平手の諫死
林通勝はいった。「うつけもここに極まれりか」
柴田勝家も「あれほどうつけがひどいとはな」と頭をふった。
そしてふたりは、信長様を廃し、弟の信行様に当主になって頂こう、と決心した。
ますます守役の平手政秀は窮地においやられた。
信長を、平手政秀は放任主義で育ててきた。しかし、うつけになった。信長は我儘で、癇が強く、すぐ怒って暴力をふるううつけ殿になった。そして、葬儀での事件である。
平手政秀は絶望的な気分だった。
あるとき、酒席で信光(信秀の弟)が平手政秀に文句をいった。あのうつけ者(信長のこと)の責任は平手にある、というのだ。平手政秀はぐっと唇を噛んだ。
すると、平手政秀の息子・平手五郎左衛門が
「しかし、大殿さまに信長さまの補佐を承ったのは父上だけではありませぬ。林殿、柴田殿、青山殿、内藤殿…皆同罪です」
と意義を申したてた。
だが、泥酔の信光は
「平手政秀は守役筆頭であろう。すべては平手の無能と馬鹿ぶりのせいじゃ」とのたまった。
「許せぬ! その言い方はゆるせぬ!」五郎左衛門は太刀を抜き、信光を斬り殺そうとした。が、同僚たちに抑えられとめられた。
「後生だ! 斬らせて下され!」暴れた。
そこに信長がやってきた。「どうしたのじゃ?」と尋ねた。
「おぉ、信長。こやつ、わしを斬り殺そうとしたのじゃ! こやつの首をはねよ!」
泥酔の信光は真っ赤な顔であえぎあえぎいった。
「五郎左衛門! ……まことか?!」
「いえ、殿!五郎左衛門は……酒に酔って乱心しただけにござりまする!」
家臣たちは平手五郎左衛門を抑制しながらいった。
「嘘じゃ! 信長。こやつ、わしを斬り殺そうとしたのじゃ! こやつの首をはねよ!」
「後生です! 斬らせて下され! 信光を斬り、わたしは切腹いたしまする!」暴れた。
ぜいぜいと肩で息をし、信光を睨みつけた。
「馬鹿者めが! 外で頭を冷やせ!」信長は怒りに震え、平手五郎左衛門の顔を殴りつけた。五郎左衛門はもんどりうって倒れた。一瞬、場が静まった。いや、凍りついた。
信長はそれ以上は何もいわなかった。只、平手五郎左衛門をにらみつけるだけだった。 平手政秀は平伏した。
白無垢姿の平手政秀が信長の前に現れたのは、その次の週のことであった。
天文二十二年(一五五三)閏一月十三日の朝である。
「平手政秀、切腹するそうじゃな?」信長は真剣な顔になった。「なにゆえ、息子の平手五郎左衛門ではなく、そちなのじゃ?」
「はっ、息子の罪は親の罪にござりまする。みどもは腹切って、殿に忠節を示しまする」「ならぬ! 平手! おぬしが腹を切って何がかわるというのか!」
「殿!」平手政秀は強くいった。「もっともっと強くなって下され!」
「な……何っ」
「鬼のように、まるで鬼神、阿修羅のこどく!」平手は続けた。「今、尾張には問題が山積しておりまする。東の三河の松平家、さらに東の駿河の今川家、美濃には斎藤家、都には三好一族や松永弾正などの脅威がありまする。また、大殿さまの死によって尾張も分裂ぎみで、連中は虎視眈々と尾張を支配しようと企んでおりまする。また、弟君の信行さまには織田家累代の重臣たちがついておりまする。殿、強くなって尾張を、そしてこの日の元の国を救ってくだされ。もっともっと強くなって下され!」
「………で、あるか」信長は頷いた。そして、平手政秀は切腹した。それは、信長を諫め、そして一国一城の主へと変身させるための壮絶な教えでも、あった。
道三
尾張と美濃の狭間にある富田の正徳寺で会見しよう、と舅・美濃の斎藤道三は、信長にもちかけてきた。信長はその会見を受けることにした。
舅の斎藤道三の方は興味深々である。尾張のうつけ(阿呆)殿というのは本当なのかどうか? もし、うつけが演技で、本当は頭のいい策士ならどえらいやつを敵にまわすことになる。しかし、うつけは演技ではなく、只の阿呆なら、尾張はまちがいなく自分の手に落ちる。阿呆だったら、攻撃も楽なものだ。しかし……本当の正体は……
斎藤道三は、自分の家臣八百人あまりを寺のまわりに配置し、全員お揃いの織目高の片衣を着せた。そして、自分は町の入口にある小屋に潜んだ。信長の行列をここから密かに眺めようという魂胆である。やがて、信長一行が土埃をたててやってきた。信長は無論、斎藤道三が密かに見ていることなど知らない。
信長のお共の者も八百人くらいだ。
ところが、その者たちは片衣どころか鎧姿であったという。完全武装で、まるで戦場にいくようであった。家臣の半分は三メートルもの長い槍をもち、もう半分が鉄砲をもっている。当時の戦国武将で鉄砲を何百ももっているものはいなかったから、道三は死ぬほどびっくりした。
