緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

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命のヴィザ 杉原千畝六千人の命のビザ映画『杉原千畝』記念ブログ小説3

2017年10月29日 08時06分21秒 | 日記



























年表[編集]
1900年(明治33年) - 1月1日、岐阜県加茂郡八百津町で生まれる。
1912年(明治45年) - 古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)を全甲(現在の「オール5」)の成績で卒業。
1917年(大正6年) - 愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高校)卒業、京城へ転居。
1918年(大正7年) - 京城府より上京、早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)予科入学。
1919年(大正8年) - 早稲田大学中退。外務省留学生採用試験受験に合格。外務省ロシア語留学生としてハルビンに渡る。
1920年(大正9年) - 朝鮮京城府龍山歩兵79連隊9中隊に一年志願兵(陸軍少尉)として入営。
1924年(大正13年) - 外務省書記生に採用。2月、満州里在勤命令。12月、ハルビン在勤命令。
1926年(大正15年) - 『ソヴィエト聯邦國民経済大観』を外務省より刊行。日露協会学校講師に任命される。
1932年(昭和7年) - 満洲国外交部特派員公署事務官(薦任六等)となる。
1933年(昭和8年) - 満洲国側書記官に任命される。
1934年(昭和9年) - 満洲国外交部理事官、政務局ロシア科長兼計画科長に任命される。
1935年(昭和10年) - 北満鉄道譲受交渉の満洲側の実務担当官として、対ソ連外交を有利な解決に導く。満洲国外交部依願退官後、外務省大臣官房人事課勤務、情報部第一課勤務を命じられる。菊池文雄(香川県志度商業高等学校校長)の長女・幸子と結婚。
1936年(昭和11年) - 日露漁業交渉の通訳官としてペトロパブロスクに着任、半年後モスクワ日本大使館二等通訳官に任命される。
1937年(昭和12年) - ソ連より杉原の入国拒否通告。フィンランドの在ヘルシンキ公使館へ転勤。
1939年(昭和14年) - 1月、リトアニアの在カウナス領事館・領事代理に任命される。
1940年(昭和15年)- 7月、領事館に救いを求めてやって来たユダヤ避難民等に同情し、本省の訓命に反して通過ビザを発給。外務省より領事館退去命令。8月29日領事館閉鎖。9月5日、カウナス駅より国際列車で退去、ベルリン経由にてチェコスロヴァキアの在プラハ総領事館に着任。
1941年(昭和16年) - 2月28日、ドイツ領の在ケーニヒスベルク総領事館勤務を命じられる。11月、ルーマニアの在ブカレスト公使館勤務任命、一等通訳官に任命される。
1943年(昭和18年) - 三等書記官に任命。
1944年(昭和19年) - 勲五等瑞宝章を受章
1945年(昭和20年) - ブカレスト郊外のゲンチャ捕虜収容所に連行される。
1946年(昭和21年) - ブカレストを発ち帰国の途につく。
1947年(昭和22年) - 4月、博多経由で帰国。6月7日、外務省を依願退職。
1969年(昭和44年) - イスラエル政府からヤド・バッシム勲章を授与される。
1981年(昭和56年) - ゲルハルト・ダンプマン『孤立する大国日本』にて杉原への献辞が掲載。
1985年(昭和60年) - イスラエル政府より日本人として初めてヤド・ヴァシェム賞を受賞し、「諸国民の中の正義の人」に列せられる。受賞メダルには、タルムードから引用された「ひとりの命を救うことは全世界を救うのと同じである」という句が刻まれていた。現在でも、エルサレム郊外のベート・シェメッシュの丘には千畝の顕彰碑が建っている。
1986年(昭和61年) - 7月31日、鎌倉市にて逝去(86歳)。
1990年(平成2年) - 6月30日、『六千人の命のビザ』の初版刊行。
1991年(平成3年) - 9月、リトアニア政府のヴィータウタス・ランズベルギス議長は、杉原の功績を讚えるため、ヴィリニュス(首都)の通りの一つを「スギハラ通り」と命名する。
1992年(平成4年) - 杉原幸子夫人の著書にもとづく『命のビザ』が、フジテレビ系列で放映。加藤剛と秋吉久美子の演技で、日本中で「杉原千畝」の名前が知られる。
1995年(平成7年) - 3月8日、岡崎市の度会隆広により、千畝にちなんだワインが、バチカンのローマ法皇、ヨハネ・パウロ2世に届けられる。
1996年(平成8年) - 8月26日、駐日ポーランド大使、ヘンリック・リプシッツより、幸子夫人にポーランド復興勲章のなかの「コマンドルスキ十字勲章」(三等)が授与される。
1997年(平成9年) - 映画『ビザと美徳』(千畝役は日系米人のクリス・タシマ)が米国で上演され、翌年、第70回アカデミー賞短編実写部門賞受賞。
1998年(平成10年) - イスラエルを初めに、日本(2000年)、ガンビア、グレナダ領グレナディーン諸島(2002年)、リトアニア(2004年)等、各国郵政省で千畝の記念切手が発行される。
2000年(平成12年) - 杉原の生誕百周年に当たり、杉原の業績をたたえる顕彰プレートが外務省外交史料館に設置される。顕彰プレートには、「勇気ある人道的行為を行った外交官杉原千畝氏を讃えて」等の文言が記載されている。10月10日の除幕式には、イスラエル及びリトアニア各臨時代理大使、杉原幸子夫人らが参列するなか、当時の河野洋平・外務大臣が顕彰演説を行い、日本政府による公式の名誉回復がなされた。「平和の鐘」が千畝の母校の名古屋市立平和小学校に設置される。11月19日、カナダ在住の天文学者・楊光宇が新しく発見した惑星を「杉原」(25893 Sugihara) と命名。岐阜県八百津市に杉原千畝記念館が設立され、以来来館者は年間約2万人を数える。
2001年(平成13年) - 母校の早稲田大学の構内に記念碑が建立される。米国で杉原千畝記念 "Do the Right Thing"(正しいことをしよう)エッセイ・コンテスト始まる。7月31日、東京タワーの蝋人形館にて杉原千畝像が設置される。
2002年(平成14年)リトアニアの作曲家、ヨーナス・タムリオーニスに委嘱された "Natus in curas"(苦難の中の獅子)が、早稲田グリークラブの第50回定期演奏会で扱われる。
2005年(平成17年)10月11日 - 反町隆史と飯島直子を主演とし渡辺孝好監督によって製作された『日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ』が、「終戦60周年記念ドラマ」として読売テレビ系列で放送される。米国テレビ局 Sugihara: Conspiracy of Kindness を放映。
2006年(平成18年) - 福井テレビ、『扉開きしのち 敦賀に降り立ったユダヤ人の軌跡』を放映。
2007年(平成19年) - 5月26日、今上天皇・皇后夫妻がリトアニアの杉原千畝の記念碑を訪問。同日ビリニュス発共同通信は、リトアニア大統領ヴァルダス・アダムクスが歓迎昼食会の際に、杉原領事代理が「両国の間に特別な懸け橋をつくり」、「人道的な功績で国民の尊敬を集めている」と賛辞を贈った。10月10日に、ポーランド大統領レフ・カチンスキより叙勲が決定。
2008年(平成20年) - 1月16日、東京都目黒区にあるポーランド大使館でポーランド大使から、千畝の孫・千弘(長男・弘樹の息子)にポーランド復興勲章のなかの「星付きコマンドルスキ十字勲章」(二等)が手渡される。これは五段階中上から二番目の勲章であるが、一番上の勲章が授与されることはほとんどなく、実質最高位とされている。10月8日幸子夫人逝去(94歳)。
2009年(平成21年) - 7月、オリコンの「世界に誇れる日本人」のランキングにおいて、外交官として唯一人ベストテンに入る。10月13日、在シカゴ日本総領事館において、「杉原千畝を偲ぶ夕べ」を開催。
2010年(平成22年) - 5月5日から7月25日まで、米アトランタのキング牧師記念館で、「命のビザ ユダヤ人たちを救った外交官」と題する展示が行われる。5月28日、リトアニアの首都ビリニュスで、ビルギニア・ブデネ大統領上級補佐官や日本初の女性大使である明石美代子日本大使ら約20人が出席するなか、広島の爆心地で原爆の熱線を浴びた路面電車の敷石に平和を祈る女性像を刻んだ「祈りの石」が、杉原千畝ゆかりの公園で贈呈される。10月18日、「あいちトリエンナーレ2010」において、舞踏家スティーヴン・コーヘンが『The Wandering Jew ? 杉原千畝の崇高なる記憶に捧ぐ』と題するパフォーマンス(在日フランス大使館後援)を行う。
2011年(平成23年) - 1月27日、日独交流150周年記念行事として、「諸国民の中の正義の人と見られた日本のシンドラー杉原千畝副領事」と題する講演がパッサウで催される。3月、米国のユダヤ人組織であるオーソドックス・ユニオンが、東日本大震災によって被災した人々に対する義援金を募るにあたり、「窮状にある人々に手を差し伸べることは、主のいつくしみの業に倣うこと」であり、「今こそ、身職を賭して通過ビザを発給し、リトアニアから6,000人ものユダヤ人を救ってくれた杉原夫妻の恩義に報いる時である」との声明。10月24日、千畝の母校の早稲田大学において、顕彰碑が建立される。
2012年(平成24年) - 2月27日、来日したリトアニアのクビリウス首相が野田佳彦首相に「故杉原氏がユダヤ人を助けたことはリトアニアの日本理解に大きな影響を与えている」と述べる。3月22日、フロリダ州ボカラントン市で千畝の功績を記念する式典が挙行され、ニューヨーク総領事館から川村泰久首席領事をはじめ約100人が出席。5月5日、年4回の季刊誌として、杉原千畝研究会から『せんぽ -- The World of Chiune Sugihara』が創刊される。
2013年(平成25年)- 2月21日、白石和子駐リトアニア大使が、岐阜大学で「日本とリトアニアの関係について」と題する講演を行う。3月9日、「命のビザ」の実態調査をした敦賀の日本海地誌調査研究会(会長:井上脩)が「野の花文化賞」を受ける。9月10日、千畝のひ孫の杉原織葉(おりは)が、ミュージカル「SEMPO」に出演。
2015年(平成27年)- 11月、東宝映画『杉原千畝 スギハラチウネ』(千畝役は唐沢寿明)が公開予定。
関連人物[編集]
ハルビン学院時代[編集]
根井三郎
1902年(明治35年)、宮崎県廣瀬村に生まれる。ハルビン学院の後輩で、元・ウラジオストク総領事代理。シベリア鉄道を使って遙々やって来た難民の窮状に同情し、書類不備を理由に日本入国に難色を示す外務本省に抗議した気骨の外交官。ロシアのみならず、中東情勢にも詳しく、「列国の注目を集める新興国イラン」(『世界知識』13:03, 1940年)などの論文で知られる学究的側面もあった。戦後は法務省に移り、名古屋入国管理事務所所長を最後に引退。1992年(平成4年)に、90歳で没した。『自由への逃走』に登場。
伊神孝雄
ハルビン学院の後輩で、元・セントラルパーク社長。「人道の丘公園」の発案者として、『六千人の命のビザ』に登場。『日本に来たユダヤ難民』の邦訳 (1992) の巻末に、「世界平和と杉原精神」と題する後書きを寄せる。
笠井唯計
ハルビン学院の後輩で、ドイツ語とロシア語に堪能な元・在ベルリン満洲国大使館一等書記官。貴重な在欧体験を語る講演会(岐阜歴史と医学を語る会「激動の昭和史と外交官』1994年1月30日)なども行う。『自由への逃走』『サキエル氏のパスポート』に登場。
満洲国外交部時代[編集]
広田弘毅
杉原が尊敬していた外交官・政治家。元外務大臣。元貴族院議員。第32代内閣総理大臣。千畝の長男で『六千人の命のビザ』の英訳者である「弘樹」の名前は、広田「弘毅」にちなんだもの。ウクライナ出身のユダヤ系音楽家のレオ・シロタを庇護。レオの娘である ベアテ・シロタ・ゴードンのアメリカ留学のために米国大使館と交渉。ベアテは、戦後 GHQ民政局の一員として来日して、日本国憲法の人権項目の策定に携わり、女性の権利拡大に尽力。
大橋忠一
満洲国外交部時代の直属の上司。元衆議院議員。元カンボジア大使。著書に『太平洋戦争由来記』など。
下村信貞
旧制第五高等学校(熊本)に入学し、東大法科卒後、満鉄入社。大連工業専門学校教授等を経て、大橋忠一が千畝と同時にハルビンから帯同。満洲国外交部総務司計画科に薦任五等官として着任。ノモンハン事件の収拾に尽力。終戦時、外交部次長の要職にあったため、ソ連軍に連行され、ハバロフスク収容所に収監され同地で没する。
カウナス領事館時代[編集]
ソリー・ガノール
カウナスの少年時代に千畝と交流があり、子供好きであった千畝から日本の切手をもらったエピソードで知られる。ダッハウ強制収容所に収監されていたところを、日系二世部隊に救出される奇遇にあうことは、『日本人に救われたユダヤ人の手記』(1995) に詳しい。
ゾラフ・バルハフティク
カウナスで杉原からのビザ受領交渉にあたったユダヤ難民のリーダー。1948年5月14日のイスラエル独立宣言の署名者の一人。ワルシャワ大学出身で法学博士、神学博士。後にイスラエルの宗教大臣になり、千畝の「諸国民の中の正義の人」賞受賞のために尽力。『日本に来たユダヤ難民』(1984) と題する有名な回想録がある。
レオ・メラメド(英語版)
シカゴ・マーカンタイル取引所の名誉会長。「先物取引」の父。「杉原ビザ」受領者の一人。自伝に日本滞在記がある。東日本大震災後に犯罪が急増しなかった日本に関し米国で称賛の声が上がっていることに対して、「米国人にはかなりの驚きだっただろう。でも私には驚きはみじんもない。日本人は世界で最も礼儀正しい人々だから」 という見解を示した。
シルビア・スモーラ
「杉原ビザ」受領者。アルバート・アインシュタイン医科大学教授(医学博士)。『レイチェルとアレックス』(Rachel and Aleks, 2007) と題する、両親のポーランドからの逃避行を描いた歴史小説があり、この小説の第1部が、安藤富雄により、「自由への旅路」という邦題で訳出されている。
ジョン・ストシンガー(英語版)
「杉原ビザ」受領者。国際政治学者。サンディエゴ大学名誉教授(ハーバード大学 Ph.D.)。バンクロフト賞受賞者。2001年11月8日、福山市のホロコースト記念館館長の大塚信 による招聘で記念講演 を行った。
サミュイル・マンスキー。
「杉原ビザ」受領者。チェスナッヒルのテンプル・エメスに杉原のメモリアル・ガーデンを作り、顕彰碑の碑名には、「獅子のような心を持つ力ある者」(「サムエル記」II、17章10節)が選ばれた。
モシェ・ズプニック
ポーランドにあったミラー神学校の元生徒代表。杉原とビザの受給交渉をし、他の神学生全員とともに救われた。ニューヨークでラビ(ユダヤ教の聖職者)を務め、2010年没。
ミハウ・リビコフスキ(ポーランド語版)
ポーランド軍少佐。陸軍大学を卒業後、参謀本部第二部ドイツ研究課に配属。小野打寛(ラトヴィア駐在武官)、小野寺信(スウェーデン駐在武官)及び杉原らと協力し、日本側に独ソ間の情報を提供。その見返りに、日本や満洲国のクーリエを用いて、ロンドンのポーランド亡命政府にドイツやソ連の情報を送る。
アルフォンス・ヤクビャニェツ
別名「クバ」。ポーランドの諜報将校。カウナスとベルリンで、千畝の情報収集に協力。1941年ドイツに逮捕され、ザクセンハウゼン強制収容所で処刑。
レシェク・ダシュキェヴィチ
別名「ペシュ」。ポーランド亡命政府の陸軍中尉。カウナス、ベルリン、ケーニヒスベルクで杉原の情報収集に協力。
ヤン・ズヴァルテンディク(オランダ語版)
スリナム、キュラソーなど中南米のオランダ領の渡航には入国ビザを必要としないことを千畝に伝え、杉原の難民救済を助けた在カウナス・オランダ名誉領事。
モスクワ駐在員時代[編集]
川村秀
日露文化センター代表。早稲田大学文学部ロシア文学科卒業。ロシア科学アカデミー東洋学研究所を設立したロシア史家。杉原がモスクワ駐在時代に結婚式の仲人を務めた部下で、現在は杉原に関する著述や講演(「日露関係における広瀬武夫と杉原千畝」2010)も行っている。歌手でエッセイストの川村カオリと俳優の川村忠の父で、家族も含め正教徒。また実兄に、芥川賞作家の川村晃。『杉原千畝の悲劇』に登場。38歳で亡くなった歌手の長女・川村カオリの葬儀が行われたのは、戦後千畝が通った神田のニコライ堂であり、杉原は付属するニコライ学院でかつてロシア語を教えていた。
田村俊介
モスクワで貿易会社在勤時代の同僚。大阪外国語大学ロシア語学科卒業。登山家。むさしの・多摩・ハバロフスク協会専務理事。『中央アジアの探検』『タイガを通って―極東シホテ・アリニ山脈横断記』(東洋文庫)などの訳者としても知られる。『杉原千畝の悲劇』に登場。
萱場道之輔
フジテレビのモスクワ支局長だった1977年、モスクワにいた千畝にインタビューした経験を持つ。この時のインタビューにおける千畝の肉声は、岐阜県加茂郡八百津町にある人道の丘公園の杉原千畝記念館で聞くことができる。
親族[編集]
杉原幸子
妻で歌人。『六千人の命のビザ』の著者。正教徒(洗礼名はマリア)。香川県志度商業高等学校の校長であった菊池文雄の長女。祖父は岩手県遠野神社の宮司。ドイツ語とロシア語に通暁。神奈川県歌人委員、『朝日新聞』歌壇選者。作品に『歌集 白夜』(大正出版)など。
杉原弘樹
長男。正教徒(洗礼名はヤコブ)。神奈川県立湘南高等学校を卒業後米国カリフォルニアに留学。翻訳家。『六千人の命のビザ』を英訳。「ドイツにおける日本年」(2001)に、ベルリンの日本大使館において講演した際、「僕はまだ子供だったが、ビザを書いたあの時の父の姿を僕は覚えている。今、あの時を振り返り、父の姿を思い出すに、あれは父の心の中に眠る日本人としての《侍魂》があのビザを書かせたのだと僕は思う」と語る。
杉原千暁
次男。1938年にヘルシンキで生まれる。2002年米国ロスアンジェルスのリトル東京で杉原千畝の銅像建立にイスラエル、リトアニア駐ロスアンジェルス総領事、日本領事館の国方主席領事館とともに招待される。「父は同じ人間として助けたと信じている」と感謝した。
杉原伸生
四男 1968年にイスラエルヘブライ大学にイスラエル外務省とユダヤ基金から給費留学生として招待される。2000年に米国の国際シオニスト婦人団体WIZOから人道賞を授与され、マイアミ市名誉市民権を与えられる。2000年母幸子と国立ワシントンホロコースト博物館開館式に招待される。2014年トロントのJCCC日本カナダカルチャーセンターでは千畝へのサクラ賞を授与された。2014年リトアニア大統領からユダヤ人を助けた人々への感謝式に参列する。ベルギー在住。
杉原千弘
弘樹の長男で、NPO「杉原千畝 命のビザ」理事長。タイ国バンコク市在住。日本語、英語、タイ語に堪能。ポーランド復興勲章「星付きコマンドルスキ十字勲章」受賞。2013年2月4日、タイの国連ビルにおいて、千畝とホロコーストに関する講演を行う。
杉原晴香
四男・伸生の四女。8歳の時に欧州歌謡界の登竜門の一つである「ユーロソング」のジュニア部(2009)に出場。ベルギーのアントウェルペン在住。英語、フラマン語(オランダ語)を駆使し、歌手・女優として、ミュージカル『アニー』(フラマン語版)、オランダ映画『ブルーホース』などに出演。
杉原織葉
曾孫で女優。『SE・M・PO -- 日本のシンドラー 杉原千畝物語』などに出演を前にして、鎌倉霊園に眠る千畝の墓前へ報告し、「曽祖父の作品に関わらせていただくので一生懸命頑張ります」と語った。
演劇[編集]
1992年(平成4年)、劇団銅鑼による『センポ・スギハァラ』の連続公演始まる。
2006年(平成18年)2月24日、一柳慧によるオペラ『愛の白夜』が、神奈川県民ホール30周年を記念して上演。
2008年(平成20年)4月4日、吉川晃司の千畝役で、『SE・M・PO -- 日本のシンドラー 杉原千畝物語』が新国立劇場で上演(吉川晃司の他に、森奈みはる、井料瑠美等が出演し、中島みゆきが舞台作品としては初めて書き下ろしの楽曲を提供)。12月10日、水澤心吾による一人芝居『決断・命のビザ SEMPO 杉原千畝物語』がカーネギーホールで上演され、米国国連協会「エレノア・ルーズベルト賞」を受賞。
2009年(平成21年)9月、八百津町の「杉原千畝記念館」開館10周年記念行事として、八百津小学校の生徒たちによる児童劇『メノラの灯』が上演される。
2013年(平成23年)9月、ミュージカル『SEMPO -- 日本のシンドラー 杉原千畝物語』が新国立劇場で一部キャストを入れ替え再演される。
2014年(平成26年)、権代敦彦が作曲した、リトアニア語のオラトリオ『桜の記憶』が、1月にカウナスで上演。国営文化TVがリトアニア全土で生放送。
2015年(平成27年)、日本テレビ系列の時代映画『杉原千畝スギハラチウネ』が制作され、放映全国ロードショーされた。興行収入は伸び悩んだが、唐沢寿明が主演(杉原千畝役)、妻役で女優の小雪が共演して話題となった。

