長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

<SPECIAL REPORT>小学館SAPIO誌2014年5月号「アベノミクス礼賛」で日本崩壊・迫る大不況

2014年04月20日 13時30分40秒 | 日記





<SPECIAL REPORT>「アベノミクス礼賛」では日本が沈む「迫り来る「消費増税大不況」「次の一手」はあるか」小学館SAPIO誌2014年5月号SAPIO編集部著作権
<不況の予兆>「自動車は16%減、住宅は10%減、家電は8・6%減、車も住宅も家電も売り上げ急減予測が続々GDP8%減で「経済大国」転落が現実となる」SAPIO誌編集部。
SAPIO誌は安倍政権の「デフレ脱却宣言」は時期尚早だと警告してきた。増税が実行されていよいよ不況転落の危機が現実となりつつある。* 消費増税によって日本経済はどれほどのダメージを受けるか。マクロ経済分析を専門とする宍戸駿太郎・筑波大学名誉教授が政府の「産業連関表」に基づくシュミレーションシステムを用いて試算した結果は衝撃的だ。それによると増税後3年目には、税率が据え置かれた場合と比べて名目GDPがマイナス6・3%となり、10年後には「マイナス8%」まで落ち込むことになる。名目GDPは約480兆円だから、40兆円弱が吹き飛んでしまう計算だ。政府のシュミレーションではそんな数字は出てないが、宍戸氏はその理由をこう説明する。「内閣府は消費税が10%になった場合の影響をGDPで『マイナス1%程度』とする試算を公表しています。これは増税と歳出カットさえすれば国が立ち直るという途上国の財政再建のためのIMFのシュミレーションモデルを使った試算です。日本のように市場規模の大きい先進国で同じことをやれば需要が冷え込んで経済がどんどん収縮してしまう。政府は先進国に適用できないモデルを使って『増税で景気は悪くならない』と言っているだけなのです」実際には日本経済は致命的なダメージを受ける。<新車販売数は1970年の水準以下に>特に大きな打撃が予想されるのは自動車や住宅といった耐久消費財である。日本自動車工業会(自工会)によれば消費税が3%から5%に引き上げられた97年度で国内新車販売台数は628万台で、前年度の729万台から14%も減少した。駆け込み需要があった13年度の販売台数は前年度比プラス8%にすぎず「反動」の方が明らかに大きい。500万台が国内工場の稼働維持の目安とされる。それを割り込むと生産調整→人員削減→さらなる景気悪化と負のスパイラルに陥る危機が大きい。さらに自工会が去年(2013年)8月に公表したリポートでは15年10月に政府が予定通り消費税を10%に増税した場合、翌年度の販売台数は353万台にまで落ち込み<国内販売に致命的な打撃>だとしている。増税の影響は明らかで、既に3月上旬の大手住宅メーカーの受注速報では前年同月比30%以上の大幅減となる社まであった。税率5%が適用されるのは「3月末までに引き渡しの分譲住宅」(4月以降の引き渡しでも去年9月までの契約ならば5%適用)のため、受注ベースでは一歩先に冷え込みが始まっている。業界では既に10%への税率引き上げによるさらなる失速を懸念する声が上がっている。日本電機工業会が3月に公表した14年度の白物家電国内出荷見通しでは、エアコン(13・9%減)
、冷蔵庫(10・9%減)が落ち込むとされた。白物家電全体では8・6%減となる見通しで、13年度の4・7%増が簡単に吹っ飛ぶ。ここ数年でエコポイントや地デジ化といった耐久消費財の需要を先食いを喚起する政策が打ち出されてきたので、一部の商品を除いて97年当時のような駆け込み需要すら起きなかったのだから悲惨である。日常消費財の買いだめと消費傾向の落ち込み(節約傾向が穏やかに続く)で、増税で値札や店内システム全体を見直した億単位の投資が取り戻せなくなる。<中小企業5万社が倒産の危機>増税の影響は第一次産業にも重くのしかかる。とりわけ零細農家への影響が深刻だ。肥料や農薬、設備投資の購入費すべてに消費税がかかる一方、それを価格転嫁しにくい構造がある。コメの買いだめも売り上げの10~15%減を夏まで農協は覚悟してるが、野菜などの生鮮品はセリで値段が決まるから増税分が価格転嫁できない。倒産は中小企業円滑化法(モラトリアム法)の廃止で中小企業5万社が倒産する。これだけの「痛み」があるにもかかわらず税収は増えない。97年度の消費増税後、約54兆円あった政府の税収は13年度で約43兆円。不況をもたらし税収も減るのだから亡国の施策と言えるだろう。
<マーケット>「すでに海外投資家は「売り浴びせ」のタイミングを計っている」「債券市場では「3・13大暴落」が起きていた。バブル崩壊時と不気味な一致で「日経平均9000円」へ」*「株価下落と言っても、一時的なもの。年末1万8000円は堅いだろうね」政府首脳は3月中旬に大きく下落した株価について記者たちに問われて、そう嘯(うそぶ)いた。しかし、市場では、消費税アップに伴い企業業績に懸念が膨らみ、アベノミクスが限界に来ていることを見透かしたように「日本売り崩し」を虎視眈々と狙う動きはある。その日は突然やってくる。岩盤規制、具体的には農業、雇用など抜本的な規制緩和が必要です。農業は参入の自由化や農地取引の自由化。雇用は、正社員を解雇できるようにし労働力の流動化を進める規制緩和。そうして“日本が本当に変わった”と思わせられれば、外国人投機家はまた日本に投資するでしょう」
<所得税>「ベア2700円のトヨタ社員は、本当は1・6%の月給源」「増税ほかで可処分所得月額2万円減のなか、公務員だけ「賃上げ8・5%」に怒り爆発」<気づかぬ増税で所得激減><収入がない人も資産を搾り取られる未来>
<雇用>「ミスマッチと海外シフトに苦しむ労働市場は崩壊寸前」「非正規と復興特需だけでは駄目だ」「「職なき未来」を救うのは「職の創造」しかない」<日本人の職を奪う企業の海外シフト><国内に残る職業はコンビニのアルバイトだけ?>まとめ緑川鷲羽2014年4月20日 13時10分頃。


