年)、吉田松陰の妹・文(ふみ)と結婚しました。玄瑞18歳、文15歳の時でした。久坂玄瑞:高杉晋作 1857年 文は久坂玄端と結婚。1859年 兄・松蔭は江戸で処刑される。1863年 禁門の変(蛤御門の変)で夫・久坂は自刃。文はというと、39歳の時に再婚。文はすぐさま返事はしなかったが「玄瑞からもらった手紙を持って嫁がせてくれるなら」ということに。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚。生前の久坂から、届いたただ一通の手紙。その手紙と共に39歳の時に、文は再婚。1883(明治16)年 松陰の四人の妹のうち、四番目の妹(参考 寿子は二番目)で、久坂玄瑞(1840年~1864年)に嫁ぎ、久坂の死で、22歳の時から未亡人になっていた文(美和子)と再婚(この時 、楫取 55歳)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─1883年 文は39~40歳。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深い。NHK大河「花燃ゆ」はないないづくし 識者は「八重の桜」の“二の舞”を懸念していたという (日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚し、79歳まで生きました。1912年 文の夫・楫取素彦が死去。1921年 文(楫取美和子)が死去。1924年 文の姉・千代が死去。
 杉千代(吉田松陰の妹・文の姉)千代は松陰より2歳年下の妹であった。1832年 萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助(常道)の長女として生まれる。杉寿(吉田松陰の妹・文の姉)杉 常道(すぎ つねみち、文化元年2月23日(1804年4月3日) - 慶応元年8月29日(1865年10月18日))は、江戸時代後期から末期(幕末)の長州藩士。吉田松陰の父。杉常道 - 杉瀧子(吉田松陰・文の母)家族から見た吉田松陰。 杉瀧子 吉田松陰の母。久坂 玄瑞(くさか げんずい)は、幕末の長州藩士。幼名は秀三郎、名は通武、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。天保11年(1840年)長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪の三男・秀三郎として生まれる。安政4年(1857年)松門に弟子入り。安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を久坂に嫁がせた。元治元年(1864年)禁門の変または蛤御門の変で鷹司邸内で自刃した。享年25。高杉 晋作(たかすぎ しんさく)は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。高杉晋作 - 1839年 長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太・みちの長男として生まれる。1857年 吉田松陰が主宰していた松下村塾に入る。1859年 江戸で松陰が処刑される。万延元年(1860年)11月 防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚。文久3年(1863年)6月 志願兵による奇兵隊を結成。慶応3年4月14日(1867年5月17日)肺結核でこの世を去る。楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日(1829年4月18日) - 大正元年(1912年)8月14日)は、日本の官僚、政治家。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵。楫取素彦 - 吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹二人が楫取の妻であった。最初の妻は早く死に、久坂玄瑞の未亡人であった松陰の末妹と再婚したのである。通称は米次郎または内蔵次郎→小田村伊之助→小田村文助・素太郎→慶応3年(1867年)9月に楫取素彦と改める。1829年 長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。1867年 鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制する。明治5年(1872年)に群馬 県参与、明治7年(1874年)に熊谷県権令。明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令(知事)となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定。明治14年(1881年) 文の姉・寿子と死別。明治16年(1883年) 文と再婚。1884年 元老院議官に転任。1887年 男爵を授けられる。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳。木戸 孝允 / 桂 小五郎(きど たかよし / かつら こごろう)幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町に藩医・和田昌景の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される。元治元年(1864年)禁門の変。明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発。5月26日、朦朧状態の中、大久保利通の手を握り締め、「西郷いいかげんにせいよ!」と明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去る。伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。幼年期には松下村塾に学び、吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。1941年 周防国熊毛郡束荷村字野尻の百姓・林十蔵の長男として生まれる。安政4年(1857年)2月、吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていた。松蔭が安政の大獄で斬首された際、師の遺骸をひきとることになる。明治18年(1885年)伊藤は初代内閣総理大臣となる。明治42年(1909年)10月、ハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家テロリスト・安重根によって射殺された。心に残る 吉田松陰 エピソード。「いやしくも一家を構えている人は、何かにつけて、色々と大切な品物が多いはずです。ですから、一つでも多く持ち出そうとしました。私の所持品のようなものは、なるほど私にとっては大切なものですが、考えてみれば、たいしたものではありません。」吉田 松陰先生の2歳年下の妹千代兄を語る。松陰の先生の家が火事になり、松蔭が自分のものを持ち出さなかった理由について語った言葉。人間にとって、利他の心を持ち、相手の立場に立って行動するということは、大切なことです。と妹・千代は語った。杉寿は兄・松陰のことは嫌いではなかったが、兄の親友の小田村伊之助と結婚すると、何かとトラブルばかり起こす松陰に対して愛情ゆえの手厳しい言葉と行動で当たった。その為に「杉家の烈女」等というありがたくない別名で呼ばれることが多い。
 とにもかくにも美人なんだかブスなんだか不明の吉田松陰の十三歳年下の妹・杉文(すぎ・ふみ)は、天保14年(1843年)に誕生した。母親は杉瀧子という巨漢な女性、父親は杉百合之助(常道)である。
 赤子の文を可愛いというのは兄・吉田寅次郎こと松陰である。寅次郎は赤子の文をあやした。子供好きである。
 大河ドラマとしては異常に存在感も歴史的に無名な杉文が主人公ではあった。大河ドラマ「篤姫」では薩摩藩を、大河ドラマ「龍馬伝」では土佐藩を、大河ドラマ「八重の桜」では会津藩を、大河ドラマ「花燃ゆ」では長州藩を描いた。
 大河ドラマ「江 姫たちの戦国」のような低視聴率になることはほぼ決まりのようだったが誤算になった。が、NHKは大河ドラマ「篤姫」での成功体験が忘れられない。
 だが、朝の連続テレビ小説「あまちゃん」「ごちそうさん」「花子とアン」並みの高視聴率等期待するだけ無駄だろう。
  話しを戻す。
 長州藩の藩校・明倫館に出勤して家学を論じた。次第に松陰は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。文にとって兵学指南役で長州藩士からも一目置かれているという兄・吉田寅次郎(松陰)の存在は誇らしいものであったらしい。松陰は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」松陰は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで松陰は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら松陰はきいた。
「大町にお住まいの与力某様でござります」
 松陰は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると松陰は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、松陰は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い吉田松陰でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  松陰は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 松陰の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、松陰は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。松陰は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。松陰は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  松陰は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により松陰の名声は世に知られるようになっていく。松陰はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」

 文は幼少の頃より、兄・松陰に可愛がられ、「これからは女子も学問で身をたてるときが、そんな世の中がきっとくる」という兄の考えで学問を習うようになる。吉田松陰は天才的な思想家であった。すでに十代で藩主の指南役までこなしているのだ。それにたいして杉文なる人物がどこまで学問を究めたか?はさっぱり資料もないからわからない。
 2015年度の大河ドラマ「花燃ゆ」はほとんどフィクションの長州藩の維新の志士達ばかりがスポットライトが当たるドラマになった。
 歴史的な資料がほとんどない。ということは小説家や脚本家が「好きに脚色していい」といわれているようなものだ。吉田松陰のくせは顎をさすりながら、思考にふけることである。
 しかも何か興味があることをあれやこれやと思考しだすと周りの声も物音も聞こえなくなる。「なんで、寅次郎にいやんは、考えだすと私の声まできこえんとなると?」文が笑う。と松陰は「う~ん、学者やからと僕は思う」などと真面目な顔で答える。それがおかしくて幼少の文は笑うしかない。
 家庭教師としては日本一優秀である。が、まだ女性が学問で身を立てる時代ではなかった。まだ幕末の混迷期である。当然、当時の人は「幕末時代」等と思う訳はない。徳川幕府はまだまだ健在であった時代である。「幕末」「明治維新」「戊辰戦争」等という言葉はのちに歴史家がつけたデコレーションである。
 大体にして当時のひとは「明治維新」等といっていない。「瓦解」といっていた。つまり、「徳川幕府・幕藩体制」が「瓦解」した訳である。
 あるとき吉田松陰は弟子の宮部鼎蔵とともに諸国漫遊の旅、というか日本視察の旅にでることになった。松陰は天下国家の為に自分は動くべきだ、という志をもつようになっていた。この日本という国家を今一度洗濯するのだ。
 「文よ、これがなんかわかるとか?」松陰は地球儀を持ってきた。「地球儀やろう?」「そうや、じゃけん、日本がどこにばあるとかわからんやろう?日本はこげなちっぽけな島国じゃっと」
 「へ~つ、こげな小さかと?」「そうじゃ。じゃけんど、今一番経済も政治も強いイギリスも日本と同じ島国やと。何故にイギリス……大英帝国は強いかわかると?」「わからん。何故イギリスは強いと?」
 松陰はにやりと言った。「蒸気機関等の産業革命による経済力、そして軍艦等の海軍力じゃ。日本もこれに習わにゃいかんとばい」
 「この国を守るにはどうすればいいとか?寅次郎にいやん」「徳川幕府は港に砲台を築くことじゃと思っとうと。じゃが僕から見れば馬鹿らしかことじゃ!日本は四方八方海に囲まれとうと。大砲が何万台あってもたりんとばい」
 徳川太平の世が二百七十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 吉田松陰はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、松陰も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
  この年から数年後、幕府の井伊直弼大老による「安政の大獄」がはじまる。
 松陰は「世界をみたい! 外国の船にのせてもらいたいと思っとうと!」
 と母親につげた。
 すると母親は「せわぁない」と笑った。
 松陰は風呂につかった。五衛門風呂である。
 星がきれいだった。
 ……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
 松陰は参禅を二十三、四歳までやっていた。
 もともと彼が蘭学を学んだのは師匠・佐久間象山の勧めだった。剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。松陰が蘭学を習ったのは幕府の馬医者である。
 吉田松陰は遠くは東北北部まで視察の旅に出た。当然、当時は自動車も列車もない。徒歩で行くしかない。このようにして松陰は視察によって学識を深めていく。
 旅の途中、妹の文が木登りから落ちて怪我をした、という便りには弟子の宮部鼎蔵とともに冷や冷やした。が、怪我はたいしたことない、との便りが届くと安心するのだった。 
  父が亡くなってしばらくしてから、松陰は萩に松下村塾を開いた。蘭学と兵学の塾である。「学ぶのは何の為か?自分の為たい!自分を、己を、人間を磨くためばい!」
 久坂玄瑞と高杉晋作は今も昔も有名な松下村塾の龍・虎で、ある。ふたりは師匠の実妹・文を「妹のように」可愛がったのだという。
 塾は客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が松陰の元に舞い込むようになった。
 

蒼天繚乱 幕末の傑物 荒波の如く 坂本龍馬と陸奥宗光<一部先行公開>ブログ特別編**No1

2015年06月24日 19時37分23秒 | 日記










小説 蒼天繚乱
   幕末の傑物 荒波の如く
     坂本龍馬と陸奥宗光
       

                RYOUMA&MUTSU! 
   ~the top  samurai ~~大政奉還せよ! 龍馬と陸奥宗光の「日本再生論」。
             「薩長同盟」「名外相・陸奥宗光」はいかにしてなったか。~
                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

  黒船来航…
  幕末、龍馬は土佐(高知県)に生まれた。陸奥宗光は紀州(和歌山県)生まれだ。町人郷士の坂本八平直足の末っ子である。 龍馬は「坂本の仁王様」とあだ名される乙女姉にきたえられる。それから江戸に留学して知識を得た。勝海舟に弟子いりした坂本龍馬にとって当時の日本はいびつにみえた。龍馬は幕府を批判していく。だが龍馬は若き将軍徳川家茂を尊敬していた。しかし、その将軍も死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。
 勝海舟はなんとかサポートするが、やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、幕府残党は奥州、蝦夷へ……
 龍馬は維新夜明け前に近江屋で暗殺されてしまう。墓には坂本龍馬とだけ掘られたという。やがて明治時代に募金によって高知県桂浜に龍馬の銅像がたてられた。外務省には陸奥宗光の銅像が建てられた。 おわり





         1 立志


 長州藩と英国による戦争は、英国の完全勝利で、あった。
 長州の馬鹿が、たった一藩だけで「攘夷実行」を決行して、英国艦船に地上砲撃したところで、英国のアームストロング砲の砲火を浴びて「白旗」をあげたのであった。
  長州の「草莽掘起」が敗れたようなものであった。
 同藩は投獄中であった高杉晋作を敗戦処理に任命し、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を通訳として派遣しアーネスト・サトウなどと停戦会議に参加させた。
 伊藤博文は師匠・吉田松陰よりも高杉晋作に人格的影響を受けている。

  ……動けば雷電の如し、発すれば驟雨の如し……

 伊藤博文が、このような「高杉晋作」に対する表現詩でも、充分に伊藤が高杉を尊敬しているかがわかる。高杉晋作は強がった。
「確かに砲台は壊されたが、負けた訳じゃない。英国陸海軍は三千人しか兵士がいない。その数で長州藩を制圧は出来ない」
 英国の痛いところをつくものだ。
 伊藤は関心するやら呆れるやらだった。
  明治四十二年には吉田松陰の松下村塾門下は伊藤博文と山県有朋だけになっている。
 ふたりは明治政府が井伊直弼元・幕府大老の銅像を建てようという運動には不快感を示している。時代が変われば何でも許せるってもんじゃない。  
 松門の龍虎は間違いなく「高杉晋作」と「久坂玄瑞」である。今も昔も有名人である。
 伊藤博文と山県有朋も松下村塾出身だが、悲劇的な若死をした「高杉晋作」「久坂玄瑞」に比べれば「吉田松陰門下」というイメージは薄い。
 伊藤の先祖は蒙古の軍艦に襲撃をかけた河野通有で、河野は孝雷天皇の子に発しているというが怪しいものだ。歴史的証拠資料がない為だ。伊藤家は貧しい下級武士で、伊藤博文の生家は現在も山口県に管理保存されているという。
「あなたのやることは正しいことなのでわたくしめの力士隊を使ってください!」
 奇兵隊蜂起のとき、そう高杉晋作にいって高杉を喜ばせている。
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、『ネタバレ』、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』、津本陽著作『私に帰せず 勝海舟』、司馬遼太郎著作『竜馬がゆく』、『陸奥宗光』上下 荻原延濤(朝日新聞社)、『陸奥宗光』上下 岡崎久彦(PHP文庫)、『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦(PHP文庫)、『勝海舟全集』勝部真長ほか編(頸草書房)、『勝海舟』松浦玲(中公新書)、『氷川清話』勝海舟/勝部真長編(角川文庫)、『坂本龍馬』池田敬正(中公新書)、『坂本龍馬』松浦玲(岩波新書)、『坂本龍馬 海援隊始末記』平尾道雄(中公文庫)、『一外交官の見た明治維新』上下 アーネスト・サトウ/坂田精一(岩波文庫)、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一(東洋文庫)、『幕末外交談』田辺太一/坂田精一校注・訳(東洋文庫)、『京都守護職始末』山川浩/遠山茂樹校注/金子光晴訳(東洋文庫)、『日本の歴史 19 開国と攘夷』小西四郎(中公文庫)、『日本の歴史 18 開国と幕末変革』井上勝生(講談社文庫)、『日本の時代史 20 開国と幕末の動乱』井上勲編(吉川弘文館)、『図説和歌山県の歴史』安藤精一(河出書房新刊)、『荒ぶる波濤』津本陽(PHP文庫)、日本テレビドラマ映像資料『田原坂』『五稜郭』『奇兵隊』『白虎隊』『勝海舟』、NHK映像資料『歴史秘話ヒストリア』『その時歴史が動いた』大河ドラマ『龍馬伝』『篤姫』『新撰組!』『八重の桜』『坂の上の雲』、『花燃ゆ』漫画『おーい!竜馬』一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、NHK『大河ドラマ 龍馬伝ガイドブック』角川ザテレビジョン、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
『竜馬がゆく(日本テレビ・テレビ東京)』『田原坂(日本テレビ)』『五稜郭(日本テレビ)』『奇兵隊(日本テレビ)』『勝海舟(日本テレビ)』映像資料『NHKその時歴史が動いた』『歴史秘話ヒストリア』映像参考資料等。
 「文章や物語が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく、引用です。

この物語の参考文献はウィキペディア、ネタバレ、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作、童門冬二著作、池宮彰一郎著作、津本陽著作、日本テレビドラマ映像資料、NHK映像資料、大河ドラマ、漫画『おーい!竜馬』一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
*ウィキペディアから引用します。

日本の旗 日本の政治家
陸奥 宗光
Munemitsu Mutsu
生年月日 1844年8月20日
出生地 紀伊国
没年月日 1897年8月24日(満53歳没)
死没地 東京府 北豊島郡 滝野川村 西ヶ原
出身校 神戸海軍操練所
前職 外務官僚
所属政党 無所属
称号 正二位
勲一等旭日大綬章
伯爵
親族 岡崎邦輔(従弟)
中島信行(義弟)
配偶者 陸奥蓮子
陸奥亮子
日本の旗 第6代農商務大臣
内閣 第1次山縣内閣
第1次松方内閣
在任期間 1890年5月17日 - 1892年3月14日
日本の旗 第8代外務大臣
内閣 第2次伊藤内閣
在任期間 1892年8月8日 - 1896年5月30日
日本の旗 元老院議官
在任期間 1875年4月25日 - 1875年11月28日
日本の旗 衆議院議員
選挙区 和歌山県第1区
当選回数 1回
在任期間 1890年7月1日 - 1891年12月25日
日本の旗 枢密顧問官
在任期間 1892年3月14日 - 1892年8月8日
その他の職歴
日本の旗 第4代神奈川県知事
(1871年10月5日 - 1872年8月17日)
日本の旗 第4代兵庫県知事
(1869年7月28日 - 1869年8月24日)

陸奥 宗光(むつ むねみつ、天保15年7月7日(1844年8月20日) - 明治30年(1897年)8月24日)は、日本の政治家、外交官、武士(紀州藩藩士)。明治初期に行われた版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に大きな影響を与えた。また、カミソリ大臣と呼ばれ、伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。江戸時代までの通称は陽之助(ようのすけ)。
正二位・勲一等・伯爵。家紋は仙台牡丹。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
天保15年(1844年)8月20日、紀伊国和歌山(現在の和歌山県和歌山市吹上3丁目)の紀州藩士・伊達宗広と政子(渥美氏)の六男として生まれる。幼名は牛麿(うしまろ)。生家は伊達騒動で知られる、伊達政宗の末子・伊達兵部宗勝の後裔と伝えられるが、実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫である。伊達小次郎、陸奥陽之助と称する。国学者・歴史家としても知られていた父の影響で、尊王攘夷思想を持つようになる。父は紀州藩に仕え、財政再建をなした重臣(勘定奉行)であったが、宗光が8歳のとき(1852年)藩内の政争に敗れて失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活がおとずれた。
幕末[編集]

若き日の陸奥宗光
安政5年(1858年)、江戸に出て安井息軒に師事するも、吉原通いが露見し破門されてしまう。その後は水本成美に学び、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。
文久3年(1863年)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867年)には坂本龍馬の海援隊(前身は亀山社中)に加わるなど、終始坂本と行動をともにした。勝海舟と坂本の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめるほどだったという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」だと絶賛している。
龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。
維新後[編集]
明治維新後は岩倉具視の推挙により、外国事務局御用係(1868年)。戊辰戦争に際し、局外中立を表明していたアメリカと交渉し、甲鉄艦として知られるストーンウォール号の引き渡し締結に成功し、その際、未払金十万両があったが財政基盤の脆弱だった新政府には払えなかった。これを大阪の商人達に交渉し、一晩で借り受けることに成功する。兵庫県知事(1869年)、神奈川県令(1871年)、地租改正局長(1872年)などを歴任するが、薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞し、和歌山に帰った。明治5年(1872年)に蓮子夫人が亡くなり、翌明治6年(1873年)に亮子と結婚している。大阪会議(1875年)で政府と民権派が妥協し、その一環で設置された元老院議官となる。
投獄と欧州留学[編集]
明治10年(1877年)の西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆を謀ったが、陸奥は土佐派と連絡を取り合っていた。翌年にこのことが発覚し、除族のうえ禁錮5年の刑を受け、投獄された。
山形監獄に収容された陸奥は、せっせと妻亮子に手紙を書く一方で、自著を著し、イギリスの功利主義哲学者ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。出獄の後の明治16年(1883年)にベンサムの『Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)』は「利学正宗」の名で刊行されている。山形監獄が火災にあったとき、陸奥焼死の誤報が流れたが、誤報であることがわかると、明治11年(1878年)に伊藤博文が手を尽くして当時最も施設の整っていた宮城監獄に移させた。
明治16年(1883年)1月、特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。明治17年(1884年)にロンドンに到着した陸奥は、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。ロンドンで陸奥が書いたノートが今も7冊残されている。内閣制度の仕組みはどのようなものか、議会はどのように運営されているのか、民主政治の先進国イギリスが、長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々を盛んに吸収したあとがみられる。また、ウィーンではシュタインの国家学を学んだ。
政界への復帰[編集]
明治19年(1886年)2月に帰国し、10月には外務省に出仕した。明治21年(1888年)、駐米公使となり、同年、駐米公使兼駐メキシコ公使として、メキシコ合衆国との間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。
帰国後、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任。明治23年(1890年)、大臣在任中に第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第1区から出馬し初当選を果たし、1期を務めた。閣僚中、唯一の衆議院議員であった。陸奥の入閣には農商務大臣としてより、むしろ第1回帝国議会の円滑な進行(今でいう国会対策)が期待された。実際に初代衆議院議長の中島信行は海援隊以来の親友であり、またかつて部下であった自由党の実力者星亨とは終生親交が厚く、このつながりが議会対策に役立っている。なお、このとき農商務大臣秘書であったのが腹心原敬である。陸奥の死後、同志であった西園寺公望・星・原が伊藤を擁して立憲政友会を旗揚げすることになる。
明治24年(1891年)に足尾銅山鉱毒事件をめぐり、帝国議会で田中正造から質問主意書を受けるが、質問の趣旨がわからないと回答を出す(二男潤吉は足尾銅山の経営者、古河市兵衛の養子であった)。同年5月成立した第1次松方内閣に留任し、内閣規約を提案、自ら政務部長となったが薩摩派との衝突で辞任した。11月、後藤象二郎や大江卓、岡崎邦輔の協力を得て日刊新聞『寸鉄』を発刊し、自らも列する松方内閣を批判、明治25年(1892年)3月、辞職して枢密顧問官となる。
外相時代[編集]
その後、第2次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任。 明治27年(1894年)、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結。 幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功する。以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正した。陸奥が外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成し遂げた。同年8月、子爵を叙爵する。
一方、同年5月に朝鮮で甲午農民戦争が始まると清の出兵に対抗して派兵。7月23日に朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、25日には豊島沖海戦により日清戦争を開始。イギリス、ロシアの中立化にも成功した。この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる川上操六参謀次長の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。
戦勝後は伊藤博文とともに全権として明治28年(1895年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。日清戦争の功により、伯爵に陞爵する。
これ以前より陸奥は肺結核を患っており、三国干渉が到来したとき、この難題をめぐって閣議が行われたのは、既に兵庫県舞子で療養生活に入っていた陸奥の病床においてであった。明治29年(1896年)、外務大臣を辞し、大磯別邸(聴漁荘)やハワイにて療養生活を送る。このあいだ、雑誌『世界之日本』を発刊している。
明治30年(1897年)8月24日、肺結核のため西ヶ原の陸奥邸で死去。享年54(満53歳没)。墓所は大阪市天王寺区夕陽丘町にあったが、昭和28年(1953年)に鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺に改葬された。
明治40年(1907年)、条約改正や日清戦争の難局打開に関する陸奥の功績を讃えて、外務省に彼の像が建立された。戦時中に金属回収により供出されたが、昭和41年(1966年)に再建された。
栄典[編集]
1893年(明治26年)10月30日 - 勲一等瑞宝章
1894年(明治27年)8月29日 - 子爵
1895年(明治28年)8月20日 - 伯爵
1895年(明治28年)8月20日 - 旭日大綬章
1897年(明治30年)8月21日 - 正二位
外国勲章等
1894年(明治27年)8月8日 - シャム王国白象第一等勲章
1894年(明治27年)3月30日 - フランス共和国グランヲフィシェードラレジオンドンノール勲章
1895年(明治28年)2月20日 - バイエルン王国グロースクロイツデスケーニヒリヘンフェルヂーンストヲルデンスフオムハイリゲンミハエル勲章
1895年(明治28年)10月3日 - セルビア王国タコヴァ十字第一等勲章
1896年(明治29年)3月17日 - ロシア帝国白鷲大綬章
1896年(明治29年)10月26日 - スペイン王国シャルルトロワー第一等勲章

