長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

❹【2023年(令和五年)大河ドラマどうする家康記念④】天下人・徳川家康の物語(家康小説の一部を先行掲載)徳川家康よ、どうする??

2022年12月26日 17時11分48秒 | 日記













         浜松城築城


 家康は息子を信長のところへ参謁させた。
「信長公にはごきげんうるわしゅう」家康と幼少の息子・信康は平伏した。上座の織田信長は、にやりと笑って「家康殿、よくきたのう」といった。
「ははっ」
「ところで家康殿…」信長は続けた。「貴殿の若君とわしの娘・徳姫(まだ幼少)の結婚に反対かな?」
「いいえ」家康は首をふった。「とんでもござりませぬ。ありがたきことと思いまする」
「さようか?」
 信長は笑った。「まぁ、まだ幼い夫婦で、まるで”ままごと”のようじゃが、これで織田家と松平家は親戚関係じゃ、のう? 家康殿」
「ははっ」家康は平伏した。
 その頃、家康の居城・浜松城築城が完成していた。ある日、信長から三匹の鯉が届いた。家康は感涙した。一匹が織田、二匹目が松平、三匹目がそれぞれの子たちという意味であった。家康はまだ若くて、信長を信じていた。そして、このような配慮も出来るのが信長様である、と感激した。しかし、事件が起こる。家臣がその鯉を刺身にして食べた、というものだ。家康は激怒し「なぜ、鯉を食べた?! 切腹せよ!」と暴れた。
 すると、家臣の石川数正が諫めた。
「殿! 鯉ごとき何です」
「なにっ?!」
「鯉などいずれは死ぬもの。すべての生き物は死にまする。鯉も腐らぬうちに、新鮮なうちに食べてもらえて本望でしたでしょう」
「しかし…」家康は口をつぐんだ。そしてあえぎあえぎ続けた。「だが…あれ…は…信長公からの……土産じゃぞ?」
「鯉ごときで家臣を切腹させるのは愚行でござる! 殿、もっと賢くなりなされ!」
 家康はそれをきいて、グサッときた。そして、そのまま何もいわずに頷いた。
 なるほどのう……賢く…か…
 まさに家臣のいう通りであった。

                        

         石垣修復


 織田信長は武田信玄のような策士ではない。奇策縦横の男でもなければ物静かな男でもない。キレやすく、のぼせあがりで、戦のときも只、力と数に頼って攻めるだけだ。しかし、かれはチームワークを何よりも大事にした。ひとりひとりは非力でも、数を集めれば力になる。信長は組織を大事にした。
 信長はあるとき城の石垣工事が進んでいないのに腹を立てた。もう数か月、工事がのろのろと亀のようにすすまない。信長はそれを見て、怒りの波が全身の血管を駆けめぐるのを感じた。早くしてほしい、そう思い、顔を紅潮させて「早く石垣をつくれ!」と怒鳴った。すると、共をしていた藤吉郎が
「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます」
とにやりと猿顔を信長に向けた。
「なんだと?!」そういったのは柴田勝家と丹羽長秀だった。
「わしらがやっても数か月かかってるのだぞ! 何が一週間だ?! このサル!」わめいた。
 藤吉郎は「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます。もし作れぬのなら腹を斬りまする!」と猿顔をまた信長に向けた。
「サル、やってみよ」信長はいった。
サルは作業者たちをチーム分けし、工事箇所を十分割して、「さあ組ごとに競争しろ。一番早く出来たものには御屋形様より褒美がでる」といった。こうして、サルはわずか一週間で石垣工事を完成させたのであった。
 信長はいきなり井ノ口(岐阜)の斎藤竜興の稲葉山城を攻めるより、迂回して攻略する方法を選んだ。それまでは西美濃から攻めていたが、迂回し、小牧山城から北上し、犬山城のほか加治田城などを攻略した。しかし、鵜沼城主大沢基康だけは歯がたたない。そこで藤吉郎は知恵をしぼった。かれは数人の共とともに鵜沼城にはいった。
 斎藤氏の土豪の大沢基康は怪訝な顔で「なんのようだ?」ときいた。
「信長さまとあって会見してくだされ」藤吉郎は平伏した。
「あの蝮の娘を嫁にしたやつか? 騙されるものか」大沢はいった。
 藤吉郎は「ぜひ、信長さまの味方になって、会見を!」とゆずらない。
「……わかった。しかし、人質はいないのか?」
「人質はおります」藤吉郎はいった。
「どこに?」
「ここに」藤吉郎は自分を指差した。大沢は呆れた。なんという男だ。しかし、信じてみよう、という気になった。こうして、大沢基康は信長と会見して和睦した。しかし、信長は大沢が用なしになると殺そうとした。
 藤吉郎は「冗談ではありません。それでは私の面子が失われます。もう一度大沢殿と話し合ってくだされ」とあわてた。
信長は「お前はわしの大事な部下だ。大沢などただの土豪に過ぎぬ。殺してもたいしたことはない」
「いいえ!」かれは首をおおきく左右にふった。「命を助けるとのお約束であります!」
 こうして藤吉郎は大沢を救い、出世の手掛かりを得て、無事、鵜沼城から帰ってきた。

         竹中半兵衛


 信長はこの頃、単に斎藤氏の攻略だけでなく、いわゆる「遠交近攻」の策を考えていた。松平元康との攻守同盟をむすんだ信長は、同じく北近江国の小谷山城主・浅井長政に手を伸ばした。攻守同盟をむすんで妹のお市を妻として送り込んだ。浅井長政は二十歳、お市は十七歳である。お市は絶世の美女といわれ、長政もいい男であった。そして三人の娘が生まれる。秀吉の愛人となる淀君、京極高次という大名の妻となる初、徳川二代目秀忠の妻・お江、である。また信長は、越後(新潟県)の上杉輝虎(上杉謙信)にも手をのばす。謙信とも攻守同盟をむすぶ。条件として自分の息子を輝虎の養子にした。また武田信玄とも攻守同盟をむすんだ。これまた政略結婚である。

「サル!」
 あるとき、信長は秀吉をよんだ。秀吉はほんとうに猿のような顔をしていた。
「お呼びでござりまするか、殿!」汚い服をきた猿のような男が駆けつけた。それが秀吉だった。サルは平伏した。
「うむ。猿、貴様、竹中半兵衛という男を知っておるか?」
「はっ!」サルは頷いた。「今川にながく支えていた軍師で、永禄七年二月に突然稲葉山城を占拠したという男でござりましょう」
「うむ。猿、なぜ竹中半兵衛という男は主・斎藤竜興を裏切ったのだ?」
「それは…」サルはためらった。「聞くところによれば、城主・斎藤竜興が竹中半兵衛という男をひどく侮辱したからだといいます。そこで人格高潔な竹中は我慢がならず、自分の智謀がいかにすぐれているか示すために、主人の城を乗っ取ってみせたと」
「ほう?」
「動機が動機ですから、竹中はすぐ斎藤竜興に城を返したといいます」
「気にいった!」信長は膝をピシャリとうった。「猿、その竹中半兵衛という男にあって、わしの部下になるように説得してこい」
「かしこまりました!」
 猿(木下藤吉郎)は顔をくしゃくしゃにして頭を下げた。お辞儀をすると、飄々と美濃国へ向けて出立した。この木下藤吉郎(または猿)こそが、のちの豊臣秀吉である。

 汚い格好に笠姿の藤吉郎は、竹中半兵衛の邸宅を訪ねた。木下藤吉郎は竹中と少し話しただけで、彼の理知ぶりに感激し、また竹中半兵衛のほうも藤吉郎を気にいったという。 しかし、竹中半兵衛は信長の部下となるのを嫌がった。
「理由は? 理由はなんでござるか?」
「わたしは…」竹中半兵衛は続けた。「わたしは信長という男が大嫌いです」ハッキリいった。そして、さらに続けた。「わたしが稲葉山城を乗っ取ったときいて、城を渡せば美濃半国をくれるという。そういうことをいう人物をわたしは軽蔑します」
「……さようでござるか」木下藤吉郎の声がしぼんだ。がっくりときた。
 しかし、そこですぐ諦めるほど藤吉郎は馬鹿ではない。それから何度も山の奥深いところに建つ竹中半兵衛の邸宅を訪ね、三願の礼どころか十願の礼をつくした。
 竹中半兵衛は困ったものだと大量の本にかこまれながら思った。
「竹中半兵衛殿!」木下藤吉郎は玄関の外で雨に濡れながらいった。「ひとはひとのために働いてこそのひとにござる。悪戯に書物を読み耽り、世の中の役に立とうとしないのは卑怯者のすることにござる!」
 半兵衛は書物から目を背け、玄関の外にいる藤吉郎に思いをはせた。…世の中の役に?  ある日、とうとう竹中半兵衛は折れた。
「わかり申した。部下となりましょう」竹中半兵衛は魅力的な笑顔をみせた。
「かたじけのうござる!」
「ただし」半兵衛は書物から目を移し、木下藤吉郎の猿顔をじっとみた。「わたしが部下になるのは信長のではありません。信長は大嫌いです。わたしが部下となるのは…木下藤吉郎殿、あなたの部下にです」
「え?」藤吉郎は驚いて目を丸くした。「しかし…わたしは只の百姓出の足軽のようなものにござる。竹中半兵衛殿を部下にするなど…とてもとても」
「いえ」竹中は頷いた。「あなたさまはきっといずれ天下をとられる男です」
 木下藤吉郎の血管を、津波のように熱いものが駆けめぐった。それは感情……というよりいいようもない思い出のようなものだった。むしょうに嬉しかった。しかし、こうなると御屋形様の劇鱗に触れかねない。が、いろいろあったあげく、竹中半兵衛は木下藤吉郎の部下となり、藤吉郎はかけがえのない軍師を得たのだった。

         墨俣一夜城


  当面の織田信長の課題は美濃完全攻略、であった。
 そして、そのためには何よりも斎藤氏の本拠地である稲葉山城を落城させなければならなかった。稲葉山城攻撃も、西美濃からの攻撃だけでなく、南方面からの攻撃が不可欠であった。が、稲葉山城の南面には天然の防柵のように木曾川、長良川などの川が流れている。攻撃にはそこからの拠点が必要である。
 信長は閃いた。墨俣に城を築けば、美濃の南から攻撃ができる。しかし、そこは敵陣のどまんなかである。そんなところに城が築けるであろうか?
「サル!」信長はサルを呼んだ。「お前は墨俣の湿地帯に城を築けるか?」
「はっ! できまする!」藤吉郎は平伏した。
「どうやってやるつもりだ? 権六(柴田勝家)や五郎左(丹羽長秀)でさえ失敗したというのに…」
「おそれながら御屋形様! わたくしめには知恵がござりまする!」藤吉郎はにやりとして、右手人差し指をこめかみに当てて、とんとんと叩いた。妙案がある…というところだ。「知恵だと?!」
「はっ! おそれながら築城には織田家のものではだめです。野伏をつかいます。稲田、青山、蜂須賀、加地田、河口、長江などが役にたつと思いまする。中でも、蜂須賀小六正勝は、わたくしめが放浪していた頃に恩を受けました。この土豪たちは川の氾濫と戦ってきた経験もあります。すぐれた土木建設技術も持っております」
「そうか……野伏か。なら、わしも手をかそう」
「ならば、御屋形様は木材を調達して下され」
「わかった。で? どうやるつもりか?」信長は是非とも答えがききたかった。
「それは秘密です。それより、野伏をすぐに御屋形様の家来にしてくだされ」
「何?」信長は怪訝な顔をして「城ができたらそういたそう」
「いえ。それではだめです。城が出来てから…などというのでは野伏は動きません。まず、取り立てて、さらに成果があればさらに取り立てるのです」
 信長は唖然とした。
 下層階層の不満や欲求をよく知る藤吉郎なればの考えであった。しかし、坊っちゃん育ちの信長には理解できない。信長は「まぁいい……わかった。お前の好きなようにやれ」と頷くだけだった。藤吉郎は、蜂須賀小六らに「信長公の部下にする」と約束した。
「本当に信長の家臣にしてくれるのか?」蜂須賀小六はうたがった。
「本当だとも! 嘘じゃねぇ。嘘なら腹を切る」藤吉郎は真剣にいった。
 信長はいわれたとおりに木材を伐採させ、いかだに乗せて木曾川上流から流させた。その木材が墨俣についたらパーツごとに組み立てるのである。まさに川がベルトコンベアーの役割を果たし、墨俣一夜城は一夜にして完成した。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

❸【2023年(令和五年)大河ドラマどうする家康記念③】天下人・徳川家康の物語(家康小説の一部を先行掲載)徳川家康よ、どうする??

2022年12月26日 13時33分31秒 | 日記











         元康の忠義


  
 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。
 今川義元は軍議をひらいた。今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。
「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。
 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」
 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。
 柴田勝家は「そうか……とは? …お館! 何か策は?」と口をはさんだ。
 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。羅生門を宮福太夫という猿楽師に、舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。
「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」
 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。
 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。
「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。
「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」
「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」
「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。
「なんてお館だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」
「まったくあきれる。あれでも大将か?」
 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」
 信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。
「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」
「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」
「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」
 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。
「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の男がいった。この男こそ、のちの豊臣秀吉である。秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」
「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」
 日吉は迷ってから
「奇襲にでればと」
「奇襲?」
信長は茫然とした。
「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」
「さしでがましいわ!」
信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。
「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。
 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。
「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。
「なんじゃ、猿」
「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」
「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」
「八百あまり」
「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。
「いま何刻じや?」
「うしみつ(午前2時)でござりまする」猿はいった。
「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」
 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。
そして有名な「敦盛」を舞い始める。
 「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。
「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎のわずか五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。
 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。
「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」
 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。
 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。
 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。
 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」
 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。
「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。
 信長は叫んだ。
「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」
 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。
「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」
 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせた。にやりとなる。
「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形さまである」と感心した。
 織田軍は密かに進軍を開始した。






         桶狭間の合戦


                
 丘の上で信長軍は太子ケ根を登り、待機した。
 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。
部下は嵐の中で「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。
 しかし、信長はその策をとらなかった。
「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」
 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」
 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。喚声をあげて山から下ってくる軍に今川本陣は驚いた。
「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」
陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。
「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」
 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!
 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。
 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!
「御屋形様をお守りいたせ!」
 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。
「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、人差し指に噛みつき、新助のそれを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。
 義元はこの時四十二歳である。
「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。
 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。
「勝った! われらの勝利じゃ!」
 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。
 かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が
「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。
「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」
「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。
「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。
 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。
 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。
 今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。
 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。
 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。
 これに対して信長は
「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」
と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。
 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。
 清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方に血相をかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。
 清洲城に戻り、酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。
 信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」
 意味がわからず家臣達は顔を見合わせたという。                



第二章 天下布武




       4 秀吉 墨俣一夜城



         タヌキ家康


 奇跡を織田信長は起こした。桶狭間の合戦で勝利したことで、かれは一躍全国の注目となった。信長はすごいところは常識にとらわれないところだ。圧倒的不利とみられた桶狭間の合戦で奇襲作戦に出たり、寺院に参拝するどころか坊主ふくめて焼き討ちにしたり……と、その当時の常識からは考えられぬことを難なくやってのける。
 しかし、信長のように常識に捕らわれない人間というのは、いつの時代にも百人にひとりか千人にひとりかはいるのだという。その時代では考えられないような考えや思想をもった先見者はいる。しかし、それを実行するとなると難しい。周りからは馬鹿呼ばわりされるし(現に信長はうつけといわれた)、それを排除しよう、消去しよう、抹殺しようという保守派もでてくる。毎日が戦いと葛藤の連続である。信長はそれを受け止め、平手の死も弟の抹殺もなんのそのだった。信長の偉いところは嘲笑や罵声、悪口に動じなかったことだ。
 さらに信長の凄いところは家臣や兵たちに自分の考えや方針を徹底して守らせたこと、そうした自由な考えを実行し、流布したことにある。自分ひとりであれば何だってできる。馬鹿と蔑まれ、罵倒されようが、地位と命を捨てる気になれば何だってできる。しかし、信長の凄いところは、既成概念の排除を部下たちに浸透させ、自由な軍をつくったことだ。 桶狭間の合戦での勝利は、奇襲がうまくいった……などという単純なことではなく、ひとりの裏切り者がでなかったことにある。清洲城から桶狭間までは半日、十分に今川側に通報することもできた。しかし、そうした裏切り者は誰ひとりいなかった。「うつけ殿」と呼ばれてから十年あまりで、織田信長は領民や家臣から絶大の信頼を得ていたことがわかる。
 既存価値からの脱却も信長はさらに、おこなった。まず、「天下布武」などといいだし、楽市楽座をしき、産業を活発にして税収をあげようと画策した。さらに、家臣たちに早くから領国を与える示唆さえした。明智光秀に鎮西の九州の名族惟任家を継がせ日向守を名乗らせた。羽柴秀吉には筑前守を、丹羽長秀には明智と同じ九州の惟住家を継がせたという。また、柴田勝家と前田利家を北陸に、滝川一益を東国担当に据えた。ともに、出羽、越後、奥州を与えられたはずであるという。そうだとすると中部から中国、関東、北陸、九州まで、信長の手中になっていたはずである。実に強烈な中央集権国家を織田信長は考えていたことになる。まさに天才・織田信長であった。阿修羅の如き。天才。


 今川からの伝令が松平元康(のちの徳川家康)のもとに届いた。
「今川義元公が信長に討たれました」というのだ。
「馬鹿を申すな!」と元康は声を荒げた。しかし、心の中では……あるいは…と思った。しかし、それを口に出すほどかれは馬鹿ではない。あるいは…。信長ごとき弱小大名に? 今川義元公が? 元康は眉をひそめた。味方からそんな情報が入る訳はない。かれはひどく疲れて、頭がいたくなる思いであった。そんな…ことが…今川と織田の兵力差は十倍であろう。ひどく頭が痛かった。ばかな。ばかな。ばかな。元康は心の中で葛藤した。そんなはずは…ない。ばかな。ばかな。悪魔のマントラ。
 しかし、松平元康は織田信長のことを前から監視していたから、あるいは…と思った。しかし、これからどうするべきか。織田信長は阿修羅の如き男じゃから、敵対し、負ければ、皆殺しになる。どうする? どうする? 元康はさらに葛藤した。
 しばらくすると、親戚筋にあたる水野信元の家臣である浅井道忠という男がやってきた。「織田の武将梶川一秀さまの命令を受けてやってまいりました」
 元康は冷静にと自分にいいきかせながら、無表情な顔で「何だ?」と尋ねた。是非とも答えが知りたかった。
「今川義元公が織田信長さまに討たれました。今川軍は駿河に向けて敗走中。早急にあなたさまもこの城から退却なされたほうがよいと、梶川一秀さまがおおせです」
 じっと浅井道忠の顔を凝視していた元康は、何かいうでもなく表情もかえず何か遠くを見るような、策略をめぐらせているような顔をした。梶川一秀というのは織田方に属してはいるが、その妻が元康の姉妹だった。しかも浅井の主人水野信元も梶川一秀の妻の兄だった。
「わかりもうした。梶川一秀殿に礼を申しておいてくれ」元康は頭を軽くさげ、表情を変えずにいた。浅井が去ると、元康は表情をくもらせた。家臣を桶狭間に向かわせ、報告を待った。
「事実にござりました!」その報告をきくと、元康はガクリとして、「さようか」といった。声がしぼんだ。がっかりした。そしてその表情のまま「城から出るぞ」といった。時刻は午後十一時四十二分頃だと歴史書にあるという。ずいぶんと細かい記録があるものだ。桶狭間合戦が午後四時であるから、元康はかなり城でがんばっていたということになる。味方だった今川軍は駿河に敗走していたというのに。
 このことから元康は後年「律義な徳川殿」と呼ばれたという。
 部下は当然、元康が居城の岡崎城に戻るのだと思っていた。
 しかし、かれは岡崎城の城下町に入っても、入城しなかった。部下たちは訝しがった。「この城は元々松平のものだが、今は今川の拠点。今川の派遣した城主がいるはず。その人物をおしのけてまで入城する気はない」
 元康は真剣な顔でいった。もうすべて知っているはずなのに、部下がいうのをまっていた。このあたりは狸ぶりがうかがえる。
 部下は「今川はすべて駿河に敗走中で、城はすべて空でござります」といった。
 それをきいてから元康は「では、岡崎城は捨て城か?」と尋ねた。
「さようでござる」
「さようか」元康はにやりとした。「ならば貰いうけてもよかろう」
 元康は今更駿河に戻る気などない。いや、二度と駿河に戻る気などない。しかし、元康は狡猾さを発揮して、パフォーマンスで駿河の今川氏真(義元の子)に「織田信長と一戦まじえて、義元公の敵討ちをいたしましょう」と再三書状を送った。しかし、氏真はグズグズと煮え切らない態度ばかりをとった。今川氏真は義元の子とはいえ、あまりにも軟弱でひよわな男であった。元康はそれを承知で書状を送ったのだ。
「よし! われらは織田信長と同盟しよう」元康はいった。
 元康はどこまでも狡猾だった。かれは不安もない訳ではなかった。しかし、織田信長があるいは天下人となるやも知れぬ可能性があるとも思っていた。十倍の今川を破り、義元の首をもぎとったのだ。信長というのはすごい男だ。
 元康は同盟は利がある、と思った。信長は敵になれば皆殺しにし、怒りの炎ですべてを焼き尽くす。しかし、同盟関係を結べば逆鱗に触れることもない。確かに、信長は恐ろしく残虐な男である。しかし、三河(愛知県東部)の領土である松平家としては信長につくしか道はない。
「組むなら信長だ。松平が織田と組めば、東国の北条、甲斐の武田、越後の長尾(上杉)に対抗できる。わしは東、信長は西だ」元康は堅く決心した。自分の野望のために同盟し、信長を利用してやろう。そのためにはわしはなんでもやゆるぞ!
 信長は桶狭間で今川には勝った。しかし、美濃攻略がうまくいってなかった。
「今のわしでは美濃は平定できぬ」信長はそんな弱音を吐いたという。あの信長……自分勝手で、神や仏も信じず、他人を道具のように使い、すぐ激怒し、けして弱音や涙をみせないのぼせあがりの信長が、である。かれは正直にいった。
「まだ平定にはいたらぬ」
 道三が殺されて、義竜、竜興の時代になると斎藤家の内乱も治まってしまった。しかも、義竜は道三の息子ではなく土岐家のものだという情報が美濃中に広まると、国がピシッと強固な壁のように一致団結してしまった。
信長は清洲城で「斎藤義竜め! いまにみておれ!」と、怒りを顕にした。怒りで肩はこわばり、顔は真っ赤になった。癇癪で、なにもかもおかしくなりそうだった。
「殿! ここは辛抱どきです」柴田(権六)勝家がいうと、「なにっ?!」と信長は目をぎらぎらさせた。怒りの顔は、まさに阿修羅だった。
しかし、信長は反論しなかった。権六の言葉があまりにも真実を突いていたため、信長はこころもち身をこわばらせた。全身を百本の鋭い槍で刺されたような痛みを感じた。
くそったれめ! とにかく、信長は怒りで、いかにして斎藤義竜たちを殺してやろうか………と、そればかり考えていた。