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映画『杉原千畝スギハラチウネ』(2015年)より引用します。
昭和10年東京(1935 Tokyo)外務省官僚の関満一郎は、
「ペルソナ・ノン・グラータ?」とおどけた。
「確かに、ソ連は杉原千畝を入国拒否とした。ビザの発給を拒否した。確かに。確かに。モスクワへの外交官派遣はあんたじゃない。他の人物だよ」
杉原千畝は落ち込んだ。
杉原は同僚と酒場にいた。
「ソ連の共産主義を確かめるために絶対にモスクワにいきたかったのに。」
「……まあ、諦めるな。明日は明日の風が吹く、だろ?」
千畝の同僚はおんなウェイターに、
「疲れているんだ。慰めてやってくれないか?……俺を(笑)」
ふたりは笑った。
だが、杉原千畝だけは心ここにあらずで椅子から立ち上がり、
「どうしてこうなった!?!!」
と、机を両手でばんと叩いて大声をはりあげた。
「まあ。まあ。」
「ひとのお世話にならないようにひとのお世話をする……俺の母校哈爾浜大学の教え、だ。」
「はあ?」
「知っている訳ないよな?俺だって忘れかけてたんだから。」
千畝と同僚の菊池某は泥酔して千鳥足のまま自宅へ向かった。
「おれの家はすぐそこだ。泊まっていけ、杉原。」
こうして菊池某と杉原千畝氏は菊池家に宿泊した。
ふとんで寝間着のままふすまの奥に菊池某がいると思って、杉原千畝は語り出した。
「菊池きいてるか?……俺はいまもモスクワにいきたい。俺は信州の田舎から東京に出てきて大学に通ったが、すぐに学費が払えなくなって、官費でいけるハルビン大学へ入学した。…ロシア語を学ぶために努力した。辞書を三冊も暗記した。モスクワに行けば世界がわかる。世界がわかれば日本国をもっといい国に出来る。すばらしいだろう?誰もが豊かに暮らせる国にだ。経済大国だ。なあ、お前は世界を変えたいと思ったことはあるか?おれはいつも世界をイイ方向に変えたいと思っている。いや、おれが世界をかえるんだ」
だが、ふすまの奥の菊池某は無言のまま。?「おい。何か言えよ。」
ふすまを開けるとそこには菊池某はいなかった。
かわりに彼の妹の菊池幸子が着替えている最中だった。
……あ。
幸子は千畝の頬を平手打ちしてふすまを閉めた。
 次の日の朝、菊池は妹の幸子(ゆきこ・のちの杉原千畝氏の妻)を紹介した。
名刺を渡すと千畝は驚きの顔をした。
「え~と、スギハラ・チウネさんね。よろしくね」
何と、千畝(ちうね)という読むのに難しい名前をはっきり発音したのだ。
これが千畝氏が幸子さんを好きになった理由だともいう。
とりあえず、ふたりは付き合い始めた。
「…そのビザがないとモスクワにいけないんだ。」
「ロシア語やフランス語だけでなくドイツ語や英語も話せるなんてすごいわ。なら世界の何処ででもやっていけるわ。」
「外交官だからね」
「そうね。あなたは世界を変えるのですものね?」
「いや~。まいったなあ。忘れてください」
「いいえ。けして忘れません。あなたは本当に世界を変えてしまいますわ。」
ふたりは公園でかき氷を食べた。
……こうして杉原千畝と菊池幸子は結婚した。
 外務省の外務官僚として杉原千畝と妻の幸子と子供らは赴任地リトアニアへと着いた。
こののち、ロシア(当時のソ連)に併合される前のバルト三国のひとつである。
昭和14年 リトアニア カウカス(1939 KAUKAS RITOANIA)大日本帝国領事館…
杉原千畝は領事館開設と同時期に現地のスタッフを募集した。
領事館や大使館には現地の事情を知り尽くした現地スタッフが欠かせない。現在でこそ女性の外交官やスタッフが多いが、当時は男性限定での募集(しかもやはり学歴主義で大卒)だった。ドイツ人のグッジェや、ルーマニア人で英語が得意のペシェ、などといった白人男性が応募にのってきてめでたく採用となった。
だが、杉原千畝は万全終始一貫して危険な状態にあった。
杉原の任務はソ連の動向をリトアニアの赴任地で探ることである。
これは映画の演出であろうが、杉原たちが車でいくと、ソ連のスパイかなにかに車でつけられてカーチェイスする場面が描かれた。
実際にカーチェイスがあったかはさておきそれに近い危険はあったことだろう。
またスパイの男との交渉での謀略とか、あったかはさておきそういう事もあったのだろう。杉原千畝さんは今でこそ有名人で、“尊敬する日本人”に名前を連ねるが、当時は無名であり、またユダヤ人を不正な手段でもたすけたことすら評価されなかった。
当時の外務省官僚は「杉原は外務省を辞めたがユダヤ人達に恩があるからユダヤ人からお金をたくさんもらって年金なんかいらないだろう」と鼻で笑っていたという。
杉原千畝氏の名誉が挽回されるのは河野洋平外務大臣(当時)の時代である。
日本人はそれまで杉原千畝氏の存在さえ知らなかった。
世界の新聞やテレビが取り上げてから杉原千畝氏の偉業を、やっと知るのである。
話がそれた。元に戻す。
米国主催の外交官交歓会で、杉原千畝は燕尾服でパーティの会場で酒を飲んでいた。
米国主催だが、まだナチスドイツのヒトラーの正体が知られる前で、会には軍服のナチス外交官もいたという。
ナチス外交官の男は「ドイツがフランスやポーランドに侵攻したら驚くでしょうなあ。」とくる。外交官は「フランスもポーランドも戦うでしょう。」と反発する。
だが、本気だとは思っていない。冗談だろう、と。
杉原千畝はそのナチスの外交官に挨拶をした。
「どうも、センポ・スギハラです。」
「ドイツのシュナイダーです。」
お互い握手を交わす。
杉原は「ドイツのひとも我が国日本とソビエト連邦共和国(ソ連)との二国間で日ソ不可侵条約を結ぶとは驚いたでしょうなあ」とドイツ語でいった。
「いやあ、想定内です。」
「それは頼もしい。ドイツには日本の西洋へのパートナーになって頂きたい」
「ヒトラー総統にかけあいましょう。」
「よろしく。」
「わかりました。お約束します。」
杉原千畝はナチスと席を外れた。
するとオランダの外交官が「杉原さん、わたしはナチスドイツにはペルソナ・ノン・グラータ(好ましくない人物)扱いです。日本行きのビザを発行してくれまいか?」
等という。
「ビザ?……日本に移住する気ですか?」
「いや。シベリア鉄道で極東までいき日本を通過してアメリカか南米にいきます。」
「では、一時通過のビザですか?」
「その通りです。」
「わかりました。われわれのところも残っている仕事は運転手ぐらいです」
「……秘密ですが…リトアニアはソ連が侵攻するという噂がありまして…」
「でしょうな。ソ連が侵攻した後ならもう出られないでしょうね。どれくらいで?」
「われわれの情報網では長くて数年後…ユダヤ人たちがナチスドイツに殺されている事実は知っていますか?」
「え?いいや、ちっとも。そうなのですか?」
「ナチどもはドイツ国内のユダヤ人達や反政府活動家たちを狩っているらしい」
「……狩る?」
「大勢を捕まえてスケープゴート(生け贄の羊)にする気ですよ。」
「ナチスドイツが??」
杉原千畝は驚いた。
しかも、ドイツの日本大使で戦後、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)でA級戦犯となる大島浩大使(当時)は『日独伊三国同盟』(日本国とナチスドイツとムッソリーニのイタリアによる三国同盟)を画策している最中である。
当然、そのような外交機密を日本の外務官僚でもあった杉原千畝氏が漏らす筈はないが、まだナチスドイツやアドルフ・ヒトラー総統の正体までは知らなかった。
………まさか。ナチスドイツがユダヤ人たちを…?話がうまいな、本当だろうか?まさか謀略ではあるまいか。話が出来すぎている。ナチスドイツがユダヤ人を……。
杉原千畝は背筋が寒くなる思いだった。
…ユダヤ人大虐殺・ホロコースト・犠牲者六百万人……だれがそれを予想出来ただろう。その悪夢が現実になろうとは……。
話を戻す。




真田幸村<真田丸>忠義の蒼い炎 真田幸村(信繁)大河ドラマ小説3

2017年10月22日 04時52分28秒 | 日記

































 三成は十四~十五歳から秀吉に支えた。
 その出会いは天正二年……
 秀吉は鷹狩りの帰りに寺により喉が乾いたので、
「誰ぞ、茶をもってまいれ」といった。
 すると左吉が大きな茶碗に七、八分、ぬるく立てて差し上げた。
「うまい。もういっぱいくれぇぎゃ」秀吉はいった。
 左吉は今度は少し熱くして茶碗に半分ほど差し出した。
「うむ、もう一服じゃ」
 秀吉が所望した。
 すると左吉は小さな茶碗に、少し熱いお茶を出した。
 秀吉は大いに感心して、
「小僧、名は何という?」
「左吉です。石田左吉にござりまする!」
 平伏した。
「そうきゃ? 石田左吉! このわしの家来となれ!」
「はっ!」
 石田左吉(三成)はこうして秀吉に支え、山崎、牋ケ獄の戦いで一番槍の手柄をあげている。秀吉はこうして大切な頭脳をその手にして天下をとれた。三成がいてこそである。 羽柴秀吉が信長に仕え近江長浜城(長浜市)主になった天正二年(1574年)頃から秀吉の小姓として三成(当時・佐吉)は仕えた(天正五年(1577年)の説も)
 秀吉の中国征伐に従軍した。本能寺(1582年)で秀吉が天下人として台頭してくると、三成も秀吉の側近として次第に台頭していく……こんなエピソードがある。佐吉は秀吉に仕えたが、秀吉の妻・寧々が佐吉に「腹がすいているのか?はれ、握り飯でも食べなさい」と優しい言葉を人間として始めて頂いた、と涙をながしたという。秀吉は後年、そういう話を他人にしたがったという。あの冷血漢の三成も「人間らしい所」があるという。
いわゆる三献茶の話は後世の作り話の可能性が強いです。
少なくともそんなエピソードは当時の史料に出てこない。後世の編纂物に散見されるのみです。また太谷吉継の母親は淀殿か寧々に仕えた東殿であり、それは可能性が高いです。またその東殿に伴って子の吉継が出世したというのが自然だそうです。

吉継や三成が歴史上にでてくるのが秀吉の播磨攻略(軍師黒田官兵衛の斡旋)の頃です。
天正五年(一五七七年)くらいでしょうか。同じく秀吉の馬廻りとして福島市松(正則)、加藤虎之助(清正)も出てきます。
ですが、石田三成が横柄で冷酷な人物というイメージは正しくありません。徳川時代の創作であるそうです。「へいくわい」(横柄な)というイメージはその時代には歴史上書状としてもありませんし、また(三成からの手紙が)残っていないのも徳川の世で三成と親しかったら、最悪の場合、お取潰しの危険があるからです。おそらく三成からの手紙は捨てるか焼いたか。秀吉の官僚として指示を忠実に実行する立場の三成が、私情をはさまず、官僚的な冷めた対応で嫌われた可能性は高い。ですが、悪口や陰口とかそんな人物ではなりません。ほとんどの三成の冷酷イメージは徳川時代の創作であるそうです。



 太谷吉継の人柄はどんなものでああったか?正確には記録や歴史的資料があまりありません。三成よりも文官としての仕事があまり多くない為のことです。
ですが秀吉をして「百万の大軍を預けてみたい」とまでいわせた男です。
そうとうのやり手だったことは間違いありません。
また太谷刑部の肖像画や大河ドラマなどで頭巾をかぶり白いマスクというか布で顔をおおっていますが、これはハンセン病に羅漢していたためだと伝えられています。
天正十二年二月、京洛で「千人斬り」とよばれる事件が起き、吉継が犯人ではないか?と疑われます。容疑は晴れまして無罪であったのですが、「悪瘡(あくそう・らい病・ハンセン病)」を直すには千人の血を舐めることだ(『宇野主水日記』)が容疑理由とされました。
真犯人は未だに明らかになっていませんが、特筆すべきは市井(しせい・民間人)のひとが太谷吉継のハンセン病を知っていたことです。この頃には市井のひとが知るほどハンセン病の病はすすんでいたという証です。





石田三成(いしだ・みつなり)は安土桃山時代の武将である。
 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大坂城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大坂城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「バカのヤツよのう、三成!」福島正則は酒臭い顔で、酒瓶を持ちふらふらしながら彼を嘲笑した。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに、はははは」
 三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」と正則をきっと睨んだ。
「たわけ!徳川さまが三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、正則!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、徳川さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」福島正則は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「そうだ。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したのさ。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放った」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうだ?」
「いや、いらぬ」
 福島正則は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人や領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「へん。なんとでもいえ」福島正則は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「正則」
「なんだ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公と淀君様が危ないのだぞ!」
  福島正則は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、徳川さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そうか」
 正則は拍子抜けして去った。嘲笑する気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴だな」苦笑した。
 次に黒田長政がきた。官兵衛の息子・長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。
大河ドラマでは度々敵対する石田治部少輔三成と黒田官兵衛。言わずと知れた豊臣秀吉の2トップで、ある。黒田官兵衛は政策立案者(軍師)、石田三成はスーパー官僚である。
参考映像資料NHK番組『歴史秘話ヒストリア「君よ、さらば!~官兵衛VS.三成それぞれの戦国乱世~」』<2014年10月22日放送分>
三成は今でいう優秀な官僚であったが、戦下手、でもあった。わずか数千の北条方の城を何万もの兵士で囲み水攻めにしたが、逆襲にあい自分自身が溺れ死ぬところまでいくほどの戦下手である。(映画『のぼうの城』参照)*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。
三成は御屋形さまである太閤秀吉と家臣たちの間を取り持つ官僚であった。
石田三成にはこんな話がある。あるとき秀吉が五百石の褒美を三成にあげようとするも三成は辞退、そのかわりに今まで野放図だった全国の葦をください、等という。秀吉も訳が分からぬまま承諾した。すると三成は葦に税金をかけて独占し、税の収入で1万石並みの軍備費を用意してみせた。それを見た秀吉は感心して、三成はまた大出世した。
三成の秀吉への“茶の三顧の礼”は誰でも知るエピソードである。*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。

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NHK大河ドラマ真田丸総集編第三章『栄枯盛衰』より
真田源次郎信繁(幸村)の顔を両手で包んで、茶々のちの淀君は悪戯な笑顔を見せて、
「あら。わりと好きな顔。」とふざけた。
「姫さま。いけません。」
乳母の大蔵卿局はいう。「あのもしかして…」
「もしかして?」
「……茶々さま?」
「そうです。あたり!あなたは真田なんとかという…」
「源次郎信繁(幸村)にございます!」
「不思議なことをいいます。わたしとあなたは運命がある。」
「……運命?」
「わたしとあなたは同じ同志として働き……そして同じ日に…死ぬのです。」
「……遠い未来のことと思いたい」
「では、源次郎。」
悪戯な笑顔のまま茶々は去った。
この信長の姪っ子で浅井三姉妹の長女(茶々・初・江)こそ秀吉の子供を二回も妊娠して運命の子・お拾い…豊臣秀頼を生むのである。
豊臣秀吉は徳川家康を懐柔し、四国、九州を平定し、北条攻めでついに天下人になる。
だが、子供は出来ない。わずかに茶々の生んだ鶴丸(夭折)、お拾い(のちの豊臣秀頼)のみである。しかし、晩年は認知症になったり、不満を爆発させての朝鮮出兵などを引き起こす。太閤秀吉は甥っ子の関白秀次を自害においこんだ。
真田源次郎信繁(幸村)は“左衛門佐(さえもんのすけ)”、真田源三郎信幸は“伊豆守(いずのかみ)”の官位を与えられた。
耄碌した秀吉をおぶって大坂城の天守閣まできた信繁に秀吉はいう。
「どうだ?これが豊臣の世の大坂じゃ。だが、まだまだだ。いずれは朝廷から天子さまをおつれして平清盛のようにしたかったが……わしは半分も成して…いない。」
「これで半分でございますか?!」
「源次郎。……わしの天下はすべては夢のまた夢じゃ。くやしいのう」
「殿下。……」
「わしは死にとうない。秀頼を頼むぞ、源次郎。死ぬのは…くやしいのう。」
「……殿下。」
 こうして豊臣秀吉は死んだ。享年六十二歳……
石田三成は決意していた。
……亡き太閤殿下や秀頼公のために徳川家康を討ち滅ぼす!
三成は悔し涙を流した。
「何故じゃ。豊臣家の為に豊臣政権のために尽力したこの石田三成が……何故怨嗟の的になるのじゃ?わしは……どこで間違った??!!源次郎。わしは…何処で間違った??」
「……石田さま。」
 源次郎は言葉を呑んだ。

 慶次は、尾張(おわり)国・荒子(あらこ)城二千貫の城主前田利久の養子だが、実父は織田信長の重臣で、「先駈(さきが)けは一益(かずます)、殿(しんがり)も一益」と謳われた猛将滝川左近将藍(たきがわさこんのしょうげん)一益の甥滝川義太夫益氏(たきがわぎだゆうますうじ)といわれる。
 これには奇説もあって、益氏の妻が懐妊したまま利家に嫁いで、生まれたのが慶次であるという。利久が懐妊を承知の上で迎えたというが、それが事実なら、彼女はよほどの美貌で魅力的な女性であったことだろう。
 慶次はよき若者に成長し、そのまま順調にいけば、義父利久の跡を継いで荒子城主となる筈であった。ところが、永禄十二年(一五六九)の晩秋、平穏な日の暮れを、まるで石つぶてを投じるように掻き乱し、突然、木っ端微塵に破壊したのは、他ならぬ織田信長である。
 信長が突然、利久に対して、
「前田家の家督を、お犬に譲れ」
 と命じたのだ(大河ドラマ『利家とまつ』参照)。
 青天の霹靂とは、このことであった。
 利久は言葉を失った。理不尽なとはいうものの、相手が信長とあってはどうにもならぬ。弟の犬千代こと又左衛門利家は、直情精悍(せいかん)、かなり傾いた荒小姓であり、信長は「お犬、お犬」と呼んでかわいがった。
 事実、又左右衛門は、弘治二年(一五五六)八月、信長の弟の末森城主信行と戦った尾張稲生(いのう)の合戦で、宮井官兵衛なる剛の者を突き伏せる殊勲をもって「槍の又左」と謳われ、赤母衣衆旗頭(あかほろしゅうはたがしら)とされているのだ。
 昨年、将軍足利義昭を擁して上洛したばかりの信長にしてみれば、足元を固める意味からも、凡庸な利久よりも、剛勇の又左衛門利家を荒子城主に据えたいと思ったのだろう。
「わしには、さしたる武功とて無いからな」
 義父利久が、あっさり諦めるのを、慶次は複雑な思いで聴いた。
(こんな馬鹿なことがあっていいのか…こんな理不尽がまかり通るのか、一体、俺の人生はどうなるのだ…)
 慶次は、いくたび自問自答したことか。
 信長の一語で、荒子城の前田家は混乱状態に陥った。
「兄者、思いもよらぬことになり申した。慶次、済まぬ」
 と困惑の面持ちであったが、利久は、
「御前の気持ちは分かっておる。気にすな」
「これからどうなさる。このまま荒子城におられても構わぬが…」
「いや、それでは信長さまの意に逆らうことになる。伊勢へでも参ろうと思う」
「滝川殿のゆかりの地へ?」
「うむ、そのほうが妻も気が安まろう」
 利久は、すでに完全に諦観(ていかん)の心境になっていた。妻女は城を去る時、呪詛(じゅそ)の言葉を吐き散らしていた。無理もない。何一つ不自由がなかった城主夫人から、一転して流浪の身になり果てたのだから。
 それは慶次も同様であった。
 陰気な顔している慶次に、義父母たちは腫れ物に触るような配慮を見せた。
(あなた方に罪はないのだ。お許しアレ。悪いのはあの信長だ)
 と内心で詫びながら、自身でもどうすることもできないのだった。
 
 前田慶次の人生は天正十年(一五八二)六月を境に、またまた急変する。いわゆる「本能寺の変」で、これまで不滅不動と思われた織田信長が自刃して果て、秀吉の天下となる。
 「槍の又左」こと弟の前田利家から加賀の金沢に来てくれないか。という誘いの使者が来る。別に喧嘩した訳でもないから利久ら家族は金沢にきた。金沢城主前田利家は、兄利久を隠居料七千石で迎えた。禄高は少なすぎる感なきにもあらずだが、戦塵を駆け抜けてきた譜代の家臣らの手前もあるから、まずは穏当といっていいであろう。
 慶次は「天下無双の傾奇者」として、あれは一万石、二万石の漢だ、という。だが、慶次の奇行は続く。
 叔父の前田利家には風呂だと称して、極寒の冬場に水風呂をお見舞いしてやった(歴史上の真実・作り話ではない)。
「叔父上、湯加減も宜しきようで…」
「うむ」
 利家、衣服を脱ぎ、いそいそと風呂場に入り、微かに湯気を漂わしている湯槽にざぶと入った。途端に「あっ!」と叫んだ。まったくの水風呂だったのだ。しかも冬場の寒い季節で湯気ではなく水が空気よりは温かいから煙ってただけだった。
「そのいたずら者を逃すな!」
 利家が怒鳴った時には、すでに自慢の駿馬「松風」に飛び乗った慶次が、ひと鞭くれて、一目散に行方をくらました後であった。
 
 慶次が漢(男)として惚れたのが上杉家執政でもある直江兼続と、藩主・上杉景勝である。だが、ホモじゃない。漢(男)と漢(男)として、その生き様に惚れたのだ。
「それがし前田慶次にござる」
 といい、上杉の城で土大根を三本、盆に乗せて慶次は「お土産に御座りまする」と差し出した。
「これは?」
 さすがに景勝が怪訝な顔をすると、慶次は待っていましたとばかりに、咳払いをしてから、
「この前田ひょっとこ斎慶次、これなる土大根のごとく、見かけはむさ苦しゅうござるが、噛めば噛むほどによき味が出て参りまする」
 と答えたのだ。すると思いもよらぬことが起きて、列座の重臣たちが驚いた。声なき驚きが大広間に波打った。驚くことに生まれてから一度も笑ったこともない景勝が笑ったのだ。
(殿がわらわれた!)
 重臣らが、一瞬、目を疑ったのも無理はない。実は上杉景勝という漢は、極端なまでに無口で、いつも脇差の柄頭に右手を添えた姿で、こめかみに癇癪の青筋を浮かべてぴくぴくさせている。ために外出の際など、駕籠廻りの者はもとより、誰ひとり、声を発したり、咳払いする者もなく、一行の足音のみ、ヒタヒタと聞かれたという。
 これは天才軍神であった叔父で、義父の上杉謙信を極限まで真似る為の景勝の悲運で、当然、もともと無口ではあったが、天才で無敗伝説までもつかの上杉謙信の義理とはいえ息子として同じように見られようとの景勝の緊張と存在意義での結果なのだった。
 だが、そんな景勝が笑った。これは驚きであったことだろう。
 しかも、執政の直江兼続まで笑っている。これは上杉家の家臣たちにとっては驚愕なことであったろう。
慶次も上杉家の家風をいたく気に入り、減封されて出羽米沢三十万石に落ちぶれた上杉家をたより、米沢で晩年まで過ごすことになる。
 次の歌は彼の詠句である。

 賤が植うる田歌の声も都かな

(参考文献『バサラ武人伝 戦国~幕末史を塗りかえた異能の系譜』『前田慶次編』永岡慶之助著作Gakken(学研)74~110ページ)


