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長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

昇り竜の如く <米沢藩士>雲井龍雄伝とその時代ブログ連載小説4

2014年04月23日 05時15分23秒 | 日記



 雲井は約束した。
 母は労咳(肺結核)であった。ごほごほと病床で咳をして、喀血して、自分でも驚いたろう。そして、雲井の母親はまた、紅葉のように早逝するのである。
龍雄は泣いた。そして、母との別れで心の中で「母上、かならずお約束お守りいたします。母上、おしょうしな(ありがとう)!」と誓った。
雲井龍雄の本名は小島守善だが、辰の年うまれであるからと龍三郎・龍雄と自分で名前を変えたという。さらに付言すれば、龍雄の生まれたのは、明治維新の二十四年前であり、紀州の陸奥宗光と同年である。長州の伊藤博文よりは三歳年少、肥前の大隈重信よりは五歳年少、土佐の板垣退助よりは六歳の年少であった。
また、自称変名として用いたものに遠山翠(とうやまみどり)、一木緑(いちきみどり)、桂香逸(かつらこういつ)などがあるが、雲井龍雄の名前が広く知られる。龍雄の郷里米沢の西に連なる斜平山(なでらやま)のふもとが遠山というである。
龍雄の生家の近く桂の大樹があり、よい目じるしになっていたという。桂といい、一木というのは、この老樹に因んだものと思われる。雲井龍雄の名は、二十五年の慶応四年(一八六八)七月頃から使用し、晩年は好んでこの名を使用した。本名の龍三郎(または守善)に因んで、「雲龍昇天」の活躍を望んだものである。次男に生まれた龍雄は母の死後、十四歳の安政四年(一八五九)五月、同藩の小島才助の養子となった。
 龍雄が初めて勉学の手ほどきを受けたのは、生家の北隣に住む上泉清次郎という人であり、龍雄八歳の時である。清次郎は、龍雄の教育わずか一年という短さで病死した。そこで龍雄は、曽根俊臣(そね・としおみ)という人の私塾に入った。まあ、前述した寺子屋であり、前述したエピソードのようなものがあったり、なかったりする。
俊臣の本名は宮地敬一郎、俊臣は幼くして神童の誉れ高く、二十一歳で藩校・興譲館(こうじょうかん)の助読に挙げられ、さらに読長になった。一代に門弟三千人と称せされ、郷学の中心的学者であった。惜しいのは戊辰戦役に志願して従軍、越後大黒の夜戦に斬込隊の先頭に立ち、敵弾で戦死した。現在の上杉神社(米沢城址・松が岬公園)の西堤上にその慰霊碑が建っている。次いで龍雄は、遠山の里(米沢市遠山町)に住む山田蠖堂(ようだかくどう)の私塾に移り師事する。
14歳からは藩校「興譲館」に学び、館内の「友于堂」に入学。
興譲館は主に官費で上層藩士の子弟を寄食させて教育する場であった。
が、龍雄は「優秀」に選抜され藩主から褒章を受け、父母に孝養の賞賜も受けた。
好学の龍雄は興譲館の一部として建てられた図書館の約3000冊もの蔵書の殆どを読破し、当時の学風朱子学を盲信する非を悟り陽明学に到達する。
18歳のとき、叔父・小島才助の養子となり、丸山庄左衛門の次女・ヨシを娶る。
20歳のときに才助が死去したため小島家を継ぎ、21歳で高畠の警衛の任に就いた。
慶応元年(1865年)、米沢藩の江戸藩邸に出仕、上役の許可を得て安井息軒(やすいそっけん)の三計塾に入門。息軒は昌平黌においても朱子学に節を曲げず、門生には自由に諸学を学ばせた。こうした学風を受け龍雄は経国済民の実学を修め、執事長(塾頭)にも選ばれており、息軒から「谷干城(たにたてき・元農商務大臣)以来の名執事長」といわしめたという(若山甲蔵『安井息軒先生』)。
同塾門下生には桂小五郎、広沢真臣、品川弥二郎、人見勝太郎、重野安繹らがいる。またこの頃、同年であり生涯を通じて同志的関係を結んだ息軒の次男・謙助と出会った。

(「雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学」田宮友亀雄著作・遠藤書店39~53ページ参照)
[雲井龍雄の参考文献]
• 角田恵重「片品村と雲井龍雄」(「片品の民族-群馬県民俗調査報告書」1960年)
• 安藤英男「雲井龍雄全集」1982年
• 安藤英男「雲井龍雄研究」明治書院
• 猪口篤志「日本漢詩新訳漢文大系」同上
• 童門冬二「雲井龍雄」新人物往来社
• 藤沢周平「雲奔る・小説雲井龍雄」文春文庫
• 安藤英男『雲井龍雄詩伝』(明治書院)
• 高島真『雲井龍雄 謀殺された志士 また蒼昊に訴えず』(歴史春秋社)
• 村上一郎「雲井竜雄の詩魂と反骨」(「ドキュメント日本人 第三巻 反逆者」(学芸書林)所収)
• 高木俊輔『それからの志士―もう一つの明治維新』(有斐閣選書)
• 夏堀正元『もう一つの維新』(東邦出版社)
• 吉川英治「明治秋風吟」(吉川英治全集第44巻(講談社)所収)
• 須藤澄夫『幕末残照 雲井龍雄との対話』(新人物往来社)
