葵のジャンヌダルク<おんな城主井伊直虎>
~傑物の義理息子・井伊直政を育てた女大名 井伊直虎とその時代~
total-produced&PRESENTED&written by
UESUGI KAGETORA
上杉(長尾) 景虎
this novel is a dramatic interoretation
of events and characters based on public
sources and an in complete historical record.
some scenes and events are presented as
composites or have been hypothesized or condensed.
”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
米国哲学者ジョージ・サンタヤナ
この作品は引用が多くなりましたので引用元に印税の数%を払い、引用料としてお許し願えればと思います。それでも駄目だ、というなら印税のすべてを国境なき医師団にすべて寄付しますので引用をお許しください。けして盗用ではないのです。どうかよろしくお願いします。上杉景虎 臥竜
この物語のベースは大河ドラマ『おんな城主直虎』漫画『花の慶次』(原作・隆慶一郎・漫画・原哲夫)と高殿円著作『剣と紅』児玉彰三郎著作『上杉景勝』からです。
あらすじ
井伊 直虎(いい なおとら)は、戦国時代の女性領主。遠江井伊谷(静岡県浜松市北区(旧・引佐郡)引佐町・いなさちょう)の国人井伊氏の当主を務め、「女地頭」と呼ばれた。井伊直親と婚約したが、生涯未婚であった。井伊直政のはとこであり養母。
戦国時代、運命と戦ったおんな城主がいました。その名は井伊直虎。ふるさとは駿河(静岡県)浜名湖の北の遠江の領地・井伊谷(いいのや)。井伊家の家紋は“井”
時代 戦国時代- 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正10年8月26日(1582年9月12日)
改名 祐圓尼、直虎
別名 次郎法師、女地頭(渾名)
戒名 妙雲院殿月泉祐圓大姉
主君 今川氏真→徳川家康
氏族 井伊氏
父母 父:井伊直盛、母:祐椿尼
子 養子:直政
女性で出家後に井伊家の跡をまかされ、義理の息子・井伊直政を育て、徳川家康に仕えさせたその井伊直虎の生涯はまさに「大河ドラマ」である。2017年大河ドラマ(いわゆるおんな大河)『おんな城主直虎』主演・柴咲コウで放送された。原作『おんな城主直虎』『剣と紅』『葵のジャンヌダルク<おんな城主井伊直虎>』。2017年放送。
おわり
1 関ヶ原
井伊家伝記の有名な言葉“女こそあれ井伊家惣領(そうりょう)に生まれ候”(父親の殿さまのただひとりの子供が女子という意味)男子が生まれなかったらしい。惣領=跡継ぎ。この文献で直虎が女性だった、とわかる。また、最近、井伊直虎は男性だった、なる新説の古文書がみつかった。が、「女地頭、次郎法師・井伊直虎が男装していたので勘違いしたのであろう」、と結論している。もはや、決着した議論である。
井伊直虎は美貌の少女であった。生年月日は不明、没年は義理の息子の武功『主君・徳川家康の伊賀越え』を成功させた年のわずか数か月後の天正十年(1582年)八月二十六日(九月十二日)没している。幼名・不明、改名・祐團尼、直虎、別名・次郎法師、女地頭(綽名)、戒名・妙雲院殿月泉祐團大姉、主君・今川氏真→徳川家康、氏族・井伊氏、父・井伊直盛、母・祐椿尼。養子が井伊直政である。
「直政、お主がわしの鷹狩での草原で、烏帽子直垂でわしらと遭遇したとき、となりに若き尼がいたが、それがお前の義理の母御前か?」
「いかにも!徳川さまに仕官する案も義母御前のものでした」
「太閤殿下の前では女謙信とまで申したの?」
「あれは本当にございます。なれど心は優しい艸風(そうふう・草原に吹く風)の如き義母でありました」
「なるほどな。惜しい人を亡くしたのう」
「御意にござる」直政は両目に涙を浮かべた。
石田三成は安土桃山時代の武将である。
豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大阪城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大阪城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「お主はバカなヤツです、三成!」尼姿の次郎法師(井伊直虎)はしたり顔で、彼を非難した。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに」
(*注・実際には井伊直虎こと次郎法師は天正十年(1582)年八月二十六日に享年四十八歳で没しているので、三成の関ヶ原の役では生きてはいないが「特別出演」(笑)で出演させたことは理解して欲しい。直虎の幽霊と話す設定がちょうどよい(笑))
「お前は誰じゃ?」
「井伊直政の義母・次郎法師こと井伊直虎じゃ!」
