長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

JFK暗殺・没後50年企画「ジョン・F・ケネディ、その真実」ブログ連載小説4

2013年11月27日 06時30分58秒 | 日記
         ニュー・ヴィジョン


  きらめくような天気だった。太陽がきらきら光り、うっすらと雲が流れる。JFKはある大学の演壇に立ち、淡くしんと光るような大学を見上げた。そして、さわやかな空気を吸って、心臓が二回打ってから、JFKは新しいヴィジョンを語った。
「ジョン・メイスフィールド氏の言葉に”この地上において大学ほど美しいものはない”ということばがある。
 彼の言葉は今日でも真実である。しかし、彼は建物やキャンパスの緑、蔦でおおわれた塀などの美しさを語っていたのではない。彼が大学の美をほめたたえたのは、彼も語っているように、大学とは”無知を憎む人間が知識を得るために努力し、真実を見たものがそれを他に知らしめようと努力する場所”だからだ。
 故に私はこの場と時を借りて往々にして無知が支配し、真実が押し潰されているある事柄について語りたい。それはこの地上で最も重要な事柄ー世界平和である。
 どのような平和を私は言っているのか?どのような平和をわれわれは探求しているのか? それはアメリカの武力によって押しつけられるパックス・アメリカーナではない。
 そして、墓場の平和でもなければ、奴隷の安全性でもない。私がいっているのは本物の平和である。それは人生が生きるに値すると思わせるような平和であり、すべての人々や国々を発展させ、夢を抱かせ、子供たちのためにより良き生活を打ち立てさせ得る平和である。
 それはアメリカ人だけのための平和ではなく全人類のための平和であり、われわれの時代だけでなくすべての時代の平和である。
 今日、何千億ドルという金が軍事費に使われ、それによって平和が維持されている。しかし、核兵器の無駄な蓄積、破壊するだけで何ものも創造しない核兵器の蓄積だけが平和を保障する唯一の、しかも最も効果的な方法なのだろうか。決してそうではないはずだ。 平和とは理性的な人間の理性的なゴールであらねばならない。平和の追求は戦争の遂行ほど劇的なものではなく、往々にして無関心という壁にぶち当たる。しかし、これほど重要かつ緊急を要する事柄はない。
 ある人々は言う。ソ連邦の指導者たちがより啓蒙された考え方を持たぬ限り、世界平和や軍縮について語るのは無駄なことである、と。ソ連の指導者たちが啓蒙されることを私は望んでいる。そのための手助けをわれわれはできるし、せねばならない。しかし、同時に、国家としてまた個人として、われわれもまたわれわれ自身の態度について改めて考えねばならない。ソ連側の態度と同じようにわが方の態度もまた重要だからだ。
 まず第一に平和に対するわれわれの態度を見てみよう。あまりにも多くの人々が平和は不可能かつ非現実的と考えている。しかし、それは危険な敗北者的思考と言わねばなるまい。なぜならそれは人間の力の無力さを表し、人類は自分たちでコントロールできない力によって抑えられており、戦争は避けられず、結局は滅亡するという結論に導くからだ。 この見方を受け入れる必要はまったくない。われわれの問題はわれわれ人間がつくりだしたものなのだ。それ故に人間が解決でき得るものなのだ。人間は限りなく大きくなれるものである。人間の運命に関して人間が解けない問題は、ひとつとしてあり得ない。これまでにも人間の理性と精神力は一見不可能と思える数々の問題を解き明かしてきた。ここで再びできないという理由はない。
 私は一部の幻想家や狂信者の夢みる絶対かつ無限の観念を含んだ平和について語っているのではない。希望や夢を私は否定しない。しかし、それらを基に平和を構築しようとすれば、待っているのは落胆と懐疑でしかない。
 より現実的で手の届く範囲の平和に焦点をしぼろうではないか。真の平和とは、多くの国々による具体的な活動によってもたらされるものである。それはダイナミックで、決して停止せず、あらゆる時代の挑戦に耐え得るよう常に変化しなければならない。なぜなら平和とは諸々の問題を解くプロセスであるからだ。
 そのような平和がきても、互いの利益の対立や紛争は絶えることはないかもしれない。 世界平和は地域社会の平和同様、人々にその隣人を愛するよう要求はしない。しかし、互いに忍耐と寛容の心をもって一緒に生きることを要求する。国家間の敵愾心は個人間のそれと同じように永遠に続かないことを歴史は教えている。
 平和は決して非現実的なものではないし、戦争は決して必然的なものでもない。
 第二にソ連邦に対するわれわれの態度を見直そうではないか。かの国の指導者たちが、彼らの宣伝機関によって書かれていることを頭から信じているのは悲しむべきことである。アメリカが戦争を仕掛ける準備をしているとか、アメリカ帝国主義が侵略戦争によってヨーロッパや他の資本主義国家を経済的、政治的に属国化しようとしているなど根も葉もないことを彼らは信じている。
 昔の諺にあるように”悪者は誰も追いかけてもいないのに逃げる”のだ。しかし、彼らのプロパガンダを読んでわれわれと彼らの間にある溝の深さを知ると悲しみさえ感じる。これは我々アメリカ人にとっての警告である。われわれはソ連と同じワナにはまってはならない。
 アメリカ人としてわれわれは個人の自由と尊厳を奪う共産主義に対して深い嫌悪感を抱いている。
 しかし、ロシア国民がこれまでに成し遂げた事柄、科学や宇宙、経済的成長、文化や数々の勇気ある行為に対しては心から賞賛の拍手を送る。
 そして忘れてはならないのは、アメリカ人とロシア人のどちらが共に戦争を忌み嫌い、両国ともこれまで一度も戦ったことがない、という事実である。
 互いに相違点が存在することは認めよう。しかし、同時に互いの共通の利益にも目をむけ、相違点の解決にも努力しよう。
 そして、もし今相違点を克服できないとしても、少なくとも多様性を認めるような世界を作る努力は成せる。なぜなら、最終的にはわれわれの最も基礎的な共通点は、皆この小さな惑星に住み、皆同じ空気を吸い、皆子供たちの未来を大切に思っている。そして、皆死んでいく身ということであるからだ」

 アメリカン大学でのスピーチから約一か月後の一九六三年七月二五日、核実験禁止条約が米ソ英の三国で結ばれた。それは大気圏内、海中、宇宙での核実験で地下は含まれてなかった。(CTBTで現在は地下も禁止。ブッシュ政権で米国は脱退)
 それでも重要には違いなかった。
 JFKはテレビで国民に語りかけた。
「今、初めて平和への道が開かれたかもしれないのだ。未来が何をもたらすのかは誰も知る故もない。闘争努力を柔らげる時がきたのかどうかは、誰も確信をもって語れない。しかし、もしわれわれが今、希望をもって行動に移すあらゆる努力を払わなければ、歴史とわれわれの良心はわれわれをきびしく裁くであろう。今が始める時だ。中国の古い諺によれば、
”一〇〇〇マイルの旅も一歩から始まる。”
 わが同胞アメリカ国民よ、その第一歩を踏み出そうではないか。戦争の影から一歩後退し、平和の道を探求しようではないか。そして、その旅が一〇〇〇マイルかそれ以上になろうとも、われわれが今この地でこの時に第一歩を踏み出したと歴史に記さしめようではないか」
 テレビを見ていた多くのアメリカ市民から、喚声と拍手が沸き上がった。アメリカ人の心を揺り動かしたのである。

  この頃、JFKの父・ジョゼフは体調が悪くなり、ひとり苦しんだ。また、JFKの方は先天的な病気(アディソン氏病)のため、ひどく咳込み、頭痛や腰痛、微熱、不眠に苦しんだという。しかし、JFKも父親も、病気のことを家族や国民に隠し通した。それは、彼らの意思、であった。



         キング牧師とケネデイ ー人種問題ー


  ケネデイはタヴーにも挑戦せねばならなかった。それは何か?人種問題である。はっきり言えば、黒人問題だ。彼ら黒人は、奴隷としてアフリカなどからつれてこられた黒人の子孫である。そして、白人からは毒虫のように忌み嫌われていた。まるでバイ菌扱いだ。 南部では、黒人の家を焼き払ったり集団リンチをしたり、黒人が客としてレストランにきただけで”ショット・ガン”をもって追っ払う、ということが平気で行われていた。アメリカの北部や東部などでも南部ほどではないが、人種差別はあった。黒人を白い目でみて、客としてきてもオーダーもとらずに無視する、ということが平気で行われていた。
 黒人からの不満は高まり、ひとりのリーダーを生む。マーティン・ルーサー・キング牧師である。
 ケネデイはテレビで再び語りかける。
「われわれは基本的に道徳的問題に直面している。古くは聖書で語られ、アメリカ憲法でも明らかにされている。
 問題の核心はあらゆるアメリカ人が平等の権利と平等の機会を与えられるかということだ。もしアメリカ人が皮膚の色が黒いということだけで公共学校に入ることができないとしたら、彼を代表する人間を選挙で投票できないとしたら、要するに皮膚の色が黒いというだけでわれわれ皆が欲している自由で意義深い生活が送れないとしたら、われわれの中で誰が皮膚の色を変えてあえて彼の立場に身を置きそれに甘んじるという者がいようか。 リンカーン大統領が奴隷解放を行ってからすでに一〇〇年が過ぎた。しかし、彼らの子孫、彼らの孫だちはまだ完全に自由ではない。彼らはまた不正義の鎖から自由になっていない。彼らは未だ社会的、経済的抑圧から自由になっていない。そしてこの国は何を主張し、どんな立派な行動をとろうと全部の国民が自由にならない限り決して自由な国家にはならない」

  一九六三年六月二八日、首都ワシントンでかつてないスケールで黒人によるデモが行われた。テレビで中継されたが、驚くほど平穏でケガ人などひとりも出なかった。行進が終わってデモ隊は、リンカーン記念塔の前の広場に集まった。そして群衆に向かって、銅像をバックにキング牧師は語り始めた。
「リンカーンという偉大な人物が黒人を解放してから一〇〇年たつが、未だ黒人は”物質的繁栄という海のど真ん中にある孤独な貧困の島に住んでいる”。
 公民権活動家に対して質問するひとがいる。
”あなたがたは一体いつになったら満足するのか”
 われわれは黒人が警察の暴力の犠牲者であるかぎり満足できない。
 われわれはホテルやモーテルで疲れた体を癒すための一夜の休息を得られない限り満足できない。
 われわれは黒人の移動性が小さなスラムから大きなスラムに移るだけという状況が続く限り満足できない。
 私は夢見ている。四人の小さな私の子供達が、彼らの皮膚の色ではなく、その性格から判断される国に住める日がくることを。
 私は夢見ている。
 これがわれわれの希望である。この信念をもって私は南部へ帰る。この信念をもって、われわれは絶望という山から希望の石を取り出すことができるのだ。この信念をもってわれわれは、あつれきの不調和音を美しい兄弟愛のシンフォニーにかえることができるのだ。 この信念をもついつか自由になれる日がくるのを信じてわれわれは、共に働き、共に祈り、共に戦い抜き、共に拘留所に入り、共に自由のために立ち上がろう。そして自由が得られた日、われわれすべての神の子は新しい意味を持って”“わが祖国、甘い自由の地、汝のために歌わん。父たちが死んだ地、移民たちの誇りの地、すべての山腹から自由のベルを鳴らそう”と歌えるのだ。
 そしてもしアメリカが真に偉大な国となるならこれは現実とならなければならない。
 だから巨大なニューハンプシャーの丘の上から自由の鐘を鳴らそう。ニューヨークの山々から自由の鐘を鳴らそう。ペンシルバニアのアレゲニー山脈から自由の鐘を鳴らそう。 雪に覆われたコロラドのロッキーから自由の鐘を鳴らそう。カルフォルニアの美しい峰から自由の鐘を鳴らそう。しかし、それだけでなく、ジョージアのストーン・マウンテンからも自由の鐘を鳴らそう。テネシーのルックアウト・マウンテンからも自由の鐘を鳴らそう。
 ミシシッピーのあらゆる丘、あらゆるもぐら塚からも自由の鐘を鳴らそう。
 あらゆる山頂から自由の鐘を鳴らそう。
 われわれが自由の鐘を鳴らす時、あらゆる村、あらゆる集落、あらゆる州、あらゆる市で自由の鐘を鳴らす時、われわれはすべての神の子たちが、黒人も白人も、ユダヤ人も異教徒も、プロテスタントもカトリックも手を取り合って共にあの古い黒人霊歌を歌える日がくることを早めることができるのだ。『やっと自由になった!やっと自由になった!神に感謝す、やっとわれわれは自由になれた!』と」
 ものすごい喚声と拍手が沸きあがった。スピーチを全米のお茶の間は好意的にうけとった。しかし、南部の白人たちは別だった。
「ニガーめ!くだらんことを言いやがって」
「あの野郎はアメリカ人に毒を流す、アジテーターだ」
「いつか殺してやる!」
 南部の白人たちは舌打ちした。
 50年代の終りころから活発化していた差別反対運動は、この年大きなうねりをむかえていた。この夏には、全米で200件を越える人種暴動が発生していた。この8月、過去最高の人種差別撤退集会「ワシントン大行進」には人種差別撤廃をもとめる白人を含め、約30万人が参加した。そのリーダーが、キング牧師だったのだ。
  集会を終えてキング牧師など黒人指導者らはホワイトハウスに招かれた。キングの手を握りながらジョン・ケネデイは”私も夢みている”と話しかけたという。

  JFKはセックス病で、いつもいつも女を抱いた。そのため、正妻のジャクリーンは激怒し、ホワイト・ハウスへ戻ったJFKに、「あなた! いい加減にして。またモンローを抱いたの?! それともリズ?!」と詰め寄った。それは暗く抑圧のある声だった。JFKは、「そんな話はマスコミのデマだ。君はそんなことを信じているのかい?」としらばっくれた。しかし、妻は夫の情事の現場を調べさせていた。だから、証拠写真をジョン・ケネデイに叩きつけて、「あなたは嘘つきよ!」と嫉妬した。
 そして、長女のキャロラインと長男のジョン・ジュニアの手を引き、「もうあなたの嘘は沢山よ!実家に帰らせて頂きます」といって官邸を出ていった。
 ひとりになったJFKは途方に暮れ、執務室のソファーに座り、膝を抱えて何時間も茫然とした。そして、もうひとつの不幸が訪れる。父、ジョゼフの入院である。
 JFKらの父・ジョゼフ・ケネデイは自宅でTVを見ているときに発病し、倒れたという。長くわずらっていた彼の病名は”結核”である。彼は救急車に運ばれるストレッチャーの上でも喀血した。そして、妻・ローズに付き添われて病院に運ばれた。
 ジョンとボビーとエドワードはすぐに病院に駆けつけた。
 医師は、もう永くないでしょう、といった。三人の息子は父親の病室にいったが、ジョゼフは昏睡状態で、話しが出来なかった。
”政治家になることだけ、大統領になることだけが成功だ。父さんを見よ……”ジョゼフのことだまが、心の耳に、津波のように響いた。
 ……父さん、必ずぼくはアメリカを蘇らせるよ…ジョンは涙を流していた。



         ヴェトナム戦争


 多くの人は「ケネデイがヴェトナム戦争を始めた」と言う。しかし、それは間違いだ。アメリカのヴェトナム介入は一九五四年にさかのぼる。フランスがベトミン軍によってディエンビェンフーで決定的な敗北を喫した頃だ。ヴェトナムはその頃、ソ連に後押しされたホー・チ・ミンの北と、アメリカが後押ししたゴ・ディン・ディエム首相の南に別れていた。
 間もなくホー・チ・ミンはゲリラ部隊を南に送り込みディエム政権に揺さぶりをかける。これに対して、CIAは武器などやアドヴァイザーをディエムに送り込む。
 アメリカのフルコミットメントは、いわばアイゼンハウワー政権ですでに決定的だったのだ。
 一九六一年当時、南ベトナムにはグリーン・ベレーを中心として八〇〇〇人の米軍が駐留していた。一九六三年、ケネデイはベトナム現地調査のため副大統領(ケネデイの死後、第36代大統領になった)ジョンソンを送った。帰国したジョンソンは、ディエム政権が危ないのでサポートするように、と主張した。
 ジョンソンはCIAに騙されていた。ゴ・ディン・ディエムを完全なパペット(操り人形)に祭り上げたのはエドワード・ランズデール米国大佐だったが、シナリオを書いたのはCIAだったのだ。
 ケネデイはテレビインタビューで語った。
「ヴェトナムやラオスが問題ですね?」
 インタビュアーに対してケネデイは、
「その通り、あそこが問題だ」と答えた。そして続けて、「しかし最終的には、あの戦争は彼らヴェトナム人の戦争であり、ヴェトナム人たちが自分自身でなんとかしなければならない問題だ。われわれは南ベトナムをサポートできる。しかし、あくまでもサポートであって、フルコミットメントであってはならない。ベトナムはベルリンとは違う」
 と冷静に言った。
 ケネデイはこの時、はっきりとヴェトナムからの撤退を考えていたのだ。
(1964年8月2日、米国政府は北ヴィトナム東方トンキン湾の公海上で米駆逐艦マドックスが北ヴィトナム魚雷船から攻撃をうけたと発表した。7日、米上下両院はトンキン湾決議を行った。ジヨンソン大統領は「共産勢力」の侵略から南ヴィトナムを守るためにあらゆる必要な措置を取る権利を認められた。米国はヴィトナム戦争へのかかわりを一気に深めた。戦いは米国と北ヴィトナムとの全面戦争になり、多くの人命が失われた。71年6月、ニューヨーク・タイムズ紙がマクナマラ国防長官の内部文書で、トンキン湾事件は「でっち上げ」だとわかる。事件は大規模な軍事作戦のための口実つくりだった。)
 いつものJFKに似合わず、神経質なうずきを感じていた。口はからから、手は汗ばんでいる。心臓がばくばくした。モンローとふたりっきりになって愛をかわしているときはモンローはしばしばそうだと断言することができた。彼は優しく、激しく、唇と腰をからめてくる。そのセックスはJFKの不安を忘れることのできる唯一のものだった。


「私は嘘つきピエロか?!」ある日、妻子もいず途方に暮れたままのJFKは、弟のボビーにやつ当たりした。ボビーはききかえした。「…嘘つきピエロとは?」
「私のことだ!妻が……ジャッキーがいったんだ。あなたは女遊びや放蕩をやめない。嘘つきだ!って」は空虚な、落ち込んだ気分だった。しかも悪いことには孤独でもある。
「……兄さん」ボビーは、暗く落ち込む兄の肩を、そっと抱いた。兄さんは嘘つきなんかじゃない。弟は兄の肩にそっと触れた。その感触こそ、JFKの支えであった。
  一方、実家に戻っていたジャクリーンは、子供のジョン・Jrを公園で遊ばせていた。ジュニアはブランコに乗りながら、「…パパのことを許してあげて。パパは寂しいんだよ。だから女のひとと……それにアメリカの人々のために戦ってる。…ね?許してあげて」と母親のジャクリーンにいった。息子の言葉で、ジャクリーンはハッと言葉を呑んだ。彼女は、強烈なフラッシュの光りを眉間に食らった気がした。全身が震え、心臓に杭が打たれたように立ち尽くした。そして……JFKの元に戻った。
 ジョンとジャクリーンは熱いキスを交わした。
「ごめんなさい、あなた。…あなたの苦労もしらないで…」
「いいんだ」JFKはいい、抱き合い、ふたりは笑顔になった。
「ひとつだけ約束して、あなた」ジャクリーンはいった。「ずっと私と一緒にいて。そして、私より先に死なないで!」ふたりは微笑み、抱き合い、抱擁と熱いキスを何度も交わした。

  ある夜、秘密の会議で、政府の閣僚がボヤいた。
「マクナマラ(国防長官)をヴェトナムに送るのをやめさせろ。マクナマラの報告をきくたびにケネデイの顔が蒼白になっていく」
「あの馬鹿の若造、わしにこういいやがった。”近くのキューバには進軍しないのに、なぜ遠くのヴェトナムには行くんだ?”」
「ナメやがって!」
「このままではCIAの立場がない。大統領の周辺はCIA要員で固めてある。副元帥、軍も協力してくれるでしょうな?」
「もちろんです。我々もこれ以上軍縮だの、ヴェトナム撤退だのといわれては困るのです。ところでFBIは?」
「FBIなら大丈夫。”ボビー坊や”は我々の手で固めてありますから、情報は漏れません」
「だいじょうぶか?」
「これは極秘に進めなければな。文章などの証拠は一切残すなよ」
「いよいよ、ストップする時がきたか」
「そうだ。ストップするのだ!」しばらくして、「ニュー・フロンティアに乾杯」と誰かがいい、一同は大笑いした。

  JFKは匿名の人物に呼ばれ、ホワイト・ハウスに近い公園で人物を待った。SPらは公園の入り口などに残して、本当の意味での極秘密会だった。
 匿名の人物は、女ではなく初老の男だった。
「閣下」そういう声がしてJFKが振り向くと、そこには初老の紳士のような男がいた。「あなたが…電話をくれた?」
「そうです。名前は知られたくありません。x大佐とでも呼んでください」
 JFKは「で?要件は?」ときいた。
「まず、歩きながら話しましょう。閣下」
 ふたりは誰もいない緑の公園を歩きはじめた。
 しんと静かで、蝉の声が岩に染み渡るかのようだった。ジョンは頬にそよ風が当たるのを感じ、ぐんぐん迫ってくるような雲を見上げた。思ったほど公園は暑くなかった。
「閣下はヴェトナム戦争をどう見ますかな?」xはいった。
「ヴェトナムは基本的にはヴェトナム人による戦争であり、アメリカはフル・コミットメントするべきではない。ベトナムはベルリンとは違う」
「…その通り。しかし…撤退を軍部が反対している」
「そうだ」JFKは苦くいった。「このままではアメリカの威信が地に落ちる…といっている。馬鹿げたことだ」
「閣下、あなたは狙われてます。政府機関に」
「まさか」
「いえ…事実です。ヴェトナムは軍産複合体のエサなのです。複合体は15年に一度、ホット・ウォーがなければ生きてはいけません。第二次世界大戦…朝鮮戦争…そして、ヴェトナム…。いずれはソ連との戦争…」
「馬鹿な!」JFKは首をふった。「アメリカ人自身が戦争を欲している?馬鹿な!」
「いえ、大統領……問題はもっと深く…そして”醜い”のです。東南アジアの戦死者はアメリカ人五万八〇〇〇人、アジア人二〇〇万人、戦費二二〇〇億ドル、民間機による投下兵力一〇〇〇万人、損失ヘリ数五〇〇〇機以上、投下爆弾六五〇万トン…」
 JFKはもどかしさで唇を噛み、押し黙った。
「これはビジネスなのです。戦争という名のビジネスです。ヴェトナム前に倒産寸前だったヘリ・メーカー「ベル」は生き返った。軍需産業もです。これはビジネスなのです」
「私は…」JFKは狼狽してから「私は…米軍をヴェトナムから撤退させたいと思う」
 といった。x大佐は「それがいいでしょうが……その前に軍産複合体が閣下をストップするでしょう。殺されるか…病院送りになるか…」
「……真実は醜い…あなたはよくご存じだ。…私の改革に協力してくれませんか?」
「いえ」x大佐は続けた。「協力する前に、私は殺されるか……病院送りか…。とにかく閣下、あなたの決断にかかっています。すべてを変えるのです。そうすれば連中だって、手も足も出せません!あなたが世界を変えるのです!」
 あなたが世界を変えるのです!JFKはその言葉に勇気づけられ、決意を固めた。「自分が、世界をかえるのだ」ジョンは、ひとりになってから呟いた。








最終章ケネデイ・



 ジェネレーション                               


JFK暗殺・没後50年企画「ジョン・F・ケネディ、その真実」ブログ連載小説3

2013年11月25日 05時32分50秒 | 日記
         ピッグス湾とマングース作戦


  ニクソンのいった通り、ケネデイは大失態を演じる。
 ピッグス湾事件である。
 それはどんよりとしたグレーの雲のように、彼を落胆させ、心臓をかちかちの石にかえるような出来事であった。しんとした寂しさというより、血管が凍るような鈍い瞬間だ。 一九六一年一月、大統領に就任したとき、JFKは初めてアイゼンハウワーのふたつの置き土産の中身を知って仰天したという。
 ひとつはヴェトナム。もうひとつがCIAが極秘ですすめていた亡命キューバ人によるキューバ侵攻作戦であった。
 ケネデイはCIA長官アレン・ダレスをホワイトハウスの執務室に呼びつけて詰問した。「亡命キューバ人にキューバを侵攻させるというのは事実か?」
「はい、大統領閣下。前大統領から青信号をいただいており、いつでも実行できる手筈になっております」
「決行はいつだ?」
「4月です」
「4月?」ケネデイはムカムカとする内心の怒りを堪えてから、「そうか」と冷静にいい、続けた。
「で、成功する可能性はどれくらいあるんだ?」
「絶対に成功します。作戦の成功を100%保障いたします」
 ケネデイは最後に念を押した。
「アメリカ軍は使わなくていいんだな?」
「だいじょうぶです」
 アレン・ダレスはキッパリ言った。
 ケネデイはダレスが帰ってから考えた。あくまでもキューバ人の問題であり、亡命キューバ人がフロリダからボートで祖国に帰還するのを止める理由もない。
 しかし、CIAはすでに進めていた。
「最終的にアメリカ軍さえ投入すれば作戦は絶対に成功する」
 ダレスはCIAの長官室で得意気に語って、微笑したという。
 かくして、1961年4月17日、亡命キューバ人が大挙してゴムボートに乗り、ピッグス湾へと侵攻を開始してしまう。
 このキューバ侵攻の指揮にあたっていたのがCIA副長官チャールズ・カベルという男だった。しかし、カストロの情報機関も眠っていたわけではない。侵攻軍は三日のうちにキューバ軍により叩きつぶされていった。
 キューバ人がハエのように殺され、キューバ軍の飛行機が上陸しようとする亡命キューバ人を掃射したとき、カベルはケネデイを叩き起こした。
「大統領閣下、アメリカ軍のエア・カヴァ(空からの援護爆撃)だけでも与えてください!」
 ケネデイは「ノー」といった。もう一度、カベルは大統領を叩き起こす。しかし返ってきたのは同じく「ノー」だった。
 カベルは顔面蒼白になって電話を叩きつけ、
 ザット・オン・オブ・ア・ビッチ! 
「この大馬鹿野郎!」
 と、吐き捨てた。そして、「あのいまいましいJFKめ!絶対殺してやる!」
 カベルは癇癪を起こして、デスクのノートらを蹴飛ばした。
 こうしてピッグス湾に侵攻した亡命キューバ人たちは、殺虫剤をかけられた蠅のように全滅した。あっという間の出来事で、感傷にひたっている時間もなかった。そんな場合ではない。JFKは複雑な気持ちだった。苦しく、心臓が飛び出しそうだった。彼は思った。(すべて夢ならいいのに)
  事件をめぐって、苦しい立場にケネデイは追い込まれた。国連ではソ連を始めとする共産国がプロパガンダ攻勢に出るし、カストロはアメリカをののしり、中南米諸国はケネデイが無謀な侵攻にGOサインを出したことに怒りを隠さなかった。
 ケネデイはすべての責任は自分にあるとして弁解じみたことは一切言わなかった。
 しかし、ケネデイがGOサインを出したのは、CIA長官の”アメリカ軍は投入しない”という嘘を信じたためであり、彼にしてみればアメリカ軍の戦闘機を一機でも投入すれば、絶対に勝たなくてはならなくなる。そうすればソ連ももちろん黙っていない。ベルリンでソ連が事を起こすのはあきらかだった。だから、ノーといったのだ。
 この当時、司法長官になっていたJFKの弟・ボビーは『マフィア犯罪取締』を強化していた。で、マフィアの大物・ジアンカーナは激怒し、「ケネデイ兄弟はアメリカの癌だ!」と吐き捨てたといわれる。…チャンスがあれば…殺してやる! 彼は怒りで顔を真っ赤にした。その顔は火照り、目はベーリング海のように冷たかった。

「くそう、あの馬鹿の若造め。CIAの足ばかり引っ張りやがって」
 アレン・ダレスは極秘会議で不満をもらした。
「あのゲス野郎は何とかしなくてはな」
「とにかく」ダレスは一息ついてから、続けた。「まず、若造のまえに、やらなきゃならないのはヒゲ野郎だ」
「カストロ?(キューバ共和国最高議長)」
「そうだ。あの男は必ず暗殺しなくてはな」
「しかし、どうやって」
 部下の質問に、ダレスは微笑した。
「銃殺でも爆殺でもいい。毒殺でもいいな。食事にまぜて”殺す”…」
 部下は「ヒゲを焼いてしまうってのはどうですか?ヒゲのないカストロなんてみられたもんじゃないからね」と冗談をいって笑った。
「それはいいな」
 ダレスの答えに、一同は大笑いした。
  かくして、亡命キューバ人によるキューバ侵攻が失敗に終わった後、CIAはケネデイには極秘にしながらカストロ暗殺に執念を燃やした。
 CIAは当時、マフィアたちと密かに関わっていた。こうした連中を使ってのカストロ暗殺計画をCIAは練り、ヒットマンによる暗殺を最終的に決定した。
 しかし、この計画はひょんなことからケネデイの耳に入ることになる。
 ラスベガスでのこと。マフィアのヒットマンをカストロに向けることにしたCIAは、ガイ・バニスターという私立探偵に、カストロ暗殺実行候補者の一人ジョニー・ロゼリをマークするように指示した。(バニスターは「JFK」という映画の序幕にでてきた人物) 彼はロゼリの牙城ラスベガスに飛ぶ。
 そこでポーカーを通じて知り合った男から、「オレの女が浮気しているらしいんだ。女のベットに盗聴機を仕掛けてくれないか」と頼まれた。そこでバニスターは仕掛けたが、メイドに発見され、ラスベガス署は捜査の結果、ガイ・バニスターの身柄を拘束した。
「なんの目的で盗聴機を仕掛けた?のぞき趣味?それとも誰かに頼まれたのか?」
 刑事は質問したが、バニスターは余裕だった。そして彼は鼻をならしてから得意気に、「うるせえな。俺のバックにはCIAがいるんだ。ヤボなこときくんじゃねぇ」
 といって、自分はすぐ釈放さ、とのたまった。これをきいてラスベガス署の刑事はカチンときた。そしてすぐにCIAに直接問い合わせてみた。が、CIAは”そんな人物は知らない”とシラをきった。
 CIAの策謀を知らなかったFBIは、ラスベガス署の報告書をうけた。FBIは司法省の管轄であるから、ある日、報告書はロバート・ケネデイ司法長官(JFKの弟)に届けられることになった。同時に、CIAからもケネデイに報告書が届けられる。それにはこう書いてあった。
”バニスターを起訴することは、明らかに国家安全に関わる重大事になる”と。
「一私立探偵を起訴することがなぜ国家の安全に関わるのだ……?」
 ケネデイは不思議に思った。そして彼はすぐに部下に命令して、CIAスタッフを呼び付けた。CIAスタッフのヒューストンという男がきた。そして、ロバート・ケネデイ司法長官に詰問されて、ついに口を割る。
「ガイ・バニスターを雇ったのはCIAです。任務…は…カストロ暗殺要員としてCIAがピックアップしていたジョニー・ロゼリを見張ることでした」
 これをきいて、ロバート・ケネデイの顔面はさあっと一瞬で蒼白になった。兄も自分もそんなことは知らなかった。すべて極秘に行われていたのだ。自分も大統領である兄もないがしろにしてだ!なんということた。ごうごうと吹く風が窓をゆらす音をききながら、グレーの雲をながめて、怒りを爆発させた。そして、
 弟からこの一件をきかされたジョン・ケネデイは激怒のうちにアレン・ダレスを解任した。

         ケネデイ・フルシチョフ会談
          ーベルリンの壁ー



 JFKは誰もいない執務室で「CIAめ!」と、怒鳴った。そして立ち上がって「大統領にうそつくとは何ごとか!」歯をぎりぎりいわせながら怒りをぶちまけるようにいった。そうしている内に、怒りは爆発した。ケネデイはいきなり窓の方をふりかえると、右手で大きな円を書いて、ディスクにあるものを全部払い落とした。電話、ファイル、コーヒー・カップ、メモ、鉛筆、すべてが派手な音をたてて床にころがった。まったく、ダレスめ!  その夜、JFKはジャッキー(ジャクリーン夫人)にCIAに騙されたことなどを話したが、彼女の答えは「あぁ、そう」だけだった。
 情報機関にはよくあることよ、だという。
 一九六一年六月三日、中立国オーストリアの首都ウィーンで、ケネデイ、フルシチョフ会談が行われた。フルシチョフは、胸に勲章をズラリと飾って会談に臨んでいた。
「その一番上の勲章は何んですか?」ケネデイは尋ねた。
「レーニン平和勲章だ」フルシチョフはいった。その答えにたいして、
「それをずっと外さないでほしい」ケネデイはこんなジョークをかましたという。
 しかし、会議は何の合意も取り付けられず、大荒れに荒れ、ついにフルシチョフは最後の最後に言った。
「われわれは、今年の末までに東ドイツと講和条約を結ぶ。東ドイツとベルリンへの通行権問題について、今までどおり実行していくだろう。西側が少しでもこれを邪魔をした場合、戦争もありうる」
 つまりソ連は、ベルリンから西側同盟国を追い出すと脅したのだ。ベルリンへの通行、軍を駐留させている権利は、西側がそれまで多くの犠牲を払って守り抜いてきたものだった。ケネディはフルシチョフに散々なめられて激怒したという。それから数時間後、JFKは覚悟を決め、キッとフルシチョフの顔をにらみつけてこう答えた。
「なるほど、それでは戦争になるでしょうな。…書記長、あなたは重大な間違いを起こそうとしている。我々西側は、それでもけしてベルリンを見捨てない!」
 フルシチョフは、しょせんは若いだけの大統領ぐらいにしか思っていなかったケネデイの気迫に少しビックリした。しかし、それではマズイ!ソビエトがアメリカと本気で戦えば、負けるのは目にみえている。アメリカはソ連にとってのスケープ・ゴートであればいいのである。国民に、贅沢できるのは一部の人間だけ、巨大な発展途上国、核と宇宙ロケットを持った第三世界である、という祖国の現状を知らせないようにする。その為に、アメリカを敵として「バターより大砲」のスローガンの元に、庶民の不満を散らしてきたのだ。ソビエトにとって(もちろんアメリカにとっても)必要なのは緊張状態であって、戦争ではないのだ!
(もちろん緊張状態を維持するために、ソビエトの方もアメリカと同じか、それ以上の軍事力を持っていなければならない。アメリカより軍事力がはるかに劣っているのでは緊張状態どころではない。だからこそ、ソ連は必要以上の資金を軍事費につぎこみ、…そして、結果的に、ソ連経済は破産したのだった。この米ソ関係に最初に気付いたのが、かのフランス大統領、ドゴールだったという)
 ケネデイは帰国後、ベルリン駐留軍を増強させ、議会に一八億ドルという防衛予算の上積みを要求した。核シェルターを地下に次々とつくり、第二のアメリカを地下につくろうとした。もし核戦争が起こったらお互いに生き残れない。それではマズイ!「アダムとイブはロシア人でなく、アメリカ人であるべきだ。一発くらい打たれても平気なように、アメリカのスペアを地下につくっておこう!そして、米国の持っているすべての核兵器をソビエトにぶつけて、『悪の帝国』を25回沈めてやるのだ!」故・ジョン・F・ダレスの気違い作戦である。
 八月一三日朝、負けず嫌いのフルシチョフは、ベルリンに壁を張り巡らせた。戦争よりもドイツ分断という方を選んだのだ。こうして、このベルリンの壁は「冷戦のシンボル」となり、八九年まで、さまざまな悲劇を生むことになった。
 ここで考えなくてはならないのは、フルシチョフと会談したのがケネデイだったことだ。もしケネデイより攻撃的な人物だったら、核をちらつかせて核戦争になっていただろう。もし弱い人間なら、ベルリンはソ連に支配されてしまったろう。
 もしアメリカ大統領が、無能・無策の日本政治家みたいだったら、今頃世界は核の冬の中にあった違いない。
 歴史はつねにうまく出来ている。ヴェルリン危機は、ケネデイだから解決できたのであるのだから。


         イッヒ・ビン・アイン・ベルリナー


  一九六三年六月二六日、JFKは西ベルリンを訪れ、市公会堂前に集まった数十万の群衆に語りかけた。ケネデイ!ケネデイ!群衆からケネデイ・コールが沸き上がる。
 ケネデイは演台にたち、話しはじめた。
「二〇〇〇年前、最も誇り高い言葉は”キヴィス・ロマナス・スム”(われわれはローマ市民である)という言葉であった。
 今日、自由社会において最も誇り高い言葉は”イッヒ・ビン・アイン・ヴェルリナー”(われわれはベルリン市民である)という言葉だ」
 大喚声と拍手、そしてケネデイ・コールが再び起こる。ケネデイは絶えるのを待って続けた。
「ある人々はいう。共産主義と自由世界の間に横たわる問題は、一体なんなのか?と。
 そういうひとはベルリンに来るべきだ!
 ある人はいう。共産主義こそ未来の波である、と。
 彼らはベルリンに来るべきだ!
 またある人は共産主義者たちとうまくやっていけるという。そしてある人々は、確かに共産主義は悪のシステムであるが、経済的発展を促進させているという。
”ラッス・ズィー・ナック・ベルリン・コメン!””レット・ゼム・カム・トゥ・ベルリン!”
 自由には諸々の困難があり、民主主義は完全ではない。しかし、われわれは自国民を閉じ込めるために壁を作ったことなど、一度としてなかった。
 私は大西洋の彼方に住むアメリカ国民を代表して、あなた方に言う。われわれは過去一八年間の苦難を、あなた方と分かち合えたことは最大の誇りであった、と。一八年間もの長い間、包囲の中にありながら、西ベルリンほど活気と力、希望と決意をもって生きてきた街を私は知らない。
 ベルリンの壁は、共産主義体制の最も明らかな失敗を全世界にみせつけている。しかし、われわれは満足などしていない。なぜならそれはあなた方の市長ウィリー・ブランド氏が語ったように、歴史に対する罪であるのみならず、人間性に対する罪でもあるからだ。家族を引き離し、夫や妻、兄弟姉妹を隔離し、共に生きたいと願う人々を引き割くことを、人間性への挑戦といわずして何と言おうか。
 あなた方は自由の孤島に住んでいる。しかし、あなた方の人生は大きな流れの一部なのだ。故に話をしめるにあたって、あなた方にお願いする。今日の危機を超越し、明日の希望に目を向けて欲しい。このベルリンの街の自由だけでなく、全人類の自由と正義にもとずいた平和に目を抜けてほしい。
 自由というものは決して分割されない。ひとりの人間が奴隷として扱われたら、すべての人が自由ではない。すべての人々が自由になる時、このベルリンもドイツ国家もそしてこの偉大なるヨーロッパ大陸も、平和と希望に満ちた世界のひとつになる日がやってくるであろう。
 その日は必ずやってくる。その時こそあなた方は約二〇年の間、この戦いの最前線に立っていたという事実に心からの満足感を得られるのだ。
 いずこに住もうと、すべての自由人は、ベルリン市民に他ならない。故に私はひとりの自由人として誇りをもって言う。”イッヒ・ビン・アイン・ヴェルリナー”と」
 ものすごい喚声と拍手が沸き上がり、それは止むことがなかった。
 ケネデイは帰りの飛行機の中で、「次の大統領にもし国内で人気がなくなったら、ベルリンを訪れるようにメモを残しておく」と冗談でいったという。それ程、ケネデイの人気はすごかったのだ。そして、ケネデイが「西側は西ベルリンに深くコミットする」という姿勢を東側にみせたことは重要な意味をもった。何百もの戦車をベルリンに送り込むよりも、このケネデイのスピーチのほうが効果的であった。
 ドイツが統合され、壁もなくなり冷戦も終結した今、このケネデイの偉大なるスピーチは心に響くものがある。
”イッヒ・ビン・アイン・ヴェルリナー”
 ーという言葉を、である。