家族[編集]

陸奥蓮子(1846年-1872年。大阪新町もしくは難波新地か堀江の元芸妓。芸者時代はお米と言い、届け出上は三井家の大番頭・吹田四郎兵衛の娘として嫁ぐ)。陸奥が大阪判事時代に落籍し、二人の息子をもうけたが、病死。
陸奥亮子(1856年-1900年。1872年結婚。東京新橋の元芸妓小鈴。届け出上は士族の娘)。
息子
陸奥広吉(長男、外交官。1869年-1942年。鎌倉女学院校長。妻・エセル(日本名:イソ)はイギリス人)
古河潤吉(次男、古河市兵衛の養子。1870年-1905年。養父とともに足尾銅山の経営に当たる)

陸奥清子(長女、1871年-1893年)
陸奥冬子(次女、1873年-1904年。祇園の芸者との子。宗光の死後、陸奥家に引き取られ、広吉の養女となる)

陸奥イアン陽之助(広吉とエセルの長男。1907年-2002年。インタナシヨナル映画社長。妻に元NHKアナウンサーの本田寿賀、92歳で結婚した祥子など)
宗光の4人の子のうち、広吉を除く3人は未婚のまま没したため、広吉の子の陽之助が宗光の唯一の孫である。鎌倉の寿福寺に陸奥家の墓所がある。
著作・書翰[編集]
明治25年(1892年)から執筆を開始した『蹇々録(けんけんろく)』は、日清戦争、三国干渉の処理について記述したもので、外務省の機密文書を引用しているため長く非公開とされ、昭和4年(1929年)に初めて公刊された。明治外交史上の第一級史料である。
昭和27年(1952年)、陸奥家は国立国会図書館に書翰と書類を寄贈している。陸奥宛書簡は伊藤博文、三条実美、山縣有朋等の主要政治家60人以上にのぼり、書類は外交関係がほとんどを占める。
エピソード[編集]
若かりし頃の陸奥は、雑踏の中を他人とぶつかることなくすり抜けることに長けていたといわれている。
後妻の陸奥亮子は「鹿鳴館の華」「在米公使館の華」と呼ばれた美貌の女性である。
陸奥宗光が、藩閥打倒、議会制民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺公望は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが…」と言って、周囲の見る目も痛わしいほど落胆したという。
「政治はアートなり。サイエンスにあらず。巧みに政治を行い、巧みに人心を治めるのは、実学を持ち、広く世の中のことに習熟している人ができるのである。決して、机上の空論をもてあそぶ人間ではない」と自著『蹇々録』の中で語っている。
坂本龍馬が船中八策を西郷隆盛に提示した際、「わしは世界の海援隊をやります」と発言した場に同席し非常な感銘を受け、後世ことあるごとに回想を語ったとされている。しかしこれは西郷と龍馬のやりとりも含めた後世の創作ともいわれる。
海援隊時代の経験を買われ、横浜の生糸貿易の総元締となっている。

なおここから数十行の文章は小林よしのり氏の著作・『ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり「大東亜論 第5章 明治6年の政変」』小学館SAPIO誌2014年6月号小林よしのり著作漫画、72ページ~78ページからの文献を参考にしています。
 盗作ではなくあくまで引用です。前述した参考文献も考慮して引用し、創作しています。盗作だの無断引用だの文句をつけるのはやめてください。
  この頃、決まって政治に関心ある者たちの話題に上ったのは「明治6年の政変」のことだった。
 明治6年(1873)10月、明治政府首脳が真っ二つに分裂。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五人の参謀が一斉に辞職した大事件である。
 この事件は、通説では「征韓論」を唱える西郷派(外圧派)と、これに反対する大久保派(内治派)の対立と長らく言われていきた。そしてその背景には、「岩倉使節団」として欧米を回り、見聞を広めてきた大久保派と、その間、日本で留守政府をに司っていた西郷派の価値観の違いがあるとされていた。しかし、この通説は誤りだったと歴史家や専門家たちにより明らかになっている。
 そもそも西郷は「征韓論」つまり、武力をもって韓国を従えようという主張をしたのではない。西郷はあくまでも交渉によって国交を樹立しようとしたのだ。つまり「親韓論」だ。西郷の幕末の行動を見てみると、第一次長州征伐でも戊辰戦争でも、まず強硬姿勢を示し、武力行使に向けて圧倒な準備を整えて、圧力をかけながら、同時に交渉による解決の可能性を徹底的に探り、土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるという方法を採っている。勝海舟との談判による江戸無血開城がその最たるものである。
 西郷は朝鮮に対しても同じ方法で、成功させる自信があったのだろう。
 西郷は自分が使節となって出向き、そこで殺されることで、武力行使の大義名分ができるとも発言したが、これも武力行使ありきの「征韓論」とは違う。
 これは裏を返せば、使節が殺されない限り、武力行使はできない、と、日本側を抑えている発言なのである。そして西郷は自分が殺されることはないと確信していたようだ。
 朝鮮を近代化せねばという目的では西郷と板垣は一致。だが、手段は板垣こそ武力でと主張する「征韓論」。西郷は交渉によってと考えていたが、板垣を抑える為に「自分が殺されたら」と方便を主張。板垣も納得した。
 一方、岩倉使節団で欧米を見てきた大久保らには、留守政府の方針が現実に合わないものに見えたという通説も、勝者の後付けだと歴史家は分析する。
 そもそも岩倉使節団は実際には惨憺たる大失敗だったのである。当初、使節団は大隈重信が計画し、数名の小規模なものになるはずだった。
 ところが外交の主導権を薩長で握りたいと考えた大久保利通が岩倉具視を擁して、計画を横取りし、規模はどんどん膨れ上がり、総勢100人以上の大使節団となったのだ。
 使節団の目的は国際親善と条約改正の準備のための調査に限られ、条約改正交渉自体は含まれていなかった。
しかし功を焦った大久保や伊藤博文が米国に着くと独断で条約改正交渉に乗り出す。だが、本来の使命ではないので、交渉に必要な全権委任状がなく、それを交付してもらうためだけに、大久保・伊藤の2人が東京に引き返した。大使節団は、大久保・伊藤が戻ってくるまで4か月もワシントンで空しく足止めされた。大幅な日程の狂いが生じ、10か月半で帰国するはずが、20か月もかかり、貴重な国費をただ蕩尽(とうじん)するだけに終わってしまったのだ。
 一方で、その間、東京の留守政府は、「身分制度の撤廃」「地租改正」「学制頒布」などの新施策を次々に打ち出し、着実に成果を挙げていた。
 帰国後、政治生命の危機を感じた大久保は、留守政府から実権を奪取しようと策謀し、これが「明治6年の政変」となったのだ。大久保が目の敵にしたのは、板垣退助と江藤新平であり、西郷は巻き添えを食らった形だった。
 西郷の朝鮮への使節派遣は閣議で決定し、勅令まで下っていた。それを大久保は権力が欲しいためだけに握りつぶすという無法をおこなった。もはや朝鮮問題など、どうでもよくなってしまった。
 ただ国内の権力闘争だけがあったのだ。こうして一種のクーデターにより、政権は薩長閥に握られた。
 しかも彼ら(大久保や伊藤ら)の多くは20か月にも及んだ外遊で洗脳されすっかり「西洋かぶれ」になっていた。もはや政治どころではない。国益や政治・経済の自由どころではない。
 西郷や板垣らを失った明治政府は誤った方向へと道をすすむ。日清戦争、日露戦争、そして泥沼の太平洋戦争へ……歴史の歯車が狂い始めた。
(以下文(参考文献ゴーマニズム宣言大東亜論)・小林よしのり氏著作 小学館SAPIO誌7月号74~78ページ+8月号59~75ページ+9月号61~78ページ参考文献)
この頃、つまり「明治6年の政変」後、大久保利通は政治家や知識人らや庶民の人々の怨嗟(えんさ)を一身に集めていた。維新の志を忘れ果て、自らの政治生命を維持する為に「明治6年の政変」を起こした大久保利通。このとき大久保の胸中にあったのは、「俺がつくった政権を後から来た連中におめおめ奪われてたまるものか」という妄執だけだった。
西郷隆盛が何としても果たそうとした朝鮮使節派遣も、ほとんど念頭の片隅に追いやられていた。これにより西郷隆盛ら5人の参議が一斉に下野するが、西郷は「巻き添え」であり…そのために西郷の陸軍大将の官職はそのままになっていた。この政変で最も得をしたのは、井上馨ら長州汚職閥だった。長州出身の御用商人・山城屋和助が当時の国家予算の公金を使い込んだ事件や……井上馨が大蔵大臣の職権を濫用して民間の優良銅山を巻き上げ、自分のものにしようとした事件など、長州閥には汚職の疑惑が相次いだ。だが、この問題を熱心に追及していた江藤新平が政変で下野したために、彼らは命拾いしたのである。
江藤新平は初代司法卿として、日本の司法権の自立と法治主義の確立に決定的な役割を果たした人物である。江藤は政府で活躍したわずか4年の間に司法法制を整備し、裁判所や検察機関を創設して、弁護士・公証人などの制度を導入し、憲法・民法の制定に務めた。
もし江藤がいなければ、日本の司法制度の近代化は大幅に遅れたと言っても過言ではない。そんな有能な人材を大久保は政府から放逐したのだ。故郷佐賀で静養していた江藤は、士族反乱の指導者に祭り上げられ、敗れて逮捕された。江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に3日前に作られた裁判所で、十分な弁論の機会もなく、上訴も認めない暗黒裁判にかけられ、死刑となった。新政府の汚職の実態を知り尽くしている江藤が、裁判で口を開くことを恐れたためである。それも斬首の上、さらし首という武士に対してあり得ない屈辱的な刑で……しかもその写真が全国に配布された。(米沢藩の雲井龍雄も同じく死刑にされた)すべては大久保の指示による「私刑」だった。

「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹・文の生涯<維新回天 完全版>2015年大河ドラマ原作1

2015年06月24日 14時25分56秒 | 日記










「花燃(はなも)ゆ」 とその時代 吉田松陰と妹・文の生涯
<維新回天決起特別編 完全版>
 



                「はな・もゆ」とそのじだい  よしだしょういんといもうとふみのしょうがい
~三千世界の烏を殺し~
               ~開国へ! 奇兵隊!
               吉田松陰の「草莽掘起」はいかにしてなったか。~
                セミ・ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  MIDORIKAWA washu
                   緑川  鷲羽
         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

          あらすじ

2015年のNHK大河ドラマが発表され、幕末の長州藩士で思想家の吉田松陰の妹・文(ふみ)が主役のオリジナル作品「花燃ゆ」に決まり、女優の井上真央さんが主演を務めた。井上さんが大河ドラマに出演するのは初めてで、NHKのドラマに出演するのは11年のNHK連続テレビ小説「おひさま」で主演を務めて以来、約4年ぶりとなった。同日、NHKふれあいホール(東京都渋谷区)で制作発表会見が開かれ、井上さんは「勉強しないといけないこともある。責任を持って頑張りたい」と意気込みを語った。「花燃ゆ」に高まる萩市、 観光客誘致の起爆剤に期待 山口。2013.12.13 02:05■維新150年に弾み。平成27年のNHK大河ドラマが吉田松陰の妹、文(ふみ)が主人公の「花燃ゆ」と決まり、舞台となる山口県萩市は、観光振興の起爆剤になると期待を高めていた。萩が舞台の大河は昭和52年の中村梅之助さん主演「花神」(司馬遼太郎原作)以来38年ぶり。萩市は30年の明治維新150年に向け、観光客誘致を進めており、大河放送で弾みがついた。(将口泰浩)「偉人ではないので不安もあるけど、私みたいに歴史に疎い方でも身近に感じられると思う」2013年12月3日に東京で開かれた記者発表で、主演の井上真央さん(28)がこう語ったように、文の経歴はほとんど知られていない。文は天保14(1843)年に杉百合之助の4女として誕生した。13歳年上の兄・松陰が開いた松下村塾に学ぶ高杉晋作や久坂玄瑞に妹のようにかわいがられて育った。その後、玄瑞と結婚、玄瑞18歳、文15歳だった。晋作と並び「村塾の双璧」といわれた玄瑞に嫁がせたことで、松陰の妹への愛情、玄瑞への高い評価がうかがい知れる。しかし、玄瑞は元治元(1864)年の禁門の変(蛤御門の変)で負傷、同じ塾生の寺島忠三郎とともに鷹司邸内で自刃した。享年25。若すぎる死だった。維新後、西郷隆盛は「もし久坂さんが生きていたら、私は参議などと大きな顔をしていられない」と語ったといわれる俊才だった。文は若くして未亡人となる。その後は藩主である毛利家の奧女中として長く仕えていたが、明治14(1881)年、楫取(かとり)素彦の妻であった姉の寿子(杉寿・すぎ・ひさ(こ))が死亡、2年後、文は素彦と再婚、美和子と改名した。素彦は、倒幕派志士として活躍した松島剛蔵の弟で、長州藩の藩校明倫館で学んだ。松陰の死後は松下村塾で塾生を指導し、教育者、松陰の遺志を受け継いだ男でもある。維新後は官界に入り、初代群馬県令(知事)となった。 松陰、玄瑞…。79歳で亡くなるまでの間、文は時代から愛する男たちを奪われる。「運命に翻弄(ほんろう)されながらも、芯の強い女性を表現できたらいい」と井上さんは意気込む。ドラマのテーマは「明治維新はこの家族から始まった」。心優しい松陰や文を育てた杉家のおおらかな家族愛と絆も重要な要素という。平成27年1月から放送された。井上さんは「地域密着型で山口県を盛り上げて、ロケしながらおいしい物を食べたい」と話していた。萩市の野村興児市長は「大河ドラマは萩観光の起爆剤になる」と期待を高めていた。もう一つのドラマの見所として、松下村塾での教育のあり方も興味深かった。「学は人たる所以を学ぶなり」(学問とは、人間とは何かを学ぶもの)「志を立ててもって万事の源となす」(志を立てることがすべての源となる)「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」(誠を尽くせば動かすことができないものはない)松陰が語りかける言葉の一つ一つに感銘を受ける若き久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら。人間形成にとって教育とはいかなるものか。われわれに問いかける。黒船来航…幕末、伊藤博文は吉田松陰の松下村塾で優秀な生徒だった。親友はのちに「禁門の変」を犯すことになる高杉晋作、久坂玄瑞である。高杉は上海に留学して知識を得た。長州の高杉や久坂にとって当時の日本はいびつにみえた。彼らは幕府を批判していく。
 将軍が死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。幕府に不満をもつ晋作は兵士を農民たちからつのり「奇兵隊」を結成。やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。
 勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、榎本幕府残党は奥州、蝦夷へ……
 しかし、晋作は維新前夜、幕府軍をやぶったのち、二十七歳で病死してしまう。晋作の死をもとに長州藩士たちはそれぞれ明治の時代に花開いた。       おわり


         1 草莽掘起


 坂本竜馬はいつぞやの土佐藩の山内容堂公の家臣の美貌の娘・お田鶴(たず)さまと、江戸で偶然出会った。お田鶴は徳川幕府の旗本のお坊ちゃまと結婚し、江戸暮らしをはじめていて、龍馬は江戸の千葉道場に学ぶために故郷・土佐を旅立っていた。
「お田鶴さまお久ぶりです」「竜馬……元気そうですね。」ふたりは江戸の街を歩いた。「江戸はいいですね。こうして二人で歩いてもとがめる人がいない……」「ああ!ほんに江戸はええぜよ!」
 忘れてはならないのは龍馬とお田鶴さまは夜這いや恋人のような仲であったことである。二人は小さな神社の賽銭箱横にすわった。まだ昼ごろである。
「幸せそうじゃの、お田鶴さま。旦那様は優しい人ですろうか?」「つまらぬ人です。旗本のたいくつなお坊ちゃま。幸せそうに見えるなら今、龍馬に会えたからです」「は……はあ」「わたしはあの夜以来、龍馬のことを想わぬ日は有りませぬ。人妻のわたしは抜け殻、夜……抱かれている時も、心は龍馬に抱かれています。お前はわたしのことなど忘れてしまいましたか?」「わ、忘れちょりゃせんですきに」
 二人はいいムードにおちいり、境内、神社のせまい中にはいった。「お田鶴さま」「竜馬」
「なぜお田鶴さまのような方が、幸せな結婚ができなかったんじゃ…どうしちゅうたらお田鶴さまを幸せに出来るんじゃ?!」
そんなとき神社の鈴を鳴らし、柏手を打ち、涙ながらに祈る男が訪れた。面長な痩せた男・吉田松陰である。
「なにとぞ護国大明神!この日の本をお守りくだされ!我が命に代えても、なにとぞこの日の本をお守りくだされ!」
 龍馬たちは唖然として音をたててしまった。
「おお!返事をなさった!護国大明神!わが祈りをお聞き入れくださりますか!」松陰は門を開けて神社内にはいり無言になった。
 龍馬とお田鶴も唖然として何も言えない。
「お二人は護国大明神でありますか?」
「いや、わしは土佐の坂本竜馬、こちらはお田鶴さまです。すまんのう。幼馴染なものでこんな所で話し込んじょりました」
 松陰は「そうですか。では、どうぞごゆっくり…」と心ここにあらずでまた仏像に祈り続けた。
「護国大明神!このままではこの日の本は滅びます。北はオロシア、西にはフランス、エゲレス、東よりメリケンがこの日の本に攻めてまいります!吉田松陰、もはや命は捨てております!幕府を倒し、新しき政府をつくらねばこの国は夷人(えびすじん)どもの奴隷国となってしまいます!なにとぞわたくしに歴史を変えるほどの力をお与えください」
 松陰は涙をハラハラ流し祈り続けた。龍馬とお田鶴は唖然とするしかない。しばらくして松陰は「お二人とも私の今の祈願は、くれぐれも内密に…」といい、龍馬とお田鶴がわかったと頷くと駿馬の如くどこぞかに去った。
 すると次に四人の侍が来た。「おい、武家姿の御仁を見かけなかったか?」狐目の男が竜馬たちにきいた。
「あっ、見かけた」
「なに!どちらにいかれた?!」
「それが……秘密といわれたから…いえんぜよ」
「なにい!」狐目の男が鯉口を切ろうとした。「まあ、晋作」
「わたしは長州藩の桂小五郎と申します。捜しておられるのは我らの師吉田松陰という御仁です。すばらしいお方じゃが、まるで爆弾のようなお人柄、弟子として探しているんだ。頼む!お教え願いたい」
 四人の武士は高杉晋作、桂小五郎(のちの木戸孝允)、久坂玄瑞、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)であった。
 龍馬は唖然としながらも「なるほど、爆弾のようなお方じゃった。確かに独り歩きはあぶなそうな人だな、その方は前の道を右へ走って行かれたよ」
「かたじけない。ごめん!」
 四人も駿馬の如しだ。だが、狐目の男(高杉晋作)は「おい!逢引も楽しかろうが……世間ではもっと楽しい事が起きてるぞ!」と振り返り言った。
「なにが起こっちゅうがよ?」
「浦賀沖に、アメリカ国の黒船が攻めてきた!いよいよ大戦がはじまるぜ!」そういうと晋作も去った。
「黒船……?」竜馬にはわからなかった。
  
 吉田松陰は黒船に密航しようとして大失敗した。松陰は、徳川幕府で三百年も日本が眠り続けたこと、西欧列強に留学して文明や蒸気機関などの最先端技術を学ばなければいかんともしがたい、と理解する稀有な日本人であった。
 だが、幕府だって馬鹿じゃない。黒船をみて、外国には勝てない、とわかったからこその日米不平等条約の締結である。
 吉田松陰はまたも黒船に密航を企て、幕府の役人に捕縛された。幕府の役人は殴る蹴る。野次馬が遠巻きに見物していた。「黒船に密航しようとしたんだとさ」「狂人か?」
「先生!先生!」「下がれ!下がれ!」長州藩の例の四人は号泣しながら、がくりと失意の膝を地面に落とし、泣き叫ぶしかない。
 松陰は殴られ捕縛されながらも「私は、狂人です!どうぞ、狂人になってください!そうしなければこの日の本は異国人の奴隷国となります!狂い戦ってください!二百年後、三百年後の日本の若者たちのためにも、今、あなた方のその熱き命を、捧げてください!!」
「先生!」晋作らは泣き崩れた。
 

 日本の歴史に『禁門の変』と呼ばれる事件を引き起こしたとき、久坂玄瑞は二十五歳の若さであった。久坂の妻となっていた女性こそこの物語の主人公・久坂(旧姓・杉)文で、ある。「あや」ではない。「ふみ」である。松陰の妹は四人で、上から千代(ちよ・児玉家に嫁いだ)、寿(ひさ)、艶(つや、夭逝した)、文(ふみ)、である。成人したのは三人で、兄が梅太郎(のちの民治)、弟がろうあ者の敏三郎で、ある。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と会津藩(福島県)の薩会同盟ができ、長州藩が幕府の敵とされた時期だった。
  文の十三歳年上の実兄・吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「留魂録(草奔掘起)」である。
 伊藤と文は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の松陰が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。「先生!」意外にも松陰は微笑んだ。
「……伊藤くん文…。ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」
「先生! せ…先生!」「寅にい!寅次郎にいやん!にいーやん!」
 やがて松陰は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。鋭い光を放つ刀が天に構えられる。「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」「ごめん!」閃光が走った……
「寅にい!にいやーん!」文は号泣しながら絶叫した。暗黒の時代である。幕末の天才・思想家「吉田松陰の「死」」……
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。
NHK大河ドラマ『花燃ゆ』第一話「人むすぶ妹」では、少女の頃の杉文が極端な人見知りという設定で、末の弟でろうあ者(耳に生まれながらの障害があり手話でしか話せない)の敏三郎としか交われない、という。若き小田村伊之助が川辺で禁書の本を落とし、義母との不仲でひとり泣いていた為に文が伊之助を庇って叔父さんに「なぜこのような本を持っておる!」と殴られる。だが、庇って小田村伊之助の名前を告げ口しない。「誰のものか言うまで外におれ!」だが、十三歳年上の兄・寅次郎(のちの松陰)が励まし、「禁書と言うが「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」という。何故われわれは学ぶのか?“禁書を破り捨てる”ことは出来ても“知識は破れない”。ひとも本も同じじゃ」といい、文の人見知りが治り、吉田寅次郎と小田村伊之助も親友になる。脳科学者の中野信子氏は「吉田松陰はプライドの高い“変人”」という。叔父の玉木文之進の養子に5歳でなり、蚊に額を刺されて指で掻いただけでも「蚊に刺されても気にするな!蚊は私事だろう!」とスパルタ教育で、おもいっきり青あざや出血するまで殴られ続けた。「だがのう、文。叔父上は厳しいが真面目な方じゃ。叔父上は僕の学問の栄達の為に僕を殴り続けたがじゃ」寅次郎は長崎に学問留学に行って、アヘン戦争で清国(当時の中国)と英国のアヘン戦争を知り、欧米の武力の圧倒的性能の高さを知る。そして“不羈(ふき)独立”の歴史も。つまり、メリケン(アメリカ)が英国より独立したことを、だ。「今のままでの山鹿兵法を含めて、このままの日本の武器では欧米列強に勝てない」吉田松陰は「僕は私事より公事を大切にする!ひとは“公のひと”となれ!」と。「日本国が清国と同じように侵略・植民地化されるのは御免じゃ!日本国もメリケンのように“不羈独立”や!」。松陰は松下村塾で弟子たちに言う。「もはや古い兵法も考えも武器も主義も世界にはこの日本国には通用しない。諸君、狂いたまえ!狂って維新回天の志士となれ!」「おおっ!」弟子たちが声をあげた。吉田松陰の命日は10月28日。山口県の萩市では毎年「慰霊祭」が営まれている。
松下村塾から輩出した主な「人材」は次のとおりだ。幕末、「志士」として活動し、若い命を散らしたのが、高杉晋作・久坂玄瑞(義助・よしすけ)・吉田栄太郎(稔麿・としまろ)・入江杉蔵(すぎぞう・九一)・松浦亀太郎(松洞)・杉山松介(まつすけ)・寺島(作間・さくま)忠三郎・有吉熊次郎・赤禰武人(あかね・たけと)・時山直八・駒井政五郎など。
 明治まで生き延び、政治家や軍人として新政府の指導者となったのが、佐世八十郎(させ・よそろう 前原一誠)・伊藤俊輔(博文)・山県狂介(有朋・ありとも)・品川弥二郎・野村和作(わさく・靖)・山田顕義(あきよし)・桂小五郎(木戸孝允)など。
(『楫取素彦と吉田松陰の妹・文』一坂太郎著作・新人物文庫71ページ)話を戻す。吉田寅次郎、小田村伊之助らは共に江戸に遊学し、やがて運命に翻弄されていくのである。寅次郎と文と小田村伊之助の関係が巧みに交錯し、第二話では「波乱の恋文」と題して杉文が小田村伊之助に「お嫁さんにしてつかあさい!」と懸想をいいふられ、伊之助は文の姉の寿(ひさ)と結婚してしまう。で、寅次郎が脱藩するので、ある。