命のヴィザ 杉原千畝六千人の命のビザ映画『杉原千畝』記念ブログ小説2

2017年10月15日 08時39分19秒 | 日記





























リトアニアでシナゴーグが燃える様子を眺めるドイツ兵と地元住民(1941年撮影)
逃げ遅れたユダヤ人たちの多くは、アインザッツグルッペンと呼ばれる「移動殺戮部隊」の手にかかったり、ナチスやソ連の強制収容所に送られて絶命した。独ソ戦が始まるや、ヴァルター・シュターレッカー親衛隊少将率いるアインザッツグルッペAは、北方軍集団に従って移動。そして、リガ(ラトヴィア)・タリン(エストニア)・プスコフやレニングラード(ともにソ連)に向かう中継地たるカウナスにまず殺到したため、千畝の赴任先であったカウナスにおけるユダヤ人社会は、特に甚大な被害を受けた。カウナスのユダヤ評議会の指導者の役割を不承不承押しつけられた医師のエルヒャナン・エルケスは、荒れ狂うユダヤ人殺戮についてイギリスにいる子供たちに書いた1943年(昭和18年)10月付の手紙の中なかで、殺戮部隊が「大量殺戮という任務を終えると、頭のてっぺんから靴の先まで、泥とわれわれの仲間の血にまみれて戻って」きて、「テーブルについて、軽い音楽を聴きながら、料理を食べ、飲み物を飲むのです。彼らはまさに殺戮のプロでした」と述べている。
カウナスでは、保護を口実に1941年(昭和16年)8月末までに、ヴィリンヤンポレに設置されたゲットーにユダヤ人の移送が完了し、1万5,000人が住んでいた密集家屋に約3万のユダヤ人が押し込められた。独ソ戦開始前のカウナスのユダヤ人人口は約4万であり、開戦後わずか2カ月で1万人ものユダヤ人が殺害されたのである。1939年から1940年という千畝のカウナス赴任は、それより早くても遅くても、難民救済に効果を発揮しなかった。その赴任の時期は、ゾラフ・バルハフティクが「タイムリー」]と呼ぶ時宜にかなったものであり、「カウナスでのあの一カ月は、状況と場所と夫という人間が一点に重なった幸運な焦点でした。私たちはこういうことをするために、神に遣わされたのではないかと思ったものです」と杉原夫人は述べている。
「父は相手がユダヤ人であろうとなかろうと、助けたことでしょう。父に尋ねればきっとそう答えると思います。ユダヤ人であろうとキリスト教徒であろうと変わりはありません」という、四男・伸生(のぶき)による「カウナス事件」に関する発言は、カウナスでの難民救済の実情と正確に符合している。カウナス事件において問題になっているのは、「難民問題」であって「民族問題」ではない。いわゆる「杉原ビザ」の内、1938年(昭和13年)12月6日の第1次近衛内閣の五相会議決定によるユダヤ人保護政策「猶太人対策要綱」の「資本家、技術者ノ如キ特ニ利用價値アル者」に該当する事例は一件のみ(「『ベルクマン』他約十五名ノ有力ナル『ワルソー』出身猶太系工業家一行」)であり、また、カウナスにおける難民救済は、満洲にユダヤ人居留区を創設しようとする企画「河豚計画」ともまったく関係がない。
松岡外相の「貴官カカウナス領事代理当時、査證ヲ與ヘタル猶太難民ノ數、至急囘電アリタシ尚右氏名、行先、査證、月日郵報アリタシ」という1941年(昭和16年)2月4日の訓命に対して、この種の命令を予期していなかった千畝は戸惑い、「原本リストは途中から番号の入っていない不完全なものであったため、杉原は控えを基にリストを全部作り直さなければならず」、ようやく完成して発送するのに三週間以上もかかっている。しかも、「『リスアニア人』竝ニ波蘭人ニ與ヘタル通過査證二、一三二内猶太系一、五〇〇ト推定ス」という数字も相当適当なものであり、千畝にとって窮状にある難民たちがユダヤ系であるか否かなど問題ではなかった。松岡は、この時日ソ不可侵条約の調印のためソ連に赴き、さらにドイツとイタリアに向かおうとしていた。松岡が出発したのは3月12日であったので、「郵送ではすでに間に合わない。したがって『杉原リスト』は、東京の本省ではなくベルリンの日本大使館に送られ、ここから随員によって松岡の手元に送り届けたのであろう」と、渡辺勝正は推測している。
ポーランド諜報機関との協力[編集]
千畝のハルビン時代の後輩で在ベルリン満洲国大使館一等書記官の笠井唯計(ただかず)が理事官補だった1940年(昭和15年)、フィンランドの尾内陸軍大佐と相談し、情報提供と引き替えに満洲国のパスポートを出した一人に、イェジ・クンツェヴィチなるポーランドの情報将校がいた。クンツェヴィチは、カウナスの杉原と協力するときは「クバ」と名乗る、ポーランド参謀本部第二部のアルフォンス・ヤクビャニェツ大尉であった。1941年(昭和16年)7月、ゴルフに行く笠井はヤクビャニェツを便乗させた。ヤクビャニェツ大尉は、ポーランドの地下抵抗運動の秘密集会に出席することころだった。
ピクニックという名目で国境付近を偵察する杉原らの動向に以前から不審を抱き、ドイツ防諜機関は密かに杉原周辺の探索を続けていたが、1941年、ついに日本及び満洲国の大公使館とポーランド情報機関の協力関係をつかんだ。7月6日夜半から7日未明にかけて、ヤクビャニェツ大尉さらに満洲公使館にメイドとして勤務していたザビーナ・ワピンスカがベルリンの中心部ティーアガルテンで逮捕され、拷問の結果、日本の大公使館の外交行?を用いて中立国スウェーデンからロンドンの亡命ポーランド政府に情報を送るクーリエの経路がドイツ側の察知されることになったのである。
ドイツ防諜機関の責任者であったヴァルター・シェレンベルクの有名な回想録の第12章はまるまる「日本とポーランドの陰謀」と題されている。そして「K某」(ヤクビャニェツの偽名「クンツェヴィッチ」の頭文字)の逮捕を契機に明らかになった対独諜報網の全欧規模の広がりを目の当たりにしたシェレンベルクは、ソ連を共通の敵としているはずの日本が深く関与していることにいらだちを露わにしている。ドイツ諜報機関はまた、日本人とポーランド諜報部との協力関係の後援者として、在ローマ日本大使館の河原畯一郎・一等書記官やイエズス会総長のヴウォジミエシュ・レドゥホフスキ(ポーランド語版)神父が深く関与していることについてイタリア国防部から警告を受けていた。
後にストックホルム武官府の小野寺信大佐(当時)に引き継がれるポーランド諜報網との接触に関しては、まず亡命政府のガノ大佐からワルシャワの日本大使館武官府にポーランド情報組織の接収の提案があり、日本側は表向きはドイツとの同盟関係を理由に拒絶した。しかし、在欧の日本とポーランドの将校や外交官たちは密かに接触を続け、ビィウィストク(ポーランド)やミンスク、スモレンスク(ソ連)を拠点とするポーランド諜報網から、在欧日本大公使館と武官府はソ連の軍事的動向を高い確度で知ることができた。千畝の接触は、すでにフィンランド時代に始まっており、まずヘルシンキ在住のジャーナリスト、リラ・リシツィンを通して、その従姉妹にあたるゾフィア・コグノヴィツカの息子で、ポーランド「武装闘争同盟」(ZWZ;後のAK 国内軍)のカウナス地下司令部のメンバーであるタデウシュ・コグノヴィツキに近づくことから始まった。千畝の本省への回電に、実際に足を運んでいない「スモレンスク」「ミンスク」に関する情報が含まれているのは、ポーランド諜報網との協力の成果である。
杉原は、1941年(昭和16年)の5月9日後發の電信で、「獨蘇關係ハ六月ニ何等決定スヘシトナス」と、6月22日に勃発する独ソ戦の時期を正確に予測し、また経済通らしく、「極メテ多量ノ『ミンスク』發穀物到着セリ」と、ソ連側が穀物の大量備蓄を始めて長期戦に備えていることを報告している。大著『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』でソ連経済の躍進を伝えた千畝は、ネップと呼ばれる計画経済によって早期に経済目標を達成したソ連がその余力を軍事部門に傾注していることも熟知しており、ヨーロッパを席巻するドイツの破竹の勢いに幻惑されている本国に、「独ソ戦近し」、またソ連は日本が考えているほど早く戦線を放棄しないことを警告する電信を打電した。
1941年(昭和16年)4月18日、大島は千畝らの情報を元に、東京に独ソ開戦情報と意見具申を伝えているが、日米交渉に没頭していた日本政府は、他が見えない近視眼に陥っていた。第2次近衛内閣の書記官であった富田健治は、「独ソ戦近し」を伝える大島からの「この情報をそう強く信じていたわけではないが、かなり心配していた。しかし帰国した松岡が否定的であり、陸海軍も独ソ開戦戦せずという空気であったので、そのまま見送られた」と述べている。戦後衆議院議員になる富田健治の証言は、戦時日本のインテリジェンス機能の麻痺と、「空気」で最高指導政策が決定されてしまう恐るべきガバナンスの欠如を物語っている。出先には優秀な諜報要員を配置しながら、中央に適切な分析官を用意できなかったため、命がけで入手された情報も活かされなかった。また、情報伝達の技術的側面の遅れも深刻で、大島の電信は、一ヵ月も経たない5月10日に英国諜報機関によって解読されてしまった。
ゲシュタポの危機迫る[編集]
大公使館の「現地採用者はスパイと思え」というのは外交の世界では常識だが、ドイツ系リトアニア人のヴォルフガング・グッチェがまさにそれであった。しかし、ドイツの愛国者ではあったが反ユダヤ主義者ではなかったグッチェは、杉原の仕事を手伝い、神学生のモシェ・ズプニックとの別れ際に、つぎのような予言的な言葉を残した。「世界は『車輪』だ。今はヒトラーが上だが、いつか車輪が回って下になるさ。希望を失うなよ」。もう一人の現地採用雇員は、ボリスラフ・ルジツキという名前のポーランド人で、表の顔は領事館の忠実なボーイ兼給仕だったが、このボーイは、実はルドヴィク・フリンツェヴィチが指揮するポーランド地下抵抗組織「ヴィエジュバ」(ポーランド語で「柳」の意)が公使館の情報を仕入れるために送り込んだ諜報員だった。こうして、カウナスの日本公使館の懐深く複数のポーランド情報組織が入り込み、ゲシュタポのスパイまで抱え込む、複雑怪奇な情報戦の渦中に千畝がいた。杉原夫人も、「領事館には数人のスパイが出入りして」いることに気づいており、わずかの気抜かりも命取りであった。
カウナス領事館が閉鎖されてから、千畝が、プラハ、さらにケーニヒスベルク赴任するようになったのは、名目上の上司だった大鷹正次郎・ラトビア大使から松岡外相への進言によるものである。大鷹の進言の概要は、カウナス領事館の千畝のみを、そのままケーニヒスベルクに移転させて、対ソ諜報活動に従事させることは、ドイツ側の納得を得られないだけでなく、ソ連側からも、ドイツに抗議がないとはいえない。したがって同地に正式の総領事、または領事を任命し、千畝をその下に置いて、対ソ関係事務を担当させた方がよいと思われるというものである。
1941年(昭和16年)年8月7日、ドイツ国家保安本部のラインハルト・ハイドリヒは、外相リッベントロップに対して、「ドイツ帝国における日本人スパイについて」の報告書(1941年8月7日付)を提出し、そこにはドイツの「軍事情報に並々ならぬ関心を示していた」として、「日本領事杉原」の名前が筆頭に挙げられ、「ポーランド及び英国に親しい人物」として名指しで非難されていた。北満鉄道買収交渉のハルビン時代からソ連にマークされていた杉原は、またドイツ諜報機関の最大の標的の一つでもあった。亡命ポーランド政府の情報将校たちが、カウナスの日本公使館の手引きにより在欧日本大公使館やバチカンの後援を受け、さらにスウェーデンを経由してロンドンのポーランド亡命政府へ情報を送る、全欧規模の諜報網をドイツ国家保安局が知るところになり、それが故に千畝はケーニヒスベルクからの即刻退去を求められたのである。
千畝を忌避したのは東プロイセンの大管区長官、エーリヒ・コッホである。後に美術品略奪者、ウクライナのユダヤ人虐殺者として悪名を馳せるコッホは、大量のユダヤ人逃亡を助けた千畝に当初から強い反感を持っており、ケーニヒスベルク着任から一ヵ月後にやっと千畝を引見した。ほどなくベルリン大使館から千畝の東プロイセン在勤をコッホが忌避した旨を伝えられ、千畝は最後の任地であるルーマニアのブカレストに向かうことになる。同盟国さえ出し抜き、名目上は敵国である亡命ポーランド政府の情報将校とさえ協力する、非情な情報戦の世界に千畝は生きていた。いわゆる「杉原ビザ」発給の最初の契機は、千畝が活用していたポーランドの情報将校を安全地域に逃すためのものであるが、それは、軍人などの家族等関係者を含めても多くて「当初600名分の通過ビザ」の予定であり、ここまでは、日本の外務省も参謀本部も周知のことであった。しかし、想定外の出来事が発生した。そしてそれが、ナチスに追われたポーランドからの大量の難民のリトアニアへの流入とカウナスの日本領事館への殺到である。
リビコフスキの回想録『対ドイツ情報 組織と活動』によれぱ、情報提供を受けたポーランド情報将校の安全を確保するためビザ発給は、山脇正隆・陸軍次官からストックホルム武官府の小野寺信大佐(当時)に命令されたものと、リガ武官府の小野打寛(おのうち・ひろし)中佐から杉原への指示があった二通りのものがあったが、千畝は単に「ポーランド情報機関への見返りというだけのことなら、ビザ発給を止めることもできた」のである。
ドイツ側は、カウナス領事館の「向かい側の地階に監視用の部屋を整」え、千畝らがバルト海沿岸都市クライペダ(ドイツ時代の呼称は「メーメル」)への遠乗りした時も尾行車がついた。また、ソ連の秘密警察もカウナス領事館を監視し、暗号電報の解読に腐心して一部それに成功している。
ポーランド参謀本部との協力関係は、もちろん千畝の発案ではなく、出発点は、ロシア革命以降ソ連とコミンテルンを共通の敵とする両国の利害関係の一致にあった。最初の本格的協力はシベリア出兵の時期であり、日本が入手した暗号表をポーランド側に提供し、この返礼として、ポーランドの暗号専門家ワレフスキ大尉が、1919年(大正8)年、日本の暗号システムの全面的改定を行った。当時、赤軍の配置と移動を次々と見破るポーランド参謀本部の諜報能力は驚異の的であり、諜報部門では、ポーランドは日本の先生格であった。それまでの日本の暗号システムは、「ルイ14世時代にロシニョールが作ったものと大差のない二重語置換式という比較的よく知られた方式をとって」おり、1920年代に、タイプライターのキーボードで操作できる暗号用ホイールをセットした暗号機をつくり、調整改良して「パープル・マシン」と呼ばれるものを導入した。しかし、欧米先進諸国の暗号作成と解読技術に追いつけぬまま先の敗戦を迎え、第二次世界大戦中せっかく苦労して入手した情報が東京に伝達される過程で連合国の防諜網にとらえられる事例が数多くあった。
日本に来たユダヤ難民[編集]
リトアニアから国外脱出を果たしたユダヤ人たちはシベリア鉄道に乗り、ウラジオストクに到着した。次々に極東に押し寄せる条件不備の難民に困惑した本省は、以下のように、ウラジオストクの総領事館に厳命した。
「本邦在外官憲カ歐洲避難民ニ與ヘタル通過査證ハ全部貴館又ハ在蘇大使館ニ於テ再檢討ノ上行先國ノ入國手續ノ完全ナル事ノ確認ヲ提出セシメ右完全ナル者ニ檢印ヲ施ス事」
【現代語訳=日本の官憲がヨーロッパから避難してくる人々に与えた通過許可証は、あなたのところやソ連の大使館でもう一度調べて、行先国に入る手続きが終わっていることを証明する書類を提出させてから、船に乗るの許可を与えること】

しかし、ハルビン学院で千畝の二期後輩であったウラジオストク総領事代理・根井三郎は、難民たちの窮状に同情し、1941年(昭和16年)3月30日の本省宛電信において以下のように回電し、官僚の形式主義を逆手にとって、一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がないと抗議した。
「避難民ハ一旦當地ニ到着セル上ハ、事實上再ヒ引返スヲ得サル實情アル爲(・・・)帝國領事ノ査證ヲ有スル者ニテ遙々當地ニ辿リ着キ、單に第三國ノ査證カ中南米行トナル居ルトノ理由ニテ、一率檢印ヲ拒否スルハ帝國在外公館査證ノ威信ヨリ見ルモ面白カラス」
【現代語訳=逃げてきた人たちがここにまでやって来たからには、もう引き返すことができないというやむを得ない事情があります。日本の領事が出した通行許可書を持ってやっとの思いでたどりついたというのに、行先国が中南米になっているというだけの理由で一律に船に乗る許可を与えないのは、日本の外交機関が発給した公文書の威信をそこなうことになるのでまずいと思います】

1941年3月30日付の根井三郎による本省への抗議の電信

本省とのやり取りは五回にも及び、難民たちから「ミスター・ネイ」の名で記憶されている根井三郎は、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給して難民の救済にあたった。
一度はシベリアの凍土に潰えるかに見えた難民たちの命は、二人のハルビン学院卒業生の勇気ある行為によって救われた。後藤新平が制定した同校のモットー「自治三訣」は、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして、報いを求めぬよう」というものであった。
こうした根井三郎の人道的配慮により乗船できるようになった難民たちは、日本海汽船が運航する天草丸に乗って敦賀港へ続々上陸。敦賀では、全米ユダヤ人協会からの依頼を受けたジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在のJTB)の社員がユダヤ難民救済協会から送金された現金を手渡したほか、敦賀駅までのバス輸送や横浜・神戸までの鉄道輸送手配を行った。その内のユダヤ系難民たちは、ユダヤ系ロシア人のコミュニティ、関西ユダヤ教団(シナゴーグ)及び、当時、日本で唯一存在していたユダヤ人組織である「神戸猶太協會」(アシュケナージ系)があった神戸などに辿り着く。
難民の内1,000人ほどがアメリカ合衆国やパレスチナに向かい、残りは後に上海に送還されるまで日本に留まった。松岡洋右外務大臣は、外相という公的な立場上は、カウナスの千畝に対してビザ発給条件を守るよう再三訓命した張本人であり、また同時にドイツとの同盟の立役者でもあるが、個人的にはユダヤ人に対して民族的偏見を持っていなかった。難民たちの対応に奔走していたユダヤ学者の小辻節三(後のアブラハム小辻)が、満鉄時代の縁を頼りに難民たちの窮状を訴えると、松岡は小辻にある便法を教えた。すなわち、避難民が入国するまでは外務省の管轄であるが、一度入国後は内務省警保局外事部に管轄が変わり、滞在延期については各地方長官の権限に委ねられている、と教えたのである。そこで、小辻は管轄の地方官吏たちを懐柔し、敦賀港に1940年10月9日に上陸時に利用されたゴム印には「通過許可・昭和15年10月9日より向こう14日間有効・福井縣」となっていたが、「杉原ビザ」を持ってバルハフティクらが来港した時には、それが「入國特許・自昭和15年10月18日・至昭和15年11月17日・福井縣」に変わっていた。
日本にやって来たユダヤ難民たち、とりわけ黒ずくめでもみあげを伸ばした神学生などのは、当時の日本人に強烈な印象を残し、安井仲治による写真集「流氓ユダヤ」シリーズにその様子が収録された。安井の撮影には、若き日の手塚治虫が随行し、その時の体験が、漫画『アドルフに告ぐ』(1986) に結実した。グラフィックデザイナーの妹尾河童の自伝『少年H』(1997) も当時の難民たちに言及しており、また野坂昭如による直木賞受賞作品『火垂るの墓』(1967) においても、「みな若いのに鬚を生やし、午後四時になると風呂屋へ行列つくって行く、夏やというのに厚いオーバー着て」いたという記述が見られる。
日本滞在後難民たちが向かった上海の租界には、戦前よりスファラディ中心の大きなユダヤ人のコミュニティがあり、ユダヤ人たちはそこで日本が降伏する1945年(昭和20年)まで過ごすことになった。
独ソ戦と第三帝国の落日[編集]
難民たちが脱出したリトアニアはその後、独ソ戦が勃発した1941年(昭和16年)にドイツの攻撃を受け、ソ連軍は撤退。以後、1944年(昭和19年)の夏に再びソ連によって奪回されるまで、ドイツの占領下となる。この間のリトアニアのユダヤ人20万8,000人の内、殺害された犠牲者数は19万5,000人から19万6,000人にのぼり、画家のベン・シャーンや哲学者のエマニュエル・レヴィナスを生んだ、カウナスのユダヤ人社会も壊滅した。またソ連領内でも多数のユダヤ難民がシベリアなど過酷な入植地に送られ絶命した。
1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争の勃発で、日本からアメリカ合衆国への渡航が不可能になり、滞在期限が切れたユダヤ人たちは当時ビザが必要なかった上海租界に移動せざるを得なかった。上海では、ドイツの強硬な申し入れのもとにドイツを真似てユダヤ人ゲットー(上海ゲットー)が作られ、上海のユダヤ人たちはそこに収容されることになった。上海が戦禍に覆われていたこともあり、終戦間際にはアメリカ軍機による空襲で数十名が死傷した。
リトアニア退去後の千畝は、ドイツの首都ベルリンを訪れた後、1940年(昭和15年)、当時ドイツの保護領になっていたチェコスロヴァキアのプラハの日本総領事館に勤務。1941年(昭和16年)には、東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館に赴任し、ポーランド諜報機関の協力を得て独ソ開戦の情報をつかみ、5月9日発の電報で本国に詳細に報告しているが、それは以下のようなものであった。
「伯林當地關ニハ依然トシテ連日軍用列車約十列車北行ス車輛ハ大部分佛國鐵道ノモノ(…)當地軍人關ニハ目下東『プロシア』ニハ『リヤブリン』方面ニ劣ラサル大兵カ集中シ獨蘇關係ハ六月ニ何等決定スヘシトナス(…)多數ノ隊付將校ハ五月迄ニ地圖判讀ノ程度ノ露語習得方命セラレ目下當地『バルト』獨逸人竝ニ白系ロシア人ハ敎師トシテ引張リ凧ナリ」
【現代語訳=ベルリンからケーニヒスベルク方面に相変わらず毎日およそ十輛程度の軍用列車が北上しており、車輛はフランスから徴発したものが用いられています。(…)東プロイセンには旧ポーランド領に劣らぬ大兵力が結集しているので、独ソ関係は6月には決定的局面を迎えるでしょう。(…)ドイツ軍の野戦将校たちは5月までに地図が読める程度のロシア語の習得が命じられ、目下バルト系ドイツ人や白系ロシア人が先生として引っぱりだこです】

1941年5月6日付で独ソ戦の勃発時期を特定した電信

そして、千畝の報告の通り、6月22日独ソ戦が勃発した。同年11月から1946年(昭和21年)までルーマニアのブカレスト公使館などヨーロッパ各地を転々とし、各職を歴任。
千畝がブカレスト公使館に勤務していた時代には、鉄衛団の扇動によってルーマニアのユダヤ人の歴史の上でもとりわけ残忍なポグロムが頻発していた。千畝とともに激動のヨーロッパを駆け抜けてきた杉原夫人は、 ルーマニアの「フェルディナンド王が亡くなった時に、ミハイの父であるカロルは、〝二十世紀のクレオパトラ〟と呼ばれたユダヤ人のルペスク夫人との恋愛を問題にされ、後継者の座を追われてフランスに住んでいましたので、まだ六歳だった幼いミハイが一国の王様として即位されたのです」などと指摘し、第二次世界大戦中ヨーロッパを席巻していた反ユダヤ主義に関する鋭い歴史的観察者としての側面を示している。どの政治家も民族主義の扇動でのし上がってきた当時のルーマニアでは、民族主義そのものは人を際立たせる特徴とならず、反ユダヤ主義が政争の重要なファクターになっていたことを端的に示すエピソードである。
首都のブカレストは子供連れの杉原家には危険だろうということで、ルーマニア時代の杉原一家はポヤナブラショフに疎開していたのだが、そこで他ならぬ幸子夫人をめぐる一つの事件が起こる。 ヘルシンキにいた頃フィンランドの作曲家シベリウスから送られたレコードとサイン入りポートレートをブカレストに置き忘れて来たことに気づき、その奪回のために単身首都に戻ろうとする。しかし、ドイツ軍用車に便乗した帰路に大戦末期の戦闘に巻き込まれ、車外に投げ出された。さらにドイツ軍のなかに女性がいることに不審に思ったパルチザンに取り囲まれ、ドイツ語やロシア語で事情を説明するも、彼らにはどちらの言葉も分からず、日本人を一度も見たことがない部隊員から銃口を突きつけられる。夫人は「撃つなら撃ちなさい!私は日本人です」と絶叫し、あまりの剣幕に驚いた男たちが銃を引っ込め、ドイツ語が分かる青年がやって来て事情聴取の後釈放される。「何か足元がおかしいと思ってみると、いつのまにかハイヒールの踵が折れてい」た。
第二次世界大戦の終結後、ブカレストの日本公使館でソ連軍に身柄を拘束された杉原一家は、1946年(昭和21年)11月16日、来訪したソ連軍将校に帰国するため直ちに出発するように告げられ、オデッサ、モスクワ、ナホトカ、ウラジオストックと厳寒の旅を続け、翌1947年(昭和22年)4月、興安丸(鉄道省、7080トン)で博多湾に到着した。
不遇の後半生から顕彰へ[編集]

リトアニアでの記念植樹
日本へ帰国後、一家は神奈川県藤沢市・鵠沼松が岡に居を据えた。その地は、北満鉄道譲渡交渉の際の最高責任者で千畝の外交手腕を高く評価してくれた、広田弘毅が戦中に住んだ思い出の場所だった。千畝は、長男に弘樹と命名するほど広田を尊敬していた。1947年6月13日、岡崎勝男・外務次官から退職通告書が送付され、6月7日に外務省を依願退職。
外務省退官からしばらくは、三男を白血病で失い、義理の妹・菊池節子(ロシア文学者・小沼文彦の夫人)も亡くなるなど家族の不幸に見舞われる。その後は連合国軍の東京PXの日本総支配人、米国貿易商会、三輝貿易、ニコライ学院教授、科学技術庁、NHK国際局などの職を転々とする。1960年(昭和35年)に川上貿易のモスクワ事務所長、1964年(昭和39年)に蝶理へ勤務、1965年(昭和40年)からは国際交易モスクワ支店代表など再び海外生活を送った。
1968年(昭和43年)夏、「杉原ビザ」受給者の一人で、新生イスラエルの参事官となっていたニシュリ (B. Gehashra Nishri) と28年ぶりに大使館で再会。カウナス駅頭で「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」と叫んだかつての青年は、杉原夫人の「手をとり固く握って涙を流して喜ん」だ。外国人にも発音しやすいように、千畝は難民たちに「センポ・スギハラ」と名前を教えており、その名前を外務省に照会しても「該当者なし」とのことであった。しかし、難民たちの消息を気にかけていた千畝が、以前イスラエル大使館に足を運び自分の住所を教えていたため、ニシュリは千畝を探し出すことができた。
1969年(昭和44年)、イスラエルの宗教大臣となっていたゾラフ・バルハフティクとエルサレムで29年ぶりに再会。この時初めて、今日誰でも閲覧できる本省との電信のやりとりが明かされ、失職覚悟での千畝の独断によるビザ発給を知ったバルハフティクが驚愕する。
後のインタビューで、バルハフティクはこう語っている。
実際には、日本政府の許可なしであったことを私たちが知ったのは、1969年に杉原氏とイスラエルで再会した時である。杉原氏が訓命に背いてまで、ビザを出し続けてくれたなんてことは、再会するまで考えられなかったので、とても驚いたことを覚えている。杉原氏の免官は疑問である。日本政府がすばらしい方に対して何もしていないことに疑問を感じる。賞を出していないのはおかしい。表彰していないのは残念である。杉原氏を支持している方は多くいるが、私は20年前から、日本政府は正式な形で杉原氏の名誉を回復すべきだといっている。しかし日本政府は何もしていない。大変残念なことである。

