長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

年末年始一気読みスペシャル特別編成『おんな城主井伊直虎』ブログ小説VOL.1

2017年12月30日 16時11分55秒 | 日記




































葵のジャンヌダルク<おんな城主井伊直虎>
~傑物の義理息子・井伊直政を育てた女大名 井伊直虎とその時代~
             
               
               
               
               
                total-produced&PRESENTED&written by
                  UESUGI KAGETORA
                   上杉(長尾)  景虎

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


この作品は引用が多くなりましたので引用元に印税の数%を払い、引用料としてお許し願えればと思います。それでも駄目だ、というなら印税のすべてを国境なき医師団にすべて寄付しますので引用をお許しください。けして盗用ではないのです。どうかよろしくお願いします。上杉景虎   臥竜

この物語のベースは大河ドラマ『おんな城主直虎』漫画『花の慶次』(原作・隆慶一郎・漫画・原哲夫)と高殿円著作『剣と紅』児玉彰三郎著作『上杉景勝』からです。


        あらすじ

井伊 直虎(いい なおとら)は、戦国時代の女性領主。遠江井伊谷(静岡県浜松市北区(旧・引佐郡)引佐町・いなさちょう)の国人井伊氏の当主を務め、「女地頭」と呼ばれた。井伊直親と婚約したが、生涯未婚であった。井伊直政のはとこであり養母。
戦国時代、運命と戦ったおんな城主がいました。その名は井伊直虎。ふるさとは駿河(静岡県)浜名湖の北の遠江の領地・井伊谷(いいのや)。井伊家の家紋は“井”

時代 戦国時代- 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正10年8月26日(1582年9月12日)
改名 祐圓尼、直虎
別名 次郎法師、女地頭(渾名)
戒名 妙雲院殿月泉祐圓大姉
主君 今川氏真→徳川家康
氏族 井伊氏
父母 父:井伊直盛、母:祐椿尼
子 養子:直政
女性で出家後に井伊家の跡をまかされ、義理の息子・井伊直政を育て、徳川家康に仕えさせたその井伊直虎の生涯はまさに「大河ドラマ」である。2017年大河ドラマ(いわゆるおんな大河)『おんな城主直虎』主演・柴咲コウで放送された。原作『おんな城主直虎』『剣と紅』『葵のジャンヌダルク<おんな城主井伊直虎>』。2017年放送。
                                おわり         

1 関ヶ原


井伊家伝記の有名な言葉“女こそあれ井伊家惣領(そうりょう)に生まれ候”(父親の殿さまのただひとりの子供が女子という意味)男子が生まれなかったらしい。惣領=跡継ぎ。この文献で直虎が女性だった、とわかる。また、最近、井伊直虎は男性だった、なる新説の古文書がみつかった。が、「女地頭、次郎法師・井伊直虎が男装していたので勘違いしたのであろう」、と結論している。もはや、決着した議論である。
井伊直虎は美貌の少女であった。生年月日は不明、没年は義理の息子の武功『主君・徳川家康の伊賀越え』を成功させた年のわずか数か月後の天正十年(1582年)八月二十六日(九月十二日)没している。幼名・不明、改名・祐團尼、直虎、別名・次郎法師、女地頭(綽名)、戒名・妙雲院殿月泉祐團大姉、主君・今川氏真→徳川家康、氏族・井伊氏、父・井伊直盛、母・祐椿尼。養子が井伊直政である。
「直政、お主がわしの鷹狩での草原で、烏帽子直垂でわしらと遭遇したとき、となりに若き尼がいたが、それがお前の義理の母御前か?」
「いかにも!徳川さまに仕官する案も義母御前のものでした」
「太閤殿下の前では女謙信とまで申したの?」
「あれは本当にございます。なれど心は優しい艸風(そうふう・草原に吹く風)の如き義母でありました」
「なるほどな。惜しい人を亡くしたのう」
「御意にござる」直政は両目に涙を浮かべた。

石田三成は安土桃山時代の武将である。
 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大阪城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大阪城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「お主はバカなヤツです、三成!」尼姿の次郎法師(井伊直虎)はしたり顔で、彼を非難した。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに」
(*注・実際には井伊直虎こと次郎法師は天正十年(1582)年八月二十六日に享年四十八歳で没しているので、三成の関ヶ原の役では生きてはいないが「特別出演」(笑)で出演させたことは理解して欲しい。直虎の幽霊と話す設定がちょうどよい(笑))
「お前は誰じゃ?」
「井伊直政の義母・次郎法師こと井伊直虎じゃ!」
三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」と直虎の霊をきっと睨んだ。
「たわけ!徳川家康さまや(義理)息子・井伊直政が三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、直虎、いや次郎法師!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、徳川さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」直虎は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「いいえ。でも家康さまや(義理の)息子・井伊直政からきいた。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したという。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放ったらしいぞ」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうじゃ?」
「いや、いらぬ」
 直虎は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人が領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「ふん。淀殿や秀頼殿を利用する方が武士の風上にもおけぬわ」直虎は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「直虎殿、いや直政殿の義母ごぜ」
「なんじゃ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公と淀君さまが危ないのだぞ!」
  直虎は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、徳川さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そうか」
 直虎の霊は拍子抜けして去った。諌める気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴じゃな」苦笑した。
 次に黒田長政がきた。長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。

*大河ドラマでは度々敵対する石田治部少輔三成と黒田官兵衛。言わずと知れた豊臣秀吉の2トップで、ある。黒田官兵衛は政策立案者(軍師)、石田三成はスーパー官僚である。
*参考映像資料NHK番組『歴史秘話ヒストリア「君よ、さらば!~官兵衛VS.三成それぞれの戦国乱世~」』<2014年10月22日放送分>
*三成は今でいう優秀な官僚であったが、戦下手、でもあった。わずか数千の北条方の城を何万もの兵士で囲み水攻めにしたが、逆襲にあい自分自身が溺れ死ぬところまでいくほどの戦下手である。*(映画『のぼうの城』参照)*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。*三成は御屋形さまである太閤秀吉と家臣たちの間を取り持つ官僚であった。
石田三成にはこんな話がある。あるとき秀吉が五百石の褒美を三成にあげようとするも三成は辞退、そのかわりに今まで野放図だった全国の葦をください、等という。秀吉も訳が分からぬまま承諾した。すると三成は葦に税金をかけて独占し、税の収入で1万石並みの軍備費を用意してみせた。それを見た秀吉は感心して、三成はまた大出世した。*
三成の秀吉への“茶の三顧の礼”は誰でも知るエピソードである。*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。

“原始、女性は実に太陽であった。真正のひとであった。しかし、いまや、女性は月である”「青鞜」平塚らいてう(らいちょう)1936年(明治36年)~1971年(昭和46年)