  長州藩と英国による戦争は、英国の完全勝利で、あった。
 長州の馬鹿が、たった一藩だけで「攘夷実行」を決行して、英国艦船に地上砲撃したところで、英国のアームストロング砲の砲火を浴びて「白旗」をあげたのであった。
  長州の「草莽掘起」が敗れたようなものであった。
 同藩は投獄中であった高杉晋作を敗戦処理に任命し、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を通訳として派遣しアーネスト・サトウなどと停戦会議に参加させた。
 伊藤博文は師匠・吉田松陰よりも高杉晋作に人格的影響を受けている。

  ……動けば雷電の如し、発すれば驟雨の如し……

 伊藤博文が、このような「高杉晋作」に対する表現詩でも、充分に伊藤が高杉を尊敬しているかがわかる。高杉晋作は強がった。
「確かに砲台は壊されたが、負けた訳じゃない。英国陸海軍は三千人しか兵士がいない。その数で長州藩を制圧は出来ない」
 英国の痛いところをつくものだ。
 伊藤は関心するやら呆れるやらだった。
  明治四十二年には吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)門下は伊藤博文と山県有朋だけになっている。
 ふたりは明治政府が井伊直弼元・幕府大老の銅像を建てようという運動には不快感を示している。時代が変われば何でも許せるってもんじゃない。  
 松門の龍虎は間違いなく「高杉晋作」と「久坂玄瑞」である。今も昔も有名人である。
 伊藤博文と山県有朋も松下村塾出身だが、悲劇的な若死をした「高杉晋作」「久坂玄瑞」に比べれば「吉田松陰門下」というイメージは薄い。
 伊藤の先祖は蒙古の軍艦に襲撃をかけた河野通有で、河野は孝雷天皇の子に発しているというが怪しいものだ。歴史的証拠資料がない為だ。伊藤家は貧しい下級武士で、伊藤博文の生家は現在も山口県に管理保存されているという。
「あなたのやることは正しいことなのでわたくしめの力士隊を使ってください!」
 奇兵隊蜂起のとき、そう高杉晋作にいって高杉を喜ばせている。
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、『ネタバレ』、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』、津本陽著作『私に帰せず 勝海舟』、司馬遼太郎著作『竜馬がゆく』、一坂太郎著作『楫取素彦と吉田松陰の妹・文』(新人物文庫)、『陸奥宗光』上下 荻原延濤(朝日新聞社)、『陸奥宗光』上下 岡崎久彦(PHP文庫)、『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦(PHP文庫)、『勝海舟全集』勝部真長ほか編(頸草書房)、『勝海舟』松浦玲(中公新書)、『氷川清話』勝海舟/勝部真長編(角川文庫)、『坂本龍馬』池田敬正(中公新書)、『坂本龍馬』松浦玲(岩波新書)、『坂本龍馬 海援隊始末記』平尾道雄(中公文庫)、『一外交官の見た明治維新』上下 アーネスト・サトウ/坂田精一(岩波文庫)、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一(東洋文庫)、『幕末外交談』田辺太一/坂田精一校注・訳(東洋文庫)、『京都守護職始末』山川浩/遠山茂樹校注/金子光晴訳(東洋文庫)、『日本の歴史 19 開国と攘夷』小西四郎(中公文庫)、『日本の歴史 18 開国と幕末変革』井上勝生(講談社文庫)、『日本の時代史 20 開国と幕末の動乱』井上勲編(吉川弘文館)、『図説和歌山県の歴史』安藤精一(河出書房新刊)、『荒ぶる波濤』津本陽(PHP文庫)、日本テレビドラマ映像資料『田原坂』『五稜郭』『奇兵隊』『白虎隊』『勝海舟』、NHK映像資料『歴史秘話ヒストリア』『その時歴史が動いた』大河ドラマ『龍馬伝』『篤姫』『新撰組!』『八重の桜』『坂の上の雲』、『花燃ゆ』漫画『おーい!竜馬』一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、NHK『大河ドラマ 龍馬伝ガイドブック』角川ザテレビジョン、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
『竜馬がゆく(日本テレビ・テレビ東京)』『田原坂(日本テレビ)』『五稜郭(日本テレビ)』『奇兵隊(日本テレビ)』『勝海舟(日本テレビ)』映像資料『NHKその時歴史が動いた』『歴史秘話ヒストリア』映像参考資料等。
 「文章や物語が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく、引用です。
他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
なおここから数十行の文章は小林よしのり氏の著作・『ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり「大東亜論 第5章 明治6年の政変」』小学館SAPIO誌2014年6月号小林よしのり著作漫画、72ページ~78ページからの文献を参考にしています。
 盗作ではなくあくまで引用です。前述した参考文献も考慮して引用し、創作しています。盗作だの無断引用だの文句をつけるのはやめてください。
  この頃、決まって政治に関心ある者たちの話題に上ったのは「明治6年の政変」のことだった。
 明治6年(1873)10月、明治政府首脳が真っ二つに分裂。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五人の参謀が一斉に辞職した大事件である。
 この事件は、通説では「征韓論」を唱える西郷派(外圧派)と、これに反対する大久保派(内治派)の対立と長らく言われていきた。そしてその背景には、「岩倉使節団」として欧米を回り、見聞を広めてきた大久保派と、その間、日本で留守政府をに司っていた西郷派の価値観の違いがあるとされていた。しかし、この通説は誤りだったと歴史家や専門家たちにより明らかになっている。
 そもそも西郷は「征韓論」つまり、武力をもって韓国を従えようという主張をしたのではない。西郷はあくまでも交渉によって国交を樹立しようとしたのだ。つまり「親韓論」だ。西郷の幕末の行動を見てみると、第一次長州征伐でも戊辰戦争でも、まず強硬姿勢を示し、武力行使に向けて圧倒な準備を整えて、圧力をかけながら、同時に交渉による解決の可能性を徹底的に探り、土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるという方法を採っている。勝海舟との談判による江戸無血開城がその最たるものである。
 西郷は朝鮮に対しても同じ方法で、成功させる自信があったのだろう。
 西郷は自分が使節となって出向き、そこで殺されることで、武力行使の大義名分ができるとも発言したが、これも武力行使ありきの「征韓論」とは違う。
 これは裏を返せば、使節が殺されない限り、武力行使はできない、と、日本側を抑えている発言なのである。そして西郷は自分が殺されることはないと確信していたようだ。
 朝鮮を近代化せねばという目的では西郷と板垣は一致。だが、手段は板垣こそ武力でと主張する「征韓論」。西郷は交渉によってと考えていたが、板垣を抑える為に「自分が殺されたら」と方便を主張。板垣も納得した。
 一方、岩倉使節団で欧米を見てきた大久保らには、留守政府の方針が現実に合わないものに見えたという通説も、勝者の後付けだと歴史家は分析する。
 そもそも岩倉使節団は実際には惨憺たる大失敗だったのである。当初、使節団は大隈重信が計画し、数名の小規模なものになるはずだった。
 ところが外交の主導権を薩長で握りたいと考えた大久保利通が岩倉具視を擁して、計画を横取りし、規模はどんどん膨れ上がり、総勢100人以上の大使節団となったのだ。
 使節団の目的は国際親善と条約改正の準備のための調査に限られ、条約改正交渉自体は含まれていなかった。
しかし功を焦った大久保や伊藤博文が米国に着くと独断で条約改正交渉に乗り出す。だが、本来の使命ではないので、交渉に必要な全権委任状がなく、それを交付してもらうためだけに、大久保・伊藤の2人が東京に引き返した。大使節団は、大久保・伊藤が戻ってくるまで4か月もワシントンで空しく足止めされた。大幅な日程の狂いが生じ、10か月半で帰国するはずが、20か月もかかり、貴重な国費をただ蕩尽(とうじん)するだけに終わってしまったのだ。
 一方で、その間、東京の留守政府は、「身分制度の撤廃」「地租改正」「学制頒布」などの新施策を次々に打ち出し、着実に成果を挙げていた。
 帰国後、政治生命の危機を感じた大久保は、留守政府から実権を奪取しようと策謀し、これが「明治6年の政変」となったのだ。大久保が目の敵にしたのは、板垣退助と江藤新平であり、西郷は巻き添えを食らった形だった。
 西郷の朝鮮への使節派遣は閣議で決定し、勅令まで下っていた。それを大久保は権力が欲しいためだけに握りつぶすという無法をおこなった。もはや朝鮮問題など、どうでもよくなってしまった。
 ただ国内の権力闘争だけがあったのだ。こうして一種のクーデターにより、政権は薩長閥に握られた。
 しかも彼ら(大久保や伊藤ら)の多くは20か月にも及んだ外遊で洗脳されすっかり「西洋かぶれ」になっていた。もはや政治どころではない。国益や政治・経済の自由どころではない。
 西郷や板垣らを失った明治政府は誤った方向へと道をすすむ。日清戦争、日露戦争、そして泥沼の太平洋戦争へ……歴史の歯車が狂い始めた。
(以下文(参考文献ゴーマニズム宣言大東亜論)・小林よしのり氏著作 小学館SAPIO誌7月号74~78ページ+8月号59~75ページ+9月号61~78ページ参考文献)
この頃、つまり「明治6年の政変」後、大久保利通は政治家や知識人らや庶民の人々の怨嗟(えんさ)を一身に集めていた。維新の志を忘れ果て、自らの政治生命を維持する為に「明治6年の政変」を起こした大久保利通。このとき大久保の胸中にあったのは、「俺がつくった政権を後から来た連中におめおめ奪われてたまるものか」という妄執だけだった。
西郷隆盛が何としても果たそうとした朝鮮使節派遣も、ほとんど念頭の片隅に追いやられていた。これにより西郷隆盛ら5人の参議が一斉に下野するが、西郷は「巻き添え」であり…そのために西郷の陸軍大将の官職はそのままになっていた。この政変で最も得をしたのは、井上馨ら長州汚職閥だった。長州出身の御用商人・山城屋和助が当時の国家予算の公金を使い込んだ事件や……井上馨が大蔵大臣の職権を濫用して民間の優良銅山を巻き上げ、自分のものにしようとした事件など、長州閥には汚職の疑惑が相次いだ。だが、この問題を熱心に追及していた江藤新平が政変で下野したために、彼らは命拾いしたのである。
江藤新平は初代司法卿として、日本の司法権の自立と法治主義の確立に決定的な役割を果たした人物である。江藤は政府で活躍したわずか4年の間に司法法制を整備し、裁判所や検察機関を創設して、弁護士・公証人などの制度を導入し、憲法・民法の制定に務めた。
もし江藤がいなければ、日本の司法制度の近代化は大幅に遅れたと言っても過言ではない。そんな有能な人材を大久保は政府から放逐したのだ。故郷佐賀で静養していた江藤は、士族反乱の指導者に祭り上げられ、敗れて逮捕された。江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に3日前に作られた裁判所で、十分な弁論の機会もなく、上訴も認めない暗黒裁判にかけられ、死刑となった。新政府の汚職の実態を知り尽くしている江藤が、裁判で口を開くことを恐れたためである。それも斬首の上、さらし首という武士に対してあり得ない屈辱的な刑で……しかもその写真が全国に配布された。(米沢藩の雲井龍雄も同じく死刑にされた)すべては大久保の指示による「私刑」だった。
「江藤先生は惜しいことをした。だが、これでおわりではない」のちの玄洋社の元となる私塾(人参畑塾)で、武部小四郎(たけべ・こしろう)はいった。当時29歳。福岡勤皇党の志士の遺児で、人参畑塾では別格の高弟であった。身体は大きく、姿は颯爽(さっそう)、親しみ易いが馴れ合いはしない。質実にて華美虚飾を好まず、身なりを気にせず、よく大きな木簡煙管(きせる)を構えていた。もうひとり、頭山満が人参畑塾に訪れる前の塾にはリーダー的な塾生がいた。越智彦四郎(おち・ひこしろう)という。武部小四郎、越智彦四郎は人参畑塾のみならず、福岡士族青年たちのリーダーの双璧と目されていた。だが、二人はライバルではなく、同志として固い友情を結んでいた。それはふたりがまったく性格が違っていたからだ。越智は軽薄でお調子者、武部は慎重で思慮深い。明治7年(1874)2月、江藤新平が率いる佐賀の役が勃発すると、大久保利通は佐賀制圧の全権を帯びて博多に乗り込み、ここを本営とした。全国の士族は次々に社会的・経済的特権を奪われて不平不満を強めており、佐賀もその例外ではなかったが、直ちに爆発するほどの状況ではなかった。にもかかわらず大久保利通は閣議も開かずに佐賀への出兵を命令し、文官である佐賀県令(知事にあたる)岩村高俊にその権限を与えた。文官である岩村に兵を率いさせるということ自体、佐賀に対する侮辱であり、しかも岩村は傲慢不遜な性格で、「不逞分子を一網打尽にする」などの傍若無人な発言を繰り返した。こうして軍隊を差し向けられ、挑発され、無理やり開戦を迫られた形となった佐賀の士族は、やむを得ず、自衛行動に立ち上がると宣言。休養のために佐賀を訪れていた江藤新平は、やむなく郷土防衛のため指揮をとることを決意した。これは、江藤の才能を恐れ、「明治6年の政変」の際には、閣議において西郷使節派遣延期論のあいまいさを論破されたことなどを恨んだ大久保利通が、江藤が下野したことを幸いに抹殺を謀った事件だったという説が今日では強い。そのため、佐賀士族が乱をおこした佐賀の乱というのではなく「佐賀戦争」「佐賀の役」と呼ぶべきと提唱されている。その際、越智彦四郎は大久保利通を訪ね、自ら佐賀との調整役を買って出る。大久保は「ならばおんしに頼みたか。江藤ら反乱軍をば制圧する「鎮撫隊」をこの福岡に結成してくれもんそ」という。越智彦四郎は引き受けた。だが、越智は策士だった。鎮撫隊を組織して佐賀の軍に接近し、そこで裏切りをして佐賀の軍と同調して佐賀軍とともに明治政府軍、いや大久保利通を討とう、という知略を謀った。武部は反対した。
「どこが好機か?大久保が「鎮撫隊」をつくれといったのだ。何か罠がある」
だが、多勢は越智の策に乗った。だが、大久保利通の方が、越智彦四郎より一枚も二枚も上だった。大久保利通は佐賀・福岡の動静には逐一、目を光らせていて、越智の秘策はすでにばれていた。陸軍少佐・児玉源太郎は越智隊に鉄砲に合わない弾丸を支給して最前線に回した。そのうえで士族の一部を率いて佐賀軍を攻撃。福岡を信用していなかった佐賀軍は越智隊に反撃し、同士討ちの交戦となってしまった。越智隊は壊滅的打撃を受け、ようやくの思いで福岡に帰還した。その後、越智彦四郎は新たな活動を求めて、熊本・鹿児島へ向かった。武部はその間に山籠もりをして越智と和解して人参畑塾に帰還した。
「明治6年の政変」で下野した板垣退助は、江藤新平、後藤象二郎らと共に「愛国公党」を結成。政府に対して「民選議員設立建白書」を提出した。さらに政治権力が天皇にも人民にもなく薩長藩閥の専制となっていることを批判し、議会の開設を訴えた。自由民権運動の始まりである。だが間もなく、佐賀の役などの影響で「愛国公党」は自然消滅。そして役から1年近くが経過した明治8年(1875)2月、板垣は旧愛国公党を始めとする全国の同志に結集を呼びかけ「愛国社」を設立したのだった。板垣が凶刃に倒れた際「板垣死すとも自由は死せず」といったというのは有名なエピソードだが、事実ではない。
幕末、最も早く勤王党の出現を見たのが福岡藩だった。だが薩摩・島津家から養子に入った福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は、一橋家(徳川将軍家)と近親の関係にあり、動乱の時代の中、勤王・佐幕の両派が争う藩論の舵取りに苦心した。黒田長溥は決して愚鈍な藩主ではなかった。だが次の時代に対する識見がなく、目前の政治状況に過敏に反応してしまうところに限界があった。大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)という幕府始まって以来の不祥事を機に勤王の志士の動きは活発化。これに危機感を覚えた黒田長溥は筑前勤王党を弾圧、流刑6名を含む30余名を幽閉等に処した。これを「庚申(こうしん)の獄」という。その中にはすでに脱藩していた平野國臣もいた。女流歌人・野村望東尼(ぼうとうに)は獄中の國臣に歌(「たぐいなき 声になくなる 鶯(ウグイス)は 駕(こ)にすむ憂きめ みる世なりけり」)を送って慰め、これを機に望東尼は勤王党を積極的に支援することになる。尼は福岡と京都をつなぐパイプ役を務め、高杉晋作らを平尾山荘に匿い、歌を贈るなどしてその魂を鼓舞激励したのだった。
この頃、坂本竜馬らよりもずっと早い時点で、薩長連合へ向けた仲介活動を行っていたのが筑前勤王党・急進派の月形洗蔵(つきがた・せんぞう、時代劇「月形半平太(主演・大川橋蔵)」のモデル)や衣斐茂記(えび・しげき)、建部武彦らだった。また福岡藩では筑前勤王党の首領格として羨望があった加藤司書(かとう・ししょ)が家老に登用され、まさしく維新の中心地となりかけていたという。だが、すぐに佐幕派家老が勢力を取り戻し、さらに藩主・黒田長溥が勤王党急進派の行動に不信感を抱いたことなどから……勤王党への大弾圧が行われたのだ。これを「乙丑(いっちゅう)の獄」という。加藤、衣斐、建部ら7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首。野村望東尼ら41名が流罪・幽閉の処分を受け、筑前勤王党は壊滅した。このとき、姫島に流罪となる野村望東尼を護送する足軽の中に15歳の箱田六輔がいた。そして武部小四郎は「乙丑の獄」によって切腹した建部武彦の遺児であった(苗字は小四郎が「武部」に改めた)。福岡藩は佐幕派が多かったが、戊辰の役では急遽、薩長官軍についた。それにより福岡藩の家老ら佐幕派家老3名が切腹、藩士23名が遠島などの処分となった。そして追い打ちをかけるように薩長新政府は福岡藩を「贋札づくり」の疑惑で摘発した。当時、財政難だった藩の多くが太政官札の偽造をしていたという。西郷隆盛は寛大な処分で済まそうと尽力した。何しろ贋札づくりは薩摩藩でもやっていたのだ。だが大久保利通が断固として、福岡藩だけに過酷な処罰を科し、藩の重職5名が斬首、知藩事が罷免となった。これにより福岡藩は明治新政府にひとりの人材も送り込めることも出来ず、時代から取り残されていった。この同じ年、明治8年9月、近代日本の方向性を決定づける重大な事件が勃発した。「江華島(こうかとう・カンファンド)事件」である。これは開国要請に応じない朝鮮に対する砲艦外交そのものであった。そもそも李氏朝鮮の大院君はこう考えていた。「日本はなぜ蒸気船で来て、洋服を着ているのか?そのような行為は華夷秩序(かいちつじょ)を乱す行為である」
華夷秩序は清の属国を認める考えだから近代国家が覇を競う時代にあまりに危機感がなさすぎる。だからといって、砲艦外交でアメリカに開国させられた日本が、朝鮮を侮る立場でもない。どの国も、力ずくで国柄を変えられるのは抵抗があるのだ。日本軍艦・雲揚(うんよう)は朝鮮西岸において、無許可の沿海測量を含む挑発行動を行った。さらに雲揚はソウルに近い江華島に接近。飲料水補給として、兵を乗せたボートが漢江支流の運河を遡航し始めた時、江華島の砲台が発砲!雲揚は兵の救援として報復砲撃!さらに永宗島(ヨンジュンド)に上陸して朝鮮軍を駆逐した。明治政府は事前に英米から武力の威嚇による朝鮮開国の支持を取り付け、挑発活動を行っていた。そしてペリー艦隊の砲艦外交を真似て、軍艦3隻と汽船3隻を沖に停泊させて圧力をかけた上で、江華島事件の賠償と修好条約の締結交渉を行ったのだった。この事件に、鹿児島の西郷隆盛は激怒した。
「一蔵(大久保)どーん!これは筋が違ごうじゃろうがー!」
大久保らは、「明治6年の政変」において、「内治優先」を理由としてすでに決定していた西郷遣韓使節を握りつぶしておきながら、その翌年には台湾に出兵、そしてさらに翌年にはこの江華島事件を起こした。「内治優先」などという口実は全くのウソだったのである。特に朝鮮に対する政府の態度は許しがたいものであった。
西郷は激昴して「ただ彼(朝鮮)を軽蔑して無断で測量し、彼が発砲したから応戦したなどというのは、これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきの行為といわにゃならんど!政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす!」
西郷は、測量は朝鮮の許可が必要であり、発砲した事情を質せず、戦端を開くのは野蛮と考えた。
「そもそも朝鮮は幕府とは友好的だったのでごわす!日本人は古式に則った烏帽子直垂(えぼしひたたれ)の武士の正装で交渉すべきでごわす!軍艦ではなく、商船で渡海すべきでごわんそ!」
西郷は政府参与の頃、清と対等な立場で「日清修好条規」の批准を進め、集結した功績がある。なのに大久保ら欧米使節・帰国組の政府要人は西郷の案を「征韓論」として葬っておきながら、自らは、まさに武断的な征韓を行っている。西郷隆盛はあくまでも、東洋王道の道義外交を行うべきと考えていた。西郷は弱を侮り、強を恐れる心を、徹底的に卑しむ人であった。大久保は西洋の威圧外交を得意とし、朝鮮が弱いとなれば侮り、侵略し、欧米が強いとなれば恐れ、媚びへつらい、政治体制を徹底的に西洋型帝国の日本帝国を建設しようとしたのだ。西郷にとっては、誠意を見せて朝鮮や清国やアジア諸国と交渉しようという考えだったから大久保の考えなど論外であった。だが、時代は大久保の考える帝国日本の時代、そして屈辱的な太平洋戦争の敗戦で、ある。大久保にしてみれば欧米盲従主義はリアリズム(現実主義)であったに違いない。そして行き着く先がもはや「道義」など忘れ去り、相手が弱いと見れば侮り、強いと見れば恐れ、「WASPについていけば百年安心」という「醜悪な国・日本」なのである。


