緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

特殊詐欺の手口と対策【騙されないで!オレオレ還付金ATM痴漢事故示談】

2017年11月30日 18時21分43秒 | 日記





































特殊詐欺の手口と対策



特殊詐欺とは?

 「オレオレ詐欺」「還付金詐欺」「架空請求詐欺」「融資保証金詐欺」の総称です。

1.「オレオレ詐欺」の手口と対策

「オレオレ詐欺」とは?

 電話を利用して、親族、警察官、弁護士等を装い示談金等(交通事故、痴漢等)の名目で、現金を振り込ませるなどの方法によりだまし取る詐欺のことです。



「オレオレ詐欺」の具体的な手口

〈その1〉警察官を装う手口
 警察官を装い、主人や息子が痴漢や盗撮をしたとして逮捕されたと電話をかけくる。
 警察官から被害者の弁護士に代わり、示談金が必要と説明し、至急相手の口座に振り込まないと示談が成立せず、主人や息子が留置場に入ると脅し現金を振り込ませるもの。

〈その2〉息子を装う手口
 前日などに「携帯電話が壊れてしまって、番号が変わったので登録しなおしておいて。」などと事前に登録変更の連絡をしてくる。
 その後、「会社のお金を使い込んでしまった。助けて欲しい。」や「彼女を妊娠させてしまったので、中絶費用がいる。」などといって現金を振り込ませるもの。



「オレオレ詐欺」に遭わないために
1.警察が盗撮、痴漢などの示談を仲介することはありません。このような電話がかかってきましたら、一旦電話を切り、必ず家族に確認し、警察に相談をしてください。
2.家族内では事前に合言葉などを決めておき、本人かどうかを確認してください。お金の話になったら、詐欺と疑い電話を切り、事実を確認してください。
3.在宅中も留守番電話に設定し、そもそも犯人と直接話さないようにすることが最も有効です。

2.「還付金詐欺」の手口と対策

「還付金詐欺」とは?

 還付金詐欺とは、市役所の職員等を装って、「税金・医療費などの還付金があります」などと電話をかけ、言葉巧みにATM機を操作させて、被害者の口座から犯人の口座へお金を振り込ませる詐欺のことです。
 市役所では、ATM機による還付金の支払いを行うことは絶対にありません。このような電話がかかってきましたら、「詐欺ではないか」と考え、電話を切り、必ず市の関係部署に確認するとともに、警察にも通報してください。

〈その1〉税金が還付されると装う手口
 税務署や市役所職員を装い、税金の還付があるので、銀行ATMを操作するように指示されたもの。

〈その2〉医療費が還付されると装う手口
 市役所職員を装い、医療還付金があるので、銀行ATMを操作するように指示されたもの。

〈その3〉年金が還付されると装う手口
 社会保険事務所職員を装い、「年金の過払い分還付がある。それについて手続きを行わないと年金が受け取れなくなってしまう。」と電話があったもの。



「還付金詐欺」に遭わないために
1.相手の指示した連絡先には絶対に連絡しないでください(音声ガイダンスにより連絡をしてくる場合もあります)。
2.公的機関(市役所、社会保険事務所、税務署、電力会社など)が手続きのため、電話でATM機の操作を指示することは絶対にありませんので、そのような電話がかかってきたら電話を切ってください。
3.このような電話がかかってきたら、必ず関係機関へ確認をしてください。
4.在宅中も留守番電話に設定し、そもそも犯人と直接話さないようにすることが最も有効です。

3.「架空請求詐欺」の手口と対策

「架空請求詐欺」とは?

 郵便、インターネット等を利用して、不特定多数の者に対して架空の事実を口実とした料金を請求する文書を送付するなどし、現金を預金口座に振り込ませるなどの方法によりだまし取る詐欺のことです。



「架空請求詐欺」の具体的な手口

〈その1〉メールでの請求手口
 メールで有料コンテンツの利用料・情報量が未払いであるとしてお金を請求するもの。

〈その2〉文書での請求手口
 一般家庭に総務省やNHKなど公的機関を騙った「デジタル放送接続請求書」、「NHKより地上波デジタル放送についてのご案内」等と記載した、アンテナ受信端末切替工事等の費用を請求する文書を郵送し、指定口座に現金を振り込ませるもの。



「架空請求詐欺」に遭わないために
1.利用した覚えがなければ現金を振り込む必要はありません。
仮に請求の電話があっても毅然とした態度で断ってください。
※万が一、訴状を受け取るなどの事態があった場合には、早急に「消費生活センター」等に相談をしてください。
2.連絡してきた者に対して振込要求する手口が増えていますので、相手に連絡しないでください。
3.相手に自分の個人情報を教えると、その情報を元に新たな詐欺の手口に使われる可能性もありますので、相手に自分の個人情報を教えないでください。
4.見覚えのない送信元からのメールに表示されているアドレス等にアクセスするだけで、入会金を請求されることがありますので、アクセスをしないでください。

4.「融資保証金詐欺」の手口と対策

「融資保証金詐欺」とは?

 実際には、融資しないにも関わらず、融資する文書等を送付するなどして、融資を申し込んできた者に対し、保証金等を名目に現金を預金口座等振り込ませる等の方法によりだまし取る詐欺のことです。



「融資保証金詐欺」の具体的な手口

 はがき(DM)、電子メール、ファックスを送ったり、雑誌広告、折込チラシなどを利用して融資を勧誘をします。
 相手の連絡先に電話等で融資の申し込みをすると、「あなたは、借入金多数として登録があり融資することができません。しかし、保証協会費を納めてそのデータを一旦抹消すれば融資を受けることができます。」や、「病気等で仕事ができず返済が滞った場合に備えて、あらかじめ保険料を納めてください。完済後にお返しします。」などと現金を預金口座等に振り込ませたり、電信為替などで送らせてだまし取るもの。



「融資保証金詐欺」に遭わないために

 保証金などを要求された場合、すぐに振り込むことなく、最寄りの警察署、消費生活センターなどに相談してください。

警視庁ホームページ「こんな電話は、振り込め詐欺」
警視庁ホームページ「あなたは見破れますか?振り込め詐欺のテクニック」


【ジャーナリスト安積明子さん談】何故問題を起す政治家はチャラいのか?政治家RPG

2017年11月26日 16時31分19秒 | 日記































限られた情報で相手の「信用度」を見抜くにはどうすればいいのか。ここでは「政治家」をケーススタディとして、服装や言動、SNSの使い方などから、その中身を探ってみよう。

※肩書きなどはすべて「PRESIDENT 2016年8月1日号」の掲載時のままとした。

なぜ、有権者が嫌うスーツを着るのか

物事に表と裏があるように、政治家にも表の顔と裏の顔がある。政治家、特に国会議員を直接知らない有権者が見るのは、もっぱら彼らが目一杯振り撒く表の顔だ。

立派な経歴に笑顔のポスター、テレビ番組で語られる正論、SNS上の大活躍……。これらすべてを真実だと受け取る人は少ないだろうが、本来なら実像とのギャップを埋めるべきマスメディアも、現状はもっぱら週刊誌頼みで限界がある。

しかし、限られた情報で相手の「信用度」を見抜くことができればどうだろうか。それは選挙に限らず、仕事や実生活でも十分役立ちそうだ。

まずは、わかりやすく髪形や服装といった外見から検証してみよう。

「服装や髪形がチャラい議員は、性的な問題を起こしやすい」――医師・弁護士や国会議員を相手に危機管理のコンサルティングを行う平塚エージェンシー・平塚俊樹氏は言う。

「有権者・支持者の多くは年配者だから、本来そうした人たちに好感を持たれる服装が当たり前。なのに、彼らが最も嫌う、体の線が出るような細身のスーツをわざわざ着たりする。目的が明らかに本業と違う」

まるでタレントのように、見た目のカッコよさを追求するわけだ。複数の国会議員の下を渡り歩いたベテラン秘書も、「特に髪形が今風の若手政治家は危ないことが多いですね。美容室に行く時間を捻出していることじたいに、チャラ目的が透けて見えるかも」と指摘する。妻の妊娠中の不倫がもとで議員辞職した宮崎謙介前衆院議員はその典型例といえるが、都議・区議など地方議会も「そういうバカの巣窟になっている」(平塚氏)。


永田町で何とも情けないスキャンダルが続出している。釈明のため会見に臨む彼らの姿を見て「これが国会議員?」と首を傾げたり、スキャンダルもむべなるかなと感じた有権者は少なくないだろう(写真=時事通信フォト)

「細野豪志元環境相は、2006年に発覚した不倫で叩かれた頃のチャラさが消え、今は目立たないがいいスーツを着ているという印象。橋下徹おおさか維新の会法律政策顧問も、タレント弁護士から転身し年数を重ねるにつれ、いい意味でどんどんオジサンになっていった。2人とも叩かれながら学んだのでは」(同)

要は、好感を持たれる基準はサラリーマンとほとんど変わらないのだ。

「スーツは紺色かグレーのシングルに限り、ダブルなどもってのほか。安物でも黒の革靴をピカピカに磨いておく。そうした基本を守っていない人は信用できないが、基本一辺倒でもダメ。クールビズとかその時代の流行はある程度取り入れないと」(同)

もっとも、きちんとした装いで有権者にいい顔をしつつ、陰で暴力を振るう輩も中にはいる。永田町も昔に比べて随分パワハラに厳しくなったが、ゼロではないのだ。たとえば河井克行首相補佐官は、元秘書兼運転手から、車の後部座席から蹴り上げるなどの暴力行為を、週刊文春に実名で告発されている。

「傲慢ですぐ怒ったり、発言が過激なのは、何か隠しごとがある裏返し。弱い証拠です。スキャンダルを起こす可能性は大きい」(同)


素晴らしい経歴イコール素晴らしい人格とは限らない

およそ政治家らしくない、幼い顔だちだが、衆院選で2度当選しただけで「世界はオレ中心に動いている」と思い込んでいる――そんな風情の武藤貴也衆院議員は、初当選時から国会議員の中でも浮いた存在だった。


写真=時事通信フォト

何といっても協調性がない。目立つ場所で発言するが、その内容が過激すぎる。事実、自民党滋賀県連の中でも、「あいつとは言葉が通じない」とも言われ、武藤氏には親しい友人がいなかったと聞く。2015年8月に金銭トラブルで自民党離党を余儀なくされ、未成年の男性を買春したことを週刊文春で報じられたときも、同情の声は出なかった。

信頼度を見抜くうえで、経歴・学歴に頼る人も多いだろう。ただ、素晴らしい経歴イコール素晴らしい人格とは限らない。

2016年6月に政治資金の私的流用疑惑が浮上、粘った甲斐なく辞任した前東京都知事の舛添要一氏は、6カ国語を操る新進気鋭の国際政治学者として1980年代にメディアに登場。その切れのいい物言いと元東京大学助教授という華やかな肩書に、テレビをはじめとしたメディアは飛びついた。

しかし、すでに新党改革時代から政治資金の私的流用を週刊誌で書かれ、厚労相時代から吝嗇家だとの噂も絶えなかった。学者としての業績も怪しい。東大を退官後に舛添氏の訳書として上梓された政治学の翻訳本が、実は当時の東大大学院生が丸々手掛けたものだったことを、当の大学院生が公にしている。

同様に東大法学部卒で元検事という素晴らしい経歴の持ち主ながら、その言動にげんなりさせられたのがガソリーヌこと山尾志桜里民進党政調会長だ。国会で「保育園落ちた日本死ね!!!」のブログを披露して安倍晋三首相に待機児童問題を迫ったことで名を上げたため、民進党結党の際に政調会長に抜擢された。

ところが山尾氏が総支部長を務めていた「民主党愛知県第七区総支部」の12年の収支報告書に、ガソリン購入代として地球5周の走行分に当たる約230万円が計上されていた問題が発覚。山尾氏は元秘書が架空の代金を計上した疑いがあると釈明した。もし本当なら業務上横領罪に問われかねないが、山尾氏はこの元秘書に連絡すら取っていなかった。

甘利明前経済再生担当相の金銭授受疑惑では「秘書のやったことについて、本人の責任が免れるわけではない」と厳しく批判したにもかかわらず、自分に対しては大甘のまま、政調会長の座に居座り続けている。

他人には攻撃的なのに、いざ自分が指弾されると、他人に責任を押し付けて逃げるのはいただけない。

「もっとも永田町にひどい秘書が少なくないのは事実。議員にとって、秘書の監督は今後の最重要課題でしょう。しかし、特に若いときから人に担がれてきた2世、3世議員の多くは、企業の課長級以下のマネジメント能力しかない。逆に官僚出身者は、役所時代の手下と同じ感覚で秘書をこき使って、その結果人心が離れるパターンが多い」(ベテラン秘書)

経歴がアテにならないなら、「血筋」はどうか。企業社会では、金持ちのボンボンは世間知らず、甘ったれなどとレッテルを張られることが多いが、政治の世界も大差ない。


岡田代表の努力は裏目に出がち

先の山尾氏を政調会長に抜擢した岡田克也民進党代表は、イオン創業者・岡田卓也氏を父に持つセレブリティ。東大から旧通産省を経て、90年の衆院選で初当選した。


人柄を知る人には評判がいいが、国民の間では好感度の上がらぬ岡田代表(写真=共同通信フォト)

しかしてその実体は、酒はほとんど嗜まず、ダイエットに勤しみながら毎日一切れの羊羹を至福とする庶民派だ。脱炭水化物ダイエットを行う一方、国会内の役員室に置いてあるお菓子に手を伸ばし、「これはタニタの煎餅だからいいんだ」と周囲に意味不明な言い訳をしたことも。

そんな“庶民派”をアピールすべく、02年に党代表選に出馬したときには女性秘書を相手に「冗談を言う練習」をしたこともあった。

にもかかわらず、国民の好感度はイマイチだ。2016年の初めに役員室長の辻元清美衆院議員や代表代行の蓮舫参院議員が岡田氏のイメージチェンジを図るべく髪の毛を短く切らせたことがあった。が、かえって髪の毛の癖が出て、跳ねたヘアスタイルになってしまい、さすがにこのときの岡田氏は少々おかんむりだったという。努力が裏目に出ることが多いのは運のなさなのか。

ほかの2世、3世とは違う麻生副総理

時に、セレブは意外な面を持つ。吉田茂元首相を祖父に持つ麻生太郎副総理もそんな一人だ。


人柄を知る人には評判がいいが、発言の揚げ足を取られがちな麻生副総理(写真=Getty Images)

数々の失言や、「未曾有」を「みぞうゆう」と読んだ国語力ばかりが取り沙汰されるが、麻生氏は実は大変な達筆である。背広の胸ポケットから高価な万年筆を出し、さらさらと文章を書くところが、いかにもカッコイイ。

「麻生先生は歴代の秘書でクビにした人は一人もおらず、逆に不本意に辞めた秘書も一人もいないのは有名。先日亡くなった鳩山邦夫先生も秘書を大切にしていたから、事務所の結束が固い。ともに突き抜けた名門出身で、ほかの2世、3世とは不思議と違う」(ベテラン秘書)

そもそも高級品しか身につけない麻生氏。青山の一流のテーラーが作るスーツは特注品で、スラックスにはシワがつかぬよう裾に重りが入っている。小物の使い方も洒落ていて、14年のG20参加時は黒のボルサリーノを斜めに被り、水色のカシミヤのマフラーを巻いていた。これを米紙が「ギャングファッション」と揶揄したが、少年マンガの熱烈な愛読者の麻生氏は、むしろ劇画のキャラクターを意識していたように思える。

こうした実像はなかなか外には伝わりにくいが、好感度や信用度が高い人は、外に対するイメージと実像とを意識的に一致させようとする。少なくとも、話し方や口調を工夫し、外に対するイメージが崩れないよう、自分の理想像を演じるのだ。



自己のイメージを演じ切る進次郎

その点でそつがないのが小泉進次郎衆院議員だろう。父・純一郎氏譲りのワンフレーズポリティックスでわかりやすいうえ、その所作はきびきびしている。外から見る限りまったく無駄がない。


「議員会館のエレベーターで乗り合わせると、大半の女性秘書はウットリする」(ベテラン秘書)という進次郎氏。隙を見せないメンタルの強さは脱帽モノである。(写真=共同通信フォト)

「情」を見せることも忘れない。顔を見たことのある人には必ず会釈する。うっかり見過ごしたら、振り返って挨拶する。相手は「あの進次郎氏に気遣ってもらった」と感動してしまう。「自己のイメージを演じ切っているが、髪形が今風だし本質はチャラいかも」(平塚氏)という見立てもあるが、永田町で悪い評判を聞いたことがないのは確かだ。

「3時間しか眠れないが、頑張る」

「見た目」に続いて「物言い」を検証しよう。企業社会で最も信用されないのは、節操のないタイプである。所属政党がころころ変わる政治家が軽蔑されるのも同じことだが、2016年の参院選に当たって、そんな政治家に有権者が騙されそうになったケースがある。比例区の1人をネット投票で決める自民党の「オープンエントリー」に応募し、12名のファイナリストに残った柳澤亜紀港区議だ。

柳澤氏は民主党政権時の11年の区議選で民主党から出馬し初当選したが、15年の区議選では与党に返り咲いた自民党に転じて再選した。

「まったくもって節操がない」

呆れるのは民進党(当時民主党)の関係者ばかりではない。自民党関係者からも、「有権者に説明するために、一度は無所属議員として選挙の洗礼を受けるべきだったと思う」との苦言を聞いた。

しかもオープンエントリーで柳澤氏は港区の待機児童の改善を自分の手柄のように主張したが、これについて他の区議たちは一様に「事実ではない」と斬り捨てた。

「港区は23区内で財政的に最も豊かなので、お金をかけて取り組んだ結果が出ただけだ。柳澤氏が格別これに貢献したという事実はない」

有権者は全能ではないため、時には騙されることもある。その対処法として最も有効なのは、やはり政治家に直接会って話を聞くことだ。

そこから人間性が判断できるし、実物がHPの写真などと乖離しているかどうかを確認することもできる。あまりに違っていたら、“修正”を疑ってみよう。選挙は美男美女コンテストではない。

また「いい日本にしたい」「みんなが尊重される社会」など、誰でも思いつく曖昧なフレーズでしかアピールできないなら、政治家としての適性を疑うべきだ。具体的な国家像や近未来図に言及したら、能力については合格点。さらに専門的知識があれば申し分ない。

ツイッターやフェイスブックなどSNSで自分の行動をいちいち呟き、「これから3時間しか眠れないが、日本のために頑張る」などと書き込む政治家がいるが、これは単なるアピールで、事実ではないと疑ったほうがいい。そもそも本職で多忙ならば、頻繁にSNSに書き込めるはずがない。


写真=AFLO

しかも、そうした政治家には「ヒラメ」が多い。上層部の覚えがめでたければ出世できると信じており、ろくな仕事もしないまま、アピールだけ繰り返す。また上層部の言い分をただ繰り返すだけの議員も要注意。自分の頭で考えていない証拠だ。

実際に上西小百合衆院議員は、初当選時のインタビューで何一つ自分の言葉で答えられず、「橋下代表のおっしゃる通りです」のみ繰り返した。上西氏は12年の衆院選で大阪7区から日本維新の会(当時)の公認候補として出馬し当選したが、同選挙区は「日本維新の会から出れば当選確実」と言われた選挙区だった。

ここまで見てきた政治家の信用度を見るポイントは、意外に平凡だが、政治家に限らず広く通用することに、恐らく異存はなかろう。甘い言葉や都合のいい事実だけを語る政治家に騙されないためにも、実生活で人の本性を見抜く、もしくはわが身を省みるためにも、活用の仕方は多々ありそうだ。

▼信用度を見抜く8つのポイント
1. 服装・髪形がチャラい→異性のことしか頭にない
2. 言動が荒く、傲慢→何かやましいことを抱えている
3. 経歴・血筋を鼻にかける→経歴は眉ツバ。突き抜けた血筋なら案外アテになる
4. 攻撃的だが受けに回るとダンマリ→脇が甘い。けじめがない
5. 節操がない主義主張が変わる→その場しのぎしか考えていない
6. 指示・アピールが曖昧、抽象的→仕事に思い入れがない
7. “忙しい”アピール→実はそうでもない。ロクに仕事をしない
8. 上の意向ばかり気にする→自分の頭で考えない「ヒラメ」

命のヴィザ 杉原千畝六千人の命のビザ映画『杉原千畝』記念ブログ小説5

2017年11月26日 04時54分58秒 | 日記


































  千畝は三郎と支度にかかっていた。早稲田大学進学のため東京にいくからだ。
 三郎はいう。
「……東京には美人がおおいっていったろう?」
「またかい? さぶちゃんは好きだねぇ。女の子が」
「いや。違う。ただ、女の子といちゃいちゃするのが好きなだけだ」
「いちゃいちゃ…?」
「あぁ」三郎は頷いた。
「でも、あいちゃんはどうするの? ほっといたら悪い虫がつくかも知れないよ。もっと猛烈に告白しなくちゃ」
「……それがいかん」
「……え?」
「千畝……強く攻め守るだけがすべてではないのだ。例えば、虎と人間のどちらが強いか?虎だ。しかし、虎は人間によって討ち取られ……皮を毟られる。だから虎は必死に抵抗し、人間を殺そうとする。だが…鞭と鞭ではどうにもならん」
「…というと?」
「虎に餌を与え、飴を与えれば虎もいうことをきく」
「はあ?」千畝は顔をクエスチョンマークにした。「…どういうこと?」
「いや。その……飴と鞭さ。とにかく」
 三郎は強くいった。
 で、千畝は「…はあ? わからないよ」といった。
 なんのことか分からず、彼は首を捻るばかりだった。
「ははは。わからなきゃいい。」
 三郎は負け惜しみを言った。
自分でもむなしい気分に、なった。



   鈴木三郎と杉原千畝は東京にいくため、駅にいた。
 当時は蒸気機関車で、いわゆるSLである。岐阜駅で、ふたりと出迎えの両親、そして、高橋あいが見送ることになった。曇り空の午後だった。
 駅には東京や大阪など都市の売春宿に売られていく娘たちの姿もある。
「じゃあな、あい」三郎はリュックをせおった書生姿でいった。
 千畝も書生姿で「あいちゃん、元気でね」と声をかけた。
 あいは動揺してると、それからは三郎のペースで、しおらしくあいに声をかけ、
「あい。……元気でやるんだぞ。結婚して子供もいっぱい産んでさ」と笑顔をつくった。「子供? 三郎さんったら」
 あいと三郎と千畝は握手をかわした。
 なんにしても絆が結ばれた瞬間だった。過去のしがらみを捨て、新たな絆が、今、この瞬間に結ばれたのだ!
 あいはそう思った。
 やがて、ふたりを乗せた列車は黒煙をあげながら出発し、遠くなり、やがて見えなくなった。それでも、あいは手を振りつづけていた。
 もう永遠の別れだろうか? いや、そうではない。
 あいは心に決めていた。
 ………いつかは私も東京に……この田舎から出て…一緒に…




「あいはいるかえ?」
 数日後の昼、三郎の母・つね(かなり年増)が高橋家を訪ねてきた。
「あら?」
 あいは食事の支度をやめて、笑顔を見せた。この数週間というもの、ふたりが去ってから生きたここちがしなかった。慰めが…ほしい。そう思っていた。
「あい、ちょっとお前に話があるのじゃがな」つねはいった。
「なんですか? 三郎さんのおっかさん」
「お前は…」つねは続けた。「三郎のことをどう思う?」
「え?」
 あいは言葉を失った。……三郎のことをどう思う? ときかれても、答えがでなかった。「三郎が好きか?」
「……えぇ。でも、杉原さんも好きです。ずうっと幼い頃から一緒だったんですもの」
「わが鈴木家の嫁にならんか?」
 つねは蛇のような目でいった。
「…え? 嫁ですか?!」
 あいはびっくりした顔で、目を剥いた。
「そうじゃ。どうせせがれは東京ではやっていけん。すぐに岐阜に逃げ帰ってくる」
「そ……そんな」
「そこで、あい! お前と所帯をもてば、せがれは稼業の畳屋を継ぐじゃろう」
 あいは絶句した。
 つねは「何が大学ぞ。なにが外交官ぞ」と悪態をついた。
「でも…」あいは必死に「三郎さんの夢なんですから……それに」
「なんじゃ?」
「杉原さんも……千畝さんもついていますし」
「それがいかん! 糞真面目を絵にかいたような杉原のせがれと三郎では水と油じゃて。どうせせがれは逃げ帰ってくる」
「……そんなこと……」
「あい!」つねは拝み出した。「三郎と一緒になってやってたもれ!」
 あいは何といっていいか、わからなかった。そして、……この田舎から出てみたい……という気持ちを強く抱くようになっていくのだった。…ここから…出てみたい。しかし、徹底した男尊女卑で、女性は低賃金労働されて「子供を産み、育てて、家庭を守るもの」として選挙権も与えられず、差別を受けていた。この頃、日本軍による侵略と虐殺は続いていた。中国で、朝鮮で、東アジアで、日本軍は市民を虐殺し虐待し強姦し続けていた。かつての北朝鮮のドラマでの日本軍人さながらの虐殺を、していた。         


         ハルビンへ!