         尾三同盟


 永禄五年(一五六二)正月のこと、松平元康は清洲城にやってきた。ふたりの間には攻守同盟が結ばれた。条件は、「元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳を結婚させる」ということだったという。
 そこには暗黙の条件があった。信長は西に目を向ける、元康は東に目を向ける……ということである。元康には不安もあった。妻子のことである。かれの妻子は駿河の今川屋敷にいる。信長と同盟を結んだとなれば殺害されるのも目にみえている。
「わたくしめが殿の奥方とお子を駿河より連れてまいります」
 突然、元康の心を読んだかのように石川数正という男がいった。
「なにっ?!」元康は驚いて、目を丸くした。そんなことができるのか? という訳だ。
「はっ、可能でござる」石川はにやりとした。
 方法は簡単である。今川の武将を何人か人質にとり、元康の妻子と交換するのだ。これは松平竹千代(元康)と織田家の武将を交換したときのをマネたものだった。
 織田信長の美濃攻略には七年の歳月がかかったという。その間、信長は拠点を清洲城から美濃に近い小牧山に移した。清洲の城の近くの五条川がしばしば氾濫し、交通の便が悪かったためだ。
 元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳は結婚した。元康は二十歳、信長は二十九歳のときのことである。元康は「家康」と名を改める。家康の名は、家内が安康であるように、とつけたのではないか? よくわからないが、とにかく元康の元は今川義元からとったもので、信長と攻守同盟を結んだ家康としては名をかえるのは当然のことであった。
「皆のもの」信長は家康をともなって座に現れた。そして「わが弟と同格の家康殿である」と家臣にいった。「家康殿をわしと同じくうやまえ」
「ははっ」信長の家臣たちは平伏した。
「いやいや、わたしのことなど…」家康は恐縮した。「儀兄、信長殿の家臣のみなさま、どうぞ家康をよろしい頼みまする」恐ろしいほど丁寧に、家康は言葉を選んでいった。
 また、信長の家臣たちは平伏した。
「いやいや」家康はまたしても恐縮した。さすがは狸である。
 井ノ口(岐阜)を攻撃していた信長は、小牧山に拠点を移し、今までの西美濃を迂回しての攻撃ルートを直線ルートへとかえていた。



       サル


 織田家に猿(木下藤吉郎)が入ってきたのは、信長が斎藤家と争っているころか、桶狭間合戦あたり頃からであるという。就職を斡旋したのは一若とガンマクというこれまた素性の卑しい者たちであった。猿(木下藤吉郎)にしても百姓出の、家出少年出身で、何のコネも金もない。猿は最初、織田信長などに……などと思っていた。
「尾張のうつけ(阿呆)殿」との悪評にまどわされていたのだ。しかし、もう一方で、信長という男は能力主義だ、という情報も知っていた。徹底した能力主義者で、相手を学歴や家柄では判断しない。たとえ家臣として永く務めた者であっても、能力がなくなったり用がなくなれば、信長は容赦なくクビにした。林通勝や佐久間父子がいい例である。
 能力があれば、徹底して取り上げる……のちの秀吉はそんな信長の魅力にひきつけられた。俺は百姓で、何ひとつ家柄も何もない。顔もこんな猿顔だ。しかし、信長様なら俺の良さをわかってくれる気がする。
 猿(木下藤吉郎)はそんな淡い気持ちで、織田家に入った。
「よろしく頼み申す」猿は一若とガンマクにいった。こうして、木下藤吉郎は織田家の信長に支えることになった。放浪生活をやめ、故郷に戻ったのは天文二十二、三年とも数年後の永禄元年(一五五八)の頃ともいわれているそうだ。木下藤吉郎は二十三歳、二つ年上の信長は二十五歳だった。
 だが、信長の家来となったからといって、急に武士になれる訳はない。最初は中間、小者、しかも草履取りだった。信長もこの頃はまだ若かったから、毎晩局(愛人の部屋)に通った。局は軒ぞいにはいけず、いったん城の庭に出て、そこから歩いていかなくてはならない。しかし、その晩もその次の晩も、草履取りは決まって猿(木下藤吉郎)であった。 信長は不思議に思って、草履取りの頭を呼んだ。
「毎晩、わしの共をするのはあの猿だ。なぜ毎晩あやつなのだ?」
 すると、頭は困って「それは藤吉郎の希望でして……なんでも自分は新参者だから、御屋形様についていろいろ学びたいと…」
 信長は不快に思った。そして、憎悪というか、怒りを覚えた。信長は坊っちゃん育ちののぼせあがりだが、ひとを見る目には長けていた。
 ……猿(木下藤吉郎)め! 毎晩つきっきりで俺の側にいて顔を覚えさせ、早く出世しようという魂胆だな。俺を利用しようとしやがって!
 信長は今までにないくらいに腹が立った。俺を……この俺様を…利用しようとは!
 ある晩、信長が局から出てくると、草履が生暖かい。怒りの波が、信長の血管を走りぬけた。「馬鹿もの!」怒鳴って、猿を蹴り倒した。歯をぎりぎりいわせ、
「貴様、斬り殺すぞ! 貴様、俺の草履を尻に敷いていただろう?!」とぶっそうな言葉を吐いた。本当に頭にきていた。
 藤吉郎が空気を呑みこんだ拍子に喉仏が上下した。猿は飛び起きて平伏し、「いいえ! 思いもよらぬことでござりまする! こうして草履を温めておきました」といった。
「なにっ?!」
 信長が牙を向うとすると、猿は諸肌脱いだ。体の胸と背中に確かに草履の跡があった。信長は呆れた顔で、木下藤吉郎を凝視した。そして、その日から信長の猿に対する態度がかわった。信長は猿を草履取りの頭にした。
 頭ともなれば外で待たずとも屋敷の中にはいることができる。しかし、藤吉郎はいつものように外で辺りをじっと見回していた。絶対にあがらなかった。
「なぜ上にあがらない?」
 信長が不思議に思って尋ねると、藤吉郎は「今は戦国乱世であります。いつ、何時、あなた様に危害を加えようと企むやからがこないとも限りませぬ。わたくしめはそれを見張りたいのです。上にあがれば気が緩み、やからの企みを阻止できなくなりまする」と言った。
 信長は唖然として、そして「サル! 大儀……である」とやっといった。こいつの忠誠心は本物かも知れぬ。と思った。信長にとってこのような人物は初めてであった。
 あやつは浮浪者・下郎からの身分ゆえ、苦労を良く知っておる。
 信長も秀吉も家康も、けっこう経営上手で、銭勘定にはうるさかったという。しかし、その中でも、浮浪者・下郎あがりの秀吉はとくに苦労人のため銭集めには執着した。そして、秀吉は機転のきく頭のいい男であった。知謀のひとだったのだ。
 こんなエピソードがある。
 あるとき、信長が猿を呼んで「サル、竹がいる。もってこい」と命じた。すると猿は信長が命じたより多くの竹を切ってもってきた。そして、その竹を竹林を管理する農民に与えた。また、竹の葉を城の台所にもっていき「燃料にしなさい」といったという。
 また、こんなエピソードもある。冬になって城の武士たちがしきりに蜜柑を食べる。皮は捨ててしまう。藤吉郎は丹念にその皮を集めた。
「そんな皮をどうしようってんだ?」武士たちがきくと、藤吉郎は「肩衣をつくります」「みかんの皮でどうやって?」武士たちが嘲笑した。しかし、藤吉郎はみかんの皮で肩衣をつくった訳ではなかった。その皮をもって城下町の薬屋に売ったのだ。(陳皮という) 皮を売った代金で、藤吉郎は肩衣を買ったのだ。同僚たちは呆れ果てた。
 また、こんなエピソードもある。戦場にでるとき、藤吉郎は馬にのることを信長より許されていた。しかし、彼は戦場につくまで歩いて共をした。戦場に着くとなぜか馬に乗っている。信長は不思議に思って「藤吉郎、その馬を何処で手にいれた?」ときいた。
 藤吉郎は「わたくしめは金がないゆえ、この馬は同僚と金を折半して買いました。ですから、前半は同僚が乗り、後半はわたくしめが乗ることにしたのです」
 信長はサルの知恵の凄さに驚いた。戦場につくまでは別に馬に乗らなくてもよい。しかし、戦場では馬に乗ったほうが有利だ。それを熟知した木下藤吉郎の知謀に信長は舌を巻いた。桶狭間での社内の物音や鳩のアイデアも、実は木下藤吉郎のものではなかったのか。
 桶狭間後には藤吉郎は一人前の武士として扱われるようになった。知行地をもらった。知行地とは、そこで農民がつくった農作物を年貢としてもらえ、また戦争のときにはその地の農民を兵士として徴収できる権利のことである。
 しかし、木下藤吉郎は戦になっても農民を徴兵しなかった。かれは農民たちにこういった。「戦に参加したくなければ銭をだせ。そうすれば徴兵しない。農地の所有権も保証する」こうして、藤吉郎は農民から銭を集め、その金でプロの兵士たちを雇い、鉄砲をそろえた。戦場にいくとき、信長は重装備で鉄砲そろえの部隊を発見し、
「あの隊は誰の部隊だ?」と部下にきいた。
「木下藤吉郎の部隊でござりまする」部下はいった。信長は感心した。あやつは農民と武士をすでに分離しておる。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

❷【2023年(令和五年)大河ドラマどうする家康記念②】天下人・徳川家康の物語(家康小説の一部を先行掲載)徳川家康よ、どうする??

2022年12月26日 13時33分00秒 | 日記







         平手の諫死


 林通勝はいった。「うつけもここに極まれりか」
柴田勝家も「あれほどうつけがひどいとはな」と頭をふった。
 そしてふたりは、信長様を廃し、弟の信行様に当主になって頂こう、と決心した。
 ますます守役の平手政秀は窮地においやられた。
 信長を、平手政秀は放任主義で育ててきた。しかし、うつけになった。信長は我儘で、癇が強く、すぐ怒って暴力をふるううつけ殿になった。そして、葬儀での事件である。
 平手政秀は絶望的な気分だった。
 あるとき、酒席で信光(信秀の弟)が平手政秀に文句をいった。あのうつけ者(信長のこと)の責任は平手にある、というのだ。平手政秀はぐっと唇を噛んだ。
 すると、平手政秀の息子・平手五郎左衛門が
「しかし、大殿さまに信長さまの補佐を承ったのは父上だけではありませぬ。林殿、柴田殿、青山殿、内藤殿…皆同罪です」
と意義を申したてた。
だが、泥酔の信光は
「平手政秀は守役筆頭であろう。すべては平手の無能と馬鹿ぶりのせいじゃ」とのたまった。
「許せぬ! その言い方はゆるせぬ!」五郎左衛門は太刀を抜き、信光を斬り殺そうとした。が、同僚たちに抑えられとめられた。
「後生だ! 斬らせて下され!」暴れた。
 そこに信長がやってきた。「どうしたのじゃ?」と尋ねた。
「おぉ、信長。こやつ、わしを斬り殺そうとしたのじゃ! こやつの首をはねよ!」
 泥酔の信光は真っ赤な顔であえぎあえぎいった。
「五郎左衛門! ……まことか?!」
「いえ、殿!五郎左衛門は……酒に酔って乱心しただけにござりまする!」
家臣たちは平手五郎左衛門を抑制しながらいった。
「嘘じゃ! 信長。こやつ、わしを斬り殺そうとしたのじゃ! こやつの首をはねよ!」
「後生です! 斬らせて下され! 信光を斬り、わたしは切腹いたしまする!」暴れた。
ぜいぜいと肩で息をし、信光を睨みつけた。
「馬鹿者めが! 外で頭を冷やせ!」信長は怒りに震え、平手五郎左衛門の顔を殴りつけた。五郎左衛門はもんどりうって倒れた。一瞬、場が静まった。いや、凍りついた。
 信長はそれ以上は何もいわなかった。只、平手五郎左衛門をにらみつけるだけだった。 平手政秀は平伏した。

 白無垢姿の平手政秀が信長の前に現れたのは、その次の週のことであった。
天文二十二年(一五五三)閏一月十三日の朝である。
「平手政秀、切腹するそうじゃな?」信長は真剣な顔になった。「なにゆえ、息子の平手五郎左衛門ではなく、そちなのじゃ?」
「はっ、息子の罪は親の罪にござりまする。みどもは腹切って、殿に忠節を示しまする」「ならぬ! 平手! おぬしが腹を切って何がかわるというのか!」
「殿!」平手政秀は強くいった。「もっともっと強くなって下され!」
「な……何っ」
「鬼のように、まるで鬼神、阿修羅のこどく!」平手は続けた。「今、尾張には問題が山積しておりまする。東の三河の松平家、さらに東の駿河の今川家、美濃には斎藤家、都には三好一族や松永弾正などの脅威がありまする。また、大殿さまの死によって尾張も分裂ぎみで、連中は虎視眈々と尾張を支配しようと企んでおりまする。また、弟君の信行さまには織田家累代の重臣たちがついておりまする。殿、強くなって尾張を、そしてこの日の元の国を救ってくだされ。もっともっと強くなって下され!」
「………で、あるか」信長は頷いた。そして、平手政秀は切腹した。それは、信長を諫め、そして一国一城の主へと変身させるための壮絶な教えでも、あった。



         道三


 尾張と美濃の狭間にある富田の正徳寺で会見しよう、と舅・美濃の斎藤道三は、信長にもちかけてきた。信長はその会見を受けることにした。
 舅の斎藤道三の方は興味深々である。尾張のうつけ(阿呆)殿というのは本当なのかどうか? もし、うつけが演技で、本当は頭のいい策士ならどえらいやつを敵にまわすことになる。しかし、うつけは演技ではなく、只の阿呆なら、尾張はまちがいなく自分の手に落ちる。阿呆だったら、攻撃も楽なものだ。しかし……本当の正体は……
 斎藤道三は、自分の家臣八百人あまりを寺のまわりに配置し、全員お揃いの織目高の片衣を着せた。そして、自分は町の入口にある小屋に潜んだ。信長の行列をここから密かに眺めようという魂胆である。やがて、信長一行が土埃をたててやってきた。信長は無論、斎藤道三が密かに見ていることなど知らない。
 信長のお共の者も八百人くらいだ。
ところが、その者たちは片衣どころか鎧姿であったという。完全武装で、まるで戦場にいくようであった。家臣の半分は三メートルもの長い槍をもち、もう半分が鉄砲をもっている。当時の戦国武将で鉄砲を何百ももっているものはいなかったから、道三は死ぬほどびっくりした。
「信長という若僧は何を考えておるのだ?!」彼は呟いた。
 側には腹心の猪子兵助という男がいた。道三は不安になって、「信長はどいつだ?」ときいた。すると、猪子兵助は「あの馬にまたがった若者です」と指差した。
 道三は眉をひそめて馬上の若者を見た。
 茶せんにしたマゲをもえぎ色の糸で結び、カタビラ袖はだらだらと外れて、腰には瓢箪やひうち袋を何個もぶらさげている。例によって、瓜をほうばって馬に揺られている。
 通りの庶民の嘲笑を薄ら笑いで受けている。道三は圧倒された。
「噂とおりのうつけでございますな、殿」猪子兵助は呆れていった。
 道三は考えていた。舅の俺にあいにくるのにまるで戦を仕掛けるような格好だ。しかも、あれは織田のほんの一部。信長は城にもっと大量の槍や鉄砲をもっているだろう。若僧め、鉄砲の力を知っておる。あなどれない。
 道三は小屋を出て、急ぎ富田の正徳寺にもどった。
 寺につくと信長は水で泥や埃を払い、正装を着て、立派ないでたちで道三の前に現れた。共の者も、道三の家臣たちもあっと驚いた。美しい若武者のようである。
「あれが……うつけ殿か?」道三の家臣たちは呆気にとられた。
「これはこれは婿殿、わしは斎藤道三と申す」頭を軽く下げた。
「織田信長でござりまする、舅殿」
 信長は笑みを口元に浮かべた。
「信長殿、尾張の政はいかがですかな?」
「散々です。しかし、もうすぐ片付くでござりましょう」
「さようか。もし、尾張国内のゴタゴタで、わしの力が借りたい時があれば、いつでも遠慮なく申しあげられよ。すぐ応援にいく。なにせお主は、可愛い娘の立派な婿殿だからな」
「ありがたき幸せ」信長は頭を下げた。
「ところで駿河の今川が上洛の機会をうかがっておるそうじゃ。今川の兵は織田の十倍……いかがする気か? 軍門に下るのも得策じゃと思うが」
「いいえ」信長は首をふった。「今川などにくだりはしませぬ。わしは誰にも従うことはありませぬ。今川に下るということは犬畜生に成りさがるということでござる」
「犬畜生? 勝ち目はござるのか?」
「はっ」信長は言葉をきった。「………戦の勝敗は時の運、勝ってみせましょう」
「そうか」道三は笑った。「さすが育ちのいい婿殿だ。ガマの油売り上りのわしとは違う気迫じゃ」
「舅殿がガマの油売り上りなら、わしはうつけ上りでござる」
 ふたりは笑った。こうして舅と婿は酒を呑み、おおいに語り合った。斎藤道三は信長にいかれた。そして、それ以後、誰も信長のことをうつけという者はいなくなったという。 信長二十歳、道三六十歳のことである。
 信長は嘲笑や批判にはいっさい動じることはなく、逆に、自分にとってかわろうとした弟や重臣たちを謀殺した。病だといつわって、信長を見舞いにきた弟・信行を斬り殺して始末したのだ。共の柴田勝家は茫然とし、前田利家は憤った。しかし、信長は怒りの炎を魂に宿らせ、横たわる信行の死骸を睨みつけるだけであった。
 こうして、織田家中のゴタゴタはなくなった。
 そして、織田信長の天下取りの勝負がいよいよ始まるのであった。          
 
