長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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黒田官兵衛<軍師黒田官兵衛と石田三成と「大河ドラマ軍師官兵衛」ふたたび>ブログ連載10

2016年04月26日 07時26分29秒 | 日記










御着城では、黒田官兵衛が姫路城に立て籠もるという噂が流れていたため、御着の民は不安がっていたが、いつもと変らない小寺官兵衛を見て、御着の民は安心した。
さて、御着城へ入った小寺官兵衛は、再び主君の小寺政職を説得したが、織田信長に反旗を翻すという評議は変らなかった。
小寺政職は小寺官兵衛を殺したかったが、小寺官兵衛を殺せば、父・黒田職隆が姫路城に立て籠もることは目に見えていた。
父・黒田職隆は強敵なので、小寺政職は小寺官兵衛を殺せなかったのである。
そこで、小寺政職は小寺官兵衛に、
「私が織田信長に背いたのは、荒木村重の一味だからである。荒木村重が織田信長に属するのであれば、私も織田信長に属そう。織田信長に属した方が良いと言うのなら、汝が荒木を説得してまいれ」と命じた。
黒田官兵衛は織田信長や羽柴秀吉と連絡をとるときに有岡城(兵庫県伊丹市)の荒木村重を中継していた関係で、黒田官兵衛と荒木村重と旧知の仲であった。
荒木村重の考えは分からなかったが、小寺政職を織田信長に属させるためには荒木村重を説得する以外に方法は無いため、小寺政職は荒木村重を説得することにした。
天正6年(1578年)10月下旬、小寺官兵衛は荒木村重が籠城する有岡城を訪れたが、荒木村重は屈強な兵士を待機させており、小寺官兵衛を生け捕りにして、牢屋に閉じ込めた。
小寺政職は荒木村重に、
「小寺官兵衛を殺して欲しい」
と依頼していたが、荒木村重は殺害までは出来ず、生け捕りにして牢屋に閉じ込めた。
これは小寺官兵衛(黒田官兵衛)が33歳の事であった。
小寺官兵衛(黒田官兵衛)が有岡城の荒木村重に捕らえられたという知らせは、直ぐに小寺官兵衛の居城・姫路城へと伝わった。
小寺官兵衛は織田信長に息子・黒田長政(幼名は松寿)を人質に出しており、小寺官兵衛を助けるために荒木村重に味方すれば、黒田長政が殺され、黒田長政を助けるために織田信長に属せば、小寺官兵衛が殺される。
小寺官兵衛と黒田長政の両方を助ける方法はない。
姫路城の黒田家は苦しい選択を迫られた。喧々囂々の議論に及び、評議が割れ、結論が出なかった。
しかし、父・黒田職隆が、
「織田信長に人質を差し出したのは我が本意である。しかし、荒木村重が小寺官兵衛(黒田官兵衛)を捕らえたのは、荒木村重の不義であり、これは非に及ばざる所である。小寺官兵衛が殺されれば、不慮の天災と思うべし。どうして、小寺官兵衛を救うために、意に反して敵に従う必要があるのだ。小寺官兵衛を捨てて織田信長に属するべし」
と言い、織田信長に忠誠を誓うことを宣言した。
黒田家には、小寺官兵衛から与力として黒田家に仕えていた家臣も多かった。
が、黒田家の家臣は話し合い、「黒田休夢と黒田兵庫の命令に従う」という誓紙を交わすと、御本丸(櫛橋光)に誓紙を差し出し、御本丸(櫛橋光)に忠誠を誓った。
(注釈:黒田休夢は父・黒田職隆の弟で、黒田兵庫は黒田官兵衛の弟である。)
(注釈:御本丸については、黒田官兵衛の父・黒田職隆とする説と、黒田官兵衛の妻・櫛橋光とする説があるが、ここでは御本丸を櫛橋光とする。)
母里太兵衛・栗山善助・田宮次兵衛・久野四郎など43名が誓紙に署名し、黒田家は御本丸(櫛橋光)を中心に一気団結した。
こうして父・黒田職隆は、織田信長につくことを決めると、御着城の黒田邸を焼き払い、家来を姫路城へと引き上げさせ、小寺政職と絶縁し、織田信長への従属を表明したのである。
さて、いつまで経っても、荒木村重を説得するために有岡城へ入った小寺官兵衛(黒田官兵衛)が有岡城から出てこないため、織田信長は小寺官兵衛が毛利側に寝返ったと思い、父・黒田職隆を呼びつけて尋問した。
父・黒田職隆は、織田信長に拝謁して忠誠を誓ったが、織田信長の怒りは収まらず、織田信長は竹中半兵衛に人質・黒田長政(幼名は松寿丸)の処刑を命じると、兵を率いて荒木村重が籠城する有岡城を攻めた。
竹中半兵衛は、
「黒田家が毛利側に付けば、中国征伐は困難になります」
と織田信長を諫めたが、織田信長の怒りは収まらず、竹中半兵衛は仕方なく、人質・黒田長政の処刑を承諾した。
しかし、竹中半兵衛は浜松城から人質・黒田長政を連れだすと、美濃にある居城・菩提山城で黒田長政を匿い、織田信長には死んだ別の子供の首を届け、織田信長を欺いたのであった。
小寺官兵衛が有岡城から出てこないため、毛利側に寝返ったと思った織田信長は、竹中半兵衛に人質・松寿(後の黒田長政)の殺害を命じると、自ら兵を率いて荒木村重が籠城する有岡城を攻めた。
しかし、戦国時代には珍しい総構えを有した有岡城は、かなりの要害で、そう簡単には落ちず、天正6年(1578年)12月、織田信長は有岡城の力攻めを諦めて安土城へと引き上げた。
元々、有岡城は伊丹城と言い、伊丹親興の城だった。
が、伊丹親興は反織田信長の勢力についたため、織田信長の家臣となった荒木村重に天正2年(1574年)に攻め滅ぼされ、荒木村重の城となった。
その後、織田信長は石山本願寺との戦争に備えて荒木村重に伊丹城の改修を命じた。
このため、荒木村重は伊丹城を大改修して有岡城と改称した。この時に有岡城は、戦国時代では珍しい総構えの城のとなった。
織田信長の軍は荒木村重が籠城する有岡城を攻め落とせないのは、くしくも、織田信長の命令によって強固に大改修されたからであった。なお、有岡城は日本最古の総構えの城だとされている。
さて、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が有岡城に幽閉されたという知らせが伝わると、姫路城の黒田家では、小寺官兵衛(黒田官兵衛)を奪還する作戦が練られていた。
そして、家臣の栗山善助・母里太兵衛・井上九郎右衛門が小寺官兵衛を救出するため、商人に成りすまして有岡城に潜伏し、代わる代わる、牢獄に近づいて、小寺官兵衛の安否を伺っていた。
有岡城には銀屋新七という知り合いが居り、銀屋新七が牢番を買収してくれたので、栗山善助らは小寺官兵衛と連絡を取ることが出来るようになった。
このとき、黒田家の家臣・井口兵助(後の村田出羽)の叔母(母の姉)が有岡城で働いており、門番の加藤重徳は井口兵助の叔母が小寺官兵衛の世話をすることを許した。
小寺官兵衛は門番の加藤重徳に感謝して、「もし、無事に出られる事が出来たら、貴方の息子を養育したい」と申し出た。
その後、有岡城が落城すると、加藤重徳は次男・加藤玉松を姫路城へ送った。黒田官兵衛(小寺官兵衛)は約束通り、加藤玉松を養育し、実子・黒田長政と兄弟同様に養育した。この加藤玉松が、黒田24騎の1人となる黒田三左衛門である。
さて、三木城の別所安治も有岡城の荒木村重も、織田信長に反旗を翻して毛利側に寝返ったが、毛利輝元からの援軍はいっこうに現れず、苦しい籠城戦を余儀なくされていた。
そこで、天正7年(1579年)9月、荒木村重は密かに有岡城を抜けだし、毛利輝元に援軍を直訴へ向かった。
これを受けた毛利元就は、吉川元春と小早川隆景を先手として大軍を播磨(兵庫県)へ投入するため、備中の松山(岡山県高梁市)まで兵を進めた。
しかし、備前・備中・美作(いずれも岡山県)を支配する宇喜多直家が小寺官兵衛(黒田官兵衛)の調略を受け、織田信長側に寝返っていることが判明したため、毛利元就は播磨への侵攻を諦めて引き返した。
天正7年(1579年)11月、荒木村重が不在となると、有岡城に居る一部の兵が織田信長側の内向工作に応した。
そして、織田軍が有岡城へ総攻撃をかけると、内応した家臣が門を開いて織田軍を城内へ引き入れた。
有岡城は8ヶ月渡る籠城戦に耐え抜き、織田軍を寄せ付けなかった有岡城であった。
が、内側から崩れ、織田軍の総攻撃によって落城した。
一方、有岡城に潜伏していた小寺官兵衛(黒田官兵衛)の家臣・栗山善助と母里太兵衛は、織田軍の総攻撃を好機と見て、小寺官兵衛の救出に向かった。
栗山善助らが牢屋に向かうと、既に監視の兵は逃げていた。
栗山善助らは斧で牢を壊して小寺官兵衛を助け出すと、戦争の混乱に紛れて有岡城を抜け出した。
[注釈:このとき、黒田官兵衛は唐瘡(梅毒)という病気に感染して、生涯、足が曲がらなくなり、「チンバ」と呼ばれたという説がある。ただし、梅毒は主に性病なので、信憑性は不明。]
救出された小寺官兵衛は、長い牢屋生活で力が弱り、足がすくんで歩けなかったので、屈強な者に背負われて、近くの農村へと逃げ込み、その後、有馬温泉で疲れを取った。
なお、黒田家には、秦桐若(はたのきりわか)という豪傑が居たが、早く傷を治そうとして、有馬温泉の湯を飲み、下痢を起して死んだ。このため、黒田官兵衛は有馬温泉の湯を飲まなかったという。
その後、小寺官兵衛は有馬温泉から姫路城へ帰り、一族と生還を喜び、数日後、羽柴秀吉の元へと向かった。
すると、羽柴秀吉は「命を省みず、敵の城に乗り込むことは、誠に忠義の到りである。
獄中の生活は苦しかっただろうが、こうして再会できた事は嬉しい限りである」と涙を流して喜んだ。
一方、小寺官兵衛の捕らわれていた事を知った織田信長は、
「人質の黒田長政(幼名は松寿)を処刑したことは後悔の至りだ。小寺官兵衛に合わせる顔が無い」と後悔した。
しかし、竹中半兵衛が機転を聞かせ、居城・菩提山城に人質・黒田長政を隠し置いていた事を知ると、織田信長は竹中半兵衛に感謝した。
小寺官兵衛も竹中半兵衛の機転に感謝したが、もう竹中半兵衛に礼を述べることは出来なかった。
竹中半兵衛は、小寺官兵衛が救出される半年前の天正7年(1879年)6月に、三木城を包囲する陣中で病死していたのだ。
黒田長政はこの時の恩を忘れず、後に豊前(大分+福岡県)の大名になると、竹中重門の次男・竹中主善を貰い受け、養育した。
(注釈:竹中重門は、竹中半兵衛の嫡子で、竹中主善は竹中半兵衛の孫にあたる。)


 家康の正室・築山殿と嫡男・信康が武田勝頼と内通しているという情報を知った信長は、激怒した。そして、家康に「ふたりとも殺すように」という書状を送った。
「……何?」その書状があまりにも突然だったため、家康は自分の目をほとんど信じられなかった。築山と、信康が武田勝頼と内通? まさか!
「殿!」家臣が声をかけたが、家康は視線をそむけたままだった。「まさか…」目をそむけたまま、かれはつぶやいた。「殺す? 妻子を……?」
「殿! ……なりませぬ。今、信長殿に逆らえば皆殺しにされまする」
 家臣の言葉に、家康は頷いた。「妻子が武田と内通しているとはまことか?」
「わかりませぬ」家臣は正直にいった。「しかし、疑いがある以上……いたしかたなし」 家康は茫然と、遠くを見るような目をした。暗い顔をした。
  ほどなく、正室・築山殿と嫡男・信康は殺された。徳川家の安泰のためである。
 家康は落胆し、憔悴し、「力なくば……妻子も……救えぬ」と呟いた。
 それは微かな、暗い呟きだった。

  信長は”長島一揆””一向一揆”を実力で抑えつけた。
  そして、有名な武田信玄の嫡男・勝頼との”長篠の合戦”(一五七五年)にのぞんだ。あまりにも有名なこの合戦では鉄砲の三段構えという信長のアイデアが発揮された。
 信長は設楽が原に着陣すると、丸たん棒や木材を運ばせ、二重三重の柵をつくらせた。信長は武田の騎馬隊の恐ろしさを知っていた。だから、柵で進撃を防ごうとしたのだ。
 全面は川で、柵もできて武田の騎馬隊は前にはすすめない。
 信長は柵の裏手に足軽三千人を配置し、三列づつ並ばせた。皆、鉄砲をもっている。火縄銃だ。当時の鉄砲は一発づつしか撃てないから、前方が撃ったら、二番手、そして三番手、そして、前方がその間に弾をこめて撃つ……という速射戦術であった。
 案の定、武田勝頼の騎馬隊が突っ込んできた。
「撃て! 放て!」信長はいった。
 三段構え銃撃隊が連射していくと、武田軍はバタバタとやられていった。ほとんどの武田軍の兵士は殺された。武田の足軽たちは「これは不利だ」と見て逃げ出す。
 武田勝頼は刀を抜いて、「逃げるな! 死ね! 死ね! 生きて生き恥じを晒すな!」と叫んだ。が、足軽たちはほとんど農民らの徴兵なので全員逃げ出した。
 武田の足軽が農民なのに対して、信長の軍はプロの兵士である。最初から勝負はついていた。騎馬隊さえ抑えれば信長にとっては「こっちのもん」である。
 こうして、”長篠の合戦”は信長の勝利に終わった。
 これで東側からの驚異は消えた訳だ。
 残る強敵は、石山本願寺と上杉謙信だけであった。

  信長は岐阜から、居城を安土に移し、絢爛豪華な安土城を築いた。
 城には清涼殿(天皇の部屋)まであったという。つまり、天皇まで京から安土に移して自分が日本の王になる、という野望だった。それだけではなく、信長は朝廷に暦をかえろ、とまで命令した。明智光秀にとってはそれは我慢のならぬことでもあった。
 また、信長は「余を神とあがめよ」と命じた。自分を神と崇め、自分の誕生日の五月十二日を祝日とせよ、と命じたのだ。なんというはバチ当たりか……
「それだけはおやめくだされ!」こらえきれなくなって、林通勝がくってかかった。信長はカッときた。「なんじゃと?!」
「信長さまは人間にこざりまする! 人間は神にはなれませぬ!」
 林は必死にとめた。
「……林! おのれはわしがどれだけ罵倒されたか知っておるだろう?!」怒鳴った。そして、「わしは神じゃ!」と短刀を抜いて自分の肩を刺した。林通勝は驚愕した。
 しかし、信長は冷酷な顔を変えることもなく、次々に短刀で自分をさした。赤赤とした血がしたたる。………
 林通勝の血管を、感情が、熱いものが駆けめぐった。座敷に立ち尽くすのみだ。斧で切り倒されたように唖然として。
「お……お……御屋形様…」あえぎあえぎだが、ようやく声がでた。なんという……
「御屋形様は……神にござる!」通勝は平伏した。信長は血だらけになりながら「うむ」と頷いた。その顔は激痛に歪むものではなく、冷酷な、果断の顔であった。
  天正七年(1579)初夏。秀吉は中国地方の毛利攻めを命じられた。秀吉は喜んだ。しかし、その最中、明智光秀が母を人質として和睦しようとしていた武将を、信長が殺した。当然ながら光秀の母は殺された。「母ごぜ……」光秀は愕然となった。
「信長は鬼じゃ! 信長は鬼じゃ!」歯をぎりぎりいわせながら、秀吉は信長にいった。「頭を冷やしなはれ、秀吉殿」千宗易(のちの利休)は秀吉を諫めた。





         本能寺の変



  天正十年(一五八二)、明智光秀は居城に帰参した。
 光秀は疲れていた。鎧をとってもらうと、家臣たちに「おまえたちも休め」といった。「殿……お疲れのご様子。ゆっくりとお休みになられては?」
「貴様、なぜわしが疲れていると思う? わしは疲れてなどおらぬ!」
 明智光秀は激怒した。家臣は平伏し「申し訳ござりませぬ」といい、座敷を去った。
 光秀はひとりとなった。本当は疲れていた。かれは座敷に寝転んで、天井を見上げた。「………疲れた。なぜ……こんなにも……疲れるのか…? 眠りたい…ゆっくり…」
 明智光秀は空虚な、落ち込んだ気分だった。いまかれは大名となっている。金も兵もある。気分がよくていいはずなのに、ひどく憂欝だった。
「勝利はいいものだ。しかし勝利しているのは信長さまだ」光秀の声がしぼんだ。「わしは命令に従っているだけじゃ」
 明智光秀は不意に、ものすごい疲労が襲いかかってくるのを感じ、自分がつぶされる感覚に震えた。目尻に涙がにじんだ。
「あの方が……いなくなれ…ば…。鬼はきっと誰かに退治…される」
 明智光秀は自分の力で人生をきりひらき、将軍を奉り利用した。人生の勝利者となった。放浪者から、何万石もの大名となった。理知的な行動で自分を守り、生き延びてきた。だが、途中で多くのものを失った………家族、母、子供……。ひどく落ち込んだ気分だった。さらに悪いことには孤独でもある。くそったれめ、孤独なのだ!
「あの方がいなくなれば……眠れる…眠れる…」明智光秀は暗く呟いた。
  かれは信長に「家康の馳走役」をまかされていた。光秀はよくやってのけた。
 徳川家康は信長に安土城の天守閣に案内された。
「家康殿、先の武田勢との合戦ではご協力感謝する」信長はいった。そして続けた。「安土城もできた当時は絢爛豪華なよい城と思うたが、二年も経つと色褪せてみえるものじゃ」「いえ。初めて観るものにとっては立派な城でござる。この家康、感動いたしました」
 家康は信長とともに立ち、天守閣から城下町を眺めた。
「家康殿、わしを恨んでいるのであろう?」信長は冷静にいった。
「いえ。めっそうもない」
「嘘を申すな。妻子を殺されて恨まぬものはいまい。わしを殺したいと正直思うているのであろう?」
「いいえ」家康は首を降り、「この度のことはわが妻子に非がありました。武田と内通していたのであれば殺されるのも当たり前。当然のことでごさる」と膝をついて頭をさげた。「そうか? そうじゃのう。家康殿、お主の妻子を殺さなければ、お主自身が殺されていたかも知れぬぞ。武田勝頼は汚い輩だからのう」
「ははっ」家康は平伏した。
 明智光秀は側に支えていた。「光秀、家康殿とわしの関係を知っておるか?」
「……いいえ」
「家康殿は幼少の頃よりわが織田家に人質として暮らしておったのじゃ。小さい頃はよく遊んだ。幼き頃は、敵も味方もなかったのじゃのう」
 信長はにやりとした。家康も微笑んだ。

 この年、信長の正室・吉乃が病に倒れ、明日をも知れぬ身体となった。信長はこのとき初めて神に祈った。しかし、吉乃の命は風前の灯であった。信長は吉乃の眠る座敷へと急いでいき、手にもった仏像を彼女に手渡した。しかし、吉乃は抱き抱えられながら、仏像を捨てた。信長は手をさしのべ、自分がそばについていることを思い出させようとした。やさしく彼女を抱きしめた。
「…わらわは信長さまの妻……信長さまが神を信じないのなら…わらわも…」
 吉乃は無理に微笑んだ。彼女の感触こそ、信長の崩壊を防ぐ唯一のものだった。信長は傷つきやすい孤独な心で、吉乃を抱擁した。「吉乃……死ぬな」
 かすかな悲しげな微笑みとともに、信長はささやいた。信長は妻の頭を胸に抱きよせ、彼女の髪に頬を重ねた。吉乃は微笑み、そして死んだ。
 秀吉はすぐに駆けつけた。いっぱいの土産をもって。
「ひさしいのう、秀吉」上座で、信長は秀吉に声をかけた。側には息子の信忠や信雄らがいた。秀吉は「これはすべて吉乃さまへの御土産にござる!」
「サル……母上は…死ん…だ……のだ」信忠は泣きながらいった。
「信忠、秀吉はそんなことは百も承知だ。わしをなぐさめておるのだ」
 信長はいった。すると秀吉は「泣いてもかまわないのです、御屋形様!」といった。
「鬼が泣いても……笑われるだけじゃ」信長は涙目で呟いた。

  明智光秀は不幸であった。信長に「家康の馳走役」を外されたのだ。「な……何かそそうでも?」是非、答えがききたかった。
「いや、そうではない。武士というものは戦ってこその武士じゃ。馳走役など誰でもできる。お主には毛利と攻戦中の備中高松の秀吉の援軍にいってほしいのじゃ」
「は? ……羽柴殿の?」
 光秀は茫然とした。大嫌いな秀吉の援軍にいけ、というのだ。中国の毛利攻めに参加せよと…? 秀吉の援軍? かれは唖然とした。言葉が出なかった。
 信長は話しをやめ、はたして理解しているか、またどう受け取っているかを見るため、明智光秀に鋭い視線をむけた。そして、口を開いた。
「お主の所領である近江、滋賀、丹波をわしに召しとり、かわりに出雲と石見を与える。まだ、敵の領じゃが実力で勝ちとれ。わかったか?!」
 光秀は言葉を発しなかった。かわりに頭を下げた。かれは下唇をかみ、信長から目をそむけていた。光秀が何を考えているにせよ、それは表には出なかった。
  しかし、この瞬間、かれは信長さえいなければ……と思った。明智光秀は信長が去ったあと、息を吸いあげてから、頭の中にさまざまな考えをめぐらせた。
 ……信長さまを……いや、織田信長を……討つ!

  元正一〇年(一五八二)六月一日、信長は部下たちを遠征させた。旧武田領を支配するため滝川一益が織田軍団長として関東へ、北陸には柴田勝家が、秀吉は備中高松城を水攻め中、信長の嫡男・信孝、それに家臣の丹羽長秀が四国に渡るべく大阪に待機していた。 近畿には細川忠興、池田恒興、高山右近らがいた。
 信長は秀吉軍と合流し、四国、中国、九州を征服するために、五月二十九日から入京して、本能寺に到着していた。京は完全な軍事的空白地帯である。
 信長に同行していた近衆は、森蘭丸をはじめ、わずか五十余り………
 信長は完全に油断していた。
  秀吉は備中高松城攻めで、巨大な堤防をつくっていた。土袋を金で庶民から買う…という奇抜なアイデアでわずか十一日で巨大な堤防をつくった。あとは雨が降り続けば高松城は水の中である。だが、雨はなかなか降らなかった。
「ちくしょう! 雨降れ! 水攻めなんじゃ! 雨降れ!」
 秀吉はふんどしだけになって、百姓たちと「雨乞い」の踊りをおどった。竹中半兵衛なきあとの秀吉の軍師・黒田官兵衛はあきれた。そして、笑った。
「あれで……120万石の大名なのだから……おもしろい人物だ」
「兄じゃ!」小一郎秀長も百姓踊りに加わった。そこに、佐吉(のちの石田三成)がやってきた。「おやじさま!」
「おお、佐吉! なんじゃ?!」猿顔をゆがませ、秀吉はきいた。
「おやじさまの母上さまから文にございます」
「なに? かあちゃんから?」
 佐吉は文を秀吉に渡した。小一郎秀長らはにやりと笑って「かあちゃん…字がかけるようになったんだ」といった。汚い字で、すべてひらがなだった。
 ……ひでよし、がんばれ。おまえはにちりんのこじゃで、かならずかてる…
「……かあちゃん!」秀吉は笑った。「よし! なんとしても勝つのじゃ」
 すると、雨が激しく降り出した。
「かあちゃんからの土産じゃぁ!」秀吉は天を仰ぎ、大声でいった。



【北朝鮮金正恩独裁体制崩壊?】誰も得せぬ独裁体制崩壊ソフト・ランディングを目指せ!

2016年04月25日 19時05分04秒 | 日記










北朝鮮は憎いが崩壊ハードランディングの方がリスキー


 確かに誰も北朝鮮の核兵器実験や拉致やテロや世襲金正恩独裁政権など誰でも嫌である。
しかし、このまま金正恩独裁政権が派手に急速に崩壊して『急速全面北朝鮮独裁政権崩壊』の方が明らかにリスキーである。北朝鮮に石油が出るなら誰もが狙うだろうが、そうではない。只、孤立無援で核兵器開発に血眼になっている。
北朝鮮の独裁政権崩壊で喜ぶのは抑圧された北朝鮮の人民だけ。独裁政権が一挙に急速に崩壊ハードランディングなら難民が中国に何千万人も殺到する。誰が捨てカネを出すのか?拉致問題が解決しないのは独裁政権が存在するからだ。独裁政権が存在する限り『拉致問題解決』は無理だ。
 が、だからといって北朝鮮の崩壊を望むのは無恥・無知と言われても仕方がない。
誰でも北朝鮮の独裁政権など嫌いなのだ。日本もアメリカも韓国も同盟国となっている中国さえも。
一番考えなければならないのは北朝鮮の独裁政権の少しづつの崩壊ソフトランディングである。
北朝鮮は嫌い!独裁政権打倒!金正恩独裁政権の打倒!は浅はか、である。なんといわれても構わないが”生殺し””ソフトランディング”を謀らなければ甘い!ケツが蒼い!崩壊しても一円にもならないどころか中国も日本もカネを出して崩壊後の混乱を収束せねばならない。金正恩などいずれ誰かに殺される。だが、今じゃない。
北朝鮮は憎いが崩壊ハードランディングの方がリスキー、である。博士やNASAやCIAでなくとも馬鹿でもわかる。
拉致問題は解決しないかもしれないがそれも策略であり、消極的ながらも拉致問題への布石である。
我々は現実を直視しよう!北朝鮮は憎いが崩壊ハードランディングの方がリスキーである。それが私の結論だ。
現実をみて戦略を考える。これがすなわちストラテジィ(外交戦略)である。


【スティーブ・ジョブズ小説執筆準備中】映画も参照!mac派でなくWindows派の緑川鷲羽の策略

2016年04月25日 16時30分30秒 | 日記







スティーブ・ジョブズの伝記小説を書こうと思っている。


ですが、伝記映画もあり伝記もどき(他人に書かせた(笑))もあり


二番煎じ感がハンパない。


実は私はmac派ではなくWindows派(笑)


性格最悪の天狗人間であったと知ってるけど英雄に違いない。


日本なら誰?


学歴主義日本にはいないタイプ


永遠のカリスマ人間だ。でも日本の製品の方が優れているのに。マーケティングですよね(笑)勝敗は(笑)

iPhoneよりソニーのエクスぺリアの方がハイスペックで便利でも皆がiPhoneを買うのは、

アップル社の製品が自動車ならポルシェやカウンタックだから。ステータスなんですよ(笑)

そのシステムを解説する本にしたい。

【日本の維新】救国の新世紀維新「見えない身分」解消!1性別2学歴3障害・病気4年齢5外見

2016年04月24日 18時11分04秒 | 日記
 











日本の維新は「見えない身分」の解消だ!