“上手に人をおさめる女性とは上手に人を愛せる女性”ナイチンゲール
ナイチンゲールやジャンヌダルクのように、戦国時代の日本にも『葵のジャンヌダルク、井伊直虎』がいた。直虎というが実は女性。映像参考文献NHK番組『歴史秘話ヒストリア「それでも、私は前を向く~おんな城主・井伊直虎 愛と悲劇のヒロイン~」』井伊直虎こそあの徳川四天王のひとり、井伊直政の義理の母親で、あった。
*<徳川家康の四天王>とは、酒井忠次(さかい・ただつぐ)、榊原康政(さかきばら・やすまさ)、井伊直政(いい・なおまさ)、そして本多忠勝(ほんた・ただかつ)の4人の家康の重臣たちのことだ。猛将の忠次、がんこ者の康政、人格者の直政、剛力の忠勝は、家康を助けた。彼らがいなければ、家康も天下を取れなかったかも知れない。4人の子孫は、みな幕府の重臣となっている。*<「戦国武将大百科」げいぶん社 47ページ>

  関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・白河口の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。
 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。
 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。
 直江らは「何故にございますか?いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか?御屋形さま!」
 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ!」
 直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ!刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。
 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。

***
遠江(とおとうみ)の下、浜名湖に守られながら、室町時代後期、戦国時代を戦火から救うことになるひとりの女性がいた。
名前を直虎、幼名・麗姫(れい・おとわ)、井伊次郎法師・井伊直虎(じろうほうし・いいなおとら)という。
明応42年(1536)1月6日、井伊家(いいけ)に子供が生まれた。のちの井伊直虎である麗姫(れい・大河ドラマではおとわ)である。
父親は井伊直盛(なおもり)、母親は新野千賀(ちか)………
おぎゃああ、おぎゃああ…
「おお!産まれたか!」
「御主人さま、大変にお元気でおおきな…おおきな…」
「おおきな…おおきな?」
「姫さまにございまする!」
「ひ、姫?!!」
父親の直盛は肩を落とした。井伊といえば剛毅な男の世界である。
「まあ、姫か。」と思った。「嫡男はいない。そうするとおんなで長女か。」
当たり前だがそうである。
もし、麗の曾祖父の井伊直平のいうように宗家に世継ぎが生まれなければ直平の息子の井伊直満のひとり息子・亀之丞(のちの井伊直親・なおちか)をひとり娘の婿養子として井伊家を継がせればいい。それでお家は安泰の筈である。
父親は紙に書いた名前をまだ寝ている母親に見せた。
「麗?」
「そうじゃ。れいと呼ぶ」
「まあ、いい名前?」
「これは綺麗のれいからもきているが混じりけのない純粋なおなごに育てよ、というわしからの贈り物の名前でもある。そう、麗、麗姫じゃ。」
「……麗姫?まあ、いい名前ですわ。」
「そうであろう。そうであろう。」
直盛は目を細めた。「この子意外に子がなかったらおじじさまの言うとおり井伊直満の息子・亀之丞の嫁として嫁がせ、元服したら亀之丞は……そう井伊直親としよう」
赤ん坊は何故か夢見心地、の顔だ。
そんな麗姫は少女になった。
浜名湖を眺めながら母親の千賀は五歳か六歳頃の麗姫(おとわ)に言ってきかせた。
「いいか、麗(おとわ)。この世の人はすべてそれぞれ世に生まれた理由があるのです。生まれてくるのに遅いも早いも関係ない。ひとはそれぞれやるべきことがあるから生まれてくる。それをみつけて実行するのがさだめというもの。それは百姓たちを守る武家も、足軽も、百姓も関係ない。だが、現在は百姓を守るのは武家。いいですか、あなたは誰よりも学問と教養で天下のために働くおなごになるのですよ。」
「はい。」麗姫改め次郎法師は頷いた。
 そんな麗姫も成長し十代になると学問がしたくて男装までして菩提寺の学問所にいりびたるようになる。というか後述するが許嫁(いいなずけ)の亀之丞が隠遁生活にはいり髪を切って出家し僧侶になって仏門にはいったのだ。
井伊家には御曹司がいる。名前を井伊亀之丞(かめのじょう)という直虎の許嫁である。
直虎の許嫁・亀之丞と鶴丸少年(小野政次)は授業中にひそひそ話をしていた。今川義元来襲と室町幕府の弱腰外交の皮肉である。
教える先生はまだ若い。先生役の和尚は叱った。
「昨今の室町幕府の騒動をどう思う?次郎法師殿」
「さようですな。」直虎は明敏さもみせる。「これはモンゴル軍の来襲にも似ていまする。」
「うむ。」
「しかし、違うのはモンゴル軍はただ攻めてきただけですが、室町幕府や朝廷の官僚たちはこの日本国に開国を主張しています。」
「それで?」
「もはや外国との貿易なくして我が国はやっていけません。鎖国など無理!武力が違いすぎまする!ここは開国して西洋列強の進んだ文明文化技術をとりいれて国を富ます政策しかないかと。」
「面白い。なれば幕府は開国でいくわけだ」
和尚は唸った。「凄いおなごもいたものじゃ。おなごで歴史にくわしいとはおそれいった」
帰宅の足で、男装の直虎と亀之丞と鶴丸少年は団子屋によった。
「麗(おとわ)!どうゆうつもりじゃ?!!父上や母上は何と申しておった?」
「いいえ、何も」
「何もだと?!」
「ええ、何も誰にも知らせず寺に行きました故」
「次郎法師殿には驚いた。今川義元来襲で皆戦々恐々と安芸人がなっているのに“鎖国反対”“日本開国”論ですから。」
「鶴丸はどう思いまするか?」
「いやあ、正直、わかりません。鎖国も開国も。書物やひとのうわさだけで、実際に外国人とあって話さなければ…」
「なるほど。片方のひとのことばかり聞いて沙汰するな、と。両方の意見をきかねば物事は判断がつかない、と?」
「そんな立派なことではないんですが…」
「鶴丸、うちにきて一局どうですか?」
「………一局?」
 次郎法師・井伊直虎と鶴丸は夕方頃、向かい合って囲碁をした。
老女のたけは姫さまはおなごのくせに男装などして…学問所に男装していくなどおなごのくせに……説教くせなのか老女はぐだぐだ五月蠅い。
「たけ!無礼ではないか!」
「……わかりました。」老女は下がった。
「いつも“おなごのくせに”“おなごのくせに”と五月蠅いのです」
ふたりは微笑んだ。
碁を打つと、懐から生まれた時に授かったお守りが畳におちた。
それはおおきな井伊家の“井”の一文字紋のお守りだった。
何故か次郎法師・井伊直虎のは青い柄のお守りだった。
「…そ、それは!わたくしも同じものをもっておりまする!」
鶴丸(小野政次)は赤い柄の同じ井伊の一文字紋のお守りを見せた。「あ!同じですね!」
「そうだ!」
「なんです?」
「このお守りを交換しませんか?きっとふたりは出会う運命だったんです。そうしましょう。きっと生涯大事にいたしまする」
「は。ははあ。」
半信半疑のままふたりはお守りを交換した。のちの次郎法師こと直虎は悪戯なかおのままいった。「でも驚きました。囲碁……すごいお下手なんですね?」
今川義元に支えていた直虎らの父親・井伊直盛(なおもり)は自宅謹慎の憂き目を見た。納得がいかない次郎法師と鶴丸は今川義元さまの館におしかけた。
すると今川義元はわるびれることもなく「わしは駿河(静岡県)で抜荷(ぬけに・密貿易)をしている」などという。「抜荷を?!」
「室町幕府には禁じられているが、今川家の為にのう。すべてはわしの役目の為じゃ」
直虎は「他に手だては?」ときくが、今川義元さまは、
「なら、あなたならどうするかな?」
と不敵に笑う。
悔しいが直虎も鶴丸も何も言えない。帰路の浜名湖がみえる丘で直虎と鶴丸は思う。
「くやしい。ですが、それはわたしたちの学問や知識・学識が足りない為…私は知りたい。もっともっと世界のことが知りたい」
「わたしもそうでございまする」
「この世の中は複雑怪奇…これから今川義元来襲後この遠江の領地は…日本国はどうなるか…?」
「この鶴丸も知りたく思いまする。この時代の風を明日を知りたく思いまする」
「なれば鶴丸。ますます学問じゃな?」
「次郎法師さま。…まさに!」
 あるとき、直虎は落ち込んだままだった。
自宅に帰ると直虎は落ち込んだ。
「わたしはひとの誇りを傷つけてしまいました…」母に苦難を吐露した。
「……そのひとは弱いひと?」
「いいえ。」
「ならそのひとの誇りは傷つくことはない。そう考えるのはあなたのおごりです!」
うまいことをいうものである。
直虎は初めて号泣した。熱い涙を流し、
「遠江に…生まれてきて…ようございました。私は井伊谷が大好きでござる」
彼女ははじめて遠江の領地のことを思い、熱くなった。