「信長という若僧は何を考えておるのだ?!」彼は呟いた。
側には腹心の猪子兵助という男がいた。道三は不安になって、「信長はどいつだ?」ときいた。すると、猪子兵助は「あの馬にまたがった若者です」と指差した。
道三は眉をひそめて馬上の若者を見た。
茶せんにしたマゲをもえぎ色の糸で結び、カタビラ袖はだらだらと外れて、腰には瓢箪やひうち袋を何個もぶらさげている。例によって、瓜をほうばって馬に揺られている。
通りの庶民の嘲笑を薄ら笑いで受けている。道三は圧倒された。
「噂とおりのうつけでございますな、殿」猪子兵助は呆れていった。
道三は考えていた。舅の俺にあいにくるのにまるで戦を仕掛けるような格好だ。しかも、あれは織田のほんの一部。信長は城にもっと大量の槍や鉄砲をもっているだろう。若僧め、鉄砲の力を知っておる。あなどれない。
道三は小屋を出て、急ぎ富田の正徳寺にもどった。
寺につくと信長は水で泥や埃を払い、正装を着て、立派ないでたちで道三の前に現れた。共の者も、道三の家臣たちもあっと驚いた。美しい若武者のようである。
「あれが……うつけ殿か?」道三の家臣たちは呆気にとられた。
「これはこれは婿殿、わしは斎藤道三と申す」頭を軽く下げた。
「織田信長でござりまする、舅殿」
信長は笑みを口元に浮かべた。
「信長殿、尾張の政はいかがですかな?」
「散々です。しかし、もうすぐ片付くでござりましょう」
「さようか。もし、尾張国内のゴタゴタで、わしの力が借りたい時があれば、いつでも遠慮なく申しあげられよ。すぐ応援にいく。なにせお主は、可愛い娘の立派な婿殿だからな」
「ありがたき幸せ」信長は頭を下げた。
「ところで駿河の今川が上洛の機会をうかがっておるそうじゃ。今川の兵は織田の十倍……いかがする気か? 軍門に下るのも得策じゃと思うが」
「いいえ」信長は首をふった。「今川などにくだりはしませぬ。わしは誰にも従うことはありませぬ。今川に下るということは犬畜生に成りさがるということでござる」
「犬畜生? 勝ち目はござるのか?」
「はっ」信長は言葉をきった。「………戦の勝敗は時の運、勝ってみせましょう」
「そうか」道三は笑った。「さすが育ちのいい婿殿だ。ガマの油売り上りのわしとは違う気迫じゃ」
「舅殿がガマの油売り上りなら、わしはうつけ上りでござる」
ふたりは笑った。こうして舅と婿は酒を呑み、おおいに語り合った。斎藤道三は信長にいかれた。そして、それ以後、誰も信長のことをうつけという者はいなくなったという。 信長二十歳、道三六十歳のことである。
信長は嘲笑や批判にはいっさい動じることはなく、逆に、自分にとってかわろうとした弟や重臣たちを謀殺した。病だといつわって、信長を見舞いにきた弟・信行を斬り殺して始末したのだ。共の柴田勝家は茫然とし、前田利家は憤った。しかし、信長は怒りの炎を魂に宿らせ、横たわる信行の死骸を睨みつけるだけであった。
こうして、織田家中のゴタゴタはなくなった。
そして、織田信長の天下取りの勝負がいよいよ始まるのであった。
3 桶狭間合戦
徳川家康最新研究の徳川家康、その真実 二
ミステリィの謎解きのその次のパートです。
まずは、徳川家康の最新研究でわかった事実をまとめて紹介しよう。
新しいもの好き
南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きだった。
日光東照宮には関ヶ原の戦いに行くまでの道中で着用したとされる南蛮胴具足が、紀州東照宮には徳川頼宣が奉納した防弾性能を試したらしい弾痕跡が数箇所ある南蛮胴具足があり、渡辺守綱や榊原康政には南蛮胴を下賜し伝世している。
晩年の家康は、日時計、唐の時計、砂時計などを蒐集しており、時計が好きだったようだ。
遺品として、けひきばし(コンパス)、鉛筆、眼鏡、ビードロ薬壺などの舶来品が現存している。
芸事は好まない
今川家での人質時代に今川義元に舞を所望されたが、猿楽にして欲しいと請い、見かねた家臣が代わりに舞っている。
当時は中世文化が非常に盛んだった駿府で育ちながら、京文化への関心は元々少なかったようである。
家康は幼少期より茶の湯の世界が身近にあったが、信長や秀吉と異なり茶の湯社交に対する積極性は見られない。
家康の遺産である『駿府御文物』には足利将軍家以来の唐物の名物・大名物が目白押しだが、久能山東照宮にある家康が日常に用いた手沢品はそれらに比べ質素な品が多い。
ただし茶を飲むこと自体は好んでおり、天正12年(1584年)に松平親宅と上林政重に製茶支配を命じ、毎年茶葉を献上させている。なお、親宅は家康へ肩衝茶入『初花』を献上し、政重は後に宇治の茶畑の支配を任せられ、伏見城の戦いで戦死している。