1998年5月25日のエルサレム郊外でのインタビュー

1975年(昭和50年)に国際交易モスクワ支店代表を退職して日本に帰国した。1977年(昭和52年)、神奈川県鎌倉市・西鎌倉に転居した。
「杉原はユダヤ人に金をもらってやったのだから、金には困らないだろう」という悪意に満ちた中傷から、ニシュリによる千畝の名前の照会時の杓子定規の対応まで、旧外務省関係者の千畝に対する敵意と冷淡さは、河野洋平外務大臣による名誉回復がなされるまで一貫していた。こうした外務省の姿勢に真っ先に抗議したのは、ドイツ人のジャーナリスト、ゲルハルト・ダンプマンだった。ダンプマンは、旧西ドイツのテレビ協会の東アジア支局長を務め、1974年から1981年まで東京に在住していた。千畝への献辞の付いた『孤立する大国ニッポン』のなかで、「戦後日本の外務省が、なぜ、杉原のような外交官を表彰せずに、追放してしまったのか、なぜ彼の物語は学校の教科書の中で手本にならないのか(このような例は決して他にないというのに)、なぜ劇作家は彼の運命をドラマにしないのか、なぜ新聞もテレビも、彼の人生をとりあげないのか、理解しがたい」と、ダンプマンは抗議したのである。それは、千畝がまだヤド・ヴァシェム賞を受賞 (1985) しておらず、幸子夫人による回想録の初版 (1990) も出版されていない、1981年(昭和56年)のことであった。
1985年(昭和60年)1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞。千畝の名前が世に知られるにつれて、賞賛とともに、政府の訓命に反したことに関して、「国賊だ、許さない」など中傷の手紙も送られるようになった。
同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われるも、心臓病と高齢は千畝の海外渡航を許さず、千畝に代わって四男・伸生(のぶき)が出席した。1986年(昭和61年)7月31日、86歳でその生涯を閉じた。
終わらざるドラマ[編集]
千畝の死を知るや、駐日イスラエル大使のヤーコブ・コーヘンが駆けつけ、葬儀には、かつてのハルビン学院の教え子やモスクワ駐在員時代の同僚など、生前の千畝を知る三百人余が参列。通夜には、一人の男性が新聞で知ったということで訪ねて来た。その男性は肉体労働をしているらしい様子で、紙には千円札がきちんとたたまれており、幸子夫人に紙に包んだ香典を渡すと、名前を聞いても言わずに帰って行った。千畝は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園(29区5側)に葬られた。杉原の発給したビザに救われ、カウナスを通ってアメリカに渡ったゼルは、千畝が外務省を辞めるに至った経緯を知って憤慨し、病躯をおして長文の手紙を幸子夫人に送り、「日本に行って外務省に抗議する」旨を伝えた。
日本政府による公式の名誉回復が行われたのは、21世紀も間近の2000年10月10日になってのことだった。
これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。

2000年10月10日の河野洋平外務大臣による演説

2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災が発生し、地震と津波による甚大の被害が世界中に報道されるや、内外のユダヤ人社会から、第二次世界大戦時にユダヤ難民の救済に奔走した杉原の事績を想起すべきとのアピールがなされた。
3月21日、イスラエルの有力紙『エルサレム・ポスト』は第二次世界大戦中、「在リトアニア日本公使、チウネ・スギハラが、訓令に反してビザを発給し、6,000人のユダヤ人を救った」ことに注意を喚起し、「在日ユダヤ人共同体が協力し、すべてを失い窮状にある人々の救済を始め、在京のユダヤ人たちは募金のための口座を開いた」と報じた。
東日本大震災によって被災した人々に対する義援金を募るにあたり、米国のユダヤ人組織であるオーソドックス・ユニオンは、会長のシムカ・カッツ博士と副会長のスティーヴン・ヴェイユ師の連名で、以下のような公式声明を発した。
窮状にある人々に手を差し伸べることは、主のいつくしみの業に倣うことである。1940年、杉原領事夫妻は身職を賭して通過ビザを発給し、6,000人のユダヤ人の命を助けて下さった。いまこそわれわれがその恩義に報いるときである。

東日本大震災への義援金を募る際の米国のユダヤ人組織オーソドックス・ユニオンによる公式声明

6月23日、ロサンゼルスのスカイヤボール文化センターで俳優の渡辺謙が、メッセージ「日本のための団結」を読み上げた後、千畝を描いた米国映画 "Sugihara:Conspiracy of Kindness" が上演され、収益が全額「日本地震救済基金」に寄付される。
10月24日、早稲田大学出身の超党派の国会議員を中心に「杉原千畝顕彰会」が発足し、平山泰朗・衆議院議員の提唱により、杉原千畝を顕彰する顕彰碑(書・渡部大語)が母校内(早稲田キャンパス14号館脇)に建立され、その碑文には、「外交官としてではなく、人間として当然の正しい決断をした」が選ばれた。
12月24日、「第二次世界大戦中、リトアニア領事として同国からアメリカへ脱出する多くのユダヤ人の命を救った杉原千畝への恩を忘れないとの思いから」、アメリカのリトアニア人居住地区から、東日本大震災で秦野市内に避難している子供たちに対し、クリスマスプレゼントとして、ノートとクレヨンが寄付された。
2012年(平成24年)2月20日、来日したリトアニアのクビリウス首相が野田佳彦首相に対して、「日本は地理的には遠いが親近感を抱いている。故杉原氏がユダヤ人を助けたことはリトアニアの日本理解に大きな影響を与えている」と述べた。
3月22日、フロリダ州ボカラントン市で、千畝の功績を記念する式典が挙行され、ニューヨーク総領事館から川村泰久首席領事をはじめ約100人が出席した。4月26日、カナダ航空宇宙博物館において在カナダ日本大使館及びリトアニア大使館、ブナイ・ブリス・カナダとの共催で映画『命のビザ』を上演。
10月16日、千畝の母校である愛知県立瑞陵高校(旧制愛知五中)に、在日イスラエル大使館から感謝のためのオリーブの木が贈られ植樹式が行われた。
2013年、5月10日、カナダ在住のジャーナリスト・高橋文が、日本経由でカナダに渡ったユダヤ人7家族15人の証言を集めた記録映像『スギハラ・チウネのメッセージ』を八百津町の赤塚新吾町長に贈った。
9月10日、千畝のひ孫の杉原織葉(おりは)が、ミュージカル「SEMPO」に出演(難民の少女ニーナ役)。
語録[編集]
「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」。
「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれない。しかし、私には頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできなかった」。
"Vaya con Dios!"-- 千畝の激励としてソリー・ガノールが記憶している言葉。
「世界は、大きな車輪のようなものですからね。対立したり、あらそったりせずに、みんなで手をつなぎあって、まわっていかなければなりません・・・。では、お元気で、幸運をいのります」 -- ビザ発給の際にある難民にかけた千畝の励ましの言葉。
「旅行書類の不備とか公安上の支障云々を口実に、ビーザを拒否してもかまわないとでもいうのか? それがはたして国益に叶うことだというのか?」
「新聞やテレビで騒がれるようなことではない」。
「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」。
「難民たちには、男性だけでなく、女性や老人、子供までいた。みな明らかに疲労困憊している様子だった」。
「あの人たちを憐れに思うからやっているのだ。彼らは国を出たいという、だから私はビザを出す。ただそれだけのことだ」-- モシェ・ズプニックが聞いた言葉。

杉原千畝 語録

人物[編集]
外国語に堪能であり、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語など数カ国語に通暁していた。特にロシア語には精通しており、隣室で会話のやり取りを聞いていた笠井唯計(ただかず)は、二人のロシア人の会話と取り違えたほどだった。
チェコスロヴァキアを占領したドイツのヨアヒム・フォン・リッベントロップ外相が在チェコの各国外交官を呼びつけて即刻退去せよと述べた時、「ドイツに退去してくれと言われる覚えはない。その理由を説明して下さい」とドイツ語で反駁し、リッベントロップを絶句させた。
「父は相手がユダヤ人であろうとなかろうと、助けたことでしょう。父に尋ねればきっとそう答えると思います。ユダヤ人であろうとキリスト教徒であろうと変わりはありません」 … マレク・アルテールが四男・伸生(のぶき)から聞いた言葉。
「杉原氏は広い心の持ち主であった。彼は廉直高潔の士であった。私は強い感動をおぼえた」 … 「杉原ビザ」の受領者の代表だったゾラフ・バルハフティクの言葉。
「神と共に行け、センポ・スギハラ。あなたは、天国においても、必ずや輝ける地位を占められることでしょう」 … 千畝の没後、ソリー・ガノールが述べた追悼の言葉。
「政府の命令に背き、良心に従った杉原さんがいなかったら、私たちの誰も存在しなかった。私たちが歩み続けた暗い道の中で、杉原さんの星だけが輝いていた」 … 「杉原ビザ」受領者、アンナ・ミローの言葉。
「あなたは、自分の家族や将来を犠牲に出来ますか? 政府で働いていて汚職を発見したら、それを告発できますか? 杉原氏はそんな誰もができないことを世間の常識にとらわれずやり遂げたのです」 … 「杉原ビザ」受領者、マーシャ・レオンの言葉。
「一言で言えば『古武士』のような方で、すべて黙っていて、分かる人だけが分かってくれればいいという、言い訳をしない方でした」 … モスクワ駐在員時代に部下だった川村秀の言葉。
「杉原さんはユダヤ人とのつながりを周囲に喋ったりしない人だった。私も、新聞の記事で実情を知ったぐらいですから」 … 川村秀の言葉
「あまり饒舌な方ではなかったのですが、言葉を選ぶように、私に分かりやすく話そうとしてくれているのがわかりました。私にとってそんな〝千畝さん〟の態度は不思議な感じでした。当時は女性の話を真剣に聞いて、きちんと答えてくれるような男性はほとんどいなかったからです」 … 杉原夫人の言葉。
「非人間的な行為に対抗する勇気には、国籍や人種や宗教の壁などないということを示した」… トーマス・バーゲンソール (国際司法裁判所判事)の言葉。
「私のような迫害を受けているものの苦しみを理解し、ただ深い同情を寄せる以外は何の理由もなく、私たちを死の淵から救ってくれたスギハラの行為は、生命を賭して厳しい困難に立ち向かう高貴な道義心を備えた偉大な人物にしかできないことです。もし彼がいなかったら、私はいまここにいません。スギハラのような男は、百年に一度しか現れませんよ」 … 「杉原ビザ」受領者、ヘンリー・クロンゴールドの言葉。
「杉原さんがビザを出したというのに、私たちが駄目という理由はありませんよ」 … ハルビン学院の後輩・根井三郎(ウラジオストク総領事代理)の言葉。
「自分についてはまったく話さなかった。誰にでも温かく接する人柄だし、決して、上から見下ろしたり、差別したりしなかった」 … 川村秀の言葉。
日本政府の対応[編集]
「SEMPO SUGIHARAという外交官は存在しない」[編集]
戦後ソ連の収容所から帰国を果たした後、千畝は1947年(昭和22年)に外務省を辞職。幸子夫人によると岡崎勝男・外務事務次官から口頭で「例の件」の責任を免官の理由として告げられたという。
政府の公式見解では、1946年(昭和21年)から外務省のみならず行政組織全体に対して行われていた「行政整理臨時職員令(昭和21年勅令第40号)」に基づく機構縮小によるリストラの一環(当時の外務省職員の三分の一が退職)における千畝自身による依願退職とされている。またビザ発給後も1945年(昭和20年)のソ連による収容所送還まで、チェコスロヴァキアの在プラハ総領事館総領事代理やドイツの在ケーニヒスベルク総領事館総領事代理、ルーマニアの在ブカレスト日本公使館一等通訳官などを歴任し、7年間に渡り外務省で勤務し続ける中で昇給、昇進をして、1944年(昭和19年)には勲五等瑞宝章を受章していること、退職金や年金も支給されていることから、杉原にとって不名誉な記録は存在しないというのが現在まで政府の公式見解となっている。
しかし、元イスラエル大使の都倉栄二は、「当時、ソ連課の若い課長代理として活躍していた曽野明」が、「今後の日本はアメリカとソ連の両大国との関係が非常に大切になってくる。特にソ連は一筋縄ではいかぬ相手であるだけに、わが国の将来を考えるならば、一人でも多くのソ連関係の人材を確保しておくべきである」と述べたことを証言しており、他ならぬこの都倉は、千畝から3ヶ月も遅れてシベリア抑留から復員したにもかかわらず、外務省勤務が即刻認められ、「ソ連関係の調査局第三課にこないか」と曽野から誘われている。さらに、杉原が乗船した同じ復員船で帰国した部下の新村徳也は、帰国と同時に外務省外局の終戦連絡中央事務局に勤務することができた。
戦後、千畝の消息を尋ねるユダヤ人協会からの問い合わせに対して、外務省は旧外務省関係者名簿に杉原姓は三名しかいなかったにもかかわらず、「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答していた。
また家族以外で「カウナス事件」に立ち会った唯一の証人である新関欽哉(後の駐ソ大使)は千畝の死の翌1987年(昭和62年)、「NHKのテレビコラムで、『私の見たベルリンの最後』という話」をし、「まだ駆け出しの外交官であり、責任ある地位にはついていなかったが、いろいろ劇的な場面に居合わせたので」、それをまとめた回想録『第二次世界大戦下 ベルリン最後の日』(1988) を刊行した。しかし、同書ではリトアニア領事館の杉原千畝に言及しているにもかかわらず、日本公使館にユダヤ難民が殺到するという前代未聞の外交事件に一行も触れていない。
新関は、第二次大戦末期に陥落したベルリン在住百数十名の日本人とともに満洲経由で帰国する。満洲では荷物引取交渉のために2週間満州里に滞在し、この時新関に協力したのが佐藤鉄松・ハルビン副領事である。佐藤は、在欧時代はケーニヒスベルクに在勤し、杉原を補佐した人物として、千畝のロシア語書簡(ワルシャワ軍事博物館蔵)でも言及されている。新関に関しては、「千畝手記」の抹消部分に「公邸の来賓用寝室には、たまたま外交官試験出の語学研修生N君が、泊まり客として居合わせ」たとされており、戦後も千畝と同じく藤沢市に居住。また、杉原がモスクワ駐在員時代には駐ソ大使であった。帰国後すぐに「外務省政務局第三課に配属され」た新関は、「この課はソ連関係を担当してお」り、「そのころの最も重要な仕事は対ソ和平問題であった」としている。渡欧時に語学研修生で、敗戦時にはベルリン大使館の三等書記官に過ぎなかった新関は、帰国するとすぐに外務省のソ連課に迎えられた。
また千畝退職時に外務省筋から「杉原はユダヤ人に金をもらってやったんだから、金には困らないだろう」などという根拠のない噂が流された時も、新関はそれを打ち消すことをしなかった。歴史学者の杉原誠四郎は、「この人物は押し寄せるユダヤ難民を掻き分けるようにして領事館に入り、そして領事館に一泊した」のだから、「この噂が根も葉もないことであることを、新関欽哉はまっさきに証言しなければならない道義的立場にある」と批判している。
外務省の曽野明が「あらゆる抵抗を排除し、ソ連関係職員の確保に懸命に努力し」たとするまさにその時期に依願退職を求められた杉原千畝は、26歳の時に『ソヴィエト聯邦國民経済大観』を外務省から刊行してロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわし、北満鉄道買収交渉を成功させるなど、省内でその名を知らぬ者はいなかった。「外務省きってのロシア通」と考えられていただけに、千畝の排除を「戦後の人員整理」に帰す政府見解に関して疑いを持つ研究者は少なくなかった。
歳川隆雄は、日本の外務省内には血縁関係者が多く、入省時の語学研修にもとづく派閥が省内人事や外交政策にも影響があるとして、外務省人事の問題点を指摘している。高橋保の渡欧日記に、「杉原千畝氏の家に招かれ、食事を共にする。そこに鴻巣書記生、亀井トルコ商務官、田中書記生など来る。非常に面白いが、色々外務省の欠点、人事など例の如く話す」とあり、杉原手記に「万事勉強不足で有名な外務省」と述べられているように、千畝自身も実際の能力や業績よりも血縁関係や学閥が優先される外務省の人事システムに疑問を持っていた。そして、かつての外務省の同僚から「杉原はユダヤ人に金をもらってやったんだから、金には困らないだろう」と中傷されたとき、旧外務省関係者と絶縁した。
杉原は、大公使への道を開く文官高等試験(キャリア採用試験)の受験をするために、「子供の教育の関係上」という口実で繰り返し帰国願いを申請したが、外相より「一等通譯官杉原千畝賜暇帰朝許可ス」とされたのは、ミッドウェー海戦の半年後の1942年(昭和17)12月2日になってからであり、枢軸国側の敗色濃い欧州からの帰国が実現しないまま、敗戦を迎えた。
千畝自身は、カウナス事件に関して、以下のように述べている。「本件について、私が今日まで余り語らないのは、カウナスでのビーザ発給が、博愛人道精神から決行したことではあっても、暴徒に近い大群衆の請いを容れると同時にそれは、本省訓令の無視であり、従って終戦後の引揚げ(昭和二二年四月の事)、帰国と同時に、このかどにより四七才で依願免官となった思い出に、つながるからであります」。
公式の名誉回復へ向けて[編集]
東京大学理学部を卒業の後三井物産に勤務していた古崎博は、1940年(昭和15年)、重要な軍事物資だった水銀調達の相談のために、大連特務機関長・安江仙弘大佐を訪問した際、「リトアニアにいた日本領事が、外務省の反対を押し切って、満洲に逃げてくる千人近いユダヤ人に査証を発行して、これをすくったことがある。この領事は外務省から叱られて本国召還をくらったようですがね」と、安江が述べたことを記録している。1940年(昭和15年)のこの面談の日付は明示されていないが、難民たちがカウナスの領事館に殺到した7月から、安江がまだ予備役に編入される前の9月、の間であることは間違いない。「本国召還」などは史実と相違しているが、「カウナス事件」という名前で外務省内で問題視されていた千畝にまつわる事件が、在欧武官府から東京の陸軍中央まで伝えられていた事実を証言している。
千畝の依願退職に関しては、戦後日本の省庁機能を再建する際に、外務省関係者の間で「カウナス事件」における不服従が問題になり、終戦連絡中央事務局連絡官兼管理局二部一課から、千畝の解雇が進言された事実が、堺屋太一、加藤寛、渡部昇一らの対談によって、具体的に証拠立てられた。
渡部昇一がその著作で「杉原は本省の命令を聞かなかったから、クビで当たり前なんだ。クビにしたのは私です」と証言したとする曽野明に対して、加藤寛がその内容を照会したところ、「日本国を代表もしていない一役人が、こんな重大な決断をするなど、もっての外であり、絶対、組織として許せない」と曽野が述べたという。
この曽野明と、曽野に引き抜かれた都倉栄二、そして先の新関欽哉こそ、杉原なき外務省で戦後の対ソ外交を主導したキャリア官僚三人であった。
政治学者の小室直樹は、「これは人道的立場からのやむを得ざる訓命違反であって、失策ではない。杉原千畝元領事は、戦後直ちに外務省に呼び戻すべきであった。日本外務省は、日本の外交的立場をぐっと高めるに足る絶好のチャンスを、みすみすと失ったのである」と、杉原の免職を批判している。2006年3月24日の小泉純一郎総理大臣の答弁書(内閣衆質164第155号)によると外務省には懲戒処分の証拠文書がないようである。
1991年(平成3年)10月には、鈴木宗男・外務政務次官(当時)が幸子夫人を招き、杉原副領事の人道的かつ勇気ある判断を高く評価し、杉原副領事の行動を日本人として誇りに思っているとし、併せて、半世紀にわたり外務省と杉原副領事の家族との間で意思の疎通を欠いていた無礼を謝罪した。しかし、当時まだ外務省に在職していた佐藤優は、『国家の罠』(2005) において、その名誉回復すら「当時の外務省幹部の反対を押し切」ってなされたものであったとし、千畝の不服従に対する外務省関係者の執拗な敵意の存在を証言している。
「外務省が詫びる必要はない、と会談そのものに反対したという」などと『朝日新聞』(1994年10月13日付)で取り沙汰され、杉原の名誉回復に反対したと一部マスコミで報じられた当時の外務事務次官小和田恆(元国連大使)は、「そういう報道は心外です。私としては、反対したという記憶はありませんし、私自身の考え方からしても反対するはずがない」とし、自身が杉原領事の立場にいたらどうするかという『アエラ』(2000年11月13日号)の取材に対して、「組織の人間として訓令に従うか従わないかは、最終的にその人が良心に照らして決めなければならない問題」と答え、千畝の行為に一定の理解を示した。
1992年(平成4年)3月11日の第123回国会衆議院予算委員会第二分科会において、草川昭三議員の質問に対して、兵藤長雄・外務省欧亜局長は、「確かに訓命違反、その時の服務命令の次元で考えればそうであったけれども、しかしもっと大きな次元で考えれば、(・・・)数千人の人命を救うかどうかという、より大きな問題がそこにかかわっていたということで、結果的に見れば我々もこの話は美談だったというふうに今見るわけでございます」と、確かに「訓命違反」ではあるが、「数千人の人命を救うかどうかという、より大きな問題」があったとして、切迫した状況における杉原領事の判断を支持した。
2000年(平成12年)、河野洋平・外務大臣の顕彰演説によって、日本政府による公式の名誉回復がなされた。それは、千畝の没後14年目のことであった。