   大正七年、三郎と千畝は早稲田大学に入学した。
 最初の杉原千畝の夢は「外交官」というより、「英語教師」だったという。
 三郎の両親は仕送りをたんまり送ってきたが、杉原千畝には仕送りがなかった。そのため、千畝はアルバイトに明け暮れる日々を送っていた。
 新聞配達、ビール工場、道路工事………千畝は何でもやった。そして、学業も両立させた。しかし、貧乏で、食べられないことも多かったという。
 だか、三郎は金を湯水のように使い、遊郭遊びもやった。


  一方、岐阜の田舎にいる高橋あいは働くことにした。高橋あいことあいは、地元の養蚕工場と所属契約した。現在でこそ養蚕は斜陽産業だが、当時は花形産業だった。あいは、話題となっていた。注目点はなんといってもコケテッシュな美貌だった。はっきりいって、高橋あいは可愛い。美女だ。文句のつけようもない。
 契約には背広姿の義父も同席して、あいこと高橋あいがミスしないように監視していた。あいは髪をゆって、質素な和服姿である。しかし、この時代は女性には厳しい。低賃金で過酷な労働を強いられる。選挙権さえもらえない。徹底した男尊女卑の時代だった。
  義父とあいが自宅の一室に帰る頃は、もう夕方だった。
 夏だというのに外気はむっとした暑さではなく、清々しい微風まで吹くあり様であった。あいはぐったりしてしまった。義父の”おせっかい”に疲れたのだ。
 あいを監視して、大丈夫かどうか、不安にかられてまた発作でも起こしてはしないかどうか、たしかめなくては。あいにとって契約もかなりの冒険だったに違いない。日頃の手順、自分を守ってくれる手順とは大きく違っていたろう。当たり前だが、そうだ。
 義父は大きな笑顔をつくり、あいの部屋にむかった。きっとあいだって、まともになってる。そんな期待があった。しかし、それは脆くも崩れ去った。父が部屋に足を踏み入れると、足をとめ、その光景に唖然としてしまった。
 部屋のまん中で、あいが号泣していたらだ。
 三郎さんや杉原さんに会いたい。特に、杉原さんに。千畝さんに。
 で、義父は途方にくれた。
(……いったいどうやって、あいを救えばいいんだ?)頭痛のする思いであった。


  東京にながくいるつもりはなかった。いや、大学にながくいるつもりはなかった。早めに、一日でも一秒でも早く認められて、英語教師になる。こんな金のかかる東京なんかより、岐阜のほうがずっとよい。ハッピーになれる。あいのことも気掛かりだし、金はなくて、バイトで眠る時間もほとんどない。認めてくれ! せっかく大学に入れたのに…………まだダメだなんてあんまりだ!
 なんとかバイト料が手にはいった。それで、千畝は胸をほっと撫でおろした。
 しかし、最初の用件をまずすべきで、最初にしなければならないのは夕食だった。腹が減った。とにかくなにか食べなくては。さぶちゃん(三郎)も腹減ったと呟いていることであるし。とにかく、何か食べなくては。下宿から二ブロックほど歩いていくと、よく見かける赤ちょうちんの小料理屋があった。客は、いわゆる庶民たちだ。
 焼き鳥のいい匂いと、酒の香りがある。千畝は下戸だが、三郎は酒豪だった。
「…千畝! 今夜は俺がごちそうするぜ!」三郎はいった。
 千畝は「無理すんなって、さぶちゃん。仕送りだってほとんど使ってしまったんだろ?」「ま……まぁ、な」三郎は頷いた。そしてにやりとして「じゃあ割り勘だ」
「さぶやん…風俗ばかりにいってるから金欠になるんだよ」
「ほっとけ!千畝」 
 杉原千畝は、三郎のあとをのろのろと亀のようについてきて、千畝が店にはいると、千畝ものろのろと店にはいっていった。いらっしゃいませ!、と威勢のいい女の声がする。「さぁ、腹一杯食って呑もうぜ」
 三郎は千畝こと杉原千畝の腕をぎゅっと掴み、椅子に座らせた。
 客はあんまりいなかった。店内はほとんどからっぽだった。工場労働者らしい大男ふたりが座って焼き鳥を食べている。
「まあ、三郎さん。毎度」美人の女将が笑顔をみせた。洋服である。化粧も厚い。小柄で、男心をそそる美女だ。しかし、もう四十過ぎだろう。「なんにする? 千畝」三郎が隣の席の杉原にきいた。
「ぼくは酒は呑めないんだ。ジュースを」千畝はぼんやり答えた。
「じゃあ」
三郎は四番目の微笑、つまり少年っぽい微笑で答えた。
「焼き鳥と日本酒とジュース。な? あぐり女将」
すると、女将は
「はい!」といった。
「知り合い?」
千畝が尋ねると、三郎は
「常連だもの。こっちは女将の吉沢あぐりだ。こっちは同級生の杉原千畝」
と紹介した。
「よろしく」あぐりは営業スマイルを浮かべた。
「おまちどうさま」ふいに、若い娘が食事を運んできた。それが、あぐりの娘の吉沢ひとみであった。
「これ、ひとみ。挨拶しな」あぐりは娘に命じた。
「娘のひとみです」若い美形の娘は頭をさげた。儀式のようなものだ。
「よろしく」千畝は笑顔を見せた。
そして、「なあ、さぶちゃん」といった。
「………どうした千畝?」
「ぼく、ハルビンに行こうと思うんだ」唐突に千畝はいった。
 三郎はびっくりして、「ハルビン? 満州のか? なぜ?」
「新聞の記事に官費留学の試験があるっていうのを見つけたんだ」
「……しかし、なぜ?」
「留学すれば外国にいき、語学を学び、外交官になれるっていうんだよ」
「本当か?!」
「あぁ」千畝は強く頷いた。「外交官だよ?」
「そうか……よし! 俺もぜったい後でいく!」三郎は焼き鳥を食べながらきいた。
「また、三郎さんは……調子いいことばっかりいって。学校にもろくにいかず遊んでばってかりのくせに」ひとみは呆れて口をはさんだ。
「うるせい」三郎はふざけていった。
  こうして、杉原千畝は1919年、試験に合格し、満州のハルビンへ留学するため旅だった。留学期間は三年間である。


  三郎は船で旅立つ千畝を見送った後、ふたたびあぐりたちの店にいった。まだ、昼だったが、そこにはひとみがひとりで茫然と椅子にすわっていた。
「……どうした? ひとみ?」
 三郎は尋ねた。
 その次の瞬間、ひとみは予想もしないような恐怖に襲われ、ひとみはテーブルの上を見渡した。表情もただならないものになっていた。
「あたいは……」
うろたえていた。
「どうした? 俺にいってみろ」
三郎はいったが、ひとみは黙ったままだった。
「………いってくれないとわからないだろうが?」
「あたい…」ひとみは吐露した。「いつも店の男たちのてごめにされるの。でも、それも仕事だっておっかさんが……」
 三郎は憎しみを、はげしい憎しみを抱き、自分が人生のなかで遭遇したさまざまな不幸や、ひとみの境遇に憤りを覚えた。憤りというより怒りだ。激怒だ。
 三郎はテーブルごしに手を伸ばすと、ひとみの手を乱暴につかんで、きつく締めつけ、ひとみの耳にしか聞こえない、かすれた、低い声でささやいた。
「俺が見ている、わかるか? 俺がお前を守ってやる!」
 ひとみはぴたっと呟きをやめた。三郎はほっと息をついた。救われた思いだった。まるで、砂漠の中でオアシスをみつけたように安堵した。
「でも………三郎さんはおっかさんと……」
「いうな」三郎はいった。

  次の日の早朝、千畝はハルビンへ着いた。満州とは中国東北部地帯で、日本軍が占領し、事実上、日本の領土のようになっていた。千畝はそこの首都ハルビンでロシア語を学ぶことになる。すべては、キャリアのためだ。形だけの傀儡政権のトップは溥儀だった。 すべては自分のため。成功のため。お国のため。人生のレースのため。
 杉原千畝の教師であり恩師は、ロシア人のドストエルスキーという老人だった。白髪で白髭で、とにかく温厚な老人である。
「杉原君、ロシア語だけ話せればいいという訳ではないぞ。経済、政治、文化、人柄、すべてを学んで初めてその国を理解できる。ロシア語を学ぶとはそういうことなのじゃ」
 千畝は頷いた。「わかりました」

  グッジェの自宅に、夕方、リベラが単身訪ねてきた。
「リベラ」
グッジェは笑顔を見せた。
が、リベラは拳銃を取りだした。
「……父親の敵の俺を撃ち殺そうというのか?」
グッジェは冷静だった。
しかし、そのあと驚愕した。
彼女は銃口を自分のこめかみに当てて、引き金をひいたからだ。
リベラは即死だった。……リベラ………そんな!

  時刻は朝の十時をすぎ、もうすぐ十一時になろうとしていた。千畝はもうデスクについて勉強しているに違いない。岐阜のあいはは呆然としていた。溜め息をついた。三郎さん……杉原さん。
 彼女の義理の両親は病死していた。あいは養蚕工場をやめた。
 あいは電話をまわした。交換士がでた。いつもの彼女に似合わず、神経質なうずきを感じていた。口はからからで、手も汗ばんでいる。なぜか緊張した。そうヘタな人生を歩んできた訳ではない。自由闊達だったし、十分幸せだった。しかし、義父のぐさっとくる言葉が、頭の中でぐるぐるまわっていた。
「お前は三郎君と杉原君のどちらも好いている。ふらちな女だ」
ひどく落ち着かない気分だった。
 数回ベルがなって、受話器がとられた。
受け付けの女の声がした。
だから、杉原さんをと頼んだ。数秒たって、なつかしい声がした。
「杉原です」
「杉原さん。わたし、あいです。高橋あい」
 一秒の間があり、それから穏やかな声がした。「あいちゃんか…」
「どうしたんだい、あいちゃん」杉原がいった。
「それは…」あいは押し黙った。
 千畝がもう一度いった。
「なんの用なの?」
「あの……」あいはいった。
「別に用というほどでは…」
「そう?」千畝はいった。
「あいちゃん。これから授業なんだ。ごめん…」
「そう?」あいは苦笑いした。電話は切れた。
 その後、高橋あいは岐阜の田舎をあとにすることをきめた。旅にでる。大事なひとを探して。追いかけて。あいは後ろ髪ひかれる思いで、岐阜をあとにした。
 とにかく………一目、三郎さんや杉原さんに会いたい……その思いだけが、あいを支えて、いた。

****
1924年(大正13年)に外務省書記生として採用され、日露協会学校、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)に満洲国外交部事務官に転じた。1926年(大正15年)、六百頁余にわたる『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、
「本書は大正十五年十二月、在哈爾濱帝國總領事館、杉原書記正の編纂に係はる。執務上の參考に資すること多大なるを認め、これを剞?に付す」
【現代語訳=この本は、大正15年(1926年)12月、ハルビンの日本総領事館の杉原書記官が書き上げたもので、仕事をする上で大いに役立つと思いますので、これを出版します】

という高い評価を外務省から受け、26歳の若さにして、ロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわす。
1932年(昭和7年)、3月に満洲国の建国が宣言され、ハルビンの日本総領事館にいた千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で、満洲国政府の外交部に出向。1933年(昭和8年)、満洲国外交部では政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当。鉄道及び付帯施設の周到な調査をソ連側に提示して、ソ連側当初要求額の6億2,500万円を1億4,000万円にまで値下げさせた。ソ連側の提示額は、当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結は大きな外交的勝利であった。外務省人事課で作成した文書には、杉原に関して、「外務省書記生たりしか滿州國成立と共に仝國外交部に入り政務司俄國課長として北鐵譲渡交渉に有力なる働をなせり」 という記述が見られる。
ところが、日本外交きっての「ロシア通」という評価を得てまもなく、1935年(昭和10年)には満洲国外交部を退官。満洲赴任時代、1924年(大正13年)に白系ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚していたが、1935年(昭和10年)に離婚。この在満の時期に、千畝は正教会の洗礼を受けた。正教徒としての聖名(洗礼名)は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」、つまりパウェル(パウロ)である。
この受洗は、結婚に際してにわかに思いついたことではなく、早稲田大学の学生時代、千畝は、後の早稲田教会となる早稲田奉仕園の信交協会に一時期属しており、満洲に赴任する前にすでにキリスト教と出会っていた。この奉仕園の前身は「友愛学舎」と呼ばれるもので、バプテスト派の宣教師ハリー・バクスター・ベニンホフが大隈重信の要請を受けて設立したものである。友愛学舎の舎章は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)である。
このハルビン在職期に杉原は、有名なシモン・カスペ(英語版)殺害事件などユダヤ人や中国人の富豪の誘拐・殺害事件を身近で体験することになった。これらの事件の背後には、関東軍に後援された、白系ロシア人のファシスト組織があった。杉原は、破格の金銭的条件で、関東軍の橋本欣五郎から間諜(スパイ)になるよう強要されたが、これを拒否。千畝自身の言葉によれば、「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満洲国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になって外交部を辞任した。
かつてリットン調査団へのフランス語の反駁文を起草し、日本の大陸進出に疑問を持っていなかった千畝は、この頃から「日本の軍国主義」を冷ややかな目で見るようになる。杉原手記には、「当時の日本では、既に軍人が各所に進出して横暴を極めていたのであります。私は元々こうした軍人のやり方には批判的であり、職業軍人に利用されることは不本意ではあったが、日本の軍国主義の陰りは、その後のヨーロッパ勤務にもついて回りました」と、千畝にはまれな激しい言葉が見られる。千畝の拒絶に対し、関東軍は、前妻クラウディアが「ソ連側のスパイである」という風説を流布し、これが離婚の決定的理由になった。満洲国は建前上は独立国だったが、実質上の支配者は関東軍だったので、関東軍からの要請を断り同時に満洲国の官吏として勤務することは、事実上不可能だった。
満洲時代の蓄えは、離婚の際に前妻クラウディアとその一族に渡したため、ハルビンに渡った時と同じように、千畝はまた無一文になった。そこで、弟が協力して池袋に安い下宿先を見つけてくれた。帰国後の千畝は、知人の妹である菊池幸子と結婚し、日本の外務省に復帰するが、赤貧の杉原夫妻は、結婚式を挙げるどころか、記念写真一枚撮る余裕さえなかった。「杉原手記」のなかで、「この国の内幕が分かってきました。若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになった」と、千畝は述べている。ソ連と関東軍の双方から忌避された千畝は、満洲国外交部を辞めた理由を尋ねられた際、関東軍の横暴に対する憤慨から、「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかったんだ」と幸子夫人に答えている。
独ソ戦迫るヨーロッパへ[編集]

カウナスに残る旧日本公使館
1937年(昭和12年)にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任し、次いで1939年(昭和14年)にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。ちなみに千畝は当初、念願であった在モスクワ大使館に赴任する予定であったが、ソ連側が、反革命的な白系ロシア人との親交を理由に、ペルソナ・ノン・グラータを発動して千畝の赴任を拒絶した。当時の『東京朝日新聞』(1937年3月10日付)は、「前夫人が白系露人だったと言ふに理解される」と報じた。
日本の外務省はソ連への抗議を続けるとともに、千畝に対する事情聴取も行い、それは『杉原通訳官ノ白系露人接触事情』という調書にまとめられ、そのなかで千畝は、「白系露人と政治的に接触したことはなく、むしろ諜報関係で情報収集のためにあえて赤系のソ連人と接触していた、そのため満洲外交部に移籍してからは、共産主義者の嫌疑をかけられ迷惑した」などと述べている。日本政府は、ライビット駐日ソ連臨時大使を呼び出して、杉原の入国拒否の理由を再三尋ね、ソ連に敵愾心を持っていた白系ロシア人との親密な関係を指摘されたが、それは具体的な証拠のないものだった。北満鉄道譲渡交渉を控えた千畝の事前調査は、それがどのような経路で行われたのかソ連側も把握できないほど周到なものだった。
ソ連が最後まで入国自体も認めなかったために、千畝は行先を近隣のヘルシンキへと変更された。バルト三国を初めとしたソ連周辺国に、千畝を含む6名ものロシア問題の専門家が同時に辞令が発令された事実を突き止めた渡辺勝正は、これが、ノモンハン事件における手痛い敗北の結果、対ソ諜報が喫緊の課題になったためであるとしている。
1938年(昭和13年)3月4日、杉村陽太郎・駐仏日本大使は、パリの日本大使館から、ヘルシンキに着任している「杉原通譯官ヲ至急當館ニ轉任セシメラレ」たしと直訴する、広田弘毅外務大臣への極秘電信を送った。千畝を自分の手元におきたかった杉村は、電信に「タタ發令ハ官報省報職員録ニハ一切發表セサルコト」と付記したが、広田外相は「遺憾ナカラ詮議困難ナリ」とこれを拒絶し、千畝の引き抜き作戦は失敗に帰した。というのも、千畝には、独ソ間で日本の国家存亡に係わる重大任務が待ち受けていたからである。
その任務の具体的内容は、1967年(昭和42年)に書かれたロシア語の書簡の冒頭で、以下のように述べられている。
カウナスは、ソ連邦に併合される以前のリトアニア共和国における臨時の首都でした。外務省の命令で、1939年の秋、私はそこに最初の日本領事館を開設しました。リガには日本の大使館がありましたが、カウナス公使館は外務省の直接の命令系統にあり、リガの大使館とは関係がありませんでした。ご指摘の通り、リガには大鷹正次郎氏がおり、カウナスは私一人でした。周知のように、第二次世界大戦の数年前、参謀本部に属する若手将校の間に狂信的な運動があり、ファシストのドイツと親密な関係を取り結ぼうとしていました。この運動の指導者の一人が大島浩・駐独大使であり、大使は日本軍の陸軍中将でした。大島中将は、日独伊三国軍事同盟の立役者であり、近い将来におけるドイツによる対ソ攻撃についてヒトラーから警告を受けていました。しかし、ヒトラーの言明に全幅の信頼を寄せることが出来なかったので、大島中将は、ドイツ軍が本当にソ連を攻撃するつもりかどうかの確証をつかみたいと思っていました。日本の参謀本部は、ドイツ軍による西方からのソ連攻撃に対して並々ならぬ関心を持っていました。それは、関東軍、すなわち満洲に駐留する精鋭部隊をソ満国境から可及的速やかに南太平洋諸島に転進させたかったからです。ドイツ軍による攻撃の日時を迅速かつ正確に特定することが、公使たる小官の主要な任務であったのです。それで私は、何故参謀本部が外務省に対してカウナス公使館の開設を執拗に要請したのか合点がいったわけです。日本人が誰もいないカウナスに日本領事として赴任し、会話や噂などをとらえて、リトアニアとドイツとの国境地帯から入ってくるドイツ軍による対ソ攻撃の準備と部隊の集結などに関するあらゆる情報を、外務省ではなく参謀本部に報告することが自分の役割であることを悟ったのです。
話を戻す。


 ヒトラーは笑った。そして、「必ずひとりでも多くユダヤ人を殺すんだ!」といった。「その通り」ゲッベルスはいった。そして、「ですが……リスクが大きい」と口ごもった。いつもの彼に似合わず、神経質なうずきを感じていた。口はからから、手は汗ばんでいる。「…そんなことはあるまい」
  その夜、ゲッベルスと恋人はまたデートを重ねた。
 ふたりは手を繋ぎ、よりそい、抱き合った。ふたりの愛は絶頂を迎え、薔薇色のしんとした気持ちが、ふたりの中にはあった。きらきら光るような。そんな感じだ。
 ふたりっきりの部屋から、くぐもった声や、生きをはあはあ切らしあえぐ声、ときおりうめき声が響いていた。彼と彼女は、みだらな死闘をくりひろげるのだった。


         あぐりとひとみ




「ひとみ!」あぐりが叫んだ。
 ひとみはあわてて振り向いた。
母の顔は険しく、目はベーリング海のように冷たかった。
「あんた、この頃、三郎と仲いいじゃないか?」と嫌味をいった。
「やったの?」
 ひとみは母になぐられたかのようにすくみあがったが、唇をきゅっと噛みしめ、
「ま……まだよ」と呟いた。
「あんな”ろくでなし”やめときな! 体が腐るよ」あぐりがわめいた。
「やめてよ! 可哀相よ」
 ひとみはいった。
「三郎さんだって……そりゃあ遊んでばかりいるけどさ。根はいいひとなんだよ」
「それはそれは」あぐりがにやりとした。
 ひとみは「どういう……意味?」と動揺した。
「多分」あぐりは頷いた。
「恋じゃないのかい? 売春婦もどきが恋とはね」
 あぐりが鋭い視線をひとみにむけると、彼女はうろたえた。そして
「そんなんじゃない!」と泣きそうな顔をした。


  三郎とひとみは、旅館の一室にいた。派手な照明と壁はきらびやかで、イヤラしいことをする部屋としては上出来である。三郎とひとみは蒲団だ。
「三郎さん!」
 今度はひとみがわめいた。
 鈴木三郎は大学での慣れない勉強で参っていた。圧力釜に長いこと入りすぎていたため、釜のバルブがこわれて、あらゆるものが噴きこぼれた。なんともやりきれない思いだった。 千畝はどうしてるだろう? あいは? そうだ! あいは?
 途方にくれたひとみが文句をいい始めたことが、爆発の引金となった。
三郎はいきなりベットから起きだし振り向くと、右手で大きな孤を描いて、デスクのものをすべて残らず払い落とした。
……電話帳、メモ、テッシュ…ひとみが唖然と見つめるなかで、すべてが派手な音をたてて床にぶつかった。
「俺は何にもなれない!」
歯をぎりぎりいわせながら、三郎長は物騒な言い方でいった。抑圧のある声だった。
「三郎さん!」
 ひとみは声を荒げた。すると、
 三郎は頭を下げ、「ごめんな」といった。
 あの三郎が……謝った! ひとみは唖然とした。
 とにかく今は週末だ。対策をたてるにはみっちりと時間がある。ゴールデン・タイム。三郎は安堵の溜息をついた。あとには痛む首と肩が残された。
 三郎はひとみに目をやり、まともに目を合わせた。おれの女。おれが助けを求めたら、ちゃんと力になってくれた。感謝してるぜ。今夜はお返しにうんといい思いをさせてやろう。かわいい女だ。三郎の目が彼女の小柄な身体をうっとりとなめまわした。ほれぼれするような女だ。長く豊かな黒髪を結い、黒曜石のようなきらきらな瞳、豊かな胸に尻、そして、男の欲望をそそらずにはおけない愛らしい優美さをそなえた、愛しい女。三郎は彼女に手を差し延べ、華奢な肩をつかんで抱きよせ、男心をそそる赤い唇にキスをした。
「愛し合おう、ひとみ」
「…ダ、ダメよ。おっかさんが……」
「かまうもんか」
 三郎とひとみは愛し合った。愛の行為はとてもよく、あぐりの存在さえ、忘れることができた。
 愛をかわしているときは、ひとみはしばしば、そうだと断言することができた。三郎は激しく、しかもやさしかった。彼女を強く抱きしめ、熱っぽく、思いをこめて唇を重ねてくる。ちひろは彼が自分のことを美しいと思っているのを知っていた。自分をむさぼるようにみつめる彼の目と、熱のこもった微笑にそれがあらわれていた。
 しかし、いったんズボンを履くや、三郎は別人にかわってしまう。絶好のチャンスをうかがい、それがやってくるのを、他人の弱点をみつけて攻撃して成功を勝ち取る鈴木三郎に。ほかのものが夢を見るときに、三郎は陰謀をたくらむ。ひとみは彼を愛していたが、つねに好意を持っているかというと、あまり自信がなかった。
「三郎さん……」ひとみがやさしくうながした。
「…電話しなきゃ」三郎はいった。
「どこへ?」ひとみが尋ねると、「ハルビンの千畝にさ」三郎はいった。


****続く(刊行本または電子書籍に続く)****続く*****

[慰安婦問題]性實踐雖然有一個慰安婦,綁架拘留“性奴隸/慰安婦”卻什麼都不是

2017年11月24日 18時59分16秒 | 日記





























[慰安婦問題]性實踐雖然有一個慰安婦,綁架拘留“性奴隸/慰安婦”卻什麼都不是





關於舊金山市長接受私營部門慰安婦和銘文捐贈的事實,



日本官員二月二十三日表示:“有一些令人著迷的東西,



我模糊了無法停止接受的遺憾。



政府擔心會溢出到其他城市,



安裝後我將繼續在舊金山市工作。



但是,由於有許多中國和韓國居民的地方議會很容易接受使用歷史問題的抗日活動,



我正在努力回應。



政府表示,舊金山市市長李本山最初對建立這座雕像是積極的,



在市議會一致決定接受捐贈的同時,



我請求李先生行使市議會決議的否決權。



據說他也是在水下的市議會工作。



但是,當地的日本人反對建立這座雕像



“日本政府和舊金山總領事館不支持我們”。



在美國,2013年,加利福尼亞州格倫代爾的市立圖書館成立了第一個慰安婦雕像。



當地日本人提起訴訟,



沒有日本政府的早日支持,我失去了這個案子。



“慰安婦”作為所謂的海關業務當然存在,



我綁架了納粹猶太人狩獵時期的年輕女士,綁架了一個又一個,並將其限制在“性奴隸”



沒有所謂的“舒適女性舒適女性”。



如果有事實,第三方證人會繼續,



第三方等文件應該已經存在了。 沒事的! 對不起



我希望日本政府早日妥善解釋和證明誤解和歷史謊言,



在向世界傳播誤解,誤解和“性奴隸=慰安婦”的大謊言之後,我現在無能為力。



據說日本已經失去了信息戰。 現在說“這是一個誤會!”已經太遲了。



日本人輸了。 喜歡的 話...... 30萬像 南京大屠殺 的一個故事,但失去失去。



失去戰爭意味著你也會受到如此的屈辱。 這不是戰爭的失敗。



日本政府有太多的“策略”。 既然我不喜歡幫助安倍晉三,我就不會再獻身了,



這是安倍晉三的失敗和日本人的失敗。 相當於說過去的日本人是“強姦犯的襲擊!”



沒有國家戰略的事實意味著,即使你遭受這樣的屈辱,你也不得不被壓倒。



雖然這是無用的,但是安倍晉三隻說“你可以依靠你相信只有高等教育的教育精英,這是愚蠢的”。



日本政府沒有武術家。 這就是現實。









Garyo上杉(長尾)Kagetora 2017年11月24日

[위안부 문제] 풍속 업 위안부는 있었지만 납치 감금 "성 노예 · 종군 위안부"는 사실 무근

2017年11月24日 18時57分12秒 | 日記






















[위안부 문제] 풍속 업 위안부는 있었지만 납치 감금 "성 노예 · 종군 위안부"는 사실 무근





미국 샌프란시스코 시장이 민간에서 위안부 동상과 비문의 기증을 받아 들인 것에 대해



일본 정부 관계자는 23 일 "忸怩(忸怩) 한인 것이있다"며



수용을 저지하지 못한 것에 대한 아쉬움을 배이게했다.



정부는 다른 도시로 비화하는 것을 경계하고,



설치 후 샌프란시스코로 움직여 간다.



단, 중국계 · 한국계 주민이 많은 지방 의회는 역사 문제를 이용한 반일 활동을 받아들이 기 쉬운만큼,



대응에 고심하고있다.



정부는 샌프란시스코시의 적절 시장이 원래 동상 설치에 긍정적 인 것이나,



시의회가 만장일치로 기증 받아 결의하던 중,



리 씨에 대해 시의회 결의에 거부권 행사를 요청 해왔다.



물밑에서 시의원들에 작용을하고 있었다고한다.



그러나 동상 설치에 반대해온 현지의 일본인들은



"일본 정부와 샌프란시스코 총영사관이 우리를 지원하는 것은 없었다"고 비판하고있다.