三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」と直虎の霊をきっと睨んだ。
「たわけ!徳川家康さまや(義理)息子・井伊直政が三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、直虎、いや次郎法師!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、徳川さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」直虎は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「いいえ。でも家康さまや(義理の)息子・井伊直政からきいた。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したという。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放ったらしいぞ」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうじゃ?」
「いや、いらぬ」
直虎は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人が領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「ふん。淀殿や秀頼殿を利用する方が武士の風上にもおけぬわ」直虎は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「直虎殿、いや直政殿の義母ごぜ」
「なんじゃ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公と淀君さまが危ないのだぞ!」
直虎は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、徳川さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そうか」
直虎の霊は拍子抜けして去った。諌める気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴じゃな」苦笑した。
次に黒田長政がきた。長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。
*大河ドラマでは度々敵対する石田治部少輔三成と黒田官兵衛。言わずと知れた豊臣秀吉の2トップで、ある。黒田官兵衛は政策立案者(軍師)、石田三成はスーパー官僚である。
*参考映像資料NHK番組『歴史秘話ヒストリア「君よ、さらば!~官兵衛VS.三成それぞれの戦国乱世~」』<2014年10月22日放送分>
*三成は今でいう優秀な官僚であったが、戦下手、でもあった。わずか数千の北条方の城を何万もの兵士で囲み水攻めにしたが、逆襲にあい自分自身が溺れ死ぬところまでいくほどの戦下手である。*(映画『のぼうの城』参照)*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。*三成は御屋形さまである太閤秀吉と家臣たちの間を取り持つ官僚であった。
石田三成にはこんな話がある。あるとき秀吉が五百石の褒美を三成にあげようとするも三成は辞退、そのかわりに今まで野放図だった全国の葦をください、等という。秀吉も訳が分からぬまま承諾した。すると三成は葦に税金をかけて独占し、税の収入で1万石並みの軍備費を用意してみせた。それを見た秀吉は感心して、三成はまた大出世した。*
三成の秀吉への“茶の三顧の礼”は誰でも知るエピソードである。*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。
“原始、女性は実に太陽であった。真正のひとであった。しかし、いまや、女性は月である”「青鞜」平塚らいてう(らいちょう)1936年(明治36年)~1971年(昭和46年)
“上手に人をおさめる女性とは上手に人を愛せる女性”ナイチンゲール
ナイチンゲールやジャンヌダルクのように、戦国時代の日本にも『葵のジャンヌダルク、井伊直虎』がいた。直虎というが実は女性。映像参考文献NHK番組『歴史秘話ヒストリア「それでも、私は前を向く~おんな城主・井伊直虎 愛と悲劇のヒロイン~」』井伊直虎こそあの徳川四天王のひとり、井伊直政の義理の母親で、あった。
*<徳川家康の四天王>とは、酒井忠次(さかい・ただつぐ)、榊原康政(さかきばら・やすまさ)、井伊直政(いい・なおまさ)、そして本多忠勝(ほんた・ただかつ)の4人の家康の重臣たちのことだ。猛将の忠次、がんこ者の康政、人格者の直政、剛力の忠勝は、家康を助けた。彼らがいなければ、家康も天下を取れなかったかも知れない。4人の子孫は、みな幕府の重臣となっている。*<「戦国武将大百科」げいぶん社 47ページ>
