緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰の妹の生涯2015年大河ドラマ原作物語連載1(2)

2014年01月31日 07時47分47秒 | 日記



  ある昼頃、近藤勇と土方歳三が江戸の青天の町を歩いていると、「やぁ! 鬼瓦さんたち!」と声をかける男がいた。坂本龍馬だった。彼はいつものように満天の笑顔だった。
「坂本さんか」近藤は続けた。「俺は”鬼瓦さん”ではない。近藤。近藤勇だ」
「……と、土方歳三だ」と土方は胸を張った。
「そうかそうか、まぁ、そんげんことどげんでもよかぜよ」
「よくない!」と近藤。
 龍馬は無視して「そげんより、わしはすごい人物の弟子になったぜよ」
「すごい人物? 前にあった佐久間なんとかというやつですか? 俺を鬼瓦扱いした…」「いやいや、もっとすごい人物じゃきに。天下一の学者で、幕府の重要人物ぜよ」
「重要人物? 名は?」
「勝!」龍馬はいかにも誇らしげにいった。「勝安房守……勝海舟先生じゃけん」
「勝海舟? 幕府の軍艦奉行の?」近藤は驚いた。どうやって知り合ったのだろう。
「会いたいきにか? ふたりとも」
 近藤たちは頷いた。是非、会ってみたかった。
 龍馬は「よし! 今からわしが会いにいくからついてきいや」といった。
  近藤たちは首尾よく屋敷で、勝海舟にあうことができた。勝は痩せた体で、立派な服をきた目のくりりとした中年男だった。剣術の達人だったが、ひとを斬るのはダメだ、と自分にいいきかせて刀の鍔と剣を紐でくくって刀を抜けないようにわざとしていた。
 なかなかの知識人で、咸臨丸という幕府の船に乗りアメリカを視察していて、幅広い知識にあふれた人物でもあった。
 そんな勝には、その当時の祖国はいかにも”いびつ”に見えていた。
「先生、お茶です」龍馬は勝に茶を煎じて出した。
 近藤たちは緊張して座ったままだった。
 そんなふたりを和ませようとしたのか、勝海舟は「こいつ(坂本龍馬のこと)俺を殺そうと押しかけたくせに……俺に感化されてやんの」とおどけた。
「始めまして先生。みどもは近藤勇、隣は門弟の土方歳三です」
 近藤は下手に出た。
「そうか」勝は素っ気なくいった。そして続けて「お前たち。日本はこれからどうなると思う?」と象山と同じことをきいてきた。
「……なるようになると思います」近藤はいつもそれだった。
「なるように?」勝は笑った。「俺にいわせれば日本は西洋列強の中で遅れてる国だ。軍艦も足りねぇ、銃も大砲もたりねぇ……このままでは外国に負けて植民地だわな」
 近藤は「ですから日本中のサムライたちが立ち上がって…」といいかけた。
「それが違う」勝は一蹴した。「もう幕府がどうの、薩長がどうの、会津がどうの黒船がどうのといっている場合じゃないぜ。主権は徳川家のものでも天皇のものでもない。国民皆のものなんだよ」
「……国民? 民、百姓や商人がですか?」土方は興味を示した。
「そうとも! メリケン(アメリカ)ではな。国の長は国民が投票して選ぶんだ。日本みたいに藩も侍も身分も関係ない。能力があればトップになれるんだ」
「………トップ?」
「一番偉いやつのことよ」勝は強くいった。
 近藤は「徳川家康みたいにですか?」と問うた。
 勝は笑って「まぁな。メリケンの家康といえばジョージ・ワシントンだ」
「そのひとの子や子孫がメリケンを支配している訳か?」
 勝の傲慢さに腹が立ってきた土方が、刀に手をそっとかけながら尋ねた。
「まさか!」勝はまた笑った。「メリケンのトップは世襲じゃねぇ。国民の投票で決めるんだ。ワシントンの子孫なんざもう落ちぶれさ」
「そうじゃきぃ。メリケンすごいじゃろう? わが日本国も見習わにゃいかん!」
 今まで黙っていた龍馬が強くいった。
 近藤は訝しげに「では、幕府や徳川さまはもういらぬと?」と尋ねた。
「………そんなことはいうてはいねぇ。ぶっそうなことになるゆえそういう誤解めいたことは勘弁してほしいねえ」勝海舟はいった。
 そして、「これ、なんだかわかるか?」と地球儀をもって近藤と土方ににやりと尋ねた。 ふたりの目は点になった。
「これが世界よ。ここが日本……ちっぽけな島国だろ?ここがメリケン、ここがイスパニア、フランス…信長の時代には日本からポルトガルまでの片道航海は二年かかった。だがどうだ? 蒸気機関の発明で、今ではわずか数か月でいけるんだぜ」
 勝に呼応するように龍馬もいった。「今は世界ぜよ! 日本は世界に出るんぜよ!」


 「浪人隊」の会合はその次の日に行われた。武功の次第では旗本にとりたてられるとのうわさもあり、すごうでの剣客から、いかにもあやしい素性の不貞までいた。処静院での会合は寒い日だった。場所は、万丈百畳敷の間だ。公儀からは浪人奉行鵜殿鳩翁、浪人取締役山岡鉄太郎(のちの鉄舟)が臨席したのだという。
 世話は出羽(山形県)浪人、清河八郎がとりしきった。
 清河が酒をついでまわり、「仲良くしてくだされよ」といった。
 子供ならいざしらず、互いに素性も知らぬ浪人同士ですぐ肩を組める訳はない。一同はそれぞれ知り合い同士だけでかたまるようになった。当然だろう。
 そんな中、カン高い声で笑い、酒をつぎ続ける男がいた。口は笑っているのだが、目は異様にぎらぎらしていて周囲を伺っている。
「あれは何者だ?」
 囁くように土方は沖田総司に尋ねた。この頃十代後半の若者・沖田は子供のような顔でにこにこしながら、
「何者でしょうね? 俺はきっと水戸ものだと思うな」
「なぜわかるんだ?」
「だって……すごい訛りですよ」
 土方歳三はしばらく黙ってから、近藤にも尋ねた。近藤は「おそらくあれば芹沢鴨だろう」と答えた。
「…あの男が」土方はあらためてその男をみた。芹沢だとすれば、有名な剣客である。神道無念流の使い手で、天狗党(狂信的な譲夷党)の間で鳴らした男である。
「あまり見ないほうがいい」沖田は囁いた。


  隊士二百三十四人が京へ出発したのは文久三年二月八日だった。隊は一番から七番までわかれていて、それぞれ伍長がつく。近藤勇は局長でもなく、土方も副長ではなかった。 のちの取締筆頭局長は芹沢鴨だった。清河八郎は別行動である。
 近藤たち七人(近藤、沖田、土方、永倉、藤堂、山南、井上)は剣の腕では他の者に負けない実力があった。が、無名なためいずれも平隊士だった。
  浪人隊は黙々と京へと進んだ。
   途中、近藤が下働きさせられ、ミスって宿の手配で失敗し、芹沢鴨らが野宿するはめになるが、それは次項で述べたい。
  浪人隊はやがて京に着いた。
 その駐屯地での夜、清河八郎はとんでもないことを言い出した。
「江戸へ戻れ」というのである。
 この清河八郎という男はなかなかの策士だった。この男は「京を中心とする新政権の確立こそ譲夷である」との思想をもちながら、実際行動は、京に流入してくる諸国脱・弾圧のための浪人隊(新選組の全身)設立を幕府に献策した。だが、組が結成されるやひそかに京の倒幕派に売り渡そうとしたのである。「これより浪士組は朝廷のものである!」
 浪士たちは反発した。清河はひとりで江戸に戻った。いや、その前に、清河は朝廷に働きかけ、組員(浪士たち)が反発するのをみて、隊をバラバラにしてしまう。
 近藤たちは京まできて、また「浪人」に逆戻りしてしまった。
 勇のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、脅威的な形をとりはじめていた。彼の本能すべてに警告の松明がついていた。その緊張は肩や肘にまでおよんだが、勇は冷静な態度をよそおった。
「ちくしょうめ!」土方は怒りに我を忘れ叫んだ。
 とにかく怒りの波が全身の血管の中を駆けぬけた。頭がひどく痛くなった。
(清河八郎は江戸へ戻り、幕府の密偵を斬ったあと、文久三年四月十三日、刺客に殺されてしまう。彼は剣豪だったが、何分酔っていて敵が多すぎた。しかし、のちに清河八郎は明治十九年になって”英雄”となる)

「近藤さん」土方は京で浪人となったままだった。「何か策はないか?」
 勇は迷ってから、ひらめいた。「そうだ。元々俺たちは徳川家茂さまの守護役できたのではないか。なら、京の治安維持役というのはどうだ?」
「それはいいな。さっそく京の守護職に文を送ろう」
「京の守護職って誰だっけ? トシサン」
「さあな」
「松平…」沖田が口をはさんだ。「松平容保公です。会津藩主の」
  近藤はさっそく文を書いて献上した。…”将軍が江戸にもどられるまで、われら浪士隊に守護させてほしい”
 文を読んだ松平容保は、近藤ら浪士隊を「預かり役」にした。
 この頃の京は治安が著しく悪化していた。浪人たちが血で血を洗う戦いに明け暮れていたのだ。まだ、維新の夜明け前のことである。
 近藤はこの時期に遊郭で深雪太夫という美しい女の惚れ込み、妾にした。
 勇たちは就職先を確保した。
 しかし、近藤らの仕事は、所詮、安い金で死んでも何の保証もないものでしかなかった。 近藤はいう。
 ……天下の安危、切迫のこの時、命捨てんと覚悟………

 ”芹沢の始末”も終り、京の本拠地を「八木邸(京都市中京区壬生)に移した。壬生浪人組。隊士たちは皆腕に覚えのあるものたちばかりだったという。江戸から斎藤一も駆けつけてきて、隊はいっそう強力なものとなった。そして、全国からぞくぞくと剣豪たちが集まってきていた。土方、沖田、近藤らは策を練る。まずは形からだ。あさきく色に山形の模様…これは歌舞伎の『忠臣蔵』の衣装をマネた。そして、「誠」の紅色旗………
 土方は禁令も発する。
 一、士道に背くこと 二、局を脱すること 三、勝手に金策すること 四、勝手の訴訟を取り扱うこと  (永倉日記より)
 やぶれば斬死、切腹。土方らは恐怖政治で”組”を強固なものにしようとした。
  永久三(一八六三)年四月二十一日、家茂のボディーガード役を見事にこなし、初仕事を終えた。近藤勇は満足した顔だった。人通りの多い道を凱旋した。
「誠」の紅色旗がたなびく。
 沖田も土方も満足した顔だった。京の庶民はかれらを拍手で迎えた。
  壬生浪士隊は次々と薩摩や長州らの浪人を斬り殺し、ついに天皇の御所警護までまかされるようになる。登りつめた! これでサムライだ!
 土方の肝入で新たに採用された大阪浪人山崎蒸、大阪浪人松原忠司、谷三十郎らが隊に加わり、壬生浪人組は強固な組織になった。芹沢は粗野なだけの男で政治力がなく、土方や山南らはそれを得意とした。近藤勇の名で恩を売ったり、近藤の英雄伝などを広めた。      
 そのため、パトロンであるまだ若い松平容保公(会津藩主・京守護職)も、
「立派な若者たちである。褒美をやれ」と家臣に命じたほどだった。
 そして、容保は書をかく。
 ……………新選組
「これからは壬生浪人組は”新選組”である! そう若者たちに伝えよ!」
 容保は、近藤たち隊に、会津藩の名のある隊名を与えた。こうして、『新選組』の活動が新たにスタートしたのである。
 新選組を史上最強の殺戮集団の名を高めたのは、かれらが選りすぐりの剣客ぞろいであることもあるが、実は血も凍るようなきびしい隊規があったからだという。近藤と土方は、いつの時代も人間は利益よりも恐怖に弱いと見抜いていた。このふたりは古きよき武士道を貫き、いささかでも未練臆病のふるまいをした者は容赦なく斬り殺した。決党以来、死罪になった者は二十人をくだらないという。
 もっとも厳しいのは、戦国時代だとしても大将が死ぬば部下は生き延びることができたが、新選組の近藤と土方はそれを許さなかった。大将(伍長、組頭)が討ち死にしたら後をおって切腹せよ! …というのだ。
 このような恐怖と鉄の鉄則によって「新選組」は薄氷の上をすすむが如く時代の波に、流されていくことになる。                            



 和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。
 和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        
 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
 和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
  この頃、文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
  家茂は妻・和宮と話した。
 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」
 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
  薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。
 話しを少し戻す。

長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
 当然、晋作も長崎にら滞在して、出発をまった。
 藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
 使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
 二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
 …それにしてもまたされる。
 窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
 しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
 ……自分のことしか考えられないのである。
 しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
  当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
 しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。
 晋作は上海にいって衝撃を受ける。
 吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
 こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
 ……壤夷鎖国など馬鹿げている!
 それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
 上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
 しかし、すぐに捕まって処刑される。
 日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
 ……俺には回天(革命)の才がある。
 ……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
 高杉晋作は革命の志を抱いた。
 それはまだ維新夜明け前のことで、ある。

  伊藤博文は高杉晋作や井上聞多とともに松下村塾で学んだ。
 倒幕派の筆頭で、師はあの吉田松陰である。伊藤は近代日本の政治家で、立憲君主制度、議会制民主主義の立憲者である。外見は俳優のなべおさみに髭を生やしたような感じだ。 日本最初の首相(内閣総理大臣)でもある。1885年12月22日~1888年4月30日(第一次)。1892年8月8日~1896年8月31日(第二次)。1898年1月12日~1898年6月30日(第三次)。1900年10月19日~1901年5月10日(第四次)。 何度も総理になったものの、悪名高い『朝鮮併合』で、最後は韓国人にハルビン駅で狙撃されて暗殺されている。韓国では秀吉、西郷隆盛に並ぶ三大悪人のひとりとなっている。 天保12年9月2日(1841年10月16日)周防国熊手郡束荷村(現・山口県光市)松下村塾出身。称号、従一位。大勲位公爵。名誉博士号(エール大学)。前職は枢密院議長。                明治42年10月26日(1909年)に旧・満州(ハルビン駅)で、安重根により暗殺された。幼名は利助、のちに俊輔(春輔、瞬輔)。号は春畝(しゅんぽ)。林十蔵の長男として長州藩に生まれる。母は秋山長左衛門の長女・琴子。
 家が貧しかったために12才から奉公に出された。足軽伊藤氏の養子となり、彼と父は足軽になった。英語が堪能であり、まるで死んだ宮沢喜一元・首相のようにペラペラだった。 英語が彼を一躍『時代の寵児』とした。
 彼は前まで千円札の肖像画として君臨した(今は野口英世)…。



「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰の妹の生涯2015年大河ドラマ原作物語連載1(1)

2014年01月31日 07時45分24秒 | 日記

 嘉永六年(1853年)六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、松陰が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。松陰は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 幕府の勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。

  勝が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。松下村塾からは維新三傑のひとり桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸考充)や、禁門の変の久坂玄瑞や、奇兵隊を組織することになる高杉晋作など優れた人材を輩出している。
 吉田松陰は「外国にいきたい!」
 という欲望をおさえきれなくなった。
 そこで小船で黒船まで近付き、「乗せてください」と英語でいった。(プリーズ、オン・ザ・シップ)しかし、外国人たちの答えは「ノー」だった。
 この噂が広まり、たちまち松陰は牢獄へ入れられてしまう。まさに大獄の最中である…

  吉田松陰はあっぱれな「天才」であった。彼の才能を誰よりも認めていたのは長州藩藩主・毛利敬親(たかちか)公であった。公は吉田松陰の才能を「中国の三国志の軍師・諸葛亮孔明」とよくだぶらせて話したという。「三人寄れば文殊の知恵というが、三人寄っても吉田松陰先生には敵わない」と笑った。なにしろこの吉田松陰という男は十一歳のときにはもう藩主の前で講義を演じているのである。
「個人主義を捨てよ。自我を没却せよ。我が身は我の我ならず、唯(た)だ天皇の御為め、御国の為に、力限り、根限り働く、これが松陰主義の生活である。同時に日本臣民の道である。職域奉公も、この主義、この精神から出発するのでなければ、臣道実践にはならぬ。松陰主義に来たれ!しこうして、日本精神の本然に立帰れ!」
  これは山口県萩市の「松陰精神普及会本部」の「松陰精神主義」のアピール文であり、吉田松陰先生の精神「草莽掘起」の中の文群である。第二次世界大戦以前は、吉田松陰の「尊皇思想」が軍事政権下利用され、「皆、天皇に命を捧げる吉田松陰のようになれ」と小学校や中学校で習わされたという。天皇の為に命を捧げるのが「大和魂」………?
 さて、では吉田松陰は「天皇の為に身を捧げた愛国者」であったのであろうか?そんな者であるなら私はこの「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰の妹の生涯」という小説を書いたりしない。そんなやつ糞くらえだ。
 確かに吉田松陰の「草莽掘起」はいわゆる「尊皇攘夷」に位置するようにも映る。だが、吉田松陰の「草莽掘起」「尊皇攘夷」とは日本のトップを、「将軍」から「天皇」に首を挿げ替える「イノベーション(刷新)」ではないと思う。
 確かに300年もの徳川将軍家を倒したのは薩長同盟軍だ。中でも吉田松陰門下の長州藩志士・桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、井上聞多などは大活躍である。しかるに「吉田松陰=尊皇攘夷派」と単純解釈する者が多い。
 それこそ「木を見て森を見ず論」である。
 「草莽掘起=尊皇攘夷」だとしたら明治維新の志士たちの「開国政策」「脱亜入欧主義」「軍備拡張主義」「富国強兵政策」は何なのか? 彼らは松陰の意に反して「突然変異」でもしたというのか? それこそ「糞っくらえ」だ。
 ちなみに著者(緑川鷲羽わしゅう)のブログ(インターネット上の日記)のタイトルも「緑川鷲羽 上杉奇兵隊日記「草莽掘起」」だ。だが、著者は「尊皇思想」も「拝皇主義」でもない。吉田松陰は戦前の「軍国主義のプロパガンダ(大衆操作)」の犠牲者なのである。
 吉田松陰は「尊皇攘夷派」ではなく「開国派」いや、「世界の情勢を感じ取った「国際人」」であるのだ。それを忘れないで欲しいものだ。
  




  風が強い。
 文久二年(一八六二)、東シナ海を暴風雨の中いく艦船があった。
 海面すれすれに黒い雲と強い雨風が走る。
 嵐の中で、まるで湖に浮かぶ木の葉のように、三百五十八トンの艦船が揺れていた。
 この船に、高杉晋作は乗っていた。
「面舵いっぱい!」
 艦長のリチャードソンに部下にいった。
「海路は間違いないだろうな?!」
 リチャードソンは、それぞれ部下に指示を出す。艦船が大嵐で激しく揺れる。
「これがおれの東洋での最後の航海だ! ざまのない航行はするなよ!」
 リチャードソンは、元大西洋航海の貨物船の船長だったという。それがハリファクス沖で時化にであい、坐礁事故を起こしてクビになった。
 船長の仕事を転々としながら、小船アーミスチス(日本名・千歳丸)を手にいれた。それが転機となる。東洋に進出して、日本の徳川幕府との商いを開始する。しかし、これで航海は最後だ。
 このあとは引退して、隠居するのだという。
「取り舵十五度!」
 英国の海軍や船乗りは絶対服従でなりたっているという。リチャードソンのいうことは黒でも白といわねばならない。
「舵輪を動かせ! このままでは駄目だ!」
「イエス・サー」
 部下のミスティは返事をして命令に従った。
 リチャードソンは、船橋から甲板へおりていった。すると階段下で、中年の日本人男とあった。彼はオランダ語通訳の岩崎弥四郎であった。
 岩崎弥四郎は秀才で、オランダ語だけでなく、中国語や英語もペラペラ喋れる。
「どうだ? 日本人たち一行の様子は? 元気か?」
 岩崎は、
「みな元気どころかおとといの時化で皆へとへとで吐き続けています」と苦笑した。
「航海は順調なのに困ったな。日本人はよほど船が苦手なんだな」
 リチャードソンは笑った。
「あの時化が順調な航海だというのですか?」
 長崎港を四月二十九日早朝に出帆していらい、確かに波はおだやかだった。
 それが、夜になると時化になり、船が大きく揺れ出した。
 乗っていた日本人は船酔いでゲーゲー吐き始める。
「あれが時化だと?」
 リチャードソンはまた笑った。
「あれが時化でなければ何だというんです?」
「あんなもの…」
 リチャードソンはにやにやした。「少しそよ風がふいて船がゆれただけだ」
 岩崎は沈黙した。呆れた。
「それよりあの病人はどうしてるかね?」
「病人?」
「乗船する前に顔いっぱいに赤い粒々をつくって、子供みたいな病気の男さ」
「ああ、長州の」
「……チョウシュウ?」
 岩崎は思わず口走ってしまったのを、リチャードソンは聞き逃さなかった。
 長州藩(現在の山口県)は毛利藩主のもと、尊皇壤夷の先方として徳川幕府から問題視されている。過激なゲリラ活動もしている。
 岩崎は慌てて、
「あれは江戸幕府の小役人の従僕です」とあわてて取り繕った。
「……従僕?」
「はい。その病人がどうかしたのですか?」
 リチャードソンは深く頷いて、
「あの男は、他の日本人が船酔いでまいっているときに平気な顔で毎日航海日誌を借りにきて、写してかえしてくる。ああいう人間はすごい。ああいう人間がいえば、日本の国が西洋に追いつくまで百年とかかるまい」と関心していった。
 極東は西洋にとってはフロンティアだった。
 英国はインドを植民地とし、清国(中国)もアヘン(麻薬)によって支配地化した。
 フランスと米国も次々と極東諸国を植民地としようと企んでいる。

  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
 長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚志を任命した。
 長崎にいくことになった勝海舟も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
  やがて奥田という幕府の男が勝海舟を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
 奥田のこの提案により、勝海舟は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
 勝海舟は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、勝海舟は隊長役をつとめており明るかった。
 雪まじりの風が吹きまくるなか、勝海舟は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から勝海舟のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた勝海舟は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
 勝海舟も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
  安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
  コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。
 短期間で命を落とす乾性コレラであった。
 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。
 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。

 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。
 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。
 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。
 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。

  幕府の小役人従僕と噂された若者は、航海日誌の写しを整理していた。
 全身の発疹がおさまりかけていた。
 その男は馬面でキツネ目である。名を高杉晋作、長州毛利藩で代々百十万石の中士、高杉小忠太のせがれであるという。高杉家は勘定方取締役や藩御用掛を代々つとめた中級の官僚の家系である。
 ひとり息子であったため晋作は家督を継ぐ大事な息子として、大切に育てられた。
 甘やかされて育ったため、傲慢な、可愛くない子供だったという。
 しかし不思議なことにその傲慢なのが当然のように受け入れられたという。
 親戚や知人、同年代の同僚、のみならず毛利家もかれの傲慢をみとめた。
 しかし、その晋作を従えての使節・犬塚は、
「やれやれとんだ貧乏くじひいたぜ」と晋作を認めなかった。
 江戸から派遣された使節団は西洋列強国に占領された清国(中国)の視察にいく途中である。
 ひとは晋作を酔狂という。
 そうみえても仕方ない。突拍子もない行動が人の度肝を抜く。
 が、晋作にしてみれば、好んで狂ったような行動をしている訳ではない。その都度、壁にぶつかり、それを打開するために行動しているだけである。
 酔狂とみえるのは壁が高く、しかもぶつかるのが多すぎたからである。
「高杉くん。 だいじょうぶかね?」
 晋作の船室を佐賀藩派遣の中牟田倉之助と、薩摩藩派遣の五代才助が訪れた。
 長崎ですでに知り合っていたふたりは、晋作の魅力にとりつかれたらしく、船酔のあいだも頻繁に晋作の部屋を訪れていた。
「航海日録か……やるのう高杉くん」
 中牟田が関心していった。
 すると、五代が、
「高杉どんも航海術を習うでごわすか?」と高杉にきいてきた。
 高杉は青白い顔で、「航海術は習わない。前にならったが途中でやめた」
「なにとぜ?」
「俺は船に酔う」
「馬鹿らしか! 高杉どんは時化のときも酔わずにこうして航海日録を写しちょうとがか。船酔いする人間のすることじゃなかばい」
 五代が笑った。
 中牟田も「そうそう、冗談はいかんよ」という。
 すると、高杉は、
「時化のとき酔わなかったのは……別の病気にかかっていたからだ」と呟いた。
「別の病気? 発疹かい?」
「そうだ」高杉晋作は頷いた。
 そして、続けて「酒に酔えば船酔いしないのと同じだ。それと同じことだ」
「なるほどのう。そげんこつか?」
 五代がまた笑った。
 高杉晋作はプライドの高い男で、嘲笑されるのには慣れていない。
 刀に自然と手がゆく。しかし、理性がそれを止めた。
「俺は西洋文明に憧れている訳じゃない」
 晋作は憂欝そうにいった。
「てことは高杉どんは壤夷派でごわすか?」
「そうだ! 日本には三千年の歴史がある。西洋などたかだか数百年に過ぎない」
 のちに、三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい……
 という高杉の名文句はここからきている。

  昼頃、晋作と中牟田たちは海の色がかわるのを見た。東シナ海大陸棚に属していて、水深は百もない。コバルト色であった。
「あれが揚子江の河水だろう」
「……揚子江? もう河口に入ったか。上海はもうすぐだな」
 揚子江は世界最大の川である。遠くチベットに源流をおき、長さ五千二百キロ、幅およそ六十キロである。
 河を遡ること一日半、揚子江の沿岸に千歳丸は辿り着いた。
 揚子江の広大さに晋作たちは度肝を抜かれた。
 なんとも神秘的な風景である。
 上海について、五代たちは「じゃっどん! あげな大きな船があればどけな商いでもできっとじゃ!」と西洋の艦隊に興味をもった、が、晋作は冷ややかであった。
 晋作が興味をもったのは、艦船の大きさではなく、占領している英国の建物の「設計」のみごとさである。軍艦だけなら、先進国とはいいがたい幕府の最大の友好国だったオランダでも、また歴史の浅い米国でもつくれる。
 しかし、建物を建てるのはよっぽどの数学と設計力がいる。
 しかし、中牟田たちは軍艦の凄さに圧倒されるばかりで、英国の文化などどこ吹く風だ。 ……各藩きっての秀才というが、こいつらには上海の景色の意味がわかってない。晋作やのちの木戸孝允(桂小五郎)は西洋列強の植民地化した清国(今の中国)の悲惨さを理解した。そう「このまま日本国が幕府だのなんとか藩だのと内乱が続けば、清国のように日本が西洋列強国の植民地化とされかねない」と覚醒したのだ。

 坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
 この頃、長州藩では藩主が若い毛利敬親(もうり・たかちか)に世代交代した。天才の長州藩士で藩内でも学識豊富で一目置かれている吉田寅次郎は松陰と号して公の教育係ともなる。文には誇らしい兄者と映ったことであろう。だが、歴史に詳しい者なら知っている事であるが、吉田松陰の存在はある人物の台頭で「風前の灯」となる。そう徳川幕府大老の井伊直弼の台頭である。
 吉田松陰は井伊大老の「安政の大獄」でやがては「討幕派」「尊皇攘夷派」の「危険分子」「危険思想家」として江戸(東京)で斬首になるのは阿呆でも知っていることだ。
 そう、世の中は「意馬心猿(いばしんえん・馬や猿を思い通りに操るのが難しいように煩悩を抑制するのも難しい)」だ。だが吉田松陰のいう「知行合一(ちこうごういつ・智慧と行動は同じでなければならない)」だ。世の中は「四海兄弟(しかいけいだい・世界はひとつ人類皆兄弟)」であるのだから。
 世の中は「安政の大獄」という動乱の中である。そんななかにあって松陰は大罪である、脱藩をしてしまう。井伊大老を恐れた長州藩は「恩を仇でかえす」ように松陰を左遷する。
 当然、松門門下生は反発した。「幕府や井伊大老のいいなりだ!」というのである。もっともだ。この頃、小田村伸之助(のちの楫取素彦)は江戸に行き、松陰の身を案じて地元長州に連れ帰り、こののち吉田松陰は「杉家・育(はぐくみ)」となるのである。
 桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「草莽掘起は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。
 この時期から長州藩は吉田松陰を幕府を恐れて形だけの幽閉とした。
 文は兄が好きな揚げ出し豆腐を食べさせたくて料理を頑張ってつくり、幽閉先の牢屋(といっても牢に鍵は掛っていない)にもっていく。 
「この揚げ出し豆腐は上手か~あ、文が僕の為につくったとか?」
「そうや。寅次郎にいやんは天才なんじゃけえくじけたらあかんよ。冤罪は必ず晴れるんじゃけえ」
「おおきになあ、僕はうれしか」松陰と文は熱い涙を流した。
 こののち久坂玄瑞(十八歳)と杉文(十五歳)は祝言をあげて結婚する。
 そして病床の身であった母親・杉瀧子が、死ぬのである。

桂小五郎と新選組



  新選組の血の粛清は続いた。
 必死に土佐藩士八人も戦った。たちまち、新選組側は、伊藤浪之助がコブシを斬られ、刀をおとした。が、ほどなく援軍がかけつけ、新選組は、いずれも先を争いながら踏み込み踏み込んで闘った。土佐藩士の藤崎吉五郎が原田左之助に斬られて即死、宮川助五郎は全身に傷を負って手負いのまま逃げたが、気絶し捕縛された。他はとびおりて逃げ去った。 土方は別の反幕勢力の潜む屋敷にきた。
「ご用改めである!」歳三はいった。ほどなくバタバタと音がきこえ、屋敷の番頭がやってきた。「どちらさまで?」
「新選組の土方である。中を調べたい!」
 泣く子も黙る新選組の土方歳三の名をきき、番頭は、ひい~っ、と悲鳴をあげた。
 殺戮集団・新選組……敵は薩摩、長州らの倒幕派の連中だった。
  文久三年。幕府からの要請で、新選組は見回りを続けた。
 ……長州浪人たちが京を焼き討ちするという噂が広がっていた。新選組は毎晩警護にあたった。池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だったという。このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかったという。
 最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。新選組はさっそく捜査を開始した。そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。
 池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。
 桂小五郎は「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。
 ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。
 あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。
 いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にだんだら染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。
「新選組だ! ご用改めである!」近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がそれに続いた。「桂はん…新選組です」のちの妻・幾松が彼につげた。桂は「すまぬ」といい遁走した。そして、十年前………


 桂小五郎は江戸幕府300年の支配体制を崩し、近代日本国家(官僚制と徹底した学歴主義)の礎を築いた。小五郎にはもちろん父親がいた。木戸孝允は名を桂小五郎という。父は和田昌景(まさかげ)であり、彼は息子・小五郎だけでなく息子の弟子的な高杉晋作や久坂玄瑞のひととなりを愛し、ひまがあれば小五郎や高杉少年らに学問や歴史の話をした。
「歴史から学べ。温故知新だ」「苦労は買ってでもせい」「学問で下級武士でもなんとかなる」そう言って憚らなかった。もう一人の教師は長州の偉人・吉田松陰である。
 時代に抜きん出た傑物で、長崎江戸で蘭学、医術を学び、海外にくわしく、航海発達の重要性を理解していた。ハイカラな兄さんで、小五郎や高杉晋作は学ぶことが多かった。
 桂小五郎家は長州下級武士であったが、父・昌景には先妻があり、女子二人をもうけ、長女を養子にとったところ長女が死に、次女をその後妻とした。後妻との間に小五郎と妹が出来た。
 大久保一蔵(利通)と西郷吉之助(隆盛)は島津公の後妻・お由羅と子の久光を嫌っていた。一蔵などは「お由羅と久光はこの薩摩の悪である」といって憚らなかった。
 だが、いわゆる「お由羅騒動」で大久保一蔵(利通)の父親・利世が喜界島に「島流し」にあう。父親の昌景が死ぬと小五郎は急に母親や妹の養育費や生活費にも困る有様に至った。箪笥預金も底をつくと借金に次ぐ借金の生活となった。「また借金か! この貧乏侍!」借金のためにあのプライドの高い桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)も土下座、唾や罵声を浴びせかけられても土下座した。「すんません、どうかお金を貸してくれなんもし!」
 悲惨な生活のユートピアは竹馬の友・高杉晋作、久坂玄瑞、吉田松陰先生との勉強会であった。吉田の塾は「松下村塾」という。
 それにしても圧巻し、尊敬出来るのは吉田松陰公である。桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞ともに最初は「尊皇攘夷派」であった。しかし公は「攘夷などくだらないぞ、草莽掘起だ!」という。何故か?「外国と我が国の戦力の差は物凄い。あんなアームストロング砲やマシンガン、蒸気船を持つ国と戦っても日本は勝てぬ。日本はぼろ負けする。だが、草莽の志士なら勝てるだろう!」
 なるほどな、と桂小五郎と高杉晋作、久坂玄瑞はおもった。さもありなん、である。この吉田松陰(しょういん)公は愚かではない。
  そんなとき、桂小五郎(木戸孝允)は結婚した。相手は芸者・幾松(いくまつ)である。松子と名を改めた。だがなんということだろう。知略に富んだ長州藩の大人物ともでいわれた吉田松陰公が処刑された。桂小五郎も高杉晋作も久坂玄瑞も「松陰公!」と家で号泣し、肩を震わせて泣いた。吉田松陰は船で黒船に近づき、「世界を見たい。乗せてくれ」といい断られ、ご禁制を破った大罪人として処刑されたのだ。何故だ?何故に神仏は松陰公の命を奪ったのですか?吉田松陰公なき長州藩はおわりじゃっ。この時期、薩摩の島津斉彬公も病死する。
 大久保利通や西郷隆盛は成彬公の策をまず実行することとした。薩摩の大名の娘(島津斉彬の養女)篤子(篤姫)を、江戸の徳川将軍家の徳川家定に嫁がせた。
 だが、一蔵も吉之助も驚いた。家定は知恵遅れであったのである。ふたりは平伏しながらも、口からよだれを垂らし、ぼーうっとした顔で上座に座っている家定を見た。呆れた。こんなバカが将軍か。だが、そんな家定もまもなく病死した。後釜は徳川紀州藩主の徳川家茂(いえもち)である。篤子(篤姫)は出家し「天璋院」と名をかえた。
 ここは江戸の貧乏道場で、天気は晴れだった。もう春である。
 土方は「俺もそう思ってた。サムライになれば尊皇壤夷の連中を斬り殺せる」
「しかし…」近藤は戸惑った。「俺たちは百姓や浪人出身だ。幕府が俺たちを雇うか?」「剣の腕があれば」斎藤一は真剣を抜き、バサッと斬る仕種をした。「なれる!」
 近藤らは笑った。
「近藤先生は、流儀では四代目にあらせられる」ふいに、永倉新八がそういった。
 三代目は近藤周助(周斎)、勇は十六歳のときに周斎に見込まれて養子となり、二十五歳のとき、すべてを継承した。
 いかにも武州の田舎流儀らしく、四代目の披露では派手な野試合をやった。場所は府中宿の明神境内東の広場である。安政五年のことだという。
 沖田惚次郎も元服し、沖田総司と名乗った。
 土方歳三は詐欺まがいのガマの油売りのようなことで薬を売っていた。しかし、道場やぶりがバレて武士たちにリンチをうけた。傷だられになった。
「……俺は強くなりたい」痛む体で土方は思った。
 近藤勇も道場の義母に「あなたは百姓です! 身の程を知りなさい」
 といわれ、悔しくなった。土方の兄・為次郎はいった。
「新しい風が吹いている。それは岩をも動かすほどの嵐となる。近藤さん、トシ…国のためにことを起こすのだ!」
 近藤たちは「百姓らしい武士になってやる!」と思った。
 この年(万延元年(一八六〇))勝海舟が咸臨丸でアメリカへいき、そして桜田門外で井伊大老が暗殺された。雪の中に水戸浪人の死体が横たわっている。
 近藤は愕然として、野次馬の中で手を合わせた。「幕府の大老が……」
「あそこに横たわっているのは特別な存在ではない。われわれと同じこの国を思うものたちです」山南敬助がいった。「陣中報告の義、あっぱれである!」酒をのみながら野次馬の中の芹沢鴨が叫んだ。
「俺も武士のようなものになりたい」土方は近藤の道場へ入門した。
 この年、近藤勇は結婚した。相手はつねといった。
 けっこう美人なほうである。

「百姓の何が悪い!」近藤は怒りのもっていく場所が見付からず、どうにも憂欝になった。せっかく「サムライ」になれると思ったのに……くそっ!
「どうでした? 近藤先生」
 道場に戻ると、沖田少年が好奇心いっぱいに尋ねてきた。土方も「採用か?」と笑顔をつくった。近藤勇は「ダメだった……」とぼそりといった。
「負けたのですか?」と沖田。近藤は「いや、勝った。全員をぶちのめした。しかし…」 と口ごもった。
「百姓だったからか?」土方歳三するどかった。ずばりと要点をついてくる。
「……その通りだトシサン」
 近藤は無念にいった。がくりと頭をもたげた。
 ……なにが身分は問わずだ……百姓の何が悪いってんだ?

  この頃、庄内藩(山形県庄内地方)に清河八郎という武士がいた。田舎者だが、きりりとした涼しい目をした者で、「新選組をつくったひと」として死後の明治時代に”英雄”となった。彼は藩をぬけて幕府に近付き、幕府武道指南役をつくらせていた。
  遊郭から身受けた蓮という女が妻である。清河八郎は「国を回天」させるといって憚らなかった。まず、幕府に武装集団を作らせ、その組織をもって幕府を倒す……まるっきり尊皇壤夷であり、近藤たちの思想「佐幕」とはあわない。しかし、清河八郎はそれをひた隠し、「壬生浪人組(新選組の前身)」をつくることに成功する。
 その後、幕府の密偵を斬って遁走する。

  文久三(一八六三)年一月、近藤に、いや近藤たちにふたたびチャンスがめぐってきた。それは、京にいく徳川家茂のボディーガードをする浪人募集というものだった。
 その頃まで武州多摩郡石田村の十人兄弟の末っ子にすぎなかった二十九歳の土方歳三もそのチャンスを逃さなかった。当然、親友で師匠のはずの近藤勇をはじめ、同門の沖田総司、山南敬助、井上源三郎、他流派ながら永倉新八、藤堂平助、原田左之助らとともに浪士団に応募したのは、文久二年の暮れのことであった。
 微募された浪士団たちの初顔合わせは、文久三(一八六三)年二月四日であった。
 会合場所は、小石川伝通院内の処静院であこなわれたという。    
 その場で、土方歳三は初めてある男(芹沢鴨)を見た。
 土方歳三の芹沢鴨への感情はその日からスタートしたといっていいという。
 幕府によって集められた浪人集は、二百三十人だった。世話人であった清河によって、隊士たちは「浪人隊」と名づけられた。のちに新微隊、そして新選組となる。
 役目は、京にいく徳川家茂のボディーガードということであったが、真実は京の尊皇壤夷の浪人たちを斬り殺し、駆逐する組織だった。江戸で剣術のすごさで定評のある浪人たちが集まったが、なかにはひどいのもいたという。
 京には薩摩や長州らの尊皇壤夷の浪人たちが暗躍しており、夜となく殺戮が行われていた。将軍の守護なら徳川家の家臣がいけばいいのだが、皆、身の危険、を感じておよび腰だった。そこで死んでもたいしたことはない”浪人”を使おう……という事になったのだ。「今度は百姓だからとか浪人だからとかいってられめい」
 土方は江戸訛りでいった。
「そうとも! こんどこそ好機だ! 千載一遇の好機だ」近藤は興奮した。
 すると沖田少年が「俺もいきます!」と笑顔でいった。
 近藤が「総司はまだ子供だからな」という。と、沖田が、「なんで俺ばっか子供扱いなんだよ」と猛烈に抗議しだした。
「わかったよ! 総司、お前も一緒に来い!」
 近藤はゆっくり笑顔で頷いた。
  今度は”採用取り消し”の、二の舞い、にはならなかった。”いも道場”試護館の十一人全員採用となった。「万歳! 万歳! これでサムライに取り立てられるかも知れない!」一同は歓喜に沸いた。
 近藤の鬼瓦のような顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいと同時に大人っぽくもある。魅力的な説得力のある微笑だった。
 彼等の頭の中には「サムライの世はもうすぐ終わる…」という思考はいっさいなかったといっても過言ではない。なにせ崩れゆく徳川幕府を守ろう、外国人を追い払おう、鎖国を続けようという「佐幕」のひとたちなのである。


  

「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰の妹の生涯2015年大河ドラマ原作物語連載1

2014年01月31日 07時39分59秒 | 日記
「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰の妹の生涯
 




                「はな・もゆ」とそのじだい  よしだしょういんのいもうとのしょうがい
~三千世界の烏を殺し~
               ~開国へ! 奇兵隊!
               吉田松陰の「草莽掘起」はいかにしてなったか。~
                セミ・ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  MIDORIKAWA washu
                   緑川  鷲羽
         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

          あらすじ

2015年のNHK大河ドラマが発表され、幕末の長州藩士で思想家の吉田松陰の妹・文(ふみ)が主役のオリジナル作品「花燃ゆ」に決まり、女優の井上真央さんが主演を務めることが分かった。井上さんが大河ドラマに出演するのは初めてで、NHKのドラマに出演するのは11年のNHK連続テレビ小説「おひさま」で主演を務めて以来、約4年ぶりとなる。この作品が活字本や電子図書となり放送までに読者の目に触れて、私の才能も認められていることを祈るばかりだ。同日、NHKふれあいホール(東京都渋谷区)で制作発表会見が開かれ、井上さんは「勉強しないといけないこともある。責任を持って頑張りたい」と意気込みを語った。「花燃ゆ」に高まる萩市、 観光客誘致の起爆剤に期待 山口。2013.12.13 02:05■維新150年に弾み。平成27年のNHK大河ドラマが吉田松陰の妹、文(ふみ)が主人公の「花燃ゆ」と決まり、舞台となる山口県萩市は、観光振興の起爆剤になると期待を高めている。萩が舞台の大河は昭和52年の中村梅之助さん主演「花神」(司馬遼太郎原作)以来38年ぶり。萩市は30年の明治維新150年に向け、観光客誘致を進めており、大河決定で弾みがつきそうだ。(将口泰浩)「偉人ではないので不安もあるけど、私みたいに歴史に疎い方でも身近に感じられると思う」2013年12月3日に東京で開かれた記者発表で、主演の井上真央さん(26)がこう語ったように、文の経歴はほとんど知られていない。文は天保14(1843)年に杉百合之助の4女として誕生した。13歳年上の兄・松陰が開いた松下村塾に学ぶ高杉晋作や久坂玄瑞に妹のようにかわいがられて育った。その後、玄瑞と結婚、玄瑞18歳、文15歳だった。晋作と並び「村塾の双璧」といわれた玄瑞に嫁がせたことで、松陰の妹への愛情、玄瑞への高い評価がうかがい知れる。しかし、玄瑞は元治元(1864)年の禁門の変(蛤御門の変)で負傷、同じ塾生の寺島忠三郎とともに鷹司邸内で自刃した。享年25。若すぎる死だった。維新後、西郷隆盛は「もし久坂さんが生きていたら、私は参議などと大きな顔をしていられない」と語ったといわれる俊才だった。文は若くして未亡人となる。その後は藩主である毛利家の奧女中として長く仕えていたが、明治14(1881)年、楫取(かとり)素彦の妻であった姉の寿子が死亡、2年後、文は素彦と再婚、美和子と改名した。素彦は、倒幕派志士として活躍した松島剛蔵の弟で、長州藩の藩校明倫館で学んだ。松陰の死後は松下村塾で塾生を指導し、教育者、松陰の遺志を受け継いだ男でもある。維新後は官界に入り、初代群馬県令(知事)となった。 松陰、玄瑞…。79歳で亡くなるまでの間、文は時代から愛する男たちを奪われる。「運命に翻弄(ほんろう)されながらも、芯の強い女性を表現できたらいい」と井上さんは意気込む。ドラマのテーマは「明治維新はこの家族から始まった」。心優しい松陰や文を育てた杉家のおおらかな家族愛と絆も重要な要素という。平成27年1月から放送、2014年8月クランクインする予定で、萩市ではすでに受け入れ準備を進めている。井上さんも「地域密着型で山口県を盛り上げて、ロケしながらおいしい物を食べたい」と話していた。萩市の野村興児市長は「大河ドラマは萩観光の起爆剤になる」と期待を高めている。もう一つのドラマの見所として、松下村塾での教育のあり方も興味深い。「学は人たる所以を学ぶなり」(学問とは、人間とは何かを学ぶもの)「志を立ててもって万事の源となす」(志を立てることがすべての源となる)「至誠にして動かざるものは未だこれ有らざるなり」(誠を尽くせば動かすことができないものはない)松陰が語りかける言葉の一つ一つに感銘を受ける若き玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら。人間形成にとって教育とはいかなるものか。われわれに問いかける。黒船来航…幕末、伊藤博文は吉田松陰の松下村塾で優秀な生徒だった。親友はのちに「禁門の変」を犯すことになる高杉晋作、久坂玄瑞である。高杉は上海に留学して知識を得た。長州の高杉や久坂にとって当時の日本はいびつにみえた。彼らは幕府を批判していく。
 将軍が死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。幕府に不満をもつ晋作は兵士を農民たちからつのり「奇兵隊」を結成。やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。
 勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、榎本幕府残党は奥州、蝦夷へ……
 しかし、晋作は維新前夜、幕府軍をやぶったのち、二十七歳で病死してしまう。晋作の死をもとに長州藩士たちはそれぞれ明治の時代に花開いた。       おわり


         1 草莽掘起



  日本の歴史に『禁門の変』と呼ばれる事件を引き起こしたとき、久坂玄瑞は二十五歳の若さであった。久坂の妻となっていた女性こそこの物語の主人公・久坂(旧姓・杉)文で、ある。「あや」ではない。「ふみ」である。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と会津藩(福島県)の薩会同盟ができ、長州藩が幕府の敵とされた時期だった。
  文の十三歳年上の実兄・吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
 伊藤と文は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の松陰が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。「先生!」意外にも松陰は微笑んだ。
「……伊藤くん文…。ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」
「先生! せ…先生!」「寅次郎にいやん!にいーやん!」
 やがて松陰は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。鋭い光を放つ刀が天に構えられる。「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」「ごめん!」閃光が走った……
「にいやーん!」文は号泣しながら絶叫した。暗黒の時代である。幕末の天才・思想家「吉田松陰の「死」」……
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。