 日本国の維新が改革が叫ばれてひさしい。だが、いっこうに「日本国の維新の夜明け」が見えない。
日本の維新はまずは見えない身分解消だ!見えない身分とは何か?まずは性別であろう。「日本女性は正当に評価されてるか?」日本女性が本当に社会で馬鹿をみてはいないか?女性活躍時代という言葉あそびでおわっていないか?
次の見えない身分は学歴ではないか?東大をハーバード大学を出てない人間は?政治家も官僚も財界も学歴という身分で判断されていないか?高卒なら工場で。大卒なら幹部候補…そういう考えに間違いはないのか?
 大卒でなければ馬鹿で、取るに足りない人間なのか?馬鹿にするな!次の見えない身分は障害・病気ではないか?
差別はある。「あのひとは統合失調症だ(笑)」と鼻で笑うだけで評価しないのは見えない身分ではないか?
 四番目の見えない身分は年齢。若者・老人は正当に扱われてない!若者や老人が損をする社会ではないのか?
 五番目の見えない身分は外見。偏見はないか?外見だけで他人を判断していないか?
見えない身分を解消せねば日本の維新の夜明けはない!日本に見えない身分がある限り、「日本の維新」も「改革」も「王政復古の大号令」も「イノベーション」さえない。その為に我々は日本の維新の為に国の為道の為に軽挙妄動することなく、知行合一で、懸命になって維新することこそ我々に求められていることではないのか?
今こそ、救国の新世紀維新の時だ!ときは今!我々で維新の改革によって”見えない身分”を打破しよう!維新だ!


【NHK大河『おんな城主直虎』の次は】『米沢燃ゆ上杉鷹山公』女大河・おりょう・ガラシャ・雲井龍雄女謙信

2016年04月24日 16時34分22秒 | 日記












NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』の次は,


私原作の『米沢燃ゆ上杉鷹山公』で。

次の女大河は竜馬の妻おりょうが主人公の『龍馬とおりょうがゆく』『おんな大名 おんな上杉謙信』
か『ガラシャ』か『昇り竜が如く雲井龍雄伝(龍雄は男だが女性が役する形で(笑))』!


コンテンツは私に任せて!知行合一、まずは私が国の為道の為動く!


私が行動しなければ日本の米沢の維新はならない!打倒安倍晋三!打倒長州!


    緑川鷲羽  臥竜 2016・4・24・

【平成28年熊本地震以外の記事】【保存版】先輩ママに学ぶ、妊婦さんが気をつけたいこと

2016年04月23日 16時03分08秒 | 日記










【保存版】先輩ママに学ぶ、妊婦さんが気をつけたいこと
ママの声を中心に、妊活中~妊娠中に知っておくといいことをまとめました。 更新日: 2016年04月18日
まとめ編集部さんまとめ編集部さん




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お医者さんに相談しながらボディメンテナンス◎
おっぱいマッサージをする
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お母さんのおっぱいを飲む赤ちゃん by アマナイメージズ
おっぱいマッサージをする
医師や助産師に相談しながら、妊娠中期に乳首の手入れをはじめ、妊娠後期からマッサージするといいのだとか。
「授乳は結構、母子ともに根気がいるんだなーというのが最初の感想でした。 おっぱいの手入れありなしでは大きく違ってきます」
出典
妊娠中のおっぱいの手入れ.〜みみりん助産師の妊娠出産おっぱい育児入門
出産後、石のように固くなる「乳腺炎」になってしまう人も多いらしい。。
「産院でおっぱいマッサージをするように言われても痛いし、なかなか毎日は難しいと思いますが、頑張っておくと効果大」
出典
ママテラス | 妊婦だった私へのアドバイス
骨盤ベルトを巻いてみる
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妊婦帯 World Bridge ダブルベルトでしっかり! 妊婦用サポーター 腹帯 産後骨盤ベルト マタニティガードル 産前、産後に (ピンク)
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妊娠初期・安定期前から使うことができ、腰痛も和らげてくれるそう。こちらも医師や助産師さんに相談しながら使ってみてください。
「産後も使える骨盤ベルトを使用していました。お陰で産後の骨盤の緩みもひどくなく、体重も徐々に減ってきています」
出典
【妊娠中にやっておきたいこと26】1:出産・育児に強い身体をつくる|ベネッセ
自分の筋力を鍛えるため産後は2ヶ月くらいまでがいいという声も。
食事のことも知っておきたい…φ(..)
体型を気にして少食にするのはNG。。
アマナイメージズ
Single pea on white plate by アマナイメージズ
体型を気にして少食にするのはNG。。
産後の体型を気にして、食事を控えるママが多いらしい…
最近、出生時の体重が2500グラム未満の「低出生体重児」が増えている
出典
低体重児、成長後にリスク やせ形妊婦や喫煙が要因 |ヘルス|NIKKEI STYLE
「小さく産んだから、大きく育てよう」とすると、大人になってから糖尿病や心臓病などの成人病になるリスクが高くなる
出典
その話、ホント?それとも迷信?「妊娠中にやったほうがいいこと」の巻|プレママ特集|プレママタウン
えっ。。
母子ともにいいのはやっぱり和食
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おうちごはん by アマナイメージズ
母子ともにいいのはやっぱり和食
脂肪分が少ないので太りにくく、まんべんなく栄養をとることができちゃう。
「助産師さんからは『難しいことを考えるより、色々なものを偏りなくバランスよく、よく噛んで味わって食べるように』とアドバイスをもらいました」
出典
妊娠中にしておけばよかった24のこと | よしぱんblog
欠かせない栄養素なのが、「葉酸」
アマナイメージズ
サプリメント by アマナイメージズ
欠かせない栄養素なのが、「葉酸」
厚生労働省も、「食事のほかサプリメントで1日400μgの葉酸摂取」を推奨してる。
「葉酸は赤ちゃんの神経や脳を作るのに重要な栄養素。妊活をしている時、そして妊娠してからも葉酸を飲みました」
出典
妊娠・妊活応援ブログ
助産院で葉酸についてのアドバイスをもらう人もいますが、案外知らない人も多いのだとか。
葉酸は、妊活中の女性こそ必須。妊娠の可能性がある段階で葉酸を意識して摂取することが大切
出典
妊娠したい! その前に摂っておきたいあの栄養素|ウーマンエキサイト(1/2)
妊娠前~妊娠初期は、通常の約2倍近くの葉酸が消費されるらしい。
葉酸は妊娠前からと、授乳中も積極的に摂る必要のある栄養素なのです
出典
葉酸はいつまで摂るべきか、その摂取量とは? | 美肌レシピ
ベビ待ち・妊婦さん向けのサプリも
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カラダの中からキレイと健康をつくる Biteki Town
厚生労働省もDHA・EPAの摂取を推奨してる。
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ベビ待ち・妊娠中のママの栄養補給に|美的ヌーボプレミアム
https://bitekitown.com/lp/nouveau-pre10
勉強したり、教室に参加してみても♪
離乳食の本を読んでみる
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離乳食を食べる赤ちゃん by アマナイメージズ
離乳食の本を読んでみる
出産してからだと時間の余裕がないみたい><
「赤ちゃんの月齢ごとの発育や離乳食など勉強していればよかったなと思います。今はなかなか本を読めずいつもその場しのぎに…」
出典
【妊娠中にやっておきたいこと26】4:サポート体制を整える|ベネッセ
夫と両親学級にいってみる
アマナイメージズ
妊婦のお腹に手をあてる夫婦 by アマナイメージズ
夫と両親学級にいってみる
旦那さんも父親になる心の準備ができて、産後の協力が得られやすくなるかも!?
「育児のやり方がわかったみたいです。また、よその旦那さんたちがたくさん参加していたのを見て、恥ずかしくなくなったみたい」
出典
【妊娠中にやっておきたいこと26】4:サポート体制を整える|ベネッセ
妊娠中イベントに参加してみる
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ヨガをする女性たち by アマナイメージズ
妊娠中イベントに参加してみる
ひとつの情報に縛られるより、幅広い声に触れることで安心できるのだとか。
「自治体やNPOが主催するマタニティヨガ教室など、調べてみると意外とありました。産院の母親教室とは違った情報も沢山得られる、とっても質の高いものでした」
出典
妊娠中にしておけばよかった24のこと | よしぱんblog
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黒田官兵衛<軍師黒田官兵衛と石田三成と「大河ドラマ軍師官兵衛」ふたたび>ブログ連載9

2016年04月23日 06時36分55秒 | 日記














  浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃していた。
 秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。
「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。
 しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」 信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。
 岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。
 とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。
 国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。
 目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。そして、いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大変に喜んで、
「よく参られた」と声をかけた。
 とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。そして、信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。
 浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、
「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!
 すると家康が進みでていった。
「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」
 信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。
 家康はうきうきして軍儀の場を去った。
 信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。
 するとサルが「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのででござりましょう? 御屋形様」といった。
「そうよ、サル! さすがはサルじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。
 翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんた。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。
「押せ! 押せ! 押し流せ!」
 朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。
 両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。
 信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。
 浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。
「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」
 秀吉は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。
「ひきあげるぞ、サル」
 秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつもの御屋形らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………
 こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。




  石山本願寺は、三好党がたちあがると信長に正式に宣戦布告した。
 織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見たのだ。
 信長は八月二十日に岐阜を出発した。そして、横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。
 将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。
 本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。
 信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。
「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。
 足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。
 反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。
 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。
  直江兼続は上杉の使者として、岐阜城へと数名で入っている。兼続は魔王・織田信長と対面した。「信長さまは上杉の御見方なのかそうでないのか…」
「のう、兼続。わしは比叡山や石山本願寺を討とうとしている。どう思うか?」
「それは義に劣りまする! 坊主を討つはみ仏に刃を向けるのと同じに御座る!」
「義とは戦の為の口実にすぎない……坊主ではない。金と欲に眼の眩んだ武装集団でしかない。それを殺すのは当たり前だ。天下は綺麗事では取れない」
「お言葉ながら……義がなければ人は野山の獣と同じにござりまする!」
「…ほう」
「い…いえ。謙信公がそう申しておられて…そのぉ」
 信長は笑って「ならば獣でも鬼でもよい。天下を取れるならばこの身、獣鬼にくれてやるわ!」といった。そして座を去ってから秀吉に「あやつの首、上杉に送れ。織田の天下に上杉は無用じゃ」という。秀吉は兼続の命が惜しいと思った。
 そこで兼続の命を、石田佐吉(三成)が救った。刺客から逃れさせ、越後へ帰した。
「あなた様の名は?」兼続はきく。と、石田が「佐吉…羽柴秀吉家臣・石田佐吉じゃ」
「このご恩……この兼続……生涯忘れませぬ!」
 兼続はそういって礼を申した。こうして直江兼続と石田三成ががっちりと組んで、関ケ原で共に戦うことになる。上杉が西軍についたのはここが始まりといっていい。

  信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」
「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。
「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」
「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」
「天罰が下りまするぞ!」
 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。
「わしに反対しようというのか?!」
「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」
 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。
「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」
 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”家臣たちは恐ろしくなった。
 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず、日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。
 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。


 有岡城の城主・荒木村重は天正6年(1578年)11月に突如として織田信長に反旗を翻した。
が、苦しい戦いを強いられ、荒木村重は天正7年9月に有岡城を抜け出し、中国の毛利元就に援軍を求めた。
しかし、天正7年(1579年)11月、城主・荒木村重が不在となった有岡城は、城兵が織田軍の調略に応じ、落城する。
御着城の城主・小寺政職は、有岡城の城主・荒木村重に同調して織田信長に反旗を翻した。
が、有岡城が落城すると、天正7年12月に御着城を捨てて中国地方へと逃げた。
小寺政職は中国地方を流浪しながら、織田信長に謝罪したが、織田信長は裏切り者の小寺政職を許さなかった。
その後、小寺政職は毛利輝元を頼り、備後の鞆(広島県福山市鞆)に住み、天正10年(1582年)に死んだ。小寺政職には男子・小寺氏職の他に、女子数人の子供が居たが、小寺政職の死によって大名としての小寺家は滅んだ。
小寺家の滅亡を哀れんだ黒田官兵衛(小寺官兵衛)は、羽柴秀吉に、
「小寺政職は不義によって流浪し、死んで小寺家は滅びました。息子の小寺氏職を引き取って養育したいので、小寺氏職の罪は恩赦してください」
と頼んだ。
黒田官兵衛の希望を聞いた羽柴秀吉は、昔の恩を忘れない志に感心し、黒田官兵衛の願いを聞き入れた。
小寺官兵衛は家臣・衣笠久右衛門を備後の鞆(広島県福山市鞆)に派遣して、小寺家を呼び寄せ、小寺氏職を養育した。
小寺官兵衛は小寺政職のせいで命の危機にさらされたのに、旧悪を忘れ、なんと情の深いことか。「恩をもって仇を報ず」とは、このことである、と人々は感心した。
黒田官兵衛と父・黒田職隆は、御着城の城主・小寺政職に仕え、小寺政職から「小寺」姓を賜り、小寺姓を名乗っていた。
しかし、小寺官兵衛は織田信長に反旗を翻し、毛利輝元に寝返ったので、黒田官兵衛と父・黒田職隆は小寺姓を捨て、旧姓「黒田」へと戻した。
どの時点で黒田姓へと戻したのか、正確な時期は分からない。
御着城の城主・小寺政職は織田信長に属していたが、途中で毛利側へと寝返った。
「小寺」は反逆者の姓なので、織田信長(または羽柴秀吉)が小寺官兵衛に「小寺」姓の使用を禁じた、という説もある。
いずれにせよ、黒田官兵衛は小寺性を捨てて名実共に黒田官兵衛に復帰したので、ここからは表記を「小寺官兵衛」から「黒田官兵衛」へと変更する。
 天正8年(1580年)閏3月、人質となっていた松寿(後の黒田長政)が、黒田官兵衛の元に返還される。
天正8年(1580年)、三木城を落として東播磨を平定した羽柴秀吉は、姫路城を黒田官兵衛に返還し、三木城を居城と定めた。
しかし、黒田官兵衛は、
「三木城は要害ですが、播磨では辺境の地にあり、居城には適していません。姫路は諸国への通路も良く、運送の便も良い要所なので、姫路を居城になされませ」
と助言した。
羽柴秀吉は、
「姫路城は汝の城であろう」と姫路城を返そうとしたが、
黒田官兵衛は「姫路城は中国征伐の重要拠点にて、もとより秀吉様に献上したものに御座います」と答えて受け取らなかった。
このため、羽柴秀吉は姫路城を居城とし、黒田官兵衛は父・黒田職隆が築いた国府山城(こうやまじょう=別名は妻鹿城)を居城とした。
そして、黒田官兵衛の助言により、羽柴秀吉が居城・姫路城の改修工事を行う。
この姫路城の改修工事は、黒田官兵衛と浅野長政によって進められた。
さて、播磨には若干の毛利勢力が残っていたが、その後、羽柴秀吉によって駆逐され、羽柴秀吉によって播磨が統一された。
その後、織田信長は播磨16郡52万石と丹波13万石を羽柴秀吉に与えた。
すると、羽柴秀吉は黒田官兵衛に東揖郡(現在の兵庫県揖保郡)福井庄内など計1万石を与えた。
こうして、小寺家の家老だった黒田官兵衛はようやく大名に成り上がることができた。
黒田官兵衛が1万石の大名になったのは天正8年(1580年)9月、黒田官兵衛が35歳の事であった。
(注釈:1万石以上になると大名に分類される)。
さらに、翌年の天正9年(1581年)に1万石が加増され、黒田官兵衛は2万石の大名になった。
 天正8年(1580年)5月、播磨(兵庫県南部)をほぼ平定した羽柴秀吉は、弟・羽柴秀長を派遣し、但馬(兵庫県北部)を攻めた。
そして、但馬の守護大名・山名祐豊を討ち取り、但馬を平定した。
但馬を平定した羽柴秀吉は進路を西に取り、因幡(鳥取県東部)の攻略に取りかかる。
因幡の守護大名は鳥取城の城主・山名豊国であった。
天正8年(1580年)6月、羽柴秀吉の軍勢が、因幡にある山名豊国の鳥取城を包囲する。
羽柴秀吉が、
「降伏すれば因幡1国を安堵する」と持ちかけると、
鳥取城の城主・山名豊国は羽柴秀吉に降伏する。鳥取城を落とした羽柴秀吉は播磨へと引き上げた。
ところが、天正8年(1580年)9月、山名豊国の家臣や兵は毛利側によしみを通じ、羽柴秀吉に降伏した城主・山名豊国を追放して鳥取城に籠城したのである。
こうして、鳥取城で籠城する家臣は、総大将が不在になったため、毛利輝元の重臣・吉川元春に守将の派遣を求めた。
吉川元春は毛利家で山陰地方の責任者であり、鳥取城の要請を受け、家臣・牛尾元貞を鳥取城へ派遣した。
しかし、牛尾元貞は鳥取城で籠城するが、死亡(「病死」または「負傷死」)してしまう。
このため、吉川元春は牛尾元貞の後任として、家臣の市川雅楽允・朝枝春元の両名を鳥取城へ派遣した。
が、鳥取城側は吉川元春に守将のチェンジを要求した。
このため、吉川元春は一族の吉川経家を鳥取城に派遣し、天正9年(1581年)3月に吉川経家が鳥取城へ入った。
吉川経家は自分の棺桶を用意して鳥取城へ入ったという。
天正9年(1581年)6月、羽柴秀吉は鳥取城への再派兵を決定し、黒田官兵衛を軍艦(軍師)に据え、2万の軍勢を率いて吉川経家が守る鳥取城を目指した。
さて、軍師・黒田官兵衛は鳥取城を攻めるにあたり、事前に因幡にある米を1粒残らず、相場の倍値で買い占め、若狭へと運んでいた。
さらに、黒田官兵衛は鳥取城を包囲する直前に、鳥取城の周辺に在る農村を襲い、ことごとく焼き払った。
自宅を失った農民は鳥取城へ逃げ込み、鳥取城の人口は一気に膨れあがった。
そこで、羽柴秀吉は2万の大軍で鳥取城を包囲し、兵糧攻めにしたのである。
これは、「三木の干殺し」と呼ばれる三木城の兵糧攻めが1年10ヶ月を要したため、もっと効率よく兵糧攻めを行うために、黒田官兵衛が考えた作戦だとされている。
このとき、鳥取城には20日分の兵糧しか残っていなかった(鳥取城は黒田官兵衛の策だとは知らず、籠城戦に備えて蓄えていた兵糧を売り払ったとも伝わる)。
そこへ、黒田官兵衛に家を焼かれて行き場を失った農民が逃げ込んできたため、鳥取城は一気に人口が膨れあがり、食糧不足に陥った。
下々の者まで食料は回らず、草や木の葉を食べ、稲の根を食べた。
木の皮や草の根を食べ尽くし、牛や馬の肉を食べたが、それでも食料は足らず、やせ衰えていった。
鳥取城は毛利からの援軍を期待したが、羽柴秀吉が2万の大軍で海路も陸路も完全に封鎖しているため、毛利からの援軍は羽柴秀吉の軍に阻まれて鳥取城まで到達できず、鳥取城は完全に孤立した。
食糧の尽きた鳥取城は、地獄だった。籠城開始から4ヶ月が過ぎた10月になると寒さも増し、4千人の餓死者が出た。
やがて、鳥取城内の下々の者は、死人を掘り返して肉(人肉)を食べるようになり、地獄絵図が展開されるようになった。
いわゆる人肉を食べる「カニバリズム」である。
また、鳥取城から逃げだそうとした者が羽柴秀吉の軍勢に撃たれてれると、鳥取城の下々の者は撃たれた者に群がり、まだ息のあるうちから、撃たれた者の手足を切り取り、食べた。
人肉の中で脳みそは美味しいのか、頭は人気があり、下々の者は頭を奪い合って食べた。
このように人肉まで食べるようになった鳥取城の籠城戦が、世に言う「鳥取の飢殺し(鳥取の渇殺し=かつごろし)」である。
いかに大河ドラマでもこのような残虐なシーンは放送されることはなかった。
鳥取城兵糧攻めの「鳥取の飢殺し」と三木城兵糧攻めの「三木の干殺し」の2戦は、日本の兵糧攻めを代表する惨劇で、そのいずれも天才軍師・黒田官兵衛の献策だとされる。(注釈:三木城包囲は竹中半兵衛の献策とも言われている。)
天正9年(1581年)10月25日、人が人肉を食べるという地獄絵図に耐えきれなくなった守将・吉川経家は、兵士の助命と引き替えに切腹して、開城した。
三木城兵糧攻め(三木の干殺し)は1年10ヶ月を要したが、鳥取城攻略では天才軍師・黒田官兵衛の「鳥取城の飢殺し(渇殺し)」作戦が見事にはまり、鳥取城はわずか4ヶ月で落城したのである。
ただ、「鳥取城の飢殺し(渇殺し)」作戦を献策した軍師・黒田官兵衛は、鳥取城の落城を前に、阿波(徳島県)の三好家の救出を命じられ、阿波へと向かっている。
 天正8年(1580年)、羽柴秀吉が但馬(兵庫県北部)・因幡(鳥取県東部)の征伐を進めるころ、四国では土佐(高知県)の長宗我部元親が、阿波(徳島県)の三好家へ侵攻していた。
元々、土佐(高知県)の長宗我部元親は、織田信長の家臣・明智光秀と親戚で、織田信長と同盟を結び、良好な関係にあった。
そこで、長宗我部元親は明智光秀を通じて、織田信長に鷲や砂糖を贈り、織田信長から「四国を自由に切り取って良い」と許可を得ていた。
一方、阿波(徳島県)の三好家は、14代将軍・足利義栄を擁立し、中央政権でも権力を誇った名家だったが、15代将軍・足利義昭を擁立して上洛を果たした。
織田信長との戦に敗れ、衰退していた。
三好家は織田信長と対立していたが、没落後は黒田官兵衛を通じて織田信長の傘下に入り、三好家は羽柴秀吉の養子・羽柴秀次を養子に貰い受けていた。
このため、土佐の長宗我部元親と阿波の三好家の両家は、ともに織田信長側の勢力となっていた。
このようななか、土佐(高知県)の長宗我部元親が阿波への侵攻を開始た。
そして、長宗我部元親は阿波(徳島県)と讃岐(香川県)をほぼ平定し、四国統一に迫った。
これに困った三好家は、長宗我部元親による四国統一を阻止するため、織田信長に救済を求めた。
これを受けた織田信長は長宗我部元親に、讃岐と阿波の一部を統治を認め、讃岐と阿波の北部を返還するように命じた。
しかし、長宗我部元親は、
「自分で切り取った領土で、織田信長から拝領したものではない」
として、織田信長の要求を無視し、阿波への侵攻を続けた。
これに怒った織田信長は、羽柴秀吉に三好家の救済を命じた。
これにより、長宗我部元親との交渉を努めていた明智光秀は、厳しい立場に立たされた。
さて、三好家の救済を命じられた羽柴秀吉は、鳥取城を兵糧攻め(鳥取の飢殺し)にしている最中だった。
羽柴秀吉は、毛利側の援軍・吉川元春とも対峙して動けないため、軍師・黒田官兵衛を名代として四国へと派遣した。
このころ、姫路では黒田職隆が容態が悪化し、命も危ない状態だったが、黒田官兵衛は黒田官兵衛は命令を拒否することは出来ず、嫡子・黒田長政に「私に変って黒田職隆によく仕えるべし」と命じ、三好家の救済へと向かった。
なお、黒田長政は黒田官兵衛の言いつけを守り、献身的に介抱を行ったので、黒田職隆の病気は治った。
 天正9年(1581年)9月、黒田官兵衛は仙谷秀久を淡路島へと派遣した。
ほかに、生駒親正などを阿波(徳島県)へと派遣し、黒田官兵衛自身も阿波へと渡った。
天正9年(1581年)11月15日、三好家から援軍の要請があったため、淡路に居た仙谷秀久を阿波の勝端城の援軍に差し向け、黒田官兵衛は淡路島へと上陸した。
淡路島には由良城(ゆらじょう)という要害があり、由良城には安宅河内守という強敵が居た。
このため、黒田官兵衛は誅殺によって由良城の城主・安宅河内守を斬り、淡路島の平定を成し遂げた。
黒田官兵衛が生涯で誅殺した人数は2人だけで、その1人目が姫路時代に仕えた小寺家の家老・山脇六郎左衛門である。
そして2人目が、由良城の城主・安宅河内守(あたぎきよやす)である。
なお、黒田官兵衛が城主・安宅河内守を斬った刀は、名刀「安宅切」と呼ばれ、現在(2013年)は福岡市博物館に保存されている。
天正9年(1581年)11月、淡路島・阿波・讃岐を平定し、三好家を救済した黒田官兵衛は、淡路島の洲本城(兵庫県洲本市)を仙石秀久に任せて姫路へと引き上げた。このとき、黒田官兵衛は36歳であった。
 武田信玄の亡き後を継いだ甲斐(山梨県)の武田勝頼は、天正3年(1575年)の「桶狭間の合戦」で織田信長・徳川家康の連合軍に敗れて衰退していた。
天正10年(1582年)2月、織田信長は甲斐の武田勝頼を攻め、天正10年3月の「天目山の戦い」で武田勝頼を討ち、武田家は滅んだ。
北陸の上杉家は上杉謙信の亡き後、家督争いで疲弊しており、もはや織田信長の敵では無かった。
武田勝頼を滅ぼした後、残る強敵は九州の島津義久、四国の長宗我部元親、中国の毛利輝元となっており、織田信長の野望は天下統一に一歩一歩と近づいていたのである。


