緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

絢爛たる戦後・吉田茂「バカヤロー偉大なる「負けて勝つ」」伝記1

2013年11月29日 19時32分32秒 | 日記
小説絢爛たる戦後 吉田茂伝



              ~負けても最後は勝つ 米軍を「番犬」とした怪人~

                  バカヤロー!
                ~昭和の象徴・吉田茂の人生!
                 わが心の昭和史~
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽
         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.
        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
……この作品は事実をもとにしたフィクションです。事実とはいささか異なる点がありますご了承ください………

          あらすじ

  吉田茂は1878(明治11年)年9月22日に生まれた。父親が茂と名付けた。時代は昭和へ。日露、日清戦争で勝った日本帝国は野望をもち中国などを侵略していく。時代は黒闇の戦争へ……
 昭和天皇は軍部のパペット(あやつり人形)と化して太平洋戦争を黙認する。しかし、日本に勝ち目はない。やがて原爆投下で日本は敗戦。天皇は「人間宣言」をして巡幸してまわる。やがてそんな天皇は八十七歳で崩御……時代は平成へと移る。ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊……冷戦終結…時代は新たな一ページを刻む。
 昭和天皇はいう。
「戦争がさけられないのならばせめて治療法のない兵器は使わないでください」

                                    おわり
         1 吉田茂と戦争






  立憲君主と大元帥……
  慈悲深い立憲君主と大元帥……                  
 これが昭和天皇・裕仁(1901~1989)の名称である。
 しかし、実のところは白馬にまたがり軍部の前であやつられるパペット(操り人形)に過ぎなかった。日本人には驚きだろうが、かの昭和天皇は、ヒトラー、ムッソリーニと並ぶ第二次大戦の大悪人のひとりなのだ。                             
 しかし、崩御(死亡)のさい、日本のマスコミはこのことにまったく触れなかった。
 ……死んでしまえば「いいひと」とでもいいたげにお涙頂戴の報道に徹した。
 NHKを初めすべての報道局が昭和天皇の死を報道したが、戦争犯罪に触れたものはひとつとしてなかった。世界はこれに呆れたことだろう。
 先の戦争でも昭和天皇は「もう一度戦果をあげるのがよろしそうろう」などと沖縄戦の一ケ月前に「お言葉」を述べている。
 太平洋戦争末期に出来た近衛内閣の近衛文磨首相は「最悪なる事態は遺憾ながら早々必要なりと存候。一日も早く戦争終結を申し候」と述べた。
 しかし、神の子・天子である天皇は人間らしいことは何もいえない。只、「無駄な血が流れなければよいが…」と他人事のような「お言葉」を述べるだけだ。
 熱しやすい軍部は暴走して、「一億総玉砕!」などと泥沼にひきずりこもうとする。
 これは太平洋戦争の二十数年前に遡らなければならない。


  明治天皇は紙に主色のペンで、”裕仁”と書いた。
 それが病弱な嫡男の皇太子(のちの大正天皇)の嫡男の名前である。
 昭和天皇(裕仁)は、一九〇一年(明治三十四年)、四月二十九日に産まれた。父は大正天皇となる皇太子である。その他に妻(良子・香淳)、弟君が擁仁、宣仁、崇仁といる。こののちの昭和の息子が平成天皇明仁(皇后美智子)常陸宮正仁(妻・華子)であり、孫 徳仁(妻・雅子、子・愛子)秋篠宮文仁(妻・紀子、子・眞子、佳子、悠仁)紀宮清子(05年、民間に嫁いだ)などである。(妻(良子・香淳)平成12年6月16日死亡享年97歳) 昭和天皇が生まれたとき、時代は混沌としていた。苦悩する世界。世界的な孤立とあいつぐ企業倒産、大量の失業者、夜逃げ、身売り、政治不満が吹き荒れていた。
「私は天皇家の長男として生まれた。殿下の希望の天皇にもなった。父は非常に有能なひとであった。が、病弱ですぐに風邪をおひかれになられた。父と曽祖父はすぐれた審美眼の持ち主で、日本や中国の美術工芸品の収集に没頭していた。(中略)本業をおろそかにし、日本の経営をひとまかせにしていたため、事業は衰退の道をたどったのである」
 1908(明治四十一)年四月、裕仁は学習院初等科に入学した。院長は日露戦争の英        
雄でもある乃木希典陸軍大将である。
 十歳頃になると、もう帝王学を習いはじめ、事務や税務、事業、憲法、もろもろの”いろは”を手ほどきをさせられた。会議、部下からの報告、打ち合わせ、中学生になるともっぱら事業で一日が過ぎてしまったそうである。
 大正天皇は、お抱えつきのアメリカ車、ビュイックで出掛け、家の中にはすでに外国製の電気冷蔵庫や洗濯機が置かれてあった。
 皇后は、クラシック音楽が好きで、レコードを聴かせた。家には、小さい時からビクトロンと呼ばれる古い手回し式の蓄音機があったが、アメリカから電気蓄音機が輸入されるようになるとすぐに買い入れた。日本では第一号であったという。
 1912(大正元年)年、明治天皇が崩御した。それにあわせて乃木将軍は夫婦で後追い自殺を遂げている。裕仁の父は天皇……大正天皇となり、裕仁は皇太子となった。
 あわせて陸軍小佐にもなっている。
 裕仁は東宮学院で帝王学を学んだという。教えるのは東宮御学学問所総裁東郷平八郎である。帝王学と軍事兵法……
 1921(大正十)年、昭和天皇は皇太子としてヨーロッパを視察した。船でいき、第一次世界大戦後のヨーロッパをみてまわった。オランダ。ベルギー、イギリス……
 立憲君主として学ぶためだった。
 しかし皇太子は「……本当にこれでよいのだろうか?」と思っていたという。
 1926年(昭和元年)、つまり病気だった大正天皇が崩御して、皇位を継承した。元号は昭和となり、裕仁は昭和天皇となった。
 視力が悪くなり、眼鏡をかけ、国民の前にも姿を見せない。そんな天子さまは軍事色に染まっていく……
 1930年(昭和5)年4月、ロンドンで軍縮会議が始まった。このとき、「相当権干渉」と日本軍部が騒ぎ始めた。この頃から熱しやすい軍部と日本国民は軍事色の波にのまれていく。それはドイツでも同じであった。
  アドルフ・ヒトラー(ナチス党党首・総統)は画家になりたかった。パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(ナチス党宣伝大臣)は作家になりたかった。
 しかし、ふたりとも夢をかなえることは出来ず、右翼的思想を持ち、ナチスとしてさまざまな虐殺にかかわっていく。挫折が屈折した感情となって、侵略、虐殺へとむかった訳だ。その結果が、ユダヤ人を六〇〇万人も殺す原因となった。
 ゲッベルスは作家になりたかったが、誰も彼を認めなかった。(大学の国文学博士号を取得していたが)とうとう何にもなれず、定職にもつかず、金欠病に悩まされ続けたという。そんな若者は、藁をもすがる思いでナチス党のポストにしがみついた。
 そして、”宣伝”という武器で、ナチスの重要な人間にまでなる。
 しかし、それはまだ先の話しだ。
 アドルフ・ヒトラーもまた、苦労していた。
「私が画家になれないのは……画壇や経済を牛耳っているユダヤ人たちのせいだ! 憎っくきジュー(ユダヤ人)め!」ヒトラーは若かった。自分の力不足をユダヤのせいにした。とにかく、ユダヤ人が世界を牛耳っている……かれはそう考えていた。
 ユダヤ人たちを殺さなければ、わがドイツに未来はない!
 ヒトラーは屈折していく。
 しだいに彼は絵を描かなくなって、政治活動に目覚めはじめる。とにかく、偉くなってやる、とういう思いがヒトラーを揺り動かしていた。つまり、全部”己のため”である。 ヒトラーは「ユダヤ人たちを殺さなければ祖国はダメになる」といって憚らなかった。 呑むとかならず「ジューどもを殺す! それがドイツの再建だ!」とまでいった。
 そして、ヒトラーは”武装蜂起”を考えた。
 自分の意のままに動く組織をつくり、そのトップにたつ。そうすれば自分の政治指針は完成する。団体名はNSDAP(ナチス)、旗印は……
 ヒトラーは閃く。日本の神社の称記号「卍」、これを横に傾けて…ハーケン・クロイッツ(鉤十字)だ。色は赤と白にしよう。主義はナチズム、つまりドイツ第三帝国をつくり、ユダヤ人たちを一掃し、祖国をヨーロッパ一の大国にする。
 ヒトラーにはそれはとても簡単なことのように思えた。それにしてもこんなにおいしい計画なのに、なぜ自分の目の前でバラバラになってくずれてしまうのだろう。どうして、アドルフ・ヒトラーの耳のまわりでばらばらになって倒れてしまうのだろう。
 共産党もヴァイマール政権も糞くらえだ!
 失業者や餓死者を出すかわりに、祖国を再建するとか、ビルを建て直すとかしたらどうなんだ?!
  1920年代のドイツ・ベルリンは、まさにカオス(混沌)であった。
 第一次大戦の敗北によりすべての価値観は崩壊していた。インフレにより金は紙屑にかわり、大量の失業者があてもなく街をうろついていた。女たちは生きるために街角に立ち、人間的な感情は夜毎、乱痴気騒ぎの中でお笑いの対象となった。
 絶望と餓死がベルリンを飾っていた。
 ヒトラーは意を決する。
「よし、”武装蜂起”だ! NSDAP(ナチス)を決党し、ドイツを再建するのだ!」  それは、人々の絶望の中でのことであった。
 ナチスは人々に”今日と明日のパン”を約束した。輝かしい未来、”ドイツ第三帝国”をも……人々の飢餓に訴えたのである。
 街角には共産党とナチスたちがうろうろしてアジを張るようになる。
「ドイツ共産党です! 今こそドイツに革命を! ヴァイマール政権を倒し…」
「だまれ共産党め! 我々NSDAP(ナチス)に政権を! 敗戦の屈辱をはらし 再び大ドイツ帝国を…」
「売国奴! 楽隊、”ホルスト・ヴェッセル”をやれ!」
「ナチスを黙らせろ! 楽隊”インター・ナショナル”だ!」
 まさにカオス状態だった。
 ヒトラーの「わが闘争」は始まった。
「はやく武装蜂起を!」ハインリヒ・ヒムラーは焦っていった。ナチス党のNO2である彼は、のちにユダヤ人六〇〇万人を殺す首謀者となる。彼等はナチス党の本部にいた。
 ヒトラーは「まぁ、待て」と掌を翳してとめた。「まずは政党として正式に認められなければならない。まず、選挙だ」
「しかし…」ゲッベルスは続けた。「勝てるでしょうか?」
「そのために君に宣伝係になってもらったんだよ」ヒトラーはにやりとした。「国民は飢えている。”今日と明日のパン””輝かしい未来”をみせれば、絶対にナチスに従うに決まってる」
 ゲッベルスはにやりとした。「プロパガンダを考えます。まず、庶民の無知と飢えに訴えるのです」
「うむ」
「まず、人間の”値札”に訴えなければなりません」ゲッベルスはにやにやした。「”値札”とは人間のそれぞれのもつ欲求です」
「欲求? 金か?」ヒトラーは是非とも答えがききたかった。
「そうです。ある人間にとっては”金”でしょうし、また”正義感”、”名誉”、”地位”、”女””豪邸”……その人間が求めているものにアピールしていけば九十九%の人間は動かせます」
 ゲッベルスは『プロパガンダ(大衆操作)』について論じた。
 この頃は、まだプロパガンダについての研究は浅く、しかも幼稚であった。しかし、勉強家のゲッベルスはあらゆる本をよんで研究し、プロパガンダの技を磨いていた。
「ゲッベルス博士、頼むぞ。わがナチスに政権を! ヒトラーを総統にしてくれ」
 ヒトラーは握手を求めた。ゲッベルスとヒトラーは握手した。
 こうして、ナチスは政権をとるために、動きだした。
 一九三三年、ナチス・ヒトラーが政権を奪取…
 一九三六年、ドイツ軍非武装地帯ラインラント進軍…
 一九三八年、オーストラリア併合
 ……「ハイル・ヒトラー! ハイル・ヒトラー!」
  (ヒトラー万歳)という民衆がナチス式敬礼で興奮状態だった。

  一九三二年、日本帝国は世界の反対をおしきって満州国という傀儡国家を作った。国際連盟はこれを非難、翌三三年連盟はリットン調査団の報告書を採択、満州国不承認を四十二対一、棄権一で可決した。一は当然日本、棄権はシャム……
 日本は国際連盟を脱退した。
 そのときの様子を日本の新聞は”連盟よさらば! 総会勧告書を採択し、我が代表堂々退場す”と書いている。これを機に日本は孤立し、ヒステリーが爆発して「パールハーバー(真珠湾)」攻撃にふみきる。結果は完敗。
 当時の世界情勢をきちんとみていれば日本はあんな無謀な戦争に突入するはずはなかった。しかし、現実は違った。軍部によってつくられた戦闘ムードに熱しやすい国民は踊らされ、破滅へと走った。そこにはまともな戦略もヴィジョンもなかった。
 あるのは「大東亜共栄圏」という絵にかいた餅だけ……
 その結果が、アジア諸国への侵略、暴行、強姦、強盗、虐殺である。
 その日本人のメンタリティーは今もかわらない。
 国会や世俗をみても、それはわかる。
「日本は侵略なんてしなかった」だの「従軍慰安婦なんていなかった」だの「南京虐殺などなかった」などという妄言を吐く馬鹿があとをたたないのだ。
 最近ではある日本のマンガ家がそういう主旨の主張を広めている。
 戦争当時も盛んにマンガや映画やラジオで、同じように日本とナチスとイタリアは戦闘ムードを煽った。現在となんらかわらない。
 プロパガンダに踊らされているだけだ。

  昭和6年に『満州事変』が勃発した。事変……などというと何か自然におこったことのようだが、ハッキリいうと日本軍による侵略である。1932年(昭和7年)には満州     
国という日本軍の傀儡政権国が成立する。
   浜口首相暗殺の後の後継者は若規となったが、人気がなく、ついに犬養毅が昭和6年(1931)12月13日、第29代首相となった。大蔵(現・財務省)大臣には高橋是清が就任した。
 犬養毅は軍縮をすすめようとした。そこで軍部からの猛反発にあう。
「満州は仕方ないとしても、中国との関係をよくしなければならない」
 しかし、またも軍部が暴走する。
 昭和7年(1932)2月9日 前大蔵大臣・井上準之助が暗殺される。続いて3月5日には三井の会長が暗殺。そして、ついに5月15日午後に軍部の若手将校たちが首相官邸に殴り込む。将校たちは警備の警察菅たちを射殺していく。そして、ついに犬養毅が食堂で発見される。将校は拳銃を向けて、トリガーを引くが弾切れ。
「まぁ、待て。話せばわかる」犬養毅はいった。
 しかし、午後5時30日頃、将校が「問答無用!」と叫び、犬養毅に発砲して殺した。
 世にいう”五・一五事件”である。
 事件を起こした青年将校たちの90%もが東北などの貧しい地方出身者であったという。 自分の妹や親戚の娘が売春宿に売られ、大凶作で餓死者が続発しているのに恨みを抱いての事件だった。
 斎藤実海軍小佐が犬養毅の後の首相に。これで事実上、政党政治がダメになったのだ。軍部が実権を握った瞬間だった。斎藤は満州国を認め、昭和8年(1933)3月、日本は国際連盟から脱退した。…すべては軍部のためである…………
  この当時、世にいう二・二六事件が勃発していた。
 昭和11年(1936)2月26日、軍の若手将校一団が徒党を組み、斎藤実や高橋是清らの邸宅を襲撃し、暗殺した。そして、次の年には日中戦争が勃発した。
 昭和天皇はいう。
「これまでのところ満州国はうまくやっているようだが、万一のときにそなえて仇義をかかさぬように…」
 天皇は米英の軍事力を心配していた。のちの山本五十六のように欧米の軍事力と日本の差を知っていたからだ。ならばもっとましな策を考えればよさそうなものだが、神の子としての天皇に、「人間的な言葉」は禁じられていた。
 ただ、「であるか」という「お言葉」だけである。
 今でいう、カリスマ・ジャーナリスト(勝海舟や森鴎外、山本五十六、中曽根康弘、東                
篠英機などと親交)徳富蘇峰はTVがなかった時代、ラジオで、
「アメリカ人たちに一泡ふかせてやれ! あいつら天狗どもをぶっつぶせ!」とアジる。そして、蘇峰は天皇の『開戦』の詔まで執筆する。
 昭和12年(1937)7月7日には盧溝橋事件(侵略)が勃発して本格的な日中戦争になった。昭和天皇は軍部の暴走を止められない。
「重点に兵を集めて大打撃を加えため上にて(中訳)、速やかに時局を収拾するの万策なきや」昭和天皇は戦争の早期終結を望んでいた。
 しかし、パペットには何もできはしない。
 昭和13年(1937)11月、皇居内に大本栄が設置される。天皇は国務と統帥に任ぜられた。といっても”帽子飾り”に過ぎない。
 昭和15年(1940)6月、ナチス・ドイツがパリに入城した。つまり、フランスがやぶれてドイツが侵略したのである。ヒトラーはシャンゼリゼ通りをパレードした。ナチスの鍵十字旗が翻る。ナチス式敬礼……
 日本は真似をした。原料補給のための侵略は日本軍部にとっては口実だった。
 同年9月、日本軍は北部仏領・インドシナに侵攻した。
 昭和天皇は呟く。
「私としては火事場泥棒的なことはやりたくないが、認めておいた」
 それは心臓がかちかちの岩のようになり、ずっしりと垂れ下がるかのようだった。
 ……朕は無力ぞ……
 そして、日独伊三国同盟が成立される。悪のトライアングルである。
 昭和天皇は帝国日本の象徴として、白馬に跨がって軍事パレードを行った。
 昭和16年(1941)4月、日ソ中立条約が成立した。つまりソ連(現・ロシア)と中立にいると日本側がサインした訳だ。
 昭和16年(1941)7月には、日本軍は、南部仏領・インドシナに侵攻した。米国のフランクリン・D・ルーズベルトは日本への石油輸出を禁止。日米関係は悪化した。
 昭和天皇はいう。
「外交による戦争回避をしたかったが、御前会議で軍部が猛烈な戦争運動を展開。もっともらしい数字をあげて戦争には必ず勝てるという」
 天皇はパペットに過ぎない……
 米国国務長官コーデル・ハルによる命令書『ハル・ノート』が出される。東篠英機は何とか戦争を回避したかった。昭和天皇も同じだったろう。
 しかし、統帥部(陸軍統帥部と海軍統帥部)の暴走に負けた。東篠は天皇に開戦の言葉を述べながら号泣したという。すべての運命はここで決まった。破滅の道へ……
 そして、
 昭和16年(1941)11月「大海令」……日本は戦争の道を選んだ。
この小説の主人公、吉田茂(よしだしげる)は1878年(明治11年)9月22日から1974年(昭和49年)10月9日までの生涯である。吉田茂の顔や世に言う「バカヤロー解散」を知らぬ日本人はおるまい。実は吉田茂の幼少時代や青年期の詳細な資料は極めて少ない。だが、吉田茂は「在日米軍」を「番犬」とよび、「自衛隊より在日米軍の方が役に立つ」という当たり前の話だが、それに戦後すぐ気付いた稀有な政治家でもある。
 吉田茂はまた「反戦争主義者」でもあった。
この男は米国や英国に外交留学していたことから、「日本の兵力では欧米には勝てない」と戦前から警告を鳴らしていたほどの「切れ者」である。
背は低い。ちょっとぽっちゃりとした肥満気味か。視力も悪く、鼻にセットするタイプの
丸い鼻眼鏡をしている。
昭和20年(1945年)5月、吉田茂は刑務所の監獄にぶち込まれていた。
反戦争分子だからである。監獄は不潔で蛆虫やダニやしらみに南京虫…吉田茂は風呂にも入らせてもらえぬから汚い体で横たわり「うわあ、かゆいかゆい!」と肩や手足の虫刺されかぶれを太い手でぼりぼり掻いた。…帰りとて家もなく、かくとして母もなく、あわれのみ…
しかし、戦争に加担していなかった、という吉田茂の経歴が戦後、当たり前のように役に立った。岸信介は所詮戦犯である。太平洋戦争に関わっていた。吉田茂は違う。
 1945年(昭和20年)8月15日、日本は敗北して戦争に負けた。
日本中が焼野原になった。敗戦…。時の首相は近衛文麿(このえふみまろ)である。 
吉田茂と近衛文麿は焼野原となった東京某所で車を降りた。近衛の妻は千代子という。
「近衛の髭はヒトラーに似ているという」
近衛は冗談めかして焼野原を観ていた。遠くをみるような眼差しだ。背広が朝の埃まみれ。
吉田は「もう戦争はおわったのではありませんか?」ときく。
「日本は4つにわけられるかもしれん。北海道、関東、山陰・関西・四国、九州」
「戦勝国のアメリカとソビエト連邦(現在のロシア)の分断支配になるわけですなあ」
「そうだね。言語は英語、通貨はドル」
「ですが、この吉田茂がそうはさせません」
「ほう?勇敢であるのう」
「日本は確かに戦争に負けました。ですが、「負けて勝つ」です、閣下。」
「…勝つか」
「これからが絢爛たる戦後ですよ」
吉田茂は未来を語っていた。若さはいい。勇敢なる度胸は若さからくるという。だが、近衛文麿の戦後はどうやら「絢爛たる戦後」とはいきそうもない。近衛は戦後復興を推し進めるだけの才能と体力や器が足りない。戦時中首相であった男は何人かいるが、東条英機も近衛文麿も悲惨な終わり方をしている。
国会は空転していた。
どうもまともな戦後復興どころの話ではない。会談はやはり空転して、落ち度頃がない。
そんなものだから、近衛文麿は独自に会議を開いた。
大蔵省(現・財務省)主計局・池田隼人らが会議に呼ばれた。
「近衛大臣に呼ばれた」などという。
池田は遅刻した。そして「となりの一家心中をとめていたので遅くなりました」と頭を下げた。背広の眼鏡チビである。「連合軍がきたら女は犯され、男は殺される」
異様に器の小さな事をいう。
参謀総長の坂信彌は「君たち、娘はいるか?なら田舎へ。遊郭の女を千人集める。予算は1億円」とこれまた器の小さい事をいう。
貴族首相と呼ばれた近衛文麿元・首相は「進駐軍の為に慰安所を全国に置く。レイプを防ぐためだ」という。この発言を聞いていると「従軍慰安婦は確実にあった」と思わせる。
 とにかくこの国は乃木や東郷は何処にいったのだ?というくらい「器の小さな国」になっていた。敗戦国はいつもこれだ。戦争には負けるものではない。
 だが、ひとり、そうただひとり、日本には「天下の器」たる人物がいた。絢爛たる戦後をつくりあげる吉田茂である。寡黙だが、戦略に長けた「人物」である。英語が得意で、プロパガンダや禅にも通じている。一種の天才政治家である。

 吉田茂には息子がいた。戦争が終わり兵役から日本に戻ってきた吉田健一である。たいしてイケメンでもないし、写真を見る限り「凡庸」に見える。
「坊ちゃん、ご無事で!」兵服のまま健一は葉山の吉田邸に戻ってきた。使用人のおっさんが涙目で出迎えた。もうひとりは小りん、という名前の吉田茂の愛人である。
「坊ちゃん」小りんも涙を流した。母親はもう死んでいた。
健一は「父さんがタバコが好きなので仲間にわけてもらいました」
といって無理に笑顔をつくった。
儚い笑顔、である。
 「俺は葉巻しか吸わない」夜に戻った吉田茂は息子の再会に喜ぶでもなく、健一にそう言った。葉巻をくゆらせた。「葉巻なんてタバコとなにが違うのですか?」
「うるさい」
「父さんは変わられた」
「そうだな。戦争中ずっと刑務所で臭い飯食ってきたからなあ」
「マッカーサーが来るんですよね?」
「そうだ」吉田茂は椅子にふかぶかと座った。「もうすぐダグラス・マッカーサーが来る。お前は大学に復学して「英文学」でも学べ。これからは英語、アメリカの時代だ」
「天皇陛下はどうなるのですか?」
「さあな。俺はもうおわりの人間だ。陛下のご無事を祈るのみだ」
 吉田茂は先を観ていた。とても「もう終わりの人間」等ではない。侵略戦争に加担していなかったという吉田茂の「価値」が自分でわかっていた。権謀術数の人物なのだ。
 ダグラス・マッカーサーが例の軍服でサングラスにパイプ・タバコ姿で厚木飛行場にプロペラ機で降り立った。自分勝手で自己愛が強く、恥知らずで厚顔無恥な日本人は「かっこいい」「マッカーサー元帥、日本を変えてくれ」と拍手喝采で迎えたという。
 戦争には負けるものではない。

 国会会議室では会議が踊っていた。内閣書記官長・緒方竹虎という小心な男は声を荒げていた。
「マッカーサー元帥はお怒りです。このまま外務大臣に重光葵さんを置いては連合軍との仲が悪くなる一方です!」
総裁にして皇族首相・東久邇宮は「じゃあ、後任は?」と尋ねる。
「重平さんは?」
「重平さんはご高齢であろう」
岩淵辰雄が口をはさんだ。「吉田茂しかないかと」
「吉田茂であるか」
 東久邇宮は歌舞伎役者のように唸った。
  そののち東久邇宮は記者会見(テレビ時代ではないからラジオが主)を開いて、
「吉田茂氏に外相になって頂きたい。外相として元・外交官の経験を活かして欲しい」と発表した。吉田茂は蒼天の海辺にペットの犬(シェパード)とともに海をみつめ、遠くをみるような目で浜風に吹かれていた。外相かあ……なんとも胸にこみ上げてくるものがあった。もう昔の時代をふと思い出した。それは感情ではなく感覚でもあった。
のちに天才・政治家と呼ばれる吉田茂もまた、ひとりの「人間」である。
 東京のがれきの中を吉田茂は近衛文麿と歩いていたとき、
「戦争中終戦活動をしていたから外相に?私には器が大き過ぎます」とそんな弱音をはいたという。思い出が脳裏に押し寄せては引く波の如く、感情となってやってきていた。1919年、外務省の英国大使館で外交官として英国大使・芦田均(のちの首相)と飲む。芦田は「外交の弱い国はいつか潰れるんだ」と当たり前のことを言う。近衛もきて「私もそう思う」と酒ビンをぐいとあける。若き吉田は「英国糞くらえだ!糞くらえだ!」と酒の勢いで大声で言ったという。英語ではなかったので問題にはならない。
 現実に戻ると日本は敗戦国であった。
近衛は「戦争を止めることが出来なかった。戦争に負けた今、外務大臣の地位は重い。国民総懺悔だ。それが日本再建の第一歩だ」といい瓦礫の焼野原から視線を、吉田にむけた。どこか遠くを見据えている目である。「…近衛さん……」吉田は不安にかられた。
 マッカーサーは現在の住友生命元・本館の「GHQ本部」にはいった。
と、同時期に吉田茂は外相として、就任式で昭和天皇に謁見した。
元・内大臣(吉田茂の岳父・牧野伸顕)にお屋敷(茅葺の大家)で、
「政治家は頭を下げるのが仕事だ。あんた出来るか?」と牧野老人に言われた。
「何とも」吉田はお茶を飲み黙り込むしかない。
「連合軍は陛下の戦争責任を問うかも知れない。陛下を守り抜け。いいな?」
 牧野もまた天皇陛下万歳組であった。吉田は「はい」と同意した。何としても天皇陛下のお命を守らなければ日本はおわる。吉田は身の引き締まる思いであった。
 「日本は堂々たる負けっぷりを見せる。そして絢爛たる戦後である」
吉田茂は黒塗りの車に揺られながら独り言をいった。行先はGHQ本部である。
マッカーサーとはすぐ会えた。吉田茂は英語が得意で、通訳などいらない。まさに通訳を介さない「タイマン勝負」である。マッカーサーは椅子から立ち上がり握手をすると背広の吉田に葉巻を勧めた。しかし、吉田茂は不敵に笑い、英語で、
「それはフィリピン産でしょう?私はハバナ産しか吸いません」と葉巻を吸った。
そして「昭和天皇を救う為のディスインフォメーション(偽情報)」を吉田茂は展開した。つまり、今、日本の天皇陛下を「戦争犯罪者」としてGHQが裁けば日本人たちは内戦を起こす、陛下に罪を着せればもう一度戦争になる…とやったのだ。確かに偽情報ではある。日本人は天皇陛下の為に内戦を起こしたり、もう一度戦争を起こしたり、天皇陛下がいなくなっても変な狂人独裁者などもあらわれはしない。だが、単純なマッカーサーは信じた。
「なるほど」と頷き、「日本人にとって天皇とはそんなに大事な存在か」と納得までしてしまう。「この国は地に落ちた。成人や女性に選挙権を与え、財閥を解体する。乃木や東郷のような日本人はもういないのか?」マッカーサーは決断した。
「我々には天皇陛下がおられます」吉田茂は頭を下げて退席した。やったぞ!天皇陛下は天皇制は無事だ!岳父、やりました!心の中ではもうガッツポーズである。
のちにアメリカ大使館で、例の昭和天皇とマッカーサーとの写真をとった。現人神である筈の天皇陛下が黒の燕尾服で、となりのマッカーサーは並んで軍服である。当時の日本人はこの写真で「ああ、やっぱり日本は負けたんだなあ」と思ったという。
 しかし、吉田茂の策は効果覿面であった。マッカーサーにしても欧米人であり、日本の天皇とはヒトラーやムッソリーニと並ぶ「極悪人」と思っていた。だが、日本人が命がけで守る存在であるという。へえ、そうなのか。彼には驚きであったに違いない。
 夜の吉田茂邸には若くイケメンな男・白洲次郎が手伝いをさせられていた。髪はオールバックで掘りの深い顔立ちで、英語がぺらぺらである。痩身で手足も長い。まるで英国紳士であるかのようだ。
「手伝ってくれ!」
「俺はじいさんには外相といわず総理大臣になってもらいたいね」
「馬鹿言うな」吉田は資料を分けながら笑った。苦笑であった。実は政治家など大嫌いである。それにしても今、吉田茂や白洲次郎のような「人物」がいるか?ということだ。改めて人材不足を感じる。確かに学歴エリートや英語マシーンはいる。だが、そんな連中青臭くて使えない。国内のことがわかっていないから国民とまともに話せない。
 若い池田隼人(のちの首相)は大蔵省の部下と酒場で、日本人売春婦(パンパンという)がアメリカ兵たちと乳クリあっているのをみた。戦争に負けるとはこういうことか。
「日本の女どもは男どもが勝手に始めた戦争の尻拭いをしている」
池田はそのときそういったという。

 内閣総選挙の結果、幣原(しげはら)吉重郎内閣が発足し、厚生大臣に芦田均、外務大臣は留任で吉田茂となった。戦後すぐのことで、近衛文麿はのちに「戦犯」とされ服毒自殺をするが、まだ生きていた。近衛文麿は孫の細川護煕(もりひろ・当時7歳(1991年首相に))に挨拶させた。「こんにちわをいいなさい、護煕」「こんにちは」
 文麿は「憲法改正だとさ」と苦笑した。
「しかしながら時期尚早では?……近衛公は戦犯になるやも」
吉田の心配に近衛文麿は「私は戦争に反対したのだ。戦犯になどならん」と強気である。
なんの根拠もない自信でもある。貴族出身とはこういうものか、吉田茂はのちにそう回想している。
幣原内閣は「学校教育、労働組合、女性社会参画」を閣議決定した。
「憲法改正か……」
誰かが呟いた。「何でもGHQが2週間でつくった平和憲法だという」
吉田茂だった。
「もっともこの世界に戦争憲法などというのはないんですがね」
吉田のジョークに一同から笑いが起こった。
だが、吉田茂は笑いに出来ない論点があった。吉田茂はGHQ高官やマッカーサーに「近衛文麿公は戦争反対論者であった」と主張した。何度も何度も繰り返して「近衛の身の潔白」を主張したのである。だが、世の中は甘くない。GHQは近衛文麿を「A級戦犯」と認定した。近衛はそのことを病床の中電話で知らされると、思わず
「馬鹿野郎!」と汚い言葉を吐いたという。
そして人生に絶望したのか服毒自殺をした。享年五十五歳である。
葬儀には吉田茂は勿論、吉田の息子・健一と健一の妹で麻生和子(息子は当時5歳の麻生太郎元・首相)が喪服で参加した。白洲次郎は「近衛さんは東条英機みたいになるのを恐れていた」と未亡人に告げた。吉田茂は「まったく惜しい人を亡くした」と同情した。
 さらなる日本の転機は天皇の「人間宣言」である。
吉田茂はマッカーサーに「天皇陛下が神だ……などという話は閣下には信じられん話でしょうな。でも、現人神である天皇陛下の為に命を捧げ、天皇陛下を神と信じて戦った英霊たちがいます。陛下は人間であるとは日本人が受け入れるでしょうか?」
と問うた。マッカーサーは「受け入れるか?受け入れないか?ではない。天皇は人間だ。食べ物を食べるし、排せつもする。どこが神なのかね?日本人はGHQの命令を呑むか?呑まないか?選択肢は2つしかない」と冷たい。吉田の顔は少しひきつった。
 吉田茂は先をみていた。焼野原となった日本には米国を受け入れるしかない。俺のおやじは自由民権運動にかかわり牢屋にいれられた。実の母親もよくわからん。が、金持ちの養子になって遺産をもらい、大学を出て外交官になった。だが、あんなくだらない戦争も止められなかった。だが、戦争には負けたが俺たちは奴隷になった訳ではない。外交で勝つのみだ。外交で勝ってその後は「絢爛たる戦後」である。

 

JFK暗殺・没後50年企画「ジョン・F・ケネディ、その真実」ブログ連載小説4

2013年11月27日 06時30分58秒 | 日記
         ニュー・ヴィジョン


  きらめくような天気だった。太陽がきらきら光り、うっすらと雲が流れる。JFKはある大学の演壇に立ち、淡くしんと光るような大学を見上げた。そして、さわやかな空気を吸って、心臓が二回打ってから、JFKは新しいヴィジョンを語った。
「ジョン・メイスフィールド氏の言葉に”この地上において大学ほど美しいものはない”ということばがある。
 彼の言葉は今日でも真実である。しかし、彼は建物やキャンパスの緑、蔦でおおわれた塀などの美しさを語っていたのではない。彼が大学の美をほめたたえたのは、彼も語っているように、大学とは”無知を憎む人間が知識を得るために努力し、真実を見たものがそれを他に知らしめようと努力する場所”だからだ。
 故に私はこの場と時を借りて往々にして無知が支配し、真実が押し潰されているある事柄について語りたい。それはこの地上で最も重要な事柄ー世界平和である。
 どのような平和を私は言っているのか?どのような平和をわれわれは探求しているのか? それはアメリカの武力によって押しつけられるパックス・アメリカーナではない。
 そして、墓場の平和でもなければ、奴隷の安全性でもない。私がいっているのは本物の平和である。それは人生が生きるに値すると思わせるような平和であり、すべての人々や国々を発展させ、夢を抱かせ、子供たちのためにより良き生活を打ち立てさせ得る平和である。
 それはアメリカ人だけのための平和ではなく全人類のための平和であり、われわれの時代だけでなくすべての時代の平和である。
 今日、何千億ドルという金が軍事費に使われ、それによって平和が維持されている。しかし、核兵器の無駄な蓄積、破壊するだけで何ものも創造しない核兵器の蓄積だけが平和を保障する唯一の、しかも最も効果的な方法なのだろうか。決してそうではないはずだ。 平和とは理性的な人間の理性的なゴールであらねばならない。平和の追求は戦争の遂行ほど劇的なものではなく、往々にして無関心という壁にぶち当たる。しかし、これほど重要かつ緊急を要する事柄はない。
 ある人々は言う。ソ連邦の指導者たちがより啓蒙された考え方を持たぬ限り、世界平和や軍縮について語るのは無駄なことである、と。ソ連の指導者たちが啓蒙されることを私は望んでいる。そのための手助けをわれわれはできるし、せねばならない。しかし、同時に、国家としてまた個人として、われわれもまたわれわれ自身の態度について改めて考えねばならない。ソ連側の態度と同じようにわが方の態度もまた重要だからだ。
 まず第一に平和に対するわれわれの態度を見てみよう。あまりにも多くの人々が平和は不可能かつ非現実的と考えている。しかし、それは危険な敗北者的思考と言わねばなるまい。なぜならそれは人間の力の無力さを表し、人類は自分たちでコントロールできない力によって抑えられており、戦争は避けられず、結局は滅亡するという結論に導くからだ。 この見方を受け入れる必要はまったくない。われわれの問題はわれわれ人間がつくりだしたものなのだ。それ故に人間が解決でき得るものなのだ。人間は限りなく大きくなれるものである。人間の運命に関して人間が解けない問題は、ひとつとしてあり得ない。これまでにも人間の理性と精神力は一見不可能と思える数々の問題を解き明かしてきた。ここで再びできないという理由はない。
 私は一部の幻想家や狂信者の夢みる絶対かつ無限の観念を含んだ平和について語っているのではない。希望や夢を私は否定しない。しかし、それらを基に平和を構築しようとすれば、待っているのは落胆と懐疑でしかない。
 より現実的で手の届く範囲の平和に焦点をしぼろうではないか。真の平和とは、多くの国々による具体的な活動によってもたらされるものである。それはダイナミックで、決して停止せず、あらゆる時代の挑戦に耐え得るよう常に変化しなければならない。なぜなら平和とは諸々の問題を解くプロセスであるからだ。
 そのような平和がきても、互いの利益の対立や紛争は絶えることはないかもしれない。 世界平和は地域社会の平和同様、人々にその隣人を愛するよう要求はしない。しかし、互いに忍耐と寛容の心をもって一緒に生きることを要求する。国家間の敵愾心は個人間のそれと同じように永遠に続かないことを歴史は教えている。
 平和は決して非現実的なものではないし、戦争は決して必然的なものでもない。
 第二にソ連邦に対するわれわれの態度を見直そうではないか。かの国の指導者たちが、彼らの宣伝機関によって書かれていることを頭から信じているのは悲しむべきことである。アメリカが戦争を仕掛ける準備をしているとか、アメリカ帝国主義が侵略戦争によってヨーロッパや他の資本主義国家を経済的、政治的に属国化しようとしているなど根も葉もないことを彼らは信じている。
 昔の諺にあるように”悪者は誰も追いかけてもいないのに逃げる”のだ。しかし、彼らのプロパガンダを読んでわれわれと彼らの間にある溝の深さを知ると悲しみさえ感じる。これは我々アメリカ人にとっての警告である。われわれはソ連と同じワナにはまってはならない。
 アメリカ人としてわれわれは個人の自由と尊厳を奪う共産主義に対して深い嫌悪感を抱いている。
 しかし、ロシア国民がこれまでに成し遂げた事柄、科学や宇宙、経済的成長、文化や数々の勇気ある行為に対しては心から賞賛の拍手を送る。
 そして忘れてはならないのは、アメリカ人とロシア人のどちらが共に戦争を忌み嫌い、両国ともこれまで一度も戦ったことがない、という事実である。
 互いに相違点が存在することは認めよう。しかし、同時に互いの共通の利益にも目をむけ、相違点の解決にも努力しよう。
 そして、もし今相違点を克服できないとしても、少なくとも多様性を認めるような世界を作る努力は成せる。なぜなら、最終的にはわれわれの最も基礎的な共通点は、皆この小さな惑星に住み、皆同じ空気を吸い、皆子供たちの未来を大切に思っている。そして、皆死んでいく身ということであるからだ」

 アメリカン大学でのスピーチから約一か月後の一九六三年七月二五日、核実験禁止条約が米ソ英の三国で結ばれた。それは大気圏内、海中、宇宙での核実験で地下は含まれてなかった。(CTBTで現在は地下も禁止。ブッシュ政権で米国は脱退)
 それでも重要には違いなかった。
 JFKはテレビで国民に語りかけた。
「今、初めて平和への道が開かれたかもしれないのだ。未来が何をもたらすのかは誰も知る故もない。闘争努力を柔らげる時がきたのかどうかは、誰も確信をもって語れない。しかし、もしわれわれが今、希望をもって行動に移すあらゆる努力を払わなければ、歴史とわれわれの良心はわれわれをきびしく裁くであろう。今が始める時だ。中国の古い諺によれば、
”一〇〇〇マイルの旅も一歩から始まる。”
 わが同胞アメリカ国民よ、その第一歩を踏み出そうではないか。戦争の影から一歩後退し、平和の道を探求しようではないか。そして、その旅が一〇〇〇マイルかそれ以上になろうとも、われわれが今この地でこの時に第一歩を踏み出したと歴史に記さしめようではないか」
 テレビを見ていた多くのアメリカ市民から、喚声と拍手が沸き上がった。アメリカ人の心を揺り動かしたのである。

  この頃、JFKの父・ジョゼフは体調が悪くなり、ひとり苦しんだ。また、JFKの方は先天的な病気(アディソン氏病)のため、ひどく咳込み、頭痛や腰痛、微熱、不眠に苦しんだという。しかし、JFKも父親も、病気のことを家族や国民に隠し通した。それは、彼らの意思、であった。



         キング牧師とケネデイ ー人種問題ー


  ケネデイはタヴーにも挑戦せねばならなかった。それは何か?人種問題である。はっきり言えば、黒人問題だ。彼ら黒人は、奴隷としてアフリカなどからつれてこられた黒人の子孫である。そして、白人からは毒虫のように忌み嫌われていた。まるでバイ菌扱いだ。 南部では、黒人の家を焼き払ったり集団リンチをしたり、黒人が客としてレストランにきただけで”ショット・ガン”をもって追っ払う、ということが平気で行われていた。アメリカの北部や東部などでも南部ほどではないが、人種差別はあった。黒人を白い目でみて、客としてきてもオーダーもとらずに無視する、ということが平気で行われていた。
 黒人からの不満は高まり、ひとりのリーダーを生む。マーティン・ルーサー・キング牧師である。
 ケネデイはテレビで再び語りかける。
「われわれは基本的に道徳的問題に直面している。古くは聖書で語られ、アメリカ憲法でも明らかにされている。
 問題の核心はあらゆるアメリカ人が平等の権利と平等の機会を与えられるかということだ。もしアメリカ人が皮膚の色が黒いということだけで公共学校に入ることができないとしたら、彼を代表する人間を選挙で投票できないとしたら、要するに皮膚の色が黒いというだけでわれわれ皆が欲している自由で意義深い生活が送れないとしたら、われわれの中で誰が皮膚の色を変えてあえて彼の立場に身を置きそれに甘んじるという者がいようか。 リンカーン大統領が奴隷解放を行ってからすでに一〇〇年が過ぎた。しかし、彼らの子孫、彼らの孫だちはまだ完全に自由ではない。彼らはまた不正義の鎖から自由になっていない。彼らは未だ社会的、経済的抑圧から自由になっていない。そしてこの国は何を主張し、どんな立派な行動をとろうと全部の国民が自由にならない限り決して自由な国家にはならない」