        3 桶狭間合戦


  徳川家康最新研究の徳川家康、その真実  二
 ミステリィの謎解きのその次のパートです。
まずは、徳川家康の最新研究でわかった事実をまとめて紹介しよう。

新しいもの好き
南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きだった。
日光東照宮には関ヶ原の戦いに行くまでの道中で着用したとされる南蛮胴具足が、紀州東照宮には徳川頼宣が奉納した防弾性能を試したらしい弾痕跡が数箇所ある南蛮胴具足があり、渡辺守綱や榊原康政には南蛮胴を下賜し伝世している。
晩年の家康は、日時計、唐の時計、砂時計などを蒐集しており、時計が好きだったようだ。
遺品として、けひきばし(コンパス)、鉛筆、眼鏡、ビードロ薬壺などの舶来品が現存している。
芸事は好まない
今川家での人質時代に今川義元に舞を所望されたが、猿楽にして欲しいと請い、見かねた家臣が代わりに舞っている。
当時は中世文化が非常に盛んだった駿府で育ちながら、京文化への関心は元々少なかったようである。
家康は幼少期より茶の湯の世界が身近にあったが、信長や秀吉と異なり茶の湯社交に対する積極性は見られない。
家康の遺産である『駿府御文物』には足利将軍家以来の唐物の名物・大名物が目白押しだが、久能山東照宮にある家康が日常に用いた手沢品はそれらに比べ質素な品が多い。
ただし茶を飲むこと自体は好んでおり、天正12年(1584年)に松平親宅と上林政重に製茶支配を命じ、毎年茶葉を献上させている。なお、親宅は家康へ肩衝茶入『初花』を献上し、政重は後に宇治の茶畑の支配を任せられ、伏見城の戦いで戦死している。
家康が尊敬していた人物
家康は、中国の人物として劉邦、唐の太宗、魏徴、張良、韓信、太公望、文王、武王、周公を尊敬している。着目すべきはすべて周・漢・唐時代の人物で前王朝の暴君を倒して長期政権を樹立した王(皇帝)とその功臣の名が挙げられている。日本の人物では源頼朝を尊敬していた(『慶長記』)。
師は武田信玄
武田信玄に大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。
軍令に関しては重臣・石川数正の出奔により以前のものから改める必要に駆られたという事情もある。
天正10年(1582年)の武田氏滅亡・本能寺の変後の天正壬午の乱を経て武田遺領を確保する。
と、武田遺臣の多くを家臣団に組み込んでいる。自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、武田信吉と名乗らせ水戸藩を治めさせている。
書画
『翁草』(神沢貞幹)や『永茗夜話』(渡辺幸庵)には「権現様(家康)は無筆同様の悪筆にて候」とある。
しかし、少年から青年期の自ら発給した文書類には、規矩に忠実で作法通りの崩し方を見せ、よく手習いした跡が察せられる。
特に岡崎時代の初期の書風には力強い覇気が溢れ、気力充実した様子が窺える。
こうした文書類には、普通右筆が書くべき公文書が含まれており、初期には専属の右筆が置かれていなかったようだ。
天正年間には、家臣や領土も増えて発給する文書も増加し、大半は奉行や右筆に委ねられていく。
しかし、近臣に宛てた書状や子女に宛てた消息、自らの誠意を披露する誓書は自身で筆を執っている。
家康は筆まめで、数値から小録の代官に宛てたとみられる金銭請取書や年貢皆済状が天正期から晩年まで確認できる。
家臣や金銀に関する実務的な内容なものから、薬種や香合わせなどの趣味的な覚書、さらに駿府城時代の鷹狩の日程を記した道中宿付なども残っている。
文芸として家康の書を眺めると、家康は定家流を好み、藤原定家筆の小倉色紙を臨模し、手紙でも定家流の影響を受けたやや癖の強い筆跡が窺えるようになる。
が、一方で連綿とした流麗な書風を見せる和歌短冊も残っており、家康が実学ばかりでなく古典や名筆にも学んだ教養人でもあった一面を表している。
ただし『慶長記』には、先述の実学との対比で、根本・詩作・歌・連歌は嫌ったとある。絵も簡略な筆致の墨画が10点余り伝わっている。
が、確実に家康の遺品と言われるものはなく、伝承の域を出ない。
しかし、『寛政重修諸家譜』に家康が描いた絵を拝領した記録があり、余技として絵を描いていたことが窺える。
健康指向
家康は健康に関する指向が強く、当時としては長寿の75歳(満73歳4ヵ月)まで生きた。
これは少しでも長く生きることで天下取りの機会を得ようとした物と言われ、実際に関ヶ原の合戦は家康59歳、豊臣家滅亡は74歳のときであり、長寿ゆえに手にした天下であった。
その食事は質素で、戦国武将として戦場にいたころの食生活を崩さなかった。
麦飯と魚を好み、野菜の煮付けや納豆もよく食べていた。
決して過食することのないようにも留意していたといわれる。
酒は強かったようだが、これも飲みすぎないようにしていた。
和漢の生薬にも精通し、その知識は専門家も驚くほどであった。海外の薬学書である本草綱目や和剤局方を読破し、慶長12年(1607年)から、本格的な本草研究に踏みだした。
調合の際に用いたという小刀や、青磁鉢と乳棒も現存する。腎臓や膵臓によいとされている八味地黄丸を特に好んで処方して日常服用していたという。
松前慶広から精力剤になる海狗腎(オットセイ)を慶長15年(1610年)と慶長17年(1612年)の2回にわたり献上されており、家康の薬の調合に使用されたという記録も残っている(『当代記』)。
欧州の薬剤にも関心を示しており、関ヶ原の戦いでは、怪我をした家来に石鹸を使用させ、感染症を予防させたりもしている。東照大権現の本地仏が薬師如来となった所以は家康のこの健康指向に由来している。
致命的な病を得た際にも自己治療を優先し、異を唱えた侍医の与安を追放するほど、見立に自信を持っていた。
が、自惚れではなく、専門的な知識に裏付けられたものである。
本草研究も、後の幕府の薬園開設につながることから、医療史上に一定の役割を果たしたといえる。
家康の侍医の一人、呂一官が創業した柳屋本店は今も現存する。
寡黙な苦労人
幼少のころから、十数年もの人質生活をおくり、譜代家臣の裏切りにより祖父と父を殺されており、そもそも織田家の人質になったのも家臣の裏切りによってともいわれている。
家督相続後は三河一向一揆において後の腹心・本多正信らにも裏切られている。
また、小牧・長久手の戦い後には重臣・石川数正にも裏切られている。
働き者で律儀者・忠義者が多く、結束が固い強兵と賞賛される三河国人だが反面、頑固で融通が利かず内向的で自負心が高い。
結束も縁故関係による所が大きい。
こうした家臣たちを統御していくには日ごろからかなり慎重な態度が求められたようで、自然言葉数が少なくなったものと推察され、家臣たちの家康評には「なにを考えているかわからない」、「言葉数が非常に少ない」といった表現が多い。
倹約
家康の倹約にまつわる逸話は多い。
侍が座敷で相撲をしているときに畳を裏返すように言った(『駿河土産』)。
商人より献上された蒔絵装飾を施した御虎子(便器)の不必要な豪華さに激怒し、直ちに壊させた(『膾餘雑録』)。
代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させた(『翁草』)。
三河にいたとき、夏に家康は麦飯を食べていた。
ある時部下が米飯の上に麦をのせ出した所、戦国の時代において百姓にばかり苦労させて(夏は最も食料がなくなる時期)自分だけ飽食できるかと言った(『正武将感状記』)。
厩が壊れても、そちらのほうが頑強な馬が育つと言い、そのままにした(『明良洪範』)。
家臣が華美な屋敷を作らないよう与える敷地は小さくし、自身の屋敷も質素であった(『前橋旧聞覚書』『見聞集』)。
蒲生氏郷は秀吉の後に天下を取れる人物として前田利家をあげ、家康については人に知行を多く与えないので人心を得られず、天下人にはなれないだろうといった(『老人雑話』)。
この結果、家康は莫大な財を次代に残している。『落穂集追加』では家康のは吝嗇でなく倹約と評している。
普段は質素な生活に努めたが、必要な際には必要な出費を惜しむことはなかった。
例えば『信長公記』に記された織田信長の接待においては京から長谷川秀一を招いて巨費を投じ、趣向を凝らした接待を行っている。
大井川の舟橋などは信長を感動させるものだったと記されている。
家康公遺訓
家康の遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり」という言葉が広く知られている。
が、これは偽作である。明治時代に元500石取りの幕臣・池田松之介が徳川光圀の遺訓と言われる『人のいましめ』を元に、家康63歳の自筆花押文書に似せて偽造したものである。これを高橋泥舟らが日光東照宮など各地の東照宮に収めた。
また、これとよく似た『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。
これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就)が元和の初め、二代将軍・徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。
江戸時代は禁書であった。一説には偽書とされている。
家康と刀剣
家康は、武家の棟梁として古い名刀を蒐集し、「日光助真」(国宝、東照宮蔵)など多くの名物がその手元にあった。
また、晩年の慶長19年(1614年)春には、大坂冬の陣に備えるために、伊賀守金道という刀工に1000振りの陣太刀を急造発注し、その政治的見返りとして朝廷に対し金道を「日本鍛冶惣匠」に斡旋している。
一方で、家康を始めとする徳川家臣団が、戦場で使う武器として愛用していたのが、当時の「現代刀」だった伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)の刀工、千子村正(せんご むらまさ)と千子派(村正の一派)、そしてその周辺流派の作である。
家康自身も村正の打刀と脇差を所有し、これらは尾張徳川家に「村正御大小(むらまさおだいしょう)」として伝来した。
脇差は大正期に売却されたが、打刀は現在も徳川美術館に所蔵され、村正に珍しい皆焼(ひたつら)刃の傑作として名高い。
家康がこの大小を一揃いで差し実戦で使用したのか確実なところは不明だが、少なくとも今も打刀にはわずかに疵の跡が残っている。
この「皆焼」の刃文を持つ村正は相当な稀少品で、現存するのは他に短刀「群千鳥(むらちどり)」や短刀「夢告(むこく)」などの数点しかなく、そのいずれもが評価の高い名作とされている。
お膝元の駿河には村正と作風を共有する島田義助(元今川氏のお抱え刀工)がいて、六代目の義助に御朱印を与えるなど厚遇している。
村正と義助は直接の師弟関係ではないが、お互いの派で技術的交流を続けていたから、作風が近づくことがよくあった。
なお、かつては家康が村正を忌避していたという俗説があったが、現在では完全に否定されている。
村正は徳川家に祟るとする妖刀伝説が江戸時代に広く流布していたことそのものは事実(村正#妖刀村正伝説)で、村正は銘を潰されるなどの悲惨な被害を受けた。
が、そうした伝説は家康の死後に発生したものである。
徳川美術館は、家康が村正を忌避していたとするのは後世の創作、家康は実際は村正を好んでいた、と断言している。
妖刀伝説が広まった理由としては、以下の理由が考えられる。
『三河後風土記』で、家康が村正を忌避し、織田有楽斎が家康を憚って村正の槍を打ち捨てたという逸話が捏造された。
これは正保年間(1645-1648年)後に書かれた著者不明の偽書だが、江戸時代後期までは慶長15年(1610年)に平岩親吉が自ら著した神君家康の真実と信じられていた。
家康の親族が村正で傷つけられたという妖刀伝説の逸話も、出処が怪しいものが多くそもそもどこまでが真実か極めて疑わしい。
主家の家康自身が村正を好んだように、徳川家の重臣には村正や千子派(村正派)の作を持つ者が多かった。
仮にそれらの傷害事件が事実としても、確率の問題でたまたま用いられたのが村正だったとしても不思議はなく、また、嘘だとしても、家臣団に普及していた村正を物語に登場させるのは説得力があった。
家康の村正愛好のせいで逆に忌避伝説につながった皮肉な例と言える。
その他
居城
家康の生誕地は、三河国・岡崎だが、生涯を通じて現在の静岡県(浜松・駿府)を本城あるいは生活の拠点としている期間が長く、岡崎にいたのは、尾張国の織田氏のもとで人質として過ごした2年を含め、幼少期および桶狭間の戦い後10年と極めて短い。
幼少から持っていた洞察力
10歳のころ、竹千代(家康)は駿河の安倍川の河原で子供達の石合戦を見物した。
150人組と300人組の二組の対決で、付添いの家臣は人数の多い300人組が勝つと予想した。
だが竹千代は「人数が少ない方が却ってお互いの力を合わせられるから(150人組が)勝つだろう」と言った。
家臣は「何をおかしなことを言われるのですか」と取り合わなかった。
が、竹千代の予想通り、150人組が勝ったので、竹千代は家臣の頭を叩き、「それ見たことか」と笑ったという。
肖像画
平成24年(2012年)、徳川記念財団が所蔵している歴代将軍の肖像画の紙形(下絵)が公開された。
家康の紙形は「東照大権現像」(白描淡彩本)とされており、よく知られている肖像画とは違った趣で描かれている。
信長の兄弟
『フロイス日本史』では、「信長の姉妹を娶り」とあり、家康は一貫して「信長の義弟」と書かれている。
しかし現在のところ、この女性の存在を裏付ける史料は見つかっていない。
神君伊賀越え
本能寺の変直後の神君伊賀越えでは伊賀・甲賀忍者の力添えを受けて三河国まで逃走した。その道中、甲賀忍者の多羅尾氏の居館に着いたとき、家康は警戒して城に入ろうとしなかった。
が、城主・多羅尾光俊が赤飯を与えたところ、信用して城で一泊した。
その後は伊賀の豪族・百地氏、服部氏、稲守氏、柘植氏の柘植清広等の護衛で白子まで辿り着き、この功で多羅尾氏は近江国で8,000石を領する代官に、柘植氏は江戸城勤めの旗本となった。
他の伊賀・甲賀忍者らは「伊賀同心」として召し抱えられ後に江戸へ移った。また、このときの礼として百地氏には仏像を与え、これは現在も一族の辻家が所有している。
影武者説
大坂夏の陣の際に家康は真田信繁に討ち取られ、混乱を避け幕府の安定作業を円滑に進めるために影武者が病死するまで家康の身代わりをしていたとされる説。
一説に異母弟の樵臆恵最もしくは小笠原秀政ではないかといわれる。
大阪府堺市の南宗寺には家康の墓とされるものがある。
「徳川氏」について
戦国時代から江戸時代の大名の佐竹氏の家中には、徳川氏と遠祖を同じくするとした得川義季の子孫を称する新田氏流得川氏の末裔という常陸徳川氏がいて、親藩ですら限られた家系しか徳川氏の名乗りが許されない中、単なる秋田藩大名の家臣の立場で徳川氏を堂々と名乗っていた。
源氏への復姓時期について
家康は永禄4-6年ごろの文書では本姓として「源氏」を使用しており、永禄9年(1566年)に「徳川」を名乗った際に藤原氏に改姓している。
が、氏を源氏に復姓した時期については、はっきりしない。
かつては近衛前久による年代不明の書状が「(改姓は)将軍望に付候ての事」としていることから、関ヶ原の戦いの勝利後、征夷大将軍任官のため吉良氏系図を借用して系図を加工し、源氏に戻したというのが通説であった。
しかし米田雄介が官務壬生家の文書を調査したところ、天正20年9月の清華成勅許の口宣案において源氏姓が用いられているなど、秀吉生前からの源氏使用例が存在している。
笠谷和比古は、天正16月4月の後陽成天皇の聚楽第行幸の様子を収めた『聚楽行幸記』には、家康が「大納言源家康」と誓紙に署名しているという記述があることから、源氏への復姓は少なくともこの時期からではないかと見ている。
他に天正14年(1586年)、安房国の里見義康(新田一族)に送った同年3月27日付の起請文では、徳川氏と里見氏は新田一族の同族関係にあることを主張している。
ただし、これ以降も「藤原家康」名義の書状が現存しており、この起請文は偽文書の可能性が指摘されている。
また、天正14年には藤原氏を用いた寺社への朱印状も残っている。
天正19年(1591年)、家康が発給した朱印状で姓が記されているものは「大納言源朝臣」ないし「正二位源朝臣」と記されており、藤原氏は使用されていない。
笠谷は家康が源氏復姓の時期が将軍であった足利義昭の出家時期と重なっており、左馬寮御監・左近衛大将など将軍家しか許されてこなかった官をうけていることから、“豊臣政権下で家康はすでに源氏の公称を許され将軍任官の動きが公然化し、豊臣関白政権の下での徳川将軍制を内包する形での、権力の二重構造的な国制を検討していた”と記述している。
阿部能久は、天正16年は足利義昭が正式に征夷大将軍を辞任した年であり、豊臣秀吉は家康が将来の「徳川将軍体制」を見越して源氏改姓をしたことを認識しつつ、それを逆手に取って関東地方を治めさせたと捉え、さらに清和源氏の正統な末裔である足利氏の生き残りと言える喜連川家に古河公方を再興させることで、家康と喜連川家+佐竹氏など関東諸大名との間に一定の緊張関係をもたらすことで家康の野心を封じ込めようとしたと推測している。
江戸幕府の支配に関して
徳川家康の名で発行されたオランダとの通商許可証(慶長)14年7月25日(1609年8月24日)付
家康が礎を築いた徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体系は完成度の高いものである。江戸幕府は京、大坂、堺など全国の幕府直轄主要都市(天領)を含め約400万石、旗本知行地を含めれば全国の総石高の1/3に相当する約700万石を独占管理(親藩・譜代大名領を加えればさらに増加する)し、さらには佐渡金山など重要鉱山と貨幣を作る権利も独占して貨幣経済の根幹もおさえるなど、他の大名の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社、朝廷、そして皇室までをもいくつもの法度で取り締まり支配した。
これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名が改易(取り潰し)の憂き目にあっており、これには譜代、親藩大名も含まれる。これは朝廷や皇室でさえも例外ではなく、紫衣事件などはその象徴的事件であった。
幕府に従順な大名に対しても参勤交代などで常に財政を圧迫させ幕府に反抗する力を蓄えることを許さず、また、特に近世初期は多くの転封をおこない「鉢植え」にした。
些細な問題でも大名を改易、減封に処し、神経質に公儀の威光に従わせるように仕向けた。
大名への叙位任官、松平氏下賜(授与)で、このように圧倒的な権力基盤を背景にして徳川将軍家を頂点に君臨させた。
全国の諸大名・朝廷・皇室を「生かさず殺さず。逆らえば(もしくはその危険があるならば)潰す」の姿勢で支配したのが江戸幕府であった。
このように徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の絶対的な支配体系については「保守的・封建的」との見方もできる一方、強固な支配体系が確立されたからこそ、戦国時代を完全に終結させ、そして江戸幕府が250年以上におよぶ長期安定政権となったことは否定できない事実である。
後の鎖国政策につながるような限定的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、幕末まで海外諸国からの侵略を防げたという評価もあるが、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたものである。また明が海禁策をとるなど、当時の世界的な趨勢であるとも言える。
家康は朝廷を幕府の支配下におこうとした。慶長11年(1606年)には幕府の推挙無しに大名への官位の授与を禁止し、禁中並公家諸法度を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に排除している。
大坂冬の陣の最中である12月17日、朝廷は家康に勅命による和睦を斡旋したが、家康はこれを拒否した。
さらに家康は秀忠の五女・和子を入内させ、外祖父として皇室まで操ろうとしたのである(入内の話は慶長17年(1612年)から始まっていたという。和子の入内が元和6年(1620年)まで長引いたのは、家康と後陽成天皇が死去したためである)。
家康の死後、幕府は紫衣事件などを経て、天皇および朝廷をほぼ完全に支配することに成功した。この力関係は幕末の尊王運動が起こるまで続いた。
一族・譜代の取り扱いに関して
息子や家臣に対しても冷酷非情な面を見せる人物だったとされることが多いが、情に流されず息子や一族に対しても一律に公平であったと見る向きもある。
長男・信康の切腹に関しては、信長の要求によるものではなく、家康自らの粛清説も近年唱えられている。また、生母の身分が低い次男・結城秀康、六男・忠輝を、出生の疑惑や容貌が醜いなどの理由で常に遠ざけていたとされるが、これには異論もある。
関ヶ原の戦いにおいて江戸留守居役を命じられた秀康は、戦功を挙げるために秀忠に代わり西上したいと申し出たが容れられなかった。
かねてから秀康には石田三成との交流があり、豊臣方に内通する恐れがあったとも考えられる一方で、武将として実績のある秀康に三成と友誼が深く西軍に呼応する恐れが強い佐竹義宣を監視させ、東北戦線で上杉氏と戦う伊達政宗・最上義光らの後詰め役として待機させたとされる。
秀康は後の論功行賞において破格の50万石を加増、官位も権中納言まで昇進しており、最終的に67万石もの大封を与えられ、
江戸への参勤免除、幕府からの使役の免除、関所を大砲で破壊しても黙認されるなど、別格の扱いを受けている。
将軍継嗣がならなかったのは、豊臣秀吉の養子で、後に結城家に養子に入り名跡を継いでいることなどが理由とされる。また秀康の子・松平忠直には、秀忠の娘・勝姫を嫁がせている。
忠輝についても嫌われ、冷遇されたといわれたが、それを示す史料はなく、改易前には御三家並の所領(越後国・高田55万石)が与えられていた。
しかし秀康はともかく、嫡子・忠直や忠輝は家康よりもむしろ秀忠と不仲であったとされる。松平忠直は大坂の陣で真田信繁(通称、幸村)らを討ち取る功績を挙げた。
が、論功行賞に不満を言い立てた。
家康の死後は幕政批判や乱行が目立ったために秀忠によって隠居させられ、越前福井藩を継いだのは忠直の弟・忠昌であった。忠輝も秀忠により数々の不行状を追及されて改易させられた。
徳川四天王である本多忠勝や榊原康政を関ヶ原の戦い後に中枢から外し、この2人に次ぐ大久保忠隣を改易・失脚させている。
しかし、榊原康政は老臣が要職を争うことを嫌い自ら老中職を辞退していることに加え、康政の跡を継いだ榊原康勝が大坂の陣で没した後に起こった騒動を家老の処分にとどめ、本多忠勝に対しては、その子・本多忠政と孫・本多忠刻に自分の孫・熊姫(松平信康の娘)と千姫を嫁がせるなど、譜代大名に相応の配慮は示しており、その例は例外も多いが鳥居家、石川家など枚挙に暇がない。
大久保氏も忠隣の孫・忠職は大名として復権し、家康の死後は加増が行われ次代・大久保忠朝は旧領小田原への復帰と、11万石という有力譜代大名としての加増を受けている。
ただし、忠職が家康の曾孫であるから、という見方もできるのも否めない。
しかし、忠隣自身が家康死後に家康の誤りを示すとして秀忠からの赦免要請を拒否していることから、大久保氏を避けていたわけではないと思われる。
家康は吏僚の造反行為には厳しく、三河時代に武田勝頼と内通した寵臣・大賀弥四郎を鋸引きという極刑で処刑している。
大久保長安についても、幕府中枢にある者の汚職・不正蓄財と扱い殊更に厳しくすることで、綱紀粛正を促したとする見方もできる。さらには、人材の環流は組織の活性化に必須であり、一連の行為はあくまで幕府の体制固めとして行われた政治的行為として解釈することもできる。
また、松平信康を含め、秀康・忠輝に共通するのは武将としての評価が高かったことにあり、武将としては凡庸とされ失敗もあり兄を差し置いて将軍となった秀忠の手前彼らを高く評価することは憚られたことが背景にある。
また、家康はかつて敵対していた今川氏・武田氏・北条氏の家臣も多く登用し、彼らの戦法や政策も数多く取り入れている。『故老諸談』には家康が本多康重に語った言葉として「われ、素知らぬ体をし、能く使ひしかば、みな股肱となり。勇功を顕したり」と記されている。





         今川義元


 戦国時代の二大奇跡がある。ひとつは織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦、もうひとつが中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。
 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。
 斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長が弟・信行を謀殺したのは前述した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。
 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。
 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。
「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。
「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。
「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。
「は?」
「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。
 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。
 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。
 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのいい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。
 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。
 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。
 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。
「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。
 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。
 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。信長の勝つ確率は極めて低い。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。
 今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。
 特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。
 今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。
 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、
「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」
今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。
しかし当の松平元康(のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。
「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」
そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。
 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。
 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。
 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。家臣たちは訝しがった。なにを夢ごとを。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

❶【2023年(令和五年)大河ドラマどうする家康記念】天下人・徳川家康の物語(家康小説の一部を先行掲載)徳川家康よ、どうする??

2022年12月26日 13時32分30秒 | 日記





時代小説ミステリィ
家康の神策
~どうする徳川家康の天下泰平!家康は本当に鯛の天麩羅で死んだのか?!<徳川家康最新研究>


                 ーとくがわ いえやす 徳川家康ー
                ~「天才策士」徳川家康の戦略と真実!
                   今だからこそ、家康

                 total-produced&PRESENTED&written by
                   NAGAO Kagetora
                   長尾 景虎

         this novel is a dramatic interpretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

    家康の神策(ゴッド・オペレーション) あらすじ
 家康が三河に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。家康はすぐに織田や今川の人質に出される。そして、信長の恐ろしさをしる。なんといっても織田信長を有名にしたのは桶狭間合戦で、大国・駿河の大将・今川義元の首をとったことだ。そして、秀吉の墨俣一夜城築城。サル(秀吉)は信長の絶対的信用を得る。そして、さらに危機がやってくる。義兄弟同然だった浅井らがうらぎり、武田信玄などの脅威で、信長は一時危機に。しかし、機転で浅井朝倉連合に勝利、武田信玄の病死という奇跡が重なり、信長は天下統一「天下布武」を手中におさめようとする。家康は信長に従属し、寺や仏像を焼き討ちに。足利将軍も追放する。しかし、それに不満をもったのは家臣・明智光秀だった。信長の家臣・柴田勝家は北陸、滝川一益は関東、秀吉は中国……ときは今、雨がしたしる五月かな、明智光秀は謀反を決意する。そして、中国・九州攻めのため秀吉と合流しようとわずか百の手勢で京へ向かう信長。しかし、本能寺で光秀に攻撃され、本能寺は炎上、織田信長は自害し、すべてが炎につつまれる。家康と、秀吉との戦い。家康は秀吉に従い利用するだけ利用する。秀吉が馬鹿な戦争をして死ぬと、家康は豊臣家滅亡に策をめぐらす。関ケ原で、大坂冬、夏の陣で勝ち、世は太平の徳川時代に。家康は天下をとったのだ。


 

 第一章 家康の立志


 この作品はノンフィクションの最新研究の文献資料としての側面と、小説形態の物語部分があります。基本的にはノンフィクション作品+小説……のような作品です。
それ以上に、これは新ジャンル『時代小説ミステリィ』でもあります。
殺人事件=ミステリィ、ではありません。歴史の謎を解く。歴史ミステリィであります。
何故、物語部分・小説があるのか? それは只、だらだらと文章で研究を説明するより、ドラマ性、物語部分(小説部分)を載せることにより〝遊び〟の部分を残したためです。
よって、完全なノンフィクションではなく、小説でもあります。
 その点においては何卒ご理解のほどを宜しくお願い致します。


  徳川家康最新研究の徳川家康、その真実  一
 ミステリィの謎解きのその最初のパートです。
まずは、徳川家康の最新研究でわかった事実をまとめて紹介しよう。


人物・逸話
人物
身長
家康着用の辻ヶ花染の小袖は、身丈139.5cm、背中の中心から袖端まで59cmの長さがあるため、身長は155cmから160cmと推定される。
容貌
家康に謁見したルソン総督ロドリゴ・デ・ビベロは、著作の『ドン・ロドリゴ日本見聞録』で、家康の外貌について「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち、太子(秀忠)のように、色黒くなく、肥っていた」と記している。
下腹が膨れており、自ら下帯を締めることができず、侍女に結ばせていた(『岩淵夜話』)。
後世の書には非常な肥満体で醜男であったとされている(神沢杜口『翁草』1776年)。
武術の達人
剣術は、新当流の有馬満盛、上泉信綱の新陰流の流れをくむ神影流 剣術開祖で家来でもある奥平久賀(号の一に急賀斎)に元亀元年(1570年)から7年間師事。
文禄2年(1593年)に小野忠明を200石(一刀流剣術の伊東一刀斎の推薦)で秀忠の指南として、文禄3年(1594年)に新陰流の柳生宗矩を召抱える。
塚原卜伝の弟子筋の松岡則方より一つの太刀の伝授を受けるなど、生涯かけて学んでいた。
ただし、家康本人は「家臣が周囲にいる貴人には、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を切る剣術は不要である」と発言したと『三河物語』にあり、息子にも「大将は戦場で直接闘うものではない」と言っていたといわれる。
馬術も、室町時代初期の大坪慶秀を祖とする大坪流を学んでいる。
小田原征伐の際に橋をわたるとき、周囲は家康の馬術に注目したが、家康本人は馬から降りて家臣に負ぶさって渡った。
豊臣軍の諸将は要らぬ危険を避けるのが馬術の極意かと感心したという(『武将感状記』)。
弓術については三方ヶ原の戦いにおいて退却途中に、前方を塞いだ武田の兵を騎射で何人も射ち倒して突破している(『信長公記』)。
鉄砲も名手だったと云われ、浜松居城期に5.60間(約100m)先の櫓上の鶴を長筒で射止めたという。
また鳶を立て続けに撃ち落としたり、近臣が当たらなかった的の中央に当てたという(『徳川実紀』)。
好学の士
家康は実学を好み、板坂卜斎は家康について「『論語』『中庸』『史記』『貞観政要』『延喜式』『吾妻鑑』を好んだ」と記載している。
家康はこれらの書物を関ヶ原以前より木版(伏見版)で、大御所になってからは銅活字版(駿府版)で印刷・刊行していた。特に『吾妻鑑』は散逸した史料を集めて後の「北条本」を開板し、また林羅山に抄出本を作成させており、吾妻鑑研究の草分け的存在と言える。また『源氏物語』の教授を受けたり、三浦按針から幾何学や数学を学ぶなど、その興味は幅広かった。
古典籍の蒐集に努め、駿府城に「駿河文庫」を作り、約一万点の蔵書があったという。これらは御三家に譲られ、「駿河御譲本」と呼ばれ伝わっている。
南蛮から贈られた薄石が瑪瑙と知らされたおり、『本草綱目』で確認させたように実証的であった。
多趣味
鷹狩と薬作りが家康の趣味として特に有名であるが、他にも非常に多くの趣味があった。
鷹狩は、府中御殿に滞在しながら お鷹の道で行われたとの記録が残っているほか、家康の鷹狩にちなむ地名や青山忠成や内藤清成の駿馬伝説などの伝説を各地に残すことになった。
家康の鷹狩に対する見方は独自で、鷹狩を慰め(気分転換)のための遊芸にとどめずに、政治的・軍事的視察も兼ねた。
身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する摂生(養生)と考えていた(『中泉古老諸談』)。
薬作りは、八味地黄丸など生薬調合を行い、この薬が、俗に「八の字」とよばれていたことから、頭文字の八になぞらえ、八段目の引き出しに保管していた。
「薬喰い」とも言われる獣肉を食すなど記録が多い。
駿府城外には家康が開いた薬園があり、死後に廃れたが享保年間に復興した。
猿楽(現在の名称は能)は、若いころから世阿弥の家系に連なる観世十郎太夫に学び、自ら演じるだけでなく、故実にも通じていた。
このためもあってか、能は江戸幕府の式楽とされた。特に幸若舞を好んだという。駿府城
三の丸には能楽専用の屋敷があり、家康は度々家族や大名・公家と共に観覧した。
囲碁の本因坊算砂を天正15年(1587年)閏11月13日、京都から駿府に招いている。家臣の奥平信昌が京都で本因坊の碁の門下となり下国の際に駿府へ連れてきたとされる。
自身で嗜んだのみならず家元を保護し、確立した功績から、家康は囲碁殿堂に顕彰されている。
将棋は一世名人・大橋宗桂に慶長17年(1612年)に扶持を与える。
この功績により、平成24年(2012年)の名人制度400年を記念して、将棋十段の推戴状が贈呈される。
香道を好み薫物(たきもの)の用材として、東南アジア各国へ宛てた国書の中で特に極上とされた伽羅を所望する記述があり、遺品にも高品質の香木が多数遺されている。
なお有名な蘭奢待については、慶長7年6月10日、東大寺に奉行の本多正純と大久保長安が派遣されて正倉院宝庫の調査を実施し、現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき切り取りは行わなかった(『当代記』)。
同8年2月25日、開封して修理が行われている(続々群書類従所収「慶長十九年薬師院実祐記」)。