  長州藩と英国による戦争は、英国の完全勝利で、あった。
 長州の馬鹿が、たった一藩だけで「攘夷実行」を決行して、英国艦船に地上砲撃したところで、英国のアームストロング砲の砲火を浴びて「白旗」をあげたのであった。
  長州の「草莽掘起」が敗れたようなものであった。
 同藩は投獄中であった高杉晋作を敗戦処理に任命し、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を通訳として派遣しアーネスト・サトウなどと停戦会議に参加させた。
 伊藤博文は師匠・吉田松陰よりも高杉晋作に人格的影響を受けている。

  ……動けば雷電の如し、発すれば驟雨の如し……

 伊藤博文が、このような「高杉晋作」に対する表現詩でも、充分に伊藤が高杉を尊敬しているかがわかる。高杉晋作は強がった。
「確かに砲台は壊されたが、負けた訳じゃない。英国陸海軍は三千人しか兵士がいない。その数で長州藩を制圧は出来ない」
 英国の痛いところをつくものだ。
 伊藤は関心するやら呆れるやらだった。
  明治四十二年には吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)門下は伊藤博文と山県有朋だけになっている。
 ふたりは明治政府が井伊直弼元・幕府大老の銅像を建てようという運動には不快感を示している。時代が変われば何でも許せるってもんじゃない。  
 松門の龍虎は間違いなく「高杉晋作」と「久坂玄瑞」である。今も昔も有名人である。
 伊藤博文と山県有朋も松下村塾出身だが、悲劇的な若死をした「高杉晋作」「久坂玄瑞」に比べれば「吉田松陰門下」というイメージは薄い。
 伊藤の先祖は蒙古の軍艦に襲撃をかけた河野通有で、河野は孝雷天皇の子に発しているというが怪しいものだ。歴史的証拠資料がない為だ。伊藤家は貧しい下級武士で、伊藤博文の生家は現在も山口県に管理保存されているという。
「あなたのやることは正しいことなのでわたくしめの力士隊を使ってください!」
 奇兵隊蜂起のとき、そう高杉晋作にいって高杉を喜ばせている。
なお、この物語の参考文献は池宮彰太郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰らず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ(この作品執筆時2014年1月まだ放送前)」、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。



 立志


 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたために萩藩(はぎはん)とも呼ばれていたが、幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれることとなった。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。幕末には討幕運動の中心となり、続く明治維新では長州藩の中から政治家を多数輩出し、日本の政治を支配した藩閥政治の一方の政治勢力「長州閥」を形成した。毛利元就、藩祖の毛利氏は大江広元の4男を祖とする一族。戦国時代に安芸に土着していた分家から毛利元就が出ると一代にして国人領主から戦国大名に脱皮、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国地方十国と北九州の一部を領国に置く最大級の大名に成長した。元就の孫の毛利輝元は豊臣秀吉に仕え、安芸・周防・長門・備中半国・備後・伯耆半国・出雲・石見・隠岐の120万5000石を安堵(石見銀山50万石相当、また以前の検地では厳密にこれを行っていなかったことを考慮すると実高は200万石超)され、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島に移す。秀吉の晩年には五大老に推され、関ヶ原の合戦では西軍石田三成方の名目上の総大将として担ぎ出され大坂城西の丸に入ったが、主家を裏切り東軍に内通していた従弟の吉川広家により徳川家康に対しては敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。ところが戦後家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に、一転して輝元の戦争責任を問い、所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分とし、輝元は隠居となし、嫡男の秀就に周防・長門2国を与えることとした。実質上の初代藩主は輝元であるが、形式上は秀就である。また、秀就は幼少のため、当初は輝元の従弟の毛利秀元と重臣の福原広俊・益田元祥らが藩政を取り仕切っていた。周防・長門2国は慶長5年の検地によれば29万8480石2斗3合であった。これが慶長10年(1605年)御前帳に記された石高である。慶長12年(1607年)、領国を4分の1に減封された毛利氏は新たな検地に着手し、慶長15年(1610年)に検地を終えた。少しでも石高をあげるため、この検地は苛酷を極め、山代地方(現岩国市錦町・本郷町)では一揆も起きている。この検地では結果として53万9268石余をうちだした。慶長18年(1613年)、今次の江戸幕府に提出する御前帳が今後の毛利家の公称高となるため、慎重に幕閣と協議した。ところが、思いもよらぬ50万石を超える高石高に驚いた幕閣(取次役は本多正信)は、敗軍たる西軍の総大将であった毛利氏は50万石の分限ではないこと(特に東軍に功績のあった隣国の広島藩主福島正則49万8000石とのつりあい)、毛利家にとっても高石高は高普請役負担を命じられる因となること、慶長10年御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認した。この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発等により実高(裏高)は寛永2年(1625年)には65万8299石3斗3升1合、貞享4年(1687年)には81万8487石余であった。宝暦13年(1763年)には新たに4万1608石を打ち出している。幕末期には100万石を超えていたと考えられている。また新しい居城地として防府・山口・萩の3か所を候補地として伺いを出したところ、これまた防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府に命じられた。萩は、防府や山口と異なり、三方を山に囲まれ日本海に面し隣藩の津和野城の出丸の遺構が横たわる鄙びた土地であった。長州藩士はこの毛利家が防長二州に転じた際に、一緒に山口に移った毛利家の家臣をルーツに持つといわれる。彼らは元来が広島県-安芸・備後を本拠としたために非常に結束が固かった。輝元はかつての膨大な人数を養う自信がなかったので「ついて来なくてもいい」と幾度もいったが、みな聞かなかった。戦国期までは山陽山陰十ヵ国にまたがる領地を持ち、表日本の瀬戸内海岸きっての覇府というべき広島から裏日本の萩へ続く街道は、家財道具を運ぶ人のむれで混雑し、絶望と、徳川家への怨嗟の声でみちた[2]。家臣のうち、上級者は家禄を減らされて萩へ移ったが、知行も扶持も貰えない下級者は農民になり山野を開墾した。幕末、長州藩が階級・身分を越えて結束が強かったのは、江戸期に百姓身分であった者も先祖は安芸の毛利家の家来であったという意識があり、それが共有されていたためともいわれる。前述のような辛酸を舐めたことから、長州藩では江戸時代を通じて「倒幕」が極秘の「国是」で、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立てると、藩主は毎年「時期尚早」と答えるのが習わしだったという。この伝説について、毛利家現当主・毛利元敬は「あれは俗説」と笑い、「明治維新の頃まではあったのではないか」という問いに「あったのかもしれないが、少なくとも自分が帝王学を勉強した時にはその話は出なかった」と答えている。ただ長州藩主導により倒幕・明治維新を迎え借りは利息をつけて返したわけであるから、維新も遠くなった昭和初年の生まれである現当主に、そのような教育はむしろ弊害としてされなかったことは考えられるかもしれない(当時華族は学習院に学ぶわけであるから、徳川家と先輩・後輩関係、同級生関係になる可能性はあった。実際、元敬は水戸徳川家と同級生で仲良くしていたことも言及している)。また、藩士は江戸に足を向けて寝るのが習慣となった(ただし、参勤交代時は藩主が江戸に在住している訳であり、また正室・世子は常に江戸に在住していること、萩から江戸方向は天子のおわす京と同方向であることをどう考えたのかは疑問が残るところである。しかし今でも旧藩士の家ではその伝統が伝えられている家がある)。
毛利重就。江戸時代中期には、第7代藩主毛利重就が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行う。文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を行う。天保3年(1831年)には、大規模な長州藩天保一揆が発生。その後の天保8年(1836年)4月27日には、後に「そうせい侯」と呼ばれた毛利敬親が藩主に就くと、村田清風を登用した天保の改革を行う。改革では相次ぐ外国船の来航や中国でのアヘン戦争などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得る。村田の失脚後は坪井九右衛門、椋梨藤太、周布政之助などが改革を引き継ぐが、坪井、椋梨と周布は対立し、藩内の特に下級士層に支持された周布政之助が安政の改革を主導する。幕末。幕末になると長州藩は公武合体論や尊皇攘夷を拠り所にして、おもに京都で政局をリードする存在になる。また藩士吉田松陰の私塾(当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされ事実上幽閉)松下村塾で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながってゆく。
1863年(文久3年)旧4月には、激動する情勢に備えて、幕府に無断で山口に新たな藩庁を築き、「山口政事堂」と称する。敬親は萩城から山口(中河原の御茶屋)に入り、幕府に山口移住と新館の造営を正式に申請書を提出し、山口藩が成立した。これにより、萩藩は(周防)山口藩と呼ばれることとなった。 この年、会津藩と薩摩藩が結託した八月十八日の政変で京都から追放された。
長州藩は攘夷も決行した。下関海峡と通る外国船を次々と砲撃した。結果、長州藩は欧米諸国から敵と見做され、1863年(文久三年)5月と1864年(元治元年)7月に、英 仏 蘭 米の列強四国と下関戦争が起こった。長州藩はこの戦争に負け、賠償金を支払うこととなった。
禁門の変。1864年(元治元年)の池田屋事件、禁門の変で打撃を受けた長州(山口)藩に対し、幕府は尾張藩主徳川慶勝を総督とした第一次長州征伐軍を送った。長州(山口)藩では椋梨ら幕府恭順派が実権を握り、周布や家老・益田親施らの主戦派は失脚して粛清され、藩主敬親父子は謹慎し、幕府へ降伏した。その後、完成したばかりの山口城を一部破却して、毛利敬親・元徳父子は長州萩城へ退いた。
恭順派の追手から逃れていた主戦派の藩士高杉晋作は、伊藤俊輔(博文)らと共に、民兵組織である力士隊と遊撃隊を率いてクーデター(元治の内戦)を決行した。初めは功山寺で僅か80人にて挙兵した決起隊に、民兵組織最強の奇兵隊が呼応するなど、各所で勢力を増やして萩城へ攻め上り、恭順派を倒した。この後、潜伏先より帰って来た桂小五郎(木戸孝允)を加え、再び主戦派が実権を握った長州藩は、奇兵隊を中心とした諸隊を正規軍に抜擢し、幕府の第二次長州征伐軍と戦った。高杉と村田蔵六(大村益次郎)の軍略により、長州藩は四方から押し寄せる幕府軍を打ち破り、第二次幕長戦争(四境戦争)に勝利する。長州藩に敗北した幕府の力は急速に弱まった。
更に、1866年(慶応2年)には、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において土佐藩の坂本龍馬を仲介として議論された末、京都薩摩藩邸(京都市上京区)で薩摩藩との政治的・軍事的な同盟である薩長同盟を結んだ。又、旧5月に敬親が山口に戻った事で(周防)山口藩が再び成立する。
鳥羽・伏見の戦い。左が桑名藩などの幕府軍、右が長州藩などの新政府軍。
薩長による討幕運動の推進によって、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸幕府は崩壊した。そして、王政復古が行われると、薩摩藩と共に長州藩は明治政府の中核となっていく。戊辰戦争では、藩士の大村益次郎が上野戦争などで活躍した。
だが、1869年(明治2年)旧11月、山口藩の藩兵による反乱(萩の乱)が起こり、一時は山口藩庁が包囲されたこともある。
明治4年(1871年)旧6月、山口藩は支藩の徳山藩と合併し、同年8月29日(旧7月14日)の廃藩置県で山口藩は廃止され、山口県となった。毛利家当主元徳は藩知事を免官されて東京へ移り、第15国立銀行頭取、公爵、貴族院議員となった。
尚、戊辰戦争の戦後処理と明治期における山縣有朋に代表される長州閥の言動の影響から、戦闘を行った会津藩(会津若松市)と長州藩(萩市)の間には今でも複雑な感情が残っているとも言われる。実際は、長州藩軍は進軍が遅れたため、会津戦争では戦闘を行なっておらず、また、占領統治を指揮する立場でもなかった。 現代の観光都市化の流れの中で現れた戦後会津の観光史学により、事実が歪められているという議論も行われている。
 
 吉田松陰は吉田矩方という本名で、人生は1830年9月20日(天保元年8月4日)から1859年(安政6年10月27日)までの生涯である。享年30歳……
 通称は吉田寅次郎、吉田大次郎。幼名・虎之助。名は矩方(よりかた)、字(あざな)は義卿(ぎけい)または子義。二十一回猛士とも号する。変名を松野他三郎、瓜中万二ともいう。長州藩士である。江戸(伝馬町)で死罪となっている。
 尊皇壤夷派で、井伊大老のいわゆる『安政の大獄』で密航の罪により死罪となっている。名字は杉虎次郎ともいう。養子にはいって吉田姓になり、大次郎と改める。
 字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の名は尊皇家の高山彦九郎おくり名である。1830年9月20日(天保元年8月4日)、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)に叔父である山鹿流兵学師範である吉田大助の養子になるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。吉田松陰の初めての伝記を示したのは死後まもなく土屋瀟海(しょうかい)、名を張通竹弥之助という文筆家で「吉田松陰伝」というものを書いた。が、その出版前の原稿を読んだ高杉晋作が「何だ! こんなものを先生の伝記とすることができるか!」と激高して破り捨てた為、この原稿は作品になっていない。
 また別の文筆家が「伝記・吉田松陰」というのを明治初期にものし、その伝記には松陰の弟子の伊藤博文や山県有朋、山田顕義(よしあき)らが名を寄せ寄稿し「高杉晋作の有名なエピソード」も載っている。天保六年(1835年)松陰6歳で「憂ヲ憂トシテ…(中訳)…楽ヲ享クル二至ラサラヌ人」と賞賛されている。
 ここでいう吉田松陰の歴史的意味と存在であるが、吉田松陰こと吉田寅次郎は「思想家」である前に「維新の設計者」である。当時は松陰の思想は「危険思想」とされ、長州藩も幕府を恐れて彼を幽閉したほどだ。我々米沢や会津にとっては薩摩藩長州藩というのは「官軍・明治政府軍」で敵なのかも知れない。が、会津の役では長州藩は進軍に遅れて参戦しておらず、米沢藩とも戦っていないようだ。ともあれ150年も前の戊辰戦争での恨み、等「今更?」だろう。吉田松陰は本名を吉田寅次郎といい号が松陰(しょういん)である。文政13年(1830年)9月20日長州萩藩(現在・山口県萩市)生まれで、没年が安政6年(1859年)11月21日東京での処刑までの人生である。そして、この物語「「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰の妹の生涯」の主人公・杉文(すぎ・ふみ)の13歳年上の実の兄である。
  松陰は後年こういっている。
「私がほんとうに修行したのは兵学だけだ。私の家は兵学の家筋だから、父もなんとか私を一人前にしようと思い、当時萩で評判の叔父の弟子につけた。この叔父は世間並みの兵学家ではなくて、いまどき皆がやる兵学は型ばかりだ。あんたは本当の兵学をやりなさい、と言ってくれた。アヘン戦争で清が西洋列強国に大敗したこともあって嘉永三年(1850年)に九州に遊学したよ。そして江戸で佐久間象山先生の弟子になった。
 嘉永五年(1852年)長州藩に内緒で東北の会津藩などを旅行したものだから、罪に問われてね。士籍剥奪や世禄没収となったのさ」
 吉田松陰は「思想家」であるから、今時にいえばオフィスワーカーだったか?といえば当然ながら違うのである。当時はテレビもラジオも自動車もない。飛脚(郵便配達)や駕籠(かご・人足運搬)や瓦版(新聞)はあるが、蒸気機関による大英帝国の「産業革命・創成期」である。この後、日本人は「黒船来航」で覚醒することになる。だが、吉田松陰こと寅次郎は九州や東北北部まで歩いて「諸国漫遊の旅」に(弟子の宮部鼎蔵(みやべ・ていぞう)とともに)出ており、この旅により日本国の貧しさや民族性等学殖を深めている。当時の日本は貧しい。俗に「長女は飯の種」という古い諺がある。これはこの言葉どうり、売春が合法化されてていわゆる公娼(こうしょう)制度があるときに「遊郭・吉原(いまでいうソープランド・風俗業)」の店に残念ながらわずかな銭の為に売られる少女が多かったことを指す。公娼制度はGHQにより戦後撤廃される。が、それでも在日米軍用に戦後すぐに「売春婦や風俗業に従事する女性たち」が集められ「強姦などの治安犯罪防止策」を当時の日本政府が展開したのは有名なエピソードである。
 松陰はその田舎の売られる女性たちも観ただろう。貧しい田舎の日本人の生活や風情も視察しての「倒幕政策」「草莽掘起」「維新政策」「尊皇攘夷」で、あった訳である。
 当時の日本は本当に貧しかった。物流的にも文化的にも経済的にも軍事的にも、実に貧しかった。長州藩の「尊皇攘夷実行」は只の馬鹿、であったが、たった数隻の黒船のアームストロング砲で長州藩内は火の海にされた。これでは誰でも焦る訳である。このまま国内が内乱状態であれば清国(現在の中国)のように植民地にされかねない。だからこその早急な維新であり、戊辰戦争であり、革命であるわけだ。すべては明治維新で知られる偉人たちの「植民地化への焦り」からの維新の劇場型政変であったのだ。
そんな長州藩萩で、天保14年(1843年)この物語の主人公の杉文(すぎ・ふみ)は生まれた。あまり文の歴史上の資料や写真や似顔絵といったものはないから風体や美貌は不明ではある。
 だが、吉田松陰は似顔絵ではキツネ目の馬面みたいだ。
 であるならば十三歳歳の離れた松陰の実妹は美貌の人物の筈はない。2015年大河ドラマ「花燃ゆ」で文役を演ずる井上真央さんくらい美貌なのか?は、少なくとも2013年大河ドラマ「八重の桜」の新島八重役=綾瀬はるかさん、ぐらい(本当の新島八重はぶくぶくに太った林檎ほっぺの田舎娘)、大河ドラマ「花燃ゆ」の杉文役=井上真央さんは、本人に遠い外見であることだろう。 
この物語と大河ドラマでは、家の強い絆と、松蔭の志を継ぐ若者たちの青春群像を描く!吉田松陰の実家の杉家は、父母、三男三女、叔父叔母、祖母が一緒に暮らす多い時は11人の大家族。杉家のすぐそばにあった松下村塾では、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら多くの若者たちが松陰のもとで学び、日夜議論を戦わせた。若者の青春群像を描くとされていることから中心になる長州藩士 久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎らは20代後半の役者が予想されます。吉田松陰の妹 杉文(美和子)とは?天保14年(1843年)、杉家の四女の文が生まれる。1843年に文が誕生。文は大河ドラマ『八重の桜』新島八重の2つ年上。文の生まれた年は1842年と1843年の二つの説があり。文(美和子)(松陰の四番目の妹で、久坂玄瑞の妻であったが、後に、楫取の二番目の妻となる)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─長州藩士、吉田松蔭の妹。久坂玄端の妻、楫取素彦の後妻(最初の妻は美和子の姉)。家格は無給通組(下級武士上等)、石高26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立て、7人の子供を育てていた。杉常道 - 父は長州藩士の杉常道、 母は瀧子。杉家は下級武士だった。大正10までの79年間の波乱の生涯はドラマである。名前は杉文(すぎふみ)→久坂文→小田村文→楫取文→楫取美和子と変遷している。楫取美和子(かとりみわこ)文と久坂玄端の縁談話。しかし、面食いの久坂は、なんと師匠・松蔭の妹との結婚を一度断った。理由は「器量が悪い」から。1857年(安政4年)、吉田松陰の妹・文(ふみ)と結婚しました。玄瑞18歳、文15歳の時でした。久坂玄瑞:高杉晋作 1857年 文は久坂玄端と結婚。1859年 兄・松蔭は江戸で処刑される。1863年 禁門の変(蛤御門の変)で夫・久坂は自刃。文はというと、39歳の時に再婚。文はすぐさま返事はしなかったが「玄瑞からもらった手紙を持って嫁がせてくれるなら」ということに。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚。生前の久坂から、届いたただ一通の手紙。その手紙と共に39歳の時に、文は再婚。このエピソードは大河ドラマでやる事でしょう。1883(明治16)年 松陰の四人の妹のうち、四番目の妹(参考 寿子は二番目)で、久坂玄瑞(1840年~1864年)に嫁ぎ、久坂の死で、22歳の時から未亡人になっていた文(美和子)と再婚(この時 、楫取 55歳)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─1883年 文は39~40歳。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深い。NHK大河「花燃ゆ」はないないづくし 識者は「八重の桜」の“二の舞”を懸念しているという (日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚し、79歳まで生きました。1912年 文の夫・楫取素彦が死去。1921年 文(楫取美和子)が死去。1924年 文の姉・千代が死去。
 杉千代(吉田松陰の妹・文の姉)千代は松陰より2歳年下の妹であった。1832年 萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助(常道)の長女として生まれる。杉寿(吉田松陰の妹・文の姉)杉 常道(すぎ つねみち、文化元年2月23日(1804年4月3日) - 慶応元年8月29日(1865年10月18日))は、江戸時代後期から末期(幕末)の長州藩士。吉田松陰の父。杉常道 - 杉瀧子(吉田松陰・文の母)家族から見た吉田松陰。 杉瀧子 吉田松陰の母。久坂 玄瑞(くさか げんずい)は、幕末の長州藩士。幼名は秀三郎、名は通武、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。天保11年(1840年)長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪の三男・秀三郎として生まれる。安政4年(1857年)松門に弟子入り。安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を久坂に嫁がせた。元治元年(1864年)禁門の変または蛤御門の変で鷹司邸内で自刃した。享年25。高杉 晋作(たかすぎ しんさく)は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。高杉晋作 - 1839年 長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太・みちの長男として生まれる。1857年 吉田松陰が主宰していた松下村塾に入る。1859年 江戸で松陰が処刑される。万延元年(1860年)11月 防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚。文久3年(1863年)6月 志願兵による奇兵隊を結成。慶応3年4月14日(1867年5月17日)肺結核でこの世を去る。楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日(1829年4月18日) - 大正元年(1912年)8月14日)は、日本の官僚、政治家。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵。楫取素彦 - 吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹二人が楫取の妻であった。最初の妻は早く死に、久坂玄瑞の未亡人であった松陰の末妹と再婚したのである。通称は米次郎または内蔵次郎→小田村氏伊之助→小田村氏文助・素太郎→慶応3年(1867年)9月に楫取素彦と改める。1829年 長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。1867年 鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制する。明治5年(1872年)に群馬 県参与、明治7年(1874年)に熊谷県権令。明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令(知事)となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定。明治14年(1881年) 文の姉・寿子と死別。明治16年(1883年) 文と再婚。1884年 元老院議官に転任。1887年 男爵を授けられる。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳。木戸 孝允 / 桂 小五郎(きど たかよし / かつら こごろう)幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町に藩医・和田昌景の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される。元治元年(1864年)禁門の変。明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発。5月26日、朦朧状態の中、大久保利通の手を握り締め、「西郷いいかげんにせいよ!」と明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去る。伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。幼年期には松下村塾に学び、吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。1941年 周防国熊毛郡束荷村字野尻の百姓・林十蔵の長男として生まれる。安政4年(1857年)2月、吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていた。松蔭が安政の大獄で斬首された際、師の遺骸をひきとることになる。明治18年(1885年)伊藤は初代内閣総理大臣となる。明治42年(1909年)10月、ハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家テロリスト・安重根によって射殺された。心に残る 吉田松陰 エピソード。「いやしくも一家を構えている人は、何かにつけて、色々と大切な品物が多いはずです。ですから、一つでも多く持ち出そうとしました。私の所持品のようなものは、なるほど私にとっては大切なものですが、考えてみれば、  たいしたものではありません。」吉田 松陰先生の2歳年下の妹千代兄を語る。松陰の先生の家が火事になり、松蔭が自分のものを持ち出さなかった理由について語った言葉。人間にとって、利他の心を持ち、相手の立場に立って行動するということは、大切なことです。と妹・千代は語った。
 とにもかくにも美人なんだかブスなんだか不明の吉田松陰の十三歳年下の妹・杉文(すぎ・ふみ)は、天保14年(1843年)に誕生した。母親は杉瀧子という巨漢な女性、父親は杉百合之助(常道)である。
 赤子の文を可愛いというのは兄・吉田寅次郎こと松陰である。寅次郎は赤子の文をあやした。子供好きである。
 大河ドラマとしては異常に存在感も歴史的に無名な杉文が主人公ではある。大河ドラマ「篤姫」では薩摩藩を、大河ドラマ「龍馬伝」では土佐藩を、大河ドラマ「花燃ゆ」では長州藩を描くという。
 多分、大河ドラマ「八重の桜」のような低視聴率になることはほぼ決まりのようだ。が、NHKは大河ドラマ「篤姫」での成功体験が忘れられない。
 朝の連続テレビ小説「あまちゃん」並みの高視聴率等期待するだけ無駄だろう。
  話しを戻す。
 長州藩の藩校・明倫館に出勤して家学を論じた。次第に松陰は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。文にとって兵学指南役で長州藩士からも一目置かれているという兄・吉田寅次郎(松陰)の存在は誇らしいものであったらしい。松陰は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」松陰は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで松陰は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら松陰はきいた。
「大町にお住まいの与力某様でござります」
 松陰は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると松陰は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、松陰は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い吉田松陰でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  松陰は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 松陰の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、松陰は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。松陰は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。松陰は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  松陰は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により松陰の名声は世に知られるようになっていく。松陰はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」

 文は幼少の頃より、兄・松陰に可愛がられ、「これからは女子も学問で身をたてるときが、そんな世の中がきっとくる」という兄の考えで学問を習うようになる。吉田松陰は天才的な思想家であった。すでに十代で藩主の指南役までこなしているのだ。それにたいして杉文なる人物がどこまで学問を究めたか?はさっぱり資料もないからわからない。
 多分、2015年度の大河ドラマ「花燃ゆ」はほとんどフィクションの長州藩の維新の志士達ばかりがスポットライトが当たるドラマになるのではないか。そんな気がする。
 歴史的な資料がほとんどない。ということは小説家や脚本家が「好きに脚色していい」といわれているようなものだ。吉田松陰のくせは顎をさすりながら、思考にふけることである。
 しかも何か興味があることをあれやこれやと思考しだすと周りの声も物音も聞こえなくなる。「なんで、寅次郎にいやんは、考えだすと私の声まできこえんとなると?」文が笑う。と松陰は「う~ん、学者やからと僕は思う」などと真面目な顔で答える。それがおかしくて幼少の文は笑うしかない。
 家庭教師としては日本一優秀である。が、まだ女性が学問で身を立てる時代ではなかった。まだ幕末の混迷期である。当然、当時の人は「幕末時代」等と思う訳はない。徳川幕府はまだまだ健在であった時代である。「幕末」「明治維新」「戊辰戦争」等という言葉はのちに歴史家がつけたデコレーションである。
 大体にして当時のひとは「明治維新」等といっていない。「瓦解」といっていた。つまり、「徳川幕府・幕藩体制」が「瓦解」した訳である。
 あるとき吉田松陰は弟子の宮部鼎蔵とともに諸国漫遊の旅、というか日本視察の旅にでることになった。松陰は天下国家の為に自分は動くべきだ、という志をもつようになっていた。この日本という国家を今一度洗濯するのだ。
 「文よ、これがなんかわかるとか?」松陰は地球儀を持ってきた。「地球儀やろう?」「そうや、じゃけん、日本がどこにばあるとかわからんやろう?日本はこげなちっぽけな島国じゃっと」
 「へ~つ、こげな小さかと?」「そうじゃ。じゃけんど、今一番経済も政治も強いイギリスも日本と同じ島国やと。何故にイギリス……大英帝国は強いかわかると?」「わからん。何故イギリスは強いと?」
 松陰はにやりと言った。「蒸気機関等の産業革命による経済力、そして軍艦等の海軍力じゃ。日本もこれに習わにゃいかんとばい」
 「この国を守るにはどうすればいいとか?寅次郎にいやん」「徳川幕府は港に砲台を築くことじゃと思っとうと。じゃが僕から見れば馬鹿らしかことじゃ!日本は四方八方海に囲まれとうと。大砲が何万台あってもたりんとばい」
 徳川太平の世が二百七十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 吉田松陰はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、松陰も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
  この年から数年後、幕府の井伊直弼大老による「安政の大獄」がはじまる。
 松陰は「世界をみたい! 外国の船にのせてもらいたいと思っとうと!」
 と母親につげた。
 すると母親は「馬鹿らしか」と笑った。
 松陰は風呂につかった。五衛門風呂である。
 星がきれいだった。
 ……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
 松陰は参禅を二十三、四歳までやっていた。
 もともと彼が蘭学を学んだのは師匠・佐久間象山の勧めだった。剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。松陰が蘭学を習ったのは幕府の馬医者である。
 吉田松陰は遠くは東北北部まで視察の旅に出た。当然、当時は自動車も列車もない。徒歩で行くしかない。このようにして松陰は視察によって学識を深めていく。
 旅の途中、妹の文が木登りから落ちて怪我をした、という便りには弟子の宮部鼎蔵とともに冷や冷やした。が、怪我はたいしたことない、との便りが届くと安心するのだった。 
  父が亡くなってしばらくしてから、松陰は萩に松下村塾を開いた。蘭学と兵学の塾である。この物語では松下村塾に久坂玄瑞にならって高杉晋作が入塾するような話になっている。
 が、それは話の流れで、実際には高杉晋作も少年期から松陰の教えを受けているのである。
 久坂玄瑞と高杉晋作は今も昔も有名な松下村塾の龍・虎で、ある。ふたりは師匠の実妹・文を「妹のように」可愛がったのだという。
 塾は客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が松陰の元に舞い込むようになった。
 外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を父の借金の返済にあてた。
 しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。松陰はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! ぼくの名を汚すようなマネは許さんぞ!」
 松陰の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。
 のちの文の二番目の旦那さんとなる楫取素彦(かとり・もとひこ)こと小田村伸之介が、文の姉の杉寿と結婚したのはこの頃である。文も兄である吉田寅次郎(松陰)も当たり前ながら祝言に参加した。まだ少女の文は白無垢の姉に、
「わあ、寿姉やん、綺麗やわあ」
 と思わず声が出たという。松陰は下戸ではなかったが、粗下戸といってもいい。お屠蘇程度の日本酒でも頬が赤くなったという。
 少年時代も青年期も久坂玄瑞は色男である。それに比べれば高杉晋作は馬顔である。
 当然ながら、というか杉文は久坂に淡い懸想(けそう・恋心)を抱く。現実的というか、歴史的な事実だけ書くならば、色男の久坂は文との縁談を一度断っている。何故なら久坂は面食いで、文は「器量が悪い(つまりブス)」だから。
 だが、あえて大河ドラマ的な場面を踏襲するならば文は初恋をする訳である。それは兄・吉田松陰の弟子の色男の少年・久坂義助(のちの玄瑞)である。ふたりはその心の距離を縮めていく。
 若い秀才な頭脳と甘いマスクの少年と、可憐な少女はやがて恋に落ちるのである。雨宿りの山小屋での淡い恋心、雷が鳴り、文は義助にきゃあと抱きつく。可憐な少女であり、恋が芽生える訳である。
 今まで、只の妹のような存在であった文が、懸想の相手になる感覚はどんなものであったろうか。これは久坂義助にきく以外に方法はない。
 文や寅次郎や寿の母親・杉瀧子が病気になり病床の身になる。「文や、学問はいいけんど、お前は女子なのだから料理や裁縫、洗濯も大事なんじゃぞ。そのことわかっとうと?」
 「……は…はい。わかっとう」母親は学問と読書ばかりで料理や裁縫をおろそかにする文に諭すようにいった。
 杉家の邸宅の近くに鈴木家と斎藤家というのがあり、そこの家に同じ年くらいの女の子がいた。それが文の幼馴染の鈴木某や斎藤某の御嬢さんで親友であった。
 近所には女子に裁縫や料理等を教える婆さまがいて、文はそこに幼馴染の娘らと通うのだが、
「おめは本当に下手糞じゃ、このままじゃ嫁にいけんど。わかっとうとか?」などと烙印を押される。
 文はいわゆる「おさんどん」は苦手である。そんなものより学問書や書物に耽るほうがやりがいがある、そういう娘である。
 だからこそ病床の身の母親は諭したのだ。だが、諸国漫遊の旅にでていた吉田寅次郎が帰郷するとまた裁縫や料理の習いを文はサボるようになる。
「寅次郎兄やん、旅はどげんとうとですか?」
「いやあ、非常に勉強になった。百は一見にしかず、とはこのことじゃ」
「何を見聞きしたとですか?先生」
 あっという間に久坂や高杉や伊藤や品川ら弟子たちが「松陰帰郷」の報をきいて集まってきた。
「う~ん、僕が見てきたのはこの国の貧しさじゃ」
「貧しい?せやけど先生はかねがね「清貧こそ志なり」とばいうとりましたでしょう?」
「そうじゃ」吉田松陰は歌舞伎役者のように唸ってから、「じゃが、僕が見聞きしたのは清貧ではない。この国の精神的な思想的な貧しさなんや。東北や北陸、上州ではわずかな銭の為に娘たちを遊郭に売る者、わずかな収入の為に口減らしの為に子供を殺す者……そりゃあ酷かった」
 一同は黙り込んで師匠の言葉をまっていた。吉田松陰は「いやあ、僕は目が覚めたよ。こんな国では駄目じゃ。今こそ草莽掘起なんだと、そう思っとうと」
「草莽掘起……って何です?」
「今、この日本国を苦しめているのは「士農工商」「徳川幕府や幕藩体制」という身分じゃなかと?」
 また一同は黙り込んで師匠の言葉を待つ。まるで禅問答だ。「これからは学問で皆が幸せな暮らしが出来る世の中にしたいと僕は思っとうと。学問をしゃかりきに学び、侍だの百姓だの足軽だのそんな身分のない平等な社会体制、それが僕の夢や」
「それで草莽掘起ですとか?先生」
 さすがは久坂である。一を知って千を知る天才だ。高杉晋作も「その為に長州藩があると?」と鋭い。
「そうじゃ、久坂君、高杉君。「志を立ててもって万事の源となす」「学は人たる所以を学ぶなり」「至誠をもって動かざるもの未だこれ有らざるなり」だよ」
 とにかく長州の人々は松門の者は目が覚めた。そう覚醒したのだ。
 
 
  

新島八重の桜と白虎隊と「幕末のジャンヌダルク・ハンサムウーマン」ブログ連載9(1)

2014年01月28日 08時32分52秒 | 日記

 話しを少し戻す。
1868月11日(明治2年6月3日)、東京で謹慎中の松平容保に実子の松平容大(まつだいら・かたはる)が生まれる。
松平容大の母親は側室の佐久である。
会津戦争で負けた会津藩は家名断絶となるが、降伏から1年後の1869年12月5日(明治2年11月3日)、松平容保の子・松平容大は家名存続が許された。
松平容大には家督を相続した養子・松平喜徳が居たが、家名存続を許されたのは実子の松平容大だった。
養子の松平喜徳は1873年に弟・松平頼之が死亡する。
と、松平容保との養子縁組を解消し、弟・松平頼之の養子となり、弟・松平頼之の家督を継いでる。
家名存続が許された松平容大は、青森県東部に3万石を拝領し、斗南藩(となみはん)を立藩することになる。
斗南は、漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める土地)から名付けたものである。
会津藩は、領地を「青森県東部」か「猪苗代(福島県耶麻郡)」かを選択することが出来た。
会津藩士の中には猪苗代での再興を主張する者多かった。
大河ドラマでは敗北した会津藩士たち男の中に男装した八重もいて、すんでのところで川崎が「女だ! ここに女がいるぞ!」と八重の腕を掴んで官軍に知らせて「逃がす」という場面が見られた。川崎尚之助が八重の命を救った美談だが、本当に大河ドラマの脚本通りの話の流れだったかは謎で、ある。
が、喧々囂々の末、会津藩は青森県東部での存続を選んだ。
会津藩が青森県東部を選んだ理由には諸説があるが、一説によると、重い税金を課していた会津藩は、会津の民から恨まれており、農民もヤーヤー一揆を起こしたことなどから、猪苗代で会津藩・松平家を再興するのは難しいと考え、青森県東部を選んだという。
また、会津藩は多額の借金を作っていたうえ、偽金を製造して流通させていたため、会津地方はハイパーインフレとなり、経済はボロボロになっていたことも青森県東部を選んだ理由とされている。
この新藩で、若き家老となり孤軍奮闘することになる山川大蔵(改名して山川浩)は、荒れ地の不毛地帯のような親藩領土で血のにじむような苦労をしたという。
斗南藩の立藩に伴い、各地で謹慎していた会津藩士は、1870年2月5日(明治3年1月5日)に謹慎が解かれ、1870年5月から新天地となる斗南藩への移住が始まった。
しかし、全ての会津藩士が斗南藩への移住したわけでは無かった。
斗南藩へ行かず、会津に残った会津藩士も多かった。
斗南藩は3万石とされているが、実質は7000石とされる不毛の地だった。
会津23万石(実質30万石とも言われる)から比べれば、実質10分の1以下の収入となり、斗南藩での生活が苦しいことは目に見えていた。
このため、斗南藩士として会津に残った者も居れば、会津藩士の身分を捨てて農民や商人になった者も居た。NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる山本八重も、斗南藩へは行かず、会津に残った。
 会津藩は、青森県東部で斗南藩として存続することになり、農業で生計を立てることとなる。
が、農業が上手くいかず、飢えに苦しんでいた。八重の幼馴染・日向ユキや時尾も新藩に行くが、ユキは飢餓と寒波で死にかける。彼女の命を助けたことで、元・新撰組隊士「斎藤一」と時尾は結婚することになる。結婚式の仲人は蟄居中の会津公・松平容保公が務めたという。容保は「ようやく、ひとつの大きな荷物をひとつ下ろせたような気分である」と祝言の席ではらはらと熱い涙を流し、「ふたりとも幸せになるのだぞ」と言った。ふたりは無言のまま平伏したという。
会津時代は農民から搾り取れば良かったが、斗南藩ではそういう訳にはいかず、斗南藩士も自ら農作業に従事しなければならなかった。
そこで、立ち上がったのが、山本八重の夫・川崎尚之助であった。
川崎尚之助は他の会津藩士と同様に猪苗代を経て東京で謹慎した後、斗南藩へ入った。
ただ、川崎尚之助は謹慎が解けた後に京都で滞在していたため、川崎尚之助が斗南藩へ入ったのは、会津藩士よりも数ヶ月遅れた1870年10月のことである。
斗南藩士となった川崎尚之助は「開産掛」に任命され、商取引で利益を上げる仕事に就いた。
農産物が取れない斗南藩にとって貿易は貴重な収入源であり、開産掛は斗南藩を救う重要な仕事だった。
そして、川崎尚之助は商取引を行うため、斗南藩士・柴太一郎と共に貿易の盛んな北海道・函館へと渡り、斗南藩士を名乗る米座省三(よねざ・しょうぞう)と知り合うのであった。
一方、妻の山本八重は戊辰戦争後、斗南藩へ移らず、会津に残った。
 あるとき、ひとりの青年が、元・米沢藩士の知り合いの米沢(現・山形県米沢市)の家に身をよせている八重とうら、みね、佐久の元に伝えにきた。
「なんだっで?あんっつあまが生ぎでる?」
八重は驚愕した。
「死んだものと思っていだ覚馬が生ぎでるなんでえ、仏様もいるんだなっし」
母親も八重も熱い涙を流した。
そして、死んだと知らされていた兄の山本覚馬が生きていることが判明すると、兄・山本覚馬頼って京都へと移った。
 前述したが、会津藩士が住んでいた自宅は、会津藩が所有する社宅のようなもので、会津藩の降伏後は新政府に没収されたため、会津藩士の家族に帰る家は無くなった。
このため、明治政府は、会津に残った会津藩士の家族に塩川周辺の農地を割り振り、帰農を勧めた。
江戸時代は「士農工商」などの身分制度があり、会津藩士は会津藩の家名断絶にともない、「武士」(会津藩士)の身分を失うことになった。
このため、会津藩士は、農民や商人に身分を移す「帰農工商」をする必要があった(ただし、その後、松平容大は家名存続が許されたため、武士の身分を保った)。
 山本八重は会津藩が降伏したとき、会津藩士に混じって謹慎地の猪苗代へと向かったが、女だとバレてしまい追い返されたというのは前述した。大河ドラマでは川崎が八重を助けたみたいに描かれた。
その後、自宅を失った山本八重は、母・山本佐久や姪「山本峰(山本覚馬の娘)」や嫂「山本うら(覚馬の妻=樋口うら)」とともに、山本家の奉公人だった者の家で世話になり、会津の山村で生活していた。
1869年12月5日(明治2年11月3日)に松平容大が家名存続を許され、青森県東部で斗南藩(となみはん)を立藩すると、謹慎が解けた会津藩士は1870年(明治3年)5月に斗南藩への移住を始めた。
しかし、山本八重は斗南藩へは行かずに会津に残った。会津に残った山本八重一家についての詳細は分からないが、針仕事や農業を手伝って、米や野菜を分けてもらいながら生活をしたとされている。
1870年(明治3年)11月ごろ、山本八重ら家族は、米沢に住む米沢藩士・内藤新一郎の元へ出稼ぎに行く。
米沢藩は戊辰戦争時に米沢藩士を会津藩へ砲術修業に出しており、内藤新一郎も砲術修業で会津を訪れていた。
この米沢藩士に砲術を指南したのが、山本八重の夫で会津藩士の川崎尚之助であり、いわば、内藤新一郎は川崎尚之助の弟子だった。
さらに、戦況が悪化に伴い、川崎尚之助の元で修業していた米沢藩士は米沢に戻ったが、内藤新一郎は連絡役として会津に残り、山本八重らが若松城へ入城した日まで山本家に寄宿していた。
こうした縁で、山本八重らは内藤新一郎を頼って仙台を訪れた。
この時の出稼戸籍簿に、山本八重は「川崎尚之助妻」として記録されていることから、山本八重が川崎尚之助と結婚していたことが証明されている。
 1971(明治4年)、山本八重が内藤新一郎の家で世話になっていたとき、「鳥羽・伏見の戦い」で死んだはずの兄・山本覚馬が京都で生きていることが判明する。
会津の新島八重らには、
「山本覚馬は、京都の蹴上から大津ヘ向かう途中に薩摩軍に捕らえられ、四条河原で処刑された」
と伝わっていたが、兄の山本覚馬が生きていたのだ。
どういう経緯で、兄・山本覚馬が生きていた事が判明したのかは判明していない。
山本覚馬は京都で京都府の顧問をしており、京都と米沢を行き来していた米沢藩士が、山本覚馬のことを山本八重に伝えたという説もある。また、山本覚馬から生存を知らせる手紙が届いたという説もある。

