緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

不犯の名将・上杉謙信「天と地と」ブログ連載小説4

2011年03月27日 08時12分28秒 | 日記
         不犯へ


 景虎たちに捕まると、
「騙しやがって!」と千代が悪態をついた。
「馬鹿者! 八年間も騙されておったのはこっちじゃ!」
 新兵衛が怒鳴った。そして「府内からつけてきておった時よりわれらはしっておった」 と言って笑った。
 ……いつ頃からばれてたのだろう…?とにかく、千代は縄でがんじがらめにされているために、すっかり意気消沈してしまった。この時代、間者(スパイ)を捕まえた時には残虐な目に合わせることが決まっている。耳を剃り落としたり、手足を切断したり……そのようにして雇主に返すのだ。それではもはや間者としては役に立たない。そこで、捕まった間者は自殺することが多かった。
 彼女も自殺しようとしたが、思いとどまった。そして、
”是非とも景虎に殺されたい”……と強く願った。
「このものをどうしてくれよう」
 新兵衛が言った時、
「是非とも景虎様に殺されたい、是非とも首をきって下さい」と千代は願った。
「あっぱれな覚悟だ。しかし、しばし待て、まだきき糺すことがある」
「なんだい?」
「お主、新兵衛の屋敷で奉公しておったの?」景虎は糺した。
「やや、そういえばみたことがある。若者かと思ったが……」
「ははは」千代が嘲笑した。「変装さ。お前さまの奥方を騙すためのね」
「なんだと?!」
 新兵衛が声を荒げた。
「やい、まだ死にたくないけれど、捕まったからには仕方ない!はやく殺せ!」
 千代はすっかり観念して尻を捲った。その迫力はさすがの景虎をもたじろがせた。
「はやく殺せ!」
「いわれぬでもそうするわい」新兵衛がまた声を荒げた。
「いや、耳を剃り落として春日山城へ送りつけるほうがよいのでは?」
 景虎が提案し、新兵衛も「それがよいでしょう」と言った。
「待て!」千代が言った。「なぜ春日山に?」
「今更すっとぼけても遅い!おぬしらの雇主におぬしらを返すだけだ!耳をそり落としてのう」
「では、わたしらを雇ったのは春日山城の御殿様だと?」
「知れたことを申すな!」
 新兵衛が声を荒げた。すると、千代が嘲笑して、
「あははは……。それはとんだ勘違いだわ。私たちを雇ったのは若狭屋ですもの」
 と言った。
「馬鹿を申すな。なぜ商人がわれわれの動向を探るために忍者など使う?」
「あんたは…」
 …そんなこともわからないのかい?商売のためさ…。千代が再び嘲笑した。
「もうよい。縄を解いてやろう」
 景虎は言った。そして続けて「どうせこやつらは害にはならん。逃がしてやろう」と言って千代の縄を解いてやろうとした。そして、初めて、女のやわ肌に触れた。
……暖かく柔らかい…景虎は胸がドキドキするのを感じた。そして、一度きりだが死んだ美代の手を触れた時のことを、走馬燈のように思い出した。
 その途端、瞳に熱いものが込み上げてくるのを感じ、上を向いて堪えようとした。が、無駄だった。やがて、彼の瞳からぽたぽたと熱い涙がこぼれ落ちた。彼はそれをすぐぬぐった。……美代…この女も、美代に似ている……そう思った時、煩悩が彼を捕らえた。
「どうしたので?」
 千代がわけがわからず尋ねた。
「いや………なんでもない」景虎はふたりの縄を解いて「さぁ、去れ。われら両人は口外せぬゆえ、お前たちも若狭屋には顛末を告げるな」
「ご恩は一生忘れません」
 ふたりの忍者はそういって礼を述べ、ささっ!と、姿を消した。

「俺もついに煩悩にとらわれたか……」
 景虎は頭をかいた。…どんなことをしても寺で座禅を組んでも、女のやわ肌のことが思い出され、むらむらした。……暖かく柔らかい肌…景虎は胸がドキドキするのを感じた。そして、一度きりだが死んだ美代の手を触れた時のことを、走馬燈のように思い出した。「……美代。あの女……美代に似ている……」
「煩悩に悩まされているようじゃのう」
 常安寺の和尚が言った。
「和尚……俺もついに煩悩に捕らわれた」
「いよいよ正念をもって煩悩を断じませぬと大変なことになりまする」
 和尚が真剣にいった。
「……そうか」
 景虎は頭をかいた。……女、女、女、女のやわ肌……たわわな胸…煩悩が頭をよぎった。しかし、美代のためにも煩悩を絶たなければ…。しかし、あの女……美代に似ている……。「この越後の国には有力な国人衆が大勢おり、なかなか支配するのは骨が折れまする。しかも、兵力だけでは支配はだめです」
「……というと?」
「やはり、ひとを引き付ける神懸かり的なものがないとうまくいきません」
「…神懸かり的なもの?なにか手はないか?」
「まず…」和尚が言った。「あまねく有力国人衆の大勢が真似の出来ないことをせねば」「真似のできぬこととは?」
「一生不犯でござる」
「一生不犯…とは生涯結婚せず妻子を儲けないことであろう」
「はっ。しかし……すこし違いまする。生涯結婚せず妻子を儲けないことと生涯女子と交わらないことにござる」
「それが真似のできぬことなのか?」
「さようにござる」
「なぜ?」
「拙僧は経験がまだまだなのでござるが、女子と交わった者にきけば、男と女子との性的な交わりはたいそう気持ちのよいものとか…」
「男と女子との性的な交わり?」
「さよう」
「ふむ」
 景虎は思った。やはり煩悩の元はそれか……。男と女子との性的な交わり? それで女子の柔肌や胸や裸のことを考えると自分の一物が大きく勃起するのか……。しかし、こんなイヤらしい気持ちは死んだ美代に申し訳ない………よし!
「よし、和尚、俺は生涯不犯を通すぞ!」
 景虎は決心した。そしてそう言った。……死んだ美代のために!
「ご立派なお考えにござる。しかし、世間に公表せぬほうがよいかと…」
「なぜじゃ?」
「将来奥方をもらい妾をもったとき、周りの者が”あの大将は公約をやぶった”といって侮られ成敗の対象となりもうすかと」
「馬鹿もの!俺が公約をやぶったりするか!俺は生涯不犯を通すぞ!……死んだ美代のために!」
「……美代とは?」
「いや、なんでもない!生涯不犯を国中に広めよ」
 景虎は新兵衛にも言った。常安寺には毘沙門天の像があった。のちの謙信は像に生涯不犯を誓った。死んだ恋人のために生涯不犯…というこの話を知ったのは千代だけだった。千代はうっとりと「……なんて素敵なのかしら…」と思った。そして、にこりとした。
 死んだ恋人のために生涯不犯……………なんて素敵なのかしら…。
  この頃、のちのライバル・武田晴信(信玄)には成長過程の息子、勝頼がいた。武田晴信(信玄)は才能のない勝頼には期待してなかった。「わしの後は…」信玄は嘆いた。

不犯の名将・上杉謙信「天と地と」ブログ連載小説3

2011年03月26日 08時21分28秒 | 日記
         初陣



    
  景虎は、兄・晴景にへりくだって下知を仰いだ。
 つまり、黒田秀忠を討つべきかどうか兄上が決めて下され…と仰いだのだ。このことは近隣の豪族や国人衆からも高く評価された。いい気分なのは晴景である。景虎が身分をわきまえて下知を求めてきたのだから…。しかし、彼は八年前、弟からうけた屈辱も忘れてはいなかったし、それを払拭できずにいた。
「景虎の栃尾軍が黒田秀忠軍に大勝したら、ますます自分の立つ瀬がない」
 無能の兄・晴景は思い悩んだ。
 しかし、グズグズもしてられない。事は急を要する。そこで、無能の兄・晴景は「黒田秀忠を討つべし!」という下知状をしたためて弟に送った。
「いざ、ものども!黒田秀忠、討つべし!」
 景虎は兵を率いて、馬上でいった。
 すると、「おおーっ!」と、雄叫びが響いた。
 若き武将・長尾景虎の初陣である。
 彼は漆黒の鎧を身にまとい、黒く凛々しい馬にまたがっていた。…近くにいる少年に変装している女忍者・千代が「もう待ちきれない。すぐにでも彼と交わりたい」と思うほど、若き武将・長尾景虎は凛々しかった。
「御大将、ごらんあれ!」
本庄実仍が馬を寄せてきて指差すと、その方角には栖吉城よりの兵・二千騎が見えた。軍勢がおのおの旗指物をはためかせながら進んでくる。率いるのは無論、長尾景信に違いない。「俺が春日山の兄上に下知を仰いだからこそ、栖吉城の長尾景信も動いたのだな」 長尾景虎は、本庄の眼を見て微笑んだ。
目指す黒滝城へ近付くと、すでに与板城主・直江実綱と三条城の山吉行盛が、陣を張っていた。地侍たちは、ふたりが挙兵したので、長尾勢に寄騎していた。
長尾景虎(のちの上杉謙信)は、地侍たちが挨拶にくると、名前を、旗指物の名を読み上げ(教育が域届かず、漢字の間違いが多かったが、景虎は全員の名前を覚えていて)、「なんの誰それ、大儀!」と、挨拶をした。そのため、
「俺の名前を大将が覚えていてくれた」
 と、彼の評価は益々高くなった。
「あのものは来なかったの」
 景虎はわざと口の動きがわかるように、新兵衛に言った。
「いかがなさりましょう?」
「うむ。使いをやれ」
「はっ」新兵衛は言った。
 と、馬丁の少年が、腹を押さえて陣幕から出ていった。
「野糞か? 御屋形様がいるんじゃけぇ…遠くでやれよ」馬丁長のおやじが言って笑った。 しかし、その少年は女忍者の千代だった。
……怪しと思ってたが、やっぱり……景虎は少年の正体に気付いて思った。
「しかし、あのもの自らが使いのもの(千代松と弥太郎)の跡をつける訳ではあるまい」 お前たちの跡をつけるか、あるいは追い越していく者を生け捕りにせよ…そう命令してあるのだが、うまくやれるだろうか……?景虎は心配になった。忍者は生け捕りになるくらいなら自殺する、ということを知っていたからだ。
 自殺されてしまったら、こちらが間者に気付いた、と知らせるだけだ。
「ふたりは間者を生け捕りに出来ないかも知れない」
 しかし、誰が間者を放った……?兄上か?もっと違うものか?
 景虎は猛烈に頭脳を働かせてから、
「ふたりは間者を生け捕りに出来ないかも知れない」と新兵衛に言葉にして言った。
「ごもっともなお考えと存じます」新兵衛は言い続けて、「申し訳ありません、間者に最近まで気付きませんでした」
「しくじったの、ふたりは手ぶらで帰るやも知れぬ」
「なかなか腕のたつ間者でございました」
「まったく」景虎は続けた。「あの若者は、われらが栃尾にきてすぐに雇った馬丁……とすると雇主はやはり兄者…」
「でしょう」
 新兵衛も頷いた。……ふたりの推理は肝心なところで違っていた。まさか、雇っているのが若狭屋であることなどわかるハズもないが……。
 ふたりは長尾晴景への敵愾心を募らせた。
「兄上は腹黒い男じゃ」
 景虎は猛烈に腹を立てた。
 一方、千代は、林の奥に入ってから脱兎のごとく逃げた。…自分の正体がばれたのに気付いたのだ。「こりゃ、逃げるしかないよ」
 林をどんどんと進むと、やがて黒田秀忠の居館らしきところに着いた。誰もいない。人影がまるでなかった。皆、黒滝城に籠城しているからに違いない……千代は思った。
「しめしめ、これで化粧していい服でも着れば、姫さまにでも妾にでも化けられる」
 千代はにやりとした。
 今、千代は少年の変装をしているけれども、もともと美人なので「どこそこの姫」にでも簡単に化けられる。…それくらい千代は美人だった。
「しかし…どうしょう?」
 千代は迷った。
 このまま山を越えていけば、黒田勢の兵士に見付かる。こんな状態だから皆、むらむらと欲求不満であり、すぐにでも押し倒されて犯された後、殺されるに決まっている。では、といって栃尾勢の陣にいっても「何ゆえ女子がひとりで来たのか……?」と、怪しまれるに決まっている。「しかし…どうしよう?」
 そう迷いながらも、千代は三十分もしないうちに綺麗な美人の娘に変装してなよなよと黒田秀忠の居館から出てきた。そして、
「まてよ」と思った。
 黒滝城からもここが見える。城に近付いてくる手弱女は内通者と見られて、矢で射られるに決まっているではないか。こりゃヤバイ!景虎様と寝るまでは死ねないんだよ。
 千代は森にひそみ、日暮れを待つことにした。
 その頃、景虎は決断を迫られていた。
「なら、これより戦評定をいたそう」
 敵の黒田秀忠が”わしは頭をまるめてさすらいの旅にでるゆえ許してくれ”などと申し入れてきたのだ。…本心か?騙しか?
 各軍団の大将たちがぞくぞくと陣幕の中に集まってきた。景虎は礼儀正しく、丁重に意見を正し、自分の意見はいわなかった。しばらくすると、各軍団の大将たちはぽつぽつと本音を言い始めた。
 それは、受け入れるべし、という内容がほとんどだった。
……黒田秀忠勢力をそのままにしても我らの害にはならぬ。
 ”黒田秀忠が頭を丸めて旅立つのを見てから…”という案は景虎はとらなかった。…許すといったのにそれでは警戒されるだけじゃ…。
 千代の思惑は外れた。
 日暮れを待って栃尾兵にわざと掴まり、景虎の元へ連れていかれねんごろに一夜をともに…と考えていたが、
「なんだ、黒田の館より逃げてきたのか。気の強い女子だの。黒田の物見に見付からぬうちに戻れ。戦はなしじゃ。われらは引き揚げじゃ。鞍替えはならぬぞ」
 と物見の黒金孫左衛門に見付かって叱られた。
「えっ?城攻めをおやめになるので……?」
 千代は面食らった。
「そうじゃ。はよう戻れ」
「はい」
 千代は面食らったまま言った。
 しかし、のこのこと黒田城にいく訳にもいかない。誰ひとり知っている者がいないばかりか、今着ているのはすべて盗んだ着物である。このままいったら丸裸にされて犯され、その後すぐに殺されてしまうだろう。「まずい…」
 千代は頭をめぐらせた。そして、
「あぁぁぁ…」と色っぽい声で呻きながら、よろよろと足軽大将のほうに倒れかかった。「いかがいたした?女」
 千代は発作でもおこしたような演技で、足軽大将のほうに倒れかかった。千代の色っぽい身体に触れ、白粉(おしろい)の匂いを嗅いで男は興奮してしまった。「おい、女!しっかりいたせ…誰か薬師を」
 足軽大将は頬を赤くして、鼻の下をのばした。いやらしいことを考えてしまった。
 この女(千代)の情報は、景虎たちの元へも届いた。
「女子が……?」
「用心いたせ」景虎が言った。「黒田の刺客かも知れん。あの黒田秀忠は降伏すると見せ掛けて刺客を送ってきたのやも知れない」
                          
「御大将、篝火を絶やさぬようにしましょう。念のために兵に禁酒させます」
 新兵衛が言った。
「そうだの、用心のためじゃ。俺なら酒を飲んでも酔わぬが、普通のものは酔っ払ったら役立たなくなるからの」
「さよう。弓もひけず、馬にも乗れなくなりもうす」
 新兵衛が頷いた。そして「女子の夜の相手もできなくなるかと」と笑った。
「ふふ……城攻めが二、三日も続けば彷徨い歩く女子供も珍しくないだろうが…」
「まったく」
「おい、あの馬丁の親方を呼べ」
 景虎が命じた。するとさっそく親方が震えながらやってきた。景虎は罰しないといい、安心させてから「さきほどの馬丁は?」と聞いた。
「服とももひきを残したまま姿を消しました」
 親方はぶるぶる震えながら、言った。
「さようか。ならば…」
「ならば…?」
「その女にそのももひきを履かせよう。ぴったりなら、それで分かる」
「しかし」新兵衛が、「では、女を丸裸にするので?」ときいた。
「そうだ!なにか差し障りがあるか?」
「いえ」
 新兵衛は言葉を失った。……これはまずいと思った。景虎はおそらく女子の裸を見たことがないはず。それがいきなりこのような戦場の神聖な場所で、女の裸をみたら…どうなるだろう?女のたわわな胸や尻、グロテスクな陰部を見たら……興奮か?勃起か?それとも女への幻滅か?とにかくロクなことにならない…。
 そう思っていると、幕の後ろで景虎の愛馬の鳴く声がした。
「なんだ?!俺の馬が……」
 そうしてると、馬に乗った千代が背後に駆け出した。
「おのれ、俺の馬を……追え!生け捕りにいたせ…!」
 景虎が大声で言った。
「やはり名うての間者でござりましたか」
 新兵衛はそういい「壁に耳あり…でしたな」と続けた。
「本当に女子だったのか?男の女装では?」       
「いや。足軽の話によるとたわわな乳房があったと…」
「そうか」
 景虎がうなずいた。
 そこへ使いのもの(千代松と弥太郎)が帰ってきた。
「間者を見なかったか?」
「いえ。誰も…」
 ふたりは言った。で、景虎が「馬鹿もの!」と怒鳴った。
「申し訳ございません」ふたりは平伏した。
 …それから話題が、女子の話になると弥太郎は都の女の味は格別だ、と言った。その間者もそれで、若殿さまも味見をできたところを惜しうございました、と言った。
 しかし、景虎には「女の味見」の意味がわからなかったので、何度も説明を求めた。
 新兵衛は恥ずかしいことを説明せねばならず、難儀した。
 説明が終わると景虎はふたたび「馬鹿もの!」と怒鳴った。
「お主らは淫乱じゃ」というのである。
「五戒を知らぬのか?」
「………五戒でございますか?」
「うむ」景虎は言った。「五戒とは、不殺生、不盗、不邪淫、不妄語、不飲酒…これが五戒だと坊主に教わった。しかし、われら武士に不殺生は無理じゃわな。だが、不邪淫は守れる」
「不邪淫とは……女子と交わることで?」
「そうじゃ!交わることじゃ」
 景虎は言った。
「しかし……女子のやわ肌に触れ、何をいたすのは気持ちよきことで…」
 景虎はふたたび「馬鹿もの!」と怒鳴った。「それが、いかんのじゃ。煩悩を消せ!」「煩悩を………ですか?」
 家臣は景虎の純さに唖然とした。
 一方、逃げおうせた千代は、馬を降り、栃尾城に戻る算段を考えていた。
 男忍者に「これは御大将の馬らしいので届けにまいった…といえば入れてくれるよね」と、千代が笑顔で言った。彼等は、正体がまだばれてないと思っていた。
「そうだな」
 彼らはさっそく城に向かった。
 偶然に城の物見櫓から下界を見ていた景虎と新兵衛はふたりに気付いた。
「あいつらがきます」
「そうか……今度は逃がすなよ」
 景虎は言った。                                