家康が尊敬していた人物
家康は、中国の人物として劉邦、唐の太宗、魏徴、張良、韓信、太公望、文王、武王、周公を尊敬している。着目すべきはすべて周・漢・唐時代の人物で前王朝の暴君を倒して長期政権を樹立した王(皇帝)とその功臣の名が挙げられている。日本の人物では源頼朝を尊敬していた(『慶長記』)。
師は武田信玄
武田信玄に大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。
軍令に関しては重臣・石川数正の出奔により以前のものから改める必要に駆られたという事情もある。
天正10年(1582年)の武田氏滅亡・本能寺の変後の天正壬午の乱を経て武田遺領を確保する。
と、武田遺臣の多くを家臣団に組み込んでいる。自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、武田信吉と名乗らせ水戸藩を治めさせている。
書画
『翁草』(神沢貞幹)や『永茗夜話』(渡辺幸庵)には「権現様(家康)は無筆同様の悪筆にて候」とある。
しかし、少年から青年期の自ら発給した文書類には、規矩に忠実で作法通りの崩し方を見せ、よく手習いした跡が察せられる。
特に岡崎時代の初期の書風には力強い覇気が溢れ、気力充実した様子が窺える。
こうした文書類には、普通右筆が書くべき公文書が含まれており、初期には専属の右筆が置かれていなかったようだ。
天正年間には、家臣や領土も増えて発給する文書も増加し、大半は奉行や右筆に委ねられていく。
しかし、近臣に宛てた書状や子女に宛てた消息、自らの誠意を披露する誓書は自身で筆を執っている。
家康は筆まめで、数値から小録の代官に宛てたとみられる金銭請取書や年貢皆済状が天正期から晩年まで確認できる。
家臣や金銀に関する実務的な内容なものから、薬種や香合わせなどの趣味的な覚書、さらに駿府城時代の鷹狩の日程を記した道中宿付なども残っている。
文芸として家康の書を眺めると、家康は定家流を好み、藤原定家筆の小倉色紙を臨模し、手紙でも定家流の影響を受けたやや癖の強い筆跡が窺えるようになる。
が、一方で連綿とした流麗な書風を見せる和歌短冊も残っており、家康が実学ばかりでなく古典や名筆にも学んだ教養人でもあった一面を表している。
ただし『慶長記』には、先述の実学との対比で、根本・詩作・歌・連歌は嫌ったとある。絵も簡略な筆致の墨画が10点余り伝わっている。
が、確実に家康の遺品と言われるものはなく、伝承の域を出ない。
しかし、『寛政重修諸家譜』に家康が描いた絵を拝領した記録があり、余技として絵を描いていたことが窺える。
健康指向
家康は健康に関する指向が強く、当時としては長寿の75歳(満73歳4ヵ月)まで生きた。
これは少しでも長く生きることで天下取りの機会を得ようとした物と言われ、実際に関ヶ原の合戦は家康59歳、豊臣家滅亡は74歳のときであり、長寿ゆえに手にした天下であった。
その食事は質素で、戦国武将として戦場にいたころの食生活を崩さなかった。
麦飯と魚を好み、野菜の煮付けや納豆もよく食べていた。
決して過食することのないようにも留意していたといわれる。
酒は強かったようだが、これも飲みすぎないようにしていた。
和漢の生薬にも精通し、その知識は専門家も驚くほどであった。海外の薬学書である本草綱目や和剤局方を読破し、慶長12年(1607年)から、本格的な本草研究に踏みだした。
調合の際に用いたという小刀や、青磁鉢と乳棒も現存する。腎臓や膵臓によいとされている八味地黄丸を特に好んで処方して日常服用していたという。
松前慶広から精力剤になる海狗腎(オットセイ)を慶長15年(1610年)と慶長17年(1612年)の2回にわたり献上されており、家康の薬の調合に使用されたという記録も残っている(『当代記』)。
欧州の薬剤にも関心を示しており、関ヶ原の戦いでは、怪我をした家来に石鹸を使用させ、感染症を予防させたりもしている。東照大権現の本地仏が薬師如来となった所以は家康のこの健康指向に由来している。
致命的な病を得た際にも自己治療を優先し、異を唱えた侍医の与安を追放するほど、見立に自信を持っていた。
が、自惚れではなく、専門的な知識に裏付けられたものである。
本草研究も、後の幕府の薬園開設につながることから、医療史上に一定の役割を果たしたといえる。
家康の侍医の一人、呂一官が創業した柳屋本店は今も現存する。
寡黙な苦労人
幼少のころから、十数年もの人質生活をおくり、譜代家臣の裏切りにより祖父と父を殺されており、そもそも織田家の人質になったのも家臣の裏切りによってともいわれている。
