長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.112嵐『DIGITALIAN』TMNETWORK『QUIT30』購入!最高と凡庸と

2014年10月31日 13時00分37秒 | 日記






嵐の『THE DIGITALIAN』

TMNETWORKの『QUIT30』


を購入した。


嵐のアルバムは高品質だったが、

TMの曲は既存曲のアレンジや似た曲調(小室さんのネタ切れ)が多く、


50代の中年世代のTMが

EDMの荒波になんとかしがみついているよう(笑)



TKの背中が見えてきた(笑)

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.111謀略家・鷲羽の武勇伝「謀略、謀る阿呆への鉄槌」死して愚かを知れ!

2014年10月30日 18時53分11秒 | 日記





昔、地方のちっぽけな薬局の店長がいて、

私に「野茂やイチローは大活躍してるよね、それに比べて貴方は?」

等と自分を棚に上げて滑稽なことをいうので、


「じゃあ、孫正義や小室哲哉に比べて貴方は?」と言うと

「特別な例はいいとして」等といい


「僕は新規事業や支店を出したり戦略があるそれに比べて貴方は何もできないじゃないか?」


等と私の才能も計画も何も聞きも調べもしないで偏見を言う馬鹿がいた。


だから、

「じゃあ、支店でも新規事業でもやったら?100%失敗するからやめといたほうがいいよ(笑)」

と挑発謀略を謀った。

何とも頭の悪い輩で話してて愚兄の顔が浮かんだ。

私緑川鷲羽は馬鹿扱いされてへらへら笑っているような甘い人間じゃない。

馬鹿にされればその屈辱を百倍にして謀略を仕掛けて地獄の自殺に追い込む謀略家だ。

その輩はやはり馬鹿だった。無理して挑発に乗り借金をして支店をだし失敗。自殺した。ざまあみろと拍手したね(笑)馬鹿が、と。舐めんな馬鹿!


緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.110安倍政権の「ああ、やっちゃった!」(笑)VS北朝鮮金正恩政権

2014年10月29日 14時51分26秒 | 日記






安倍政権は北朝鮮に舐められまくっている。


夏の終りか初秋には拉致問題の結果が出る、


といわれて待って「初期段階」。


じゃあ北に来てくれ、と言われ特使団を送るも

拉致問題解決なし。


無戦略、軍師なき国家の悲哀が見える。


安倍は一流大卒のインテリしか登用せぬから


軍師緑川鷲羽は不採用(笑)


安倍は愚かだ。

本当に安倍晋三はCIA分析通り「安倍は頭も体も心も弱い」でしかない。

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.109耳が痛いことをいうひとがいるうちが花「周りがイエスマン=独裁」

2014年10月28日 18時38分24秒 | 日記







耳が痛いことを言ってくれるひとがいるうちが花である。

周りがすべて「イエスマン」になって

誰も逆らわない等、北朝鮮の金正恩政権や今の安倍政権だ。


絶対的な権力は絶対的に腐敗する。


脇に諫言をいう参謀を置くほどの懐の深さ、がなければ何も成らない。


独裁では腐敗混乱するだけ。




国の為道の為働け!

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.108来年大河『花燃ゆ』+長州藩士薩摩藩士「薩長同盟」加筆

2014年10月28日 16時48分44秒 | 日記








今日は少し風邪をこじらせ、

『「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹の生涯』

の薩長同盟までの長州藩・桂小五郎と幾松や高杉晋作等の長州藩士や、


西郷隆盛、大久保利通、等の薩摩藩士のプロセスをまとめて加筆した。


身体が弱く、難儀をしているが、それも一興。


龍馬は来年大河に必ず出てくる。その点加筆したのだ。


小説としては出版するしかないが「自費出版」等という惨めなことにはならない。

商業出版じゃなきゃ凡人老人の自伝(笑)と変わらない。

そんなのと同種にされてたまるか!

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.107緑川鷲羽の軍師鷲羽の戦略戦術に三顧の礼を!

2014年10月27日 13時24分02秒 | 日記





日本政府の特使が平壌に行った。


結論から言うと


只「また騙される」だけ。


確かに私緑川鷲羽は大卒じゃないし、軽度の統合失調症かも知れない。


でも、だからって国の為道の為に働けない訳はない。


私の軍略は北朝鮮の謀略とは違う。


クレイジーでも阿呆でもない。


安倍電撃訪朝なしで小泉の二の舞を避けよ!

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.80<続・米沢燃ゆ>上杉鷹山公と細井平洲先生<小説作品発表前のP.S.>

2014年10月26日 19時08分19秒 | 日記







我らが上杉鷹山公は、俗な話をすれば

NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』こと

黒田官兵衛(如水)の子孫で、


また忠臣蔵で有名な吉良上野介の子孫、


でもあります。


今日、米沢市で講演があり両親が鷹山公と細井平洲先生の講義を聞いてきたそうです。



私は専門家と言える程熟知してるので小説で発表します(笑)

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.106DVD映画『42~世界を変えた男~』鑑賞脱人種差別!42永遠の誓い!

2014年10月26日 13時41分55秒 | 日記






DVD映画『42~世界を変えた男~』


を観た。


黒人初のメジャーリーガー「ジャッキー・ロビンソン」


の実話の映画で黒人人種差別との戦いの物語。


私もキモいだのオカマだの差別イジメにあったが、


只肌の色が違うだけでも、米国はドイツでなく



黄色の日本に原爆を二回落とした訳で。


人種差別を撲滅したい

真田幸村(信繁)<真田丸>真田幸村幻勇伝・真田幸村の真実2016年大河ドラマ原作小説3

2014年10月26日 07時59分59秒 | 日記







 慶次の奇行は続く。今度は本物の猿に関白の着るような豪華な服を着せて碁を打たせ、「やるのう秀吉!」とやった。
「アホや! 猿に秀吉などゆいうたら磔にされるわ!」
「ははは、馬鹿をいうな!だからおもしろいんじゃないか!」
「えっ?」
 当時、天下人秀吉への嘲りは厳正な処罰に処せられた。聚楽第完成の後に番所の看板に”猿関白”と落書きされた秀吉は烈火の如く怒り、真犯人を捕まえるまえに番所の所員たちを打ち首にし、耳を削ぎ、鼻を削ぎ、指を切断したという。
「笑えんわ。そんな危険な遊びに命かけてどないすんねん」
 そんな中、隣国越中の佐々成政の軍勢一万五千がその日の早朝(前田方の)末森城を奇襲して、落城寸前という知らせがはいった。
 ……佐々勢は一万五千、我が末森城は五百、今、至急集められる兵は二千五百……全然足りん。
「殿、至急援軍を送りましょう!」「殿!」
「ならん!秀吉殿より佐々勢の誘いに乗らず、秀吉殿の援軍をまってから必勝を期すようにと命令を受けておる!」
 軍議で利家がいう。軍議は荒れた。そんな中、若水が発言した。「されば殿!この若水めをいかせてくだされ!援軍を送るにしろ見捨てるにしろこの老骨に鞭うって末森城に行きまする!」
 佐々成政は前田家の出城である末森城を一万五千の大軍勢で攻めていた。
 末森城城主は奥村助右衛門(おくむら・すけえもん)という眉目の青年である。もはや落城寸前である。
「殿、三の丸にて土肥伊予様お討死なされました!すでに水路はたたれ、兵どもの疲労激しくもはやこれまでかと!殿だけでもお逃げくだされ!」
 奥村は敵兵の腹を太刀でかっさばいた。内臓をとりだす。……やはりな。……敵兵どももかなりすきっ腹で戦さしておる。奴らも前日からの徹夜の山越えの強行軍で疲れ切って、もはや弱兵!
 ……これなら援軍の到着まで踏ん張れば勝てる!
「と……殿?!」
「よいか!兵糧を全てだし、兵どもに腹いっぱい食わせろ!!」奥村は血だらけの甲冑姿のまま、命令を出した。
「は、ははっ!」
 この男はかつて十八歳で前田利久(慶次の義父)の居城・荒子城の城代家老をつとめたことがあり、柴田勝家をして「沈着にして大胆」と驚かしめた、剛の者である。
 若水老人は黄昏ていた。
 老骨でいくとは言ったが……そこに巨馬にのった慶次がかけつけた。「なにをたそがれておる若水殿」「ああ、びっくりした!慶次殿でしたか!」
「若水殿、初陣はたしか叔父御と同じ戦とか」
「そうそう、織田家内紛尾張海津の合戦でござった。わしはその頃、信長さまの配下で利家さまも、あの成政めもおりました!利家さまは槍の又左と異名をとる程勇ましく……わしも遅れじとつき進み敵陣深く進み過ぎて退却の命令も聞こえず……いやああのときはまいった」
 若水の懐かしい思い出である。「しかし、わしはついにここまで芽もでることなく…」
 馬上から慶次は花を差し出した。
「この花は?」
「リンドウですよ。春に咲く花はあでやかだ。だが、花の盛りは春とは限りませぬ。秋に咲く花はつつましいが味わいがある」
「秋に咲く花?」
「そうです」
「! そうか遅咲きのリンドウか。」
 いよいよもっての出陣か。「進め―われら遅咲きのリンドウとならん!最後の大輪を末森にて咲かすのだ!」若水老人は声をあげる。兜には一輪のリンドウがある。
 甲冑の雑兵わずか数十と馬に乗るのは荒井若水とそのバカ息子のみ。バカ息子は 「へっ、おやじ~頭悪いんじゃないの?」
「ん?なんだ陽水」「おやじおれの気持ちわかってんの?これはねえ、おれの初陣なんだよ。それをなんで負け戦にいくのよ!」
「なんのことじゃ?負け戦を勝ち戦にしてこそ武功ではないか?」
「かってに生んどいて勝手に殺すなよ。親ならもっと安全な戦さを選ぶもんでしょーが?!」
「おぬしの屁理屈もわからんでもないが…」
「そう!死んだら終りでしょうが!ちい!」
「じゃが、武功は安全な戦さでは立てることはできぬ!帰りたければ帰れ!」
「えっ?いいの?ならおれはここで…」
 だが、佐々軍勢に囲まれた。ひいいいっ!陽水は馬上で失禁した。
 敵軍の将・川田は「なんだ、利家が救援にくると思っていたが来たのはこんなやつらかあ?くだらん殺せ!」
 急に地響きがしてきた。「なんだ?馬がおびえて動かぬ」「なんだ?なにかいるのか?」ざわざわざわざわ……そこに巨大な馬にのった武人が崖の頂に現れた。
「えっ!信長公?!」
信長の甲冑を着て、髭をして、赤いビロードのマントまでしている。
「まさか…ああ」「信長公は二年前に本能寺で自害されたはず!」
 佐々の軍勢の戦意は消え失せた。突撃してきて何人も槍で叩き殺す。「ひいいいーっ!信長公だ!」「逃げろーっ!信長公が地獄から舞い戻ったー!」
 敵軍勢は遁走した。
「信長公……」若水老人はことばにならない。
「末森城への救援……あっぱれな心意気である!」
 陽水はおどおどと「へ……へへ、ぶ……武士なら当然のことでしょう?」
 武人は陽水を槍の棒で殴り倒した。陽水は気絶して落馬した。
「若水殿に話しておるのだ」武人は付け髭をとり、兜を脱いだ。
「ああ! 慶次殿! まさかその甲冑は!」
「若水殿!いざ末森城へ、男見物に!末森の合戦は前田家の桶狭間なり!黙って甲冑を着てきたのだ!」
 慶次は叔父御が修復した信長の甲冑も無断で持ち出していた。まずは敵陣のど真ん中にいる奥村たちの籠城する末森城に馳せ参じなければならない。
 慶次は阿呆の陽水をからかって信長の甲冑を着させてみた。若水は「おお、馬子にも衣装とはよくいったもんだ」と微笑んでいう。
「そうかい?おやじ。ははは、何か強い戦国大名になった気分だぜ」
 慶次は「いいぞ、陽水」といい、次の瞬間、陽水の顔面を殴って気絶させた。唖然とする若水らを残して、その甲冑を着た陽水ガキを背負って佐々陣営にひとりで歩いて行った。「怪しい奴がおったぞーつ!信長公の甲冑を着ておる曲者だ!」
 信長の甲冑姿の気絶した陽水を担いだ慶次は、無事に佐々本陣まで着いた。陽水は気絶から目を覚ます。「あっ!」
「信長公に変装したやつが何人もの兵を斬り殺したというからどんな奴かと思ったらまだガキじゃねえか。ああい、殺せ!首をはねい!」
 陽水はまた失禁した。そして「ひいいっ!やめてくれよお!慶次さん助けてよう!」
「なに?慶次?」
 陣営が騒がしくなった。「しょうがねえ奴だなあ。」慶次は頭巾をとった。「前田慶次だ!」佐々成政は戦慄した。
「おのれわしの首をとりにきたか!騙したな!汚いぞ!」
「戦さに綺麗も汚いもあるか!」
 そういうと慶次は、佐々成政の剛腕屈強な家臣たちをたちまちに斬り殺した。「佐々成政覚悟!」
「ま、まて!どうせ首を取られるなら、その前にひとつだけ頼みがある!」
「なんだ?」
「顔を洗わせてくれぬか?目ヤニのついた顔をさらされたくない」
「はん!」陽水は悪態をついた。「この期に及んで死ぬのが恐くなったか?!へん!」
 慶次は陽水をぶん殴った。「陽水、そこの酒樽もってこい!」
 佐々成政は酒で顔を洗った。「くく……なぜじゃ。なぜ信長さまはわしを残して死んだのじゃ…殿はわしに夢をくれた!天下布武の夢じゃ!だから惚れた!夢中で戦場を駆けた!ほかの誰でもない!殿と天下をみたかった!猿・秀吉の天下などみとうもない!さあ、やれ慶次!……?」
 いない。酒樽に花が一輪浮いていた。
 …慶次……おのれという奴は……
 
 慶次たちわずかな援軍兵は末森城に入った。
 奥村は「おお!慶次! ん?その香りは?」
「ああ、この花だ。土産だ」
「そういえば今日は重陽の節句だったな」
 奥村と慶次は昔を回想した。
  前田利家の正室はまつ(もしくはおまつ)である。美貌で知られたが慶長四年九月、利家の死後その子・利長に家康暗殺のもくろみがあるとして家康が加賀に大軍を派遣しようとした時、まつは自ら人質第一号として江戸に下ることにより、前田家を救ったほどの肝の座った女丈夫である。
 まつは十二歳で利家の妻になった。清純な少女のとき、慶次はまつが石垣の花束を摘んでいるのに見とれていた。
 ………麗しき女子じゃ。十一歳も離れた叔父御に嫁ぐのか。もったいない。
 まつが石垣の高嶺の花を摘もうとして石垣から落下した。
 慶次と助右兵衛門はまつを救った。
 まつは釈迦如来のような神々しい微笑を浮かべ「かたじけぬ。まあ、ひどい顔、はいご褒美」花をまつは差し出した。「これからもわれをまもってたも」
 慶次はそのときまつに惚れたのだ。


 天正四年(一五七六)……
 鬱蒼とした山道を駆けるふたりの男がいた。
「与七! 急げ! 大切な御屋形様の戦を見逃すぞ!」背の高い男がいった。
「待ってくれ……はあはあ…慶次殿!」
 部下らしい男は息を切らした。
 先にいく背の高い男こそ、前田慶次(当時十七歳)である。背は六尺(一九〇センチメートル)はあるだろうか。
 部下は樋口与七で、ある。
 天文2年(1533年)に慶次は生まれ、慶長17年6月4日に病死するまでの人生である。…墓は米沢市の万世の善光寺…
 慶次はハンサムな顔立ちで、すらりとした痩身な男で、智略のひとであったが、今はまだ只の若者に過ぎない。若き頃より放浪し、のちに直江兼続に惚れて上杉景勝に仕官し、軍略を磨くことになるのだが、まだまだ謙信の方が上であった。謙信には姉がいて、名を桃姫という。出家後は仙桃院と名を変えた。
 幼い頃、慶次は上杉謙信(当時は長尾景虎)の馬上での勇々しい姿をみたことがある。父親の田んぼ仕事の合間に、越後でのことだった。
 慶次はその時の謙信の姿を目に焼き付けていた。上杉家ならば…もしや…自分も!「謙信は…戦神じゃ! ひとから義をとってしまえば野山の獣と同じだ!」
 毘、龍……の旗印が風にたなびく……英雄・上杉謙信は慶次には眩しく映った。
 謙信に子はいない。謙信は結婚をしていなかったし、女性をまったく近付けなかったからだ。そのため謙信は実は女性であった……などという史実とおよそかけ離れた説まであるくらいである。その実は男色の気があったからだという説もある。
 何にせよ、一族親類の数が絶対的な力となる戦国時代にあえて子をなさなかったとすれば、変人といわなければならない。兼続は喜平次(景勝)に五歳で仕えたという。
「どちらが勝つじゃろうか?!」
「謙信に決まっておろう」
「しかし…」部下は続けた。「武田には山本勘介なる軍師が…」
「そんなやつ、謙信……上杉謙信公の足元にもおよばぬわ!」
 慶次は笑った。川中島は現在の新潟県と長野県の間に流れる千曲川のところである。ここで上杉軍と武田軍のこぜりあいが長く続けられていた。上杉謙信とは不思議なひとで、領土を広げようという野心のない人物で、各国の武将の中でも人望があつかった。楽しむが如く戦をし、武田攻めも義によって行っているだけだという。武田の領地である信濃や甲斐を狙っていた訳ではないのだ。すべては村上義清の要請……それだけだった。
 ちなみに兼続兄弟は戦に参加するために急ぐのではない。見学するためだった。これは何も珍しいことではなく、戦国時代にはよくあったことだという。例えば、牋ケ獄の戦いなどのときにも近くの農民たちが戦見学をしたとも記述にある。負傷者のために秀吉は農民から傘を買い上げたという。農民たちも貪欲なもので、負け組の将の首を狙って、賞金を貰ったり、死人の鎧や兜をかっぱらい金にかえる不貞な輩が大勢いたという。
 敗走中に農民に殺された明智光秀や小西行長なども不幸であった。
  そして、上杉謙信と武田信玄との激戦、川中島の戦いで、ある。

  信州(長野県)・川中島(信州と越後の国境付近)で、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)は激突した。世にいう「川中島合戦」である。戦国時代の主流は山城攻めだったが、この合戦は両軍四万人の戦いだといわれる。
  甲府市要害山で大永元(一五二一)年、武田信玄(晴信)は生まれた。この頃の十六世紀は戦国時代である。文永十(一五四一)年、武田信玄(晴信)は家督を継いだ。信濃には一国を束める軍がない。武田信玄は孫子の「風林火山」を旗印に信濃の四十キロ前までで軍をとめた。それから三~四ケ月動かなかった。
「武田などただの臆病ものよ!」
 信濃の豪族はたかをくくっていた。
 しかし、武田晴信はそんなに甘くはない。
 まず甲斐(山梨県)で軍備を整えた。
 出家もし、剃髪し、晴信から信玄と名をかえた。
 そして、信濃(長野県)の制圧の戦略をもくもくと練っていた。
「御屋形様! 武田の騎馬軍団の勇姿みせましょうぞ!」
 家臣たちは余裕だった。
 信玄も、
「信濃はわしのものとなる。甲斐の兵、武田軍は無敵ぞ」
 と余裕のままだった。
 謙信も「武田の兵を叩きつぶしてくれるわ!」息巻いた。
「いけ! 押し流せ!」
 陣羽織りの信玄の激が飛ぶ。
「うおおおっ!」
 武田の赤い鎧の集団が長槍をもって突撃する。
 信濃の豪族は油断した。そのすきに信玄は騎馬軍団をすすめ、信濃を平定した。領土を拡大していった。彼は、領土の経済へも目を向ける。「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定。治水事業も行った。信玄は国を富ませて天下取りを狙ったのである。
 第一次川中島の合戦は天文二十二(一五五三)年におこった。まだ誰の支配地でもない三角洲、川中島に信玄は兵をすすめる。と、強敵が現れる。上杉謙信(長尾景虎)である。謙信はこのときまだ二十二歳。若くして越後(新潟県)を治めた天才だった。謙信は幼い頃から戦いの先頭にたち、一度も負けたことがなかったことから、毘沙門天の化身とも恐れられてもいた。また、謙信は義理堅く、信濃の豪族が助けをもとめてきたので出陣したのであった。上杉軍が逃げる武田軍の山城を陥していき、やがて信玄は逃げた。信玄の川中島侵攻は阻まれた。(二万人の負傷者)
 天文二十三(一五五四)年、武田は西の今川、南の北条と三国同盟を成立させる。それぞれが背後の敵を威嚇する体制ができあがった。
「これで……不倶戴天の敵・上杉謙信を倒せる!」
 信玄は笑った。
 ある日、両軍主領があう機会があった。
 永禄元年五月上杉・武田の和議が起こり、千曲川を隔てて両将が会見したとき、謙信は馬から降り、川岸で会見しようとした。
 すると信玄は礼を重んじることもなく、
「貴公の態度はいかにもうやうやしい。馬上から語ってもよかろうぞ」と放言した。
 信玄には謙信のような「義」「礼」がなかったのである。
 謙信はやはり武田と戦うことを誓った。
 上杉謙信は武諦式をおこない、戦の準備をはじめた。
「……今度の戦で信玄を倒す!」
 謙信は兵に激を飛ばした。
「おう!」
 上杉軍は決起盛んである。
  第二次川中島の合戦は天文二十四(一五五五)年四月に勃発した。
 信玄は上杉が犀川に陣をはったときの背後にある旭山城の山城に目をつける。上杉は犀川に陣をはり、両軍の睨み合いが数か月続く。
 膠着状態のなか、上杉武田両軍のなかにケンカが発生する。
「やめぬか! 義を守れ!」
 謙信は冷静にいって、書状を書かせた。
 謙信は部下に誓約書をかかせ鎮圧したのだ。
 どこまでも「義」のひとなのである。
 信玄は違った。
「おぬしら、働きをしたものには褒美をやるぞ!」
 と、信玄は人間の利益にうったえた。
「欲」「現実」のひとなのである。
 信玄は戦でいい働きをしたら褒美をやるといい沈静化させる。謙信は理想、信玄は現実味をとった訳だ。
 やがて武田が動く。
 上杉に「奪った土地を返すから停戦を」という手紙を送る。謙信はそれならばと兵を引き越後に帰った。
「……信玄を信じよう」
 義の謙信は疑いのない男だ。
 しかし、信玄は卑怯な現実主義者だった。
 第三次川中島の合戦は弘治三(一五五七)年四月に勃発した。
 武田信玄が雪で動けない上杉の弱みにつけこんで約束を反古にして、川中島の領地を奪ったことがきっかけとなった。”信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。そして、民衆の悲しみは絶えない。隣国の主としてこれを黙認することなどできない”
 上杉謙信は激怒して出陣した。上杉軍は川中島を越え、奥まで侵攻。しかし、武田軍は戦わず、逃げては上杉を見守るのみ。これは信玄の命令だった。”敵を捕捉できず、残念である”上杉謙信は激怒する。”戦いは勝ちすぎてはいけない。負けなければよいのだ。 敵を翻弄して、いなくなったら領土をとる”信玄は孫子の兵法を駆使した。上杉はやがて撤退しだす。
 永禄二(一五五九)年、上杉謙信は京へのぼった。権力を失いつつある足利義輝が有力大名を味方につけようとしたためだ。謙信は将軍にあい、彼は「関東管領」を就任(関東支配の御墨付き)した。上杉謙信はさっそく関東の支配に動く。謙信は北条にせめいり、またたくまに関東を占拠。永禄三(一五六〇)年、今川義元が織田信長に桶狭間で討ち取られる。三国同盟に亀裂が走ることに……。
 上杉は関東をほぼ支配し、武田を北、東、南から抑えるような形勢になる。今川もガタガタ。しかも、この年は異常気象で、四~六月まで雨が降らず降れば十一月までどしゃぶり。凶作で飢餓もでた。
 第四次川中島の合戦は永禄四(一五六一)年、五月十七日勃発。それは関東まで支配しつつあった上杉に先手をうつため信玄が越後に侵攻したことに発した。信玄は海津城を拠点に豪族たちを懐柔していく。上杉謙信は越後に帰り、素早く川中島へ出陣した。
 上杉は川中島に到着すると、武田の目の前で千曲川を渡り、海津城の二キロ先にある妻女山に陣をはる。それは武田への挑発だった。
 十五日もの睨み合い…。信玄は別動隊を妻女山のうらから夜陰にまぎれて奇襲し、山から上杉軍を追い出してハサミ討ちにしようという作戦にでる(きつつき作戦)。
 しかし、上杉謙信はその作戦を知り、上杉軍は武田別動隊より先に夜陰にまぎれて山を降りる。
「よいか! 音をたてたものは首を斬り落とすぞ!」
 謙信は家臣や兵に命令した。
 謙信は兵に声をたてないように、馬には飼い葉を噛ませ口をふさぐように命令して、夜陰にまぎれて山を降りた。一糸乱れぬみごとな進軍だった。
 上杉軍は千曲川を越えた。
 九月十日未明、信玄が海津城を出発。永禄四(一五六一)年、九月十日未明、記録によれば濃い霧が辺りにたちこめていた。やがて霧がはれてくると、武田信玄は信じられない光景を目にする。
「……なんじゃと?! 上杉が陣の真ん前に?」
 信玄は驚いた。
 驚きのあまり軍配を地に落としてしまった。
 妻女山にいるはずの上杉軍が目の前に陣をしいていたのだ。上杉軍は攻撃を開始する。妻女山に奇襲をかけた武田別動隊はカラだと気付く。が、上杉軍の鉄砲にやられていく。「いけ! 押し流せ!」
 無数の長槍が交じりあう。
 雲霞の如く矢が飛ぶ。
 謙信は単身、馬で信玄にせまった。
 刀をふる謙信……
 軍配で受ける信玄……
 謙信と信玄の一気討ち「三太刀七太刀」…。
 このままでは本陣も危ない!
 信玄があせったとき武田別動隊が到着し、九月十日午前十時過ぎ、信玄の軍配が高々とあがる。総攻撃!
 ハサミうちにされ、朝から戦っていた兵は疲れ、上杉軍は撤退した。死傷者二万(両軍)の戦いは終了した。「上杉謙信やぶれたり!」信玄はいったという。
 武田信玄は川中島で勝利した。
 上杉はその後、関東支配を諦め、越後にかえり、信玄は目を西にむけた。
 第五次川中島の合戦は永禄七(一五六四)年、勃発した。
 しかし、両軍とも睨みあうだけで刃は交えず撤退。以後、二度と両軍は戦わなかった。 武田は領土拡大を西に向け、今川と戦う。こんなエピソードがある。今川と北条と戦ったため海のない武田領地は塩がなくなり民が困窮……そんなとき塩が大量に届く。それは上杉謙信からのものだった。たとえ宿敵であっても困れば助ける。「敵に塩をおくる」の古事はここから生まれた。
 武田は大大名になった。
 信玄は国づくりにも着手していく。治水工事、高板はたびたび川がはんらんしていた。 そこで竜王の民を移住させ、堤をつくった。
 上杉にも勝ち、金鉱二十もあらたに手にいれた。
 のちに信長は自分の娘を、信玄の息子勝頼に嫁がせている。
 しかし、信玄は信長の一向衆や寺焼き討ちなどをみて、
「織田信長は殺戮者だ! わしが生きているうちに正しい政をしなければ…」
 と考えた。それには上洛するしかない。