         7 本能寺の変



         長篠の合戦と安土城



話を戻す。
織田信長が三木城に差し向けた援軍・織田信忠は、織田信長に反旗を翻した神吉城と志方城を落城させた。
そして、上月城の援軍に向かった羽柴秀吉は織田信長の命令により、上月城を見捨てて三木城の攻略を再開すると、援軍に来ていた織田信忠の軍は兵を引き上げた。
さて、三木城は自然を巧みに利用した要害だった。
羽柴秀吉は籠城する三木城を力攻めで落とすのは難しいと考え、平井山に本陣を置くと、三木城を包囲し、糧攻めにした。
三木城には大勢の兵が籠城しており、食糧の補給が課題となっていた。
兵糧攻めは、黒田官兵衛や竹中半兵衛の献策とされている。
羽柴秀吉は三木城の周りに監視の付城を築いて食糧補給路を断ち、三木城を包囲して兵糧攻めにする一方で、三木城の別所長治に同調して織田信長に反旗を翻した東播磨の豪族を討伐していく。
ちなみに黒田官兵衛と竹中半兵衛で二兵衛で、ある。
羽柴秀吉の軍勢が三木城の別所長治と小競り合いを行っているとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が500騎ほどを率いて山陰に布陣していた。
羽柴秀吉は小寺官兵衛を見て、
「官兵衛はなんでこんな所に居る。もしかして、官兵衛までも寝返る気か」と驚いた。
すると、羽柴秀吉の軍師・竹中半兵衛は、羽柴秀吉に、
「あれは伏兵でしょう。今日の戦は必ず勝ちます」
と言い、神子田半左衛門に指示を与えた。
神子田半左衛門は竹中半兵衛の指示通り、城を攻めて弓兵と一戦すると、早々に引き上げた。
すると、敵軍は好機と見て、城から打ち出て神子田半左衛門を追いかけた。
山陰に布陣していた小寺官兵衛は時機到来と伏兵を起こし、城から出てきた敵軍を追撃した。
すると、竹中半兵衛が言った通り、敵軍が羽柴秀吉の陣の前を通ったので、羽柴秀吉は手勢を出し、側面から敵を攻撃した。
そこで、偽りの敗走をしていた神子田半左衛門も竹中半兵衛の指示通りに、とって返し、敵軍を攻めた。
結局、敵軍は、小寺官兵衛・羽柴秀吉・神子田半左衛門に三方から囲まれて全滅した。
三木城の戦いで、小寺官兵衛と竹中半兵衛は両輪のごときに活躍し、作戦を打ち合わせもせず、合図も無かった。
が、お互いの意図を察知して、阿吽の呼吸で臨機応変に作戦を変更し、敵を駆逐していったという。
[注釈:小寺官兵衛(黒田官兵衛)と竹中半兵衛の事を合わせ「二兵衛(両兵衛)」と呼ばれる場合があるが、「二兵衛(両兵衛)」は歴史小説家が付けた愛称なので、一般的ではない。私は軍師・竜虎と付けた。]
さて、小寺官兵衛は織田信長から、備前・備中・美作(いずれも岡山県)の3国を治める大名・宇喜多直家の調略を命じられており、三木城の兵糧攻めが膠着状態に陥ると、宇喜多直家の調略にあたった。
播磨の赤松家は播磨・備前・美作の守護大名であった。
が、備前の家臣・浦上宗村の下克上によって赤松家は衰え、備前・美作は浦上宗村に奪われた。
しかし、浦上宗村の孫・浦上宗景の時代に、浦上家の家老・宇喜多直家が明石景親の支援を受けて台頭する。
と、浦上宗景は家臣・宇喜多直家に討たれた。
こうして、宇喜多直家は大名にのし上がり、備前・備中・美作(いずれも岡山県)の3国を治める大名にまで発展した。
その後、宇喜多直家は中国地方の毛利元就の傘下に入り、一時は東播磨にまで勢力を伸ばしていた。
このため、播磨(兵庫県)へ進軍した織田信長は、小寺官兵衛(黒田官兵衛)に、
「毛利の手前に宇喜多が居るので、宇喜多を退治して、毛利を滅ぼせ」と命じていたのである。
さて、備前・備中・美作(いずれも岡山県)を支配する宇喜多直家の影響は東播磨にまで及んでおり、東播磨の上月城は宇喜多直家の支配下にあった。
しかし、この上月城は羽柴秀吉の侵攻を受けて羽柴秀吉に奪われ、尼子勝久に与えられた。
その後、毛利輝元は水路と陸路から播磨へと兵を送り、陸路からは毛利軍の吉川元春と小早川隆景が5万の軍勢を率いて上月城へと差し向けた。
上月城は元々、宇喜多直家の支配下だったので、この戦いは領地回復に繋がるのだ。
が、宇喜多直家は病気と称して出陣せず、弟・宇喜多忠家を参加させていた。
織田信長から宇喜多直家の討伐を命じられていた小寺官兵衛(黒田官兵衛)は、宇喜多直家の行動から、宇喜多直家は心底は毛利輝元に属していないと察知し、説得を試みた。
宇喜多家には、宇喜多直家の台頭に貢献した重臣・明石景親が居る。宇喜多家の明石景親は、播磨・明石家の同族で、明石城の城主・明石正風の甥であった。
小寺官兵衛の母親は、明石正風の娘なので、小寺官兵衛は明石景親と親戚関係にあった。
小寺官兵衛は親戚の縁に頼って宇喜多家へ使者を送ったという。
小寺官兵衛は宇喜多家に使者を送り、
「毛利輝元は大国の主だが、天下を治める器では無い。毛利輝元は東播磨に大軍を派遣したが、上月城を1つ落とした事に満足し、我々を追撃しなかった。それに、私は阿閉城(あべじょう)で毛利の大軍を退けた。一方、織田信長は天下の都を領し、四方に命令を飛ばす天下の将である。貴殿は毛利輝元に属しているが、元来、毛利家から恩を受けているわけではない。力量の無い毛利家を頼るより、織田信長を頼れば、宇喜多家の繁栄になる」
と説得する。
宇喜多直家は直ちに家老を集めて意見を求めると、家老は、
「小寺官兵衛の意見に従い、毛利輝元に背いて、織田信長に属するのがよろしい」と言う意見で一致した。
評議が決すると、宇喜多直家は直ぐに家老・花房助兵衛(花房志摩守)を小寺官兵衛の元へ派遣し、織田信長への降参を申し出る。
小寺官兵衛は花房助兵衛を羽柴秀吉に会わせると、羽柴秀吉は大いに喜び、花房助兵衛に太刀を与えた。
このようななか、天正6年(1578年)10月に突如として摂津(大阪府北部)を治めていた有岡城の城主・荒木村重が織田側から毛利側へと寝返ったのである。
 天正6年(1578年)10月、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が32歳のとき、織田信長に属して摂津1国(大阪府北部)を治めていた有岡城の城主・荒木村重が、突如として織田信長に反旗を翻して毛利側へと寝返った。
荒木村重は、摂津の豪族・荒木義村の嫡子として生まれる。
当初は池田勝正に仕えていたが、織田信長に気に入られて、織田信長の家臣となり、近畿での戦で功績を挙げ、摂津1国を任される大名にまで成り上がった。
荒木村重が織田信長に拝謁したとき、織田信長は饅頭を剣で突き刺し、荒木村重に「食べてみよ」と命じた。
家臣一同が青ざめるなか、荒木村重は平然と剣に突き刺さった饅頭を1口で飲み込んだため、織田信長は荒木村重を気に入り、摂津1国を任せたという。
荒木村重は織田側の軍勢として、石山本願寺攻めでは先鋒隊を務め、中国征伐では副大将を務めるほど、織田信長から信頼を得ていた。
さらに、摂津は織田信長勢力の最西端にあったため、播磨方面の担当窓口のような役割をしており、荒木村重は織田信長の中国征伐で重要な役割を担っていた。
一方、上杉謙信の死によって第3次信長包囲網は弱まったものの、15代将軍・足利義昭は依然として各地の大名に調略を続けたいた。
このようななか、有岡城の城主・荒木村重は、15代将軍・足利義昭の調略を受け、突如として織田信長に反旗を翻したのである。
荒木村重は摂津で大きな影響力を持っていたため、荒木村重が織田信長に反旗を翻す。
と、周辺の豪族も荒木村重に呼応して織田信長に反旗を翻し、摂津1国(大阪府)が毛利側に寝返った。
これに困るのが、三木城を包囲していた羽柴秀吉である。
摂津が離反すると、岐阜から播磨へと延びる戦線が遮断されるうえ、摂津は三木城と隣接してるため、籠城している三木城に食糧補給路が出来てしまうのだ。
さすがの織田信長も荒木村重の離叛に驚き、
「母親を人質に差し出せば、離叛は無かったことにする」
という条件を出し、明智光秀や蜂須賀正勝らを説得に当たらせたが、荒木村重の意思は硬かった。
そのようななか、小寺官兵衛(黒田官兵衛)の元に、御着城の城主・小寺政職が有岡城の城主・荒木村重に呼応して、織田信長に反旗を翻すという噂が伝わってのである。
これに驚いた小寺官兵衛は、御着城を訪れて主君の小寺政職を必死に説得したが、小寺政職に応じなかった。
そのとき、小寺家の家老が小寺官兵衛を暗殺するという噂が聞こえたため、小寺官兵衛は密かに姫路城へと帰り、父・黒田職隆に相談した。
父・黒田職隆が家老を集めると、家老は、
「官兵衛殿を御着城へ返しては命が危ない。ここは姫路城に引きこもり、使者を遣わして難を逃れるべきです。いよいよ敵が攻めてくるのであれば、合戦し、寄せ手を討ち果たし、御着城へ攻め入りましょう」
と意見した。
しかし、小寺官兵衛は家老に、
「この城に立て籠もれば、小寺政職に対して謀反人となる。小寺家と合戦をすれば、不義になる。小寺政職に疑われて暗殺されたとしても、それは私の不義にはならない。武門の家に生まれたからには、義を重んじ、命は惜しまない」
と反対した。
すると、父・黒田職隆は、
「織田信長を主と仰ぎ、小寺政職を旗頭とした以上は、織田信長に二心を抱かず、小寺政職に背かない事が当然の義理である。いつものように御着城へ行き、小寺家の家老をあしらうべし。もし、難を逃れられない場合は、切腹するべし」
と小寺官兵衛の意見に賛成した。
こうして、小寺官兵衛はいつもの様にわずかな供を従え、再び御着城へ入った。

黒田官兵衛<軍師黒田官兵衛と石田三成と「大河ドラマ軍師官兵衛」ふたたび>ブログ連載8

2016年04月21日 06時00分40秒 | 日記










         6 焼き討ち





話を官兵衛の信長への仕官のことにしよう。
永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を擁して上洛を果たし、足利義昭は織田信長の後ろ盾を得て15代将軍に就いて室町幕府を再建していた。
しかし、元亀2年(1571年)、織田信長の度重なる横暴に嫌気を挿した15代将軍・足利義昭は、毛利輝元・上杉謙信・武田信玄・本願寺顕如などの諸大名に檄を飛ばし、信長包囲網を敷き、織田信長と対立した(第2次織田信長包囲網)。
ところが、元亀4年(1573年)4月、徳川家康の領土へ侵攻していた甲斐(山梨県)の武田信玄が死亡したため、武田軍が撤退してしまう。
背後の憂いが消えた織田信長は西へと兵力を投入し、近江(滋賀県)の浅井長政と越前(福井県)の朝倉義景を撃破。
こうして、信長包囲網はあえなく崩壊してしまう。
元亀4年(1573年)、織田信長は刃向かった15代将軍・足利義昭を京都から追放し、室町幕府は崩壊した。
そして、織田信長は朝廷に働きかけ、年号を「天正」と改めたのである。
元亀4年(1573年)、このとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は28歳であった。
東播磨で最大の勢力を誇る三木城の城主・別所長治や西播磨で勢力を誇る龍野城の城主・赤松政秀は、織田信長側に付いており、三木城の城主・別所長治は度々、小寺家の領土へと侵攻していた。
織田信長と毛利輝元の間には播磨が存在しているため、これまでは直接対決することはなかった。
しかし、近畿まで勢力を伸ばした織田信長が中国の覇者・毛利輝元と激突するのは時間の問題あり、両者の間にある播磨が激戦区になるのは目に見えていた。
天正3年(1575年)5月、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が30歳のとき、甲斐(山梨県)の武田勝頼が長篠城(愛知県新城市)を奪い返すために1万5000の大軍を率いて進軍する。
しかし、武田勝頼は、長篠城の援軍に駆けつけた織田信長・徳川家康の連合軍に大敗し壊滅的なダメージを受けて撤退した(長篠の戦い)。
織田信長は「長篠の戦い」で鉄砲を主力とした新戦法「鉄砲三段打ち」を使用し、劇的な勝利を果たしたと言われている。
このようななか、御着城の城主・小寺政職は重臣を集め、
「織田信長に付くべきか。毛利輝元に付くべきか」
と尋ねた。
すると、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が織田信長に属すべき理由を諸将に説いた。
小寺官兵衛の姫路城には、父・黒田職隆が建てた百間長屋があり、父・黒田職隆は百間長屋で、旅人や博徒など、ありとあらゆる人の面倒を見ていたため、姫路城には各地の情報が集まってきた。
このため、小寺官兵衛は百件長屋で得た情報を元に、小寺家の重臣に向かって、
「今川義元は滅び、武田信玄も死んだ。関東の北条や四国の三好も衰えた。徳川家康は良将といえど、国が小さい。上杉謙信は遠方にあり、上洛は難しい。天下を取るのは安岐の毛利輝元か、美濃の織田信長でしょう」
と告げた。
さらに、小寺官兵衛は、
「毛利家には吉川元治・小早川隆景という優秀な武将が居るが、毛利輝元は天下人の器ではない。毛利輝元は安岐に引きこもり、自身が戦地に赴くことは無い。これまで傘下に入っていた者も毛利に背を向けるだろう」
と指摘した。
そして、小寺官兵衛は、
「一方、織田信長は桶狭間で今川義元を破り、足利義昭を擁して上洛を果たした。武田勝頼との合戦にも勝ち、関東に敵対する勢力も無い。近畿を制圧して天下の要所に住居して、その勢いは天下に及ぶ。織田信長に属するべきだ」
と主張した。小寺官兵衛は百件長屋に集まってきた情報を元に、理路整然と天下の時勢を説いたため、小寺家の重臣は小寺官兵衛に反論することが出来ず、主君・小寺政職も織田信長に付くことを決めたのである。
御着城の城主・小寺政職は小寺官兵衛に説得され、織田信長に従属することを決める。
が、既に播磨では赤松政秀と別所長治が織田信長に従属しており、小寺政職は後発組になってしまう。
さらに、小寺政職は赤松政秀の娘を拉致しようとして、15大将軍・足利義昭と織田信長に楯突き、敵対した過去がある。
そのため、家臣一同は織田信長への使者を嫌がった。
そこで、小寺官兵衛が「しからば、私が参ろう」と名乗り出た。小寺政職はこれに喜び、小寺官兵衛に織田信長との交渉を任せた。
天正3年(1575年)7月、小寺官兵衛は旅人に扮して岐阜へ入ると、織田信長の家臣・木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に会い、織田信長への仲介を依頼した。
そして、小寺官兵衛は織田信長に面会すると、「私の姫路城は播磨の各地へ伸びる通路の拠点で、中国侵略の要所です。明石城の明石左近や高砂城の梶原平三兵衛は、近畿に大将が居ないので、毛利に属しているだけです。志方城の櫛橋左京進は私の縁者で、既に話は付いています」と報告した。
さらに、黒田官兵衛は、
「播磨には、小寺家と三木城の別所家が勢力を誇っております。三木城の別所長治(別名は別所小三郎)は二心無き毛利派なので、別所長治を退治してください。その間に、私は佐用城の福原主善と上月城の上月十郎を攻め落とします。播磨は近畿と中国地方の間にあり、播磨を手に入れれば、中国征伐の善き架け橋になるでしょう」と述べた。
これを聞いた織田信長は、
「その方が申すことは、私の考えと相違がない。播磨攻略については木下藤吉郎を派遣するので、木下藤吉郎と相談するように。中国を討つときは、必ず汝に先手を任せよう。汝は姫路へ帰り、内々に準備を始めよ」
と言い、自らが愛用していた名刀「圧切(へしきり)」を小寺官兵衛に与えたのである。
こうして、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は、織田信長と羽柴藤吉郎(後の豊臣秀吉)に認められることになる。
このとき、小寺官兵衛は既に30歳であった。
天正4年(1576年)2月、織田信長に京都終われた15代将軍・足利義昭は、中国の覇者・毛利輝元を頼り、備後の鞆(広島県福山市鞆)へ入った。このとき、黒田官兵衛は31歳であった。
第2次信長包囲網は、武田信玄の死亡にって崩壊した。
が、15代将軍・足利義昭は再び各地の大名に檄を飛ばし、第3次信長包囲網を形成していく。
(注釈:15代将軍・足利義昭が織田信長に追放され、室町幕府は終わったことになっているが、足利義昭は依然として地方の大名に権威を保持していた)
このころ、摂津(大阪府)の石山本願寺が織田信長への対立を深めており、天正4年(1576年)4月、ついに織田信長が石山本願寺討伐に乗り出した。
これに対して中国の毛利輝元は、織田信長に対抗するため、摂津(大阪府)の石山本願寺へ物資の支援を開始する。
織田信長が石山本願寺を海上も完全に包囲したため、石山本願寺への支援は困難を極めた。
が、天正4年(1576年)7月、毛利輝元の水軍は織田信長の水軍を撃破し、石山本願寺への支援を成功させた。
続いて毛利輝元は家臣・浦宗勝に、織田勢力の姫路城への攻撃を命じた。
浦宗勝は、小早川隆景の水軍を代表する名将で、毛利水軍を支えた人物である。
天正5年(1577年)5月、毛利軍の浦宗勝が5000人の兵を引き連れて、姫路城の南西7kmにある英賀村(あが村=兵庫県姫路市飾磨区英賀)に上陸する。このとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は32歳であった。
英賀城の城主・三木通秋は、「青山の合戦」の時に小寺官兵衛(黒田官兵衛)の窮地を救った。
が、今は毛利側に付いているので、協力を要請できない。
御着城の城主・小寺政職は毛利軍の襲来に驚いて腰を抜かすが、小寺官兵衛は冷静に
「敵は船が揺れてで疲れているはず。陣を整える前に奇襲攻撃をかけるべきです」と進言した。
小寺政職が出陣を許可すると、小寺官兵衛は、農民を集めて旗を持たせて広報の茂みに伏せ、手勢500人を率いて英賀村に到着した浦宗勝の軍に奇襲攻撃をかけた(英賀合戦)。
まだ布陣の整っていない毛利軍は、黒田官兵衛の襲撃により、混乱を起したが、毛利軍の浦宗勝は直ぐに陣を立て直して黒田軍を返り討ちにしようとする。
そのとき、黒田軍の後方の茂みに隠れていた農民が、かけ声をあげて旗を掲げた。
まさか、御着城からの援軍か。動揺した毛利軍は総崩れとなった。
名将の浦宗勝といえど、1度崩れた軍勢を立て直すことは難しく、敗走を余儀なくされた。
黒田官兵衛は逃げる毛利軍を追撃し、ことごとく討ち取った。
毛利軍の浦宗勝は壊滅的な被害を受け、安芸(広島県)へと逃げ帰り、黒田官兵衛は大勝利を納めた。
その後、摂津の有岡城(兵庫県伊丹市)の城主・荒木村重が、黒田官兵衛の活躍を織田信長に報告する。
黒田官兵衛の活躍に喜んだ織田信長は黒田官兵衛に感謝状を贈り、黒田官兵衛は荒木村重に感謝した。
有岡城(兵庫県伊丹市)の城主・荒木村重は織田信長の領土の最西端で、播磨方面の武将を取り纏める役割を担当しており、黒田官兵衛は荒木村重との親交を深めていくことになる。
 天正4年(1576年)、織田信長は、琵琶湖の東側にある滋賀県近江八幡市安土町に、安土城を完成させ、安土城を居城とし、天下統一へと向けて着実に進んでいた。
「長篠の戦い」で武田勝頼の軍を撃破した織田信長は、虎視眈々と天下を狙う越後(新潟県)の上杉謙信を封じるため、柴田勝家を北陸へ投入しする(北陸戦線)。
このとき、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、柴田勝家の下で働いていたが、柴田勝家とことごとく意見が対立したため、独断で戦線を離脱してしまう。
このため、羽柴秀吉は織田信長から烈火のごとく怒りを買い、謹慎処分を受けてしまった。
謹慎処分を受けたため、羽柴秀吉は表だって播磨(兵庫県)攻略に乗り出すことは出来なかったが、中国討伐を見据えて、家臣の蜂須賀正勝などを播磨に差し向け、黒田官兵衛と共に播磨の調略に当たらせたのである。
英賀合戦で黒田官兵衛に大敗した毛利輝元は、武力侵攻から調略へと方針を転換し、播磨の豪族を取り込むために調略を始めると、織田信長に属した播磨の豪族が動揺し始めた。
織田信長は傲慢な男で、ひとたび織田信長の怒りを買えば、家族や部下でも命は無く、部下は誰一人として安堵してない、という噂は播磨にも届いていたのだ。
毛利輝元の工作により、播磨の情勢が不安定になってきたため、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は羽柴秀吉に手紙を送って中国征伐を要請し、羽柴秀吉は織田信長に中国征伐の発動を求めた。
小寺官兵衛からの要請を受けた織田信長は、時期を前倒しして中国征伐を決定。
謹慎していた羽柴秀吉に中国征伐を命じるとともに、黒田官兵衛に播磨各地の豪族から人質を集めるように命じた。
 織田信長から命令を受けた小寺官兵衛は、播磨の豪族から人質を集める一方で、御着城の城主で主君の小寺政職にも人質を求めた。
が、主君・小寺政職や重臣は人質を出し渋った。
小寺政職の嫡男・小寺氏職は馬鹿だったため、嫡男・小寺氏職を人質に出せば、小寺政職や重臣は織田信長の怒りを買うのでは無いかと心配したのである。
そこで、小寺官兵衛は1人息子の松寿(後の黒田長政)を人質に出す事を申し出た。
小寺政職は小寺官兵衛の申し出に喜び、小寺官兵衛が嫡子・松寿(黒田長政)を人質として差し出す事になった。
小寺官兵衛は妻・櫛橋光と結婚した翌年に嫡子・松寿(黒田長政)が誕生したが、それ以降、子供は産まれておらず、松寿(黒田長政)が唯一の子供であった。
その松寿丸(黒田長政)を人質に出す事を決めた小寺官兵衛は、姫路城に戻ると、妻・櫛橋光に事情を説明し、
「すまぬ。松寿(黒田長政)を人質に出すことになった」と謝罪した。
すると、妻・櫛橋光は
「それほど、人質のお役目は危険なのですか。危険なのであれば、貴方様が人質になればよろしいのです。私は赤飯を炊いて松寿(黒田長政)をお役目に送り出します」と答えた。
小寺官兵衛は妻・櫛橋光の言葉で、
「そうであった。自分が播磨を取り纏めれば、人質の松寿丸(黒田長政)に危険が及ぶことは無い」
と気づき、今回の任務に望んだという。
その後、小寺官兵衛や蜂須賀正勝の活躍により、播磨の各地から集まった人質は、摂津(大阪府)にある有岡城の荒木村重に預けられた。
一方、小寺官兵衛は安土城へ行き、織田信長に拝謁して、人質として松寿(黒田長政)を差し出すと、織田信長は黒田官兵衛に羽柴秀吉の与力として中国征伐の先鋒を務めることを命じた。
さて、人質となった松寿(黒田長政)は、羽柴秀吉が預かることになり、羽柴秀吉の居城・長浜城(滋賀県長浜市)で人質生活を送る。
このとき、羽柴秀吉の正室「おね(後の北政所)」には子供が居なかったので、黒田長政は正室「おね」にとても可愛がられた。
なお、松寿(黒田長政)の近習として黒田家から井口兵助と大野九兵衛も長浜城に送られ、2人は松寿(黒田長政)に仕えた。
このとき、黒田長政が8歳で、井口兵助は13歳だった。
後に井口兵助は黒田家の問題児となるが、黒田長政と人質時代を共に過ごしたため、黒田長政と井口兵助の2人は非常に仲が良かった。
 天正5年(1577年)10月、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が32歳のとき、中国征伐隊の総大将・羽柴秀吉が7500の軍勢を率いて播磨へ入ると、小寺官兵衛は羽柴秀吉を出迎え、居城の姫路城を明け渡した。
小寺官兵衛は姫路城を丁寧に掃除し、明け渡しに目録まで作っており、手際の良さに感心した羽柴秀吉は黒田官兵衛を姫路城の二の丸に留め置き、膝をつき合わせて中国征伐について意見を交わした。
そして、羽柴秀吉が姫路城へ入ると、小寺官兵衛は使者を送って東播磨の豪族や大名を次々と説き伏せ、無傷で東播磨を支配下に置く。
しかし、西播磨は中国の毛利に近いため、毛利の影響を受けており、調略で西播磨を落とすことは難しく、武力討伐が必要であった。
 一方、御着城の小寺政職は織田信長に従属したものの、一転して毛利方に寝返ってしまい、羽柴秀吉が姫路城に入ったにもかかわらず、挨拶にも来ないという異常事態が続いていた。
異常を感知した羽柴秀吉は、小寺官兵衛に、
「ワシがこの地を納めるには、貴殿に指図を受けなければならない。2人の間に疑いがあってはならないから、義兄弟の契りを結ぼう」
と言い、2人は義兄弟の誓紙を交わした。
義兄弟の誓紙には、羽柴秀吉が黒田家の安泰を約束する意味が有り、小寺官兵衛は誓紙を大切に保管した。
その後、羽柴秀吉の軍師・竹中半兵衛は、羽柴秀吉と義兄弟の誓紙を交わしたという噂を聞きつけると、小寺官兵衛に、
「誓紙を見せて欲しい」と頼んだ。
小寺官兵衛が大切にしまっておいた誓紙を竹中半兵衛に渡すと、竹中半兵衛は誓紙を火鉢に捨てて燃やしてしまった。
小寺官兵衛が竹中半兵衛の暴挙に驚くと、竹中半兵衛は、
「こんな紙切れ一枚で、約束が違う、などと不満を言っては、お主のためにならない。」と忠告した。
すると、小寺官兵衛は、「紙一枚で大切なものを見誤るところであった」と言い、竹中官兵衛に感謝したという。
 小寺官兵衛(黒田官兵衛)の調略により、東播磨(兵庫県)で最大の勢力を誇る三木城の城主・別所長治も織田信長に従属し、東播磨を無血で平定した。
しかし、西播磨では龍野城の城主・赤松広秀が織田信長側に属していたものの、備前・美作(岡山県)との国境にある佐用城と上月城は、織田信長側に付くことを拒否し続けた。
備前・備中・美作の3国(3国とも岡山県)を支配する宇喜多直家が西播磨にまで勢力を伸ばしており、上月城と上月城を支配下に置いて居たのだ。
(注釈:宇喜多直家は毛利輝元に属しているので、西播磨の上月城と上月城は毛利側の勢力になる。)
このため、羽柴秀吉は、佐用城と上月城に兵を向け、武力による東播磨の平定に乗り出したのである。
 天正5年(1577年)11月26日、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は、羽柴秀吉の軍師・竹中半兵衛と協力して、福原主膳(福原則尚という説もある)が守る西播磨の佐用城(兵庫県佐用郡佐用町)を攻めた。
軍師・小寺官兵衛は佐用城を3方向から取り囲み、1方向だけ逃げ道として開けて、総攻撃を開始する作戦に出た。
逃げ道を無くすと、敵も必死に抵抗するため、味方の損害が増える。
しかし、逃げ道を残して攻撃すれば、敵は抵抗せずに逃げるため、味方の被害も少ない。
逃げ道を開けて攻めるのは、「孫子の兵法」の常道手段である。
小寺官兵衛は佐用城を3方向から攻め立てると、佐用城の城主・福原主膳は、黒田官兵衛の思惑通り、包囲されていない1方向から逃げ出した。
さて、佐用城の城主・福原主膳が逃げ出した方向には、松山という山があり、その松山には浪人・平塚藤蔵(後の平塚為広)が、佐用城の城主・福原主膳が逃げてくるのを今や遅しと待ち構えていた。
小寺官兵衛は孫子の兵法を活用しただけでなく、孫子の兵法を応用しており、佐用城の城主・福原主膳が逃げ出した方向に、浪人・平塚藤蔵を配置していたのである。
 平塚藤蔵(後の平塚為広)は元々、羽柴秀吉に仕えていたが、羽柴秀吉の勘気に触れたため、浪人となり関東で暮らしていた。
しかし、再び羽柴秀吉に仕えるため、播磨(兵庫県)を訪れ、黒田官兵衛に羽柴秀吉への取り次ぎを頼んだ。
事情を聞いた黒田官兵衛は、
「手柄が無くては、その願いは叶わないだろう」
と言い、平塚藤蔵に
「佐用城から逃げてくる武将が必ず松山を通るから、夜中に松山で待機し、逃げてくる敵を討って手柄をあげよ」と指示した。
こうして、平塚藤蔵は黒田官兵衛の指示通り、佐用城攻めが行われる日の深夜、佐用城の背後にある松山で待機し、逃げてくる敵将を待ち構えたのである。
 さて、このとき、黒田家の下僕・竹森新右衛門(別名は竹森次貞)も、松山の小道で佐用城から逃げてくる敵を待ち構えていた。
 竹森家は本姓を「清原」と言い、日岡神社の神官を務める家系だった。
が、父・竹森新兵衛の時代に敵の侵略を受け、子供や使用人や屋敷を失い、竹藪だけが残った。
父・竹森新兵衛は竹藪だけが残ったため、「竹森」と呼ばれるようになり、姓を「竹森」へと改めた。
そして、父・竹森新右衛門は黒田重降(黒田官兵衛の祖父)を頼り、黒田家の下僕となっていた。
(注釈:父・竹森新兵衛は、姫路で落ちぶれていた黒田重降に家を貸した豪農として有名だが、黒田重降に家を貸した話は創作である)
そして、息子の竹森新右衛門も父・竹森新兵衛に続いて小寺官兵衛(黒田官兵衛)に下僕として仕えていた。
佐用城攻めのとき、竹森新右衛門は、浪人・平塚藤蔵が松山で佐用城から逃げてくる敵を討取るという話を聞きつけ、平塚藤蔵に便乗して手柄をあげるため、密かに松山の小道で敵が逃げてくるのを待ち構えていた。
その日の夜中、竹森新右衛門が松山の細道で敵将を待っていると、佐用城の方から雄叫びが聞こえてきた。
小寺官兵衛(黒田官兵衛)が作戦通り、3方から佐用城を一斉に攻め立てたのだ。
そのころ、佐用城では、小寺官兵衛の家臣・生田木屋之介(いくたきやのすけ)が、佐用城の城内に攻め込んでいた。
佐用城攻めの作戦は事前に知らされていたので、生田木屋之介は、昨夜のうちに佐用城へ忍び寄り、小さなノコギリで、城塀の柱の根元に切れ目を入れていた。
そして、佐用城攻撃の当日、生田木屋之介は根元を切った柱に吊り縄をかけて城塀を引き倒し、難なく城内へと攻め込んだのである。
さて、明け方になり、竹森新右衛門は松山の細道で敵兵を探していると、佐用城の方角から、馬が走る音が聞こえてきた。
竹森新右衛門は佐用城から逃げてきた武将だと確認すると、槍で突いて、敵将2人を殺した。
この2人は、佐用城主・福原主膳の弟・福原伊王野と、家老・祖父江左衛門だった。
竹森新右衛門は討取った2人の首をちょん切り、2つの首をぶら下げ、次の敵を探していると、近くで物音がした。
平塚藤蔵かと思って音のする方へ向かうと、負傷した武将が敵将6~7人に囲まれていた。
負傷した武将は平塚藤蔵だったので、竹森新右衛門は手に持っていた2つの首を投げ捨て、助太刀に入った。
平塚藤蔵は槍で突いて敵将1人を負傷させたが、平塚藤蔵も負傷しているため、とどめを刺せなかった。
そこで、竹森新右衛門が代わりに止めを刺して首を切り落とし、その首は平塚為広に譲った。
後の首検分で、竹森新右衛門が平塚藤蔵に譲った首が、佐用城の城主・福原主膳だと判明し、その功績によって平塚為広は再び羽柴秀吉への仕官が叶った。
竹森新右衛門は城主の弟・福原伊王野と家老・祖父江左衛門の2人を討取った功績が認められ、下僕から士分へと出世した。
また、羽柴秀吉は首を譲った功績を称え、着ていた赤裏の羽織を脱いで竹森新右衛門に与えた。
小寺官兵衛(黒田官兵衛)が佐用城を攻め落としたのは天正5年(1577年)11月、小寺官兵衛が32歳のことであった。