天空のひと・直江兼続「天地人」ブログ連載小説4

2011年03月15日 09時14分15秒 | 日記
         4 軍神・謙信





   兼続らはひととおり戦談義と見学を終えた後、母の見舞いに山をおりた。   
 生母の名はお藤という。
  母はすでに出家している為、定額山善光寺によることになる。最近はめっきりと病気がちになってもいた。いわゆる病気見舞いのようなものである。兼続には不安があった。何度も自分にかわって母の見舞いにきている弟から「母者の病状は悪い」と、きかされていたからだ。しかし、それを顔に出して面会する程、兼続は馬鹿ではない。
 上杉謙信にはかなわないまでも、内に智略を秘める利発な人物は、心をなかなか見せない。智略家に多い、謀略性がこの男の特技でもある。母上が死ぬ訳がない……
 それはわずかな希望であった。
 しかし、元来の現実主義者でもある兼続ではあったが、やはり不安は隠せない。
 ひとは死ぬ。
 子より親が先に死ぬのは道理でもあり、自然の摂理でもある。
 ……それはわかっているが……
 兼続は涙が出そうにもなった。痛々しい母の顔をみたときである。いかに智略家であっても感情までもコントロールはできない。悲しいし、母恋しい思いもあるに決まっている。 早くより謙信の姉・仙桃院に目をつけられて上杉家に仕官し、仙桃院の子・卵松・喜平次(上杉景勝)の補佐をしていた兼続に代わって、弟が母の見舞いと看病を続けていた。 母は布団から身を起こして、
「元気そうでなによりです、与六」という。
 兼続は、「いいえ。母者。どうか寝ていてくだされ」という。
 お藤は、坂戸城主・長尾政景の重臣だった樋口惚右護門兼豊に嫁ぎ、坂戸城(現在・新潟県南魚沼市)で、二男一女をもうけた。それぞれ、         
  樋口与六兼続(のちの直江兼続)
  樋口与七実頼
 などである。
  その中でも若いときから秀才でならして春日山城の上杉家に召し抱えられた兼続にかわって、実頼はよく母の看病にあたっていたのだという。
 母は繰りごとのように「上杉家……もっと長尾輝虎(のちに上杉謙信)公に仕え精進しなさい。お前は母の子ではなく、越後の子になりなさい!お前はこの紅葉のような家臣になるのですよ」
 という。当たり前だ。越後に生まれの人間は、若い御屋形様、謙信公は軍神のようなものである。一度も戦に負けたことがない無敗伝説は『越後の龍』の伝説となっている。
「ははっ!」
 兼続はうやうやしく母に頭を下げた。
 そして、兼続には母が消えかけた蝋燭の風前の灯と映り、その後の言葉が出なくなった。母者! ……どうか一日でも長く生きてくだされ。心の中で思うだけである。


  兄弟ふたりは壮天の青空をみつめ、丘の上にいた。
 そよ風が頬をかすめ、心地好い。
 ふたりはしんとした顔になり、
「母者は……だいじょうぶであろうか?」といいあった。
「まあとにかく」兼続はいった。「わしは上杉家のために精進する。母者の命通りに…」「御屋形様は天下をとれるじゃろうか?」
「……わからぬ」
 弟は訝しがった。「わからぬとは? 御屋形様は越後の龍……だれにも負けないはずじゃろうが兄者?」
「その御屋形様は天下を獲ろうという野心がない。越後の関東の守護となればあるいは…」 兼続には残念でならない。武田信玄如きは天下を欲していた。織田に討たれた今川義元も天下を狙った男だ。しかし、御屋形様(謙信)は領土を広げようという欲がない。
 上杉謙信のような軍略の天才ならば天下だって夢ではない筈だ。
 しかるに……
 兼続は遠くを見るような目をした。
「とにかく……わしは上杉家のために尽力するのみだ。のう実頼、それでよかろう?」
「兄者?」
 ふたりは無言になった。ちなみに喜平次はのちの上杉景勝である。
 与六(のちの直江兼続)と喜平次は幼少の頃、一緒に雲洞庵で学んだ。
 そんなとき馬の足音がきこえた。まずい! 赤い四菱の旗指物……武田軍じゃ!
「おんしら上杉者かぁ~っ?!」
 馬が三騎やってくる。とにかく逃げねば。
 矢が雲霞の如く飛んでくる。
「痛っ!」
 矢が兼続の肩をかすめた。少し、出血した。ふたりは駆け出し、藪の中に逃げ込んだ。 何とか逃げきったようである。それにしても危なかった。ふたりは大きく溜め息をもらした。武田め! 信玄が死んだからと勝頼の時代となっても荒々しい。
 過擦り傷の兼続は肩をおさえた。血が滲んだ。
「どうなされた?」
 可憐な女子が、ふたりに声をかけてきた。
 武田者ではないらしい。
「なあ~に。少し矢が掠めて血が出ただけじゃ」
 兼続はいった。女子は「化膿すると悪い。手当てしてやろう」という。
「このあたりの者か?」
 実頼は尋ねた。
 女子は「そうだ」という。「とにかく岩宿にこい」
 ぶしつけな態度をよそおっているのか…はたまた田舎者だからか…
 しかし、麗しき女子である。身形は不様というか貧乏くさいが。まさか間者か? とにかくふたりと女子は岩宿にいった。手当されてる間も、兼続は用心するような目で女子を見ていた。間者だとしたら武田…いや違うな。北条? 今川? それとも何処ぞや。
「…女子、名は?」
 兼続はきいた。
「お船」
 女はぶしつけに横顔のままいった。そして、急に笑顔になり、何かいいかけた。
「なんだ?」
 実頼は不信に思い、きいた。
「あなた方は越後訛りがある。しかも武家のものであろう?」
 するどかった。
「あなた様は樋口兼続さまですね?」
「…なぜわしの名を?」
 兼続は驚いた声をした。するどすぎる。やはり間者か?
「幼い頃より明晰で、船で溺死した政景の夫人、仙桃院さまに取り立てられて召し抱えられ、世継ぎの景勝さまの小姓頭兼補佐役となられたのでありましょう?」
 ふたりは無言で刀にそっと手をかけた。
「わらわは怪しい者ではござりません。斬ってもらっても結構ですが、まずそれより景勝さまは上杉の養子となられたとか……しかも養子はもうひとりいて北条からの養子・三郎景虎さまとか…」
「くわしいの、女。どこぞかの間者であろう?」
「いいえ。兼続さま、見当違いでござりまする」
 女はふふふと微笑んだ。可愛い顔立ちである。「もう武田の者もいなくなりましたでしょう。武家のお偉いさまがこのような岩屋にいるべきではありません」
「……世話になった」
 兼続は驚いた顔のまま、腰をあげた。何者だ? この女子は……。
 ふたりはとにかく、場を去った。これがのちの運命の女となろうとは兼続でさえ思わない。するどく、明晰な女子じゃ。兼続は初めて、賢い女というものを知った。
 現代では女性が活躍するのは珍しくはないが、戦国時代では女子は活躍の場さえなかった。只の子供を産む道具のような見られ方が一般だったのである。



                            
  仙桃院は四十九歳……しかし美貌のために三十代頃にしかみえない。
「上杉家はわらわの弟・政虎(謙信)の神通力(カリスマ)で動いているようなもの」               
 息子・景勝を補佐する兼続に本音を吐露した。
 兼続は平伏してから、「仙桃院さまはさすがにわかっていらっしゃる」
「しかしのう、兼続。われの息子で弟の養子・景勝以外にも、北条からの養子・三郎景虎もいる。政虎(謙信)はどちらを世継ぎに選ぶのか?」
「わかりませぬが、拙者の考えではやはり利発な景勝様でござりましょう」
「弟は不犯などと申して女人を受け付けぬ。こまった武将じゃ」
「いや」兼続は口をはさんだ。「なればこそ……御屋形様は神の如く崇められておりまする。ひとから義をとってしまえば野山の獣と同じでござる!」
「神か? しかし所詮は人間。天罰などと申しても義の戦などと申しても所詮は人間のおごりに過ぎぬ」
 仙桃院はするどかった。さすがは謙信の姉である。凡人だった謙信の兄・晴景とは違う。 兼続は何といっていいかわからずにいた。
 仙桃院は察した。「…ともかく、何があろうと、景勝のこと頼みまする」頭を軽く下げた。恐れ多い。兼続はふたたび平伏して「ははっ!」と歌舞伎役者のように唸るような声を発した。利発で聡明な男じゃ。仙桃院は微笑んで、
「そなたが男前なので、周りの女子たちが噂しておる」という。
「…なんと?」
「そなたにはひとに好かれる才があるようじゃの」
「いえ。めっそうもない。わたくしも御屋形様にならって不犯を…」
「女子を求めぬと?」
「いいえ。そのう…」兼続は困った。「どうしましょう?」おかしな言葉が口をついた。 仙桃院は笑って、
「無理なことじゃ。弟・謙信は変人なだけ……真似をしようとも不可能じゃ」
「…とにかく景勝さまを死ぬまで補佐いたしまする!」
「それは重畳! 頼みまするぞ」
 仙桃院はいった。兼続はこの後、秀吉から幾ら銭を積まれても仕官を断り、景勝を補佐し続ける。直江兼続はやがて、徳川家康までも恐れさせていくのだ。

  上杉政虎(謙信)が二度目の上洛のときとなった。
 朝廷から正式に関東守護に任命された。京は殺伐としていたが、上杉の行列が続いた。そして、事件は起こった。
 春日山城にいた宇佐美定満(フィクションの上杉謙信の大軍師・宇佐美定行とは一字違いだがこちらは実在の人物)は兼続を呼び止めた。深刻な顔だった。
「与六、そち、御屋形様をどう思う?」
 謙信に三願の礼をもって向かいいれられた宇佐美は、また謙信の弱さも見抜いていた。 兼続は、「御屋形様はまるで戦神のようでござりまする」という。
 宇佐美の白髪頭の眉間に皺がよった。
「戦神か……そうであればよいがな。領国の衆もそう見ていよう。しかし…所詮は御屋形様とて人間に過ぎぬ。怒りや癇癪や涙……人間なればこそだが失敗もしよう。そうすれば神話も消え失せようて…」
「何か上洛のおりありましたのでございましょうか?」
 兼続はわざと知らぬふりをした。宇佐美にはわかっていたが、あえて口にしない。
「上洛し、行列していたところ下馬せず見ていたものがおった」
「成田長政にございますな?」
 兼続はにやりといった。
「やはり…」宇佐美は唸った。「そちは只者ではないな。やはり知っておったか」
「いえ。只、わが耳に早く届いただけにござりまする」
「御屋形様は怒り身頭に達したのか鬼のような形相で伽籠からおりて近付き……成田を馬の上から引き摺り下ろし、鞭うった」
「『無礼者めが!』とでしょう?」
「うむ。まずいことだ。”人間”を出しては御屋形様でなくなる。他国の御屋形なればそれでもよかろうがのう」
「北条の籠城中にひとりでむかい、矢の霰の中、酒を飲んで死中に活を得たこともありましたとか…」
「うむ」宇佐美は顎を軽く撫でて「それもこれもすべては演技であれば上杉家を継いでも意味なしじゃ。義だの仁などと申したとて領民は見限ようて…」
「それで関東出兵のおり、成田勢が裏切って北条側についたのですな? 人質の伊勢夫人が越後におるというのに……こまりましたな」
 まるで宇佐美定満がふたりいるようである。謙信にとっての宇佐美と、景勝にとっての宇佐美……。ふたりは深刻な顔で黙り込むしかなかった。
 しかし、当の本人・上杉謙信はいっこうに気にもせず上洛ののち、武田攻めのために武楴式をとり行なうのみだ。武楴式とは謙信が出陣前にとり行なう儀式であり、現在の米沢市の上杉祭りでも川中島合戦ショーの前日のとり行なわれている。
 政虎から輝虎となり、出家してこの年、上杉謙信となった御屋形様は武楴式を行う。
「天はわれにあり、鎧は胸にあり…われこそ毘沙門天なり!」
 おおおおっ~っ!
 謙信の激で、軍の兵士たちからどよめきが起こる。「いざ出陣!」…おおおお~っ!
 川中島の戦いは七度行われたが、結局痛み分けでおわる。
 このために信玄は天下を獲ることもなく肺病で死んでしまう。


  上杉謙信は与六兼続を弟子のように見ていた。
「兼続……そちはまだ若い」
 謙信は座敷でいった。兼続は下座で平伏している。
 謙信は剃髪しているために白いスカーフのようなものをかぶっている。「若いからこそ義を軽んずる」
「申し訳ござりません」兼続は再び平伏する。
「たが、それはいい。若いとはいいものじゃ。われもそちのようなときがあった」
「御屋形様が?!」
 謙信の思わぬ言葉に、兼続は驚いてみせた。義に劣る行為とは、兄・長尾晴景を追い落として領首になったことだという。兼続の生まれる前ではある。
「わしの義を受け継ぐのは養子の景勝でも三郎景虎でもない。そちじゃ」
 兼続は恐縮して、「恐れ多いことで…」と平伏した。
「正直な気持ちじゃ。期待しておるぞ。上杉家が生きるも死ぬるもすべてはそち次第じゃ」 謙信は正直に本音を吐露した。
 天才軍神は、宇佐美定満の後釜となるであろう兼続の天才を理解していた。さすがは英雄である。こののち謙信と兼続は本当の師弟関係になっていくことになる。         
  お船は直江家、直江景綱の子女であり、お船の方と呼ばれていた。
 お船はじゃじゃ馬をならして、兼続と再会した。騒ぎをおこしお供のものを困らせた。   そして、お船は兼続と結婚し(お船の元・亭主は直江景綱の養子になった直江信綱)、直江兼続となった夫に「泣き虫!」とふざけてみせた。「…何じゃと?」「昔とかわりありませんね? 幼い頃わらわたちは遊んでおって…旦那さまは木に登ったはよいがおりられなくなって泣きました。同じです…泣き虫! 旦那様がそのような泣き虫では困りまするよ」
 お船は可愛い顔で、いった。
「わかった。もう泣くのはやめじゃ!」
「…でも、私がみまかったときだけは泣いてくださいまし!」
 お船が乙女心をみせると、兼続は「そうじゃのう」といった。
 何にしてもこれで兼続は年上の嫁をもらった。しかし、子はすぐに夭生してしまう。直江兼続はお船以外の側室を生涯もたなかった。妻だけを愛した。
 ここでも兼続は義を通したのだ。

裁判員裁判初「死刑判決」連続リンチ殺害元・少年ら死刑

2011年03月14日 07時15分11秒 | 日記
裁判員制度

平成6年(1994年)「連続リンチ殺害事件(4人虐殺)」で犯人で当時18歳から19歳の元・少年(小林正人死刑囚(36)、小森攘死刑囚(35)、芳我匡由死刑囚(35))に死刑求刑です。これはもちろん当たり前なんですが、何故ここまで時間がかかるのか?これは元・少年の鬼畜どもが何度も控訴、上告したからです。鬼畜の殺戮魔の小林、小森、芳我らは「未成年だったからまだひとの死の重さがわからなかった」と抜かしたとききます。こういう輩は早く「死刑執行」すべきですね。裁判には「三審制」というのがあります。「地方裁判所」で納得がいかなければ「控訴」して「高等裁判所」で裁判、それでも納得いかねば「上告」して「最高裁判所」まで裁判することができるのが「三審制」です。2010年12月10日、裁判員裁判では初の「死刑求刑からの無罪判決」でした。鹿児島の夫婦強殺事件で白浜政広被告(71)が無罪判決です。ですが、事件現場に指紋や皮膚DNAが残り、アリバイがない、「事件現場には一度も行ってない」が嘘、という「明らかな冤罪」とは言えません。いわゆる「疑わしきは被告の利益に」というグレー判決です。2010年11月19日、宮城県石巻市での被告少年(19)が3人殺傷した事件で裁判員裁判未成年初の「死刑求刑」がされました。2010年10月25日裁判員裁判初の「死刑求刑」がなされました。横浜市で殺害し、遺体をバラバラにし遺棄した鬼畜・池田容之(ひろゆき・32)被告が「死刑求刑」です。また類似事件は秋葉原の耳掻き店に勤める江尻美保さん(21)をストーカーして祖母の鈴木芳江さん(78)とともに殺害した事件で、林貢二(こうじ、42)被告に死刑求刑がなされました。裁判員裁判では初の「死刑求刑」ですが「無期懲役」でしたね。「無期懲役」が確定しました。2010年8月「死刑制度の再考を」と千葉景子法務大臣の意向で「死刑執行場」がマスコミに公開されました。世界200国で「死刑制度廃止」されているのですが、日本は存続するという。が、遺族からみたら「何で娘が殺されたのにあいつ(犯人)はのうのうと生きているんだ?!」という感情は当然だろう。それがひとの情というものだ。私だってそういう気持ちはよくわかる。だから敵を謀殺したのだ。それが人間というものなのだ。そんな「死刑制度」のウイッキペデアです。死刑制度があるのは米国(州によってない州も)日本や東アジア、中央アジア、中東、東アフリカです。トルコは死刑制度を廃止することを条件にEU加盟しました。物凄く死刑をしているのは中国と北朝鮮です。実は国連に「死刑廃止条約」というのがあるのですが、日本などや中国は認めていません。北朝鮮は独裁国家だからです。死刑廃止派は「冤罪だったら?」「生きて罪を償わせたら?」といい、死刑存続派は「遺族の気持ちは?」「命で償うべきでは?」といいます。現在107人の死刑囚が「拘置所」で24時間監視中です。刑務所ではないので作業などはありません。一般的に警察に捕まると「留置所」に入れられ法が決まるまで「拘置所(警察庁管轄)」に保留され、法が決まったら「刑務所(法務省管轄)」で作業など(禁固刑は作業なし)をして罪を償う訳です。法務大臣がサインすれば死刑執行されますが2001年から2009年まで7人しか執行されていません。ちなみに「無期懲役」とは10年から30年で刑務所から出されます。税金負担軽減の為ですが、なら「終身刑」にしたら?という意見がありますが介護費医療費など「終身刑(一生出られない)」の方が税金負担は大きいです。2004年5月裁判員法成立、2009年5月裁判員法施行、2009年8月に初の裁判員裁判が開始されました。何故一般のひとが裁判に参加することになったか?は日本の裁判は「お上が取り行う」ということでプロの裁判官が行っていました。しかし、1980年代から死刑囚の最審無罪、つまりえん罪が相次いで明らかになり、弁護士から「裁判官は検察官の主張を採用し過ぎる」との批判が強くなったからだそうです。最高裁や法務省は消極的でしたが、五年という異例の周知、準備期間を経て今年から始めました。日本には昔国民が裁判に関わったことがありました。戦前の1928年に国民だけで有罪・無罪を審査する陪審員制度が導入されて、484件審理されました。でも、国民の出した決論が裁判官を拘束しないシステムだった為に浸透せずに43年に停止されたそうです。なぜ「陪審員」でなく「裁判員」なのか?ですが、海外では事件ごとに国民が審理する陪審員制度と、審議制度があり、審議会はどちらを選ぶか激論になることがあり、松尾浩也東京大学名誉教授が参加する国民を「裁判員」と呼びましたそうです。事件ごとに裁判員6人と補欠3人裁判官3人で有罪無罪と量刑を決める日本独自案ができたそうです。最初の裁判員制度の事件は東京都内で近所トラブルで小島千枝さん(66、本名文春子)を藤井勝吉被告が刺殺した事件でありました。裁判員は女性5人に男性1人でした。裁判員は46人の中から選ばれました。裁判は裁判員がわかり易いようにコンピューターグラフィックやわかり易い言葉で行っていました。また死体の傷の写真にはさすがに目をそらしたり眉をひそめていたそうです。裁判員制度は私は反対します。なぜならプロではなくアマチュアが審理を行なうからです。プロの裁判官や弁護士なら冷静沈着に裁きが出来ます。が、ど素人は「感情論」になるに決まっています。例えば、山口県光市の母子殺害事件のような判例の場合、「被害者の本村さんのいう通りだ!」「犯人元・少年は強姦魔だ!」などとなるに決まっています。そもそもなぜ国民が参加する必要があるのか意味がわかりません。参加するにしても何故「凶悪事件だけ」なのでしょうか?もっと軽い万引きやひったくりでは何故駄目なのでしょうか分からないです。私は参加したくありません。国民の7割が参加したくありませんと言っています。意味がわかりません。何故「凶悪事件だけ」なんですか?もっと軽い万引きやひったくりでは駄目なのでしょうか分からないです。説明してください。またいわゆる「時効」が廃止されました。「逃げ得を許さない」それはそれでいいのですが、犯罪から30年や50年喪たつと供述やアリバイ、証拠も散在しますし、「30年前の5月4日の午後何をしていた?」などときかれてもアインシュタインでも答えられない。足利事件のような冤罪をどう防ぐのかが課題です。今回は官僚の「天下り」についてです。天下りは有名でしょうが、本当に知っているひとは少ないです。民主党政権は天下り早期退職を禁止にする方針です。が、公務員を65歳まで勤務させていくとやはり無断な仕事をまた造る可能性はありますね。公務員の2割カットにしても(私は個人的には3割カットボーナスカットするべきだと思う)官僚や役人が反発するに決まっています。公務員は低給料ですが「天下り」で何十億円くらい(税金を)貰う訳です。八ツ場(やんば)ダムにしても50年間で3600億円使ったらしいけど何千人の官僚が「甘い汁」を吸ったことでしょうか。すべては「天下り」が原因な訳です。官僚に「65歳定年」を聞くと「いらない老人事務次官が永くいすわって人事が沈滞する」と答えます。公務員も民間企業のように「抜擢」や「降格」「外からも人材抜擢」をするべきです。でも公務員改革は明治以来の「公務員給料法」をかえないと無理です。あのマッカーサーでさえかえられなかった法律です。民主党は出来るでしょうか?みんなの党は「内閣人事局」を提案しています。霞が関幕府を倒せるか?官僚の新人はまだ「改革意識」があるそうですが…。「身分」から「職業」へです。まあ、頑張ってください。  
          教育の失敗、ノブレス・オブリージュ
 