  話を変える。
秀吉方の前田利家に敵対する武将・佐々成政の軍は、慶次たちのわずかな手勢である末森城に籠城している軍勢を攻めていた。
 慶次は『大ふへん者』なるマントを着飾り、石垣を登り攻めようとする佐々軍勢にしょうべんを食らわせた。
「これは『大ふへん者』ではなく、『大ふべん者』と読む!この前田慶次、張り合いのある好敵手がおらんで大変不便しておる!そういうことじゃ!」
 普通の武将でも戦場になればいちもつは縮こまり、しょうべんどころか大便さえでないほどになるのが普通である。
 だが、慶次のいちもつはおおきく、しょうべんもじゃあじゃあ出る。
 さすがは「傾奇者」である。
 末森城の兵はやはりわずかで恐怖で逃げ出すものも続出した。あの阿呆の陽水ガキも逃げ出そうとして慶次に見つかった。
「何をしておる?陽水」「い……いやあ、あのお……逃げ出す臆病者の兵士をみつけて成敗を」
 慶次に頬をぶん殴られた。「おやじさんにちゃんと逃げると話したのか?」
「逃げ出す?慶次さん冗談きついなあ」慶次はまたもぶん殴る。「いや、まってくれ。おれには女がいるんだ」「女?」「そうだよ。もうすぐややが生まれるんだ」
「そのことを逃げ出す前におやじさんにいったのか?」「勘弁してよ慶次さん……おれは]逃げないよ、ははは」またぶん殴られた。
「いいか、陽水!お前が戦って戦場に散るのも、逃げ出して生き延びるのもそれはそれぞれの道だ。だが、道理は通せ!」陽水は父親に女のことや子供が生まれることをはなした。
「そうか。ややが出来たか。孫じゃのう。女子かのう?男かのう?わしにも好いた女子がおった。戦で傷だらけになって……だが、そんなわしがいいと……そのままのわしがいいと夫婦になってくれた。お前の泣き母親じゃ。そうか、わしにも孫か……ふふふ。」
「く、くそう………こんなんじゃ逃げらんねえじゃねえか…」陽水も若水も涙をはらはら流した。
 籠城戦の末に前田利家たちの援軍がきて、佐々成政は白旗をあげて秀吉の軍門に下った。

 合戦は終わったが、前田利家は金沢に戻らず、そのまま末森城に入城した。利家は喜んでいる!なぜならば軍令違反の罪で慶次を公然と処刑できるのである。むろん軍令違反を問えば、若水親子も処刑することになるが、そんなことは気にもしない。
 一国の領主としてはともかく、一対一の男としての優劣では、どこをとっても慶次に優る所がない利家である。それを女房のおまつが態度に示した今利家の慶次への憎しみは頂点に達していた。ザザザッ…と甲冑に陣羽織の利家らが入城していった。
「むふううっ!慶次もおわりじゃ、くくく!」利家は得意満面である。
 城内で、くつろいでいると小姓の美少年が「利家さま、風呂の用意ができましてございます」とやってきて平伏する。「合戦での疲れをおいやしください」
「さっ、こちらへ」利家は美少年を気に入った。
 家臣の男に服を脱ぐのを手伝わせると、「これ、小姓、名をなんと申す?ん?」と利家は尋ねた。
「水丸にございます」
「ふむ。水丸、そちも一緒にはいってまいれ」
「は……はい…」水丸は狼狽した。
 利家はにたあといやらしい顔で笑った。戦国時代の武将たちの中には美少年を「小姓」として寵愛した者もいた。彼らは武将の身の周りの世話をするだけでなく、性の対象ともなったのだった。
 大きな露天風呂であった。前田家の家紋のはいった幔幕(まんまく)で周りにひとがいないかのように見える。雨が降っても大丈夫なように木材の屋根がある。
 利家は興奮気味に「うっは~いい湯だあ。水丸!どうした早うはいってまいれ!」という。湯煙でよく見えない。うきうき…「いままいります」…お~来た来た。「ん~~苦しゅうない。もちと近うよれ。近う………おわ!」………顔に似合わぬなんたる一物!!
 そして利家は驚いた。「け…慶次!!」
そう裸の男は水丸ではなく、筋骨隆々の前田慶次であった。
「お…おまえいつのまに!」
「おれがもともと甲賀の出であることをお忘れか」
「よっ」慶次は飛びこんで湯につかり、湯しぶきが利家にかかった。「く…ぺっぺっ!」「ふ~いい湯だ」「きさま………どういうつもりだ?!」
「いえ村井一族のことでね。あいつらの軍令違反許していただきたいんですよ」
 利家は不敵な笑みを浮かべ「ふ、バカもやすみやすみいえ。そんなことができるか!それより自分の命のことでも考えろ」
「ほう」
「この幔幕の外には大勢の兵がひかえておる。わしが一声かければ、きさまなどたちまち討ちとられようぞ」
「ほお~そうですか」
 慶次は露天風呂でくんくん鼻をきかせた。……臭うなあ。慶次がそういうと利家は……これは火縄銃の火縄の燃える臭い!まさか、狙撃兵を忍ばせておるのか、あっ?!
「呼びますか?」
「ぐううっ! 貴様卑怯だぞ!」
「戦さに卑怯も糞もあるもんですか。呼びますか?」
 利家は恐怖で戦慄した。「ばーん!」慶次は大声で発砲音を言った。利家は戦慄する。「どうです?許してくれまするか?」
「ぐぐぐ……わ…わかった、許そう」
「よし」慶次は露天風呂からあがった。「さすが叔父御!ものわかりがいい。水丸、おまえが証人だ。いいな」「は…はい!」
「ば…馬鹿者!は……はやく火縄銃をどかさんか!!」
利家は周章狼狽しながらがなった。
 慶次は「あ、ああ!」といい、露天風呂の柱に仕込んでおいた一本の火縄(当然チリチリ火がついている。銃はない。火縄銃の火縄だけを煙らせていたのだ)を外して、見せた。
「ああ!」
 ぽい!慶次はその火縄を利家の前の湯に投げた。ちゅっ!火が消える。騙された!!
「慶次~~~!これで済むと思うなよ!おのれの罪は許しておらぬぞ!!」
利家は湯からざばっと立ち上がり怒鳴った。
 慶次はふんどし姿でぶわっと、露天風呂から近くの木の枝の上にジャンプして、「俺のことなら心配無用じゃ!」といい逃げた。
「くそーっ!慶次のやつめ逃げおって!追っ手を差し向けい、やつを逃すな!!」利家は服を着ながらどたどた走り、家臣に命令した。
 すると不思議な光景を目にした。女子供数千人が城外にでていく。
 面白いのは慶次の行動である。
 恩賞を媚びるでもなく、末森の城で傾いた服に帯刀姿で、例の巨馬にのり、天守閣の利家に向けて袴を下げ、ケツをむき出し「尻(けつ)でも食らいやがれ!」という。
 かつて秀吉が小牧長久手の合戦で籠城する徳川家康に尻をむけたが、慶次もそれをやった。
「慶次! おのれ信長さまの甲冑を持ち出したことを詫びぬどころか…尻を向けやがったな!」
 利家は激怒するが、慶次は平気の平左である。
 そこに奥村助右衛門がやってきて、末森城の兵士四百のうち、討死した三四〇名の死の恩賞をいただきたい、駄目なら切腹する、恩賞はわれらをすくってくれた前田慶次の軍令違反の罪を許して命を助けて頂ける事です、といった行動に出る。城外にでたのは彼らの妻や親戚子供である。恩賞を、慶次の命を助けずに切腹させればこれら大勢が刺客になる。
 前田利家は『前田慶次の軍令違反での処刑』をやむなく断念した。
 そしてそのあと加賀金沢城下も出て脱藩、京に行き京『天下の傾奇者・前田慶次』と畏怖されるまでになるのである。

  のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。
 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。
 また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。
 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。
 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。
「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。

  信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。
 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。
 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。
 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。
 天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。
 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。
 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?
 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。
 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。
 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。
 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に武勢で、結局殺されてしまう。
 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)
 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。
 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。
 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。
 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。
 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。
 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。


  足利義昭が織田信長に「幕府回復のために力を貸していただきたい」と打診していた頃、信長はまだ稲葉山城(岐阜城)攻略の途中であったから、それほど関心を示さなかった。また、天皇からの「天皇領の回復を願いたい」というも放っておいた。
 朝倉義景の一乗谷城には足利義昭や細川藤孝が厄介になる前に、居候・光秀がいた。のちに信長を本能寺で討つことになる明智十兵衛光秀である。美濃の明智出身であったという。機知に飛んだ武士で、教養人、鉄砲の名人で、諸国を放浪していたためか地理や地方の政や商いに詳しかった。
 光秀は朝倉義景に見切りをつけていた。もともと朝倉義景は一国の主で満足しているような男で、とうてい天下などとれる器ではない。このような男の家臣となっても先が知れている。光秀は誇り高い武将で、大大名になるのが夢だ。…義景では……ダメだ。
 光秀は細川藤孝に「朝倉義景殿ではだめだ。織田信長なら、あるいは…」と漏らした。「なるほど」細川は唸った。「信長は身分や家格ではなく能力でひとを判断するらしい。義昭さまを連れていけば…あるいは…」
 ふたりは頷いた。やっと公方様の役に立つかも知れない。こうなったらとことん信長を利用してやる。信長のようなのは利用しない手はない。
 光秀も細川藤孝も興奮していた。これで義昭さまが将軍となれる。…かれらは信長の恐ろしさをまだ知らなかったのだ。信長が神や仏を一切信じず、将軍や天皇も崇めないということを……。光秀たちは無邪気に信長を利用しようとした。しかし、他人に利用される程、信長は甘くない。信長は朝倉義景とは違うのだ。
 光秀も細川藤孝もその気になって、信長に下話した。すると、信長は足利義昭を受け入れることを快諾した。なんなら将軍に推挙する手助けをしてもいい、と信長はいった。
 明智十兵衛光秀も細川藤孝も、にやりとした。
 信長が自分たちの思惑通りに動いたからだ。
 ……これで、義昭さまは将軍だ。してやったり!
 だが、光秀たちは信長が「義昭を利用してやろう」などと思っていることを知らなかった。いや、そんなことは思いもよらなかった。なにせ、光秀たちは古い価値観をもった武士である。誰よりも天皇や室町幕府、足利将軍の崇拝者であり、天皇や将軍を利用しようという人間がいるなど思考の範疇外であったのだ。
 信長は「くだらん将軍だが、これで上洛の口実ができる」と思った。
 信長が快諾したのは、義昭を口実に上洛する、つまり京都に入る(当時の首都は京都)ためである。かれも次第に世の中のことがわかってきていて、ただの守護代の家臣のそのまた家臣というところからの成り上がりでは天下はとれないとわかっていた。ただやみくもに野望を抱き、武力蜂起しても天下はとれないのをわかっていた。
 日本の社会は天皇などが中心の社会で、武家はその家臣というのが通例である。武力だけで天下の道を辿るのは難しい。チンギス・ハンのモンゴルや、秦始皇帝の中国とは違うのだ。天下をとるには上洛して、天皇らを嫌でもいいから奉らなければならない。
 そこで信長は「天下布武」などといいだした。
 つまり、武家によって天下をとる、という天下獲りの野望である。おれは天下をとる。そのためには天皇だろうが、将軍だろうが利用するだけ利用してやる!
 信長は興奮し、心の中で笑った。うつろな笑いだった。
 確かに、今、足利義昭も天皇も「権威を回復してほしい」といってきている。しかし、それは信長軍の武力が台頭してきているからで、弱くなれば身分が違うとバッサリきりすてられるかも知れない。そこで、どの大名も戴くことをためらった足利義昭をひきいて上洛すれば天下に信長の名が轟く。義昭は義輝の弟で、血も近い。なにより恩を売っておけば、何かと利用できる。恩人として、なにかしらの特権や便宜も計られるだろう。信長は狡猾に計算した。
「天下布武」などといったところで、おれはまだ美濃と尾張だけだ。おれは日本中を支配したいのだ。そのために足利義昭を利用して上洛しなくてはならないのだ。
 そのためにはまず第十四代将軍・足利義栄を戴いている三好や松永久秀を滅ぼさなければならない。信長は戦にうって出ることを考えていた。自分の天下のために!
 信長は当時の常識だった「将軍が一番偉い」などという考えをせせら笑った。なにが偉いものか! 偉いのはおれだ! 織田……織田信長だ! この俺に幸運がやってきた!
  慶次郎は「織田信長は紛い者のかぶきものだ」という。「本物のカブキ者はひとの頭をおさえて権力をふるい、女子供や僧侶を虐殺したりしない。最期は家臣に牙を剥かれて死んだ愚者だ」。信長は義父の前田利久や嫁の義父の仇のようなものだ。前田利久は前田家の嫡子であったが子がなく弟の安勝の娘を養女とし、滝川一益の息子・慶次郎を養女の婿として迎えた。この慶次郎が前田家の「跡継ぎ」の筈である。だが、前田利久を嫌った織田信長が、荒子城から前田利久一家を追放し、前田利家を前田家の主としたのだ。「信長め!」慶次郎は悔しがったことだろう。


劇画・漫画『花の慶次』では前田慶次が金沢城下で忍者軍団と闘い、恋人であったくノ一(女忍者)を伝説の忍者に殺され、復讐劇を見せることになっている。
 だが、そんな歴史上の文献や資料は見つかっていない。やはりというか「漫画的な復讐劇」でしかない。
 コミック・漫画・劇画『花の慶次』第弐巻で、しかしながら第十三話『棒涸らし螢』の巻、を次に参照したい。
 末森城での合戦のあと、金沢城下も平穏な日々を取り戻していた。まつは加賀百万石の大大名・前田利家の正室であったが、御供もほとんどつけずに買い物に夢中になっている。
 まつは、唐突に城をぬけだし、街をふらつくことなど日常茶飯事といえた。この気さくな奥方は、前田家がいくら大藩になろうとも少しも変わらない。
 利家はまつに横恋慕しようとするような慶次に頭に来ていた。そこで加賀忍者棟梁・四井主馬に「なんとか慶次のやつを始末する方法はないのか……考えろ主馬!」と命じた。主馬はにたあとわらって「女の色事の果て女に殺される……というのはいかがで?」
「うーん!それならば家臣どもも疑わぬかもしれんなあ」利家はにやりとなった。
 その頃、金沢城下郊外のある武家屋敷に忍び込む慶次がいた。慶次が早い刻限から眠れるのは合戦の時だけだった。平時には、身内に滾(たぎ)り、立つものを抑え兼ねて、いつまでも起きていることになる。そして今夜、慶次は若い女の元に夜這いにきていた。
「うむー、やはり思った通りだ!なんとも雪のような肌だ」布団に薄い寝間着でひとり静かに眠る女子を見た。慶次は着物を脱いでふんどし一丁になる。美貌の二十代くらいの女子が目を覚ました。きっ!慶次は女子の口をふさいで「しっ…俺だよ。先日、遠乗りの途次、おまえの茶を馳走になった」……慶次さん……
 慶次は手を口からはなした。「お前に一目ぼれじゃ。抱くぞ」この時、相手が気に入らなければ女は拒否することができる。男も深追いをしないのが夜這いの作法なのだ。
 しかし、こういうときの慶次の無邪気な笑顔はなんともよかった。たいていの女はこの笑顔にとろけてしまうのである。
「うふ、うれしい!」女は抱きついてきた。
 しかし、厠におきてきた親族の男が庭の巨馬・松風に驚き、「よ…夜這いだあー!」と大声をあげた。家族がおきてくる。
「こりゃいけねあ」慶次はふんどし一丁のまま松風に飛び乗り、逃げた。「今度の夜這いは松風抜きだ!」「二度とくんじゃねえぞ!」
 この当時、夜這いはごく普通の求愛行為であった。女は男を気に入れば受け入れた。そうやって本当に自分にあった男を見つける自由があったのだ。
「どうだ?あの戦場では悪鬼のようなあの男もいくさ以外では女ったらしのただの野獣。どうだ?あの野獣を殺せるか?」
 主馬は遠くの木に登り、隣のもう一人の女忍者(いわゆるくノ一)に聞いた。美貌のくノ一は「たとえ悪鬼でも羅刹でも、この棒涸らしのくノ一螢!私に落とせぬ男などおりましょうか!」
 いよいよくノ一まで慶次の命を狙う刺客となった。
  

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.105「女性の活躍」にはもろ手を挙げて賛成!が、イジメいい理由はない

2014年10月25日 15時32分06秒 | 日記







昨夜日テレドラマ『ヒガンバナ』を観た。


数十年前、NEC米沢のプログラマ時代、


女性や同僚に

キモい、オカマ、死ね、等といじめられたが


それも不満へのはけ口だったのだろう。


女性の活躍はもろ手を挙げて賛成。


が、女性の社会的差別(セクハラ等)正直わからぬ。



マララさん百人分の女性リーダーが必要

「カリスマ」と孫正義伝と。ソフトバンク創業の英雄・孫正義の半生アンコール連載小説4

2014年10月25日 07時52分45秒 | 日記







  昭和二十八年、いよいよテレビ時代がやってきた。
 しかし、日本には値段が高いこともあって、なかなか普及しなかった。
 画面も白黒である。
 だが、人々は街頭テレビの前に山のように集まって、当時のヒーロー『力道山』のプロレスに夢中になった。子供たちのアイドルはこの時代、『力道山』だった。
 そして、映画では石原裕次郎、アラカン、美空ひばり………
 松下電器はもちろん、テレビをつくり始める。
 海外の技術を取り入れたテレビを生産しだした。だが、まだ画面は白黒だった。
 幸之助は「これからはカラーや。色付きのテレビならもっと売れるでぇ。しかも、安価ならもっと売れる」と、松下電器中央研究所を発足させる。
 アメリカのメーカーには、かなら技術研究所がある。それをマネた訳だ。
  昭和三十年、いよいよ日本製品の飛躍がはじまる。
 外国ではソニーのトランジスター・ラジオが評判となり、日本製品が安くて品質がいいと売れるようになっていた。
 今度こそ、松下電器の時代や!
 ナショナル製品は海を渡り、売れ続けた。
 日本の高度経済成長期でのことだった。
 幸之助はいう。
「時計をみなはれ。あんな小さな中にいろんな部品がつまっとるやないか。ラジオかてテレビかて出来んことはないんや!」
 当時の外国製品のラジオはミカン箱ほどの大きさだった。それをソニーは薄くて小さいトランジスター・ラジオをつくったのである。
 松下は後発ながら、マネして同じものをつくる。
 すると売れ出した。
 しかし、幸之助は先をみていた。
「……これからはラジオやない。テレビやで!」
 ラジオ販売で、アメリカの問屋と契約したときもそう思っていた。ラジオ販売の感謝はしたものの、これからはテレビだ、と技術研究を続けていた。
 しかも東京には『ソニー研究所』がある。
 車メーカーのトヨタとも提携して、車にラジオを乗せることになった。
 トヨタは、
「ラジオの値段をもう少し安くしてくれまいか? でないと原価が高くなる」
 という。
 値下げ幅は五パーセント、最高でも十五パーセントという。
 ラジオをつくっているのは松下通信工業という会社だった。見ると経営陣がひたいをあわせて、相談している。ひどく困っていた。
「どないしたんや?」
 と幸之助が尋ねる。
 すると「会長、困りました」吐露した。
 ラジオの利益は三%、それを五%値引きするとマイナス二%の赤字になるという。
 すると幸之助は、
「なら技術を生かしてもっと安価なラジオつくりゃええやんか」
 という。
 そうでっか?
 ともいえないが、とにかく『経営の神様』がいっているのだから、設計から部品から見直してみることにした。技術陣あげてコストダウンに取り組んだ。
 そして、それは成功する。
 幸之助はトヨタの当時の会長石田に会ったとき、
「おおきに、石田さん。あなたのおかげでコストダウン成功しました」といったという。 もちろん皮肉でなく、感謝の言葉だった。