         1 立志



         竹千代



徳川家康は天文十一年(一五四二年)十二月二十六日、三河岡崎城で誕生した。 父は松平広忠、母は於大である。赤子の名は竹千代、のちの徳川家康である。
「でかした! 於大! みごとな嫡男じゃ!」
 松平広忠はふとんに横たわる妻にいった。妻はにこりと笑い、とんでもありませぬ。女子が子を産むのは当然の仕事ですから、といった。
「当然の仕事?」ふたりは笑った。
 しかし、三河は小国で、まわりは大国の敵だらけである。駿河(静岡県)の今川、尾張(愛知県)の織田、関東の北条、越後(新潟県)の長尾(上杉)、美濃(岐阜)の斎藤、甲斐(山梨県)の武田……。三河は愛知県東部のちいさな国に過ぎない。四方八方敵だらけ、四面楚歌である。広忠は赤子を抱き抱えたが、内心、不安でいっぱいであった。
「この子が大きくなるまで三河はもつだろうか……」
「だいじょうぶですわ、御屋形様」於大は夫の心の中を読んだかのように微笑んだ。「竹千代は強い子です。きっとよい大名になりまする」
「……於大」
「いえ」於大はにやりとした。「竹千代は天下人になりますわ」
「それはいい! 竹千代が天下人か」ふたりはまた笑った。しかし、祖母の華陽院だけは笑わなかった。笑っている場合ではない、というのだ。
 家康が誕生したとき、武田(晴信)信玄二十一歳、長尾景虎(上杉謙信)十九歳、信長九歳、浮浪児秀吉は七歳であった。時は戦国乱世、群雄かっ歩の下剋上の時代であった。 松平広忠は必死に戦った。しかし、領土拡大は難しかった。
 そんなおり、於大の美貌を耳にした今川義元が「於大殿を今川にくれ」といってきた。 当然、子を産んだばかりの於大は反発した。
「わらわは竹千代を産んだばかり…」於大はあえぎあえぎ続けた。「竹千代はどうなりまする? わらわは今川などにいって”てごめ”にされるのですか?」
 夫・松平広忠は何もいわなかった。只、つらそうに唇をかんだ。
「於大」祖母の華陽院は彼女を諭した。「今は戦国乱世……たがいに食うか食われるかの時代です。わが三河は小国、大国の今川義元殿に歯向かえばたちまち食われてしまう」
「されど…」
「於大、駿河へいきなさい。それが松平家のため、そして竹千代のためなのですよ」
 華陽院はいった。於大は涙を流して、竹千代をしっかり抱きしめた。強く。強く。強く抱いていれば竹千代の中にも自分の愛が伝わるに違いない、そう信じて。
「竹千代、竹千代」於大は泣き崩れた。時代が時代とはいえ……母と子が…なんとむごい。
 天文十六年(一五四七年)岡崎城では、六才になった竹千代が剣道で、剣の腕を磨いているところだった。竹千代はハンサムで、賢い嫡男だった。家臣たちの評判もよかった。しかし、三河では大変な選択に悩まされていた。今川義元が人質を出せ、といってきたのだ。しかも、竹千代を……
 竹千代を人質に出して今川と同盟するか、それとも従わず今川と戦うか。しかし、大国今川軍と戦えば敗色濃厚で、勝ち目はまずない。兵力が違い過ぎる。
「よし、竹千代を人質に出そう」松平広忠は決心した。
 家臣たちは反対した。家臣たちは、例え勝ち目がなくとも”城をまくらに討ち死に”などといっていたのだ。広忠はその案には乗らなかった。
 まずは三河松平家の維持、これが肝要だった。
「竹千代、今川義元公の元へ人質としてまいれ」
 広忠は座敷にやってきた竹千代にいった。「わかるか? 人質じゃぞ」
「はい!」竹千代は答えた。まだ六歳の竹千代(のちの家康)は、父であり主君である松平広忠に答えて平伏した。まだ童子なのに…哀れなことじゃ…父は竹千代を憐れに思った。 しかし……いたしかたなし…


         2 道三と信長



        人質家康



 山岡荘八が小説『徳川家康』を書いて、”家康は狸ではなく、律義な正義感の強い正直者の武将”という家康像を打ち出したのはもう半世紀も前のことだ。
 しかし、山岡荘八の家康像は間違いだと思う。長編小説として何十巻も書くためには主人公の家康が、策士で、狸で、権謀術数の持ち主……としてはよんでもらえないと判断したのであろう。
 史実の家康をもっと目をひらいて見てほしい。若い頃ならまだしも、家康は秀吉の死後、豊臣家滅亡のため策をめぐらせ、ついには淀殿(茶々)や秀吉の実子・秀頼を自害に追い込んだではないか。片桐且元を謀略によって追放したり、さまざまな策略をめぐらせたりした。家康は勝つためには何でもやった。小早川秀秋をまるめこんで関ケ原でも勝利した。
 十分、策士で、狸で、権謀術数の持ち主であるのだ。
 日本人が尊敬する歴史上の人物の中で、一番人気なのが織田信長と坂本龍馬だという。どちらも悲劇的な最期によって”永遠のヒーロー”となった。しかし、本当の成功者である頼朝や家康の人気は低い。それは日本人の心の中の「子孫に美田を残さず」という考えからだろう。しかし、家康は信長にも秀吉にも勝った。本当に天下を獲り、二七〇年もの徳川幕府太平の世をつくったのだ。信長はテロルで殺され、秀吉は朝鮮出兵という馬鹿なことをし、病死した。家康はそれらを反面教師として長生きし、勝った。
 本当の勝利者は徳川家康なのだ。

  
 のちの徳川家康(松平竹千代(松平元康))少年が織田家に転がりこんだのは、まだ、信秀が生存中のことだ。家康は今川の人質だった。その頃、織田信長の父・織田信秀は斎藤道三の美濃(岐阜)の攻略を考えていた。道三は主君だった美濃国守護土岐頼芸を居城桑城に襲って、彼らを国外に追放したという。国を追われた土岐頼芸らは織田信秀を頼ってきた。
 いくら戦国時代だからといって何の理由もなく侵略攻撃はできない。しかし、これで大義名分が出来た訳だ。
「どうかわが国を取り戻してくだされ」
「わかり申した」
信秀強く頷いた。
「必ずや逆臣・道三を討ち果たしてみせましょう」戦いはこうして始まった。
 吉法師もこの頃、元服し、信長と名乗る。そして、初陣となった。斎藤氏との同盟軍・駿河(静岡)の今川の拠点を攻撃することとなった。信長少年の武者姿はそれは美しいものであったそうだ。織田勢は今川の拠点の漁村に放火した。
 ごうごうと炎が瞬く間に上り、炎に包まれていく。村人たちは逃げ惑い、皆殺しにされた。信長少年はその炎を茫然とみつめ、「これが……戦か」と、力なく呟いたという。
「信長はどうかしたのか?」信秀は平手に尋ねた。
「いや。わかりませぬ」平手政秀は首をかしげた。なぜ若大将がたかが放火と皆殺しだけで、そんなに心を痛め、傷ついてしまったのか…。典型的な戦国武士・平手政秀には理解できなかった。父・信秀も、あんな軟弱な肝っ玉で、大将になれるのか、と不安になった。 この頃、織田家に徳川家康(松平竹千代(松平元康))少年が転がりこむ。
 なんでも渥美半島の田原に城をかまえる戸田康光という武将が、信秀のところにひとりの少年を連れてやってきたという。
 戸田は「この童子は、松平広忠の嫡男竹千代です」といって頭をさげた。
「なんじゃと?」信秀は驚きの声をあげた。
 戸田が隣で平伏する少年をこづくと、「松平竹千代(松平元康、徳川家康)…に…ござります」と、あえぎあえぎだが少年は、やっと声を出して名乗り、また平伏した。
「戸田殿、その童子をどこで手に入れたのじゃ?」
「はっ、もともとこの童子は三河の当主・松平広忠の嫡男で、今川と同盟を結ぶための人質でござりました。それを拙者が途中で奪ってつれてきたのでござります」
 戸田はにやりとした。してやったりといったところだろう。
 織田信秀は当然喜んだ。「でかした、戸田殿!」彼はいった。「これで…三河は思いどおりになる」
 そして、信秀は松平竹千代を熱田近辺の寺に閉じ込めた。
 この頃、尾張(愛知県)の当主・織田信秀は三河(愛知県東部)攻撃がうまくいかず苛立っていた。当主の松平広忠の父松平清康が勇猛な武将で、結束したその家臣団は小規模な集団ながら、西からは織田、東からは今川に攻められたが孤軍奮闘していた。
 しかし、やはり織田か今川につくことにして、結局、今川につこうということで今川に人質・竹千代を送ったのである。
 松平は拡大を続け、次第に松平姓を名乗る部族が増えていった。しかし、数がふえれば諍いが起こる。松平家は内部分裂寸前になり、そこに尾張の織田信秀と駿河(静岡)の今川義元が入り込んできた。
 義元はすでに「京都に上洛して自分の旗をたてる」という野望があった。
 この有名な怪人は、顔をお白いで真っ白にし、口紅をつけ、眉を反り落とし、まるで平安時代の公家のような外見だったという。自分のことを「まろ」とも称した。
 上洛といっても京都の足利将軍を追い立てて、自分が将軍になるという訳ではない。
 今川家はもともと足利支族の家柄で、もし足利本家に相続人がいなければ、今川家から相続人をだせる。ただ、今川義元とすれば駿河一国の守護として終わるより、足利幕府の管領となるのが目標であった。邪魔になるのは三河の松平と尾張の織田だ。
 美濃(岐阜)の斎藤氏については織田などをやぶったあとで始末してやる…と思っていた。そんな野望のある今川義元は、伊勢に逃れた松平広忠を救済した。
「まろが織田を抑えるうえ、三河にもどられよ」
 当然、松平広忠は感謝した。今川義元は大軍を率いて三河に出陣した。そんな頃、人質・竹千代が戸田に奪われ、織田家にやってきたのだ。
 織田信秀は松平家の弱体と、小豆板での勝利に狂喜乱舞した。
今川は策を練った。
「松平広忠殿、もはや織田家に下った竹千代は帰ってはこぬ。そこで、まろの今川の家来となったらいかがか?」
 当然、小勢力の松平家は家臣となろうとした。しかし、「そんなことはできない。竹千代様の帰りをあくまでも待って、われらは松平家を再興するのじゃ」と頑張る者たちもいた。徳川家普代の家臣群にそれがのちになっていったという。



         帰蝶


 今川義元の家臣で、名は大原雪斎という勇猛なお坊さんがいた。戦いにはいつも勝ったという軍師である。天文十八年(一五四九年)十一月に、その大原雪斎が、突然、軍を動かした。織田の城を落とした。そのとき、城主の織田信広は捕虜となった。
 軍師・大原雪斎は頭を働かせた。
「松平家を完全に服従させるためには、織田家にいる竹千代を取り戻して、今川の人質にしなければならぬと思いまする。よって、捕らえた織田信広と竹千代を交換しましょう」
「……なるほど」
今川義元は妙策だと膝を打った。「そちの策、妙策である」
 織田に使いが走った。
そして、まもなく、織田信広と竹千代は交換された。織田信秀は苦々しい思いだったが、いたしかたなし、と思った。
 しかし、今川にかえされたといっても竹千代(のちの家康)がそのまま拠城である岡崎城にかえる訳ではなかった。そのまま駿河に連れていかれた。岡崎城も今川の武将の手にあり、城下町の奉行には鳥居元忠がついていたが今川のコントロール下にあったという。
完全に三河は今川の手におちていた。
 天文十九年(一五五〇年)正月、駿河城で今川義元らは酒席の場にあった。竹千代少年は女子たちにかこまれて、上座の義元と対面していた。
「竹千代、その両側にいる女子のうち誰が好きじゃ?」義元はふざけた。「鶴姫(瀬名)と亀姫……どちらがいい?」
 竹千代は鶴姫のほうを指差し、「こちらの女子が好きにござります」といった。
 義元は大笑いして、「なら、鶴姫は竹千代が元服すれば嫁にやるわな」
「ありがとうございまする!」竹千代は平伏した。そののち竹千代は屋敷の軒下で豪胆にも立ち小便をしてみせたという。
「これ、若!」今川義元は「これはこれは肝に毛の生えた豪胆な小童じゃ!」と笑って竹千代の無礼を許した。
 竹千代は今川の人質のまま、臨斎寺の雪斎禅師に学問や兵法を習った。そして、こんなエピソードもある。安部川の河原で、子供達が石合戦をしていた。
「若君、どちらが勝つと思われますかな?」今川の家臣がきくと、幼い竹千代は「うん、人数の少ない方が勝つ」と真面目にいった。
「少ないほうが真剣にやっておるからじゃ」
 結果、竹千代のいう通り、数が少ない方が勝ったのだった。
 そんな竹千代も十二歳になった。まだ今川の人質ではあったが、弘治三年(一五五七年)初春、竹千代は元服し、瀬名(鶴姫)と結婚した。
 信長の父・信秀は幸運にも竹千代を手にしたが、大原雪斎という坊さんの活躍で手放さざる得なくなった。彼にしてみれば、息子の織田信広はふがいないうつけに思えたに違いない。 信長はこの頃、十五か十六歳である。彼はあいかわらず鷹狩りとうつけにうつつを抜かしていた。そして、この時期、織田信秀は美濃の斎藤道三軍に大敗して、和議をむすぶことになったという。大事件勃発である。
 天文十一年に道三は、守護職の土岐一族を追放して、美濃の国主となっていた。昔はガマの油売りをしていた下郎である。しかし、彼は間もなく隠居した。自分の愛人深芳野という女性が産んだ義竜に家督を継がせた。道三の後をつぎ、義竜は右京大夫・美濃守となった。「義竜君は、実は土岐頼芸公の実子だ」という噂が美濃に流れ、策略家の道三は家督を義竜に譲ったのだ。だが、それは本心ではない。噂を消すための一次的なものだ。
いずれは義竜の欠点をあげつらって、廃嫡においこむ気でいたという。
 そんな忙しい時期に、織田信秀は攻めてきた。
 そして、結局、和議となった……という次第である。
 和議の内容は、土岐頼芸とその兄・盛頼を美濃に戻す、ということと政略結婚だった。つまり、信長と道三の娘帰蝶(濃姫)を結婚させるということだ。道三は譲歩し、それを受け入れた。天文十七年(一五四八年)和議は成立、織田信長は道三の娘帰蝶(濃姫)と結婚した。濃姫は十歳、信長は十五歳であり、まるでままごとのような夫婦であった。
 濃姫を嫁に出すとき、父・道三は短刀を渡した。
姫の母は名門の生まれで、美貌であり、道三は剃髪して髭を生やしてはいるが結構美男子だった。当然、帰蝶(濃姫)も美少女であったという。短刀を渡しながら道三はいった。
「織田信長というのは尾張ではうつけと評判がたっておる。もし、お前の目からみて本当にうつけ者だったら、この短刀ですぐ殺せ。そして美濃に帰ってまいれ」
 が、帰蝶(濃姫)は「さて、どうでしょうか。逆にこの短刀で父上を殺すかも知れません」と答えたといわれている。冗談めかしだが、顔は真剣そのものだ。
「…さようか」道三はにこりと笑った。が、心の中では、この娘も俺が父親だということを疑っているのだろうか、と不安になっていた。
 しかし、帰蝶(濃姫)は父の望み通り、信長の近況をスパイし、美濃に知らせた。
 そんな彼女のことを信長はよく理解していた。信長は天守閣に登り、毎晩、美濃の方角を眺めるようになったという。
「毎晩、何をごらんになっているのでござりまするか?」
 濃姫は不思議に思って信長に尋ねた。信長は冷ややかな、真面目で真剣な表情で、
「わしの意を汲んだ斎藤氏の家臣が道三を殺して狼煙をあげることになっておるのだ」
といった。えっ?! 濃姫は驚きのあまり声をあげた。そして、死ぬほどびっくりもした。仰天した。なんといってもまだ小娘の妻である。「その家臣とは誰でござりまするか? 名は?」あえぎあえぎだが、やっと尋ねた。信長はなになにとなになにだ、と名をあげた。
 当然、それを知った道三は怒りにふるえ、その家臣たちを打ち首にした。しかし、これは信長の策略だった。「借刀殺人の計」で、斎藤氏の有力な家臣を駆逐したのだ。
 しかし、帰蝶(濃姫)は信長を裏切らなかった。彼のことを好いていた。気の強い少年と純粋可憐な少女は、互いにひかれあっていたのである。

 鉄砲の威力は予想以上だった。なにせ、百メートル離れた的をこっぱみじんに破壊したのである。城外で、信長は家臣を連れて、鉄砲を撃っていた。彼はいつものように髪を茶せんにし、汚れたよれよれの着物姿だった。蒼天のよい天気だった。
「種子島はすごいのう」信長は鉄砲で狙いをつけながらいった。
「そうですなぁ」家臣のひとりは頷いた。鉄砲はすごい迫力と轟音で弾が飛ぶ。反動もすごい。しかし、信長はにやにやしていた。これは使える、と思ったからだ。
「よし、この種子島を千丁都合いたせ」信長は飄々といった。
「せ、千丁? でごさりまするか?」家臣はびっくりして動揺した。「しかし…南蛮鉄砲は値段が高くて……とても千丁も買えませぬ」あせった。
 信長は家臣を睨みつけた。「なんとかいたせ!」怒鳴った。
「御屋形様! わたしにも撃たせてくださりませ」突然、側にいた羽織袴の帰蝶(濃姫)が笑顔でいった。「わたしも鉄砲を撃ちとうござりまする」
「よし。さすがは斎藤道三の娘だのう」信長は笑った。そして、大きな鉄砲を渡した。
「いけませぬ! 濃姫さま、女子には危のうございます」家臣は焦ってとめた。
「よい!」濃姫はいった。「わらわは斎藤道三の娘、是非に及ばぬ」
 姫は発砲した。すごい反動で、倒れそうになった。信長は笑った。「さすがは斎藤道三の娘だ。この調子で、濃に鉄砲を買う矢銭(軍費)も都合してもらえぬかのう」
 ふたりは笑った。
 いったいどうして彼女が、美濃の城で寵愛を受けて育った、美しい、きびしいしつけを受けて育った、頭のいい娘が、どうして”尾張のうつけ殿”と呼ばれて蔑まれている信長なんかとめぐり合うことになったのだろう。もっといい人生も送れたはずの彼女がどうして。なぜ、うつけの若妻になったのだろう。
 そうだ、思い出した。………帰蝶(濃姫)は彼をみつめて長いあいだ立ち尽くした。疑問の余地はない。彼女がいままで目にした男たちの中で、信長こそ一番の色男だ。長身、みごとな筋肉、だが、そのわりに細くてしなやかな十七歳の身体を持った織田信長、髪を茶せんにし、もえぎ色の糸でむすんである。目は切れ長で、大きく、きらきら輝くはしばみ色で、濃いまつげが影を落としている。唇はふっくらしていて、笑みを浮かべるまでは少女の唇といってもいいほどだ。信長が笑みを浮かべると……あぁ、誰がその微笑にうっとりせずにいられよう。戦国の習いに従って尾張に嫁いだ帰蝶(濃姫)だが、けして後悔はしていなかった。なぜなら、信長がハンサムで、自分にだけは優しくしてくれるからだ。
 父・織田信秀の葬儀が終わると弟・信行が食ってかかってきた。
 座敷の上座には、またもうつけ殿そのものの信長が、よれよれの汚い服で座って、瓜をむしゃむしゃとほうばっているところであった。
 弟・信行は正装のぴしっとした身形である。信行は兄に猛烈に腹がたっていた。
「兄上!」珍しく声を荒げた。「織田の当主ならば、もっとちゃんとした身形でいて下され! 父上はあの世で泣いておられまするぞ!」
 信長は笑った。なにがあの世だ、そんなものあるものか、というのだ。
「織田の当主が、そのような乞食同然の格好をしていては資質を問われまするぞ!」
「乞食か」信長はにやりとした。「まぁ、お前と一緒に町をあるけば、お前は殿様、わしは乞食か雑兵にみられるわな」
「兄上!」
 信行は眉をひそめたが、また兄・信長のほうを向いた。信長はほうばっていた瓜を弟に突然なげつけた。この信長をなめるな、と怒鳴った。急に”キレた”
 弟の信行は一瞬、その場で凍りついた。
 彼は慌てて振り向いた。信長の顔は暗く、目は怒りの炎でぎらぎらしていた。「この信長に指図しようとは百年早いわ」怒鳴りつけた。「なめるな!」
 弟の信行は彼になぐられたようにすくみあがったが、唇をきゅっと結び、彼が四方八方から受けている圧力のことを考慮に入れた。兄・信長はカッとなりやすく、圧力釜に長いこと入り過ぎていたため、釜のバルヴが壊れて、あらゆるものが噴きこぼれていた。うつけと呼ばれ、攻撃され、嘲笑され、罵倒され、危なっかしく生活しながら、何もかもひとりでまとめようと奮闘している。
「兄上、兄上の苦しみ……この信行にはわかります」説得しようとした。
 しかし、無駄な努力だった。信長は怒りで顔を真っ赤にして、「わしの何がわかるというのだ!」と歯をぎりぎりしながら立ち上がり、座していた弟に強烈な蹴りを食らわした。 そして、厳しい視線を向ける弟に怒鳴るようにいった。
「信行! おぬしに林通勝を授ける。お前のいう資質とやらを教えてもらえ!」
 弟は崩れた身体を起こしながら、兄をにらみつけた。やはり、兄上は只のうつけ(阿呆)だ。少しでも同情したわたしが馬鹿であった。信行が茫然と黙り込むと、信長はどかどかと歩き去った。……うつけを始末せねば織田家もあやうい…信行は強く思った。それは、嫉妬というより怒り、激しい怒りであった。


つづく
臥竜 長尾景虎 2022年12月9日

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年末年始スペシャル特別掲載 蒼に、月に。忠臣蔵⑦完~忠臣蔵・赤穂浪人たちの真実!大石内蔵助の策略と真摯。我が心の忠臣蔵~

