緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

小池新党・希望の党で『平成維新』”見えない身分””見えないしがらみ”からの脱却

2017年09月28日 19時04分38秒 | 日記

























         小池新党・希望の党で『平成維新』”見えない身分””見えないしがらみ”からの脱却





 まあ、ここでただブログに書くだけだと、また安倍晋三首相に「立派な文章でも紙に印字するだけなら誰だってできる」「あのひとは統合失調症(だから無用だから役に立たない)だ」

 と嫌みをいわれそうだが、別にわたしは漫画みたいな文章だけがうまくて他人とまともに話せないとか、そんな馬鹿ではない。文章を読めば「まとも」だとわかるはず。

 諸経費や交通費や飯代くらい払ってもらえれば東京でも地元でも応援演説にいこうじゃないか。

 ただ、わたしのスタンスを説明するとあくまで国会議員や県会議員や市議会議員とかには絶対にならない。

 米沢市長選挙は将来に出るが、それ以外はない。”民間登用の外交専任アドバイザー”である。

 だが、わたしがいくら「国の為道の為」「民間登用の外交専任アドバイザー」として登用してほしいと安倍政権にいっても前述したことをいって安倍政権はわたしを馬鹿扱いしただけ。まあ、小池さんの新政府なら違うかというと同じ事だろうが(笑)この国は高学歴かいい家柄でなければ政治家にも軍師にも登用されない。そういう国だ。

 そして何故そうなるのか?といえばこの国には”見えない身分””見えないしがらみ”があるからである。

 ”見えない身分””見えないしがらみ”といえばひとつは『性別』である。

 この国は本当に男女平等だろうか?男性より女性の方が損をする社会形態ではないか?この国では男性より優れた女性がいても出世できない。登用されない。そういう女性が馬鹿をみるような”見えない身分”があるのではないか?

 ”見えない身分””見えないしがらみ”のふたつは『年齢』である。

 この国は老人や若者に優しい社会形態だろうか?

「あなたはおばあさんだから、あなたはおじいさんだからいらない」「あなたは若いからわからない。黙れ!」

 この国は年齢における差別がないだろうか?年齢による差別”見えない身分”がある限り維新も改革もならない。

 ”見えない身分””見えないしがらみ”のみっつは『学歴』である。

 この国では大学を卒業したものが勝者で、高卒や専門学校卒業とか短大卒の人間は無碍(むげ)に扱われるのでは?

 どんなに才能があっても大学を出ていないと「じゃあ、GSで」「じゃあ、工場で」といわれ、「事務職もうやっていない」と嘘をつかれるのではないか?高学歴であることが何よりも優先され、”見えない身分”がなければ一生工場で単純作業をさせられるのではないか?大事な要職に登用されないのではないか?

 ”見えない身分””見えないしがらみ”の四つは『病気・障害』ではないか?

 この国では病気の人間への障害者への差別がないだろうか?ちょうどわたしが安倍晋三の粛正された理由も、

「あのひとは統合失調症だ(から無用・役に立たない)(笑)」であり、がんとか認知症とか障害とか、”見えないしがらみ”だらけではないのか?

 このような”見えない身分””見えないしがらみ”から我々は自由になるべきだ!”見えない身分”を改革によってクリアーして解消し、安倍晋三独裁とは違う小池百合子さんの新政権で是非とも『平成維新』『新世紀維新』を成し遂げよう!今こそ戦略と策略でこの国をよい方向に変えよう!!!!いまこそ小池さんによる維新・変革のときだ!

 今度こそ”見えない身分””見えないしがらみ”から脱却しよう!安倍独裁からの”見えない身分””見えないしがらみ”からの脱却!女性初の小池百合子首相を実現させ、いまこそこの国の維新を!希望の国まであとすこし!

 レッツ・ドゥ・イット(さあ、やろう!)!!!!!!!


 上杉(長尾)景虎 *緑川鷲羽改め

2017/09/28

真田幸村<真田丸>忠義の蒼い炎 真田幸村(信繁)大河ドラマ小説1

2017年09月24日 07時07分44秒 | 日記



























小説「紅蓮の炎<真田丸>真田幸村幻勇伝  ー花の真田幸村(信繁)烈伝ー」

    かぶき者のススメ
―大坂夏の陣に散った赤いバサラ武者―
              
               ~天才武士、真田幸村公…
                 「真田の武功」はいかにしてなったか。~
                 真田幸村の生涯
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  UESUGI KAGETORA
                   上杉(長尾) 景虎

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

Inspered by a true story.
故・隆慶一郎氏、原哲夫氏らコミック『花の慶次』を参考文献としている作品です。「文章や話の流れが似ている」=「盗作」ではなく、「盗作」ではなくあくまで「引用」です。
       この物語を故・隆慶一郎氏、原哲夫氏らコミック『花の慶次』製作に関わったすべての漢たちに捧げる。
       上杉(長尾)景虎 2014年度初春執筆より

この作品は引用が多くなりましたので引用元に印税の数%を払い、引用料としてお許し願えればと思います。それでも駄目だ、というなら印税のすべてを国境なき医師団にすべて寄付しますので引用をお許しください。けして盗用ではないのです。どうかよろしくお願いします。上杉(長尾)景虎   臥竜

          あらすじ

  真田幸村(信繁)は永禄十年、信州上田城主・真田(当時武藤)昌幸の次男として生まれる。幼名・弁丸。やがて上杉家、武田家、豊臣秀吉・秀頼に仕える。
 十八歳のときに景勝と景虎との御館の乱をみる。以後、景勝を慕い、師弟関係へ。謙信が死ぬと、養子の景勝を補佐して『お館の乱』を勝利に導く。が、信長の勢いにおされる。奇跡が起こる。本能寺の変で信長が死んだのだ。その後、秀吉に従い、そして家康と対立……が、『関ケ原の戦』で上杉は米沢転封に。景勝とともに名門・上杉家を支えた慶次だったが、上杉の安泰を見守ると、死んだ。一方、関ヶ原の際、父親の昌幸とともに幸村は秀忠軍に戦をしかけたとして、高野山に幽閉され、父が死去……十四年後の大坂冬の陣に「豊臣家のために」大坂城に参陣、真田丸で勇猛果敢な働きをする。だが、利は徳川にあり、和睦停戦の条件である外堀どころか内堀まで大坂城は埋められ文字通り大坂城は『ハダカ城』に。翌年の大坂夏の陣で、たった数騎で幸村隊は家康本陣に突入するも、戦死、大坂城は炎に包まれ、秀頼と淀君の自決で、豊臣は滅び、天下は徳川のものとなった。
                             あらすじ  おわり

ちなみに2016年NHK大河ドラマは三谷幸喜脚本の真田幸村が主人公のドラマ『真田丸』である。この著作をものしている過程でニュースで知ったが、いかにも好都合である。2016年に放送されたNHK大河ドラマ「真田丸」主人公の戦国武将・真田幸村役を、俳優の堺雅人さん(40)が演じたが、「真田丸」は三谷幸喜さんが「新選組!」(04年)以来2度目の脚本を担当した。堺さんは過去「新選組!」、「篤姫」(08年)と2本の大河ドラマに出演している。狙っていた訳ではない。が、時勢とタイミングがあって何よりである。大河ドラマの参考文献としてお読みくだされ。


         1 関ヶ原の役・信州上田城VS徳川秀忠


「治部(じぶ・三成)、おぬしには人望がない。おぬしが総大将ではどんな大軍でも負け戦じゃ。ここは大将を毛利安芸中納言輝元公(もうり・あき・ちゅなごん・てるもと)に、副将に宇喜多備前宰相秀家(うきた・びぜんさいしょう・ひでいえ)さまとして立てて、おぬしは裏方にまわるのじゃ。さもなくば諸将はついてはこないだろう」
「刑部(ぎよぶ、吉継)、得心した!」
慶長五年(一六○○年)、打倒徳川家康を掲げて石田三成(治部少輔・じぶのしょう)が挙兵し、大谷吉継(刑部少輔・ぎょうぶのしょう)は何度も止めるが、三成の意思がかたく、上杉の宰相・直江兼続や上杉景勝と同調していることがわかると、病身をおして荷担する決意をする。同時に、三成に厳しくも的確な助言をしたといわれています。
「この戦はもともと負けのようなものかも知れない」
慶長五年九月十五日未明、関ヶ原では石田三成が布陣していた。
同じく山中村の陣所で、ほとんど失明の大谷吉継は開戦前のひんやりとした戦場の空気をひしひしと感じていた。輿(こし)に座り、頭巾の中でつぶやいた。
…太閤殿下のもとでわしと佐吉(石田三成)は奉行として何度も大軍を動員して兵站(へいたん)をうまく動かして勝ち続けた。今回も内府・徳川家康の軍勢を上回る軍勢を集めた。されど…。戦は数よりも士気である。三成はわかっているはずだろうが。
三成は笹尾山に陣をはっている。…佐吉、おぬしのくやしさはわかる。わしらは私利私欲なくすべては豊臣家の為に骨を折ってきた。太閤殿下が亡き後も秀頼さまや豊臣政権のもと豊臣政権で天下太平を夢見た。だが、それをよこしまな心で奪ったのは家康じゃ。家康が居る限りいずれ豊臣はおわる。家康を倒さねば天下太平はない。我らが目指すのは徳川の私するものにあらず。
「備え怠るな!下知を待て!」霧が薄れゆく中、吉継の声が戦場に響いた。
(ちなみに大谷吉継が茶に膿をおとして石田三成がその茶を平然と飲み込んで二人の盟友関係が深まった、というような話は後世にふたりの深い関係を表現するための創作であるそうです。そういう話が創られるほど盟友関係だった、ということです。)
(関ヶ原の前に三成に佐和山に呼ばれ、一度陣をはる垂井(たるい)に戻り、東西軍のどちらの軍につくか深く迷い、葛藤した末、また佐和山にいくのです。大谷吉継はどちらかというと家康を評価していたが、三成がすべてにおいて豊臣政権に殉ずる覚悟であると知ると、その一途な至誠に負けて「(竹馬の友の)三成に命を殉ずる」と至ったそうです。)

石田三成が近江長浜城の城主時代の秀吉に仕えたのが、天正二年(一五七四年)頃、十五歳だったそうです。三成より一歳年上の大谷吉継が使えたのも同時期である。三成の父・正継(まさつぐ)は近江石田村の土豪ですが、大谷吉継の詳しい出自はわかっていません。諸説あるそうですが同じ近江の大谷村(現・小谷)出身ではないか、とのことです。
天正五年頃になると織田信長の命令で秀吉は播磨姫路城を拠点に中国攻めに着手し、その頃、秀吉の馬廻りとして加藤清正や福島正則らとともに太谷平馬(へいま)と名乗っていた吉継が歴史上にでてきます。三成も近習(きんじゅう)としてでてきます。初陣もこの頃でしょう。
三成の出自は不明な点が多いのですが、研究によって三成は永禄三年(一五六○年)、近江国坂田郡石田村(現・滋賀県長浜市石田町)で石田正継の次男として生まれたことがわかりました。正継は太谷城主・浅井長政に仕えた人物です。
少年時代の三成は寺小姓。勉強熱心だったらしい。どの寺かはわかりませんが。説は2つ。石田村の隣村にある大原寺観音寺(現・滋賀県米原(まいばら)市朝日)と、母親の出身地にある法華寺三珠院(ほっけじさんじゅいん 現・滋賀県長浜市)。三成の生家との距離から、観音寺の説が有力だそうです。三成と吉継。ふたりの共通点は多く、近江出身であり、歳も近く、有能な官僚タイプの秀吉の小姓であり、かつ、秀吉の天下取り、戦国の世を終わらせるという使命も同じ。太閤検地(刀狩り・検地・通貨の統一)など辣腕でもあった。反面、まっすぐでな性格で理屈と論理で理論攻めの三成に対し、吉継はうまく三成を軌道修正した。視野が広く、世間慣れした吉継は、周囲との軋轢を生む懇切でない三成に適切な助言をした。「計画・理論・策略」の三成と、「人望・親切・実行役」の吉継、このふたりがいてこその豊臣政権でした。そこに真田幸村こと信繁や直江兼続や伊達政宗など集う訳です。秀吉をして「百万の軍を預けてみたい」と語ったといわれる太谷吉継ですが、確かに人望もありかなり立派な人格者であったようです。
また石田三成が人望がなく、冷血漢というのは徳川時代の創作であるそうです。
確かに人望はありませんが、冷血漢でひとをゴミのように扱い、「馬鹿と話していると疲れる」とか「利休め。おとなしく謝れば許したものを。我を張りよった。」と冷笑する。
そんな事実はなく、徳川時代の創作であるそうです。
それほど徳川からしたら石田三成はおそろしい人物だったのでしょう。
石田三成は義のひとでした。当然、人格者であり豊臣政権の優秀な官僚であるのです。ですが、残念ですが人望がない。人望がないんですよね。優秀で頭は切れるんですが嫌われる人物なんです。それで関ヶ原でも裏切られて負けてしまったんですが(笑)


史料によれば、三成は天正二年(一五七四年)に秀吉に仕官したそうです。
天正元年(一五七三年)に三成の父親が仕官していた浅井家が滅びて、その旧領を秀吉が受け継ぎました。当時は秀吉は卑しい一塊の百姓上がりの秀吉であり、子飼いの家臣や重臣などいませんでした。
だから、旧浅井家の家臣を自分の家臣にして強固な家臣団をつくろうとしたのです。
叩き上げの人物の特徴ですが、秀吉は百姓上がりの人物とか卑しい身分の人物を雇わないし信用しません。雇うのはいまでゆう学歴エリート(身分のしっかりしたどこぞかの大名の家臣)とか側室はどこぞかの姫君ばかり。いまでゆう「学歴コンプレックス」でした。
だから、自分と同じように百姓上がりから出世して大名になることまで禁止する訳です。
いいひとでひとたらしなんだけど狭量で、いまでゆう「学歴(家柄)コンプレックス」…
政治家で言うと安倍晋三みたいな(笑)信じるのは学歴エリートと立派な家柄の役人や一流大卒の官僚の言葉のみ。安倍晋三と秀吉とはそういう男でした。