浜名湖を眺める丘で夕焼け空で鶴丸に亀之丞の許嫁にのちになる直虎はいった。
「どんな男が好きか?か?……そうはのう。“日本一(ひのもといち)の男”じゃな」
「は?日本一?」
「そう。日本一じゃ」
のちの小野政次は直虎のことを好いていたが、わしが日本一に…なれるのか…??と苦悩もしたらしい。この頃は、まだ小野政次ではなく、鶴丸という名前である。
龍譚寺にいくとき、たけは直虎に「いいですか。姫、おなごの道は一本道ですよ。こうと決めたらまずは前進する。いいですね?」
「おう。わかった。さらばじゃたけ。それに母上兄上父上も…お世話になりました」
「体に気を付けるのですよ」
「麗、がつがつ食べるなよ」
「わしの子じゃ。どんなに偉くなっても名前や身分がかわってもわしの子じゃ。わしの娘じゃ。」親子兄妹は号泣してわかれた。
龍譚寺(りょうたんじ)の南谿(なんけい)和尚は麗姫を尼ではなく僧侶として名前を与えた「お主は今日から次郎法師…井伊直虎じゃ」
「直虎……ははっ!」
「そなたの教育係として僧侶が勉学をしこむ。よく励むように…!」
「それなのですが…」
「何故にそなたを僧侶にか?か?」
「ははっ!申し訳ありません。でも、何故わたくしが尼ではなく僧侶かと?」
「そういう姫じゃからじゃ。」
「………そういう?」
「まあ、わしの勘じゃな。初めてあったときぴんときたのよ」
「…はあ。」
「いいか次郎法師、これからは修羅の道じゃ。わしの道具となってもらおう」
「は?道具…にござりまするか?」
「そうだ」南谿和尚は頷いた。「それも井伊谷の為。わしはのう。井伊谷から龍譚寺から日本をかえたい。そのために龍譚寺の僧侶となって欲しい」
「……僧侶?ははっ!」
次郎法師は平伏した。
次郎法師は龍譚寺の出家前に浜名湖にお礼をいった。
「いままでありがとうございました!これからもこの遠江を井伊谷をお願いいたしまする!」
僧侶からの猛特訓で話し方や所作、茶道や琴や太鼓や武術など学んで、いよいよ井伊家の惣領となると大名行列のように行列が井伊谷内を練り歩いた。
……われがおんな城主井伊直虎である!
次郎法師の本当の母親は「あの娘が生まれる時、仙人のような男が「その娘を遠江に迎えに来る」といっていた夢を見た」と後年証言したという。
まさに歴史がかわる前の激動、であった。