関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・白河口の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。
家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。
豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。
直江らは「何故にございますか?いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか?御屋形さま!」
だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ!」
直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ!刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。
兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。
***
遠江(とおとうみ)の下、浜名湖に守られながら、室町時代後期、戦国時代を戦火から救うことになるひとりの女性がいた。
名前を直虎、幼名・麗姫(れい・おとわ)、井伊次郎法師・井伊直虎(じろうほうし・いいなおとら)という。
明応42年(1536)1月6日、井伊家(いいけ)に子供が生まれた。のちの井伊直虎である麗姫(れい・大河ドラマではおとわ)である。
父親は井伊直盛(なおもり)、母親は新野千賀(ちか)………
おぎゃああ、おぎゃああ…
「おお!産まれたか!」
「御主人さま、大変にお元気でおおきな…おおきな…」
「おおきな…おおきな?」
「姫さまにございまする!」
「ひ、姫?!!」
父親の直盛は肩を落とした。井伊といえば剛毅な男の世界である。
「まあ、姫か。」と思った。「嫡男はいない。そうするとおんなで長女か。」
当たり前だがそうである。
もし、麗の曾祖父の井伊直平のいうように宗家に世継ぎが生まれなければ直平の息子の井伊直満のひとり息子・亀之丞(のちの井伊直親・なおちか)をひとり娘の婿養子として井伊家を継がせればいい。それでお家は安泰の筈である。
父親は紙に書いた名前をまだ寝ている母親に見せた。
「麗?」
「そうじゃ。れいと呼ぶ」
「まあ、いい名前?」
「これは綺麗のれいからもきているが混じりけのない純粋なおなごに育てよ、というわしからの贈り物の名前でもある。そう、麗、麗姫じゃ。」
「……麗姫?まあ、いい名前ですわ。」
「そうであろう。そうであろう。」
直盛は目を細めた。「この子意外に子がなかったらおじじさまの言うとおり井伊直満の息子・亀之丞の嫁として嫁がせ、元服したら亀之丞は……そう井伊直親としよう」
赤ん坊は何故か夢見心地、の顔だ。
そんな麗姫は少女になった。
浜名湖を眺めながら母親の千賀は五歳か六歳頃の麗姫(おとわ)に言ってきかせた。
「いいか、麗(おとわ)。この世の人はすべてそれぞれ世に生まれた理由があるのです。生まれてくるのに遅いも早いも関係ない。ひとはそれぞれやるべきことがあるから生まれてくる。それをみつけて実行するのがさだめというもの。それは百姓たちを守る武家も、足軽も、百姓も関係ない。だが、現在は百姓を守るのは武家。いいですか、あなたは誰よりも学問と教養で天下のために働くおなごになるのですよ。」
「はい。」麗姫改め次郎法師は頷いた。
そんな麗姫も成長し十代になると学問がしたくて男装までして菩提寺の学問所にいりびたるようになる。というか後述するが許嫁(いいなずけ)の亀之丞が隠遁生活にはいり髪を切って出家し僧侶になって仏門にはいったのだ。
井伊家には御曹司がいる。名前を井伊亀之丞(かめのじょう)という直虎の許嫁である。
直虎の許嫁・亀之丞と鶴丸少年(小野政次)は授業中にひそひそ話をしていた。今川義元来襲と室町幕府の弱腰外交の皮肉である。
教える先生はまだ若い。先生役の和尚は叱った。
「昨今の室町幕府の騒動をどう思う?次郎法師殿」
「さようですな。」直虎は明敏さもみせる。「これはモンゴル軍の来襲にも似ていまする。」
「うむ。」
「しかし、違うのはモンゴル軍はただ攻めてきただけですが、室町幕府や朝廷の官僚たちはこの日本国に開国を主張しています。」
「それで?」
「もはや外国との貿易なくして我が国はやっていけません。鎖国など無理!武力が違いすぎまする!ここは開国して西洋列強の進んだ文明文化技術をとりいれて国を富ます政策しかないかと。」
「面白い。なれば幕府は開国でいくわけだ」
和尚は唸った。「凄いおなごもいたものじゃ。おなごで歴史にくわしいとはおそれいった」
帰宅の足で、男装の直虎と亀之丞と鶴丸少年は団子屋によった。
「麗(おとわ)!どうゆうつもりじゃ?!!父上や母上は何と申しておった?」
「いいえ、何も」
「何もだと?!」
「ええ、何も誰にも知らせず寺に行きました故」
「次郎法師殿には驚いた。今川義元来襲で皆戦々恐々と安芸人がなっているのに“鎖国反対”“日本開国”論ですから。」
「鶴丸はどう思いまするか?」