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昇り竜の如く <米沢藩士>雲井龍雄伝とその時代ブログ連載小説2

2014年04月20日 06時27分28秒 | 日記
米沢上杉藩


            
  上杉鷹山公は今でも米沢の英雄である。
 もちろん、上杉家の祖、上杉謙信も英雄ではあるが、彼は米沢に生前来たことがない。米沢に藩を開いたのは、その甥の上杉景勝である。(謙信の遺骨も米沢に奉られている) その意味で、米沢といえば「上杉の城下町」であり、米沢といえば鷹山、鷹山といえば米沢……ともいえよう。山形県の米沢市は「米沢牛」でも有名だが、ここではあえて触れない。鯉のうま煮、米沢織物……これらも鷹山公の改革のたまものだが後述する。
 よく無知なひとは「山形県」ときくと、すぐに「ド田舎」とか「田んぼに茅葺き屋根の木造家屋」「後進県」などとイメージする。たぶん「おしん」の影響だろうが、そんなに嘲笑されるようなド田舎ではない。山口県や青森県、高知県などが田舎なのと同じように山形県も「ふつうの田舎」なだけである。

 のちの鷹山こと上杉治憲は偉大な改革を実行していった。だが、残念ながらというべきか彼は米沢生まれではない。治憲は日向(宮崎県)高鍋藩主(三万石)秋月佐渡守種実の次男として宝暦元年(1751年)七月二十日、江戸麻布一本松の邸に生まれている。 高鍋は宮崎県の中部の人口二万人くらいの町である。つまり、治憲は、その高鍋藩(三万石)から米沢藩(十五万石)への養子である。
 血筋は争えない。
 鷹山公の家系をみてみると、公だけが偉大な指導者になったのではないことがわかる。けして、上杉治憲(のちの鷹山)は『鳶が鷹を生んだ』などといったことではけしてない。しかし、この拙著では公の家系については詳しくは触れないでおこうと思う。
 大事なのは、いかにして上杉鷹山のような志やヴィジョンを持ったリーダーが誕生したのか?ということであろう。けして、家柄や家格…ではない。そうしたことだけが重要視されるのであれば馬鹿の二世タレントや歌舞伎役者の息子などが必ず優れている…ということになってしまう。そんなことはあり得ない!
 それどころかそうした連中はたんなる「七光り」であり、無能なのが多い。そういった連中とは鷹山公は確実に違うのだ。
 では、謙信公や景勝公や兼続の影響を受けた鷹山公の教育はどのようにおこなわれていったのだろうか?
 昔から『三つ子の魂、百まで』…などといわれているくらいで、幼少期の教育は重要なものである。秋月家ではどのような教育をしてきたのかはわからない。しかし、学問尊重の家柄であったといわれているから、鷹山はそうとうの教育を受けてきたのだろう。
 米沢藩第八代目、上杉重定の養子になったのは、直丸(のちの鷹山)が九才の時である。  当時、重定公は四十才になっていたが、長女の弥姫が二才で亡くなり、次女の幸姫は病弱で、後継者の男の子はいなかった。もし男の子が生まれなければ、そして重定にもしものことがあれば、今度こそ米沢藩はとりつぶしである。その為、側近らや重定はじめ全員が「養子をもらおう」ということになった。そこで白羽の矢がたったのが秋月家の次男ぼうの直丸(のちの鷹山)であった。
 上杉重定はのちにこう言っている。
「わしは能にばかり夢中になって贅沢三昧だった。米沢藩のために何ひとついいことをしなかった。しかし、案外、わしがこの米沢を救ったのかも知れない。あの治憲殿を養子に迎えたことで…」