  松下幸之助が社長を辞め、会長になったのは昭和三十六年のことだった。
六十六歳……社長には副社長の松下正治が就任した。
 経営とはこれでおわりというものはない。しかし、幸之助はあえて後進に道をゆずったのであった。ちょうど高景気で、三種の神器『クーラー、カーテレビ、カー』が評判になっているころで、松下電器の五ケ年計画も順調だった頃だった。
 幸之助は、
「いまが一番ええ時期や」と社長をしりぞいたのだった。
 しかし、そんな『経営の神様』を世界は放ってはおかない。
 米国のタイム誌が幸之助の”伝説”を取り上げ始める。
”世界の松下電器”つくった男………世界中が幸之助を注目しだす。猿のような顔付きの幸之助の顔写真が表紙をかざる。と、世界は「日本に松下あり」と初めて知った。
 というより、ナショナル製品は知っていたが、会長がこの日本人だとは知らなかったのである。
 幸之助は国際会議に出席していう。
「企業経営というのはいろいろあります。たとえば大統領が国を経営するんも経営ですなぁ。またアメリカに無数にあるドラックストアーを経営するんも経営です。それらに共通しているのは、経営者というもんは、いつも自分のやっていることのよしあしがわかって、それに点数をつけられることでんなぁ」
 また、テレビ対談では時の首相・池田勇人と対談をやったりパフォーマンスまでした。「ヒトラーは破綻したドイツ経済をわずかな間に立て直した。そこまではよかった。しかし、やりかたがまずかったんやと思うんです。全体的な経営ということで方向性が間違っていた。まちがった見通しと方法によって、全ヨーロッパの経営などというだいそれた考えをもち、それで失敗したんやと思います」
 さきに『タイム』にとりあげられると、今度は『ライフ』にとりあげられる幸之助。
 そのどこか豊臣秀吉のような顔が表紙に飾られる。
 すると、世界が幸之助に注目する。
 その人気ぶりはすごく、『世界一の電化企業王国をつくった男』として、有名になっていった。この頃、尊敬する日本人は誰か? とアンケートをとったところ、
 ……”松下幸之助”……
 というのが一番だったそうだ。
 これは、総理の池田勇人(当時)やノーベル賞の湯川秀樹も長嶋茂雄さえも勝てなかった。それくらい日本人に尊敬されていた。
 なにしろ小学校しかでてない。しかも中退して丁稚からスタートしたまさに立身出世の英雄である。そのどこか豊臣秀吉のような風貌と人生は、人々を熱狂させずにはいられないものがあったのだろう。


  昭和三十九年十月十日、東京オリンピックが開催された。
 日本は高度経済成長まっただ中。今の中国のようだった。また皇太子結婚(当時)もあいまって、カラーテレビが売れに売れた。
 松下幸之助は警告を発する。
「確かに日本は戦争に負けたが、経済で勝った。せやけど、それは他のひとたち他の国たちが助けてくれたおかげやで」
 昭和四十年代ともなると日本経済に陰りが見えてきて、不況になった。
 バタバタと会社がつぶれていく。
 松下電器も苦しい時期だったが、幸之助はリストラはしなかったという。
 そのかわり、導入したのが、ワークシェアリング、
 そして、週休二日制度だった。
 幸之助は先を見ていた。
「こんな不況なんてすぐおわりや。日本は復活する。そのためにも松下はふんばらにゃあかんのや。日本を『技術立国』にするんはおれやで!」
 松下幸之助はどこまでも経営の天才だった。
 今苦しいからといって、せっかく育てた『技術屋』をリストラしたら後で困る……
 幸之助はどこまでも先を見ていたのである。

         6 日本再生論









エネルギー分野での取り組み
上述のように福島第一原子力発電所事故後、自然エネルギーの普及と脱原発を掲げて精力的な活動を続けている。発電コストについてはアメリカにおいて補助金の助けで風力発電と原子力発電のコストが2010年に逆転したとし、自然エネルギーの方が原子力より安価であるとの立場に立っており、自家発などで生産された自然エネルギーを電力会社が買取る再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法の成立に対して期待感を示している。
しかしながら、孫の動きを震災に便乗した補助金ビジネスとして「政商」と批判するメディアもある。孫を取材し尊敬していたという堀義人も孫をツイッター上で批判し、その批判に孫が応えて討論会を実施する運びとなった。民主党の原口一博は孫の立てた大規模太陽光発電所(メガソーラー)構想に対して「太陽光か原発かという選択肢ではありません。『大規模・独占・集中・排除』か『小規模・分散・自立・共同』で選択しないといけない」と忠告したと言う。
孫の脱原発運動は日本限定の活動であり、訪韓して李明博大統領と会談した際には「脱原発は日本の話。韓国は地震が多い日本とは明らかに異なる」「安全に運営されている韓国の原発を高く評価している」と韓国の原子力発電所を高く評価していると言う。但し自然エネルギー分野では日韓協力の体制を敷くことに前向きなコメントを残している。 
東日本大震災を受け孫が経営するソフトバンクは電力供給と料金面で有利な韓国にデータセンターを立ち上げることでKT社と合意した。孫は韓国にデータセンターを置く利点として、「近い」「安い」「高いICTの先進性」の3点を挙げ、「韓国は非常に『近い』外国であり、産業用電気料金が日本の半額で『安い』」ことを挙げている。堀は、上述の産経新聞記事にて、この件を原子力発電で電力を賄っている韓国に産業を移転し日本の産業を空洞化させるものとして批判している他、池田信夫はニューズウィーク日本版の連載コラムにて「メガソーラーで日本の電気代を上げて他社のコストを圧迫する一方で、ソフトバンクは韓国の原発でつくった安い電気を使ってもうけようというわけだ。」という批判を紹介し「彼の挑戦がもう少しツボにはまれば、霞ヶ関にも応援団はかなり出てくるだろう」と評している。
首相四年連続辞任時に「日本の不幸」
2010年、Twitterユーザーから首相辞任にコメントを求められた際に、「4人の首相の任期が1年程度。民間会社ですら社長任期が1年では大きな事は成し得ない。日本の不幸」と述べた。
東日本大震災復興資金の寄付
2011年4月3日、東日本大震災の被災者支援と復興資金として個人で100億円を寄付すると発表した。また、2011年から引退するまでソフトバンクグループ代表として受け取る報酬の全額も、震災で両親を亡くした孤児の支援として寄付するとも発表した。ソフトバンクも企業として東日本大震災に対し10億円の寄付を決定している。孫は3月22日福島県の避難所を訪れ、被災者数万人への携帯電話の無償貸与に加えて、震災孤児対象に18歳までの通信料の完全無料化を表明している。
2011年5月16日、寄付金の配分を発表した。内訳は、日本赤十字社・中央共同募金会・岩手県・宮城県・福島県に各10億円、日本ユニセフ協会などの「震災遺児への支援を行う公益法人」に6億円、茨城県・千葉県に各2億円。40億円は、孫と自治体が共同で設立、孫自身が会長を務める東日本大震災復興支援財団に託す。
2011年6月11日までに、財団分を除く60億円の寄付が各所に行われた。
2011年7月14日に、東日本大震災復興支援財団に残りの40億円が寄付として渡され、全100億円分の寄付が完了した。この寄付金は、10年以上の継続支援ができるよう、被災地の子どもたちを中心とした支援のみに100%使われていくという。

     2013年12月17日「国家安全保障戦略(NSS)」
<1 策定の趣旨>
 我が国の安全保障をめぐる環境が一層厳しさを増している中、国際社会の中で進むべき針路を定め、国家安全保障のための方策に政府全体として取り組むことが必要である。
 この戦略では、国際協調主義に基づく積極的平和主義を明らかにし、国益について検証し、国家安全保障の目標を示す。戦略内容は、おおむね10年程度の期間を念頭に置いたものであり、政策の実施過程を通じて国家安全保障会議(NSC)において定期的に体系的な評価を行い、適時・適切に発展させていく。
<2 国家安全保障の基本理念>
 1 我が国が掲げる理念
 2 我が国の国益と国家安全保障の目標
 〈国家安全保障の目標〉
 我が国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な抑止力を強化し、我が国に直接脅威が及ぶことを防止するとともに、万が一脅威が及ぶ場合には、これを排除し、かつ被害を最小化すること。
<3 我が国を取り巻く安全保障環境と国家安全保障上の課題>
 1 グローバルな安全保障環境と課題
 (1)パワーバランスの変化及び技術革新の急速な進展
 新興国(中国、インドなど)の台頭により国家間のパワーバランスが変化している。特に、中国は国際社会で存在感を高めている。
 米国は安全保障政策及び経済政策上の重点をアジア太平洋地域にシフトさせる方針を明らかにしている。
 非国家主体によるテロや犯罪の脅威が拡大しつつある。
 (2)大量破壊兵器などの拡散の脅威
 北朝鮮、イランによる核・ミサイル開発問題は大きな脅威である。
 (3)国際テロの脅威
 (4)国際公共財に関するリスク
 海洋においては近年、資源の確保や自国の安全保障の観点から、力を背景とした一方的な現状変更を図る動きが増加しつつある。シーレーンの安定や航行の自由が脅かされる危険性も高まっている。
 (5)「人間の安全保障」に関する課題
 (6)リスクを抱えるグローバル経済
 2 アジア太平洋地域における安全保障環境と課題
 (1)アジア太平洋地域の戦略環境の特性
 (2)北朝鮮の軍事力の増強と挑発行為
 北朝鮮は、核兵器を始めとする大量破壊兵器や弾道ミサイルの能力を増強するとともに、軍事的な挑発行為や我が国などに対する様々な挑発的言動により、地域の緊張を高めている。我が国に対する脅威が質的に深刻化している。
 金正恩(キムジョンウン)体制の確立が進められる中、北朝鮮内の情勢を引き続き注視する必要がある。北朝鮮による拉致問題を含む人権侵害問題は、我が国の主権と国民の生命・安全に関わる重大な問題であり、国の責任において解決すべき喫緊の課題である。
 (3)中国の急速な台頭と様々な領域への積極的進出
 十分な透明性を欠いた中で、軍事力を広範かつ急速に強化している。東シナ海、南シナ海などの海空域において、既存の国際秩序とは相いれない独自の主張に基づき、力による現状の変更の試みとみられる対応(尖閣諸島付近の領海侵入・領空侵犯、独自の「防空識別区」の設定など)を示している。
<4 我が国がとるべき国家安全保障上の戦略的アプローチ>
 国際協調主義に基づく積極的平和主義の立場から、日米同盟を基軸としつつ、各国との協力関係を拡大・深化させるとともに、我が国が有する多様な資源を有効に活用し、総合的な施策を推進する必要がある。
 1 我が国自身の能力・役割の強化・拡大
 (1)安定した国際環境創出のための外交の強化
 (2)我が国を守り抜く総合的な防衛体制の構築
 厳しい安全保障環境の中、戦略環境の変化や国力・国情に応じ、実効性の高い統合的な防衛力を効率的に整備し、統合運用を基本とする柔軟かつ即応性の高い運用に努める。自衛隊の体制整備にあたっては、統合的・総合的視点から重要となる機能を優先しつつ、各種事態の抑止・対処のための体制を強化する。
 (3)領域保全に関する取組の強化
 領域警備に当たる法執行機関の能力強化や、海洋監視能力の強化を進める。国境離島の保全・管理・振興に積極的な取り組みを推進するとともに、国境離島などにおける土地利用などの在り方について検討する。
 (4)海洋安全保障の確保
 (5)サイバーセキュリティーの強化
 (6)国際テロ対策の強化
 (7)情報機能の強化
 (8)防衛装備・技術協力
 武器輸出三原則などがこれまで果たしてきた役割にも十分配意した上で、移転を禁止する場合の明確化、移転を認め得る場合の限定及び厳格審査、目的外使用及び第三国移転に係る適正管理の確保などに留意しつつ、武器などの海外移転に関し、新たな安全保障環境に適合する明確な原則を定めることとする。
 (9)宇宙空間の安定的利用の確保及び安全保障分野での活用の推進
 (10)技術力の強化
 2 日米同盟の強化
 (1)幅広い分野における日米間の安全保障・防衛協力の更なる強化
 国内における関連の検討作業と整合的な形で「日米防衛協力のための指針」を見直し。
 (2)安定的な米軍プレゼンスの確保
 在日米軍駐留経費負担などの施策のほか、抑止力を向上しつつ、沖縄を始めとする地元の負担を軽減するため、在日米軍再編を日米合意に従って着実に実施する。
 3 国際社会の平和と安定のためのパートナーとの外交・安全保障協力の強化
 中国には、大局的見地かつ中長期的見地から、「戦略的互恵関係」の構築に向けて取り組み、地域の平和と安定及び繁栄のために責任ある建設的役割を果たすよう促すとともに、力による現状変更の試みとみられる対応については、事態をエスカレートさせることなく、冷静かつ毅然(きぜん)として対応していく。
 北朝鮮の拉致・核ミサイル開発といった諸懸案については、日朝平壌宣言、6者協議共同声明及び国連安全保障理事会(安保理)決議に基づき、包括的な解決に向けて、北朝鮮に具体的な行動を求めていく。拉致問題の解決なくして国交正常化はあり得ないとの基本認識で全力を尽くす。
 ロシアとの間では、安全保障及びエネルギー分野を始めとするあらゆる分野で協力を進め、日ロ関係を全体として高める。最大の懸案である北方領土問題は、北方四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する方針で交渉を行う。
 4 国際社会の平和と安定のための国際的努力への積極的寄与
 (1)国連外交の強化
 安保理改革・我が国の常任理事国入りの実現に向けた取り組みを推進する。
 (2)法の支配の強化
 (3)軍縮・不拡散に係る国際努力の主導
 (4)国際平和協力の推進
 国連平和維持活動(PKO)などに一層積極的に協力する。PKOと政府の途上国援助(ODA)事業との連携の推進、ODAと能力構築支援の戦略的な活用を図る。
 (5)国際テロ対策における国際協力の推進
 5 地球規模課題解決のための普遍的価値を通じた協力の強化
 (1)普遍的価値の共有
 (2)開発問題及び地球規模課題への対応と「人間の安全保障」の実現
 (3)開発途上国の人材育成に対する協力
 (4)自由貿易体制の維持・強化
 環太平洋経済連携協定(TPP)、日・欧州連合(EU)経済連携協定(EPA)、日中韓自由貿易協定(FTA)、東アジア地域包括的経済連携(RCEP)などの経済連携の取り組みを推進。こうした取り組みを通じ、アジア太平洋地域の活力と繁栄を強化する。
 (5)エネルギー・環境問題への対応
 エネルギーを含む資源の安定供給に向けた各種取り組みに、外交的手段を積極的に活用し、供給源の多角化などに取り組む。気候変動分野に関しては、攻めの温暖化外交戦略を展開する。
 (6)人と人との交流の強化
 2020年に開催される東京五輪・パラリンピックなどを活用し、個人レベルでの友好関係を構築する。
 6 国家安全保障を支える国内基盤の強化と内外における理解促進
 (1)防衛生産・技術基盤の維持・強化
 防衛装備品の効果的・効率的な取得に努めるとともに、国際競争力の強化を含め、防衛生産・技術基盤を維持・強化していく。
 (2)情報発信の強化
 (3)社会的基盤の強化
 国民一人一人が、地域と世界の平和と安定を願いつつ、国家安全保障を身近な問題として捉え、その重要性や複雑性を深く認識することが不可欠。
 諸外国やその国民に対する敬意を表し、我が国と郷土を愛する心を養う。
 領土・主権に関する問題などの安全保障分野に関する啓発や自衛隊、在日米軍などの活動の現状への理解を広げる取り組みなどを推進する。
 (4)知的基盤の強化


 2013年12月17日「新防衛大綱(要旨)」
<1 策定の趣旨>
<2 我が国を取り巻く安全保障環境>
 1 国家間では平時でも有事でもない事態、いわばグレーゾーンの事態が増加傾向にあり、大量破壊兵器や弾道ミサイルの拡散は、依然として大きな懸念。海洋では、公海の自由が不当に侵害されるような状況が生じている。
 2 アジア太平洋地域は、領土や主権、海洋の経済権益をめぐるグレーゾーンの事態が長期化傾向にあり、重大な事態に転じる可能性が懸念される。
 北朝鮮は、国際社会からの自制要求を顧みず、核実験を実施。核兵器の小型化・弾頭化の実現に至っている可能性も排除できない。北朝鮮の核、ミサイル開発は、我が国の安全に対する重大かつ差し迫った脅威となっている。
 中国は、東シナ海や南シナ海を始めとする海空域における活動を急速に拡大・活発化。力を背景とした現状変更の試みなど、高圧的とも言える対応を示している。我が国領海への断続的な侵入や我が国領空の侵犯、独自の主張に基づく「東シナ海防空識別区」の設定といった公海上空の飛行の自由を妨げるような動きは不測の事態を招きかねない。また、軍の艦艇や航空機による太平洋への進出を常態化させ、我が国の北方を含む形で活動領域を一層拡大するなど、より前方の海空域での活動を拡大・活発化させている。中国の軍事動向については、我が国として強く懸念。地域・国際社会の安全保障上でも懸念される。
 米国は、安全保障を含む戦略の重点をよりアジア太平洋地域に置くとの方針(リバランス)を明確にし、地域への関与、プレゼンスの維持・強化を進めている。この地域での力を背景とした現状変更の試みにも、同盟国、友好国などと連携し、これを阻止する姿勢を明確にしている。
 3 我が国にとって、法の支配、航行の自由などの基本的ルールに基づく「開かれ安定した海洋」の秩序を強化し、海上交通および航空交通の安全を確保することが、平和と繁栄の基礎である。我が国は自然災害が多発することに加え、都市部に産業・人口・情報基盤が集中。沿岸部に原子力発電所などの重要施設が多数存在しているという安全保障上の脆弱(ぜいじゃく)性を抱えている。
 4 以上を踏まえると、我が国を取り巻く安全保障環境は、一層厳しさを増している。安全保障上の課題や不安定要因は、多様かつ広範であり、一国のみでは対応が困難。利益を共有する各国が、協調しつつ積極的に対応する必要性がさらに増大している。
<3 我が国の防衛の基本方針>
 1 基本方針
 国際協調主義に基づく積極的平和主義の観点から、日米同盟を基軸として、各国との協力関係を拡大・深化させ、世界の平和と安定、繁栄の確保にこれまで以上に積極的に寄与する。
 日本国憲法の下、専守防衛に徹し、軍事大国にならないとの基本方針に従い、文民統制を確保し、非核三原則を守りつつ、実効性の高い統合的な防衛力を効率的に整備する。核抑止力を中心とする米国の拡大抑止は不可欠である。
 2 我が国自身の努力
 国家安全保障会議の司令塔機能の下、各種事態の抑止に努める。
 今後の防衛力は、幅広い後方支援基盤の確立に配意し、即応性や持続性、強靱(きょうじん)性、連接性も重視した統合機動防衛力を構築する。
 3 日米同盟の強化
 「日米防衛協力のための指針」の見直しを進め、日米防衛協力を更に強化し、日米同盟の抑止力及び対処力を強化していく。情報協力及び情報保全の取り組み、装備・技術面など幅広い分野での協力関係を強化・拡大し、安定的かつ効果的な同盟関係を構築する。
 在日米軍再編を着実に進め、米軍の抑止力を維持し、地元の負担を軽減していく。沖縄県の普天間飛行場の移設を含む在沖縄米軍施設・区域の整理・統合・縮小、負担の分散などで負担軽減を図っていく。
 4 安全保障協力の積極的な推進
 日米韓・日米豪の3国間の枠組みによる協力関係を強化し、米国の同盟国相互の連携を推進する。ロシアと、外務・防衛閣僚会合を始めとする安全保障対話、部隊間交流を推進する。東南アジア諸国との関係を一層強化し、防災面の協力を強化。インドとは海洋安全保障分野を始め幅広い分野で関係の強化を図る。
<4 防衛力の在り方>
 1 防衛力の役割
 島嶼(とうしょ)部に対する攻撃には、配置部隊に加え、侵攻阻止に必要な部隊を速やかに機動展開し、海上や航空の優勢を確保しつつ、侵略を阻止・排除し、侵攻があった場合は奪回する。
 弾道ミサイル発射の兆候を早期に察知し、多層的な防護態勢で、機動的かつ持続的に対応。同時並行的にゲリラ・特殊部隊による攻撃が発生した場合は、原発などの重要施設の防護、侵入した部隊の撃破を行う。
 2 自衛隊の体制整備に当たっての重視事項
 南西地域の防衛態勢の強化、防衛力整備を優先する。無人装備も活用し、我が国周辺海空域で航空機や艦艇の常続監視を広域に実施する。人的、公開、電波、画像の情報に関する収集機能及び無人機による常続監視機能の拡充を図る。
 陸上自衛隊の各方面隊を束ねる統一司令部の新設と各方面総監部の指揮・管理機能の効率化・合理化により、陸上自衛隊の作戦基本部隊の迅速・柔軟な全国的運用を可能とする。島嶼への侵攻があった場合に速やかに上陸・奪回・確保するための水陸両用作戦能力を整備する。北朝鮮の弾道ミサイル能力の向上を踏まえ、対処能力の総合的な向上を図る。
 人工衛星を活用した情報収集能力を強化。サイバー空間対応は統合的な常続監視・対処能力を強化する。
 3 各自衛隊の体制
 陸上自衛隊は作戦基本部隊の半数を北海道に保持。島嶼部の防衛態勢の充実・強化を図る。海上自衛隊は、新たな護衛艦により増強された護衛艦部隊は、イージスシステム搭載護衛艦を保持する。
<5 防衛力の能力発揮のための基盤>
 民間空港及び港湾も早期に自衛隊の運用基盤として使用し得るよう必要な検討を行う。装備品の民間転用を推進。積極的平和主義の観点から、防衛装備品などの共同開発・生産に参画することが求められている。
<6 留意事項>
 本大綱に定める防衛力の在り方は、10年程度の期間を念頭に、国家安全保障会議において定期的に体系的な評価を行う。情勢に重要な変化が見込まれる場合には、所要の修正を行う。
 ■新防衛大綱の別表《今後10年間で整備》
 ※丸カッコ内は現状の数字
【陸上自衛隊】 
 編成定数(15万9千人) 維持
 うち常備定員(15万1千人) 維持
 即応予備自衛官員数(8千人) 維持
 〈基幹部隊〉
 ◆機動運用部隊
 3個機動師団=新設
 4個機動旅団=新設
 (1個機甲師団) 維持
 1個空挺(くうてい)団=新設
 1個水陸機動団=新設
 1個ヘリコプター団=新設
 ◆地域配備部隊
 (8個師団) 5個師団
 (6個旅団) 2個旅団
 ◆地対艦誘導弾部隊
 (5個地対艦ミサイル連隊) 維持
 ◆地対空誘導弾部隊
 (8個高射特科群/連隊) 7個高射特科群/連隊
【海上自衛隊】
 〈基幹部隊〉
 ◆護衛艦部隊
 (4個護衛隊群) 維持
 (5個護衛隊) 6個護衛隊
 ◆潜水艦部隊(5個潜水隊) 6個潜水隊
 ◆掃海部隊(1個掃海隊群) 維持
 ◆哨戒機部隊(9個航空隊) 維持
 〈主要装備〉
 ◆護衛艦(47隻) 54隻
 うちイージスシステム搭載護衛艦(6隻) 8隻
 ◆潜水艦(16隻) 22隻
 ◆作戦用航空機(約170機) 維持
【航空自衛隊】 
 〈基幹部隊〉
 ◆航空警戒管制部隊(8個警戒群、20個警戒隊) 28個警戒隊
 (1個警戒航空隊〈2個飛行隊〉) 1個警戒航空隊〈3個飛行隊〉
 ◆戦闘機部隊(12個飛行隊) 13個飛行隊
 ◆航空偵察部隊(1個飛行隊) ―
 ◆空中給油・輸送部隊(1個飛行隊) 2個飛行隊
 ◆航空輸送部隊(3個飛行隊) 維持
 ◆地対空誘導弾部隊(6個高射群) 維持
 〈主要装備〉
 ◆作戦用航空機(約340機) 約360機
  うち戦闘機(約260機) 約280機
     *
 注1:戦車及び火砲の現状(13年度末定数)の規模はそれぞれ約700両、約600両/門であるが、将来の規模はそれぞれ約300両、約300両/門とする。
 注2:弾道ミサイル防衛にも使用し得る主要装備・基幹部隊については、上記の護衛艦(イージスシステム搭載護衛艦)、航空警戒管制部隊及び地対空誘導弾部隊の範囲内で整備することとする。
(以上、朝日新聞記事参照)
『防衛計画・税制改正・公的年金運用~類似した組織に目を向ける』防衛計画大綱 中期防衛力整備計画固め。税制改正 2014年度税制改正大綱を決定。公的年金運用 海外インフラ投資を開始。2013年12月20日大前研一氏メール記事参照。▼ あれだけ反対していたオスプレイを自衛隊に。政府は13日、中長期の安全保障政策の指針となる防衛計画の大綱と中期防衛力整備計画での自衛隊の装備目標を固めました。2014年度から5年間の目標を示す中期防では、米軍が開発した垂直離着陸輸送機オスプレイを17機、水陸両用車を52両購入する方針を明記。軍事力を高める中国を念頭に離島防衛や機動力を重視した装備を整えるとのことです。米国としては、嬉しくてしょうがない状況でしょう。中国と日本がもめることで、日本が米国から武器を購入する流れになっています。グローバルホークなどの無人機に加え、かつて米軍が日本国内で使用するのを反対していたオスプレイまで、 自衛隊で保有することになりそうです。日本は戦闘機が離発着できる空母を保有していないので、ヘリコプターとして離発着できるオスプレイは非常に使い勝手が良いと思います。 尖閣領域から石垣島までカバーすることができるでしょう。あれだけ米軍のオスプレイに国中で大騒ぎをしていたのに、自衛隊が保有するという手のひら返しには少々呆れてしまいます。▼ 交際費を拒否する英国の潔癖性とカナダの年金運用ノウハウ。自民、公明両党は2013年12月12日、2014年度税制改正大綱を決めました。生活必需品の消費税率を低く抑える軽減税率については「消費税率10%時に導入する」とし、一方、自動車の購入時にかかる取得税の引き下げなど、来年4月の消費増税をにらみ景気に配慮した措置も盛り込むとのことです。細かい項目を見ていくと、例えば交際費を50%まで非課税にするというものがあります。私はいまだにこのような項目を追加しようとすることが、残念でなりません。交際費が認められるから、飲みに行くというのは筋が違うでしょう。またそもそも最近では、飲み会や会食の数も減り、2次会・3次会と遅くまで飲み歩く人はかなり減ったと思います。ゆえに、交際費を非課税にできます、と言われてもどれほど効果があるのかは疑問です。以前、英国の労働党の議員の大阪での接待に同席したことがあります。食事を終え、会計のときになって、彼らは金額を確認させてくれ、と言いました。日本側の役人は渋りましたが、結局金額を確認した彼らは、こんな高額の食事をご馳走になったら賄賂になるので自分たちの分は自分で支払うと言いました。英国の議員が自腹で払っているので、自分たちも支払わざるを得なくなり、日本の役人は非常に困っていました。今、日本でも飲み会や会食が減り、社会が英国化しつつあるのかも知れません。英国人が持つ潔癖性を日本人も身につけてほしいと思います。交際費が認められるから飲みに行くという、みっともない行為はやめてほしいと思います。公的年金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)はカナダで最大規模の公的年金基金・オンタリオ州公務員年金基金(OMERS)と組み、海外のインフラ投資を始めます。これは非常に良いことだと思います。日本のGPIFには経験がありませんから、学べることは多いはずです。オンタリオ州公務員年金基金は運用もスマートですし、結果も出しています。さらに日本にとって有益だと思うのは、米国のそれと違って「普通のサラリーマン」が世界のことをよく勉強し、公共投資を行って、リターンを得る仕組みを作り上げていることです。米国の場合、一部のスーパースター的な存在の人が、日本のサラリーマンでは考えられない報酬を得ていることもありますが、カナダの場合にはそういうことがありません。日本に近い環境だと思います。カナダに目を向けたことも良いですし、その中でもオンタリオ州公務員年金基金を選んだのも慧眼だと言えるでしょう。ぜひ、多くのことを学んでほしいと思います。