         経済問題


  ケネデイは経済問題にも取り組まなければならなかった。なぜなら、一九五八年のアイゼンハウワー政権下で始まったリセッション(不況)は三年目に入っていたからだ。消費の低下、財政赤字、失業の三拍子で失業者は三〇〇万人(現在は一五〇〇万人ほど)! ケネデイの出した法案の主は、失業手当を三週間延ばすこと、失業者の子供達への補助金、早期の退職を奨励するため年金を増やす、最低賃金を上げる、住宅建設とスラム一掃のため融資をする、などだった。
 これらの成果はみるみる現れだし、沈滞していたアメリカ経済のダイナミズムが戻り、確実に経済は回復へと向かっていった。
 しかし、JFKは単にリセッションからの回復では満足しなかった。彼は”その後の成長”を望んでいた。財政赤字にありながらも、政府支出をカットせず逆に大幅に増やしたのも消費を刺激し、上昇中の成長をガス欠させないため。減税にふみきったのもそのためだった。
 こうしてケネデイによってアメリカ経済は上昇気流に乗るのだが、こうした成長についてまわるのがインフレである。
 インフレが急激な場合は成長をさまたげてしまう。物価上昇を最低限に抑えるためにはし各メーカーが製品の値上げを控えることだ。
 そこで、企業にケネデイは労働組合に負けずに値上げしないように、と各メーカーに釘をさしていった。
 しかし、アメリカの産業の核である鉄鋼のUSスティールはケネデイとの交渉内容を裏切り、値上げを決めてしまう。
 そこでケネデイは怒りを爆発させた。そして、その怒りをテレビで国民に訴えた。
「USスティールをはじめとする大手鉄鋼会社による同時かつ同一な一トンにつき六ドルという値上げは、公共の利益に対する無責任かつ不当な挑戦といわざる得ない。
 今われわれはわが国の歴史のなかで最も重要な岐路に立っていることは、改めて強調するまでもあるまい。東南アジアやベルリンでは重大な危機に直面し、国内では経済の再建と安定のために皆が全力をつくし、予備兵たちは家族から何か月も離れてくれるように要請し、兵士たちには命を賭けてくれるように要請し、過去二日のうち四人がベトナムで散っている。組合には賃上げ交渉を控えるように要請し、すべての人々に自重と犠牲が強いられている時、個人的権力と金を追求する一握りの鉄鋼会社の幹部たちがその公的責任を顧みず、一億八五〇〇万人のアメリカ人の利益を頭から侮辱する態度に出た状況を、アメリカ国民は、私同様決して受け入れないであろう」
 こうしてJFKは、鉄鋼メーカーの中から賃上げをしない会社だけから調達するようにペンタゴンに指示を与える。そうしたこともあって、続々と鉄鋼メーカーは賃上げを断念していき、最後にUSスティールは値上げを撤廃した。
 値上げが撤廃されればケネデイにとって文句はなかった。その後、記者会見で彼は、値上げにふみきったUSスティールについてひとこともふれず嫌味や悪口もいわなかった。 ーさて、
 アメリカは世界最大の債務国である。つまり赤字国家だ。(債務国とは、国際収支が、貿易収支、経常収支とともに赤字の国。第三世界や東欧、ロシアはもちろんだが、アメリカが世界最大だ)負債は2兆8000億ドル以上。しかし、アメリカが破産するわけにはいかない。そんなことをしたら世界の終りだ。今、その借金のかたがわりをしているのが日本とドイツである。しかし、そろそろアメリカも借金で首がまわらなくなる。(現在、アメリカはビンラディンによる同時多発テロなどで不況で、回復基調だが安心はできぬ)そこで手を打っておくべきなのだが、日本のバカ政治家にも記憶力だけの官僚にもなんの手も思い付く訳はない。
 まさに”お手上げ”である。




         セックス病


  ケネデイがマリリン・モンローと付き合ってセックスに狂じていたのは誰もが知るところだ。その夜も、そうだった。甘い夜だ。とろけるような。チョコレートのような。
「今夜も一段と色っぽい」モンローの美しい髪に顔を埋めて、ジャック(JFK)はいった。そして服を脱がせていった。愛の行為は、JFKにもモンローにもいまだかつてないほどすばらしかった。彼の疲れがひどすぎて、控え目に、おだやかにやさしくふるまうしかなかったためかわからない。裸のまま、くしゃくしゃのシーツに横たわった。愛の行為は、JFKにとってもモンローにとっても素晴らしいものだった。
 モンローはJFKの裸の肩から腕に、細い指先をはわせると、「ねぇ、大統領閣下。わたしと奥さんと、どっちがよかった?」ときいた。
「もちろん両方さ」
 JFKは冗談まじりに言った。
 ジョン・F・ケネデイの付き合っていたのはモンローだけでなかったことが最近明らかにされている。エリザベス・テーラーなどともセックスに狂じていたという。それ以外にも愛人の数はかなりいた。”JFKはセックス病だった”などと書かれるのも頷ける。”英雄、色を好む”というが、少し異常である。もちろんこうしたエピソードも、人間味を感じさせてくれて良いのだが、もしJFKが大統領でなかったら、ただの女ったらし、だ。(女好きはケネデイ家の伝統だ)

         キューバ危機


  一九六二年、軍首脳の意見に動かされ、フルシチョフ(ソ連元首・当時)はカストロによる革命によって社会主義国となったキューバにミサイルを運び込む。KGB長官シェレーピンは、アメリカと核で対決するのは危険極まりない、とフルシチョフに強く主張した。だが、フルシチョフは腰抜け呼ばわりしたあげくに、シェレーピンをクビにしてしまう。
 ケネデイ大統領はソ連がキューバに中距離ミサイル基地を建設中であると発表。その撤去を要求、艦艇183、軍用機1190機を動員し、キューバ海上を封鎖した。キューバからのミサイル攻撃は、ソ連のアメリカ攻撃とみなし、ただちに報復すると宣言した。
「キューバ危機」である。
 危機を受けて、大統領のJFKと弟のロバート、そして、大統領首席補佐官のオドンネルが極秘会談をした。ケネス・オドンネルも若かった。この若き3人が、キューバ危機からアメリカを救うことになる。
「大統領閣下、軍部は”徹底交戦”を叫んでおります」
 オドンネルがいった。
「うむ」JFKは頷いてから「ソ連がアメリカ本土を攻撃する前にソ連に核を撃ち込め…などといっているんだな?」
「そうです、兄さん」ボビーが続けた。「でも……そんなことをする訳にはいきません。なぜなら、一端”核戦争”にでもなったらアメリカとソ連だけでなく…全世界が火の海です。これは危機です!」
「うむ」JFKは椅子に座り、頬杖をつき、暗く考えこんだ。…なにかいい作戦はないものか……。ソ連の野望をストップするためにはハード・ランディングではダメだ。それこそ、世界中が火の海になる。しばらく身の毛もよだつ様な静寂が襲った。JFKは、
「とにかく…危機管理のために私とボビー、それからオドンネルはこれから2週間はホワイト・ハウスで寝泊まりだ。いや、寝ている時間などないだろうが…」といった。
 そして、JFKはテレビ演説で『キューバ危機』を国民に告げた。
 そのテレビ演説の案は、すべてオドンネルが発案し演出したという。その他にもオドンネルは、戸惑うJFKやボビーに代わって(影で)政府を動かした。そのことでJFKはやりきれない程の嫉妬を感じたといわれる。
 オドンネルは危機管理でホワイト・ハウスに泊まり込むため、一端、自宅に車でもどった。夕方だった。空がオレンジになり、セピアに染まる。しんとした静寂が広がる。
「パパ!」オドンネルの息子は彼に抱きつき、「パパ!今日はなんの日か知ってる?!」
 と笑っていった。
「……パパは、忙しいんだ。どいてくれ」オドンネルは冷たくいった。
 で、息子は離れ、そして、「パパ……忘れちゃったんだ。ぼくの誕生日…」と暗く呟いた。オドンネルはハッとて「そうか。そうだったね。ゴメンよ」と謝った。そして、
「でも……パパはお仕事なんだ。許してくれ」といった。
「あなたはいつもそう…」オドンネルの妻が口をはさんだ。「息子の誕生日も忘れて…いつも仕事仕事…」「仕方ないじゃないか!国家の危機なんだ」「そう。危機ね。私たちは核シェルターにでもいればいい?あなたはホワイト・ハウスで…」妻は嫌味をいった。
 オドンネルと妻子に葛藤があり、妻子は実家に帰った。


  ふたたび『キューバ危機』。
  アメリカ市民は、第三次世界大戦の恐怖を感じとっていた。街の核シェルターのドアはいつでも飛び込めるように開けられ、恐怖で泣き叫ぶ女性も多かったという。
 だが、そうはならなかった。
 それは、ホワイト・ハウスからほど近い公園でストップしたという。米合衆国司法長官ロバート・ケネデイ(JFKの弟)が歩きながら、「もはや大統領は軍部を抑えきれない」と眉をひそめていった。駐米ソ連大使アナトリィ・ドブルイニンは表情を変えることなく答えた。
「司法長官閣下、わが国も、もはや手を引ける状態ではありません。………もはや戦争しかないでしょうな」
 重い沈黙が辺りを包んだ。ケネデイ司法長官は、覚悟をきめ、切り札を出した。「われわれはウラル山中にある、あなた方のミサイル基地の正確な位置を知っています」
「ウラル基地の位置をですか?」ドブルイニンは立ち止まり、不安な表情をみせないように、口元に微笑みを浮かべた。ウラルの核ミサイル基地は全部地下にある。だからわかるわけがない。ハッタリに決まっている。この男のハッタリだ!
「大使、ペンコフスキーという名をご存じですか?」ボビーが不敵な笑みで振り向いて、大使は息を呑んだ。さすがのドブルイニンも一瞬冷静さを失った。
「ご存じですか?」
 司法長官は自信あり気に呟いた。これで終りだった。大使の顔はみるみると青褪めた。オレグ・ペンコフスキー。最近、KGBに捕まらえられたGRU(ソ連軍参謀本部情報局)の大佐で、CIAとMI6(イギリス情報局)のスパイとして働いていた奴だ。あの裏切り者め、そんな情報まで西側に流したのか!ドブルイニンは大使館に戻り、モスクワに打電した。こうして核戦争はストップされたのだった。もちろんペンコフスキーが処刑されたのはいうまでもない。
 キューバのミサイル基地撤退を決意したフルシチョフは、クレムリン保守派から総攻撃を受けてしまう。これを機会に、KGBや軍はフルシチョフに不信を持ち、もっとも頭の切れない実力者、ブレジネフに目をつけることになる。
「私は合衆国大統領として、フルシチョフ書記長のステーツマンライクな英断に感謝する」 ケネデイはテレビでコメントした。アメリカの勝利を告げることもなく、フルシチョフをたて、さらにソ連に最恵国待遇まで与えた。こうしてケネデイとフルシチョフは友情関係を築いていった。だが、その友情の絆は、突然断ち切られることになる。
 ケネデイ暗殺、である。

  キューバ危機を乗りきり、オドンネルは自宅へ戻った。
 すると妻と息子がいて「おかえりなさい。大変だったわね」と、彼を労った。妻はくたくたの彼をみて、「ごめんなさい、あなた……悪気はなかったの。危機でパニックになって」といった。オドンネルは微笑んで「いいさ。とにかく、危機は去ったんだから」
 といい、続けて「ほら、……遅れたけど…誕生日プレゼントだ」と息子にプレゼントを与えた。息子は箱を開け「うぁ~っ、戦車だ」と歓声を上げた。
 ケネス・オドンネルと妻は抱き合い、熱い涙を流した。とにかく、和解し、彼は癒されたのだ。そして真実の”絆”が生まれたのだ。きらきらした真実の絆が…。
「俺たちはやったぞ!」オドンネルは笑顔でいった。


第三章ヴェトナム                                


JFK暗殺・没後50年企画「ジョン・F・ケネディ、その真実」ブログ連載小説2

2013年11月24日 02時38分56秒 | 日記
          2・5戦略


  アイゼンハウワーにメモを渡して質問に答えさせていた男、その男こそジョン・フォスター・ダレスであった。国務省に入ったのは1950年、トルーマン政権によって国務省顧問に任命されている。ジョン・フォスター・ダレスは外交政策において事実上、大統領職にあった。
 ダレスの政策を「瀬戸際政策」という。戦争の瀬戸際までお互いを押し合うことで平和を保つというものである。共産側がわずかでも自由世界を侵略すれば、ソ連への核攻撃を含め、断固とした手段で対処する、というものだった。
「アメリカ側に攻撃してくれば、ソ連を二十五回沈めてやる。アダムとイブは、ロシア人ではなくアメリカ人であるべきだ」
 まさに気狂いのようだが、相手に一発張らせたうえで、大量報復をするというわけだ。当時のアメリカの核ミサイルの標準はモスクワ、レニングラード(現・サンクトペテルヴルグ)、キエフなどに合わせてあった。
 ソ連がミサイルを撃ってくるなら大量報復で応戦してやる、という恐るべきアメリカの戦略があったということである。
 さて、2・5戦略ということをご存じだろうか?これは当時のアメリカの戦略である。わかりやすく書けば、2つの大きな戦争(対ソ連と対中国)と小さな戦争(アンゴラや北朝鮮など)を同時に出来るという戦略である。えらい自信だが、ヴェトナム戦争でそれは出来ないということを証明してくれた。ヴェトナム戦争の泥沼にはまって戦略の変更をよぎなくされたアメリカは、ソ連を外すわけにはいかないので、中国と国交を回復したのである。
  ある日、選挙から自宅の豪邸に帰ってきたジョンは、ジョゼフの部屋を訪ねた。いろいろと相談にのってもらいたいこともあったし、とにかくこういう時に頼りになるのが父親のジョゼフ・ケネディだったからだ。父さん…実は…JFKはそういってから思わず驚いて凍りついた。動揺した。なぜなら、父親がひとりの部屋で咳き込み、やがて喀血してしまったからだ。父さん! ジョゼフはハンカチで口元の血を拭き、…なんでもない。と言った。そして、ジョン……このことは母さんにも家族にも内緒だ。約束できるか?…父さんの病気のことは内緒…だぞ。と念を押した。
 JFKは言葉を飲み、そして沈黙した。内緒だ…自分と父さんだけの…。それは、暗闇のラビリンス…漆黒のパラドックスで、あった。
 父さん…必ず僕は…大統領に…なる。
 それは、病気の父への”約束”であった。


         ニクソンvsケネディ


  ケネデイとニクソンの知名度の差は歴前としていた。アイゼンハウアーのもとで八年近くも副大統領を務めてきたニクソンと一介の上院議員とでは知名度に天と地の開きがある。これをなんとかしなければならない。そこでケネデイ側はテレビ討論を考えた。
 彼のブレーンであるセオドアー・ソレンセンはニューヨークで、ニクソン側の代表とテレビ討論についての交渉を行っていた。もし実現すれば歴史的イベントになることは間違いなかった。
 当時のテレビ業界は日本の民放に似ていた。つまらないホームドラマや暴力、やらせ、バラエティーといった具合だった。”公共性”のある番組が求められてもいた。
 だから、近付く大統領選挙は理想的であった。ケネデイとニクソンのディベートであればこれ以上の公共性はない。
 多くの共和党員は、当時、アイゼンハウワーを含めてニクソンは絶対にディベートをすべきではないと主張していた。世論調査で先行している現役副大統領がなぜケネデイと一緒にテレビにでなくてはならないのか、というのだ。
 しかし、ニクソンには自信があった。彼はハイスクール時代ディベートのチャンピオンだったし、ケネデイごときには負けない自信があった。ケネデイを完膚なきまでに叩きつぶせば、支持率はさらに上がる。
 しかし、この考えが裏目に出ようとは、この時、誰が思っただろうか。
 かくして、一九六〇年九月二六日、午後八時三〇分、シカゴのCBS系スタジオにおいて第一回目のディベートが開始された。
 舞台の中央に司会のスミスが座り、その左側にケネデイ、そして右側にニクソンがすわった。
 ニクソンは膝の手術を受けて退院したばかりとあって、顔色が悪く(当時はモノクロ画面)、それと対照的にケネディは日焼けした顔(アディソン氏病の影響)で実にくっきりしていた。
 カメラを見据えてケネデイは語り始める。
「一八六〇年の選挙においてアブラハム・リンカーンは、国民の半分が奴隷で半分が自由というこの国家が存続し得るかが問題であると語った。一九六〇年代のこの世界において、問題は世界が半分自由で半分奴隷という状態で果たして存続でき得るかということである。 世界は、われわれが今歩んでいるような自由の方向に向かっているのだろうか。それとも独裁の方向へむかっているのだろうか。これに対する答えは、われわれがこのアメリカ合衆国で何をするか、どのような社会を作り上げていくかにかかっていると私は考える。 今夜、われわれは国内問題について対論することになっているが、それがフルシチョフ氏との生存競争に直接関係しているのだということを強調したい。
 もしわれわれがここアメリカで努力し、互いの責任を全うし、前進する勇気を捨てなければ自由というものが世界中で安全となろう。しかし、もしわれわれが失敗すれば、自由もまた失われる。
 故にアメリカ国民に投げかけられた疑問は明白である。われわれは今、ベストを尽くしているのだろうか。可能性のリミットまで追及しているだろうか。われわれは本来持つべき強さをもっているだろうか。われわれに援助と生存を賭ている国々との友好を維持できるだけの強さがあるだろうか。
 まず私は明白にいいたい。われわれは今、ベストをつくしていない、と。アメリカ人としては今のわが国の進展度に満足していない。
 祖国アメリカは偉大な国である。しかし、もっと偉大な国家になれる。パワーフルな国家であるが、もっとパワーフルになれると私は信じている……・
 私はあらゆるアメリカ人が憲法に保障された権利を享受できるまで満足できない。異人の子供は、これはプエルトリコ人とメキシコ人についてもいえることだが、この世に生まれても高校を卒業できるチャンスは白人の子供の半分しかない。
 また、九〇億ドルの余剰食料がありながら、四〇〇万人のアメリカ人が一日わずか五セントの価値しかない食料を毎月政府から受け取らなければならないという事実に、私は満足できない。
 一九三三年、かのフランクリン・ルーズヴェルトはその就任演説で、後の世代のアメリカ国民は運命とランデヴーしていると語った。この世代のアメリカ国民もまた、運命とランデヴーしていると私は思う。
 問題の核心は、自由というものがかつてないほどきびしい攻撃にさらされている中で、果たして維持され続けるのであろうかということである。私はされ得ると信ずる。すべては、われわれがこの国でなにをするかにかかっている。
 アメリカが再び動き出す時がきたと私は確信する」
 このケネデイのオープニング・ステートメントに比べて、ニクソンのそれは対照的だった。
「今ケネデイ上院議員が言った事柄については、われわれの多くが同意できる。そして私は今夜ケネデイ上院議員が語ったアメリカは前進しなくてはならないという精神には百パーセント賛同する。ではわれわれの不一致とする点は何なのか?それはこのキャンペーンを通じて、彼が何度となく繰り返し言い続けてきた”アメリカは停止状態にある”という言葉に要約されると思う。
 たとえば今も彼はわが国の昨年度のGNPは先進国の中で最も低かったと述べた。しかし、昨年はリセッションの年にあった。しかし、今年度のGNPの伸び率は六・九パーセントで最も高い伸び率となっている…」
 初めからディベートに反対していた多くの共和党員は、恐怖におののいた。ケネデイが国民に語りかけたのに対し、ニクソンはケネデイに賛同して、数字をあげていちいち説明する。しかもニクソンは病み上がりで、顔は真っ青で、汗を何度もにじませる。
「ニクソンはプレッシャーに弱い」
 と、テレビをみている視聴者は思ったに違いない。ニクソンは当然苛立った。する必要のないディベートをしたため、ケネデイの支持率はウナギ登りだ。
 ケネデイは、ソ連によるスプートニック打ち上げ、ミサイル・ギャップ、ソ連によるUー2撃墜事件、サミットのキャンセルなどを背景に、アメリカの威信が確実に低下していると主張した。
 この主張にたいしてのニクソンの答えは、
「アメリカの威信が地に落ちたというが、それは代弁者が語るレヴェルでしかない。ケネデイ上院議員はアメリカの威信が低下していると、ことあるごとに言っている。彼のような責任ある立場にいる人間がそんなことを言うから、アメリカの威信が落ちるのだ。アメリカをこきおろすケネデイ氏の国民としての責任感を私は疑う」
 ケネデイはこれに対し、ニクソンを見つめ、
「私はニクソン氏に国民としての責任うんぬんを言われる必要はない。私は、断じて国家をこきおろしていない。私がこきおろしているのは、この国のリーダーたちの能力なのだ」 と言った。
 このディベート後の世論調査では、ケネデイの勝ちが四三パーセント、ニクソンが二三パーセント、二九パーセントが引き分け、残りの五パーセントが意見なしだった。
 しかしディベートによってケネデイの人気はウナギ登りに上がった。そこでニクソンは、国民に絶大な人気のあった”去り行く大統領”アイゼンハウワーに頼ることになる。
 アイク(アイゼンハウワー)がニクソンと一緒にオープンカーに乗り、にこやかに手を振るだけで、人々は熱狂した。
 故ジョン・F・ダレスにあやつられた「無能大統領」でも、人気はすごかった。この作戦が効をしめし、ニクソンの世論調査での支持率も上り始めた。
 しかし、一九六〇年一一月八日、アメリカ国民は第三十五代大統領にジョン・F・ケネデイを選んだ。投票率は六四・五パーセントと歴史上最高記録をマークした。当票数六八八三万二七七八票のうち、ケネデイに投票したのは三四二二万一五三一、ニクソンが得たのは三四一〇万八四七四、その差わずか一一万三〇五七票だった。
 まさにどちらが勝ってもおかしくなかった。
 一九六一年一月九日、ジョン・F・ケネデイはウシントンに移るにあたり、故郷マサチューセッツ州の州議会で別れのスピーチを行った。選挙後初めてのスピーチだったが、そこには風格がただよっていた。
「多くを与えられている者には、多くが要求される。そしていつの日か、歴史という高貴な裁きの場で、われわれが国家にたいするつかの間の奉仕においてどれだけの責任を果たしたかが問われるだろう。その時、四つの疑問に対しわれわれがどう答えるかで審判が下されるだろう。
 第一に、われわれには真の勇気があったか。その勇気とは、単に、敵にたいするものでなく、必要とあらば仲間に対しても立ち向かうことのできる勇気であり、公のプレッシャーだけでなく、私的な欲望にも立ち向かえる勇気である。
 第二に、われわれには真の判断力があったか。未来と過去を真っ正面から見つめ、自らの過ちを認め、自分たちの知識の限界を知り、それを認める英知があったか。
 第三に、われわれには真の尊厳があったか。自らの信念を貫き通し、人々の信頼を裏切らなかったか。政治的野望や金銭的欲望のために神聖なる任務を汚さなかったか。
 最後に、われわれは真に国家に献身したか。名誉や特定の人間やグループに妥協せず、個人的恩恵や目的のために道を曲げず、ただひたすら公共のため、国家のために身を捧げたか。
 勇気、判断力、尊厳、献身……これら四つの要素が私の政権の活動の基準となるであろう。
 恭謙の念をもってこれからの任務につくにあたって、私は神の助けを求めたい。しかし、この地上では神の御意志はわれわれ人間が実行に移さなければならぬということを心に刻んで、私はこの新しい厳粛な旅に向かう。あなた方の支持と祈りを切にお願いしたい」
 ここで歓声と拍手がわき起こった。そして拍手はなりやむことはなかった。
 ケネデイの挑戦のスタートの幕が、まさに切っておとされたのである。


  さて、CIAやDIA、FBI、NSC…などをご存じだろうか?
 NSCというのは、国家安全保障会議のことで、この機関は大統領直属である。1947年、冷戦を背景にトルーマン政権は国家安全保障会議法を成立させ、それに基づいて創設された。任務は、アメリカの対外政策と軍事政策との統合、政府各機関の活動と国防政策との統合調整について大統領に助言すること。この国家安全保障会議法が成立したとき、だれにも気付かれずにそっと通された法律があった。OSS(戦略サービス局)を解体して統合的な情報機関を設立するという法案だった。これでCIAが設立された。
 NSC議長には大統領自身があたり、副大統領、国務長官などがメンバーとなる。
 NSA(国家安全局)は国防総省の配下にある最大の情報機関で、軍事、経済全域をカバァーする。その専門職は、各国および企業の暗号コード解読。また、世界中の国際電話をすべてチェックしているという。
 DIA(国防情報局)はレーダーや電波などについて、周波数、パルスなどを調査するのを専門職にしている。敵の無数や電話を傍受することで情報を得、また沖縄にあるようなレーダーをつかって通信以外の電波波信号をとらえることによって、得られる情報を集める。
 FBIとは連邦捜査局のこと。連邦司法局の管轄に属する。郵便犯罪やニセ札事件、外国外交官などに対する犯罪など2州以上にまたがる犯罪の捜査、公安情報の収集などを行う警察機関である。
 CIAは大統領直属の情報機関である。首都ワシントンにほど近いバージニア州ラングレーに本部を置く。1万6千500人のスタッフを配し、年間予算7億5000万ドルといわれている。破壊、転覆工作、プロパガンダ(大衆操作)、ディスインフォメーションなどをやるが、大部分の仕事は、謀報活動。スパイ衛星で情報を集めたり、エージェントが足で情報を集めたりする。
 CIAの仕事は大統領のために情報分析、評価を行い、それに基づいて報告書を提出すること。また毎朝、国家安全保障担当の大統領補佐官に世界の情勢変化をまとめたブリーフィング・ペーパーを作成して提出すること。つまり、大統領の”目”という訳である。(日本にはこのCIAのような情報機関が存在していない。防衛庁情報本部があるが、それはDIAと同じ組織だ。電波傍受がおもで、ヒューミント(人間による謀報活動)はやっていない。衛星で戦車の数は計れても、独裁者の金庫に眠る書類まではみれないのだ。こう考えると、日本というのはまさに”盲目”である。)
 ということで、アメリカの機関の説明を終りにする。そしてふたたび物語にもどろう。



          大統領就任



 一九六一年一月一〇日、ジョン・F・ケネデイはアメリカ合衆国第三十五代大統領に就任した。その参列者の中には父・ジョゼフの姿もあった。彼は、息子の成功を喜び誇らしく思っていた。だから、彼の表情は満天の笑顔であった。ジョゼフはJFKにサム・アップしてみせた。やったな! って訳だ。ジョゼフの病気のほうは小康状態であった。
 ごうごうと寒風が吹きすさむワシントンDCで彼が語った言葉はリンカーンのゲティスバーグ演説に勝るとも劣らないと評価された。きらきらとした瞬間だ。言葉だ。
 ジャック(JFK)は演壇に立ち、マイクを確認してから語り始めた。
「われわれは自由と生存と成功のためにはいかなる代償も払い、いかなる重荷をもにない、いかなる苦難にも立ち向かい、いかなる友をも支援し、いかなる敵にも反対する。
 もし自由社会が多くの貧しい人々を助けることができないなら、富める少数を助けることはできない。
 中南米国家とはアライアンス・フォー・プロブレスを築き、新しい関係をつくりたい。 そして、国連にはもっともコミットしたい。
 国連は”われわれに残された最後のそして最大の希望”である。われわれはこの国連の強化を推めねばならない。
 ソヴィエト連邦のことはもう一度再提議さけなければならない。ソ連や東側ブロックに対して、私はこう言いたい。”レット・アス・ビギン・アニュー”と。軍縮を推め、誠意をもって交渉にあたる、分裂よりも協調を推めていこう、と。
 ソ連、アメリカ双方とも科学の恐怖ではなく、科学の驚異を引き出すために力を合わせようではないか。共に星を探索し、砂漠を征服し、病を根絶し、深海を開発し、芸術と通商を奨励しようではないか。
 そして共に”重荷を解き、迫害されるものを自由にせよ”というイザヤの言葉を、地球のすみずみまで広げるために力を合わせようではないか!
 このプロセスには大変な時間と忍耐を必要とするが、大事なのは始めることである。
  建国以来、アメリカ国民は各世代ごとに祖国に対する忠誠をその行動で示すことを要請されてきた。その要請に応えた若きアメリカ人たちの墓標は、世界をとりまいている。 今またトランペットがわれわれを呼んでいる。武器は必要としてもそれは武器をとれとの呼び掛けではなく、抗争の真っ只中にあろうとも戦闘への呼び掛けでもない。それは行く年、来る年”望みの中に喜び、艱難の中に耐える”長い夜明け前の戦いー独裁、病、貧困、そして戦争などの全人類共通の敵に対する戦いのための重荷を背負えとの呼び掛けである。
 これらの敵に対して北も南も東も西も含めた世界的な同盟を結ぼうではないか。全人類にとって、より実り多い生活を保障するための一大同盟の結成である。この歴史的努力に参加していただけるだろうか?」
 観衆からものすごい喚声があがった。ジャック(JFK)は少し待ってから続けた。
「長い世界の歴史の中で、自由というものが最大の危険にさらされている時、それを守る役割をさずけせれた世代はごく少なかった。
 この一大事業にそそぐわれわれのエネルギー、信念、献身こそが祖国とそれに仕えるすべての者たちに灯をともし、その火から発する輝きが真に世界を照らすことになるのである。
 故にわが同胞アメリカ国民よ、国家があなた方のためになにをするのかではなく、あなた方が国家のために何ができるかを問うてもらいたい。
 わが世界の同胞よ、アメリカがあなた方になにをするかではなく、共に人間の自由のために何かができるか問うてもらいたい。
 最後にあなた方がアメリカ市民であろうと世界市民であろうと、われわれがあなた方に求めるのと同じ高い水準の強さと犠牲を、われわれに求めてもらいたい。
 安らかな良心を唯一の確かな報酬とし、歴史をわれわれの究極の審判となし、神の恵みと助けを求めながらも、この地上では神のみわざはわれわれ自身の所業でなければならないことを心に刻みつつ、愛する祖国を導き前進していこうではないか」
 拍手と喚声が沸き上がり、いつまでも鳴りやまない。熱気は吹き荒ぶ寒風をも完全に吹き飛ばしてしまっていた。
 この場面を、TVで観ている人物がいた。…ニクソンである。彼は事務所で、
「ふん、美辞麗句を並びたててるな」
 とほぞをかんだ。
「ケネデイなどなにもできないさ、デイック」
 部下はディック(ニクソン)に言った。
「不正があった。選挙でもTVディベートでも。そうでなきゃ、このニクソンが負けるわけがない」
「まったくです」
「ケネデイは必ず失敗するさ。子供のころから金に不自由なく育ち、ハーバードにいったいわば”お坊ちゃん”だ。その点、このニクソンは貧しい家に生まれ、苦労してきた。アイクの下で八年もやったキャリアもある。私なら出来るが、ケネデイには出来ん。必ず失敗する」
「ニュー・フロンティアに乾杯」
 ニクソンと部下は大笑いした。しかし、ニクソンの顔に貼りついていた笑顔は、すぐに消えてしまいそうな”はかない”ものだった。
「ケネデイは必ず失敗するさ」
 ニクソンはグラスに口をつけながら、もう一度、言った。
 彼は腹立ちまぎれに叫びそうになったが、堪えた。口をきゅっと結び、はしばみ色の目に怒りをたたえた。テレビをにらみつけた。ばかにされてひるむような俺じゃない。それでもニクソンには壁にくっきり書かれた文字が読めた。お前の負けだ、そう書いてあった。ふん、簡単に降参などするものか! たとえ負けがわかっていても、あと数ラウンド闘ってやる!



第二章キューバ危機                               


JFK暗殺・没後50年企画「ジョン・F・ケネディ、その真実」ブログ連載小説1

2013年11月22日 06時16分20秒 | 日記
小説
 ケネデイ

                           <JFK・RFK>
                          ーKENNEDYー
                ~偉人「ケネデイ」の真実!渾身の書き下ろし                     アメリカン・スピリットのエッセンスが甦る!

                 total-poduced&PRESENTED&written by
                   Midorikawa Washu
                   緑川  鷲羽





         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.