미국에서는 처음 위안부 동상이 2013 년에 캘리포니아 글렌 데일시의 시립 도서관 옆에 설치되었다.



현지 일본인들이 철거를 요구하는 소송을 제기했지만,



초기에 일본 정부의 지원을 얻지 못하고 패소했다.



이른바 풍속 업으로의 "위안부"는 분명히 존재했지만,



마치 나치의 유대인 사냥 같은 당시의 젊은 여성을 트랙에서 차례 차례로 납치 해 감금 "성 노예"로 한



이른바 "종군 위안부"는 존재하지 않는다.



만약 사실이 있었다면 제삼자의 목격자가 속출겠다하고



그에 관한 제삼자 등의 서류도 존재 괄. 사실 무근! 진심으로 죄송합니다.



일본 정부가 초기에 오해와 역사의 거짓말을 제대로 설명과 증명하고 있으면 좋았으나,



세계에 '성 노예 = 위안부'라는 오해와 착각과 큰 거짓말을 전파 해 버린 후에는 더 이상 어쩔 수 없다.



일본은 첩보전에 패배했다는 것이다. 이제 와서 "오해 다!"라고해도 이미 늦었다.



일본인은 패배했다. 마치 남경 대학살 30 만명 ...... 같은 이야기이지만, 패배는 패배.



전쟁에진다는 이런 굴욕을 받는다는 것. 전쟁에지는 것은 아니다.



일본 정부는 '전략'이 없을 넘는다. 아베 신조을 도울 싫어서 다른 켄 사크하지 않지만,



이것은 아베 신조의 패배이며, 일본인의 패배이다. 과거 일본인을 "강간 마!"라고하는 것과 같다.



국가 전략이 없다는 것은 이런 굴욕을 받아도 단념해야한다.



이래서는 안 되겠지만, 아베 신조는 "네가 믿는 고학력만큼의 학력 엘리트라도 의지 바보」라고 밖에 말하지 않는다.



일본 정부에 군사는 존재하지 않는다. 그것이 현실이야.









와룡 우에스기 (나가오) 카게 토라 2017/11/24

[Comfort women problem]

2017年11月24日 18時54分21秒 | 日記




























[Comfort women problem] Sexual practice Although there was a comfort woman, abduction detention "sex slave / comfort women" was nothing





Regarding the fact that mayor San Francisco accepted the donation of comfort women and inscriptions from the private sector,



Japanese officials said on February 23, "There is something that is fascinating,



I blurred the regret for being unable to stop acceptance.



The government is wary of spilling to other cities,



I will continue to work in San Francisco city after installation.



However, because local councils with many Chinese and Korean residents are easy to accept anti-Japanese activities using history problems,



I am struggling to respond.



The government said that Lee mayor of San Francisco City was originally positive about setting up the statue,



While the city council unanimously resolved to accept donation,



I have requested Mr. Lee to exercise the veto right of the city council resolution.



It was said that he was also working on the city councils even under the water.



However, the local Japanese who opposed the establishment of the statue



"The Japanese government and the Consulate-General of San Francisco did not support us".



In the United States the first comfort woman statue was established by the municipal library in Glendale, California in 2013.



Local Japanese people filed a lawsuit seeking removal,



I lost the case without early support of the Japanese government.



"Comfort women" as a so-called customs business certainly existed,



I kidnapped the young ladies of the time like a Nazi Jewish hunt, kidnapped one after another and confined it to "sexual slave"



There is no so - called "comfort women comfort women".



If there were facts, third party witnesses would have continued,



Documents such as third parties about that should have existed. groundless! I'm sorry.



I wish the Japanese government properly explained and proved misunderstandings and historical lies at an early date,



There is nothing I can do now after spreading misunderstandings, misunderstandings and big lies "sex slave = comfort women" to the world.



Japan is said to have lost information warfare. It is too late to say "It is a misunderstanding!"



The Japanese lost. Like it 300,000 ...... like a story in the Nanjing Massacre, but losing is losing.



To lose the war means that you will receive such humiliation as well. It is not a defeat to war.



The Japanese government has too much "strategy". Since I do not like helping Shinzo Abe, I will not devote himself anymore,



This is the defeat of Shinzo Abe and the defeat of the Japanese. It is equivalent to being said that past Japanese are "rapist attacks!"



The fact that there is no national strategy means that even if you suffer such humiliation you have to be overwhelmed.



Although it is useless, Shinzo Abe only says "You can rely on the high school education elite that you believe that you believe, stupid".



There is no martial artist in the Japanese government. That's the reality.