真田幸村<真田丸>忠義の蒼い炎 真田幸村(信繁)大河ドラマ小説2

2017年10月08日 07時59分19秒 | 日記



































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NHK大河ドラマ真田丸総集編第一章『波乱万丈』より
時代は武田信玄死後七年後……長篠の戦いにやぶれて織田軍に攻められる武田勝頼である。北に上杉、東に北条、南に徳川、西に織田、この物見にいって馬でおいたてられ必死に逃げる青年はこれより33年後、大坂夏の陣で徳川家康を自害寸前までおいつめた希代の英雄・真田源次郎信繁(幸村)である。だが、今は只、恐怖に震えて逃げるのみである。
真田家は甲斐・信濃の武田家に従っていた。甲斐の虎・武田信玄を御屋形さまと慕っていた。だが、信玄の死後はふんだりけったりである。勝頼の叔父・木曽義仲も裏切り、武田軍師・穴山梅雪や軍師・真田安房守昌幸(幸村の父親)は今は新府城に戻るべき、という。
安房守は「新府城は難攻不落……武田家は滅びませぬ!必ずやこの安房守が御屋形さまをお守りいたしまする!」と剛毅だった。
だが、息子達には「武田は滅びるぞ」と呟く。
息子達(嫡名・真田源三郎信幸・長女・まつ・次男・真田源次郎信繁・妻・薫・母・とり)らは「しかし、武田は滅びぬ。新府城は難攻不落と?!!」と驚く。
「……誰がいったんだ。そんなこと。」
「父上が先ほど…!」
「とにかく武田家はもはやぼろの泥船!まずは居城岩糒(いわびつ)城で臥薪嘗胆じゃ。」
先に昌幸は岩糒城へ家臣と向かった。
真田丸というか真田家族は新府城を捨てて、岩糒城まで農民のなりをして向かった。
だが、途中に武田を裏切った小山田の家来らに命を狙われる。昌幸がたすけた。
武田勝頼は織田軍においたてられ自害……あの名門武田家は滅亡した。
真田昌幸は「北条か?上杉か?」と頭をめぐらせた。「くじで決めようか?信幸、信繁(幸村)?」「……しかし、そのような大事なことをくじで決めていいものでしょうか?」
「父上の策をおきかせくだされ!」
「策?そんなものはない。北条か?上杉か?……む?まてよ!そうだ!決めた!わしは決めたぞ!」
「何をにございまするか?!!」
「上杉でも北条でもない。わしは織田信長につくぞ!」
「え?!!しかし、織田につけばまっさきに上杉との戦になりまするぞ?」
「いいか!まずは大博打じゃ!織田信長………尾張のおおうつけに博打よ!」
「しかし、父上!」
真田安房守の意思はかたまった。
織田信長につく。
真田信繁(幸村)と父・昌幸はさっそく、織田信長に拝謁した。
織田信長はブーツにマント姿で圧倒された。
真田信繁(幸村)には村に好きなおなごがいた。幼馴染みのお梅(家臣・堀田作兵衛の妹)である。大河ドラマでは幼馴染みのきりにお梅への櫛の贈り物を渡させる設定だった。
しかし、そんな信長もすぐに本能寺の変で死んでしまう。死ぬというより、家臣の明智光秀に天正十年本能寺で暗殺されたのだ。徳川家康は伊賀超えで必死に三河に逃げた。
安房守は激怒した。「なんと!?!何故死んだ!あの憎らしい信長め!博打に負けた!」
「博打とは……。そういえば織田方の近江安土城には姉上(まつ)を人質にだしたままです。」
「救いに行かねば殺されてしまいます。」
「まさか!父上は明智につくので?!」
「そんな輩にはつかん!明智光秀の天下など三日天下よ。」
真田家族は馬を駆りまつを救いに行くが、敵に追い詰められたまつは崖から海に落ちて行方不明になる。
失意のまま戻った源次郎信繁(幸村)は、母・薫に責められる。
源次郎は涙を流しながらお梅に弱音を吐露した。
「愚痴を何も言わずきいてくれぬか?……わしは自分では軍略の才能があると思っておった。兄よりも機転が利き、策略に優れ、父・昌幸仕込みの策略で歴史を変え、ひとをすくう……。しかし、わしの軍略など実際の世界では何の役にもたたなかった。只、逃げて、流されて、……わしは無力じゃ。何の力も無い。わしは…無力じゃった」
「源次郎さま。……あなたが無力でもこのお梅があやういときにはどこからでもきてたすけにきてくだされ…」
「…お梅。」
ふたりは抱擁した。それは源次郎を崩壊からすくう抱擁であった。


つい前にNHKの大河ドラマ化されるまで「前田利家(まえだ・としいえ)」は日陰者であった。
 秀吉や信長や家康となると「死ぬほど」主人公になっている。秀吉は百姓出の卑しい身分からスタートしたが、持ち前の知恵と機転によって「天下」を獲った。知恵が抜群に回ったのも、天性の才、つまり天才だったからだろう。外見はひどく、顔は猿そのものであり、まわりが皆、秀吉のことを「サル、サル」と呼んだ。
 が、そういう罵倒や嘲笑に負けなかったところが秀吉の偉いところだ。
 利家は律義者で、策略はうまくなかったが、うそのつけない正直者で、信長に可愛がられた。秀吉の才能を見抜き、真の友として、一生支えたのもまた利家の眼力だった。
利家が尾張(愛知県)に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。
 利家の恩人、織田信長は尾張の守護代で、駿河(静岡県)の今川や美濃(岐阜県)の斎藤らと血で血を洗う戦いを繰り広げていた。
  信長は苦労知らずの坊っちゃん気質がある。浮浪児でのちの豊臣(羽柴)秀吉(サル、日吉、または木下藤吉郎)や、六歳のころから十二年間、今川や織田の人質だったのちの徳川家康(松平元康)にくらべれば育ちのいい坊っちゃんだ。それがバネとなり、大胆な革命をおこすことになる。また、苦労知らずで他人の痛みもわからぬため、晩年はひどいことになった。そこに、私は織田信長の悲劇をみる。
質実剛健の家風で知られる上杉家の中で、前田慶次郎は明らかに浮いていた。
紫と白の肩身替りの色鮮やかな小袖に、墨染めの革袴、首には十字架のついた金鎖をじゃらじゃらと下げている。
片手の中指には髑髏の金の指輪を嵌めて、近頃京で流行りのキセルをふかしていた。髪を南蛮人のように赤茶色に染めている。
直江山城守兼続を頼って加賀前田藩から会津の上杉家へきて一千石の家禄を与えられた。衣装や行動が突飛なだけでなく、慶次郎は歌道・華道・茶道・囲碁・将棋・能・笛・太鼓・琵琶・にも通じ、風流人であった。
 前田家を離れ、禄もなく、放浪の暮らしが長く、世話してくれる女房、子供がいないという慶次郎だが「嘘」である。加賀に妻と三人の娘がいる。
 上杉家には最上級士族の侍組の他に、馬廻組(先代謙信以来の直臣団)、五一騎組(上杉景勝の直臣団)、与板組(直江山城守兼続の直臣団)がある。
 あるとき慶次郎は林泉寺(上杉家の菩提寺)の和尚を殴りつけた。和尚は主君・上杉景勝の庇護の元、やや言い過ぎの横柄な態度をとったからだ。だが、家臣団は「和尚を殴るとは何事か!」と青ざめる。が、慶次郎は「主君・上杉景勝公も直江山城守兼続公もそんなことで腹をたてるケツの穴の小さい男ではないわい!」と喝破した。
 上杉家は酒を愛した先代謙信公以来、人との交わりには酒が欠かせない。酒を酌み交わし、はじめて仲間として認める気風である。慶次郎も酒豪であったという。慶次郎には加賀に置き去りにした妻子がいた。前田利家の次兄・安勝の娘を娶っており、三女の娘(長女・坂、次女・華、三女・佐乃)がおるが慶次郎出奔後、残された妻子は加賀金沢の地でひっそり暮らしていた。慶次郎は妻子のことをきかれる度に「忘れた。出奔後は、わしは生涯孤独だ」というばかりだ。
 戦国時代、十六世紀はどんな時代だったであろうか。
 実際にはこの時代は現代よりもすぐれたものがいっぱいあった。というより、昔のほうが、技術が進んでいたようにも思われると歴史家はいう。現代の人々は、古代の道具だけで巨石を積み、四千年崩壊することもないピラミッドをつくることができない。鉄の機械なくしてインカ帝国の石城をつくることもできない。わずか一年で、大坂城や安土城の天守閣をつくることができない。つまり、先人のほうが賢く、技術がすぐれ、バイタリティにあふれていた、ということだ。
 戦国時代、十六世紀は西洋ではルネッサンス(文芸復興)の時代である。ギリシャ人やローマ人がつくりだした、彫刻、哲学、詩歌、建築、芸術、技術は多岐にわたり優れていた。西洋では奴隷や大量殺戮、宗教による大虐殺などがおこったが、歴史家はこの時代を「悪しき時代」とは書かない。
 日本の戦国時代、つまり十五世紀から十六世紀も、けして「悪しき時代」だった訳ではない。群雄かっ歩の時代、戦国大名の活躍した時代……よく本にもドラマにも芝居にも劇にも歌舞伎にも出てくる英雄たちの時代である。上杉謙信、武田信玄、毛利元就、伊達政宗、豊臣秀吉、徳川家康、織田信長、そして前田利家、この時代の英雄はいつの世も不滅の人気である。とくに、明治維新のときの英雄・坂本龍馬と並んで織田信長は日本人の人気がすこぶる高い。それは、夢やぶれて討死にした悲劇によるところが大きい。坂本龍馬と織田信長は悲劇の最期によって、日本人の不滅の英雄となったのだ。
 世の中の人間には、作物と雑草の二種類があると歴史家はいう。
 作物とはエリートで、温室などでぬくぬくと大切に育てられた者のことで、雑草とは文字通り畦や山にのびる手のかからないところから伸びた者たちだ。斎藤道三や松永久秀や怪人・武田信玄、豊臣秀吉などがその類いにはいる。道三は油売りから美濃一国の当主となったし、秀吉は浮浪児から天下人までのぼりつめた。彼らはけして誰からの庇護もうけず、自由に、策略をつかって出世していった。そして、巨大なる雑草は織田信長であろう。 信長は育ちのいいので雑草というのに抵抗を感じる方もいるかもしれない。しかし、少年期のうつけ(阿呆)パフォーマンスからして只者ではない。
 うつけが過ぎる、と暗殺の危機もあったし、史実、柴田勝家や林らは弟の信行を推していた。信長は父・信秀の三男だった。上には二人の兄があり、下にも十人ほどの弟がいた。信長はまず、これら兄弟と家督を争うことになった。弟の信行はエリートのインテリタイプで、父の覚えも家中の評判もよかった。信長はこの強敵の弟を謀殺している。
 また、素性もよくわからぬ浪人やチンピラみたいな連中を次々と家臣にした。能力だけで採用し、家柄など気にもしなかった。正体不明の人間を配下にし、重役とした。滝川一益、羽柴秀吉、細川藤孝、明智光秀らがそれであった。兵制も兵農分離をすすめ、重役たちを城下町に住まわせる。上洛にたいしても足利将軍を利用し、用がなくなると追放した。この男には比叡山にも何の感慨も呼ばなかったし、本願寺も力以外のものは感じなかった。 これらのことはエリートの作物人間ではできない。雑草でなければできないことだ。
  信長の生きた時代は下剋上の時代であった。
「応仁の乱」から四十年か五十年もたつと、権威は衰え、下剋上の時代になる。細川管領家から阿波をうばった三好一族、そのまた被官から三好領の一部をかすめとった松永久秀(売春宿経営からの成り上がり者)、赤松家から備前を盗みとった浦上家、さらにそこからうばった家老・宇喜多直家、あっという間に小田原城を乗っ取った北条早雲、土岐家から美濃をうばった斎藤道三(ガマの油売りからの出世)などがその例であるという。
 また、こうした下郎からの成り上がりとともに、豪族から成り上がった者たちもいる。三河の松平(徳川)、出羽米沢の伊達、越後の長尾(上杉)、土佐の長曽我部らがそれであるという。中国十ケ国を支配する毛利家にしても、もともとは安芸吉田の豪族であり、かなりの領地を得るようになってから大内家になだれこんだ。尾張の織田ももともとはちっぽけな豪族の出である。
 また、この時代の足利幕府の関東管領・上杉憲政などは北条氏康に追われ、越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃げてきて、その姓と職をゆずっている。足利幕府の古河公方・足利晴氏も、北条に降った。関東においては旧勢力は一掃されたのだという。
 そして、こんな時代に、秀吉は生まれた。
  その頃、信長は天下人どころか、大うつけ(阿呆)と呼ばれて評判になる。両袖をはずしたカタビラを着て、半袴をはいていた。髪は茶せんにし、紅やもえ色の糸で巻きあげた。腰にはひうち袋をいくつもぶらさげている。町で歩くときもだらだら歩き、いつも柿や瓜を食らって、茫然としていた。娘たちの尻や胸を触ったりエッチなこともしたという。側の家臣も”赤武者”にしたてた。
 かれらが通ると道端に皆飛び退いて避けた。そして、通り過ぎると、口々に「織田のうつけ殿」「大うつけ息子」と罵った。
  一五五二年春、信長のうつけが極まった頃、信長の父・信秀が死んだ。
 