武田信玄「風林火山」 風林火山の軍師と御屋形さま <軍師 山本勘助と甲斐の虎 武田信玄>小説7

2015年06月24日 08時03分33秒 | 日記









 第三章 火の章


        7 信虎からの使者






  武田信玄の元に、北条からの使者がきた。
 名を、大道寺義継という。
「そちが、北条殿からの使者か?」
 信玄は甲斐の館で接見した。
「はっ! 大道寺義継と申しまする!」
 義継は下座で平伏した。もう夕暮れ時だった。
「川中島での上杉との勝利、まずはおめでとうござりまする」
 上杉謙信に勝ったことを、義継は祝福した。
「それは北条殿の言葉か?」
 信玄は冷静なまま尋ねた。
「そうです」
「北条殿は他になんと?」
「はっ! 川中島では越後軍は大打撃を受けた様子……」
「ほう」
 信玄は感心した。
 ……北条もよく調べたものじゃ。忍をつかったのであろうが……
「しばらくは越後軍は侵攻してきますまい」
 義継はにやりと笑った。
「……それで?」
「いまこそ、共通の敵を叩き潰すべきです」
「共通の敵?」
 信玄は、義継をためした。
「上杉謙信でござりまする!」
「北条は武田と組もうと申しておるのか?」
 信玄の喉仏が上下した。
 かれは息を吸い込んだ。
 義継はふたたび平伏して、
「その通りでごさりまする!」と強くいった。
 信玄の家臣・太郎義信が口をはさんできた。
「御屋形様!」
「なんじゃ? 太郎義信」
「一気に厩木城(前橋市)に攻め込み、上杉の拠点を陥すべきです」
 他の家臣は、
「いや、もう上杉など相手にしているときではない。西に武田の勢力を拡大し、今川を陥すべきです!」
 という。
 しかし、軍儀の中で、武田信基だけはひとこと発しない。
 信玄は不思議に思って、
 のぶもと                   
「信基? ……何か申せ」と発言をうながした。
 武田信基とは、信玄の末の弟である。
「兄(信玄の弟)信繁が討ち死にして毎日悲しくてしかたありません」
 信基は涙を目に浮かべた。
 信玄は「馬鹿者!」と叱り、
「われらは川中島で勝ったのだ!」と強くいった。
 信基は「いえ、引き分けです。上杉謙信の首をとれませんでした」
 信玄は舌打ちして、
「相手は大打撃を受けたのだぞ? こちらは山本勘助らを失ったが、そんなに損害は受けておらぬ。負けでも、引き分けでもないわ!」
 信基は押し黙った。
 信玄は「上野に侵攻しよう」と話題をかえた。
 信基は「上野攻撃はいいが、出兵はだめだと思いまする」といった。
「どういう意味じゃ?」
 信玄は是非とも答えがききたかった。
「上野攻撃はぶらぶらと突いては抜き、突いては抜きすべきです」
 家臣の穴山は笑った。
「ぶらぶら? ははは」
 信玄は「突いては抜き、突いては抜きとはまるで女子との夜のことのようじゃ」
 一同はどっと笑った。

       
  十月末に甲信軍二千が碓氷峠に到着した。
 小田原の北条氏は上野に向かって攻撃を開始した。十一月五日、甲信北条軍三千は軽井沢に布陣した。
 信玄は「ぶらぶらでも慎重に……明日は一気に碓氷峠を越えて箕輪城に攻撃をかけよう」 と陣で下知を飛ばした。
 しかし、信玄は箕輪城に火を放たなかった。
 それより効率のいい、兵糧攻め、の策に出た。
 信玄は笑った。
「国がかわれば山の形もかわるのもじゃ」
 信玄は関東の山々を目をこらして眺めた。
「突いては抜き、突いては抜きとはまるで女子との夜のことのようじゃ」
 再度の冗談に、家臣は苦笑した。
 信玄はふたたび労咳が悪化し、床に伏した。
 しかし、それは極秘だった。
 陣には信玄の影武者がいた。
 箕輪城攻めは信玄の影武者がやっていたのである。
 影武者は箕輪城攻めにふみきれない。
 そんな中、上杉政虎(謙信)が関東に侵攻してくると、武田軍も北条軍も陣をひいていった。信玄の影武者に決定権はない。
 湯治中の信玄から命令がきたのである。

  信玄の病気は悪化し、咳こむことが多くなった。
 血を吐いて、信玄は動揺した。りっぱな口髭の大男が、なんとも情なく動揺していた。 信玄はまた志磨の湯につかっていた。
 家臣のものが女のボディ・チェックをしているところだった。
「御屋形様!」
 家臣が湯まできた。
「……どうしたのじゃ?」
 武田信玄は裸のまま尋ねた。湯につかっていた。
「信虎さまからの使者です」
 家臣は答えた。
「……隠居中の父上からの?」
 信玄はあきらさまに嫌な顔をした。
「連れてまいりまするか?」
「連れてまいれ」
 信玄は強くいった。
 それは女だった。裸ではないが、細い手足の美貌の女だった。
「……女子か…」
「信虎さまから書状をもってまいりました」
 女は動揺もせずいった。
 可愛い声だった。
「お主、男のものをみても興奮せぬのか?」
「はい」女は頭を下げた。
「……名は?」
「あかねと申します」
 あかねはやっと頬を赤らめた。
「お主の可愛さで、わしのモノが帆柱立ってしまったわい」信玄は苦笑した。
 あかねはやっと手で顔を覆い、女らしい仕種をみせた。
「……しょ、書状などないではないか?」
「ここにあります」
 あかねは奥歯の歯を抜くと、隠しておいた書状をとりだした。
 信虎からだった。
 たいした内容ではない。
 要するにあかねを渡しにきたのだ。
  今川、武田、北条による三国同盟が成立した。
 信玄は家臣をよんだ。
「なんで ござりましょう? 御屋形様」
「松平…」信玄は続けた。「松平家康を連れてきてもてなせ」
「松平さまを?」
「はよういたせ!」
「はっ!」
 家臣は座をたった。
 松平家康とは、のちの天下人・徳川家康のことである。
 まだこの頃、家康は若い武将のひとりに過ぎない。
 家康の実力を見抜くところが、いかにも信玄らしい。
 あかねの話によると、老父・信虎は十六歳の妾をもち、昼夜"情事”にふけっているという。
 まだ十六歳の小娘を、だ。
 信玄はその話をきき、
「おそれいった」
 と苦笑した。
 ……オヤジは年柄もなく夜昼となく女子を抱いているか……
 信玄はイヤラしいことを考えて、帆柱立った。
 男とは悲しい生き物だ。
 隠居しても女子を求める……
「ひとを殺さないだけましか」
 信玄は頭を冷やした。
 しかし、信玄はセックスどころではない。
 病気が悪化し、また床に伏した。
 箕輪城も倉賀野城も門を閉ざしたままだ。
 しかし、ここで非常事態が起こる。
 敵に、陣の信玄が影武者だとバレてしまったのだ。
「馬鹿者!」
 信玄は激昴し、床上げをした。

  その年、武田軍一万五千は碓氷峠を越えて上野にむかい、箕輪城、倉賀野城にそれぞれ二千の兵をあてて、本城松山城を囲んだ。
 信玄は無理して陣を張り、
「箕輪城、倉賀野城は放っておいても陥ちる。松山城が肝要じゃ!」
 と下知をした。
 松山城は武蔵国、現在の埼玉県である。
 やがて城攻めの合戦がはじまった。
「いけ! 攻め陥とせ!」
「やあぁ~っ!」
 兵士何千が槍で入り乱れる。雲霞の如く矢が乱れ飛ぶ。
 そんな中、武田軍の猛将としてしられる甘利の家臣・米倉が腹に銃弾を受けた。
「ぎゃああっ」
 米倉は馬上から落ち、足軽たちによって陣まで運ばれてきた。
「薬はない!」
 軍医はいった。
「……はあ…はあ…なんだと?!」
 米倉はあえぎながらいった。
「しかし…」軍医は続けた。「馬のしょんべんならある。それを塗れば傷が化膿せずにすみまするが?」
 米倉は「馬鹿やろう!」といって「馬のしょんべんなど誰が塗るものか!」と怒鳴った。 そして、がくりとなり死んだ。
 信玄は合戦に勝った。
 箕輪城、倉賀野城も松山城も陥ちた。
 信玄は武蔵国(埼玉県)を手中に治めたのである。
「武田軍は無敵ぞ!」
 信玄は勝ち名乗りをあげた。
 兵士たち、武将たちから歓声があがる。
 信玄はガッツ・ポーズでそれに答えた。

  しかし、信玄の病は癒えない。
 信玄はまた志磨の湯で湯治していた。
 信虎の使いあかねが、駿河の国からきたのは永禄六年のことだった。
 前と同じようにあかねは、まず飯富三郎兵衛の邸を訪ね、駕籠にのり、志磨の湯を訪ねた。
「父上の身に何かおきたな?」
 信玄は、あかねの顔をみたとき、彼女の心を読んだ。
 あかねの顔には悲壮感がただよっていたからだ。
「信虎さまはもう府中にはおられませぬ」
 あかねはそういうと眼に涙を浮かべた。
「どこにいったのだ? なぜそのような急なことを……」
「お殿様は現在遠州掛川の満願寺に隠れておられまするが、近いうちに京都へのぼる予定でこざいまする」
 あかねはそういうと、着物に隠してあった密書を信玄に手渡した。
 慌てて書いたのだろう。
 字が乱れていた。
 信玄に軍をつれて上洛して天下をとれ……という内容だった。
「………あかね」
 信玄はうら若き美貌の女、あかねに甘く囁いた。
「……いけません!」
「いいではないか」
 しかし、苦痛ではなかった。
 むしろ喜びだった。

  信玄はいつになく落ち着いていた。
 天下の情勢ははげしいものだったが、そんなことを気にすることもなかった。
 ただ、情報は忍びによって集めていた。
 なんでも松平家康と今川氏真(義元の息子)との関係が断絶状態になっているという。 信玄はいつでも駿河(静岡県)に手をのばせるように交渉相手を決めて連絡をとっていた。まず、瀬名駿河守、関口兵部小輔、葛山備中守などである。
 武田軍の重臣たちにはいつでも戦ができるように準備をすすめていた。
  そんな中、信玄の正室・三条の方が伊勢物語という書物を借りにきた。
 伊勢物語は、今川義元の存命中に信玄が借りていたものである。
「よかろう。読め。しかし……すぐ返せよ」
 信玄は書物を妻に貸した。
 そうして数日後、驚いた。
 今川氏真が「伊勢物語を返せ」と使者をよこしたのだ。
「なにをいまさら今川め!」
 信玄がいうと、嫡男・義信が、
「同盟関係をむすんでいるのですから、今川氏に従うべきです」と真面目な顔でいう。
「信義をつらぬくべきです」
 信玄は笑って、
「戦国の世に信義などない。強いものが弱いものを滅ぼすのが習いである。いま駿河をとっておかないと北条や松平の分割地となってしまう。上杉と北条も和議を結ぶかもしれぬ。源氏の血をひくわが武田こそ天下人にふさわしいのだ。今川を攻め滅ぼし、駿河を手中に治める。それが武田のやり方だ」
 と強くいった。
「三国同盟は?」
「そんなもの糞くらえだ」信玄はもっと強くいった。
「戦国の世に同盟だの和議だのあるものか!」
 嫡男・義信は口をつぐんだ。
 元来、頭の弱い男である。しかも父・信玄に頭があがらない。
 信長からの使者・織田掃部忠寛がやってきた。
 信玄に平伏すると、忠寛は、
「四郎勝頼さまに織田より雪姫さまを正室としてさしあげまする」
 という。
 信玄も可愛い姫に満足した。
 ……この姫には手をだすまいぞ。息子の妻じゃからな。
 信玄は咳こみながら「ありがたく頂戴いたしまする」という。
「ははっ!」
 忠寛は平伏した。
 勝頼はまもなく父と同じ労咳となった。
 かれは医者のいうことに従い、休息をとった。
「若殿さま、いましばらくの辛抱でございまする。体が固まれば…」
 体が固まるとは二十歳を越えるまで……ということである。
 勝頼の初陣は箕輪城攻めだったが、信玄に労咳(肺結核)を染つされた訳だ。



*****つづく(最終話・完結版までは刊行本あるいは電子書籍で)最終回完成本につづく***

おいどん!巨眼の男 西郷隆盛 鹿児島のおいどん西郷吉之助の維新と西南戦争の真実!小説4

2015年06月23日 05時19分25秒 | 日記








         5 禁門の変





  勝海舟は妹婿佐久間象山の横死によって打撃を受けた。
 麟太郎(勝海舟)は元治元年(一八六四)七月十二日の日記にこう記した。
「あぁ、先生は蓋世の英雄、その説正大、高明、よく世人の及ぶ所にあらず。こののち、われ、または誰にか談ぜん。
 国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅」
 幕府の重役をになう象山と協力して、麟太郎は海軍操練所を強化し、わが国における一大共有の海局に発展させ、ひろく諸藩に人材を募るつもりでいた。
 そのための強力な相談相手を失って、胸中の憤懣をおさえかね、涙を流して龍馬たちにいった。
「考えてもみろ。勤皇を口にするばか者どもは、ヨーロッパの軍艦に京坂の地を焼け野原にされるまで、目が覚めねぇんだ。象山先生のような大人物に、これから働いてもらわなきゃならねぇときに、まったく、なんて阿呆な連中があらわれやがったのだろう」

             
  長州の久坂玄瑞(義助)は、吉田松陰の門下だった。
 久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期にはあの高杉晋作がいた。ともに若いふた                  
りは吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。
 玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。
 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?
 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。
 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。
 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……
 松陰は思う。
 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……
 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。
 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。
 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。
 しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。幕府に睨まれるのを恐れた長州藩(薩摩との同盟前)はかれを処刑してしまう。
 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。
 …吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。
  文久二(一八六二)年十二月、久坂玄瑞は兵を率いて異人の屋敷に火をかけた。紅蓮の炎が夜空をこがすほどだったという。玄瑞は医者の出身で、武士ではなかった。
 しかし、彼は”尊皇壤夷”で国をひとつにまとめる、というアイデアを提示し、朝廷工作までおこなった。それが公家や天子(天皇)に認められ、久坂玄瑞は上級武士に取り立てられた。彼の長年の夢だった「サムライ」になれたのである。
 京での炎を、麟太郎も龍馬も目撃したという。
 久坂玄瑞は奮起した。
  文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長            
州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。
 薩摩からの使者は西郷隆盛だった。
「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じやっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」
 軟弱にして知能鮮しといわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放してしまう。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。
 かれは納得がいかず、長州の二千の兵をひきいて京にむかった。
 幕府と薩摩は、御所に二万の兵を配備した。
  元治元年(一八六四)七月十七日、石清水八幡宮で、長州軍は軍儀をひらいた。
 軍の強攻派は「入廷を認められなければ御所を攻撃すべし!」と血気盛んにいった。
 久坂は首を横に振り、「それでは朝敵となる」といった。
 怒った強攻派たちは「卑怯者! 医者坊主に何がわかる?!」とわめきだした。
 久坂玄瑞は沈黙した。
 頭がひどく痛くなってきた。しかし、久坂は必死に堪えた。
  七月十九日未明、「追放撤回」をもとめて、長州軍は兵をすすめた。いわゆる「禁門の変」である。長州軍は蛤御門を突破した。長州軍優位……しかし、薩摩軍や近藤たちの新選組がかけつけると形勢が逆転する。
「長州の不貞なやからを斬り殺せ!」近藤勇は激を飛ばした。
 久坂玄瑞は形勢不利とみるや顔見知りの公家の屋敷に逃げ込み、
「どうか天子さまにあわせて下され。一緒に御所に連れていってくだされ」と嘆願した。 しかし、幕府を恐れて公家は無視をきめこんだ。
 久坂玄瑞、一世一代の危機である。彼はこの危機を突破できると信じた。祈ったといってもいい。だが、もうおわりだった。敵に屋敷の回りをかこまれ、火をつけられた。
 火をつけたのが新選組か薩摩軍かはわからない。
 元治元年(一八六四)七月十九日、久坂玄瑞は炎に包まれながら自決する。享年二十五 火は京中に広がった。そして、この事件で、幕府や朝廷に日本をかえる力はないことが日本人の誰もが知るところとなった。
  吉之助の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、吉之助は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのりジエノサイド(大量殺戮)を繰り返しているという。
 吉之助は有志たちの死を悼んだ。

 近藤と土方は喜んだ。”禁門の変”から一週間後、朝廷から今の金額で一千万円の褒美をもらったのだ。それと感謝状。ふたりは小躍りしてよろこんだ。
 銭はあればあっただけよい。
 これを期に、近藤は新選組のチームを再編成した。
 まず、局長は近藤勇、副長は土方歳三あとはバラバラだったが、一番隊から八番隊までつくり、それぞれ組頭をつくった。一番隊の組頭は、沖田総司である。
 軍中法度もつくった。前述した「組頭が死んだら部下も死ぬまで闘って自決せよ」という目茶苦茶な恐怖法である。近藤は、そのような”スターリン式恐怖政治”で新選組をまとめようした。ちなみにスターリンとは旧ソ連の元首相である。
  そんな中、事件がおこる。
 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このまんまではわが国は外国の植民地じゃっどん!」
 吉之助は危機感をもった。
「そげなこついうても先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」部下はいった。
「そうでもそ……」吉之助は溜め息をもらした。

  慶応二(一八六六)年、幕府は長州征伐のため、大軍を率いて江戸から発した。
 それに対応したのが、高杉晋作だった。
「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」
 高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分をとわず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。
「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。
 幕府は長州征伐のため、十五万の大軍を率いて侵攻してきた。ここにいたって長州藩は戦わずにして降伏、藩の老中が切腹することとなった。さらに長州藩の保守派は「倒幕勢力」を殺戮していく。高杉晋作も狙われた。
「このまま保守派や幕府をのさばらせていては日本は危ない」
 その夜、「奇兵隊」に決起をうながした。               
 ……真があるなら今月今宵、年明けでは遅すぎる……
 「奇兵隊」決起! その中には若き伊藤博文の姿もあったという。高杉はいう。
「これより、長州男児の意地をみせん!」
 こうして「奇兵隊」が決起して、最新兵器を駆使した戦いと高杉の軍略により、長州藩の保守派を駆逐、幕府軍十万を、「奇兵隊」三千五百人だけで、わずか二ケ月でやぶってしまう。
(高杉晋作は維新前夜の慶応三年に病死している。享年二十九)
 その「奇兵隊」の勝利によって、武士の時代のおわり、が見えきた。

  
幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。
 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。
「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」
 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。
 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!
 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。
 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。
 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」
 坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
 話を少し戻す。
  龍馬は慶応二年(一八六六)正月二十一日のその日、西郷隆盛に「同盟」につき会議をしたいと申しでた。場所については龍馬が「長州人は傷ついている。かれらがいる小松の邸宅を会場とし、薩摩側が腰をあげて出向く、というのではどうか?」という。
 西郷は承諾した。「しかし、幕府の密偵がみはっておる。じゃっどん、びわの稽古の会とでもいいもうそうかのう」
 一同が顔をそろえたのは、朝の十時前であったという。薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、吉井幸輔のほか、護衛に中村半次郎ら数十人。長州は桂小五郎ら四人であった。 夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。
幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。
 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。
「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」
 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。
 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!
 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。
 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。
 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」
  龍馬は慶応二年(一八六六)正月二十一日のその日、西郷隆盛に「同盟」につき会議をしたいと申しでた。場所については龍馬が「長州人は傷ついている。かれらがいる小松の邸宅を会場とし、薩摩側が腰をあげて出向く、というのではどうか?」という。
 西郷は承諾した。「しかし、幕府の密偵がみはっておる。じゃっどん、びわの稽古の会とでもいいもうそうかのう」
 一同が顔をそろえたのは、朝の十時前であったという。薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、吉井幸輔のほか、護衛に中村半次郎ら数十人。長州は桂小五郎ら四人であった。 夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。
 龍馬は「これはビジネスじゃきに」と笑い、「桂さん、西郷さん。ほれ握手せい」
「木戸だ!」桂小五郎は改名し、木戸寛治→木戸考充と名乗っていた。
「なんでもええきに。それ次は頬づりじゃ。抱き合え」
「……頬づり?」桂こと木戸は困惑した。
 なんにせよ西郷と木戸は握手し、連盟することになった。
 内容は薩長両軍が同盟して、幕府を倒し、新政府をうちたてるということだ。そのためには天皇を掲げて「官軍」とならねばならない。長州藩は、薩摩からたりない武器兵器を輸入し、薩摩藩は長州藩からふそくしている米や食料を輸入して、相互信頼関係を築く。 龍馬の策により、日本の歴史を変えることになる薩長連合が完成する。
 龍馬は乙女にあてた手紙にこう書く。
 ……日本をいま一度洗濯いたし候事。
 また、龍馬は金を集めて、日本で最初の株式会社、『亀山社中』を設立する。のちの『海援隊』で、ある。元・幕府海軍演習隊士たちと長崎で創設したのだ。この組織は侍ではない近藤長次郎(元・商人・土佐の饅頭家)が算盤方であったが、外国に密航しようとして失敗。長次郎は自決する。
 天下のお世話はまっことおおざっぱなことにて、一人おもしろきことなり。ひとりでなすはおもしろきことなり。
 龍馬は、寺田屋事件で傷をうけ(その夜、風呂に入っていたおりょうが気付き裸のまま龍馬と警護の長州藩士・三好某に知らせた)、なんとか寺田屋から脱出、龍馬は左腕を負傷したが京の薩摩藩邸に匿われた。重傷であったが、おりょうや薩摩藩士のおかげで数週間後、何とか安静になった。この縁で龍馬とおりょうは結婚する。そして、数日後、薩摩藩士に守られながら駕籠に乗り龍馬・おりょうは京を脱出。龍馬たちを乗せた薩摩藩船は長崎にいき、龍馬は亀山社中の仲間たちに「薩長同盟」と「結婚」を知らせた。グラバー邸の隠し天上部屋には高杉晋作の姿が見られたという。長州藩から藩費千両を得て「海外留学」だという。が、歴史に詳しいひとならご存知の通り、それは夢に終わる。晋作はひと知れず血を吐いて、「クソッタレめ!」と嘆いた。当時の不治の病・労咳(肺結核)なのだ。しかも重症の。でも、晋作はグラバーに発病を知らせず、「留学はやめました」というのみ。「WHY?何故です?」グラバーは首を傾げた。「長州がのるかそるかのときに僕だけ海外留学というわけにはいきませんよ」晋作はそういうのみである。そして、晋作はのちに奇兵隊や長州藩軍を率いて小倉戦争に勝利する訳である。龍馬と妻・おりょうらは長崎から更に薩摩へと逃れた。この時期、薩摩藩により亀山社中の自由がきく商船を手に入れた。療養と結婚したおりょうとの旅行をかねて、霧島の山や温泉にいった。これが日本人初の新婚旅行である。のちにおりょうと龍馬は霧島山に登山し、頂上の剣を握り、「わしはどげんなるかわからんけんど、もう一度日本を洗濯せねばならんぜよ」と志を叫んだ。
 龍馬はブーツにピストルといういでたちであったという。


  勝海舟はいよいよ忙しくなった。
  幕府の中での知識人といえば麟太郎(勝海舟)と西周くらいである。越中守は麟太郎に「西洋の衆議会を日本でも…」といってくれた。麟太郎は江戸にいた。
「龍馬、上方の様子はどうでい?」
 龍馬は浅黒い顔のまま「薩長連合が成り申した」と笑顔をつくった。
「何? まさかてめぇがふっつけたのか?」麟太郎は少し怪訝な顔になった。
「全部、日本国のためですきに」
 龍馬は笑いながらいった。
 この年、若き将軍家茂が死んだ。勝麟太郎は残念に思い、ひとりになると号泣した。後見職はあの慶喜だ。麟太郎(のちの勝海舟)は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえよう。あとはあの糞野郎か?
 心臓がかちかちの石のようになり、ぶらさがるのを麟太郎は感じていた。全身の血管が凍りつく感触を、麟太郎は感じた。
 ……くそったれめ! 家茂公が亡くなった! なんてこった!
 そんななか、長いこと麟太郎を無視してきた慶喜が、彼をよびだし要職につけてくれた。なにごとでい? 麟太郎は不思議に思った。