Garyo Uesugi (Nagao) Kagetora 2017/11/24

【慰安婦問題】風俗業慰安婦はいたが拉致監禁『性奴隷・従軍慰安婦』は事実無根

2017年11月24日 18時43分36秒 | 日記























【慰安婦問題】風俗業慰安婦はいたが拉致監禁『性奴隷・従軍慰安婦』は事実無根


米サンフランシスコ市長が民間からの慰安婦像と碑文の寄贈を受け入れたことについて、

日本政府関係者は23日、「忸怩(じくじ)たるものがある」と述べ、

受け入れを阻止できなかったことへの悔しさをにじませた。

政府はほかの都市に飛び火することを警戒するとともに、

設置後もサンフランシスコ市に働きかけていく。

ただ、中国系・韓国系住民が多い地方議会は歴史問題を利用した反日活動を受け入れやすいだけに、

対応に苦慮している。

 政府は、サンフランシスコ市のリー市長がもともと像設置に前向きだったことや、

市議会が全会一致で寄贈受け入れを決議していた中、

リー氏に対して市議会決議の拒否権行使を要請してきた。

水面下でも市議らに働きかけを行っていたという。

 しかし、像設置に反対してきた現地の日本人らは

「日本政府とサンフランシスコの総領事館が私たちをサポートすることはなかった」と批判している。

 米国では最初の慰安婦像が2013年にカリフォルニア州グレンデール市の市立図書館そばに設置された。

地元日本人らが撤去を求める訴訟を起こしたが、

早い段階での日本政府の支援を得られず敗訴した。

いわゆる風俗業としての”慰安婦”は確かに存在したが、

まるでナチスのユダヤ人狩りみたいな、当時の若い女性をトラックで次々と拉致して監禁し”性奴隷”にした

といういわゆる”従軍慰安婦”は存在しない。

もし、事実があったのなら第三者の目撃者が続出したろうし、

それに関する第三者などの書類だって存在した筈。事実無根!誠に残念。

日本政府が早い時期に誤解や歴史の嘘をきちんと説明や証明していればよかったが、

世界に『性奴隷=慰安婦』という誤解や勘違いや大嘘を広められてしまった後ではもうどうしようもない。

日本は情報戦に負けたということだ。いまさら「誤解だ!」と言ってももう遅い。

日本人は負けた。まるで南京大虐殺で30万人……みたいな話だが、負けは負け。

戦争に負けるとはこういう屈辱も受けるということ。戦争には負けるものではない。

日本政府は「戦略」がなさ過ぎる。安倍晋三を助けることは嫌なのでもう献策しないが、

これは安倍晋三の敗北であり、日本人の敗北だ。過去の日本人を「強姦魔!」といわれているのに等しい。

国家戦略がない、ということはこういう屈辱を受けても泣き寝入りしなければならないこと。

これでは駄目だが、安倍晋三には「お前が信じる高学歴なだけの学歴エリートにでも頼れ、馬鹿」としかいわない。

日本政府に軍師は存在しない。それが現実だよ。




臥竜  上杉(長尾)景虎   2017/11/24

おんな城主井伊直虎<おんな城主直虎最終回までネタバレ>2017年大河ドラマ

2017年11月23日 16時19分08秒 | 日記
































井伊麗姫(のちの井伊次郎法師のちの井伊直虎、2017年NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』ではおとわ)は駿河遠江国(現在の静岡浜松市)井伊谷城で生まれた。生年月日不明(おおよそだが天文五年(1536年))…天文十年(1541)の駿河遠江国(するが・とおとうみ)では井伊直虎と井伊直親がわんぱくに育っていた。
子供の麗(のちの次郎法師・井伊直虎 大河ドラマではおとわ)と亀之丞(のちの井伊直親)と家臣筋の鶴丸(のちの小野政次)は遊んでいた。山を駆け、野を駆け、三人の絆は深い深いものとなった。森でかくれんぼをしていて、麗(大河ドラマではおとわ)は「亀!鶴丸!こっち!こっち!」と呼ぶ。麗はフクロウの巣の赤ちゃんを見つけた。
「わああっ、可愛い」3人の子供はほっこりとした笑顔になった。
井伊家の元祖となった井伊家の祖先で井伊家の始まりとなったのは井伊家の井戸(現在も井伊谷に保存されている)を三人は眺めた。「この井戸に井伊家の祖・初代さま井伊共保(ともやす)公が捨てられていて拾われた。これが井伊家のはじまりである!」
「だが、何故、井戸に捨てられたのに溺れ死ななんだ?」
「きっと井戸端に捨てられたのじゃ」
「なるほど!」
子供時代は浜松の天白磐座(てんぱく・いわくら)遺跡(1500年前からあるとされる古代祭祀遺跡)を遊びまわっていた筈である。井伊家は代々、この天白磐座遺跡を祀る王の末裔でもある。戦国時代は男だけの城主・大名だったが直虎以外のおんな城主はいる。
一は“男勝りの城主 立花誾千代(ぎんちよ)”筑前(いまの福岡県)で永禄十一年、島津の大軍が攻めてきた立花山の戦いで、島津軍を追い払った。二は、“おんな戦国大名 寿桂尼(じゅけいに)(今川義元の母)”四十年に渡っていっさいを取り仕切り今川家繁栄の礎を築いた。今川を有力大名におしあげた知略家である。そんなおんな城主のひとりが直虎。
麗・おとわの父親の直盛は心やさしい性格で生け花が趣味。麗・おとわに「麗・おとわ、お主がこの井伊家井伊谷の領主としてあとを継ぐか?」とおどおど訊いて、幼い麗・おとわは「え?わたしはずうっと最初からわたしがあとをつぐと思っていましたが…違うんですか?」といわれて困惑する。
「そんな訳はあるまい!」逆に母親の千賀は教育母親的な女性で、おとわが亡くなる四年前まで生きていた。おとわが悪戯や悪い口をきくとおしりぺんぺんしてしつけた。
やがて、幼いうちに麗(のちの次郎法師・井伊直虎)と亀之丞は大きくなったら結婚することを誓う。曾祖父の井伊直平(なおひら)が、麗の叔父で亀之丞の父親の井伊直満(なおみつ)の息子と麗(おとわ)を許嫁とした。井伊家本家では嫡男が出来なかったからだ。
「麗……わしたちは夫婦になるのじゃ」
「わかった。亀之丞」
「しかし…わしのような病弱な男の嫁で嫌ではないか?」
「亀、何を言う!そなたには笛があるではないか。」
「わしは笛を吹くことしかできぬ。鶴丸のように頭がいい訳でもない。麗・おとわのように体が丈夫な訳でもない。何の意味も無い存在なのじゃ!出来損ないなのじゃ!」
「ばかもの!」麗・おとわは亀之丞の頬を平手打ちした。
「おまえは意味があっていきておる!われの未来の旦那さまになるのであろう?!!情けないことをいうでない!いうでない!」
「……麗・おとわ…。」
「亀は立派な男子(おのこ)じゃ!のう?!!お前が戦えぬならわれがかわりに戦う。亀、お前が領主が出来ないならわれがかわりに領主となろう!」
「わかった。わしはもっと強い男子になる。みていてくれ!」
「おう!われも綺麗な嫁になるからみていてくれ!」
ふたりは笑顔になった。
 直虎と亀之丞が許嫁(いいなづけ)の関係になったのは直虎五歳のことである。
だが、亀之丞は井伊家の亀の父親が暗殺され井伊家当主が桶狭間で討ち死にすると隠遁生活にはいる。
 麗(おとわ)の父親は、井伊22代宗主直盛(なおもり)である。直盛の幼名は、江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』に「虎松」とある。「虎丸」とする説もあるが、いずれにせよ、虎の目を持つ人間であったのであろう。
 一方、麗(大河ドラマではおとわ)の母は、ドラマでは新野千賀(ちか)となっている。新野氏は、今川氏の庶子家で、御前崎市新野の地頭(この当時の「地頭」は「領主」の意)であった。井伊家と新野氏・娘との結婚は、今川氏との結びつきを深めるための政略結婚だったとされている。
 こうした両親のもと、麗(おとわ)が生まれた場所は井伊谷(いいのや・静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)の井伊氏居館と伝えられている。
 が、残念ながら直盛夫妻が授かった子は「麗(おとわ)」のみで、井伊家の宗主であるにも関わらず息子に恵まれなかった。
 そこで井伊20代宗主直平(なおひら・おとわの曽祖父)が、「男子が生まれなかった場合は、わしの息子の井伊直満(なおみつ)の子・亀之丞と、麗(おとわ)を結婚させる。亀之丞に井伊家を継がせるのだ」と決めた。
 麗(おとわ)が、まだ2~3歳の時だったという。
 「麗(おとわ)」と呼ばれていた時代、彼女は宗家の娘として、何不自由なく過ごしていた。 が、間もなく悲劇が起きる。
「これから駿河の今川さまの屋敷に行って参る」
「………」
「いかがした?亀之丞?」
「父上、領内でよからぬ噂がたっておりまする。今川様のところへはいかぬほうがよいかと。」
「何じゃ。亀、お主までこの父親を疑うのか?井伊直満は北条に内通していると。馬鹿者」
「しかし、今川義元公は…」
「考えすぎじゃ。わしは今川屋敷にまいる」
 だが、やはりだった。今川義元に責められた。「お主は北条に内通しているのであろう?!」
「いいえ、そのようなことは…陰謀にございまする!」
「だまれ!井伊直満!」
井伊直満は右目を戦で負傷していたため眼帯を独眼竜政宗のようにしていた。直満の北条への内通書が示される。ばれた!!う…ぐああ!案の定、今川義元は今川舘内で家臣達に直満を包囲させて、「殺せ!」の命令で井伊亀之丞(のちの井伊直親)の父親は殺された。「一豪族ふぜいが……まろを舐めるな!」
今川義元は吐き捨てるように言った。
井伊直満の首が届けられる。
全員、戦慄した。「書状には井伊家を滅ぼす、と書いてあるぞ!井伊家を、と!」
「そんな馬鹿な!!??」「今川家から攻められたら井伊谷などひとたまりもない!」
「どうしたらいい??!!」「このままなら井伊家滅亡じゃぞ!!」
井伊直満(亀之丞の父)が今川義元に誅殺されてしまった。
「父上―!父上-!」亀之丞は号泣した。
さらに、今川からは亀之丞を殺せとの命令が出ていたが井伊家は逃がした。
曾祖父の井伊直平がきて「小野か?小野が今川へ直満を売ったのか?!」
「おじじさま。今は時がありません」
「まだ九歳の亀之丞を殺すつもりか?!!今川の命令に従うつもりか?!!」
当時のならいで息子の亀之丞(当時9歳)にも殺害命令が出されたのだ。直虎の許婚者であり、井伊家宗主候補だった亀之丞は、かくして信州へと亡命し、消息不明となってしまう。「麗・おとわ、必ずそなたの元に帰ってまいる!」
「まっておるぞ、亀!」
亀之丞が姿をくらまして、亀之丞かと思って今川家の家臣達は農民姿のおとわを捕らえた。
「井伊亀之丞だな?」母親の千賀らはおとわがいないこと気づいて「おとわは何処じゃ?」
ひそひそ守り役のたけにきく。たけは「申し訳ありません。わたくしが目を離したすきに」
「亀之丞らしき小僧を捕らえたぞー!」男達の声が井伊谷に響く。
しかし、それはおとわだった。深夜の山中であった。
直盛や千賀らが「それは亀之丞ではありません!」「そうです!井伊家のひとり娘のおとわでございます」「何?」「何故小僧の格好をしていた!?何故逃げた!?」
おとわは「竜宮小僧を探しておったのじゃ」といういい訳を貫いて、それで許された。
のちにおとわは両親に井戸端で亀の笛を見つけて無性に駆けだし、亀の従者である今村藤七郎に出くわして、笛を渡す機会を得たという話をした。
「笛を届けてくれたのか?ありがとう、おとわ」
「亀の大事な笛ではないか。」
「この笛は亡き父上に買ってもらった大事なもの。本当にかけがえのないものだった」
「絶対に死ぬな!亀…生きのびて…」
「俺はもっともっと強くなって必ずおとわを迎えにくる!」
涙をこらえる亀之丞……おとわ…
そして逃亡……「とにかく若!お逃げください!」「しかし……井伊家は?」
「井伊亀之丞!覚悟―!」「ぐうっ。おのれー!」「若!逃げまするぞ!若!!」
斬り合いの末、井伊亀之丞(のちの直親)らは逃亡した。
直満の葬儀が行われる。今川家の手先である小野和泉守政直が今川の姫と小野の息子・鶴丸を結婚させて井伊家を継がせるという策を披露する。すると激怒した井伊直平が刀を抜いた。「貴様ー!最初からそのつもりであったなー!」しかし直盛が曾祖父直平を羽交い締めにして止めた。「やめてくだされ!おじじさま!」
鶴丸はおとわに「わが父上は今川に直満おじさんを売って、今度のわしとおとわとの婚儀はその褒美なのじゃ」と下唇を噛みしめる。
おとわは家出をした。自分がいなくなれば問題はなくなる、と思ったからだ。
しかし、山中の乞食に拾われ、井伊谷に戻された。
天文13(1544)年、直虎十歳で、伊井谷の家臣のひとりが直親を殺そうと暗殺団の刺客を送ったことで、井伊家の次期惣領だった筈の井伊直親(亀之丞)は信濃(長野県)の松源寺(長野県下伊那郡)へ身を隠す。それは直虎へも秘密であった。
逃がしたことも生きているか死んでいるかもすべて秘密…知られればたちまち駿河の今川に攻め滅ばされてしまう。すべては遠江の領地・井伊谷の井伊家のためであった。
生きているのか死んでいるのかもわからないまま、直虎は傷心で過ごした。
すべては井伊直親の命を守る為である。
鶴丸(のちの小野政次)の父親・小野和泉守政直が井伊直親を殺そうとしたからだ。
鶴丸改め小野政次に父の小野政直は「お前もいずれわしのようになる」と忠告した。
「父上!母上!亀之丞は何処へいかれたのですか??!!お教えくだされ!亀はどこへ?」
だが、両親は答えられない。そんな傷心の麗は考えた。
若かりし麗(おとわ)が絶望の底へ突き落とされたのは想像に難くない。
 当時の女性の結婚適齢期は13歳前後と言われている。その年頃になった麗(おとわ)は、なぜか自分で自分の髪を切り、大叔父の南渓和尚(なんけい・龍潭寺二世住職)の元へ出向いた。出家だ!家出して出家すれば亀をまてるし、鶴丸と夫婦にならないですむ。
そう考えて自分で刃物で髪を切りつづけた。おかしな頭になる。
そんなとき今川家からおとわを人質に出せ、という命令が下る。
「人質など反対じゃ!戦をしようぞ!もはや戦しかない!」直平は激昴して叫ぶ。
だが、おとわと従者は今川家の城にいく。今川の軍師・太原雪斎(たいげん・せっさい)に気に入られるおとわ。また、のちに徳川家康の正室になることになる瀬名(のちの築山殿)に出会い、瀬名はおとわのへんてこの頭髪に笑い転げる。美少女である。
井伊家の人質の佐名姫(南谿和尚の妹)を、おとわに守り役のたけは耳元で、
「今川さまのお手つきになられたという女性ですよ。」と気の毒そうに囁く。
今川の寿桂尼(じゅけいに 義元の母親)はおとわの出家を認める。
今川舘では今川義元の嫡男・龍王丸と瀬名たちが蹴鞠(けまり)で勝負していた。龍王丸(たつおうまる・のちの今川氏真)に勝てば何でも望みを叶える、と知っておとわは蹴鞠勝負をして勝つ!
「この!何度も何度も卑怯だぞ!」
「このおとわを井伊谷の戻してほしいのです。そのかわり出家しますからどうぞこの望みを叶えてくだされ!」
おとわの必死の懇願に無口の今川義元も「よかろう」と認めた。
井伊谷に帰ったおとわは龍譚寺にすぐに行った。
「出家したい。尼の名前を付けて欲しい」
 それを聞いた麗(おとわ)の両親(直盛・千賀)は驚いて、「尼の名だけは付けるな」と南渓和尚に迫ったという。両者の板挟みにあった和尚は、親の意を汲んだ「次郎」という俗名と、娘の意を汲んだ「法師」という僧名を合わせ、「次郎法師」と名付けた。
「亀之丞以外の男には嫁がない!わたしは龍譚寺(りょうたんじ)に出家いたす!」
「え?!!何を…!馬鹿げたことだ!やめるんだ!」
「いいえ。亀が戻るまで出家しまする。但し、次郎法師・井伊直虎として。」
 おんなの覚悟である。こうして次郎法師・井伊直虎は誕生する。
南谿和尚は「そなたは何故にここに来た?」と問うた。
「出家を親にさせられました」
「出家とはなんぞ?」
「お坊様に……なること?」
「僧?……僧とはなんぞ?」
「僧?……毛のないひとですか?」
「では、頭の禿げ上がった爺は僧か?毛のない蛙は僧か?」
厳しい修行に音を上げたおとわはわずか一日で井伊谷城に逃げ帰ってくる。
母の千賀は「たったの一日で逃げ帰ってくるとは情けない」たけも「辛抱を学びなされ」
「ムリムリ!修行は厳し過ぎるのじゃ!わしは姫じゃぞ!」
「馬鹿者!」母親の千賀の雷が落ちた。
龍譚寺に戻されたおとわは腹が減った。しかし、僧たちは「托鉢(たくはつ)をしてまいれ!」という。「托鉢?」「家の前で念仏を唱え、その托鉢鉢に供物をもらうのじゃ」
おとわは井伊谷の食べ物屋にいき、出鱈目な念仏を唱えて「腹が減った!食べ物をくれ!」
「なんだ?!このガキ!消えろ!」
剃髪しているのでおとわ、姫とはわからない。
腹が減って腹が減って、おとわは村の畑の野菜にかじりついた。
それを鶴丸にみつかってしまう。泣き出すおとわ。
だが、食べ物屋の水瓶を運んでいっぱいにして働くとおとわはつけものを托鉢してもらった。「腹が減った!これが托鉢か……われこそ竜宮小僧じゃ。」がつがつ食べ笑顔を見せた。
昊天が「何故次郎法師を迎え入れたか?」ときき、南谿は「あの娘は特別な虎の目をもっておる。井伊家の初代さま井伊共保さまもそうであったろう。あの子供こそ竜宮小僧じゃ。」
「われが井伊家を守るのじゃ!」出家した井伊直虎・次郎法師は極寒の中、滝行をする。
冷たい滝にうたれながら般若心経を唱えた。すべては井伊家の為の祈り、である。
次郎法師は出家したので坊主頭の少女である。姫時代は馬で駆けた。おとわの乳母はたけ。
次郎法師は禅の修行や般若心経などの念仏も修行した。現在の禅の修行はひとと向かい合ってのものだが、戦国時代当時は壁に向かって瞑想し禅で念仏をそらんじた。
龍譚寺では兄弟子の傑山などが弓矢や槍の稽古をする。「次郎法師!おなごだからと手加減せぬぞ!かかってまいれ!」だが、兄弟子たちは次郎法師を生涯守ることも誓う。僧兵だ。
教育係の僧侶・昊天も、次郎法師に学問や歴史経世済民などを教えるのである。
「雑巾になりきれー!寺の掃除をしっかりとやるのじゃー!」「おおっー!」
「志を大事にせよ!ひとは志次第でどうとでもなる!井伊谷や龍譚寺だけが世界ではないぞ!お前は学べ!しゃかりきに学べ!のう次郎法師!」
「はい!われは学びまする!井伊家、井伊谷、すべての国のために!われは井伊谷に生まれようござりました!」井伊直虎・次郎法師は志をたてる。
天文二十二年(1554年)、亀之丞が井伊谷を去ってから十年もの歳月が経っていた。
鶴丸は小野但馬守政次と元服して名を改めていた。直盛も四十七歳になった。
井伊家筆頭家老小野政直が息子の小野政次と次郎法師を結婚させようとした。
次郎法師は「そうなれば両家のわだかまりもとけるのう」
政次は「亀のことはいいのか?」ときいた。
次郎法師は「もし、生きておったとしても亀には別の人生がとっくにあろう。」
「それでおとわはいいのか?」
「いいもわるいもない。わしは文句を言える身ではない」
こんな評定は荒れて当然である。しかし、今川の息のかかった小野政直のいいようにことがすすんだ。だが、政直は病気で倒れる。
死ぬ前に政直は息子に「お前は俺を醜いと思っているだろうがお前もこのわしと同じようになる!いずれ…わしと同じとなるぞ。」といい、その後病死した。
こうしたことでやっと十年ぶりに亀之丞は井伊谷に帰ってくることができた。
「俺はおとわと一緒になるつもりじゃ。」直親(亀之丞)はいう。長い長い間待ち望んでいた言葉。しかし……
「われこそ次郎法師!井伊直虎である!!」
のちに、そう男装し、赤備えの兵で武装した馬上の直虎は跡継ぎの虎松(のちの井伊直政)がわずかに二歳の赤子で跡継ぎの男子がいなくなったために、次郎法師が井伊直虎となり発した。
一度は諦めた井伊家の存続であった。だが、没落する。今川家などに攻められて城もすべて失ったことがある。龍譚寺で一計をこうじて義理の息子・井伊直政を徳川家康に仕官させ、“松下”からふたたび井伊を名乗ることを家康に認めさせた。
晩年、直虎は祐圓尼(ゆうえんに)と号し、母・千賀(祐椿尼・ゆうちんに)と龍譚寺で過ごし1582年死亡した。織田信長の暗殺・本能寺の変の数ヶ月後、であった。
話を戻す。
実は小野政次は次郎法師・のちの井伊直虎に懸想(けそう・恋愛感情)をしていて、幼い頃の絆はどこへやら、亀之丞改め井伊直親(なおちか)と対立するようになる。
「鶴?いかがした?何故わしを狙う?われらが戦うのは井伊家のため、麗のため。」
「だまれ!わしは…もう鶴丸ではない、この井伊谷の領土を狙う小野政次だ!」
井伊直虎の曾祖父・井伊直平は「麗(大河ドラマではおとわ)!ようやくこの時が来た!亀之丞を連れ戻すぞ!戻ってまいるぞ!」と龍譚寺で笑顔になった。
「しかし、わし井伊直平が領主のときに今川軍にやぶれて今川領となり、息子達も傷だらけになった。亀の暗殺された直満も直盛の父親も戦で負傷した。じゃから、わしは今川家が憎い。憎いのじゃ!今川義元は殺してやりたい!もはや、戦じゃ!戦しかないのじゃ!」
麗・おとわの曾祖父・井伊直平の今川家への憎悪はすざましい。亀の父親が独眼になったのも今川家との合戦で、である。ちなみに井伊谷(いいのや)とは「井の国」とも呼ばれ、竜宮小僧(りゅうぐうこぞう)の守る浜名湖の北側の小国(静岡県浜松市井伊谷)である。
最初、この遠江の井伊谷の領地は今川家が攻めてきて支配して、次に徳川家康に攻められ、北からは武田軍が攻めてきた。交通の要所であり、戦国武将の欲しい領土だった。
ちなみに井伊家とは幕末に安政の大獄をやって、桜田門外の変で水戸浪人に暗殺された井伊直弼大老は、井伊直虎・井伊直政の子孫である。井伊直弼は直政から十三代目の子孫。
次郎法師直虎の許嫁(いいなづけ・亀之丞・のちの井伊直親・なおちか)が帰郷する。
だが、麗は「亀が戻ってきたところでわしは出家の身じゃ。何もかわるまいに。」
亀之丞は馬で井伊谷の城に帰ってきた。
直虎が二十一歳のころである。弘治元(1555)年、直親は戻ってくる。
だが、直虎はすでに出家していて……
しかし、そこは先の見えるおなごである。その当時、尼になれば結婚も俗世にかえるのも不可能であった。だが、直虎は僧侶、つまり、男として次郎法師として出家し龍譚寺に行っていた。僧侶とて結婚することは出来ないが俗世に戻ることは出来る。
武田信玄も上杉謙信だって僧侶となり、俗世に戻っている。
亀之丞は馬で悠々と戻ってきた。
直虎の父へ平伏し、「井伊亀之丞、ただいま戻りました」と告げる。
「おおきうなったのう鶴丸!麗も。戻ったぞ、麗!わしが戻れたのも麗がいてこそだ!」
元服して亀之丞改め“井伊肥後守直親”となる。
「立派になった。立派になった」
直虎の父親・井伊直盛は目を細めた。
「これで井伊家も安泰じゃあ」数少ない家臣達が喜んだ。酒席である。
だが、しかし、もはや出家した直虎の出る幕はない。
ちなみにのちの井伊直政の命をすくったのは井伊家家臣・新野左馬助、である。
おとわの還俗はいつになるやら。龍譚寺の南谿和尚はとんちを披露する。次郎法師に言う。
「昔、趙と言う国の道威という王がふたりの大臣のうちひとりをやめさせることになった。王はふたりの大臣、中と伯に饅頭(まんじゅう)を二個ずつ与えた。中は一つを食べ、もうひとつを飢えた子供に与えた。伯は一つを食べ、もうひとつはながらくもっていてカビさせてしまった。さて、王はどちらを大臣として雇った?」
次郎法師は自信ありげに「中でしょう!饅頭をカビさせてはいみがない!」
南谿和尚はにやにや嗤っている。
「え?……違うのですか?」
「よおっく、考えてもみよ。次郎法師」南谿和尚は笑顔のままだ。
直親は次郎法師・おとわを死んだことにして別人として妻に迎えるという策をだした。
だが、次郎法師はその策にのらなかった。
そこで饅頭とは志である、と知る。
「われは死なない。われは一個の饅頭なのだ。饅頭をひとつ食べれば腹が減ったのをしのげる。しかし、二個食べてしまえばもしも本当に困ったときに食べられない。われはカビた饅頭になる。カビた饅頭となって井伊家を守る!」
その決意をきいた直親はしのという女性と結婚することになる。
「すまない、麗・おとわ。じゃが、仕方ないことなんだ。」
 直親はうしろから直虎を抱擁するが、………涙をぬぐってから、次郎法師井伊直虎は振りほどいた。
「何がじゃ?」
「わしは命を狙われて隠遁生活じゃった。その頃にいつもわしを気遣ってくれたのが今の妻・しの、なんだ」
「煩悩に負けたからじゃろう?!亀!見損なったぞ!」
「それもある。それについては……すまん、麗・おとわ。すまん。すまん。」
「………もはや、われは麗・おとわではない。次郎法師じゃ。」
「そうであったな。次郎法師さま。井伊家のおんな城主井伊直虎さま。」
「これ。ふざけるでない。」
 ふたりは笑った。
井伊直親は曾祖父の井伊直平の隠れ棚田に感嘆する。「これは…見事な…」
「これが井伊家の砦じゃ」直平は隠れ棚田・川名(かわな)を自慢する。
直親は筆頭家老の小野政次にこの棚田を検地の範囲から外してくれ、と頼む。
「おとわのためにともに井伊谷を守ろう!」
政次は「俺はおまえのそういうところが嫌いなのじゃ」子供の頃の嘘偽りない表情だった。
瀬名(のちの築山殿)は三河からの人質・松平元信(のちの元康・徳川家康)と結婚させられた。姉さん女房であった。“三河のぼんやり”家康は陰で馬鹿にされていた。
直親としのが結婚して丸四年。さっぱり子供が出来なかった。
しのはあらゆる薬草を飲み、食べ物を食べた。子供が欲しい!欲しい!
次郎法師も昊天に妊娠するによい薬草をきくが高額で一禅僧に買える額ではない。そこで次郎法師は亀之丞の亡き父親に買ってもらっていた笛と対の鼓を小野家の政次に見せた。
「何で俺が次郎法師の鼓を買って、高価な薬草を手に入れてしのに渡さねばならなんだ?」
「父上や母上に知られたくはないからじゃ。鶴。いや、政次殿、頼む。」
だが、薬草をしのは断った。受け取らなかった。
しのが妊娠する前は次郎法師としのとの関係はいまでゆう元カノと今カノの戦いでバチバチしていた。「次郎さまはしのに子供が出来なければよいと思うてらっしやるのでしょう?!」
「何を馬鹿なことをいうのじゃ!それでも井伊家の惣領の嫁か!!」
あるときはしのは懐剣をもって脅迫した。次郎法師は「殺したいならころすがいい!」
やがて織田信長の命令で徳川家康は瀬名(築山殿)と子供(竹千代と亀姫)らを殺した。
直虎の父親・直盛は今川家に従って織田攻めに加わった。「これから今川義元さまにしたがい、織田を成敗することとなった!」「えいえいおーっ!えいえいおーっ!」
今川軍は二万五千、織田勢は三千人……まさか誰も今川がやぶれるとは思わない。
井伊直親も参戦しようとしたが、井伊直盛にとめられた。「お主は御曹司じゃ!井伊谷に残ってくれ!」「しかし!わしも刀や槍の稽古を積んできました!」「残ってくれ!」
だが、奇跡の桶狭間合戦が起こる。今川義元は織田信長に討ち取られ、直盛らも戦死する。
直虎の父が桶狭間合戦で死に、直親らもやがて今川家臣に斬り殺された。
しんしんと雪が降る中、血だらけで雪原で横たわった直親は、
「……井伊谷は何処じゃ……おとわ………鶴…無念じゃ。」血を吐いて死んだ。
悲しみに暮れる井伊谷の井伊家……次郎法師は念仏を唱えながら号泣する。
直親の遺体に触ろうとした次郎法師にしのは涙ながらに怒鳴った。
「さわるでない!われの夫じゃ!」
しのは妊娠し、出産していた。直親の嫡男・虎松(のちの井伊直政)である。
龍譚寺の井戸では奇跡が起こっていた。枯れた井戸だったが、みずがわきあがってきたのだ。だが、井伊直虎・次郎法師は不吉な予感を感じて、念仏を唱える。
小野政次がしのの父親を殺して討ち死にするに至って、次郎法師は決意する。
先だって唯一の成人男性の曾祖父の井伊直平さまも病死(毒殺の疑いも)した。もはやおんなしか残っておらぬ。残されたのは赤ん坊の虎松(のちの直政)だけ………
直親の遺体が届くと、直虎は決心する。井伊家は亀之丞の息子(のちの井伊直政)がおおきくなるまでわたしが守る!!おなごなれど“おんな城主井伊直虎”として生きよう!井伊家はわれが守る!
ちなみに直親の妻しのは恋しい直親と仲の良い元・許嫁の直虎に嫉妬して、理不尽な物言いもしたらしい。どこの時代でもある愛憎劇である。
元・いいなづけの井伊直親が暗殺されたとき、息子の虎松(のちの井伊直政)はわずかに二歳の赤子……これでは惣領は勤まらない。そこで次郎法師が“直虎”と男装し男のなりで惣領となった。ここでおんな城主井伊直虎が誕生する。
「わたしが…このおなごの身のわたし…次郎法師、井伊直虎がこの井伊谷の当主となる!必ずや井伊家を再興し必ず井伊家を家族をもりたてる!必ず時代を歴史をかえるほどに精進する!この井伊直虎がおんな城主である!わかったか!」
直虎は赤備えの馬の上で覚悟を決めた。
「いざ!井伊直虎まかり通る!われこそが井伊直虎である!」
 それは“おんな城主井伊直虎”の誕生だった。
井伊直虎は次郎法師が独創した男装の大名の名前であった。
「井伊次郎法師・井伊直虎、ただいま井伊谷(いいのや)に帰って参りました」
「おお、麗・おとわ。いや、おんな城主井伊直虎さまじゃな。」
尼姿の直虎を母の祐椿尼や家臣団は迎えた。「万歳-!万歳-!」
赤備えの馬で男装して赤い着物で馬で行軍する。赤備えの兵、僧兵もいる。
まさに“おんな謙信”の如き、である。
直虎は領民思いの優しいおんな城主だった。凱旋行軍である。
農民が領土を巡って対立して裁いてもらおうと直虎の元に訪れると「個人の田畑ではなく、村で共有する田畑ではどうか?」と名裁き。井伊家の家系が苦しいとき領地の商人から銭を借りた。利息はあっても年貢までの辛抱である。領民から里芋などを贈られると酒宴を開いて直虎自身が酌をしたりもしたという。まるで名君・上杉鷹山公の如きおんな城主だ。
気配りの女性であり、人情味あふれるおんな城主直虎、である。
今川義元が御屋形さまで、義元の息子が今川氏真(うじざね)、義元の母親が寿桂尼(じゅけいに)であり、今川家には三河の松平家からの人質がいた。これが松平元康、つまりのちの徳川家康である。少年の人質・家康は今川家のおんな瀬名・のちの築山殿を正室にむかえる。悪女であり、妖艶な美形の女性である。能で般若の面で家康を恫喝する。
小心者の徳川家康はそんな姉さん女房の尻に敷かれることになる。
ちなみの小野政次の父親は井伊家筆頭家老だったが、「こいつ邪魔だなあ」と思われていた。
井伊直虎は男装だけではなく男性の戦国大名がつかった花押(かおう・いわゆる書状のサイン)もつかった。だが、遠江の領地を狙う今川義元は謀略をしかけてくる。
まずは徳政令を出して遠江の領地を大混乱にして奪おうと考えた。
だが、おんな城主井伊直虎は時間稼ぎをして結局、領民や商人や百姓の身を守った。
商人などに徳政令免除書を発行したのである。
しかし、そんな井伊家もやがて今川家に城も領地も奪われる。
大河ドラマでは井伊直親の隠し子である高瀬なる娘が武田領より伊井谷にやってきた。
本当の直親の忘れ形見であるという。そして、盗賊集団・竜雲党との因縁……
直虎と瀬戸方久らは浜名湖の南の商人の町・気賀(きが)へ。物見遊山の直虎たちであったが、ひとりの少年が直虎にぶつかってきた。「……ん?銭袋がない。こらー!かえせー!」
盗人の少年を猪突猛進に追いかける直虎。しかし、逆に盗賊集団・竜雲党に拉致監禁される。直虎は「縄をほどけ!わしは井伊家の頭領の井伊直虎じゃ!このままならそちらを死刑にするぞ!」とわめき散らす。そこに現れたのが竜雲党の頭である竜雲丸だった。
「そなた……あのときの?!」「あのときの尼殿さまじゃねえか。」「そなたらは泥棒を生業にしていたのか……」「泥棒?……おれからすれば大名のほうがよっぽど泥棒じゃねえか。泥棒も泥棒、大泥棒でさあ。」「大名のどこが泥棒なのだ?」「ガキでもわかる理屈でさあ。大名は百姓から年貢をとる。これは泥棒じゃないか」「しかし、井伊家の領土で取れたコメを年貢として取り立てているだけじゃ。領地が井伊家のものだから当たり前であろう?」
「それが泥棒の始まりでさあ。では、何故にここからここまでが俺らの土地じゃ、と決められる?搾取も許される???」「それは……その昔に井伊家が朝廷や天子さまより領土を頂いたからだ」「どうも……話が通じねえなあ」
やがて、人質から解放された直虎は思う。「確かに大名は泥棒かも知れん。ならば泥棒として奪うだけじゃない世をつくるぞ!」
竜雲党を井伊家の領土の木こりとして取り分を七分三分で話をつける直虎。「何で俺らに??」「そなたたちには技能がある。生かさぬ手はない!!もったいない。のう?!!」
こうして竜雲党は悶着や騒動を起こしながらも井伊家の直虎の家来、傭兵部隊へとなる。
「その木の切り方は違いやす。こうでさあ。」竜雲丸は直虎の手をとって教えるが、直虎は頬を赤くして心臓をばくばく高鳴らさせる。古かろうがもう乙女でなかろうが、中身は女の子なのである。直之は「あれは何処ぞかで見た顔の男!ああ!盗人の男ではないですか!!」と反発するが、「過ぎたことはよかろう」と直虎にいなされる。
寿桂尼も年を取り、腰の曲がった老婆になる。それでも斜陽著しい今川家を守る為に策を弄していた。駿府の今川屋敷に直虎をよぶ。寿桂尼は直虎に直親のことをきくが、直虎は「世の中は綺麗事だけではやっていけません。確かに恨みはあるでしょうがこれも戦国の常」という。寿桂尼は、孫の氏真に「直虎はわれがいつも政をするときに自分にいいきかせていることをいった。井伊家の城主は今川をたすけない」と、遺言して死ぬ。
また、直虎の乳母だったたけが病気になり、倒れたときは直虎は馬でたけを彼女のふるさとまで送り、看取った。たけの代わりにたけの外見そっくりの姪・梅があらたに直虎の侍女となる。去る者があればあらたにおとずれるものもあるである。
次第に織田や松平(徳川)や武田の脅威が迫る。武田信玄対徳川家康……武田信玄の死……織田対武田の長篠の戦い……武田今川の滅亡と、井伊谷の敗北と流浪の日々へ………
武田が今川との同盟の契りをやぶったのは織田信長による策略であったとも。武田は今川を捨て、尾張の織田家と庇護配下の三河の松平(徳川)家康と同盟を結べば西の憂いもなくなる。駿河を狙う松平(徳川)にも、南の海が欲しい武田にも大事な策であった。
だが、織田はその密約を反故にして武田や今川を駆逐する………
没落した時代に、今川義元が桶狭間で討ち死にし、武田家や徳川家の侵攻で今川氏真の今川家は滅びる。駿河や遠江の領地・井伊谷をあらたに支配したのは徳川家康だった。
井伊直虎と義理の息子・虎松(のちの井伊直政)は龍譚寺に身を寄せるしかない。
だが、武田軍は戦国最強!家康は三方原の合戦(1572(元亀3)年)で武田軍にこてんぱんに敗れ、馬で逃げる際にあまりの恐怖で糞尿まみれになった。信玄、恐ろしや!
そんな中おこったのが長篠の戦い(1574年・元亀5年?天正元年?)である。
尾張の新興勢力である織田信長軍に今川は滅亡させられ武田信玄は病死、武田軍御曹司武田勝頼は討ち取られた。家康は織田信長に謀叛の疑いをかけられた長男・信康と瀬名(築山殿)を泣く泣く成敗した。つまり、殺した。信長のいいがかりであったという。
そして駿河の今川家も甲斐信濃の武田家も滅んだ。(今川氏真は有力武将を放浪庇護を受け、その今川氏真の今川家は朝廷工作のキーパーソンとして明治維新後まで生き延びる)
直虎の母親の千賀(祐椿尼)は井伊家の山城で壁に向かって号泣した。旦那の井伊直盛が桶狭間の戦いで戦死したときだ。……もはや井伊家に男子はいない。…おわった…
それは絶望だった。しかし、龍譚寺から次郎法師が帰ってきた。
「母上!心配めされるな!この次郎法師が井伊直虎としてこの井伊家を継ぎまする!」
「次郎法師…」尼になった母親は涙を流した。「よう帰った。よう帰った!」
徳政令を出す迄に地元の成金商人・大河ドラマでは瀬戸方久を家臣として、領地を与え、村への徳政令(商人に百姓の借金を棒引きにする命令)を年貢によってなしにするという直虎のアイディアだった。しかし、農民らは伊井谷を乗り越えて、直接、今川氏真に徳政令を要求した。直虎は村の集団に瀬戸方久を人質にとられ、「徳政令を出さねば方久の命はない」と恫喝。しかし、直虎は農村の稲を僧侶たちとともに植え始める。「そんなことをしてもおらだらはほだされないぞ!」しかし、直虎は「確かにお主らの村は瀬戸方久の所領とした。しかし、井伊家の借金のためではないぞ。方久が村の領主となれば年貢が入る。これでそなたたちの借金は年貢で払われる」「徳政令のほうがいいだで!」「目先のことばかり考えるではない!確かに徳政令をだせばお主らの村の借金はなくなる。だが、今後、また借金ができたら?凶作にまたなったらどうする?確かに方久は強欲じゃ。なれど自らの所領となれば銭を得たくてお主らのいいように銭をうむ妙案も考え、お主らを大事に扱おうぞ。今の井伊家には銭も人材もいない。今は方久のような裸一貫から豪商になりあがったような人材が大事なのじゃ!勿論百姓のお主らもじゃ!われを信じてくれぬか!!?」「………初めから……そういってくれれば。」「んだんだ。」「田植えじゃ。田植えじゃ。」
二度も太守である今川家の命に背いたことで直虎は呼び出しをくらう。「おなごじゃからとおおめにみてはくれないですかのう?」南溪和尚は「無理だろうのう。向こうの実質的な太守もおなご(寿桂尼)じゃからのう。おなごじゃからと馬鹿にすることもないかわりにおなごじゃからとおおめにもみてもくれないじゃろう」
こうして直虎は駿河の今川屋敷に召喚される。道中、今川からの刺客たちが直虎の命を狙うが、傑山・昊天ら僧兵に命を守られる。直虎は「お主はどうやって領土を豊かにする?」という寿桂尼の問いに「民を潤しまする。大名や武家は、百姓の年貢あっての家禄でござりますれば、国が潤えば民百姓も豊かに暮らせまする」「……なるほど。さすがは出家上がりに直虎なる男名を名乗り井伊谷を治めるおんな城主じゃ。このおんな大名寿桂尼、感心した。井伊谷の領主は直虎…そちじゃ!」こうして、井伊直虎は牛歩戦術で時間をかせぎ2年半後、徳政令を出す。瀬戸方久は領地で綿毛の栽培のアイディアまで出したという。今川家が滅んだのはその半年後の永禄十三年(1569)である。徳川家康と武田家が密約を結び、井伊谷三人衆(鈴木重時しげとき・近藤康用やすもち・菅沼忠久すがぬま・ただひさ)の手引きで徳川が遠江から武田が駿河から侵攻して今川家を滅亡させたのだ。
この後、盗賊、竜雲丸たちと直虎は出会い、ひと悶着があり、井伊家・井伊谷を守る。
さて、武田信玄につくか?それとも徳川家康(松平元康)につくべきか?
そこで井伊直虎は亡き元・いいなづけの井伊直親の“徳川びいき”を思い出す。
「ここは徳川さまに義理の息子を仕官させるしかない。井伊家の未来はこの小童に託されている。見ていてくだされ、直親さま。」
まず、井伊直虎は、三河(愛知県 新城市)の鳳来寺(ほうらいじ)で学問好きの家康に好かれようと、幼い虎松(のちの井伊直政)に学問をしこんだ。また未亡人となっていた直親の元・妻しのを徳川家の重臣の松下源太郎と再婚させた。
政略結婚である。直虎は義理の息子を家康に仕官させようと就職活動に知恵をねった。
井伊直虎は自ら鮮やかな小袖を縫って十五歳の直政に着せて、鷹狩りの徳川家康と対面させて仕官させた。天正3(1575)年2月15日のことである。
「家康さま。ある尼と若い者があいたいと申して参上していまする」
普通は大大名の徳川家康にあえる筈はない。だが、直虎は家康の鷹狩りの日を調べて参上したのだった。徳川の幔幕の中の徳川家康は「誰じゃ?まあ、こんな遠くの山中だ。逢おう」家康は尼姿の直虎と立派な裃烏帽子直垂すがたの直政にあった。
「実は虎松(のちの井伊直政)は松下源太郎さまの実子ではなく、本当の父親は井伊家の井伊直親というわれの元・許嫁であり、直親も徳川さまに仕官したいと希望していました」
「…ほう。」
「しかし、暗殺され井伊家は没落いたしました。われらは徳川さまに頼るしかない!」
直政も「家康さま!禄は少なくてもかまいません!何でもやりますのでどうか家臣にしてくだされ!お願い申します!」
家康は井伊直政をただならぬ者と感じた。(「徳川実記」より)
「わかった!これよりこの徳川家康の、わしのそばにおれ!そなたの名は今日より虎松でなく井伊万千代(のちの直政)と名乗るがよいぞ!」
「ありがたき幸せ!」
喜び合う直虎と直政。……これで井伊家も安泰じゃあ。その後、井伊直政は“井伊の赤鬼”と恐れられていく。草履番から足軽、色小姓、武将そして軍師へと大出世をするのだ!のちに彦根藩三十五万石、五人もの幕府大老を出すにいたる。徳川幕府の屋台骨であり、徳川四天王(酒井忠次・榊原康政・井伊直政・本多忠勝)のひとりである。
徳川家康は直政の力量をわかり、家臣に取り立てた。
そこからが鯉もかくあらんという大出世を井伊直政はする。
家康の暗殺を未遂におわらせ、明智光秀「敵は本能寺にあり!」……本能寺の変(天正10(1582)年6月2日)で織田信長が死ぬと、近くにいた徳川家康をすくう。
いわゆる伊賀(三重県)超えで、徳川家康を三河の城まで守った。
そこで、井伊家は近江の彦根に領地をあらたに与えられ、直政は武功により“孔雀尾具足陣羽織(くじゃくおぐそくじんばおり)”を与えられた。
井伊直虎が死ぬのはこの伊賀超えの三ヶ月後、享年四十七歳、であった。
井伊家の繁栄を確証したかのような死、であった。
義理の息子・井伊直政は二十年後の関ヶ原で、敵陣突破を謀った薩摩の島津を撃追して、戦勝の恩賞で彦根三十三万石の大大名になる。
井伊直虎の墓は元いいなづけの井伊直親のとなり、であった。そこで彼女は永遠の眠りに、ついている。

***

真田幸村<真田丸>忠義の蒼い炎 真田幸村(信繁)大河ドラマ小説5

2017年11月19日 07時58分37秒 | 日記




































戦国時代末期、天正十年(一五八二年)天下の覇者・織田信長「本能寺の変」にて業火の中に自刃。天正十一年(一五八三年)織田信長の後継者と目された柴田勝家が「賤ヶ獄の戦い」において羽柴筑前守秀吉に敗北、北庄にて自ら腹わたをつまみだし凄絶なる自刃(後妻の信長の妹・お市の方も自刃)。秀吉は天下をほぼ手中にする。
 されどいまだに戦国の世は天下平定のための幾千幾万もの英雄豪傑の血を欲していた。そして、北陸加賀の前田家に天下の傾奇者と名をとどろかせた伝説のいくさ人・前田慶次がいた。
 戦国時代こそいくさ人にとって花の時代であった。
 天正十二年(一五八四年)大坂城。羽柴秀吉は天下にその権勢を誇示するがごとく黄金に輝く巨城大坂城を築いた。北陸の雄・前田利家は臣下の礼をとり築城の祝いに訪れていた。
 秀吉は猿みたいな顔で豪華な着物を羽織り、黄金の茶室にて前田利家に茶を差し出した。
「で…又左(またざ・利家)殿。その傾奇者てにゃいかなるもんだぎゃ?!」
「はっ!」利家は困惑した。「ええ………その、なんと申しますか、異風の姿形を好み異様な振る舞いや突飛な行動を愛する者と申しますか」
 前田利家、かつて槍の又左と呼ばれ豪遊の武将であったが今は秀吉の軍門にくだり、加賀百万石の大大名、又左(又左衛門)は幼名である。「例え御前でも自分の遺志を押し通す命知らずの大馬鹿者といいますか」
 秀吉は朝廷より関白の名代と賜り、もはや家康を除けば天下人NO.1であった。
「そうか、そんな骨のある傾奇者とやらにわしも会ってみたいのう」
 秀吉はにやりとした。まさにサル顔である。「そういやあ、お前さんの甥の慶次とやらは天下に名をとどろかせる傾奇者だとか。一度連れて来い」
「は…はあされど…」
 利家は絶句した。
 あの傾奇者・慶次が関白殿下の前で失礼の振る舞いを見せれば前田家の加賀百万石の家禄も危うい。
 そして歴史に詳しいひとならご存知の通り、慶次は秀吉の前で猿踊りをしてみせるのである。
 太っ腹な秀吉は笑って手を叩いて「われの前でおそれもなく「猿踊り」をするとは慶次、あっぱれなやつである!」と評価して「天下の傾奇者」と評して、慶次が、天下で傾いても罪にならぬという関白勅令を出した。
 慶次もすごいが、秀吉もさすがは天下の器である。 