安倍首相の靖国参拝、知られざる波紋。大前研一の日本のカラクリPRESIDENT 2014年2月17日号。ビジネス・ブレークスルー大学学長 大前研一/小川 剛=構成。憲法を改正したい、誤った史観を正したい。政権発足から丸1年が経過した2013年12月26日、安倍晋三首相が靖国神社を参拝した。首相の靖国参拝は06年の小泉純一郎氏以来、7年ぶりのことである。今回の安倍首相の靖国参拝を「馬脚を現した」という声もあるが、そうではない。本質的にそういう人間なのだ。安倍首相の応援団は2派ある。一方は経済重視のアドバイザリーグループで、「靖国参拝は封印して経済に専念せよ」と安倍首相の手綱を引っ張ってきた。もう一方は、地元サポーターなどの伝統的な保守勢力からネトウヨ(ネット右翼)まで含めた右派グループで、彼らは「国民の代表である首相が靖国に行くのは当然」と考えている。安倍首相のメンタリティはどちらかといえば後者に近い。つまり集団的自衛権を行使したいし、憲法を改正したい、戦後の誤った史観を正したい。そして靖国神社に参拝したいのだ。それらを封印して1年頑張った結果、東証平均株価は56%伸びた。年末年始でマスコミのマークも緩い――と、参拝を強行したのである。靖国参拝を後押しする勢力からは「よくやってくれた」という評価になるが、「在任中の参拝は控えてもらわなければ商売に差し障る」と訴えていた財界関係者などには、想定の範囲内ではあるが、突発的な出来事だったはずだ。むしろ安倍首相にとっても財界にとっても“予想外”だったのは、今回の参拝に対する国際社会の反応である。中韓の反発という想定を超えて、靖国問題が世界中でクローズアップされて、アメリカやロシア、インド、ドイツなどからも厳しい批判的な声が寄せられたのだ。アメリカのケリー国務長官とヘーゲル国防長官が、戦没者墓苑に献花したが、これは日本への「メッセージ」だった。これまで日本のトップの靖国参拝に過去一切言及してこなかったアメリカ政府までが「失望した」との声明を発表した。その後、「靖国参拝そのものを論評した『失望』ではなく、近隣諸国との関係悪化を懸念したもの」と取ってつけたような言い訳をしたが、以前に指摘したように、安倍首相を「危険人物」とみなして警戒していたアメリカ政府としては、安倍首相の行動に失望したというのが本音だろう。というのも以前から強烈な警戒警報を発していたからだ。13年10月、2プラス2(日米外務・防衛担当閣僚会合)で来日したジョン・ケリー国務長官とチャック・ヘーゲル国防長官は千鳥ヶ淵の戦没者墓苑を訪れた。靖国神社ではなく、わざわざ千鳥ヶ淵の慰霊碑にアメリカの要人が献花したのは安倍首相に対する「強烈なメッセージ」だったはずだ。靖国神社は、英訳では「戦争神社」である。靖国神社は、英訳では「戦争神社」である。靖国問題の本質は何か。A級戦犯の合祀が問題であって、A級戦犯を分祀すればいいという考え方もあれば、一宗教法人である靖国神社に政治家などが公式参拝するのは、政教分離の原則になじまないため、国営化すべしという議論もある。しかしA級戦犯を分祀したり、国営化すれば靖国問題が収まるかといえば、そんな単純は話ではないだろう。そもそも靖国神社の成り立ちからして、英霊を鎮め、平和や不戦の誓いを立てるに相応しい「聖地」とはいえない。創建は明治2(1869)年。靖国神社は幕末の志士や国事に殉じた軍人などの戦没者を「英霊」として祀ってきたが、英訳本では「Yasukuni War Shrine」と表記されてきた。要するに「戦争神社」である。西欧列強に追い付け追い越せの時代に、戦争に出征するときに「エイエイオー」と雄叫びを上げて勇気を奮い起こし、「国のために戦って散ったときには英霊として帰ってこられるのだから安心して行ってこい」と兵士に決意を促す場所だったのだ。どれだけお色直しをしても、日本帝国主義を象徴する「戦争神社」として創建されたオリジンは色濃く残っている。靖国神社に併設されている「遊就館」という施設をご存じだろうか。ゼロ戦や人間魚雷など戦争で使われた兵器や戦争関連の資料、遺物遺品がところ狭しと展示されている軍事博物館である。過去の戦争における日本の正当性をアピールし、「もう一度戦争を行えば日本は負けない」と言わんばかりの展示の仕方は、左翼全盛の時代に育った世代にとっては、“異世界”に迷い込んだような感覚に襲われる。実際、戦後の左翼全盛期に追い詰められていた右翼は、この場所を“心の拠り所”にしていたわけで、遊就館のような施設を持ち合わせている靖国神社で平和や非戦の祈りを捧げるのは、あるいはそれを参拝の口実にしている安倍総理のレトリックは、論理矛盾していると言わざるをえない。A級戦犯を“日中共通の加害者”に仕立てた。そのような靖国神社だが、かつては、戦後、日本の首相や天皇が参拝しても中国や韓国は特に問題視してこなかった。靖国問題が浮上したのはA級戦犯が合祀されてからしばらくたってのことだ。事の発端は1972年にさかのぼる。同年、当時の田中角栄首相は中国を訪問し、日中の国交が回復した。このときに田中首相と周恩来の間で交わされた合意事項の一つに「A級戦犯問題」があった。周恩来は日中友好条約締結の前提条件として戦後賠償を求めたが、田中首相はこれを拒否、すでに賠償済み(蒋介石の国民党政権に対して賠償を申し出たが蒋介石はこれを断った)との立場を取ったが、ODA(政府開発援助)という形での資金・技術供与を約束した。その際に戦後賠償の放棄を国内向けに説明するために、周恩来がひねり出したのが「中国人民も日本国民もともに日本の軍部独裁の犠牲者」という理屈だった。つまり、A級戦犯を“日中共通の加害者”に仕立てたのだ。田中首相はあまり深く考えずに合意し、それが日中の密約になった、あるいはそれ以来ODAが田中派の利権となった、と言われている。問題はこれが条約でもなく、公開された文書でもない、というところで、したがって同じ自民党であっても反田中派や、ましてや国民は、「そんなことは知らない」のだ。しかし、78年にA級戦犯は靖国神社に合祀されて「英霊」として奉られるようになった。合祀以降、天皇は一度も靖国参拝をしていないが、日本の首相の参拝は何度か行われた。そのときには中国からの抗議はなかったが、85年に当時の中曽根康弘首相が公式参拝を表明すると中国側が反発、後に韓国も便乗して、“外交カード”に使うようになった。この靖国問題の掘り起こしは、朝日新聞など日本のメディアが首相の靖国参拝を批判するキャンペーンを張ったことが影響したとも言われている。いずれにせよ、中国の立場からすれば、日中の両国民は同じ“被害者”という前提で友好関係を結んだのに、「話が違う」ということになる。“共通の加害者”であるA級戦犯を奉る靖国神社を国民の代表である首相が参拝するということは、日本国民全体が加害者の側に与することになってしまうからだ。ここでも密約ベースの自民党外交の弊害が。これも以前に指摘したが、自民党外交の特徴は密約ベースの属人的な外交で、時のリーダーが相手国とどのような合意や約束をしたか、(意図的に)文書にも残さず、正しい内容を国民に知らせてこなかった。それゆえに政権交代が起きると、外交関係が踏襲されないという大きな問題が依然として存在する。日中の国交回復も田中角栄というリーダーの属人的な外交成果であり、田中首相と周恩来のほとんど密約のような相互理解によって、尖閣諸島問題の棚上げや戦後賠償とバーターのODAなどが合意されてきた。A級戦犯を“共通の加害者”に仕立てて、日中両国民は“被害者”であるという前提で日中友好が進められてきたことも、日本の国民は知らされていない。だから中国が靖国問題で怒る、エキサイトする理由がさっぱり理解できずに、「内政干渉だ」と反発したくなる。さらに問題を複雑化したのは、周恩来が持ち出してきた「日中の共通の加害者である軍部独裁」について、きちんと定義しなかったことだ。本当の加害者が誰だったのか、田中首相は歴史学者に手伝ってもらってでも定義しておけばよかったのだが、「よっしゃ、よっしゃ」という田中首相の性格に加えて、密約外交だったために、そうした手続きを踏まなかった。結果、中国側は東京裁判(極東国際軍事裁判)でA級戦犯とされた人たちを軍部独裁の責任者とみなしてしまった。東京裁判でのA級戦犯、B級戦犯、C級戦犯というのは職業上のクラス分けのようなもので、罪の軽重ではない。A級戦犯の中には処刑された人もいれば、自害した人もいる。病死した人もいれば、安倍首相の祖父である岸信介のように、GHQの占領政策転換で罪が軽減され、生き残って首相にまでなった人もいる。東京裁判の正当性にも問題があるし、A級戦犯の定義もきわめて曖昧だ。にもかかわらず、外交交渉ではなく、ほぼ“密約”で行われたために、A級戦犯を加害者に仕立てるということで中国との間で“手打ち”が行われてしまったのである。属人的で密約ベースの自民党外交においては、文書は残されていないし、外交内容は継承されにくい。一方、中国は共産党一党独裁だから外交内容が継承されやすい。靖国問題をめぐる日中の噛み合わせの悪さには、そうした理由もあるのだろう。天皇の戦争責任に行きついてしまう。「先の戦争における本当の加害者は誰なのか」という議論は、本来、日本人自らがしていなければいけないことだ。憲法にあるように「二度と戦争はしない」と本気で誓うのであれば、これは絶対に不可欠な作業である。しかしこの問題を突き詰めていくと、どうしても天皇の戦争責任に行きついてしまう。「天皇の問題」があったがゆえに、駐留軍も東京裁判も、我々日本人もそこを曖昧なままにしてきた。駐留軍は明治憲法を踏襲して冒頭に天皇のチャプターを置いた憲法を日本に創り与え、東京裁判では、インド人法学者、ラダ・ビノード・パール判事の温情もあって天皇の戦争責任が問われることはなかった。日本人は発言権のない敗戦国という立場にある意味で安住して、駐留軍が書いた憲法を戴き、東京裁判で裁いてもらうだけで、自ら戦争責任を明確にする作業(「総括」)をしてこなかったのだ。同じ敗戦国であるドイツやイタリアは、ナチス独裁=ヒトラー、あるいはファシスト独裁=ムッソリーニという総括を行った。拙速な東京裁判と違い、ニュルンベルク裁判ではドイツとイタリアの戦争責任が徹底的に問い詰められた。ヒトラーを完膚なきまでに否定し、戦犯を完璧に定義して、戦後何年経とうと地球の裏まで追いかけていく“仕掛け”をつくった。加害者と被害者をきっちり分けるシビアな作業を、ドイツ国民も(そしてもちろん特にエスニッククレンジングの被害に遭ったユダヤ人たちも)一緒になって血のにじむような努力で行ったのだ。だからこそドイツは過去とハッキリ訣別して、ゼロベースで国づくりができた。しかし日本においては、「軍部独裁」という抽象名詞のままで、「軍部独裁の軍部とは誰のことなのか」を突き詰める作業をしてこなかった。旧日本陸軍なのか、天皇なのか、あるいは日本人全員か、とさまざまな考えや解釈が存在する。それを田中・周会談では日中友好条約締結を急ぐあまり便宜的に「A級戦犯」で合意してしまったのだ。実は靖国問題の本質はそこにある。当事国として戦争責任をどう考えているか、海外に向かって明確に説明できる日本人がいない。また説明したくない。靖国問題は、そうした日本の戦後処理の曖昧さに起因している。いつか来た道に引きずり込まれる。中国や韓国から見れば安倍首相の靖国参拝は、彼らにとっては戦争加害者(と彼らが勘違いしている)A級戦犯を礼賛しているようにしか映らない。さらに今回、アメリカが口を出したのは、靖国参拝を強行した安倍首相が戦後秩序全体を見直そうとするように見えるからだ。安倍首相は憲法改正や日中、日韓の歴史の見直しに言及しているが、それは取りも直さず、戦後秩序の見直しに直結する。つまり、アメリカの駐留政策は正しかったのか、駐留軍に押し付けられた憲法は正しかったのか、という議論にどうしてもつながる。もちろん、そうした見直し作業の中には東京裁判や原爆投下の正当性検証なども入ってくるだろう。アメリカが一番恐れているのはそこで、靖国問題が占領政策や東京裁判、さらには沖縄問題を含めた戦後の日米関係すべての見直しにつながることを警戒しているのだ。安倍首相の過去の言動を積み重ねていけば、そうしたことを透視してみるのは不自然なことではない。「2+2」で靖国問題に火を付けるなとメッセージを発したのに、安倍首相は参拝した。だから「失望」したのだ。戦勝国のロシアにしても、靖国参拝は(北方四島占領などを含めた)歴史の見直しにつながるように見えるし、謝罪と賠償で過去を清算してきたドイツにしても、戦前を蒸し返すような靖国参拝は理解できない。インドが今回反発しているのも、同じく(日本人が尊敬し感謝していると思っていた)パール判事の東京裁判を「受け入れていない」かのごとき安倍首相の言動をいぶかしがっているからである。年末の安倍首相の靖国参拝は従来の中韓の反発を遙かに超えて米ロやインド、欧州までも含めた「日本=安倍警戒論」を巻き起こしてしまったのである。どこの国も靖国問題の詳しいいきさつを知らない。それだけに憲法で不戦を誓ったはずの日本が改憲を唱える安倍政権のもとで、集団的自衛権、NSC、特定機密保護法案、などを矢継ぎ早に通過させて過去に旋回しようとしている、との印象を受けるし、台頭する中国に対する過度の警戒心、反発、挑発行為のようにも見える。かつてアメリカが台頭したときにイギリスが感じたように、ドイツが台頭したときにヨーロッパが警戒したように、日本は中国に脅威を感じていて「右傾化」している、歴史は繰り返すというストーリーで西洋人は語りたがるのだ。安倍首相がヒトラーかと問われれば、多分そうではないし、修正主義者でもないと思う。しかし、海外からの批判に抵抗するかのように、国内では安倍首相の靖国参拝を支持する声が少なからず存在するし、安倍首相の言動に(75%もの国民が)支持・喝采を送る雰囲気は、雄叫びを上げてヒトラーに頼ろうとしたかつてのドイツと重なる。安倍首相は経済政策で実績を出した後で靖国を参拝した。これは第一次大戦後のハイパーインフレと戦後賠償でドイツが疲弊し切ったときにヒトラーがミュンヘンから登場し、インフレ対策などの経済政策を通じて国民からの支持を得ていったプロセスと実はよく似ているのだ。まだほとんどの日本人が気づいていないが、安倍首相の参拝で、靖国問題はまったく違った次元に広がってしまった。靖国問題の本質についてきちんと諸外国に説明する必要があるが、前述のように説明できる人もおらず、誤解をどの段階から紐解いていったらいいのか明確に認識している人もいない。天皇問題を避けて(A級戦犯に代わる)戦争の責任者を特定できるのか、も定かではない。強く懸念されるのは、靖国問題で日本が孤立し、国内と国外の認識ギャップがさらに広がり、それに対して感情的に反発する日本人が次第に増え、かつ急速に右傾化していく、つまり、いつか来た道に引きずり込まれることだ。(大前研一プレジデント誌記事参照)


真田幸村(信繁)<真田丸>真田幸村幻勇伝・真田幸村の真実2016年大河ドラマ原作小説2

2014年10月24日 06時41分23秒 | 日記







前田利家は通称・又左衛門(またざえもん)。槍(やり)が得意で「槍の又左(またざ)」ともよばれた。
 いわゆる「かぶき者」で「傾奇者(かぶきもの)」とは「傾く(かぶく)」からきている。または「ばさら者」ともいわれた。「ばさら(婆娑羅)」とは「仏教の教に背く者」という言葉からきている。まあ、現代の「ヤンキー」みたいな存在である。つまり「不良」だ。

 「かぶき者」「傾奇者」と書く。「傾(かぶ)く」とは異風の姿形を好み、異様な振る舞いや突飛な行動を愛することをさす。
 現代のものに例えれば権力者にとってめざわりな『ツッパリ』ともいえるが、真の傾奇者とは己の掟のためにまさに命を賭した。そして世は戦国時代。ここに天下一の傾奇者がいた。
 その男の名は前田慶次利益(まえだ・けいじ・とします、正しくは慶次郎利益)である。戦国時代末期、天正十年(一五八二年)早春………
 上州(群馬県)厩橋城(うまやばしじょう)に近い谷地で北条家との決戦をひかえ滝川一益の軍勢より軍馬補充のため野生馬狩りが行われていた。
「野生馬を谷に追い込んだぞ!」「一頭も残すな!ことごとく捕えよ!!」
 するとまさに大きく悠々しい黒い野生馬がこちらをみた。
 野生馬を長年見てきた農夫や百姓男たちがぶるぶる震えて「お……逃げ下さいまし」ひいい~っ!と逃げ出した。
「? 何を馬鹿馬鹿しい」奉行は不快な顔をした。
「御奉行あれを!」
 その黒い野生馬が突進してくる。「矢だ!は……早う矢を放て!」
 ぎゃーあああっ!たちまち三、四、五人が黒い野生馬に踏み殺された。うがあ!奉行は失禁しながら逃げた。
 滝川勢の拠点・厩橋城で報告を受けた滝川一益(たきがわ・かずます、関東征伐を企てる織田信長の関東派遣軍の軍団長)は「恐るべき巨馬で土地の者の話ではなんと悪魔の馬と申すそうだ。その馬を殺せ、益氏!」と城内で言う。
「ごほんん」「さもないとこの土地では馬は手に入らん」「これはお断りいたそう」滝川益氏(ますうじ、一益の従弟。常に滝川軍の先鋒を務める荒武者である)は髭を指でこすりながら断った。
「悪魔の馬などを殺す役目…誰が引き受けましょうか。いくさ人は古来、験(げん)をかつぐもので、その馬を討てば神罰が下りましょう。命がいくつあっても足りません」
「軍馬が足りぬでは戦にならぬぞ」
 益氏の次男で前田利家の兄・利久に養子にやられたのが前田慶次である。今は織田方の北条攻めで関東派遣軍の一団の中にいた。傾奇者で派手な服装にザンバラ髪で身の丈六尺五寸(一九七センチ)をこえる大柄の武士で父益氏の軍団にあってその傾奇者ぶりと棲まじいいくさ人ぶりで知られていた。
 眉目淡麗な色男であり、怪力で、器の広いまさに男の中の男である。
「ん?」
「さああ、張った張った!」昼時の晴れの日に、荒くれる大型犬二匹で『賭け事』をさせようと、城下で、慶次は胴元として滝川軍の家臣たちに賭けをもちかけていた。
「張って悪いのは親父の頭というが、なあにそれも張ったって一向にかまやせん!」
 慶次は獰猛な犬に鞭打ち、二匹の犬をワザと興奮させる。「さあ、張った張った!」
 低い天守閣から下を見て一益は「ああ!あれはわしの愛犬の八郎丸だぞ!」と気づいた。「もう一方は手前の十郎丸で!」
 一益は怒鳴った。「こらあ慶次!その犬を誰の犬と思っとるか!」
 慶次は聞こえていたがわざと無邪気な笑顔で、左手で聞き耳をたてるポーズをして「ハーン?きこえませんなあー」という。
「むっ!」一益は激怒した。慶次はさらに面白がる。「オイ、早く張れ、早く張れ、賭けを締め切るぞ!」家臣たちはワッとわいた。
 益氏も激昴して「わしの犬を賭けに使うとは何事だ慶次!」と怒鳴る。
 が、慶次は平気の平左。聞き耳をたてるポーズをとり、「ハーン?やはり一向に聞こえません」慶次は賭け人たちに「賭けを締め切るぞ。よし!そこまで!」という。
 そして犬の大好物の肉片を掲げて、「それ!」と前方に遠投げし、犬を賭けの道具にと駆けさせた。
「うぬ~、とぼけおって。」
「あの大曲(おおくせ)者め。だが、悪魔の馬を討つ男は決まったな」
「そうだ、慶次にやらせよう」

