御着城では、黒田官兵衛が姫路城に立て籠もるという噂が流れていたため、御着の民は不安がっていたが、いつもと変らない小寺官兵衛を見て、御着の民は安心した。
さて、御着城へ入った小寺官兵衛は、再び主君の小寺政職を説得したが、織田信長に反旗を翻すという評議は変らなかった。
小寺政職は小寺官兵衛を殺したかったが、小寺官兵衛を殺せば、父・黒田職隆が姫路城に立て籠もることは目に見えていた。
父・黒田職隆は強敵なので、小寺政職は小寺官兵衛を殺せなかったのである。
そこで、小寺政職は小寺官兵衛に、
「私が織田信長に背いたのは、荒木村重の一味だからである。荒木村重が織田信長に属するのであれば、私も織田信長に属そう。織田信長に属した方が良いと言うのなら、汝が荒木を説得してまいれ」と命じた。
黒田官兵衛は織田信長や羽柴秀吉と連絡をとるときに有岡城(兵庫県伊丹市)の荒木村重を中継していた関係で、黒田官兵衛と荒木村重と旧知の仲であった。
荒木村重の考えは分からなかったが、小寺政職を織田信長に属させるためには荒木村重を説得する以外に方法は無いため、小寺政職は荒木村重を説得することにした。
天正6年(1578年)10月下旬、小寺官兵衛は荒木村重が籠城する有岡城を訪れたが、荒木村重は屈強な兵士を待機させており、小寺官兵衛を生け捕りにして、牢屋に閉じ込めた。
小寺政職は荒木村重に、
「小寺官兵衛を殺して欲しい」
と依頼していたが、荒木村重は殺害までは出来ず、生け捕りにして牢屋に閉じ込めた。
これは小寺官兵衛(黒田官兵衛)が33歳の事であった。
小寺官兵衛(黒田官兵衛)が有岡城の荒木村重に捕らえられたという知らせは、直ぐに小寺官兵衛の居城・姫路城へと伝わった。
小寺官兵衛は織田信長に息子・黒田長政(幼名は松寿)を人質に出しており、小寺官兵衛を助けるために荒木村重に味方すれば、黒田長政が殺され、黒田長政を助けるために織田信長に属せば、小寺官兵衛が殺される。
小寺官兵衛と黒田長政の両方を助ける方法はない。
姫路城の黒田家は苦しい選択を迫られた。喧々囂々の議論に及び、評議が割れ、結論が出なかった。
しかし、父・黒田職隆が、
「織田信長に人質を差し出したのは我が本意である。しかし、荒木村重が小寺官兵衛(黒田官兵衛)を捕らえたのは、荒木村重の不義であり、これは非に及ばざる所である。小寺官兵衛が殺されれば、不慮の天災と思うべし。どうして、小寺官兵衛を救うために、意に反して敵に従う必要があるのだ。小寺官兵衛を捨てて織田信長に属するべし」
と言い、織田信長に忠誠を誓うことを宣言した。
黒田家には、小寺官兵衛から与力として黒田家に仕えていた家臣も多かった。
が、黒田家の家臣は話し合い、「黒田休夢と黒田兵庫の命令に従う」という誓紙を交わすと、御本丸(櫛橋光)に誓紙を差し出し、御本丸(櫛橋光)に忠誠を誓った。
(注釈:黒田休夢は父・黒田職隆の弟で、黒田兵庫は黒田官兵衛の弟である。)
(注釈:御本丸については、黒田官兵衛の父・黒田職隆とする説と、黒田官兵衛の妻・櫛橋光とする説があるが、ここでは御本丸を櫛橋光とする。)
母里太兵衛・栗山善助・田宮次兵衛・久野四郎など43名が誓紙に署名し、黒田家は御本丸(櫛橋光)を中心に一気団結した。
こうして父・黒田職隆は、織田信長につくことを決めると、御着城の黒田邸を焼き払い、家来を姫路城へと引き上げさせ、小寺政職と絶縁し、織田信長への従属を表明したのである。