1870年9月(明治4年7月)、山本八重は米沢県に通行手形を申請し、1870年9月17日(明治4年8月3日)に山本八重は母・山本佐久や姪(覚馬の娘)「山本みね」を伴って、3人で京都へ向かった。
しかし、山本覚馬の妻「山本うら」は離婚を望んで米沢に残り、その後、斗南藩へ移住した。
妻の「山本うら」が離婚を望んだ理由は不明だが、
「山本覚馬が京都で若い愛人と暮らしている」
という噂を耳にしたため、妻「山本うら」が離婚を望んだという説がある。みねと母・うらは号泣しながら別れたという。
1971年(明治4年)10月、山本八重が母の山本佐久と姪(覚馬の娘)「山本みね」を連れて京都に到着する。
山本八重は数年ぶりに兄・山本覚馬と再開するが、兄との再開は驚きの連続であった。
京都で「鳥羽伏見の戦い」が勃発したとき、山本八重の兄・山本覚馬(やまもと・かくま)は薩摩兵に捕まったが、知り合いの薩摩藩士に助けられ、斬首を免れていた。
そして、山本覚馬は薩摩藩邸で幽閉されていたが、幽閉から1年後の1869年(明治2年)に釈放された。
山本覚馬は幽閉中に、同じく幽閉されていた野沢鶏一に口述筆記を頼み、近代国家のあり方を示した意見書「山本覚馬建白-時勢の儀に付き拙見申し上げ候(通称『管見』)」を書き上げ、新政府軍に提出していた。
山本覚馬が提出した「山本覚馬建白(管見)」は新政府の岩倉具視などに認められたため、山本覚馬は幽閉中も優遇されており、目の治療を受けることが出来たが、1年にわたる幽閉生活で目は完全に失明したうえ、腰を痛めて足を悪くしていた。
釈放後、山本覚馬は兵部省で客員をして働いていたとき、京都府の大参事(現在の副知事に相当)・河田佐久馬(後の河田景与)から顧問就任の要請を受ける。
大参事の河田佐久馬は、山本覚馬が幽閉中に書いた意見書「山本覚馬建白(管見)」を読み、山本覚馬の才能に惚れ込んでいたのである。(実際は、京都復興を推し進めていた部下の槇村正直の要請とも言われている。)
1870年4月28日(明治3年3月28日)、京都府の大参事・河田佐久馬が大政官に山本覚馬の「雇用伺」を提出する。
一方、新政府も山本覚馬が提出した「山本覚馬建白(管見)」を評価しており、山本覚馬を正式に採用しようとしていたところだった。
このころ、京都は1864年8月に起きた「禁門の変(蛤御門の変)」に伴う大火事(どんどん焼け事件)が原因で廃れており、1869年(明治2年)には明治天皇が京都から東京へ引っ越す「東京遷都」が進んでいた。
京都は大政奉還のおかげで、棚からぼた餅的に、首都に返り咲いただけなので、東京に首都が移ることについての影響は少ない。
が、天皇が東京へ引っ越すことは京都の産業にとって大きなダメージだった。
このため、京都府民は東京遷都に大反対した。
新政府は京都府民の反発に頭を抱えていた。
そこで、新政府は、諸外国の情報にも明るい山本覚馬を京都の産業復興の切り札として、京都府の顧問として認めることにした。
そして、「天皇の置き土産」と呼ばれる産業基立金10万両を京都府に残して、東京へと遷都することにした。
京都府は、さらに勧業基立金15万両を新政府から借りることができ、東京遷都と引き替えに、山本覚馬と25万両という大金を手にすることになる。
1870年5月14日(明治3年4月14日)、山本覚馬雇用伺の許可が下り、山本覚馬は京都府の顧問として働くことになる。
その後、木戸孝允の懐刀と言われる槇村正直が、河田佐久馬の後任として京都府の大参事に就任し、1872年(明治5年)に山本覚馬は正式に京都府顧問として就任する。
京都府の知事・長谷信篤(ながたに・のぶあつ)は単なる飾りで、京都府の実権は大参事(府知事)が握っており、槇村正直が京都府の実質的なトップとなる。
槇村正直は長州藩の木戸孝允の懐刀で、産業に関する実績があったため、木戸孝允が京都へ送り込んだ人材とも言われており、京都の産業復興のために辣腕を振うことになる。
一方、山本覚馬は禁門の変(蛤御門の変)のとき、長州軍が立て籠もる鷹司邸を砲撃し、火事を起こして京都を焼け野原にした張本人だった(火事の原因は諸説ある)。
京都を焼け野原にした山本覚馬が、今後は京都府の顧問として京都の産業復興の為に尽力することになる。
京都の産業復興という目的が一致していた山本覚馬と槇村正直の2人は、蜜月の関係で京都改革を推し進めていくのであった。
1869年(明治2年)、幽閉から釈放された山本覚馬(42歳)は、京都で小田時栄(おだ・ときえ)という16歳の少女と同棲を始めた(明治時代に淫行条例のような法律は無いので合法である)。
小田時栄(おだ・ときえ)は小田勝太郎の妹で、目を悪くした山本覚馬の身の回りの世話をし、山本覚馬の目の代わりとなって、山本覚馬の京都時代を支えてきた少女である。
小田時栄は幽閉中も薩摩藩の許可を得て、山本覚馬の世話を続けており、釈放後も山本覚馬と一緒に暮らしていたのである。
1871年(明治4年)、京都府の顧問となった山本覚馬は、京都府の大参事・槇村正直の自宅の隣にある空き家へ引っ越した。
山本覚馬が住むことになる空き家は、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の妾「お芳」の父親で、江戸の町火消しとして有名な新門辰五郎が京都滞在中に住んでいた豪邸(新門辰五郎邸)である。
大参事の槇村正直は、山本覚馬を「山本先生」と呼んで慕っており、槇村正直が山本覚馬に、自宅の隣の空き家を勧めたという。山本覚馬に対する信頼の程がうかがえる。
(注釈:小田時栄の兄・小田勝太郎が、山本覚馬に新門辰五郎邸を斡旋したという説もある。)
山本覚馬への期待はかなりのもので、山本覚馬の月給は30円であったが、後に45円へと昇級している。
新門辰五郎邸は敷地面積は100坪ほどあり、台所の他に5室ある豪邸で、山本覚馬は36円で新門辰五郎邸を購入し、小田時栄と住み始めたのである。
このようななか、会津から妹・山本八重や母「山本佐久」と「山本みね」の3人がやってくる。
山本八重らが京都に着いたのは、山本覚馬の引っ越しも終わり、新居での生活も落ち着いた1871年(明治4年)10月の事であった。
1871年(明治4年)10月、兄の山本覚馬を頼って上洛した山本八重らが京都の山本覚馬の自宅に到着する。
「ごめんなんしょ!」立派な家の門の前で、八重は玄関先でひとを呼んだ。
「へい。どなたはん、どすか?」若い美貌の女性がやってきた。八重は「わたしらはあんっつあま(お兄さん)の家族で…」
「ああ!きいておりますえ。ささっ、長い旅路でおつかれどすやろ?すぐに旦那はんを呼ぶさかい安心してください。さあ、中へ」
 ………旦那さま? 八重は少女のいう事に疑問を抱いた。奉公人や女中じゃねえのがっし?
山本八重らは応対に出た少女・小田時栄の案内で屋内へ入り、山本覚馬と再会する。
山本覚馬は、1862年に会津藩主・松平容保が京都守護職に就任した事に伴い、京都勤務となり、会津を出ていた。
そのとき以来の再会なので、9年ぶりの再会である。
山本覚馬が会津を発つ少し前に、娘の「山本みね」が生まれたばかりだったが、赤子だった「山本みね」は、すっかりと大きくなっていた。
娘の「山本みね」は山本八重と一緒に京都へ来たが、山本覚馬は我が子の成長を見ることが出来なかった。
山本覚馬は「禁門の変(蛤御門の変)」で目を負傷しており、盲目となっていたのだ。
山本八重はすっかりと変わり果てた、兄・山本覚馬に驚いていた。
山本覚馬は盲目となったうえ、腰を痛めて歩けなくなっていたのだ。
山本覚馬と再会した母・山本佐久は、山本覚馬に重い口を開かなければならなかった。妻「山本うら(樋口うら)」の件である。
母・山本佐久が、妻「山本うら(樋口うら)」が離縁を望んで米沢に残った事を伝えると、山本覚馬も母・山本佐久に愛人の小田時栄(おだ・ときえ)を紹介した。
山本覚馬が紹介した小田時栄は、山本八重らが山本家に就いたとき、応対に出た少女だった。
山本八重らは、使用人かと思っていた少女・小田時栄が愛人だったことに驚く。
このとき、山本覚馬は44歳で、愛人の小田時栄(おだ・ときえ)は18歳だった。
山本八重の年齢は26歳なので、山本覚馬は妹の山本八重よりも若い愛人と暮らしていたのである。
通説によると、このとき、山本覚馬は小田時栄との間に、山本久栄という娘が生まれており、山本八重を驚愕させたという。
注釈:小田時栄は愛人だったため、娘・山本久栄の誕生日の記録は残っていない。山本久栄の死亡日と死亡した年齢から逆算すると、生まれた年は1871年(明治4年)となるため、山本八重らが京都へ来たとき、山本久栄は生まれていたとされている。
山本覚馬は妻「山本うら(樋口うら)」が離婚を望んで米沢に残ったことを知ると、山本覚馬は妻「山本うら」と離婚し、愛人の小田時栄と結婚した。
また、山本八重が、父・山本権八や弟・山本三郎が死んだことを伝えると、山本覚馬は夜な夜な、山本八重に若松城籠城戦の様子を話すように頼んだ。
こうして、山本八重は京都で山本覚馬らと暮らすことになったのである。
山本八重はこのころ蟄居中の川崎尚之助から「離縁状」を郵送されたことに大河ドラマではなっている。それにしても八重は、「薩長の犬」の如く「知恵袋」と称して重宝され「奸賊・薩長」に仕えるだけの実兄・山本覚馬に頭に来ていた。「なあんであんっつあまは会津を滅ぼした敵である薩摩や長州の連中に頭下げんのがっす?!あんっつあまは悔しぐねのがっし!あんっつあまは薩長が会津滅ぼしたのわがってんだべ?!なして?!」
「八重!」覚馬は八重を諌めた。「あんっつあまにはわがらねのだっし!あの会津の役で……あのお城に……二千発もの大砲を受けて、ほとんどの藩士や女子や童子が討死した会津鶴ヶ城にいながったがら!あの戦場にいながっだがら!」「八重! これは俺の戦なのだ!」「い………戦?」「そうだ、会津を踏み石にした今の新政府は間違ってる。んだげんじょ、怒りをぶつけて同じ国の人間同志が戦うのはもうやめなばなんねえ。会津の悔しさ、怒り、はそれはそれ。我々生き残った者は、死んでいった者たちの分まで戦わねばなんねえ。これをみろ」覚馬は管見(かんけん・政治経済のご意見書)を見せた。「俺も会津の仇をとりでえ。んだげんじょ、これからは刀や鉄砲を武器にするんではなく、学問や知識でそして言論で日本を、世界を、変える世の中にせねばなんねえんだ」「んだげんじょ、ならば会津は逆賊のままなのがっし!?」「いや。会津の忠義や正義はわがらせねばなんねえ。新政府が見捨てたこの京都に俺は学問の国ばつくる。んだげんじょ、まずは八重「学問」を極めろ!学問の先に答えはあるからなあ!俺と共に戦ってくれ」「本当に答えはあんのがっし?!」「少しはあんっつあまを信じろ」ふたりは号泣した。なんにせよ誤解が晴れた、それは熱い涙、であった。
1871年(明治4年)10月に山本八重らが京都へ到着し、山本覚馬の家で住み始める。
1872年5月20日(明治5年4月14日)に、京都府河原町にある旧九条邸で女学校「新英学校及女紅場」が開校する。
東京では既に、明治5年2月に「官立女学校」(東京女学校)が開校しているので、京都府の新英学校及女紅場は、日本では2校目の女学校で、京都では初の女学校である。
正式には「新英学校及女紅場」だが、単に女紅場(にょこうば)と呼ぶ場合が多い。
「新英学校及女紅場」を「新英学級及女紅場」と呼ぶこともあるようだ。
なお、新英学校及女紅場は、1876年(明治9年)5月に「女学校及紅場」へと改称し、現在の「京都府立鴨沂高等学校」となっている。
一般的な女紅場は、女性が裁縫などを習って手に職を付ける場所で、京都府の新英学校及女紅場は「女紅場」に「新英学校」を併設した女学校である。
新英学校及女紅場の「新英学校」は、華族や士族の女子を教育する学校で、英語や数学を教えた(後に一般身分も入学できるようになった)。
「女紅場」は必須科目で、「新英学校」は希望制だった。新英学校を卒業した者は、教師になる免許を得られた。
山本覚馬は新政府に提出した意見書「山本覚馬建白(管見)」で、女性への教育の重要性を指摘しており、山本覚馬建白で述べたことが、京都で女学校「新英学校及女紅場」として実現することとなった。
一説によると、山本覚馬の母・山本佐久は聡明で、山本覚馬も山本佐久にはつくづく感心されられており、山本覚馬が女性への教育の重要性を悟ったのは、母・山本佐久の存在があったからだという。
 覚馬は「八重、にしは学問を身につけろ。会津の戦いでは鉄砲が武器だったげんじょ、これからは学問で身を立てる時代だ。女子でもにしなら上手ぐ学問を吸収できんべ」という。
「あんっつあま、わがりやした。言う通りにします。本当に学問で答えがわがるがわがらねげんじょ……あんっつあまを信じやす。んだげんじょ、あんっつまの世話はおらはやらなくていいのがっし?あんっつあまは盲目だんべ」
「さすけねえ。おれの心配はいい。時栄がおっがら大丈夫だ。安心して学問に励みなんしょ!」
「はい。」
山本八重は山本覚馬の家で同居するようになって以降、何をしていたのか分からないが、新英学校及女紅場に通学するようになっていた。
その後、山本覚馬の推薦により、権舎長・教導試補として新英学校及女紅場で働くことになる。
新島八重の月給は3円から3円50銭だった。
山本八重は教導試補として新英学校及女紅場で、小笠原流礼法と養蚕とを教えた。
小笠原流礼法は会津藩の日新館が会津藩士に教えていた武士の礼儀作法で、養蚕は会津で盛んだった産業である。
教導試補と同時に権舎長となった山本八重はこれ以降、新英学校及女紅場の宿舎で寝泊まりするようになったため、あまり山本覚馬の自宅には戻らなくなった。
山本覚馬が18歳の愛人・小田時栄と同棲しているところに、山本八重らがやってきたという経緯があるため、山本覚馬は山本八重に権舎長の仕事を任せたのかも知れない。
山本八重が新英学校及女紅場で働き始めたとき、裏千家13代の千宗室(円能斎)の母・猶鹿子(しかこ)が新英学校及女紅場で茶道を教えていた。
京都の新英学校及女紅場は、華族や士族の女子を教育する学校なので、茶道や華道も盛んだった。
山本八重は新英学校及女紅場で猶鹿子(しかこ)と知り合ったことがきっかけで、茶道を始めることになる。
山本八重が本格的に茶道を始めるのはもう少し後のことだが、茶道は、晩年の山本八重の拠り所となっており、猶鹿子との出会いは山本八重にとって運命の出会いであった。
日本初となる博覧会が京都で開かれたのは、山本八重が京都の山本覚馬の元を訪れてから、数日後の事であった。
これまでも、「物産会」「薬品会」などの名称で展示会は開かれていたが、「博覧会」として開催したのは、京都の博覧会が日本初である。
 1871年(明治4年)11月22日から33日間、京都の豪商「小野組」の小野善助らの主導により、京都にある西本願寺で日本初となる博覧会を開催する。
京都の産業復校や学校設立に関しては、市民や有力者からの寄付によるものが多く、京都博覧会も京都の有力者である小野組の小野善助、三井組の三井八郎右衛門、鳩居堂の熊谷直孝の3人が中心となり、博覧会社を設立して博覧会を開催した。
京都府はこれを支援する形であった。
しかし、第1回・京都博覧会は、会場が西本願寺だけで規模も小さく、大失敗に終わった。
そこで、山本覚馬らは、翌年の1872年(明治5年)に行われる第2回・京都博覧会の会場を西本願寺・建仁寺・知恩院へと拡大し、積極的に外国人を誘致した。
国際万博を模した大規模な博覧会を開催することにした。
1872年(明治5年)に行われる第2回・京都博覧会では外国人を誘致するため、英語での案内状が必要になる。
このため、山本覚馬は武器商人のカール・レーマンを通じて、ドイツから輪転印刷機を調達した。
(注釈:少し前までドイツは「プロシア」と呼ばれていたが、1871年1月にドイツ帝国が誕生しており、これ以降は「ドイツ」と呼ばれるようになる。)

新島八重の桜と白虎隊と「幕末のジャンヌダルク・ハンサムウーマン」ブログ連載9

2014年01月28日 08時30分41秒 | 日記
         9 八重よ白虎隊よ永遠に!




話は戻る。
  明治三年(一八六九)九月十九日、鶴ケ城に着弾……
 容保の妹らが爆撃の被害を受けた。
 容保は駆けつけてきた。
「……兄上……われわはもうだめです」
 妹は血だらけ床に横たわっている。
「それは医者が決めるんだ!」
「……会津の夢捨…てな…いで」
 容保の妹は死んだ。

  箱館病院で、高松凌雲と官軍の黒田了介は会談していた。
「もはや勝負はつき申したばい。榎本どんは共順とばいうとるがでごわそ?」
「……そうです」
「ならば」
 黒田了介は続けた。「是非、榎本どんにおとりつぎを…」
「わかりました」
「あれだけの人物を殺したらいかんど!」
 高松凌雲は頷いた。
 五月十五日、千代ケ岡で榎本武揚と官軍の田島は会談をもった。
「共順など……いまさら」
 榎本は愚痴った。
「涙をのんで共順を」田島はせまる。
「……城を枕に討ち死にしたいと俺はおもっている」
 榎本はにえきらない。危機感をもった田島圭蔵は土下座して嘆願した。
「どうぞ! 涙をのんで共順を!」
 榎本武揚は動揺した。
 そして、「俺の夢はな。この蝦夷を日本一にすることだった。でも…それももうおわりだ。俺はここで死ぬ」
 と溜め息をもらした。
 それから榎本は田島に「少年兵たちを逃がしてほしい」と頼んだ。
「わかりもうした」
 田島は起き上がり、頭を下げた。
「これを黒田さんに渡してくれないか」
 榎本武揚は、分厚い本を渡した。
「……これはなんでごわす?」
「海陸全書の写しです。俺のところに置いていたら灰になる」
 武揚は笑顔を無理につくった。
 黒田参謀は島田から手渡された本を読み、
「みごとじゃ! 殺すには惜しか!」と感嘆の声をあげた。
  少年兵や怪我人を逃がし見送る武揚……
 榎本はそれまで攻撃を中止してくれた島田に頭を下げ、礼した。
 そして、戦争がまた開始される。
 弁台場も陥落。
 残るは千代ケ岡と五稜郭だけになった。
 戦闘で、あの若者・英次郎が銃弾をあびて死んだ。兄・恒次郎も重傷をおう。
「………おさえちゃん…」
 恒次郎は血だらけになりながら、おさえの姿をみた。かたわらに病気の青年がいてもがいている。「いけません! 龍造さん!」
 おさえはとめたが、龍造はよろよろと歩く……官軍と戦うんじゃ!
 しかし、龍造は喀血して倒れてそのまま動かなくなった。
「龍造さん! 龍造さん!」
 おさえは泣いた。
 やがて官軍が攻めてきて、恒次郎も斬られて死んだ。
 官軍が侵攻したあと、山田市之丞はふたりの若者の遺体を発見して、
「こげな子供まで……榎本のど阿呆が!」
 と激昴した。
 山田市之丞は戦争後、法律を学び、日本大学の前身日本法律大学をつくることになる。  五稜郭に籠城する榎本脱走軍たちに官軍からさしいれがあった。
 明日の早朝まで攻撃を中止するという。
 もう夜だった。
「さしいれ?」星はきいた。
「鮪と酒だそうです」人足はいった。
 荷車で五稜郭城内に運ばれる。
「……酒に毒でもはいってるんじゃねぇか?」星はいう。
「なら俺が毒味してやろう」
 沢は酒樽の蓋を割って、ひしゃくで酒を呑んだ。
 一同は見守る。
 沢は「これは毒じゃ。誰も呑むな。毒じゃ毒!」と笑顔でまた酒を呑んだ。
 一同から笑いがこぼれた。
 榎本脱走軍たちの最後の宴がはじまった。
 榎本は少年兵を脱出させるとき、こういった。
「皆はまだ若い。本当の戦いはこれからはじまるのだ。五稜郭の戦いが何であったのか……それを後世に伝えてくれ」
 少年兵たちは涙で目を真っ赤にして崩れ落ちたという。

「……城が……城が燃えている! 城が! …し…ろ…が…」
 白虎隊たち少年兵たちは山中の頂きで、城が炎上しているのを見た。実際には城ではなく近くの城下町が燃えていたのだが……
 少年たちは絶望して、がくりと膝を地面についた。
「……もう……おわりだべさ」
「んだども……」
「侍は降伏してはならね。武士道とは死ぬことだべ?」
「……んだな」
 慶応四年八月二十三日夕方、少年たちは自決した。



  ……ふと容保の後ろ姿がおかしいと大塚雀之丞は思った。
 容保は藩主室にこもったままだ。そこで大塚は様子を見にいった。
 松平容保はボタンを外し、チョッキを外し、腹をひろげて、脇差をもった。
「降伏なぞするか!」
 ……会津公が切腹する!
「大変だ! みんな大変だ!」
 大塚は容保に飛びかかり、切腹をとめた。みんなも集まってくる。
「切腹させてくれ!」
 容保は涙声でうったえる。
 しかし、一同はスクラムを組んで松平容保の脇差をとり、切腹をとめた。
 家臣は「殿! 死ぬのはいつでも出来る! はやまるでない!」といった。
「天子さま(天皇)のお裁きを受けましょう」
 一同は涙を流しながらいった。
 恐ろしいほどの静寂が辺りを包む。
 ……もう……おわったのだ。戦は…おわり……だ…
 会津藩は陥落、官軍に降伏した。
  明治三年(一八六九)五月二十七日、榎本武揚らも官軍に投降した。
 黒田了介は榎本武揚と接見した。
 榎本は「この戦の全責任は私にあります。私は斬首でもかまわないが、他の連中のことを頼みます」と頭を下げた。
「よか! よか! もうおわったことばい!」
 黒田了介は武揚と握手をかわした。
 こうして、「蝦夷共和国」は五ケ月だけの幻に消えた。
  東京では田代老人が、木戸考允(桂小五郎改め)につめよっているところだった。
「……会津公たちをどうする気かね?」
 老人は迫った。
「裁判にかけます」木戸はいった。
「殺す気かね?」
「……裁判次第です」
 老人は声を荒げた。
「人材の浪費は駄目だ! 今この国を思えば……たとえ賊軍だったとしても貴重な人材は残すべきじゃ! 違うかね? 木戸さんよ」
 木戸は感銘をうけた。
 ……まさしくその通りだ!
「わかりました。先生」
 明治三年九月、榎本武揚は江戸の牢獄の中にいた。
 一番牢  新井郁之助
      松岡磐吉
 二番牢  松平太郎
 三番牢  大鳥圭介
 四番牢  永井玄蕃
 五番牢  榎本武揚
      沢太郎左衛門


  戌辰戦争後、松平容保は鳥取藩に預けられ、東京に移送されて蟄居するが、嫡男・容大(かたひろ)が家名存続を許されて華族に立てられた。それから間もなく蟄居を許され、1880年(明治十三年)には日光東照宮の宮司となり、正三位の位を得た。
 そして1893年(明治二十六年)十二月五日に東京・目黒の自宅にて肺炎のため松平容保は死去した。享年五十九……死の前日には明治天皇から牛乳を賜る。
 死ぬまで容保は考明天皇から賜った書簡を竹筒に入れて首からぶらさげて死ぬまで話さなかったという。
 維新については戌辰戦争後は一切語らずであったという。

 松平容保は切腹をまぬがれ、隠居させられた。明治となって、白虎隊の供養碑を建てた。                            
……”幾人の涙は石にそそぐともその名はよよに朽ちじとぞ思う”……
 会津家臣たち一行は北海道に向かった。坂井順吉は北海道にいき、福島県にもどり、昭和二十年八十歳で死んだ。飯沼は自決したが死なずにすみ、生き残り、白虎隊のことを後世のひとに伝えたのち昭和二十七年に死んだ。
 また容保も明治を生抜き、明治時代に隠居先で息をひきとった。

  釈放された榎本武揚は、その知恵のおかげで明治政府に重要視され、次々と出世していく。
 明治五年    北海道開拓泰任出仕
   七年    海軍中将
         ロシア派遣特命全権大使
   十二年   条約改正取調御用掛
   十三年   海軍卿
   十五年   皇居造営事務副総裁
         清国駐在特命全権公使
   十八年   逓信大臣
   二十年   子爵の位
   二十二年  文部大臣
   二十四年  外務大臣
   二十七年  農商務大臣

     …………
  大鳥圭介(学習院院長)、永井尚志(元老院書記)、新井郁之助(初代気象庁長官)、松岡磐吉(獄中で死亡)、松平太郎(北海道を開拓し、初代箱館市長に)、沢太郎左衛門(海軍兵学校教授)、星恂太郎(北海道開拓)、高松凌雲(民間看護隊、日本赤十字の先駆け)、林董三郎(外務大臣)、山内六三郎(鹿児島県知事)……
 明治政府はかれらを保釈したあと、能力を発揮させた。
 明治維新の後の日本はかれらが、蝦夷共和国の彼等が支えたといってもいい。

 明治十年(一八七八)、容保は馬車で北国の島道をすすんでいた。
 保釈後の容保は隠居ののち北海道開拓のための資金ぐりの毎日となった。かつての家来たちも北海道で開拓にいそしんでいる。榎本武揚はよくやっていると噂できいていた。
 榎本武揚のみごとな交渉で、樺太とクリル(千島)列島の領有権を確保したのだという。 しかし、それが源で、日露戦争が勃発するのだが……
 松平容保は馬車を降りた。
 島の崖で、激しい風を受けた。荒波のシベリア海にはかつての仲間たち…土方や近藤たち、白虎隊の少年たちの姿が重なり、容保は涙を流した。
 それがどんな涙であったのか……
 もはや松平容保以外知るところではない。


軍師 黒田官兵衛と石田三成と「2014年大河ドラマ軍師官兵衛」原作・ブログ連載6(1)

2014年01月22日 07時11分54秒 | 日記

 有岡城の城主・荒木村重は天正6年(1578年)11月に突如として織田信長に反旗を翻した。
が、苦しい戦いを強いられ、荒木村重は天正7年9月に有岡城を抜け出し、中国の毛利元就に援軍を求めた。
しかし、天正7年(1579年)11月、城主・荒木村重が不在となった有岡城は、城兵が織田軍の調略に応じ、落城する。
御着城の城主・小寺政職は、有岡城の城主・荒木村重に同調して織田信長に反旗を翻した。
が、有岡城が落城すると、天正7年12月に御着城を捨てて中国地方へと逃げた。
小寺政職は中国地方を流浪しながら、織田信長に謝罪したが、織田信長は裏切り者の小寺政職を許さなかった。
その後、小寺政職は毛利輝元を頼り、備後の鞆(広島県福山市鞆)に住み、天正10年(1582年)に死んだ。小寺政職には男子・小寺氏職の他に、女子数人の子供が居たが、小寺政職の死によって大名としての小寺家は滅んだ。
小寺家の滅亡を哀れんだ黒田官兵衛(小寺官兵衛)は、羽柴秀吉に、
「小寺政職は不義によって流浪し、死んで小寺家は滅びました。息子の小寺氏職を引き取って養育したいので、小寺氏職の罪は恩赦してください」
と頼んだ。
黒田官兵衛の希望を聞いた羽柴秀吉は、昔の恩を忘れない志に感心し、黒田官兵衛の願いを聞き入れた。
小寺官兵衛は家臣・衣笠久右衛門を備後の鞆(広島県福山市鞆)に派遣して、小寺家を呼び寄せ、小寺氏職を養育した。
小寺官兵衛は小寺政職のせいで命の危機にさらされたのに、旧悪を忘れ、なんと情の深いことか。「恩をもって仇を報ず」とは、このことである、と人々は感心した。
黒田官兵衛と父・黒田職隆は、御着城の城主・小寺政職に仕え、小寺政職から「小寺」姓を賜り、小寺姓を名乗っていた。
しかし、小寺官兵衛は織田信長に反旗を翻し、毛利輝元に寝返ったので、黒田官兵衛と父・黒田職隆は小寺姓を捨て、旧姓「黒田」へと戻した。
どの時点で黒田姓へと戻したのか、正確な時期は分からない。
御着城の城主・小寺政職は織田信長に属していたが、途中で毛利側へと寝返った。
「小寺」は反逆者の姓なので、織田信長(または羽柴秀吉)が小寺官兵衛に「小寺」姓の使用を禁じた、という説もある。
いずれにせよ、黒田官兵衛は小寺性を捨てて名実共に黒田官兵衛に復帰したので、ここからは表記を「小寺官兵衛」から「黒田官兵衛」へと変更する。
 天正8年(1580年)閏3月、人質となっていた松寿(後の黒田長政)が、黒田官兵衛の元に返還される。
天正8年(1580年)、三木城を落として東播磨を平定した羽柴秀吉は、姫路城を黒田官兵衛に返還し、三木城を居城と定めた。
しかし、黒田官兵衛は、
「三木城は要害ですが、播磨では辺境の地にあり、居城には適していません。姫路は諸国への通路も良く、運送の便も良い要所なので、姫路を居城になされませ」
と助言した。
羽柴秀吉は、
「姫路城は汝の城であろう」と姫路城を返そうとしたが、
黒田官兵衛は「姫路城は中国征伐の重要拠点にて、もとより秀吉様に献上したものに御座います」と答えて受け取らなかった。
このため、羽柴秀吉は姫路城を居城とし、黒田官兵衛は父・黒田職隆が築いた国府山城(こうやまじょう=別名は妻鹿城)を居城とした。
そして、黒田官兵衛の助言により、羽柴秀吉が居城・姫路城の改修工事を行う。
この姫路城の改修工事は、黒田官兵衛と浅野長政によって進められた。
さて、播磨には若干の毛利勢力が残っていたが、その後、羽柴秀吉によって駆逐され、羽柴秀吉によって播磨が統一された。
その後、織田信長は播磨16郡52万石と丹波13万石を羽柴秀吉に与えた。
すると、羽柴秀吉は黒田官兵衛に東揖郡(現在の兵庫県揖保郡)福井庄内など計1万石を与えた。
こうして、小寺家の家老だった黒田官兵衛はようやく大名に成り上がることができた。
黒田官兵衛が1万石の大名になったのは天正8年(1580年)9月、黒田官兵衛が35歳の事であった。
(注釈:1万石以上になると大名に分類される)。
さらに、翌年の天正9年(1581年)に1万石が加増され、黒田官兵衛は2万石の大名になった。
 天正8年(1580年)5月、播磨(兵庫県南部)をほぼ平定した羽柴秀吉は、弟・羽柴秀長を派遣し、但馬(兵庫県北部)を攻めた。
そして、但馬の守護大名・山名祐豊を討ち取り、但馬を平定した。
但馬を平定した羽柴秀吉は進路を西に取り、因幡(鳥取県東部)の攻略に取りかかる。
因幡の守護大名は鳥取城の城主・山名豊国であった。
天正8年(1580年)6月、羽柴秀吉の軍勢が、因幡にある山名豊国の鳥取城を包囲する。
羽柴秀吉が、
「降伏すれば因幡1国を安堵する」と持ちかけると、
鳥取城の城主・山名豊国は羽柴秀吉に降伏する。鳥取城を落とした羽柴秀吉は播磨へと引き上げた。
ところが、天正8年(1580年)9月、山名豊国の家臣や兵は毛利側によしみを通じ、羽柴秀吉に降伏した城主・山名豊国を追放して鳥取城に籠城したのである。
こうして、鳥取城で籠城する家臣は、総大将が不在になったため、毛利輝元の重臣・吉川元春に守将の派遣を求めた。
吉川元春は毛利家で山陰地方の責任者であり、鳥取城の要請を受け、家臣・牛尾元貞を鳥取城へ派遣した。
しかし、牛尾元貞は鳥取城で籠城するが、死亡(「病死」または「負傷死」)してしまう。
このため、吉川元春は牛尾元貞の後任として、家臣の市川雅楽允・朝枝春元の両名を鳥取城へ派遣した。
が、鳥取城側は吉川元春に守将のチェンジを要求した。
このため、吉川元春は一族の吉川経家を鳥取城に派遣し、天正9年(1581年)3月に吉川経家が鳥取城へ入った。
吉川経家は自分の棺桶を用意して鳥取城へ入ったという。
天正9年(1581年)6月、羽柴秀吉は鳥取城への再派兵を決定し、黒田官兵衛を軍艦(軍師)に据え、2万の軍勢を率いて吉川経家が守る鳥取城を目指した。
さて、軍師・黒田官兵衛は鳥取城を攻めるにあたり、事前に因幡にある米を1粒残らず、相場の倍値で買い占め、若狭へと運んでいた。
さらに、黒田官兵衛は鳥取城を包囲する直前に、鳥取城の周辺に在る農村を襲い、ことごとく焼き払った。
自宅を失った農民は鳥取城へ逃げ込み、鳥取城の人口は一気に膨れあがった。
そこで、羽柴秀吉は2万の大軍で鳥取城を包囲し、兵糧攻めにしたのである。
これは、「三木の干殺し」と呼ばれる三木城の兵糧攻めが1年10ヶ月を要したため、もっと効率よく兵糧攻めを行うために、黒田官兵衛が考えた作戦だとされている。
このとき、鳥取城には20日分の兵糧しか残っていなかった(鳥取城は黒田官兵衛の策だとは知らず、籠城戦に備えて蓄えていた兵糧を売り払ったとも伝わる)。
そこへ、黒田官兵衛に家を焼かれて行き場を失った農民が逃げ込んできたため、鳥取城は一気に人口が膨れあがり、食糧不足に陥った。
下々の者まで食料は回らず、草や木の葉を食べ、稲の根を食べた。
木の皮や草の根を食べ尽くし、牛や馬の肉を食べたが、それでも食料は足らず、やせ衰えていった。
鳥取城は毛利からの援軍を期待したが、羽柴秀吉が2万の大軍で海路も陸路も完全に封鎖しているため、毛利からの援軍は羽柴秀吉の軍に阻まれて鳥取城まで到達できず、鳥取城は完全に孤立した。
食糧の尽きた鳥取城は、地獄だった。籠城開始から4ヶ月が過ぎた10月になると寒さも増し、4千人の餓死者が出た。
やがて、鳥取城内の下々の者は、死人を掘り返して肉(人肉)を食べるようになり、地獄絵図が展開されるようになった。
いわゆる人肉を食べる「カニバリズム」である。
また、鳥取城から逃げだそうとした者が羽柴秀吉の軍勢に撃たれてれると、鳥取城の下々の者は撃たれた者に群がり、まだ息のあるうちから、撃たれた者の手足を切り取り、食べた。
人肉の中で脳みそは美味しいのか、頭は人気があり、下々の者は頭を奪い合って食べた。
このように人肉まで食べるようになった鳥取城の籠城戦が、世に言う「鳥取の飢殺し(鳥取の渇殺し=かつごろし)」である。
いかに大河ドラマでもこのような残虐なシーンは放送されることはなかった。
鳥取城兵糧攻めの「鳥取の飢殺し」と三木城兵糧攻めの「三木の干殺し」の2戦は、日本の兵糧攻めを代表する惨劇で、そのいずれも天才軍師・黒田官兵衛の献策だとされる。(注釈:三木城包囲は竹中半兵衛の献策とも言われている。)
天正9年(1581年)10月25日、人が人肉を食べるという地獄絵図に耐えきれなくなった守将・吉川経家は、兵士の助命と引き替えに切腹して、開城した。
三木城兵糧攻め(三木の干殺し)は1年10ヶ月を要したが、鳥取城攻略では天才軍師・黒田官兵衛の「鳥取城の飢殺し(渇殺し)」作戦が見事にはまり、鳥取城はわずか4ヶ月で落城したのである。
ただ、「鳥取城の飢殺し(渇殺し)」作戦を献策した軍師・黒田官兵衛は、鳥取城の落城を前に、阿波(徳島県)の三好家の救出を命じられ、阿波へと向かっている。
 天正8年(1580年)、羽柴秀吉が但馬(兵庫県北部)・因幡(鳥取県東部)の征伐を進めるころ、四国では土佐(高知県)の長宗我部元親が、阿波(徳島県)の三好家へ侵攻していた。
元々、土佐(高知県)の長宗我部元親は、織田信長の家臣・明智光秀と親戚で、織田信長と同盟を結び、良好な関係にあった。
そこで、長宗我部元親は明智光秀を通じて、織田信長に鷲や砂糖を贈り、織田信長から「四国を自由に切り取って良い」と許可を得ていた。
一方、阿波(徳島県)の三好家は、14代将軍・足利義栄を擁立し、中央政権でも権力を誇った名家だったが、15代将軍・足利義昭を擁立して上洛を果たした。
織田信長との戦に敗れ、衰退していた。
三好家は織田信長と対立していたが、没落後は黒田官兵衛を通じて織田信長の傘下に入り、三好家は羽柴秀吉の養子・羽柴秀次を養子に貰い受けていた。
このため、土佐の長宗我部元親と阿波の三好家の両家は、ともに織田信長側の勢力となっていた。
このようななか、土佐(高知県)の長宗我部元親が阿波への侵攻を開始た。
そして、長宗我部元親は阿波(徳島県)と讃岐(香川県)をほぼ平定し、四国統一に迫った。
これに困った三好家は、長宗我部元親による四国統一を阻止するため、織田信長に救済を求めた。
これを受けた織田信長は長宗我部元親に、讃岐と阿波の一部を統治を認め、讃岐と阿波の北部を返還するように命じた。
しかし、長宗我部元親は、
「自分で切り取った領土で、織田信長から拝領したものではない」
として、織田信長の要求を無視し、阿波への侵攻を続けた。
これに怒った織田信長は、羽柴秀吉に三好家の救済を命じた。
これにより、長宗我部元親との交渉を努めていた明智光秀は、厳しい立場に立たされた。
さて、三好家の救済を命じられた羽柴秀吉は、鳥取城を兵糧攻め(鳥取の飢殺し)にしている最中だった。
羽柴秀吉は、毛利側の援軍・吉川元春とも対峙して動けないため、軍師・黒田官兵衛を名代として四国へと派遣した。
このころ、姫路では黒田職隆が容態が悪化し、命も危ない状態だったが、黒田官兵衛は黒田官兵衛は命令を拒否することは出来ず、嫡子・黒田長政に「私に変って黒田職隆によく仕えるべし」と命じ、三好家の救済へと向かった。
なお、黒田長政は黒田官兵衛の言いつけを守り、献身的に介抱を行ったので、黒田職隆の病気は治った。
 天正9年(1581年)9月、黒田官兵衛は仙谷秀久を淡路島へと派遣した。
ほかに、生駒親正などを阿波(徳島県)へと派遣し、黒田官兵衛自身も阿波へと渡った。
天正9年(1581年)11月15日、三好家から援軍の要請があったため、淡路に居た仙谷秀久を阿波の勝端城の援軍に差し向け、黒田官兵衛は淡路島へと上陸した。
淡路島には由良城(ゆらじょう)という要害があり、由良城には安宅河内守という強敵が居た。
このため、黒田官兵衛は誅殺によって由良城の城主・安宅河内守を斬り、淡路島の平定を成し遂げた。
黒田官兵衛が生涯で誅殺した人数は2人だけで、その1人目が姫路時代に仕えた小寺家の家老・山脇六郎左衛門である。
そして2人目が、由良城の城主・安宅河内守(あたぎきよやす)である。
なお、黒田官兵衛が城主・安宅河内守を斬った刀は、名刀「安宅切」と呼ばれ、現在(2013年)は福岡市博物館に保存されている。
天正9年(1581年)11月、淡路島・阿波・讃岐を平定し、三好家を救済した黒田官兵衛は、淡路島の洲本城(兵庫県洲本市)を仙石秀久に任せて姫路へと引き上げた。このとき、黒田官兵衛は36歳であった。
 武田信玄の亡き後を継いだ甲斐(山梨県)の武田勝頼は、天正3年(1575年)の「桶狭間の合戦」で織田信長・徳川家康の連合軍に敗れて衰退していた。
天正10年(1582年)2月、織田信長は甲斐の武田勝頼を攻め、天正10年3月の「天目山の戦い」で武田勝頼を討ち、武田家は滅んだ。
北陸の上杉家は上杉謙信の亡き後、家督争いで疲弊しており、もはや織田信長の敵では無かった。
武田勝頼を滅ぼした後、残る強敵は九州の島津義久、四国の長宗我部元親、中国の毛利輝元となっており、織田信長の野望は天下統一に一歩一歩と近づいていたのである。

新島八重の桜と白虎隊と「幕末のジャンヌダルク・ハンサムウーマン」ブログ連載6

2014年01月21日 07時27分04秒 | 日記
         6 官軍迫る



またまた話しを変える。まるで落ち着きのない独楽の如く。
  鶴ケ城の庭で、集まった家臣や少年たちに松平容保は激をとばした。
「日本の近代化は余たちがやる! 薩長なにするものぞ! ジャンプだ! この新天地でジャンプだ!」
 一同からは拍手喝采がおこる。
 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……
 会津藩三千余名、福島でのことである。
 少年たちはナギナタをもった姉たちをからかった。
「これ! 貞吉! ふざけている場合ではないですよ!」
 姉のおみねが諫めた。すると弟が、
「ぼくは姉上が母上の御腹の中に落としていったものをつけて生まれたんだ」
 といった。
 意味がわかっておみねは「これ!」と顔を赤くした。
 慶応四年(一六七八)一月二十八日、いよいよ官軍が迫ってきた。
 同年八月には藩主・松平容保は「薩長と戦う! 奸族どもを始末するのだ!」
 と激を飛ばした。
 八月二十三日には食料や弾薬が底をついてきた。
 会津軍八千、官軍二万……
 とても勝てそうにもなかった。
 しかし、会津白虎隊少年たちは火縄銃で交戦していた。
「おれらが負げる訳ね!」
「んだ! おれらが正義だ!」
 しかし、会津は次々と敗走しだす……

  明治二年、榎本脱走軍は蝦夷全土を占領した。
 そこで、榎本武揚らは「蝦夷共和国」の閣僚を士官以下の投票により選出した。
 選挙の結果は左のとおりである。

 総裁      榎本武揚
 副総裁     松平太郎
 海軍奉行    荒井郁之助
 陸軍奉行    大鳥圭助
 箱館奉行    永井玄蕃
 開拓奉行    沢太郎左衛門
 陸軍奉行並   土方歳三

 なお土方は、箱館市中取締裁判局頭取を兼ねることになったという。
 一同はひとりずつ写真をとった。
 土方歳三の有名なあの写真である。しかし、「蝦夷共和国」はつかのまの夢であった。 同年一月中旬、明治政府がついに列強国との局外中立交渉に成功した。ということはつまり米国最新甲鉄艦の買いつけに成功したことを意味する訳だ。
 それまでの榎本武揚は開陽丸を失ったとはいえ、海軍力には自信をもち、いずれは明治政府も交渉のテーブルにつくだろうと甘くみていた。よって、蝦夷での事業はもっぱら殖産に力をいれていた。
 とくに七重村でのヨーロッパ式農法は有名であるという。林檎、桜桃、葡萄などの果樹津栽培は成功し、鉱山などの開発も成功した。
 しかし、「蝦夷共和国」は開陽丸を失ったかわりに官軍(明治政府軍)は甲鉄艦を手にいれたのである。力関係は逆転していた。


  明治二年(一八六七)二月昼頃、江戸の官軍による収容所に訪ねる一行があった。
 佐久とその父・林洞海と兄である。
「良順おじさまにあえないわ」
 佐久はいった。「良順おじさまは賊軍ではないわ。だってお医者さまだもの」
 だが、加賀藩用人・深沢右衛門は「松本良順は賊軍、面会は駄目じゃ」というばかりだ。 林洞海は「今何時かわかりまするか?」とにやりといった。
 深沢は懐中時計を取り出して「何時何分である」と得意になった。
 すると、洞海は最新式の懐中時計を取りだして、
「……この時計はスイス製品で最新型です。よかったらどうぞ」と賄賂を渡した。
「しかし……」
「どうぞ」
 深沢はついに誘惑におれた。
「三十分だけだぞ」
 佐久とその父・林洞海と兄は刑務所の檻に入れられた松本良順と再会した。
「おお! 佐久! それに林殿も…」
 松本良順は歓喜の声をあげた。
 松本良順は仙台で土方歳三らと合流するつもりだったが、持病のリウマチが悪化し神奈川に帰ったところを官軍に捕らえられていた。
「……お元気でしたか?」
 佐久は気遣った。
 すると良順は「わしはとくになんともない。それより……」
 と何かいいかけた。
「…なんですの?」
「官軍が会津まで到達したそうじゃ。公たちを倒すために会津征伐隊などと称しておるそうで……馬鹿らしいだけだ」
「まぁ!」佐久は驚いた。
「公は会津を貸してほしいと明治政府に嘆願しておるという」
「会津は上様さまにとって藩地、十五歳の頃に藩主になって以来ずっと会津のことを考えてきたそうです」
 佐久の兄は、
「公は夢を食うバクだ」と皮肉をいった。
 佐久は「会津公さまは確かにバクですわ。でも、食べるのは夢ばかりではありません。明治政府をも食べておしまいになられますわ」
「これ! 佐久、官軍にきかれたらただじゃおさまらん。物騒なこというな!」
 父は諫めた。
 松平容保の会津処理を岩倉具視は拒否し、容保の「会津共和国」ひいては「榎本脱走軍」は正式に”賊軍”となった。
 同年三月七日、政府海軍は、甲鉄艦を先頭に八隻の艦隊で品川沖を出港した。
 同年三月二十日、榎本脱走軍は軍儀をこらし、政府軍の甲鉄艦を奪取する計画を練った。アイデアは榎本が出したとも土方がだしたともいわれ、よくわからない。

「さぁ、君達はもう自由だ。猪苗代にいる官軍までもどしてあげよう」
 容保たちは捕らえた薩摩藩士たちを逃がしてやった。
 もう三月だが、会津は雪の中である。
 薩摩藩士・田島圭蔵の姿もその中にあった。
 ……なんといいひとじゃ。どげんこつしてもこのお方は無事でいてほしいものでごわす。 田島は涙を流した。
 容保たちにとって薩摩藩士らは憎むべき敵のはずである。しかし、寛大に逃がしてくれるという。なんとも太っ腹な松平容保であった。

 舞台は蝦夷(北海道)である。
「箱館戦争」の命運をわけたのが、甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)であった。最強の軍艦で、艦隊が鉄でおおわれており、砲弾を弾きかえしてしまう。
 官軍最強の艦船であった。
 それらが蝦夷にせまっていた。
 榎本たちは焦りを隠せない。
 ……いまさらながら惜しい。開陽丸が沈まなければ……

  箱館病院では高松凌雲はまだ忙しくはなかった。
 まだ戦は始まってはいない。看護婦はおさえという可愛い顔の少女である。
 土方は龍造という病人をつれてきた。
「凌雲先生、頼みます!」
 土方歳三は凌雲に頭をさげた。
「俺は足軽だ! ごほごほ…病院など…」
 龍造はベットで暴れた。
 おさえは「病人に将軍も足軽もないわ! じっとしてて!」
 とかれをとめた。龍造は喀血した。
 高松凌雲は病室を出てから、
「長くて二~三ケ月だ」と土方にいった。
 土方は絶句してから、「お願いします」と医者に頭をさげた。
「もちろんだ。病人を看護するのが医者の仕事だ」
「……そうですか…」
 土方は廊下を歩いた。
「官軍の艦隊が湾に入りました!」と伝令がきた。
「なにっ?!」
 土方はいい、「すぐにいく!」といって駆け出した。


  すぐに榎本たちは軍儀を開いた。
 大鳥圭介は「なんとしても勝つ!」と息巻いた。
 すると、三鳥が「しかし、官軍のほうが軍事的に優位であります」と嘆いた。
 回天丸艦長の甲賀源吾が「官軍の艦隊の中で注意がいるのが甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)です! 艦体が鉄でできているそうで大砲も貫通できません」
 海軍奉行荒井郁之助は「あと一隻あれば……」と嘆いた。
 土方はきっと怖い顔をして、
「そんなことをいってもはじまらん!」と怒鳴った。
 榎本武揚は閃いたように「ならもう一隻ふやせばいい」とにやりとした。
「……どうやってですか?」
 一同の目が武揚に集まった。
「甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)をかっぱらう!」
 武揚は決起した。「アボルタージだ!」
 アボルタージとは、第三国の旗を掲げて近付き、近付いたら旗を自分たちの旗にかえて攻撃する戦法である。
 荒井郁之助は「アボルタージですか! それはいい!」と同感した。
 家臣たちからは、
「……本当にそれでいいのでしょうか? そんな卑怯なマネ…」
 と心配の声があがった。
 武揚は笑って「なにが卑怯なもんか! アボルタージは国際法で認められた立派な戦法だぜ! 卑怯といえば薩長じゃねぇか。天子さまを担いで、錦の御旗などと抜かして…」「それはそうですが……」
 土方は無用な議論はしない主義である。
「それには私がいきましょう!」
 土方は提案した。
 武揚は躊躇して、
「土方くん。君の気持ちは嬉しいが……犠牲は少ないほうがいい」
 といった。声がうわずった。
「どちらにしても戦には犠牲はつきものです」
「君がいなくなったら残された新選組はどうなるのか考えたことはないのか?」
「ありません。新選組は元々近藤勇先生のもので、私のものではありません」
「しかし……その近藤くんはもうこの世にはいない」
 土方は沈黙した。
「とにかく……私は出陣します! 私が死んだら新選組をお願いします」
 やっと、土方は声を出した。
「……土方くん………」
 榎本は感激している様子だった。
「よし! 回天と蟠竜でやろう!」
 回天丸艦長の甲賀源吾が「よし!」と決起した。
 荒川も「よし! いこう! 甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)をかっぱらう!」
 と決起した。
「よし! よし!」
 榎本は満足して何度も頷いた。
 そして、
「アボルタージだ!」と激を飛ばした。
 ……アボルタージ! アボルタージ! アボルタージ! アボルタージ! ……

