長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

真田幸村<真田丸>忠義の蒼い炎 真田幸村(信繁)大河ドラマ小説3

2017年10月22日 04時52分28秒 | 日記

































 三成は十四~十五歳から秀吉に支えた。
 その出会いは天正二年……
 秀吉は鷹狩りの帰りに寺により喉が乾いたので、
「誰ぞ、茶をもってまいれ」といった。
 すると左吉が大きな茶碗に七、八分、ぬるく立てて差し上げた。
「うまい。もういっぱいくれぇぎゃ」秀吉はいった。
 左吉は今度は少し熱くして茶碗に半分ほど差し出した。
「うむ、もう一服じゃ」
 秀吉が所望した。
 すると左吉は小さな茶碗に、少し熱いお茶を出した。
 秀吉は大いに感心して、
「小僧、名は何という?」
「左吉です。石田左吉にござりまする!」
 平伏した。
「そうきゃ? 石田左吉! このわしの家来となれ!」
「はっ!」
 石田左吉(三成)はこうして秀吉に支え、山崎、牋ケ獄の戦いで一番槍の手柄をあげている。秀吉はこうして大切な頭脳をその手にして天下をとれた。三成がいてこそである。 羽柴秀吉が信長に仕え近江長浜城(長浜市)主になった天正二年(1574年)頃から秀吉の小姓として三成(当時・佐吉)は仕えた(天正五年(1577年)の説も)
 秀吉の中国征伐に従軍した。本能寺(1582年)で秀吉が天下人として台頭してくると、三成も秀吉の側近として次第に台頭していく……こんなエピソードがある。佐吉は秀吉に仕えたが、秀吉の妻・寧々が佐吉に「腹がすいているのか?はれ、握り飯でも食べなさい」と優しい言葉を人間として始めて頂いた、と涙をながしたという。秀吉は後年、そういう話を他人にしたがったという。あの冷血漢の三成も「人間らしい所」があるという。
いわゆる三献茶の話は後世の作り話の可能性が強いです。
少なくともそんなエピソードは当時の史料に出てこない。後世の編纂物に散見されるのみです。また太谷吉継の母親は淀殿か寧々に仕えた東殿であり、それは可能性が高いです。またその東殿に伴って子の吉継が出世したというのが自然だそうです。

吉継や三成が歴史上にでてくるのが秀吉の播磨攻略(軍師黒田官兵衛の斡旋)の頃です。
天正五年(一五七七年)くらいでしょうか。同じく秀吉の馬廻りとして福島市松(正則)、加藤虎之助(清正)も出てきます。
ですが、石田三成が横柄で冷酷な人物というイメージは正しくありません。徳川時代の創作であるそうです。「へいくわい」(横柄な)というイメージはその時代には歴史上書状としてもありませんし、また(三成からの手紙が)残っていないのも徳川の世で三成と親しかったら、最悪の場合、お取潰しの危険があるからです。おそらく三成からの手紙は捨てるか焼いたか。秀吉の官僚として指示を忠実に実行する立場の三成が、私情をはさまず、官僚的な冷めた対応で嫌われた可能性は高い。ですが、悪口や陰口とかそんな人物ではなりません。ほとんどの三成の冷酷イメージは徳川時代の創作であるそうです。



 太谷吉継の人柄はどんなものでああったか?正確には記録や歴史的資料があまりありません。三成よりも文官としての仕事があまり多くない為のことです。
ですが秀吉をして「百万の大軍を預けてみたい」とまでいわせた男です。
そうとうのやり手だったことは間違いありません。
また太谷刑部の肖像画や大河ドラマなどで頭巾をかぶり白いマスクというか布で顔をおおっていますが、これはハンセン病に羅漢していたためだと伝えられています。
天正十二年二月、京洛で「千人斬り」とよばれる事件が起き、吉継が犯人ではないか?と疑われます。容疑は晴れまして無罪であったのですが、「悪瘡(あくそう・らい病・ハンセン病)」を直すには千人の血を舐めることだ(『宇野主水日記』)が容疑理由とされました。
真犯人は未だに明らかになっていませんが、特筆すべきは市井(しせい・民間人)のひとが太谷吉継のハンセン病を知っていたことです。この頃には市井のひとが知るほどハンセン病の病はすすんでいたという証です。





石田三成(いしだ・みつなり)は安土桃山時代の武将である。
 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大坂城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大坂城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「バカのヤツよのう、三成!」福島正則は酒臭い顔で、酒瓶を持ちふらふらしながら彼を嘲笑した。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに、はははは」
 三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」と正則をきっと睨んだ。
「たわけ!徳川さまが三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、正則!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、徳川さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」福島正則は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「そうだ。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したのさ。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放った」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうだ?」
「いや、いらぬ」
 福島正則は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人や領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「へん。なんとでもいえ」福島正則は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「正則」
「なんだ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公と淀君様が危ないのだぞ!」
  福島正則は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、徳川さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そうか」
 正則は拍子抜けして去った。嘲笑する気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴だな」苦笑した。
 次に黒田長政がきた。官兵衛の息子・長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。
大河ドラマでは度々敵対する石田治部少輔三成と黒田官兵衛。言わずと知れた豊臣秀吉の2トップで、ある。黒田官兵衛は政策立案者(軍師)、石田三成はスーパー官僚である。
参考映像資料NHK番組『歴史秘話ヒストリア「君よ、さらば!~官兵衛VS.三成それぞれの戦国乱世~」』<2014年10月22日放送分>
三成は今でいう優秀な官僚であったが、戦下手、でもあった。わずか数千の北条方の城を何万もの兵士で囲み水攻めにしたが、逆襲にあい自分自身が溺れ死ぬところまでいくほどの戦下手である。(映画『のぼうの城』参照)*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。
三成は御屋形さまである太閤秀吉と家臣たちの間を取り持つ官僚であった。
石田三成にはこんな話がある。あるとき秀吉が五百石の褒美を三成にあげようとするも三成は辞退、そのかわりに今まで野放図だった全国の葦をください、等という。秀吉も訳が分からぬまま承諾した。すると三成は葦に税金をかけて独占し、税の収入で1万石並みの軍備費を用意してみせた。それを見た秀吉は感心して、三成はまた大出世した。
三成の秀吉への“茶の三顧の礼”は誰でも知るエピソードである。*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。

******
NHK大河ドラマ真田丸総集編第三章『栄枯盛衰』より
真田源次郎信繁(幸村)の顔を両手で包んで、茶々のちの淀君は悪戯な笑顔を見せて、
「あら。わりと好きな顔。」とふざけた。
「姫さま。いけません。」
乳母の大蔵卿局はいう。「あのもしかして…」
「もしかして?」
「……茶々さま?」
「そうです。あたり!あなたは真田なんとかという…」
「源次郎信繁(幸村)にございます!」
「不思議なことをいいます。わたしとあなたは運命がある。」
「……運命?」
「わたしとあなたは同じ同志として働き……そして同じ日に…死ぬのです。」
「……遠い未来のことと思いたい」
「では、源次郎。」
悪戯な笑顔のまま茶々は去った。
この信長の姪っ子で浅井三姉妹の長女(茶々・初・江)こそ秀吉の子供を二回も妊娠して運命の子・お拾い…豊臣秀頼を生むのである。
豊臣秀吉は徳川家康を懐柔し、四国、九州を平定し、北条攻めでついに天下人になる。
だが、子供は出来ない。わずかに茶々の生んだ鶴丸(夭折)、お拾い(のちの豊臣秀頼)のみである。しかし、晩年は認知症になったり、不満を爆発させての朝鮮出兵などを引き起こす。太閤秀吉は甥っ子の関白秀次を自害においこんだ。
真田源次郎信繁(幸村)は“左衛門佐(さえもんのすけ)”、真田源三郎信幸は“伊豆守(いずのかみ)”の官位を与えられた。
耄碌した秀吉をおぶって大坂城の天守閣まできた信繁に秀吉はいう。
「どうだ?これが豊臣の世の大坂じゃ。だが、まだまだだ。いずれは朝廷から天子さまをおつれして平清盛のようにしたかったが……わしは半分も成して…いない。」
「これで半分でございますか?!」
「源次郎。……わしの天下はすべては夢のまた夢じゃ。くやしいのう」
「殿下。……」
「わしは死にとうない。秀頼を頼むぞ、源次郎。死ぬのは…くやしいのう。」
「……殿下。」
 こうして豊臣秀吉は死んだ。享年六十二歳……
石田三成は決意していた。
……亡き太閤殿下や秀頼公のために徳川家康を討ち滅ぼす!
三成は悔し涙を流した。
「何故じゃ。豊臣家の為に豊臣政権のために尽力したこの石田三成が……何故怨嗟の的になるのじゃ?わしは……どこで間違った??!!源次郎。わしは…何処で間違った??」
「……石田さま。」
 源次郎は言葉を呑んだ。