     ーwith history the final judge of our deeds,let us go
      forth to lead the land we love asking his blessing and
      his help,but knowing that here on earth god'S work must
      truly be our own.ー   JFK

  ”歴史をわれわれの究極の審判とみなし、神の恵みと助けをもとめながらも、
  この地上では神のみざはわれわれ自身の所業でなければならないことを心に刻みつつ  愛する祖国を導き、前進していこうではないか”
                     ジョン・F・ケネデイ
                      1917~1963



          「ケネディ」まえがき


 JFKが暗殺されてから50年、弟のRFKが殺されてから40年以上になる。その間、様々な関連本が出版され、「JFK」という映画まで作られた。しかし、そういったものはケネディの神話的なものしか伝えてない。この書は、ケネディの人間の中味を書いたものである。
 1960年、ケネデイ上院議員は大統領選に打ってでた。しかし、カトリックであることや上院議員であること、知名度の問題などでハンディがあり、JFKはそれを一つ一つクリアしていく。そして、ニクソンとのディベートに勝利して、大統領へ。キューバ危機、ピッグス湾、経済問題などをクリアしていく。しかし、目の前にヴェトナムが立ち塞がる。JFKはヴェトナム撤退を考え、それをストップしたい連中に殺された。そして弟のRFKもまた数年後、消されてしまうのである。アメリカの歴史の本流と闇の部分を知っていただく……それが、この拙書、である。
                                 おわり



  一九六三年十一月二十二日、オープンカーがエルム通りを抜けようとしたところで銃声が響きわたった。JFKは弾丸を頭部に受け、脳味噌がふっ飛んだ。JFKは即死だった。”ジョン・フィッツジェラルド・ケネディの死”によって、アメリカ人は恐怖のどん底に叩き落とされた。彼にとってかわってアメリカ合衆国を支配したのは、巨大な軍産複合体、であったからだ。………




 第一章 JFK




       1  挑戦ーJFK出馬ー


「アメリカの民主主義は、いまや新しい勢力によって脅かされている。それは軍産複合体と呼ばれる力である。軍産複合体の経済力、政治力、そして精神的とまでいえる影響力は、すべての州政府、すべての連邦政府機関に浸透している。この複合体が、われわれの自由と民主的政治過程を破壊することを許してはならない」
 一九六一年、アイゼンハウワー大統領の辞任演説である。
 軍産複合体は、ソ連との兵器近代化競争に打ち勝つため、膨大な補助金を大学の研究室に注ぎ込み、優秀な頭脳を集めて新しい武器開発を求めてきた。そこで得た成果をもとに、軍需産業が大量に生産する。優秀な大学で実験された武器や兵器が、大企業によって大量に生産されるわけである。こうして軍産複合体は、大学研究室と産業と政府がガッチリと手を組んで、冷戦という需要を手にして巨大なものとなっていった。
 戦争を無傷で乗りきり、そして莫大な利益をあげた産業界にしてみれば「ウォー・エコノミーを維持すべき!」という意見は当然だった。しかし、ナチス・ドイツや日本帝国は降伏してしまった。だが、戦争状態とはいかないまでも、その一歩手前の状況であればかまわない。アメリカ人が納得するような潜在的脅威を秘めた敵……格好の国がある。
 国際共産主義の代表で、共産革命により世界征服を狙う「ソヴィエト」だ。
 戦後すぐにイランのアゼルバイジャンに傀儡政権を立て、中東への土台にしようと試みたし、ギリシアやトルコでも混乱に乗じて共産革命の後押しを演じている。また、チェコスロバキアを始めとする東欧諸国はソ連圏に飲み込まれつつあった。(一九四七年七月、ハンガリーでは共産党が権力を握り、四八年にはチェコスロバキアも共産化された。一九四七年九月にはアメリカのマーシャル・プランに対抗するためソ連のリーダーシップのもと、コミンフォルムが結成された)
 アメリカ人にとっては、これはソ連拡張主義以外のなにものでもなかった。
「布告されていない緊急状態」と軍部が使いだし、新聞・ラジオで頻繁に使われだす。
「ソ連との戦争はすぐそこまできている。その時、即座に対応できるように準備しておかなければならない。ソヴィエトと付き合うには、武力をもってするほかはない!」
 スパッツ将軍は「(ソヴィエトからの)原爆が落ち始めたら、アメリカ本土の防衛は不可能である!そして、もし戦争がおきれば、最初の五時間で四千万人のアメリカ市民が死ぬだろう」といった。
「自由は平和より尊く、その自由は世界中に自由経済のシステムが確立されてはじめて証明されるものである。表現の自由、信仰の自由、その他の自由は、政府が経済を牛耳るシステム化では絶対に得られない。民主主義と資本主義とは切っても切れないものだ。そしてその自由経済の敵は統制経済であり、そのリーダーはソ連である。もしアメリカが一大決意と行動力をもって挑まなければ、ソ連のシステムが世界中に浸透することになる。これを防ぐ最上の手段は、全世界をアメリカ化し、自由経済圏としてしまうことである。
 もしアジアやアフリカでソ連による革命がおこれば、ソ連の統制経済がしかれることになる。そうなれば、アメリカにとって原料確保のドアが締まるだけでなく、貿易や投資活動地域がいちじるしく縮小されてしまいます。原料補給源を確保し、市場が100パーセント確保されるためには、ソ連の影響を最大限に食い止めなければならないのです」
 トルーマンは、演説で、こう述べた。第二次世界大戦では共に闘ったが、それはなりゆき上であって、もともとアメリカはソヴィエトの持つシステムに嫌悪感を抱いていた。だから、ソヴィエトを「悪の帝国」と呼ぼうが「アメリカの敵」と呼ぼうが、不自然ではなかった。
 この頃、五〇年代、六〇年代のアメリカには帝国主義的野心とパワーがあった。だが、現在のアメリカにはそんなものはない。しかし、この頃のアメリカはもっとも豊かだった時代である。そして、アメリカは、国務長官ジョン・フォスター・ダレスと弟のアレン・ダレスCIA長官という「冷戦の旗手」に牛耳られていた。アイゼンハウワー大統領(当時)があまりにも無知であったため、外交面において、事実上の大統領のようなものであったという。米ソ首脳会談の時も、ダレスが大統領にメモを書いて渡し、質問に答えさせていたという。一国の大統領がそこまでやるか、とフルシチョフ(ソ連元首・当時)はビックリしたそうだ。

  第一世代と呼ばれるジョゼフ(JFKの父)はアメリカン・ドリームを実現した男だ。1840年代、飢饉をのがれて多くのアイルランド人が米国に移住した。ジョゼフの父もその一人でボストンの酒場の主人。ジョゼフ・P・ケネディは禁酒法時代にマフィアと結託して酒で儲け、さらに株でもうけ富を築き英国大使にまで出世した。第二世代のジョン(JFK)は史上初のカトリック系かつ最年少の大統領だった。弟ロバートとともに60年代の理想を代表し、暴力に倒れることで歴史に記憶された。
 ジョゼフ(JFKらの父)は初老の近眼男で、割腹のいい体躯に背広をいつも身につけ、よく子供達にこういったという。「政治家になることだけ…そして大統領になり出世することだけが、おまえたちの成功の一歩だ。父さんを見ろ。移民の息子がここまでなったんだ。お前達にもできない訳がない」
「はい、父さん」長男は答えた。ジョゼフはこの長男に、政治家になり、いずれ大統領になるように願っていた。彼の夢は、アメリカで一番の上流階級にまで登りつめ、息子らを大統領にして”成功するケネディ家”をアメリカや祖国に知らしめることだったという。 ジョン(JFK)とロバート(RFK)はその頃、まだ幼少の身だったが、父のいうことは理解していた。ふたりの外見などは写真でも判るようにハンサムでスマートなものだ。色男な紳士…それがJFK、RFKだ。ふたりは、よく郊外の草原にいったという。
 そよ風が頬をつたわり、ジョンとロバートを心地好い気分にさせた。どこまでも広がる大自然の風景、緑の天蓋、蔦、花花。光がきらきらと輝き、すべてを包むかのようである。頬を渡る春風は優しく、光の粒子がすべてをきらきらと輝かせて、生きていく活力を与えてくれる。黄色の花も、緑の森も、しんと静かだ。…ふたりは大きく息を吸って、夢を語った。
「ボビー(RFKの愛称)、将来おまえは何になる?」ジョンは眩しそうな顔できいた。「…兄さんと同じさ」ボビーはいった。
「大統領?アメリカの?」
「そう」ボビーは続けた。「でも……それは兄さんたちの後でだ。それまでは兄さんたちのサポートをするよ。そして……三代続けてケネディ家の男が大統領だ」
「いいな、そりゃ」ジョンはにこりと笑って「ケネデイ家の偉大さをアメリカに示すんだ」「そして…祖国のために」
「あぁ、祖国アメリカのために」
 ふたりは笑顔で、遠くを見つめた。そして…伸びをして笑った。きらきらとして、しんと光るような笑顔だった。
  長男が戦闘機に乗り第一次戦争大戦に参加し、撃墜され死んだ。
 続けて、長女は病気で『ロボトミー』(植物状態)になり、ふたりと父・ジョゼフはショックを受けた。彼等は暗く落ち込み、冷たい涙をぽろぽろと流したという。
 そして、ジョゼフの期待はJFKに移った。「兄のかわりに、お前が大統領になるのだ」 ジョゼフはジョンにいった。
(JFKは戦争の英雄でもある。第二次大戦中の1943年、南太平洋で、日本の駆逐艦が米軍の魚雷船に体当たりし、沈没させたことがある。乗組員全員が海に投げ出されたが、船長は5時間も泳ぎ続け、負傷して漂流する部下を次々と救助した。船長の名はジョン・F・ケネディ。後の第35代大統領であった。このようにケネディは人間愛に満ちた人間だった。また、JFKは大統領になった時、「日本人で尊敬するひとは?」と日本人記者にきかれて「ウエスギ・ヨウザン(上杉鷹山)」と答えたということもあったが、ここでは詳しく触れない)

  アメリカの小さな州に、星条旗がはたはたと揺れていた。
 朝日が、きらきらと辺りをぼんやりと白く輝かしていた。JFKはほんわりとした気持ちになった。上出来だ、そう思った。最初から縁起がいい。透明な気持ちにさせてくれる。 朝の5時、ジョン・F・ケネデイは雪の上に立った。大統領予選選挙の最初の日だった。この頃のアメリカは、ワイロや密室政治などで年寄り連中が政治を支配し、いまの日本と同じようなものであったという。
「冷戦の旗手」ジョン・F・ダレスがやっと死んで、世界情勢は変りはじめていた。アイゼンハウワー(米大統領・当時)とフルシチョフ(ソ連書記長・当時)の対話が進み、両国に雪解けムードが漂っていた。フルシチョフは米国を訪問し、パリで首脳会議を開く約束までかわした。だが、その首脳会議は実現しなかった。会議の始まる十六日前、アメリカのUー2スパイ飛行機がソ連上空で打ち落とされたからだ。(実はCIAがUー2の飛行スケジュールなどをソ連側に流したという)これで米ソは再び冷戦状態にもどった。一触即発の状態で、アメリカは混沌とした六十年代へと突入していった。
  ケネデイには、カトリック教徒で、多くのアメリカ人が好意を示さないケネデイという名前(彼の父は禁酒法時代にマフィアと組んで大儲けした成金だった)、そして四十三歳という若すぎるというハンデイがあった。そして肉体的ハンデイもあったという。彼は幼少の頃からアディソン氏病に侵されていた。背骨の痛みがひんぱんに襲った。熱は生まれつきのものであったという。(アディソン氏病とは慢性の副腎機能不全によって起きる病気で、無気力症状、食欲減退、低血圧などの病状がでる。副腎皮質ステロイドの治療をすればノーマルな生活が送れる)
 薬物使用による副作用に侵されて苦痛のために眠れない夜が何週間も続いた。が、ケネデイはその事実を隠し通した。
 もうひとつのハンデイは上院議員(日本でいう参議院議員)だったこと。上院議員から大統領になった例は、20世紀で二人しかいなかった。しかし、彼は激動する世界情勢を正確に掴み、米国民にビジョンを与えられる優れた政治家だった。
「今度、米大統領選に立候補するジョン・F・ケネデイです、どうぞよろしく」
 彼は小さな店に入っていき、一人ずつ握手をしていき、そこから様々なところにいって何千人と握手をしていった。余りに握手をしすぎて、手が腫れてしまったくらいだったという。彼は言う。
「一部の人々に、アメリカのフロンティアは死んだという意見があります。確かに、時代はかわった。もう古い人間や方法は役にたたない、そういった意味でいえばアメリカのフロンティアは死んだといえます。しかし、いまの我々にはまったく新しいフロンティアがある。それはこの六〇年代から始まる、ニュー・フロンティアである。そのフロンティアにはまだ知られざる希望と夢があり、知られざる恐怖とリスクが待ち構えている。だが、これだけは忘れてはならない。未来は臆病者のものではない。勇気あるものだけが作りだせるのだ。我々はリスクを恐れてはならない。…アメリカは偉大な国だ。しかし、アメリカ市民一人一人がリスクを恐れることなく勇気をもって行動していけば、アメリカはもっと偉大な国になると私は確信している」
 アメリカはこの時代、物が溢れて生活は満たされてたが、人々が金儲けにばかり走ったり、政治家の汚職、ワイロなどが多かった。そうした社会にあって、未来のイメージもわからず、不安な日々を送っていた人々に、ニュー・フロンティアという言葉で強くアピールしたのだ。ニュー・フロンティア。これこそ我々が探し求めていたものだ。ケネデイはアメリカに夢を与えた。
「ニュー・フロンティアは約束ではなく、挑戦である。私はあなた方の財布にではなく、アメリカ人の誇りにアピールしているのだ!アメリカ国民に約束することがあるとすれば、それはより多くの安全性でなく、より多くの犠牲である。私が当選したら、あなた方にはより多くの犠牲を強いることになろう。だが、それと同時に、私は、みなさんに、そして偉大なるアメリカに、明確なビジョンを与える!」
 ケネデイの挑戦は、古い伝統や観念、体制そのものにも向けられていた。選挙参謀たちも平均年齢が三十三歳と若く、それゆえに「ボーイスカウト集団」と馬鹿にされたが、それでもめげはしなかった。ケネデイの挑戦のスタートである。
 JFKの美貌の妻・ジャクリーンは、報道関係の記者であった。それが、上院議員のJFKの目に止まり、ふたりはすぐに結婚した。そのすぐ後にはもう子供が出来ていたという。JFKは「自分は必ず大統領になる。あいつはすごいことをしたって…いわれるようになる」と、妻にいった。妻は「あなたなら…なれるわ。きっと」と微笑んだ。
 ジョンの端整な顔に魅力的な笑みが広がった。そして、彼は今日初めてまともに妻を見た。ぼくの女。ほれぼれするような美貌の女だ。色っぽくて、何度でも抱きたくなるような小柄なぼくの女だ。彼はベットでは激しかった。暗い部屋にはくぐもった声や、あえぎ声、ときおりうめき声など響いた。唇と腰を激しくからめ、みだらな死闘を何度もくりかえした。ジョンとジャクリーヌはベットの相性がよかった。

          ニュー・フロンティア

「カトリックではダメだ。大統領になれない」
 当時、アメリカ人の多くはこうした意見をもっていた。圧倒的にプロテスタントの多いアメリカでカトリックが大統領になるなど不可能だ、と誰もが考えた。
 ケネデイはこの問題とも挑戦しなくてはならなかった。
 一九六〇年九月一二日、テキサス州ヒューストンで開かれた全ヒューストン牧師連盟の会合で彼はスピーチをおこなった。その途中、客席にテロリストのオズワルドの影を見かけて、JFKは直感をもち…不安にかられたという。しかし、JFKは言う。
「スラムや失業、ソ連との闘い、自由と民主主義の存立の危機など、アメリカが直面する諸問題がある。これらの問題こそ、この大統領選を左右すべきなのだ。そして、これらの問題と宗教とはまったく関係がない。なぜなら、戦争や飢え、そして無知や絶望には宗教的柵などないからだ。
 しかし、私がカトリックであるが故に、この選挙では真に重要な問題がぼかされてしまっている。だから私はここでこれまでに何度も言い続けてきたこと、どのような教会を信じるかではなく、どのようなアメリカを信じるかについて語りたい。
 今日は私が犠牲者かも知れない。しかし、明日はあなたがたになるかも知れない。アラモの砦ではクロケットとボーイのそばでマクファーティー、ベイリー、そしてカリーが死んだ。しかし、誰も彼らがカトリックであったかどうかは知らない。なぜならアラモでは、宗教テストなどなかったからだ。
 このようなアメリカを私は信じている。このようなアメリカのために私は南太平洋で戦ったのだ。そして、そのようなアメリカのために私の兄はヨーロッパで死んだのだ。
 そして私は選挙に勝つまでけして妥協はしない。私は私を批判するものたちに謝るつもりはない。また今回の選挙に勝つために自分の考えをかえたり、教会を変えるつもりもない。
 もし真に重要な政策をめぐる論争をして選挙に敗れたなら、私は全力をつくし、公正な審判が下されたという満足感をもって上院に戻る。しかし、もしこの選挙が四〇〇〇万人のアメリカ人が洗礼を受けたその日に大統領になる機会を失ったという考えのもとで決められるなら、それは世界中のカトリック、非カトリックの目からみても、歴史から見ても、そしてわれわれ自身の目から見ても、真の敗北者はこの国全体ということになる」
 宗教問題とともにケネデイは年齢問題にも挑戦せねばならなかった。
 元大統領のトルーマンは特に反対していた。トルーマンは自宅のあるミズリー州インデペンデント市で特別記者会見を開き、ケネデイの若さ経験のなさを批判し、出馬を思いとどまるよう訴えた。
「ケネデイ上院議員、一九六一年一月に大統領につくことに関して、あなた自身が国家のために用意ができているか、同時に国家があなたを受け入れる時機にあるとお考えか。あなたが将来政治的頂点に昇りつめるであろうことに、私は一片の疑念も抱いていない。しかし、今私は現在および近い将来の世界の状況に関して、非常に心配してかつ心を痛めている。だからこそ私は、出来る限り成熟し、経験に富んだ人間の登場を希望しているのだ。あなたはまだ若い。もう少し辛抱して待つことを要望したい」
 ケネデイはすぐに反論した。
「トルーマン氏は一九六〇年の候補として私が降りることを提言した。その提言に対する反応として私は言いたい。私は誰の要請があっても降りるつもりはない。
 全部の予備選に出てリスクを冒したのは私だけであり、すべての州を訪れたのも私だけだった。私はあらゆる障害と反対に直面し生き残ってきた。大会直前の今になって名前を引っ込めるということは出来ない。
 トルーマン氏の反対は成熟度と経験において私が十分か、また国家が私を大統領として迎える時機にあるのかということのようである。
 もし選挙の洗礼を受けた一四年間の政治経験が大統領になるのに不自由分であるというのなら、二〇世紀にホワイトハウス入りした大統領は、三人の偉大な民主党の大統領、ウッドロー・ウイルソン、フランクリン・ルーズベルト、そしてハリー・トルーマン氏自身を含めてすべて除外されることになる。
 四十四歳以下の人間を信頼と指導力が要求される地位から除外するなら、ジェファーソンは独立宣言を書いていなかったであろうし、ワシントンは大陸軍を指揮していなかったで、あろう。また、マディソンは合衆国憲法を書けなかったし、クレイは下院の議長にはなれなかった。そしてかのクリストファー・コロンブスはアメリカを発見できなかった」 ここでケネデイはホコ先を年寄りに向ける。
「今日鉄のカーテンの両側にいる世界的リーダーの大部分は、六十五歳以上の人間ばかりというのが事実である。今日の世界が、国際状況が二つの世界大戦によって変えられる以前に教育された人間たちによって支配されているというのも、事実である。
 しかし、彼らが果たして世界の運命を変えるのに、どれほど成功したと言えるだろうか。彼ら一九世紀に生まれた人間たちにとってかわるのは誰なのだろうか。
 世界は変わっているのだ。古いやり方はもはや通用しないのだ。
 今こそ新しい機会と新しい問題に取り組むための新しい世代のリーダーシップが必要な時なのだ。われわれの前にはまったく新しい世界が横たわっている。それは平和と善意に満ちた世界であり、希望と豊富さに満ちた世界である。アメリカはその世界への導き役とならなければならない。
 トルーマン氏は私が用意ができているのかと尋ねた。今私は、一〇〇年前、アブラハム・リンカーンが大統領になる前、多くの老練な政治家たちの攻撃にさらされながら書いた言葉を思い出さずにはいられない。”私には嵐がくるのがみえる、そしてその嵐の中に神の手があることを私は知っている。もし神が私に場所と仕事を与えるなら、私はその用意ができていると信じている。”今日私は大統領職という最も大きな責任を十分に自覚し、それを心に刻んだうえでせあなたがたに言いたい。もし国民が私を大統領に選ぶなら、私は用意ができていると信じている、と」
 こうしてケネデイは民主党大統領候補の座をつかんだ。そして一九六〇年七月十五日、ロス・アンジェルス・コロシアムに集まった八万人の人々を前に指名受諾演説を行った。「すべての公の政策についての決定は私自身が下す。それはアメリカ人として、民主党員として、そして自由な人間として下す決定である。
 われわれはあらゆる問題に関してあらゆる角度から語り、あらゆる角度から投票したという人物を相手に戦うことが、容易でないことは十分に知っている。ミスター・ニクソンは”ニュー・ディール”と”フェアー・ディール”のあとを受けて、今度は自分の番と考えているかも知れない。しかし、彼がディール(取引・トランプのカードを配る)する前に誰かがカードを切らねばならない。
 その誰かとはアイゼンハウワー大統領に投票したものの、その後継者を選ぶに当たり、ためらいを感じている何百万人というアメリカ国民である。
 歴史家たちはわれわれに語っている。リチャード一世は豪胆なヘンリー一世の跡継ぎに値しなかったし、リチャード・クロムウェルは彼の叔父のマントを着るのにふさわしくなかった、と。そして後世の歴史家たちは、リチャード・ニクソンは、かのドワイト・アイゼンハウワーの足元にも及ばなかったとつけ加えるかもしれない」
 次に彼は、変わりゆく世界について説き、聴衆のイマジネーションにアピールする。
「当時の苦悩はすべて終り、すべての地平線は踏査され、すべての戦いは勝利に帰したという者がいるかも知れない。
 しかし、そのような感情にひたる人間は、この会場にはひとりもいないと私は信じている。なぜなら問題はすべて解決されたわけではなく、戦いがすべて終わったわけではない。そして、今日われわれはニュー・フロンティアのふちに立っている。一九六〇年代のフロンティア、未知なるチャンスと未知なる危機、満たされざる希望と満たされざる恐怖のフロンティアである。
 ウッドロー・ウィルソンの”ニュー・フリーダム”は、わが国に新しい政治経済の体制を約束した。フランクリン・ルーズベェルトの”ニュー・ディール”は、貧しき人々に安全と援助を約束した。しかし、私のいう”ニュー・フロンティア”は約束ではない。それは挑戦である。それは私がアメリカ国民に何を与えるかではなく、何を要求するかということに要約される。
 われわれが好むと好まざるとにかかわりなく、ニュー・フロンティアはここにある。このフロンティアの彼方には、科学と宇宙の未知の分野が横たわり、また解決されない戦争と平和の問題があり、まだ克服されない無知と偏見、貧困と過剰の問題がある。
 私はあなた方ひとりひとりにこのフロンティアのパイオニア(開拓者)となるようお願いする。
 私のこの呼びかけは年齢に関係なく心の若い者、政党に関係なく精神の強靭な者、そして聖書のいう”強く勇気を持て。恐れるな、驚愕するな”という言葉に奮い立つことのできる者のみに向けられている。
 今日われわれが必要としているのは、自己満足ではなく勇気なのだ。リーダーシップであってセールスマンシップではないのだ。
 そしてリーダーシップの唯一の正当なテストは、統率する能力、ダイナミックに国家を引っ張っていく能力に他ならない」
 聴衆は総立ちになっていく。この後数回の拍手の後、クライマックスへと向かっていく。「わが国のように組織され統治されている国家が、果たして生存し続けることができるのだろうか。それが真の問題なのだ。われわれにそのずぶとさと意志があるのだろうか。大量の新しい破壊兵器が造られようとしているだけでなく、空と雨、大洋と海流、宇宙の彼方と人間の心の奥底への激烈な支配競争が展開されようとしているこの時代に、われわれは存続し得るだろうか。
 これこそがニュー・フロンティアの課題であり、わが国家と国民が迫られている選択なのだ。単に二人の人間、二つの政党ではなく、公共の利益か個人の安逸か、国家の隆盛か国家の没落か、新鮮な前進的空気かかび臭い沈滞の空気か、献身か凡庸かの選択である。 全人類がわれわれの決定を待っている。全世界がわれわれを見つめている。彼らの信頼を裏切るわけにはいかない。やらなければならぬのだ。
 イザヤの言葉を共に思いだそうではないか。”主に仕える者は新たな力を得る。彼らは鷲のごとく翼を与えられる。彼らは走る。しかし、けして疲れることはない”
 来るべき偉大な挑戦に立ち向かうにあたって、われわれもまた主の僕となり、主がわれわれに新たなる力を授け給わんことを願おうではないか。その時こそわれわれは試練に耐え得ることができ、決して疲れることはない。そしてわれわれは勝利を得るのである」
”ニュー・フロンティア”が高々と宣言された。しかし、まだ終わったわけではない。リチャード・ニクソンとの一騎打ちが待っている。
 ケネデイの挑戦はいよいよ佳境に入っていく。                  

バラク・オバマOBAMA CHANGE!Yes We Can!我が心のイエス・ウィ・キャン!2

2013年11月19日 14時06分21秒 | 日記
         2 大統領就任演説





  黒人初第44代米国大統領は09年1月20日に就任した。
 リンカーンの例に習って、列車でシカゴからワシントンD・Cへ入り、リンカーン議事堂の250万人の前で語り掛ける。
「国民の皆さん。
 私は今日、厳粛な思いで任務を前にし、皆さんの信頼に感謝し、我々の祖先が払った犠牲を心にとめて、この場に立っている。ブッシュ大統領が我が国に果たした貢献と、政権移行期に示してくれた寛容さと協力に感謝する。
 これまで44人(第22、24代のクリーブランド大統領は同一人物のため、実際は43人)の米国人が大統領としての宣誓を行った。その言葉は、繁栄の波と平和の安定の期待に語られることもあったが、暗雲がたれ込め、嵐が吹きずさむなかでの宣誓もあった。こうした試練の時に米国が前進を続けられたのは、政府高官の技量と展望だけでなく、「我ら、(合衆国の1788年発行の憲法)人民」が、先達の理想と、建国の文書に忠実でありつづけたためである。それが我々の世代にとっても、そうありつづける。
 誰もが知る通り、我々は重大な危機にある。わが国は(イラクやアフガニスタンで)戦争状況にあり、敵は憎悪と暴力のネットワークを持っている。経済状況も悪く、それは一部の人々の貪欲さの無責任さにあるものの我々は困難な選択を避け、次世代への準備に失敗している。
 多くのひとびとが家を失い、企業が倒産した。健康保険制度もカネがかかりすぎ、多くの学校(制度)も失敗した。毎日のように我々のエネルギーの使い方が敵を強め、地球を危機に陥れている証拠も挙がっている。
 これがデータや統計が示した危機だ。全米で自信が失われ、アメリカの没落は必然で、次の世代は多くを望まない、という恐れが蔓延している。
 今日、私は我々が直面している試練は現実のものだ、と言いたい。試練は数多く、そして深刻なものだ。短期間では解決できない。だが、アメリカはいずれそれを克服できるということだ。今こそ我々がアメリカの時代をつくっていくのだ!
 この日に我々が集まったのは恐れではなく、恐れではなく、希望を選んだからで、争いのかわりに団結を選んだからだ。この日、我々は実行されない約束やささいな不満を終わらせ、これまで使い果たされ、そして政治的な独断をやめることだ。そのために私はここにやってきた。
 我々はいまだ若い国家だ。だが、聖書の言葉を借りれば「幼子らしいこと」をやめるときがきた。我々が不屈の精神を再確認する時がきた。より良い歴史を選ぶことを再確認し、世代から世代へと受け継がれた高貴な理想と貴重な贈り物を引き継ぐときがきた。それはすべての人々が平等で自由で、最大限の幸福を獲得できるという約束である。
 我々が国の偉大さを確認するとき、偉大さは与えられるものではなく獲得するものだと知るべきときがきた。自分で勝ち得るものがそれなのだ。
 我々のこれまでの道はけして近道ではなかった。安易に流れるものでもなかった。それは心の弱い、強欲な豊かなひとだけが得をするという安易な道でもなかった。
 むしろリスクを選ぶひと、実行の人、創造のひとの道だ。恵まれたひしだけでなく、貧しいひとも豊に夢を持てる社会構築こそ大事なのだ。(中訳)
 我々のために彼等は、ないに等しい荷物をまとめ、海を渡って新しい生活をしたのだ。 我々のために彼等は額に汗して働き、西部に住み着き、鞭打ちに耐え、硬い土地を耕してきたのだ。我々のために彼等は(米国独立戦争の戦場の)コンコードや(南北戦争の)、 ゲティスバーグ、(第二次世界大戦の)ノルマンディー、(ベトナムの)ケサンで戦い、死んだ人々を思い起こそう! (中訳)
 我々は旅を続けている。我々は今だに世界一繁栄し協力な国家だ。我々労働者は今、金融恐慌の真っ直中にある。しかし、我々の能力は落ちてはいない。過去に固執し、狭い利益しか守れず、面倒な決定は後回しにする時代は終わった。
 我々は道や橋、電線やデジタル通信網を作り、我々の商業を支え、我々の結び付きを強めなければならない。我々には緑や風や風土、自動車が必要で、我々がやらなければならないことはグリーン・ニューディールという環境公共事業である!
 我々は「できない」という人々にこう答えよう。「イエス・ウィー・キャン(我々には出来る)」と。答えは一様ではないだろう。「イエス」だけでなく「ノー」という覚悟も大事になるだろう。しかし、我々は地球温暖化や環境と戦わなければならない。取り組まなければならない。人種差別とも戦わなければならない。私の父親が60年前は白人街の店に入ることさえ許されなかった。その息子が宣誓している。キング牧師は言った。
「私には夢がある」(アイ・ハヴ・ア・ドリーム)と…我々のアメリカは白いアメリカでも黒いアメリカでも赤いアメリカでも黄色いアメリカでもない、アメリカ合衆国なのだ! (中訳)
 我々は今こそ立ち上がろう!
「未来の世界に語られるようにしょう。厳寒の中で希望と美徳だけが生き残った時、共通の脅威にさらされた国や地方が前に進み、それに立ち向かうと」(ワシントン語録)

生い立ち
1961年8月4日に、ハワイ州ホノルルにある病院で生まれる。 実父のバラク・オバマ・シニア(1936年 - 1982年)は、ケニアのニャンゴマ・コゲロ出身(生まれはニャンザ州ラチュオニョ県Kanyadhiang村)のルオ族、母親はカンザス州ウィチタ出身の白人、アン・ダナムである。 父のオバマ・シニアは奨学金を受給していた外国人留学生であった。2人はハワイ大学のロシア語の授業で知り合い、1961年2月2日に周囲の反対を押し切って結婚、 アンは妊娠しており、半年後に、オバマ・ジュニアを出産する。
父であるオバマ・シニアは、ムスリム(イスラム教徒)であり、イスラム教の戒律(イスラム法)では「ムスリムの子は自動的にムスリムになる」とされている。 イスラム法が適用される国において、脱教は、現在においても死刑とされている。 バラク・オバマ自身は、現在、キリスト教徒の中において、プロテスタントに属している。キリスト合同教会(英語では"the United Church of Christ (UCC)"で、キリスト連合教会、合同キリストの教会、統一キリスト教会などとも訳される。)である。オバマは自伝で、「父はムスリムだったが殆ど無宗教に近かった」と述べている。
バラク・オバマは、自分自身の幼年期を、「僕の父は、僕の周りの人たちとは全然違う人に見えた。父は真っ黒で、母はミルクのように白く、そのことが、心の中ではわずかに抵抗があった」と回想している。彼は自身のヤングアダルト闘争を、「自身の混血という立場についての社会的認識の調和のため」と表現した。
オバマは10代の頃に飲酒をし、マリファナ(大麻)やコカインを使用していたことを語っている。友達と作った "choom gang"というグループのメンバーとして、彼らと伴に時間を過ごし、たまに大麻を使用していた。また、オバマは、薬物を使用したのは、 "push questions of who I was out of my mind"(意訳:自分が何者なのか、という疑問を心の中から追い出す)ための方法だったと語っている。
1963年、両親が別居。1964年、両親が離婚した。 1965年、父であるオバマ・シニアは、ケニアへ帰国した後、政府のエコノミストとなる。オバマ・シニアは、ハワイ大学からハーバード大学を卒業したため、将来を嘱望されていた。 バラク・オバマの両親は、結婚歴が複数回ある。彼は、その為、後述の異父妹が一人、異母兄弟が八人いる(うち、4人死没)。 1971年、バラク・オバマの父であるオバマ・シニアは、息子であるバラクと再会を果たした。 1982年、オバマ・シニアは、自動車事故が原因で逝去した。46歳であった。。
インドネシアへ
バラク・オバマの母は、バラク・オバマとオバマ・シニアの離婚後、人類学者となった。 その後、ハワイ大学において、親交を得たインドネシア人留学生で、後に、地質学者となったロロ・ストロ(Lolo Soetoro。1987年没)と再婚を果たす。
1967年、ストロの母国であるインドネシアにて、軍事指導者のスハルトによる軍事クーデター(9月30日事件)が勃発すると、留学していた全てのインドネシア人が国に呼び戻されたことで、一家はジャカルタに移住した。オバマ・ジュニアは6歳から10歳までジャカルタの公立のメンテン第1小学校に通った。1970年には、母と継父のあいだに異父妹のマヤ・ストロが誕生する。
ハワイへの帰還


プナホウ・スクールの旧校舎
1971年、オバマ・ジュニアは母方の祖父母であるスタンリー・ダナム(1992年没)とマデリン・ダナム(2008年没)夫妻と暮らすためにホノルルへ戻り、地元の有名私立小中高一貫のプレパラトリー・スク-ルであるプナホウ・スクールに転入し、1979年に卒業するまで5年生教育を受けた。在学中はバスケットボール部に所属し、高校時代に、飲酒、喫煙、大麻やコカインを使用したと自伝で告白している。
なお1972年に、母のアンがストロと一時的に別居し、実家があるハワイのホノルルへ帰国、1977年まで滞在する。同年、母はオバマ・ジュニアをハワイの両親に預け、人類学者としてフィールドワーカーの仕事をするためにインドネシアに移住し、1994年まで現地に滞在した。このあいだに、1980年にアンと継父のストロとの離婚が成立した。母のアンはハワイに戻り、1995年に卵巣癌で亡くなった。以上のように、青年時代のオバマはハワイにおいて白人の母親と母方の祖父母(ともに白人)によって育てられた。
大学時代
1979年、同高校を卒業後、西海岸で最も古いリベラルアーツカレッジの一つであるオクシデンタル大学(カリフォルニア州ロサンゼルス)に入学。2年後、ニューヨーク州のコロンビア大学に編入し、政治学、とくに国際関係論を専攻する。
1983年に同大学を卒業後、ニューヨークで出版社やNPO「ビジネスインターナショナル」社(Business International Corporation)に1年間勤務し、その後はニューヨーク パブリック・インタレスト・リサーチグループ(New York Public Interest Research Group)で働いた。ニューヨークでの4年間のあと、オバマはイリノイ州シカゴに転居した。オバマは1985年6月から1988年5月まで、教会が主導する地域振興事業(DCP)の管理者として務めた。オバマは同地域の事業所の人員を1名から13名に増員させ、年間予算を当初の7万ドルから40万ドルに拡大させるなどの業績を残した。職業訓練事業の支援、大学予備校の教師の事業、オルトゲルトガーデン(en:Altgeld Gardens, Chicago)の設立と居住者の権限の確立に一役買った。
1988年にケニアとヨーロッパを旅行し、ケニア滞在中に実父の親類と初めて対面している。同年秋にハーバード・ロー・スクールに入学する。初年の暮れに「ハーバード・ロー・レビュー」の編集長に、2年目にはプレジデント・オブ・ジャーナルの編集長に選ばれた。
1991年、法務博士(Juris Doctor。日本の法務博士(専門職)に相当)の学位を取得、同ロースクールをmagna cum laudeで修了しシカゴ大学の法学フェローとなる。
弁護士時代
ハーバード大学ロー・スクールを修了後、シカゴに戻り有権者登録活動(voter registration drive)に関わった後、弁護士として法律事務所に勤務。 1992年、シカゴの弁護士事務所において、親交を得たミシェル・ロビンソンと結婚。 1998年にマリア、2001年にサーシャの二人の娘に恵まれた。
1995年には、自伝「Dreams from My Father(邦題:『マイ・ドリーム』 出版社:ダイヤモンド社 ISBN 978-4-478-00362-6)」を出版する。 また、シカゴ大学ロースクール講師として、合衆国憲法を1992年から、2004年まで、講義を実施していた。
イリノイ州議会議員
人権派弁護士として、頭角を現し、貧困層救済の草の根社会活動を通して、1996年、イリノイ州議会上院議員の補欠選挙に当選を果たした。 1998年と2002年に再選され、2004年の11月まで、イリノイ州議会上院議員を務めた。 尚、2000年には、連邦議会下院議員選挙に出馬するも、オバマを「黒人らしくない」と批判した他の黒人候補に敗れた。
合衆国上院議員


2004年のイリノイ州の連邦上院議員選挙結果。青はオバマが勝利した群。
2003年1月にアメリカ合衆国上院議員選挙に民主党から出馬を正式表明し、2004年3月に7人が出馬した予備選挙を得票率53%で勝ち抜き、同党の指名候補となった。対する共和党指名候補は私生活スキャンダルにより撤退し、急遽別の共和党候補が立つが振るわず、2004年11月には、共和党候補を得票率70%対27%の大差で破り、イリノイ州選出の上院議員に初当選した。アフリカ系上院議員としては史上5人目(選挙で選ばれた上院議員としては史上3人目)であり、この時点で現職アフリカ系上院議員はオバマ以外にいなかった。
2004年のアメリカ大統領選挙では、上院議員のジョン・ケリーを大統領候補として選出した2004年民主党党大会(英語版)(マサチューセッツ州ボストン)の2日目(7月27日)に基調演説を行った。ケニア人の父そしてカンザス州出身の母がハワイで出会い自分が生まれたこと、次いで「全ての人は生まれながらにして平等であり、自由、そして幸福の追求する権利を持つ」という独立宣言を行った国、アメリカ合衆国だからこそ、自分のような人生があり得たのだ、と述べた。そして「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ『アメリカ合衆国』があるだけだ。ブラックのアメリカもホワイトのアメリカもラティーノのアメリカもエイジアンのアメリカもなく、ただ『アメリカ合衆国』があるだけだ」「イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う『アメリカ人』なのだ」と語り、その模様が広く全米に中継される。長年の人種によるコミュニティの分断に加え、2000年大統領選挙の開票やイラク戦争を巡って先鋭化した保守とリベラルの対立を憂慮するアメリカ人によりこの演説は高い評価を受けた。
なお、ケリーのスタッフがオバマを基調演説者に抜擢したのは、オバマがアフリカ系議員であることからマイノリティーの有権者を惹き付けられるであろうこと、若くエネルギッシュで雄弁であること、また当時イリノイ州議会上院議員であったオバマが、同年の大統領選と同時に行われる上院議員選挙における民主党候補(イリノイ州選出)となることが決まっており、党大会の基調演説者としてアピールすることができれば上院議員選挙にも有利に働くであろうと民主党が期待したこと、などの理由からと報じられた。2006年には、連邦支出金透明化法案の提出者の1人となっている。
2006年を通して、オバマは外交関係、環境・公共事業、退役軍人の問題に関する上院の委員会に課題を提出した。また2007年1月に、彼は、環境・公共事業委員会を出て、健康、教育、労働、年金、国土安全保障、および政府問題委員会に伴う追加課題を扱った。 また、彼はヨーロッパ問題に関する上院の小委員会の委員長になった。
2008年11月4日に行われたアメリカ大統領選挙で勝利したオバマは、次期大統領(英語版)として政権移行に向けた準備に専念するため、同月16日、上院議員(イリノイ州選出)を辞任した。後任は、州法の規定によりブラゴジェビッチ(英語版)・イリノイ州知事(民主党)の指名を受けたローランド・バリス(英語版)が就任した。
 将来、我々の子孫に言われるようにしよう。あの時代は間違いではなかったと。試練にさらされたとき我々の旅は、たじろうこともなく、後戻りすることもなく、自由という偉大な贈り物を前に送り出し、それを次世代に届けたのだ、ということを記録しよう。我々は「できない」という人々にこう答えよう。「イエス・ウィー・キャン(我々には出来る)」と。」(少し著者加筆) …こうしてオバマは大喚声に包まれる。第一歩だった。  

沙弥(さや)AKB48大島優子主演NHK朝ドラ原作小説アンコール12

2013年11月19日 05時52分00秒 | 日記





緑川沙弥<沙弥2>


         みどりかわ さや     さや2


                    total-produced&Presented&written by
                     midorikawa Washuu
                             緑川 鷲羽






  愁いを含んだ初夏の光りが、米沢市の河川敷に照りつけていた。五月三日、米沢では「上杉祭り」で、「川中島の合戦」が繰り広げられていた。白スカーフ姿の上杉謙信役が白馬に跨がり、武田信玄の本陣へ単身襲いかかる。そして、太刀を振るう。軍配で防ぐ信玄(三太刀七太刀)…。それは、米沢市で行われる上杉祭りのハイ・ライトであった。
 緑川沙弥は、その模様を大勢の観客とともに、眺めていた。
 沙弥は合戦をみながらも、もどかしさを隠し切れず、唇を噛んだ。作家として認められない。そう思うと、寒くもないのに、身体の芯から震えが沸き上がってくる。沙弥の身体は氷のように硬直した。「…どうしたの?沙弥……具合悪いの?」母の良子が問うと、沙弥は「なんでもない…」と言った。
 それは、きらきらした輝くような表情だった。