 慶次ははははと笑い、「できませぬな。犬や猫ならからかいもしますがそんないい馬なら誰が殺せますか?殺すより飼いならして我が愛馬としたい」
「何だとこの野郎!今まで何人もの兵がその悪魔の馬に殺されとるのじゃぞ?!」
「悪魔?」慶次は嘲笑した。「悪魔と言えば織田信長じゃ。第六天魔王じゃとか?」
「これ!信長さまを呼び捨てにするな、そちの首がとぶぞ!」
 慶次は聞く耳もたない。
 しかも暴れ馬を格闘することもなく巨馬相手に話しかけ、本当に愛馬にして、「松風(まつかぜ)」と名前をつけて合戦に参加するのだからやはり前田慶次は凄い男だ。
「これはいい馬だ。大きいし、足が速い。俺のような図体のデカイ武者は普通の馬なら一合戦で乗りつぶしてしまうが、この松風なら大丈夫だ。これは愉快だ!はははは」
 滝川軍は北条軍と合戦しようという腹だ。
 巨大な馬に乗り、巨大な傘をさす男が北条方の城門(北条勢の拠点ー鉢形城大手門前ー)にたった一騎でふざけた傾いた服装に、派手な陣傘で近寄る慶次である。
「う?!あれは滝川軍の前田慶次!」「ふざけたかっこうしやがって!呑気にキセルを吸っとる」「撃て!撃て!撃ち殺せ!」
 北条方が鉄砲を撃ちかけると慶次は大傘で防いだ。「な!あれは鉄傘か?!あの男、あんなでかい鉄傘をあんな軽々と…」
 北条勢は戦慄した。悪魔だ。敵に悪魔が鬼が味方しておる。「よくきけ北条の者どもよ!この前田慶次、合戦では修羅と化して一兵残らず斬り捨ててくれる!楽しみにしておれ!」
「あわわわ………」
 北条勢ががくがく震え、もはや戦意消失しかけているところに、北条氏邦の侍大将・古屋七郎兵衛という荒武者が馬で開いた城門から現れた。
「わしは古屋と申す!貴殿、名は?!」
「前田慶次!つまらん戦で命を捨てるな!」
 たちまちに慶次は古屋の片腕を斬りさった。
 だが、あっぱれなる古屋である。「悪鬼の武者などなにするものぞ!われら北条武士の死にざまをみせてくれる!」古屋は自分の刀で自分の首を斬りすてた。
 首が飛び、血が噴出する。おおっ!古屋さま!
 おおお~つ!これで北条の戦意は復活した。
 慶次は「北条武士も見事也!いずれ戦場であいまみれようぞ!」といい去った。
 まさに「傾奇者」である。


中国大返しと山崎・牋ケ獄



”本能寺の変”で、信長は死んだ。さて、本能寺で織田信長が討たれたことが、備中高松城を水攻めにしていた羽柴秀吉の陣営に伝わったのは、本能寺の変が起きた翌日の天正10年(1582年)6月3日夕方の事であった。
 その朝、家康や千宗易はばっとふとんから飛びおきた。何かの勘が、信長の死を知らせたのだ。しかし、秀吉は京より遠く備中にいたためその変を知らなかった。
 本能寺は焼崩れ、火が消えても信長の骨も何も発見されなかったという。光秀は焦りながら「信長の骨を探せ!」と命じていた。もう、早朝だった。
  天正十年(一五八二)五月官兵衛三十三歳、秀吉は備中高松城を囲んだ。敵の城主は、清水宗治で毛利がたの武将であった。城に水攻めをしかけた。水で囲んで兵糧攻めにし、降伏させようという考えであった。たちまち雨が降り頻り、高松城はひろい湖のような中に孤立してしまった。もともとこの城は平野にあり、それを秀吉が着眼したのである。城の周辺を堤防で囲んだ。城の周り約四キロを人工の堤防で囲んだ。堤防の高さは七メートルもあったという。しかも、近くの川の水までいれられ、高松城は孤立し、外に出ることさえできなくなったという。飢えや病に苦しむ者が続出し、降伏は時間の問題だった。
 前年の三木城、鳥取城攻めでも水攻め、兵糧攻めをし、鳥取の兵士たちは飢えにくるしみ、ついには死んだ人間の肉をきりとって食べたという、餓鬼事態にまで追い込んだ。そして、今度の高松城攻め、である。
 秀吉軍は二万あまりであった。
 大軍ではあるが、それで中国平定するにはちと少ない。三木城攻めのとき竹中半兵衛が病死し、黒田官兵衛がかわりに軍師になった。蜂須賀小六はこの頃はすでに無用の長物になっていた。野戦をすれば味方に死傷者が大勢出る。そこで水攻め、となった。
 秀吉はブレーンである石田左吉にいった。
「左吉! 今日から三成と名乗れ! 石田三成じゃぎゃ!」
「……石田三成? オヤジさま…ありがたきく幸せ!」
 三成は平伏した。
 それにしても、三木城、鳥取城、高松城、と同じ水攻めばかりするのだから毛利側も何か手を打てたのではないか? と疑問に思う。が、そんな対策を考えられないほど追い詰められていたというのがどうやら真相のようだ。
 山陽の宇喜多氏や山陰の南条氏はあっさり秀吉に与力し、三木城、鳥取城、には兵糧を送ることは出来なかった。しかし、高松城にはできたはず。しかし、小早川隆景、吉川元春の軍が到着したのは五月末であり、水攻めあとのことであったという。
 秀吉の要求は、毛利領五ケ国の割譲、清水宗治の切腹などであった。
 しかし、敵は湖の真ん中にあってなかなか動かない。
「よし!」秀吉は陣でたちあがった。人工の湖と真ん中の高松城をみて「御屋形様の馬印を掲げよ!」と命じた。三成は「御屋形様の? 信長公はまだ到着されておりませぬ」
「いいのじゃ。城からみせれば、御屋形様まできた…と思うじゃろ? それで諦めるはずじゃで」秀吉はにやりとした。
  時代は急速に動く。
 天正十年六月二日未明、京都本能寺の変、信長戦死……
 六月三日夜、高松城攻めの陣中で挙動不審の者が捕まった。光秀が放った伝令らしかったが、まちがって秀吉のところに迷いこんだのだ。秀吉はどこまでも運がいい。小早川隆景宛ての密書だった。「惟任日向守」という書がある。惟任日向守とは明智光秀のことである。
 ……自分は信長に恨みをもっていたが、天正十年六月二日未明、京都本能寺で信長父子を討ちはたした。このうえは足利将軍様を推挙し、両面から秀吉を討とうではないか…

  秀吉は驚愕した。
「ゲゲェっ! 信長公が光秀に?!」
 秀吉は口をひらき、また閉じてぎょっとした。当然だろう。世界の終りがきたときに何がいえるだろうか。全身の血管の血が凍りつき、心臓がかちかちの石になるようだった。 秀吉軍は備中で孤立した。ともかく明智光秀は京をおとしたらしい。秀吉の居城・長浜、それから中国攻めの拠点となった姫路城がどうなったかはわからない。もう腰背が敵だ。さすがの秀吉も思考能力を失いたじろいだ。
「どうしたらええ? どうしたらええ?」秀吉はじだんだを踏んだ。
 信長の死に号泣するは狼狽する秀吉に黒田官兵衛は囁いた。
「貴公が天下の采配を取り給(たま)うべき候(あなたさまこそ天下を取るべきだ!)!」
 官兵衛は迅速に行動する。毛利と半日で停戦交渉をまとめ(毛利方の使者は安国寺恵瓊)、明智光秀のいる京に向けて行動しても毛利方に攻められないようにした。
後は世にいう「中国大返し」である。秀吉軍は武将から足軽までとにかく六月六日から八日まで千キロ走りまくった。
 姫路につくと官兵衛はダウン気味の足軽や武将に「蔵が空になるほど」銭を配り、「もう少し頑張ってくれ」と士気を鼓舞したという。
 またこれから通過する村の百姓たちに事前におにぎり等つくらせ渡させた(まかない作戦)事もした。無論銭を払ってである。黒田官兵衛は「倹約家・ケチ」で知られるが、大事な時には惜しげもなく銭金をばらまいた。
 前述したことだが、天正10年(1582年)6月3日夕方、織田信長の茶道相手を務める長谷川宗仁(はせがわ・そうにん)の使者が、書状をもって黒田官兵衛の元に駆け込んできた。
(注釈:明智光秀が毛利輝元と手を組むため、毛利輝元に密書を送ったが、明智光秀の使者が間違えて羽柴秀吉の陣営に飛び込んだ、とも伝わる)
長谷川宗仁の書状には、6月2日早朝に明智光秀が本能寺を襲撃し、織田信長が自害したうえ、嫡子・織田信忠も二条城で自害した事が記されていた。
黒田官兵衛は長谷川宗仁からの手紙を読むと、使者に、
「それにしても早く着いたものだ。このことは絶対に他言してはいけない」と厳命し、酒を与えて労った。
京都で起きた本能寺の変が、1日半後に備中(岡山県)に居る黒田官兵衛の元に届いた。これは奇跡的な事だった。
黒田官兵衛は直ぐさま羽柴秀吉に書状を届けると、羽柴秀吉は書状を読んで非常に驚き、茫然自失となった。
このとき、黒田官兵衛は「ご武運が開けましたな」と告げたため、羽柴秀吉は「こやつは、ワシが死んでも、運が開けたと思うのか」と思い、黒田官兵衛を恐れたという。
そして、黒田官兵衛は「誠にご愁傷様でございますが、秀吉様が天下を治めるべきだと思います。明智光秀は主君を殺した逆臣なので、天罰を逃れられません。明智を滅びた後に、信長様のご子息2人を守り立てなさいませ。ご子息2人は天下を治める器ではないので、天下を狙って反逆を起す大名が現れるでしょう。これを討取れば、秀吉様の勢いはますます強くなります」と話すと、羽柴秀吉は冷静さを取り戻し、「私もそう思う」と答えた。
羽柴秀吉が「毛利の件はいかが致す?」と問うと、黒田官兵衛は「今日路からの飛脚が1日半で届いたのは、天のお告げです。毛利との和睦もほぼ合意できていることも幸いです。明日の昼には毛利方にも知らせが届くでしょうから、明日の早朝に人質を取り、明智討伐の為に攻め上りましょう」と答えた。
羽柴秀吉と毛利輝元の和睦交渉は既に行われており、和睦交渉は煮詰まっていたが、領土の割譲問題と高松城の城主・清水宗治の切腹の2点が問題となり、和睦には到っていなかった。
そこで、軍師・黒田官兵衛は、問題となっている和睦の条件を棚上げし、和睦を最優先させることを提案したのである。
さて、羽柴秀吉は毛利への対応の方針が決めると、「織田信長の死が洩れては困る」と言い、黒田官兵衛に長谷川宗仁の使者を殺すように命じた。
黒田官兵衛は命令を引き受けたが、
「彼こそ、1日半で70里の道を来た天の遣いである。早く来た功績はあるが、殺す罪は無い。羽柴秀吉が天下を取った暁には、恩賞を与えるべき人である」として、厳重に口止めを申しつけた上で、長谷川宗仁の使者を家臣に預けた。
こうして、長谷川宗仁の使者は黒田官兵衛の温情によって命を助けられたが、疲れ果てていたにもかかわらず、大食いしたため、まもなく死んでしまった。
長谷川宗仁の使者によって羽柴秀志の陣営に本能寺の変の情報がもたらされた天正10年(1582年)6月3日の夜、黒田官兵衛は、毛利の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を呼び、講和交渉を行った。
講和を成立させるためには、領土割譲問題と高松城の城主・清水宗治の切腹の2点が問題となっていた。
羽柴秀吉は高松城の城主・清水宗治の切腹を要求していたが、毛利輝元が、
「清水宗治を死なせては末代までの恥である」として清水宗治の切腹を受け入れなかった。
そこで、軍師・黒田官兵衛は、領土の割譲問題は棚上げにし、さらに、毛利輝元を通さず、高松城の城主・清水宗治を直接説得する事を提案した。
こうして、外交僧・安国寺恵瓊と秀吉の家臣・蜂須賀正勝らが水没した高松城へと渡り、高松城の城主・清水宗治に降服を説得した。
すると、徹底抗戦を主張していた清水宗治も折れ、「私の命でよければ、喜んで差し上げましょう」と言い、城兵の助命を条件に切腹を承諾した。
その後、外交僧・安国寺恵瓊から報告を受けた毛利輝元は、「清水宗治がそれを望んでいるのであれば、仕方ない」と言い、清水宗治の切腹を認めた。
さらに毛利輝元は、残る領土割譲問題については棚上げする事にも合意し、こうして羽柴秀吉と毛利輝元の和睦が合意に達したのである。
これに喜んだ羽柴秀吉は、清水宗治の忠義を認め、高松城へ労いの酒と肴を送った。清水宗治はこの酒で別れの杯を交わしたという。
天正10年(1582年)6月4日朝、羽柴秀吉と毛利輝元の間で人質交換が行われた。
天正10年(1582年)6月4日昼、高松城の城主・清水宗治、兄の清水宗知、弟の清水宗治の3兄弟のほか、難波伝兵衛・末近信賀の2名を伴い、水没した高松城から小舟でこぎ出し、羽柴秀吉の陣営前に停泊すると、小舟の上で切腹した。
こうして、羽柴秀吉と毛利輝元の間に和睦が成立した。軍師・黒田官兵衛は難航していた和睦を、わずか1日半で成立させたのである。
天正10年(1582年)6月4日昼過ぎ、毛利元就の元にも使者が来て、織田信長が明智光秀によって討たれた事が伝わった。
それは、高松城の城主・清水宗治が切腹し、和睦が成立した直後のことだったという。
織田信長の死が毛利軍に伝わると、毛利家の重臣・吉川元春は、「和睦を破棄して、羽柴秀吉を追撃すれば、天下は毛利の物になる」と主張した。
しかし、毛利家の重臣・小早川隆景が「誓紙の墨が乾かないうちに講和を破棄することはできない」と言い、既に休戦調停が成立していることなどを理由に、羽柴秀吉の追撃に反対した。
毛利輝元は小早川隆景の意見を支持し、
「祖父・毛利元就は遺言で『毛利は天下を狙うな』と言っている。それに、羽柴秀吉は天下人の器だ。今、恩を売っておけば、毛利に損は無い」
と言い、撤退を決定した。
天正10年(1582年)6月5日、撤退の準備を進める黒田官兵衛は、羽柴秀吉に、
「毛利から預かった人質を毛利へお返しください」と進言した。
羽柴秀吉が「どうしてじゃ」と問うと、黒田官兵衛は、
「明智光秀との決戦に勝てば、天下は羽柴秀吉様の物となり、毛利輝元に反抗する力は無くなります。もし、明智光秀との決戦に負ければ、羽柴秀吉は生きてはいません。いずれにしても人質は必要はありません」と答えた。
羽柴秀吉は、黒田官兵衛の意見に納得し、毛利輝元に人質を返した。
(注釈:中国大返しの日程には6月4日説と6月6日説があるが、「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」では6月4日説を採用する。)
天正10年(1582年)6月4日、毛利軍が撤退を始めたので、羽柴秀吉も撤退の準備を始めるが、羽柴秀吉は毛利輝元の追撃を警戒していた。
すると、黒田官兵衛が「毛利軍が追撃してくれば、水攻めの為に築いた堰を切り落とします。堰を切れば、激流が起こり、毛利軍は水が引くまで進軍出来なくなります」と答え、殿(しんがり=軍の最後尾)を引き受けた。
これを聞いた羽柴秀吉は、安心して黒田官兵衛に殿を任せ、撤退を開始した。
羽柴秀吉の軍は、天正10年(1582年)6月4日夜に備前にある沼城(岡山県岡山市)に入り、翌6月5日に沼城を出発。暴風雨の中を進軍して6月6日に播磨にある姫路城へと到着すると、姫路城に4日間滞在して、兵を休めた。
姫路城に着いた羽柴秀吉は、姫路城の金庫を開け、有り金を全て兵士に分け与えた。これは、兵士の士気を上げる効果があると同時に、この決戦に勝たなければ帰る場所は無いという事を意味していた。
 天正10年(1582年)6月9日、羽柴秀吉の軍が姫路城を出て京都を目指す。そして、羽柴秀吉の軍が神戸市を出る辺りに差し掛かると、兵がざわつき始めた。
羽柴秀吉が部下に理由を調べさせると、羽柴秀吉の旗に混じって、毛利や宇喜多の旗が立っているということだった。
羽柴秀吉は軍師・黒田官兵衛を呼び、
「ワシは毛利に援軍など頼んでいないぞ」
と尋ねると、黒田官兵衛は「和睦をした時に旗だけ借りておいたのでございます。毛利の旗を立てておけば、後詰めに毛利が居ると思うでしょう。あの毛利までも秀吉様に味方したとなれば、対応を決めかねている近畿の諸大名も秀吉様に味方するはずです」
と答えた。
すると、羽柴秀吉は側近の武将に
「戦に大切なのは謀略であり、敵の首を取ることなど二の次に過ぎない。みな、黒田官兵衛の働きを後学の一助にせよ」
と言い、黒田官兵衛を楠木正成の再来と褒め称えた。黒田官兵衛は「さあ、筑前殿(秀吉)、いよいよ「中国大返し」です!一日でも早く京へ軍勢を引き換えし天王山あたりで奸賊・明智光秀を討ち滅ぼせば、秀吉公の天下でござる!」「よし!」こうして官兵衛の策・秀吉のまさかのような中国大返しが始まった。
こうして、毛利軍の旗を立てた羽柴秀吉は、天正10年(1582年)6月11日に尼崎に到着する。
播磨(兵庫県)は羽柴秀吉の領土なので安全だが、播磨より西の諸大名の動向は分からず、諸大名の出方を警戒しながら、進まなければならなかった。
このため、摂津を通って京都を目指す羽柴秀吉にとって、大きな問題は摂津(大阪府)に居る大名の動向であった。
もし、摂津の有力武将が明智光秀に味方していれば、相当な抵抗を受け、簡単には京都へ到達することが出来ないのだ。
しかし、羽柴秀吉が大軍を率いて摂津(大阪府)に入ると、毛利の旗に効果があったのか、中川清秀や高山右近といった摂津の有力武将は羽柴秀吉に味方したのである。
謀反を起こした明智光秀は、本能寺で織田信長を討ち取った後、安土城を占領して、諸大名の取り込み工作を行ったが、明智光秀は織田信長の首を示すことが出来なかったため、真偽が分からず、諸大名は対応を決めかねていた。
そこへ、中国征伐にあたっていた羽柴秀吉が大軍を率いて駆け付けたため、摂津の有力武将は羽柴秀吉に味方したのだ。
さらに、摂津の有力武将を取り込んだ羽柴秀吉は、四国征伐のため大阪に駐留していた神戸信孝(織田信長の3男)と丹羽長秀と軍と合流し、京都を目指したのであった。
 天正10年(1582年)6月12日、大阪の諸将を味方に付けた羽柴秀吉は、摂津の富田(大阪府高槻市)で中川清秀や高山右近らと軍議を開き、明智光秀討伐軍の事実上の総大将に就任する。
軍議を終えると、中川清秀や高山右近は、京都を目指し、その日のうちに天王山(大阪と京都の境)に陣を敷いた。
その後、羽柴秀吉が天王山に到着すると、既に中川清秀と高山右近らは、明智光秀の軍勢と小競り合いを始めていた。
天正10年6月2日に本能寺で織田信長を討った明智光秀は、6月5日に織田信長の居城・安土城を占領して近江(滋賀県)を平定し、諸大名に勧誘の書状を送った。
さらに、明智光秀は6月9日に上洛しを果たし、朝廷に金品を献上して工作を行い、天下は明智光秀になるものかと思われた。
しかし、明智光秀の読みが外れた。明智光秀は織田信長を討ったものの、織田信長の首を取っていなかったため、近畿では真偽不明の情報が錯綜し、近畿の大名は対応を決めかねていたのだ。
織田信長は気性が激しいことが有名で、万が一にも織田信長が生きているようなことがあれば、明智光秀に味方することは死を意味していたからである。
そのようななか、明智光秀は、明智光秀の三女・明智珠(細川ガラシャ)と結婚した娘婿・細川忠興に、
「100日のうちに近畿を平定したら、私は隠居して全てを細川忠興に譲る」と言い、協力を要請した。
しかし、細川忠興は正室・明智珠(細川ガラシャ)を丹後国の味土野(京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉し、明智光秀への協力を拒否する。
さらに、明智光秀は親戚関係にある細川藤孝・細川忠興からも協力を得られなかった。明智光秀の不運は続き、明智光秀に恩義のある筒井順慶からも協力を拒否された。
三箇城(大阪府)の城主・三箇頼照の様に、謀反人の明智光秀に味方した者もした。
が、本能寺で織田信長を討った明智光秀は、孤立無援の状態だった。(注釈:三箇頼照はキリシタンで、洗礼名は「サンチョン」である。)
このようななか、天正10年(1582年)6月10日、明智光秀の元に、羽柴秀吉の軍が近畿に迫っているという知らせが入る。
明智光秀が本能寺の変を起こしたのは8日前の6月2日である。
備中の高松城で毛利軍と戦ってた羽柴秀吉が、本能寺の変から8日後に近畿に迫るということは、明智光秀にとって想定外のことだった。
明智光秀は細川忠興・細川藤孝・細川忠興からも協力を得られず、孤立無援のまま準備不足で羽柴秀吉との対決に望まなければならなかった。
明智光秀は京都へ入る前に羽柴秀吉を食い止めるため、下鳥羽(京都市伏見区)に布陣し、京都と大阪の県境付近を流れる円明寺川(現在の小泉川)で羽柴秀吉を迎え撃つ作戦に出た。
勧誘工作に失敗した明智光秀には加勢が無く、1万6000の軍勢で羽柴秀吉を迎え撃つのに対して、摂津の有力武将を味方に付けた羽柴秀吉は6月12日に4万の軍勢で県境にある天王山に布陣した(山崎の合戦=天王山の戦い)。
天正10年(1582年)6月12日、摂津の富田(大阪府高槻市)での軍議を終えた羽柴秀吉の軍勢は、その日のうちに天王山に陣取り、円明寺川(現在の小泉川)を挟んで、明智光秀の軍と対峙する。羽柴秀吉が天王山に到着したときには、既に小競り合いが始まっていた。
天正10年(1582年)6月13日、下鳥羽(京都市伏見区)に布陣していた明智光秀は南進し、勝竜寺城(京都市長岡町)を前戦基地として、勝竜寺城から南西数キロにある御坊塚(京都市長岡町)に布陣し、天王山に布陣する羽柴秀吉と対峙した。
天正10年(1582年)6月13日午後4時ごろ、小競り合いが続くなか、明智光秀の軍勢が、天王山の東麓に布陣する羽柴軍の中川清秀を襲撃し、ついに戦いの火蓋が切って落とされる。
明智光秀は善戦したが、兵力の差はいかんともしがたく、明智光秀は御坊塚の後方にある勝竜寺城へと敗走した。
このとき、明智光秀の兵は、わずか数100人に減っていたという。
羽柴秀吉は明智光秀を追撃して勝竜寺城を包囲すると、軍師・黒田官兵衛は羽柴秀吉に、
「完全に包囲せず、1ヶ所だけ逃げ道を開けておけば、兵はそこから逃げ出すでしょう。そこを討てば良いのです」
と言い、兵士が逃げやすいように明智光秀の居城・坂本城の方角の包囲を解くように進言した。
完全に包囲せずに逃げ道を作る作戦は、兵法の常道手段であり、黒田官兵衛が佐用城攻めでも使用した作戦である。
羽柴秀吉は黒田官兵衛の進言を採用し、明智光秀の居城・坂本城の方角の包囲を解くと、軍師・黒田官兵衛の狙い通り、勝竜寺城の兵士は逃げ出した。
兵が逃げ出してしまえば、戦うことは出来ず、明智光秀は数人の側近だけを連れ、闇夜に紛れて田んぼ道を通って勝竜寺城から逃げした。
明智光秀は黒田官兵衛らの目をかいくぐり、勝竜寺城から逃げ出すことに成功し、居城・坂本城(滋賀県大津市)へ目指したが、小栗栖(京都府京都市伏見区小栗栖小阪町)で土民の落ち武者狩りに遭い、命を落とした。
天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変を起こして織田信長を討ち取った明智光秀は、11日後の6月13日に生涯を閉じた。
この11日間を俗に「三日天下」という。
この年に黒田官兵衛の妻・櫛橋光は、次男となる黒田熊之助(くろだ・くまのすけ)を出産した。
黒田熊之助が生まれた天正10年(1582年)、黒田官兵衛は37歳であった。



戦国時代末期、天正十年(一五八一年)天下の覇者・織田信長「本能寺の変」にて業火の中に自刃。天正十一年(一五八三年)織田信長の後継者と目された柴田勝家が「賤ヶ獄の戦い」において羽柴筑前守秀吉に敗北、北庄にて自ら腹わたをつまみだし凄絶なる自刃(後妻の信長の妹・お市の方も自刃)。秀吉は天下をほぼ手中にする。
 されどいまだに戦国の世は天下平定のための幾千幾万もの英雄豪傑の血を欲していた。そして、北陸加賀の前田家に天下の傾奇者と名をとどろかせた伝説のいくさ人・前田慶次がいた。
 戦国時代こそいくさ人にとって花の時代であった。
 天正十二年(一五八四年)大坂城。羽柴秀吉は天下にその権勢を誇示するがごとく黄金に輝く巨城大坂城を築いた。北陸の雄・前田利家は臣下の礼をとり築城の祝いに訪れていた。
 秀吉は猿みたいな顔で豪華な着物を羽織り、黄金の茶室にて前田利家に茶を差し出した。
「で…又左(またざ・利家)殿。その傾奇者てにゃいかなるもんだぎゃ?!」
「はっ!」利家は困惑した。「ええ………その、なんと申しますか、異風の姿形を好み異様な振る舞いや突飛な行動を愛する者と申しますか」
 前田利家、かつて槍の又左と呼ばれ豪遊の武将であったが今は秀吉の軍門にくだり、加賀百万石の大大名、又左(又左衛門)は幼名である。「例え御前でも自分の遺志を押し通す命知らずの大馬鹿者といいますか」
 秀吉は朝廷より関白の名代と賜り、もはや家康を除けば天下人NO.1であった。
「そうか、そんな骨のある傾奇者とやらにわしも会ってみたいのう」
 秀吉はにやりとした。まさにサル顔である。「そういやあ、お前さんの甥の慶次とやらは天下に名をとどろかせる傾奇者だとか。一度連れて来い」
「は…はあされど…」
 利家は絶句した。
 あの傾奇者・慶次が関白殿下の前で失礼の振る舞いを見せれば前田家の加賀百万石の家禄も危うい。
 そして歴史に詳しいひとならご存知の通り、慶次は秀吉の前で猿踊りをしてみせるのである。
 太っ腹な秀吉は笑って手を叩いて「われの前でおそれもなく「猿踊り」をするとは慶次、あっぱれなやつである!」と評価して「天下の傾奇者」と評して、慶次が、天下で傾いても罪にならぬという関白勅令を出した。
 慶次もすごいが、秀吉もさすがは天下の器である。 

場所は加賀・金沢城下の遊郭・延寿屋である。午後の晴れの日、慶次は傾奇者の派手な衣装にキセルでタバコを吸いながら大勢の遊女たちと部屋で笑いあって談話していた。
「きやーっ!やだ慶さんたらあ」「わはあはははは」もう談笑である。
「ねえ―慶さん次はいつ?」
「そうだなー桜が咲いたら派手に花見といくか!」
「わあ、素敵!!」遊女たちはにぎやかになった。ちなみに慶次は二階の窓側にいるのだが、そんな時に庶民の悲鳴が聞こえた。
「ん?!」
「オらおらどけーい!おれたちゃ加賀随一の傾奇者よーっ!へっへへ!」
「いやいやまちごうた!俺たちゃあ天下一の傾奇者よ!」「そりゃそうだ!あーははは」
 いかにも頭の悪そうな傾奇者の若いふたりが傾いていた。
 老人がまちがって身体にぶつかり「あ、これはどうもすんずれいしました………」
 老人は詫びて頭を下げる。が、傾奇者のガキらふたりは「おっおっお、まちな爺!じいさんよ、前をちゃんと見て歩けや!このじじい!」
 歌舞伎の獅子舞のような赤いかつらの傾奇者が老人を蹴り倒した。
「まあ、年寄りになんてことをするんだろうね、あの餓鬼ども」
 遊女らは憤慨した。慶次は平気の平左なたくらんだような顔でタバコの煙をぷはあ、とはくと、キセルをトントンと鳴らし、たばこの火種の灰をポイと路地にすてた。
 ぽと…「むっ」じゅうううっ!そのタバコの火種はガキの傾奇者の若いひとりの頭に落ちた。
「あじいいいいーっ!」「おい頭が燃えてるぞ!」獅子舞傾奇者でないほうの頭がタバコの火種で燃えた。「だ…だれだ!」
 前田慶次は平気の平左、遊女たちは「あははは」「バーカ」「ざまーみろ!」等と嘲笑した。「やろう!どけどけ!」
 獅子舞のかつらをつけてないガキの傾奇者は、単身遊郭屋敷の二階に乗り込んだ。「おら!おれさまの頭に灰を落としたのはてめえか!!」
「ああ」
「やろう!こっちをむきやがれ!」
 慶次は顔を向けた。ガキは戦慄した。………う!…ま……前田慶次!
 慶次はキセルを差し出してほくそ笑み「吸うかい」ときいた。「あ…ああっ!」ガキにキセルを手渡す。と、キセルがやけに重い。ガクン!わ!キセルが重くてガキはキセルを落としそうになった。
「な、なんだこりゃ?!何で出来てやがんだ!返す!」
 慶次は「金の特製だ。おまえにゃ、まだ無理だったかなあ」慶次はにやりとして。「坊主はキセルよりおっかさんのお乳でも吸ってるんだな」
 遊女たちは大爆笑である。
「くっ!」ガキ傾奇者は抜刀した。「おれは松田家三男・慎之介だ!傾奇者の心意気見せてやる!」
 遊女たちの顔が戦慄する。だが、慶次はやはり平気の平左である。そして次の瞬間、特製のキセルでガキ傾奇者の右頬をおもいきり殴った。歯が数本折れたのか口から血をだしながら「うぎゃー!痛い痛い、ぐそー!」と悶える。
「坊主、勘違いするなよ。おれは命の恩人なんだからな。早いとこ仲間も連れて来い」
「なにい?!」
「あの音が聞こえないのか?」
 そういえばチリーンチリーンと鈴の音がきこえる。
「畜生! 慎之介のやつなにやってやがんだ?ん?」獅子舞傾奇者のガキが、道をやってくる屈強そうな禿頭の坊さんみたいな男と、そばで桶を頭に乗せ服従して鈴を鳴らし歩くようなおかっぱ髪型の幼少時代の芦田愛菜のような少女を、見かけた。
「なんだあ、おっさん!邪魔なんだよ、どけおらあ!」
「きえ失せろ」坊主のような男は低い声でいった。
「おっと!そういうわけにはいかないぜ。おれは天下一の傾奇者・重倉仁右衛…」
 次の瞬間、『耳削ぎ願鬼坊』はガキ傾奇者を斬り捨てた。「えっ?!うううっがあ!」血が噴出し、内臓が飛び出す。絶命した。坊さんは「おふう」と促した。
 おふうとは少女の名前らしい。おふうは能面のような無表情のままで短刀を抜くと、その遺体の耳を削ぎ、人間の耳がつまった桶にいれた。
 野次馬たちは「ひいいっ!」「ありゃ耳桶かよ」「あいつは『耳削ぎ願鬼坊』だ!」と戦慄する。慶次は戦慄等する人間ではないが「むごいな」とつぶやいてしまった。
 ひいいっ!慎之介はあまりの恐怖で失禁した。「いくぞ、おふう」坊さんと少女は去った。
 黒猫がひらりと願鬼坊の前にあらわれて、「願鬼坊、よく加賀にきたな」という。
 だが、猫が人間の言葉をじゃべる筈ない。願鬼坊は「いたずらはおやめください、主馬さま」といった。
「ふははは。さすがは願鬼坊まどわされぬか」能登・加賀56万石を領有する大名前田利家の直属の影軍団、加賀忍びの棟梁の四井主馬(よつい・しゅめ)が現れた。
「すでにあの慶次に会ってきたそうだな。実は御屋形さま・前田利家公があやつの愛馬・松風を欲しがっている。しかも慶次の首もな。どうじゃ?慶次を殺して、愛馬も奪ってはくれぬか?」
「わかりました。主馬さまの願い、利家公の命令とあれば」
「期待しとるぞ、くくく」主馬は暗闇に消えた。
 次の日、「果し合い望む者あらば受けて立ち候 天下一の無想流新井願鬼坊」という看板が加賀城下に設置された。
 野次馬たちがざわざわする。………耳削ぎ願鬼坊…野次馬の中には仲間を殺されたガキ傾奇者の姿もあった。
「この加賀城内にはこの願鬼坊に挑もうという度胸のある傾奇者や武士(もののふ)はおらぬのか?!臆病者どもめ!」
 慎之介がきて鯉口を斬ろうとするが、おふうが止めた。「だめや、あんたさんでは無理や。殺されるで」
 願鬼坊は不敵に場を去った。
 慶次は「おふうとか申したな?願鬼坊の連れのお前がなぜ見ず知らずの者をたすける?!」ときいた。
「連れやない。…さらわれたんや。それに…もう耳を削ぐのはいやや………」
 慶次は理解した。……この子の京訛り。やはりそうであったか……しかも耳桶の中の亡霊どもがこの子を苦しめているのだろう……
「おふう、女子はわらったほうがいいぞ!」慶次は無邪気な笑みを浮かべて、おふうにおどけて見せた。
 だが、亡霊の呪いなのか、おふうは能面のように表情がないままだった。慎之介は「慶次殿はいいなあ、好きな時に寝、好きな時に起き、好きな事だけをして死ぬんだ」
「そんなに自由に生きたかったら乞食にでもなるさ。だが、野垂れ死にの自由と背中合わせだがな」
 ばばばばーっ!次の瞬間、川から主馬の手下の加賀・忍者軍団が飛び出してきた。「こしゃくな!」だが、慶次に忍者二十名など敵ではない。すべて斬りつけた。
「主馬(しゅめ)の野郎、何が狙いだ?!」慶次は荒い息さえもせず余裕綽々である。
 「くそう!慶次め!」主馬は謀略をはたらかせた。
 慎之介を餌に使うのだ。具体的には河原でひとり、木刀で鍛錬していた慎之介に町民に化けた主馬が橋の上から「へへへっ!おーい、お前仲間がやられたのに敵討ちも出来ねえんだってなあ!それでも傾奇者かよ?武士などやめちまえ、臆病者」と挑発した。
 例の宿の縁側でキセルタバコをふかしていた慶次に、おふうが大慌てではあはあ走ってやってきた。もう、夕暮れ時である。「おふう、どうした?」
「はあ、はあ……あの兄ちゃん、願鬼坊のところに果し合いに行ってしもうた!」
「なにっ?!」慶次は愛馬で河川敷に馬で駆けつけるが、やはり慎之介はやられて血だらけでうつぶしていた。「……け…慶次さん。や…やはり…おいら…は……偽傾奇者だったようだ」
「慎之介!」「意地をはり通す自由は……斬り殺される自由と背中合わせ…そんなことも知らなかった」「抜かせ慎之介!ならば地獄の鬼どもに傾いてみよ!」
 慎之介は微かににやり、とすると息を引き取った。
「おふう、何をしておる!早く耳を削ぎおとせ!」
 ぶるぶる震えながら遺体の耳に近づけるおふうの短刀を、慶次はバキンと折った。「おふう、おまえはもうそんなことをしなくてもいいんだよ……」慶次はおふうを抱きしめ優しく言った。「貴様!」
「ほえるな、この売僧(まいす)めが!おのれの挑戦存分に受けてくれるわ!抜け!」
「傾奇者めが!わしに勝てるとでも思っているのか?!思いあがるな、とりゃあ!」
 願鬼坊が太刀を抜くのと同時に慶次は願鬼坊の身体を十文字に斬り、殺した。があ……。野次馬たちからうおおおおー!と歓声があがった。
 慶次は愛馬にまたがり、観客たちの中にいる黒い頭巾でへんそうしていた主馬に「おい主馬!」といい馬のしりをむけさせ、松風に主馬の顔面を蹴らせた。
 ぎゃあああっ!主馬は死ななかったが、顔に馬の轡(くつわ)の跡が一生涯できるほど怪我した。
 翌日、おふうと慶次は耳桶を穴に埋めて土をかけた。「もう、うち、耳桶担がんでええの?」
「ああ、もちろんだ」慶次は耳桶の墓に酒をそそいだ。「酒でものみゃ、耳をおとされた男たちも成仏するだろう」
 桜が満開である。遊女たちがどんちゃん騒ぎをしている。
「おふうも踊るか?」
 慶次がおどけた顔でいうと、おふうは笑った。
「お! おふうが笑った!やったー!おふうがわらったー!」慶次はおふうを持ち上げてふたりで笑いあった。
 
 主馬は顔に轡の跡がのこり、慶次への復讐に燃えた。
 加賀城下は春爛漫である。利家は満開の桜の下、女中たちと酒を飲んでいた。だが、心は落ち着かない。
 あの慶次を、関白・秀吉公にあわせれば何か粗相をして、加賀百万石の領地召し上げの口実にされかねない。「遅い!け、慶次はまだか?!」
すると傾奇者・前田慶次は三味線を弾き、鮮やかな美女たちを従えて歩いてきて、
「さあ皆! 花見日和りじゃ、どんちゃん騒ぎやるぞー!」
「こら慶次!お前は少しは自分の立場を考えろ!養子といえどもわしの甥、前田家の後見人になるんだぞ!」
「ハーン?聞こえませんなあ」
「わしの話を聞かんか!隣国越中の佐々成政は家康と同盟を結びこの加賀に攻め込んでくるやも知れんのだぞ!」
「戦になれば戦いまする」
「お前には役目を与える!」
「は?」
 利家は城内に飾ってある立派な甲冑を見せた。「何ですこの派手な甲冑は?」
「素晴らしいであろう。これは関白秀吉さまが信長公より貰い受けた大事な甲冑じゃ」
「明智に殺された信長の?」
「……信長さまじゃ!呼び捨てにするな慶次!」
「で、どうせよと?」
「この甲冑が奪われたり、傷がつかぬように見張りをこの荒井若水(じゃくすい)とともに交互に守れ」
 若水という名の老人が、戦場傷で右目がやられている白髪頭の老人が頭を下げた。
 天井裏の主馬はにたりとした。しかし、殿も策士よのう。あの甲冑を傷をつけたり破損させれば、無礼の罪で慶次を処刑できるし、関白秀吉公に慶次をあわせないで済む。くくくくっ、お前はおわりだ、慶次!
 利家らが去ると、部屋は慶次と荒井若水老人のふたりだけになった。
「しかし、若水殿ほどの武士がこのような役目を……叔父御(おじご)もむごいな」
「いやいや。わしのような年寄りはもはや戦さの場で役に立ちませんからのう。このような閑職(かんしょく)でも文句いえますまい。……かつての一番槍の成れの果てですじゃ」
 慶次は酒をすすめた。「どうです?若水殿、一献」「いやあ、そうですかあ」
 やがて主馬の正しくは利家からの刺客の忍者どもが、数十何人も襲撃にやってきたが、慶次はすべて斬り捨てた。
「くそう!甲冑に傷だけでも!」主馬は刀を持った右手を伸ばし、ジャンプするが、慶次はその右手さえも切り裂いた。
 主馬の負けだ。逃げるしかない。
 翌日の朝食の膳に、慶次は主馬の血だらけの右手を利家の御膳にブチ投げ捨てて、「いやああ、昨晩は大きなネズミがうようよでてまいりました」とにやりとした。
 ……主馬の馬鹿め!失敗したのか?!この目の上のたんこぶの廃れモノの慶次め!
「われらはいくさ人です。同じ苦労なら戦場で苦労したいものですなあ。はははは」
 ……おのれ慶次め!このままですまさんぞ!
 だが、ひとりになった若水老人には出来心が働いてしまう。
 見事な甲冑にみとれ、「これがあの信長公の甲冑か……これを身に着けあの方はどんな夢をはせてみたのか……」魔が差した。
 若水老人殿は思わずこっそり甲冑を着てみた。そこで「あ!お主何をしておる!貴様!」と利家に見つかってしまう。
「あっあわわわ……ああ」狼狽してよろけて甲冑ごと転んだ。と、甲冑の角が折れた。
「せ、切腹じゃあーあ!」
 
 やがて荒井若水老人は白無垢で現れた。「本来ならば打ち首のところ、切腹の御沙汰。この若水ありがたき幸せ!」
 城内屋敷の上座にいる利家は「うむ……かくなるうえはいたしかたなし。若水みごとに果てよ!」
「ははっ!」
 若水は短刀を抜いた。
 見守る家老や家臣たちは……若水、このようなことで死ぬのは無念であろう……あれほど戦場で死にたがっていたお前が……あわれよのう……と同情していた。
 そこに甲冑姿の慶次が現れた。
「いやいや遅れましたな!」
「な?!慶次、何故甲冑などを……」
「いやなに、叔父御の大事な甲冑を壊した賊がいるときいて成敗にまいった!」
 若水は顔面蒼白になり、平伏した。だが、抜刀した慶次は若水ではなく、城内に飾ってある例の甲冑に近づいた。「ははあん、こいつが賊ですなあ?」
「えっ?!」若水も利家も家臣たちも驚く。「うーん、いかにもたちの悪そうなツラでござる。殿、ここはこの前田慶次におまかせください」
 次の瞬間、一同はもっと驚いた。慶次が大事な甲冑を刀で真っ二つに斬り倒したからだ。
「成敗しました!叔父御」
「き……貴様何を……」
 慶次は若水や家臣たちを見て「見なされ若水殿のツラを!戦場で傷だらけになったきたねえツラだ!」
 前田家臣たちはいきりたった。慶次は続けた。「だが、それがいい。その傷がいい!それこそ生涯をかけ、殿を守り通した忠義の甲冑ではござらんか!」
 前田利家は泪に震えながら、「……慶次よ、よくぞ我が心を察してくれた……若水許す。切腹はなしじゃ」といった。
 家臣団たちから歓声がおこったという。

 慶次の奇行は続く。今度は本物の猿に関白の着るような豪華な服を着せて碁を打たせ、「やるのう秀吉!」とやった。
「アホや! 猿に秀吉などゆいうたら磔にされるわ!」
「ははは、馬鹿をいうな!だからおもしろいんじゃないか!」
「えっ?」
 当時、天下人秀吉への嘲りは厳正な処罰に処せられた。聚楽第完成の後に番所の看板に”猿関白”と落書きされた秀吉は烈火の如く怒り、真犯人を捕まえるまえに番所の所員たちを打ち首にし、耳を削ぎ、鼻を削ぎ、指を切断したという。
「笑えんわ。そんな危険な遊びに命かけてどないすんねん」
 そんな中、隣国越中の佐々成政の軍勢一万五千がその日の早朝(前田方の)末森城を奇襲して、落城寸前という知らせがはいった。
 ……佐々勢は一万五千、我が末森城は五百、今、至急集められる兵は二千五百……全然足りん。
「殿、至急援軍を送りましょう!」「殿!」
「ならん!秀吉殿より佐々勢の誘いに乗らず、秀吉殿の援軍をまってから必勝を期すようにと命令を受けておる!」
 軍議で利家がいう。軍議は荒れた。そんな中、若水が発言した。「されば殿!この若水めをいかせてくだされ!援軍を送るにしろ見捨てるにしろこの老骨に鞭うって末森城に行きまする!」
 佐々成政は前田家の出城である末森城を一万五千の大軍勢で攻めていた。
 末森城城主は奥村助右衛門(おくむら・すけえもん)という眉目の青年である。もはや落城寸前である。
「殿、三の丸にて土肥伊予様お討死なされました!すでに水路はたたれ、兵どもの疲労激しくもはやこれまでかと!殿だけでもお逃げくだされ!」
 奥村は敵兵の腹を太刀でかっさばいた。内臓をとりだす。……やはりな。……敵兵どももかなりすきっ腹で戦さしておる。奴らも前日からの徹夜の山越えの強行軍で疲れ切って、もはや弱兵!
 ……これなら援軍の到着まで踏ん張れば勝てる!
「と……殿?!」
「よいか!兵糧を全てだし、兵どもに腹いっぱい食わせろ!!」奥村は血だらけの甲冑姿のまま、命令を出した。
「は、ははっ!」
 この男はかつて十八歳で前田利久(慶次の義父)の居城・荒子城の城代家老をつとめたことがあり、柴田勝家をして「沈着にして大胆」と驚かしめた、剛の者である。
 若水老人は黄昏ていた。
 老骨でいくとは言ったが……そこに巨馬にのった慶次がかけつけた。「なにをたそがれておる若水殿」「ああ、びっくりした!慶次殿でしたか!」
「若水殿、初陣はたしか叔父御と同じ戦とか」
「そうそう、織田家内紛尾張海津の合戦でござった。わしはその頃、信長さまの配下で利家さまも、あの成政めもおりました!利家さまは槍の又左と異名をとる程勇ましく……わしも遅れじとつき進み敵陣深く進み過ぎて退却の命令も聞こえず……いやああのときはまいった」
 若水の懐かしい思い出である。「しかし、わしはついにここまで芽もでることなく…」
 

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.104「おれおれ詐欺」「ストーカー犯罪」防止に留守番電話作戦を!!