 天正四年(一五七六)……
 鬱蒼とした山道を駆けるふたりの男がいた。
「与七! 急げ! 大切な御屋形様の戦を見逃すぞ!」背の高い男がいった。
「待ってくれ……はあはあ…慶次殿!」
 部下らしい男は息を切らした。
 先にいく背の高い男こそ、前田慶次(当時十七歳)である。背は六尺(一九〇センチメートル)はあるだろうか。
 部下は樋口与七で、ある。
 天文2年(1533年)に慶次は生まれ、慶長17年6月4日に病死するまでの人生である。…墓は米沢市の万世の善光寺…
 慶次はハンサムな顔立ちで、すらりとした痩身な男で、智略のひとであったが、今はまだ只の若者に過ぎない。若き頃より放浪し、のちに直江兼続に惚れて上杉景勝に仕官し、軍略を磨くことになるのだが、まだまだ謙信の方が上であった。謙信には姉がいて、名を桃姫という。出家後は仙桃院と名を変えた。
 幼い頃、慶次は上杉謙信(当時は長尾景虎)の馬上での勇々しい姿をみたことがある。父親の田んぼ仕事の合間に、越後でのことだった。
 慶次はその時の謙信の姿を目に焼き付けていた。上杉家ならば…もしや…自分も!「謙信は…戦神じゃ! ひとから義をとってしまえば野山の獣と同じだ!」
 毘、龍……の旗印が風にたなびく……英雄・上杉謙信は慶次には眩しく映った。
 謙信に子はいない。謙信は結婚をしていなかったし、女性をまったく近付けなかったからだ。そのため謙信は実は女性であった……などという史実とおよそかけ離れた説まであるくらいである。その実は男色の気があったからだという説もある。
 何にせよ、一族親類の数が絶対的な力となる戦国時代にあえて子をなさなかったとすれば、変人といわなければならない。兼続は喜平次(景勝)に五歳で仕えたという。
「どちらが勝つじゃろうか?!」
「謙信に決まっておろう」
「しかし…」部下は続けた。「武田には山本勘助なる軍師が…」
「そんなやつ、謙信……上杉謙信公の足元にもおよばぬわ!」
 慶次は笑った。川中島は現在の新潟県と長野県の間に流れる千曲川のところである。ここで上杉軍と武田軍のこぜりあいが長く続けられていた。上杉謙信とは不思議なひとで、領土を広げようという野心のない人物で、各国の武将の中でも人望があつかった。楽しむが如く戦をし、武田攻めも義によって行っているだけだという。武田の領地である信濃や甲斐を狙っていた訳ではないのだ。すべては村上義清の要請……それだけだった。
 ちなみに兼続兄弟は戦に参加するために急ぐのではない。見学するためだった。これは何も珍しいことではなく、戦国時代にはよくあったことだという。例えば、牋ケ獄の戦いなどのときにも近くの農民たちが戦見学をしたとも記述にある。負傷者のために秀吉は農民から傘を買い上げたという。農民たちも貪欲なもので、負け組の将の首を狙って、賞金を貰ったり、死人の鎧や兜をかっぱらい金にかえる不貞な輩が大勢いたという。
 敗走中に農民に殺された明智光秀や小西行長なども不幸であった。
  そして、上杉謙信と武田信玄との激戦、川中島の戦いで、ある。

  信州(長野県)・川中島(信州と越後の国境付近)で、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)は激突した。世にいう「川中島合戦」である。戦国時代の主流は山城攻めだったが、この合戦は両軍四万人の戦いだといわれる。
  甲府市要害山で大永元(一五二一)年、武田信玄(晴信)は生まれた。この頃の十六世紀は戦国時代である。文永十(一五四一)年、武田信玄(晴信)は家督を継いだ。信濃には一国を束める軍がない。武田信玄は孫子の「風林火山」を旗印に信濃の四十キロ前までで軍をとめた。それから三~四ケ月動かなかった。
「武田などただの臆病ものよ!」
 信濃の豪族はたかをくくっていた。
 しかし、武田晴信はそんなに甘くはない。
 まず甲斐(山梨県)で軍備を整えた。
 出家もし、剃髪し、晴信から信玄と名をかえた。
 そして、信濃(長野県)の制圧の戦略をもくもくと練っていた。
「御屋形様! 武田の騎馬軍団の勇姿みせましょうぞ!」
 家臣たちは余裕だった。
 信玄も、
「信濃はわしのものとなる。甲斐の兵、武田軍は無敵ぞ」
 と余裕のままだった。
 謙信も「武田の兵を叩きつぶしてくれるわ!」息巻いた。
「いけ! 押し流せ!」
 陣羽織りの信玄の激が飛ぶ。
「うおおおっ!」
 武田の赤い鎧の集団が長槍をもって突撃する。
 信濃の豪族は油断した。そのすきに信玄は騎馬軍団をすすめ、信濃を平定した。領土を拡大していった。彼は、領土の経済へも目を向ける。「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定。治水事業も行った。信玄は国を富ませて天下取りを狙ったのである。
 第一次川中島の合戦は天文二十二(一五五三)年におこった。まだ誰の支配地でもない三角洲、川中島に信玄は兵をすすめる。と、強敵が現れる。上杉謙信(長尾景虎)である。謙信はこのときまだ二十二歳。若くして越後(新潟県)を治めた天才だった。謙信は幼い頃から戦いの先頭にたち、一度も負けたことがなかったことから、毘沙門天の化身とも恐れられてもいた。また、謙信は義理堅く、信濃の豪族が助けをもとめてきたので出陣したのであった。上杉軍が逃げる武田軍の山城を陥していき、やがて信玄は逃げた。信玄の川中島侵攻は阻まれた。(二万人の負傷者)
 天文二十三(一五五四)年、武田は西の今川、南の北条と三国同盟を成立させる。それぞれが背後の敵を威嚇する体制ができあがった。
「これで……不倶戴天の敵・上杉謙信を倒せる!」
 信玄は笑った。
 ある日、両軍主領があう機会があった。
 永禄元年五月上杉・武田の和議が起こり、千曲川を隔てて両将が会見したとき、謙信は馬から降り、川岸で会見しようとした。
 すると信玄は礼を重んじることもなく、
「貴公の態度はいかにもうやうやしい。馬上から語ってもよかろうぞ」と放言した。
 信玄には謙信のような「義」「礼」がなかったのである。
 謙信はやはり武田と戦うことを誓った。
 上杉謙信は武諦式をおこない、戦の準備をはじめた。
「……今度の戦で信玄を倒す!」
 謙信は兵に激を飛ばした。
「おう!」
 上杉軍は決起盛んである。
  第二次川中島の合戦は天文二十四(一五五五)年四月に勃発した。
 信玄は上杉が犀川に陣をはったときの背後にある旭山城の山城に目をつける。上杉は犀川に陣をはり、両軍の睨み合いが数か月続く。
 膠着状態のなか、上杉武田両軍のなかにケンカが発生する。
「やめぬか! 義を守れ!」
 謙信は冷静にいって、書状を書かせた。
 謙信は部下に誓約書をかかせ鎮圧したのだ。
 どこまでも「義」のひとなのである。
 信玄は違った。
「おぬしら、働きをしたものには褒美をやるぞ!」
 と、信玄は人間の利益にうったえた。
「欲」「現実」のひとなのである。
 信玄は戦でいい働きをしたら褒美をやるといい沈静化させる。謙信は理想、信玄は現実味をとった訳だ。
 やがて武田が動く。
 上杉に「奪った土地を返すから停戦を」という手紙を送る。謙信はそれならばと兵を引き越後に帰った。
「……信玄を信じよう」
 義の謙信は疑いのない男だ。
 しかし、信玄は卑怯な現実主義者だった。
 第三次川中島の合戦は弘治三(一五五七)年四月に勃発した。
 武田信玄が雪で動けない上杉の弱みにつけこんで約束を反古にして、川中島の領地を奪ったことがきっかけとなった。”信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。そして、民衆の悲しみは絶えない。隣国の主としてこれを黙認することなどできない”
 上杉謙信は激怒して出陣した。上杉軍は川中島を越え、奥まで侵攻。しかし、武田軍は戦わず、逃げては上杉を見守るのみ。これは信玄の命令だった。”敵を捕捉できず、残念である”上杉謙信は激怒する。”戦いは勝ちすぎてはいけない。負けなければよいのだ。 敵を翻弄して、いなくなったら領土をとる”信玄は孫子の兵法を駆使した。上杉はやがて撤退しだす。
 永禄二(一五五九)年、上杉謙信は京へのぼった。権力を失いつつある足利義輝が有力大名を味方につけようとしたためだ。謙信は将軍にあい、彼は「関東管領」を就任(関東支配の御墨付き)した。上杉謙信はさっそく関東の支配に動く。謙信は北条にせめいり、またたくまに関東を占拠。永禄三(一五六〇)年、今川義元が織田信長に桶狭間で討ち取られる。三国同盟に亀裂が走ることに……。
 上杉は関東をほぼ支配し、武田を北、東、南から抑えるような形勢になる。今川もガタガタ。しかも、この年は異常気象で、四~六月まで雨が降らず降れば十一月までどしゃぶり。凶作で飢餓もでた。
 第四次川中島の合戦は永禄四(一五六一)年、五月十七日勃発。それは関東まで支配しつつあった上杉に先手をうつため信玄が越後に侵攻したことに発した。信玄は海津城を拠点に豪族たちを懐柔していく。上杉謙信は越後に帰り、素早く川中島へ出陣した。
 上杉は川中島に到着すると、武田の目の前で千曲川を渡り、海津城の二キロ先にある妻女山に陣をはる。それは武田への挑発だった。
 十五日もの睨み合い…。信玄は別動隊を妻女山のうらから夜陰にまぎれて奇襲し、山から上杉軍を追い出してハサミ討ちにしようという作戦にでる(きつつき作戦)。
 しかし、上杉謙信はその作戦を知り、上杉軍は武田別動隊より先に夜陰にまぎれて山を降りる。
「よいか! 音をたてたものは首を斬り落とすぞ!」
 謙信は家臣や兵に命令した。
 謙信は兵に声をたてないように、馬には飼い葉を噛ませ口をふさぐように命令して、夜陰にまぎれて山を降りた。一糸乱れぬみごとな進軍だった。
 上杉軍は千曲川を越えた。
 九月十日未明、信玄が海津城を出発。永禄四(一五六一)年、九月十日未明、記録によれば濃い霧が辺りにたちこめていた。やがて霧がはれてくると、武田信玄は信じられない光景を目にする。
「……なんじゃと?! 上杉が陣の真ん前に?」
 信玄は驚いた。
 驚きのあまり軍配を地に落としてしまった。
 妻女山にいるはずの上杉軍が目の前に陣をしいていたのだ。上杉軍は攻撃を開始する。妻女山に奇襲をかけた武田別動隊はカラだと気付く。が、上杉軍の鉄砲にやられていく。「いけ! 押し流せ!」
 無数の長槍が交じりあう。
 雲霞の如く矢が飛ぶ。
 謙信は単身、馬で信玄にせまった。
 刀をふる謙信……
 軍配で受ける信玄……
 謙信と信玄の一気討ち「三太刀七太刀」…。
 このままでは本陣も危ない!
 信玄があせったとき武田別動隊が到着し、九月十日午前十時過ぎ、信玄の軍配が高々とあがる。総攻撃!
 ハサミうちにされ、朝から戦っていた兵は疲れ、上杉軍は撤退した。死傷者二万(両軍)の戦いは終了した。「上杉謙信やぶれたり!」信玄はいったという。
 武田信玄は川中島で勝利した。
 上杉はその後、関東支配を諦め、越後にかえり、信玄は目を西にむけた。
 第五次川中島の合戦は永禄七(一五六四)年、勃発した。
 しかし、両軍とも睨みあうだけで刃は交えず撤退。以後、二度と両軍は戦わなかった。 武田は領土拡大を西に向け、今川と戦う。こんなエピソードがある。今川と北条と戦ったため海のない武田領地は塩がなくなり民が困窮……そんなとき塩が大量に届く。それは上杉謙信からのものだった。たとえ宿敵であっても困れば助ける。「敵に塩をおくる」の古事はここから生まれた。
 武田は大大名になった。
 信玄は国づくりにも着手していく。治水工事、高板はたびたび川がはんらんしていた。 そこで竜王の民を移住させ、堤をつくった。
 上杉にも勝ち、金鉱二十もあらたに手にいれた。
 のちに信長は自分の娘を、信玄の息子勝頼に嫁がせている。
 しかし、信玄は信長の一向衆や寺焼き討ちなどをみて、
「織田信長は殺戮者だ! わしが生きているうちに正しい政をしなければ…」
 と考えた。それには上洛するしかない。


  のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。
 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。
 また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。
 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。
 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。
「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。

  信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。
 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。
 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。
 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。
 天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。
 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。
 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?
 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。
 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。
 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。
 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に武勢で、結局殺されてしまう。
 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)
 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。
 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。
 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。
 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。
 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。
 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。


  足利義昭が織田信長に「幕府回復のために力を貸していただきたい」と打診していた頃、信長はまだ稲葉山城(岐阜城)攻略の途中であったから、それほど関心を示さなかった。また、天皇からの「天皇領の回復を願いたい」というも放っておいた。
 朝倉義景の一乗谷城には足利義昭や細川藤孝が厄介になる前に、居候・光秀がいた。のちに信長を本能寺で討つことになる明智十兵衛光秀である。美濃の明智出身であったという。機知に飛んだ武士で、教養人、鉄砲の名人で、諸国を放浪していたためか地理や地方の政や商いに詳しかった。
 光秀は朝倉義景に見切りをつけていた。もともと朝倉義景は一国の主で満足しているような男で、とうてい天下などとれる器ではない。このような男の家臣となっても先が知れている。光秀は誇り高い武将で、大大名になるのが夢だ。…義景では……ダメだ。
 光秀は細川藤孝に「朝倉義景殿ではだめだ。織田信長なら、あるいは…」と漏らした。「なるほど」細川は唸った。「信長は身分や家格ではなく能力でひとを判断するらしい。義昭さまを連れていけば…あるいは…」
 ふたりは頷いた。やっと公方様の役に立つかも知れない。こうなったらとことん信長を利用してやる。信長のようなのは利用しない手はない。
 光秀も細川藤孝も興奮していた。これで義昭さまが将軍となれる。…かれらは信長の恐ろしさをまだ知らなかったのだ。信長が神や仏を一切信じず、将軍や天皇も崇めないということを……。光秀たちは無邪気に信長を利用しようとした。しかし、他人に利用される程、信長は甘くない。信長は朝倉義景とは違うのだ。
 光秀も細川藤孝もその気になって、信長に下話した。すると、信長は足利義昭を受け入れることを快諾した。なんなら将軍に推挙する手助けをしてもいい、と信長はいった。
 明智十兵衛光秀も細川藤孝も、にやりとした。
 信長が自分たちの思惑通りに動いたからだ。
 ……これで、義昭さまは将軍だ。してやったり!
 だが、光秀たちは信長が「義昭を利用してやろう」などと思っていることを知らなかった。いや、そんなことは思いもよらなかった。なにせ、光秀たちは古い価値観をもった武士である。誰よりも天皇や室町幕府、足利将軍の崇拝者であり、天皇や将軍を利用しようという人間がいるなど思考の範疇外であったのだ。
 信長は「くだらん将軍だが、これで上洛の口実ができる」と思った。
 信長が快諾したのは、義昭を口実に上洛する、つまり京都に入る(当時の首都は京都)ためである。かれも次第に世の中のことがわかってきていて、ただの守護代の家臣のそのまた家臣というところからの成り上がりでは天下はとれないとわかっていた。ただやみくもに野望を抱き、武力蜂起しても天下はとれないのをわかっていた。
 日本の社会は天皇などが中心の社会で、武家はその家臣というのが通例である。武力だけで天下の道を辿るのは難しい。チンギス・ハンのモンゴルや、秦始皇帝の中国とは違うのだ。天下をとるには上洛して、天皇らを嫌でもいいから奉らなければならない。
 そこで信長は「天下布武」などといいだした。
 つまり、武家によって天下をとる、という天下獲りの野望である。おれは天下をとる。そのためには天皇だろうが、将軍だろうが利用するだけ利用してやる!
 信長は興奮し、心の中で笑った。うつろな笑いだった。
 確かに、今、足利義昭も天皇も「権威を回復してほしい」といってきている。しかし、それは信長軍の武力が台頭してきているからで、弱くなれば身分が違うとバッサリきりすてられるかも知れない。そこで、どの大名も戴くことをためらった足利義昭をひきいて上洛すれば天下に信長の名が轟く。義昭は義輝の弟で、血も近い。なにより恩を売っておけば、何かと利用できる。恩人として、なにかしらの特権や便宜も計られるだろう。信長は狡猾に計算した。
「天下布武」などといったところで、おれはまだ美濃と尾張だけだ。おれは日本中を支配したいのだ。そのために足利義昭を利用して上洛しなくてはならないのだ。
 そのためにはまず第十四代将軍・足利義栄を戴いている三好や松永久秀を滅ぼさなければならない。信長は戦にうって出ることを考えていた。自分の天下のために!
 信長は当時の常識だった「将軍が一番偉い」などという考えをせせら笑った。なにが偉いものか! 偉いのはおれだ! 織田……織田信長だ! この俺に幸運がやってきた!
  慶次郎は「織田信長は紛い者のかぶきものだ」という。「本物のカブキ者はひとの頭をおさえて権力をふるい、女子供や僧侶を虐殺したりしない。最期は家臣に牙を剥かれて死んだ愚者だ」。信長は義父の前田利久や嫁の義父の仇のようなものだ。前田利久は前田家の嫡子であったが子がなく弟の安勝の娘を養女とし、滝川一益の息子・慶次郎を養女の婿として迎えた。この慶次郎が前田家の「跡継ぎ」の筈である。だが、前田利久を嫌った織田信長が、荒子城から前田利久一家を追放し、前田利家を前田家の主としたのだ。「信長め!」慶次郎は悔しがったことだろう。


劇画・漫画『花の慶次』では前田慶次が金沢城下で忍者軍団と闘い、恋人であったくノ一(女忍者)を伝説の忍者に殺され、復讐劇を見せることになっている。
 だが、そんな歴史上の文献や資料は見つかっていない。やはりというか「漫画的な復讐劇」でしかない。
 コミック・漫画・劇画『花の慶次』第弐巻で、しかしながら第十三話『棒涸らし螢』の巻、を次に参照したい。
 末森城での合戦のあと、金沢城下も平穏な日々を取り戻していた。まつは加賀百万石の大大名・前田利家の正室であったが、御供もほとんどつけずに買い物に夢中になっている。
 まつは、唐突に城をぬけだし、街をふらつくことなど日常茶飯事といえた。この気さくな奥方は、前田家がいくら大藩になろうとも少しも変わらない。
 利家はまつに横恋慕しようとするような慶次に頭に来ていた。そこで加賀忍者棟梁・四井主馬に「なんとか慶次のやつを始末する方法はないのか……考えろ主馬!」と命じた。主馬はにたあとわらって「女の色事の果て女に殺される……というのはいかがで?」
「うーん!それならば家臣どもも疑わぬかもしれんなあ」利家はにやりとなった。
 その頃、金沢城下郊外のある武家屋敷に忍び込む慶次がいた。慶次が早い刻限から眠れるのは合戦の時だけだった。平時には、身内に滾(たぎ)り、立つものを抑え兼ねて、いつまでも起きていることになる。そして今夜、慶次は若い女の元に夜這いにきていた。
「うむー、やはり思った通りだ!なんとも雪のような肌だ」布団に薄い寝間着でひとり静かに眠る女子を見た。慶次は着物を脱いでふんどし一丁になる。美貌の二十代くらいの女子が目を覚ました。きっ!慶次は女子の口をふさいで「しっ…俺だよ。先日、遠乗りの途次、おまえの茶を馳走になった」……慶次さん……
 慶次は手を口からはなした。「お前に一目ぼれじゃ。抱くぞ」この時、相手が気に入らなければ女は拒否することができる。男も深追いをしないのが夜這いの作法なのだ。
 しかし、こういうときの慶次の無邪気な笑顔はなんともよかった。たいていの女はこの笑顔にとろけてしまうのである。
「うふ、うれしい!」女は抱きついてきた。
 しかし、厠におきてきた親族の男が庭の巨馬・松風に驚き、「よ…夜這いだあー!」と大声をあげた。家族がおきてくる。
「こりゃいけねあ」慶次はふんどし一丁のまま松風に飛び乗り、逃げた。「今度の夜這いは松風抜きだ!」「二度とくんじゃねえぞ!」
 この当時、夜這いはごく普通の求愛行為であった。女は男を気に入れば受け入れた。そうやって本当に自分にあった男を見つける自由があったのだ。
「どうだ?あの戦場では悪鬼のようなあの男もいくさ以外では女ったらしのただの野獣。どうだ?あの野獣を殺せるか?」
 主馬は遠くの木に登り、隣のもう一人の女忍者(いわゆるくノ一)に聞いた。美貌のくノ一は「たとえ悪鬼でも羅刹でも、この棒涸らしのくノ一螢!私に落とせぬ男などおりましょうか!」
 いよいよくノ一まで慶次の命を狙う刺客となった。
  翌日の午後、松風に乗った慶次とおふうは金沢城下町を進んでいた。おふうが「あ!慶次、あれがいい!あれがみたい!」といまでいうサーカスみたいな舞台小屋を指さした。
「京で流行っているんだって!」
「ほ~~つ、ややこ踊りか?」
 馬をおり、小屋に近づいた。すると騒動が起きた。客たちが逃げてくる。慶次は不思議に思って「どうかしたのか?」と尋ねた。
「どうしたもこうしたもねえよ、小屋荒らしだ!」
「小屋荒らし?」
 舞台では、ひとりの美貌の女芸者が、舞台の上で、みすぼらしいがたいのいい浪人集のような「雑魚キャラ」みたいな男ども七人に囲まれているところだった。
「舞台は神前の祭壇にも等しきところ……無礼な振る舞い末代まで祟りましょうぞ!!」
女はいうが、うす汚い野郎どもは「でへへへ」「おまゃあになら祟られてえなあ~~」という。
「酌しろよー!酌ーっ!」
 すると慶次が「あ~~キタネエケツだ!シラミも寄り付かないぜ!」といい、「臭い者には……」キセルの火をその雑魚キャラのひとりのケツめどにズボッと押し当てた。ジュ~~!あああっちい~~!男は激痛で飛び上がった。
 慶次は「あ~~!きたねえ、なんかついたかなあ」とキセルをみる。別の屈強そうな雑魚キャラの袖でキセルをふいた。きさまあ~~!やっちまえええ~~!
 次の瞬間、慶次はキセルで雑魚キャラどもをぶん殴って追っ払った。「ああ、スッキリした!さあ、続きをやってくれ」
 女芸人は舞い始める。
 この当時、京を中心に絢爛たる傾いた衣装の踊りが人々を楽しませた。この”ややこ踊り”はやがて出雲(いずも)の阿国(おくに)の手によって”かぶき踊り”へと発展していくのである。
 だが、この女芸人こそ『棒涸らしのくノ一螢』であった。悩殺のポーズで慶次をメロメロにする。
 螢は真夜中の寺の境内で雑魚キャラどもに御礼金を渡す訳だが、賃金が少ないと文句をいう。体で払え、と迫ってくるが、『棒涸らしのくノ一螢』は雑魚キャラの男どもを釣糸のような斬れる特殊な糸で全員斬り殺した。「手前らみたいな汚いカスにやらせる身体はねえんだよ!女だと思ってなめたのが運のつきさ!」
 主馬らは「野獣こそ女に弱い」という。「螢はもと武田の忍びとか」「いや、違う。あいつは忍びではない。もともとは武家の女よ!」「なんと!」
「おぬしら、あのおんなの右肩に焼き付けられた雲一ッ富士の烙印の意味を知るまい。あれは長篠の合戦であった。武田家には氷室信成という武田信玄より特に、雲一ッ富士の家紋を許された豪勇の若武者がいた。武田家の旗印”風林火山”の一字山を許されたのじゃ。その武辺の程が知れようぞ。
 しかし、その男も慶次との壮絶な一騎討ちの果てに討ち死にした。
 そしてその男の許嫁者が螢よ。螢はこの時十四歳……信成の遺体は甲冑ごと槍で突かれて絶命し、炎上する寺院の壁に横たわり、炎に包まれて燃えた。
 思えば、あれは武田家にしてもまさかの大敗北!一瞬にして家も恋いこがれた許婚者もなくした十四歳の娘には慶次を憎むしか、その地獄から逃れる術はなかったであろう。
 蛍は燃えて熱せられた甲冑の雲一ッ富士に右肩を押し当て、自ら烙印を体に刻み、復讐を誓ったのだ。螢の一族も、この戦さでことごとく討ち死に。その時より螢はくノ一にと身を落とし、復讐の爪をといだのだ」
「業深き女にござるな」
「それがいいのよ。われわれは慶次があの女とまじわっておるスキをつき、あの女もろとも慶次を床下より刺し殺す!あやつと慶次がひとつになって死んでおれば誰がみても情死!女の素性をさぐったところで行きつく所はただの仇討ち、われらに嫌疑は及ぶまい」
 螢はそうとも知らずに慶次の宿に夜這いにいった。
「この前のお礼に参りました」鮮やかな着物を脱ぐ。交わる。ここまでは主馬の狙い通りである。主馬や加賀忍者たちは音もなく床下に忍んで刀を構えていた。
「うーん!やっぱりやめだ!」
 慶次は着物を羽織り、火鉢にあたった。「どうしたので?」螢は尋ねた。
 慶次は小声で「おれのいちもつはでかいんだ」と呟く。
「えっ?」
「だから!」今度は大声でいった。「おれのあそここはとてつもなくでかいっていうの!」
 螢は、「どれくらい?」とおどおど尋ねた。慶次はむきむきのぶっとい右腕をぬっと目の前に突き出した。「そ……そんなに…」螢は冷や汗が出た。
「だからね。やぶけたら大変でしょう。割けたら元も子もないもんなあ」慶次は火鉢の鉄箸をいじりだした。「こんなことでいい女は死なせたくないでしょう?!」
 慶次は鉄箸を床にぶっ刺した。ひとりの加賀忍者の脳みそから首にかけて刺さり、その忍者は死んだ。このー!
 加賀忍者が床畳をぶち壊し、襲撃してくる。だが、そんなものたちは斬り捨てた。全員殺した。いや、棟梁の四井主馬だけは火鉢でぶんなぐって気絶させ、丸裸で金玉丸出しで、公道の橋に逆さ吊りにした。
「なんだありゃ?」「おい見ろよ!金玉丸出しだ!」「真っ裸で逆さつりにされてらあ」庶民が嘲笑した。主馬は手足を縄でしばられていて動けない。猿轡まではめられている。……ぐじょお…殺じでや…るうう、ぐぼああ…
「や!腹に墨でなんか書いてあるぞ!!」「なになに、”この者、人のふぐりを咬(かじ)るねずみにて成敗いたす。前田慶次。”……わははは」
 加賀忍者の棟梁の主馬が馬鹿にされたということは加賀忍者全員を馬鹿にしたということである。
「何故あのような嘘を?」
「おまえ生娘(きむすめ・処女)だろ?抱けないさ」
 慶次は優しくにやりと白い歯を見せた。
 このあと、螢は慶次の優しさに心を許し、女にしてもらい、恋人のようになる。
 だが、復讐に燃える四井主馬は『(螢の師匠の)甲斐の蝙蝠(かいのこうもり)』という忍びの男を招聘(しょうへい)し、甲斐の蝙蝠は「慶次の杯に毒を浸み込ませ慶次を毒殺」するように催眠の術をかける。
 その夜、慶次は螢の杯を、お酌された酒を飲んだ。螢は両目からはらはらと涙を流す。「お前まさか?!」慶次は螢の着物をあらためた。やはり、かげ腹を斬っていた。
「何故わかっていて……私のお酌した酒……を?」
「いったろう?お前に惚れていると。お前を信じている」
 老人が「あなたをころさぬためですよ、慶次さま。『甲斐の蝙蝠』は螢の忍びの師匠そして螢はやつの術に落ちたのです。やつの催眠の術を破る方法はただひとつ、血を抜き催眠効果をさげるのみ……命と…引き換えに……」
「螢よ、お前の酒なら毒入りだとて飲んだぞ」
「うれしい」
 螢は絶命した。慶次の腕の中で、抱きしめられながら……「復讐する!全員斬り殺してくれる!」
 忍者軍団の恐ろしさはその執念深さである。生き残ろう等と考えない。自分の死と引き換えでも敵を殺そうとする。
 慶次と加賀忍者集団や甲斐の蝙蝠との戦闘は修羅場ともいえた。
 だが、さすがは慶次である。斬り倒し続けた。螢を殺された復讐心のために悪鬼の如く暴れ回った。
「蝙蝠とやら、何故おれごときの首を欲しがる?お前ほどの腕なら秀吉や家康の首もとれるだろうに!」
「ふん!あんなやつら品がない。それに気持ちが悪いほど命乞いするに決まっている。お前は本能寺の信長と同じじゃ!」
「信長?!」
「信長は炎の甲冑に身をつつみそれは美しかった。同じ殺すなら信長のような御仁がよい」
「ぬかせ!」慶次は甲斐の蝙蝠を成敗した。
 さきほどの螢の素性を知る白髪の老人は伝説の忍び『飛加藤』であった。
 ただ、これでこの喧嘩がすむはずはなかった。そこで飛加藤(とびかとう)は『馬盗人之類也』の紙片とともに忍びの死体をすべて屋敷の外に並べた。加賀忍軍の棟梁の主馬は沈黙するしかなかった。たった一人の男に数十人もの忍びが殺されたのだ。
 死体は加賀忍軍と申し出れば、以後、加賀藩で、加賀忍軍は軽侮(けいぶ)と嘲笑の的になるのは目に見えている。かくして、馬盗人との戦いとして慶次を罰するいかなる法令もなく、この一件は落着した。
  その慶次は漫画『花の慶次』では、まつに横恋慕をする設定になっている。
 それはそれで面白いのだが、やはり「漫画的な表現」でしかない。
 この時期に前田慶次の義理の父親・前田利久(前田利家の実兄)は病死する。
 病床で、利久は、慶次が子供の頃、背中をやられながらも熊をしとめて利久に食わせようと熊をもってきた優しい子供時代を懐かしんだことだろう。
 のちの慶次の母親になる益氏の側室に若いころ夢中になり求婚し、「実はわたしのお腹には滝川益氏さまのややが…」と打ち明けられ生まれた慶次を息子と呼ぶにためらった思い出も回想しただろう。
 慶次が父親として尊敬した前田利久は血を吐いて病死する。こうして慶次と前田家の縁は完全に切れた。
「まつ!まつがいない!まさか………慶次のところか?!」
「いや、俺はここにいる!」慶次は屏風を蹴り倒し、現れた。抜刀して利家に向けてドヤ顔をする。「叔父御、なぜにそんなに俺をにくむんです?」
「し、知らん!」
 利家は兄の荒子城での慶次のまつに対する横恋慕を恨んでいた。
 そして、その年、前述したとおり信長に追放されて浪人としてわびしい隠居生活を送っていた前田利家の兄・利久(前田慶次の義父)が病死するのである。
 こうして、慶次と前田家との縁は完全に切れた。
 ここから『天下無双の傾奇者』前田慶次の伝説は始まるのである。