2022年12月22日 11時35分09秒 | 日記









         7 討ち入り






  仇討ち、復讐の物語は外国にも多い。
「ハムレット」「ニーベルンゲンの歌」「モンテクリスト伯」など名作があるという。
 だが、忠臣蔵のように四十七人もの家臣が主君の仇を討つために他人の屋敷に乱入して、目的を果たしたあとに粛々として切腹した例は珍しい。
「忠臣蔵」が人気があるのも、日本人たちが「忠義で勇敢な人間」と思いたい以前に、その「忠臣蔵」が徳川幕府二百六十年の中で唯一の忠義事件だったからだ。
「忠臣蔵」のような暴力テロル事件が四回も六回も起こっていたらこれほど大石内蔵助や赤穂浪士らが人気者になることもなかったであろう。
 たった一度だけ、忠義の家臣が行った”義”であればこそ、ここまで「忠臣蔵」が人気があるのである。
 徳川時代にお取潰しにあった藩はなにも赤穂藩だけではない。慶長から明治元年におよぶまで三百六十家、大阪の陣から万延頃(元禄の少し前)まででも二百家が取潰されている。しかし、どこの元・家臣も討ち入り事件などしなかった。
「忠臣蔵」のような暴力テロル事件は稀有な事件だった。
 だからこそわれわれには「忠臣蔵」が上杉鷹山の改革物語よりも面白く写ったりする。まったくの平和な幕府独裁の中で起こった忠義の事件と、面白く読めまた観れる。だからその後の幕末の一代事件がわれわれにはもっと面白く写り、勝海舟や西郷隆盛や高杉晋作、新選組……などが人気になりドラマ化や映画化されたりもする。
 しかし、やはり一番人気は「忠臣蔵」で、年末になると恒例のようにドラマ化される。この小説もその延長にある。


  元禄十五年十二月十四日、浅野内匠頭長矩が切腹してから一年九ケ月後深夜……
 大石内蔵助や赤穂浪士ら四十七人が江戸本所の吉良邸に到着した。
 表門には大石と寺坂吉衛門、裏門には内蔵助の息子・主税らが張り込んだ。
 内蔵助が軍扇をふるう。
 と、ハシゴが架けられ、赤穂浪士たちが梯子を上って、屋敷内部に密かに入り、門を開けた。赤穂浪士たちはすぐに門をくぐると、迅速な行動に出た。
 上杉の派遣侍たちの寝床の玄関を釘で打ち、出られないようにしたのだ。
 物音で、寝入っていた上杉の者たちがいきり立った。
 大石内蔵助はでんでん太鼓を叩いて、
「討ち入りにござる!」といった。
「表に百二十人!」
「裏に百人!」
 赤穂浪士たちはそう叫んで、大軍勢に見せ掛けようとした。上杉の者たちは震えあがる。……そんなにきたのか?!
「われら赤穂浪士! 吉良上野介の御首頂戴いたすため討ち入ってござる! 何とぞ武士の情けを!」
 直ぐにとなりの藩邸から照明用の提灯が無数にかかげられた。
「かたじけない!」
 斬り合いが始まった。
「やあぁっ!」
 次々と斬られていく上杉武士たち……赤穂浪士も氷のはった池に落ちながらも奮戦する。「吉良はどこじゃ~っ!」
 赤穂浪士たちは鋭い刀を抜いては斬り、血しぶきを浴びながら吉良を探した。
「女子供にはかまうな!」
 女や子供たちが逃げ惑う。
 大石内蔵助は「行け!」といって、女たちを逃がした。寺坂はその様子をつぶさに見ていた。「寺坂吉衛門……よく、われらの討ち入りを見逃さず記憶するのだぞ!」
 内蔵助は、本懐を達したら足軽の寺坂吉衛門を逃がす気でいた。
 吉良の寝床には本人はいなかった。逃げたらしい。
 ふとんから飛び起きたような後がある。
「まだ温かい……まだ近くにいるぞ!」
 すると、赤穂浪士たちは壁が回転するのに気付いた。
「……秘密のむけ道?! …吉良は逃げ落ちたか……?!」
「逃がした?!」
「ええい! もっとよく探すのじゃ!」
  女の衣も羽織った者が内蔵助の元へ近付いた。「なに奴?!」
 それは吉良ではなかった。上杉の者だった。男だ。
 内蔵助に太刀を浴びせる。内蔵助は斬り倒した。「吉良を探すのじゃ!」
「逃がしたか?!」
「我らの武運もここまでか……屋敷に火をかけて切腹して果てよう!」
 内蔵助は「早まるな! もっとよく探すのじゃ!」と激を飛ばす。
「吉良がいません!」
 その頃、赤穂浪士が吉良上野介邸に討ち入ったという知らせが、上杉邸にも届いた。
 上杉綱憲は「父上が危ない! 出陣じゃ!」といきまいた。
 しかし、家臣・千坂兵部がとおせんぼした。
「殿! 上杉がここで出れば……上杉家も咎められまする! 殿にはいかせる訳にはまいりませぬ!」と必死に嘆願した。
「しかし……父上が…!」
「殿は米沢の主でござる! どうしてもいきたいのならこの千坂を斬って出陣なされ!」 上杉綱憲は愕然として、膝をつき、こぶしにぎりしめて、
「……無念じゃ」と呟いた。
 吉良はまだ見付からない。
 まさか……女子たちにまぎれて逃げたのか?!
 平吾郎と名のっていた赤穂浪士は、おつやと遭遇した。
「……やはり…あなたは赤穂の浪士だったのですね?!」
「それは…」続けた。「でも、おつやちゃんを好きだってことは嘘じゃなかったよ! 頼む! おつやちゃん……吉良上野介はどこにいるんだい! 武士の情けを…」
「やああっ!」
 上杉の武士がおつやを斬りつけた。
「おつやちゃん!」
「やああ~っ!」つばぜりあいになる。やがて、上杉侍は斬られて死んだ。
 おつやはすでに息がなかった。
「赤穂浪士の死者は?」
「ひとりもおりませんが……深手一名…軽症三名…」
 やがて、ちっぽけな薪小屋に赤穂浪士たちは注目した。
 扉をがらりと開けると、上杉の者たちが斬りかかってきた。
 斬り捨てる。
 やがて、白髪の寝間着姿の老人が発見された。
「……吉良じゃ!」
 ぴ~っと笛を吹く。
 吉良がいたという合図である。
 やがて吉良はひきずりだされ、赤穂浪士たちは吉良上野介を囲んで山のようになり、威嚇した。
「わしのおいぼれ首をとって何とする…?」上野介はぶるぶる震えながら呟くようにいった。まさに哀れな老人だった。雪の庭に惨めにがくりと座り込んでいる……
「各々方、我らの苦労むくわれたぞ!」
 内蔵助は涙声で、いった。
 一同も泣いていた。
「吉良殿! ご自害なされ」内蔵助は切腹用の脇刺しを差し出した。
「わしは……吉良ではない。…た…只の老人…」
 内蔵助は吉良の横に立って、刀を抜いた。
「我らは播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩殿の元家臣……吉良上野介殿の御首を頂戴いたす!」大石内蔵助は刀を降り下ろした。
 吉良上野介の首がはねられる。
「えいえいおーっ! えいえいおーっ!」
 赤穂浪士たちは勝ち名乗りをあげる。
 内蔵助は、本懐を達したのち足軽の寺坂吉衛門だけを逃がした。
 赤穂浪士四十六人は、吉良の御首を袋かぶせ吊して、太鼓を鳴らしながら行進した。
 早朝にもかかわらず江戸の庶民は拍車喝采である。
「よくやった~っ!」
「偉いぞ!」
「お前たちは本物の武士だ!」
 その報告は早朝、上様こと徳川綱吉にも伝えられた。
「義……か。大石内蔵助は不正義じゃ。しかし…世の中は忠臣と喝采するだろう」
 柳沢吉保も「まことに…」というだけだった。
 阿久里の元にも報告が届いた。
「ご本懐を達したと……?」

  赤穂浪士四十六人は、吉良の御首を播州赤穂元藩主・浅野内匠頭長矩の墓のある泉岳寺まで行進し、吉良の御首を亡殿の墓に捧げた。
「殿! 吉良の御首をおもちしました! われら家臣の心中ご察し下され。このものたちは家を捨て、家族を捨て、本懐を達したのでござりまする! われらもすぐに殿の元へいき、ご拝謁し、申しあげれば……なにとぞご理解を!」
 大石内蔵助は涙声で墓の前で平伏していた。一同も平伏し、号泣している。
「ご一同さま。………ご苦労さまでござりました。上は七十六から下は十六まで、よくぞこの内蔵助に仕えてくれありがとうごりました……。
 まもなく、お上よりご沙汰がござりましょう。殿の元へまいりましょう。われらはこれでお別れにこざる」
 大石内蔵助たちは次々と自害した。
 しかし、歴史は彼等を”英雄”としてまつりあげた。
 阿久里は思う。
「死ぬことだけが、忠義なのでしょうか?」
 確かに赤穂浪士四十六人は忠義の者たちに違いない。忠義といえば忠義だ。しかし、その言葉は歴史に大きな疑問を投げ掛けた。
 真の忠義とは何か?
 それはもはや大石内蔵助たちしかわからぬことである。        おわり


         あとがき



  本当は「忠臣蔵」にあとがきなど必要ない。
 すでに完結している。ここでは元禄時代とはなんだったのかについて末筆したい。
 元禄時代とは華やかな平和な時代だった。
 元禄六年には大阪の鑓屋町で井原西鶴が死んだ。元禄七年には南御堂の前で松尾芭蕉が死んだ。元禄八年には貨幣改鋳が行われた。元禄十四年には播州赤穂元藩主・浅野内匠頭長矩が刀傷事件を起こし切腹した年。元禄十五年には赤穂浪士四十七人が吉良邸に討ち入り自決した年。元禄十六年には近松門左衛門の「曾根崎心中」が発表された年である。
 かくも華やいだ時代であった。
 その中で、「忠臣蔵」はかくもウエートの重い事件だ。
 日本人の心の中には「子孫に美田を残さず」という人物を英雄視するところがある。
 悲劇的最期となった源義経、孤軍奮闘した楠木正成、加藤清正や悲劇の天下人・織田信長、上杉謙信などである。
 また大石内蔵助や新選組たちもそのひとりだろう。
 日本人は最期は悲劇的に殉職していった者たちへの判官贔屓があり、悲しく死ぬ者が英雄だと思っている。だから、義経も大石内蔵助や新選組たちも人気がある。
「忠臣蔵」という物語が成立するのは、最後まで赤穂浪士たち四十七人が吉良邸に討ち入って見事に上野介の首をとったからだ。これは日本歴史史上、唯一といっていい。
 もちろん、日本にも仇討ちの例は他にもあった。
 しかし、それは親類縁者が仇を討つ……例えば妻の愛人を討つとか親の仇を討つというものはあった。しかし、「忠臣蔵」のように親類でもない血の通ってない元家臣が主君の仇を討つなどというのは存在してなかった。
 内匠頭の血族は存在していた。実の弟大学長広をはじめ、分家の浅野美濃守(内匠頭の父方の叔母の子)、戸田采女正(内匠頭の母方の叔母の子)などである。
 しかし、血族らは仇討ちに加わらないばかりか積極的に反対していた。
 それがなぜか、大石内蔵助たちが討ち入って吉良の首をとり、切腹したのだから世間の注目を浴びるのは当然である。
 阿久里はいう。
「死ぬことだけが、忠義なのでしょうか?」
 確かに赤穂浪士四十六人は忠義の者たちに違いない。忠義といえば忠義だ。しかし、その言葉は歴史に大きな疑問を投げ掛けた。
 真の忠義とは何か?
 それはもはや大石内蔵助たちしかわからぬことであるのは確かである。   おわり

赤穂藩
浅野内匠頭 - 大石内蔵助 - 瑤泉院 - 浅野大学 - 大野九郎兵衛 - 安井彦右衛門 - 藤井又左衛門 - 近藤源八正憲 - 岡林杢之助直之 - 寺井玄渓
吉良家
吉良上野介 - 上杉富子 - 吉良左兵衛義周 - 清水一学 - 山吉新八郎 - 小林平八郎央通 - 左右田孫兵衛重次 - 斎藤宮内忠長 - 鳥居利右衛門正次
赤穂四十七士
大石主税 - 原惣右衛門 - 片岡源五右衛門 - 堀部弥兵衛 - 堀部安兵衛 - 吉田忠左衛門 - 吉田沢右衛門 - 近松勘六 - 間瀬久太夫 - 間瀬孫九郎 - 赤埴源蔵 - 潮田又之丞 - 富森助右衛門 - 不破数右衛門 - 岡野金右衛門 - 小野寺十内 - 小野寺幸右衛門 - 木村岡右衛門 - 奥田孫太夫 - 奥田貞右衛門 - 早水藤左衛門 - 矢田五郎右衛門 - 大石瀬左衛門 - 礒貝十郎左衛門 - 間喜兵衛 - 間十次郎 - 間新六 - 中村勘助 - 千馬三郎兵衛 - 菅谷半之丞 - 村松喜兵衛 - 村松三太夫 - 倉橋伝助 - 岡島八十右衛門 - 大高源吾 - 矢頭右衛門七 - 勝田新左衛門 - 武林唯七 - 前原伊助 - 貝賀弥左衛門 - 杉野十平次 - 神崎与五郎 - 三村次郎左衛門 - 横川勘平 - 茅野和助 - 寺坂吉右衛門
脱盟者
小山源五左衛門 - 岡本次郎左衛門 - 奥野将監 - 小山田庄左衛門 - 萱野三平 - 進藤源四郎 - 瀬尾孫左衛門 - 高田郡兵衛 - 多川九左衛門 - 田中貞四郎 - 橋本平左衛門 - 毛利小平太
その他関係者
柳沢吉保 - 荻生徂徠 - 色部又四郎 - 千坂兵部 - 山鹿素行 - 梶川与惣兵衛 - 宝井其角 - 天野屋利兵衛
関係箇所
泉岳寺 - 花岳寺 - 本所松坂町公園 - 萬昌院功運寺 - 大石神社 - 赤穂城 

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年末年始スペシャル特別掲載 蒼に、月に。忠臣蔵⑥~忠臣蔵・赤穂浪人たちの真実!大石内蔵助の策略と真摯。我が心の忠臣蔵~

2022年12月22日 11時33分25秒 | 日記










         6 時はきたり





  十一月十五日、大石内蔵助は堀部の道場にいた。
 岡山田、高田が脱落していった。
「あの野郎ども! 最後になっておじけづきおったか!」
 堀部弥兵衛は歯をぎりぎりいわせた。
「追いかけていって斬り殺してくれる!」
「まて!」
 内蔵助はとめた。「討ち入りの無理じいはしない。抜けたければ誰ぞかでも抜けたらいい。勝手にするのじゃ」
「しかし……ご家老……もう四十八名…しかも足軽の寺坂吉衛門や病の毛利をいれてもそれだけの人数ですぞ?!」
「十分な数ではないか! 二~三人でないだけありがたい」
「ご家老……」
「よいか!」大石内蔵助は吉良邸の図面を指差し「討ち入りは十二月十四日と決めた!
表門にわしが、裏門は主税がたつ。あとは手筈通りじゃ!」
「吉良はここにいるそうでごさりまする」
「そうか……深夜がいいだろう。寝静まった刻を狙うのじゃ!」
「はっ!」
 一同はいよいよ興奮した。
 やっと………本懐をとげられる!
 吉良の御首を頂くのじゃ!
「吉良の首がとれねばその場で切腹して果てよう!」
 内蔵助はいう。「すべては吉良の首ただひとつじゃ!」

  毛利小兵衛太は労咳で、もう命が消えようとしていた。また喀血した。
「あんた! しっかりおし!」
「わし……も……吉良…の首をとりに討ち入りたい…いよいよ今夜だぞ! わしは…」
「あんた! そんな体じゃ無理だよ!」
 妻のしのは必死にすがった。
 毛利小兵衛太は刀に手をかけようとする。
 雪が降ってきた。
「しの……堀部さまの道場にみな集まっておる。…しの……今夜こそ…われらの苦労が報いられるのじゃ…いかせて…く…れ」
「そんな体じゃ斬られておわりだよ! あんた!」しのは涙を流さずにはおれなかった。
  内蔵助は何の理由も告げず、阿久里の屋敷を訪ねた。
「……内蔵助」しかし、阿久里には大石内蔵助の決意がよくわかっていた。
 平伏したあと、内蔵助は「われらは旅に出ます。もう会うこともありませんかと存じまする。亡君・浅野内匠頭さまにもよろしうお伝えくだされ」といった。
「……内蔵助……今このときか……?」
「殿のご無念……参じたてまつりまする」
 内蔵助は平伏して、去った。
  堀部の道場には密かに、浪人たちが集まっていた。もう夜更けだった。
 雪がしんしんとふってくる。
 堀部安兵衛は妻に「こう、母上を頼むぞ」といった。
 義父・堀部弥兵衛も、
「五十年よくわしにつかえたな。わしはもう七十六だが、立派に本懐を遂げてみせようぞ」 と死別の言葉を老婆となった妻にかけた。
  一同、四十七人は集まった。
 皆、武装し、黒い揃いのハッピ姿だ。袖におのおのの名前が書いてあり、山形模様が印象深い……
 大石たちは兜に鎧を着た。完全武装である。
 内蔵助は、
「一同そろったか?!」という。
「はっ!」
 ひとりが「毛利小兵衛太がまだでござりまする!」という。
 もう深夜だった。
「そうか……ではもう少し待とう。人数が多ければ多いほどよい」
  しかし、毛利小兵衛太はとうとうこなかった。
「裏切り者……には…なり…とう…ない…」といって喀血して死んだのだ。
 妻のしのは「お前さま!」と遺体にすがった。
 号泣した。
 大石は二時間ほどまってから、
「よし! もうよい! ご一同まいろう!」と激を飛ばした。
「はっ!」
 こうして、刺客たちはうっすら積もる雪道を静かに進んだ。
 その数、四十七人……
 赤穂藩士は三百八十七人いたというからそのごく一部である。
「狙うはただひとつ……御敵、吉良上野介の首じゃ!」
 こうして、赤穂浪士・四十七人の刺客たちは駆け出した。
 誰もわからぬ行動で、上杉も油断した。
 もう深夜で、寝入っていたものも大勢いたという。
 こうして、歴史に名高い「吉良邸討ち入り」が開始、された。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年末年始スペシャル特別掲載 蒼に、月に。忠臣蔵⑤~忠臣蔵・赤穂浪人たちの真実!大石内蔵助の策略と真摯。我が心の忠臣蔵~

2022年12月22日 11時31分16秒 | 日記







         5 準備







  堀部安兵衛は「もう待てぬ!」
  と焦っていた。「とっくに殿の一周忌が過ぎたというのにあの昼行灯め! 放蕩ばかり続けているという……まったくの愚か者だ!」
「待て! 安兵衛! 大石内蔵助殿を信じるのだ!」
 そういったのは義父・堀部弥兵衛だった。
 もうそろそろ浅野家の家臣はバラバラになり、もうあと一年も経てば、仇討ちの数さえ集められなくなるだろう。
「しかし義父上、吉良は老人……いつ死ぬかも知れませぬ!」
「安兵衛! 大石内蔵助殿を信じるのだ! ご家老はきっと考えがあって廓遊びをなされておるのだろう」
「……上杉の間者を糊塗(ごまかす)するためにですか?!」
「そうだと信じたい」
 いっている堀部弥兵衛にも、確信がなかった。
 大石内蔵助が何も考えずに遊んでいるとは思いたくなかった。
 そんな馬鹿な男がいるだろうか?
 いや、いる。大石内蔵助とはそういう男である。しかし、後年、歌舞伎や書物などで内蔵助は上杉たちを騙すために放蕩を続け、女や酒に酔ったふりをしていた…などと改められた。忠臣蔵の主役が、放蕩していただけなのでは不様であるからだ。

 さてここで徳川幕府体制による禄高と年貢について説明しなければならないだろう。 まず大名や家臣の禄高は実収とはだいぶ違っていたという。例えば、赤穂藩浅野内匠頭家は、内匠頭長矩の祖父長直の得た禄高は「五万八千八百九十七石……」などと細かく書いてある。一見するとまことしやかだが、本当の実収は四分の二であったという。農業の収穫だから収益に差があるのは当然だが、同じ「五万石の禄高」……といってもかなり差があった。
 しかし、誰も本音をいわない。
 ……元禄時代は農民への搾取が凄まじかった…というのは樹を見て森をみずだという。 建て前は「六公四民」ということだが、この時代、全国の八割りが農民だった。
 つまり、八割り近くの農民は四割りの米で生活し、二割りだけ収めていた。所詮は米であるから、食べる量にも限りがある。どんな金持ちでもそんなにいらない。
 米ではなく、銭の時代にならなければ、経済の行方の先は見えている。
 そこで米の先物取引(デリバティブ)が生まれた訳だ。

  内蔵助はまたも放蕩を続けていた。
 愛人を囲い、屋敷を借りてお可留というまだ十代の小娘と同棲しだしたのだ。
 これには赤穂浪人たちも呆れた。
 陰から見て、
「あれは怪しい…」
「……なにかあるかも知れぬ」
「子を孕ませるかも知れない。あの昼行灯め!」
 元・家臣たちは陰で激怒となった。あんな小娘と同棲などと……ご家老は頭がどうかしたのではないか?
「お茶どす」
 お可留は縁側で、お茶を飲み大石と語り合って微笑んでいた。
「……お可留は可愛いのう」
 内蔵助は満足そうである。お可留はどうも未通娘(処女)の京娘のようだ。
「……怪しい。夜な夜ないやらしいこともやっているようだ。あの昼行灯め! ふぬけたか! ふぬけめ!」
 赤穂浪人たちは呆れて、場を去った。
 そして、当然ながらお可留は妊娠してしまう。
 お可留はその後、女の子を生むが、その後の詳しい記録がない。
 大石家も女児をひきとらなかったし、お可留に経済的援助もしなかった。所詮は愛人と外子である。内蔵助の妻りくの恨み具合が知れるエピソードではある。
 江戸では吉良上野介が余裕で女を抱いていた。
「……吉良さま! はあはあ…」
「おつや…はあはあ…」
 行為が終わると、吉良は笑って、
「巷では赤穂浪人たちがわしを討ち取るとか申しておる」
「…まあ」
「しかし、やつらは赤穂浪士ではない。あほう浪士じゃ。大石ではない軽石じゃ。わははは…あんな連中恐れるの足りぬわ」
 吉良は馬鹿らしい放蕩を続けている大石内蔵助を軽視するようになっていた。
 歌舞伎や小説では、これが狙いだった、となっている。
つまり、吉良を糊塗(騙す)することが目的だったという訳だ。
 だが、違う。
 大石内蔵助はお可留という小娘とやりたくて”かこった”だけのことだ。
 あまり、不用意に内蔵助を「英雄視」すると歴史がわからなくなる恐れがある。


 元禄十五年秋。
  赤穂浪士・毛利小兵衛太は江戸のアバラ屋で、妻・しのと抱きあっているところだった。長い長い抱擁……
 毛利小兵衛太は「本懐をとげれば、お主ともこうして抱き合うことも出来なくなる。これは今後の生活のたしにしてくれ。額は少ないが……」といって、しのに金三両を渡した。 本懐とは、当然ながら「吉良邸討ち入り」「吉良の御首をとること」である。
「お前さん……本当に討ちいる気なのですか…?」
「当たり前だ! しの…わしは腰抜け侍ではないぞ! 吉良にひとあわ吹かせてやるのだ」「だけどお前さん…」しのは泣いた。「お前さんがいなくなったら、しのは悲しうござりまする。老人の吉良の首などなんの得になるのです?」
「……仇を討つのじゃ。このまま赤穂藩士たちが何もせぬと……腰抜けと一生いわれ続ける。命一代名は末代じゃ! のちに歴史がどちらが正しかったか判断するのじゃ」
「しかし、歴史などといわれましても…」
「もうよい!」
 毛利は訝しがった。「武士の魂のわからぬ女子め」
「わたしは武士の魂より、お前さんの魂のほうが大事ですよ」
 毛利小兵衛太は黙りこんだ。
 確かに、吉良の首をとればいいだけだが、残された妻はどうなるだろう……?
 小兵衛太は、大石内蔵助のような単純な思考回路は持ち合わせていない。
 いろいろ考えると頭が痛くなってきた。
 彼には一晩の熟睡と、女子の慰めが是非とも必要だった。