真田信繁、通称幸村が生まれたのは一五六七(永禄十)年、真田昌幸の次男として生まれている。真田源次郎信繁、兄は真田源三郎信幸である。
その頃、信濃(現在の長野県)・甲斐(現在の山梨県)の戦国大名は怪僧・武田信玄である。だが、信玄入道は天下統一を前に病死してしまう(結核)。
後継者は武田信玄の息子・武田勝頼であった。
一五七五(天正三)年には徳川家康と織田信長との連合軍と武田勝頼が合戦となった。世にいう“長篠の戦い”である。信長の三段構えの銃口の前に武田軍騎馬隊は大敗北、である。
真田昌幸と同僚の穴山梅雪は「武田は名門、織田軍が二〇万といえど負けませぬ」という。
だが、武田軍はどんどんと裏切り者が多くなる。いち早く裏切ったのが武田の重臣・穴山梅雪でもあった。
「武田は負けるぞ。」真田昌幸は幸村や兄の信幸にいった。
「な?武田は負けぬと…」
「誰が言ったんだ、そんな馬鹿な事」
「父上自身が…」
「忘れた」昌幸はにやりとなった。
昌幸は「御屋形さま、どうか真田の城へ!拙者らが守りまする!」
だが、武田勝頼は家臣に騙され、さすがの信玄の武田家も三月には滅んでしまう。
武田勝頼は惨めな片田舎の寺で切腹、織田方徳川方に首を晒された。
昌幸は本城である岩櫃(いわびつ)城にいて、後から落ち武者のように岩櫃に逃げた息子の信幸・幸村らを迎えた。
昌幸は幸村・信幸ら息子に、「お前ら北の上杉景勝か南の北条か、どちらをとる?」ときく。
信幸は「上杉かと」
幸村は「いや北条も徳川もあなどれませぬ」という。
が、戦国一の軍略家の真田昌幸は「われらは織田信長につくぞ」という。
「えっ?!」息子たちは驚くしかない。
だが、「確かに織田信長の勢いは破竹の勢い、父上の戦略はごもっとも!」幸村は頷いた。
そして「わたしを織田への使者のひとりに加えてくだされ、父上!」
「そうか信繁。そちも第六天魔王織田信長をみたいか?」
「はっ!織田信長は現在信濃の諏訪の法華寺(ほっけじ)にいるとか…今なら織田信長に接見できまする。あの長篠の奇策、近江での楽市楽座、興味がありまする!」
「よし!信繁、共にいこうぞ!真田の博打じゃ!」
「はっ!」
こうして真田昌幸と真田信繁(幸村)は織田信長と接見した。
唖然とした。ブーツを履いて伴天連の洋服を着て、ワインなる洋酒を飲んでいる。
徳川家康はそれに従っている。惨めなのは明智光秀である。
家康の接待役でしくじり、信長の逆鱗に触れボコボコに殴られ、寺の柱に頭を打ちつけられ血だらけになった。「お許しを!お許しを!」
「光秀!貴様!」
「…信長殿、もうその辺で…」
家康は光秀をかばった。その様子を真田信繁や父親・昌幸は唖然と眺めた。
………織田信長は狂人ぞ。
その数か月後、光秀は挙兵、「敵は本能寺にあり!」。
本能寺で信長は天下を目前に討たれて死んだ。享年四十九歳。
昌幸は上杉、北条を経て、家康に従属するはめになる。
一五八三(天正十一)年には真田昌幸によって信州上田城の築城が始まった。
上杉に人質に行った真田信繁(幸村)はふたたび家康に、そして天下人・羽柴(豊臣)秀吉への従属を決めるのである。
秀吉方についた真田一族ではあるが、秀吉死後は後述通りの武勇をみせ、関ヶ原の合戦では上田城で徳川秀忠の本陣軍をこてんぱんにし、西軍敗北後は九度山に数十年蟄居、大坂冬の陣、夏の陣で幸村は最後には日の本一の兵(ひのもといちのつわもの)と呼ばれることになる。
それは本編でお楽しみあれ。
真田丸「第1話」のあらすじ(インターネット内『ネタバレ』より)
大河ドラマ「真田丸」の物語は、武田家が滅亡する場面から始まります。
1582年1月、武田勝頼に臣従しており、武田信玄の娘を正室に迎えていた木曽義昌が、織田信長に寝返ります。
危機を迎えた武田勝頼は、諏訪・上原城に一族筆頭の穴山梅雪、親族衆の小山田信茂、家老筆頭・跡部勝資などを集めて軍議を開きますが、その席にて真田昌幸が「一旦、新府城に引いて様子を見るべき」と進言します。
そして、真田信幸に一足先に新府城に戻り、徳川家康の様子を探れと言いつけます。
真田家も武田家に忠節を誓う為、新府城に人質として、真田昌幸の妻・薫と、母・とりを出しており、その屋敷には、真田昌幸の長女・松と、その夫・小山田茂誠も訪問していました。
この頃、真田信繁は甲斐南部にて徳川勢の動きを探っており、夢中になりすぎて、矢沢頼幸(矢沢三十郎)の制止も聞かず、深追いしてしまい、危ないところをなんとか逃げてきました。
真田昌幸は、高梨内記らと新府城の真田家屋敷に入りますが、武田を裏切った木曽義昌の妻子が処刑されたと聞いた、薫らは心配顔です。
そのため「この真田昌幸がいる限り、武田が滅びる事はない」と言い、安心させます。
しかし、真田信幸と真田信繁を呼び部屋に籠ると、真田昌幸は「武田は滅びるぞ」と打ち明けます。
織田信長の軍勢は、長篠の戦いの時とは比べものにならないほど、既に強力な兵力となっているのをわかっていない真田昌幸ではありませんでした。
そして、新府城を捨てると心の内を話します。ご承知の通り、新府城はまだ未完成だったのです。
それからほどなく、2月25日に武田親族筆頭の穴山梅雪が、人質となっていた家族を密かに逃がして、徳川家康を通じて内通し、徳川勢の甲斐侵入を手助けしました。
驚いた武田勝頼は、重臣を集めて軍議を開き、真田昌幸は、自分の居城・岩櫃城にて再起を図ろうと説得します。
その賢明な説得に武田勝頼は応じて、真田昌幸らは準備の為、先に岩櫃城へと向かいます。
しかし、跡部勝資と小山田信茂らは、真田昌幸がいないことをいい事に、小山田信茂の岩殿城へと武田勝頼に促します。
武田勝頼は、まだ新府城の屋敷に残っていた真田信幸と真田信繁に「岩殿城に行く」ことを明かし、人質らと岩櫃城へ逃れよと言います。
こうして、真田信幸と真田信繁は、母・薫と、祖母・とりなどを連れて、岩櫃城を目指しますが、忍者の佐助には書状を託して先に岩櫃城へと向かわせました。
そして、真田信幸と真田信繁ら一行は、武田勝頼を見送ったあと、火が放たれた新府城をあとにして、一路、岩櫃城を目指したのです。
岩殿城を目指す武田勝頼は、その途中、高島城の落城と言う知らせが届いたりする度に、家臣の離反が相次ぎ、600名した供はいつしか100名程度になっていました。
先に岩殿城に赴いて準備をすると言った小山田信茂も、笹子峠を封鎖して、武田勝頼を裏切ったのです。
真田丸「第2話」のあらすじ
第2話は、真田信幸と真田信繁は、母・薫と、祖母・とりらが、困難を乗り切って、岩櫃城へ逃れる話からとなります。
史実でもこの逃避行は、苦労があったとされています。
真田丸の話のなかでは、途中、百姓の落ち武者狩りにあいます。
その頃、岩櫃城の真田昌幸のもとには、武田勝頼が小山田信茂の岩殿城へ向かったと言う知らせが届いていました。
真田信繁の一行には、命を受けた小山田八左衛門が現れて、捕えようとします。
一方、小山田信茂に裏切られた武田勝頼一行は、田野にて最後の力を振り絞って滝川一益勢と戦うも、すでに40名ほどしかおらず、自刃して果てました。
「御屋形さま!……いえ、お父上さま、申し訳ありません!」
武田勝頼は亡き武田信玄の亡霊に涙で詫びると切腹します。
「ごめん!」
介錯の部下が首を落とすと、あの武田家は滅亡するのでした。
その夜、武田信玄の亡霊が真田昌幸のもとに現れますが、何も言わずに消え、佐助が悪い知らせを届けにきました。
「武田勝頼さまご自害!武田家滅亡!また信繁(幸村)さま信幸さまとりさまら危うし」
「何っ?!」
真田信繁の一行に同行していた小山田八左衛門は、ついに刀を真田信幸らに向けますが、そこに手勢を率いた真田昌幸が到着し、小山田八左衛門らは逃走します。
甲斐善光寺にて織田信忠に臣従を誓った小山田信茂は「主君を裏切った不忠者」として斬首を言い渡されます。「……そ、そんな……馬鹿な…ひいいっ!」
「信繁、信幸、上杉と北条どちらがいいと思う??」
「上杉もあなどれませんぬなあ」
「いや、やはり北条では?」
「いや!…わしは織田信長じゃと思うのじゃ。上杉は謙信が死んだ。北条はまだ織田勢に対抗できない。織田信長こそ天下にもっとも近い!!織田じゃぞ!」
岩櫃城に戻った真田昌幸らは、上杉景勝を頼るか、北条氏直につくか、思案しますが最終的に織田家に臣従する道を選びます。
真田丸「第3話」のあらすじ
岩櫃城では、真田昌幸が矢沢頼綱のジイと、真田信尹らが今後の事を議論した。
真田昌幸は、小県の国衆を調略しようと考えている。
徳川家康は激戦となった高遠城に入り、仁科信盛が自害した場所に、本多忠勝・本多正信と共に手を合わせた。
信濃の国衆である出浦昌相(出浦盛清)と室賀正武も、真田屋敷に集まって織田信長につくのか議論となった。
一方、真田信繁は、真田の地侍である堀田作兵衛を訪ねようとすると、そこに高橋内記の娘・キリがやってきた。
真田信繁は、堀田作兵衛の娘・梅がお気に入りで、キリに「櫛」を渡してほしいと頼むのだが、キリは直接渡せばと、真田信繁の手を引っ張って梅のところに連れて行った。
真田信繁は照れてしまい、なかなか櫛を渡せずにいると、梅が「お土産だって」と勝手に櫛を見せる。
しかし、櫛はお梅のは上等なものだったが、キリに渡したものは安物だった。
さて、真田昌幸は、上杉景勝への密書を届けるように、真田信幸に託す。
さっそく、真田信幸は妻・こうを呼び、旅支度をすると、佐助と共に越後へと向かった。
この動きは、忍びを放っていた出浦昌相にすぐさま報告される。
真田信繁らは、隣村から薪を切りに来た現場を見つけると、堀田作兵衛や梅らと退治するが、梅と真田信繁が親しげにしているのをキリは気に食わない。
皆で山を下りていると、林の中から疲れ切った小山田茂誠が出てきた。
真田信幸らは出浦昌相と室賀正武らの忍者らに襲撃されて、上杉家への密書を奪われてしまい、佐助は怪我をしてしまう。
真田屋敷に戻った真田信幸は、父・真田昌幸に詫びて、すぐに取返しに行くと言ったところに、密書を奪った室賀正武がやってくる。
実は、手紙の内容は、上杉景勝から寝返りの打診を受けた返書と言う内容だったのだが、そもそも、上杉家からそのような話は届いていない。
要するに、真田昌幸が上杉景勝への返事の手紙を偽装し、わざと奪わさせて、その手紙の内容を信じている出浦盛清が織田信長に通告するよう仕向けたのです。
これで、織田信長に「真田昌幸は、ほうぼうから声が掛かると言う注目すべき武将なのか?」と思わせる作戦だったのです。
怪我をしたはずの佐助も、ぴんぴんした様子で現れては、真田昌幸から賞賛を得ると、また風のように去っていきました。
さて、小山田茂誠の取り扱いに困った真田信繁は、兄・真田信幸を堀田作兵衛の家に連れて行き、小山田茂誠に合わせます。
真田信幸は、小山田茂誠に対して切腹するよう迫りますが、小山田茂誠の妻で、真田信幸らの姉でもある松が、かばいました。
翌日、織田信長より真田昌幸に対して参上するようにとの連絡が届き、生きて帰らなかった時は、頼むと真田信幸にあとを託して行くのでした。
真田丸「第4話」のあらすじ
第4回は、いよいよ、真田昌幸と真田信繁が諏訪の法華寺にて織田信長に対面します。
廊下の向こうからは、少し先に織田家に臣従した室賀正武がやってきたので「密書を奪ったのはお主か?」と知らない素ぶりを演じた。
待っている間、真田信繁は織田勢の武器などを見て回り、感心していると、これらは徳川の物だと指摘された。
その武将は、徳川家康と本多忠勝であったが、真田信繁はまだ2人が誰なのかはわかっていないところに、父・真田昌幸がやってきて、徳川家康らと挨拶を交わした。
「これは徳川家康さまに本多忠勝さま」
「お主は?」
「あ、しっけい。みどもは真田安房守でござる。こちらは次男の信繁(幸村)」
「あ!申し訳ござらん。徳川家康さまとは存じませんで…」
「いやいや。」
「息子が失礼を」
「いやいや。ほう。そちが武田の軍師じゃった真田安房守昌幸殿か?」
「ははっ。」
「……徳川は滅亡した武田には散々困らされた。三方が原の戦いでは武藤喜兵衛というものがいて軍師でのう。散々討ち負かされたのう。御存じないか?」
「武藤喜兵衛???はて?存じませぬなあ」
真田昌幸は徳川家康に、織田信長への貢物の相談を行うが、かつて三方が原の戦いにて「武藤喜兵衛」と言う武将から手痛い目に会ったと話題を変えられた。
しかし、その頃、武藤喜兵衛と称していた真田昌幸は「存じませぬな」と、答える。
滝川一益に案内されて部屋に入ると、まず、織田信忠と徳川家康が入ってきて、織田家へ臣従する書状と、例の上杉家に出した書状を見せて、上杉に臣従するつもりだったのではと質問をしてきた。
これに対して真田昌幸は「方便でござる」と涼しげに答え、真田のような小勢力が、上杉から攻められないための布石であると弁明し、織田信長によって我らを守り抜いてもらわねば困ると言います。
徳川家康は、わざと偽の手紙を上杉に出したのではと疑い、直江兼続に確かめるぞと脅すが「確かめたければ確かめればよい」と真田昌幸も引かなかったことから、徳川家康は勘違いであったとこの場を収め「さすが武勇を馳せた武藤喜兵衛である」と称賛した。
そこに織田信長が入ってくると、一言「よき面構えじゃ」と一言放ち、真田昌幸の織田家臣従が認められた。
こうして、真田昌幸は滝川一益の配下に加わり、岩櫃城と沼田城は織田家に差し出すよう言われる。
また、安土城へは誰を人質に出すかの議論も始まる。
そして、滝川一益は、小県の国衆のまとめ役に、真田昌幸を指名する。
しかし、京では天下を揺るがす大事件が起きようとしていた。
真田丸「第5話」のあらすじ
「敵は本能寺にあり!」
明智光秀は馬上で叫んだ。いわゆる本能寺の変である。
水色ききょうの軍勢は本能寺の織田信長を襲い、討ち負かした。
織田信長の天下取りの野望はこれでついえた。信長享年四十九歳……
1582年6月2日、明智光秀による謀反で、織田信長が本能寺の変で命を落としました。
武田勝頼が自刃してから僅か3ヶ月後の事です。
また、織田信忠も二条城にて明智勢と戦い、自害して果てました。
この時、堺を遊覧していた徳川家康は人生最大のピンチに立たされます。
大坂・堺から本拠地・岡崎城に戻るにしても、京は明智勢がおり、海は海賊と進む道がありません。
一緒にいた穴山梅雪は単独で琵琶湖付近から東へ進む道を選択しますが、徳川家康は、付き従っていた石川数正、本多忠勝らと伊賀を越えて行く事になりました。
「悪党ども案内せよ!服部半蔵、この家康、岡崎の城まで逃げるぞ!」
「はっ!この半蔵におまかせを!まずは走りましょう!」
「あ?」
「岡崎城まで駆けて逃げのびるのです!」
「え?そうか。仕方ないのう…」
この頃、人質として松を届けるため、安土城下に滞在していた真田信繁は、京で変事があったことを知ると、小山田茂誠に松を託して、矢沢頼康(矢沢三十郎)と共に京に行ってみて何があったのか確かめる事にします。
まだ、本能寺の変を知らない真田の里では、高橋内記は娘・キリを真田家へ奉公に出し、将来、真田信繁に嫁いでくれる事を願っていると伝えます。
徳川家康は伊賀に縁がある服部半蔵の手助けもあり、命からがら岡崎城へ入りました。
真田昌幸は、京から戻った薬売りからの情報で、本能寺にて織田信長が討たれた事を知ると、そこに明智光秀からの使者が書状を届けてきます。
そして、真田昌幸は、他の国衆ヘの書状はすべて燃やし、急ぎ召集をかけました。
京にて明智光秀の謀反を知った真田信繁は、安土城の姉上が危ないと悟ります。
収集した国衆からは、織田家についた真田のせいだと言う意見もでるが、真田昌幸は上杉景勝に臣従すると言い、既に向かわせていた真田信尹は、上杉景勝から快諾を得ていました。
安土城では、松を探し出しますが、一緒に捕われている20名ほどの女性と一緒に逃げると言い、明智勢に包囲されると真田信繁は井戸の抜け道を見つけて安土城の外に逃れます。
真田丸「第6話」のあらすじ
本能寺の変から2日経過し、安土城下は明智勢に占拠されます。
真田信繁ら20数名は、琵琶湖近くの小屋に潜んでましたが、子供が泣きだし、明智の兵に見つかったしまいました。
真田信繁は応戦して人質らを逃がしますが、明智の兵は松を必要に追いかけます。
崖に追い詰められた松は、身を投げてしまい、真田信繁は矢沢頼康(矢沢三十郎)と佐助と共に信濃を目指して逃れます。
前橋城に呼ばれていた真田昌幸は、滝川一益からの人質要請に応じ、一刻も早く明智光秀を討つように促します。
現時点ではまだ織田についている以上、滝川一益に頑張ってもらわないと困るからですね。
信濃を目指していた真田信繁は、信濃から脱出を図る森長可と出浦昌相らに遭遇します。
真田昌幸は、滝川一益を上野から追い出したら、北条氏直に臣従しようと国衆らと意見が一致します。
真田信尹も、小田原城にて北条氏政・北条氏直と面会します。
滝川一益への人質は「とり」に頼むことになり、沼田城へはキリも同行して送られました。
山崎の戦いにて羽柴秀吉(豊臣秀吉)が明智光秀を早くも討ち果たすと、北条家は5万の大軍にて上野へ侵攻するのです。
真田丸「第7話」のあらすじ
1582年6月18日、神流川の戦いにて総崩れとなった滝川一益は、箕輪城へ退却します。
真田昌幸は、とりが人質になっている沼田城を奪還しますが、とりが行方不明で見つかりません。
沼田城を矢沢頼綱に任せて、岩櫃城へは真田信幸を向かわせ、真田昌幸は箕輪城を目指します。
夜になり、真田昌幸と真田信繁が箕輪城に入ると、滝川一益は「よう来てくださった」と援軍と勘違いします。
滝川一益が伊勢に逃げると言うなか、人質の居場所を確認しますが、その後、滝川一益は沼田城と岩櫃城は真田昌幸に返そうと思うと言い、拍子抜けします。
滝川一益らが小諸城に到達した時に、人質を奪い返そうと考えますが、ちょうどその頃、滝川一益の家臣・長崎元基(長崎元家)が、沼田城などが武力によって真田昌幸に奪還されていたことを告げます。
そして、計画通り、小諸城にてとりやキリを救出しようとした真田信繁ですが、逆に滝川一益らに捕まってしまいます。
真田丸「第8話」のあらすじ
北条氏直の大軍は碓氷峠を越えて信濃へ侵攻。徳川家康は甲斐へと入った。
真田信繁は、真田信尹に従って春日信達との交渉に挑むも、感触は良くない。
春日信達の寝返りを手土産にしようと考えていた真田昌幸であったが、北条氏直が小諸城に入ったため、もう待てず北条氏直に臣従の挨拶へと向かった。
北条氏直の機嫌が悪い中、小田原城からやってきた北条氏政の取り成しで事なきを得る。
ところが、真田昌幸が北条家に寝返ったことが早くも上杉景勝の知る所となり、真田信尹と真田信繁は呼び出され、直江兼続から鋭い視線を浴びる中、自分たちは上杉に臣従すると言うしかなくなる。
真田丸「第9話」のあらすじ
北条家の殿(しんがり)として真田の郷に残った真田昌幸は、生き残るために懸命に知恵を絞るのだった。
織田家は退き、北条家は矛先を変えて徳川家を攻めているが、上杉景勝は動かない。
したがって信濃はぽっかりと空き、そこで真田昌幸は大名なしの国衆が治める国を目指そうとしていた。
反目していた室賀正武とも手を結び、小県の国衆はまとまり始める。
「真田昌幸!この信濃の岩櫃などや信濃・上野・沼田・東北部を頼む!」
「………あいわかった!」
甲斐に進出した徳川家康は北条氏直に攻められ、本多正信の進言で、真田家と手を結ぶことを決めた。
約定は信濃一郡と上野の沼田城を真田領として進呈すること。
これによって真田昌幸は北条家から徳川家に寝返る。
軍議の場では真田信繁の「甲斐を攻める北条の兵站を断つ」という策が、真田軍が小諸城を押さえることで成功した。
「北条に泡を食わせ、徳川に恩を売る」ことができ真田屋敷に凱旋したところで、急を知らせる書状が届く。
なんと今度は徳川家が真田家との約束を反故し、北条家と和睦して甲斐・信濃・上野・沼田を両軍で分け合うという約定を結んだのである。
そこには真田の領地も含まれていた。
「……何っ?!徳川と北条が和議を結んだじゃと???」
「父上!」
室賀が「話が違うではないか?昌幸!」
「しかし、徳川と北条が和議を結ぶなど誰にも考えられないかと」
「黙れ、小童(こわっぱ)!」
室賀は信幸を一喝しました。
真田丸「第10話」のあらすじ
ここで真田信繁は三河の徳川家康、越後の上杉景勝と面会することになります。
まずは徳川家康ですが、約定を反故にされたことに対する抗議とともに、上杉領の虚空蔵山城への楔として小県の上田平に城を築くに当たり、徳川家に負担してもらうというものです。
兄である真田信幸と共に使者に出向き、見事に城の普請の了承を得ます。しかし一方で沼田城を北条家に譲るように迫られるのです。
沼田は真田領の要であり、沼田城は真田昌幸の叔父である矢沢頼綱が城主を務めています。
当然ながら、北条氏直に譲ることに真っ向から反抗したため、やがて北条氏邦らに攻められます。
そんな沼田城の戦を終わらせるべく、真田信繁は続いて上杉家へと向かうのです。
「よくものこのこ上杉にこられたものじゃのう?真田信繁!」
直江兼続は一喝します。
今まで黙っていた上杉景勝は家臣に薙刀の鋭い刃で四方八方から狙われてもなお平伏している真田信繁に興味を持った。
「刃をおさめよ!やめーい!」
景勝がいうと家臣たちは刃を収める。
「よくのこのこ上杉の春日山城までこれたのう?真田は上杉ではなく北条や徳川につくのではないのか?」
「いいえ。めっそうもありません!」
「ならば上田城築城は?上杉への備えではないのか?」
「いえ!上田城は徳川への備えであります!」
「なに?しかし、築城しているのは徳川ではないか?」
「そうです。敵に作らせ、そしてその敵の備えとする。我が父・昌幸の策であります」
「……ほう。気に入った!さすがは真田昌幸じゃ!」
「そこでご提案が御座います!」
「なんじゃ?」
「上杉さまには虚空蔵山(こむぞうさん)城で真田勢に勝つ芝居をして頂きたい」
「ん?」
「虚空蔵山城にて真田がこてんぱんにやられたときけば信濃・上野にいる北条軍は次は自分達だ、と恐れて逃げ出すでしょう。戦わずして勝つ、孫子の軍略です」
「……なるほど。わかった!」
普段笑った事もなかった上杉景勝がにやりとなった。「おもしろい。まるで謙信公じゃ」
上田城建築は上杉家への備えではなく、実は徳川家への備えであることを伝えます。
徳川にも北条にも屈しないという武士の意地だけではなく、虚空蔵山城での上杉対真田の戦芝居も提案しました。
上杉景勝は真田信繁を気に入り、その策にのって戦芝居で真田を破ります。
上杉の勢いを恐れた北条氏政は撤退を決め、沼田城は守られたのでした。
大活躍の真田信繁にはさらなる吉報が届きます。
梅が真田信繁の子を身籠ったのです。
「でかしたぞ、梅!」
「はい。信繁さま」
そして真田信繁は、梅に対して妻になってもらいたいと伝えるのでした。
捕虜となった真田信繁らは、滝川一益が木曽を抜ける際に、木曽義昌に譲ると言う条件で、無事に木曽を通って逃れた滝川一益であったが、既に羽柴秀吉による清洲会議の決着はついていました。
真田信繁ら人質は木曽福島城へと送られますが、木曽義昌はとりの姿を見ると平身低頭します。
「おばばさま。」
「三郎!お前、よくも恩義がある武田家を裏切りましたなあ」
「仕方なかったんじゃ。織田方につかねば木曽領は滅ぼされていましたもんで」
「ばばさま、木曽義昌さまとお知り合いで?」信繁は驚いて聞きます。
「ああ。こやつは信玄公の前でしょんべんを漏らしたのじゃ」
「まだ子供の頃でこわくてこわくて。その話はもうご勘弁を…」
「三郎!ばばはよいが信繁とキリは真田に還してはもらえんか?」
「しかし、ばばさま。織田勢や北条や徳川や上杉が怖いんじゃ。人質とは宝で、身の安全の為に必要なんです」
「三郎!お主はこのばばのいうことがきけないのか?」
「え?……いやあ…困りましたなあ」
とりは「大恩ある武田を裏切りおって」と木曽義昌を平手打ちし、人質を返すようにと要求し、真田信繁とキリだけは開放される事になりました。
真田昌幸は上杉景勝に会いに行き、上杉家から色よい返事をもらいますが、戻ると、とりを残して帰って来た真田信繁を叱ります。
そして、真田信尹と共に、現在、上杉家に味方している春日信達(武田家の名軍師・高坂弾正の息子)を調略して、北条家に願えさせろと命じるのです。
真田丸「第11話」のあらすじ
味方になると思ったら、敵につく、そんな真田家が邪魔に感じてきた徳川家康は、本多正信を介して真田昌幸の暗殺を計画します。
実行犯は真田昌幸の幼馴染にして競争相手でもあった、同じ国衆の室賀正武に命じました。
小県の惣代という餌をぶらさげられた室賀正武も苦悩します。
上田城が国衆のものではなく真田家のものであることが判明したからです。
真田昌幸もそんな室賀正武の気持ちの変化に気づきました。
そして、暗殺をするようにと仕掛けるのです。
さて、真田信繁と梅の結婚は周囲から認められていましたが、身分の差から正妻にはなれず、側室として向かい入れることになりました。
この場合、祝言は開かないのが当時の習わしでしたが、真田信繁は祝言を挙げたがり、母親である薫(山手殿)が猛反対します。
この機会を真田昌幸は室賀正武を成敗する好機として祝言を強行し、その宴にて見事、室賀正武を討ち果たします。
真田昌幸はこのとき「家来になれば許すが」と問いますが、室賀正武は「お主の家来にはならぬ」と答え、討たれました。
「父上、兄上??何故室賀殿が血だらけで縁側で息絶えているのですか??」
「信繁。室賀はわしを殺しにきたのだ」
「え???」
「それを父上が返り討ちにされた」
祝言を利用し、血で穢したことにもっとも怒り、泣いたのは真田信繁を慕っている「きり」でした。「ひどい!こんなことで祝言を血で汚すなんて…お梅ちゃん、信繁さん、あんたたちこんなんでいいの?大事な祝言を血で汚して…あんまりよ!」
「父上?兄上?」
「信繁、これが戦国ぞ」昌幸は諭すように言います。「これが戦国の世じゃ」と。
真田丸「第12話」のあらすじ
1584年、徳川家康は「小牧・長久手の戦い」豊臣秀吉に勝利します。
次に問題となるのは北条家との関係である。北条氏政は沼田城の問題で真田家と戦っている最中で、そのことで徳川家に助力を求めてきていた。
徳川家康に完全に不信感をもった真田昌幸は、またしても上杉景勝と手を結ぶことを決めたのである。
そこで上杉景勝は真田信繁を人質に出すように求めてくる。
真田信繁は矢沢三十郎を伴って春日山城に向かった。
そこで知った事実は上杉景勝がいかに義に厚い武将なのかということと、実質政治を取り仕切っているのは直江兼続であるということであった。
直江兼続は真田昌幸の本心を探ろうと、沼田城を上杉家に引き渡すようにと無理難題を突き付ける。
上杉景勝と真田信繁は漁民たちのもめ事を解決していく中で理解しあうようになり「お主のような子が欲しかった」と、上杉景勝に言わさせるまでになった。
これで沼田も小県も真田領として認めるという起請文を受け、真田家は本格的に徳川家と手切れとなり、上杉と手を結んだ。
「上杉は義の戦しかせぬ。上杉謙信公はよく弱きを助け強きを挫け!とおっしゃっていた」
「立派なお考えかと」信繁はいう。
「だが、もはや上杉には謙信公がいない…この景勝では謙信公と同じとはいかない」
「………」
「じゃが、上杉の義はけして滅びない!」
「その通り!」
「すべては義じゃぞ、信繁」
「ははっ!」
1585年、報復の為、徳川家康は7000の軍勢を上田城へ差し向けたため、上杉景勝は真田信繁が春日山城を離れて援軍として帰郷することを許す。
真田丸「第13話」のあらすじ
いよいよ第一次上田合戦(第1次上田城の戦い)が幕を開けます。
徳川軍は総大将に鳥居元忠、他に大久保忠世、平岩親吉という徳川二十四将の面々ら7000。
まずは神川まで進軍し、上田城の対岸に布陣しました。
真田昌幸は城下では大通りに乱杭を打ち込み、徳川勢の隊列を縦に長く伸ばす作戦に出ます。
そのとき、越後より真田信繁が戻り、布陣は理想通りとなりました。
ここで真田信繁は、初めて娘・すえと対面します。
真田信繁は、きりに伝えて、側室・梅から真田家の家紋である六文銭を受け取り、徳川勢を挑発して城下までおびき寄せる役を担いました。六文銭の旗を振り、高砂の歌で合戦が始まりました。うまく逃げて罠に誘い込む。そしてまた逃げて罠で徳川勢を罠の前までおびき寄せる。まさに天才軍師・真田昌幸の策でした。
作戦通り徳川勢の全軍が城下町に入り込み、隊列が細長くなったところを攻撃をします。
さらに二の丸まで迷路となっている道筋にて、鉄砲や矢で攻撃しました。
とどめは真田昌幸が率いる本隊が突撃し、徳川勢は撤退を開始。
戸石城からは真田信幸も追撃し、さらに出浦昌相が神川の流れを止めていた堰を切り、退却中の徳川勢は多くの犠牲者を出しました。
真田勢の大勝利で終わった戦でしたが、戦のさなか、梅が犠牲となってしまいました。
きりが、残された娘・すえを育てると、その亡骸に誓うのでありました・・。
「お梅!お梅―っ!」
信繁はお梅の遺体に泣いてすがります。
それを遠くでみていたキリも赤ん坊を抱いたまま号泣し、
「お梅ちゃん……この子は必ず私が立派に育てます!」と誓うのでした。


****
NHK大河ドラマ真田丸総集編第二章『表裏比興(ひきょう)』より
真田家は安房守の謀略でもっているようなものだった。
昌幸は徳川家康に従うふりをして海部淵(あまがふち)に城をつくらせる。
のちの上田城である。徳川家につくらせて真田家は次男の源次郎信繁(幸村)を上杉景勝の人質に出した。人質にいくまえに源次郎はお梅と祝言をあげたいといった。
源三郎信幸は「どこまでいっているのだ?」ときいた。
「どこまでとは?…なにをさしておっしゃっているのか…?」
「……く…口吸い……だろうなあ」
「それなのですがお梅の腹にはわしのややこがおりまする。」
「口吸いどころではないではないか!!お前はおとなしい顔をしてやることはやっておるのう。」
安房守は「腹にややこがいるなら祝言をあげるのは当然じゃあ!」と喜んだ。
だが、このお梅と源次郎信繁との祝言こそが謀略だった。
家康や本多信純に昌幸暗殺を耳打ちされた同じ国衆の室賀正武(むろが・まさたけ)を返り討ちにした。祝言でさそっての囲碁の刻での暗殺だった。
……ひどい!あんまりだわ。お梅ちゃんがかわいそう!
きりは泣いた。しばらくして、
源次郎信繁と源三郎信幸のふたりの息子は上田城から月を眺めながら感傷に浸った。
「兄上、わたしは不思議と室賀正武が暗殺されたとき、父上の謀略のすごさに感心してしまいました。怒りがなかった。……ですがそんなふうに思う自分が…好きになれません。…」
信繁は涙を流した。信幸は「悩め…悩め……われらは悩みながら走りに抜ける…以外には…道はない。悩め…源次郎。」
息子らは涙で月を眺めた。
越後の龍・上杉謙信の甥で、義理の息子の上杉景勝には「源次郎、お主のような息子を欲しかった」とまでいわれた。
だが、激怒する徳川方は上田城に七千の兵で攻めてきた。
真田は総勢で二千兵しかない。
だが、希代の名軍師・真田安房守昌幸は奇策縦横で謀略で徳川勢力を完膚なきまでに叩きつぶす。いわゆるこれが第一次上田合戦である。
だが、この合戦で、信繁は一度目の妻・お梅を失う。
お梅が戦死したのだ。「お梅-!お梅-!」信繁は遺骸にすがった。号泣した。
だが、時代はもはや羽柴筑前守……豊臣秀吉の世である。
あらゆる大名が関白豊臣秀吉の軍門に下った。
それは毛利家も島津家も上杉家もみんなそうである。
上杉家のつきそいとして信繁は大阪城にはいる。
ものすごい絢爛豪華で巨大な大阪城に圧倒された。
だが、源次郎信繁は冷遇された。
いよいよ徳川家康まで大阪城にいき秀吉に従うようになると真田安房守も考え出す。
「父上!すぐに大阪城にいき秀吉にあわれませ!」
「いや、源三郎!もっともっとねばって真田の値をつりあげるのじゃ!どうせ下につくならもっともっと真田の値段をつりあげて…」
するとばばさまがいう。
「人間は志が大事じゃ。志さえあれば生まれに遅いも早いもない。秀吉の下につくならめいいっぱい下手にでて、後で寝首をかく。人間は誠意が大事。じゃが、それ以上に謀略も大事。すべては策次第じゃ。策がなければ何も成らぬものぞ」
結局、真田安房守昌幸や息子の信幸は大阪城の秀吉に接見する。
だが、秀吉は安房守も甘く見ておいの秀次が接見した。
真田家は裏で激怒して、安房守は「わしは何処で間違った??!!何処で間違った?!教えてくれ!何処で間違った?!!」と狼狽した。
「父上は間違ってなどおりません!」
大谷刑部は大軍の徳川を破った安房守を“楠木正成の再来”と褒めた。
真田源次郎信繁(幸村)は秀吉に「殿下、……あの武勇に謀略に秀でた真田安房守を敵に回すのは得策ではありません」と恫喝する。
「ほう。…わしを恫喝するか。源次郎」
「はい。恫喝しまする。」
秀吉はにやりと笑った。「よかろう。安房守にあおう」
こうして真田家は豊臣家に従うことになった。
大河ドラマでは姉まつが出雲阿国の舞子になっていたのを見つけ、記憶喪失で、やがて記憶が戻り、まつが真田家へ帰ってくる設定だった。
だが、何にせよ、こうして真田家は豊臣勢力に従うことになった。