  当時の米沢藩は精神的にも財政的にも行き詰まっていた。藩の台所はまさに火の車であり、滅亡寸前のあわれな状態だった。
 上杉謙信時代は、天下の大大名であった。越後はもとより、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内までもが勢力圏であった。八〇万とも九〇万石ともよばれる大大名だったのだ。
 八〇万とも九〇万石ともよばれる領地を得たのは、ひとえに上杉謙信の卓越した軍術や軍事戦略の天才のたまものだった。彼がいなければ、上杉の躍進は絶対になかったであろう。…上杉謙信は本名というか前の名前は長尾景虎という。上杉家の初代、上杉謙信こと長尾景虎は越後の小豪族・長尾家に生まれ、越後を統一、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内にまで勢力圏を広げた人物だ。
 だが、上杉謙信は戦国時代でも特殊な人物でもあった。
 まず「不犯の名将」といわれる通り、生涯独身を通し、子を儲けることもなかった。一族親類の数が絶対的な力となる時代に、あえて子を成さなかったとすれば「特異な変人」といわざるえない。男色(ホモ)だったのではないか?ともいわれる。
 また、いささか時代錯誤の大義を重んじ、楽しむが如く四隣の諸大名と戦をし、敵の武田信玄に「塩」をおくったりもした。「義将」でもある。損得勘定では動かず、利害にとらわれず、大義を重んじ、室町時代の風習を重んじた。
 上杉家の躍進があったのも、ひとえにこの風変わりな天才ひとりのおかげだったといっても過言ではない。
 しかし、やがて事態は一変する。
 一五七〇年頃になると織田信長なる天才があらわれ、越中まで進出してきたのである。ここに至って、上杉謙信は何度か上洛を試みる。結果は、織田の圧倒的な兵力と数に押され、ジリジリと追い詰められていっただけだった。戦闘においては謙信の天才的な用兵によって優勢だったが、やがて信長の圧倒的な兵力に追い詰められていった。
 そんな時、一五七八年三月、天才・上杉謙信が脳溢血で、遺書も残す間もなく死んだ。それで上杉家は大パニックになった。なんせ後継者がまったく決まってなかったからだ。 上杉の二代目の候補はふたりいた。
 ひとりは関東の大国・北条家からの謙信の養子、景虎であり、もうひとりが謙信の姉の子、景勝である。謙信の死後、当然のように「御館の乱」とよばれる相続争いの戦が繰り広げられる。景勝にとってはむずかしい戦だった。なんといっても景虎には北条という後ろ盾がある。また、ぐずぐすしていると織田に上杉勢力圏を乗っ取られる危険もあった。 ぐずぐずしてられない。
 しかし、景勝はなんとか戦に勝つ。まず、先代からの宿敵、武田勝頼と同盟を結び、計略をもって景虎を追い落とした。武田勝頼が、北条の勢力が越後までおよぶのを嫌がっていた心理をたくみに利用した訳だ。
 だが、「御館の乱」という内ゲバで上杉軍は確実に弱くなった。しかし、奇跡がおこる。織田信長がテロルによって暗殺されたのだ。これで少し、上杉は救われた。
 それからの羽柴秀吉と明智光秀との僅か十三日の合戦にはさすがに出る幕はなかったが、なんとか「勝馬」にのって、秀吉に臣従するようになる。
 だが、問題はそのあとである。
 豊臣秀吉の死で事態がまた一変したのだ。
 秀吉の死後、石田三成率いる(豊臣)西軍と徳川家康率いる東軍により関ケ原の戦いが勃発。…上杉は義理を重んじて、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。上杉は勢力圏から見れば、徳川家康率いる東軍に加わった方が有利なハズである。仙台の伊達も山形の最上も越後の堀も、みんな徳川方だった。しかし、上杉景勝は、「徳川家康のおこないは大義に反する」という理由だけで、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。
 しかし、上杉景勝の思惑に反して、徳川との戦いはなかった。関ケ原役で上杉のとった姿勢は受け身が多かった。賢臣直江兼続は西軍と通じていたが、上杉全体としては西軍に荷担していた訳ではなかったようだ。
 ただし、家康には独力で対抗し、家康が五万九千の会津討伐軍をひきいて攻めてくると、上杉は領地白河の南方革籠原に必殺の陣を敷いて待ち受けたという。
 だが、家康が石田三成の挙兵を聞いて小山から引き返したので、景勝は追撃を主張する賢臣直江兼続以下の諸将を抑えてて会津に帰った。のちに名分に固執して歴史的な好機を逸したといわれる場面だ。しかし、ほかの最上攻めも、伊達攻めも、もっぱら向こうから挑発してきたので出兵しただけで、受け身であったことはいがめない。
 しかるに、結果は、上杉とは無縁の関ケ原で決まってしまう。その間、景勝はもっぱら最上義光を攻め、奥羽・越後に勢力を拡大……しかし、関ケ原役で西軍がやぶれ、上杉は翌年慶長六年、米沢三十万石に格下げとなってしまう。このとき景勝が、普代の家臣六千人を手放さずに米沢に移ったのは、戦国大名として当然の処置と言える。
 西側が敗れたとの報を受け、上杉ではもう一度の家康との決戦…との気概がみなぎった。しかし、伏見で外交交渉をすすめていた千坂景親から、徳川との和平の見込みあり、との報告が届いたので、景勝は各戦場から若松城内に諸将を呼び戻して、和平を評議させた。 そして和平したのである。景勝は家臣大勢をひきつれ、米沢へ移った。これが、米沢藩の苦難の始まりである。
  当時の米沢は人口6217人にすぎない小さな町であり、そこに六千人もの家臣をひきつれて転封となった訳であるのだから、その混乱ぶりはひどかった。住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。また、それから上杉家の後継者の子供も次々と世を去り、途絶え、米沢三十万石からさらに半分の十五万石まで減らされてしまった。
 しかし、上杉謙信公以来の六千人の家臣はそのままだったから、経費がかさみ、米沢藩の台所はたちまち火の車となったのである。
  人口六千人の町に、同じくらいの数の家臣をひきつれての「引っ越し」だから、その混雑ぶりは相当のものだったろう。しかも、その引っ越しは慶長六年八月末頃から九月十日までの短い期間で、家康の重臣で和睦交渉のキーパーソンだった本多正長の家臣二名を監視役としておこなわれた。
 混乱する訳である。
 米沢を治めていた直江兼続は、自分はいったん城外に仮屋敷を建て、そこに移って米沢城に上杉景勝をむかいいれることにした。が、他の家臣は、いったん収公した米沢の侍町や町人町にそれぞれ宿を割り当てることにした。その混乱ぶりはひどかった。住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。
 そのような暮らしは長く続くことになる。
 引っ越しが終りになった頃は、秋もたけなわである。もうすぐ冬ともいえた。米沢は山に囲まれた盆地で、積雪も多く、大変に寒いところだ。上杉の家臣にとっては長く辛い冬になったことだろう。
 十一月末に景勝が米沢城に移ってきた頃には、二ノ丸を構築し、さらに慶長九年には四方に鉄砲隊を配置した。それでもなお完璧ではなく、この城に広間、台所などが設置されたのは時代が元和になってからのことである。
 上杉景勝はどんな思いで、米沢に来たのだろうか?
 やはり最初は「………島流しにあった」と思ったのかも知れない。
 米沢藩が正規の体制を整えるまでも、紆余曲折があった。決して楽だった訳ではない。家臣の中には、困窮に耐えかねて米沢から逃げ出す者も大勢いた。それにたいして藩は郷村にたいして「逃亡する武士を捕らえたものには褒美をやる」というお触れを出さざる得なかった。また、「質素倹約」の令も続々と出したが、焼け石に水、だった。
 しかし当時は、士農工商とわず生活はもともと質素そのものだった。中流家臣だとしても家は藁葺き屋根の掘立て小屋であり、そんなに贅沢なものではない。ただ、仕用人を抱えていたので台所だけは広かった。次第に床張りにすることになったが、それまでは地面に藁を敷いて眠っていたのだという。また、中流家臣だとしても、食べ物は粥がおもで、正月も煮干しや小魚だけだった。
 武家にしてこのありさまだから、農工商の生活水準はわかろうというものだ。