  さっそく回天丸に戦闘員たちが乗り込んでいった。
 みな、かなり若い。
 土方歳三も乗り込んだ。
 しかし、土方とてまだ三十五歳でしかない。
 海軍士官・大塚浪次郎も乗り込む。彼は前記した元・彰義隊隊士・大塚雀之丞の弟である。「兄上! しっかりやりましょう! アボルタージを!」
「おう! 浪次郎、しっかりいこうや!」
 大塚雀之丞は白い歯を見せた。
 英語方訳の山内六三郎も乗り込む。
「アボルタージだ!」
 若さゆえか、決起だけは盛んだ。
 しかし、同じ英語方訳の林董三郎だけは乗せてもらえなかった。
「私も戦に参加させてください!」
 董三郎は、回天丸艦長の甲賀源吾に嘆願する。
 が、甲賀は「榎本総裁がおぬしは乗せるなというていた」と断った。
「なぜですか?! これは義の戦でしょう? 私も義を果たしとうごりまする!」
 林董三郎はやりきれない思いだった。
 高松凌雲がそんなかれをとめた。
「榎本さんは君を大事に思っているのだ。英語方訳が蝦夷からいなくなっては困るのだ」「…しかし……」
「君も男ならききわけなさい!」
 董三郎を高松凌雲は説得した。
 こうして、回天丸と蟠竜丸が出帆した。

「官軍がせめて……きたのでしょう?!」
 病院のベットで、龍造は暴れだした。看護婦のおさえは、
「……龍造さん、おとなしくしてて!」ととめた。
 龍造は官軍と戦う、といってきかない。そして、また喀血した。
「龍造のことを頼みます」
 船に乗り込む前に土方は病院により、おさえに頼んでいた。看護のことである。

 舞台はふたたび会津である。
  病院に松平容保がきた。
「あなたが土方さんのお知り合いの女性ですか?」
 容保は不躾な言葉で、井上ちか子に声をかけた。
 ……いやらしい気持ちはない。
「はい殿。京で一緒でした。しかし、もう京はありません。みな死にました。好きな人のために女でもここで戦って死にとうござりまする」
 井上ちか子の言葉を、容保は佐久の声のようにきこえてたまらなくなった。
「井上さん」
「はい」
「……元気で。お体を大切になさってください。戦は必ずこちらが勝ちます」
「しかし……」
「心配はいりません。わが軍の姿勢はあくまで旧幕府と同じ共順……会津は共和国です。明治政府とも仲良くやっていけます」
 容保自身にも、自分の言葉は薄っぺらにきこえた。
「誰か! 誰かきて!」
 おさえが声をあげた。「龍造さんが……!」
「……す、すいません!」
 井上ちか子は病室にむけ駆け出した。
 容保はひとり取り残された。
 かれはひとりであり、また悪いことに孤独でもあった。そうなのだ! 困った!
「……佐久、シャボンをつくってやる約束は果たせそうもない」
 松平容保は、深い溜め息とともに呟いた。
「…佐久……」容保は沈んだ気持ちだった。
 湾には官軍の艦隊が迫ってくる。
 白虎隊が出陣するときはいつも嵐の中であった。
 それは、白虎隊の未来を暗示しているかのよう、であった。


そして再び「会津の役」に戻ろう。
1868年10月11日(慶応4年8月26日=籠城3日目)、若松城を包囲する新政府軍の陣中に笛や太鼓が鳴り響き、会津地方に伝わる獅子舞「彼岸獅子(ひがんじし)」が乱舞する。
何かのお祭りだろうか。
彼岸獅子は賑やかな笛や太鼓に合わせて踊りながら新政府軍の陣中を通って若松城の方へ進んでいく。
新政府軍は薩摩藩と土佐藩を中心とした諸藩の集まりで、様々な武具を着けており、彼岸獅子の一行が敵なのか味方なのかも判断できない常態だった。
新政府軍は呆然と獅子舞の一行を眺めるだけだった。
新政府軍の陣中を抜けた彼岸獅子が若松城へ近づくと城門が開き、彼岸獅子の一行は若松城に入ってしまった。
呆気にとられる新政府軍。
一体、あれは何だったのだろうか。
数日前、新政府軍の侵攻に備えて国境の日光街道の警備にあたっていた会津軍の山川大蔵(後の山川浩)の元に、帰城命令が届いていた。
「城の守りが手薄になっている。敵との戦闘を避けて速やかに帰城せよ」との命令であった。
若松城の危機を知った山川大蔵は急いで若松城へ引き返すが、若松城は新政府軍に包囲されており、無傷で若松城までたどり着くことができない。
そこで、会津藩士の水島純が一計を案じ、会津地方に伝わる獅子舞「彼岸獅子」の行列に扮装して包囲網を突破する計略を、山川大蔵に進言したのだ。
彼岸獅子の計は、新政府軍を欺くことができることと同時に、若松城に居る兵に味方だと教えることが出来る名案だった。
山川大蔵は彼岸獅子の伝わる小松村の村長・大竹重左衛門や斎藤孫左衛門を呼び、彼岸獅子の協力を求めた。
失敗すれば全員が死ぬ危険な作戦であったが、大竹重左衛門は「今こそ、松平家300年の恩顧に報いる時だ」と言い承諾した。
直ぐさま、村長・大竹重左衛門は村人を集めて協議した結果、高野茂吉(30歳)を隊長とした決死隊とも言える彼岸獅子隊10人を編成した。
雄獅子は大竹巳之吉(12歳)、雌獅子は中島善太郎(14歳)に任せた。隊長の高野茂吉(30歳)以外の9人は少年で、最年少は弓持の藤田与二郎(11歳)であった。
そして、1868年10月11日(慶応4年8月26日=籠城3日目)、高野茂吉が率いる彼岸獅子を先頭に、山川大蔵の部隊は敵陣へと進んだのである。
少年達は一瞬たりとも気を許さずに彼岸獅子を演じきり、見事に新政府軍の陣中を突破し、無傷で若松城へ入ることに成功した。
新政府軍はただただ、呆気にとられて彼岸獅子を見送ったという。
彼岸獅子は春の彼岸に行われる、家族の無病息災を願う祭りで、会津に雪解けと春の訪れを知らせる行事でもあった。
当時は娯楽が無く、会津藩士の中にも彼岸獅子を楽しみにしている者が多かった。
「大蔵さあ、援軍にきでくれだのがっす!頼もしいべ」一同は微笑んだ。
山川大蔵の彼岸獅子は、籠城する会津兵に大いに勇気を与えることが出来たという。
その後、見事に役目を果たした彼岸獅子隊は無事に小松村に戻り、1人の被害者も出さなかった。
会津藩の敗戦後の明治4年、小松村の彼岸獅子は、山川大蔵の配慮により、会津藩主・松平容保に彼岸獅子を披露する機会に恵まれた。
このとき、松平容保は「彼岸獅子の入城」の勇気を称えて、小松村の彼岸獅子に会津松平家の会津葵紋の使用を許可した。
現在も会津葵紋の使用が許されているのは、小松彼岸獅子だけである。
籠城2日目から3日目にかけて、会津藩が国境に展開していた主力部隊が続々と帰城してきた。
若松城に籠城する人数は、戦闘員と非戦闘員とを合わせて5000人を超えたという。
山川大蔵の彼岸獅子の入城により、会津藩の士気は高まっていたが、新政府軍に包囲された若松城内は、籠城派と降伏派とに別れて喧々囂々の議論となっていた。
極楽寺の裏切りにより、若松城の弱点となる小田山を新政府軍に占領されたうえ、会津藩は籠城の準備をしていなかったため、若松城には籠城戦に備えるだけの武器や兵糧が無かった。
武器商人から購入したゲベール銃は不良品が多く、会津藩は火縄銃まで持ち出す始末であった。
ゲベール銃は不良品を売りつけられたという説もある。
会津藩の家老は世襲制で、会津の名門9家(会津9家)の出身者しか家老になることが出来ず、身分意識が強いうえ、保守的だった。
このため、会津藩の首脳陣は没落していた。
会津藩は身分制度が強く、優秀でも身分が低ければ出世することができなかった。
秀才と言われた秋月悌次郎が左遷されたのも、下級藩士だったからだ。
また、改革を主張しようものなら、家老の怒りを買い、処罰されるのは必至だった。
西洋銃の導入を訴えた山本覚馬も1年間の禁足を食らったのも、会津藩の家老の反感を買ったからだった。
会津藩は、西日本諸藩の事情に通じていた秋月悌次郎が左遷し、薩摩藩・長州藩と対等に話が出来る神保修理を無実の罪で自害に追いやった。
新政府軍とのパイプ役を切り捨てて、会津藩を戦争へ追いやったのは、会津藩自身であった。
会津藩が恭順派と抗戦派に別れるなか、家老の西郷頼母(さいごう・たのも)は、藩主・松平容保に切腹を迫り、全員玉砕を主張した。
非戦恭順派だった西郷頼母が、藩主・松平容保の切腹および会津藩の玉砕を主張した理由は分からない。
西郷頼母は過去に、京都守護職の就任に反対し続けて、藩主・松平容保の怒りを買い、家老を解任されたていた。
その後、家老に復帰した西郷頼母は、「白河口の戦い」で大軍を率いて白河城の守備にあたったが、新政府軍の参謀・伊地知正治の手勢700人に惨敗し、白河城を奪われるという大失態を犯した。
(実戦経験の無い西郷頼母に、東北諸藩の運命がかかっている白河城の守備を任せたのは、身分が理由との説もある。)
その西郷頼母が、この場に及んで藩主・松平容保に切腹を迫ったため、藩主・松平容保ほか会津藩士が激怒した。
このため、身の危険を感じた西郷頼母は、城の外にいる部隊への伝令を口実に、長男の西郷吉十郎を連れて若松城を抜け出して逃げた。
一説によると、西郷頼母に刺客が送られたが、刺客はあえて西郷頼母を追わなかったとされている。
ただし、刺客説の真相は分からない。
西郷頼母はその後、旧幕府軍の榎本武揚と合流し、北海道の函館へ渡った。
そして、旧幕府軍が降伏すると、西郷頼母は館林藩に幽閉された。
西郷頼母を追放してもなお、会津藩は恭順派と抗戦派に別れて、喧々囂々の議論を続けていた。
しかし、藩主・松平容保は籠城を決め、山川大蔵を軍事総督に抜擢し、梶原平馬を政務総督に抜擢する英断を下した。
こうして、20歳代の2人が、会津藩の軍事・政務の責任者に就き、旧態依然としていた会津藩に新しい風が吹いた。
さらに、藩主・松平容保は、原田対馬に西出丸の守備に就け、海老名季昌を北出丸の守備を任せるなどして、若松城の防衛の責任者に若手を起用。
佐川官兵衛を総督に任命し、首脳陣を一新した。
そして、秋月悌次郎を軍事奉行添役に抜擢するなどして、優秀な若手を次々と起用した。
主・松平容保は、保守的な旧体質を壊し、新しい会津藩を誕生させた。
本当の意味での会津藩の改革が行われたのは、この時である。
会津藩は新体制の元、一致団結し、士気は益々高まった。
いつの世も時代を作るのは若い力なのだ。
会津藩の頼みの綱は、奥羽越列藩同盟の援軍と冬の到来だった。
雪が降れば、新政府軍は移動も食料の搬送も困難となる。
冬まで持ちこたえれば、会津藩にも勝機が出てくる。
1868年10月13日(慶応4年8月28日)、籠城6日目にして若松城に入城した娘子隊(別名「婦女隊」)の中野こう子が、卑怯者の山本八重に
「なぜ娘子隊に加わらなかったのですか」と問うた。
1868年10月8日(籠城1日目)早朝、若松城の城下町に早鐘が鳴り響いたとき、山本八重は若松城に入城することができたが、敵の侵入は早く、早々に城門は閉ざされ、城内に入れなかった者も多かった。
中野竹子は会津藩主・松平容保の義姉・照姫を警護するため、母・中野こう子と妹・中野優子を連れて、若松城へ向かったが、時は既に遅く、若松城の城門は閉ざされていた。
中野竹子は、会津藩士・中野平内の長女で、江戸の会津藩上屋敷で生れ、江戸で育った。
中野竹子は幼い頃から聡明で、文武に優れ、かなりの美人だったという。
また、中野竹子は幼少期から赤岡大助に師事して薙刀(なぎなた)を学び、道場では師範代を務めるほどの腕前であった。
中野竹子は江戸で生活していたが、「鳥羽・伏見の戦い」の後、藩主・松平容保が徳川慶喜から登城禁止を言い渡されて会津へ戻ったことに伴い、中野竹子一家も会津に引き上げていた。
会津の風呂屋は混浴だったため、江戸で生まれ育った中野竹子は風呂屋へは行かず、自宅のタライで入浴していた。
中野竹子は絶世の美女だったため、会津の男はこぞって風呂場を覗きに行ったという。
覗かれたことに激怒した中野竹子は薙刀を振り回し、覗きに来た男を追い払ったという逸話が残っている。
1868年10月8日(籠城1日目)、若松城へ入城できなかった中野竹子は、同じように逃げ遅れた依田まき子・依田菊子(後の水島菊子)・岡村ます子の3人と出会い、娘子隊(婦女隊)を結成した。
(この時、依田菊子は既に髪を切り落としていた。山本八重が髪を切るのは、籠城1日目の夕方あたりなので、依田菊子が髪を切るのは早かった。)
さらに、入城できなかった神保雪子(切腹させられた神保修理の妻)などが続々と薙刀を持って集まり、娘子隊(婦女隊)は20数名に発展した。
娘子隊(婦女隊)は、会津藩が設置した正規軍ではなく、逃げ遅れた女性らが中野竹子らに合流して自然発生した義勇軍的なものである。
この点は、正規軍の白虎隊とは大きく異なる。
娘子隊(婦女隊)は義勇軍なので部隊に名前は無く、後に「娘子隊」または「婦女隊」と呼ばれるようになった。
後に名称が付いた点は、二本松藩の悲劇として知られる「二本松少年兵」と同じである。
 1868年10月8日(籠城1日目)、娘子隊(婦女隊)を結成した中野竹子らは、会津兵から会津藩主・松平容保の義姉・照姫が坂下へ避難したという情報を聞き、照姫を警護するため、坂下へと向かった。
しかし、情報は間違っており、坂下に照姫は居なかった。
中野竹子らはこの日、坂下の法界寺で宿泊し、翌日、照姫を警護するため、若松城へ向かうことにした。
1868年10月9日(籠城2日目)、中野竹子ら娘子隊(婦女隊)は高瀬村に会津軍が駐留している事を知り、高瀬村に駐留している会津藩の家老・萱野権兵衛に従軍を願い出た。
しかし、娘子隊は女ばかりだったため、家老・萱野権兵衛は
「城に帰って女中の仕事をして欲しい」
と言い、従軍を拒否する。会津藩士にとって、女を戦わせることは末代までの恥なのだ。
しかし、中野竹子らは
「戦に加えてくれなければ、この場で自決します」
と言って後に退かないため、家老・萱野権兵衛は仕方なく、旧江戸幕府軍の衝鋒隊への従軍を認めた。
会津藩の「什の掟」には、
「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」
「ならぬことはならぬものです」
という掟があるが、
「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」
という掟があるとおり、「什の掟」は男子のための教えであり、女子には関係が無い。

2014年始動企画「hyper groove(ハイパーグルーブ・通称「ハイグル」)」いよいよチェックメイト!

2014年01月19日 19時52分23秒 | 日記
AKB48「hyper groove」計画  提案書 秋元康先生・ベッキー♪♯さんへ。

緑川鷲羽2014ReBORN上杉謙信よりベッキーさんへ
This is a gentle reminder about the e-mail comment deadline. Please note is it last years. Washu midorikawa. I hate to Rush You, But we must receive the e-male comment by last years. Can you please Confirm has been sent? I would really like to be a part of the project team. Let’s join forces.どうかベッキーさん、「こんな天才の片鱗があるひとが計画が世に出ないのは憐れだ」と思って是非会社や事務所に働きかけて「音楽でも成功したい!hyper grooveというユニットでやりたい!」と思ってください。少なくても私緑川鷲羽は貴方の「運命の人」の筈ですよ。まずはメールください。ちゃんと話し合いましょう。すべてはここから始まりますよ。では。メールまっています.無理に「性格のいい女性」や「元気百倍娘」「元気の押し売り」を演ずる必要等ないよ。そのままのベッキーでいいんだ。そのままのベッキーが私は好きなのだから。性格100点の人間などいない。欠点のない人間等いないんだ。無理して笑顔をつくり、元気に見せる必要等ないんだ。ありのままのベッキーさんでいい。ありのままのベッキーさんとhgのユニットで頑張ってみたい。私だって昔は「馬鹿」「オカマ」「キモい」と罵倒嘲笑投石されていた。嫌われるのが恐くても「元気の押し売り」等しなくていいんだ。私にだけは心を開いてごらん。気持ちが楽になる筈だよ。いつも自分がトップでなくていい。誰かに嫌われたって、世間の役に立てばそれがベッキーさんなんだよ。そして秋元康先生へ。
私はけっこうAKBや嵐の曲が好きだ。でも、ロリコンでも疑似恋愛している訳でもない。私はリア充だし、AKBのアイドルは子供過ぎる。嵐は曲の高品質が好きなのだ。新アルバムだって購入した。私はヲタクでは絶対ありません。推しメンは大島優子だが、沙弥という自作小説の映像化時の主演と思うから。私がAKBを支持するのは「アイドル戦国時代」ともいわれ音楽CDが売れない時代に(秋元康先生の戦略もあるかも知れないが)誰よりも努力と競争をして、サバイバルをしているからである。彼女らの努力や競争意力は半端ない。あれだけ踊りながら歌うのは半端な努力では完成はない。努力は裏切らない!私はヲタクではない。が、大島優子氏の対人スキル・歌唱力・演技力・存在感・性格の明るさ・努力度・パフォーマンス能力等もはやAKBの器を超えていると思う。卒業して、女優・アーティストにと飛躍する未来がある。卒業の決断はまさに英断だ。AKBの次世代エースは渡辺麻友氏だろう。あまりメンバーの名前知らんが(笑)アンチAKB派はAKBを「キャバクラやメイド喫茶」とリンクさせようとする。が、所詮は、無競争教育で「没個性」「シャカリキに学ばない」怠け者の60万人のニート等の思考でしかない。メンバーはそれこそ競争に次ぐ競争でサバイブしてる。甘い世界じゃない。まさに毎日血反吐だ。彼女達を見習え!





米沢燃ゆ 上杉鷹山公(大河ドラマ)キャスト
                     原作・緑川鷲羽 脚本・田渕久美子
                     音楽・大島ミチル
       

      上杉鷹山(治憲)…………    木村拓哉(SMAP)
      幸姫 …………     渡辺麻友(AKB48)
上杉直丸(少年期)………    鈴木福
      上杉重定    …………    津川雅彦
      竹俣当綱    …………    中村梅雀
      莅戸善政(大華)…………    風間杜夫
      木村高広    …………    京本政樹
      藁科松伯    …………    高嶋政伸
      お富の方    …………    浅野ゆう子
      佐藤文四郎   …………    今井翼(タッキー&翼)
      旅館の女将   …………    鈴木砂羽
      水沢七兵衛   …………    佐藤B作
      須田満主    …………    平泉成
      黒井半四郎   …………    笹野高史
      細井平洲    …………    寺尾聰
      文四郎の恋人  …………    多部未華子
      色部照長    …………    橋爪功
      紀伊      …………    香川京子
      七家      …………    前田吟・北村総一郎・大杉蓮・北野武・三浦友和 他

        他 

NHK朝の連続テレビ小説か民放でドラマ化希望「沙弥(さや)」(過去ブログ連載小説参照)

    「沙弥・さや」主題歌「どんなことがあっても…」hyper groove
    原作・緑川鷲羽わしゅう・脚本・宮藤官九郎・音楽・大島ミチル(天地人)

    緑川沙弥   …………   大島優子(元・AKB48)
黒野ありさ  …………   篠田麻里子(元・AKB48)
緑川良子(母)……………  吉行和子
    緑川まゆ(妹)……………  美山加恋
    緑川和宏(兄)……………  おさる
    銀音寺さやか …………   渡辺麻友(AKB48)
    上野樹里、貫地谷しほり…  特別出演
(本人・swgirlsのさやかの学生時代友達)
    緑川彰(父)…………    笹野高史(写真)
    朱美里(韓国人)……    真矢みき
    黄江(おうえ)健三郎…   平泉成
    ありさの友人 …………   加藤夏希、ベッキー、倉科カナ、剛力彩芽ら
    ありさの父  …………   寺島進
    ありさの母  …………   高島礼子
    沙弥の恋人(小紫・赤井)  永井大
    チンピラ・敵 …………   劇団ひまわり
    緑川こう(祖母)…………  正司歌江   
                   他(山形県米沢市を舞台とした長編ドラマ)

 NHKか民放アニメーション(か、実写版)
MA螢(マジック・エンジェル螢(Magic Angel hotaru))過去ブログ連載小説参照

   原作・緑川鷲羽わしゅう・音楽・大島ミチル


   青沢螢    …………   渡辺麻友
   赤井由香   …………   板野友美
   セーラ(妖精)……………  谷花音
   黒野有紀   ……………  前田敦子
   黄江美里   ……………  篠田麻里子
   神保先生   ……………  劇団ひとり
   アラカンら敵 (劇団ひまわり)
   黒野有紀の母 ……………  高島礼子
   赤井由香の父 ……………  平泉成
   黄江の父   ……………  北大路欣也
                    他    

NHKか民放ドラマか映画・原作緑川鷲羽「異常人 WATER MAN」
(緑川鷲羽わしゅう過去ブログ参照)・脚本・田渕久美子 音楽・大島ミチル
  異常人・キャスト
  T橋和則 ………  井手らっきょ
  魚田みすず……… 渡辺麻友(AKB48)
セロン・カミュ… セイン・カミュ
  ミッシェル……… リサ・ステグマイヤー
  由美釈子 ……… 釈由美子
  武田医師 ……… やくみつる
  和田あゆ子 …… 和田アキ子
  緑川鷲羽 ……… 篠田麻里子(元AKB48)  

平成25年某月某日    hyper groove企画書


          緑川鷲羽みどりかわわしゅうプランナー/ストラテジスト
         hyper groove are,washumidorikawa AKB(&6),Becky♪♯
私緑川鷲羽(音楽活動のみ緑川鷲羽2014ReBORN上杉謙信)と女性ボーカルベッキー♪♯+(AKB48秋元才加・篠田麻里子・大島優子・小野恵令奈・光宗薫・芹那)希望)作詞作曲緑川鷲羽。プロデュース。リーダーDJKeyなど緑川鷲羽。AKB48さんら広報。ベッキー♪♯+(AKB48秋元才加・篠田麻里子・大島優子・小野恵令奈・光宗薫・芹那)さんが駄目なら他のAKBメンバー乃木坂、など。hyper grooveの登場曲(大島ミチル「天地人 天~運命」)旗印、上杉の毘沙門天の旗と龍の旗。家紋、上杉家の旗印。
   編曲HAL(希望)  (カラオケ)秋元康さんには印税より「AKB48レンタル料金」を払います。

①1 funky night!Funky dance! 2 don't stop dancing to my friend.
3 どんなことがあっても…      4 anyway together
5 twinkle twinkle (X'mas mix)6 just one、7 just do it together 8 冬よ
9  love again 10 シャガール11 dAnger(inter lude)12 GIRL 13 It’s Automatic gun
14 Twinkle knight ②1 All-night RHYTHM 2 Time magic 3 NEREID 4× 5 See is…6 ASAP RSVP 7 そばにおいでよ 9 You can dAnce ③1 We are Positive girl 2 do the impression 3 Face to Face 4 Your best friend 5 I am beyond the time 6 dAnce to positive girl 7 I'ts graduation 8 ありがとう 9 starry romance night 10 going home 11 we are RHYTHM 12 Wanna kiss

ポスト小室哲哉(衣装・緑川鷲羽わしゅう戦国basara2上杉謙信衣装、AKB48(&6)衣装・郵送済みファッションデザイン画参照)hgは「アイドル・ユニット」ではなく「アーティストユニット」です。メンバーに「作詞作曲」も依頼する予定です。hgはAKBとは音楽のジャンルが違うのです。稚拙アレンジはプロに。詐欺でない。「どんなことがあっても…」は大島優子主演のnhk朝の連続小説ドラマ「沙弥」の主題歌に。
秋元先生には私がAKBが有名になったからお金目当てに尻尾をふってきた者で、利用されるとお考えかも知れません。でも違うんです。大島優子らが無名でもつかったと思います。私はベッキーや大島優子らをアーティストとして欲しいんです。印税は払うからあなたは何もしないで儲かるんですよ。復興応援ユニットです。是非!






諦めなければ夢は叶う
 人生はいろいろで誰だって順風満帆な人生などない。いろいろなひとがいていろいろな夢がある。アイドル・グループAKB48の高橋みなみというひとの「努力は必ず報われる」というポジティブな考えは好きだ。よくひねくれたやつが「確かにそのひとの夢は叶ったのかもしれない。だが、その陰で何千何万のひとが夢破れている」という。くだらないと思う。そんなことをいっていたら誰も頑張らくなる。全員が医者やアイドルや歌手や億万長者になれる訳ない。だが、諦めなければいい。俳優や歌手になりたかったら40歳になろうが60歳になろうが続ければ活路は開ける筈だ。「夢破れた」という時点で人生に敗北している。90歳の作家だっているのだ。死なない限り人間の可能性は無限大である。努力は必ず報われる、その言葉で頑張ろう!

緑川鷲羽わしゅう監修「hypergroove法度(ルール)」
(1)緑川鷲羽わしゅうが死んだらhg解散(2)ダメ人間に貢がない(3)長幼の序を守る
(4)活字本を最低月一回読む(5)結婚しても離婚しても夫・子供に依存しない(慰謝料×)
(6)学歴・年齢を詐称しない(7)子供・ペットを甘やかさぬ事(他人に優しく自分に厳しく)
(8)緑川鷲羽わしゅうが嫌いなら脱退(9)お中元お歳暮・誕生祝×(10)ヤミ金詐欺は警察通報
(11)英会話覚えること(12)節約・貯金・お金を大切に「贅沢は敵だ」炎の守銭奴たれ!
(13)贅沢生活・タトゥー(刺青)×(14)ローン詐欺、ギャンブル×ライブ後打ち上げ×全部割り勘で。借りはつくらない(甘えるな)
(15)実名・悪口・嫌がらせ×(16)トイレは我慢するな(17)差別・集団虐め・いじめ×
(18)オカルト・占い・手相・風水・祈祷、信じない事(19)大切なものは皆で共有
(20)挨拶はきちんと。やくざに関わるな。株買うな(21)結婚・恋愛自由(産休1年)
(22)タバコ×振り込め詐欺やセクハラ、パワハラ、ストーカ被害は警察へ(DVも)
(23)アルコールはたしなむ程度で(酒酔い運転禁止)(24)ドラッグ(麻薬)や盗作×
(25)フルヌード×(26)お金の貸し借り・食事などの貸し借り×(27)クイズ・学歴番組出演NG
(28)生理休暇(1日から3日有給)(29)論語と算盤(30)ノブレス・オブリージュをし、人間として恥ずかしくない人間になる。正しい「炎の守銭奴」たれ!

軍師 黒田官兵衛と石田三成と「2014年大河ドラマ軍師官兵衛」原作・ブログ連載3

2014年01月18日 07時31分09秒 | 日記
       3 秀吉 墨俣一夜城



         タヌキ家康


話を戻す。
「どうかこの栗山めを家来にしてください!」
永禄8年(1565年)夏、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が20歳のとき、15歳の栗山善助(別名は栗山利安)が出仕する。
栗山善助は生涯で57の首級を上げ、黒田官兵衛の右腕となる家臣である。
栗山善助の父親の名前は分からない。
が、栗山家は播磨守護大名・赤松家の一族で、代々、赤松家に仕えていた。
足利尊氏から播磨国姫路の近くにある栗山を拝領したことから、栗山姓を名乗った。
栗山善助が15歳のころ、既に播磨では赤松家は衰えており、「黒田家は大国の主なり」という噂が流れていた。
そこで、栗山善助は黒田官兵衛を大国の主と見込んで仕官した。
黒田官兵衛は、若いのに奇特な者だと思い、栗山善助を召し抱えた。
栗山善助は誠に正直で、奉公に精を出すことから、黒田官兵衛が「善助」と名付けた。
永禄9年(1566年)1月11日、父・黒田職隆は栄城の城主・井口与左衛門の娘を養女とし、室津城の城主・浦上清宗に嫁がせ、播磨での地盤を固めた。
しかし、結婚式の当日の夜、播磨で対立している龍野城の城主・赤松政秀に攻められ、黒田職隆の養女と浦上清宗は戦死した。
このとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は21歳であった。
永禄10年(1567年)、小寺官兵衛が22歳のとき、志方城(兵庫県加古川市志方町)の城主・櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘・櫛橋光(15歳)と結婚する。
(注釈:このとき、櫛橋光は15歳だが、戦国時代に淫行条例や結婚の年齢制限はないので、15歳の少女と結婚する事は合法である。)
櫛橋光は小寺政職の姪にあたり、小寺官兵衛が小寺家で重用さていたことがうかがえる。
大河ドラマでは光は、官兵衛の初恋の女の死後3年で、運命的な出会いをすることになっている。お転婆でかかあ殿下な設定らしい。
この結婚により、黒田家は小寺家と関係を強くするとともに、志方城の城主・櫛橋伊定と関係を強め、播磨での地盤を固めた。
なお、妻となる櫛橋光は「光姫」「照姫」と表記されることもある。
櫛橋光の読み方は「くしはし・てる」と「くしはし・みつ」の2説があり、どちらが正しいかは判明していない。
2014年の大河ドラマでは櫛橋光「くしはし・てる」説を踏襲していた。この物語でも光(てる)という説を踏襲した。
黒田官兵衛は正室の光のみを愛した。側室は生涯もたなかった。子はふたりだけ。成人したのは黒田長政のみである。
最初、黒田官兵衛の政略結婚の相手は光ではなく、光の姉のりきであった。光は一人目の子供(長男・松寿丸・のちの黒田長政)からなかなかふたりめが出来ないことがあった。
世の中は戦乱の世で「一族の数が多ければ多いほど「有利」」である。光は「殿、側室を是非おとりくだされ!」と気配りをみせる。
が、官兵衛は「嫁はお前(光)だけでよい」というばかりだったという。
子供を人質にとられたときも、織田方の武将で摂津の荒木村重の元に、「小寺方の使者」として荒木の城下に単身交渉にいき一年間も官兵衛が幽閉(暗い牢獄で髪は抜け落ち、足も不自由になる。小寺氏は毛利方に寝返り、織田方の秀吉に助けられ、負けた小寺氏は毛利に遁走)されたときも「黒田の家はわたくしが守りまする!」といい家臣団を勇気づけたという。
黒田官兵衛の妻の名前を「幸圓(こうえん)」と表記する解説本もあるが、幸圓は本名ではなく、櫛橋光の雅号とされている。
この結婚に際し、櫛橋伊定は小寺官兵衛に、朱塗りの合子形兜(銀白檀塗合子形兜)を贈ったという伝承が残っている。
銀白檀塗合子形兜はお椀をひっくり返した形をしており、黒田官兵衛が銀白檀塗合子形兜を愛用したため、銀白檀塗合子形兜は「如水の赤合子」として恐れられたという。
(注釈:黒田官兵衛の象徴ともなる銀白檀塗合子形兜は、九州の関ヶ原の合戦で使用された。)
さて、小寺官兵衛が櫛橋光と結婚したころ、父・黒田職隆は44歳の若さで隠居し、黒田官兵衛に家督を譲った。
こうして、小寺官兵衛は黒田家の当主となり、姫路城の城主となったのである。
そう外様大名で、軍師という具合である。そして前述した織田信長に降るのである。
小寺官兵衛(黒田官兵衛)が櫛橋光と結婚した永禄10年(1567年)、尾張(愛知県)の織田信長は、美濃(岐阜県)の大名・斎藤龍興を倒し、稲葉城を岐阜城へと改称して岐阜城を本拠地とした(後述)。
そして、織田信長は「天下布武」の朱印を使いようになり、天下統一へと歩み始めた。
このとき、織田信長は33歳で、小寺官兵衛は22歳であった。
小寺官兵衛(黒田官兵衛)が結婚した翌年の永禄11年(1568年)、正室・櫛橋光が姫路で嫡男・松寿を出産する。
この松寿が、後の黒田長政である。
天下布武を掲げた織田信長が15代将軍・足利義昭を擁して上洛を果たしたのは、黒田長政が生まれた永禄11年(1568年)のことである。
永禄12年(1569年)、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が24歳のとき、地侍・曽我一信の子・母里太兵衛(別名は母里友信)が14歳で出仕した。
母里太兵衛は戦場で常に先手を務め、黒田家家臣の中で最多となる76の首級を上げた豪傑である。母里太兵衛は黒田家の精鋭24人「黒田二十四騎」の1人で、「黒田節」として唄われた。
母里太兵衛は気性が激しく、手の付けられない少年だったため、小寺官兵衛は母里太兵衛(母里友信)と栗山善助(栗山利安)を呼び、
「栗山善助は兄として母里太兵衛を助け、母里太兵衛は弟として栗山善助の言葉に従え」
と命じ、2人に義兄弟の誓いを交わさせた。
母里太兵衛は成人しても気性が激しく、黒田長政らを困らせたが、義兄弟の誓いだけは守り、義兄・栗山善助の言うことには理屈抜きで従った。

  話を少し戻す。
  織田信長は奇跡を起こした。桶狭間の合戦で勝利したことで、かれは一躍全国の注目となった。信長はすごいところは常識にとらわれないところだ。圧倒的不利とみられた桶狭間の合戦で奇襲作戦に出たり、寺院に参拝するどころか坊主ふくめて焼き討ちにしたり……と、その当時の常識からは考えられぬことを難なくやってのける。
 しかし、信長のように常識に捕らわれない人間というのは、いつの時代にも百人にひとりか千人にひとりかはいるのだという。その時代では考えられないような考えや思想をもった先見者はいる。しかし、それを実行するとなると難しい。周りからは馬鹿呼ばわりされるし(現に信長はうつけといわれた)、それを排除しよう、消去しよう、抹殺しようという保守派もでてくる。毎日が戦いと葛藤の連続である。信長はそれを受け止め、平手の死も弟の抹殺もなんのそのだった。信長の偉いところは嘲笑や罵声、悪口に動じなかったことだ。
 さらに信長の凄いところは家臣や兵たちに自分の考えや方針を徹底して守らせたこと、そうした自由な考えを実行し、流布したことにある。自分ひとりであれば何だってできる。馬鹿と蔑まれ、罵倒されようが、地位と命を捨てる気になれば何だってできる。しかし、信長の凄いところは、既成概念の排除を部下たちに浸透させ、自由な軍をつくったことだ。 桶狭間の合戦での勝利は、奇襲がうまくいった……などという単純なことではなく、ひとりの裏切り者がでなかったことにある。清洲城から桶狭間までは半日、十分に今川側に通報することもできた。しかし、そうした裏切り者は誰ひとりいなかった。「うつけ殿」と呼ばれてから十年あまりで、織田信長は領民や家臣から絶大の信頼を得ていたことがわかる。
 信長はさらに、既存価値からの脱却もおこなった。まず、「天下布武」などといいだし、楽市楽座をしき、産業を活発にして税収をあげようと画策した。さらに、家臣たちに早くから領国を与える示唆さえした。明智光秀に鎮西の九州の名族惟任家を継がせ日向守を名乗らせた。羽柴秀吉には筑前守を、丹羽長秀には明智と同じ九州の惟任家を継がせたという。また、柴田勝家と前田利家を北陸に、滝川一益を東国担当に据えた。ともに、出羽、越後、奥州を与えられたはずであるという。そうだとすると中部から中国、関東、北陸、九州まで、信長の手中になっていたはずである。実に強烈な中央集権国家を織田信長は考えていたことになる。まさに織田信長は天才であった。阿修羅の如き。天才。


  松平元康(のちの徳川家康)のもとに今川からの伝令が届いた。
「今川義元公が信長に討たれました」というのだ。
 元康は「馬鹿を申すな!」と声を荒げた。しかし、心の中では……あるいは…と思った。しかし、それを口に出すほどかれは馬鹿ではない。あるいは…。信長ごとき弱小大名に? 今川義元公が? 元康は眉をひそめた。味方からそんな情報が入る訳はない。かれはひどく疲れて、頭がいたくなる思いであった。そんな…ことが…今川と織田の兵力差は十倍であろう。ひどく頭が痛かった。ばかな。ばかな。ばかな。元康は心の中で葛藤した。そんなはずは…ない。ばかな。ばかな。悪魔のマントラ。
 しかし、松平元康は織田信長のことを前から監視していたから、あるいは…と思った。しかし、これからどうするべきか。織田信長は阿修羅の如き男じゃから、敵対し、負ければ、皆殺しになる。どうする? どうする? 元康はさらに葛藤した。
 しばらくすると、親戚筋にあたる水野信元の家臣である浅井道忠という男がやってきた。「織田の武将梶川一秀さまの命令を受けてやってまいりました」
 元康は冷静にと自分にいいきかせながら、無表情な顔で「何だ?」と尋ねた。是非とも答えが知りたかった。
「今川義元公が織田信長さまに討たれました。今川軍は駿河に向けて敗走中。早急にあなたさまもこの城から退却なされたほうがよいと、梶川一秀さまがおおせです」
 じっと浅井道忠の顔を凝視していた元康は、何かいうでもなく表情もかえず何か遠くを見るような、策略をめぐらせているような顔をした。梶川一秀というのは織田方に属してはいるが、その妻が元康の姉妹だった。しかも浅井の主人水野信元も梶川一秀の妻の兄だった。
「わかりもうした。梶川一秀殿に礼を申しておいてくれ」元康は頭を軽くさげ、表情を変えずにいた。浅井が去ると、元康は表情をくもらせた。家臣を桶狭間に向かわせ、報告を待った。「事実にこざりました!」その報告をきくと、元康はがくりとして、「さようか」といった。声がしぼんだ。がっかりした。そしてその表情のまま「城から出るぞ」といった。時刻は午後十一時四十二分頃だと歴史書にあるという。ずいぶんと細かい記録があるものだ。桶狭間合戦が午後四時であるから、元康はかなり城でがんばっていたということになる。味方だった今川軍は駿河に敗走していたというのに。
 このことから元康は後年「律義な徳川殿」と呼ばれたという。
  部下は当然、元康が居城の岡崎城に戻るのだと思っていた。
 しかし、かれは岡崎城の城下町に入っても、入城しなかった。部下たちは訝しがった。「この城は元々松平のものだが、今は今川の拠点。今川の派遣した城主がいるはず。その人物をおしのけてまで入城する気はない」
 元康は真剣な顔でいった。もうすべて知っているはずなのに、部下がいうのをまっていた。このあたりは狸ぶりがうかがえる。
 部下は「今川はすべて駿河に敗走中で、城はすべて空でござります」といった。
 それをきいてから元康は「では、岡崎城は捨て城か?」と尋ねた。
「さようでござる」
「さようか」元康はにやりとした。「ならば貰いうけてもよかろう」
 元康は今更駿河に戻る気などない。いや、二度と駿河に戻る気などない。しかし、元康は狡猾さを発揮して、パフォーマンスで駿河の今川氏真(義元の子)に「織田信長と一戦まじえて、義元公の敵討ちをいたしましょう」と再三書状を送った。しかし、氏真はグズグズと煮え切らない態度ばかりをとった。今川氏真は義元の子とはいえ、あまりにも軟弱でひよわな男であった。元康はそれを承知で書状を送ったのだ。
「よし! われらは織田信長と同盟しよう」元康はいった。
 元康はどこまでも狡猾だった。かれは不安もない訳ではなかった。しかし、織田信長があるいは天下人となるやも知れぬ可能性があるとも思っていた。十倍の今川を破り、義元の首をもぎとったのだ。信長というのはすごい男だ。
 元康は同盟は利がある、と思った。信長は敵になれば皆殺しにし、怒りの炎ですべてを焼き尽くす。しかし、同盟関係を結べば逆鱗に触れることもない。確かに、信長は恐ろしく残虐な男である。しかし、三河(愛知県東部)の領土である松平家としては信長につくしか道はない。
「組むなら信長だ。松平が織田と組めば、東国の北条、甲斐の武田、越後の長尾(上杉)に対抗できる。わしは東、信長は西だ」元康は堅く決心した。自分の野望のために同盟し、信長を利用してやろう。そのためにはわしはなんでもやゆるぞ!
 信長は桶狭間で今川には勝った。しかし、美濃攻略がうまくいってなかった。
「今のわしでは美濃は平定できぬ」信長はそんな弱音を吐いたという。あの信長……自分勝手で、神や仏も信じず、他人を道具のように使い、すぐ激怒し、けして弱音や涙をみせないのぼせあがりの信長が、である。かれは正直にいった。「まだ平定にはいたらぬ」
 道三が殺されて、義竜、竜興の時代になると斎藤家の内乱も治まってしまった。しかも、義竜は道三の息子ではなく土岐家のものだという情報が美濃中に広まると、国がぴしっと強固な壁のように一致団結してしまった。
信長は清洲城で「斎藤義竜め! いまにみておれ!」と、怒りを顕にした。怒りで肩はこわばり、顔は真っ赤になった。癇癪で、なにもかもおかしくなりそうだった。
「殿! ここは辛抱どきです」柴田(権六)勝家がいうと、「なにっ?!」と信長は目をぎらぎらさせた。怒りの顔は、まさに阿修羅だった。
 しかし、信長は反論しなかった。権六の言葉があまりにも真実を突いていたため、信長はこころもち身をこわばらせた。全身を百本の鋭い槍で刺されたような痛みを感じた。
 くそったれめ! とにかく、信長は怒りで、いかにして斎藤義竜たちを殺してやろうか………と、そればかり考えていた。


         尾三同盟


   松平元康は清洲城にやってきた。永禄五年(一五六二)正月のことであった。ふたりの間には攻守同盟が結ばれた。条件は、「元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳を結婚させる」ということだったという。
 そこには暗黙の条件があった。信長は西に目を向ける、元康は東に目を向ける……ということである。元康には不安もあった。妻子のことである。かれの妻子は駿河にいる。信長と同盟を結んだとなれば殺害されるのも目にみえている。
「わたくしめが殿の奥方とお子を駿河より連れてまいります」
 突然、元康の心を読んだかのように石川数正という男がいった。
「なにっ?!」元康は驚いて、目を丸くした。そんなことができるのか? という訳だ。
「はっ、可能でござる」石川はにやりとした。
 方法は簡単である。今川の武将を何人か人質にとり、元康の妻子と交換するのだ。これは松平竹千代(元康)と織田家の武将を交換したときのをマネたものだった。
  織田信長の美濃攻略には七年の歳月がかかったという。その間、信長は拠点を清洲城から美濃に近い小牧山に移した。清洲の城の近くの五条川がしばしば氾濫し、交通の便が悪かったためだ。
 元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳は結婚した。元康は二十歳、信長は二十九歳のときのことである。元康は「家康」と名を改める。家康の名は、家内が安康であるように、とつけたのではないか? よくわからないが、とにかく元康の元は今川義元からとったもので、信長と攻守同盟を結んだ家康としては名をかえるのは当然のことであった。「皆のもの」信長は家康をともなって座に現れた。そして「わが弟と同格の家康殿である」と家臣にいった。「家康殿をわしと同じくうやまえ」
「ははっ」信長の家臣たちは平伏した。
「いやいや、わたしのことなど…」家康は恐縮した。「儀兄、信長殿の家臣のみなさま、どうぞ家康をよろしい頼みまする」恐ろしいほど丁寧に、家康は言葉を選んでいった。
 また、信長の家臣たちは平伏した。
「いやいや」家康はまたしても恐縮した。さすがは狸である。
 井ノ口(岐阜)を攻撃していた信長は、小牧山に拠点を移し、今までの西美濃を迂回しての攻撃コースを直線コースへとかえていた。