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話を変える。
 井伊麗姫(のちの井伊次郎法師のちの井伊直虎、2017年NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』ではおとわ)は駿河遠江国(現在の静岡浜松市)井伊谷城で生まれた。生年月日不明(おおよそだが天文五年(1536年))…天文十年(1541)の駿河遠江国(するが・とおとうみ)では井伊直虎と井伊直親がわんぱくに育っていた。
子供の麗(のちの次郎法師・井伊直虎 大河ドラマではおとわ)と亀之丞(のちの井伊直親)と家臣筋の鶴丸(のちの小野政次)は遊んでいた。山を駆け、野を駆け、三人の絆は深い深いものとなった。森でかくれんぼをしていて、麗(大河ドラマではおとわ)は「亀!鶴丸!こっち!こっち!」と呼ぶ。麗はフクロウの巣の赤ちゃんを見つけた。
「わああっ、可愛い」3人の子供はほっこりとした笑顔になった。
井伊家の元祖となった井伊家の祖先で井伊家の始まりとなったのは井伊家の井戸(現在も井伊谷に保存されている)を三人は眺めた。「この井戸に井伊家の祖・初代さま井伊共保(ともやす)公が捨てられていて拾われた。これが井伊家のはじまりである!」
「だが、何故、井戸に捨てられたのに溺れ死ななんだ?」
「きっと井戸端に捨てられたのじゃ」
「なるほど!」
子供時代は浜松の天白磐座(てんぱく・いわくら)遺跡(1500年前からあるとされる古代祭祀遺跡)を遊びまわっていた筈である。井伊家は代々、この天白磐座遺跡を祀る王の末裔でもある。戦国時代は男だけの城主・大名だったが直虎以外のおんな城主はいる。
一は“男勝りの城主 立花誾千代(ぎんちよ)”筑前(いまの福岡県)で永禄十一年、島津の大軍が攻めてきた立花山の戦いで、島津軍を追い払った。二は、“おんな戦国大名 寿桂尼(じゅけいに)(今川義元の母)”四十年に渡っていっさいを取り仕切り今川家繁栄の礎を築いた。今川を有力大名におしあげた知略家である。そんなおんな城主のひとりが直虎。
麗・おとわの父親の直盛は心やさしい性格で生け花が趣味。麗・おとわに「麗・おとわ、お主がこの井伊家井伊谷の領主としてあとを継ぐか?」とおどおど訊いて、幼い麗・おとわは「え?わたしはずうっと最初からわたしがあとをつぐと思っていましたが…違うんですか?」といわれて困惑する。
「そんな訳はあるまい!」逆に母親の千賀は教育母親的な女性で、おとわが亡くなる四年前まで生きていた。おとわが悪戯や悪い口をきくとおしりぺんぺんしてしつけた。
やがて、幼いうちに麗(のちの次郎法師・井伊直虎)と亀之丞は大きくなったら結婚することを誓う。曾祖父の井伊直平(なおひら)が、麗の叔父で亀之丞の父親の井伊直満(なおみつ)の息子と麗(おとわ)を許嫁とした。井伊家本家では嫡男が出来なかったからだ。
「麗……わしたちは夫婦になるのじゃ」
「わかった。亀之丞」
「しかし…わしのような病弱な男の嫁で嫌ではないか?」
「亀、何を言う!そなたには笛があるではないか。」
「わしは笛を吹くことしかできぬ。鶴丸のように頭がいい訳でもない。麗・おとわのように体が丈夫な訳でもない。何の意味も無い存在なのじゃ!出来損ないなのじゃ!」
「ばかもの!」麗・おとわは亀之丞の頬を平手打ちした。
「おまえは意味があっていきておる!われの未来の旦那さまになるのであろう?!!情けないことをいうでない!いうでない!」
「……麗・おとわ…。」
「亀は立派な男子(おのこ)じゃ!のう?!!お前が戦えぬならわれがかわりに戦う。亀、お前が領主が出来ないならわれがかわりに領主となろう!」
「わかった。わしはもっと強い男子になる。みていてくれ!」
「おう!われも綺麗な嫁になるからみていてくれ!」
ふたりは笑顔になった。
 直虎と亀之丞が許嫁(いいなづけ)の関係になったのは直虎五歳のことである。
だが、亀之丞は井伊家の亀の父親が暗殺され井伊家当主が桶狭間で討ち死にすると隠遁生活にはいる。
 麗(おとわ)の父親は、井伊22代宗主直盛(なおもり)である。直盛の幼名は、江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』に「虎松」とある。「虎丸」とする説もあるが、いずれにせよ、虎の目を持つ人間であったのであろう。
 一方、麗(大河ドラマではおとわ)の母は、ドラマでは新野千賀(ちか)となっている。新野氏は、今川氏の庶子家で、御前崎市新野の地頭(この当時の「地頭」は「領主」の意)であった。井伊家と新野氏・娘との結婚は、今川氏との結びつきを深めるための政略結婚だったとされている。
 こうした両親のもと、麗(おとわ)が生まれた場所は井伊谷(いいのや・静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)の井伊氏居館と伝えられている。
 が、残念ながら直盛夫妻が授かった子は「麗(おとわ)」のみで、井伊家の宗主であるにも関わらず息子に恵まれなかった。
 そこで井伊20代宗主直平(なおひら・おとわの曽祖父)が、「男子が生まれなかった場合は、わしの息子の井伊直満(なおみつ)の子・亀之丞と、麗(おとわ)を結婚させる。亀之丞に井伊家を継がせるのだ」と決めた。
 麗(おとわ)が、まだ2~3歳の時だったという。
 「麗(おとわ)」と呼ばれていた時代、彼女は宗家の娘として、何不自由なく過ごしていた。 が、間もなく悲劇が起きる。
「これから駿河の今川さまの屋敷に行って参る」
「………」
「いかがした?亀之丞?」
「父上、領内でよからぬ噂がたっておりまする。今川様のところへはいかぬほうがよいかと。」
「何じゃ。亀、お主までこの父親を疑うのか?井伊直満は北条に内通していると。馬鹿者」
「しかし、今川義元公は…」
「考えすぎじゃ。わしは今川屋敷にまいる」
 だが、やはりだった。今川義元に責められた。「お主は北条に内通しているのであろう?!」
「いいえ、そのようなことは…陰謀にございまする!」
「だまれ!井伊直満!」
井伊直満は右目を戦で負傷していたため眼帯を独眼竜政宗のようにしていた。直満の北条への内通書が示される。ばれた!!う…ぐああ!案の定、今川義元は今川舘内で家臣達に直満を包囲させて、「殺せ!」の命令で井伊亀之丞(のちの井伊直親)の父親は殺された。「一豪族ふぜいが……まろを舐めるな!」
今川義元は吐き捨てるように言った。
井伊直満の首が届けられる。
全員、戦慄した。「書状には井伊家を滅ぼす、と書いてあるぞ!井伊家を、と!」
「そんな馬鹿な!!??」「今川家から攻められたら井伊谷などひとたまりもない!」
「どうしたらいい??!!」「このままなら井伊家滅亡じゃぞ!!」
井伊直満(亀之丞の父)が今川義元に誅殺されてしまった。
「父上―!父上-!」亀之丞は号泣した。
さらに、今川からは亀之丞を殺せとの命令が出ていたが井伊家は逃がした。
曾祖父の井伊直平がきて「小野か?小野が今川へ直満を売ったのか?!」
「おじじさま。今は時がありません」
「まだ九歳の亀之丞を殺すつもりか?!!今川の命令に従うつもりか?!!」
当時のならいで息子の亀之丞(当時9歳)にも殺害命令が出されたのだ。直虎の許婚者であり、井伊家宗主候補だった亀之丞は、かくして信州へと亡命し、消息不明となってしまう。「麗・おとわ、必ずそなたの元に帰ってまいる!」
「まっておるぞ、亀!」
亀之丞が姿をくらまして、亀之丞かと思って今川家の家臣達は農民姿のおとわを捕らえた。

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【大河ドラマ 米沢燃ゆ上杉鷹山公】2017年度末最新キャスト原作上杉(長尾)景虎

2017年12月23日 11時14分36秒 | 日記























米沢燃ゆ 上杉鷹山公(大河ドラマ)キャスト
                   原作・上杉(長尾)景虎 脚本・三谷幸喜
                   音楽・大島ミチル
       

      上杉鷹山(治憲)…………    筒井道隆
      幸姫 …………     谷花音
上杉直丸(少年期)………    鈴木福
      上杉重定    …………    高橋英樹
      竹俣当綱    …………    中村梅雀
      莅戸善政(大華)…………    風間杜夫
      木村高広    …………    京本政樹
      藁科松伯    …………    高嶋政伸
      お富の方    …………    浅野ゆう子
      佐藤文四郎   …………    今井翼(タッキー&翼)
      旅館の女将   …………    鈴木砂羽
      水沢七兵衛   …………    佐藤B作
      須田満主    …………    平泉成
      黒井半四郎   …………    笹野高史
      細井平洲    …………    寺尾聰
      文四郎の恋人  …………    多部未華子
      色部照長    …………    橋爪功
      紀伊      …………    高島礼子
      七家      …………    前田吟・北村総一郎・大杉蓮・加藤剛・三浦友和 他
           etc …………    あき竹城・眞島秀和・佐藤唯・渡辺えり・橋本マナミウド鈴木他 

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大河小説 東日本大震災「震災から6年数ヶ月」未曾有の大震災の真実1

2017年12月03日 08時36分51秒 | 日記






























小説 東日本大震災から8年 最大のドキュメント
  『大河小説 東日本大震災』 
~東日本大震災の真実!あの震災はいかにしてなったか?<上杉史観>~
 <復興か?東北地方衰退か?震災をたたかったひとたち!>