さて、いつまで経っても、荒木村重を説得するために有岡城へ入った小寺官兵衛(黒田官兵衛)が有岡城から出てこないため、織田信長は小寺官兵衛が毛利側に寝返ったと思い、父・黒田職隆を呼びつけて尋問した。
父・黒田職隆は、織田信長に拝謁して忠誠を誓ったが、織田信長の怒りは収まらず、織田信長は竹中半兵衛に人質・黒田長政(幼名は松寿丸)の処刑を命じると、兵を率いて荒木村重が籠城する有岡城を攻めた。
竹中半兵衛は、
「黒田家が毛利側に付けば、中国征伐は困難になります」
と織田信長を諫めたが、織田信長の怒りは収まらず、竹中半兵衛は仕方なく、人質・黒田長政の処刑を承諾した。
しかし、竹中半兵衛は浜松城から人質・黒田長政を連れだすと、美濃にある居城・菩提山城で黒田長政を匿い、織田信長には死んだ別の子供の首を届け、織田信長を欺いたのであった。
小寺官兵衛が有岡城から出てこないため、毛利側に寝返ったと思った織田信長は、竹中半兵衛に人質・松寿(後の黒田長政)の殺害を命じると、自ら兵を率いて荒木村重が籠城する有岡城を攻めた。
しかし、戦国時代には珍しい総構えを有した有岡城は、かなりの要害で、そう簡単には落ちず、天正6年(1578年)12月、織田信長は有岡城の力攻めを諦めて安土城へと引き上げた。
元々、有岡城は伊丹城と言い、伊丹親興の城だった。
が、伊丹親興は反織田信長の勢力についたため、織田信長の家臣となった荒木村重に天正2年(1574年)に攻め滅ぼされ、荒木村重の城となった。
その後、織田信長は石山本願寺との戦争に備えて荒木村重に伊丹城の改修を命じた。
このため、荒木村重は伊丹城を大改修して有岡城と改称した。この時に有岡城は、戦国時代では珍しい総構えの城のとなった。
織田信長の軍は荒木村重が籠城する有岡城を攻め落とせないのは、くしくも、織田信長の命令によって強固に大改修されたからであった。なお、有岡城は日本最古の総構えの城だとされている。
さて、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が有岡城に幽閉されたという知らせが伝わると、姫路城の黒田家では、小寺官兵衛(黒田官兵衛)を奪還する作戦が練られていた。
そして、家臣の栗山善助・母里太兵衛・井上九郎右衛門が小寺官兵衛を救出するため、商人に成りすまして有岡城に潜伏し、代わる代わる、牢獄に近づいて、小寺官兵衛の安否を伺っていた。
有岡城には銀屋新七という知り合いが居り、銀屋新七が牢番を買収してくれたので、栗山善助らは小寺官兵衛と連絡を取ることが出来るようになった。
このとき、黒田家の家臣・井口兵助(後の村田出羽)の叔母(母の姉)が有岡城で働いており、門番の加藤重徳は井口兵助の叔母が小寺官兵衛の世話をすることを許した。
小寺官兵衛は門番の加藤重徳に感謝して、「もし、無事に出られる事が出来たら、貴方の息子を養育したい」と申し出た。
その後、有岡城が落城すると、加藤重徳は次男・加藤玉松を姫路城へ送った。黒田官兵衛(小寺官兵衛)は約束通り、加藤玉松を養育し、実子・黒田長政と兄弟同様に養育した。この加藤玉松が、黒田24騎の1人となる黒田三左衛門である。
さて、三木城の別所安治も有岡城の荒木村重も、織田信長に反旗を翻して毛利側に寝返ったが、毛利輝元からの援軍はいっこうに現れず、苦しい籠城戦を余儀なくされていた。