       サル


  猿(木下藤吉郎)が織田家に入ってきたのは、信長が斎藤家と争っているころか、桶狭間合戦あたり頃からであるという。就職を斡旋したのは一若とガンマクというこれまた素性の卑しい者たちであった。猿(木下藤吉郎)にしても百姓出の、家出少年出身で、何のコネも金もない。猿は最初、織田信長などに……などと思っていた。
「尾張のうつけ(阿呆)殿」との悪評にまどわされていたのだ。しかし、もう一方で、信長という男は能力主義だ、という情報も知っていた。徹底した能力主義者で、相手を学歴や家柄では判断しない。たとえ家臣として永く務めた者であっても、能力がなくなったり用がなくなれば、信長は容赦なくクビにした。林通勝や佐久間父子がいい例である。
 能力があれば、徹底して取り上げる……のちの秀吉はそんな信長の魅力にひきつけられた。俺は百姓で、何ひとつ家柄も何もない。顔もこんな猿顔だ。しかし、信長様なら俺の良さをわかってくれる気がする。
 猿(木下藤吉郎)はそんな淡い気持ちで、織田家に入った。
「よろしく頼み申す」猿は一若とガンマクにいった。こうして、木下藤吉郎は織田家の信長に支えることになった。放浪生活をやめ、故郷に戻ったのは天文二十二、三年とも数年後の永禄元年(一五五八)の頃ともいわれているそうだ。木下藤吉郎は二十三歳、二つ年上の信長は二十五歳だった。
 だが、信長の家来となったからといって、急に武士になれる訳はない。最初は中間、小者、しかも草履取りだった。信長もこの頃はまだ若かったから、毎晩局(愛人の部屋)に通った。局は軒ぞいにはいけず、いったん城の庭に出て、そこから歩いていかなくてはならない。しかし、その晩もその次の晩も、草履取りは決まって猿(木下藤吉郎)であった。 信長は不思議に思って、草履取りの頭を呼んだ。
「毎晩、わしの共をするのはあの猿だ。なぜ毎晩あやつなのだ?」
 すると、頭は困って「それは藤吉郎の希望でして……なんでも自分は新参者だから、御屋形様についていろいろ学びたいと…」
 信長は不快に思った。そして、憎悪というか、怒りを覚えた。信長は坊っちゃん育ちののぼせあがりだが、ひとを見る目には長けていた。
 ……猿(木下藤吉郎)め! 毎晩つきっきりで俺の側にいて顔を覚えさせ、早く出世しようという魂胆だな。俺を利用しようとしやがって!
 信長は今までにないくらいに腹が立った。俺を……この俺様を…利用しようとは!
  ある晩、信長が局から出てくると、草履が生暖かい。怒りの波が、信長の血管を走りぬけた。「馬鹿もの!」怒鳴って、猿を蹴り倒した。歯をぎりぎりいわせ、
「貴様、斬り殺すぞ! 貴様、俺の草履を尻に敷いていただろう?!」とぶっそうな言葉を吐いた。本当に頭にきていた。
 藤吉郎が空気を呑みこんだ拍子に喉仏が上下した。猿は飛び起きて平伏し、「いいえ! 思いもよらぬことでござりまする! こうして草履を温めておきました」といった。
「なにっ?!」
 信長が牙を向うとすると、猿は諸肌脱いだ。体の胸と背中に確かに草履の跡があった。信長は呆れた顔で、木下藤吉郎を凝視した。そして、その日から信長の猿に対する態度がかわった。信長は猿を草履取りの頭にした。
 頭ともなれば外で待たずとも屋敷の中にはいることができる。しかし、藤吉郎はいつものように外で辺りをじっと見回していた。絶対にあがらなかった。
「なぜ上にあがらない?」
 信長が不思議に思って尋ねると、藤吉郎は「今は戦国乱世であります。いつ、何時、あなた様に危害を加えようと企むやからがこないとも限りませぬ。わたくしめはそれを見張りたいのです。上にあがれば気が緩み、やからの企みを阻止できなくなりまする」と言った。
 信長は唖然として、そして「サル! 大儀……である」とやっといった。こいつの忠誠心は本物かも知れぬ。と思った。信長にとってこのような人物は初めてであった。
 あやつは浮浪者・下郎からの身分ゆえ、苦労を良く知っておる。
 信長も秀吉も家康も、けっこう経営上手で、銭勘定にはうるさかったという。しかし、その中でも、浮浪者・下郎あがりの秀吉はとくに苦労人のため銭集めには執着した。そして、秀吉は機転のきく頭のいい男であった。知謀のひとだったのだ。
 こんなエピソードがある。
 あるとき、信長が猿を呼んで「サル、竹がいる。もってこい」と命じた。すると猿は信長が命じたより多くの竹を切ってもってきた。そして、その竹を竹林を管理する農民に与えた。また、竹の葉を城の台所にもっていき「燃料にしなさい」といったという。
 また、こんなエピソードもある。冬になって城の武士たちがしきりに蜜柑を食べる。皮は捨ててしまう。藤吉郎は丹念にその皮を集めた。
「そんな皮をどうしようってんだ?」武士たちがきくと、藤吉郎は「肩衣をつくります」「みかんの皮でどうやって?」武士たちが嘲笑した。しかし、藤吉郎はみかんの皮で肩衣をつくった訳ではなかった。その皮をもって城下町の薬屋に売ったのだ。(陳皮という) 皮を売った代金で、藤吉郎は肩衣を買ったのだ。同僚たちは呆れ果てた。
 また、こんなエピソードもある。戦場にいくとき、藤吉郎は馬にのることを信長より許されていた。しかし、彼は戦場につくまで歩いて共をした。戦場に着くとなぜか馬に乗っている。信長は不思議に思って「藤吉郎、その馬を何処で手にいれた?」ときいた。
 藤吉郎は「わたくしめは金がないゆえ、この馬は同僚と金を折半して買いました。ですから、前半は同僚が乗り、後半はわたくしめが乗ることにしたのです」と飄々といった。 信長はサルの知恵の凄さに驚いた。戦場につくまでは別に馬に乗らなくてもよい。しかし、戦場では馬に乗ったほうが有利だ。それを熟知した木下藤吉郎の知謀に信長は舌を巻いた。桶狭間での社内の物音や鳩のアイデアも、実は木下藤吉郎のものではなかったのか。 桶狭間後には藤吉郎は一人前の武士として扱われるようになった。知行地をもらった。知行地とは、そこで農民がつくった農作物を年貢としてもらえ、また戦争のときにはその地の農民を兵士として徴収できる権利のことである。
 しかし、木下藤吉郎は戦になっても農民を徴兵しなかった。かれは農民たちにこういった。「戦に参加したくなければ銭をだせ。そうすれば徴兵しない。農地の所有権も保証する」こうして、藤吉郎は農民から銭を集め、その金でプロの兵士たちを雇い、鉄砲をそろえた。戦場にいくとき、信長は重装備で鉄砲そろえの部隊を発見し、
「あの隊は誰の部隊だ?」と部下にきいた。
「木下藤吉郎の部隊でごさりまする」部下はいった。信長は感心した。あやつは農民と武士をすでに分離しておる。


         石垣修復


  織田信長は武田信玄のような策士ではない。奇策縦横の男でもなければ物静かな男でもない。キレやすく、のぼせあがりで、戦のときも只、力と数に頼って攻めるだけだ。しかし、かれはチームワークを何よりも大事にした。ひとりひとりは非力でも、数を集めれば力になる。信長は組織を大事にした。
 あるとき、信長は城の石垣工事が進んでいないのに腹を立てた。もう数か月、工事がのろのろと亀のようにすすまない。信長はそれを見て、怒りの波が全身の血管を駆けめぐるのを感じた。早くしてほしい、そう思い、顔を紅潮させて「早く石垣をつくれ!」と怒鳴った。城下町では千宗易が茶碗を売っていた。小一郎(秀長)は「まけてくれ」といってねぎっているところだった。信長は茶碗を千宗易から百貫で買っていた。藤吉郎(秀吉)はそれをみてショックをうけた。たかが茶碗に……百貫もの銭を……
 藤吉郎には理解のできないことであった。
   ある日、藤吉郎が「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます」とにやりと猿顔を信長に向けた。
「なんだと?!」そういったのは柴田勝家と丹羽長秀だった。「わしらがやっても数か月かかってるのだぞ! 何が一週間だ?! このサル!」わめいた。
 藤吉郎は「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます。もし作れぬのなら腹を斬りまする!」と猿顔をまた信長に向けた。
「サル、やってみよ」信長はいった。サルは作業者たちをチーム分けし、工事箇所を十分割して、「さあ組ごとに競争しろ。一番早く出来たものには御屋形様より褒美がでる」といった。こうして、サルはわずか一週間で石垣工事を完成させたのであった。
  信長はいきなり井ノ口(岐阜)の斎藤竜興の稲葉山城を攻めるより、迂回して攻略する方法を選んだ。それまでは西美濃から攻めていたが、迂回し、小牧山城から北上し、犬山城のほか加治田城などを攻略した。しかし、鵜沼城主大沢基康だけは歯がたたない。そこで藤吉郎は知恵をしぼった。かれは数人の共とともに鵜沼城にはいった。
 斎藤氏の土豪の大沢基康は怪訝な顔で「なんのようだ?」ときいた。
「信長さまとあって会見してくだされ」藤吉郎は平伏した。
「あの蝮の娘を嫁にしたやつか? 騙されるものか」大沢はいった。
 藤吉郎は「ぜひ、信長さまの味方になって、会見を!」とゆずらない。
「……わかった。しかし、人質はいないのか?」
「人質はおります」藤吉郎はいった。
「どこに?」
「ここに」藤吉郎は自分を指差した。大沢は呆れた。なんという男だ。しかし、信じてみよう、という気になった。こうして、大沢基康は信長と会見して和睦した。しかし、信長は大沢が用なしになると殺そうとした。
 藤吉郎は「冗談ではありません。それでは私の面子が失われます。もう一度大沢殿と話し合ってくだされ」とあわてた。信長は「お前はわしの大事な部下だ。大沢などただの土豪に過ぎぬ。殺してもたいしたことはない」
「いいえ!」かれは首をおおきく左右にふった。
 こうして藤吉郎は大沢を救い、出世の手掛かりを得て、無事、鵜沼城から帰ってきた。 この頃、明智光秀は越前で将軍・義昭と謁見した。サルは信長の茶屋によばれ、千宗易のつくる茶をがばっと飲んだ。「これ、サル!」信長が注意すると、千宗易は笑って「かましまへん、茶などでう飲んでもええですがな」といった。

         竹中半兵衛


  信長はこの頃、単に斎藤氏の攻略だけでなく、いわゆる「遠交近攻」の策を考えていた。松平元康との攻守同盟をむすんだ信長は、同じく北近江国の小谷山城主・浅井長政に手を伸ばした。攻守同盟をむすんで妹のお市を妻として送り込んだ。浅井長政は二十歳、お市は十七歳である。お市は絶世の美女といわれ、長政もいい男であった。そして三人の娘が生まれる。秀吉の愛人となる淀君、徳川二代目秀忠の妻・お江、京極高次という大名の妻となる初である。また信長は、越後(新潟県)の上杉輝虎(上杉謙信)にも手をのばす。謙信とも攻守同盟をむすぶ。条件として自分の息子を輝虎の養子にした。また武田信玄とも攻守同盟をむすんだ。これまた政略結婚である。

「サル!」
 あるとき、信長は秀吉をよんだ。秀吉はほんとうに猿のような顔をしていた。
「お呼びでござりまするか、殿!」汚い服をきた猿のような男が駆けつけた。それが秀吉だった。サルは平伏した。
「うむ。猿、貴様、竹中半兵衛という男を知っておるか?」
「はっ!」サルは頷いた。「今川にながく支えていた軍師で、永禄七年二月に突然稲葉山城を占拠したという男でごさりましょう」
「うむ。猿、なぜ竹中半兵衛という男は主・今川竜興を裏切ったのだ?」
「それは…」サルはためらった。「聞くところによれば、城主・今川竜興が竹中半兵衛という男をひどく侮辱したからだといいます。そこで人格高潔な竹中は我慢がならず、自分の智謀がいかにすぐれているか示すために、主人の城を乗っ取ってみせたと」
「ほう?」
「動機が動機ですから、竹中はすぐ今川竜興に城を返したといいます」
「気にいった!」信長は膝をぴしやりとうった。「猿、その竹中半兵衛という男にあって、わしの部下になるように説得してこい」
「かしこまりました!」
 猿(木下藤吉郎)は顔をくしゃくしゃにして頭を下げた。お辞儀をすると、飄々と美濃国へ向けて出立した。この木下藤吉郎(または猿)こそが、のちの豊臣秀吉である。

  汚い格好に笠姿の藤吉郎は、竹中半兵衛の邸宅を訪ねた。木下藤吉郎は竹中と少し話しただけで、彼の理知ぶりに感激し、また竹中半兵衛のほうも藤吉郎を気にいったという。 しかし、竹中半兵衛は信長の部下となるのを嫌がった。
「理由は? 理由はなんでござるか?」
「わたしは…」竹中半兵衛は続けた。「わたしは信長という男が大嫌いです」ハッキリいった。そして、さらに続けた。「わたしが稲葉山城を乗っ取ったときいて、城を渡せば美濃半国をくれるという。そういうことをいう人物をわたしは軽蔑します」
「……さようでござるか」木下藤吉郎の声がしぼんだ。がっくりときた。
 しかし、そこですぐ諦めるほど藤吉郎は馬鹿ではない。それから何度も山の奥深いところに建つ竹中半兵衛の邸宅を訪ね、三願の礼どころか十願の礼をつくした。
 竹中半兵衛は困ったものだと大量の本にかこまれながら思った。
「竹中半兵衛殿!」木下藤吉郎は玄関の外で雨に濡れながらいった。「ひとはひとのために働いてこそのひとにござる。悪戯に書物を読み耽り、世の中の役に立とうとしないのは卑怯者のすることにござる!」
 半兵衛は書物から目を背け、玄関の外にいる藤吉郎に思いをはせた。…世の中の役に?  ある日、とうとう竹中半兵衛は折れた。
「わかり申した。部下となりましょう」竹中半兵衛は魅力的な笑顔をみせた。
「かたじけのうござる!」
「ただし」半兵衛は書物から目を移し、木下藤吉郎の猿顔をじっとみた。「わたしが部下になるのは信長のではありません。信長は大嫌いです。わたしが部下となるのは…木下藤吉郎殿、あなたの部下にです」
「え?」藤吉郎は驚いて目を丸くした。「しかし…わたしは只の百姓出の足軽のようなものにござる。竹中半兵衛殿を部下にするなど…とてもとても」
「いえ」竹中は頷いた。「あなたさまはきっといずれ天下をとられる男です」
 木下藤吉郎の血管を、津波のように熱いものが駆けめぐった。それは感情……というよりいいようもない思い出のようなものだった。むしょうに嬉しかった。しかし、こうなると御屋形様の劇鱗に触れかねない。が、いろいろあったあげく、竹中半兵衛は木下藤吉郎の部下となり、藤吉郎はかけがえのない軍師を得たのだった。
黒田官兵衛も同じように秀吉の叡智・英雄性を見抜いたという。官兵衛も「私は信長さまではなく、秀吉殿の軍師にございまする!」といい秀吉を感涙させている。

         墨俣一夜城


  美濃完全攻略、それが当面の織田信長の課題であった。
 そして、そのためには何よりも斎藤氏の本拠地である稲葉山城を落城させなければならなかった。稲葉山城攻撃も、西美濃からの攻撃だけでなく、南方面からの攻撃が不可欠であった。が、稲葉山城の南面には木曾川、長良川などの川が天然の防柵のようになっている。そこからの攻撃には拠点が必要である。
 信長は閃いた。墨俣に城を築けば、美濃の南から攻撃ができる。しかし、そこは敵陣のどまんなかである。そんなところに城が築けるであろうか?
 弟の小一郎はサルに「まず誰かにやらせてみて、それから兄じゃがやればよい」と忠告していた。しかし、誰かが城をつくってしまったら…。弟はいった。「誰かが出来ることを兄じゃがやっても仕方ないじゃろ? 誰も出来ないことをやれば兄じゃの天下よ」
 かくして、信長の家臣団は墨俣に城をつくることができないでいた。
「サル!」信長はサルを呼んだ。「お前は墨俣の湿地帯に城を築けるか?」
「はっ! できまする!」藤吉郎は平伏した。
「どうやってやるつもりだ? 権六(柴田勝家)や五郎左(丹羽長秀)でさえ失敗したというのに…」
「おそれながら御屋形様! わたくしめには知恵がござりまする!」藤吉郎はにやりとして、右手人差し指をこめかみに当てて、とんとんと叩いた。妙案がある…というところだ。「知恵だと?!」
「はっ! おそれながら築城には織田家のものではだめです。野伏をつかいます。稲田、青山、蜂須賀、加地田、河口、長江などが役にたつと思いまする。中でも、蜂須賀小六正勝は、わたくしめが放浪していた頃に恩を受けました。この土豪たちは川の氾濫と戦ってきた経験もあります。すぐれた土木建設技術も持っております」
「そうか……野伏か。なら、わしも手をかそう」
「ならば、御屋形様は木材を調達して下され」
「わかった。で? どうやるつもりか?」信長は是非とも答えがききたかった。
「それは秘密です。それより、野伏をすぐに御屋形様の家来にしてくだされ」
「何?」信長は怪訝な顔をして「城ができたらそういたそう」
「いえ。それではだめです。城が出来てから…などというのでは野伏は動きません。まず、取り立てて、さらに成果があればさらに取り立てるのです」
 信長は唖然とした。
 下層階層の不満や欲求をよく知る藤吉郎なればの考えであった。しかし、坊っちゃん育ちの信長には理解できない。信長は「まぁいい……わかった。お前の好きなようにやれ」と頷くだけだった。藤吉郎は、蜂須賀小六らに「信長公の部下にする」と約束した。
「本当に信長の家臣にしてくれるのか?」蜂須賀小六はうたがった。
「本当だとも! 嘘じゃねぇ。嘘なら腹を切る」藤吉郎は真剣にいった。
 信長はいわれたとおりに木材を伐採させ、いかだに乗せて木曾川上流から流させた。その木材が墨俣についたらパーツごとに組み立てるのである。まさに川がベルトコンベアーの役割を果たし、城は一夜にして完成した。墨俣一夜城で、ある。

「よくやったサル!」
 信長は、夜、墨俣一夜城に着いて、秀吉をほめた。
 一同は平伏する。しかし、秀吉の弟・小一郎は「御屋形様! 褒美を下され!」と嘆願した。「こら! 小一郎! 黙れ!」秀吉は諫めた。
「われらは褒美のために働いたのでござる! 褒美を!」
 小一郎は必死に嘆願した。秀吉は黙ったままだった。信長は冷酷な顔でふところに手を入れた。もしや、刀を抜いて、小一郎を……斬りすてる?!
 一同は戦慄した。
 しかし、信長は袋にはいった小さな茶壺を秀吉に手渡し「ご苦労であった」といった。そして場を去った。左吉はそれをみて、銭じゃなく、……茶壺? そんな…と落胆した。 だが、秀吉は一同に笑顔を見せた。”こんなの屁でもないさ”と強がってみせる笑顔であった。……こんなの…屁でもないさ……

 官兵衛の幼妻・光(てる)は「わたくしは逞しい男が好きでござりまする」
 と旦那にいう。官兵衛は生涯側室をとらず光だけを愛した。「でも、頭の賢い男はもっと好きであります」
官兵衛と光の夫婦仲はよかった。だが、播磨姫路の小大名・外様大名でしかない。そこで信長への接近、となる訳である。

大前研一氏先生談2014年1月17日「2013年国内市場・日本の現状と問題点」

2014年01月17日 11時38分57秒 | 日記
『防衛計画・税制改正・公的年金運用~類似した組織に目を向ける』防衛計画大綱 中期防衛力整備計画固め。税制改正 2014年度税制改正大綱を決定。公的年金運用 海外インフラ投資を開始。2013年12月20日大前研一氏メール記事参照。▼ あれだけ反対していたオスプレイを自衛隊に。政府は13日、中長期の安全保障政策の指針となる防衛計画の大綱と中期防衛力整備計画での自衛隊の装備目標を固めました。2014年度から5年間の目標を示す中期防では、米軍が開発した垂直離着陸輸送機オスプレイを17機、水陸両用車を52両購入する方針を明記。軍事力を高める中国を念頭に離島防衛や機動力を重視した装備を整えるとのことです。米国としては、嬉しくてしょうがない状況でしょう。中国と日本がもめることで、日本が米国から武器を購入する流れになっています。グローバルホークなどの無人機に加え、かつて米軍が日本国内で使用するのを反対していたオスプレイまで、 自衛隊で保有することになりそうです。日本は戦闘機が離発着できる空母を保有していないので、ヘリコプターとして離発着できるオスプレイは非常に使い勝手が良いと思います。 尖閣領域から石垣島までカバーすることができるでしょう。あれだけ米軍のオスプレイに国中で大騒ぎをしていたのに、自衛隊が保有するという手のひら返しには少々呆れてしまいます。▼ 交際費を拒否する英国の潔癖性とカナダの年金運用ノウハウ。自民、公明両党は2013年12月12日、2014年度税制改正大綱を決めました。生活必需品の消費税率を低く抑える軽減税率については「消費税率10%時に導入する」とし、一方、自動車の購入時にかかる取得税の引き下げなど、来年4月の消費増税をにらみ景気に配慮した措置も盛り込むとのことです。細かい項目を見ていくと、例えば交際費を50%まで非課税にするというものがあります。私はいまだにこのような項目を追加しようとすることが、残念でなりません。交際費が認められるから、飲みに行くというのは筋が違うでしょう。またそもそも最近では、飲み会や会食の数も減り、2次会・3次会と遅くまで飲み歩く人はかなり減ったと思います。ゆえに、交際費を非課税にできます、と言われてもどれほど効果があるのかは疑問です。以前、英国の労働党の議員の大阪での接待に同席したことがあります。食事を終え、会計のときになって、彼らは金額を確認させてくれ、と言いました。日本側の役人は渋りましたが、結局金額を確認した彼らは、こんな高額の食事をご馳走になったら賄賂になるので自分たちの分は自分で支払うと言いました。英国の議員が自腹で払っているので、自分たちも支払わざるを得なくなり、日本の役人は非常に困っていました。今、日本でも飲み会や会食が減り、社会が英国化しつつあるのかも知れません。英国人が持つ潔癖性を日本人も身につけてほしいと思います。交際費が認められるから飲みに行くという、みっともない行為はやめてほしいと思います。公的年金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)はカナダで最大規模の公的年金基金・オンタリオ州公務員年金基金(OMERS)と組み、海外のインフラ投資を始めます。これは非常に良いことだと思います。日本のGPIFには経験がありませんから、学べることは多いはずです。オンタリオ州公務員年金基金は運用もスマートですし、結果も出しています。さらに日本にとって有益だと思うのは、米国のそれと違って「普通のサラリーマン」が世界のことをよく勉強し、公共投資を行って、リターンを得る仕組みを作り上げていることです。米国の場合、一部のスーパースター的な存在の人が、日本のサラリーマンでは考えられない報酬を得ていることもありますが、カナダの場合にはそういうことがありません。日本に近い環境だと思います。カナダに目を向けたことも良いですし、その中でもオンタリオ州公務員年金基金を選んだのも慧眼だと言えるでしょう。ぜひ、多くのことを学んでほしいと思います。

 靖国参拝、首相談話の疑問 歴史認識・内政・外交。2013年12月27日05時00分。 安倍晋三首相は26日、靖国参拝後に「恒久平和への誓い」と題した談話を発表した。中国や韓国の反発を見越し、あらかじめ用意した談話だ。だが、過去の経緯や首相のこれまでの言動と比べると、矛盾が多い。この日の首相発言とともに疑問点を指摘する。《歴史認識》参拝したのは政権1年の歩みをお伝えするためです。■政教分離の問題を素通り。     靖国神社には先の戦争を指導し、東京裁判で責任を問われた東条英機元首相らA級戦犯14人が合祀(ごうし)されている。靖国参拝は過去の侵略と植民地支配を日本の政治指導者がどう捉えるか、という歴史認識の問題に直結する。こうした意味をもつ靖国神社に政権1年を伝える必要があったのか。首相は昨年の就任後、歴史認識をめぐってたびたび国内外から不信を招いてきた。閣僚らの靖国参拝に中国や韓国が反発すると「どんな脅かしにも屈しない」と反発した。植民地支配と侵略へのおわびと反省を示した村山談話を「そのまま継承しているわけではない」と発言。批判を受けると一転、「歴代内閣の立場を引き継ぐ」と修正した。首相の靖国参拝は、憲法の政教分離原則に照らしても、問題点を指摘されてきた。先の大戦まで国家神道は戦争動員の精神的支柱となった。その中心的施設だったのが靖国だ。談話はその点も素通りしている。安倍首相はこの日、記者団に対し、「戦場で散った英霊のご冥福をお祈りし、リーダーとして手を合わせる。世界共通のリーダーの姿勢だ」とも強調した。しかし、米国のケリー国務長官が10月、戦没者の慰霊のために献花したのは、靖国ではなく千鳥ケ淵戦没者墓苑だった。米国務省当局者は朝日新聞の取材に「宗教や政治的な含意のない場所だからだ」と答えている。オバマ政権が「失望している」との声明を出した背景にはそうした事情があるとみられる。(池尻和生)*《内政》平和の道を邁進(まいしん)してきました。この姿勢を貫きます。■過去の平和主義とは隔絶。首相の言う「平和」と、これまでの平和国家の歩みに断絶はないか。首相がことあるごとに繰り返す「国際協調主義に基づく積極的平和主義」は、今までは「消極的」だったとの不満の裏返しにほかならない。武器輸出三原則を見直し、集団的自衛権の行使容認をめざし、憲法改正までも視野に入れる。にもかかわらず、継続性を唱える談話には違和感がある。首相は談話で、「今後とも不戦の誓いを堅持していく決意を新たにした」とも語った。ただ、今年の終戦の日に行われた全国戦没者追悼式の式辞に「不戦の誓い」の表現はない。歴代首相は式辞でアジア諸国への加害責任に言及してきたが、首相が「誰のため、何のため開く式なのか、抜本的に考え直してほしい」と官邸スタッフに指示。「深い反省」「哀悼の意」とともに「不戦の誓い」は消えた。首相は単に発言の場を選んだだけ、というかも知れない。だが、これまでの経緯からすると、この日の「誓い」は唐突だった。参拝後、首相は記者団にこう語った。自分は昨年の自民党総裁選でも衆院選でも、第1次政権で参拝できなかったことを「痛恨の極み」と述べ、そのうえで党総裁・首相に選出された――。まるで自らの参拝は国民の信任を得ていると言わんばかりだ。だが、首相は「政治・外交問題に発展していく」として、参拝するかどうか明言してこなかった。論理のすり替えはここにもある。(野上祐)*《外交》中国、韓国の人々を傷つけるつもりはありません。■戦犯合祀の理解得られぬ。首相は参拝した後、記者団に「靖国神社の参拝は、いわゆる戦犯を崇拝する行為と、誤解に基づく批判がある」とも述べた。しかし、「誤解」と言って切り捨てるのは、無理があるのではないか。仮に首相本人に「戦犯を崇拝する」というつもりがなかったとしても、A級戦犯もまつられている靖国を参拝したという事実は変わらない。特に中国にとってみれば、日中国交正常化の際、日本の戦争指導者と一般の日本国民は別という理屈で自国民に説明した経緯がある。そもそも侵略された中国や、植民地支配を受けた韓国の人々には、靖国神社への嫌悪感が根強い。靖国神社の境内にある施設「遊就館」では、戦前の歴史を正当化したとも受け止められる展示をしている。「傷つけるつもりはない」と言っても理解されるだろうか。首相は就任してからの1年間で、中韓の首脳と一度も会談していない。だからこそ、「対話のドアは常にオープン」と述べていたのではなかったか。靖国神社を参拝すれば、首脳会談はいっそう遠のく。両国間のビジネスや観光などにも悪影響を与えかねない。こんなことは首相自身も予測していたはずだ。 それにもかかわらず参拝を強行した。首相は談話で「中国、韓国に対して敬意を持って友好関係を築いていきたいと願っています」と記したが、相手国を怒らせておいて、友好を唱えるのは無理がある。(東岡徹)(2013年12月27日朝日新聞記事参照)

靖国参拝、米中韓が怒るわけ 識者に聞く。2013年12月28日05時00分。安倍晋三首相が強行した靖国神社参拝に国際社会が厳しい目を向けている。参拝は日本に何をもたらすのか。米中韓の識者に聞いた。■もう日本の擁護難しい 米外交問題評議会上級研究員、シーラ・スミスさん。――安倍首相の靖国参拝に、米政府は「失望した」と異例の批判をしました。「私もショックを受けました。安倍氏は、参拝の日本にとってのコストを理解し、代わりに中国や韓国に対する外交的な努力に取り組むと考えていましたが、私は間違っていました」「もし安倍氏が、単に自分の支持層に応えるためではなく、中韓が対話に応じないからと、あえて緊張を高め譲歩を迫る外交カードとして参拝したとしたら、地域の国々だけでなく、米国の考えも読み違えています」「オバマ政権の政策担当者の多くは、安倍氏が経済を優先課題に据え、中韓に対話を提案することを好意的にとらえていました。安倍氏によって、日本の戦略的な展望に関するオバマ政権の見方は、より前向きなものになっていたのです。しかし、そうした矢先の参拝は、日本を傷つけることになりました」――米国は従来は公式には首相の靖国参拝を批判することは避けてきました。なぜ今回は異なる対応になったのでしょう。「中国との関係では、小泉政権時代の日本は少なくとも対話をしようとしていたし、かたくなな態度を取っているのは中国側と見られていましたが、いまは違う見方があります。それに、現在は尖閣諸島の問題もあります。この問題で日本の対応に非はありませんが、参拝で、予測不能な状況に拍車がかかるかもしれません」「二つ目はもちろん、韓国との関係です。ワシントンでは、歴史や安全保障の問題で、朴槿恵(パククネ)政権が少し過剰反応なのではという見方もありました。米政府も関係改善を手助けしようとしていましたが、安倍氏の参拝によって難しくなりました」――日米関係への影響も出てくると思いますか。「当然あるでしょう。日米防衛協力のための指針見直しなど多くの安全保障上の課題に取り組もうとしているときに、安倍氏は泥をかき混ぜて水を濁らせるようなことをしました」「オバマ政権の当局者たちは、国内や韓国など外国の懸念に対して、『安倍首相は現実的な見方をする人物で、心配する必要はない』と、安倍氏と日本を擁護する側に立っていたのです。しかし、こうした取り組みは難しくなるでしょう。安倍氏の行動は合理的な政策目標の追求よりも、イデオロギー的な動機に基づくという見方が増えるかもしれません。いわゆる『国家主義的な目標』を追求しようとしているのかと、疑問を抱く人も出てくるでしょう」「安倍氏がなぜ参拝したのか、理由は複雑かもしれませんが、結果は明白です。日本の政治的な選択肢を狭めることにつながり、新しい安全保障環境への戦略的な適応が極めて重要な時期に、日米の同盟関係を複雑なものにします」(ワシントン=大島隆)*米外交問題評議会・上級研究員。専門は日本政治・外交政策。コロンビア大学で博士号(政治学)を取得し、ボストン大、東西センターなどを経て現職。■傷つける気ない?偽善 中国社会科学院日本研究所副所長・楊伯江(ヤンポーチアン)さん。――安倍首相の靖国参拝がもたらす日中関係への影響をどう見ますか。「今年に入り、貿易や環境保護といった共通の利益への考慮や、日本側の民間の理性的な声を通じて緩やかに改善されつつあったが、参拝はこうした努力を白紙に戻してしまいました」――首相は参拝後、「中韓の人々を傷つけるつもりはない」と表明しました。「偽善です。首相は『参拝は政治、外交問題化している』とも言っています。首相就任後に1年間、参拝を我慢したのは、その悪影響を認識していたからにほかならない。首相を支持する保守層は、首相の参拝を、日本の国際社会での地位向上や政治力の回復と結びつけているようですが、全く逆です。参拝は日本のイメージだけでなく、安倍首相の政治的、外交的な信用をも傷つけてしまいました」――首相の唱える「積極的平和主義」は周辺国に受け入れられますか。 「日本が国際的に平和維持活動をする権利は尊重されるべきだし、侵略の歴史について過去には謝罪もしました。しかし、謝罪をひっくり返す政治家がしばしば現れ、周辺国を心配させている。こうした心配を解かずに、積極的平和主義を唱えても、日本が守ってきた戦後の平和主義とは異なる『侵攻的』な概念ではないかと、不安を感じざるを得ないのです」――北朝鮮問題の解決にも影響が生じるのでは。「北朝鮮やアジアの多くの問題は中日韓の協力が必要ですが、参拝により、協力の余地が狭められています」――昨年の      反日デモなどを受け、日本では中国への警戒が広がりました。中国の過剰な反応が参拝に影響したのでは。「首相は今回、自身の願望に加え、国内保守派の圧力を受けて参拝したのだと考えています。歴史問題で中国は、1980年代の教科書問題から昨年の『島購入』(尖閣諸島の国有化)まで、実はおおむね受け身の対応でした。積極的に問題は起こしていない。領土問題と歴史問題は質が異なります。領土で譲歩できないのは理解できますが、歴史は『譲歩』の対象ではなく、『是か非か』の問題。日本の侵略が間違いだったことを否定できる余地はないでしょう」――中国人は今回、どう反応するでしょうか。首相と日本国民を分けて考えられますか。「多くの中国人は、日本人は勤勉で善良な民族で、党利党略で行動する日本の一部政治家が問題なのだと思っています。また、戦略上も日本人全員を敵に回す批判の仕方はよくないと考えています。中国人は成長し、国際政治の背景を徐々に理解し始めている。今回の参拝後、昨年のデモであったような暴力的な行為は起きていません」(北京=石田耕一郎)*政府系シンクタンク「中国社会科学院」の日本研究所副所長。中華日本学会の常務理事を務め、日本に知己も多い。日本や北朝鮮など東アジア問題が専門。■関係改善水の泡、悔しい 韓国・世宗研究所日本研究センター長、陳昌洙(チンチャンス)さん。――安倍首相は靖国神社参拝が「残念ながら政治問題、外交問題化している」と述べ、暗に中韓の対応を批判しました。「境内にある『遊就館』を見れば、靖国神社が日本の帝国主義を美化していることは明らかで、戦犯もまつられている。そこに首相が参拝すれば、韓国では日本が植民地支配を反省していないことの象徴と映る。その怒りを、よく分かっていないのではないでしょうか」――「戦犯を崇拝する行為との誤解に基づく批判がある」とし、参拝で「不戦の誓い」をしたとも述べています。「安倍首相は、東京裁判は戦勝国が裁いたという意味で、正当ではないと考えている。日本のために命を捧げた人たちなのだから、参拝しても何ら問題ないという発想です。でも、国際社会でその論理が通じるでしょうか。ケリー米国務長官らが10月の訪日の際に、靖国ではなく千鳥ケ淵戦没者墓苑に献花したのがその証拠です。不戦の誓いをするなら、国際社会に認められる形でするべきです」――「中国、韓国の人々の気持ちを傷つける考えはない」とも述べ、中韓との関係の重要性を強調していますが。「そういう気持ちがあるのなら、行動で見せてほしい。河野談話や村山談話など日本政府が積み重ねてきた方針を貫き、さらに上積みしてほしい。慰安婦問題などで、誠意ある具体的な措置をとってほしい」――韓国では、首脳会談をかたくなに拒み続ける朴槿恵大統領への疑問も出始めていました。日韓関係に改善の動きはなかったのですか。「双方の政府内でも、互いに妥協して改善していこうという動きが芽生え始めていた。それが水の泡になりました。悔しくてなりません」――首相は真意を直接、中韓に説明したいとしています。「韓国では再び、朴大統領の姿勢が正しかったという論調が支配的になるでしょう。安倍首相の在任中の首脳会談は難しいかもしれません」――なぜこの時期に参拝に踏み切ったと思いますか。「早いうちに右派の要求を満たし、その支持に基づいて消費税などの懸案を乗り越えようと思ったのでは。一方で、韓中との関係はどうせ改善はしないだろうと。国内でのプラスが、国際社会でのマイナスより大きいと考えたのでは」――東アジア情勢に与える影響はどうでしょう。「韓日、中日関係の悪化に加え、防空識別圏問題で韓国の中国への警戒心も強まり、互いに信頼が蓄積できない。参拝により、日米韓の協力関係はぎくしゃくするでしょう。その中で中国が新たなルール作りを仕掛けてくれば、全体が不安定化しかねない。参拝の影響は、それほど大きいと思います」(ソウル=貝瀬秋彦)*1961年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。2002年から韓国のシンクタンク・世宗研究所日本研究センター長。日韓関係で多くの提言をしている。
 
(検証アベノミクス 2013:3)大胆緩和、深める自信。2013年12月28日05時00分。株式市場が約6年2カ月ぶりの高値をつけた26日昼、その最大の「功労者」が首相官邸に現れた。安倍晋三首相との会談のために訪れた日本銀行の黒田東彦(はるひこ)総裁だった。「日本経済は、(4月に)量的・質的緩和を導入後、予期した通りに進んでいる。2%の物価安定目標の達成に向かって着実に道筋をたどっている、と説明した」。会談後、記者団に囲まれた黒田総裁は胸を張った。自信に満ちた表情は、総裁に就任した9カ月前から変わらない。4月、いきなり過去最大の金融緩和を発表した会見もそうだった。「2年で物価上昇率2%を達成する」「マネタリーベース(市場に流すお金の量)を2年で2倍にする」。2014年末には市場に270兆円ものお金があふれかえる。これまでの日銀の政策とは一線を画す、まさに異次元の政策で、アベノミクスの「第1の矢」を強烈に放った。 就任前から緩和に積極的な姿勢は知られていたが、「ここまでやるのか」というのが正直な印象だった。記者会見では、「2年」「2%」「2倍」と、数字の「2」を並べたボードを掲げて明快に説明した。その姿は、日銀での経験がない「落下傘」総裁とは思えないほど自信に満ちあふれていた。学者肌で、「金融緩和だけでデフレ脱却はできない」と慎重だった白川方明(まさあき)・前総裁とは対照的だ。「日銀は変わった」と思わせるには十分だった。市場はすぐに反応した。昨年末からの円安・株高がさらに勢いを増した。「金融緩和で物価は上がり、デフレから抜け出せる。そう期待させるために同じことを言い続ける」。日銀幹部は、黒田総裁の姿勢をこう解説する。確かに記者会見では「生産から所得、支出へという前向きの循環メカニズムが働いている」と決まり文句のように繰り返している。物価は上がり、景気も上向く――。人々にそう信じてもらうために、日銀は市場に流すお金の量を増やし続ける。「リフレ」とよばれる黒田総裁の政策はいまのところ、ほぼ想定通りの結果を出している。この1年で円相場はドルに対して21%も下がり、日経平均株価は56%も上がった。いずれも30~40年ぶりという記録的な相場になる見込みだ。■見通せない増税後。しかし、すべて日銀の思い通りに市場を動かすことはできない。象徴的だったのは、東京債券市場で決まる長期金利の乱高下だった。国債を買う人が増えて値上がりすれば、その分、金利は下がる。日銀が4月の緩和後、大量の国債を買い始めたため、金利は下がるとみられていた。ところが予想とは逆に急騰した。日銀が新規発行額の7割もの国債を買い占めることになり、日銀以外の投資家同士の売買が急減した。「日銀に買ってもらうタイミングを逃すと国債が売れなくなる」と不安で売り急ぐ投資家も出て、市場は混乱した。「想定外だった」と日銀幹部は振り返る。その後、日銀が緩和を続けるうちに投資家も落ち着き、金利は下がった。いまはほぼ想定通りの年0・7%台に下がっている。 だが、この長期金利の乱高下は、投資家の不安がひとたび高まれば、市場が制御不能に陥りかねない怖さを改めて示した。新たな不安の種は、来年早々に控えている。消費増税という大きな崖だ。「円安効果が薄れる来年半ば以降、物価上昇のペースが止まり、消費増税で景気も失速する」と、ある日銀OBは心配する。市場ではすでに、日銀が来年4月の消費増税前後に、景気の腰折れを防ぐための「追加緩和」に踏み切る、との見方が出ている。黒田総裁も、不測の事態が起きれば追加緩和を検討する方針を示している。ただ、追加緩和でさらにお金の量を増やしたところで、今年4月の大規模緩和ほどのインパクトはなく、効果は限られている。しかし黒田総裁は「消費増税後も、想定通り景気回復は続く」と強気の姿勢を崩さない。不安を見せれば、人々の期待をそぎ、円安・株高の流れを止めてしまいかねない。「日銀総裁は、目を閉じたままお客を乗せて車を運転するドライバーのようなものだ」と、歴代総裁に仕えた日銀の元幹部は話す。経済は生き物だ。どんな政策を打っても、結果が出るまで成否は見えない。強気な発言を繰り返す黒田総裁も、実は同じ心境のはずだ。「物価上昇率2%を2年で実現する」という約束は守れるのか。来年半ばにはその答えが見えてくる。(橋本幸雄)
 
「家庭内野党」か「応援団」か 発信続ける安倍首相夫人。2014年1月7日21時10分。 安倍晋三首相(59)夫人の昭恵さん(51)が独自色の強い発信を続けている。第2次安倍政権発足に伴いファーストレディーとして再登板し、脱原発や日韓友好、防潮堤見直しに取り組み、政権の政策に異論も唱える。昭恵さんの言葉で首相の方針が変わることはなかなかないが、政権2年目も発信し続けていきそうだ。インタビュー詳報。昭恵さんは昨年12月、自民党本部で東日本大震災の被災地の巨大防潮堤計画に関する会合に出席した。首相夫人が党会合で発言するのは異例。「景観が崩れ、環境も破壊される。もう一度考えてほしい」と計画見直しを主張し、帰宅した首相に「何とかならないの」と迫ったが、首相は「一度決まったものは変えるのが難しい」と答えたという。昭恵さんは2006~07年の第1次政権では「自分らしさがなかった」と振り返る。その後、地元・山口で稲作に挑戦したり、都内に居酒屋をオープンしたりといった試みを始めた。政権は原発再稼働に前向きだが、昭恵さんは「事故が起きると影響が大きい」と否定的で、再生可能エネルギーの新技術を研究する施設を新設するよう首相に提案した。講演では「私は家庭内野党」と語り、政権の原発輸出に苦言を呈す。首相が首脳会談の糸口をつかめない韓国との交流にも力を入れる。在日韓国大使館でキムチを作り、韓流ミュージカルをフェイスブック(FB)で絶賛。FBで「韓国との交流、ありえない」などと批判されたが、昭恵さんは「隣国ですので仲良くしていきたい」と書き込んだ。昭恵さんによると、韓国側から「来てほしい」と要請されたという。ただ、昨年末に首相が靖国神社参拝に踏み切り、実現は遠のきそうだ。最近では鳩山由紀夫元首相夫人や菅直人元首相夫人が「首相の言動や政策に意見を言っていた」(民主党関係者)。野田佳彦前首相夫人のようにあまり人前に出ない夫人も少なくない。周囲はどう見るか。脱原発で連携する環境エネルギー政策研究所の飯田哲也所長は「自民党の古さが、昭恵さんが表に出ることでソフトかのように錯覚させてしまう」。首相は扱いかねているかもしれないが、図らずも政権のイメージアップにつながっているというわけだ。首相は昨年5月、テレビ番組で「(彼女は)我が道を行っているが、ここ一番困ったときには力を合わせる」と評している。首相周辺は「家庭内野党というよりは自民党の部会みたいなもの。違う意見を持っていても、最後は選ばれた意見を尊重する」と解説する。昭恵さんは「主人に反発する人たちの意見もわかる」と説明する。首相に大きく方針転換させるまではいかないが、幅広い意見に耳を傾けるよう「つなぎ役」を自任しているようだ。(松井望美)
(ニュースQ3)独仏の影薄く、中国も陰り…… いえ、第二外国語の話。2014年1月8日05時00分。大学の第二外国語で、かつては主流だったドイツ語やフランス語の影が薄くなっている。中国語を学ぶ学生が増え、“二外”を必修としない大学も増えた。だが、中国語人気にも陰りが見えてきたという。■不人気の理由「投資不適格」。「第二外国語の代表選手だったドイツ語やフランス語は『生活に必要』と言い難く、将来の職業生活への投資にならない」。西山教行・京都大教授(言語政策)は昨年末に京大であった研究会でそう指摘した。ドイツ語の場合、旧制高校時代から長く、文科系の学生だけでなく理科系の学生の多くにも「必要」とされ、学ばれてきた。京大では2000年代になっても履修する1年生は1千人台を維持し、英語以外の外国語で最も多かった。それが09年度になって千人を割った。10年度には初めて中国語(1048人)に抜かれた。西山教授は「多くの大学では90年代後半から中国語がトップになっていったのではないか」。■「役立ちそう」期待を背負う。文部科学省は全国の大学の外国語別の履修者数は把握していないが、各言語をいくつの大学が教えているかは調べていて、英語以外では中国語が03年度にドイツ語を抜いてからずっと首位。日本独文学会の12年の全国調査では、ドイツ語履修者数は中国語の3分の2にとどまっていた。米井巌・日本大教授(ドイツ語教授法)は、91年の大学設置基準の緩和で第二外国語を必修にしない大学が増え、ドイツ語の履修者は半減した、とみている。「ドイツ語教員はそれまで思想や哲学に重点を置きがちで、中国の経済成長に後押しされ『経済言語』として台頭してきた中国語とは勝負にならなかった」 各言語の研究者が集まって12年に英語以外の6言語を学ぶ学生にアンケートし約1万7千人の回答を分析したところ、中国語は「役に立ちそう」という期待がもっとも強かった。 ただ、NHK外国語講座(テレビ)のテキストの売れ行きをみると、英語以外では韓国語が一番人気だ。13年度でこれまでに中国語が最も売れた月でも14万部だが、韓国語は24万部。早稲田大教育学部では、07年度に中国語を学んだ1年生は541人とドイツ語やフランス語の倍近くいたが、09年度は400人を割った。中国語教育を担ってきた村上公一・同学部長は「冷凍ギョーザ事件やチベット暴動の影響で、尋常じゃない減り方にショックを受けた」と振り返る。■日中関係悪化、履修者が減少。10年度に500人台に戻ったが、13年度は400人台。村上学部長は日中関係の悪化が原因だとみており、「中国語の履修者数は政治・経済情勢に影響を受けやすい。離れた学生はスペイン語に流れている」。13年度にスペイン語を学んだ1年生は前年度比4割増の342人で、ドイツ語やフランス語を上回った。京大でも12年度に中国語の履修者が減りドイツ語に抜き返された一方、スペイン語は右肩上がり。13年度に履修した1年生は10年前の3・7倍にふくらんだ。京大の西山教授は言う。「学生はそのときの気分や実利面で第二外国語を選ぶ傾向が強くなったが、多様な文化や人びとと接する窓口として第二外国語を学ぶのだと考えてはどうか」(河村克兵)
『道州制・大阪府政~冷静に現象を捉える視点を鍛える』道州制 同床異夢の道州制、大阪府政 泉北高速鉄道 三セク売却議案が否決。▼ 道州制の実現に向けて、各論レベルでの議論が重要。日経新聞は2013年12月20日、「同床異夢の道州制」と題する記事を掲載しました。これは19日に開催された全国知事会議で、先の臨時国会において道州制推進基本法案の提出を見送った自民党に抗議文が提出されたと紹介。日本維新の会との連携を探る政策として道州制を重視した自民党も、日本維新の会が橋下共同代表の慰安婦発言などで勢いを失うと、熱気が急速にしぼんだと指摘しています。これは本当に残念なことです。もし橋下氏が、道州制のみに集中してやっていれば、こんな事態にならず、実現に向けて動いていたと思います。また日経新聞がいう「同床異夢」というのは的を射た表現です。地方に権限を持ってくるということで、全国各地の知事も道州制に「総論」としては賛成しています。しかし「各論」になってくると、反対する立場をとる人もいます。例えば、福島県は東北ではなく関東と一緒になることを望んでいたり、四国と中国で一緒になることはお互いに望んでいないなど、それぞれ意見が異なります。道州制の実現にあたり、地域によっては経済的に独立できるのか不安視されているところもありますが、私に言わせれば「四国だけでもデンマーク並みの経済がある」のだから、大丈夫です。実現しようと思えば、やれるはずです。私は今後も道州制の実現に向けて尽力していきたいと思っていますが、返す返すも橋下氏の勢いが削がれてしまったのが残念です。もし橋下氏があのままの勢いで道州制を推し進めていれば、自民党も民主党も従うしかなかったと思います。▼ 大阪府政の根本的な問題は、橋下氏の政治的な力が衰えたこと。大阪府が泉北高速鉄道を運営する第三セクターの株式を米投資会社に売却するための関連議案が12月16日の府議会本会議で否決されました。大阪維新の会は会派として賛成方針を決めていましたが、所属4議員が反対。大阪維新は市議会に加え、府議会でも単独過半数の勢力を維持できなくなり、看板政策「大阪都構想」への影響は必至の様相です。地下鉄の民営化も計画倒れに終わり、この案件も非常に面白い試みでしたが否決されてしまいました。すでに、大阪維新の会はガタガタの状態になっています。地元大阪でも決定事項を通すことができず、府議会、市議会でも過半数を割り込んでいます。かつて橋下氏と維新の会に勢いがあった頃は、下手に反対すると「橋下氏が怖い」という感覚があったはずです。郵政選挙で刺客を送り込んだ小泉元首相のように、何かあれば橋下氏が対立候補を送り込んできて痛い目にあうかもしれない、という怖さです。ところが前回の堺市長選挙で、すでに橋下氏と維新の会には、その力がないことが露呈してしまいました。だから、今は誰も怖れる人はいないでしょう。橋下氏の影響力が低下し、今回の三セク売却議案だけでなく、すべてが巻き戻されてしまうと思います。当然、大阪都構想も白紙になるでしょう。非常にもったいないことです。外資系ファンドへの恐怖が原因という人もいますが、より根本的には橋下氏や松井氏の力がなくなってしまったことだと私は思います。そして、そもそも外資系ファンドだからと言って敬遠すること自体、私には理解できません。外資系ファンドであっても法律には従うわけですから、何か法に抵触することがあれば訴えればいいだけです。外資系というだけで「黒船」を例に出して、恐怖心を煽る人がいますが、黒船にしても日本の開国のきっかけを作ってくれたのですから、感謝すべきです。戦後の財閥解体なども、より日本の財閥系企業を強くする結果になっていますから、私は良かったと思っています。外資というだけで盲目的に怖いと考えるのではなく、冷静に客観的に見るべきでしょう。大阪府政の根本的な問題は、橋下氏の政治的な力が衰えたことです。今回の件も、それが表面化した一例に過ぎないと思います。(2014年1月10日大前研一メール記事参照)