              ~耐え難きを耐え忍び難きを忍び~

                  
               <HIGASHINIHONDAISHINSAI>
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  UESUGI KAGETORA上杉(長尾)景虎
         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.
        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


     ーwith history the final judge of our deeds,let us go
      forth to lead the land we love asking his blessing and
      his help,but knowing that here on earth god'S work must
      truly be our own.ー   JFK

  ”歴史をわれわれの究極の審判とみなし、神の恵みと助けをもとめながらも、
  この地上では神のみざはわれわれ自身の所業でなければならないことを心に刻みつつ  愛する祖国を導き、前進していこうではないか”
                     ジョン・F・ケネデイ
                      1917~1963

 「身内を亡くしたり、家を流されたりしたことは、誰にも言えないし、聞けない。他人をおもんぱかっているわけ。それを絆なんて言ってほしくないけどね。単なる日常が書いてあると読まれてもしょうがないが、そこは読者を信じました。」
        小説『空にみずうみ』より 仙台在住作家 佐伯一麦(かずみ・男)氏


          あらすじ
  この物語は2011年3月11日、東北地方一帯を襲った未曾有の大震災の記録である。
  この物語『大型時代小説 東日本大震災』は半分実話と半分はフィクションです。人物名・名称・団体名・軍隊名等は一部フィクションが混ざっています。改めてご理解ください。                                    

おわり

この作品は引用が多くなりましたので引用元に印税の数%を払い、引用料としてお許し願えればと思います。それでも駄目だ、というなら印税のすべてを国境なき医師団にすべて寄付しますので引用をお許しください。けして盗用ではないのです。どうかよろしくお願いします。UESUGI KAGETORA上杉(長尾)景虎   臥竜


***東日本大震災<ウィキペディアからの引用>
東北地方太平洋沖地震 > 東日本大震災
東日本大震災(ひがしにほんだいしんさい、ひがしにっぽんだいしんさい 英:the Great East Japan Earthquake)は、2011年(平成23年)3月11日(金)に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波、およびその後の余震により引き起こされた大規模地震災害である。この地震によって福島第一原子力発電所事故が起こった。発生した日付から3.11(さんてんいちいち)と略称することもある。
概要[編集]