  「人事院勧告」とは「人事院」とは「国の人事部」です。国家公務員や国会議員の給料を韓国する行政機関です。が、だいたい民間が年収406万円にたいして公務員年収は633万9000円です。人事院は「民間と同じ基準で」というが「エリート企業と同じ…」というおまけつきなんです。2010年11月26日、馬渕氏仙谷氏の問責決議案が可決されました。馬渕国土交通大臣は「尖閣諸島中国漁船衝突ビデオ流出事件」で仙谷官房長官は「自衛隊を「暴力装置」」と発言したことでだ。2010年11月22日、国会軽視発言をうけて菅内閣の柳田法相が辞任しました。菅直人総理大臣ならびに仙谷官房長官、馬渕大臣、前原大臣らの「ドミノ辞任」の問責決議案も野党は検討しているようです。民主党の柳田法務大臣が地元広島でのパーティーで「法務関係なんかさっぱりわからないから官僚まかせ(馬鹿で資質がないから)」「法務大臣としての国会答弁は2つだけ。「個別の案件にはお答え出来かねます」と「法的観念に対して適切に対処していきます」だよ(笑)」と言って(39回も言っている)反感され一応謝罪しました(馬鹿のひとつ覚えの「真摯に対応していきます。謝罪いたし…」を20回繰り返す)。このひと馬鹿なの?菅内閣支持率は26%、「法相辞任するべき」は79%です。現在、「官僚の天下り」は4500の特殊法人団体に2万5000人が天下りして毎年12兆円が無駄になっています。民主党政権になってから「天下り」を禁止するとの「建前論」から事実上の天下りである現役官僚による民間企業への出向を良しとした。「退官後」からの天下りより「現役」であるほうがむしろ悪質で質が悪い、という現役経済産業省官僚の古賀茂明氏の主張は至極当然で正論である。だが、その古賀氏を官房長官である仙谷由人(せんごくよしと)氏が恫喝し、2週間もの「ひとり全国出張」を科して虐めるなど言語道断である。いったい「影の首相」は国民と官僚機関や労組のどちらの味方なのか?なお官僚とはキャリア役人のことです。キャリアとはかなり難しい国家公務員試験をパスした役人のことでおもに中央官庁(霞が関)に勤める 官僚のことです。
おもに東京大学法学部卒業が多いといわれます。何故かといえば東京大学(旧・帝都大学)法学部は元元、「官僚を育てる為に作られた大学」だからです。東京大学以外でキャリア試験をパスしていないひとは「ノンキャリア」といわれなかなか出世することが出来ません。そんな中で逮捕されました村木厚子元・被告は異例の出世をしたことになりますね(村木氏は2010年9月10日に「無罪」です)。また官僚の騙しのテクニックを教えます。官僚は正面からは抵抗しません。例えば霞が関文学というのがある。「財政」は予算編成のことです。「調査審議する」は予算編成を含まないことです。すれ違い答弁もします。とにかくくねくねといい逃れます。「完全無料化」と「完全に無料化」は「に」が入っただけでかなり違います。にが入ると「完全無料化」ではなく民間法人や国の持ち株主化も含まれる訳です。 官僚の主な仕事は「国会対策(政治家の答弁)」です。 つまり政治家がどんな質問をしてどんな答えをするか決めて「作文」を作成することです。政治家は官僚の「操り人形」のようなものなんです。だからこの統治能力をなくすべきです。官僚が「政治家の作文を造るのは止めさせて」政治家に自分自身の頭で考えさせることです。 官僚にももちろん定年は「建前として」あります。が、官僚社会は完全なピラミッド形式です。一番偉いのは大臣(政治家)ですが、官庁のトップは「事務次官」です。ですが事務次官はたったひとりしかなれません。当然ながら歳をとるごとに「間引き」される訳です。 だから官僚は定年前に省庁の関連会社に天下りする訳です。ですが「再就職」とはいえ、官僚はハローワーク(職業安定所)で職場を探す訳ではありません。退職金何千万円を貰った後で「渡り」と言って出身省庁関連会社役員など数年間だけ席を置き、次々と会社役員などを渡り歩き、その度々に「何千万円」もの退職金を貰います。合計金額は何億円の退職金を貰うそうです。その再就職先で元・官僚は何日も出社せずに、官庁と天下り会社の「口聞き(公共事業の斡旋など)」をするだけです。 能力が本当にあるひとならいいんですが…。まあ、一般会社では「渡り」はもちろん「官庁省庁による再就職活動」などすることはありません。官僚はハローワーク(就職案内所)で再就職活動をしてください。それがノーマルな就職活動というものです。とにかく「天下り」や「渡り」を禁止してください。官僚はハローワークに行って就職活動をしてください。 まあ、天下り先の公益法人の廃止ですね。 よく聞かれる「友愛」とはプリンシィプルやノブレス・オブリージュではないだろうか。「友愛」を一般化することなど不可能です。意味もありません。猿の世界を見ればいい。ボス猿は仲間の嫌いな猿をいじめ抜く。いじめられた猿は隅で小さくなっている。人間は猿とは違う。いじめられたら「負けたままで堪るか。今に見ていろ!」という人間が出てくる。この反発力が人類を発展させてきた。皆がニコニコ笑ってお互いが好きという世界はむしろ不気味だし、人間の成長もあり得ない。あのソクラテスでさえ死のまぎわは「私は知識の海の浜辺で貝殻を拾っているだけだ」という。あの天才のソクラテスでさえ「自分の無知」を認めて死んだ。なのにソクラテスの半分のIQもない輩がわかったことを言うのは醜悪です。私だって「知らないことばかり」です。もっと自分の頭で考えるところです。知らないことは知らないことです。わかったふりでは何も変わらない。お互い勉強不足ですね。頑張ってください。 また「お金儲け」のことですが、確かに「お金」は大事です。どんな綺麗事を言ったところでお金がなければ一切れのパンさえ買えない。それが現実です。だがだからと言ってホリエモンや小室哲哉のように「命の次に大事なのはお金だ!」では只の馬鹿です。よく論語と算盤というように「お金儲け」と「論語(道徳)」は両立するべきです。「命の次に大事なのはお金だ」では只の福永法源です。所詮、お金儲けには論語がないと只のホリエモンや小室哲哉や福永法源のように没落する。要は何の為にお金儲けをするか?だ。私利私欲では何も変わらない。民主党政権になったところで何も生活は飛躍的には変わらない。宝くじを買ったって当たる訳ありません。努力なきところでペイなきです。論語と算盤というように人間はいかになろうともプリンシプルを失っては生きていけないのです。悪銭身につかずです。努力なきところにお金儲けなしです。ホリエモンや福永法源や小室哲哉では意味がありません。もっとプリンシプルをしっかり持ってください。上杉の義を持ってください。それがプリンシプル(原理・原則)です。 またノブレス・オブリージュとは高貴なる責任です。高い地位やポジションにいるひとやパブリックサーバント(公僕)には責任がともなうということです。只の権力欲や出世心では高い地位やポジションについても失敗する。高い地位のひとには「社会的貢献の責任」がともなうということです。頑張ってください。 
 
 

AKB48  桜からの手紙AKB48日テレドラマそれぞれの卒業物語

2011年03月14日 03時38分40秒 | 日記


大人気「AKB48」のウィキペディア 会いに行けるアイドル!