 話を戻す。
  織田信長と将軍・足利義昭との確執も顕著になってきていた。
 義昭は将軍となり天皇に元号を「元亀」にかえることにさせた。しかし、信長は「元亀」などという元号は好きではなかった。そこで信長は元号を「天正」とあっさりかえてしまう。足利将軍は当然激怒した。しかし、義昭など信長のロボットみたいなものである。
 義昭は信長に剣もほろろに扱われてしまう。
 かれは信長の元で「殿中五ケ条」を発布、しかし、それも信長に無視されてしまう。
「あなたを副将軍にしてもよい」
 義昭は信長にいった。しかし、信長は餌に食いつかなかった。
 怒りの波が義昭の血管を走った。冷静に、と自分にいいきかせながらつっかえつっかえいった。「では、まろに忠誠を?」
「義昭殿はわしの息子になるのであろう? 忠誠など馬鹿らしい。息子はおやじに従っておればよいのじゃ」信長は低い声でいった。抑圧のある声だった。
「義昭殿、わしのおかげで将軍になれたことを忘れなさるな」
 信長の言葉があまりにも真実を突いていたため、義昭は驚いて、こころもち身をこわばらせた。百本の槍で刺されたように、突然、身体に痛みを感じた。信長は馬鹿じゃない。 しかし、おのれ信長め……とも思った。
 それは感情であり、怒りであった。自分を将軍として崇めない、尊敬する素振りさえみせず、将軍である自分に命令までする、なんということだ!
 その個人的な恨みによって、その感情だけで義昭は行動を起こした。
 義昭は、甲斐(山梨県)の武田信玄や石山本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信、中国の毛利、薩摩(鹿児島県)の島津らに密書をおくった。それは、信長を討て、という内容であったという。
 こうして、信長の敵は六万あまりとふくらんだ。
 そうした密書を送ったことを知らない細川や和田らは義昭をなだめた。
 しかし、義昭は「これで信長もおしまいじゃ……いい気味じゃ」などと心の中で思い、にやりとするのであった。
  義昭と信長が上洛したとき、ひとりだけ従わない大名がいた。
 越前(福井県)の朝倉義景である。かれにしてみれば義昭は居候だったし、信長は田舎大名に過ぎない。ちょっと運がよかっただけだ。義昭を利用しているに過ぎない。
 信長は激怒し、朝倉義景を攻めた。
 朝倉方の天筒山城、金ケ崎城を陥した。
「次は朝倉の本城だ」信長は激を飛ばした。
 だが、信長は油断した。油断とは、浅井長政の裏切り、である。
 北近江(滋賀県北部)の浅井長政の存在を軽く見ていた。油断した。
 浅井長政には妹のお市(絶世の美女であったという)を嫁にだした。いわば義弟だ。裏切る訳はない、と、たかをくくっていた。
 浅井長政は味方のはずである…………
 そういう油断があった。義弟が自分のやることに口を出す訳はない。そう思って、信長は琵琶湖の西岸を進撃した。東岸を渡って浅井長政の居城・小谷城を通って通告していれば事態は違っていただろうという。しかし、信長は、”美人の妹を嫁にやったのだから俺の考えはわかってるだろう”、という考えで快進撃を続けた。
 しかし、「朝倉義景を攻めるときには事前に浅井方に通告すること」という条約があった。それを信長は無視したのだ。当然、浅井長政は激怒した。
 お市のことはお市のこと、朝倉義景のことは朝倉義景のこと、である。通告もない、しかも義景とは父以来同盟関係にある。信長の無礼に対して、長政は激怒した。
 浅井長政は信長に対して反乱を起こした。前面の朝倉義景、後面の浅井長政によって信長ははさみ討ちになってしまう。こうして、長政の誤判断により、浅井家は滅亡の運命となる。それを当時の浅井長政は理解していただろうか。いや、かれは信長に勝てると踏んだのだ。甘い感情によって。
  金ケ崎城の陥落は四月二十六日、信長の元に「浅井方が反信長に動く」という情報がはいった。信長は、お市を嫁がせた義弟の浅井長政が自分に背くとは考えなかった。
 そんな時、お市から陣中見舞である「袋の小豆」が届く。
 布の袋に小豆がはいっていて、両端を紐でくくってある。
 信長はそれをみて、ハッとした。何かある………まさか!
 袋の中の小豆は信長、両端は朝倉浅井に包囲されることを示している。
「御屋形様……これは……」秀吉が何かいおうとした。秀吉もハッとしたのだ。
 信長はきっとした顔をして「包囲される。逃げるぞ! いいか! 逃げるぞ!」といった。彼の言葉には有無をいわせぬ響きがあった。戦は終わったのだ。信長たちは逃げるしかない。朝倉義景を殺す気でいたなら失敗した訳だ。だが、このまま逃げたままでは終わらない。まだ前哨戦だ。刀を交えてもいない。時間はかかるかも知れないが、信長は辛抱強く待ち、奇策縦横にもなれる男なのだ。
 ……くそったれめ! 朝倉義景も浅井長政もいずれ叩き殺してくれようぞ!
 長政め! 長政め! 長政め! 長政め! 信長は下唇を噛んだ。そして考えた。
 …殿(後軍)を誰にするか……
 殿は後方で追撃くる敵と戦いながら本軍を脱出させる役目を負っていた。そして、同時に次々と殺されて全滅する運命にある。その殿の将は、失ってしまう武将である。誰にしてもおしい。信長は迷った。
「殿は誰がいい?」信長は迷った。
 柴田勝家、羽柴秀吉、そして援軍の徳川家康までもが「わたくしを殿に!」と志願した。 信長は三人の顔をまじまじと見て、決めた。
「サル、殿(しんがり)をつとめよ」
「ははっ!」サル(秀吉)はそういうと、地面に手をついて平伏した。信長は秀吉の顔を凝視した。サルも見つめかえした。信長は考えた。
 今、秀吉を失うのはおしい。天下とりのためには秀吉と光秀は”両腕”として必要である。知恵のまわる秀吉を失うのはおしい。しかし、信長はぐっと堪えた。
「サル、頼むぞ」信長はいった。
「おまかせくださりませ!」サルは涙目でいった。
 いつもは秀吉に意地悪ばかりしていた勝家も感涙し、「サル、わしの軍を貸してやろうか?」といい、家康までもが「秀吉殿、わが軍を使ってくだされ」といったという。
 占領したばかりの金ケ崎城にたてこもって、秀吉は防戦に努めた。
「悪党ども、案内いたせ」
 信長はこういうときの行動は早い。いったん決断するとグズグズしない。そのまま馬にのって突っ走りはじめた。四月二十八日のことである。三十日には、朽木谷を経て京都に戻った。朽木元綱は信長を無事に案内した。
 この朽木元綱という豪族はのちに豊臣秀吉の家臣となり、二万石の大名となる。しかし、家康の元についたときは「関ケ原の態度が曖昧」として減封されているという。だが、それでもかれは「家禄が安泰となった」と思った。
 朽木は近江の豪族だから、信長に反旗をひるがえしてもおかしくない。しかし、かれに信長を助けさせたのは豪族としての勘だった。この人なら天下をとるかも知れない、と思ったのだ。歴史のいたずらだ。もし、このとき信長や秀吉、そして家康までもが浅井朝倉軍にはさみ討ちにされ戦死していたら時代はもっと混沌としたものになったかも知れない。 とにかく、信長は逃げのびた。秀吉も戦死しなかったし、家康も無事であった。
 京都にかろうじて入った信長は、五月九日に京都を出発して岐阜にもどった。しかし、北近江を通らず、千種越えをして、伊勢から戻ったという。身の危険を感じていたからだ。 浅井長政や朝倉義景や六角義賢らが盛んに一向衆らを煽って、
「信長を討ちとれ!」と、さかんに蜂起をうながしていたからである。
 六角義賢はともかく、信長は浅井長政に対しては怒りを隠さなかった。
「浅井長政め! あんな奴は義弟とは思わぬ! 皆殺しにしてくれようぞ!」
 信長は長政を罵った。
岐阜に戻る最中、一向衆らの追撃があった。千種越えには蒲生地区を抜けた。その、蒲生賢秀(氏郷の父)が土豪たちとともに奮起して信長を助けたのだという。
 この時、浅井長政や朝倉義景が待ち伏せでもして信長を攻撃していたら、さすがの信長も危なかったに違いない。しかし、浅井朝倉はそれをしなかった。そして、そのためのちに信長に滅ぼされてしまう運命を迎える。信長の逆鱗に触れて。
 信長は痛い目にあったが、助かった。死ななかった。これは非常に幸運だったといわねばなるまい。とにかく信長は阿修羅の如く怒り狂った。
 皆殺しにしてくれる! そう信長は思った。




【平成28年九州熊本地震】車生活の方”エコノミークラス症候群”に注意して!予防と対策「まとめ記事」

2016年04月20日 18時05分55秒 | 日記





旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)とは?
飛行機など、長時間同じ姿勢で座ったりしているときに注意したいのが、「旅行者血栓症」です。

これは下肢が圧迫されてうっ血状態となり、血栓が生じることにより発症します。この血栓が肺に詰まってしまうことを「肺塞栓症」と言います。この2つを合わせて「旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)」と言います。


飛行機だけじゃない?エコノミークラス症候群

旅行者血栓症は、従来「エコノミークラス症候群」とも呼ばれていました。ですので「飛行機でのみ起こる症状」だと思われるかも知りません。しかし、実は旅行者血栓症は、飛行機だけではなく、列車旅行など、長時間座席に座って移動する時や、オフィスでのデスクワーク、長時間の会議、劇場・映画館などでも起こると考えられます。特に、空調設備の整ったオフィス環境はきわめて航空機内に類似した環境と言えます。旅行者血栓症とは何か、その原因をしっかり理解し、賢明に対処することが大切です。


旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)の原因と予防法
イオン飲料で効果的な水分補給

大事なのは、水分補給

飛行機など、長時間同じ姿勢で座ったりしているときに注意したいのが、「旅行者血栓症」です。

乗り物の座席などに長時間座っているために下肢が圧迫されてうっ血状態となり、血栓が生じる状態を「深部静脈血栓症」、その血栓が肺に詰まってしまうことを「肺塞栓症」と言います。この2つを合わせて「旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)」と言います。


検証!イオン飲料と水、どちらが効果的?

大塚製薬では、 旅行者血栓症と水分補給の関係を研究するために、航空機をチャーターし、ボランティアスタッフ40名にアメリカまで搭乗してもらう実験を行いました。実験では、被験者を「イオン飲料摂取群」と「ミネラルウォーター摂取群」に20名ずつ分け、9時間のフライト中、どちらも同じ量を同じタイミングで飲んでもらいました。

「イオン飲料が適している」米国医師会誌「JAMA」に掲載

実験の結果、血液粘度の観点から航空機搭乗時のような状況下での水分補給には、ミネラルウォーターよりもイオン飲料の方が適していることがわかりました。

この研究内容は、東京慈恵会医科大学の銭谷(ぜにや)助教授らによって、2002年2月、米国医師会誌「JAMA」に掲載されました。


発症の原因
旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)発症の原因説明図
「旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)」の原因の1つは、航空機内などの乾燥した空間や、低い気圧によって体内の水分が蒸散しやすくなり、血液の粘度が上昇してしまうことにあります。水分摂取の不足や、アルコール摂取なども脱水傾向を招き、血液粘度上昇のリスクを高めます。

このような状態で長時間座位により下肢が圧迫され続けると、うっ血を起こし、血栓が生じてしまいます。これを「深部静脈血栓症」と言います。また、気圧が低い場合は、よりうっ血しやすくなります。生じた血栓は、立ち上がった際などに、血液の流れにのって移動し、肺の細い血管で詰まることで呼吸困難や動悸をひきおこします。これが「肺塞栓症」です。このようにして「旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)」が発症するのです。

旅行者血栓症(エコノミークラス症候群) を予防するには?

こんな人は要注意!

旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)になりやすい人は、血栓が出来やすい人です。メタボリック症候群をはじめとした生活習慣病の人、例えば肥満、糖尿病、下肢静脈瘤などを有している人は、注意が必要です。又、40歳以上の女性、背が低い人、タバコを吸う人なども注意が必要です。


こんな人は要注意!

肥満の人
糖尿病の人
下肢静脈瘤を有している人
40歳以上の女性
背が低い人
タバコを吸う人
予防に効果があるのは?

足のマッサージをしましょう!
長時間座位による血液の循環状態悪化、特に下肢の循環悪化を回避するには、適切な運動や下肢の循環を良好にするマッサージが有効で、血栓の予防にもなります。
適切な水分摂取は必須!
血液粘度の上昇を惹起する脱水を防ぐためには水分の適切な摂取が必要ですが、ビールなど利尿作用のある飲料ではむしろ脱水が助長されます。

メモ:海外旅行、航空機の座席は通路側がオススメ
長時間座位による下肢の血液循環悪化を回避するには、航空機での移動中にもトイレに立ったり、飲料を飲んで水分補給をする必要があります。そのためには、トイレに立ちやすい通路側の座席を指定するのがオススメです。

窓側の座席は確かに景色はよいのですが、3人掛けの座席の一番奥などになった場合はなかなかトイレに行きにくいものです。「ちょっと失礼します…」と声をかけにくくて、トイレを我慢した、という方もいるのではないでしょうか?トイレに行かないように水分を摂らないようにする、なんてことの無いように、心配な人は、通路側の座席を指定しましょう。

検証!イオン飲料と水、どちらが効果的?

大塚製薬では、 旅行者血栓症と水分補給の関係を研究するために、航空機をチャーターし、ボランティアスタッフ40名にアメリカまで搭乗してもらう実験を行いました。実験では、被験者を「イオン飲料摂取群」と「ミネラルウォーター摂取群」に20名ずつ分け、9時間のフライト中、どちらも同じ量を同じタイミングで飲んでもらいました。


実験概要
飛行機などでの長時間座位に伴って起こる「旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)」には、水分補給がとても重要です。

大塚製薬では、 旅行者血栓症と水分補給の関係を研究するために、航空機をチャーターし、ボランティアスタッフ40名にアメリカまで搭乗してもらう実験を行いました。実験では、被験者を「イオン飲料摂取群」と「ミネラルウォーター摂取群」に20名ずつ分け、9時間のフライト中、どちらも同じ量を同じタイミングで飲んでもらいました。

実験詳細

目的
水分の補給が長時間の航空機搭乗時の水分バランスと下肢の血液粘度に与える影響を調査
実験デザイン
非盲検化群比較実験
スケジュール
日本、成田空港 21:30発 →
アメリカ、モーゼスレイク空港 06:30着
(9時間のフライト)
対象
40歳以下の健常成人男性40名
(平均年齢23.4歳、体重61.3kg、身長172.5cm)
群構成
1. 20名 : イオン飲料摂取
2. 20名 : ミネラルウォーター摂取
備考
すべての被験者は航空機に搭乗する2日前から規定の飲食物を一定量摂取しました。
機内では定期的に尿を採取し、フライトの前後で体重測定や採血を行いました。
排尿以外は座ったままの状態を維持してもらいました。
スケジュール詳細

イオン飲料で効果的な水分補給

実験結果

実験の結果、搭乗中に飲んだ水分量はどちらの群も同じであるにも関わらず、尿の総排出量は、イオン飲料の方が、ミネラルウォーターよりも少ないことがわかりました。(図1)

また、搭乗中に飲んだ水分が体内に残る割合を見てみると、ミネラルウォーターの約28%に対してイオン飲料は約48%と、イオン飲料摂取群の方が、水分が体内に残る割合が高いことがわかりました。(図2)

航空機搭乗中(10時間)の尿排泄量


(図1)航空機搭乗中(10時間)の尿排泄量
航空機搭乗中に飲んだ水分が体内に残る割合


(図2)航空機搭乗中に飲んだ水分が体内に残る割合
また、イオン飲料摂取群はミネラルウォーター摂取群より搭乗前に比べ血漿量も有意に増加し、足と腕の血液粘度もミネラルウォーター群より差が大きくないことが分かりました。(図3,4)
航空機搭乗前後の血漿量変化


(図3)搭乗前後の血漿量の変化
航空機着陸後の腕と足の血液粘度の比較


(図4)搭乗前後の血液粘度の変化
イオン飲料で効果的な水分補給を!

実験結果では、血液粘度の観点から、航空機搭乗時のような状況下での水分補給には、ミネラルウォーターよりもイオン飲料の方が適していることがわかりました。

長時間の移動やオフィスワークなど、類似した環境下では、一定時間を経過したら下肢を動かし、血液の循環を改善しましょう!そして、イオン飲料で効果的に水分補給を行いましょう!


黒田官兵衛<軍師黒田官兵衛と石田三成と「大河ドラマ軍師官兵衛」ふたたび>ブログ連載7

2016年04月19日 06時42分21秒 | 日記












         足利将軍・足利義昭



  足利義昭にしてみれば織田信長などチンピラみたいな男である。かれが越前にいったのも朝倉義景を通して越後の長尾(上杉)景虎(謙信)に頼ろうとしたのだし、また上杉でなくても武田信玄でも誰でもよかった。チンピラ信長などは「腰掛け」みたいなものである。なんといっても上杉謙信や武田信玄は信長より大物に写った。が、上杉も武田も容易に兵を挙げてくれなかった。義昭はふたりを呪った。
 しかし、信長にとっては千載一遇の好機であった。朝倉がどうでようと、足利義昭を利用すれば上洛の大義名分が出来る。遠交近攻で、上洛のさまたげとなるものはいない。
 信長は明智光秀や細川藤孝から義昭の依頼を受けて、伊勢方面に出兵した。滝川一益に北伊勢方面を攻撃させた。そうしながら伊勢の実力者である関一族の総領神戸氏の家に、三男の信孝を養子としておしつけた。工藤一族の総領である長野氏の名を弟信包に継がせたりしたという。信長の狙いは南伊勢の北畠氏である。北畠氏を攻略せねば上洛に不利になる。信長はさらに、
「足利義昭さまが越前にいてはやりにくい。どうか尾張にきてくだされ」と書状をおくった。義昭はすぐに快諾した。永禄十一年(一五六八)七月十三日、かれは越前一乗谷を出発した。朝倉義景には「かくかくしかじかで信長のところにまいる」といった。当然ながら義景は嫌な顔をした。しかし、朝倉義景は北近江一国で満足している、とうてい兵をあげて天下をとるだけの実力も器もないのだから仕方ない。
 上洛にたいして、信長は朝倉義景につかいをだした。義景は黙殺した。六角義賢(南近江の城主)ははねつけた。それで、信長は六角義賢を攻め滅ぼし、大軍を率いて京都にむかった。九月一二日に京都にはいった。足利義昭を京都の清水寺に宿舎として入れ、松永と三好三人衆と対峙した。松永弾正久秀は機を見るのに敏な男で、人質をさしだして和睦をはかった。それがきっかけとなり信長は三好三人衆の軍勢を叩き潰した。
 足利義昭は「こやつらは兄義輝を殺した連中だ。皆殺しにいたせ!」といきまいた。
 しかし信長が「義昭さま、ここは穏便に願う」と抑圧のある声で抑えた。
 永禄十一年(一五六八)十月十八日、足利義昭は将軍に推挙された。第一四代将軍・義栄は摂津の逃れて、やがてそこで死んだ。
「阿波公方・足利義栄の推挙に荷担し、義輝を殺した松永と三好三人衆を京都より追放す   
る」時の帝正親町天皇はそう命じた。
 松永弾正久秀は降伏したものの、また信長と対立し、ついにはかれはおいつめられて爆死してしまう(大事にしていた茶道具とともに爆薬を体にまきつけて火をつけた)。
 信長は義昭のために二条城を造らせた。
 足利義昭は非常に喜んで、にやにやした。これでまろは本物の将軍である。かれは信長に利用されているとはまだ感付いていなかった。
「あなたはまろの御父上さまだ」義昭はきしょくわるくいった。
 信長は答えなかった。当時、信長三十六歳、義昭は三十二歳だった。
 義昭は上座に座ると、「信長、まろはちと金がほしい。用意あるか?」といった。信長は家臣に命じて二百貫を与えた。義昭は当たり前のように金をみると、「ケチだときいていたが、信長はやるのう」といった。
「銭はつかっていいときに使うものにござりまする」信長は低い声でいった。
 そして、「将軍さまの家来、明智光秀殿をわしの家来にしたいのです」といって、光秀のほうに目をむけた。「もちろん、将軍さまとの関係もそのままで。四千貫でいいがか?」「余は知らぬ。勝手にいたせ」
「ははっ、おおせのとおりに」信長は珍しく低姿勢であった。
「あなたは偉大だ。あなたを副将軍としてもよい。なんならもっと…」
「いや」信長は無表情のままきっぱりいった。「副将軍はけっこうでござる。ただし、この信長ひとつだけ願いがござる」
「それは?」
「和泉国の堺と、近江国の大津と草津に、代官所を置かせていただきたい」
 義昭はよく考えもせず、簡単に「どうぞどうぞ、代官所なりなんなり置いてくだされ。とにかくあなたはまろの御父上なのですから」と答えて、にやりとした。気色悪かった。  信長には考えがあった。堺と、大津と草津は陸運の要所である。そこからとれる税をあてにしたのだ。そして信長は京都で、ある人物にあった。それは南蛮人、ルイス・フロイスで、あった。キリスト教宣教師の。
  秀吉と明智光秀は、再会、を喜びあった。一緒に河原でどじょう鍋をつっついた仲である。しかし、その明智光秀が信長を殺そうとは……そのとき秀吉や佐吉には考えもしないことであった。                                    
        5 堺に着眼


        堺に着眼




話を少し戻す。
小寺官兵衛(黒田官兵衛)は長男・黒田長政も生まれて公私ともに順風満帆だった。
が、播磨にある御着城の城主・小寺政職は小大名だったため、天下取りには1歩も2歩も出遅れていた。
既に全国で下克上の嵐が吹き乱れており、長男・黒田長政が生まれた永禄11年(1568年)には、足利義昭を擁した尾張(愛知県)の織田信長が上洛を果たし、足利義昭が15代征夷大将軍に就いていた。
播磨(兵庫県)の西には中国地方を制した毛利輝元が居り、播磨の東には15代将軍・足利義昭を擁して天下統一を狙う織田信長が居た。
そして、播磨の南には、14代将軍・足利義栄を庇護し、四国から天下を狙う阿波(徳島県)の三好長治が居た。
14代将軍・足利義栄は阿波の出身で、三好家の後押しによって14代将軍に就任しており、織田信長に排除された後、阿波の三好家を頼っていた。
織田信長は上洛を果たしたといえど、越後(新潟県)から天下を狙う上杉謙信、織田信長の背後を突こうとする甲斐(山梨県)の武田信玄などが居り、天下は治まっていなかった。
播磨(兵庫県)は守護大名・赤松家が治めていた。
が、永正18年(1521年)に備前の守護代・浦上宗村が下克上を起こして播磨守護職の赤松義村を討ち取って以降、赤松家は求心力を失い、播磨は内乱状態にあった。
播磨の守護大名・赤松家は求心力を失うと、赤松家は本家筋の置塩城(兵庫県姫路市)の城主・赤松義祐と、分家筋の龍野城(兵庫県たつの市)の城主・赤松政秀とに別れ、播磨守護職の覇権を争った。
黒田官兵衛が仕えた御着城の城主・小寺政職は、播磨の守護大名・赤松家の一族で、本家筋の置塩城の城主・赤松義祐に属しており、分家筋の龍野城の城主・赤松政秀と対立していた。
このようなか、永禄11年(1568年)、15代将軍・足利義昭が織田信長の勢力を背景に上洛を果し、全国の諸大名に上洛を要請したのである。
御着城の城主・小寺政職の元にも15代将軍・足利義昭の上洛要請が届き、小寺政職は対応に迫られた。
城主・小寺政職は定評を開いて家臣に意見を求めたが、意見は割れて、結論は出なかった。
一方、東播磨で最大の勢力を誇る三木城(兵庫県三木市)の城主・別所長治は、隣接する摂津(大阪府)の三好家に対抗するため、織田信長と親交を深めていた。
他方、西播磨で勢力を誇る龍野城(兵庫県たつの市)の城主・赤松政秀は、織田信長が擁する足利義昭に取り入り、播磨守護職の地位を狙っていた。
播磨ではいち早く、別所長治と赤松政秀の2人が織田信長と親交を深めたため、赤松政秀と対立関係にあった小寺政職は、織田信長派の家老・山脇六郎左衛門を誅殺して、15代将軍・足利義昭の上洛要請を無視した。
このとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が小寺政職の命令を受け、家老・山脇六郎左衛門を誅殺している。
黒田官兵衛が生涯で誅殺したのは2人だけ。
その1人目が小寺家の家老・山脇六郎左衛門である。
もう1人は、淡路島にある由良城の城主・安宅河内守である。
(注釈:黒田官兵衛が播磨の中でいち早く織田信長に属したというのは、後世の創作である。別所長治や赤松政秀が先に織田信長に属しており、黒田官兵衛は織田派の家老・山脇六郎左衛門の暗殺して織田信長に属してない。)
播磨では、いち早く織田信長に属した龍野城(兵庫県たつの市)の城主・赤松政秀は、15代将軍・足利義昭に取り入り、播磨守護大名の地位を狙うため、娘を足利義昭の侍女として仕えさせることにした。
対立する置塩城(兵庫県姫路市)の赤松義祐は、これを阻止するため、御着城の小寺政職に、赤松政秀の娘の拉致を命じた。
さらに、備前(岡山県)の大名・浦上宗景にも、龍野城への攻撃を要請した。
結局、置塩城の赤松義祐の娘の拉致は失敗した。
が、置塩城の赤松義祐は、その後も備前(岡山県)の浦上宗景と手を組み、龍野城の赤松政秀を挟み撃ちにした。
窮地に陥った龍野城の城主・赤松政秀は、15代将軍・足利義昭に助けを求めた。
要請を受けた15代将軍・足利義昭は、赤松義祐の援軍として織田信長の軍を差し向け、ついに織田信長が播磨へ侵攻を開始する。
東播磨で最大の勢力を誇る三木城(兵庫県三木市)の城主・別所長治は、織田信長に属している。
そのため、織田信長に味方して、西播磨へと侵攻する。
織田信長の援軍により、西播磨の形勢が逆転し、御着城の城主・小寺政職は、西播磨の赤松政秀と東播磨の別所安治に挟み撃ちにされてしまった。
 