家督相続後は三河一向一揆において後の腹心・本多正信らにも裏切られている。
また、小牧・長久手の戦い後には重臣・石川数正にも裏切られている。
働き者で律儀者・忠義者が多く、結束が固い強兵と賞賛される三河国人だが反面、頑固で融通が利かず内向的で自負心が高い。
結束も縁故関係による所が大きい。
こうした家臣たちを統御していくには日ごろからかなり慎重な態度が求められたようで、自然言葉数が少なくなったものと推察され、家臣たちの家康評には「なにを考えているかわからない」、「言葉数が非常に少ない」といった表現が多い。
倹約
家康の倹約にまつわる逸話は多い。
侍が座敷で相撲をしているときに畳を裏返すように言った(『駿河土産』)。
商人より献上された蒔絵装飾を施した御虎子(便器)の不必要な豪華さに激怒し、直ちに壊させた(『膾餘雑録』)。
代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させた(『翁草』)。
三河にいたとき、夏に家康は麦飯を食べていた。
ある時部下が米飯の上に麦をのせ出した所、戦国の時代において百姓にばかり苦労させて(夏は最も食料がなくなる時期)自分だけ飽食できるかと言った(『正武将感状記』)。
厩が壊れても、そちらのほうが頑強な馬が育つと言い、そのままにした(『明良洪範』)。
家臣が華美な屋敷を作らないよう与える敷地は小さくし、自身の屋敷も質素であった(『前橋旧聞覚書』『見聞集』)。
蒲生氏郷は秀吉の後に天下を取れる人物として前田利家をあげ、家康については人に知行を多く与えないので人心を得られず、天下人にはなれないだろうといった(『老人雑話』)。
この結果、家康は莫大な財を次代に残している。『落穂集追加』では家康のは吝嗇でなく倹約と評している。
普段は質素な生活に努めたが、必要な際には必要な出費を惜しむことはなかった。
例えば『信長公記』に記された織田信長の接待においては京から長谷川秀一を招いて巨費を投じ、趣向を凝らした接待を行っている。
大井川の舟橋などは信長を感動させるものだったと記されている。
家康公遺訓
家康の遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり」という言葉が広く知られている。
が、これは偽作である。明治時代に元500石取りの幕臣・池田松之介が徳川光圀の遺訓と言われる『人のいましめ』を元に、家康63歳の自筆花押文書に似せて偽造したものである。これを高橋泥舟らが日光東照宮など各地の東照宮に収めた。
また、これとよく似た『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。
これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就)が元和の初め、二代将軍・徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。
江戸時代は禁書であった。一説には偽書とされている。
家康と刀剣
家康は、武家の棟梁として古い名刀を蒐集し、「日光助真」(国宝、東照宮蔵)など多くの名物がその手元にあった。
また、晩年の慶長19年(1614年)春には、大坂冬の陣に備えるために、伊賀守金道という刀工に1000振りの陣太刀を急造発注し、その政治的見返りとして朝廷に対し金道を「日本鍛冶惣匠」に斡旋している。
一方で、家康を始めとする徳川家臣団が、戦場で使う武器として愛用していたのが、当時の「現代刀」だった伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)の刀工、千子村正(せんご むらまさ)と千子派(村正の一派)、そしてその周辺流派の作である。
家康自身も村正の打刀と脇差を所有し、これらは尾張徳川家に「村正御大小(むらまさおだいしょう)」として伝来した。
脇差は大正期に売却されたが、打刀は現在も徳川美術館に所蔵され、村正に珍しい皆焼(ひたつら)刃の傑作として名高い。
家康がこの大小を一揃いで差し実戦で使用したのか確実なところは不明だが、少なくとも今も打刀にはわずかに疵の跡が残っている。
この「皆焼」の刃文を持つ村正は相当な稀少品で、現存するのは他に短刀「群千鳥(むらちどり)」や短刀「夢告(むこく)」などの数点しかなく、そのいずれもが評価の高い名作とされている。
お膝元の駿河には村正と作風を共有する島田義助(元今川氏のお抱え刀工)がいて、六代目の義助に御朱印を与えるなど厚遇している。