• 松本健一「遠山みどり伝」(「幕末畸人伝」(文藝春秋)所収)
• 八切止夫『明治奇談・爆裂お玉 雲井龍雄の妻』(昭和シェル出版)
• 田宮友亀雄『雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学』(遠藤書店)
• 雲井龍雄手抄『王陽明傳習録』(杉原夷山註解)(東京・千代田書房&大阪・杉本梁江堂)
• 有馬卓也「雲井龍雄研究序説 : 慷慨と隠逸をめぐって」(「徳島大学教養部紀要 人文・社会科学」 vol.28)
• 有馬卓也「自由民権運動下の雲井龍雄の一側面:『土陽新聞』記載記事をめぐって」(徳島大学国語国文學 vol.6. vol7)
• 山崎有恒「「公議」抽出機構と崩壊―公議所と集議院」(『幕末維新論集 六巻』(吉川弘文館)所収)
• 黒江一郎『安井息軒』(日向文庫刊行会)
• 鈴木富夫「知られざる英傑 「雲井龍雄」小伝 四幕」 (『戯曲春秋』第22号、2007年)
関連項目
• 討薩檄
討薩檄
「討薩檄」(とうさつのげき)は、戊辰戦争に際し、米沢藩士・雲井龍雄が全軍の士気を鼓舞するために起草した檄文。この文章の内容と政治思想が、明治政府のしゃくに触り、「危険分子」として雲井龍雄は罪名も不明のまま斬首され、この世を去るのである。まるで関ヶ原のきっかけをつくった直江山城守兼続の「直江状」のようだ。
内容

その文章の迫力や訴える力において、数ある古今の檄文の中でも名文と言える。実際の戦闘においては物量や人的資源にはるかにまさる主に薩長率いる新政府軍に奥羽越列藩同盟は敗れることになるが、「討薩の檄」は、薩長を中心とした視点とはまた別の視点を今日にも訴えるものとも言える。
なお、雲井は、大政奉還に協力・尽力した人物であり、必ずしも佐幕派ではなかったが、薩長の武力討幕方針に反対して奥羽越列藩同盟に身を投じた。雲井は戊辰戦争期間中、薩長の離間を画策し、「二毛作戦」と呼ばれる、遊撃隊を率いて上野・下野方面から官軍を撹乱する作戦を採ったが、作戦は失敗に終わった。戊辰戦争終結後、雲井は米沢藩から推挙されて新政府の集議院に勤めるが、のちに戊辰戦争期間中の言動が理由で集議院を追われ、その後、帰順部曲点検所を設立し失業士族の救済に奔走するが、謀反を企てているとして処刑された。
この物語とこの物語の大河ドラマでは、家の強い絆と、雲井龍雄の志を継ぐ若者たちの青春群像を描く!2015年の大河ドラマ「花燃ゆ」で、吉田松陰の実家の杉家は、父母、三男三女、叔父叔母、祖母が一緒に暮らす多い時は11人の大家族として描かれた。杉家のすぐそばにあった松下村塾では、久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎ら多くの若者たちが松陰のもとで学び、日夜議論を戦わせた。若者の青春群像を描くとされていることから中心になる長州藩士 久坂玄端、高杉晋作、伊藤博文、品川弥二郎らは20代後半の役者が予想されます。吉田松陰の妹 杉文(美和子)とは?天保14年(1843年)、杉家の四女の文が生まれる。1843年に文が誕生。文は大河ドラマ『八重の桜』新島八重の2つ年上。文の生まれた年は1842年と1843年の二つの説があり。文(美和子)(松陰の四番目の妹で、久坂玄瑞の妻であったが、後に、楫取の二番目の妻となる)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─長州藩士、吉田松蔭の妹。久坂玄端の妻、楫取素彦の後妻(最初の妻は美和子の姉)。家格は無給通組(下級武士上等)、石高26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立て、7人の子供を育てていた。杉常道 - 父は長州藩士の杉常道、 母は瀧子。杉家は下級武士だった。大正10までの79年間の波乱の生涯はドラマである。名前は杉文(すぎふみ)→久坂文→小田村文→楫取文→楫取美和子と変遷している。楫取美和子(かとりみわこ)文と久坂玄端の縁談話。しかし、面食いの久坂は、なんと師匠・松蔭の妹との結婚を一度断った。理由は「器量が悪い」から。1857年(安政4年)、吉田松陰の妹・文(ふみ)と結婚しました。玄瑞18歳、文15歳の時でした。久坂玄瑞:高杉晋作 1857年 文は久坂玄端と結婚。1859年 兄・松蔭は江戸で処刑される。1863年 禁門の変(蛤御門の変)で夫・久坂は自刃。文はというと、39歳の時に再婚。文はすぐさま返事はしなかったが「玄瑞からもらった手紙を持って嫁がせてくれるなら」ということに。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚。生前の久坂から、届いたただ一通の手紙。その手紙と共に39歳の時に、文は再婚。このエピソードは大河ドラマでやる事でしょう。1883(明治16)年 松陰の四人の妹のうち、四番目の妹(参考 寿子は二番目)で、久坂玄瑞(1840年~1864年)に嫁ぎ、久坂の死で、22歳の時から未亡人になっていた文(美和子)と再婚(この時 、楫取 55歳)。楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかりの人 ─1883年 文は39~40歳。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深い。NHK大河「花燃ゆ」はないないづくし 識者は「八重の桜」の“二の舞”を懸念しているという (日刊ゲンダイ) - Yahoo!ニュース。そして文は玄瑞の手紙とともに素彦と再婚し、79歳まで生きました。1912年 文の夫・楫取素彦が死去。1921年 文(楫取美和子)が死去。1924年 文の姉・千代が死去。