 慶次は、尾張(おわり)国・荒子(あらこ)城二千貫の城主前田利久の養子だが、実父は織田信長の重臣で、「先駈(さきが)けは一益(かずます)、殿(しんがり)も一益」と謳われた猛将滝川左近将藍(たきがわさこんのしょうげん)一益の甥滝川義太夫益氏(たきがわぎだゆうますうじ)といわれる。
 これには奇説もあって、益氏の妻が懐妊したまま利家に嫁いで、生まれたのが慶次であるという。利久が懐妊を承知の上で迎えたというが、それが事実なら、彼女はよほどの美貌で魅力的な女性であったことだろう。
 慶次はよき若者に成長し、そのまま順調にいけば、義父利久の跡を継いで荒子城主となる筈であった。ところが、永禄十二年(一五六九)の晩秋、平穏な日の暮れを、まるで石つぶてを投じるように掻き乱し、突然、木っ端微塵に破壊したのは、他ならぬ織田信長である。
 信長が突然、利久に対して、
「前田家の家督を、お犬に譲れ」
 と命じたのだ(大河ドラマ『利家とまつ』参照)。
 青天の霹靂とは、このことであった。
 利久は言葉を失った。理不尽なとはいうものの、相手が信長とあってはどうにもならぬ。弟の犬千代こと又左衛門利家は、直情精悍(せいかん)、かなり傾いた荒小姓であり、信長は「お犬、お犬」と呼んでかわいがった。
 事実、又左右衛門は、弘治二年(一五五六)八月、信長の弟の末森城主信行と戦った尾張稲生(いのう)の合戦で、宮井官兵衛なる剛の者を突き伏せる殊勲をもって「槍の又左」と謳われ、赤母衣衆旗頭(あかほろしゅうはたがしら)とされているのだ。
 昨年、将軍足利義昭を擁して上洛したばかりの信長にしてみれば、足元を固める意味からも、凡庸な利久よりも、剛勇の又左衛門利家を荒子城主に据えたいと思ったのだろう。
「わしには、さしたる武功とて無いからな」
 義父利久が、あっさり諦めるのを、慶次は複雑な思いで聴いた。
(こんな馬鹿なことがあっていいのか…こんな理不尽がまかり通るのか、一体、俺の人生はどうなるのだ…)
 慶次は、いくたび自問自答したことか。
 信長の一語で、荒子城の前田家は混乱状態に陥った。
「兄者、思いもよらぬことになり申した。慶次、済まぬ」
 と困惑の面持ちであったが、利久は、
「御前の気持ちは分かっておる。気にすな」
「これからどうなさる。このまま荒子城におられても構わぬが…」
「いや、それでは信長さまの意に逆らうことになる。伊勢へでも参ろうと思う」
「滝川殿のゆかりの地へ?」
「うむ、そのほうが妻も気が安まろう」
 利久は、すでに完全に諦観(ていかん)の心境になっていた。妻女は城を去る時、呪詛(じゅそ)の言葉を吐き散らしていた。無理もない。何一つ不自由がなかった城主夫人から、一転して流浪の身になり果てたのだから。
 それは慶次も同様であった。
 陰気な顔している慶次に、義父母たちは腫れ物に触るような配慮を見せた。
(あなた方に罪はないのだ。お許しアレ。悪いのはあの信長だ)
 と内心で詫びながら、自身でもどうすることもできないのだった。
 
 前田慶次の人生は天正十年(一五八二)六月を境に、またまた急変する。いわゆる「本能寺の変」で、これまで不滅不動と思われた織田信長が自刃して果て、秀吉の天下となる。
 「槍の又左」こと弟の前田利家から加賀の金沢に来てくれないか。という誘いの使者が来る。別に喧嘩した訳でもないから利久ら家族は金沢にきた。金沢城主前田利家は、兄利久を隠居料七千石で迎えた。禄高は少なすぎる感なきにもあらずだが、戦塵を駆け抜けてきた譜代の家臣らの手前もあるから、まずは穏当といっていいであろう。
 慶次は「天下無双の傾奇者」として、あれは一万石、二万石の漢だ、という。だが、慶次の奇行は続く。
 叔父の前田利家には風呂だと称して、極寒の冬場に水風呂をお見舞いしてやった(歴史上の真実・作り話ではない)。
「叔父上、湯加減も宜しきようで…」
「うむ」
 利家、衣服を脱ぎ、いそいそと風呂場に入り、微かに湯気を漂わしている湯槽にざぶと入った。途端に「あっ!」と叫んだ。まったくの水風呂だったのだ。しかも冬場の寒い季節で湯気ではなく水が空気よりは温かいから煙ってただけだった。
「そのいたずら者を逃すな!」
 利家が怒鳴った時には、すでに自慢の駿馬「松風」に飛び乗った慶次が、ひと鞭くれて、一目散に行方をくらました後であった。
 
 慶次が漢(男)として惚れたのが上杉家執政でもある直江兼続と、藩主・上杉景勝である。だが、ホモじゃない。漢(男)と漢(男)として、その生き様に惚れたのだ。
「それがし前田慶次にござる」
 といい、上杉の城で土大根を三本、盆に乗せて慶次は「お土産に御座りまする」と差し出した。
「これは?」
 さすがに景勝が怪訝な顔をすると、慶次は待っていましたとばかりに、咳払いをしてから、
「この前田ひょっとこ斎慶次、これなる土大根のごとく、見かけはむさ苦しゅうござるが、噛めば噛むほどによき味が出て参りまする」
 と答えたのだ。すると思いもよらぬことが起きて、列座の重臣たちが驚いた。声なき驚きが大広間に波打った。驚くことに生まれてから一度も笑ったこともない景勝が笑ったのだ。
(殿がわらわれた!)
 重臣らが、一瞬、目を疑ったのも無理はない。実は上杉景勝という漢は、極端なまでに無口で、いつも脇差の柄頭に右手を添えた姿で、こめかみに癇癪の青筋を浮かべてぴくぴくさせている。ために外出の際など、駕籠廻りの者はもとより、誰ひとり、声を発したり、咳払いする者もなく、一行の足音のみ、ヒタヒタと聞かれたという。
 これは天才軍神であった叔父で、義父の上杉謙信を極限まで真似る為の景勝の悲運で、当然、もともと無口ではあったが、天才で無敗伝説までもつかの上杉謙信の義理とはいえ息子として同じように見られようとの景勝の緊張と存在意義での結果なのだった。
 だが、そんな景勝が笑った。これは驚きであったことだろう。
 しかも、執政の直江兼続まで笑っている。これは上杉家の家臣たちにとっては驚愕なことであったろう。
慶次も上杉家の家風をいたく気に入り、減封されて出羽米沢三十万石に落ちぶれた上杉家をたより、米沢で晩年まで過ごすことになる。
 次の歌は彼の詠句である。

 賤が植うる田歌の声も都かな

(参考文献『バサラ武人伝 戦国~幕末史を塗りかえた異能の系譜』『前田慶次編』永岡慶之助著作Gakken(学研)74~110ページ)


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真田幸村<真田丸>忠義の蒼い炎 真田幸村(信繁)大河ドラマ小説2