 永禄12年(1569年)8月、織田信長の播磨侵攻によって形勢を逆転した龍野城(兵庫県たつの市)の赤松政秀は3000の軍勢を率いて姫路城へと進軍した。
姫路城に居る兵力はわずか300人だった。
しかも、御着城の小寺政職は三木城の別所安治と織田信長の侵攻を受けて、次々と枝城を攻め落とされており、姫路城からの援軍は期待できなかった。
当時の姫路城は、現在の国宝・姫路城のように強固な城ではなく、姫山に築かれた小規模な山城である。
3000の兵で攻められれば、落城は目に見えていた。
そこで、姫路城の城主・小寺官兵衛(黒田勘兵衛)は青山に300人の伏兵を置き、進軍してきた赤松政秀の軍に奇襲攻撃をかけた(青山の戦い)。
龍野城・赤松政秀の軍は、小寺官兵衛の奇襲攻撃を受けて混乱に陥って敗走してしまう。
小寺官兵衛は300人の手勢で3000人の赤松軍を撃退することに成功してのである。
このとき、小寺官兵衛の家臣・栗山善助が初陣を果たし、芝原弥十郎と桑原左衛門の2人を討取った。

 話を変える。
  大河ドラマや映画に出てくるような騎馬隊による全力疾走などというものは戦国時代には絶対になかった。疾走するのは伝令か遁走(逃走)のときだけであった。上級武士の騎馬武者だけが疾走したのでは、部下のほとんどを占める歩兵部隊は指揮者を失ってついていけなくなってしまう。
 よく大河ドラマであるような、騎馬隊が雲霞の如く突撃していくというのは実際にはなかった。だが、ドラマの映像ではそのほうがカッコイイからシーンとして登場するだけだ。    ところが、織田信長が登場してから、工兵と輜重兵(小荷駄者)が独立することになる。早々と兵農分離を押し進めた信長は、特殊部隊を創造した。毛利や武田ものちにマネることになるが、その頃にはもう織田軍はものすごい機動性を増し、東に西へと戦闘を始めることができた。そして、織田信長はさらに主計将校団の創設まで考案する。
 しかし、残念なことに信長のような天才についていける人材はほとんどいなかったという。そのため信長は部下を方面軍司令官にしたり、次に工兵総領にしたり、築城奉行にしたり……と使いまくる。羽柴(豊臣)秀吉、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀ら有能とみられていた家臣の多忙さは憐れなほどであるという。
 上杉謙信の軍が関東の北条家の城を攻略したこともあったが、結局、兵糧が尽きて撤退している。まだ上杉謙信ほどの天才でも、工兵と輜重兵(小荷駄者)を分離していなかったのである。その点からいえば、織田信長は上杉謙信以上の天才ということになる。
 この信長の戦略を継承したのが、のちの秀吉である。
 秀吉は北条家攻略のときに工兵と輜重兵(小荷駄者)を分離し、安定して食料を前線に送り、ついには北条家をやぶって全国を平定する。
  また、この当時、日本の度量衡はバラバラであった。大仏建立の頃とくらべて、室町幕府の代になると、地方によって尺、間、升、などがバラバラであった。信長はこれはいかんと思って、度量衡や秤を統一する。この点も信長は天才だった。
 信長はさらに尺、升、秤の統一をはかっただけでなく、貨幣の統一にも動き出す。しかも質の悪い銭には一定の割引率を掛けるなどというアイデアさえ考えた。
 悪銭の流通を禁止すれば、流動性の確保と、悪銭の保有を抑えられるからだ。
 減価償却と金利の問題がなければ、複式記帳の必要はない。仕分け別記帳で十分である。そこで、信長は仕分け別記帳を採用する。これはコンピュータを導入するくらい画期的なことであった。この記帳の導入の結果、十万もの兵に兵糧をとめどなく渡すことも出来たし、安土城も出来た。その後の秀吉の時代には大阪城も出来たし、全国くまなく太閤検地もできた。信長の天才、といわねばなるまい。

  京都に上洛するために信長は堺や京都の商人衆に「矢銭」を要求しようと思った。
「矢銭」とは軍事費のことである。
「サル!」
 信長は清洲城で羽柴秀吉(藤吉郎)をよんだ。サルはすぐにやってきた。
「ははっ、御屋形様! なんでござりましょう」
「サル」信長はにやりとして「堺や京都の商人衆に「矢銭」を要求しろ」
「矢銭、でござりまするか?」
「そうじゃ!」信長は低い声でいった。「出来るか? サル」
「ははっ! わたくしめにおまかせくださりませ!」秀吉は平伏した。
 自分が将軍・義昭を率いて上洛し、天下を統一するのだから、商人たちは戦いもせず利益を得ているのだから、平和をもたらす武将に金をだすべきだ……これが信長の考えだった。極めて現実的ではある。
 サルはさっそく堺にはいった。商人衆にいった。
「織田信長さまのために矢銭を出していただきたい」秀吉は唾を飛ばしながらいった。周りの商人たちは笑った。
「織田信長に矢銭? なんでわてらが銭ださにゃあならんのや?」
「て……」秀吉はつまった。そして続けた。「天下太平のため! 天下布武のため!」
「天下太平のため? 天下布武のため? なにいうてまんねん」商人たちはにやにやした。「天下のため、堺衆のみなみなさまには信長さまに二万貫だしていただきたい!」
「二万貫? そんな阿呆な」商人たちは秀吉を馬鹿にするだけだった。
 京都も渋った。しかし、信長が威嚇のために上京を焼き討ちにすると驚愕して金をだした。しかし、堺は違った。拒絶した。しかも、信長や家臣たちを剣もほろろに扱った。 信長は「堺の商人衆め! この信長をナメおって!」とカッときた。
 だか、昔のように感情や憤りを表面にだすようなことはなかった。信長は成長したのだ。そして、堺のことを調べさせた。
 堺は他の商業都市とは違っていた。納屋衆というのが堺全体を支配していて、堺の繁栄はかれらの国際貿易によって保たれている。納屋衆は自らも貿易を行うが、入港する船のもたらす品物を一時預かって利益をあげている。堺の運営は納屋衆の中から三十六人を選んで、これを会合衆として合議制で運営されていること。堺を見た外国人は「まるでヴィニスのようだ」といっていること………。
 信長は勉強し、堺の富に魅了された。
 信長にとっていっそう魅力に映ったのは、堺を支配する大名がいないことであった。堺のほうで直接支配する大名を欲してないということだ。それほど繁栄している商業都市なら有力大名が眼をぎらぎらさせて支配しようと試みるはずだ。しかし、それを納屋衆は許        
さなかった。というより会合衆による「自治」が行われていた。
 それだけではなく、堺の町には堀が張りめぐらされ、町の各所には櫓があり、そこには町に雇われた浪人が目を光らせている。戦意も強い。
 しかし、堺も大名と全然付き合いがない訳でもなかった。三好三人衆とは懇篤なつきあいをしていたこともある。三好には多額な金品が渡ったという。
 もっとも信長が魅かれたのは、堺のつくる鉄砲などの新兵器であった。また、鉄砲があるからこそ堺は強気なのだ。
「堺の商人どもをなんとかせねばならぬ」信長は拳をつくった。「のう? サル」
「ははっ!」秀吉は平伏した。「堺の商人衆の鼻をあかしましょう」
 信長は足利義昭と二万五千人の兵を率いて上洛した。
 神も仏も将軍も天皇も崇めない信長ではあったが、この時ばかりは正装し、将軍を奉った。こうして、足利義昭は第十五代将軍となったのである。
 しかし、義昭など信長の”道具”にしかすぎない。
 信長はさっそく近畿一圏の関所を廃止した。これには理由があった。日本人の往来を自由にすることと、物流を円滑にすること。しかし、本当の目的は、いざというときに兵器や歩兵、兵糧などを運びやすくするためだ。そして、関所が物やひとから銭をとるのをやめさせ、新興産業を発展させようとした。
 関所はもともとその地域の産業を保護するために使われていた。近江国や伊勢国など特にそうで、一種に保護政策であり、規制であった。信長はそれを破壊しようとした。
 堺の連中は信長にとっては邪魔であった。また、信長がさらに強敵と考えていたのが、一向宗徒である。かれらの本拠地は石山本願寺だった。
 信長は石山本願寺にも矢銭を求めた。五千貫だったという。石山本願寺側ははじめしぶったが、素早く矢銭を払った。信長は、逆らえば寺を焼き討ちにしてくれようぞ、と思っていたが中止にした。
 永禄十二年(1569)正月、信長は正室・吉乃と光秀の妻・ひろ子らと酒を呑んでいた。正月で、皆、心がうかれていた。「御屋形様~っ」急に泥酔したおねがやってきた。「おねか」信長は声をかけた。おねは泥酔したまま平伏し、「御屋形…さ…ま。サルめを…京から呼び戻してくだされ。……あの…サル…都の女子に…次々と…手を…かけ…」
 前田利家は「これこれ、御屋形様に何てことを…」と苦笑しながらおねの肩に手をかけた。おねは「御屋形様……わたしは悔しいのです…サルめが!」
 信長も妻の吉乃も笑った。一同、ほのんな笑いに包まれた。






         フロイス



  第十五代将軍足利義昭が京都にいた頃、三好三人衆が義昭を殺そうとしたことがある。信長は「大事な”道具”が失われる」と思いすぐに出兵し、三好一派を追い落とした。三好三人衆は堺に遁走し、匿われた。信長は烈火の如く激怒した。
「堺の商人め! 自治などといいながら三好三人衆を匿っておるではないか! この信長をナメおって!」信長は憤慨した。焼き討ちにしてくれようか………
 信長はすぐに堺を脅迫しだした。
「自治都市などといいながら三好三人衆の軍を匿っておるではないか! この信長をナメるな!すぐに連中を撤退させよ。そして、前にいった矢銭を提供せよ。これに反する者たちは大軍を率いて攻撃し、焼き討ちにする」
 信長は本気だとわかり、堺の商人たちは驚愕した。
 しかし、べに屋や能登屋などの強行派は、「信長など尾張の一大名に過ぎぬ。わてらは屈せず、雇った浪人たちに奮起してもろうて堺を守りぬこう」と強気だった。
 今井宗久らは批判的で、信長は何をするかわからない「ヤクザ」みたいなものだと見抜いていた。宗久は密かに信長に接近し、高価な茶道具を献上したという。
 堺の町では信長が焼き討ちをおこなうという噂が広がり、大パニックになっていた。自分たちは戦うにしても、財産や妻子だけは守ろうと疎開させる商人も続発する。
 そうしたすったもんだがあって、ついに堺の会合衆は矢銭を信長に払うことになる。
 しかし、信長はそれだけでは満足しなかった。
「雇っている浪人をすべてクビにしろ! それから浪人は一切雇うな、いいか?! 三好三人衆の味方もするな! そう商人どもに伝えよ!」信長は阿修羅のような表情で伝令の武士に申しつけた。堺の会合衆は渋々従った。
「いままで通り、外国との貿易に精を出せ。そのかわり税を収めよ」
 信長はどこまでも強気だった。信長は人間を”道具”としてしかみなかった。堺衆は銭をとる道具だし、義昭は上洛して全国に自分の名を知らしめるための道具、秀吉や滝川一益、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀ら家臣は、”自分の野望を実現させるための道具”、である。信長は野望のためには何でも利用した。阿修羅の如き怒りによって………
 信長は修羅の道を突き進んだ。
 しかし、信長の偉いところは堺の自治を壊さなかったことだ。
 信長が事実上支配しても、自分の管理下に置かなかった。これはなかなか出来ることではない。しかし、信長は難なくやってのけた。天才、といわなければならない。
 この頃、信長の目を輝かせることがあった。外国人宣教師との出会いである。すなわちバテレンのキリスト教の宣教師で、南蛮・ポルトガルからの外人たちである。
 本当はパードレ(神父のこと)といったそうだが、日本では伴天連といい、パードレと呼ばせようとしたが、いつのまにかバテレン、バテレン、と日本読みが広がり、ついにバテレンというようになった。
 キリスト教の布教とはいえローマンカトリックであったという。イエズス会……それが彼等宣教師たちの団体名だ。そして、信長はその宣教師のひとりであるルイス・フロイスにあっている。フロイスはポルトガル人で、船で日本にやってきた若い青い目の白人男であった。フロイスはなかなか知的な男であり、キリスト教をなによりも大切にし、愛していたという。
 天文元年(一五三二)、ルイス・フロイスはポルトガルの首都リスボンで生まれた。子供の頃から、ポルトガルの王室の秘書庁で働いたという。天文十七年(一五四八)頃にイエズス会に入会した。そしてすぐインドに向かい、ゴアに着くとすぐ布教活動を始めた。この頃、日本人のヤジロウと日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルにあったのだという。フロイスは日本への思いを募らせた。日本にいきたい、と思った。
 その年の七月、フロイスは船で九州の横瀬浦に着いた。
 フロイス時に三十一歳、信長も三十一歳であった。同い年なのだ。
 そして、その頃、信長は桶狭間で今川義元をやぶり、解放された松平元康と同盟を結んでいた。松平元康とはのちの徳川家康である。同盟の条件は、信長の娘五徳が、家康の嫡男信康と結婚することであった。永禄六年のことだ。
 日本に着いたフロイスは、まず日本語と日本文化について徹底的に研究勉強した。横瀬浦は九州の長崎である。そこにかれは降りたった訳だ。
 一度日本にきたフランシスコ・ザビエルは一時平戸にいたという。平戸の大名は松浦隆信であったらしいが、宣教師のもたらすキリスト教には関心をほとんど示さず、もっぱら貿易における利益ばかりを気にしていた。
 ザビエルもなかなかしたたかで、部下のバテレンたちに「日本の大名で、キリスト教布教を受け入れない者にはポルトガル船も入港させるな」と命じていたという。
 フロイスの着いたのは長崎の田舎であったから、受け入れる日本人の人情も熱く、素朴であったからフロイスは感銘を受けた。
 ……これならキリスト教徒としてやっていける…
 そんなフロイスが信長に会ったのは永禄十一年のことである。ちょうど信長が足利義昭を率いて上洛したときである。そして、遭遇した。
 謁見場は京都の二条城内であった。
 フロイスをセッテングしたのは信長の部下和田である。彼は近江の土豪で、義昭が近江の甲賀郡に逃れてきたときに世話をした恩人であったという。忍者とかかわりあいをもつ。また和田の部下は、有名な高山重友(右近)である。
 右近はキリシタンである。洗礼を受けたのだ。
 フロイスが信長と謁見したときは通訳の男がついた。ロレンソというが日本人である。洗礼を受け、イエズス会に入会し、日本人で最初のイルマン(修道士)となっていた。





         フロイスと信長


  謁見場は京都の二条城内であった。
 フロイスが信長に会ったのは、永禄十二年(一五六九)四月三日のことだった。フロイスは和田に付き添われて、二条城内にはいった。信長は直接フロイスとは会わず、遠くから眺めているだけだった。
 フロイスはこの日、沢山の土産物をもってきていた。美しい孔雀の尾、ヨーロッパの鏡、黒いビロードの帽子……。信長は目の前に並んだ土産物を興味深く見つめたが、もらったのはビロードの帽子だけだったという。他にもガチョウの卵や目覚まし時計などあったが、信長は目覚まし時計に手をふれ、首をかしげたあと返品の方へ戻した。
 立ち会ったのは和田と佐久間信盛である。しかし、その日、信長はフロイスを遠くから見ていただけで言葉を交わさなかった。
「実をいえば、俺は、幾千里もの遠い国からきた異国人をどう対応していいかわからなかったのだ」のちに信長は佐久間や和田にそういったという。
「では……また謁見を願えますか?」和田は微笑んだ。
「よかろう」信長は頷いた。
 数日後、約束通り、フロイスと信長はあった。通訳にはロレンソがついた。
 信長はフロイスの顔をみると愛想のいい笑顔になり、「近うよれ」といった。
 フロイスが近付き、平伏すると、信長は「面をあげよ」といった。
「ははっ! 信長さまにはごきげんうるわしゅう」フロイスはたどたどしい日本語で、いった。かれは南蛮服で、首からは十字架をさげていた。信長は笑った。
 そのあと、信長は矢継ぎ早に質問していった。
「お主の年はいくつだ?」
「三十一歳でごさりまする」フロイスはいった。
 信長は頷いて「さようか。わしと同じじゃ」といい続けた。「なぜ布教をする? ゼウスとはなんじゃ?」
 フロイスは微笑んで「ひとのために役立つキリスト教を日本にも広げたく思います。ゼウスとは神・ゼウス様のことにござりまする」とたどたどしくいった。
「ゼウス? 神? 釈迦如来のようなものか?」
「はい。そうです」
「では、日本人がそのゼウスを信じなければ異国に逃げ帰るのか?」
「いいえ」フロイスは首をふった。「たとえ日本人のなかでひとりしか信仰していただけないとしてもわれわれは日本にとどまりまする」
「さようか」信長は関心した。そして「で? ヨーロッパとやらまでは船で何日かかるのじゃ?」と尋ねた。是非とも答えがききたかった。
「二年」フロイスはゆっくりいった。
「………二年? それはそれは」信長は関心した。そんなにかかるのか…。二年も。さすがの信長も呆気にとられた。そんなにかかるのか、と思った。
 信長は世界観と国際性を身につけていた……というより「何でも知ってやろう」という好奇心で目をぎらぎらさせていた。そのため、利用できる者はなんでも利用した。
 だが、信長には敵も多く、争いもたえなかった。
 他人を罵倒し、殺し、暴力や武力によって服従させ、けして相手の自尊心も感情も誇りも尊重せず、自分のことばかり考える信長には当然大勢の敵が存在した。
 その戦いの相手は、いうまでもなく足利義昭であり、石山本願寺の総帥光佐の一向宗徒であり、武田信玄、上杉謙信、毛利、などであった。

 話を戻す。
永禄12年(1569年)8月、「青山の戦い」で大敗した龍野城の赤松政秀は、小丸山に陣を構えた。
一方、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は、英賀城(兵庫県姫路市)の城主・三木通秋の援軍を受け、夢前川を隔てた土器山に布陣して、赤松政秀の軍に相対した。
その後、赤松政秀の軍勢が奇襲攻撃をかけてきた。
姫路城の守備をしていた父・黒田職隆は、小寺勘兵衛の危機を知る。
と、家臣の井手勘左衛門・黒田兵庫助・母里小兵衛らに出撃を命じた。
死を覚悟した母里小兵衛は、黒田職隆に、
「私はこの戦で死ぬでしょう。もし、私が死ねば、我妻をめとり、息子(母里雅楽と母里武兵衛)の事をお願いしたい」
と遺言して、土器山へと馳せた。
小寺官兵衛は井手勘左衛門友氏・母里小兵衛・母里武兵衛の援軍を受けて兵を立て直し、井手勘左衛門友氏・母里小兵衛・母里武兵衛の活躍によって赤松政秀の軍勢を追い返した。
しかし、この激戦で井手勘左衛門友氏と母里小兵衛は討死し、母里武兵衛は全身7カ所に傷を負った。
赤松政秀の奇襲攻撃により、小寺官兵衛(黒田官兵衛)の軍は大打撃を受けていたが、小寺勘兵衛は、
「敵は大勝利で油断している。まさか夜襲してくるとは思うまい」
と言い、奇襲攻撃を提案した。
小寺官兵衛は、
「負傷していても出陣せよ」
と7度に渡り督促したため、全身7カ所に傷を負った家臣・母里武兵衛が、
「これほどの傷を負った者に出撃しろとは、死ねと言うことか」
と激怒した。
が、小寺官兵衛は「おそらくそうなるであろう」と答えた。
その日の夜、小寺勘兵衛が先鋒隊を努めて、小丸山に布陣した赤松政秀を襲撃する。
負傷していた母里武兵衛は真っ先に敵陣へと打ち込み、7本の槍で貫かれて戦死した。
小寺官兵衛の読み通り、夜襲の勝利に油断していた赤松政秀は防備を怠っていた。
多勢に無勢で激戦ととなるが、激戦の末、赤松政秀は総崩れとなって龍野城へと敗走した。
 土器山の戦いは壮絶な戦いで、母里一族24人が死亡した。
父・黒田職隆は戦死した母里小兵衛の遺言を守り、母里小兵衛の妻と結婚し、後に1男1女を儲けた。
母里小兵衛の息子・母里武兵衛は、小寺官兵衛(黒田官兵衛)と共に出陣し、真っ先に敵陣に切り込んだ。
が、7本の槍で突かれ、壮絶な死を果たした。
母里小兵衛の息子・母里雅楽は、母里一族の死を悼み、京都へと移り住んだ(後に黒田家に仕える)。
母里家が滅ぶことを危惧した小寺官兵衛は、家臣・曽我一信の息子・曽我太兵衛に母方(母親)の母里姓を名乗らせ、母里太兵衛と改名させた。
この母里太兵衛が、後に黒田家の家臣を代表する「黒田二十四騎」の1人で、「黒田節」として歌われることになる。
さて、黒田勘兵衛は、この「青山の戦い」「土器山の戦い」での大勝利により、世間に名前を轟かせることになる。
が、既に織田信長・武田信玄・上杉謙信・毛利輝元などが台頭しており、天下取りには1歩も2歩も遅れていたのであった。
このころ、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は天下の情勢を見抜き、日本を統一するためには政治の中心である京都を押さえ、天皇家の威光を借りなければならないことを悟った。
しかし、小寺官兵衛は小寺家の一家臣に過ぎないので、天皇家に接近するすべはなかった。
ただ、母親の父・明石正風が近衛家で歌道の師範をしていたため、この縁を頼り、近衛家に接近し、京都の動向を探った。
もし、京都に英雄が現れれば、小寺官兵衛はその英雄に属し、天下の動乱を収めよう、と考えるようになっていた。

   

【ゆとり世代ですがなにか?】特徴「自分の頭で考えられない」「創造力・想像力がない」「馬鹿」?

2016年04月18日 14時12分08秒 | 日記











【ゆとり世代ですがなにか?】特徴「自分の頭で考えられない」「創造力・想像力がない」「馬鹿」?



「ゆとり世代」の年齢は?ゆとり世代の特徴・仕事・恋愛観、「さとり」との違いなど徹底解説!

世間から何かと揶揄されることが多い「ゆとり世代」。ゆとり世代の年齢や特徴、さとり世代との違い、「脱ゆとり」になって何が変わったのかを徹底解説します。「自分はゆとり世代」という人も「ゆとり世代の扱いに困ってる」人も是非参考にしてください!





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目次

ゆとり世代っていつからいつまで?
仕事や恋愛に見る、ゆとり世代の特徴
「ゆとり世代」は「さとり世代」?
「ゆとり世代」の前は「プレッシャー世代」
「さとり世代」の次は「脱ゆとり世代」
まとめ
ゆとり世代っていつからいつまで?


「これだから”ゆとり”は…」なんて、何かとその言動を揶揄されることが多い「ゆとり世代」。彼らは何が原因でそんな悲惨な目にあってしまうのでしょうか?気になりますね。

そんなゆとり世代の特徴を紹介する前に、「ゆとり世代」の定義について考えてみましょう。

ゆとり世代の定義については、さまざまな論調があり、明確な線引きがあるわけではありません。
小・中学校での教育内容が、いわゆる「ゆとり教育」という学習指導要領に改正されたのは、2002年度から2010年度までのことです。

「この期間に1年間でもゆとり教育を受けた人」というように広義にとらえた場合は、1987年4月2日生まれ~2004年4月1日生まれの人が該当します。

しかし、2008年からは「脱ゆとり」に向けての移行期間が始まっていますので、ゆとり教育の影響を受け、一定の傾向がみられる世代として、1987年から1996年生まれまでの9年間を「ゆとり世代」とすることが多いようです。年齢的には29歳~20歳ぐらい(2016年現在)の人を指すことになりますね。

中でも、ゆとり教育にどっぷりハマってしまったのが、1995年生まれ、1996年生まれの人たち。
小・中学期間をすべてゆとり教育で過ごしており、「筋金入りのゆとり世代」と言えるでしょう。
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仕事や恋愛に見る、ゆとり世代の特徴


ゆとり世代の特徴として挙げらるのは、主に3つ。
1.怒られることに慣れていなくって、ストレス耐性が低い。
2.指示待ち人間で、自分から積極的に動こうとしない。
3.プライベートを優先し、会社の飲み会などには参加しない。
などと言われています。

年上の人から見ると、なかなか扱いにくい存在のようですね。
何故そうなってしまったのでしょうか?
そもそも「ゆとり教育」って何だろう?


「ゆとり教育」が実施されることになった背景には、それまでの学力偏重型の教育により、子どもたちの精神的な余裕がなくなってきたことがあると言われています。

1990年代は、受験戦争、いじめ、不登校、引きこもり、さらに自殺など、子どもたちにまつわる社会現象が数々起こっていました。これらの原因が学力偏重型の詰め込み教育にあるのではないかと考えられていたのです。

このため、学習時間を減らし経験重視の学習形態に変えることで、クリエィティブな発想力、「考える力」「生きる力」を身につけることによって、精神的にもゆとりを持てるような教育に変えていこうとしたのです。これが「ゆとり教育」の発想です。

学習時間や学習内容の見直しが行われ、2002年には土曜日が完全に休校となり、学習時間は3割程度削減されたと言われています。その分「特別授業」と呼ばれる福祉や地域コミュニケーション、国際交流といった内容の授業が行われるようになりました。これにより「不登校の割合が削減した」というデータもあります。

それなりの成果を見せたように思える「ゆとり教育」ですが、この後、文科省がびっくりするような事態が起こります。
それはPISAという世界各地で行われる学習到達度調査の結果です。

2000年度の調査では、日本は計算力が1位、読解力は8位という結果でした。これが2003年度の調査では、計算力が6位、読解力はなんと14位まで低下してしまっていたのです。
たった3年でこれだけ学力が低下したということで、当時は「PISAショック」なんて言葉も生まれ、「ゆとり教育」に対する批判は徐々に強まっていったのでした。
ゆとり世代の新入社員、その仕事観とは?