  吉良邸は増築の真っ最中だった。
 この機会に赤穂浪士たちがスキを狙ってくるのではないかと、上杉の侍たちが辺りを見廻っていた。赤穂の間者が大工姿に化けて、情報収集しているところだった。
「あら、平吾郎さん?」
 吉良邸から出てきたおつやが、平吾郎に声をかけた。
「おつやちゃん!」
 間者は不審に思われないように微笑んだ。
「何をしてらっしゃるの? 平吾郎さん?」
「なにって……おつやちゃんを待ってたんだよぉ。俺はおつやちゃんのことが好きだから」「まぁ」
 おつやは照れた。
 おつやは大工の棟梁の娘だった。父親は吉良邸の図面ももっているはずだ。
 このおつやは売春婦のような性格の女子で、吉良とも何度が寝ている。
 しかし、いつもいやいや抱かれているだけで、男から「愛しておる」「好いておる」といわれたためしがない。おつやは嬉しかった。
 上杉の侍たちがやってきた。
「おい! お主! ここで何をしておる?!」
「いえ……あっしは大工の平吾郎と申しまして……おつやさんに会いに…」
「怪しいやつだ! 赤穂の間者ではあるまいな?!」
「めっそうもない!」
「この怪しいやつめ!」上杉の田舎侍たちは平吾郎にリンチをくわえた。
 ボコボコにされる。
 血だらけになりながら、彼は何とか堀部の開く道場まで着いた。
「どうした?!」
「……上杉の連中に…や…られた。だが、まだ吉良は生きているようだ。…ああして…警護しているところをみると…そう思う」ぜいぜい息をしながら、間者役の男はいった。
「とにかく、誰か医者を!」
「いや……怪しまれる。われらが介護する。まぁ、あがれ!」
 堀部安兵衛は「もう待てぬ!」と苛立った。
「あの……昼行灯め! 今度は小娘らしい」

  京・山科の大石邸には、本蔵の妻・戸無瀬と娘の小滝が訪ねてきていた。
 りくは「主人は外出していまして……」と動揺した。
 まさか小娘の愛人と別の家に住んでいるとはいいだせなかった。
「うかがったのは、主税さまとこの子との縁談を考えなおして頂ければと思いまして…」 内蔵助の妻・りくは「……どういうことです?」と問うた。
「娘がどうしても主税さまを忘れられないと申しまして」
「まあ! 小滝さん。それは本当ですの?」
 小滝は頬を真っ赤にして「はい。わたしは主税さまの妻になりとうござります」という。可愛い娘だ。しかし、主税は、
「それはならぬ」という。
「なぜにござりまするか?! 小滝のことが嫌いでござりまするか?!」
「いや! わしは小滝が大好きである。しかし、吉良のことがある。もうわしは浪人の子……食べさせてやれぬ」
「それはお父上とともに討ちいるということにござりまするか?」
「そうじゃ! わしは卑怯者にはなりとうない!」
「卑怯者けっこうではごさりませぬか……この小滝と一緒になってどこかで誰も知らないところで暮らしてもバチは当たりませぬ。赤子だってつくって……畑を耕し…」
「そのような暮らしは御免こうむる! 主君の仇を討たずして何が侍ぞ?!」
「主税さまはもう侍ではありませぬ! この小滝と結ばれてもいいはずです!」
「……小滝…すまぬ。出来ぬ誘いじゃ」
 主税は後ろ髪引かれる思いで、場を去った。
「………主税さま!」
 小滝は号泣した。
 主税の最期が見える気がした。

  大石内蔵助と息子の主税と共周り四十数名は名をいつわり、江戸へと入った。
 討ち入りの数か月前のことである。
 十月、瀬尾孫左衛門は逃亡しようとして捕まった。しかし、大石は許した。
「孫左衛門……討ち入らないと決めたのじゃな?」
 かれは何もいわなかった。
「吉良邸に討ち入るも討ち入らぬもそちの勝手じゃ。好きにするがよい。ただ頼みがあるのじゃ」
「……頼みとは?」
 やっと瀬尾孫左衛門は声を発した。
「お可留という女がおる。わしの愛人じゃ。守ってやってくれ」
 内蔵助は孫左衛門に四百両渡した。ずっしりと重い。
「……これで足りるじゃろうて」
「ご家老………拙者を信じるのですか? この銭をもってどこかへ逃げるかも…」
「かまわん! お主の好きにせい」
 内蔵助はにやりとした。

  赤穂浪士・毛利小兵衛太は江戸のアバラ屋で、咳き込むことが多くなっていた。
 どうやら労咳(肺結核)のようであった。
 床に伏すことが多くなった。
「早くなおって……みなとともに憎っくき吉良上野介の御首を……頂戴しなければ…」
 雨がざあざあと降ってきた。
「雨は嫌いじゃ。雨がふると体が痛む…ごほごほ」
 小兵衛太は血を吐いた。
「お前さん?!」妻のしのは泣いた。もう主人は永くはないだろう……

  赤穂の間者・平吾郎はおつやに近付いていた。
「おつやちゃんは本当に可愛いねぇ」
「やだぁ、もう平吾郎さんったら…これ、おとっつぁんが持っていた吉良さまの邸宅の図面よ。欲しがってたでしょ?」
「ありがたい」
「でも……どうして吉良さまの邸宅の図面なんてみたいの?」
「あっしは大工だから、大好きなおつやちゃんのおとっつぁんがどんな仕事してるか知りたいだけさ」
「……それだけ?」
「そうとも」
「まさか! ……あなたは赤穂浪士じゃないだろうね?」
 おつやはふざけてきいた。確信はなかった。
「まさか!」平吾郎と称している男は笑った。「それよりご隠居さまはどこに寝てらっしゃるんだい?」
「ここじゃないの? でももう少しで米沢にいくっていってたわよ」
「米沢へ?! 上杉家のところへいくのかい?」
「ええ。そんなこといってたような…」
「とにかく、この図面写させてもらうよ。仕事のためだからさ」
「いいけど……そのまえにやることがあるんじゃないの?」
「なにさ?」
「やだぁ! 抱いてよ、平吾郎さん」
 男はおつやを押し倒し、ふたりは愛しあった。

「なに?! 米沢にいくだと!」
 赤穂浪士たちはいきり立った。米沢にいかれたのでは首はとれない。
 播州赤穂藩の再興はかなわなかった。内匠頭の弟・大学は広島藩お預かりとなり、藩は正式になくなった。
「吉良は年寄りじゃ。すぐに老衰死するかも知れぬ」
「……米沢にいかれたのではおわりじゃ」
 大石内蔵助は、
「よいかみなのもの! 吉良邸に討ち入り、吉良の御首を頂くのじゃ!」と激を飛ばした。「おう!」
 四十七名は声をあげた。そして、泣いた。世にゆう円山会議と神文返しで意見は一致。 ……やっと本懐を遂げる日がきた!                       


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年末年始スペシャル特別掲載 蒼に、月に。忠臣蔵④~忠臣蔵・赤穂浪人たちの真実!大石内蔵助の策略と真摯。我が心の忠臣蔵~

2022年12月22日 11時29分34秒 | 日記








         4 放蕩






  ここで少し、なぜ吉良家と上杉家は親密なのかについて語らなければなるまい。
上杉家とは、当然ながら家祖は上杉謙信である。(拙著『上杉謙信』参照)
 上杉謙信はホモではなかったが変人で、嫁ももらわず子もなかった。
 そこで姉の子を養子(のちの景勝)にし、また北条氏の子(景虎)も養子にした。時代は戦国時代……そんな中、謙信は酒の飲み過ぎによる脳溢血で死んでしまう。
 当然ながら、上杉家は景勝と景虎による内戦「お館の乱」がおこる。
 そこで景勝が勝って上杉二代目として越後(新潟県)に君臨するが、秀吉の天下になると戦わずして景勝は服従する。そして秀吉により会津(福島県)二百七十万石に転封される。   が、やがて秀吉も数年後には死んで、ふたたび石田三成(豊臣・西軍)と徳川家康による東軍が関ケ原で激突。上杉は西側について敗北して、家康により会津(福島県)二百七十万石より出羽米沢(山形県米沢市)三十万石へと減封され、そこに移りすんだ。
 本来なら徳川に歯向かった訳だから、藩取り潰しも考えられた。が、「名門だから…」という理由で禄高と領土を減封されただけで済んだのである。
 そんな上杉家は子宝に恵まれないもので、景勝の次の藩主もまた養子だった。
 謙信から数えて四代目が上杉綱勝で、このひとは二十七歳であやしげな病死をしている。このひとには子も兄弟もいない。かろうじて妹にあたる上杉三の姫・富子と吉良上野介の間に出来た子だけがいた。
 そこで幕府は、
「謙信以来の名門の藩を取り潰すには惜しい」
 として、外孫にあたる吉良三郎を養子として上杉家に迎え、領地を三十万石から十五万石に減封して上杉家を存命させた。この三郎が、のちの上杉綱憲である。
 米沢藩主・上杉綱憲と吉良上野介は親子という訳だ。
 そこで、上杉のものが吉良邸に登場する……という訳である。

  話しを少し戻す。
 赤穂といえば塩である。しかし、元禄時代の前に血ヘドの吐く思いをして改革を行ったのは大石内蔵助ではなかった。それは大野九郎兵衛という男である。
「塩はもう伸びぬ。……わしは赤穂の塩がこれ以上荒れねばとそれだけを心配しておる」 大野は弱音を吐いた。
 せっかく改革を行って塩が軌道にのりかかったときに、また塩業が衰退しだしたのだ。しかも、大野は改革でリストラして人減らしを行っており、藩内での評判は最悪だった。 この大野という男は改革の才能をかわれて六百五十石の家老にまで成り上がったのだが、それでも何もしてない若造の大石内蔵助より序列は下で、禄は半分以下だったという。大野は不満で苦悩していたに違いない。
 しかし、そこに、
「それは違います。よそに新塩田ができたのなら、赤穂はさらにその先をいくやりかたでご改革をすればよろしいではありませぬか。そのための方法はあります」
 といいだす者が現れる。
 小説や映画やテレビドラマでは、石野七郎次という名の若者(架空の人物)として集約されている経済技術官僚である。
 この石野七郎次数正は、実在した五~七人の官僚をひとりに集約した架空の人物である。  この架空の人物のしたことは、戸島新浜の造成、塩の品質統一、俵の規格統一、薪柴の共同購入制度の採用とそれに対する課税(煙役)など、すべて事実として行われたことであるという。また赤穂藩取潰しのあとでも、塩事業管理のために団体(組)がつくられた。 浪人となった赤穂藩士たちが、食いぶちのために始めたものだという。


  播州赤穂城明け渡しから半年が経っていた。
 大石内蔵助は主席家老として残務処理のために江戸にいくことになった。
 上杉は敏感になっていた。
 すでに赤穂には何人もの間者を潜ませていた。
「内蔵助らが吉良邸へ討ちいるのではないか……」そんな憶測が飛び交っていた。
 内蔵助の息子・主税は、
「父上、とうとうやるのですね?」と尋ねた。
 すると内蔵助は、
「残務処理にいくだけじゃ」という。
「吉良の御首は……?」
「それは口外するでないぞ」
「しかし、それでは浪人となった藩士たちが納得しませぬ」
「主税!」内蔵助は強くいった。「急いては事を為損じる」
「……父上! 切腹もせず、討ち入りもせず……われらは世間に嘲笑されていまする」
「笑わせておけばよい」
 内蔵助は賀籠に乗り、共の者たちと江戸へ発った。
 その頃、江戸では堀部安兵護が偽名で町道場を開き、江戸を拠点に不破数右衛門らが吉良邸の様子を探っていた。
「どうだった?」
「上杉の連中がうようよいた! あれは腕がたつ者たちだぞ」
 不破数右衛門は溜め息をついた。
「それにしてもあの『昼行灯』め! もう殿の切腹から半年が経つというのに……なぜ吉良上野介の御首を討らなんだ?!」
 堀部安兵護は「内蔵助さまにも考えがあるのだろう」という。
「考え? ……こうしてる間にもどんどんと赤穂浪人たちが脱落していく……もう限界だ」「相手は老人、老衰でもして死なれたら……仇討ちどころではない」
「われらは笑い者になる」

  大石内蔵助は源蔵らをともない江戸についた。
 討ち入る訳ではなかった。
 まず幕府に顔をみせ、残務処理をして、亡殿・内匠頭の元正室、阿久里のもとを訪ねた。「大石内蔵助にござりまする」
 平伏した。
 まだ若い阿久里は、憔悴していたが、女子の色気はむんむんだった。
 内蔵助は思わず、帆柱立つところだった。
「……ごくろうでござりました」
 阿久里はか細い声でいった。
「ははっ!」
 その一方で、大石が江戸に着いたということで、米沢藩江戸邸の上杉家ではざわざわしていた。頭の少しお留守な綱憲のかわりに、側近で家老の千坂兵部が”内蔵助の動向”を探らせていた。
「どうじゃ? 赤穂たちは動くか?」
「いえ。動きませぬ」
 間者はいった。
「大石は動かぬと?」
「いまのころは…」
 千坂兵部は安堵して、
「やはり昼行灯という大石の噂は本当だったのか。しかし……用心は必要じゃ。なおも大石たちの動向を探れ!」
「はっ!」
 間者は去った。
  大石内蔵助らは山奥に引っ越していた。京の山科である。
 内蔵助の子供はいっぱいいたが、みなからかわれていた。
「赤穂浪士ではなくあほう浪士だ! あほう! あほう!」
「大石ではない軽石じゃ! 軽石じゃ!」
「なにを!」
 内蔵助のちいさな息子がいいかえそうとするが、今度は投石される。
「やめんか!」
 主税がとめた。子供たちは逃げていく。「あほう浪士~っ!」
「相手にするな!」
「しかし兄上、くやしうござりまする!」
「もう少しの辛抱じゃ! 今に世間をあっといわせてやる!」
 主税は願いをこめていった。
 ……かならずわれらは吉良の御首をとってみせる!
「江戸の連中をとめておいてほしい」内蔵助は江戸で元・家臣たちにそう告げて去った。

         
  内蔵助は江戸から戻り京で『廓遊び』にあけくれた。
 京女をはべらかせ、大酒をのみ、女を抱いた。
 いやらしいこともした。今でいうセクハラまがいのこともした。
 夜な夜な女子を相手にいやらしい行為をした。
 大石内蔵助が京・山科に移り住んだのは元禄十五年秋のことであった。
 それからは、仇討ちも忘れ、放蕩にふけった。
 女とのなには気持ちいいもので、内蔵助は快楽に酔っていた。
「忠臣蔵」の研究がすすむ中で、この大石内蔵助の業績らしき業績が見付からないという。このひとはおそらく家柄のよさだけで筆頭家老となり、四十四歳までただ「ムダ飯」を食っていた。それは、大石が千五百石の家老でありながら少年時代を除くと、藩お取潰し前には、一度も江戸にいってないことでもわかる。
 只の無用のひとだった訳だ。
 上杉や吉良を油断させるために放蕩を続けた訳ではなく、自然とそうなっただけのことだ。後で子を孕ませるお可留にしても、セックスが好きで妊娠までさせたのだ。
 こうした「無用の人」が何故あれほどの討ち入りが出来たのであろうか?
 歴史家は常に悩んでいる。
 こういう人物はどこにでもいるが、急に江戸時代の英雄になるのだから歴史は面白い。 たぶん周りの”仇討ち派”の勢いにおされたのであろうが、よくぞ吉良の首をとれたものだ。しかし、こういう無能な思考のひとだからこそ仇討ちという暴力テロを出来たともいえる。インテリならばあとのことを考えて、悩むものだ。
 ……残された妻や子はどうなるだろう? 周囲の評価は? 吉良の御首をとってどうするのか? 歴史に名を残せるか? 銭はどうするか?
 しかし、元来、単純な大石内蔵助はそこまで考えない。
 だからこそ大野九郎兵衛が改革を実行できたのであり、討ち入りまで出来たのだ。
 討ち入りまでの一年九ケ月もの間、浪人たちはいろいろな考えをもっていた。
「仇討ち派」「自然消滅派」「お家復興派」……
 しかし、大石内蔵助は態度を明確にしない。
 もし大石がインテリで、どこかの派閥に力を入れていたらたちまち分裂し、内ゲバがはじまっていただろうという。
  討ち入りの際も計画も立てず、おもに計画は吉田忠左衛門や原惚右衛門や堀部親子に立てさせている。よくいえば「無欲なひと」であり、ハッキリいえば「無能なひと」それが大石内蔵助であった。

  江戸では堀部安兵衛と妻のおそねが愛しあっているところだった。
 夜な夜なあえぎ声やうなる声、エロティックな声がきこえる。
 無理もない。まだ安兵衛は若い。妻だって若くて欲求不満だ。
 いやらしいことも必要なのだ。
 その朝、磯貝や原たちがやってきた。
「あの昼行灯は京で遊びまわっているそうじゃ!」
 磯貝は苦笑いした。
 安兵衛は「敵をあざむき、味方をあざむいているのか……」と大石を評価した。
「甘い! あの男は只、遊んでいるだけじゃ!」
「いや、あの方は上杉の間者たちを欺いているのだ」
「何にしても三月十四日までだ!」
「一周忌か」
 しかし、浅野内匠頭の一周忌がきても大石は動かなかった。
「どういうことなのだ?!」江戸の浪人たちはいぶかしがった。
「もう待てん! われらだけで吉良の御首を!」
「待て! 早まるな!」
「われらには忠義がある!」
「負け惜しみだ!」
 江戸の不穏な動きはおさまることを知らない。
 しかし、大石内蔵助は放蕩をやめなかった。
 芸子たちを抱き、酒を呑み、踊った。
 やがて、内蔵助は外にふらりと出て、茶屋の椅子に泥酔して横になってしまった。
 そこに薩摩藩士・村上が通りかかった。
「これは赤穂のご家老・大石内蔵助殿か!」
 村上は涙目でいった。「敵をあざむくためにこのような放蕩を続けるとは立派な方じゃ。 その勇気は信長公さえも越える。拙者、薩摩藩士・村上平衛門と申す!」
 しかし、内蔵助はぐうすか眠ったままだ。
「格好はどうあれ、その刀はするどく研がれていることでありましょう」
 内蔵助は動かず、酒くさい息で眠っている。
「吉良の首をとるのはこの刀でごわすか?」
 村上は大石の脇差しを手にとり、「この鋭い刃にて敵を…」抜いて見ると錆ついていた。京の女たちは大笑いだ。村上は拍子抜けした。
「いや……しかし、脇差しで無念を晴らす訳もない。この刀こそ……」
 内蔵助の長刀はやっぱり錆びていた。
 どっ! と笑いが起こる。
 村上は激昴して、「馬鹿らしい! この男は本当にふぬけになって放蕩を続けているだけじゃ!」と吐き捨てた。本当にそうだったのであろう。
 村上たちはひきあげた。
 京では嘲笑が止まらない。
       
 ……赤穂浪士ではなく、あほう浪士だ!
 ……あいつは大石ではない。軽石じゃ!
     
  ついに息子・主税は怒った。
「父上、いいかげんになさりませ!」
「主税……急ぐでないぞ! 急いてはことを為損じる」
「しかし…」主税は続けた。「もう亡殿の一周忌が過ぎました。江戸の元・藩士も「もう待てぬ」と申しております! このような大事なときに女子とたわむれるなど外道にござる!」
「焦るな………上杉の間者が潜んでおる」
「同じ浪人の橋本平左衛門は廓女と心中しました! 父上がはっきりと行動しないからです! 父上が殺したも同然です。他の家臣たちもばらばらです。みないなくなりまする! 父上とわたくしだけでは吉良は討てませぬ!」
「……主税……急ぐでないぞ!」
 内蔵助がまた酒を呑もうと杯を口にもっていくと、ついに主税もキレた。
「馬鹿親父!」
 杯を跳ね飛ばした。
「………主税……急ぐでない」大石内蔵助は余裕の微笑みを口に浮かべた。
  江戸の吉良邸では、出羽米沢の上杉家から腕のたつものが派遣されていた。
 稽古に力が入る。自然と騒がしくなる。
 吉良上野介は「うるさいのう。なにごとじゃ?!」と怪訝な顔でいう。
「綱憲さまからの派遣侍でござります。殿のお命を守るためです」
「ふん! 田舎侍どもめ! あほう侍など攻めてこぬわ!」吉良は笑った。      

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年末年始スペシャル特別掲載 蒼に、月に。忠臣蔵③~忠臣蔵・赤穂浪人たちの真実!大石内蔵助の策略と真摯。我が心の忠臣蔵~

2022年12月22日 11時27分47秒 | 日記







         3 大石内蔵助






  大石内蔵助は、
「城を枕に討ち死にしようぞ!」と血判状を集めていた。
 それに反対する者たちが現れた。いわゆる”仇討ち派”である。
 その中心的人物が、堀部安兵衛、堀部弥兵護義親子と奥田孫太夫、高田郡兵衛などであった。
 それは、浅野家とも内匠頭とも関係なく、御家が断絶となって主君が切腹したのに相手吉良はのうのうと生きているのは武士として禄を食んだものとして面目が立たない、というヒロイズムであるという。
 堀部安兵衛というのは元々は中山安兵衛といって、元禄七年に、友人の菅野六郎左衛門の助太刀に出て、高田の馬場で相手の村上庄左衛門ら三人を斬り殺したことで有名人となり、浅野家詰三百石の堀部弥兵衛の養子になった者だ。
 十石で仕官するのも難しい時代に、養子後、わずか三年で二百石とりの武士になったのだから大変な出世である。そんな安兵衛はスターであり、江戸で広がる”吉良憎し””仇討ち当然”の世論にひどく気にしたのも当然である。
 奥田孫太夫、高田郡兵衛も新参者だった。
 奥田孫太夫は内匠頭の母に付いて鳥羽の内藤家から浅野家に入ったものだが、延宝八年、内藤和泉守忠勝が増上寺で刀傷事件を起こしたために浅野家に居残る形となったという。 内藤家は改易となり、改易となった大名の家臣として負い目を感じていた。
 高田郡兵衛は槍の名手で「槍の郡兵衛」といわれスターだった。
 その腕をかわれて浅野家に仕官したのである。
 その点では堀部安兵衛と似ている。
 これらは「恥をかいてまで生き延びたくない」という面目があった。
 この人物たちは強行に「吉良を討つべし!」と主張し続けたという。