2017年10月08日 07時59分19秒 | 日記



































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NHK大河ドラマ真田丸総集編第一章『波乱万丈』より
時代は武田信玄死後七年後……長篠の戦いにやぶれて織田軍に攻められる武田勝頼である。北に上杉、東に北条、南に徳川、西に織田、この物見にいって馬でおいたてられ必死に逃げる青年はこれより33年後、大坂夏の陣で徳川家康を自害寸前までおいつめた希代の英雄・真田源次郎信繁(幸村)である。だが、今は只、恐怖に震えて逃げるのみである。
真田家は甲斐・信濃の武田家に従っていた。甲斐の虎・武田信玄を御屋形さまと慕っていた。だが、信玄の死後はふんだりけったりである。勝頼の叔父・木曽義仲も裏切り、武田軍師・穴山梅雪や軍師・真田安房守昌幸(幸村の父親)は今は新府城に戻るべき、という。
安房守は「新府城は難攻不落……武田家は滅びませぬ!必ずやこの安房守が御屋形さまをお守りいたしまする!」と剛毅だった。
だが、息子達には「武田は滅びるぞ」と呟く。
息子達(嫡名・真田源三郎信幸・長女・まつ・次男・真田源次郎信繁・妻・薫・母・とり)らは「しかし、武田は滅びぬ。新府城は難攻不落と?!!」と驚く。
「……誰がいったんだ。そんなこと。」
「父上が先ほど…!」
「とにかく武田家はもはやぼろの泥船!まずは居城岩糒(いわびつ)城で臥薪嘗胆じゃ。」
先に昌幸は岩糒城へ家臣と向かった。
真田丸というか真田家族は新府城を捨てて、岩糒城まで農民のなりをして向かった。
だが、途中に武田を裏切った小山田の家来らに命を狙われる。昌幸がたすけた。
武田勝頼は織田軍においたてられ自害……あの名門武田家は滅亡した。
真田昌幸は「北条か?上杉か?」と頭をめぐらせた。「くじで決めようか?信幸、信繁(幸村)?」「……しかし、そのような大事なことをくじで決めていいものでしょうか?」
「父上の策をおきかせくだされ!」
「策?そんなものはない。北条か?上杉か?……む?まてよ!そうだ!決めた!わしは決めたぞ!」
「何をにございまするか?!!」
「上杉でも北条でもない。わしは織田信長につくぞ!」
「え?!!しかし、織田につけばまっさきに上杉との戦になりまするぞ?」
「いいか!まずは大博打じゃ!織田信長………尾張のおおうつけに博打よ!」
「しかし、父上!」
真田安房守の意思はかたまった。
織田信長につく。
真田信繁(幸村)と父・昌幸はさっそく、織田信長に拝謁した。
織田信長はブーツにマント姿で圧倒された。
真田信繁(幸村)には村に好きなおなごがいた。幼馴染みのお梅(家臣・堀田作兵衛の妹)である。大河ドラマでは幼馴染みのきりにお梅への櫛の贈り物を渡させる設定だった。
しかし、そんな信長もすぐに本能寺の変で死んでしまう。死ぬというより、家臣の明智光秀に天正十年本能寺で暗殺されたのだ。徳川家康は伊賀超えで必死に三河に逃げた。
安房守は激怒した。「なんと!?!何故死んだ!あの憎らしい信長め!博打に負けた!」
「博打とは……。そういえば織田方の近江安土城には姉上(まつ)を人質にだしたままです。」
「救いに行かねば殺されてしまいます。」
「まさか!父上は明智につくので?!」
「そんな輩にはつかん!明智光秀の天下など三日天下よ。」
真田家族は馬を駆りまつを救いに行くが、敵に追い詰められたまつは崖から海に落ちて行方不明になる。
失意のまま戻った源次郎信繁(幸村)は、母・薫に責められる。
源次郎は涙を流しながらお梅に弱音を吐露した。
「愚痴を何も言わずきいてくれぬか?……わしは自分では軍略の才能があると思っておった。兄よりも機転が利き、策略に優れ、父・昌幸仕込みの策略で歴史を変え、ひとをすくう……。しかし、わしの軍略など実際の世界では何の役にもたたなかった。只、逃げて、流されて、……わしは無力じゃ。何の力も無い。わしは…無力じゃった」
「源次郎さま。……あなたが無力でもこのお梅があやういときにはどこからでもきてたすけにきてくだされ…」
「…お梅。」
ふたりは抱擁した。それは源次郎を崩壊からすくう抱擁であった。


つい前にNHKの大河ドラマ化されるまで「前田利家(まえだ・としいえ)」は日陰者であった。
 秀吉や信長や家康となると「死ぬほど」主人公になっている。秀吉は百姓出の卑しい身分からスタートしたが、持ち前の知恵と機転によって「天下」を獲った。知恵が抜群に回ったのも、天性の才、つまり天才だったからだろう。外見はひどく、顔は猿そのものであり、まわりが皆、秀吉のことを「サル、サル」と呼んだ。
 が、そういう罵倒や嘲笑に負けなかったところが秀吉の偉いところだ。
 利家は律義者で、策略はうまくなかったが、うそのつけない正直者で、信長に可愛がられた。秀吉の才能を見抜き、真の友として、一生支えたのもまた利家の眼力だった。
利家が尾張(愛知県)に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。
 利家の恩人、織田信長は尾張の守護代で、駿河(静岡県)の今川や美濃(岐阜県)の斎藤らと血で血を洗う戦いを繰り広げていた。
  信長は苦労知らずの坊っちゃん気質がある。浮浪児でのちの豊臣(羽柴)秀吉(サル、日吉、または木下藤吉郎)や、六歳のころから十二年間、今川や織田の人質だったのちの徳川家康(松平元康)にくらべれば育ちのいい坊っちゃんだ。それがバネとなり、大胆な革命をおこすことになる。また、苦労知らずで他人の痛みもわからぬため、晩年はひどいことになった。そこに、私は織田信長の悲劇をみる。
質実剛健の家風で知られる上杉家の中で、前田慶次郎は明らかに浮いていた。
紫と白の肩身替りの色鮮やかな小袖に、墨染めの革袴、首には十字架のついた金鎖をじゃらじゃらと下げている。
片手の中指には髑髏の金の指輪を嵌めて、近頃京で流行りのキセルをふかしていた。髪を南蛮人のように赤茶色に染めている。
直江山城守兼続を頼って加賀前田藩から会津の上杉家へきて一千石の家禄を与えられた。衣装や行動が突飛なだけでなく、慶次郎は歌道・華道・茶道・囲碁・将棋・能・笛・太鼓・琵琶・にも通じ、風流人であった。
 前田家を離れ、禄もなく、放浪の暮らしが長く、世話してくれる女房、子供がいないという慶次郎だが「嘘」である。加賀に妻と三人の娘がいる。
 上杉家には最上級士族の侍組の他に、馬廻組(先代謙信以来の直臣団)、五一騎組(上杉景勝の直臣団)、与板組(直江山城守兼続の直臣団)がある。
 あるとき慶次郎は林泉寺(上杉家の菩提寺)の和尚を殴りつけた。和尚は主君・上杉景勝の庇護の元、やや言い過ぎの横柄な態度をとったからだ。だが、家臣団は「和尚を殴るとは何事か!」と青ざめる。が、慶次郎は「主君・上杉景勝公も直江山城守兼続公もそんなことで腹をたてるケツの穴の小さい男ではないわい!」と喝破した。
 上杉家は酒を愛した先代謙信公以来、人との交わりには酒が欠かせない。酒を酌み交わし、はじめて仲間として認める気風である。慶次郎も酒豪であったという。慶次郎には加賀に置き去りにした妻子がいた。前田利家の次兄・安勝の娘を娶っており、三女の娘(長女・坂、次女・華、三女・佐乃)がおるが慶次郎出奔後、残された妻子は加賀金沢の地でひっそり暮らしていた。慶次郎は妻子のことをきかれる度に「忘れた。出奔後は、わしは生涯孤独だ」というばかりだ。
 戦国時代、十六世紀はどんな時代だったであろうか。
 実際にはこの時代は現代よりもすぐれたものがいっぱいあった。というより、昔のほうが、技術が進んでいたようにも思われると歴史家はいう。現代の人々は、古代の道具だけで巨石を積み、四千年崩壊することもないピラミッドをつくることができない。鉄の機械なくしてインカ帝国の石城をつくることもできない。わずか一年で、大坂城や安土城の天守閣をつくることができない。つまり、先人のほうが賢く、技術がすぐれ、バイタリティにあふれていた、ということだ。
 戦国時代、十六世紀は西洋ではルネッサンス(文芸復興)の時代である。ギリシャ人やローマ人がつくりだした、彫刻、哲学、詩歌、建築、芸術、技術は多岐にわたり優れていた。西洋では奴隷や大量殺戮、宗教による大虐殺などがおこったが、歴史家はこの時代を「悪しき時代」とは書かない。
 日本の戦国時代、つまり十五世紀から十六世紀も、けして「悪しき時代」だった訳ではない。群雄かっ歩の時代、戦国大名の活躍した時代……よく本にもドラマにも芝居にも劇にも歌舞伎にも出てくる英雄たちの時代である。上杉謙信、武田信玄、毛利元就、伊達政宗、豊臣秀吉、徳川家康、織田信長、そして前田利家、この時代の英雄はいつの世も不滅の人気である。とくに、明治維新のときの英雄・坂本龍馬と並んで織田信長は日本人の人気がすこぶる高い。それは、夢やぶれて討死にした悲劇によるところが大きい。坂本龍馬と織田信長は悲劇の最期によって、日本人の不滅の英雄となったのだ。
 世の中の人間には、作物と雑草の二種類があると歴史家はいう。
 作物とはエリートで、温室などでぬくぬくと大切に育てられた者のことで、雑草とは文字通り畦や山にのびる手のかからないところから伸びた者たちだ。斎藤道三や松永久秀や怪人・武田信玄、豊臣秀吉などがその類いにはいる。道三は油売りから美濃一国の当主となったし、秀吉は浮浪児から天下人までのぼりつめた。彼らはけして誰からの庇護もうけず、自由に、策略をつかって出世していった。そして、巨大なる雑草は織田信長であろう。 信長は育ちのいいので雑草というのに抵抗を感じる方もいるかもしれない。しかし、少年期のうつけ(阿呆)パフォーマンスからして只者ではない。
 うつけが過ぎる、と暗殺の危機もあったし、史実、柴田勝家や林らは弟の信行を推していた。信長は父・信秀の三男だった。上には二人の兄があり、下にも十人ほどの弟がいた。信長はまず、これら兄弟と家督を争うことになった。弟の信行はエリートのインテリタイプで、父の覚えも家中の評判もよかった。信長はこの強敵の弟を謀殺している。
 また、素性もよくわからぬ浪人やチンピラみたいな連中を次々と家臣にした。能力だけで採用し、家柄など気にもしなかった。正体不明の人間を配下にし、重役とした。滝川一益、羽柴秀吉、細川藤孝、明智光秀らがそれであった。兵制も兵農分離をすすめ、重役たちを城下町に住まわせる。上洛にたいしても足利将軍を利用し、用がなくなると追放した。この男には比叡山にも何の感慨も呼ばなかったし、本願寺も力以外のものは感じなかった。 これらのことはエリートの作物人間ではできない。雑草でなければできないことだ。
  信長の生きた時代は下剋上の時代であった。
「応仁の乱」から四十年か五十年もたつと、権威は衰え、下剋上の時代になる。細川管領家から阿波をうばった三好一族、そのまた被官から三好領の一部をかすめとった松永久秀(売春宿経営からの成り上がり者)、赤松家から備前を盗みとった浦上家、さらにそこからうばった家老・宇喜多直家、あっという間に小田原城を乗っ取った北条早雲、土岐家から美濃をうばった斎藤道三(ガマの油売りからの出世)などがその例であるという。
 また、こうした下郎からの成り上がりとともに、豪族から成り上がった者たちもいる。三河の松平(徳川)、出羽米沢の伊達、越後の長尾(上杉)、土佐の長曽我部らがそれであるという。中国十ケ国を支配する毛利家にしても、もともとは安芸吉田の豪族であり、かなりの領地を得るようになってから大内家になだれこんだ。尾張の織田ももともとはちっぽけな豪族の出である。
 また、この時代の足利幕府の関東管領・上杉憲政などは北条氏康に追われ、越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃げてきて、その姓と職をゆずっている。足利幕府の古河公方・足利晴氏も、北条に降った。関東においては旧勢力は一掃されたのだという。
 そして、こんな時代に、秀吉は生まれた。
  その頃、信長は天下人どころか、大うつけ(阿呆)と呼ばれて評判になる。両袖をはずしたカタビラを着て、半袴をはいていた。髪は茶せんにし、紅やもえ色の糸で巻きあげた。腰にはひうち袋をいくつもぶらさげている。町で歩くときもだらだら歩き、いつも柿や瓜を食らって、茫然としていた。娘たちの尻や胸を触ったりエッチなこともしたという。側の家臣も”赤武者”にしたてた。
 かれらが通ると道端に皆飛び退いて避けた。そして、通り過ぎると、口々に「織田のうつけ殿」「大うつけ息子」と罵った。
  一五五二年春、信長のうつけが極まった頃、信長の父・信秀が死んだ。
 
真田信繁、通称幸村が生まれたのは一五六七(永禄十)年、真田昌幸の次男として生まれている。真田源次郎信繁、兄は真田源三郎信幸である。
その頃、信濃(現在の長野県)・甲斐(現在の山梨県)の戦国大名は怪僧・武田信玄である。だが、信玄入道は天下統一を前に病死してしまう(結核)。
後継者は武田信玄の息子・武田勝頼であった。
一五七五(天正三)年には徳川家康と織田信長との連合軍と武田勝頼が合戦となった。世にいう“長篠の戦い”である。信長の三段構えの銃口の前に武田軍騎馬隊は大敗北、である。
真田昌幸と同僚の穴山梅雪は「武田は名門、織田軍が二〇万といえど負けませぬ」という。
だが、武田軍はどんどんと裏切り者が多くなる。いち早く裏切ったのが武田の重臣・穴山梅雪でもあった。
「武田は負けるぞ。」真田昌幸は幸村や兄の信幸にいった。
「な?武田は負けぬと…」
「誰が言ったんだ、そんな馬鹿な事」
「父上自身が…」
「忘れた」昌幸はにやりとなった。
昌幸は「御屋形さま、どうか真田の城へ!拙者らが守りまする!」
だが、武田勝頼は家臣に騙され、さすがの信玄の武田家も三月には滅んでしまう。
武田勝頼は惨めな片田舎の寺で切腹、織田方徳川方に首を晒された。
昌幸は本城である岩櫃(いわびつ)城にいて、後から落ち武者のように岩櫃に逃げた息子の信幸・幸村らを迎えた。
昌幸は幸村・信幸ら息子に、「お前ら北の上杉景勝か南の北条か、どちらをとる?」ときく。
信幸は「上杉かと」
幸村は「いや北条も徳川もあなどれませぬ」という。
が、戦国一の軍略家の真田昌幸は「われらは織田信長につくぞ」という。
「えっ?!」息子たちは驚くしかない。
だが、「確かに織田信長の勢いは破竹の勢い、父上の戦略はごもっとも!」幸村は頷いた。
そして「わたしを織田への使者のひとりに加えてくだされ、父上!」
「そうか信繁。そちも第六天魔王織田信長をみたいか?」
「はっ!織田信長は現在信濃の諏訪の法華寺(ほっけじ)にいるとか…今なら織田信長に接見できまする。あの長篠の奇策、近江での楽市楽座、興味がありまする!」
「よし!信繁、共にいこうぞ!真田の博打じゃ!」
「はっ!」
こうして真田昌幸と真田信繁(幸村)は織田信長と接見した。
唖然とした。ブーツを履いて伴天連の洋服を着て、ワインなる洋酒を飲んでいる。
徳川家康はそれに従っている。惨めなのは明智光秀である。
家康の接待役でしくじり、信長の逆鱗に触れボコボコに殴られ、寺の柱に頭を打ちつけられ血だらけになった。「お許しを!お許しを!」
「光秀!貴様!」
「…信長殿、もうその辺で…」
家康は光秀をかばった。その様子を真田信繁や父親・昌幸は唖然と眺めた。
………織田信長は狂人ぞ。
その数か月後、光秀は挙兵、「敵は本能寺にあり!」。
本能寺で信長は天下を目前に討たれて死んだ。享年四十九歳。
昌幸は上杉、北条を経て、家康に従属するはめになる。
一五八三(天正十一)年には真田昌幸によって信州上田城の築城が始まった。
上杉に人質に行った真田信繁(幸村)はふたたび家康に、そして天下人・羽柴(豊臣)秀吉への従属を決めるのである。
秀吉方についた真田一族ではあるが、秀吉死後は後述通りの武勇をみせ、関ヶ原の合戦では上田城で徳川秀忠の本陣軍をこてんぱんにし、西軍敗北後は九度山に数十年蟄居、大坂冬の陣、夏の陣で幸村は最後には日の本一の兵(ひのもといちのつわもの)と呼ばれることになる。
それは本編でお楽しみあれ。
真田丸「第1話」のあらすじ(インターネット内『ネタバレ』より)
大河ドラマ「真田丸」の物語は、武田家が滅亡する場面から始まります。
1582年1月、武田勝頼に臣従しており、武田信玄の娘を正室に迎えていた木曽義昌が、織田信長に寝返ります。
危機を迎えた武田勝頼は、諏訪・上原城に一族筆頭の穴山梅雪、親族衆の小山田信茂、家老筆頭・跡部勝資などを集めて軍議を開きますが、その席にて真田昌幸が「一旦、新府城に引いて様子を見るべき」と進言します。
そして、真田信幸に一足先に新府城に戻り、徳川家康の様子を探れと言いつけます。
真田家も武田家に忠節を誓う為、新府城に人質として、真田昌幸の妻・薫と、母・とりを出しており、その屋敷には、真田昌幸の長女・松と、その夫・小山田茂誠も訪問していました。
この頃、真田信繁は甲斐南部にて徳川勢の動きを探っており、夢中になりすぎて、矢沢頼幸(矢沢三十郎)の制止も聞かず、深追いしてしまい、危ないところをなんとか逃げてきました。
真田昌幸は、高梨内記らと新府城の真田家屋敷に入りますが、武田を裏切った木曽義昌の妻子が処刑されたと聞いた、薫らは心配顔です。
そのため「この真田昌幸がいる限り、武田が滅びる事はない」と言い、安心させます。
しかし、真田信幸と真田信繁を呼び部屋に籠ると、真田昌幸は「武田は滅びるぞ」と打ち明けます。
織田信長の軍勢は、長篠の戦いの時とは比べものにならないほど、既に強力な兵力となっているのをわかっていない真田昌幸ではありませんでした。
そして、新府城を捨てると心の内を話します。ご承知の通り、新府城はまだ未完成だったのです。
それからほどなく、2月25日に武田親族筆頭の穴山梅雪が、人質となっていた家族を密かに逃がして、徳川家康を通じて内通し、徳川勢の甲斐侵入を手助けしました。
驚いた武田勝頼は、重臣を集めて軍議を開き、真田昌幸は、自分の居城・岩櫃城にて再起を図ろうと説得します。
その賢明な説得に武田勝頼は応じて、真田昌幸らは準備の為、先に岩櫃城へと向かいます。
しかし、跡部勝資と小山田信茂らは、真田昌幸がいないことをいい事に、小山田信茂の岩殿城へと武田勝頼に促します。
武田勝頼は、まだ新府城の屋敷に残っていた真田信幸と真田信繁に「岩殿城に行く」ことを明かし、人質らと岩櫃城へ逃れよと言います。
こうして、真田信幸と真田信繁は、母・薫と、祖母・とりなどを連れて、岩櫃城を目指しますが、忍者の佐助には書状を託して先に岩櫃城へと向かわせました。
そして、真田信幸と真田信繁ら一行は、武田勝頼を見送ったあと、火が放たれた新府城をあとにして、一路、岩櫃城を目指したのです。
岩殿城を目指す武田勝頼は、その途中、高島城の落城と言う知らせが届いたりする度に、家臣の離反が相次ぎ、600名した供はいつしか100名程度になっていました。
先に岩殿城に赴いて準備をすると言った小山田信茂も、笹子峠を封鎖して、武田勝頼を裏切ったのです。
真田丸「第2話」のあらすじ
第2話は、真田信幸と真田信繁は、母・薫と、祖母・とりらが、困難を乗り切って、岩櫃城へ逃れる話からとなります。
史実でもこの逃避行は、苦労があったとされています。
真田丸の話のなかでは、途中、百姓の落ち武者狩りにあいます。
その頃、岩櫃城の真田昌幸のもとには、武田勝頼が小山田信茂の岩殿城へ向かったと言う知らせが届いていました。
真田信繁の一行には、命を受けた小山田八左衛門が現れて、捕えようとします。
一方、小山田信茂に裏切られた武田勝頼一行は、田野にて最後の力を振り絞って滝川一益勢と戦うも、すでに40名ほどしかおらず、自刃して果てました。
「御屋形さま!……いえ、お父上さま、申し訳ありません!」
武田勝頼は亡き武田信玄の亡霊に涙で詫びると切腹します。
「ごめん!」
介錯の部下が首を落とすと、あの武田家は滅亡するのでした。
その夜、武田信玄の亡霊が真田昌幸のもとに現れますが、何も言わずに消え、佐助が悪い知らせを届けにきました。
「武田勝頼さまご自害!武田家滅亡!また信繁(幸村)さま信幸さまとりさまら危うし」
「何っ?!」
真田信繁の一行に同行していた小山田八左衛門は、ついに刀を真田信幸らに向けますが、そこに手勢を率いた真田昌幸が到着し、小山田八左衛門らは逃走します。
甲斐善光寺にて織田信忠に臣従を誓った小山田信茂は「主君を裏切った不忠者」として斬首を言い渡されます。「……そ、そんな……馬鹿な…ひいいっ!」
「信繁、信幸、上杉と北条どちらがいいと思う??」
「上杉もあなどれませんぬなあ」
「いや、やはり北条では?」
「いや!…わしは織田信長じゃと思うのじゃ。上杉は謙信が死んだ。北条はまだ織田勢に対抗できない。織田信長こそ天下にもっとも近い!!織田じゃぞ!」
岩櫃城に戻った真田昌幸らは、上杉景勝を頼るか、北条氏直につくか、思案しますが最終的に織田家に臣従する道を選びます。
真田丸「第3話」のあらすじ
岩櫃城では、真田昌幸が矢沢頼綱のジイと、真田信尹らが今後の事を議論した。
真田昌幸は、小県の国衆を調略しようと考えている。
徳川家康は激戦となった高遠城に入り、仁科信盛が自害した場所に、本多忠勝・本多正信と共に手を合わせた。
信濃の国衆である出浦昌相(出浦盛清)と室賀正武も、真田屋敷に集まって織田信長につくのか議論となった。
一方、真田信繁は、真田の地侍である堀田作兵衛を訪ねようとすると、そこに高橋内記の娘・キリがやってきた。
真田信繁は、堀田作兵衛の娘・梅がお気に入りで、キリに「櫛」を渡してほしいと頼むのだが、キリは直接渡せばと、真田信繁の手を引っ張って梅のところに連れて行った。
真田信繁は照れてしまい、なかなか櫛を渡せずにいると、梅が「お土産だって」と勝手に櫛を見せる。
しかし、櫛はお梅のは上等なものだったが、キリに渡したものは安物だった。
さて、真田昌幸は、上杉景勝への密書を届けるように、真田信幸に託す。
さっそく、真田信幸は妻・こうを呼び、旅支度をすると、佐助と共に越後へと向かった。
この動きは、忍びを放っていた出浦昌相にすぐさま報告される。
真田信繁らは、隣村から薪を切りに来た現場を見つけると、堀田作兵衛や梅らと退治するが、梅と真田信繁が親しげにしているのをキリは気に食わない。
皆で山を下りていると、林の中から疲れ切った小山田茂誠が出てきた。
真田信幸らは出浦昌相と室賀正武らの忍者らに襲撃されて、上杉家への密書を奪われてしまい、佐助は怪我をしてしまう。
真田屋敷に戻った真田信幸は、父・真田昌幸に詫びて、すぐに取返しに行くと言ったところに、密書を奪った室賀正武がやってくる。
実は、手紙の内容は、上杉景勝から寝返りの打診を受けた返書と言う内容だったのだが、そもそも、上杉家からそのような話は届いていない。
要するに、真田昌幸が上杉景勝への返事の手紙を偽装し、わざと奪わさせて、その手紙の内容を信じている出浦盛清が織田信長に通告するよう仕向けたのです。
これで、織田信長に「真田昌幸は、ほうぼうから声が掛かると言う注目すべき武将なのか?」と思わせる作戦だったのです。
怪我をしたはずの佐助も、ぴんぴんした様子で現れては、真田昌幸から賞賛を得ると、また風のように去っていきました。
さて、小山田茂誠の取り扱いに困った真田信繁は、兄・真田信幸を堀田作兵衛の家に連れて行き、小山田茂誠に合わせます。
真田信幸は、小山田茂誠に対して切腹するよう迫りますが、小山田茂誠の妻で、真田信幸らの姉でもある松が、かばいました。
翌日、織田信長より真田昌幸に対して参上するようにとの連絡が届き、生きて帰らなかった時は、頼むと真田信幸にあとを託して行くのでした。
真田丸「第4話」のあらすじ
第4回は、いよいよ、真田昌幸と真田信繁が諏訪の法華寺にて織田信長に対面します。
廊下の向こうからは、少し先に織田家に臣従した室賀正武がやってきたので「密書を奪ったのはお主か?」と知らない素ぶりを演じた。
待っている間、真田信繁は織田勢の武器などを見て回り、感心していると、これらは徳川の物だと指摘された。
その武将は、徳川家康と本多忠勝であったが、真田信繁はまだ2人が誰なのかはわかっていないところに、父・真田昌幸がやってきて、徳川家康らと挨拶を交わした。
「これは徳川家康さまに本多忠勝さま」
「お主は?」
「あ、しっけい。みどもは真田安房守でござる。こちらは次男の信繁(幸村)」
「あ!申し訳ござらん。徳川家康さまとは存じませんで…」
「いやいや。」
「息子が失礼を」
「いやいや。ほう。そちが武田の軍師じゃった真田安房守昌幸殿か?」
「ははっ。」
「……徳川は滅亡した武田には散々困らされた。三方が原の戦いでは武藤喜兵衛というものがいて軍師でのう。散々討ち負かされたのう。御存じないか?」
「武藤喜兵衛???はて?存じませぬなあ」
真田昌幸は徳川家康に、織田信長への貢物の相談を行うが、かつて三方が原の戦いにて「武藤喜兵衛」と言う武将から手痛い目に会ったと話題を変えられた。
しかし、その頃、武藤喜兵衛と称していた真田昌幸は「存じませぬな」と、答える。
滝川一益に案内されて部屋に入ると、まず、織田信忠と徳川家康が入ってきて、織田家へ臣従する書状と、例の上杉家に出した書状を見せて、上杉に臣従するつもりだったのではと質問をしてきた。
これに対して真田昌幸は「方便でござる」と涼しげに答え、真田のような小勢力が、上杉から攻められないための布石であると弁明し、織田信長によって我らを守り抜いてもらわねば困ると言います。
徳川家康は、わざと偽の手紙を上杉に出したのではと疑い、直江兼続に確かめるぞと脅すが「確かめたければ確かめればよい」と真田昌幸も引かなかったことから、徳川家康は勘違いであったとこの場を収め「さすが武勇を馳せた武藤喜兵衛である」と称賛した。
そこに織田信長が入ってくると、一言「よき面構えじゃ」と一言放ち、真田昌幸の織田家臣従が認められた。
こうして、真田昌幸は滝川一益の配下に加わり、岩櫃城と沼田城は織田家に差し出すよう言われる。
また、安土城へは誰を人質に出すかの議論も始まる。
そして、滝川一益は、小県の国衆のまとめ役に、真田昌幸を指名する。
しかし、京では天下を揺るがす大事件が起きようとしていた。
真田丸「第5話」のあらすじ
「敵は本能寺にあり!」
明智光秀は馬上で叫んだ。いわゆる本能寺の変である。
水色ききょうの軍勢は本能寺の織田信長を襲い、討ち負かした。
織田信長の天下取りの野望はこれでついえた。信長享年四十九歳……
1582年6月2日、明智光秀による謀反で、織田信長が本能寺の変で命を落としました。
武田勝頼が自刃してから僅か3ヶ月後の事です。
また、織田信忠も二条城にて明智勢と戦い、自害して果てました。
この時、堺を遊覧していた徳川家康は人生最大のピンチに立たされます。
大坂・堺から本拠地・岡崎城に戻るにしても、京は明智勢がおり、海は海賊と進む道がありません。
一緒にいた穴山梅雪は単独で琵琶湖付近から東へ進む道を選択しますが、徳川家康は、付き従っていた石川数正、本多忠勝らと伊賀を越えて行く事になりました。
「悪党ども案内せよ!服部半蔵、この家康、岡崎の城まで逃げるぞ!」
「はっ!この半蔵におまかせを!まずは走りましょう!」
「あ?」
「岡崎城まで駆けて逃げのびるのです!」
「え?そうか。仕方ないのう…」
この頃、人質として松を届けるため、安土城下に滞在していた真田信繁は、京で変事があったことを知ると、小山田茂誠に松を託して、矢沢頼康(矢沢三十郎)と共に京に行ってみて何があったのか確かめる事にします。
まだ、本能寺の変を知らない真田の里では、高橋内記は娘・キリを真田家へ奉公に出し、将来、真田信繁に嫁いでくれる事を願っていると伝えます。
徳川家康は伊賀に縁がある服部半蔵の手助けもあり、命からがら岡崎城へ入りました。
真田昌幸は、京から戻った薬売りからの情報で、本能寺にて織田信長が討たれた事を知ると、そこに明智光秀からの使者が書状を届けてきます。
そして、真田昌幸は、他の国衆ヘの書状はすべて燃やし、急ぎ召集をかけました。
京にて明智光秀の謀反を知った真田信繁は、安土城の姉上が危ないと悟ります。
収集した国衆からは、織田家についた真田のせいだと言う意見もでるが、真田昌幸は上杉景勝に臣従すると言い、既に向かわせていた真田信尹は、上杉景勝から快諾を得ていました。
安土城では、松を探し出しますが、一緒に捕われている20名ほどの女性と一緒に逃げると言い、明智勢に包囲されると真田信繁は井戸の抜け道を見つけて安土城の外に逃れます。
真田丸「第6話」のあらすじ
本能寺の変から2日経過し、安土城下は明智勢に占拠されます。
真田信繁ら20数名は、琵琶湖近くの小屋に潜んでましたが、子供が泣きだし、明智の兵に見つかったしまいました。
真田信繁は応戦して人質らを逃がしますが、明智の兵は松を必要に追いかけます。
崖に追い詰められた松は、身を投げてしまい、真田信繁は矢沢頼康(矢沢三十郎)と佐助と共に信濃を目指して逃れます。
前橋城に呼ばれていた真田昌幸は、滝川一益からの人質要請に応じ、一刻も早く明智光秀を討つように促します。
現時点ではまだ織田についている以上、滝川一益に頑張ってもらわないと困るからですね。
信濃を目指していた真田信繁は、信濃から脱出を図る森長可と出浦昌相らに遭遇します。
真田昌幸は、滝川一益を上野から追い出したら、北条氏直に臣従しようと国衆らと意見が一致します。
真田信尹も、小田原城にて北条氏政・北条氏直と面会します。
滝川一益への人質は「とり」に頼むことになり、沼田城へはキリも同行して送られました。
山崎の戦いにて羽柴秀吉(豊臣秀吉)が明智光秀を早くも討ち果たすと、北条家は5万の大軍にて上野へ侵攻するのです。
真田丸「第7話」のあらすじ
1582年6月18日、神流川の戦いにて総崩れとなった滝川一益は、箕輪城へ退却します。
真田昌幸は、とりが人質になっている沼田城を奪還しますが、とりが行方不明で見つかりません。
沼田城を矢沢頼綱に任せて、岩櫃城へは真田信幸を向かわせ、真田昌幸は箕輪城を目指します。
夜になり、真田昌幸と真田信繁が箕輪城に入ると、滝川一益は「よう来てくださった」と援軍と勘違いします。
滝川一益が伊勢に逃げると言うなか、人質の居場所を確認しますが、その後、滝川一益は沼田城と岩櫃城は真田昌幸に返そうと思うと言い、拍子抜けします。
滝川一益らが小諸城に到達した時に、人質を奪い返そうと考えますが、ちょうどその頃、滝川一益の家臣・長崎元基(長崎元家)が、沼田城などが武力によって真田昌幸に奪還されていたことを告げます。
そして、計画通り、小諸城にてとりやキリを救出しようとした真田信繁ですが、逆に滝川一益らに捕まってしまいます。
真田丸「第8話」のあらすじ
北条氏直の大軍は碓氷峠を越えて信濃へ侵攻。徳川家康は甲斐へと入った。
真田信繁は、真田信尹に従って春日信達との交渉に挑むも、感触は良くない。
春日信達の寝返りを手土産にしようと考えていた真田昌幸であったが、北条氏直が小諸城に入ったため、もう待てず北条氏直に臣従の挨拶へと向かった。
北条氏直の機嫌が悪い中、小田原城からやってきた北条氏政の取り成しで事なきを得る。
ところが、真田昌幸が北条家に寝返ったことが早くも上杉景勝の知る所となり、真田信尹と真田信繁は呼び出され、直江兼続から鋭い視線を浴びる中、自分たちは上杉に臣従すると言うしかなくなる。
真田丸「第9話」のあらすじ
北条家の殿(しんがり)として真田の郷に残った真田昌幸は、生き残るために懸命に知恵を絞るのだった。
織田家は退き、北条家は矛先を変えて徳川家を攻めているが、上杉景勝は動かない。
したがって信濃はぽっかりと空き、そこで真田昌幸は大名なしの国衆が治める国を目指そうとしていた。
反目していた室賀正武とも手を結び、小県の国衆はまとまり始める。
「真田昌幸!この信濃の岩櫃などや信濃・上野・沼田・東北部を頼む!」
「………あいわかった!」
甲斐に進出した徳川家康は北条氏直に攻められ、本多正信の進言で、真田家と手を結ぶことを決めた。
約定は信濃一郡と上野の沼田城を真田領として進呈すること。
これによって真田昌幸は北条家から徳川家に寝返る。
軍議の場では真田信繁の「甲斐を攻める北条の兵站を断つ」という策が、真田軍が小諸城を押さえることで成功した。
「北条に泡を食わせ、徳川に恩を売る」ことができ真田屋敷に凱旋したところで、急を知らせる書状が届く。
なんと今度は徳川家が真田家との約束を反故し、北条家と和睦して甲斐・信濃・上野・沼田を両軍で分け合うという約定を結んだのである。
そこには真田の領地も含まれていた。
「……何っ?!徳川と北条が和議を結んだじゃと???」
「父上!」
室賀が「話が違うではないか?昌幸!」
「しかし、徳川と北条が和議を結ぶなど誰にも考えられないかと」
「黙れ、小童(こわっぱ)!」
室賀は信幸を一喝しました。
真田丸「第10話」のあらすじ
ここで真田信繁は三河の徳川家康、越後の上杉景勝と面会することになります。
まずは徳川家康ですが、約定を反故にされたことに対する抗議とともに、上杉領の虚空蔵山城への楔として小県の上田平に城を築くに当たり、徳川家に負担してもらうというものです。
兄である真田信幸と共に使者に出向き、見事に城の普請の了承を得ます。しかし一方で沼田城を北条家に譲るように迫られるのです。
沼田は真田領の要であり、沼田城は真田昌幸の叔父である矢沢頼綱が城主を務めています。
当然ながら、北条氏直に譲ることに真っ向から反抗したため、やがて北条氏邦らに攻められます。
そんな沼田城の戦を終わらせるべく、真田信繁は続いて上杉家へと向かうのです。
「よくものこのこ上杉にこられたものじゃのう?真田信繁!」
直江兼続は一喝します。
今まで黙っていた上杉景勝は家臣に薙刀の鋭い刃で四方八方から狙われてもなお平伏している真田信繁に興味を持った。
「刃をおさめよ!やめーい!」
景勝がいうと家臣たちは刃を収める。
「よくのこのこ上杉の春日山城までこれたのう?真田は上杉ではなく北条や徳川につくのではないのか?」
「いいえ。めっそうもありません!」
「ならば上田城築城は?上杉への備えではないのか?」
「いえ!上田城は徳川への備えであります!」
「なに?しかし、築城しているのは徳川ではないか?」
「そうです。敵に作らせ、そしてその敵の備えとする。我が父・昌幸の策であります」
「……ほう。気に入った!さすがは真田昌幸じゃ!」
「そこでご提案が御座います!」
「なんじゃ?」
「上杉さまには虚空蔵山(こむぞうさん)城で真田勢に勝つ芝居をして頂きたい」
「ん?」
「虚空蔵山城にて真田がこてんぱんにやられたときけば信濃・上野にいる北条軍は次は自分達だ、と恐れて逃げ出すでしょう。戦わずして勝つ、孫子の軍略です」
「……なるほど。わかった!」
普段笑った事もなかった上杉景勝がにやりとなった。「おもしろい。まるで謙信公じゃ」
上田城建築は上杉家への備えではなく、実は徳川家への備えであることを伝えます。
徳川にも北条にも屈しないという武士の意地だけではなく、虚空蔵山城での上杉対真田の戦芝居も提案しました。
上杉景勝は真田信繁を気に入り、その策にのって戦芝居で真田を破ります。
上杉の勢いを恐れた北条氏政は撤退を決め、沼田城は守られたのでした。
大活躍の真田信繁にはさらなる吉報が届きます。
梅が真田信繁の子を身籠ったのです。
「でかしたぞ、梅!」
「はい。信繁さま」
そして真田信繁は、梅に対して妻になってもらいたいと伝えるのでした。
捕虜となった真田信繁らは、滝川一益が木曽を抜ける際に、木曽義昌に譲ると言う条件で、無事に木曽を通って逃れた滝川一益であったが、既に羽柴秀吉による清洲会議の決着はついていました。
真田信繁ら人質は木曽福島城へと送られますが、木曽義昌はとりの姿を見ると平身低頭します。
「おばばさま。」
「三郎!お前、よくも恩義がある武田家を裏切りましたなあ」
「仕方なかったんじゃ。織田方につかねば木曽領は滅ぼされていましたもんで」
「ばばさま、木曽義昌さまとお知り合いで?」信繁は驚いて聞きます。
「ああ。こやつは信玄公の前でしょんべんを漏らしたのじゃ」
「まだ子供の頃でこわくてこわくて。その話はもうご勘弁を…」
「三郎!ばばはよいが信繁とキリは真田に還してはもらえんか?」
「しかし、ばばさま。織田勢や北条や徳川や上杉が怖いんじゃ。人質とは宝で、身の安全の為に必要なんです」
「三郎!お主はこのばばのいうことがきけないのか?」
「え?……いやあ…困りましたなあ」
とりは「大恩ある武田を裏切りおって」と木曽義昌を平手打ちし、人質を返すようにと要求し、真田信繁とキリだけは開放される事になりました。
真田昌幸は上杉景勝に会いに行き、上杉家から色よい返事をもらいますが、戻ると、とりを残して帰って来た真田信繁を叱ります。
そして、真田信尹と共に、現在、上杉家に味方している春日信達(武田家の名軍師・高坂弾正の息子)を調略して、北条家に願えさせろと命じるのです。
真田丸「第11話」のあらすじ
味方になると思ったら、敵につく、そんな真田家が邪魔に感じてきた徳川家康は、本多正信を介して真田昌幸の暗殺を計画します。
実行犯は真田昌幸の幼馴染にして競争相手でもあった、同じ国衆の室賀正武に命じました。
小県の惣代という餌をぶらさげられた室賀正武も苦悩します。
上田城が国衆のものではなく真田家のものであることが判明したからです。
真田昌幸もそんな室賀正武の気持ちの変化に気づきました。
そして、暗殺をするようにと仕掛けるのです。
さて、真田信繁と梅の結婚は周囲から認められていましたが、身分の差から正妻にはなれず、側室として向かい入れることになりました。
この場合、祝言は開かないのが当時の習わしでしたが、真田信繁は祝言を挙げたがり、母親である薫(山手殿)が猛反対します。
この機会を真田昌幸は室賀正武を成敗する好機として祝言を強行し、その宴にて見事、室賀正武を討ち果たします。
真田昌幸はこのとき「家来になれば許すが」と問いますが、室賀正武は「お主の家来にはならぬ」と答え、討たれました。
「父上、兄上??何故室賀殿が血だらけで縁側で息絶えているのですか??」
「信繁。室賀はわしを殺しにきたのだ」
「え???」
「それを父上が返り討ちにされた」
祝言を利用し、血で穢したことにもっとも怒り、泣いたのは真田信繁を慕っている「きり」でした。「ひどい!こんなことで祝言を血で汚すなんて…お梅ちゃん、信繁さん、あんたたちこんなんでいいの?大事な祝言を血で汚して…あんまりよ!」
「父上?兄上?」
「信繁、これが戦国ぞ」昌幸は諭すように言います。「これが戦国の世じゃ」と。
真田丸「第12話」のあらすじ
1584年、徳川家康は「小牧・長久手の戦い」豊臣秀吉に勝利します。
次に問題となるのは北条家との関係である。北条氏政は沼田城の問題で真田家と戦っている最中で、そのことで徳川家に助力を求めてきていた。
徳川家康に完全に不信感をもった真田昌幸は、またしても上杉景勝と手を結ぶことを決めたのである。
そこで上杉景勝は真田信繁を人質に出すように求めてくる。
真田信繁は矢沢三十郎を伴って春日山城に向かった。
そこで知った事実は上杉景勝がいかに義に厚い武将なのかということと、実質政治を取り仕切っているのは直江兼続であるということであった。
直江兼続は真田昌幸の本心を探ろうと、沼田城を上杉家に引き渡すようにと無理難題を突き付ける。
上杉景勝と真田信繁は漁民たちのもめ事を解決していく中で理解しあうようになり「お主のような子が欲しかった」と、上杉景勝に言わさせるまでになった。
これで沼田も小県も真田領として認めるという起請文を受け、真田家は本格的に徳川家と手切れとなり、上杉と手を結んだ。
「上杉は義の戦しかせぬ。上杉謙信公はよく弱きを助け強きを挫け!とおっしゃっていた」
「立派なお考えかと」信繁はいう。
「だが、もはや上杉には謙信公がいない…この景勝では謙信公と同じとはいかない」
「………」
「じゃが、上杉の義はけして滅びない!」
「その通り!」
「すべては義じゃぞ、信繁」
「ははっ!」
1585年、報復の為、徳川家康は7000の軍勢を上田城へ差し向けたため、上杉景勝は真田信繁が春日山城を離れて援軍として帰郷することを許す。
真田丸「第13話」のあらすじ
いよいよ第一次上田合戦(第1次上田城の戦い)が幕を開けます。
徳川軍は総大将に鳥居元忠、他に大久保忠世、平岩親吉という徳川二十四将の面々ら7000。
まずは神川まで進軍し、上田城の対岸に布陣しました。
真田昌幸は城下では大通りに乱杭を打ち込み、徳川勢の隊列を縦に長く伸ばす作戦に出ます。
そのとき、越後より真田信繁が戻り、布陣は理想通りとなりました。
ここで真田信繁は、初めて娘・すえと対面します。
真田信繁は、きりに伝えて、側室・梅から真田家の家紋である六文銭を受け取り、徳川勢を挑発して城下までおびき寄せる役を担いました。六文銭の旗を振り、高砂の歌で合戦が始まりました。うまく逃げて罠に誘い込む。そしてまた逃げて罠で徳川勢を罠の前までおびき寄せる。まさに天才軍師・真田昌幸の策でした。
作戦通り徳川勢の全軍が城下町に入り込み、隊列が細長くなったところを攻撃をします。
さらに二の丸まで迷路となっている道筋にて、鉄砲や矢で攻撃しました。
とどめは真田昌幸が率いる本隊が突撃し、徳川勢は撤退を開始。
戸石城からは真田信幸も追撃し、さらに出浦昌相が神川の流れを止めていた堰を切り、退却中の徳川勢は多くの犠牲者を出しました。
真田勢の大勝利で終わった戦でしたが、戦のさなか、梅が犠牲となってしまいました。
きりが、残された娘・すえを育てると、その亡骸に誓うのでありました・・。
「お梅!お梅―っ!」
信繁はお梅の遺体に泣いてすがります。
それを遠くでみていたキリも赤ん坊を抱いたまま号泣し、
「お梅ちゃん……この子は必ず私が立派に育てます!」と誓うのでした。


****
NHK大河ドラマ真田丸総集編第二章『表裏比興(ひきょう)』より
真田家は安房守の謀略でもっているようなものだった。
昌幸は徳川家康に従うふりをして海部淵(あまがふち)に城をつくらせる。
のちの上田城である。徳川家につくらせて真田家は次男の源次郎信繁(幸村)を上杉景勝の人質に出した。人質にいくまえに源次郎はお梅と祝言をあげたいといった。
源三郎信幸は「どこまでいっているのだ?」ときいた。
「どこまでとは?…なにをさしておっしゃっているのか…?」
「……く…口吸い……だろうなあ」
「それなのですがお梅の腹にはわしのややこがおりまする。」
「口吸いどころではないではないか!!お前はおとなしい顔をしてやることはやっておるのう。」
安房守は「腹にややこがいるなら祝言をあげるのは当然じゃあ!」と喜んだ。
だが、このお梅と源次郎信繁との祝言こそが謀略だった。
家康や本多信純に昌幸暗殺を耳打ちされた同じ国衆の室賀正武(むろが・まさたけ)を返り討ちにした。祝言でさそっての囲碁の刻での暗殺だった。
……ひどい!あんまりだわ。お梅ちゃんがかわいそう!
きりは泣いた。しばらくして、
源次郎信繁と源三郎信幸のふたりの息子は上田城から月を眺めながら感傷に浸った。
「兄上、わたしは不思議と室賀正武が暗殺されたとき、父上の謀略のすごさに感心してしまいました。怒りがなかった。……ですがそんなふうに思う自分が…好きになれません。…」
信繁は涙を流した。信幸は「悩め…悩め……われらは悩みながら走りに抜ける…以外には…道はない。悩め…源次郎。」
息子らは涙で月を眺めた。
越後の龍・上杉謙信の甥で、義理の息子の上杉景勝には「源次郎、お主のような息子を欲しかった」とまでいわれた。
だが、激怒する徳川方は上田城に七千の兵で攻めてきた。
真田は総勢で二千兵しかない。
だが、希代の名軍師・真田安房守昌幸は奇策縦横で謀略で徳川勢力を完膚なきまでに叩きつぶす。いわゆるこれが第一次上田合戦である。
だが、この合戦で、信繁は一度目の妻・お梅を失う。
お梅が戦死したのだ。「お梅-!お梅-!」信繁は遺骸にすがった。号泣した。
だが、時代はもはや羽柴筑前守……豊臣秀吉の世である。
あらゆる大名が関白豊臣秀吉の軍門に下った。
それは毛利家も島津家も上杉家もみんなそうである。
上杉家のつきそいとして信繁は大阪城にはいる。
ものすごい絢爛豪華で巨大な大阪城に圧倒された。
だが、源次郎信繁は冷遇された。
いよいよ徳川家康まで大阪城にいき秀吉に従うようになると真田安房守も考え出す。
「父上!すぐに大阪城にいき秀吉にあわれませ!」
「いや、源三郎!もっともっとねばって真田の値をつりあげるのじゃ!どうせ下につくならもっともっと真田の値段をつりあげて…」
するとばばさまがいう。
「人間は志が大事じゃ。志さえあれば生まれに遅いも早いもない。秀吉の下につくならめいいっぱい下手にでて、後で寝首をかく。人間は誠意が大事。じゃが、それ以上に謀略も大事。すべては策次第じゃ。策がなければ何も成らぬものぞ」
結局、真田安房守昌幸や息子の信幸は大阪城の秀吉に接見する。
だが、秀吉は安房守も甘く見ておいの秀次が接見した。
真田家は裏で激怒して、安房守は「わしは何処で間違った??!!何処で間違った?!教えてくれ!何処で間違った?!!」と狼狽した。
「父上は間違ってなどおりません!」
大谷刑部は大軍の徳川を破った安房守を“楠木正成の再来”と褒めた。
真田源次郎信繁(幸村)は秀吉に「殿下、……あの武勇に謀略に秀でた真田安房守を敵に回すのは得策ではありません」と恫喝する。
「ほう。…わしを恫喝するか。源次郎」
「はい。恫喝しまする。」
秀吉はにやりと笑った。「よかろう。安房守にあおう」
こうして真田家は豊臣家に従うことになった。
大河ドラマでは姉まつが出雲阿国の舞子になっていたのを見つけ、記憶喪失で、やがて記憶が戻り、まつが真田家へ帰ってくる設定だった。
だが、何にせよ、こうして真田家は豊臣勢力に従うことになった。