  一九六三年六月二八日、首都ワシントンでかつてないスケールで黒人によるデモが行われた。テレビで中継されたが、驚くほど平穏でケガ人などひとりも出なかった。行進が終わってデモ隊は、リンカーン記念塔の前の広場に集まった。そして群衆に向かって、銅像をバックにキング牧師は語り始めた。
「リンカーンという偉大な人物が黒人を解放してから一〇〇年たつが、未だ黒人は”物質的繁栄という海のど真ん中にある孤独な貧困の島に住んでいる”。
 公民権活動家に対して質問するひとがいる。
”あなたがたは一体いつになったら満足するのか”
 われわれは黒人が警察の暴力の犠牲者であるかぎり満足できない。
 われわれはホテルやモーテルで疲れた体を癒すための一夜の休息を得られない限り満足できない。
 われわれは黒人の移動性が小さなスラムから大きなスラムに移るだけという状況が続く限り満足できない。
 私は夢見ている。四人の小さな私の子供達が、彼らの皮膚の色ではなく、その性格から判断される国に住める日がくることを。
 私は夢見ている。
 これがわれわれの希望である。この信念をもって私は南部へ帰る。この信念をもって、われわれは絶望という山から希望の石を取り出すことができるのだ。この信念をもってわれわれは、あつれきの不調和音を美しい兄弟愛のシンフォニーにかえることができるのだ。 この信念をもついつか自由になれる日がくるのを信じてわれわれは、共に働き、共に祈り、共に戦い抜き、共に拘留所に入り、共に自由のために立ち上がろう。そして自由が得られた日、われわれすべての神の子は新しい意味を持って”“わが祖国、甘い自由の地、汝のために歌わん。父たちが死んだ地、移民たちの誇りの地、すべての山腹から自由のベルを鳴らそう”と歌えるのだ。
 そしてもしアメリカが真に偉大な国となるならこれは現実とならなければならない。
 だから巨大なニューハンプシャーの丘の上から自由の鐘を鳴らそう。ニューヨークの山々から自由の鐘を鳴らそう。ペンシルバニアのアレゲニー山脈から自由の鐘を鳴らそう。 雪に覆われたコロラドのロッキーから自由の鐘を鳴らそう。カルフォルニアの美しい峰から自由の鐘を鳴らそう。しかし、それだけでなく、ジョージアのストーン・マウンテンからも自由の鐘を鳴らそう。テネシーのルックアウト・マウンテンからも自由の鐘を鳴らそう。
 ミシシッピーのあらゆる丘、あらゆるもぐら塚からも自由の鐘を鳴らそう。
 あらゆる山頂から自由の鐘を鳴らそう。
 われわれが自由の鐘を鳴らす時、あらゆる村、あらゆる集落、あらゆる州、あらゆる市で自由の鐘を鳴らす時、われわれはすべての神の子たちが、黒人も白人も、ユダヤ人も異教徒も、プロテスタントもカトリックも手を取り合って共にあの古い黒人霊歌を歌える日がくることを早めることができるのだ。『やっと自由になった!やっと自由になった!神に感謝す、やっとわれわれは自由になれた!』と」
 ものすごい喚声と拍手が沸きあがった。スピーチを全米のお茶の間は好意的にうけとった。しかし、南部の白人たちは別だった。
「ニガーめ!くだらんことを言いやがって」
「あの野郎はアメリカ人に毒を流す、アジテーターだ」
「いつか殺してやる!」
 南部の白人たちは舌打ちした。
 50年代の終りころから活発化していた差別反対運動は、この年大きなうねりをむかえていた。この夏には、全米で200件を越える人種暴動が発生していた。この8月、過去最高の人種差別撤退集会「ワシントン大行進」には人種差別撤廃をもとめる白人を含め、約30万人が参加した。そのリーダーが、キング牧師だったのだ。
  集会を終えてキング牧師など黒人指導者らはホワイトハウスに招かれた。キングの手を握りながらジョン・ケネデイは”私も夢みている”と話しかけたという。

  JFKはセックス病で、いつもいつも女を抱いた。そのため、正妻のジャクリーンは激怒し、ホワイト・ハウスへ戻ったJFKに、「あなた! いい加減にして。またモンローを抱いたの?! それともリズ?!」と詰め寄った。それは暗く抑圧のある声だった。JFKは、「そんな話はマスコミのデマだ。君はそんなことを信じているのかい?」としらばっくれた。しかし、妻は夫の情事の現場を調べさせていた。だから、証拠写真をジョン・ケネデイに叩きつけて、「あなたは嘘つきよ!」と嫉妬した。
 そして、長女のキャロラインと長男のジョン・ジュニアの手を引き、「もうあなたの嘘は沢山よ!実家に帰らせて頂きます」といって官邸を出ていった。
 ひとりになったJFKは途方に暮れ、執務室のソファーに座り、膝を抱えて何時間も茫然とした。そして、もうひとつの不幸が訪れる。父、ジョゼフの入院である。
 JFKらの父・ジョゼフ・ケネデイは自宅でTVを見ているときに発病し、倒れたという。長くわずらっていた彼の病名は”結核”である。彼は救急車に運ばれるストレッチャーの上でも喀血した。そして、妻・ローズに付き添われて病院に運ばれた。
 ジョンとボビーとエドワードはすぐに病院に駆けつけた。
 医師は、もう永くないでしょう、といった。三人の息子は父親の病室にいったが、ジョゼフは昏睡状態で、話しが出来なかった。
”政治家になることだけ、大統領になることだけが成功だ。父さんを見よ……”ジョゼフのことだまが、心の耳に、津波のように響いた。
 ……父さん、必ずぼくはアメリカを蘇らせるよ…ジョンは涙を流していた。



         ヴェトナム戦争


 多くの人は「ケネデイがヴェトナム戦争を始めた」と言う。しかし、それは間違いだ。アメリカのヴェトナム介入は一九五四年にさかのぼる。フランスがベトミン軍によってディエンビェンフーで決定的な敗北を喫した頃だ。ヴェトナムはその頃、ソ連に後押しされたホー・チ・ミンの北と、アメリカが後押ししたゴ・ディン・ディエム首相の南に別れていた。
 間もなくホー・チ・ミンはゲリラ部隊を南に送り込みディエム政権に揺さぶりをかける。これに対して、CIAは武器などやアドヴァイザーをディエムに送り込む。
 アメリカのフルコミットメントは、いわばアイゼンハウワー政権ですでに決定的だったのだ。
 一九六一年当時、南ベトナムにはグリーン・ベレーを中心として八〇〇〇人の米軍が駐留していた。一九六三年、ケネデイはベトナム現地調査のため副大統領(ケネデイの死後、第36代大統領になった)ジョンソンを送った。帰国したジョンソンは、ディエム政権が危ないのでサポートするように、と主張した。
 ジョンソンはCIAに騙されていた。ゴ・ディン・ディエムを完全なパペット(操り人形)に祭り上げたのはエドワード・ランズデール米国大佐だったが、シナリオを書いたのはCIAだったのだ。
 ケネデイはテレビインタビューで語った。
「ヴェトナムやラオスが問題ですね?」
 インタビュアーに対してケネデイは、
「その通り、あそこが問題だ」と答えた。そして続けて、「しかし最終的には、あの戦争は彼らヴェトナム人の戦争であり、ヴェトナム人たちが自分自身でなんとかしなければならない問題だ。われわれは南ベトナムをサポートできる。しかし、あくまでもサポートであって、フルコミットメントであってはならない。ベトナムはベルリンとは違う」
 と冷静に言った。
 ケネデイはこの時、はっきりとヴェトナムからの撤退を考えていたのだ。
(1964年8月2日、米国政府は北ヴィトナム東方トンキン湾の公海上で米駆逐艦マドックスが北ヴィトナム魚雷船から攻撃をうけたと発表した。7日、米上下両院はトンキン湾決議を行った。ジヨンソン大統領は「共産勢力」の侵略から南ヴィトナムを守るためにあらゆる必要な措置を取る権利を認められた。米国はヴィトナム戦争へのかかわりを一気に深めた。戦いは米国と北ヴィトナムとの全面戦争になり、多くの人命が失われた。71年6月、ニューヨーク・タイムズ紙がマクナマラ国防長官の内部文書で、トンキン湾事件は「でっち上げ」だとわかる。事件は大規模な軍事作戦のための口実つくりだった。)
 いつものJFKに似合わず、神経質なうずきを感じていた。口はからから、手は汗ばんでいる。心臓がばくばくした。モンローとふたりっきりになって愛をかわしているときはモンローはしばしばそうだと断言することができた。彼は優しく、激しく、唇と腰をからめてくる。そのセックスはJFKの不安を忘れることのできる唯一のものだった。


「私は嘘つきピエロか?!」ある日、妻子もいず途方に暮れたままのJFKは、弟のボビーにやつ当たりした。ボビーはききかえした。「…嘘つきピエロとは?」
「私のことだ!妻が……ジャッキーがいったんだ。あなたは女遊びや放蕩をやめない。嘘つきだ!って」は空虚な、落ち込んだ気分だった。しかも悪いことには孤独でもある。
「……兄さん」ボビーは、暗く落ち込む兄の肩を、そっと抱いた。兄さんは嘘つきなんかじゃない。弟は兄の肩にそっと触れた。その感触こそ、JFKの支えであった。
  一方、実家に戻っていたジャクリーンは、子供のジョン・Jrを公園で遊ばせていた。ジュニアはブランコに乗りながら、「…パパのことを許してあげて。パパは寂しいんだよ。だから女のひとと……それにアメリカの人々のために戦ってる。…ね?許してあげて」と母親のジャクリーンにいった。息子の言葉で、ジャクリーンはハッと言葉を呑んだ。彼女は、強烈なフラッシュの光りを眉間に食らった気がした。全身が震え、心臓に杭が打たれたように立ち尽くした。そして……JFKの元に戻った。
 ジョンとジャクリーンは熱いキスを交わした。
「ごめんなさい、あなた。…あなたの苦労もしらないで…」
「いいんだ」JFKはいい、抱き合い、ふたりは笑顔になった。
「ひとつだけ約束して、あなた」ジャクリーンはいった。「ずっと私と一緒にいて。そして、私より先に死なないで!」ふたりは微笑み、抱き合い、抱擁と熱いキスを何度も交わした。

  ある夜、秘密の会議で、政府の閣僚がボヤいた。
「マクナマラ(国防長官)をヴェトナムに送るのをやめさせろ。マクナマラの報告をきくたびにケネデイの顔が蒼白になっていく」
「あの馬鹿の若造、わしにこういいやがった。”近くのキューバには進軍しないのに、なぜ遠くのヴェトナムには行くんだ?”」
「ナメやがって!」
「このままではCIAの立場がない。大統領の周辺はCIA要員で固めてある。副元帥、軍も協力してくれるでしょうな?」
「もちろんです。我々もこれ以上軍縮だの、ヴェトナム撤退だのといわれては困るのです。ところでFBIは?」
「FBIなら大丈夫。”ボビー坊や”は我々の手で固めてありますから、情報は漏れません」
「だいじょうぶか?」
「これは極秘に進めなければな。文章などの証拠は一切残すなよ」
「いよいよ、ストップする時がきたか」
「そうだ。ストップするのだ!」しばらくして、「ニュー・フロンティアに乾杯」と誰かがいい、一同は大笑いした。

  JFKは匿名の人物に呼ばれ、ホワイト・ハウスに近い公園で人物を待った。SPらは公園の入り口などに残して、本当の意味での極秘密会だった。
 匿名の人物は、女ではなく初老の男だった。
「閣下」そういう声がしてJFKが振り向くと、そこには初老の紳士のような男がいた。「あなたが…電話をくれた?」
「そうです。名前は知られたくありません。x大佐とでも呼んでください」
 JFKは「で?要件は?」ときいた。
「まず、歩きながら話しましょう。閣下」
 ふたりは誰もいない緑の公園を歩きはじめた。
 しんと静かで、蝉の声が岩に染み渡るかのようだった。ジョンは頬にそよ風が当たるのを感じ、ぐんぐん迫ってくるような雲を見上げた。思ったほど公園は暑くなかった。
「閣下はヴェトナム戦争をどう見ますかな?」xはいった。
「ヴェトナムは基本的にはヴェトナム人による戦争であり、アメリカはフル・コミットメントするべきではない。ベトナムはベルリンとは違う」
「…その通り。しかし…撤退を軍部が反対している」
「そうだ」JFKは苦くいった。「このままではアメリカの威信が地に落ちる…といっている。馬鹿げたことだ」
「閣下、あなたは狙われてます。政府機関に」
「まさか」
「いえ…事実です。ヴェトナムは軍産複合体のエサなのです。複合体は15年に一度、ホット・ウォーがなければ生きてはいけません。第二次世界大戦…朝鮮戦争…そして、ヴェトナム…。いずれはソ連との戦争…」
「馬鹿な!」JFKは首をふった。「アメリカ人自身が戦争を欲している?馬鹿な!」
「いえ、大統領……問題はもっと深く…そして”醜い”のです。東南アジアの戦死者はアメリカ人五万八〇〇〇人、アジア人二〇〇万人、戦費二二〇〇億ドル、民間機による投下兵力一〇〇〇万人、損失ヘリ数五〇〇〇機以上、投下爆弾六五〇万トン…」
 JFKはもどかしさで唇を噛み、押し黙った。
「これはビジネスなのです。戦争という名のビジネスです。ヴェトナム前に倒産寸前だったヘリ・メーカー「ベル」は生き返った。軍需産業もです。これはビジネスなのです」
「私は…」JFKは狼狽してから「私は…米軍をヴェトナムから撤退させたいと思う」
 といった。x大佐は「それがいいでしょうが……その前に軍産複合体が閣下をストップするでしょう。殺されるか…病院送りになるか…」
「……真実は醜い…あなたはよくご存じだ。…私の改革に協力してくれませんか?」
「いえ」x大佐は続けた。「協力する前に、私は殺されるか……病院送りか…。とにかく閣下、あなたの決断にかかっています。すべてを変えるのです。そうすれば連中だって、手も足も出せません!あなたが世界を変えるのです!」
 あなたが世界を変えるのです!JFKはその言葉に勇気づけられ、決意を固めた。「自分が、世界をかえるのだ」ジョンは、ひとりになってから呟いた。








最終章ケネデイ・



 ジェネレーション                               


JFK暗殺・没後50年企画「ジョン・F・ケネディ、その真実」ブログ連載小説3

2013年11月25日 05時32分50秒 | 日記
         ピッグス湾とマングース作戦


  ニクソンのいった通り、ケネデイは大失態を演じる。
 ピッグス湾事件である。
 それはどんよりとしたグレーの雲のように、彼を落胆させ、心臓をかちかちの石にかえるような出来事であった。しんとした寂しさというより、血管が凍るような鈍い瞬間だ。 一九六一年一月、大統領に就任したとき、JFKは初めてアイゼンハウワーのふたつの置き土産の中身を知って仰天したという。
 ひとつはヴェトナム。もうひとつがCIAが極秘ですすめていた亡命キューバ人によるキューバ侵攻作戦であった。
 ケネデイはCIA長官アレン・ダレスをホワイトハウスの執務室に呼びつけて詰問した。「亡命キューバ人にキューバを侵攻させるというのは事実か?」
「はい、大統領閣下。前大統領から青信号をいただいており、いつでも実行できる手筈になっております」
「決行はいつだ?」
「4月です」
「4月?」ケネデイはムカムカとする内心の怒りを堪えてから、「そうか」と冷静にいい、続けた。
「で、成功する可能性はどれくらいあるんだ?」
「絶対に成功します。作戦の成功を100%保障いたします」
 ケネデイは最後に念を押した。
「アメリカ軍は使わなくていいんだな?」
「だいじょうぶです」
 アレン・ダレスはキッパリ言った。
 ケネデイはダレスが帰ってから考えた。あくまでもキューバ人の問題であり、亡命キューバ人がフロリダからボートで祖国に帰還するのを止める理由もない。
 しかし、CIAはすでに進めていた。
「最終的にアメリカ軍さえ投入すれば作戦は絶対に成功する」
 ダレスはCIAの長官室で得意気に語って、微笑したという。
 かくして、1961年4月17日、亡命キューバ人が大挙してゴムボートに乗り、ピッグス湾へと侵攻を開始してしまう。
 このキューバ侵攻の指揮にあたっていたのがCIA副長官チャールズ・カベルという男だった。しかし、カストロの情報機関も眠っていたわけではない。侵攻軍は三日のうちにキューバ軍により叩きつぶされていった。
 キューバ人がハエのように殺され、キューバ軍の飛行機が上陸しようとする亡命キューバ人を掃射したとき、カベルはケネデイを叩き起こした。
「大統領閣下、アメリカ軍のエア・カヴァ(空からの援護爆撃)だけでも与えてください!」
 ケネデイは「ノー」といった。もう一度、カベルは大統領を叩き起こす。しかし返ってきたのは同じく「ノー」だった。
 カベルは顔面蒼白になって電話を叩きつけ、
 ザット・オン・オブ・ア・ビッチ! 
「この大馬鹿野郎!」
 と、吐き捨てた。そして、「あのいまいましいJFKめ!絶対殺してやる!」
 カベルは癇癪を起こして、デスクのノートらを蹴飛ばした。
 こうしてピッグス湾に侵攻した亡命キューバ人たちは、殺虫剤をかけられた蠅のように全滅した。あっという間の出来事で、感傷にひたっている時間もなかった。そんな場合ではない。JFKは複雑な気持ちだった。苦しく、心臓が飛び出しそうだった。彼は思った。(すべて夢ならいいのに)
  事件をめぐって、苦しい立場にケネデイは追い込まれた。国連ではソ連を始めとする共産国がプロパガンダ攻勢に出るし、カストロはアメリカをののしり、中南米諸国はケネデイが無謀な侵攻にGOサインを出したことに怒りを隠さなかった。
 ケネデイはすべての責任は自分にあるとして弁解じみたことは一切言わなかった。
 しかし、ケネデイがGOサインを出したのは、CIA長官の”アメリカ軍は投入しない”という嘘を信じたためであり、彼にしてみればアメリカ軍の戦闘機を一機でも投入すれば、絶対に勝たなくてはならなくなる。そうすればソ連ももちろん黙っていない。ベルリンでソ連が事を起こすのはあきらかだった。だから、ノーといったのだ。
 この当時、司法長官になっていたJFKの弟・ボビーは『マフィア犯罪取締』を強化していた。で、マフィアの大物・ジアンカーナは激怒し、「ケネデイ兄弟はアメリカの癌だ!」と吐き捨てたといわれる。…チャンスがあれば…殺してやる! 彼は怒りで顔を真っ赤にした。その顔は火照り、目はベーリング海のように冷たかった。

「くそう、あの馬鹿の若造め。CIAの足ばかり引っ張りやがって」
 アレン・ダレスは極秘会議で不満をもらした。
「あのゲス野郎は何とかしなくてはな」
「とにかく」ダレスは一息ついてから、続けた。「まず、若造のまえに、やらなきゃならないのはヒゲ野郎だ」
「カストロ?(キューバ共和国最高議長)」
「そうだ。あの男は必ず暗殺しなくてはな」
「しかし、どうやって」
 部下の質問に、ダレスは微笑した。
「銃殺でも爆殺でもいい。毒殺でもいいな。食事にまぜて”殺す”…」
 部下は「ヒゲを焼いてしまうってのはどうですか?ヒゲのないカストロなんてみられたもんじゃないからね」と冗談をいって笑った。
「それはいいな」
 ダレスの答えに、一同は大笑いした。
  かくして、亡命キューバ人によるキューバ侵攻が失敗に終わった後、CIAはケネデイには極秘にしながらカストロ暗殺に執念を燃やした。
 CIAは当時、マフィアたちと密かに関わっていた。こうした連中を使ってのカストロ暗殺計画をCIAは練り、ヒットマンによる暗殺を最終的に決定した。
 しかし、この計画はひょんなことからケネデイの耳に入ることになる。
 ラスベガスでのこと。マフィアのヒットマンをカストロに向けることにしたCIAは、ガイ・バニスターという私立探偵に、カストロ暗殺実行候補者の一人ジョニー・ロゼリをマークするように指示した。(バニスターは「JFK」という映画の序幕にでてきた人物) 彼はロゼリの牙城ラスベガスに飛ぶ。
 そこでポーカーを通じて知り合った男から、「オレの女が浮気しているらしいんだ。女のベットに盗聴機を仕掛けてくれないか」と頼まれた。そこでバニスターは仕掛けたが、メイドに発見され、ラスベガス署は捜査の結果、ガイ・バニスターの身柄を拘束した。
「なんの目的で盗聴機を仕掛けた?のぞき趣味?それとも誰かに頼まれたのか?」
 刑事は質問したが、バニスターは余裕だった。そして彼は鼻をならしてから得意気に、「うるせえな。俺のバックにはCIAがいるんだ。ヤボなこときくんじゃねぇ」
 といって、自分はすぐ釈放さ、とのたまった。これをきいてラスベガス署の刑事はカチンときた。そしてすぐにCIAに直接問い合わせてみた。が、CIAは”そんな人物は知らない”とシラをきった。
 CIAの策謀を知らなかったFBIは、ラスベガス署の報告書をうけた。FBIは司法省の管轄であるから、ある日、報告書はロバート・ケネデイ司法長官(JFKの弟)に届けられることになった。同時に、CIAからもケネデイに報告書が届けられる。それにはこう書いてあった。
”バニスターを起訴することは、明らかに国家安全に関わる重大事になる”と。
「一私立探偵を起訴することがなぜ国家の安全に関わるのだ……?」
 ケネデイは不思議に思った。そして彼はすぐに部下に命令して、CIAスタッフを呼び付けた。CIAスタッフのヒューストンという男がきた。そして、ロバート・ケネデイ司法長官に詰問されて、ついに口を割る。
「ガイ・バニスターを雇ったのはCIAです。任務…は…カストロ暗殺要員としてCIAがピックアップしていたジョニー・ロゼリを見張ることでした」
 これをきいて、ロバート・ケネデイの顔面はさあっと一瞬で蒼白になった。兄も自分もそんなことは知らなかった。すべて極秘に行われていたのだ。自分も大統領である兄もないがしろにしてだ!なんということた。ごうごうと吹く風が窓をゆらす音をききながら、グレーの雲をながめて、怒りを爆発させた。そして、
 弟からこの一件をきかされたジョン・ケネデイは激怒のうちにアレン・ダレスを解任した。

         ケネデイ・フルシチョフ会談
          ーベルリンの壁ー



 JFKは誰もいない執務室で「CIAめ!」と、怒鳴った。そして立ち上がって「大統領にうそつくとは何ごとか!」歯をぎりぎりいわせながら怒りをぶちまけるようにいった。そうしている内に、怒りは爆発した。ケネデイはいきなり窓の方をふりかえると、右手で大きな円を書いて、ディスクにあるものを全部払い落とした。電話、ファイル、コーヒー・カップ、メモ、鉛筆、すべてが派手な音をたてて床にころがった。まったく、ダレスめ!  その夜、JFKはジャッキー(ジャクリーン夫人)にCIAに騙されたことなどを話したが、彼女の答えは「あぁ、そう」だけだった。
 情報機関にはよくあることよ、だという。
 一九六一年六月三日、中立国オーストリアの首都ウィーンで、ケネデイ、フルシチョフ会談が行われた。フルシチョフは、胸に勲章をズラリと飾って会談に臨んでいた。
「その一番上の勲章は何んですか?」ケネデイは尋ねた。
「レーニン平和勲章だ」フルシチョフはいった。その答えにたいして、
「それをずっと外さないでほしい」ケネデイはこんなジョークをかましたという。
 しかし、会議は何の合意も取り付けられず、大荒れに荒れ、ついにフルシチョフは最後の最後に言った。
「われわれは、今年の末までに東ドイツと講和条約を結ぶ。東ドイツとベルリンへの通行権問題について、今までどおり実行していくだろう。西側が少しでもこれを邪魔をした場合、戦争もありうる」
 つまりソ連は、ベルリンから西側同盟国を追い出すと脅したのだ。ベルリンへの通行、軍を駐留させている権利は、西側がそれまで多くの犠牲を払って守り抜いてきたものだった。ケネディはフルシチョフに散々なめられて激怒したという。それから数時間後、JFKは覚悟を決め、キッとフルシチョフの顔をにらみつけてこう答えた。
「なるほど、それでは戦争になるでしょうな。…書記長、あなたは重大な間違いを起こそうとしている。我々西側は、それでもけしてベルリンを見捨てない!」
 フルシチョフは、しょせんは若いだけの大統領ぐらいにしか思っていなかったケネデイの気迫に少しビックリした。しかし、それではマズイ!ソビエトがアメリカと本気で戦えば、負けるのは目にみえている。アメリカはソ連にとってのスケープ・ゴートであればいいのである。国民に、贅沢できるのは一部の人間だけ、巨大な発展途上国、核と宇宙ロケットを持った第三世界である、という祖国の現状を知らせないようにする。その為に、アメリカを敵として「バターより大砲」のスローガンの元に、庶民の不満を散らしてきたのだ。ソビエトにとって(もちろんアメリカにとっても)必要なのは緊張状態であって、戦争ではないのだ!
(もちろん緊張状態を維持するために、ソビエトの方もアメリカと同じか、それ以上の軍事力を持っていなければならない。アメリカより軍事力がはるかに劣っているのでは緊張状態どころではない。だからこそ、ソ連は必要以上の資金を軍事費につぎこみ、…そして、結果的に、ソ連経済は破産したのだった。この米ソ関係に最初に気付いたのが、かのフランス大統領、ドゴールだったという)
 ケネデイは帰国後、ベルリン駐留軍を増強させ、議会に一八億ドルという防衛予算の上積みを要求した。核シェルターを地下に次々とつくり、第二のアメリカを地下につくろうとした。もし核戦争が起こったらお互いに生き残れない。それではマズイ!「アダムとイブはロシア人でなく、アメリカ人であるべきだ。一発くらい打たれても平気なように、アメリカのスペアを地下につくっておこう!そして、米国の持っているすべての核兵器をソビエトにぶつけて、『悪の帝国』を25回沈めてやるのだ!」故・ジョン・F・ダレスの気違い作戦である。
 八月一三日朝、負けず嫌いのフルシチョフは、ベルリンに壁を張り巡らせた。戦争よりもドイツ分断という方を選んだのだ。こうして、このベルリンの壁は「冷戦のシンボル」となり、八九年まで、さまざまな悲劇を生むことになった。
 ここで考えなくてはならないのは、フルシチョフと会談したのがケネデイだったことだ。もしケネデイより攻撃的な人物だったら、核をちらつかせて核戦争になっていただろう。もし弱い人間なら、ベルリンはソ連に支配されてしまったろう。
 もしアメリカ大統領が、無能・無策の日本政治家みたいだったら、今頃世界は核の冬の中にあった違いない。
 歴史はつねにうまく出来ている。ヴェルリン危機は、ケネデイだから解決できたのであるのだから。


         イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー


  一九六三年六月二六日、JFKは西ベルリンを訪れ、市公会堂前に集まった数十万の群衆に語りかけた。ケネデイ!ケネデイ!群衆からケネデイ・コールが沸き上がる。
 ケネデイは演台にたち、話しはじめた。
「二〇〇〇年前、最も誇り高い言葉は”キヴィス・ロマナス・スム”(われわれはローマ市民である)という言葉であった。
 今日、自由社会において最も誇り高い言葉は”イッヒ・ビン・アイン・ヴェルリナー”(われわれはベルリン市民である)という言葉だ」
 大喚声と拍手、そしてケネデイ・コールが再び起こる。ケネデイは絶えるのを待って続けた。
「ある人々はいう。共産主義と自由世界の間に横たわる問題は、一体なんなのか?と。
 そういうひとはベルリンに来るべきだ!
 ある人はいう。共産主義こそ未来の波である、と。
 彼らはベルリンに来るべきだ!
 またある人は共産主義者たちとうまくやっていけるという。そしてある人々は、確かに共産主義は悪のシステムであるが、経済的発展を促進させているという。
”ラッス・ズィー・ナック・ベルリン・コメン!””レット・ゼム・カム・トゥ・ベルリン!”
 自由には諸々の困難があり、民主主義は完全ではない。しかし、われわれは自国民を閉じ込めるために壁を作ったことなど、一度としてなかった。
 私は大西洋の彼方に住むアメリカ国民を代表して、あなた方に言う。われわれは過去一八年間の苦難を、あなた方と分かち合えたことは最大の誇りであった、と。一八年間もの長い間、包囲の中にありながら、西ベルリンほど活気と力、希望と決意をもって生きてきた街を私は知らない。
 ベルリンの壁は、共産主義体制の最も明らかな失敗を全世界にみせつけている。しかし、われわれは満足などしていない。なぜならそれはあなた方の市長ウィリー・ブランド氏が語ったように、歴史に対する罪であるのみならず、人間性に対する罪でもあるからだ。家族を引き離し、夫や妻、兄弟姉妹を隔離し、共に生きたいと願う人々を引き割くことを、人間性への挑戦といわずして何と言おうか。
 あなた方は自由の孤島に住んでいる。しかし、あなた方の人生は大きな流れの一部なのだ。故に話をしめるにあたって、あなた方にお願いする。今日の危機を超越し、明日の希望に目を向けて欲しい。このベルリンの街の自由だけでなく、全人類の自由と正義にもとずいた平和に目を抜けてほしい。
 自由というものは決して分割されない。ひとりの人間が奴隷として扱われたら、すべての人が自由ではない。すべての人々が自由になる時、このベルリンもドイツ国家もそしてこの偉大なるヨーロッパ大陸も、平和と希望に満ちた世界のひとつになる日がやってくるであろう。
 その日は必ずやってくる。その時こそあなた方は約二〇年の間、この戦いの最前線に立っていたという事実に心からの満足感を得られるのだ。
 いずこに住もうと、すべての自由人は、ベルリン市民に他ならない。故に私はひとりの自由人として誇りをもって言う。”イッヒ・ビン・アイン・ヴェルリナー”と」
 ものすごい喚声と拍手が沸き上がり、それは止むことがなかった。
 ケネデイは帰りの飛行機の中で、「次の大統領にもし国内で人気がなくなったら、ベルリンを訪れるようにメモを残しておく」と冗談でいったという。それ程、ケネデイの人気はすごかったのだ。そして、ケネデイが「西側は西ベルリンに深くコミットする」という姿勢を東側にみせたことは重要な意味をもった。何百もの戦車をベルリンに送り込むよりも、このケネデイのスピーチのほうが効果的であった。
 ドイツが統合され、壁もなくなり冷戦も終結した今、このケネデイの偉大なるスピーチは心に響くものがある。
”イッヒ・ビン・アイン・ヴェルリナー”
 ーという言葉を、である。

         経済問題


  ケネデイは経済問題にも取り組まなければならなかった。なぜなら、一九五八年のアイゼンハウワー政権下で始まったリセッション(不況)は三年目に入っていたからだ。消費の低下、財政赤字、失業の三拍子で失業者は三〇〇万人(現在は一五〇〇万人ほど)! ケネデイの出した法案の主は、失業手当を三週間延ばすこと、失業者の子供達への補助金、早期の退職を奨励するため年金を増やす、最低賃金を上げる、住宅建設とスラム一掃のため融資をする、などだった。
 これらの成果はみるみる現れだし、沈滞していたアメリカ経済のダイナミズムが戻り、確実に経済は回復へと向かっていった。
 しかし、JFKは単にリセッションからの回復では満足しなかった。彼は”その後の成長”を望んでいた。財政赤字にありながらも、政府支出をカットせず逆に大幅に増やしたのも消費を刺激し、上昇中の成長をガス欠させないため。減税にふみきったのもそのためだった。
 こうしてケネデイによってアメリカ経済は上昇気流に乗るのだが、こうした成長についてまわるのがインフレである。
 インフレが急激な場合は成長をさまたげてしまう。物価上昇を最低限に抑えるためにはし各メーカーが製品の値上げを控えることだ。
 そこで、企業にケネデイは労働組合に負けずに値上げしないように、と各メーカーに釘をさしていった。
 しかし、アメリカの産業の核である鉄鋼のUSスティールはケネデイとの交渉内容を裏切り、値上げを決めてしまう。
 そこでケネデイは怒りを爆発させた。そして、その怒りをテレビで国民に訴えた。
「USスティールをはじめとする大手鉄鋼会社による同時かつ同一な一トンにつき六ドルという値上げは、公共の利益に対する無責任かつ不当な挑戦といわざる得ない。
 今われわれはわが国の歴史のなかで最も重要な岐路に立っていることは、改めて強調するまでもあるまい。東南アジアやベルリンでは重大な危機に直面し、国内では経済の再建と安定のために皆が全力をつくし、予備兵たちは家族から何か月も離れてくれるように要請し、兵士たちには命を賭けてくれるように要請し、過去二日のうち四人がベトナムで散っている。組合には賃上げ交渉を控えるように要請し、すべての人々に自重と犠牲が強いられている時、個人的権力と金を追求する一握りの鉄鋼会社の幹部たちがその公的責任を顧みず、一億八五〇〇万人のアメリカ人の利益を頭から侮辱する態度に出た状況を、アメリカ国民は、私同様決して受け入れないであろう」
 こうしてJFKは、鉄鋼メーカーの中から賃上げをしない会社だけから調達するようにペンタゴンに指示を与える。そうしたこともあって、続々と鉄鋼メーカーは賃上げを断念していき、最後にUSスティールは値上げを撤廃した。
 値上げが撤廃されればケネデイにとって文句はなかった。その後、記者会見で彼は、値上げにふみきったUSスティールについてひとこともふれず嫌味や悪口もいわなかった。 ーさて、
 アメリカは世界最大の債務国である。つまり赤字国家だ。(債務国とは、国際収支が、貿易収支、経常収支とともに赤字の国。第三世界や東欧、ロシアはもちろんだが、アメリカが世界最大だ)負債は2兆8000億ドル以上。しかし、アメリカが破産するわけにはいかない。そんなことをしたら世界の終りだ。今、その借金のかたがわりをしているのが日本とドイツである。しかし、そろそろアメリカも借金で首がまわらなくなる。(現在、アメリカはビンラディンによる同時多発テロなどで不況で、回復基調だが安心はできぬ)そこで手を打っておくべきなのだが、日本のバカ政治家にも記憶力だけの官僚にもなんの手も思い付く訳はない。
 まさに”お手上げ”である。




         セックス病


  ケネデイがマリリン・モンローと付き合ってセックスに狂じていたのは誰もが知るところだ。その夜も、そうだった。甘い夜だ。とろけるような。チョコレートのような。
「今夜も一段と色っぽい」モンローの美しい髪に顔を埋めて、ジャック(JFK)はいった。そして服を脱がせていった。愛の行為は、JFKにもモンローにもいまだかつてないほどすばらしかった。彼の疲れがひどすぎて、控え目に、おだやかにやさしくふるまうしかなかったためかわからない。裸のまま、くしゃくしゃのシーツに横たわった。愛の行為は、JFKにとってもモンローにとっても素晴らしいものだった。
 モンローはJFKの裸の肩から腕に、細い指先をはわせると、「ねぇ、大統領閣下。わたしと奥さんと、どっちがよかった?」ときいた。
「もちろん両方さ」
 JFKは冗談まじりに言った。
 ジョン・F・ケネデイの付き合っていたのはモンローだけでなかったことが最近明らかにされている。エリザベス・テーラーなどともセックスに狂じていたという。それ以外にも愛人の数はかなりいた。”JFKはセックス病だった”などと書かれるのも頷ける。”英雄、色を好む”というが、少し異常である。もちろんこうしたエピソードも、人間味を感じさせてくれて良いのだが、もしJFKが大統領でなかったら、ただの女ったらし、だ。(女好きはケネデイ家の伝統だ)

         キューバ危機


  一九六二年、軍首脳の意見に動かされ、フルシチョフ(ソ連元首・当時)はカストロによる革命によって社会主義国となったキューバにミサイルを運び込む。KGB長官シェレーピンは、アメリカと核で対決するのは危険極まりない、とフルシチョフに強く主張した。だが、フルシチョフは腰抜け呼ばわりしたあげくに、シェレーピンをクビにしてしまう。
 ケネデイ大統領はソ連がキューバに中距離ミサイル基地を建設中であると発表。その撤去を要求、艦艇183、軍用機1190機を動員し、キューバ海上を封鎖した。キューバからのミサイル攻撃は、ソ連のアメリカ攻撃とみなし、ただちに報復すると宣言した。
「キューバ危機」である。
 危機を受けて、大統領のJFKと弟のロバート、そして、大統領首席補佐官のオドンネルが極秘会談をした。ケネス・オドンネルも若かった。この若き3人が、キューバ危機からアメリカを救うことになる。
「大統領閣下、軍部は”徹底交戦”を叫んでおります」
 オドンネルがいった。
「うむ」JFKは頷いてから「ソ連がアメリカ本土を攻撃する前にソ連に核を撃ち込め…などといっているんだな?」
「そうです、兄さん」ボビーが続けた。「でも……そんなことをする訳にはいきません。なぜなら、一端”核戦争”にでもなったらアメリカとソ連だけでなく…全世界が火の海です。これは危機です!」
「うむ」JFKは椅子に座り、頬杖をつき、暗く考えこんだ。…なにかいい作戦はないものか……。ソ連の野望をストップするためにはハード・ランディングではダメだ。それこそ、世界中が火の海になる。しばらく身の毛もよだつ様な静寂が襲った。JFKは、
「とにかく…危機管理のために私とボビー、それからオドンネルはこれから2週間はホワイト・ハウスで寝泊まりだ。いや、寝ている時間などないだろうが…」といった。
 そして、JFKはテレビ演説で『キューバ危機』を国民に告げた。
 そのテレビ演説の案は、すべてオドンネルが発案し演出したという。その他にもオドンネルは、戸惑うJFKやボビーに代わって(影で)政府を動かした。そのことでJFKはやりきれない程の嫉妬を感じたといわれる。
 オドンネルは危機管理でホワイト・ハウスに泊まり込むため、一端、自宅に車でもどった。夕方だった。空がオレンジになり、セピアに染まる。しんとした静寂が広がる。
「パパ!」オドンネルの息子は彼に抱きつき、「パパ!今日はなんの日か知ってる?!」
 と笑っていった。
「……パパは、忙しいんだ。どいてくれ」オドンネルは冷たくいった。
 で、息子は離れ、そして、「パパ……忘れちゃったんだ。ぼくの誕生日…」と暗く呟いた。オドンネルはハッとて「そうか。そうだったね。ゴメンよ」と謝った。そして、
「でも……パパはお仕事なんだ。許してくれ」といった。
「あなたはいつもそう…」オドンネルの妻が口をはさんだ。「息子の誕生日も忘れて…いつも仕事仕事…」「仕方ないじゃないか!国家の危機なんだ」「そう。危機ね。私たちは核シェルターにでもいればいい?あなたはホワイト・ハウスで…」妻は嫌味をいった。
 オドンネルと妻子に葛藤があり、妻子は実家に帰った。


  ふたたび『キューバ危機』。
  アメリカ市民は、第三次世界大戦の恐怖を感じとっていた。街の核シェルターのドアはいつでも飛び込めるように開けられ、恐怖で泣き叫ぶ女性も多かったという。
 だが、そうはならなかった。
 それは、ホワイト・ハウスからほど近い公園でストップしたという。米合衆国司法長官ロバート・ケネデイ(JFKの弟)が歩きながら、「もはや大統領は軍部を抑えきれない」と眉をひそめていった。駐米ソ連大使アナトリィ・ドブルイニンは表情を変えることなく答えた。
「司法長官閣下、わが国も、もはや手を引ける状態ではありません。………もはや戦争しかないでしょうな」
 重い沈黙が辺りを包んだ。ケネデイ司法長官は、覚悟をきめ、切り札を出した。「われわれはウラル山中にある、あなた方のミサイル基地の正確な位置を知っています」
「ウラル基地の位置をですか?」ドブルイニンは立ち止まり、不安な表情をみせないように、口元に微笑みを浮かべた。ウラルの核ミサイル基地は全部地下にある。だからわかるわけがない。ハッタリに決まっている。この男のハッタリだ!
「大使、ペンコフスキーという名をご存じですか?」ボビーが不敵な笑みで振り向いて、大使は息を呑んだ。さすがのドブルイニンも一瞬冷静さを失った。
「ご存じですか?」
 司法長官は自信あり気に呟いた。これで終りだった。大使の顔はみるみると青褪めた。オレグ・ペンコフスキー。最近、KGBに捕まらえられたGRU(ソ連軍参謀本部情報局)の大佐で、CIAとMI6(イギリス情報局)のスパイとして働いていた奴だ。あの裏切り者め、そんな情報まで西側に流したのか!ドブルイニンは大使館に戻り、モスクワに打電した。こうして核戦争はストップされたのだった。もちろんペンコフスキーが処刑されたのはいうまでもない。
 キューバのミサイル基地撤退を決意したフルシチョフは、クレムリン保守派から総攻撃を受けてしまう。これを機会に、KGBや軍はフルシチョフに不信を持ち、もっとも頭の切れない実力者、ブレジネフに目をつけることになる。
「私は合衆国大統領として、フルシチョフ書記長のステーツマンライクな英断に感謝する」 ケネデイはテレビでコメントした。アメリカの勝利を告げることもなく、フルシチョフをたて、さらにソ連に最恵国待遇まで与えた。こうしてケネデイとフルシチョフは友情関係を築いていった。だが、その友情の絆は、突然断ち切られることになる。
 ケネデイ暗殺、である。