         あらすじ


  物語は東京から始まる。この物語のストーリー・テラーの黒野ありさは、東京のある大学に通う女子大生だ。そして、彼女のふるさとにはひとりの友達がいた。それは、緑川沙弥という女の子だった。沙弥は文学賞に受かり、作家デビューが決まったラッキーな娘。 確かに、沙弥はいやな女の子だった。
 意地悪で、自分のことしか考えず、病弱なくせにいつも憎まれ口ばかりたたく。でも、だからといって沙弥はブスではなく、とても綺麗な外見をしていた。そんな外見とヤクザのような言葉使いは、とてもギャップがあった。
 ある日、作家を目指す沙弥が文学賞をとる。そして、上京。しかし、パティー会場で待ち受けていたのは、のちのライバル、朱美里(しゅ・みり)だった。在日韓国人の朱は、学歴のない沙弥をバカにする。対立する沙弥だったが、日本の文学賞の最高峰・青木賞を先にとったのは朱美里のほうだった。緑川沙弥は頑張って執筆を続けるが、まったく売れず、鳴かず飛ばずの日々。失意の彼女の元に、弟子になりたいという美少女が現れる。それから死んだ彼女の恋人・小紫哲哉にそっくりのボーイ・フレンドまで出来る。作家としてはイマイチだったが、緑川沙弥は努力を続ける。
 そして、遂に、沙弥は、日本の文学賞の最高峰・青木賞を取る。至福の時を迎える沙弥。だが、彼女は学歴がないために日本文壇から拒絶されてしまう。華やかな歓迎はただの儀礼で、沙弥を招待したのは地方の弱小学校や講演会のみだった。学界レベルで招待したのはひとつもなく、大学からの招待などひとつもなかった。学歴がないため…日本はそういうシステムになっていたのだ。
 緑川沙弥は努力を続ける。しかし、執筆する作品はまったく売れず、悔しがる沙弥。そんな中、彼女の病気は進行していく。そして彼女はついに長編作品を執筆する。「やりましたね、先生。これでノーヴェル文学賞よ!」「そりゃあいいな…」「乾杯といきましょう」。しかし………沙弥はそのまま倒れて、病院に担ぎ込まれて、志なかばで死ぬ。希望の光りが消える時。沙弥は死んでしまう。珠玉の作品を残して。

 影をひきずりながら常に光をもとめ、上を見つづけた緑川沙弥。その姿は、沙弥を拒絶した日本の姿と、しばしば重なって見えるのである。

                                   おわり




         沙弥のライバルと弟子



 私は、東京のある大学に通う、女子大生だ。
 この物語は、私こと黒野ありさがストーリー・テラー…つまり語り部となってストーリーが展開するファンタジー風少女小説である。例えば、赤毛のアンとか若草物語とかみたいな、ね。そして、主人公は、私のふるさとの米沢市に住む、緑川沙弥である。
 確かに沙弥は嫌な女の子だった。
 病弱なくせに憎まれ口ばかりたたき、気に入らないことがあると暴れる。まったくもって嫌な娘、そんな感じなのだ。「バカヤロー!」「死ね!」「くそったれめ」などと汚い言葉を平気でいう沙弥。でも、彼女には特技がある。それは作家としての能力だ。まぁ、わかりやすくいうと文章がうまい。その結果、なんとか努力して文学賞に当選したくらいだ。私はうっとりと思う。沙弥は天才だった。って。
 沙弥が書くのはおもに小説で、恋愛小説がおもだ。もちろんそれだけではなく、エッセイや国際ジャーナリズム関係のものも書いている。で、やっとこさ認められて賞をとった!……って訳。まぁ、やっとこれで沙弥も「作家先生」ってとこだ。でも、浮き沈みの激しい文学界、しかも最近の活字離れ、なかなかペイするのも容易ではあるまい。プロになったはいいが仕事がこないためにHな小説連載で食いつなぐ、などという作家先生にならなければいいが。『失楽園』とか『チャタレイ夫人』みたいな、どうしようもないエロ小説連載とか。まあ、沙弥はプライドが高いから、『失楽園』に対抗して『動物園』、などと書くことはないだろうけどね。でも、金に困ったら執筆したりして。
 なぜ私がこんなに彼女のことを知っているかというと、私は彼女の親友で高校の同級生だったらだ。(もちろん彼女のすべてを知っている訳ではないけどね)
 何度もいうが、私の名前は黒野ありさ。東京の某女子大学に通う女子大生だ。
 年は彼女と同じ十八歳。
 ルックスのことで言えば、私は沙弥に比べればあまりパッとしないが、それでもけっこう可愛い、と自分では思っている。自惚れかなぁ?
 そう、確かに沙弥は美しかった。
 黒色の長い髪、透明に近い白い肌、ふたえの大きな瞳にはびっしりと長いまつ毛がはえている。細い腕や脚はすらりと長く、全身がきゅっと小さくて、彼女はあどけない妖精のような外見をしていた。沙弥の嘆声な顔に、少女っぽい笑みが広がった。少女っぽいと同時に大人っぽくもある。魅力的な、説得力のある微笑だった。私はたちまち怪しんで、一歩うしろにさがった。なんであれ、沙弥の片棒をかつぐのはごめんだ。ただでさえ、私の魂はぼろぼろなのだ。ただ………沙弥は美人だわ。
 細い腕も、淡いピンク色の唇も、愛らしい瞳も、桜の花びらのようにきらきらしていて、それはまるでこの世のものではないかのようにも思えた。
 それぐらい沙弥は美しかったってことだ。
 沙弥は、観光と温泉でもっているような米沢市に住んでいた。米沢市で有名な人物といえば、越後の龍・上杉謙信、上杉景勝、智君・上杉鷹山、軍師・直江兼続、前田慶次、独眼竜・伊逹政宗、そして町で美少女と有名だった『変人』の緑川沙弥。彼女は、しんと光る満月のようだった。私こと黒野ありさは、観光で静かに活動するような故郷・米沢市を離れて東京の大学に進学した。まぁ、父親の仕事の関係ってこともある。東京での生活もまぁまぁ楽しい。 しかし、一瞬だが、故郷が妙になつかしく恋しく感じることもある。そしてそこで暮らす、沙弥や緑川家の人々のことも。

 緑川沙弥が作家になろうと思ったのはいつ頃だったろう?
 私は前に聞いたことがある。すると彼女は、
「小学校の時に、図書館でゲーテの詩集を読んで、なにがしかのインスピレーションを受けてさ。それで「作家になろう!」って決めたんだ」
 と、にやりと言った。
「ゲーテ?」
「あぁ、そうだ」
 ゲーテの詩集を読んで「作家になろう」と思ったと平然と言ったのだ。だけど、私はそれはちょっと嘘っぽいと思う。だから、
「ゲーテって詩人(注・ゲーテは詩だけでなく小説、音楽、絵画、政治もした)でしょ?詩人じゃなくて作家ってどういうこと?」と尋ねた。
 すると沙弥は「詩じゃあペイしない」といった。
 だから私は「ペイって?」と尋ねると、
「ありさって馬鹿だねぇ。ペイっていうのは儲かるって意味の英語だよ。詩人では儲からないってことを私は言ってんの」
 といって沙弥は私をせせら笑った。
「作家ならペイするの?」
「まぁな」
 沙弥はにやりとして言った。

 しかし、あの病弱な沙弥が作家なんて、なんともピッタリきて笑ってしまう。
 病気がちであるからいつも部屋にいるかベットで横になっている。で、原稿用紙に向かってセッセと小説やらを執筆する、なるほど!って感じがする。
 彼女はちょっとしたことでもすぐ病気になる。冷たい風にちょっと吹かれただけでも、少し気温が高くなっただけでも、冷たい雨に濡れただけでも……すぐに具合が悪くなる。 そのため彼女の母親の良子おばさんは苦労を惜しまず何度も病院につれていき、ちやほやと甘やかし、沙弥はニーチェばりの薬づけで生意気な女の子に育った。しかし、なまじっか普通の生活ができる程度には体が丈夫なので、彼女は本当にわがままで生意気な女の子に育った。わがままで、甘ったれでズル賢い……といったところだ。ひとの嫌がることばかりして、自分のことしか考えない…と、まるで悪女のようだった。
 でも、だからといって彼女はブスではない。それは前述した通りだ。
 私の母は、緑川家の経営するペンション「ジェラ」の隣の家に住んでいた。
 良子おばさんのご主人、つまり沙弥たちの父親はもうすでに亡くなっていて、ペンションはおばさんがひとりできりもみしている。私の父親は東京に単身赴任しているエリート銀行マンだった。が、何を思ったのか、突然脱サラして東京で食堂を始めた。それで私だけでなく、母も東京にきていまでは三人で忙しくやってる、って訳。
 まあ、私は平凡な娘って訳である。
 しかし、沙弥は違う。彼女は平凡ではない。というより少し異常だ。
 緑川沙弥はよく暴れる、きれる、部屋のものを壊したりガラスを割ったりもする。たんに気にいらないといってだ。良子おばさんや彼女の妹のまゆちゃんほどではないが、私も緑川沙弥に被害にあったほうだ。ものを投げられたり、頭をゴツンとやられたり…。それで私が「なにすんのよ!」と怒ると、
「私の機嫌がわるい時に目の前にいるほうが悪い!」
 などとのたまう。どういう理屈だか。こういうのを『屁理屈』というのだ。
  私はよく故郷の米沢市を思い出したりもする。
 私の住んでいた家の自分の部屋の窓からはきらめくような風景がみえたものだ。
 すごく眺めがよくて、窓からはきらきらと輝く上杉神社がみえる。上杉神社は昼には太陽を浴びてきらきらと輝き、夜は月明りが映って輝くような、美しい神社だ。
 私はよく米沢の光景を思い出す。きらきらとした朝日が差し込んで上杉神社が輝く光景を…。それはしんとした静けさの中にあったっけ。
「あたしが死んだら骨は上杉神社にまけ!」といつだったか沙弥は言ってたが、気持ちはわかる。 彼女はよく男の子を騙して上杉神社の境内を散歩した。散歩というよりデートだ。とにかく「外ヅラ」だけはいい沙弥はよく男の子と仲よく歩くことが多かった。
 夕暮れ。セピア色が空や森や山々を真っ赤に染め、きらきらと輝く。沙弥はゆっくりゆっくりと歩く。そして、細く白い腕を伸ばす。男の子が彼女の手を取り、沙弥は白い歯をみせてにこりと微笑む。その光景は私にはなんだかとてもかけがえのないものにも思えた。彼女の本性を知っているはずの私の胸にさえ、深いところに響くような、しみわたるような、そんな光景にも思えた。
 緑川沙弥から電話がきたのは、ちょうど私が東京の自宅でそんな物思いに耽っている時だった。ある日、電話がリーンとなった。で、私は「はい、黒野です」と出た。
 すると病院から彼女は電話でいった。
「おい!驚け、ありさ。受かったんだ!」
「え?何に?」
「バーカ、決まってんだろ!文学賞だよ、文学賞にうかったんだ!」
「文学賞?」
「そう、『文学新人賞』だ!出版だよ、出版までが決まったんだよ!賞とってさ……これで作家デビューだ!」
「ほんとう?!おめでとう!」
 私は思わず嬉しくなって言った。声がうわずった。
 そうか!あの緑川沙弥もとうとう作家か。作家先生か…。なんだか胸にこみあげてくるものがあった。自分が賞をとったわけでもないのに、なんだか嬉しかった。
 そうか!あの緑川沙弥もとうとう作家か!彼女の努力が遂に実ったのだ!
「それでさ……ありさ」
「なあに?」
「東京なんていったことないから……駅に出迎えにきてくれよ」
「東京駅に?」
「あぁ。『つばさ』でいくからさ」
「いいけど、大丈夫なの?」
「なにが?」
「あんた病弱なんでしょ?途中で死んだりとかしない?」
「バーカ、何いってんだよ。………とにかく、出迎え頼むぜ。そしたらお前んちの汚ねえボロ食堂も見てみたいな。後、文学賞の受賞パーティにも付き合ってくれ」
「いいわよ」
 私はそう言った。
 なにが、「お前んちの汚ねえボロ食堂」よ!と言いそうになったが、やめた。私は無駄なことはしない主義だ。冗談でいってるんだろうし、あの沙弥は絶対にあやまったりしない娘なのだ。それは私が一番よく知っている。
 だから私は、
「とにかく、気をつけて来てね」とだけいったのだ。
「あぁ。とにかく嬉しいな。賞とったのも……ひさしぶりにお前に逢えるのも、な」
 沙弥はそういってから「冗談さ」と照れくさそうに笑った。
 まぁ、冗談でしょうよ、私も笑った。

  緑川沙弥が山形新幹線『つばさ』で上京するのは5月頃となっていた。その次の日に受賞パーティがあるのだという。それで、私は母親を誘って、わざわざ黒野食堂を閉めて、タクシーで東京駅までむかえにいった。私は母に、
「……お母さん、今日食堂閉めて。沙弥が東京にくるんだ。駅まで出迎え付き合ってよ」 と言った。
「…え? 沙弥ちゃんが?なんで東京に?」
「彼女ね、文学賞とったのよ!しかも大賞よ」
「へえ~っ、それはすごいわね」母は沙弥をほめた。
「だから一緒に、ね」
「はいはい、そういうことなら仕方ないわね」
 母は笑顔で答えたっけ。
  外に出ると、春だというのに外気がむっと暑かった。
 太陽のとても近い昼間頃だ。春だというのにぎらぎらした陽差しが照り付けて、アスファルトやビルに反射して、なんだか変な気分にもなっていた。
「よかったわね、沙弥ちゃん」
 東京駅に向かうタクシーの中で、母は微笑んだ。「ずうっと昔から作家志望だったものね」
「あれ?お母さん、なんで知ってるの?」
「そりゃあね、沙弥ちゃんにきいたのよ」
「いつ?」
「沙弥ちゃんが小学生の頃よ。「将来は何になりたいの?」ってきいたら「作家!」って言ってたもの」
「へえ~っ。じゃあゲーテの話し、知ってる?」
「まあね、あの話し、ちょっと嘘っぽいけどね」
 私たちはアハハと笑った。
 そして私と母のふたりは東京駅についた。
 凄いひとだ。夏休みでもないのに、しかも平日なのに、ラッシュのような混み具合だった。まぁ、私は大学までは自転車でいってるのでラッシュの満員電車とか、そういうのは知らないけどね。あと、列車でのチカンとか……。
「あいかわらず…すごいひとね」
 母は呆れていった。
「……ほんと」
 私はなんとなく同意した。
 あんまりすごい人ゴミで、沙弥がどこにいるのか分からないかも知れない。そう私は思った。そう思っていると、
「おーい!そこのブスのありさ!そこのブス!」
 と、聞き慣れた声がした。これは緑川沙弥の声だ。人の波の間から、沙弥の頭がぴょんぴょん飛び出していた。彼女は小柄だから、飛び上がらないとダメなのだ。
「よう、ブス!ひさしぶり!」
「沙弥!」
 こうして感動の再会(?)となった。
「よかったよ、出迎えにきてくれて。こないかと思った」
「あ!友達を信用してないな」
「まぁな、だってお前って性格もブスだろ?出迎えをスッぽかすんじゃないかってな。一瞬、そう思ったんだ」
「何いってんのよ、性格ブスはあんたでしょ」
「まぁな」
 私たちはアハハと笑った。
「あ!おばさん、こんにちは。おひさしぶりです」
 沙弥は頭を下げた。
「こんにちは、沙弥ちゃん。おめでとう、ね」
「ありがとうございます」
 沙弥はもう一度、頭を下げた。そして私たちは彼女を連れて、沙弥のいう『ボロ食堂…黒野食堂』へとタクシーで戻った。『黒野食堂』とは私の父が東京で始めた食堂だ。東京……とはいっても下町の方で、荒川の近くである。だから、お洒落なイタリアン・レストランとかフレンチ・カフェとか、そんなのとは一線をかくす。というより、『黒野食堂』とは単なる、大衆食堂で、近所のおっちゃんおばちゃんや学生らの食堂なのである。
 まぁ、確かに、『ボロ食堂』、だ。
 でも、まぁ、いいではないのって感じもするな私は。

  次の日の午前中に『受賞パーティ』が都内の某ホテルで行われるという。それで沙弥は私の自宅に泊まった。一銭でも浮かせようという、緑川沙弥のハイパー・どケチぶりが発揮されたようだ。まぁ、でも私はひさしぶりに彼女と一緒に眠って、おしゃべりして、とても楽しかった。

 次の日は午前中に都内の某ホテルで『受賞パーティ』が行われるということで、私も緑川沙弥も早めに起きて、パーティ・ドレスに着替えた。私は付き添いで、赤いドレス、沙弥のはパール・ホワイトのやつだ。くやしいけど、彼女は私より可愛かった。
 しかし、その時、誰が予想したろうか?『受賞パーティ』で、あの緑川沙弥の最大のライバル……朱美里(しゅ・みり)が登場しようとは……。
 朱美里(しゅ・みり)は在日韓国人の娘で、だいたい歳は緑川沙弥と同じくらいだ。新進気鋭の新人作家で、『家族の絆』だけが売りである。この後、日本文壇の最高頂『茶川賞』をとってからはもっといい気になって、「日本の教育の失敗は『家族の絆』が崩壊したからだ」とかなんとか評論家ばりに偉そうに主張するのだが、それは後述する。
 とにかく朱美里は、沙弥とくらべるとそんなに美人じゃない。キツネ目だし、面長の顔だし、性格の悪さは沙弥の方が上だけどね…。
 それよりなにより驚いたのは、新人文学賞の大賞が緑川沙弥だけでなく、この朱美里もだったことだ。つまり大賞は、同時受賞って訳で、なんだこりゃって感じなのだ。
 私たちがパーティ会場に入ると、みんなが沙弥の美しさにため息をもらした。確かに、沙弥は美しかった。隣にいると私なんかは引き立て役みたいで惨めなくらいだった。
「沙弥………皆、あんたに注目してるわよ」
 私がそういうと、彼女は、「人寄せパンダさ」と、訳のわからぬことを言った。
 私がクエスチョンな顔をしていると、「あなたが緑川沙弥ね」と、声をかける女の声があった。「え?」それが朱美里(しゅ・みり)だった。
「私と一緒に大賞取ったからっていい気にならないでね」
「いえ……私は黒野ありさ。緑川沙弥はこっち!」
 私は言った。すると、生意気な朱美里の態度に頭にきたのか、沙弥が、
「お前が、しゅ・みり…か?」と睨んできいた。
「そうよ。あんたみたいなのと一緒なんてヘドがでるわ。大学も出てないようなのと…」「なんだとこのアマッ…やんのか?!」
「暴力反対!…ですわ」
 パーティ・ドレス着ながらケンカはやめてよ…って私は思った。そして、とにかくこの瞬間から、緑川沙弥は朱美里(しゅ・みり)を徹底的に憎むようになった。
 宿命のライバルってところか、諸葛孔明と司馬仲達みたいな、っていってもわからないかな?もちろん、朱美里も沙弥を憎んでいたようだ。みればわかるか。
 とにかく、こうしてパーティは終わった。
 そして、後に残ったのは、単なる『憎しみ』だけだった。

  腹立たしい気持ちのまま、次の日、緑川沙弥は新幹線でふるさとの米沢市に帰ることになる。ここからずっと私が沙弥に付き添っていた訳ではない。だから、田舎での彼女の行動とかはのちに緑川沙弥の弟子になる、銀音寺さやか、や、沙弥の妹のまゆちゃんなどから聞いた話しを参照して書いているのでご了承のほどを。
 銀音寺さやか、って誰かって?
 それは後述する。                               


nhk土曜日放送番組「週刊ニュース深読み」緑川鷲羽サイトコメント書き込み卒業について

2013年11月17日 10時46分28秒 | 日記
  nhk土曜日放送番組「週刊ニュース深読み」緑川鷲羽サイトコメント書き込み終了について。
まず私は下記の戦争論を投稿(テーマ「ロボット兵器」)しました。


ロボット兵器も戦争という殺人も
緑川 さん 山形県 40代 男性

 ロボット兵器・無人殺戮兵器…SF映画のようなことが現実としてある。兵器・無人攻撃機、当たり前ながら「人殺しの兵器」だ。だが、私は「平和ボケ」した凡人のように「戦争は人殺しで悪だ。絶対してはならない」とは思わない。まずは戦争は悪だ、ということなど幼稚園児でもいえる事だと解って欲しい。確かに戦争は悪だが、その悪によってもっと強大な悪を叩き潰す事が出来るのだ。第二次大戦で連合軍が、ナチスヒトラーや帝国日本の野望を叩き潰さなかったら世界はどうなっていましたか?綺麗ごとではなく、コンストラクティブな意見が重要なのだ。戦争自体には善も悪もない。勝てば善、負ければ悪なだけ。無人殺人兵器は「敵を殺し、自分の兵士が傷つかない」等利点が多い。綺麗ごとで「所詮人殺しだ」等赤ん坊でもいえる。まあ、まずは隗より始めよ、というに尽きる。

するとある同一人物が偽名と偽年齢で、


やなせたかし氏の生前のコメント
しらとただ さん 東京都 50代 男性
「戦争は悪だが、その悪によってもっと強大な悪を叩き潰す事が出来る」というご意見には、アンパンマンの生みの親、やなせたかし氏の生前のコメントをお送りしたい。
『正義というものがあるんだったら、ミサイルをぶち込んで何かをやっつける、ということではなくて、今、飢えている人を助けるということの方が、まず真っ先じゃないかと思う。』「正義」を声高に叫ぶ者が最もキナ臭い。戦争は「正義の為」ではなく「誰かの利益の為」に行われるのが世の常だ。

ひとこと ろんろく さん 石川県 20代 男性
戦争は絶対に駄目。平和ボケといわれても言います。途上国の紛争を解決させたい。平和ボケですか?赤ん坊でもいえる当たり前のこと、何だかんだ理屈つけて難癖つけるのは不愉快です。国連は赤ん坊の集まりなんですか?平和求む。ロボット兵器反対。

等と綺麗ごとを並べてサイトが炎上しました。私は「戦争は正義の為に行われている」等一言も言っていないし、「誰かの利益の為に戦争が行われる」等当たり前に知っている。そういうことにたいして反論のコメントを送信しているがnhkは無視して載せない。卑怯である。私だって途上国の紛争を解決させたい。「紛争解決が平和ボケ」等いってないし、「国連は赤ん坊の集まり」ともいっていない。とにかく討論ともなっていないし私が言う「コンストラクティブな議論」ではない。この人物は悪口と感情論と水掛け論で、まともじゃない。nhkは私の反論コメントを載せないのは卑怯ではないか?まずもう深読みへのコメントを卒業するので皆さんさようなら、ということ。