それからは羽柴(豊臣)秀吉の天下となり、豊臣配下で真田家は信州で臥薪嘗胆のような領地政治をします。
絢爛な大坂城や聚楽第で、豊臣秀吉は「わしが豊臣の秀吉じゃ」と笑顔でいう。
一同は平伏します。秀吉は家康にわしに従う芝居をしてくれと頼む。
秀吉にとっても真田は大事でしたが、一番気になるのはなんといっても徳川家康でした。
真田信幸は本多忠勝の娘・稲姫を正室に貰い受けます。
真田家が分水嶺のような運命の別れをされるのは秀吉亡き後の豊臣秀頼+淀君VS徳川家康の関ヶ原の戦いでありました。真田信繁(幸村)は大谷刑部の娘を正室にします。
真田信繁(真田幸村)は天下人となった豊臣秀吉の家臣となります。秀吉の正室は確かにねね(おねもしくは寧)ですが、天下人となった秀吉はさまざまな愛人を囲い、ついには信長の姪っ子の茶々(のちの淀君)を側室とします。真田は天下人に王手をかけた秀吉側につきます。徳川家康も秀吉側へ。後は奥州の伊達政宗と関東の北条氏政だけに。
当然ですが伊達政宗は豊臣秀吉の家臣となります。風見鶏ですから。
そして上杉景勝・直江兼続の上杉軍も徳川軍も毛利軍も伊達軍も北条攻めで秀吉軍は数十万の軍で北条軍の城を囲みます。本当の史実では軍師・黒田官兵衛が北条軍に和睦の使者としていくところですが、それは真田信繁(幸村)がいく。北条は小田原評定をするばかり。
結局は北条は白旗を上げて降伏、北条氏政は切腹、息子の氏直には出家の処分がくだります。茶々(浅井三姉妹の長女、次女が初、三女が徳川家康の正室になる江)は天下人となった豊臣秀吉の子供を孕みます。のちの秀頼の兄で夭折した鶴松です。
いままで秀吉の子供は誰もいませんでしたから年寄りの秀吉も寧も大喜びです。
ですが、茶々の子、鶴松は生まれて間もなく病死してしまいます。
秀吉の悲しみは大きかった。茶々も寧に抱擁され号泣します。
三成や加藤清正等が”水ごうり”で病気が治るように祈ったのが無駄になりました。
秀吉は千利休を切腹させ、朝鮮攻めを決行するなど狂っていきます。
秀吉は次第に認知症(ボケ)の症状が現れ出します。
真田信繁(幸村)らは寝小便をしたり、何度も同じ事を繰り返す秀吉に手を焼きます。
その課程で茶々(のちの淀君)は第二子を生みます。のちの秀頼です。秀吉はようやく出来た子供を喜びますが、やがて秀吉の最期が近づいてきます。秀吉は関白から太閤となって関白の座を譲っていた甥っ子の秀次に「日本を五つにわけてそのひとつを秀頼にくれぬか?」と頼みますが秀次は拒否。「…誰のおかげで…関白になれた?秀次!」
怒った秀吉は秀次やその一族を斬首の刑にします。その後、秀吉は上杉景勝と直江兼続に越後から会津百二十万石に転付して徳川家康を睨んでくれ、と頼むのです。
その後、秀吉は死んでしまいます。これこそ徳川家康が待ち望んだときでした。
秀吉在命中に五大老五奉行制度ができますが、徳川家康は次第に伊達政宗等と徒党を組み天下を狙います。石田三成は心底豊臣の味方でしたが、人望がなく、加藤清正、福島正則、黒田長政らに疎まれます。淀君も三成嫌い、でした。三成の盟友の大谷吉継はハンセン病でありながらも三成に挙兵を思いとどまるように説得しますが無駄でした。
関ヶ原の合戦は勃発してしまい、三成ら豊臣西軍は敗北します。
小早川秀秋の裏切りで、です。
いわゆる『犬伏の別れ』で、真田昌幸と信繁(幸村)は豊臣石田三成の西軍に。真田信幸は徳川家康東軍につきます。
結果はやはり、で、徳川家康東軍の勝利!これにより戦国最強と呼ばれた名軍師真田昌幸と信繁(幸村)は斬首になる筈でした。特にそれを望んだのは上田で散々討ちまかされた家康の息子・秀忠で、ありました。
ですが、真田信幸の嘆願で、昌幸・信繁親子と家臣は九度山に蟄居…となります。
九度山で数十年、昌幸は病死。その後、真田信繁(幸村)は大坂冬の陣、大坂夏の陣で、獅子奮迅の戦をして「日の本一の兵(つわもの)」と呼ばれあの家康をあと一歩で討死にするまで迫りますが不運かな討死して、まさに、伝説の男、と、なるのでした。
(大河ドラマ『真田丸』のネタバレから引用しました。真田丸ネタバレ引用は加筆しています。引用をお許しください。)








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小池新党・希望の党メッキはげる。自公と大連立で安倍首相退陣?後任は?

2017年10月03日 15時33分31秒 | 日記
































小池新党・希望の党のメッキが早くもはがれ始めた。

希望の党は民進党のコスプレでしかない。

希望の党が民進党を取り込んだのはひと(政治立候補者)とカネ(民進党の約100億円の政党交付金)なだけ。

小池さんが出馬しなければ政権交代選挙にならない。

小池さんは今回は衆議院選挙に出馬しないだろう。次の次の衆議院選挙でしかない。

小池さんは大統領級の地位の都知事のポストを投げ出さない筈。

都知事で実績を積んでからの出馬……チャンスがあればそのときの女性初の首相でしかない。

だが、自民党が圧勝すれば安倍独裁安倍傲慢が継続してしまう。

希望の党は100議席は獲り自公と大連立で、安倍首相は辞任し、後任は誰か?というシナリオだ。

野党はいまだに脆弱で、希望の党とか維新の党は野合……かなしいかなやはり自民党は組織票がすごい。

あくまで民主党・民進党・立憲民主党はやはり不幸だ。

そこには選挙対策ありきで、国家戦略も国家策略も何もない。

政治家は選挙で勝つことしか考えないし、官僚は利権ありき。誰も日本国家の戦略など頭にない。

こんなに空しいかなしい国家もない。

また、脱原発だ。ポピュリズムでしかない。

所詮はすべて政局であり、戦略がない。

日本人としてこんなにむなしい国家もない。高学歴・よい家柄だけ。

こんな国では駄目だ。谷内正太郎では軍師に足りないことすらわかってない。すべて政局ありき、だ。かなしいね。


緑川鷲羽改め上杉(長尾)景虎 2017/10/03

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