ゆとり世代の新入社員の特徴は、
打たれ弱い、指示待ち、自主性がない、仕事よりプライベートを優先するなどがよく言われています。

少子化により親から可愛がられ、過保護に育ったゆとり世代は、人から怒られた経験があまりありません。なので上司からちょっと厳しいことを言われただけで、凹んでしまうようです。
「ちょっと叱ったらすぐに会社を休み、その翌日には心療内科の診断書を持ってきて『会社を辞めたい』と言ってきた」なんていう実話もあります。

バブル崩壊後の厳しい時代に子ども時代を過ごし、親のリストラや会社の倒産劇などを目の当たりにしてきたゆとり世代は、会社に対して夢も希望も持っていません。「会社で偉くなりたい」なんて気持ちはなく、むしろ「自己実現ー自分のやりたいことをやる」方が重要なのです。

なので、上司に媚を売るための飲み会よりも自分の時間を優先するし、会社は自分のスキルを磨くための場所なので、居心地が悪ければ転職もいとわないと考える人が多いようです。

また、マニュアル世代であり、わからないことはすぐに「ググる」クセがついているゆとり世代は、自分で考えることが苦手。マニュアルに書いていないことは想像することも出来ないし、自分の意見を主張するより、その意見が正解かどうかを気にします。間違えることが怖いので自分からは行動しないし、自分で答えを考えるということもしないようです。
ゆとり世代の恋愛観


草食系男子に代表されるゆとり世代の恋愛観。
それは異性に興味がないというよりは、コスパを考えた行動だと言えるでしょう。

競争のないゆとり教育で育った彼らは、がむしゃらに頑張るのはカッコ悪いと思っているし、傷つくのが怖い臆病な性格。
だから「意中の人に猛アピールして拒否されるぐらいなら、友だちのままでいい」と思っているようです。
恋愛に労力やお金を使うのはムダ、コスパが悪い。それなら自分の趣味に時間やお金を費やしたほうがよいというのがゆとり世代の恋愛観。

例え付き合うことになっても、デートは食事から遊びまですべて割り勘。ラブホ代まで割り勘するのも珍しくないそうです。
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「ゆとり」と揶揄される原因


ゆとり世代が社会に出る前、まだ大学生の頃には「ゆとりは勉強していないから頭が悪い」「考え方が稚拙」と言われていました。社会人になってからは、「社会性がない」などと言われています。

ゆとり教育による学力の低下は、ある程度想定内だったと言われていますが、学習時間の削減だけでなく、その内容までも薄くなっていたことは、やはり失敗だったと言わざるをえません。
さらに、空いた時間は本当にクリエィティブなことをする時間に充てられていたのか?ということにも疑問が沸いてきます。何となくただぼんやりとした時間になっていたのではないでしょうか。

また、競争を排除し、「ナンバーワンよりオンリーワン」という考えは、ゆとり世代に「我の強さ」「自己肯定感」を植えつけましたが、その裏付けとなるような知識や自信がないため、一世代上の年代から見ると、理解しがたい行動に見えるのでしょう。

ただ、このようなゆとり世代の特徴は、「ゆとり教育」のせいだけではなく、社会情勢の変化も強い影響を与えています。

彼らが物ごころついた頃は、「失われた20年」と言われる日本経済が下降していた時期。リストラ、就職難、企業の倒産などの日本経済の様々な問題を目の当たりにしてきたため、自分自身の経済状況に常に危機感を感じている人が多いと言われています。

「会社に依存せずに、自分自身の成長を優先する」「ムダなお金を使わない」「コスパが悪いことはやらない」という風潮は、こんな社会情勢の変化によるところが大きいのではないでしょうか。
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「ゆとり世代」は「さとり世代」?


「さとり世代」の年齢は?
2013年の流行語大賞にも選ばれた「さとり世代」。「ゆとりには差別的な響きがある」として2chで使われたのが始まりだそうです。大人たちが勝手に作った「ゆとり」によって、自分たちがさげすまれることへの反発から生まれた言葉といえるかもしれません。

ゆとり世代とさとり世代の明確な区分けはないのですが、特に1994年前後の世代の人たちを指して「さとり世代」と言うことが多いようです。年齢的には22歳(2016現在)前後あたりになりますね。
「さとり世代」の特徴


「さとり」とは仏教用語である「悟り」の意味。

「さとり世代」の特徴としてよく言われるのが、

・物欲がなく、浪費をしない
・結果を重視して合理的に動く
・恋愛に興味がない
・旅行にも興味がなく、休みの日は自宅で穏やかに過ごすことが多い

などです。
インターネットを利用してさまざまな情報を得ているので、知識は豊富。ネガティブ情報もお腹いっぱい吸収しているので、すべてにおいてさとりきった言動をすることから「さとり世代」と呼ばれるようになりました。

かつては豊かさの象徴であったブランド品や車、海外旅行などにも興味を示さず、消費行動が極めて消極的なのも特徴の一つ。さとり世代にとっての「豊かさ」は物質的なものではなく、精神的なものへシフトしてるようにも見えます。

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“さとり世代”は“無欲世代”?さとり世代ならではの8つの特徴とは?!

さとり世代の新入社員―仕事での付き合い方


さとり世代が上司から言われて一番嫌な言葉は、「自分で考えろ」だそうです。
効率化や合理性にこだわるさとり世代は、「経過」を重視しません。「正解を教えてくれれば早いのに」という考えなので、自分であれこれ考えることがムダな作業に思えてしまう。

そのかわり、マニュアルを渡したり適切な指導をすれば、素直に従ってくれるのも彼らの特徴。処理能力は高いので、彼らをうまく使いこなせるかどうかは上司の腕の見せ所ですね。

また、子どもの頃から「空気を読む」ことに丈ているさとり世代。周りから浮くのが嫌なので、できるだけ目立たないようにしています。目立たないのでやる気がないようにも見えてしまいますが、実は自分の考えをしっかりと持っている人が多いといいます。

彼らが本音を言い出しやすい環境を整え、自信を与えてあげることができれば大化けする可能性が高いです。
小説「さとり世代探偵のゆるやかな日常」と漫画「ニーチェ君」にみるさとり世代
こんなさとり世代を題材にした小説や漫画が話題になっています。

さとり世代の大学生がゆる~く事件を解決していく小説『さとり世代探偵のゆるやかな日常』。
さとり同士のゆるい会話がこの小説の魅力のひとつ。
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閲覧数4000000数以上!という大人気の電子コミック、「ニーチェ先生~コンビニに、さとり世代の新人が舞い降りた~」。ツイッターで話題となり、実写ドラマ化も予定されています。

この漫画、ほぼ実話だそうです。さとり世代の哲学的な言葉に触れてみたい方は、ぜひご一読ください!

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「ゆとり世代」の前は「プレッシャー世代」


「ゆとり世代」の前、1982年から1987年生まれの人たちのことは「プレッシャー世代」と呼ばれています。年齢的には33歳~28歳ぐらいまで。

ひとつ前の就職氷河期ーロストジェネレーション世代に比べて楽観的なのが特徴。様々なプレッシャーと戦ってきながらも、「それが当然」という意識が強く、ここ一番の時に力を発揮できると言われています。

優秀な人材が多い世代とも言われ、IT業界で起業する人や、北島康介さんを始めとするスポーツ界で活躍する人も多いようです。

ゆとり世代と同様にバブル崩壊後の社会しか知らない世代ですが、ロスジェネ世代のような悲壮観や、ゆとり世代ほどの危機感もない、ありのままを受け入れ、力強く生きている世代が「プレッシャー世代」です。
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「さとり世代」の次は「脱ゆとり世代」


優秀なプレッシャー世代と比較され続けた「ゆとり・さとり世代」。今度は次世代である「脱ゆとり世代」との比較が始まりそうです。
「脱ゆとり世代」の年齢は?
文科省が「脱ゆとり」に舵をきったのは2008年度から。移行期間をへて、正式に学習指導要領が改正されたのが2011年度です。

「脱ゆとり世代」はいつからか?の定義は、「ゆとり世代」同様明確ではありません。
完全な「脱ゆとり世代」と言えるのは、2004年4月2日以降の生まれの人ということになりますが、2015年の大学入試センター試験の問題が「脱ゆとり教育」に即した内容になったことから、この年の高校3年生からは、「脱ゆとり世代」としてよいかもしれません。年齢は1997年生まれの18歳ですね。
「脱ゆとり世代」の特徴


「脱ゆとり世代」の多くはまだ学生で、今のところ際立った特徴を示してはいないようです。

でも、ゲームやネットなどが子どもたちの近くにあることはゆとり世代と変わっていないのに、急に学習時間が増えたり、指導内容が変わっていったことは、少なからず子どもたちの心の余裕を奪っているのではないかと考える人たちもいます。

最近、10代の青少年たちによる凶悪犯罪が立て続けに起こっています。またイジメの件数も増えてきているという事実もあります。

これらの事実と脱ゆとり教育との因果関係を示すものはありませんが、少し気になるところですね。
「脱ゆとり世代」になって学力は上がったのか?


2015年2月の文科省の発表によれば、「2013年に実施した小学生の学習内容の理解度のテストの結果、同じ問題で「ゆとり」時代よりも正答率が高かった」という結果が出ています。

また、PISAの学力調査も2009年には大きく回復し、2012年の結果では、計算力が7位、読解力は4位とゆとり教育前の水準に戻しています。

確かに学力は上がっています。だからと言って「学力低下の原因はゆとり教育だったと決めつけるのは早計」というのが多くの識者の意見です。

「脱ゆとり」を目指した2011年の学習指導要領の改正ですが、「生きる力」を学ぶという指針は変わっておらず、文科省の方針にブレはないと言う識者もいます。

「ゆとり教育導入期には現場の教師にも混乱があり、文科省のフォローもなかった。そんなひずみが学力低下を招いた原因であって、今学力の向上が見られるのは逆にゆとり教育の成果が出てきたと言えるのではないか」という意見もあるようです。
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まとめ
「これだから今の新人は…」「●●世代は何を考えているかわからない」といった上司から見た新人を揶揄する言葉は、ゆとり世代に限らず今までずーと言われてきたこと。一種の様式美のようなものです。

ゆとり世代がことさらダメなんてことはまったくありませんので、「何歳から何歳までがゆとり世代?」なんて年齢を気にする
ことはありません。

ゆとり世代の真価が問われるのはこれからです!「ゆとり」ならではの自分の価値を見つけてくださいね。



 私はアラフォーで「詰め込みスパルタ世代」から「ゆとり教育」への移行期。でも、競争力も創造力もあるし、敬語も社員教育も電話応対もちゃんとしてます。義やしつけや社会教育はきちんと受けましたから。儒教と論語と算盤です。
私が「こいつ”ゆとり世代”だなあ」と思うのはペンネーム福本清二です。
私のYahoo知恵袋に「自分の頭で考えることができない」くせに「ググって」「スマホで得た他人のにわか知識を書き上げる」だけのクズ男です。こういうやからが「ゆとり世代」なんです。いまだに「緑川鷲羽に自分は勝てない」とも気づかない(笑)
普通あれだけ才能の差をみせつければ理解出来て当たり前なんですが(笑)
わからないから「ゆとり」というか(笑)

「ゆとりですが何か?」(ペンネーム福本清二)

熊本地震の裏でこんなニュースが世間をざわつかせていた「熊本地震以外のニュース」

2016年04月17日 19時55分26秒 | 日記













熊本地震の裏でこんなニュースが世間をざわつかせていた
まだまだ予断を許さない熊本地震。報道特別番組が流れる中あえてその他のニュースをまとめてみました。主なニュースを社会、海外、スポーツ、芸能にカテゴライズしてまとめてみました。 更新日: 2016年04月17日






▼国内社会ニュース
****・17日、日本各地で暴風雨

出典
pbs.twimg.com
東京都多摩市の京王線・聖蹟桜ヶ丘駅近くのビルではパネルが落下。
聖蹟桜ヶ丘駅
日本, 〒206-0011 東京都多摩市関戸1丁目10 聖蹟桜ヶ丘駅
東京都多摩市の京王線・聖蹟桜ヶ丘駅の近くの解体中のビルで4月17日、足場が強風によって崩落した。
出典
聖蹟桜ヶ丘のビル解体現場、強風でパネルが崩落 (動画)
気象庁によると、都内を中心に強風注意報が発令されており、八王子市では午前10時すぎに風速26.6メートルを記録していた。
出典
聖蹟桜ヶ丘のビル解体現場、強風でパネルが崩落 (動画)
警視庁によると、けが人はいなかった。
出典
ビル工事現場のパネル落下 東京・多摩、けが人なし - 産経ニュース
警視庁多摩中央署や東京消防庁は、安全確保のため現場付近の通行を規制するなどした上で、詳しい状況や落下の原因を調べている。
出典
ビル工事現場のパネル落下 東京・多摩、けが人なし - 産経ニュース


強風で多摩市聖蹟桜ヶ丘の建設現場の仮設足場が吹き飛ばされた模様。 pic.twitter.com/rNT3tiyVeA



*****雑巾の投げ合いヵらけんかになり、その後意識を失った。
14日午後、東京・足立区の小学校で4年生の男子児童が同じクラスの男子児童とケンカになり、背中や腹を殴られるなどし、その後意識不明の重体となっている。
出典
小4男児、同級生とケンカで意識不明の重体|日テレNEWS24
雑巾の投げ合いをしていたが、けんかとなり、1人が別の1人の腹や背中などを数回殴った。
出典
東京・足立区立小学校で4年生の男児2人がけんか 殴られ1人意識不明 : クリスチャントゥデイ
殴られた児童は教室の席に戻って、うつ伏せになり泣いていたが、その後意識がなくなったという。
出典
東京・足立区立小学校で4年生の男児2人がけんか 殴られ1人意識不明 : クリスチャントゥデイ
2人の児童の間には過去にいじめがあったという話もあり、警視庁が詳しく調べている。
出典
小4男児、同級生とケンカで意識不明の重体|日テレNEWS24



幸い一命を取り留め、現在も入院しています。
******生後約3週間の長女を窒息させ殺害しようとしたとして、神奈川県警少年捜査課は14日、殺人未遂容疑で、平塚市に住む通信制高校3年の女子生徒(19)を逮捕した。
出典
乳児窒息させ殺人未遂 容疑の19歳母逮捕 「育児に悩んでいた」 - 産経ニュース
逮捕容疑は3月9日午後1時55分ごろ、長女の顔の近くにポリ袋とタオルを置き、窒息による低酸素性虚血性脳症にした疑い。
出典
乳児の顔にポリ袋=「殺そうと」母の高3逮捕-神奈川県警:時事ドットコム
長女は、意識不明の状態で病院に運ばれましたが、一命を取り留め、現在も入院しています。
出典
「乳児の口にビニール袋、殺人未遂容疑で19歳母親逮捕」 News i - TBSの動画ニュースサイト
「育児に悩んでいた。死んでもいいと思った」と容疑を認めている。
出典
乳児窒息させ殺人未遂 容疑の19歳母逮捕 「育児に悩んでいた」 - 産経ニュース

*****「警察官を殺しに来た」滋賀で無職の少年逮捕

GettyImages
Photo by Erik Snyder / Photodisc
約15分後署員に取り押さえられた。

滋賀県近江八幡市土田町の滋賀県警近江八幡署内で16日、市内の無職の少年(17)が警察官に包丁を突き付ける騒ぎがあり、同署は暴力行為等処罰法違反容疑で少年を現行犯逮捕した。
出典
警官に包丁、少年逮捕=署内「殺しに来た」-滋賀県警:時事ドットコム
署内で当直勤務中の男性巡査部長(39)に持っていた包丁(刃渡り16センチ)を突き付け、「警察官を殺しに来た」などと脅した疑い。
出典
警官に包丁、少年逮捕=署内「殺しに来た」-滋賀県警:時事ドットコム
約15分後、説得に応じて自ら包丁を壁に向かって投げ捨て、署員に取り押さえられた。
出典
17歳少年「警察官を殺しに来た」 当直勤務の警官に包丁突きつける - 芸能社会 - SANSPO.COM(サンスポ)
少年は「包丁は自宅から持ってきた」と話しているという。
出典
17歳少年「警察官を殺しに来た」 当直勤務の警官に包丁突きつける - 芸能社会 - SANSPO.COM(サンスポ)


******・サミット前の対テロ対策進む

アフロ
A general view shows the arrival hall of Narita International airport terminal 2 in Narita, near Tokyo, Japan, March 25, 2016. REUTERS/Yuya Shino (Japan) by 写真:ロイター/アフロ
成田空港で14日。
5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)を前に、成田空港で14日、爆発物を使ったテロに対する訓練が行われ、県警や消防など13の関係機関から計約170人が参加した。
出典
サミット前に対テロ訓練…成田空港で170人 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
訓練は到着機から降ろされたスーツケースが爆発し、作業員がけがをしたという想定で行われ、成田空港会社や千葉県警、消防などが参加
出典
「伊勢志摩サミット前に、成田空港でテロ対策訓練」 News i - TBSの動画ニュースサイト
到着客の避難誘導、負傷者の救助の後、県警の爆発物処理班が不審物を特殊車両で搬送した。
出典
サミット前に対テロ訓練…成田空港で170人 : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
成田空港会社保安警備部の田中幸司マネージャーは「パリの同時テロやベルギーの空港の事件など、厳しい国際情勢になっています。サミットに向けて関係機関と協力して警備レベルの向上に努めたい」
出典
サミット前に 成田空港で爆発物テロの避難訓練 | NHKニュース

▼海外ニュース
*****・17日午前8時59分(日本時間)ごろエクアドルで大地震

出典
pbs.twimg.com
影響からかメキシコのコリマ山で噴火が確認された。
南米エクアドルの太平洋沿岸で16日午後6時59分(日本時間17日午前8時59分)ごろ、強い地震が発生し、41人の死亡が確認された。
出典
M7・7の地震、死者41人=沿岸部で被害、緊急事態宣言-エクアドル:時事ドットコム
震源地は首都キトから西に約170キロで震源の深さは約19.2キロ。直前にもM4.8の地震が確認された。エクアドル政府は、1979年以来、最大の地震だと発表した。
出典
M7・7の地震、死者41人=沿岸部で被害、緊急事態宣言-エクアドル:時事ドットコム
太平洋津波警報センター(PTWC)によると、太平洋諸国に出ていた津波警報は撤回されたものの、国内の沿岸部には依然として津波の危険がある。
出典
CNN.co.jp : 南米エクアドル沿岸部でM7.8の地震、28人死亡
日本大使館によりますと、エクアドルでは、去年11月現在で383人が日本大使館に在留届を出していて、これまでのところ、日本人がけがをしたという情報はないということですが、一部の地域で携帯電話がつながらない状況もあり、引き続き安否の確認を進めているということです。
出典
エクアドル地震で28人死亡 日本に津波影響なし | NHKニュース



******・パナマ文書発端の法律事務所前でデモ

アフロ
Members of the National Union of Workers of Construction and Similar Industries (SUNTRACS) hold up their flags outside Mossack Fonseca law firm office during a protest in Panama City April 13, 2016. … by 写真:ロイター/アフロ
徹底した捜査を行って真相を明らかにするよう求めた。
AP通信などが伝えたところによると、中米パナマの検察当局は13日、「パナマ文書」の流出元である法律事務所「モサック・フォンセカ」のパナマ本社に対する捜索を終えた。
出典
「パナマ文書」流出元の捜索終了…証拠類改変か : 国際 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
捜索は、同事務所が違法行為に関与していなかったかどうか調べるため、12日から約27時間にわたって実施した。
出典
「パナマ文書」流出元の捜索終了…証拠類改変か : 国際 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
大量の電子文書を押収したと発表した。ただ、逮捕者はいないという。
出典
法律事務所から大量の電子文書押収、「パナマ文書」で家宅捜索| ロイター
パナマ政府は税逃れに対する国際的な調査への協力を表明した。お気に入り詳細を見る


たちが続々と…「パナマ文書」で世界中がパニックに - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2146026446361415101
しばらく騒動は続きそうです。



*****・北朝鮮のミサイル発射失敗報道

アフロ
Kaesong Industrial Complex, which currently has been shut down, is seen in the background in this picture taken from a South Korean observatory near the truce village of Panmunjom, South Korea, March… by 写真:ロイター/アフロ
韓国軍やアメリカ政府当局者は失敗したとみられると明らかに
韓国軍やアメリカ政府当局者は、北朝鮮が15日明け方、東部から日本海に向けてミサイルの発射を試みたものの、失敗したとみられると明らかにしました。
出典
韓国軍と米当局者「北朝鮮がミサイル発射も失敗か」 | NHKニュース
アメリカ政府の当局者も、NHKの取材に対して、北朝鮮がミサイルを発射し、その直後に爆発したもようだと明らかにしました。
出典
韓国軍と米当局者「北朝鮮がミサイル発射も失敗か」 | NHKニュース
北朝鮮はこのところ、移動式の中距離弾道ミサイル「ムスダン」を日本海側に展開して、発射の動きをみせていました。
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「北朝鮮、ミサイル発射に失敗か」 News i - TBSの動画ニュースサイト
金正恩キムジョンウン第1書記の祖父、金日成キムイルソン主席の誕生日で、国威発揚を狙って、ミサイル発射実験を行った模様
出典
北朝鮮、「ムスダン」発射失敗か…韓国軍 : 国際 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
▼震災の裏で…こんな時に…。


▼スポーツニュース
*****・サッカーリオ五輪日本代表、予選の組み合わせ決まる

アフロ
手倉森誠 監督/Makoto Teguramori (JPN), JANUARY 31, 2016 - Football / Soccer : U23 Japan national team attend a press conference after arriving in Tokyo, Japan. Japan won AFC U23 Championship Qatar 2… by 写真:長田洋平/アフロスポーツ
日本はB組に入り、ナイジェリア、スウェーデン、コロンビアと同組になった。
1968年メキシコ五輪以来48年ぶりのメダルを目指す手倉森ジャパンは、正真正銘“死の組”に入った。
出典
【U23】日本、“死の組”同組!ナイジェリア、スウェーデン、コロンビア : スポーツ報知
初戦のナイジェリアは予選を兼ねたU―23アフリカ選手権を1試合も落とさず優勝。主力のFWイウォビ(アーセナル)を始め、アフリカ特有の驚異的な身体能力を誇る。
出典
【U23】日本、“死の組”同組!ナイジェリア、スウェーデン、コロンビア : スポーツ報知
第2戦のコロンビアは、南米予選でアルゼンチンに次ぐ2位。2014年ブラジルW杯の日本戦に出場したキンテロ(レンヌ)が主力を務め、同じブラジルの地で8強の再現を狙う。
出典
【U23】日本、“死の組”同組!ナイジェリア、スウェーデン、コロンビア : スポーツ報知

アフロ
Zlatan Ibrahimovic (PSG), APRIL 12, 2016 - Football / Soccer : PSG's Zlatan Ibrahimovic looks dejected during the UEFA Champions League Quarter-final 2nd leg match between Manchester City 1-0 Paris … by 写真:ロイター/アフロ
スウェーデンはすでにオーバーエイジ枠でイブラヒモビッチを候補に。実現すればかなり脅威。
スウェーデンは昨年のU―21欧州選手権で優勝。手倉森監督は「ポルトガルが一番強いと思う」と話していたが、そのポルトガルを決勝でPK戦の末に撃破した強豪だ。
出典
リオ五輪は“死の組”も手倉森監督「突破できれば頂点登れる」 — スポニチ Sponichi Annex サッカー
A代表の大エースでもあるFWイブラヒモビッチ(パリSG)がオーバーエージ枠での出場にも意欲を示しており、実現すれば大幅な戦力アップになる。
出典
日本、強豪ぞろいの“死のB組” ナイジェリア、スウェーデン、コロンビアと同居:サッカー:中日スポーツ(CHUNICHI Web)
しかも?
気の抜けない強豪との中2日での3連戦。さらに1次リーグを突破しても2位通過なら準々決勝ではA組の1位通過が予想される開催国・ブラジルと対戦する可能性が高い。
出典
リオ五輪は“死の組”も手倉森監督「突破できれば頂点登れる」 — スポニチ Sponichi Annex サッカー
高温多湿に長距離移動も待っている。手倉森監督は?
「死の組もなければ、楽なグループもないという印象。日本にとっては良い組。ここを突破できれば“てっぺん”まで登っていけそうな可能性を感じる」と強気にコメントした。
出典
リオ五輪は“死の組”も手倉森監督「突破できれば頂点登れる」 — スポニチ Sponichi Annex サッカー
その他の予選組み合わせは?