そこで、天正7年(1579年)9月、荒木村重は密かに有岡城を抜けだし、毛利輝元に援軍を直訴へ向かった。
これを受けた毛利元就は、吉川元春と小早川隆景を先手として大軍を播磨(兵庫県)へ投入するため、備中の松山(岡山県高梁市)まで兵を進めた。
しかし、備前・備中・美作(いずれも岡山県)を支配する宇喜多直家が小寺官兵衛(黒田官兵衛)の調略を受け、織田信長側に寝返っていることが判明したため、毛利元就は播磨への侵攻を諦めて引き返した。
天正7年(1579年)11月、荒木村重が不在となると、有岡城に居る一部の兵が織田信長側の内向工作に応した。
そして、織田軍が有岡城へ総攻撃をかけると、内応した家臣が門を開いて織田軍を城内へ引き入れた。
有岡城は8ヶ月渡る籠城戦に耐え抜き、織田軍を寄せ付けなかった有岡城であった。
が、内側から崩れ、織田軍の総攻撃によって落城した。
一方、有岡城に潜伏していた小寺官兵衛(黒田官兵衛)の家臣・栗山善助と母里太兵衛は、織田軍の総攻撃を好機と見て、小寺官兵衛の救出に向かった。
栗山善助らが牢屋に向かうと、既に監視の兵は逃げていた。
栗山善助らは斧で牢を壊して小寺官兵衛を助け出すと、戦争の混乱に紛れて有岡城を抜け出した。
[注釈:このとき、黒田官兵衛は唐瘡(梅毒)という病気に感染して、生涯、足が曲がらなくなり、「チンバ」と呼ばれたという説がある。ただし、梅毒は主に性病なので、信憑性は不明。]
救出された小寺官兵衛は、長い牢屋生活で力が弱り、足がすくんで歩けなかったので、屈強な者に背負われて、近くの農村へと逃げ込み、その後、有馬温泉で疲れを取った。
なお、黒田家には、秦桐若(はたのきりわか)という豪傑が居たが、早く傷を治そうとして、有馬温泉の湯を飲み、下痢を起して死んだ。このため、黒田官兵衛は有馬温泉の湯を飲まなかったという。
その後、小寺官兵衛は有馬温泉から姫路城へ帰り、一族と生還を喜び、数日後、羽柴秀吉の元へと向かった。
すると、羽柴秀吉は「命を省みず、敵の城に乗り込むことは、誠に忠義の到りである。
獄中の生活は苦しかっただろうが、こうして再会できた事は嬉しい限りである」と涙を流して喜んだ。
一方、小寺官兵衛の捕らわれていた事を知った織田信長は、
「人質の黒田長政(幼名は松寿)を処刑したことは後悔の至りだ。小寺官兵衛に合わせる顔が無い」と後悔した。
しかし、竹中半兵衛が機転を聞かせ、居城・菩提山城に人質・黒田長政を隠し置いていた事を知ると、織田信長は竹中半兵衛に感謝した。
小寺官兵衛も竹中半兵衛の機転に感謝したが、もう竹中半兵衛に礼を述べることは出来なかった。
竹中半兵衛は、小寺官兵衛が救出される半年前の天正7年(1879年)6月に、三木城を包囲する陣中で病死していたのだ。
黒田長政はこの時の恩を忘れず、後に豊前(大分+福岡県)の大名になると、竹中重門の次男・竹中主善を貰い受け、養育した。
(注釈:竹中重門は、竹中半兵衛の嫡子で、竹中主善は竹中半兵衛の孫にあたる。)
家康の正室・築山殿と嫡男・信康が武田勝頼と内通しているという情報を知った信長は、激怒した。そして、家康に「ふたりとも殺すように」という書状を送った。
「……何?」その書状があまりにも突然だったため、家康は自分の目をほとんど信じられなかった。築山と、信康が武田勝頼と内通? まさか!