                  
  内蔵助の息子・主税は小滝という小娘と結納までしていた。
 まだ若いふたりである。
 主税はハンサムで、小滝は可愛い顔をした女子だった。
 ふたりは庭を散策していた。
 手を握ると、それだけで小滝は頬を赤らめた。純粋な女子である。
「主税さま………わらわたちは夫婦になるのでごさりまするね?」
 まだ未通娘(処女)の小滝は、主税と結ばれるのを心待ちにしていた。
 いやらしい気持ちはない。
 まだ無垢な小娘である。
 しかし、その愛しの彼は妙なことをいいだす。
「……別れる?」
 小滝とその母、どちらが驚いたかわからないくらいだった。
 大石主税がそういったのだ。
 小滝は可愛い顔に涙を浮かべて、
「なぜでござりまする?! 小滝が嫌いになったのでござりまするか?!」と涙声でいった。「……いやそうではない」
「……では…なぜ? 小滝に悪いところがあるなら改めますゆえ…」
「そうではない。そうではないのだ!」
 主税は無念そうに言った。
「小滝のことを嫌いになったのではないのですね?!」
「……そうじゃ! わしはお主が大好きじゃ」
「なら……なぜでござりまする?! 小滝は悲しうござりまする」
「小滝!」
「…はい」
「われは」主税は無念そうに続けた。「われは父とともに城を枕に死ぬのじゃ」
「えっ?!」
 小滝は驚愕した。「なにゆえ?!」きいた。
「……殿が殿中で「刀傷事件」を起こしたのは知っておろう?」
「………はい。それはもう」
「それで赤穂藩はなくなる。亡君さまの弟君・大学さまの跡目相続も危うい。われら家臣は……幕府への抗議として赤穂城を枕に切腹するのじゃ」
「そんな……主税さま。そんな……!」
「さらばじゃ……小滝!」
「……主税さま。そんな…そんな」
 小滝は歩き去る主税を、泣きながら目でおった。
  江戸の夜の酒場では、堀部安兵衛、高田郡兵衛、片岡源九右衛門、神崎与貞郎らが、「かならず吉良を討とう!」
 と話しあって酒を呑んでいた。
「いまさら血判状などと…馬鹿らしい」
「おじけづくものもいよう」磯貝十兵衛左衛門がやってきていった。ぐいっといっきにいった。「昼行灯め!」
「なにが城を枕に討ち死にじゃ! 吉良の首はどうなる?!」
 そんなとき、一同はぴっとはりつめた。「まて! 女!」
 女と男は逃げ始めた。
「まずい! 上杉の間者か?!」
「待て~っ!」
 女は駆けてどこかへいってしまった。
 しかし、男のほうはやってきた不破数左衛門が斬って捨てた。
 一同は遺体をみた。
「………上杉の間者か?」
「死体だけでわかるまい。血判状のことが上杉に知られたかも知れん」


  廻船門屋・天野屋……
 播州赤穂の塩商人にて大富豪である阿島八十右衛門は、大石と話していた。
「かのようなことになり申し訳ないのですが…」
 大石内蔵助は恐縮した。
「赤穂の塩で一代築きました」
 阿島八十右衛門は「殿が一大事にならしゃれたと………切腹されるとか」
 大石は「まだそのことは内密に」という。
「……藩札(藩の借金・不良再建)は焼いてしまったということに」
 八十右衛門はあっぱれな男だった。
 借金を忘れてくれるという。
  大石内蔵助の妻りくは息子の死に装束の白無垢を縫っていた。
「母上! いままでお世話になりありがとうごさりました」
 主税はいった。
 母は「武士の子として、恥ずかしくない死にかたをしなさい」と涙声でいう。
 主税は服をきた。
「立派な最期を!」
 りくは言った。
「ご安心ください! 武士の息子として最後を飾りましょうぞ!」
 主税はいった。
 りくは台所にいき、奉公人たちに最後の挨拶をした。奉公人たちは泣いて平伏している。「お前たちには世話になりました。お別れです」
 りくに共をさせて下さいという奉公人があった。
 のちに討ち入り後、生き証人となる寺坂吉衛門である。
「なりませぬ、寺坂! そなたは武士ではありませぬ」
「大石さまのお供を!」
「わが旦那さまは切腹するのですぞ!」
「かまいません!」
 寺坂吉衛門はいつまでも平伏していた。
 雨がふってきた。
 老人がきた。
 吉田忠左衛門だった。それでも、寺坂吉衛門は雨に濡れながら平伏していた。
 大石内蔵助は出迎えた。
 そして、寺坂吉衛門に気付いた。
「なにをしておる? 寺坂吉衛門」
「わたくしもご一緒いたしたく…」
「馬鹿者! おぬしは侍でも赤穂藩士でもないのだ! 命を粗末にするな!」
 内蔵助はきつく叱った。
「あっぱれ。奉公人まで”義”を貫こうとする」忠左衛門はほめた。
 大石は折れて、
「わかった。寺坂吉衛門……共をせよ! 亡殿もよろこぶだろうて…」
「ははっ!」
 寺坂吉衛門はさらに平伏した。
  播州赤穂城の中では、家臣一同が白無垢姿だった。死に装束だ。
「………矢頭五衛門、下がれ!」
 内蔵助はいった。
 矢頭五衛門は「なぜでござりまする?! われも赤穂の家臣としてご一緒しとうござりまする!」という。
「お主はまだ十六歳! 死に急ぐでない!」
「下がりませぬ!」
 五衛門はその場で切腹しようとした。「わたくしが最初に!」
「それにはおよばん!」
 内蔵助は強くいった。
 一同が沈黙する。そして、ざわざわと騒がしくなった。
 内蔵助が、
「切腹はしない。わしはお主たちを試したまでのこと」と言い出したからだ。
「どういうことです?! ご家老?!」
「われらが目指すのは吉良の御首それのみ! 仇討ちせず、亡殿がはたして喜ぶだろうかとわしは思う!」
 一同はざわざわとなる。大石は続けた。「もうすでに戦いは始まっておる! 上杉の間者がわれらは切腹すると伝えたであろう。しかし、同じ切腹するのならば吉良の御首を頂いたあとじゃ!」
 一同も「そうだそうだ!」と同調する。
「殿の仇を討たずして切腹しても……吉良が喜ぶだけじゃ!」
「吉良の首を斬りとって殿の墓にささげなければ腹の虫がおさまらぬわ」
 大石は「城は幕府に明け渡す。無血開城じゃ」という。
 なにやらわからぬが、家臣たちは熱っぽくなった。
 ……これは仇討ちしかない。
 しかし、吉良はまだぬくぬくと生き続けていることであろう。老人だからいずれ死ぬだろうが、その前に痛い思いをさせてやろう。
 こうして、城は開城された。
 大石はその早朝、赤穂城内を見てまわった。柱に内匠頭の幼少のおり、つけた刀傷があった。「吉良さえいなければこんなことには……」
 大石内蔵助は残念に思った。
 やがて、幕府の令により、播磨藩や毛利藩の武者たち一同が旗をなびかせて城にやってときた。嘉坂は大石にわびた。
「わしがいながらこんなことに……すまぬ」
「いいえ。これは幕府の決まりでござる」
「わしは内匠頭殿の弟君・大学さまの跡目を幕府に進言するつもりである」
「嘉坂さま! 播磨藩主のあなたさまからのそのお言葉ありがたく思いまする!」
 大石は男泣きした。
「お家再興のために嘆願するぞ! あんずるな大石殿! 上様は頭が堅いが理解ある方じゃ。きっと、弟君・大学さまの跡目となりましょうぞ」
「……たとえ一万石でも……大学さまが浅野家を継がれればありがたき…幸せ…」
「今回のお家断絶は幕府の片落ちじゃ。きっと上様がなんとかしてくださるじゃろう」
 大石は男泣きし崩れた。
  江戸では堀部安兵衛の愛人が、病死した頃だった。
 清水一角は、「ねんごろに弔え」と銭を渡した。
 安兵衛は「吉良め! 吉良め!」と怒りを爆発させている。
 赤穂家臣たちの間では脱落者が多数でた。
 討ち入りのときは四十七人だったのだから、その何倍もの家臣が脱落したことになる。「まて!」
 赤穂家臣の吾平太は船にのった。「待たぬと斬るぞ!」
 しかし、吾平太は、
「仇討ちなどに付き合ってられぬ。ただの浪人では食っていけぬ!」といい船で去った。 このような者が続出した。
 人間は”義”だけでは食べていけない。
 忠義だの忠臣だのといってみたところで、所詮はただの浪人。今でいうフリーターやニートだ。つきあってられない…と思っても無理はない。
 どこかに仕官しなければ給料ももらえない。
  上杉の千坂兵部は「なにっ?! 切腹せず開城しただと?!」と間者からきいた。
 上杉綱憲のブレーンでもあった千坂兵部は、何やらおそろしくなった。
 ………何を考えておる?! 大石内蔵助!

大石内蔵助が江戸へ「東下り」する際、『垣見五郎兵衛』うんぬんでの有名な話はフィクションなのであえて触れない。年末のドラマででも参照して頂きたい。
 その大石内蔵助は紋付き袴姿で、城から出た。
 そして、空虚な気分で城を眺めた。
「主税! よく見ておけ! 赤穂城の見納めぞ!」
 明朝卯の刻、のことであった。
 ……狙うは吉良上野介の御首!
 いよいよ、仇討ちのための長い戦いの始まりでも、あった。            


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年末年始スペシャル特別掲載 蒼に、月に。忠臣蔵②~忠臣蔵・赤穂浪人たちの真実!大石内蔵助の策略と真摯。我が心の忠臣蔵~

2022年12月22日 11時25分55秒 | 日記









        2 刀傷事件と危機






  浅野内匠頭はまた計られた。
殿中に参内したおり、烏帽子ひたたれだったが、他の大名はそうではなかった。
 前日、吉良に烏帽子で…といわれたためにその格好で参内したのだった。
「……どういうことなのじゃ?!」
 内匠頭は狼狽した。
 いろいろな大名が通り過ぎる。
 嘲笑されている。
「……殿。こちらへ」
 背後の襖の奥から囁く声がした。襖が開く。それは浅野家の家臣だった。
 内匠頭は静かに奥にひっこんだ。ゆっくりと襖が閉ざされる。
「殿……こんなこともあろうかと別の制服を用意しておりました」
「おお」内匠頭は家臣の心配りにおそれいった。「でかした」
「さっそく……気付かれぬうちにお着替え下され」
 内匠頭は烏帽子をとり、着替えた。
 そして、心の中で、
 ………おのれ! 吉良上野介め! なぜわしに烏帽子ひたたれで参内せよなどと嘘を申したのじゃ?! 騙して、われを嘲笑させるためか?! 許せぬ!
 と激怒した。
 それでも我慢した。
 嘉坂にいわれたように老人はもうすぐあの世にいく。それまでの辛抱だ。
 わしはまだ二十五……吉良はもう六十過ぎというではないか…
 着替えた内匠頭は、やってきた吉良にお辞儀した。
 吉良上野介は、びっくりしている様子だった。
 ……せっかくわしが浅野に恥をかかせる気でおったのに……
 その顔にはそう書いてあった。
 浅野内匠頭は謙虚な男だった。すぐにつくり笑顔で、
「ごきげんうるわしう」といった。
 吉良は何もいわない。
 浅野内匠頭は「勅使を迎えるには玄関でか、それとも奥でか……? 吉良殿お教え下され」と頭を下げた。
 吉良上野介は、ふん、と鼻を鳴らした。
 そして、「そなたはお迎え役であろう?! そのようなことも知らんのか!」
 と喝破した。強くいいはなった。罵倒に近かった。
「何かと思えば……口をパクパクパクパク……まるで鮒じゃ」
「……吉良殿…」
「お主は鮒じゃ。鮒じゃ。鮒侍じゃ!」
 浅野内匠頭は腹にすえかねた。
 ……鮒侍じゃと?!
 吉良上野介は、まだ嘲笑罵倒をやめない。
 扇子を取りだして、金具の部分で内匠頭の額を叩き、
「お主は鮒じゃ。鮒じゃ。鮒侍じゃ! この鮒侍め!」と悪口をいった。
 内匠頭は、吉良の白髪まじりの顔をぎろりと睨みつけた。
「……なんじゃ? その目は? 鮒侍め! わしを愚弄する気か?!」
「許せぬ!」
 内匠頭は、腰の脇差に手をかけた。
 すると、吉良は、
「ここは殿中じゃぞ!」といい放った。「殿中で刀を抜けばどういうことになるかお主だってわかっておろう?!」
 内匠頭は、愕然となって膝をついた。
 狼狽した。
 しかし、吉良への怒りは抑え切れない。それはぐらぐらと炎のように内匠頭の体に熱を帯びさせた。
 吉良は「できもせんことはせぬことじゃ。わはははは……この鮒侍め!」
 と笑った。
 そして、浅野内匠頭に背を見せて、歩き去ろうと歩きだした。
「鮒侍、鮒侍……わははは」嘲笑はやまない。
 ……吉良め! 吉良め!
 浅野内匠頭は激昴のあまり、顔を真っ赤にして刀に手をかけたままだった。どうにかなりそうだった。怒りが頭中に達して、全身が火照った。
「吉良上野介! 待て~っ!」
 ぎろりと憎しみの目で、六メートル先の吉良に声を発した。
 一同は振り返った。
 その時だった。
 浅野内匠頭は刀を鞘から抜き、駆け出した。そして、吉良上野介に斬り込んだ。
 ハッ! とする吉良……
 そして、前代未聞の事件、「刀傷事件」は起こった。
 吉良上野介は額を斬られ、出血した。ぼたぼたと血がしたたる。
 老人は尻餅をつき、おたおたと狼狽して逃げようとした。
 内匠頭はなおも一撃を加えようとする。
「殿中でござるぞ! 内匠頭殿! 殿中でござるぞ!」
 誰かが浅野内匠頭をはがいじめにした。
「後生でごさる! 吉良にとどめを……後生でごさる!」
「殿中でござるぞ! 内匠頭殿!」
 殿中はパニックになった。
 浅野内匠頭ははがいじめにされて、吉良は担がれて奥に運ばれる。
「後生でごさる! 吉良にとどめを……!」
 内匠頭は、一同にはがいじめにされ、刀を取り上げられた。肩でぜいぜい息をした。
 とうとう観念した。
「……とうとうやってしまったか…浅野内匠頭殿」
 播磨藩主・嘉坂はその姿を遠くから見て、愕然とした。
 幕府目付役がきた。
「幕府目付役・多門伝八郎にござる。刀をこれへ」
 血のついた刀が没収された。「浅野内匠頭殿……こちらへ」
 内匠頭は明らかに狼狽し、動揺していた。茫然と突っ立って、視線もうつろだ。
「こちらへ」
 やっと伝八郎の声がきこえた。
 この「刀傷事件」はすぐに殿中に広まった。赤穂江戸藩邸にもすぐ知らせがきた。
「……ど……どういうことなのじゃ?! 兄上は何故そのようなことを?!」
 内匠頭の弟・浅野大学長広はすぐにやってきて、狼狽した。
 家臣たちにも皆目検討もつかない。
「兄上は本当に殿中で刀を抜いたというのか?!」
 家臣は狼狽しながら「そ……そのようでござる。しかし、今、幕府にて吟味中とか…」「どういうことなのじゃ?! さっぱりわからん!」
浅野内匠頭の正室・阿久里(あぐり・瑤泉院・りょうぜいいん)は何もいわずに只、泣いていた。
 ……殿中で「刀傷事件」を犯したらただではすまない……
 ……相手はどうなったのであろうか…?

「乱心であろう? 乱心であればお咎めなしじゃ」
 伝八郎は、浅野内匠頭を別室で問いただした。
「いえ……乱心ではござらぬ」
「…乱心といいなされ。それで命は助かる」
「乱心ではござらぬ」
 内匠頭はかたくなに首を横にふった。目が遠くをみているようで、辺りを不安にさせた。 伝八郎の側にいた家老は、
「吉良は浅でで……」といおうとした。
 伝八郎は止めて、強くいった。
「吉良上野介はひどく傷をおって、出血がひどく命もあぶない」
 内匠頭はにやりとなった。
 そのまま拘束されていた。
 しかし、吉良上野介はひどい傷をおって出血がひどく命もあぶない、というのは嘘だった。吉良は額を数センチ切っただけで包帯をまけばすむような浅傷だった。
「……何が何だかわけがわからん」
 多門伝八郎はそれを黙ってきいていた。
 吉良の内匠頭への度重なる罵倒など知りようもない。
 息子で、出羽米沢十五万石上杉家に養子に出していた上杉綱憲が江戸藩邸からかけつけてきた。もう、江戸中がこの前代未聞の「刀傷事件」でもちきりだった。
「父上! お怪我のほどは?!」
 綱憲は心配して問うた。
 医師は、
「軽い傷です。傷跡は少し残るでしょうが……命に別条はごさりません」という。
 息子はほっと胸をなでおろすと、
「なぜこのようなことになったのです?」と父に問うた。
 吉良はシラをきり通した。
「わしには何のことだかさっぱりわからん。あの若者が急に斬りつけてきたのじゃ」
「許せぬ! 浅野め!」
「やめい! お主はもう吉良の子ではない。出羽米沢十五万石上杉家の当主ぞ!」
「しかし…」
 綱憲は続けた。「父をこのようにされて、浅野を斬らぬ訳にはまいりませぬ!」
「今は戦国の世にあらずじゃ。綱憲殿……おって幕府からご沙汰があろう」
 吉良はどこまでもシラをきる気だった。
  徳川綱吉将軍の元にも情報が入ってきた。
「なにっ?! 急に斬りつけただと?!」
「はっ!」
「殿中でか?!」
「はっ! さようにござりまする!」
「どういうことでおこったのじゃ?」
 綱吉は是非とも答えがききたかった。
「わかりませぬ。いきなり斬りつけたと……見ていたものがそういいましてござる」
「田舎大名めが! 戦国の世でもあるまいに!」
 徳川綱吉将軍はすぐに命令を発した。
 それは浅野内匠頭の切腹だった。
 驚いたのは、多門伝八郎である。
「浅野内匠頭の切腹はわかるが、吉良上野介はお咎めなしとはどういうことじゃ?! 喧嘩両成敗と幕府規則で決まっておるではないか」
「とにかく上様はそうおおせです。浅野内匠頭のみ切腹をと」
 幕府目付役・多門伝八郎は納得いかなかった。
「そけでは浅野家、赤穂藩があまりにも憐れであろう?!」
「上様のおっしゃることですぞ!」
「納得ならん! なぜ吉良は無罪放免なのじゃ?!」

  浅野内匠頭は一室で、襖に囲まれて幽閉されていた。
「是非、ご切腹の前に殿にあわせて下され! 事情をききたいのです!」
 赤穂藩士・片岡が幽閉先の田村右京太夫邸で嘆願しているところだった。
 幕府目付役・多門伝八郎は、
「幕令により面会はできない。ただ……切腹は庭でと決まった」
「庭?!」片岡は驚いた。「なぜ武士らしく屋敷内で切腹されないのですか? 吉良は?」「幕令である」
 多門伝八郎は、情けをかけた。「ここの廊下を浅野殿が通る……声はかけてはならぬぞ」「はっ! ありがたき幸せ!」
 片岡は庭の満開の桜のもとで平伏していた。
 やがて死に装束の浅野内匠頭が歩いてきた。
 片岡は涙を流して平伏している。
 ちらりと内匠頭が、片岡をみた。
「……無念じゃ」呟くようにいった。歩き去った。片岡は泣き崩れた。
 やがて、浅野内匠頭は庭についた。
 切腹の用意がされ、解釈の侍が刀を構えていた。
 内匠頭は辞世の句を書いた。

 ……”風さそう 花よりもなお我もまた 春の名残りをいかにとせん”……

 内匠頭は衣を脱いで、刀を持ち、やがて頷き切腹した。
 首が落とされる。
 享年二十五歳だった。
  早馬がすぐに江戸を発した。
 向かうは播州赤穂藩である。原惚左衛門、大石瀬左衛門が馬でかけたが、途端に馬がだめになり、夜も寝ずに賀籠にのり、赤穂へと急いだ。
早馬と早駕籠、さて、どちらが早いか? まず、早馬はさほど速くないという。競馬場を疾走するサラブレッドは確かに、速いが、せいぜい三七〇〇メートルくらい。それで十何キロも走れば馬はつぶれる。二十キロ以上の距離になれば実は人間が一番早い。だから、早駕籠を使ったのだ。
 むろん、自動車や列車がない時代のことであるが。
 高輪の泉岳寺で葬儀が開かれた。
 赤穂藩五万石の質素な葬儀だったという。
 浅野内匠頭の妻・阿久里は、集まった江戸藩邸の家臣たちに礼を述べた。
「そなたたち、今までの忠義……大儀であった」
「奥方さま!」
 一同は泣き崩れた。
  上杉綱憲は、
「浅野内匠頭は天命ぞ!」などと上杉江戸藩邸で笑った。
 千坂兵部は諫めた。
「殿! その言葉、けして他言なされまするな! 吉良殿が浅でなどとは決して…」
「……千坂。なぜじゃ?」
 綱憲には考える頭はない。この男に事情を察しろというほうが無理だ。
 もともとこの男は無能で、頭の悪いたちである。
「赤穂藩士たちに命を狙われまする!」
「……命? なぜじゃ?」どこまでも無能な男だ。
「浅野が切腹で、吉良殿が無罪放免では藩士たちが不満をもちます」
「…………なるほど」
「まずは上杉から間者(スパイ)を出して、様子をさぐらせます。吉良殿の警備もいたさねばなりませぬでしょう」
「なるほどのう。頼むぞ」

  江戸から赤穂までは百五十五里である。
 携帯電話もインターネットもない時代、早馬や賀籠では四~五日かかる。そこを、ふたりの家臣たちは三日でついた。夜も寝ず、食事もとらずのまさに死に者狂いの伝達だった。「原惚左衛門! 大石瀬左衛門! 殿よりの知らせ報告の儀これあり!」
 三月十二日の早朝、巳の刻………
 内匠頭切腹が大石内蔵助の元に知らさせた。
「なんじゃと?! 殿がご生外?! 切腹したと申すのか?!」
「……はっ! 残念ながら命果てましてごさりまする!」
「なにゆえ「刀傷」におよんだのじゃ?!」
「存じませぬ」
 大石は訝しがった。「それで相手はどうなった?!」
「吉良上野介はご存命……傷はわかりませぬ」
「なぜじゃ?! なぜ吉良は無罪放免で殿は切腹なのじゃ?! 幕令でも喧嘩両成敗となっておるではないか!」
 大石はついに怒りを爆発させた。
 原惚左衛門は「幕府の片落ちにごさりまする! これを殿より大石殿へと!」
「わしに……? このわしに殿からか?!」
「はっ! 正室・阿久里さまにも弟君・大学さまにも書状はなく、ただ大石だけにと…」 大石内蔵助は書を読んだ。
「……”風さそう 花よりもなお我もまた 春の名残りをいかにとせん”……春の名残……り…を…」
 大石内蔵助は男泣きに泣いた。
「春の名残…り……殿! 殿!」
 一同も泣いていた。
 これでは藩は取り潰しである。
「弟の大学さまを跡取りとは出来ないものか……この際、禄高は減らされても伝統ある赤穂藩の名が残れば……いいが…」
「もし、藩がつぶされるなら……城を枕に討ち死にしましょう…ご家老!」
 一同は悲嘆に暮れた。
 討ち入りの一年九ケ月前のこと、であった。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年末年始スペシャル特別掲載 蒼に、月に。忠臣蔵①~忠臣蔵・赤穂浪人たちの真実!大石内蔵助の策略と真摯。我が心の忠臣蔵~

2022年12月22日 11時17分20秒 | 日記










小説
 蒼に月に。忠臣蔵
                          ~赤穂浪士”義”

                                をつらぬく~
                 ちゅうしんぐら   ~the best samurai's~
               ~世紀の忠義! 吉良打倒による「討ち入り」。
                 「赤穂の忠義」はいかにしてなったか。~
                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                 NAGAO KAGETORA                  
                  長尾 景虎

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

  ときは元禄。舞台は播州赤穂である。
 播州赤穂城主・浅野内匠頭長矩は、吉良上野介による嫌がらせに憤慨し、刀傷事件を殿中で起こしてしまう。浅野内匠頭長矩は切腹、しかし吉良上野介は御咎めなしだった。
 そのことを知らせれて家臣たちは憤る。「なぜ吉良は無罪放免なのじゃ?!」
 播州赤穂の家老は有名な大石内蔵助である。内蔵助は白無垢姿で切腹しようと家臣たちにいうが、切腹せず城を明け渡し、藩はつぶされる。
 内蔵助はそれから放蕩にふけり、酒や女に明け暮れる。
 しだいに去っていく家臣たち……
 しかし、大石は主君・浅野内匠頭長矩の命日から一年九ケ月後、四十七人の刺客をそろえて江戸の吉良上野介の館へ深夜、討ち入る。上杉からの刺客も倒し、ついに吉良の首をとる。こうして忠臣たちは主君の仇を討ち、切腹して果てた。       おわり
         1 吉良上野介