東日本大震災 震災から2年8か月「原発の現状と将来戦略とは脱「集団ヒステリー」」

2013年11月14日 14時04分38秒 | 日記
 「東日本大震災」 
 
償い、廃炉、電力供給 東電「3分社化」を提言する (1/2ページ)2013.11.10連載:大前研一のニュース時評。自民党の東日本大震災復興加速化本部(大島理森本部長)がまとめた第3次提言案によると、東京電力福島第1原発の汚染水対策の遅れを防ぎ、廃炉を円滑に進めるため、東電の関連部門の分社化や一部組織の独立行政法人化を検討するよう促している。数週間前、菅義偉官房長官は「東電を分けるなんてことはしません」と語っていたが、すぐにこの大島リポートが出てきた。私は「この方向性はなかなかいいぞ」と思ったものだ。ただ、自民党の提言には、廃炉事業の社内分社化、完全分社化、独立行政法人化の3案が示されているが、“償い会社”と廃炉事業は一緒にしないほうがいい。また、賠償をしながら、柏崎刈羽原発(新潟県)などを稼働させることにも無理がある。もうひとつ、東電の広瀬直己社長の時間の使い方をみても、99%は福島に取られてしまっている。そうすると、首都圏3000万人にどうやって電力を供給していくのかという部分が宙に浮いてしまう。これこそ、分けなくてはいけないのではないか。そこで私が考えているのが、東電を基本的に3つに分けるというもの。まず1つ目は、除染や被害者の人たちを償っていくという部分を担う会社。この本社は福島に置き、原賠法(原子力損害の賠償に関する法律)に基づいて運営していく。2つ目は廃炉事業を行う会社。廃炉には30年、ひょっとすると50年と非常に長いスパンが必要になる。将来的には日本全国の原発54基はすべて廃炉になるわけだが、2-3基しか持っていない電力会社が廃炉を行うというのは無理な話。東電と原燃が先行する廃炉のノウハウは全員にとって必要になってくる。そこで、日本全体の原発に向けた廃炉の会社(廃炉機構)をつくるわけだ。安倍晋三首相は福島第1原発5、6号機について、「事故対処に集中するために廃炉を決定してほしい」と東電に要請したが、当然これらの廃炉作業も対象となる。今後、原発を輸出するにしても、建設から廃炉まで一貫して責任を持たないと受注できない。そういう意味では、廃炉のノウハウを1つに集めて固めておかなければならない。もうひとつ、汚染水の問題というのは、わりに短期的にケリがつくと思う。永遠に続く問題ではない。これは廃炉事業とは違う。除染に関しては田中俊一規制委員長が「100ミリシーベルト以下で人体に何らかの影響が出る、という証拠はない」という注目すべき発言を最近行っている。またIAEAも1ミリシーベルトを除染のターゲットとすることに疑問を呈している。当たり前だ。チェルノブイリなどの経験からも除染はしない方がいいのだ。除染したものを置く場所もないし、自然界でも1ミリシーベルトくらいの宇宙線はあるので、費用がかかるわりには効果が薄い。費用の国民負担も10兆円を超えると試算されているので途方もなく大きい。除染利権を生むだけで実質的なメリットはない。ここは、放射線が専門である田中委員長が(たとえば15ミリシーベルトとか30ミリシーベルトという)安全レベルを宣言し、それ以下のところに関しては帰宅開始をする、それ以上のところに関しては国が買い上げる、という明確な方針を出すべきだ。そして3つ目は、首都圏の発電をまかなう本来の仕事をする電力会社だ。その会社が全力を挙げて取り組まなかったら新潟の泉田裕彦知事が柏崎刈羽の再稼働に合意することもないだろう。(2013年11月14日大前研一メール「東電は償い・廃炉・電力供給の3分社化するべき」)。安倍総理大臣は、東京電力福島第一原子力発電所を視察したあと、記者団に対し、運転を停止している5号機と6号機を廃炉にするよう東京電力側に要請し、廣瀬社長は年内に判断する考えを示したことを明らかにしました。また、安倍総理大臣は、みずからが責任者として事故処理や汚染水問題に対応していく考えを強調しました。この中で安倍総理大臣は、東京電力福島第一原子力発電所にある6基の原子炉のうち、事故当時は定期検査中で、現在も運転を停止している5号機と6号機について、「事故対処に集中するためにも、停止をしている5号機と6号機の廃炉を決定してもらいたいと要請した。これに対し東京電力の廣瀬社長からは、5号機、6号機の取り扱いの判断を年内にするということだった」と述べました。また、安倍総理大臣は、廃炉に向けて安全対策に万全を期すため、現場の裁量で使用できる資金を確保すること、しっかりと期限を決めてタンクにためてある汚染水を浄化することも東京電力側に要請したことを明らかにしました。これに対し東京電力の廣瀬社長は「資金はすでに引き当てている1兆円に加えて、さらに1兆円を確保していく。また来年度・2014年度中に汚染水の浄化を完了していく」と答えたということです。さらに安倍総理大臣は、汚染水問題について、「福島近海においてモニタリングを行っており、その結果、IOC=国際オリンピック委員会の総会が開かれたアルゼンチン・ブエノスアイレスで話したように、汚染水の影響は、湾内の0.3平方キロメートルの範囲内で完全にブロックされている。いずれにせよ事故処理、汚染水処理は、国が前面に出て私が責任者として対応していく」と述べました。東京電力「年末までに判断したい」これについて東京電力は「総理のことばは重く受け止めているが、取り扱いは未定で、仮に廃炉にしたり、研究用施設に転用したりする場合、関係者との調整が必要になるため、年末までに判断したい」と話しています。また、福島第二原発については、「安定的な冷温停止状態にあり、引き続き、施設の復旧を進めるとともに監視や点検に努めたい。今後の扱いについては国のエネルギー政策の議論や、地域の意見を聞いて検討していきたいが、現時点では未定だ」と話しています。官房長官「地元から強い声あった」菅官房長官は午後の記者会見で、「政府に対して、これまでも地元のみなさんから『廃炉にしてほしい』という強い声を頂いていた。そういうなかで、きょう、安倍総理大臣が、事故対応にしっかり集中するためにも廃炉を決定してもらいたいという思いの中で判断されたんだろう」と述べました。
また、菅官房長官は、記者団が「廃炉に向けて資金繰りの援助など東京電力に対する新たなスキームを考えているのか」と質問したのに対し、「現時点では考えていない。現在あるスキームの中で最善を尽くして、全力で取り組んでいるのが現状だ」と述べました。福島第一原発5・6号機とは東京電力は、福島第一原子力発電所にある1号機から6号機の6基のうち、1号機から4号機については、去年3月、廃炉の手続きをとっていましたが、5号機と6号機の2基の扱いについては方針を明らかにしていません。5号機と6号機は、おととしの原発事故では定期検査中で運転を止めていて、原子炉は冷温停止の状態になっていました。また、地震や津波のあと外部電源が失われ、冷却装置の一部が使えなくなったため、一時原子炉の圧力が上昇するなどしましたが、6号機の非常用発電機が被害を受けなかったことなどから、再び冷温停止にすることができました。
福島県は、福島第一原発の5号機6号機だけでなく、福島第二原発の4基についても廃炉にするよう求めています。宮城・石巻市の私立日和幼稚園の送迎バスが東日本大震災の津波に巻き込まれ、園児5人が死亡した事故について、4人の遺族が「安全配慮を怠った」として運営法人と当時の園長に計約2億7000万円の損害賠償を求めた訴訟で、仙台地裁は2013年9月17日、園側に約1億7700万円の支払いを命じた。津波の犠牲者遺族が管理責任をめぐって起こした裁判で判決が出たのは初めてとなる。 裁判では園側が大津波を予見することができたかどうかが大きな争点となっていたが、仙台地裁の齊木教朗裁判長は「巨大地震の発生を予想できなくても、およそ3分間も続いた巨大地震の揺れを実際に体感したのだから、津波を予想できたはずだ。園長は津波警報が発令されているかどうかなどの情報を積極的に収集する義務があったのに怠った」と指摘した。 読売新聞の報道などによると、バスは11年3月11日15時頃、高台から低地の海沿いに向かい、7人を降ろした後、園に戻る途中で津波に巻き込まれ横転。園児5人と女性職員1人が死亡、運転手は車外に押し流されたが無事だった。だが、私はこの裁判結果は酷いと思う。こんな「100年に一度あるかないかの大災害」で、誰も予測できないような大災害被害で「八つ当たり」みたいに「死んだから責任とれ、金払え」というのは無責任だし、あまりにも幼稚な考えだ。こんな裁判意味ないよ。とんでもない裁判結果だと思う。たまたまラッキーにも運転手が命が奪われなかったことを「なんで家の子は死んだのにお前は…」と「集団ヒステリー」みたいに怒り心頭に感じ「感情論」だけで裁判を起こす。まるで能天気な「脱原発デモ」である。無意味な裁判である。
2013年9月9日、「誰の刑事責任を問えない」。1年超にわたって福島第一原発事故の捜査を続けてきた検察当局の結論は「全員不起訴」だった。訴えていた被災者は残念だったが、これは予期せぬ震災と津波で起こったことであり、当たり前なのだ。確かに当時の民主党・菅政権は数か月もメルトダウン・メルトスルーを隠ぺいした。だが、だからといって八つ当たりみたいに東電や菅直人を恨んでも仕方ないし、何も生まれない。お金に困っているのはわかるが、まるで「集団ヒステリー女」だ。ちなみに容疑不十分は「勝俣恒久(東京電力会長)」
「清水正孝(東電社長)」「武藤栄(東電副社長・原子力・立地本部長)」「斑目春樹(原子力安全委員会委員長)」「寺坂信昭(原子力安全・保安委員長)」。容疑なしが「菅直人(首相)」「海江田万里(経済産業相)」「枝野幸男(官房長官)」(肩書き事故当時)である。被害者意識も理解できるが「八つ当たり」はやめようね。じゃあ、あなた方が当事者だったら事故を防げたの?後からなら誰だっていえるよ。まるで能天気な「脱原発デモ」だ。日本人として、恥ずかしい。こんな裁判意味ないよ。
2013.9.4 12:46 [韓国]
 韓国の与党セヌリ党の黄祐呂代表は4日、東京電力福島第1原発の汚染水漏えい問題に絡み、日本政府が汚染状況の情報提供などで非協力的な態度を続けていると指摘し、こうした状況が続くなら、安全性が確認されるまで日本からの食品の全面輸入禁止も考慮しなければならないと述べた。党の会合での発言。
 同党は日本政府が汚染水対策を発表する前日の2日にも同様の見解を表明している。韓国では毎年、中秋節「秋夕」(今年は19日)前後に生鮮食品の消費が増えるが、汚染水漏えいによる水産物への不安拡大で消費の冷え込みが憂慮されている。与党として安全確保に努力する姿勢を強調する意図もうかがえる。
 汚染水漏えい問題では、日本政府は放射線量などのデータを韓国に提供し、韓国外務省副報道官が「日本は非常に協力的だ」と述べるなど、韓国政府は日本を批判する姿勢は見せていない。(共同)
福島第1原発:汚染水対策に予備費 五輪招致を意識。毎日新聞 2013年09月04日 08時00分(最終更新 09月04日 08時21分)原子力災害対策本部と原子力防災会議の合同会合の終わりにあいさつする安倍晋三首相と茂木敏充経産相、田中俊一原子力規制委員会委員長ら。政府の主な汚染水対策 ◇財務省抜き、官邸と経産省で検討。 東京電力福島第1原発で相次いでいる汚染水事故で、政府の原子力災害対策本部(本部長・安倍晋三首相)が3日に了承した国費470億円の投入方針のうち、今年度予算の予備費使用は、首相官邸と経済産業省が8月中旬から財務省抜きで検討を進めていたことが分かった。予備費210億円を充て、原子炉建屋への地下水流入を防ぐ凍土遮水壁の建設や汚染水処理装置の増設・改良計画を前倒しで進める姿勢を演出した。汚染水問題に海外の関心が高まる中、2020年夏季五輪への影響などを懸念し、対策を急いだとみられる。 ◇欧州での批判強まり。 「汚染水問題を含め、福島第1原発の廃炉を実現できるか否か、世界中が注視している。政府一丸となって解決にあたる」。首相は3日の対策本部でこう強調した。汚染水の海への流出は8月7日の対策本部で議題になったが、その後も19日に貯蔵タンクからの漏れが判明。英BBCが「汚染水の量は(日本政府と東電に)信じ込まされてきた数値よりはるかにひどい」という専門家の意見を紹介するなど、欧州を中心に海外メディアの批判が強まった。政府内でも「五輪招致もある。いつまでも放置できない」(官邸筋)という危機感が高まり、菅義偉官房長官は同じ26日の会見で「予備費の活用を含めてできる限りのことを行うよう経産相に指示している」と表明した。菅氏は同時に、指示した時期を「2週間前」と明かし、この時まで財務省は「蚊帳の外」だった。「予備費を一体何に使うつもりだ」と戸惑う同省に対し、官邸側は、凍土遮水壁建設に14年度予算で経産省の「廃炉研究費」の一部を充てるという既定方針の前倒しなら、最後は財務省を押し切れると踏んでいたようだ。菅氏は9月3日の記者会見で「汚染水問題は日に日に緊急性を増している。今回の措置は、東電に任せずに政府が前面に立って解決に当たる意思表示だ」とアピールした。 とはいえ、政府は、汚染水対策以外で東電に財政的な関与を強めることまで想定してはいない。政府筋は「事故処理を東電がやるという前提が崩れると、際限がなくなる」と、あくまで例外を強調した。自民党の脇雅史参院幹事長は3日の記者会見で「民主党政権にも大きな問題はあった」とした上で「対策は少し遅きに失した」と政府に苦言を呈した。ただ、自民党は野党が求める国会の閉会中審査には当面応じない構え。汚染水問題が安倍政権の追及材料になるのを回避したい思惑が透ける。首相は4日、ロシアで開かれる主要20カ国・地域(G20)首脳会議と、アルゼンチンでのIOC総会に出席するため、日本を出発する。複数の関係省庁幹部は「3日をめがけて全力疾走だった。結果的に五輪を意識したと言われても否定できない」と漏らした。【大久保渉、村尾哲、朴鐘珠】
 国際オリンピック委員会(IOC)委員の4割強は欧州出身。民主党の海江田万里代表は26日の記者会見で「隣国の韓国やロシアだけでなく、欧州も大きな関心を持っている。五輪招致の問題に影響する可能性がある」と指摘した。
東京電力福島第一原発事故で放射性ヨウ素を体内に取り込むことによる甲状腺被曝(ひばく)線量(等価線量)が10ミリシーベルトを超える作業員は、推計で1973人に上る事が明らかになりました。この人数は当初の範囲を超えるものです。東電は最初から素直に公表すべきでした。ただし、100ミリシーベルトを超えるからと早急に危険ではない。統計でいうと100ミリシ-ベルト200ミリシーベルトだと癌に成る確率が1.08倍に成る程度(野菜不足や受動喫煙の範囲)。さらに200ミリシーベルトから500ミリシーベルトなら運動不足・高い塩分食事、500ミリシーベルトから1000ミリシーベルトなら肥満・痩せすぎの範囲です。1000ミリシーベルト以上なら毎日3合の飲酒に喫煙の範囲です。もちろん100ミリシーベルトが安全だということではありません。大騒ぎに注意してほしいとの意味です。例えば先日、吉田元・所長が食道がんで亡くなられたが悪質な輩は福島での被ばくで…と関連づけ「だから脱原発」「原発はテロだ」「脱原発に2兆票」などといいます。ですが被曝の後遺症ではありませんよ。甲状腺がん・食道がんなど被曝による潜伏期間は10年から20年です。わずか数年で食道がんを発症し死亡しないことは医者や専門家ならみんな知っています。また先日、東京大学の教授が内閣参与辞任会見で「10ミリシーベルトなんて子供達が可哀想だ」と涙をながしていました。政府はその会見後(何故か)「除染は1ミリシーベルトで」などとクレイジーなことをいいます。私にいわせれば1ミリシーベルト等「自然界に普通にあるレベル」です。1ミリシーベルトを基準になどしたら100年経っても「除染」は終わりませんよ。10ミリシーベルトから30ミリシーベルトまで基準引き上げを検討するべき。また米国英国フランスにならい高速増殖炉もんじゅは停止廃炉ですね。1兆円つかったが仕方ない。最後に2013年夏ですが「節電」で乗り切れる筈ですね。頭のおかしなひとの「原発いらない。エネルギーは足りているのに…」という無知とは違います。計算上ぎりぎり乗り越えられる計算なのです。(当然火力発電に99%特化していてエネルギーは足りてなどいない)。福島原発レポート。― 新規制基準をどう評価しますか?◆新基準は福島第1原発事故のきちんとした分析がないまま「これで安全ではないか」という対策を寄せ木細工にしたもの。事故前の基準のどこに誤りがあったのか、国民に明らかにしていない。原子力規制委の対応は科学的アプローチを欠いている。評価できない。--政府は新基準で安全と認められた原発は再稼働させる方針です。◆福島事故の原因は全電源喪失だ。民主党政権は「想定を超えた津波」と説明し、誤った教訓を世界に発信した。事故対策で地震や津波の規模を想定すること自体が誤り。何が起きても原発を安全に停止できる方策が必要だ。自民党政権は過去の原子力政策を反省し、福島事故に根ざした対策を講じるべきだ。--新基準施行を受けて、東京電力も柏崎刈羽原発の早期再稼働を目指しています。◆東電に再稼働する技量はある。しかし、東電も国も福島事故後、炉心溶融(メルトダウン)していないとウソをつき続けた。東電が原発を動かすなら、正直に情報発信し、立地住民や自治体と信頼関係を築くことが必要。福島事故の原因をきちんと分析し、対策を説明すれば、(新潟県の)首長たちが理解を示す可能性は高い。信頼関係のないうちに再稼働申請を急ぐ東電はステップを間違えている。--東電は他社より再稼働のハードルが高いということですか?◆福島第1、第2原発を設置する際に東電は十数項目の「原子炉が安全な理由」を説明した。しかし、東日本大震災では、緊急停止以外の安全設備が機能しなかったことが明らかになっている。柏崎刈羽の再稼働を目指すなら、福島の住民との約束を破ったことを謝罪、反省し、事故の検証を踏まえた対策が不可欠だ。この第一歩なしで、新潟県民がイエスと言うことはないだろう。--昨夏の関西電力大飯原発の再稼働は支持しましたね。◆大飯3、4号機は考え得る安全装置がすべて備わっていたので、再稼働に反対する橋下徹・大阪市長を説得した。しかし、柏崎刈羽の場合、現状では(大飯の時のような)説得は泉田裕彦新潟県知事にはできない。【聞き手・清水憲司氏・談話・大前研一氏】東電の福島第一原発事故の当時事故対応にあたった吉田昌郎(まさお)元・所長が病院で食道がんにより死亡した。享年58歳であった。氏は大阪府出身、1979年東電入社であった。放射能による病気ではない(5年以上潜伏期間があるから)が、訃報は残念。5原発10基が再稼働申請です。5原発とは北海道電力の北海道の泊原発、東京電力の新潟県の柏崎刈羽原発、関西電力の福井県の高浜原発、、四国電力の愛媛県の伊方原発、九州電力の佐賀県の玄海原発、九州電力の鹿児島県の川内原発です。まあ、福島の原発事故で感情論がいりまじり、地元知事は「脱原発」で胸を張る傾向にあります。集団ヒステリーは醜悪ですね(何故「脱原発は危険か?」は後述)。福井県敦賀(するが)原発が活断層の上にあるとして廃炉が決まりそうです。まあ、あの福島原発事故の経験と教訓からすれば当然ですね。「脱原発」「原発はテロだ」などと官邸前でいささかヒステリックにデモをしなくても、政治家も有識者も「原発再稼働」など言えない雰囲気です。殺されるといえば大袈裟ですがそんな雰囲気です。大規模災害対策 「大規模災害復興法」を4月上旬にも閣議決定。震災復興 避難生活者 約31万5000人。避難者対策 居住者向け放射線量の安全指針づくりに着手。太陽光発電 再生可能エネルギーの価格政策を見直し。発電燃料 火力発電の燃料価格が高止まり。電力問題 今夏も節電要請の方針。
 政府は大災害時の対応を迅速にするため、大規模災害復興法を4月上旬にも閣議決定し、今国会に提出する方針を明らかにしました。今後、想定される南海トラフ巨大地震や首都直下地震に備える考えです。
 つまり、地方自治体を超えて直接政府が指示をしていくということです。
 東日本大震災の際には、当時の菅首相が直接現地に乗り込んで指揮しようとしましたが、結局そういう制度がなかったために機能せずに終わってしまいました。
 大規模災害の際には、都道府県間、県・市区町村間のコーディネートなどもあるので、政府が全責任を追って対応するのは極めて重要なことだと思います。東日本大震災から2年を経て、仮設住宅などで避難生活を送る人はなお約31万、福島第1原子力発電所事故の影響で福島県から県外へ避難した人は5万7135人にのぼります。この事実から見れば、2年間にわたって日本はある意味において無政府状態だったと言わざるを得ないでしょう。
 私は震災の一週間後には復興計画案を発表しました。高台移住の提案、津波プレインの制定も含め、福島第1原発から5キロ圏内の居住できない旨をいち早く通達し、人生の計画を早めに立て直せるようにすべきだと述べました。いち早くこうした計画を立てて責任を持って実行するのが政府の役目だと思います。関東大震災のときは、短期間で対策案をまとめたと言います。当時よりも、日本の復興対策ブレーンの力は衰えたと言われても仕方ないでしょう。また未だに30万人の仮設住宅居住者がいるという異常事態に何とも感じていないことにも、私は驚いてしまいます。日銀人事やアベノミクスも大切かもしれませんが、その前に優先すべき事項があるということを自民党にも改めて認識してほしいと思います。
 自民党は避難者対策として居住者向け放射線量の安全指針づくりに着手したそうですが、これは早急に進めて欲しいところです。現在は長期的な除染目標の「年間積算線量1ミリシーベルト以下」を参考値としていますが、これは厳しすぎます。もっと現実に合わせた安全指針を策定し、一刻も早く帰ることが出来る人に戻ってもらえるようにするべきだと思います。
 政府は太陽光発電の急拡大を支えてきた再生可能エネルギーの価格政策を見直すとのことで、買い取り価格を2013年度から約1割下げる案を決定しました。当時の民主党政権が一部の業界に煽られて、20年間の固定買取制度を決めてしまったのですが、明らかに勇み足でした。かつてドイツやスペインでも20年間の固定買取を決定したことがありましたが、最近になって価格を下げる方向で修正をしています。再生可能エネルギーの買取価格を高いままで固定していたら、おそらくゆがんだエネルギーミクスになるでしょう。太陽光、風力によって得られるエネルギーは気まぐれの要素が強く、それを貯めておくためのバッテリーをどう用意するのか?といった問題も解決されていません。さらに太陽光発電についてはあまりに高価格で買取価格を固定してしまったため、参入業者が増えすぎて困っている状況です。この程度の展開を予想することさえできなかったのは残念です。
 自民党は一刻も早く是正してほしいと思います。また再生可能エネルギーに固執する必要はなく、他のエネルギーについてもしっかりと検討することが大切です。例えば、火力発電に使う液化天然ガス(LNG)や重油の価格が高止まりしています。LNGのスポット価格は東日本大震災前に比べ9割上昇し、重油も6%上がっています。原子力発電所が相次いで停止したのに加え、中国や南米など新興国で発電燃料の需要が拡大しているためということもあります。もっとも、そもそも再生可能エネルギーの価格が高すぎるというのが問題なのです。
 2013.03.11号のBusinessweek誌でも記事になっていましたが、再生可能エネルギーの価格が高止まりしているのに対し、化石燃料の価格は下がってきています。二酸化炭素の排出という問題はありますが、カナダのように政府が負担を増やして対処するなど、方法を模索することはできるでしょう。特に石炭火力の発電コストは原子力に匹敵するほど低価格です(原子力:8.9、石炭火力:9.5、LNG火力:10.7、石油火力:36、それぞれ円/1キロワット時当たり、2010年の価格)から、これを利用しない手はないと思います。
 日本は歴史的に石炭に対するアレルギーがあります。世界的には発電量に占める石炭の割合は約40%ですが、日本は30%弱に過ぎません。中国は約80%、韓国、米国、ドイツも40%を超えています。日本は意識的に石炭を避けて比較的クリーンなLNGに傾いていましたが、ここに来て価格は高止まりしています。確かに石炭には二酸化炭素の問題がありますが、最先端の技術を利用することで、排出される二酸化炭素をクリーンなものに変えることも可能な時代になりつつあります。夏の電力需給のため東京電力が石炭火力発電所を新設する計画に、環境省が反対の姿勢を示していましたが、先日自民党によってひっくり返されました。自民党は民主党に比べて現実的な判断を下したと言えるでしょう。 盲目的に「再生可能エネルギーが良い」と考えるのではなく、様々な可能性を検討していくべきだと私は思います。(大前研一先生談2013年3月22日)
2011年3月11日未曽有の被害をもたらした「東日本大震災」があり、2013年3月11日で2年、遺族には3回忌ですね。死者1万5881人行方不明者2668人。復興は進んでいない。ちなみに復旧は「もとの状態に戻す事」復興とは「再び盛んにする事」ですよね。復旧(道路100%鉄道92%電気96%都市ガス86%)ライフラインは復旧しましたが復興はまだまだ先です。大震災直後には避難民は45万人いましたが、現在(2013年3月時点)は31万5196人(仮設住宅に約11万人、民間の賃貸住宅に約15万人、親戚・知人などの家に約1万5000人)といいます。今は一か所「避難所」が埼玉県加須市にあり、福島県双葉町民139人が暮らしになられています。でも町つくり自体これから。「復興住宅整備に着手しようとしているのが27%」「集団移転に国交大臣の同意が82%」「かさ上げの計画決定が66%」です。いいですか?集団移転とか復興住宅とか出来たのではなく「計画中」な訳です。復興予算は5年間で25兆円(安倍内閣、道路整備・下水道・仮設住宅・瓦礫処理→今年度末(2013年)まで17.5兆円)。お金はどこからもってくるか?まあ政府の歳出削減で14.5兆円、国債20兆円、増税10.5兆円(所得税・年間16000円×25年間=7.5兆円)(法人税・年間10%×3年間=2.4兆円)(住民税・年間1000円×10年=0.6兆円)です。ですが復興予算の流用が2兆円もあるという。簡単に説明すると「海外青年団交流費に75億円」「反捕鯨団体対策費(宮城県石巻市にクジラ工場があるから)に23億円」「核融合エネルギー開発に29億円」「沖縄の国道整備費に34億円」という。(復興費の)お金が遣えないのは「予算が遣いきれない」からで、被災3県の繰り越し予算は「岩手県2062億円・入札率15%」「宮城県4592億円・入札率38%」「福島県3300億円・入札率24%」という。入札率とは建設業者の入札率のことで人材不足や資材不足などで工事関係者のコストが高くなっていて、儲かるどころか赤字になっているらしいです。まあ、大工や道路工事にしても「技術職」ですから。原発の今を学びましょう。確かに福島第一原発の修復工事の詳細はテレビでもあまりやらないし、2012年12月には野田元首相が「事故そのものは収束した」と宣言しました。だが、とんでもない。安倍首相の2013年2月の「とても収束と言える状態ではない」という言葉こそ真相であろう。一日3000人が原発処理作業に当たっている。行程としては燃料棒取り出し(5年以内)→冠水(10年以内)→燃料取出し(25年以内)→廃炉(40年以内)という。また汚染水も1日に400t(小学校プール1つ分)でる。汚染瓦礫や燃料棒や汚染水の最終処理場は決まってもいない。原発避難者は11万人(「帰宅困難区域・今後5年以上帰宅困難・年間放射能50mシーベルト超」「居住制限区域・数年間居住難しい・年間放射能20mシーベルト超から50mシーベルト以下」「避難指示解除準備区域・近い将来帰宅可能・年間放射能20mシーベルト以下」)です。ホースによる原発炉心への放水はもうやってなくて、とにかく核燃料を冷やすということで水をとにかく循環させている。被災地は悲惨だが、原発事故はもっと悲惨である。「子供の為にも原発は今年で全部廃炉!」という集団ヒステリーもわからないではない。現実離れしている主張ですがね。
弘前被ばく医療研究所は2013年1月11日、福島第一原発による放射性ヨウ素による甲状腺被ばく量は、推定で最大4.6ミリシーベルトだったと発表しました。IAEAはもっと低く、健康への影響は小さいという。比較的早いタイミングで調査を行っており、放射性ヨウ素とセシウムの比較を見てセシウムの量から逆算して当時の放射性ヨウ素の被ばく量を計算したものです。誤った被ばく量やデマゴーグ的数値で恐怖心を煽るのはやめて欲しい。そんなに恐れるほどの数値でもないし、除染作業も進捗している。また原子力規制委員会が原発の「第二制御室の必要性」に拘泥している。が、福島第一原発にも「第二制御室」があったが津波でやられたのだ。それほど必要ではないが作るならお金をあまりかけず作ることだ。それにしても原子力規制委員会は「鳥なき里の蝙蝠」だ。師匠・大前研一先生ほどの人物がいるのに委員じゃない。これでは片落ちだ。今、原子力発電所が全部停まって火力発電所に99%特化しています。そこで使われるのが天然ガスですがこれはメタンガスのことです。プロパンガスというのは石油から分離する一番軽いもの(①プロパンガス②ガソリン③軽油④中油⑤重油)です。日本に輸入される天然ガスは零下160度で冷やし、1/600の液体にしてLNGタンカー船で運びこみます。非常に高コストです。単純に比較できないのですが、日本LNGは57.3ドル、アメリカのパイプラインは16.7ドルです。ロシアからのパイプライン計画も北方領土問題がネックです。でも、関係ありません。ロシアと日露安全保障条約を結び、シベリア開発、経済連携、天然資源共同開発など「経済連携」を密にすればいい。まずは経済連携でパートナーシップを高める。これだ。アメリカは100年分のシェールガス(頁岩・けつがん・シェール)が発見され「資源輸入国」から「資源輸出国」になりました。日本にはシェールガスはないのですが、メタンハイドレートが200年分日本海底に眠っています。東京電力は2012年12月14日、原子力部門の改革案を発表しました。原子力部門から独立して安全対策を指導、徹底する社内改革組織の設立などを柱に据え、過酷事故につながりかねない「負の連鎖」を断つ組織つくりを考えたそうだ。最終報告は2013年2月という。記者会見の問題点は(1)能力不足(2)知っていたが言えなかった(3)外部から圧力があった、です。45年前に福島第一原発建設時地元住民に「嘘をついていた」と認めた。また原発事故2日目にはメルトダウンしていたが、認めたのは11月後であった。後言いたいのですが活断層=危険=原子炉停止という流れは短絡的過ぎるということ。なら新潟中越沖地震で新潟県の柏崎刈羽の原子力発電所は何故大丈夫だったのか?普通の地震でも激しい地震でも普通は原子炉は安全に停まるんです。福島原発も地震で停止しています。その後の(想定外の)津波で原発全電源が停止して原子炉がメルトダウンしたのです。マスコミはそのことを知っているのに「脱原発派」におもねって報道しません。すべては視聴率、購買率の為なんです。皆さんもっと頭を使ってください。今、「脱原発!」などというのは赤ん坊でもできます。甘い嘘より苦くても大切な現実に目を向けましょうよ。原子力規制員会は活断層があるとして敦賀原発を廃炉にするという可能性を示しました。そんなこといっていたら日本中の原発は全部廃炉になりますよ。しっかりしてください。東電は福島に復興本拠地を4000人体制で設置すると決定。賠償も現地権限をもつという。日本海などにメタンハイドレート群が見つかりました。網走沖、秋田山形新潟沖、隠岐周辺沖にかなりの量のメタンハイドレート(メタンガスが凍ったもの)があるという。原発にかわる代価エネルギーとして期待大ですね。よかったですね。小林よしのり著作「ゴーマニズム宣言スペシャル 脱原発論」小学館刊行「読書感想文」フリージャーナリスト緑川鷲羽わしゅう。まず私が主張したいのは私は「原子力ムラ」の人間ではなく、「利権」とも無縁であるということ。マンガチックな「原発ブラボー再稼働」でもないということ。そして小林よしのり氏の本を読んで、「首相官邸の前で集団ヒステリーでお祭りデモに参加している連中と同じだ」という感想だ。確かに福島原発事故や乳飲み子の母や赤ん坊が泣いている映像を観たら誰だって「脱原発」になるのが人情だ。しかし、したり顔で「脱原発」を主張するなど赤ん坊でも出来る事なんだよ。小林氏は「一時的に電力が足りなくなって企業が出ていく?その程度の企業なら外国にどうぞ」という。現実がわかっていない。電力不足が「一時的」な訳ないだろう。企業は漫画家とは違う。1円2円の円高、電力料金で中小零細企業(全体の99%)は採算をとっている。そんな企業が中国やベトナム、インド、ミャンマーに出ていけば二度と帰って来ない。深刻な失業率になるだろう。漫画家の替りなど幾らでもいるが、職場の替りはない。また小林氏は「自分が9歳の頃(1956代)には原発はおろか火鉢しかなかった。大学生の頃漫画家デビューしたが(1970年代)、九州ではまだ原発はなくても幸せであった」という。現代エネルギー革命や、産業イノベーションがわかっていない。氏が学生や幼かった頃にはなかったスパコン、コンピュータやハイテク家電、スマートフォン、高品質テレビ、(節電)家電、クーラー…なにより電気がなければ水道の水さえ流れない。そういう基本的な事がわかっていない。悪戯に原発の危険や人々の恐怖心を煽り「原発は安全じゃない」と断罪する。これでは農家の恐怖心ばかり煽る農協と同じではないか。絶対に安全なものなどこの世に存在しない。車も飛行機もバスも全部「危険」であろう。何より太陽光や風力といういわゆる「再生可能エネルギー」が電力の1%であり、原発分はいままで30%であり、その分がすべて火力に特化しているから(電力の約99%)「電力不足」「電力料金値上げ」があるのであって、火力発電のエネルギー源の価格高騰に触れられていない。今「円高」であるので石油やガスの値段は高くない。だが、石油・ガスの価格高騰は続いている。価格高騰問題に触れられていないのは違和感がある。原発分の30%のキャパシティを太陽光・風力ではカバー出来ないのだ。それが現実だ。小林氏はあまりに感情に流され、プラグマティズムやコンストラクティブな思考を怠っている。只の「お涙頂戴」の「感情論」に騙されて、したい顔で「脱原発」では救われない。4号機の核燃料棒プールの危機など、政府も関係者も皆知っている。プロパガンダで原子力発電とオウム真理教を結び付けて描いているが、原子力を再稼働したり原発を廃炉にしながら新エネルギー開発(メタンハイドレード、シェールガス、地熱発電、新潟沖の未知の石油)していくのが「ヒトラー」(笑)だとでもいいたいのか?TPP交渉は「ナチス」(笑)か?私も政府の「冷温停止状態」「安全宣言」など信じていない。3・11の事故後すぐ私は「メルトダウン」もしくは「メルトスルー」していると思っていたのだ。だが「危険だ、危険だ」といっていても仕方ない。小林氏は「安全だというならお前が福島に住んでみろ!」という。私は福島ではないがすぐ近くの米沢(福島市郡山市のすぐ隣り)に住んでいるが健康だ。氏のいう「原発の代替案」が太陽光や風力では「お先真っ暗」だ。むしろ大事なのは「脱原発」と「原発再稼働」を二極化しないことだ。原発を求めている人々すべて賄賂をもらっているとか、右翼と決めつける氏こそ「左翼」になった「元・右翼」である。どっちみち福島原発事故で「新規原発開発」も「既存の原発再稼働」も殆どムリで、30年後には自然と「脱原発」になる。原発は全部停まるのだ。私だって将来的には「脱原発」の人間だ。氏の漫画は「感情論」であり「結果論」である。事故を観て恐怖を感じ、集団ヒステリー集団アレルギー、感情論を「プロパガンダ漫画」で描いているに過ぎない。こんなものでまともな代替案もなく、したり顔で「脱原発」を叫ぶなど、まさに「団塊の世代の安保闘争」「集団ヒステリーお祭りデモ」だ。マンガチックであり、主張が「子供」である。本書は一読の価値は確かにある。だが、氏がオウムテロの時のように脅迫に晒されているのは甚だ不幸ではあるが、こんなひとがジャーナリストの仲間とは、日本も甚だ「呑気な国」である。                
2012年10月1日青森県下北半島の大間原発(Jパワー)の再建設が始まりました。集団ヒステリーの「脱原発」ポピュリスト達はまた反発しています。が、Jパワーの会長は「原則40年稼働させたい」と現実的思考です。こういう現実がわかるひとの台頭は喜ばしい限りです。2012年9月27日「指定廃棄物(核のゴミ)」最終処理場が千葉県・宮城県・群馬県・栃木県・茨城県に決まりました。2012年9月20日「原子力規制委員会」が発足です。委員長・田中俊一氏。経団連など財界は「原発2030年代ゼロ」に反対していて、米倉氏が政府戦略会議辞職です。まあ、現実が見えている人々には当たり前の意見ですね。理由は後述しています。政府はとうとう「30年代原発ゼロ」を決定してしまいました。まさにポピュリズム(大衆迎合)です。でも閣議決定は見送りであるという。経済界からのはんぱつのおかげですよ。現実が見えない人たち(脱原発論者)には困ったものです。政府エネルギー戦略会議は「核燃料サイクルを維持」する方針を固め、もんじゅを研究炉にし、30年代に原発ゼロも併記するといいます。「2030年原発ゼロ」目標が、世論の圧力で明文化された。青森県の三村知事が、核燃料サイクル堅持を要望しています。国民の7割が脱原発をしたり顔で主張し、古川国家戦略担当大臣を枝野経済産業大臣も「脱原発」を決めてしまいたいといいます。やめて欲しいのはあと数か月後にはなくなる民主党政権に今後数十年続くエネルギー政策を付け焼刃で決めてほしくないということです。脱原発をし、原発をゼロにすると三十年後には核燃料再生が不要になります。青森県は結果として「核燃料永久貯蔵地」になってしまいます。青森県は「中間貯蔵地」であり「永久貯蔵地」という話になると話は違ってくると思います。事故調(福島原発事故調査委員会)のレポートは本質を突いていない。事故とは物理的な原因が起こり、波紋のように広がるものです。管首相(当時)や斑目委員長(当時)や枝野官房長官(当時)が悪かったうんぬんの前に物理的な自証を考えるべきです。「もう少しいい人材と英雄や天才的人物がいれば事故は防げた」とは思いません。全電源が地震や津波で喪失したら原子炉は冷やせないし、核は暴走する。どんな天才がいようが事故は(遅らせることは出来たかもしれないが)発生したと思います。設計上の問題であり、人材・組織の問題ではないからです。事故調のレポートは「犯人捜し」で、「脱原発論者」は「ポピュリスト(大衆迎合主義者)」だと私は断言します。理由は後述します。南海トラフの巨大地震被害想定は死者32人、浸水1015平方キロでそうです。10分以内の避難で14万人減、100%耐震化で3万人減です。備えあれば憂いなし、ということですか。全国の工業団地に万単位のメガソーラー計画があるそうです。だが、どんなに太陽光パネルを張り巡らせても原発分の3割は無理なんですよ。現在の技術では。だから単純にしたり顔で無策で「脱原発!」と声高に叫んでも集団ヒステリーだ、というんですよ。原発の将来を考える国民会議並びに国家エネルギー戦略会議は「1930年代前半に原発ゼロに」との結果になりました。東京電力福島第一原子力発電所事故の原因などを政府の事故調査・検証委員会は2012年7月23日最終報告書をまとめ、野田首相に提出した。被害が拡大した根源的問題として「東電も国も安全神話にとらわれていた」と指摘。危機管理対策の練り直しを促したとのこと。我が師・大前研一先生は政府と国双方のレポートを読み「率直に言ってどちらも役に立たないな」といいます。原因は津波?なら福島第二原発や東海第二原発は何故大丈夫であったのか?違いは「外部電源」です。福島第一原発は地震で外部電源がやられ、さらに津波で非常用電源もやられてメルトダウンしたのです。「外部電源」さえ無事なら大丈夫なんです。また「活断層の傍に原発あるから危険…脱原発!」というのには私は与しません。なら新潟の地震のとき柏崎刈羽原発は何故大丈夫だったのか?「脱原発デモ」など改革でも革命でも何でもない。くだらん「集団ヒステリー」でしかない。「再生可能エネルギー(太陽光・風力)」で原発分の30%のキャパはカバーできない。「集団ヒステリーデモ」などやめるべきだ。変なガキが「(nhkクロ現で「脱原発デモ」を取り上げることで)デモがないとかいっていたおっさんも黙るな」と悪口を書き込んでいた。私緑川鷲羽わしゅうは「デモがない」などといっていない。原子力規制委員会で委員長として田中俊一氏が内定しました。田中氏は放射線物理の専門家です。が、私は残念です。我が師・大前研一先生こそ委員長・規制庁長官にふさわしいと思っていたからです。福島第一原発の事故調査委員会で電力会社(東電)と民主党(官邸)・政府・当局が地震、津波対策を先送りしたことを「事故の根本的原因」と指摘し「自然災害ではなく人災」と断定しました。我が師・大前研一先生は「人災は一致するが、其のうえで「交流電源が長期的な損失を前提にしなくていい」という事故調のスタンスに問題があった」といいます。それに事故調は原子炉の分析を行っていません。原子炉内部にはいれない、ということで関係者1000人からアンケートをとり分厚い調査書を作成しただけ。こんなもの馬鹿馬鹿しい週刊誌やワイドショーと同じです。「外部電源」に触れられてないが「外部電源」が損失すれば3・11と同じことになります。再生可能エネルギー20年20%買い取りですが今は再生可能エネルギーのほうが値段が高く誰も買いません。夜間の電力料金引き下げも再生可能エネルギー20年20%も原発フル稼働しないと無理です。このままヒステリーで「脱原発」ムードでは日本の自殺です。皆さん目を覚ましてください。原発と原爆は違います。皆さんは誰かと同じでいい、皆脱原発というし、みたいな、「団塊世代の安保闘争」みたいな馬鹿はやめて目覚めてください。2012年7月5日に国会事故調が報告書を完成。述べ1167人に調査して、「東電・保安院の怠惰」否定せず、とした。地震・津波が起因ではあるが「人災」だ、という。2012年7月1日から再生可能エネルギー(太陽光、風力、地熱、バイオマス)の買い取り法案が実施されましたね。誰が買うのか?政府か?電気会社か?株式会社か?いいえ、国民です。国民が電力料金に上乗せして払うのです。今まで再生可能エネルギーは1Kwh=10円くらいで採算がとれず普及しませんでした。それが太陽光(10円→42円)風力(10円→23円)地熱(時価→27円)となり値上げ分は国民が払います。最初は84円負担ですが国が再生可能エネルギーを30%にすれば月に800円から2300円の値上げになります。電気は税のようなもので選べないし、電気がなければ生活できません。基本的なことですが「再生可能エネルギー」が「原発分の30%」をつくれるか?ですがつくれないんです、今現在は。まあ、携帯電話みたいなものです。最初の20年前の携帯電話はカバンくらいおおきかった。それがいまや掌に隠れるほど小さくなり、且つ高性能になりました。再生可能エネルギーも同じようにイノベーションで大きく成長分野としては有望です。だが、今はまだ原子力程のキャパは無理なんです。福島第一原発事故で、日本国内では「原発の建設は危ない」と思いがちです。が、日本の原子炉建設メーカーである日立や三菱重工や東芝らは優秀です。世界でも日本勢に匹敵しているのはフランスのアレヴァ社くらいです。この市場に対しては韓国や中国も虎視眈々と参入を狙っています。しかし、日本勢の足元にも及びません。東芝・米ウエスチングハウス連合の原子炉である「AP1000」は、仮に福島原発事故と同じになっても最後まで自力で冷却できる設計であるそうです。今は原子炉建設は被害感情もあって難しい。だが、20年から30年後再生可能エネルギーに限界がきたとき原発が見直されると思います。また反原発脱原発ムードを創ったのはマスコミです。過剰報道をするから「脱原発デモ」などが起こるのです。脱原発のデモ(作家・大江健三郎・音楽家・坂本龍一呼びかけ)で代々木公園で10万人のデモがありました。いっとくが原発と原爆は全然違う。プロパガンダ(大衆操作)にいいからってリンクさせるな。私緑川鷲羽の立場はけして「原発ブラボー再稼働」などの漫画チックなバカげた考えの立場ではありません。私も「将来的には「脱原発」」という立場なんです。私が言いたいのは福島の原発事故や乳飲み子の母親と赤ん坊の涙をみれば誰だって「脱原発」の考えになるし、それが人情でしょう。が、只したり顔で「脱原発」と声高に叫ぶのなんて赤ん坊でもできる事なんですよ。大飯原発は再稼働したが、依然として原発分の3割の電力は火力発電に特化したまま。このままなら電力不足、電気料金高騰…最悪な事態が日本の産業に壁として立ちはだかります。それでもいい。何が何でも「脱原発」というなら地獄に行ってください。どんなに悲惨な日本経済になるか。勿論福島原発があんなことになって「新規原発開発」も「既存原発再稼働」も無理だし、拒絶反応もわかる。だが、真実から逃げて「脱原発!」と無策で叫んでいたら状況は好転するんですか?小林よしのりも櫻井よしこも勝間和代も無知すぎる。我々は甘い嘘よりもつらい現実に目を向けるべきだ。現時点で「再生可能エネルギー(風力・太陽光など)」では原発分の3割のキャパはカバー出来ない。将来の地熱発電やメタンハイドレードや新潟県沖の未知の石油など「将来のエネルギー開発」を急ぎながら、私だって嫌だが原発を廃炉にしていきながら「(日本経済に深刻な悪影響のある)計画停電」を回避していきましょう。甘い嘘や夢では食べていけない。我々は現実的な行動と思想で行動しよう。団塊の世代の「安保闘争」みたいな集団ヒステリーではなく、現実的に行動しようよ。悪戯に恐怖心を煽る前にもっと勉強しろ。このままでは日本の中小零細企業は電気関連でバタバタつぶれるぞ。もっと皆にはコンストラクティブな議論をして欲しい。集団ヒステリーでお祭りデモに参加してる人達を説得して下さい。

沙弥(さや)AKB48大島優子主演NHK朝ドラ原作小説アンコール10

2013年11月14日 06時49分22秒 | 日記
         哲哉の死と復讐





「ちくしょう!」
 沙弥はそう叫ぶと、怒りにまかせて椅子を手にとって窓ガラスに投げつけた。
 当然、窓ガラスは激しく割れた。
 激しい音が響いた。
 その音に驚いて、私は沙弥の部屋へと駆けつけた。良子おばさんやまゆちゃんも駆けつけた。そして、おもいっきりびっくりした。割れたガラスの破片の真ん中に、沙弥がひとり立ち尽くしていたのだ。
「どうしたの?! 沙弥」
「なんでもねぇよ!」
 ふいに緑川沙弥はそう言った。ほとんど抑揚のない声だったが、力がこもっていた。
 私は彼女の目線のほうへ目を向けてみた。それは割れた窓ガラスではなく、床に転がったコードレス・電話の子機にそそがれていた。多分、後で考えれば電話の向こうの傲慢な出版業者を睨んでいたのかも知れない。私は茫然と立ち尽くす彼女に目を戻した。
 割れたガラスで切ったのか、沙弥のくるぶしから血が流れていた。しかし、彼女はなにもしなかった。よっぽど、M新聞のM田の人間性無視の科白に頭にきたのだろう。よっぽど、自分の作品をボロクソにけなされたのが悔しかったのだろう。
「どうも。M新聞のM田です。原稿どうも」
「はい。どうでしたか?」
「ハッキリ言ってくだらないね。人の読む水準に達してないんだよ。くだらんの郵送するなよ」
「……はあ」
「風俗でもやったら?作家なんかより儲かるぜ(笑)」

「沙弥、どうしたの?」
 良子おばさんが困った顔でたずねた。しかし、彼女は答えなかった。それでおばさんは私に、「何があったの?」ときいた。
 私はその時、なにがなにやらわかんらなかったので、
「えーと。あの……さぁ…」
 と言った。そんな時、沙弥が
「もういい!お前らには関係ない」
 と低い声で言った。それは掠れた声だった。もうひとかけらの希望も残っていないような、そんな感じだった。私は心配になって彼女に近付いた。すると、沙弥ははいていたスリッパで床のガラスの破片を蹴った。
 妙に冴えた音が部屋に響いた。
「沙弥!」
 私が声をかけると、緑川沙弥は、もういい!、という感じで頭をふり、そしてそのまま部屋を駆け出していってしまった。そして、そのまま階段を降り、どこかへ姿を消した。そして、残された私たちはどうしていいかわからずに、ただ悩むばかりだった。


  数日後。緑川沙弥の機嫌はいくぶんかやわらいだようだった。『事件』から数日後のことだ。まぁ、もっともあの時のことは彼女にとってはだいぶ悔しかったようで、いままで執筆した作品をなんどもチェックして推敲を加えたようだった。その当時のことをふりかえり、沙弥はこう言っている。
「忘れようとしても忘れられない出来事だった。しかし、確かにやつに言わせればレベルが低かったのだろう。だから推敲を重ねなくては。現実を見据えて、対応していかなくてはならない。現実は『人の読む水準に達してないんだよ!』だからな。少しでもレベルをあげなくては。……変化を拒んではならない。変化をこばめば進歩できないからな。現実を見据えて全作品の推敲しなくては。なぜなら現実を見据えなくては真実がみえてこないからだ!」
 とにもかくも、緑川沙弥は一流作家になるためにまた努力を続けることにした。「落ち込んでてもベストセラーはだせねぇからな」沙弥は微笑していった。
 それは、”こんなの屁でもねぇさ”と強がってみせる笑顔だった。


「哲哉がいない。行方不明になった。連中にやられたんだきっと…」
 私がそういう内容のことをきいたのは、次の日の夜のことだった。
 小紫哲哉の両親がペンションに訪ねてきて、そう言った。で、それをきいていた沙弥が私に伝えたのだ。哲哉の実家はすぐ近くだった。あの時にあったチンピラたちの横顔が一瞬、私の脳裏をよぎった。
「どうしてそう思うの?」
 そういいながらも私は胸の中にあせりをがこみあげてくるのがわかった。
「昨日の夜から帰ってこないんだってさ。でも…東京に帰ったわけでもないらしいんだ。それに……誰かに呼び出されて出ていったって」
 沙弥は落ちついた声を装って言った。
「まさか!あの時の………チンピラに? 哲哉くん?!」
 私は青ざめた。それで私はあせりまくったまま、「で?警察には…?」
「……届けたって」
 沙弥は言った。そして私たちは不安になった。最悪のことがなければいいが…。そう願った。でも、その願いは叶わなかった。その数時間後、連中にやられた。哲哉は、血だらけで倒れた。その哲哉をおまわりさんが発見したからだ。瀕死の重傷だった。
 そして、哲哉はすぐに救急車で病院に運ばれてしまった。

 小紫哲哉の死を知ったのは病院に着いてからだった。
 出血多量で死亡したのだ。
「う…嘘でしょ?そんな…」
 私は信じられなくて病院のロビーで良子おばさんにきいた。良子おばさんは答えなかった。そして、沙弥もショックでひとことも話さなかった。
 それからしばらくして、私たちは病院の遺体安置所に足を踏み入れた。
 薄暗い部屋に入ると、病院のひとに案内されて次郎の遺体の近くにいくことができた。白いシーツにつつまれて、その中央に哲哉が横たわっていた。警察関係の男のひとが顔にかかった白い布をとると、血の気のない青白い顔がみえた。
 間違いない、小紫哲哉だ。
 硬直した”デスマスク”。
 それは、この土地で生まれ、音楽家を夢みて上京し、沙弥に出会い、恋をし、そして不幸にもどうでもいいように殺された小紫哲哉の最期の表情だった。哲哉は傍らで泣き崩れる両親に、自分だってやれるんだ、ということを見せたかったのかも知れない。沙弥と結婚して、幸せにしてやるつもりだったのかも知れない。
 だが、残念ながら遅すぎた。両親が彼の成功を認めることも、沙弥を幸せにしてやることも、もうないのだ。
 もうなにもないのだ。
「ちくしょう!」
 ふいに緑川沙弥が言った。怒りの波が沙弥の血管を走ったようだった。冷静に、と自分にいいきかせているかのようだった。私もショックを受けた。沙弥は涙を両目からぼろぼろ流しながら、ポケットから、宝物、を震える手でそろそろと取り出した。それは、哲哉にもらった枯れた『薔薇』と哲哉にもらった『おまもり』だった。彼女はそれを手に握り、祈るように見つめた。じっと見つめた。そして号泣した。
 私も悲しくてどうしようもなかった。涙が瞼を刺激したが、ぎゅっとこらえた。でも、ムダだった。涙がせきをきったように溢れだし、私も泣き崩れた。そしてこの瞬間は、いままでの人生の中で『最悪の日だ』、そう思った。
 そう、最悪だ。哲哉が死んだのだから。

  それから数日が過ぎた。
 葬儀も終わって、私の夏休みも少なくなってきて、もう、帰らなくては、と思った。しかし、最悪なのは殺人犯がまだ捕まらないことだった。
「なぜ捕まらないのだろう?まるでオウムの犯人みたいね。」私はむしょうに怒りを覚えた。でも、そんなことを考えても仕方ない。日本の警察は優秀だから、そのうちに犯人どもも捕まるだろう。その時はただ、私はそう考えていただけだった。
 沙弥は、
「もう恋はしない」
 と言った。
 そして、沙弥は必死に執筆活動を続けたが、まったくの『鳴かず飛ばず』だった。まったく売れない日々が続いた。沙弥にとっては、哲哉は死んでしまうし、作家活動はうまくいかないしで、最悪の気分だったに違いない。
    深夜、沙弥の部屋で金属の音がした。
「沙弥…?」私は彼女の部屋に行った。すると鋭い刃先のサバイバル・ナイフをもった彼女がいた。暗闇の中、ナイフが怪しく光っていた。
「復讐してやる! あいつらを殺すんだ!」
「馬鹿」私は彼女の頬をビンタした。「警察にまかせなさい!」

 それからしばらくして、哲哉を刺殺した犯人たちが逮捕された。
 しかし、だからといって何か変わる訳でもなかった。逮捕されても哲哉が生き返る訳じゃないのだ。しかも彼らは当時、酔っていた。