  上杉家の困窮ぶりはすでに述べた。しかし、上杉とはそれだけでなく、子宝や子供運にも恵まれていなかった。大切な跡継ぎであるハズの子も病気などで次々亡くなり、ついには米沢十五万石まで領地を減らされてしまったのだ。
 また、有名なのが毒殺さわぎである。
 有名な「忠臣蔵」の悪役、吉良上野介義央に、である。この人物は殿中で浅野内匠頭に悪態をつき、刀傷騒動で傷を負い、数年後に、忠臣たち四十七人の仇討ち……というより暴力テロルで暗殺された人物だ。その人物に、上杉家の藩主は毒殺された……ともいわれている。
 寛文四年五月一日、米沢藩主・上杉播磨守綱勝は江戸城登城のおり、鍛治橋にある吉良上野介義央の邸宅によった。
 綱勝の妹三姫が吉良上野介義央の夫人となっていて、義央は綱勝の義弟にあたる。その日、綱勝は吉良邸によりお茶を喫した後、桜田屋敷に帰った。問題はその後で、夜半からひどい腹痛におそわれ、何度も何度も吐瀉し、お抱えの医師が手をつくしたものの、七日卯ノ刻に死亡した。
 あまりにも早急な死に、一部からは毒殺説もささやかれたが、それより上杉にとって一大事だったのは、綱勝に子がなかったということだ。
 当時の幕法では、嫡子のない藩は「お取り潰し」である。
 さぁ、上杉藩は大パニックになった。
 しかし、その制度も慶安四年に改められて、嫡子のいない大名が死のまぎわに養子なり後継者をきめれば、「お取り潰し」は免れるようになった。が、二十七才の上杉綱勝にはむろん末期養子の準備もなかった。兄弟もすべて早くに亡くなっていた。
 景勝から三代目、藩祖・謙信から四代目にしての大ピンチ……である。この危機にたいして、家臣の狼狽は激しかった。しかし、なんとか延命策を考えつく。
 まず、
 米沢藩は会津藩主・保科正之を頼り、吉良上野介義央の長子で、綱勝の甥の三郎(齢は二才)をなんとか奔走して養子につける事にした。…これで、米沢十五万石に減らされたが、なんとか米沢藩は延命した。
 だが、
 吉良三郎改め上杉綱憲を養子として向かえ、藩主としたのは大失敗だった。もともとこの人物は放蕩ざんまいの「なまけもの」で、無能で頭も弱く、贅沢生活の限りを尽くすようになった。城を贅沢に改築したり、豪華な食事をたらふく食べ、女遊びにうつつを抜かし……まったくの無能人だったのだ。旧ソビエトでいうなら「ブレジネフ」といったところか?
 もともと質素倹約・文武両道の上杉家とはあいまみれない性格の放蕩人……。これには上杉家臣たちも唖然として、落胆するしかなかった。
 それから、会津時代から比べて領土が八分の一まで減ったというのに、家臣の数は同じだったから、財政赤字も大変なものだった。
 もともと家臣が多過ぎてこまっていた米沢藩としては、減石を理由として思い切って家臣を削減(リストラ)して藩の減量を計るべきだという考えは当然あったろう。すでに藩が防衛力としての武士家臣を雇う時代ではないからだ。
 四十六万石の福岡藩に匹敵する多すぎる家臣は、藩の負担以外のなにものでもなかったから、家臣をリストラしても米沢藩が世間の糾弾を受けることにはならないはずだった。 だが、今度の騒動で、藩の恩人的役割を果たした保科正之は、家臣召放ちに反対した。 米沢藩はその意見をききいれ、棒禄半減の措置で切り抜けようとして悲惨な状況になるのだが、それでも家中に支給すべき知行(米や玄米など)の総計は十三万三千石となり、残りを藩運営の経費、藩主家の用度金にあてると藩財政はにわかに困窮した。
 だが、形のうえでは救世主となった上杉喜平次(三郎)あらため綱憲は贅沢するばかりで、何の手もうたない。綱憲は、ただの遊び好きの政治にうとい「馬鹿」であった。
  こうして数十年……上杉家・米沢藩は、長く苦しい「冬の時代」を迎えることになる。借金、金欠、飢饉…………まさに悲惨だった。
  明和三年(1767年)、直丸という名から治憲と名を改めた十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は米沢藩主となった。が、彼を待っていたのは、膨大な赤字だった。
 当時の米沢藩の赤字を現代風にしてみると、
  収入 6万5000両…………130億円
  借金 20万両    …………400億円
 という具合になる。
 売り上げと借金が同じくらいだと倒産。しかし、米沢藩は借金が3倍。………存在しているほうが不思議だった。米沢藩では農民2 .85人で家臣ひとりを養っていた。が、隣の庄内藩では9人にひとり……だから赤字は当然だった。
 しかし、米沢藩では誰も改革をしようという人間は現れなかった。しかし、そんな中、ひとりのリーダーが出現する。十七才の上杉治憲(のちの鷹山)そのひとである。
「改革をはじめないかぎり、この米沢藩は終りだ。……改革を始めよう!米沢を生き返らせよう!」
 十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は志を抱くのだった。
 そして、改革は五十年ののち開化する。鷹山の意思の、力だった。
 そして、謙信、景勝、兼続、この英雄たちの意思の力、でもあった。
                         