 杉千代(吉田松陰の妹・文の姉)千代は松陰より2歳年下の妹であった。1832年 萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助(常道)の長女として生まれる。杉寿(吉田松陰の妹・文の姉)杉 常道(すぎ つねみち、文化元年2月23日(1804年4月3日) - 慶応元年8月29日(1865年10月18日))は、江戸時代後期から末期(幕末)の長州藩士。吉田松陰の父。杉常道 - 杉瀧子(吉田松陰・文の母)家族から見た吉田松陰。 杉瀧子 吉田松陰の母。久坂 玄瑞(くさか げんずい)は、幕末の長州藩士。幼名は秀三郎、名は通武、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。天保11年(1840年)長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪の三男・秀三郎として生まれる。安政4年(1857年)松門に弟子入り。安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を久坂に嫁がせた。元治元年(1864年)禁門の変または蛤御門の変で鷹司邸内で自刃した。享年25。高杉 晋作(たかすぎ しんさく)は、江戸時代後期の長州藩士。幕末に長州藩の尊王攘夷の志士として活躍した。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた。高杉晋作 - 1839年 長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太・みちの長男として生まれる。1857年 吉田松陰が主宰していた松下村塾に入る。1859年 江戸で松陰が処刑される。万延元年(1860年)11月 防長一の美人と言われた山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚。文久3年(1863年)6月 志願兵による奇兵隊を結成。慶応3年4月14日(1867年5月17日)肺結核でこの世を去る。楫取 素彦(かとり もとひこ、文政12年3月15日(1829年4月18日) - 大正元年(1912年)8月14日)は、日本の官僚、政治家。錦鶏間祗候正二位勲一等男爵。楫取素彦 - 吉田松陰とは深い仲であり、松陰の妹二人が楫取の妻であった。最初の妻は早く死に、久坂玄瑞の未亡人であった松陰の末妹と再婚したのである。通称は米次郎または内蔵次郎→小田村氏伊之助→小田村氏文助・素太郎→慶応3年(1867年)9月に楫取素彦と改める。1829年 長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に藩医・松島瑞蟠の次男として生まれる。1867年 鳥羽・伏見の戦いにおいて、江戸幕府の死命を制する。明治5年(1872年)に群馬 県参与、明治7年(1874年)に熊谷県権令。明治9年(1876年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令(知事)となった。楫取の在任中に群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定。明治14年(1881年) 文の姉・寿子と死別。明治16年(1883年) 文と再婚。1884年 元老院議官に転任。1887年 男爵を授けられる。大正元年(1912年)8月14日、山口県の三田尻(現・防府市)で死去。84歳。木戸 孝允 / 桂 小五郎(きど たかよし / かつら こごろう)幕末から明治時代初期にかけての日本の武士、政治家。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される(のちに松陰は「桂は、我の重んずるところなり」と述べ、師弟関係であると同時に親友関係ともなる)。天保4年6月26日(1833年8月11日)、長門国萩城下呉服町に藩医・和田昌景の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)、吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評される。