「いやあ、正直、わかりません。鎖国も開国も。書物やひとのうわさだけで、実際に外国人とあって話さなければ…」
「なるほど。片方のひとのことばかり聞いて沙汰するな、と。両方の意見をきかねば物事は判断がつかない、と?」
「そんな立派なことではないんですが…」
「鶴丸、うちにきて一局どうですか?」
「………一局?」
次郎法師・井伊直虎と鶴丸は夕方頃、向かい合って囲碁をした。
老女のたけは姫さまはおなごのくせに男装などして…学問所に男装していくなどおなごのくせに……説教くせなのか老女はぐだぐだ五月蠅い。
「たけ!無礼ではないか!」
「……わかりました。」老女は下がった。
「いつも“おなごのくせに”“おなごのくせに”と五月蠅いのです」
ふたりは微笑んだ。
碁を打つと、懐から生まれた時に授かったお守りが畳におちた。
それはおおきな井伊家の“井”の一文字紋のお守りだった。
何故か次郎法師・井伊直虎のは青い柄のお守りだった。
「…そ、それは!わたくしも同じものをもっておりまする!」
鶴丸(小野政次)は赤い柄の同じ井伊の一文字紋のお守りを見せた。「あ!同じですね!」
「そうだ!」
「なんです?」
「このお守りを交換しませんか?きっとふたりは出会う運命だったんです。そうしましょう。きっと生涯大事にいたしまする」
「は。ははあ。」
半信半疑のままふたりはお守りを交換した。のちの次郎法師こと直虎は悪戯なかおのままいった。「でも驚きました。囲碁……すごいお下手なんですね?」
今川義元に支えていた直虎らの父親・井伊直盛(なおもり)は自宅謹慎の憂き目を見た。納得がいかない次郎法師と鶴丸は今川義元さまの館におしかけた。
すると今川義元はわるびれることもなく「わしは駿河(静岡県)で抜荷(ぬけに・密貿易)をしている」などという。「抜荷を?!」
「室町幕府には禁じられているが、今川家の為にのう。すべてはわしの役目の為じゃ」
直虎は「他に手だては?」ときくが、今川義元さまは、
「なら、あなたならどうするかな?」
と不敵に笑う。
悔しいが直虎も鶴丸も何も言えない。帰路の浜名湖がみえる丘で直虎と鶴丸は思う。
「くやしい。ですが、それはわたしたちの学問や知識・学識が足りない為…私は知りたい。もっともっと世界のことが知りたい」
「わたしもそうでございまする」
「この世の中は複雑怪奇…これから今川義元来襲後この遠江の領地は…日本国はどうなるか…?」
「この鶴丸も知りたく思いまする。この時代の風を明日を知りたく思いまする」
「なれば鶴丸。ますます学問じゃな?」
「次郎法師さま。…まさに!」
あるとき、直虎は落ち込んだままだった。
自宅に帰ると直虎は落ち込んだ。
「わたしはひとの誇りを傷つけてしまいました…」母に苦難を吐露した。
「……そのひとは弱いひと?」
「いいえ。」
「ならそのひとの誇りは傷つくことはない。そう考えるのはあなたのおごりです!」
うまいことをいうものである。
直虎は初めて号泣した。熱い涙を流し、
「遠江に…生まれてきて…ようございました。私は井伊谷が大好きでござる」
彼女ははじめて遠江の領地のことを思い、熱くなった。
浜名湖を眺める丘で夕焼け空で鶴丸に亀之丞の許嫁にのちになる直虎はいった。
「どんな男が好きか?か?……そうはのう。“日本一(ひのもといち)の男”じゃな」
「は?日本一?」
「そう。日本一じゃ」
のちの小野政次は直虎のことを好いていたが、わしが日本一に…なれるのか…??と苦悩もしたらしい。この頃は、まだ小野政次ではなく、鶴丸という名前である。
龍譚寺にいくとき、たけは直虎に「いいですか。姫、おなごの道は一本道ですよ。こうと決めたらまずは前進する。いいですね?」
「おう。わかった。さらばじゃたけ。それに母上兄上父上も…お世話になりました」
「体に気を付けるのですよ」
「麗、がつがつ食べるなよ」
「わしの子じゃ。どんなに偉くなっても名前や身分がかわってもわしの子じゃ。わしの娘じゃ。」親子兄妹は号泣してわかれた。
龍譚寺(りょうたんじ)の南谿(なんけい)和尚は麗姫を尼ではなく僧侶として名前を与えた「お主は今日から次郎法師…井伊直虎じゃ」
「直虎……ははっ!」
「そなたの教育係として僧侶が勉学をしこむ。よく励むように…!」
「それなのですが…」
「何故にそなたを僧侶にか?か?」
「ははっ!申し訳ありません。でも、何故わたくしが尼ではなく僧侶かと?」
「そういう姫じゃからじゃ。」
「………そういう?」
「まあ、わしの勘じゃな。初めてあったときぴんときたのよ」
「…はあ。」
「いいか次郎法師、これからは修羅の道じゃ。わしの道具となってもらおう」
「は?道具…にござりまするか?」
「そうだ」南谿和尚は頷いた。「それも井伊谷の為。わしはのう。井伊谷から龍譚寺から日本をかえたい。そのために龍譚寺の僧侶となって欲しい」
「……僧侶?ははっ!」
次郎法師は平伏した。
次郎法師は龍譚寺の出家前に浜名湖にお礼をいった。
「いままでありがとうございました!これからもこの遠江を井伊谷をお願いいたしまする!」
僧侶からの猛特訓で話し方や所作、茶道や琴や太鼓や武術など学んで、いよいよ井伊家の惣領となると大名行列のように行列が井伊谷内を練り歩いた。
……われがおんな城主井伊直虎である!