マーガレット・サッチャーの真実 鉄の女の涙 THE IRON LADY. 現代欧州アフリカの戦略1

2013年11月13日 15時23分14秒 | 日記

アフリカの資源と貧困・ヨーロッパ連合




【ローマ】イタリアでベルルスコーニ元首相が党首を務める中道右派政党「自由国民党」所属の閣僚5人が28日、辞任した。ここ数十年で最悪の景気後退から立ち直ろうとしている同国で、レッタ首相率いる連立政権が危機を迎えた。
 自由国民党とレッタ首相が所属する中道左派、民主党の間ではここ1週間で緊張が急速に高まっていた。レッタ政権が議会の信任投票で否決されれば、ナポリターノ大統領は新政権の発足に向けて調整を行うか、議会を解散して総選挙を行うかのいずれかを選択することになる。イタリアでは今年2月にも総選挙が行われたが、いずれの政党も絶対多数を獲得できなかった。民主党は下院では過半数を占めているが、上院では自由国民党と組んで過半数を確保している。ベルルスコーニ氏は脱税で有罪判決を受けており、議会から追放される可能性がある。ベルルスコーニ派の議員は今週、これに抗議して一斉に辞職すると警告、連立政権内部で対立が生じていた。これに対して、レッタ首相は27日、明確な支持がないまま政権運営は続けられないとして、議会に信任投票を求めた。政権が危機に陥ったことで、イタリア経済の回復が妨げられる恐れがある。イタリアでは2年にわたる不況から立ち直るために、抜本的な改革が不可欠となっている。レッタ首相は就任から5カ月の間にささやかな対策を成立させたものの、政権は内紛によってほとんど機能していなかった。自由国民党は28日、政府が来週から実施される付加価値税の引き上げを回避することができなかったとして、連立政権への支持を撤回する以外に選択肢がなくなったと説明した。しかし、レッタ首相は即座に反撃、「個人的な問題をごまかすためだけの、常軌を逸した無責任な行動を正当化するために、ベルルスコーニ氏は付加価値税をアリバイに使って責任を転嫁しようとしている」と述べた。レッタ首相は付加価値税引き上げの延期を模索する取り組みを凍結したのはベルルスコーニ派が一斉辞職をちらつかせたためだと述べた。自由国民党所属の5人の閣僚が辞任したことで、レッタ内閣は13人の閣僚の半数近くを失った。これを受けて、レッタ首相は早ければ29日にもナポリターノ大統領と会談し、政権が全面的な支持を得ていないことを伝えるとみられる。首相は議会の信任投票の結果に従うことで大統領と合意する可能性がある。(2013年9月30日ワシントンジャーナル参照)
 2013年9月22日、22日に投票が行われたドイツの連邦議会選挙は、日本時間の23日未明から開票作業が始まり、メルケル首相率いる中道右派の与党「キリスト教民主・社会同盟」が最大野党「社会民主党」に大差をつけ、メルケル首相の3期目の続投が確実な情勢となっています。ドイツの連邦議会選挙は日本時間の23日午前1時に投票が締め切られた。ドイツの公共放送が出口調査の結果を基に伝えた予測得票率は、中道右派の与党「キリスト教民主・社会同盟」がおよそ42%となっていて、26%の最大野党「社会民主党」に大差をつけてメルケル首相三期目です。ウイリアム王子の妻のキャサリン妃が2013年7月23日 、3800gの男の子を無事出産しました。「ロイヤルベイビー」に英国は祝賀ムードでいっぱいです。おめでたい。おめでとうございます。名前がジョージ・アレクサンダー・ルイに決まりましたね。またスペインのサンチャゴ・デ・コンポスラで爆発後列車が脱線したという。スピード違反でテロではないそうです。日本政府は成長戦略の一環として優れた能力を持つ外国人を呼び込むため、経営者や技術者を対象にした新しい永住権を創設する方針を発表しました。日本に3年間滞在すれば申請でき、通常の永住権にはない配偶者の就労や親、家政婦の滞在が可能だと。専門性の高い外国人技術労働者の住みやすい環境を整え、外資系の誘致や日本の研究開発能力の向上をつなげる狙いです。就労人口が減少している日本にとっては当然の戦略です。ですが子供の教育環境、いじめ、などオーストラリアにはるかに及ばない。米国は別格としても、ドイツやシンガポールにもはるかにおよばない。技術労働者は引く手あまたですから。オーストラリアの人口は1500万人から移民で2300万人まで増加。毎年20万人の技術移民で経済好調です。日本がそのようになることはない。調査捕鯨に関してもイカサマです。調査目的といいながら鯨肉を販売していますしね。「日本の漁師のために一定の量の捕鯨を認めて欲しい」と正直にいえばいいだけです。資源輸出で好調だったオーストラリアが曲がり角を迎えている。これまでのように中国への鉄鉱石輸出に依存した「黄金時代」は終わった。輸出偏重を改めるという意味で、日本にも通じるテーマである。西オーストラリア州のコリン・バーネット首相は6月12日、「鉄鉱石の黄金時代は過ぎ去ろうとしているか、おそらくは過ぎ去った」と述べ、州経済を潤してきた鉄鉱石の開発投資に変化が訪れているとの見方を示した。資源大手は、市況の悪化を受け、西オーストラリア州への投資に慎重になっている。このためバーネット首相は6月上旬に中国や日本を訪れ、資源各社のトップと面会するなど投資の引き留めに努めた。日本が世界の鉄鋼産業の中心だった時代、日本の粗鋼生産能力は最大1億5000万トンあった。今は相次ぐ高炉の統廃合により日本の生産能力は1億トンを切ってしまっている。一方、中国は現在、7億トンの生産能力を有する。爆発的に発展した中国に鉄鋼会社が100社もできた。それらの会社が競って生産能力を高め、膨大な生産を行ってきた。そういった中で、オーストラリアの鉄鉱石と石炭は飛ぶように売れた。鉄鉱石のメッカともいえる北西部のピルバラ地方ハマスレー地域を中心に、オーストラリアは資源ブームに沸いた。鉄鉱石は売れすぎて「沖待ち」の船が出るほどだった。鉄鉱石を掘り出すのが間に合わずに、港に船があふれかえり、沖にまで船が順番を求めて1年間も待つという光景が見られたのである。しかし、中国の鉄鋼生産も今後は集約が進み、おそらく生産能力が3億トンを切ってくると見られている。これまでのようなブームを、いつまでも続けるわけにはいかない。もっとも、こんなことは以前から予想されていたことだ。「黄金時代は過ぎ去った」というバーネット首相の発言は、今さらという感じが否めない。そもそもは、黄金時代そのものに警戒していなければならなかった。オーストラリアは沖待ち解消のために港湾施設を拡充するなど公費を投入することもほとんどやらないで堂々と「顧客無視」の態度であったが、それでも売れた。資源国の強みである。ここでオーストラリアの輸出状況を知るために、資料を確認しよう。まずは「豪ドルの対主要通貨に対する騰落率」を見てもらおう。豪ドルは対米ドルや対ユーロに比べると、対日本円では相対的にやや弱い状況が続いてきた。それが、昨年末からの円安で、対日本円でも急激に強くなっている。米ドルに対しても一時1:1を上回る豪ドル高が続き、経済の好調ぶりを示していた。日本円に対しては過去30年の間に1豪ドルあたり120円から56円くらいまで動いており、かなり揮発性の高い為替関係となっている。オーストラリアの輸出品は、圧倒的に鉄鉱石と石炭が多くなっている。輸出先は中国と日本が圧倒的に大きい。ちなみに、天然ガスは今のところ日本向けがほとんどとなっている。ただ、先述のように日本は1億トン弱の鉄鋼生産能力をかろうじて維持しているが、今後、生産が伸びることは考えられない。中国の生産も、これから落ちていく一方だ。そうなってくると、オーストラリアとしては、インドネシアやインドといった国にシフトすることを当然、考えてくるだろう。それでも、これまでの中国ほどの伸びは期待できない。中国は共産党の独裁国家なので、良くも悪くも意志決定が速くて徹底している。上の人間が「やれ!」と言えば、みんなで一斉に動き出し、250くらいある大都市がインフラ整備などを始める。一方、インドは民主国家だから、意志決定にはどうしても時間がかかる。もちろん、インドの生産も右肩上がりで伸びてはいくだろうが、その伸び率はなだらかなものとなる。中国のように一気に高い伸び率を実現することは難しい。しかも、ブラジルやインドは自前で鉄鉱石と石炭を産出している。必ずしもオーストラリアから輸入する必要はない。対中国輸出で潤ってきたオーストラリアが、インドなどにシフトした場合、苦しい状況に追い込まれることは間違いないと言える。言い換えると、オーストラリアの黄金時代とは、中国という独裁国家によって一時的に実現した超高度成長のおかげだったということになる。その夢から覚めた今、オーストラリアはより低い成長率に甘んじなければならないのである。このたび「伊藤忠商事と三井物産が豪英資源大手BHPビリントンの所有する鉄鉱石鉱山(ジンブルバー)に1500億円を投資して買い取り権を確保した」と伝えられた。非効率的な鉱山を閉めてジンブルバー鉱山に集約するなどの伝えられていない情報があれば別だが、だぶつき気味のオーストラリアの鉄鉱石事情を西オーストラリアの首相が認めた奇しくも同じ週に大型投資を発表するなど、オーストラリアとの付き合い方の難しさを改めて思い起こさせる。ゴールトコースト(クイーンズランド州)に行けば日本企業の「倒産銀座」と言われる地域がある。オリエントファイナンス(当時)、マルコー、大京、松下興産、ホープアイランド開発、サンクチュアリー・コーブなどいずれも一世を風靡したが、今では他人の手に渡っている。ケアンズを開発したのも大京だ。日本企業は高値の時にみなで押しかけて、潮が引くとパニック売りで大きな損失を出している。オーストラリアの鉱山や不動産は株式市場以上に揮発性が高く、買い時と売り時を少し間違えると致命傷となる怖さがある。このように、黄金時代の過ぎ去ったオーストラリアではあるが、鉄鉱石や石炭といった資源以外の分野に目を向けてみると、大きな可能性を持っている。まず、オーストラリアの観光は強い。中国人だけでも来年は年間100万人が訪れると予想されている。1人当たり7000豪ドル(約64万円)を使ってくれるというから驚きだ。国と州という公共機関の借金が少ないのも、オーストラリアの強みと言える。PPP(public-private partnership)と呼ばれる公共サービスの民営化で政府部門の債務を大幅に削ることに成功してきている。公的債務が少ないので、高金利にしても政府の支払いは増えない。公的債務の大きい日本などでは高金利になると借金が返済できなくなりデフォルトの危険性が増してくる。このリスクが少ないことが投資家の安心できる「避難港」となっている。米ドルに対して通貨が乱高下した場合には多くの国民が自国通貨のような感覚でポンドや米ドルを購入する。乱高下で一儲けというのも英語圏ならではのスポーツ感覚である。政府に苦情を言わないで乱気流に乗っかってサヤを抜くという国民性なのだ。かつては白豪主義と呼ばれてアングロサクソン的なアロガンス(尊大)が不評だったが、人口が小さいとアジアの中での発言権がますます小さくなると考え移民政策を大転換した。1973年の移民法の大改正がきっかけとなりアジアにも門戸を開き、50万豪ドルを持ち込むか特別な職能(スキル)を持った人に市民権を与えるなどの政策に切り替えた。1600万人で低迷していた人口は今では2300万人である。その大半が中国系で、若い人が多い。しかも、能力の高い若者がたくさんいるのがオーストラリアの長所だろう。また、教育も進んでいるし、医療やエネルギー分野でもおもしろい技術開発が進んでいる。オーストラリアの統計を見ると先進成熟国のような部分と新興国のような人口動態が混在していて、これが日本などでは見られない活力の源泉となっている。いまではインドネシアに近い豪領クリスマス島などで中東やアジアの難民を収容し、時間をかけて国籍を与えていくなど信じられないような移民政策までやっている。政治家にとっては、彼らが市民権を取った時に投票してもらう皮算用と言われているが、新宿の「ヘイトスピーチ」とクリスマス島、どちらの先進国がアジアでリーダーシップを発揮するのか、皆さんにもよく考えてもらいたい。資源などの輸出関連では苦境に立たされているオーストラリアだが、観光や教育といった分野では非常に優れた施策を展開している。日本は現在、円安で輸出に目が向きがちだが、公的債務の低さ、英語圏でありながらアジアの言語を高校時代から積極的に教えていること、積極的な移民政策で平均年齢を下げて若々しいデモグラフィーを保っていることなど、単なる資源国に終らないオーストラリアから学ぶことは少なくないのではないだろうか。(2013年6月25日大前研一レポートより)2013年6月8日、フランスのオランド大統領が訪日して安倍首相と会談した。その後首相は「三本の矢」の「金融緩和」「財政出動」そして本丸「成長戦略」について記者会見したが円高株安は止まらなかった。官僚の作文を棒読みして「成長戦略」「経済成長」が成るならとっくの昔に日本経済は「景気回復」している。馬鹿週刊誌ではまたぞろ匿名大物官僚とやらが「安倍首相は第一次安倍内閣と同じことになる」と占い師みたいなことをいっている。短命内閣になるのは本当に失敗したときだ。最近の円高株安は「プチバブル」が崩壊したからで、安倍首相の失策(広い意味では財務官僚の失策)でではない。ジャーナリストや官僚や政治家が「一億総評論家」みたいなことで誰かの行動を評論だけして何もしないのが罪である。駄目だ駄目だ、というなら改革に手を貸せばいい。批判だけなら赤ん坊にも出来る。日本の週刊誌は幼稚園の絵本みたいなチープな雑誌で読む価値もない。2013年6月1日から6月5日、日本で第五回になるTICAD(ティカッド・アフリカ開発会議)が開かれ51か国中27か国の首脳級の政治家や官僚が集まり、日本はアフリカ支援に3.2兆円もの出資をするという。これは中国のアフリカでの新植民地主義へのアンチテーゼであるがいいことだと思う。アフリカは実は石油や天然ガスやレアメタル等資源の宝庫であり、アフリカで10億人の低賃金人材と「地球最後のフロンティア」なのだ。アフリカとの共存なくして経済発展はない。その意味で安倍首相はいい参謀がいると思う。名もない官僚というより役人をよくつかっている。私は大卒でないので参謀にはなれない。大卒でないと駄目らしいのだ。仕方ないね、今更大学に通う訳にもいかないし。元英国首相の私が尊敬してやまなかったマーガレット・サッチャー女史が脳卒中で2013年4月8日病死した。享年87だった。女史は故・レーガン元米国大統領とともに経済発展や冷戦終結に尽力した天才政治家であった。ゴルバチョフ氏やキッシンジャー氏も天才だが、女史は女性の星でもあった。「小さな政府」で経済自由化の実現。1979年から11年間首相として「鉄の女」サッチャー女史は強い指導力で国営企業の民営化や規制緩和を進め、小さな政府を目指し経済自由化を実現する手腕は見事でした。晩年はアルツハイマー(認知症)との戦いでしたね。彼女は首相になった後も経済学者や経営コンサルタント、起業家など30歳から35歳くらいの若者を集めて、自分のポリシーが正しいか考えていたそうです。日本の安倍首相だと年齢の高いアドバイザーを招集をしたり、高齢者学者(笑)の意見(笑)しかきかない。サッチャー女史は絶えずブレませんでしたね。彼女の政策で潰れた産業や街もありましたがブレることはありませんでした。世論や朝日新聞の反応を気にする日本政治家とは大違いです。サッチャー女史の追悼式では労働党の人が口汚く罵っていました。どうしても恨みを買うものです。サッチャー改革は、民営化、財政、税制、規制緩和、金融政策、社会保障、労働組合です。特に税制は所得税率83%から40%下げるなど素晴らしい。シティの世界金融化もグッドジョブ。しかし、「鉄の女」を失ったイギリスは3番底の景気悪化が懸念されています。だが、サッチャー女史がいなかったら「英国病」も治らず今の日本のような殺伐とした経済状況になっていたでしょう。だからこそのサッチャーレーガン革命です。日本は「大きな政府」主義でサッチャー革命の入り口にも至っていない。弱いものを守るのはいいが、弱肉強食の現実を無視して保護し続ければ「最悪の社会主義的経済」に悪化しますよ。日本も「小さな政府」でやりましょうよ。ローマ法王ベネディクト16世(85)の退位に伴いバチカンローマで2013年3月13日に開かれた法王選挙会議(コンクラーベ)で、アルゼンチン初のローマ法王にロルへ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(75)が第266代ローマ法王に選ばれた。南米系では初で、法王名はフランシスコⅠ世で、欧州以外のローマ法王は1800年ぶりだという。欧州の危機にあたってありがたい守護神とも呼べるのは「マリオ・ドラギ欧州中央銀行総裁」である。ギリシャ危機、スペイン危機に端を発した「ユーロ危機」に対して「危機回避の為には何でもする」と啖呵を切った。この「何でもする」が何なのか?議論を呼んでいるがいわゆる彼が長年主張してきた「ユーロ2リーグ制度」ではないか。つまり同じユーロ圏でもドイツのユーロとギリシャやスペイン・イタリアのユーロは違うのである。PIIGSでは金利が暴騰し、事実上「ジャンク債」になっている。このままでは「ユーロ崩壊」である。だからこそドラギ総裁の「何でもする」発言が話題と議論を呼んでいるのだ。どうなるかは神のみぞ知るだが、「第二次世界大恐慌」の回避の強力な守護神登場である。そして欧州中央銀行がジャンク債となったスペイン・イタリア・ギリシャの国債を全部買い占めた。これで「欧州中央銀行が買うなら…」と個人投資家も買い出し、市場は一服した。イタリアは「脱税」、スペインは「不動産バブルの崩壊」、ギリシャは「大借金」であるがこの問題は当分続くだろう。だが、ドラギ氏は正しかった。スペインのバルセロナ(カタール州・スペインGDPの20%)が独立したいというがムリだ。バスクと同じ。欧州の経済危機にあたって「緊縮より成長を」と訴え、サルコジ氏を決選投票で制したオランド新大統領だが、その経済政策は大いに疑問だ。早くもメルケル独首相の貫く緊縮策にトーンダウンをしているようだが「緊縮策を必要としなくなるほどの経済成長」は、相当大きな成長でなければならないし、その大きな経済成長を実現させるためには長い時間を要する。今現在、起きている経済危機には対処できないのである。レーガン元米国大統領とサッチャー元英国首相の例を挙げると、彼らは「小さな政府」路線をとり、思い切った規制の廃止などを断行した。当然、最初は大量の失業者が出る。改革の芽が花開くのは15年後から20年後だ。だから、レーガン氏もサッチャー氏も職を追われた。しかし、米国はクリントン政権時代に高度成長という改革の花が咲き、英国もブレア政権時に成長を果たした。改革の成果が見えてくるには、それくらいの時間が必要であり、結果を拙速に問うべきではないのだ。もちろん、それらの成果も永遠に続くものではなく、絶えず改革の努力が必要だ。日本においては、例えば小泉改革とは名ばかりのもので、数少ない成果である郵政民営化も、今現在は骨抜きにされつつある。日本には「改革の芽」が見当たらないのである。選挙でギリシャは「ユーロ離脱」から回避されそうです。ギリシャの首相がアント二ス・サマラス氏(61)となり、連立政権で「緊縮財政路線」でやっていくことになりましたね。またスペインの財政危機となり、EUは事実上破たんしかかっているスペインに10兆円分のユーロを支援することで合意しました。ユーロ圏は現在17か国です。が、かつての「ヨーロッパ共同体(EC)」時代から「こんな寄り合い所帯(といっても5億人の市場)絶対どこかで破たんする」と私は学生時代から考えていました。それにしてもスペインの不良債権は15兆円、イタリアは190兆円です。スペイン国債は暴落に次ぐ暴落で、危険水域という7%を突破してしまいました。スペイン中央銀行のオルドネス総裁が辞任しました。辞任の理由は明らかになっていません。が、スペイン政界では銀行部門の財政悪化の責任を問う声が強まっていました。これを受けて1か月早い辞任となった模様です。2012年期の20か国・地域(G20)首脳会議後にスペイン破たんということですか。だが、スペインはEU第四位の経済大国ですから、万一破たんということになれば、ギリシャ破たんとは比べ物になりません。スペインの失業率は25%、若者は50%と高い。スペインの破たんは経済だけでなく治安(デモやテロや暴動)に発展するでしょう。またイタリアはEU第三位の経済大国です。ギリシャ救済のようなレベルではなくIMF・EU・アメリカ・日本・中国・インドなどがなんとかすべきです。ギリシャはEUをいずれは離脱するでしょう。が、ギリシャ人の大卒者の53%が国外で働きたいといい、ギリシャ国内は高齢者と年金受給者だけになりますよ。ギリシャ、スペインより早く財政破たんしたアイルランドはEUに尻拭いをされている仮死状態です。ユーロがダメだったのではない。各国が自由に国家予算を立てたり国債を発行するのではなく、EU全体で政治統合してEU予算EU国債という具合にしないと駄目です。でもそうなるとドイツだけになる可能性(EU第一位の経済大国でドイツがヨーロッパの牽引国)が大です。「金体制崩壊」「ニクソン・ショック」「バブル崩壊」「リーマンショック」「ギリシャショック」などのような「スペインショック」が2012年中に起こる。だが克服はできる。人類の英知を信じようではないか。とくに日本は消去法的に今は「円高(多分1ドル=50円までいく)」です。でも皆で企業や個人が「内部留保」ばかりため込んでも何にもなりません。日本の国債は1000兆円の赤字である。だが、個人金融資産が1400兆円、企業内部留保が170兆円ある。緊縮だけでは成長は望めない。イノベーションやグリーンニューディールで雇用や経済成長を目指すべきです。景気は単に「お金じゃぶじゃぶ」「経済の血・お金を回せば景気が良くなる」などといった単純なものではありません。日本はバブル崩壊から20年間も「お金じゃぶじゃぶ(公的資金60兆円)」やってきたんです。でも景気はよくなりません。円高大損体質がいずれボディブローのようにこの日本という国を蝕みますね。欧州の危機は「対岸の火事」などではない。むしろ1000兆円もの借金がある日本の方が事態は深刻なのだ。またホスニ・ムバラク前エジプト大統領がエジプトの政治裁判で「終身刑」確定です。まあ、「死刑」でなかったのは国内のムバラク支持派への配慮ですね。

マーガレット・サッチャーの真実 鉄の女の涙 THE IRON LADY.  

2013年11月13日 14時43分17秒 | 日記
小説   MARGARET THATCHER
     マーガレット・サッチャーの真実
                     鉄の女の涙

THE
IRON
LADY


                total-produced&PRESENTED&written by
                  MIDORIKAWA washu
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.
        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
                  
 「良識ある人間とは、多くの知識を有しているばかりでなく、さらに何がよく何が悪いかを迅速確実に判断し、”思索する”ことになれており、そしてその観念と感情とが高潔で、思いやりの心を持っている人のことである」       チェルタイシュフスキー

「戦いは常に、双方の敵対者がいるだけである。しかし彼等のーあるいは彼らの内にー
          第三の戦死がきっとあらわれる」     マルセル・ジュノー

    あらすじ
  一九二五年十月十三日、マーガレット・サッチャーとして歴史のひのき舞台にでることになるマーガレット・ヒルダ・ロバーツは生まれた。父の名は、アルフレッド・ロバーツ、母の名はベアトリス・ロバーツである。この夫妻が住んでいたのは、自分たちが経営している小さな食料品店の二階であったという。そして、マーガレットにはミュリエルという四歳年上の姉がいた。
 彼女の生まれたグラッサムは、ロンドンの北約百六十キロの、人口三万人ほどの田舎町である。ここは別に目立った特色もなく、ただ、ニュートンが生まれたのはここから遠くないところで、彼がケンブリッジで学業を修める前にはグラッサムのグラマースクールに通っている…という程度である。スコットランドに通じる街道沿いの宿駅としてグラッサムが栄えたのは十九世紀までで、鉄道建設とともにこの町の重要性は失われていき、道路も町を迂回して走っているので、立ち寄るひともあまりいないという。
 ………
 当時、ロンドンがドイツ空軍の爆撃下にあり、人々が意気消沈としている時、ウィンストン・チャーチル(当時英国首相)は議会で有名な「最高の時」のスピーチをおこなった。「われわれは肝に銘じておこう。もし大英帝国とその英連邦諸国が1000年続いても人々は今この時が彼らのファイネスト・アワーズ(最高の時)であったと語るであろう」
 彼の言葉は全てのイギリス人の魂を動かし、内に秘めた力を引き出した。過酷な状態におかれほとんど敗北寸前であったにもかかわらず、人々は必ず勝つと信じてた。その雰囲気をつくりだしたのが、ウィンストン・チャーチルだったのである。


 第一章 父とマーガレット


  マーガレットと父は、ある頃、毎夕散歩をしていたという。
 ひんやりした風の中に、微かに黄昏を感じた。もう夏も終りだ、そう思った。町中をオレンジ色の空が包み込んでいるようだった。沈む夕陽も、寂しげに飛ぶ鳥も、眠る町並みも、閉じた家の窓も、それらすべてがあまりにも透明で、不安げに見えた。
 彼女は静かに吹きわたる秋風を頬に感じ、川沿いの道を歩きながら胸をしめつけられるような感傷に、一瞬、不安にかられた。
「お父さん、この戦争はどういうふうに終るの?」マーガレットは、いつもやさしい父に無邪気に尋ねた。その時の父、アルフレッドの顔は当時のすべてのイギリス人と同じように、意気揚々としていた。彼は、愛しい娘に落ち着いた声で答えた。
「戦争がどういうかたちで終るか私自身にもわからない。しかし、われわれが必ず勝つということはわかっている。なぜなら、われわれが戦っている理由は正しいし、誰もわれわれを屈服させることはできないし、それに、われわれには類無い指導者がいるからだ」
「ウィンストン・チャーチル…?」
「そうだ。彼という偉大な指導者をもてたことは、イギリスにとって幸運なことだ」
 アルフレッド・ロバーツは深くうなづき、微かな笑みを口元に浮かべた。
「ところで…勉強はちゃんとしてるかい?」
「えぇ、もちろん。お父さんのいうように、毎日、本も読んでるわ」
「そうか。それは良いことだ。前にもいったが…お父さんの家は貧しかったんだ。だから十三歳で学校を辞めて、生計を助けるために仕事をはじめなければならなかった。教師になりたいという希望はかなえられなかったが、実家の靴家ではなく、グランサムの食料品店に勤めた。だが、つねに知性と向上心に燃えていた。父さんは読書という方法で学問を続けたのだ。伝記や歴史書、小説…さまざまな本を公共図書館から借りて乱読した。読破した本の数は相当なものだった。……いいかね?何度もいうようだが…マージ(マーガレットの愛称)、本を読みなさい、学びなさい。人生はあまりにも短いものだ。たとえ一秒でも無駄にしてはしてはならないよ。そして、政治に関心があるなら深く研究し、その哲学を学びなさい。そして歴史も学ぶことだね」
「…歴史を?」
「そうさ。歴史は人類の営みが永遠性をもっていることを教えてくれるのだよ。つねに過去から最高のものを受け継ぎ、それをもとに未来への信条や価値観を作り上げる努力をすること。過去の価値観はあまりにも古く、あまりにも真実なためそれらは時を超越し、どんな時代でも通用する。そして…これは大事なことだが…けして仲間はずれになるのを恐れて、みんなについていってはいけないよ。何かすべきか決めるのは自分なんだからね。必要なら、他のみんなのほうを導いてやりなさい。…本を読み、知識を得、知性を磨き、自分自身の意見を確立して自分の判断で行動しなさい。もし自分が正しいと思ったら、たとえ相手が何百万人いようと、誰の前でも自分の考えや信念を堂々といえるような人間になりなさい」
 アルフレッドは崇高な個人主義者だった。いたずらに他人と共に行動しないように、盲目的に友達のまねをしないように、娘にいつもきつくいっていたという。しかし、幼いマージにはつらいことだったろう。子供にとって遊び相手とともに行動するというのは自然なことだ。もしそうしなければ仲間外れにされかねないのだから。
 だが父親アルフレッドはこういった。「決断は一人でしなくてはね」、と。
 彼女の父は背が高くてハンサムで、頭は白髪でふさふさしていて、近眼なのでぶ厚いレンズのメガネをかけていた。瞳はもちろんブルーだ。…彼は、読んだ本について、またはその他のことについても家族とよく討論した。そして町でクラシックのコンサートなどがあると必ずといっていいほど娘をつれていったという。
「シェークスピアやミルトンの素晴らしさ、モーツアルトやショパンの美しさはまだ小学生だった私に人生というものは、生きる価値があるのだということを教えてくれました。また父は、中央からの政治家が町にやってきて演説会を開くと必ず私を連れて行ってくれました。そしてその後で家に帰ってその演説内容について良く討論しました。それが後にオックスフォード大学に入ってディベイト・クラスでずい分と役にたちました」
 のちに彼女はこう語っている。「父は自分で得られなかった機会を私に与えてくれたのでしょうね。文学、音楽、詩、国際政治などについて私が抱いた興味は父あればこそでした。それらは父からの最高の贈り物だったのです」
 彼女はほんわりとした笑顔で父の顔を見た。それは、愛情にあふれたものだった。胸の奥の熱いものを彼女はひしひしと感じていたに違いない。大切なのは、知性だ。たとえ相手が何百万人いようと、誰の前でも自分の信念を貫ける人間になれ…。
「わたしのすべてを作り上げてくれたのは父です。すべてが父のおかげです!」

 マーガレット・サッチャーはソ連訪問当時、「この日の為に赤い星のドレスを着てきました」と赤いドレス姿でマイクに語りかけ大拍手を受けて、ゴルバチョフソ連大統領とサッチャー英国首相(いずれの肩書も当時)は握手した。民衆は政治に安定を求める。実際にはどうかはさておき、サッチャーは国民の期待を満たした。首相当時の演説では、聴衆のひとりが「仕事くれ!」と叫んだ。たちまち警備に拘束される。サッチャーは微笑みながら壇上から「追い出さないで。外は雨が降っていて寒いし濡れるわ」と優しさもみせる。民衆は拍手する。「保守党はあなた方の味方です」サッチャーは社会主義・全体主義・行き過ぎた巨大労働組合を一掃した政治家であった。サッチャーが「このイギリスから社会主義的経済・全体主義的政治を一掃します」サッチャーが壇上から宣言すると大拍手とスタンディングオベーションが起こる。サッチャーとチャーチルはある意味、20世紀において最も幸運な首相だった。どちらも国家が危機にあり、建て直す為の最後のチャンスだった。見事な決断を下した。リーダーであり、首相であり、サッチャーは自分をよく知っていた。サッチャーはいう。「西洋諸国における鉄の女です」
サッチャーは目立つ存在だった。それも悪い意味で。声が甲高く、ひとをいらつかせる才能(笑)があった。少し辛辣過ぎる部分もあった。だが、何か特別なもの、いわゆる天賦の才をもっていた。サッチャーのヒーローはふたりいた。ひとりは凡人の店長の父親(アルフレッド・ロバーツ)、もうひとりはウィンストン・チャーチルだろう。サッチャーは「男の役割は働いて家族を雨風からまもり、たべさせることよ」という。福祉に頼り切った人間を嫌っていた。ひとを動かす方法を父親から学んだ。母親の話をすることはほとんどなかった。地元の学校(ケステブン・グラッサム女子中学校)で猛勉強できたのも父親の激励があってのことだ。「基本的な事は父親から学んだ」とサッチャーは言っていた。サッチャーの非凡さは知れ渡り、オックスフォード大学で教えていた教授は「学年で二番目に優秀だった」という。サッチャーはオックスフォード大学で女性では初めての「保守連盟の会長」を務めたという。気骨ある女性で、パワフルで弁がたち、頭脳よし、鋭い議論・討論をした。そして国会議員になった。一時期食品会社の社員だったが、政治家に憧れて法律の勉強を始めて、国会議員(保守党)になったのであるという。努力に努力を重ね、階段をのぼっていった。サッチャーのすばらしい点は、その強い信念だ。1950年代に最初からこういっていた。「私が社会を変えてみせる」。女性議員というのが珍しい時代であった。サッチャーは若く、美貌であって、地元の保守系団体の力も強かった。まだ古い考えが支流を占めていた。保守党の古参議員は「扱いやすそう」「うるさい小娘だ」「やっかいなのがきた」といったという。だからサッチャーは最初から強い信念をもっていた。諦める気などさらさらない。目指すは「首相」、トップとなって社会・世界を変えると。
 1954年、サッチャーはフィンチェリーの保守党議員候補となった。圧勝で保守党の国会議員となる。デニス・サッチャーという裕福なお金持ちと結婚したのもラッキーだった。当時の若き日のマーガレット・サッチャーとテレビレポーターとのインタビュー映像がある。彼女はデニスとの間にキャロルとマークという双子の子供をもうけていた。「国会議員としての初演説はどうでした?やっぱり緊張した?」「いいえ。ただ、相手が自分よりキャリアを積んでいるのが難しめましたね」「女性としては難しい?」「いいえ。それは関係ありません」「先ほどの演説で国際的に評価されたのに?」「新人として頑張るだけです」「子育てとの両立は大変?」「いいえ。女性は当たり前にやっています。大切なのはキャロルとマークよ。ちゃんとした大人に育て上げるだけですわ」。実際は大変だったと思う。なんといっても双子だしね。サッチャーは髪型と服装を自分でコーディネートしていた。演説と同じくらい注目される。男の政治家なら無縁なことで、女性的な問題だった。1961年10月、サッチャーは国民恩給保健省の政務次官に就任。世間がサッチャーの才能に気付いていた。議員になって2年で政務次官になるとは期待の表れだったろう。院内参事がサッチャーに目をつけたということだ。ひとより抜きんでた才能があるとね。サッチャーはいう。「重税は冨を生まない。社会保障や年金のバラマキ、税金を企業や労働組合にばらまくやり方は「社会主義的」であり「自由競争主義的」ではない」
 サッチャーは演説を続ける。「例えば「増税レース」の競馬で保守党は幸いなことに4位にもあたらない。1位は1951年のヒュー・ゲイツケルです。二位は1966年のキャラハンがふさわしい。三位は1965年のキャラハンで、第四位は1964年のキャラハンです。もう過ちはおこせません」すると大拍手だ。政務次官にサッチャーが就任した後、保守党は野党になった。シャドー・キャビネット(影の内閣)で議論を尽くした。専門的知識を深めていく。結婚にも恵まれていた。結婚経験のある年上の男性で、権力もお金もあるデニス・サッチャーは心強かったろう。「デニスと会ったのは1950年の議員選挙の会合よ。共通の友達との会合で、意気投合したのよ。彼のサポートはよかった。こういう過酷な仕事にはサポートがとても大事なの。私は家族と申し分ない夫に助けられた」。デニスと結婚してサッチャーは自由を得たといえる。金銭的な心配をすることがなくなったんだ。デニスは会社の経営者で大金持ち。政治活動には莫大なお金がかかるからよかったろう。しかもサッチャーは美人で頭脳明晰。誰もが見せられたことだろう。フランスのミッテラン大統領(当時)は「カリギュラの目とモンローの口をもっている」とサッチャー女史をそう評した。サッチャーは誰もが知るようにエリザベス女王とあうとき誰よりも深々とお辞儀をした。中流家庭出身というのがそうさせたのだろうが、エリザベス女王はあまりよくおもっていなかったのではないか?
 1970年の総選挙でE・ヒース率いる保守党が圧勝、サッチャーは教育化学相に任命される。ヒース内閣は評判が悪く、サッチャーは女性教師のように話した。そしてやがて女性初の党首・女性初の首相(1979年4月19日)となった。炭鉱廃止・規制撤廃、社会保障や労働組合の行き過ぎた保障の撤廃、公共事業の縮小「小さな政府」を目指した。最初、イギリス国民はサッチャーを「マギー」と親しみを込めて呼んだが、ソ連の記者が「鉄の女」と呼ぶとイギリス国民も「鉄の女」とよんだ。本人も気に入ったニックネームであった。やがて1982年4月9日「フォークランド紛争」が勃発する。アルゼンチンが英国領土のフォークランド諸島(マルビナス諸島)を武力をもって占領して、英国と戦争になったのだ。サッチャー首相は容赦も情けもなかった。「フォークランド諸島は英国領土で住んでいる島民もイギリス人です。アルゼンチンのやりかたは土足で他人の家に殴り込むようなやり方で看過してはなりません」サッチャーはイギリス軍を総動員、やがて1982年6月14日、アルゼンチン軍が降伏、戦争は勝利におわった。1983年の総選挙は与党・保守党の圧勝。だが、1984年10月21日、IRAが英国のホテルを爆破テロした。サッチャー首相や他の議員が宿泊していたホテルで、首相がスピーチの原稿を書き上げた瞬間、深夜、爆破テロは起こった。とりあえずサッチャーは無事、だが、5名の議員が死亡・負傷者は31名にものぼった。北アイルランドの英国領からの独立を掲げるテロリスト集団のテロだった。
サッチャーは英国の首相として、当時のソ連のゴルバチョフ書記長と米国のレーガン大統領との橋渡し的な立場になった。
 イリューシン62機がヒースロー空港に着いて、ゴルバチョフはライサとともに元気な姿を見せた。夫と肩をならべてタラップの最上段に立つ夫人に、報道陣は驚いたという。いままで、ソ連のファーストレディーといえば夫の葬式にやっと国民の前に姿を見せる、ブヨブヨの醜いオバさんばかりだったからだ。しかし、ライサは違った。かなり洗練されていた。髪は赤茶色で、目はきらきら輝いていた。非常に堂々と落ち着いた態度だった。 ゴルバチョフ夫妻はイギリスで大歓迎を受けた。………
「カールマルクスは『資本論』の著作のために、調べものの大半を大英博物館の読書室出行ったのです。マルクスが嫌いな人は、大英博物館を非難すべきです」ゴルバチョフは博物館を見てまわりながら、そんなジョークを飛ばしたという。
「しかし、ソ連はさまざまな宗教を迫害しているではないですか」英保守派議員はいう。「私の国のことは私たちにまかせて、あなたは自分の国を治めなさい」ゴルバチョフはやり返した。
 ゴルバチョフはスーツをあしらえるために、王室御用達の紳士服の店に足を運び、ライサはアメリカン・エキスプレスを持って売り場をかけめぐった。ダイヤのイヤリングから高価な服まで。彼女が誰にでも気軽に質問するので、報道陣はまたビックリしたという。 サッチャーはゴルバチョフを首相の公用別荘「チェッカーズ」に向かえ、会談にのぞんだ。鏡張りの暖炉のある客間で。ただ一人同室したのはヤコブレフだった。
 ゴルバチョフはいままでのソ連官僚たちのように用意してきたステートメントを読み上げ、質問に関係のない官僚的答えしかできない政治家とはまるで違っていた。サッチャーは彼を違ったタイプのロシア政治家と受け止めた。こうなると話しは早い。
「私は共産主義は大嫌いです」サッチャーは何の遠慮もなくいった。これに対して、ゴルバチョフも「私も資本主義が大嫌いです」とやり返した。しかし、そうした激しい感情も一瞬で、すぐに機嫌をなおして愛想のいい態度に戻った。サッチャーはうなづいた。
「私は、我々西側のシステムの方がはるかに優れているし、またそれを守るためなら命を賭けます。もちろん……同時に、あなたの信じるシステムをあなたが守る権利があるということも認めます」サッチャーは強く主張した。それから二人は軍事の話しをした。
「軍備拡張主義はまことに愚かしいものです。アメリカの戦略防衛構想など馬鹿馬鹿しいかぎりです。イギリスはアメリカがヨーロッパに核ミサイルを持ち込むのを黙認しましたね?こうしたことは世界平和という観念からいっても間違いなのではないですか?」
「いいえ、それは違います。核ミサイルは四十年間平和を維持するのに役だって来ました。もし、あれらのものがなければ、ヨーロッパ全土が、ソ連にせいで経済がたち遅れてしまった東欧のようにされていたでしょうね。それはヨーロッパにとっても、民主主義にとっても大変不幸なことです」サッチャーは鋭く反論した。
「……ソ連は核兵器を大幅に削減する意思があります。それによって平和の時代が訪れることになるでしょう。ただし、アメリカがSDIやスターウォーズ計画を断念し、イギリスとフランスが核兵器を廃棄するならですが」
「私とレーガン大統領の仲を引き裂こうとしても無駄である。私はレーガン氏および合衆国、そして自由世界の最良の盟友であって、中立では決してない。私自身SDIには大賛成で、その推進をレーガン氏に進言しているのです」
 サッチャーはキッパリといった。ゴルバチョフはそれに対してあまり反論しなかった。「…でも、レーガンは最後の任期に入ったところだから、東西緊張を緩和する方向に向かわせることも可能ではない。軍縮への話し合いに応じる心構えがあるかも知れない」
 しばらくして、サッチャーは母親のように、やわらかい口調でいった。
「ミセス・プライム・ミニスター、イギリス国家と国民はあなたのような指導者を持てて幸せですね」ゴルバチョフはお世辞をいい、そして経済を分権化するのに知恵を借りようとした。「……イギリスはどうやって植民地を手放し、帝国から連邦へと変わったのか、教えて頂きたい」
 ゴルバチョフはソ連の衛星国を切り離すことを考えていたようだ。話題はソ連の持っているS20、膨大な通常兵器の量や、経済などにも移った。このことはゴルバチョフにとって貴重な経験だった。ゴルバチョフはサッチャーのいうことを理解し、サッチャーはゴルバチョフのいうことを理解したのだ。だからこそ会談後、記者に質問された時、サッチャーは明言したのだ。「私はゴルバチョフさんを気に入りました。私はまだソ連という国は信用できません。しかし、この人となら共にビジネスができます」
 モスクワに戻ったゴルバチョフは言われた通り、学者グループを招いて、国の経済情勢を分析し報告書を出させた。それらの人々は西側の高度な技術をもった人たちであり、すぐにゴルバチョフの元に報告書を提出できた。きれいごとばかりの政府の報告や見解、統計とはうらはらに厳しい現実がくわしく書いてあった。それ目を通したゴルバチョフは眉をひそめたという。それほどひどかったのだ。経済学者のリーダー、アベル・アガンベギャン教授はいった。「ソ連では年間七億足もの靴が生産されています。しかし、それらは棚に並んだまま、誰も買いません。ところが外国製の靴が入荷したとたん、店先には行列ができるのです。なぜか?それはソ連製のものはあまりにも品質が悪くて消費者が満足しないからです。どうせ数時間でやぶれて履けなくなるからイラナイ、というわけなのです。これでは経済がうまくいくわけがありません。我々は、量よりも質、ということを考えなければならないでしょうね。ですが、いまのような政府が経済をとりしきるやり方ではダメです。それでは質どころか、労働者のやる気さえおきません。だからこそ、市場経済の移行が不可欠なのです。今、世界経済は国境のない世界であり、クォリティー(品質)を高めれば、どこにいっても売れます。ドイツ、スイス、日本などがいい例です。彼らの製品はさまざまな国に広がり愛されています。そしてそれにより経済が潤っているのです。経済を高めるには品質を高めること、これが重要なのです。農業についても、集団農場システムではダメです。私営農業を認めてやらなければ。…もちろん、あまりにも多い軍事費についても、考えなければならないでしょうね」
 ゴルバチョフは死にかけているチェルネンコの後継者となるために準備をしていた。スターリン時代の外相、二五年も在任している七五歳のドミトリー・グロムイコ(外交におけるソ連の強行路線代表のような人物。笑顔ひとつみせない、岩のような顔で、国連において数十回も『ニュット!』(No!)と拒否権を述べたことから、ミスター・ニュットと呼ばれていた)のたいくつな思い出話しやくだらない演説を、ゴルバチョフは熱心に聞いているフリをしてうなづき、ご機嫌をとっていたのだった。もちろん無能とささやかれていたチェルネンコに対しても、公の場では「傑出したリーダーであり、政治家である」といっていた。
 一九八五年三月一一日の夜、ついにコンスタンチン・チェルネンコが死去した。書記長の座にあることわずか一年余りに過ぎなかった。
「私が選ばれるかも知れない」ゴルバチョフは歩きながら、ライサにいった。夜中の散歩から帰ると、彼はいよいよ興奮した。ひたすら待ち続けた、御機嫌とりもやった、自分の信念をねじ曲げもした。それもこれもトップになるためだった。その苦労が、やっと実ったのだ。「私にも、やっと運がめぐってきたのだ」ゴルバチョフは思わず声をあげた。
 そうだ!やっとミハイル・ゴルバチョフに運がめぐってきた。今度こそ、ゴルバチョフの出番なのだ!
「私はモスクワ党第一書記ビクトル・グリシン同志を書記長に推薦する」
「いや、反対だ。彼は経済犯罪に関わっていた疑いがある」
「悪質ないいがかりだ!」
「私はその件に関する書類をもっている、なんなら公開してもいい!」
「同志諸君、私はミハイル・ゴルバチョフを推薦する。彼にはみごとな分析力があり、問題を分析して一般論を引きだし、結論をはじき出すことができる。さらに、いままでの指導者とは違い、メモを見なくても要人と話しができるのだ。彼は若いが、同時にあらゆる面で優れている。彼が指導者となればソ連はきっとよくなる」グロムイコはほめちぎった。「しかし、若すぎるのではないか?なにやら経済改革だとかいってるようだが……せっかく安定している経済をぶち壊すかも知れない。彼では危険過ぎる。もっと経験を積んだ人間でなければダメだ!」ロマノフは怪訝な顔でいった。
「経済について、彼は西側を視察してよく勉強しておる!それに若さこそ彼の美点だ。ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコが老齢と病気のため次々に亡くなった。だからこそ、これからは健康に心配のない若い指導者が必要なのだ。最も聡明で、最も能力のある指導者がね。その条件にあっているのがミハイル・ゴルバチョフなのだ!」
「しかし…」ロマノフは食い下がろうとした。だが、グロムイコは続けた。「同志諸君、この人物の笑顔はすばらしい。だが彼は鉄の歯をもっている。…彼なら年長の指導者にも堂々と立ち向かえるであろう」と。
 この重要な会議によって、ゴルバチョフは書記長に就任した。いよいよ、ゴルバチョフの出番だった。しかし、初めのうちゴルバチョフはかつての指導者とまるで変わらなかった。「共産主義の気高い理想と偉大な目標に向かって!」などといってたし、「この五年間でソ連国民の生活水準は著しく向上した」というでまかせまでいっていた。国民のほとんどはそんな話しにうんざりしていたので、相手にしなかった。彼は変化を好むと同時に、体制派人間だったので現体制の保護下から踏み出す勇気がなかったのだ。(だからこそ保守派に妥協し、経済改革があいまいだった。国民はそれを知っていたのでエリツィンを支持したのだ)ゴルバチョフは外交は華やかだが、国内政策は中途半端なままであった。
「国民がまじめに働き、もっと自由な、いい生活ができるように精一杯努力する」これが、ソ連をどうしたいか?の答えだったのだ。

 一九八五年七月ゴルバチョフは、グロムイコを解いて、最高会議議長に指名した。そして新外相にエドアルド・シュワルナゼを選んだ。外務省の汚職・腐敗を掃除してもらおう、それが済んだらヤコブレフを外相にすればいい、ゴルバチョフはそう考えていた。しかし、いざ世界の檜舞台にたつや、このギョロ目のグルジア人は大活躍することになる。ロシア語はグルジア訛りがきついが、いってることはいいな、と国民からの反応があったのだ。しかも、外交もグロムイコなんかよりずっと上手、と。ゴルビーの嬉しい誤算だった。
「前任者は妥協しない人間だったで「ミスター・ニュット」と呼ばれていた、私は「ミスター・ダー(YES)」になるように努力したい」シュワルナゼはいった。
 もう一人のゴルバチョフのブレーンが、ヤコブレフだった。おもて舞台にこそでないが、西側を知り尽くした彼がゴルバチョフの外交政策を考えていたのだといわれる。

 ゴルバチョフは演説をするために一歩一歩、歩いていった。この日が偉大なる瞬間となるだろう。ソ連の民主主義の始まりだった、とのちのちまでに語りぐさとなるはずだ。…毎晩、夢に見るんだ。お前が、いつか大勢の人々の前にたち、指導者として喝采をあびる光景を。人々を正しい道に導くお前の姿をね。…祖父の言葉が脳裏によぎった。
「我々は改革をはじめないかぎり世界の超大国としての地位にとどまることはできない!…ペレストロイカを始めよう!もはや、一握りの大国が他国を分断する時代は終わったのだ」ゴルバチョフは中央委員会の会議で、熱心にペレストロイカ(立て直し)案をうちあげた。単に市場経済を導入しようというものではなく、政治を民主化し、自由にしようということ。政治が自由にならないかぎり経済の自由化も不可能だと考えたのだ。
 ゴルバチョフは意識改革から変えていくのがベストだ、と思った。そこで、今まで三時間くらいしか働かず、あとはウォッカ(酒)ばかり飲んでいる労働者に「ちゃんと働かないと経済は少しもよくならない。豊かな暮らしもぜったいにこないのだよ」と説き始めた。しかも彼は民衆の中を歩いて、少年のように快活に情熱をぶつけたのだ。「自分の収入には自分が責任を負う。みんながそうならなくてはならない。これだけの金がほしいと思ったら、各自がその分だけ働くことだ」ゴルバチョフは親しみのある口調で続けた。「いいかね、私をあてにするんだったら、そんな考えは捨てなさい。ほんとうに必要なものが手に入るようにするには、一人一人がやる気を出して働くことだ」
 ライサはかたわらでしきりにうなづいていた。
 ゴルバチョフは工場に視察にきたとき、きれいごとばかりならべる工場長に対して彼は軽蔑をこめた口調でこういっている。「そんなきれいごとを聞きにきたわけではないんだよ!」その迫力ある言葉に、工場長はタジタジになるばかりだった。ペレストロイカは、ウォッカだけでなく、軍縮やアフガニスタンからの撤退、軍民転換、グラスノスチ(表現の自由)、東欧の自由化などに及んだ。ゴルバチョフは外国の指導者とまったく対等に話ができた。話題も豊富で、人当たりもよく、あらゆる指導者を魅了していった。
 一九八五年、ジュネーブでの首脳会談が開かれる。かつてソ連を『悪の帝国』と呼んだレーガンとゴルバチョフの会談が実現したのだ。これはサッチャーがレーガン大統領(当時)を説得したからだった。
「我々がこの小さな町で、どちらも将来何か大きなことをしでかすとは誰に思われていないかもしれないが、この二人が、世界が間違っている、ということを証明することもできるのです。我々はそういう立場にいるのですから」
 ゴルバチョフはじっと座りながら熱心に耳を傾けていた。
「私たちは次の二、三日に何か偉大なことをなすか、さもなくば……楽しい時を過ごすか、ツバを吐きかけ合うかです。すべてはあなた次第なのですよ」
 ゴルバチョフは満足気に深くうなづき、それから説得力と情熱をこめていった。「核戦争は普遍的な破局であり、最悪の犯罪である。核戦争に勝つことはけしてできないし、またそれはあってはならない。…それなら両国は、古い核兵器もけして使うことができないのに、どうしてより多くの、より新型の核兵器をつくりつづける必要があるのだろうか」
 八六年四月、テロ国家のリビアをアメリカが爆撃した。世界中のテロ行為を操っていたリビアのカダフィ(リビアの独裁者)を叩かなければ世界を、自分自身をまもることができない。これが理由だった。もちろんこの爆撃は正しいにきまっている。十二月、ゴルバチョフがカザフ共和国党第一書記兼政治局員のディンムハメド・クナーエフを解任し、後任をロシア人のコルビンにしたことから反ロシア暴動がおこる。汚職でやりたい放題のクナーエフでもロシア人よりましだ!という民族主義からの暴動で、死者を多数出してしまう。のちに「アルマ・アタ暴動」と呼ばれる、ゴルバチョフ最初の黒星である。

 サッチャーはモスクワに訪れ、ゴルバチョフとクレムリンのホールの小さなテーブルでふたたび議論をぶつけあった。「古きロシアはキリスト教によってヨーロッパと結ばれてました。ウクライナ人、ロシア人、そしてその他の民族はヨーロッパ史に多大な寄与をなしたのです。私は、西側の一部の人々がソ連をヨーロッパから『排除』しようとしていることを遺憾に思います」ゴルバチョフは力づよくいった。
「西側を攻撃するよりも、スターリンがヒトラーと結んだ排他的な条約こそを非難すべきです!ナチスとソビエトの条約があったゆえにイギリスとフランスは独力で戦わなければならなかったのですよ!」サッチャーは激しく、応酬した。………
「これからも東側ブロックを、ブレジネフ・ドクトリンをもとにブロック化していくというのなら、統合などありえませんね」彼の「太平洋からウラルまで」というヨーロッパ共通の家の概念をきいて、サッチャーはとてもゆっくりと、はっきり説いてきかせた。
「鉄のカーテンは時代遅れです!お互いヨーロッパ文明を共有していながらブロックに分かれて対決するというのは不自然なことです。ヨーロッパは私たちの共通の家なのですから」ゴルバチョフはリベラルに、そう答えた。
 しかし、彼には欠点もあった。傲慢でひとりよがりなところだ。レーガンの「もし良い社会をつくろうと思うなら、人権、開放性、旅行したり、意見を好感しあう権利をとりいれなければならないでしょう。…というのも、それがあなた方の利益になるからです」という感じの説教をがまんして聞いていたが、それが政治的に対等ではないシュルツやベーカーに同じように説教をされたとき彼は怒りを爆発させた。「そんなことはもう聞きあきました。今度は私の考えていることを聞きなさい!」と、怒鳴ったのだ。
「核戦争に勝つことはできないし、また起こしてはならないのです」記者団の前で、レーガンの目をみながらゴルバチョフはいった。「これが私たちが達した合意なのです」
サッチャーは間違えた。間違えたのは政策である。いわゆる人頭税(ポールタックス)である。彼女は「ポールタックスではなくコミュニティ・チャージです」というが国民は反発した。サッチャーはイギリスがEU(欧州連合)に参加するのも、イギリスの通貨ポンドをユーロにするのも反対していた。欧州連合にはいればドイツにリーダー権を奪われるというビジョンもあったことだろう。だが、もう限界であった。1991年になって11年間も続いたサッチャー政権は瓦解した。
 サッャーはいう。
「われわれはいつか真実を発見する。我々は挑戦しなければならない。独立宣言でもいっている。”社会が停滞したらもっと西へ行け”と。ある作家はいった。
”我々は政府から国を守らなければならない”……われわれは子供のころ、正義は絶対であり、かならず悪に勝つ、信じてきた。正義は自然と生まれると…。しかし、それは真実じゃない。正義は人間が作るものであって、自然にはうまれない。真実は権力にとって脅威だ。権力と闘うのは命がけだ。過去さまざまな人間が抵抗し、殺されていった。
 なぜ、われわれは挑戦しなければならぬのか? それは、皆が望んでいるからだ。真実を知りたい、と。我々の国だから。誇りのもてる国にしたい。真実は最も貴重だ。もし、真実が無になり、この国の政府を信じられなくなれば、この国で生まれてもこの国で死にたくない。”去り行く王に権威なし…”そう、王は死んで権威を失った。だが、この国は世界に問わなければならない。”人民の人民による国”がイギリスであるということを。
 そして、われわれは”国のためになにかできるか?”を問うのだ。
 そのために、私は、きっとこの国を復活させてみせる」
 彼女はいった。それは、彼女の決意と志の言葉、であった。
「英国には残念ながら差別があった、南アフリカにはアパルトヘイトがあった、ペルーの山奥には未だ農奴制が存在する。インドの街頭では人々が飢えで死に、ロシアでは反体制派の人々が刑務所にぶち込まれた。北朝鮮では何十万人という人々が虐殺されていた。そして世界の富は惜しげもなく軍備拡張にそそがれている。
 これらは一様に悪ではあるが、所詮人間が作り出した悪であり、人間の正義感の不完全さ、人間の慈悲心の欠落、他の人の不幸にたいするわれわれの感覚の欠如を反映しているに他ならない。故にわれわれは怒りと良心をもってこれらの悪を取り除くという決意を分かち合わねばならない。
 すべてが急変している今日、時代遅れの教議や使い古されたスローガンはもはや通用しない。すでに消えかけてる現在にしがみつき、どんな平和的な進歩にも必ずついてまわる危険性とエキサイトメントよりも安全という幻想を選ぶ人間は世界を動かし、変えることができない。
 かつてイタリアのある哲学者が語った。”新しいことを手掛け、新しいアイデアをこの世に紹介するほど難しく、その成功が不確かなものはない”と。しかし、これこそこの世代がやらなければならないことなのだ。そして前途には様々な危険と障害が横たわっている。
 まず第一の危険は何をしようとも無駄であるという考え。無知、不正、暴力、苦悩などこの世界が抱える問題に対して、ひとりの人間ができることはなにもないという無力感に溺れることは、戦う前に白旗をあげるに等しい。
 歴史を思い出してほしい。思想においても行動においても、世界をかえた偉大な動きの多くはたったひとりの人間によって成功されてきたではないか。ひとりの若い僧侶が宗教改革を成し、ひとりの若い将軍は国境をマケドニアから地の果てまでのばし、ひとりの女性がフランスの領土を奪還した。ひとりの若いイタリアの探検家は新大陸を発見し、三十二歳のトーマス・ジェファーソンは人間はすべて平等と宣言した。古代ギリシアの数学者アルキメデスは言った。”私の立てる場所をくれ、そうしたら世界を動かしてみせる”と。 これらの人々は皆世界を動かした。われわれにもできないはずがないのだ。歴史そのものを曲げる偉大性を持つ者は少ないかも知れない。しかし、われわれひとりひとりが、社会のほんの小さな一部分を変えていくことはできる。それらの行為がひとつにまとまった時、初めてこの世代の歴史が書き綴られることになるのである。
 勇気と信念に基づいた限りない行動によって人類の歴史は形成されていく。
 ひとりの人間が理想のために立ち上がり、不正を攻撃し、苦しんでいる人々のために行動を起こす度に、彼は希望のさざ波を送り出している。一〇〇万人が行動を起こせば、それらのさざ波は、いかなる迫害、いかなる抵抗をも突き破る津波となり、歴史をも変えてしまうエネルギーとなり得るのだ。
 古代ギリシャの政治家ペリクレスは言った。”もしアテネが偉大だと思うなら、その栄光は勇敢なる人々、義務を果たすことを知った人々によって勝ち得たのである”と。これこそあらゆる偉大性の源であり、われわれの時代の進歩の鍵となるのだ。
 われわれの未来はわれわれのヴィジョンを超越する。しかし、それは決してわれわれがコントロールできないものではない。なぜなら未来は、運命や自然の力やさからうことのできない歴史の波によって作られていくものではなく、われわれ自身の手によって作られるものだからだ。運命がわれわれを支配するのではなく、われわれが運命を作り出していくのだ。
 さぁ、判断を!」
  喝采がおこった。
 夫・デニスの死を境に、サッチャーは政治家としても存在感が急速に薄れ始める。そんななかメリル・ストリープ主演で、映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」というのを制作してくれるというのは、サッチャー女史にとっては嬉しいことだったに違いない。実は2000年頃から「認知症(いわゆるボケ)」を患い世間からも忘れ去られていた。ロンドンに生前に彼女の銅像が立ったが、「銅はいいわね。鉄と違って錆びないから」とジョークをかました。そうして、天からの役目を終えたマーガレット・サッチャーは2013年4月8日、脳卒中で死去した。享年87歳であった。
天に意志があったとしか思えない。天が、混迷する東西冷戦時代末期に彼女を登場させ、イギリスの社会主義的な労働組合・炭鉱・行き過ぎた社会保障にストップをかけ、もうひとりの天才・ゴルバチョフとレーガンの橋渡し役をやらせた。そうして役割が終わると惜しげもなく天に召し上げた。マーガレット・サッチャー万歳!こういって筆を納めたい。   おわり   


沙弥(さや)AKB48大島優子主演NHK朝ドラ原作小説アンコール9

2013年11月12日 05時58分34秒 | 日記
         必死の執筆活動




  米沢に戻った私と沙弥のふたりは町をあるいていた。
 町中がなにかの準備で大忙しのような感じだった。広場にはジャズ演奏のための舞台が組まれているところだった。私はふわっとした顔になってから、
「もうすぐお祭りね」といった。
「盆踊りか?」沙弥は冗談を言った。
「なにいってんのよ、ジャズ祭よ。………今年もやっぱりやるんだ」
 私がそう嬉しそうに言うと、
「あたり前だろ。オリンピックじゃあるまいし、四年にいっぺんだけやってどうすんだよ」と沙弥はまたまた意地悪そうに、でも少し楽しそうに言った。またなにかいうと、オウムがえしのように悪口やらをいわれるので、私はただ、
「そうね」と笑った。
「まぁ、こんな山と上杉神社しかねぇ腐れ田舎じゃあ、年一回の祭りぐらいが最大の催しって所だろうな。もっとも、ないよりはあったほうがずっといいし、祭りがねぇと、夏が来た、って感じがしないしな。……まぁ、なんとなく楽しみではあるか、な」
 沙弥が妙にさらりと言ったので、私も
「そうね」
 とだけさらりと答えていた。


 しかし、ジャズ祭を前にして、沙弥はまた病気になって寝込んでしまった。
 沙弥はいつも作家になるために机に向かって執筆をしていた。それは小説を書くためで、だいたい彼女は胸が苦しくなって荒い息で顔をゆがませた。それはいつもの発作のせいで、私もまゆちゃんもそのことはほとんど気付かなかった。だいたいこういう場合には普段なら数分くらいで痛みが和らぐのだそうだが、その日は痛みが妙にひどかったようで、翌日、彼女は熱を出して寝込んでしまった。それは作家になった今でも変わらなかった。
 私はナイチンゲールよろしく彼女の部屋に牛乳や水枕を持っていった。そして、
「沙弥、はやくよくなってね」と言った。
 彼女はだるそうで頬を真っ赤にしながら、私の方に瞳を向けて、「あぁ」と言った。その時の沙弥は最高にきれいで、あどけない天使のようだった。私は思わず、ふとんから出ている沙弥の手をぎゅっと握っていた。その手は驚くほど熱い…。
「心配すんなって。あたしにはいつものことだよ」
 沙弥はそういって瞳をぎゅっと閉じた。
「そう。……ねぇ、沙弥。あなたこういう時、どんなことを考えているの?」
「そうだなぁ。いろんなことかなぁ。……熱があるとさ、世界中がきらきらと新鮮に感じられるんだ。酒飲んでよっぱらったみてぇにな」
「ふ~ん」
「それはなんだか辛いけど心だけがはしゃで……何かつまらないことばかり一生懸命考えて瞳を開けてる。目をあけてないとなんだか不安になるからな。不安だからずっと目をあけてた。暗闇の夜でも。ジッとして苦しみがなくなるのをまっていた。まぁ……それは小さい頃の話しだけどな」
 沙弥はそういってにこりと微笑んだ。
 その笑顔もなにもかもが清らかで可愛らしくみえた。それはしんとした感傷だ。
「まあ、とにかくお祭りも近いんだから……すぐによくなってね」
 私は涙をみせないようにそう言っていた。



  緑川沙弥の病気がよくなった頃、彼女はオカルト体験をした。それをのちに彼女は、最悪の瞬間、といって自嘲したが、そういわねばならぬほどの体験だったという。
 どういうことかって?
 それは良子おばさんによる、あるアイデアだった。米沢の西側のはずれに、あるオカルトの先生が住んでいる。このひとはぶくぶくに太ったオバさんで、神戸からやってきた大阪弁のちょっと変わった祈祷師だ。なんでも不動教とかで、家に置いた不動明王の像に祈って訪ねてきたひとの病気とかを治すのだという。つまり占い師みたいな感じだ。超能力でいうならヒーリング(癒し)をする訳だ。もちろん金をとる。一回の祈祷で三千円…なり。もちろんインチキに違いない。不動明王とかのただの木像に祈るだけで病気が治るなら誰も苦労しないからだ。……え?良子おばさんのアイデアって何かって?そう、
 つまりこのオバさんに沙弥の病気を治してもらおう!というものだ。
 緑川沙弥はバカバカしい、といって嫌がった。でも、良子おばさんは真剣で、
「とにかく、一回、祈祷してもらいましょう」
 と言ってきかなかった。
 結果、緑川沙弥はいやいやながら良子おばさんの車に乗せられ、オカルトおばさんの元に向かった。病気をなおしてもらうために。いや、悪魔ばらいをしてもらうのだろう……うん。きっとそうだ。
  戻ってきた沙弥はほんとうに、ばかばかしい、と言う顔で車から降りてきた。
「どうだった?沙弥。病気なおった?」
 私の冗談めかしの質問に彼女は、
「バカなこときいてんじゃない!」と言った。
 どうもオカルトおばさんの『悪魔払い』は彼女の話しによると、こういう感じだったという。まず、不動明王の像のある部屋に通される。そこの床に寝かされてふとんをかけられてそのうえから数珠をかけられ、教条の書いてある紙をラーメンのようにかけられる。そして、線香をたいて、オカルトのおばさんがお経をあげる。それが1時間くらい。それで終り…だ。で、三千円。なんだこりゃ?という感じだ。
「あんなんで病気がなおったら誰も苦労しねぇよ」
 沙弥は悪態をついた。
 確かに、そんなので治ったら病院はいらない。そういえばジャイアント馬場…じゃなくてサイババとかいうのも前にインドにいて有名になったっけ。なんでも手の平から金粉をだしたりするっていう。まぁ、こういう幽霊だのUFOだの超能力だのというものは全部嘘だから……まぁ、信じるほうがおかしいのだ。私はそう思う。とにかく、
「あんなんで病気がなおったら誰も苦労しねぇよ」
 沙弥は何度も悪態をついていた。よっぽど悔しかったのだろう。騙されたのが。


 夜になった。私はすることがないので、ペンションのベランダにいて星をみていた。田舎は都会と違って、星がくっきりとみえる。きらきらと輝いているのがわかる。まるで降ってくるような星空だ。
「よぉ、ブス。ここにいたのか」
 沙弥がやってきて言った。
「うん。星をみてたのよ」
「そうか」
「で? 沙弥………悪魔から解放された?」
「バーカ」ふたりは笑った。
 私は立ち上がり、冷蔵庫に向かった。一応、客室なので飲み物はたんとある。私はビールを、沙弥にはジュースを投げて渡した。沙弥はアルコールが一滴もだめだ。これは病気のせいではなくて、どうも体質らしい。それから彼女はタバコもダメだ。
 私はビールを飲んだ。冷えて、胸の奥底までしみるようだった。夜に響くような冷たさだった。沙弥もジュースを飲んで、
「あぁ、うまい」
 と言った。
 それはなにか至福の瞬間のようにも感じた。そう、おもえばこの時が一番きらきらしていたように思う。



  いよいよジャズ祭の日になった。夏を過ごす観光客がピークを向かえる頃の夜に、このジャズ祭はひらかれる。それは、ほとんど米沢の住民の楽しみのための行事だ。河川敷の特設ステージでジャズの演奏をして、神社には夜店や屋台が並び、おおがかりな花火大会もある。
 そして、この祭りがくるとなんとなく秋の匂いや気配がしてくる。まだ陽射しはぎらぎらしているのに、吹く風がどこかやわらかいような、そして静かなような感じになる。夏がもうすぐいなくなることがわかるのだ。
 やがて夏祭り、ジャズ祭りの夜となった。
 様々な祭りの風物、行き交う人々。私と沙弥とさやかの三人娘は部屋で浴衣を着せあった。着せあったとは、ひとりでは帯びがうまくむすべないので、それぞれ帯びを結んでもらったのだ。その浴衣は、白いもので花の柄があったりして可愛いものだった。
 小紫哲哉がくるまでだいぶ時間があったので(もっとも沙弥とのデートのためくるのだろうが)、私たちはベランダで夜空にあがる花火を眺めた。
 もうすぐ夏も終りだっていうのに、やはり暑い。私たちはうちわで自分をあおいだ。
「やっぱり夏は花火よね」
 私は夜空にあがる花火をみながら思わず言った。
「なにいってんだ?はじめてここの祭りにきた観光客じゃあるまいし」
 沙弥は憎まれ口をたたいた。
「そりゃあ、そうだけど…」
「まぁ、この田舎じゃ金がないから、東京の大江戸花火祭りのようにどんどんと沢山連発であげるって訳にもいかないけどな。まぁ、数分おきにあがるだけでもありがたいと思わなくちゃな」
「なにそれ?」
 私は笑った。
 それから私たちはいろいろな話しをした。しかし、どんな話しをしたのかはよく思い出せない。男の子の話しだったか、映画の話しだったか、それとも食べ物の話しか…?しかし、覚えている話題もある。それは就職難の話し、だ。
 ちょうど不況の真っ直中で、私は不安をおぼえていた。それにつけこむように沙弥は、「なぁ、ありさ。就職どうすんだ?」
 とズケズケきいてきた。
「え?就職?私、まだ……関係ないわ」
 私は不安を隠すように言った。いや、自分にいいきかせたのか。
「そんな呑気なこといってていいのか?不況はいっそう深刻なんだぜ。これからリストラも始まって大変になるんだぞ。いまは失業率も5%だからいいけどこれから8%まですぐいっちまうぜ」
「え?なんで…?」
「大規模なリストラが始まるって言ってんだろ! 企業内失業者や不要社員がいっぱいいるからな。雇用対策調整金でなんとか雇っている連中が首きられたら…8%だな。不況に明るい兆しっていうのはデマで、これからもっとひどくなる。面接拒否も女子学生だけじゃなくて男子学生にも拡大するだろうな」
「うん。まぁ、先輩たちは大変らしいけど…でも私はまだ…」
「そんな呑気なこと言ってたら…就職浪人でフリーターだぞ」
「でも」私は彼女の言葉に不安になった。「じゃあ、いまから就職活動しろって?」
「いや、そうはいわねぇけどな。でも…女はつらいぜ。セクハラがあるからな。面接でさぁ…「胸が小さいね」とか「あなたは処女?」とか「おしりが大きいね」とかセクハラ質問されたりするわけよ。触られたりな。『女はつらいよ』…っていう作品でも執筆しようかなって感じにもなるな」
「ふ~ん」私は言った。そして「でも…いざとなりゃあ、私、結婚しちゃうし。『永久就職』ってね」と言って笑った。
「そんな相手いるのか?」
「いないけど」私は言った。そして私たちは大笑いした。
  ペンション『ジェラ』を出ると、小紫哲哉が待ちくたびれたような顔で待っていた。いつもと同じような服装だが、髪形が短くなっていて、妙に夏っぽかった。それでも沙弥は、
「気分のでねぇやつだな。また同じ服か?」と言った。
「いや、ここが違う」
 哲哉は両足の下駄を指差して言った。
  ジャズ祭の河川敷はひとまたひとと、ごったがえしていた。ひとが並んでいる。スピーカーからはひっきりなしにウッド・ベースやジャズ・ピアノの音が響いてきていた。ひとがいっぱいいる。皆、ヒマなんだなぁ。私は一瞬、そう思った。
 列に並んでいると、急に列に割り込んでくる連中がいた。でも、そうしたマナーのなってない人間なんてどこにでもいる訳で、それはたいして珍しいことではなかった。
 そしてある瞬間、沙弥と次郎の間を押しのけるようにしてある男達が通っていった。それはあまりガラのいい奴等じゃなかった。いわゆる「チンピラ」のような感じだ。
 確かにそれはあまりほめられた通り方ではなく、私たちはムッとした。しかし、重要なのはその後だった。なんと、その男達は「例のチンピラ」だった。つまり、私と沙弥をナンパしてホテルに連れていこうとした大阪弁の連中だったのだ。
「あ! なんや、お前は」
 チンピラのひとりが小紫哲哉に気付いて声をあげた。それに他のチンピラもつづいた。「この野郎!あの時はよくも邪魔しようやって」
 こうして哲哉とチンピラたちの睨みあいが始まった。私たちはドキドキした。いや、不安にかられた。人数が違いすぎる。このままでは哲哉が大怪我してしまう…。
「尻から手えつっこんで奥歯ガタガタゆわしちゃろか」
「やってみろ!」
 哲哉はたんかをきった。なんて馬鹿なことを。私がそう思った時、またラッキーがなった。またしても警察官が遠くから歩いてきたのだ。
 それでチンピラたちは「ちっ」と舌打ちすると、「覚えてろや」と捨て台詞を吐いてそのまま走り去っていった。私はほっとした。とにかく喧嘩は回避されたのだ。
「バカな連中だ。……哲哉、気をつけろよ。あの連中なにするかわからねぇぜ」
 緑川沙弥はそう言った。しかし、その瞳はきらきらと輝いてもみえた。それはたぶん、沙弥が勇気ある小紫哲哉にほれなおしたからかも知れない。私は勝手にそう思ってしまった。

  祭りも終わって、ペンション『ジェラ』に戻ると、ルーカスがわんわんとほえて沙弥にじゃれてきた。それはなんだかほほえましい光景だった。
「沙弥……ずいぶんとルーカスと仲よくなったのね。そんなに犬好きだったっけ?」
 と私がいうと、沙弥は「犬は裏切らないからな」と平然と言った。
「あ、俺、わかる。その気持ち」
 哲哉はそういって同意した。
 それから私たちは冷たいアイスを食べた。それはとても冷たくて美味しいアイスだった。胸の奥まで甘さがしみわたるようだった。そして、アイスを食べる次郎と沙弥はとてもきらきらと輝いてもみえた。しかし、その頃、誰が予想しただろう。あの小紫哲哉にあんな不幸が訪れるなんて…。

  私こと黒野ありさは挫折を味わった。
”司法試験”に落ちたのだ。自信はあったのに。それで、私の夢…「弁護士になる」って夢は、一年先になった。いや、来年も落ちるかも。なんせ、試験は難しく、難関中の難関の試験なのだ。アメリカには弁護士が90万人いるらしいが、日本では4万人くらい。テストが難しい結果だ。でも、私の父は「弁護士をあきらめるな」といった。毎日、空虚な日々を送っている私をはげました。「毎日、つまらなそうに学校にいってるありさなんて見たくない。諦めるなって沙弥ちゃんにいったんだろ?」その言葉で私は改心した。   

緑川鷲羽による投稿「日本の財務省の嘘とカラクリ「社会保障費・国民負担率低い」の大嘘」

2013年11月10日 15時33分24秒 | 日記
3



「二〇〇〇年前、最も誇り高い言葉は”キヴィス・ロマナス・スム”(われわれはローマ市民である)という言葉であった。
 今日、自由社会において最も誇り高い言葉は”われわれは世界市民である”という言葉だ。
 ある人々はいう。共産主義と自由世界の間に横たわる問題は、一体なんなのか?と。
 そういうひとは日本に来るべきだ!
 ある人はいう。共産主義こそ未来の波である、と。
 彼らは日本に来るべきだ!
 またある人は共産主義者たちとうまくやっていけるという。そしてある人々は、確かに共産主義は悪のシステムであるが、経済的発展を促進させているという。
”ラッス・ズィー・ナック・ジャパン・コメン!””レット・ゼム・カム・トゥ・ジャパン!”
 自由には諸々の困難があり、民主主義は完全ではない。しかし、われわれは自国民を閉じ込めるために壁を作ったことなど、一度としてなかった。
 私は極東アジアの彼方に住む日本国民を代表して、あなた方に言う。われわれは過去六十年間の苦難を、あなた方と分かち合えたことは最大の誇りであった、と。六十年間もの長い間、包囲の中にありながら、日本ほど活気と力、希望と決意をもって生きてきた国を私は知らない。中国の共産政治は、共産主義体制の最も明らかな失敗を全世界にみせつけている。しかし、われわれは満足などしていない。なぜならそれはあなた方の劉暁波氏が語ったように、歴史に対する罪であるのみならず、人間性に対する罪でもあるからだ。家族を引き離し、夫や妻、兄弟姉妹を隔離し、共に生きたいと願う人々を引き割くことを、人間性への挑戦といわずして何と言おうか。
 あなた方は自由の孤島に住んでいる。しかし、あなた方の人生は大きな流れの一部なのだ。故に話をしめるにあたって、あなた方にお願いする。今日の危機を超越し、明日の希望に目を向けて欲しい。この日本の自由だけでなく、全人類の自由と正義にもとずいた平和に目を抜けてほしい。
 自由というものは決して分割されない。ひとりの人間が奴隷として扱われたら、すべての人が自由ではない。すべての人々が自由になる時、この日本国家もそしてこの偉大なる極東アジアも、平和と希望に満ちた世界のひとつになる日がやってくるであろう。
 その日は必ずやってくる。その時こそあなた方は約六十年の間、この戦いの最前線に立っていたという事実に心からの満足感を得られるのだ。
 いずこに住もうと、すべての自由人は、日本市民に他ならない。故に私はひとりの自由人として誇りをもって言う。”イッヒ・ビン・アイン・ジャパニーズ”と」