元治元年(1864年)禁門の変。明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発。5月26日、朦朧状態の中、大久保利通の手を握り締め、「西郷いいかげんにせいよ!」と明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を発したのを最後にこの世を去る。伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。幼年期には松下村塾に学び、吉田松陰から「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」と評され、「俊輔、周旋(政治)の才あり」とされた。1941年 周防国熊毛郡束荷村字野尻の百姓・林十蔵の長男として生まれる。安政4年(1857年)2月、吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていた。松蔭が安政の大獄で斬首された際、師の遺骸をひきとることになる。明治18年(1885年)伊藤は初代内閣総理大臣となる。明治42年(1909年)10月、ハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家テロリスト・安重根によって射殺された。心に残る 吉田松陰 エピソード。「いやしくも一家を構えている人は、何かにつけて、色々と大切な品物が多いはずです。ですから、一つでも多く持ち出そうとしました。私の所持品のようなものは、なるほど私にとっては大切なものですが、考えてみれば、たいしたものではありません。」吉田 松陰先生の2歳年下の妹千代兄を語る。松陰の先生の家が火事になり、松蔭が自分のものを持ち出さなかった理由について語った言葉。人間にとって、利他の心を持ち、相手の立場に立って行動するということは、大切なことです。と妹・千代は語った。
 とにもかくにも美人なんだかブスなんだか不明の吉田松陰の十三歳年下の妹・杉文(すぎ・ふみ)は、天保14年(1843年)に誕生した。母親は杉瀧子という巨漢な女性、父親は杉百合之助(常道)である。
 赤子の文を可愛いというのは兄・吉田寅次郎こと松陰である。寅次郎は赤子の文をあやした。子供好きである。
 大河ドラマ「花燃ゆ」(2015年度作品放送)。大河ドラマとしては異常に存在感も歴史的に無名な、杉文が主人公ではある。大河ドラマ「篤姫」では薩摩藩を、大河ドラマ「龍馬伝」では土佐藩を、大河ドラマ「花燃ゆ」では長州藩を描くという。なら大河ドラマ「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」「昇り竜の如く 雲井龍雄伝とその時代」では米沢藩を描いてほしい。
 多分、大河ドラマ「八重の桜」のような低視聴率になることはほぼ決まりのようだ。が、NHKは大河ドラマ「篤姫」での成功体験が忘れられない。
 朝の連続テレビ小説「あまちゃん」「ごちそうさん」並みの高視聴率等期待するだけ無駄だろう。
  話しを戻す。

米沢藩の藩校・興譲館に出勤して家学を論じた。次第に龍雄は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。親戚の妹にとって兵学指南役で米沢藩士からも一目置かれているという兄・雲井龍雄(遠山翠)の存在は誇らしいものであったらしい。龍雄は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」龍雄は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで龍雄は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら龍雄はきいた。
「板谷峠にお住まいの与力某様でござります」
 龍雄は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると龍雄は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、龍雄は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い雲井龍雄でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  龍雄は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 龍雄の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、龍雄は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。龍雄は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。龍雄は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  龍雄は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により雲井龍雄の名声は世に知られるようになっていく。龍雄はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」