      
  ときは元禄時代である。
 戦国時代の終り、すなわち徳川家康が天下人となり、大阪夏の陣で豊臣秀頼をやぶって徳川の世をつくって、百年以上過ぎた時代……
 この時代の人々は、上杉謙信や武田信玄、織田信長、秀吉、家康、政宗などを、現在の日本人が明治維新の龍馬や新選組、勝海舟、西郷隆盛、桂小五郎、福沢諭吉などの英雄たちを見るような感覚で見ていたのかも知れない。
 徳川の五代将軍は綱吉である。独裁者だった。文をよく読んだ。
 元禄はことのほか華やかな時代だった。
 将軍も機嫌がいい。
  神田橋の大寺院と中野村のお犬小屋もできあがっていた。目下、巨大な伽藍も建設中だ。将軍は生き物すべてに憐れみをかけていた。絶対平和の世の中を千年ののちまで残すことを念願し、民から殺伐の気を完全になくさなければと信じていたという。
 特に、大好きな犬には保護を続け、野良犬も保護した。
 ……犬将軍とも嘲笑された。
「さがは将軍様、これで犬も人も幸せになったとみなよろこんでおります」
 近習が伝えるそんな報告に、綱吉は目を細めてきいていた。実力者大一等・御側御用人の柳沢保明(のちの吉保)は老中となり、いまや幕府の実力者ナンバー・ワンだった。
 なにより幕府にとって有り難いのは、多年の懸念だった財政難が見事に解決したことだ。金銀改鋳に踏み切って三十万両もの銭が入ってきた。
 しかし、間もなくインフレになった。
 綱吉は母・桂昌院に土産を贈った。
「上様、ありがたく頂きまする」母は、息子を褒め上げた。
「上様のおかげで、みな平和でごりまする。上様は家康公以来の天才的将軍様にござりまする」
「わははは。それはちと大袈裟でござる」
 綱吉は目を細めて笑った。
「しかし、余はまだまだ長生きしなければならぬ。まだ世継ぎが生まれぬ。なぜでしょうか?」
 母は「上様は生まれる前の前世に何か罪でもしたのではござりませぬでしょうか?」
「罪でござりまするか……?」
「上様は戌(犬)年生まれ……犬や生類を憐れんでみては世継ぎも生まれましょう」
 このような女の浅知恵で、世にいう『生類憐れみの令』は発せられた。
 野良犬を蹴っただけで死罪になったり、鶏を食べただけで鞭打ちになった庶民も多かった。まさに馬鹿げた法律である。だが、最近では、綱吉は「辻斬りや人間を捨てる社会」の混乱を沈め、道徳により平和な世つくった名君として、再評価されている。
 天下の悪法『生類憐みの令』にしても、動物を虐殺して、死刑になった罪人は、三十年間でわずか数人。すぐ殺された………みたいな悪法ではなかったのだ。
 さて、この小説では浅野内匠頭長矩に、吉良上野介が「フナ侍!」などと罵声をあびせかけることになっているが、それは吉良を悪人とするためだ。本物の吉良は領地の三河吉良町では名君といわれているほどの人物である。
 このひとの築いた黄金堤は今も残る立派なものだという。近隣の他領との境界問題や水争いに介入し、みごと解決している。しかも、将軍受けもよく、高い位ももらっている。
 一方の、浅野内匠頭長矩が狂気じみた男で、すぐにキレて、刀で発作的に斬りつけたというのも正しくない。このひとは教養人で、書もたしなみ、和歌もつくっていた。
 それまでの諸藩の火消し役にも勤め、「火消し名人」とまでいわれて、江戸庶民にも人気があった。播州赤穂藩ではとりたてて目立った業績はないが、各藩がのきなみ赤字を抱える一方、質素倹約に勤めていたともいう。
 そんなふたりが殺人未遂事件をしかも殿中で犯したのだから、歴史家も不思議に思って、”吉良のいやがらせで…”となった訳だ。
 内匠頭にしても「先日の遺恨覚えたるか!」と叫んで理由も述べず切腹している。
 理由は上野介の自慢話にあるとみていい。
 吉良上野介は運のいい男だった。息子の綱憲を出羽(山形県)米沢十五万石の養子にすることに成功し、他の子供(娘三人)も上杉家に養子に出している。
 かれは出世したと思って自慢気だ。
 ところが大名たちは出世欲などないし、吉良が主張するような努力を評価してなかった。たった四千二百石の吉良が、少しばかりよい縁組を得ても羨ましいことでもなかった。
 だから、吉良の説教など馬鹿らしくてきく耳もたない。
 しかし、吉良は自慢気に説教をたれ、大名の中には「吉良を斬る!」と息巻くものまでいたという。内匠頭も案外そのひとりだったのではないか?
 またこの時代の日本は完全なる非武装国家だった。
 天然の要塞”海”にかこまれたこの国は、モンゴル軍襲来以来、幕末に黒船が来るまで乱らしき乱はなかった。一国平和主義で、長崎の出島以外では貿易さえしてない。
 のちに蝦夷(北海道)や流球(沖縄)を侵略して併合し、台湾や朝鮮も攻めるが、それは幕末近くにやったことだ。
 徳川幕府独裁政権の二百七十年で、日本人は完全に平和ボケしてしまった。
 そんな中で、唯一、忠義を貫いた家臣が、赤穂浪士だった訳だ。
 忠臣蔵のような事件が三度も六度も起こっていたら、赤穂浪士たちもそれほど有名にはなっていなかったかも知れない。毎年師走にテレビや映画で放映されることもなかったろう。それだけ平和な世の中だった訳だ。
 だからこその幕末の異変は興味をそそるのだ。我々が勝海舟や西郷隆盛や新選組や高杉晋作や坂本龍馬に抱く感情は、よくあんな国になった世を変えてくれた……という憧れだと思う。
ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」「元禄忠臣蔵」「忠臣蔵」「四十七人の刺客」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。
  話しを戻す。
「忠臣蔵」の美談は、ほとんど大ウソだった! 赤穂義士、仇討ちは「就活」が目的?

赤穂義士のあだ討ちは「就活」が目的だった? 写真は「義士祭」も行われる、東京・高輪の泉岳寺(写真:シャネル / PIXTA)c 東洋経済オンライン 赤穂義士のあだ討ちは「就活」が目的だった? 写真は「義士祭」も行われる、東京・高輪の泉岳…  
 元禄15年(1702年)12月14日深夜、江戸郊外の本所松坂町にある武家屋敷が襲撃され、その主である幕府旗本高家(こうけ)、吉良義央(きら・よしなか[または「よしひさ」とも])が、旧赤穂藩の義士47人(46人という説も)によって殺害された。世に言う「赤穂事件」である。
 この事件は、前年の3月、江戸城中で起きた「ひとつの傷害事件」によって主家を取り潰された旧赤穂藩士による、いわば「復讐劇」である。
 事件後、彼らの行為は「美談」として語られ、『忠臣蔵』の名で芝居の題材に取り上げられると、空前の大ヒットを記録した。その人気はいまなお衰えない。
 しかし、そんな私たちの知る『忠臣蔵』は、実際には「美談ではなかった」とする見方も指摘されている。
 「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計17万部のベストセラーになっている。
 本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「忠臣蔵の真実」を解説する。
本当に『忠臣蔵』は実話なの?
 毎年、12月半ばを迎えると、日本ではなぜか『忠臣蔵』の新旧映画・ドラマが放映され、東京・高輪の泉岳寺では「義士祭」も行われます。
 これは、元禄15(1702)年12月14日(旧暦)が、いわゆる「赤穂四十七士による吉良邸討ち入りの日」だったことと関連しています。いまや『忠臣蔵』は私たちにとって年末の風物詩でもあるわけです。
 『忠臣蔵』では、清廉潔白の赤穂藩主「浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)」が、老獪な幕府旗本高家「吉良上野介(きら・こうずけのすけ)」にたばかられ、ご法度である殿中(江戸城内)での刃傷ざたを起こし、その罪によって切腹のうえ藩は取り潰しとなります。
 しかし、吉良のほうは無罪放免。刃傷ざたにもかかわらず、片方が一切、罪に問われませんでした。これに怒った赤穂義士たちが「亡き主君の無念」を晴らすべく、屈辱の日々を耐え忍び、ついに悲願だった吉良の首を討ち取ります。
 この爽快な「勧善懲悪」のストーリーは、時代を超えて私たちに感動を与えてくれますが、『忠臣蔵』はあくまで「赤穂事件をモデルとした物語」です。実際の出来事をすべて忠実に再現したものではありません。
 それどころか、「赤穂事件」を詳しく見てみると、これまで私たちが描いていた「赤穂義士」の討ち入りの目的が、じつは「あだ討ち」ばかりではなかった可能性が垣間見られるのです。
 いったい彼らの「本当の目的」は何だったのか、今回は「赤穂事件」をテーマに、「忠臣蔵の真実」について解説します。
 今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
『忠臣蔵』のモデルとなった「赤穂事件」
 Q1. そもそも「赤穂事件」って何ですか?
 元禄15年(1702年)12月14日に起きた、「大石良雄」ら旧赤穂藩士47人による幕府旗本「吉良義央(きら・よしなか)」への襲撃事件です。
 Q2. おさらいですが、なぜ旧赤穂藩士は吉良を襲撃したのですか?
 きっかけは、前年の3月に起きた江戸城内での刃傷事件です。
 赤穂藩主「浅野長矩(あさの・ながのり)」が幕府旗本で幕府の行事儀礼を取り仕切る高家の「吉良義央」を短刀で切りつけ、その罪によって即日切腹のうえお家取り潰しとなります。しかし、「喧嘩両成敗」が当然だった当時において、どういうわけか一方の吉良は無罪でした。
 これに怒った旧赤穂藩士たちが「主君に代わり吉良を討とう」と襲撃を計画、実行したのです。
 Q3.実際の襲撃の様子は?
 前日の大雪が残る中、大石ら47人は深夜の午前3時半ごろ、大名火消の装束に擬装して、「火事だ」と叫びながら吉良の屋敷に突入しました。
 周到な計画に基づいてのぞんだため、まったくの無防備だった吉良側はほとんど抵抗できず、短時間の格闘の末、吉良義央は身を潜めていたところを討ち取られました。
 Q4.襲撃による死傷者は?
 この事件で、吉良側は屋敷にいた約150人のうち45人が死傷、一方、大石側は2人が負傷したのみで死者はゼロでした。
 Q5. 浅野長矩は、吉良義央に対して「どんな恨み」があった?
 詳しい理由は、現在なお不明です。
 2人は当時、将軍へのあいさつに訪れた朝廷からの使者の勅使接待役を命じられており、その準備期間に何らかのトラブルが生じていたようです。
 ただ、詳しい取り調べもないまま、浅野長矩はその日のうちに切腹、吉良義央も「身に覚えがない」と黙秘したため、真相はいまだ闇の中です。
 Q6. では、討ち入りが行われた「本当の理由」は?
 少なくとも、前述の「主君の無念を晴らす」ためではないでしょう。
 それらはあくまで「表向きの理由」で、じつは彼らの「本当の狙い」はまったく別にあったと考えられます。
 大石ら47人の旧赤穂藩士は、「義士」を装い、主君の「あだ討ちに見せかけた芝居」を演じました。そして、これを大々的に世間へアピールすることで、自分たちの「より高待遇での再就職」をもくろんだ節があるのです。
赤穂浪士の目的は「再就職」?
 Q7.えっ? 赤穂浪士の仇討ちは「就職活動」だったのですか?
 もちろん、現在の境遇に自分たちを追いやった吉良義央への恨みもあったでしょう。
 しかし、彼らと浅野長矩が『忠臣蔵』で描かれるような深い絆で結ばれていたことを示す証拠はどこにもありません。そもそも、「主君のあだ」という意識そのものが、あまり一般的ではありませんでした。
 むしろ、そのときの彼らの現実的心境は「浪人生活への恐怖」です。「なんとか再び仕官する道を見つけて、現状を脱却すること」こそが最大の関心事でした。
 そのための秘策こそが「あだ討ち」だったのです。
 Q8. 「あだ討ちの成功」が、なぜ「就活」になるのですか?
 あだ討ちに成功すると、「世間の大きな話題」になります。しかも、当時このような行いは公的に認められた「権利」でもあり、殺人罪にはなりませんでした。
 実際、大石らは事件後、一貫して自分たちの行動を「あだ討ち」であると主張しつづけました。
 吉良邸討ち入りの後、義士の一行は吉良家と深い姻戚関係にあった上杉家からの報復の恐れもある中、本所から浅野長矩の墓のある泉岳寺までの9キロもの道のりを堂々とパレードします。それも、世間に向けて「あだ討ち」を印象づけるための「意図的演出」だったとすれば納得がいきます。
 Q9. 赤穂事件以外にも「就活的なあだ討ち」はあったのですか?
 ありました。江戸時代、あだ討ちは100件を超えるほどの事例があり、成功すれば人々から絶大な賞賛を受け、身分が武士であれば「再仕官」の口が引く手あまたでした。
 「赤穂事件」以前にも同じようなあだ討ちが行なわれていて、仕官に成功した例もあります。
 Q10.具体的に聞かせてください。
 たとえば赤穂事件の約30年前に宇都宮藩で起きた「浄瑠璃坂のあだ討ち」では、「忠臣蔵」の事件とほぼ同じような経過で早朝に徒党を組んで押し入り、この者たちはいったんは流罪になりますが、のちに赦されてほとんどが再仕官に成功しています。
 また、赤穂義士による討ち入りの前年にあった「亀山のあだ討ち」では、あだ討ちに成功した兄弟の仕官先を探そうと、江戸の北町奉行が奔走したこともありました。
 大石らはこれらの事例を「模倣」して、自分たちも「より良い待遇での再仕官」を実現しようと、最もアピール度の高い「あだ討ち」を選んだと考えられるのです。
 Q11. では、なぜ赤穂義士は切腹を命じられたのですか?
 理由は簡単で、彼らの行為が「あだ討ち」と認められなかったからです。
 事件後、幕府では事後処理の対応に追われ、彼らの処分が検討されました。当初は、幕府上層部においても彼らを好意的に見る人も少なからずいました。
 しかし、それまでの数あるあだ討ちは「父母兄弟を中心とした親族のため」が大半で、今回のような「主君のため」というのは初めてのケースでした。
 そのため、「あだ討ちとして認められるか」が議論され、結論に至らぬまま約2カ月半が過ぎた後、最終的には将軍様のおひざ元である江戸城下を「徒党」を組んで押し込んだという「罪」で、大石らは切腹となったのです。
「本当の歴史」には「本当の人間ドラマ」がある
 浅野長矩と吉良義央の間にどのようなトラブルがあったのか、その内容はいまなお不明です。
 物語では「浅野家の悲劇」ばかりが強調されますが、刃傷事件のあと無罪放免となった吉良家にも、ほどなく暗雲が忍び寄ることになります。吉良は被害者ながら、相手を切腹のうえ改易に追いやった「負のイメージ」がつきまとい、幕府も対外的なイメージを考慮して彼を免職せざるを得ませんでした。
 呉服橋(現在の東京駅そば)の一等地にあった屋敷は召し上げられ、当時は江戸郊外の新興地、本所松坂町(現在の両国駅の南)へ移り住むことになります。
 傷心の中、隠居を幕府に願い出た彼は、真相はどうであれ十分な社会的制裁を受けていたはずでしたが、その矢先の赤穂義士による突然の討ち入りで、あわただしくその62年の生涯を閉じました。
 近年、彼の領地があった三河吉良(愛知県西尾市)では、「名君、吉良義央」としての名誉回復が叫ばれています。
 この「忠臣蔵」のように、ドラマや小説で知る歴史は、「現代人が見て楽しい物語」に脚色されていることがしばしばです。
 「歴史に興味をもつ」ためには、ドラマや小説もいいきっかけにはなりますが、それを史実と鵜呑みにして人前で話すと、「恥」をかくこともあります。それに、生身の人間が織りなす「本当のドラマ」は、わかりやすい物語とは違う「史実の奥深さ」を実感させてくれるものです。
 ドラマや小説で日本史に興味を持つのはよいことです。しかし、そこで終わりにせずに、歴史書で「本当の日本史」を学び直すことで、「歴史の奥深さ」と「本当の人間ドラマ」を味わってください。



「大名には伊達を旗本には浅野にする」
 柳沢吉保はつげた。
 舞台は播州赤穂である。
 赤穂城では藩主・浅野内匠頭長矩が熱心に弓の稽古をしているところだった。
 なかなかの色男で、色白で線が細いが、それは若さのせいだろう。
 家老(といっても老人ではない)の大石内蔵助はそんな殿を目を細めてみている。
「いかがじゃ?」
「よろしうございまするな、殿」
「的中したのは二度目じゃ!」
 内匠頭は笑った。
 まだ、内蔵助は何ら業績らしき業績を残していない。家柄がよかったから家老までなれたが、のちに『昼行灯』と陰口を叩かれるほどの呑気で、温和な男だった。
 それだけの男だった。
 まさかこんな人物が、前代未聞の討ち入りを決行するとは誰も思わなかったであろう。元禄三年三月、浅野内匠頭長矩は江戸へ到着した。
 吉良邸は将軍のおひざもとの呉服町にあった。
 播州赤穂の家臣たちは吉良邸宅で土産を渡して、待っていた。それにしても遅い。
 さんざん待たされてから、吉良の家臣が、
「殿はご病気で会えませぬ。日を改めて…」
 などといわれる。
 吉良上野介は激昴していた。病気などではなかった。
「礼儀も知らぬ田舎侍めが! 思い知らせてくれるわ!」
 怒りの元は、伊達藩からの土産より、播州赤穂藩の土産の銭が少なかったからだ。
 そのようなことで吉良は怒っていた。
 肝っ玉のちいさな男である。
  内蔵助の息子は主税といった。まだ若い十代の青年である。
 そんな青年は、未通娘(処女)の娘と庭を散策していた。現代でいうならデートだ。
「主税さま……わらわたちは夫婦になるのでごさりますね」
 娘は頬を赤らめていった。
「そうじゃ。小滝……われらは夫婦ぞ」
 主税はたいそうな色男で細身である。結納の相手は小滝といった。まだ十四歳の小娘である。しかし、美貌の女子であり、それゆえ青年はたいそう満足していた。
 声も外見も可愛い。こんな娘が妻なら満足だ。
  播州赤穂の家臣・岡野金右平衛門は台所に駆け込んだ。
「今度の吉良さまとの食事は精進料理だそうだ」
 金右平衛門はぜいぜいと息をしながら告げた。よほど急いだらしい。
 膳田新左護門、前原仲助、奥田孫太夫は、
「もう三日も前から準備しているのだぞ! いまさらかえろといわれても…」
 と動揺した。
「これは吉良殿の嫌がらせか……?」
 さっそく殿に報告にいった。
「吉良殿の食事が精進料理?」
「はっ」
 家臣は平伏した。
「これは嫌がらせかと…」
 内匠頭は否定した。「吉良殿はそのようなひとではない。しかし、万一にそなえて料理をふたつ用意させよ」
「はっ」
 やがて吉良がきた。
 墨絵にまで文句をいった。「もっときらびやかな屏風にせぬか! この田舎侍め!」
 憤慨していた。
 まだ土産に不満を持っていたのだ。
 食事の時間となった。
”精進料理”が膳で運ばれてきた。
 内匠頭は微笑んで「ご要望の精進料理に御座りまする」といった。
 吉良上野介は、
「そなたはケチか?」などという。
「は?」
「伊達家の邸宅では肉や魚がふんだんに入った料理だったわ。それにくらべて浅野家は食事をケチってこんな料理をだす…」
「しかし、吉良殿は精進料理を、と……」
 吉良は腹を立てて白髪頭をかき、
「わしはしょうぶつ料理といったのじゃ! お主はケチか?! この田舎侍め!」
 と酷く激昴した。
 浅野内匠頭は頭を下げて、
「これは失礼つかまつりました。これへ!」といった。
 すぐに贅沢な魚や肉の料理が運ばれてくる。
 料理を二種類用意していて助かった訳だ。
 吉良は唖然とした。
 しかし「金遣いが荒いのう」とまた悪態をついた。

  その夜のことだった。
 片岡たち家臣がきて、叫ぶようにいった。
「伊達家が江戸屋敷の畳をすべて替えましてござる! 上様がわが藩邸にお立ち寄りとのうえ明日までに畳をすべて新しく替えるようにとのご命令でござりまする!」
 浅野内匠頭は苦虫を噛みしめたような顔になり、
「またしても吉良か!」と呟いた。
 それから「上様参内なら仕方ない! 江戸中の畳職人を集めて、江戸藩邸の畳を今夜中に全部替えよ!」と命じた。
 家臣は「無理です! 二百畳はありまする!」という。
「よけいなことはいうな! とにかく急げ、これは藩の威信がかかっておる!」
「……はっ!」
 さっそく家臣たちは畳屋たちをかきあつめた。
「急げ! 急げ!」
「朝までに畳をすべて新しいものに替えるのじゃ!」
「へい!」畳屋たちは突貫工事のように畳をつくってははめ、つくってははめた。藩邸は畳でいっぱいになる。休んでいる暇もない。
 畳屋の男たちは汗だくになりながら畳替えを行い続けた。
 朝になった。
 やっと畳がすべて新しく入れ替えられた。もう職人たちはくたくたでぐったりしている。 浅野内匠頭はやってきて、
「よくやってくれた! 余は感激した」と声をかけた。
 くたくたになりながらも男たちは平伏した。
「よい。ゆっくり休め」
 ……それにしても吉良め、よくもわしをこ馬鹿にしおって!
 浅野内匠頭は内心、怒りの炎で身が火傷せんばかりだった。
  この時期、浪人だった安兵衛が堀部弥兵衛の養子となって、堀部安兵衛と名乗るようになる。彼には病気の愛人がいた。安兵衛はせんべつに金二両を渡して去った。
 この堀部安兵衛は、討ち入り赤穂浪人たちの中で内蔵助よりも一番知られる侍となる。
「老人のたわごとなどに腹を立てても仕方のないことでごさる。吉良には腹を立てぬようにすればよい」播磨藩の藩主・嘉坂淡路守は、浅野内匠頭と酒を呑みながらいった。
「老人はすぐに怒る。始末のわるいことだ」
「吉良ごときの嫌がらせは無視することじゃ」
「さようにござりまするな」
 浅野内匠頭は内心を吐露した。
「耐えねば耐えねばと思うほど怒りが抑えきれなくなめのです」
「内匠頭殿、あなたに一大事あれば三百もの家臣が路頭に迷うことになりまするぞ。ここは忍耐が肝要でござる。老人などいずれ死ぬ身……もう少しの辛抱ですぞ」
「ありがたき……ご助言、いたみいりまする」
 内匠頭は頭をさげた。
 このように理解ある者もいる。
 余はひとりではない。余の肩に家臣三百と領民たちがいるのだ。
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」、陳舜臣著作、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作、童門冬二著作、池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰らず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「忠臣蔵」「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ」漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。




  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【プロ作家志望者必読!】作家ビジネスプロ化五か年計画!迷わずに試そう!!作家になるための努力・勉強方法

2022年12月10日 13時25分23秒 | 日記










【プロ作家志望者必読!】作家ビジネスプロ化五か年計画!迷わずに試そう!!作家になるための努力・勉強方法


①一日一時間でいいから文章(小説・手紙・日記・エッセイ・eメール)を書く。(*一日十五分の最近の商業小説作品の写経。ノートにペンで写経・文章をすべて書き写す*文章をコピペして、ちょこっと書き加えて「自作小説」とするのは間違い・それは剽窃・盗作)
②とにかく本を読む(売れている本)
③一年に一回は古典(シェークスピアやGBS)
④ワークショップや支援グループ・同じ仲間や講座を探す
⑤100日間で100冊の本や脚本を読む(脚本は物語作成のヒント)

臥竜  長尾景虎  2022年12月10日 

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする