緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

鷲羽「軍師で安倍晋三に登用されず」理由①大卒じゃない②鬱病③側近が困ると悪口囁いた

2016年04月30日 21時38分13秒 | 日記











政権発足時、日本の改革軍略案を安倍晋三に郵送。


当然、諸葛孔明のように軍師として働けると思った。


が、安倍側近や官僚が不利になるからと



「あいつは大卒じゃない」「統合失調症」「立派な戦略も印字するだけ」


と耳打ち。


結果、私日本の孔明は登用なし。日本の改革は夢と消えた。馬鹿は死なねば治らん。


やはり安倍晋三はCIAの分析通り「安倍晋三は頭も体も心も弱い」でしかないのだ。

他人の才能を見極める審美眼がない。側近政治家や民間人や官僚の操り人形に過ぎない。

所詮は政治家のぼんぼんでしかない。演説もスピーチもすべて官僚の作文を読むだけ。

国会中継の問いの答えも官僚の作文を読むだけ。

こんな輩が日本の首相とは…情けなくて怒りに震えるのみだ。

【元祖ゲス&ベッキー】【禊は済んだ】ベッキー、今秋復帰へ????

2016年04月26日 13時08分17秒 | 日記














【禊は済んだ】ベッキー、今秋復帰へ????
2016年04月25日
スクープ




1: クロスヒールホールド(北海道)@\(^o^)/
“ゲス不倫”で活動休止中のベッキー(32)が、今秋復帰するプランが関係者の間でささやかれている。
具体的な番組名も挙がってきており、最有力なのが、毎年9月に放送されている有吉弘行(41)の特別番組「有吉の夏休み密着100時間inハワイ」(フジテレビ系)と、1月に休養するまでレギュラー出演していた関西テレビの「にじいろジーン」(同系)。
だが、不倫相手の「ゲスの極み乙女。」の川谷絵音(27)の言動次第では計画が暗礁に乗り上げる可能性もあるという。


CM10本、テレビ・ラジオ計11本を抱えていたベッキーが川谷との不倫が原因で、活動休止に追い込まれ、はや3か月。

本人は嵐が過ぎるのを待つように、実家にこもりきりといわれる。

「ゲス不倫騒動で、5億円ともいわれるCMなどの違約金、損害賠償が発生し、ベッキーは『すべて自分が払う』と話しているとも報じられたが、事務所の損害は甚大。
いつまでもベッキーを休ませておくわけにはいかない。
すでに復帰に向けたテレビ各局との話し合いは始まっていますよ」というのは某バラエティー番組スタッフだ。

「事務所幹部がフジテレビの親しいプロデューサーに相談したところ、毎年夏にハワイで収録し、9月初旬に放送している『有吉の夏休み――』にサプライズゲストで出演する案はどうかと打診があったそうです」(関係者)

同番組は今や人気となった有吉の冠番組で、2013年から年1回放送され、視聴率は順に14・2%、13・0%、11・5%と、低迷するフジにしては高い視聴率を記録した。

「毒舌で知られる有吉だが、ベッキーとは馬が合い、騒動をうまくイジってくれそうだという局と事務所の判断なのでは。変にかしこまって謝罪会見をするよりは、復帰の舞台としては最適でしょう」(同関係者)

一方、同じ秋をめどに関西テレビも動き始めているという。

復帰する番組はベッキーが1月30日までレギュラーで出演を続けた「にじいろジーン」だ。

「騒動から半年の休業期間があれば、視聴者もさすがに許してくれるだろう。休業でみそぎを済ませ酸いも甘いも経験し、大人になったベッキーがまた番組を器用に仕切れば人気は戻りますよ」(関西のテレビ関係者)

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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160424-00000006-tospoweb-ent

3: マスク剥ぎ(神奈川県)@\(^o^)/
もうすでにAKBの高橋みなみが座っているよ

4: トラースキック(九州地方)@\(^o^)/
イメージが悪すぎる

5: ファイヤーボールスプラッシュ(大阪府)@\(^o^)/
復帰しても収入は戻らんだろ

13: ニールキック(dion軍)@\(^o^)/
またフジテレビか、チャレンジャーだな
マジで誰も見なくなるぞ

16: リバースネックブリーカー(やわらか銀行)@\(^o^)/
禊は済んでないでしょ?
まだお友達で押し通してるんだから


そこをハッキリさせないと

18: タイガースープレックス(静岡県)@\(^o^)/
イッテQが終わってしまう…

20: サソリ固め(東京都)@\(^o^)/
最初の対応を間違えちゃったから
ダメージは深刻

26: アルゼンチンバックブリーカー(家)@\(^o^)/
無理

30: 閃光妖術(兵庫県)@\(^o^)/
川谷、なんかいらんこと言え!

31: ネックハンギングツリー(新疆ウイグル自治区)@\(^o^)/
苦情倍増しそうなのに、あえて復帰させようとさせる意味が分からんわ

39: クロイツラス(石川県)@\(^o^)/
ゲスの方が普通に逃げ切ったみたいで不愉快だわ

43: フロントネックロック(SB-iPhone)@\(^o^)/
別れちゃったの?

53: ツームストンパイルドライバー(家)@\(^o^)/
黒ベッキーとかで復帰するしかないよな

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タグ :ベッキー降板復帰有吉弘行不倫

黒田官兵衛<軍師黒田官兵衛と石田三成と「大河ドラマ軍師官兵衛」ふたたび>ブログ連載10

2016年04月26日 07時26分29秒 | 日記










御着城では、黒田官兵衛が姫路城に立て籠もるという噂が流れていたため、御着の民は不安がっていたが、いつもと変らない小寺官兵衛を見て、御着の民は安心した。
さて、御着城へ入った小寺官兵衛は、再び主君の小寺政職を説得したが、織田信長に反旗を翻すという評議は変らなかった。
小寺政職は小寺官兵衛を殺したかったが、小寺官兵衛を殺せば、父・黒田職隆が姫路城に立て籠もることは目に見えていた。
父・黒田職隆は強敵なので、小寺政職は小寺官兵衛を殺せなかったのである。
そこで、小寺政職は小寺官兵衛に、
「私が織田信長に背いたのは、荒木村重の一味だからである。荒木村重が織田信長に属するのであれば、私も織田信長に属そう。織田信長に属した方が良いと言うのなら、汝が荒木を説得してまいれ」と命じた。
黒田官兵衛は織田信長や羽柴秀吉と連絡をとるときに有岡城(兵庫県伊丹市)の荒木村重を中継していた関係で、黒田官兵衛と荒木村重と旧知の仲であった。
荒木村重の考えは分からなかったが、小寺政職を織田信長に属させるためには荒木村重を説得する以外に方法は無いため、小寺政職は荒木村重を説得することにした。
天正6年(1578年)10月下旬、小寺官兵衛は荒木村重が籠城する有岡城を訪れたが、荒木村重は屈強な兵士を待機させており、小寺官兵衛を生け捕りにして、牢屋に閉じ込めた。
小寺政職は荒木村重に、
「小寺官兵衛を殺して欲しい」
と依頼していたが、荒木村重は殺害までは出来ず、生け捕りにして牢屋に閉じ込めた。
これは小寺官兵衛(黒田官兵衛)が33歳の事であった。
小寺官兵衛(黒田官兵衛)が有岡城の荒木村重に捕らえられたという知らせは、直ぐに小寺官兵衛の居城・姫路城へと伝わった。
小寺官兵衛は織田信長に息子・黒田長政(幼名は松寿)を人質に出しており、小寺官兵衛を助けるために荒木村重に味方すれば、黒田長政が殺され、黒田長政を助けるために織田信長に属せば、小寺官兵衛が殺される。
小寺官兵衛と黒田長政の両方を助ける方法はない。
姫路城の黒田家は苦しい選択を迫られた。喧々囂々の議論に及び、評議が割れ、結論が出なかった。
しかし、父・黒田職隆が、
「織田信長に人質を差し出したのは我が本意である。しかし、荒木村重が小寺官兵衛(黒田官兵衛)を捕らえたのは、荒木村重の不義であり、これは非に及ばざる所である。小寺官兵衛が殺されれば、不慮の天災と思うべし。どうして、小寺官兵衛を救うために、意に反して敵に従う必要があるのだ。小寺官兵衛を捨てて織田信長に属するべし」
と言い、織田信長に忠誠を誓うことを宣言した。
黒田家には、小寺官兵衛から与力として黒田家に仕えていた家臣も多かった。
が、黒田家の家臣は話し合い、「黒田休夢と黒田兵庫の命令に従う」という誓紙を交わすと、御本丸(櫛橋光)に誓紙を差し出し、御本丸(櫛橋光)に忠誠を誓った。
(注釈:黒田休夢は父・黒田職隆の弟で、黒田兵庫は黒田官兵衛の弟である。)
(注釈:御本丸については、黒田官兵衛の父・黒田職隆とする説と、黒田官兵衛の妻・櫛橋光とする説があるが、ここでは御本丸を櫛橋光とする。)
母里太兵衛・栗山善助・田宮次兵衛・久野四郎など43名が誓紙に署名し、黒田家は御本丸(櫛橋光)を中心に一気団結した。
こうして父・黒田職隆は、織田信長につくことを決めると、御着城の黒田邸を焼き払い、家来を姫路城へと引き上げさせ、小寺政職と絶縁し、織田信長への従属を表明したのである。
さて、いつまで経っても、荒木村重を説得するために有岡城へ入った小寺官兵衛(黒田官兵衛)が有岡城から出てこないため、織田信長は小寺官兵衛が毛利側に寝返ったと思い、父・黒田職隆を呼びつけて尋問した。
父・黒田職隆は、織田信長に拝謁して忠誠を誓ったが、織田信長の怒りは収まらず、織田信長は竹中半兵衛に人質・黒田長政(幼名は松寿丸)の処刑を命じると、兵を率いて荒木村重が籠城する有岡城を攻めた。
竹中半兵衛は、
「黒田家が毛利側に付けば、中国征伐は困難になります」
と織田信長を諫めたが、織田信長の怒りは収まらず、竹中半兵衛は仕方なく、人質・黒田長政の処刑を承諾した。
しかし、竹中半兵衛は浜松城から人質・黒田長政を連れだすと、美濃にある居城・菩提山城で黒田長政を匿い、織田信長には死んだ別の子供の首を届け、織田信長を欺いたのであった。
小寺官兵衛が有岡城から出てこないため、毛利側に寝返ったと思った織田信長は、竹中半兵衛に人質・松寿(後の黒田長政)の殺害を命じると、自ら兵を率いて荒木村重が籠城する有岡城を攻めた。
しかし、戦国時代には珍しい総構えを有した有岡城は、かなりの要害で、そう簡単には落ちず、天正6年(1578年)12月、織田信長は有岡城の力攻めを諦めて安土城へと引き上げた。
元々、有岡城は伊丹城と言い、伊丹親興の城だった。
が、伊丹親興は反織田信長の勢力についたため、織田信長の家臣となった荒木村重に天正2年(1574年)に攻め滅ぼされ、荒木村重の城となった。
その後、織田信長は石山本願寺との戦争に備えて荒木村重に伊丹城の改修を命じた。
このため、荒木村重は伊丹城を大改修して有岡城と改称した。この時に有岡城は、戦国時代では珍しい総構えの城のとなった。
織田信長の軍は荒木村重が籠城する有岡城を攻め落とせないのは、くしくも、織田信長の命令によって強固に大改修されたからであった。なお、有岡城は日本最古の総構えの城だとされている。
さて、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が有岡城に幽閉されたという知らせが伝わると、姫路城の黒田家では、小寺官兵衛(黒田官兵衛)を奪還する作戦が練られていた。
そして、家臣の栗山善助・母里太兵衛・井上九郎右衛門が小寺官兵衛を救出するため、商人に成りすまして有岡城に潜伏し、代わる代わる、牢獄に近づいて、小寺官兵衛の安否を伺っていた。
有岡城には銀屋新七という知り合いが居り、銀屋新七が牢番を買収してくれたので、栗山善助らは小寺官兵衛と連絡を取ることが出来るようになった。
このとき、黒田家の家臣・井口兵助(後の村田出羽)の叔母(母の姉)が有岡城で働いており、門番の加藤重徳は井口兵助の叔母が小寺官兵衛の世話をすることを許した。
小寺官兵衛は門番の加藤重徳に感謝して、「もし、無事に出られる事が出来たら、貴方の息子を養育したい」と申し出た。
その後、有岡城が落城すると、加藤重徳は次男・加藤玉松を姫路城へ送った。黒田官兵衛(小寺官兵衛)は約束通り、加藤玉松を養育し、実子・黒田長政と兄弟同様に養育した。この加藤玉松が、黒田24騎の1人となる黒田三左衛門である。
さて、三木城の別所安治も有岡城の荒木村重も、織田信長に反旗を翻して毛利側に寝返ったが、毛利輝元からの援軍はいっこうに現れず、苦しい籠城戦を余儀なくされていた。
そこで、天正7年(1579年)9月、荒木村重は密かに有岡城を抜けだし、毛利輝元に援軍を直訴へ向かった。
これを受けた毛利元就は、吉川元春と小早川隆景を先手として大軍を播磨(兵庫県)へ投入するため、備中の松山(岡山県高梁市)まで兵を進めた。
しかし、備前・備中・美作(いずれも岡山県)を支配する宇喜多直家が小寺官兵衛(黒田官兵衛)の調略を受け、織田信長側に寝返っていることが判明したため、毛利元就は播磨への侵攻を諦めて引き返した。
天正7年(1579年)11月、荒木村重が不在となると、有岡城に居る一部の兵が織田信長側の内向工作に応した。
そして、織田軍が有岡城へ総攻撃をかけると、内応した家臣が門を開いて織田軍を城内へ引き入れた。
有岡城は8ヶ月渡る籠城戦に耐え抜き、織田軍を寄せ付けなかった有岡城であった。
が、内側から崩れ、織田軍の総攻撃によって落城した。
一方、有岡城に潜伏していた小寺官兵衛(黒田官兵衛)の家臣・栗山善助と母里太兵衛は、織田軍の総攻撃を好機と見て、小寺官兵衛の救出に向かった。
栗山善助らが牢屋に向かうと、既に監視の兵は逃げていた。
栗山善助らは斧で牢を壊して小寺官兵衛を助け出すと、戦争の混乱に紛れて有岡城を抜け出した。
[注釈:このとき、黒田官兵衛は唐瘡(梅毒)という病気に感染して、生涯、足が曲がらなくなり、「チンバ」と呼ばれたという説がある。ただし、梅毒は主に性病なので、信憑性は不明。]
救出された小寺官兵衛は、長い牢屋生活で力が弱り、足がすくんで歩けなかったので、屈強な者に背負われて、近くの農村へと逃げ込み、その後、有馬温泉で疲れを取った。
なお、黒田家には、秦桐若(はたのきりわか)という豪傑が居たが、早く傷を治そうとして、有馬温泉の湯を飲み、下痢を起して死んだ。このため、黒田官兵衛は有馬温泉の湯を飲まなかったという。
その後、小寺官兵衛は有馬温泉から姫路城へ帰り、一族と生還を喜び、数日後、羽柴秀吉の元へと向かった。
すると、羽柴秀吉は「命を省みず、敵の城に乗り込むことは、誠に忠義の到りである。
獄中の生活は苦しかっただろうが、こうして再会できた事は嬉しい限りである」と涙を流して喜んだ。
一方、小寺官兵衛の捕らわれていた事を知った織田信長は、
「人質の黒田長政(幼名は松寿)を処刑したことは後悔の至りだ。小寺官兵衛に合わせる顔が無い」と後悔した。
しかし、竹中半兵衛が機転を聞かせ、居城・菩提山城に人質・黒田長政を隠し置いていた事を知ると、織田信長は竹中半兵衛に感謝した。
小寺官兵衛も竹中半兵衛の機転に感謝したが、もう竹中半兵衛に礼を述べることは出来なかった。
竹中半兵衛は、小寺官兵衛が救出される半年前の天正7年(1879年)6月に、三木城を包囲する陣中で病死していたのだ。
黒田長政はこの時の恩を忘れず、後に豊前(大分+福岡県)の大名になると、竹中重門の次男・竹中主善を貰い受け、養育した。
(注釈:竹中重門は、竹中半兵衛の嫡子で、竹中主善は竹中半兵衛の孫にあたる。)


 家康の正室・築山殿と嫡男・信康が武田勝頼と内通しているという情報を知った信長は、激怒した。そして、家康に「ふたりとも殺すように」という書状を送った。
「……何?」その書状があまりにも突然だったため、家康は自分の目をほとんど信じられなかった。築山と、信康が武田勝頼と内通? まさか!
「殿!」家臣が声をかけたが、家康は視線をそむけたままだった。「まさか…」目をそむけたまま、かれはつぶやいた。「殺す? 妻子を……?」
「殿! ……なりませぬ。今、信長殿に逆らえば皆殺しにされまする」
 家臣の言葉に、家康は頷いた。「妻子が武田と内通しているとはまことか?」
「わかりませぬ」家臣は正直にいった。「しかし、疑いがある以上……いたしかたなし」 家康は茫然と、遠くを見るような目をした。暗い顔をした。
  ほどなく、正室・築山殿と嫡男・信康は殺された。徳川家の安泰のためである。
 家康は落胆し、憔悴し、「力なくば……妻子も……救えぬ」と呟いた。
 それは微かな、暗い呟きだった。

  信長は”長島一揆””一向一揆”を実力で抑えつけた。
  そして、有名な武田信玄の嫡男・勝頼との”長篠の合戦”(一五七五年)にのぞんだ。あまりにも有名なこの合戦では鉄砲の三段構えという信長のアイデアが発揮された。
 信長は設楽が原に着陣すると、丸たん棒や木材を運ばせ、二重三重の柵をつくらせた。信長は武田の騎馬隊の恐ろしさを知っていた。だから、柵で進撃を防ごうとしたのだ。
 全面は川で、柵もできて武田の騎馬隊は前にはすすめない。
 信長は柵の裏手に足軽三千人を配置し、三列づつ並ばせた。皆、鉄砲をもっている。火縄銃だ。当時の鉄砲は一発づつしか撃てないから、前方が撃ったら、二番手、そして三番手、そして、前方がその間に弾をこめて撃つ……という速射戦術であった。
 案の定、武田勝頼の騎馬隊が突っ込んできた。
「撃て! 放て!」信長はいった。
 三段構え銃撃隊が連射していくと、武田軍はバタバタとやられていった。ほとんどの武田軍の兵士は殺された。武田の足軽たちは「これは不利だ」と見て逃げ出す。
 武田勝頼は刀を抜いて、「逃げるな! 死ね! 死ね! 生きて生き恥じを晒すな!」と叫んだ。が、足軽たちはほとんど農民らの徴兵なので全員逃げ出した。
 武田の足軽が農民なのに対して、信長の軍はプロの兵士である。最初から勝負はついていた。騎馬隊さえ抑えれば信長にとっては「こっちのもん」である。
 こうして、”長篠の合戦”は信長の勝利に終わった。
 これで東側からの驚異は消えた訳だ。
 残る強敵は、石山本願寺と上杉謙信だけであった。

  信長は岐阜から、居城を安土に移し、絢爛豪華な安土城を築いた。
 城には清涼殿(天皇の部屋)まであったという。つまり、天皇まで京から安土に移して自分が日本の王になる、という野望だった。それだけではなく、信長は朝廷に暦をかえろ、とまで命令した。明智光秀にとってはそれは我慢のならぬことでもあった。
 また、信長は「余を神とあがめよ」と命じた。自分を神と崇め、自分の誕生日の五月十二日を祝日とせよ、と命じたのだ。なんというはバチ当たりか……
「それだけはおやめくだされ!」こらえきれなくなって、林通勝がくってかかった。信長はカッときた。「なんじゃと?!」
「信長さまは人間にこざりまする! 人間は神にはなれませぬ!」
 林は必死にとめた。
「……林! おのれはわしがどれだけ罵倒されたか知っておるだろう?!」怒鳴った。そして、「わしは神じゃ!」と短刀を抜いて自分の肩を刺した。林通勝は驚愕した。
 しかし、信長は冷酷な顔を変えることもなく、次々に短刀で自分をさした。赤赤とした血がしたたる。………
 林通勝の血管を、感情が、熱いものが駆けめぐった。座敷に立ち尽くすのみだ。斧で切り倒されたように唖然として。
「お……お……御屋形様…」あえぎあえぎだが、ようやく声がでた。なんという……
「御屋形様は……神にござる!」通勝は平伏した。信長は血だらけになりながら「うむ」と頷いた。その顔は激痛に歪むものではなく、冷酷な、果断の顔であった。
  天正七年(1579)初夏。秀吉は中国地方の毛利攻めを命じられた。秀吉は喜んだ。しかし、その最中、明智光秀が母を人質として和睦しようとしていた武将を、信長が殺した。当然ながら光秀の母は殺された。「母ごぜ……」光秀は愕然となった。
「信長は鬼じゃ! 信長は鬼じゃ!」歯をぎりぎりいわせながら、秀吉は信長にいった。「頭を冷やしなはれ、秀吉殿」千宗易(のちの利休)は秀吉を諫めた。





         本能寺の変



  天正十年(一五八二)、明智光秀は居城に帰参した。
 光秀は疲れていた。鎧をとってもらうと、家臣たちに「おまえたちも休め」といった。「殿……お疲れのご様子。ゆっくりとお休みになられては?」
「貴様、なぜわしが疲れていると思う? わしは疲れてなどおらぬ!」
 明智光秀は激怒した。家臣は平伏し「申し訳ござりませぬ」といい、座敷を去った。
 光秀はひとりとなった。本当は疲れていた。かれは座敷に寝転んで、天井を見上げた。「………疲れた。なぜ……こんなにも……疲れるのか…? 眠りたい…ゆっくり…」
 明智光秀は空虚な、落ち込んだ気分だった。いまかれは大名となっている。金も兵もある。気分がよくていいはずなのに、ひどく憂欝だった。
「勝利はいいものだ。しかし勝利しているのは信長さまだ」光秀の声がしぼんだ。「わしは命令に従っているだけじゃ」
 明智光秀は不意に、ものすごい疲労が襲いかかってくるのを感じ、自分がつぶされる感覚に震えた。目尻に涙がにじんだ。
「あの方が……いなくなれ…ば…。鬼はきっと誰かに退治…される」
 明智光秀は自分の力で人生をきりひらき、将軍を奉り利用した。人生の勝利者となった。放浪者から、何万石もの大名となった。理知的な行動で自分を守り、生き延びてきた。だが、途中で多くのものを失った………家族、母、子供……。ひどく落ち込んだ気分だった。さらに悪いことには孤独でもある。くそったれめ、孤独なのだ!
「あの方がいなくなれば……眠れる…眠れる…」明智光秀は暗く呟いた。
  かれは信長に「家康の馳走役」をまかされていた。光秀はよくやってのけた。
 徳川家康は信長に安土城の天守閣に案内された。
「家康殿、先の武田勢との合戦ではご協力感謝する」信長はいった。そして続けた。「安土城もできた当時は絢爛豪華なよい城と思うたが、二年も経つと色褪せてみえるものじゃ」「いえ。初めて観るものにとっては立派な城でござる。この家康、感動いたしました」
 家康は信長とともに立ち、天守閣から城下町を眺めた。
「家康殿、わしを恨んでいるのであろう?」信長は冷静にいった。
「いえ。めっそうもない」
「嘘を申すな。妻子を殺されて恨まぬものはいまい。わしを殺したいと正直思うているのであろう?」
「いいえ」家康は首を降り、「この度のことはわが妻子に非がありました。武田と内通していたのであれば殺されるのも当たり前。当然のことでごさる」と膝をついて頭をさげた。「そうか? そうじゃのう。家康殿、お主の妻子を殺さなければ、お主自身が殺されていたかも知れぬぞ。武田勝頼は汚い輩だからのう」
「ははっ」家康は平伏した。
 明智光秀は側に支えていた。「光秀、家康殿とわしの関係を知っておるか?」
「……いいえ」
「家康殿は幼少の頃よりわが織田家に人質として暮らしておったのじゃ。小さい頃はよく遊んだ。幼き頃は、敵も味方もなかったのじゃのう」
 信長はにやりとした。家康も微笑んだ。

 この年、信長の正室・吉乃が病に倒れ、明日をも知れぬ身体となった。信長はこのとき初めて神に祈った。しかし、吉乃の命は風前の灯であった。信長は吉乃の眠る座敷へと急いでいき、手にもった仏像を彼女に手渡した。しかし、吉乃は抱き抱えられながら、仏像を捨てた。信長は手をさしのべ、自分がそばについていることを思い出させようとした。やさしく彼女を抱きしめた。
「…わらわは信長さまの妻……信長さまが神を信じないのなら…わらわも…」
 吉乃は無理に微笑んだ。彼女の感触こそ、信長の崩壊を防ぐ唯一のものだった。信長は傷つきやすい孤独な心で、吉乃を抱擁した。「吉乃……死ぬな」
 かすかな悲しげな微笑みとともに、信長はささやいた。信長は妻の頭を胸に抱きよせ、彼女の髪に頬を重ねた。吉乃は微笑み、そして死んだ。
 秀吉はすぐに駆けつけた。いっぱいの土産をもって。
「ひさしいのう、秀吉」上座で、信長は秀吉に声をかけた。側には息子の信忠や信雄らがいた。秀吉は「これはすべて吉乃さまへの御土産にござる!」
「サル……母上は…死ん…だ……のだ」信忠は泣きながらいった。
「信忠、秀吉はそんなことは百も承知だ。わしをなぐさめておるのだ」
 信長はいった。すると秀吉は「泣いてもかまわないのです、御屋形様!」といった。
「鬼が泣いても……笑われるだけじゃ」信長は涙目で呟いた。

  明智光秀は不幸であった。信長に「家康の馳走役」を外されたのだ。「な……何かそそうでも?」是非、答えがききたかった。
「いや、そうではない。武士というものは戦ってこその武士じゃ。馳走役など誰でもできる。お主には毛利と攻戦中の備中高松の秀吉の援軍にいってほしいのじゃ」
「は? ……羽柴殿の?」
 光秀は茫然とした。大嫌いな秀吉の援軍にいけ、というのだ。中国の毛利攻めに参加せよと…? 秀吉の援軍? かれは唖然とした。言葉が出なかった。
 信長は話しをやめ、はたして理解しているか、またどう受け取っているかを見るため、明智光秀に鋭い視線をむけた。そして、口を開いた。
「お主の所領である近江、滋賀、丹波をわしに召しとり、かわりに出雲と石見を与える。まだ、敵の領じゃが実力で勝ちとれ。わかったか?!」
 光秀は言葉を発しなかった。かわりに頭を下げた。かれは下唇をかみ、信長から目をそむけていた。光秀が何を考えているにせよ、それは表には出なかった。
  しかし、この瞬間、かれは信長さえいなければ……と思った。明智光秀は信長が去ったあと、息を吸いあげてから、頭の中にさまざまな考えをめぐらせた。
 ……信長さまを……いや、織田信長を……討つ!

  元正一〇年(一五八二)六月一日、信長は部下たちを遠征させた。旧武田領を支配するため滝川一益が織田軍団長として関東へ、北陸には柴田勝家が、秀吉は備中高松城を水攻め中、信長の嫡男・信孝、それに家臣の丹羽長秀が四国に渡るべく大阪に待機していた。 近畿には細川忠興、池田恒興、高山右近らがいた。
 信長は秀吉軍と合流し、四国、中国、九州を征服するために、五月二十九日から入京して、本能寺に到着していた。京は完全な軍事的空白地帯である。
 信長に同行していた近衆は、森蘭丸をはじめ、わずか五十余り………
 信長は完全に油断していた。
  秀吉は備中高松城攻めで、巨大な堤防をつくっていた。土袋を金で庶民から買う…という奇抜なアイデアでわずか十一日で巨大な堤防をつくった。あとは雨が降り続けば高松城は水の中である。だが、雨はなかなか降らなかった。
「ちくしょう! 雨降れ! 水攻めなんじゃ! 雨降れ!」
 秀吉はふんどしだけになって、百姓たちと「雨乞い」の踊りをおどった。竹中半兵衛なきあとの秀吉の軍師・黒田官兵衛はあきれた。そして、笑った。
「あれで……120万石の大名なのだから……おもしろい人物だ」
「兄じゃ!」小一郎秀長も百姓踊りに加わった。そこに、佐吉(のちの石田三成)がやってきた。「おやじさま!」
「おお、佐吉! なんじゃ?!」猿顔をゆがませ、秀吉はきいた。
「おやじさまの母上さまから文にございます」
「なに? かあちゃんから?」
 佐吉は文を秀吉に渡した。小一郎秀長らはにやりと笑って「かあちゃん…字がかけるようになったんだ」といった。汚い字で、すべてひらがなだった。
 ……ひでよし、がんばれ。おまえはにちりんのこじゃで、かならずかてる…
「……かあちゃん!」秀吉は笑った。「よし! なんとしても勝つのじゃ」
 すると、雨が激しく降り出した。
「かあちゃんからの土産じゃぁ!」秀吉は天を仰ぎ、大声でいった。



【北朝鮮金正恩独裁体制崩壊?】誰も得せぬ独裁体制崩壊ソフト・ランディングを目指せ!

2016年04月25日 19時05分04秒 | 日記










北朝鮮は憎いが崩壊ハードランディングの方がリスキー


 確かに誰も北朝鮮の核兵器実験や拉致やテロや世襲金正恩独裁政権など誰でも嫌である。
しかし、このまま金正恩独裁政権が派手に急速に崩壊して『急速全面北朝鮮独裁政権崩壊』の方が明らかにリスキーである。北朝鮮に石油が出るなら誰もが狙うだろうが、そうではない。只、孤立無援で核兵器開発に血眼になっている。
北朝鮮の独裁政権崩壊で喜ぶのは抑圧された北朝鮮の人民だけ。独裁政権が一挙に急速に崩壊ハードランディングなら難民が中国に何千万人も殺到する。誰が捨てカネを出すのか?拉致問題が解決しないのは独裁政権が存在するからだ。独裁政権が存在する限り『拉致問題解決』は無理だ。
 が、だからといって北朝鮮の崩壊を望むのは無恥・無知と言われても仕方がない。
誰でも北朝鮮の独裁政権など嫌いなのだ。日本もアメリカも韓国も同盟国となっている中国さえも。
一番考えなければならないのは北朝鮮の独裁政権の少しづつの崩壊ソフトランディングである。
北朝鮮は嫌い!独裁政権打倒!金正恩独裁政権の打倒!は浅はか、である。なんといわれても構わないが”生殺し””ソフトランディング”を謀らなければ甘い!ケツが蒼い!崩壊しても一円にもならないどころか中国も日本もカネを出して崩壊後の混乱を収束せねばならない。金正恩などいずれ誰かに殺される。だが、今じゃない。
北朝鮮は憎いが崩壊ハードランディングの方がリスキー、である。博士やNASAやCIAでなくとも馬鹿でもわかる。
拉致問題は解決しないかもしれないがそれも策略であり、消極的ながらも拉致問題への布石である。
我々は現実を直視しよう!北朝鮮は憎いが崩壊ハードランディングの方がリスキーである。それが私の結論だ。
現実をみて戦略を考える。これがすなわちストラテジィ(外交戦略)である。


【スティーブ・ジョブズ小説執筆準備中】映画も参照!mac派でなくWindows派の緑川鷲羽の策略

2016年04月25日 16時30分30秒 | 日記







スティーブ・ジョブズの伝記小説を書こうと思っている。


ですが、伝記映画もあり伝記もどき(他人に書かせた(笑))もあり


二番煎じ感がハンパない。


実は私はmac派ではなくWindows派(笑)


性格最悪の天狗人間であったと知ってるけど英雄に違いない。


日本なら誰?


学歴主義日本にはいないタイプ


永遠のカリスマ人間だ。でも日本の製品の方が優れているのに。マーケティングですよね(笑)勝敗は(笑)

iPhoneよりソニーのエクスぺリアの方がハイスペックで便利でも皆がiPhoneを買うのは、

アップル社の製品が自動車ならポルシェやカウンタックだから。ステータスなんですよ(笑)

そのシステムを解説する本にしたい。

【日本の維新】救国の新世紀維新「見えない身分」解消!1性別2学歴3障害・病気4年齢5外見

2016年04月24日 18時11分04秒 | 日記
 











日本の維新は「見えない身分」の解消だ!





 日本国の維新が改革が叫ばれてひさしい。だが、いっこうに「日本国の維新の夜明け」が見えない。
日本の維新はまずは見えない身分解消だ!見えない身分とは何か?まずは性別であろう。「日本女性は正当に評価されてるか?」日本女性が本当に社会で馬鹿をみてはいないか?女性活躍時代という言葉あそびでおわっていないか?
次の見えない身分は学歴ではないか?東大をハーバード大学を出てない人間は?政治家も官僚も財界も学歴という身分で判断されていないか?高卒なら工場で。大卒なら幹部候補…そういう考えに間違いはないのか?
 大卒でなければ馬鹿で、取るに足りない人間なのか?馬鹿にするな!次の見えない身分は障害・病気ではないか?
差別はある。「あのひとは統合失調症だ(笑)」と鼻で笑うだけで評価しないのは見えない身分ではないか?
 四番目の見えない身分は年齢。若者・老人は正当に扱われてない!若者や老人が損をする社会ではないのか?
 五番目の見えない身分は外見。偏見はないか?外見だけで他人を判断していないか?
見えない身分を解消せねば日本の維新の夜明けはない!日本に見えない身分がある限り、「日本の維新」も「改革」も「王政復古の大号令」も「イノベーション」さえない。その為に我々は日本の維新の為に国の為道の為に軽挙妄動することなく、知行合一で、懸命になって維新することこそ我々に求められていることではないのか?
今こそ、救国の新世紀維新の時だ!ときは今!我々で維新の改革によって”見えない身分”を打破しよう!維新だ!


【NHK大河『おんな城主直虎』の次は】『米沢燃ゆ上杉鷹山公』女大河・おりょう・ガラシャ・雲井龍雄女謙信

2016年04月24日 16時34分22秒 | 日記












NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』の次は,


私原作の『米沢燃ゆ上杉鷹山公』で。

次の女大河は竜馬の妻おりょうが主人公の『龍馬とおりょうがゆく』『おんな大名 おんな上杉謙信』
か『ガラシャ』か『昇り竜が如く雲井龍雄伝(龍雄は男だが女性が役する形で(笑))』!


コンテンツは私に任せて!知行合一、まずは私が国の為道の為動く!


私が行動しなければ日本の米沢の維新はならない!打倒安倍晋三!打倒長州!


    緑川鷲羽  臥竜 2016・4・24・

【平成28年熊本地震以外の記事】【保存版】先輩ママに学ぶ、妊婦さんが気をつけたいこと

2016年04月23日 16時03分08秒 | 日記










【保存版】先輩ママに学ぶ、妊婦さんが気をつけたいこと
ママの声を中心に、妊活中~妊娠中に知っておくといいことをまとめました。 更新日: 2016年04月18日
まとめ編集部さんまとめ編集部さん




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お医者さんに相談しながらボディメンテナンス◎
おっぱいマッサージをする
アマナイメージズ
お母さんのおっぱいを飲む赤ちゃん by アマナイメージズ
おっぱいマッサージをする
医師や助産師に相談しながら、妊娠中期に乳首の手入れをはじめ、妊娠後期からマッサージするといいのだとか。
「授乳は結構、母子ともに根気がいるんだなーというのが最初の感想でした。 おっぱいの手入れありなしでは大きく違ってきます」
出典
妊娠中のおっぱいの手入れ.〜みみりん助産師の妊娠出産おっぱい育児入門
出産後、石のように固くなる「乳腺炎」になってしまう人も多いらしい。。
「産院でおっぱいマッサージをするように言われても痛いし、なかなか毎日は難しいと思いますが、頑張っておくと効果大」
出典
ママテラス | 妊婦だった私へのアドバイス
骨盤ベルトを巻いてみる
Amazon
妊婦帯 World Bridge ダブルベルトでしっかり! 妊婦用サポーター 腹帯 産後骨盤ベルト マタニティガードル 産前、産後に (ピンク)
骨盤ベルトを巻いてみる
妊娠初期・安定期前から使うことができ、腰痛も和らげてくれるそう。こちらも医師や助産師さんに相談しながら使ってみてください。
「産後も使える骨盤ベルトを使用していました。お陰で産後の骨盤の緩みもひどくなく、体重も徐々に減ってきています」
出典
【妊娠中にやっておきたいこと26】1:出産・育児に強い身体をつくる|ベネッセ
自分の筋力を鍛えるため産後は2ヶ月くらいまでがいいという声も。
食事のことも知っておきたい…φ(..)
体型を気にして少食にするのはNG。。
アマナイメージズ
Single pea on white plate by アマナイメージズ
体型を気にして少食にするのはNG。。
産後の体型を気にして、食事を控えるママが多いらしい…
最近、出生時の体重が2500グラム未満の「低出生体重児」が増えている
出典
低体重児、成長後にリスク やせ形妊婦や喫煙が要因 |ヘルス|NIKKEI STYLE
「小さく産んだから、大きく育てよう」とすると、大人になってから糖尿病や心臓病などの成人病になるリスクが高くなる
出典
その話、ホント?それとも迷信?「妊娠中にやったほうがいいこと」の巻|プレママ特集|プレママタウン
えっ。。
母子ともにいいのはやっぱり和食
アマナイメージズ
おうちごはん by アマナイメージズ
母子ともにいいのはやっぱり和食
脂肪分が少ないので太りにくく、まんべんなく栄養をとることができちゃう。
「助産師さんからは『難しいことを考えるより、色々なものを偏りなくバランスよく、よく噛んで味わって食べるように』とアドバイスをもらいました」
出典
妊娠中にしておけばよかった24のこと | よしぱんblog
欠かせない栄養素なのが、「葉酸」
アマナイメージズ
サプリメント by アマナイメージズ
欠かせない栄養素なのが、「葉酸」
厚生労働省も、「食事のほかサプリメントで1日400μgの葉酸摂取」を推奨してる。
「葉酸は赤ちゃんの神経や脳を作るのに重要な栄養素。妊活をしている時、そして妊娠してからも葉酸を飲みました」
出典
妊娠・妊活応援ブログ
助産院で葉酸についてのアドバイスをもらう人もいますが、案外知らない人も多いのだとか。
葉酸は、妊活中の女性こそ必須。妊娠の可能性がある段階で葉酸を意識して摂取することが大切
出典
妊娠したい! その前に摂っておきたいあの栄養素|ウーマンエキサイト(1/2)
妊娠前~妊娠初期は、通常の約2倍近くの葉酸が消費されるらしい。
葉酸は妊娠前からと、授乳中も積極的に摂る必要のある栄養素なのです
出典
葉酸はいつまで摂るべきか、その摂取量とは? | 美肌レシピ
ベビ待ち・妊婦さん向けのサプリも
Amazon
ビタミンとミネラルの美的ヌーボプレミアム
ベビ待ち・妊婦さん向けのサプリも
手軽に必要な栄養素がとれる葉酸サプリ「美的ヌーボプレミアム」
妊活・妊娠・授乳中に必要な葉酸400μgをたっぷり配合
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カラダの中からキレイと健康をつくる Biteki Town
27種類のビタミン・ミネラルに加え、新たにDHA・EPAも配合
出典
カラダの中からキレイと健康をつくる Biteki Town
厚生労働省もDHA・EPAの摂取を推奨してる。
100%天然成分。豊富な栄養素が美容面のサポートもしてくれる
出典
カラダの中からキレイと健康をつくる Biteki Town
ベビ待ち・妊娠中のママの栄養補給に|美的ヌーボプレミアム
https://bitekitown.com/lp/nouveau-pre10
勉強したり、教室に参加してみても♪
離乳食の本を読んでみる
アマナイメージズ
離乳食を食べる赤ちゃん by アマナイメージズ
離乳食の本を読んでみる
出産してからだと時間の余裕がないみたい><
「赤ちゃんの月齢ごとの発育や離乳食など勉強していればよかったなと思います。今はなかなか本を読めずいつもその場しのぎに…」
出典
【妊娠中にやっておきたいこと26】4:サポート体制を整える|ベネッセ
夫と両親学級にいってみる
アマナイメージズ
妊婦のお腹に手をあてる夫婦 by アマナイメージズ
夫と両親学級にいってみる
旦那さんも父親になる心の準備ができて、産後の協力が得られやすくなるかも!?
「育児のやり方がわかったみたいです。また、よその旦那さんたちがたくさん参加していたのを見て、恥ずかしくなくなったみたい」
出典
【妊娠中にやっておきたいこと26】4:サポート体制を整える|ベネッセ
妊娠中イベントに参加してみる
アマナイメージズ
ヨガをする女性たち by アマナイメージズ
妊娠中イベントに参加してみる
ひとつの情報に縛られるより、幅広い声に触れることで安心できるのだとか。
「自治体やNPOが主催するマタニティヨガ教室など、調べてみると意外とありました。産院の母親教室とは違った情報も沢山得られる、とっても質の高いものでした」
出典
妊娠中にしておけばよかった24のこと | よしぱんblog
相談できる人やお友達が増えることで心強いこともあるかも◎お気に入り詳細を見る

HKT48新曲が「女性蔑視」?秋元康氏の言いたい事はジョブズの「馬鹿であれ!」誤解も甚だしい

2016年04月23日 14時23分10秒 | 日記











今月13日に発売されたHKT48のシングル「74億分の1の君へ」に収録されているカップリング曲「アインシュタインよりディアナ・アグロン」の歌詞が「女性蔑視である」として現在批判が殺到している。
 秋元康の歌詞が女性蔑視?実際に歌詞を見てみれば、普通だと分かる。以下にいくつか印象的なフレーズを引いてみたい。
〈難しいことは何も考えない 頭からっぽでいい 二足歩行が楽だし ふわり軽く風船みたいに生きたいんだ〉
〈女の子は可愛くなきゃね 学生時代はおバカでいい〉
〈テストの点以上瞳の大きさが気になる どんなに勉強できても愛されなきゃ意味がない スカートをひらひらとさせてグリーのように〉
〈世の中のジョーシキ 何も知らなくてもメイク上手ならいい ニュースなんか興味ないし たいていのこと誰かに助けてもらえばいい〉
〈女の子は恋が仕事よ ママになるまで子供でいい それよりも大事なことは そう スベスベのお肌を保つことでしょう?〉
〈人は見た目が肝心 だってだって 内面は見えない 可愛いは正義よ〉
 YouTubeでこの曲のミュージックビデオが公開されると、Twitterでは歌詞の内容に異議を申し立てるコメントが殺到した。


 だが、誤解というか女性蔑視ではないと思う。歌詞は真の意味はスティーブ・ジョブズの「馬鹿になれ!」であり、
例えば馬鹿の元・AKB48たかみなや川栄でも高い志をもてば立派にやっていける!という意味で「女は馬鹿でもいい」だの「可愛ければいい」ということではなくて、事実として女だけでなく男だって外見が駄目ならいじめられる訳で。現実主義ということ。
 外見がわるければ俳優であれ歌手であれ政治家であれ差別される、それが現実ではないか!!
秋元先生は悪くない!!ちょっと女子目線で筆が走っただけのこと。女性蔑視等ではない。誤解も甚だしい!

黒田官兵衛<軍師黒田官兵衛と石田三成と「大河ドラマ軍師官兵衛」ふたたび>ブログ連載9

2016年04月23日 06時36分55秒 | 日記














  浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃していた。
 秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。
「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。
 しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」 信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。
 岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。
 とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。
 国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。
 目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。そして、いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大変に喜んで、
「よく参られた」と声をかけた。
 とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。そして、信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。
 浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、
「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!
 すると家康が進みでていった。
「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」
 信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。
 家康はうきうきして軍儀の場を去った。
 信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。
 するとサルが「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのででござりましょう? 御屋形様」といった。
「そうよ、サル! さすがはサルじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。
 翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんた。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。
「押せ! 押せ! 押し流せ!」
 朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。
 両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。
 信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。
 浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。
「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」
 秀吉は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。
「ひきあげるぞ、サル」
 秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつもの御屋形らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………
 こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。




  石山本願寺は、三好党がたちあがると信長に正式に宣戦布告した。
 織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見たのだ。
 信長は八月二十日に岐阜を出発した。そして、横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。
 将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。
 本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。
 信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。
「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。
 足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。
 反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。
 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。
  直江兼続は上杉の使者として、岐阜城へと数名で入っている。兼続は魔王・織田信長と対面した。「信長さまは上杉の御見方なのかそうでないのか…」
「のう、兼続。わしは比叡山や石山本願寺を討とうとしている。どう思うか?」
「それは義に劣りまする! 坊主を討つはみ仏に刃を向けるのと同じに御座る!」
「義とは戦の為の口実にすぎない……坊主ではない。金と欲に眼の眩んだ武装集団でしかない。それを殺すのは当たり前だ。天下は綺麗事では取れない」
「お言葉ながら……義がなければ人は野山の獣と同じにござりまする!」
「…ほう」
「い…いえ。謙信公がそう申しておられて…そのぉ」
 信長は笑って「ならば獣でも鬼でもよい。天下を取れるならばこの身、獣鬼にくれてやるわ!」といった。そして座を去ってから秀吉に「あやつの首、上杉に送れ。織田の天下に上杉は無用じゃ」という。秀吉は兼続の命が惜しいと思った。
 そこで兼続の命を、石田佐吉(三成)が救った。刺客から逃れさせ、越後へ帰した。
「あなた様の名は?」兼続はきく。と、石田が「佐吉…羽柴秀吉家臣・石田佐吉じゃ」
「このご恩……この兼続……生涯忘れませぬ!」
 兼続はそういって礼を申した。こうして直江兼続と石田三成ががっちりと組んで、関ケ原で共に戦うことになる。上杉が西軍についたのはここが始まりといっていい。

  信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」
「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。
「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」
「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」
「天罰が下りまするぞ!」
 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。
「わしに反対しようというのか?!」
「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」
 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。
「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」
 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”家臣たちは恐ろしくなった。
 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず、日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。
 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。


 有岡城の城主・荒木村重は天正6年(1578年)11月に突如として織田信長に反旗を翻した。
が、苦しい戦いを強いられ、荒木村重は天正7年9月に有岡城を抜け出し、中国の毛利元就に援軍を求めた。
しかし、天正7年(1579年)11月、城主・荒木村重が不在となった有岡城は、城兵が織田軍の調略に応じ、落城する。
御着城の城主・小寺政職は、有岡城の城主・荒木村重に同調して織田信長に反旗を翻した。
が、有岡城が落城すると、天正7年12月に御着城を捨てて中国地方へと逃げた。
小寺政職は中国地方を流浪しながら、織田信長に謝罪したが、織田信長は裏切り者の小寺政職を許さなかった。
その後、小寺政職は毛利輝元を頼り、備後の鞆(広島県福山市鞆)に住み、天正10年(1582年)に死んだ。小寺政職には男子・小寺氏職の他に、女子数人の子供が居たが、小寺政職の死によって大名としての小寺家は滅んだ。
小寺家の滅亡を哀れんだ黒田官兵衛(小寺官兵衛)は、羽柴秀吉に、
「小寺政職は不義によって流浪し、死んで小寺家は滅びました。息子の小寺氏職を引き取って養育したいので、小寺氏職の罪は恩赦してください」
と頼んだ。
黒田官兵衛の希望を聞いた羽柴秀吉は、昔の恩を忘れない志に感心し、黒田官兵衛の願いを聞き入れた。
小寺官兵衛は家臣・衣笠久右衛門を備後の鞆(広島県福山市鞆)に派遣して、小寺家を呼び寄せ、小寺氏職を養育した。
小寺官兵衛は小寺政職のせいで命の危機にさらされたのに、旧悪を忘れ、なんと情の深いことか。「恩をもって仇を報ず」とは、このことである、と人々は感心した。
黒田官兵衛と父・黒田職隆は、御着城の城主・小寺政職に仕え、小寺政職から「小寺」姓を賜り、小寺姓を名乗っていた。
しかし、小寺官兵衛は織田信長に反旗を翻し、毛利輝元に寝返ったので、黒田官兵衛と父・黒田職隆は小寺姓を捨て、旧姓「黒田」へと戻した。
どの時点で黒田姓へと戻したのか、正確な時期は分からない。
御着城の城主・小寺政職は織田信長に属していたが、途中で毛利側へと寝返った。
「小寺」は反逆者の姓なので、織田信長(または羽柴秀吉)が小寺官兵衛に「小寺」姓の使用を禁じた、という説もある。
いずれにせよ、黒田官兵衛は小寺性を捨てて名実共に黒田官兵衛に復帰したので、ここからは表記を「小寺官兵衛」から「黒田官兵衛」へと変更する。
 天正8年(1580年)閏3月、人質となっていた松寿(後の黒田長政)が、黒田官兵衛の元に返還される。
天正8年(1580年)、三木城を落として東播磨を平定した羽柴秀吉は、姫路城を黒田官兵衛に返還し、三木城を居城と定めた。
しかし、黒田官兵衛は、
「三木城は要害ですが、播磨では辺境の地にあり、居城には適していません。姫路は諸国への通路も良く、運送の便も良い要所なので、姫路を居城になされませ」
と助言した。
羽柴秀吉は、
「姫路城は汝の城であろう」と姫路城を返そうとしたが、
黒田官兵衛は「姫路城は中国征伐の重要拠点にて、もとより秀吉様に献上したものに御座います」と答えて受け取らなかった。
このため、羽柴秀吉は姫路城を居城とし、黒田官兵衛は父・黒田職隆が築いた国府山城(こうやまじょう=別名は妻鹿城)を居城とした。
そして、黒田官兵衛の助言により、羽柴秀吉が居城・姫路城の改修工事を行う。
この姫路城の改修工事は、黒田官兵衛と浅野長政によって進められた。
さて、播磨には若干の毛利勢力が残っていたが、その後、羽柴秀吉によって駆逐され、羽柴秀吉によって播磨が統一された。
その後、織田信長は播磨16郡52万石と丹波13万石を羽柴秀吉に与えた。
すると、羽柴秀吉は黒田官兵衛に東揖郡(現在の兵庫県揖保郡)福井庄内など計1万石を与えた。
こうして、小寺家の家老だった黒田官兵衛はようやく大名に成り上がることができた。
黒田官兵衛が1万石の大名になったのは天正8年(1580年)9月、黒田官兵衛が35歳の事であった。
(注釈:1万石以上になると大名に分類される)。
さらに、翌年の天正9年(1581年)に1万石が加増され、黒田官兵衛は2万石の大名になった。
 天正8年(1580年)5月、播磨(兵庫県南部)をほぼ平定した羽柴秀吉は、弟・羽柴秀長を派遣し、但馬(兵庫県北部)を攻めた。
そして、但馬の守護大名・山名祐豊を討ち取り、但馬を平定した。
但馬を平定した羽柴秀吉は進路を西に取り、因幡(鳥取県東部)の攻略に取りかかる。
因幡の守護大名は鳥取城の城主・山名豊国であった。
天正8年(1580年)6月、羽柴秀吉の軍勢が、因幡にある山名豊国の鳥取城を包囲する。
羽柴秀吉が、
「降伏すれば因幡1国を安堵する」と持ちかけると、
鳥取城の城主・山名豊国は羽柴秀吉に降伏する。鳥取城を落とした羽柴秀吉は播磨へと引き上げた。
ところが、天正8年(1580年)9月、山名豊国の家臣や兵は毛利側によしみを通じ、羽柴秀吉に降伏した城主・山名豊国を追放して鳥取城に籠城したのである。
こうして、鳥取城で籠城する家臣は、総大将が不在になったため、毛利輝元の重臣・吉川元春に守将の派遣を求めた。
吉川元春は毛利家で山陰地方の責任者であり、鳥取城の要請を受け、家臣・牛尾元貞を鳥取城へ派遣した。
しかし、牛尾元貞は鳥取城で籠城するが、死亡(「病死」または「負傷死」)してしまう。
このため、吉川元春は牛尾元貞の後任として、家臣の市川雅楽允・朝枝春元の両名を鳥取城へ派遣した。
が、鳥取城側は吉川元春に守将のチェンジを要求した。
このため、吉川元春は一族の吉川経家を鳥取城に派遣し、天正9年(1581年)3月に吉川経家が鳥取城へ入った。
吉川経家は自分の棺桶を用意して鳥取城へ入ったという。
天正9年(1581年)6月、羽柴秀吉は鳥取城への再派兵を決定し、黒田官兵衛を軍艦(軍師)に据え、2万の軍勢を率いて吉川経家が守る鳥取城を目指した。
さて、軍師・黒田官兵衛は鳥取城を攻めるにあたり、事前に因幡にある米を1粒残らず、相場の倍値で買い占め、若狭へと運んでいた。
さらに、黒田官兵衛は鳥取城を包囲する直前に、鳥取城の周辺に在る農村を襲い、ことごとく焼き払った。
自宅を失った農民は鳥取城へ逃げ込み、鳥取城の人口は一気に膨れあがった。
そこで、羽柴秀吉は2万の大軍で鳥取城を包囲し、兵糧攻めにしたのである。
これは、「三木の干殺し」と呼ばれる三木城の兵糧攻めが1年10ヶ月を要したため、もっと効率よく兵糧攻めを行うために、黒田官兵衛が考えた作戦だとされている。
このとき、鳥取城には20日分の兵糧しか残っていなかった(鳥取城は黒田官兵衛の策だとは知らず、籠城戦に備えて蓄えていた兵糧を売り払ったとも伝わる)。
そこへ、黒田官兵衛に家を焼かれて行き場を失った農民が逃げ込んできたため、鳥取城は一気に人口が膨れあがり、食糧不足に陥った。
下々の者まで食料は回らず、草や木の葉を食べ、稲の根を食べた。
木の皮や草の根を食べ尽くし、牛や馬の肉を食べたが、それでも食料は足らず、やせ衰えていった。
鳥取城は毛利からの援軍を期待したが、羽柴秀吉が2万の大軍で海路も陸路も完全に封鎖しているため、毛利からの援軍は羽柴秀吉の軍に阻まれて鳥取城まで到達できず、鳥取城は完全に孤立した。
食糧の尽きた鳥取城は、地獄だった。籠城開始から4ヶ月が過ぎた10月になると寒さも増し、4千人の餓死者が出た。
やがて、鳥取城内の下々の者は、死人を掘り返して肉(人肉)を食べるようになり、地獄絵図が展開されるようになった。
いわゆる人肉を食べる「カニバリズム」である。
また、鳥取城から逃げだそうとした者が羽柴秀吉の軍勢に撃たれてれると、鳥取城の下々の者は撃たれた者に群がり、まだ息のあるうちから、撃たれた者の手足を切り取り、食べた。
人肉の中で脳みそは美味しいのか、頭は人気があり、下々の者は頭を奪い合って食べた。
このように人肉まで食べるようになった鳥取城の籠城戦が、世に言う「鳥取の飢殺し(鳥取の渇殺し=かつごろし)」である。
いかに大河ドラマでもこのような残虐なシーンは放送されることはなかった。
鳥取城兵糧攻めの「鳥取の飢殺し」と三木城兵糧攻めの「三木の干殺し」の2戦は、日本の兵糧攻めを代表する惨劇で、そのいずれも天才軍師・黒田官兵衛の献策だとされる。(注釈:三木城包囲は竹中半兵衛の献策とも言われている。)
天正9年(1581年)10月25日、人が人肉を食べるという地獄絵図に耐えきれなくなった守将・吉川経家は、兵士の助命と引き替えに切腹して、開城した。
三木城兵糧攻め(三木の干殺し)は1年10ヶ月を要したが、鳥取城攻略では天才軍師・黒田官兵衛の「鳥取城の飢殺し(渇殺し)」作戦が見事にはまり、鳥取城はわずか4ヶ月で落城したのである。
ただ、「鳥取城の飢殺し(渇殺し)」作戦を献策した軍師・黒田官兵衛は、鳥取城の落城を前に、阿波(徳島県)の三好家の救出を命じられ、阿波へと向かっている。
 天正8年(1580年)、羽柴秀吉が但馬(兵庫県北部)・因幡(鳥取県東部)の征伐を進めるころ、四国では土佐(高知県)の長宗我部元親が、阿波(徳島県)の三好家へ侵攻していた。
元々、土佐(高知県)の長宗我部元親は、織田信長の家臣・明智光秀と親戚で、織田信長と同盟を結び、良好な関係にあった。
そこで、長宗我部元親は明智光秀を通じて、織田信長に鷲や砂糖を贈り、織田信長から「四国を自由に切り取って良い」と許可を得ていた。
一方、阿波(徳島県)の三好家は、14代将軍・足利義栄を擁立し、中央政権でも権力を誇った名家だったが、15代将軍・足利義昭を擁立して上洛を果たした。
織田信長との戦に敗れ、衰退していた。
三好家は織田信長と対立していたが、没落後は黒田官兵衛を通じて織田信長の傘下に入り、三好家は羽柴秀吉の養子・羽柴秀次を養子に貰い受けていた。
このため、土佐の長宗我部元親と阿波の三好家の両家は、ともに織田信長側の勢力となっていた。
このようななか、土佐(高知県)の長宗我部元親が阿波への侵攻を開始た。
そして、長宗我部元親は阿波(徳島県)と讃岐(香川県)をほぼ平定し、四国統一に迫った。
これに困った三好家は、長宗我部元親による四国統一を阻止するため、織田信長に救済を求めた。
これを受けた織田信長は長宗我部元親に、讃岐と阿波の一部を統治を認め、讃岐と阿波の北部を返還するように命じた。
しかし、長宗我部元親は、
「自分で切り取った領土で、織田信長から拝領したものではない」
として、織田信長の要求を無視し、阿波への侵攻を続けた。
これに怒った織田信長は、羽柴秀吉に三好家の救済を命じた。
これにより、長宗我部元親との交渉を努めていた明智光秀は、厳しい立場に立たされた。
さて、三好家の救済を命じられた羽柴秀吉は、鳥取城を兵糧攻め(鳥取の飢殺し)にしている最中だった。
羽柴秀吉は、毛利側の援軍・吉川元春とも対峙して動けないため、軍師・黒田官兵衛を名代として四国へと派遣した。
このころ、姫路では黒田職隆が容態が悪化し、命も危ない状態だったが、黒田官兵衛は黒田官兵衛は命令を拒否することは出来ず、嫡子・黒田長政に「私に変って黒田職隆によく仕えるべし」と命じ、三好家の救済へと向かった。
なお、黒田長政は黒田官兵衛の言いつけを守り、献身的に介抱を行ったので、黒田職隆の病気は治った。
 天正9年(1581年)9月、黒田官兵衛は仙谷秀久を淡路島へと派遣した。
ほかに、生駒親正などを阿波(徳島県)へと派遣し、黒田官兵衛自身も阿波へと渡った。
天正9年(1581年)11月15日、三好家から援軍の要請があったため、淡路に居た仙谷秀久を阿波の勝端城の援軍に差し向け、黒田官兵衛は淡路島へと上陸した。
淡路島には由良城(ゆらじょう)という要害があり、由良城には安宅河内守という強敵が居た。
このため、黒田官兵衛は誅殺によって由良城の城主・安宅河内守を斬り、淡路島の平定を成し遂げた。
黒田官兵衛が生涯で誅殺した人数は2人だけで、その1人目が姫路時代に仕えた小寺家の家老・山脇六郎左衛門である。
そして2人目が、由良城の城主・安宅河内守(あたぎきよやす)である。
なお、黒田官兵衛が城主・安宅河内守を斬った刀は、名刀「安宅切」と呼ばれ、現在(2013年)は福岡市博物館に保存されている。
天正9年(1581年)11月、淡路島・阿波・讃岐を平定し、三好家を救済した黒田官兵衛は、淡路島の洲本城(兵庫県洲本市)を仙石秀久に任せて姫路へと引き上げた。このとき、黒田官兵衛は36歳であった。
 武田信玄の亡き後を継いだ甲斐(山梨県)の武田勝頼は、天正3年(1575年)の「桶狭間の合戦」で織田信長・徳川家康の連合軍に敗れて衰退していた。
天正10年(1582年)2月、織田信長は甲斐の武田勝頼を攻め、天正10年3月の「天目山の戦い」で武田勝頼を討ち、武田家は滅んだ。
北陸の上杉家は上杉謙信の亡き後、家督争いで疲弊しており、もはや織田信長の敵では無かった。
武田勝頼を滅ぼした後、残る強敵は九州の島津義久、四国の長宗我部元親、中国の毛利輝元となっており、織田信長の野望は天下統一に一歩一歩と近づいていたのである。


         7 本能寺の変



         長篠の合戦と安土城



話を戻す。
織田信長が三木城に差し向けた援軍・織田信忠は、織田信長に反旗を翻した神吉城と志方城を落城させた。
そして、上月城の援軍に向かった羽柴秀吉は織田信長の命令により、上月城を見捨てて三木城の攻略を再開すると、援軍に来ていた織田信忠の軍は兵を引き上げた。
さて、三木城は自然を巧みに利用した要害だった。
羽柴秀吉は籠城する三木城を力攻めで落とすのは難しいと考え、平井山に本陣を置くと、三木城を包囲し、糧攻めにした。
三木城には大勢の兵が籠城しており、食糧の補給が課題となっていた。
兵糧攻めは、黒田官兵衛や竹中半兵衛の献策とされている。
羽柴秀吉は三木城の周りに監視の付城を築いて食糧補給路を断ち、三木城を包囲して兵糧攻めにする一方で、三木城の別所長治に同調して織田信長に反旗を翻した東播磨の豪族を討伐していく。
ちなみに黒田官兵衛と竹中半兵衛で二兵衛で、ある。
羽柴秀吉の軍勢が三木城の別所長治と小競り合いを行っているとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が500騎ほどを率いて山陰に布陣していた。
羽柴秀吉は小寺官兵衛を見て、
「官兵衛はなんでこんな所に居る。もしかして、官兵衛までも寝返る気か」と驚いた。
すると、羽柴秀吉の軍師・竹中半兵衛は、羽柴秀吉に、
「あれは伏兵でしょう。今日の戦は必ず勝ちます」
と言い、神子田半左衛門に指示を与えた。
神子田半左衛門は竹中半兵衛の指示通り、城を攻めて弓兵と一戦すると、早々に引き上げた。
すると、敵軍は好機と見て、城から打ち出て神子田半左衛門を追いかけた。
山陰に布陣していた小寺官兵衛は時機到来と伏兵を起こし、城から出てきた敵軍を追撃した。
すると、竹中半兵衛が言った通り、敵軍が羽柴秀吉の陣の前を通ったので、羽柴秀吉は手勢を出し、側面から敵を攻撃した。
そこで、偽りの敗走をしていた神子田半左衛門も竹中半兵衛の指示通りに、とって返し、敵軍を攻めた。
結局、敵軍は、小寺官兵衛・羽柴秀吉・神子田半左衛門に三方から囲まれて全滅した。
三木城の戦いで、小寺官兵衛と竹中半兵衛は両輪のごときに活躍し、作戦を打ち合わせもせず、合図も無かった。
が、お互いの意図を察知して、阿吽の呼吸で臨機応変に作戦を変更し、敵を駆逐していったという。
[注釈:小寺官兵衛(黒田官兵衛)と竹中半兵衛の事を合わせ「二兵衛(両兵衛)」と呼ばれる場合があるが、「二兵衛(両兵衛)」は歴史小説家が付けた愛称なので、一般的ではない。私は軍師・竜虎と付けた。]
さて、小寺官兵衛は織田信長から、備前・備中・美作(いずれも岡山県)の3国を治める大名・宇喜多直家の調略を命じられており、三木城の兵糧攻めが膠着状態に陥ると、宇喜多直家の調略にあたった。
播磨の赤松家は播磨・備前・美作の守護大名であった。
が、備前の家臣・浦上宗村の下克上によって赤松家は衰え、備前・美作は浦上宗村に奪われた。
しかし、浦上宗村の孫・浦上宗景の時代に、浦上家の家老・宇喜多直家が明石景親の支援を受けて台頭する。
と、浦上宗景は家臣・宇喜多直家に討たれた。
こうして、宇喜多直家は大名にのし上がり、備前・備中・美作(いずれも岡山県)の3国を治める大名にまで発展した。
その後、宇喜多直家は中国地方の毛利元就の傘下に入り、一時は東播磨にまで勢力を伸ばしていた。
このため、播磨(兵庫県)へ進軍した織田信長は、小寺官兵衛(黒田官兵衛)に、
「毛利の手前に宇喜多が居るので、宇喜多を退治して、毛利を滅ぼせ」と命じていたのである。
さて、備前・備中・美作(いずれも岡山県)を支配する宇喜多直家の影響は東播磨にまで及んでおり、東播磨の上月城は宇喜多直家の支配下にあった。
しかし、この上月城は羽柴秀吉の侵攻を受けて羽柴秀吉に奪われ、尼子勝久に与えられた。
その後、毛利輝元は水路と陸路から播磨へと兵を送り、陸路からは毛利軍の吉川元春と小早川隆景が5万の軍勢を率いて上月城へと差し向けた。
上月城は元々、宇喜多直家の支配下だったので、この戦いは領地回復に繋がるのだ。
が、宇喜多直家は病気と称して出陣せず、弟・宇喜多忠家を参加させていた。
織田信長から宇喜多直家の討伐を命じられていた小寺官兵衛(黒田官兵衛)は、宇喜多直家の行動から、宇喜多直家は心底は毛利輝元に属していないと察知し、説得を試みた。
宇喜多家には、宇喜多直家の台頭に貢献した重臣・明石景親が居る。宇喜多家の明石景親は、播磨・明石家の同族で、明石城の城主・明石正風の甥であった。
小寺官兵衛の母親は、明石正風の娘なので、小寺官兵衛は明石景親と親戚関係にあった。
小寺官兵衛は親戚の縁に頼って宇喜多家へ使者を送ったという。
小寺官兵衛は宇喜多家に使者を送り、
「毛利輝元は大国の主だが、天下を治める器では無い。毛利輝元は東播磨に大軍を派遣したが、上月城を1つ落とした事に満足し、我々を追撃しなかった。それに、私は阿閉城(あべじょう)で毛利の大軍を退けた。一方、織田信長は天下の都を領し、四方に命令を飛ばす天下の将である。貴殿は毛利輝元に属しているが、元来、毛利家から恩を受けているわけではない。力量の無い毛利家を頼るより、織田信長を頼れば、宇喜多家の繁栄になる」
と説得する。
宇喜多直家は直ちに家老を集めて意見を求めると、家老は、
「小寺官兵衛の意見に従い、毛利輝元に背いて、織田信長に属するのがよろしい」と言う意見で一致した。
評議が決すると、宇喜多直家は直ぐに家老・花房助兵衛(花房志摩守)を小寺官兵衛の元へ派遣し、織田信長への降参を申し出る。
小寺官兵衛は花房助兵衛を羽柴秀吉に会わせると、羽柴秀吉は大いに喜び、花房助兵衛に太刀を与えた。
このようななか、天正6年(1578年)10月に突如として摂津(大阪府北部)を治めていた有岡城の城主・荒木村重が織田側から毛利側へと寝返ったのである。
 天正6年(1578年)10月、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が32歳のとき、織田信長に属して摂津1国(大阪府北部)を治めていた有岡城の城主・荒木村重が、突如として織田信長に反旗を翻して毛利側へと寝返った。
荒木村重は、摂津の豪族・荒木義村の嫡子として生まれる。
当初は池田勝正に仕えていたが、織田信長に気に入られて、織田信長の家臣となり、近畿での戦で功績を挙げ、摂津1国を任される大名にまで成り上がった。
荒木村重が織田信長に拝謁したとき、織田信長は饅頭を剣で突き刺し、荒木村重に「食べてみよ」と命じた。
家臣一同が青ざめるなか、荒木村重は平然と剣に突き刺さった饅頭を1口で飲み込んだため、織田信長は荒木村重を気に入り、摂津1国を任せたという。
荒木村重は織田側の軍勢として、石山本願寺攻めでは先鋒隊を務め、中国征伐では副大将を務めるほど、織田信長から信頼を得ていた。
さらに、摂津は織田信長勢力の最西端にあったため、播磨方面の担当窓口のような役割をしており、荒木村重は織田信長の中国征伐で重要な役割を担っていた。
一方、上杉謙信の死によって第3次信長包囲網は弱まったものの、15代将軍・足利義昭は依然として各地の大名に調略を続けたいた。
このようななか、有岡城の城主・荒木村重は、15代将軍・足利義昭の調略を受け、突如として織田信長に反旗を翻したのである。
荒木村重は摂津で大きな影響力を持っていたため、荒木村重が織田信長に反旗を翻す。
と、周辺の豪族も荒木村重に呼応して織田信長に反旗を翻し、摂津1国(大阪府)が毛利側に寝返った。
これに困るのが、三木城を包囲していた羽柴秀吉である。
摂津が離反すると、岐阜から播磨へと延びる戦線が遮断されるうえ、摂津は三木城と隣接してるため、籠城している三木城に食糧補給路が出来てしまうのだ。
さすがの織田信長も荒木村重の離叛に驚き、
「母親を人質に差し出せば、離叛は無かったことにする」
という条件を出し、明智光秀や蜂須賀正勝らを説得に当たらせたが、荒木村重の意思は硬かった。
そのようななか、小寺官兵衛(黒田官兵衛)の元に、御着城の城主・小寺政職が有岡城の城主・荒木村重に呼応して、織田信長に反旗を翻すという噂が伝わってのである。
これに驚いた小寺官兵衛は、御着城を訪れて主君の小寺政職を必死に説得したが、小寺政職に応じなかった。
そのとき、小寺家の家老が小寺官兵衛を暗殺するという噂が聞こえたため、小寺官兵衛は密かに姫路城へと帰り、父・黒田職隆に相談した。
父・黒田職隆が家老を集めると、家老は、
「官兵衛殿を御着城へ返しては命が危ない。ここは姫路城に引きこもり、使者を遣わして難を逃れるべきです。いよいよ敵が攻めてくるのであれば、合戦し、寄せ手を討ち果たし、御着城へ攻め入りましょう」
と意見した。
しかし、小寺官兵衛は家老に、
「この城に立て籠もれば、小寺政職に対して謀反人となる。小寺家と合戦をすれば、不義になる。小寺政職に疑われて暗殺されたとしても、それは私の不義にはならない。武門の家に生まれたからには、義を重んじ、命は惜しまない」
と反対した。
すると、父・黒田職隆は、
「織田信長を主と仰ぎ、小寺政職を旗頭とした以上は、織田信長に二心を抱かず、小寺政職に背かない事が当然の義理である。いつものように御着城へ行き、小寺家の家老をあしらうべし。もし、難を逃れられない場合は、切腹するべし」
と小寺官兵衛の意見に賛成した。
こうして、小寺官兵衛はいつもの様にわずかな供を従え、再び御着城へ入った。

新島八重の桜 大河ドラマ『八重の桜』ふたたび維新回天草莽掘起篇ブログ小説10

2016年04月22日 05時37分10秒 | 日記










1868年10月8日午前、会津藩は若松城の西隣にある藩校「日新館」が新政府軍の拠点に利用されることを恐れ、日新館に火矢を放って焼き払った(日新館の放火事件)。
さらに会津藩は新政府軍が隠れる場所を無くすため、城外の屋敷にも火矢を放って燃やした。
戸ノ口原へ援軍に向かった白虎隊(士中二番隊)のうち16人が、飯盛山へたどり着いたのは、会津藩が藩校「日新館」に火矢を放ったころだった。
1868年10月8日午前11時ごろ、戸ノ口原の戦いで敗走した白虎隊(士中二番隊)16名が飯盛山へと落ち延びた。
飯盛山から城下町を観ると、若松城は燃えており、城下町の至るところから火の手が上がっていた。
一説によると、藩校「日新館」は若松城の西に隣接しており、飯盛山から若松城を観ると、日新館が燃えると、あたかも若松城が燃えているように見えるという。
前述したが、白虎隊(士中二番隊)の中には「敵陣に切り込んで討ち死にしよう」という意見もあったが、「敵の手に落ちて辱めを受けては、主君の名を汚す」として、白虎隊(士中二番隊)16人は自害したのであった。
やがて、新政府軍の後続部隊が到着する。攻めあぐねた土佐藩に変わり、若松城を攻撃するのが薩摩藩士・大山巌(おおやまいわお)である。
1868年10月8日(慶応4年8月23日)午後、大砲隊を指揮する薩摩藩士・大山巌は火縄銃の届かない安全圏に大砲を配置し、若松城をめがけて砲撃を開始した。
薩摩藩士・大山巌は火縄銃の射程外に布陣しているため、火縄銃しかない会津兵はなすすべ無く、砲撃を受けるだけだった。
しかし、山本八重はスペンサー銃を構えて1発の銃弾を放つと、薩摩兵の大砲が止んだ。
山本八重が放った銃弾は薩摩藩士・大山巌の右大腿部を貫いたのだ。
正確に言えば、山本八重が薩摩藩士・大山巌を撃ったという証拠は無い。
が、火縄銃の射程200メートルに対してスペンサー銃は射程800メートルあり、遠方の大山巌に弾が届く銃は山本八重のスペンサー銃だけだったため、山本八重が大山巌を狙撃したとされている。
山本八重に撃たれた薩摩藩士・大山巌は戦線を離脱し、新政府軍は攻勢を弱める。山本八重は再び新政府軍を退けた。
一方、国境の警備に当たっていた家老・西郷頼母や家老・原田対馬(はらだ・つしま)などの部隊が、敵の隙を尽きて若松城へ帰城した。
国境警備に当たっていた会津藩の主力部隊の一部だが、家老・西郷頼母らの帰城により、会津藩の士気があがった。
さらに、山本八重らは城壁の石垣を押し出し、穴を開けると、大砲を突っ込み、城壁に空いた穴から新政府軍を砲撃した。
この時に山本八重らが落とした石垣は、今も若松城のお堀に沈んでおり、お堀の水が少なくなると、石垣が出現する。
新政府軍はその後も攻撃を続けたが、日が暮れ始めたため、攻撃を終了し、一度兵を退いた。会津藩は山本八重のおかけで、籠城戦の初日を無事に乗り切ったのである。
しかし、会津藩は籠城戦の備えをしていないうえ、多くの指揮官を失っており、首脳陣は抗戦派と降伏派に別れていた。
1868年10月8日(籠城戦の初日)昼、土佐軍を退けた山本八重は藩主・松平容保に出陣を談判したが、藩主・松平容保は
「女まで出陣させたとしては会津藩の恥だ」と言い、山本八重の出陣を禁じた。
山本八重以外にも、多くの女性が薙刀を持ち、出陣の許可を求めたが、
「会津藩士が女の手を借りたとあっては、末代までの恥である」
として、誰一人として出陣は許可されなかった。
女を戦いに参加させることは、武士道を貫く会津藩士にとっては恥ずべき行為なのである。
さらに、会津藩の家訓「会津家訓十五箇条(御家訓)」の第4条には「婦人女子の言、一切聞くべからず」と記されており、女性の山本八重が出陣を懇願しても、一切、聞き入れてもらえるはずも無かった。
山本八重らがいくら談判しても女の出陣は認められない。会津藩の教え「什の掟」にも「ならぬことは、ならぬものです」とある。
仕方なく出陣を諦めた山本八重は、負傷兵の治療にあたっていたが、会津兵が新政府軍に夜襲を行う計画があることを知る。
これも前述したが、そこで、山本八重は夜襲なら、敵兵も女か男か判断できないと思い、髪を切り落として男装し、亡き弟・山本三郎として夜襲に加わることにした。
山本八重は髪を切り落とそうとするが、自分ではなかなか切れないため、自宅の裏側に住んでいる幼なじみの高木時尾(たかぎ・ときを)に頼んで髪を切り落としてもらった。
男装をして戦ったのは山本八重だけではなく、娘子隊(婦女隊)らも男装で新政府軍と戦ったが、城内で断髪した女性は山本八重が初めだという。
髪を切り落とした山本八重は腰に刀を差し、ゲベール銃を担いで、夜襲隊に加わって城外へ出ると、闇夜に紛れて敵兵に切り込んだ。
夜襲を受けた新政府軍は混乱して同士討ちを始めたが、援軍が到着すると、体制を立て直し、反撃してきた。
当初より、夜襲隊は深入りしないと決めていたため、山本八重らは適度に新政府軍の兵士に攻撃を加えると、裏道を通って早々と若松城へと引き上げた。
なお、山本八重はこのような活躍から、「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれている。
しかし、当時、山本八重のことを「幕末のジャンヌダルク」と呼んだ事を示す文献はないため、「幕末のジャンヌダルク」は近代になってメディアが付けたキャッチフレーズだとされている。
また、山本八重といえばスペンサー銃だが、若松城篭城戦の初日の夜襲からはゲベール銃を使用しており、以降はスペンサー銃は登場しない。
ゲベール銃は洋式銃だが、先込め式で火縄銃に毛の生えた程度の性能しかない旧式銃である。
最新式のスペンサー銃と比べれば、性能の差は雲泥である。
山本八重は最新式のスペンサー銃と銃弾100発を持って若松城へ入場していたが、初日に100発全てを撃ちつくし弾切れになったため、以降はゲベール銃を使用したとされている。
旧式銃の弾は若松城で製造できたのだが、スペンサー銃は最新式だったため、弾が製造できなかったのだ。

         6 官軍迫る



またまた話しを変える。まるで落ち着きのない独楽の如く。
  鶴ケ城の庭で、集まった家臣や少年たちに松平容保は激をとばした。
「日本の近代化は余たちがやる! 薩長なにするものぞ! ジャンプだ! この新天地でジャンプだ!」
 一同からは拍手喝采がおこる。
 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……
 会津藩三千余名、福島でのことである。
 少年たちはナギナタをもった姉たちをからかった。
「これ! 貞吉! ふざけている場合ではないですよ!」
 姉のおみねが諫めた。すると弟が、
「ぼくは姉上が母上の御腹の中に落としていったものをつけて生まれたんだ」
 といった。
 意味がわかっておみねは「これ!」と顔を赤くした。
 慶応四年(一六七八)一月二十八日、いよいよ官軍が迫ってきた。
 同年八月には藩主・松平容保は「薩長と戦う! 奸族どもを始末するのだ!」
 と激を飛ばした。
 八月二十三日には食料や弾薬が底をついてきた。
 会津軍八千、官軍二万……
 とても勝てそうにもなかった。
 しかし、会津白虎隊少年たちは火縄銃で交戦していた。
「おれらが負げる訳ね!」
「んだ! おれらが正義だ!」
 しかし、会津は次々と敗走しだす……

  明治二年、榎本脱走軍は蝦夷全土を占領した。
 そこで、榎本武揚らは「蝦夷共和国」の閣僚を士官以下の投票により選出した。
 選挙の結果は左のとおりである。

 総裁      榎本武揚
 副総裁     松平太郎
 海軍奉行    荒井郁之助
 陸軍奉行    大鳥圭助
 箱館奉行    永井玄蕃
 開拓奉行    沢太郎左衛門
 陸軍奉行並   土方歳三

 なお土方は、箱館市中取締裁判局頭取を兼ねることになったという。
 一同はひとりずつ写真をとった。
 土方歳三の有名なあの写真である。しかし、「蝦夷共和国」はつかのまの夢であった。 同年一月中旬、明治政府がついに列強国との局外中立交渉に成功した。ということはつまり米国最新甲鉄艦の買いつけに成功したことを意味する訳だ。
 それまでの榎本武揚は開陽丸を失ったとはいえ、海軍力には自信をもち、いずれは明治政府も交渉のテーブルにつくだろうと甘くみていた。よって、蝦夷での事業はもっぱら殖産に力をいれていた。
 とくに七重村でのヨーロッパ式農法は有名であるという。林檎、桜桃、葡萄などの果樹津栽培は成功し、鉱山などの開発も成功した。
 しかし、「蝦夷共和国」は開陽丸を失ったかわりに官軍(明治政府軍)は甲鉄艦を手にいれたのである。力関係は逆転していた。


  明治二年(一八六七)二月昼頃、江戸の官軍による収容所に訪ねる一行があった。
 佐久とその父・林洞海と兄である。
「良順おじさまにあえないわ」
 佐久はいった。「良順おじさまは賊軍ではないわ。だってお医者さまだもの」
 だが、加賀藩用人・深沢右衛門は「松本良順は賊軍、面会は駄目じゃ」というばかりだ。 林洞海は「今何時かわかりまするか?」とにやりといった。
 深沢は懐中時計を取り出して「何時何分である」と得意になった。
 すると、洞海は最新式の懐中時計を取りだして、
「……この時計はスイス製品で最新型です。よかったらどうぞ」と賄賂を渡した。
「しかし……」
「どうぞ」
 深沢はついに誘惑におれた。
「三十分だけだぞ」
 佐久とその父・林洞海と兄は刑務所の檻に入れられた松本良順と再会した。
「おお! 佐久! それに林殿も…」
 松本良順は歓喜の声をあげた。
 松本良順は仙台で土方歳三らと合流するつもりだったが、持病のリウマチが悪化し神奈川に帰ったところを官軍に捕らえられていた。
「……お元気でしたか?」
 佐久は気遣った。
 すると良順は「わしはとくになんともない。それより……」
 と何かいいかけた。
「…なんですの?」
「官軍が会津まで到達したそうじゃ。公たちを倒すために会津征伐隊などと称しておるそうで……馬鹿らしいだけだ」
「まぁ!」佐久は驚いた。
「公は会津を貸してほしいと明治政府に嘆願しておるという」
「会津は上様さまにとって藩地、十五歳の頃に藩主になって以来ずっと会津のことを考えてきたそうです」
 佐久の兄は、
「公は夢を食うバクだ」と皮肉をいった。
 佐久は「会津公さまは確かにバクですわ。でも、食べるのは夢ばかりではありません。明治政府をも食べておしまいになられますわ」
「これ! 佐久、官軍にきかれたらただじゃおさまらん。物騒なこというな!」
 父は諫めた。
 松平容保の会津処理を岩倉具視は拒否し、容保の「会津共和国」ひいては「榎本脱走軍」は正式に”賊軍”となった。
 同年三月七日、政府海軍は、甲鉄艦を先頭に八隻の艦隊で品川沖を出港した。
 同年三月二十日、榎本脱走軍は軍儀をこらし、政府軍の甲鉄艦を奪取する計画を練った。アイデアは榎本が出したとも土方がだしたともいわれ、よくわからない。

「さぁ、君達はもう自由だ。猪苗代にいる官軍までもどしてあげよう」
 容保たちは捕らえた薩摩藩士たちを逃がしてやった。
 もう三月だが、会津は雪の中である。
 薩摩藩士・田島圭蔵の姿もその中にあった。
 ……なんといいひとじゃ。どげんこつしてもこのお方は無事でいてほしいものでごわす。 田島は涙を流した。
 容保たちにとって薩摩藩士らは憎むべき敵のはずである。しかし、寛大に逃がしてくれるという。なんとも太っ腹な松平容保であった。

 舞台は蝦夷(北海道)である。
「箱館戦争」の命運をわけたのが、甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)であった。最強の軍艦で、艦隊が鉄でおおわれており、砲弾を弾きかえしてしまう。
 官軍最強の艦船であった。
 それらが蝦夷にせまっていた。
 榎本たちは焦りを隠せない。
 ……いまさらながら惜しい。開陽丸が沈まなければ……

  箱館病院では高松凌雲はまだ忙しくはなかった。
 まだ戦は始まってはいない。看護婦はおさえという可愛い顔の少女である。
 土方は龍造という病人をつれてきた。
「凌雲先生、頼みます!」
 土方歳三は凌雲に頭をさげた。
「俺は足軽だ! ごほごほ…病院など…」
 龍造はベットで暴れた。
 おさえは「病人に将軍も足軽もないわ! じっとしてて!」
 とかれをとめた。龍造は喀血した。
 高松凌雲は病室を出てから、
「長くて二~三ケ月だ」と土方にいった。
 土方は絶句してから、「お願いします」と医者に頭をさげた。
「もちろんだ。病人を看護するのが医者の仕事だ」
「……そうですか…」
 土方は廊下を歩いた。
「官軍の艦隊が湾に入りました!」と伝令がきた。
「なにっ?!」
 土方はいい、「すぐにいく!」といって駆け出した。


  すぐに榎本たちは軍儀を開いた。
 大鳥圭介は「なんとしても勝つ!」と息巻いた。
 すると、三鳥が「しかし、官軍のほうが軍事的に優位であります」と嘆いた。
 回天丸艦長の甲賀源吾が「官軍の艦隊の中で注意がいるのが甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)です! 艦体が鉄でできているそうで大砲も貫通できません」
 海軍奉行荒井郁之助は「あと一隻あれば……」と嘆いた。
 土方はきっと怖い顔をして、
「そんなことをいってもはじまらん!」と怒鳴った。
 榎本武揚は閃いたように「ならもう一隻ふやせばいい」とにやりとした。
「……どうやってですか?」
 一同の目が武揚に集まった。
「甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)をかっぱらう!」
 武揚は決起した。「アボルタージだ!」
 アボルタージとは、第三国の旗を掲げて近付き、近付いたら旗を自分たちの旗にかえて攻撃する戦法である。
 荒井郁之助は「アボルタージですか! それはいい!」と同感した。
 家臣たちからは、
「……本当にそれでいいのでしょうか? そんな卑怯なマネ…」
 と心配の声があがった。
 武揚は笑って「なにが卑怯なもんか! アボルタージは国際法で認められた立派な戦法だぜ! 卑怯といえば薩長じゃねぇか。天子さまを担いで、錦の御旗などと抜かして…」「それはそうですが……」
 土方は無用な議論はしない主義である。
「それには私がいきましょう!」
 土方は提案した。
 武揚は躊躇して、
「土方くん。君の気持ちは嬉しいが……犠牲は少ないほうがいい」
 といった。声がうわずった。
「どちらにしても戦には犠牲はつきものです」
「君がいなくなったら残された新選組はどうなるのか考えたことはないのか?」
「ありません。新選組は元々近藤勇先生のもので、私のものではありません」
「しかし……その近藤くんはもうこの世にはいない」
 土方は沈黙した。
「とにかく……私は出陣します! 私が死んだら新選組をお願いします」
 やっと、土方は声を出した。
「……土方くん………」
 榎本は感激している様子だった。
「よし! 回天と蟠竜でやろう!」
 回天丸艦長の甲賀源吾が「よし!」と決起した。
 荒川も「よし! いこう! 甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)をかっぱらう!」
 と決起した。
「よし! よし!」
 榎本は満足して何度も頷いた。
 そして、
「アボルタージだ!」と激を飛ばした。
 ……アボルタージ! アボルタージ! アボルタージ! アボルタージ! ……

  さっそく回天丸に戦闘員たちが乗り込んでいった。
 みな、かなり若い。
 土方歳三も乗り込んだ。
 しかし、土方とてまだ三十五歳でしかない。
 海軍士官・大塚浪次郎も乗り込む。彼は前記した元・彰義隊隊士・大塚雀之丞の弟である。「兄上! しっかりやりましょう! アボルタージを!」
「おう! 浪次郎、しっかりいこうや!」
 大塚雀之丞は白い歯を見せた。
 英語方訳の山内六三郎も乗り込む。
「アボルタージだ!」
 若さゆえか、決起だけは盛んだ。
 しかし、同じ英語方訳の林董三郎だけは乗せてもらえなかった。
「私も戦に参加させてください!」
 董三郎は、回天丸艦長の甲賀源吾に嘆願する。
 が、甲賀は「榎本総裁がおぬしは乗せるなというていた」と断った。
「なぜですか?! これは義の戦でしょう? 私も義を果たしとうごりまする!」
 林董三郎はやりきれない思いだった。
 高松凌雲がそんなかれをとめた。
「榎本さんは君を大事に思っているのだ。英語方訳が蝦夷からいなくなっては困るのだ」「…しかし……」
「君も男ならききわけなさい!」
 董三郎を高松凌雲は説得した。
 こうして、回天丸と蟠竜丸が出帆した。

「官軍がせめて……きたのでしょう?!」
 病院のベットで、龍造は暴れだした。看護婦のおさえは、
「……龍造さん、おとなしくしてて!」ととめた。
 龍造は官軍と戦う、といってきかない。そして、また喀血した。
「龍造のことを頼みます」
 船に乗り込む前に土方は病院により、おさえに頼んでいた。看護のことである。

 舞台はふたたび会津である。
  病院に松平容保がきた。
「あなたが土方さんのお知り合いの女性ですか?」
 容保は不躾な言葉で、井上ちか子に声をかけた。
 ……いやらしい気持ちはない。
「はい殿。京で一緒でした。しかし、もう京はありません。みな死にました。好きな人のために女でもここで戦って死にとうござりまする」
 井上ちか子の言葉を、容保は佐久の声のようにきこえてたまらなくなった。
「井上さん」
「はい」
「……元気で。お体を大切になさってください。戦は必ずこちらが勝ちます」
「しかし……」
「心配はいりません。わが軍の姿勢はあくまで旧幕府と同じ共順……会津は共和国です。明治政府とも仲良くやっていけます」
 容保自身にも、自分の言葉は薄っぺらにきこえた。
「誰か! 誰かきて!」
 おさえが声をあげた。「龍造さんが……!」
「……す、すいません!」
 井上ちか子は病室にむけ駆け出した。
 容保はひとり取り残された。
 かれはひとりであり、また悪いことに孤独でもあった。そうなのだ! 困った!
「……佐久、シャボンをつくってやる約束は果たせそうもない」
 松平容保は、深い溜め息とともに呟いた。
「…佐久……」容保は沈んだ気持ちだった。
 湾には官軍の艦隊が迫ってくる。
 白虎隊が出陣するときはいつも嵐の中であった。
 それは、白虎隊の未来を暗示しているかのよう、であった。


そして再び「会津の役」に戻ろう。
1868年10月11日(慶応4年8月26日=籠城3日目)、若松城を包囲する新政府軍の陣中に笛や太鼓が鳴り響き、会津地方に伝わる獅子舞「彼岸獅子(ひがんじし)」が乱舞する。
何かのお祭りだろうか。
彼岸獅子は賑やかな笛や太鼓に合わせて踊りながら新政府軍の陣中を通って若松城の方へ進んでいく。
新政府軍は薩摩藩と土佐藩を中心とした諸藩の集まりで、様々な武具を着けており、彼岸獅子の一行が敵なのか味方なのかも判断できない常態だった。
新政府軍は呆然と獅子舞の一行を眺めるだけだった。
新政府軍の陣中を抜けた彼岸獅子が若松城へ近づくと城門が開き、彼岸獅子の一行は若松城に入ってしまった。
呆気にとられる新政府軍。
一体、あれは何だったのだろうか。
数日前、新政府軍の侵攻に備えて国境の日光街道の警備にあたっていた会津軍の山川大蔵(後の山川浩)の元に、帰城命令が届いていた。
「城の守りが手薄になっている。敵との戦闘を避けて速やかに帰城せよ」との命令であった。
若松城の危機を知った山川大蔵は急いで若松城へ引き返すが、若松城は新政府軍に包囲されており、無傷で若松城までたどり着くことができない。
そこで、会津藩士の水島純が一計を案じ、会津地方に伝わる獅子舞「彼岸獅子」の行列に扮装して包囲網を突破する計略を、山川大蔵に進言したのだ。
彼岸獅子の計は、新政府軍を欺くことができることと同時に、若松城に居る兵に味方だと教えることが出来る名案だった。
山川大蔵は彼岸獅子の伝わる小松村の村長・大竹重左衛門や斎藤孫左衛門を呼び、彼岸獅子の協力を求めた。
失敗すれば全員が死ぬ危険な作戦であったが、大竹重左衛門は「今こそ、松平家300年の恩顧に報いる時だ」と言い承諾した。
直ぐさま、村長・大竹重左衛門は村人を集めて協議した結果、高野茂吉(30歳)を隊長とした決死隊とも言える彼岸獅子隊10人を編成した。
雄獅子は大竹巳之吉(12歳)、雌獅子は中島善太郎(14歳)に任せた。隊長の高野茂吉(30歳)以外の9人は少年で、最年少は弓持の藤田与二郎(11歳)であった。
そして、1868年10月11日(慶応4年8月26日=籠城3日目)、高野茂吉が率いる彼岸獅子を先頭に、山川大蔵の部隊は敵陣へと進んだのである。
少年達は一瞬たりとも気を許さずに彼岸獅子を演じきり、見事に新政府軍の陣中を突破し、無傷で若松城へ入ることに成功した。
新政府軍はただただ、呆気にとられて彼岸獅子を見送ったという。
彼岸獅子は春の彼岸に行われる、家族の無病息災を願う祭りで、会津に雪解けと春の訪れを知らせる行事でもあった。
当時は娯楽が無く、会津藩士の中にも彼岸獅子を楽しみにしている者が多かった。
「大蔵さあ、援軍にきでくれだのがっす!頼もしいべ」一同は微笑んだ。
山川大蔵の彼岸獅子は、籠城する会津兵に大いに勇気を与えることが出来たという。
その後、見事に役目を果たした彼岸獅子隊は無事に小松村に戻り、1人の被害者も出さなかった。
会津藩の敗戦後の明治4年、小松村の彼岸獅子は、山川大蔵の配慮により、会津藩主・松平容保に彼岸獅子を披露する機会に恵まれた。
このとき、松平容保は「彼岸獅子の入城」の勇気を称えて、小松村の彼岸獅子に会津松平家の会津葵紋の使用を許可した。
現在も会津葵紋の使用が許されているのは、小松彼岸獅子だけである。
籠城2日目から3日目にかけて、会津藩が国境に展開していた主力部隊が続々と帰城してきた。
若松城に籠城する人数は、戦闘員と非戦闘員とを合わせて5000人を超えたという。
山川大蔵の彼岸獅子の入城により、会津藩の士気は高まっていたが、新政府軍に包囲された若松城内は、籠城派と降伏派とに別れて喧々囂々の議論となっていた。
極楽寺の裏切りにより、若松城の弱点となる小田山を新政府軍に占領されたうえ、会津藩は籠城の準備をしていなかったため、若松城には籠城戦に備えるだけの武器や兵糧が無かった。
武器商人から購入したゲベール銃は不良品が多く、会津藩は火縄銃まで持ち出す始末であった。
ゲベール銃は不良品を売りつけられたという説もある。
会津藩の家老は世襲制で、会津の名門9家(会津9家)の出身者しか家老になることが出来ず、身分意識が強いうえ、保守的だった。
このため、会津藩の首脳陣は没落していた。
会津藩は身分制度が強く、優秀でも身分が低ければ出世することができなかった。
秀才と言われた秋月悌次郎が左遷されたのも、下級藩士だったからだ。
また、改革を主張しようものなら、家老の怒りを買い、処罰されるのは必至だった。
西洋銃の導入を訴えた山本覚馬も1年間の禁足を食らったのも、会津藩の家老の反感を買ったからだった。
会津藩は、西日本諸藩の事情に通じていた秋月悌次郎が左遷し、薩摩藩・長州藩と対等に話が出来る神保修理を無実の罪で自害に追いやった。
新政府軍とのパイプ役を切り捨てて、会津藩を戦争へ追いやったのは、会津藩自身であった。
会津藩が恭順派と抗戦派に別れるなか、家老の西郷頼母(さいごう・たのも)は、藩主・松平容保に切腹を迫り、全員玉砕を主張した。
非戦恭順派だった西郷頼母が、藩主・松平容保の切腹および会津藩の玉砕を主張した理由は分からない。
西郷頼母は過去に、京都守護職の就任に反対し続けて、藩主・松平容保の怒りを買い、家老を解任されたていた。
その後、家老に復帰した西郷頼母は、「白河口の戦い」で大軍を率いて白河城の守備にあたったが、新政府軍の参謀・伊地知正治の手勢700人に惨敗し、白河城を奪われるという大失態を犯した。
(実戦経験の無い西郷頼母に、東北諸藩の運命がかかっている白河城の守備を任せたのは、身分が理由との説もある。)
その西郷頼母が、この場に及んで藩主・松平容保に切腹を迫ったため、藩主・松平容保ほか会津藩士が激怒した。
このため、身の危険を感じた西郷頼母は、城の外にいる部隊への伝令を口実に、長男の西郷吉十郎を連れて若松城を抜け出して逃げた。
一説によると、西郷頼母に刺客が送られたが、刺客はあえて西郷頼母を追わなかったとされている。
ただし、刺客説の真相は分からない。
西郷頼母はその後、旧幕府軍の榎本武揚と合流し、北海道の函館へ渡った。
そして、旧幕府軍が降伏すると、西郷頼母は館林藩に幽閉された。
西郷頼母を追放してもなお、会津藩は恭順派と抗戦派に別れて、喧々囂々の議論を続けていた。
しかし、藩主・松平容保は籠城を決め、山川大蔵を軍事総督に抜擢し、梶原平馬を政務総督に抜擢する英断を下した。
こうして、20歳代の2人が、会津藩の軍事・政務の責任者に就き、旧態依然としていた会津藩に新しい風が吹いた。
さらに、藩主・松平容保は、原田対馬に西出丸の守備に就け、海老名季昌を北出丸の守備を任せるなどして、若松城の防衛の責任者に若手を起用。
佐川官兵衛を総督に任命し、首脳陣を一新した。
そして、秋月悌次郎を軍事奉行添役に抜擢するなどして、優秀な若手を次々と起用した。
主・松平容保は、保守的な旧体質を壊し、新しい会津藩を誕生させた。
本当の意味での会津藩の改革が行われたのは、この時である。
会津藩は新体制の元、一致団結し、士気は益々高まった。
いつの世も時代を作るのは若い力なのだ。
会津藩の頼みの綱は、奥羽越列藩同盟の援軍と冬の到来だった。
雪が降れば、新政府軍は移動も食料の搬送も困難となる。
冬まで持ちこたえれば、会津藩にも勝機が出てくる。
1868年10月13日(慶応4年8月28日)、籠城6日目にして若松城に入城した娘子隊(別名「婦女隊」)の中野こう子が、卑怯者の山本八重に
「なぜ娘子隊に加わらなかったのですか」と問うた。
1868年10月8日(籠城1日目)早朝、若松城の城下町に早鐘が鳴り響いたとき、山本八重は若松城に入城することができたが、敵の侵入は早く、早々に城門は閉ざされ、城内に入れなかった者も多かった。
中野竹子は会津藩主・松平容保の義姉・照姫を警護するため、母・中野こう子と妹・中野優子を連れて、若松城へ向かったが、時は既に遅く、若松城の城門は閉ざされていた。
中野竹子は、会津藩士・中野平内の長女で、江戸の会津藩上屋敷で生れ、江戸で育った。
中野竹子は幼い頃から聡明で、文武に優れ、かなりの美人だったという。
また、中野竹子は幼少期から赤岡大助に師事して薙刀(なぎなた)を学び、道場では師範代を務めるほどの腕前であった。
中野竹子は江戸で生活していたが、「鳥羽・伏見の戦い」の後、藩主・松平容保が徳川慶喜から登城禁止を言い渡されて会津へ戻ったことに伴い、中野竹子一家も会津に引き上げていた。
会津の風呂屋は混浴だったため、江戸で生まれ育った中野竹子は風呂屋へは行かず、自宅のタライで入浴していた。
中野竹子は絶世の美女だったため、会津の男はこぞって風呂場を覗きに行ったという。
覗かれたことに激怒した中野竹子は薙刀を振り回し、覗きに来た男を追い払ったという逸話が残っている。
1868年10月8日(籠城1日目)、若松城へ入城できなかった中野竹子は、同じように逃げ遅れた依田まき子・依田菊子(後の水島菊子)・岡村ます子の3人と出会い、娘子隊(婦女隊)を結成した。
(この時、依田菊子は既に髪を切り落としていた。山本八重が髪を切るのは、籠城1日目の夕方あたりなので、依田菊子が髪を切るのは早かった。)
さらに、入城できなかった神保雪子(切腹させられた神保修理の妻)などが続々と薙刀を持って集まり、娘子隊(婦女隊)は20数名に発展した。
娘子隊(婦女隊)は、会津藩が設置した正規軍ではなく、逃げ遅れた女性らが中野竹子らに合流して自然発生した義勇軍的なものである。
この点は、正規軍の白虎隊とは大きく異なる。
娘子隊(婦女隊)は義勇軍なので部隊に名前は無く、後に「娘子隊」または「婦女隊」と呼ばれるようになった。
後に名称が付いた点は、二本松藩の悲劇として知られる「二本松少年兵」と同じである。
 1868年10月8日(籠城1日目)、娘子隊(婦女隊)を結成した中野竹子らは、会津兵から会津藩主・松平容保の義姉・照姫が坂下へ避難したという情報を聞き、照姫を警護するため、坂下へと向かった。
しかし、情報は間違っており、坂下に照姫は居なかった。
中野竹子らはこの日、坂下の法界寺で宿泊し、翌日、照姫を警護するため、若松城へ向かうことにした。
1868年10月9日(籠城2日目)、中野竹子ら娘子隊(婦女隊)は高瀬村に会津軍が駐留している事を知り、高瀬村に駐留している会津藩の家老・萱野権兵衛に従軍を願い出た。
しかし、娘子隊は女ばかりだったため、家老・萱野権兵衛は
「城に帰って女中の仕事をして欲しい」
と言い、従軍を拒否する。会津藩士にとって、女を戦わせることは末代までの恥なのだ。
しかし、中野竹子らは
「戦に加えてくれなければ、この場で自決します」
と言って後に退かないため、家老・萱野権兵衛は仕方なく、旧江戸幕府軍の衝鋒隊への従軍を認めた。
会津藩の「什の掟」には、
「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」
「ならぬことはならぬものです」
という掟があるが、
「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」
という掟があるとおり、「什の掟」は男子のための教えであり、女子には関係が無い。




黒田官兵衛<軍師黒田官兵衛と石田三成と「大河ドラマ軍師官兵衛」ふたたび>ブログ連載8

2016年04月21日 06時00分40秒 | 日記










         6 焼き討ち





話を官兵衛の信長への仕官のことにしよう。
永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を擁して上洛を果たし、足利義昭は織田信長の後ろ盾を得て15代将軍に就いて室町幕府を再建していた。
しかし、元亀2年(1571年)、織田信長の度重なる横暴に嫌気を挿した15代将軍・足利義昭は、毛利輝元・上杉謙信・武田信玄・本願寺顕如などの諸大名に檄を飛ばし、信長包囲網を敷き、織田信長と対立した(第2次織田信長包囲網)。
ところが、元亀4年(1573年)4月、徳川家康の領土へ侵攻していた甲斐(山梨県)の武田信玄が死亡したため、武田軍が撤退してしまう。
背後の憂いが消えた織田信長は西へと兵力を投入し、近江(滋賀県)の浅井長政と越前(福井県)の朝倉義景を撃破。
こうして、信長包囲網はあえなく崩壊してしまう。
元亀4年(1573年)、織田信長は刃向かった15代将軍・足利義昭を京都から追放し、室町幕府は崩壊した。
そして、織田信長は朝廷に働きかけ、年号を「天正」と改めたのである。
元亀4年(1573年)、このとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は28歳であった。
東播磨で最大の勢力を誇る三木城の城主・別所長治や西播磨で勢力を誇る龍野城の城主・赤松政秀は、織田信長側に付いており、三木城の城主・別所長治は度々、小寺家の領土へと侵攻していた。
織田信長と毛利輝元の間には播磨が存在しているため、これまでは直接対決することはなかった。
しかし、近畿まで勢力を伸ばした織田信長が中国の覇者・毛利輝元と激突するのは時間の問題あり、両者の間にある播磨が激戦区になるのは目に見えていた。
天正3年(1575年)5月、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が30歳のとき、甲斐(山梨県)の武田勝頼が長篠城(愛知県新城市)を奪い返すために1万5000の大軍を率いて進軍する。
しかし、武田勝頼は、長篠城の援軍に駆けつけた織田信長・徳川家康の連合軍に大敗し壊滅的なダメージを受けて撤退した(長篠の戦い)。
織田信長は「長篠の戦い」で鉄砲を主力とした新戦法「鉄砲三段打ち」を使用し、劇的な勝利を果たしたと言われている。
このようななか、御着城の城主・小寺政職は重臣を集め、
「織田信長に付くべきか。毛利輝元に付くべきか」
と尋ねた。
すると、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が織田信長に属すべき理由を諸将に説いた。
小寺官兵衛の姫路城には、父・黒田職隆が建てた百間長屋があり、父・黒田職隆は百間長屋で、旅人や博徒など、ありとあらゆる人の面倒を見ていたため、姫路城には各地の情報が集まってきた。
このため、小寺官兵衛は百件長屋で得た情報を元に、小寺家の重臣に向かって、
「今川義元は滅び、武田信玄も死んだ。関東の北条や四国の三好も衰えた。徳川家康は良将といえど、国が小さい。上杉謙信は遠方にあり、上洛は難しい。天下を取るのは安岐の毛利輝元か、美濃の織田信長でしょう」
と告げた。
さらに、小寺官兵衛は、
「毛利家には吉川元治・小早川隆景という優秀な武将が居るが、毛利輝元は天下人の器ではない。毛利輝元は安岐に引きこもり、自身が戦地に赴くことは無い。これまで傘下に入っていた者も毛利に背を向けるだろう」
と指摘した。
そして、小寺官兵衛は、
「一方、織田信長は桶狭間で今川義元を破り、足利義昭を擁して上洛を果たした。武田勝頼との合戦にも勝ち、関東に敵対する勢力も無い。近畿を制圧して天下の要所に住居して、その勢いは天下に及ぶ。織田信長に属するべきだ」
と主張した。小寺官兵衛は百件長屋に集まってきた情報を元に、理路整然と天下の時勢を説いたため、小寺家の重臣は小寺官兵衛に反論することが出来ず、主君・小寺政職も織田信長に付くことを決めたのである。
御着城の城主・小寺政職は小寺官兵衛に説得され、織田信長に従属することを決める。
が、既に播磨では赤松政秀と別所長治が織田信長に従属しており、小寺政職は後発組になってしまう。
さらに、小寺政職は赤松政秀の娘を拉致しようとして、15大将軍・足利義昭と織田信長に楯突き、敵対した過去がある。
そのため、家臣一同は織田信長への使者を嫌がった。
そこで、小寺官兵衛が「しからば、私が参ろう」と名乗り出た。小寺政職はこれに喜び、小寺官兵衛に織田信長との交渉を任せた。
天正3年(1575年)7月、小寺官兵衛は旅人に扮して岐阜へ入ると、織田信長の家臣・木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に会い、織田信長への仲介を依頼した。
そして、小寺官兵衛は織田信長に面会すると、「私の姫路城は播磨の各地へ伸びる通路の拠点で、中国侵略の要所です。明石城の明石左近や高砂城の梶原平三兵衛は、近畿に大将が居ないので、毛利に属しているだけです。志方城の櫛橋左京進は私の縁者で、既に話は付いています」と報告した。
さらに、黒田官兵衛は、
「播磨には、小寺家と三木城の別所家が勢力を誇っております。三木城の別所長治(別名は別所小三郎)は二心無き毛利派なので、別所長治を退治してください。その間に、私は佐用城の福原主善と上月城の上月十郎を攻め落とします。播磨は近畿と中国地方の間にあり、播磨を手に入れれば、中国征伐の善き架け橋になるでしょう」と述べた。
これを聞いた織田信長は、
「その方が申すことは、私の考えと相違がない。播磨攻略については木下藤吉郎を派遣するので、木下藤吉郎と相談するように。中国を討つときは、必ず汝に先手を任せよう。汝は姫路へ帰り、内々に準備を始めよ」
と言い、自らが愛用していた名刀「圧切(へしきり)」を小寺官兵衛に与えたのである。
こうして、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は、織田信長と羽柴藤吉郎(後の豊臣秀吉)に認められることになる。
このとき、小寺官兵衛は既に30歳であった。
天正4年(1576年)2月、織田信長に京都終われた15代将軍・足利義昭は、中国の覇者・毛利輝元を頼り、備後の鞆(広島県福山市鞆)へ入った。このとき、黒田官兵衛は31歳であった。
第2次信長包囲網は、武田信玄の死亡にって崩壊した。
が、15代将軍・足利義昭は再び各地の大名に檄を飛ばし、第3次信長包囲網を形成していく。
(注釈:15代将軍・足利義昭が織田信長に追放され、室町幕府は終わったことになっているが、足利義昭は依然として地方の大名に権威を保持していた)
このころ、摂津(大阪府)の石山本願寺が織田信長への対立を深めており、天正4年(1576年)4月、ついに織田信長が石山本願寺討伐に乗り出した。
これに対して中国の毛利輝元は、織田信長に対抗するため、摂津(大阪府)の石山本願寺へ物資の支援を開始する。
織田信長が石山本願寺を海上も完全に包囲したため、石山本願寺への支援は困難を極めた。
が、天正4年(1576年)7月、毛利輝元の水軍は織田信長の水軍を撃破し、石山本願寺への支援を成功させた。
続いて毛利輝元は家臣・浦宗勝に、織田勢力の姫路城への攻撃を命じた。
浦宗勝は、小早川隆景の水軍を代表する名将で、毛利水軍を支えた人物である。
天正5年(1577年)5月、毛利軍の浦宗勝が5000人の兵を引き連れて、姫路城の南西7kmにある英賀村(あが村=兵庫県姫路市飾磨区英賀)に上陸する。このとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は32歳であった。
英賀城の城主・三木通秋は、「青山の合戦」の時に小寺官兵衛(黒田官兵衛)の窮地を救った。
が、今は毛利側に付いているので、協力を要請できない。
御着城の城主・小寺政職は毛利軍の襲来に驚いて腰を抜かすが、小寺官兵衛は冷静に
「敵は船が揺れてで疲れているはず。陣を整える前に奇襲攻撃をかけるべきです」と進言した。
小寺政職が出陣を許可すると、小寺官兵衛は、農民を集めて旗を持たせて広報の茂みに伏せ、手勢500人を率いて英賀村に到着した浦宗勝の軍に奇襲攻撃をかけた(英賀合戦)。
まだ布陣の整っていない毛利軍は、黒田官兵衛の襲撃により、混乱を起したが、毛利軍の浦宗勝は直ぐに陣を立て直して黒田軍を返り討ちにしようとする。
そのとき、黒田軍の後方の茂みに隠れていた農民が、かけ声をあげて旗を掲げた。
まさか、御着城からの援軍か。動揺した毛利軍は総崩れとなった。
名将の浦宗勝といえど、1度崩れた軍勢を立て直すことは難しく、敗走を余儀なくされた。
黒田官兵衛は逃げる毛利軍を追撃し、ことごとく討ち取った。
毛利軍の浦宗勝は壊滅的な被害を受け、安芸(広島県)へと逃げ帰り、黒田官兵衛は大勝利を納めた。
その後、摂津の有岡城(兵庫県伊丹市)の城主・荒木村重が、黒田官兵衛の活躍を織田信長に報告する。
黒田官兵衛の活躍に喜んだ織田信長は黒田官兵衛に感謝状を贈り、黒田官兵衛は荒木村重に感謝した。
有岡城(兵庫県伊丹市)の城主・荒木村重は織田信長の領土の最西端で、播磨方面の武将を取り纏める役割を担当しており、黒田官兵衛は荒木村重との親交を深めていくことになる。
 天正4年(1576年)、織田信長は、琵琶湖の東側にある滋賀県近江八幡市安土町に、安土城を完成させ、安土城を居城とし、天下統一へと向けて着実に進んでいた。
「長篠の戦い」で武田勝頼の軍を撃破した織田信長は、虎視眈々と天下を狙う越後(新潟県)の上杉謙信を封じるため、柴田勝家を北陸へ投入しする(北陸戦線)。
このとき、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、柴田勝家の下で働いていたが、柴田勝家とことごとく意見が対立したため、独断で戦線を離脱してしまう。
このため、羽柴秀吉は織田信長から烈火のごとく怒りを買い、謹慎処分を受けてしまった。
謹慎処分を受けたため、羽柴秀吉は表だって播磨(兵庫県)攻略に乗り出すことは出来なかったが、中国討伐を見据えて、家臣の蜂須賀正勝などを播磨に差し向け、黒田官兵衛と共に播磨の調略に当たらせたのである。
英賀合戦で黒田官兵衛に大敗した毛利輝元は、武力侵攻から調略へと方針を転換し、播磨の豪族を取り込むために調略を始めると、織田信長に属した播磨の豪族が動揺し始めた。
織田信長は傲慢な男で、ひとたび織田信長の怒りを買えば、家族や部下でも命は無く、部下は誰一人として安堵してない、という噂は播磨にも届いていたのだ。
毛利輝元の工作により、播磨の情勢が不安定になってきたため、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は羽柴秀吉に手紙を送って中国征伐を要請し、羽柴秀吉は織田信長に中国征伐の発動を求めた。
小寺官兵衛からの要請を受けた織田信長は、時期を前倒しして中国征伐を決定。
謹慎していた羽柴秀吉に中国征伐を命じるとともに、黒田官兵衛に播磨各地の豪族から人質を集めるように命じた。
 織田信長から命令を受けた小寺官兵衛は、播磨の豪族から人質を集める一方で、御着城の城主で主君の小寺政職にも人質を求めた。
が、主君・小寺政職や重臣は人質を出し渋った。
小寺政職の嫡男・小寺氏職は馬鹿だったため、嫡男・小寺氏職を人質に出せば、小寺政職や重臣は織田信長の怒りを買うのでは無いかと心配したのである。
そこで、小寺官兵衛は1人息子の松寿(後の黒田長政)を人質に出す事を申し出た。
小寺政職は小寺官兵衛の申し出に喜び、小寺官兵衛が嫡子・松寿(黒田長政)を人質として差し出す事になった。
小寺官兵衛は妻・櫛橋光と結婚した翌年に嫡子・松寿(黒田長政)が誕生したが、それ以降、子供は産まれておらず、松寿(黒田長政)が唯一の子供であった。
その松寿丸(黒田長政)を人質に出す事を決めた小寺官兵衛は、姫路城に戻ると、妻・櫛橋光に事情を説明し、
「すまぬ。松寿(黒田長政)を人質に出すことになった」と謝罪した。
すると、妻・櫛橋光は
「それほど、人質のお役目は危険なのですか。危険なのであれば、貴方様が人質になればよろしいのです。私は赤飯を炊いて松寿(黒田長政)をお役目に送り出します」と答えた。
小寺官兵衛は妻・櫛橋光の言葉で、
「そうであった。自分が播磨を取り纏めれば、人質の松寿丸(黒田長政)に危険が及ぶことは無い」
と気づき、今回の任務に望んだという。
その後、小寺官兵衛や蜂須賀正勝の活躍により、播磨の各地から集まった人質は、摂津(大阪府)にある有岡城の荒木村重に預けられた。
一方、小寺官兵衛は安土城へ行き、織田信長に拝謁して、人質として松寿(黒田長政)を差し出すと、織田信長は黒田官兵衛に羽柴秀吉の与力として中国征伐の先鋒を務めることを命じた。
さて、人質となった松寿(黒田長政)は、羽柴秀吉が預かることになり、羽柴秀吉の居城・長浜城(滋賀県長浜市)で人質生活を送る。
このとき、羽柴秀吉の正室「おね(後の北政所)」には子供が居なかったので、黒田長政は正室「おね」にとても可愛がられた。
なお、松寿(黒田長政)の近習として黒田家から井口兵助と大野九兵衛も長浜城に送られ、2人は松寿(黒田長政)に仕えた。
このとき、黒田長政が8歳で、井口兵助は13歳だった。
後に井口兵助は黒田家の問題児となるが、黒田長政と人質時代を共に過ごしたため、黒田長政と井口兵助の2人は非常に仲が良かった。
 天正5年(1577年)10月、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が32歳のとき、中国征伐隊の総大将・羽柴秀吉が7500の軍勢を率いて播磨へ入ると、小寺官兵衛は羽柴秀吉を出迎え、居城の姫路城を明け渡した。
小寺官兵衛は姫路城を丁寧に掃除し、明け渡しに目録まで作っており、手際の良さに感心した羽柴秀吉は黒田官兵衛を姫路城の二の丸に留め置き、膝をつき合わせて中国征伐について意見を交わした。
そして、羽柴秀吉が姫路城へ入ると、小寺官兵衛は使者を送って東播磨の豪族や大名を次々と説き伏せ、無傷で東播磨を支配下に置く。
しかし、西播磨は中国の毛利に近いため、毛利の影響を受けており、調略で西播磨を落とすことは難しく、武力討伐が必要であった。
 一方、御着城の小寺政職は織田信長に従属したものの、一転して毛利方に寝返ってしまい、羽柴秀吉が姫路城に入ったにもかかわらず、挨拶にも来ないという異常事態が続いていた。
異常を感知した羽柴秀吉は、小寺官兵衛に、
「ワシがこの地を納めるには、貴殿に指図を受けなければならない。2人の間に疑いがあってはならないから、義兄弟の契りを結ぼう」
と言い、2人は義兄弟の誓紙を交わした。
義兄弟の誓紙には、羽柴秀吉が黒田家の安泰を約束する意味が有り、小寺官兵衛は誓紙を大切に保管した。
その後、羽柴秀吉の軍師・竹中半兵衛は、羽柴秀吉と義兄弟の誓紙を交わしたという噂を聞きつけると、小寺官兵衛に、
「誓紙を見せて欲しい」と頼んだ。
小寺官兵衛が大切にしまっておいた誓紙を竹中半兵衛に渡すと、竹中半兵衛は誓紙を火鉢に捨てて燃やしてしまった。
小寺官兵衛が竹中半兵衛の暴挙に驚くと、竹中半兵衛は、
「こんな紙切れ一枚で、約束が違う、などと不満を言っては、お主のためにならない。」と忠告した。
すると、小寺官兵衛は、「紙一枚で大切なものを見誤るところであった」と言い、竹中官兵衛に感謝したという。
 小寺官兵衛(黒田官兵衛)の調略により、東播磨(兵庫県)で最大の勢力を誇る三木城の城主・別所長治も織田信長に従属し、東播磨を無血で平定した。
しかし、西播磨では龍野城の城主・赤松広秀が織田信長側に属していたものの、備前・美作(岡山県)との国境にある佐用城と上月城は、織田信長側に付くことを拒否し続けた。
備前・備中・美作の3国(3国とも岡山県)を支配する宇喜多直家が西播磨にまで勢力を伸ばしており、上月城と上月城を支配下に置いて居たのだ。
(注釈:宇喜多直家は毛利輝元に属しているので、西播磨の上月城と上月城は毛利側の勢力になる。)
このため、羽柴秀吉は、佐用城と上月城に兵を向け、武力による東播磨の平定に乗り出したのである。
 天正5年(1577年)11月26日、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は、羽柴秀吉の軍師・竹中半兵衛と協力して、福原主膳(福原則尚という説もある)が守る西播磨の佐用城(兵庫県佐用郡佐用町)を攻めた。
軍師・小寺官兵衛は佐用城を3方向から取り囲み、1方向だけ逃げ道として開けて、総攻撃を開始する作戦に出た。
逃げ道を無くすと、敵も必死に抵抗するため、味方の損害が増える。
しかし、逃げ道を残して攻撃すれば、敵は抵抗せずに逃げるため、味方の被害も少ない。
逃げ道を開けて攻めるのは、「孫子の兵法」の常道手段である。
小寺官兵衛は佐用城を3方向から攻め立てると、佐用城の城主・福原主膳は、黒田官兵衛の思惑通り、包囲されていない1方向から逃げ出した。
さて、佐用城の城主・福原主膳が逃げ出した方向には、松山という山があり、その松山には浪人・平塚藤蔵(後の平塚為広)が、佐用城の城主・福原主膳が逃げてくるのを今や遅しと待ち構えていた。
小寺官兵衛は孫子の兵法を活用しただけでなく、孫子の兵法を応用しており、佐用城の城主・福原主膳が逃げ出した方向に、浪人・平塚藤蔵を配置していたのである。
 平塚藤蔵(後の平塚為広)は元々、羽柴秀吉に仕えていたが、羽柴秀吉の勘気に触れたため、浪人となり関東で暮らしていた。
しかし、再び羽柴秀吉に仕えるため、播磨(兵庫県)を訪れ、黒田官兵衛に羽柴秀吉への取り次ぎを頼んだ。
事情を聞いた黒田官兵衛は、
「手柄が無くては、その願いは叶わないだろう」
と言い、平塚藤蔵に
「佐用城から逃げてくる武将が必ず松山を通るから、夜中に松山で待機し、逃げてくる敵を討って手柄をあげよ」と指示した。
こうして、平塚藤蔵は黒田官兵衛の指示通り、佐用城攻めが行われる日の深夜、佐用城の背後にある松山で待機し、逃げてくる敵将を待ち構えたのである。
 さて、このとき、黒田家の下僕・竹森新右衛門(別名は竹森次貞)も、松山の小道で佐用城から逃げてくる敵を待ち構えていた。
 竹森家は本姓を「清原」と言い、日岡神社の神官を務める家系だった。
が、父・竹森新兵衛の時代に敵の侵略を受け、子供や使用人や屋敷を失い、竹藪だけが残った。
父・竹森新兵衛は竹藪だけが残ったため、「竹森」と呼ばれるようになり、姓を「竹森」へと改めた。
そして、父・竹森新右衛門は黒田重降(黒田官兵衛の祖父)を頼り、黒田家の下僕となっていた。
(注釈:父・竹森新兵衛は、姫路で落ちぶれていた黒田重降に家を貸した豪農として有名だが、黒田重降に家を貸した話は創作である)
そして、息子の竹森新右衛門も父・竹森新兵衛に続いて小寺官兵衛(黒田官兵衛)に下僕として仕えていた。
佐用城攻めのとき、竹森新右衛門は、浪人・平塚藤蔵が松山で佐用城から逃げてくる敵を討取るという話を聞きつけ、平塚藤蔵に便乗して手柄をあげるため、密かに松山の小道で敵が逃げてくるのを待ち構えていた。
その日の夜中、竹森新右衛門が松山の細道で敵将を待っていると、佐用城の方から雄叫びが聞こえてきた。
小寺官兵衛(黒田官兵衛)が作戦通り、3方から佐用城を一斉に攻め立てたのだ。
そのころ、佐用城では、小寺官兵衛の家臣・生田木屋之介(いくたきやのすけ)が、佐用城の城内に攻め込んでいた。
佐用城攻めの作戦は事前に知らされていたので、生田木屋之介は、昨夜のうちに佐用城へ忍び寄り、小さなノコギリで、城塀の柱の根元に切れ目を入れていた。
そして、佐用城攻撃の当日、生田木屋之介は根元を切った柱に吊り縄をかけて城塀を引き倒し、難なく城内へと攻め込んだのである。
さて、明け方になり、竹森新右衛門は松山の細道で敵兵を探していると、佐用城の方角から、馬が走る音が聞こえてきた。
竹森新右衛門は佐用城から逃げてきた武将だと確認すると、槍で突いて、敵将2人を殺した。
この2人は、佐用城主・福原主膳の弟・福原伊王野と、家老・祖父江左衛門だった。
竹森新右衛門は討取った2人の首をちょん切り、2つの首をぶら下げ、次の敵を探していると、近くで物音がした。
平塚藤蔵かと思って音のする方へ向かうと、負傷した武将が敵将6~7人に囲まれていた。
負傷した武将は平塚藤蔵だったので、竹森新右衛門は手に持っていた2つの首を投げ捨て、助太刀に入った。
平塚藤蔵は槍で突いて敵将1人を負傷させたが、平塚藤蔵も負傷しているため、とどめを刺せなかった。
そこで、竹森新右衛門が代わりに止めを刺して首を切り落とし、その首は平塚為広に譲った。
後の首検分で、竹森新右衛門が平塚藤蔵に譲った首が、佐用城の城主・福原主膳だと判明し、その功績によって平塚為広は再び羽柴秀吉への仕官が叶った。
竹森新右衛門は城主の弟・福原伊王野と家老・祖父江左衛門の2人を討取った功績が認められ、下僕から士分へと出世した。
また、羽柴秀吉は首を譲った功績を称え、着ていた赤裏の羽織を脱いで竹森新右衛門に与えた。
小寺官兵衛(黒田官兵衛)が佐用城を攻め落としたのは天正5年(1577年)11月、小寺官兵衛が32歳のことであった。


 話を戻す。
  織田信長と将軍・足利義昭との確執も顕著になってきていた。
 義昭は将軍となり天皇に元号を「元亀」にかえることにさせた。しかし、信長は「元亀」などという元号は好きではなかった。そこで信長は元号を「天正」とあっさりかえてしまう。足利将軍は当然激怒した。しかし、義昭など信長のロボットみたいなものである。
 義昭は信長に剣もほろろに扱われてしまう。
 かれは信長の元で「殿中五ケ条」を発布、しかし、それも信長に無視されてしまう。
「あなたを副将軍にしてもよい」
 義昭は信長にいった。しかし、信長は餌に食いつかなかった。
 怒りの波が義昭の血管を走った。冷静に、と自分にいいきかせながらつっかえつっかえいった。「では、まろに忠誠を?」
「義昭殿はわしの息子になるのであろう? 忠誠など馬鹿らしい。息子はおやじに従っておればよいのじゃ」信長は低い声でいった。抑圧のある声だった。
「義昭殿、わしのおかげで将軍になれたことを忘れなさるな」
 信長の言葉があまりにも真実を突いていたため、義昭は驚いて、こころもち身をこわばらせた。百本の槍で刺されたように、突然、身体に痛みを感じた。信長は馬鹿じゃない。 しかし、おのれ信長め……とも思った。
 それは感情であり、怒りであった。自分を将軍として崇めない、尊敬する素振りさえみせず、将軍である自分に命令までする、なんということだ!
 その個人的な恨みによって、その感情だけで義昭は行動を起こした。
 義昭は、甲斐(山梨県)の武田信玄や石山本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信、中国の毛利、薩摩(鹿児島県)の島津らに密書をおくった。それは、信長を討て、という内容であったという。
 こうして、信長の敵は六万あまりとふくらんだ。
 そうした密書を送ったことを知らない細川や和田らは義昭をなだめた。
 しかし、義昭は「これで信長もおしまいじゃ……いい気味じゃ」などと心の中で思い、にやりとするのであった。
  義昭と信長が上洛したとき、ひとりだけ従わない大名がいた。
 越前(福井県)の朝倉義景である。かれにしてみれば義昭は居候だったし、信長は田舎大名に過ぎない。ちょっと運がよかっただけだ。義昭を利用しているに過ぎない。
 信長は激怒し、朝倉義景を攻めた。
 朝倉方の天筒山城、金ケ崎城を陥した。
「次は朝倉の本城だ」信長は激を飛ばした。
 だが、信長は油断した。油断とは、浅井長政の裏切り、である。
 北近江(滋賀県北部)の浅井長政の存在を軽く見ていた。油断した。
 浅井長政には妹のお市(絶世の美女であったという)を嫁にだした。いわば義弟だ。裏切る訳はない、と、たかをくくっていた。
 浅井長政は味方のはずである…………
 そういう油断があった。義弟が自分のやることに口を出す訳はない。そう思って、信長は琵琶湖の西岸を進撃した。東岸を渡って浅井長政の居城・小谷城を通って通告していれば事態は違っていただろうという。しかし、信長は、”美人の妹を嫁にやったのだから俺の考えはわかってるだろう”、という考えで快進撃を続けた。
 しかし、「朝倉義景を攻めるときには事前に浅井方に通告すること」という条約があった。それを信長は無視したのだ。当然、浅井長政は激怒した。
 お市のことはお市のこと、朝倉義景のことは朝倉義景のこと、である。通告もない、しかも義景とは父以来同盟関係にある。信長の無礼に対して、長政は激怒した。
 浅井長政は信長に対して反乱を起こした。前面の朝倉義景、後面の浅井長政によって信長ははさみ討ちになってしまう。こうして、長政の誤判断により、浅井家は滅亡の運命となる。それを当時の浅井長政は理解していただろうか。いや、かれは信長に勝てると踏んだのだ。甘い感情によって。
  金ケ崎城の陥落は四月二十六日、信長の元に「浅井方が反信長に動く」という情報がはいった。信長は、お市を嫁がせた義弟の浅井長政が自分に背くとは考えなかった。
 そんな時、お市から陣中見舞である「袋の小豆」が届く。
 布の袋に小豆がはいっていて、両端を紐でくくってある。
 信長はそれをみて、ハッとした。何かある………まさか!
 袋の中の小豆は信長、両端は朝倉浅井に包囲されることを示している。
「御屋形様……これは……」秀吉が何かいおうとした。秀吉もハッとしたのだ。
 信長はきっとした顔をして「包囲される。逃げるぞ! いいか! 逃げるぞ!」といった。彼の言葉には有無をいわせぬ響きがあった。戦は終わったのだ。信長たちは逃げるしかない。朝倉義景を殺す気でいたなら失敗した訳だ。だが、このまま逃げたままでは終わらない。まだ前哨戦だ。刀を交えてもいない。時間はかかるかも知れないが、信長は辛抱強く待ち、奇策縦横にもなれる男なのだ。
 ……くそったれめ! 朝倉義景も浅井長政もいずれ叩き殺してくれようぞ!
 長政め! 長政め! 長政め! 長政め! 信長は下唇を噛んだ。そして考えた。
 …殿(後軍)を誰にするか……
 殿は後方で追撃くる敵と戦いながら本軍を脱出させる役目を負っていた。そして、同時に次々と殺されて全滅する運命にある。その殿の将は、失ってしまう武将である。誰にしてもおしい。信長は迷った。
「殿は誰がいい?」信長は迷った。
 柴田勝家、羽柴秀吉、そして援軍の徳川家康までもが「わたくしを殿に!」と志願した。 信長は三人の顔をまじまじと見て、決めた。
「サル、殿(しんがり)をつとめよ」
「ははっ!」サル(秀吉)はそういうと、地面に手をついて平伏した。信長は秀吉の顔を凝視した。サルも見つめかえした。信長は考えた。
 今、秀吉を失うのはおしい。天下とりのためには秀吉と光秀は”両腕”として必要である。知恵のまわる秀吉を失うのはおしい。しかし、信長はぐっと堪えた。
「サル、頼むぞ」信長はいった。
「おまかせくださりませ!」サルは涙目でいった。
 いつもは秀吉に意地悪ばかりしていた勝家も感涙し、「サル、わしの軍を貸してやろうか?」といい、家康までもが「秀吉殿、わが軍を使ってくだされ」といったという。
 占領したばかりの金ケ崎城にたてこもって、秀吉は防戦に努めた。
「悪党ども、案内いたせ」
 信長はこういうときの行動は早い。いったん決断するとグズグズしない。そのまま馬にのって突っ走りはじめた。四月二十八日のことである。三十日には、朽木谷を経て京都に戻った。朽木元綱は信長を無事に案内した。
 この朽木元綱という豪族はのちに豊臣秀吉の家臣となり、二万石の大名となる。しかし、家康の元についたときは「関ケ原の態度が曖昧」として減封されているという。だが、それでもかれは「家禄が安泰となった」と思った。
 朽木は近江の豪族だから、信長に反旗をひるがえしてもおかしくない。しかし、かれに信長を助けさせたのは豪族としての勘だった。この人なら天下をとるかも知れない、と思ったのだ。歴史のいたずらだ。もし、このとき信長や秀吉、そして家康までもが浅井朝倉軍にはさみ討ちにされ戦死していたら時代はもっと混沌としたものになったかも知れない。 とにかく、信長は逃げのびた。秀吉も戦死しなかったし、家康も無事であった。
 京都にかろうじて入った信長は、五月九日に京都を出発して岐阜にもどった。しかし、北近江を通らず、千種越えをして、伊勢から戻ったという。身の危険を感じていたからだ。 浅井長政や朝倉義景や六角義賢らが盛んに一向衆らを煽って、
「信長を討ちとれ!」と、さかんに蜂起をうながしていたからである。
 六角義賢はともかく、信長は浅井長政に対しては怒りを隠さなかった。
「浅井長政め! あんな奴は義弟とは思わぬ! 皆殺しにしてくれようぞ!」
 信長は長政を罵った。
岐阜に戻る最中、一向衆らの追撃があった。千種越えには蒲生地区を抜けた。その、蒲生賢秀(氏郷の父)が土豪たちとともに奮起して信長を助けたのだという。
 この時、浅井長政や朝倉義景が待ち伏せでもして信長を攻撃していたら、さすがの信長も危なかったに違いない。しかし、浅井朝倉はそれをしなかった。そして、そのためのちに信長に滅ぼされてしまう運命を迎える。信長の逆鱗に触れて。
 信長は痛い目にあったが、助かった。死ななかった。これは非常に幸運だったといわねばなるまい。とにかく信長は阿修羅の如く怒り狂った。
 皆殺しにしてくれる! そう信長は思った。




【平成28年九州熊本地震】車生活の方”エコノミークラス症候群”に注意して!予防と対策「まとめ記事」

2016年04月20日 18時05分55秒 | 日記





旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)とは?
飛行機など、長時間同じ姿勢で座ったりしているときに注意したいのが、「旅行者血栓症」です。

これは下肢が圧迫されてうっ血状態となり、血栓が生じることにより発症します。この血栓が肺に詰まってしまうことを「肺塞栓症」と言います。この2つを合わせて「旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)」と言います。


飛行機だけじゃない?エコノミークラス症候群

旅行者血栓症は、従来「エコノミークラス症候群」とも呼ばれていました。ですので「飛行機でのみ起こる症状」だと思われるかも知りません。しかし、実は旅行者血栓症は、飛行機だけではなく、列車旅行など、長時間座席に座って移動する時や、オフィスでのデスクワーク、長時間の会議、劇場・映画館などでも起こると考えられます。特に、空調設備の整ったオフィス環境はきわめて航空機内に類似した環境と言えます。旅行者血栓症とは何か、その原因をしっかり理解し、賢明に対処することが大切です。


旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)の原因と予防法
イオン飲料で効果的な水分補給

大事なのは、水分補給

飛行機など、長時間同じ姿勢で座ったりしているときに注意したいのが、「旅行者血栓症」です。

乗り物の座席などに長時間座っているために下肢が圧迫されてうっ血状態となり、血栓が生じる状態を「深部静脈血栓症」、その血栓が肺に詰まってしまうことを「肺塞栓症」と言います。この2つを合わせて「旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)」と言います。


検証!イオン飲料と水、どちらが効果的?

大塚製薬では、 旅行者血栓症と水分補給の関係を研究するために、航空機をチャーターし、ボランティアスタッフ40名にアメリカまで搭乗してもらう実験を行いました。実験では、被験者を「イオン飲料摂取群」と「ミネラルウォーター摂取群」に20名ずつ分け、9時間のフライト中、どちらも同じ量を同じタイミングで飲んでもらいました。

「イオン飲料が適している」米国医師会誌「JAMA」に掲載

実験の結果、血液粘度の観点から航空機搭乗時のような状況下での水分補給には、ミネラルウォーターよりもイオン飲料の方が適していることがわかりました。

この研究内容は、東京慈恵会医科大学の銭谷(ぜにや)助教授らによって、2002年2月、米国医師会誌「JAMA」に掲載されました。


発症の原因
旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)発症の原因説明図
「旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)」の原因の1つは、航空機内などの乾燥した空間や、低い気圧によって体内の水分が蒸散しやすくなり、血液の粘度が上昇してしまうことにあります。水分摂取の不足や、アルコール摂取なども脱水傾向を招き、血液粘度上昇のリスクを高めます。

このような状態で長時間座位により下肢が圧迫され続けると、うっ血を起こし、血栓が生じてしまいます。これを「深部静脈血栓症」と言います。また、気圧が低い場合は、よりうっ血しやすくなります。生じた血栓は、立ち上がった際などに、血液の流れにのって移動し、肺の細い血管で詰まることで呼吸困難や動悸をひきおこします。これが「肺塞栓症」です。このようにして「旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)」が発症するのです。

旅行者血栓症(エコノミークラス症候群) を予防するには?

こんな人は要注意!

旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)になりやすい人は、血栓が出来やすい人です。メタボリック症候群をはじめとした生活習慣病の人、例えば肥満、糖尿病、下肢静脈瘤などを有している人は、注意が必要です。又、40歳以上の女性、背が低い人、タバコを吸う人なども注意が必要です。


こんな人は要注意!

肥満の人
糖尿病の人
下肢静脈瘤を有している人
40歳以上の女性
背が低い人
タバコを吸う人
予防に効果があるのは?

足のマッサージをしましょう!
長時間座位による血液の循環状態悪化、特に下肢の循環悪化を回避するには、適切な運動や下肢の循環を良好にするマッサージが有効で、血栓の予防にもなります。
適切な水分摂取は必須!
血液粘度の上昇を惹起する脱水を防ぐためには水分の適切な摂取が必要ですが、ビールなど利尿作用のある飲料ではむしろ脱水が助長されます。

メモ:海外旅行、航空機の座席は通路側がオススメ
長時間座位による下肢の血液循環悪化を回避するには、航空機での移動中にもトイレに立ったり、飲料を飲んで水分補給をする必要があります。そのためには、トイレに立ちやすい通路側の座席を指定するのがオススメです。

窓側の座席は確かに景色はよいのですが、3人掛けの座席の一番奥などになった場合はなかなかトイレに行きにくいものです。「ちょっと失礼します…」と声をかけにくくて、トイレを我慢した、という方もいるのではないでしょうか?トイレに行かないように水分を摂らないようにする、なんてことの無いように、心配な人は、通路側の座席を指定しましょう。

検証!イオン飲料と水、どちらが効果的?

大塚製薬では、 旅行者血栓症と水分補給の関係を研究するために、航空機をチャーターし、ボランティアスタッフ40名にアメリカまで搭乗してもらう実験を行いました。実験では、被験者を「イオン飲料摂取群」と「ミネラルウォーター摂取群」に20名ずつ分け、9時間のフライト中、どちらも同じ量を同じタイミングで飲んでもらいました。


実験概要
飛行機などでの長時間座位に伴って起こる「旅行者血栓症(エコノミークラス症候群)」には、水分補給がとても重要です。

大塚製薬では、 旅行者血栓症と水分補給の関係を研究するために、航空機をチャーターし、ボランティアスタッフ40名にアメリカまで搭乗してもらう実験を行いました。実験では、被験者を「イオン飲料摂取群」と「ミネラルウォーター摂取群」に20名ずつ分け、9時間のフライト中、どちらも同じ量を同じタイミングで飲んでもらいました。

実験詳細

目的
水分の補給が長時間の航空機搭乗時の水分バランスと下肢の血液粘度に与える影響を調査
実験デザイン
非盲検化群比較実験
スケジュール
日本、成田空港 21:30発 →
アメリカ、モーゼスレイク空港 06:30着
(9時間のフライト)
対象
40歳以下の健常成人男性40名
(平均年齢23.4歳、体重61.3kg、身長172.5cm)
群構成
1. 20名 : イオン飲料摂取
2. 20名 : ミネラルウォーター摂取
備考
すべての被験者は航空機に搭乗する2日前から規定の飲食物を一定量摂取しました。
機内では定期的に尿を採取し、フライトの前後で体重測定や採血を行いました。
排尿以外は座ったままの状態を維持してもらいました。
スケジュール詳細

イオン飲料で効果的な水分補給

実験結果

実験の結果、搭乗中に飲んだ水分量はどちらの群も同じであるにも関わらず、尿の総排出量は、イオン飲料の方が、ミネラルウォーターよりも少ないことがわかりました。(図1)

また、搭乗中に飲んだ水分が体内に残る割合を見てみると、ミネラルウォーターの約28%に対してイオン飲料は約48%と、イオン飲料摂取群の方が、水分が体内に残る割合が高いことがわかりました。(図2)

航空機搭乗中(10時間)の尿排泄量


(図1)航空機搭乗中(10時間)の尿排泄量
航空機搭乗中に飲んだ水分が体内に残る割合


(図2)航空機搭乗中に飲んだ水分が体内に残る割合
また、イオン飲料摂取群はミネラルウォーター摂取群より搭乗前に比べ血漿量も有意に増加し、足と腕の血液粘度もミネラルウォーター群より差が大きくないことが分かりました。(図3,4)
航空機搭乗前後の血漿量変化


(図3)搭乗前後の血漿量の変化
航空機着陸後の腕と足の血液粘度の比較


(図4)搭乗前後の血液粘度の変化
イオン飲料で効果的な水分補給を!

実験結果では、血液粘度の観点から、航空機搭乗時のような状況下での水分補給には、ミネラルウォーターよりもイオン飲料の方が適していることがわかりました。

長時間の移動やオフィスワークなど、類似した環境下では、一定時間を経過したら下肢を動かし、血液の循環を改善しましょう!そして、イオン飲料で効果的に水分補給を行いましょう!


新島八重の桜 大河ドラマ『八重の桜』ふたたび維新回天草莽掘起篇ブログ小説9

2016年04月20日 07時12分05秒 | 日記










  松平容保が開陽丸に戻ると、いよいよ一同はいき揚々たる顔になる。
 いよいよ「新天地」に向かうのだ!
 一同は甲板の中央に立つ松平容保に注目している。
「冗談ではない! この船を幕府の幕引につかわれては余はたまらない!」
 容保はいう。すると沢が、「その通りです! 冗談じゃねぇ!」
 家臣たちも「会津公がまげを落としたなら、俺たちも…」
 といって、刀を抜き、ちょんまげを切りおとした。
「まずは奥州(東北)戦争を助けるために会津、仙台にいく!」
 榎本は激を飛ばす。
「そして、「新天地」に向かうのだ!」
 部下たちは揚々たる顔である。
「蝦夷に新しい国をつくる! 蝦夷共和国だ! 薩長の新政府なんぞ糞くらえだ! 共順など糞くらえだ! 我々は「新天地」に向けてジャンプする!」
 一同は歓声をあげた。
 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……
 高松凌雲も甲板でそんな幕臣たちを笑顔でみている。
「榎本さん。わたしは軍にはいったわけじゃない。赤十字の精神で治療や介護をしていく」「……凌雲先生! それでいいですよ」
 武揚は笑った。
 そんな中、フランス人ふたりが軍服のままやってきた。
 流暢な日本語で「榎本さん、わたしたちも仲間にいれてください」と嘆願した。
「しかし、フランス軍の兵士を乗せていく訳にはいかん」
松平容保はしぶり、榎本武揚は躊躇した。
「それでは旧幕府軍(榎本脱走軍)とフランス軍がふっついたことになる。蝦夷共和国そのものが朝敵にされかねない」
「会津公も困るぞ」
 フランス人のひとりカズヌーブは「わたしたちは仏軍抜けてきました」という。
 もうひとりのフランス人、ブリュネは、
「わたしたちあなたたちと同じサムライになります。フランスのサムライです。どうかお供させてください」と頭を下げた。
 榎本は笑顔になり、
「わかった! フランスのサムライもふくめて我々は「新天地」に向けてジャンプする!」 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……
 林董三郎、山内六三郎を英語方にした。
 慶応四年(一八六七)八月十八日、八隻の幕府艦隊を引き連れ、松平容保らは「榎本脱走軍」を東京から会津、仙台へと向かわせた。
 田代老人はその艦隊を見送った。
 孫娘で、容保の側室である佐久も涙で見送った。
「佐久、会津公たちは確かに賊軍になったが……歴史が、ふたたび公たちを評価してくれる日がくる」
「……そうでしょうか?」
「何年後か、何十年後か……もしかしたら百年ののち公たちの戦がけして無駄ではなかったということを日本人は知るのじゃ。そうでなきゃいかんのよ」
 佐久は何も答えなかった。
 只、遠ざかる艦隊を見送っていた。

  大時化となり、台風の暴風雨が榎本脱走艦隊を襲った。
 艦隊が横に縦に揺れ続ける。
 …それは榎本脱走軍の未来を暗示しているような天候だった。
  いっぽう会津では八月二十五日、会津公が藩にもどった。桑名藩、米沢藩、庄内藩、仙台藩があいついで官軍に降伏していた。会津近辺でも戦闘が開始された。
 会津同新館(病院)で治療にあたるのは松本良順である。
「ちか子さん、もっと包帯だ! 早く!」
 看護士は、井上ちか子ら数名のみである。井上ちか子はまだ若い女だ。しかし、病人の看護で埃まみれ、汗まみれで看護にあたっていた。
 そんな病院に土方歳三が軍服姿で刀をもち、現れた。
「土方さま!」
 井上ちか子は驚いて声をあげた。京であっていらい四年ぶりの再会であった。
「……ちか子さん。わたしはこれから仙台にいき、榎本武揚海軍副総裁と合流します」
「どこへ? もう新選組の役目はおわったでしょうに…」
 土方は沈黙した。
 そして、やっと「蝦夷にいきます。なんでも旧幕臣たちで蝦夷を開拓して”蝦夷共和国”をつくるとか……」と答えた。
 明治元年(一八六八)のことである。
 榎本脱走軍が仙台についたのは、なんと宇都宮からの敗戦から半年後であったという。 土方はいう。
「わかりません。幕府が滅んだのに幕臣だけは生き延び蝦夷に共和国をつくることは納得できません。幕府の死は私の死です。侍らしく、戊辰戦争もおわれば切腹しましょう」
「いや…」榎本は説得する。「命を粗末にしてはならない。まず、将来、日本や蝦夷の将来を考えてもらいたい。土方くん、新選組にだって未来があったはずだ。幕臣にだって未来があってもいい」
 榎本脱走艦隊は土方ら新選組や会津藩士ら旧幕臣三千名をつれて蝦夷へむかった。
 蝦夷とは現在の北海道のことである。もう冬で、雪が強風にあおられて降っていた。

  榎本脱走艦隊が蝦夷鷲木湾へ着いたとき、もう真冬で蝦夷は真っ白な冬景色だった。 開陽丸の甲板もすぐに白い雪におおわれた。
「蝦夷は寒いのう」
 榎本武揚脱走軍は北海道に着くと、全軍を二軍に分かち、大鳥圭介は、第二大隊遊撃隊、伝習第二小隊、第一大隊一小隊を総監し、本道大野から箱館に向かうことになった。
いっぽう土方たち新選組残党と額兵隊(隊長星恂太郎)と陸軍隊とを率いて川汲の間道から進軍した。
 土方歳三は陸軍奉行並という。その他、竹中重固(陸軍奉行)、桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静、唐津藩主小笠原長行ら大名が蝦夷地に着いていた。
 深い雪の中の進軍であった。
 土方歳三は五稜郭に向かった。
 中には怪我人の幕臣まで出陣するといい、高松凌雲に止められた。
 
  のちに青森の松前藩士が榎本脱走軍のひとりを斬ったことで、松前藩と榎本脱走軍との戦いが始まった。戦闘は数時間でおわり、剣で土方たち新選組残党が奮起した。
「土方くんたちを暖かく迎えてやれ」
 榎本武揚は江差に上陸して五稜郭城を占拠していた。
 しかし、そんなとき不運はおこる。
 暴風雨で波は高かったが、まさか船が沈むとは榎本武揚ですら思っていない。しかし、激しい風と雪、波でしだいに開陽丸の船体がかたむき、沈みかけた。
 それを海岸でみていた榎本武揚は動揺して、
「船が……! 開陽丸が沈む!」と狼狽して叫んだ。
 家臣たちに止められなければ海の中に歩いていったことであろう。
 土方がやってきた。
「俺の四年間の結晶が……開陽丸が沈む!」
 武揚は涙声だった。
 土方はそんな情ない榎本を殴り「この西洋かぶれが!」と罵倒した。
 そうしているあいだにも遠くで開陽丸が沈んでいく。
「開陽丸が! 開陽丸が! あの船がなくなれば蝦夷共和国はおわりだ…あぁ」
 土方は「蝦夷共和国?! そんなもの幻だ!」といった。
 やがて、巨大な開陽丸の船体は海に沈み、海の藻屑へと消えた。
「あぁ……開陽丸が…………すまない皆、すまぬ」
 榎本は涙を流して部下たちにわびた。
 土方は何もいわなかった。
 その頃、会津にまで官軍は迫っていた。
 会津征伐軍参謀には山田市之丞と、同じく征伐軍参謀・黒田了介(のちの黒田清隆首相)が福島県まで進軍していた。ゆくゆくは蝦夷である。
 参謀は獅子舞のようなかつらをつけている。
「まずは飯じゃ! 飯! おお寒い。東北は薩摩と比べようもないほどさむいのう」
 山田はそういうと栃木城で暖をとった。
「この餓鬼が……当たり前じゃっどん。薩摩と東北では天気がちがうでごわそ!」
 参謀・黒田了介は、まだ若い二十五歳の山田市之丞と同じ位なのが我慢がならない。
「おいどんだけで会津や蝦夷にいった幕府残党を征伐ばするでごわす!」
 黒田はいったが受け入れられなかった。
 その間も、山田の若造は「飯じゃっどん! 温こう飯じゃっどん!」
 とさわいでいる。
 ……この糞餓鬼が……
 参謀・黒田了介は舌打ちした。

「来るならこい!」
 松平容保は鶴ケ城でそう呟いた。
 官軍なにするものぞ、会津藩の力みせてくれようぞ!
 ……今度の官軍との戦いでは藩士だけでなく女子や少年たちも戦ってもらうしかない。彼は少年たちの突撃隊の名前を紙に筆が書いた。
 ”白虎隊”……
 集められた少年たちは十九~二十歳たち十九名、女子も武装して集まった。
 官軍は猪苗代まで迫っている。少年たちは鶴ケ城から出陣しなければならない。
 その中には生き残りの少年、当時十六歳の飯沼貞吉の姿もあった。

 そして再び話しは「会津の役」である。
1868年10月7日、十六橋を押さえた新政府軍は、若松城の北東わずか数kmに位置する戸ノ口原まで迫った。
新政府軍は援軍が加わり、ますます勢いは盛んになっていた。
「なにが官軍だ!会津は逆賊じゃねえず!」
これを迎え撃つのは、「鬼の官兵衛」という異名をもつ、会津藩一の猛将・佐川官兵衛(さがわ・かんべえ)である。
「敵を戸ノ口原で防ぎ、十六橋の東へ追い払う」
と豪語する佐川官兵衛は、強清水村(こわしみず村)に本陣を置き、戸ノ口原で新政府軍を迎え撃つ準備をしていた。
しかし、会津軍は主力部隊を国境に展開しており、若松城に残っている兵はわずかで、戸ノ口原に集まった兵は、敢死隊(かんしたい)や奇勝隊(きしょうたい)などの義勇軍(非正規軍)を主とする1000人程度であった。
このため、白虎隊は予備隊という位置づけで、戦争に参加する予定は無かったが、戦争に駆り立てられることになる。
1868年10月7日午後2時、会津藩主の松平容保は警護の白虎隊(士中一番隊と士中二番隊)を従え、滝沢本陣に到着する。
(注釈:松平容保は松平喜徳に家督を譲っており、松平容保を前藩主であるが、便宜上、松平容保を藩主と表記する。)
そのころ、滝沢本陣には十六橋から敗走してきた会津兵が続々と押し寄せていた。
さらに、戸ノ口原から戻ってきた会津藩士・塩見常四郎が援軍を求めてきた。
すると、隊長の日向内記(ひなた・ないき)が率いる白虎隊(士中二番隊)が援軍に名乗りを上げた。
藩主・松平容保はこれを許可し、白虎隊(士中二番隊)を戸ノ口原への援軍に向かわせる。
と、白虎隊(士中一番隊)を引き連れて若松城へと引き返した。
予備隊として編成された白虎隊(士中二番隊)は実戦経験を積んでおらず、白虎隊(士中二番隊)にとってはこれが初陣である。
白虎隊(士中二番隊)は当初、ヤーゲル銃という火縄銃に毛の生えた程度の洋式銃を装備していた。
が、ヤーゲル銃は役に立たないため、武器担当役人を脅迫し、馬上銃を手に入れていた。馬上銃はヤーゲル銃とは比べものにならないほど扱いやすかったという。
白虎隊(士中二番隊)が装備していた馬上銃は「マンソー銃」(マンソー騎銃)だと推測されている。馬上銃がマンソー銃だった事を裏付ける資料は無いが、ここではマンソー銃としておく。
一方、白虎隊(士中一番隊)も出陣を懇願したが、藩主・松平容保を警護する任務があるため、仕方なく、藩主・松平容保に伴って若松城へと引き上げた。
初陣となる白虎隊(士中二番隊)37名は、隊を2つに別れて戸ノ口原を目指した(その後、合流している)。
(注釈:白虎隊士中二番隊の人数については諸説があるが、ここでは定説となっている37人説を採用する。)
合流した白虎隊(士中二番隊)37名は舟石(地名)に達すると、戦場から砲撃の音などが聞こえ始めたため、白虎隊(士中二番隊)は舟石茶屋に携帯品を預け、馬上銃(マンソー銃)に銃弾を込めた。
このとき、白虎隊(士中二番隊)は携帯していた食料も舟石茶屋に預けたという説もある。
1868年10月7日午後4時、舟石茶屋に携帯品を預けて身軽になった白虎隊(士中二番隊)37名は、強清水村を経由して、戸ノ口原の側にある菰槌山(こもづちやま)に到着する。
白虎隊(士中二番隊)は菰槌山に布陣し、塹壕を掘って菰槌山から新政府軍を狙撃した。菰槌山では敢死隊(かんしたい)も戦っていた。
大砲の援軍も駆け付け、会津軍は新政府軍をいったん退けることに成功した。
この日、白虎隊(士中二番隊)は食料を携帯していないため、敢死隊から握り飯を分けてもらい飢えをしのいだ。
白虎隊(士中二番隊)は敢死隊と供に菰槌山で新政府軍を迎え撃つ予定であったが、篠田儀三郎が進軍を主張する。
白虎隊員も篠田儀三郎の意見に賛同し、白虎隊(士中二番隊)は菰槌山を敢死隊に任せて前線へと向かうことにした。
ここから、酒井峰治と飯沼貞吉の証言が大きく違うため、白虎隊(士中二番隊)は、
「挟撃作戦部隊(酒井峰治)」と
「前線突入部隊(飯沼貞吉)」
の2手に別れた可能性がある。ただ、詳しいことは分からない。
ここでは、飯盛山で自害する白虎隊(士中二番隊)16名が焦点を当てたあらすじを紹介するため、「前線突入部隊(飯沼貞吉)」のあらすじを紹介する。
1868年10月7日夜、日が暮れ、雨も降り出したため、前戦を目指していた白虎隊(士中二番隊)は進軍を停止し、野営することにした(台風が近づいており、天候は悪かった)。
その後、隊長の日向内記(ひなた・ないき)は軍議に参加するため、1人で白虎隊(士中二番隊)を離れた。
隊長の日向内記が白虎隊を離れた理由は、食料を調達するためとされてる。
強清水村の本陣での軍議に参加するためという説もあるが、真相は分からない。
1868年10月8日午前5時ごろ、夜が明け始めても隊長・日向内記が戻ってこないため、日向内記に変わって篠田儀三郎が指揮を執り、白虎隊(士中二番隊)を進軍させた。
やがて、白虎隊(士中二番隊)は、水の無い溝を発見し、溝に身を隠した。
そして、進軍して来た新政府軍をめがけて側面から発砲する。
奇襲攻撃を受けた新政府軍は一時、混乱したものの、直ぐに応戦。
多勢に武勢で、新政府軍の反撃に遭った白虎隊(士中二番隊)は総崩れとなり、ちりぢりとなって敗走する。
追っての兵から逃れて、白虎隊(士中二番隊)は野営地までたどり着くと、白虎隊員は、わずか16人となっていた。
白虎隊(士中二番隊)はここで休息を取る。
白虎隊員16人の中には昨夜の残飯を所持している者がいたため、残飯を水の中に放り込み、16名はそれを食べて飢えをしのいだ。
そして、16人では戦うことも出来ないことから、白虎隊(士中二番隊)は若松城まで退却し、体勢を立て直すことにした。
白虎隊(士中二番隊)は菰槌山で握り飯を分けて貰った敢死隊(かんしたい)の宿舎にたどり着くが、既に新政府軍に攻撃された後で、死体が散乱していた。
白虎隊(士中二番隊)は敵兵を避けつつ若松城を目指していたが、滝沢峠で敵兵に遭遇。
白虎隊(士中二番隊)は敵兵だとは気づかず、合い言葉をかけるが、敵兵が発砲してきた。
この砲撃で白虎隊(士中二番隊)の永瀬雄治が腰を負傷する。
白虎隊(士中二番隊)は永瀬雄治を背負って敵兵から逃げた。
やがて、白虎隊(士中二番隊)16名は洞窟「弁天洞門」を通って飯盛山に落ち延びた。
16名が飯盛山の山頂に着いたのは1868年10月8日午前11時頃のことであった。
藩主の松平容保は負傷兵のために、若松城の西隣にある藩校「日新館」を解放し、救護所(病院)としていた。
日新館には、江戸から逃れてきた医師・松本良順と弟子が居り、松本良順の指揮の下で負傷兵の治療が行われていた。
会津藩の女性は日新館で負傷兵の治療を行っており、ボランティア看護婦のようなことをやっていた。
1868年10月8日早朝、戸ノ口原を突破した新政府軍が城下町へ押し寄せると、会津藩は若松城の城門を閉ざした。
そして、会津藩は、若松城の西に隣接する藩校「日新館」が敵の拠点に使われることを恐れ、日新館に火矢を放ったのである。
火は瞬く間に藩校「日新館」を包んで燃え上がった(日新館の焼き討ち事件)。
一説によると、藩校「日新館」の火事を飯盛山から見ると、まるで若松城が燃えているように見えるという。
白虎隊が見た火には諸説あり、山本八重は自害した白虎隊について、
「官軍に来られ、仕方なぐ米を運べれるだけ城内に運んで、十八倉(米倉)を焼いてしまったのっす。んだげんじょ、味方がこごから見んど、ちょうど三の丸の森がございやして、城の方へ見えがから、城が焼けでしまったと思って、みんな割腹して死んだんだべなあ」と話している。
飯盛山の山頂に登った白虎隊(士中二番隊)が若松城を見ると、既に若松城が炎上していた。
大砲の音も絶え間なく鳴り響いている。
城下町からも火の手が上がっている。滝沢街道を見ると、新政府軍の長蛇の列が街道を埋め尽くしていた。
「し……城が燃えでる。あああぁ…」
「おれらの会津が負げだ。もう、おわりだんべ」
白虎隊(士中二番隊)の井深茂太は
「んだげんじょ、若松城は天下の名城じゃ、燃えででも、まだ落ちてないず。君主さまが健在である以上、無益な死は避けるべきだべ。南方から入城すっぺ」と主張する。
一方、敵陣に切り込んで1人でも多くの敵を殺すべきだ、と主張する隊員もおり、白虎隊は喧々囂々の議論となった。
しかし、最終的に篠田儀三郎が
「敵陣に突入するにしても、若松城へ戻るにしても、16人では成功の可能性が低い。もし、敵に捕まって辱めを受ければ、藩主の名を汚すことになる。潔く自害することこそ、武士の本分である」
と説得し、白虎隊(士中二番隊)16人は自害することになった。
腹を切る者も居れば、喉を突く者も居る。白虎隊(士中二番隊)の篠田儀三郎ら16人は会津藩士としての誇りを貫き、見事に自刃に倒れたのである。
なお、山本八重が砲術を教えた伊東悌次郎は、白虎隊(士中二番隊)の隊員として戦ったが、飯盛山に到達する前に戸ノ口原(不動滝)で戦死したとされている。
一般的に飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)は19名とされているのは、飯盛山で自害した16人に、戸ノ口原(不動滝)で戦死した白虎隊(士中二番隊)の伊東悌次郎・津田捨蔵・池上新太郎の3人を加えたものである。
さらに、その後、別行動で飯盛山へとたどり着いて、自害した石山虎之助を加えて、自害した白虎隊(士中二番隊)を20人とする説もある。
また、白虎隊は総数340人程度の部隊だが、一般的に白虎隊といえば、飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)20人を差す場合が多い。
白虎隊15人が自刃に倒れ、介錯の役目を終えた白虎隊(士中二番隊)の西川勝太郎が最後に自害しようとしたところ、山下を通る農民を見つけた。西川勝太郎は農民を呼び寄せて問うと、農民は滝沢に住む農民だという。
そこで、西川勝太郎は、
「我々は若干の金を持っている。みんなの金と刀を報酬とするので、我々の死体を地中深くに埋め、我々の首が敵の手に渡らないようにして欲しい」
と頼んで、自害した。
こうして、飯盛山へ落ち延びた白虎隊(士中二番隊)16人が自害すると、埋葬を頼まれた農民は、自害した白虎隊(士中二番隊)の体をまさぐり、金や刀を奪っていく。
農民が白虎隊(士中二番隊)の飯沼貞吉(いいぬま・さだきち)の懐に手を入れて金品を探していとき、意識を取り戻した飯沼貞吉は、敵かと思い、農民の腕を掴んだ。飯沼貞吉は何か言おうとしたが、喉から空気が漏れて、上手く喋れない。
飯沼貞吉は刀で喉を突いて、他の白虎隊(士中二番隊)とともに自害していたが、急所を外して死に切れずに気を失っていた。
そこで、農民が懐に手を入れたため、飯沼貞吉は意識を取り戻したのだ。
驚いた農民は
「死に急ぎなさるな。私達の隠れている山までお連れいだします」
と言い、その場を誤魔化し、飯沼貞吉を八ヶ森の岩山まで運んだ。
そして、農民は
「水をくんで参ります」
と言い残して、飯沼貞吉の刀を盗んで姿を消した。もちろん、農民が戻ってくることは無かった。
農民は白虎隊(士中二番隊)の西川勝太郎から白虎隊の死体を埋めるように頼まれていた。
が、農民は白虎隊の死体を埋めずに、金や刀だけ盗んで逃げ去ったのだ。
その後、近くを通りかかった農民・渡部佐平が、うめき声のようなものを聞き、飯沼貞吉を発見する。
渡部佐平は山に隠れ住んでおり、薪を取りに向かうところだった。
このとき、渡部佐平は隠れ家で「印出ハツ」という女性をかくまっていた。
印出ハツは会津兵の足軽・印出新蔵の妻で、「戦争に行く」と言って家を飛び出した息子を探しており、渡部佐平の隠れ家で世話になっていた。
(注釈:印出ハツの息子は白虎隊に入隊しているという説があるが、白虎隊の名簿にはそれらしき人物は見当たらない。)
隠れ家に戻った渡部佐平が、印出ハツに、負傷した白虎隊員を見かけたことを教えると、印出ハツは「私の息子かもしれない」と言い、飯沼貞吉が倒れている場所へと急いだ。
残念ながら、印出ハツは息子と再会できなかったが、負傷した飯沼貞吉を隠れ家へ連れて帰って手当てしてやった。
3日3晩、寝ずの看病をした結果、飯沼貞吉は一命を取り留めた。
しかし、新政府軍による残党狩りが始まったため、印出ハツは飯沼貞吉を連れ出し、塩川を経て山中の不動堂にたどり着いた。
そして、飯沼貞吉は不動堂で会津藩の敗戦を迎えた。
会津藩降伏後の飯沼貞吉の行動は分からない。
会津藩の敗戦後は他の会津藩士と同様に、猪苗代や東京で謹慎したという説もあるが、真偽は不明である。
飯沼貞吉はその後、飯沼貞雄と改名し、逓信省の電信技師として働いた。
晩年は仙台に住み、1931年(昭和6年)に死亡した。
享年79歳であった。
墓は宮城県仙台市にある輪王寺に建てられた。
飯沼貞吉は生涯、故郷の会津に戻ることは無かった。
その後、会津出身者が仙台に飯沼貞吉の墓があることを知る。
これが合祀運動に発展し、1957年(昭和32年)に行われた「戊辰戦争後九十年祭」で、飯盛山に飯沼貞吉の墓が建てられた。
飯沼貞吉は息子に
「会津で祭りたいという希望があれば、これを渡せ」
と遺言し、歯と髪を託しており、飯盛山の墓には歯と髪が納められている。
なお、飯沼貞吉の合祀については会津藩関係者の反対もあり、飯沼貞吉の墓は、自害した白虎隊(士中二番隊)19人の墓から離れた場所に建てられている。
飯沼貞吉の墓を建てたのも財団法人「前島会仙台支部」となっている。
当時は
「切腹に失敗するなど、会津藩士の恥」
「少年ばかりの墓に、年寄りを入れるのは不釣り合いだ」
などと、飯沼貞吉の墓を白虎隊の墓に入れる事に反対する声があったという。
埋葬を頼まれた農民(盗賊)が自害した白虎隊(士中二番隊)から盗んだ刀などは、会津藩城下町の骨董品屋などで売られていた。
会津藩の敗戦後、飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)・西川勝太郎の母親・西川せき子は、偶然、骨董品屋で息子・西川勝太郎の刀を見つけ、買い戻すことができたのであった。
若松城の城門近くに、会津藩の家老の西郷頼母(さいごう・たのも)の家老屋敷があり、この家老屋敷で西郷頼母一族21人が自刃に倒れた。
西郷頼母一族の自刃があったのは、家老の西郷頼母が国境警備にあたっている時のことである。
1868年10月8日(慶応4年8月23日)早朝、城下町に早鐘が鳴り響き、藩士の家族が続々と若松城に向かうなか、西郷頼母の一族21人は西郷頼母の家老屋敷に集まっていた。
西郷頼母の母親・西郷律子は
「女が城に居ては足手まといになる。されど、敵の手に落ちて辱めを受けるわけにはいかない」
と言い、辞世の句を詠むと、自刃に倒れた。
西郷頼母の妻・西郷千恵子は義母・西郷律子の後に続き、まだ自害できない幼い我が子を刺した。
そして、妻の西郷千恵子は我が子の死を確認すると、返す刀で自分の喉を貫き、会津藩士の妻としての役目を果たした。こうして、西郷頼母の家族9人が自害した。
また、別室に集まった西郷頼母の縁者12人も西郷律子らに続き自害した。この日、西郷頼母の家老屋敷では一族21人が自殺した。
「むごかぁ、じゃけんど会津の女子は立派じゃきに」
そのむごたらしい遺体を発見して、合掌したのは官軍の板垣退助と中島信行であったとされる。
一方、若松城まで到達した新政府軍・土佐藩の中島信行は、若松城の近くにある屋敷を一軒一軒、調べていた。中島信行は大きな屋敷に鉄砲を撃ち込む。しかし、反応が無いので、屋敷内を捜索した。
土佐藩士・中島信行が長い廊下を渡って1室の障子を開けると、女子供が自刃に倒れて死んでいた。
それは西郷頼母の一族21人だった。
しかし、17~18歳の女が1人まだ息を残していた。
年齢から考えて、女は西郷頼母の長女・西郷細布子(16歳)だとされている。
西郷細布子は母に頼らずに自害したが、急所を外して自殺に失敗し、意識がもうろうとしていた。西郷細布子はもうろうとしながらも、障子を開けた中島信行の気配に気づくと、
「敵か、味方か」と問うた。
土佐藩士の中島信行が
「安心せい、味方じゃ」
と答えると、西郷細布子は力を振り絞って懐刀を差し出し、介錯を頼んだ。
中島信行は「御免」と言い、西郷細布子の首を落としてやった。
(注釈:西郷頼母の家老屋敷に入ったのは、土佐藩士・中島信行とされているが、中島信行は土佐藩を脱藩しており、会津戦争に加わっていないため、別人の可能性がある。多分、板垣退助であろう)
会津藩士の家族の中には、西郷頼母一族と同じように新政府軍の辱めを受けることを危惧して、自害した者が大勢居た。
柴五郎の家族も自害している。
内藤介右衛門の家族も面川泰雲寺で自害している。
戊辰戦争で死んだ会津藩の女性の数は計230人に上ったという。
1868年10月8日(慶応4年8月23日=籠城戦の初日)、籠城初日の会津城には老兵や予備隊のはか水戸藩の兵など約300人の兵士しか残っていなかった。
会津藩は主力部隊を国境に展開しており、帰城命令は出ていたが、主力部隊は未だに帰ってきていなかった。
会津藩は籠城戦を想定していなかったので、籠城の準備は出来ておらず、弾薬や食糧の搬入も出来ていなかった。
山本八重が若松城に入城したとき、会津兵は城内で刀を抜き、入城してきた婦女子に
「例え女中でも、卑怯なまねは許しませんぞ」と叫んでいた。
足手まといになる乳飲み子を殺してきたのだろうか、入城してきた女性の中には服が血に染まった者も居り、城内は殺伐としていた。
会津藩は若松城三の丸に進入していた新政府軍の間者3人が捕まえ、拷問の末、首を切り、間者3人の首を廊下に吊して晒し首にしていた。
そのころ、若松城の外では、会津藩の家老・神保内蔵助と家老・田中土佐の2人が甲賀町口の守備にあたり、新政府軍を食い止めていた。
しかし、多勢に無勢で、敵に包囲されると、
「んだげんじょ、会津の未来だげが心残りだべ。逆賊などといわっちぇ…悔しいだげだべした」
「もうこれでおわりだべなあ」
「んだなあ、死んで会津の汚名が晴れだらいいげんじょなあ」
「悔やまれんのは若殿さまが京都守護職になられたどぎ、わしら家老が一斉に腹かっさばいでお止しどげば…」
「んだなあ、会津が守護職にさえならねば……いまさらながら悔やまれるべ」
「死んだあとに生まれ変わっても…会津……会津に生まれでくんべ」
長い沈黙の末、辞世の句を書くと、
 神保内蔵助や田中土佐は自害した。
町奉行の日向左衛門も出陣し、大町口郭門の守備について新政府軍を食い止めていた。
日向左衛門は、山本八重の幼なじみ日向ユキの父である。
日向左衛門は銃撃戦の末に負傷し、祖母の実家へ落ち延びて竹藪の中で自害した。
会津藩の必死の抵抗も空しく、新政府軍は怒濤のごとく若松城へ押し寄せた。
最初に若松城に到達したのは、甲賀町口郭門を突破してきた土佐藩であった。
雷鳴のごとく会津軍を切り裂いて侵攻した新政府軍であったが、ここで勢いが止まる。
天下の要塞・若松城の門は固く閉ざされていたのだ。
台風の影響で雨が降っていたため、城外では火縄銃や旧式の洋式銃は全く役に立たなかった。
が、若松城には狙撃用の窓があるため、火縄銃がようやく効果を発揮し、近づく新政府軍を寄せ付けなかった。
一方、若松城へ入城した山本八重は、スペンサー銃を担いで戦闘が始まっている北出丸へ駆け付けた。
 いわゆる戊辰戦争の末期、会津藩(現在の福島県)に薩長官軍が「天皇の印」である「錦の御旗」を掲げて、会津城下まで進攻し、会津藩士たちや藩主・松平容保の籠城する「鶴ヶ城(会津若松城)」に雨霰の如く大砲弾や鉄砲を浴びせかける。「いいが?!よぐ狙っで撃ちなんしょ!」若松城には、この物語の主人公・山本八重が、スペンサー銃で武装し、男装して少年鉄砲隊を率いている。
「確かに薩長軍は数は多い。んだげんじょ、軍を指揮する敵を倒せばいいがら!」そういって城壁から官軍の指揮者を狙った。さすがに、「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサム・ウーマン」である。官軍指揮者の獅子舞のかつらのようなものをかぶった大山巌(西郷隆盛のいとこ)の脚に弾丸を命中させる。
「よし、命中んだ」
少年兵たちも笑顔になった。
「やっだあ!」
「ほれ、にしらもようっぐ狙っで撃ちなんしょ」
「はい!」
 会津藩の戊辰戦争はまだまだおわりそうもない。
八重は髪も短くして、若い少年兵のリーダー的な存在にまでなった。
「なして会津が逆賊なんだず!会津は京の都で天子さま(考明天皇のこと)や幕府を守っで戦ったのだべした。なら会津に義があるべず!」八重は男装のまま下唇を噛んだ。
味方の兵に
「女に何が出来る」
と笑われたが、山本八重はスペンサー銃を構えると、次々と土佐兵を撃ち殺していく。
山本八重が持つスペンサー銃は、最新式の洋式銃で、元込め式の7連発のライフル銃だった。
元込め式なので弾の挿入も早く、バネ仕掛けになっており、7連射できる。
火縄銃を2発撃つ間に、スペンサー銃は数発も撃てる。
スペンサー銃は、当時「元込め7連発」と呼ばれて恐れられた銃である。
若松城へ詰め寄った新政府軍の土佐藩は、山本八重の正確な狙撃に苦しみ、後退を余儀なくされた。
山本八重は見事に土佐兵を退けたのである。

黒田官兵衛<軍師黒田官兵衛と石田三成と「大河ドラマ軍師官兵衛」ふたたび>ブログ連載7

2016年04月19日 06時42分21秒 | 日記












         足利将軍・足利義昭



  足利義昭にしてみれば織田信長などチンピラみたいな男である。かれが越前にいったのも朝倉義景を通して越後の長尾(上杉)景虎(謙信)に頼ろうとしたのだし、また上杉でなくても武田信玄でも誰でもよかった。チンピラ信長などは「腰掛け」みたいなものである。なんといっても上杉謙信や武田信玄は信長より大物に写った。が、上杉も武田も容易に兵を挙げてくれなかった。義昭はふたりを呪った。
 しかし、信長にとっては千載一遇の好機であった。朝倉がどうでようと、足利義昭を利用すれば上洛の大義名分が出来る。遠交近攻で、上洛のさまたげとなるものはいない。
 信長は明智光秀や細川藤孝から義昭の依頼を受けて、伊勢方面に出兵した。滝川一益に北伊勢方面を攻撃させた。そうしながら伊勢の実力者である関一族の総領神戸氏の家に、三男の信孝を養子としておしつけた。工藤一族の総領である長野氏の名を弟信包に継がせたりしたという。信長の狙いは南伊勢の北畠氏である。北畠氏を攻略せねば上洛に不利になる。信長はさらに、
「足利義昭さまが越前にいてはやりにくい。どうか尾張にきてくだされ」と書状をおくった。義昭はすぐに快諾した。永禄十一年(一五六八)七月十三日、かれは越前一乗谷を出発した。朝倉義景には「かくかくしかじかで信長のところにまいる」といった。当然ながら義景は嫌な顔をした。しかし、朝倉義景は北近江一国で満足している、とうてい兵をあげて天下をとるだけの実力も器もないのだから仕方ない。
 上洛にたいして、信長は朝倉義景につかいをだした。義景は黙殺した。六角義賢(南近江の城主)ははねつけた。それで、信長は六角義賢を攻め滅ぼし、大軍を率いて京都にむかった。九月一二日に京都にはいった。足利義昭を京都の清水寺に宿舎として入れ、松永と三好三人衆と対峙した。松永弾正久秀は機を見るのに敏な男で、人質をさしだして和睦をはかった。それがきっかけとなり信長は三好三人衆の軍勢を叩き潰した。
 足利義昭は「こやつらは兄義輝を殺した連中だ。皆殺しにいたせ!」といきまいた。
 しかし信長が「義昭さま、ここは穏便に願う」と抑圧のある声で抑えた。
 永禄十一年(一五六八)十月十八日、足利義昭は将軍に推挙された。第一四代将軍・義栄は摂津の逃れて、やがてそこで死んだ。
「阿波公方・足利義栄の推挙に荷担し、義輝を殺した松永と三好三人衆を京都より追放す   
る」時の帝正親町天皇はそう命じた。
 松永弾正久秀は降伏したものの、また信長と対立し、ついにはかれはおいつめられて爆死してしまう(大事にしていた茶道具とともに爆薬を体にまきつけて火をつけた)。
 信長は義昭のために二条城を造らせた。
 足利義昭は非常に喜んで、にやにやした。これでまろは本物の将軍である。かれは信長に利用されているとはまだ感付いていなかった。
「あなたはまろの御父上さまだ」義昭はきしょくわるくいった。
 信長は答えなかった。当時、信長三十六歳、義昭は三十二歳だった。
 義昭は上座に座ると、「信長、まろはちと金がほしい。用意あるか?」といった。信長は家臣に命じて二百貫を与えた。義昭は当たり前のように金をみると、「ケチだときいていたが、信長はやるのう」といった。
「銭はつかっていいときに使うものにござりまする」信長は低い声でいった。
 そして、「将軍さまの家来、明智光秀殿をわしの家来にしたいのです」といって、光秀のほうに目をむけた。「もちろん、将軍さまとの関係もそのままで。四千貫でいいがか?」「余は知らぬ。勝手にいたせ」
「ははっ、おおせのとおりに」信長は珍しく低姿勢であった。
「あなたは偉大だ。あなたを副将軍としてもよい。なんならもっと…」
「いや」信長は無表情のままきっぱりいった。「副将軍はけっこうでござる。ただし、この信長ひとつだけ願いがござる」
「それは?」
「和泉国の堺と、近江国の大津と草津に、代官所を置かせていただきたい」
 義昭はよく考えもせず、簡単に「どうぞどうぞ、代官所なりなんなり置いてくだされ。とにかくあなたはまろの御父上なのですから」と答えて、にやりとした。気色悪かった。  信長には考えがあった。堺と、大津と草津は陸運の要所である。そこからとれる税をあてにしたのだ。そして信長は京都で、ある人物にあった。それは南蛮人、ルイス・フロイスで、あった。キリスト教宣教師の。
  秀吉と明智光秀は、再会、を喜びあった。一緒に河原でどじょう鍋をつっついた仲である。しかし、その明智光秀が信長を殺そうとは……そのとき秀吉や佐吉には考えもしないことであった。                                    
        5 堺に着眼


        堺に着眼




話を少し戻す。
小寺官兵衛(黒田官兵衛)は長男・黒田長政も生まれて公私ともに順風満帆だった。
が、播磨にある御着城の城主・小寺政職は小大名だったため、天下取りには1歩も2歩も出遅れていた。
既に全国で下克上の嵐が吹き乱れており、長男・黒田長政が生まれた永禄11年(1568年)には、足利義昭を擁した尾張(愛知県)の織田信長が上洛を果たし、足利義昭が15代征夷大将軍に就いていた。
播磨(兵庫県)の西には中国地方を制した毛利輝元が居り、播磨の東には15代将軍・足利義昭を擁して天下統一を狙う織田信長が居た。
そして、播磨の南には、14代将軍・足利義栄を庇護し、四国から天下を狙う阿波(徳島県)の三好長治が居た。
14代将軍・足利義栄は阿波の出身で、三好家の後押しによって14代将軍に就任しており、織田信長に排除された後、阿波の三好家を頼っていた。
織田信長は上洛を果たしたといえど、越後(新潟県)から天下を狙う上杉謙信、織田信長の背後を突こうとする甲斐(山梨県)の武田信玄などが居り、天下は治まっていなかった。
播磨(兵庫県)は守護大名・赤松家が治めていた。
が、永正18年(1521年)に備前の守護代・浦上宗村が下克上を起こして播磨守護職の赤松義村を討ち取って以降、赤松家は求心力を失い、播磨は内乱状態にあった。
播磨の守護大名・赤松家は求心力を失うと、赤松家は本家筋の置塩城(兵庫県姫路市)の城主・赤松義祐と、分家筋の龍野城(兵庫県たつの市)の城主・赤松政秀とに別れ、播磨守護職の覇権を争った。
黒田官兵衛が仕えた御着城の城主・小寺政職は、播磨の守護大名・赤松家の一族で、本家筋の置塩城の城主・赤松義祐に属しており、分家筋の龍野城の城主・赤松政秀と対立していた。
このようなか、永禄11年(1568年)、15代将軍・足利義昭が織田信長の勢力を背景に上洛を果し、全国の諸大名に上洛を要請したのである。
御着城の城主・小寺政職の元にも15代将軍・足利義昭の上洛要請が届き、小寺政職は対応に迫られた。
城主・小寺政職は定評を開いて家臣に意見を求めたが、意見は割れて、結論は出なかった。
一方、東播磨で最大の勢力を誇る三木城(兵庫県三木市)の城主・別所長治は、隣接する摂津(大阪府)の三好家に対抗するため、織田信長と親交を深めていた。
他方、西播磨で勢力を誇る龍野城(兵庫県たつの市)の城主・赤松政秀は、織田信長が擁する足利義昭に取り入り、播磨守護職の地位を狙っていた。
播磨ではいち早く、別所長治と赤松政秀の2人が織田信長と親交を深めたため、赤松政秀と対立関係にあった小寺政職は、織田信長派の家老・山脇六郎左衛門を誅殺して、15代将軍・足利義昭の上洛要請を無視した。
このとき、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が小寺政職の命令を受け、家老・山脇六郎左衛門を誅殺している。
黒田官兵衛が生涯で誅殺したのは2人だけ。
その1人目が小寺家の家老・山脇六郎左衛門である。
もう1人は、淡路島にある由良城の城主・安宅河内守である。
(注釈:黒田官兵衛が播磨の中でいち早く織田信長に属したというのは、後世の創作である。別所長治や赤松政秀が先に織田信長に属しており、黒田官兵衛は織田派の家老・山脇六郎左衛門の暗殺して織田信長に属してない。)
播磨では、いち早く織田信長に属した龍野城(兵庫県たつの市)の城主・赤松政秀は、15代将軍・足利義昭に取り入り、播磨守護大名の地位を狙うため、娘を足利義昭の侍女として仕えさせることにした。
対立する置塩城(兵庫県姫路市)の赤松義祐は、これを阻止するため、御着城の小寺政職に、赤松政秀の娘の拉致を命じた。
さらに、備前(岡山県)の大名・浦上宗景にも、龍野城への攻撃を要請した。
結局、置塩城の赤松義祐の娘の拉致は失敗した。
が、置塩城の赤松義祐は、その後も備前(岡山県)の浦上宗景と手を組み、龍野城の赤松政秀を挟み撃ちにした。
窮地に陥った龍野城の城主・赤松政秀は、15代将軍・足利義昭に助けを求めた。
要請を受けた15代将軍・足利義昭は、赤松義祐の援軍として織田信長の軍を差し向け、ついに織田信長が播磨へ侵攻を開始する。
東播磨で最大の勢力を誇る三木城(兵庫県三木市)の城主・別所長治は、織田信長に属している。
そのため、織田信長に味方して、西播磨へと侵攻する。
織田信長の援軍により、西播磨の形勢が逆転し、御着城の城主・小寺政職は、西播磨の赤松政秀と東播磨の別所安治に挟み撃ちにされてしまった。
 
 永禄12年(1569年)8月、織田信長の播磨侵攻によって形勢を逆転した龍野城(兵庫県たつの市)の赤松政秀は3000の軍勢を率いて姫路城へと進軍した。
姫路城に居る兵力はわずか300人だった。
しかも、御着城の小寺政職は三木城の別所安治と織田信長の侵攻を受けて、次々と枝城を攻め落とされており、姫路城からの援軍は期待できなかった。
当時の姫路城は、現在の国宝・姫路城のように強固な城ではなく、姫山に築かれた小規模な山城である。
3000の兵で攻められれば、落城は目に見えていた。
そこで、姫路城の城主・小寺官兵衛(黒田勘兵衛)は青山に300人の伏兵を置き、進軍してきた赤松政秀の軍に奇襲攻撃をかけた(青山の戦い)。
龍野城・赤松政秀の軍は、小寺官兵衛の奇襲攻撃を受けて混乱に陥って敗走してしまう。
小寺官兵衛は300人の手勢で3000人の赤松軍を撃退することに成功してのである。
このとき、小寺官兵衛の家臣・栗山善助が初陣を果たし、芝原弥十郎と桑原左衛門の2人を討取った。

 話を変える。
  大河ドラマや映画に出てくるような騎馬隊による全力疾走などというものは戦国時代には絶対になかった。疾走するのは伝令か遁走(逃走)のときだけであった。上級武士の騎馬武者だけが疾走したのでは、部下のほとんどを占める歩兵部隊は指揮者を失ってついていけなくなってしまう。
 よく大河ドラマであるような、騎馬隊が雲霞の如く突撃していくというのは実際にはなかった。だが、ドラマの映像ではそのほうがカッコイイからシーンとして登場するだけだ。    ところが、織田信長が登場してから、工兵と輜重兵(小荷駄者)が独立することになる。早々と兵農分離を押し進めた信長は、特殊部隊を創造した。毛利や武田ものちにマネることになるが、その頃にはもう織田軍はものすごい機動性を増し、東に西へと戦闘を始めることができた。そして、織田信長はさらに主計将校団の創設まで考案する。
 しかし、残念なことに信長のような天才についていける人材はほとんどいなかったという。そのため信長は部下を方面軍司令官にしたり、次に工兵総領にしたり、築城奉行にしたり……と使いまくる。羽柴(豊臣)秀吉、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀ら有能とみられていた家臣の多忙さは憐れなほどであるという。
 上杉謙信の軍が関東の北条家の城を攻略したこともあったが、結局、兵糧が尽きて撤退している。まだ上杉謙信ほどの天才でも、工兵と輜重兵(小荷駄者)を分離していなかったのである。その点からいえば、織田信長は上杉謙信以上の天才ということになる。
 この信長の戦略を継承したのが、のちの秀吉である。
 秀吉は北条家攻略のときに工兵と輜重兵(小荷駄者)を分離し、安定して食料を前線に送り、ついには北条家をやぶって全国を平定する。
  また、この当時、日本の度量衡はバラバラであった。大仏建立の頃とくらべて、室町幕府の代になると、地方によって尺、間、升、などがバラバラであった。信長はこれはいかんと思って、度量衡や秤を統一する。この点も信長は天才だった。
 信長はさらに尺、升、秤の統一をはかっただけでなく、貨幣の統一にも動き出す。しかも質の悪い銭には一定の割引率を掛けるなどというアイデアさえ考えた。
 悪銭の流通を禁止すれば、流動性の確保と、悪銭の保有を抑えられるからだ。
 減価償却と金利の問題がなければ、複式記帳の必要はない。仕分け別記帳で十分である。そこで、信長は仕分け別記帳を採用する。これはコンピュータを導入するくらい画期的なことであった。この記帳の導入の結果、十万もの兵に兵糧をとめどなく渡すことも出来たし、安土城も出来た。その後の秀吉の時代には大阪城も出来たし、全国くまなく太閤検地もできた。信長の天才、といわねばなるまい。

  京都に上洛するために信長は堺や京都の商人衆に「矢銭」を要求しようと思った。
「矢銭」とは軍事費のことである。
「サル!」
 信長は清洲城で羽柴秀吉(藤吉郎)をよんだ。サルはすぐにやってきた。
「ははっ、御屋形様! なんでござりましょう」
「サル」信長はにやりとして「堺や京都の商人衆に「矢銭」を要求しろ」
「矢銭、でござりまするか?」
「そうじゃ!」信長は低い声でいった。「出来るか? サル」
「ははっ! わたくしめにおまかせくださりませ!」秀吉は平伏した。
 自分が将軍・義昭を率いて上洛し、天下を統一するのだから、商人たちは戦いもせず利益を得ているのだから、平和をもたらす武将に金をだすべきだ……これが信長の考えだった。極めて現実的ではある。
 サルはさっそく堺にはいった。商人衆にいった。
「織田信長さまのために矢銭を出していただきたい」秀吉は唾を飛ばしながらいった。周りの商人たちは笑った。
「織田信長に矢銭? なんでわてらが銭ださにゃあならんのや?」
「て……」秀吉はつまった。そして続けた。「天下太平のため! 天下布武のため!」
「天下太平のため? 天下布武のため? なにいうてまんねん」商人たちはにやにやした。「天下のため、堺衆のみなみなさまには信長さまに二万貫だしていただきたい!」
「二万貫? そんな阿呆な」商人たちは秀吉を馬鹿にするだけだった。
 京都も渋った。しかし、信長が威嚇のために上京を焼き討ちにすると驚愕して金をだした。しかし、堺は違った。拒絶した。しかも、信長や家臣たちを剣もほろろに扱った。 信長は「堺の商人衆め! この信長をナメおって!」とカッときた。
 だか、昔のように感情や憤りを表面にだすようなことはなかった。信長は成長したのだ。そして、堺のことを調べさせた。
 堺は他の商業都市とは違っていた。納屋衆というのが堺全体を支配していて、堺の繁栄はかれらの国際貿易によって保たれている。納屋衆は自らも貿易を行うが、入港する船のもたらす品物を一時預かって利益をあげている。堺の運営は納屋衆の中から三十六人を選んで、これを会合衆として合議制で運営されていること。堺を見た外国人は「まるでヴィニスのようだ」といっていること………。
 信長は勉強し、堺の富に魅了された。
 信長にとっていっそう魅力に映ったのは、堺を支配する大名がいないことであった。堺のほうで直接支配する大名を欲してないということだ。それほど繁栄している商業都市なら有力大名が眼をぎらぎらさせて支配しようと試みるはずだ。しかし、それを納屋衆は許        
さなかった。というより会合衆による「自治」が行われていた。
 それだけではなく、堺の町には堀が張りめぐらされ、町の各所には櫓があり、そこには町に雇われた浪人が目を光らせている。戦意も強い。
 しかし、堺も大名と全然付き合いがない訳でもなかった。三好三人衆とは懇篤なつきあいをしていたこともある。三好には多額な金品が渡ったという。
 もっとも信長が魅かれたのは、堺のつくる鉄砲などの新兵器であった。また、鉄砲があるからこそ堺は強気なのだ。
「堺の商人どもをなんとかせねばならぬ」信長は拳をつくった。「のう? サル」
「ははっ!」秀吉は平伏した。「堺の商人衆の鼻をあかしましょう」
 信長は足利義昭と二万五千人の兵を率いて上洛した。
 神も仏も将軍も天皇も崇めない信長ではあったが、この時ばかりは正装し、将軍を奉った。こうして、足利義昭は第十五代将軍となったのである。
 しかし、義昭など信長の”道具”にしかすぎない。
 信長はさっそく近畿一圏の関所を廃止した。これには理由があった。日本人の往来を自由にすることと、物流を円滑にすること。しかし、本当の目的は、いざというときに兵器や歩兵、兵糧などを運びやすくするためだ。そして、関所が物やひとから銭をとるのをやめさせ、新興産業を発展させようとした。
 関所はもともとその地域の産業を保護するために使われていた。近江国や伊勢国など特にそうで、一種に保護政策であり、規制であった。信長はそれを破壊しようとした。
 堺の連中は信長にとっては邪魔であった。また、信長がさらに強敵と考えていたのが、一向宗徒である。かれらの本拠地は石山本願寺だった。
 信長は石山本願寺にも矢銭を求めた。五千貫だったという。石山本願寺側ははじめしぶったが、素早く矢銭を払った。信長は、逆らえば寺を焼き討ちにしてくれようぞ、と思っていたが中止にした。
 永禄十二年(1569)正月、信長は正室・吉乃と光秀の妻・ひろ子らと酒を呑んでいた。正月で、皆、心がうかれていた。「御屋形様~っ」急に泥酔したおねがやってきた。「おねか」信長は声をかけた。おねは泥酔したまま平伏し、「御屋形…さ…ま。サルめを…京から呼び戻してくだされ。……あの…サル…都の女子に…次々と…手を…かけ…」
 前田利家は「これこれ、御屋形様に何てことを…」と苦笑しながらおねの肩に手をかけた。おねは「御屋形様……わたしは悔しいのです…サルめが!」
 信長も妻の吉乃も笑った。一同、ほのんな笑いに包まれた。






         フロイス



  第十五代将軍足利義昭が京都にいた頃、三好三人衆が義昭を殺そうとしたことがある。信長は「大事な”道具”が失われる」と思いすぐに出兵し、三好一派を追い落とした。三好三人衆は堺に遁走し、匿われた。信長は烈火の如く激怒した。
「堺の商人め! 自治などといいながら三好三人衆を匿っておるではないか! この信長をナメおって!」信長は憤慨した。焼き討ちにしてくれようか………
 信長はすぐに堺を脅迫しだした。
「自治都市などといいながら三好三人衆の軍を匿っておるではないか! この信長をナメるな!すぐに連中を撤退させよ。そして、前にいった矢銭を提供せよ。これに反する者たちは大軍を率いて攻撃し、焼き討ちにする」
 信長は本気だとわかり、堺の商人たちは驚愕した。
 しかし、べに屋や能登屋などの強行派は、「信長など尾張の一大名に過ぎぬ。わてらは屈せず、雇った浪人たちに奮起してもろうて堺を守りぬこう」と強気だった。
 今井宗久らは批判的で、信長は何をするかわからない「ヤクザ」みたいなものだと見抜いていた。宗久は密かに信長に接近し、高価な茶道具を献上したという。
 堺の町では信長が焼き討ちをおこなうという噂が広がり、大パニックになっていた。自分たちは戦うにしても、財産や妻子だけは守ろうと疎開させる商人も続発する。
 そうしたすったもんだがあって、ついに堺の会合衆は矢銭を信長に払うことになる。
 しかし、信長はそれだけでは満足しなかった。
「雇っている浪人をすべてクビにしろ! それから浪人は一切雇うな、いいか?! 三好三人衆の味方もするな! そう商人どもに伝えよ!」信長は阿修羅のような表情で伝令の武士に申しつけた。堺の会合衆は渋々従った。
「いままで通り、外国との貿易に精を出せ。そのかわり税を収めよ」
 信長はどこまでも強気だった。信長は人間を”道具”としてしかみなかった。堺衆は銭をとる道具だし、義昭は上洛して全国に自分の名を知らしめるための道具、秀吉や滝川一益、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀ら家臣は、”自分の野望を実現させるための道具”、である。信長は野望のためには何でも利用した。阿修羅の如き怒りによって………
 信長は修羅の道を突き進んだ。
 しかし、信長の偉いところは堺の自治を壊さなかったことだ。
 信長が事実上支配しても、自分の管理下に置かなかった。これはなかなか出来ることではない。しかし、信長は難なくやってのけた。天才、といわなければならない。
 この頃、信長の目を輝かせることがあった。外国人宣教師との出会いである。すなわちバテレンのキリスト教の宣教師で、南蛮・ポルトガルからの外人たちである。
 本当はパードレ(神父のこと)といったそうだが、日本では伴天連といい、パードレと呼ばせようとしたが、いつのまにかバテレン、バテレン、と日本読みが広がり、ついにバテレンというようになった。
 キリスト教の布教とはいえローマンカトリックであったという。イエズス会……それが彼等宣教師たちの団体名だ。そして、信長はその宣教師のひとりであるルイス・フロイスにあっている。フロイスはポルトガル人で、船で日本にやってきた若い青い目の白人男であった。フロイスはなかなか知的な男であり、キリスト教をなによりも大切にし、愛していたという。
 天文元年(一五三二)、ルイス・フロイスはポルトガルの首都リスボンで生まれた。子供の頃から、ポルトガルの王室の秘書庁で働いたという。天文十七年(一五四八)頃にイエズス会に入会した。そしてすぐインドに向かい、ゴアに着くとすぐ布教活動を始めた。この頃、日本人のヤジロウと日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルにあったのだという。フロイスは日本への思いを募らせた。日本にいきたい、と思った。
 その年の七月、フロイスは船で九州の横瀬浦に着いた。
 フロイス時に三十一歳、信長も三十一歳であった。同い年なのだ。
 そして、その頃、信長は桶狭間で今川義元をやぶり、解放された松平元康と同盟を結んでいた。松平元康とはのちの徳川家康である。同盟の条件は、信長の娘五徳が、家康の嫡男信康と結婚することであった。永禄六年のことだ。
 日本に着いたフロイスは、まず日本語と日本文化について徹底的に研究勉強した。横瀬浦は九州の長崎である。そこにかれは降りたった訳だ。
 一度日本にきたフランシスコ・ザビエルは一時平戸にいたという。平戸の大名は松浦隆信であったらしいが、宣教師のもたらすキリスト教には関心をほとんど示さず、もっぱら貿易における利益ばかりを気にしていた。
 ザビエルもなかなかしたたかで、部下のバテレンたちに「日本の大名で、キリスト教布教を受け入れない者にはポルトガル船も入港させるな」と命じていたという。
 フロイスの着いたのは長崎の田舎であったから、受け入れる日本人の人情も熱く、素朴であったからフロイスは感銘を受けた。
 ……これならキリスト教徒としてやっていける…
 そんなフロイスが信長に会ったのは永禄十一年のことである。ちょうど信長が足利義昭を率いて上洛したときである。そして、遭遇した。
 謁見場は京都の二条城内であった。
 フロイスをセッテングしたのは信長の部下和田である。彼は近江の土豪で、義昭が近江の甲賀郡に逃れてきたときに世話をした恩人であったという。忍者とかかわりあいをもつ。また和田の部下は、有名な高山重友(右近)である。
 右近はキリシタンである。洗礼を受けたのだ。
 フロイスが信長と謁見したときは通訳の男がついた。ロレンソというが日本人である。洗礼を受け、イエズス会に入会し、日本人で最初のイルマン(修道士)となっていた。





         フロイスと信長


  謁見場は京都の二条城内であった。
 フロイスが信長に会ったのは、永禄十二年(一五六九)四月三日のことだった。フロイスは和田に付き添われて、二条城内にはいった。信長は直接フロイスとは会わず、遠くから眺めているだけだった。
 フロイスはこの日、沢山の土産物をもってきていた。美しい孔雀の尾、ヨーロッパの鏡、黒いビロードの帽子……。信長は目の前に並んだ土産物を興味深く見つめたが、もらったのはビロードの帽子だけだったという。他にもガチョウの卵や目覚まし時計などあったが、信長は目覚まし時計に手をふれ、首をかしげたあと返品の方へ戻した。
 立ち会ったのは和田と佐久間信盛である。しかし、その日、信長はフロイスを遠くから見ていただけで言葉を交わさなかった。
「実をいえば、俺は、幾千里もの遠い国からきた異国人をどう対応していいかわからなかったのだ」のちに信長は佐久間や和田にそういったという。
「では……また謁見を願えますか?」和田は微笑んだ。
「よかろう」信長は頷いた。
 数日後、約束通り、フロイスと信長はあった。通訳にはロレンソがついた。
 信長はフロイスの顔をみると愛想のいい笑顔になり、「近うよれ」といった。
 フロイスが近付き、平伏すると、信長は「面をあげよ」といった。
「ははっ! 信長さまにはごきげんうるわしゅう」フロイスはたどたどしい日本語で、いった。かれは南蛮服で、首からは十字架をさげていた。信長は笑った。
 そのあと、信長は矢継ぎ早に質問していった。
「お主の年はいくつだ?」
「三十一歳でごさりまする」フロイスはいった。
 信長は頷いて「さようか。わしと同じじゃ」といい続けた。「なぜ布教をする? ゼウスとはなんじゃ?」
 フロイスは微笑んで「ひとのために役立つキリスト教を日本にも広げたく思います。ゼウスとは神・ゼウス様のことにござりまする」とたどたどしくいった。
「ゼウス? 神? 釈迦如来のようなものか?」
「はい。そうです」
「では、日本人がそのゼウスを信じなければ異国に逃げ帰るのか?」
「いいえ」フロイスは首をふった。「たとえ日本人のなかでひとりしか信仰していただけないとしてもわれわれは日本にとどまりまする」
「さようか」信長は関心した。そして「で? ヨーロッパとやらまでは船で何日かかるのじゃ?」と尋ねた。是非とも答えがききたかった。
「二年」フロイスはゆっくりいった。
「………二年? それはそれは」信長は関心した。そんなにかかるのか…。二年も。さすがの信長も呆気にとられた。そんなにかかるのか、と思った。
 信長は世界観と国際性を身につけていた……というより「何でも知ってやろう」という好奇心で目をぎらぎらさせていた。そのため、利用できる者はなんでも利用した。
 だが、信長には敵も多く、争いもたえなかった。
 他人を罵倒し、殺し、暴力や武力によって服従させ、けして相手の自尊心も感情も誇りも尊重せず、自分のことばかり考える信長には当然大勢の敵が存在した。
 その戦いの相手は、いうまでもなく足利義昭であり、石山本願寺の総帥光佐の一向宗徒であり、武田信玄、上杉謙信、毛利、などであった。

 話を戻す。
永禄12年(1569年)8月、「青山の戦い」で大敗した龍野城の赤松政秀は、小丸山に陣を構えた。
一方、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は、英賀城(兵庫県姫路市)の城主・三木通秋の援軍を受け、夢前川を隔てた土器山に布陣して、赤松政秀の軍に相対した。
その後、赤松政秀の軍勢が奇襲攻撃をかけてきた。
姫路城の守備をしていた父・黒田職隆は、小寺勘兵衛の危機を知る。
と、家臣の井手勘左衛門・黒田兵庫助・母里小兵衛らに出撃を命じた。
死を覚悟した母里小兵衛は、黒田職隆に、
「私はこの戦で死ぬでしょう。もし、私が死ねば、我妻をめとり、息子(母里雅楽と母里武兵衛)の事をお願いしたい」
と遺言して、土器山へと馳せた。
小寺官兵衛は井手勘左衛門友氏・母里小兵衛・母里武兵衛の援軍を受けて兵を立て直し、井手勘左衛門友氏・母里小兵衛・母里武兵衛の活躍によって赤松政秀の軍勢を追い返した。
しかし、この激戦で井手勘左衛門友氏と母里小兵衛は討死し、母里武兵衛は全身7カ所に傷を負った。
赤松政秀の奇襲攻撃により、小寺官兵衛(黒田官兵衛)の軍は大打撃を受けていたが、小寺勘兵衛は、
「敵は大勝利で油断している。まさか夜襲してくるとは思うまい」
と言い、奇襲攻撃を提案した。
小寺官兵衛は、
「負傷していても出陣せよ」
と7度に渡り督促したため、全身7カ所に傷を負った家臣・母里武兵衛が、
「これほどの傷を負った者に出撃しろとは、死ねと言うことか」
と激怒した。
が、小寺官兵衛は「おそらくそうなるであろう」と答えた。
その日の夜、小寺勘兵衛が先鋒隊を努めて、小丸山に布陣した赤松政秀を襲撃する。
負傷していた母里武兵衛は真っ先に敵陣へと打ち込み、7本の槍で貫かれて戦死した。
小寺官兵衛の読み通り、夜襲の勝利に油断していた赤松政秀は防備を怠っていた。
多勢に無勢で激戦ととなるが、激戦の末、赤松政秀は総崩れとなって龍野城へと敗走した。
 土器山の戦いは壮絶な戦いで、母里一族24人が死亡した。
父・黒田職隆は戦死した母里小兵衛の遺言を守り、母里小兵衛の妻と結婚し、後に1男1女を儲けた。
母里小兵衛の息子・母里武兵衛は、小寺官兵衛(黒田官兵衛)と共に出陣し、真っ先に敵陣に切り込んだ。
が、7本の槍で突かれ、壮絶な死を果たした。
母里小兵衛の息子・母里雅楽は、母里一族の死を悼み、京都へと移り住んだ(後に黒田家に仕える)。
母里家が滅ぶことを危惧した小寺官兵衛は、家臣・曽我一信の息子・曽我太兵衛に母方(母親)の母里姓を名乗らせ、母里太兵衛と改名させた。
この母里太兵衛が、後に黒田家の家臣を代表する「黒田二十四騎」の1人で、「黒田節」として歌われることになる。
さて、黒田勘兵衛は、この「青山の戦い」「土器山の戦い」での大勝利により、世間に名前を轟かせることになる。
が、既に織田信長・武田信玄・上杉謙信・毛利輝元などが台頭しており、天下取りには1歩も2歩も遅れていたのであった。
このころ、小寺官兵衛(黒田官兵衛)は天下の情勢を見抜き、日本を統一するためには政治の中心である京都を押さえ、天皇家の威光を借りなければならないことを悟った。
しかし、小寺官兵衛は小寺家の一家臣に過ぎないので、天皇家に接近するすべはなかった。
ただ、母親の父・明石正風が近衛家で歌道の師範をしていたため、この縁を頼り、近衛家に接近し、京都の動向を探った。
もし、京都に英雄が現れれば、小寺官兵衛はその英雄に属し、天下の動乱を収めよう、と考えるようになっていた。