 大きく天下が動き始めた。
太閤秀吉の死(一五九八年)、盟友・前田利家の死(一五九九年)から時代は、慶長五年(一六〇〇)陰暦八月、いよいよもって大人物・徳川家康が『会津の上杉征伐』と称して福島正則、黒田長政など豊臣恩顧の大名団隊数十万の兵を率いて動いた。信州(現在の長野県)上田城の真田安房守昌幸(さなだ・あわのかみ・まさゆき)、真田左衛門佐幸村(さなだ・さえもんのすけ・ゆきむら(信繁・のぶしげ))父子の手元に、生々しい情報が次々ともたらされた。幸村の眸(ひとみ)が輝いて心が躍った。かねて放っていた物見たちが、まるで白い風のように秋風に吹き寄せられるように、一人、またひとりと城に舞い戻っていく。それにつれて次第に徳川方の情勢が明らかになっていった。
 彼ら物見衆は、琵琶を背負った語り法師、一管の尺八を腰にした梵論字(ぼろんじ・虚無僧・こむそう)などに姿を変えているが、いずれも安房守昌幸の鑑識(めがね)にかなった心利いた者ばかりであり、その情報収集能力は高く、情報の精度も高いのである。
さすがにフィクションの真田十勇士(猿飛佐助、霧隠才蔵など)は存在しないし、漫画やアニメや映画のように空を飛んだり、木々の枝間を駆けることは出来ない。
忍びといえど所詮人間である。漫画と一緒にしないでください。
「そうか。うむ、成程、成程…」
安房守昌幸は忍びから情報を得て分析し、戦略を練るのである。戦国時代にはこうした情報収集と要人警護、要人暗殺を職とした忍びの者(いわゆる間者)が存在した。
だが、現在の日本政府にはこの間者のような(つまりCIAやモサドのようなスパイ)組織がない。内調(内閣調査室)やNSC(国家安全保障会議)があるではないか、というひともいるかも知れない。だが、内調にしても日本のNSCメンバーにしても全員顔はバレバレで、只の高学歴のお坊ちゃんお嬢ちゃんなだけで、戦略どころかまともに行動も出来ない。
私上杉景虎の出来る事の半分も出来ない『学歴エリート』なだけの、残念なひとたちだ。
情報がなければ戦略の立てようがない。プロ野球やサッカーでもまめに情報収集や情報分析をやっているのに、彼らは、高学歴なら何でも出来る、と勘違いしている。馬鹿だ。
話がそれた。去る七月。豊臣政権の大老徳川家康は、奥州会津の上杉景勝討伐の軍を起こし、野州小山宿(やしゅう・おやましゅく・栃木県小山市)まで北上着陣した。
 実は昌幸、幸村父子もこの時、動員に応じ将兵八百余を率いて、上田から野州犬伏宿(いぬふししゅく・佐野市)へと着陣、長男の伊豆守信幸(のちに信之と改名)も、居城の上州沼田城に、一足先に着陣していた。
 そこに石田三成からの密書が届いて、真田家の運命が思わぬところへと急旋回した。すなわち、三成は家康討伐の挙兵への参加をもとめたものであった。
(やはり三成殿が動くか!)
安房守昌幸は、ただちに、長男の伊豆守信幸(いずのかみ・のぶゆき)を呼びつけ、人払いした密談にて、
「わしと幸村は、石田治部少輔(じぶしょうゆう)の挙兵に応ずるつもりだが、そなたはどうする?思う所をのべるがよい!」
「父上、狂されたか!?」
訊いていた信幸は顔色を変えた。そして、もはや世の中は徳川家康の天下で、石田治部などは人望もなく、豊臣家ももはやこれまでで確実に世の中は徳川家康が天下人だ、と天下の形勢を述べて、
「父上ともあろうお方が、それをお読みになれぬとは情けなや」と厳しく反対した。
信幸の判断は正確でよく分析されていた。だが、議論の末、結局、安房守昌幸と幸村は石田方(豊臣方)へ、伊豆守信幸は徳川方に残る事に決した。
「相分かった。それぞれ、おのれが思う様に生きるがよろしい」
この父子の行動は迅速である。
昌幸と幸村は、ただちに兵を引き連れて犬伏宿を発し、信州上田へと向かい、一方の長男の伊豆守信幸は本堂へ馬を走らせ、家康に父と弟の離反と、石田三成挙兵を伝えた。
この親子の離反には当然ながらどちらに転んでも真田家が安泰なように双方に離反しての安全策ということである。また、決断の背景には安房守昌幸の妻「山手殿」が、宇多下野守頼忠(うだしもつけのかみよりただ)の娘であり、石田三成の妻もまた、頼忠の娘という関係性が影響していた。しかも次男の幸村の妻は、三成の盟友にして、挙兵の片腕とされる、敦賀(つるが)の城主大谷刑部吉継の娘なのだ。
だが、長男の伊豆守信幸の妻は、徳川家の重臣本多平八郎忠勝(ほんたへいはちろうただかつ)の娘を、家康が養女とした上で伊豆守信幸に娶らせた。すなわち、真田家は、すでに分裂を運命づけられていたようなものだったのだ。
情報網を張り巡らせていた家康は、伊豆守信幸の報告によって、石田三成挙兵を知ると、形ばかりのパフォーマンスである『会津の上杉討伐』を中止し、急遽、大軍を江戸へ、関ヶ原へと反転させた。上杉家の追撃の為には家康の次男の結城秀康を配置、豊臣恩顧の大名たちに毛利輝元、宇喜多秀家、豊臣家、小早川秀秋らの参戦を伏せて、みんなの嫌われ者・石田治部少輔三成討伐と称して、福島正則や黒田長政、加藤清正らを東軍につくよう説得した。家康は東海道を西上、三男秀忠に兵三万八千を授けて中山道を西進させることにした。
「内府(家康)は、江戸から東海道を西上、先鋒は福島左衛門尉(さえもんのじょう)正則が買って出たようにございます」
との間者の報告に、昌幸は、
「何たることぞ、福島正則といえば常日頃、口を開けば、豊臣こそ天下、わしは豊臣恩顧の大名じゃ、といっていたのに豊臣家滅亡の片棒を担ぐとは!」
「秀忠軍の三万八千余は、八月二十五日に、宇都宮城を発進して候」
との報告には、にやりと、
「内府で無うて残念だが、………息子の秀忠めに、一泡吹かせてやろうとするか……」
「父上、何分にも敵は大軍、なんぞ撃退の妙手がございましょうか?」
「まあ、見ているがよい」
「ははは、父上、楽しげでありますなあ」
 幸村は、父安房守昌幸が、十五年前の徳川勢と一戦を交えた神川(かんがわ)合戦(第一次上田合戦)の再現をもくろみ、闘志を燃やしていると感じた。
真田家は歴史好きの方ならご存じの通り武田信玄勝頼の家来の家柄である。それが、織田方による武田滅亡に際して、上杉景勝(謙信の義理の息子・上杉氏二代目)を頼るという奇策をきりだした。そこで家康方と戦いになったのだ。その際、次男の幸村を人質として春日山城に送ったが、それを知った家康は、
「あの横着者めが!」
と激怒し、鳥居元忠、大久保忠世(ただよ)ら七千余もの大軍勢をもって、信州上田城攻略戦を開始した。これが意外な結果に終わった。たかが、これほどの小城、一気に攻め落とせると思ったが、柵をもって城下を迷路状にするなど、二重三重に工作した昌幸の知略に翻弄され多大な死傷者を出した挙句に、撤退を余儀なくされたのである。ために「東海一の弓取り」という家康の誇りは傷つき、逆に真田安房守昌幸の武名は天下に知れ渡った。
この武功を幸村自身は越後府内(新潟県上越市)春日山城で聴いたという。
上田城落ちず、徳川勢撤退……当たり前だ。われら真田家は知略の武家だ。
その幸村に対して、無口で知られる、上杉景勝が突然、ぶっきら棒にいった。
「屋代(やしろ)一千貫……」
「……?」
幸村は、何のことかわからず、景勝の言葉を待った。が、景勝は口を噤(つぐ)んだなり、もう何もいわぬ。極端に無口な漢なのだ。側近で家老の直江山城守兼続が、
「殿は貴公に、屋代一千貫の地を賜るとの仰せなのである」と景勝の言葉を補足した。
「えっ、人質の私に、知行地を!?」
 驚く幸村に兼続は諭すように、
「我らは、貴公を人質などと思うておらぬ。屋代近い十三屋敷の地は、往昔(おうせき)、順徳天皇の皇子広臨(ひろみ)親王が隠棲されたとの伝承のある由緒ある土地……よろしゅうござるな」
 幸村はこの瞬間「義」に篤いという、謙信以来の上杉家の家風の真実を悟った。これは祖父真田弾正忠(だんじょうのじょう)幸隆の、「人間は利に弱いもの」とする人間観と対極にあるといってよく、幸村は強い衝撃を受けた。時に景勝三十歳、兼続二十六歳、幸村、弱冠十九歳であった。上杉での一年の生活は、幸村に多大の影響を与えた。その幸村が今、慶長五年、徳川秀忠率いる三万八千余の軍勢を、父安房守昌幸とともに迎え撃つことになり、父子は闘志に燃えたのである。
「幸村、大軍を相手の合戦とは、どのようにするものか、後学のため、よっく見ておけい」
中山道を西進した徳川秀忠率いる三万八千の大軍勢が、すでに秋色深い碓氷(うすい)峠
をこえ、軽井沢をへて、小諸(こもろ)に着陣したのは陰月九月二日のことであった。
父親の家康からは信州上田城の真田父子の軍勢とは戦わず、そのまま関ヶ原へと向かえ、という書状がきた。だが、秀忠は邁進していた。たかだか、数千の信州上田城の真田を恐れて秀忠は逃げた、といわれるのは末代までの恥である。
だが、その邁進が怪我の元であった。
実はこの徳川秀忠の大軍が、徳川家としての『本陣』なのだが、真田に散々にこっぴどくやられ(夜襲や奇襲などの謀略戦)、歴史に詳しい人ならご存知のことだが、『関ヶ原の合戦』に遅参することになる。
家康に内通していた小早川秀秋が徳川東軍に寝返り、西軍が大敗し、石田三成が滅んだからよかったようなものの、もしも東軍(家康連合軍)が敗北していたら、歴史はどうなっていたかわからない、と、多くの歴史家は口をそろえる。徳川家康だからこその対石田三成対豊臣家であり、家康と秀忠では、そもそも人間の格が違い過ぎる。
豊臣家大坂方を滅ぼすのに、家康が、十数年も辛抱強く戦略を巡らしたのも「秀忠では豊臣家を滅亡できない」、と冷静に分析した結果であり、七十六歳の、当時としては長寿も、家康の執念であったことだろう。
話を戻そう。
秀忠が信州上田城などたかだか城兵三千余ほど、わが十倍の三万八千の軍勢をもってすれば、一気に落としてみせる、と闘志を燃やすと、彼の、上田討伐を知った謀臣本多佐渡守正信から、
「真田の上田城などは枝葉のこと。関わらずに捨ておかれ、とにかく急ぎ美濃の本隊に合流することこそ肝要でありまする」
と忠告されていたが功名心から、真田安房守昌幸が、
「もとより我らに、抵抗の意思など毛頭ありませぬ。城内を清掃したる後、開城する所存でおりますゆえ、一両日お待ち願いたい」
とのことを伝えてきたので、秀忠は頬を綻(ほころ)ばせた。
ところが、約束の日が来ても、一向に開城の気配もない。
それで溜まりかねて重ねて使者を送ると、意外にも、
「実を申しますと、籠城準備に不備な点があったので、一両日お待ち願ったが、どうやら兵糧、弾薬とも、万事、遺漏(いろう)なく整い申した。では、これより一合戦、馳走つかまつる」
という人を食った挨拶であった。
「おのれ、安房守め、たばかりおったか!」
嚇(か)っと秀忠は逆上した。その瞬間、本多正信の忠告の言葉など一気に消し飛んでしまった。
悪いことに、その本多正信は「戦費補充」のため江戸へ赴いており不在であった。
中山道を北に外れ、秀忠軍は小諸(こもろ)から上田城へと進軍した。
秀忠は激昴で冷静さをなくしていた。上田城を望む染谷台(そめやだい)に本陣を据えると、
「安房守父子を討ちとれ、断じて逃がすな!」と厳命したという。
 実りの秋である。秀忠は、豊饒な稲穂を刈り取ることで、上田城の糧道(りゅうどう)を断ち、また、城外へ城兵を誘い出そうと企てた。戦国時代の典型的な作戦であるという。
 ここに旗本大番組の五十人が抜擢され手鎌をもって稲刈りを始めると、案の定、城兵が数十人ほど出てきた。
「それ、今だ……」
大番組は手鎌を捨て、白刃(しらは)をかざして襲い掛かった。すると城兵は、きわどいところまで大番組を引き寄せてから、さっと城内へ逃げ込み、かわって弓、鉄砲が猛烈に発射されて、大番組から多数の死傷者が出た。
「何たることぞ!」
 秀忠の逆上は、頂点に達した。歯ぎしりする彼に、もはや正常な判断は失われ、ただ「おのれ、おのれ」と呻(うめ)くのみであった。
そんな秀忠をわずかに慰めたのが、真田安房守昌幸の嫡男伊豆守信幸に攻めさせた、上田城の支城戸石城が緒戦において落城したことだった。
「おお、伊豆守が、戸石城を……!」
秀忠は「伊豆守、でかした!」と賞揚(しょうしょう)した。だが、実は戸石城は幸村がいたが、攻め手が兄・伊豆守信幸と知って、いち早く城を捨てて上田城へ引き揚げて、兄に戦功を立てさせただけのことだった。戸石城は、古くより知られた要塞であり、上田城の築城以前は、真田の本拠地としていたところだ。
当然、凡人、徳川秀忠は大喜びだ。
本陣の染谷台は、千曲川断崖(ちくまがわ・だんがい)上の上田城よりも、さらに一段高みになっているから、秀忠は、
「イマニ見ておれよ!」と意気込み、総攻撃の作戦を練った。が、真田に関わる事自体が秀忠の一生の不覚であった。
突如、思いもよらぬ方向から、凄まじい勢いで本陣を襲った一隊がある。これは安房守昌幸が、かねて染谷台の北東、虚空蔵山(こくぞうさん)に潜ませていた伏兵であり、秀忠の本陣は大混乱に陥った。
武装も不揃いな奇妙な一隊は例の、首一つ百石を約束された農民町人たちだが、奇声を放って勇敢である。「おらは二百石じゃ!」「おらは三百!」
とわめいて暴れる始末の悪さだが、これには「甕割(かめわ)り典膳(てんぜん)」の異名をとる兵法者・神子上(みこがみ)典膳が立ち会向い、苦闘の末にようやく撃退した。
「さすがは典膳、ようやった」
秀忠がほっとしたのも一瞬で、それまで機をうかがっていた幸村率いる一隊が、真一文字に突入したため、本陣は総崩れとなり、秀忠も身一つになって逃げのびるという失態となった。ところが、かねて神川の流れを止めおいた上流の堰を、安房守の合図で切って落としたので、どっと濁流に、たちまち浅瀬の将兵は呑み込まれて溺死した。まさしく徳川秀忠軍の完敗であった。
「伊豆守……そなたの父親と舎弟は、何たる奴らだ!」
秀忠は悲鳴を上げ、初めて悪夢から醒めたように、上田城攻めを断念、ふたたび中山道に戻って先を急いだ。だが、すでに七日間を浪費しており、木曾妻籠(きそ・つまご)の宿まで至った時、関ヶ原での戦勝報告に接した。
すなわち、秀忠は徳川家が存亡を賭けた大戦に、遅参したのだ。
「ああ、なんたることぞ!」
秀忠の顔から血の気が失せた。彼には、真田父子の髙笑いが聞こえるようであった。事実、遅参した彼は、父家康から面謁を拒否されるほどの不興をかっている。
しかも秀忠にとって天敵ともいうべき真田父子――昌幸、幸村は、戦後処理をまぬがれ、紀州高野山山麓の九度山村(和歌山県九度山町)へ配流という軽い刑罰ですんでいるのだ。
「父上、わたしは承服できませぬ!真田父子の斬首を!」
秀忠は、最後の最後まで、強く真田父子の斬刑を求めたが、伊豆守信幸が、
「わが父を誅(ちゅう)されるより先に、この伊豆守に切腹を仰せつかれたい」
といって、必死に父と弟の助命を懇願したのに加えて、徳川家の重臣本多平八郎忠勝からも、娘婿伊豆守信幸のための嘆願があったからである。
これはさしもの家康も、ついに父子の助命に同意せざる得なかったのである。
「父上、わたしは、真田父子の助命など、とても承服しかねまする」
激しく反対する秀忠に、家康も、
「秀忠、腹も立とうが、本多の平八までがああ申していることだ、わが徳川家の安泰が確かとなるまでの我慢じゃと思うて、辛抱してくれい」
と慰めたのであるという。だが、秀忠の怒りは生涯にかけて残り、終生、彼は伊豆守には、笑顔を見せなかったといわれる。
参考文献(『バサラ武人伝 戦国~幕末史を塗りかえた異能の系譜』『真田幸村編』永岡慶之助著作Gakken(学研)142ページ~153ページ)



豊田真由子氏から学ぶ、謝罪会見大失敗の根本的な理由

2017年09月21日 16時12分12秒 | 日記





























豊田真由子氏から学ぶ、謝罪会見大失敗の根本的な理由



窪田順生




豊田真由子氏から学ぶ、謝罪会見大失敗の根本的な理由: 危機管理のプロからしっかりと対応策を伝授されて会見に臨んだであろう豊田真由子氏。マニュアル通りにできていたにも関わらず、なぜボロカスに叩かれ、さらに評判を落とす事態になってしまったのだろうか? 写真:日刊現代/アフロ© diamond 危機管理のプロからしっかりと対応策を伝授されて会見に臨んだであろう豊田真由子氏。マニュアル通りにできていたにも関わらず、なぜボロカスに叩かれ、さらに評判を落とす事態になってしまったのだろう…

謝罪会見を開いたはずが、ボロカスに叩かれてさらに評判を落とした豊田真由子氏。おじぎの角度から回答内容まで、危機管理のプロの指南に忠実にこなしたであろうことは間違いないが、なぜ結果が「惨敗」だったのだろうか?(ノンフィクションライター 窪田順生)

服装からおじぎまでプロのアドバイスに忠実だった

「ち~が~う~だ~ろ~」がチビッコたちのギャグにまでなり一躍全国区となった豊田真由子衆議院議員が催した「謝罪会見」がすこぶる評判が悪い。あそこまでボロカスに叩かれるのなら会見など開かない方がよかったのかもしれない。

 既に情報番組やらネットニュースやらでいろいろな専門家や有識者が問題点を指摘されているので、ここで改めて一つひとつ羅列するのはやめておくが、この10年あまり危機管理広報に携わってきた立場から言わせていただくと、あの会見は以下の一言に尽きる。

「テンプレ危機管理」の限界――。

「テンプレ」とはテンプレート。就職活動のエントリシートやお礼状、あるいはビジネス文書などで一度は使用したという方も多いだろう。要するに、マニュアル等で定められている「模範文」のことだ。

 世間も薄々、勘付いていると思うが、企業や政治家が不祥事を起こして、謝罪会見を開いたり、謝罪コメントを出すという時も、実はこの「テンプレ」がフル活用されている。弁護士など「危機管理コンサルタント」を名乗るプロのみなさんが、「こういう質問がきたら、こう返しておきましょう」という「模範回答文」を授けて、登壇者はそれを自分流にちょこっとカスタマイズするのだ。

 つまり、「テンプレ危機管理」とは模範的な立ち振る舞い、模範的な回答で世間に反省していると強く印象づけよう、という危機管理のスタイルである。いろいろ叩かれているが、豊田氏の会見はあらゆる面で、この「テンプレ」に準じていた。

 黒髪に黒いスーツ、8秒間も頭を深々と下げたおじぎ、司会者が「では、次の方が最後で」と案内しても「大丈夫です」と対応を続けるなど、謝罪会見の「作法」はしっかりと押さえていた。恐らく、「危機管理のプロ」の方々から綿密なトレーニングを受けてきたのだろう。