『2013年国内市場・日本の現状と問題点~問題解決力で日本の先を見通す』2013国内市場 日経平均株価6年ぶりに1万6000円台。外国人投資家 2013年の日本株買越額。自社株買い 2013年初から自社株買い。1人当たりGDP 日本の1人当たりGDP4万6537ドル。中小企業支援 個人保証制度改正で経営者以外も容認へ。▼ 年明けから、日本経済の勢いに対する潮目が変わりつつある。2013年末の日経平均株価は1万6291円と前年末から56.7%上昇しました。年間の上昇率は1972年(91.9%)以来、41年ぶりの上昇率。安倍首相は先月30日、東京証券取引所の大納会に出席し「来年もアベノミクスは買いだ」とあいさつしたそうです。昨年末の大納会の時点での日経平均株価を見ると、確かにある種の勢いを感じられたのですが、年が明けて少々様相が変わってきていると私は感じています。アベノミクスや金融緩和である程度の成果が見られた一方で、その後遺症があるのも事実です。実態を超えて株価が上がり続けることはありませんし、世界経済の動きから見ても風向きが変わりつつあると感じます。円安になっているのに実際の輸出量は増えていないですし、円安についても欧州では一部の企業から悲鳴が上がり始めていて、円に対する歯止めがかかり始めています。エコノミストや証券会社に言わせると、株価は2万円を突破するとか、円は130円を突破するとか、昨年の勢いのままに好き放題に言うと思いますが、私は年明けから「潮目」が変わり始めていると思っています。日本の株価を支えている1つの大きな要因と言われる外国人投資家による日本株売買についても、手放しで安心していられる状況ではないでしょう。東京証券取引所がまとめたところによると、2013年12月第3週の海外投資家の売買高は8803億円の買い越しでした。買い越しは8週連続で、買い越した金額はこれまでの過去最高を上回る約14兆円超を記録しているとのことですが、これもいつムードが一変するかわかりません。過去の外国人投資家の日本株売買状況を見ると、入っては出ての繰り返しであり、ぬかりなく便乗している姿勢が伺えます。もちろん長期的なスタンスで投資している場合も多いですが、ヘッジファンドなども確実に入り込んできています。新興国でも実際に起こっているように、こうした外国人投資家はムードが変われば、さっと手を引いていきます。現時点において外国人投資家による買い越しが大きいのは事実ですが、これから先はわかりません。先日、日本の1人あたりGDPが3年連続で過去最高になったと発表されましたが、こうしたニュースも、安倍首相は「見せ方」が上手なので、しっかりと事実を知ることが大切でしょう。発表された数字は2012年のGDPですが、これは為替実効レートが79円だったことが大きく影響しています。つまり、為替の影響を無視できません。もし他の条件を一切除外し、単純に2013年の為替レートで換算すれば、日本の1人あたりGDPはオーストラリアや米国を下回り、ニュージーランドやイタリア並みに落ち込む計算になります。▼ 金余り状態、モラルハザードに見る日本経済の問題点。金融情報会社のアイ・エヌ情報センターによると、2013年初からの自社株買いは合計約2兆1000億円。昨年1年間の実績を4割近く上回りました。一般に株高局面では進みにくいのに、2013年は企業業績の回復を追い風に取得額が膨らんだとの見解ですが、私は少し違う感想を持ちました。というのは、日本経済は「カネ余り」状態になっていて、企業は余った資金を持て余しているからです。日本企業の内部留保は総額で約230兆円と言われています。自社株買いが増えていると言われますが、投資先も見つけられず、行き先のない資金になっています。経営者は、資金を使うアイデアを出せずに困っているという状況です。そして銀行も同じくらいの金額の資金を持っていますが、貸出先がなく、持て余しています。それにも関わらず、日銀がさらにカネ余り状態を助長している状況です。積極的に自社株買いが進んでいるというよりも、このカネ余りという状況をしっかりと認識することが重要だと思います。先日、銀行などが中小企業へ融資する際の個人保証の制度改正を巡り、引き受け側の自発的な意思が確認できれば、経営者以外にも保証を認める方向となりました。今、日本の銀行はカネ余り状態ですから、とにかく「お金を借りてほしい」と思っています。ですから、貸出をするとなれば、金利をゼロでも貸し出します。ところが、そんな状況にあっても経営的に不安がある場合には、保証(担保)を取らなければ貸さない、ということです。本来、銀行は経営者や経営戦略から融資判断をすべきですが、結局、担保でしか判断しないのであれば、本来の機能を失っていると言わざるをえないでしょう。さらに今おかしい状況になっているのは、中小企業金融円滑化法が終了しているにも関わらず、金融庁の指導によって、本来の処理をしていないことです。本当なら「破綻懸念先」に分類し、引当金を計上しなければならないものでも、金融庁の許可を得て、「健全先」として分類したままにしています。あってはならないモラルハザードだと思います。亀井氏が推し進めた悪法(中小企業金融円滑化法)は、30万社を巻き込んだまま、未だに問題を先送りにしています。それでも、超カネ余り状態ゆえ誰も痛痒を感じていないのが恐ろしいと私は思っています。(2014年1月17日大前研一メール参照)


軍師 黒田官兵衛と石田三成と「2014年大河ドラマ軍師官兵衛」原作・ブログ連載2

2014年01月17日 02時29分01秒 | 日記
         2 秀吉に支えよう






黒田官兵衛が生まれた翌年(1547年)、小寺家の家臣・八代六郎左衛門に子供・吉田六郎太夫が生まれた。
黒田官兵衛の母・明石岩(岩姫)は乳の出が悪かったため、黒田官兵衛は八代六郎左衛門の妻の乳首を吸わせてもらい、吉田六郎太夫と競うように乳首を吸って大きくなった。
黒田官兵衛と競いあって乳首を吸って育った吉田六郎太夫は、後に黒田家の家臣を代表する「黒田二十四騎」の1人となる。
「黒田二十四騎」とは戦国最強ともいわれたのちの黒田官兵衛の家臣団である。
黒田二十四騎(くろたにじゅうよんき)は、賤ヶ岳の七本槍に倣い、戦国大名・黒田長政の家臣の中から24人の精鋭を選出した呼称。18世紀上旬の享保年間の頃には成立している。この24人の中でも更に優れた8人を黒田八虎と呼ぶ。長政を含めて黒田二十五騎とする場合もある。該当者*井上之房、小河信章、菅正利、衣笠景延、桐山信行、久野重勝、黒田一成、栗山利安、黒田利高、黒田利則、黒田直之、毛屋武久、後藤基次、竹森次貞、野口一成、野村祐勝、林直利、原種良、堀定則、益田正親、三宅家義、村田吉次、母里友信、吉田長利……
後藤又兵衛、母里小兵衛(もり・こへい)、母里武兵衛(もり・ぶへい)ら精鋭の若者たちであり、「生涯無敗」の武装集団である。
だが、「生涯無敗」「無敗伝説」といえば我らが藩祖・上杉謙信公、出羽米沢(山形県米沢市)上杉家・上杉二十五将(二十五将**長尾政景、本庄実乃、柿崎景家、吉江定仲、長尾景秋、本庄繁長、千坂景親、志田義秀、宇佐美定満、甘粕景継、直江景綱、小国頼久、新津勝資、水原親憲、竹俣慶綱、加地春綱、金津義舊、斎藤朝信、岩井信能、北条景広、安田能元、中条藤資、色部長実、高梨頼包、山本寺景長)である。特に上杉家は関ヶ原(長谷堂)合戦と戊辰戦争を除いて敗北を知らない。その上杉家「上杉二十五将」と同格なのが黒田官兵衛の家臣団「黒田二十四騎」なのである。
中でも槍の天才・母里太兵衛(もり・たへい)と栗山善助(くりやま・ぜんすけ)は官兵衛より、
「義兄弟の契りを結べ」といわれた程だという。
栗山善助は黒田家臣団「黒田二十四騎」の団長・統括役・筆頭家臣のような立場の若者である。
母里太兵衛は槍の天才でもあり、大酒のみの酒豪で「♪酒は呑め飲め…」の節で知られる「黒田節」のモデルとなった豪傑だ。
さて、黒田官兵衛が7歳になると、浄土宗の和尚・円満から勉学を学ぶようになる。
が、黒田官兵衛が学問よりも武芸を好み、常に弓を射たり、馬に乗ったりして、子供を集めては戦争ごっこをして遊んでばかりであった。
永禄2年(1559年)12月28日、黒田官兵衛が14歳の時に母親・明石岩(岩姫)が病死する。
黒田官兵衛は母親の死を切っ掛けに、引きこもるようになり、古今和歌集などを読みふけり、自身も和歌や俳句を詠むようになる。
母親・明石岩(岩姫)は和歌や俳句に堪能だったため、黒田官兵衛は和歌や俳句を通じて、死んだ母親の事を思い出していたのだという。
しかし、その後、黒田官兵衛の教育係を務める和尚・円満が黒田官兵衛に、
「文学も大切ですが、亡き母がそのようなことを望んでいましょうか。今は戦乱の世。強くなければ、敵に乗ぜられてしまいます」
と武将としての心構えを説くと、黒田官兵衛は兵学に励むようになった。
特に孫子の兵法三十六計、孔子の論語、等「兵法」が官兵衛は好きであったという。
今は亡き母親は「紅葉のような外様大名になりなさい」と背中をおしてくれた。
なお、母・明石岩(岩姫)が産んだ子供は、嫡子の黒田官兵衛、次男の黒田小一郎(黒田兵庫助)、長女、次女の計4人である。
その後に生まれた黒田家の子供は、黒田官兵衛とは異母兄弟である。
永禄3年(1560年)5月19日、黒田官兵衛が15歳のとき、前述した通り、尾張(愛知県)の織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、天下に名を馳せた。
ここから、織田信長の野望が始まるのである。
永禄4年(1561年)、父・黒田職隆が新館を建てたので、御着城の城主・小寺政職が新館を見学するため、鷹狩りの帰りに姫路城へと立ち寄った。
黒田官兵衛は父・黒田職隆の命令で小寺政職の配膳係を務めた。
すると、小寺政職は黒田官兵衛の機敏な動きを気に入り、黒田官兵衛を18石で近習に取り立て、御着城へと連れ帰った。
黒田官兵衛は母・明石岩(岩姫)が死んだ影響で長らく引きこもりになっていた。
だから、御着城の城主・小寺政職に会うのは、この時が初めてだった。
永禄5年(1562年)、黒田官兵衛は17歳で父・黒田職隆に付き添い、近くの豪族を討伐し、初陣を果たした。
また、初陣と同じころ、黒田官兵衛は元服して、名前を幼名「万吉」から、「官兵衛」へと改めた。このとき、黒田官兵衛は小寺政職から「小寺」の姓を賜り、小寺官兵衛と改名した。
(注釈:ここから、黒田官兵衛は「小寺官兵衛」を名乗るようになるので、ここからは「小寺官兵衛」で表記する。)
初陣と元服を果たした小寺官兵衛(黒田官兵衛)は度々、周辺の反乱や敵軍の侵略を討伐し、小寺政職から信頼を置かれる存在となる。
小寺家に小寺官兵衛ありと言われるようになった。
いわゆる「臥竜」としてである。


若き官兵衛にとって、播磨だけがすべてであった。
官兵衛はいわゆる「晴耕雨読」の日々を送っていた。黒田官兵衛の父親は黒田職隆(くろだ・もとたか)という。播磨国(現在の兵庫県)の姫路城下だけが領土の弱小外様大名である。よく親子は馬で播磨の丘にいった。
広大な播磨の山々や田園風景が眼下に広がる。
職隆は田園風景を馬上より眺め、しんとした感じでいった。
「のう万吉……いや官兵衛。我ら外様が主君に引き立てられるにはしゃかりきに努力をし、血反吐を吐きながらでも働くことじゃ」
「父上。我が主君・小寺政職公は毛利や今京で話題の織田信長なるものに勝てまするか?」
 職隆は「わからん。だが、降りかかる火の粉はふり払わなければならん」
「播磨は大丈夫に御座りましょうか?」
「その為の我ら軍師であり、その為の外様黒田家である」
「なるほど」
官兵衛は馬上で頷いた。
鳶が青空に雄大に飛んでいる。そう、若き官兵衛にとって「播磨」だけがすべてであった。
すべての世界だった。のちに天下の軍師になるとは夢にも思わない。最初の主君・小寺政職(こでら・まさとも)は「飼い犬が主の手を噛んではならぬぞ」と家臣にいい欠伸をする。官兵衛が幼少期から青年期まで主君として仕えているが、小寺政職ははっきりいうと凡庸な人物である。このころは戦国の乱世でもまだ播磨は平和な時代であった。
 官兵衛だって初恋はある。大河ドラマではおたつという田舎娘で、馬で官兵衛が村の畔道を城に向けて走らせたときでも、「官兵衛さま!栃餅がありますから……あとでお訪ねください!」という。
可愛い娘である。だが、その恋は、突然断ち切られることになる。雨宿りでの山小屋でのおたつとの愛も、同じだ。
織田や毛利の勢力が、播磨にも近づき、播磨も戦火に包まれる。
その戦火で初恋のひと、おたつは命を落とす。官兵衛は亡骸にすがった。「おたつ!おたつ!」
黒田官兵衛は絶望のうち彷徨い、ふと立ち寄った耶蘇教(キリスト教)の教会で大粒の涙をはらはらと流したという。
 官兵衛は天正十一年(1583年)頃ぐらいに黒田官兵衛がキリスト教に入信し、洗礼を受けて、キリシタンの名前も貰っている。
さて「軍師」とは何をするのか?軍略や謀略だけではない。軍勢の隊形や天気予報、敵方への交渉、賠償交渉、優秀な武士の仕官斡旋、教育、軍事力費用工面、兵糧工面……まあ、分かり易く言うと現在の「外務大臣」「財務大臣」だ。官兵衛は昔の姫路城・石月森山城・大阪城・中津城等の築城や他藩・他国との交易でも有名だ。自軍の旗指物を後方の遠くで漁師や農民に大量に翻させて「多勢の援軍がきた」と敵兵に思わせたり、敵軍の旗指物を大量に翻させ「寝返った軍が大量に出た」と敵軍に思わせたり、敵軍に「自軍の将の謀反の偽手紙や噂」を広めて攪乱したり、まるで日本の諸葛孔明だ。最近まで秀吉の策略とされていた軍略のほとんどが、実は官兵衛の策であることがわかっているそうだ。
 戦国一の軍団「黒田家臣団(黒田二十四騎)」は「生涯無敗」を誇る。
黒田二十四騎の始まりは栗山善助である。「軍師殿、この栗山善助、若さだけには自信があります。是非とも家臣に加えてくだされ!」
次々と若い精鋭の若き青年たちが集まった。
「黒田二十四騎」のはじまりである。
「よし、栗山、家臣団をまとめよ!」
「ははっ!」
 この頃、織田信長は天下人への道を確実に上りつつあった。「天下布武(てんかふぶ)」というのが信長のビジョンである。
「天下布武か」都での噂は尾ひれをひきながら官兵衛のもとに流れつき、信長のビジョンに官兵衛は感心した。「わしは井の中の蛙だ」官兵衛その頃、そう思っていた。
 のちに官兵衛ときに三十歳であり、この頃、信長に仕官しようと決心する(当時の播磨では織田方に従おうという「織田派」と毛利方に従おうという「毛利派」で意見が分裂していた。それを「織田派」の官兵衛が家臣団を説得したのだという)。その過程で、その頃の秀吉と運命的な出会いをする。
 姫路は山陽道の要所である。西には地方大勢力の毛利家(毛利輝元勢力)がいて、東には新興勢力・織田家がある。黒田官兵衛は播磨・姫路領土だけの外様大名であり、主君の小寺氏に、織田信長につくよう説得した。
 官兵衛が織田信長のいる岐阜城に「小寺氏の使者」として参内したのは天正三年(1575年)で、ある。何故毛利ではなく、織田信長であったのか?この信長の情報をもたらしたのは播磨にある廣峯(ひろみね)神社の「御師(おし)」という布教団体の活動者からの情報である。「御師」は東は中国・山口県から西は京都府まで活動していた。
 官兵衛は「御師」からの織田信長の情報を冷静に分析して、「織田信長こそ次の天下人だ」と分析結果を得たのである。
信長は岐阜城の下座で平伏している官兵衛をまじまじと見た。
「お主が黒田官兵衛か?」
低い声で尋ねた。
「ははっ!」
 烏帽子直垂姿で官兵衛は益々平服する。黒田官兵衛は小寺氏や黒田氏の織田方への服従だけでなく、「我が領地・姫路は中国地方の重要拠点であり、毛利攻めの最、必ずお役にたちます」と軍略までも披露したという。感激した信長は現在では国宝となっている名刀「圧切長谷部(へしきり・はせべ)」を官兵衛に授けたという。名刀「圧切(へしきり)」とは信長の茶坊主か部下がヘマをやらかして棚の隙間に逃げ込んだが、信長が「棚ごと「へし斬って」殺した」事から「へしきり」と呼ばれた名刀だという。
 信長はのちに黒田官兵衛の武功を讃え「神妙(あっぱれ)な軍師である」と書状に書いている。
そこに現れたのが羽柴(のちの豊臣)秀吉であった。
「御屋形さま!ご命令の一件無事完了いたしましてございまする!」
「秀吉、よくやったのう!嫁のおねが風邪じゃそうじゃのう。大丈夫か?」
「ははっ!心配ご無用!に御座いまする!」
「そうか。猿よ、お主にこの臥竜を預けよう」
「臥竜?」
「うむ。こいつは臥竜じゃ。竹中半兵衛とともにその軍師・竜虎、軍師・両兵衛でこの織田信長を支えよ!」
「ははっ!」
「官兵衛とやらそれでいいな?」
「はっ!」
 やがて官兵衛は秀吉と話した。
「わしはこの戦国の乱世を終わらせる。その為に「天下布武」「信長さま」は必要なのだ」
「官兵衛もそう思いまする。なるたけ人を殺さず、戦わずして勝って……何が何でも戦乱の世をおわらせねば」
「お主もそう思うか?」
「はっ、まさに!」「ならばお前がこの乱世を終わらせろ」「かしこまりました」秀吉と官兵衛は笑顔でがっちり握手を交わした。英雄とは凄い。官兵衛は本当に軍師として乱世をおわらせてしまう。
 官兵衛と秀吉は出生というか運命が似ている。ひとりは元・百姓、もうひとりは元・目薬屋、である。信長に見いだされ、秀吉を天下人にし、家康に恐れられた天才………。
そして秀吉を天下人にしたのも黒田官兵衛と黒田家臣団「黒田二十四騎」で、ある。



  行列が、北からきた。
 武者や女郎、童子などと御輿などである。
 それが左吉の興味をそそった。
 ……御輿の御簾が少しあき、そのものは小さい人物だった。眉をそり、白塗りしていて、あきらかに平氏の「マロ」である。貴族といえばいいのか。
 左吉は「みたい」と思った。
 もっとその人物をみてみたいと思って近付いた。
 すると側近の者や護衛がガキの左吉をとめた。とたんに左吉は手に噛み付いたという。「なにをする! この餓鬼め!」
 ひっぱたかれた。
 餓鬼め! と武者は左吉を手毬のように投げて蹴った。しかし、左吉は逃げない。
 さらにリンチを加えようとすると、年老いた女房殿が                          
「止しや!」ととめなかったら、左吉は殺されていたかも知れない。
 左吉はやっと逃げた。
「あれは誰じゃ?」
「知らぬわ」
 両親はこのことを知ってから「朝廷だから立ち向かったのか……?」と疑問をもった。寺にいれたことは正しかったのだろうか? 自問した。
 答えは出なかった。

  永禄三年(1560年)、石田三成は石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれた。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を名字とした土豪であった。(幼い頃から観音寺で学習した)
 負けん気は強い。
  七歳となった左吉(のちの三成)は近江の観音寺に預けられた。
 左吉を馬で連れてきた母は、いろめ笠をとって「これからは母は亡いものと思いなしゃれ」といい揃いの笛の一体を渡して、後ろ髪ひかれる思いで去った。「母上!」
 左吉は寺での生活も闇夜も怖くなり、寺から逃げ出した。
 しかし、坊主につかまった。
「離せ! われは京に戻りたい!」
「そなたは京に戻ってはならない身元じゃ! 京は胸の中にある」
「……胸?」
「そう。そなたの胸の中に、森羅万象……すべてある。あれをみよ! 毘沙門天ぞ! われらの守護神ぞ」
 左吉は巨大な毘沙門天の像を眺めた。
 左吉は剃髪せず、坊主にもならなかった。
 そこで十五歳までを暮らすことになる。
 左吉はときどき寺を抜け出して京にいったという。
 観音寺では毎日、早足や飛び越えの稽古にはげんだ。
 剣術の腕も腕も磨いた。毎日、滝にうたれて精進した。散々、滝に叩き落とされる。     
 英雄には此伏のときがかならずあるものだ。
 天狗に兵法を教わったというのはもちろんフィクションである。本当に教えたのは中年の僧侶で、今川の残党の老師である。
 老師には”天狗”の渾名がついていた。奇妙な服装をして、天狗の面をかぶり、木刀で左吉(のちの三成)を何度もコテンパンにやっつける。
「お前はそれでも強いと思うておるのか?!」
「…われは強い!」
「お前は弱い! 弱い! 今日の復習! こいガキ!」
「やああ~っ!」
 左吉がかかっていったが、殴られて滝にどぼんと落とされた。「お前は弱い! 強くなるのだ! 左吉! もっとかかってこんか!」
 いつも酒を呑み、顔を赤くしている。鼻もひとより高い……白髪頭で髭もある。
”赤い酒臭い天狗さまじゃ”
 村人たちは笑った。
 左吉は僧侶に尊敬の念をもっていたので、”天狗さま”のことを『師匠』と呼んでいた。天狗さまの剣はすざまじく、飛ぶのも、走るのも早い。
「われも師匠のようになりとうござりまする!」
 左吉は眉目なハンサムな少年となっていた。走りながら木刀で木々を打ちつける。
 色白で、目がキリリとしていて、面長な顔で、風格さえある。               
 師匠は僧侶だけあって袈裟をきて、念仏もとなえる。天狗の面をとった。
 左吉(三成)は師と泥だらけになりながらも、剣の稽古をする。
「……われは何を求めているのであろう……これが宿命か…」
 あるとき、師匠は両手をパチンと叩いた。
「左吉! 今どちらの手が鳴った?!」
 問うた。
 左吉に答えはなかった。
 只、唖然とした。
「敵を知り、己を知らば百戦危うからずじゃ」師匠は孫子の兵法や三十六兵法を教え、少年の頭と体を鍛えた。少年の吸収は早い。
 しだいに師匠が感嘆することも多くなっていった。
「われは百姓の子なのでしょう?」
 ある時、真実を知った左吉が師匠に尋ねた。
 師匠は、
「やっとわかったか? 今までは武士の子供だと思っていたのであろう?」
「はっ」
「武士の子だとでも思っておったか?」
「……いえ。それは…」左吉は痛いところをつかれて黙り込んだ。
「ならばどうする?」
「われは………信長さまや信玄公のようなものに支えたいと思いまする!」
 左吉は志をもった。
「それでは武士と戦になるであろう?」
「かまいませぬ」左吉は強くいった。「それが義の戦であれば、われは戦うのみでありまする!」
「お前の申す義とは何ぞ?」
「天下国家のための国つくりでござりまする。……いまの朝廷の世は不満だらけです。皆、飢えておるのに一部の貴族や武士一族だけが満腹な思いをしていまする」
「ほう。で?」
「この国を回天させまする!」
 左吉は息巻いた。
「おぬしひとりでできるものか?」
「いえ、実力のある武将につかえて……力を合わせておれば、全国の武士が立ち上がりまする!」
「そんなに甘くいかんぞ! 今や戦国の世じゃ。ちまたでは武士にあらずんばひとにあらず……ともいう」
「それを変えたいのでごさりまする!大一大万大吉でござる」
「そうかそうか」
 師匠は満足そうに笑った。                     
 ……こいつは法螺ばかり吹くやつではない。天才かもしれぬ。軍事の天才じゃ!


  時代は混沌として動くようで、動かない。
 いや、動かすべきだ。
 とおもう男が、地方にいた。場所は関東でも奥州でもなく、険しい山のなかの近江の観音寺にいた。
 天皇が、
「あの地方にはどんな連中が住んでおるのか?」と尋ねたことがある。
「ウイススキ党というものがいるということでごさる」
「ウイススキ……? なんじゃそれは」
 天皇は笑った。
 ウイススキ党などというのは人間なのか。宇井・鈴木党というところだが、なんという馬鹿な名前の人間たちだ。この連中が『天狗』の由来である。
 その族の伝説も怪しげで、熊野権現が摩伽陀(古代、中インドにあった国)からこの地へ飛来したとも、秦の始皇の臣徐福が蓬来島に上陸しようとして難破した者たちの子孫ともいわれる。どちらにしても怪しい家柄だ。
「私は熊野で臥竜をみました」
「……臥竜?」
 秀吉は目が点になった。「それは孔明のようなものか?」
「さようにござる。今、観音寺にいまする」
「……童子じゃと? そんなものがこの国を変えられるのか?」
「ときがくれば……」
 家臣は笑った。

 三成は十四~十五歳から秀吉に支えた。
 その出会いは天正二年……
 秀吉は鷹狩りの帰りに寺により喉が乾いたので、
「誰ぞ、茶をもってまいれ」といった。
 すると左吉が大きな茶碗に七、八分、ぬるく立てて差し上げた。
「うまい。もういっぱいくれぇぎゃ」秀吉はいった。
 左吉は今度は少し熱くして茶碗に半分ほど差し出した。
「うむ、もう一服じゃ」
 秀吉が所望した。
 すると左吉は小さな茶碗に、少し熱いお茶を出した。
 秀吉は大いに感心して、
「小僧、名は何という?」
「左吉です。石田左吉にござりまする!」
 平伏した。
「そうきゃ? 石田左吉! このわしの家来となれ!」
「はっ!」
 石田左吉(三成)はこうして秀吉に支え、山崎、牋ケ獄の戦いで一番槍の手柄をあげている。秀吉はこうして大切な頭脳をその手にして天下をとれた。三成がいてこそである。 羽柴秀吉が信長に仕え近江長浜城(長浜市)主になった天正二年(1574年)頃から秀吉の小姓として三成(当時・佐吉)は仕えた(天正五年(1577年)の説も)
 秀吉の中国征伐に従軍した。本能寺(1582年)で秀吉が天下人として台頭してくると、三成も秀吉の側近として次第に台頭していく……こんなエピソードがある。佐吉は秀吉に仕えたが、秀吉の妻・おねが佐吉に「腹がすいているのか?はれ、握り飯でも食べなさい」と優しい言葉を人間として始めて頂いた、と涙をながしたという。秀吉は後年、そういう話を他人にしたがったという。あの冷血漢の三成も「人間らしい所」があるという。                


新島八重の桜と白虎隊と「幕末のジャンヌダルク・ハンサムウーマン」ブログ連載5

2014年01月16日 06時57分47秒 | 日記
         5 白虎隊



またまた話しは遡る。龍の如く。
「これからどうなさりますの?」
 佐久は大塚雀之丞に尋ねた。「やはり上様さまとご一緒にいかれますの?」
 大塚は恐縮しながら、「会津公の藩邸とは存じませんで…」
「よいのです」
「榎本副総裁が蝦夷にいくというので乗せてもらおうと…」
「えっ?!」
 佐久は驚いた。「榎本さまたちは蝦夷(北海道)へいかれるのですか?」
「そうです。会津公も一緒です。まず、会津、仙台や青森を経て、最終的には蝦夷です」「……蝦夷…」
 佐久は言葉もなかった。
「江戸のかたきは蝦夷です!」大塚雀之丞はそういって、頭を下げて去った。
 義母の古森が、「どうしました? 佐久さん。誰かきましたか?」と起きてきた。
「いいえ。……上様さまかと思いましたが、違いましたわ」
 佐久は動揺しながらいった。
「左様ですか」
 義母が去ると、佐久はひとりきりになって寂しくなった。
 涙が後から後から大きな瞳からこぼれた。
 ………上様さま……このまま会津にいっておしまいになるのですか? ……
 佐久は号泣し、床に崩れおちた。
 …上様さま! 上様さま!
 すると、肩に黒のコートをかける者があった。それは松平容保だった。
「…う…上様さま!」
「佐久!」
 ふたりは抱き合った。佐久は涙を流したままだった。
「上様さまは……蝦夷にいかれるのですね?」
 容保は首をふり「いいや。余は蝦夷にはいかない。会津藩にもどり官軍と好戦する」
「佐久…も……会津にいきとうござりまする…」
「佐久! 頼みがある」松平容保は笑顔を無理につくり頼んだ。「余のまげを切ってくれい。もう武士の世はおわった」
「……わかりました」
 蝋燭の薄明りの中、佐久は旦那・松平容保のちょんまげを鋏で少しづつ切り落とした。容保の全身の血管の中を、なんともいえない感情が……ひとしれぬ感情が駆けめぐり、容保は涙を流した。さまざまな思い出、すでに忘れたとおもっていた感情や風景が、頭の中に走馬燈のように駆けめぐり、一瞬、自分が誰なのかも忘れてしまった。
「佐久! もう……いかねば…」
 最期の別れになる、容保も佐久もそう思った。
 ふたりは抱き合い、抱擁し、そして別れた。
  容保が部下に与えたのは何も軍艦占領法や、航海術だけではなかった。開墾や鉱物、畜産など容保にはそれらは得意分野だった。そこで、まだ新政府が開拓以前だった会津つまり福島県にいき、「新天地」をつくり開拓し、「会津共和国」をつくろうというアイデアに至ったのである。もう藩ではない。共和国だ!

  榎本らは船のデッキにいた会津公・松平容保の前で平伏していた。
 容保は謹慎中だった。
 幕府はいまや風前の灯……
 しかし、幕臣たちにとって松平容保は絶対的な存在であった。
「和泉守(榎本武揚)、戦は余ののぞむところではない」
 容保は平伏している家臣たちにいった。涙声だった。
 武揚たちは平伏したままだ。
「路頭に迷う家臣たちのことを思うと……夜も寝れぬ」
 容保はめずらしく感情的になっていた。涙を流した。武揚らはさらに平伏した。
「和泉守、家臣たちの力になってやれ」
「上様!」
 武揚は声をあげた。
「なんだ? 和泉守」
「われら幕臣たちは「新天地」にいきとうござりまする!」
 平伏したまま武揚はいった。
「”新天地”とは? どこじゃ?」
「蝦夷……にござりまする」
「蝦夷(北海道)?」容保は頭を回転させながら「蝦夷にいって何とする?」
 とやっときいた。
「われら幕臣たちは「新天地」……”蝦夷”にいって共和国をつくり申しまする!」
 榎本武揚はいった。
「共和国?」
 容保の目が点になった。
「蝦夷共和国にござる!」
「……しかしのう、和泉守。幕府の姿勢は共順じゃ。新政府が許すか?」
 武揚は顔をあげた。
「われらの姿勢はあくまで幕府と同じ共順です。只、蝦夷で共和制の一翼になるだけにござりまする。いわば蝦夷藩といったところでしょうか…」
「蝦夷藩?」
「はっ!」
 武揚はまた顔を下げ、平伏した。
 容保は何がなんだかわからなくなり、「ええい。苦しゅうない。みな面をあげい」
 といった。急に平伏していた幕臣たちが顔を向けた。
 ぎょっ、とした。
 みな揚々たる顔である。
 みなの顔には「新天地」への希望がある。
「すぐに蝦夷へ向かうのか?」
 容保は是非とも答えがききたかった。
 武揚は「いえ。まずは会津、仙台に立ち寄ります」と答えた。
「なるほどのう。会津であるか…余の故郷であるな」
 容保がどこまで理解しているのか、榎本武揚には解明するすべもなかった。
「会津から…せ……仙台から蝦夷へか。それはよいな」
「はっ!」
 榎本武揚らは再び平伏した。「会津さま!」榎本は催促した。
「とにかく私も会津にいきまする。官軍と一戦交えまする! 榎本武揚と励みまする!」「そうか」
 容保はそういうと、船のデッキにいった。
 蟠竜丸、慶応四年(一八六七)七月二十八日のことである。
「兄上! お達者で!」
 松平容保や兄・徳川慶勝は手をふった。

  松平容保はさっそく筆をとる。
「王政復古の大号令が発せられるも、それは薩長が朝廷工作のために発せられたに過ぎない。当然ながら天子さま(天皇のこと)はお大事ではあるが、その天子さまを掲げて、官軍などといっては、これまで三百年も朝廷や天子さまをお守りしてきた徳川幕府はどうなるのか。さてさて、幕府以外にこの日本国を束ねる力があるだろうか。
 私はないという。
 なぜならば、薩長には外交力も軍事力も欠けているからである。
錦切れどもは尊皇壤夷などといってはいるが、尊皇はいいとしても、壤夷などと本気でできると思っているのか。
 思っているとしたら救いがたい。
 今やらなければならないのは徳川家を中心とした共和制をつくり、軍備を整え、慶喜公がこの国の大統領となって「開国」することである。
 この国を外国にも誇れる国にすることである。
 そこで外国との窓口として「会津共和国」「蝦夷共和国」が必要なのだ。
 国の礎は、経済である。あの広大な大地をもつ蝦夷なら、開拓すれば経済的に自立できる。そして、会津藩、桑名藩、蝦夷藩ともいうべき「新天地」となるのである。
 新政府とわれらは争う気はない。
 われらの姿勢は幕府と同じ共順である。
 しかし、新政府が「会津、蝦夷共和国」を認めないなら、一戦交える覚悟である」

  このような内容の激文を、松平容保は書き、二通は勝海舟のもとへ送った。
 勝海舟はそれを読み、深刻な顔をした。
 ……まだ戦う気でいやがるのか。救いようもねぇやつだ。……
 勝は大きな溜め息をもらした。
「会津はとんでもねぇやつを藩主にしちまったもんだ」
 勝には、幕臣軍(今後は榎本脱走軍と呼ぶ)に勝ち目がないのがわかっていた。確かに、軍艦はある。大阪城から盗んだ軍資金もあるだろう。
 しかし、榎本脱走軍には勝ち目がない。
 錦切れどもは天子さまを掲げている。
 て、こたぁ官軍だ。榎本脱走軍は、賊軍、となるのだ。
 まだ会津藩らが戦うらしいが、どうせすぐに負ける。
 ……わかりきったことじゃねぇか。
 維新最大の頭脳、勝海舟には榎本脱走軍の将来がみえていた。
 しかし、それは明るいものではなかった。


「お父上、上様さまはもう会津へいかれたのですか?」
 朝、佐久は心配顔で父親にきいた。実家の父が会津江戸藩邸に訪ねてきていた。
 佐久の父・田代孫兵衛は、
「いや、まだ榎本副総裁の開陽丸は品川沖にあるそうだ」
 と答えた。
「まぁ!」
 佐久は驚いた顔をした。
「まだ品川にいて官軍にやられないのですか?」
「今、大急ぎで、幕臣たちが舟で開陽丸に向かっているそうだ」
「……そうですの…」
 佐久の不安は消えない。
 そんな中、大好きなおじいちゃま、こと田代老人が供をつれて訪ねてきた。
「まぁ! おじいちゃま!」
 佐久はお転婆娘のようにはしゃいだ。
「佐久! 元気でおったか?!」
「はい」
 すると、青年がふたり頭を下げた。
 それは英国留学よりもどった林洞海の五男・英国留学生、林董三郎とその甥、パリ万博随行員・山内六三郎である。
「まぁ、董三郎。六ちゃんも」
 いよいよ佐久はうれしくなった。
「姉上! 会津公に輿入れなされたとか……おめでとう」
 董三郎は遅ればせながらお祝いを述べた。
 父の友人・林洞海は浮かない顔をする。
「……どうしましたの? 先生」
「いやあ、董三郎たちが釜さんと一緒に蝦夷にいくってきかぬのだ」
「まぁ!」佐久は驚いた。
「われらは蝦夷にいきます! こうして英国留学できたのも幕府のおかげです!」
 董三郎たちは決起盛んな質である。
 それに若さも手伝っている。
「……しかし…蝦夷など…」林洞海は訝しがった。
「幕府がいま危ないからこそ、われわれが立ち上がるのです! 薩長だけで維新はなりません、蝦夷でこそ壤夷ができるのではないでしょうか?」
 田代老人がハッとした。
「この連中のいう通りじゃ。幕府のおかげで留学までできた!」
 林洞海は「先生!」と諫めた。
 すると老人は涙声になって、土下座して「このふたりを開陽丸に乗せてやってくれ!」 と嘆願した。「……先生…」
 董三郎たちは「これは義の戦です! 幕府軍(榎本脱走軍)は多勢に武勢……薩長なんぞに負ける訳がありません。江戸のかたきは会津…そして蝦夷です!」
 と息巻いた。
 そして、土下座して父に許しを乞うた。
「勝手にせい!」
 林洞海は訝しい顔でいった。
  船着き場では小舟にのり、幕臣たちが海原に浮かぶ開陽丸に乗るために急いでいた。 林董三郎とその甥、山内六三郎も舟にのった。
 そんな騒動の中、船着き場に白衣の医者が現れた。自分も乗せてくれ、という。
「あなたは?」
「わたしは元・幕府奥医師、高松凌雲だ」
 高松凌雲はいった。
 高松凌雲といえば幕府医師の中でも名医として知られ、フランスに留学して知識を得て、のちに日本赤十字運動の草分けとなる医者である。
「これは! 凌雲先生でしたか! 先生もわれらとともに行って頂けるとは…ありがたいかぎりです!」
 幕臣のひとりは笑顔になった。
 凌雲は「いっておくが、わたしは戦をしにいくんじゃない。負傷したひとたちをたすける、治療するためにいくのだ。その負傷者が例え幕臣でも薩長でも、差別なく治療する」「……そうですか」
「それでもいいなら乗せてくれ!」
 高松凌雲は舟に乗り、海原に浮かぶ開陽丸に向かった。
  その頃、榎本武揚と勝海舟は江戸で会談していた。
「榎本さんよ、どうしてもいくっていうのかい? 会津蝦夷くんだりまで?」
「勝さん、幕府軍(榎本脱走軍)を甘くみちゃいけない。ぜったいに会津…蝦夷で勝つよ」 いよいよ勝は激昴する。
「目を覚ませ! 榎本武揚! 歴史に愚をさらすだけだ!」
「われらは勝つ!」
「この……大馬鹿野郎!!」
 勝海舟は席を蹴って去った。「おいらの幕引は間違いじゃなかったな」
 しかし、勝はあの高松凌雲まで榎本脱走軍に合流したことを知って唖然としたという。 ……なんてこった!

  松平容保が開陽丸に戻ると、いよいよ一同はいき揚々たる顔になる。
 いよいよ「新天地」に向かうのだ!
 一同は甲板の中央に立つ松平容保に注目している。
「冗談ではない! この船を幕府の幕引につかわれては余はたまらない!」
 容保はいう。すると沢が、「その通りです! 冗談じゃねぇ!」
 家臣たちも「会津公がまげを落としたなら、俺たちも…」
 といって、刀を抜き、ちょんまげを切りおとした。
「まずは奥州(東北)戦争を助けるために会津、仙台にいく!」
 榎本は激を飛ばす。
「そして、「新天地」に向かうのだ!」
 部下たちは揚々たる顔である。
「蝦夷に新しい国をつくる! 蝦夷共和国だ! 薩長の新政府なんぞ糞くらえだ! 共順など糞くらえだ! 我々は「新天地」に向けてジャンプする!」
 一同は歓声をあげた。
 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……
 高松凌雲も甲板でそんな幕臣たちを笑顔でみている。
「榎本さん。わたしは軍にはいったわけじゃない。赤十字の精神で治療や介護をしていく」「……凌雲先生! それでいいですよ」
 武揚は笑った。
 そんな中、フランス人ふたりが軍服のままやってきた。
 流暢な日本語で「榎本さん、わたしたちも仲間にいれてください」と嘆願した。
「しかし、フランス軍の兵士を乗せていく訳にはいかん」
松平容保はしぶり、榎本武揚は躊躇した。
「それでは旧幕府軍(榎本脱走軍)とフランス軍がふっついたことになる。蝦夷共和国そのものが朝敵にされかねない」
「会津公も困るぞ」
 フランス人のひとりカズヌーブは「わたしたちは仏軍抜けてきました」という。
 もうひとりのフランス人、ブリュネは、
「わたしたちあなたたちと同じサムライになります。フランスのサムライです。どうかお供させてください」と頭を下げた。
 榎本は笑顔になり、
「わかった! フランスのサムライもふくめて我々は「新天地」に向けてジャンプする!」 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……
 林董三郎、山内六三郎を英語方にした。
 慶応四年(一八六七)八月十八日、八隻の幕府艦隊を引き連れ、松平容保らは「榎本脱走軍」を東京から会津、仙台へと向かわせた。
 田代老人はその艦隊を見送った。
 孫娘で、容保の側室である佐久も涙で見送った。
「佐久、会津公たちは確かに賊軍になったが……歴史が、ふたたび公たちを評価してくれる日がくる」
「……そうでしょうか?」
「何年後か、何十年後か……もしかしたら百年ののち公たちの戦がけして無駄ではなかったということを日本人は知るのじゃ。そうでなきゃいかんのよ」
 佐久は何も答えなかった。
 只、遠ざかる艦隊を見送っていた。

  大時化となり、台風の暴風雨が榎本脱走艦隊を襲った。
 艦隊が横に縦に揺れ続ける。
 …それは榎本脱走軍の未来を暗示しているような天候だった。
  いっぽう会津では八月二十五日、会津公が藩にもどった。桑名藩、米沢藩、庄内藩、仙台藩があいついで官軍に降伏していた。会津近辺でも戦闘が開始された。
 会津同新館(病院)で治療にあたるのは松本良順である。
「ちか子さん、もっと包帯だ! 早く!」
 看護士は、井上ちか子ら数名のみである。井上ちか子はまだ若い女だ。しかし、病人の看護で埃まみれ、汗まみれで看護にあたっていた。
 そんな病院に土方歳三が軍服姿で刀をもち、現れた。
「土方さま!」
 井上ちか子は驚いて声をあげた。京であっていらい四年ぶりの再会であった。
「……ちか子さん。わたしはこれから仙台にいき、榎本武揚海軍副総裁と合流します」
「どこへ? もう新選組の役目はおわったでしょうに…」
 土方は沈黙した。
 そして、やっと「蝦夷にいきます。なんでも旧幕臣たちで蝦夷を開拓して”蝦夷共和国”をつくるとか……」と答えた。
 明治元年(一八六八)のことである。
 榎本脱走軍が仙台についたのは、なんと宇都宮からの敗戦から半年後であったという。 土方はいう。
「わかりません。幕府が滅んだのに幕臣だけは生き延び蝦夷に共和国をつくることは納得できません。幕府の死は私の死です。侍らしく、戊辰戦争もおわれば切腹しましょう」
「いや…」榎本は説得する。「命を粗末にしてはならない。まず、将来、日本や蝦夷の将来を考えてもらいたい。土方くん、新選組にだって未来があったはずだ。幕臣にだって未来があってもいい」
 榎本脱走艦隊は土方ら新選組や会津藩士ら旧幕臣三千名をつれて蝦夷へむかった。
 蝦夷とは現在の北海道のことである。もう冬で、雪が強風にあおられて降っていた。

  榎本脱走艦隊が蝦夷鷲木湾へ着いたとき、もう真冬で蝦夷は真っ白な冬景色だった。 開陽丸の甲板もすぐに白い雪におおわれた。
「蝦夷は寒いのう」
 榎本武揚脱走軍は北海道に着くと、全軍を二軍に分かち、大鳥圭介は、第二大隊遊撃隊、伝習第二小隊、第一大隊一小隊を総監し、本道大野から箱館に向かうことになった。
いっぽう土方たち新選組残党と額兵隊(隊長星恂太郎)と陸軍隊とを率いて川汲の間道から進軍した。
 土方歳三は陸軍奉行並という。その他、竹中重固(陸軍奉行)、桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静、唐津藩主小笠原長行ら大名が蝦夷地に着いていた。
 深い雪の中の進軍であった。
 土方歳三は五稜郭に向かった。
 中には怪我人の幕臣まで出陣するといい、高松凌雲に止められた。
 
  のちに青森の松前藩士が榎本脱走軍のひとりを斬ったことで、松前藩と榎本脱走軍との戦いが始まった。戦闘は数時間でおわり、剣で土方たち新選組残党が奮起した。
「土方くんたちを暖かく迎えてやれ」
 榎本武揚は江差に上陸して五稜郭城を占拠していた。
 しかし、そんなとき不運はおこる。
 暴風雨で波は高かったが、まさか船が沈むとは榎本武揚ですら思っていない。しかし、激しい風と雪、波でしだいに開陽丸の船体がかたむき、沈みかけた。
 それを海岸でみていた榎本武揚は動揺して、
「船が……! 開陽丸が沈む!」と狼狽して叫んだ。
 家臣たちに止められなければ海の中に歩いていったことであろう。
 土方がやってきた。
「俺の四年間の結晶が……開陽丸が沈む!」
 武揚は涙声だった。
 土方はそんな情ない榎本を殴り「この西洋かぶれが!」と罵倒した。
 そうしているあいだにも遠くで開陽丸が沈んでいく。
「開陽丸が! 開陽丸が! あの船がなくなれば蝦夷共和国はおわりだ…あぁ」
 土方は「蝦夷共和国?! そんなもの幻だ!」といった。
 やがて、巨大な開陽丸の船体は海に沈み、海の藻屑へと消えた。
「あぁ……開陽丸が…………すまない皆、すまぬ」
 榎本は涙を流して部下たちにわびた。
 土方は何もいわなかった。
 その頃、会津にまで官軍は迫っていた。
 会津征伐軍参謀には山田市之丞と、同じく征伐軍参謀・黒田了介(のちの黒田清隆首相)が福島県まで進軍していた。ゆくゆくは蝦夷である。
 参謀は獅子舞のようなかつらをつけている。
「まずは飯じゃ! 飯! おお寒い。東北は薩摩と比べようもないほどさむいのう」
 山田はそういうと栃木城で暖をとった。
「この餓鬼が……当たり前じゃっどん。薩摩と東北では天気がちがうでごわそ!」
 参謀・黒田了介は、まだ若い二十五歳の山田市之丞と同じ位なのが我慢がならない。
「おいどんだけで会津や蝦夷にいった幕府残党を征伐ばするでごわす!」
 黒田はいったが受け入れられなかった。
 その間も、山田の若造は「飯じゃっどん! 温こう飯じゃっどん!」
 とさわいでいる。
 ……この糞餓鬼が……
 参謀・黒田了介は舌打ちした。

「来るならこい!」
 松平容保は鶴ケ城でそう呟いた。
 官軍なにするものぞ、会津藩の力みせてくれようぞ!
 ……今度の官軍との戦いでは藩士だけでなく女子や少年たちも戦ってもらうしかない。彼は少年たちの突撃隊の名前を紙に筆が書いた。
 ”白虎隊”……
 集められた少年たちは十九~二十歳たち十九名、女子も武装して集まった。
 官軍は猪苗代まで迫っている。少年たちは鶴ケ城から出陣しなければならない。
 その中には生き残りの少年、当時十六歳の飯沼貞吉の姿もあった。

 そして再び話しは「会津の役」である。
1868年10月7日、十六橋を押さえた新政府軍は、若松城の北東わずか数kmに位置する戸ノ口原まで迫った。
新政府軍は援軍が加わり、ますます勢いは盛んになっていた。
「なにが官軍だ!会津は逆賊じゃねえず!」
これを迎え撃つのは、「鬼の官兵衛」という異名をもつ、会津藩一の猛将・佐川官兵衛(さがわ・かんべえ)である。
「敵を戸ノ口原で防ぎ、十六橋の東へ追い払う」
と豪語する佐川官兵衛は、強清水村(こわしみず村)に本陣を置き、戸ノ口原で新政府軍を迎え撃つ準備をしていた。
しかし、会津軍は主力部隊を国境に展開しており、若松城に残っている兵はわずかで、戸ノ口原に集まった兵は、敢死隊(かんしたい)や奇勝隊(きしょうたい)などの義勇軍(非正規軍)を主とする1000人程度であった。
このため、白虎隊は予備隊という位置づけで、戦争に参加する予定は無かったが、戦争に駆り立てられることになる。
1868年10月7日午後2時、会津藩主の松平容保は警護の白虎隊(士中一番隊と士中二番隊)を従え、滝沢本陣に到着する。
(注釈:松平容保は松平喜徳に家督を譲っており、松平容保を前藩主であるが、便宜上、松平容保を藩主と表記する。)
そのころ、滝沢本陣には十六橋から敗走してきた会津兵が続々と押し寄せていた。
さらに、戸ノ口原から戻ってきた会津藩士・塩見常四郎が援軍を求めてきた。
すると、隊長の日向内記(ひなた・ないき)が率いる白虎隊(士中二番隊)が援軍に名乗りを上げた。
藩主・松平容保はこれを許可し、白虎隊(士中二番隊)を戸ノ口原への援軍に向かわせる。
と、白虎隊(士中一番隊)を引き連れて若松城へと引き返した。
予備隊として編成された白虎隊(士中二番隊)は実戦経験を積んでおらず、白虎隊(士中二番隊)にとってはこれが初陣である。
白虎隊(士中二番隊)は当初、ヤーゲル銃という火縄銃に毛の生えた程度の洋式銃を装備していた。
が、ヤーゲル銃は役に立たないため、武器担当役人を脅迫し、馬上銃を手に入れていた。馬上銃はヤーゲル銃とは比べものにならないほど扱いやすかったという。
白虎隊(士中二番隊)が装備していた馬上銃は「マンソー銃」(マンソー騎銃)だと推測されている。馬上銃がマンソー銃だった事を裏付ける資料は無いが、ここではマンソー銃としておく。
一方、白虎隊(士中一番隊)も出陣を懇願したが、藩主・松平容保を警護する任務があるため、仕方なく、藩主・松平容保に伴って若松城へと引き上げた。
初陣となる白虎隊(士中二番隊)37名は、隊を2つに別れて戸ノ口原を目指した(その後、合流している)。
(注釈:白虎隊士中二番隊の人数については諸説があるが、ここでは定説となっている37人説を採用する。)
合流した白虎隊(士中二番隊)37名は舟石(地名)に達すると、戦場から砲撃の音などが聞こえ始めたため、白虎隊(士中二番隊)は舟石茶屋に携帯品を預け、馬上銃(マンソー銃)に銃弾を込めた。
このとき、白虎隊(士中二番隊)は携帯していた食料も舟石茶屋に預けたという説もある。
1868年10月7日午後4時、舟石茶屋に携帯品を預けて身軽になった白虎隊(士中二番隊)37名は、強清水村を経由して、戸ノ口原の側にある菰槌山(こもづちやま)に到着する。
白虎隊(士中二番隊)は菰槌山に布陣し、塹壕を掘って菰槌山から新政府軍を狙撃した。菰槌山では敢死隊(かんしたい)も戦っていた。
大砲の援軍も駆け付け、会津軍は新政府軍をいったん退けることに成功した。
この日、白虎隊(士中二番隊)は食料を携帯していないため、敢死隊から握り飯を分けてもらい飢えをしのいだ。
白虎隊(士中二番隊)は敢死隊と供に菰槌山で新政府軍を迎え撃つ予定であったが、篠田儀三郎が進軍を主張する。
白虎隊員も篠田儀三郎の意見に賛同し、白虎隊(士中二番隊)は菰槌山を敢死隊に任せて前線へと向かうことにした。
ここから、酒井峰治と飯沼貞吉の証言が大きく違うため、白虎隊(士中二番隊)は、
「挟撃作戦部隊(酒井峰治)」と
「前線突入部隊(飯沼貞吉)」
の2手に別れた可能性がある。ただ、詳しいことは分からない。
ここでは、飯盛山で自害する白虎隊(士中二番隊)16名が焦点を当てたあらすじを紹介するため、「前線突入部隊(飯沼貞吉)」のあらすじを紹介する。
1868年10月7日夜、日が暮れ、雨も降り出したため、前戦を目指していた白虎隊(士中二番隊)は進軍を停止し、野営することにした(台風が近づいており、天候は悪かった)。
その後、隊長の日向内記(ひなた・ないき)は軍議に参加するため、1人で白虎隊(士中二番隊)を離れた。
隊長の日向内記が白虎隊を離れた理由は、食料を調達するためとされてる。
強清水村の本陣での軍議に参加するためという説もあるが、真相は分からない。
1868年10月8日午前5時ごろ、夜が明け始めても隊長・日向内記が戻ってこないため、日向内記に変わって篠田儀三郎が指揮を執り、白虎隊(士中二番隊)を進軍させた。
やがて、白虎隊(士中二番隊)は、水の無い溝を発見し、溝に身を隠した。
そして、進軍して来た新政府軍をめがけて側面から発砲する。
奇襲攻撃を受けた新政府軍は一時、混乱したものの、直ぐに応戦。
多勢に武勢で、新政府軍の反撃に遭った白虎隊(士中二番隊)は総崩れとなり、ちりぢりとなって敗走する。
追っての兵から逃れて、白虎隊(士中二番隊)は野営地までたどり着くと、白虎隊員は、わずか16人となっていた。
白虎隊(士中二番隊)はここで休息を取る。
白虎隊員16人の中には昨夜の残飯を所持している者がいたため、残飯を水の中に放り込み、16名はそれを食べて飢えをしのいだ。
そして、16人では戦うことも出来ないことから、白虎隊(士中二番隊)は若松城まで退却し、体勢を立て直すことにした。
白虎隊(士中二番隊)は菰槌山で握り飯を分けて貰った敢死隊(かんしたい)の宿舎にたどり着くが、既に新政府軍に攻撃された後で、死体が散乱していた。
白虎隊(士中二番隊)は敵兵を避けつつ若松城を目指していたが、滝沢峠で敵兵に遭遇。
白虎隊(士中二番隊)は敵兵だとは気づかず、合い言葉をかけるが、敵兵が発砲してきた。
この砲撃で白虎隊(士中二番隊)の永瀬雄治が腰を負傷する。
白虎隊(士中二番隊)は永瀬雄治を背負って敵兵から逃げた。
やがて、白虎隊(士中二番隊)16名は洞窟「弁天洞門」を通って飯盛山に落ち延びた。
16名が飯盛山の山頂に着いたのは1868年10月8日午前11時頃のことであった。
藩主の松平容保は負傷兵のために、若松城の西隣にある藩校「日新館」を解放し、救護所(病院)としていた。
日新館には、江戸から逃れてきた医師・松本良順と弟子が居り、松本良順の指揮の下で負傷兵の治療が行われていた。
会津藩の女性は日新館で負傷兵の治療を行っており、ボランティア看護婦のようなことをやっていた。
1868年10月8日早朝、戸ノ口原を突破した新政府軍が城下町へ押し寄せると、会津藩は若松城の城門を閉ざした。
そして、会津藩は、若松城の西に隣接する藩校「日新館」が敵の拠点に使われることを恐れ、日新館に火矢を放ったのである。
火は瞬く間に藩校「日新館」を包んで燃え上がった(日新館の焼き討ち事件)。
一説によると、藩校「日新館」の火事を飯盛山から見ると、まるで若松城が燃えているように見えるという。
白虎隊が見た火には諸説あり、山本八重は自害した白虎隊について、
「官軍に来られ、仕方なぐ米を運べれるだけ城内に運んで、十八倉(米倉)を焼いてしまったのっす。んだげんじょ、味方がこごから見んど、ちょうど三の丸の森がございやして、城の方へ見えがから、城が焼けでしまったと思って、みんな割腹して死んだんだべなあ」と話している。
飯盛山の山頂に登った白虎隊(士中二番隊)が若松城を見ると、既に若松城が炎上していた。
大砲の音も絶え間なく鳴り響いている。
城下町からも火の手が上がっている。滝沢街道を見ると、新政府軍の長蛇の列が街道を埋め尽くしていた。
「し……城が燃えでる。あああぁ…」
「おれらの会津が負げだ。もう、おわりだんべ」
白虎隊(士中二番隊)の井深茂太は
「んだげんじょ、若松城は天下の名城じゃ、燃えででも、まだ落ちてないず。君主さまが健在である以上、無益な死は避けるべきだべ。南方から入城すっぺ」と主張する。
一方、敵陣に切り込んで1人でも多くの敵を殺すべきだ、と主張する隊員もおり、白虎隊は喧々囂々の議論となった。
しかし、最終的に篠田儀三郎が
「敵陣に突入するにしても、若松城へ戻るにしても、16人では成功の可能性が低い。もし、敵に捕まって辱めを受ければ、藩主の名を汚すことになる。潔く自害することこそ、武士の本分である」
と説得し、白虎隊(士中二番隊)16人は自害することになった。
腹を切る者も居れば、喉を突く者も居る。白虎隊(士中二番隊)の篠田儀三郎ら16人は会津藩士としての誇りを貫き、見事に自刃に倒れたのである。
なお、山本八重が砲術を教えた伊東悌次郎は、白虎隊(士中二番隊)の隊員として戦ったが、飯盛山に到達する前に戸ノ口原(不動滝)で戦死したとされている。
一般的に飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)は19名とされているのは、飯盛山で自害した16人に、戸ノ口原(不動滝)で戦死した白虎隊(士中二番隊)の伊東悌次郎・津田捨蔵・池上新太郎の3人を加えたものである。
さらに、その後、別行動で飯盛山へとたどり着いて、自害した石山虎之助を加えて、自害した白虎隊(士中二番隊)を20人とする説もある。
また、白虎隊は総数340人程度の部隊だが、一般的に白虎隊といえば、飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)20人を差す場合が多い。
白虎隊15人が自刃に倒れ、介錯の役目を終えた白虎隊(士中二番隊)の西川勝太郎が最後に自害しようとしたところ、山下を通る農民を見つけた。西川勝太郎は農民を呼び寄せて問うと、農民は滝沢に住む農民だという。
そこで、西川勝太郎は、
「我々は若干の金を持っている。みんなの金と刀を報酬とするので、我々の死体を地中深くに埋め、我々の首が敵の手に渡らないようにして欲しい」
と頼んで、自害した。
こうして、飯盛山へ落ち延びた白虎隊(士中二番隊)16人が自害すると、埋葬を頼まれた農民は、自害した白虎隊(士中二番隊)の体をまさぐり、金や刀を奪っていく。
農民が白虎隊(士中二番隊)の飯沼貞吉(いいぬま・さだきち)の懐に手を入れて金品を探していとき、意識を取り戻した飯沼貞吉は、敵かと思い、農民の腕を掴んだ。飯沼貞吉は何か言おうとしたが、喉から空気が漏れて、上手く喋れない。
飯沼貞吉は刀で喉を突いて、他の白虎隊(士中二番隊)とともに自害していたが、急所を外して死に切れずに気を失っていた。
そこで、農民が懐に手を入れたため、飯沼貞吉は意識を取り戻したのだ。
驚いた農民は
「死に急ぎなさるな。私達の隠れている山までお連れいだします」
と言い、その場を誤魔化し、飯沼貞吉を八ヶ森の岩山まで運んだ。
そして、農民は
「水をくんで参ります」
と言い残して、飯沼貞吉の刀を盗んで姿を消した。もちろん、農民が戻ってくることは無かった。
農民は白虎隊(士中二番隊)の西川勝太郎から白虎隊の死体を埋めるように頼まれていた。
が、農民は白虎隊の死体を埋めずに、金や刀だけ盗んで逃げ去ったのだ。
その後、近くを通りかかった農民・渡部佐平が、うめき声のようなものを聞き、飯沼貞吉を発見する。
渡部佐平は山に隠れ住んでおり、薪を取りに向かうところだった。
このとき、渡部佐平は隠れ家で「印出ハツ」という女性をかくまっていた。
印出ハツは会津兵の足軽・印出新蔵の妻で、「戦争に行く」と言って家を飛び出した息子を探しており、渡部佐平の隠れ家で世話になっていた。
(注釈:印出ハツの息子は白虎隊に入隊しているという説があるが、白虎隊の名簿にはそれらしき人物は見当たらない。)
隠れ家に戻った渡部佐平が、印出ハツに、負傷した白虎隊員を見かけたことを教えると、印出ハツは「私の息子かもしれない」と言い、飯沼貞吉が倒れている場所へと急いだ。
残念ながら、印出ハツは息子と再会できなかったが、負傷した飯沼貞吉を隠れ家へ連れて帰って手当てしてやった。
3日3晩、寝ずの看病をした結果、飯沼貞吉は一命を取り留めた。
しかし、新政府軍による残党狩りが始まったため、印出ハツは飯沼貞吉を連れ出し、塩川を経て山中の不動堂にたどり着いた。
そして、飯沼貞吉は不動堂で会津藩の敗戦を迎えた。
会津藩降伏後の飯沼貞吉の行動は分からない。
会津藩の敗戦後は他の会津藩士と同様に、猪苗代や東京で謹慎したという説もあるが、真偽は不明である。
飯沼貞吉はその後、飯沼貞雄と改名し、逓信省の電信技師として働いた。
晩年は仙台に住み、1931年(昭和6年)に死亡した。
享年79歳であった。
墓は宮城県仙台市にある輪王寺に建てられた。
飯沼貞吉は生涯、故郷の会津に戻ることは無かった。
その後、会津出身者が仙台に飯沼貞吉の墓があることを知る。
これが合祀運動に発展し、1957年(昭和32年)に行われた「戊辰戦争後九十年祭」で、飯盛山に飯沼貞吉の墓が建てられた。
飯沼貞吉は息子に
「会津で祭りたいという希望があれば、これを渡せ」
と遺言し、歯と髪を託しており、飯盛山の墓には歯と髪が納められている。
なお、飯沼貞吉の合祀については会津藩関係者の反対もあり、飯沼貞吉の墓は、自害した白虎隊(士中二番隊)19人の墓から離れた場所に建てられている。
飯沼貞吉の墓を建てたのも財団法人「前島会仙台支部」となっている。
当時は
「切腹に失敗するなど、会津藩士の恥」
「少年ばかりの墓に、年寄りを入れるのは不釣り合いだ」
などと、飯沼貞吉の墓を白虎隊の墓に入れる事に反対する声があったという。
埋葬を頼まれた農民(盗賊)が自害した白虎隊(士中二番隊)から盗んだ刀などは、会津藩城下町の骨董品屋などで売られていた。
会津藩の敗戦後、飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)・西川勝太郎の母親・西川せき子は、偶然、骨董品屋で息子・西川勝太郎の刀を見つけ、買い戻すことができたのであった。
若松城の城門近くに、会津藩の家老の西郷頼母(さいごう・たのも)の家老屋敷があり、この家老屋敷で西郷頼母一族21人が自刃に倒れた。
西郷頼母一族の自刃があったのは、家老の西郷頼母が国境警備にあたっている時のことである。
1868年10月8日(慶応4年8月23日)早朝、城下町に早鐘が鳴り響き、藩士の家族が続々と若松城に向かうなか、西郷頼母の一族21人は西郷頼母の家老屋敷に集まっていた。
西郷頼母の母親・西郷律子は
「女が城に居ては足手まといになる。されど、敵の手に落ちて辱めを受けるわけにはいかない」
と言い、辞世の句を詠むと、自刃に倒れた。
西郷頼母の妻・西郷千恵子は義母・西郷律子の後に続き、まだ自害できない幼い我が子を刺した。
そして、妻の西郷千恵子は我が子の死を確認すると、返す刀で自分の喉を貫き、会津藩士の妻としての役目を果たした。こうして、西郷頼母の家族9人が自害した。
また、別室に集まった西郷頼母の縁者12人も西郷律子らに続き自害した。この日、西郷頼母の家老屋敷では一族21人が自殺した。
「むごかぁ、じゃけんど会津の女子は立派じゃきに」
そのむごたらしい遺体を発見して、合掌したのは官軍の板垣退助と中島信行であったとされる。
一方、若松城まで到達した新政府軍・土佐藩の中島信行は、若松城の近くにある屋敷を一軒一軒、調べていた。中島信行は大きな屋敷に鉄砲を撃ち込む。しかし、反応が無いので、屋敷内を捜索した。
土佐藩士・中島信行が長い廊下を渡って1室の障子を開けると、女子供が自刃に倒れて死んでいた。
それは西郷頼母の一族21人だった。
しかし、17~18歳の女が1人まだ息を残していた。
年齢から考えて、女は西郷頼母の長女・西郷細布子(16歳)だとされている。
西郷細布子は母に頼らずに自害したが、急所を外して自殺に失敗し、意識がもうろうとしていた。西郷細布子はもうろうとしながらも、障子を開けた中島信行の気配に気づくと、
「敵か、味方か」と問うた。
土佐藩士の中島信行が
「安心せい、味方じゃ」
と答えると、西郷細布子は力を振り絞って懐刀を差し出し、介錯を頼んだ。
中島信行は「御免」と言い、西郷細布子の首を落としてやった。
(注釈:西郷頼母の家老屋敷に入ったのは、土佐藩士・中島信行とされているが、中島信行は土佐藩を脱藩しており、会津戦争に加わっていないため、別人の可能性がある。多分、板垣退助であろう)
会津藩士の家族の中には、西郷頼母一族と同じように新政府軍の辱めを受けることを危惧して、自害した者が大勢居た。
柴五郎の家族も自害している。
内藤介右衛門の家族も面川泰雲寺で自害している。
戊辰戦争で死んだ会津藩の女性の数は計230人に上ったという。
1868年10月8日(慶応4年8月23日=籠城戦の初日)、籠城初日の会津城には老兵や予備隊のはか水戸藩の兵など約300人の兵士しか残っていなかった。
会津藩は主力部隊を国境に展開しており、帰城命令は出ていたが、主力部隊は未だに帰ってきていなかった。
会津藩は籠城戦を想定していなかったので、籠城の準備は出来ておらず、弾薬や食糧の搬入も出来ていなかった。
山本八重が若松城に入城したとき、会津兵は城内で刀を抜き、入城してきた婦女子に
「例え女中でも、卑怯なまねは許しませんぞ」と叫んでいた。
足手まといになる乳飲み子を殺してきたのだろうか、入城してきた女性の中には服が血に染まった者も居り、城内は殺伐としていた。
会津藩は若松城三の丸に進入していた新政府軍の間者3人が捕まえ、拷問の末、首を切り、間者3人の首を廊下に吊して晒し首にしていた。
そのころ、若松城の外では、会津藩の家老・神保内蔵助と家老・田中土佐の2人が甲賀町口の守備にあたり、新政府軍を食い止めていた。
しかし、多勢に無勢で、敵に包囲されると、
「んだげんじょ、会津の未来だげが心残りだべ。逆賊などといわっちぇ…悔しいだげだべした」
「もうこれでおわりだべなあ」
「んだなあ、死んで会津の汚名が晴れだらいいげんじょなあ」
「悔やまれんのは若殿さまが京都守護職になられたどぎ、わしら家老が一斉に腹かっさばいでお止しどげば…」
「んだなあ、会津が守護職にさえならねば……いまさらながら悔やまれるべ」
「死んだあとに生まれ変わっても…会津……会津に生まれでくんべ」
長い沈黙の末、辞世の句を書くと、
 神保内蔵助や田中土佐は自害した。
町奉行の日向左衛門も出陣し、大町口郭門の守備について新政府軍を食い止めていた。
日向左衛門は、山本八重の幼なじみ日向ユキの父である。
日向左衛門は銃撃戦の末に負傷し、祖母の実家へ落ち延びて竹藪の中で自害した。
会津藩の必死の抵抗も空しく、新政府軍は怒濤のごとく若松城へ押し寄せた。
最初に若松城に到達したのは、甲賀町口郭門を突破してきた土佐藩であった。
雷鳴のごとく会津軍を切り裂いて侵攻した新政府軍であったが、ここで勢いが止まる。
天下の要塞・若松城の門は固く閉ざされていたのだ。
台風の影響で雨が降っていたため、城外では火縄銃や旧式の洋式銃は全く役に立たなかった。
が、若松城には狙撃用の窓があるため、火縄銃がようやく効果を発揮し、近づく新政府軍を寄せ付けなかった。
一方、若松城へ入城した山本八重は、スペンサー銃を担いで戦闘が始まっている北出丸へ駆け付けた。
 いわゆる戊辰戦争の末期、会津藩(現在の福島県)に薩長官軍が「天皇の印」である「錦の御旗」を掲げて、会津城下まで進攻し、会津藩士たちや藩主・松平容保の籠城する「鶴ヶ城(会津若松城)」に雨霰の如く大砲弾や鉄砲を浴びせかける。「いいが?!よぐ狙っで撃ちなんしょ!」若松城には、この物語の主人公・山本八重が、スペンサー銃で武装し、男装して少年鉄砲隊を率いている。
「確かに薩長軍は数は多い。んだげんじょ、軍を指揮する敵を倒せばいいがら!」そういって城壁から官軍の指揮者を狙った。さすがに、「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサム・ウーマン」である。官軍指揮者の獅子舞のかつらのようなものをかぶった大山巌(西郷隆盛のいとこ)の脚に弾丸を命中させる。
「よし、命中んだ」
少年兵たちも笑顔になった。
「やっだあ!」
「ほれ、にしらもようっぐ狙っで撃ちなんしょ」
「はい!」
 会津藩の戊辰戦争はまだまだおわりそうもない。
八重は髪も短くして、若い少年兵のリーダー的な存在にまでなった。
「なして会津が逆賊なんだず!会津は京の都で天子さま(考明天皇のこと)や幕府を守っで戦ったのだべした。なら会津に義があるべず!」八重は男装のまま下唇を噛んだ。
味方の兵に
「女に何が出来る」
と笑われたが、山本八重はスペンサー銃を構えると、次々と土佐兵を撃ち殺していく。
山本八重が持つスペンサー銃は、最新式の洋式銃で、元込め式の7連発のライフル銃だった。
元込め式なので弾の挿入も早く、バネ仕掛けになっており、7連射できる。
火縄銃を2発撃つ間に、スペンサー銃は数発も撃てる。
スペンサー銃は、当時「元込め7連発」と呼ばれて恐れられた銃である。
若松城へ詰め寄った新政府軍の土佐藩は、山本八重の正確な狙撃に苦しみ、後退を余儀なくされた。
山本八重は見事に土佐兵を退けたのである。
1868年10月8日午前、会津藩は若松城の西隣にある藩校「日新館」が新政府軍の拠点に利用されることを恐れ、日新館に火矢を放って焼き払った(日新館の放火事件)。
さらに会津藩は新政府軍が隠れる場所を無くすため、城外の屋敷にも火矢を放って燃やした。
戸ノ口原へ援軍に向かった白虎隊(士中二番隊)のうち16人が、飯盛山へたどり着いたのは、会津藩が藩校「日新館」に火矢を放ったころだった。
1868年10月8日午前11時ごろ、戸ノ口原の戦いで敗走した白虎隊(士中二番隊)16名が飯盛山へと落ち延びた。
飯盛山から城下町を観ると、若松城は燃えており、城下町の至るところから火の手が上がっていた。
一説によると、藩校「日新館」は若松城の西に隣接しており、飯盛山から若松城を観ると、日新館が燃えると、あたかも若松城が燃えているように見えるという。
前述したが、白虎隊(士中二番隊)の中には「敵陣に切り込んで討ち死にしよう」という意見もあったが、「敵の手に落ちて辱めを受けては、主君の名を汚す」として、白虎隊(士中二番隊)16人は自害したのであった。
やがて、新政府軍の後続部隊が到着する。攻めあぐねた土佐藩に変わり、若松城を攻撃するのが薩摩藩士・大山巌(おおやまいわお)である。
1868年10月8日(慶応4年8月23日)午後、大砲隊を指揮する薩摩藩士・大山巌は火縄銃の届かない安全圏に大砲を配置し、若松城をめがけて砲撃を開始した。
薩摩藩士・大山巌は火縄銃の射程外に布陣しているため、火縄銃しかない会津兵はなすすべ無く、砲撃を受けるだけだった。
しかし、山本八重はスペンサー銃を構えて1発の銃弾を放つと、薩摩兵の大砲が止んだ。
山本八重が放った銃弾は薩摩藩士・大山巌の右大腿部を貫いたのだ。
正確に言えば、山本八重が薩摩藩士・大山巌を撃ったという証拠は無い。
が、火縄銃の射程200メートルに対してスペンサー銃は射程800メートルあり、遠方の大山巌に弾が届く銃は山本八重のスペンサー銃だけだったため、山本八重が大山巌を狙撃したとされている。
山本八重に撃たれた薩摩藩士・大山巌は戦線を離脱し、新政府軍は攻勢を弱める。山本八重は再び新政府軍を退けた。
一方、国境の警備に当たっていた家老・西郷頼母や家老・原田対馬(はらだ・つしま)などの部隊が、敵の隙を尽きて若松城へ帰城した。
国境警備に当たっていた会津藩の主力部隊の一部だが、家老・西郷頼母らの帰城により、会津藩の士気があがった。
さらに、山本八重らは城壁の石垣を押し出し、穴を開けると、大砲を突っ込み、城壁に空いた穴から新政府軍を砲撃した。
この時に山本八重らが落とした石垣は、今も若松城のお堀に沈んでおり、お堀の水が少なくなると、石垣が出現する。
新政府軍はその後も攻撃を続けたが、日が暮れ始めたため、攻撃を終了し、一度兵を退いた。会津藩は山本八重のおかけで、籠城戦の初日を無事に乗り切ったのである。
しかし、会津藩は籠城戦の備えをしていないうえ、多くの指揮官を失っており、首脳陣は抗戦派と降伏派に別れていた。
1868年10月8日(籠城戦の初日)昼、土佐軍を退けた山本八重は藩主・松平容保に出陣を談判したが、藩主・松平容保は
「女まで出陣させたとしては会津藩の恥だ」と言い、山本八重の出陣を禁じた。
山本八重以外にも、多くの女性が薙刀を持ち、出陣の許可を求めたが、
「会津藩士が女の手を借りたとあっては、末代までの恥である」
として、誰一人として出陣は許可されなかった。
女を戦いに参加させることは、武士道を貫く会津藩士にとっては恥ずべき行為なのである。
さらに、会津藩の家訓「会津家訓十五箇条(御家訓)」の第4条には「婦人女子の言、一切聞くべからず」と記されており、女性の山本八重が出陣を懇願しても、一切、聞き入れてもらえるはずも無かった。
山本八重らがいくら談判しても女の出陣は認められない。会津藩の教え「什の掟」にも「ならぬことは、ならぬものです」とある。
仕方なく出陣を諦めた山本八重は、負傷兵の治療にあたっていたが、会津兵が新政府軍に夜襲を行う計画があることを知る。
これも前述したが、そこで、山本八重は夜襲なら、敵兵も女か男か判断できないと思い、髪を切り落として男装し、亡き弟・山本三郎として夜襲に加わることにした。
山本八重は髪を切り落とそうとするが、自分ではなかなか切れないため、自宅の裏側に住んでいる幼なじみの高木時尾(たかぎ・ときを)に頼んで髪を切り落としてもらった。
男装をして戦ったのは山本八重だけではなく、娘子隊(婦女隊)らも男装で新政府軍と戦ったが、城内で断髪した女性は山本八重が初めだという。
髪を切り落とした山本八重は腰に刀を差し、ゲベール銃を担いで、夜襲隊に加わって城外へ出ると、闇夜に紛れて敵兵に切り込んだ。
夜襲を受けた新政府軍は混乱して同士討ちを始めたが、援軍が到着すると、体制を立て直し、反撃してきた。
当初より、夜襲隊は深入りしないと決めていたため、山本八重らは適度に新政府軍の兵士に攻撃を加えると、裏道を通って早々と若松城へと引き上げた。
なお、山本八重はこのような活躍から、「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれている。
しかし、当時、山本八重のことを「幕末のジャンヌダルク」と呼んだ事を示す文献はないため、「幕末のジャンヌダルク」は近代になってメディアが付けたキャッチフレーズだとされている。
また、山本八重といえばスペンサー銃だが、若松城篭城戦の初日の夜襲からはケーベル銃を使用しており、以降はスペンサー銃は登場しない。
ケーベル銃は洋式銃だが、先込め式で火縄銃に毛の生えた程度の性能しかない旧式銃である。
最新式のスペンサー銃と比べれば、性能の差は雲泥である。
山本八重は最新式のスペンサー銃と銃弾100発を持って若松城へ入場していたが、初日に100発全てを撃ちつくし弾切れになったため、以降はケーベル銃を使用したとされている。
旧式銃の弾は若松城で製造できたのだが、スペンサー銃は最新式だったため、弾が製造できなかったのだ。

軍師 黒田官兵衛と石田三成と「2014年大河ドラマ軍師官兵衛」原作・ブログ連載1(1)

2014年01月15日 07時02分29秒 | 日記


 話を戻そう。
 戦国時代の二大奇跡がある。ひとは中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦、もうひとつが織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。
 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。
  斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長は弟・信行を謀殺した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。
 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。
 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。
「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。
「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。
「は?」
「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。「尾張のおおうつけ(阿呆)」と呼ばれて、奇行を続け、馬鹿扱いを受けていたバサラ者の織田信長も成長したものだ。
 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。
 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。
 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのよい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。
 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。
 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。
 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。
「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。
 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。
 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。信長の勝つ確率は極めて低い。
  今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。
  特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。
 今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。
 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。しかし、当の松平元康 (のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。
 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。
 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。
 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。なにを夢ごとを。家臣たちは訝しがった。


         元康の忠義


  松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。
 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。
 今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。今川義元は軍議をひらいた。
「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。
 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」
 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。
 柴田勝家は「そうか……とは? …御屋形! 何か策は?」と口をはさんだ。
 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。宮福太夫という猿楽師に、羅生門を舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。
「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」
 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。
 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。
「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。
「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」
「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」
「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。
「なんて御屋形だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」
「まったくあきれる。あれでも大将か?」
 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」
  信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。
「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」
「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」
「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」
 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。
「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の秀吉はいった。のちの豊臣秀吉、秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」
「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」
 日吉は迷ってから「奇襲にでればと」
「奇襲?」信長は茫然とした。
「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」
「さしでがましいわ!」信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。
「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。
 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。
「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。
「なんじゃ、猿」
「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」
「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」
「八百あまり」
「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。
「いま何刻じや?」
「うしみつ(午前2時)でごさりまする」猿はいった。
「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」 
 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。そして有名な「敦盛」を舞い始める。
 人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべか」 舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。
「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。わずかに長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎の五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。
 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。
「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」
 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。
 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。
 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。
 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」
 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。
「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。
 信長は叫んだ。
「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」
 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。
「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」
 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせ、にやりとした。
「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形である」と感心した。
 織田軍は密かに進軍を開始した。






         桶狭間の合戦

                
  太子ケ根を登り、丘の上で信長軍は待機した。
 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。嵐の中で部下は「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。
 しかし、信長はその策をとらなかった。
「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」
 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」
 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。山の上から喚声をあげて下ってくる軍に今川本陣は驚いた。
「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。
「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」
 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!
 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。
 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!
「御屋形様をお守りいたせ!」
 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。
「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、新助の人差し指に噛みつき、それを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。
 義元はこの時四十二歳である。                      
「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。
 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。
「勝った! われらの勝利じゃ!」
 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。
  かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。
「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」
「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。
「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。
 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。
 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。
  今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。
 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。
 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。
 これに対して信長は「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。
 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。
 ところで、信長は残酷で秀吉はハト派、といういわれかたがある。秀吉は「やたらと血を流すのは嫌いだ」と語ったり、手紙にも書いていたという。しかし、だからといって秀吉が平和主義者だった訳ではない。ただ、感覚的に血をみるのが嫌いだっただけだ。首が飛んだり、血がだらだら流れたり、返り血をあびるのを好まなかっただけだ。秀吉が戦場で負傷したとか、誰かを自ら殺害したとか、秀吉にはそれがない。武勇がない。しかし、その分、水攻、兵糧攻めと頭をつかったやり方をする。まっこうから武力で制圧しようとした信長とは違い、秀吉は頭で勝った。そうした理知的戦略のおかげで短期間で天下をとれた訳だ。

   清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方にけっそうをかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。「勝った! 勝った!」小竹やなかや、さと、とも、も興奮してパレードを見つめた。
「御屋形様! おにぎりを!」
 まだうら若き娘であったおねが、馬上の信長に、おにぎりの乗った盆を笑顔でさしだした。すると秀吉がそのおにぎりをさっと取って食べた。おねはきゃしゃな手で盆をひっこめ、いらだたしげに眉をひそめた。「何をするのです、サル! それは御屋形様へのおにぎりですよ!」おねは声をあらげた。
「ごもっとも!」日吉は猿顔に満天の笑みを浮かべ、おにぎりをむしゃむしゃ食べた。一同から笑いがおこる。珍しく信長までわらった。
  ある夜、秀吉はおねの屋敷にいき、おねの父に「娘さんをわしに下され」といった。おねの父は困った。すると、おねが血相を変えてやってきて、「サル殿! あのおにぎりは御屋形様にあげようとしたものです。それを……横取りして…」と声を荒げた。
「ごもっとも!」
「何がごもっともなのです?! 皆はわたしがサル殿におにぎりを渡したように思って笑いました。わたしは恥ずかしい思いをしました」
「……おね殿、わしと夫婦になってくだされ!」秀吉はにこりと笑った。
「黙れサル!」おねはいった。そして続けた。「なぜわらわがサル殿と夫婦にならなければならぬのです?」
「運命にござる! おね殿!」
 おねは仰天した「運命?」
「さよう、運命にござる!」秀吉は笑った。
  かくして、秀吉はおねと結婚した。結婚式は質素なもので浪人中の前田利家とまつと一緒であった。秀吉はおねに目をやり、今日初めてまともに彼女を見た。わしの女子。感謝してるぞ。夜はうんといい思いをさせてやろう。かわいい女子だ。秀吉の目がおねの小柄な身体をうっとりとながめまわした。ほれぼれするような女子だ。さらさらの黒髪、きらめく瞳、そして男の欲望をそそらずにはおけない愛らしい胸や尻、こんな女子と夫婦になれるとはなんたる幸運だ! 秀吉の猿顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいと同時に大人っぽくもある。かれはおねの肩や腰を優しく抱いた。秀吉の声は低く、厄介なことなど何一つないようだった。
  信長が清洲城で酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」
 家臣たちは意味がわからず顔を見合わせたという。
 永禄三(1560)年、のちの石田三成は生まれた。貧しい農家の生まれである。    
 幼名・左吉という。
 家が貧しく、近江の観音寺に預けられることが決まっていた。
 そして、そこで運命的な出会いをする。また黒田(まだ小寺姓)官兵衛も播磨で「臥竜(野に隠れ世に知られぬ大人物)」と呼ばれ、軍師として織田信長、そして秀吉と運命の出会いをすることになる。
 そう、あの秀吉とである……

軍師 黒田官兵衛と石田三成と「2014年大河ドラマ軍師官兵衛」原作・ブログ連載1

2014年01月15日 06時55分57秒 | 日記

   軍師 黒田官兵衛と石田三成と


              ~天下に挑んだ男の人生!戦わずして勝つ!~

                くろだかんべいといしだみつなり
                ~「軍師」黒田官兵衛と「策士」石田三成の戦略と真実! 
                 今だからこそ、軍師黒田官兵衛と三成
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  MIDORIKAWA washu
                   緑川  鷲羽
 this novel is a dramatic interoretation
 of events and characters based on public
 sources and an in complete historical record.
 some scenes and events are presented as
 composites or have been hypothesized or condensed.
        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

*(本作の歴史説明文群はネットWiki等の記事を参照しています。盗作ではありません。引用です。)

       軍師 黒田官兵衛と石田三成と あらすじ
  播磨の小寺政職の家老黒田官兵衛は、自分でも惚れ惚れする才能を持っており、別所や赤松といった播磨の大名達との戦いでも自慢の頭脳を使い小寺家を勝利に導く実力者である。
小競り合いが続く播磨とは違い中央では織田信長が勢力を拡大しており、情報収集に余念のない官兵衛はいずれ信長の勢力は中国地方にまで及び、毛利家との長い戦いが始まると予測していた。
毛利家と織田家との力の差を感じた官兵衛は、成り上がりの信長を嫌い、毛利家を頼ろうとする小寺家を始めとする播磨の豪族達を説得し、面識のあった織田家重臣荒木村重を通じて信長に協力を伝える。
信長でさえ気兼ねする猛将荒木村重に対し、苦手意識はあるが何故か友人になりたいと思う官兵衛の前に、羽柴秀吉という織田家の重臣が現れると一目見た官兵衛は秀吉に大きな力を感じる。
秀吉が中国方面の指揮を執ると知った官兵衛は、出来る限りの協力をするが播磨の豪族達は信長の傲慢な態度と恐ろしい性格や行動を知ると、播磨最大の勢力別所家を中心に反織田同盟を結び小寺家も参加していた。
自慢の才能で織田家から莫大な褒美を得ようと考えていた官兵衛は驚き、すぐさま小寺家は織田家へ戻るよう説得をするも聞き入れられなかった。
同時期、信長を倒し自分が天下を獲ってみたい夢を持つ村重は、毛利・本願寺と結んで叛乱を起こすと、主君政職より村重が織田に戻るならば小寺も織田側に就くと言われた官兵衛は、友人とも呼べる村重ならば自分が説得すれば織田に戻ると信じ村重の許へと向かう。
だが政職と手を結んでいた村重は、官兵衛を牢屋に閉じ込められるてしまう。黒田官兵衛を描いた作品です。豊臣秀吉を支えた竹中半兵衛は清廉潔白で欲のない人物とされる事に対し、腹黒い描写がされる事が多い黒田官兵衛ですが、この作品ではまさにそんな官兵衛です(笑)。
自分の頭の良さと弁論の巧さを使い、自分が仕えた人物に天下を獲らせてやるという設定だけ見ると嫌な人物ですが、不思議にも作中の官兵衛に悪い印象を抱きません。
官兵衛に人間臭さを感じると共に、常人とは少し外れた思考能力に微笑しさを感じたからであり、普通ならば嫌われる型の人間を嫌味がないように巧く描いたからです。
主人公官兵衛もさる事ながら、登場人物の多くが癖のある人物ばかりで官兵衛と比べても見劣りしませんが、それでも個性的な人々の中でも埋もれない強さを官兵衛は持っておりました(笑)。
秀吉が尾張に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。三成は秀吉の重臣・幼名・左吉である。十歳の頃より秀吉に支え、山崎、牋ケ獄の合戦で武功をあげて出世した。桶狭間合戦で、大国・駿河の大将・今川義元の首をとる信長。そして、その頃、三成は生まれた。三成が本当に得意だったのは貿易や検地などだった。決して勇気がない訳ではなかったが合戦は苦手だったようだ。小田原城水攻めでは自分のほうが溺れ掛けている。秀吉の死後は家康と並ぶ実力者となった。しかし、福島正則や加藤清正など武力自慢の武将に攻められ、一時、領地佐和山に隠居している。だが、野心を捨てた訳ではなく家康が会津討伐に向かうと毛利や上杉などと連携して挙兵した。そして、関ケ原の戦いへ… だが、小早川秀秋の寝返りで西軍はやぶれ、三成は遁走して捕らえられ三成は首をはねられた。その後、大坂冬の陣、夏の陣で徳川家康の天下になり、家康は死んだ。そして徳川幕府は二百七十年続いた。幕末の維新の英雄は私の各小説に詳しい。
 三成はその徳川政治を変えようとした最初の男だった。それだけに幕末の龍馬、勝海舟、西郷隆盛や木戸考充(桂小五郎)、高杉晋作と同じように評価されてしかるべきである。 平成の官僚霞ヶ関幕府末期の今、石田三成は再評価されてしかるべきだと著者は思う次第である。三成こそが独裁者への最初の反抗者だったからだ。       おわり

         1 桶狭間合戦と官兵衛と三成誕生

夜更けの本陣に、当時のセンサーともいうべき「鳴子板」の音が鳴り響いた。黒田官兵衛(くろだ・かんべい)は、耳をすます。やがて足音が近づいてきた。軍師の寝床に近づいた栗山善助(くりやま・ぜんすけ)が官兵衛を呼んだ。「一大事でござりまする、軍師殿」「入れ」栗山は戸を開けると手に持った書状を差し出した。「この書状を毛利陣営に運ぼうとした明智の使者が、先ほど鳴子板にか?」「ははっ!」「明智の使者をとらえたのは誰じゃ?」「益田与助(ますだ・よすけ)にござる」書状には明智の署名もある。「すぐに筑前殿(ちくぜんどの・羽柴秀吉)の陣に参ろう」官兵衛は書状を懐へしまい立った。三十七歳なのにもう杖をついている。すでに病で片足があまり動かない。皺だらけの顔は疱瘡みたいにかさかさだ。頭巾をかぶっているが、すでにつるつるの禿げ頭で、ある。秀吉本陣は毛利攻めの水攻めの途中だ。軍師殿は「明智光秀が主君・秀吉の上司・天下人織田信長を討ったこと」に驚かない。軍師は策を練る。「このまま毛利と和睦して「中国大返し」だ。謀反人・明智光秀を討てば筑前殿の天下じゃ」天下に名だたる天才・軍師「黒田官兵衛」の策略の見せ所で、ある。