2014年10月23日 18時25分02秒 | 日記







私が元・警察関係者として


独り暮らしの女性やご老人に推奨している

「おれおれ詐欺」「ストーカー犯罪」防止の手段の一つが


通常留守番電話にしておく、


という方法。


知り合いなら声を聴いてからでも出る事も出来るし、


犯罪者は声紋等の証拠が残るのを嫌う。



ストーカー犯罪については後は警察ですね(笑)

「カリスマ」と孫正義伝と。ソフトバンク創業の英雄・孫正義の半生アンコール連載小説3

2014年10月23日 03時24分17秒 | 日記






 中学、高校時代の孫は、豚の糞尿と密造酒の強烈な臭いが漂う朝鮮部落の貧民窟で育った極貧の少年とはうってかわって、完全に乳母日傘(おんばひがさ)の"おぼっちゃまくん"である。
 城南中学三年生のとき、孫の担任をした河東俊瑞(現・博多女子高校校長)によると孫は転校手続きを自分一人で行ったという。転校当時は「引野中学では成績表はオール5」だったが転校先の城南中学校では2に下がったという。偏差値も六十くらいで真中…
 孫が城南中学一年のときに担任した小野山美智子は、こう語る。
「四十年間も教師をやって、大勢の子を見送ってきましたが、孫くんは特別に印象の強い子でしたね。だって、初対面のときから衝撃的ですもの。あの子は確か一年生の二学期に、北九州の引野中学から転校してきたんです」
 そのとき、孫は教員室にぽつんと一人で入ってきて、「今度転校してきました」と挨拶したあと、小野山とこんなやりとりをしたという。
「あら転校生なの」
「はい、お世話になります」
「ご両親は?」
「ひとりで来ました」
「えっ、ひとりで来たの?」
「はい。転校に必要な書類も持ってきました」
 小野山が驚いて「えらいわね、ひとりで来て」と褒めると、孫は少しもじもじしたあと、「よろしくお願いします」と大きな声でいった。
「とても礼儀正しい子でしたね。転校当日ひとりで来るなんて驚きました」
 孫が三年生のとき、小野山は孫の悩みを知ることになる。自分は韓国籍だから教師になれない、と手紙を。同級生たちにも韓国籍であることをカミングアウトしたという。
 三年生(城南中学)で、河東をレストランに呼び出し「塾経営をしたいが、自分はまだ未成年だから(十五歳)、自分はオーナー職で、先生雇われ社長をやってはくれまいか?」と塾経営を発想して河東を驚かせたという。
 テーブルに置いた用紙にこまかいカリキュラムが書かれていて……まだ進学塾チェーン等ない時代に起業しようとした訳だ。
「カリキュラムも事業計画もちゃんとしたものだったと記憶しています。でも、私が乗ってくれないから諦めたようです。でも、何故塾か?は理由があるんです」
 河東は続ける。「彼の中学の成績が学年トップになったのは『森田塾』という進学塾に入塾したからで、福岡でも有名な塾で、誰でも入れる塾じゃない。成績が良くないと入れない……なら自分で塾を経営しようと……恐ろしい子供です(笑)」
 ブルース・リーの映画で憧れ、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で坂本竜馬に憧れて……
 すごい子供だ、か、なんてこまっちゃくれたいやなガキだなあ、とで孫正義の評価はわかれる。ほとんどの孫正義伝記本や評伝はもちろん前者の文脈に沿って書かれてきた。私は孫を立志伝中の人物として書くつもりはない。
 また、在日の劣等感の裏返しのコンプレックスが、孫の飽くなき上昇志向の原動力となっている、といった紋切り型の言説を繰り返すつもりもない。
 しかし、だからといって「反孫正義伝」を書くような野暮も酔狂も持ち合わせていない。
 何故孫はお金が欲しかったのか?それはこの時期、父親の安本(孫)三憲が吐血して入院したからである。
 まさに家族の危機であった。
 一歳年上の兄は高校を中退して、泣き暮らす母を支えて、家計を支えて、正義は「お金」がどうしても必要になった。
 孫正義は在日の自分が出来る事を考え抜いた。そして、アメリカに留学して実業者になるしかないと覚悟を決めた。
 親戚のおばさんや従弟や兄弟に「父親が血を吐いて、生きるか死ぬかのときにひとりでアメリカに行くのか?!なんて冷たい奴なんだ!」と言われる。
 でも、それしか孫正義には選択肢がなかったのだ。孫は漫画伝記本やいままでの綺麗事伝記のような「パソコン時代のシンデレラ・ボーイ」ではない。孫正義氏の頭脳なら東大法学部卒業や、大学教師、政治家、弁護士、何にでもなれただろう。
 だが、韓国籍であるがゆえに政治家にも官僚にも学者にも、なれない。
 学歴のない野口英世が「渡米」して、「ロックフェラー研究所」で医療研究で日本人に一泡吹かせたように、父が病気になった孫正義氏も「渡米」しかなかった。
 三憲の病気の原因は長年の飲酒と過労による肝硬変と十二指腸潰瘍によるもので、洗面器いっぱいも大吐血した。
 孫正義は鹿児島のラサール高校を志望していたが、病気の父親の手前そうもいかず、久留米大学付属高校に豪邸から通うこととなった。
 で、中退して渡米するのである。
 ……卒業してからアメリカに留学してもいいんじゃない?そういわれても困る。
 同級生たちは「若者たち」を石橋文化センターの送別会で合唱して渡米する孫正義を見送ったという。
 石橋正二郎が地元に寄贈した文化センターだ。ブリヂストンの創業者の。ちなみに、孫の東京の豪邸はバブル崩壊後の大不況時代の一九九七年、総工費六十億円で建てられた。石橋正二郎の豪邸の近くである。
 ソフトバンクの急成長がわかるエピソードだ。
 一九七四年二月、渡米した孫正義は、英語学校で数か月、語学を学び、サンフランシスコ郊外のセラモンテ・ハイスクールに二年生として編入入学した。
 孫は一刻も早い大学在籍を希望して、大学入試検定試験を受け合格、ホーリー・ネームズ・カレッジに入学、カルフォルニア大学バークレー校経済学部に編入で将来の伴侶となる大野優美(まさみ)と交際する。
 孫正義のシンデレラ・ボーイ・ストーリーでは「大学生時代に翻訳機を発明して、帰国後シャープ社に買ってもらい一億円を得て、その資金でソフトバンクを立ち上げた」ことになっている。
 アメリカ時代の孫が大学生活を謳歌できたのは、国籍も人種も気にしない自由なアメリカ生活だからではない。肝臓病から復帰した父親・三憲からの潤沢な仕送りがあったからである。
 大学時代に孫が「自動翻訳機」のアイディアを提案したとされる宇宙物理学者のモーザー博士は、
「彼が大学三年生のとき、私のオフィスにやってきたんです。彼のアイディアは日本語をタイプしたら、英語に翻訳され、その発音もわかるというものでした。しかし、そのようなアイディアはごくありふれたものでした。ですが、彼が他の発明者と違うのは、発明を商品化するだけでなく、その商品をいかに売るか?まで考えていたことです。そこに彼の成功の発芽を見たのです」
 さすがは世界的な宇宙物理学者だ。天才発明家、パソコン創世記時代の天才などといった世情におもねった俗説にはまったく踊らされないで、見るべきところはきちんと見ている。
(「あんぽん 孫正義伝」佐野眞一著作 小学館 七十四~九十四ページ)  
 



話は変わる。
  昭和二年、松下電器は『電熱部』という部署をもうけ、電気コタツ、電気ストーブ、電気コンロなどのおなじみの製品に本腰をいれることになった。
 発足と同時に若い人材が入ってきたが、それは関東大震災で焼け出され、泣く泣く大阪へきた中尾哲二郎という男だった。
「こいつは下請けのものやな」
 幸之助は感付いた。
 しかし、この中尾、なかなか旋盤の技術がすごい。剣豪は相手の剣さばきで腕がわかるというが、幸之助は相手の旋盤のつかいかたで腕がわかったという。
 幸之助は感心して「こいつ、おれのとこにくれへんかな?」と思った。
 さっそく中尾と話して、下請け工場の長とも話して、松下電器にきてもらうことになったのだという。この中尾はのちに大企業となる松下電器の副社長までなったもので、幸之助の審美眼もさすがだな、と思う。重役陣も技術畑の出身者だ。
 英雄とは、ずばぬけた審美眼と体力、知恵をもっていなければならない。
 幸之助にはそれがあった。
  松下電器というのは徹底した人材主義で知られる。
 幸之助は、
「物をつくるよりひとをつくるのが先である」
「人材は長い目でみて掘り出せ」
「人間の潜在能力を引き出す」
「人は短所より長所をみるようにする」
「ひたすら求めれば、人材はえられる」
 といって人材やひとづくりの大切さを力説する。
 のちに日本教育がおかしくなっていく中で、幸之助さんが国の教育、親のしつけを憂いたのもそうしたポリシーからだった。
  昭和三年から四年にかけて、日本は深刻な不景気にみまわれた。
 この不景気は深刻なもので、大学卒業の人間でも就職先がなかったほどだった。
「大学出たけど…」
 というのが流行語にまでなった。
 しかし、それでも松下電器はどんどんと伸びていった。気がつけば、従業員は三百人にもなっていた。妻たちとわずか三人で始めた会社が、百倍になったのだ。
 この頃から、幸之助は、
「企業は社会的責任がある」
「企業で働くひとも、資本も、設備かて社会からの預かりものや。だから大事に育てていかにゃあかん。そこから生まれた利益も、社会のために役立たせなきゃあかんで」
 という哲学をもつようになった。
 経営者は企業のトップである前に、道徳のトップでなければならない。
 幸之助は思いあがっていっている訳ではなかった。
 ちゃんと商いしているなかで、そういう哲学を自然と身につけていったのである。
 小卒しかも中退の幸之助だったが、どっかの大学生よりはよほど優れている。
 幸之助は、
「ひとづくりやらにゃあかん」
 と、現代でいう社員研修や見習い制度、企業内研修などをやっていった。
 幸之助は自分の知識と経験で、研修をすすめた。
 まるで吉田松陰のようだが、幸之助の信念に一寸の狂いもない。
 その結果、のちに幹部や重役となる人材が育ってきたからだ。
  昭和四年には不景気はますますひどくなって、世界大不況となった。
 松下のライバル企業もバタバタと倒産していく。松下電器だって例外ではなく、売り上げが半分にまで落ち込んだ。
 もはや企業努力だけではどうしようもない。
 松下電器の倉庫には製品が山積みになってしまった。
「もうこれ以上入りまへん!」
 倉庫係りが悲鳴をあげる始末だった。
 悪いことは重なるもので、この年松下幸之助は病気になり、自宅療養ということになった。元々、体があまりじょうぶではない。そんなところに過労が重なった。
 これは仕方がない。
 しかし、寝ていてもそんな不景気だから、「あれをこうしろ」「これをああしろ」と寝床で指示を出す。
 しかし、不景気で業績は伸びない。
 とうとう幹部たちがやってきて、
「社長、もうあきまへん。従業員減らしましょう」という。
 しかし、幸之助はリストラには首を縦には振らない。
「あかん。人を減らすのだけはやってはあかんで! それだけは絶対にすべきやない!」 従業員を辞めさせるということは、その人たちの生活を奪ってしまうことである。
 今、リストラ、リストラ、と馬鹿のひとつ覚えのようにいっている経営者にきかせたい言葉だ。幸之助は昭和初期から、リストラの愚かさを見抜いていた。
「せやけど、社長、松下丸は浸水しています。いま荷をおろさんと…」
 そんなことをいう幹部までいる。
 幸之助は目の前のことにばかりとらわれている幹部を一喝して、
「たしかに松下丸は浸水してるかもしれへん。しかし、だからいうて社員が荷物などと思うたことはおれはない。手があればそれだけで船に入った水をかきだすことができるやないか?!」
 ……うちの社長はやはり眼のつけどころが違うな……
 幹部たちは沈黙した。
 幸之助は続ける。
「生産を半分にするんは仕方ないやろ。しかし従業員には半分働いてもらう。給与はそのままや」
「せやけど……それやったら会社の負担が重うなるんと違いまっか? 社長」
「たしかに一時はそうかも知れん。けどな、不景気が回復したらそんなもんすぐ取り返せるで。ええか、人材は命なんや。いままでせっかく育ててきた人材を手放すゆうんは損失のほうが多い。損失は人材損失や」
 幸之助はにやりと笑った。
「せやけど、条件をだすで。社員は半分手があく。その分、倉庫にある商品を売って歩いてもらうんや」
 なるほど、船にはいった水をかきだすとは、そうことか……
「わかりやした」
「全力をあげてやりやす」
 幹部たちは、口々に答えた。
 従業員もこうなるとハリキる。リストラされなければ、営業だってなんだってやる。
 首になったらおわりだが、そうではないならやってやる!
 従業員や幹部は頑張って、幸之助の言葉に励まされながら売り歩いた。
 結果、二ケ月で山のようだった在庫もなくなった。
 松下は不景気をのりきった。しかし、幸之助がリストラという消極的判断に走っていたら、従業員はしゃかりきに働き、営業までしただろうか?
 なんでも成せばなるという精神が必要なのだ。
 リストラして、コストダウンなんて考えはとんでもない。
 辞めさせられたほうは、一生を棒に振ることになる。技術をもっていれば別だ。が、今の外国人犯罪をみていると『単純労働者』として不法に雇われ解雇され、それゆえ金ほしさに強盗や空き巣をしているようにしか見えない。
 技術をもたない彼等は、手っ取り早く金になることをするしかないのだ。
 これから少子高齢化で人口が減り、移民を考えなければならないなら単純労働はロボットにでもまかせて、あとは”技術のある外国人労働者”だけを移民としてつれてくるべぎだ。そうでなければ日本はアメリカやフィリピン並の犯罪大国になってしまう。

『松下二百五十年計画』
 が発表されたのは昭和七年五月五日のことだった。
 幸之助は大阪の電気クラブというところに全社員を集めて訓示をした。
「産業人としての使命とは何か!」
 幸之助は饒舌に語り始める。
「人間は物質だけでは生きられるもんやないし、精神だけで生きられるもんでもない。このふたつが車の両輪のように重なり合ってなければあきまへん。われわれ産業人は、このふたつのうち、ゆたかな物質生活をひとびとにもたらし、その面から幸福を追求することを使命にするものであります。
 われわれはまず二百五十年計画をたてて達成してゆかなあかん思う次第であります」
 社員千二百人は、戸惑った顔をした。
 ……二百五十年計画かていわれても……
 しかし、幸之助は従業員たちにビジョンを与え続ける。
「しかし、わては皆さんに次世代の踏み台になれとかそういうことをいうとんのとちゃいます。みなさんはみなさんで幸福に生きたらええ。ただ、それけだけでなく、次の世代のためによいものを残してほしんのです。一日一日努力してほしいんや。そうすりゃあ、使命感をもって諸君は働けるし、かならずよい結果をもたらせるでしょう」
 壇上の幸之助は熱く語る。
 話しが終わると割れんばかりの大拍手がおこった。
 みんな、眼がきらきら輝いている。
 やるぞ! という気迫がこもっている。
 幸之助は松下社員にビジョンを与えた。

  幸之助は忙しくなった。
「社長、これどうしましょう?」
「いや、それはまってくれ」
 だんだんと会社が大きくかると、幸之助の『鶴の一声』だけで決まらないことが多くなっていった。松下電器は、電気コンロなどだけでなく、ラジオまでつくるようになっていた。家電はほとんどつくっていた。
 そこで幸之助は事業部制を考えつく。
 つまり、ラジオならラジオで担当部署をつくり、そこでラジオの設計企画から営業までやらせる、という組織つくりだった。
 生産から販売まで一貫性をもたせようと昭和八年からはじめたものだ。
 結果は大成功だった。
 いい意味での競争意識が芽生え、他社のメーカーの真似も多くなったが、それでも「もうかりゃええんや」という幸之助の考えで松下電器は大きくなっていった。

  松下電器が現在の門真市に移転したのは昭和八年のことだった。
 当時、門真市は『鬼門』と呼ばれていて、縁起が悪い方角だといわれていた。
 そんなもの迷信だ……といえればいいが、社員の中からは反対する意見も多い。
 しかし、幸之助は、
「日本は『鬼門』だらけや。北海道も『鬼門』、九州も『鬼門』、なら土地の安い門真市に移転するのが一番ええ」
 と本社工場を建てた。
 幸之助はいう。
「日本は狭い。方角がどうのといっていたらきりがないやんか。迷信を信じるものにとっても、これはええ機会やで。もし迷信通り松下がだめになりゃ、それみたことか、いうて迷信を信じる者に意識を植え付けることになる。せやけど、そうならないように社員には頑張ってもらいたいもんや」
 結果はどうか、松下電器は今も健在である。
 幸之助は迷信打破までやってのけた。

  あるとき、新聞記者が松下幸之助の取材をした。
 ………この松下幸之助という男はすごい人物になるだろう……
 マスコミの勘がそう思わせた。
 この頃、松下電器は新進気鋭の企業として注目を浴びていた。
「松下さん。今度モーターをつくるそうですが、心配はありませんか?」
「なんが心配なんでっか?」
 と松下幸之助。
「でも、モーターは重電気(発電気・モーターなどの大型電気製品)でしょ? いままで松下電器は乾電池とか、懐中電灯とかソケットとか電熱器のようなものはつくってきたが、重電気ははじめてでしょう? しかも、重電気は東京の大手メーカーが独占している。
 それを今、大阪で初めてだいじょうぶなのですか?」
 その頃、モーターといえば電気発電工場のような大型のモーターがおもで、家庭用といえば扇風機程度の知識しかなかった。
 それを家庭用のモーターをつくるという。
 記者が不安になるのも無理はない。
 幸之助はいう。
「モーターっていうんは、その国の先進性の象徴です」
「…はあ」
「家庭にモーターがいくつあるかで、豊かさがだいたいわかります」
「そんなものですか?」
「アメリカではすでに家庭にモーターが普及している。みなさんはインテリです。みなさんのご家庭にはどれくらいのモーターがありまっか?」
「……残念ながら家の家庭にはまだモーターらしきものはありません。扇風機ぐらいです」「ほらごらんなさい」
 幸之助は続ける。
「あふ何十年後には日本の家庭にはモーターがあふれるでしょう。家電があふれるのです。私はそういう有望な仕事をやるんです。心配せんでもええですよ」
「なるほど」
 記者たちは納得した。
 幸之助は先をみていた。日本を『技術立国』とするために天よりつかわされた男は、そんな使命を知らない間に頭に刻んでいたのである。
  モーターは成功した。
 また、幸之助は大阪の東淀川区に「ナショナル電球株式会社」をつくり、電球も販売しだした。世間は、
「あんななれないことに手をつけてだいじょうぶやろか?」と思っていた。
 市場はマツダランプ一色だった。シェアは七十パーセントも占めていて、松下電球は売れるのかどうかもわからなかった。
 またライバル企業も数十社あった。
 幸之助はそれを知っていた。
 しかし、幸之助は、
「ナショナル・ランプは新しい横綱だ。横綱がふたりいてもいい。しかし、お客さんが買ってくれなきゃ話にならへん」と自信たっぷりだった。
「あんたは面白いひとですね」
 北海道の問屋はそういって注文してくれた。
「一社だけの独占状態は危険や」
 幸之助は訴えていく。
「競争こそ発展の道やで!」こうなるともう松下教である。

  昭和十年頃から、松下はいっせいに正価販売運動も始めた。
 電化製品はほとんど同じ価格でお客さんに買ってもらおうというのである。メーカーごとに価格が違うのではダメで、それでは品質に影響するという。
 値引きしない電化製品……これがコンセプトだった。
 時代はラジオ全盛のとき。
 幸之助はラジオ出演した。
 新進気鋭の天才経営者というふれこみだった。
 幸之助はいう。
「ただいま紹介を受けました松下幸之助です。
 私は十代のときに大阪にやってきて、商い一筋でした。そこには立身出世や儲けが要求されました。しかし、それだけでは商いはやっていけまへん。
 企業人というものは社会に貢献してこその企業人なのです。
 いまままで高価で貴重だった自転車は今や庶民のものとなり、電車も多く通るようになりました。ぜいたくだった一部のものが世間にあふれるような時代になりました。
 われわれの会社でつくっているラジオもそうです。
 こうした時代にあたり、われわれはいかに社会に貢献できるかを考えなければなりません。
 この前、公園で浮浪者のようなものが万年筆をもってメモしているのをみて感動しました。万年筆は少し前まではとても高価なものだったのです。
 ほんの一部の金持ちのものだったのです。
 それが大量生産されて、安価になり、誰もが使えるようになりました。そういうことが文化なのではないでしょうか。
 またそうしたまずしい者たちを少しでもなくしていくのもまた文化だと思います」

         4 ソフトバンクと日本と竜馬と






1994年にソフトバンク株式会社の株式を店頭公開。1996年には米ヤフーとソフトバンクの合弁でヤフー株式会社を設立。オーストラリアのメディア王ルパート・マードックのニューズ・コーポレーションと折半出資の合弁会社を設立し、テレビ朝日の株式の21%を取得するも、のちに朝日新聞の反発に遭って撤退するに至った。
1999年、証券市場の開設を企図し米国のナスダック・ストック・マーケットとソフトバンク株式会社が共同出資しナスダック・ジャパンプランニング株式会社を設立。翌2000年には大阪証券取引所とナスダック・ジャパンプランニング株式会社にてナスダック・ジャパン市場を開始。ソフトバンク株式会社が東京海上火災保険、オリックスとともに、日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)の株式を取得。取締役に就任した。
NTTドコモの第一期アドバイザリーボードのメンバーを1年程務める。
2001年からヤフー株式会社と共同でADSL接続サービスのYahoo! BBの提供を開始。以降、それまでのPCソフト卸、PC出版から通信に本業の軸足を移す。
2002年、ナスダック・ジャパン株式会社が業務を停止。大阪証券取引所によりヘラクレスとして改組された。
2003年にあおぞら銀行の株式をサーベラス・キャピタル・マネジメント社に売却。
2004年には日本テレコム株式会社を買収し、同社代表取締役会長に就任。


鐘慶

┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
┃   ┃   ┃   ┃   ┃   ┃   ┃
三憲   某   某   某   女   女   真太郎

┣━━━┳━━━┳━━━┓
┃   ┃   ┃   ┃
正明  正義  正憲  泰蔵


ソフトバンクの創業
自分で考案した「音声機能付き他言語翻訳機」を当時シャープ専務の佐々木正に約1億円で売り込み、その資金を元に米国で事業を起こし、1981年には福岡で不動産・産廃業を営む母方の親戚の在日韓国人から1億円の出資を受けて日本で起業する。佐野眞一は創業時に1億円を投じた在日韓国人の親戚が個人株主としては現在も最大の株主であるとしている。孫自身を個人株主に含めれば孫が最大の株主となっている。
電話の際に自動的に安い回線を選ぶ「NCC BOX」(いわゆるLCR)をフォーバルの大久保秀夫とともに開発した(その関係で、日本におけるLCRの基本特許は孫が保有している)。大久保秀夫との交流は以後も続き、BBフォン、おとくラインの販売など、ソフトバンクグループの法人向けの営業では常にフォーバルと協力体制を取ってきた。
1994年(平成6年)7月にソフトバンク株式会社の株式を店頭公開した。
「日本ソフトバンク」名義の会社を設立したのは1981年(昭和56年)であるが、孫自身は事あるごとに「私は、福岡ので、アルバイト社員二人とソフトバンクを始めました」と話している。雑餉隈の雑居ビルに存在した会社は、ソフトバンクの前身にあたる「ユニソン・ワールド」という会社であったが、孫自身はこの「ユニソン・ワールド」がソフトバンクの起業だと考えていることがこの言葉から分かる。孫は同社員の前で、立ち上げた会社を「10年で年商500億の会社にする」と豪語したが、これを聞いた二人は孫の可能性を信じることが出来ず非現実的な法螺話と受け取り、彼の力量を見限って辞めてしまったという話がある。