それからは羽柴(豊臣)秀吉の天下となり、豊臣配下で真田家は信州で臥薪嘗胆のような領地政治をします。
絢爛な大坂城や聚楽第で、豊臣秀吉は「わしが豊臣の秀吉じゃ」と笑顔でいう。
一同は平伏します。秀吉は家康にわしに従う芝居をしてくれと頼む。
秀吉にとっても真田は大事でしたが、一番気になるのはなんといっても徳川家康でした。
真田信幸は本多忠勝の娘・稲姫を正室に貰い受けます。
真田家が分水嶺のような運命の別れをされるのは秀吉亡き後の豊臣秀頼+淀君VS徳川家康の関ヶ原の戦いでありました。真田信繁(幸村)は大谷刑部の娘を正室にします。
真田信繁(真田幸村)は天下人となった豊臣秀吉の家臣となります。秀吉の正室は確かにねね(おねもしくは寧)ですが、天下人となった秀吉はさまざまな愛人を囲い、ついには信長の姪っ子の茶々(のちの淀君)を側室とします。真田は天下人に王手をかけた秀吉側につきます。徳川家康も秀吉側へ。後は奥州の伊達政宗と関東の北条氏政だけに。
当然ですが伊達政宗は豊臣秀吉の家臣となります。風見鶏ですから。
そして上杉景勝・直江兼続の上杉軍も徳川軍も毛利軍も伊達軍も北条攻めで秀吉軍は数十万の軍で北条軍の城を囲みます。本当の史実では軍師・黒田官兵衛が北条軍に和睦の使者としていくところですが、それは真田信繁(幸村)がいく。北条は小田原評定をするばかり。
結局は北条は白旗を上げて降伏、北条氏政は切腹、息子の氏直には出家の処分がくだります。茶々(浅井三姉妹の長女、次女が初、三女が徳川家康の正室になる江)は天下人となった豊臣秀吉の子供を孕みます。のちの秀頼の兄で夭折した鶴松です。
いままで秀吉の子供は誰もいませんでしたから年寄りの秀吉も寧も大喜びです。
ですが、茶々の子、鶴松は生まれて間もなく病死してしまいます。
秀吉の悲しみは大きかった。茶々も寧に抱擁され号泣します。
三成や加藤清正等が”水ごうり”で病気が治るように祈ったのが無駄になりました。
秀吉は千利休を切腹させ、朝鮮攻めを決行するなど狂っていきます。
秀吉は次第に認知症(ボケ)の症状が現れ出します。
真田信繁(幸村)らは寝小便をしたり、何度も同じ事を繰り返す秀吉に手を焼きます。
その課程で茶々(のちの淀君)は第二子を生みます。のちの秀頼です。秀吉はようやく出来た子供を喜びますが、やがて秀吉の最期が近づいてきます。秀吉は関白から太閤となって関白の座を譲っていた甥っ子の秀次に「日本を五つにわけてそのひとつを秀頼にくれぬか?」と頼みますが秀次は拒否。「…誰のおかげで…関白になれた?秀次!」
怒った秀吉は秀次やその一族を斬首の刑にします。その後、秀吉は上杉景勝と直江兼続に越後から会津百二十万石に転付して徳川家康を睨んでくれ、と頼むのです。
その後、秀吉は死んでしまいます。これこそ徳川家康が待ち望んだときでした。
秀吉在命中に五大老五奉行制度ができますが、徳川家康は次第に伊達政宗等と徒党を組み天下を狙います。石田三成は心底豊臣の味方でしたが、人望がなく、加藤清正、福島正則、黒田長政らに疎まれます。淀君も三成嫌い、でした。三成の盟友の大谷吉継はハンセン病でありながらも三成に挙兵を思いとどまるように説得しますが無駄でした。
関ヶ原の合戦は勃発してしまい、三成ら豊臣西軍は敗北します。
小早川秀秋の裏切りで、です。
いわゆる『犬伏の別れ』で、真田昌幸と信繁(幸村)は豊臣石田三成の西軍に。真田信幸は徳川家康東軍につきます。
結果はやはり、で、徳川家康東軍の勝利!これにより戦国最強と呼ばれた名軍師真田昌幸と信繁(幸村)は斬首になる筈でした。特にそれを望んだのは上田で散々討ちまかされた家康の息子・秀忠で、ありました。
ですが、真田信幸の嘆願で、昌幸・信繁親子と家臣は九度山に蟄居…となります。
九度山で数十年、昌幸は病死。その後、真田信繁(幸村)は大坂冬の陣、大坂夏の陣で、獅子奮迅の戦をして「日の本一の兵(つわもの)」と呼ばれあの家康をあと一歩で討死にするまで迫りますが不運かな討死して、まさに、伝説の男、と、なるのでした。
(大河ドラマ『真田丸』のネタバレから引用しました。真田丸ネタバレ引用は加筆しています。引用をお許しください。)








小池新党・希望の党メッキはげる。自公と大連立で安倍首相退陣?後任は?

2017年10月03日 15時33分31秒 | 日記
































小池新党・希望の党のメッキが早くもはがれ始めた。

希望の党は民進党のコスプレでしかない。

希望の党が民進党を取り込んだのはひと(政治立候補者)とカネ(民進党の約100億円の政党交付金)なだけ。

小池さんが出馬しなければ政権交代選挙にならない。

小池さんは今回は衆議院選挙に出馬しないだろう。次の次の衆議院選挙でしかない。

小池さんは大統領級の地位の都知事のポストを投げ出さない筈。

都知事で実績を積んでからの出馬……チャンスがあればそのときの女性初の首相でしかない。

だが、自民党が圧勝すれば安倍独裁安倍傲慢が継続してしまう。

希望の党は100議席は獲り自公と大連立で、安倍首相は辞任し、後任は誰か?というシナリオだ。

野党はいまだに脆弱で、希望の党とか維新の党は野合……かなしいかなやはり自民党は組織票がすごい。

あくまで民主党・民進党・立憲民主党はやはり不幸だ。

そこには選挙対策ありきで、国家戦略も国家策略も何もない。

政治家は選挙で勝つことしか考えないし、官僚は利権ありき。誰も日本国家の戦略など頭にない。

こんなに空しいかなしい国家もない。

また、脱原発だ。ポピュリズムでしかない。

所詮はすべて政局であり、戦略がない。

日本人としてこんなにむなしい国家もない。高学歴・よい家柄だけ。

こんな国では駄目だ。谷内正太郎では軍師に足りないことすらわかってない。すべて政局ありき、だ。かなしいね。


緑川鷲羽改め上杉(長尾)景虎 2017/10/03

命のヴィザ 杉原千畝六千人の命のビザ映画『杉原千畝』記念ブログ小説1

2017年10月01日 17時29分39秒 | 日記
































小説

命のヴィザ~杉原千畝物語~



                 命のヴィザでユダヤ人6千人(20万人)を救う!
                          
                     今だからこそ、杉原千畝の決断!
                    total-produced&presented& written by
                    UESUGI KAGETORA上杉(長尾)景虎



  明日何をなすべきか知らないひとは不幸である。
                  ゴーリキー



  this novel is a dramatic interoretation
  of events and characters based on public
  sources and an in complete historical record.
  some scenes and events are presented as
  composites or have been hypothesized or condensed.

……この物語は、実話をもとにしたフィクションです。ご了承ください。……




この作品は引用が多くなりましたので引用元に印税の数%を払い、引用料としてお許し願えればと思います。それでも駄目だ、というなら印税のすべてを国境なき医師団にすべて寄付しますので引用をお許しください。けして盗用ではないのです。どうかよろしくお願いします。UESUGI KAGETORA上杉(長尾)景虎   臥竜




         命のヴィザ あらすじ


  杉原千畝氏は明治三十三年(1900年)岐阜県八百津町に生まれた。父親は医者になってほしいと願うが、千畝は拒否し、英語教師となるために早稲田大学に進学。しかし、両親からの仕送りもなく厳しい生活になる。そんな中、新聞で語学留学の記事を発見。千畝は試験を受け、合格し、三年間中国満州ハルビンでロシア語を学ぶ。その後、外務省書記生として就任。六年後、満州事変勃発。帝国日本は傀儡国家・満州国成立を成立させる。 ロシア語を生かして、杉原千畝はロシア人たちと交渉していく。しかし、千畝は憤る。”日本人は中国人を同じ人間だと思っていない。それが許せなかったんだ…”
 その不満で、千畝は外務省を辞官、日本に帰国。そして、妻となる幸子さんと出会い、結婚。1939年、杉原一家はリトアニアのカウサスへ赴任する。当時、ナチスドイツとソ連は不可侵条約を結んでいた。リトアニアは事実上、ソ連の影響下にあった。
 ナチスのヒトラーはユダヤ人たちを次々と虐殺していく。収容所、ガス、射殺…。そんな中、ナチスの迫害から逃れようと何百人ものユダヤ人たちが杉原のいる日本領事館へ。 当時、日本とドイツは同盟を結んでおり、ソ連のシベリア鉄道経由で日本にいき、そこから世界に逃亡しようという考えでユダヤ人たちは集まった。杉原千畝に通過ヴィザをもらうために。命のヴィザを。しかし、千畝は日本政府から「ヴィザを発行するな」といわれていた。ドイツに配慮したらしい。しかし、杉原千畝は人間として、ユダヤ人たちに通過ヴィザを発行していく。こうして、千畝のおかげで六千人のユダヤ人たちが救われる。 しかし、当時、日本外務省は千畝の功績を認めず、彼をクビにまでする。千畝は様々な仕事を転々とし、やがて病の床につく。そして、亡くなる。杉原千畝の功績が認められたのは、皮肉にも彼の死後のことであった。
                                   おわり


  1940年7月29日、杉原千畝は六千人ものユダヤ人たちに「命のヴィザ」を発給し、人間として功績を残した。日本政府から「ヴィザを発行するな」といわれていたが、杉原千畝は人間として、ユダヤ人たちに通過ヴィザを発行していく。こうして、千畝のおかげで六千人のユダヤ人たちが救われる。この物語は、無私に殉じた杉原氏のきらきらとした輝かしい人間的小説である。




 第一部 スピリット



****
映画『杉原千畝スギハラチウネ』(2015年)より引用します。
杉原千畝さんの感動的な実話を述べる前に2016年11月19日(土曜日)の杉原千畝さん(故人)の奥さん幸子(ゆきこ)さん(故人)の遺言が裁判で無効になった話をします。
何故なら小説のあとに読むと不快だから。これは外交官杉原千畝(ちうね1900~1986年)の妻の幸子さん(故人)の遺言をめぐり、四男が長男の妻と子供2人の遺言の無効認否を求めた訴訟で、東京地裁(関根利夫裁判官)は、17日、請求通り無効だと認めた。
千畝氏の妻が入院していた2001年12月公証人が作成。千畝氏の遺産など全財産を長男の子供に相続させ、長男の妻が遺言内容を執行する内容。長男の妻と子2人は、NPO法人「杉原千畝命のビザ」の役員をつとめる。遺言書作成のときに、千畝氏の妻は意識障害があり、遺言をつくる能力がないと裁判で認めた。

 昭和30年日本東京(1955 Tokyo Japan)外務省。
あるユダヤ人のひとが外務省の官僚に「センポ・スギハラについてききたい。」と尋ねていた。勿論英語で。だが、外務官僚は「センポ?そのようなひとは日本の外務省にはいませんよ」と英語で応えた。
「そんな筈はない!センポ・スギハラさんだ。」
「ですからセンポさんなどという名前のひとは外務相には今も昔もいませんよ。」
「しかし、わたしたちはセンポさんにたすけられた」
「たすけられた?」
「そうです。センポ・スギハラがわたしたちに日本通過のビザを発給してくれてナチスのユダヤ人狩りやホロコースト(ナチスのユダヤ人大虐殺)から救ってくれた」
「何かの間違いではないのか?センポなどという名前は聞いたことがない」
「では…我々がリトアニアであった日本人は誰だったのか…?」
「う~ん。知らないですね。」
「何故隠すのか?ドイツに気を遣っているのか?」
「いいえ。そのような。」
「我々は命をすくわれた。われわれは忘れない。たとえ世界中が忘れたとしても…」
「お引き取りください。」
ユダヤ人は去った。
そうである。杉原千畝さんは自分の名前が「千畝・チウネ」では発音しづらいだろうからと杉原千畝センポ・スギハラと当時名乗っていたのだ。
よって外務省がわからないのも無理はなかった。
ユダヤ人六千人の命をすくった(子孫を含めると二十万人)杉原千畝氏………

 昭和9年満州国(1934 MANCHURIA)シベリアの雪原をシベリア鉄道が走る。ソ連のKGBは銃を持ち誰かを探していた。それが杉原千畝だった。列車内で千畝を見つけるがおんなスパイ・イリーナが酒瓶で頭を殴ってKGB男たちを気絶させた。
「センキュー、イリーナ!」
「オウライ、センポ。」
杉原千畝は金髪の白人女性イリーナに礼を言った。
この頃はソ連の動向が気になるとソ連の動向をスパイしていた。
それからしばらくのこと、
満州国ハルビン(哈爾浜)(HARBIN MANNCHURIA)では杉原千畝が大日本帝国関東軍少尉・南川鉄吾と話していた。哈爾浜駅であった。
少尉は言う。
「明治維新以来、日本の仮想敵国はロシア……現在のソ連だ」
「そうですね」
「あなたは十四歳のときから外交官としてキャリアを積んでいる。あなたなら変えられる」
「……。」
「次はいよいよモスクワ栄転ですなあ」
「しかし、本当にドイツでなくていいのですか?」
「関東軍もドイツではなくソ連が日本にくると…日本を侵略すると思っている」
「日ソ不可侵条約を無視するでしょうな」
「だからこそ君に頑張ってもらいたいのだ」
「ご買いかぶりが過ぎましょう」
「まあ、頑張りたまえ。」
 南川は去った。
入れ替わりでイリーナがくる。粉雪の舞う冬で杉原もイリーナもコートを着ている。
「ソ連が出来てわたしのふるさとのロシアが消えた。これが最期のチャンスよ。」
「では?」
「ロシア人達は日本に攻め込んで鉄くずを日本に売りつける気だわ。」
「日ソ不可侵条約は?」
「そんなもの無視する連中だってわからない?」
「いや。多分、そうだろうと。」
そんなとき、KGBスパイたちがコート姿で銃を構えて迫ってきた。
「手を挙げろ!センポ・スギハラ!」
ロシア語で言った。手を挙げるふたり。
だが、「そこまでだ!」と日本語のあと、関東軍兵士が銃でKGBスパイ達を一掃した。
つまり、銃殺した。南川少尉は「杉原さん、関東軍はあなたを守る義務がある。外交官は国の宝だ。」という。「皆殺しにしろ」銃声が響く。
イリーナはKGBのスパイの中に少年兵がいるので動揺した。銃殺されて息絶えていた。
彼女はその遺骸を抱きかかえると「…酷い。人殺し…。」と言った。
 満州国外務部・満州国外交部次長 大橋忠一に杉原千畝は辞表を提出した。
大橋は「杉原さん。辞めてどうする気ですか?」
「もう殺し合いは見たくないんです」
「でも、今は非常時であるから。軍部も五月蠅い訳でして。支那事変や中国との内戦もあるのですし。」
「体のいい侵略でしょう。」
「しかし、軍部には逆らえない。ロシアは1億700万円なら日ソ和平にのると。」
「では、わたくし杉原千畝はペルソナ・ノン・グラータ(好ましくない人物・ドイツ語)ですな」
「辞表の本当のわけをききましょうか?」
「わたしがこの満州で動いたのはそれが日本国がよくなると思ったからです。ですが、今の満州は関東軍の為の満州(中国東北部の日本の植民地)です。わたしは関東軍のために働きたくありませんし。」
「なら関わらなければよい」
「そうなると軍部からの嫌がらせがあるのです」
「では、日本に戻りたまえ。外交官は辞めなくてもいいだろう?辞表はなかったことにしてやるよ。」
大橋は杉原の辞表をびりりとやぶり捨てた。
話を戻す。




   ヒトラー



  アドルフ・ヒトラー(ナチス党党首・総統)は画家になりたかった。パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(ナチス党宣伝大臣)は作家になりたかった。
 しかし、ふたりとも夢をかなえることは出来ず、右翼的思想を持ち、ナチスとしてさまざまな虐殺にかかわっていく。挫折が屈折した感情となって、侵略、虐殺へとむかった訳だ。その結果が、ユダヤ人を六〇〇万人も殺す原因となった。
 ゲッベルスは作家になりたかったが、誰も彼を認めなかった。(大学の国文学博士号を取得していたが)とうとう何にもなれず、定職にもつかず、金欠病に悩まされ続けたという。そんな若者は、藁をもすがる思いでナチス党のポストにしがみついた。
 そして、”宣伝”という武器で、ナチスの重要な人間にまでなる。
 しかし、それはまだ先の話しだ。
 アドルフ・ヒトラーもまた、苦労していた。
「私が画家になれないのは……画壇や経済を牛耳っているユダヤ人たちのせいだ! 憎っくきジュー(ユダヤ人)め!」ヒトラーは若かった。自分の力不足をユダヤのせいにした。とにかく、ユダヤ人が世界を牛耳っている……かれはそう考えていた。
 ユダヤ人たちを殺さなければ、わがドイツに未来はない!
 ヒトラーは屈折していく。
 しだいに彼は絵を描かなくなって、政治活動に目覚めはじめる。とにかく、偉くなってやる、とういう思いがヒトラーを揺り動かしていた。つまり、全部”己のため”である。 ヒトラーは「ユダヤ人たちを殺さなければ祖国はダメになる」といって憚らなかった。 呑むとかならず「ジューどもを殺す! それがドイツの再建だ!」とまでいった。
 そして、ヒトラーは”武装蜂起”を考えた。
 自分の意のままに動く組織をつくり、そのトップにたつ。そうすれば自分の政治指針は完成する。団体名はNSDAP(ナチス)、旗印は……
 ヒトラーは閃く。日本の神社の称記号「卍」、これを横に傾けて…ハーケン・クロイッツ(鉤十字)だ。色は赤と白にしよう。主義はナチズム、つまりドイツ第三帝国をつくり、ユダヤ人たちを一掃し、祖国をヨーロッパ一の大国にする。
 ヒトラーにはそれはとても簡単なことのように思えた。それにしてもこんなにおいしい計画なのに、なぜ自分の目の前でバラバラになってくずれてしまうのだろう。どうして、アドルフ・ヒトラーの耳のまわりでばらばらになって倒れてしまうのだろう。
 共産党もヴァイマール政権も糞くらえだ!
 失業者や餓死者を出すかわりに、祖国を再建するとか、ビルを建て直すとかしたらどうなんだ?!
  1920年代のドイツ・ベルリンは、まさにカオス(混沌)であった。
 第一次大戦の敗北によりすべての価値観は崩壊していた。インフレにより金は紙屑にかわり、大量の失業者があてもなく街をうろついていた。女たちは生きるために街角に立ち、人間的な感情は夜毎、乱痴気騒ぎの中でお笑いの対象となった。
 絶望と餓死がベルリンを飾っていた。
 ヒトラーは意を決する。
「よし、”武装蜂起”だ! NSDAP(ナチス)を決党し、ドイツを再建するのだ!」  それは、人々の絶望の中でのことであった。
 ナチスは人々に”今日と明日のパン”を約束した。輝かしい未来、”ドイツ第三帝国”をも……人々の飢餓に訴えたのである。
 街角には共産党とナチスたちがうろうろしてアジを張るようになる。
「ドイツ共産党です! 今こそドイツに革命を! ヴァイマール政権を倒し…」
「だまれ共産党め! 我々NSDAP(ナチス)に政権を! 敗戦の屈辱をはらし 再び大ドイツ帝国を…」
「売国奴! 楽隊、”ホルスト・ヴェッセル”をやれ!」
「ナチスを黙らせろ! 楽隊”インター・ナショナル”だ!」
 まさにカオス状態だった。
 ヒトラーの「わが闘争」は始まった。
「はやく武装蜂起を!」ハインリヒ・ヒムラーは焦っていった。ナチス党のNO2である彼は、のちにユダヤ人六〇〇万人を殺す首謀者となる。彼等はナチス党の本部にいた。
 ヒトラーは「まぁ、待て」と掌を翳してとめた。「まずは政党として正式に認められなければならない。まず、選挙だ」
「しかし…」ゲッベルスは続けた。「勝てるでしょうか?」
「そのために君に宣伝係になってもらったんだよ」ヒトラーはにやりとした。「国民は飢えている。”今日と明日のパン””輝かしい未来”をみせれば、絶対にナチスに従うに決まってる」
 ゲッベルスはにやりとした。「プロパガンダを考えます。まず、庶民の無知と飢えに訴えるのです」
「うむ」
「まず、人間の”値札”に訴えなければなりません」ゲッベルスはにやにやした。「”値札”とは人間のそれぞれのもつ欲求です」
「欲求? 金か?」ヒトラーは是非とも答えがききたかった。
「そうです。ある人間にとっては”金”でしょうし、また”正義感”、”名誉”、”地位”、”女””豪邸”……その人間が求めているものにアピールしていけば九十九%の人間は動かせます」
 ゲッベルスは『プロパガンダ(大衆操作)』について論じた。
 この頃は、まだプロパガンダについての研究は浅く、しかも幼稚であった。しかし、勉強家のゲッベルスはあらゆる本をよんで研究し、プロパガンダの技を磨いていた。
「ゲッベルス博士、頼むぞ。わがナチスに政権を! ヒトラーを総統にしてくれ」
 ヒトラーは握手を求めた。ゲッベルスとヒトラーは握手した。
 こうして、ナチスは政権をとるために、動きだした。