村正と義助は直接の師弟関係ではないが、お互いの派で技術的交流を続けていたから、作風が近づくことがよくあった。
なお、かつては家康が村正を忌避していたという俗説があったが、現在では完全に否定されている。
村正は徳川家に祟るとする妖刀伝説が江戸時代に広く流布していたことそのものは事実(村正#妖刀村正伝説)で、村正は銘を潰されるなどの悲惨な被害を受けた。
が、そうした伝説は家康の死後に発生したものである。
徳川美術館は、家康が村正を忌避していたとするのは後世の創作、家康は実際は村正を好んでいた、と断言している。
妖刀伝説が広まった理由としては、以下の理由が考えられる。
『三河後風土記』で、家康が村正を忌避し、織田有楽斎が家康を憚って村正の槍を打ち捨てたという逸話が捏造された。
これは正保年間(1645-1648年)後に書かれた著者不明の偽書だが、江戸時代後期までは慶長15年(1610年)に平岩親吉が自ら著した神君家康の真実と信じられていた。
家康の親族が村正で傷つけられたという妖刀伝説の逸話も、出処が怪しいものが多くそもそもどこまでが真実か極めて疑わしい。
主家の家康自身が村正を好んだように、徳川家の重臣には村正や千子派(村正派)の作を持つ者が多かった。
仮にそれらの傷害事件が事実としても、確率の問題でたまたま用いられたのが村正だったとしても不思議はなく、また、嘘だとしても、家臣団に普及していた村正を物語に登場させるのは説得力があった。
家康の村正愛好のせいで逆に忌避伝説につながった皮肉な例と言える。
その他
居城
家康の生誕地は、三河国・岡崎だが、生涯を通じて現在の静岡県(浜松・駿府)を本城あるいは生活の拠点としている期間が長く、岡崎にいたのは、尾張国の織田氏のもとで人質として過ごした2年を含め、幼少期および桶狭間の戦い後10年と極めて短い。
幼少から持っていた洞察力
10歳のころ、竹千代(家康)は駿河の安倍川の河原で子供達の石合戦を見物した。
150人組と300人組の二組の対決で、付添いの家臣は人数の多い300人組が勝つと予想した。
だが竹千代は「人数が少ない方が却ってお互いの力を合わせられるから(150人組が)勝つだろう」と言った。
家臣は「何をおかしなことを言われるのですか」と取り合わなかった。
が、竹千代の予想通り、150人組が勝ったので、竹千代は家臣の頭を叩き、「それ見たことか」と笑ったという。
肖像画
平成24年(2012年)、徳川記念財団が所蔵している歴代将軍の肖像画の紙形(下絵)が公開された。
家康の紙形は「東照大権現像」(白描淡彩本)とされており、よく知られている肖像画とは違った趣で描かれている。
信長の兄弟
『フロイス日本史』では、「信長の姉妹を娶り」とあり、家康は一貫して「信長の義弟」と書かれている。
しかし現在のところ、この女性の存在を裏付ける史料は見つかっていない。
神君伊賀越え
本能寺の変直後の神君伊賀越えでは伊賀・甲賀忍者の力添えを受けて三河国まで逃走した。その道中、甲賀忍者の多羅尾氏の居館に着いたとき、家康は警戒して城に入ろうとしなかった。
が、城主・多羅尾光俊が赤飯を与えたところ、信用して城で一泊した。
その後は伊賀の豪族・百地氏、服部氏、稲守氏、柘植氏の柘植清広等の護衛で白子まで辿り着き、この功で多羅尾氏は近江国で8,000石を領する代官に、柘植氏は江戸城勤めの旗本となった。
他の伊賀・甲賀忍者らは「伊賀同心」として召し抱えられ後に江戸へ移った。また、このときの礼として百地氏には仏像を与え、これは現在も一族の辻家が所有している。
影武者説
大坂夏の陣の際に家康は真田信繁に討ち取られ、混乱を避け幕府の安定作業を円滑に進めるために影武者が病死するまで家康の身代わりをしていたとされる説。
一説に異母弟の樵臆恵最もしくは小笠原秀政ではないかといわれる。
大阪府堺市の南宗寺には家康の墓とされるものがある。
「徳川氏」について
戦国時代から江戸時代の大名の佐竹氏の家中には、徳川氏と遠祖を同じくするとした得川義季の子孫を称する新田氏流得川氏の末裔という常陸徳川氏がいて、親藩ですら限られた家系しか徳川氏の名乗りが許されない中、単なる秋田藩大名の家臣の立場で徳川氏を堂々と名乗っていた。
源氏への復姓時期について
家康は永禄4-6年ごろの文書では本姓として「源氏」を使用しており、永禄9年(1566年)に「徳川」を名乗った際に藤原氏に改姓している。
が、氏を源氏に復姓した時期については、はっきりしない。
かつては近衛前久による年代不明の書状が「(改姓は)将軍望に付候ての事」としていることから、関ヶ原の戦いの勝利後、征夷大将軍任官のため吉良氏系図を借用して系図を加工し、源氏に戻したというのが通説であった。