         今川義元


 天文15年11月29日(1546年12月22日)辰の刻(午前8時)、姫路城の城主・小寺(こでら)職隆(黒田職隆 くろだ・もとたか)に子供「万吉」が生まれた。この万吉が後の黒田官兵衛である。
黒田官兵衛が生まれたとき、姫路城は雪で覆われていた。これは、英雄が生まれる吉兆が出ていたのだという。
父・小寺職隆(黒田職隆)は播磨(兵庫県)にある御着城(ごちゃくじょう)の城主・小寺政職に仕えており、姫路城の城主を任されていた。母親は明石城主・明石宗和(明石正風)の娘・明石岩(岩姫)である。
このとき、父・黒田職隆は、小寺政職から「小寺」姓を拝領し、小寺家の一門になっているため、「小寺職隆」を名乗っていた。「職隆」の「職」も小寺政職(こでら・まさもと)より、一字を拝領したものである。
「万吉! わしが父じゃあ!」赤子の万吉を職隆はあやした。母も笑顔だ。
 赤子の万吉(のちの黒田官兵衛)はくったくもない笑顔を浮かべている。
「この子はきっと将来凄い人物になるやも知れん」
「まあ、旦那様、もう親馬鹿に御座りまするか?」妻の明石岩も笑った。
「戦国のすごい大名、ダメでもよき武将になるのだぞ、万吉」
 万吉は生まれてきたとき、体になにやら怪我のような傷跡があったという。
「これは聖痕じゃ!」
 と親戚縁者の間で話題になったという。
 しかも生まれてから何か月も髪の毛が生えてこない。「禿頭(とくとう・ハゲ)は遺伝じゃな」職隆は苦笑した。
 また寝小便もなかなか治らない。だが、父親も母親も、子供だから仕方ない、と思ってあえて注意はせず折檻もしなかった。
 万吉少年は、剣の腕がからしき駄目であった。万吉は父親から木刀での修行でぼこぼこにされて初めて「自分には腕力も剣で勝つ技能も備わっていないこと」を思い知った。
 初めて父親の小寺職隆に叱られ、「本ばかり読んで剣の稽古をさぼってばかりいるから弱いのだ、馬鹿者!」と、暗い蔵にお仕置きの為に放りこまれ閉じ込められた。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 母上!父上! もう……さぼりませぬからだしてください!うええん」泣いた。
 母親はかわいそうに思って、蔵から出してやろうとしたが、父親がとめた。
「万吉! お主は剣が弱い! 姫路の外様大名では将来が目に見えている!それではどうするか?!」
父親は幼い万吉少年に諭した。そんなことは幼い万吉にわかる筈もない。父親は「腕力がないなら頭で、軍略で勝負せい!」
 万吉は泣いてばかりだ。軍略等と幼い少年にわかる筈もない。
 そんな幼子に父親は三国志の英雄・蜀国の劉備玄徳に三顧の礼で迎えられた天才軍師・諸葛亮孔明の話を始めた。
「孔明もお主のように幼子のとき泣き虫で弱虫じゃった。じゃがのう万吉、孔明は晴耕雨読の学問で大人物になった。お主の生きる道はわしはそれだと思うのじゃ」
「……孔明?軍略?学問?」
「そうじゃ、今は戦国の乱世、下克上の時代じゃ。じゃが、ひとりくらい弓矢・刀ではなく軍略で下克上する強者もいてもいい」
「わかりました、父上さま。必ず、この万吉、学問・軍略で天下を目指しまする」
「よくいった!」父親は褒めた。
 あるとき母親の明石岩は、秋に紅葉に色づく木々を万吉に見せて、
「万吉、お前は腕力も力も剣才もない。孔明のように軍略で身をたてなさい。紅葉は赤や黄色となり木々の命を守る為身代わりとなって散って死ぬのです。お前は「紅葉のような外様大名」におなりなさい」と励ました、という。
 その言葉で、万吉は「紅葉のような軍師、日本の諸葛亮孔明のようになりたい」と志を抱いた。
 万吉は泣き虫で寝小便たれで弱いために「いじめ」のかっこうの標的であった。だが、万吉のちの官兵衛は思った筈だ。イマニミテオレ、と。
 万吉は姫路城主・小寺(黒田)職隆(もとたか)の嫡男で、播磨国(現在の兵庫県)の姫路地方だけの弱小外様大名の若君である。祖父は黒田重隆(しげたか)といい元・目薬屋で播磨国で「播磨国御着(ごちゃく)の主・小寺家」に仕官し、家老にとりたてられ姫路の領地を得た。
 万吉の母親は明石岩(いわ)といい美貌の女性であるが病弱である。あるとき万吉は「父上は嫌いです」という。と母親は叱った。父上はわざとお前に厳しく当たるのですよ、と説明した。獅子が我が子を谷底に落とすがの如く、だと。だが、母親は咳き込みやがて血を吐いた。
 祖父の黒田重隆は薬草に詳しい。ふと、播磨の敵国・龍野・赤松領土の竜神池に大変に病に効く薬草がある、といってしまう。少年万吉と少女・おたつは薬草を摘みに敵国・赤松領土にはいった薬草はみつけたが敵国武士に捕えられた。父親・小寺(黒田)職隆は赤松の城にいった。
 赤松城主は「母の為に薬草を摘みにはるばる敵国である龍野・赤松領土までくるとはよき息子じゃのう?」といい続けて「播磨御着の小寺氏より赤松の家来にならぬか?」
 「それは何度もお断りしていることです。わが黒田家は播磨御着の小寺氏に家老まで取り立てられ、恩義があります。一介の目薬屋から姫路領土を得て外様大名になれたのも、小寺政職さまのおかげで、裏切れません」
 「では、ご嫡男を人質としてもか?」
 襖の奥では赤松の家来集がいつでも斬りかかれるように待機している。殺気がすごい。「答えは同じです」
 赤松は唸るように「なるほど」という。そしてわらった。「わははは、ざれごとじゃ」
 こうして万吉とおたつは姫路に帰還できた。「母上! 薬草です!」万吉少年は悪気もなく母にいった。病床の母親は万吉を平手打ちした。「馬鹿者! お前は父上や自分自身を危険にさらした。あのままお前も父上も殺されてもおかしくわなかったのですよ!」
 万吉は詫びた。母は「お主の傅役の母里小兵衛(もり・こへい)は「自分の責任だ」といい殿の留守中に切腹しようとしました。私は「死ぬのはならぬ!死ぬならわたしも一緒に死ぬ」と止めました。お前はとんでもないことをしでかしたのですよ?」
 「すみません、母上。もういたしませぬ!いたしませぬ!」泣いた。母は泣きながら「……わかればよい。それより薬草をもらいましょう。ありがとう万吉」「母上、一日も早く病を治してくだされ!」
 だが、母・いわは永禄五年(1559年)病死した。万吉は大変なショックなことだったろう。
 この頃、播磨国・御着・小寺領土では野武士が妙に狼藉を働かせていた。小寺家老・石川某が小寺(黒田)職隆に謀反の疑いをかけるための謀であったという。万吉少年は森の中で野武士に指示を出す「石川某の家臣を目撃」して、父親に石川某が退散した後打ち明けた。
 父は「なら何故石川の家臣らがいるところでゆわななんだ?」ときく。
 「三略いわく、謀は密なるもってよしとする。あの場でいえば私も父上も斬り殺されていたかも知れません。安全の為です」
 万吉はいう。父は微笑んで「あい分かった!」といい石川某や家臣を殺させ、「濡れ衣」を晴らしたという。
 万吉の傅役・母里小兵衛の息子は母里武兵衛(もり・ぶへい)といい幼馴染で、子供の頃より、万吉少年を「若殿さま」といい仕えた家臣である。やがて青年となった官兵衛の身代わりに(命を助けて)死ぬ運命である。
 「武兵衛! しっかりいたせ!」
 「若殿さ…ま……さらばでごさる……」武兵衛は最後まで官兵衛の味方であった。
 なお、現在は黒田官兵衛を「くろだ・かんべえ」と発音するが、当時の発音では「くろだ・くわんべえ」または「くろだ・くゎんぴょうえ」と発音したとされる。
 黒田官兵衛の赤いお椀をひっくり返したような甲冑は「朱漆塗合子形兜(しゅうるしぬり・ごうすかぶと)」という。ちなみに信長に仕官した際贈呈された刀は国宝「圧切長谷部(へしきり・はせべ)」だ。
黒田官兵衛の諱(いみな・本名)は「孝高(よしたか)」である。幼名は「万吉」と言い、成人して「黒田勘兵衛」→「黒田官兵衛」を名乗り、その後に「黒田如水(くろだ・じょすい)」と名乗った。
また、黒田官兵衛はキリスト教の洗礼を受けており、クリスチャンネームを「ドン・シメオン(外国語で「耳を傾ける」という意味)」と言い、「黒田シメオン」「小寺官兵衛シメオン」などと表記する場合もある。
 黒田官兵衛の黒田家は、元を正せば、宇多天皇の末裔とされる名家・源氏で、源成頼の時代に近江国蒲生郡佐々木(現滋賀県近江八幡市)に居を構えたことから、佐々木の姓を名乗るようになる。
やがて、佐々木家は京極家と六角家に分家する。その後、京極家の京極宗清(きょうごく・むねきよ)が近江の黒田村に居を構えたことから、京極家から分家し、黒田姓を名乗るようになった。
黒田家は京極家に仕えていたが、1511年(室町時代)に黒田官兵衛の曾祖父・黒田高政が手柄を立てるために「船岡山合戦」で抜け駆けして、軍令に背いたため、将軍・足利義稙の怒りを買った。
佐々木氏の謝罪によって曾祖父・黒田高政は許されたが、近江から追放となったため、曾祖父・黒田高政は同族を頼って、備前の福岡村(岡山県瀬戸内市長船町福岡)へと移り住んで、福岡村に土着した。
後に黒田家が治める筑前(福岡県西部)が福岡県という名称になったのは、黒田家が備前(岡山県)の福岡村に土着したことに由来する。
1521年(大永元)、播磨・備前・美作の守護大名・赤松家で謀反があり、赤松家の重臣で備前の守護代を務めていた浦上宗村が播磨守護職の赤松義村を討ち、播磨は内乱へと発展した。
大永3年(1523年)に曾祖父・黒田高政は備前(岡山県)の福岡村で病死し、次男の黒田重隆が家督を継いだ。この黒田重隆が黒田官兵衛の祖父である。
曾祖父・黒田高政の死後、備前の福岡村は浦上宗村に侵略されたため、祖父・黒田重隆は福岡村を出て播磨(兵庫県)へと移り住んだ。
やがて、祖父・黒田重隆は「黒田入道(黒田宗卜)」を名乗って播磨の姫路へと移り住み、姫路で有力な豪族にまで成長した。
なお、黒田家には、秘伝の目薬「玲珠膏(しゅれいこう)」の調合方法が伝わっている。このため、祖父・黒田重隆は玲珠膏の販売によって財を成したとされているが、玲珠膏を販売して財を成す話は創作である。
 だが、こうした家系であるからこそ「一介の目薬屋から天下を動かす大軍師になった」と後世、「お百姓さんから天下人になった豊臣秀吉」と同列に扱われる、まさに下克上を体現した人物といわれるのだ。
2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」では、主人公をジャニーズ・アイドル・グループV6のイケメン「岡田准一」さんが演じていたが、本物の官兵衛は禿頭で醜い顔で杖をつかねば歩けない程の「病人」である。「軍略家」でこそあるものの本当に自分ひとりで闘うのは苦手である。
 祖父・黒田重隆が姫路で有力な豪族となり、一帯を支配するようになったころ、全国には下克上の嵐が吹き荒れ、全国各地で争いが始まっていた。
このころの播磨は、播磨守護大名の赤松家が衰退して大小の豪族が割拠しており、姫路周辺では、赤松家の一族で、御着城(兵庫県姫路市御国野町)を本拠地とする大名・小寺政職(こでら・まさもと)が勢力を誇っていた。
天文13年(1544年)、姫路の豪族に成長していた祖父・黒田重隆は、乱世を生き残るため、御着城の城主・小寺政職(こでら・まさもと)に仕えることにした。
祖父・黒田重隆は小寺家で頭角を現し、小寺政職は祖父・黒田重隆を重用し、父・黒田職隆もかわいがった。
父・黒田職隆は非常に優秀だったので、小寺政職は父・黒田職隆を家老に付かせようとしたが、新参者を家老にしては譜代の臣からの反発するため、小寺政職は父・黒田職隆を一門に迎え入れ、家老にしようと考えた。
そこで、天文14年(1545年)、小寺政職は明石城主・明石宗和(明石正風)の娘・明石岩(岩姫)を養女とし、父・黒田職隆と結婚させると、父・黒田職隆に「小寺」の姓を与えて一門に加え、「職」の一字も与えた。
(注釈:これ以降、黒田職隆は「小寺職隆」を名乗るようになるが、話が複雑に成りすぎるため、「黒田職隆」で統一する。)
そして、譜代の家臣が小寺家一門になった父・黒田職隆を尊敬するようになると、小寺政職は父・黒田職隆を筆頭家老に任じ、姫路城の城主に抜擢したのである。
現在の国宝・姫路城は、江戸時代に池田輝政が改修したもので、この時の姫路城の規模は分からない。この時の姫路城は居館ていどの規模で、父・黒田職隆が城と呼べる程度の規模に改修したとされる。
こうして、父・黒田職隆に姫路城の城主となった翌年の天文15年11月29日(1546年12月22日)、姫路城で幼名「万吉」こと黒田官兵衛が誕生したのである。

  石田三成は安土桃山時代の武将である。
 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大阪城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大阪城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「バカのヤツよのう、三成!」福島正則は酒臭い顔で、酒瓶を持ちふらふらしながら彼を嘲笑した。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに、はははは」
 三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」と正則をきっと睨んだ。
「たわけ!徳川さまが三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、正則!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、徳川さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」福島正則は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「そうだ。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したのさ。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放った」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうだ?」
「いや、いらぬ」
 福島正則は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人や領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「へん。なんとでもいえ」福島正則は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「正則」
「なんだ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公と淀君様が危ないのだぞ!」
  福島正則は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、徳川さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そうか」
 正則は拍子抜けして去った。嘲笑する気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴だな」苦笑した。
 次に黒田長政がきた。官兵衛の息子・長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。

   関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・茨城の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。
 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。
 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。
 直江らは「何故にございますか?いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか?御屋形さま!」
 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ」
 直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ!刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。
 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。

   石田三成はよく前田利家とはなしていたという。前田利家といえば、主君・豊臣秀吉公の友人であり加賀百万石の大大名の大名である。三成はよく織田信長の側人・森蘭丸らにいじめられていたが、それをやめさせるのが前田利家の役割であった。三成は虚弱体質で、頭はいいが女のごとく腕力も体力もない。いじめのかっこうのターゲットであった。
 前田利家は「若い頃は苦労したほうがいいぞ、佐吉(三成)」という。
 木下藤吉郎秀吉も前田又左衛門利家も織田信長の家臣である。前田利家は若きとき挫折していた。信長には多くの茶坊主がいた。そのうちの茶坊主は本当に嫌な連中で、他人を嘲笑したり、バカと罵声を浴びせたり、悪口を信長の耳元で囁く。信長は本気になどせず放っておく。しかるとにき事件があった。前田利家は茶坊主に罵声を浴びせかけられ唾を吐きかけられた。怒った利家は刀を抜いて斬った。殺した。しかも織田信長の目の前でである。
 信長は怒ったが、柴田勝家らの懇願で「切腹」はまぬがれた。だが、蟄居を命じられた。そこで前田利家は織田の戦に勝手に参戦していく。さすがの信長も数年後に利家を許したという。「苦労は買ってでもせい」そういうことがある前田利家は石田佐吉(三成)によく諭したらしい。いわずもがな、三成は思った。


「北条氏政め、この小田原で皆殺しにでもなるつもりか?日本中の軍勢を前にして呑気に籠城・評定とはのう」
 秀吉は笑った。黒の陣羽織の黒田官兵衛は口元に髭をたくわえた男で、ある。顎髭もある。禿頭の為に頭巾をかぶっている。
「御屋形さま、北条への使者にはこの官兵衛をおつかい下され!」
秀吉は「そうか、官兵衛」という。「軍師・官兵衛の意見をきこう」
「人は殺してしまえばそれまで。生かしてこそ役に立つのでございます」続けた。「戦わずして勝つのが兵法の最上策!わたくしめにおまかせを!」
 そういって病気で不自由な右脚を引きずりながら羽柴秀吉が集めた日本国中の軍勢に包囲された北条の城門に、日差しを受け、砂塵の舞う中、官兵衛が騎馬一騎で刀も持たず近づいた。
「我は羽柴秀吉公の軍師、黒田官兵衛である!「国滅びて還らず」「死人はまたと生くべからず」北条の方々、命を粗末になされるな!開門せよ!」
 小田原「北条攻め」で、大河ドラマでは岡田准一氏演ずる黒田官兵衛が、そういって登場した。堂々たる英雄的登場である。この無血開城交渉で、兵士2万~3万の死者を出さずにすんだのである。
話を少し戻す。
天正5年(1577年)11月29日、家臣・生田木屋之介の活躍により、佐用城を落とした小寺官兵衛(黒田官兵衛)は、続いて、上月景貞が守る上月城を(兵庫県佐用郡佐用町)攻めた。
(注釈:上月城の城主は、赤松政範だったという説もあるが、ここでは上月景貞説を採用しておく。)
上月景貞は上月城に籠城しており、羽柴秀吉の軍が上月城を包囲していると、備前・備中・美作の3国(3国とも岡山県)を支配する毛利側の宇喜多直家の援軍が到着した。
宇喜多直家の軍は羽柴秀吉軍を外巻きに包囲し、羽柴秀吉は上月景貞と宇喜多直家とに挟まれ、劣勢に立たされた。
上月城に籠城していた上月景貞は、これを好機とみると、上月城から打って出た。
羽柴軍の先鋒・別所重棟は、上月景貞軍の先鋒を防ぎきれずにピンチを迎える。
すると、小寺官兵衛は手勢を率いて出陣し、先鋒・別所重棟を助け、上月景貞軍の先鋒を押し返した。
しかし、上月景貞はすぐさま第2陣を差し向け、先鋒隊と入れ替わるように第2陣が小寺官兵衛の部隊を攻撃した。
これを見た羽柴秀吉は「小寺官兵衛を討たすな」と命じ、羽柴秀吉の本陣の2部隊を投入。小寺官兵衛は援軍を得て勢いづき、敵軍を退けた。
羽柴秀吉は、上月景貞を上月城に押し返すと、背後に居る宇喜多直家を攻撃し、宇喜多直家を撃退した。
小寺官兵衛の活躍に満足した羽柴秀吉は、小寺官兵衛に秘蔵の名馬を与え、諸将に、
「良い馬が欲しければ、小寺官兵衛のように手柄をあげよ。この秀吉は物惜しみはせんぞ」
と言い、士気を鼓舞した。
(ちなみに、黒田官兵衛は倹約家で、後に「(値段の)高い馬には乗るな。戦場で馬を下りたとき、馬の行方が気になっていては、戦に集中できない。馬は乗り捨てられる安い馬にしろ」と話している。)
さて、上月城を包囲し羽柴秀吉側は、家臣・生駒親正の活躍により、上月城の水補給路を絶った。
水が無いと籠城できないため、城兵は謀反を起こし、城主・上月景貞の首を差し出して羽柴秀吉に降服を願い出た。
しかし、羽柴秀吉は謀反を起して降服してきた城兵を許さず、城兵が逃げられないように上月城の城門を外側から封印したうえで、上月城を攻め立てて城兵を皆殺しにした。
さらに、羽柴秀吉は上月城の女・子供を捕らえて、毛利側との国境で、女は磔にして殺し、子供は槍でついて殺して見せしめとした。このとき、200人ほどの女・子供(非戦闘員)が処刑された。
こうして上月城が落ちると、織田信長は、尼子家の復興に命を賭ける中山鹿之助に上月城を与えた。
尼子家は出雲の守護大名であったが、毛利元就に侵略され、領土を奪われた。尼子家の軍師・中山鹿之助は尼子勝久を擁立して、尼子家の復興に奔走し、織田信長を頼っていた。
中山鹿之助は織田信長から上月城を与えられ、念願の尼子家の復興を成し遂げたのである。
織田信長にしてみれば、尼子家にとって毛利家は宿敵なので、尼子勝久や中山鹿之助なら命を賭けて毛利軍と戦い、また絶対に毛利側に寝返らないという狙いがあった。
さて、上月城を落として播磨(兵庫県)を平定した羽柴秀吉は、上月城を中山鹿之助に任せると、織田信長に報告するため、安土城へと凱旋した。
織田信長は羽柴秀吉の播磨平定を大いに喜び、羽柴秀吉に愛用の乙御前の茶釜や領地を与えた。羽柴秀吉はそのまま安土城に留まり、安土城で天正6年(1578年)の正月を迎えた。
天正6年(1578年)、小寺官兵衛(黒田官兵衛)33歳の幕開けであった。
天正6年(1578年)2月、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が33歳の事である。
羽柴秀吉は中国征伐の今後の方針を問うため、加古川城(兵庫県加古川市)に諸将を集めて軍議を開いた(加古川評定)。
ところが、加古川評定の直後、加古川評定に参加していた三木城の城主・別所長治が、突如として中国の毛利輝元に寝返り、織田信長に反旗を翻したのである。
三木城の城主・別所長治は東播磨8郡を治める東播磨最大の勢力で、隣接する摂津(大阪府)の三好家に対抗するため、播磨では、いち早く織田信長に属していた城主である。
三木城の城主・別所長治は、織田信長の中国征伐で先手を務め、中国征伐後は播磨一国を賜る心づもりであった。
しかし、別所長治の思惑とは裏腹に、羽柴秀吉というよそ者が中国征伐の責任者として播磨に乗り込んできたため、このままでは、播磨は羽柴秀吉に奪われるという危惧があった。
一方、毛利輝元に庇護されている15代将軍・足利義昭は、室町幕府崩壊後も地方の大名に依然として権力を保持しており、各地に檄を飛ばして第3次織田信長包囲網を形成し、織田信長に対抗していた。
そのようななか、三木城の城主・別所長治は、15代将軍・足利義昭の調略を受け、突如として毛利側へと寝返り、織田信長に反旗を翻したのである。
(注釈:別所長治は加古川評定で意見を無視されたため、毛利側に寝返ったというエピソードは、後世の創作である。)
すると、三木城の城主・別所長治は東播磨で大きな影響力を持っていたため、周辺の豪族が別所長治に同調し、東播磨の豪族が一斉に織田信長に反旗を翻したのである。
三木城の城主・別所長治に同調しなかったのは、加古川城の城主・糟屋武則と阿閉城(あべじょう)の城主・別所重棟の2人だけであった。
これに驚いたのが小寺官兵衛(黒田官兵衛)である。
小寺官兵衛の妻・櫛橋光の父で志方城の城主・櫛橋左京進(櫛橋伊定)が、別所長治に同調して織田信長に反旗を翻したのである。
さらに、小寺官兵衛の親戚に当たる明石城の明石左近までもが、別所長治に同調して織田信長に反旗を翻したのである(注釈:黒田官兵衛の母親が明石家の明石岩[岩姫]です)。
「この織田信長を舐めおって!必ず討ち取るぞ!」
天正6年(1578年)2月、三木城の城主・別所長治が織田信長に反旗を翻すと、織田信長は烈火のごとく怒り、羽柴秀吉と小寺官兵衛(黒田官兵衛)に三木城討伐を命じた。
さて、東播磨にある阿閉城(あべじょう)の城主・別所重棟は、三木城の城主・別所長治の伯父であったが、2人は仲が悪かったので、別所長治の離叛に同調しなかった。
そこで、羽柴秀吉は阿閉城の城主・別所重棟を呼び寄せて尋問すると、別所重棟は、
「播磨大明神に誓って、三木城の離叛には関与していません」
と答えた。
このため、羽柴秀吉は別所重棟を味方に取り込み、別所重棟に別所長治の説得を命じた。
別所重棟は三木城を訪れて別所重棟を説得したが、別所重棟は説得に応じないため、羽柴秀吉は三木城の攻撃を決定したのである。
天正6年(1578年)3月、羽柴秀吉は小寺官兵衛の進言により、姫路城から書写山(兵庫県姫路市)へと本陣を移し、三木城討伐を開始する。
天正6年(1578年)3月13日、越後(新潟県)の上杉謙信が病死する。第3次織田信長包囲網に加わっていた上杉謙信の死により、包囲網は弱まる。
上杉謙信が死んだのは、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が33歳の出来事であった。
「軍神が死んだか。神でも死ぬのじゃな」当たり前である。
一方、中国の毛利輝元は、三木城の城主・別所長治が寝返った事を好機に、一気に播磨(兵庫県)を制圧するため、陸路と海路の両面から播磨へと侵攻を開始したのである。
天正6年(1578年)4月1日、海路を進んだ毛利軍8000人は、東播磨の別府(兵庫県加古川市)上陸する。
と、別所重棟の居城・阿閉城(あべじょう)を取り囲んだ(阿閉城の戦い)。
[注釈:阿閉城(あべじょう)ではなく、阿閇城(あえじょう)や別府城とする説もあるが、ここでは阿閉城とする。]
東播磨で三木城の城主・別所長治に同調しなかったのは、加古川城の城主・糟屋武則と阿閉城の城主・別所重棟の2人だけだった。
このため、中国の毛利輝元は、阿閉城と加古川城を落とし、三木城の別所長治と協力して西播磨の姫路へと侵攻する算段であった。
さて、この阿閉城には小寺官兵衛(黒田官兵衛)が500人の手勢を率いて援軍に駆けつけていた。
阿閉城に籠もる小寺官兵衛は、家臣に、
「この城が要害でないことが幸いしている。敵は大軍に頼んで、鉄砲用の盾も持たずに、攻め込んでくるだろう。我らは反撃せずに敵を十分に引きつけ、鉄砲が外れない距離まで来たら、一気に鉄砲を撃つ。弓鉄砲を持っていない者は、石を投げよ。私は櫓に上り、敵が鉄砲に恐れを成した頃に、合図を送るから、合図があれば、城門を開けて打って出よ。そうすれば、敵は大崩れするであろう」
と命じた。
やがて、毛利軍が阿閉城への攻撃を開始した。
が、阿閉城は要害ではなかったため、毛利軍は大軍を頼りにして、鉄砲用の盾も付けずに、通常の盾を並べて阿閉城へと押し寄せた。
阿閉城の兵は小寺官兵衛の命令通り、息を潜めており、毛利軍が城壁近くまで来たところで、一斉掃射を始めた。
毛利軍は鉄砲用の縦を持ってきていなかったので、一斉掃射によって多くの兵士を失った。
さらに、頃合いを見て小寺官兵衛が太鼓を鳴らすと、小寺官兵衛の手勢が城門を開いて打って出た。
毛利軍は鉄砲で死傷した者も多く、小寺官兵衛の手勢を防ぐことが出来ず、一戦もすると無く総崩れとなり、敗走した。
小寺官兵衛の手勢は毛利軍を追撃し、散々と討取った。
阿閉城の戦いでの活躍を聞いた織田信長は、大いに喜び、羽柴秀吉に馬を与えた。羽柴秀吉は、
「今回の手柄は小寺官兵衛のものである」
と言い、この馬を小寺官兵衛に与えた。
小寺官兵衛は「戦功は母里太兵衛によるものである」と言い、この馬を母里太兵衛に与えた。
 大河ドラマでは一年間ものクールで放送される為、官兵衛と初恋の女性との「恋愛」や「死別」等様々描かれる筈である。現在執筆時(2014年1月)では大河ドラマ「軍師官兵衛」は放送スタートしたばかり。で、まだ主人公の黒田官兵衛役のアイドル俳優・岡田准一さんが流暢に演じ始めた放送段階である。出生地・播磨での出来事、初恋、天下人・織田信長への仕官、秀吉との出会い…この物語でも触れていこう。だが、まずは歴史に戻ろう。
小寺(のちの黒田)官兵衛が毛利の大軍を退けた話が広まる。
と、三木城主・別所長治に同調して織田信長に反旗を翻した高砂城の城主・梶原景行と明石城の城主・明石左近の2人が小寺官兵衛に降った。
小寺官兵衛は梶原景行と明石左近を羽柴秀吉の元へ連れて行くと、羽柴秀吉はこれを大いに喜んだ。
一方、陸路から播磨へと侵攻した毛利軍の吉川元春と小早川隆景は、5万の大軍で西播磨の上月城(兵庫県佐用郡佐用町)を包囲していた。
(注釈:毛利家を代表する吉川家と小川家を総称して「毛利両川」または「毛利二川」と呼ぶ。)
尼子勝久を擁する軍師・中山鹿之助は、織田信長から上月城を拝領し、念願の尼子家の復興を成しとけた。
が、宿敵・毛利の大軍に包囲され、尼子家の運命は風前の灯火となっていた。
天正6年(1578年)4月、毛利軍の吉川元春と小早川隆景が率いる5万の大軍が、西播磨(兵庫県)にある上月城を包囲した。
西播磨の最西端にある上月城は、中国征伐の最前線でもあり、羽柴秀吉にとっては重要な城だった。
東播磨では、東播磨最大の勢力で三木城の城主・別所長治が突如として毛利側に寝返っており、羽柴秀吉は三木城攻めの最中であったが、中国征伐の要所となる上月城を見捨てるわけにはいかなかった。
羽柴秀吉は直ぐさま織田信長に援軍を要請すると、摂津の荒木村重と合流し、小寺官兵衛(黒田官兵衛)と共に1万の兵を率いて上月城へ援軍に向かい、高倉山に布陣した。
対する毛利軍は5万という大軍だったので、軍を2手に分け、1方で上月城を包囲し、もう1方で羽柴秀吉の軍勢に対応した。
羽柴秀吉の軍勢は毛利軍と小競り合いを続けるが、勝敗は付かず、膠着状態に陥った。
天正6年(1578年)6月、羽柴秀吉は毛利軍との膠着状態を打破するため、密かに京都へ上り、織田信長に上月城への親征を仰いだ。
しかし、織田信長は羽柴秀吉に、
「上月城の援軍を引き払い、神吉城と志方城を攻め落とし、三木城を包囲せよ」と命じた。
羽柴秀吉は織田信長の命令に逆らうことが出来ず、天正6年(1578年)6月、上月城に差し向けた援軍を引き上げ、書写山(しょしゃざん=兵庫県姫路市)へと戻り、三木城攻めを再開する。
このとき、羽柴秀吉は上月城に居る中山鹿之助に使者を送り、脱出するように促した。
が、中山鹿之助は、
「自分1人だけであれば脱出できるが、全員を連れて脱出することは出来ない」
と言い、上月城に残ったという。
一方、織田信長は羽柴秀吉の要請を受けて織田信忠を総大将する援軍を三木城へ差し向けた。
が、羽柴秀吉に手柄をあげさせるのを嫌う武将が多かったため、織田信忠の援軍は積極的には戦わなかった。
しかし、織田信長の命令により、織田信忠の援軍が神吉城と志方城への攻撃を開始する。
籠城していた神吉城の城主は、大軍を防ぎきれなくなり、切腹して開城した。
神吉城が落ちると、志方城の城主・櫛橋左京進(櫛橋伊定)も兵士の助命と引き替えに、切腹して開城した。
櫛橋左京進は、小寺官兵衛(黒田官兵衛)の妻・櫛橋光の父である。
なお、櫛橋左京進は、小寺官兵衛(黒田官兵衛)の嘆願によって命を助けられたとも伝わっている。
その後、櫛橋氏は黒田家の家臣となった。
さて、上月城で籠城する中山鹿之助らは、羽柴秀吉の援軍が撤退後も籠城を続けていた。
天正6年(1578年)7月、上月城は3ヶ月に渡る籠城を耐え抜いた。
が、尼子勝久ら一族の自刃を条件に兵士の助命が認められたため、尼子勝久は降服を決定する。
城主・尼子勝久は軍師・中山鹿之助に、
「一時なりとも大将にしてくれたことを感謝する」
と感謝し、尼子一族とともに自害して、上月城を開城したという。
尼子家の復興に奔走した中山鹿之助は自刃せずに捕虜となる。
が、安芸へ護送される最中に毛利の刺客・河村新左衛門によって殺害された。
中山鹿之助は、尼子勝久に尼子家の復興を託されて捕虜になったとも、吉川元春を暗殺するために捕虜になったとも伝わる。
しかし、毛利の刺客・河村新左衛門に暗殺されたため、尼子家の復興はここで途絶えた。
さて、備前・備中・美作(いずれも岡山県)を支配する宇喜多直家は、病気と称して第2次・上月城の戦いには参加しておらず、次男・宇喜多忠家を派遣していた。
上月城を落とした毛利軍は、宇喜多直家が織田信長に寝返る。
と、播磨へと侵攻した毛利軍は退路を断たれるため、東へと侵攻せず、本国へと引き揚げた。


新島八重の桜と白虎隊と「幕末のジャンヌダルク・ハンサムウーマン」ブログ連載4

2014年01月14日 07時13分23秒 | 日記
         4 幕臣遁走





またしても話しを戻す。
  幕府側陸海軍の有志たちの官軍に対する反抗は、いよいよもって高まり、江戸から脱走をはじめた。もう江戸では何もすることがなくなったので、奥州(東北)へ向かうものが続出した。会津藩と連携するのが大半だった。
 その人々は、大鳥圭介、秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人にも達したという。
 大鳥圭介は陸軍歩兵奉行をつとめたほどの高名な人物である。
 幕府海軍が官軍へ引き渡す軍艦は、開陽丸、富士山丸、朝陽丸、蟠龍丸、回天丸、千代田形、観光丸の七隻であったという。
 開陽丸は長さ七十三メートルもの軍艦である。大砲二十六門。
 富士山丸は五十五メートル。大砲十二門。
 朝陽丸は四十一メートル。大砲八門。
 蟠龍丸は四十二メートル。大砲四門。
 回天丸は六十九メートル。大砲十一門。
 千代田形は十七メートル。大砲三門。
 観光丸は五十八ルートル。
 これらの軍艦は、横浜から、薩摩、肥後、久留米三藩に渡されるはずだった。が、榎本武揚らは軍艦を官軍に渡すつもりもなく、いよいよ逃亡した。

  案の定、近藤たちが道草を食ってる間に、官軍が甲府城を占拠してしまった。錦の御旗がかかげられる。新選組は農民兵をふくめて二百人、官軍は二千人……
 近藤たちは狼狽しながらも、急ごしらえで陣をつくり援軍をまった。歳三は援軍を要請するため江戸へ戻っていった。近藤は薪を大量にたき、大軍にみせかけたという。
 新選組は百二十人まで減っていた。しかも、農民兵は銃の使い方も大砲の撃ち方も知らない。官軍は新選組たちの七倍の兵力で攻撃してきた。
 わあぁぁ~っ! ひいいぃ~っ!
 新選組たちはわずか一時間で敗走しだす。近藤はなんとか逃げて生き延びた。歳三は援軍を要請するため奔走していた。一対一の剣での戦いでは新選組は無敵だった。が、薩長の新兵器や銃、大砲の前では剣は無力に等しかった。
 三月二十七日、永倉新八たちは江戸から会津(福島県)へといっていた。近藤は激怒し、「拙者はそのようなことには加盟できぬ」といったという。
 近藤はさらに「俺の家来にならぬか?」と、永倉新八にもちかけた。
 すると、永倉は激怒し、「それでも局長か?!」といい去った。
 近藤勇はひとり取り残されていった。

  近藤勇と勝は会談した。勝の屋敷だった。
 近藤は「薩長軍を江戸に入れぬほうがよい!」と主張した。
 それに対して勝はついに激昴して、「もう一度戦いたいなら自分たちだけでやれ!」
 と怒鳴った。
 その言葉通り、新選組+農民兵五五〇人は千住に布陣、さらに千葉の流山に移動し布陣した。近藤たちはやぶれかぶれな気持ちになっていた。
 流山に官軍の大軍勢がおしよせる。
「新選組は官軍に投降せよ!」官軍は息巻いた。もはや数も武器も官軍の優位である。剣で戦わなければ新選組など恐るるに足りぬ。
 近藤の側近は二~三人だけになった。
「切腹する!」
  近藤は陣で切腹して果てようとした。しかし、土方歳三がとめた。「近藤さん! あんたに死なれたんじゃ新選組はおわりなんだよ!」
「よし……俺が大久保大和という偽名で投降し、時間をかせぐ。そのすきにトシサンたちは逃げろ!」
 近藤は目をうるませながらいった。……永久の別れになる……彼はそう感じた。
「新選組は幕府軍ではない。治安部隊だという。安心してくれ」
 歳三はいった。
 こうして近藤勇は、大久保大和という偽名で官軍に投降した。官軍は誰も近藤や土方の顔など知らない。まだマスコミもテレビもなかった時代である。
 近藤の時間かせぎによって、新選組はバラバラになったが、逃げ延びることができた。「近藤さん、必ず助けてやる!」
 土方歳三は下唇を噛みながら、駆け続けた。

  四月十七日、近藤への尋問がはじまった。
 近藤は終始「新選組は治安部隊で幕府軍ではありませぬ」「わしの名は大久保大和」とシラをきりとおした。
「やめろよ、おい!」
 こらえきれなくなって、官軍屋敷の奥で見ていた男がくってかかった。
「お前は新選組局長、近藤勇だろ!」
「ほざけ!」
「近藤! 俺の顔を忘れたか?!」
男は慇懃にいった。そう、その男こそ新選組元隊士・篠原泰之進だった。
「た……泰之進」
 近藤は凍りついた。何かの間違いではないだろうか? なぜ篠原泰之進が官軍に…?
「近藤! なぜ俺が官軍にいるのか? と思ったろう?」
 彼の勘はさえていた。「俺は勝ってる方になびくんだ。風見鶏といわれようと、俗物とよばれようともかまわんさ! 近藤! お前はおわりだ!」
 近藤勇は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえるだろう。心臓がかちかちの石のようになると同時に、全身の血管が氷になっていくのを感じた。 やつがいったようにすべておわりだ。何も考えることができなかった。
 近藤は頭のなかのうつろな笑い声が雷のように響き渡るのを聞いた。
「死罪だ! 切腹じゃない! 首斬りだ!」
 篠原泰之進は大声で罵声を、縄でしばられている近藤勇に浴びせかけた。これで復讐できた。新選組の中ではよくも冷遇してくれたな! ザマアミロだ!
 近藤は四月二十五日に首を斬られて死んだ。享年三十五だった。最後まで武士のように切腹もゆるされなかったという。近藤は遺書をかいていた。
 ……”孤軍頼け絶えて囚人となる。顧みて君恩を思えば涙更に流れる。義をとり生を捨てるは吾が尊ぶ所。快く受けん電光三尺の剣。兄将に一死、君恩に報いん”
 近藤勇の首は江戸と京でさらされた。

官軍の措置いかんでは蝦夷(北海道)に共和国をひらくつもりである。…麟太郎は榎本の内心を知っていた。
 麟太郎は四月も終りのころ危うく命を落とすところだった。
 麟太郎は『氷川清話』に次のように記す。
「慶応四年四月の末に、もはや日の暮れではあるし、官軍はそのときすでに江戸城へはいっておった頃だから、人通りもあまりない時に、おれが半蔵門外を馬にのって静かに過ぎておったところが、たちまちうしろから官兵三、四人が小銃をもっておれを狙撃した。
 しかし、幸い体にはあたらないで、頭の上を通り過ぎたけれども、その響きに馬が驚いて、後ろ足でたちあがったものだから、おれはたまらずあおむけざまに落馬して、路上の石に後脳を強く打たれたので一時気絶した。
 けれどもしばらくすると自然に生き返って、あたりを見回したら誰も人はおらず、馬は平気で路ばたの草を食っていた。
 官兵はおれが落馬して、それなりに気絶したのを見て、銃丸があたったものとこころえて立ち去ったのであろう。いやあの時は実に危ないことであったよ」
 大鳥圭介を主将とする旧幕府軍は宇都宮へむかった。
四月十六日の朝、大山(栃木県)に向かおうといると銃砲の音がなり響いた。
 官軍との戦闘になった。
 秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人は官軍と激突。そのうち二隊は小山を占領している官軍に攻撃を加えた。
 脱走兵(旧幕府軍)は小山の官軍に包囲攻撃をしかけた。たまらず小山の官軍は遁走した。脱走兵(旧幕府軍)そののち東北を転々と移動(遁走)しだす。
彼等は桑名藩、会津藩と連携した。
 江戸では、脱走兵が絶え間なかった。
 海軍副総裁榎本武揚は、強力な艦隊を率いて品川沖で睨みをきかせている。かれは麟太郎との会合で暴言を吐き、「徳川家、幕府、の問題が解決しなければ強力な火力が官軍をこまらせることになる」といった。麟太郎は頭を抱えた。
 いつまでも内乱状態が続けば、商工業が衰えて、国力が落ちる。植民地にされかねない。「あの榎本武揚って野郎はこまった輩だ」麟太郎は呟いた。
 榎本武揚は外国に留学して語学も達者で、外国事情にもくわしい筈だ。しかし、いまだに過去にしがみついている。まだ幕府だ、徳川だ、といっている。
 麟太郎には榎本の気持ちがしれなかった。
  江戸の人心はいっこうに落ち着かない。脱走兵は、関東、東北でさかんに官軍と戦闘を続けている。
 西郷吉之助(隆盛)は非常に心配した。
「こげん人心が動揺いたすは徳川氏処分の方針が定まらんためでごわす。朝廷ではこの際すみやかに徳川慶喜の相続人をお定めなされ、あらためてその領地、封録をうけたまわるなら人心も落ち着くでごあんそ」

  麟太郎が繰り返し大総督府へ差し出した書状は、自分のような者ではとても江戸の混乱を静めることができない、水戸に隠居している徳川慶喜を江戸に召喚し、人心を安定させることが肝要である……ということである。
 官軍は江戸城に入り、金品を物色しはじめ狼藉を働いた。蔵に金がひとつも残ってない。本当に奉行小栗上野介がどこかへ隠したのか? だが、小栗は官軍に処刑され、実態はわからない。例の徳川埋蔵金伝説はここから生まれている。
 江戸には盗賊や暴力、掠奪、殺人が横行し、混乱の最中にあった。
 麟太郎は西郷に書を出す。
「一 今、苗を植えるべきときに、東三十余国の農民たちは、官軍、諸藩の人夫に駆りだされ苦しんでおり、このままでは今年の秋の収穫がない。来年はどうして生きていくのか。民は国の基本である。
 二 すでに大総督府へ献言しているのに、返答がない。
 三 王政維新について、わが徳川氏の領国を用途に当てられるということである。徳川氏の領土は狭小で、たとえ残らず召し上げられても、わずか四百万石に過ぎない。三百六十万俵前後の実収を、いままったく召しあげられても、大政に従事する諸官の棒給にも足りぬであろう。いわんや海陸の武備は、とてもできないであろう。
 まだ、その名分は正しいとはいえない。もし領国のなかばを減ぜられたとしても、罪のない家臣、その家族をどのようにして養うのか。人の怨みはどこにおちつくだろう。
 今寛典のご処置で、寡君(慶喜)ご宥免のうえ、領国をそのまま下されても、幾何かを朝廷に進献するのは当然である。そうすれば、寡君の誠心により出たものとして、国内の候伯はこれをみて黙止しているだろうか。かならず幾何かの領地を進献するだろう。 そうなれば、大政の御用途、海内の諸事の費用にあてるに充分であろう。そのようにすれば何事もうまく運ぶだろう。
 四 一家に不和を生じたときは、一家は滅亡する。一国不和を生じたときは、その国は滅亡する。国の内外の人心を離散させれば、どうなるのか。
 五 外国のひとたちは朝廷のご処置如何をもって、目を拭い、耳をそばたてて見聞きしている。もしご不当のこがあれば、噂は瞬間に、海外に聞こえるだろう(後訳)」
 官軍が天下をとったことで、侍たちの禄支給が延期されていた。麟太郎は、不測の事態を危惧していた。

                
  彰義隊と官軍は上野で睨み合っていた。
 彰義隊とは、はじめ一橋家の家中有志たちが主君慶喜のために、わずか十七名のて血判状によりできたもので、江戸陥落の今となってやぶれかぶれの連中が大勢集まってきたという。彰義隊は上野に陣をひき、官軍と対峙していた。
上野には法親王宮がいるので、官軍はなかなか強硬な手段がとれない。
 すべては彰義隊の戦略だった。
 江戸はますます物騒になり、夜は戸締まりをしっかりしないといつ殺されてもおかしくないところまで治安は悪化していた。
 彰義隊にあつまる幕臣、諸藩士は増えるばかりであった。
二十二歳の輪王寺宮公現法親王は、旧幕府軍たちに従うだけである。
 彰義隊がふえるにしたがい、市内で官軍にあうと挑発して乱闘におよぶ者も増えたという。西郷は、”彰義隊を解散させなければならぬ”と思っていた。
 一方、勝海舟(麟太郎)も、彰義隊の無謀な行動により、せっかくの徳川幕府の共順姿勢が「絵にかいた餅」に帰しはしないか、と危惧していた。
「これまでの俺の努力が無駄になっちまうじゃねぇか!」麟太郎は激昴した。
 榎本武揚は品川沖に艦隊を停泊させ、負傷者をかくまうとともに、彰義隊に武器や食料を輸送していた。
江戸での大総督府有栖川宮は名だけの者で、なんの統治能力もなかった。
 さらに彰義隊は無謀な戦をおこそうとしていた。
 彰義隊は江戸を占拠し、官軍たちを殺戮していく。よって官軍は危なくて江戸にいられなくなった。安全なところは東海道に沿う狭い地域と日本橋に限られていた。
 江戸市中の取り締まりを行うのも旧幕府だった。
 江戸では、彰義隊を動かしているのが麟太郎で、榎本武揚が品川沖に艦隊を停泊させ、負傷者をかくまうという行動も麟太郎が命令しているという噂が高まった。もちろんそんなものはデマである。
 麟太郎は、彰義隊討伐が実行されないように懸命に努力を続けていた。
 しかし、それは阻止できそうもなかった。

  ある日、薩兵たちが上野で旧幕臣たちと斬りあう事件がおきた。
 薩兵の中に剣に秀でた者がいて、たちまち旧幕臣兵たちふたりが斬られた。そしてたちまちまた六人を殺した。
  彰義隊は本隊五百人、付属諸隊千五百人、総勢二千を越える人数となり、上野東叡山寛永寺のほかに、根岸、四谷に駐屯していた。
 彰義隊は江戸で官軍を殺しまくった。そのため長州藩大村益次郎が、太政官軍務官判事兼東京府判事として、江戸駐屯の官軍の指揮をとり、彰義隊討伐にとりかかることになった。
 西郷隆盛はいう。
「彰義隊といい、何隊というてん、烏合の衆であい申す。隊長はあれどもなきがごとく、規律は立たず、兵隊は神経(狂人)のごたる。紛々擾々たるのみじゃ。ゆえ条理をもって説論できなんだ」
 麟太郎は日記に記す。
「九日 彰義隊東台に多数集まり、戦争の企てあり。官軍、これを討たんとす」
大総督府には西郷以下の平和裡に彰義隊を解散させよう、という穏健派がいたという。 かれらは麟太郎や山岡鉄太郎らと親交があり、越後、東北に広がろうとしていた戦火をおさえようと努力していた。
 彰義隊などの旧幕府軍を武力をもって駆逐しようという過激派もいた。長州藩大村益次郎らである。
  官軍が上野の彰義隊らを攻撃したのは、五月十五日であった。連日降り続く雨で、道はむかるんでいた。彰義隊は大砲をかまえ、応戦した。官軍にはアームストロング砲がある。大砲の命中はさほど正確ではなかったが、アームストロング砲は爆発音が凄い。
 上野に立て籠もる諸隊を動揺させるのに十分な兵器だった。
 やがて砲弾が彰義隊たちを追い詰めていく。西郷も戦の指揮に加わった。
 午前七時からはじまった戦いは、午後五時に終わった。

  彰義隊討伐の作戦立案者は、大村益次郎であった。計画ができあがると、大村は大総督府で西郷吉之助(隆盛)に攻撃部署を指示した。
 西郷は書類をみてからしばらくして、
「薩摩兵をみなごろしにされるおつもりでごわすか?」ときいた。
 大村は扇子をあけたり閉じたりしてから、天井を見上げ、しばらく黙ってから、
「さようであります」と答えたという。
 麟太郎は『氷川清話』に記す。
「大村益次郎などという男がおれを憎んで、兵隊なんかさしむけてひどくいじめるので、あまりばかばかしいから家へひっこんで、それなりに打ったゃっておいた。
 すると大久保利道がきて、ぜひぜひねんごろにと頼むものだから、それではとて、おれもいよいよ本気で肩入れするようになったのだ。
 なにしろ江戸市民百五十万という多数の人民が食うだけの仕事というものは容易に達せられない。そこでおれはその事情をくわしく話したら、さすがに大久保だ。それでは断然遷都の事に決しようと、こういった。すなわちこれが東京今日の繁昌の本だ」