上杉景虎です。今回はわが東北の復興計画書の草案を献上します。




話を少し過去に戻す。未曾有の大震災『東日本大震災』の物語をここから展開したい。
***


物語は西暦2011年(平23成年)3月1日晴れの神奈川県横須賀の近くの住宅から始まる。
主人公の名は鈴木崇(すずき・たかし)で眉目秀麗な色男で、二十一歳である。
背は高い方ではないがきりりとした眉をした痩せた体に、短い髪型で、防衛大学生らしく、浅黒い肌である。このひとこそこの物語の主人公である。
父親の鈴木弘3等陸佐はすでに先の阪神淡路大震災で殉職している。リビングというか仏壇には父親の遺影がある。
母の名は、ゆき子、といい、病弱で、ほぼ寝たきり状態である。
崇には三歳年下の妹がいる。
名を鈴木海荷(うみか)という。十五歳。
美人な方であると思われる。兄に比べて少しおっとりしている性格で当時は当然ながらミニスカートに見せブラ姿で、芸能人風に髪を上で櫛結いしている。家事全般があまり得意ではないが、母親の、ゆき子、が、病気である以上、おさんどんは海荷がやらざる得ない。
海荷は洗濯は好きだが、料理や裁縫が苦手で、いつも同じような関東風料理ばかりつくる。
だから、長男の崇は「また同じ料理かい?」と文句を吐いたわけだ(笑)。
一家の収入は父親の生命保険と防衛大学生である鈴木崇の僅かな勤労奉仕とバイト代だけであるが、極貧というほどでもない。
けっこう敷地にこぎれいな畑をつくり、晴耕雨読とまではいかないがなんとか食糧に困ることはない。次男の鈴木実は工科学校(昔でいう陸軍幼年学校)に行っている。全寮制で、中学生から自衛隊のスペシャリストを目指している。
親戚には酪農をやっている人種もいる。
だが、時代は戦後の平和ぼけ、のバブル経済崩壊後である。
海荷は高校生だったが、母親が病気であり、おさんどんは海荷がせねばならない。
一家は早朝の朝ご飯の時間帯である。
「お兄ちゃん、文句言うんだったら兄ちゃんが朝飯つくり!」
「ぼくは文句をいっているんじゃない。でも、カレーは此れで一週間毎日じゃないか。もっと料理のレパートリーを増やさないといけない訳よ、じゃないと海荷はちゃんとしたところに嫁にいけんよぉ?」
「余計なお世話よ、兄ちゃん。崇兄ちゃんは防衛大学生でいいけど、実兄ちゃん(次男)は工科学校なんよ。崇にいよりたいへんやわ。それよりお母さんに御粥食べさせてやって。親戚のおばあにパイナップルも頂いたから、それも…」
「はいはい。」崇は言った。「でもぉ、お兄ちゃんも防衛大学生でね、今度、僕等も卒業して自衛隊の現場で行くわけよ」
「え?ああ、大島仁(ひとし)ちゃん?そういえば卒業したら3等陸尉(少尉)だって…」
「ああ、ぼくも防衛大卒なら学歴で3等陸尉(少尉)。今日の朝に出陣式が大島の家の前である訳。LINEで連絡取ってあるからね」
「あの大島の兄ちゃん、左脚が悪いのに防衛大学卒とかで、自衛隊かぁ」
「ああ、ぼくもだなあ。自衛隊だもの。すぐに赤紙がくるよ、ぼくのところにも」
「兄ちゃんもちばりゃんとねえ。日の丸と天皇陛下の為に戦わんといかんもんねえ」
母は咳をしながら「これ海荷、食べながら喋っちゃ駄目、行儀悪りいよう」と叱る。
「そうだぞ、海荷」
兄の崇は冗談交じりに海荷を叱る。むくれる海荷。母と兄はそれがおかしくて笑う。
「なによ?もう!お兄ちゃん達より、実兄ちゃんの方が大卒の学歴こそないけどプロフェッショナルなんだからね!」
鈴木崇の親友の大島仁は同じ防衛大学で二十二歳、ある。
ふたりはあわただしく朝食を済ませると、近所の大島仁の家に急いだ。
もう「万歳!万歳!」とやっている。
「大島仁くんの御武運と御出征とご卒業を祈り、ばんざーい!万歳―!」
辺りのひとやおっさんやおばあたちが日の丸を振る。…立派になった!敵をやっつけるんだぞ!
大島仁は鈴木崇よりは一歳年上だが、同じ防衛大学生だった。
生まれつき左脚が悪い体質だったが、痩身でこちらも眉目秀麗で、黒縁眼鏡が印象的な男である。防衛大の制服をきちんと着て、周囲に礼をしている。
「おう!仁!遅れたで、すまんちゃ!」
崇と海荷は走り込んでセーフだった。
「おお!同じく防衛大卒業生の鈴木崇くんだ!ばんざーい!ばんざーい!」
「崇!海荷ちゃん!俺もいよいよお国の役にたてるさー」
「どうも、どうも。大島、進路は決まってんのか?」
大島仁は「決まった!どうも陸上自衛隊らしいんだわ。だけど、どうも仙台駐屯地の防衛省直属の自衛隊特殊工作部隊らしんだが」
「特殊工作部隊?なんねそれ?」
「SEELDZ(シールズ)、防衛省の高杉晋作の“奇兵隊”みたいなもんさー」
「ああ、奇兵隊(笑)よく百六十年も前の話ばするっとねえ仁(笑)さすが日本史歴史学専攻だねえ?(笑)」
「馬鹿だな。SEELDZは警察庁のSATより凄いんだぜ」
「だれよりもさーっと(SAT)ね」
鈴木崇は冗談を言った。大島仁も笑う。海荷は頬を赤らめながら“プレゼント”を渡した。
「ありがとう、海荷ちゃん。」
大島仁は白い歯をみせて笑った。
「俺の心配は親と妹の亜衣のことだよ」
「そうか。心配ないよ。あいちゃん(大島亜衣)、工科学校で今度卒業するんだろう?それにのう、仁……実はなあ、俺も“赤紙”なんだ。大島。しかも僕もSEELDZだ」
亜衣とは、大島仁の可愛がっている高校生の可愛い顔の妹である。
噂をすれば亜衣から兄・仁の元のスマホに電話があった。
「あんちゃん!亜衣だよ。」
「亜衣―!あんちゃん防衛大卒で仙台駐屯地に行くのさ。お前も工科学校卒業だよな?」
「うん」
「おめでとう!」
 大島仁3等陸尉(少尉)は妹に告げた。
鈴木崇は隠しておいた赤紙をはじめて大島仁にみせた。「え?おい!大丈夫かあー?鈴木?」
「ぼくも自衛隊・防衛省直属特殊部隊!SEELDZ兵隊さまよ!少尉(3等陸尉)!死んだおやじの仇をとる!七生報國さ(七回生まれ変わっても日本國を守る)!僕も仙台駐屯地らしいぜ」
「え?お兄ちゃん?え?そんなあ」海荷は驚くより呆れた。なんて勝手な兄だろう。
「鈴木崇。大島仁。」
その男の声でやっとふたりは恩師の狛江研一(こまえ・けんいち防衛大学教授・1等陸佐(大佐)五十三歳)の存在に気付いた。「あ!先生!」
「あ!じゃない」まるでタレントの北大路欣也さんみたいなおじさんの風体のひとである。
これで防衛大学の名物教授というからおそれいる。立派な制服姿だ。
「君たちねえ、死んじゃいかんよ。生きねばねえ。人間生きてなんぼさ」
「それは…そうですが先生、あまり大声ではいわないほうが…」
「そうですよ。非国民扱いを受けますよ、1佐」
鈴木崇と大島仁はひそひそ声でいった。
「だまらっしゃい!命あっての宝物じゃぞ。死んだ人間に何も出来ないのだから」先生は訊く耳をもたない。
ふたりの教え子がおそれるのは近所の“戦争のおじい”こと伊逹五右衛門(だて・ごえもん)おじいみたいになることである。
もう耄碌で、今でいう認知症(能軟化)で、ボケていて、とにかく「戦争しろ!敵を殺せ!」。
戦争の時代なら、それもいいかも知れない。
戦争世代からみれば「勇気のある気骨もの」に見えるだろう。
だが、このおじい、発言が平和な平成の世で、ある。
白髪の長い髪と髭で、なんとなくジャーナリストの徳富蘇峰みたいな風体だ。もう八十数歳のおじいさん、である。ボケていて、近所を徘徊し、「戦争をしろ!戦争!せんそーう!」とクレイジーに叫ぶ。ボケていると知っている人間ならいいが、時代は平和な世である。
「なんだとこの非国民!」
「非国民!非国民!」
群衆は非国民伊逹五右衛門おじい、に投石したり、罵声を浴びせかける。
鈴木崇や大島仁たちは「このひとは認知症(能軟化)なんです!病気なんです!」と庇うが、庇いきれるものではない。
非国民!と投石の流れ石が額に当たって流血した鈴木崇を介抱したのが、狛江先生の一人娘の綺麗な御嬢さん、狛江晴香(十七歳、仙台大学生)、であった。
まさかふたりに愛や恋心が芽生えるとは当の本人たちも思わない。
だが、朱に交われば赤くなる、である。最近は伊逹五右衛門老人は徘徊が酷くなり、行方不明状態である。
「崇さん、兵隊さんだってねえ?だいじょうぶ?」
「心配ないよ!ぼくはお国の為に戦う!国民の生活と財産と命を守る!」
「……外敵に自衛隊で勝てると思う?」
「……」
「うちのお父さんも言うじゃない?“死んだらおわりだ”って。死んだらおわりじゃない?」
「ならどうしろと?」崇は教授のひとり娘・狛江晴香に食ってかかった。
意味がない。どうせ答えはない。只、死なないで帰ってきて程度だ。
だが、その愛情が『犬死』をためらわせた。
「崇君には生きて戻ってきて欲しいの」
「しかし…」鈴木崇は大学の校舎で泣いた。只々、狛江晴香が愛しかった。
狛江晴香の母親はジェシカという。
スコットランド人である。つまり、晴香はハーフな訳だ。
スコットランド人の母親と日本人の父親のハーフ(混血)。狛江ジェシカは日本からスコットランドに疎開していた。差別や阻害が酷い為だ。日本でさえ……。
大島仁の母親は大島ふみ、という。
鈴木崇の“もうひとりの母親的”存在、である。
確かにそうだったのかも知れない。大島ふみ、は優しい心が澄んだとてもいいひとである。
鈴木崇に、“自衛隊は国を守る必要な暴力装置”と教えてくれたのもこの大島の母親、大島ふみ、であった。
ちなみに鈴木崇は大卒というか学歴があるために一兵卒というより“3等陸尉(少尉)”である。大島仁のほうも防衛省直属の特殊工作部隊SEELDZの指導的な立場にたたされる。
習志野(SKG)からの凄腕が、一騎当千の凄い人間たちが所属するのが防衛省直属の特殊工作部隊、通称、SEELDZ(シールズ)、である。
「とにかく日本国を守るのは僕達と優秀な自衛隊と工兵部隊だ!」
「やろうぜ!」「よっしゃ!」
ふたりは熱くなった。ICBM(大陸間弾道ミサイル)でもサイバー攻撃でも何でもきやがれってんだ!“優秀な防衛”というものをみせてやる!いずれちゃんとした政治家も現れ、“集団的自衛権”も“駆けつけ警護”も出来るようになるさ!