      上杉鷹山公の功績



  関ケ原の豊臣西軍の敗北により、西軍側の上杉家は会津120万石から出羽米沢30万石(4分の1)まで領地と禄高に減らされた。つまり謙信以来の名門上杉の越後から移転した会津本店が潰れ、米沢支店に全員転がってきた訳だ。4分の1で家臣の禄高は減らされたが、まだ減石が必要だった。そこで直江山城守兼続は、自分の禄高を減らした。
 米沢では兼続は河川工事や紅花や青ソの栽培を奨励する。
 しかし、家康は各諸藩の力を削ぐ為に次々と江戸の開発事業に銭を出させる。只でさえ、上杉家は台所事情が苦しいのにどうするか? 兼続は家康家臣の本多正重の息子を養子に迎え、支出を抑えてもらえるのに成功した。
 また、主君・上杉景勝に数万石の禄高を与えられることになった時、自分の禄高を減らして危機を救った。また兼続は米沢の某所で、鉄砲を隠れて密造し、乱戦に供えたという。 まだ徳川が全国制覇した訳ではなく、まだ豊臣家が大阪におり、そこで戦闘があるだろう……そういう思いだった。大阪冬の陣がいよいよもって開戦されると、上杉は徳川側につき大阪城の豊臣を攻めた。この戦で、上杉の鉄砲が火を噴いた。
 そして、いよいよ大阪夏の陣で徳川の天下となる。
 大阪夏の陣の6年後、直江兼続は病死する。実の子も養子も病死していた。こうして、直江家は断絶した。兼続の死後、上杉・米沢では兼続を称えるのがためらわれていた。関ケ原で上杉家が没落したのは兼続だし……というのだ。
 しかし、兼続の死後200年で兼続は英雄となる。第九代米沢藩主・上杉鷹山(治憲)により直江兼続の業績が見直された。こうして、直江兼続は英雄として見直され、米沢は再び試練を迎えるのである。そして、幕末、雲井龍雄の活躍も話題になるのである。


(ここでは米沢藩のウィキペディアの紹介です。)
 米沢藩

戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図。米沢藩の初代藩主・上杉景勝から第3代藩主・上杉綱勝まで。


江戸時代中期から昭和時代までの上杉氏系図。4代藩主・上杉綱憲から現当主まで。
米沢藩(よねざわはん)は、出羽国(明治維新以降の羽前国)置賜郡(現在の山形県東南部置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城(米沢市)。藩主は上杉氏。家格は外様で国主、石高は30万石、のち15万石から18万石
前史


伊達政宗
米沢は戦国時代の天文17年(1548年)から伊達家の本拠地であった。当時の伊達家は第14代伊達稙宗と嫡子の晴宗による内紛(天文の乱)が起こっており、その内紛に勝利した晴宗は伊達家第15代となり米沢に本拠を移した。しかし晴宗と嫡子の輝宗も内紛を起こし、輝宗が勝利して第16代となるも、伊達家はそのために勢力拡大が大幅に遅れていた。
天正12年(1584年)10月、輝宗は隠居して嫡子の政宗が第17代当主となる。政宗は相馬家、二本松畠山家、蘆名家など奥州南部の諸氏を攻めて勢力を拡大。天正17年(1589年)6月に摺上原の戦いで蘆名家に大勝して同家を滅ぼし、以後政宗は蘆名家の本拠であった黒川城を本拠とした。さらに二階堂家、石川家や岩城家を滅ぼした政宗は奥羽66郡の内、およそ半ばを支配する奥羽の覇者となった。
しかし天正18年(1590年)の小田原征伐で政宗は6月に小田原に参陣して豊臣秀吉に臣従した。このため伊達家の存続は許されたが、秀吉の奥州仕置により会津郡・安積郡・岩瀬郡など3郡は秀吉の発令していた奥羽両国惣無事令違反であるとして没収され、政宗は再び本拠を米沢に移した。だが秀吉は奥州仕置に際して厳しい検地を命じたため、10月初旬に奥州仕置で改易された大崎家や葛西家の旧領で一揆を起こした。この一揆は会津の新領主となった蒲生氏郷と政宗によって鎮定されたが、一揆の扇動に政宗があり、また氏郷暗殺の謀略があったとして秀吉は天正19年(1591年)秋に政宗から故地米沢をはじめ、伊達郡や信夫郡などを没収して大崎・葛西の旧領を与えた。これにより伊達家の領地はさらに減少し、年貢収入に至っては従来の半分ほどになった。政宗は岩手沢城を新たな居城と定めて岩出山と改名した。
政宗が移封された後、伊達家の旧領は会津の領主であった蒲生氏郷の所領となり、氏郷は米沢に蒲生郷安を入れた。だが文禄4年(1595年)に氏郷が死去。嫡子の秀行が13歳で跡を継ぐ。しかし東北の鎮守として90万石もの所領を支配するのは容易ではなく、重臣間の諍いがあって18万石に減封された。
蒲生家に代わって会津に入封したのは越後春日山城主の上杉景勝であった。領地は蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた120万石であり、これは徳川家康や毛利輝元に次ぐ第3位の石高であった。景勝は家老直江兼続に30万石(一説には甘粕氏の刈田郡白石城を含め32万石)を与えて米沢に入れ、伊達政宗及び山形の最上義光に対する抑えとした。ただし直江自身の所領は6万石だったといわれ、直江は上杉家全体を執政する立場にあったことから米沢には城代を派遣し、自らは本拠の若松城で景勝を補佐した。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が、慶長4年(1599年)閏3月に前田利家が死去すると、徳川家康の勢力は豊臣政権内において抜きん出た立場になり、家康は政宗をはじめとする諸大名との無断婚姻を繰り返した。家康に対抗しようと五奉行の石田三成は直江兼続に接近し、直江は景勝と慶長4年(1599年)8月に会津に帰国すると、領内の山道を開き、武具や浪人を集め、28の支城を整備するという軍備増強に出た。景勝・兼続主従は慶長5年(1600年)2月から若松城に代わる新たな城として、若松の北西およそ3キロの地点に位置する神指村に神指城の築城を開始した。しかしこの軍備増強は、越後の堀秀治や出羽の最上義光らにより家康に報告され、また上杉家中でも和平を唱える藤田信吉が出奔して江戸に落ち延びたため、家康は景勝に弁明を求める使者を出したが景勝は拒絶し、家康は諸大名を集めて会津征伐を開始した。
神指城築城は6月まで続けられたが、家康率いる討伐軍が江戸にまで来たため中止し、白河城の修築が急がれた。7月24日、下野小山で石田三成らの挙兵を知った家康は、次男の結城秀康や娘婿の蒲生秀行らを宇都宮城に牽制として残し、8月に西上を開始した。直江兼続は家康を追撃しようとしたが、上杉領の北に位置する最上義光や伊達政宗らの攻勢もあって追撃は断念した。一説に景勝は天下に上杉家の信を失い、恥辱を残すことを恐れて許さなかったとされている。直江兼続は矛先を出羽山形の最上義光に向け、9月3日に直江は米沢に帰城すると、大軍を最上領に差し向けた(慶長出羽合戦)。直江は現在の上山市にあった畑谷城を落としたが、長谷堂城で最上軍の猛烈な反撃を受けて攻勢は停滞、その間の9月15日、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍は壊滅したため、家康ら東軍の圧勝に終わった。9月29日に景勝のもとに石田大敗の急報が入り、景勝は直江に総退却を命じた。この時、上杉軍と最上軍、及び最上を救援する伊達軍との間で熾烈な追撃戦が行われ、両軍合わせて3000余の戦死者が出た。
景勝は家康と和睦するため、11月に重臣の本庄繁長を上洛させて謝罪させた。自らも慶長6年(1601年)8月8日に結城秀康に伴われて伏見城において家康に謝罪した結果、8月17日に家康は上杉家の存続を許したが会津など90万石を没収して出羽米沢30万石へ減封した。こうして上杉家の支配による幕藩体制下の米沢藩が成立した。
藩史
上杉景勝の時代