  足利義昭にしてみれば織田信長などチンピラみたいな男である。かれが越前にいったのも朝倉義景を通して越後の長尾(上杉)景虎(謙信)に頼ろうとしたのだし、また上杉でなくても武田信玄でも誰でもよかった。チンピラ信長などは「腰掛け」みたいなものである。なんといっても上杉謙信や武田信玄は信長より大物に写った。が、上杉も武田も容易に兵を挙げてくれなかった。義昭はふたりを呪った。
 しかし、信長にとっては千載一遇の好機であった。朝倉がどうでようと、足利義昭を利用すれば上洛の大義名分が出来る。遠交近攻で、上洛のさまたげとなるものはいない。
 信長は明智光秀や細川藤孝から義昭の依頼を受けて、伊勢方面に出兵した。滝川一益に北伊勢方面を攻撃させた。そうしながら伊勢の実力者である関一族の総領神戸氏の家に、三男の信孝を養子としておしつけた。工藤一族の総領である長野氏の名を弟信包に継がせたりしたという。信長の狙いは南伊勢の北畠氏である。北畠氏を攻略せねば上洛に不利になる。信長はさらに、
「足利義昭さまが越前にいてはやりにくい。どうか尾張にきてくだされ」と書状をおくった。義昭はすぐに快諾した。永禄十一年(一五六八)七月十三日、かれは越前一乗谷を出発した。朝倉義景には「かくかくしかじかで信長のところにまいる」といった。当然ながら義景は嫌な顔をした。しかし、朝倉義景は北近江一国で満足している、とうてい兵をあげて天下をとるだけの実力も器もないのだから仕方ない。
 上洛にたいして、信長は朝倉義景につかいをだした。義景は黙殺した。六角義賢(南近江の城主)ははねつけた。それで、信長は六角義賢を攻め滅ぼし、大軍を率いて京都にむかった。九月一二日に京都にはいった。足利義昭を京都の清水寺に宿舎として入れ、松永と三好三人衆と対峙した。松永弾正久秀は機を見るのに敏な男で、人質をさしだして和睦をはかった。それがきっかけとなり信長は三好三人衆の軍勢を叩き潰した。
 足利義昭は「こやつらは兄義輝を殺した連中だ。皆殺しにいたせ!」といきまいた。
 しかし信長が「義昭さま、ここは穏便に願う」と抑圧のある声で抑えた。
 永禄十一年(一五六八)十月十八日、足利義昭は将軍に推挙された。第一四代将軍・義栄は摂津に逃れて、やがてそこで死んだ。
「阿波公方・足利義栄の推挙に荷担し、義輝を殺した松永と三好三人衆を京都より追放する」時の帝正親町天皇はそう命じた。
 松永弾正久秀は降伏したものの、また信長と対立し、ついにはかれはおいつめられて爆死してしまう(大事にしていた茶道具とともに爆薬を体にまきつけて火をつけた)。
 直江兼続が織田信長とあったのはこの頃だったという。兼続は「ひとに義がなければ野山の獣と同じでござる!」という。上杉謙信に金色の洛中洛外図屏風を送った信長は「天下を取れるなら鬼にでも魂をくれるわ!」という。信長は義昭のために二条城を造らせた。 足利義昭は非常に喜んだ。これでまろは本物の将軍である。かれは信長に利用されているとはまだ感付いていなかった。「あなたはまろの御父上さまだ」義昭はきしょくわるくいった。信長は答えなかった。当時、信長三十六歳、義昭は三十二歳だった。「あなたは偉大だ。あなたを副将軍としてもよい。なんならもっと…」
「いや」信長は無表情のままきっぱりいった。「副将軍はけっこうでござる。ただし、この信長ひとつだけ願いがござる」
「それは?」
「和泉国の堺と、近江国の大津と草津に、代官所を置かせていただきたい」
 義昭はよく考えもせず、簡単に「どうぞどうぞ、代官所なりなんなり置いてくだされ。とにかくあなたはまろの御父上なのですから」と答えて、にやりとした。気色悪かった。 信長には考えがあった。堺と、大津と草津は陸運の要所である。そこからとれる税をあてにしたのだ。そして信長は京都で、ある人物にあった。それは南蛮人、ルイス・フロイスで、あった。キリスト教宣教師の。
  前田慶次は和漢の書に通じ、古典を愛し、茶道や能にも明るく、芸能も達者であるから、その名はおのずと諸国にしれわたる。慶次が放浪している頃、諸国の大名が高禄をもって召し抱えようとした。が、栄達の望みを微塵も持たぬ彼は、誘いの全てを断って気ままに浮世を送った。マンガ『花の慶次』のようなことはなかったが、さすがはカブキ者といわれるだけあって英雄伝が豊富だ。 


*****続く**(刊行本または電子書籍に続く)****続く*****

第68回NHK紅白歌合戦:出場者発表も安室の名前なし

2017年11月16日 11時52分29秒 | 日記






























第68回NHK紅白歌合戦:出場者発表も安室の名前なし









安室奈美恵さん© MANTANWEB 安室奈美恵さん
 大みそかに放送される「第68回NHK紅白歌合戦」の出場が16日、発表され、人気グループ「Hey! Say! JUMP」、女性ボーカルグループ「Little Glee Monster」らが初出場することが分かった。来年9月で引退を表明している安室奈美恵さんの出場が注目されていたが、名前はなかった。

 「第68回NHK紅白歌合戦」のテーマは「夢を歌おう」で、お笑いコンビ「ウッチャンナンチャン」の内村光良さんとNHKの桑子真帆アナウンサーが総合司会とを務める。白組司会は人気グループ「嵐」の二宮和也さんで、紅組司会は昨年に続き、2年連続となる女優の有村架純さんが担当する。NHK総合ほかで12月31日午後7時15分~同11時45分(途中、5分間ニュースで中断)に放送される。

 ◇第68回NHK紅白歌合戦出場者(敬称略、カッコ内は出場回数)

 【紅組】 AI(3)▽E-girls(5)▽石川さゆり(40)▽市川由紀乃(2)▽AKB48(10)▽丘みどり(初)▽倉木麻衣(4)▽欅坂46(2)▽坂本冬美(29)▽椎名林檎(5)▽SHISHAMO(初)▽島津亜矢(4)▽Superfly(2)▽高橋真梨子(5)▽天童よしみ(22)▽TWICE(初)▽西野カナ(8)▽乃木坂46(3)▽Perfume(10)▽松たか子(3)▽松田聖子(21)▽水森かおり(15)▽Little Glee Monster(初)

 【白組】 嵐(9)▽五木ひろし(47)▽X JAPAN(8)▽エレファントカシマシ(初)▽関ジャニ∞(6)▽郷ひろみ(30)▽三代目 J Soul Brothers(6)▽SEKAI NO OWARI(4)▽Sexy Zone(5)▽竹原ピストル(初)▽トータス松本(初)▽TOKIO(24)▽氷川きよし(18)▽平井堅(8)▽福田こうへい(4)▽福山雅治(10)▽Hey! Say! JUMP(初)▽星野源(3)▽三浦大知(初)▽三山ひろし(3)▽山内恵介(3)▽ゆず(8)▽WANIMA(初)

命のヴィザ 杉原千畝六千人の命のビザ映画『杉原千畝』記念ブログ小説4

2017年11月12日 07時43分22秒 | 日記



































  ヨーロッパの大国・フランス……その軍事施設で、シャルル・ド・ゴール将軍(のちの大統領)は、暗い室内である人物とあっていた。
 ド・ゴール将軍の側には側近の制服姿の男たちがたっていた。
 ド・ゴール将軍は痩せていて、いかにも頭脳明晰な感じのする白人中年男である。面長な顔にすっとした鼻筋、ハンサムではある。
「貴殿がリヒテルか?」ド・ゴールは僧侶服の小柄な男にいった。
「さよう」髭の濃い、彫の深い顔だちのリヒテルは答えた。
「わたしがリヒテルです」
「そうか。で、本当なんだろうな? 例の話し……」
 リヒテルは人払いを要求した。
すると将軍の部下たちはいきり立ち、
「将軍の身を守るのが我々の任務だ! お前のような怪しい人物とふたりっきりにする訳にはいかん!」と、口々に文句をいいはじめた。
「そうだ!そうだ!」
「ほう。意にそえぬと」
「当り前であろう?!」
「ははは。いいのですかな?」
「…何がだ?!」
「こうなることですよ」
 リヒテルは余裕の表情で、手をかざした。するとどうだろう? ド・ゴールの部下たちは床に倒れ、気絶した。
「な?!」ド・ゴールは驚愕した。
「ド・ゴール将軍?わかりましたかね。わたしの力が。」
「な?……どういう…ことだ?」
「すべてはわれの思うが儘」
「…超能力か? お前は超能力者か?」
 あえぎあえぎだが、やっと声がでた。
 リヒテルは口元に冷笑を浮かべ、低い、ゆっくりとした声で「いいえ。私は超能力者ではありません。幻術師です」
「………幻術師…だと?」
「さよう。私なら、例の話し……つまり、ドイツのヴァイマールもヒトラーも、イギリスのチェンバレンもチャーチルも、アメリカのローズヴェルトも………暗殺…できますよ」
 幻術師・リヒテルはにやりとした。
「そんな馬鹿なことがあるものか! たったひとりでそんなに殺せるものか!」
 ド・ゴールは怪訝な顔でいった。
 ふふふふ、幻術師・リヒテルはふくみ笑いをした。
「俺をナメて…るのか?!」
「さぁ、私の目を見て……じっと…じっと」リヒテルは顔を将軍の顔にちかづけた。互いの距離は数センチになり、ド・ゴールはリヒテルの顔や目をみるしかなかった。
「こけ脅しを!」
「そうでしょうかな?」
「……う…まさか。お前は…」
 将軍は目をまわし、やがて気絶した。頭蓋骨の裏側で、リヒテルのうつろな笑い声がきこえ、リヒテルが遠ざかっていく気がしたが、その感触は記憶の彼方へと消えていった。 ド・ゴール将軍らが目を覚ましたときには、もう、リヒテルはいなかった。
「……な…?どういうことだ?!あのリヒテルとやらは本当にヒトラーやチェンバレンやローズベルトを…???馬鹿な」
ド・ゴールは額の冷や汗を拳でぬぐった。
「糞っ!この俺が!」

「それは例年バルト海沿いの北欧諸国では珍しくない季節の早い、夏もおわりのようなどんよりとした日であった。忘れもしない一九四〇年七月末の日と思う。
 六時少し前、表通りに面した領事館の門前が突然人のけたたましい話し声で騒がしくなり、意味のわからぬ声が高まった。人数が増えるためか次第にその越えは激しくなってゆく。私は急いでカーテンの隙間から外を窺った。何とそれは、大部分が乱れた服装をした老若男女の群れで、色々の人々がざっと百人近くも領事館の鉄柵に寄り、争ってこちらに向かって何かを訴えている光景が目に移った」(杉原千畝の手記より)
 その領事館を囲んだ何百人という人々は、ポーランドから逃れてきたユダヤ人たちだったという。大人にまじって母親の手にしがみついている子供もいたという。
 杉原さん一家がリトアニアに向かったのは、一九三九(昭和一四)年十一月のことだという。当時、外交官だった杉原千畝さんはフィンランドに赴任していたが、突然、リトアニアの首都カウナス(現在のビリニュス)に転勤命令がきたのだという。
 リトアニアは出来たばかりの国で、のちにソ連(現在のロシア)にのみこまれることになる。ナチス・ドイツ軍はポーランドに侵攻していて、ソ連はそれに対抗しようとバルト三国を併合した。ナチスの”ユダヤ人狩り”も激しくなっており、大勢のユダヤ人があてもなく難民として彷徨った。
 千畝さんは早起きで、夜明けの鳥の鳴き声とともに目をさましたという。
”夏といってもリトアニアは北国です。朝は肌寒く、昼でも気温は十七度ぐらいしかあがりません。しかし、私たちが起き出す頃には、領事館は適当な温度に保たれ過ごしやすくなっていました。(中訳)ノックして夫は私を促すように「窓の外をみてごらん」といいました。「どうして?」建物のまわりを黒い影がびっしりと取り囲んでいました。
 再び夫は階段を下がりまた上がってきました。
「ポーランドからナチスの手を逃れてユダヤ人が来ている。日本通過ビザを要求しているんだよ」
 これは只ごとではないと考えて、夫はボーイのボリスラフを呼んだのでした。ボリスラフはすでに群衆に会って、その来訪の目的を尋ねてきたそうです。その話によれば、今は二百人ほどだが、数日後には何千人にも増えるだろうということでした。”
                 (六千人の命のビザ 杉原幸子著 17ページ)
 公園にも「ユダヤ人入るを禁ずる」というプレートが掲げられ、カーテンから人影が見えただけで、難民となったユダヤ人たちは声をあげて「助けてくれ!」と叫んだという。                
「……大丈夫かしら?」千畝さんの妻・幸子さんの妹は不安にかられた。
 不安のまま、妹は群衆をカメラで撮り、「助けてあげなくちゃ!」といったという。
 有名なナチスの”ユダヤ人狩り”は、文字通りユダヤ人たちをトラックに詰め込んで収容所に連れていき、殺すものだ。ナチスと日本は一九三六年に日独防共協定を結んでいた。日本領事館がユダヤ人にビザを発行するということは、ドイツの敵対行為になりかねない。場合によってはゲシュタポに命を奪われかぬない。千畝はそのことを、危険を、承知していた。認識していた。しかし……

        千畝と三郎






  杉原千畝の父は紙に主色の字で、”千畝”(ちうね)と書いた。
 それが長男の名前である。
 杉原千畝は、一九〇〇年(明治三十三年)一月一日、岐阜県八百津町に生まれた。父はこの町の税務士であったという。母はけっこう年増な女である。とにかく、千畝は岐阜の片田舎に生を受けた。時代は大不況。苦悩する日本。世界的な孤立とあいつぐ企業倒産、大量の失業者、夜逃げ、身売り、政治不満が吹き荒れていた。
 日本の田舎で、娘たちが遊郭に売られない日はなかった。
「この子は、医者になってほしい!」
 千畝の父は赤子の千畝を抱いて頬を緩ませた。当然ながら明治時代のことなので、父親がポロシャツを着ているわけはない。和服である。千畝の父は短髪に面長な顔で口髭をうっすら生やし、細い体に手足をした紳士風のいでたちである。赤子の千畝は、豪邸内で、父に抱かれるとにこにこ微笑んだ。
「この子は絶対に医者だ。医学も会計も営業も全部しこむぞ」
 父はそういった。そして「この子は将来きっと俺を追い抜く」
「まあ!」
 千畝の母は笑った。華奢な体に印象的な黒髪の、和服の女である。
 母は続けた。「…あなたはこの子に帝王学を学ばせるおつもり?」
「そうとも!」
 父は千畝をあやしながら続けた。「これから経営会議にも営業にも……全部出席させて教え込む」
「まぁ、それはすごいわ!」
「俺にできるのはそういうことだけだからな!」
父は千畝をあやしながらいった。
 千畝は何も知らず、無邪気に微笑むのであった。


「私は岐阜の税務署員の長男として生まれた。なにごともなければ父の希望の医者になるはずであった。父は非常に有能な税理士であった。が、たんなる田舎の税理士にすぎない。祖父と曽祖父はすぐれた審美眼の持ち主で、日本や中国の美術工芸品の収集に没頭していた。(中略)本業をおろそかにし、経営をひとまかせにしていたため、事業は衰退の道をたどったのである」
 まさか息子が外交官になるとは思わなかったから、父は息子・千畝にみっちりと帝王学を仕込んだ。
 十歳頃になると、もう市役所の事務所や税務署へ息子をつれていき、事業というものの”いろは”を手ほどきしていった。重役会議、部下からの報告、打ち合わせや棚卸しなど、学業の合間をみて可能な限り社業につきあわせた。中学生になるともっぱら仕事で一日が過ぎてしまったそうである。
 杉原千畝は酒を呑まなかった。
 杉原家は裕福で、当時の日本では珍しく西洋的でモダンな家庭だった。家は、岐阜でも超高級住宅地として知られているところにあったが、広壮な屋敷内にはテニスコートがついていた。
 父親は、お抱えつきのアメリカ車、ビュイックで役所に出掛け、家の中にはすでに外国製の電気冷蔵庫や洗濯機が置かれてあった。
 母親は、クラシック音楽が好きで、よく子供達を音楽会に連れていき、レコードを聴かせた。家には、小さい時からビクトロンと呼ばれる古い手回し式の蓄音機があったが、アメリカから電気蓄音機が輸入されるようになるとすぐに買い入れた。名古屋では第一号であったという。
 父はいつも「お前は医者になるんだ。期待してるぞ。父さんの期待を絶対に裏切るなよ」と長男にいった。
 千畝の父は子供たちに厳しかった。しかし、厳しい反面、子供達のためになると思えば何でも買い与えた。そういう寛大さもあった。家族思いだったのである。
 が、杉原千畝は外国語の勉強ばかりしていたという。
 学校の勉強そっちのけでその日も外国語を勉強していると、父が部屋にやってきて、
「馬鹿もの!」と雷を落とした。
「医学はどうしたんだ!」
 抑圧のある声だった。
 杉原千畝は黙りこみ、そして真剣な顔をして、「でも、父さん。ぼくはこういう外国語が好きなんです」と素直にいった。
 それが、また怒りを買い、「馬鹿もの! 外国語など勉強している暇があったら……医学でも覚えなさい!」
「そういうのは…ぼくは好きじゃないな」
 千畝はいった。
「うぬぬぬ」父はあまりの正直な答えに、歯ぎしりした。
 そして「とにかく外国語など勉強しないで、医者になれ!」と怒鳴った。
 父が部屋から去ると、杉原千畝は黙り込んだ。
(ぼくは医者より外交官になりたい)
 杉原千畝はもどかしさを隠し切れずに、唇を噛んだ。誰にもわかってもらえない。そう思うと、寒くもないのに身体の芯から震えが沸き上がってくる。しかし、そんな気持ちを救ってくれたのは母だった。
 母が、「お前の好きなようにやりなさい」といってくれたのだ。
「……母さん」
「お前の……好きなようにやりなさい。なんでもやりたいことをやりなさい」
 母は優しくいった。「お前の人生なんだから」
 杉原千畝は涙の出る思いだった。

  千畝には親友、幼馴染みがいた。同じ近所に住む同年代の鈴木三郎と、高橋あい、である。三人はよくあそんだ。木登りやしりとりやメンコなどなんでもやった。三郎は千畝より面長な眉目な顔で、あいは美少女だった。あいは確かに美しかった。
 黒く長い髪を結っている、透明に近い肌、ふたえの大きな瞳にはびっしりとまつげが生えていて、伏し目にすると影を落とす。血管が浮くような細い腕や足はすらりと長く、全身がきゅっと小さく、彼女はまるで神様がこしらえた人形のようだった。赤い和服姿だ。「まって! 三郎さん! 杉原さん!」
  三郎と千畝少年は畦道を走った。少女のあいはあとから追いかけてくる。が、所詮は女である。千畝たちにおいつけない。「三郎さん! 杉原さん!」彼女ははあはあいいながら笑顔でいった。
「あいちゃん!」杉原が背後を覗きこみ、いった。
 三郎も「あい!」といってとまった。
「……はあ……はあ…もう、三郎さんも…杉原さんも…私をのけものにして…」
 高橋あいはふくれた。すると杉原少年たちは笑って、「誰ものけものなんかにしてないさ」といった。
 三人はそれから、草原の土手に寝転んで、空の蒼を見た。どこまでもきらめく空、浮かぶ雲……なんとも愛しい。千畝はいった。「ぼくは外交官になりたい。将来……父さんは医者になれっていうけど……それは嫌なんだ」
 三郎もいった。「俺もさ。親父なんかにわかるもんか。俺も外交官になりたい」
「ふたりともすごい。わたしはそんな夢ないもの」あいは関心した。
 そして、「そのためには大学、しかも一流の大学出ないとダメなのよ」とにやっとした。「ああ」三郎はいった。するとあいは笑って「杉原さんならいいけど、三郎さんは勉強まるでダメじゃないの」
「うるせい」三郎はにやりとした。あいは笑った。ふたりも笑った。
 ………外交官になりたい。
 その夢を適えるため杉原千畝はあいかわらず”勉強”を続け、なぜか急に(大学でもっと詳しく外国語のことを学びたい)と思いたった。そこで、高校三年のときに猛勉強し、父親の反対も押し切って(中学で成績のよい息子を医者にしたかった父は、医学学校の受験の手続きをする。しかし千畝は、得意の語学を生かした仕事が希望。入試当日は母が作った弁当だけ食べ、試験を受けずに帰宅。当時から自身の価値基準を信じる気骨ある青年であった)東京の早稲田大学にみごと合格した。一九一八年のことであった。 親友の三郎も猛勉強して、早稲田に受かった。早稲田大学高等師範部英語予科であった。
 ボロボロの服で家に帰ると、父は「医者になれ」といった。が、千畝は反発し、「いえ、ぼくは医者はやりません」といった。
「なぜ?」
「ぼくは外国語を役立てたいのです」
「なにっ?!」
 父は歯ぎしりをした。「じゃあ……誰が医者になるのだ?」
「…誰かにやらせて下さい」千畝の端整な顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいとともに大人っぽくもある。説得力のある微笑だった。しかし、父の顔は暗く、目はベーリング海のように冷たかった。「ばかやろう!」と、どなりつけた。
 父は怒りで顔を真っ赤にし、千畝の頬に平手打ちをくらわした。
「お前は身勝手だ!」
 次の瞬間、父は唖然とした。
 千畝が土下座したからである。杉原千畝は額を床にこすりつけ、「父さん! ぼくを東京にいかせて下さい!」と嘆願した。
「………東京…だと?」
「はい!」千畝は涙を流し、「外交官になりたい…東京にいきたいのです! お願いします!」
「…しかし……」
「ぼくのことはもう戦争で死んだと思って……お願いします!」
 杉原千畝は涙ながらに必死に嘆願した。
 やがて、父は折れ、優しく微笑んで「………わかった! お前の好きなようにやりなさい」といった。
「父さん」
「ただし」父は続けた。「ただし……もう実家には帰ってくるな。それが条件だ。いいな?仕送りもしないぞ」
「はい!お父さん!」
 千畝は顔をあげ、微笑んだ。