「テンプレ回答」一辺倒では不誠実さを感じさせる

「話法」もテンプレにのっとった模範的な対応である。たとえば、わかりやすいのが会見の冒頭で述べたコメントだ。

「刑事事件の関係につきましては、大変恐縮ながら現在捜査中の案件でありますので、警察、検察、またその他との関係から微々細々にわたっては決してそれは言及してはならないというふうになっております」

 これは今回のような暴行はもちろん、偽計業務妨害、業務上過失致死などあらゆる刑事事件で汎用できる。事実、豊田氏もこの後、記者たちから暴行の有無について厳しい追及が繰り返されるたび、この「テンプレ回答」を微調整してリピートしている。

 政治家にせよ企業にせよ、会見という情報発信の場であっても、どうしても言えないこと、言ってはいけないことがある。そのような苦しい立場をスムーズに伝えるための「テンプレ回答」は、ある程度は必要なのだ。

 ただ、この便利さにあぐらをかいて、あまりにもリピートしてしまうと、危機管理としては致命的な印象を世の中に与えてしまう。

 これは、お客様相談室などを想像してみるとわかりやすい。もしあなたが購入した商品に何か不具合があってクレームを入れたとしよう。担当者がマニュアルを読み上げているような、木で鼻を括ったような説明をスラスラと言ってきたらどう感じるだろうか。メールでの回答も然り。丁寧な言葉使いではあるが、こちらの疑問に答えていないような「テンプレ回答」が送られてきたらどうだろうか。

「嘘くさい」「不誠実」と感じるのではないか。豊田氏の会見も残念ながら、世の中にそのような印象を与えてしまっている。

謝罪会見は単なる「釈明の場」!?豊田氏サイドの決定的な思い違い

「作法」も「話法」も、謝罪会見の「テンプレ」に基づいて無難に乗り切ったはずなのに、「どうせ選挙に出るために体面を取り繕ってるんでしょ」と、かえってマイナスになってしまっているのだ。

 だったら、どうすればよかったか。

 いろいろな考え方があるので、「これが正解」というものは難しいが、もし筆者が豊田氏からアドバイスを求められたら、まずはご本人に「いい負け方」の道を納得していただくことから始める。

 ご本人や会見をサポートしていた方たちからお話を伺ったわけではないので、あくまで筆者の想像の域を脱しない話だが、会見での発言から、豊田氏サイド的には以下の3つのゴールを目指していたように思う。

1.「あの暴言は特別な状況で生まれたもの」とやんわりと世間に伝える2.「新潮の報道内容はすべてが事実ではありません」とやんわりと世間に伝える3.「なんやかんやありましたけど、次の選挙も出ます!」とやんわりと世間に伝える

「なんて都合のいいことを」と呆れる方も多いだろうが、不祥事の当事者となった方たちというのは、往々にしてこういう考え方をする。世間の見方としては「謝罪会見」というのは「潔く負けを認めるみそぎの場」なのだが、実際に「謝罪会見」に臨む側は、「報道被害に対する釈明の場」だと考える。そう、彼らは「加害者としての自分」よりも、嵐のような報道にさらされた「被害者としての自分」に意識が向きがちなのだ。

 この悲劇的な認識のすれ違いが、「謝罪会見でちっとも反省していなかった」という世間の反感を生み出すのである。

謝罪会見は「負けを認める場」「勝ち」を目指すと大炎上する

 そこで私なら、まずは「報道被害に対する釈明の場」だという考えを豊田氏に捨ててもらう。事実と違うところを泣き寝入りしろと言っているわけではない。まずはしっかりと「負け」を認めるというプロセスを踏まないことには、こちらの釈明も世の中には伝わらないということを申し上げているのだ。

 豊田氏は会見冒頭で、「テンプレ回答」的にシレッと「報道には事実と違うところもたくさんございまして」と言及した。記者とのやりとりでも、「やっていないことはやっていないということは、私は主張をさせていただかなければ、それは私の、刑事事件だとか名誉だとかいう以前の、人間の尊厳の問題だというふうにちょっと思っております」とお話しになった。

 だが、会見について報じた記事やニュースでは、こうした発言はほとんどスルーされている。むしろ、「暴言」や「暴行」についての釈然としない説明と相まって、「反省していない」というイメージに拍車をかけてしまっているのだ。つまり、「ちょっとだけでも勝ちたい」というスケベ心を出したことが裏目となって、さらにひどい負け方になってしまっているのだ。

 これは謝罪会見をおこなう企業、役所、政治家が必ず陥る「落とし穴」である。「危機管理のプロ」を名乗る人のなかにも勘違いをしている方が多いが、危機管理に「勝ち」はありえない。不祥事や事故というマイナスからスタートしているので、「いい負け方」か「悪い負け方」しかないのだ。捲土重来するために、どのような「負けっぷり」をしておくべきなのかを決断して、それをメディアに介して世の中に知らしめるのが、「謝罪会見」である。

 しかし、その真理を受け入れられない人たちが、どうにかして「勝ち」を目指して、苦しい言い逃れをしたり、事実を隠してしまう。

豊田氏が言うべきだった3つのこと

 では、豊田氏の「潔い負け」とは何かといえば、音声データに対する苦しい言い逃れをしないということに他ならない。それを踏まえて、筆者なら会見では以下の3つのメッセージを「テンプレ」ではなく、ご本人の言葉で語ってもらう。

1.自分は怒りをコントロールできないので、カウンセラーや家族の力を借りて向き合いたい。2.暴行は捜査中なのでなにも言えない。暴言は時間をかけて秘書に謝罪を受け入れてもらう。3.自分は未熟な人間だが、今回の失敗も生かして政治家を続けたい。後は有権者に判断してもらう。

 もちろん、こんな都合のいいメッセージがそう簡単に受け入れられるとは思っていない。しかし、「テンプレ回答」を繰り返しながらも、「あんな暴言は吐いたのははじめて」「顔が腫れるような暴行をしていない」などという自己保身感たっぷりの言い訳も紛れ込ませるというスタイルの謝罪よりも、「潔さ」は伝わるはずだ。

「怒り」がコントロールできないため激昂してしまった、なんてことを素直に認めたら政治家生命が終わるじゃないか!とかいう取り巻きもいるだろうが、「覚えていない」という発言は、世間からは「嘘をついている」と思われる。こんな不誠実な回答を繰り返す方が、政治家的にはアウトだ。

 パワハラの「加害者」だと自ら認めるのは短期的にはマイナスだが、もし本当に社会のために身を捧げたいのなら、長期的にはプラスになる。パワハラの「加害者」となって社会からこれだけ糾弾されるという経験をした人間はいない。つまり、「パワハラ問題」に日本一詳しい政治家とも言える。

 この経験を生かして、被害者への償いをしながら、「パワハラ」というものがなぜ生まれるのか、なぜ社会的にはエリートだという自分が「加害者」になってしまったのかということを考察して、今後は政治家としてパワハラ問題をライフワークにしたっていい。

「危機管理のプロ」を名乗る人々からすると、こんなヤケクソみたいな対応は「邪道」以外の何物でもない。模範的な立ち振る舞いと、模範的な回答でダメージを最低限にしましょう、というのが危機管理のセオリーだからだ。

ベッキーに始まり豊田氏がダメ押しテンプレ回答はもう限界だ

 ただ、そのような時代はもう終わりを迎えている気がする。謝罪会見ももちろん、クレーム対応の現場などでも、これまでのような「テンプレ回答」が通用しなくなってきているからだ。

 たとえば、少し前にTBSの「ひるおび」が、森友・加計学園問題の報じ方があまりにも偏向しているということで、一部ネットユーザーの方たちが「スポンサー電凸(電話で抗議すること)」をするという出来事が起きた。TBSに文句を言っても「中立公正にやっています」と木で鼻を括ったような対応しか返ってこないから、番組にCMを出稿している企業に文句を言おうというわけだ。

 しかし、模範的な「テンプレ回答」をした某企業が「テンプレ丸出し」と見抜かれて、「炎上」してしまった。その反面、数年前なら「邪道」とされるような、踏み込んだ回答をした企業が、「誠実に対応をしている」と評価されるという現象も起きている。

 いたるところで「テンプレ」が溢れかえれば当然、建前的な対応に嫌悪感を抱く人が増えていく。そんな世相を決定的にしたのが、「ベッキー騒動」である。

 ご存じのように、「文春砲」でゲス不倫をスッパ抜かれたベッキーさんは、白ブラウスにロングスカートといういでたちでしおらしく頭を下げて、「友達です」と会見で語った。会見なのに「質問禁止」というスタイルは大きな批判を浴びたが、「作法」だけ見れば、さすが器用なタレントさんだけあって、見事な「テンプレ謝罪会見」だった。

 しかし、その後にLINEのやり取りが流出して、あの「友達で押し通す」という本音が日本中にさらされてしまった。

 2000年、雪印集団食中毒事件で石川哲郎社長(当時)が、記者会見の延長を求める記者たちに、「私は寝てないんだ!」と発言して炎上してから、日本の危機管理というのは、いかに「本音」を隠して、儀礼的に謝罪と反省をおこなうかという「様式美」を追求してきた。

 だから、頭を下げる角度とか、下げる時間とかが重要視される。そのような「様式美」が、実はすべてしょうもない欺瞞だということを、ベッキーさんはこれ以上ないほどわかりやすく世間に知らしめたのである。

 このように「テンプレ危機管理」がガラガラと崩れているなかで、今回の豊田氏の会見はそのトドメを刺したように筆者には見えてしまう。

 そろそろ「謝罪会見」という日本特有の文化そのものを、見直す時期にきているのではないだろうか。

北朝鮮がグアムを執拗に目の敵にする理由

2017年09月21日 12時53分10秒 | 日記































北朝鮮がグアムを執拗に目の敵にする理由



北村 淳



グアム島の米アンダーセン空軍基地で基地の概要について説明を受けるジョン・リチャードソン海軍作戦部長(2017年5月17日、出所:米海軍)© Japan Business Press Co., Ltd. 提供 グアム島の米アンダーセン空軍基地で基地の概要について説明を受けるジョン・リチャードソン海軍作戦部長(2017年5月17日、出所:米海軍)

 北朝鮮が、8月29日に引き続き9月15日にも、日本列島上空を通過させてグアム島攻撃用弾道ミサイルのデモンストレーション試射を実施した。

 グアムはアメリカの準州であるが、多くのアメリカ人にとってはどこにあるのかも知らない存在だ。そのため、北朝鮮が弾道ミサイルを日本の頭上越しに太平洋上に撃ち込んで、グアムを攻撃できる能力をアピールしても、一部の軍関係者を除いてはほとんど危機感は生じていない。

 アメリカと違い日本でグアム島は観光地として有名であるが、「なぜ北朝鮮がグアムを目の敵にしているのか?」はあまり語られていないようである。


グアム島は米軍の歴史的拠点


 グアムにはこれまで100年以上にわたって、アメリカ軍の拠点が設置されてきた。1898年、米西戦争に勝利したアメリカは、スペイン領であったグアムを手に入れて海軍の拠点を設置した。それ以降、今日に至るまで、軍種や規模の変遷はあるものの、グアムにはアメリカ軍が駐留し続けている(ただし、日本軍が侵攻してアメリカ軍を駆逐した昭和16年12月10日から、日本占領軍がアメリカ軍に撃破された昭和19年7月21日までの期間を除く)。

 現在もグアム島総面積の3分の1を米軍関連施設が占めている。島の北部一帯には米空軍アンダーセン基地が、島の西側のアプラ湾周辺には米海軍グアム基地が設置されている。

 それらの基地を中心にグアムに駐留しているアメリカ軍将兵はおよそ7000名であり、現在のところ空軍と海軍が中心となっている。加えて、近い将来には最大で7000名の海兵隊員が沖縄から移動してくることになっている。


沖縄の米軍よりも忌み嫌うべき存在


 北朝鮮にとってアンダーセン基地は、沖縄に駐屯している米空軍や海兵隊、それに、三沢基地や岩国基地を本拠地にしている空軍や海兵隊の戦闘機部隊などよりも忌み嫌うべき存在である。

 なぜなら、アンダーセン基地は爆撃機の拠点となっており、もしアメリカが北朝鮮を先制攻撃する場合にはそれらの爆撃機が主戦力になると考えられているからだ。

 アンダーセン空軍基地にはB-1B爆撃機、B-52H爆撃機が配備されている。また、アメリカ空軍の虎の子であるB-2ステルス爆撃機も前進拠点として使用できる設備が整っている。

 さらに、爆撃機に加えて、爆撃機を護衛する戦闘機も恒常的に米本土から飛来しており、アンダーセン空軍基地は常に即応態勢を維持しているのだ。


米軍による先制攻撃の主力は爆撃機


 アメリカが北朝鮮を先制攻撃する場合、北朝鮮の核施設、各種ミサイル施設、地上移動式ミサイル発射装置(TEL)が格納されている施設、それに韓国との境界線の北側地域一帯に展開している各種砲兵部隊などを、極めて短時間で殲滅しなければならない(少なくとも1000カ所程度と言われる攻撃目標を短時間のうちに徹底的に破壊しないと、韓国や日本に対する報復攻撃が実施され、日米韓側は言語に絶する犠牲を払うことになる)。

 それらの施設の大半は、地下施設、半地下施設、それに山腹の洞窟施設などの形態をとっている。したがって先制攻撃を実施する際は、それらの地下式設備の位置が特定できていることが前提条件となる。

 ここでは、米韓の軍事情報網がかなりの割合で特定に成功し、アメリカ政府が先制攻撃を決断したとして、どのような攻撃を加えることになるのかシミュレーションしてみよう(現実には、このような特定ができていないため、先制攻撃には踏み切れていない)。

・B-2ステルス爆撃機による攻撃

 先制攻撃の先陣を切るのは、重要な地下攻撃目標(おそらく核開発施設やアメリカへの報復用ICBMがスタンバイしている施設など)への地中貫通爆弾による攻撃である。大型地中貫通爆弾(GBU-57 “MOP”)ならびに地中貫通爆弾(GBU-28“バンカーバスター”)による攻撃が加えられることになる。

 このMOPやバンカーバスターを搭載して、攻撃目標近くの上空まで接近して攻撃を加えるのが、B-2ステルス爆撃機である(下の写真)。B-2ステルス爆撃機にはMOPならば2発、バンカーバスターならば8発を搭載することが可能だ。



B-2ステルス爆撃機(写真:米空軍)© Japan Business Press Co., Ltd. 提供 B-2ステルス爆撃機(写真:米空軍)

 アメリカ空軍は「世界で最も高価(1機およそ2000億円)な航空機」と言われるB-2ステルス爆撃機を20機保有している(21機製造されたが1機は事故で墜落してしまった)。テスト飛行用の1機を除く19機のB-2ステルス爆撃機は、全てミズーリ州のホワイトマン空軍基地を本拠地としている。これまでにアメリカ軍が実施した作戦行動の多くにおいて、B-2ステルス爆撃機はホワイトマン空軍基地を発進し、長時間飛行して攻撃目標を爆撃している。ただし、30時間以上のような長時間を要する作戦行動の場合は前進拠点からの運用も実施されており、グアムのアンダーセン空軍基地にもB-2ステルス爆撃機用の設備が完備されている。

 北朝鮮に対する先制攻撃では、アンダーセン空軍基地から出撃するB-2ステルス爆撃機によるMOPとバンカーバスターによる地下設備攻撃が、口火を切るものと考えられる。

・B-1B爆撃機による攻撃

 B-2ステルス爆撃機に引き続き、アンダーセン空軍基地を発進したB-1B爆撃機による攻撃が行われる。B-1B爆撃機は、空母や、日本それに韓国などの航空施設から飛び立った戦闘機の護衛を伴い、地上や半地下目標への猛爆撃を実施する。

 B-1B爆撃機はソ連とのデタントによって核爆弾は搭載できない仕様になっているが、有名なB-52H爆撃機よりも大型で、爆弾搭載量も多い(高性能爆薬500ポンド爆弾ならば84発搭載可能)。スピードもB-52Hより速く(マッハ1.2)、かつ機動性能に優れている。そのため低空を敵の防空レーダーを超音速でかいくぐって攻撃目標に接近することができる。



B-1B爆撃機(写真:ボーイング社)© Japan Business Press Co., Ltd. 提供 B-1B爆撃機(写真:ボーイング社)

・洋上からミサイル攻撃

 以上のB-2ステルス爆撃機およびB-1B爆撃機による奇襲的爆撃とタイミングを合わせて着弾するように、米海軍巡航ミサイル原潜や攻撃原潜、それにイージス巡洋艦やイージス駆逐艦などが大量のトマホーク長距離巡航ミサイルを発射する。そのためには、爆撃開始時刻の1時間〜30分前にはトマホークミサイルを発射することになる。

・B-52H爆撃機と韓国軍F-15戦闘機による攻撃

 引き続いてアンダーセン空軍基地から飛来したB-52H爆撃機が多種多様の爆弾を投下し、場合によってはアメリカ軍の指揮下に入った韓国軍のF-15戦闘機がバンカーバスターを含んだ爆弾を投下する。