  龍馬は宵になると、後藤象二郎と話した。
 場所はきまって、なじみのお慶の清風亭である。
 三日後に後藤は、
「いやあ、まいった。坂本さんはそれほど土佐藩に戻るものが嫌じゃきにか?」ときく。「そうじゃきに」         
 龍馬は顎をなでながら苦笑した。
「世に浪人ほど楽な身分はない。後藤くんは浪人になったことがないからわからないきに」「かといって、あの同盟まで成立させたかのひとが、只の浪人で、新政府の中に名前すらないとはどげんことじゃきにか?」
「わしは役人になりとうて日本中を走りまわった訳じゃないきに」
「じゃきに…」
 後藤は口をつぐんだ。こりゃあまいった、と思った。英雄とはこういうものなのか?
 龍馬と社中を土佐藩にくみいれて、土佐の一翼を担ってもらう気だったが……
 龍馬からすれば、なにをいまさらいってんだ、というところだろう。
「藩士は御免じゃきに」
 龍馬ははっきり言った。龍馬は私立軍艦隊をつくり、天下に名を馳せると野望を語った。そのうえ貿易もする。後藤は、
「坂本さんは日本の政権に野望をもっとるですがか?」と尋ねた。
「いや」
 龍馬は後藤をみた。この男はそんな推測までするのか。
「わしの野望は政ではない。貿易でこの日本を『貿易立国』とするんぜよ」
「貿易?」
「そうじゃ。日本の乱が片付けば、この国を去り、船を太平洋や大西洋に浮かべて、世界を相手に商いがしたいきに」
 後藤は驚いて目を丸くした。こんな大法螺を夢見ている男が日本にいるとは思わなかったからだという。この壮大な夢の前では、壤夷や佐幕や薩長連合などちっぽけなものに見えてきた。ましてや土佐藩士にもどれ……などというのはまさにちっぽけだ。
「後藤さん。これはどうじゃ?」
 龍馬は紙に墨で書いた。
「海援隊」……
「は?」
「意味は、海から土佐藩を援ける、ということじゃ。海とは、海軍、貿易じゃき。海援隊は土佐藩を援けるが、土佐藩も海援隊を援けるがぜよ」
「つまり同格ということじゃきにか?」
「ああ、そうじゃ」
「じゃきに、藩主とおんしが同格なのか?」
「あたりまえだ。アメリカでは身分制度などない。大名も殿様も天皇もない」
「声が大きい! 危険な思想じゃきに」
「その為には倒幕し、大名もそののちなくす」
「大名を? 藩をなくすちゅうがか?」
「時期がくれば……大名も藩もなくす。皆が平等な日本にしたい」
「おのれは……すると龍馬。おんしの勤王は嘘か? 天子さまもいらんと?」
「そげんこついうとらん。天子さまは別じゃ」
 後藤は龍馬という男が怖くなってきた。
 意見があわない筈だ。
 後藤は龍馬のいう「海援隊」を土佐藩の支配下におこうとし、龍馬は藩と同格のかたちでいこうとしている。         
「まんじゅうの形はどうでもいいき。舌を出して餡がなめられればいいんじゃきにな」
 龍馬はいった。餡とは本質であり、利益のことだ。
 後藤とは会ったが、多くは語らず、龍馬は去った。そんな龍馬に、浅黒い顔の中岡慎太郎というやつが訪ねてきた。
(いいやつがきたきに)
 中岡慎太郎は「海援隊じゃけでは片落ちじゃ。陸援隊もつくるべきじゃ」といった。
「それはいいきにな」
 龍馬は頷いた。その陸援隊の隊長をこの中岡慎太郎にさせればよい。

  時代は刻々とかわっていく。
 その岐路は孝明天皇の死だった。十二月十二日に風邪をひいて、寝込んでいたが、汗を沢山かき、やがて天然痘の症状がでた。染るのではないか……公家たちは恐れた。
 孝明天皇は最大の佐幕派であった。
 その孝明天皇の崩御は、幕末最大の衝撃だった。龍馬は残念がった。
 しかし「これで維新の夜が明けるぜよ!」とも思った。
 土佐藩は書状で、土佐藩に戻るように、と請求してきた。
「今更なにをいってやがる!」
 龍馬は土佐屋の奥座敷でそれを読み、まるめてポイと捨てた。藩というものの尊大さ、傲慢さに腹が立ったのである。
「海援隊」はついに成った。
 海援隊の規律、船中八策には、
     第一策 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出すべき候
     第二策 上下議員政局を設け、議員を置いて万策を参議で、決定する候
            ……… 他
 と、ある。
 福岡藤次は、「船はどげんする?」ときいた。
 この件も五分でかたずいたという。薩摩藩を保証人として大浦お慶から一万二千両を借りて手にいれた大極丸の借金を、土佐藩が肩代わりすることになった。
 土佐藩との交渉もおわり、亀山社中が「海援隊」と改名された。
 紀州人陸奥陽之助が、「妙な気持ちだ」と龍馬にいうと、龍馬は、
「そのこころは安心やら馬鹿らしいやら」とおどけた。
 陸奥は大笑いした。


 ……”世の生物たるものみな衆生なればいづれを上下とも定めがたし、今生の生物にしてはただ我をもって最上とすべし。皆が平等な個人。デモクラシー。新しい国づくりはライフワークへ。万物の時を得る喜び”……
 ……”戦争回避、血を流してなんとするのか”……
 ……”世のひとは我を何ともゆえばゆえ。我なすことはわれのみぞ知る”……

「おれはこれでひっこむきに」
 龍馬は新政府にくわわらなかった。
 陸奥は「冗談ではない」と驚いた。龍馬は薩長連合を成し遂げ、大政奉還を演じ、新官制案をつくった。当然、新政府の主軸に座るべき人間である。なのにひくという。西郷隆盛や大久保利道や岩倉具視や木戸考允(桂小五郎)にすべて譲ってしまうという。
「すべて西郷らにゆずってしまう」
 龍馬は続ける。「わしは日本を生まれかわらせたかったんじゃきに。生まれかわった日本で栄達するつもりはない。こういう心境でなきゃ大事業ちゅうもんはできんき。わしがそういう心境でいたからこそ、一介の浪人にすぎなかったわしのいうことを皆がきいてくれたんぜよ。大事を成し遂げたのも、そのおかげじゃ。
 仕事ちゅうもんは全部やっちゅうのはいかんきに。八分までていい。あとの二分は人にやらせて完成の功を譲ってしまうといいきに」
 龍馬は二本松邸の西郷吉之助(隆盛)の元へいった。
「坂本くんでごわさんか」
 西郷は笑顔になった。「西郷先生、新政府頼みまするぞ」
「じゃっどん、なにごぜ新政府の名簿におんしの名がないのでごわす?」
「わしは役人になりたくないのですき。わしは「海援隊」で世界にでるぜよ」
「そげなこついうて……世界とばいうとがか?」
「そう世界じゃきに」
「坂本さんは面白いひとでごわすな?」西郷は笑った。
「西郷先生、旧幕臣たちが会津や蝦夷(北海道)にまでいっちゅうから早めに平和利にかたずけて……新政府で日本をいい国にしてもうせ」
 龍馬はしんみりいった。
 西郷は「なにごて。まるで別れをいってるようでごわすな。本当に世界にいくのでごわすか?」と妙な顔になりいった。
 龍馬は答えなかった。
 龍馬が考えた新政府のメンバーは以下である。

関白   三条実美
 参議   西郷隆盛(薩摩)板垣退助(土佐)大隈重信(佐賀)
 大蔵卿  大久保利道(薩摩)  
 文部卿  大木喬任(佐賀)    
 大蔵大輔 井上馨(長州)
 文部大輔 後藤象二郎(土佐)
 司法大輔 佐々木高行(土佐)       
 宮内大輔 万里小路博房(公家)
 外務大輔 寺島宗則(薩摩)
      木戸考允(長州)
            他


  龍馬は多忙だった。薩摩藩邸で一泊すると、朝飯を食べさせてもらって食った。そのあと、岩倉具視の邸宅にいった。
 龍馬は「新政府を頼みまするきに」といった。
「まるでどこぞへ旅立つような口調じゃのう」
「そうきにか? まぁ、いくところは決まっちゅう」
「どこにいく」
「あの世……」龍馬は冗談をいった。
「あんたは死んじゃいかんよ。この国にとって大事な人材なんじゃから。死んだら馬鹿らしいよ」岩倉具視は諭した。龍馬が自決でもすると思ったらしい。
 龍馬は笑って「わしは死んだりせん。「海援隊」で世界にでるんじゃきに」
「世界? 大きいこというねぇ。坂本さんは」
「そこで、岩倉さん。薩長連合と朝廷を合体させてほしい。薩長軍が「官軍」となるように天子さま(天皇)に働きかけをしてほしいんじゃ」
「わかった。天子さまに上献してみよう」
「錦の御旗でも掲げたらいいきに」
「わかった」
 ふたりはがっしりと握手した。
  龍馬は、朝早く下宿を出て、京のあちこちを飛びまわって夜おそく帰ってくる。
「用心の悪いことだ」
 薩摩藩士の吉井幸輔は眉をひそめた。龍馬のような偉人は暗殺のおそれがある。せめて宿をひきはらって、薩摩藩邸にこい、という。
 龍馬は「藩邸なんぞにいられんき」と笑った。
「じゃっどん、坂本さんは狙われとるでごわそ。新選組や浪人たちに……死んだらつまらんでごわそ?」
「あんさんはわしのことがわかっちょらん。わしは丼を枕に寝る男じゃぜ」
 むろん彼は、新選組や見廻組が命を狙っているのを知っている。
「狙わせときゃいいきに」
 龍馬にいわせれば、自分の命にこだわっている人間はろくな男じゃないというのである。「われ死する時は命を天にかえし、高き官にのぼると思いさだめて死をおそるるなかれ」 と龍馬はその語録を手帳にかきとめ自戒の言葉としたという。
「世に生を得るのは、事をなすにあり」
  来訪者あり。
 訪ねてきたのはお田鶴さまであった。
「こりゃあいかん」龍馬は起きてから一度も顔を洗ってないことに気付き、顔をごしごし洗った。「汚のうございますね?」
「顔をさっき洗ったばかりですが、やはり汚いきにか?」
「いえ。部屋です」
 お田鶴は笑った。
 ……どうもこのひとにはかなわん。

  龍馬は福井へ急いだ。
「もうちとゆるゆる歩けや!」同伴の中岡が頼んだが、龍馬は足をゆるめず、
「いそがなあ、ならんぜよ」という。早足になる。京の情勢は緊迫していた。
「わしには今度の仕事が最後になるがぜよ」
 時代が龍馬を急がせていたといってもいい。
 福井に着くと、龍馬は春嶽に「三岡八郎を新政府にほしい」という趣旨のことをいった。 春嶽はまゆをひそめ、「三岡八郎は罪人ぞ」という。
 しかし、龍馬は三岡八郎の釈放と新政府入りを交渉で決めてしまう。
 夜ふけて、いよいよ三岡が帰宅しようとしたとき、龍馬は手紙のようなものを彼に渡した。「なんだ?」
「わしの写真じゃき。このさきどうなるかわからんきに。万一のときは形見じゃと思ってくれ」
「そうか」
 三岡は、龍馬の例の写真を受取り、龍馬の顔をじっと見た。暗くてよく見えなかったが、龍馬がどこかへ消えてしまいそうな感覚を覚えた。
 ひとは死ぬ。龍馬も死ぬときがきた。
 龍馬と中岡慎太郎が死ぬ日(暗殺日)は、慶応三年(一八六七)十一月十五日の京・近江屋の夜である。
 この年の九月、新選組三十六人と土佐浪人たちが斬りあいをしている。土佐浪人に即死者はいない。安藤藤治という男は重傷をおったが、河原町藩邸までようやくたどりつき、門前で切腹した。他の五人もかろうじて斬り抜けた。

「風邪の熱で頭がくらくらするき」
そういいながらも龍馬は中岡の話をきいていた。夜になったので部屋の行灯に灯を入れた。部屋が少しだけ鬼灯色になった。
 やがて、刺客が何人か密かにやってきた。
「今、幕府だ薩長じゃいうとるときじゃなかきに」龍馬はいった。
 番頭の藤吉は叫び、刺客は叫ばせまいと、六太刀斬りし、絶命させた。この瞬間は数秒であった。二階奥の薄暗い部屋では、龍馬と中岡がむかいあって話している。一階でなにやら物音がきこえたが、誰かが喧嘩でもしとるんじゃろ、と思った。
「ほたえなっ!」
 龍馬は叫んだ。土佐弁で「騒ぐな」という意味である。
 この声で、刺客たちは敵の居場所をみつけた。
 刺客たちは電光のように駆け出した。
 奥の間に入るなり、ひとりは中岡の後頭部を、ひとりが龍馬の前額部を斬りつけた。これが龍馬の致命傷になった。斬られてから、龍馬は血だらけになりながらも刀をとろうとした。そして陸奥守吉行に手をかけた。脳奬まで流れてきた。
 龍馬はすばやく背後へ身をひねった。
 刺客たちは龍馬をさらに斬りつけた。左肩さきから左背中にかけて斬られた。しかし、龍馬は刀をかまえて跳ねるように立ちあがった。
 刺客たちは龍馬をさらに斬りつけた。
 ようやく龍馬は崩れた。……「誠くん、刀はないがか?」と叫んだ。
 誠くんとは中岡の変名石川誠之助のことで、その場で倒れていた男に気遣ったのである。 龍馬は致命傷を受けてなおも気配りまで忘れない。刺客たちは逃げ去った。
「慎ノ字……手は利くか?」
「……利く」
「なら医者をよんで…こい」
 中岡は息絶えた。
 龍馬は、冷静に自分の頭をおさえ、こぼれる血や脳奬を掌につけてながめた。
 龍馬は中岡をみて笑った。澄んだ、壮快な気持ちであった。
「わしは脳をやられている。もう、いかぬ」
 それが最期の言葉となった。いいおわると、龍馬は倒れ、そのまま何の未練もなく、その霊は天に召された。この凶刃に倒れる坂本竜馬の様子は瀕死の重傷を負いながらも証言した中岡慎太郎の言葉で語られたという。
 坂本龍馬暗殺………享年三十三歳
 天命としかいいようがない。日本の歴史にこれほどの男がいただろうか? 天が歴史をかえるためにこの若者を地上におくりこみ、役目がおわると惜しげもなく天に召したとしか思えない。坂本龍馬は混沌とする幕末の扉を押し開けた。
 幕末にこの龍馬がいなければ、日本の歴史はいまよりもっと混沌としたものになっていたかも知れない。



  幕臣の中でキモがすわっている者といえば、麟太郎だけである。
 長州藩士広沢兵助らに迎合するところがまったくない。単身で敵中に入っているというのに、緊張の気配もなかったという。しかし、それは剣術の鍛練を重ねて、生死の極みを学んでいたからである。
 麟太郎は和睦の使者として、宮島にきた事情を隠さず語った。
「このたび一橋公(慶喜)が徳川家をご相続なされ、お政事むきを一新なさるべく、よほどご奮起いたされます。
 ついては近頃、幕府の人はすべて長州を犲狼のごとく思っており、使者として当地へ下る者がありません。それゆえ不肖ながら奉命いたし、単身山口表へまかりいでる心得にて、途中出先の長州諸兵に捕らわれても、慶喜公の御趣意だけは、ぜひとも毛利候に通じねばならぬとの覚悟にて、参じました」
 止戦の使者となればよし、途中で暴殺されてもよし、麟太郎は慶喜がそう考えていることを見抜いていた。麟太郎はそれでも引き受けた。すべては私ではなく公のためである。 広沢はいった。
「われらは今般ご下向の由を承り、さだめて卓抜なる高論を承るものと存じて奉っておりますが、まずご誠実のご心中を仰せ聞かせられ、ありがたきしだいにごりまする」
 ……こいつもなかなかの者だな…麟太郎は内心そう思い苦笑した。
 幕府の使者・勝海舟(勝麟太郎)は、いろいろあったが、長州藩を和睦させ、前述したように白旗を上げさせたのである。勝麟太郎はそれから薩長同盟がなったのを知っていた。 当の本人、同盟を画策した弟子、坂本龍馬からきいたのである。
 だから、麟太郎は、薩長は口舌だけの智略ではごまかされないと見ていた。小手先のことで終わらせず、幕府の内情を包み隠さず明かせば、おのずから妥協点が見えてくると思った。
「けして一橋公は兵をあげません。ですから、わかってください。いずれ天朝より御沙汰も仰せ出されることでしょう。その節は御藩においてご解兵致してください」
 虫のいい話だな、といっている本人の麟太郎も感じた。
 薩長同盟というのは腐りきった幕府を倒すためにつくられたものだ。兵をあげない、戦わない、だから争うのはやめよう………なんとも幼稚な話である。
 麟太郎は広島で、征長総督徳川茂承に交渉の結果を言上したのち、大目付永井尚志に会い、長州との交渉について報告した。その夜広島を発して、船で大坂に向ったが船が暴風雨で坐礁し、やむなく陸路で大坂に向った。大坂に着いたのは、九日未明の八つ(午前二時)頃だったという。
 慶喜の対応は冷たかった。
 ……この糞将軍め! 家茂公がなくならなければこんな男が将軍につくことはなかったのに……残念でならねぇ。
 麟太郎は、九月十三日に辞表を提出し、同時に、薩摩藩士出水泉蔵が、同藩の中原猶介へ送った書簡の写しに自分の意見を加え、慶喜に呈上した。出水泉蔵こと松本弘安は、当時ロンドン留学中だったという。
 彼の書簡の内容は、麟太郎がかねて唱えていた内容と同じだった。                
「インドでは、わが邦のように諸候が多く、争っている。
 ある諸候はイギリスに援助を乞い、ある諸候はフランスに援助を乞い、その結果、英仏のあらそいがおこり、この結果インドの国土は英、仏の手に落ちた。
 清国もまた、英国にやぶれた。アジアはヨーロッパよりよほど早く発展したが、いまはヨーロッパに圧倒されている。
 わが邦をながく万国と協調するためには、国家最高の主君が、古い考えを捨て、海外三、四の大国に使節を派遣すべきである。日本全土を統一したとしても、他国と親交を結ばなければ、独立は困難である。諸候が日本を数百に分かち、欧風の開化を導入することは、不可能である。
 西洋を盛大ならしめたのは、コンパニー、すなわち工商の公会(会社)である。
 諸候、公卿に呼びかけ、日本の君主を説得し、その命を大商人らに伝え、大商諸候あい合してコンパニーとなり、全国一致する。
 そのうえで天皇が外国使節を引見し、勅書を外国君主に賜り、使節を外国につかわし、将軍、諸候、人民が力をあわせ事業をおこせば、日本はアジアの大英国となるだろう」
 麟太郎は、九月十八日に二条城に登城し、慶喜に「今後も軍艦奉行になれ」と命令され、麟太郎はむなしく江戸に戻ることになった。
 麟太郎は、幕臣たちからさまざまな嫌がらせを受けた。しかし、麟太郎はそんなことはいっこうに気にならない。只、英語のために息子小鹿を英国に留学させたいと思っていた。
  長い鎖国時代、幕府が唯一門戸を開けたのがオランダだった。そのため外国の文化を吸収するにはオランダ語が必要だった。しかし、幕末になり英国や米国が黒船でくると、オランダより英国のほうが大国で、米英の貿易の力が凄いということがわかり、英語の勉強をする日本人も増えたという。
 福沢諭吉もそのひとりだった。
 横浜が開放されて米国人やヨーロッパとくに英国人が頻繁にくるようになり、諭吉はその外国人街にいき、がっかりした。彼は蘭学を死にもの狂いで勉強していた。しかし、街にいくと看板の文字さえ読めない。なにがかいているかもわからない。
 ……あれはもしかして英語か?
 福沢諭吉は世界中で英語が用いられているのを知っていた。あれは英語に違いない。これからは、英語が必要になる。絶対に必要になる!
 がっかりしている場合ではない。諭吉は「英語」を習うことに決めた。
 福沢諭吉は万延元年(一八六〇)の冬には、咸臨丸に軍艦奉行木村摂津守の使者として乗り込み、はじめて渡米した。船中では中浜(ジョン)万次郎から英会話を習い、サンフランシスコに着くとウェブスターの辞書を買いもとめたという。
  九月二十二日、京都の麟太郎の宿をたずねた津田真一郎、西周助(西周)、市川斉宮は、福沢諭吉と違い学者として本格的に研究していた。
 慶応二年、麟太郎の次男、四郎が十三歳で死んだ。
 二十日には登営し、日記に記した。
「殿中は太平無事である。こすっからい小人どもが、しきりに自分の懐を肥やすため、せわしなく斡旋をしている。憐れむべきものである」
 二十四日、自費で長男小鹿をアメリカに留学させたい、と麟太郎は願書を出した。
  江戸へ帰った麟太郎は、軍艦奉行として忙しい日々をおくった。
 品川沖に碇泊している幕府海軍の艦隊は、観光丸、朝陽丸、富士山丸など十六隻であったという。まもなくオランダに発注していた軍艦開陽丸が到着する。開陽丸は全長二七〇フィート、馬力四〇〇……回天丸を上回る軍艦だった。
 麟太郎の長男小鹿は、横浜出港の客船で米国に理由学することになった。麟太郎は十四歳の息子の学友として氷解塾生である門人を同行させた。留学には三人分で四、五千両はかかる。麟太郎はこんなときのことを考えて蓄財していた。
 オランダに発注していた軍艦開陽丸が到着すると、現地に留学していた榎本釜次郎(武揚)、沢太郎左衛門らが乗り組んでいたという。
  麟太郎は初めて英国公使パークスと交渉した。
 麟太郎は「伝習生を新規に募集しても、軍艦を運転できるまでには長い訓練期間が必要である。そのため、従来の海軍士官、兵士を伝習生に加えてもらいたい。
 イギリス人教師には、幕府諸役人との交渉などの、頻雑な事務をさせることなく、生徒の教育に専念するよう、しかるべき措置を講じるつもりである」
 と強くいった。
 パークスは麟太郎の提言を承諾した。
 そして、麟太郎の批判の先は幕府の腐りきった老中たちに向けられていく。
「パークスのような、わきまえのない、ひたすら弱小国を恫喝するのを常套手段としている者は、国際社会の有識者から嘲笑されるのみである。
 彼のように舌先三寸でアジア諸国をだまし、小利を得ようとする行為は、イギリス本国の信用を失わしめるものである」
 麟太郎はするどく指摘していく。
「イギリスとの交渉は浅く、それにひきかえオランダとは三百年もの親交がある。オランダがイギリスより小国だからとしてオランダを軽蔑するのは、はなはだ信義にもといる行いでありましょう」
 麟太郎はこののちオランダ留学を申しでる。しかし、この九ケ月後に西郷と幕府との交渉があった。もし、麟太郎がオランダに留学していたら、はたして『江戸無血開城』を行える人材がいただろうか? 幕末の動乱はどうなっていただろうか?