  キューバ危機を乗りきり、オドンネルは自宅へ戻った。
 すると妻と息子がいて「おかえりなさい。大変だったわね」と、彼を労った。妻はくたくたの彼をみて、「ごめんなさい、あなた……悪気はなかったの。危機でパニックになって」といった。オドンネルは微笑んで「いいさ。とにかく、危機は去ったんだから」
 といい、続けて「ほら、……遅れたけど…誕生日プレゼントだ」と息子にプレゼントを与えた。息子は箱を開け「うぁ~っ、戦車だ」と歓声を上げた。
 ケネス・オドンネルと妻は抱き合い、熱い涙を流した。とにかく、和解し、彼は癒されたのだ。そして真実の”絆”が生まれたのだ。きらきらした真実の絆が…。
「俺たちはやったぞ!」オドンネルは笑顔でいった。


第三章ヴェトナム                                


JFK暗殺・没後50年企画「ジョン・F・ケネディ、その真実」ブログ連載小説2

2013年11月24日 02時38分56秒 | 日記
          2・5戦略


  アイゼンハウワーにメモを渡して質問に答えさせていた男、その男こそジョン・フォスター・ダレスであった。国務省に入ったのは1950年、トルーマン政権によって国務省顧問に任命されている。ジョン・フォスター・ダレスは外交政策において事実上、大統領職にあった。
 ダレスの政策を「瀬戸際政策」という。戦争の瀬戸際までお互いを押し合うことで平和を保つというものである。共産側がわずかでも自由世界を侵略すれば、ソ連への核攻撃を含め、断固とした手段で対処する、というものだった。
「アメリカ側に攻撃してくれば、ソ連を二十五回沈めてやる。アダムとイブは、ロシア人ではなくアメリカ人であるべきだ」
 まさに気狂いのようだが、相手に一発張らせたうえで、大量報復をするというわけだ。当時のアメリカの核ミサイルの標準はモスクワ、レニングラード(現・サンクトペテルヴルグ)、キエフなどに合わせてあった。
 ソ連がミサイルを撃ってくるなら大量報復で応戦してやる、という恐るべきアメリカの戦略があったということである。
 さて、2・5戦略ということをご存じだろうか?これは当時のアメリカの戦略である。わかりやすく書けば、2つの大きな戦争(対ソ連と対中国)と小さな戦争(アンゴラや北朝鮮など)を同時に出来るという戦略である。えらい自信だが、ヴェトナム戦争でそれは出来ないということを証明してくれた。ヴェトナム戦争の泥沼にはまって戦略の変更をよぎなくされたアメリカは、ソ連を外すわけにはいかないので、中国と国交を回復したのである。
  ある日、選挙から自宅の豪邸に帰ってきたジョンは、ジョゼフの部屋を訪ねた。いろいろと相談にのってもらいたいこともあったし、とにかくこういう時に頼りになるのが父親のジョゼフ・ケネディだったからだ。父さん…実は…JFKはそういってから思わず驚いて凍りついた。動揺した。なぜなら、父親がひとりの部屋で咳き込み、やがて喀血してしまったからだ。父さん! ジョゼフはハンカチで口元の血を拭き、…なんでもない。と言った。そして、ジョン……このことは母さんにも家族にも内緒だ。約束できるか?…父さんの病気のことは内緒…だぞ。と念を押した。
 JFKは言葉を飲み、そして沈黙した。内緒だ…自分と父さんだけの…。それは、暗闇のラビリンス…漆黒のパラドックスで、あった。
 父さん…必ず僕は…大統領に…なる。
 それは、病気の父への”約束”であった。


         ニクソンvsケネディ


  ケネデイとニクソンの知名度の差は歴前としていた。アイゼンハウアーのもとで八年近くも副大統領を務めてきたニクソンと一介の上院議員とでは知名度に天と地の開きがある。これをなんとかしなければならない。そこでケネデイ側はテレビ討論を考えた。
 彼のブレーンであるセオドアー・ソレンセンはニューヨークで、ニクソン側の代表とテレビ討論についての交渉を行っていた。もし実現すれば歴史的イベントになることは間違いなかった。
 当時のテレビ業界は日本の民放に似ていた。つまらないホームドラマや暴力、やらせ、バラエティーといった具合だった。”公共性”のある番組が求められてもいた。
 だから、近付く大統領選挙は理想的であった。ケネデイとニクソンのディベートであればこれ以上の公共性はない。
 多くの共和党員は、当時、アイゼンハウワーを含めてニクソンは絶対にディベートをすべきではないと主張していた。世論調査で先行している現役副大統領がなぜケネデイと一緒にテレビにでなくてはならないのか、というのだ。
 しかし、ニクソンには自信があった。彼はハイスクール時代ディベートのチャンピオンだったし、ケネデイごときには負けない自信があった。ケネデイを完膚なきまでに叩きつぶせば、支持率はさらに上がる。
 しかし、この考えが裏目に出ようとは、この時、誰が思っただろうか。
 かくして、一九六〇年九月二六日、午後八時三〇分、シカゴのCBS系スタジオにおいて第一回目のディベートが開始された。
 舞台の中央に司会のスミスが座り、その左側にケネデイ、そして右側にニクソンがすわった。
 ニクソンは膝の手術を受けて退院したばかりとあって、顔色が悪く(当時はモノクロ画面)、それと対照的にケネディは日焼けした顔(アディソン氏病の影響)で実にくっきりしていた。
 カメラを見据えてケネデイは語り始める。
「一八六〇年の選挙においてアブラハム・リンカーンは、国民の半分が奴隷で半分が自由というこの国家が存続し得るかが問題であると語った。一九六〇年代のこの世界において、問題は世界が半分自由で半分奴隷という状態で果たして存続でき得るかということである。 世界は、われわれが今歩んでいるような自由の方向に向かっているのだろうか。それとも独裁の方向へむかっているのだろうか。これに対する答えは、われわれがこのアメリカ合衆国で何をするか、どのような社会を作り上げていくかにかかっていると私は考える。 今夜、われわれは国内問題について対論することになっているが、それがフルシチョフ氏との生存競争に直接関係しているのだということを強調したい。
 もしわれわれがここアメリカで努力し、互いの責任を全うし、前進する勇気を捨てなければ自由というものが世界中で安全となろう。しかし、もしわれわれが失敗すれば、自由もまた失われる。
 故にアメリカ国民に投げかけられた疑問は明白である。われわれは今、ベストを尽くしているのだろうか。可能性のリミットまで追及しているだろうか。われわれは本来持つべき強さをもっているだろうか。われわれに援助と生存を賭ている国々との友好を維持できるだけの強さがあるだろうか。
 まず私は明白にいいたい。われわれは今、ベストをつくしていない、と。アメリカ人としては今のわが国の進展度に満足していない。
 祖国アメリカは偉大な国である。しかし、もっと偉大な国家になれる。パワーフルな国家であるが、もっとパワーフルになれると私は信じている……・
 私はあらゆるアメリカ人が憲法に保障された権利を享受できるまで満足できない。異人の子供は、これはプエルトリコ人とメキシコ人についてもいえることだが、この世に生まれても高校を卒業できるチャンスは白人の子供の半分しかない。
 また、九〇億ドルの余剰食料がありながら、四〇〇万人のアメリカ人が一日わずか五セントの価値しかない食料を毎月政府から受け取らなければならないという事実に、私は満足できない。
 一九三三年、かのフランクリン・ルーズヴェルトはその就任演説で、後の世代のアメリカ国民は運命とランデヴーしていると語った。この世代のアメリカ国民もまた、運命とランデヴーしていると私は思う。
 問題の核心は、自由というものがかつてないほどきびしい攻撃にさらされている中で、果たして維持され続けるのであろうかということである。私はされ得ると信ずる。すべては、われわれがこの国でなにをするかにかかっている。
 アメリカが再び動き出す時がきたと私は確信する」
 このケネデイのオープニング・ステートメントに比べて、ニクソンのそれは対照的だった。
「今ケネデイ上院議員が言った事柄については、われわれの多くが同意できる。そして私は今夜ケネデイ上院議員が語ったアメリカは前進しなくてはならないという精神には百パーセント賛同する。ではわれわれの不一致とする点は何なのか?それはこのキャンペーンを通じて、彼が何度となく繰り返し言い続けてきた”アメリカは停止状態にある”という言葉に要約されると思う。
 たとえば今も彼はわが国の昨年度のGNPは先進国の中で最も低かったと述べた。しかし、昨年はリセッションの年にあった。しかし、今年度のGNPの伸び率は六・九パーセントで最も高い伸び率となっている…」
 初めからディベートに反対していた多くの共和党員は、恐怖におののいた。ケネデイが国民に語りかけたのに対し、ニクソンはケネデイに賛同して、数字をあげていちいち説明する。しかもニクソンは病み上がりで、顔は真っ青で、汗を何度もにじませる。
「ニクソンはプレッシャーに弱い」
 と、テレビをみている視聴者は思ったに違いない。ニクソンは当然苛立った。する必要のないディベートをしたため、ケネデイの支持率はウナギ登りだ。
 ケネデイは、ソ連によるスプートニック打ち上げ、ミサイル・ギャップ、ソ連によるUー2撃墜事件、サミットのキャンセルなどを背景に、アメリカの威信が確実に低下していると主張した。
 この主張にたいしてのニクソンの答えは、
「アメリカの威信が地に落ちたというが、それは代弁者が語るレヴェルでしかない。ケネデイ上院議員はアメリカの威信が低下していると、ことあるごとに言っている。彼のような責任ある立場にいる人間がそんなことを言うから、アメリカの威信が落ちるのだ。アメリカをこきおろすケネデイ氏の国民としての責任感を私は疑う」
 ケネデイはこれに対し、ニクソンを見つめ、
「私はニクソン氏に国民としての責任うんぬんを言われる必要はない。私は、断じて国家をこきおろしていない。私がこきおろしているのは、この国のリーダーたちの能力なのだ」 と言った。
 このディベート後の世論調査では、ケネデイの勝ちが四三パーセント、ニクソンが二三パーセント、二九パーセントが引き分け、残りの五パーセントが意見なしだった。
 しかしディベートによってケネデイの人気はウナギ登りに上がった。そこでニクソンは、国民に絶大な人気のあった”去り行く大統領”アイゼンハウワーに頼ることになる。
 アイク(アイゼンハウワー)がニクソンと一緒にオープンカーに乗り、にこやかに手を振るだけで、人々は熱狂した。
 故ジョン・F・ダレスにあやつられた「無能大統領」でも、人気はすごかった。この作戦が効をしめし、ニクソンの世論調査での支持率も上り始めた。
 しかし、一九六〇年一一月八日、アメリカ国民は第三十五代大統領にジョン・F・ケネデイを選んだ。投票率は六四・五パーセントと歴史上最高記録をマークした。当票数六八八三万二七七八票のうち、ケネデイに投票したのは三四二二万一五三一、ニクソンが得たのは三四一〇万八四七四、その差わずか一一万三〇五七票だった。
 まさにどちらが勝ってもおかしくなかった。
 一九六一年一月九日、ジョン・F・ケネデイはウシントンに移るにあたり、故郷マサチューセッツ州の州議会で別れのスピーチを行った。選挙後初めてのスピーチだったが、そこには風格がただよっていた。
「多くを与えられている者には、多くが要求される。そしていつの日か、歴史という高貴な裁きの場で、われわれが国家にたいするつかの間の奉仕においてどれだけの責任を果たしたかが問われるだろう。その時、四つの疑問に対しわれわれがどう答えるかで審判が下されるだろう。
 第一に、われわれには真の勇気があったか。その勇気とは、単に、敵にたいするものでなく、必要とあらば仲間に対しても立ち向かうことのできる勇気であり、公のプレッシャーだけでなく、私的な欲望にも立ち向かえる勇気である。
 第二に、われわれには真の判断力があったか。未来と過去を真っ正面から見つめ、自らの過ちを認め、自分たちの知識の限界を知り、それを認める英知があったか。
 第三に、われわれには真の尊厳があったか。自らの信念を貫き通し、人々の信頼を裏切らなかったか。政治的野望や金銭的欲望のために神聖なる任務を汚さなかったか。
 最後に、われわれは真に国家に献身したか。名誉や特定の人間やグループに妥協せず、個人的恩恵や目的のために道を曲げず、ただひたすら公共のため、国家のために身を捧げたか。
 勇気、判断力、尊厳、献身……これら四つの要素が私の政権の活動の基準となるであろう。
 恭謙の念をもってこれからの任務につくにあたって、私は神の助けを求めたい。しかし、この地上では神の御意志はわれわれ人間が実行に移さなければならぬということを心に刻んで、私はこの新しい厳粛な旅に向かう。あなた方の支持と祈りを切にお願いしたい」
 ここで歓声と拍手がわき起こった。そして拍手はなりやむことはなかった。
 ケネデイの挑戦のスタートの幕が、まさに切っておとされたのである。


  さて、CIAやDIA、FBI、NSC…などをご存じだろうか?
 NSCというのは、国家安全保障会議のことで、この機関は大統領直属である。1947年、冷戦を背景にトルーマン政権は国家安全保障会議法を成立させ、それに基づいて創設された。任務は、アメリカの対外政策と軍事政策との統合、政府各機関の活動と国防政策との統合調整について大統領に助言すること。この国家安全保障会議法が成立したとき、だれにも気付かれずにそっと通された法律があった。OSS(戦略サービス局)を解体して統合的な情報機関を設立するという法案だった。これでCIAが設立された。
 NSC議長には大統領自身があたり、副大統領、国務長官などがメンバーとなる。
 NSA(国家安全局)は国防総省の配下にある最大の情報機関で、軍事、経済全域をカバァーする。その専門職は、各国および企業の暗号コード解読。また、世界中の国際電話をすべてチェックしているという。
 DIA(国防情報局)はレーダーや電波などについて、周波数、パルスなどを調査するのを専門職にしている。敵の無数や電話を傍受することで情報を得、また沖縄にあるようなレーダーをつかって通信以外の電波波信号をとらえることによって、得られる情報を集める。
 FBIとは連邦捜査局のこと。連邦司法局の管轄に属する。郵便犯罪やニセ札事件、外国外交官などに対する犯罪など2州以上にまたがる犯罪の捜査、公安情報の収集などを行う警察機関である。
 CIAは大統領直属の情報機関である。首都ワシントンにほど近いバージニア州ラングレーに本部を置く。1万6千500人のスタッフを配し、年間予算7億5000万ドルといわれている。破壊、転覆工作、プロパガンダ(大衆操作)、ディスインフォメーションなどをやるが、大部分の仕事は、謀報活動。スパイ衛星で情報を集めたり、エージェントが足で情報を集めたりする。
 CIAの仕事は大統領のために情報分析、評価を行い、それに基づいて報告書を提出すること。また毎朝、国家安全保障担当の大統領補佐官に世界の情勢変化をまとめたブリーフィング・ペーパーを作成して提出すること。つまり、大統領の”目”という訳である。(日本にはこのCIAのような情報機関が存在していない。防衛庁情報本部があるが、それはDIAと同じ組織だ。電波傍受がおもで、ヒューミント(人間による謀報活動)はやっていない。衛星で戦車の数は計れても、独裁者の金庫に眠る書類まではみれないのだ。こう考えると、日本というのはまさに”盲目”である。)
 ということで、アメリカの機関の説明を終りにする。そしてふたたび物語にもどろう。



          大統領就任



 一九六一年一月一〇日、ジョン・F・ケネデイはアメリカ合衆国第三十五代大統領に就任した。その参列者の中には父・ジョゼフの姿もあった。彼は、息子の成功を喜び誇らしく思っていた。だから、彼の表情は満天の笑顔であった。ジョゼフはJFKにサム・アップしてみせた。やったな! って訳だ。ジョゼフの病気のほうは小康状態であった。
 ごうごうと寒風が吹きすさむワシントンDCで彼が語った言葉はリンカーンのゲティスバーグ演説に勝るとも劣らないと評価された。きらきらとした瞬間だ。言葉だ。
 ジャック(JFK)は演壇に立ち、マイクを確認してから語り始めた。
「われわれは自由と生存と成功のためにはいかなる代償も払い、いかなる重荷をもにない、いかなる苦難にも立ち向かい、いかなる友をも支援し、いかなる敵にも反対する。
 もし自由社会が多くの貧しい人々を助けることができないなら、富める少数を助けることはできない。
 中南米国家とはアライアンス・フォー・プロブレスを築き、新しい関係をつくりたい。 そして、国連にはもっともコミットしたい。
 国連は”われわれに残された最後のそして最大の希望”である。われわれはこの国連の強化を推めねばならない。
 ソヴィエト連邦のことはもう一度再提議さけなければならない。ソ連や東側ブロックに対して、私はこう言いたい。”レット・アス・ビギン・アニュー”と。軍縮を推め、誠意をもって交渉にあたる、分裂よりも協調を推めていこう、と。
 ソ連、アメリカ双方とも科学の恐怖ではなく、科学の驚異を引き出すために力を合わせようではないか。共に星を探索し、砂漠を征服し、病を根絶し、深海を開発し、芸術と通商を奨励しようではないか。
 そして共に”重荷を解き、迫害されるものを自由にせよ”というイザヤの言葉を、地球のすみずみまで広げるために力を合わせようではないか!
 このプロセスには大変な時間と忍耐を必要とするが、大事なのは始めることである。
  建国以来、アメリカ国民は各世代ごとに祖国に対する忠誠をその行動で示すことを要請されてきた。その要請に応えた若きアメリカ人たちの墓標は、世界をとりまいている。 今またトランペットがわれわれを呼んでいる。武器は必要としてもそれは武器をとれとの呼び掛けではなく、抗争の真っ只中にあろうとも戦闘への呼び掛けでもない。それは行く年、来る年”望みの中に喜び、艱難の中に耐える”長い夜明け前の戦いー独裁、病、貧困、そして戦争などの全人類共通の敵に対する戦いのための重荷を背負えとの呼び掛けである。
 これらの敵に対して北も南も東も西も含めた世界的な同盟を結ぼうではないか。全人類にとって、より実り多い生活を保障するための一大同盟の結成である。この歴史的努力に参加していただけるだろうか?」
 観衆からものすごい喚声があがった。ジャック(JFK)は少し待ってから続けた。
「長い世界の歴史の中で、自由というものが最大の危険にさらされている時、それを守る役割をさずけせれた世代はごく少なかった。
 この一大事業にそそぐわれわれのエネルギー、信念、献身こそが祖国とそれに仕えるすべての者たちに灯をともし、その火から発する輝きが真に世界を照らすことになるのである。
 故にわが同胞アメリカ国民よ、国家があなた方のためになにをするのかではなく、あなた方が国家のために何ができるかを問うてもらいたい。
 わが世界の同胞よ、アメリカがあなた方になにをするかではなく、共に人間の自由のために何かができるか問うてもらいたい。
 最後にあなた方がアメリカ市民であろうと世界市民であろうと、われわれがあなた方に求めるのと同じ高い水準の強さと犠牲を、われわれに求めてもらいたい。
 安らかな良心を唯一の確かな報酬とし、歴史をわれわれの究極の審判となし、神の恵みと助けを求めながらも、この地上では神のみわざはわれわれ自身の所業でなければならないことを心に刻みつつ、愛する祖国を導き前進していこうではないか」
 拍手と喚声が沸き上がり、いつまでも鳴りやまない。熱気は吹き荒ぶ寒風をも完全に吹き飛ばしてしまっていた。
 この場面を、TVで観ている人物がいた。…ニクソンである。彼は事務所で、
「ふん、美辞麗句を並びたててるな」
 とほぞをかんだ。
「ケネデイなどなにもできないさ、デイック」
 部下はディック(ニクソン)に言った。
「不正があった。選挙でもTVディベートでも。そうでなきゃ、このニクソンが負けるわけがない」
「まったくです」
「ケネデイは必ず失敗するさ。子供のころから金に不自由なく育ち、ハーバードにいったいわば”お坊ちゃん”だ。その点、このニクソンは貧しい家に生まれ、苦労してきた。アイクの下で八年もやったキャリアもある。私なら出来るが、ケネデイには出来ん。必ず失敗する」
「ニュー・フロンティアに乾杯」
 ニクソンと部下は大笑いした。しかし、ニクソンの顔に貼りついていた笑顔は、すぐに消えてしまいそうな”はかない”ものだった。
「ケネデイは必ず失敗するさ」
 ニクソンはグラスに口をつけながら、もう一度、言った。
 彼は腹立ちまぎれに叫びそうになったが、堪えた。口をきゅっと結び、はしばみ色の目に怒りをたたえた。テレビをにらみつけた。ばかにされてひるむような俺じゃない。それでもニクソンには壁にくっきり書かれた文字が読めた。お前の負けだ、そう書いてあった。ふん、簡単に降参などするものか! たとえ負けがわかっていても、あと数ラウンド闘ってやる!



第二章キューバ危機                               


もしも緑川鷲羽が日本国の外相・NSC局長になったらpart,1

2013年11月22日 15時43分45秒 | 日記
「もし緑川鷲羽が日本国の「外務大臣」になったら」

                 total-poduced&PRESENTED&written by
                   Midorikawa Washu
                   緑川  鷲羽





         this coment is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.


     ーwith history the final judge of our deeds,let us go
      forth to lead the land we love asking his blessing and
      his help,but knowing that here on earth god'S work must
      truly be our own.ー   JFK

  ”歴史をわれわれの究極の審判とみなし、神の恵みと助けをもとめながらも、
  この地上では神のみざはわれわれ自身の所業でなければならないことを心に刻みつつ  愛する祖国を導き、前進していこうではないか”
                     ジョン・F・ケネデイ
                      1917~1963



    1  挑戦・就任式演説

2011年3月11日に我々日本に襲いかかった400年に一度の「東日本大震災」に関して我々はけして屈しない事とともに、救援して頂ける諸外国には感謝するとともに全力を挙げて立ち向かう所存である。すべての知恵、すべての博愛、すべての力を持ち合いこの「難局」を打開して「我らが日本」が瓦解せぬよう努力し粉骨砕身するべき覚悟である。我々が難局を打開するしかない。誰もがひとりではないということを再確認しよう。頑張るしかない。
「神は乗り越えられる試練しか与えない」このことを信じようではないか。
「日本の民主主義は、いまや新しい勢力によって脅かされている。それは政官業複合体と呼ばれる力である。政官業複合体の経済力、政治力、そして精神的とまでいえる影響力は、すべての省政府、すべての政府・政治家に浸透している。この複合体が、われわれの自由と民主的政治過程を破壊することを許してはならない。
 政官業複合体は、アメリカの経済近代化競争に打ち勝つため、膨大な補助金を大学の研究室に注ぎ込み、優秀な頭脳を集めて新しい経済開発を求めてきた。そこで得た成果をもとに、産業が大量に生産する。優秀な大学で実験された家電や車が、大企業によって大量に生産されるわけである。こうして政官業複合体は、大学研究室と産業と政府がガッチリと手を組んで、新たな冷戦という需要を手にして巨大なものとなっていった。
 経済戦争を無傷で乗りきり、そして莫大な利益をあげた中国産業界にしてみれば「低い人民元を維持すべき!」という意見は当然だ。しかし、黄色いナチス・北朝鮮、黄色いヒトラー・金正恩がまだ存在する。だが、北朝鮮崩壊とはいかないまでも、その一歩手前の状況であればかまわない。わたしが日本国の「外務大臣」となれば中国と日中安全保障条約を結び「円借款早期返還」「ODA全廃」などで北朝鮮への中国のエネルギー給与をやめさせる。イランへの投資もやめさせ、中国には「国際協調」の仲間に入ってもらう。「兵糧攻め」だ。中国の不安もわかる。北朝鮮がメルトダウンすれば大量の難民が中国へ雪崩れ込むだろう。だが、安心して欲しい!日本が金を出す!だから中国は人を出してください。得意の人海戦術でお願いします。難民対策費を日本が出す。
 またロシアとも日露安全保障条約を結び、韓国とも日韓安全保障条約を結ぶ。
 戦後すぐに北朝鮮の韓国への併合、南北朝鮮の支援金を出す。
 戦前の日本軍部の侵略行為には改めて「謝罪の意をおくる」。また日本軍に確実に被害にあった被害者には日本国の「外務大臣」として賠償金を日本国が支出する。
 それがなされないなら私は、「外務大臣」を辞任する。
「布告されていない緊急状態」と中国では反日デモで頻繁に使われだしている。
「中国・インド・アメリカとの経済戦争はすぐそこまできている。その時、即座に対応できるように準備しておかなければならない。彼らと付き合うには、武力をもってするほかはない!」
 あるひとは言った。
「自由は平和より尊く、その自由は世界中に自由経済のシステムが確立されてはじめて証明されるものである。表現の自由、信仰の自由、その他の自由は、政府が経済を牛耳るシステム化では絶対に得られない。民主主義と資本主義とは切っても切れないものだ。そしてその自由経済の敵は統制経済であり、そのリーダーは中国である。もしアメリカが一大決意と行動力をもって挑まなければ、中国のシステムが世界中に浸透することになる。これを防ぐ最上の手段は、全世界をアメリカ化し、自由経済圏としてしまうことである。
 もしアジアやアフリカで中国による革命がおこれば、中国の統制経済がしかれることになる。そうなれば、アメリカにとって原料確保のドアが締まるだけでなく、貿易や投資活動地域がいちじるしく縮小されてしまいます。原料補給源を確保し、市場が100パーセント確保されるためには、中国の影響を最大限に食い止めなければならないのです」
 あるひとは、演説で、こう述べた。
 バカバカしい議論はよそう。我々はひとりではない。中国もインドもロシアもアメリカもひとつではない。尖閣諸島、普天間基地、北方領土、竹島、すべて「未来のこと」にしよう。
「上杉の義」の偉大さを世界に示すのだ。そして…祖国のために。棚上げではなく、フリーズ状態にするのだ。
 一部の人々に、日本のフロンティアは死んだという意見があります。確かに、時代はかわった。もう古い人間や方法は役にたたない、そういった意味でいえば日本のフロンティアは死んだといえます。しかし、いまの我々にはまったく新しいフロンティアがある。それはこの新世紀から始まる、ネオ・フロンティアである。そのフロンティアにはまだ知られざる希望と夢があり、知られざる恐怖とリスクが待ち構えている。だが、これだけは忘れてはならない。未来は臆病者のものではない。勇気あるものだけが作りだせるのだ。我々はリスクを恐れてはならない。…日本は偉大な国だ。しかし、日本国民一人一人がリスクを恐れることなく勇気をもって行動していけば、日本はもっと偉大な国になると私は確信している。
 物が溢れて生活は満たされているが、人々が金儲けにばかり走ったり、政治家の汚職、ワイロなどが多い。そうした社会にあって、未来のイメージもわからず、不安な日々を送っていた人々に、ネオ・フロンティアという言葉で強くアピールする。
 ネオ・フロンティアは約束ではなく、挑戦である。私はあなた方の財布にではなく、日本人の誇りにアピールしているのだ!日本国民に約束することがあるとすれば、それはより多くの安全性でなく、より多くの犠牲である。私が日本国の「民間登用の外務大臣」になったら、あなた方にはより多くの犠牲を強いることになろう。だが、それと同時に、私は、みなさんに、そして偉大なる日本に、明確なビジョンを与える!」
 

          ネオ・フロンティアについて


「スラムや失業、中国との闘い、自由と民主主義の存立の危機など、日本が直面する諸問題がある。これらの問題こそ、この民間登用の外務大臣・緑川鷲羽が左右すべきなのだ。そして、これらの問題と宗教とはまったく関係がない。なぜなら、戦争や飢え、そして無知や絶望には宗教的柵などないからだ。
 しかし、私がキリシタンであるが故に、この真に重要な問題がぼかされてしまっている。だから私はここでこれまでに何度も言い続けてきたこと、どのような教会を信じるかではなく、どのような日本を信じるかについて語りたい。
 今日は私が犠牲者かも知れない。しかし、明日はあなたがたになるかも知れない。関ヶ原の戦いでは石田三成と大谷吉継のそばで大勢の家臣達が死んだ。上杉も長谷堂で伊達・最上と戦った。しかし、誰も彼らが仏教徒であったかどうかは知らない。なぜなら関ヶ原では、宗教テストなどなかったからだ。
 このような日本を私は信じている。また明治維新のような日本のために私は差別や偏見やいじめと戦ったのだ。そして、そのような日本のために坂本龍馬は死んだのだ。
 そして私は北朝鮮に勝つまでけして妥協はしない。私は私を批判するものたちに謝るつもりはない。また「民間登用・外務大臣」になるために自分の考えをかえたり、教会を変えるつもりもない。もし真に重要な政策をめぐる論争をして敗れたなら、私は全力をつくし、公正な審判が下されたという満足感をもって米沢に戻る。しかし、もしこの敗北が歴史から見ても、そしてわれわれ自身の目から見ても、真の敗北者はこの国全体ということになる。
  あるひとは私に「学歴がない」為に私が降りることを提言した。その提言に対する反応として私は言いたい。私は誰の要請があっても降りるつもりはない。
 全部のリスクを冒したのは私だけであり、すべての国の情報を握ったのも私だけだった。私はあらゆる障害と反対に直面し生き残ってきた。今になって名前を引っ込めるということは出来ない。
 反対は成熟度と経験において私が十分か、また国家が私を「民間登用・外務大臣」として迎える時機にあるのかということのようである。
 もし二十年間のジャーナリストの経験が「外相」になるのに不充分であるというのなら、二〇世紀に登用された大臣は、後藤田正晴氏、竹中平蔵氏を含めてすべて除外されることになる。
 四十四歳以下の人間を信頼と指導力が要求される地位から除外するなら、ジェファーソンは独立宣言を書いていなかったであろうし、ワシントンは大陸軍を指揮していなかったで、あろう。また、マディソンは合衆国憲法を書けなかったし、クレイは下院の議長にはなれなかった。そしてかのクリストファー・コロンブスはアメリカを発見できなかった。
 今日世界的リーダーの大部分は、五十五歳以上の人間ばかりというのが事実である。今日の世界が、国際状況が二つの世界大戦によって変えた直後に教育された人間たちによって支配されているというのも、事実である。
 しかし、彼らが果たして世界の運命を変えるのに、どれほど成功したと言えるだろうか。彼ら戦後に生まれた人間たちにとってかわるのは誰なのだろうか。
 世界は変わっているのだ。古いやり方はもはや通用しないのだ。
 今こそ新しい機会と新しい問題に取り組むための新しい世代のリーダーシップが必要な時なのだ。われわれの前にはまったく新しい世界が横たわっている。それは平和と善意に満ちた世界であり、希望と豊富さに満ちた世界である。日本はその世界への導き役とならなければならない。
 私が用意ができているのかと尋ねた。今私は、一〇〇年前、アブラハム・リンカーンが大統領になる前、多くの老練な政治家たちの攻撃にさらされながら書いた言葉を思い出さずにはいられない。”私には嵐がくるのがみえる、そしてその嵐の中に神の手があることを私は知っている。もし神が私に場所と仕事を与えるなら、私はその用意ができていると信じている。”今日私は民間登用・外務大臣という最も大きな責任を十分に自覚し、それを心に刻んだうえで、あなたがたに言いたい。もし国民が私を外務大臣に選ぶなら、私は用意ができていると信じている、と。
 すべての公の外交政策についての決定は私自身が下す。それは日本人として、外相として、そして自由な人間として下す決定である。
 われわれはあらゆる問題に関してあらゆる角度から語り、あらゆる角度から投票したという人物を相手に戦うことが、容易でないことは十分に知っている。金正恩は”金正日”のあとを受けて、今度は自分の番と考えているかも知れない。しかし、彼がディール(取引・トランプのカードを配る)する前に誰かがカードを切らねばならない。
 その誰かとは首相に投票したものの、その外務大臣を選ぶに当たり、ためらいを感じている何百万人という日本国民である。
 歴史家たちはわれわれに語っている。リチャード一世は豪胆なヘンリー一世の跡継ぎに値しなかったし、リチャード・クロムウェルは彼の叔父のマントを着るのにふさわしくなかった、と。そして後世の歴史家たちは、テロリスト金正恩・金正哲・金正男・金慶喜・張成沢は、かのテロリスト黄色いヒトラー金正日の足元にも及ばなかったとつけ加えるかもしれない。北朝鮮は国民を飢えさせた上で核ミサイル開発に邁進し、テロリスト金ファミリーたちだけが贅沢な食べ物と酒をあおっている。彼らに反対する多くの無辜の民は虐殺されていく。
 当時の苦悩はすべて終り、すべての地平線は踏査され、すべての戦いは勝利に帰したという者がいるかも知れない。
 しかし、そのような感情にひたる人間は、この場にはひとりもいないと私は信じている。なぜなら問題はすべて解決されたわけではなく、戦いがすべて終わったわけではない。そして、今日われわれはネオ・フロンティアのふちに立っている。新世紀維新年代のフロンティア、未知なるチャンスと未知なる危機、満たされざる希望と満たされざる恐怖のフロンティアである。
 ウッドロー・ウィルソンの”ニュー・フリーダム”は、わが国に新しい政治経済の体制を約束した。フランクリン・ルーズベェルトの”ニュー・ディール”は、貧しき人々に安全と援助を約束した。しかし、私のいう”ネオ・フロンティア”は約束ではない。それは挑戦である。それは私が日本国民に何を与えるかではなく、何を要求するかということに要約される。
 われわれが好むと好まざるとにかかわりなく、ネオ・フロンティアはここにある。このフロンティアの彼方には、科学と宇宙の未知の分野が横たわり、また解決されない戦争と平和の問題があり、まだ克服されない無知と偏見、貧困と過剰の問題がある。
 私はあなた方ひとりひとりにこのフロンティアのパイオニア(開拓者)となるようお願いする。
 私のこの呼びかけは年齢に関係なく心の若い者、政党に関係なく精神の強靭な者、そして聖書のいう”強く勇気を持て。恐れるな、驚愕するな”という言葉に奮い立つことのできる者のみに向けられている。
 今日われわれが必要としているのは、自己満足ではなく勇気なのだ。リーダーシップであってセールスマンシップではないのだ。
 そしてリーダーシップの唯一の正当なテストは、統率する能力、ダイナミックに国家を引っ張っていく能力に他ならない。私はかつて日本が犯した侵略戦争で中国・韓国・東アジアや欧米の人々の無辜の民を虐殺し、強姦し、盗みをしたかつての帝国日本軍部・帝国日本軍人たちの悪行を心から謝罪するとともに、国際法上確実にかつての帝国日本軍部・帝国日本軍人に被害を与えられたと認められた人々には心から謝罪し、賠償金を払うことを約束する。

 わが国のように組織され統治されている国家が、果たして生存し続けることができるのだろうか。それが真の問題なのだ。われわれにそのずぶとさと意志があるのだろうか。大量の新しい破壊兵器が造られようとしているだけでなく、空と雨、大洋と海流、宇宙の彼方と人間の心の奥底への激烈な支配競争が展開されようとしているこの時代に、われわれは存続し得るだろうか。
 これこそがネオ・フロンティアの課題であり、わが国家と国民が迫られている選択なのだ。単に二人の人間、二つの政党ではなく、公共の利益か個人の安逸か、国家の隆盛か国家の没落か、新鮮な前進的空気かかび臭い沈滞の空気か、献身か凡庸かの選択である。 全人類がわれわれの決定を待っている。全世界がわれわれを見つめている。彼らの信頼を裏切るわけにはいかない。やらなければならぬのだ。
 イザヤの言葉を共に思いだそうではないか。”主に仕える者は新たな力を得る。彼らは鷲のごとく翼を与えられる。彼らは走る。しかし、けして疲れることはない”
 来るべき偉大な挑戦に立ち向かうにあたって、われわれもまた主の僕となり、主がわれわれに新たなる力を授け給わんことを願おうではないか。その時こそわれわれは試練に耐え得ることができ、決して疲れることはない。そしてわれわれは勝利を得るのである」
  また最近の日韓関係は、もはや修繕不可能な程憎悪の炎が広がっています。韓国人が日本国に腹を立てて、あるいは嘲る理由は「従軍慰安婦問題」を教科書にまで載せて国民を洗脳しているからです。私は「侵略戦争」「従軍慰安婦」はあったと思っている人間です。だから、国際法上確実に日本軍部に被害があったと認定された被害者の皆様には日本国として謝罪と賠償金を支払うとお約束しているのです。ですが、韓国の良識ある人々は日本人と交流したいと思っている筈です。米国のオバマ大統領は歴史認識で安倍政権に問題があると考えています。だが、パク・クネ韓国大統領のことは無視し、東南アジア諸国も韓国の「慰安婦「告げ口」外交」に辟易しているとききます。東南アジアは韓国から商品を購入しているが、韓国製品の性能の悪さに反感まで抱いている。また関係ない事かも知れませんが、韓国人の男女のほとんどは美容整形をしていて「親と子供の顔が全然違う」が当たり前だそうですね。だが、日韓関係をインド・パキスタンのような関係にしてはなりません。例えば、同じく日本の統治下にあった台湾は、日本人技術者による農水事業などで、日本の貢献に感謝し、極めて親日的です。占領には当然デメリットもあった筈だが、「やはり日本の統治があったから近代化できた」と評価しています。そんな台湾の方が韓国よりも「正しい歴史認識」を持っていると私は思います。韓国の財界人第一世代のトップたちは、例外なく、日本の貢献をまっとうに評価し、日本語を話し、日本の大学を卒業した人も多いのです。息子らにも日本語を話させ日本語や日本文化・世界一の日本の技術を学ばせているのです。韓国のスマホもテレビも日本の技術から出来ています。そして「日本メーカーと戦うと負ける」と自覚しています。軍事力についても在韓米軍は陸軍が2万人程度で、海軍、海兵隊はなく、北朝鮮軍にさえ韓国軍は勝てないのです。有事のときは、米空軍は日本の嘉手納(かでな)基地から、海兵隊は沖縄と岩国から、さらに海軍は横須賀・佐世保から韓国に向かうことになるのです。「韓国はもっとも日本に影響を受けながら、もっとも日本を馬鹿にし、悪口を言っている」。だが、時代は変わった。千年などといわず日韓でちゃんと話し合いましょう。尖閣諸島、竹島は私は「フリーズ状態」にする。まずは同じアジアの同胞として、日本と中国・韓国の皆さんとウインウインな関係を共に築きましょう!


 財政・アベノミクス・モラトリアム法案の愚



「アベノミクス」と言われ円安・株高ムードの“演出”に今のところ成功しているようだが、安倍政権の経済政策は「失われた20年」で失敗した政府介入型政策の焼き直しになりそうな気配だ。そうならないためには、公明党などの圧力に負けず、中小企業金融円滑化法(モラトリアム法)の再延長はしないという決断をしなければならない。安倍晋三総理大臣は経済戦略を発表した。経済再生、復興、危機管理に全力で取り組むとし、喫緊の課題はデフレと円高からの脱却による経済の再生と強調。国民一丸となって「強い日本」を取り戻していこう、と呼びかけた。いわゆる「三本の矢」だ。が、安倍さんが言う「強い日本を取り戻す」という言葉は、よく考えてみると意味がわからない。「強い日本」とはいつの時代のことなのか。少なくとも、バブル崩壊後の「失われた20年」ではない。GDPデフレーターでも名目GDPでも23年間にわたってマイナス、またはフラットなのは先進国では日本だけなのだ。しかもその85%の期間は自民党が統治していたわけで、かつて統治者であった安倍晋三総理と麻生太郎副総理が再び出てきて、“デジャブ諮問委員会”などをやっているようでは期待は持てない。そもそも、骨太の経済政策などという名前からしていかがわしい。なぜ日本だけがこのように成長できなかったのか、民主党の3年間ではなく23年間のデフレの原因をしっかりと説明するところからスタートしなくてはならない。新年早々、大型の補正予算が組まれ、日本復興のためのバラマキ型強靱化計画が動き出しているが、デフレの原因を究明することなしに国債を増発するのは火遊びに等しい。日本経済は1989年12月をピークに下降し、それ以来、浮上することができないままだ。その23年間のうち、民主党が政権を担ったのは3年。残りはほぼ自民党が政権を担ってきたのだから、「失われた20年」の大半は自民党に責任がある。「失われた20年」には多額の公共事業や補助金が投入されたが、効果はなかった。確かに小泉政権の時に日本経済は少しだけ上向いたように、見えた。しかし、小泉改革を否定しまくって政権を奪還したのが現在の安倍政権の面々だろう。

 安倍さんには「強い日本」がいつの時代のどういう状態を意味するのか、はっきりと定義してもらいたいものだ。目標とする「強い日本」がはっきりしないままでは、有効な経済政策を打ち出すこともままならない。ところが、曖昧な「強い日本」を掲げる安倍政権は失敗した経済政策を繰り返そうとしている。電機メーカーなどの競争力を強化するという名目で、公的資金を投入しようというのだ。具体的にはリース会社と共同の出資会社をつくり、企業から工場や設備を買い入れるもので、新政権が制定を目指す産業競争力強化法の柱となる見通しである。死に体となった産業の施設を買いとったぐらいで日本のエレクトロニクス産業が蘇ると考えているとすれば、現状を全く理解していないとしか言いようがない。売上高が10兆円を超える世界のトップ・エレクトロニクス企業や、台湾積体電路製造(TSMC)のような半導体受託生産会社(ファウンドリー)の勉強が全く足りない。「血税の無駄使いが早速始まった」という以外に評価のしようがない。安倍政権発足直後にこうした経済政策が出てきたということは、「昔の名前で出ています」ならぬ「昔のやり方で出ています」というのがこの政権の本質ということだろう。そこで試金石となるのが期限が切れる中小企業金融円滑化法(モラトリアム法)の再延長問題である。この問題については、麻生太郎副総理兼財務大臣が「再延長するつもりはない」との立場を強調した。しかし、安倍政権内には再延長論者も少なくない。特に連立を組む公明党は熱心な再延長論者となっている。公明党の支持層には中小企業経営者が多く、モラトリアム法によって延命しているところが結構あるからだ。公明党の山口那津男代表はモラトリアム法の再延長を検討するよう求めているし、太田昭宏国土交通大臣も同じ主旨の発言をしている。

 自民党と公明党は、政権発足前日に連立合意をしたが、この合意内容にはモラトリアム法の再延長問題が含まれていない。自民党と公明党の間で主張が食い違っている問題については棚上げし、簡単に合意できる項目だけを明記して連立合意文書に署名したに違いない。モラトリアム法の現状がどうなっているかは「中小企業金融円滑化法(モラトリアム法)を巡る動き」を見てもらおう。2009年12月に施行されたモラトリアム法は、2011年3月までの時限措置であり、現在までに累計で100兆円近いお金が使われている。対象となる中小企業は40万社にのぼる。モラトリアム法によって経営難の中小企業が救済され、それによって中小企業に融資している中小金融機関が救済されている形だ。金融機関別の不良債権比率を見てみると、大手銀行は2%未満と健全な状態を維持している。しかし、地域銀行は3%超、信用金庫は6%前後、信用組合に至っては8%超と、厳しい状態にある。仮に、モラトリアム法が延長されなければ、資金を引き揚げられた中小企業は倒産するだろう。そうなれば、不良債権を抱えた中小金融機関の経営も悪化する。共倒れの可能性も高い。モラトリアム法に基づいて貸し出されている部分に関しては「正常先」となっているので、当然資金を引き揚げれば「破綻懸念先」となるところも多いだろう。それに基づいて銀行が引き当てをすれば、中小金融機関の財務内容は一気に危険水域に達する。一方、金融庁などでは負債を株式に転換するDES(Debt Equity Swap)の手法で金融機関が5%以上株式を持てるようにしようという(姑息な方法の)検討も進んでいるようだが、資本金1000万円くらいの企業が数億円借りているケースが多いと思われるので現実的ではない。ほとんどの貸出先の株式をほぼ100%持つことになる。バブル崩壊の1990年代前半で銀行には経営力がないことがはっきりしているので、彼らが株式を握ったところで経営が良くなることは考えられない。そして、「ゾンビ企業」を政府が救済し続けても、日本経済にとって決してプラスにはならない。一時的には倒産(そして失業)が増えたとしても、その調整を経て経済は再生していくものだ。モラトリアム法はその場しのぎの延命策でしかない。では、どうしてモラトリアム法が誕生し、ここまで延長されてきたのか。それは、民主党政権が世論を恐れて問題を先送りしたからだ。当時の亀井静香金融担当大臣が強引にモラトリアム法を推し進めることで、誕生したばかりの民主党政権は金融危機にまつわる当座の「政治危機」を乗り切ったと言える。しかし、本来ならあの時に中小企業を整理しておくべきだった。地獄を見ることは間違いないが、その場しのぎの政策はもうやめて、モラトリアム法は再延長しないという決断を下す必要がある。中小金融機関とモラトリアム法の対象企業40万社との大葛藤・修羅場が展開されるだろう。冒頭にも述べたが低成長の責任の大半は自民党にあるが、この問題の全責任は民主党(当時の連立相手であった亀井国民新党代表)にある。しかも民主党は2012年に延長を決めた。自民党がクレバーであれば民主党が血だらけになりながら立ち往生するのを見た上で政権の座についた方が良かっただろう。なぜなら今の日本はマネーサプライとか財政投融資とか、インフレターゲットなどのマクロ政策(アベノミクス)以前のドロドロの状態にあるのだから。また私は官僚のキャリア試験を廃止するべきだと思います。具体的には公務員試験Ⅰ種Ⅱ種を統合して、すべてのキャリア特権を廃止して、「国家公務員」という平等な地位としたい。パブリック・サーバント(公僕)として国民に奉仕させます。また政治家や公務員や皇族の定数削減とボーナスカット、給与3%カットもしたい。そのうえで新たなるフロンティア「ネオ・フロンティア」を目指したいのだ!
 またここでは「アベノミクス消費増税」のカラクリを少し説明します。①「デフレは脱した。景気は回復しているから、増税しても大丈夫」とは嘘です。デフレは脱していない。08年12月から4年8か月マイナス景気です。②給与は上昇ではなく、「16か月連続のマイナス」です。③「日本の国民負担率は海外より低い」も嘘。これについては改めて別の機会に説明しますが、国民負担率は日本は諸外国と同じでそれほど負担率は低くありません。④「社会保障費は足りなくなる」これは少子高齢化で子供や高齢者が減少するので足ります。⑤「子供の世代にツケを回さない」なら破綻している年金の抜本改革をすればいい。⑥「全額社会保障費につかう」いや、また無駄にばら撒かれる。⑦「消費税は「広く公平」」違う。大企業は1円も納付ゼロ円なのに3兆円も還元される。すでに260兆円も日本の大企業は内部留保を貯め込んでいるのに。⑧減税では「財政再建」出来ない。世界の常識は減税で景気が拡大している。法人税所得税贈与税相続税は廃止だ。⑨「増税の影響は「ごくわずか」」。これも嘘で、消費税増税で経済が縮小し、5年後にはGDPに「マイナス5%」の悪影響がでると経済人は皆知っている。だけれども私は消費税増税には反対しない。思い切った決断だし、支持したい。要はセーフティネットの拡充であろう。増税で困るのは年収200万円以下のワーキングプア等の筈だ。ならばそのヘルプに答えればいい。何故ならば困窮者を救うのが、政治の役割であろうと思うからである。私の考えは安倍内閣や安倍首相とは違うのかも知れない。が、硬軟使い分けるのが正解であろうと思うのだ。


「財務省の嘘・カラクリ」について
今回は皆様の見識を高める為にいわゆる「日本の財務省の嘘・カラクリ」について触れたい。日本の財務省は「日本の国民負担率は主要国に比べると10~20%低い」と訴えている。「日本の国民負担率4割は低すぎる。5割にすれば社会福祉費用も出せるし、財政出動で雇用も増える」という。国民負担率とは、毎年の国民所得(個人や企業など国民全体が得る所得の総額)に対して、所得税や法人税、消費税などの社会保険料(社会保障負担)が占める割合を示したもの。家計や企業が、所得から税や保険料をどれだけ払っているか?その数字だけを比較すれば「日本は低負担」で「ヨーロッパは高負担」である、ということになる。が、それは毎年の財政赤字が考慮されていない。税金や社会保障に加え、財政赤字は将来の国民負担に他ならない。その借金分を(財政赤字対国民所得比)を合わせた国民負担率を「潜在的国民負担」と呼ぶ。それで比較すると2013年度は日本53.2%、アメリカ42.2%、イギリス60.4%、ドイツ55.9%、スウェーデン58.9%、フランス69.5%。日本の国民負担は50%を超え、各国と差はほとんどなくなる。それでもまだ相対的に低い、というので増税するのは大間違い。よく知られるように北欧は「高福祉・高負担」だ。国民に還元される割合やサービスでいえば、日本は「低福祉・高負担」である。例えばスウェーデンで100万円の所得のうち64万円とられても43万円が戻ってきて、残り21万円が政府の運営費(本当の負担率)としてつかわれる。「本当の負担率」は、日本19.2%、アメリカ16.8%、イギリス28.1%、ドイツ19.1%、スウェーデン20.9%、フランス26.9%となる。教育制度にも日本とヨーロッパは大きな差がある。フランスでは3~5歳まで通う幼稚園が無料で、同じく公立なら高校まで授業料はただ、エリート育成の為の大学(グラン・ゼコール)は授業料がないうえ、学生に公務員並みの給与まで支給される。スウェーデンでも保育料も高校までも授業料はただ、大学も無試験で通える。授業料もただで大学生に手当まで支給される。日本は高速道路が有料だが、アメリカなどや欧州はただ。「なんでもただならいい」という話ではないが、「嘘をつくな」ということだ。


JFK暗殺・没後50年企画「ジョン・F・ケネディ、その真実」ブログ連載小説1

2013年11月22日 06時16分20秒 | 日記
小説
 ケネデイ

                           <JFK・RFK>
                          ーKENNEDYー
                ~偉人「ケネデイ」の真実!渾身の書き下ろし                     アメリカン・スピリットのエッセンスが甦る!

                 total-poduced&PRESENTED&written by
                   Midorikawa Washu
                   緑川  鷲羽





         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.


     ーwith history the final judge of our deeds,let us go
      forth to lead the land we love asking his blessing and
      his help,but knowing that here on earth god'S work must
      truly be our own.ー   JFK

  ”歴史をわれわれの究極の審判とみなし、神の恵みと助けをもとめながらも、
  この地上では神のみざはわれわれ自身の所業でなければならないことを心に刻みつつ  愛する祖国を導き、前進していこうではないか”
                     ジョン・F・ケネデイ
                      1917~1963



          「ケネディ」まえがき


 JFKが暗殺されてから50年、弟のRFKが殺されてから40年以上になる。その間、様々な関連本が出版され、「JFK」という映画まで作られた。しかし、そういったものはケネディの神話的なものしか伝えてない。この書は、ケネディの人間の中味を書いたものである。
 1960年、ケネデイ上院議員は大統領選に打ってでた。しかし、カトリックであることや上院議員であること、知名度の問題などでハンディがあり、JFKはそれを一つ一つクリアしていく。そして、ニクソンとのディベートに勝利して、大統領へ。キューバ危機、ピッグス湾、経済問題などをクリアしていく。しかし、目の前にヴェトナムが立ち塞がる。JFKはヴェトナム撤退を考え、それをストップしたい連中に殺された。そして弟のRFKもまた数年後、消されてしまうのである。アメリカの歴史の本流と闇の部分を知っていただく……それが、この拙書、である。
                                 おわり



  一九六三年十一月二十二日、オープンカーがエルム通りを抜けようとしたところで銃声が響きわたった。JFKは弾丸を頭部に受け、脳味噌がふっ飛んだ。JFKは即死だった。”ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの死”によって、アメリカ人は恐怖のどん底に叩き落とされた。彼にとってかわってアメリカ合衆国を支配したのは、巨大な軍産複合体、であったからだ。………




 第一章 JFK




       1  挑戦ーJFK出馬ー


「アメリカの民主主義は、いまや新しい勢力によって脅かされている。それは軍産複合体と呼ばれる力である。軍産複合体の経済力、政治力、そして精神的とまでいえる影響力は、すべての州政府、すべての連邦政府機関に浸透している。この複合体が、われわれの自由と民主的政治過程を破壊することを許してはならない」
 一九六一年、アイゼンハウワー大統領の辞任演説である。
 軍産複合体は、ソ連との兵器近代化競争に打ち勝つため、膨大な補助金を大学の研究室に注ぎ込み、優秀な頭脳を集めて新しい武器開発を求めてきた。そこで得た成果をもとに、軍需産業が大量に生産する。優秀な大学で実験された武器や兵器が、大企業によって大量に生産されるわけである。こうして軍産複合体は、大学研究室と産業と政府がガッチリと手を組んで、冷戦という需要を手にして巨大なものとなっていった。
 戦争を無傷で乗りきり、そして莫大な利益をあげた産業界にしてみれば「ウォー・エコノミーを維持すべき!」という意見は当然だった。しかし、ナチス・ドイツや日本帝国は降伏してしまった。だが、戦争状態とはいかないまでも、その一歩手前の状況であればかまわない。アメリカ人が納得するような潜在的脅威を秘めた敵……格好の国がある。
 国際共産主義の代表で、共産革命により世界征服を狙う「ソヴィエト」だ。
 戦後すぐにイランのアゼルバイジャンに傀儡政権を立て、中東への土台にしようと試みたし、ギリシアやトルコでも混乱に乗じて共産革命の後押しを演じている。また、チェコスロバキアを始めとする東欧諸国はソ連圏に飲み込まれつつあった。(一九四七年七月、ハンガリーでは共産党が権力を握り、四八年にはチェコスロバキアも共産化された。一九四七年九月にはアメリカのマーシャル・プランに対抗するためソ連のリーダーシップのもと、コミンフォルムが結成された)
 アメリカ人にとっては、これはソ連拡張主義以外のなにものでもなかった。
「布告されていない緊急状態」と軍部が使いだし、新聞・ラジオで頻繁に使われだす。
「ソ連との戦争はすぐそこまできている。その時、即座に対応できるように準備しておかなければならない。ソヴィエトと付き合うには、武力をもってするほかはない!」
 スパッツ将軍は「(ソヴィエトからの)原爆が落ち始めたら、アメリカ本土の防衛は不可能である!そして、もし戦争がおきれば、最初の五時間で四千万人のアメリカ市民が死ぬだろう」といった。
「自由は平和より尊く、その自由は世界中に自由経済のシステムが確立されてはじめて証明されるものである。表現の自由、信仰の自由、その他の自由は、政府が経済を牛耳るシステム化では絶対に得られない。民主主義と資本主義とは切っても切れないものだ。そしてその自由経済の敵は統制経済であり、そのリーダーはソ連である。もしアメリカが一大決意と行動力をもって挑まなければ、ソ連のシステムが世界中に浸透することになる。これを防ぐ最上の手段は、全世界をアメリカ化し、自由経済圏としてしまうことである。
 もしアジアやアフリカでソ連による革命がおこれば、ソ連の統制経済がしかれることになる。そうなれば、アメリカにとって原料確保のドアが締まるだけでなく、貿易や投資活動地域がいちじるしく縮小されてしまいます。原料補給源を確保し、市場が100パーセント確保されるためには、ソ連の影響を最大限に食い止めなければならないのです」
 トルーマンは、演説で、こう述べた。第二次世界大戦では共に闘ったが、それはなりゆき上であって、もともとアメリカはソヴィエトの持つシステムに嫌悪感を抱いていた。だから、ソヴィエトを「悪の帝国」と呼ぼうが「アメリカの敵」と呼ぼうが、不自然ではなかった。
 この頃、五〇年代、六〇年代のアメリカには帝国主義的野心とパワーがあった。だが、現在のアメリカにはそんなものはない。しかし、この頃のアメリカはもっとも豊かだった時代である。そして、アメリカは、国務長官ジョン・フォスター・ダレスと弟のアレン・ダレスCIA長官という「冷戦の旗手」に牛耳られていた。アイゼンハウワー大統領(当時)があまりにも無知であったため、外交面において、事実上の大統領のようなものであったという。米ソ首脳会談の時も、ダレスが大統領にメモを書いて渡し、質問に答えさせていたという。一国の大統領がそこまでやるか、とフルシチョフ(ソ連元首・当時)はビックリしたそうだ。

  第一世代と呼ばれるジョゼフ(JFKの父)はアメリカン・ドリームを実現した男だ。1840年代、飢饉をのがれて多くのアイルランド人が米国に移住した。ジョゼフの父もその一人でボストンの酒場の主人。ジョゼフ・P・ケネディは禁酒法時代にマフィアと結託して酒で儲け、さらに株でもうけ富を築き英国大使にまで出世した。第二世代のジョン(JFK)は史上初のカトリック系かつ最年少の大統領だった。弟ロバートとともに60年代の理想を代表し、暴力に倒れることで歴史に記憶された。
 ジョゼフ(JFKらの父)は初老の近眼男で、割腹のいい体躯に背広をいつも身につけ、よく子供達にこういったという。「政治家になることだけ…そして大統領になり出世することだけが、おまえたちの成功の一歩だ。父さんを見ろ。移民の息子がここまでなったんだ。お前達にもできない訳がない」
「はい、父さん」長男は答えた。ジョゼフはこの長男に、政治家になり、いずれ大統領になるように願っていた。彼の夢は、アメリカで一番の上流階級にまで登りつめ、息子らを大統領にして”成功するケネディ家”をアメリカや祖国に知らしめることだったという。 ジョン(JFK)とロバート(RFK)はその頃、まだ幼少の身だったが、父のいうことは理解していた。ふたりの外見などは写真でも判るようにハンサムでスマートなものだ。色男な紳士…それがJFK、RFKだ。ふたりは、よく郊外の草原にいったという。
 そよ風が頬をつたわり、ジョンとロバートを心地好い気分にさせた。どこまでも広がる大自然の風景、緑の天蓋、蔦、花花。光がきらきらと輝き、すべてを包むかのようである。頬を渡る春風は優しく、光の粒子がすべてをきらきらと輝かせて、生きていく活力を与えてくれる。黄色の花も、緑の森も、しんと静かだ。…ふたりは大きく息を吸って、夢を語った。
「ボビー(RFKの愛称)、将来おまえは何になる?」ジョンは眩しそうな顔できいた。「…兄さんと同じさ」ボビーはいった。
「大統領?アメリカの?」
「そう」ボビーは続けた。「でも……それは兄さんたちの後でだ。それまでは兄さんたちのサポートをするよ。そして……三代続けてケネディ家の男が大統領だ」
「いいな、そりゃ」ジョンはにこりと笑って「ケネデイ家の偉大さをアメリカに示すんだ」「そして…祖国のために」
「あぁ、祖国アメリカのために」
 ふたりは笑顔で、遠くを見つめた。そして…伸びをして笑った。きらきらとして、しんと光るような笑顔だった。
  長男が戦闘機に乗り第一次戦争大戦に参加し、撃墜され死んだ。
 続けて、長女は病気で『ロボトミー』(植物状態)になり、ふたりと父・ジョゼフはショックを受けた。彼等は暗く落ち込み、冷たい涙をぽろぽろと流したという。
 そして、ジョゼフの期待はJFKに移った。「兄のかわりに、お前が大統領になるのだ」 ジョゼフはジョンにいった。
(JFKは戦争の英雄でもある。第二次大戦中の1943年、南太平洋で、日本の駆逐艦が米軍の魚雷船に体当たりし、沈没させたことがある。乗組員全員が海に投げ出されたが、船長は5時間も泳ぎ続け、負傷して漂流する部下を次々と救助した。船長の名はジョン・F・ケネディ。後の第35代大統領であった。このようにケネディは人間愛に満ちた人間だった。また、JFKは大統領になった時、「日本人で尊敬するひとは?」と日本人記者にきかれて「ウエスギ・ヨウザン(上杉鷹山)」と答えたということもあったが、ここでは詳しく触れない)

  アメリカの小さな州に、星条旗がはたはたと揺れていた。
 朝日が、きらきらと辺りをぼんやりと白く輝かしていた。JFKはほんわりとした気持ちになった。上出来だ、そう思った。最初から縁起がいい。透明な気持ちにさせてくれる。 朝の5時、ジョン・F・ケネデイは雪の上に立った。大統領予選選挙の最初の日だった。この頃のアメリカは、ワイロや密室政治などで年寄り連中が政治を支配し、いまの日本と同じようなものであったという。
「冷戦の旗手」ジョン・F・ダレスがやっと死んで、世界情勢は変りはじめていた。アイゼンハウワー(米大統領・当時)とフルシチョフ(ソ連書記長・当時)の対話が進み、両国に雪解けムードが漂っていた。フルシチョフは米国を訪問し、パリで首脳会議を開く約束までかわした。だが、その首脳会議は実現しなかった。会議の始まる十六日前、アメリカのUー2スパイ飛行機がソ連上空で打ち落とされたからだ。(実はCIAがUー2の飛行スケジュールなどをソ連側に流したという)これで米ソは再び冷戦状態にもどった。一触即発の状態で、アメリカは混沌とした六十年代へと突入していった。
  ケネデイには、カトリック教徒で、多くのアメリカ人が好意を示さないケネデイという名前(彼の父は禁酒法時代にマフィアと組んで大儲けした成金だった)、そして四十三歳という若すぎるというハンデイがあった。そして肉体的ハンデイもあったという。彼は幼少の頃からアディソン氏病に侵されていた。背骨の痛みがひんぱんに襲った。熱は生まれつきのものであったという。(アディソン氏病とは慢性の副腎機能不全によって起きる病気で、無気力症状、食欲減退、低血圧などの病状がでる。副腎皮質ステロイドの治療をすればノーマルな生活が送れる)
 薬物使用による副作用に侵されて苦痛のために眠れない夜が何週間も続いた。が、ケネデイはその事実を隠し通した。
 もうひとつのハンデイは上院議員(日本でいう参議院議員)だったこと。上院議員から大統領になった例は、20世紀で二人しかいなかった。しかし、彼は激動する世界情勢を正確に掴み、米国民にビジョンを与えられる優れた政治家だった。
「今度、米大統領選に立候補するジョン・F・ケネデイです、どうぞよろしく」
 彼は小さな店に入っていき、一人ずつ握手をしていき、そこから様々なところにいって何千人と握手をしていった。余りに握手をしすぎて、手が腫れてしまったくらいだったという。彼は言う。
「一部の人々に、アメリカのフロンティアは死んだという意見があります。確かに、時代はかわった。もう古い人間や方法は役にたたない、そういった意味でいえばアメリカのフロンティアは死んだといえます。しかし、いまの我々にはまったく新しいフロンティアがある。それはこの六〇年代から始まる、ニュー・フロンティアである。そのフロンティアにはまだ知られざる希望と夢があり、知られざる恐怖とリスクが待ち構えている。だが、これだけは忘れてはならない。未来は臆病者のものではない。勇気あるものだけが作りだせるのだ。我々はリスクを恐れてはならない。…アメリカは偉大な国だ。しかし、アメリカ市民一人一人がリスクを恐れることなく勇気をもって行動していけば、アメリカはもっと偉大な国になると私は確信している」
 アメリカはこの時代、物が溢れて生活は満たされてたが、人々が金儲けにばかり走ったり、政治家の汚職、ワイロなどが多かった。そうした社会にあって、未来のイメージもわからず、不安な日々を送っていた人々に、ニュー・フロンティアという言葉で強くアピールしたのだ。ニュー・フロンティア。これこそ我々が探し求めていたものだ。ケネデイはアメリカに夢を与えた。
「ニュー・フロンティアは約束ではなく、挑戦である。私はあなた方の財布にではなく、アメリカ人の誇りにアピールしているのだ!アメリカ国民に約束することがあるとすれば、それはより多くの安全性でなく、より多くの犠牲である。私が当選したら、あなた方にはより多くの犠牲を強いることになろう。だが、それと同時に、私は、みなさんに、そして偉大なるアメリカに、明確なビジョンを与える!」
 ケネデイの挑戦は、古い伝統や観念、体制そのものにも向けられていた。選挙参謀たちも平均年齢が三十三歳と若く、それゆえに「ボーイスカウト集団」と馬鹿にされたが、それでもめげはしなかった。ケネデイの挑戦のスタートである。
 JFKの美貌の妻・ジャクリーンは、報道関係の記者であった。それが、上院議員のJFKの目に止まり、ふたりはすぐに結婚した。そのすぐ後にはもう子供が出来ていたという。JFKは「自分は必ず大統領になる。あいつはすごいことをしたって…いわれるようになる」と、妻にいった。妻は「あなたなら…なれるわ。きっと」と微笑んだ。
 ジョンの端整な顔に魅力的な笑みが広がった。そして、彼は今日初めてまともに妻を見た。ぼくの女。ほれぼれするような美貌の女だ。色っぽくて、何度でも抱きたくなるような小柄なぼくの女だ。彼はベットでは激しかった。暗い部屋にはくぐもった声や、あえぎ声、ときおりうめき声など響いた。唇と腰を激しくからめ、みだらな死闘を何度もくりかえした。ジョンとジャクリーヌはベットの相性がよかった。

          ニュー・フロンティア

「カトリックではダメだ。大統領になれない」
 当時、アメリカ人の多くはこうした意見をもっていた。圧倒的にプロテスタントの多いアメリカでカトリックが大統領になるなど不可能だ、と誰もが考えた。
 ケネデイはこの問題とも挑戦しなくてはならなかった。
 一九六〇年九月一二日、テキサス州ヒューストンで開かれた全ヒューストン牧師連盟の会合で彼はスピーチをおこなった。その途中、客席にテロリストのオズワルドの影を見かけて、JFKは直感をもち…不安にかられたという。しかし、JFKは言う。
「スラムや失業、ソ連との闘い、自由と民主主義の存立の危機など、アメリカが直面する諸問題がある。これらの問題こそ、この大統領選を左右すべきなのだ。そして、これらの問題と宗教とはまったく関係がない。なぜなら、戦争や飢え、そして無知や絶望には宗教的柵などないからだ。
 しかし、私がカトリックであるが故に、この選挙では真に重要な問題がぼかされてしまっている。だから私はここでこれまでに何度も言い続けてきたこと、どのような教会を信じるかではなく、どのようなアメリカを信じるかについて語りたい。
 今日は私が犠牲者かも知れない。しかし、明日はあなたがたになるかも知れない。アラモの砦ではクロケットとボーイのそばでマクファーティー、ベイリー、そしてカリーが死んだ。しかし、誰も彼らがカトリックであったかどうかは知らない。なぜならアラモでは、宗教テストなどなかったからだ。
 このようなアメリカを私は信じている。このようなアメリカのために私は南太平洋で戦ったのだ。そして、そのようなアメリカのために私の兄はヨーロッパで死んだのだ。
 そして私は選挙に勝つまでけして妥協はしない。私は私を批判するものたちに謝るつもりはない。また今回の選挙に勝つために自分の考えをかえたり、教会を変えるつもりもない。
 もし真に重要な政策をめぐる論争をして選挙に敗れたなら、私は全力をつくし、公正な審判が下されたという満足感をもって上院に戻る。しかし、もしこの選挙が四〇〇〇万人のアメリカ人が洗礼を受けたその日に大統領になる機会を失ったという考えのもとで決められるなら、それは世界中のカトリック、非カトリックの目からみても、歴史から見ても、そしてわれわれ自身の目から見ても、真の敗北者はこの国全体ということになる」
 宗教問題とともにケネデイは年齢問題にも挑戦せねばならなかった。
 元大統領のトルーマンは特に反対していた。トルーマンは自宅のあるミズリー州インデペンデント市で特別記者会見を開き、ケネデイの若さ経験のなさを批判し、出馬を思いとどまるよう訴えた。
「ケネデイ上院議員、一九六一年一月に大統領につくことに関して、あなた自身が国家のために用意ができているか、同時に国家があなたを受け入れる時機にあるとお考えか。あなたが将来政治的頂点に昇りつめるであろうことに、私は一片の疑念も抱いていない。しかし、今私は現在および近い将来の世界の状況に関して、非常に心配してかつ心を痛めている。だからこそ私は、出来る限り成熟し、経験に富んだ人間の登場を希望しているのだ。あなたはまだ若い。もう少し辛抱して待つことを要望したい」
 ケネデイはすぐに反論した。
「トルーマン氏は一九六〇年の候補として私が降りることを提言した。その提言に対する反応として私は言いたい。私は誰の要請があっても降りるつもりはない。
 全部の予備選に出てリスクを冒したのは私だけであり、すべての州を訪れたのも私だけだった。私はあらゆる障害と反対に直面し生き残ってきた。大会直前の今になって名前を引っ込めるということは出来ない。
 トルーマン氏の反対は成熟度と経験において私が十分か、また国家が私を大統領として迎える時機にあるのかということのようである。
 もし選挙の洗礼を受けた一四年間の政治経験が大統領になるのに不自由分であるというのなら、二〇世紀にホワイトハウス入りした大統領は、三人の偉大な民主党の大統領、ウッドロー・ウイルソン、フランクリン・ルーズベルト、そしてハリー・トルーマン氏自身を含めてすべて除外されることになる。
 四十四歳以下の人間を信頼と指導力が要求される地位から除外するなら、ジェファーソンは独立宣言を書いていなかったであろうし、ワシントンは大陸軍を指揮していなかったで、あろう。また、マディソンは合衆国憲法を書けなかったし、クレイは下院の議長にはなれなかった。そしてかのクリストファー・コロンブスはアメリカを発見できなかった」 ここでケネデイはホコ先を年寄りに向ける。
「今日鉄のカーテンの両側にいる世界的リーダーの大部分は、六十五歳以上の人間ばかりというのが事実である。今日の世界が、国際状況が二つの世界大戦によって変えられる以前に教育された人間たちによって支配されているというのも、事実である。
 しかし、彼らが果たして世界の運命を変えるのに、どれほど成功したと言えるだろうか。彼ら一九世紀に生まれた人間たちにとってかわるのは誰なのだろうか。
 世界は変わっているのだ。古いやり方はもはや通用しないのだ。
 今こそ新しい機会と新しい問題に取り組むための新しい世代のリーダーシップが必要な時なのだ。われわれの前にはまったく新しい世界が横たわっている。それは平和と善意に満ちた世界であり、希望と豊富さに満ちた世界である。アメリカはその世界への導き役とならなければならない。
 トルーマン氏は私が用意ができているのかと尋ねた。今私は、一〇〇年前、アブラハム・リンカーンが大統領になる前、多くの老練な政治家たちの攻撃にさらされながら書いた言葉を思い出さずにはいられない。”私には嵐がくるのがみえる、そしてその嵐の中に神の手があることを私は知っている。もし神が私に場所と仕事を与えるなら、私はその用意ができていると信じている。”今日私は大統領職という最も大きな責任を十分に自覚し、それを心に刻んだうえでせあなたがたに言いたい。もし国民が私を大統領に選ぶなら、私は用意ができていると信じている、と」
 こうしてケネデイは民主党大統領候補の座をつかんだ。そして一九六〇年七月十五日、ロス・アンジェルス・コロシアムに集まった八万人の人々を前に指名受諾演説を行った。「すべての公の政策についての決定は私自身が下す。それはアメリカ人として、民主党員として、そして自由な人間として下す決定である。
 われわれはあらゆる問題に関してあらゆる角度から語り、あらゆる角度から投票したという人物を相手に戦うことが、容易でないことは十分に知っている。ミスター・ニクソンは”ニュー・ディール”と”フェアー・ディール”のあとを受けて、今度は自分の番と考えているかも知れない。しかし、彼がディール(取引・トランプのカードを配る)する前に誰かがカードを切らねばならない。
 その誰かとはアイゼンハウワー大統領に投票したものの、その後継者を選ぶに当たり、ためらいを感じている何百万人というアメリカ国民である。
 歴史家たちはわれわれに語っている。リチャード一世は豪胆なヘンリー一世の跡継ぎに値しなかったし、リチャード・クロムウェルは彼の叔父のマントを着るのにふさわしくなかった、と。そして後世の歴史家たちは、リチャード・ニクソンは、かのドワイト・アイゼンハウワーの足元にも及ばなかったとつけ加えるかもしれない」
 次に彼は、変わりゆく世界について説き、聴衆のイマジネーションにアピールする。
「当時の苦悩はすべて終り、すべての地平線は踏査され、すべての戦いは勝利に帰したという者がいるかも知れない。
 しかし、そのような感情にひたる人間は、この会場にはひとりもいないと私は信じている。なぜなら問題はすべて解決されたわけではなく、戦いがすべて終わったわけではない。そして、今日われわれはニュー・フロンティアのふちに立っている。一九六〇年代のフロンティア、未知なるチャンスと未知なる危機、満たされざる希望と満たされざる恐怖のフロンティアである。
 ウッドロー・ウィルソンの”ニュー・フリーダム”は、わが国に新しい政治経済の体制を約束した。フランクリン・ルーズベェルトの”ニュー・ディール”は、貧しき人々に安全と援助を約束した。しかし、私のいう”ニュー・フロンティア”は約束ではない。それは挑戦である。それは私がアメリカ国民に何を与えるかではなく、何を要求するかということに要約される。
 われわれが好むと好まざるとにかかわりなく、ニュー・フロンティアはここにある。このフロンティアの彼方には、科学と宇宙の未知の分野が横たわり、また解決されない戦争と平和の問題があり、まだ克服されない無知と偏見、貧困と過剰の問題がある。
 私はあなた方ひとりひとりにこのフロンティアのパイオニア(開拓者)となるようお願いする。
 私のこの呼びかけは年齢に関係なく心の若い者、政党に関係なく精神の強靭な者、そして聖書のいう”強く勇気を持て。恐れるな、驚愕するな”という言葉に奮い立つことのできる者のみに向けられている。
 今日われわれが必要としているのは、自己満足ではなく勇気なのだ。リーダーシップであってセールスマンシップではないのだ。
 そしてリーダーシップの唯一の正当なテストは、統率する能力、ダイナミックに国家を引っ張っていく能力に他ならない」
 聴衆は総立ちになっていく。この後数回の拍手の後、クライマックスへと向かっていく。「わが国のように組織され統治されている国家が、果たして生存し続けることができるのだろうか。それが真の問題なのだ。われわれにそのずぶとさと意志があるのだろうか。大量の新しい破壊兵器が造られようとしているだけでなく、空と雨、大洋と海流、宇宙の彼方と人間の心の奥底への激烈な支配競争が展開されようとしているこの時代に、われわれは存続し得るだろうか。
 これこそがニュー・フロンティアの課題であり、わが国家と国民が迫られている選択なのだ。単に二人の人間、二つの政党ではなく、公共の利益か個人の安逸か、国家の隆盛か国家の没落か、新鮮な前進的空気かかび臭い沈滞の空気か、献身か凡庸かの選択である。 全人類がわれわれの決定を待っている。全世界がわれわれを見つめている。彼らの信頼を裏切るわけにはいかない。やらなければならぬのだ。
 イザヤの言葉を共に思いだそうではないか。”主に仕える者は新たな力を得る。彼らは鷲のごとく翼を与えられる。彼らは走る。しかし、けして疲れることはない”
 来るべき偉大な挑戦に立ち向かうにあたって、われわれもまた主の僕となり、主がわれわれに新たなる力を授け給わんことを願おうではないか。その時こそわれわれは試練に耐え得ることができ、決して疲れることはない。そしてわれわれは勝利を得るのである」
”ニュー・フロンティア”が高々と宣言された。しかし、まだ終わったわけではない。リチャード・ニクソンとの一騎打ちが待っている。
 ケネデイの挑戦はいよいよ佳境に入っていく。                  

iPhone(アップル社)ってそんなにスゴイ?実は国内勢スマホのほうが性能も上だった

2013年11月21日 16時59分47秒 | 日記

事業仕分けの正体

NTTドコモの参入で日本の大手通信3社が揃って扱う事になった米・アップル社のスマートフォン「iPhone」だが、販売当日にはいかにも流行に弱い日本人連中が行列をつくって購入したらしい。が、今や、在庫が沢山だという。だが、これが現実なのだ。iPhoneはスマホのパイオニア的な存在であり、基本的にスマホ初心者に好まれる。車に例えればポルシェやベンツだ。利便性やスペックはともあれ「所有したい」という欲求が社会にある。また、スマホの2巨人アップル社と韓国のサムスンはプレゼンがうまい。だが、騙されてはならないのは性能だ。外国勢スマホと国内勢スマホどちらが性能が上か?当たり前ながら日本の技術が上で、内緒だがiPhoneやサムスンの画面等の技術はシャープや松下、カメラならソニー、ニコン等から出来ているのだ。iPhoneを分析して思ったのだが、よくよく考えてみると「行列組は踊らされた」という事に尽きる。よく考えればわかるが国内勢のシャープやソニー等のスマホはバッテリーが3日間くらい長持ちするが、iPhoneやサムスンのは1日もてばいいほうだ。日本国内では当たり前の「お財布機能(電子マネー)」もない。画像も国内勢のほうが綺麗で大画面、カメラの画素数も国内勢が上だ。防水機能すらない。例えばソニーのスマホは、誤ってお風呂場やトイレに水没させても完全防水機能なので安心だ。が、iPhoneやサムスンの外国勢スマホはキッチンで少し水に濡れたくらいで故障する。指紋認証・声で操作という機能も日本勢は何年も前からやっていた。通信容量も違いがある。エリアにもよると思うがiPhoneが最大100Mbsなのに対して国内勢は最大150Mbsにもなる。iPhoneはテレビも映らない。意外とないもの尽くしなのだ。だが、国内勢の悪い所は「殿様商売」だ。日本勢は「品質が良ければ黙っていても売れる」とでも思っているのか。アップル社より優れているスマホなのに、カタログや広告を見てもスペックに訴求するばかりで、メッセージ性に乏しい。そのスマホを持てばどれだけ楽しいか、というPRが足りない。PCやタブレット・スマホのユーザに「こんな性能が」と広告メールを送るだけでは売れない。今までアップル社やサムスンの何をみてきたのか?スマホの市場は巨大だ。この分野で日本勢が飛躍できれば日本の「モノつくり」の未来は明るいといえるだろう。(2013年11月21日緑川鷲羽)(「増税は思い切った決断だが困窮者への救済にも決断を」緑川鷲羽(山形県/43歳・フリージャーナリスト))実際、年金受給者などにとってはデフレのほうがありがたかった。しかし、これからは、2%インフレターゲット&消費税の増税で食糧費や日用品、郵便代にいたるまでの値上げラッシュ。また、大企業等は景気が良くなっても給料やボーナスを上げないのではないかと懸念されている。消費税を上げるのは、国の借金が1000兆円にのぼるからだ。財政再建自体は正しいが、正しいだけでは戦略とはならない。年金受給者、生活保護受給者や介護保険受給者の多くが、もっと貧乏になるという悲惨な状況が待ちかまえている。それで「美しい国」といえるだろうか。今後、焦点となるのは「軽減税率制度」だ。欧州では長い歴史があるが、品目の設定が難しく、うまく機能しているとはいえず、日本で実施したら役人の利権だらけになるのは目に見えている。しかしまずは、企業に給料を上げさせるような戦略を熟考しなければならない。このままでは官庁や企業が焼け太りするだけの「消費税増税」、「アベノミクス」となるだろう。(2013年11月8日小学館SAPIO2013年12月10日号・フロムリーダーズ緑川鷲羽参照) 米投資会社バークシャー・ハザウェイを率いるウォーレン・バフェット氏はハイテク銘柄には投資しないと思われている。ところがここ数年、実際にはこれと違った状況が起きている。2010年末時点のポートフォリオではゼロだったテクノロジー株が、現在は保有株の6分の1を占めている、とマーケットウォッチは伝えた。ウォーレン・バフェット氏 バークシャー・ハザウェイとバフェット氏は典型的なテクノロジー株の投資家ではない。このため、この分野では厳格な規則に基づいて投資しており、投資先候補を探す際の留意点には、1)かなり低い株価比率、2)配当金支払い、3)向こう15~20年の生き残りを保証するような安定した製品を供給できること、が挙げられる。これを念頭にして多くのバフェト信奉者が当然抱いた次の疑問は、ツイッターが株式を新規公開すれば著名投資家はツイッター株を購入するかだった。ツイッターはこの3つの問題すべてを抱えている。最新の推計によれば、IPOの公開価格の仮条件が1株当たり19~20ドルとすると時価総額が110億ドル近くに上る。この価格と売り上げにかかる最も保守的なアナリスト予想は約6億ドルで計算すると、予想売り上げの約18.3倍の株価で取引されることになる。一方、フェイスブックの株価もツイッターにこの株価売り上げ倍率に近い水準で推移しているほか、ビジネス向け交流サイトの米リンクトイン(LNKD)も同水準にある。バフェット氏がこれまでに動くことのなかったレンジのバリュエーションに引き付けられるとは考えにくい。 同様に重要なのは、バフェット氏がツイッターの今後15~20年の見通しを問題にすると予想されることだ。ツイッターの短文投稿サイトサービスは、例えばフェイスブック、リンクトインより多くの広告収入を生み出すと主張する向きもあるが、20年近くツイッターが生き残る保証はない。どのような業界でも100%保証できるようなものはないものの、米銀大手ウェルズ・ファーゴ(WFC)や米飲料大手コカ・コーラ(KO)など、バフェット氏が好む投資先はリスクがどのソーシャルメディア企業より少ない。3つ目の問題に関していえば、証券取引委員会(SEC)に提出した上場申請書によると、ツイッターが「近い将来に」配当を実施する計画のないことがわかる。バフェット氏がツイッターを買わないにしても、いったいそのポートフォリオにはどのテクノロジー株が組み入れられているのか?最新の提出文書に記されているとおり、その答えはIBMだ。バフェット氏率いるバークシャーはその890億ドルの株式ポートフォリオの15%近くを巨大情報技術企業に配分している。そしてIBMは前述した3つの条件をすべてクリアしている。IBMの予想PERは9.9倍にすぎず、ITインフラからソフトウエアまで5つの多角化された事業分野を持ち、配当利回りは2%を上回っている。(2013年11月6日ブルームバーグ・ワシントンポスト記事参照)1994年、当時の細川護煕政権下で小選挙区制が導入されてから、20年が経過しようとしている。「政権交代可能な二大政党制の実現」を目指して、小選挙区制は導入された。しかし、それが本当に正しかったのかどうか、吟味すべき時期にきていると私は思っている。そもそも小選挙区制でなければ政権交代できないというのは間違いで、細川政権自体、中選挙区制で行われた最後の総選挙で得票率2位から5位までの非自民勢力が連立して誕生した。連立によらない本格的な政権交代は2009年に起こった。しかし国民の期待を受けて誕生した民主党政権はめぼしい成果をあげることなく12年の総選挙で大敗北を喫し、政権を手放した。問題は、「小選挙区制では票が偏りすぎる」ということだ。振り返れば郵政解散を受けた05年の総選挙もそうだったし、政権交代が起きた09年の総選挙、自民党が政権を奪還した12年の総選挙もそうだった。「小泉ブーム」になれば自民党に票が集まり、「政権交代が必要だ」とメディアでコメンテーターが叫べば民主党が大勝する。「民主党政権に失格の烙印」が押されると、その得失を吟味したり、精査することなく、民主党を壊滅させるほどの“揺り戻し”が起きる。熱しやすく冷めやすい日本人のメンタリティを考えると、小選挙区制が本当に相応しいものなのか、よく考えなければいけない。クルマのブレーキとアクセルを交互に踏むような、非常に不安定な政治体制をつくる結果になってしまっているのだ。アメリカであれば共和党政権になっても民主党政権になっても日本の政治のような“不安定さ”はない。イギリスでも保守党と労働党が政権交代を繰り返しているし、フランスでは17年ぶりに政権交代が起きて右派の国民運動連合から社会党に政権が移ったが、政権政党が代わってもそれなりに政権運営はできている。では、なぜ日本の民主党は政権運営に失敗したのか。結論を先に言えば、戦後60年弱に及ぶ自民党一党支配によって、「日本は政権交代ができない国になってしまった」と私には思える。中東、北アフリカで起きた一連の民主化運動は「アラブの春」と称されるが、熱狂して独裁者を追放してみれば残されたのは“カオス”だけだった。長期独裁の下では受け皿となる統治機構も人材も育っておらず、多くの国で国家運営が不安定化した。実は長年の自民党一党支配が外れた日本も同じで、民主党政権とはまさに「アラブの春」現象ではなかったか。民主党には元自民党出身の政治家も大勢いたし、野党時代には与党の政策や政権運営を厳しく問い詰めて、健全な野党としての機能も果たしていた。二大政党の一翼を担い、自民党政権の受け皿になる準備も十二分にしていたはずだ。ところが、いざ民主党が政権を運営する側に回った途端に機能不全に陥ってしまった。それはなぜなのか。民主党の体質や政治手法に問題があったのは事実である。しかし、民主党イコール政権政党失格という結論を出す前に、吟味しなければいけないことがある。それは、もっと根源的な問題として、長らく自民党が居座ってきた日本の政治システムを考えてみるべきだ。そこには、自民党支配からの脱却を阻むような仕掛けがあって、政権交代時には「アラブの春」現象が発動するようになっているのではないか、ということだ。ここで自民党政権の本質について、考察してみたい。自民党政権には主に4つの特質がある。第1は、自民党は決して言葉に出しては言わないが、「中央集権」の体質であるということだ。中央集権を補完するのは、中央官僚である。すなわち官僚依存、官僚主導による中央集権的国家運営が、自民党政権の第1の性格なのだ。「官に仕事をさせるのが政治家の役割」というのが自民党の考え方で、安倍政権もさまざまなコミュニケーションの現場に官僚を絡ませることで、政権運営がうまくいっているように演出している。成長戦略でも、「特区」という言葉を使っているが、「特区」というのはいわば“お上のお目こぼし”だ。日本全体を変えようとするなら、中央官僚の権限を外せばいいが、安倍首相はそこまでやるつもりはない。この国の中央集権体制は江戸時代から続いてきて、明治維新、戦後を通じて維持・強化されてきた。そして戦後における中央集権体制の担い手が自民党で、官僚主導の中央集権こそが自民党にとって唯一無二の成功の方程式なのだ。だから、中央集権体制が“動脈硬化”を起こして、新しい日本に生まれ変われない最大の要因になっているにもかかわらず、自民党政権では中央集権を打破することはできない。民主党政権はこれを打破しようと「官から民へ」と訴え、中央官僚にそっぽを向かれた。弊害が顕著に出たのが外交で、たとえば中国大使に民間の丹羽宇一郎氏を起用したために、外務省は冬眠モードに入り、中国との関係がこじれて収拾がつかなくなってしまったのである。自民党が長年かけて築き上げてきた官僚主導の中央集権システムは、堅牢だ。その構造を理解していない民主党政権が思い付き程度で「政治主導」とか「仕分け」と言ってみても、このシステムは簡単に壊れない。政策新人類と言われた民主党の枝野幸男元幹事長をして「(政治主導などと)うかつなことを言わなければよかった」と言わしめたほどだ。自民党政権の特質の2番目は「票を金で買う」ことだ。巨大な予算をつくり、赤字国債を発行して、地方に金をばらまく。自民党の政治家の多くは利益誘導で地元に交付金を持ってくる運び屋、アメリカで言う「ロビイスト」である。民主党政権で財政赤字は加速したが、1000兆円の国家債務のうち980兆円ぐらいまでは、自民党政権時代に積み上がったものだ。つまり財政赤字の大半は自民党政権時代の問題で、返済できないほどの借金をして、地方に金をばらまいて票を買ってきたのが自民党である。政治家が運び屋になって地方を交付金漬けにして、地方は地方で中央に無心する陳情体質が染みつき、日本では本当の地方自治が育ってこなかった。本来、地方自治というのは、「徴税権や司法権、行政権などの政治機能は地方がもともと持っていて、国家は共同経営体である」という連邦制的な発想に基づくものだ。しかし日本は世界に類を見ないほどの強力な中央集権国家であり、自民党政治に「地方自治」という言葉はない。あるのはせいぜい「地方分権」、中央が持っている権限を少々分け与えるという発想だ。民主党が大敗した理由の1つは、この“運び屋”さえもうまく演じられなかったことだ。政権発足当初は、地方からの陳情の窓口を当時の小沢一郎幹事長が1つにまとめて一本化した。小沢氏は自民党的体質というものをよくわかっているから、陳情を一手に引き受けて、金の分配もコントロールできた。そうした役割を小沢氏に専念させていれば、民主党政権はもう少し踏ん張れたのかもしれない。ところが自民党の生命線である運び屋的機能というものを理解していなかったために、内輪揉めの理念闘争の結果、小沢氏を党から追いやってしまった。結果、地方とのパイプが寸断されて、先の選挙では原口一博氏などの大臣経験者でさえ、小選挙区で落選した。自民党政権の特質の3番目は、「継続性を担保する形になっていない近隣外交」である。米ソ冷戦下で始まった自民党政権の外交はきわめて特殊で、近隣諸国との非常に重要な案件に関して、吉田茂や佐藤栄作、田中角栄など、時の指導者が「密約ベース」で外交関係を築いてきた。それは第1の特質に挙げた中央集権主義とは矛盾した“属人的な外交”であり、その内容を文書として残していない(残っているかもしれないが、外務省は残っていないと言う)。相手国とどんな合意や約束をしたのかは、原則非公開で、自民党政府は、国民には正しい内容を知らせず、聞き心地のいい外交成果だけを喧伝してきた。本来、外交関係というのは政権が代わっても継続されるべきものだが、密約ベースの自民党外交は政権交代にはなじまない。政権交代した場合、密約ベースの外交関係が踏襲されなくなってしまうのだ。本来であれば、外交の継続性を担保するのは外務省である。アメリカでも政権交代で国務省や国防総省のトップレベルの人事は代わっても、外交に関するドキュメンテーションは引き継がれる。社長が代わるたびに一から対外関係をつくり直す会社などないだろう。しかし、自民党外交の場合、もともと文書がなく、しかも交渉の内容を知っているのは自民党の中でもごく一部の限られた政治家だけだった。先般、野中広務元官房長官が「日中国交正常化のときに、両国の指導者は尖閣問題を棚上げにするという共通認識を持っていた」と田中さん自身から聞いた、と発言した。「尖閣に領土問題は存在しない」との立場を取る日本の中から、「尖閣棚上げ論」の生き証人が現れたということで物議を呼んだわけだが、野中氏が言っていることは事実だと思う。田中角栄と周恩来による国交正常化交渉では、3つの密約があったと言われている。1つは周恩来が持ち出した「尖閣棚上げ論」であり、田中元首相はこれを了承した。2つ目の「戦後賠償問題」。日本側はすでに賠償済み(蒋介石の国民党政権に対して賠償を申し出たが蒋介石はこれを断った)との立場だったが、中国側の賠償請求に対してODAという形で日本の資金と技術を供与することを約束した。これも文書には残していないが、ODAの3%がキックバックされて田中派の利権となり、竹下登や橋本龍太郎にこのシステムが引き継がれたのは、半ば公然の秘密だ。日本のODAに対して中国側から感謝の「か」の字も出てこないのは、多くの中国人はそれを実質的な戦後賠償と思っているからだ。3番目の密約は、「A級戦犯問題」である。日本が戦後賠償しない理由を国内に説明するために周恩来が考え出した理屈は「中国人民も日本国民も、ともに日本の軍部独裁の犠牲者である」というものだった。つまりA級戦犯を中国人と日本国民共通の加害者に仕立てたのである。しかし、その後、靖国神社がA級戦犯を合祀して「英霊」として奉り、(主として反田中派の)自民党などの政治家が靖国参拝をするようになってから、中国側はこれに強く反発するようになった。日本の国民はこうした説明を受けていないから、中国が靖国問題でそこまでエキサイトする理由がわからないのだ。中国は共産党一党独裁が続いているから、日中国交正常化のときの合意が脈々と受け継がれてきた。だから3つの密約を侵すようなことを日本がしたときには、ギャーッと大騒ぎする。しかし日本国内においては、外交は密約ベースで行われてきたから、政権交代が起きたときに、これが宙に舞ってしまう。自民党外交が封じ込めた“パンドラの箱”が開いて、魑魅魍魎の外交問題が飛び出してくるのだ。10年に尖閣列島付近で中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した事件も、日中関係が継承されていない民主党政権だから起きたともいえる。「日本の実質支配を認めた上で帰属そのものを棚上げする」ということで決着していたはずなのに、当時の前原誠司外務大臣あたりが「尖閣は日本固有の領土であり、日本の法律に則って粛々とやる」などと発言するから、中国も頭に血が上って行動をエスカレートさせたのだ。石原慎太郎前東京都知事が尖閣を購入し、避難港などをつくるという行動に出たときに国家の強権でそれを止めればよかったのに、野田佳彦前首相自ら「尖閣国有化」を敢行したものだから、中国は「棚上げ合意」を反故にした、といきり立った。「日本の実効支配を認める代わりに棚上げ」という尖閣に関する日中間の暗黙の了解について自民党政権は国民に説明してこなかったし、民主党政権にも引き継がれなかった。それが民主党政権の外交失点という形で表面化し、日中関係を今日のように悪化させてしまったのだ。話を戻そう。自民党政治の第3の特質はこのような特異な外交である。日中関係だけではなく、日韓、日米、日ソ(露)など近隣諸国との重要な外交関係を自民党政権はすべて文書にすることもなく、国民への説明もなしで構築してきた。これは外務省の怠慢であると同時に自民党実力者の独特の問題解決手法であった。この3番目の特質が政権交代を非常に難しくしているのだ。民主党政権が躓いた最大の理由の1つはやはり外交だ。原発問題にしても、自民党政権は秘密裏にアメリカの許可を得てウラン濃縮やプルサーマル技術の開発を進めてきた。それを民主党は受け継いでいないから、原発事故後に「原発依存度は0%がいいですか、15%がいいですか、20~25%がいいですか」などと国民に選択肢を提示し、脱原発依存に舵を切った。野田前首相はオバマ大統領からミーティングを拒絶されるなど、冷たくあしらわれた理由が理解できなかっただろう。最後にもう1つ、自民党政権の特質の4番目。自民党の綱領にも書いてあるように、「憲法改正」である。その急先鋒が安倍首相で、国民投票法案を通した安倍首相自身も憲法改正論者であることを隠していない。最後にもう1つ、自民党政権の特質の4番目。自民党の綱領にも書いてあるように、「憲法改正」である。その急先鋒が安倍首相で、国民投票法案を通した安倍首相自身も憲法改正論者であることを隠していない。さて、以上、自民党政権の4つの特質の中で、4番目の憲法改正を除いては、いずれも政権交代になじまない。それは戦後60年かけて日本の統治システムと同化し、ちょっとやそっとでは引きはがせないものになっている。民主党のような“駆け出しの新人”がこれを否定してみたところで、パンドラの箱が開くだけで、新しい路線に進むことなどできないのだ。従って日本はもはや政権交代が不可能な国であり、仮に民主党や日本維新の会が復活して強くなっても、「政権交代はできない」ということを結論として持つべきだと私は思う。小選挙区制という選挙制度の下では、移り気な世論の動向次第で振り子のような政権交代は起きるだろう。しかし、民主党政権でわかった通り、新しい政権が生み出すのは「アラブの春」の後と同じ混乱以外の何ものでもない。健全な政権交代が起こらないのならば、小選挙区制は政治体制を不安定化させるデメリットのほうが大きい。その存在意義もいま一度問われるべきだろう。そして政権交代ができない政治状況で、我々国民に残された選択肢は何かといえば、自民党政権の特質を1つずつ吟味して、自民党(および中央省庁)に変革と体質改善を迫ることしかない。自民党的中央集権体制では日本の長期低落が免れないのは明らかで、財政改革は待ったなし。もはや密約外交では国際社会の信は得られない。アメリカでさえも近隣と揉める安倍外交に危機感を持ち始めている。逆に言えば本稿で述べた最初の3つの自民党的体質を変革できるかどうか、日本国民そのものの信が世界から問われている、と私は思っている。(大前研一レポート2013年7月23日)東京都の猪瀬直樹知事は「日本の標準時刻を2時間早める」という構想を発表しました。2013年5月22日の産業競争力会議で、無駄にしていた日照時間を活用してアフターファイブに消費行動を、世界一早く始まる「東京市場」という。だが、現実的ではない。大前研一先生は「北海道の2時間標準時間早く」ということを昔いっていた。夏のサマータイムで、北海道なら夏4時は明るい。だが、東京の冬は朝4時も午後4時も真っ暗です。シンガポールは中国市場に合わせて標準時間を早め経済発展した。だが、それを東京で…などと単純思考です。大体企業や金融機関が東京に集中するのか?また「特区」は外国企業だけの「特区」では意味がない。法人税20%に、といってもアイルランドは12.5%でシンガポールは17%だ。結局、日本の大企業が本社をシンガポールに移して「アベノミクス特区」の恩恵を受けるというケースが続出するだけですね。経常収支の減少が止まらない。日本企業の海外移転により、貿易赤字が拡大するだけでなく、国内雇用の減少という問題も深刻になっている。日本政府は企業が海外に出て行く支援ばかりをして、外資誘致の努力も怠ってきた。これでは失業が増えて当然である。
経常黒字が4割減、日本の「米国化」が進行している。財務省が5月10日に発表した2012年度の国際収支統計によると、モノやサービスなど海外との取引状況を示す経常収支の黒字は4兆2931億円となり、前年度に比べておよそ4割減少した。以前から本コラムでも指摘してきたとおり、日本の「米国化」が依然として進行している。過去には貿易があれだけ堅調で黒字だったのが、赤字が定着してきた。日本の企業も海外で生産したものを日本に輸入するようになっている。いったん貿易赤字体質になると、為替相場が少しくらい変動したところで、なかなか黒字には戻らない。生産などを海外に移した企業が戻ってくることはまずない、と考えた方がいい。貿易収支の黒字が減少し、ついには赤字に転じる一方で、所得収支を伸ばすことで経常収支の黒字を維持してきた。しかし、その所得収支も、2007年までは右肩上がりだったが、近年は横ばい、または減少という傾向にある。さらに日本は多額の財政赤字を抱えている。今のところ家計部門は黒字を維持しているが、高齢化が進めば貯蓄を切り崩すしかなく、遅かれ早かれ家計部門も赤字に転じる可能性が高い。
 このままいけば、日本も米国型の「三つ子の赤字」(貿易赤字、経常赤字、財政赤字)になってしまうと私は考えている。今は一歩手前の状況と言ってもいい。
 国内製造業の衰退、政府の肥大化、少子高齢化といった、今の日本が抱える問題を考えた時、経常収支の行方というものは、きわめて重要な指標となってくる。「経常収支の状況」を見てもらえばわかるように、経常収支の落ち込みはきわめて深刻だ。まさにタッチダウン寸前の状況である。もしこのまま経常収支が赤字に転じるようなことがあれば、円が強くなる理由もなくなってくる。「円安が進みすぎているから円高に少し戻してほしい」と思っても、市場は相手にしてくれない。経常収支の問題は為替の問題にも強くリンクしている。日本が持っている米ドルがどんどん減っていくということでもある。そうしたリスクについても、注意を払っていかなければならないだろう。また、貿易赤字に象徴されるように、日本企業の海外移転が進行するということは、日本国内の雇用が減少することを意味する。本来なら、対外直接投資(海外への直接投資)が増大すれば、どこの国の政府も必死になって対内直接投資(海外から直接投資)を増やす努力をしなくてはいけない。雇用が減少することは政治的リスクに直結するからである。そのためには海外からの企業誘致に様々な特典を設けたり、誘致事業に人材を投入したりする。しかし、日本政府はそのような仕事をする役所を持たない。その結果、世界的に見ても対内直接投資が異常に低いのだ。5月6日付の日本経済新聞は、「日本の外資誘致、足りぬ努力 対内直接投資 他国に見劣り」と題した記事を掲載。国連貿易開発会議がまとめた2011年末の日本の対内直接投資残高が、対GDP比率で北朝鮮より低かったことを紹介している。これは本稿でも繰り返し指摘してきたことではある。「国連貿易開発会議(UNCTAD)によると、2011年末時点で日本の対内直接投資残高の対GDP比率は3.9%だった。対して北朝鮮の比率は12.5%。核の危機をあおる同国も、中国やロシアから直接投資を受け入れる。日本の比率は20%以上の欧米だけでなく、10%強の中韓にも遠く及ばない。フローでも日本の対内直接投資は12年に3年ぶりにプラスに転じたものの、17億ドル強と低水準にとどまる。1200億ドル強の対外直接投資との差は一目瞭然だ」(日本経済新聞5月6日付より)
 日本は従来から日本貿易振興機構(ジェトロ)を中心に、輸出や対外直接投資に偏重した政策をとってきた。対内直接投資を呼び込めないようでは、ジェトロは240億円もの税金を使って日本の失業を増やしている、と非難されても抗弁のしようがないだろう。だいたいどの国も、対内直接投資と対外直接投資のバランスを取ろうとする。一方、日本は2011年のフローベースで見ると、対外直接投資が1143億5000万ドルの増加であるのに対し、対内直接投資は47億6000万ドルの減少となっている。何と進出した外資の撤収があり、マイナスとなっていたのである。円高が長く続いた結果ではあるが、日本政府は外国企業を追い出し、日本企業が海外に出て行くことを支援しているようなものだ。円高が続けば、消費者商品などは日本に進出するメリットもあるはずなので、そこに狙いを定めて活動する組織があれば結果は違ったものになっていただろう。残念ながらジェトロの仕事は輸出から海外進出の手助けへと変化しただけで、結果的に失業を日本で発生させるための組織となってしまっている。近年外資の導入もその仕事のリストには加えられたが、ノウハウもなく実績がまったく出ていない。片手間では成果が表れないし、投資を呼び込む専門組織を持った諸外国と比べれば非力だと批判されても仕方ないだろう。普通の国は、外国からの投資を促進するための組織というものをしっかりと整備している。米国などは、州別に外資誘致組織を持っている。日本にはそうした組織を地方自治体に置いているところはまずない。またシンガポールの経済開発庁(EDB)やアイルランドの産業発展省(IDA)のような顕著な実績を持った組織に匹敵するポートフォリオ(職務)をもった組織も実質的には存在しない。安倍内閣は産業競争力を向上させようとしているが、その目的は良質な雇用をつくることにあるはずだ。どちらかというと日本企業の後押しをするプログラムばかり羅列しているが、雇用のためなら競争力をすでに持っているグローバル企業を日本に呼び込むことに専念した方が手っ取り早い。こうした観点から税金の使い方や政府の組織、さらに産業競争力会議などの役割を見直してもらいたいものだ。(大前研一先生談2013年5月22日)
アベノミクスで円安・株高の流れになる一方で、原発停止なども重なり化石燃料費がかさむなどして日本の貿易赤字は常態化している。少子高齢化と同時進行する人口減少も深刻な問題だ。アベノミクスで日本中が浮かれている今だからこそ、日本の新たな勝ち組国家モデルを打ち立て、カンフル剤に過ぎないアベノミクスの「後」に備えなければならない。1人当たりGDPが4万ドル超の小さな国家。日本は戦後、工業国家モデルで量(ボリューム)を追求して世界第2位の経済大国となった(現在は中国に抜かれて第3位)。しかし、これから先は人口減少が続き、ボリュームを追求しても強大な国家を実現することは難しくなる。今のところ、日本の政治はアベノミクスによる円安・株高に熱狂していて、日本という国家をどういう方向に走らせるかという議論が定まっていない。政治が機能しないのであれば、在野から政策提言をしていくことがますます重要と言えるだろう。
 そこで私はこのほど「クオリティ国家という戦略」という新著を上梓し、日本の新たな勝ち組国家モデルを提言した。同書では、かつて日本が大成功した加工貿易立国モデルに代わる、次世代の国家モデルを提唱している。日本が目指すべき国家モデルのヒントとなるのが、1人当たり国内総生産(GDP)が4万ドルを超えていて、人口が300万人から1000万人くらいと比較的小さな国家である。それらの国家は小さいながらも繁栄を続けている。量(ボリューム)より質(クオリティ)の「クオリティ国家」というわけだ。それらの国々についていろいろ研究したところ、「世界の繁栄を取り込むのが非常にうまい」という共通点が見えてきた。納税者の金を使って、あるいは地下資源などを掘り起こして自前ですべて繁栄するというやり方ではなく、世界の繁栄を呼び込んでいくという戦略をとっているのである。具体的には、スイス、デンマーク、ルクセンブルク、ノルウェー、スウェーデン、オーストリア、シンガポール、フィンランド、アイルランド、ニュージーランドといった国々だ。この中でもっとも1人当たりGDPが高いのはルクセンブルクだが、人口が50万人強と少なすぎる。数百万人の人口を抱えるスイス、シンガポール、フィンランド、スウェーデン、デンマークあたりが日本の参考になるだろう。幸いなことに、自民党政権が2018年までに道州制を実現すると公約している。日本における道州というのは、面積や人口といった点でちょうどクオリティ国家と同規模だから、今から10くらいのクオリティ国家を研究して、各道州が目指すべき“国家像”のモデルにしたらいいだろう。クオリティ国家の中でも傑出しているのがスイスである。日本では観光で有名な国だが、九州と同じくらいの面積で1人当たりGDPは8万1000ドルという高い水準を実現している。国家債務も対GDP比で41%(2012年OECD調べ)と少なく、効率的な国家運営がなされている。
スイスは世界的に競争力の高いグローバル企業をいくつも輩出している。たとえばブベイという田舎町に本社を構えるネスレが、世界最大の食品会社になっているのだ。他にも医薬品のロシュやノバルティス、総合人材サービスのアデコグループ、金融のクレディ・スイスやUBS、時計のスウォッチグループなど、世界屈指のグローバル企業がひしめいている。スイスと同規模の北海道や九州からグローバル企業がいくつ誕生しているかを考えると、スイスの偉大さがよくわかる。さらに、スイスフランは通貨高が続いているが、スイス企業の業績は好調なので誰も文句を言わない。経営不振を円高のせいにする日本企業とは大違いである。スイスは人件費が世界最高水準だが、失業率は世界最低水準となっている。法人税や所得税も安い。しかも、ただ安いだけでなく、高度な自治制度により、人々が自分で税率を決めることができる。コミュニティ(日本の市町村に相当)やカントン(日本の都道府県に相当)のレベルで、住民が自分で税率を決定して税金を徴収したうえで、国に上納される。日本は国が税率を決めて税金を徴収し、その後で地方に交付されるが、スイスでは最初に基礎自治体が来て、国は最後に来るのである。スイスは直接民主制なので、直接投票によって税率が決まる。税率は町が変わればすべて違う。そういうふうに自分で決めていくと、責任も個々の国民にかかってきて、自覚も芽生える。自治を主体とした統治の仕掛けが、スイスという強い国家を形づくっていると言える。
 今こそ日本はそんなスイスから学ぶべきだということで、2012年10月、私は80人の経営者を連れてスイス企業を視察した。観光くらいでしかスイスに来たことがないという参加者が多かったこともあり、なぜスイスにグローバル企業が多いのかを見聞し、一様に驚きの声を上げていた。「なぜ強い企業が多いのか」という質問をいろんな視察先でぶつけたが、口を揃えたように「弱い企業を救わないからだ」という答えが返ってきたのが印象的だった。日本はどちらかというと、政府の仕事は弱い人や弱い企業を助けることだという考え方が根強い。ところがスイスでは、原則として弱い人も弱い企業も救わない。必然的に、残った企業を見ると強いところばかりということになる。(師匠・大前研一先生談)
実際の話、60歳定年制度には無理がある。というのは年金がもらえるのが65歳から(経済情勢が悪くなれば70歳から(笑))になっていて空白の時間が存在すること。65歳定年制度はまさに団塊の世代の「救世主」だ。まあ、私は「団塊ジュニア世代」ですがね。とくに団塊の世代が年金世代になるのは社会保障上のインパクトが高いといわねばならない。何と言っても人数が多い。年金負担が少子高齢化で二人三脚から肩車という負担といわれたのでさえ私が中学生時代(80年代)だ。だが、老人は1400兆円の70%以上ものお金を持つ。こういう富裕老人に消費してもらうには65歳定年制度の「スローライフ」しかない。サントリーや大和ハウスは「65歳定年制度」にした。若者からは老人がいつまでもいると若者が育たないのではないか?と怪訝な声も聞かれる。2013年から61歳で年金支給、2025年には65歳から年金支給になる。高齢者雇用安定法でだ。高齢者雇用は①従来通り②別の部署に③子会社へ…など考えられるがそのかわり若者は昇給昇進なしになる。もちろんそれは年功序列制度ならで、高齢者の給与を低くしないと年間1社だけで10億円必要になり中小零細企業はもたない。65歳以上の就労意欲人口比率は(日本76.4%米国59.9%ドイツ46.6%フランス19.1%)という。大企業は確かに若者の雇用に影響するだろうが、中小零細企業はまだまだ若者の雇用に余裕があるという。皆がソニーや東芝やNECで働ける訳もない。贅沢病をやめれば雇用環境は好転するのだ。脱・年功序列で「テストを受けて部長支店長になる」制度こそ必要だ。日本は高品質なものを安く売るのではなく、高品質な製品を高い値段で買ってもらって満足してもらう国にならねばならない。そこでは技術と経験をもった熟練工が不可欠だ。大學や高校で熟練工が技術を教えてもいい。2012年度の大卒者の実に23%が「安定職」なし、だという。今春の大学卒業者の進路は進学(大学院等)13.8%臨床研修医1.6%正規雇用60.0%非正規社員3.9%一時的な仕事3.5%不安定な状態にある(進学も就職もしない)15.5%(12万8224人)だという。やはり大卒でも「超氷河期」「東日本大震災」の影響か。就活について。大卒者求人倍率は1.27%(前年1.23%より改善)です。日本では大卒者は44万人いますが「安定重視」「公務員重視」「大企業重視」であるそうです。就活者はインターネットやらで情報を集め1人60社以上受けるそうです。仕事がない訳ではなく「ソニーに就りたい」「Googleに就りたい」など贅沢病です。しかも大卒職業者59.9万人のうち3人に1人(19.9万人)が3年以内に仕事を辞めています。就職の為に資格などとっても無駄です。「お祈りメール(不採用通知)」が大企業からくるだけです。よく「独創的な人材が欲しい」とか企業はいいます。が、嘘っぱちです。私なんて「独創性の塊」のような人間ですが「大卒じゃない」という理由で大企業や中小企業も政党も公的機関も採用してくれません。この国は「大学卒業者」以外はクズみたいな扱いを受けるのです。まあ、インターン制度はいいと思います。私も高校生のときインターンで工場で働いて「向いていない」と解り、高校卒業後専門学校を経てプログラマになり米沢NECで働きました。リーダー育成の為の「社長インターン制度」ははっきりいうと馬鹿ですね。そんなものでリーダー力は身につかない。リーダー力って独創性と似ているんです。一流大卒であるから「すぐれたリーダー」になる訳ではない。変に「いわゆる学歴エリート」に期待しないほうが企業の為ですよ。

バラク・オバマOBAMA CHANGE!Yes We Can!我が心のイエス・ウィ・キャン!2

2013年11月19日 14時06分21秒 | 日記
         2 大統領就任演説





  黒人初第44代米国大統領は09年1月20日に就任した。
 リンカーンの例に習って、列車でシカゴからワシントンD・Cへ入り、リンカーン議事堂の250万人の前で語り掛ける。
「国民の皆さん。
 私は今日、厳粛な思いで任務を前にし、皆さんの信頼に感謝し、我々の祖先が払った犠牲を心にとめて、この場に立っている。ブッシュ大統領が我が国に果たした貢献と、政権移行期に示してくれた寛容さと協力に感謝する。
 これまで44人(第22、24代のクリーブランド大統領は同一人物のため、実際は43人)の米国人が大統領としての宣誓を行った。その言葉は、繁栄の波と平和の安定の期待に語られることもあったが、暗雲がたれ込め、嵐が吹きずさむなかでの宣誓もあった。こうした試練の時に米国が前進を続けられたのは、政府高官の技量と展望だけでなく、「我ら、(合衆国の1788年発行の憲法)人民」が、先達の理想と、建国の文書に忠実でありつづけたためである。それが我々の世代にとっても、そうありつづける。
 誰もが知る通り、我々は重大な危機にある。わが国は(イラクやアフガニスタンで)戦争状況にあり、敵は憎悪と暴力のネットワークを持っている。経済状況も悪く、それは一部の人々の貪欲さの無責任さにあるものの我々は困難な選択を避け、次世代への準備に失敗している。
 多くのひとびとが家を失い、企業が倒産した。健康保険制度もカネがかかりすぎ、多くの学校(制度)も失敗した。毎日のように我々のエネルギーの使い方が敵を強め、地球を危機に陥れている証拠も挙がっている。
 これがデータや統計が示した危機だ。全米で自信が失われ、アメリカの没落は必然で、次の世代は多くを望まない、という恐れが蔓延している。
 今日、私は我々が直面している試練は現実のものだ、と言いたい。試練は数多く、そして深刻なものだ。短期間では解決できない。だが、アメリカはいずれそれを克服できるということだ。今こそ我々がアメリカの時代をつくっていくのだ!
 この日に我々が集まったのは恐れではなく、恐れではなく、希望を選んだからで、争いのかわりに団結を選んだからだ。この日、我々は実行されない約束やささいな不満を終わらせ、これまで使い果たされ、そして政治的な独断をやめることだ。そのために私はここにやってきた。
 我々はいまだ若い国家だ。だが、聖書の言葉を借りれば「幼子らしいこと」をやめるときがきた。我々が不屈の精神を再確認する時がきた。より良い歴史を選ぶことを再確認し、世代から世代へと受け継がれた高貴な理想と貴重な贈り物を引き継ぐときがきた。それはすべての人々が平等で自由で、最大限の幸福を獲得できるという約束である。
 我々が国の偉大さを確認するとき、偉大さは与えられるものではなく獲得するものだと知るべきときがきた。自分で勝ち得るものがそれなのだ。
 我々のこれまでの道はけして近道ではなかった。安易に流れるものでもなかった。それは心の弱い、強欲な豊かなひとだけが得をするという安易な道でもなかった。
 むしろリスクを選ぶひと、実行の人、創造のひとの道だ。恵まれたひしだけでなく、貧しいひとも豊に夢を持てる社会構築こそ大事なのだ。(中訳)
 我々のために彼等は、ないに等しい荷物をまとめ、海を渡って新しい生活をしたのだ。 我々のために彼等は額に汗して働き、西部に住み着き、鞭打ちに耐え、硬い土地を耕してきたのだ。我々のために彼等は(米国独立戦争の戦場の)コンコードや(南北戦争の)、 ゲティスバーグ、(第二次世界大戦の)ノルマンディー、(ベトナムの)ケサンで戦い、死んだ人々を思い起こそう! (中訳)
 我々は旅を続けている。我々は今だに世界一繁栄し協力な国家だ。我々労働者は今、金融恐慌の真っ直中にある。しかし、我々の能力は落ちてはいない。過去に固執し、狭い利益しか守れず、面倒な決定は後回しにする時代は終わった。
 我々は道や橋、電線やデジタル通信網を作り、我々の商業を支え、我々の結び付きを強めなければならない。我々には緑や風や風土、自動車が必要で、我々がやらなければならないことはグリーン・ニューディールという環境公共事業である!
 我々は「できない」という人々にこう答えよう。「イエス・ウィー・キャン(我々には出来る)」と。答えは一様ではないだろう。「イエス」だけでなく「ノー」という覚悟も大事になるだろう。しかし、我々は地球温暖化や環境と戦わなければならない。取り組まなければならない。人種差別とも戦わなければならない。私の父親が60年前は白人街の店に入ることさえ許されなかった。その息子が宣誓している。キング牧師は言った。
「私には夢がある」(アイ・ハヴ・ア・ドリーム)と…我々のアメリカは白いアメリカでも黒いアメリカでも赤いアメリカでも黄色いアメリカでもない、アメリカ合衆国なのだ! (中訳)
 我々は今こそ立ち上がろう!
「未来の世界に語られるようにしょう。厳寒の中で希望と美徳だけが生き残った時、共通の脅威にさらされた国や地方が前に進み、それに立ち向かうと」(ワシントン語録)

生い立ち
1961年8月4日に、ハワイ州ホノルルにある病院で生まれる。 実父のバラク・オバマ・シニア(1936年 - 1982年)は、ケニアのニャンゴマ・コゲロ出身(生まれはニャンザ州ラチュオニョ県Kanyadhiang村)のルオ族、母親はカンザス州ウィチタ出身の白人、アン・ダナムである。 父のオバマ・シニアは奨学金を受給していた外国人留学生であった。2人はハワイ大学のロシア語の授業で知り合い、1961年2月2日に周囲の反対を押し切って結婚、 アンは妊娠しており、半年後に、オバマ・ジュニアを出産する。
父であるオバマ・シニアは、ムスリム(イスラム教徒)であり、イスラム教の戒律(イスラム法)では「ムスリムの子は自動的にムスリムになる」とされている。 イスラム法が適用される国において、脱教は、現在においても死刑とされている。 バラク・オバマ自身は、現在、キリスト教徒の中において、プロテスタントに属している。キリスト合同教会(英語では"the United Church of Christ (UCC)"で、キリスト連合教会、合同キリストの教会、統一キリスト教会などとも訳される。)である。オバマは自伝で、「父はムスリムだったが殆ど無宗教に近かった」と述べている。
バラク・オバマは、自分自身の幼年期を、「僕の父は、僕の周りの人たちとは全然違う人に見えた。父は真っ黒で、母はミルクのように白く、そのことが、心の中ではわずかに抵抗があった」と回想している。彼は自身のヤングアダルト闘争を、「自身の混血という立場についての社会的認識の調和のため」と表現した。
オバマは10代の頃に飲酒をし、マリファナ(大麻)やコカインを使用していたことを語っている。友達と作った "choom gang"というグループのメンバーとして、彼らと伴に時間を過ごし、たまに大麻を使用していた。また、オバマは、薬物を使用したのは、 "push questions of who I was out of my mind"(意訳:自分が何者なのか、という疑問を心の中から追い出す)ための方法だったと語っている。
1963年、両親が別居。1964年、両親が離婚した。 1965年、父であるオバマ・シニアは、ケニアへ帰国した後、政府のエコノミストとなる。オバマ・シニアは、ハワイ大学からハーバード大学を卒業したため、将来を嘱望されていた。 バラク・オバマの両親は、結婚歴が複数回ある。彼は、その為、後述の異父妹が一人、異母兄弟が八人いる(うち、4人死没)。 1971年、バラク・オバマの父であるオバマ・シニアは、息子であるバラクと再会を果たした。 1982年、オバマ・シニアは、自動車事故が原因で逝去した。46歳であった。。
インドネシアへ
バラク・オバマの母は、バラク・オバマとオバマ・シニアの離婚後、人類学者となった。 その後、ハワイ大学において、親交を得たインドネシア人留学生で、後に、地質学者となったロロ・ストロ(Lolo Soetoro。1987年没)と再婚を果たす。
1967年、ストロの母国であるインドネシアにて、軍事指導者のスハルトによる軍事クーデター(9月30日事件)が勃発すると、留学していた全てのインドネシア人が国に呼び戻されたことで、一家はジャカルタに移住した。オバマ・ジュニアは6歳から10歳までジャカルタの公立のメンテン第1小学校に通った。1970年には、母と継父のあいだに異父妹のマヤ・ストロが誕生する。
ハワイへの帰還


プナホウ・スクールの旧校舎
1971年、オバマ・ジュニアは母方の祖父母であるスタンリー・ダナム(1992年没)とマデリン・ダナム(2008年没)夫妻と暮らすためにホノルルへ戻り、地元の有名私立小中高一貫のプレパラトリー・スク-ルであるプナホウ・スクールに転入し、1979年に卒業するまで5年生教育を受けた。在学中はバスケットボール部に所属し、高校時代に、飲酒、喫煙、大麻やコカインを使用したと自伝で告白している。
なお1972年に、母のアンがストロと一時的に別居し、実家があるハワイのホノルルへ帰国、1977年まで滞在する。同年、母はオバマ・ジュニアをハワイの両親に預け、人類学者としてフィールドワーカーの仕事をするためにインドネシアに移住し、1994年まで現地に滞在した。このあいだに、1980年にアンと継父のストロとの離婚が成立した。母のアンはハワイに戻り、1995年に卵巣癌で亡くなった。以上のように、青年時代のオバマはハワイにおいて白人の母親と母方の祖父母(ともに白人)によって育てられた。
大学時代
1979年、同高校を卒業後、西海岸で最も古いリベラルアーツカレッジの一つであるオクシデンタル大学(カリフォルニア州ロサンゼルス)に入学。2年後、ニューヨーク州のコロンビア大学に編入し、政治学、とくに国際関係論を専攻する。
1983年に同大学を卒業後、ニューヨークで出版社やNPO「ビジネスインターナショナル」社(Business International Corporation)に1年間勤務し、その後はニューヨーク パブリック・インタレスト・リサーチグループ(New York Public Interest Research Group)で働いた。ニューヨークでの4年間のあと、オバマはイリノイ州シカゴに転居した。オバマは1985年6月から1988年5月まで、教会が主導する地域振興事業(DCP)の管理者として務めた。オバマは同地域の事業所の人員を1名から13名に増員させ、年間予算を当初の7万ドルから40万ドルに拡大させるなどの業績を残した。職業訓練事業の支援、大学予備校の教師の事業、オルトゲルトガーデン(en:Altgeld Gardens, Chicago)の設立と居住者の権限の確立に一役買った。
1988年にケニアとヨーロッパを旅行し、ケニア滞在中に実父の親類と初めて対面している。同年秋にハーバード・ロー・スクールに入学する。初年の暮れに「ハーバード・ロー・レビュー」の編集長に、2年目にはプレジデント・オブ・ジャーナルの編集長に選ばれた。
1991年、法務博士(Juris Doctor。日本の法務博士(専門職)に相当)の学位を取得、同ロースクールをmagna cum laudeで修了しシカゴ大学の法学フェローとなる。
弁護士時代
ハーバード大学ロー・スクールを修了後、シカゴに戻り有権者登録活動(voter registration drive)に関わった後、弁護士として法律事務所に勤務。 1992年、シカゴの弁護士事務所において、親交を得たミシェル・ロビンソンと結婚。 1998年にマリア、2001年にサーシャの二人の娘に恵まれた。
1995年には、自伝「Dreams from My Father(邦題:『マイ・ドリーム』 出版社:ダイヤモンド社 ISBN 978-4-478-00362-6)」を出版する。 また、シカゴ大学ロースクール講師として、合衆国憲法を1992年から、2004年まで、講義を実施していた。
イリノイ州議会議員
人権派弁護士として、頭角を現し、貧困層救済の草の根社会活動を通して、1996年、イリノイ州議会上院議員の補欠選挙に当選を果たした。 1998年と2002年に再選され、2004年の11月まで、イリノイ州議会上院議員を務めた。 尚、2000年には、連邦議会下院議員選挙に出馬するも、オバマを「黒人らしくない」と批判した他の黒人候補に敗れた。
合衆国上院議員


2004年のイリノイ州の連邦上院議員選挙結果。青はオバマが勝利した群。
2003年1月にアメリカ合衆国上院議員選挙に民主党から出馬を正式表明し、2004年3月に7人が出馬した予備選挙を得票率53%で勝ち抜き、同党の指名候補となった。対する共和党指名候補は私生活スキャンダルにより撤退し、急遽別の共和党候補が立つが振るわず、2004年11月には、共和党候補を得票率70%対27%の大差で破り、イリノイ州選出の上院議員に初当選した。アフリカ系上院議員としては史上5人目(選挙で選ばれた上院議員としては史上3人目)であり、この時点で現職アフリカ系上院議員はオバマ以外にいなかった。
2004年のアメリカ大統領選挙では、上院議員のジョン・ケリーを大統領候補として選出した2004年民主党党大会(英語版)(マサチューセッツ州ボストン)の2日目(7月27日)に基調演説を行った。ケニア人の父そしてカンザス州出身の母がハワイで出会い自分が生まれたこと、次いで「全ての人は生まれながらにして平等であり、自由、そして幸福の追求する権利を持つ」という独立宣言を行った国、アメリカ合衆国だからこそ、自分のような人生があり得たのだ、と述べた。そして「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ『アメリカ合衆国』があるだけだ。ブラックのアメリカもホワイトのアメリカもラティーノのアメリカもエイジアンのアメリカもなく、ただ『アメリカ合衆国』があるだけだ」「イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う『アメリカ人』なのだ」と語り、その模様が広く全米に中継される。長年の人種によるコミュニティの分断に加え、2000年大統領選挙の開票やイラク戦争を巡って先鋭化した保守とリベラルの対立を憂慮するアメリカ人によりこの演説は高い評価を受けた。
なお、ケリーのスタッフがオバマを基調演説者に抜擢したのは、オバマがアフリカ系議員であることからマイノリティーの有権者を惹き付けられるであろうこと、若くエネルギッシュで雄弁であること、また当時イリノイ州議会上院議員であったオバマが、同年の大統領選と同時に行われる上院議員選挙における民主党候補(イリノイ州選出)となることが決まっており、党大会の基調演説者としてアピールすることができれば上院議員選挙にも有利に働くであろうと民主党が期待したこと、などの理由からと報じられた。2006年には、連邦支出金透明化法案の提出者の1人となっている。
2006年を通して、オバマは外交関係、環境・公共事業、退役軍人の問題に関する上院の委員会に課題を提出した。また2007年1月に、彼は、環境・公共事業委員会を出て、健康、教育、労働、年金、国土安全保障、および政府問題委員会に伴う追加課題を扱った。 また、彼はヨーロッパ問題に関する上院の小委員会の委員長になった。
2008年11月4日に行われたアメリカ大統領選挙で勝利したオバマは、次期大統領(英語版)として政権移行に向けた準備に専念するため、同月16日、上院議員(イリノイ州選出)を辞任した。後任は、州法の規定によりブラゴジェビッチ(英語版)・イリノイ州知事(民主党)の指名を受けたローランド・バリス(英語版)が就任した。
 将来、我々の子孫に言われるようにしよう。あの時代は間違いではなかったと。試練にさらされたとき我々の旅は、たじろうこともなく、後戻りすることもなく、自由という偉大な贈り物を前に送り出し、それを次世代に届けたのだ、ということを記録しよう。我々は「できない」という人々にこう答えよう。「イエス・ウィー・キャン(我々には出来る)」と。」(少し著者加筆) …こうしてオバマは大喚声に包まれる。第一歩だった。  

バラク・オバマOBAMA CHANGE!Yes We Can!我が心のイエス・ウィ・キャン!1

2013年11月19日 14時03分56秒 | 日記

バラク・オバマ、
       我が心のYes We Can!

            ~JUST NOW~
                         緑川鷲羽ひとりCIA
                  世界のすべての情報と戦略
               ~学生からサラリーマンOLまで知っていて得する情報
「オバマ大統領」はいかにしてなったか。~
                ノンフィクション
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽
         this data is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



 DEFCON ONE

 WORLD EARTH








         1 バラク・オバマ誕生への道筋



「金正日は危険人物で現代のナチス・ヒトラーで圧制者だ!」
「イラキュー(イラク)、イラーン(イラン)北朝鮮半島(北朝鮮)は悪の枢軸だ!」
 2001年4月、元大統領の息子、ジョージ・W・ブッシュは米国大統領になり大歓迎を受けていた。しかし、イラクで内戦や同時多発テロが頻発するとブッシュは人気がなくなり始める。サヴ・プライム、リーマン・ショックで金融恐慌になる……
 そこに登場したのが黒人の上院議員、バラク・オバマだった。「改革なくして成長なし!」「チェンジ!」「共和党をぶっこわします!」『新しいリーダー』として政界に睨みをきかせた。「イエス・ウィ・キャン(我々には出来る)!」
ワシントンD・C、2006年11月7日中間選挙からバラク・オバマ氏が大統領になるまでを追ったドキュメント映画がある。その中で彼は早朝、ひっきりなしにかかってくる電話をスマホで歩きながら対処し、選挙対策本部に入るシーンがある。当時はまだ無名に近いオバマ氏を早くからマスコミは目をつけていたことになる。欧米のマスコミはなんと先見性があるのだろうか。「ハロー」「どうだ?状況は?」「民主党のベン・カーディンが優勢を保ち…ポール・サーベンス。後任の上院議員に当選の見込みです」オバマはスーツ姿で電話ボックスが何台もあるオペレータ室みたいな選対本部でスタッフと話している。日本みたいな選挙区(都道府県選挙区内)でも、選挙には何十億円もかかるのに全米での選挙はもっとカネがかかる。一説には2兆円ともいわれている。オバマは「電話は?」とある男性スタッフに訊いた。「まだ」「下院は?」「まだわかりません」オバマは言う。「私の目標は応援した全員の選挙人候補(州ごとに共和党か民主党の候補人を州人が選ぶ)がひとりのこらず当選すること」一同から、さすがにそれは、という感じで苦笑が漏れる。だが、オバマは真剣なのである。オバマは女性初の議長になった人物にさっそく電話をかける。「おめでとうございます、そうですバラク・オバマです」
 2007年2月10日、バラク・オバマ氏は大統領への道、アメリカ大統領選挙に立候補を表明した。2007年アイオワ(IOWA)州の選挙対策本部では選挙で電話作戦。当時の選対本部のボランティアスタッフの若い中国系青年のロニー・チャウはいう。「彼が現れればそれだけで人々は熱狂する」。広報担当のトニー・ヴィエトー氏という若い男性白人は、プライベートジェット機から降りてきたオバマ氏と笑顔を交わし握手した。オバマ氏もボランティア選挙スタッフと同じく電話をかけた映像がある。「リンダ、20日に会うのを楽しみにしているよ。旦那さんと息子さんによろしく」「農場を視察する。作業着用意しといて」
 当時、バラク・オバマ氏の名前を知っているアメリカ人はいなかった。しかも、彼はアフリカ系黒人で、まだ50代と若い。国民にカメラを向けて訊いても、「黒人?」「無理だろう」「私はヒラリー」「いまのところエドワーズ」「オバマは若すぎる」とこれまた辛辣な世論であった。しかし、魅力的な天才的な演説で、アメリカ人たちの心を掴んでいく。
(07年出馬演説07年2月10日イリノイ州スプリングフィールドにて)
「皆さんがここに集まったのは私のためではない。この国の将来を信じているからだ。戦争に突入しても皆さんは平和の到来を信じている。絶望の中にあっても、皆さんは希望が生まれるのを信じている。政治は皆さんを疎外し、私たちを長い間分裂させていたのにも関わらず、私たちはひとつの国民になれることを信じている。私たちは今、その旅路に立とうとしている。
 私がイリノイ州に来たのは二十数年前。大学を卒業したばかりの若者だった。教会グループから地域活動の仕事を与えられた。アメリカをよりよくするために、ささやかながら役割を果たせると思って引き受けた。その後、弁護士になり、選挙民の積極的な政治参加次第で自由や平等という私たちの大切な権利が守られることに気付いた。私は上員議員としてこの州都に来た。米国が東西南北が交差するこの地で、私は米国民の特質である寛大さを知った。寛大さをもってこそ、希望あるアメリカを建設できると私は信じるにいたった。だからこそ、私は(スプリングストーンの)この旧州議事堂の下で、(奴隷解放で知られる第16代大統領)リンカーンが、かつて分裂した議会に結束を呼び掛けたこの地で、共通の夢と共通の希望がたたずむこの場所で、皆さんの前に立ち、米国大統領立候補を表明する。
(大統領候補指名受諾演説08年8月28日、コロラド州デンバーの民主党全国大会で)
「4年前、私は皆さんの前に立ち、私自身の話をした。裕福でなく、無名だったケニアからきた若い男性とカンザス州出身の若い女性(オバマ氏の両親)の話だ。彼等は、自分たちの息子が望むことを実現できるのがアメリカだと信じていた。この約束こそ、米国を特別な国にしている。勤勉さと犠牲を通じて私たち一人ひとりが自分の夢を追求できる。それとともにアメリカという一つの家族として団結し、次の世代も夢を追えるようにするのだ。その約束が今、破られようとしている。多くのひとが失業し、家を失い、借金に苦しんでいる。破綻したワシントンの政治、ブッシュ政権の失策が原因だ。
 私は米国人に訴えたい。(本選投票日の08年)11月4日に我々は立ちあがらなけれけばならない。「(共和党り失策は)8年でたくさんだ」と。
 私はアメリカの約束を守るため変革(チェンジ)を公約する。国内で雇用創出する企業への優遇税制や、全勤労世帯の95%を対象とした減税だ。中東の石油依存から10年で脱却する。風力、太陽光など再生可能エネルギーの開発に投資し、500万人の雇用を創出する。すべての国民が利用できる医療保険制度を約束する。男女の給与格差もなくす時だ。 責任ある形でイラク戦争を終結し、アフガニスタンでの国際テロ組織アルカイダと、旧支配勢力タリバンとの戦いを完遂する。テロと核拡散、貧困と虐殺、気候変動と疾病という21世紀の脅威を打ち負かす、新しい国際協調関係を築く。
 この8年間で失われたのは、共通の目標に取り組む国民の意識だ。これを取り戻さなければならない。私の選挙ではない。あなた方の選挙だ。皆さんがワシントンを変えるのだ。 45年前のこの日、全国から人々がワシントンに結集し、若い(黒人公民権運動指導者マーチン・ルーサー・キング)牧師が語る夢を聞いた。あらゆる信条、人類、階層の人々の運命はつながっており協力すれば、私たちの夢は一つに出来るとの訴えだった。牧師は、「後戻りはできない」と叫んだ。私たちは後戻りはできない。子供達を教育し、帰還兵を世話し、経済を立て直し、都市を再生し、家族を守らなければならない。この選挙で我々はもう一度、未来へ向かって行進することを誓約しなければならない」
(大統領勝利宣言08年11月4日イリノイ州シカゴのグラント公園にて)
「長い道程だった。だが今夜、今日の決戦を経てアメリカに変革が訪れた。この勝利は皆さんのものだ。私は最初から当選確実の候補者だったわけではない。金もなかったが労働者が、5ドル10ドル、20ドルと献金してくれた。極寒の日もうだるような暑さの日も見知らぬ人の家のドアを叩いて回ったひとたちのおかげで選挙運動は力を得た。人民の人民による人民のための政治は滅んでいなかった。
 我々の前には大きな仕事が待っている。道は長く険しい。だか、私は今夜ほど希望に満ちたことはない。私は約束する。我々は一つの国民として目標に到達するのだ。
 今夜我々は、この国の真の力は武力ではなく、民主主義、自由、不屈の希望に由来することを証明した。今こそ我々の時代だ。子供達に機会の扉を開き、豊かさを取り戻し、アメリカンドリームを訴える時だ。皮肉や疑いに直面したとき、「できない」と私たちに語るひとがいる時、変わることのない信念で答えるのだ。私たちには出来る、と」
 昔(1992年)、バラク・オバマ氏が上院議員に当選するのを手伝った白人中年男は言う。「彼は立派な事を言うだけでなく、実行力がある。2006年にはどこにいっても演説で人気者になった。メディアの使い方がうまい。天才だろうね」。バラク・オバマと奥さんのミッシェル・オバマの夫婦仲はすこぶるいい。倦怠期等ではけしてない。また、彼には幼い二人の娘がいた。ミッシェル夫人は答える。「すぐに出馬に賛成しなかったわ。どこまでできるか確かめたい事が沢山あったの。国のどこにいけばいいか。スケジュールもハードだろうし、私はスポークスマンとしてどう動けばいいか。娘たちの生活を守る為にどうすればいいか。でも、夫は大丈夫だ、と説得してくれたから今、こうしてここにいるのよ」
 選対本部のデェイブは言う。「全国で2万3000人が選挙スタッフとして、働いてくれる。しかもボランティアで。バラク・オバマ氏ならアメリカを変えてくれる筈だ」
 バラク・オバマ氏はアメリカ中の選挙区を弾丸のように駆けた。当時、睡眠時間も削られ、見えないところでは欠伸もでる。彼は見事な演説で「リンカーンの再来」ともいわれる。バラク・オバマ氏はいう。「黒人でもやれる、それをみせたかった」民主党のアメリカ大統領候補選挙は、元・米国大統領ビル(ウイリアム・J・)クリントン大統領の夫人で世界的に著名・有名なヒラリー・クリントン女史であった。だが、国民はブッシュ、クリントンを嫌っていた。オバマ陣営もヒラリー陣営もテレビで「ネガティブ・キャンペーン」をやる。だが、序盤は圧倒的知名度を誇るヒラリー・クリントン女史(のちのバラク・オバマ政権の第一期目の国務長官(日本で言えば外務大臣))が優位にたって、いた。

   場所はホワイトハウス…
 そんな繁華街にひとりの男がたった。
 黒山の人だかりで、前列者しかその男をみれない。
 大声の、虎のように発する黒人の若い男はいった。
「オバマです。バラク・オバマでごさいます! 私と……このアメリカは新しい国にならなければなりません! チェンジ、イエス・ウィ・キャン!」
「改革なくして経済成長も景気回復もありません! 改革なくして成長なし!
 イラクも北朝鮮もイランも私がぶっ壊します! アメリカの変革のときが来ました!」 黒山の人だかりから拍手があがる。「改革するんです!」
 オオーッと声があがる。女子校生の黄色い声も。その前の大統領(W・ブッシュ)がよっぽど無能であり、なおかつ低能であったためか、はたまたまだその頃は変革人気があったからか、オバマは圧倒的に支持される「米国はマイナスばかり目立つようになった。大統領になったら、いろんな法案を立案して、米国の改革に着手します!」
 痩身な黒いサルのような顔の男は、バラク・オバマである。
 対戦している相手は民主党のジョン・マケイン……あの老人の白人堅物男だ。
  猿のように細長い顔に坊主頭のような髪形、そして抑圧のある低い声…
 となりにはやや太めの白人副大統領パートナー、バイデン氏が笑顔で手をふっている。米国中に音楽とともに民主党のCMが流れる。
「アメリカの明日のために変革を…民主党」
 オバマはまたたく間に人気を博していく。それは一時期の「マイケル・ジャクソンのブーム」にも似ていた。しかし、その当時はオバさんだけでなくあらゆる層から支持された。女子高校生ファンまでいた。サラリーマンも老人も子供もタレントも皆で彼に熱中していた。マスコミも『オバマ支持』に動く。
 前の民主党のクリントンとは違う何かが、バラク・オバマにはあった。
 景気がよくなったのもレーガンやブッシュ父が改革してその芽が彼の時代に出ただけで彼等は何もしてない。クリントンたちは北朝鮮や中東問題を先延ばしにして戦争をしなかっただけだが、B・クリントンは自伝『マイライフ』でいかにも自分が景気回復させ経済発展させたかのように書いている。なにを寝言いってんだ馬鹿野郎!
 ヒラリー・クリントンよりオバマはスマートに見えた。
 ここでいうスマートとは痩せているということではなく、頭がいい、ということだ。
  バラク・オバマ氏はカメラの前で何万人と握手。しかし、アメリカ国民は、バラク・オバマ氏に「ヒラリー・クリントン女史とは違う米国大統領としても「資質」」を望み始めた。当時オバマ氏は若いスピーチ・ライターを雇っていた。30代から40代くらいの若い白人男、ジョン・ファヴロー氏である。彼はケネディの大ファンであった。彼は質問に答えた。「勿論、JFKはライターなら誰でも憧れる。でも、スピーチ的には弟のロバートの方が人間的でいい」
 バラク・オバマ氏のスピーチを書くのは大変だ。オバマ氏自身もプロのライターみたいなものだから。「大衆向けだけでなく、未来志向の話もしたい。(会場で)それぞれの陣営の動員力が試されることになる」
 どんどんオバマ支持派が増殖していく。「CHANGE!」「Yes,We can!」「今、アメリカ合衆国は分裂の危機にある。それをとめるために私が出馬する!」「疲れは?」「少しある。だが、アメリカ国民の苦悩に比べたらたいしたことはない」
「金持ちの候補者や議員は、「アメリカ合衆国のことを熟知しているか?」と問う。私は「熟知していると答える。何故なら彼らが分厚いステーキを食べながら社交界でワルツをおどっていたとき、私達は社会の底辺で奨学金ローンを返しながら働いていたのだから」」


 そして08年11月4日深夜……バラク・オバマは黒人初の第44代米国大統領に選ばれた。アメリカ建国から230年以上、初めての黒人大統領だった。
 オバマは秘書にホウイトハウスでコメントを発表をさせた。その内容は「グリーンディールを開始することとその意味について」であったという。国務長官はヒラリーだ。
オバマは緊張すると、顔を紅潮させる癖があるが、この選挙ばかりはむくんだ顔で蒼ざめ、強烈な衝撃を受けているようだった。
 今度の選挙は負ける訳にはいかない。
 今回は米国の未来がかかっている。オバマの全身の血管の中を情熱……熱い情熱の波が走りぬけた。……米国を改造させる! 世界の改革をするには俺の知恵が必要だ。俺の。知恵が。とにかく世界同時株安だの金融危機だのと糞くらえだ!
 この米国を改革し、レボリューションさせられるのは俺しかいないではないか?!
 オバマの乗ったクライスラーは、官邸に猛スピードで到着した。
 民主党の連中が待っていた。
 かれはいう。
「今日の私は楽しい気分です。グリーン・ニューデールやりましょう!」
 一同は沈黙する。「……グリーン・ニューディールって何です?」
 オバマは続けた。
「一国の大統領たるものグリーン・ニューディールして世界を平和にしていかないとだめです!」オバマには明るいイメージがつきまとう。金権政治で金をバラまいたが、社会の裏側でうごめく印象がない。それはたぶんにオバマが惜しめもなく大金を明るくバラまいたためだろう。しかし、オバマは世論を気にする政治家でもあった。
 改革を失敗したら世論につぶされるかも知れない……オバマは恐れていた。
 しかし、自分でも「改革」とは何なのかよくわからない。まずは学者にでもまかせようか……
「しかし、私にはやらなければならない事業がたくさんある。郷土発展のため、皆さんはこれからも事業の要求はこのオバマに要求すること。
 その意思があれば私はかならずやる。私はロウソクの灯が消えないうちにやらなければならないことはたくさんあるのです!」
 サヴ・プライム、リーマン・ショックによる金融恐慌の重圧がのしかかってきた。
 金融機関も次々と潰れていく……ビック3も傾く……世界同時株安……金融恐慌…
 演説は気迫あふれるものとなった。
「これはアメリカ国民の勝利です! 人民の人民による人民のための政府が始まります! 親愛なる国民の皆さん、我々が直面している困難は本当です。だが、我々には克服できる。この危機に対して我々は責任と再生の気持ちをもって、アメリカが直面する困難への覚悟を示さなければなりません。我々の手で変革を成し遂げて、アメリカを建て直しましょう! チェンジ! イエス・ウィ・キャン! みなさまに神のご加護を!」
 オバマの顔は青ざめ、普段の艶がなかったという。
 かれを支えたのは後援会であった。



沙弥(さや)AKB48大島優子主演NHK朝ドラ原作小説アンコール12

2013年11月19日 05時52分00秒 | 日記





緑川沙弥<沙弥2>


         みどりかわ さや     さや2


                    total-produced&Presented&written by
                     midorikawa Washuu
                             緑川 鷲羽






  愁いを含んだ初夏の光りが、米沢市の河川敷に照りつけていた。五月三日、米沢では「上杉祭り」で、「川中島の合戦」が繰り広げられていた。白スカーフ姿の上杉謙信役が白馬に跨がり、武田信玄の本陣へ単身襲いかかる。そして、太刀を振るう。軍配で防ぐ信玄(三太刀七太刀)…。それは、米沢市で行われる上杉祭りのハイ・ライトであった。
 緑川沙弥は、その模様を大勢の観客とともに、眺めていた。
 沙弥は合戦をみながらも、もどかしさを隠し切れず、唇を噛んだ。作家として認められない。そう思うと、寒くもないのに、身体の芯から震えが沸き上がってくる。沙弥の身体は氷のように硬直した。「…どうしたの?沙弥……具合悪いの?」母の良子が問うと、沙弥は「なんでもない…」と言った。
 それは、きらきらした輝くような表情だった。






         あらすじ


  物語は東京から始まる。この物語のストーリー・テラーの黒野ありさは、東京のある大学に通う女子大生だ。そして、彼女のふるさとにはひとりの友達がいた。それは、緑川沙弥という女の子だった。沙弥は文学賞に受かり、作家デビューが決まったラッキーな娘。 確かに、沙弥はいやな女の子だった。
 意地悪で、自分のことしか考えず、病弱なくせにいつも憎まれ口ばかりたたく。でも、だからといって沙弥はブスではなく、とても綺麗な外見をしていた。そんな外見とヤクザのような言葉使いは、とてもギャップがあった。
 ある日、作家を目指す沙弥が文学賞をとる。そして、上京。しかし、パティー会場で待ち受けていたのは、のちのライバル、朱美里(しゅ・みり)だった。在日韓国人の朱は、学歴のない沙弥をバカにする。対立する沙弥だったが、日本の文学賞の最高峰・青木賞を先にとったのは朱美里のほうだった。緑川沙弥は頑張って執筆を続けるが、まったく売れず、鳴かず飛ばずの日々。失意の彼女の元に、弟子になりたいという美少女が現れる。それから死んだ彼女の恋人・小紫哲哉にそっくりのボーイ・フレンドまで出来る。作家としてはイマイチだったが、緑川沙弥は努力を続ける。
 そして、遂に、沙弥は、日本の文学賞の最高峰・青木賞を取る。至福の時を迎える沙弥。だが、彼女は学歴がないために日本文壇から拒絶されてしまう。華やかな歓迎はただの儀礼で、沙弥を招待したのは地方の弱小学校や講演会のみだった。学界レベルで招待したのはひとつもなく、大学からの招待などひとつもなかった。学歴がないため…日本はそういうシステムになっていたのだ。
 緑川沙弥は努力を続ける。しかし、執筆する作品はまったく売れず、悔しがる沙弥。そんな中、彼女の病気は進行していく。そして彼女はついに長編作品を執筆する。「やりましたね、先生。これでノーヴェル文学賞よ!」「そりゃあいいな…」「乾杯といきましょう」。しかし………沙弥はそのまま倒れて、病院に担ぎ込まれて、志なかばで死ぬ。希望の光りが消える時。沙弥は死んでしまう。珠玉の作品を残して。

 影をひきずりながら常に光をもとめ、上を見つづけた緑川沙弥。その姿は、沙弥を拒絶した日本の姿と、しばしば重なって見えるのである。

                                   おわり




         沙弥のライバルと弟子



 私は、東京のある大学に通う、女子大生だ。
 この物語は、私こと黒野ありさがストーリー・テラー…つまり語り部となってストーリーが展開するファンタジー風少女小説である。例えば、赤毛のアンとか若草物語とかみたいな、ね。そして、主人公は、私のふるさとの米沢市に住む、緑川沙弥である。
 確かに沙弥は嫌な女の子だった。
 病弱なくせに憎まれ口ばかりたたき、気に入らないことがあると暴れる。まったくもって嫌な娘、そんな感じなのだ。「バカヤロー!」「死ね!」「くそったれめ」などと汚い言葉を平気でいう沙弥。でも、彼女には特技がある。それは作家としての能力だ。まぁ、わかりやすくいうと文章がうまい。その結果、なんとか努力して文学賞に当選したくらいだ。私はうっとりと思う。沙弥は天才だった。って。
 沙弥が書くのはおもに小説で、恋愛小説がおもだ。もちろんそれだけではなく、エッセイや国際ジャーナリズム関係のものも書いている。で、やっとこさ認められて賞をとった!……って訳。まぁ、やっとこれで沙弥も「作家先生」ってとこだ。でも、浮き沈みの激しい文学界、しかも最近の活字離れ、なかなかペイするのも容易ではあるまい。プロになったはいいが仕事がこないためにHな小説連載で食いつなぐ、などという作家先生にならなければいいが。『失楽園』とか『チャタレイ夫人』みたいな、どうしようもないエロ小説連載とか。まあ、沙弥はプライドが高いから、『失楽園』に対抗して『動物園』、などと書くことはないだろうけどね。でも、金に困ったら執筆したりして。
 なぜ私がこんなに彼女のことを知っているかというと、私は彼女の親友で高校の同級生だったらだ。(もちろん彼女のすべてを知っている訳ではないけどね)
 何度もいうが、私の名前は黒野ありさ。東京の某女子大学に通う女子大生だ。
 年は彼女と同じ十八歳。
 ルックスのことで言えば、私は沙弥に比べればあまりパッとしないが、それでもけっこう可愛い、と自分では思っている。自惚れかなぁ?
 そう、確かに沙弥は美しかった。
 黒色の長い髪、透明に近い白い肌、ふたえの大きな瞳にはびっしりと長いまつ毛がはえている。細い腕や脚はすらりと長く、全身がきゅっと小さくて、彼女はあどけない妖精のような外見をしていた。沙弥の嘆声な顔に、少女っぽい笑みが広がった。少女っぽいと同時に大人っぽくもある。魅力的な、説得力のある微笑だった。私はたちまち怪しんで、一歩うしろにさがった。なんであれ、沙弥の片棒をかつぐのはごめんだ。ただでさえ、私の魂はぼろぼろなのだ。ただ………沙弥は美人だわ。
 細い腕も、淡いピンク色の唇も、愛らしい瞳も、桜の花びらのようにきらきらしていて、それはまるでこの世のものではないかのようにも思えた。
 それぐらい沙弥は美しかったってことだ。
 沙弥は、観光と温泉でもっているような米沢市に住んでいた。米沢市で有名な人物といえば、越後の龍・上杉謙信、上杉景勝、智君・上杉鷹山、軍師・直江兼続、前田慶次、独眼竜・伊逹政宗、そして町で美少女と有名だった『変人』の緑川沙弥。彼女は、しんと光る満月のようだった。私こと黒野ありさは、観光で静かに活動するような故郷・米沢市を離れて東京の大学に進学した。まぁ、父親の仕事の関係ってこともある。東京での生活もまぁまぁ楽しい。 しかし、一瞬だが、故郷が妙になつかしく恋しく感じることもある。そしてそこで暮らす、沙弥や緑川家の人々のことも。

 緑川沙弥が作家になろうと思ったのはいつ頃だったろう?
 私は前に聞いたことがある。すると彼女は、
「小学校の時に、図書館でゲーテの詩集を読んで、なにがしかのインスピレーションを受けてさ。それで「作家になろう!」って決めたんだ」
 と、にやりと言った。
「ゲーテ?」
「あぁ、そうだ」
 ゲーテの詩集を読んで「作家になろう」と思ったと平然と言ったのだ。だけど、私はそれはちょっと嘘っぽいと思う。だから、
「ゲーテって詩人(注・ゲーテは詩だけでなく小説、音楽、絵画、政治もした)でしょ?詩人じゃなくて作家ってどういうこと?」と尋ねた。
 すると沙弥は「詩じゃあペイしない」といった。
 だから私は「ペイって?」と尋ねると、
「ありさって馬鹿だねぇ。ペイっていうのは儲かるって意味の英語だよ。詩人では儲からないってことを私は言ってんの」
 といって沙弥は私をせせら笑った。
「作家ならペイするの?」
「まぁな」
 沙弥はにやりとして言った。

 しかし、あの病弱な沙弥が作家なんて、なんともピッタリきて笑ってしまう。
 病気がちであるからいつも部屋にいるかベットで横になっている。で、原稿用紙に向かってセッセと小説やらを執筆する、なるほど!って感じがする。
 彼女はちょっとしたことでもすぐ病気になる。冷たい風にちょっと吹かれただけでも、少し気温が高くなっただけでも、冷たい雨に濡れただけでも……すぐに具合が悪くなる。 そのため彼女の母親の良子おばさんは苦労を惜しまず何度も病院につれていき、ちやほやと甘やかし、沙弥はニーチェばりの薬づけで生意気な女の子に育った。しかし、なまじっか普通の生活ができる程度には体が丈夫なので、彼女は本当にわがままで生意気な女の子に育った。わがままで、甘ったれでズル賢い……といったところだ。ひとの嫌がることばかりして、自分のことしか考えない…と、まるで悪女のようだった。
 でも、だからといって彼女はブスではない。それは前述した通りだ。
 私の母は、緑川家の経営するペンション「ジェラ」の隣の家に住んでいた。
 良子おばさんのご主人、つまり沙弥たちの父親はもうすでに亡くなっていて、ペンションはおばさんがひとりできりもみしている。私の父親は東京に単身赴任しているエリート銀行マンだった。が、何を思ったのか、突然脱サラして東京で食堂を始めた。それで私だけでなく、母も東京にきていまでは三人で忙しくやってる、って訳。
 まあ、私は平凡な娘って訳である。
 しかし、沙弥は違う。彼女は平凡ではない。というより少し異常だ。
 緑川沙弥はよく暴れる、きれる、部屋のものを壊したりガラスを割ったりもする。たんに気にいらないといってだ。良子おばさんや彼女の妹のまゆちゃんほどではないが、私も緑川沙弥に被害にあったほうだ。ものを投げられたり、頭をゴツンとやられたり…。それで私が「なにすんのよ!」と怒ると、
「私の機嫌がわるい時に目の前にいるほうが悪い!」
 などとのたまう。どういう理屈だか。こういうのを『屁理屈』というのだ。
  私はよく故郷の米沢市を思い出したりもする。
 私の住んでいた家の自分の部屋の窓からはきらめくような風景がみえたものだ。
 すごく眺めがよくて、窓からはきらきらと輝く上杉神社がみえる。上杉神社は昼には太陽を浴びてきらきらと輝き、夜は月明りが映って輝くような、美しい神社だ。
 私はよく米沢の光景を思い出す。きらきらとした朝日が差し込んで上杉神社が輝く光景を…。それはしんとした静けさの中にあったっけ。
「あたしが死んだら骨は上杉神社にまけ!」といつだったか沙弥は言ってたが、気持ちはわかる。 彼女はよく男の子を騙して上杉神社の境内を散歩した。散歩というよりデートだ。とにかく「外ヅラ」だけはいい沙弥はよく男の子と仲よく歩くことが多かった。
 夕暮れ。セピア色が空や森や山々を真っ赤に染め、きらきらと輝く。沙弥はゆっくりゆっくりと歩く。そして、細く白い腕を伸ばす。男の子が彼女の手を取り、沙弥は白い歯をみせてにこりと微笑む。その光景は私にはなんだかとてもかけがえのないものにも思えた。彼女の本性を知っているはずの私の胸にさえ、深いところに響くような、しみわたるような、そんな光景にも思えた。
 緑川沙弥から電話がきたのは、ちょうど私が東京の自宅でそんな物思いに耽っている時だった。ある日、電話がリーンとなった。で、私は「はい、黒野です」と出た。
 すると病院から彼女は電話でいった。
「おい!驚け、ありさ。受かったんだ!」
「え?何に?」
「バーカ、決まってんだろ!文学賞だよ、文学賞にうかったんだ!」
「文学賞?」
「そう、『文学新人賞』だ!出版だよ、出版までが決まったんだよ!賞とってさ……これで作家デビューだ!」
「ほんとう?!おめでとう!」
 私は思わず嬉しくなって言った。声がうわずった。
 そうか!あの緑川沙弥もとうとう作家か。作家先生か…。なんだか胸にこみあげてくるものがあった。自分が賞をとったわけでもないのに、なんだか嬉しかった。
 そうか!あの緑川沙弥もとうとう作家か!彼女の努力が遂に実ったのだ!
「それでさ……ありさ」
「なあに?」
「東京なんていったことないから……駅に出迎えにきてくれよ」
「東京駅に?」
「あぁ。『つばさ』でいくからさ」
「いいけど、大丈夫なの?」
「なにが?」
「あんた病弱なんでしょ?途中で死んだりとかしない?」
「バーカ、何いってんだよ。………とにかく、出迎え頼むぜ。そしたらお前んちの汚ねえボロ食堂も見てみたいな。後、文学賞の受賞パーティにも付き合ってくれ」
「いいわよ」
 私はそう言った。
 なにが、「お前んちの汚ねえボロ食堂」よ!と言いそうになったが、やめた。私は無駄なことはしない主義だ。冗談でいってるんだろうし、あの沙弥は絶対にあやまったりしない娘なのだ。それは私が一番よく知っている。
 だから私は、
「とにかく、気をつけて来てね」とだけいったのだ。
「あぁ。とにかく嬉しいな。賞とったのも……ひさしぶりにお前に逢えるのも、な」
 沙弥はそういってから「冗談さ」と照れくさそうに笑った。
 まぁ、冗談でしょうよ、私も笑った。

  緑川沙弥が山形新幹線『つばさ』で上京するのは5月頃となっていた。その次の日に受賞パーティがあるのだという。それで、私は母親を誘って、わざわざ黒野食堂を閉めて、タクシーで東京駅までむかえにいった。私は母に、
「……お母さん、今日食堂閉めて。沙弥が東京にくるんだ。駅まで出迎え付き合ってよ」 と言った。
「…え? 沙弥ちゃんが?なんで東京に?」
「彼女ね、文学賞とったのよ!しかも大賞よ」
「へえ~っ、それはすごいわね」母は沙弥をほめた。
「だから一緒に、ね」
「はいはい、そういうことなら仕方ないわね」
 母は笑顔で答えたっけ。
  外に出ると、春だというのに外気がむっと暑かった。
 太陽のとても近い昼間頃だ。春だというのにぎらぎらした陽差しが照り付けて、アスファルトやビルに反射して、なんだか変な気分にもなっていた。
「よかったわね、沙弥ちゃん」
 東京駅に向かうタクシーの中で、母は微笑んだ。「ずうっと昔から作家志望だったものね」
「あれ?お母さん、なんで知ってるの?」
「そりゃあね、沙弥ちゃんにきいたのよ」
「いつ?」
「沙弥ちゃんが小学生の頃よ。「将来は何になりたいの?」ってきいたら「作家!」って言ってたもの」
「へえ~っ。じゃあゲーテの話し、知ってる?」
「まあね、あの話し、ちょっと嘘っぽいけどね」
 私たちはアハハと笑った。
 そして私と母のふたりは東京駅についた。
 凄いひとだ。夏休みでもないのに、しかも平日なのに、ラッシュのような混み具合だった。まぁ、私は大学までは自転車でいってるのでラッシュの満員電車とか、そういうのは知らないけどね。あと、列車でのチカンとか……。
「あいかわらず…すごいひとね」
 母は呆れていった。
「……ほんと」
 私はなんとなく同意した。
 あんまりすごい人ゴミで、沙弥がどこにいるのか分からないかも知れない。そう私は思った。そう思っていると、
「おーい!そこのブスのありさ!そこのブス!」
 と、聞き慣れた声がした。これは緑川沙弥の声だ。人の波の間から、沙弥の頭がぴょんぴょん飛び出していた。彼女は小柄だから、飛び上がらないとダメなのだ。
「よう、ブス!ひさしぶり!」
「沙弥!」
 こうして感動の再会(?)となった。
「よかったよ、出迎えにきてくれて。こないかと思った」
「あ!友達を信用してないな」
「まぁな、だってお前って性格もブスだろ?出迎えをスッぽかすんじゃないかってな。一瞬、そう思ったんだ」
「何いってんのよ、性格ブスはあんたでしょ」
「まぁな」
 私たちはアハハと笑った。
「あ!おばさん、こんにちは。おひさしぶりです」
 沙弥は頭を下げた。
「こんにちは、沙弥ちゃん。おめでとう、ね」
「ありがとうございます」
 沙弥はもう一度、頭を下げた。そして私たちは彼女を連れて、沙弥のいう『ボロ食堂…黒野食堂』へとタクシーで戻った。『黒野食堂』とは私の父が東京で始めた食堂だ。東京……とはいっても下町の方で、荒川の近くである。だから、お洒落なイタリアン・レストランとかフレンチ・カフェとか、そんなのとは一線をかくす。というより、『黒野食堂』とは単なる、大衆食堂で、近所のおっちゃんおばちゃんや学生らの食堂なのである。
 まぁ、確かに、『ボロ食堂』、だ。
 でも、まぁ、いいではないのって感じもするな私は。

  次の日の午前中に『受賞パーティ』が都内の某ホテルで行われるという。それで沙弥は私の自宅に泊まった。一銭でも浮かせようという、緑川沙弥のハイパー・どケチぶりが発揮されたようだ。まぁ、でも私はひさしぶりに彼女と一緒に眠って、おしゃべりして、とても楽しかった。

 次の日は午前中に都内の某ホテルで『受賞パーティ』が行われるということで、私も緑川沙弥も早めに起きて、パーティ・ドレスに着替えた。私は付き添いで、赤いドレス、沙弥のはパール・ホワイトのやつだ。くやしいけど、彼女は私より可愛かった。
 しかし、その時、誰が予想したろうか?『受賞パーティ』で、あの緑川沙弥の最大のライバル……朱美里(しゅ・みり)が登場しようとは……。
 朱美里(しゅ・みり)は在日韓国人の娘で、だいたい歳は緑川沙弥と同じくらいだ。新進気鋭の新人作家で、『家族の絆』だけが売りである。この後、日本文壇の最高頂『茶川賞』をとってからはもっといい気になって、「日本の教育の失敗は『家族の絆』が崩壊したからだ」とかなんとか評論家ばりに偉そうに主張するのだが、それは後述する。
 とにかく朱美里は、沙弥とくらべるとそんなに美人じゃない。キツネ目だし、面長の顔だし、性格の悪さは沙弥の方が上だけどね…。
 それよりなにより驚いたのは、新人文学賞の大賞が緑川沙弥だけでなく、この朱美里もだったことだ。つまり大賞は、同時受賞って訳で、なんだこりゃって感じなのだ。
 私たちがパーティ会場に入ると、みんなが沙弥の美しさにため息をもらした。確かに、沙弥は美しかった。隣にいると私なんかは引き立て役みたいで惨めなくらいだった。
「沙弥………皆、あんたに注目してるわよ」
 私がそういうと、彼女は、「人寄せパンダさ」と、訳のわからぬことを言った。
 私がクエスチョンな顔をしていると、「あなたが緑川沙弥ね」と、声をかける女の声があった。「え?」それが朱美里(しゅ・みり)だった。
「私と一緒に大賞取ったからっていい気にならないでね」
「いえ……私は黒野ありさ。緑川沙弥はこっち!」
 私は言った。すると、生意気な朱美里の態度に頭にきたのか、沙弥が、
「お前が、しゅ・みり…か?」と睨んできいた。
「そうよ。あんたみたいなのと一緒なんてヘドがでるわ。大学も出てないようなのと…」「なんだとこのアマッ…やんのか?!」
「暴力反対!…ですわ」
 パーティ・ドレス着ながらケンカはやめてよ…って私は思った。そして、とにかくこの瞬間から、緑川沙弥は朱美里(しゅ・みり)を徹底的に憎むようになった。
 宿命のライバルってところか、諸葛孔明と司馬仲達みたいな、っていってもわからないかな?もちろん、朱美里も沙弥を憎んでいたようだ。みればわかるか。
 とにかく、こうしてパーティは終わった。
 そして、後に残ったのは、単なる『憎しみ』だけだった。

  腹立たしい気持ちのまま、次の日、緑川沙弥は新幹線でふるさとの米沢市に帰ることになる。ここからずっと私が沙弥に付き添っていた訳ではない。だから、田舎での彼女の行動とかはのちに緑川沙弥の弟子になる、銀音寺さやか、や、沙弥の妹のまゆちゃんなどから聞いた話しを参照して書いているのでご了承のほどを。
 銀音寺さやか、って誰かって?
 それは後述する。                               


2014年始動企画「hyper groove(ハイパーグルーブ・通称「ハイグル」)」いよいよチェックメイト!

2013年11月18日 16時06分39秒 | 日記


Title " (writer, freelance journalist Planner Strategist)"
Golden Pheasant. Pseudonym MIDORIKAWA Washu. Some of the (public before allowing (Japan Version Patent Office reference patent, utility model held a number (demo CD-R already mailed) to (AKIMOTO Yasushi music companies such as hyper groove) (Japanese version see blog) music songwriting novel writing )) Painting creation (oil painting-illustration (see blog))
Niche creative. Not good English. It is studying English conversation but almost impossible. Japanese translation is required or Japanese. Political and economic field is also good. However, math is not good at the same level as in elementary school.I am waiting request in Japanese. Labor costs me my by "creation" is high, but please, please. It is impossible patent is not a billion yen. The goal is earn 500 million yen least 1 trillion yen best. My mission noblesse oblige. I'll do my best in the abacus and Analects. Nice to meet you.

上杉鷹山(大河ドラマ)キャスト
                     原作・緑川鷲羽 脚本・田渕久美子
                     音楽・大島ミチル
       

      上杉鷹山(治憲)…………    木村拓哉(SMAP)
     幸姫 …………    渡辺麻友(AKB48)
上杉直丸(少年期)………    鈴木福
      上杉重定    …………    宇津井健
      竹俣当綱    …………    中村梅雀(2代目)
      莅戸善政(大華)…………    風間杜夫
      木村高広    …………    京本政樹
      藁科松伯    …………    高嶋政伸
      お富の方    …………    浅野ゆう子
      佐藤文四郎   …………    今井翼(タッキー&翼)
      旅館の女将   …………    鈴木砂羽
      水沢七兵衛   …………    佐藤B作
      須田満主    …………    平泉成
      黒井半四郎   …………    笹野高史
      細井平洲    …………    寺尾聰
      文四郎の恋人  …………    多部未華子
      色部照長    …………    すまけい
      紀伊      …………    香川京子
      七家      …………    神山繁・北村総一郎・森山周一郎

        他 

NHK朝の連続テレビ小説か民放でドラマ化希望「沙弥(さや)」(過去ブログ連載小説参照)

    「沙弥・さや」主題歌「どんなことがあっても…」hyper groove
    原作・緑川鷲羽わしゅう・脚本・宮藤官九郎・音楽・大島ミチル(天地人)

    緑川沙弥   …………   大島優子(AKB48)
黒野ありさ  …………   篠田麻里子(元・AKB48)
緑川良子(母)……………  吉行和子
    緑川まゆ(妹)……………  美山加恋
    緑川和宏(兄)……………  おさる
    銀音寺さやか …………   渡辺麻友(AKB48)
    上野樹里、貫地谷しほり…  特別出演
(本人・swgirlsのさやかの学生時代友達)
    緑川彰(父)…………    笹野高史(写真)
    朱美里(韓国人)……    真矢みき
    黄江(おうえ)健三郎…   平泉成
    ありさの友人 …………   加藤夏希、ベッキー、倉科カナ、剛力彩芽ら
    ありさの父  …………   寺島進
    ありさの母  …………   高島礼子
    沙弥の恋人(小紫・赤井)  永井大
    チンピラ・敵 …………   劇団ひまわり
    緑川こう(祖母)…………  正司歌江   
                   他(山形県米沢市を舞台とした長編ドラマ)

 NHKか民放アニメーション(か、実写版)
MA螢(マジック・エンジェル螢(Magic Angel hotaru))過去ブログ連載小説参照

   原作・緑川鷲羽わしゅう・音楽・大島ミチル


   青沢螢    …………   渡辺麻友
   赤井由香   …………   板野友美
   セーラ(妖精)……………  谷花音
   黒野有紀   ……………  前田敦子
   黄江美里   ……………  篠田麻里子
   神保先生   ……………  劇団ひとり
   アラカンら敵 (劇団ひまわり)
   黒野有紀の母 ……………  高島礼子
   赤井由香の父 ……………  平泉成
   黄江の父   ……………  北大路欣也
                    他    

NHKか民放ドラマか映画・原作緑川鷲羽「異常人 WATER MAN」
(緑川鷲羽わしゅう過去ブログ参照)・脚本・田渕久美子 音楽・大島ミチル
  異常人・キャスト
  T橋和則 ………  井手らっきょ
  魚田みすず……… 渡辺麻友(AKB48)
セロン・カミュ… セイン・カミュ
  ミッシェル……… リサ・ステグマイヤー
  由美釈子 ……… 釈由美子
  武田医師 ……… やくみつる
  和田あゆ子 …… 和田アキ子
  緑川鷲羽 ……… 篠田麻里子(元AKB48)  

平成25年某月某日    hyper groove企画書


          緑川鷲羽みどりかわわしゅうプランナー/ストラテジスト
         hyper groove are,washumidorikawa AKB(&6),Becky♪♯
私緑川鷲羽(音楽活動のみ緑川鷲羽2014ReBORN上杉謙信)と女性ボーカルベッキー♪♯+(AKB48秋元才加・入山杏奈・大島優子・川栄李奈・峯岸みなみ・北原里英)希望)作詞作曲緑川鷲羽。プロデュース。リーダーDJKeyなど緑川鷲羽。AKB48さんら広報。ベッキー♪♯+(AKB48秋元才加・入山杏奈・大島優子・川栄李奈・峯岸みなみ・北原里英)さんが駄目なら掘北真希、井上真央、中川翔子、新垣結衣、綾瀬はるか、松浦亜弥、後藤真希、石原さとみ、関根麻里、成海璃子、宇多田ヒカル、北乃きい、南明奈、上戸彩、福田沙紀、さとう里香、加藤ローサ、南沢奈央、戸田恵梨香、優木まおみ、高橋愛、平愛梨、など。hyper grooveの登場曲(大島ミチル「天地人 天~運命」)旗印、上杉の毘沙門天の旗と龍の旗。家紋、上杉家の旗印。
   編曲HAL(希望)  (カラオケ)秋元康さんには印税より「AKB48レンタル料金」を払います。

①1 funky night!Funky dance! 2 don't stop dancing to my friend.
3 どんなことがあっても…      4 anyway together
5 twinkle twinkle (X'mas mix)6 just one、7 just do it together 8 冬よ
9  love again 10 シャガール11 dAnger(inter lude)12 GIRL 13 It’s Automatic gun
14 Twinkle knight ②1 All-night RHYTHM 2 Time magic 3 NEREID 4× 5 See is…6 ASAP RSVP 7 そばにおいでよ 9 You can dAnce ③1 We are Positive girl 2 do the impression 3 Face to Face 4 Your best friend 5 I am beyond the time 6 dAnce to positive girl 7 I'ts graduation 8 ありがとう 9 starry romance night 10 going home 11 we are RHYTHM 12 Wanna kiss

ポスト小室哲哉(衣装・緑川鷲羽わしゅう戦国basara2上杉謙信衣装、AKB48(&6)衣装・郵送済みファッションデザイン画参照)hgは「アイドル・ユニット」ではなく「アーティストユニット」です。メンバーに「作詞作曲」も依頼する予定です。hgはAKBとは音楽のジャンルが違うのです。稚拙アレンジはプロに。詐欺でない。「どんなことがあっても…」は大島優子主演のnhk朝の連続小説ドラマ「沙弥」の主題歌に。
秋元先生には私がAKBが有名になったからお金目当てに尻尾をふってきた者で、利用されるとお考えかも知れません。でも違うんです。大島優子らが無名でもつかったと思います。私はベッキーや大島優子らをアーティストとして欲しいんです。印税は払うからあなたは何もしないで儲かるんですよ。復興応援ユニットです。是非!






諦めなければ夢は叶う
 人生はいろいろで誰だって順風満帆な人生などない。いろいろなひとがいていろいろな夢がある。アイドル・グループAKB48の高橋みなみというひとの「努力は必ず報われる」というポジティブな考えは好きだ。よくひねくれたやつが「確かにそのひとの夢は叶ったのかもしれない。だが、その陰で何千何万のひとが夢破れている」という。くだらないと思う。そんなことをいっていたら誰も頑張らくなる。全員が医者やアイドルや歌手や億万長者になれる訳ない。だが、諦めなければいい。俳優や歌手になりたかったら40歳になろうが60歳になろうが続ければ活路は開ける筈だ。「夢破れた」という時点で人生に敗北している。90歳の作家だっているのだ。死なない限り人間の可能性は無限大である。努力は必ず報われる、その言葉で頑張ろう!

緑川鷲羽わしゅう監修「hypergroove法度(ルール)」
(1)緑川鷲羽わしゅうが死んだらhg解散(2)ダメ人間に貢がない(3)長幼の序を守る
(4)活字本を最低月一回読む(5)結婚しても離婚しても夫・子供に依存しない(慰謝料×)
(6)学歴・年齢を詐称しない(7)子供・ペットを甘やかさぬ事(他人に優しく自分に厳しく)
(8)緑川鷲羽わしゅうが嫌いなら脱退(9)お中元お歳暮・誕生祝×(10)ヤミ金詐欺は警察通報
(11)英会話覚えること(12)節約・貯金・お金を大切に「贅沢は敵だ」炎の守銭奴たれ!
(13)贅沢生活・タトゥー(刺青)×(14)ローン詐欺、ギャンブル×ライブ後打ち上げ×全部割り勘で。借りはつくらない(甘えるな)
(15)実名・悪口・嫌がらせ×(16)トイレは我慢するな(17)差別・集団虐め・いじめ×
(18)オカルト・占い・手相・風水・祈祷、信じない事(19)大切なものは皆で共有
(20)挨拶はきちんと。やくざに関わるな。株買うな(21)結婚・恋愛自由(産休1年)
(22)タバコ×振り込め詐欺やセクハラ、パワハラ、ストーカ被害は警察へ(DVも)
(23)アルコールはたしなむ程度で(酒酔い運転禁止)(24)ドラッグ(麻薬)や盗作×
(25)フルヌード×(26)お金の貸し借り・食事などの貸し借り×(27)クイズ・学歴番組出演NG
(28)生理休暇(1日から3日有給)(29)論語と算盤(30)ノブレス・オブリージュをし、人間として恥ずかしくない人間になる。正しい「炎の守銭奴」たれ!


nhk土曜日放送番組「週刊ニュース深読み」緑川鷲羽サイトコメント書き込み卒業について

2013年11月17日 10時46分28秒 | 日記
  nhk土曜日放送番組「週刊ニュース深読み」緑川鷲羽サイトコメント書き込み終了について。
まず私は下記の戦争論を投稿(テーマ「ロボット兵器」)しました。


ロボット兵器も戦争という殺人も
緑川 さん 山形県 40代 男性

 ロボット兵器・無人殺戮兵器…SF映画のようなことが現実としてある。兵器・無人攻撃機、当たり前ながら「人殺しの兵器」だ。だが、私は「平和ボケ」した凡人のように「戦争は人殺しで悪だ。絶対してはならない」とは思わない。まずは戦争は悪だ、ということなど幼稚園児でもいえる事だと解って欲しい。確かに戦争は悪だが、その悪によってもっと強大な悪を叩き潰す事が出来るのだ。第二次大戦で連合軍が、ナチスヒトラーや帝国日本の野望を叩き潰さなかったら世界はどうなっていましたか?綺麗ごとではなく、コンストラクティブな意見が重要なのだ。戦争自体には善も悪もない。勝てば善、負ければ悪なだけ。無人殺人兵器は「敵を殺し、自分の兵士が傷つかない」等利点が多い。綺麗ごとで「所詮人殺しだ」等赤ん坊でもいえる。まあ、まずは隗より始めよ、というに尽きる。

するとある同一人物が偽名と偽年齢で、


やなせたかし氏の生前のコメント
しらとただ さん 東京都 50代 男性
「戦争は悪だが、その悪によってもっと強大な悪を叩き潰す事が出来る」というご意見には、アンパンマンの生みの親、やなせたかし氏の生前のコメントをお送りしたい。
『正義というものがあるんだったら、ミサイルをぶち込んで何かをやっつける、ということではなくて、今、飢えている人を助けるということの方が、まず真っ先じゃないかと思う。』「正義」を声高に叫ぶ者が最もキナ臭い。戦争は「正義の為」ではなく「誰かの利益の為」に行われるのが世の常だ。

ひとこと ろんろく さん 石川県 20代 男性
戦争は絶対に駄目。平和ボケといわれても言います。途上国の紛争を解決させたい。平和ボケですか?赤ん坊でもいえる当たり前のこと、何だかんだ理屈つけて難癖つけるのは不愉快です。国連は赤ん坊の集まりなんですか?平和求む。ロボット兵器反対。

等と綺麗ごとを並べてサイトが炎上しました。私は「戦争は正義の為に行われている」等一言も言っていないし、「誰かの利益の為に戦争が行われる」等当たり前に知っている。そういうことにたいして反論のコメントを送信しているがnhkは無視して載せない。卑怯である。私だって途上国の紛争を解決させたい。「紛争解決が平和ボケ」等いってないし、「国連は赤ん坊の集まり」ともいっていない。とにかく討論ともなっていないし私が言う「コンストラクティブな議論」ではない。この人物は悪口と感情論と水掛け論で、まともじゃない。nhkは私の反論コメントを載せないのは卑怯ではないか?まずもう深読みへのコメントを卒業するので皆さんさようなら、ということ。

東日本大震災 震災から2年8か月「原発の現状と将来戦略とは脱「集団ヒステリー」」

2013年11月14日 14時04分38秒 | 日記
 「東日本大震災」 
 
償い、廃炉、電力供給 東電「3分社化」を提言する (1/2ページ)2013.11.10連載:大前研一のニュース時評。自民党の東日本大震災復興加速化本部(大島理森本部長)がまとめた第3次提言案によると、東京電力福島第1原発の汚染水対策の遅れを防ぎ、廃炉を円滑に進めるため、東電の関連部門の分社化や一部組織の独立行政法人化を検討するよう促している。数週間前、菅義偉官房長官は「東電を分けるなんてことはしません」と語っていたが、すぐにこの大島リポートが出てきた。私は「この方向性はなかなかいいぞ」と思ったものだ。ただ、自民党の提言には、廃炉事業の社内分社化、完全分社化、独立行政法人化の3案が示されているが、“償い会社”と廃炉事業は一緒にしないほうがいい。また、賠償をしながら、柏崎刈羽原発(新潟県)などを稼働させることにも無理がある。もうひとつ、東電の広瀬直己社長の時間の使い方をみても、99%は福島に取られてしまっている。そうすると、首都圏3000万人にどうやって電力を供給していくのかという部分が宙に浮いてしまう。これこそ、分けなくてはいけないのではないか。そこで私が考えているのが、東電を基本的に3つに分けるというもの。まず1つ目は、除染や被害者の人たちを償っていくという部分を担う会社。この本社は福島に置き、原賠法(原子力損害の賠償に関する法律)に基づいて運営していく。2つ目は廃炉事業を行う会社。廃炉には30年、ひょっとすると50年と非常に長いスパンが必要になる。将来的には日本全国の原発54基はすべて廃炉になるわけだが、2-3基しか持っていない電力会社が廃炉を行うというのは無理な話。東電と原燃が先行する廃炉のノウハウは全員にとって必要になってくる。そこで、日本全体の原発に向けた廃炉の会社(廃炉機構)をつくるわけだ。安倍晋三首相は福島第1原発5、6号機について、「事故対処に集中するために廃炉を決定してほしい」と東電に要請したが、当然これらの廃炉作業も対象となる。今後、原発を輸出するにしても、建設から廃炉まで一貫して責任を持たないと受注できない。そういう意味では、廃炉のノウハウを1つに集めて固めておかなければならない。もうひとつ、汚染水の問題というのは、わりに短期的にケリがつくと思う。永遠に続く問題ではない。これは廃炉事業とは違う。除染に関しては田中俊一規制委員長が「100ミリシーベルト以下で人体に何らかの影響が出る、という証拠はない」という注目すべき発言を最近行っている。またIAEAも1ミリシーベルトを除染のターゲットとすることに疑問を呈している。当たり前だ。チェルノブイリなどの経験からも除染はしない方がいいのだ。除染したものを置く場所もないし、自然界でも1ミリシーベルトくらいの宇宙線はあるので、費用がかかるわりには効果が薄い。費用の国民負担も10兆円を超えると試算されているので途方もなく大きい。除染利権を生むだけで実質的なメリットはない。ここは、放射線が専門である田中委員長が(たとえば15ミリシーベルトとか30ミリシーベルトという)安全レベルを宣言し、それ以下のところに関しては帰宅開始をする、それ以上のところに関しては国が買い上げる、という明確な方針を出すべきだ。そして3つ目は、首都圏の発電をまかなう本来の仕事をする電力会社だ。その会社が全力を挙げて取り組まなかったら新潟の泉田裕彦知事が柏崎刈羽の再稼働に合意することもないだろう。(2013年11月14日大前研一メール「東電は償い・廃炉・電力供給の3分社化するべき」)。安倍総理大臣は、東京電力福島第一原子力発電所を視察したあと、記者団に対し、運転を停止している5号機と6号機を廃炉にするよう東京電力側に要請し、廣瀬社長は年内に判断する考えを示したことを明らかにしました。また、安倍総理大臣は、みずからが責任者として事故処理や汚染水問題に対応していく考えを強調しました。この中で安倍総理大臣は、東京電力福島第一原子力発電所にある6基の原子炉のうち、事故当時は定期検査中で、現在も運転を停止している5号機と6号機について、「事故対処に集中するためにも、停止をしている5号機と6号機の廃炉を決定してもらいたいと要請した。これに対し東京電力の廣瀬社長からは、5号機、6号機の取り扱いの判断を年内にするということだった」と述べました。また、安倍総理大臣は、廃炉に向けて安全対策に万全を期すため、現場の裁量で使用できる資金を確保すること、しっかりと期限を決めてタンクにためてある汚染水を浄化することも東京電力側に要請したことを明らかにしました。これに対し東京電力の廣瀬社長は「資金はすでに引き当てている1兆円に加えて、さらに1兆円を確保していく。また来年度・2014年度中に汚染水の浄化を完了していく」と答えたということです。さらに安倍総理大臣は、汚染水問題について、「福島近海においてモニタリングを行っており、その結果、IOC=国際オリンピック委員会の総会が開かれたアルゼンチン・ブエノスアイレスで話したように、汚染水の影響は、湾内の0.3平方キロメートルの範囲内で完全にブロックされている。いずれにせよ事故処理、汚染水処理は、国が前面に出て私が責任者として対応していく」と述べました。東京電力「年末までに判断したい」これについて東京電力は「総理のことばは重く受け止めているが、取り扱いは未定で、仮に廃炉にしたり、研究用施設に転用したりする場合、関係者との調整が必要になるため、年末までに判断したい」と話しています。また、福島第二原発については、「安定的な冷温停止状態にあり、引き続き、施設の復旧を進めるとともに監視や点検に努めたい。今後の扱いについては国のエネルギー政策の議論や、地域の意見を聞いて検討していきたいが、現時点では未定だ」と話しています。官房長官「地元から強い声あった」菅官房長官は午後の記者会見で、「政府に対して、これまでも地元のみなさんから『廃炉にしてほしい』という強い声を頂いていた。そういうなかで、きょう、安倍総理大臣が、事故対応にしっかり集中するためにも廃炉を決定してもらいたいという思いの中で判断されたんだろう」と述べました。
また、菅官房長官は、記者団が「廃炉に向けて資金繰りの援助など東京電力に対する新たなスキームを考えているのか」と質問したのに対し、「現時点では考えていない。現在あるスキームの中で最善を尽くして、全力で取り組んでいるのが現状だ」と述べました。福島第一原発5・6号機とは東京電力は、福島第一原子力発電所にある1号機から6号機の6基のうち、1号機から4号機については、去年3月、廃炉の手続きをとっていましたが、5号機と6号機の2基の扱いについては方針を明らかにしていません。5号機と6号機は、おととしの原発事故では定期検査中で運転を止めていて、原子炉は冷温停止の状態になっていました。また、地震や津波のあと外部電源が失われ、冷却装置の一部が使えなくなったため、一時原子炉の圧力が上昇するなどしましたが、6号機の非常用発電機が被害を受けなかったことなどから、再び冷温停止にすることができました。
福島県は、福島第一原発の5号機6号機だけでなく、福島第二原発の4基についても廃炉にするよう求めています。宮城・石巻市の私立日和幼稚園の送迎バスが東日本大震災の津波に巻き込まれ、園児5人が死亡した事故について、4人の遺族が「安全配慮を怠った」として運営法人と当時の園長に計約2億7000万円の損害賠償を求めた訴訟で、仙台地裁は2013年9月17日、園側に約1億7700万円の支払いを命じた。津波の犠牲者遺族が管理責任をめぐって起こした裁判で判決が出たのは初めてとなる。 裁判では園側が大津波を予見することができたかどうかが大きな争点となっていたが、仙台地裁の齊木教朗裁判長は「巨大地震の発生を予想できなくても、およそ3分間も続いた巨大地震の揺れを実際に体感したのだから、津波を予想できたはずだ。園長は津波警報が発令されているかどうかなどの情報を積極的に収集する義務があったのに怠った」と指摘した。 読売新聞の報道などによると、バスは11年3月11日15時頃、高台から低地の海沿いに向かい、7人を降ろした後、園に戻る途中で津波に巻き込まれ横転。園児5人と女性職員1人が死亡、運転手は車外に押し流されたが無事だった。だが、私はこの裁判結果は酷いと思う。こんな「100年に一度あるかないかの大災害」で、誰も予測できないような大災害被害で「八つ当たり」みたいに「死んだから責任とれ、金払え」というのは無責任だし、あまりにも幼稚な考えだ。こんな裁判意味ないよ。とんでもない裁判結果だと思う。たまたまラッキーにも運転手が命が奪われなかったことを「なんで家の子は死んだのにお前は…」と「集団ヒステリー」みたいに怒り心頭に感じ「感情論」だけで裁判を起こす。まるで能天気な「脱原発デモ」である。無意味な裁判である。
2013年9月9日、「誰の刑事責任を問えない」。1年超にわたって福島第一原発事故の捜査を続けてきた検察当局の結論は「全員不起訴」だった。訴えていた被災者は残念だったが、これは予期せぬ震災と津波で起こったことであり、当たり前なのだ。確かに当時の民主党・菅政権は数か月もメルトダウン・メルトスルーを隠ぺいした。だが、だからといって八つ当たりみたいに東電や菅直人を恨んでも仕方ないし、何も生まれない。お金に困っているのはわかるが、まるで「集団ヒステリー女」だ。ちなみに容疑不十分は「勝俣恒久(東京電力会長)」
「清水正孝(東電社長)」「武藤栄(東電副社長・原子力・立地本部長)」「斑目春樹(原子力安全委員会委員長)」「寺坂信昭(原子力安全・保安委員長)」。容疑なしが「菅直人(首相)」「海江田万里(経済産業相)」「枝野幸男(官房長官)」(肩書き事故当時)である。被害者意識も理解できるが「八つ当たり」はやめようね。じゃあ、あなた方が当事者だったら事故を防げたの?後からなら誰だっていえるよ。まるで能天気な「脱原発デモ」だ。日本人として、恥ずかしい。こんな裁判意味ないよ。
2013.9.4 12:46 [韓国]
 韓国の与党セヌリ党の黄祐呂代表は4日、東京電力福島第1原発の汚染水漏えい問題に絡み、日本政府が汚染状況の情報提供などで非協力的な態度を続けていると指摘し、こうした状況が続くなら、安全性が確認されるまで日本からの食品の全面輸入禁止も考慮しなければならないと述べた。党の会合での発言。
 同党は日本政府が汚染水対策を発表する前日の2日にも同様の見解を表明している。韓国では毎年、中秋節「秋夕」(今年は19日)前後に生鮮食品の消費が増えるが、汚染水漏えいによる水産物への不安拡大で消費の冷え込みが憂慮されている。与党として安全確保に努力する姿勢を強調する意図もうかがえる。
 汚染水漏えい問題では、日本政府は放射線量などのデータを韓国に提供し、韓国外務省副報道官が「日本は非常に協力的だ」と述べるなど、韓国政府は日本を批判する姿勢は見せていない。(共同)
福島第1原発:汚染水対策に予備費 五輪招致を意識。毎日新聞 2013年09月04日 08時00分(最終更新 09月04日 08時21分)原子力災害対策本部と原子力防災会議の合同会合の終わりにあいさつする安倍晋三首相と茂木敏充経産相、田中俊一原子力規制委員会委員長ら。政府の主な汚染水対策 ◇財務省抜き、官邸と経産省で検討。 東京電力福島第1原発で相次いでいる汚染水事故で、政府の原子力災害対策本部(本部長・安倍晋三首相)が3日に了承した国費470億円の投入方針のうち、今年度予算の予備費使用は、首相官邸と経済産業省が8月中旬から財務省抜きで検討を進めていたことが分かった。予備費210億円を充て、原子炉建屋への地下水流入を防ぐ凍土遮水壁の建設や汚染水処理装置の増設・改良計画を前倒しで進める姿勢を演出した。汚染水問題に海外の関心が高まる中、2020年夏季五輪への影響などを懸念し、対策を急いだとみられる。 ◇欧州での批判強まり。 「汚染水問題を含め、福島第1原発の廃炉を実現できるか否か、世界中が注視している。政府一丸となって解決にあたる」。首相は3日の対策本部でこう強調した。汚染水の海への流出は8月7日の対策本部で議題になったが、その後も19日に貯蔵タンクからの漏れが判明。英BBCが「汚染水の量は(日本政府と東電に)信じ込まされてきた数値よりはるかにひどい」という専門家の意見を紹介するなど、欧州を中心に海外メディアの批判が強まった。政府内でも「五輪招致もある。いつまでも放置できない」(官邸筋)という危機感が高まり、菅義偉官房長官は同じ26日の会見で「予備費の活用を含めてできる限りのことを行うよう経産相に指示している」と表明した。菅氏は同時に、指示した時期を「2週間前」と明かし、この時まで財務省は「蚊帳の外」だった。「予備費を一体何に使うつもりだ」と戸惑う同省に対し、官邸側は、凍土遮水壁建設に14年度予算で経産省の「廃炉研究費」の一部を充てるという既定方針の前倒しなら、最後は財務省を押し切れると踏んでいたようだ。菅氏は9月3日の記者会見で「汚染水問題は日に日に緊急性を増している。今回の措置は、東電に任せずに政府が前面に立って解決に当たる意思表示だ」とアピールした。 とはいえ、政府は、汚染水対策以外で東電に財政的な関与を強めることまで想定してはいない。政府筋は「事故処理を東電がやるという前提が崩れると、際限がなくなる」と、あくまで例外を強調した。自民党の脇雅史参院幹事長は3日の記者会見で「民主党政権にも大きな問題はあった」とした上で「対策は少し遅きに失した」と政府に苦言を呈した。ただ、自民党は野党が求める国会の閉会中審査には当面応じない構え。汚染水問題が安倍政権の追及材料になるのを回避したい思惑が透ける。首相は4日、ロシアで開かれる主要20カ国・地域(G20)首脳会議と、アルゼンチンでのIOC総会に出席するため、日本を出発する。複数の関係省庁幹部は「3日をめがけて全力疾走だった。結果的に五輪を意識したと言われても否定できない」と漏らした。【大久保渉、村尾哲、朴鐘珠】
 国際オリンピック委員会(IOC)委員の4割強は欧州出身。民主党の海江田万里代表は26日の記者会見で「隣国の韓国やロシアだけでなく、欧州も大きな関心を持っている。五輪招致の問題に影響する可能性がある」と指摘した。
東京電力福島第一原発事故で放射性ヨウ素を体内に取り込むことによる甲状腺被曝(ひばく)線量(等価線量)が10ミリシーベルトを超える作業員は、推計で1973人に上る事が明らかになりました。この人数は当初の範囲を超えるものです。東電は最初から素直に公表すべきでした。ただし、100ミリシーベルトを超えるからと早急に危険ではない。統計でいうと100ミリシ-ベルト200ミリシーベルトだと癌に成る確率が1.08倍に成る程度(野菜不足や受動喫煙の範囲)。さらに200ミリシーベルトから500ミリシーベルトなら運動不足・高い塩分食事、500ミリシーベルトから1000ミリシーベルトなら肥満・痩せすぎの範囲です。1000ミリシーベルト以上なら毎日3合の飲酒に喫煙の範囲です。もちろん100ミリシーベルトが安全だということではありません。大騒ぎに注意してほしいとの意味です。例えば先日、吉田元・所長が食道がんで亡くなられたが悪質な輩は福島での被ばくで…と関連づけ「だから脱原発」「原発はテロだ」「脱原発に2兆票」などといいます。ですが被曝の後遺症ではありませんよ。甲状腺がん・食道がんなど被曝による潜伏期間は10年から20年です。わずか数年で食道がんを発症し死亡しないことは医者や専門家ならみんな知っています。また先日、東京大学の教授が内閣参与辞任会見で「10ミリシーベルトなんて子供達が可哀想だ」と涙をながしていました。政府はその会見後(何故か)「除染は1ミリシーベルトで」などとクレイジーなことをいいます。私にいわせれば1ミリシーベルト等「自然界に普通にあるレベル」です。1ミリシーベルトを基準になどしたら100年経っても「除染」は終わりませんよ。10ミリシーベルトから30ミリシーベルトまで基準引き上げを検討するべき。また米国英国フランスにならい高速増殖炉もんじゅは停止廃炉ですね。1兆円つかったが仕方ない。最後に2013年夏ですが「節電」で乗り切れる筈ですね。頭のおかしなひとの「原発いらない。エネルギーは足りているのに…」という無知とは違います。計算上ぎりぎり乗り越えられる計算なのです。(当然火力発電に99%特化していてエネルギーは足りてなどいない)。福島原発レポート。― 新規制基準をどう評価しますか?◆新基準は福島第1原発事故のきちんとした分析がないまま「これで安全ではないか」という対策を寄せ木細工にしたもの。事故前の基準のどこに誤りがあったのか、国民に明らかにしていない。原子力規制委の対応は科学的アプローチを欠いている。評価できない。--政府は新基準で安全と認められた原発は再稼働させる方針です。◆福島事故の原因は全電源喪失だ。民主党政権は「想定を超えた津波」と説明し、誤った教訓を世界に発信した。事故対策で地震や津波の規模を想定すること自体が誤り。何が起きても原発を安全に停止できる方策が必要だ。自民党政権は過去の原子力政策を反省し、福島事故に根ざした対策を講じるべきだ。--新基準施行を受けて、東京電力も柏崎刈羽原発の早期再稼働を目指しています。◆東電に再稼働する技量はある。しかし、東電も国も福島事故後、炉心溶融(メルトダウン)していないとウソをつき続けた。東電が原発を動かすなら、正直に情報発信し、立地住民や自治体と信頼関係を築くことが必要。福島事故の原因をきちんと分析し、対策を説明すれば、(新潟県の)首長たちが理解を示す可能性は高い。信頼関係のないうちに再稼働申請を急ぐ東電はステップを間違えている。--東電は他社より再稼働のハードルが高いということですか?◆福島第1、第2原発を設置する際に東電は十数項目の「原子炉が安全な理由」を説明した。しかし、東日本大震災では、緊急停止以外の安全設備が機能しなかったことが明らかになっている。柏崎刈羽の再稼働を目指すなら、福島の住民との約束を破ったことを謝罪、反省し、事故の検証を踏まえた対策が不可欠だ。この第一歩なしで、新潟県民がイエスと言うことはないだろう。--昨夏の関西電力大飯原発の再稼働は支持しましたね。◆大飯3、4号機は考え得る安全装置がすべて備わっていたので、再稼働に反対する橋下徹・大阪市長を説得した。しかし、柏崎刈羽の場合、現状では(大飯の時のような)説得は泉田裕彦新潟県知事にはできない。【聞き手・清水憲司氏・談話・大前研一氏】東電の福島第一原発事故の当時事故対応にあたった吉田昌郎(まさお)元・所長が病院で食道がんにより死亡した。享年58歳であった。氏は大阪府出身、1979年東電入社であった。放射能による病気ではない(5年以上潜伏期間があるから)が、訃報は残念。5原発10基が再稼働申請です。5原発とは北海道電力の北海道の泊原発、東京電力の新潟県の柏崎刈羽原発、関西電力の福井県の高浜原発、、四国電力の愛媛県の伊方原発、九州電力の佐賀県の玄海原発、九州電力の鹿児島県の川内原発です。まあ、福島の原発事故で感情論がいりまじり、地元知事は「脱原発」で胸を張る傾向にあります。集団ヒステリーは醜悪ですね(何故「脱原発は危険か?」は後述)。福井県敦賀(するが)原発が活断層の上にあるとして廃炉が決まりそうです。まあ、あの福島原発事故の経験と教訓からすれば当然ですね。「脱原発」「原発はテロだ」などと官邸前でいささかヒステリックにデモをしなくても、政治家も有識者も「原発再稼働」など言えない雰囲気です。殺されるといえば大袈裟ですがそんな雰囲気です。大規模災害対策 「大規模災害復興法」を4月上旬にも閣議決定。震災復興 避難生活者 約31万5000人。避難者対策 居住者向け放射線量の安全指針づくりに着手。太陽光発電 再生可能エネルギーの価格政策を見直し。発電燃料 火力発電の燃料価格が高止まり。電力問題 今夏も節電要請の方針。
 政府は大災害時の対応を迅速にするため、大規模災害復興法を4月上旬にも閣議決定し、今国会に提出する方針を明らかにしました。今後、想定される南海トラフ巨大地震や首都直下地震に備える考えです。
 つまり、地方自治体を超えて直接政府が指示をしていくということです。
 東日本大震災の際には、当時の菅首相が直接現地に乗り込んで指揮しようとしましたが、結局そういう制度がなかったために機能せずに終わってしまいました。
 大規模災害の際には、都道府県間、県・市区町村間のコーディネートなどもあるので、政府が全責任を追って対応するのは極めて重要なことだと思います。東日本大震災から2年を経て、仮設住宅などで避難生活を送る人はなお約31万、福島第1原子力発電所事故の影響で福島県から県外へ避難した人は5万7135人にのぼります。この事実から見れば、2年間にわたって日本はある意味において無政府状態だったと言わざるを得ないでしょう。
 私は震災の一週間後には復興計画案を発表しました。高台移住の提案、津波プレインの制定も含め、福島第1原発から5キロ圏内の居住できない旨をいち早く通達し、人生の計画を早めに立て直せるようにすべきだと述べました。いち早くこうした計画を立てて責任を持って実行するのが政府の役目だと思います。関東大震災のときは、短期間で対策案をまとめたと言います。当時よりも、日本の復興対策ブレーンの力は衰えたと言われても仕方ないでしょう。また未だに30万人の仮設住宅居住者がいるという異常事態に何とも感じていないことにも、私は驚いてしまいます。日銀人事やアベノミクスも大切かもしれませんが、その前に優先すべき事項があるということを自民党にも改めて認識してほしいと思います。
 自民党は避難者対策として居住者向け放射線量の安全指針づくりに着手したそうですが、これは早急に進めて欲しいところです。現在は長期的な除染目標の「年間積算線量1ミリシーベルト以下」を参考値としていますが、これは厳しすぎます。もっと現実に合わせた安全指針を策定し、一刻も早く帰ることが出来る人に戻ってもらえるようにするべきだと思います。
 政府は太陽光発電の急拡大を支えてきた再生可能エネルギーの価格政策を見直すとのことで、買い取り価格を2013年度から約1割下げる案を決定しました。当時の民主党政権が一部の業界に煽られて、20年間の固定買取制度を決めてしまったのですが、明らかに勇み足でした。かつてドイツやスペインでも20年間の固定買取を決定したことがありましたが、最近になって価格を下げる方向で修正をしています。再生可能エネルギーの買取価格を高いままで固定していたら、おそらくゆがんだエネルギーミクスになるでしょう。太陽光、風力によって得られるエネルギーは気まぐれの要素が強く、それを貯めておくためのバッテリーをどう用意するのか?といった問題も解決されていません。さらに太陽光発電についてはあまりに高価格で買取価格を固定してしまったため、参入業者が増えすぎて困っている状況です。この程度の展開を予想することさえできなかったのは残念です。
 自民党は一刻も早く是正してほしいと思います。また再生可能エネルギーに固執する必要はなく、他のエネルギーについてもしっかりと検討することが大切です。例えば、火力発電に使う液化天然ガス(LNG)や重油の価格が高止まりしています。LNGのスポット価格は東日本大震災前に比べ9割上昇し、重油も6%上がっています。原子力発電所が相次いで停止したのに加え、中国や南米など新興国で発電燃料の需要が拡大しているためということもあります。もっとも、そもそも再生可能エネルギーの価格が高すぎるというのが問題なのです。
 2013.03.11号のBusinessweek誌でも記事になっていましたが、再生可能エネルギーの価格が高止まりしているのに対し、化石燃料の価格は下がってきています。二酸化炭素の排出という問題はありますが、カナダのように政府が負担を増やして対処するなど、方法を模索することはできるでしょう。特に石炭火力の発電コストは原子力に匹敵するほど低価格です(原子力:8.9、石炭火力:9.5、LNG火力:10.7、石油火力:36、それぞれ円/1キロワット時当たり、2010年の価格)から、これを利用しない手はないと思います。
 日本は歴史的に石炭に対するアレルギーがあります。世界的には発電量に占める石炭の割合は約40%ですが、日本は30%弱に過ぎません。中国は約80%、韓国、米国、ドイツも40%を超えています。日本は意識的に石炭を避けて比較的クリーンなLNGに傾いていましたが、ここに来て価格は高止まりしています。確かに石炭には二酸化炭素の問題がありますが、最先端の技術を利用することで、排出される二酸化炭素をクリーンなものに変えることも可能な時代になりつつあります。夏の電力需給のため東京電力が石炭火力発電所を新設する計画に、環境省が反対の姿勢を示していましたが、先日自民党によってひっくり返されました。自民党は民主党に比べて現実的な判断を下したと言えるでしょう。 盲目的に「再生可能エネルギーが良い」と考えるのではなく、様々な可能性を検討していくべきだと私は思います。(大前研一先生談2013年3月22日)
2011年3月11日未曽有の被害をもたらした「東日本大震災」があり、2013年3月11日で2年、遺族には3回忌ですね。死者1万5881人行方不明者2668人。復興は進んでいない。ちなみに復旧は「もとの状態に戻す事」復興とは「再び盛んにする事」ですよね。復旧(道路100%鉄道92%電気96%都市ガス86%)ライフラインは復旧しましたが復興はまだまだ先です。大震災直後には避難民は45万人いましたが、現在(2013年3月時点)は31万5196人(仮設住宅に約11万人、民間の賃貸住宅に約15万人、親戚・知人などの家に約1万5000人)といいます。今は一か所「避難所」が埼玉県加須市にあり、福島県双葉町民139人が暮らしになられています。でも町つくり自体これから。「復興住宅整備に着手しようとしているのが27%」「集団移転に国交大臣の同意が82%」「かさ上げの計画決定が66%」です。いいですか?集団移転とか復興住宅とか出来たのではなく「計画中」な訳です。復興予算は5年間で25兆円(安倍内閣、道路整備・下水道・仮設住宅・瓦礫処理→今年度末(2013年)まで17.5兆円)。お金はどこからもってくるか?まあ政府の歳出削減で14.5兆円、国債20兆円、増税10.5兆円(所得税・年間16000円×25年間=7.5兆円)(法人税・年間10%×3年間=2.4兆円)(住民税・年間1000円×10年=0.6兆円)です。ですが復興予算の流用が2兆円もあるという。簡単に説明すると「海外青年団交流費に75億円」「反捕鯨団体対策費(宮城県石巻市にクジラ工場があるから)に23億円」「核融合エネルギー開発に29億円」「沖縄の国道整備費に34億円」という。(復興費の)お金が遣えないのは「予算が遣いきれない」からで、被災3県の繰り越し予算は「岩手県2062億円・入札率15%」「宮城県4592億円・入札率38%」「福島県3300億円・入札率24%」という。入札率とは建設業者の入札率のことで人材不足や資材不足などで工事関係者のコストが高くなっていて、儲かるどころか赤字になっているらしいです。まあ、大工や道路工事にしても「技術職」ですから。原発の今を学びましょう。確かに福島第一原発の修復工事の詳細はテレビでもあまりやらないし、2012年12月には野田元首相が「事故そのものは収束した」と宣言しました。だが、とんでもない。安倍首相の2013年2月の「とても収束と言える状態ではない」という言葉こそ真相であろう。一日3000人が原発処理作業に当たっている。行程としては燃料棒取り出し(5年以内)→冠水(10年以内)→燃料取出し(25年以内)→廃炉(40年以内)という。また汚染水も1日に400t(小学校プール1つ分)でる。汚染瓦礫や燃料棒や汚染水の最終処理場は決まってもいない。原発避難者は11万人(「帰宅困難区域・今後5年以上帰宅困難・年間放射能50mシーベルト超」「居住制限区域・数年間居住難しい・年間放射能20mシーベルト超から50mシーベルト以下」「避難指示解除準備区域・近い将来帰宅可能・年間放射能20mシーベルト以下」)です。ホースによる原発炉心への放水はもうやってなくて、とにかく核燃料を冷やすということで水をとにかく循環させている。被災地は悲惨だが、原発事故はもっと悲惨である。「子供の為にも原発は今年で全部廃炉!」という集団ヒステリーもわからないではない。現実離れしている主張ですがね。
弘前被ばく医療研究所は2013年1月11日、福島第一原発による放射性ヨウ素による甲状腺被ばく量は、推定で最大4.6ミリシーベルトだったと発表しました。IAEAはもっと低く、健康への影響は小さいという。比較的早いタイミングで調査を行っており、放射性ヨウ素とセシウムの比較を見てセシウムの量から逆算して当時の放射性ヨウ素の被ばく量を計算したものです。誤った被ばく量やデマゴーグ的数値で恐怖心を煽るのはやめて欲しい。そんなに恐れるほどの数値でもないし、除染作業も進捗している。また原子力規制委員会が原発の「第二制御室の必要性」に拘泥している。が、福島第一原発にも「第二制御室」があったが津波でやられたのだ。それほど必要ではないが作るならお金をあまりかけず作ることだ。それにしても原子力規制委員会は「鳥なき里の蝙蝠」だ。師匠・大前研一先生ほどの人物がいるのに委員じゃない。これでは片落ちだ。今、原子力発電所が全部停まって火力発電所に99%特化しています。そこで使われるのが天然ガスですがこれはメタンガスのことです。プロパンガスというのは石油から分離する一番軽いもの(①プロパンガス②ガソリン③軽油④中油⑤重油)です。日本に輸入される天然ガスは零下160度で冷やし、1/600の液体にしてLNGタンカー船で運びこみます。非常に高コストです。単純に比較できないのですが、日本LNGは57.3ドル、アメリカのパイプラインは16.7ドルです。ロシアからのパイプライン計画も北方領土問題がネックです。でも、関係ありません。ロシアと日露安全保障条約を結び、シベリア開発、経済連携、天然資源共同開発など「経済連携」を密にすればいい。まずは経済連携でパートナーシップを高める。これだ。アメリカは100年分のシェールガス(頁岩・けつがん・シェール)が発見され「資源輸入国」から「資源輸出国」になりました。日本にはシェールガスはないのですが、メタンハイドレートが200年分日本海底に眠っています。東京電力は2012年12月14日、原子力部門の改革案を発表しました。原子力部門から独立して安全対策を指導、徹底する社内改革組織の設立などを柱に据え、過酷事故につながりかねない「負の連鎖」を断つ組織つくりを考えたそうだ。最終報告は2013年2月という。記者会見の問題点は(1)能力不足(2)知っていたが言えなかった(3)外部から圧力があった、です。45年前に福島第一原発建設時地元住民に「嘘をついていた」と認めた。また原発事故2日目にはメルトダウンしていたが、認めたのは11月後であった。後言いたいのですが活断層=危険=原子炉停止という流れは短絡的過ぎるということ。なら新潟中越沖地震で新潟県の柏崎刈羽の原子力発電所は何故大丈夫だったのか?普通の地震でも激しい地震でも普通は原子炉は安全に停まるんです。福島原発も地震で停止しています。その後の(想定外の)津波で原発全電源が停止して原子炉がメルトダウンしたのです。マスコミはそのことを知っているのに「脱原発派」におもねって報道しません。すべては視聴率、購買率の為なんです。皆さんもっと頭を使ってください。今、「脱原発!」などというのは赤ん坊でもできます。甘い嘘より苦くても大切な現実に目を向けましょうよ。原子力規制員会は活断層があるとして敦賀原発を廃炉にするという可能性を示しました。そんなこといっていたら日本中の原発は全部廃炉になりますよ。しっかりしてください。東電は福島に復興本拠地を4000人体制で設置すると決定。賠償も現地権限をもつという。日本海などにメタンハイドレート群が見つかりました。網走沖、秋田山形新潟沖、隠岐周辺沖にかなりの量のメタンハイドレート(メタンガスが凍ったもの)があるという。原発にかわる代価エネルギーとして期待大ですね。よかったですね。小林よしのり著作「ゴーマニズム宣言スペシャル 脱原発論」小学館刊行「読書感想文」フリージャーナリスト緑川鷲羽わしゅう。まず私が主張したいのは私は「原子力ムラ」の人間ではなく、「利権」とも無縁であるということ。マンガチックな「原発ブラボー再稼働」でもないということ。そして小林よしのり氏の本を読んで、「首相官邸の前で集団ヒステリーでお祭りデモに参加している連中と同じだ」という感想だ。確かに福島原発事故や乳飲み子の母や赤ん坊が泣いている映像を観たら誰だって「脱原発」になるのが人情だ。しかし、したり顔で「脱原発」を主張するなど赤ん坊でも出来る事なんだよ。小林氏は「一時的に電力が足りなくなって企業が出ていく?その程度の企業なら外国にどうぞ」という。現実がわかっていない。電力不足が「一時的」な訳ないだろう。企業は漫画家とは違う。1円2円の円高、電力料金で中小零細企業(全体の99%)は採算をとっている。そんな企業が中国やベトナム、インド、ミャンマーに出ていけば二度と帰って来ない。深刻な失業率になるだろう。漫画家の替りなど幾らでもいるが、職場の替りはない。また小林氏は「自分が9歳の頃(1956代)には原発はおろか火鉢しかなかった。大学生の頃漫画家デビューしたが(1970年代)、九州ではまだ原発はなくても幸せであった」という。現代エネルギー革命や、産業イノベーションがわかっていない。氏が学生や幼かった頃にはなかったスパコン、コンピュータやハイテク家電、スマートフォン、高品質テレビ、(節電)家電、クーラー…なにより電気がなければ水道の水さえ流れない。そういう基本的な事がわかっていない。悪戯に原発の危険や人々の恐怖心を煽り「原発は安全じゃない」と断罪する。これでは農家の恐怖心ばかり煽る農協と同じではないか。絶対に安全なものなどこの世に存在しない。車も飛行機もバスも全部「危険」であろう。何より太陽光や風力といういわゆる「再生可能エネルギー」が電力の1%であり、原発分はいままで30%であり、その分がすべて火力に特化しているから(電力の約99%)「電力不足」「電力料金値上げ」があるのであって、火力発電のエネルギー源の価格高騰に触れられていない。今「円高」であるので石油やガスの値段は高くない。だが、石油・ガスの価格高騰は続いている。価格高騰問題に触れられていないのは違和感がある。原発分の30%のキャパシティを太陽光・風力ではカバー出来ないのだ。それが現実だ。小林氏はあまりに感情に流され、プラグマティズムやコンストラクティブな思考を怠っている。只の「お涙頂戴」の「感情論」に騙されて、したい顔で「脱原発」では救われない。4号機の核燃料棒プールの危機など、政府も関係者も皆知っている。プロパガンダで原子力発電とオウム真理教を結び付けて描いているが、原子力を再稼働したり原発を廃炉にしながら新エネルギー開発(メタンハイドレード、シェールガス、地熱発電、新潟沖の未知の石油)していくのが「ヒトラー」(笑)だとでもいいたいのか?TPP交渉は「ナチス」(笑)か?私も政府の「冷温停止状態」「安全宣言」など信じていない。3・11の事故後すぐ私は「メルトダウン」もしくは「メルトスルー」していると思っていたのだ。だが「危険だ、危険だ」といっていても仕方ない。小林氏は「安全だというならお前が福島に住んでみろ!」という。私は福島ではないがすぐ近くの米沢(福島市郡山市のすぐ隣り)に住んでいるが健康だ。氏のいう「原発の代替案」が太陽光や風力では「お先真っ暗」だ。むしろ大事なのは「脱原発」と「原発再稼働」を二極化しないことだ。原発を求めている人々すべて賄賂をもらっているとか、右翼と決めつける氏こそ「左翼」になった「元・右翼」である。どっちみち福島原発事故で「新規原発開発」も「既存の原発再稼働」も殆どムリで、30年後には自然と「脱原発」になる。原発は全部停まるのだ。私だって将来的には「脱原発」の人間だ。氏の漫画は「感情論」であり「結果論」である。事故を観て恐怖を感じ、集団ヒステリー集団アレルギー、感情論を「プロパガンダ漫画」で描いているに過ぎない。こんなものでまともな代替案もなく、したり顔で「脱原発」を叫ぶなど、まさに「団塊の世代の安保闘争」「集団ヒステリーお祭りデモ」だ。マンガチックであり、主張が「子供」である。本書は一読の価値は確かにある。だが、氏がオウムテロの時のように脅迫に晒されているのは甚だ不幸ではあるが、こんなひとがジャーナリストの仲間とは、日本も甚だ「呑気な国」である。                
2012年10月1日青森県下北半島の大間原発(Jパワー)の再建設が始まりました。集団ヒステリーの「脱原発」ポピュリスト達はまた反発しています。が、Jパワーの会長は「原則40年稼働させたい」と現実的思考です。こういう現実がわかるひとの台頭は喜ばしい限りです。2012年9月27日「指定廃棄物(核のゴミ)」最終処理場が千葉県・宮城県・群馬県・栃木県・茨城県に決まりました。2012年9月20日「原子力規制委員会」が発足です。委員長・田中俊一氏。経団連など財界は「原発2030年代ゼロ」に反対していて、米倉氏が政府戦略会議辞職です。まあ、現実が見えている人々には当たり前の意見ですね。理由は後述しています。政府はとうとう「30年代原発ゼロ」を決定してしまいました。まさにポピュリズム(大衆迎合)です。でも閣議決定は見送りであるという。経済界からのはんぱつのおかげですよ。現実が見えない人たち(脱原発論者)には困ったものです。政府エネルギー戦略会議は「核燃料サイクルを維持」する方針を固め、もんじゅを研究炉にし、30年代に原発ゼロも併記するといいます。「2030年原発ゼロ」目標が、世論の圧力で明文化された。青森県の三村知事が、核燃料サイクル堅持を要望しています。国民の7割が脱原発をしたり顔で主張し、古川国家戦略担当大臣を枝野経済産業大臣も「脱原発」を決めてしまいたいといいます。やめて欲しいのはあと数か月後にはなくなる民主党政権に今後数十年続くエネルギー政策を付け焼刃で決めてほしくないということです。脱原発をし、原発をゼロにすると三十年後には核燃料再生が不要になります。青森県は結果として「核燃料永久貯蔵地」になってしまいます。青森県は「中間貯蔵地」であり「永久貯蔵地」という話になると話は違ってくると思います。事故調(福島原発事故調査委員会)のレポートは本質を突いていない。事故とは物理的な原因が起こり、波紋のように広がるものです。管首相(当時)や斑目委員長(当時)や枝野官房長官(当時)が悪かったうんぬんの前に物理的な自証を考えるべきです。「もう少しいい人材と英雄や天才的人物がいれば事故は防げた」とは思いません。全電源が地震や津波で喪失したら原子炉は冷やせないし、核は暴走する。どんな天才がいようが事故は(遅らせることは出来たかもしれないが)発生したと思います。設計上の問題であり、人材・組織の問題ではないからです。事故調のレポートは「犯人捜し」で、「脱原発論者」は「ポピュリスト(大衆迎合主義者)」だと私は断言します。理由は後述します。南海トラフの巨大地震被害想定は死者32人、浸水1015平方キロでそうです。10分以内の避難で14万人減、100%耐震化で3万人減です。備えあれば憂いなし、ということですか。全国の工業団地に万単位のメガソーラー計画があるそうです。だが、どんなに太陽光パネルを張り巡らせても原発分の3割は無理なんですよ。現在の技術では。だから単純にしたり顔で無策で「脱原発!」と声高に叫んでも集団ヒステリーだ、というんですよ。原発の将来を考える国民会議並びに国家エネルギー戦略会議は「1930年代前半に原発ゼロに」との結果になりました。東京電力福島第一原子力発電所事故の原因などを政府の事故調査・検証委員会は2012年7月23日最終報告書をまとめ、野田首相に提出した。被害が拡大した根源的問題として「東電も国も安全神話にとらわれていた」と指摘。危機管理対策の練り直しを促したとのこと。我が師・大前研一先生は政府と国双方のレポートを読み「率直に言ってどちらも役に立たないな」といいます。原因は津波?なら福島第二原発や東海第二原発は何故大丈夫であったのか?違いは「外部電源」です。福島第一原発は地震で外部電源がやられ、さらに津波で非常用電源もやられてメルトダウンしたのです。「外部電源」さえ無事なら大丈夫なんです。また「活断層の傍に原発あるから危険…脱原発!」というのには私は与しません。なら新潟の地震のとき柏崎刈羽原発は何故大丈夫だったのか?「脱原発デモ」など改革でも革命でも何でもない。くだらん「集団ヒステリー」でしかない。「再生可能エネルギー(太陽光・風力)」で原発分の30%のキャパはカバーできない。「集団ヒステリーデモ」などやめるべきだ。変なガキが「(nhkクロ現で「脱原発デモ」を取り上げることで)デモがないとかいっていたおっさんも黙るな」と悪口を書き込んでいた。私緑川鷲羽わしゅうは「デモがない」などといっていない。原子力規制委員会で委員長として田中俊一氏が内定しました。田中氏は放射線物理の専門家です。が、私は残念です。我が師・大前研一先生こそ委員長・規制庁長官にふさわしいと思っていたからです。福島第一原発の事故調査委員会で電力会社(東電)と民主党(官邸)・政府・当局が地震、津波対策を先送りしたことを「事故の根本的原因」と指摘し「自然災害ではなく人災」と断定しました。我が師・大前研一先生は「人災は一致するが、其のうえで「交流電源が長期的な損失を前提にしなくていい」という事故調のスタンスに問題があった」といいます。それに事故調は原子炉の分析を行っていません。原子炉内部にはいれない、ということで関係者1000人からアンケートをとり分厚い調査書を作成しただけ。こんなもの馬鹿馬鹿しい週刊誌やワイドショーと同じです。「外部電源」に触れられてないが「外部電源」が損失すれば3・11と同じことになります。再生可能エネルギー20年20%買い取りですが今は再生可能エネルギーのほうが値段が高く誰も買いません。夜間の電力料金引き下げも再生可能エネルギー20年20%も原発フル稼働しないと無理です。このままヒステリーで「脱原発」ムードでは日本の自殺です。皆さん目を覚ましてください。原発と原爆は違います。皆さんは誰かと同じでいい、皆脱原発というし、みたいな、「団塊世代の安保闘争」みたいな馬鹿はやめて目覚めてください。2012年7月5日に国会事故調が報告書を完成。述べ1167人に調査して、「東電・保安院の怠惰」否定せず、とした。地震・津波が起因ではあるが「人災」だ、という。2012年7月1日から再生可能エネルギー(太陽光、風力、地熱、バイオマス)の買い取り法案が実施されましたね。誰が買うのか?政府か?電気会社か?株式会社か?いいえ、国民です。国民が電力料金に上乗せして払うのです。今まで再生可能エネルギーは1Kwh=10円くらいで採算がとれず普及しませんでした。それが太陽光(10円→42円)風力(10円→23円)地熱(時価→27円)となり値上げ分は国民が払います。最初は84円負担ですが国が再生可能エネルギーを30%にすれば月に800円から2300円の値上げになります。電気は税のようなもので選べないし、電気がなければ生活できません。基本的なことですが「再生可能エネルギー」が「原発分の30%」をつくれるか?ですがつくれないんです、今現在は。まあ、携帯電話みたいなものです。最初の20年前の携帯電話はカバンくらいおおきかった。それがいまや掌に隠れるほど小さくなり、且つ高性能になりました。再生可能エネルギーも同じようにイノベーションで大きく成長分野としては有望です。だが、今はまだ原子力程のキャパは無理なんです。福島第一原発事故で、日本国内では「原発の建設は危ない」と思いがちです。が、日本の原子炉建設メーカーである日立や三菱重工や東芝らは優秀です。世界でも日本勢に匹敵しているのはフランスのアレヴァ社くらいです。この市場に対しては韓国や中国も虎視眈々と参入を狙っています。しかし、日本勢の足元にも及びません。東芝・米ウエスチングハウス連合の原子炉である「AP1000」は、仮に福島原発事故と同じになっても最後まで自力で冷却できる設計であるそうです。今は原子炉建設は被害感情もあって難しい。だが、20年から30年後再生可能エネルギーに限界がきたとき原発が見直されると思います。また反原発脱原発ムードを創ったのはマスコミです。過剰報道をするから「脱原発デモ」などが起こるのです。脱原発のデモ(作家・大江健三郎・音楽家・坂本龍一呼びかけ)で代々木公園で10万人のデモがありました。いっとくが原発と原爆は全然違う。プロパガンダ(大衆操作)にいいからってリンクさせるな。私緑川鷲羽の立場はけして「原発ブラボー再稼働」などの漫画チックなバカげた考えの立場ではありません。私も「将来的には「脱原発」」という立場なんです。私が言いたいのは福島の原発事故や乳飲み子の母親と赤ん坊の涙をみれば誰だって「脱原発」の考えになるし、それが人情でしょう。が、只したり顔で「脱原発」と声高に叫ぶのなんて赤ん坊でもできる事なんですよ。大飯原発は再稼働したが、依然として原発分の3割の電力は火力発電に特化したまま。このままなら電力不足、電気料金高騰…最悪な事態が日本の産業に壁として立ちはだかります。それでもいい。何が何でも「脱原発」というなら地獄に行ってください。どんなに悲惨な日本経済になるか。勿論福島原発があんなことになって「新規原発開発」も「既存原発再稼働」も無理だし、拒絶反応もわかる。だが、真実から逃げて「脱原発!」と無策で叫んでいたら状況は好転するんですか?小林よしのりも櫻井よしこも勝間和代も無知すぎる。我々は甘い嘘よりもつらい現実に目を向けるべきだ。現時点で「再生可能エネルギー(風力・太陽光など)」では原発分の3割のキャパはカバー出来ない。将来の地熱発電やメタンハイドレードや新潟県沖の未知の石油など「将来のエネルギー開発」を急ぎながら、私だって嫌だが原発を廃炉にしていきながら「(日本経済に深刻な悪影響のある)計画停電」を回避していきましょう。甘い嘘や夢では食べていけない。我々は現実的な行動と思想で行動しよう。団塊の世代の「安保闘争」みたいな集団ヒステリーではなく、現実的に行動しようよ。悪戯に恐怖心を煽る前にもっと勉強しろ。このままでは日本の中小零細企業は電気関連でバタバタつぶれるぞ。もっと皆にはコンストラクティブな議論をして欲しい。集団ヒステリーでお祭りデモに参加してる人達を説得して下さい。

沙弥(さや)AKB48大島優子主演NHK朝ドラ原作小説アンコール10

2013年11月14日 06時49分22秒 | 日記
         哲哉の死と復讐





「ちくしょう!」
 沙弥はそう叫ぶと、怒りにまかせて椅子を手にとって窓ガラスに投げつけた。
 当然、窓ガラスは激しく割れた。
 激しい音が響いた。
 その音に驚いて、私は沙弥の部屋へと駆けつけた。良子おばさんやまゆちゃんも駆けつけた。そして、おもいっきりびっくりした。割れたガラスの破片の真ん中に、沙弥がひとり立ち尽くしていたのだ。
「どうしたの?! 沙弥」
「なんでもねぇよ!」
 ふいに緑川沙弥はそう言った。ほとんど抑揚のない声だったが、力がこもっていた。
 私は彼女の目線のほうへ目を向けてみた。それは割れた窓ガラスではなく、床に転がったコードレス・電話の子機にそそがれていた。多分、後で考えれば電話の向こうの傲慢な出版業者を睨んでいたのかも知れない。私は茫然と立ち尽くす彼女に目を戻した。
 割れたガラスで切ったのか、沙弥のくるぶしから血が流れていた。しかし、彼女はなにもしなかった。よっぽど、M新聞のM田の人間性無視の科白に頭にきたのだろう。よっぽど、自分の作品をボロクソにけなされたのが悔しかったのだろう。
「どうも。M新聞のM田です。原稿どうも」
「はい。どうでしたか?」
「ハッキリ言ってくだらないね。人の読む水準に達してないんだよ。くだらんの郵送するなよ」
「……はあ」
「風俗でもやったら?作家なんかより儲かるぜ(笑)」

「沙弥、どうしたの?」
 良子おばさんが困った顔でたずねた。しかし、彼女は答えなかった。それでおばさんは私に、「何があったの?」ときいた。
 私はその時、なにがなにやらわかんらなかったので、
「えーと。あの……さぁ…」
 と言った。そんな時、沙弥が
「もういい!お前らには関係ない」
 と低い声で言った。それは掠れた声だった。もうひとかけらの希望も残っていないような、そんな感じだった。私は心配になって彼女に近付いた。すると、沙弥ははいていたスリッパで床のガラスの破片を蹴った。
 妙に冴えた音が部屋に響いた。
「沙弥!」
 私が声をかけると、緑川沙弥は、もういい!、という感じで頭をふり、そしてそのまま部屋を駆け出していってしまった。そして、そのまま階段を降り、どこかへ姿を消した。そして、残された私たちはどうしていいかわからずに、ただ悩むばかりだった。


  数日後。緑川沙弥の機嫌はいくぶんかやわらいだようだった。『事件』から数日後のことだ。まぁ、もっともあの時のことは彼女にとってはだいぶ悔しかったようで、いままで執筆した作品をなんどもチェックして推敲を加えたようだった。その当時のことをふりかえり、沙弥はこう言っている。
「忘れようとしても忘れられない出来事だった。しかし、確かにやつに言わせればレベルが低かったのだろう。だから推敲を重ねなくては。現実を見据えて、対応していかなくてはならない。現実は『人の読む水準に達してないんだよ!』だからな。少しでもレベルをあげなくては。……変化を拒んではならない。変化をこばめば進歩できないからな。現実を見据えて全作品の推敲しなくては。なぜなら現実を見据えなくては真実がみえてこないからだ!」
 とにもかくも、緑川沙弥は一流作家になるためにまた努力を続けることにした。「落ち込んでてもベストセラーはだせねぇからな」沙弥は微笑していった。
 それは、”こんなの屁でもねぇさ”と強がってみせる笑顔だった。


「哲哉がいない。行方不明になった。連中にやられたんだきっと…」
 私がそういう内容のことをきいたのは、次の日の夜のことだった。
 小紫哲哉の両親がペンションに訪ねてきて、そう言った。で、それをきいていた沙弥が私に伝えたのだ。哲哉の実家はすぐ近くだった。あの時にあったチンピラたちの横顔が一瞬、私の脳裏をよぎった。
「どうしてそう思うの?」
 そういいながらも私は胸の中にあせりをがこみあげてくるのがわかった。
「昨日の夜から帰ってこないんだってさ。でも…東京に帰ったわけでもないらしいんだ。それに……誰かに呼び出されて出ていったって」
 沙弥は落ちついた声を装って言った。
「まさか!あの時の………チンピラに? 哲哉くん?!」
 私は青ざめた。それで私はあせりまくったまま、「で?警察には…?」
「……届けたって」
 沙弥は言った。そして私たちは不安になった。最悪のことがなければいいが…。そう願った。でも、その願いは叶わなかった。その数時間後、連中にやられた。哲哉は、血だらけで倒れた。その哲哉をおまわりさんが発見したからだ。瀕死の重傷だった。
 そして、哲哉はすぐに救急車で病院に運ばれてしまった。

 小紫哲哉の死を知ったのは病院に着いてからだった。
 出血多量で死亡したのだ。
「う…嘘でしょ?そんな…」
 私は信じられなくて病院のロビーで良子おばさんにきいた。良子おばさんは答えなかった。そして、沙弥もショックでひとことも話さなかった。
 それからしばらくして、私たちは病院の遺体安置所に足を踏み入れた。
 薄暗い部屋に入ると、病院のひとに案内されて次郎の遺体の近くにいくことができた。白いシーツにつつまれて、その中央に哲哉が横たわっていた。警察関係の男のひとが顔にかかった白い布をとると、血の気のない青白い顔がみえた。
 間違いない、小紫哲哉だ。
 硬直した”デスマスク”。
 それは、この土地で生まれ、音楽家を夢みて上京し、沙弥に出会い、恋をし、そして不幸にもどうでもいいように殺された小紫哲哉の最期の表情だった。哲哉は傍らで泣き崩れる両親に、自分だってやれるんだ、ということを見せたかったのかも知れない。沙弥と結婚して、幸せにしてやるつもりだったのかも知れない。
 だが、残念ながら遅すぎた。両親が彼の成功を認めることも、沙弥を幸せにしてやることも、もうないのだ。
 もうなにもないのだ。
「ちくしょう!」
 ふいに緑川沙弥が言った。怒りの波が沙弥の血管を走ったようだった。冷静に、と自分にいいきかせているかのようだった。私もショックを受けた。沙弥は涙を両目からぼろぼろ流しながら、ポケットから、宝物、を震える手でそろそろと取り出した。それは、哲哉にもらった枯れた『薔薇』と哲哉にもらった『おまもり』だった。彼女はそれを手に握り、祈るように見つめた。じっと見つめた。そして号泣した。
 私も悲しくてどうしようもなかった。涙が瞼を刺激したが、ぎゅっとこらえた。でも、ムダだった。涙がせきをきったように溢れだし、私も泣き崩れた。そしてこの瞬間は、いままでの人生の中で『最悪の日だ』、そう思った。
 そう、最悪だ。哲哉が死んだのだから。

  それから数日が過ぎた。
 葬儀も終わって、私の夏休みも少なくなってきて、もう、帰らなくては、と思った。しかし、最悪なのは殺人犯がまだ捕まらないことだった。
「なぜ捕まらないのだろう?まるでオウムの犯人みたいね。」私はむしょうに怒りを覚えた。でも、そんなことを考えても仕方ない。日本の警察は優秀だから、そのうちに犯人どもも捕まるだろう。その時はただ、私はそう考えていただけだった。
 沙弥は、
「もう恋はしない」
 と言った。
 そして、沙弥は必死に執筆活動を続けたが、まったくの『鳴かず飛ばず』だった。まったく売れない日々が続いた。沙弥にとっては、哲哉は死んでしまうし、作家活動はうまくいかないしで、最悪の気分だったに違いない。
    深夜、沙弥の部屋で金属の音がした。
「沙弥…?」私は彼女の部屋に行った。すると鋭い刃先のサバイバル・ナイフをもった彼女がいた。暗闇の中、ナイフが怪しく光っていた。
「復讐してやる! あいつらを殺すんだ!」
「馬鹿」私は彼女の頬をビンタした。「警察にまかせなさい!」

 それからしばらくして、哲哉を刺殺した犯人たちが逮捕された。
 しかし、だからといって何か変わる訳でもなかった。逮捕されても哲哉が生き返る訳じゃないのだ。しかも彼らは当時、酔っていた。




マーガレット・サッチャーの真実 鉄の女の涙 THE IRON LADY. 現代欧州アフリカの戦略1

2013年11月13日 15時23分14秒 | 日記

アフリカの資源と貧困・ヨーロッパ連合




【ローマ】イタリアでベルルスコーニ元首相が党首を務める中道右派政党「自由国民党」所属の閣僚5人が28日、辞任した。ここ数十年で最悪の景気後退から立ち直ろうとしている同国で、レッタ首相率いる連立政権が危機を迎えた。
 自由国民党とレッタ首相が所属する中道左派、民主党の間ではここ1週間で緊張が急速に高まっていた。レッタ政権が議会の信任投票で否決されれば、ナポリターノ大統領は新政権の発足に向けて調整を行うか、議会を解散して総選挙を行うかのいずれかを選択することになる。イタリアでは今年2月にも総選挙が行われたが、いずれの政党も絶対多数を獲得できなかった。民主党は下院では過半数を占めているが、上院では自由国民党と組んで過半数を確保している。ベルルスコーニ氏は脱税で有罪判決を受けており、議会から追放される可能性がある。ベルルスコーニ派の議員は今週、これに抗議して一斉に辞職すると警告、連立政権内部で対立が生じていた。これに対して、レッタ首相は27日、明確な支持がないまま政権運営は続けられないとして、議会に信任投票を求めた。政権が危機に陥ったことで、イタリア経済の回復が妨げられる恐れがある。イタリアでは2年にわたる不況から立ち直るために、抜本的な改革が不可欠となっている。レッタ首相は就任から5カ月の間にささやかな対策を成立させたものの、政権は内紛によってほとんど機能していなかった。自由国民党は28日、政府が来週から実施される付加価値税の引き上げを回避することができなかったとして、連立政権への支持を撤回する以外に選択肢がなくなったと説明した。しかし、レッタ首相は即座に反撃、「個人的な問題をごまかすためだけの、常軌を逸した無責任な行動を正当化するために、ベルルスコーニ氏は付加価値税をアリバイに使って責任を転嫁しようとしている」と述べた。レッタ首相は付加価値税引き上げの延期を模索する取り組みを凍結したのはベルルスコーニ派が一斉辞職をちらつかせたためだと述べた。自由国民党所属の5人の閣僚が辞任したことで、レッタ内閣は13人の閣僚の半数近くを失った。これを受けて、レッタ首相は早ければ29日にもナポリターノ大統領と会談し、政権が全面的な支持を得ていないことを伝えるとみられる。首相は議会の信任投票の結果に従うことで大統領と合意する可能性がある。(2013年9月30日ワシントンジャーナル参照)
 2013年9月22日、22日に投票が行われたドイツの連邦議会選挙は、日本時間の23日未明から開票作業が始まり、メルケル首相率いる中道右派の与党「キリスト教民主・社会同盟」が最大野党「社会民主党」に大差をつけ、メルケル首相の3期目の続投が確実な情勢となっています。ドイツの連邦議会選挙は日本時間の23日午前1時に投票が締め切られた。ドイツの公共放送が出口調査の結果を基に伝えた予測得票率は、中道右派の与党「キリスト教民主・社会同盟」がおよそ42%となっていて、26%の最大野党「社会民主党」に大差をつけてメルケル首相三期目です。ウイリアム王子の妻のキャサリン妃が2013年7月23日 、3800gの男の子を無事出産しました。「ロイヤルベイビー」に英国は祝賀ムードでいっぱいです。おめでたい。おめでとうございます。名前がジョージ・アレクサンダー・ルイに決まりましたね。またスペインのサンチャゴ・デ・コンポスラで爆発後列車が脱線したという。スピード違反でテロではないそうです。日本政府は成長戦略の一環として優れた能力を持つ外国人を呼び込むため、経営者や技術者を対象にした新しい永住権を創設する方針を発表しました。日本に3年間滞在すれば申請でき、通常の永住権にはない配偶者の就労や親、家政婦の滞在が可能だと。専門性の高い外国人技術労働者の住みやすい環境を整え、外資系の誘致や日本の研究開発能力の向上をつなげる狙いです。就労人口が減少している日本にとっては当然の戦略です。ですが子供の教育環境、いじめ、などオーストラリアにはるかに及ばない。米国は別格としても、ドイツやシンガポールにもはるかにおよばない。技術労働者は引く手あまたですから。オーストラリアの人口は1500万人から移民で2300万人まで増加。毎年20万人の技術移民で経済好調です。日本がそのようになることはない。調査捕鯨に関してもイカサマです。調査目的といいながら鯨肉を販売していますしね。「日本の漁師のために一定の量の捕鯨を認めて欲しい」と正直にいえばいいだけです。資源輸出で好調だったオーストラリアが曲がり角を迎えている。これまでのように中国への鉄鉱石輸出に依存した「黄金時代」は終わった。輸出偏重を改めるという意味で、日本にも通じるテーマである。西オーストラリア州のコリン・バーネット首相は6月12日、「鉄鉱石の黄金時代は過ぎ去ろうとしているか、おそらくは過ぎ去った」と述べ、州経済を潤してきた鉄鉱石の開発投資に変化が訪れているとの見方を示した。資源大手は、市況の悪化を受け、西オーストラリア州への投資に慎重になっている。このためバーネット首相は6月上旬に中国や日本を訪れ、資源各社のトップと面会するなど投資の引き留めに努めた。日本が世界の鉄鋼産業の中心だった時代、日本の粗鋼生産能力は最大1億5000万トンあった。今は相次ぐ高炉の統廃合により日本の生産能力は1億トンを切ってしまっている。一方、中国は現在、7億トンの生産能力を有する。爆発的に発展した中国に鉄鋼会社が100社もできた。それらの会社が競って生産能力を高め、膨大な生産を行ってきた。そういった中で、オーストラリアの鉄鉱石と石炭は飛ぶように売れた。鉄鉱石のメッカともいえる北西部のピルバラ地方ハマスレー地域を中心に、オーストラリアは資源ブームに沸いた。鉄鉱石は売れすぎて「沖待ち」の船が出るほどだった。鉄鉱石を掘り出すのが間に合わずに、港に船があふれかえり、沖にまで船が順番を求めて1年間も待つという光景が見られたのである。しかし、中国の鉄鋼生産も今後は集約が進み、おそらく生産能力が3億トンを切ってくると見られている。これまでのようなブームを、いつまでも続けるわけにはいかない。もっとも、こんなことは以前から予想されていたことだ。「黄金時代は過ぎ去った」というバーネット首相の発言は、今さらという感じが否めない。そもそもは、黄金時代そのものに警戒していなければならなかった。オーストラリアは沖待ち解消のために港湾施設を拡充するなど公費を投入することもほとんどやらないで堂々と「顧客無視」の態度であったが、それでも売れた。資源国の強みである。ここでオーストラリアの輸出状況を知るために、資料を確認しよう。まずは「豪ドルの対主要通貨に対する騰落率」を見てもらおう。豪ドルは対米ドルや対ユーロに比べると、対日本円では相対的にやや弱い状況が続いてきた。それが、昨年末からの円安で、対日本円でも急激に強くなっている。米ドルに対しても一時1:1を上回る豪ドル高が続き、経済の好調ぶりを示していた。日本円に対しては過去30年の間に1豪ドルあたり120円から56円くらいまで動いており、かなり揮発性の高い為替関係となっている。オーストラリアの輸出品は、圧倒的に鉄鉱石と石炭が多くなっている。輸出先は中国と日本が圧倒的に大きい。ちなみに、天然ガスは今のところ日本向けがほとんどとなっている。ただ、先述のように日本は1億トン弱の鉄鋼生産能力をかろうじて維持しているが、今後、生産が伸びることは考えられない。中国の生産も、これから落ちていく一方だ。そうなってくると、オーストラリアとしては、インドネシアやインドといった国にシフトすることを当然、考えてくるだろう。それでも、これまでの中国ほどの伸びは期待できない。中国は共産党の独裁国家なので、良くも悪くも意志決定が速くて徹底している。上の人間が「やれ!」と言えば、みんなで一斉に動き出し、250くらいある大都市がインフラ整備などを始める。一方、インドは民主国家だから、意志決定にはどうしても時間がかかる。もちろん、インドの生産も右肩上がりで伸びてはいくだろうが、その伸び率はなだらかなものとなる。中国のように一気に高い伸び率を実現することは難しい。しかも、ブラジルやインドは自前で鉄鉱石と石炭を産出している。必ずしもオーストラリアから輸入する必要はない。対中国輸出で潤ってきたオーストラリアが、インドなどにシフトした場合、苦しい状況に追い込まれることは間違いないと言える。言い換えると、オーストラリアの黄金時代とは、中国という独裁国家によって一時的に実現した超高度成長のおかげだったということになる。その夢から覚めた今、オーストラリアはより低い成長率に甘んじなければならないのである。このたび「伊藤忠商事と三井物産が豪英資源大手BHPビリントンの所有する鉄鉱石鉱山(ジンブルバー)に1500億円を投資して買い取り権を確保した」と伝えられた。非効率的な鉱山を閉めてジンブルバー鉱山に集約するなどの伝えられていない情報があれば別だが、だぶつき気味のオーストラリアの鉄鉱石事情を西オーストラリアの首相が認めた奇しくも同じ週に大型投資を発表するなど、オーストラリアとの付き合い方の難しさを改めて思い起こさせる。ゴールトコースト(クイーンズランド州)に行けば日本企業の「倒産銀座」と言われる地域がある。オリエントファイナンス(当時)、マルコー、大京、松下興産、ホープアイランド開発、サンクチュアリー・コーブなどいずれも一世を風靡したが、今では他人の手に渡っている。ケアンズを開発したのも大京だ。日本企業は高値の時にみなで押しかけて、潮が引くとパニック売りで大きな損失を出している。オーストラリアの鉱山や不動産は株式市場以上に揮発性が高く、買い時と売り時を少し間違えると致命傷となる怖さがある。このように、黄金時代の過ぎ去ったオーストラリアではあるが、鉄鉱石や石炭といった資源以外の分野に目を向けてみると、大きな可能性を持っている。まず、オーストラリアの観光は強い。中国人だけでも来年は年間100万人が訪れると予想されている。1人当たり7000豪ドル(約64万円)を使ってくれるというから驚きだ。国と州という公共機関の借金が少ないのも、オーストラリアの強みと言える。PPP(public-private partnership)と呼ばれる公共サービスの民営化で政府部門の債務を大幅に削ることに成功してきている。公的債務が少ないので、高金利にしても政府の支払いは増えない。公的債務の大きい日本などでは高金利になると借金が返済できなくなりデフォルトの危険性が増してくる。このリスクが少ないことが投資家の安心できる「避難港」となっている。米ドルに対して通貨が乱高下した場合には多くの国民が自国通貨のような感覚でポンドや米ドルを購入する。乱高下で一儲けというのも英語圏ならではのスポーツ感覚である。政府に苦情を言わないで乱気流に乗っかってサヤを抜くという国民性なのだ。かつては白豪主義と呼ばれてアングロサクソン的なアロガンス(尊大)が不評だったが、人口が小さいとアジアの中での発言権がますます小さくなると考え移民政策を大転換した。1973年の移民法の大改正がきっかけとなりアジアにも門戸を開き、50万豪ドルを持ち込むか特別な職能(スキル)を持った人に市民権を与えるなどの政策に切り替えた。1600万人で低迷していた人口は今では2300万人である。その大半が中国系で、若い人が多い。しかも、能力の高い若者がたくさんいるのがオーストラリアの長所だろう。また、教育も進んでいるし、医療やエネルギー分野でもおもしろい技術開発が進んでいる。オーストラリアの統計を見ると先進成熟国のような部分と新興国のような人口動態が混在していて、これが日本などでは見られない活力の源泉となっている。いまではインドネシアに近い豪領クリスマス島などで中東やアジアの難民を収容し、時間をかけて国籍を与えていくなど信じられないような移民政策までやっている。政治家にとっては、彼らが市民権を取った時に投票してもらう皮算用と言われているが、新宿の「ヘイトスピーチ」とクリスマス島、どちらの先進国がアジアでリーダーシップを発揮するのか、皆さんにもよく考えてもらいたい。資源などの輸出関連では苦境に立たされているオーストラリアだが、観光や教育といった分野では非常に優れた施策を展開している。日本は現在、円安で輸出に目が向きがちだが、公的債務の低さ、英語圏でありながらアジアの言語を高校時代から積極的に教えていること、積極的な移民政策で平均年齢を下げて若々しいデモグラフィーを保っていることなど、単なる資源国に終らないオーストラリアから学ぶことは少なくないのではないだろうか。(2013年6月25日大前研一レポートより)2013年6月8日、フランスのオランド大統領が訪日して安倍首相と会談した。その後首相は「三本の矢」の「金融緩和」「財政出動」そして本丸「成長戦略」について記者会見したが円高株安は止まらなかった。官僚の作文を棒読みして「成長戦略」「経済成長」が成るならとっくの昔に日本経済は「景気回復」している。馬鹿週刊誌ではまたぞろ匿名大物官僚とやらが「安倍首相は第一次安倍内閣と同じことになる」と占い師みたいなことをいっている。短命内閣になるのは本当に失敗したときだ。最近の円高株安は「プチバブル」が崩壊したからで、安倍首相の失策(広い意味では財務官僚の失策)でではない。ジャーナリストや官僚や政治家が「一億総評論家」みたいなことで誰かの行動を評論だけして何もしないのが罪である。駄目だ駄目だ、というなら改革に手を貸せばいい。批判だけなら赤ん坊にも出来る。日本の週刊誌は幼稚園の絵本みたいなチープな雑誌で読む価値もない。2013年6月1日から6月5日、日本で第五回になるTICAD(ティカッド・アフリカ開発会議)が開かれ51か国中27か国の首脳級の政治家や官僚が集まり、日本はアフリカ支援に3.2兆円もの出資をするという。これは中国のアフリカでの新植民地主義へのアンチテーゼであるがいいことだと思う。アフリカは実は石油や天然ガスやレアメタル等資源の宝庫であり、アフリカで10億人の低賃金人材と「地球最後のフロンティア」なのだ。アフリカとの共存なくして経済発展はない。その意味で安倍首相はいい参謀がいると思う。名もない官僚というより役人をよくつかっている。私は大卒でないので参謀にはなれない。大卒でないと駄目らしいのだ。仕方ないね、今更大学に通う訳にもいかないし。元英国首相の私が尊敬してやまなかったマーガレット・サッチャー女史が脳卒中で2013年4月8日病死した。享年87だった。女史は故・レーガン元米国大統領とともに経済発展や冷戦終結に尽力した天才政治家であった。ゴルバチョフ氏やキッシンジャー氏も天才だが、女史は女性の星でもあった。「小さな政府」で経済自由化の実現。1979年から11年間首相として「鉄の女」サッチャー女史は強い指導力で国営企業の民営化や規制緩和を進め、小さな政府を目指し経済自由化を実現する手腕は見事でした。晩年はアルツハイマー(認知症)との戦いでしたね。彼女は首相になった後も経済学者や経営コンサルタント、起業家など30歳から35歳くらいの若者を集めて、自分のポリシーが正しいか考えていたそうです。日本の安倍首相だと年齢の高いアドバイザーを招集をしたり、高齢者学者(笑)の意見(笑)しかきかない。サッチャー女史は絶えずブレませんでしたね。彼女の政策で潰れた産業や街もありましたがブレることはありませんでした。世論や朝日新聞の反応を気にする日本政治家とは大違いです。サッチャー女史の追悼式では労働党の人が口汚く罵っていました。どうしても恨みを買うものです。サッチャー改革は、民営化、財政、税制、規制緩和、金融政策、社会保障、労働組合です。特に税制は所得税率83%から40%下げるなど素晴らしい。シティの世界金融化もグッドジョブ。しかし、「鉄の女」を失ったイギリスは3番底の景気悪化が懸念されています。だが、サッチャー女史がいなかったら「英国病」も治らず今の日本のような殺伐とした経済状況になっていたでしょう。だからこそのサッチャーレーガン革命です。日本は「大きな政府」主義でサッチャー革命の入り口にも至っていない。弱いものを守るのはいいが、弱肉強食の現実を無視して保護し続ければ「最悪の社会主義的経済」に悪化しますよ。日本も「小さな政府」でやりましょうよ。ローマ法王ベネディクト16世(85)の退位に伴いバチカンローマで2013年3月13日に開かれた法王選挙会議(コンクラーベ)で、アルゼンチン初のローマ法王にロルへ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(75)が第266代ローマ法王に選ばれた。南米系では初で、法王名はフランシスコⅠ世で、欧州以外のローマ法王は1800年ぶりだという。欧州の危機にあたってありがたい守護神とも呼べるのは「マリオ・ドラギ欧州中央銀行総裁」である。ギリシャ危機、スペイン危機に端を発した「ユーロ危機」に対して「危機回避の為には何でもする」と啖呵を切った。この「何でもする」が何なのか?議論を呼んでいるがいわゆる彼が長年主張してきた「ユーロ2リーグ制度」ではないか。つまり同じユーロ圏でもドイツのユーロとギリシャやスペイン・イタリアのユーロは違うのである。PIIGSでは金利が暴騰し、事実上「ジャンク債」になっている。このままでは「ユーロ崩壊」である。だからこそドラギ総裁の「何でもする」発言が話題と議論を呼んでいるのだ。どうなるかは神のみぞ知るだが、「第二次世界大恐慌」の回避の強力な守護神登場である。そして欧州中央銀行がジャンク債となったスペイン・イタリア・ギリシャの国債を全部買い占めた。これで「欧州中央銀行が買うなら…」と個人投資家も買い出し、市場は一服した。イタリアは「脱税」、スペインは「不動産バブルの崩壊」、ギリシャは「大借金」であるがこの問題は当分続くだろう。だが、ドラギ氏は正しかった。スペインのバルセロナ(カタール州・スペインGDPの20%)が独立したいというがムリだ。バスクと同じ。欧州の経済危機にあたって「緊縮より成長を」と訴え、サルコジ氏を決選投票で制したオランド新大統領だが、その経済政策は大いに疑問だ。早くもメルケル独首相の貫く緊縮策にトーンダウンをしているようだが「緊縮策を必要としなくなるほどの経済成長」は、相当大きな成長でなければならないし、その大きな経済成長を実現させるためには長い時間を要する。今現在、起きている経済危機には対処できないのである。レーガン元米国大統領とサッチャー元英国首相の例を挙げると、彼らは「小さな政府」路線をとり、思い切った規制の廃止などを断行した。当然、最初は大量の失業者が出る。改革の芽が花開くのは15年後から20年後だ。だから、レーガン氏もサッチャー氏も職を追われた。しかし、米国はクリントン政権時代に高度成長という改革の花が咲き、英国もブレア政権時に成長を果たした。改革の成果が見えてくるには、それくらいの時間が必要であり、結果を拙速に問うべきではないのだ。もちろん、それらの成果も永遠に続くものではなく、絶えず改革の努力が必要だ。日本においては、例えば小泉改革とは名ばかりのもので、数少ない成果である郵政民営化も、今現在は骨抜きにされつつある。日本には「改革の芽」が見当たらないのである。選挙でギリシャは「ユーロ離脱」から回避されそうです。ギリシャの首相がアント二ス・サマラス氏(61)となり、連立政権で「緊縮財政路線」でやっていくことになりましたね。またスペインの財政危機となり、EUは事実上破たんしかかっているスペインに10兆円分のユーロを支援することで合意しました。ユーロ圏は現在17か国です。が、かつての「ヨーロッパ共同体(EC)」時代から「こんな寄り合い所帯(といっても5億人の市場)絶対どこかで破たんする」と私は学生時代から考えていました。それにしてもスペインの不良債権は15兆円、イタリアは190兆円です。スペイン国債は暴落に次ぐ暴落で、危険水域という7%を突破してしまいました。スペイン中央銀行のオルドネス総裁が辞任しました。辞任の理由は明らかになっていません。が、スペイン政界では銀行部門の財政悪化の責任を問う声が強まっていました。これを受けて1か月早い辞任となった模様です。2012年期の20か国・地域(G20)首脳会議後にスペイン破たんということですか。だが、スペインはEU第四位の経済大国ですから、万一破たんということになれば、ギリシャ破たんとは比べ物になりません。スペインの失業率は25%、若者は50%と高い。スペインの破たんは経済だけでなく治安(デモやテロや暴動)に発展するでしょう。またイタリアはEU第三位の経済大国です。ギリシャ救済のようなレベルではなくIMF・EU・アメリカ・日本・中国・インドなどがなんとかすべきです。ギリシャはEUをいずれは離脱するでしょう。が、ギリシャ人の大卒者の53%が国外で働きたいといい、ギリシャ国内は高齢者と年金受給者だけになりますよ。ギリシャ、スペインより早く財政破たんしたアイルランドはEUに尻拭いをされている仮死状態です。ユーロがダメだったのではない。各国が自由に国家予算を立てたり国債を発行するのではなく、EU全体で政治統合してEU予算EU国債という具合にしないと駄目です。でもそうなるとドイツだけになる可能性(EU第一位の経済大国でドイツがヨーロッパの牽引国)が大です。「金体制崩壊」「ニクソン・ショック」「バブル崩壊」「リーマンショック」「ギリシャショック」などのような「スペインショック」が2012年中に起こる。だが克服はできる。人類の英知を信じようではないか。とくに日本は消去法的に今は「円高(多分1ドル=50円までいく)」です。でも皆で企業や個人が「内部留保」ばかりため込んでも何にもなりません。日本の国債は1000兆円の赤字である。だが、個人金融資産が1400兆円、企業内部留保が170兆円ある。緊縮だけでは成長は望めない。イノベーションやグリーンニューディールで雇用や経済成長を目指すべきです。景気は単に「お金じゃぶじゃぶ」「経済の血・お金を回せば景気が良くなる」などといった単純なものではありません。日本はバブル崩壊から20年間も「お金じゃぶじゃぶ(公的資金60兆円)」やってきたんです。でも景気はよくなりません。円高大損体質がいずれボディブローのようにこの日本という国を蝕みますね。欧州の危機は「対岸の火事」などではない。むしろ1000兆円もの借金がある日本の方が事態は深刻なのだ。またホスニ・ムバラク前エジプト大統領がエジプトの政治裁判で「終身刑」確定です。まあ、「死刑」でなかったのは国内のムバラク支持派への配慮ですね。