「殿!」家臣が声をかけたが、家康は視線をそむけたままだった。「まさか…」目をそむけたまま、かれはつぶやいた。「殺す? 妻子を……?」
「殿! ……なりませぬ。今、信長殿に逆らえば皆殺しにされまする」
家臣の言葉に、家康は頷いた。「妻子が武田と内通しているとはまことか?」
「わかりませぬ」家臣は正直にいった。「しかし、疑いがある以上……いたしかたなし」 家康は茫然と、遠くを見るような目をした。暗い顔をした。
ほどなく、正室・築山殿と嫡男・信康は殺された。徳川家の安泰のためである。
家康は落胆し、憔悴し、「力なくば……妻子も……救えぬ」と呟いた。
それは微かな、暗い呟きだった。
信長は”長島一揆””一向一揆”を実力で抑えつけた。
そして、有名な武田信玄の嫡男・勝頼との”長篠の合戦”(一五七五年)にのぞんだ。あまりにも有名なこの合戦では鉄砲の三段構えという信長のアイデアが発揮された。
信長は設楽が原に着陣すると、丸たん棒や木材を運ばせ、二重三重の柵をつくらせた。信長は武田の騎馬隊の恐ろしさを知っていた。だから、柵で進撃を防ごうとしたのだ。
全面は川で、柵もできて武田の騎馬隊は前にはすすめない。
信長は柵の裏手に足軽三千人を配置し、三列づつ並ばせた。皆、鉄砲をもっている。火縄銃だ。当時の鉄砲は一発づつしか撃てないから、前方が撃ったら、二番手、そして三番手、そして、前方がその間に弾をこめて撃つ……という速射戦術であった。
案の定、武田勝頼の騎馬隊が突っ込んできた。
「撃て! 放て!」信長はいった。
三段構え銃撃隊が連射していくと、武田軍はバタバタとやられていった。ほとんどの武田軍の兵士は殺された。武田の足軽たちは「これは不利だ」と見て逃げ出す。
武田勝頼は刀を抜いて、「逃げるな! 死ね! 死ね! 生きて生き恥じを晒すな!」と叫んだ。が、足軽たちはほとんど農民らの徴兵なので全員逃げ出した。
武田の足軽が農民なのに対して、信長の軍はプロの兵士である。最初から勝負はついていた。騎馬隊さえ抑えれば信長にとっては「こっちのもん」である。
こうして、”長篠の合戦”は信長の勝利に終わった。
これで東側からの驚異は消えた訳だ。
残る強敵は、石山本願寺と上杉謙信だけであった。
信長は岐阜から、居城を安土に移し、絢爛豪華な安土城を築いた。
城には清涼殿(天皇の部屋)まであったという。つまり、天皇まで京から安土に移して自分が日本の王になる、という野望だった。それだけではなく、信長は朝廷に暦をかえろ、とまで命令した。明智光秀にとってはそれは我慢のならぬことでもあった。
また、信長は「余を神とあがめよ」と命じた。自分を神と崇め、自分の誕生日の五月十二日を祝日とせよ、と命じたのだ。なんというはバチ当たりか……
「それだけはおやめくだされ!」こらえきれなくなって、林通勝がくってかかった。信長はカッときた。「なんじゃと?!」
「信長さまは人間にこざりまする! 人間は神にはなれませぬ!」
林は必死にとめた。
「……林! おのれはわしがどれだけ罵倒されたか知っておるだろう?!」怒鳴った。そして、「わしは神じゃ!」と短刀を抜いて自分の肩を刺した。林通勝は驚愕した。
しかし、信長は冷酷な顔を変えることもなく、次々に短刀で自分をさした。赤赤とした血がしたたる。………
林通勝の血管を、感情が、熱いものが駆けめぐった。座敷に立ち尽くすのみだ。斧で切り倒されたように唖然として。
「お……お……御屋形様…」あえぎあえぎだが、ようやく声がでた。なんという……
「御屋形様は……神にござる!」通勝は平伏した。信長は血だらけになりながら「うむ」と頷いた。その顔は激痛に歪むものではなく、冷酷な、果断の顔であった。
天正七年(1579)初夏。秀吉は中国地方の毛利攻めを命じられた。秀吉は喜んだ。しかし、その最中、明智光秀が母を人質として和睦しようとしていた武将を、信長が殺した。当然ながら光秀の母は殺された。「母ごぜ……」光秀は愕然となった。
「信長は鬼じゃ! 信長は鬼じゃ!」歯をぎりぎりいわせながら、秀吉は信長にいった。「頭を冷やしなはれ、秀吉殿」千宗易(のちの利休)は秀吉を諫めた。
本能寺の変
天正十年(一五八二)、明智光秀は居城に帰参した。
光秀は疲れていた。鎧をとってもらうと、家臣たちに「おまえたちも休め」といった。「殿……お疲れのご様子。ゆっくりとお休みになられては?」
「貴様、なぜわしが疲れていると思う? わしは疲れてなどおらぬ!」
明智光秀は激怒した。家臣は平伏し「申し訳ござりませぬ」といい、座敷を去った。
光秀はひとりとなった。本当は疲れていた。かれは座敷に寝転んで、天井を見上げた。「………疲れた。なぜ……こんなにも……疲れるのか…? 眠りたい…ゆっくり…」
明智光秀は空虚な、落ち込んだ気分だった。いまかれは大名となっている。金も兵もある。気分がよくていいはずなのに、ひどく憂欝だった。
「勝利はいいものだ。しかし勝利しているのは信長さまだ」光秀の声がしぼんだ。「わしは命令に従っているだけじゃ」
明智光秀は不意に、ものすごい疲労が襲いかかってくるのを感じ、自分がつぶされる感覚に震えた。目尻に涙がにじんだ。
「あの方が……いなくなれ…ば…。鬼はきっと誰かに退治…される」
明智光秀は自分の力で人生をきりひらき、将軍を奉り利用した。人生の勝利者となった。放浪者から、何万石もの大名となった。理知的な行動で自分を守り、生き延びてきた。だが、途中で多くのものを失った………家族、母、子供……。ひどく落ち込んだ気分だった。さらに悪いことには孤独でもある。くそったれめ、孤独なのだ!
「あの方がいなくなれば……眠れる…眠れる…」明智光秀は暗く呟いた。
かれは信長に「家康の馳走役」をまかされていた。光秀はよくやってのけた。
徳川家康は信長に安土城の天守閣に案内された。
「家康殿、先の武田勢との合戦ではご協力感謝する」信長はいった。そして続けた。「安土城もできた当時は絢爛豪華なよい城と思うたが、二年も経つと色褪せてみえるものじゃ」「いえ。初めて観るものにとっては立派な城でござる。この家康、感動いたしました」
家康は信長とともに立ち、天守閣から城下町を眺めた。
「家康殿、わしを恨んでいるのであろう?」信長は冷静にいった。
「いえ。めっそうもない」
「嘘を申すな。妻子を殺されて恨まぬものはいまい。わしを殺したいと正直思うているのであろう?」
「いいえ」家康は首を降り、「この度のことはわが妻子に非がありました。武田と内通していたのであれば殺されるのも当たり前。当然のことでごさる」と膝をついて頭をさげた。「そうか? そうじゃのう。家康殿、お主の妻子を殺さなければ、お主自身が殺されていたかも知れぬぞ。武田勝頼は汚い輩だからのう」
「ははっ」家康は平伏した。
明智光秀は側に支えていた。「光秀、家康殿とわしの関係を知っておるか?」
「……いいえ」
「家康殿は幼少の頃よりわが織田家に人質として暮らしておったのじゃ。小さい頃はよく遊んだ。幼き頃は、敵も味方もなかったのじゃのう」
信長はにやりとした。家康も微笑んだ。
この年、信長の正室・吉乃が病に倒れ、明日をも知れぬ身体となった。信長はこのとき初めて神に祈った。しかし、吉乃の命は風前の灯であった。信長は吉乃の眠る座敷へと急いでいき、手にもった仏像を彼女に手渡した。しかし、吉乃は抱き抱えられながら、仏像を捨てた。信長は手をさしのべ、自分がそばについていることを思い出させようとした。やさしく彼女を抱きしめた。
「…わらわは信長さまの妻……信長さまが神を信じないのなら…わらわも…」
吉乃は無理に微笑んだ。彼女の感触こそ、信長の崩壊を防ぐ唯一のものだった。信長は傷つきやすい孤独な心で、吉乃を抱擁した。「吉乃……死ぬな」
かすかな悲しげな微笑みとともに、信長はささやいた。信長は妻の頭を胸に抱きよせ、彼女の髪に頬を重ねた。吉乃は微笑み、そして死んだ。
秀吉はすぐに駆けつけた。いっぱいの土産をもって。
「ひさしいのう、秀吉」上座で、信長は秀吉に声をかけた。側には息子の信忠や信雄らがいた。秀吉は「これはすべて吉乃さまへの御土産にござる!」
「サル……母上は…死ん…だ……のだ」信忠は泣きながらいった。
「信忠、秀吉はそんなことは百も承知だ。わしをなぐさめておるのだ」
信長はいった。すると秀吉は「泣いてもかまわないのです、御屋形様!」といった。
「鬼が泣いても……笑われるだけじゃ」信長は涙目で呟いた。
明智光秀は不幸であった。信長に「家康の馳走役」を外されたのだ。「な……何かそそうでも?」是非、答えがききたかった。
「いや、そうではない。武士というものは戦ってこその武士じゃ。馳走役など誰でもできる。お主には毛利と攻戦中の備中高松の秀吉の援軍にいってほしいのじゃ」
「は? ……羽柴殿の?」
光秀は茫然とした。大嫌いな秀吉の援軍にいけ、というのだ。中国の毛利攻めに参加せよと…? 秀吉の援軍? かれは唖然とした。言葉が出なかった。
信長は話しをやめ、はたして理解しているか、またどう受け取っているかを見るため、明智光秀に鋭い視線をむけた。そして、口を開いた。
「お主の所領である近江、滋賀、丹波をわしに召しとり、かわりに出雲と石見を与える。まだ、敵の領じゃが実力で勝ちとれ。わかったか?!」
光秀は言葉を発しなかった。かわりに頭を下げた。かれは下唇をかみ、信長から目をそむけていた。光秀が何を考えているにせよ、それは表には出なかった。
しかし、この瞬間、かれは信長さえいなければ……と思った。明智光秀は信長が去ったあと、息を吸いあげてから、頭の中にさまざまな考えをめぐらせた。
……信長さまを……いや、織田信長を……討つ!
元正一〇年(一五八二)六月一日、信長は部下たちを遠征させた。旧武田領を支配するため滝川一益が織田軍団長として関東へ、北陸には柴田勝家が、秀吉は備中高松城を水攻め中、信長の嫡男・信孝、それに家臣の丹羽長秀が四国に渡るべく大阪に待機していた。 近畿には細川忠興、池田恒興、高山右近らがいた。
信長は秀吉軍と合流し、四国、中国、九州を征服するために、五月二十九日から入京して、本能寺に到着していた。京は完全な軍事的空白地帯である。
信長に同行していた近衆は、森蘭丸をはじめ、わずか五十余り………
信長は完全に油断していた。
秀吉は備中高松城攻めで、巨大な堤防をつくっていた。土袋を金で庶民から買う…という奇抜なアイデアでわずか十一日で巨大な堤防をつくった。あとは雨が降り続けば高松城は水の中である。だが、雨はなかなか降らなかった。
「ちくしょう! 雨降れ! 水攻めなんじゃ! 雨降れ!」
秀吉はふんどしだけになって、百姓たちと「雨乞い」の踊りをおどった。竹中半兵衛なきあとの秀吉の軍師・黒田官兵衛はあきれた。そして、笑った。
「あれで……120万石の大名なのだから……おもしろい人物だ」
「兄じゃ!」小一郎秀長も百姓踊りに加わった。そこに、佐吉(のちの石田三成)がやってきた。「おやじさま!」
「おお、佐吉! なんじゃ?!」猿顔をゆがませ、秀吉はきいた。
「おやじさまの母上さまから文にございます」
「なに? かあちゃんから?」
佐吉は文を秀吉に渡した。小一郎秀長らはにやりと笑って「かあちゃん…字がかけるようになったんだ」といった。汚い字で、すべてひらがなだった。
……ひでよし、がんばれ。おまえはにちりんのこじゃで、かならずかてる…
「……かあちゃん!」秀吉は笑った。「よし! なんとしても勝つのじゃ」
すると、雨が激しく降り出した。
「かあちゃんからの土産じゃぁ!」秀吉は天を仰ぎ、大声でいった。