モーザー博士の話でもう一つ興味深かったのは、孫の結婚相手の女性に対する見方である。
「彼女の父親は医師で、東京でとても大きな病院を経営していた。だから、娘には病院を引き継いでくれるような医師と結婚させたがっていたようだ。
 たぶん、彼女は一人娘だったんじゃないかな。しかし、娘は医師ではなく、しかも韓国人の孫と付き合っていた。だから、孫は彼女の父親から否定されていたと感じていた」
 モーザー博士の話は、日本における在日韓国人差別がいかに根強いかをいみじくも物語っている。孫がカリフォルニア州の市庁舎で、両親も親戚もいない二人きりの結婚式をあげたのもそのためだった。
 結婚した翌々年(一九八〇年)、二人はバークレーを共に卒業して帰国し、日本でも結婚式をあげた。
 披露宴会場は、福岡市内の「ホテルニューオータニ博多」の芙蓉の間だった。新婦の優美は孫家の目を意識して、お色直しのとき韓国女性の伝統的な衣装のチマチョゴリにわざわざ着替えた。
 孫が結婚したこの女性が、孫が日本に帰化し、「安本正義」から「孫正義」に改姓するときにはなくてはならない存在となった。
 孫が帰化して日本国籍を取得したのは、アメリカから帰国して十年後の一九九〇年のことである。大野優美とアメリカで結婚して十二年後だった。
 日本国籍にこれほど時間がかかったのは、帰化申請を出すたび、「孫」という韓国姓が使えないと法務省から言われ続けたためである。
 「孫(そん)」という名字は日本にはない。先例がないものを認めるわけにはいかない。日本に帰化したいなら日本風の名前に改名しなさい、それが法務省の言い分であった。
 そこでまず、日本人である妻が、裁判所に大野という姓を「孫」に改名する申請を行った。裁判所でなぜ変更したいかという理由をきかれた妻は、それが夫の姓だからだと答えた。日本人で韓国姓に変更したいと言ってきたのはあなたが初めてだ、と言われたが、裁判所は、結局、改姓を認めてくれた。
 孫は再度、法務省に行き」、「日本人に本当に『孫』という韓国姓の先例はありませんか。よく調べてください。一人いるはずです」と粘った。
 係官は答えた。「一人いました。あなたの奥さんです」。こうして「安本正義」は韓国姓の「孫正義」のまま日本に帰化することができた。
「日本に帰ってきたら事業を興し、絶対に家族を支えてみせる。それだけじゃない。いままで悩んできた国籍とか人種を超えて、人間はみんな一緒だということを証明できる立派な実業家になってみせる」
 アメリカから帰国して三十年、孫はどれだけ野望を実現できただろうか。
「孫さんはお父さんがパチンコ経営等でお金持ちになったからいいが、極貧生活がずっと続いていたとしたら、きっとぐれてたんじゃないですか?」
「そうかもしれません」
 孫の話で興味深かったのは、孫たち兄弟は小学校のときから、食事するときは必ず上座に座らされていたという話である。
「名前を呼ぶ時も、男の子は必ずさんづけでした。要するに両班の世界なんです。男子は十二、三歳になったら、立派な大人扱いされるということです。おふくろは長男の嫁ですが、いつも下座の端っこの方で残りご飯を食べていましたね」
 孫の発明した「自動翻訳機」を商品化した元シャープ副社長の佐々木正は、電子工学における我が国の草分け的存在であった。また電卓などの液晶分野では世界的な著名な電子工学者であった。
 大正四年(一九一五年)生まれであった。
 佐々木は孫を「ありゃあ、宇宙人だ」といった。
 孫は「自動翻訳機」を風呂敷に包んで、まず大阪・門真の松下電器(現・パナソニック社)を訪ねた。ところが、松下では門前払いだった。次に訪ねた三洋電機でも、話も聞かずに追い返され返された。
「そこで最後の頼みの綱として、アメリカで知り合った私に電話して、お父さんの三憲さんとシャープの研究所に訪ねてきた訳です」
 佐々木は孫の「自動翻訳機」をみて脈はある、と思った。商品としては荒削りだが、売れるかも知れない。そこで佐々木は孫の技術を「二千万円」で買った。
 その後、孫は八一年、佐々木の進言を受け入れて、ソフトバンクの前身の日本ソフトバンクを東京で立ち上げた。
 孫はその起業資金として、第一勧業銀行に一億円の融資を申し込みに行った。ところが、融資はあっさり断られてしまった。
 ソフトの販売業では担保にできるものが何もない、というのが断りの理由だった。
 孫は佐々木に「佐々木さん、僕は悔しいです。でも、僕は何としてでもビジネスを立ち上げたい。佐々木さん、融資の保証人になってもらうことはできないでしょうか」と電話をかける。
 佐々木はシャープの人事部に電話を入れ、自分の退職金を計算してもらった。なんとか「一億円」になることがわかった。これなら、万一焦げ付いても、何とかなるだろう。
 佐々木は孫に「一億円」を融資した。
「孫くんに、それだけの魅力があったとしか言いようもない。彼に賭けてみよう。孫くんには、人をそんな気持ちにさせてしまうところがあるんです」
(「あんぽん 孫正義伝」佐野眞一著作 小学館 九十四~百〇六ページ)

話は変わる。
  昭和十年頃は松下電器は一歩一歩『大企業』へと歩みつつあった。
 はじめは華々しい躍進だった。
 しかし、昭和十二年頃から日本は戦争色が濃くなりはじめた。その戦争は昭和二十年八月十五日にようやく幕引きがされる。
 戦争となると、統制されて経済も政治も軍事色一色になっていった。
 家庭からは電気コンロや電気毛布がなくなっていった。
 電気も規制され、鉄は貴重だと没収される。
 松下電器は乾電池や配線、無線機などをむりやり納入されるようになる。
 幸之助としては戦争は嫌いだったが、文句をいえば殺されるだけだ。
 松下は軍人の偉いひとに呼ばれた。
 驚いた。
 木造の軍船をつくってくれと注文がきたのだ。
 まったく畑違いの注文だった。
 しかし、松下は無線機をはじめ、航空機用の電送品、方向探知機、レーダー、真空管のほか、軍飛行機用の金属などもつくっていて、その性能のよさが認められてのことだった。 こんなことから「松下電器に船をつくらせよう」と決まったようだ。
「この話は断らせていただきます」
「そこをなんとか、引き受けてくれ」
 といわれては、ことわることも出来ない。

  引き受けてみて、幸之助は松下造船株式会社を一時期、戦争中だけつくった。
「どうしてつくるのです?」
「流れ作業や」
「ラジオでやってるあれですか?」
「そうや」
 松下はしかたなく船をつくり始める。軍艦という訳にはいかないが、輸送用の船だった。しかも、木造である。エンジンも自社でつくった。
 それでもまだ無理難題をいわれる。
 今度は「飛行機をつくってくれ」というのだ。
 飛行機のエンジンは三菱でつくるが、本体は松下電器のほうでつくってくれという。
 松下幸之助は社員に激を飛ばして、松下飛行機株式会社で飛行機をつくった。
 社員たちからは、感動がおきた。
 飛行機が飛んだときだ。
「松下という男はたいしたものだ」
 軍部の豊田副武大将も感動していた。
 戦争のために飛行機をつくる………
 これは、松下幸之助にとって避けられない選択であった。
 けして、戦争に賛成していた訳ではない。
 しかし、従業員を食べさせてやらなければならない。
 幸之助は船や飛行機をつくり続けた。
  だが、戦争は惨めな敗北におわる。
 沖縄や東京を焼け野原にされ、広島長崎に原爆を落とされて、初めて日本の軍部も天皇も負けを認めた。講和条約にサインした。
昭和天皇(裕仁)のややどもり気味のラジオ放送が流れた。
 ……「耐えがたきを耐え、忍びかたきを忍び……」……
 日本人たちはその玉音放送をラジオの前できき、崩れ落ちた。
「ああ…」
 泣きくずれた。声もなく、日本人は泣いた。
 しかし、これからが勝負だ!、と思っている男がいた。
 幸之助である。
 この頃、松下電器は従業員数二万四千人にもおよぶ巨大企業へと成長していた。
  その晩は、寝床でゆっくりと寝て、
「いやぁ、長い一日やったなぁ」
 と幸之助はいったという。
「せやけど、これからが松下の始まりやで」
「あんた……すごいこと考えますなぁ」
「そや、おれは日本一の経営者になるんや! 日本一やで! そしてこの日本って国を世界一の『技術立国』にするんや! それがおれの使命やで!」
「まぁ、『技術立国』? おとんはすごいこと考えよるなあ」
 妻は感動するやら呆れるやら。
 幸之助は社員に、
「これからはわしらの時代です。日本は戦争には負けたが、これから経済で勝つつもりで頑張って下さい!」と激を飛ばす。
 拍手と歓声がどっとあがった。
 しかし、そう甘くはないのが世の中だ。
 飛行機をつくり、船をつくった松下幸之助は”戦犯”としてGHQ(連合軍)に睨まれるようになる。また松下電器自体もなぜか『財閥』にみなされてしまう。
 GHQは『財閥解体』をすすめる。
 三井や三菱や住友などの財閥は分社化をせまられた。
 幸之助は運悪く、公職追放、などとして社長を強制的に辞めさせられる。
 自分でつくった会社を運営してはだめだと占領軍に命令されてしまう。
 やぶれば”戦犯”として収容所送りだ。
「こりや参ったもんや」
 幸之助も観念するしかない。
 しみじみそう思った。

  ところが、松下電器の労働組合がGHQに意見を述べた。
 つまり、松下幸之助を社長に戻してほしいと嘆願したのだ。
「うちの松下幸之助は確かに戦争中、なるほど軍需産業を経営したが、それらはけっして追放になるようなものではありません! なんとか追放から除いてほしい!」
 と交渉しだす。
 これには世界も占領軍(GHQ)も驚いた。
 他の会社では労働組合が社長たちの追放を叫んでいるのに、松下電器労組は逆だったからだ。「どういうことだ?」
 占領軍が調べてみると、なるほど、追放に値しないかも知れない。
 いやいや、飛行機や船をつくっていたようだ。
 よほどの人望がないかぎりこのように労働組合が社長をかえしてくれ…とはいうもんじゃない。これはただごとではない。
 このようにして、幸之助は復活する。
「みなさん、おおきに! おおきに!」
 幸之助は労働組合を認め、大会にまで出席してサインした。こうして、松下電器の労働組合は誕生した。
「みなさん、戦争はおわりました。これからは明るい未来がまってまっせ!」
 拍手がおこった。
 このように労組からも期待される経営者が、幸之助だった。
 だが、戦後すぐは食料難が日本中におこった。
 米は農家が価格高騰をまって売りしぶり、都会の連中は芋の根やぞうすい食べるしかない。幸之助もいつも腹ぺこだった。
「………別荘?」
 幸之助は外国人通訳にききかえした。
 アメリカなどの先進国ではある程度の財産ができたら別荘をもつのは当たり前だったから、幸之助に申告してないだろう? と迫ったのだ。
「そんなもんあらしまへん」
 幸之助は素直にいった。
「……別荘がない?」
「へえ、あらしまへん」
 GHQは不思議な顔で、幸之助を見る。松下電器の社長ともあろうものが別荘もないのか……?
 しかし、ないものはないのである。

  松下幸之助は以前からアメリカに興味をもっていたという。
 公職追放をやめてもらうため、何度もGHQに通っていた間に、親しいアメリカ人も出来ていた。それらも親友は頭の回転が早い。
「アメリカ人っていうのはすごいもんやなぁ」
 幸之助はそう思った。
 そして、昭和二十六年になって幸之助は船で、アメリカへと旅だった。
 びっくりしたのはテレビだった。
 家庭にラジオのかわりにテレビ……といっても白黒だが、一家に一台はある。
「アメリカはすごい国やなぁ。日本が負けたのもわかるわぁ」
 幸之助にとって豊かな米国の光景は驚きの連続だった。当時の米国は治安もすべてよかった。豊かな時代である。
 幸之助は思う。
「遠からず、日本にもこういう時代がくる。いやこなけりゃあかんなぁ。民主主義もええやんけ。皆平等や。努力したものが金持ちになれる。
 会社では社長と部下でも、外にでれば仲間同士……日本では考えられへん。
 日本もこういう国にせにゃあかん!」
「ええもんはどんどん真似して、技術や哲学を吸収して、生かさなあかんで!」
 マネした電器……こと松下電器の本領はいよいよここから発揮されていく。      
         5 世界の経営者







2006年10月には同社の代表取締役社長に就任した。さらに福岡ダイエーホークスと福岡ドームをダイエーから買収し、福岡ソフトバンクホークスのオーナーに就任。
続けてボーダフォン株式会社(現ソフトバンクモバイル株式会社)を買収し、同社代表執行役社長兼CEOに就任した。
2011年に東日本大震災が発生すると、義援金として個人で100億円及び2011年から引退するまでソフトバンクグループ代表として受け取る報酬の全額を寄付することを表明し2011年7月14日100億円の寄付が終了した。
さらに福島第一原子力発電所事故を受け、自然エネルギー財団を設立。『東日本大震災復興支援財団』を6月に設立。
噂にはコメントしない
ソフトバンクの新機種発表会で、「iPhone 3Gの発売はソフトバンクからか」と質問された時の発言。「iPhone 3GS」の発売前にも、同じコメントを残していた。
しかし2010年7月19日、かねてから噂となっていた「在日割引」の存在について、一般ユーザーからの「ソフトバンクがそのような割引をしているのはデマか?」との質問に対し、直接の返答と詳細な経緯の説明を行った。
これによれば、「この割引プランはデマ。2008年に代理店がソフトバンクの許可無く販売したが、ソフトバンク側が認知した後に書面で通知し、当該の割引営業行為を停止させた」としている。
ソフトバンクモバイル広報室も「この割引プランは、弊社の代理店が民団と勝手に取りまとめたもので、弊社サービスではありません」としている。

孫正義氏の父親の三憲氏によると「朝鮮人はカスばっか」「東大もハーバードも幼稚」であるという。
 日本の終戦後、学校でたったひとりの朝鮮人であり、激しくいじめられたという。
 生活の為に豚を飼う前は、木の皮で飢えを凌いだ(戦後の食糧難のとき)という。孫の祖母の故郷は日本でも韓流・ヨン様ジウ姫ブームでしられる人気韓国ドラマ「冬のソナタ」の舞台となった地方である。
 孫正義は三憲の買ったバラックの家で産まれた。日本人の産婆さんがとりあげたが、産まれても、うんともすんともいわない。おぎゃあ、おぎゃあ、と泣かない。
 産婆さんは赤ん坊の正義の足を握って、水につけた。十分も何ともいわないし息もしていない。もう産婆さんは真っ青。父親も母親も真っ青。だが、十分後おぎゃあおぎゃあと泣き始めた。背中に十センチ程のキズ・聖痕(スティグマ)がある。聖人か?孫一族で話題になったという。
 三憲は「正義はわが子ではなく社会の子」という。
 孫正義は城南中学一年生のとき「じゅく」という詩を学級通信に書いている。
 題「じゅく(塾)」

 <ぼくのきらいな じゅく。
 じゅくは 悪まだ。
 差別をうみだすじゅく。
 エゴイズムを生みだすじゅく。
「お金」「お金」
 うすれゆく友情。
 金払って行くじゅく。
 コンピューターにしてしまうじゅく。
 今 この世にどれだけ
 ぼくらのためのためのじゅくがあるというのだ。
 いつかきっと
 正義の原ばくが落ちる時がくるぞ。
 いつかきっと
 きっと。
 その時こそ
 ほろびるんだ。にせのじゅくが。>

 この詩には「誰からも好かれる」「明るい」少年とは別人格としか思えない攻撃性が隠されている。
「正義(せいぎ)の原ばくが落ちる」は「正義(まさよし)の原ばくが落ちる」とも読める。
 孫の父親・三憲は「弱い者いじめの「パチンコ」は嫌い」という。「携帯もスマートフォンも金食い虫の「弱い者いじめ」」と正直に言う。
 父親・三憲さんがサラ金経営で余裕があったとき正義に「お前『天才』じゃそうじゃなかと。立地が悪い喫茶店がある。経営するから客を集めるアイディアを考えろ」という。
 正義は小学生ながらも「コーヒー何杯飲んでも無料」と紙に書いて、珈琲のイラストまで描いたという。
 つまり、珈琲だけを無料にするが、それだけではコーヒーを飲むだけでは金にならない。だが、客はコーヒーだけでなくサンドウィッチやカレー等も注文する。だから最初から黒字であったという。
 三憲は「鳶が鷹を産んだ」と思ったという。
 孫の奥さんの大野優美さんの両親は医師との見合いをして、医師と結婚して自分の病院の後を継いで欲しかったらしい。で、最後に「国籍のことは韓国籍でもかわらないから、正義君、いまから医学部に行き直すことはできないか?」と提案したという。
 孫は「僕は医者になる気はありません。但し、病院を経営することは出来ます。でも、それ本業にしたいとは思いません。コンピューターや電機関係の仕事がしたいのです」
 孫正義が病院を経営していたら徳洲会以上の医療グループが出来ていただろう。
 孫正義が韓国名で会社を立ち上げたとき、親戚中が「日本名にしとけ!間違いなく差別や嫌がらせにあうぞ」と五月蠅い。
「ぼくのことはもう忘れてくれ」
 孫正義はいったという。
「ぼくは日本生まれだし、育ったのも日本ですからね。やはり日本語であり、日本文化であり、日本食が一番しっくりくるんです。日本が大好きです。僕はきなこ餅が好きなんです(笑)」
 孫正義は八一年の日本ソフトバンク起業からわずか二年だが肝炎で入院している。
 父親の三憲も肝臓をやられて吐血して入院した過去がある。「同じ生活をしていましたから髭剃りなんかでうつっちゃったんですかね」
 当時二十五歳の孫正義は「余命五年」と告げられ泣いた。号泣した。家族、娘もまだ小さいのに自分は死ぬのか?
 世襲などは絶対しないぞ。親戚や血族者には会社をまかせない。
 孫は慢性肝炎で入院中、日本ソフトバンクの会長に退き、日本警備保障(現・セコム)副社長の大森康彦をスカウトして社長に据えている。
 佐々木からの紹介であった。
 命が短い。
 孫正義は激しく動揺しながら、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読み返した。龍馬だって三十三歳で死んだんだ。だけど最後の五年間くらいで人生でも大きな仕事をした。
 だが、新しい新薬が出来て、孫正義は病気を克服した。
 やはり、天才は惨めな犬死などしないのだ。
(「あんぽん 孫正義伝」佐野眞一著作 小学館 百十六~百七二ページ)


話は変わる。
  松下幸之助は、渡米して、電球、真空管、ブラウン管、蛍光灯、半導体などを見て、「このまんまんやったら日本はおいてかれるでぇ」
 と恐ろしくなったという。
 それだけアメリカの技術力は当時優れていたのだ。
 日本も日本なりに努力しているのだが、当時、日本製品は「安かろう悪かろう」といわれた。安いがすぐに壊れる……安いだけだ! というのだ。
「せやけど、日本はまだまだ外国に学ぶことは多いんやなぁ」
 幸之助は思う。
 そう思っていたのは共に日本を『技術立国』にした英雄、ソニーの井深大さんも盛田昭夫さんもホンダの本田宗一郎さんも、同じ思いであった。
 まだまだ日本はこれからだ。まだ技術が足りない……
 そこで幸之助は外国の企業と提携して、技術を得ようと考える。
 まず、どの会社にするか?
 幸之助は一回目の渡米では満足せず、今度はヨーロッパへ渡った。
 その頃、松下電器は大きな会社になっていたが、それでも提携が必要や、と幸之助は思っていた。
 幸之助には夢があった。
 それは、日本を『技術立国』にすることだ。
 日本製品は「安かろう悪かろう」ではなく「安くて品質のいい長持ちする製品」にすることであった。そのターゲットが幸之助の場合、”家電”だった。
 なにしろ『経営の神様』と呼ばれていた幸之助のことである。
 やることも大きい。
 ヨーロッパ・オランダ(現・EU)のフィリップス社に単身乗り込み、提携書にサインした。しかし実際には、戦前から取り引きがあり、戦後になって、
”また一緒に取り引きしないか?”
 と誘われて、それで提携したのだという。
 新しい技術関係というのは子を生み出すための夫婦関係のようなものだ。
 だから相手選びには慎重にならざるえない。
「技術提携がうまくいくんもいかんも、自分に相応しい相手を選ぶことに限る」
 幸之助の考えはそういうものだった。
 相手がどんなに優れた技術をもっていても、相性があわなければうまくいかない。
 人間でも会社でもそれは同じなのだ。
「せやから自分の目で、じかに確かめにゃあかん」
 と幸之助はいう。
 フィリップス社は小さい国土の中で、世界有数の技術をもった企業に育った会社だった。その点は日本の松下電器と似ていた。
 相性もバッチリだった。
 オランダと日本とは敵国同士だった。アメリカともそうだ。
 しかし、戦争が終われば「そんなもん関係あらへん」と開きなおるのが幸之助のすごいところだった。もちろん、経済では交流があった。
 戦争と経済は別なのだ。
 のちに幸之助が自分の哲学を広めるために私費を投じて創刊した雑誌『PHP』(現・廃刊。文庫会社に)という名前も「繁栄によって平和と幸福を」(Peace and
Happiness through Prosperity)というそれぞれ「平和・繁栄・幸福)の頭文字をとったものだ。
 松下哲学を発揮して、日本代表のような気分にひたっていた幸之助だった。
 その当時の片腕が、最近まで存命していた高橋荒太郎専務(のちに松下電器会長)であった。
 技術提携によって新しく松下電子工業という子会社ができることになった。
 技術提携といっても、松下電器は教えてもらう立場だったので、技術指導料という形で月謝を払わなければならない。それではあまりにも一方的で、負担も大きい。
 幸之助はこう提案する。
「たしかに松下電器はあなたのところから教えてもらう立場ですから技術提供料はお支払いします。せやけど、そのかわりうちは会社を経営するんやから経営指導料をもらいます。経営も技術でっから」
 これは相手のフィリップ社もびっくりした。
「経営指導料なんてきいたころもない」
 しかし、幸之助はねばる。
 ついにはフィリップ社も根負けして、「わかりました」と受け入れたという。
 フィリップ社は他にも他社と提携していたが、松下電子工業が最高にうまくいっている会社だった。フィリップ社は、
「さすがに経営指導料をとるだけの会社だ」と納得した。
 幸之助は『経営の神様』といつしか呼ばれるようになっていく。
 ときには政治家にも意見をいう。
 するといわれた政治家も、
「そうか! さすがは目のつけどころが違う」といって納得する。
 幸之助は若い頃、虚弱体質で病気だったせいもあり、”自分を管理”してきた。
 その若い頃の経験と、丁稚や経営経験が天才的な「経営哲学」を生んだことを見逃してはならない。


  

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.103小説『華燃ゆ 李香蘭私の半生』NHK朝ドラ原作(予定)・加筆した

2014年10月22日 16時45分09秒 | 日記








昨夜のNHK放送局

番組クローズアップ現代の

『李香蘭 山口淑子さん』特集は


瞠目すべきものがあった。


映像資料としてしっかり録画させてもらい、小説を加筆してみた。


どうしても出版したいから頑張るしかない。


何とか才能を認めてもらうしかない。


『華燃ゆ 李香蘭私の半生』を朝ドラ原作小説にしたい