参考文献『国防論』小林よしのり著作、小学館出版より引用(P198)
現代では自衛隊(つまり事実上の日本軍)は『自衛隊は軍じゃない』という詭弁から、昔のように戦闘艦とか大佐とか少尉とか大将とか呼ばない。まあ、言葉遊びみたいなものだが、戦闘艦は護衛艦とよび、普通、護衛艦が守るのは空母なはずだが、『自衛隊は軍隊じゃない』という詭弁の元では護衛艦(事実上の戦闘艦)が守るのは商船や貨物船や石油やガスを積んだタンカーである。2015年の安保法案の改訂で、もういいのかも知れないが事実上はタンカーの警護も出来ない。“憲法違反”である、という(笑)
馬鹿馬鹿しい。いつまで自衛隊に“足枷”ばかりつけるつもりなんだろう。
ちなみに陸自(陸上自衛隊)のケースだが、昔の階級でいう大将は「陸将(陸上幕僚長)」、中将は「陸将」、少将は「陸将補」、大佐は「1等陸佐」、中佐は「2等陸佐」、少佐は「3等陸佐」、大尉は「1等陸尉」、中尉は「2等陸尉」、少尉は「3等陸尉」、兵曹長は「准陸尉」、上等兵曹は「陸曹長」……等というようになっている。後はウィキペディアででも調べて欲しい。しかし「大佐」「大尉」「大将」「軍曹」などといえばすぐにわかるが、「3尉」「1佐」などといわれても軍事マニアでもなければまずわからない。
何処までも『自衛隊は軍隊じゃない』という詭弁で動いている。
自衛隊隊員は優秀で愛国心あふれる正義の人が多いだけによけいな『足枷』が立派な職務を妨害する、それこそ『足枷』にならねばいいが……。
参考文献『国防論』小林よしのり著作、小学館出版より引用(P197~206、P212~230)
日本の国防を考えるならば、自衛隊は勿論、政府の外交姿勢、国民の覚悟、現在と将来の国際状況など、あらゆる面から論じてみなければならない。漫画家でジャーナリストの小林よしのり氏は月日は遡るが、平成22年3月に呉基地(山口県呉市)や江田島の幹部候補生学校を取材していたという。そのまま引用します。盗作ではなく引用です。出版社は事前に小林氏に引用の許可をお願いします。
呉市は明治以降、海軍と共に発展を遂げてきた。明治22年に呉鎮守府(ちんぶふ)が開庁。さらに戦艦大和などを建造した日本一の海軍工廠(こうしょう)が設置。最盛期には40万人の人口を擁したが、昭和20年には米軍の空襲で軍港、工廠共に壊滅、市街も廃墟と化した。占領下で呉は軍港から貿易港へ、海軍工廠は臨海工業地帯へと転換。そして昭和29年の自衛隊法施行に伴って「海上自衛隊呉地方隊呉地方総監部」が発足した。
戦後一時の中断があったとも言っても、やはり呉は120年にわたる西日本の海の守りの拠点であり、戦前からの歴史のつながりを感じる。
小林よしのり氏の取材には大谷3佐(少佐)という美人の女性幹部をエスコートにつけてきたという。しかも、すごい美人だという。「自衛隊め、わしが漫画で描くからとハニー・トラップを仕掛けてきたか!」小林氏の漫画にはそうある(笑)だが、そのハニー・トラップに引っ掛かったのはわしではない!取材の間中、この美女に鼻の下伸ばしていたのは、軍事ジャーナリストの井上和彦氏だったのだ!という、オチまでついている(笑)
大谷3佐は湾岸戦争に衝撃を受けて大学を中退、丁度、その年、女性に門戸を開いた防衛大学を受験したという、防大の女性第一期生。現在(取材当時)は市谷の防衛省勤務だが、将来は女性初の艦長を目指しているそうだ。(我々と同じバブル世代(笑))
港が近づくと造船工場が見える。IHIMU呉工場、かつては戦艦大和を建造した旧呉海軍工廠である。建造中の大和を覆っていた大屋根の一部や、天井クレーン、修理ドッグは戦後もずっと使用されてきたという。到着すると港には大きなイルカのような黒い潜水艦と護衛艦もいたという。
埠頭には自衛隊員が整列し、微動だにしない。「自衛隊旗」はかつての我が帝国海軍が用いていた「軍艦旗」(旭日旗)と同じデザインである。今の若者はこのデザインを朝日新聞の社旗と勘違いするかも知れないが、違うんだ!誤解もはなはだしい。中国の軍は共産党を守る専属軍!党のために働き、国民にも銃を向ける!自衛隊は国民を守る「隊」だ!「軍」と言えないところがつらいが…
潜水艦「くろしお」に乗せてくれるという。潜水艦上にはしごで乗り移ると枠や柵があるわけではないので、うっかりすると足をすべらせて海におちてしまいそうで緊張する。
何しろ潜水艦は軍事機密の塊である。カメラは原則持ち込み禁止。漫画の資料用に小学館のカメラマンだけ許可され、撮影できる部分だけ撮らせてもらう。もちろん潜水艦の中に入るのは初めてだ。入り口のハッチから垂直の梯子につかまり、降りていくのだが、わしは皮靴の先の尖ったやつを履いてきたため大変だった。こんな取材をさせてくれるならスニーカーで来たのに。
まずは士官室に通され、簡単な艦の説明を受ける。「くろしお」という潜水艦はこの艦が3代目。初代は自衛隊発足の翌年昭和30年代にアメリカから貸与された艦だった。
当時の潜水艦は水上航行が主で、必要な時に潜航したため、通常の船舶に近い「水上船型」だ。その後、水中抵抗の少ない「涙滴(るいてき)型」、さらに、船体空間を広げた「葉巻型」と改良され、この「くろしお」は葉巻型の潜水艦「おやしお」型の第7番艦として平成16年に就役している。
潜水艦の長所はなんといってもその隠密性にある。隠密裏に作戦遂行ができることもさることながら、どこにいるかわからないという潜在脅威による心理効果が多大であり、潜水艦を発見するには大変な時間、兵力、技術を必要とするため、その分、敵を止めておくことができる。
一方で弱点は防御力で、ただでさえ潜航中の船体は強力な水圧との戦いであり、そこを攻撃された場合は非常に脆弱になるそうだ。
中国海軍は平成20年10月に戦艦4隻で津軽海峡を通過する挑発行為を行い…平成22年4月には潜水艦2隻など計10隻で沖縄本島近海を通過するなど、不穏な動きを見せている。これに警戒して、防衛省は10月20日、現在16隻で運用している潜水艦を20隻超まで増やす方針を固めたという。
だが、新しい艦を増やして補強するわけではない。日本政府によって、毎年、防衛費は削られているから、本来なら耐久年数を迎えて交代する潜水艦をメンテナンスして、5年ほど「延命」させる苦肉の策なのだ。
まだまだ尖閣諸島や南沙諸島の侵略行為を止める気配は、中国側には全然ない。海上自衛隊の存在意義は益々大きくなってきている。
一通り艦内を案内してもらう。発令所では潜望鏡を覗かせてもらい、写真を撮ったが、もちろん写っていい、角度の写真で、壁一面を埋める計器類などは一切撮影不可であった。
艦内は細かい区画に区切られていて、その境界では、くぐり戸のような出入り口を身をかがめて通らなければならない。途中、カプセルホテルよりも窮屈そうな部屋があったが、これが艦長室で、艦内で唯一の個室だという。