「会いに行けるアイドル」[1] をコンセプトに、専用劇場でほとんど毎日公演を行っている。メディアを通した遠い存在だったアイドルを身近に感じ、その成長していく過程をファンに見てもらい、共に成長していくアイドル・プロジェクトとされている。
劇場でのチーム別の公演を活動の中心に据え、各チームから選抜されたメンバーによってシングルCD発売やメディア展開を図るという形が基本になっている。
公演は全てオリジナル曲で行われ、2010年10月現在、370曲を超えるオリジナル曲[2] が発表されている。ほぼ全ての作詞を、総合プロデューサーの秋元康が担当[3] し、多数の作曲家により作曲されている。AKB48発足当時の舞台監修と振り付けは、ハロー!プロジェクトなどの振り付けを手掛けた夏まゆみが主に担当していた(近年では牧野アンナなども振り付けを手がけている)[4]。
メンバーのステージ衣装は、大半が秋元康が副総長兼芸術学部教授を務めている京都造形芸術大学の学生がデザインしている[5]。
AKB48は2005年に結成し、2007年までに3チーム体制を確立。2007年3月に初の全国ツアーを行い、『第58回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たしている。
2008年2月に発売した、シングルCD「桜の花びらたち2008」の販売方法を巡るトラブル(後述)の後、一旦CDリリースが途絶えたが、キングレコードへ移籍してからは活動もより活発となった。
2009年8月22日・23日には、AKB48として初の日本武道館でのコンサート『AKB104選抜メンバー組閣祭り』を開催。2009年からは『AKB48選抜総選挙』が実施されている。
公式ブログのタイトルが示すように、東京ドームでのコンサート開催を目標に置いている。当初は、メジャーデビューを目標にしていた。
メンバーは恋愛禁止というのが建前である(厳密には片想いはOKだが、両想いは厳禁。これにより、自覚に欠けた行動を取ったとして解雇に至ったメンバーが存在する。)[6]。
メンバー全員が歌手を目指している訳ではなく、AKB48は1つの通過点であり、メンバーの志望は、歌手・声優・ファッションデザイナー・女優等様々である。ただし、最近のオーディションにおいてはAKB48のメンバー入りを目標として応募してくる者も多く、デビュー間もない時期に加入したメンバーは残念だと感じているという。
グループ名の由来 [編集]
グループ名のAKBの由来は、ホームグラウンドが位置する秋葉原(あきはばら)の略称「アキバ」(AKiBa)からである。プロジェクト開始当初は、「秋葉原48」として募集告知などをしており[7]、NTT DoCoMoとのメンバー募集タイアップCMなどを始め、インディーズデビュー当時の各種メディアでは「Akihabara48」とされていたこともある。その後、「エーケービー」に統一された。
48の由来は、総合プロデューサーの秋元康のイメージではあくまで商品番号で意味は無いと語っている。その名の通り、構成人数は総勢48名程度である(メンバーの入れ替わりにより、多少の変動はある。48人で活躍している時期が長いが、必ずしも48人でなければならないという訳ではない。)。初期の構想では1軍24名+2軍24名の計48名というものだった[8]。なお、所属事務所であるoffice48の社長の芝幸太郎の姓(芝=48)からと48と決めたとする説もあり、真偽は不明となっている。
AKB48劇場 [編集]
詳細は「AKB48劇場」を参照
ドン・キホーテ秋葉原店の8階にある専用劇場「AKB48劇場」をホームグラウンドとして活動している。また、ドン・キホーテ秋葉原店の5階にはDVDやグッズを販売する「AKB48 SHOP」が開設されている。
なお、2009年6月からはシアターGロッソ(東京ドームシティ)をセカンドフランチャイズとして、不定期で公演を行っている。
姉妹プロジェクト [編集]
2008年夏には、名古屋・栄を拠点とする姉妹ユニットSKE48、2009年夏には、AKB48劇場を本拠地とする第二のグループとして20歳以上のメンバーのみを集めた姉妹ユニットSDN48、2010年秋には、大阪・難波を拠点とする姉妹ユニットNMB48がそれぞれ誕生している。その他の都市でグループを作ることも構想段階として発表されている。
「SKE48」の誕生以後、メディアなどで「AKB48」の名称が姉妹プロジェクトを含めた総称として呼ばれることもある。
海外展開 [編集]
2007年9月22日には初の海外公演として、チームBが北京の中国芸術研究院で開催された「日中文化人懇談会2007」に参加。 2009年にはアメリカとフランスで、2010年にはアメリカ、シンガポール、ロシア、マカオなどでライブを行った。
また、2010年10月24日には、香港にて海外初のAKB48オフィシャルショップをグランドオープンした[9]。
メンバー [編集]
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AKB48のメンバーは、チームA、チームK、チームBの3つのチームの内、どれか一つに所属している。AKB48劇場での劇場公演は、原則としてチーム単位で行われる。
またこの他上記3チームに所属していない研究生と呼ばれるメンバーがいる。研究生は、バックダンサーや正規メンバーの不足・休演時の補充メンバーとして公演に出演する他、研究生を中心にした公演にも出演する。
2009年頃からAKB48のメディア露出増加に伴い、正規メンバーの公演に比べ研究生のみで行われる公演の比率が増える傾向にある。
チーム分けについて
各チームへの所属は、結成時からチームB発足までは、オーディションの実施順で決められた。ただし、チームB発足前に大量の辞退者が出たため、チームAから3名異動して補強された。
旧チームA:オープニングメンバーオーディション合格者(オリジナルメンバー)(1期)※篠田麻里子は追加加入のため1.5期とされる。
旧チームK:第2期追加メンバーオーディション合格者(2期)
旧チームB:第3期追加メンバーオーディション合格者(3期)と、チームAからの異動者
これ以降のオーディションでは、合格者はすべて研究生に所属し、その中から適宜正規メンバーへと昇格してA・K・Bの各チームに所属するようになった。
研究生オーディション合格者:研究生1期=4期、研究生2期=5期、研究生3期=6期、…
※オーディションの詳細は、オーディション内容参照。
2010年からの新体制
2009年8月の武道館公演(「AKB104選抜メンバー組閣祭り」)で、「新内閣の発足」が発表され、チームA・K・Bのメンバー組み替えと、一部メンバーのSDN48への完全移籍、研究生の大量昇格が行われることになった。当初2009年10月からの予定が、たびたび延期され、2010年になって以下のスケジュールで実施された。
2010年2月21日 - 旧チームK解散(K5th千秋楽)
2010年3月12日 - 新チームK始動(K6th初日)
2010年4月16日 - 旧チームB解散(B4th千秋楽)
2010年5月21日 - 新チームB始動(B5th初日)
2010年5月27日 - 旧チームA解散(A5th千秋楽)
2010年7月27日 - 新チームA始動(A6th初日)
5ヶ月掛けて段階的に実施したため、移行期間中は新旧両チームの公演に出演するメンバーがいたり、長期に渡って公演に出演できなかったメンバーもいる。
チームA [編集]
コーポレートカラーは(桃)
太字はキャプテン
名前 よみ 加入時期 旧所属 所属事務所 備考 総選挙順位 じゃんけん選抜順位
第一回 第二回
岩佐美咲 いわさ みさき 7期 研究生 プロダクション尾木 - 1回戦敗退
多田愛佳 おおた あいか 3期 B 20位 22位 2回戦敗退
大家志津香 おおや しづか 4期 研究生 ビスケットエンターテイメント - 1回戦敗退
片山陽加 かたやま はるか 3期 B アトリエ・ダンカン 28位 37位 2回戦敗退
倉持明日香 くらもち あすか 4期 K ビスケットエンターティメント 21位 23位 10位
小嶋陽菜 こじま はるな 1期 A プロダクション尾木 6位 7位 3位
指原莉乃 さしはら りの 5期 B 太田プロダクション 27位 19位 2回戦敗退
篠田麻里子 しのだ まりこ 1.5期 A サムデイ AKB48最年長 3位
高城亜樹 たかじょう あき 6期 ビスケットエンターティメント 23位 13位 8位
高橋みなみ たかはし みなみ 1期 プロダクション尾木 5位 6位 1回戦敗退
仲川遥香 なかがわ はるか 3期 B 本名:中川遥香 - 20位 4位
中田ちさと なかた ちさと 4期 A Mousa 本名・旧芸名:中田千智 - 2回戦敗退
仲谷明香 なかや さやか 3期 B - 2回戦敗退
前田敦子 まえだ あつこ 1期 A 太田プロダクション 1位 2位 15位
前田亜美 まえだ あみ 7期 研究生 フロスツゥー - 5位
松原夏海 まつばら なつみ 2期 K プロダクション尾木 30位 39位 2回戦敗退
チームK [編集]
コーポレートカラーは(緑)
チームKキャプテンは未定
名前 よみ 加入時期 旧所属 所属事務所 備考 総選挙順位 じゃんけん選抜順位
第一回 第二回
秋元才加 あきもと さやか 2期 K office48 元チームKキャプテン 12位 17位 2回戦敗退
板野友美 いたの ともみ 1期 A ホリプロ 7位 4位 1回戦敗退
内田眞由美 うちだ まゆみ 5期 研究生 Mousa - 1位
梅田彩佳 うめだ あやか 2期 K office48 - 32位 2回戦敗退
大島優子 おおしま ゆうこ 太田プロダクション 2位 1位 1回戦敗退
菊地あやか きくち あやか 3→7期 B→研究生 プロダクション尾木 本名・旧芸名:菊地彩香 -
田名部生来 たなべ みく 3期 B Mousa - 12位
中塚智実 なかつか ともみ 5期 ドレスコード - 9位
仁藤萌乃 にとう もえの ホリプロ - 29位 2回戦敗退
野中美郷 のなか みさと 6期 研究生 プロダクション尾木 -
藤江れいな ふじえ れいな 4期 A イトーカンパニーリセ - 33位 1回戦敗退
松井咲子 まつい さきこ 7期 研究生 サムデイ - 14位
峯岸みなみ みねぎし みなみ 1期 A プロダクション尾木 16位 14位 1回戦敗退
宮澤佐江 みやざわ さえ 2期 K office48 14位 9位 2回戦敗退
横山由依 よこやま ゆい 9期 研究生 AKS 2010年10月10日付で昇格 不参加 - -
米沢瑠美 よねざわ るみ 3期 B アーティストハウス・ピラミッド 22位 34位 1回戦敗退
チームB [編集]
コーポレートカラーは(青)
太字はキャプテン
名前 よみ 加入時期 旧所属 所属事務所 備考 総選挙順位 じゃんけん選抜順位
第一回 第二回
石田晴香 いしだ はるか 5期 研究生 ホリプロ - 27位 2位
奥真奈美 おく まなみ 2期 K office48 正規メンバーでは最年少 - 1回戦敗退
河西智美 かさい ともみ ホリプロ 10位 12位 13位
柏木由紀 かしわぎ ゆき 3期 B ビスケットエンターティメント フレンチ・キス リーダー 9位 8位 1回戦敗退
北原里英 きたはら りえ 5期 A 太田プロダクション 13位 16位 2回戦敗退
小林香菜 こばやし かな 2期 K office48 - 11位
小森美果 こもり みか 7期 研究生 プロダクション尾木 - 30位 1回戦敗退
佐藤亜美菜 さとう あみな 4期 A アトリエ・ダンカン 8位 18位 2回戦敗退
佐藤すみれ さとう すみれ 7期 研究生 ホリプロ - 31位 6位
佐藤夏希 さとう なつき 2期 K ビスケットエンターティメント - 7位
鈴木まりや すずき まりや 7期 研究生 ドレスコード - 1回戦敗退
近野莉菜 ちかの りな 5期 K イトーカンパニーリセ - 16位
平嶋夏海 ひらじま なつみ 1期 A→B プロダクション尾木 渡り廊下走り隊 リーダー 26位 2回戦敗退
増田有華 ますだ ゆか 2期 K office48 25位 1回戦敗退
宮崎美穂 みやざき みほ 5期 A ホリプロ 18位 21位
渡辺麻友 わたなべ まゆ 3期 B プロダクション尾木 本名:渡邊麻友 4位 5位 2回戦敗退
チーム研究生 [編集]
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名前 よみ 加入時期 所属事務所 備考 総選挙順位 じゃんけん選抜順位
第二回
阿部マリア あべ まりあ 10期 AKS 不参加 -
伊豆田莉奈 いずた りな
市川美織 いちかわ みおり
入山杏奈 いりやま あんな
牛窪沙良 うしくぼ さら 11期
大場美奈 おおば みな 9期 昇格先未定[10] -
加藤玲奈 かとう れな 10期 AKB48最年少 不参加
金沢有希 かなざわ ゆうき
川栄李奈 かわえい りな 11期
小嶋菜月 こじま なつき
小林茉里奈 こばやし まりな 10期 2回戦敗退
島崎遥香 しまざき はるか 9期 昇格先未定[10] 28位 -
島田晴香 しまだ はるか -
鈴木紫帆里 すずき しほり 7→11期 不参加
竹内美宥 たけうち みゆ 9期 昇格先未定[10] -
永尾まりや ながお まりや 1回戦敗退
仲俣汐里 なかまた しおり 10期 不参加
中村麻里子 なかむら まりこ 9期 昇格先未定[10] -
名取稚菜 なとり わかな 11期 元子役 不参加 -
藤田奈那 ふじた なな 10期
森杏奈 もり あんな 9期 昇格先未定[10] -
森川彩香 もりかわ あやか 11期 不参加
山内鈴蘭 やまうち すずらん 9期 昇格先未定[10] 36位
山口菜有 やまぐち なう 11期 不参加
元メンバー [編集]
元正メンバー [編集]
名前 よみ 加入時期 卒業日時 最終所属 現所属事務所 備考
宇佐美友紀 うさみ ゆき 1期 2006年3月31日 旧チームA フリーランス
上村彩子 うえむら あやこ 2期 2006年6月17日 旧チームK オフィス ワタナベ 脱退
折井あゆみ おりい あゆみ 1期 2007年1月25日 旧チームA office48
高田彩奈 たかだ あやな 2期 2007年6月22日 旧チームK -
今井優 いまい ゆう フリーランス
星野みちる ほしの みちる 1期 2007年6月26日 旧チームA エイアールリレーションズ 現芸名:Michiru
渡邊志穂 わたなべ しほ 2007年10月2日 旧チームB プラチナムプロダクション 元旧チームA現芸名:渡辺志穂
増山加弥乃 ますやま かやの 2007年11月30日 旧チームA パーフィットプロダクション
井上奈瑠 いのうえ なる 3期 2008年9月29日 旧チームB -
大江朝美 おおえ ともみ 1期 2008年11月23日 旧チームA NEW GATE PRODUCTION
駒谷仁美 こまたに ひとみ サンミュージックブレーン
戸島花 とじま はな フリーランス
中西里菜 なかにし りな BELLTECH PRODUCTION 現芸名:やまぐちりこ
成田梨紗 なりた りさ オフィス斬
野口玲菜 のぐち れいな 3期 2009年2月1日 旧チームB -
松岡由紀 まつおか ゆき オフィス斬
川崎希 かわさき のぞみ 1期 2009年2月27日 旧チームA スカイコーポレーション
大島麻衣 おおしま まい 2009年4月26日 ホリプロ
早野薫 はやの かおる 2期 旧チームK トヨタオフィス
成瀬理沙 なるせ りさ 4期 2009年5月24日 エムズ・ファクトリー
佐伯美香 さえき みか 2009年8月23日 旧チームB -
大堀恵 おおほり めぐみ 2期 2010年2月21日 旧チームK ホリプロ 現・SDN48 旧芸名:松嶋めぐみ・大堀めしべ第1回総選挙24位
野呂佳代 のろ かよ 太田プロダクション 旧芸名:朝倉佳代
浦野一美 うらの かずみ 1期 2010年4月16日 旧チームB プロダクション尾木 元旧チームA第1回総選挙17位
小原春香 こはら はるか 5期 ドレスコード
佐藤由加理 さとう ゆかり 1期 2010年5月27日 旧チームA アーティストハウス・ピラミッド 第1回総選挙15位
小野恵令奈 おの えれな 2期 2010年9月27日 チームK - 第1回総選挙11位第2回総選挙15位
元研究生(卒業) [編集]
名前 よみ 加入時期 卒業日時 現所属事務所 備考
出口陽 でぐち あき 4期 2007年11月26日 ピタゴラス・プロモーション 現SKE48チームS
中西優香 なかにし ゆうか 2008年8月26日
有馬優茄 ありま ゆか 5期 2009年1月19日 -
鈴木菜絵 すずき なえ 4期 LIFE MUSIC ARTS CORPORATION
冨田麻友 とみた まゆ 5期 ジョリー・ロジャー
畑山亜梨紗 はたやま ありさ -
早乙女美樹 さおとめ みき 3期 2009年4月18日 元旧チームB
瓜屋茜 うりや あかね 4期 2009年4月26日 ビーマス
上遠野瑞穂 かとおの みずほ 7期 2009年6月9日 アークジュエル 現芸名:愛迫みゆ
浅居円 あさい まどか 8期 2009年12月4日 テンダープロ
石井彩夏 いしい あやか -
石部郁 いしべ あや
郭グレース かく ぐれーす
小水七海 こみず ななみ
坂本莉央 さかもと りお スウィートディレクション
冨手麻妙 とみて あみ ABCエージェンシー
三木にこる みき にこる カザミアエンターテイメント業務提携:オフィスコットン
村中聡美 むらなか さとみ 4→8期 -
石黒貴己 いしぐろ あつき 9期 2010年6月20日 旧芸名:石黒アツキ第2回総選挙40位
絹本桃子 きぬもと ももこ
藤本紗羅 ふじもと さら 4→9期
岩崎仁美 いわさき ひとみ 10期 2010年10月5日
佐野友里子 さの ゆりこ 8期
元研究生(辞退)・候補生 [編集]
名前 よみ 加入時期 辞退日時 現所属事務所 備考
礒怜奈 いそ れいな 3期候補 2007年4月8日以前 -
大塚亜季 おおつか あき
坂田涼 さかた りょう
藤島マリアチカ ふじしま まりあちか ポセイドンエンタテインメント 現芸名:マリアチカ
堀江聖夏 ほりえ みな - 旧芸名:聖夏
飯沼友里奈 いいぬま ゆりな 4期 2007年11月15日以前
金子智美 かねこ さとみ オフィス斬 現芸名:金子さとみ
小塚里菜 こづか りな -
渡辺茉莉絵 わたなべ まりえ ポニーキャニオンミュージック
西澤沙羅 にしざわ さら 6期 2008年8月23日以前 -
片野友里恵 かたの ゆりえ 2008年9月9日以降 - 本名:片野友理恵元アヴィラ所属
石黒莉美 いしぐろ れみ 7期 2009年1月16日付 本名:前田莉美
小松瑞希 こまつ みずき 8期 2009年7月14日付
林彩乃 はやし あやの 7期 2009年7月18日付 プラチナム・パスポート 現芸名:林あやの
西川七海 にしかわ ななみ 8期 2009年7月25日付 - 解雇
杉山未来 すぎやま みく 8期 2009年12月4日付 事実上解雇
伊藤彩夏 いとう あやか 9期 2010年1月6日付 旧芸名:南亜弥伽
今井悠理枝 いまい ゆりえ 8期 2010年2月1日付
高松恵理 たかまつ えり 9期 2010年6月20日付
植木あさ香 うえき あさか 8期 2010年7月6日付
豊田早姫 とよだ さき 11期 2010年10月23日付
岡ちなみ おかざき ちなみ 2010年10月27日付
川上麻里奈 かわかみ まりな 2010年12月3日付
所属事務所 [編集]
結成当初はメンバー全員がoffice48に所属していたが、マネージメントや露出展開の強化を図るために、また、卒業後も芸能活動が出来るように、2007年から大島麻衣・板野友美・河西智美がホリプロに移籍したのをきっかけに一部メンバーがほかの芸能事務所へ移籍することが発表された。

天空のひと・直江兼続「天地人」ブログ連載小説3

2011年03月14日 03時17分22秒 | 日記
        3 堺に着眼





  大河ドラマや映画に出てくるような騎馬隊による全力疾走などというものは戦国時代には絶対になかった。疾走するのは伝令か遁走(逃走)のときだけであった。上級武士の騎馬武者だけが疾走したのでは、部下のほとんどを占める歩兵部隊は指揮者を失ってついていけなくなってしまう。
 よく大河ドラマであるような、騎馬隊が雲霞の如く突撃していくというのは実際にはなかった。だが、ドラマの映像ではそのほうがカッコイイからシーンとして登場するだけだ。     ところが、織田信長が登場してから、工兵と緇重兵(小荷駄者)が独立することになる。早々と兵農分離を押し進めた信長は、特殊部隊を創造した。毛利や武田ものちにマネることになるが、その頃にはもう織田軍はものすごい機動性を増し、東に西へと戦闘を始めることができた。そして、織田信長はさらに主計将校団の創設まで考案する。
 しかし、残念なことに信長のような天才についていける人材はほとんどいなかったという。そのため信長は部下を方面軍司令官にしたり、次に工兵総領にしたり、築城奉行にしたり……と使いまくる。羽柴(豊臣)秀吉、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀ら有能とみられていた家臣の多忙さは憐れなほどであるという。
 上杉謙信の軍が関東の北条家の城を攻略したこともあったが、結局、兵糧が尽きて撤退している。まだ上杉謙信ほどの天才でも、工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離していなかったのである。その点からいえば、織田信長は上杉謙信以上の天才ということになる。
 この信長の戦略を継承したのが、のちの秀吉である。
 秀吉は北条家攻略のときに工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離し、安定して食料を前線に送り、ついには北条家をやぶって全国を平定する。
  また、この当時、日本の度量衡はバラバラであった。大仏建立の頃とくらべて、室町幕府の代になると、地方によって尺、間、升、などがバラバラであった。信長はこれはいかんと思って、度量衡や秤を統一する。この点も信長は天才だった。
 信長はさらに尺、升、秤の統一をはかっただけでなく、貨幣の統一にも動き出す。しかも質の悪い銭には一定の割引率を掛けるなどというアイデアさえ考えた。
 悪銭の流通を禁止すれば、流動性の確保と、悪銭の保有を抑えられるからだ。
 減価償却と金利の問題がなければ、複式記帳の必要はない。仕分け別記帳で十分である。そこで、信長は仕分け別記帳を採用する。これはコンピュータを導入するくらい画期的なことであった。この記帳の導入の結果、十万もの兵に兵糧をとめどなく渡すことも出来たし、安土城も出来た。その後の秀吉の時代には大阪城も出来たし、全国くまなく太閤検地もできた。信長の天才、といわねばなるまい。

  京都に上洛するために信長は堺や京都の商人衆に「矢銭」を要求しようと思った。
「矢銭」とは軍事費のことである。
「サル!」
 信長は清洲城で羽柴秀吉(藤吉郎)をよんだ。サルはすぐにやってきた。
「ははっ、御屋形様! なんでござりましょう」
「サル」信長はにやりとして「堺や京都の商人衆に「矢銭」を要求しろ」
「矢銭、でござりまするか?」
「そうじゃ!」信長は低い声でいった。「出来るか? サル」
「ははっ! わたくしめにおまかせくださりませ!」秀吉は平伏した。
 自分が将軍・義昭を率いて上洛し、天下を統一するのだから、商人たちは戦いもせず利益を得ているのだから、平和をもたらす武将に金をだすべきだ……これが信長の考えだった。極めて現実的ではある。
 サルはさっそく堺にはいった。商人衆にいった。
「織田信長さまのために矢銭を出していただきたい」秀吉は唾を飛ばしながらいった。周りの商人たちは笑った。
「織田信長に矢銭? なんでわてらが銭ださにゃあならんのや?」
「て……」秀吉はつまった。そして続けた。「天下太平のため! 天下布武のため!」
「天下太平のため? 天下布武のため? なにいうてまんねん」商人たちはにやにやした。「天下のため、堺衆のみなみなさまには信長さまに二万貫だしていただきたい!」
「二万貫? そんな阿呆な」商人たちは秀吉を馬鹿にするだけだった。
 京都も渋った。しかし、信長が威嚇のために上京を焼き討ちにすると驚愕して金をだした。しかし、堺は違った。拒絶した。しかも、信長や家臣たちを剣もほろろに扱った。 信長は「堺の商人衆め! この信長をナメおって!」とカッときた。
 だか、昔のように感情や憤りを表面にだすようなことはなかった。信長は成長したのだ。そして、堺のことを調べさせた。
 堺は他の商業都市とは違っていた。納屋衆というのが堺全体を支配していて、堺の繁栄はかれらの国際貿易によって保たれている。納屋衆は自らも貿易を行うが、入港する船のもたらす品物を一時預かって利益をあげている。堺の運営は納屋衆の中から三十六人を選んで、これを会合衆として合議制で運営されていること。堺を見た外国人は「まるでヴィニスのようだ」といっていること………。
 信長は勉強し、堺の富に魅了された。
 信長にとっていっそう魅力に映ったのは、堺を支配する大名がいないことであった。堺のほうで直接支配する大名を欲してないということだ。それほど繁栄している商業都市なら有力大名が眼をぎらぎらさせて支配しようと試みるはずだ。しかし、それを納屋衆は許              
さなかった。というより会合衆による「自治」が行われていた。
 それだけではなく、堺の町には堀が張りめぐらされ、町の各所には櫓があり、そこには町に雇われた浪人が目を光らせている。戦意も強い。
 しかし、堺も大名と全然付き合いがない訳でもなかった。三好三人衆とは懇篤なつきあいをしていたこともある。三好には多額な金品が渡ったという。
 もっとも信長が魅かれたのは、堺のつくる鉄砲などの新兵器であった。また、鉄砲があるからこそ堺は強気なのだ。
「堺の商人どもをなんとかせねばならぬ」信長は拳をつくった。「のう? サル」
「ははっ!」秀吉は平伏した。「堺の商人衆の鼻をあかしましょう」
 信長は足利義昭と二万五千人の兵を率いて上洛した。
 神も仏も将軍も天皇も崇めない信長ではあったが、この時ばかりは正装し、将軍を奉った。こうして、足利義昭は第十五代将軍となったのである。
 しかし、義昭など信長の”道具”にしかすぎない。
 信長はさっそく近畿一圏の関所を廃止した。これには理由があった。日本人の往来を自由にすることと、物流を円滑にすること。しかし、本当の目的は、いざというときに兵器や歩兵、兵糧などを運びやすくするためだ。そして、関所が物やひとから銭をとるのをやめさせ、新興産業を発展させようとした。
 関所はもともとその地域の産業を保護するために使われていた。近江国や伊勢国など特にそうで、一種に保護政策であり、規制であった。信長はそれを破壊しようとした。
 堺の連中は信長にとっては邪魔であった。また、信長がさらに強敵と考えていたのが、一向宗徒である。かれらの本拠地は石山本願寺だった。
 信長は石山本願寺にも矢銭を求めた。五千貫だったという。石山本願寺側ははじめしぶったが、素早く矢銭を払った。信長は、逆らえば寺を焼き討ちにしてくれようぞ、と思っていたが中止にした。