・韓国軍も総力で攻撃

 これらの爆撃に加えて、韓国軍による砲撃や、巡航ミサイル攻撃、そして短距離弾道ミサイル攻撃(韓国軍は北朝鮮全域を攻撃することができる巡航ミサイルと短距離弾道ミサイルを多数保有している)など、ありとあらゆる火力を総動員して、北朝鮮軍の報復能力を壊滅することになる。

(残念ながら現状では、上記シナリオが成功し、30分程度と言われる“短時間”で北朝鮮軍の反撃報復戦力を完膚なきまでに破壊することは不可能と試算されており、ソウル周辺を中心とする韓国や日本に対して報復攻撃が加えられるのは必至と考えられている。そのため、トランプ政権は“口撃”は加えているものの、軍事オプションに踏み切ることには躊躇をせざるを得ない状態が続いている。)


当面は日本を怯えさせるだけで十分


 このように、北朝鮮にとっては、アンダーセン空軍基地を拠点にする米空軍爆撃機による攻撃こそが、核搭載弾道ミサイル攻撃と匹敵する、あるいはそれ以上の脅威と映っている。そのため、北朝鮮はグアム島攻撃能力の誇示にいそしんでいるというわけである。

 ただし、北朝鮮がグアムに向けて実際に弾道ミサイルを発射する段階には立ち至っていない。なぜならば、オバマ政権下で軍事予算を大幅に削減されてしまったアメリカ軍の現状では、B-2ステルス爆撃機やB-1B爆撃機を多数出動させたり、超高額なMOPやバンカーバスターをふんだんに攻撃に投入するまでにはかなりの準備期間が必要であることを、北朝鮮側は十分承知しているからだ。

 したがって、太平洋上に弾道ミサイルを撃ち込むミサイル技術の向上試射を時折実施して、日本にはるか頭上の宇宙空間を弾道ミサイルが通過する度に大騒ぎをさせて、怯えさせていれば事足りるのである。

ねね あの猿関白禿げネズミ天下人豊臣秀吉の妻・寧々・高台院の全生涯5

2017年09月17日 08時09分11秒 | 日記






























 薄田隼人が朝鮮に渡航したのはフィクションである。だが、後藤又兵衛(基次)は本当に行っている。その朝鮮(現在の韓国)で「奴隷国になるとはどういうことか?」を改めて知った。
「薄田さん、先だっての長崎酒場での豊臣ものと徳川ものの争いを「鶏鳥小屋や鶏」というのは勉強になりましたよ。確かに日本が朝鮮みたいになるのは御免だ。いまは鶏みたいに「内輪もめ」している場合じゃない」
「わかってくれちゅうがか?」
「ええ」後藤は涼しい顔で言ったという。「これからは後藤は倒幕でいきますよ」
 隼人も同意した。この頃豊前の黒田如水・長政らが京で「この世の春」を謳歌していたころだ。場所は京都の遊郭の部屋である。
薄田隼人は坊主みたいに頭を反っていて、「豊臣のお偉方の意見など馬鹿らしい。必ず石田三成殿が正しかったとわからせんといかん」
「ほうじゃき、薄田さんは義兵隊だかつくったのですろう?」
「そうじゃ、義兵隊でこの日の本を新しい国にする。それがあの世の三成殿への恩返しだ」
「それはええですろうのう!」
 後藤はにやりとした。「それ薄田さん!唄え踊れ!わしらは狂人じゃ!」
「それもいいですろうのう!」
 後藤基次は酒をぐいっと飲んだ。黒田ものにとって酒は水みたいなものだ。

  薄田は近畿の後藤基次の元にいき事情をかくかくしかしかだ、と説明した。
 後藤は呆れた。「なにーい?!伊逹政宗を斬るのをやめて、弟子になった?」
「そうじゃきい、後藤さんすまんちや。約束をやぶったがは謝る。しかし、伊逹政宗さまは日本のために絶対に殺しちゃならん人物じゃとわかったがじゃ!」
「おんしは……このまえ徳川幕府を倒せというたろうが?」
「すまんちぃや。伊逹政宗さまは誤解されちょるんじゃ。開国を唱えちょるがは、日本が西洋列強に負けない海軍を作るための外貨を稼ぐためであるし。それにの、伊逹さまは幕臣でありながら、徳川幕府の延命策など考えちょらんぞ。日本を救うためには、幕府を倒すも辞さんとかんがえちょるがじゃ!」
「政宗は大ボラ吹きで、二枚舌も三枚舌も使う男だ!君はまんまとだまされたんだ!目を覚ませ!」
「いや、それは違うぞ、後藤さん。まあ、ちくりと聞いちょくれ!」
 同席の山有五平や伊藤俊平らが鯉口を斬り、「聞く必要などない!こいつは我々の敵になった!俺らが斬ってやる!」と息巻いた。
「待ちい、早まるなち…」
 後藤は「薄田さん、刃向うか?」
「ああ…俺は今、斬られて死ぬわけにはいかんきにのう」
 後藤は考えてから「わかってた薄田さん、こちらの負けだ。刀は抜くな!」
「ありがとう後藤さん、わしの倒幕は嘘じゃないきに、信じとうせ」薄田は場を去った。
夜更けて、薄田は師匠である伊逹政宗の供で江戸の屋形船に乗った。
 南蛮船や政治や経済の話を訊き、大変な勉強になった。
 隼人は身分の差等気にするような「ちいさな男」ではない。政宗公も隼人も屋形船の中では対等であったという。
 そこには土佐藩藩主・山内一豊公の姿もあった。が、殿さまがいちいち豊臣方の侍の顔など知る訳がない。
 隼人が豊臣党と秀頼らのことをきくと「あんな連中虫けらみたいなもの。邪魔になれば捻りつぶすだけだ」という。
 一豊は伊逹政宗に「こちらの御仁は?」ときくので、まさか豊臣方の侍だ、等というわけにもいかず、
「ええ~と、こいつは日本人の薄田隼人です」といった。
「日本人?ほう」
 薄田隼人は一礼した。……虫けらか……淀君さまも秀頼さまも報われんのう……何だか空しくなった。
薄田隼人がのちの妻のりょう(龍)に出会ったのは京であった。
 りょうの妹が借金の形にとられて、慣れない刀で刃傷沙汰を起こそうというのを隼人がとめた。
「やめちょけ!」
「誰やねんな、あんたさん?!あんたさんに関係あらしません!」
 興奮して激しい怒りでりょうは言い放った。
「……借金は……幾らぜ?」
「あんたにゃ…関係あらんていうてますやろ!」
 宿の女将が「りょうちゃん、あかんで!」と刀を構えるりょうにいった。
「おまん、りょういうがか?袖振り合うのも多少の縁……いうちゅう。わしがその借金払ったる。幾らぜ?」
 りょうは激高して「うちは乞食やあらしまへん!金はうちが……何とか工面するよって…黙りや!」
「何とも工面できんからそういうことになっちゅうろうが?幾らぜ?三両か?五両かへ?」
「……うちは…うちは……乞食やあらへん!」りょうは涙目である。悔しいのと激高で、もうへとへとであった。
「そうじゃのう。おまんは乞食にはみえんろう。そんじゃきい、こうしよう。金は貸すことにしよう。それでこの宿で、女将のお登勢さんに雇ってもらうがじゃ、金は後からゆるりと返しゃええきに」
 りょうは絶句した。「のう、りょう殿」隼人は暴れ馬を静かにするが如く、りょうの激高と難局を鎮めた。
「そいでいいかいのう?お登勢さん」
「へい、うちはまあ、ええですけど。りょうちゃんそれでええんか?」
 りょうは答えなかった。
 ただ、涙をはらはら流すのみ、である。
 


  関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・白河口の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。
 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。
 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。
この時、淀君や秀頼が馬鹿でなくて“豊臣家の戦である”とちゃんと認識していれば違ったろう。幼いが秀頼を軍の旗頭として西軍で戦っていればもしかしたら小早川秀秋の裏切りや西軍敗北もなかったかも知れない。だが、豊臣家は“対岸の火事”を決め込む。
直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。
 直江らは「何故にございますか?いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか?御屋形さま!」
 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ」
 直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ!刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。
 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。

   石田三成はよく前田利家とはなしていたという。前田利家といえば、主君・豊臣秀吉公の友人であり加賀百万石の大大名の大名である。三成はよく織田信長の側人・森蘭丸らにいじめられていたが、それをやめさせるのが前田利家の役割であった。三成は虚弱体質で、頭はいいが女のごとく腕力も体力もない。いじめのかっこうのターゲットであった。
 前田利家は「若い頃は苦労したほうがいいぞ、佐吉(三成)」という。
 木下藤吉郎秀吉も前田又左衛門利家も織田信長の家臣である。前田利家は若きとき挫折していた。信長には多くの茶坊主がいた。そのうちの茶坊主は本当に嫌な連中で、他人を嘲笑したり、バカと罵声を浴びせたり、悪口を信長の耳元で囁く。信長は本気になどせず放っておく。しかるとにき事件があった。前田利家は茶坊主に罵声を浴びせかけられ唾を吐きかけられた。怒った利家は刀を抜いて斬った。殺した。しかも織田信長の目の前でである。
 信長は怒ったが、柴田勝家らの懇願で「切腹」はまぬがれた。だが、蟄居を命じられた。そこで前田利家は織田の戦に勝手に参戦していく。さすがの信長も数年後に利家を許したという。「苦労は買ってでもせい」そういうことがある前田利家は石田佐吉(三成)によく諭したらしい。いわずもがな、三成は思った。


「北条氏政め、この小田原で皆殺しにでもなるつもりか?日本中の軍勢を前にして呑気に籠城・評定とはのう」
 秀吉は笑った。黒の陣羽織の黒田官兵衛は口元に髭をたくわえた男で、ある。顎髭もある。禿頭の為に頭巾をかぶっている。
「御屋形さま、北条への使者にはこの官兵衛をおつかい下され!」
秀吉は「そうか、官兵衛」という。「軍師・官兵衛の意見をきこう」
「人は殺してしまえばそれまで。生かしてこそ役に立つのでございます」続けた。「戦わずして勝つのが兵法の最上策!わたくしめにおまかせを!」
 そういって、一年もの軟禁生活の際に患った病気で不自由な左脚を引きずりながら羽柴秀吉が集めた日本国中の軍勢に包囲された北条の城門に、日差しを受け、砂塵の舞う中、官兵衛が騎馬一騎で刀も持たず近づいた。
「我は羽柴秀吉公の軍師、黒田官兵衛である!「国滅びて還らず」「死人はまたと生くべからず」北条の方々、命を粗末になされるな!開門せよ!」
 小田原「北条攻め」で、大河ドラマでは岡田准一氏演ずる黒田官兵衛が、そういって登場した。堂々たる英雄的登場である。この無血開城交渉で、兵士2万~3万の死者を出さずにすんだのである。

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黒田家臣期[編集]
当時の記録に基次の具体的な足跡が現れるようになるのは、天正14年(1586年)、九州征伐の宇留津城攻めの頃からである。戸次川の戦いにおいて仙石秀久が島津家久に大敗し、領国の讃岐国に逃げ帰った後には、黒田孝高の重臣である栗山利安の与力となり、黒田家に100石で仕えている。領地替えを巡って徹底抗戦を行った城井氏との戦いでは、吉田長利と共に途中で黒田長政に退却を勧めるが聞き入れられずに敗北を喫し、天正15年(1587年)12月の長岩城攻めの際には瀕死の重傷を負った。文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵にも従軍し、第二次晋州城攻防戦では亀甲車なる装甲車を作って城壁を突き崩し、加藤清正配下の森本一久らと一番乗りを競った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成家臣の剛槍使い、大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功を挙げ、戦後は黒田家重臣の一人として筑前六端城の一つ、大隈城(益富城)の城主となり、16,000石の所領を与えられたとされるが、実際は10,000石から14,000石が妥当ではないかとする指摘もある。
人物・その他[編集]
文禄の役における、平壌城攻略戦での嘉山城攻めで一番槍、迎撃戦での白川城において黒田一成とともに殊勲者となっている。
戦況判断に優れていた事を示す幾つかの逸話を残している。斥候中に、上流から日本の馬の沓(くつ)が流れてくるのを見つけて既に味方が渡河を開始していると判断。山かげで敵に遭遇した先鋒部隊の鬨(とき)の声が近付いてくるのを聞いて、圧されていると判断。遥か向こうの敵陣の馬煙を見て、近付いてくるなら黒く見えるはずだが、白く薄くなっているので、敵の敗北と判断。いずれも外すことは無かったと言う。
第二次晋州城攻防戦で、加藤清正の家臣と一番乗りを争い、森本一久が転落した後、飯田直景に下帯を引っ張られながらも、基次は寄騎の堀正勝とともに崩した城壁をよじ登ったが、直景に旗を放り込まれ、先に一番乗りの名乗りと一番首を挙げられたと記録されている。
母里友信、黒田一成と、一日交替で先陣を任された。
講談や軍記物語では、名槍「天下に二ツの槍(日本号)」は、虎退治で母里友信の窮地を救った基次が譲り受け、これを出奔時に友信の弟の野村祐勝の息子、野村祐直に渡されたとされる。
合渡川の戦いにおいて、西岸で石田方が待ち構える長良川を、強行渡河するか、それとも後続を待つ迎撃策かの軍議が乙津寺(鏡島弘法)で行われ、藤堂高虎から具申を求められる。「既に福島軍が竹ヶ鼻城を落とし、池田軍が織田軍を打ち破り、我らは岐阜城攻めに遅れ、まだ何の戦果も上げずにいる以上、論点ではない。」と答えて方針を決定させた。その後、黒田隊の一番渡河を果たしている。
黒田家から出奔した後、黒田長政から刺客を差し向けられていた。刺客が送られたことを忠告に来た者に対して、「噂に怖気づいているようでは、武士の名折れである」と動じずに語ったとされる。
外出中に2名の刺客の存在に気付いたが、刺客は基次を恐れて手が出せず筑前に逃げ帰った。しかし、長政はそれを止むを得ないものとして、その刺客を逆に100石を加増した。
子の左衛門が大坂で長政の刺客に誘拐された時、秀頼により救出され、毛利家に仕えたという。これに感謝して大坂方に付いたと言われる。左衛門は大坂の陣後、自刃を言い渡されている。
大坂の陣で基次に近侍した長沢九郎兵衛が、大坂の陣の様子を書いた『長沢聞書』を遺している。「傷を風呂で数えると、53箇所あった。」「指揮の声が通りやすいように、外していた面頬を持たされていた。」「真田丸の戦いは偶発戦ではなく、城兵と内通していた松平忠直を偽矢文で誘い出したもので、基次も采配を振るって雷のような攻撃を行った。」などの要旨の記載がある。
身長は六尺(180cm)を超えていた。大坂の陣の頃の体格は、肥満で巨漢だったと言う。
冬の陣の開戦前、伏見城を奪取し、瀬田・宇治川を防衛ラインとする作戦を具申し、真田幸村らに賛同を得たが、多くの反対派に退けられ大坂城での籠城戦と決まった。
今福の戦いでは、上杉景勝の家臣直江兼続の鉄砲隊に狙撃され、当たった数発の中の1発に脇腹を負傷させられたが、傷口を指で確認した後、「秀頼公のご武運は強い」と言い放った。一部の味方には、「一人で豊臣家を背負っているつもりか」とあざけられた。
野田・福島の戦いの後、豊臣方は船場に火を放って撤退した。この時、基次は煙に紛れて敵が夜襲してくる事を予測し、「若い者は手柄を立てよ」と伏兵を促したが徳川方は現れず、読み違いをあざけられた。しかし、夜襲は池田忠雄らに計画されていたが、基次を良く知る花房職秀の引き止めにより中止されていたという。
塙直之・米田是季・御宿政友らの本町橋の夜襲戦の際には、直之の上司である大野治房から求められ教授している。
大野治長と並ぶ主将格でありながら、戦闘放棄を繰り返す織田長益・頼長父子に対して、最も反感を持っていたとされる。
道明寺の戦いの前、小侍と嫡子の従軍を禁じた。長沢九郎兵衛は、すぐ退却できるように下馬して戦わない事を条件に認められた。
道明寺の戦いの数日前、平野郷での滞陣中に家康の参謀本多正信の親族で、基次と長宗我部盛親の旧知であった京都相国寺の僧・揚西堂が、家康からの使者として訪れる。播磨で50万石という法外な条件での帰順を持ちかけられたが、感激するもこれを拒絶する。これにより、徳川方への内通との噂も立っている。
配下の神西不楽は、仙石秀久に仕える前からの盟友であり、夏の陣に先立って流れ矢を受け、戦死した。
夏の陣で激突し、自ら槍を持って小松山に突入してきた水野勝成とは、仙石秀久の四国攻めと、黒田長政の豊前の国人一揆との戦いに、共に従っている。後者の野仲重兼との長岩城の戦いでは、殿(しんがり)の功名を競い合い、共に高名な存在であった。
伊達家では片倉重長鉄砲隊が討ち取ったとしている。『武功雑記』では、松平忠明配下の山田十郎兵衛が討ち取ったとしている。『難波戦記』では、腰を撃たれ歩行不能となったため部下の吉村武右衛門に命じて介錯された後、『長沢聞書』では奪い返した後、その首を深田に隠されたとしている。
『伊予古跡誌』では、基次の首は後日、吉村武右衛門に持ち帰られ、基次の伯父が住職を務めていた伊予国の長泉寺に埋葬されたとしている。この寺には2015年、後藤又兵衛の石像が建立された。
2015年、生誕の地とされる姫路市山田町の福田寺に『後藤又兵衛顕彰碑』が地元の有志によって建立された。(なお、大坂府柏原市にも顕彰碑が建立されている。)また、「後藤又兵衛顕彰会」が結成され、後藤神社と福田寺の双方に、奈良県宇陀市にある伝説の又兵衛桜と同種の、エドヒガン桜も植樹された。顕彰会では又兵衛の銅像建立を目指している。