りょう@プロレスファン@fmb1ryo
フォローする
1番嫌なグループに入っちゃったね グループ敗退もおかしくないグループだな 1番死の組じゃないかな? pic.twitter.com/gxsHOIeKIO

返信 リツイート いいね 2016.04.14 23:07
これをみると日本がいかに死の組かが分かる。

HONDA@gokuusoccer
フォローする
日本はスウェーデン、ナイジェリア、コロンビアと同組に。国数が少ないのもあるけど、アルジェリア、フィジー、ホンジュラスを引けず、明らかな格下がいない死の組に入った。。
返信 リツイート いいね 2016.04.14 22:52

下薗昌記@Brazileaks
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「緑の地獄」と言われるアマゾン。そのまっただ中にある大都市がマナウス。個人的には好きな町だけど、ここで2試合をするのは辛い。しかもコロンビアとナイジェリアという暑さの中でも戦えるチーム。死の組でなく、まさに「地獄の組」かと。
返信 リツイート いいね 2016.04.15 01:15

****・イチロー今季初先発


*****・卓球15歳の伊藤美誠が世界女王を破る快挙

アフロ
伊藤美誠/Mima Ito (JPN), MARCH 4, 2016 - Table Tennis : Table Tennis - 2016 World Table Tennis Championships - Semi-Finals - Kuala Lumpur, Malaysia - 4/3/16 - Mima Ito of Japan competes. REUTERS/Olivia H… by 写真:ロイター/アフロ
リオデジャネイロオリンピックの出場権をかけた卓球のアジア大陸予選で世界ランキング2位の丁寧(中国)を破った。
伊藤美誠が世界ランキング2位で昨年の世界選手権優勝・丁寧(中国)を4—2で破った。
出典
15歳伊藤美誠、世界女王撃破!準決勝では石川佳純と激突 - BIGLOBEニュース
第1ゲームを6対11で取られましたが、第2ゲームから3ゲームを連続で奪い、第5ゲームを取られたあとの第6ゲームを11対9で競り勝ち、ゲームカウント4対2で勝ちました。
出典
卓球 15歳の伊藤美誠が世界女王を破る | NHKニュース
今月、高校生になったばかりの伊藤選手は、団体戦のメンバーとしてオリンピック初出場を確実にしていますが、シングルス代表の福原選手、石川選手がケガなどで本大会に出られないときに備え、今大会に出場
出典
卓球 15歳の伊藤美誠が世界女王を破る | NHKニュース
その後?
右手親指付け根の負傷のため、石川との準決勝を途中棄権した
出典
石川佳純が決勝進出、伊藤美誠は負傷で棄権 卓球 - 卓球 : 日刊スポーツ
決勝で石川佳純(全農)はロンドン五輪金メダルの李暁霞(中国)に0―4で敗れ、この試合での五輪出場権獲得はならなかった。
出典
卓球、石川は決勝敗退



******・羽生結弦が治療に専念


▼芸能ニュース
******・芸能界に覚せい剤汚染広がる

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NHKおかあさんといっしょ コレクションBOX
現行犯逮捕された俳優の杉田あきひろ。立て続けに2人の芸能人が逮捕されたのは異例。
覚醒剤を使った罪で、去年、有罪判決を受け執行猶予中だった音楽グループ「C‐C‐B」の元メンバーの55歳の男が、再び覚醒剤を使ったとして逮捕
出典
「C‐C‐B」元メンバー逮捕 覚醒剤使った疑い | NHKニュース
田口容疑者は昨年7月にも同容疑(所持)の現行犯で逮捕された。その後、所持と使用の罪を問われた同9月の判決で、懲役1年6月、執行猶予3年を言い渡されていた。
出典
元C―C―B田口智治容疑者、また覚醒剤で逮捕 : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
NHKのテレビ番組「おかあさんといっしょ」で1999年から2003年にかけて「歌のお兄さん」を務めた俳優の杉田あきひろ(本名:杉田光央)容疑者が、覚醒剤取締法違反(所持)容疑で現行犯逮捕
出典
「歌のお兄さん」覚醒剤所持の疑いで逮捕 9代目を務めた"あきひろお兄さん"
2人もの逮捕者が出てしまった今、まだまだ芸能界の薬物汚染が深刻なのが露呈されてしまった。警察にはぜひ、芸能界の薬物ルートを根絶やしにしていただきたい。
出典
「C-C-B」に「歌のおにいさん」連続覚せい剤逮捕! 根深い芸能界薬物汚染の「深層」とカラクリ | ギャンブルジャーナル | ビジネスジャーナル


・AKBグループ、最近の動き

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渡辺美優紀ファースト写真集 『みる神』


******NMB渡辺美優紀が卒業。山本彩がNMB専任へ。
NMB48の渡辺美優紀(22)が13日、大阪・NMB48劇場で行われたチームB2公演で卒業を発表した。
出典
みるきー芸能界引退へ NMB卒業を発表「違う世界を見てみたい」 — スポニチ Sponichi Annex 芸能
渡辺は、NMB48が劇場デビューした11年1月1日から5年4カ月。長らく山本とダブルセンターとして活躍してきた看板娘だった。
出典
渡辺美優紀NMB卒業「本当に大決心」山本彩も号泣 - AKB48 : 日刊スポーツ
卒業公演の日程は未定。
山本は、公演では自らのAKB48兼任解除を申し入れ、了承されたことを発表。
出典
AKB兼任解除の山本彩、チームK「ごめんなさい」 - AKB48 : 日刊スポーツ
AKB48との兼任解除申し入れについては「(兼任している)チームKの皆さん、相談もせずに発表してごめんなさい」と、突然の発表を謝罪した。
出典
AKB兼任解除の山本彩、チームK「ごめんなさい」 - AKB48 : 日刊スポーツ

渡辺美優紀@miyukiofficial9
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本当に本当にありがとうございます。 NMB48を卒業し、1人の渡辺美優紀として人生を歩みます! 私の第2章がどんなものになるのか自分でも想像つかないです☺ わからないから楽しみです。 みんなとの出会いや思い出を宝物にしてずーっと頑張ります。
返信 リツイート いいね 2016.04.13 23:27

渡辺美優紀@miyukiofficial9
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熊本のみなさん、九州のみなさんがとても心配です。 余震も続いていています。 みんなで助け合いましょう。 今後も地震はいつどこで起こるのかわからないのでできるだけ備えないといけないですね、、
返信 リツイート いいね 2016.04.15 08:59

山本彩@SayakaNeon
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みるきーが隣に居たから 隣に居たのがみるきーやったから 自分らしくいられた。 子供みたいな言い方やけど 並んだ時は無敵やって、心のどこかで自信さえ持たせてくれた。 この関係性を何て呼んだら良いのかな。 名前も付けられへん位 本当に本当に特別な存在。 #さやみるきー
返信 リツイート いいね 2016.04.14 01:23
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新島八重の桜 大河ドラマ『八重の桜』ふたたび維新回天草莽掘起篇ブログ小説6

2016年04月17日 06時08分59秒 | 日記











         3 江戸無血開城





話を少し戻す。
 大坂からイギリスの蒸気船で江戸へと戻ったのち、福地源一郎(桜痴)は『懐従事談』という著書につぎのようなことを書いている。
「国家、国体という観念は、頭脳では理解していたが、土壇場に追いつめられてみると、そのような観念は忘れはてていた。
 常にいくらか洋書も読み、ふだんは万国公法がどうである、外国交際がこうである、国家はこれこれ、独立はこういうものだなどと読みかじり、聴きかじりで、随分生意気なこともいった。
 そして人を驚かし、自分の見識を誇ったものだが、いま幕府の存廃が問われる有様のなかに自分をおいてみると、それまでの学問、学識はどこかへ吹き飛んだ。
 将来がどうなり、後の憂いがどうなろうとも、かえりみる余裕もなく、ただ徳川幕府が消滅するのが残念であるという一点に、心が集中した」
 外国事情にくわしい福地のようなおとこでも、幕府の危機はそのようなとらえかただった。「そのため、あるいはフランスに税関を抵当として外債をおこし、それを軍資金にあて、援兵を迎えようという意見があれば、ただちに同意する。
 アメリカからやってくる軍艦を、海上でだまし取ろうといえば、意義なく応じる。横浜の居留地を外国人に永代売渡しにして軍用金を調達しようという意見に、名案であるとためらいなく賛成する。(中訳)
 謝罪降伏論に心服せず、前将軍家(慶喜)をお怨み申しあげ、さてもさても侮悟、謝罪、共順、謹慎とはなにごとだ。
 あまりにも気概のないおふるまいではないか。徳川家の社稷に対し、実に不孝の汚名を残すお方であると批判し、そんな考えかたをおすすめした勝(安房・麟太郎)、大久保越中守のような人々を、国賊のように罵り、あんな奸物は天誅を加えろと叫び、朝廷への謝罪状をしるす筆をとった人々まで、節義を忘れた小人のように憎んだ」
 当時の江戸の様子を福沢諭吉は『福翁自伝』で記している。
「さて慶喜さんが、京都から江戸に帰ってきたというそのときに、サァ大変、朝夜ともに物論沸騰して、武家はもちろん、長袖の学者も、医者も、坊主も、皆政治論に忙しく、酔えるかせこせとく、狂するがごとく、人が人の顔をみれば、ただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。
 ふだんなれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名のいるところで、なかなかやかましいのが、まるで無住のお寺を見たようになって、ゴロゴロあぐらをかいて、どなる者もあれば、ソッと袖下からビンを出して、ブランデーを飲んでる者もあるというような乱脈になりはてたけれども、私は時勢を見る必要がある。
 城中の外国方の翻訳などの用はないけれども、見物半分に城中に出ておりましたが、その政論良好の一例を見てみると、ある日加藤弘之といま一人誰だったか、名は覚えてませんが、二人が裃を着て出てきて、外国方の役所に休息しているから、私がそこにいって、『やあ、加藤くん、裃など着て何事できたのか?』というと、『何事だって、お逢いを願う』という。
 というのはこのとき慶喜さんが帰ってきて、城中にいるでしょう。
 論客、忠臣、義士が躍起になって『賊を皆殺しにしろ』などとぶっそうなことをいいあっている」

 麟太郎が突然、慶喜から海軍奉行並を命じられたのは慶応四年(一八六八)正月十七日夜、のことである。即座に、麟太郎は松平家を通じて、官軍に嘆願書を自ら持参すると申しでた。
 閣老はそれを許可したが、幕府の要人たちは反対した。
「勝安房守先生にもしものことがあればとりかえしがつかない。ここは余人にいかせるべきだ」
 結局、麟太郎の嘆願書は大奥の女中が届けることになった。
 正月十八日、麟太郎は、東海道、中仙道、北陸道の諸城主に、”長州は蛤御門の変(一八六四 元治元年)を起こしたではないか”という意味の書を送った。
 一月二十三日の夜中に、麟太郎は陸軍総裁、若年寄を仰せつけられた。
「海軍軍艦奉行だった俺が、陸軍総裁とは笑わせるねえ。大変動のときにあたり、三家三卿以下、井伊、榊原、酒井らが何の面目ももたずわが身ばかり守ろうとしている。
 誰が正しいかは百年後にでも明らかになるかもしれねぇな」
 麟太郎は慶喜にいう。
「上様のご決心に従い、死を決してはたらきましょう。
 およそ関東の士気、ただ一時の怒りに身を任せ、従容として条理の大道を歩む人はすくなくないのです。
 必勝の策を立てるほどの者なく、戦いを主張する者は、一見いさぎよくみえますが勝算はありません。薩長の士は、伏見の戦いにあたっても、こちらの先手を取るのが巧妙でした。幕府軍が一万五、六千人いたのに、五分の一ほどの薩長軍と戦い、一敗地にまみれたのは戦略をたてる指揮官がいなかったためです。
 いま薩長勢は勝利に乗じ、猛勢あたるべからざるものがあります。
 彼らは天子(天皇)をいただき、群衆に号令して、尋常の策では対抗できません。われらはいま柔軟な姿勢にたって、彼等に対して誠意をもってして、江戸城を明け渡し、領土を献ずるべきです。
 ゆえに申しあげます。上様は共順の姿勢をもって薩長勢にあたってくだされ」
 麟太郎は一月二十六日、フランス公使(ロッシュ)が役職についたと知ると謁見した。その朝、フランス陸軍教師シャノワンが官軍を遊撃する戦法を図を広げて説明した。和睦せずに戦略を駆使して官軍を壊滅させれば幕府は安泰という。
 麟太郎は思った。
「まだ官軍に勝てると思っているのか……救いようもない連中だな」
  麟太郎の危惧していたことがおこった。
 大名行列の中、外国人が馬でよこぎり刀傷事件がおこったのだ。生麦事件の再来である。大名はひどく激昴し、外人を殺そうとした。しかし、逃げた。
 英国公使パークスも狙われたが、こちらは無事だった。襲ってきた日本人が下僕であると知ると、パークスは銃を発砲した。が、空撃ちになり下僕は逃げていったという。
 二月十五日まで、会津藩主松平容保は江戸にいたが、そのあいだにオランダ人スネルから小銃八百挺を購入し、海路新潟に回送し、品川台場の大砲を借用して箱館に送り、箱館湾に設置した大砲を新潟に移すなど、官軍との決戦にそなえて準備をしていたという。
(大山伯著『戊辰役戦士』)

  薩長の官軍が東海、東山、北陸の三道からそれぞれ錦御旗をかかげ物凄い勢いで迫ってくると、徳川慶喜の抗戦の決意は揺らいだ。越前松平慶永を通じて、「われ共順にあり」という嘆願書を官軍に渡すハメになった。
 麟太郎は日記に記す。
「このとき、幕府の兵数はおよそ八千人もあって、それが機会さえあればどこかへ脱走して事を挙げようとするので、おれもその説論にはなかなか骨がおれたよ。
 おれがいうことがわからないなら勝手に逃げろと命令した。
そのあいだに彼の兵を越えた三百人ほどがどんどん九段坂をおりて逃げるものだから、こちらの奴もじっとしておられないと見えて、五十人ばかり闇に乗じて後ろの方からおれに向かって発砲した。
 すると、かの脱走兵のなかに踏みとどまって、おれの提灯をめがけて一緒に射撃するものだから、おれの前にいた兵士はたちまち胸をつかれて、たおれた。
 提灯は消える。辺りは真っ暗になる。おかげでおれは死なずにすんだ。
 雨はふってくるし、わずかな兵士だけつれて撤退したね」


  旧幕府軍と新選組は上方甲州で薩長軍に敗北。
 ぼろぼろで血だらけになった「誠」の旗を掲げつつ、新選組は敗走を続けた。
 慶応四年一月三日、旧幕府軍と、天皇を掲げて「官軍」となった薩長軍がふたたび激突した。鳥羽伏見の戦いである。新選組の井上源三郎は銃弾により死亡。副長の土方歳三が銃弾が飛び交う中でみずから包帯を巻いてやり、源三郎はその腕の中で死んだ。
「くそったれめ!」歳三は舌打ちをした。
 二週間前に銃弾をうけて、近藤は療養中だった。よってリーダーは副長の土方歳三だった。永倉新八は決死隊を率いて攻め込む。官軍の攻撃で伏見城は炎上…旧幕府軍は遁走しだした。
 土方は思う。「もはや刀槍では銃や大砲には勝てない」
 そんな中、近藤は知らせをきいて大阪まで足を運んだ。「拙者の傷まだ癒えざるも幕府の不利をみてはこうしてはいられん」
 それは決死の覚悟であった。
 逃げてきた徳川慶喜に勝海舟は「新政府に共順をしてください」と説得する。勝は続ける。「このまま薩長と戦えば国が乱れまする。ここはひとつ慶喜殿、隠居して下され」
 それに対して徳川慶喜はオドオドと恐怖にびくつきながら何ひとつ言葉を発せなかった。 ……死ぬのが怖かったのであろう。
 勝は西郷を「大私」と呼んで、顔をしかめた。

 西郷隆盛は「徳川慶喜の嘘はいまにはじまったことではない。慶喜の首を取らぬばならん!」と打倒徳川に燃えていた。このふとった大きな眼の男は血気さかんな質である。
 鹿児島のおいどんは、また戦略家でもあった。
 ……慶喜の首を取らぬば災いがのこる。頼朝の例がある。平家のようになるかも知れぬ。幕府勢力をすべて根絶やしにしなければ、維新は成らぬ……
  江戸に新政府軍が迫った。江戸のひとたちは大パニックに陥った。共順派の勝海舟も狙われる。一八六八年(明治元年)二月、勝海舟は銃撃される。しかし、護衛の男に弾が当たって助かった。勝は危機感をもった。
 もうすぐ戦だっていうのに、うちわで争っている。幕府は腐りきった糞以下だ!
 勝海舟は西郷隆盛に文を送る。
 ……”わが徳川が共順するのは国家のためである。いま兄弟があらそっているときではない。あなたの判断が正しければ国は救われる。しかしあなたの判断がまちがえば国は崩壊する”………
  官軍は江戸へ迫っていた。
  慶喜は二月十二日朝六つ前(午前五時頃)に江戸城をでて、駕籠にのり東叡山塔中大慈院へ移ったという。共は丹波守、美作守……
 寺社奉行内藤志摩守は、与力、同心を率いて警護にあたった。
                    
 慶喜は水戸の寛永寺に着くと、輪王寺宮に謁し、京都でのことを謝罪し、隠居した。
 山岡鉄太郎(鉄舟)、関口ら精鋭部隊や、見廻組らが、慶喜の身辺護衛をおこなった。  江戸城からは、静寛院宮(和宮)が生母勧行院の里方、橋本実麗、実梁父子にあてた嘆願書が再三送られていた。もし上京のように御沙汰に候とも、当家(徳川家)一度は断絶致し候とも、私上京のうえ嘆願致し聞こえし召され候御事、寄手の将御請け合い下され候わば、天璋院(家定夫人)始めへもその由聞け、御沙汰に従い上京も致し候わん。
 再興できぬときは、死を潔くし候心得に候」
 まもなく、麟太郎が予想もしていなかった協力者が現れる。山岡鉄太郎(鉄舟)、である。幕府旗本で、武芸に秀でたひとだった。
 文久三年(一八六三)には清河八郎とともにのちの新選組をつくって京都にのぼったことがある人物だ。山岡鉄太郎が麟太郎の赤坂元氷川の屋敷を訪ねてきたとき、当然ながら麟太郎は警戒した。
 麟太郎は「裏切り者」として幕府の激徒に殺害される危険にさらされていた。二月十九日、眠れないまま書いた日記にはこう記する。
「俺が慶喜公の御素志を達するため、昼夜説論し、説き聞かせるのだが、衆人は俺の意中を察することなく、疑心暗鬼を生じ、あいつは薩長二藩のためになるようなことをいってるのだと疑いを深くするばかりだ。
 外に出ると待ち伏せして殺そうとしたり、たずねてくれば激論のあげく殺してしまおうとこちらの隙をうかがう。なんの手のほどこしようもなく、叱りつけ、帰すのだが、この難儀な状態を、誰かに訴えることもできない。ただ一片の誠心は、死すとも泉下に恥じることはないと、自分を励ますのみである」
 鉄太郎は将軍慶喜と謁見し、頭を棍棒で殴られたような衝撃をうけた。
  隠居所にいくと、側には高橋伊勢守(泥舟)がひかえている。顔をあげると将軍の顔はやつれ、見るに忍びない様子だった。
 慶喜は、自分が新政府軍に共順する、ということを書状にしたので是非、官軍に届けてくれるように鉄太郎にいった。
 慶喜は涙声だったという。
 麟太郎は、官軍が江戸に入れば最後の談判をして、駄目なら江戸を焼き払い、官軍と刺し違える覚悟であった。
 そこに現れたのが山岡鉄太郎(鉄舟)と、彼を駿府への使者に推薦したのは、高橋伊勢守(泥舟)であったという。
 麟太郎は鉄太郎に尋ねた。
「いまもはや官軍は六郷あたりまできている。撤兵するなかを、いかなる手段をもって駿府にいかれるか?」
 鉄太郎は「官軍に書状を届けるにあたり、私は殺されるかも知れません。しかし、かまいません。これはこの日本国のための仕事です」と覚悟を決めた。
 鉄舟は駿府へ着くと、宿営していた大総督府参謀西郷吉之助(隆盛)が会ってくれた。鉄太郎は死ぬ覚悟を決めていたので銃剣にかこまれても平然としていた。
 西郷吉之助は五つの条件を出してきた。
 一、慶喜を備前藩にお預かり
 一、江戸城明け渡し
 一、武器・軍艦の没収
 一、関係者の厳重処罰
 西郷吉之助は「これはおいどんが考えたことではなく、新政府の考えでごわす」
 と念をおした。鉄舟は「わかりました。伝えましょう」と頭を下げた。
「おいどんは幕府の共順姿勢を評価してごわす。幕府は倒しても徳川家のひとは殺さんでごわす」
 鉄舟はその朗報を伝えようと馬に跨がり、帰ろうとした。品川宿にいて官軍の先発隊がいて「その馬をとめよ!」と兵士が叫んだ。
 鉄舟は聞こえぬふりをして駆け過ぎようとすると、急に兵士三人が走ってきて、ひとりが鉄舟の乗る馬に向け発砲した。鉄舟は「やられた」と思った。が、何ともない。雷管が発したのに弾丸がでなかったのである。
 まことに幸運という他ない。やがて、鉄太郎は江戸に戻り、報告した。麟太郎は「これはそちの手柄だ。まったく世の中っていうのはどうなるかわからねぇな」といった。
 官軍が箱根に入ると幕臣たちの批判は麟太郎に集まった。
 しかし、誰もまともな戦略などもってはしない。只、パニックになるばかりだ。
 麟太郎は日記に記す。
「官軍は三月十五日に江戸城へ攻め込むそうだ。錦切れ(官軍)どもが押しよせはじめ、戦をしかけてきたときは、俺のいうとおりにはたらいてほしいな」
 麟太郎はナポレオンのロシア遠征で、ロシア軍が使った戦略を実行しようとした。町に火をかけて焦土と化し、食料も何も現地で調達できないようにしながら同じように火をかけつつ遁走するのである。


  官軍による江戸攻撃予定日三月十四日の前日、薩摩藩江戸藩邸で官軍代表西郷隆盛と幕府代表の勝海舟(麟太郎)が会談した。その日は天気がよかった。陽射しが差し込み、まぶしいほどだ。
 西郷隆盛は開口一発、条件を出してきた。
      
 一、慶喜を備前藩にお預かり
 一、江戸城明け渡し
 一、武器・軍艦の没収
 一、関係者の厳重処罰
  いずれも厳しい要求だった。勝は会談前に「もしものときは江戸に火を放ち、将軍慶喜を逃がす」という考えをもって一対一の会談にのぞんでいた。
 勝はいう。
「慶喜公が共順とは知っておられると思う。江戸攻撃はやめて下され」
 西郷隆盛は「では、江戸城を明け渡すでごわすか?」とゆっくりきいた。
 勝は沈黙する。
 しばらくしてから「城は渡しそうろう。武器・軍艦も」と動揺しながらいった。
「そうでごわすか」
 西郷の顔に勝利の表情が浮かんだ。
 勝は続けた。
「ただし、幕府の強行派をおさえるため、武器軍艦の引き渡しはしばらく待って下さい」 今度は西郷が沈黙した。
 西郷隆盛はパークス英国大使と前日に話をしていた。パークスは国際法では”共順する相手を攻撃するのは違法”ときいていた。
 つまり、今、幕府およんで徳川慶喜を攻撃するのは違法で、官軍ではなくなるのだ。
 西郷は長く沈黙してから、歌舞伎役者が唸るように声をはっしてから、
「わかり申した」と頷いた。
  官軍陣に戻った西郷隆盛は家臣にいう。
「明日の江戸攻撃は中止する!」
 彼は私から公になったのだ。もうひとりの”偉人”、勝海舟は江戸市民に「中止だ!」と喜んで声をはりあげた。すると江戸っ子らが、わあっ!、と歓声をあげたという。
(麟太郎は会見からの帰途、三度も狙撃されたが、怪我はなかった)
 こうして、一八六八年四月十三日、江戸無血開城が実現する。
 西郷吉之助(隆盛)は、三月十六日駿府にもどり、大総督宮の攻撃中止を報告し、ただちに京都へ早く駕籠でむかった。麟太郎の条件を受け入れるか朝廷と確認するためである。 この日より、明治の世がスタートした。近代日本の幕開けである。          