  第十五代将軍足利義昭が京都にいた頃、三好三人衆が義昭を殺そうとしたことがある。信長は「大事な”道具”が失われる」と思いすぐに出兵し、三好一派を追い落とした。三好三人衆は堺に遁走し、匿われた。信長は烈火の如く激怒した。
「堺の商人め! 自治などといいながら三好三人衆を匿っておるではないか! この信長をナメおって!」信長は憤慨した。焼き討ちにしてくれようか………
 信長はすぐに堺を脅迫しだした。
「自治都市などといいながら三好三人衆の軍を匿っておるではないか! この信長をナメるな!すぐに連中を撤退させよ。そして、前にいった矢銭を提供せよ。これに反する者たちは大軍を率いて攻撃し、焼き討ちにする」
 信長は本気だとわかり、堺の商人たちは驚愕した。
 しかし、べに屋や能登屋などの強行派は、「信長など尾張の一大名に過ぎぬ。わてらは屈せず、雇った浪人たちに奮起してもろうて堺を守りぬこう」と強気だった。
 今井宗久らは批判的で、信長は何をするかわからない「ヤクザ」みたいなものだと見抜いていた。宗久は密かに信長に接近し、高価な茶道具を献上したという。
 堺の町では信長が焼き討ちをおこなうという噂が広がり、大パニックになっていた。自分たちは戦うにしても、財産や妻子だけは守ろうと疎開させる商人も続発する。
 そうしたすったもんだがあって、ついに堺の会合衆は矢銭を信長に払うことになる。
 しかし、信長はそれだけでは満足しなかった。
「雇っている浪人をすべてクビにしろ! それから浪人は一切雇うな、いいか?! 三好三人衆の味方もするな! そう商人どもに伝えよ!」信長は阿修羅のような表情で伝令の武士に申しつけた。堺の会合衆は渋々従った。
「いままで通り、外国との貿易に精を出せ。そのかわり税を収めよ」
 信長はどこまでも強気だった。信長は人間を”道具”としてしかみなかった。堺衆は銭をとる道具だし、義昭は上洛して全国に自分の名を知らしめるための道具、秀吉や滝川一益、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀ら家臣は、”自分の野望を実現させるための道具”、である。信長は野望のためには何でも利用した。阿修羅の如き怒りによって………
 信長は修羅の道を突き進んだ。
 しかし、信長の偉いところは堺の自治を壊さなかったことだ。
 信長が事実上支配しても、自分の管理下に置かなかった。これはなかなか出来ることではない。しかし、信長は難なくやってのけた。天才、といわなければならない。
 この頃、信長の目を輝かせることがあった。外国人宣教師との出会いである。すなわちバテレンのキリスト教の宣教師で、南蛮・ポルトガルからの外人たちである。
 本当はパードレ(神父のこと)といったそうだが、日本では伴天連といい、パードレと呼ばせようとしたが、いつのまにかバテレン、バテレン、と日本読みが広がり、ついにバテレンというようになった。
 キリスト教の布教とはいえローマンカトリックであったという。イエズス会……それが彼等宣教師たちの団体名だ。そして、信長はその宣教師のひとりであるルイス・フロイスにあっている。フロイスはポルトガル人で、船で日本にやってきた若い青い目の白人男であった。フロイスはなかなか知的な男であり、キリスト教をなによりも大切にし、愛していたという。
 天文元年(一五三二)、ルイス・フロイスはポルトガルの首都リスボンで生まれた。子供の頃から、ポルトガルの王室の秘書庁で働いたという。天文十七年(一五四八)頃にイエズス会に入会した。そしてすぐインドに向かい、ゴアに着くとすぐ布教活動を始めた。この頃、日本人のヤジロウと日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルにあったのだという。フロイスは日本への思いを募らせた。日本にいきたい、と思った。
 その年の七月、フロイスは船で九州の横瀬浦に着いた。
 フロイス時に三十一歳、信長も三十一歳であった。同い年なのだ。
 そして、その頃、信長は桶狭間で今川義元をやぶり、解放された松平元康と同盟を結んでいた。松平元康とはのちの徳川家康である。同盟の条件は、信長の娘五徳が、家康の嫡男信康と結婚することであった。永禄六年のことだ。
 日本に着いたフロイスは、まず日本語と日本文化について徹底的に研究勉強した。横瀬浦は九州の長崎である。そこにかれは降りたった訳だ。
 一度日本にきたフランシスコ・ザビエルは一時平戸にいたという。平戸の大名は松浦隆信であったらしいが、宣教師のもたらすキリスト教には関心をほとんど示さず、もっぱら貿易における利益ばかりを気にしていた。
 ザビエルもなかなかしたたかで、部下のバテレンたちに「日本の大名で、キリスト教布教を受け入れない者にはポルトガル船も入港させるな」と命じていたという。
 フロイスの着いたのは長崎の田舎であったから、受け入れる日本人の人情も熱く、素朴であったからフロイスは感銘を受けた。
 ……これならキリスト教徒としてやっていける…
 そんなフロイスが信長に会ったのは永禄十一年のことである。ちょうど信長が足利義昭を率いて上洛したときである。そして、遭遇した。
 謁見場は京都の二条城内であった。
 フロイスをセッテングしたのは信長の部下和田・政である。彼は近江の土豪で、義昭が近江の甲賀郡に逃れてきたときに世話をした恩人であったという。忍者とかかわりあいをもつ。また和田の部下は、有名な高山重友(右近)である。
 右近はキリシタンである。洗礼を受けたのだ。
 フロイスが信長と謁見したときは通訳の男がついた。ロレンソというが日本人である。洗礼を受け、イエズス会に入会し、日本人で最初のイルマン(修道士)となっていた。







  謁見場は京都の二条城内であった。
 フロイスが信長に会ったのは、永禄十二年(一五六九)四月三日のことだった。フロイスは和田・政に付き添われて、二条城内にはいった。信長は直接フロイスとは会わず、遠くから眺めているだけだった。
 フロイスはこの日、沢山の土産物をもってきていた。美しい孔雀の尾、ヨーロッパの鏡、黒いビロードの帽子……。信長は目の前に並んだ土産物を興味深く見つめたが、もらったのはビロードの帽子だけだったという。他にもガチョウの卵や目覚まし時計などあったが、信長は目覚まし時計に手をふれ、首をかしげたあと返品の方へ戻した。
 立ち会ったのは和田・政と佐久間信盛である。しかし、その日、信長はフロイスを遠くから見ていただけで言葉を交わさなかった。
「実をいえば、俺は、幾千里もの遠い国からきた異国人をどう対応していいかわからなかったのだ」のちに信長は佐久間や和田にそういったという。
「では……また謁見を願えますか?」和田は微笑んだ。
「よかろう」信長は頷いた。
 数日後、約束通り、フロイスと信長はあった。通訳にはロレンソがついた。
 信長はフロイスの顔をみると愛想のいい笑顔になり、「近うよれ」といった。
 フロイスが近付き、平伏すると、信長は「面をあげよ」といった。
「ははっ! 信長さまにはごきげんうるわしゅう」フロイスはたどたどしい日本語で、いった。かれは南蛮服で、首からは十字架をさげていた。信長は笑った。
 そのあと、信長は矢継ぎ早に質問していった。
「お主の年はいくつだ?」
「三十一歳でごさりまする」フロイスはいった。
 信長は頷いて「さようか。わしと同じじゃ」といい続けた。「なぜ布教をする? ゼウスとはなんじゃ?」
 フロイスは微笑んで「ひとのために役立つキリスト教を日本にも広げたく思います。ゼウスとは神・ゼウス様のことにござりまする」とたどたどしくいった。
「ゼウス? 神? 釈迦如来のようなものか?」
「はい。そうです」
「では、日本人がそのゼウスを信じなければ異国に逃げ帰るのか?」
「いいえ」フロイスは首をふった。「たとえ日本人のなかでひとりしか信仰していただけないとしてもわれわれは日本にとどまりまする」
「さようか」信長は関心した。そして「で? ヨーロッパとやらまでは船で何日かかるのじゃ?」と尋ねた。是非とも答えがききたかった。
「二年」フロイスはゆっくりいった。
「………二年? それはそれは」信長は関心した。そんなにかかるのか…。二年も。さすがの信長も呆気にとられた。そんなにかかるのか、と思った。
 信長は世界観と国際性を身につけていた……というより「何でも知ってやろう」という好奇心で目をぎらぎらさせていた。そのため、利用できる者はなんでも利用した。
 だが、信長には敵も多く、争いもたえなかった。
 他人を罵倒し、殺し、暴力や武力によって服従させ、けして相手の自尊心も感情も誇りも尊重せず、自分のことばかり考える信長には当然大勢の敵が存在した。
 その戦いの相手は、いうまでもなく足利義昭であり、石山本願寺の総帥光佐の一向宗徒であり、武田信玄、上杉謙信、毛利、などであった。



天空のひと・直江兼続「天地人」ブログ連載小説2

2011年03月13日 08時14分39秒 | 日記
         2 桶狭間合戦




  樋口与六兼続は「信長は義に劣る者ときいている」という。
「では、今川公に負けまするか?」とは弟。
「わからぬ。だが、今川は何万の兵……織田はたった三千だ」
「では勝つのは今川公で?」
「知らぬ。だが、信長はうつけのようにみえるが軍事の天才だという。もしも…というときもあろう」
 兼続はいった。弟・与七実頼は「しかるにそのあるいはとは?」ときく。
「奇襲だ。わしが織田信長ならそうする。要は義元公の首をとればいいのだ」
 兼続はどこまでも明晰だった。「それにしても謙信公の戦は野遊びだ」
「野遊び?」
「信長がどんどん力をつけていくのに……いっこうに天下を狙わぬ」兼続は織田方に驚異の念を抱いていた。このままでは関東守護の座さえ危うい……。
「これ、御屋形様の悪口はけしからぬぞ!」
 父は叱った。名を樋口兼豊(惚右衛門)という。母は泉重蔵(お藤)で、まだ若い兄弟をきちんと躾ていた。
 戦国時代の二大奇跡がある。ひとは中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦、もうひとつが織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。
 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。
  斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長が弟・信行を謀殺したのは前述した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。
 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。
 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。
「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。
「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。
「は?」
「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。
 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。
 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。
 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのよい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。
 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。
 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。
 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。
「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。
 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは               
足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。
 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。信長の勝つ確率は極めて低い。
  今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。
  特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。
 今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。
 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。しかし当の松平元康(のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。
 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。
 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。
 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。なにを夢ごとを。家臣たちは訝しがった。





  松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。
 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。
 今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。今川義元は軍議をひらいた。
「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。
 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」
 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。
 柴田勝家は「そうか……とは? …御屋形! 何か策は?」と口をはさんだ。
 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。宮福太夫という猿楽師に、羅生門を舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。
「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」
 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。
 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。
「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。
「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」
「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」
「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。
「なんて御屋形だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」
「まったくあきれる。あれでも大将か?」
 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」
  信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。
「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」
「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」
「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」
 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。
「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の男がいった。この男こそ、のちの豊臣秀吉である。秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」
「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」
 日吉は迷ってから「奇襲にでればと」
「奇襲?」信長は茫然とした。
「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」
「さしでがましいわ!」信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。
「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。
 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。
「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。
「なんじゃ、猿」
「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」
「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」
「八百あまり」
「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。
「いま何刻じや?」
「うしみつ(午前2時)でごさりまする」猿はいった。
「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」
 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。そして有名な「敦盛」を舞い始める。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。
「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。わずかに長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎の五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。
 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。
「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」
 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。
 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。
 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。
 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」
 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。
「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。
 信長は叫んだ。
「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」
 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。
「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」
 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせ、にやりとした。
「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形である」と感心した。
 織田軍は密かに進軍を開始した。





                
  太子ケ根を登り、丘の上で信長軍は待機した。
 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。嵐の中で部下は「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。
 しかし、信長はその策をとらなかった。
「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」
 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」
 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。山の上から喚声をあげて下ってくる軍に今川本陣は驚いた。
「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。
「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」
 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!
 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。
 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!
「御屋形様をお守りいたせ!」
 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。
「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、新助の人差し指に噛みつき、それを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。
 義元はこの時四十二歳である。                   
「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。
 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。
「勝った! われらの勝利じゃ!」
 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。
  かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。
「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」
「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。
「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。
 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。
 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。
  今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。
 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。
 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。
 これに対して信長は「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。
 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。
 清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方にけっそうをかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。
  清洲城に戻り、酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。
 信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」
 家臣たちは意味がわからず顔を見合わせたという。                


天空のひと・直江兼続「天地人」ブログ連載小説1

2011年03月12日 03時46分38秒 | 日記
小説 天地人!   天空の人

   直江兼続

    とその時代

              ~上杉の智将の生涯 ~
               てんくうのひと   なおえかねつぐ
               ~天才武将、直江兼続…
                 「上杉の武功」はいかにしてなったか。~
                 直江兼続の生涯
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

  直江兼続は永禄三年、坂戸城主・長尾政景の重臣、樋口惚右衛門兼富の嫡子として生まれた。幼名・与六…上杉謙信の姉・桃姫(出家後・仙桃院)に仕える。
 十八歳のときに謙信と信玄との川中島の戦いをみる。以後、謙信を慕い、師弟関係へ。謙信が死ぬと、養子の景勝を補佐して『お館の乱』を勝利に導く。が、信長の勢いにおされる。奇跡が起こる。本能寺の変で信長が死んだのだ。その後、秀吉に従い、そして家康と対立……が、『関ケ原の戦』で米沢転封に。景勝とともに名門・上杉家を支えた兼続だったが、上杉の安泰を見守ると、死んだ。
                                おわり

         1 川中島




  天正四年(一五七六)……
 鬱蒼とした山道を駆けるふたりの男がいた。
「与七! 急げ! 大切な御屋形様の戦を見逃すぞ!」背の高い男がいった。
「待ってくれ……はあはあ…兄じゃ!」
 弟らしい男は息を切らした。
 先にいく背の高い男こそ、樋口与六兼続、のちの上杉家執政・直江山城守兼続(当時十七歳)である。背は六尺(一八〇センチメートル)はあるだろうか。    
 弟は樋口与七実頼で、ある。
 永禄3年(1560年)に兼続は生まれ、元和5年12月19日(1620年1月23日)に病死するまでの人生である。戒名は達三金智居士…墓は米沢市の松岬神社と林泉寺…
 兼続はハンサムな顔立ちで、すらりとした痩身な男で、智略のひとであったが、今はまだ只の若者に過ぎない。若き頃より、上杉謙信(長尾景虎)の元に仕官し、軍略を磨くことになるのだが、まだまだ謙信の方が上であった。謙信には姉がいて、名を桃姫という。 出家後は仙桃院と名を変えた。
 幼い頃、樋口与六兼続は上杉謙信(当時は長尾景虎)の馬上での勇々しい姿をみたことがある。父親の田んぼ仕事の合間に、越後でのことだった。
 与六兼続はその時の謙信の姿を目に焼き付けていた。上杉家ならば…もしや…自分も!「御屋形様は…戦神じゃ! ひとから義をとってしまえば野山の獣と同じだ!」
 毘、龍……の旗印が風にたなびく……英雄・上杉謙信は兼続には眩しく映った。
 謙信に子はいない。謙信は結婚をしていなかったし、女性をまったく近付けなかったからだ。そのため謙信は実は女性であった……などという史実とおよそかけ離れた説まであるくらいである。その実は男色の気があったからだという説もある。
 何にせよ、一族親類の数が絶対的な力となる戦国時代にあえて子をなさなかったとすれば、変人といわなければならない。与六は喜平次(景勝)に五歳で仕えたという。
「どちらが勝つじゃろうか?! 兄者!」
「御屋形様に決まっておろう」
「しかし…」実頼は続けた。「武田には山本勘介なる軍師が…」
「そんなやつ、御屋形様……上杉謙信公の足元にもおよばぬわ!」
 兼続は笑った。川中島は現在の新潟県と長野県の間に流れる千曲川のところである。ここで上杉軍と武田軍のこぜりあいが長く続けられていた。上杉謙信とは不思議なひとで、領土を広げようという野心のない人物で、各国の武将の中でも人望があつかった。楽しむが如く戦をし、武田攻めも義によって行っているだけだという。武田の領地である信濃や甲斐を狙っていた訳ではないのだ。すべては村上義清の要請……それだけだった。
 ちなみに兼続兄弟は戦に参加するために急ぐのではない。見学するためだった。これは何も珍しいことではなく、戦国時代にはよくあったことだという。例えば、牋ケ獄の戦いなどのときにも近くの農民たちが戦見学をしたとも記述にある。負傷者のために秀吉は農民から傘を買い上げたという。農民たちも貪欲なもので、負け組の将の首を狙って、賞金を貰ったり、死人の鎧や兜をかっぱらい金にかえる不貞な輩が大勢いたという。
 敗走中に農民に殺された明智光秀や小西行長なども不幸であった。
  そして、上杉謙信と武田信玄との激戦、川中島の戦いで、ある。