傾奇者「かぶき者」「傾奇者」と書く。「傾(かぶ)く」とは異風の姿形を好み、異様な振る舞いや突飛な行動を愛することをさす。
 現代のものに例えれば権力者にとってめざわりな『ツッパリ』ともいえるが、真の傾奇者とは己の掟のためにまさに命を賭した。そして世は戦国時代。ここに天下一の傾奇者がいた。
 その男の名は前田慶次(まえだ・けいじ、正しくは慶次郎)である。戦国時代末期、天正十年(一五八二年)早春………
 上州(群馬県)厩橋城(うまやばしじょう)に近い谷地で北条家との決戦をひかえ滝川一益の軍勢より軍馬補充のため野生馬狩りが行われていた。
「野生馬を谷に追い込んだぞ!」「一頭も残すな!ことごとく捕えよ!!」
 するとまさに大きく悠々しい黒い野生馬がこちらをみた。
 野生馬を長年見てきた農夫や百姓男たちがぶるぶる震えて「お……逃げ下さいまし」ひいい~っ!と逃げ出した。
「? 何を馬鹿馬鹿しい」奉行は不快な顔をした。
「御奉行あれを!」
 その黒い野生馬が突進してくる。「矢だ!は……早う矢を放て!」
 ぎゃーあああっ!たちまち三、四、五人が黒い野生馬に踏み殺された。うがあ!奉行は失禁しながら逃げた。
 滝川勢の拠点・厩橋城で報告を受けた滝川一益(たきがわ・かずます、関東征伐を企てる織田信長の関東派遣軍の軍団長)は「恐るべき巨馬で土地の者の話ではなんと悪魔の馬と申すそうだ。その馬を殺せ、益氏!」と城内で言う。
「ごほんん」「さもないとこの土地では馬は手に入らん」「これはお断りいたそう」滝川益氏(ますうじ、一益の従弟。常に滝川軍の先鋒を務める荒武者である)は髭を指でこすりながら断った。
「悪魔の馬などを殺す役目…誰が引き受けましょうか。いくさ人は古来、験(げん)をかつぐもので、その馬を討てば神罰が下りましょう。命がいくつあっても足りません」
「軍馬が足りぬでは戦にならぬぞ」
 益氏の次男で前田利家の兄・利久に養子にやられたのが前田慶次である。傾奇者で派手な服装にザンバラ髪で身の丈六尺五寸(一九七センチ)をこえる大柄の武士で父益氏の軍団にあってその傾奇者ぶりと棲まじいいくさ人ぶりで知られていた。
 眉目淡麗な色男であり、怪力で、器の広いまさに男の中の男である。
「そうだ、慶次にやらせよう」
 慶次ははははと笑い、「できませぬな。犬や猫なら殺せますがそんないい馬なら誰が殺せますか?殺すより飼いならして愛馬としたい」
「何だとこの野郎!今まで何人もの兵がその悪魔の馬に殺されとるのじゃぞ?!」
「悪魔?」慶次は嘲笑した。「悪魔と言えば織田信長じゃ。第六天魔王じゃとか?」
「これ!信長さまを呼び捨てにするな、そちの首がとぶぞ!」
 慶次は聞く耳もたない。
 しかも暴れ馬を格闘することもなく本当に愛馬にして、「松風」と名前をつけて合戦に参加するのだからやはり前田慶次は凄い男だ。
 滝川軍は北条軍と合戦しようという腹だ。
 巨大な馬に乗り、巨大な傘をさす男が北条方の城門に寄る慶次である。
 北条方が鉄砲を撃ちかけると傘で防いだ。「な!あれは鉄傘か?!あの男、あんな軽々と…」
 北条勢は戦慄した。悪魔だ。敵に悪魔が鬼が味方しておる。
 北条勢ががくがく震え、もはや戦意消失しかけているところに、北条氏邦の侍大将・古屋七郎兵衛という荒武者が馬で開いた城門から現れた。
「わしは古屋と申す!貴殿、名は?!」
「前田慶次!つまらん戦で命を捨てるな!」
 たちまちに慶次は古屋の片腕を斬りさった。
 だが、あっぱれなる古屋である。「北条魂、みせん!」古屋は自分の刀で自分の首を斬りすてた。
 おおお~つ!これで北条の戦意は復活した。
 慶次は「北条武士も見事也!いずれ戦場であいまみれようぞ!」といい去った。
 まさに「傾奇者」である。


戦国時代末期、天正十年(一五八一年)天下の覇者・織田信長「本能寺の変」にて業火の中に自刃。天正十一年(一五八三年)織田信長の後継者と目された柴田勝家が「賤ヶ獄の戦い」において羽柴筑前守秀吉に敗北、北庄にて自ら腹わたをつまみだし凄絶なる自刃(後妻の信長の妹・お市の方も自刃)。秀吉は天下をほぼ手中にする。
 されどいまだに戦国の世は天下平定のための幾千幾万もの英雄豪傑の血を欲していた。そして、北陸加賀の前田家に天下の傾奇者と名をとどろかせた伝説のいくさ人・前田慶次がいた。
 戦国時代こそいくさ人にとって花の時代であった。
 天正十二年(一五八四年)大坂城。羽柴秀吉は天下にその権勢を誇示するがごとく黄金に輝く巨城大坂城を築いた。北陸の雄・前田利家は臣下の礼をとり築城の祝いに訪れていた。
 秀吉は猿みたいな顔で豪華な着物を羽織り、黄金の茶室にて前田利家に茶を差し出した。
「で…又左(またざ・利家)殿。その傾奇者てにゃいかなるもんだぎゃ?!」
「はっ!」利家は困惑した。「ええ………その、なんと申しますか、異風の姿形を好み異様な振る舞いや突飛な行動を愛する者と申しますか」
 前田利家、かつて槍の又左と呼ばれ豪遊の武将であったが今は秀吉の軍門にくだり、加賀百万石の大大名、又左(又左衛門)は幼名である。「例え御前でも自分の遺志を押し通す命知らずの大馬鹿者といいますか」
 秀吉は朝廷より関白の名代と賜り、もはや家康を除けば天下人NO.1であった。
「そうか、そんな骨のある傾奇者とやらにわしも会ってみたいのう」
 秀吉はにやりとした。まさにサル顔である。「そういやあ、お前さんの甥の慶次とやらは天下に名をとどろかせる傾奇者だとか。一度連れて来い」
「は…はあされど…」
 利家は絶句した。
 あの傾奇者・慶次が関白殿下の前で失礼の振る舞いを見せれば前田家の加賀百万石の家禄も危うい。
 そして歴史に詳しいひとならご存知の通り、慶次は秀吉の前で猿踊りをしてみせるのである。
 太っ腹な秀吉は笑って手を叩いて「われの前でおそれもなく「猿踊り」をするとは慶次、あっぱれなやつである!」と評価して「天下の傾奇者」と評して、慶次が、天下で傾いても罪にならぬという関白勅令を出した。
 慶次もすごいが、秀吉もさすがは天下の器である。
前田利家の正室はおまつ(もしくはまつ)である。美貌で知られたが慶長四年九月、利家の死後その子利長に家康暗殺のもくろみがあるとして家康が加賀に大軍を派遣しようとした時、まつは自ら人質第一号として江戸に下ることにより、前田家を救ったほどの肝の座った女丈夫である。
 まつは十二歳で利家の妻になった。清純な少女のとき、慶次はまつが石垣の花束を摘んでいるのに見とれていた。
 ………麗しき女子じゃ。十一歳も離れた叔父に嫁ぐのか。もったいない。
 まつが石垣の高嶺の花を摘もうとして石垣から落下した。
 慶次と助右兵衛門はまつを救った。
 まつは釈迦如来のような神々しい微笑を浮かべ「かたじけぬ。まあ、ひどい顔、はいご褒美」花をまつは差し出した。「これからもわれをまもってたも」
 慶次はそのときまつに惚れたのだ。

  話を変える。
秀吉方の前田利家に敵対する武将・佐々成政の軍は、慶次たちのわずかな手勢である末森城に籠城している軍勢を攻めていた。
 慶次は『大ふへん者』なるマントを着飾り、石垣を登り攻めようとする佐々軍勢にしょうべんを食らわせた。
 普通の武将でも戦場になればいちもつは縮こまり、しょうべんどころか大便さえでないほどになるのが普通である。
 だが、慶次のいちもつはおおきく、しょうべんもじゃあじゃあ出る。
 さすがは「傾奇者」である。
 籠城戦の末に前田利家たちの援軍がきて、佐々成政は白旗をあげて秀吉の軍門に下った。
 面白いのは慶次の行動である。
 恩賞を媚びるでもなく、加賀の城(尾山城・金沢城)で例の巨馬にのり、天守閣の利家に向けてケツをむき出し、オナラをして「屁でも食らいやがれ!」という。
 かつて秀吉が賤ヶ獄で籠城する柴田勝家に尻をむけたが、慶次もそれをやった。
「慶次! おのれ信長さまの甲冑を持ち出したことを詫びぬどころか…尻を向けやがったな!」
 利家は激怒するが、慶次は平気の平左である。
 そのまま加賀金沢城下も出て脱藩、京に行き京で「天下の傾奇者・前田慶次」と畏怖されるまでになるのである。


 慶次が「この男は凄い」という男がいた。
 それは秀吉政権の五大老のうちの会津百二十万石もの大大名の上杉景勝と、執政・直江兼続である。
 上杉謙信の名声からだけではなかった。上杉の人間が骨の髄まで義、仁義で出来ている、と理解したからだ。
 上杉の義、忠義は質素倹約だけではなく、家臣も領民も心優しく、温かい。
 慶次は『上杉家』に『上杉の義』『上杉謙信』『上杉景勝』『直江兼続』に、漢(おとこ)として惚れたのである。
 だからこその、上杉家への仕官であったのだ。


*****続く(刊行本または電子書籍に続く)***続く***

それでもアメリカが北朝鮮を攻撃しない5つの理由

2017年09月10日 19時10分53秒 | 日記

































それでもアメリカが北朝鮮を攻撃しない5つの理由



部谷 直亮





 ついに北朝鮮が核実験を行い、大陸間弾道ミサイルの発射実験という情報も流れている。一部では開戦前夜のような雰囲気すらある。

 筆者は4月より一貫して「米国の北朝鮮攻撃はない」と主張してきたが、やはり年内の攻撃は「現時点」ではまずないと見る。それは各種の動きを見れば明らかだ。


1)超党派で北朝鮮の「核武装容認論」が高まっている



金正恩 ©共同通信社© 文春オンライン 金正恩 ©共同通信社
 そもそも米国では北朝鮮の核武装容認論が、民主党、共和党主流派・保守派という米国政治の主役たちの内部で高まっている。

 例えば、共和党主流派であり、ブッシュ・オバマ両政権の国防長官を務め、トランプ大統領とも関係の深いロバート・ゲーツ氏はウォールストリートジャーナル(7月10日)のインタビューに対し、「北朝鮮の核武装と体制を容認すべきだ」と驚くべき発言を行っている。

 その趣旨は、「北朝鮮への先制攻撃は論外であり、新たな選択肢を取るべきだ。キューバ危機の解決に倣い、米国は北朝鮮の体制を容認し、体制転換を放棄し、平和条約に調印し、在韓米軍を削減する。その代わりに、北朝鮮は核・ミサイル開発計画を凍結させ、核戦力は短距離弾道ミサイルや12~24発程度の核弾頭の保有に限定させる」というものであるという。そして、この提案を北朝鮮が拒否した場合は、日米韓はミサイル防衛網で包囲し、北朝鮮が大陸間弾道ミサイルを発射すれば迎撃すると宣言すべきだとした。

 彼の発言で注目すべきは、ついに共和党の重鎮からも北朝鮮の核武装を容認すべきという見解が出たことである。しかも、それは北朝鮮が大陸間弾道ミサイルの保持さえしなければよいというもので、日本と韓国が核の威嚇下に置かれることは容認するものなのだ。しかも、この提案が拒否されても武力行使を否定していることはよくよく留意すべきだ。

 また、オバマ政権の国家安全保障担当大統領補佐官を務め、リベラルホーク(積極的人道的介入論者)として知られるスーザン・ライス氏も、8月10日のニューヨークタイムズにて、「先制攻撃は米国民を含む数十万人の死者と世界経済への大打撃を生み出す大惨事につながりかねない。金正恩は悪質だが合理的であり、抑止力を理解している。これは同盟国への核使用や核兵器の流出が北朝鮮の崩壊を招くということを理解しているということだ」と北朝鮮の核武装容認論を訴えた。

 そして、トランプ政権の中核的支持層とされる共和党保守派でも攻撃論は盛り上がっておらず、最大限の対応として海上封鎖論が上がっている程度だ。トランプ政権の政権移行チームや閣僚・スタッフに多くの人員を送り込み、今年の予算教書の下書きを書いたヘリテージ財団が運営するメディア「デイリー・シグナル」は、ホワイトハウス特派員による興味深い記事を載せた。

 それによれば、ネオコンで知られるボルトン元国務次官の側近である、大量破壊兵器問題の専門家フレッド・フリッツ氏は、「先制攻撃以外にも軍事的選択肢がある。北朝鮮のミサイル実験に対してミサイル防衛システムで撃墜する。第二は、海上封鎖である」と語ったという。

 実は、この海上封鎖案こそ、トランプ政権が「最後の手段」として検討している可能性が高いのである。というのも、本年4月22日の産経新聞も、米政府から日本政府にこれに合わせた要望があったと推測可能な記事を掲載しているからである。

 このように、民主党、共和党主流派・保守派を見渡しても、北朝鮮への攻撃どころか、日本を見捨てた米朝和平を唱えるばかりで、もしくはせいぜいが海上封鎖どまりなのである。


2)空母の展開が攻撃時のものではない


 空母の動きからも北朝鮮への攻撃がないことは明白だ。かつてビル・クリントン大統領が「危機が起きた時に、ワシントンで誰もが最初に口にするのは、『最も近い空母は今どこにいる?』だ」と述べたことがある。空母打撃群こそが米国の武力行使の先駆けであり、その動きに注目すべきである。

 ここで理解しておかねばならないのは、限定攻撃であっても、米軍は最低でも3隻の空母を用意している点だ。実際、リビア空爆(1986年)は空母3隻、湾岸戦争は空母6隻、ユーゴ空爆は空母1隻+同盟国軽空母2隻、アフガン攻撃は空母4隻程度、イラク戦争は空母6隻で攻撃を実行している。また、ブッシュ政権末期にイラン攻撃がささやかれた際は空母3隻がペルシャ湾に集結したが、攻撃には至っていない。

 しかも、北朝鮮の防空網はイラクやリビア以上であり、相当強力だと米国の専門家からも評価を受けている。彼らの航空戦力はなきに等しいが、イラン製の新型フェイズドアレイレーダーを装備している他、ロシア製S-300のコピーとされるKN-06対空ミサイルを複数装備している。また、低空攻撃であれば、携帯式対空ミサイルや対空砲が数千門を超える数を展開している。これを叩くには最低3~4隻の空母は必要とみるべきだろう。実際、古い事例だが1969年にニクソン大統領が北朝鮮への懲罰的攻撃を検討した際は、空母4隻が投入される予定だった。


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 さて、ここで最新の9月4日の状況を見てみよう。現状で西太平洋に展開する空母機動部隊は、ロナルド・レーガンただ1隻。これではいかにも戦力不足だ。しかも、現在、展開中の空母の内、ジョージ・ブッシュはジブラルタルから地中海へと移動中。ニミッツは中東に展開中。セオドア・ルーズベルトは訓練を終了し、今後西太平洋に展開するとされるが、いまだ北米西海岸に遊弋中である。

 その他はどうか。カール・ビンソンは長期休養から復帰し、訓練を先月開始したばかりでまだまだ。エイブラハム・リンカーンも4年間もの長期整備を5月に終え、いまだに訓練中であり、まだ実戦には投入できない。ハリー・トルーマンは整備明けの訓練中で少なくとも10月まではかかる見通しである。ジョージ・ワシントン、ドワイト・アイゼンハワーは長期整備中でとても使えない。ジョン・C・ステニスは8月に改修工事を終了したが、半年は訓練が必要という状況である。

 となると、ニミッツもしくはブッシュは中東の抑えとして必要なので、直近で投入できるのはレーガン1隻だけである。1か月以内に投入できるのはブッシュもしくはニミッツ、ルーズベルトだが、これらの動きは現状ではない(ニミッツが東インド洋へと動いている兆候はあるが)。直近での北朝鮮への攻撃はまずないと考えるべきだ。


3)軍事の常識「3倍の法則」に注目


 また、北朝鮮攻撃時には、戦後の治安維持や大量破壊兵器の確保に備えて、陸軍の動員が欠かせない。だが、トランプ政権はシリアに派兵中であり、アフガニスタンには4000人もの増派を決定した。軍事には「3倍の法則」がある。つまり、派兵した戦力以外に2倍の兵力が実任務・休息・訓練のローテーションをこなす為に必要だということであり、4000人の増派は実質的に12000人の地上戦力が拘束されたことを意味する。既にアフガンやシリア・イラクに展開する戦力を含めれば、必要戦力はさらに膨らむだろう。

 そして、アフガン増派を主導し、トランプ政権の外交安保政策を取り仕切るマクマスター国家安全保障大統領補佐官は、シリアへの万単位の派兵を模索しているともいわれる。米国ではイスラム国(IS)が衰退した今こそ、シリアへの大規模派兵を行って主導権を握るべしとの論調が強い。そうなればますます北朝鮮どころではない。


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4)ハリケーンの被害でそれどころではない!