上杉景勝


上杉家家老の直江兼続
上杉景勝が関ヶ原の戦いで出羽米沢に減移封されたため、直江兼続は米沢城を景勝に譲った。藩領は、上杉氏の旧会津領120万石のうち、出羽置賜郡(置賜地方)18万石と陸奥国伊達郡(現伊達市、伊達郡、福島市)および信夫郡(現福島県福島市)12万石からなっており、米沢からは峠を隔てた陸奥側の抑えとして福島城に重臣本庄氏を城代として置いた。
米沢は直江兼続の所領であったが、直江は上杉家全体の執政として若松城に詰めていたことが多かったため、内政はほとんど整っておらず、城下は蒲生家の時代に築かれた8町6小路の町人町と数百の侍町があるに過ぎない小さな城下町であった。この小さな城下町に会津に住んでいた家臣団や越後以来の寺社・職人などが大人数で移ってきたため、城下は大混乱した。直江は上・中級家臣は別として、下級家臣に対しては一軒に2、3世帯を共同で同居させてそれでも住居が無理なら掘っ立て小屋を建てたという。また屋敷割りから祖の上杉謙信の霊廟を築いたりした。
大坂の役では徳川方についた。米沢の藩政の基礎を固めた直江兼続は元和5年(1619年)12月に、上杉景勝はその4年後に死去した。
男系断絶と所領の半減
景勝の死後、家督はただ1人の息子であった定勝が継承した。定勝時代の米沢藩は安定しており、事件は寛永17年(1640年)の数百戸を焼失した大火と寛永19年(1642年)の凶作くらいだったとされる。定勝は正保2年(1645年)に死去し、家督は嫡子の綱勝が継いだ。だが寛文4年(1664年)閏5月に綱勝は嫡子も養子も無いままに急死した。このため上杉家は無嗣断絶の危機に立たされたが、綱勝の正室の父に当たる会津藩主保科正之が奔走し、綱勝の妹富子と高家の吉良義央との間に生まれていた当時2歳の綱憲を末期養子とすることを訴えて幕閣に認められた。ただし所領に関しては、ペナルティとして信夫郡と伊達郡にあった12万石、屋代郷(現山形県高畠町)3万石が没収されて置賜郡内の15万石のみとされた。
綱憲から重定まで
綱憲の時代に忠臣蔵で知られる赤穂藩浪士の討ち入りがあった。これにより綱憲の実父の吉良義央は討たれ、次男の義周は信濃諏訪藩に流罪とされて失意の内に死んでいる。綱憲は事変の2年後に病気を理由に家督を長男の吉憲に譲って隠居した。
吉憲は在任18年で享保7年(1722年)に死去し、長男の宗憲が第6代を継ぐが、宗憲も享保19年(1734年)に死去し第7代を弟の宗房が継ぐが、これも延享3年(1746年)に死去と、病弱な藩主が相次ぎ短期間で入れ替わった。
第8代は宗房の弟の重定が継ぐ。重定は先代までのように病弱ではなかったが暗愚で、藩政を省みず遊興にふけって借財だけを増やした。このため、米沢藩の財政は危機的状況に陥り、重定は幕府へ領地を返上しようと真剣に考えるほどであった。
藩主が頻繁に入れ替わったため、藩政の実権は筆頭奉行の清野内膳が掌握したが、清野は宝暦6年(1756年)に辞職するまで藩政改革に手をつけず、何ら為すところが無かった。重定の時代には与板組の下級武士ながら寵愛されていた側近の森平右衛門利直が出世して実権を握った。森は租税の増収を図り、郷村の統制機構を整備して年貢の増徴を図ったが、一方で自らの親類を側近に取り立てたり人事や賞罰を独断して行うなど専横が強まり、藩政は腐敗したため、宝暦13年(1763年)2月に森は竹俣当綱により誅殺された。
上杉鷹山の時代
詳細は「上杉鷹山」を参照