  信州(長野県)・川中島(信州と越後の国境付近)で、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)は激突した。世にいう「川中島合戦」である。戦国時代の主流は山城攻めだったが、この合戦は両軍四万人の戦いだといわれる。
  甲府市要害山で大永元(一五二一)年、武田信玄(晴信)は生まれた。この頃の十六世紀は戦国時代である。文永十(一五四一)年、武田信玄(晴信)は家督を継いだ。信濃には一国を束める軍がない。武田信玄は孫子の「風林火山」を旗印に信濃の四十キロ前までで軍をとめた。それから三~四ケ月動かなかった。
「武田などただの臆病ものよ!」
 信濃の豪族はたかをくくっていた。
 しかし、武田晴信はそんなに甘くはない。
 まず甲斐(山梨県)で軍備を整えた。
 出家もし、剃髪し、晴信から信玄と名をかえた。
 そして、信濃(長野県)の制圧の戦略をもくもくと練っていた。
「御屋形様! 武田の騎馬軍団の勇姿みせましょうぞ!」
 家臣たちは余裕だった。
 信玄も、
「信濃はわしのものとなる。甲斐の兵、武田軍は無敵ぞ」
 と余裕のままだった。
 謙信も「武田の兵を叩きつぶしてくれるわ!」息巻いた。
「いけ! 押し流せ!」
 陣羽織りの信玄の激が飛ぶ。
「うおおおっ!」
 武田の赤い鎧の集団が長槍をもって突撃する。
 信濃の豪族は油断した。そのすきに信玄は騎馬軍団をすすめ、信濃を平定した。領土を拡大していった。彼は、領土の経済へも目を向ける。「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定。治水事業も行った。信玄は国を富ませて天下取りを狙ったのである。
 第一次川中島の合戦は天文二十二(一五五三)年におこった。まだ誰の支配地でもない三角洲、川中島に信玄は兵をすすめる。と、強敵が現れる。上杉謙信(長尾景虎)である。謙信はこのときまだ二十二歳。若くして越後(新潟県)を治めた天才だった。謙信は幼い頃から戦いの先頭にたち、一度も負けたことがなかったことから、毘沙門天の化身とも恐れられてもいた。また、謙信は義理堅く、信濃の豪族が助けをもとめてきたので出陣したのであった。上杉軍が逃げる武田軍の山城を陥していき、やがて信玄は逃げた。信玄の川中島侵攻は阻まれた。(二万人の負傷者)
 天文二十三(一五五四)年、武田は西の今川、南の北条と三国同盟を成立させる。それぞれが背後の敵を威嚇する体制ができあがった。
「これで……不倶戴天の敵・上杉謙信を倒せる!」
 信玄は笑った。
 ある日、両軍主領があう機会があった。
 永禄元年五月上杉・武田の和議が起こり、千曲川を隔てて両将が会見したとき、謙信は馬から降り、川岸で会見しようとした。
 すると信玄は礼を重んじることもなく、
「貴公の態度はいかにもうやうやしい。馬上から語ってもよかろうぞ」と放言した。
 信玄には謙信のような「義」「礼」がなかったのである。
 謙信はやはり武田と戦うことを誓った。
 上杉謙信は武諦式をおこない、戦の準備をはじめた。
「……今度の戦で信玄を倒す!」
 謙信は兵に激を飛ばした。
「おう!」
 上杉軍は決起盛んである。
  第二次川中島の合戦は天文二十四(一五五五)年四月に勃発した。
 信玄は上杉が犀川に陣をはったときの背後にある旭山城の山城に目をつける。上杉は犀川に陣をはり、両軍の睨み合いが数か月続く。
 膠着状態のなか、上杉武田両軍のなかにケンカが発生する。
「やめぬか! 義を守れ!」
 謙信は冷静にいって、書状を書かせた。
 謙信は部下に誓約書をかかせ鎮圧したのだ。
 どこまでも「義」のひとなのである。
 信玄は違った。
「おぬしら、働きをしたものには褒美をやるぞ!」
 と、信玄は人間の利益にうったえた。
「欲」「現実」のひとなのである。
 信玄は戦でいい働きをしたら褒美をやるといい沈静化させる。謙信は理想、信玄は現実味をとった訳だ。
 やがて武田が動く。
 上杉に「奪った土地を返すから停戦を」という手紙を送る。謙信はそれならばと兵を引き越後に帰った。
「……信玄を信じよう」
 義の謙信は疑いのない男だ。
 しかし、信玄は卑怯な現実主義者だった。
 第三次川中島の合戦は弘治三(一五五七)年四月に勃発した。
 武田信玄が雪で動けない上杉の弱みにつけこんで約束を反古にして、川中島の領地を奪ったことがきっかけとなった。”信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。そして、民衆の悲しみは絶えない。隣国の主としてこれを黙認することなどできない”
 上杉謙信は激怒して出陣した。上杉軍は川中島を越え、奥まで侵攻。しかし、武田軍は戦わず、逃げては上杉を見守るのみ。これは信玄の命令だった。”敵を捕捉できず、残念である”上杉謙信は激怒する。”戦いは勝ちすぎてはいけない。負けなければよいのだ。 敵を翻弄して、いなくなったら領土をとる”信玄は孫子の兵法を駆使した。上杉はやがて撤退しだす。
 永禄二(一五五九)年、上杉謙信は京へのぼった。権力を失いつつある足利義輝が有力大名を味方につけようとしたためだ。謙信は将軍にあい、彼は「関東管領」を就任(関東支配の御墨付き)した。上杉謙信はさっそく関東の支配に動く。謙信は北条にせめいり、またたくまに関東を占拠。永禄三(一五六〇)年、今川義元が織田信長に桶狭間で討ち取られる。三国同盟に亀裂が走ることに……。
 上杉は関東をほぼ支配し、武田を北、東、南から抑えるような形勢になる。今川もガタガタ。しかも、この年は異常気象で、四~六月まで雨が降らず降れば十一月までどしゃぶり。凶作で飢餓もでた。
 第四次川中島の合戦は永禄四(一五六一)年、五月十七日勃発。それは関東まで支配しつつあった上杉に先手をうつため信玄が越後に侵攻したことに発した。信玄は海津城を拠点に豪族たちを懐柔していく。上杉謙信は越後に帰り、素早く川中島へ出陣した。
 上杉は川中島に到着すると、武田の目の前で千曲川を渡り、海津城の二キロ先にある妻女山に陣をはる。それは武田への挑発だった。
 十五日もの睨み合い…。信玄は別動隊を妻女山のうらから夜陰にまぎれて奇襲し、山から上杉軍を追い出してハサミ討ちにしようという作戦にでる(きつつき作戦)。
 しかし、上杉謙信はその作戦を知り、上杉軍は武田別動隊より先に夜陰にまぎれて山を降りる。
「よいか! 音をたてたものは首を斬り落とすぞ!」
 謙信は家臣や兵に命令した。
 謙信は兵に声をたてないように、馬には飼い葉を噛ませ口をふさぐように命令して、夜陰にまぎれて山を降りた。一糸乱れぬみごとな進軍だった。
 上杉軍は千曲川を越えた。
 九月十日未明、信玄が海津城を出発。永禄四(一五六一)年、九月十日未明、記録によれば濃い霧が辺りにたちこめていた。やがて霧がはれてくると、武田信玄は信じられない光景を目にする。
「……なんじゃと?! 上杉が陣の真ん前に?」
 信玄は驚いた。
 驚きのあまり軍配を地に落としてしまった。
 妻女山にいるはずの上杉軍が目の前に陣をしいていたのだ。上杉軍は攻撃を開始する。妻女山に奇襲をかけた武田別動隊はカラだと気付く。が、上杉軍の鉄砲にやられていく。「いけ! 押し流せ!」
 無数の長槍が交じりあう。
 雲霞の如く矢が飛ぶ。
 謙信は単身、馬で信玄にせまった。
 刀をふる謙信……
 軍配で受ける信玄……
 謙信と信玄の一気討ち「三太刀七太刀」…。
 このままでは本陣も危ない!
 信玄があせったとき武田別動隊が到着し、九月十日午前十時過ぎ、信玄の軍配が高々とあがる。総攻撃!
 ハサミうちにされ、朝から戦っていた兵は疲れ、上杉軍は撤退した。死傷者二万(両軍)の戦いは終了した。「上杉謙信やぶれたり!」信玄はいったという。
 武田信玄は川中島で勝利した。
 上杉はその後、関東支配を諦め、越後にかえり、信玄は目を西にむけた。
 第五次川中島の合戦は永禄七(一五六四)年、勃発した。
 しかし、両軍とも睨みあうだけで刃は交えず撤退。以後、二度と両軍は戦わなかった。 武田は領土拡大を西に向け、今川と戦う。こんなエピソードがある。今川と北条と戦ったため海のない武田領地は塩がなくなり民が困窮……そんなとき塩が大量に届く。それは上杉謙信からのものだった。たとえ宿敵であっても困れば助ける。「敵に塩をおくる」の古事はここから生まれた。
 武田は大大名になった。
 信玄は国づくりにも着手していく。治水工事、高板はたびたび川がはんらんしていた。 そこで竜王の民を移住させ、堤をつくった。
 上杉にも勝ち、金鉱二十もあらたに手にいれた。
 のちに信長は自分の娘を、信玄の息子勝頼に嫁がせている。
 しかし、信玄は信長の一向衆や寺焼き討ちなどをみて、
「織田信長は殺戮者だ! わしが生きているうちに正しい政をしなければ…」
 と考えた。それには上洛するしかない。

  のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。
 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。
 また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。
 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。
 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。
「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。

 石田三成は安土桃山時代の武将である。
 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大阪城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大阪城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「バカのヤツよのう、三成!」福島正則は酒臭い顔で、酒瓶を持ちふらふらしながら彼を嘲笑した。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに、はははは」
 三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」と正則をきっと睨んだ。
「たわけ!徳川さまが三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、正則!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、徳川さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」福島正則は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「そうだ。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したのさ。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放った」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうだ?」
「いや、いらぬ」
 福島正則は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人や領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「へん。なんとでもいえ」福島正則は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「正則」
「なんだ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公と淀君様が危ないのだぞ!」
  福島正則は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、徳川さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そうか」
 正則は拍子抜けして去った。嘲笑する気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴だな」苦笑した。
 次に黒田長政がきた。長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。

   関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・茨城の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。
 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。
 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。
 直江らは「何故にございますか?いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか?御屋形さま!」
 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ」
 直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ!刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。
 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。

   石田三成はよく前田利家とはなしていたという。前田利家といえば、主君・豊臣秀吉公の友人であり加賀百万石の大大名の大名である。三成はよく織田信長の側人・森蘭丸らにいじめられていたが、それをやめさせるのが前田利家の役割であった。三成は虚弱体質で、頭はいいが女のごとく腕力も体力もない。いじめのかっこうのターゲットであった。
 前田利家は「若い頃は苦労したほうがいいぞ、佐吉(三成)」という。
 木下藤吉郎秀吉も前田又左衛門利家も織田信長の家臣である。前田利家は若きとき挫折していた。信長には多くの茶坊主がいた。そのうちの茶坊主は本当に嫌な連中で、他人を嘲笑したり、バカと罵声を浴びせたり、悪口を信長の耳元で囁く。信長は本気になどせず放っておく。しかるとにき事件があった。前田利家は茶坊主に罵声を浴びせかけられ唾を吐きかけられた。怒った利家は刀を抜いて斬った。殺した。しかも織田信長の目の前でである。
 信長は怒ったが、柴田勝家らの懇願で「切腹」はまぬがれた。だが、蟄居を命じられた。そこで前田利家は織田の戦に勝手に参戦していく。さすがの信長も数年後に利家を許したという。「苦労は買ってでもせい」そういうことがある前田利家は石田佐吉(三成)によく諭したらしい。いわずもがな、三成は思った。







  信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。
 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。
 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。
 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。                      
 天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。
 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。
 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?
 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。
 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。
 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。
 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に無勢で、結局殺されてしまう。
 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)
 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。
 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。
 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。
 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。
 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。
 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。






  足利義昭が織田信長に「幕府回復のために力を貸していただきたい」と打診していた頃、信長はまだ稲葉山城(岐阜城)攻略の途中であったから、それほど関心を示さなかった。また、天皇からの「天皇領の回復を願いたい」というも放っておいた。
 朝倉義景の一乗谷城には足利義昭や細川藤孝が厄介になる前に、居候・光秀がいた。のちに信長を本能寺で討つことになる明智十兵衛光秀である。美濃の明智出身であったという。機知に飛んだ武士で、教養人、鉄砲の名人で、諸国を放浪していたためか地理や地方の政や商いに詳しかった。
 光秀は朝倉義景に見切りをつけていた。もともと朝倉義景は一国の主で満足しているような男で、とうてい天下などとれる器ではない。このような男の家臣となっても先が知れている。光秀は誇り高い武将で、大大名になるのが夢だ。…義景では……ダメだ。
 光秀は細川藤孝に「朝倉義景殿ではだめだ。織田信長なら、あるいは…」と漏らした。「なるほど」細川は唸った。「信長は身分や家格ではなく能力でひとを判断するらしい。義昭さまを連れていけば…あるいは…」
 ふたりは頷いた。やっと公方様の役に立つかも知れない。こうなったらとことん信長を利用してやる。信長のようなのは利用しない手はない。
 光秀も細川藤孝も興奮していた。これで義昭さまが将軍となれる。…かれらは信長の恐ろしさをまだ知らなかったのだ。信長が神や仏を一切信じず、将軍や天皇も崇めないということを……。光秀たちは無邪気に信長を利用しようとした。しかし、他人に利用される程、信長は甘くない。信長は朝倉義景とは違うのだ。
 光秀も細川藤孝もその気になって、信長に下話した。すると、信長は足利義昭を受け入れることを快諾した。なんなら将軍に推挙する手助けをしてもいい、と信長はいった。
 明智十兵衛光秀も細川藤孝も、にやりとした。
 信長が自分たちの思惑通りに動いたからだ。
 ……これで、義昭さまは将軍だ。してやったり!
 だが、光秀たちは信長が「義昭を利用してやろう」などと思っていることを知らなかった。いや、そんなことは思いもよらなかった。なにせ、光秀たちは古い価値観をもった武士である。誰よりも天皇や室町幕府、足利将軍の崇拝者であり、天皇や将軍を利用しようという人間がいるなど思考の範疇外であったのだ。
 信長は「くだらん将軍だが、これで上洛の口実ができる」と思った。
 信長が快諾したのは、義昭を口実に上洛する、つまり京都に入る(当時の首都は京都)ためである。かれも次第に世の中のことがわかってきていて、ただの守護代の家臣のそのまた家臣というところからの成り上がりでは天下はとれないとわかっていた。ただやみくもに野望を抱き、武力蜂起しても天下はとれないのをわかっていた。
 日本の社会は天皇などが中心の社会で、武家はその家臣というのが通例である。武力だけで天下の道を辿るのは難しい。チンギス・ハンのモンゴルや、秦始皇帝の中国とは違うのだ。天下をとるには上洛して、天皇らを嫌でもいいから奉らなければならない。
 そこで信長は「天下布武」などといいだした。
 つまり、武家によって天下をとる、という天下獲りの野望である。おれは天下をとる。そのためには天皇だろうが、将軍だろうが利用するだけ利用してやる!
 信長は興奮し、心の中で笑った。うつろな笑いだった。
 確かに、今、足利義昭も天皇も「権威を回復してほしい」といってきている。しかし、それは信長軍の武力が台頭してきているからで、弱くなれば身分が違うとバッサリきりすてられるかも知れない。そこで、どの大名も戴くことをためらった足利義昭をひきいて上洛すれば天下に信長の名が轟く。義昭は義輝の弟で、血も近い。なにより恩を売っておけば、何かと利用できる。恩人として、なにかしらの特権や便宜も計られるだろう。信長は狡猾に計算した。
「天下布武」などといったところで、おれはまだ美濃と尾張だけだ。おれは日本中を支配したいのだ。そのために足利義昭を利用して上洛しなくてはならないのだ。
 そのためにはまず第十四代将軍・足利義栄を戴いている三好や松永久秀を滅ぼさなければならない。信長は戦にうって出ることを考えていた。自分の天下のために!
 信長は当時の常識だった「将軍が一番偉い」などという考えをせせら笑った。なにが偉いものか! 偉いのはおれだ! 織田……織田信長だ! この俺に幸運がやってきた!





  足利義昭にしてみれば織田信長などチンピラみたいな男である。かれが越前にいったのも朝倉義景を通して越後の長尾(上杉)景虎(謙信)に頼ろうとしたのだし、また上杉でなくても武田信玄でも誰でもよかった。チンピラ信長などは「腰掛け」みたいなものである。なんといっても上杉謙信や武田信玄は信長より大物に写った。が、上杉も武田も容易に兵を挙げてくれなかった。義昭はふたりを呪った。
 しかし、信長にとっては千載一遇の好機であった。朝倉がどうでようと、足利義昭を利用すれば上洛の大義名分が出来る。遠交近攻で、上洛のさまたげとなるものはいない。
 信長は明智光秀や細川藤孝から義昭の依頼を受けて、伊勢方面に出兵した。滝川一益に北伊勢方面を攻撃させた。そうしながら伊勢の実力者である関一族の総領神戸氏の家に、三男の信孝を養子としておしつけた。工藤一族の総領である長野氏の名を弟信包に継がせたりしたという。信長の狙いは南伊勢の北畠氏である。北畠氏を攻略せねば上洛に不利になる。信長はさらに、
「足利義昭さまが越前にいてはやりにくい。どうか尾張にきてくだされ」と書状をおくった。義昭はすぐに快諾した。永禄十一年(一五六八)七月十三日、かれは越前一乗谷を出発した。朝倉義景には「かくかくしかじかで信長のところにまいる」といった。当然ながら義景は嫌な顔をした。しかし、朝倉義景は北近江一国で満足している、とうてい兵をあげて天下をとるだけの実力も器もないのだから仕方ない。
 上洛にたいして、信長は朝倉義景につかいをだした。義景は黙殺した。六角義賢(南近江の城主)ははねつけた。それで、信長は六角義賢を攻め滅ぼし、大軍を率いて京都にむかった。九月一二日に京都にはいった。足利義昭を京都の清水寺に宿舎として入れ、松永と三好三人衆と対峙した。松永弾正久秀は機を見るのに敏な男で、人質をさしだして和睦をはかった。それがきっかけとなり信長は三好三人衆の軍勢を叩き潰した。
 足利義昭は「こやつらは兄義輝を殺した連中だ。皆殺しにいたせ!」といきまいた。
 しかし信長が「義昭さま、ここは穏便に願う」と抑圧のある声で抑えた。
 永禄十一年(一五六八)十月十八日、足利義昭は将軍に推挙された。第一四代将軍・義栄は摂津の逃れて、やがてそこで死んだ。
「阿波公方・足利義栄の推挙に荷担し、義輝を殺した松永と三好三人衆を京都より追放す    
る」時の帝正親町天皇はそう命じた。
 松永弾正久秀は降伏したものの、また信長と対立し、ついにはかれはおいつめられて爆死してしまう(大事にしていた茶道具とともに爆薬を体にまきつけて火をつけた)。
 直江兼続が織田信長とあったのはこの頃だったという。兼続は「ひとに義がなければ野山の獣と同じでござる!」という。上杉謙信に金色の洛中洛外図屏風を送った信長は「天下を取れるなら鬼にでも魂をくれるわ!」という。信長は義昭のために二条城を造らせた。 足利義昭は非常に喜んだ。これでまろは本物の将軍である。かれは信長に利用されているとはまだ感付いていなかった。「あなたはまろの御父上さまだ」義昭はきしょくわるくいった。信長は答えなかった。当時、信長三十六歳、義昭は三十二歳だった。「あなたは偉大だ。あなたを副将軍としてもよい。なんならもっと…」
「いや」信長は無表情のままきっぱりいった。「副将軍はけっこうでござる。ただし、この信長ひとつだけ願いがござる」
「それは?」
「和泉国の堺と、近江国の大津と草津に、代官所を置かせていただきたい」
 義昭はよく考えもせず、簡単に「どうぞどうぞ、代官所なりなんなり置いてくだされ。とにかくあなたはまろの御父上なのですから」と答えて、にやりとした。気色悪かった。 信長には考えがあった。堺と、大津と草津は陸運の要所である。そこからとれる税をあてにしたのだ。そして信長は京都で、ある人物にあった。それは南蛮人、ルイス・フロイスで、あった。キリスト教宣教師の。