  新選組の近藤と土方は徳川家の正式な家臣となった。徳川幕府のやぶれかぶれだったのだが、これで彼等は念願だった「サムライ」になれたのである。
 近藤勇は見廻組与頭格(旗本、上級武士)、土方歳三は見廻組肝煎格(御家人)、沖田たちも見廻組(御家人)となった。幕府としては「賊軍」となった以上、ひとりでも家臣、部下がほしかった。そこで百姓出身の新選組でも家来にしたのである。
”困ったときの神だのみ”……ではないが、事実はその通りだった。
  薩長は徳川慶喜の追放について御所で密談した。しかし、そこは天皇の御前である。岩倉はしきりに徳川慶喜を死罪にし、幕府を解散させるべきだと息巻いた。その頃、幕府の重鎮・小栗上野介は「幕府から商社をつくろう」と画策していた。
  慶応二(一八六六)年、幕府は第二次長州征伐のため二万の大軍を送った。しかし、薩長同盟軍により、幕府は敗走した出す。第十五代将軍・徳川慶喜はオドオドしていた。いつ自分が殺されるか…そのことばかり心配していた。この男にとって天下などどうてもよかったのである。坂本龍馬は将軍慶喜に「戦か平和かを考えるときじゃきに」といった。 土佐藩は大政奉還建白書を提出した。慶喜は頷いた。慶喜の評判は幕臣たちのなかではよくなかった。ひとことでいえば、無能だ、ということである。
 麟太郎も”慶喜嫌い”であった。
 そして、麟太郎は、幕臣原市の「幕府とフランスを提携させ、薩長を倒す」というアイ      
デアには反対だった。麟太郎は「インドの軼を踏む」といった。
 そんな原市も、腐った不貞なやからに暗殺されてしまう。
 慶喜は恐怖にふるえながら、城内で西周に「西洋の議会制度」「民主主義」などを習って勉強した。しかし、それは無駄におわる。
 慶喜は決心する。
 慶応三年十月、幕府は政権を朝廷に返還した。のちにゆう『大政奉還』である。勝はいう。「絶世の世!」この奉還を知り、龍馬は感激で泣いたという。
 しかし、薩長同盟軍は京への侵攻をとめなかった。王政復古の大号令が発せられる。幕府はここにきて激怒する。政権を奉還してもまだダメだというのか?
 勝海舟(麟太郎)は「このままでは日本は西洋の植民地になる」と危機感をもった。それを口にすると、幕臣たちから「裏切り者! お前は西郷たちの味方か?!」などといわれた。
 勝は激怒するとともに呆れて「政治は私にあらず公のものだ!」と喝破した。
 薩長同盟軍は徳川慶喜の首をとるまで諦めない気でいた。
 ここにきて龍馬は新政権の設立のために動き出す。「新官制議定書(新制度と閣僚名簿)」を完成させる。しかし、その書を見て、西郷や桂たちは目を丸くして驚いた。
 ……当の本人・坂本龍馬の名が閣僚名簿にないのだ。
「坂本くん、きみの名がないでごわすぞ」西郷が尋ねると、龍馬は笑って、
「わしは役人になりとうて働いてきた訳じゃないきに。わしは海援隊で世界にでるんじゃきにな、ははは」といった。
 慶応三年十二月十三日、近藤勇は銃で左肩をくだかれて、激痛で馬から落ち、のたうちまわった。発砲したのは元新選組隊士だったという。京では旧幕府軍と薩長同盟軍がまさに激突しようとしていた。
 ………幕府の連中は負けんと分からんとか。こりゃ見守るしかなか。
 吉之助は単身、船で鹿児島へ戻った。  


*****つづく(最終話・完結版までは刊行本あるいは電子書籍で)最終回完成本につづく***

武田信玄「風林火山」 風林火山の軍師と御屋形さま <軍師 山本勘助と甲斐の虎 武田信玄>小説6

2015年06月22日 03時48分32秒 | 日記








         6 川中島合戦






  信州(長野県)・川中島(信州と越後の国境付近)で、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)は激突した。世にいう「川中島合戦」である。戦国時代の主流は山城攻めだったが、この合戦は両軍四万人の戦いだといわれる。
  甲府市要害山で大永元(一五二一)年、武田信玄(晴信)は生まれた。この頃の十六世紀は戦国時代である。文永十(一五四一)年、武田信玄(晴信)は家督を継いだ。信濃には一国を束める軍がない。武田信玄は孫子の「風林火山」を旗印に信濃の四十キロ前までで軍をとめた。それから三~四ケ月動かなかった。
「武田などただの臆病ものよ!」
 信濃の豪族はたかをくくっていた。
 しかし、武田晴信はそんなに甘くはない。
 まず甲斐(山梨県)で軍備を整えた。
 出家もし、剃髪し、晴信から信玄と名をかえた。出家して武田晴信から武田信玄入道とした。山本勘助も出家して剃髪し、山本勘助道鬼入道と、なった。
 そして、信濃(長野県)の制圧の戦略をもくもくと練っていた。
「御屋形様! 武田の騎馬軍団の勇姿みせましょうぞ!」
 家臣たちは余裕だった。
 信玄も、
「信濃はわしのものとなる。甲斐の兵、武田軍は無敵ぞ」
 と余裕のままだった。
 謙信も「武田の兵を叩きつぶしてくれるわ!」息巻いた。
「いけ! 押し流せ!」
 陣羽織りの信玄の激が飛ぶ。
「うおおおっ!」
 武田の赤い鎧の集団が長槍をもって突撃する。
 信濃の豪族は油断した。そのすきに信玄は騎馬軍団をすすめ、信濃を平定した。領土を拡大していった。彼は、領土の経済へも目を向ける。「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定。治水事業も行った。信玄は国を富ませて天下取りを狙ったのである。
 第一次川中島の合戦は天文二十二(一五五三)年におこった。まだ誰の支配地でもない三角洲、川中島に信玄は兵をすすめる。と、強敵が現れる。上杉謙信(長尾景虎)である。謙信はこのときまだ二十二歳。若くして越後(新潟県)を治めた天才だった。謙信は幼い頃から戦いの先頭にたち、一度も負けたことがなかったことから、毘沙門天の化身とも恐れられてもいた。また、謙信は義理堅く、信濃の豪族が助けをもとめてきたので出陣したのであった。上杉軍が逃げる武田軍の山城を陥していき、やがて信玄は逃げた。信玄の川中島侵攻は阻まれた。(二万人の負傷者)
 天文二十三(一五五四)年、武田は西の今川、南の北条と三国同盟を成立させる。それぞれが背後の敵を威嚇する体制ができあがった。
「これで……不倶戴天の敵・上杉謙信を倒せる!」
 信玄は笑った。
 ある日、両軍主領があう機会があった。
 永禄元年五月上杉・武田の和議が起こり、千曲川を隔てて両将が会見したとき、謙信は馬から降り、川岸で会見しようとした。
 すると信玄は礼を重んじることもなく、
「貴公の態度はいかにもうやうやしい。馬上から語ってもよかろうぞ」と放言した。
 信玄には謙信のような「義」「礼」がなかったのである。
 謙信はやはり武田と戦うことを誓った。
 上杉謙信は武諦式をおこない、戦の準備をはじめた。
「……今度の戦で信玄を倒す!」
 謙信は兵に激を飛ばした。
「おう!」
 上杉軍は決起盛んである。
  第二次川中島の合戦は天文二十四(一五五五)年四月に勃発した。
 信玄は上杉が犀川に陣をはったときの背後にある旭山城の山城に目をつける。上杉は犀川に陣をはり、両軍の睨み合いが数か月続く。
 膠着状態のなか、上杉武田両軍のなかにケンカが発生する。
「やめぬか! 義を守れ!」
 謙信は冷静にいって、書状を書かせた。
 謙信は部下に誓約書をかかせ鎮圧したのだ。
 どこまでも「義」のひとなのである。
 信玄は違った。
「おぬしら、働きをしたものには褒美をやるぞ!」
 と、信玄は人間の利益にうったえた。
「欲」「現実」のひとなのである。
 信玄は戦でいい働きをしたら褒美をやるといい沈静化させる。謙信は理想、信玄は現実味をとった訳だ。
 やがて武田が動く。
 上杉に「奪った土地を返すから停戦を」という手紙を送る。謙信はそれならばと兵を引き越後に帰った。
「……信玄を信じよう」
 義の謙信は疑いのない男だ。
 しかし、信玄は卑怯な現実主義者だった。
 第三次川中島の合戦は弘治三(一五五七)年四月に勃発した。
 武田信玄が雪で動けない上杉の弱みにつけこんで約束を反古にして、川中島の領地を奪ったことがきっかけとなった。”信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。そして、民衆の悲しみは絶えない。隣国の主としてこれを黙認することなどできない”
 上杉謙信は激怒して出陣した。上杉軍は川中島を越え、奥まで侵攻。しかし、武田軍は戦わず、逃げては上杉を見守るのみ。これは信玄の命令だった。”敵を捕捉できず、残念である”上杉謙信は激怒する。”戦いは勝ちすぎてはいけない。負けなければよいのだ。 敵を翻弄して、いなくなったら領土をとる”信玄は孫子の兵法を駆使した。上杉はやがて撤退しだす。
 永禄二(一五五九)年、上杉謙信は京へのぼった。権力を失いつつある足利義輝が有力大名を味方につけようとしたためだ。謙信は将軍にあい、彼は「関東管領」を就任(関東支配の御墨付き)した。上杉謙信はさっそく関東の支配に動く。謙信は北条にせめいり、またたくまに関東を占拠。永禄三(一五六〇)年、今川義元が織田信長に桶狭間で討ち取られる。三国同盟に亀裂が走ることに……。
 上杉は関東をほぼ支配し、武田を北、東、南から抑えるような形勢になる。今川もガタガタ。しかも、この年は異常気象で、四~六月まで雨が降らず降れば十一月までどしゃぶり。凶作で飢餓もでた。
 第四次川中島の合戦は永禄四(一五六一)年、五月十七日勃発。それは関東まで支配しつつあった上杉に先手をうつため信玄が越後に侵攻したことに発した。信玄は海津城を拠点に豪族たちを懐柔していく。上杉謙信は越後に帰り、素早く川中島へ出陣した。
 上杉は川中島に到着すると、武田の目の前で千曲川を渡り、海津城の二キロ先にある妻女山に陣をはる。それは武田への挑発だった。
 十五日もの睨み合い…。信玄は別動隊を妻女山のうらから夜陰にまぎれて奇襲し、山から上杉軍を追い出してハサミ討ちにしようという作戦にでる(きつつき作戦)。
 しかし、上杉謙信はその作戦を知り、上杉軍は武田別動隊より先に夜陰にまぎれて山を降りる。
「よいか! 音をたてたものは首を斬り落とすぞ!」
 謙信は家臣や兵に命令した。
 謙信は兵に声をたてないように、馬には飼い葉を噛ませ口をふさぐように命令して、夜陰にまぎれて山を降りた。一糸乱れぬみごとな進軍だった。
 上杉軍は千曲川を越えた。 
九月十日未明、信玄が海津城を出発。永禄四(一五六一)年、九月十日未明、記録によれば濃い霧が辺りにたちこめていた。やがて霧がはれてくると、武田信玄は信じられない光景を目にする。
「……なんじゃと?! 上杉が陣の真ん前に?」
 信玄は驚いた。
 驚きのあまり軍配を地に落としてしまった。
 妻女山にいるはずの上杉軍が目の前に陣をしいていたのだ。上杉軍は攻撃を開始する。妻女山に奇襲をかけた武田別動隊はカラだと気付く。が、上杉軍の鉄砲にやられていく。「いけ! 押し流せ!」
 無数の長槍が交じりあう。
 雲霞の如く矢が飛ぶ。
 謙信は単身、馬で信玄にせまった。
 刀をふる謙信……
 軍配で受ける信玄……
 謙信と信玄の一気討ち「三太刀七太刀」…。
 このままでは本陣も危ない!
 信玄があせったとき武田別動隊が到着し、九月十日午前十時過ぎ、信玄の軍配が高々とあがる。総攻撃!
 ハサミうちにされ、朝から戦っていた兵は疲れ、上杉軍は撤退した。死傷者二万(両軍)の戦いは終了した。「上杉謙信やぶれたり!」信玄はいったという。
 武田信玄は川中島で勝利した。しかし、信玄の軍師・山本勘助が戦死するなどした。
 上杉はその後、関東支配を諦め、越後にかえり、信玄は目を西にむけた。
 第五次川中島の合戦は永禄七(一五六四)年、勃発した。
 しかし、両軍とも睨みあうだけで刃は交えず撤退。以後、二度と両軍は戦わなかった。武田は領土拡大を西に向け、今川と戦う。こんなエピソードがある。今川と北条と戦ったため海のない武田領地は塩がなくなり民が困窮……そんなとき塩が大量に届く。それは上杉謙信からのものだった。たとえ宿敵であっても困れば助ける。「敵に塩をおくる」の古事はここから生まれた。
 武田は大大名になった。
 信玄は国づくりにも着手していく。治水工事、高板はたびたび川がはんらんしていた。そこで竜王の民を移住させ、堤をつくった。
 上杉にも勝ち、金鉱二十もあらたに手にいれた。
 のちに信長は自分の娘を、信玄の息子勝頼に嫁がせている。
 しかし、信玄は信長の一向衆や寺焼き討ちなどをみて、
「織田信長は殺戮者だ! わしが生きているうちに正しい政をしなければ…」
 と考えた。
 それには上洛するしかない。


  参考文献(NHK歴史秘話ヒストリア「戦国のボス・武田信玄 最強の秘密~ダメ上司から名将への道~」)
のちの武田信玄の統率力は現代ビジネスマンの手本。現代のサラリーマンの理想の上司(戦国武将部門)の1位が武田信玄、2位豊臣秀吉、3位織田信長、4位徳川家康、5位上杉謙信という順番になっている。何故我らが謙信公が1位じゃないのか?私にとっては不思議だが、「甲斐の虎」「戦国最強」のイメージだろう。
  山梨県(甲斐)には『信玄の隠し湯』とされる信玄が温泉をつくらせた温泉施設が24箇所ある(例えば川浦温泉など)。
  武田二十四将や家臣たちの保養所(今でいう福利厚生)として、戦での兵の傷を癒すためである。
  武田信玄は幼少時代は太郎、のちに晴信に改名し、出家して信玄と名乗った。負けん気の強い性格であったという。
  だが、信玄の父親・武田信虎は国内で飢饉で飢餓が広がっても対策を打つでもなく、隣国との戦を繰り返すのみ。当然ながら武田家は兵糧にも事欠くようになる。
  それで家臣団は信玄に、父親の信虎を追放して信玄自身が領主となれ、とクーデターを求めた。特に武田家重臣で信玄の養育係であった板垣信方(いたがき・のぶかた)は、
「甲斐(現在の山梨県)のことを考えますれば信虎さまはすみやかにご隠居頂きあなたさまが新たな当主となって頂くのが得策。多くの家臣もそれを支持しております」
  と献策をする。その当時の信玄(武田晴信)は困惑した。しかし、「私は民や甲斐の国を救いたい」として、後述するが父親の信虎が駿河(するが・現代の静岡県)にわずかな兵だけで駿河入りした信虎を国境を封鎖するなどして信虎を追放して、国主と信玄こと晴信は成るのである。
参考文献(NHK歴史秘話ヒストリア 戦国最強のボス・武田信玄 最強の秘密 ~ダメ上司から名将への道)
  信虎追放後、家臣たちは年若い晴信(信玄)なら御しやすいと勝手なふるまいをするようになる。例えば勝手に国境に関所をもうけて税を徴収して着服したり、他国の使者と交渉そっちのけでべろべろになるまで酒を飲みかわすだけだったり。
  信玄は「すべてのことがうまくいかず迷惑している」(甲陽軍鑑)と心を痛める。
  信玄は家臣との関係に嫌気を差し、首領としての職務を放棄してしまう。
  それにひとり心を痛めたのが板垣信方である。「このままでは御屋形様が血を吐く思いで、父親の信虎さまを追放したことが無駄になってしまう」
  だから、職務放棄を続け家臣たちや遊女、女中たちと昼夜とわず酒浸りの信玄を諌めた。
「信虎さまは非道の行いが過ぎたゆえ、追放されました。されど、今の御屋形さまはあまりにわがまま勝手で信虎さまより悪しき大将」
  今の言葉に腹が立ったならそれがしを斬り捨ててください、とまでいう信方の諌めで目が覚めた信玄は「国を思う気持ちは家臣たちも同じはず。やってみよう!」
  と、改心した。
  信玄は名将といわれるまでに変わった。まず、家臣の意見を聞いた。例え自分の意見と違う意見でもじっくり聞いたという。
  また、武功や善い行いをしたら(今でいう成果主義で)金品を与える等して家臣団をまとめた。
  武田軍の強さは「人の和」「結束力の強さ」
  信玄は豪傑のように肖像画からはみれるが、実はけっこう繊細であった。筆がマメで、家臣へのきずかいが見られる。
  「接待の準備や城内の方づけは必要ない」等と細かく伝え、「そちの行い天晴であるかたじけない」と感謝し、娘の安産を願う文もみつかっている。(甲陽軍鑑)

信玄といえば山本勘助。実在したらしい。最近、信玄から勘助への二通の手紙が群馬県でみつかった。
  やがて経済力をつけるために甲斐から信濃(現在の長野県)に進攻した武田軍。信濃は一枚岩ではなく、攻めやすい。越後(現在の新潟県)も貿易や塩や魚などの漁業等の為に欲しかった。
  信玄は信濃の四分の一を手中にした。しかし、信濃北部を領地とする村上義清との戦いで、武田軍は惨敗した。この戦で腹臣の板垣信方が討死した。
  信玄も傷を負って敗走。この負け戦で、懐柔したはずの信濃の武将もすべて敵に戻った。その危機で役だったのが軍師・山本勘助である。
  山本勘助は尾張(現在の愛知県)に生まれ、全国を仕官先を求め放浪し、軍略や築城や戦略や占い・加持・祈祷(占い・加持・祈祷は戦国時代の武将は戦の前に占いに頼った為)等の知識を育んだ。
  この勘助の軍略により、信玄は信濃を手中におさめるのに成功させた。
  山本勘助は「闘いに勝つ三要素」を説く「ひとつ、戦いのための謀。ふたつ、軍勢の配置。みっつ、戦況の把握」(甲陽軍鑑)
  また、信玄は適材適所を旨とした。弱虫で戦下手な(死ぬのが恐くて戦場で敵兵から逃げ回るだけの)岩間大蔵左衛門を信玄は、
「家臣たちの秘密話や動向を密かに探り、逐一、自分の報告せよ。怠れば首をはねる」とつかった。ここで岩間は死ぬのが恐くて大活躍、いまでいう警察機関(大目付)の重臣となったという。
  武田信玄といえば上杉謙信との川中島の戦い、である。川中島とは信濃と越後にまたがる千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)の中心の広大な中地である。川中島の合戦は十二年間も続いた。
  ほとんどは睨み合いとちょっとの数名の兵士たちの小競り合いだけ。歴史専門家は「戦国大名たちは本心は戦がしたいんじゃない。軍費も兵隊の喪失ももったいない」と大名たちはそう考えられているという。
  最近の研究では引き分けの「川中島の戦い」も、実際は武田信玄の勝ちだという。足利幕府に働きかけて(金品を送るなどして)強引に『信濃守護職』に任命され大義名分をつくり、上杉謙信の家臣団を調略して信濃を領土にするのに成功したからだという。
  後述するが川中島での『きつつき戦法(軍師・山本勘助の策)』『謙信との三太刀七太刀』も有名だ。その戦で軍師・山本勘助、信玄の弟・左馬守信繁、信玄の嫡男・太郎義信らが討死している。勘助、享年六十八歳。
  だが、信玄は信長を討ち滅ぼし、天下人になる為に京を目指して軍を、甲斐・信濃から西に向けて行軍。
  三方が原では家康を完膚なきまで叩き潰し、家康は失禁しながら馬上で糞尿まみれのままで遁走した。
  だが、信玄の生涯はここでおわる。信玄は病に斃れ、享年五十三歳で病死する。
  信玄の言葉は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだ(恨み)は敵なり」である。

  正式な手続きは済んでないけれど、長尾景虎が関東管領上杉憲政の後をつぐということを真っ先に知って危機感を抱いたのは、甲斐(山梨県)の武田晴信(信玄)だった。
 武田晴信(信玄)は天文十一年、実父・信虎を駿河(静岡の中心部)に追放して、つぎつぎと隣国・信濃(長野県)を侵略して領地を広げた。……もちろんそのことを景虎が知らないハズはないが、まさか自分も巻き込まれることになろうとは思ってもみなかった。 前途洋々の年も暮れて、あけて天文二十二年の二月十日、景虎の兄長尾晴景が府内(直江津)の隠居所でひっそりと死んだ。享年は、四十二歳だった。
 憎み、追い落とした人物なれど、景虎にとってはたったひとりの兄である。こんなに早く死ぬのなら、もっと懇篤な付き合いをしていればよかった……。景虎は悔やんだ。
 葬儀も終わると、ふたたび混沌とした時代が幕をあけた。
 ……武田信玄勢、侵攻である。
 甲斐の武田勢が、ふたたび葛尾城を攻めている、こんどは村上勢のほうが不利……という情報はすでに景虎はつかんでいた。
「新兵衛、着替えて屋敷にまいる。そちたちも着替えてまいれ」
「はっ」
 こうして侍臣、重臣たちに「衣服を改めて御屋敷へ参じよ」という命令が伝えられた。ちなみに「御屋敷」とは、春日山城の城主屋敷のことである。
 ざんばら髪に血だらけの陣羽織姿の村上義清と家来たちも、すぐに湯浴みなどの接待をうけ、こざっぱりした着物を与えられた。
「さあ、食べてくだされ」
 食事を差し出しててきぱきとやっているのは、金津以太知之介であった。村上勢の落ち武者が春日山に向かっている、という情報が鳥坂城や箕冠城から届くや、すぐさま家臣たちを連れて着物などを用意しておいたのだ。
「これはかたじけない」
 村上義清らが礼を述べた。
「この度はまことに何とお礼を申し上げてよいやら…」
 とうに五十を過ぎた村上義清は、まだ二十四歳の景虎に家臣のような口を利き、ふかぶかと頭を下げた。
「……うむ」
 景虎は恭しく言った。まだ、正式な手続きは済んでないけれど、長尾景虎が関東管領上杉憲政の後をつぐということを皆知っているのだから、ここで威厳を見せなければならない。そのため、景虎は威厳あらたかな態度をとった。
 ……どうだ?これでよいか?…新兵衛に目くばせすると、新兵衛は「よろしい」と頷いた。……これでよいのだ…。しかし、
 ………政景め、まだ諦めておらぬな。
 並んだ国人衆の中で、ひとりだけ面白くない態度をとった政景をみて、景虎は思った。「村上殿」
「ははっ」
「もう少し近うに」
「ははっ」村上はもう一度、平伏したけれど、そのまま座を動かなかった。
 無理もない。すっかり緊張して、敗北のトラウマで堅くなっているのだ。
「村上殿の武勇はそれがし、つとにきいております」
 景虎はにこりと言った。すると、村上が、
「いえいえ、武勇など……それがしなど殿の足元にもおよびません」と、また平伏した。「今回は大変であったのう」
 景虎がそういうと、くやしくて、仕方ない…武田晴信(信玄)を倒し、領地を奪還したいけれども兵がたりない…。と、村上は不満を口惜しく語った。
「それならばわれらの兵馬をお使いくだされ」
「………まことにございますか?」
 村上義清の声がうわずった。…信じられない思いだった。なにせ長尾衆と村上は、永年いがみあってきた仲である。しかし、聖将といわれる景虎が嘘をつく訳もない。
 その村上の問いに、景虎は笑って答えるだけだった。
 ひととおり会話が終わると、本庄実仍が村上に挨拶した。
「村上殿、よく存じませぬが、ご挨拶が遅れまして失礼申した。なにとぞ、許してくだされ」
「いえいえ、とんでもございません」
 村上はふたたび平伏した。…どうせ弱敗の情ない落ち武者…と考えていただろうと思っていたが、そうではなかった。村上は、手厚い対応に感激してしまった。
 彼は、涙さえ流したとも言われる。
 ……こんな俺を褒めて、尊敬してくれる。いっそのこと……ここの家臣となりたい!… 村上義清がそう心の中で思っていると、
「皆の者、村上殿がたらふく食べ、精がついたところで出陣じゃ!」
 と、景虎は言った。そして続けて、「武田晴信(信玄)は戦上手な男じゃ。けして抜かるでないぞ!われらが村上殿の諸城を取り上げられぬとな、こんどは越後まで攻めてくる。皆の者、出陣の準備はよいか!」
「おおっ!」
 雄叫びがあがった。
 こうして、武田晴信(信玄)vs長尾景虎(上杉謙信)の因縁の戦いがスタートする。いわゆる、川中島の戦い、である。
 川中島とは、信濃国更級郡の東北、千曲川と犀川が合流する三角地帯のことで、幅八キロメートル、長さは約四〇キロメートル、面積は約二六二平方キロメートルもある。川を下れば、美濃(岐阜の南部)や飛騨(岐阜県の北部)へ行くことができる。すでに信府をとった武田晴信(信玄)が、この要所(川中島)をとろうとするのは火を見るよりあきらかである。川中島から甲府へは一五〇キロだが、越府までは半分の八〇キロ…ここをとられてしまってはまずい。こうした危機感から天文二十二年(一五五三)八月、「第一次・川中島の戦い」が始まる。
「行け!」
 景虎は号令を出した。