上杉鷹山
第9代藩主の治憲(鷹山)は日向鍋藩秋月家の生まれで養子であるが、生母が上杉綱憲の孫娘なので全く上杉家と無縁というわけではない。明和4年(1767年)に鷹山は家督を継ぐ。前述のように米沢藩は極端な財政難と政治腐敗で藩政が破綻寸前にあった。このため鷹山は、藩政と財政の再建を目指して自らが家督相続した強い決意を示し、さらに大倹約を主旨とした大倹令を発布した。また自らの生活費を大幅に切り詰め、奥女中も大幅なリストラを行った。他にも殖産興業政策、籍田の礼、世襲代官制度の廃止、備荒20ヵ年計画など改革は次々と実行され、鷹山の時代に米沢藩は息を吹き返すことになった。
だが鷹山の改革は上杉家譜代の老臣らから根強い反対があり、1度は七家騒動において須田満主、芋川正令らが処分されたが、改革も後半になると再び老臣らが鷹山の腹心となっていた竹俣当綱を失脚させるなどした。また天明の大飢饉などで改革が停滞に入ったことも事実であり、鷹山は天明5年(1785年)に隠居し、第10代は重定の四男の治広が継承した。しかし治広と第11代藩主の斉定はいずれも鷹山の後見を望んだため、以後も鷹山の改革が続行されることとなる。
鷹山は停滞した改革を再び再建するため、借財返済の延期懇請と財政支出の大幅緊縮を行った。しかし外国船の日本接近による軍役や家臣が多すぎる問題などから、財政は再び悪化していた。このため鷹山は寛政期に入ると、等級の区別無く有能な人材を大量に召しだして登用した。また財政再建16ヵ年計画を定め、農村復興計画や上書箱の設置、緊縮財政から領民保護など様々な改革を行った。一方、藩財政の悪化から事実上廃絶していた藩校興譲館を再興した。福祉政策も充実させて、滅亡寸前だった米沢藩を再建した名君上杉鷹山は、文政5年(1822年)3月に死去した。
幕末