大地震発生米沢でもおお揺れ

2011年03月11日 19時00分49秒 | 日記
   2011年3月11日午後、大地震があり米沢でもおお揺れでした。積んでいた音楽CDや本がバラバラになり、かなり揺れています。誰も死なないといいけど…。皆は大丈夫?震源は宮城県岩手県あたりらしいね。東京でも揺れたようだね。しっかり。避難を忘れずに。引き続き警戒して。

天地人・直江兼続と上杉の義 大河ドラマ「上杉鷹山」上杉の城下町・米沢から

2011年03月09日 13時27分52秒 | 日記
        天地人!直江兼続と龍馬伝
 
 NHK大河ドラマ「天地人」をやっていたけど(09年11月22日放送終了最終回視聴率22・7%)直江兼続ってどんな人なのですか?上杉の義とは何ですか?
上杉の義とはひとがひととして生きることである。慈愛、博愛、友情や人類愛…すなわち上杉の義とは毘沙門天に恥ない精神すなわち「愛」である。上杉の義とは?小室哲哉やホリエモンのような大金獲得で贅沢三昧の生活をすることではない。あんな連中は福永法源と同じなのだ。美人と結婚して性交渉をすることでもない。ひとは他人の役に立って初めてひとである。上杉の義とはひとがひととして美しい形です。上杉の義はすなわち「愛」である。自分の実力や会社の事業を実力以上に見せようという風潮はみっともないことである。金は地中の中にあっても金であり、鉛は錦の袋の中にあっても鉛である。あえてべらべらと語らずとも素直な義の者なら売り込まなくてもきっと誰かが拾ってくれる。自己宣伝行為などみっともないことですね。また上杉謙信は阿部寛さんがイメージ的にも正しい。大河ドラマ「風林火山」でオカマのGacktが上杉謙信役をしたが上杉謙信や上杉の城下町米沢に失礼です。謙信公はオカマではありません。また漫画やゲームやフィギア人形などで「上杉謙信・女性説」などあるそうですが、堺屋太一先生が一笑にふしているように馬鹿げた説です。あの男尊女卑の戦国時代にどこのバカが小娘にしたがいますか?上杉謙信はジャンヌ・ダルクか何かなんですか?なお、直江兼続は関が原の戦いのきっかけになった「直江状」を書いた戦国武将と言っても歴史好きな人以外知らないかもしれない。直江兼続(なおえかねつぐ)は戦国時代後期の1560年に越後(新潟県)南魚沼市で生まれました(与六)。上杉謙信と武田信玄が川中島で戦っていた頃です。幼い頃から謙信の養子、謙信の姉・仙桃院の息子・上杉景勝(かげかつ、喜平次)とともに(もうひとりの養子が関東・北条からの人質・三郎景虎)教育を受けて、景勝の家老として仕えました。謙信の死後に上杉は後目争いで「御館(おたて)の乱」があり、景勝側が勝ちました。大阪夏の陣(1615年)を経て、徳川の統治が安泰となった1619年に逝去しました。 秀吉の命令で上杉は越後から会津(福島県)120万石に移り、関が原の戦いでは石田三成率いる「西軍」につきます。徳川家康率いる「東軍」の伊達政宗や最上光義らの軍と東北の長谷堂で戦いました。徳川家康率いる「東軍」が勝利して上杉は罪として、会津120万石から
出羽米沢30万石に転封されます。ですが兼続はリストラを一切しませんでした。妻はお船(せん)で側室はなし。夫婦の墓は山形県米沢市にあります。兼続の三人の子供は幼い内に亡くなっています。直江家の子孫などいません。断家しています。米沢の基礎を作ったのは直江兼続公です。のちに上杉鷹山(ようざん)公が米沢藩の中興の土台を作りますが、直江兼続公の存在が大きいものがあったそうです。
私はたとえひとりになっても「大河ドラマ・上杉鷹山(ようざん)」「大河ドラマ 花の慶次」の招致ドラマ撮影を誘致してもう一度米沢の地から「上杉の義」を教えます。必ずや大河ドラマ上杉鷹山をやります。
上杉鷹山(治憲)役は木村拓哉がいいですね。「武士の一分」の演技力でかなりヒットしそうです。頑張って誘致していきます。また2009年12月31日でこのトピックスもさようならでしたが、大河ドラマ「龍馬伝」がいよいよ終了したので特別に復活します。皆さん大河ドラマ「天地人」と「上杉の城下町、米沢」の応援ありがとうございました。 
  上杉鷹山(大河ドラマ)キャスト
                     原作・緑川鷲羽 脚本・田渕久美子
                     音楽・大島ミチル
       

      上杉鷹山(治憲)…………    木村拓哉(SMAP)
     幸姫 …………    美山加恋
上杉直丸(少年期)………    加藤清史郎
      上杉重定    …………    宇津井健
      竹俣当綱    …………    中村梅雀(2代目)
      莅戸善政(大華)…………    風間杜夫
      木村高広    …………    京本政樹
      藁科松伯    …………    高嶋政伸
      お富の方    …………    浅野ゆう子
      佐藤文四郎   …………    今井翼(タッキー&翼)
      旅館の女将   …………    鈴木砂羽
      水沢七兵衛   …………    佐藤B作
      須田満主    …………    平泉成
      黒井半四郎   …………    笹野高史
      細井平洲    …………    寺尾聰
      文四郎の恋人  …………    多部未華子
      色部照長    …………    すまけい
      紀伊      …………    香川京子
      七家      …………    神山繁・北村総一郎・森山周一郎

        他  




ご用心 緑川鷲羽は着うた着メロゲーム占いポルノはやってない。

2011年03月08日 09時45分55秒 | 日記
          ご注意願います。


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2011年03月06日 07時33分14秒 | 日記
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郵政民営化の正体

2011年03月05日 10時33分39秒 | 日記

  
      郵政民営化の正体 
  
 郵政民営化から数年である。郵便局会社の赤字が110億円だという。郵便事業は赤字で、ゆうちょかんぽで穴埋めしている状態です。小泉首相(当時)が郵便事業はユニバーサルサービスで、局はまったく減らしません。と公約しました。亀井静香担当相は郵政会社の「出資比率」を見送る慎重姿勢です。民間の懸念が強かったからですね。「ゆうパック」の大量遅配はペリカン便からの引継ぎのシステムがうまくいかなかったといわれています。ゆうちょの預け入れ額を1000万円から2000万円に簡易保険は2500万円にしようとしますね。これは大変な民業圧迫です。なぜならペイオフの上限は1000万円までで郵政会社は政府のガバナンスが効いている訳だから個人金融資産1600兆円のほとんどはゆうちゅに流れる。が、問題なのは20万人を正社員にすることです。これには6000億円必要とされ、今までは郵便局の正社員がアルバイトや派遣社員を顎で遣ってきたので非正規社員が奮起していた訳です。それが、一生身分を保証される正社員になったら誰も真面目に働かない可能性があります。郵政民営化の象徴だった部署ごとの「仕切りの壁」が亀井郵政担当相の命令で外されました。09年12月4日に郵政株式売却凍結法案が可決しましたね。郵政会社はかんぽ保険、ゆうちょ銀行、日本郵政の3事業体制になります。これはゆうちょ銀行とかんぽ保険の300兆円をまた「財政投融資」として遣いたいという裏が見え見えですね。例えばドイツやニュージーランドは郵政民営化をやったが10年で国有化されました。だが、西川氏(09年10月20日に辞任表明。民主党は郵政事業見直しで、郵便、銀行、保険に分けるという)がやめる必要はなかったと思います。なぜなら「小沢辞めろ」みたいなものですからです。西川氏は成果を上げていました。「かんぽの宿」や「年金制度」など
はかつての郵政省の後の「遺産」なんです。西川氏は249社の天下りを廃止していました。だから役人に恨まれていた。また族議員は財政投融資(郵便貯金と簡易保険金)を狙っているだけなんです。民主党は西川さんを辞めさせた。郵政会社の次期社長には元・大蔵省事務次官の斎藤次郎氏(73)に決まりましたね。新体制発足がして「郵政民営化見直し」だそうです。郵便局でパスポートが申請できる政策(2010年に法案化)はいいと思う。斎藤次郎氏は小沢氏の息のかかった元・官僚です。1993年から1995年の2年間大蔵省事務次官を務めて、「10年に一度の大物事務次官」と言われた。事務次官の際何をしたか?というと小沢一郎とつるんで「国民福祉税」を打ち上げてこれにより新生党(当時)は潰れた訳です。小沢一郎の人事ですね。斎藤次郎氏と小沢一郎氏とは刎頸の友として有名ですから。だが、この人事は筋が通っていないのである。何故なら民主党は日銀総裁人事で元・財務次官の武藤氏の
就任を「天下り反対」の名目で反対していたからです。鳩山由紀夫さんは知らない人事だったそうですよ。亀井静香氏は西川郵政グループ社長を含めゆうちょ銀行、かんぽ生命取締役の辞任を勧告してました。戦略的でなかったでしょうか。郵貯簡保では4227億円の経常黒字です。だが確かに収益力があやぶまれているJPエクスプレスは200億円の赤字の見込みです。GDP(国内総生産)は6月から7月は3から40プラスよりは低い。底を打ったのは事実です。何故かは中国が持ち直したからと100兆円も遣ったからです。小沢一郎前代表の次は鳩山代表の政治献金虚偽記載問題が露呈しましたね。しかし橋下や東国原らにタレント知事から操られる政治家ってどうかと思う。タレント知事はテレビでお馴染みですが中身がありません。顔だけ変えても無駄です。また総務大臣のやる仕事は官僚の膿を出すことですよ。郵政利権を「国民の財産」を守ることです。西川氏が辞任した後釜は元・官僚です。郵便局は減っていません。民営化され
て閉鎖されたのは一局です。だが、確かに郵便料金は外国のほうが安いです。イメージダウンだから辞めろ、では「小沢辞めろ」みたいなものです。誰かが「お前気になる嫌なやつだ!」と急に歩いていて変な輩が殴ったので「何をするんだ!」という。で、「喧嘩両成敗」などというみたいなものです。西川氏は辞める必要はありません。むしろ郵政民営化の旗振り役をまだまだこれからいろいろ頑張るべきでした。民主党は結局、郵貯の360兆円を「財政投融資」として復活させたいだけです。おそらく、郵貯の50兆円から60兆円ほど国債を購入するのではないかと思います。これでは「民営化」どころか「国営化」です。民主党は時代錯誤の暴挙をしていることがわからないのでしょうか?「かんぽの宿」の件は前述した通り「過去の遺産」なんです。4600億円かけて108億円にしかならない。というけど「かんぽの宿」「グリンピア」はバルクで従業員付きなら専門家に言わせると108億円でも高いそうですよ。郵貯のみならず日本の銀行ももっぱら国債
を買っているだけです。おそらく国の資本が入ってしまった為に融資先を探す手間暇や苦労を先送りしているのです。民主党政権は間違いない愚策で「国家戦略」を誤ってます。最悪の国(完全無欠の社会主義)を作りあげようとしています。間抜けなのは民主党政権も国民もそのシリアスな問題点をわからないことです。一刻も早く正しい方向に舵を取ってもらいたい。駄目なら自民党公明党に頑張ってもらいたい。民主党政権は明らかに間違っています。経済外交は特にです。 また政府は「景気は底打ちだ」という。また経団連の御手洗(みたらい)富士夫会長(キャノン会長)も「3月くらいで底を打ったと思っている」と強気です。まあ、GMが破綻してリーマンショックから「もうこれ以上はないだろう」と一段落着いた感じです。が、家計や地方経済的にはまだ「改善の見通しなし」です。結局は米国や中国相手の輸出頼みになりそうです。が、「世界的な経済回復は期待できません」としか言えません。輸出と経済対策の効果が息切
れすれば底打ちした景気も冬には二番底打ちもあると思ってください。W字回復します。小泉竹中構造改革で格差社会や弱肉強食社会が出来た訳ではありません。格差社会はグローバルスタンダードです。小泉竹中構造改革のときは格差(年収200万円以下が1000万人)は緩やかにストップしています。郵貯の200兆円は民営化前には「財政投融資」で伏魔殿ででたらめに使われていました。民営化後は金融市場に流れず国債買いです。郵政会社は本当は投資したいんです。また「同一労働同一賃金」など馬鹿です。社会主義ではありません。格差はあるに決まっています。頑張ったひとがペイしない社会など馬鹿な国です。例えばフィンランドやオランダでは確かに派遣社員はいません。が、それは正社員をいくらでも首を切れて、転職先もあります。そういうシステムを作ることもしないで「派遣禁止」「同一賃金同一労働」など無理じゃないか?わからないですが、転職先もないのは確かに問題です。外需に依存してきたのは08年から09年からで
すよ。03年から05年までの小泉竹中構造改革では内需のほうが高かったそうですよ。内需外需は切り離すべきではありません。「大きな政府」か「小さな政府」か?これは意見が分かれる問題です。企業に政府資産を投入するのは邪道です。マーケットエコノミーがわからないのですか?経済回復には競争原理を守るべきです。このままなら消費税27%ですよ。日本を重税国家にしないことです。官僚依存なら明らかに消費税27%です。 大事なのは消費フローと金融フローの改善なんです。それは詳しくは別の記事に書いています。ご参照してください。  
  
  
  
  

仙台S町(仙幸中)中学校事件 携帯カンニングは東北人

2011年03月05日 10時32分40秒 | 日記

       教育の失敗と仙台S町中学事件 
  
 よく「子供は無邪気だよね」とか「子供は無垢だよね」というが全然違う。子供は「高貴なる野蛮人」でしかない。子供にとって時間は「永遠」である。また子供にとって「社会的責任」や「社会的謝罪や賠償」は無縁である。何故ならいざとなったら「責任者の親」が責任を負ってくれるからだ。 「ゆとり教育」でおかしな子供が多くなり、いじめや万引きや騒動といった子供の「悪戯」が多いと聞く。また、自分の子供の修学旅行に同伴する親や、「いじめられる子供も悪い」などというおよそ大人の人間とは思えぬモンスターペアレントまで増殖だとか。こういうのはなんというか「クレイジー」なのだから相手にしたくない。が、社会の癌と思えばそうもいってはいられない。こういう親や子供には「ボランテイア研修」をさせればいい。つまり、中学校高校2年生の1ヶ月、東南アジアやアフリカの難民キャンプや老人ホームで無償で働かせるのだ。自分とは違った人たちのために汗を流し、思いやる、まさに「人生の勉強」だ。もう、こういう強硬手段しか「腐った子供」を矯正出来ないと思う。これこそ「教育維新」だ。だめなら「徴兵制」導入しかない。これぞ教育維新と知るべし。また早稲田大学・同志社大学・立教大学・京都大学などでは「携帯カンニング」が行われたという。「Yahoo!知恵袋」でのことらしいが、死んでなければ福本清二の仕業だろう(笑)。カンニングに使われた携帯は東北地方の女性のものだという。その女性の子どもが京都大学を受験したという。なんという恥さらしな行為だろう。東北の恥だ。カンニングしたのは山形県出身の予備校生(19)である。ひとりで携帯でカンニングしたという。山形県出身って同じ県人だけに恥ずかしい。股の間に携帯を隠し、左手で操作し右手で書いたという。だが、社会ではカンニングしたほうが勝ちになる。特許やアイデアの盗作、引用などである。最近は「モンスターペアレント」というバカ親が増殖中だという。バカ親のせいで1年で5000人の先生が「うつ病」で休職または失業です。「給食が必要だといったことない!」と給食費を払わない親(払えるのに払わない親は60%、滞納額全国で26億円)。ただ勉強をみてやっただけで「セクハラで先生を訴えます」というバカ親。携帯を取り上げたら「使わなかった分の料金を先生が払って」というバカ親。無くさないよう水筒に名前を書かせたら「ネットオークションで売れなくなった」と抗議するバカ親。「先生、お金貸してください」というバカ親。子供の修学旅行についてくる両親。「女の教師はやめて」という両親。ネグレクトも増えている。「パチンコいくからお兄ちゃん妹みてて」という母親。服を1ヶ月以上着替えさせない親。食事を食べさせない親。遠足のとき「朝早くて弁当つくれないから先生代わりに弁当つくって」という親。「朝起きれないから子供をお越しに来て」という親。もう先生による生徒への「モーニングコール」は常識だという。最近も東京の区立中学生男子(14)がホームレスに熱湯をかけ逮捕(「やり過ぎた石を投げる程度にしていればよかった」と反省(馬鹿!)しているという)、愛知県岩倉市で17歳少年が11歳小6弟を刺殺、品川区の16歳の少女がしかられたからと自宅に放火し、茨城の14歳の中坊が保護司宅に放火し、兵庫県宝塚市では中女2人が自宅に放火して親を殺し、また石巻では18歳の少年が2人の女性を刺殺し1人の男性に重症を追わせ元恋人を監禁して逮捕された。酒鬼薔薇で悪名高い兵庫県だが、最近も中坊2人がホームレスのバラックに火をつけて殺そうとしたという。ホームレスの男性に投石したら投石し返されたから頭にきたという。糞ガキ。何様のつもりだ?酒鬼薔薇か仙幸中のガキか親類かなあ。なんか、メンタリティが同じだ。自殺しろ糞ガキども!I…I'm afraid of myself……My hatred is so strong……but I don't want to hurt anyone anymore………。だが、言っておきますけど躾が過ぎると「虐待」になりますよ。今は児童虐待が増えていて、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト(育児放棄)などあるという。万引きや他人に罵声を浴びせかけて頬を平手打ちするのは「躾」。泣き声がうるさいからとゴミ箱や物置小屋に放り込むのは「虐待」。普通の人間なら飼っている犬や猫でさえうるさいからとゴミ箱に閉じ込めることはしない。まずは親は「自分は虐待をしている?」と疑問を持ったなら病院の精神科でカウンセリングを受けることです。たいていはその親は児童のとき躾と称して虐待を受けている可能性
が高いそうです。躾と虐待の区別はちゃんとつけることです。岐阜県可児市の中学校で中一の女子生徒がいじめにあい、裸にされて携帯の動画で撮影され動画メールとして流された。悪質極まりないことだ。埼玉県では進藤力人くん(4)がわずか6kgになり餓死して、奈良県では吉田智樹くん(5)も児童虐待で餓死しました。が、確かに子供は「高貴なる野蛮人」です。私は子供には厳しく当たり決して甘やかさないことで知られる。そんな私も「野蛮人のテロ」にあった頃がある。1988年から1990まで宮城県仙台市S町のアパートに通学の都合上住んでいたのだが、近所の仙台S町中学のガキども(中坊や中女)に一年間以上に渡って「罵倒嘲笑投石嫌がらせ硝子撒き散らし」などのテロ行為を何の理由もなく受けた。「バーカ!×100」「宮崎(勤)!」「死ね」「バイバイ馬鹿!!」 いくら注意しても殴っても効果なし。ストレス発散にと罵倒嘲笑投石嫌がらせ硝子撒き散らしは続いた。あの当時のガキどもは今だに反省も謝罪や賠償もしない。腐ったガキどもです。あんなガキどもが今やアラサーでガキ生んだりセックスして「ゴキブリガキの子孫」
を作っているかと思うとゾッとする。腐ったガキの子孫はいらない。どうせ、将来は「酒鬼薔薇聖斗」か「佐世保小学6年生」「加藤智大」です。少しは反省しなさい。仙幸中ガキども!!!!!!!!!!また法政大学付属高校で修学旅行で男子学生3人が悪さをして先生達が体罰をしたとして問題になったが、私は「体罰はあってはならない」などと思わない。但し今回は度が過ぎた、ということだ。平手打ちくらいでいいのに殴る蹴るの暴行をして携帯を破壊して…などやり過ぎた。体罰は体罰で平手打ちくらいでいいのに殴る蹴るの暴行はやり過ぎた。私はこうした腐った子供を治すには「ボランティア研修」だと思う。つまり中学生や高校生のときに1ヶ月間、東南アジア諸国やアフリカの難民キャンプや老人ホームでボランティア研修をさせるのである。自分とは違ったひと達の為に「無償」で働き、「命とは何なのか」を知る。これほど有意義な研修もない。しかも語学まで学べる。とにかく子供のいる親に言いたい。子供は甘やかさないことです。ろくな大人にならない。悪
いことをしたら殴ってでも「自分は悪いことをしたんだ」とわからせろ。自分の子供は「親の鏡」という。自分の鏡だと思って甘やかさないで厳しく躾よ!子供の責任をとり、恥をかくのはあなた方なのですよ。頑張ってください。子供には厳しくいってください。社会的責任を考えるならです。最初に注意事項です。私のブログで金儲け「着うた着メロ映像」はやっていません。騙されないで無視することをお薦めいたします。馬鹿の相手はしないこと。また私のブログ「緑川鷲羽上杉奇兵隊日記」では科学的根拠のない占いや金儲けの着メロ着うたなどやっていません。騙されないでください。しかし、確かに金は大事です。どんな綺麗事を言ってみたところで「金」がなければ一切れのパンさえ買えない。それが「現実」である。魔法で金が手に入ったり、新垣結衣や戸田恵梨香や上戸彩やキムタク(木村拓哉)や金城武に変身出来る訳でもない。が、だからといってホリエモンや小室哲哉や福永法源みたいに「命の次に大事なのは金だ」では只の馬鹿だ。豪邸や高級外車に憧れている馬鹿も多い。が、苦労なきところにペイなしである。濡れ手で粟の大金獲得など現実的でない。宝くじなど買っても当たらない。何でも努力次第です。頭で知恵や叡知で金を稼ぐのである。悪いことはしないことです。それに人生の幸福は「贅沢な生活」でも「美人とのセックス」でも「地位」や「権力」でもない。小室哲哉は「夢よもう一度」とばかりにエーベックスで100曲作っているらしいが売れないでしょうね。小室哲哉は「ネタ切れ」なのです。曲が作れるなら小室哲哉は詐欺行為などしていませんよ(笑)また堀江貴文被告(37、ホリエモン)はライブドアに208億円の資産を提出することになった。ホリエモンのように「腐った心の俗物」は刑務所に何年か入れて臭いメシを食わせなければならない。小室哲哉のように執行猶予を付け
て甘やかしては社会の危機ですね。社会的成功者とは「どれだけ社会的に他人の為に貢献したか?」ではないか。いわゆるノブレス・オブリージュです。馬鹿みたいにホリエモンや小室哲哉に憧れている輩はよくそのことを考えてください。「論語と算盤」を「上杉の義」を考えてください。  
  