  武田側の兵は史実では一万、上杉側は八千人とされる。
 天文二十三年、武田信玄が支配していた地域は甲斐および信濃のうち諏訪・佐久・上伊那・上田・松本地方で、合計四三万石になる。その兵は合計一万一千人…。
 景虎(謙信)の元には信玄の侵略に恐怖していた豪族たちが集まり、一万人もの兵ができた。しかし、「第一次・川中島の戦い」では八千人しか動かしてない。急な戦役だったし、揚北衆も間に合わなかったのだ。
 上杉と武田軍との最初の戦いは、景虎の天才的な軍術によって上杉謙信(景虎)の圧勝に終わった。この結果、信玄は川中島へ勢力を伸ばすことに失敗した。
「第一次・川中島の戦い」は、長尾景虎(上杉謙信)の勝利だったといってよい。
 信州(長野県)・川中島(信州と越後の国境付近)で、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)は激突した。世にいう「川中島合戦」である。戦国時代の主流は山城攻めだったが、この合戦は両軍4万人の戦いだといわれる。
  甲府市要害山で大永元(1521)年、武田信玄(晴信)は生まれた。この頃の16世紀は戦国時代である。文永10(1541)年、武田信玄(晴信)は家督を継いだ。信濃には一国を束める軍がない。武田信玄は孫子の「風林火山」を旗印に信濃の40キロ前までで軍をとめた。それから3~4ケ月動かなかった。信濃の豪族は油断した。そのすきに信玄は騎馬軍団をすすめ、信濃を平定した。領土を拡大していった。彼は、領土の経済へも目を向ける。「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定。治水事業も行った。信玄は国を富ませて天下取りを狙ったのである。第一次川中島の合戦は天文22(1553)年におこった。まだ誰の支配地でもない三角洲、川中島に信玄は兵をすすめる。と、強敵が現れる。上杉謙信(長尾景虎)である。謙信はこのときまだ22歳。若くして越後(新潟県)を治めた天才だった。謙信は幼い頃から戦いの先頭にたち、一度も負けたことがなかったことから、毘沙門天の化身とも恐れられてもいた。また、謙信は義理堅く、信濃の豪族が助けをもとめてきたので出陣したのであった。上杉軍が逃げる武田軍の山城を陥していき、やがて信玄は逃げた。信玄の川中島侵攻は阻まれた。(2万人の負傷者)
 天文23(1554)年、武田は西の今川、南の北条と三国同盟を成立させる。それぞれが背後の敵を威嚇する体制ができあがった。第二次川中島の合戦は天文24(1555)年4月に勃発。信玄は上杉が犀川に陣をはったときの背後にある旭山城の山城に目をつける。上杉は犀川に陣をはり、両軍の睨み合いが数か月続く。膠着状態のなか、上杉武田両軍のなかにケンカが発生。謙信は部下に誓約書をかかせ鎮圧、信玄は戦でいい働きをしたら褒美をやるといい沈静化させる。謙信は理想、信玄は現実味をとった訳だ。
 やがて武田が動く。上杉に「奪った土地を返すから停戦を」という手紙を送る。謙信はそれならばと兵を引き越後に帰った。第三次川中島の合戦は弘治3(1557)年4月に勃発。武田信玄が雪で動けない上杉の弱みにつけこんで約束を反古にして川中島の領地を奪ったことがきっかけとなった。”信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。そして、民衆の悲しみは絶えない。隣国の主としてこれを黙認することなどできない”上杉謙信は激怒して出陣した。上杉軍は川中島を越え、奥まで侵攻。しかし、武田軍は戦わず、逃げては上杉を見守るのみ。これは信玄の命令だった。”敵を捕捉できず、残念である”上杉謙信は激怒する。”戦いは勝ちすぎてはいけない。負けなければよいのだ。敵を翻弄して、いなくなったら領土をとる”信玄は孫子の兵法を駆使した。上杉はやがて撤退。永禄2(1559)年、上杉謙信は京へのぼった。権力を失いつつある足利義輝が有力大名を味方につけようとしたためだ。謙信は将軍にあい、彼は「関東管領」を就任(関東支配の御墨付き)した。上杉謙信はさっそく関東の支配に動く。謙信は北条にせめいり、またたくまに関東を占拠。永禄3(1560)年、今川義元が織田信長に桶狭間で討ち取られる。三国同盟に亀裂が走ることに……。上杉は関東をほぼ支配し、武田を北、東、南から抑えるような形勢になる。今川もガタガタ。しかも、この年は異常気象で、4~6月まで雨が降らず降れば10月までどしゃぶり。凶作で飢餓も。 第四次川中島の合戦は永禄4(1561)年、5月17日勃発。それは関東まで支配しつつあった上杉に先手をうつため信玄が越後に侵攻したことに発した。信玄は海津城を拠点に豪族たちを懐柔していく。上杉謙信は越後に帰り、素早く川中島へ出陣した。上杉は川中島に到着すると、武田の目の前で千曲川を渡り、海津城の2キロ先にある妻女山に陣をはる。それは武田への挑発だった。15日もの睨み合い…。信玄は別動隊を妻女山のうらから夜陰にまぎれて奇襲し、山から上杉軍を追い出してハサミ討ちにしようという作戦にでる(きつつき作戦)。しかし、上杉謙信はその作戦を知り、上杉軍は武田別動隊より先に夜陰にまぎれて山を降りる。謙信は兵に声をたてないように、馬には飼い葉を噛ませ口をふさぐように命令して、夜陰にまぎれて山を降りた。一糸乱れぬみごとな進軍だった。 上杉軍は千曲川を越えた。9月10日未明、信玄が海津城を出発。永禄4(1561)年、9月10日未明、記録によれば濃い霧が辺りにたちこめていた。やがて霧がはれてくると、武田信玄は信じられない光景を目にする。妻女山にいるはずの上杉軍が目の前に陣をしいていたのだ。上杉軍は攻撃を開始する。妻女山に奇襲をかけた武田別動隊はカラだと気付く。が、上杉軍の鉄砲にやられていく。謙信と信玄の一気討ち「三太刀七太刀」…。このままでは本陣も危ない! 信玄があせったとき武田別動隊が到着し、9月10日午前10時過ぎ、信玄の軍配が高々とあがる。総攻撃! ハサミうちにされ、朝から戦っていた兵は疲れ、上杉軍は撤退した。死傷者2万(両軍)の戦いは終了した。「上杉謙信やぶれたり!」信玄はいったという。上杉はその後、関東支配を諦め、越後にかえり、信玄は目を西にむけた。*第五次川中島の合戦は永禄7(1564)年、勃発。しかし、両軍とも睨みあうだけで刃は交えず撤退。以後、2度と両軍は戦わなかった。武田は領土拡大を西に向け、今川と戦う。こんなエピソードがある。今川と北条と戦ったため海のない武田領地は塩がなくなり民が困窮……そんなとき塩が大量に届く。それは上杉謙信からのものだった。たとえ宿敵であっても困れば助ける。「敵に塩をおくる」の古事はここから生まれた。武田は大大名に。いよいよ信長と戦おうとしたとき、元正元(1573)年、信玄は病に倒れて死んだ。享年53。信玄は死の床で息子勝頼に「なにかあったら上杉謙信公を頼れ」といったという。そして、上杉謙信もあとを追うように死んでしまう。こうして、英雄たちはこの世を去ったので、ある。
   



  のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。
 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。
 また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。
 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。
 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。
「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。

  信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。
 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。
 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。
 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。
 天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。
 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。
 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?
 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。
 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。
 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。
 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に無勢で、結局殺されてしまう。
 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)
 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。
 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。
 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。
 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。
 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。
 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。






  足利義昭が織田信長に「幕府回復のために力を貸していただきたい」と打診していた頃、信長はまだ稲葉山城(岐阜城)攻略の途中であったから、それほど関心を示さなかった。また、天皇からの「天皇領の回復を願いたい」というも放っておいた。
 朝倉義景の一乗谷城には足利義昭や細川藤孝が厄介になる前に、居候・光秀がいた。のちに信長を本能寺で討つことになる明智十兵衛光秀である。美濃の明智出身であったという。機知に飛んだ武士で、教養人、鉄砲の名人で、諸国を放浪していたためか地理や地方の政や商いに詳しかった。
 光秀は朝倉義景に見切りをつけていた。もともと朝倉義景は一国の主で満足しているような男で、とうてい天下などとれる器ではない。このような男の家臣となっても先が知れている。光秀は誇り高い武将で、大大名になるのが夢だ。…義景では……ダメだ。
 光秀は細川藤孝に「朝倉義景殿ではだめだ。織田信長なら、あるいは…」と漏らした。「なるほど」細川は唸った。「信長は身分や家格ではなく能力でひとを判断するらしい。義昭さまを連れていけば…あるいは…」
 ふたりは頷いた。やっと公方様の役に立つかも知れない。こうなったらとことん信長を利用してやる。信長のようなのは利用しない手はない。
 光秀も細川藤孝も興奮していた。これで義昭さまが将軍となれる。…かれらは信長の恐ろしさをまだ知らなかったのだ。信長が神や仏を一切信じず、将軍や天皇も崇めないということを……。光秀たちは無邪気に信長を利用しようとした。しかし、他人に利用される程、信長は甘くない。信長は朝倉義景とは違うのだ。
 光秀も細川藤孝もその気になって、信長に下話した。すると、信長は足利義昭を受け入れることを快諾した。なんなら将軍に推挙する手助けをしてもいい、と信長はいった。
 明智十兵衛光秀も細川藤孝も、にやりとした。
 信長が自分たちの思惑通りに動いたからだ。
 ……これで、義昭さまは将軍だ。してやったり!
 だが、光秀たちは信長が「義昭を利用してやろう」などと思っていることを知らなかった。いや、そんなことは思いもよらなかった。なにせ、光秀たちは古い価値観をもった武士である。誰よりも天皇や室町幕府、足利将軍の崇拝者であり、天皇や将軍を利用しようという人間がいるなど思考の範疇外であったのだ。
 信長は「くだらん将軍だが、これで上洛の口実ができる」と思った。
 信長が快諾したのは、義昭を口実に上洛する、つまり京都に入る(当時の首都は京都)ためである。かれも次第に世の中のことがわかってきていて、ただの守護代の家臣のそのまた家臣というところからの成り上がりでは天下はとれないとわかっていた。ただやみくもに野望を抱き、武力蜂起しても天下はとれないのをわかっていた。
 日本の社会は天皇などが中心の社会で、武家はその家臣というのが通例である。武力だけで天下の道を辿るのは難しい。チンギス・ハンのモンゴルや、秦始皇帝の中国とは違うのだ。天下をとるには上洛して、天皇らを嫌でもいいから奉らなければならない。
 そこで信長は「天下布武」などといいだした。
 つまり、武家によって天下をとる、という天下獲りの野望である。おれは天下をとる。そのためには天皇だろうが、将軍だろうが利用するだけ利用してやる!
 信長は興奮し、心の中で笑った。うつろな笑いだった。
 確かに、今、足利義昭も天皇も「権威を回復してほしい」といってきている。しかし、それは信長軍の武力が台頭してきているからで、弱くなれば身分が違うとバッサリきりすてられるかも知れない。そこで、どの大名も戴くことをためらった足利義昭をひきいて上洛すれば天下に信長の名が轟く。義昭は義輝の弟で、血も近い。なにより恩を売っておけば、何かと利用できる。恩人として、なにかしらの特権や便宜も計られるだろう。信長は狡猾に計算した。
「天下布武」などといったところで、おれはまだ美濃と尾張だけだ。おれは日本中を支配したいのだ。そのために足利義昭を利用して上洛しなくてはならないのだ。
 そのためにはまず第十四代将軍・足利義栄を戴いている三好や松永久秀を滅ぼさなければならない。信長は戦にうって出ることを考えていた。自分の天下のために!
 信長は当時の常識だった「将軍が一番偉い」などという考えをせせら笑った。なにが偉いものか! 偉いのはおれだ! 織田……織田信長だ! この俺に幸運がやってきた!





  足利義昭にしてみれば織田信長などチンピラみたいな男である。かれが越前にいったのも朝倉義景を通して越後の長尾(上杉)景虎(謙信)に頼ろうとしたのだし、また上杉でなくても武田信玄でも誰でもよかった。チンピラ信長などは「腰掛け」みたいなものである。なんといっても上杉謙信や武田信玄は信長より大物に写った。が、上杉も武田も容易に兵を挙げてくれなかった。義昭はふたりを呪った。
 しかし、信長にとっては千載一遇の好機であった。朝倉がどうでようと、足利義昭を利用すれば上洛の大義名分が出来る。遠交近攻で、上洛のさまたげとなるものはいない。
 信長は明智光秀や細川藤孝から義昭の依頼を受けて、伊勢方面に出兵した。滝川一益に北伊勢方面を攻撃させた。そうしながら伊勢の実力者である関一族の総領神戸氏の家に、三男の信孝を養子としておしつけた。工藤一族の総領である長野氏の名を弟信包に継がせたりしたという。信長の狙いは南伊勢の北畠氏である。北畠氏を攻略せねば上洛に不利になる。信長はさらに、
「足利義昭さまが越前にいてはやりにくい。どうか尾張にきてくだされ」と書状をおくった。義昭はすぐに快諾した。永禄十一年(一五六八)七月十三日、かれは越前一乗谷を出発した。朝倉義景には「かくかくしかじかで信長のところにまいる」といった。当然ながら義景は嫌な顔をした。しかし、朝倉義景は北近江一国で満足している、とうてい兵をあげて天下をとるだけの実力も器もないのだから仕方ない。
 上洛にたいして、信長は朝倉義景につかいをだした。義景は黙殺した。六角義賢(南近江の城主)ははねつけた。それで、信長は六角義賢を攻め滅ぼし、大軍を率いて京都にむかった。九月一二日に京都にはいった。足利義昭を京都の清水寺に宿舎として入れ、松永と三好三人衆と対峙した。松永弾正久秀は機を見るのに敏な男で、人質をさしだして和睦をはかった。それがきっかけとなり信長は三好三人衆の軍勢を叩き潰した。
 足利義昭は「こやつらは兄義輝を殺した連中だ。皆殺しにいたせ!」といきまいた。
 しかし信長が「義昭さま、ここは穏便に願う」と抑圧のある声で抑えた。
 永禄十一年(一五六八)十月十八日、足利義昭は将軍に推挙された。第一四代将軍・義栄は摂津の逃れて、やがてそこで死んだ。
「阿波公方・足利義栄の推挙に荷担し、義輝を殺した松永と三好三人衆を京都より追放する」時の帝正親町天皇はそう命じた。
 松永弾正久秀は降伏したものの、また信長と対立し、ついにはかれはおいつめられて爆死してしまう(大事にしていた茶道具とともに爆薬を体にまきつけて火をつけた)。
 信長は義昭のために二条城を造らせた。
 足利義昭は非常に喜んで、にやにやした。これでまろは本物の将軍である。かれは信長に利用されているとはまだ感付いていなかった。
「あなたはまろの御父上さまだ」義昭はきしょくわるくいった。
 信長は答えなかった。当時、信長三十六歳、義昭は三十二歳だった。
「あなたは偉大だ。あなたを副将軍としてもよい。なんならもっと…」
「いや」信長は無表情のままきっぱりいった。「副将軍はけっこうでござる。ただし、この信長ひとつだけ願いがござる」
「それは?」
「和泉国の堺と、近江国の大津と草津に、代官所を置かせていただきたい」
 義昭はよく考えもせず、簡単に「どうぞどうぞ、代官所なりなんなり置いてくだされ。とにかくあなたはまろの御父上なのですから」と答えて、にやりとした。気色悪かった。 信長には考えがあった。堺と、大津と草津は陸運の要所である。そこからとれる税をあてにしたのだ。そして信長は京都で、ある人物にあった。それは南蛮人、ルイス・フロイスで、あった。キリスト教宣教師の。                       

武田信玄「風林火山」 風林火山の軍師と御屋形さま <軍師 山本勘助と甲斐の虎 武田信玄>小説5

2015年06月21日 07時52分53秒 | 日記








         5 桶狭間合戦







 戦国時代の二大奇跡がある。ひとは中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦、もうひとつが織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。
 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。
  斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長が弟・信行を謀殺したのは前述した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。
 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。
 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。
「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。
「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。
「は?」
「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。
 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。
 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。
 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのよい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。
 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。
 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。
 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。
「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。
 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。
 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。信長の勝つ確率は極めて低い。
  今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。
  特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。
 今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。
 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。しかし当の松平元康(のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。
 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。
 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。
 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。なにを夢ごとを。家臣たちは訝しがった。





  松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。
 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。
 今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。今川義元は軍議をひらいた。
「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。
 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」
 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。
 柴田勝家は「そうか……とは? …御屋形! 何か策は?」と口をはさんだ。
 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。宮福太夫という猿楽師に、羅生門を舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。
「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」
 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。
 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。
「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。
「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」
「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」
「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。
「なんて御屋形だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」
「まったくあきれる。あれでも大将か?」
 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」
  信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。
「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」
「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」
「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」
 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。
「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の男がいった。この男こそ、のちの豊臣秀吉である。秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」
「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」
 日吉は迷ってから「奇襲にでればと」
「奇襲?」信長は茫然とした。
「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」
「さしでがましいわ!」信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。
「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。
 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。
「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。
「なんじゃ、猿」
「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」
「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」
「八百あまり」
「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。
「いま何刻じや?」
「うしみつ(午前2時)でごさりまする」猿はいった。
「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」
 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。そして有名な「敦盛」を舞い始める。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。
「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。わずかに長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎の五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。
 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。
「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」
 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。
 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。
 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。
 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」
 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。
「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。
 信長は叫んだ。
「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」
 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。
 たい し が ね                                   「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」
 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせ、にやりとした。
「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形である」と感心した。
 織田軍は密かに進軍を開始した。








                 
  太子ケ根を登り、丘の上で信長軍は待機した。
 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。嵐の中で部下は「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。
 しかし、信長はその策をとらなかった。
「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」
 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」
 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。山の上から喚声をあげて下ってくる軍に今川本陣は驚いた。
「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。
「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」
 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!
 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。
 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!
「御屋形様をお守りいたせ!」
 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。
「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、新助の人差し指に噛みつき、それを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。
 義元はこの時四十二歳である。
「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。
 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。
「勝った! われらの勝利じゃ!」
 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。
  かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。
「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」
「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。
「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。
 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。
 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。
  今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。
 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。
 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。
 これに対して信長は「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。
 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。
 清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方にけっそうをかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。
  清洲城に戻り、酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。
 信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」
 家臣たちは意味がわからず顔を見合わせたという。
 晴信はこの桶狭間合戦を知り、「信長という男は強敵ぞ!」といった。       

おいどん!巨眼の男 西郷隆盛 鹿児島のおいどん西郷吉之助の維新と西南戦争の真実!小説3

2015年06月20日 04時12分05秒 | 日記









         3 久光との確執





  吉之助は三年間島にいたあと、やっと鹿児島にもどった。
「鹿児島じゃ! なつかしいでごわす」
 桜島はいつものように噴煙をあげていて、雄大である。
 親友の大久保一蔵が出迎えた。
「西郷どん!」
「一蔵どん!」
 ふたりは抱き合った。           
「一蔵どんのおかげで鹿児島にもどれもうしたばい。感謝感激でごわす」
 吉之助は礼を述べた。
「いやいや、西郷どんはわが薩摩の英雄じゃっど。天下がおまんさんを必要としておるっちゅうことでごわそ」
「西郷どん、よかとでごわした」
 大久保一蔵は笑みを浮かべた。……なんにしてもこれで倒幕ができる。
「西郷どん! 西郷どんではごわさんか?!」
 薩摩藩士の男たちが集まってきて、握手した。みんな西郷吉之助の帰還を喜んだ。
  西郷は「いよいよ腐りきった幕府を倒すべきでごわそ?」と一蔵にきいた。
 大久保一蔵(利道)は顔をしかめて、
「久光公は幕制改革というとおりもんそ……倒幕とは考えておりもうさん」
 といった。
「そいは反対でごわそ! 幕府を倒さねばなんもなりもんそ」
 西郷は強くいった。
「そげんこついうても、久光公には才能がござらん」
「……なさけなか。藩主がこげな状況では藩に命を捧げたひとたちが浮かばれもんそ」
 西郷吉之助(隆盛)は嘆いた。
 やがて、島津久光は隠居した。
 その隠居は、宮中や朝廷に知らせ、久光は薩摩藩主ではなくなった。
「何の理由もなく兵を動かせば壤夷派にしてやられる」
 薩摩藩士たちは、血判状をつくって久光に迫った。
 島津久光は、
「よし! わかった! 上洛じゃ!」
 と息巻いた。
 家臣たちは「やっとごて公がわかってくれもした!」と喜んだ。
『精忠組』も同じように喜んだ。
 しかし、久光はいつまでもぐすぐすしている。
「殿! ………はやく行動をば!」
 久光は押し黙った。そして、オドオドとなって「わかっとか!」といった。

「西郷どん! ご無事でよかごわした!」
 吉之助の元に、薩摩藩士仲間の村田新八と森山新蔵がやってきた。
「新八どん! 新蔵どん! ひさしゅうごわす!」
 吉之助は笑顔をふたりにみせた。
「西郷どん、大変じゃったでごわそ?」
 と村田。
「まぁそうでごわすな」
 吉之助は苦い顔をした。「おいが掃除も洗濯もひとりでしよった」
 すると森山がにやりとして、
「じゃっどん西郷どん」
「なにとぜ?」
「奄美で結婚したとでごわそ?」森山はにやにやした。
 吉之助はにこりと白い歯をみせ、巨眼と太い眉を細め、
「そうでござりもそ。島の女と結婚しよった」といった。しあわせそうな顔だった。
「……そぜ?」
 村田は吉之助に尋ねた。
「そぜ? ってなんじゃっとん?」
「子までできたんでごわそ?」
「ははは」吉之助は大笑いして「そでごわすそでごわす」
「めでたいでごわすな」
 一同は笑った。
 西郷は「いよいよ腐りきった幕府を倒すべきでごわそ?」と森山にきいた。
 一蔵は顔をしかめて、
「久光公は幕制改革というとおりもんそ……倒幕とは考えておりもうさん」
 といった。
「なんどもいうどん。そいは反対でごわそ! 幕府を倒さねばなんもなりもんそ」
 西郷は強くいった。
「まず幕府を倒すためには二条城をせめ、彦根城を攻め一挙に江戸に攻め入るのが最高の策でごわす」
「そげんこついうても……」一蔵は首をふった。
「久光公は”わかっとか!”いうたばってん。ほんとげにわかっちょっとがか?」
 村田新八と森山新蔵も、「久光公には倒幕は無理でごわす。西郷どん…」
 吉之助は口をつぐんだ。
「西郷どん。あんさんがたつしかなか」
 一同の目が西郷吉之助(隆盛)に集まった。吉之助は頭をかいて、
「じゃっどん。おいは幽霊でごわそ?」と冗談をいった。

  諸国の志士たちが西郷吉之助によせる期待はただならぬものがあった。
「西郷が動けば薩摩は動く」といわれるほどで、故・斉彬の助手として活躍し、顔も知られていた。
 西郷は島津久光との約束を忘れ、急ぎ馬関(下関)を発して京へと向かった。
 それを知った久光は、激昴して、
「おのれ! 余をばかにすっとか?!」
 といった。
「吉之助め、余の命にそむいて……何をばするつもりか! あの男は余をあなどっておるのではなかか!」
「久光さま。そのようなことは…」
「黙れ! 一蔵!」
 大久保は久光をなだめた。
「西郷どんはどげんこつで京へいきもはんじゃろうですか?」
「知るか!」久光は強い口調でまくしたてる。「あの男ばゆるすわけにはいかん!」
「落ち着いてくだされ! 久光さま!」
「一蔵! 誰のおかげで偉くなれもうした?」
 大久保一蔵(利道)は押し黙った。…確かに偉くなったのは久光のおかげである。
「いつやめてもよかとぞ? 一蔵」
 久光は低い声でつめよった。
 大久保一蔵(利道)は押し黙ったままだ。
「吉之助はまた島へ流す! おいを馬鹿にした罰じゃ!」
 久光は顔を真っ赤にしていった。よほど腹が立っていたのであろう。
「久光さま。そのようなことは…おいが連れ戻すばってんそれは平にご容赦を!」
「そげんこつはいかん! 吉之助はまた島へ流す!」
「……久光さま!」
「あれはわが藩と幕府を戦わせるつもりぞ。流さねばなりもうさん」
 久光は、ふん、と鼻を鳴らすと場を去った。
 大久保一蔵は愕然として、城内の庭園でがくりと膝をついた。なんともやりきれない思いであった。………なんてごてじゃっどん。
 また西郷どんが島流しにあうとがか?!
 目の前が真っ暗になる思いだった。
  大久保一蔵はさっそく急いで京へと向かった。
 京の薩摩藩邸には西郷がいた。
「おや? 一蔵どんじゃなか! どげんしたでごわす?」
 何も知らない吉之助は明るい声でいった。
「西郷どん……」
「?!」
 吉之助は驚いた。大久保一蔵が土下座したからだ。
「なにしよっとぞ?! 一蔵どん」
「悪いことしよった……西郷どん…またあんさんを島流しにするちゅうて…」
 一蔵は涙を流した。
「島流し? おいを? また久光がそういったでごわすか?」
「……そうでごわす…悪かことしよっとばい」
「頭をあげとせ! 一蔵どん! あんさんが悪いのじゃなかが…」
 吉之助は手を差し向けた。
「……じゃっどん…」
「すべては久光の無能のためでごわす」     
 大久保一蔵は起き上がり、眩暈を覚えながら、
「おいは久光公がわからんとなったでごわす。西郷どんのような人物が今、必要なときになにとぜ島流しなんぞに…」と呟くようにいった。
「一蔵どん………おいはよかとぞ。島流しなんぞなんでもなか。どうせ一度はなくしかけた命じゃっどん。なんでもなかと」
「……おいは…おいは…」
「?!」
 吉之助は驚愕した。大久保が切腹しようとしたからである。
「…な?! なにしよっとか一蔵どん?!」吉之助は一蔵のもつ脇差しをとめた。
「馬鹿なことするもんじゃなか?!」
「…死なせて…もうせ! 西郷どん! わしが腹をきってお詫びを…」
「馬鹿ちんが!」
 吉之助は一蔵の頬を平手打ちした。
「”死んではつまらん”いうたのはあんさんでなかが?!」
 一蔵は脇差しを畳に落とし、茫然とした。
「どうせ死ぬなら…」
 吉之助は続けた。「どうしても死ぬなら、天下のために命を捧げもうせ! 犬死はつまらん! 犬死だけはつまらんど」
「……じゃっどん」
「今は乱世のときぞ。あんさんがいのうなったら天下はどげんなっとか?!」
 吉之助は諭した。
 大久保はしばらく茫然としてから、
「……西郷どん」と囁くようにいった。