 <ウィキペディアからの引用>
すぎはら ちうね
杉原千畝

外交官時代の杉原
生誕 1900年(明治33年)1月1日
岐阜県加茂郡八百津町
死没 1986年(昭和61年)7月31日(満86歳没)
神奈川県鎌倉市
墓地 鎌倉霊園(29区5側)
住居 神奈川県鎌倉市西鎌倉
国籍 日本の旗 日本
別名 Sempo Sugihara(外国人にも発音しやすいとの配慮から「千畝」を「センポ」と有職読み)
出身校 早稲田大学高等師範部英語科予科中退
日露協会学校特修科修了
職業 外務省職員(1924年-1947年)、駐リトアニア在カウナス日本領事館領事代理(1939年-1940年)
著名な実績 リトアニアでユダヤ人を中心とした6000人の避難民にビザ発給
宗教 キリスト教 日本ハリストス正教会
配偶者 杉原幸子
子供 杉原弘樹、千暁、晴生、伸生(存命)
受賞 諸国民の中の正義の人(1985年)、ポーランド復興勲章(2008年)
生涯[編集]
外交官になるまで[編集]
1900年(明治33年)1月1日、岐阜県加茂郡八百津町に生まれる。「千畝」という名前は、人名としては極めてユニークな名前だが、税務署の職員だった父の赴任地・武儀郡では千枚田や棚田を意味する「千畝」という地名が実際に存在し、杉原の故郷付近の景観から連想した命名であろうというのが一般的見解である。千畝の家系は、元々は士族の流れをくむ「岩井」姓だったが、絶家となった名門・杉原清家を再興するために、父の代から杉原姓に変わったという。
1912年(明治45年)、古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)を全甲(現在の「オール5」)の成績で卒業後、作家の江戸川乱歩と入れ違いに旧制愛知県立第五中学(現・愛知県立瑞陵高等学校)に入学。同校卒業後、当時日本統治下の朝鮮の京城に赴任していた父は、千畝が京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)に進学して医師になることを望んでいた。千畝の甥にあたる杉原直樹によれば、千畝の父の名は、初め「三五郎」(みつごろう)であったが、自分の命を救ってくれた杉原纐纈(こうけつ)という医師の名前から「好水」(こうすい)という音韻の類似した名前に改名し、これを「よしみ」と読んだという。父・好水が医師という職業を千畝に強く薦めたのにはこうした背景がある。
しかし、医者になるのが嫌だった千畝は、京城医専の試験では「白紙答案を提出」して「弁当だけ食べて帰宅」した。当初、英語を学び「英語の教師になるつもりだった」千畝は、父の意に反して、1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。「ペンの先に小さなインク壺を紐で下げて、耳にはさんで」登校していた逸話が残る。千畝自身の説明では、「破れた紋付羽織にノート二三冊を懐にねじ込んで、ペンを帽子に挟んで豪傑然と肩で風を切って歩くのが何より愉快」と多少修正されるが、バンカラな校風で知られた昔の早稲田大学でも珍しい奇天烈な格好で通学していた。独特のペン携帯の流儀から、学友に「変わった人間」(ドイツ語で“Spinner”)と笑われても、「これならどこででも書くことができる。合理的だよ」と平然としていたという。しかし、実際は授業中ほとんどノートをとらず、講義内容をすべて暗記していた。
父の意に反した進学だったので、仕送りもなくたちまち千畝は生活苦に陥った。そこで早朝の牛乳配達のアルバイトを始めたが、それで学費と生活費をまかなうことはできなかった。ある日、千畝は図書館で偶然目にした地方紙の掲示(大正8年5月23日付の「官報」第2039号)により、外務省留学生試験の存在を知る。受験資格は旧制中学卒業以上の満18歳から25歳の者であったが、研究社の受験雑誌『受驗と學生』(大正9年4月号)に掲載された千畝自身の受験体験記によると、法学・経済・国際法から外国語二ヵ国語という具合に旧制中学の学修内容とはかけ離れたものであり、実際は千畝のような大学在籍者や旧制高校修了者以外の合格は難しいものであった。千畝は大学の図書館にこもり、連日「ロンドンタイムズ、デイリーメールの両紙を初め、米国発行の数雑誌を片端から全速力で閲覧」するなど猛勉強の末、「日支両国の将来」に関する論述や「英国下院に於ける外務次官ハームウォーズ紙の独軍撤退に関する演説」の英文和訳等の難問を制して合格。
ハルビン学院と満洲国外交部[編集]
1919年(大正8年)10月に日露協会学校(後のハルビン学院)に入学。11月には早稲田大学を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。この官費留学生の募集で、英独仏語の講習生募集は行われなかった。ロシア語選択は当初の千畝の選択ではなく、今後のロシア語の重要性を説く試験監督官の勧めで決めたものである。学生の過半数は、外務省や満鉄、あるいは出身県の給費留学生であった。当時の千畝は、三省堂から刊行されていた「コンサイスの露和辞典を二つに割って左右のポケットに一つずつ入れ、寸暇を惜しんで単語を一ページずつ暗記しては破り捨てていく」といった特訓を自分に課していたという。
1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで朝鮮に駐屯の陸軍歩兵第79連隊に入営(一年志願兵)。最終階級は陸軍少尉。1923年(大正12年)3月、日露協会学校特修科修了。特にロシア語は非常に堪能で、満州里領事代理の考査では、ロシア語の総合点は100点満点の90点。「一、二年前の卒業任官の留学生と比較するも遜色なし。むしろ正確優秀」という折り紙付きの評価を受け、生徒から教員として教える方に転じる。1930年(昭和5年)にハルビン学院を卒業する佐藤四郎(哈爾濱学院同窓会会長)は、「ドブラエ・ウートラ」(おはよう)と一言挨拶すると、謄写版刷りのソ連の新聞記事を生徒たちに配布して流暢なロシア語で読み上げ解説する、青年教師・千畝を回顧している。母校の教師として、千畝は、ロシア語文法・会話・読解、ソ連の政治・経済及び時事情勢などの講義を担当した。佐藤は、「ロシア語の力は、日本人講師でずば抜けていた」と証言している。
1924年(大正13年)に外務省書記生として採用され、日露協会学校、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)に満洲国外交部事務官に転じた。1926年(大正15年)、六百頁余にわたる『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、
「本書は大正十五年十二月、在哈爾濱帝國總領事館、杉原書記正の編纂に係はる。執務上の參考に資すること多大なるを認め、これを剞?に付す」
【現代語訳=この本は、大正15年(1926年)12月、ハルビンの日本総領事館の杉原書記官が書き上げたもので、仕事をする上で大いに役立つと思いますので、これを出版します】

という高い評価を外務省から受け、26歳の若さにして、ロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわす。
1932年(昭和7年)、3月に満洲国の建国が宣言され、ハルビンの日本総領事館にいた千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で、満洲国政府の外交部に出向。1933年(昭和8年)、満洲国外交部では政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との北満洲鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当。鉄道及び付帯施設の周到な調査をソ連側に提示して、ソ連側当初要求額の6億2,500万円を1億4,000万円にまで値下げさせた。ソ連側の提示額は、当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結は大きな外交的勝利であった。外務省人事課で作成した文書には、杉原に関して、「外務省書記生たりしか滿州國成立と共に仝國外交部に入り政務司俄國課長として北鐵譲渡交渉に有力なる働をなせり」 という記述が見られる。
ところが、日本外交きっての「ロシア通」という評価を得てまもなく、1935年(昭和10年)には満洲国外交部を退官。満洲赴任時代、1924年(大正13年)に白系ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと結婚していたが、1935年(昭和10年)に離婚。この在満の時期に、千畝は正教会の洗礼を受けた。正教徒としての聖名(洗礼名)は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」、つまりパウェル(パウロ)である。
この受洗は、結婚に際してにわかに思いついたことではなく、早稲田大学の学生時代、千畝は、後の早稲田教会となる早稲田奉仕園の信交協会に一時期属しており、満洲に赴任する前にすでにキリスト教と出会っていた。この奉仕園の前身は「友愛学舎」と呼ばれるもので、バプテスト派の宣教師ハリー・バクスター・ベニンホフが大隈重信の要請を受けて設立したものである。友愛学舎の舎章は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)である。
このハルビン在職期に杉原は、有名なシモン・カスペ(英語版)殺害事件などユダヤ人や中国人の富豪の誘拐・殺害事件を身近で体験することになった。これらの事件の背後には、関東軍に後援された、白系ロシア人のファシスト組織があった。杉原は、破格の金銭的条件で、関東軍の橋本欣五郎から間諜(スパイ)になるよう強要されたが、これを拒否。千畝自身の言葉によれば、「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満洲国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になって外交部を辞任した。
かつてリットン調査団へのフランス語の反駁文を起草し、日本の大陸進出に疑問を持っていなかった千畝は、この頃から「日本の軍国主義」を冷ややかな目で見るようになる。杉原手記には、「当時の日本では、既に軍人が各所に進出して横暴を極めていたのであります。私は元々こうした軍人のやり方には批判的であり、職業軍人に利用されることは不本意ではあったが、日本の軍国主義の陰りは、その後のヨーロッパ勤務にもついて回りました」と、千畝にはまれな激しい言葉が見られる。千畝の拒絶に対し、関東軍は、前妻クラウディアが「ソ連側のスパイである」という風説を流布し、これが離婚の決定的理由になった。満洲国は建前上は独立国だったが、実質上の支配者は関東軍だったので、関東軍からの要請を断り同時に満洲国の官吏として勤務することは、事実上不可能だった。
満洲時代の蓄えは、離婚の際に前妻クラウディアとその一族に渡したため、ハルビンに渡った時と同じように、千畝はまた無一文になった。そこで、弟が協力して池袋に安い下宿先を見つけてくれた。帰国後の千畝は、知人の妹である菊池幸子と結婚し、日本の外務省に復帰するが、赤貧の杉原夫妻は、結婚式を挙げるどころか、記念写真一枚撮る余裕さえなかった。「杉原手記」のなかで、「この国の内幕が分かってきました。若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになった」と、千畝は述べている。ソ連と関東軍の双方から忌避された千畝は、満洲国外交部を辞めた理由を尋ねられた際、関東軍の横暴に対する憤慨から、「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかったんだ」と幸子夫人に答えている。
独ソ戦迫るヨーロッパへ[編集]

カウナスに残る旧日本公使館
1937年(昭和12年)にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任し、次いで1939年(昭和14年)にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。ちなみに千畝は当初、念願であった在モスクワ大使館に赴任する予定であったが、ソ連側が、反革命的な白系ロシア人との親交を理由に、ペルソナ・ノン・グラータを発動して千畝の赴任を拒絶した。当時の『東京朝日新聞』(1937年3月10日付)は、「前夫人が白系露人だったと言ふに理解される」と報じた。
日本の外務省はソ連への抗議を続けるとともに、千畝に対する事情聴取も行い、それは『杉原通訳官ノ白系露人接触事情』という調書にまとめられ、そのなかで千畝は、「白系露人と政治的に接触したことはなく、むしろ諜報関係で情報収集のためにあえて赤系のソ連人と接触していた、そのため満洲外交部に移籍してからは、共産主義者の嫌疑をかけられ迷惑した」などと述べている。日本政府は、ライビット駐日ソ連臨時大使を呼び出して、杉原の入国拒否の理由を再三尋ね、ソ連に敵愾心を持っていた白系ロシア人との親密な関係を指摘されたが、それは具体的な証拠のないものだった。北満鉄道譲渡交渉を控えた千畝の事前調査は、それがどのような経路で行われたのかソ連側も把握できないほど周到なものだった。
ソ連が最後まで入国自体も認めなかったために、千畝は行先を近隣のヘルシンキへと変更された。バルト三国を初めとしたソ連周辺国に、千畝を含む6名ものロシア問題の専門家が同時に辞令が発令された事実を突き止めた渡辺勝正は、これが、ノモンハン事件における手痛い敗北の結果、対ソ諜報が喫緊の課題になったためであるとしている。
1938年(昭和13年)3月4日、杉村陽太郎・駐仏日本大使は、パリの日本大使館から、ヘルシンキに着任している「杉原通譯官ヲ至急當館ニ轉任セシメラレ」たしと直訴する、広田弘毅外務大臣への極秘電信を送った。千畝を自分の手元におきたかった杉村は、電信に「タタ發令ハ官報省報職員録ニハ一切發表セサルコト」と付記したが、広田外相は「遺憾ナカラ詮議困難ナリ」とこれを拒絶し、千畝の引き抜き作戦は失敗に帰した。というのも、千畝には、独ソ間で日本の国家存亡に係わる重大任務が待ち受けていたからである。
その任務の具体的内容は、1967年(昭和42年)に書かれたロシア語の書簡の冒頭で、以下のように述べられている。
カウナスは、ソ連邦に併合される以前のリトアニア共和国における臨時の首都でした。外務省の命令で、1939年の秋、私はそこに最初の日本領事館を開設しました。リガには日本の大使館がありましたが、カウナス公使館は外務省の直接の命令系統にあり、リガの大使館とは関係がありませんでした。ご指摘の通り、リガには大鷹正次郎氏がおり、カウナスは私一人でした。周知のように、第二次世界大戦の数年前、参謀本部に属する若手将校の間に狂信的な運動があり、ファシストのドイツと親密な関係を取り結ぼうとしていました。この運動の指導者の一人が大島浩・駐独大使であり、大使は日本軍の陸軍中将でした。大島中将は、日独伊三国軍事同盟の立役者であり、近い将来におけるドイツによる対ソ攻撃についてヒトラーから警告を受けていました。しかし、ヒトラーの言明に全幅の信頼を寄せることが出来なかったので、大島中将は、ドイツ軍が本当にソ連を攻撃するつもりかどうかの確証をつかみたいと思っていました。日本の参謀本部は、ドイツ軍による西方からのソ連攻撃に対して並々ならぬ関心を持っていました。それは、関東軍、すなわち満洲に駐留する精鋭部隊をソ満国境から可及的速やかに南太平洋諸島に転進させたかったからです。ドイツ軍による攻撃の日時を迅速かつ正確に特定することが、公使たる小官の主要な任務であったのです。それで私は、何故参謀本部が外務省に対してカウナス公使館の開設を執拗に要請したのか合点がいったわけです。日本人が誰もいないカウナスに日本領事として赴任し、会話や噂などをとらえて、リトアニアとドイツとの国境地帯から入ってくるドイツ軍による対ソ攻撃の準備と部隊の集結などに関するあらゆる情報を、外務省ではなく参謀本部に報告することが自分の役割であることを悟ったのです。

1967年に書かれた千畝による露文書簡の冒頭部分

日本人がまったくいないカウナスに千畝が赴任してきたことに驚いて興味を持った地元紙は、早速領事館に取材を申し込み、「日本はどんな国」という見出しで特集を組んだ。杉原一家の写真付きで紹介された特集記事で、「日本では各家庭に風呂があって、毎日入浴するっていうのは本当?」「日本の女性の家庭での地位は?」といった質問に千畝は一つ一つ生真面目に答え、ステポナス・カイリースの『日本論』(全3巻)以来のちょっとした日本ブームを引き起こした。
さて、千畝が欧州に派遣された1938年(昭和13年)、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害によって極東に向かう避難民が増えていることに懸念を示す山路章ウィーン総領事は、ユダヤ難民が日本に向かった場合の方針を照会する請訓電報を送り、同年10月7日近衛文麿外務大臣から在外公館への極秘の訓令が回電された。千畝がカウナスに臨時の領事館を開設する直前のことである。その訓令「猶太避難民ノ入國ニ關スル件」は、以下のようなものであった。
「貴殿第三九號ニ關シ、陸海軍及内務各省ト協議ノ結果、獨逸及伊太利ニ於テ排斥ヲ受ケ外國ニ避難スル者ヲ我國ニ許容スルコトハ、大局上面白カラサルノミナラス現在事變下ノ我國ニ於テハ是等避難民ヲ收容スルノ餘地ナキ實情ナルニ付、今後ハ此ノ種避難民(外部ニ對シテハ單ニ『避難民』ノ名義トスルコト、實際ハ猶太人避難民ヲ意味ス)ノ本邦内地竝ニ各殖民地ヘノ入國ハ好マシカラス(但シ、通過ハ此ノ限ニ在ラス)トノコトニ意見ノ一致ヲ見タ」
【現代語訳=貴殿(山路総領事)が発信した第39号(請訓電報)に関し、陸海軍及び内務各省と協議の結果、「ドイツおよびイタリアにおいて排斥を受け、外国に避難する者をわが国に受け入れることは、大局上よろしくないのみならず、現在事変(日中戦争)下にあるわが国では、これらの避難民を収容する余地はないのが実情なので、今後はこの種の避難民(外部に対しては単に『避難民』の名義とすること。実際はユダヤ人避難民を意味する。)のわが国内地(本土)ならびに各植民地への入国は好ましくない。(ただし、通過はこの限りでない。)」とすることで意見が一致した。】

近衛外務大臣から在外公館長への訓令「猶太避難民ノ入國ニ關スル件」(昭和13年10月7日付)

上掲の訓命では、ユダヤ人差別が外部に露見すると海外から非難を受けることは必至なので、「外部ニ對シテハ單ニ『避難民』ノ名義トスルコト」と明記され、わざわざ内訓を外部に公表しないことを念を押し、ユダヤ避難民が日本に来ることを断念するように仕向けるよう指示した機密命令であり、日本政府は、いわゆる「五相会議」決定のユダヤ人保護案を表面上示しながら、裏ではユダヤ人差別を指示する二重外交を展開していたのである。
「命のビザ」[編集]

杉原領事代理による手書きのビザ
ポーランドとリトアニアには、ミルやテルズなどユダヤ人社会に知られたユダヤ教の神学校があり、ヨーロッパ中から留学生が集まっていた。そのなかに祖国がドイツに降伏したため無国籍になった、オランダ出身のナタン・グットヴィルトとレオ・ステルンハイムがいた。グットヴィルトは、オランダ領事ヤン・ズヴァルテンディク(オランダ語版)に出国の協力を求めた。ズヴァルテンディクは、今日でも有名なオランダ企業フィリップス社のリトアニア支社長だったが、1940年(昭和15年)5月、バルト諸国担当のオランダ大使 L・P・デ・デッケルの要請を受けて、ナチス共鳴者のティルマンス博士に代わりカウナス領事に就任していた。祖国を蹂躙したナチスを強く憎んでいたズヴァルテンディクはグットヴィルトらの国外脱出に協力を約束し、6月末グットヴィルトは、ワルシャワ大学出身の弁護士でユダヤ難民たちのリーダー格だった、ゾラフ・バルハフティクに対して、この件について相談した。ズヴァルテンディク領事は、「在カウナス・オランダ領事は、本状によって、南米スリナム、キュラソーを初めとするオランダ領への入国はビザを必要とせずと認む」とフランス語で書き込んでくれた。
ズヴァルテンディクによる手書きのビザは途中でタイプに替わり、難民全員の数を調達できないと考えたバルハフティクらはオランダ領事印と領事のサインの付いたタイプ文書のスタンプを作り、その「偽キュラソー・ビザ」を日本公使館に持ち込んだのである。ドイツ軍が追撃してくる西方に退路を探すのは問題外だった。そして、今度はトルコ政府がビザ発給を拒否するようになった。こうして、トルコ領から直接パレスチナに向かうルートも閉ざされた。もはや逃げ道は、シベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか難民たちには残されていなかった。難民たちが、カウナスの日本領事館に殺到したのには、こうした背景があった。
1940年(昭和15年)7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった」と回想する千畝は、その手記のなかで、あの運命の日の光景をこう描いている。「6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」。
ロシア語で書かれた先の報告書にあるように、カウナスに領事館が設置された目的は、東欧の情報収集と独ソ戦争の時期の特定にあったため、難民の殺到は想定外の出来事であった。杉原は情報収集の必要上亡命ポーランド政府の諜報機関を活用しており、「地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名、海外の親類の援助を得て来た数家族、合計約15名」などへのビザ発給は予定していたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていなかった。本省と千畝との間のビザ発給をめぐる齟齬は、間近に日独伊三国軍事同盟の締結を控えて、カウナスからの電信を重要視していない本省と、生命の危機が迫る難民たちの切迫した状況を把握していた出先の千畝による理解との温度差に由来している。
ユダヤ人迫害の惨状を熟知する千畝は、「発給対象としてはパスポート以外であっても形式に拘泥せず、彼らが提示するもののうち、領事が最適当と認めたもの」を代替案とし、さらに「ソ連横断の日数を二〇日、日本滞在三〇日、計五〇日」を算出し、「何が何でも第三国行きのビーザも間に合う」だろうと情状酌量を求める請訓電報を打つが、本省からは、行先国の入国許可手続を完了し、旅費及び本邦滞在費等の携帯金を有する者にのみに査証を発給せよとの発給条件厳守の指示が繰り返し回電されてきた。
杉原夫人が、難民たちの内にいた憔悴する子供の姿に目をとめたとき、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」という「旧約の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かん」だ。そして、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という千畝の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意。そこで杉原は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。
日本では神戸などの市当局が困っているのでこれ以上ビザを発給しないように本省が求めてきたが、「外務省から罷免されるのは避けられないと予期していましたが、自分の人道的感情と人間への愛から、1940年8月31日に列車がカウナスを出発するまでビザを書き続けました」とし、避難民たちの写真を同封したこの報告書のなかで、杉原はビザ発給の理由を説明している。
杉原の独断によるビザ発給に対する本省の非難は、以下のようなものであった。
「最近貴館査證ノ本邦經由米加行『リスアニア』人中携帶金僅少ノ爲又行先國手續未濟ノ爲本邦上陸ヲ許可スルヲ得ス之カ處置ニ困リ居ル事例アルニ附避難民ト看傲サレ得ベキ者ニ對シテハ行先國ノ入國手續ヲ完了シ居リ且旅費及本邦滯在費等ノ相當ノ携帶金ヲ有スルニアラサレハ通過査證ヲ與ヘサル樣御取計アリタシ」
【現代語訳=最近カウナスの領事館から日本を経由してアメリカ・カナダに行こうとするリトアニア人のなかには、必要なお金を持っていなかったり行先国の手続きが済んでいなかったりなどの理由で、わが国への上陸を許可できずその処置に困ることがあります。避難民と見なしうる者に関しては、行先国の入国手続きを完了し、旅費・滞在費等に相当する携帯金を持っている者でなければビザを与えないよう取りはからって下さい】

1940年8月16日付の本省から杉原の独断によるビザ発給を非難する電信

1995年(平成7年)7月12日、日本外交とユダヤ関連の著者パメラ・サカモトが松岡洋右外相の秘書官だった加瀬俊一に千畝のカウナスからの電信について問い合わせてみても、「ユダヤ問題に関する電信を覚えていなかった。『基本的に、当時は他の切迫した問題がたくさんありましたから』」と加瀬は答えており、東京の本省は条件不備の難民やユダヤ人の問題などまるで眼中になかった。それどころか、日独伊三国軍事同盟を締結も間近な時期に、条件不備の大量難民を日本に送り込んで来たことに関して、「貴殿ノ如キ取扱ヲ爲シタル避難民ノ後始末ニ窮シオル實情ナルニ付」(昭和15年9月3日付)と本省は怒りも露わにし、さらに翌年も「『カウナス』本邦領事ノ査證」(2月25日付)云々と、千畝は名指しで厳しく叱責された。
窮状にある避難民たちを救済するために、千畝は外務省を相手に芝居を打った。もし本省からの譴責に真っ向から反論する返電を送れば、本省からの指示を無視したとして、通行査証が無効になるおそれがある。そこで千畝は、本省からビザ発給に関しての条件厳守を指示する返信などまるでなかったかのように、「当國避難中波蘭出身猶太系工業家『レオン、ポラク』五十四歳」(昭和15年8月24日後發)に対するビザ発給の可否を問い合わせる。つまり、米国への入国許可が確実で、十分な携帯金も所持しており、従って本省から受け入られやすい「猶太系工業家」をあえて採り上げるのである。
そして千畝は、わざと返信を遅らせてビザ発給条件に関する本省との論争を避け、公使館を閉鎖した後になって電信第67号(8月1日後發)を本省に送り、行先国の許可や必要な携帯金のない多くの避難民に関しては、必要な手続きは納得させた上で当方はビザを発給しているとして強弁して、表面上は遵法を装いながら、「外國人入國令」(昭和14年内務省令第6号)の拡大解釈を既成事実化した。
一時に多量のビザを手書きして万年筆が折れ、ペンにインクをつけては査証を認める日々が続くと、一日が終わり「ぐったり疲れて、そのままベッドに倒れ込む」状態になり、さらに「痛くなって動かなくなった腕」を夫人がマッサージしなくてはならない事態にまで陥った。手を痛めた千畝を気遣い、杉原がソ連情報を入手していた、亡命ポーランド政府の情報将校「ペシュ」こと、ダシュキェヴィチ大尉は、「ゴム印を作って、一部だけを手で書くようにしたらどうです」と提案。オランダ領事館用よりは、やや簡略化された形のゴム印が作られた。
ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら一カ月余寝る間も惜しんでビザを書き続けた千畝は、本省からのベルリンへの異動命令が無視できなくなると、領事館内すべての重要書類を焼却し、家族と共に今日まで残る老舗ホテル「メトロポリス」に移った。杉原は領事印を荷物に梱包してしまったため、ホテル内で仮通行書を発行した。そして9月5日、ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、杉原は車窓から手渡しされたビザを書き続けた。その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼった。汽車が走り出し、もうビザを書くことができなくなって、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と千畝が頭を下げると、「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」という叫び声があがった。そして「列車と並んで泣きながら走っている人」が、千畝たちの「姿が見えなくなるまで何度も叫び続けて」いた。
領事館閉鎖後の避難民[編集]
Stamps of Lithuania, 2004-16.jpg
日本領事館の閉鎖日が近づくとともに、作業の効率化のため千畝は途中から記録するのを止めてしまい、規定の手数料を徴収することも忘れていた。実際には、記録に残っているビザ以外にもビザや渡航証明書が発給されているが、記録外の実数は把握できない。また、一家族につき、一枚のビザで充分であったため、家族を含めて少なくとも数千名の難民の国外脱出を助けたと考えられている。
1941年(昭和16年)に入り、独ソ戦が目前になると、ドイツとソ連に分割された東欧のユダヤ人の運命はさらに過酷なものになり、ヒトラーとスターリンに挟撃されて右往左往する他はなかった。モスクワの日本大使館にも日本通過ビザを求める難民たちが殺到し、駐ソ大使・建川美次は、その惨状を1941年4月2日付の電信で、以下のように伝えている。
「彼ラ住ム家ナク歸ルニ所ナク進退キワマリ囘答ノ不信ヲ泣訴終日號泣シテ立去ラル者アリ」
(難民たちには家もなく、帰るところもなく、助けて下さいと訴え、一日中泣いて大使館から立ち去ろうとしません)

独ソ戦の開始以前に運良く通過ビザを入手できた難民たちも、すべてがシベリア鉄道で極東までたどり着けたわけではなかった。当時ソ連は外貨不足に悩んでおり、シベリア鉄道に乗車するためには、ソ連の国営旅行会社「インツーリスト」に外貨払いで乗車券を予約購入しなければならなかったからである。乗車券は当時の価格で約160ドルもし、通常の銀行業務が滞りがちな戦時に、着の身着のままで逃げてきた難民たちの誰もが支払えるという金額ではなかった。