そして最も艦首に近い区域…といっても移動しているうちにどちらが艦首でどちらが艦尾かわからなくなっていたが、そこには発射菅室で、魚雷が3発静かに光り輝いていた。
これこそが潜水艦の最大の攻撃力、1発で敵艦を沈められる誘導魚雷である。
しかし、驚いたのは、その魚雷のすぐ脇に、人が寝られるスペースを作ってあったことだ。
中国海軍の「第一列島線」は九州、沖縄、フィリピン、ボルネオに至るラインをすでに作戦区域としている。さらに「第二列島線」は伊豆諸島から小笠原諸島、グアム、サイパン、パプアニューギニアに至るラインまで進出を狙っている。
ちなみに潜水艦の艦長は旧ソ連では「少将」が当てられていたという。一般的には艦長は「大佐」が上限だ。つまり、潜水艦にはメンタリティ(精神性)の強い者を乗せないと耐えられないということだ。
海自では潜水艦の乗員はかなり適性検査を厳しくして、耐えられる者しか乗せない。潜水艦の中で精神を病んでしまったら、助けられないからだ。
海自では、今や飛行機の搭乗員よりも潜水艦乗員を探す方が大変になってきている。
潜水艦乗員はプライドがものすごく高い。彼らは「我々は怖いものは何もない」というらしい。護衛艦もP-3Cも全く怖くない、という。世間の人はイージス艦に注目するが、あんなものは「高価格標的艦こんごう型」と言うんだと、彼らは言う。つまり、的(マト)に過ぎないとまでいう。ただし、ヘリコプターは怖いという。空中から魚雷攻撃を受けたらひとたまりもない。空中のヘリを攻撃できないからだ。それさえなければ潜水艦員に言わせれば、「世の中には2種類の船しかない。一つは潜水艦、もう一つは潜水艦に沈められる船である」ということになる。
静かにいかにひそかに潜水できるか?は溶接技術である。潜水艦員は3K労働(危険、汚い、きつい)だが、しかし1K、つまり「栄光」が加わると言う。5年間かけて技術を身につけ、後進に技術を伝えていく。熟練技術者がいるからこそ日本の潜水艦の高度な技術が維持されている。
わしは潜水艦「くろしお」を取材したが、食堂では椅子の中、テーブルの下など、あらゆる場所が食材の貯蔵所になっている。そして便所には「真水の一滴は、血の一滴!!」と、節水を呼び掛ける張り紙が!士官室で昼食をいただいた。メニューはカツカレー。
「そういえば今日は金曜日だったのか。」
一度海上に出ると曜日感覚がなくなってしまうため、それを維持するため、旧海軍以来、金曜日は必ずカレーである。
「海軍カレー」というのが、商品になっているが、海上自衛隊に共通のカレーのレシピがあるわけではなく、各々の艦船ごとに秘伝があるらしい。
防衛省のひとに聞いたことがある。
「呉で潜水艦の乗せてもらったんだけど、乗組員の中にちょっと太っているのがいたんだよね。潜水艦乗りってストレス溜まって食い過ぎるの?」
するとこう答えた。
「丸いハッチから出られる間は大丈夫です!」
「なるほど!」
潜水艦の食事は1日4食で、カロリーが高めに設定されているらしい。そのうち1食は食べなくてもいいのだが、3交代のローテーションで暮らしているので、基本は4食になる。
水上艦も4食だが、いざ沈没となったときに海の上に放り出されても生き残るためには体力が必要な為であるという。あるP3-Cの搭乗員はこういった。
「教官は教育の時、ご飯は絶対食えと。食わないと落ちた時に、生き残れないと。がぶって酔ってても絶対に食えと。そういう指導をされますね」
潜水艦の居住性も昔よりは向上したらしいが、それでもあらゆるところに制約があり、忍耐を強いられることは見ればわかる。しかも、隠密性が命である潜水艦の乗組員は、いつ出航し、いつ帰るかを家族にも言えないらしい。
江田島で幹部候補生と話す機会があった。
「この中で潜水艦志望という人はいるんですか?」
「はい!乗ってました。」
「あなた、魚雷の横で寝た事ある?」
「はい!夏は冷たくて気持ちいいです!」教室にどっ!と笑いが起こる。
普通の人ならぞっとして肝が冷えるが、彼らは感触として身体が冷える感覚を味わえるらしい。大した肝っ玉だ。
「潜水艦は風呂なんかも満足に入れないでしょ?真水の一滴は血の一滴とか書いてあったし。」
「はい。そうです。」
「体や汗や何やらで臭くないのかな?」
「それも潜水艦の匂いというものですので。」
「ひとの体臭だらけになりそうだなあ」
「はっきり言って臭いです!」教室にまたどっ!と笑いがおこる。
傍にいた軍事ジャーナリストの井上和彦氏が「潜水艦に乗っていた人は匂いでわかりますからね。」傍らの海自幹部も「タクシーの運ちゃんもわかるって言ってました。」
「こんな話を聞いても潜水艦志望は変わらない?」
「はい。やはり潜水艦が一番フロント(最前線)に出ていると思うので。常に潜って緊張状態にあって、そういうところを自分も志願してきたので!」
「ほ~~お、すごいね。」
小林よしのり氏は感心しまくりだったという。
潜水艦の抑止力としての効果は大きい。
四方を海に囲まれた海洋国家・日本を守っているのは、潜水艦だといっても過言ではない。日の当たらぬ深海でストレスに耐え、誰にも知られることなく黙々と任務に励む隊員たちよ、頼むぞ!
呉では掃海艇(そうかいてい)「みやじま」も見学した。
海中の魚雷をかたずける(つまり掃海する)船である。
兎に角、何かと五月蠅い日本国民も災害や特に東日本の未曾有の大災害での活躍で、「自衛隊の実力」がわかった筈である。だが、自衛隊の本来の目的は『災害救助』ではなく、『国防・防衛』である。『暴力装置』としての自衛隊で益々、抑止力として頑張ってもらいたい。
マックスウェバーのいう『暴力装置』とは『軍事力』のことではなく、『抑止力』である。例えば警察や自衛隊が力があるからこそ防衛も治安維持も出来るのであり、親が子供より『暴力装置』が強いからこそ犯罪を犯した時しかれるのだ。
自衛隊員は確かに愛国心も能力も高い。だが、政治家も国民も彼らの行動力がそがれるような態度や集団デモなどをして『足枷』になったら駄目だ。

参考文献『国防論』小林よしのり著作、小学館出版より引用(P299~310)

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【今上天皇・平成天皇退位2019年4月30日】皇太子殿下新天皇へ。同年5月1日即位

2017年12月01日 13時32分10秒 | 日記






















今上天皇陛下(平成天皇・明仁親王・上皇)が


2019年4月30日に退位(譲位)され、


皇太子殿下(徳仁親王・新天皇陛下)が同年5月1日に即位なされることで


皇室会議で決定された。

即位とともに改元され新元号も決まる。”平和”が新元号ならいいですね。


天皇陛下お疲れ様でした。長生きなされて下さい。




臥竜  2017/12/01   上杉(長尾)景虎

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