  

命のビザ。杉原千畝物語。ブログ連載小説2

2011年03月05日 08時53分32秒 | 日記
        千畝と三郎






  杉原千畝の父は紙に主色の字で、”千畝”と書いた。
 それが長男の名前である。
 杉原千畝は、一九〇〇年(明治三十三年)一月一日、岐阜県八百津町に生まれた。父はこの町の税務士であったという。母はけっこう年増な女である。とにかく、千畝は岐阜の片田舎に生を受けた。時代は大不況。苦悩する日本。世界的な孤立とあいつぐ企業倒産、大量の失業者、夜逃げ、身売り、政治不満が吹き荒れていた。
 日本の田舎で、娘たちが遊郭に売られない日はなかった。
「この子は、医者になってほしい!」
 千畝の父は赤子の千畝を抱いて頬を緩ませた。当然ながら明治時代のことなので、父親がポロシャツを着ているわけはない。和服である。千畝の父は短髪に面長な顔で口髭をうっすら生やし、細い体に手足をした紳士風のいでたちである。赤子の千畝は、豪邸内で、父に抱かれるとにこにこ微笑んだ。
「この子は絶対に医者だ。医学も会計も営業も全部しこむぞ」
 父はそういった。そして「この子は将来きっと俺を追い抜く」
「まあ!」
 千畝の母は笑った。華奢な体に印象的な黒髪の、和服の女である。
 母は続けた。「…あなたはこの子に帝王学を学ばせるおつもり?」
「そうとも!」
 父は千畝をあやしながら続けた。「これから経営会議にも営業にも……全部出席させて教え込む」
「まぁ、それはすごいわ!」
「俺にできるのはそういうことだけだからな!」
   ち うね           
 父は千畝をあやしながらいった。
 千畝は何も知らず、無邪気に微笑むのであった。


「私は岐阜の税務署員の長男として生まれた。なにごともなければ父の希望の医者になるはずであった。父は非常に有能な税理士であった。が、たんなる田舎の税理士にすぎない。祖父と曽祖父はすぐれた審美眼の持ち主で、日本や中国の美術工芸品の収集に没頭していた。(中略)本業をおろそかにし、経営をひとまかせにしていたため、事業は衰退の道をたどったのである」
 まさか息子が外交官になるとは思わなかったから、父は息子・千畝にみっちりと帝王学を仕込んだ。
 十歳頃になると、もう市役所の事務所や税務署へ息子をつれていき、事業というものの”いろは”を手ほどきしていった。重役会議、部下からの報告、打ち合わせや棚卸しなど、学業の合間をみて可能な限り社業につきあわせた。中学生になるともっぱら仕事で一日が過ぎてしまったそうである。
 杉原千畝は酒を呑まなかった。
 杉原家は裕福で、当時の日本では珍しく西洋的でモダンな家庭だった。家は、岐阜でも超高級住宅地として知られているところにあったが、広壮な屋敷内にはテニスコートがついていた。
 父親は、お抱えつきのアメリカ車、ビュイックで役所に出掛け、家の中にはすでに外国製の電気冷蔵庫や洗濯機が置かれてあった。
 母親は、クラシック音楽が好きで、よく子供達を音楽会に連れていき、レコードを聴かせた。家には、小さい時からビクトロンと呼ばれる古い手回し式の蓄音機があったが、アメリカから電気蓄音機が輸入されるようになるとすぐに買い入れた。名古屋では第一号であったという。
 父はいつも「お前は医者になるんだ。期待してるぞ。父さんの期待を絶対に裏切るなよ」と長男にいった。
 千畝の父は子供たちに厳しかった。しかし、厳しい反面、子供達のためになると思えば何でも買い与えた。そういう寛大さもあった。家族思いだったのである。
 が、杉原千畝は外国語の勉強ばかりしていたという。
 学校の勉強そっちのけでその日も外国語を勉強していると、父が部屋にやってきて、
「馬鹿もの!」と雷を落とした。
「医学はどうしたんだ!」
 抑圧のある声だった。
 杉原千畝は黙りこみ、そして真剣な顔をして、「でも、父さん。ぼくはこういう外国語が好きなんです」と素直にいった。
 それが、また怒りを買い、「馬鹿もの! 外国語など勉強している暇があったら……医学でも覚えなさい!」
「そういうのは…ぼくは好きじゃないな」
 千畝はいった。
「うぬぬぬ」父はあまりの正直な答えに、歯ぎしりした。
 そして「とにかく外国語など勉強しないで、医者になれ!」と怒鳴った。
 父が部屋から去ると、杉原千畝は黙り込んだ。
(ぼくは医者より外交官になりたい)
 杉原千畝はもどかしさを隠し切れずに、唇を噛んだ。誰にもわかってもらえない。そう思うと、寒くもないのに身体の芯から震えが沸き上がってくる。しかし、そんな気持ちを救ってくれたのは母だった。
 母が、「お前の好きなようにやりなさい」といってくれたのだ。
「……母さん」
「お前の……好きなようにやりなさい。なんでもやりたいことをやりなさい」
 母は優しくいった。
 杉原千畝は涙の出る思いだった。

  千畝には親友、幼馴染みがいた。同じ近所に住む同年代の鈴木三郎と、高橋あい、である。三人はよくあそんだ。木登りやしりとりやメンコなどなんでもやった。三郎は千畝より面長な眉目な顔で、あいは美少女だった。あいは確かに美しかった。
 黒く長い髪を結っている、透明に近い肌、ふたえの大きな瞳にはびっしりとまつげが生えていて、伏し目にすると影を落とす。血管が浮くような細い腕や足はすらりと長く、全身がきゅっと小さく、彼女はまるで神様がこしらえた人形のようだった。赤い和服姿だ。「まって! 三郎さん! 杉原さん!」
  三郎と千畝少年は畦道を走った。少女のあいはあとから追いかけてくる。が、所詮は女である。千畝たちにおいつけない。「三郎さん! 杉原さん!」彼女ははあはあいいながら笑顔でいった。
「あいちゃん!」杉原が背後を覗きこみ、いった。
 三郎も「あい!」といってとまった。
「……はあ……はあ…もう、三郎さんも…杉原さんも…私をのけものにして…」
 高橋あいはふくれた。すると杉原少年たちは笑って、「誰ものけものなんかにしてないさ」といった。
 三人はそれから、草原の土手に寝転んで、空の蒼を見た。どこまでもきらめく空、浮かぶ雲……なんとも愛しい。千畝はいった。「ぼくは外交官になりたい。将来……父さんは医者になれっていうけど……それは嫌なんだ」
 三郎もいった。「俺もさ。親父なんかにわかるもんか。俺も外交官になりたい」
「ふたりともすごい。わたしはそんな夢ないもの」あいは関心した。
 そして、「そのためには大学、しかも一流の大学出ないとダメなのよ」とにやっとした。「ああ」三郎はいった。するとあいは笑って「杉原さんならいいけど、三郎さんは勉強まるでダメじゃないの」
「うるせい」三郎はにやりとした。あいは笑った。ふたりも笑った。
 ………外交官になりたい。
 その夢を適えるため杉原千畝はあいかわらず”勉強”を続け、なぜか急に(大学でもっと詳しく外国語のことを学びたい)と思いたった。そこで、高校三年のときに猛勉強し、父親の反対も押し切って(中学で成績のよい息子を医者にしたかった父は、医学学校の受験の手続きをする。しかし千畝は、得意の語学を生かした仕事が希望。入試当日は母が作った弁当だけ食べ、試験を受けずに帰宅。当時から自身の価値基準を信じる気骨ある青年であった)東京の早稲田大学にみごと合格した。一九一八年のことであった。 親友の三郎も猛勉強して、早稲田に受かった。早稲田大学高等師範部英語予科であった。
 ボロボロの服で家に帰ると、父は「医者になれ」といった。が、千畝は反発し、「いえ、ぼくは医者はやりません」といった。
「なぜ?」
「ぼくは外国語を役立てたいのです」
「なにっ?!」
 父は歯ぎしりをした。「じゃあ……誰が医者になるのだ?」
「…誰かにやらせて下さい」千畝の端整な顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいとともに大人っぽくもある。説得力のある微笑だった。しかし、父の顔は暗く、目はベーリング海のように冷たかった。「ばかやろう!」と、どなりつけた。
 父は怒りで顔を真っ赤にし、千畝の頬に平手打ちをくらわした。
「お前は身勝手だ!」
 次の瞬間、父は唖然とした。
 千畝が土下座したからである。杉原千畝は額を床にこすりつけ、「父さん! ぼくを東京にいかせて下さい!」と嘆願した。
「………東京…だと?」
「はい!」千畝は涙を流し、「外交官になりたい…東京にいきたいのです! お願いします!」
「…しかし……」
「ぼくのことはもう戦争で死んだと思って……お願いします!」
 杉原千畝は涙ながらに必死に嘆願した。
 やがて、父は折れ、優しく微笑んで「………わかった! お前の好きなようにやりなさい」といった。
「父さん」
「ただし」父は続けた。「ただし……もう実家には帰ってくるな。それが条件だ。いいな?仕送りもしないぞ」
「はい!お父さん!」
 千畝は顔をあげ、微笑んだ。


「さぶちゃん」
 千畝は自分の部屋で、三郎にいった。三郎も千畝もふたりっきりだった。三郎たちは成長していて、決起盛んだった。部屋は夕暮れどきでセピア一色だった。
「……なんだ? 千畝」三郎は生返事をかえした。
「さぶちゃん……あいちゃんをどうする気だい?」
「あい?」三郎はすっとぼけた。「……あいはこの町にとどまるんだよな」
「うん。結婚もしなそうだし…」
「結婚? あのお転婆のあいが?」三郎は笑った。
「さぶちゃん!」千畝は諫めた。「あいちゃんだって女なんだから…」
「わかってるって!」
「さぶちゃんはわかってないよ。あいちゃんは……」
 千畝は何かいいかけたが、三郎は手をかざしてとめた。
「わかってる!」
「……何を?」
「あいは……俺の女房にする」三郎はにやりとした。
「それはいい!」千畝はにこりと笑った。その表情は安堵のものだった。
 三郎は「なんで?」と不思議な顔になった。
 千畝はいった。「だって……あいちゃんはさぶちゃんのことが…」
「え?」
「あいちゃんは…さぶちゃんのことが好きなんだよ」
「へえ~つ」
 三郎はふざけた。「俺はてっきり、あいが好きなのは他の男って思ってたんだけどなぁ」「……馬鹿だねぇ、さぶちゃんは……あいちゃんの気持ちも知らないで…」
 杉原千畝はにこりとしんと輝くような顔をした。
 三郎は「でも……あいは他の男が好きなのかもしれんぞ」とにやりとした。
「……誰?」
「千畝、お前さ」
「え?」千畝はびっくりとした顔をした。予想もしてなかったからである。確かに、千畝はあいが好きだった。しかし、それはまるで”妹”のように思っていたからだった。高橋あいは確かに美女に成長した。しかし、あいは三郎のことが好きなのだと諦めてもいた。 とにかく、千畝にとってあいは”幼馴染み”であり”親友”でもあるのだ。
「あいちゃんが……ぼく……のこと…を…?」
 あえぎあえぎだが、やっと声が出た。
「驚くことないだろ?」
 三郎はにやにやしだした。
「……だって………」
 千畝は言葉を呑んだ。そして「さぶちゃんはいいの? あいちゃんのことは?」
「へんだ!」三郎はいった。「確かによ、おれのおっかあはあいのこと好いとるが、それとこれとは話が違うよ。あいは好きだよ……でも…な」
「でも? とは?」千畝は是非答えがききたかった。
 三郎はにやりとした。「東京にはいい女がいっぱいいるって話だぞ。あいより、いい女みつけて、ドンチャンよ」
「さぶちゃん…」千畝は呆れた。しかし、三郎はどこ吹く風だった。
「東京娘はじょうだまよ。あっちのほうもうまい」
「……さぶちゃん…ダメだってそんなことじゃあ…」
「いや」三郎は続けた。「おれは東京の上玉娘とイチャイチャする」
「勉強は?」
「遊んで、暇があったらするさ」
 千畝は怪訝な顔をして「あいちゃんはどうなっちゃう?」と尋ねた。
「……さてな。あいは抱きたいけど、もっともっと…」
「なに?」
「都会の東京娘を抱きたい! それがデモクラシーってもんだ。米買い占めの成金みたいに金持ちになりてぇ!」三郎はふざけて、自分で自分を抱き締めた。
 千畝は呆れて「さぶちゃん……」と呟くのだった。



  八百津町の千畝たちの家の近くに、高橋あいは住んでいた。もう夜で、まんまるな月が夜空に浮かんで、とてもしんと光っていた。あいは座って、茫然と月を見上げていた。「あい……どうしたの?」
 しばらくして、あいの母が娘に声をかけた。千畝と三郎と遊んでいたお転婆娘は、もうすっかり美女になっていた。すらりとした丸い肉体やふくらみかけた胸が、妙に男心をそそるかのようだ。あいは茫然として、
「……え? 何?おっかさん?」と声をあげた。
「…あい…三郎ちゃんや千畝ちゃんのことで悩んでるのね?」
 母はするどかった。
「やだぁ! おっかさんったら……そんなんじゃないわよ」
「そうかい?」
 あいは初めて母の顔をみて、「そうよ」と無理に笑顔をつくった。
「あいは三郎ちゃんや千畝ちゃんたちとは小さい頃から仲良しだったものね。離れるのは………寂しいわね、そりゃ」
「おっかさんったら……そんなんじゃないわよ」
「でもね…」
「おっかさん。捨て子だった私を育ててくれたのはおっかさんやおとっつぁんだもの。その恩を仇で返すようなことはしないわ」あいは真剣にいった。「ずっとここにいる」
「……あい。あんたはいい娘になったわね」
「おっかさん」あいはまた寂しい顔になり、月を見上げた。そんな月も、まるで三人の別れを悲しんでいるようにも、見えた。



「三郎!」
 ふいに、鈴木三郎の母が、実家で夕食中の息子に声をかけた。質素な食事で、実家は茅葺き屋根の木造家屋だった。母はけっこう年増な女である。父は禿げている。
 みんな、一生懸命、”飯”をがつがつ食べていた。もう夕暮れである。
「……なんだよおっかあ?」
 母は「……お前、あいのことはどうするんだ?」と尋ねた。是非とも答えが知りたかった。なんにせよ、息子とあいのことが気掛かりだった。
「あいはあいで、ちゃんと生きていくさ」
「馬鹿もの! あいは高橋家の宝じゃぞ! この鈴木家の長男の嫁にはふさわしい」
「…え?」
 母は「そうは思わんか? 三郎」と迫った。
「しかしよう、かあちゃん。俺は東京にいくんだぜ。帝都よ。あいはこの町に残る。つまりだな……」
「なんじゃ? いうてみい」
「あいとは別れることになる訳よ。しかも、俺は大学生だぜ。早稲田よ」
「それがどうした?」母は続けた。「あいはな。この町で一番の器量よしだ。何が不満がある? 贅沢は敵じゃぞ」
「わかっとる!」
 三郎は母を無視した。母は「そんなことではな。あいを杉原家の千畝にとられてしまうぞ」と脅した。三郎はまたも無視した。
 ………なにが、あいを千畝にとられてしまう…だ。馬鹿らしい!
「俺は東京娘を手にいれ、大成功よ!」
 三郎は無邪気に、そう考えて、いた。