次郎法師の本当の母親は「あの娘が生まれる時、仙人のような男が「その娘を遠江に迎えに来る」といっていた夢を見た」と後年証言したという。
まさに歴史がかわる前の激動、であった。
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話を変える。
井伊麗姫(のちの井伊次郎法師のちの井伊直虎、2017年NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』ではおとわ)は駿河遠江国(現在の静岡浜松市)井伊谷城で生まれた。生年月日不明(おおよそだが天文五年(1536年))…天文十年(1541)の駿河遠江国(するが・とおとうみ)では井伊直虎と井伊直親がわんぱくに育っていた。
子供の麗(のちの次郎法師・井伊直虎 大河ドラマではおとわ)と亀之丞(のちの井伊直親)と家臣筋の鶴丸(のちの小野政次)は遊んでいた。山を駆け、野を駆け、三人の絆は深い深いものとなった。森でかくれんぼをしていて、麗(大河ドラマではおとわ)は「亀!鶴丸!こっち!こっち!」と呼ぶ。麗はフクロウの巣の赤ちゃんを見つけた。
「わああっ、可愛い」3人の子供はほっこりとした笑顔になった。
井伊家の元祖となった井伊家の祖先で井伊家の始まりとなったのは井伊家の井戸(現在も井伊谷に保存されている)を三人は眺めた。「この井戸に井伊家の祖・初代さま井伊共保(ともやす)公が捨てられていて拾われた。これが井伊家のはじまりである!」
「だが、何故、井戸に捨てられたのに溺れ死ななんだ?」
「きっと井戸端に捨てられたのじゃ」
「なるほど!」
子供時代は浜松の天白磐座(てんぱく・いわくら)遺跡(1500年前からあるとされる古代祭祀遺跡)を遊びまわっていた筈である。井伊家は代々、この天白磐座遺跡を祀る王の末裔でもある。戦国時代は男だけの城主・大名だったが直虎以外のおんな城主はいる。
一は“男勝りの城主 立花誾千代(ぎんちよ)”筑前(いまの福岡県)で永禄十一年、島津の大軍が攻めてきた立花山の戦いで、島津軍を追い払った。二は、“おんな戦国大名 寿桂尼(じゅけいに)(今川義元の母)”四十年に渡っていっさいを取り仕切り今川家繁栄の礎を築いた。今川を有力大名におしあげた知略家である。そんなおんな城主のひとりが直虎。
麗・おとわの父親の直盛は心やさしい性格で生け花が趣味。麗・おとわに「麗・おとわ、お主がこの井伊家井伊谷の領主としてあとを継ぐか?」とおどおど訊いて、幼い麗・おとわは「え?わたしはずうっと最初からわたしがあとをつぐと思っていましたが…違うんですか?」といわれて困惑する。
「そんな訳はあるまい!」逆に母親の千賀は教育母親的な女性で、おとわが亡くなる四年前まで生きていた。おとわが悪戯や悪い口をきくとおしりぺんぺんしてしつけた。
やがて、幼いうちに麗(のちの次郎法師・井伊直虎)と亀之丞は大きくなったら結婚することを誓う。曾祖父の井伊直平(なおひら)が、麗の叔父で亀之丞の父親の井伊直満(なおみつ)の息子と麗(おとわ)を許嫁とした。井伊家本家では嫡男が出来なかったからだ。
「麗……わしたちは夫婦になるのじゃ」
「わかった。亀之丞」
「しかし…わしのような病弱な男の嫁で嫌ではないか?」
「亀、何を言う!そなたには笛があるではないか。」
「わしは笛を吹くことしかできぬ。鶴丸のように頭がいい訳でもない。麗・おとわのように体が丈夫な訳でもない。何の意味も無い存在なのじゃ!出来損ないなのじゃ!」
「ばかもの!」麗・おとわは亀之丞の頬を平手打ちした。
「おまえは意味があっていきておる!われの未来の旦那さまになるのであろう?!!情けないことをいうでない!いうでない!」
「……麗・おとわ…。」
「亀は立派な男子(おのこ)じゃ!のう?!!お前が戦えぬならわれがかわりに戦う。亀、お前が領主が出来ないならわれがかわりに領主となろう!」