 そもそも、北朝鮮と日本と米軍しかこの地上にないと考えるから問題を見誤るのだ。米大統領は、全世界及び米国内を見た上で判断を下している。まずは米国内だが、猛烈なハリケーンがトランプ大統領と共和党の強力な地盤である南部を襲い、熱烈な支持者たる市民とスポンサーたる石油ガス産業に打撃を与えた。過去にもブッシュ政権がイラクにうつつを抜かしている間に、ハリケーンが直撃して甚大な被害をこうむった結果、イラク戦争でもめげなかった熱心な支持者が離反したことを思えば、トランプが切羽詰まった状況に置かれていることは容易に想像がつくだろう。

 世界レベルで見ても、米ロ対立は高まりつつあり、北朝鮮と違って石油を産出し、米国に近いベネズエラはいつ政権が崩壊してもおかしくない。トランプ政権の中枢は中東専門家ばかりで、中東情勢は相変わらず死屍累々である。こうした状況を鑑みれば北朝鮮どころではない。


5)そもそも金正恩政権こそがよくわかっている


 そもそも、金正恩政権が今になって、核実験に踏み切ったことにこそ、米国の北朝鮮攻撃がまずないことを明瞭に示唆している。彼らはアメリカ側の内情をよくわかっている。同時に、これは米国の北朝鮮への抑止力がかなり低下していることを示唆しており、日韓は注意していく必要がある。

 以上を踏まえて、我々が懸念すべきは、米国による北朝鮮への先制攻撃ではなく、日本を蚊帳の外に置いた米朝和解である。為すべきは、生まれたての小鹿のようにおびえるのではなく、短期的には米国の海上封鎖に――平和安全法制も含めた現行法では何もできない――どのように対応できるようにするのか、そして長期的には安全保障環境を踏まえて、どのように効率的に予算を含めた資源を投入していくのか議論すべきである。一昨年は尖閣諸島、去年は南シナ海、今年は北朝鮮のミサイルと、思い付きのように対応するべきではない。

 今こそ、噂話やトランプ大統領の一部の発言をつまみ食いすることもなく、また希望的観測にすがることもない、確たる根拠に基づいた情勢分析の議論が必要だ。

Проблема Северной Кореи

2017年09月08日 16時38分14秒 | 日記





















Проблема Северной Кореи <Почему Ким Ронг-нок придерживается ядерных ракет МБР? > Корейский полуостров в перемирии




Почему Северная Корея будет придерживаться ядерных ракет МБР, пока они не будут голодать от людей и голодать?


На самом деле это неизвестно, но Южная Корея и Северная Корея все еще находятся в «состоянии перемирия».


38-я линия, проведенная между Северной Кореей и Южной Кореей ... Это не граница, а линия в соглашении о перемирии в перемирии в корейской войне 1950-х годов. Да, Корейский полуостров еще не закончил войну.


И почему Северная Корея придерживается ядерных ракет? Это объясняется тем, что диктатор Северной Кореи «Желтый Гитлер» Ким Чен Ир знает, что «если вы будете сражаться против американской армии, вы проиграете».


Например, Ирак Саддама Хусейна, Ливия полковника Каддафи ... Это диктатура и были убиты американским военным правительством США, потому что у них нет ядерных ракет, а Саддам и полковник Каддафи были убиты. Ким Чен-эн боится, что «даже я это сделаю» (Убийство и государственное свержение) ».


Однако Северная Корея не хочет «желать войны», но хочет установить «мирный договор» с Соединенными Штатами. Я хочу, чтобы вы гарантировали поддержание режима Ким Чен Ира · Династия Ким Дэ, а не государство перемирия ... Инструментом для переговоров является ядерная ракета МБР.


Нет страны, которая отбрасывает ядерное оружие. Другими словами, Северная Корея намерена угрожать Соединенным Штатам ракету ядерного МБР, поддерживать династию Ким, поддерживать структуру северокорейского диктатора Ким Ронга и создать «мирный договор».


Положите Соединенные Штаты на стол переговоров ... ... Это спекуляция Северной Кореи Ким Раэ-Нам.


Однако, если Северная Корея принесет ядерные ракеты МБР, она «теряет» в международной политике. Это и есть диктатор «Желтый Гитлер» Ким Чен Ир.


Прежде всего, это полная экономическая санкция. Мы остановим как нефть, так и электроэнергию из Китая и России.


Если вы сокрушаете амбиции Ким Чен Юна, «Ким Чен Ир имеет ядерную ракету МБР» только перед этим.


Если у Северной Кореи есть ядерные ракеты МБР, остается мнение Ким Чен Ира. Китай и Россия также будут выступать против экономических санкций. Потому что я не хочу вмешиваться. Однако сохранение «желтых нацистов», таких как Северная Корея, «Желтый Гитлер», как Ким Чен Ир, является концом международной политики. Международная ситуация будет кризисом, если она не будет надежно удалена.


Сейчас есть только один случай, когда Северная Корея обладает ядерными ракетами МБР. Прежде всего, это чемпион Ким Чен Ира.


Другого пути нет, кроме как уничтожить такую ​​ненормальную нацию. Прекратите амбиции Ким Чен-эн. Это справедливость, то есть стратегия, которая справляется.


«Желтый Гитлер» Если мир не сокрушит амбиции Ким Хон.


Только это реальность, о которой должен знать мир.


конец



Уэсуги (Нагао) Кагетара 7 сентября 2017 года

북한 문제 <왜 김정은은 핵 ICBM 미사일에 집착 하냐고? >

2017年09月07日 18時23分20秒 | 日記




























북한 문제 <왜 김정은은 핵 ICBM 미사일에 집착 하냐고? > 휴전 상태의 한반도




왜 북한은 국민을 굶겨 기아 상태로까지 핵 ICBM 미사일에 집착 하냐고?


이것은 사실별로 알려져 있지 않지만 한국과 북한이 여전히 '휴전 상태'하다는 것이다.


북한과 남한 사이에 갈린 38 선 ...... 저것은 국경선이 아니라 1950 년대 한국 전쟁의 휴전 휴전 협정의 선이다. 이렇게 한반도는 아직 전쟁이 끝났다 것은 아니다라는 것.


그리고 왜 북한이 핵 미사일에 집착 하냐고? 이는 북한의 독재자 "노란 히틀러"김정은이 "미군과 싸우면진다"고 알고 있기 때문이다.


예를 들어 사담 후세인 이라크와 카다휘 대령 리비아 ...... 이들은 독재 국가에 핵 미사일을 가지고 있지 않기 때문에 미군 미국 정부에 으깨 사담도 카다휘 대령도 죽었다. 김정은은 "자신도 그렇게되는 것은? (암살이나 국가 전복)"고 우려하고있다.


그러나 북한은 "전쟁이하고 싶다」것이 아니라, 미국 사이에 '평화 조약'을 맺고 싶은 것이다. 휴전 상태가 아니라 김정은 체제 · 금 왕조의 유지를 보증 해 주었으면 ...... 따라서 협상 도구가 핵 ICBM 미사일이다.


일단 핵무기를 가지면 그것을 던져 국가는 없다. 즉, 북한은 핵 ICBM 미사일로 공갈하고 미국을 위협하고, 금 왕조의 유지, 북한의 독재자 김정은 체제의 유지와 '평화 조약'을 확약하고 싶다는 것 같은 것이다.


미국을 협상 테이블에 띄지하는 ...... 그것이 북한의 김정은의 의도이다.


그러나 북한이 핵 ICBM 미사일을 가지고 버리면 국제 정치에서는 '패배'이다. 그야말로 독재자 "노란 히틀러"김정은의 마음대로이다.


우선, 완전한 경제 제재이다. 석유 전기도 중국도 러시아도 정지한다.


김정은의 야망을 때려 부술 경우 "김정은이 핵 ICBM 미사일을 가진"이전에 지나지 않는다.


북한이 핵 ICBM 미사일을 보유 해 버리면 김정은의 생각한다 만 남아있다. 중국과 러시아도 경제 제재에 반대하는 것이다. 휘말리고 싶지 이니까. 그러나 북한과 같은 "노란 나치"김정은과 같은 "노란 히틀러"를 살려 두어서는 국제 정치의 결말이다. 확실히 지워야 국제 정세는 위기 인 셈이다.


북한이 핵 ICBM 미사일을 보유하기 전에 지금 밖에 기회가 없다. 우선 김정은의 목을 잡으면 장군이다.


이런 비정상적인 국가는 늦기 전에 때려 부술 수 밖에 없다. 김정은의 야망을 멈추려. 그것이 정의이고, 그것이야말로 전략이며, 그것이 해결하는 것이다.


"노란 히틀러"김정은의 야망을 때려 부수 지 않으면 세상이 끝난다.


그 것만은 세계가 알아야 현실이다.


끝났



우에스기 (나가오) 카게 토라 2017 년 9 월 7 일

朝鲜问题为什么金荣诺坚持核ICBM导弹? >停战中的朝鲜半岛

2017年09月07日 18時21分04秒 | 日記

























朝鲜问题为什么金荣诺坚持核ICBM导弹? >停战中的朝鲜半岛




为什么朝鲜坚持使用核ICBM导弹,直到他们饿死人民,饿死人民?


其实这还不为人知,但韩国和北韩仍处于“停战状态”。


朝鲜与韩国之间的第38条线......这不是一个边界,而是1950年代韩国战争中停战协定中的一条线。 是的,朝鲜半岛尚未结束战争。


为什么朝鲜坚持核导弹呢? 这是因为北韩的独裁者“黄色希特勒”金正日才知道“如果你打击美军,你会输”。


例如,伊拉克的萨达姆侯赛因,利比亚的卡扎菲上校......这些都是独裁统治,由于没有核导弹而被美国军方杀死,萨达姆和卡扎菲上尉死亡。 金正恩害怕“即使我自己会这样做(暗杀和推翻)”。


但是,北韩不想“想做战争”,而是想和美国建立一个“和平条约”。 我要你保证金正日政权的维持·金朝而不是停战国...这个谈判工具就是核ICBM导弹。


没有一个国家抛弃一次核武器。 换句话说,朝鲜打算用核ICBM导弹威胁美国,维持金朝,维护朝鲜独裁者金荣海的结构,并建立“和平条约”。


把美国放在谈判桌上......那就是北韩金仁南的猜测。


但是,如果朝鲜带来核ICBM导弹,那么在国际政治上就是“输”了。 那就是独裁者“黄希特勒”金正日认为的。


首先,这是一个完整的经济制裁。 我们将停止中国和俄罗斯的石油和电力。


如果你压制金正恩的野心,“金正恩有一枚核ICBM导弹”就在此之前。


如果朝鲜拥有核ICBM导弹,金正日的头脑依然存在。 中国和俄罗斯也将反对经济制裁。 因为我不想参与 不过,像北韩这样的“纳粹纳粹”,就像金正日一样的“黄色希特勒”是国际政治的结束。 除非可靠地擦除国际形势,否则将是危机。


朝鲜拥有核ICBM导弹之前,只有一次机会。 首先是金正日的冠军。


没有别的办法来摧毁这样一个异常的国家。 停止金正恩的野心。 那就是正义,那就是应对的策略。


“黄希特勒”如果世界并没有粉碎金汉的野心。


这一点就是世界应该知道的现实。


结束



上杉(Nagao)Kagetara 2017年9月7日

North Korea problem <Why does Kim Rong-nok stick to nuclearICBM? >

2017年09月07日 18時18分30秒 | 日記






























North Korea problem <Why does Kim Rong-nok stick to nuclear ICBM missiles? > Korean Peninsula in Armistice




Why will North Korea stick to the nuclear ICBM missiles until they starve the people and hunger the people?


In fact this is not well known, but South Korea and North Korea are still in "armistice state".


38th line drawn between North Korea and South Korea ...... That is not a borderline but a line in the armistice agreement in the armistice in the 1950s Korean war. Yes, that the Korean peninsula has not yet ended war.


And why does North Korea stick to nuclear missiles? This is because North Korea's dictator "Yellow Hitler" Kim Jong Il knows that "if you fight against the American army you will lose."


For example, Iraq of Saddam Hussein, Libya of Colonel Gaddafi ...... These are dictatorships and have been killed by the US military US government because they do not have a nuclear missile, and Saddam and Colonel Gaddafi were killed. Kim Jong-en is afraid that "even myself will do so? (Assassination and state overthrow)."


However, North Korea does not want to "wish to do war", but wants to establish a "peace treaty" with the United States. I want you to guarantee the maintenance of the Kim Jong Il regime · Kim Dynasty rather than the armistice state ... ... The negotiation tool for that is the nuclear ICBM missile.


There is no nation that throws away nuclear weapons once. In other words, North Korea intends to threaten the United States with a nuclear ICBM missile, to maintain the Kim Dynasty, to maintain the structure of the North Korean dictator Kim Ronghae, and to establish a "peace treaty".


Put the United States on the negotiating table ... ... That is the speculation of North Korea's Kim Rae-Nam.


However, if North Korea brings nuclear ICBM missiles, it is "losing" in international politics. That is the dictator "Yellow Hitler" Kim Jong Il thinks of it.


First of all, it is a complete economic sanction. We will stop both oil and electricity from China and Russia.


If you crush Kim Jong - en 's ambitions, it is only before Kim Jong - ene has a nuclear ICBM missile.


If North Korea possesses nuclear ICBM missiles, Kim Jong Il's mind remains. China and Russia will also oppose economic sanctions. Because I do not want to get involved. However, keeping the "yellow Nazis" like North Korea, "Yellow Hitler" like Kim Jong Il is the end of international politics. The international situation will be crisis unless it is erased reliably.


There is only one chance now before North Korea possesses nuclear ICBM missiles. First off is Kim Jong Il 's champion.


There is no other way than to destroy such an abnormal nation. Stop the ambition of Kim Jong-en. That is justice, that is strategy, that is coping.


"Yellow Hitler" If the world does not crush the ambition of Kim Hon.


That alone is the reality the world should know.


end



Uesugi (Nagao) Kagetara September 7, 2017

北朝鮮問題<何故金正恩は核ICBMミサイルにこだわるのか?>休戦の朝鮮半島

2017年09月07日 17時53分02秒 | 日記




























    北朝鮮問題<何故金正恩は核ICBMミサイルにこだわるのか?>休戦状態の朝鮮半島



 どうして北朝鮮は国民を飢えさせて飢餓状態にしてまで核ICBMミサイルにこだわるのか?