そして話しは再び「会津の役」である。
会津藩は朝敵となってしまった。
会津藩は京都守護職について京都から討幕派を排除し、庄内藩は江戸市中取締役に就いて江戸から討幕派を排除していた。
このため、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍(明治政府)は会津藩・庄内藩を「朝敵」として討伐に乗り出した。
会津藩主の松平容保は、新撰組などを使って京都から尊王攘夷派(長州藩士)を排除したうえ、第1次長州討伐で陸軍総裁を勤めたことから、新政府側の長州藩から強く恨まれていたのである。
一方、江戸市中取締役についていた庄内藩は、江戸の薩摩藩邸を襲撃しており、新政府側の薩摩藩と強い遺恨があった。
このようななか、江戸から会津藩に戻った藩主・松平容保は、養子の松平喜徳(まつだいら・のぶのり)へ家督を譲って謹慎して、恭順を示した。
ただ、会津藩の姿勢は「武装恭順」であった。
長州藩は第1次長州討伐の結果、主戦派が粛正され、非戦派となった。
が、その後、高杉晋作らのクーデターにより、主戦派が台頭し、長州藩は武装恭順へと転身した。
しかし、江戸幕府は長州藩の武装恭順を認めず、再び長州藩を討伐するため、兵を挙げた(第2次長州討伐)。
そもそも江戸幕府側が長州藩の武装恭順を認めなかったのだから、会津藩の武装恭順など認められはずがないことは明だった。
 1868年2月10日(慶応4年1月17日)、新政府軍は「会津攻めの希望を聞き入れる」として、仙台藩に会津藩の討伐を命じる。
しかし、仙台藩は会津攻めなど主張しておらず、抗議する。
1868年2月10日(明治4年1月17)、新政府は米沢藩に仙台藩の補佐を命じる。
米沢藩は会津藩に恩義があるため、勅命といえど簡単に従うことは出来ない。
初代会津藩主・保科正之のとき、米沢藩の第3代藩主・上杉綱勝は実子も養子も無いまま急死した。
跡取りを決めずに米沢藩主・上杉綱勝が死んだため、米沢藩・上杉家は御家断絶になるはずであったが、初代会津藩主・保科正之の取り計らいにより、家名存続が許されていた。(「忠臣蔵」で有名な吉良上野介の息子の吉良三郎(上杉綱憲・上杉綱勝の遠縁の子供))
このため、米沢藩は会津藩に強い恩義があり、会津藩を裏切って会津を攻めることは出来ない。
なお、米沢藩・上杉家は御家断絶を免れ、上杉綱憲が家督を継いだが、米沢藩は30万石から15万石へと減封となり、財政難に陥っている。
減封された15万石の領地は幕府直轄となり、その後、福島藩なっている。あまり八重とは関係ないが米沢藩といえば「中興の祖・上杉鷹山公」が有名である。
一方、新政府は東北諸藩に檄を飛ばして、会津藩・庄内藩への討伐を命じる。
が、東北諸藩は東北同士で無駄な戦争をしたくないという思惑があり、態度を決めかねていた。
 1868年3月(慶応4年2月)、新政府は東北を平定するため、奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)を組織した。奥羽鎮撫総督府は討伐軍ではなく、東北を鎮撫(ちんぶ)する組織だった。
奥羽(おうう)とは、東北地方の古い呼び方で、鎮撫(ちんぶ)とは、暴動を鎮めて民を安心させることである。
新政府は「東北の平定は東北の兵を持って行う」との方針を取っており、奥羽鎮撫総督府に与えられた兵はわずかであった。
これは、東征大総督(征討大将軍)の有栖川宮熾仁親王が率いる新政府軍が江戸城攻略にあたるため、奥羽鎮撫総督府に兵力を割けなかったため、とされている。
 奥羽鎮撫総督府の発足早々、参謀に就任していた薩摩藩の黒田清隆や長州藩の品川弥二郎ら首脳陣数名が辞任していまう。
このため、公卿の九条道孝を総督とした首脳陣に一新する。
こうして、黒田清隆らの後任として、長州藩の世良修蔵(せら・しゅうぞう)と薩摩藩の大山格之助の2人が、下参謀に就任することなったのである。
首脳を一新した奥羽鎮撫総督府は、公卿の九条道孝(くじょう・みちたか)が総督を務めた。
副総督は公卿の沢為量(さわ・ためかず)で、参謀は公卿の醍醐忠敬である。
世良修蔵と大山格之助の2人は下参謀であった。
が、これは公卿と位を同列にしないための配慮であり、形式上の物だった。
要職についた公卿3人は戦いの経験なども無く、半分は飾り物であり、実質的には下参謀の世良修蔵と大山格之助の2人が奥羽鎮撫総督府の主導権を握っていた。
この結果、奥羽鎮撫総督府は討伐派が体勢を占めることとなり、鎮撫とは名ばかりで、実質的な討伐軍になるのであった。
しかし、奥羽鎮撫総督府の兵力はわずか570人で、奥羽鎮撫総督府が単独で会津藩・庄内藩を攻略することは不可能だった。
そこで、奥羽鎮撫総督府は東北の雄藩・仙台藩に強く出兵を迫ったのである。
会津藩に同情的な仙台藩は、奥羽鎮撫総督府に、会津藩の降伏を受け入れる条件を尋ねた。
これに対して世良修蔵が突き付けた条件は、松平容保の斬首に加え、松平喜徳の監禁と若松城の開城という厳しい内容だった。
会津藩がこのような条件を飲むはずがなかった。
1868年4月19日、会津藩に同情的な仙台藩であった。
が、仙台藩内にも
「新政府軍の命令に従うべき」との意見もあり、会津藩へ進軍することとなった。
仙台藩の進軍を知った会津藩は、仙台藩に降伏の使者を送る。
会津藩に同情する仙台藩は、表向きは藩境で戦争をするふりをして、裏で署名嘆願について協議することにした(会津救済運動)。
1861年5月(慶応4年4月29)、会津藩・仙台藩・米沢藩の家老が、宮城県の関宿に集まり、署名嘆願について協議する(関宿会議)。
会津藩・松平容保は第1次長州討伐で陸軍総裁を務めたとき、長州藩の家老3人を切腹させ、参謀4人を斬首している。
このため、仙台藩は奥羽鎮撫総督府に謝罪嘆願を取り次ぐ条件として、会津藩に「鳥羽・伏見の戦い」の首謀者の首を差し出すことを求めた。
会津藩の家老・梶原平馬は、
「帰って戦の準備をする」
と激怒するが、戦を避けたい仙台藩・米沢藩は、
「会津一国の命と、1人の命とどちらが大事か考えろ。首を差し出せば、後のことは責任を持つ」
と言って家老・梶原平馬を説得し、関宿会議は終了した。
一方、奥羽鎮撫総督府の総督・九条道孝は、会津藩に、
「謝罪嘆願すれば、寛大な処分を下す」と謝罪を勧告する。
仙台藩・米沢藩による会津嘆願運動に加え、奥羽鎮撫総督府の総督・九条道孝からの謝罪勧告があったため、「鳥羽伏見の戦い」での首謀者の首を差し出せば、会津藩の謝罪は認められる公算が大きかった。
そのころ、江戸では江戸城の無血開城が行われ、徳川慶喜に寛大な処分が下されており、会津藩も謝罪嘆願すれば、九条道孝の勧告通りに寛大な処分が下る見込みだった。
しかし、会津藩では、
「『鳥羽・伏見の戦い』の責任は徳川慶喜の処分で決着している」
という意見も強く、意見が分かれていた。
その結果、会津藩主の松平容保は関宿会議の結果を無視して、奥羽鎮撫総督府に、
「会津藩は徳川家の処分を見届けるまでは、謝罪はできない」
という宣戦布告を叩き付けたのである。
 1868年(慶応4年)6月10日、仙台藩士・姉歯武之進(あねは・たけのしん)らが、福島藩の城下町にある宿屋「金沢屋」に宿泊している奥羽鎮撫総督府の参謀・世良修蔵を襲撃して暗殺する。
同日、会津藩が奥州街道の要となる白河城(別名「小峰城」)へと兵を進める。
白河城は白河藩(福島県白河市)阿部家が治めていたが、このとき、白河城は城主不在のまま、二本松藩と仙台藩の兵が駐留していた。
白河藩の藩主・阿部正外(あべ・まさとう)は1866年に神戸開港問題で江戸幕府老中を罷免となり、阿部正静が家督を受け継いだ。
が、阿部正静は棚倉城(福島県東白川郡)への国替えを命じられたため、白河城は江戸幕府直轄となっていた。
このため、白河藩は城主がおらず、幕府の命令で二本松藩が白河城に駐留していた。
その後、新政府成立後は奥羽鎮撫総督府から会津藩討伐命令を受けた仙台藩と二本松藩の兵が白河城に駐留していた。
 会津藩が白河城を攻めると、白河城に駐留していた仙台藩と二本松藩は、示し合わせたかのように撤退する。
白河城には奥羽鎮撫総督府の兵も駐留していた。
が、ごく少数だったため、仙台藩らの兵が撤退すると、奥羽鎮撫総督府の兵は撤退を余儀なくされた。
こうして会津藩は白河城を無傷で手に入れると、新政府軍を迎え撃つために守りを固めた。
白河城は東北地方の入り口となる重要な場所で、白河城を押さえていれば会津のみならず、東北諸藩の本土が安全になるため、白河城の墨守は戦略上の最重要課題だった。
さらに、白河城を押さえていれば、恭順派の三春藩(福島県)の裏切りを監視できるため、白河城を守ることには大きな意味があった。
1868年6月12日、斉藤一が率いる新撰組130名が白河城に入城する。
6月19日には家老に復帰した西郷頼母(さいごう・たのも)や若年寄・横山主税らも入城する。
奥羽越列藩同盟が成立すると、二本松藩などの援軍も加わり、東北の防衛拠点となる白河城の兵力は2500人に膨れあがった。
会津軍を指揮する総大将は、会津藩の家老・西郷頼母である。非戦派で実戦経験の無い西郷頼母が、東北の運命を背負う一戦で総大将を務める理由は分らない。
 一方、宇都宮城(栃木県)を攻撃していた新政府軍の参謀・伊地知正治(いぢち・まさはる=薩摩藩)は、白河藩が会津藩の手に落ちたことを知ると、兵を北へと進め、会津藩が守る白河城へと迫った。
会津軍勢2500人に対して、新政府軍の伊地知正治の手勢は、わずか700人余りだったが、伊地知正治の軍は精鋭揃いだった。
1868年6月20日、新政府軍の伊地知正治が白河城に攻撃を開始する。
伊地知正治は軍を3つに分け、正面の本隊が敵の注意を引きつけると、左右に回った2部隊が側面から攻撃をかけた。
兵力の差では勝っていた会津藩であった。
が、洋式銃を有する新政府軍の前に惨敗し、白河城はあっさりと新政府軍の手に落ちてしまった。
白河城は奥州街道の要所であり、東北への入り口となる。
白河城を新政府軍に押さえられると、会津本国が危険にさらされる。
会津藩は奥羽越列藩同盟の援軍を得て体制を立て直すと、白河城を奪還するため新政府軍を攻め立てた。
一方、白河城の新政府軍にも新政府軍の参謀・板垣退助らが援軍に駆け付けており、士気は益々盛んになっており、会津軍を寄せ付けなかった。
このようななか、援軍に駆け付けていた新政府軍の参謀・板垣退助が、手薄となった棚倉藩(福島県)を攻撃するため、白河城から棚倉藩へと兵を進めた。
これを好機とみた会津藩は、棚倉藩へ援軍を向けず、白河城を奪い返す作戦に出た。
しかし、会津藩は7度も白河城を攻めたものの、洋式銃を有する新政府軍に歯が立たたなかった。
激戦に次ぐ激戦の末、1868年8月31日、会津軍は最後の攻撃に出るが、白河城を落とすことは出来ず、白河城を諦めた。
1868年9月14日には周辺での小競り合いも無くなり、100日間にわたる「白河口の戦い」が終結する。
同盟軍の死者は927人、新政府軍の死者は113人だったとされている。
会津藩は「白河口の戦い」で、横山主税など優秀な指揮官を失い、大きな損失を出した。
そして、戦略上で重要な白河城を失ったことで、奥羽越列藩同盟には崩壊の序曲が流れ始める。
 手薄となった棚倉藩(福島県棚倉町)へ進軍した新政府軍の板垣退助が棚倉藩を落とすと、三春藩(福島県三春町)は奥羽越列藩同盟を裏切って新政府軍に降伏する。
仙台藩は三春藩に監視の兵を配置していたのだ。
が、白河城を新政府軍に奪われたため、監視の兵に三春藩を拘束するほどの力は無くなっており、新政府軍が棚倉藩を落とすと、三春藩は新政府軍に使者を送って恭順を示したのだ。
奥羽諸藩からみれば三春藩が新政府軍に寝返ったようにみえる。
が、元々、三春藩は勤王派(新政府側)で、仙台藩の圧力を受けて奥羽列藩同盟に参加した経緯がある。
三春藩は奥羽列藩同盟に参加する際も、新政府に、
「同盟に参加しなければ、滅ぼされるため、仕方なく同盟に参加する」
と事情を説明しており、本来は新政府側の立場にあった。
しかし、三春藩は東北の裏切り者とされ、
「三春狐」
と呼ばれて東北諸藩から批判されて遺恨を残した。
特に仙台藩からは強く恨まれていたという。
一説によると、「淺川の戦い」でも三春藩の裏切り行為があったとされているが、真相は分からない。
ちなみに、奥羽越列藩同盟を裏切ったのは三春藩だけでなく、本荘藩や秋田藩や弘前藩も新政府に寝返った。
本荘藩や秋田藩などのように新政府側に寝返り、東北戦争後の処分で知行が増えている藩もある。
また、積極的に動かず、処分を受けなかった藩も多い。
 三春藩(福島県)が奥羽越列藩同盟を裏切って新政府軍に寝返ると、三春藩の後を追うように守山藩(福島県)も新政府軍に恭順を示して降伏する。
守山藩の藩主・松平家は水戸藩・徳川家の流れをくむ。
が、守山藩は特に行動を起こすこと無く、新政府軍に降伏している。
こうして三春藩・守山藩が降伏したため、新政府軍の板垣退助は無傷で三春藩を通過。
地の利を知る三春藩の道案内で、新政府軍の板垣退助は、二本松藩(福島県)へと兵を進めたのである。
 1868年9月15日、新政府軍の参謀・板垣退助に攻められた二本松城が落城し、二本松藩が降伏する。
二本松藩は白河城(白河口の戦い)などに主力部隊を派遣しており、新政府軍の板垣退助に留守を突かれる形となっていた。
三春藩・守山藩が抵抗せずに降伏したため、新政府軍の板垣退助は一気に兵を北へと進めて二本松藩へ迫っており、二本松藩には主力部隊を呼び戻す程の時間は無かった。
さらに、新政府軍の別部隊が側面から二本松藩へ迫っており、二本松藩は絶体絶命の危機に瀕していた。
老兵しか居ない二本松藩は降伏しても仕方の無い状況だった。
が、家老の丹羽富穀(にわ・とみたけ)が、
「死を賭して信義を守るは、二本松武士の本懐である」
と徹底抗戦を主張したため、二本松藩は新政府軍に交戦することになった。
このため、二本松藩は少年兵までも戦場へ投入することになる。少年兵は最新式の洋式銃(元込式のスナイドル銃とされている)を装備しており、新政府軍を困らせたが、多勢に無勢で新政府軍の勢いを止めることが出来ず、二本松城は陥落してしまう。
二本松藩の少年兵は15歳と16歳で構成されていた。
が、藩存亡の危機に直面しているため、特例により年齢を引き下げられ、12歳から17歳の少年で構成されていた(指揮官は除く)。
二本松城の戦いで散った二本松藩の少年兵は正規軍ではなく、隊に名前は無かったが、後に「二本松少年隊」と呼ばれるようになり、会津藩の白虎隊と並ぶ戊辰戦争の悲劇として知られることになる。
一般的に「二本松少年隊の悲劇」として知られるのは、二本松少年隊62名のうち、木村銃太郎が率いて大壇口で戦った二本松少年隊25名である。
二本松藩士の家庭では食事の度、母親が子供に切腹の作法を教え、武士の心得を教えており、少年兵といえども、地元の農民が「武士の子とマムシには手を出すな」として恐れるほどであった。
「二本松少年隊の悲劇」となる大壇口の戦いは、戊辰戦争で最も激しい戦いだったとされるが、会津藩の白虎隊や若松城籠城戦が有名になったため、二本松少年隊の悲劇はあまり知られていない。

黒田官兵衛<軍師黒田官兵衛と石田三成と「大河ドラマ軍師官兵衛」ふたたび>ブログ連載6

2016年04月16日 03時32分05秒 | 日記












         4 将軍義昭と光秀


         稲葉山城攻略



永禄7年(1564年)1月、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が19歳のとき、美濃(岐阜県)では、竹中半兵衛が美濃を支配する主君・斎藤龍興の居城・稲葉山城を1日で乗っ取っていた。
斎藤龍興の祖父・斎藤道三は「美濃のマムシ」「マムシの道三」として恐れられていた。
が、斎藤龍興は一部の家臣だけを寵愛し、美濃(岐阜県)の政治は腐敗しており、竹中半兵衛は冷遇されていた。
そのようななか、永禄7年(1564年)1月、新年の挨拶で稲葉山城を訪れた竹中半兵衛は、新年の挨拶を終えて稲葉山城を出たとき、城壁に居た斎藤飛騨守の兵に小便をかけられた(このエピソードは後世の創作だと思われる)。
竹中半兵衛の妻の実家は、西美濃3人衆の1人・安藤守就で、美濃の有力な武将だった。
そこで、小便を駆けられて世直しを決意した竹中半兵衛は、妻の実家である安藤守就に直訴し、稲葉山城の乗っ取り計画への協力を依頼した。
そして、竹中半兵衛は安藤守就の協力を得て、計18人で白昼堂々と稲葉山城に乗り込んで、斎藤飛騨守を斬って小便をかけられた恨みを晴らし、稲葉山城を占拠した。
稲葉山城を居城する主君・斎藤龍興は、竹中半兵衛の謀反を敵軍の襲来と勘違いして稲葉山城から逃げ出した。
隣国・尾張(愛知県)の織田信長は竹中半兵衛に
「城を明け渡しくれれば、美濃の半分を与えよう」
と申し出たが、竹中半兵衛は
「主の斎藤龍興を諫めるため、一時的に城を預かっているだけである」
と答え、織田信長の申し出を断った。
竹中半兵衛は稲葉山城の占領は半年ほど続けたが、最終的には斎藤龍興に稲葉山城を返還し、隠居した。
(注釈:実際は安藤守就の主導で起した謀反だったが、同調者が出ず、美濃全体に謀反が広がらなかったため、安藤守就らは謀反を諦めたという説が有力になっている。)
信長は「竹中半兵衛?黒田官兵衛?」と彼らが仕官する前に秀吉にきいた。「使える者か?」秀吉は「つかえまする、必ずや御屋形さまの「天下布武」の役に立ちましょう!」
稲葉城の返還により斎藤龍興は美濃(岐阜県)の大名に復帰したが、その後に織田信長に侵略され、伊勢(三重県)へ逃げた。
一方、稲葉城を斎藤龍興に返還して隠居した竹中半兵衛は、その後、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の家臣となり、黒田官兵衛と共に木下藤吉郎を支える軍師となるのであった。この竹中半兵衛は黒田官兵衛とともに「両兵衛」「軍師・竜虎」と呼ばれるまでになるのだ。
黒田官兵衛は竹中半兵衛より自分は「器が小さい」と嫉妬してもいたという。尊敬と嫉妬、その一方で、竹中を「聖人か?!」と嘲笑もしている。
竹中半兵衛が「物事を治るのは義、仁であり、至誠を持って動かざる者あらん」というと「そんな綺麗ごとでは人間は動かん!」と官兵衛は反発した。
「人間は利益と恐怖に弱いものだ。至誠を持って動かぬなら「利益」や「恐怖」で動かせばよい。人間の値札に訴えるのだ。人間の値札は百花繚乱、ある人間は銭かも知れない。ある人間にとっては城と大名職かも知れん。ある人間にとっては女子や地位かも知れん。そういう値札に訴えれば9割以上の人間は動くものだ」
「ならば孔子の論語もいらぬと?」
「いや、論語と算盤だ。どんな綺麗ごとをいったところで銭がなければ一握りのおにぎりひとつ買えん。それが現実だ」
「いやはや、官兵衛は現実主義か」
「竹中さんのように本ばかり読んでいる訳にはいかんよ」
 竹中半兵衛は押し黙った。
 歴史通なら知っていることだが、秀吉の軍師・竜虎、軍師・両兵衛のひとり、竹中半兵衛はやがて病により早逝する。官兵衛は半兵衛の死に泣いたというが本当だろうか?


  稲葉山城の攻撃にいよいよかかった。
 しかし、城は崖の上に建ち、まるで天然の要塞であった。せっかく墨俣に拠点を築いても、稲葉山城の攻撃は難行に思われた。
 信長が「くそったれが」と拳をつくっているところ、西美濃三人衆と呼ばれる斎藤家の重臣の連中から、「お味方したい」という内応の使者がやってきた。信長は目を輝かせた。 西美濃三人衆というのは、大垣城主の氏家ト全と、北方城主の安藤道足と、曽根城主の稲葉一鉄のことである。墨俣城を築いても、この西美濃三人衆に背後から襲われたら、斎藤家との間ではさみ討ちにさせてしまう。信長はそれを危惧していた。
 そんなところに内応の伝達があったのだから、信長は喜んだ。
 信長はすぐに、村井と島田という武士に「三人衆から人質をとれ」と命じた。
 サルをよんだ。「サル、稲葉山城を落とせ、野伏をつかえ」
 藤吉郎は驚いた。「しかし、せっかく西美濃三人衆が味方したいと使者をおくってきたのではありませんか。ここは三人衆がやってきてから、攻撃したほうが情報も得られて得ではありませぬか?」「それが普通の人間の考えだろう。しかし、西美濃三人衆の応援を得てから稲葉山を落としたのではわしの面子がすたる。なぜお前に墨俣城をつくらせたのかもわからなくなる。お前が指揮して稲葉山城を落とせ、野伏をつかえ。わかったか!」 藤吉郎は「ははっ!」と平伏した。いいようもなく顔を紅潮させていた。自分が…必要と……されている。「かしこまりました!」サルは叫ぶようにいった。
  サルはさっそく蜂須賀小六を呼んだ。
「親方、もう一度力を貸してくれ」
「いや、いいが……もう俺は親方ではない。頭はあんただ、藤吉郎殿」
「浮浪のおり、貴殿には世話になった。いつまでもあなたは親方だ」
「稲葉山城をせめるのか?」蜂須賀小六はするどかった。
「さすがは親方、その通り!」
「いやに簡単にいうじゃねぇか。あの城を落とすのは困難だよ。正面からじゃ無理だ」
「なら裏からならどうじゃろうか?」
「手はあるだろう」
「では、一緒にまいろう」藤吉郎は、成人して役にたつようになった異父弟小一郎(のちの秀長)をよんで「小一郎、おまえは大手から攻撃しろ」と命じた。
 城の正面の大手からの攻撃は囮である。木下蜂須賀本隊は背後から攻撃しようという算段だった。蜂須賀小六は選び抜かれた尖鋭部隊をつくり、稲葉山城の背面の山道をすすんだ。険しい道だったが、蜂須賀小六は難なく進み、藤吉郎も本当の猿のようにあとをついて進んだ。それぞれの腰には兵糧をさげ、瓢箪をぶらさげていた。瓢箪には酒がはいっていた。……こんな危なっかしい仕事、しらふでやってられるか。一同は笑った。
 木下蜂須賀本隊は谷や崖を抜けてすすみ、ちょくちょく酒をのんだ。
 やがて、山を越えて見下ろすと、稲葉山城がみえた。山からみると、背面の警護は空だった。木戸に門番さえいない。
「これならば落とせる」藤吉郎はにやりとした。
 やがて城にはいると、さすがに城兵たちがばらばらやってきた。蜂須賀たちはそれらを斬り殺した。その兵たちの具足を剥ぎ取ると、斎藤家の兵士に化けた。そして、そこら辺にある柴や薪に片っ端から火をつけた。発見した薪などをもって大手の方へ運ぶふりをした。まだ、斎藤方で気付いた者はいない。
 藤吉郎は皆が飲みほした瓢箪を竹の先にくくりつけて、塀の中からあげて、大きく振った。瓢箪が揺れる。蜂須賀小六の部下は稲葉山城の水門をあけていた。瓢箪は突撃の合図である。信長はそれをみて「突撃!」と、劇を飛ばした。信長軍は協力なマン・パワーで城に突撃し、陥落させた。驚いた城主・斎藤竜興は城を脱出した。長良川から船でどこかへいった。稲葉山城は完全に信長のものになった。
「御屋形様!」サルは先に瓢箪がくくられた竹をもったままだった。「城をおとしました」「サル」信長は呆れて「きさまはその瓢箪がえらく気にいったようだのう。これからはその瓢箪を馬印につかえ」といった。
「ははっ!」サル平伏した。
「ただし、最初はひとつだけじゃ。手柄をたてたらひとつひとつ瓢箪をふやせ」
「ははっ! このサルめは手柄を沢山たてまして、瓢箪を百にも千にもいたします」
「大口をたたくな。まぁ、サルよ、お主はよくやった」信長はサルを褒めたてた。
 藤吉郎は顔をくしゃくしゃにして笑顔になり、また深く平伏した。信長軍の重臣たちは、サルめ、と不快に思ったが口にはださなかった。こうして、のちの秀吉の知謀によって稲葉山城は陥落し、斎藤氏から領土を奪えたのである。
  さて、ここでふれたいのは藤吉郎(秀吉)よりもむしろ小一郎(秀長)である。稲葉山城(岐阜城)を攻めたとき、秀吉は少数で城に潜入し、合図によって、小一郎(秀長)の主力部隊が雪崩れ込むという戦略だったが、そのときの小一郎のタイミングや方法ともにすばらしかったので、竹中半兵衛が秀吉に「よき弟をもたれたものだ」と褒めている。 いわれるままに実行し、成功させる…これは補佐役の鉄則だ。しかも、小一郎(秀長)は死ぬまで「補佐」に徹した。もしこの男に「いずれは兄と同じように大名に…」「いずれは兄の次の天下人に…」などという欲があったら到底できないことである。
 秀吉は朝鮮出兵という過ちを晩年犯したが、それはこの”よき弟”が早死にした結果とみる歴史家が実に多い。その意味で、小一郎は実によい弟で、ナンバー2だった。
 もし、秀吉にこの弟がいなかったら……果たして天下をとれたろうか?

         足利幕府


  のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。
 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。
 また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。
 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。
 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。
「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。

  信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。
 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。
 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。
 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。                   
 天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。
 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。
 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?
 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。
 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。
 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝は軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。
 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に無勢で、結局殺されてしまう。
 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)
 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。
 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。
 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。
 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。
 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。
 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。


         明智光秀と細川藤孝



  足利義昭が織田信長に「幕府回復のために力を貸していただきたい」と打診していた頃、信長はまだ稲葉山城(岐阜城)攻略の途中であったから、それほど関心を示さなかった。また、天皇からの「天皇領の回復を願いたい」というも放っておいた。
 朝倉義景の一乗谷城には足利義昭や細川藤孝が厄介になる前に、居候・光秀がいた。のちに信長を本能寺で討つことになる明智十兵衛光秀である。美濃の明智出身であったという。機知に飛んだ武士で、教養人、鉄砲の名人で、諸国を放浪していたためか地理や地方の政や商いに詳しかった。
 光秀は朝倉義景に見切りをつけていた。もともと朝倉義景は一国の主で満足しているような男で、とうてい天下などとれる器ではない。このような男の家臣となっても先が知れている。光秀は誇り高い武将で、大大名になるのが夢だ。…義景では……ダメだ。
 光秀は細川藤孝に「朝倉義景殿ではだめだ。織田信長なら、あるいは…」と漏らした。「なるほど」細川は唸った。「信長は身分や家格ではなく能力でひとを判断するらしい。義昭さまを連れていけば…あるいは…」
 ふたりは頷いた。やっと公方様の役に立つかも知れない。こうなったらとことん信長を利用してやる。信長のようなのは利用しない手はない。
 光秀も細川藤孝も興奮していた。これで義昭さまが将軍となれる。…かれらは信長の恐ろしさをまだ知らなかったのだ。信長が神や仏を一切信じず、将軍や天皇も崇めないということを……。光秀たちは無邪気に信長を利用しようとした。しかし、他人に利用される程、信長は甘くない。信長は朝倉義景とは違うのだ。
 光秀も細川藤孝もその気になって、信長に下話した。すると、信長は足利義昭を受け入れることを快諾した。なんなら将軍に推挙する手助けをしてもいい、と信長はいった。
 明智十兵衛光秀も細川藤孝も、にやりとした。
 信長が自分たちの思惑通りに動いたからだ。
 ……これで、義昭さまは将軍だ。してやったり!
 だが、光秀たちは信長が「義昭を利用してやろう」などと思っていることを知らなかった。いや、そんなことは思いもよらなかった。なにせ、光秀たちは古い価値観をもった武士である。誰よりも天皇や室町幕府、足利将軍の崇拝者であり、天皇や将軍を利用しようという人間がいるなど思考の範疇外であったのだ。
 信長は「くだらん将軍だが、これで上洛の口実ができる」と思った。
 信長が快諾したのは、義昭を口実に上洛する、つまり京都に入る(当時の首都は京都)ためである。かれも次第に世の中のことがわかってきていて、ただの守護代の家臣のそのまた家臣というところからの成り上がりでは天下はとれないとわかっていた。ただやみくもに野望を抱き、武力蜂起しても天下はとれないのをわかっていた。
 日本の社会は天皇などが中心の社会で、武家はその家臣というのが通例である。武力だけで天下の道を辿るのは難しい。チンギス・ハンのモンゴルや、秦始皇帝の中国とは違うのだ。天下をとるには上洛して、天皇らを嫌でもいいから奉らなければならない。
 そこで信長は「天下布武」などといいだした。
 つまり、武家によって天下をとる、という天下獲りの野望である。おれは天下をとる。そのためには天皇だろうが、将軍だろうが利用するだけ利用してやる!
 信長は興奮し、心の中で笑った。うつろな笑いだった。
 確かに、今、足利義昭も天皇も「権威を回復してほしい」といってきている。しかし、それは信長軍の武力が台頭してきているからで、弱くなれば身分が違うとバッサリきりすてられるかも知れない。そこで、どの大名も戴くことをためらった足利義昭をひきいて上洛すれば天下に信長の名が轟く。義昭は義輝の弟で、血も近い。なにより恩を売っておけば、何かと利用できる。恩人として、なにかしらの特権や便宜も計られるだろう。信長は狡猾に計算した。
「天下布武」などといったところで、おれはまだ美濃と尾張だけだ。おれは日本中を支配したいのだ。そのために足利義昭を利用して上洛しなくてはならないのだ。
 そのためにはまず第十四代将軍・足利義栄を戴いている三好や松永久秀を滅ぼさなければならない。信長は戦にうって出ることを考えていた。自分の天下のために!
 信長は当時の常識だった「将軍が一番偉い」などという考えをせせら笑った。なにが偉いものか! 偉いのはおれだ! 織田……織田信長だ! この俺に幸運がやってきた!
  この頃、おねはひとりっきりの屋敷で激痛におそわれてうずくまっていた。そこに佐吉がやってきた。「おね様! いかがなされた?!」かれはすぐ薬師(医者)を呼んだ。おねは子供が産めないからだになった。「佐吉、藤吉郎殿につたえないで…」
 おねは泣きながらいった。嘆願した。
 佐吉は深刻な表情のまま無理に微笑んで、「このことは私とおね様の一生の秘密です。私は死ぬまで殿下にこのことはいいません」といった。おねは感激し、泣き崩れた。


  

【平成28年熊本地震】地震巡るデマも。安易な拡散注意!ご冥福とご回復を祈ります。臥竜

2016年04月15日 17時32分35秒 | 日記












今回の『平成28年熊本地震』において命をなくされた方のご冥福と怪我をされた方の一日も早いご回復をお祈りします。
                                 緑川鷲羽 臥竜 


熊本九州の大地震で九州の被災者が悲惨で、心配で、ろくに夜眠れなかったので身体がだるい。これで豪雨では”泣きっ面に蜂”。鹿児島の川内原発は丸川環境大臣の言う通り、停める必要はない。原発は一度停めると再稼働が大変なのだ。脱原発派にはわからないよ。真実が見えてないんだから。脱・脱原発!

日本のモノづくりは世界一なのに、カタログや広告を見てもスペックを訴求するだけでメッセージ性が乏しい。その製品をもったらどんな風に楽しくて便利か?を打ち出せなければ誰も買わない。その意味でマーケティングではアップルやサムスンやナイキやグーグルの方が上手。実にもったいない。宣伝を学べ!


地震巡るデマ 安易な拡散に注意
熊本地震のデマ、ネットで出回る 安易な拡散には注意を
(朝日新聞) 16:34

 ツイッター上には熊本地震を巡り、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「イオンモールが火事」といったデマも出回った。

 中には画像付きで「熊本の動物園からライオンが逃げ出した」という内容も。熊本市の図書館司書の女性(40)のLINEには地震の約1時間後、友人からこの情報が送られ、「怖いね」「熊本どうなるんだろう」と語り合った。しばらくして、別の友人が「デマだったようです」と書き込んだという。「初めての大地震で動揺しており、何かあったら、と怖かった。後で怒りがふつふつとわいてきた」