「わかった。わしはもっと強い男子になる。みていてくれ!」
「おう!われも綺麗な嫁になるからみていてくれ!」
ふたりは笑顔になった。
直虎と亀之丞が許嫁(いいなづけ)の関係になったのは直虎五歳のことである。
だが、亀之丞は井伊家の亀の父親が暗殺され井伊家当主が桶狭間で討ち死にすると隠遁生活にはいる。
麗(おとわ)の父親は、井伊22代宗主直盛(なおもり)である。直盛の幼名は、江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』に「虎松」とある。「虎丸」とする説もあるが、いずれにせよ、虎の目を持つ人間であったのであろう。
一方、麗(大河ドラマではおとわ)の母は、ドラマでは新野千賀(ちか)となっている。新野氏は、今川氏の庶子家で、御前崎市新野の地頭(この当時の「地頭」は「領主」の意)であった。井伊家と新野氏・娘との結婚は、今川氏との結びつきを深めるための政略結婚だったとされている。
こうした両親のもと、麗(おとわ)が生まれた場所は井伊谷(いいのや・静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)の井伊氏居館と伝えられている。
が、残念ながら直盛夫妻が授かった子は「麗(おとわ)」のみで、井伊家の宗主であるにも関わらず息子に恵まれなかった。
そこで井伊20代宗主直平(なおひら・おとわの曽祖父)が、「男子が生まれなかった場合は、わしの息子の井伊直満(なおみつ)の子・亀之丞と、麗(おとわ)を結婚させる。亀之丞に井伊家を継がせるのだ」と決めた。
麗(おとわ)が、まだ2~3歳の時だったという。
「麗(おとわ)」と呼ばれていた時代、彼女は宗家の娘として、何不自由なく過ごしていた。 が、間もなく悲劇が起きる。
「これから駿河の今川さまの屋敷に行って参る」
「………」
「いかがした?亀之丞?」
「父上、領内でよからぬ噂がたっておりまする。今川様のところへはいかぬほうがよいかと。」
「何じゃ。亀、お主までこの父親を疑うのか?井伊直満は北条に内通していると。馬鹿者」
「しかし、今川義元公は…」
「考えすぎじゃ。わしは今川屋敷にまいる」
だが、やはりだった。今川義元に責められた。「お主は北条に内通しているのであろう?!」
「いいえ、そのようなことは…陰謀にございまする!」
「だまれ!井伊直満!」
井伊直満は右目を戦で負傷していたため眼帯を独眼竜政宗のようにしていた。直満の北条への内通書が示される。ばれた!!う…ぐああ!案の定、今川義元は今川舘内で家臣達に直満を包囲させて、「殺せ!」の命令で井伊亀之丞(のちの井伊直親)の父親は殺された。「一豪族ふぜいが……まろを舐めるな!」
今川義元は吐き捨てるように言った。
井伊直満の首が届けられる。
全員、戦慄した。「書状には井伊家を滅ぼす、と書いてあるぞ!井伊家を、と!」
「そんな馬鹿な!!??」「今川家から攻められたら井伊谷などひとたまりもない!」
「どうしたらいい??!!」「このままなら井伊家滅亡じゃぞ!!」
井伊直満(亀之丞の父)が今川義元に誅殺されてしまった。
「父上―!父上-!」亀之丞は号泣した。
さらに、今川からは亀之丞を殺せとの命令が出ていたが井伊家は逃がした。
曾祖父の井伊直平がきて「小野か?小野が今川へ直満を売ったのか?!」
「おじじさま。今は時がありません」
「まだ九歳の亀之丞を殺すつもりか?!!今川の命令に従うつもりか?!!」
当時のならいで息子の亀之丞(当時9歳)にも殺害命令が出されたのだ。直虎の許婚者であり、井伊家宗主候補だった亀之丞は、かくして信州へと亡命し、消息不明となってしまう。「麗・おとわ、必ずそなたの元に帰ってまいる!」
「まっておるぞ、亀!」
亀之丞が姿をくらまして、亀之丞かと思って今川家の家臣達は農民姿のおとわを捕らえた。