これは実はあんまり知られていないが韓国と北朝鮮がまだ「休戦状態」である、ということである。

北朝鮮と韓国の間にひかれた38度線……あれは国境線ではなく、1950年代の朝鮮戦争での休戦での休戦協定での線である。そう、朝鮮半島はまだ戦争がおわった訳ではないということ。

そして何故北朝鮮が核ミサイルにこだわるのか?これは北朝鮮の独裁者の”黄色いヒトラー”金正恩が、「アメリカ軍と戦えば負ける」とわかっているからだ。

例えばサダム・フセインのイラクや、カダフィー大佐のリビア……これらは独裁国家で核ミサイルを持っていないためにアメリカ軍アメリカ政府につぶされ、サダムもカダフィー大佐も殺された。金正恩は「自分もそうなるのでは?(暗殺や国家転覆)」と恐れている。

ただし、北朝鮮は「戦争がしたい」のではなく、アメリカとの間に「平和条約」を結びたいのだ。休戦状態ではなく金正恩体制・金王朝の維持を保証して欲しい……そのための交渉道具が核ICBMミサイルなのである。

いったん核兵器をもてばそれを捨てる国家はない。つまり、北朝鮮は核ICBMミサイルで恫喝してアメリカを脅して、金王朝の維持、北朝鮮の独裁者の金正恩の体制の維持と「平和条約」を確約したい、ということなのである。

アメリカを交渉のテーブルにつかせる……それが北朝鮮の金正恩の思惑である。

だが、北朝鮮が核ICBMミサイルをもってしまえば国際政治では「負け」である。それこそ独裁者”黄色いヒトラー”金正恩の思うがままである。

まずは、完全なる経済制裁である。石油も電気も中国からもロシアからもストップする。

金正恩の野望を叩きつぶすなら”金正恩が核ICBMミサイルをもつ”前でしかない。

北朝鮮が核ICBMミサイルを保有してしまえば金正恩のおもうがままである。中国やロシアも経済制裁には反対するだろう。巻き込まれるのは嫌だから。だが、北朝鮮のような”黄色いナチス”、金正恩のような”黄色いヒトラー”を生かしておいては国際政治のおわりである。確実に消さなければ国際情勢は危機的なことになる。

北朝鮮が核ICBMミサイルを保有する前の今しかチャンスはない。まずは金正恩の首をとれば王手である。

こういう異常な国家は今のうちに叩きつぶすしかない。金正恩の野望を止めよ。それが正義であり、それこそが戦略であり、それが対処というものだ。

”黄色いヒトラー”金正恩の野望を叩きつぶさなければ世界がおわる。

そのことだけは世界が知るべき現実である。

                   おわり


上杉(長尾)景虎  2017年9月7日

戦争について。ウーマンラッシュアワーの村本某の意見の幼稚さについて。

2017年09月05日 04時41分35秒 | 日記





















     戦争について。ウーマンラッシュアワーの村本某の意見の幼稚さについて。




 先日のテレビ朝日系列番組『朝まで生テレビ』において、お笑い芸人ウーマンラッシュアワーの村本某という輩が、

「戦争は嫌い」「戦争は悪」「戦争に確実にいかないし、国も守らない。俺を守らなくてイイから戦争に俺をさそうな」
「確実に戦争にいかない世代の老人に「国を守るのが国民の役割」といわれても説得力がない訳ですよ」

と、軽口を叩いた。ある種、今のゆとり教育の若者の本音というか弱音というか………

きいていて「日本の若者はここまで劣化したのか……」と情けなくなった。

確かに誰だって戦争なんて嫌いだ。この世界に「戦争が好きだ」という馬鹿げた輩は金正恩くらいだろう。

「戦争は悪だ」というのはその通りだ。戦争は確かに悪だ。だが、その悪によってもっと強大な悪を叩き潰す事ができる。考えてみてくれ。もし、連合軍がナチスドイツのヒトラーの野望を叩きつぶさなかったら?
帝国日本軍の侵略の野望を叩きつぶさなかったら?世界はどうなっていたのか?

綺麗事なら誰だっていえる。それこそ小学生だっていえるだろう。

だが、現実世界はリアリズム(現実主義)でしか動かない。綺麗事などいくら並べたところで「ガキの戯言」なんだよ。

わたしはよく「戦争?戦争しなけりゃいいじゃん。」という輩にいうのだが、

「じゃあ、ミサイルを撃ち込まれたら?愛するひとたちを守らないの?」

とやんわりときくことにしている。すると今まで綺麗事ばかりいってきた輩はとたんに思考停止し、黙り込む。

ウーマンラッシュアワーの村本某という輩にいいたいのは、

「じゃあ、君の両親、お母さんやお父さんや好きな恋人やなにより自分自身が悪い輩に殺されそうになっても指をくわえて見ているのか?愛する人を守らないのか?」

という、至極簡単な質問である。

もし、ウーマンラッシュアワーの村本某という輩が「守らない」「殺されるのを黙ってみている」

というなら「馬鹿野郎」なだけだ。

綺麗事なんか幾ら並べ立てても現実は何も動かない。マスコミの中にはウーマンラッシュアワーの村本某という輩を賞賛する声が一部であるが、それこそ「馬鹿野郎」でしかない。

「現実を見ろ」ということ。北朝鮮の核ミサイル、弾道ミサイルが綺麗事で防げるか?尖閣問題は?韓国との慰安婦問題は?ロシアとの北方領土問題は???

綺麗事なんかで現実は1ミリも動かない。綺麗事をいっていいのは小学生までだ。

もっと現実を見ろ、村本!もっと現実を見ろ「ゆとり世代」「若者」!!

これはもう戦争云々の話というより現実云々という話である。

現実が見えないなら軽口を叩かず、もっと勉強しろよ。現実を直視して世界をみてみろ!

世界なんかわかったって役に立たない……そう思うならゲームやLINEやツイッターだのテレビだのだけして遊んでろ。
そんな連中なんかに現実などわからない。

リアリズム(現実主義)こそが唯一の解決策……それもわからないからゲスだ、というのだ。



緑川鷲羽改め上杉(長尾)景虎 2017/09/05 5:14

ねね あの猿関白禿げネズミ天下人豊臣秀吉の妻・寧々・高台院の全生涯4

2017年09月03日 07時25分39秒 | 日記
































高台院
曖昧さ回避 「寧々」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「寧々 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
曖昧さ回避 この項目では、豊臣秀吉の正室について説明しています。その他の用法については「高台院 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

『絹本着色高台院像』(高台寺所蔵)
高台院(こうだいいん、生年は諸説あり - 寛永元年9月6日(1624年10月17日))は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。

概要[編集]
一般には北政所(きたのまんどころ)という通称で知られる。「北政所」と呼ばれた人物は歴史上数多く存在したが、彼女以降はこの通称は彼女と不可分のものとして知られるようになった。
戦国時代まで、主婦権を持つ正妻が武家の家政をとり行い、高台院も羽柴家の家政をとりしきっていた。
諱には諸説ある。一般的には「ねね」とされるが、夫・秀吉や高台院の署名などに「寧々」「祢(ね)」「寧(ねい)」という表記があるため、「寧々」と呼ばれることも多い(諱についての論議参照)。また甥にあたる木下利房の備中国足守藩の文書『木下家譜』やその他の文書では、「寧」「寧子」「子為(ねい)」などと記されている事から「ねい」説もある。
天正16年(1588年)、従一位を授かった際の位記には豊臣吉子の名があるが、これは夫・秀吉の名を受けたもの(諱を参照)。 法名は高台院湖月心公。
生涯[編集]
幼少時[編集]
尾張国に杉原定利・朝日殿の次女として生まれる。兄弟は木下家定、長生院、杉原くま。のちに叔母・ふくの嫁ぎ先・尾張国海東郡津島(現在の津島市)の浅野長勝の養女となる。
秀吉との結婚[編集]
永禄4年(1561年)8月、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に実母・朝日の反対を押し切って嫁ぐ(通説では14歳)。結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであった。ふたりの間には子供が無かったので、加藤清正や福島正則などの秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育していった。
永禄11年(1568年)頃から数年間は、美濃国岐阜に在住。この間、信長に従って上洛していた秀吉は京で妾を取り、石松丸秀勝をなしている。
天正2年(1574年)、近江国長浜12万石の主となった秀吉に呼び寄せられ、秀吉の生母・なかと共に転居した。この後は遠征で長浜を空けることの多い夫に代わり、城主代行のような立場にあった。天正10年(1582年)の本能寺の変の際には長浜城にいたようで、明智方の阿閉氏が攻めてきたので、大吉寺に避難をしている。

薄田兼相
凡例 薄田兼相
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『魁題百撰相:薄田隼人』落合芳幾作
時代 戦国時代、安土桃山時代
生誕 生年不詳
死没 慶長20年5月6日(1615年6月2日)
別名 隼人正、古継、通称:薄田隼人
伝承:岩見重太郎
墓所 増福寺(大坂市天王寺区)、羽曳野市誉田にも墓碑
主君 豊臣秀吉、秀頼
子 あり
薄田 兼相(すすきだ かねすけ、?(この小説では元亀元年1570年1月6日・享年四十五歳) - 慶長20年5月6日(1615年6月2日))は、戦国時代の武将である。初名は古継。通称は隼人正。豊臣秀頼に仕えた。 仇討ちや狒々退治の伝説で知られる武芸者岩見重太郎と同一視される。
生涯[編集]
前半生はほとんど不明。山城国または筑後国出身とされる。妹に堀田一継室がいる(『寛政重修諸家譜』)。
豊臣氏に仕官し、秀吉の馬廻り衆として3000石を領したとされる(後に5000石に加増)。慶長16年(1611年)の禁裏御普請衆として名が残っている。
慶長19年(1614年)、大坂の陣に参戦。大坂冬の陣においては浪人衆を率いて博労ヶ淵砦を守備したが、博労淵の戦いでは遊郭に通っている最中に砦を徳川方に陥落されるという失態を犯し、味方から「橙武者(橙は酸味が強く正月飾りにしか使えないことから、見かけ倒しを意味する。)」との嘲りを受けた。しかし、それは誤解であり遊郭にいったのは亡き家臣の嫁が遊郭で死にそうときいて見舞い、その後一切いい訳をしなかったためだ。
遊郭に女遊びや性行為のために砦を放棄し、徳川方に好きで砦陥落を許した訳ではない。
大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいては、霧の発生により先陣の後藤基次の到着から8時間以上も到着が遅れ、直前に基次を討死させてしまう。そこで陣頭指揮を取り、乱戦の中で自ら何人もの敵兵を倒したが、討死を遂げたといわれている。討ち取ったのは水野勝成の家臣河村重長、本多忠政勢、伊達政宗家臣の片倉重長勢などそれぞれの家臣の説があり、はっきりしない。
墓は大坂府羽曳野市誉田7丁目に子孫にあたる浅野家の一族によって建立され、1996年以来、羽曳野市の指定有形文化財となっている。剛勇の武将として知られ、兼相流柔術や無手流剣術においては流祖とされている。
伝承[編集]
薄田兼相の前身が岩見重太郎であるという説は有名である。それによるならば、小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男として誕生したが、父は同僚の広瀬軍蔵によって殺害されたため、その敵討ちのために各地を旅したとされる。その道中で化け物退治をはじめとする数々の武勇談を打ち立て、天正18年(1590年)天橋立にてついに広瀬を討ち果たした。その後、叔父の薄田七左衛門の養子となったとされる。
大坂市西淀川区野里に鎮座する住吉神社には薄田兼相に関する伝承が残されている。この土地は毎年のように風水害に見舞われ、流行する悪疫に村民は長年苦しめられてきた。悩んだ村民は古老に対策を求め、占いによる「毎年、定められた日に娘を辛櫃に入れ、神社に放置しなさい」という言葉に従い、6年間そのように続けてきた。7年目に同様の準備をしている時に薄田兼相が通りがかり、「神は人を救うもので犠牲にするものではない」と言い、自らが辛櫃の中に入った。翌朝、村人が状況を確認しに向かうと辛櫃から血痕が点々と隣村まで続いており、そこには人間の女性を攫うとされる大きな狒々が死んでいたという。

後藤基次
凡例 後藤基次 / 後藤又兵衛
Gotou Mototuhgu.jpg
後藤基次像(福岡市博物館蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄3年4月10日(1560年5月5日)
死没 慶長20年5月6日(1615年6月2日)?
改名 基次、氏房、正次、年房
別名 弥八郎(幼名)、又兵衛
戒名 西照院殿夏安道蓮大居士、心岩宗伝居士(福岡金龍寺過去帳)、他
墓所 奈良県宇陀市の薬師寺
大坂府柏原市の玉手山公園
愛媛県伊予市の長泉寺
大分県中津市
鳥取県鳥取市の景福寺
兵庫県姫路市の福田寺他
官位 従六位下・隠岐守
主君 黒田孝高→仙石秀久→黒田長政→豊臣秀頼
氏族 後藤氏
父母 父:後藤基国
母:神吉頼氏女
兄弟 基秀、基次、基景
妻 先妻:不詳、後妻:三浦四兵衛女

一意、基則、正方、又市、基芳、三浦為勝
娘(野村祐直室)、山中藤太夫室、他子女数名
後藤 基次(ごとう もとつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は又兵衞で、後藤 又兵衛(ごとう またべえ)として広く知られる。黒田如水、黒田長政、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」、また大坂の陣の講談や軍記物語などで英雄として描かれ、「大坂城五人衆」の一人に数えられた。
生涯[編集]
出生[編集]
諸説あるが、『大日本史』などによると、永禄3年(1560年)に播磨国姫路近郊の神東郡山田村に生まれる。父は別所氏家臣で、後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門(基国?・後藤氏当主・伯父説あり)の次男として生まれた。
天正6年(1578年)、黒田孝高が荒木村重によって有岡城に幽閉された際、黒田家家臣一同の誓紙への署名を又兵衛の伯父・藤岡九兵衛が拒否したため一族追放となり、仙石秀久に仕えることとなる。
幼少のころ父が病死したことから、黒田孝高(如水)に引き取られてそこで成人した。その後、伯父の藤岡九兵衛が孝高に謀反を企てたために追放され、基次もそれに連座して一時黒田家を離れていた。
城井谷崩れの際、殿を務めたと主張したが、目立たないように捨てた猩々緋の陣羽織を、同僚の原種良に拾われており、認められなかった。ただし、種良は深田に落ちて動けなくなり、自棄になって謡曲を唸ったところ敵から見逃されたと菅正利の記録に残っている。城井谷では又兵衛が捕虜になったとの伝承もあり、その間に作ったとされる手水鉢が正光寺に寄進されている。
城井氏ら国人一揆との戦いで、雷火砲という武器を用いたと言う。
一揆勢の野仲鎮兼の長岩城攻めの際、南弥介に討たれかけたが、堅い具足と援護に助けられた。戦後、弥介が栗山利安配下の同輩となり、基次は食べ足りていなかったので不覚を取ったと釈明している。

         今川義元

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 元亀元年年12月10日(1570年1月6日)辰の刻(午前8時)、山城国の城主・田山高政の家臣・石見重左衛門(いわみ・じゅうざえもん)に子供「古継(ふるつぐ・幼名*実名との説もあるがここでは幼名とする)」が生まれた。この古継が後の岩見重太郎(薄田隼人・兼相・すすきだ・かねすけ)である。
薄田隼人が生まれたとき、山城国の城は雪で覆われていた。これは、英雄が生まれる吉兆が出ていたのだという。
父・石見重左衛門は山城国にある田山城(たやまじょう)の城主・田山高政に仕えており、田山城の城主警護を任されていた。
 赤子の古継(のちの薄田隼人)はくったくもない笑顔を浮かべている。
「この子はきっと将来凄い人物になるやも知れん」
「まあ、旦那様、もう親馬鹿に御座りまするか?」妻の清も笑った。
「戦国のすごい大名、ダメでもよき武将になるのだぞ」
 隼人は生まれてきたとき、体になにやら怪我のような傷跡があったという。
「これは聖痕じゃ!」
 と親戚縁者の間で話題になったという。
 また寝小便もなかなか治らない。だが、父親も母親も、子供だから仕方ない、と思ってあえて注意はせず折檻もしなかった。

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北政所[編集]

北政所黒印状(孝蔵主奉書)
摂津三田藩藩主・有馬則頼に北政所が融資していた黄金五枚が無事返済されたことを記した天正十八年十一月二十四日付の証書。差出人は豊臣家筆頭奥女中・孝蔵主。北政所所用の黒印を据えた仮名消息の体裁をとっている。紙本墨書。名古屋市博物館収蔵。
その後、秀吉と共に大坂城に移り、天正13年(1585年)、秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所の称号を許される。天下人の妻として北政所は朝廷との交渉を一手に引き受けたほか、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割も担った。
天正16年4月14日(1588年5月9日)、後陽成天皇は聚楽第に行幸、5日後無事に還御すると、諸事万端を整えた功により北政所は破格の従一位に叙せられている。
文禄2年(1593年)から始まった文禄・慶長の役で秀吉は前線への補給物資輸送の円滑化を目的に交通の整備を行い、名護屋から大坂・京への交通には秀吉の朱印状が、京から名護屋への交通には豊臣秀次の朱印状が、そして大坂から名護屋への交通には北政所の黒印状を必要とする体制が築かれた。
秀吉の没後[編集]
慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が没すると、淀殿と連携して豊臣秀頼の後見にあたった。武断派の七将が石田三成を襲撃した時に徳川家康は最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正統性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価されている。慶長4年(1599年)9月、大坂城を退去し、古くから仕えてきた奥女中兼祐筆の孝蔵主らとともに京都新城へ移住した(「義演准后日記」「言経卿記」)。関ヶ原の戦い前に京都新城は櫓や塀を破却するなど縮小されたが、これには城としての体裁を消し去るという意味があったものと思われる。このころの北政所の立場は微妙で、合戦直後の9月17日には大坂から駆け付けた兄の木下家定の護衛により准后・勧修寺晴子の屋敷に駆け込むという事件もあった。


 ねね(あるいは寧々、寧々、寧・ねい)こと北政所・高台院は秀吉の正妻である。
たいへんな恋愛結婚であったと見られ、最初は信長の足軽・草履取りの日吉あるいは木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が寧々に猛アタックして、最初、猿のような小汚い日吉を嫌っていたがそこは男と女である。やがて、親の反対を押し切って結婚する。
正式な結婚式などはあげていないが秀吉の親友でそのとき信長の怒りを買い浪人中だった前田利家とまつと同じ日に結婚式を貧しいながらも挙げている。
寧々は結婚後、一度身籠るが、流産し、そのために二度と子供の産めない身体になった。
それを知るのは小一郎・秀長(秀吉の弟)のみ。
その後、天下人になった秀吉はさまざまな女と夜の関係をもつが一度も出産どころか妊娠もしたことがない。秀吉は“種なし”だったとも言われる。なのに、茶々(のちの淀君)だけは秀吉の子供を二度も妊娠する。
だれもが不思議がる訳である。当時は当たり前ながらDNA鑑定などないから女が「あなたの子供です」といえば男も心当たりがあれば「俺の子供か」と納得するしかない。
だが、秀吉は背が低く中肉中背だったのに、成人した秀頼は体重120キロで身長190センチメートルもの巨漢。まあ、茶々の父親の浅井長政は背が高く体重もあったと言うがおじいさんに似たのか?……それとも秀吉の子供ではやはりないのか?
まあ、寧々は「あの子は秀吉の子供じゃないでへ。似てないへえ。」と思っていた。