「さぶちゃん」
 千畝は自分の部屋で、三郎にいった。三郎も千畝もふたりっきりだった。三郎たちは成長していて、決起盛んだった。部屋は夕暮れどきでセピア一色だった。
「……なんだ? 千畝」三郎は生返事をかえした。
「さぶちゃん……あいちゃんをどうする気だい?」
「あい?」三郎はすっとぼけた。「……あいはこの町にとどまるんだよな」
「うん。結婚もしなそうだし…」
「結婚? あのお転婆のあいが?」三郎は笑った。
「さぶちゃん!」千畝は諫めた。「あいちゃんだって女なんだから…」
「わかってるって!」
「さぶちゃんはわかってないよ。あいちゃんは……」
 千畝は何かいいかけたが、三郎は手をかざしてとめた。
「わかってる!」
「……何を?」
「あいは……俺の女房にする」三郎はにやりとした。
「それはいい!」千畝はにこりと笑った。その表情は安堵のものだった。
 三郎は「なんで?」と不思議な顔になった。
 千畝はいった。「だって……あいちゃんはさぶちゃんのことが…」
「え?」
「あいちゃんは…さぶちゃんのことが好きなんだよ」
「へえ~つ」
 三郎はふざけた。「俺はてっきり、あいが好きなのは他の男って思ってたんだけどなぁ」「……馬鹿だねぇ、さぶちゃんは……あいちゃんの気持ちも知らないで…」
 杉原千畝はにこりとしんと輝くような顔をした。
 三郎は「でも……あいは他の男が好きなのかもしれんぞ」とにやりとした。
「……誰?」
「千畝、お前さ」
「え?」千畝はびっくりとした顔をした。予想もしてなかったからである。確かに、千畝はあいが好きだった。しかし、それはまるで”妹”のように思っていたからだった。高橋あいは確かに美女に成長した。しかし、あいは三郎のことが好きなのだと諦めてもいた。 とにかく、千畝にとってあいは”幼馴染み”であり”親友”でもあるのだ。
「あいちゃんが……ぼく……のこと…を…?」
 あえぎあえぎだが、やっと声が出た。
「驚くことないだろ?」
 三郎はにやにやしだした。
「……だって………」
 千畝は言葉を呑んだ。そして「さぶちゃんはいいの? あいちゃんのことは?」
「へんだ!」三郎はいった。「確かによ、おれのおっかあはあいのこと好いとるが、それとこれとは話が違うよ。あいは好きだよ……でも…な」
「でも? とは?」千畝は是非答えがききたかった。
 三郎はにやりとした。「東京にはいい女がいっぱいいるって話だぞ。あいより、いい女みつけて、ドンチャンよ」
「さぶちゃん…」千畝は呆れた。しかし、三郎はどこ吹く風だった。
「東京娘はじょうだまよ。あっちのほうもうまい」
「……さぶちゃん…ダメだってそんなことじゃあ…」
「いや」三郎は続けた。「おれは東京の上玉娘とイチャイチャする」
「勉強は?」
「遊んで、暇があったらするさ」
 千畝は怪訝な顔をして「あいちゃんはどうなっちゃう?」と尋ねた。
「……さてな。あいは抱きたいけど、もっともっと…」
「なに?」
「都会の東京娘を抱きたい! それがデモクラシーってもんだ。米買い占めの成金みたいに金持ちになりてぇ!」三郎はふざけて、自分で自分を抱き締めた。
 千畝は呆れて「さぶちゃん……」と呟くのだった。



  八百津町の千畝たちの家の近くに、高橋あいは住んでいた。もう夜で、まんまるな月が夜空に浮かんで、とてもしんと光っていた。あいは座って、茫然と月を見上げていた。「あい……どうしたの?」
 しばらくして、あいの母が娘に声をかけた。千畝と三郎と遊んでいたお転婆娘は、もうすっかり美女になっていた。すらりとした丸い肉体やふくらみかけた胸が、妙に男心をそそるかのようだ。あいは茫然として、
「……え? 何?おっかさん?」と声をあげた。
「…あい…三郎ちゃんや千畝ちゃんのことで悩んでるのね?」
 母はするどかった。
「やだぁ! おっかさんったら……そんなんじゃないわよ」
「そうかい?」
 あいは初めて母の顔をみて、「そうよ」と無理に笑顔をつくった。
「あいは三郎ちゃんや千畝ちゃんたちとは小さい頃から仲良しだったものね。離れるのは………寂しいわね、そりゃ」
「おっかさんったら……そんなんじゃないわよ」
「でもね…」
「おっかさん。捨て子だった私を育ててくれたのはおっかさんやおとっつぁんだもの。その恩を仇で返すようなことはしないわ」あいは真剣にいった。「ずっとここにいる」
「……あい。あんたはいい娘になったわね」
「おっかさん」あいはまた寂しい顔になり、月を見上げた。そんな月も、まるで三人の別れを悲しんでいるようにも、見えた。



「三郎!」
 ふいに、鈴木三郎の母が、実家で夕食中の息子に声をかけた。質素な食事で、実家は茅葺き屋根の木造家屋だった。母はけっこう年増な女である。父は禿げている。
 みんな、一生懸命、”飯”をがつがつ食べていた。もう夕暮れである。
「……なんだよおっかあ?」
 母は「……お前、あいのことはどうするんだ?」と尋ねた。是非とも答えが知りたかった。なんにせよ、息子とあいのことが気掛かりだった。
「あいはあいで、ちゃんと生きていくさ」
「馬鹿もの! あいは高橋家の宝じゃぞ! この鈴木家の長男の嫁にはふさわしい」
「…え?」
 母は「そうは思わんか? 三郎」と迫った。
「しかしよう、かあちゃん。俺は東京にいくんだぜ。帝都よ。あいはこの町に残る。つまりだな……」
「なんじゃ? いうてみい」
「あいとは別れることになる訳よ。しかも、俺は大学生だぜ。早稲田よ」
「それがどうした?」母は続けた。「あいはな。この町で一番の器量よしだ。何が不満がある? 贅沢は敵じゃぞ」
「わかっとる!」
 三郎は母を無視した。母は「そんなことではな。あいを杉原家の千畝にとられてしまうぞ」と脅した。三郎はまたも無視した。
 ………なにが、あいを千畝にとられてしまう…だ。馬鹿らしい!
「俺は東京娘を手にいれ、大成功よ!」
 三郎は無邪気に、そう考えて、いた。                       


 第二部  始動







         あい




  グッジェは20歳となっていた。
 ナチス・ドイツのスパイとなって訓練を受けて、ロシア語をマスターして以来、彼は順風満帆であった。少年時代の「イジメられっ子」は、痩身の彫りの深いハンサムな男になっていた。背広も、ナチスの腕章(彼はナチス党党員となっていた)も、バッチリと決まっていた。なかなかさわやかなしんとした感じだ。
 彼はまだドイツにいた。そして、彼には恋人がいた。リベラ・トルストイというなかなか美人の女性である。彼女は、グッジェの”えび足”など気にもしなかった。
 それだけリベラはグッジェを愛していたのである。
 リベラとのダンス、キス、セックス……それはグッジェを満足させるのに十分だった。 愛の行為はグッジェにもリベラにもいまだかつてないほどすばらしかった。グッジェの疲れがひどすぎて、控え目に、おだやかに優しくふるまうしかなかったためか、それはわからない。裸のまま、くしゃくしゃのシーツにぐったりとならんで横たわった。
「わたしのこと愛してる?」
 ふいにリベラは長い髪をかきあげて尋ねた。
「いまだって愛しあったろ?」
「ううん。そうじゃないの。わたしがいないと寂しい……って。素敵だと思うのよ。女にとって。そういわれれば」
 リベラはうっとりといった。
「君がいないと寂しい。愛している」
 グッジェはいい、にやっとした。ふたりは笑った。
「なによもう……品がないんだから」リベラはおどけた。
「じゃあ…」グッジェはいった。「ぶん殴られたって顔はどうだ?」
「やってみて」
 グッジェはその表情を作り、ふたりは幸せそうにわらった。きらきらとした瞬間だ。
  それにしても、「博士」様が、家でなにもせずうさん臭い三文文士のように小説を書きつづける生活を送っているのはさまにならなかった。いや、彼はスパイだ。まだほやほやの卵で、実力は未知数、戦力になるかもわからないが。
 この頃、有名なヒットラーの「ミュンヘン一揆」があったが、それはグッジェにとっては関心外のことであったという。彼の目は、外国に向いていた。視線は、祖国ドイツではなかったのである。


  ナチス党支部の執務室で、グッジェは上司のルドルス・ヘッガーらと対面した。
 もう夕暮れときだった。部屋はブラインドゥが締め切られ、うす暗かった。
「グッジェ君」ルドルスが声をかけた。「頼みがあるのだ」
 もうひとりの上司、クラウス・リーデルも口をだしてきた。
「……ラヴァンティ・トルストイという男を知っておるな?」
「トルストイ?!」
 グッジェは驚いた。…………ラヴァンティ・トルストイ……、リベラの父親だ。
「その男を…」ルドルスは続けた。「殺すんだ」
「なぜですか? その男が何か罪でも?」
 あえぎあえぎだが、やっと声がでた。
「罪? あぁ、罪さ。やつはソ連のボルシェビキだ。つまり、わがドイツに忍びこんでいるスパイだよ。我々の敵さ」クラウスは冷たく言い放った。
「殺すんだ。いいな。仲間を集めて……暗殺だ」
 こういわれれば、グッジェは何も反論できない。立場が違い過ぎるのだ。
「……わかりました」グッジェは答えた。「ハイル・ヒトラー」敬礼した。


  暗殺は夏のある昼下がりに起こった。
 ベルリン郊外の湖で、リベラ・トルストイは水着に着替え、ひとりで水浴を楽しんだ。夏の大きな太陽の陽射しがぎらぎらと辺りに照りつけて、湖に反射してハレーションをおこす。どこまでも続く青空に入道雲……それは、しんとした感傷だ。
 湖を泳ぎ、陸にあがる。
 リベラはスレンダーな水着姿で、それでも出るところは出てて、胸のふくらみも目立つ。股間もお尻も脚線美もセクシーで、彼女は美しい。そして、セクシーだ。彼女の裸同然の水着姿を見たら、男なら「この娘とセックスしたい」と誰もが思うだろうし、性欲の強い男なら水着姿だけで射精してしまうかも知れない。
 しゃぶりつき食べたくなるような女だ。
  リベラはタオルで身体の水分を拭き、水着の上に無理やりスカートとシャツを着た。そして、彼女は別荘にむけて歩き出した。
 この湖から別荘まではそんなに遠くはない。
 さっきまで、ぎらぎらとした陽射しだったが、今や雨でも降出しそうな天気になった。天気は変わりやすい。
「……雨でもふりそう」
 リベラは、しんと静まりかえった森を抜けながら呟いた。
 そして、ハッ!となった。
 別荘の方でパンパンという銃声が何回か聞こえたからだ。しかも、誰かが後をつけてくるような気配を感じる…レイプ犯?! やだっ! 逃げなきゃ……!
 リベラは恐怖にかられ、狼狽し、目をキョロキョロさせた。で、ゆっくりとうしろを振り向き、「だ……誰……?」と掠れた声でいった。
 誰もいない。……だが、次の瞬間、恐怖は絶頂に達した。
 ざざざっ…!と、誰かが追いかけてくるような足音が響き、リベラは恐怖のあまり悲鳴の声すら出なくなった。彼女は逃げる! 鈴の音が微かにきこえる。しかし、リベラはやみくもに森の中を走った。走った。駆けた。とにかく逃げた。
 恐怖のどん底にたたきつけられたリベラは、とにかく走った。リベラはやみくもに森の中を走った。走った。駆けた。草や木々をかきわけ、とにかく逃げた。男の影が追ってくる。
 そして、リベラは急に立ち止まった。もう道がない。崖っぷちに立たされてしまったのだ。崖の下は滝つぼになっていて、崖は高くて、崖下の滝や河はどこまでも深くて、蟻地獄のようだ。リベラは恐怖で身体を震わせながら、滝壺を見て、背後を見て、心臓を高鳴らせた。いいようもない恐怖が彼女を襲い、リベラは戦慄した。
 男の影がせまってくる。
 ……殺される……!
 リベラは決心を固め、咄嗟に、崖下の滝や河に向かってダイブした。とにかくこれしか手はなかった。恐怖と戦慄と狼狽のまま、リベラはダイヴした。
 彼女が滝に落ちて見えなる。と、犯人はチッ!と舌打ちした。
 そして、そのまま犯人の影はどこかへ歩き去った。
  しかし、リベラは死んではいなかった。
 怪我はかすり傷程度であったが、恐怖体験による”トラウマ”(心の後遺症)のため、ガタガタ震えながら別荘に着いた。すると、なんということだろう。愛しの恋人、グッジェが父親を射殺しているところを目撃してしまった。
 ……な?! リベラは驚愕し、そのまま気絶してしまった。


  リベラがゆっくりと目を覚ますと、恐怖体験のためか身体をガタガタ震わせて動揺の様子をみせた。グッジェは、
「…もう大丈夫。もう安心。大変だったな。でも…ここなら安全だ」
 と、別荘のベットに横になっているリベラの髪を撫でて慰めた。
「もう怖くない」
「……パウル……あなた…私の父親…を…」
 リベラは震えながら、そういいかけて泣いた。悲しかった。なんともいえない感情がリベラの全身を襲った。
「リベラ……なんだい?」
「…パウル…あなたは…」
「なんだ? リベラ」
「………人殺し! ……あなたは……ひと…人殺しよ…」
 グッジェは無言で首を横にふった。「俺は誰も殺してないぞ」
「うそ!」リベラは動揺しながらも「でも…楽しそうだったわ…それに…」
「犯人の顔はみた?」
「え?……レイプされるか殺されると思って怖くて怖くて…」
「……そうか」
 グッジェは優しく微笑んで、「もう安心だ。犯人は俺じゃない。だから……もう少しおやすみ」
 と、リベラに労りの声をかけた。
 しかし、父親を殺したのは間違いなくグッジェだった。リベラにはそれがわかっていた。だから、もうグッジェとは一緒にいたくないと思った。確執である。




【AI・人工知能に勝つには創造力】人間にしかできない「自分の頭で考える」こと!

2017年11月09日 17時06分53秒 | 日記


























    AI(人工知能)に勝つには創造力を磨け!自分の頭で考えて行動しないと豊かにも知的にもなれない!




 ぼくが今の若者にいいたいのは「自分の頭で考えて行動して」ということ。あまりにもコピペや検索が過ぎる。
自分の頭で考えられないなら一生負け組のままである。確かに慣れるまでは「自分の頭で考える」ことは苦悩である。
だが、「考える事」は有益であり、しかも、金持ちへの近道でもある。
考えてみてほしい。ステーブ・ジョブズは?ビルゲイツは?あのiPodやwindowsやiPhoneを考案したからの金持ちだ。要は自分の頭で考えないとゴミみたいな人間だ、ということ。
只分らないからと安易に「それなに?」ときいたり、「検索」したり、つまんない掲示板に冷やかし文章等書いたって一文にもならない。それではAI・人工知能に勝てないんだよ。
確かにAI・人工知能の力は凄い。囲碁や将棋では世界一のプロをやぶった。
だが、AIはその問題の解答を導き出せても、問題のそのもの、つまり、「どういう問題か?」つまり、囲碁や将棋のような「新しいボードゲームをつくれ」というケースではAIは脆弱である。ほとんど何も出来ない。
AI・というのは所詮はプログラム通りにしか動かない。
人間の創造力には百年経っても勝てないのだ。だから、今の若者には「考えろ」というのだ。
つまんない検索やネットサーフィンや冷やかし文章など糞の役にも立たない。
人間から創造力をとったらただの駄目人間でしかない。
師匠も読めず、「更地」が何かも分らない………「冷戦って何処と何処が戦ったの?」「日本三景ってなに?」
「ゴールドコーストってなに?」ではただの馬鹿だ。
池上彰なら「いい質問ですねえ」というだろうが、そんなに甘やかしてられない。
自分の頭で考えて行動する。それが出来なければ「人間」じゃない(障害者とか病人を除く)。
自分の頭で考えられず、コピペや冷やかし文章やひたすら検索や盗作では糞である。糞人間、駄目人間だ。
なんでもきけばいいってものじゃない。わからなければ勉強すればいい。だが、知識を得るには努力と苦悩がいる。
だから、誰もが努力をしない。結局、検索して冷やかし文章……それが糞だ、と気付かないなら本当に馬鹿だ。
「まずは自分の頭で考えろ」といいたい。話はそれからだ。
検索と冷やかし文章だけなら一生「負け組」なんだよ!考えろ!


臥竜   上杉(長尾)景虎

真田幸村<真田丸>忠義の蒼い炎 真田幸村(信繁)大河ドラマ小説4

2017年11月05日 08時10分56秒 | 日記
































   関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・白河口の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。
 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。
 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。
 直江らは「何故にございますか?いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか?御屋形さま!」
 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ」
 直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ!刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。
 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。

   石田三成はよく前田利家とはなしていたという。前田利家といえば、主君・豊臣秀吉公の友人であり加賀百万石の大大名の大名である。三成はよく織田信長の側人・森蘭丸らにいじめられていたが、それをやめさせるのが前田利家の役割であった。三成は虚弱体質で、頭はいいが女のごとく腕力も体力もない。いじめのかっこうのターゲットであった。
 前田利家は「若い頃は苦労したほうがいいぞ、佐吉(三成)」という。
 木下藤吉郎秀吉も前田又左衛門利家も織田信長の家臣である。前田利家は若きとき挫折していた。信長には多くの茶坊主がいた。そのうちの茶坊主は本当に嫌な連中で、他人を嘲笑したり、バカと罵声を浴びせたり、悪口を信長の耳元で囁く。信長は本気になどせず放っておく。しかるとにき事件があった。前田利家は茶坊主に罵声を浴びせかけられ唾を吐きかけられた。怒った利家は刀を抜いて斬った。殺した。しかも織田信長の目の前でである。
 信長は怒ったが、柴田勝家らの懇願で「切腹」はまぬがれた。だが、蟄居を命じられた。そこで前田利家は織田の戦に勝手に参戦していく。さすがの信長も数年後に利家を許したという。「苦労は買ってでもせい」そういうことがある前田利家は石田佐吉(三成)によく諭したらしい。いわずもがな、三成は思った。


「北条氏政め、この小田原で皆殺しにでもなるつもりか?日本中の軍勢を前にして呑気に籠城・評定とはのう」
 秀吉は笑った。黒の陣羽織の黒田官兵衛は口元に髭をたくわえた男で、ある。顎髭もある。禿頭の為に頭巾をかぶっている。
「御屋形さま、北条への使者にはこの官兵衛をおつかい下され!」
秀吉は「そうか、官兵衛」という。「軍師・官兵衛の意見をきこう」
「人は殺してしまえばそれまで。生かしてこそ役に立つのでございます」続けた。「戦わずして勝つのが兵法の最上策!わたくしめにおまかせを!」
 そういって病気で不自由な左脚を引きずりながら羽柴秀吉が集めた日本国中の軍勢に包囲された北条の城門に、日差しを受け、砂塵の舞う中、官兵衛が騎馬一騎で刀も持たず近づいた。
「我は羽柴秀吉公の軍師、黒田官兵衛である!「国滅びて還らず」「死人はまたと生くべからず」北条の方々、命を粗末になされるな!開門せよ!」
 小田原「北条攻め」で、大河ドラマでは岡田准一氏演ずる黒田官兵衛が、そういって登場した。堂々たる英雄的登場である。この無血開城交渉で、兵士2万~3万の死者を出さずにすんだのである。
話を少し戻す。


  前田利家はこの頃まだ十代、歌舞伎者で顔を白く塗り、主色の紋用を書いていた。いつも汚い服を着て、世間の評判など”どこ吹く風”であった。
  利家は尾張の荒子城主・前田利昌の四男で、長男の利久には女房もなく、いつも利家を可愛がってくれたという。尾張(愛知県)の農道を信長の一団が行軍していた。
 周りはほとんど田んぼや山々である。その奇妙な行進を村人たちは物見遊山でみていた。「うつけ(阿呆)! うつけ! うつけ!」童子たちが嘲笑する。
 織田信長は美濃(岐阜県)の斎藤道三と会うために行進していた。
 信長のお共の者は八百人くらいだ。ところが、その者たちは片衣どころか鎧姿であったという。完全武装で、まるで戦場にいくようであった。家臣の半分は三メートルもの長い槍をもち、もう半分が鉄砲をもっている。当時の戦国武将で鉄砲を何百ももっているものはいなかった。田仕事をしていた利家の母・たつは泥に汚れながらそれを見ていた。たつは唖然としていた。「あれが…信長さまかえ。まさにうつけじゃ」呟いた。
 たつはにやにやして馬上の若者を見た。
 茶せんにしたマゲをもえぎ色の糸で結び、カタビラ袖はだらだらと外れて、腰には瓢箪やひうち袋を何個もぶらさげている。例によって、瓜をほうばって馬に揺られている。
 通りの庶民の嘲笑を薄ら笑いで受けている。たつは圧倒された。
「噂どおりのうつけ者じゃ」たつは笑った。
 道三にあいにいくのにまるで戦を仕掛けるような格好だ。しかも、あれは織田のほんの一部。信長は城にもっと大量の槍や鉄砲をもっているだろう。鉄砲の力を知っておる。あなどれない。
「うつけ! うつけ! うつけ!」村人たちが嘲笑する。
 たつは、あらっ?と思った。行軍の横の草むらに利家がいる。鮮やかな色彩の服を着て、顔を白く塗った…あれは犬千代(利家)だ。わたしの息子だ。
 利家は汚い垢や埃だらけの格好で、大根をほうばっている。
「犬千代! 犬千代!」たつは笑った。大声で呼んだ。
 利家は大根をほうばり、奇声をあげている。「うつけ者!」信長はちらりと馬上から利家を見た。不思議なものを見るような顔だった。なんだ、この歌舞伎者の小汚ないのは……
「犬千代! 今までどこにいっとった?」たつは大声で尋ねた。是非とも答えがききたかった。どうしてたのか? 母はハンサムな息子を気遣った。
「母上、わしはうつけを見物に見にきたのよ!」利家は大声でいい、また大根をほうばった。すると、農民が「この盗人」と利家を追いかけだした。どうやら大根は盗んだものであるらしい。幼女・まつは荒子城にいくため、午後の田んぼ道を歩いた。誰もいなかったが、乳母のうめだけは付き添いで連れ添って歩いていた。
 うめは「いいか? まつ。世の中コツコツ努力して仕事したものが勝つんじゃぞ」と諭した。少女のまつは「はい!」といった。
「あの前田犬千代さまは必ず大きな城持ち大名になる!」
 うめは笑った。そして「もしかしたら、おみゃあは本当に大名の奥方になれるかもしれん」
「……大名?」まつは真剣な顔になって尋ねた。ふたりは足をとめた。
「おうとも」うめはにやにやした。まつもにやにやして「わたしは必ず城持ち大名の奥方になる!」と強くいった。
「そして……」まつは続けた。「そして…天下人の奥方に!」
「天下人の奥方?! 馬鹿じゃねぇおみゃあは」
 ふたりは笑った。

前田利家は通称・又左衛門(またざえもん)。槍(やり)が得意で「槍の又左(またざ)」ともよばれた。
 いわゆる「かぶき者」で「傾奇者(かぶきもの)」とは「傾く(かぶく)」からきている。または「ばさら者」ともいわれた。「ばさら(婆娑羅)」とは「仏教の教に背く者」という言葉からきている。まあ、現代の「ヤンキー」みたいな存在である。つまり「不良」だ。

 「かぶき者」「傾奇者」と書く。「傾(かぶ)く」とは異風の姿形を好み、異様な振る舞いや突飛な行動を愛することをさす。
 現代のものに例えれば権力者にとってめざわりな『ツッパリ』ともいえるが、真の傾奇者とは己の掟のためにまさに命を賭した。そして世は戦国時代。ここに天下一の傾奇者がいた。
 その男の名は前田慶次利益(まえだ・けいじ・とします、正しくは慶次郎利益)である。戦国時代末期、天正十年(一五八二年)早春………
 上州(群馬県)厩橋城(うまやばしじょう)に近い谷地で北条家との決戦をひかえ滝川一益の軍勢より軍馬補充のため野生馬狩りが行われていた。
「野生馬を谷に追い込んだぞ!」「一頭も残すな!ことごとく捕えよ!!」
 するとまさに大きく悠々しい黒い野生馬がこちらをみた。
 野生馬を長年見てきた農夫や百姓男たちがぶるぶる震えて「お……逃げ下さいまし」ひいい~っ!と逃げ出した。
「? 何を馬鹿馬鹿しい」奉行は不快な顔をした。
「御奉行あれを!」
 その黒い野生馬が突進してくる。「矢だ!は……早う矢を放て!」
 ぎゃーあああっ!たちまち三、四、五人が黒い野生馬に踏み殺された。うがあ!奉行は失禁しながら逃げた。
 滝川勢の拠点・厩橋城で報告を受けた滝川一益(たきがわ・かずます、関東征伐を企てる織田信長の関東派遣軍の軍団長)は「恐るべき巨馬で土地の者の話ではなんと悪魔の馬と申すそうだ。その馬を殺せ、益氏!」と城内で言う。
「ごほんん」「さもないとこの土地では馬は手に入らん」「これはお断りいたそう」滝川益氏(ますうじ、一益の従弟。常に滝川軍の先鋒を務める荒武者である)は髭を指でこすりながら断った。
「悪魔の馬などを殺す役目…誰が引き受けましょうか。いくさ人は古来、験(げん)をかつぐもので、その馬を討てば神罰が下りましょう。命がいくつあっても足りません」
「軍馬が足りぬでは戦にならぬぞ」
 益氏の次男で前田利家の兄・利久に養子にやられたのが前田慶次である。今は織田方の北条攻めで関東派遣軍の一団の中にいた。傾奇者で派手な服装にザンバラ髪で身の丈六尺五寸(一九七センチ)をこえる大柄の武士で父益氏の軍団にあってその傾奇者ぶりと棲まじいいくさ人ぶりで知られていた。
 眉目淡麗な色男であり、怪力で、器の広いまさに男の中の男である。
「ん?」
「さああ、張った張った!」昼時の晴れの日に、荒くれる大型犬二匹で『賭け事』をさせようと、城下で、慶次は胴元として滝川軍の家臣たちに賭けをもちかけていた。
「張って悪いのは親父の頭というが、なあにそれも張ったって一向にかまやせん!」
 慶次は獰猛な犬に鞭打ち、二匹の犬をワザと興奮させる。「さあ、張った張った!」
 低い天守閣から下を見て一益は「ああ!あれはわしの愛犬の八郎丸だぞ!」と気づいた。「もう一方は手前の十郎丸で!」
 一益は怒鳴った。「こらあ慶次!その犬を誰の犬と思っとるか!」
 慶次は聞こえていたがわざと無邪気な笑顔で、左手で聞き耳をたてるポーズをして「ハーン?きこえませんなあー」という。
「むっ!」一益は激怒した。慶次はさらに面白がる。「オイ、早く張れ、早く張れ、賭けを締め切るぞ!」家臣たちはワッとわいた。
 益氏も激昴して「わしの犬を賭けに使うとは何事だ慶次!」と怒鳴る。
 が、慶次は平気の平左。聞き耳をたてるポーズをとり、「ハーン?やはり一向に聞こえません」慶次は賭け人たちに「賭けを締め切るぞ。よし!そこまで!」という。
 そして犬の大好物の肉片を掲げて、「それ!」と前方に遠投げし、犬を賭けの道具にと駆けさせた。
「うぬ~、とぼけおって。」
「あの大曲(おおくせ)者め。だが、悪魔の馬を討つ男は決まったな」
「そうだ、慶次にやらせよう」

 慶次ははははと笑い、「できませぬな。犬や猫ならからかいもしますがそんないい馬なら誰が殺せますか?殺すより飼いならして我が愛馬としたい」
「何だとこの野郎!今まで何人もの兵がその悪魔の馬に殺されとるのじゃぞ?!」
「悪魔?」慶次は嘲笑した。「悪魔と言えば織田信長じゃ。第六天魔王じゃとか?」
「これ!信長さまを呼び捨てにするな、そちの首がとぶぞ!」
 慶次は聞く耳もたない。
 しかも暴れ馬を格闘することもなく巨馬相手に話しかけ、本当に愛馬にして、「松風(まつかぜ)」と名前をつけて合戦に参加するのだからやはり前田慶次は凄い男だ。
「これはいい馬だ。大きいし、足が速い。俺のような図体のデカイ武者は普通の馬なら一合戦で乗りつぶしてしまうが、この松風なら大丈夫だ。これは愉快だ!はははは」
 滝川軍は北条軍と合戦しようという腹だ。
 巨大な馬に乗り、巨大な傘をさす男が北条方の城門(北条勢の拠点ー鉢形城大手門前ー)にたった一騎でふざけた傾いた服装に、派手な陣傘で近寄る慶次である。
「う?!あれは滝川軍の前田慶次!」「ふざけたかっこうしやがって!呑気にキセルを吸っとる」「撃て!撃て!撃ち殺せ!」
 北条方が鉄砲を撃ちかけると慶次は大傘で防いだ。「な!あれは鉄傘か?!あの男、あんなでかい鉄傘をあんな軽々と…」
 北条勢は戦慄した。悪魔だ。敵に悪魔が鬼が味方しておる。「よくきけ北条の者どもよ!この前田慶次、合戦では修羅と化して一兵残らず斬り捨ててくれる!楽しみにしておれ!」
「あわわわ………」
 北条勢ががくがく震え、もはや戦意消失しかけているところに、北条氏邦の侍大将・古屋七郎兵衛という荒武者が馬で開いた城門から現れた。
「わしは古屋と申す!貴殿、名は?!」
「前田慶次!つまらん戦で命を捨てるな!」
 たちまちに慶次は古屋の片腕を斬りさった。
 だが、あっぱれなる古屋である。「悪鬼の武者などなにするものぞ!われら北条武士の死にざまをみせてくれる!」古屋は自分の刀で自分の首を斬りすてた。
 首が飛び、血が噴出する。おおっ!古屋さま!
 おおお~つ!これで北条の戦意は復活した。
 慶次は「北条武士も見事也!いずれ戦場であいまみれようぞ!」といい去った。
 まさに「傾奇者」である。


中国大返しと山崎・牋ケ獄



”本能寺の変”で、信長は死んだ。さて、本能寺で織田信長が討たれたことが、備中高松城を水攻めにしていた羽柴秀吉の陣営に伝わったのは、本能寺の変が起きた翌日の天正10年(1582年)6月3日夕方の事であった。
 その朝、家康や千宗易はばっとふとんから飛びおきた。何かの勘が、信長の死を知らせたのだ。しかし、秀吉は京より遠く備中にいたためその変を知らなかった。
 本能寺は焼崩れ、火が消えても信長の骨も何も発見されなかったという。光秀は焦りながら「信長の骨を探せ!」と命じていた。もう、早朝だった。
  天正十年(一五八二)五月官兵衛三十三歳、秀吉は備中高松城を囲んだ。敵の城主は、清水宗治で毛利がたの武将であった。城に水攻めをしかけた。水で囲んで兵糧攻めにし、降伏させようという考えであった。たちまち雨が降り頻り、高松城はひろい湖のような中に孤立してしまった。もともとこの城は平野にあり、それを秀吉が着眼したのである。城の周辺を堤防で囲んだ。城の周り約四キロを人工の堤防で囲んだ。堤防の高さは七メートルもあったという。しかも、近くの川の水までいれられ、高松城は孤立し、外に出ることさえできなくなったという。飢えや病に苦しむ者が続出し、降伏は時間の問題だった。
 前年の三木城、鳥取城攻めでも水攻め、兵糧攻めをし、鳥取の兵士たちは飢えにくるしみ、ついには死んだ人間の肉をきりとって食べたという、餓鬼事態にまで追い込んだ。そして、今度の高松城攻め、である。
 秀吉軍は二万あまりであった。
 大軍ではあるが、それで中国平定するにはちと少ない。三木城攻めのとき竹中半兵衛が病死し、黒田官兵衛がかわりに軍師になった。蜂須賀小六はこの頃はすでに無用の長物になっていた。野戦をすれば味方に死傷者が大勢出る。そこで水攻め、となった。
 秀吉はブレーンである石田左吉にいった。
「左吉! 今日から三成と名乗れ! 石田三成じゃぎゃ!」
「……石田三成? オヤジさま…ありがたきく幸せ!」
 三成は平伏した。
 それにしても、三木城、鳥取城、高松城、と同じ水攻めばかりするのだから毛利側も何か手を打てたのではないか? と疑問に思う。が、そんな対策を考えられないほど追い詰められていたというのがどうやら真相のようだ。
 山陽の宇喜多氏や山陰の南条氏はあっさり秀吉に与力し、三木城、鳥取城、には兵糧を送ることは出来なかった。しかし、高松城にはできたはず。しかし、小早川隆景、吉川元春の軍が到着したのは五月末であり、水攻めあとのことであったという。
 秀吉の要求は、毛利領五ケ国の割譲、清水宗治の切腹などであった。
 しかし、敵は湖の真ん中にあってなかなか動かない。
「よし!」秀吉は陣でたちあがった。人工の湖と真ん中の高松城をみて「御屋形様の馬印を掲げよ!」と命じた。三成は「御屋形様の? 信長公はまだ到着されておりませぬ」
「いいのじゃ。城からみせれば、御屋形様まできた…と思うじゃろ? それで諦めるはずじゃで」秀吉はにやりとした。
  時代は急速に動く。
 天正十年六月二日未明、京都本能寺の変、信長戦死……
 六月三日夜、高松城攻めの陣中で挙動不審の者が捕まった。光秀が放った伝令らしかったが、まちがって秀吉のところに迷いこんだのだ。秀吉はどこまでも運がいい。小早川隆景宛ての密書だった。「惟任日向守」という書がある。惟任日向守とは明智光秀のことである。
 ……自分は信長に恨みをもっていたが、天正十年六月二日未明、京都本能寺で信長父子を討ちはたした。このうえは足利将軍様を推挙し、両面から秀吉を討とうではないか…

  秀吉は驚愕した。
「ゲゲェっ! 信長公が光秀に?!」
 秀吉は口をひらき、また閉じてぎょっとした。当然だろう。世界の終りがきたときに何がいえるだろうか。全身の血管の血が凍りつき、心臓がかちかちの石になるようだった。 秀吉軍は備中で孤立した。ともかく明智光秀は京をおとしたらしい。秀吉の居城・長浜、それから中国攻めの拠点となった姫路城がどうなったかはわからない。もう腰背が敵だ。さすがの秀吉も思考能力を失いたじろいだ。
「どうしたらええ? どうしたらええ?」秀吉はじだんだを踏んだ。
 信長の死に号泣するは狼狽する秀吉に黒田官兵衛は囁いた。
「貴公が天下の采配を取り給(たま)うべき候(あなたさまこそ天下を取るべきだ!)!」
 官兵衛は迅速に行動する。毛利と半日で停戦交渉をまとめ(毛利方の使者は安国寺恵瓊)、明智光秀のいる京に向けて行動しても毛利方に攻められないようにした。
後は世にいう「中国大返し」である。秀吉軍は武将から足軽までとにかく六月六日から八日まで千キロ走りまくった。
 姫路につくと官兵衛はダウン気味の足軽や武将に「蔵が空になるほど」銭を配り、「もう少し頑張ってくれ」と士気を鼓舞したという。
 またこれから通過する村の百姓たちに事前におにぎり等つくらせ渡させた(まかない作戦)事もした。無論銭を払ってである。黒田官兵衛は「倹約家・ケチ」で知られるが、大事な時には惜しげもなく銭金をばらまいた。
 前述したことだが、天正10年(1582年)6月3日夕方、織田信長の茶道相手を務める長谷川宗仁(はせがわ・そうにん)の使者が、書状をもって黒田官兵衛の元に駆け込んできた。
(注釈:明智光秀が毛利輝元と手を組むため、毛利輝元に密書を送ったが、明智光秀の使者が間違えて羽柴秀吉の陣営に飛び込んだ、とも伝わる)
長谷川宗仁の書状には、6月2日早朝に明智光秀が本能寺を襲撃し、織田信長が自害したうえ、嫡子・織田信忠も二条城で自害した事が記されていた。
黒田官兵衛は長谷川宗仁からの手紙を読むと、使者に、
「それにしても早く着いたものだ。このことは絶対に他言してはいけない」と厳命し、酒を与えて労った。
京都で起きた本能寺の変が、1日半後に備中(岡山県)に居る黒田官兵衛の元に届いた。これは奇跡的な事だった。
黒田官兵衛は直ぐさま羽柴秀吉に書状を届けると、羽柴秀吉は書状を読んで非常に驚き、茫然自失となった。
このとき、黒田官兵衛は「ご武運が開けましたな」と告げたため、羽柴秀吉は「こやつは、ワシが死んでも、運が開けたと思うのか」と思い、黒田官兵衛を恐れたという。
そして、黒田官兵衛は「誠にご愁傷様でございますが、秀吉様が天下を治めるべきだと思います。明智光秀は主君を殺した逆臣なので、天罰を逃れられません。明智を滅びた後に、信長様のご子息2人を守り立てなさいませ。ご子息2人は天下を治める器ではないので、天下を狙って反逆を起す大名が現れるでしょう。これを討取れば、秀吉様の勢いはますます強くなります」と話すと、羽柴秀吉は冷静さを取り戻し、「私もそう思う」と答えた。
羽柴秀吉が「毛利の件はいかが致す?」と問うと、黒田官兵衛は「今日路からの飛脚が1日半で届いたのは、天のお告げです。毛利との和睦もほぼ合意できていることも幸いです。明日の昼には毛利方にも知らせが届くでしょうから、明日の早朝に人質を取り、明智討伐の為に攻め上りましょう」と答えた。
羽柴秀吉と毛利輝元の和睦交渉は既に行われており、和睦交渉は煮詰まっていたが、領土の割譲問題と高松城の城主・清水宗治の切腹の2点が問題となり、和睦には到っていなかった。
そこで、軍師・黒田官兵衛は、問題となっている和睦の条件を棚上げし、和睦を最優先させることを提案したのである。
さて、羽柴秀吉は毛利への対応の方針が決めると、「織田信長の死が洩れては困る」と言い、黒田官兵衛に長谷川宗仁の使者を殺すように命じた。
黒田官兵衛は命令を引き受けたが、
「彼こそ、1日半で70里の道を来た天の遣いである。早く来た功績はあるが、殺す罪は無い。羽柴秀吉が天下を取った暁には、恩賞を与えるべき人である」として、厳重に口止めを申しつけた上で、長谷川宗仁の使者を家臣に預けた。
こうして、長谷川宗仁の使者は黒田官兵衛の温情によって命を助けられたが、疲れ果てていたにもかかわらず、大食いしたため、まもなく死んでしまった。
長谷川宗仁の使者によって羽柴秀志の陣営に本能寺の変の情報がもたらされた天正10年(1582年)6月3日の夜、黒田官兵衛は、毛利の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を呼び、講和交渉を行った。
講和を成立させるためには、領土割譲問題と高松城の城主・清水宗治の切腹の2点が問題となっていた。
羽柴秀吉は高松城の城主・清水宗治の切腹を要求していたが、毛利輝元が、
「清水宗治を死なせては末代までの恥である」として清水宗治の切腹を受け入れなかった。
そこで、軍師・黒田官兵衛は、領土の割譲問題は棚上げにし、さらに、毛利輝元を通さず、高松城の城主・清水宗治を直接説得する事を提案した。
こうして、外交僧・安国寺恵瓊と秀吉の家臣・蜂須賀正勝らが水没した高松城へと渡り、高松城の城主・清水宗治に降服を説得した。
すると、徹底抗戦を主張していた清水宗治も折れ、「私の命でよければ、喜んで差し上げましょう」と言い、城兵の助命を条件に切腹を承諾した。
その後、外交僧・安国寺恵瓊から報告を受けた毛利輝元は、「清水宗治がそれを望んでいるのであれば、仕方ない」と言い、清水宗治の切腹を認めた。
さらに毛利輝元は、残る領土割譲問題については棚上げする事にも合意し、こうして羽柴秀吉と毛利輝元の和睦が合意に達したのである。
これに喜んだ羽柴秀吉は、清水宗治の忠義を認め、高松城へ労いの酒と肴を送った。清水宗治はこの酒で別れの杯を交わしたという。
天正10年(1582年)6月4日朝、羽柴秀吉と毛利輝元の間で人質交換が行われた。
天正10年(1582年)6月4日昼、高松城の城主・清水宗治、兄の清水宗知、弟の清水宗治の3兄弟のほか、難波伝兵衛・末近信賀の2名を伴い、水没した高松城から小舟でこぎ出し、羽柴秀吉の陣営前に停泊すると、小舟の上で切腹した。
こうして、羽柴秀吉と毛利輝元の間に和睦が成立した。軍師・黒田官兵衛は難航していた和睦を、わずか1日半で成立させたのである。
天正10年(1582年)6月4日昼過ぎ、毛利元就の元にも使者が来て、織田信長が明智光秀によって討たれた事が伝わった。
それは、高松城の城主・清水宗治が切腹し、和睦が成立した直後のことだったという。
織田信長の死が毛利軍に伝わると、毛利家の重臣・吉川元春は、「和睦を破棄して、羽柴秀吉を追撃すれば、天下は毛利の物になる」と主張した。
しかし、毛利家の重臣・小早川隆景が「誓紙の墨が乾かないうちに講和を破棄することはできない」と言い、既に休戦調停が成立していることなどを理由に、羽柴秀吉の追撃に反対した。
毛利輝元は小早川隆景の意見を支持し、
「祖父・毛利元就は遺言で『毛利は天下を狙うな』と言っている。それに、羽柴秀吉は天下人の器だ。今、恩を売っておけば、毛利に損は無い」
と言い、撤退を決定した。
天正10年(1582年)6月5日、撤退の準備を進める黒田官兵衛は、羽柴秀吉に、
「毛利から預かった人質を毛利へお返しください」と進言した。
羽柴秀吉が「どうしてじゃ」と問うと、黒田官兵衛は、
「明智光秀との決戦に勝てば、天下は羽柴秀吉様の物となり、毛利輝元に反抗する力は無くなります。もし、明智光秀との決戦に負ければ、羽柴秀吉は生きてはいません。いずれにしても人質は必要はありません」と答えた。
羽柴秀吉は、黒田官兵衛の意見に納得し、毛利輝元に人質を返した。
(注釈:中国大返しの日程には6月4日説と6月6日説があるが、「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」では6月4日説を採用する。)
天正10年(1582年)6月4日、毛利軍が撤退を始めたので、羽柴秀吉も撤退の準備を始めるが、羽柴秀吉は毛利輝元の追撃を警戒していた。
すると、黒田官兵衛が「毛利軍が追撃してくれば、水攻めの為に築いた堰を切り落とします。堰を切れば、激流が起こり、毛利軍は水が引くまで進軍出来なくなります」と答え、殿(しんがり=軍の最後尾)を引き受けた。
これを聞いた羽柴秀吉は、安心して黒田官兵衛に殿を任せ、撤退を開始した。
羽柴秀吉の軍は、天正10年(1582年)6月4日夜に備前にある沼城(岡山県岡山市)に入り、翌6月5日に沼城を出発。暴風雨の中を進軍して6月6日に播磨にある姫路城へと到着すると、姫路城に4日間滞在して、兵を休めた。
姫路城に着いた羽柴秀吉は、姫路城の金庫を開け、有り金を全て兵士に分け与えた。これは、兵士の士気を上げる効果があると同時に、この決戦に勝たなければ帰る場所は無いという事を意味していた。
 天正10年(1582年)6月9日、羽柴秀吉の軍が姫路城を出て京都を目指す。そして、羽柴秀吉の軍が神戸市を出る辺りに差し掛かると、兵がざわつき始めた。
羽柴秀吉が部下に理由を調べさせると、羽柴秀吉の旗に混じって、毛利や宇喜多の旗が立っているということだった。
羽柴秀吉は軍師・黒田官兵衛を呼び、
「ワシは毛利に援軍など頼んでいないぞ」
と尋ねると、黒田官兵衛は「和睦をした時に旗だけ借りておいたのでございます。毛利の旗を立てておけば、後詰めに毛利が居ると思うでしょう。あの毛利までも秀吉様に味方したとなれば、対応を決めかねている近畿の諸大名も秀吉様に味方するはずです」
と答えた。
すると、羽柴秀吉は側近の武将に
「戦に大切なのは謀略であり、敵の首を取ることなど二の次に過ぎない。みな、黒田官兵衛の働きを後学の一助にせよ」
と言い、黒田官兵衛を楠木正成の再来と褒め称えた。黒田官兵衛は「さあ、筑前殿(秀吉)、いよいよ「中国大返し」です!一日でも早く京へ軍勢を引き換えし天王山あたりで奸賊・明智光秀を討ち滅ぼせば、秀吉公の天下でござる!」「よし!」こうして官兵衛の策・秀吉のまさかのような中国大返しが始まった。
こうして、毛利軍の旗を立てた羽柴秀吉は、天正10年(1582年)6月11日に尼崎に到着する。
播磨(兵庫県)は羽柴秀吉の領土なので安全だが、播磨より西の諸大名の動向は分からず、諸大名の出方を警戒しながら、進まなければならなかった。
このため、摂津を通って京都を目指す羽柴秀吉にとって、大きな問題は摂津(大坂府)に居る大名の動向であった。
もし、摂津の有力武将が明智光秀に味方していれば、相当な抵抗を受け、簡単には京都へ到達することが出来ないのだ。
しかし、羽柴秀吉が大軍を率いて摂津(大坂府)に入ると、毛利の旗に効果があったのか、中川清秀や高山右近といった摂津の有力武将は羽柴秀吉に味方したのである。
謀反を起こした明智光秀は、本能寺で織田信長を討ち取った後、安土城を占領して、諸大名の取り込み工作を行ったが、明智光秀は織田信長の首を示すことが出来なかったため、真偽が分からず、諸大名は対応を決めかねていた。
そこへ、中国征伐にあたっていた羽柴秀吉が大軍を率いて駆け付けたため、摂津の有力武将は羽柴秀吉に味方したのだ。
さらに、摂津の有力武将を取り込んだ羽柴秀吉は、四国征伐のため大坂に駐留していた神戸信孝(織田信長の3男)と丹羽長秀と軍と合流し、京都を目指したのであった。
 天正10年(1582年)6月12日、大坂の諸将を味方に付けた羽柴秀吉は、摂津の富田(大坂府高槻市)で中川清秀や高山右近らと軍議を開き、明智光秀討伐軍の事実上の総大将に就任する。
軍議を終えると、中川清秀や高山右近は、京都を目指し、その日のうちに天王山(大坂と京都の境)に陣を敷いた。
その後、羽柴秀吉が天王山に到着すると、既に中川清秀と高山右近らは、明智光秀の軍勢と小競り合いを始めていた。
天正10年6月2日に本能寺で織田信長を討った明智光秀は、6月5日に織田信長の居城・安土城を占領して近江(滋賀県)を平定し、諸大名に勧誘の書状を送った。
さらに、明智光秀は6月9日に上洛しを果たし、朝廷に金品を献上して工作を行い、天下は明智光秀になるものかと思われた。
しかし、明智光秀の読みが外れた。明智光秀は織田信長を討ったものの、織田信長の首を取っていなかったため、近畿では真偽不明の情報が錯綜し、近畿の大名は対応を決めかねていたのだ。
織田信長は気性が激しいことが有名で、万が一にも織田信長が生きているようなことがあれば、明智光秀に味方することは死を意味していたからである。
そのようななか、明智光秀は、明智光秀の三女・明智珠(細川ガラシャ)と結婚した娘婿・細川忠興に、
「100日のうちに近畿を平定したら、私は隠居して全てを細川忠興に譲る」と言い、協力を要請した。
しかし、細川忠興は正室・明智珠(細川ガラシャ)を丹後国の味土野(京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉し、明智光秀への協力を拒否する。
さらに、明智光秀は親戚関係にある細川藤孝・細川忠興からも協力を得られなかった。明智光秀の不運は続き、明智光秀に恩義のある筒井順慶からも協力を拒否された。
三箇城(大坂府)の城主・三箇頼照の様に、謀反人の明智光秀に味方した者もした。
が、本能寺で織田信長を討った明智光秀は、孤立無援の状態だった。(注釈:三箇頼照はキリシタンで、洗礼名は「サンチョン」である。)
このようななか、天正10年(1582年)6月10日、明智光秀の元に、羽柴秀吉の軍が近畿に迫っているという知らせが入る。
明智光秀が本能寺の変を起こしたのは8日前の6月2日である。
備中の高松城で毛利軍と戦ってた羽柴秀吉が、本能寺の変から8日後に近畿に迫るということは、明智光秀にとって想定外のことだった。
明智光秀は細川忠興・細川藤孝・細川忠興からも協力を得られず、孤立無援のまま準備不足で羽柴秀吉との対決に望まなければならなかった。
明智光秀は京都へ入る前に羽柴秀吉を食い止めるため、下鳥羽(京都市伏見区)に布陣し、京都と大坂の県境付近を流れる円明寺川(現在の小泉川)で羽柴秀吉を迎え撃つ作戦に出た。
勧誘工作に失敗した明智光秀には加勢が無く、1万6000の軍勢で羽柴秀吉を迎え撃つのに対して、摂津の有力武将を味方に付けた羽柴秀吉は6月12日に4万の軍勢で県境にある天王山に布陣した(山崎の合戦=天王山の戦い)。
天正10年(1582年)6月12日、摂津の富田(大坂府高槻市)での軍議を終えた羽柴秀吉の軍勢は、その日のうちに天王山に陣取り、円明寺川(現在の小泉川)を挟んで、明智光秀の軍と対峙する。羽柴秀吉が天王山に到着したときには、既に小競り合いが始まっていた。
天正10年(1582年)6月13日、下鳥羽(京都市伏見区)に布陣していた明智光秀は南進し、勝竜寺城(京都市長岡町)を前戦基地として、勝竜寺城から南西数キロにある御坊塚(京都市長岡町)に布陣し、天王山に布陣する羽柴秀吉と対峙した。
天正10年(1582年)6月13日午後4時ごろ、小競り合いが続くなか、明智光秀の軍勢が、天王山の東麓に布陣する羽柴軍の中川清秀を襲撃し、ついに戦いの火蓋が切って落とされる。
明智光秀は善戦したが、兵力の差はいかんともしがたく、明智光秀は御坊塚の後方にある勝竜寺城へと敗走した。
このとき、明智光秀の兵は、わずか数100人に減っていたという。
羽柴秀吉は明智光秀を追撃して勝竜寺城を包囲すると、軍師・黒田官兵衛は羽柴秀吉に、
「完全に包囲せず、1ヶ所だけ逃げ道を開けておけば、兵はそこから逃げ出すでしょう。そこを討てば良いのです」
と言い、兵士が逃げやすいように明智光秀の居城・坂本城の方角の包囲を解くように進言した。
完全に包囲せずに逃げ道を作る作戦は、兵法の常道手段であり、黒田官兵衛が佐用城攻めでも使用した作戦である。
羽柴秀吉は黒田官兵衛の進言を採用し、明智光秀の居城・坂本城の方角の包囲を解くと、軍師・黒田官兵衛の狙い通り、勝竜寺城の兵士は逃げ出した。
兵が逃げ出してしまえば、戦うことは出来ず、明智光秀は数人の側近だけを連れ、闇夜に紛れて田んぼ道を通って勝竜寺城から逃げした。
明智光秀は黒田官兵衛らの目をかいくぐり、勝竜寺城から逃げ出すことに成功し、居城・坂本城(滋賀県大津市)へ目指したが、小栗栖(京都府京都市伏見区小栗栖小阪町)で土民の落ち武者狩りに遭い、命を落とした。
天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変を起こして織田信長を討ち取った明智光秀は、11日後の6月13日に生涯を閉じた。
この11日間を俗に「三日天下」という。
この年に黒田官兵衛の妻・櫛橋光は、次男となる黒田熊之助(くろだ・くまのすけ)を出産した。
黒田熊之助が生まれた天正10年(1582年)、黒田官兵衛は37歳であった。