  村田新八は徳之島へ、西郷吉之助も島へ流された。
  久光は大阪へ入った。西郷のいとこ大山弥助(のちの巌)、西郷の弟・西郷慎吾(従道)がやってきた。
 久光への意見は、「あにさんを帰してくれもんそ」ということである。
 しかし、島津久光の考えはかわらなかった。
 そんな最中、文久二年(一八六二)『寺田屋事件』が起こる。
「九州諸藩からぬけだした連中が京へきて何かしようとしちょる。おいどんをかつぎだして久光公のご出馬をこうとる」
 吉之助は島流しの前に一蔵にいっていた。
「なぜとめくれなんじゃ?」
「なれどな一蔵どん……久光公の怒りはな……そりゃきびしいど」
「わかっちょる」
  いま京で騒ぎをおこそうとしているのは田中河内介である。田中に操られて、薩摩藩浪人が、尊皇壤夷のために幕府要人を暗殺しようとしている。それを操っているのは出羽庄内藩浪人の清河八郎であったが、一蔵にはそれは知らなかった。
 幕府要人の暗殺をしようとしている。
「もはや久光公をたよる訳にはいかもんそ!」
 かねてからの計画通り、京に潜伏していた薩摩浪人たちは、京の幕府要人を暗殺するために、伏見の宿・寺田屋へ集結した。
 総員四十名で、中には久光の行列のお供をした有馬新七の姿もあったという。
「もはやわが藩を頼れないでごわす! 京の長州藩と手をむすび、事をおこすでごわそ!」 と、有馬は叫んだ。
「なにごてそんなことを……けしからぬやつらじゃ!」
 久光はその情報を得て、激昴した。寺田屋にいる四十名のうち三十名が薩摩の志士なのである。「狼藉ものをひっとらえよ!」
 京都藩邸から奈良原喜八郎、大山格之助以下九名が寺田屋の向かった。
 のちにゆう『寺田屋事件』である。
「久光公からの命である! 御用あらためである!」
  寺田屋への斬り込みは夜だった。このとき奈良原喜八郎の鎮撫組は二隊に別れた。大山がわずか二、三人をつれて玄関に向かい、奈良原が六名をつれて裏庭にむかった。
 そんな中、玄関門の側で張り込んでいた志士が、鎮撫組たちの襲撃を発見した。又左衛門は襲撃に恐れをなして逃げようとしたところを、矢で射ぬかれて死んだ。
 ほどなく、戦闘がはじまった。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」大山は囁くように命令した。
 あとは大山と三之助、田所、藤堂の四人だけである。
 いずれもきっての剣客である。柴山は恐怖でふるえていた。襲撃が怖くて、柱にしがみついていた。
「襲撃だ!」
 有馬たちは門をしめ、中に隠れた。いきなり門が突破され、刀を抜いた。二尺三寸五分政宗である。田所、藤堂が大山に続いた。
「なにごてでごわそ?」二階にいた西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌は驚いた。悲鳴、怒号……
 大山格之助は廊下から出てきた有馬を出会いがしらに斬り殺した。
 倒れる音で、志士たちがいきり立った。
「落ち着け!」そういったのは大山であった。刀を抜き、道島の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて道縞五郎兵衛の頭を斬りつけた。乱闘になった。
 志士たちはわずか七名となった。
「手むかうと斬る!」
 格之助は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、格之助はすぐに起き上がることができなかった。
 そのとき、格之助は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
 なおも敵が襲ってくる。そのとき、格之助は無想で刀を振り回した。格之助はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
 一階ではほとんど殺され、残る七名も手傷をおっていた。
 これほどですんだのも、斬りあいで血みどろになった奈良原喜八郎が自分の刀を捨てて、もろはだとなって二階にいる志士たちに駆けより、
「ともかく帰ってくだはれ。おいどんとて久光公だて勤王の志にかわりなか! しかし謀略はいけん! 時がきたら堂々と戦おうではなかが!」といったからだ。
 その気迫におされ、田中河内介も説得されてしまった。
 京都藩邸に収容された志士二十二名はやがて鹿児島へ帰還させられた。
 その中には、田中河内介や西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌の姿もあった。  ところが薩摩藩は田中親子を船から落として溺死させてしまう。
 吉之助はそれを知り、
「久光は鬼のようなひとじゃ」と嘆いた。

  奄美大島の愛加那と子供ふたりは「吉之助がふたたび島流しにあった」ときいて、思わず興奮した。やっとあえるのだ。
 しかし、西郷吉之助が流されたのは大島ではなく、徳之島であった。徳之島は奄美大島につぐ二番目に大きな島で、久光が、
「大島にやったのでは家族がいて罰にならない」
 と、いったためにこの島が流刑場所に選ばれたのである。
 しかし、待ち切れない。
 愛加那は興奮して徳之島まで舟でむかった。そして、再会した。
「おお! 愛加那でごわそか!」
「旦那さん!」
 ふたりは抱きあった。吉之助は息子と女の子をみた。
「これが菊次郎でごわそ?」
「…はい。こちらは菊草という旦那さまの娘です」愛加那は笑顔をつくった。
「そうでごわすか。そうでごわすか」
 吉之助の笑顔はわずかだった。すぐに暗い顔をして「……久光公に…嫌われ申した」 
 と、慙愧の顔をした。
 すると、見知らぬじじいとばばあがやってきて、
「おんしは極悪人じゃ!」といった。
「……なにごて?」吉之助は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「ふつうの人間は一度島流しにあえばこりて悪さしないものじゃっどん。おんしは二度も島流しにおうてる。極悪人じゃで」
「じじい、ばばあ」吉之助は顔をしかめて「おいどんは極悪人じゃ。その杖でおいを叩きのめしてごわせ!」
 やがてばばあとじじいは吉之助を杖で叩きはじめた。
「………旦那はん!」
「愛加那! ……子らに見せんじゃなか! 行け! はよ行け!」
 愛加那は子供たちに、ボコボコに叩かれる吉之助をみせて、「よくみとらんせ。あれがあんさんたちの父ど!」と諭した。
 吉之助は傷だらけになった。
  久光はそれをきき笑ったが、妻子にあえるのは駄目じゃな。とも思い、島流しの場所をかえさせたという。
   
 吉之助は沖永良部島へと流された。
 島は石がいっぱいあって、太陽がぎらぎらまぶしく、そんな海岸の炎天下のちいさな檻に西郷吉之助(隆盛)はいれられた。食事はおそまつで、風呂にもはいれない。
 雪隠(トイレ)もない。しかも、暑苦しい。狭い。外にでれない。
 吉之助は髭をぼうぼうに生やしっぱなし、服も汚れ、さすがに痩せて、頬はこけ、風呂にはいってないから臭くなった。
 吉之助は座禅を組んで耐えた。三年間そんな日々が続いた。
 島には陽気な薩摩隼人・川口雪篷がいて、酒をラッパ呑みしながら檻にやってきた。昼頃だった。「西郷どん……酒はどうじゃ?」
 雪篷がいうと、西郷は目をまわし、気絶した。
「おい! 西郷どんが気絶しよったぞ!」
 雪篷はあわてて役人をよびにいった。しかし、吉之助は、死ななかった。

         4 薩英戦争



   文久二年(一八六二)八月二十一日、『生麦事件』が勃発した。
 参勤交替で江戸にいた島津久光は得意満々で江戸を発した。五百余りの兵をともない京へむかった。この行列が神奈川宿の近くの生麦村へさしかかったところ、乗馬中のイギリス人(女性ひとりをふくむ)四名が現れ、行列を横切ろうとした。
「さがれ! 無礼ものどもが!」
 寺田屋事件で名を馳せた奈良原が外国人たちにいって、駆け寄り、リチャードソンという白人を斬りつけて殺した。他の外国人は悲鳴をあげて逃げていった。
 これが『生麦事件』である。

  京都にしばらくいた勝麟太郎(勝海舟)は、門人の広井磐之助の父の仇の手掛かりをつかんだ話をきいた。なんでも彼の父親を斬り殺したのは棚橋三郎という男で、酒に酔っての犯行だという。
「紀州藩で三郎を捕らえてもらい、国境の外へ追い出すよう、先生から一筆頼んでくださろうか?」
 麟太郎は龍馬の依頼に応じ、馬之助に書状をもたせてやった。
 馬之助は二十七日の朝に戻ってきて、「棚橋らしい男は、紀州家にて召しとり、入牢させ吟味したところ、当人に相違ないとわかったがです」
  麟太郎は海軍塾の塾長である出羽庄内出身の佐藤与之助、塾生の土州人千屋寅之助と馬之助、紀州人田中昌蔵を、助太刀として紀州へ派遣した。龍馬は助太刀にいかなかった。「俺は先生とともに兵庫へいく。俺までいかいでも、用は足るろう」龍馬はいった。
  棚橋は罠にかかった鼠みたいな者である。不埒をはたらいた罰とはいえ、龍馬は棚橋の哀れな最期を見たくなかった。
 六月二日、仇討ちは行われた。場所は紀州藩をでた、和泉山中村でおこなわれた。
 見物人が数百人も集まり、人垣をつくり歓声をあげる中、広井磐之助と助太刀らと棚橋三郎による決闘が行われた。広井と棚橋のふたりは互いに対峙し、一刻(二時間)ほど睨み合っていた。そして、それから広井が太刀を振ると、棚橋の右小手に当たり血が流れた。さらに斬り合いになり、広井が棚橋の胴を斬ると、棚橋は腸をはみだしたまま地面に倒れ、広井はとどめをさした。

「あにさん! ご無事で!」
 島から帰った吉之助を、弟の慎吾といとこの大山巌が鹿児島で出迎えた。
 抱き合った。そして、吉之助は「村田新八どんももどしとせ」と頼んだ。
 ほどなく、村田新八も鹿児島へ帰還させられた。
 西郷隆盛の勝負は、いよいよここから始まった。

 イギリスとも賠償問題交渉のため、四月に京とから江戸へ戻っていた小笠原図書頭は、やむなく、朝廷の壤夷命令違反による責めを一身に負う覚悟をきめたという。
 五月八日、彼は艦船で横浜に出向き、三十万両(四十四万ドル)の賠償金を支払った。 受け取ったイギリス代理公使ニールは、フランス公使ドゥ・ペルクールと共に、都の反幕府勢力を武力で一掃するのに協力すると申しでた。
 彼らは軍艦を多く保有しており、武装闘争には自信があった。
 幕府のほうでも、反幕府勢力の長州や壤夷浮浪どもを武力弾圧しようとする計画を練っていた。計画を練っていたのは、水野痴雲であった。
 水野はかつて外国奉行だったが、開国の国是を定めるために幕府に圧力をかけ、文久二年(一八六二)七月、函館奉行に左遷されたので、辞職したという。
 しばらく、痴雲と称して隠居していたが、京の浮浪どもを武力で一掃しろ、という強行論を何度も唱えていた。
 麟太郎は、かつて長崎伝習所でともに学んだ幕府医師松本良順が九日の夜、大阪の塾のある専称寺へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。
「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃した。商船は逃げたが、一万ドルの賠償金を請求してきた。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃した。
 水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきたのでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出た。
 その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたんだ」
 アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。
「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたという」
「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」
「そう。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げたが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうだ。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はない。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だとさ」
 将軍家茂は大阪城に入り、麟太郎の指揮する順動丸で、江戸へ戻ることになった。
 小笠原図書頭はリストラされ、大阪城代にあずけられ、謹慎となった。

  由良港を出て串本浦に投錨したのは十四日朝である。将軍家茂は無量寺で入浴、休息をとり、夕方船に帰ってきた。空には大きい月があり、月明りが海面に差し込んで幻想のようである。
 麟太郎は矢田堀、新井らと話す。
「今夜中に出航してはどうか?」
「いいね。ななめに伊豆に向かおう」
 麟太郎は家茂に言上した。
「今宵は風向きもよろしく、海上も静寂にござれば、ご出航されてはいかがでしょう?」 家茂は笑って「そちの好きにするがよい」といった。
 四ケ月ぶりに江戸に戻った麟太郎は、幕臣たちが激動する情勢に無知なのを知って怒りを覚えた。彼は赤坂元氷川の屋敷の自室で寝転び、蝉の声をききながら暗澹たる思いだった。
 ………まったくどいつの言うことを聞いても、世間の動きを知っちゃいねえ。その場しのぎの付和雷同の説ばかりたてやがって。権威あるもののいうことを、口まねばかりしてやがる。このままじゃどうにもならねぇ………
 長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる”報復”だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。
 セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。
 コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。
 長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。
 高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。
 武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。  薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。
 鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。 その日、生麦でイギリス人を斬り殺した奈良原喜八郎が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。 彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。
  翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。
 ニールは応じなかったという。
「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」

  島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である奈良原喜八郎を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜きた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛                
門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。
 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
 奈良原は答書を持参していた。
 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
 ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」
 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。
 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
 薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」
 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩・家老の川上に答書を届けた。
 それもどうにも噛み合わない。
 一、加害者は行方不明である。
 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなに ごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。

     
  キューパ総督は薩摩藩の汽船を拿捕することにした。
 四つ(午前十時)頃、コケット号、アーガス号、レースホース号が、それぞれ拿捕した汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。
 鶴丸城がイギリス艦隊の射程距離にあるとみて、久光、忠義親子は本陣を千眼寺に移した。三隻が拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。
 七月二日は天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。
 ニールたちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。
 正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、イギリス兵たちは驚いて飛び上がった。
 たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であったという。
 イギリス艦隊も砲弾の嵐で応戦した。
 薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如くイギリス艦隊から砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。
 左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だったという。そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。
 イギリス艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。
 紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシヤンパンで祝った。
  イギリス艦隊が戦艦を連れて鹿児島にいくと知ったとき、勝海舟は英国海軍と薩摩藩軍のあいだで戦が起こると予知していた。薩摩藩前藩主斉彬の在世中、咸臨丸の艦長として接してきただけに「斉彬が生きておればこんな戦にはならなかったはずでい」と惜しく思った。「薩摩は開国を望んでいる国だから、イギリスがおだやかにせっすればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみてたから火傷させられたのさ。 しかし、薩摩が勝つとは俺は思わなかったね。薩摩と英国海軍では装備が違う。
 いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわってねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからのイギリスの対応が見物だぜ」

  幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。
 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。

  この頃、庄内藩(山形県庄内地方)に清河八郎という武士がいた。田舎者だが、きりりとした涼しい目をした者で、「新選組をつくったひと」として死後の明治時代に”英雄”となった。彼は藩をぬけて幕府に近付き、幕府武道指南役をつくらせていた。
 遊郭から身受けた蓮という女が妻である。清河八郎は「国を回天」させるといって憚らなかった。まず、幕府に武装集団を作らせ、その組織をもって幕府を倒す……まるっきり尊皇壤夷であり、近藤たちの思想「佐幕」とはあわない。しかし、清河八郎はそれをひた隠し、「壬生浪人組(新選組の前身)」をつくることに成功する。
 その後、幕府の密偵を斬って遁走し暗殺されることになる。

 文久三(一八六三)年一月、近藤勇に、いや近藤たちにチャンスがめぐってきた。そ                        
れは、京にいく徳川家茂のボディーガードをする浪人募集というものだった。
 その頃まで武州多摩郡石田村の十人兄弟の末っ子にすぎなかった二十九歳の土方歳三もそのチャンスを逃さなかった。当然、親友で師匠のはずの近藤勇をはじめ、同門の沖田総司、山南敬助、井上源三郎、他流派ながら永倉新八、藤堂平助、原田左之助らとともに浪士団に応募したのは、文久二年の暮れのことであった。
 微募された浪士団たちの初顔合わせは、文久三(一八六三)年二月四日であった。
 会合場所は、小石川伝通院内の処静院であこなわれたという。
 幕府によって集められた浪人集は、二百三十人だった。世話人であった清河によって、隊士たちは「浪人隊」と名づけられた。のちに新微隊、そして新選組となる。
 役目は、京にいく徳川家茂のボディーガードということであったが、真実は京には尊皇壤夷の浪人たちを斬り殺し、駆逐する組織だった。江戸で剣術のすごさで定評のある浪人たちが集まったが、なかにはひどいのもいたという。
 京には薩摩や長州らの尊皇壤夷の浪人たちが暗躍しており、夜となく殺戮が行われていた。将軍の守護なら徳川家の家臣がいけばいいのだが、皆、身の危険、を感じておよび腰だった。そこで死んでもたいしたことはない”浪人”を使おう……という事になったのだ。「今度は百姓だからとか浪人だからとかいってられめい」
 土方は江戸訛りでいった。
「そうとも! こんどこそ好機だ! 千載一遇の好機だ」近藤は興奮した。
 すると沖田少年が「俺もいきます!」と笑顔でいった。
 近藤が「総司はまだ子供だからな」という。と、沖田が、「なんで俺ばっか子供扱いなんだよ」と猛烈に抗議しだした。
「わかったよ! 総司、お前も一緒に来い!」
 近藤はゆっくり笑顔で頷いた。

 「浪人隊」の会合はその次の日に行われた。武功の次第では旗本にとりたてられるとのうわさもあり、すごうでの剣客から、いかにもあやしい素性の不貞までいた。
 処静院での会合は寒い日だった。場所は、万丈百畳敷の間だ。公儀からは浪人奉行鵜殿翁、浪人取締役山岡鉄太郎(のちの鉄舟)が臨席したのだという。
 世話は出羽(山形県)浪人、清河八郎がとりしきった。
 清河が酒をついでまわり、「仲良くしてくだされよ」といった。
 子供ならいざしらず、互いに素性も知らぬ浪人同士ですぐ肩を組める訳はない。一同はそれぞれ知り合い同士だけでかたまるようになった。当然だろう。
 そんな中、カン高い声で笑い、酒をつぎ続ける男がいた。口は笑っているのだが、目は異様にぎらぎらしていて周囲を伺っている。
「あれは何者だ?」
 囁くように土方は沖田総司に尋ねた。この頃十代後半の若者・沖田は子供のような顔でにこにこしながら、
「何者でしょうね? 俺はきっと水戸ものだと思うな」
「なぜわかるんだ?」
「だって……すごい訛りですよ」
 土方歳三はしばらく黙ってから、近藤にも尋ねた。近藤は「おそらくあれば芹沢鴨だろう」と答えた。
「…あの男が」土方はあらためてその男をみた。芹沢だとすれば、有名な剣客である。神道無念流の使い手で、天狗党(狂信的な譲夷党)の間で鳴らした男である。
「あまり見ないほうがいい」沖田は囁いた。


  隊士二百三十四人が京へ出発したのは文久三年二月八日だった。隊は一番から七番までわかれていて、それぞれ伍長がつく。近藤勇は局長でもなく、土方も副長ではなかった。 近藤たち七人(近藤、沖田、土方、永倉、藤堂、山南、井上)は剣の腕では他の者に負けない実力があった。が、無名なためいずれも平隊士だった。
 浪人隊は黙々と京へと進んだ。
  浪人隊はやがて京に着いた。
 その駐屯地での夜、清河八郎はとんでもないことを言い出した。
「江戸へ戻れ」というのである。「これより浪士組は朝廷のものとなった!」
 この清河八郎という男はなかなかの策士だった。この男は「京を中心とする新政権の確立こそ壤夷である」との思想をもちながら、実際行動は、京に流入してくる諸国脱藩弾圧のための浪人隊(新選組の全身)設立を幕府に献策した。だが、組が結成されるやひそかに京の倒幕派に売り渡そうとしたのである。
 浪士たちは反発した。清河はひとりで江戸に戻った。いや、その前に、清河は朝廷に働きかけ、組員(浪士たち)が反発するのをみて、隊をバラバラにしてしまう。
 近藤たちは京まできて、また「浪人」に逆戻りしてしまった。
 勇のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、脅威的な形をとりはじめていた。彼の本能すべてに警告の松明がついていた。その緊張は肩や肘にまでおよんだが、勇は冷静な態度をよそおった。
「ちくしょうめ!」土方は怒りに我を忘れ叫んだ。
 とにかく怒りの波が全身の血管の中を駆けぬけた。頭がひどく痛くなった。
(清河八郎は江戸へ戻り、幕府の密偵を斬ったあと、文久三年四月十三日、刺客に殺されてしまう。彼は剣豪だったが、何分酔っていて敵が多すぎた。しかし、のちに清河八郎は明治十九年になって”英雄”となる)

  壬生浪士隊は次々と薩摩や長州らの浪人を斬り殺し、ついに天皇の御所警護までまかされるようになる。登りつめた! これでサムライだ!
  土方の肝入で新たに採用された大阪浪人山崎蒸、大阪浪人松原忠司、谷三十郎らが隊に加わり、壬生浪人組は強固な組織になった。芹沢は粗野なだけの男で政治力がなく、土方や山南らはそれを得意とした。近藤勇の名で恩を売ったり、近藤の英雄伝などを広めた。           
 そのため、パトロンであるまだ若い松平容保公(会津藩主・京守護職)も、
「立派な若者たちである。褒美をやれ」と家臣に命じたほどだった。
 そして、容保は書をかく。
 ……………新選組
「これからは壬生浪人組は”新選組”である! そう若者たちに伝えよ!」
 容保は、近藤たち隊に、会津藩の名のある隊名を与えた。こうして、『新選組』の活動が新たにスタートしたのである。
 新選組を史上最強の殺戮集団の名を高めたのは、かれらが選りすぐりの剣客ぞろいであることもあるが、実は血も凍るようなきびしい隊規があったからだという。近藤と土方は、いつの時代も人間は利益よりも恐怖に弱いと見抜いていた。このふたりは古きよき武士道を貫き、いささかでも未練臆病のふるまいをした者は容赦なく斬り殺した。決党以来、死罪になった者は二十人をくだらないという。
 もっとも厳しいのは、戦国時代だとしても大将が死ぬば部下は生き延びることができたが、新選組の近藤と土方はそれを許さなかった。大将(伍長、組頭)が討ち死にしたら後をおって切腹せよ! …というのだ。
 このような恐怖と鉄の鉄則によって「新選組」は薄氷の上をすすむが如く時代の波に、流されていくことになる。
 吉之助は「新選組」のことをきいて、「馬鹿らしかでごわす」と思った。「そげな農民や浪人出身の連中に身辺警護をまかせなければなんほど悪い世になったでごわすか?」
 西郷にはそれが馬鹿らしい行為であるとわかっていた。
 だが、京は浪人たちが殺戮の限りを尽くしている。浪人でもいないよりはマシだ。
 そんなおり幕府が長州藩の追放を決定した。どうやら薩摩の謀略らしい……
「世の中、どげんなっちゃろう?」吉之助は頭をひねった。