お拾い丸(のちの秀頼)は文禄2年8月3日(1593年8月29日)に生まれた。
父親は天下人・豊臣秀吉であり母親は淀君(浅井長政とお市との長女・茶々、次女・初、三女・お江)であるとされている。兄は石松丸と鶴松だが、この兄は赤ん坊のときに夭折(幼くして死)している。鶴松が死んだから秀吉は『朝鮮出兵』等という馬鹿なことを考えた。そしてお拾いが生まれて秀吉は溺愛した。
もう親馬鹿もいいところで赤ん坊や母親と称する小娘の茶々(のちの淀君)を贅沢させる。
では、何故「お拾い」なのか?それは「縁起」を担いでのことだった。
その当時“捨てられて拾った赤ん坊は元気に育つ”という迷信が広まっており、秀吉らは一旦、大坂城の井戸の側に赤ん坊の拾丸を“捨てて”すぐに“拾った”ので「お拾い丸」=「拾丸(幼名)」となった。爺さんになって出来た子を猿太閤殿下・秀吉はまさに甘やかして秀頼を育てた。「べろべろべろばあーっ!おっ!赤ん坊のお拾いが笑った!ばーっ!」
「殿下、もう半刻もあやしておりますよ」淀君は笑う。
「そうかのう。わははは。赤ん坊は可愛いのう!」
秀吉の子供は秀頼ただひとりである。溺愛ぶりが異常な訳だ。
寧々は「お前さんも馬鹿じゃねえ。自分の子かどうか似てないのでわからんちゃあねえ。」と遠くの陰で見て呆れるしかない。「あれは秀吉の子じゃないへえ。似てないちゃもの。」
秀吉は死の床で、家康や三成らに「秀頼を頼む。秀頼を頼む。…秀頼を頼む。」と泣いて頼んだがそんな約束は叶える武将はいない。寧々にも「おっかあ、秀頼を頼むでよ!お願いじゃ!秀頼を頼むちょ!……頼むちょ!」と泣きながら頼んだ。だが、三成だけが秀頼の為に『関ヶ原の役』を起こす。
だが、結局は三成の敗北…事実上の豊臣の敗北であった。
秀吉が朝鮮の密使と大坂城であっている時、側にすわっていたお拾いは小便をもらした。
「あややっ!こやつ小便をもらしおった。こんなところで小便をもらすとは流石はわしの子じゃ。度胸がある!」
「太閤殿下!」
「三成、あとは任せたぞ!朝鮮の王子を人質にして和睦じゃ。ほーれ、秀頼!替えの服をしようのう」「関白殿下?!!」秀吉は幼い秀頼を抱いて場を去った。
三成は呆れた。…朝鮮の王子を人質にして和睦どころか朝鮮人の密使は秀吉に「あいさつ」にきただけだったからだ。
また、幼い秀頼は臣下のものにでもないのにトンチンカンに「ごくろうであった」ということがあった。淀君は舌打ちをして秀頼の手を引き上座を去る。
秀頼は馬鹿ではなかったが、苦労知らずののぼせあがり、でしかない。
大河ドラマや歴史ドラマでは豊臣秀頼役の俳優は線の細い若手の俳優であることが多い。
だが、実際の成人後の秀頼は身長が6尺5寸(約197cm)で体重が43貫(約161kg)もの巨漢である。まるまると太っていて貫録もあり、成人した秀頼とはじめて接見した徳川家康はその巨漢やおおきな体から放たれるオーラに身震いしたという。
一説ではこの巨漢の成人の秀頼との出会いが、家康が“豊臣滅亡”を決めたきっかけだともいわれる。五奉行五大老制度を考えたのは石田三成や直江兼続だが、秀頼が幼い頃、秀吉が死んで直ぐまではうまくいっていた。
淀君(茶々改め)は幼い秀頼の手を引いて上座に座る。
五奉行五大老は「われら秀頼さまの元、豊臣家の安泰のために尽力しまする」と口ぐちにいう。淀君は「では、内府殿(家康)はいかがか?先ほどから黙っておるが。豊臣家の為にいかがや?」
家康はしらじらしく「当たり前のことながら改めて口にするのも馬鹿馬鹿しいものです。それよりもわたくしは淀君並びに秀頼さまを裏で操る奸臣が心配なのでございまする」
徳川家康の言う奸臣(悪い家臣)とは石田治部少輔三成のことである。
「奸臣とは誰の事じゃ?」
「まあ。その奸臣こそ豊臣家に仇する逆賊でありまする。ゆめゆめ騙されなきように。豊臣家に仇する者、この家康が成敗つかまつる。」
淀君は芝居が見抜けず「よう申された、内府殿!」と感涙までしてしまう。
三成は悔しくて下唇を噛むしかない。
………家康め、奸臣・逆賊はお前だ!
だが、寧々は「家康さんに(石田)三成も(黒田)長政も(福島)正則も(加藤)清正も勝てへんわあ。家康さんこそ秀吉亡き後の天下人じゃがねえ。」とするどい見方をしていた。
黒田如水などの子供たちを人質として母親代わりで育てたのが寧々こと寧々である。
寧々にはすべてわかっていた。
「秀吉が死んじゃら家康さまの天下じゃでえ。三成や茶々や秀頼ではどうにもならんがねえ。」寧々はもはや天下のことがわかっていた。
さすがは秀吉の妻で、ある。



 また、大河ドラマ『軍師官兵衛』の主人公だった黒田官兵衛の黒田家は、元を正せば、宇多天皇の末裔とされる名家・源氏で、源成頼の時代に近江国蒲生郡佐々木(現滋賀県近江八幡市)に居を構えたことから、佐々木の姓を名乗るようになる。
やがて、佐々木家は京極家と六角家に分家する。その後、京極家の京極宗清(きょうごく・むねきよ)が近江の黒田村に居を構えたことから、京極家から分家し、黒田姓を名乗るようになった。
黒田家は京極家に仕えていたが、1511年(室町時代)に黒田官兵衛の曾祖父・黒田高政が手柄を立てるために「船岡山合戦」で抜け駆けして、軍令に背いたため、将軍・足利義稙の怒りを買った。
佐々木氏の謝罪によって曾祖父・黒田高政は許されたが、近江から追放となったため、曾祖父・黒田高政は同族を頼って、備前の福岡村(岡山県瀬戸内市長船町福岡)へと移り住んで、福岡村に土着した。
後に黒田家が治める豊前(大分県+福岡県西部)が福岡県という名称になったのは、黒田家が備前(岡山県)の福岡村に土着したことに由来する。
1521年(大永元)、播磨・備前・美作の守護大名・赤松家で謀反があり、赤松家の重臣で備前の守護代を務めていた浦上宗村が播磨守護職の赤松義村を討ち、播磨は内乱へと発展した。
大永3年(1523年)に曾祖父・黒田高政は備前(岡山県)の福岡村で病死し、次男の黒田重隆が家督を継いだ。この黒田重隆が黒田官兵衛の祖父である。
曾祖父・黒田高政の死後、備前の福岡村は浦上宗村に侵略されたため、祖父・黒田重隆は福岡村を出て播磨(兵庫県)へと移り住んだ。
やがて、祖父・黒田重隆は「黒田入道(黒田宗卜)」を名乗って播磨の姫路へと移り住み、姫路で有力な豪族にまで成長した。
なお、黒田家には、秘伝の目薬「玲珠膏(しゅれいこう)」の調合方法が伝わっている。このため、祖父・黒田重隆は玲珠膏の販売によって財を成したとされているが、玲珠膏を販売して財を成す話は創作である。
 だが、こうした家系であるからこそ「一介の目薬屋から天下を動かす大軍師になった」と後世、「お百姓さんから天下人になった豊臣秀吉」と同列に扱われる、まさに下克上を体現した人物といわれるのだ。
2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」では、主人公をジャニーズ・アイドル・グループV6のイケメン「岡田准一」さんが演じていたが、本物の官兵衛は禿頭で醜い顔で杖をつかねば歩けない程の「病人」である。「軍略家」でこそあるものの本当に自分ひとりで闘うのは苦手である。
また嶋左近の前半生はわかっていない事が多い。なるだけ資料と格闘したがわからないところはすべてフィクションである。まあ、ドラマで言うなら脚色しているのだ。 
話をもう一人の主人公・黒田如水の話に戻そう。
祖父・黒田重隆が姫路で有力な豪族となり、一帯を支配するようになったころ、全国には下克上の嵐が吹き荒れ、全国各地で争いが始まっていた。
このころの播磨は、播磨守護大名の赤松家が衰退して大小の豪族が割拠しており、姫路周辺では、赤松家の一族で、御着城(兵庫県姫路市御国野町)を本拠地とする大名・小寺政職(こでら・まさもと)が勢力を誇っていた。
天文13年(1544年)、姫路の豪族に成長していた祖父・黒田重隆は、乱世を生き残るため、御着城の城主・小寺政職(こでら・まさもと)に仕えることにした。
祖父・黒田重隆は小寺家で頭角を現し、小寺政職は祖父・黒田重隆を重用し、父・黒田職隆もかわいがった。
父・黒田職隆は非常に優秀だったので、小寺政職は父・黒田職隆を家老に付かせようとしたが、新参者を家老にしては譜代の臣からの反発するため、小寺政職は父・黒田職隆を一門に迎え入れ、家老にしようと考えた。
そこで、天文14年(1545年)、小寺政職は明石城主・明石宗和(明石正風)の娘・明石岩(岩姫)を養女とし、父・黒田職隆と結婚させると、父・黒田職隆に「小寺」の姓を与えて一門に加え、「職」の一字も与えた。
(注釈:これ以降、黒田職隆は「小寺職隆」を名乗るようになるが、話が複雑に成りすぎるため、「黒田職隆」で統一する。)
そして、譜代の家臣が小寺家一門になった父・黒田職隆を尊敬するようになると、小寺政職は父・黒田職隆を筆頭家老に任じ、姫路城の城主に抜擢したのである。
現在の国宝・姫路城は、江戸時代に池田輝政が改修したもので、この時の姫路城の規模は分からない。この時の姫路城は居館ていどの規模で、父・黒田職隆が城と呼べる程度の規模に改修したとされる。
こうして、父・黒田職隆に姫路城の城主となった翌年の天文15年11月29日(1546年12月22日)、姫路城で幼名「万吉」こと黒田官兵衛が誕生したのである。

 話は変わる。
  石田三成は安土桃山時代の武将である。
 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大坂城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大坂城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「バカのヤツよのう、三成!」福島正則は酒臭い顔で、酒瓶を持ちふらふらしながら彼を嘲笑した。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに、はははは」
 三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」と正則をきっと睨んだ。
「たわけ!徳川さまが三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、正則!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、徳川さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」福島正則は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「そうだ。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したのさ。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放った」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。“三成(治部少)に過ぎたるものが二つある。嶋の左近と佐和山の城”か?嶋左近は奮闘したが死んだからのう。酒はどうだ?」
「いや、いらぬ」
 福島正則は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人や領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「へん。なんとでもいえ」福島正則は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ。武勇の嶋左近がいてもお前のような嫌われ者に味方する武将は少ない。直江兼続も上杉景勝も悔いていることだろう。嶋左近も憐れよのう。あれだけの武勇の天才軍師が…お前みたいな糟のせいで討死とは…」
「正則」
「なんだ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公と淀君様が危ないのだぞ!」
  福島正則は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、徳川さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そうか」
 正則は拍子抜けして去った。嘲笑する気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴だな」苦笑した。
 次に黒田長政がきた。官兵衛(如水)の息子・長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。


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関ヶ原合戦後は、引き続き京都新城跡の屋敷に住み、豊国神社にたびたび参詣するなど秀吉の供養に専心した(「三本木」(現京都御苑内南西付近)に隠棲したとの説もあるが根拠不明)。元和初期の様子を描いたとされる地図「中むかし公家町之図」ではほぼ現在の京都御苑仙洞御所・大宮御所エリアを「高台院殿(屋敷)」とし、その南方には使用人の住居と思われる「高台院殿町屋」が建ち並んでおり、隠棲後の暮らしぶりの一端を伺わせる。秀吉から河内国内に与えられていた大名並みの1万5,672石余の広大な領地は、合戦後の慶長9年に養老料として徳川家康から安堵されている。この時石高は1万6,346石余に微増。
慶長8年(1603年)、養母の死と、秀吉の遺言でもあった秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾。朝廷から院号を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称した。慶長10年(1605年)、実母と秀吉の冥福を祈るために家康の後援のもと、京都東山に高台寺を建立し、その門前にも屋敷を構えた。大坂の陣では、「高台院をして大坂にいたらしむべからず」という江戸幕府の意向で、甥・木下利房が護衛兼監視役として付けられた。そして、身動きを封じられたまま元和元年(1615年)、大坂の陣により夫・秀吉とともに築いた豊臣家は滅びてしまう(一方、利房は高台院を足止めした功績で備中国足守藩主に取り立てられた)。だが徳川家との関係は極めて良好で、徳川秀忠の高台院屋敷訪問や、高台院主催による二条城内での能興行が行われた記録が残っている。またなお公家の一員としての活動も活発でこのころ高台院(「政所」)からたびたび贈り物が御所に届けられたことが、『御湯殿上日記』から知れる。
寛永元年9月6日(1624年10月17日)、高台院屋敷にて死去。享年については76、77、83などの諸説がある。なお最晩年に木下家から利房の一子・利次(一説に利三とも)を、豊臣家(羽柴家)の養子として迎えており、遺領約1万7,000石のうち近江国内3,000石分は利次によって相続された。
墓所は京都市東山区の高台寺。遺骨は高台寺霊屋の高台院木像の下に眠っている。


三成は馬鹿ではなかった。というより、策士であり、優秀な「人物」であった。
三成は「日本の王の重臣」と海外では見られていた。関ヶ原の役もひとつのパワー・ゲームであり、けして敗北ではない。しかし、豊臣憎し、三成憎しの徳川家康らは「関ヶ原の役」「王政復古の大号令」のクーデターで武力で討豊臣を企てた。
実は最近の研究では徳川家康らの「関ヶ原の役」「王政復古の大号令」のクーデターを三成は事前に察知していたという。
石田三成といえば英雄というよりは敗北者。頭はよかったし、弱虫ではなかった。三成がいることによって、戦国をおもしろくした。最近分かったことだが、英雄的な策士で、人間的な動きをした「人物」であった。


 やがて死刑場・京都四条川原に三成は両手を背中で縛られ、白い死に装束のまま連れてこられた。
 座らされた。三成は「目隠しはいりませぬ。私は罪人ではない」といい、断った。強面の抑えのおとこふたりにも「あなた方も離れていなされ、私は決して暴れたりいたせぬ」と言った。
 介錯役の侍は「見事なお覚悟である」といった。
 三成はすべてを悟ったように前の地面の穴を見ながら「ここに……私の首が落ちるのですね……」と囁くように言った。雨が降ってくる。三成は涙した。
 そして幕府役人たちに「徳川のみなさん、私たちの先祖が永きにわたり…暮らし……慈(いつく)しんだこの大地、またこの先、子孫たちが、守り慈しんでいかねばならぬ、愛しき大地、この日の本を、どうか……異国に攻められないよう…お願い申す……私の愛する…この日の本をお守りくだされ!」
 役人は戸惑った顔をした。三成は天を仰いだ。もう未練はない。「百年後……二百年後の日本の為に…豊臣家を淀君さまや秀頼さまをおたのみ申しまする!」
 しばらくして三成は「どうもお待たせいたした。どうぞ」と首を下げた。
「ごめん!」
 石田三成の首は落ちた。
 雨の中、豊臣方の薄田らは遺体を引き取りに役所の門前にきた。皆、遺体にすがって号泣している。掛けられたむしろをとると首がない。
 薄田隼人は怒号を発した。「首がないぞ!治部さまの首はどうしたー!」
「大老徳川家康様が首を検めますゆえお返しできませぬ」
 豊臣ものは顔面蒼白である。雨が激しい。
「拙者が介錯いたしました……石田殿は敬服するほどあっぱれなご最期であらせられました」
 豊臣ものたちは号泣しながら天を恨んだ。薄田隼人は大声で天に叫んだ、
「是非に大老殿のお伝えくだされ!石田治部の首は、この薄田が必ず取り返しに来ると!聞け―徳川幕府!きさまら三成さまを殺したことを、きっと悔やむ日が来るぞ!この薄田隼人がきっと後悔させてやる!」
 雨が激しさを増す。まるで天が泣いているが如し、であった。