上杉茂憲
第12代藩主斉憲の時代に、米沢藩は幕末を迎える。斉憲は佐幕派として文久3年(1863年)に上洛して京都警衛を果たし、翌年からは嗣子茂憲が上洛して2年間京都警衛を果たしたため、その功績により慶応2年(1866年)9月に屋代郷3万7248石を幕府より与えられ、米沢藩は19万石近くまで増領した。大政奉還が行われると、藩論は佐幕派と尊皇派に分かれたが、藩主斉憲は保科正之の旧恩があるとして幕府に味方した。
戊辰戦争では、会津藩の討伐をはかる官軍に対し、保科正之への恩義もあることから仲介に努めるが、その行動は官軍から怪しまれた。会津藩を討伐した後に東北の佐幕派諸藩を討つのではないかという風聞を信じて米沢藩は驚き、仙台藩や会津藩と奥羽越列藩同盟に加わることになった。仙台藩が奥州街道・常磐方面を担当したのに対し、米沢藩は故地でもある越後を担当したが、最終的には官軍に敗北を重ねた。羽越国境の大里峠まで迫られたところで、同年10月3日(旧暦8月18日)、藩主の正室の貞姫が土佐藩主山内豊資の娘であったため、東山道先鋒総督府(土佐藩・迅衝隊)の幹部である谷干城・片岡健吉・伴権太夫らからの恭順を薦める書状を受けて、同年10月9日(旧暦8月24日)、米沢藩は恭順した。その後は官軍のために尽忠勤皇し、庄内藩討伐のために兵を出し、会津藩に対してもその非を説き恭順することを諭した。
米沢藩は戦後の処分で、明治元年(1868年)12月に4万石を削減されて14万7000石に減封となった。また藩主斉憲は隠居となり、嫡子の茂憲が家督を継いだ。明治2年(1869年)に蔵米支給の支藩米沢新田藩を併合した。
米沢藩は宮島誠一郎の指導のもと、版籍奉還などの明治政府の改革を積極的に支持していくことで「朝敵」としての汚名返上に努力した。明治4年(1871年)7月、廃藩置県によって米沢県となり、11月に置賜県を経て、山形県に編入された。
藩主家は明治17年(1884年)、伯爵となり華族に列せられた。なお、上杉茂憲は藩主退任後、沖縄県令として県政の再建に尽力している。
藩政
宗教
豊臣時代の領主である蒲生氏郷がキリシタン大名であった影響から、旧蒲生領は東北地方におけるキリシタンの根拠地のような地域になっていた。米沢も氏郷の家臣の蒲生郷安が城主であり、この郷安が氏郷の影響からキリシタンであったため、米沢にも少なからずキリシタンが存在した。やがて上杉家が米沢に入封すると、慶長16年(1611年)にフランシスコ会の神父ルイス・ソテロによって上杉謙信時代の宿老甘粕景継の子信綱が入信し、以後信綱ことルイス右衛門によって米沢のキリシタンが拡大することになった。
江戸幕府における慶長18年(1613年)の全国禁教令を契機として、厳しいキリシタン弾圧が展開された。この幕府の弾圧で京都・大坂方面のキリシタンは衰退の一途を辿るが、それら迫害されたキリシタンは主に東北地方に逃れたため、かえって東北方面のキリシタンは盛況を呈するようになり、米沢では信綱の熱心な布教活動もあって信徒が1万人を越える勢いだった。このため幕府は米沢にキリシタン弾圧を命じるが、上杉景勝は幕府の命令に形式的には従いながらもキリシタンにはかなり寛容な態度をとった。これは上杉家中にかなりキリシタン武士が存在し、有能な人材を失いたくない景勝の思惑があったためとされる。だが景勝の死後、跡を継いだ定勝は幕府の度重なる圧力に屈して寛永5年(1628年)に甘粕信綱とその家族家臣など14名を処刑したのをはじめ、その後もキリシタン弾圧を続けて殉教者は寛永5年だけで70名以上に上った(米沢寛永5年のキリシタン弾圧)。
島原の乱以後はキリシタン弾圧がさらに強化され、定勝の従兄弟にあたる公家山浦玄蕃(知行1000石)も定勝没後の承応2年(1653年)に幕府の命令で処刑されている。
財政
貢租は蒲生時代以来、半石半永制をとる。これは貢租納入の半分を貨幣で納入するもので幕末まで踏襲された。また貢租の貨幣にあてる分は一定の米や漆、紅花、青苧、真綿といった特産物の買い上げ代金を廻すという方法が採られた。このため、早くから藩の買上制が実施された。米沢藩は120万石からの大減封を受け、しかも佐渡銀山などを失って大幅な収入減を受けた。関ヶ原の戦いの際に備えて雇った傭兵や浪人などは解雇したが、越後時代から付き従ってきた譜代家臣、並びに武田家や小笠原家、蘆名家旧臣の召し放ちを極力行わず、6000人と言われる家臣団を維持した。そのため、江戸時代初期から厳しい財政難に苦しめられた。
また米沢城は、伊達氏時代からの三階櫓を中心とした平城であったがほとんど拡張を行わなかった。また城下町は伊達家・蒲生家時代から手狭だったため、上杉家の家臣や家族が入るに及んで大混乱が起こった。このため上杉景勝・直江兼続らは下級武士を手狭な城下町の外に住まわせて、半農半士の生活を送らせたが、このような下級武士のことを原方衆という。それでも初期の米沢藩は、2代藩主上杉定勝が表高30万石に対して内高51万石と言われるまでに新田開発を進めたが、寛文4年(1664年)の15万石への半減で藩財政は再び大きな打撃を受けた。これ以降の実高は30万石程度(幕末の18万石への加増時には35万石前後)であるが、依然として家臣団は減らさなかったので、財政はますます厳しくなった。ちなみに、明治初年の史料をもって比較すると、加賀102万石の前田家の場合は、内高が120万石で、士族7,077戸、男12,414名、卒族戸数9,474戸、男14,029人であった。一方の米沢藩14万7千石(列藩同盟処分の削封後)の上杉家の場合は、内高が30万石で、士族3,425戸、男7,565名、卒族戸数3,308戸、男11,980人であった。この比較からも、米沢藩の厳しい状況は一目瞭然である。
このような深刻な財政難にもかからず、第3代藩主綱勝は藩士に対して倹約を命じたが自らは大好きな能楽にのめり込み、明暦3年(1657年)の火事では城下の東600戸を焼失したにも関わらず、6000人の家臣を動員して狩りを行い、それに要した費用は代官や商人から借りることで補い、米沢藩の借金生活がこの時から開始された。綱憲は実父吉良義央夫妻の浪費による負債2780両を立て替えた上に、藩主の実父であるとして毎年6000両の援助金を送り、元禄11年(1698年)の鍛冶橋における吉良屋敷類焼では呉服橋に8000両の費用をかけて新邸を造築した上、米沢から大工50人を派遣した。さらに麻布藩邸などの新築、参勤交代などでの奢侈を行い、藩の貯金を一般会計に流用するまでに至る。
7代藩主上杉宗房の代では領内農村の荒廃がすさまじく、年貢未進もかさんでいたため、元文3年(1738年)には当年分完納を条件に、それ以前7ヶ月の未納分の延納を許可する有様であった。上杉重定の代になると、派手好きで奢侈に走ったことに加え、寛永寺普請手伝いによる5万7千両超の工事費や宝暦5年(1755年)の凶作損毛高7万5800石超の被害も重なって、借財が莫大な額に上ったので、竹俣当綱(美作)の進言に従って幕府に15万石の返上を願い出ることを親族の尾張藩主に相談して、明和元年(1764年)に諭される返答をされる始末であった。
家臣の人数
米沢藩上杉家は他の藩と比較して下級武士の数が圧倒的に多かった。これは関ヶ原の戦いに敗れて所領を4分の1に削減されたにも関わらず、リストラを行わずに米沢に連れて来たからである。大坂の役では上杉軍は2万の軍を率いて出陣しているが、本来は30万石であるから動員できる兵力は多く見ても7500人から9000人(そもそも1万石の動員数が250人から300人)であり、上杉家は倍以上の兵を動員している勘定になる。同じ山形県内にあった庄内藩酒井家14万石の家臣は約1900人であるが、米沢藩は約5000人という数から比較しても、家臣の極端な大人数が財政難の原因のひとつとなったことは確かである。なお、上杉家の上級家臣(高家衆・奉行・家老・分類家)は95人で全体のおよそ2パーセント、中級家臣(上杉謙信の旗本だった馬廻組・上杉景勝の旗本だった五十騎組・直江兼続の与板衆)が930人で全体のおよそ19パーセント、残りが下級家臣でおよそ3900人であった。

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