       



「今われわれはわが国の歴史のなかで最も重要な岐路に立っていることは、改めて強調するまでもあるまい。尖閣諸島や朝鮮半島や北方領土では重大な危機に直面し、国内では経済の再建と安定のために皆が全力をつくし、予備兵たちは家族から何か月も離れてくれるように要請し、兵士たちには命を賭けてくれるように要請している。組合には賃上げ交渉を控えるように要請し、すべての人々に自重と犠牲が強いられている時、個人的権力と金を追求する一握りの会社の幹部たちがその公的責任を顧みず、一億二〇〇〇万人の日本人の利益を頭から侮辱する態度に出た状況を、日本国民は、私同様決して受け入れないであろう」

「財務省の嘘・カラクリ」について
今回は皆様の見識を高める為にいわゆる「日本の財務省の嘘・カラクリ」について触れたい。日本の財務省は「日本の国民負担率は主要国に比べると10~20%低い」と訴えている。「日本の国民負担率4割は低すぎる。5割にすれば社会福祉費用も出せるし、財政出動で雇用も増える」という。国民負担率とは、毎年の国民所得(個人や企業など国民全体が得る所得の総額)に対して、所得税や法人税、消費税などの社会保険料(社会保障負担)が占める割合を示したもの。家計や企業が、所得から税や保険料をどれだけ払っているか?その数字だけを比較すれば「日本は低負担」で「ヨーロッパは高負担」である、ということになる。が、それは毎年の財政赤字が考慮されていない。税金や社会保障に加え、財政赤字は将来の国民負担に他ならない。その借金分を(財政赤字対国民所得比)を合わせた国民負担率を「潜在的国民負担」と呼ぶ。それで比較すると2013年度は日本53.2%、アメリカ42.2%、イギリス60.4%、ドイツ55.9%、スウェーデン58.9%、フランス69.5%。日本の国民負担は50%を超え、各国と差はほとんどなくなる。それでもまだ相対的に低い、というので増税するのは大間違い。よく知られるように北欧は「高福祉・高負担」だ。国民に還元される割合やサービスでいえば、日本は「低福祉・高負担」である。例えばスウェーデンで100万円の所得のうち64万円とられても43万円が戻ってきて、残り21万円が政府の運営費(本当の負担率)としてつかわれる。「本当の負担率」は、日本19.2%、アメリカ16.8%、イギリス28.1%、ドイツ19.1%、スウェーデン20.9%、フランス26.9%となる。教育制度にも日本とヨーロッパは大きな差がある。フランスでは3~5歳まで通う幼稚園が無料で、同じく公立なら高校まで授業料はただ、エリート育成の為の大学(グラン・ゼコール)は授業料がないうえ、学生に公務員並みの給与まで支給される。スウェーデンでも保育料も高校までも授業料はただ、大学も無試験で通える授業料もただで大学生に手当まで支給される。日本は高速道路が有料だが、アメリカなどや欧州はただ。「なんでもただならいい」という話ではないが、「嘘をつくな」ということだ。

沙弥(さや)AKB48大島優子主演NHK朝ドラ原作小説アンコール8

2013年11月09日 04時27分30秒 | 日記
良子おばさん





  次の日は朝から雨だった。
 沙弥は風邪をひいて寝込んでしまっていた。
 小さい頃から沙弥は熱にうなされることが多く、そのたびに私は「沙弥がこのまま死んでしまったらどうしよう」と心配したものだった。こういうぐずついた天気の日は、そういうことばかりが切ないくらい思い出されて仕方がない。「かわいそうな沙弥…」
 涙が頬を伝って、ポツンと床の上に落ちた。やがて涙があふれてどうしようもなくなった。それでも沙弥を起こしちゃ悪いと思って涙をぬぐって必死に嗚咽をこらえていた。

 私はロビーにある大きなTVでつまらない番組をみていて、もっと退屈になった。沙弥は寝込んだままだし、まゆちゃんは遊びに出掛けちゃったしで、暇なものだった。もうとっくに昼過ぎで、いわばもっともだるい時刻だった。ひとりでプールなどで泳いでも面白くもなんともないし。そういうわけで私はルーカスをつれて散歩にいこうかと思った。
 そんな時、雨があがった。
 外気がむっと暑くなり、ぎらぎらとしたまぶしい陽の光りが辺りを包む。ざわつく上杉神社、森の匂い、蝉の鳴き声、それらすべてがまたこの土地に戻ってきた感じだった。
「沙弥、大丈夫かな?……それにしても暑いなぁ」
 さっき買ってきた冷たいアイスを食べ、なんとなくミンミンという蝉の音を聞きながら私は呟いた。そして、プールで泳ごうかとも思った。だけどやめた。
 陽はいつものように高く、あらゆるものをぼんやりと白くみせていた。あまりにも果てしない夏のプールからは子供染みた話し声と波音だけがきこえていた。空の青はやけにくっきりと見えた。
「ありさちゃん。これお上り」
 と言って、良子おばさんが細く切ってあるスイカをもってきてくれた。
「あ。ありがとう、良子おばさん」
 と、私は受け取って微笑んだ。
「そうだ、沙弥にももっていってあげようか」
「いえ、さっきもっていったらグッスリ眠っているようだったから…」
 良子おばさんはそうほんわりと言った。
「うん。わかった」
 私は言った。スイカはちょっと水っぽかったが、とても甘くて、冷たくて、とっても美味しかった。
「このスイカ、とってもおいしい」
 と私は歩き去ろうとしていた良子おばさんに目を輝かせていった。それに答えて良子おばさんは、
「そう。それはよかったわ」と言って微笑んだ。それはあまりにも幸福な一瞬だった。そこら中が、これ以上ないくらいほんわりしたやさしさに満ちていた。
「それじゃあ。私、ちょっとひとりで散歩にでも行ってきます」私は言った。で、財布を取りに部屋にもどった。
 部屋を出る時の扉の音がきこえたのだろう。沙弥の声が閉めきった部屋から、
「どこにいくんだ」と弱々しくきこえた。
「散歩。…まぁ、喫茶店でお茶でも飲んでくるわ。何か欲しいものある?」
 と私が言うと、「いらねぇよ」と彼女はかすれた声で言った。
「そう」
 私は無視して階段を降りていった。

  ペンションから一歩でると、外気がむっと暑かった。
 だけど夏だから当然よね、などと私は思って気にしなかった。
 私はしばらく歩きながら、故郷の夏を楽しんでいた。はっきりいって山だとか森とか自然以外は何もないところだが、それでもどこか心が落ち着く場所だ。だが、田舎だからといって藁葺き屋根の木造家屋がいっぱいあって周りはすべて田んぼで、というような所でもないので勘違いのイメージをもってほしくない。街にいけば大型スーパーもあるしコンビニもいっぱいある。大型の本屋もあるし、白亜の殿堂『市役所』もそびえたっている。そういうところなのだ。
 でも、確かに東京や大阪に比べれば何もないようにも思える街だ。まあ、でもそれはどこの地方都市でも同じようなものだろう。でも、こっちには美味しい牛肉やさくらんぼや松茸や葡萄がある。鯉の甘煮や米織もある。また上杉神社もある。何もない訳でもないのだ(ほとんど食べ物だ)。
 近くの本屋にいってみると、案の定、観光客であふれていた。無理もない。雨がふってしばらくの頃は本屋はにぎやかになるものだ。そして、残念ながら私の探していた女性雑誌は売り切れていた。ちなみに少女マンガ、ではない。ファッション雑誌だ。
「仕方ないなぁ」
 私は妥協して、『アンネ・フランク』という小説本を購入して、店を後にした。それは少女小説だったが、詳しい内容は忘れてしまった。
 私は本屋を出て、しばらく歩いて、喫茶店に入った。その喫茶店はペンション『ジェラ』の近くにあるお洒落な店で、私がとても気にいっていた店だった。店の外観は、まるでパリのシャンゼリゼ通りにある喫茶店のような感じだ。でも、私はフランスにいったことはないから、ただ、写真やイメージでそう思うだけだ。アール・デコ風とでもいえばいいのか…。よくわからないけど。
 喫茶店の中に入ると、優雅なピアノの調べがゆったりときこえてきた。
 私は一瞬、入る場所を間違えたかと思った。
「ヤマファのピアノ店に間違ってはいったっけ?」
 と思った。っていうのは冗談だが、なんとも魅惑的な調べだった。この曲はショパンか?モーツアルトか?ヴェートーベンか?よくわからない。
 でも、私は思わずうっとりとしてしまった。
 そして、私は喫茶店の埃をかぶったピアノを弾く青年をみて、ふたたびビックリした。それはなんとあの、私たちをチンピラから助けてくれた青年だ。
 おやおや小紫と同じピアノの調べだ、と思った私は、ピアノ演奏が終わってから拍手して、
「哲哉くん。すごいじゃない」
 と声をかけた。
「あ。あなたは確か……黒野さん」と彼は笑った。「黒野ありささんですよね」
「えぇ、そうよ」
「あれ?今日は沙弥さんは?」
 と小紫哲哉は言った。
「沙弥は今、寝込んでるの」
「寝込んでる?」
「えぇ」私は続けた。「沙弥、あぁみえても体がメチャクチャ弱くてね。すぐ風邪こじらせたりとかするのよ。免疫が弱いのね、きっと」
「そうですか。沙弥さんも大変ですね」
 哲哉は心配そうに言った。私は彼が沙弥の名前をはっきり発音したのに、何かきらきらとしたものを感じた。そして、
「この子と沙弥はなんかいいぞ」
 と思った。いまだから言えるのかも知れないが、この哲哉と沙弥、緑川沙弥といいカップルになるな、と感じた。とてもいい感じ、そう思った。
「それにしても……ピアノうまいわね、哲哉くん」
 私はほめた。すると彼は恥ずかしそうに笑って、
「いや、まだまだだよ」と言った。
「謙遜ねまるでブーニンみたいだったわよ」
「あはは」哲哉は笑って、続けた。「まぁ、ブーニンのようなすごいピアニストと比べられても困るけど…一応、僕、音大いってるからね」
「音大?どこの?」
「東京のだよ」
「へえーっ、そう。あたしも東京の大学いってんのよ」私は思わず嬉しくなっていった。「まぁ、三流の普通大学だけどね。……で?それで?」
「え?」
「哲哉くん、ピアニストにでもなるの?将来」
「いやあ」彼は笑った。「どうかな。僕よりうまいやつはいっぱいいるからね」
「またまた」
「まあ、僕の夢はピアニストだけど……ライバルが多いんだよ。ダメな時なんて、ピアノじゃつぶしも効かないしきついね。でも……いまは宙ぶらりんって感じだね」
「宙ぶらりん?」彼のいっていることがわからず、私はすっとんきゅうにきいた。「宙ぶらりんってどういうこと?」
「うん。僕は東京にいって音大に入って、友達もたくさんできた。昔からピアノを習っていたからピアノ腕には自信があったんだ。でも、大学には僕よりうまいやつがたくさんいてね。それで自信がしぼんだ。まだ、一年生だからまだチャンスがあるかも知れないけど、でもなんとなくやる気がなくなって……バイトが忙しくてピアノの練習どころじゃなくて…それで夢と現実のはざま。つまり、宙ぶらりん…って訳。とにかく、目標はチャイコフスキー音楽祭で一位…なんてことだけど、現実はまだ遠い。なんか自分が嫌になるよ。あ、ごめん。なんか愚痴っぽくなっちゃったね」
 哲哉はそういって自嘲気味に笑った。私はそれに対して、
「まぁ、そう落ち込まずに、ね。まぁ、私がみたところ哲哉くんには才能があるわ。きっとプロのピアニストになれるわよ」と励ました。
「だといいんだけど」
「なれるって」私がいうと説得力に欠けるが、とにかく私はそういった。
「そうだ。もしよかったら…沙弥に会いに来ない?彼女、よろこぶと思うわ」
「病気にさわらないならいきたいな」
 彼はいった。そして続けて「それにしても、沙弥さん、やたら細かったね。あの子はおもしろい子ですね」と言った。
 その瞬間、私は哲哉と沙弥はなんかいいな、と思った。私はいままで生きてきて、いろいろなカップルをみてきたが、どのカップルもなんとなく共通点をもっていたように思う。外見が似ているとか、メンタリティが似てるとか、そして哲哉と沙弥もどこか似ているように思った。それは、きらきらした太陽の陽射しのような、そんな感じだ。



「沙弥、お客さんだよ」
 沙弥がきらきらした瞳で迎える……のかと思った。が、違った。
「あれ?」
 なんと彼女は部屋にいなかった。どうしたんだろう。あんなに具合が悪かったのに…。そう思っていると、良子おばさんがやってきた。
「良子おばさん、沙弥は?」
「あぁ。少し具合がよくなってね。熱も下がったみたいで……病院にいったわ」
「病院に?……でも、具合がよくなったんでしょ?」
「いえ。ほら、いつもの精神科よ。竹田先生んところ」
「あぁ」私は思い出したように言った。「竹田先生のところか」
 そういえば、緑川沙弥は精神科の病院にも通っていたのだったっけ。でも、けして頭が狂って……とかではない。なんでも、精神がおちつかない。眠れない…ということで通っているようだ。ちなみに竹田先生とは精神科のベテラン医師で、話し方がとてもゆっくりしていて呑気なひとだ。性格も温厚で、優しい。いってみれば『赤ひげ先生』といったところだ。先生は前まで米沢中央病院の雇われ医師だった。しかし、一念発起して、独立、精神科の病院の院長になったのだった。そこに沙弥は通っている、というわけだ。
 しかし、緑川沙弥はすぐ病気になったり精神科通いだったり…病気づけ、薬づけだな。私は一瞬、そんなことを考えてしまった。
 そうおもった時、
「あれ?お前ら…」
 と、沙弥がいっぱいの薬を抱えて帰ってきた。「あれ?お前はなんとか哲哉じゃないか?どうしたんだ?」
「小紫哲哉だよ。沙弥さんのお見舞いにきたんだけど…もういいみたいだね」
 彼は笑った。私は、
「ついさっき喫茶店で会ったのよ」と付け足した。
「そうか」
 しばらくの沈黙ののち、哲哉はポケットから何か取り出して沙弥に渡した。
「なんだ?これ」彼女は掌のものをみた。それは薔薇の花だった。
「きみにあげるよ」
「……なんであたしに?」沙弥は言った。しかし、その表情は嬉しそうにきらきら輝いても見えた。
「それは沙弥さんの病気がよくなりますようにって意味もある。……もらってくれる?」
「ありがとう」
 沙弥はにこりと笑った。「ありがと。大事にするよ」
 そして次の瞬間、緑川沙弥は頬を赤らめることもなく、平然とこう言った。
「お前を好きになった」
「ありがとう」哲哉はニコリと笑った。



ゴルバチョフ×ゴルバチョフ「世界を変えた男・ゴルビー」アンコールブログ連載小説6

2013年11月08日 06時22分42秒 | 日記
 リーベルマンは彼と話したいと思ったが、そんな雰囲気では全然なかった。
  追悼式典でも、ゴルバチョフは一言もしゃべらなかった。多くの人々は涙を流していた。                                      「スターリンの死を一日でも遅らせることができるなら、私は体中の血を、一滴、一滴、全部捧げることを厭わなかったでしょう」代表者がそう悲しみの言葉を述べた。それは、ほとんどの学生もおなじ気持ちだった。なんたって、スターリンを神として崇めていたのだから。
 神の葬儀の日、ゴルバチョフとムリナールは寄宿舎の窓から外を眺めていた。
「ミーシャ、ぼくたちは一体どうなるのだろう?」
 ムリーナルはひどく落ち込んだまま、尋ねた。ゴルバチョフは地平線の向こうを見つめるような、風に飛ばされそうな、はかない目をした。ムリーナルがいままでみたこともないくらい、ゾッとするような凍った表情だった。
「………」
 ムリーナルはただ不安になって、気が遠くなりそうな長い間、一歩も動けずに立ちつくしていた。



  




第二章 J・F・ケネデイ

              フルシチョフ

              「冷戦の時代」


        ケネディ・フルシチョフ会談とベルリンの壁

  ショックから立ちなおったモスクワの市民たちは、スターリンがいなくても大丈夫だし、むしろ、死んでくれてよかった、と感じるようになった。未来が少しだけ明るくなったのだ。国を改革しようとする動きもあらわれだした。
 労働キャンプから人々が解放されて戻ってきた。                  いままでのシステムは間違いであることを人々は感じ始めていた。そして、冷たい戦争がいつか熱い戦争に変わるだろうということも。                   すべてはアメリカのせいだ。いま(50年代)、原爆をもっているのはアメリカだけなのだから!と、すべてのソ連国民は、かつての、ダレスに牛耳られた「アメリカ帝国主義」に憎悪と恐怖の念を感じていたに違いない。                     たしかにこの時期、アメリカに帝国主義的野心とパワーがあった。だが、現在のアメリカには、もはやそんなものはない。だが、冷戦時代の徹底した反米教育のために「アメリカ帝国主義」などという妄想が、いまだに肌にしみついて離れない…というソ連人が以外に多いのも事実である。
「新しい時代を背負って立つのは自分たちなんだ」と、モスクワの大学生たちは意気込みが広がっていた。腐敗したブルジュア民主主義国家からソビエトを守るのは自分たちなんだ、と。それはもちろん、ゴルバチョフも同じだった。
 だが、思わぬところで野心家ゴルバチョフは、挫折を味わうことになる。卒業後、彼が就職願いを出しに検察局にいったとき、どうも対応が冷たかった。
「スタブロポリ出身なら、故郷に帰った方がいいんじゃないかい?」
 検察官はそっけなくいった。
 それで、終りだった。「スタブロポリに帰れ!」というのだ。これは、彼にとってかなりのショックだったに違いない。それはそうだ。いままでの苦労が、無駄になってしまったのだから。せっかく中央で政治的なキャリアを積もうとして努力したのに、すべてが無駄になってしまったのだ。しかも、抗議するわけにもいかない。もともと当局は配偶理由など説明しないからだ。

「人民の敵となった祖父のことを…知られてしまったのだろうか」ミハイル・ゴルバチョフは、セピア色に染まるモスクワの街路道を重い足どりで歩きながら、悲しい気持ちになっていた。あぁ、ライサになんといえばいいんだろう。彼の胸は、ひどい衝撃と苦い現実に押しつぶされそうだった。
 党に秘密を知られたのもあるだろう。しかし、これはベリヤのせいでもあった。
  ベリヤは、スターリン死去の混乱に乗じて、国家保安省(MGB)と内務省(MVD)という巨大な権力を自分の傘下に入れてしまった。それはいわば数十万の人民警察や、収容所、情報部、などなどすべてを収めてしまったことになる。
「なぜ、スターリン大元帥は、自分ではなくマレンコフなんぞを後継者に選んだんだ?冗談じゃないぞ!我慢してスターリンにとりいっていたのは、すべて次の後継者となるためだったのに…それがよりによって、マレンコフだ?!あんな腰抜け野郎が、ソ連の指導者か?!」ベリアは何とも我慢がならなかった。知識もあり教養も家柄もいい自分が…教養もないスターリンのブーツを、喜んでナメるような真似までしたのは…何の為だったのか!くそう、もういい。こうなりゃ自分でスターリンのあとを継いでやろう!そう考えていたのだ。そして、もちろんマレンコフやフルシチョフはすぐにでも血祭りにあげてやろう、と。「ベリヤがクーデターをやろうとしている」
 内務省内にそうした噂を流したのは、ベリアに脅威を感じていたフルシチョフ、マレンコフ、ミコヤン、モロトフらだった。ベリヤは中央委員会の幹部会に呼ばれ、逮捕され、処刑された。罪名はいろいろとつけていた。オマケとして、秘密警察のボス「ベリヤ」は外国のスパイだった、というのもつけておいた。同時に、ベリヤの子分、メルクーロフ、ゴグリーゼたちも処刑していった。ベリヤの息のかかったのはすべて血祭りにあげ、根絶やしにしたかったのだ。そしてこの巨大な機関は、規模を縮小され、KGB(国家保安委員会)と内務省(MVD)に分割されることになったのだ。
 だからこそ党は、ベリヤの息のかかった人間を嫌った。ベリヤ派にバック・アップしてもらっていた野心家ミハイル・ゴルバチョフは、当然、好ましい人間ではなくなってしまったのだった。

「どうでした?」
 戻ってきたゴルバチョフに、ライサは明るくきいた。しかし、彼には答えられるわけもなかった。田舎に帰れ!…といわれた、なんていえるわけがない。それじゃあ、あんまりにも惨めだ。だが、このまま黙って突っ立っているわけにもいかない。
「検察官に何ていわれたと思う」苦い顔でゴルバチョフはきいた。「彼は、こういったよ。…スタブロポリに帰れ、とね」帽子を無造作に放り投げると、ベットのはしに腰をおろした。ミハイル・ゴルバチョフは空虚な、ひどく落ち込んだ気分だった。いまの彼は、完璧に敗者だった。何の気力も情熱もわかなかった。ひどく憂欝でもあった。
「党の方針に従って、五年間、モスクワのエリート社会にも出入りし、党のプロパガンダにも協力し、KGBに学生を就職させてやった。模範学生として評価も受けていた。ぼくは気分がよかったよ。当然、このことで何らかの報酬を得られると思ったし、きっと党も自分のことを認めてくれると確信していたんだ。絶対の自信があった。自分は…勝利者になれる。そう思ったんだ。だけど、そうじゃなかったんだ」ミハイルの声が沈んだ。「ぼくはただの敗者になり下がってしまっただけだった。何も…認められもしなかったんだ」 ライサはどう言葉をかけようか悩んだ。「きっと、なにかの間違いよ。あなた」
 ゴルバチョフは激しく首を横に振った。「違う。だったら、こんな負け犬みたいな気分になりはしない」妻の方に顔を上げると、妊娠中のライサは、悲しく、哀れみに溢れたような瞳で彼のことを見ていたため、凝視できなかった。
「僕らには、お互いに夢があった。党員として、学者として、より高い地位に上るという共通の夢があった。これからモスクワで勉学を続けていけば、間違いなく君は博士号を取得できるだろう…自分にもかならずチャンスは訪れるだろう、そう信じていた」
 ミハイル・ゴルバチョフは恐怖にかられたように、一人でぶつぶつとつぶやき始めた。ぶつぶつぶつぶつ。ライサは何をいっているのか分からなかったので、彼の唇のそばまで近づいた。
「なのに、チャンスはとうとう訪れなかった」ミハイルが呟いた。
 落ち込んだミハイル・ゴルバチョフを見るのは、ライサにとって始めてのことだった。自信満々な表情、笑っている、怒っている、冗談をいっている、努力している、策略をめぐらせている…そんな表情ではなく、ひどく沈んだ彼の表情を見るのは始めてだった。彼の落胆ぶりは、ライサを不安におとしいれた。
「大学の同志たちにはみせられない姿だな」ミハイルはつぶやきながら、ゆがんだ微笑みを見せた。「学校で他人を批判してばかりいたから…ぼくを嫌っている人間はけっこう多いんだ。こんな姿をみられたら、ザマアミロっていわれてしまうよ」
 彼の微笑みはしだいに消えていき、彼の茶色っぽい瞳に、不安が溢れだした。「なんで…あんなことしたのか…わからないよ。ただ、認められたいだけだった。他人の気持ちなんてこれっぽっちも考えていなかったんだ、きっと。ぼくは、バカだったんだ。何もわかっちゃいなかったんだ」弱々しくいった。
 ミハイルは不安に襲われ、自分は、やけにちっぽけだな、と感じていた。涙が目を刺激し、まばたきをして必死に耐えていた。この数年、ミハイル・ゴルバチョフは自分の努力と信念で人生をきりひらき、巧みな戦略で自分を守り、生き延びてきた。だが、それで多くのものを失った。多くの同志も、青春までも。自分の成功のことばかり考えて、他人のことを忘れてしまっていた。自分の地位を築くために、多くの人間を傷つけ、強引さのために多くの敵をつくってきた。
 ミハイル・ゴルバチョフは何年もの間、党のために働いて成功を得ようとした。その考えも何もかもがイタチのように老獪だ。人を巧みに操り、利用することができる。必死に身につけた知識で、どんな人間も論破することができる。必要ならば嫌なやつとでも握手する。それもこれもすべて、出世するため、認められるためだった。
 それがなんて皮肉だ!いきなり、挫折して、自分の胸にいだいていた計画が、吹き飛んでしまった。モスクワじゃなければダメなのに…帰れといわれた。しかも、いままで自分は他人のことなど考えもしていなかったことに…気付いてしまった。模範的学生、成績優秀、男前のミハイル・ゴルバチョフがどうして、仲の良くない人間の、自分より劣る人間の権利や気持ちを考えなければならないのだ。ゴルバチョフは数年のあいだ他の学生たちに向けていた気持ちや、冷酷な態度を思い出して、身震いした。どんなに後悔しているか、妻に伝えたいと思った。
「ダメな男だな。ぼくは…」
「そんなことないわ」
「ライサ」ゴルバチョフはいった。「君は、モスクワに留まっていてもいいんだよ」
「馬鹿いわないで!」彼女は怒鳴った。「確かに、モスクワに留まればチャンスも掴めるかもしれない。だけど、私一人が残ることなんて出来るわけないでしょう?私たち、夫婦なのよ」
「だけどそれでは…」ゴルバチョフがいいかけたが、ライサがさえぎった。
「どうしていってくれないの」彼女は夫の瞳を見つめて問いつめた。「ライサ、君がいないとダメだ。一緒についてきてくれ、って。すてきだと思うのよ、そういわれたほうが、女にとって。…またやり直せばいいじゃない。とにかくいまは我慢して、また、党の信頼を得るようにしたらいいじゃないの。…私たちの人生は始まったばかりなのよ。まだまだ、出直しがいくらでもきくはずよ」
 彼女はきらきらとした、微笑みをみせた。予想もしなかった愛情の波が不意に彼の胸に押し寄せ、心臓が締め付けられるような錯覚を感じた。ライサ!彼は、ライサの肩をぎゅっとつかむと、激しく抱きしめた。
 ライサは彼の頭を胸に抱き寄せ、彼の髪に頬を重ねた。こんなに悲しい状況なのに、喜びが彼女の魂を揺り動かし、きらきらとした光りでいっぱいにした。夫は私を必要としている。夫を信じていこう、彼の将来にかけてみよう。二人でがんばれば、何とかなるわ!
 1955年、モスクワ大学を卒業したゴルバチョフは、夫人をつれて故郷のスタブロポリに戻って行った。彼らがふたたびモスクワにもどってくるのは、それから二十三年後のことで、あった。

  55年5月、NATO(北大西洋条約機構)に対抗するため、ソビエトが東欧諸国を加盟させて、ワルシャワ条約機構をつくった。直接の引き金となったのは、西ドイツNATO加盟であったという。加盟国は、ソ連、東ドイツ、ポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどだったが、司令官は常にソ連国防省の人間が任命されていた。この軍事機関は91年に正式に解体された。だが、それまでの間、この機関は、様々な弾圧に利用されることになる。
 この頃、ソ連と中国は不仲になっていた。明らかに毛沢東(当時の中国指導者)とフルシチョフ(ソ連第一書記)の路線の違いが浮き彫りになってきたからだった。……

  ゴルバチョフ夫婦はスタブロポリで狭い、一間の部屋を借りていた。やがて二人の間に、イリーナが生まれる。だがこの頃、ミハイル・ゴルバチョフはたいくつな検事のポストにあった。検事といえばソ連社会でさも軽蔑された、低賃金の職業であったという。
 強制収容所から人々がふらふらになりながら戻ってくると、ゴルバチョフの目にもスターリン恐怖政治の愚かさがはっきりとし始めていた。完璧に幻滅を感じ始めていた。スターリンは神でもなんでもない。独裁者であり…神というより、むしろ悪魔だ!ほとんどの人が無実を訴えて、そう、叫ぶ。これはそれまで正義としてきたものに対する完璧なまでの幻滅につながっていった。スターリン政治への、スターリンへの幻滅。
 ゴルバチョフは市コムソモールの宣伝や政治教育の仕事についていた。首尾は上々だった。不都合がおこるわけもなかった。これはミハイル・ゴルバチョフがいままでやってきたなかで、もっとも得意なことであり、彼が人生でもっとも重視する点もふくんでいた。共産主義の宣伝と教育、党へのアピール…。もうショックから立ちなおっていた。ここからやり直そう!そういう情熱に、彼は燃えていた。いまモスクワに戻るのは無理としても、コミュニスト(共産党員)として、ごりっぱな再スタートであることは間違いなかった。 巧みな弁舌と、それ以上の巧みな手腕が必要とされる仕事だったが、それこそゴルバチョフの得意分野だった。
 ライサは夫よりも社会的地位の高い地位に職場に就いていた。共産主義哲学の教師として尊敬されていた。収入は、夫が200ルーブル以下なのに対し、夫人のほうは1250ルーブルも得ていた。共産主義哲学の教師としても、人間としても、若く美しいライサは誰からも尊敬を得ていた。彼女は夫のレベルよりも、はるかに上をいっていたのだ。
 一九五六年、ゴルバチョフは市組織の第一書記に昇格する。フルシチョフ第一書記は第二O回党大会において、個人崇拝とその結果と題する批判演説を行った。
「同志諸君に対し、スターリンから現在の地位を剥奪するように要請する」フルシチョフは、大粛清によって多くの無実の人々が犠牲になったこと、独ソ戦初期の敗北の責任は指導者であった彼のせいであった、などとしてスターリンを激しく非難した。
「スターリンのおこなった大粛清によって犠牲となった多くの知識人、芸術家から、一般の市民、党員、兵士、農民まで、ほとんど無実だったのであります。しかも、スターリンは独裁支配体制を築くにあたり、反対する党員をも次々に粛清・銃殺していきました。  スターリン時代を通じて、悪しき収容所は一万か所を越え、2000万人もの無実の人々が犠牲になっていったのです。このことは政治家として、人間として、ソビエト国民として、けして許せるものではありません。いや、けして彼のような人間を許してはならない!彼の判断力のなさにより、結果として、ヒトラーの軍隊がモスクワの入り口に迫るのを許すことになった。独ソ戦初期の最初の敗北の責任は、すべてスターリンにあるのです! スターリンは暴君であった!権力を乱用して、自分を神だと信じ込ませ、我が祖国を恐怖によって完全に支配していたのです!しかし、これだけは忘れてはなりません。これらの過ちは、すべてスターリンによる権力の乱用のせいであって、我々のシステムに欠陥があったわけではないということ。そして、社会主義の輝かしい目標は、いまもなお尊く、他の体制より数段優れたものである、ということをです」
 党大会の後、その演説の内容はスタブロポリ地区の党本部を通じて、ゴルバチョフや他の党員にも知られることになった。政治局はそれに反対する立場をとって演説の公表を禁じたので、フルシチョフのスターリン批判・秘密暴露は、党の一部の人間しか知らされなかった。
 地区・市党委員会に特別印刷の全文が配布され…彼らは集会を開き、それを読み聞かせた。こんな内容のものは予想もしていなかったので、皆はかなり動揺していた。スターリン体制のもとで子供の頃から育ってきた忠誠心が、音をたてて崩れていった。会議は時に荒れて感情的になり、死せる独裁者に対する積年の怒りがついに噴出して、スターリンのすべてを否定するようになっていった。
「フルシチョフの政治的決断は、偉大だ。これで…この改革でソ連の政治はきっと変わるぞ」ゴルバチョフは期待に胸を膨らませた。彼はスターリンへの絶対的な信奉を捨て、それから改革者フルシチョフの熱心な支持者になっていった。「社会主義こそ、他のどんなシステムより優れている」、という盲目的な信念とともに…。

  アメリカは、CIAがスポンサーするRFE・ラジオ・フリー・ヨーロッパを通して、ハンガリーやチェコスロバキアなどの東欧諸国の民衆に向け「もしあなた方が自由を求めて立ち上がるなら、アメリカは全力であなた方を援助する」という内容のプロパガンダを毎日送り続けていた。彼らにとってRFEは、アメリカの声だ。つまりアメリカは我々を助けてくれる!ハンガリー国民が、アメリカが必ず助けにきてくれる、と信じ込んでも不思議ではなかった。
 ハンガリー民衆は、一九五六年十月二十三日、首都ブタペストにおいて共産党政権に反対して一斉に決起した。その数、約二十万人。この決起によって共産党政権は崩壊し、その勢いでイムレ・ナジをリーダーとする新政権が誕生した。「我々はソ連に、ハンガリー領土から駐留軍をすべてを引き揚げるように要請する」足掛かりとなっていた共産党が倒れ、ソ連はしぶしぶハンガリー領土から撤退する。
 新生・自由ハンガリーが誕生したかにみえた。
「もう大丈夫だ!やっとソ連から解放されたぞ」
「アメリカ万歳!自由ハンガリー万歳!いざとなったらアメリカが介入してくれるぞ。ミュンヘンのCIA支局も、アメリカが助けにきてくれると約束してくれたんだ」
「くたばれソ連!アメリカ万歳!民主主義万歳!」
 決起は成功し、自由な日々が七日間も続いた。やっと、ソ連のバカバカしい、救いようのない共産主義から解放され、自由を手にいれたのだ。もうソ連なんて恐れることはないんだ。そのうちなんらかのかたちで、アメリカがきてくれるはずだ。約束したのだから。 くたばれソ連!くたばれ、くたばれ!コミュニストの馬鹿どもは皆、死んじまえ!
 だがアメリカは最初から介入する気持ちなどなかった。アメリカの利益にならないからだ。
「アメリカの介入はできないな。ただのプロパガンダを信じて立ち上がったハンガリー国民には気の毒だか、そんなことをすればアメリカの利益が損なわれてしまう」
「自由なハンガリーなど、われわれにとっては必要のないものですからな。共産主義が簡単につぶれるということをアピールさせるわけにはいかない。それでは敵がいなくなってしまう」
「アメリカにとって大事なのは、緊張状態だけだ。これが崩れれば、我々の経済はたちいかなくなってしまうからな」
 こんな会話が、ホワイトハウスで交わされたのかは謎である。だが、これがアメリカの本音だった。前に述べたように、アメリカの軍産複合体にとって、兵器の消費がなければ困るのだ。15年ごとに軍需(戦争)がなければ、軍産複合体は生き残れない。共産主義という敵がいなければ、解体してしまうのだ。ペンタゴンを頂点として、自動車メーカー、航空機メーカー、科学会社などの大企業とその下請けが軍需部門の解体を余儀なくされれば、アメリカ全土に数千万人以上の失業者がでてしまう。それは米合衆国の崩壊である。もちろんスケープ・ゴートとしての敵もいる。あれだけ様々な人種がいる大国で、国をまとめ、自国の問題をごまかす為には、共通の敵が必要なのだ。それはソ連も同じだ。
 だからこそ最近、落ち目のソ連にかわって、日本を敵にしようとCIAが動いているのである。しかも、これは大変なことであるのに、日本の政治家は気付きもしない。これはかなり情けない話しである。やはり、日本には商人しかいないのか?

 ソ連がハンガリーから撤退して一週間以上も武力行使に踏み切らなかったのは、アメリカの出方を見ていたからだった。クレムリンの指導者たちはアメリカの介入は間違いなくあると見ていた。ハンガリー民衆よりも、アメリカが怖かった。だが、それから七日後、アメリカが絶対に介入してこないという確証を得たソ連は、戦車部隊をハンガリーに送り込み、ハンガリーは踏みにじられてしまうのだった。
 ソ連戦車がブタペストに入ってきた時、ハンガリー決起のリーダーたちは屋根裏部屋の送信所から必死になってミュンヘンを呼び出そうとしていたが、応じてくれなかったという。あの時、アメリカが介入できるチャンスは十分あったし、そうなれば、ハンガリーは自由国家として存続できただろう。スーパー・パワーといわれるアメリカの軍事力があれば可能だった。(ソ連も原爆を開発していたが、運搬手段などでは米国に遅れていた)  だが、アメリカはただの傍観者を決め込んでしまったのだ。
 これがのちにいう、『ハンガリー動乱』のすべてである。              共産主義国を封じ込めるけども、潰したくもない。このアメリカの本音の結果、戦後5年間減らしてきた国の軍備をもう一度強化することになる。海外援助を含めて130億ドルだった国防予算が220億ドルに跳ね上がり、さらに1953年には500億ドルへと膨脹していく。こうして軍需産業は巨大化していった。
 理由はどうあれ、我々はアメリカに感謝しなければならないだろう。もし共産主義が世界全土に広がっていたら、我々は、現在のソビエトのような悲惨な状態に置かれていたろうからだ。もちろん、西側諸国のシステムにだって欠陥がないわけでもないのだが。
 この時期、つまり50年代アメリカは、国務長官ジョン・フォレスター・ダレスと弟のアレン・ダレスCIA長官という「冷戦の旗手」に牛耳られていた。アイゼンハウワー大統領(当時)があまりにも無知だったため、外交面において、事実上の大統領のようなものであったという。米ソ首脳会談の時も、ダレスが大統領にメモを書いて渡し、質問に答えさせたという。一国の元首がそこまでやるか、とフルシチョフはビックリしたそうだ。
「これを機会に、我々自身を再生しようじゃないか」ミハイル・ゴルバチョフはスタブロポリ『スカヤ・プラウダ』の会議室で、編集長アレクサンドル・マヤツキーに熱心にいった。
「しかし党路線に外れるような報道は、マズいのでは?」
「それは当然だ。党路線は守らなきゃならない。だが、それだけじゃあ不十分なんだ。イデオロギー的に正しいだけではダメなんだ」ゴルバチョフは続けた。「民衆が疑問におもっていること、知りたいこと思ってるを記事にしてほしい。ただの、中央のうけおり新聞なんてつまらないよ」
「しかし…それでは」ミハイルはマヤツキーの目の奥に狼狽の色が広がるのを見てとった。「新聞はおもしろくなければならないんだ!くだらない記事を誰が読む?だれも読まない新聞なんて、印刷する意味がないよ。そうは思わないかね?!マヤツキー編集長」
 彼の端整な顔に、少年っぽいと同時に大人っぽい笑みが広がった。説得力のある微笑だ