しかし米田雄介が官務壬生家の文書を調査したところ、天正20年9月の清華成勅許の口宣案において源氏姓が用いられているなど、秀吉生前からの源氏使用例が存在している。
笠谷和比古は、天正16月4月の後陽成天皇の聚楽第行幸の様子を収めた『聚楽行幸記』には、家康が「大納言源家康」と誓紙に署名しているという記述があることから、源氏への復姓は少なくともこの時期からではないかと見ている。
他に天正14年(1586年)、安房国の里見義康(新田一族)に送った同年3月27日付の起請文では、徳川氏と里見氏は新田一族の同族関係にあることを主張している。
ただし、これ以降も「藤原家康」名義の書状が現存しており、この起請文は偽文書の可能性が指摘されている。
また、天正14年には藤原氏を用いた寺社への朱印状も残っている。
天正19年(1591年)、家康が発給した朱印状で姓が記されているものは「大納言源朝臣」ないし「正二位源朝臣」と記されており、藤原氏は使用されていない。
笠谷は家康が源氏復姓の時期が将軍であった足利義昭の出家時期と重なっており、左馬寮御監・左近衛大将など将軍家しか許されてこなかった官をうけていることから、“豊臣政権下で家康はすでに源氏の公称を許され将軍任官の動きが公然化し、豊臣関白政権の下での徳川将軍制を内包する形での、権力の二重構造的な国制を検討していた”と記述している。
阿部能久は、天正16年は足利義昭が正式に征夷大将軍を辞任した年であり、豊臣秀吉は家康が将来の「徳川将軍体制」を見越して源氏改姓をしたことを認識しつつ、それを逆手に取って関東地方を治めさせたと捉え、さらに清和源氏の正統な末裔である足利氏の生き残りと言える喜連川家に古河公方を再興させることで、家康と喜連川家+佐竹氏など関東諸大名との間に一定の緊張関係をもたらすことで家康の野心を封じ込めようとしたと推測している。
江戸幕府の支配に関して
徳川家康の名で発行されたオランダとの通商許可証(慶長)14年7月25日(1609年8月24日)付
家康が礎を築いた徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体系は完成度の高いものである。江戸幕府は京、大坂、堺など全国の幕府直轄主要都市(天領)を含め約400万石、旗本知行地を含めれば全国の総石高の1/3に相当する約700万石を独占管理(親藩・譜代大名領を加えればさらに増加する)し、さらには佐渡金山など重要鉱山と貨幣を作る権利も独占して貨幣経済の根幹もおさえるなど、他の大名の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社、朝廷、そして皇室までをもいくつもの法度で取り締まり支配した。
これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名が改易(取り潰し)の憂き目にあっており、これには譜代、親藩大名も含まれる。これは朝廷や皇室でさえも例外ではなく、紫衣事件などはその象徴的事件であった。
幕府に従順な大名に対しても参勤交代などで常に財政を圧迫させ幕府に反抗する力を蓄えることを許さず、また、特に近世初期は多くの転封をおこない「鉢植え」にした。
些細な問題でも大名を改易、減封に処し、神経質に公儀の威光に従わせるように仕向けた。
大名への叙位任官、松平氏下賜(授与)で、このように圧倒的な権力基盤を背景にして徳川将軍家を頂点に君臨させた。
全国の諸大名・朝廷・皇室を「生かさず殺さず。逆らえば(もしくはその危険があるならば)潰す」の姿勢で支配したのが江戸幕府であった。
このように徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の絶対的な支配体系については「保守的・封建的」との見方もできる一方、強固な支配体系が確立されたからこそ、戦国時代を完全に終結させ、そして江戸幕府が250年以上におよぶ長期安定政権となったことは否定できない事実である。
後の鎖国政策につながるような限定的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、幕末まで海外諸国からの侵略を防げたという評価もあるが、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたものである。また明が海禁策をとるなど、当時の世界的な趨勢であるとも言える。
家康は朝廷を幕府の支配下におこうとした。慶長11年(1606年)には幕府の推挙無しに大名への官位の授与を禁止し、禁中並公家諸法度を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に排除している。
大坂冬の陣の最中である12月17日、朝廷は家康に勅命による和睦を斡旋したが、家康はこれを拒否した。
さらに家康は秀忠の五女・和子を入内させ、外祖父として皇室まで操ろうとしたのである(入内の話は慶長17年(1612年)から始まっていたという。和子の入内が元和6年(1620年)まで長引いたのは、家康と後陽成天皇が死去したためである)。
家康の死後、幕府は紫衣事件などを経て、天皇および朝廷をほぼ完全に支配することに成功した。この力関係は幕末の尊王運動が起こるまで続いた。
一族・譜代の取り扱いに関して
息子や家臣に対しても冷酷非情な面を見せる人物だったとされることが多いが、情に流されず息子や一族に対しても一律に公平であったと見る向きもある。
長男・信康の切腹に関しては、信長の要求によるものではなく、家康自らの粛清説も近年唱えられている。また、生母の身分が低い次男・結城秀康、六男・忠輝を、出生の疑惑や容貌が醜いなどの理由で常に遠ざけていたとされるが、これには異論もある。
関ヶ原の戦いにおいて江戸留守居役を命じられた秀康は、戦功を挙げるために秀忠に代わり西上したいと申し出たが容れられなかった。
かねてから秀康には石田三成との交流があり、豊臣方に内通する恐れがあったとも考えられる一方で、武将として実績のある秀康に三成と友誼が深く西軍に呼応する恐れが強い佐竹義宣を監視させ、東北戦線で上杉氏と戦う伊達政宗・最上義光らの後詰め役として待機させたとされる。
秀康は後の論功行賞において破格の50万石を加増、官位も権中納言まで昇進しており、最終的に67万石もの大封を与えられ、
江戸への参勤免除、幕府からの使役の免除、関所を大砲で破壊しても黙認されるなど、別格の扱いを受けている。
将軍継嗣がならなかったのは、豊臣秀吉の養子で、後に結城家に養子に入り名跡を継いでいることなどが理由とされる。また秀康の子・松平忠直には、秀忠の娘・勝姫を嫁がせている。
忠輝についても嫌われ、冷遇されたといわれたが、それを示す史料はなく、改易前には御三家並の所領(越後国・高田55万石)が与えられていた。
しかし秀康はともかく、嫡子・忠直や忠輝は家康よりもむしろ秀忠と不仲であったとされる。松平忠直は大坂の陣で真田信繁(通称、幸村)らを討ち取る功績を挙げた。
が、論功行賞に不満を言い立てた。
家康の死後は幕政批判や乱行が目立ったために秀忠によって隠居させられ、越前福井藩を継いだのは忠直の弟・忠昌であった。忠輝も秀忠により数々の不行状を追及されて改易させられた。
徳川四天王である本多忠勝や榊原康政を関ヶ原の戦い後に中枢から外し、この2人に次ぐ大久保忠隣を改易・失脚させている。
しかし、榊原康政は老臣が要職を争うことを嫌い自ら老中職を辞退していることに加え、康政の跡を継いだ榊原康勝が大坂の陣で没した後に起こった騒動を家老の処分にとどめ、本多忠勝に対しては、その子・本多忠政と孫・本多忠刻に自分の孫・熊姫(松平信康の娘)と千姫を嫁がせるなど、譜代大名に相応の配慮は示しており、その例は例外も多いが鳥居家、石川家など枚挙に暇がない。
大久保氏も忠隣の孫・忠職は大名として復権し、家康の死後は加増が行われ次代・大久保忠朝は旧領小田原への復帰と、11万石という有力譜代大名としての加増を受けている。
ただし、忠職が家康の曾孫であるから、という見方もできるのも否めない。
しかし、忠隣自身が家康死後に家康の誤りを示すとして秀忠からの赦免要請を拒否していることから、大久保氏を避けていたわけではないと思われる。
家康は吏僚の造反行為には厳しく、三河時代に武田勝頼と内通した寵臣・大賀弥四郎を鋸引きという極刑で処刑している。
大久保長安についても、幕府中枢にある者の汚職・不正蓄財と扱い殊更に厳しくすることで、綱紀粛正を促したとする見方もできる。さらには、人材の環流は組織の活性化に必須であり、一連の行為はあくまで幕府の体制固めとして行われた政治的行為として解釈することもできる。
また、松平信康を含め、秀康・忠輝に共通するのは武将としての評価が高かったことにあり、武将としては凡庸とされ失敗もあり兄を差し置いて将軍となった秀忠の手前彼らを高く評価することは憚られたことが背景にある。
また、家康はかつて敵対していた今川氏・武田氏・北条氏の家臣も多く登用し、彼らの戦法や政策も数多く取り入れている。『故老諸談』には家康が本多康重に語った言葉として「われ、素知らぬ体をし、能く使ひしかば、みな股肱となり。勇功を顕したり」と記されている。
今川義元
戦国時代の二大奇跡がある。ひとつは織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦、もうひとつが中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。
しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。
斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長が弟・信行を謀殺したのは前述した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。
信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。
平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。
「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。
「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。
「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。
「は?」
「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。
こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。
信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。
将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのいい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。
この頃、信長には新しい敵が生まれていた。
美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。
今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。
「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。
こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。
尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。信長の勝つ確率は極めて低い。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。
今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。
特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。
今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。
尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、
「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」
今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。
しかし当の松平元康(のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。
「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」
そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。
松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。
このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。
尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。家臣たちは訝しがった。なにを夢ごとを。