 親戚の妹は幼少の頃より、龍雄に可愛がられ、「これからは女子も学問で身をたてるときが、そんな世の中がきっとくる」という龍雄の考えで学問を習うようになる。雲井龍雄は天才的な思想家であった。すでに十代で藩主の指南役までこなしているのだ。それにたいしてその親戚の妹なる人物がどこまで学問を究めたか?はさっぱり資料もないからわからない。
 歴史的な資料がほとんどない。ということは小説家や脚本家が「好きに脚色していい」といわれているようなものだ。雲井龍雄のくせは顎をさすりながら、思考にふけることである。
 しかも何か興味があることをあれやこれやと思考しだすと周りの声も物音も聞こえなくなる。「んだげんじょ、なしで、守善(もりよし)にいちゃんは、考えだすと私の声まできこえないんだず?」親戚の妹が笑う。と雲井龍雄(本名・小島守善(もりよし))は「んだな、学者だがらだんべと僕は思う」などと真面目な顔で答える。それがおかしくて幼少の親戚の妹は笑うしかない。
 家庭教師としては日本一優秀である。が、まだ女性が学問で身を立てる時代ではなかった。まだ幕末の混迷期である。当然、当時の人は「幕末時代」等と思う訳はない。徳川幕府はまだまだ健在であった時代である。「幕末」「明治維新」「戊辰戦争」等という言葉はのちに歴史家がつけたデコレーションである。
 大体にして当時のひとは「明治維新」等といっていない。「瓦解」といっていた。つまり、「徳川幕府・幕藩体制」が「瓦解」した訳である。

話は長州藩の天才思想家・吉田松陰の話に変えよう。 
あるとき吉田松陰は弟子の宮部鼎蔵とともに諸国漫遊の旅、というか日本視察の旅にでることになった。松陰は天下国家の為に自分は動くべきだ、という志をもつようになっていた。この日本という国家を今一度洗濯するのだ。
 「文よ、これがなんかわかるとか?」松陰は地球儀を持ってきた。「地球儀やろう?」「そうや、じゃけん、日本がどこにばあるとかわからんやろう?日本はこげなちっぽけな島国じゃっと」
 「へ~つ、こげな小さかと?」「そうじゃ。じゃけんど、今一番経済も政治も強いイギリスも日本と同じ島国やと。何故にイギリス……大英帝国は強いかわかると?」「わからん。何故イギリスは強いと?」
 松陰はにやりと言った。「蒸気機関等の産業革命による経済力、そして軍艦等の海軍力じゃ。日本もこれに習わにゃいかんとばい」
 「この国を守るにはどうすればいいとか?寅次郎にいやん」「徳川幕府は港に砲台を築くことじゃと思っとうと。じゃが僕から見れば馬鹿らしかことじゃ!日本は四方八方海に囲まれとうと。大砲が何万台あってもたりんとばい」
 徳川太平の世が二百七十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 吉田松陰はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、松陰も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
  この年から数年後、幕府の井伊直弼大老による「安政の大獄」がはじまる。
 松陰は「世界をみたい! 外国の船にのせてもらいたいと思っとうと!」
 と母親につげた。
 すると母親は「馬鹿らしか」と笑った。
 松陰は風呂につかった。五衛門風呂である。
 星がきれいだった。
 ……いい人物が次々といなくなってしまう。残念なことだ。「多くのひとはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りない。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
 松陰は参禅を二十三、四歳までやっていた。
 もともと彼が蘭学を学んだのは師匠・佐久間象山の勧めだった。剣術だけではなく、これからは学問が必要になる。というのである。松陰が蘭学を習ったのは幕府の馬医者である。
 吉田松陰は遠くは東北北部まで視察の旅に出た。当然、当時は自動車も列車もない。徒歩で行くしかない。このようにして松陰は視察によって学識を深めていく。
 旅の途中、妹の文が木登りから落ちて怪我をした、という便りには弟子の宮部鼎蔵とともに冷や冷やした。が、怪我はたいしたことない、との便りが届くと安心するのだった。 
  父が亡くなってしばらくしてから、松陰は萩に松下村塾を開いた。蘭学と兵学の塾である。この物語では松下村塾に久坂玄瑞にならって高杉晋作が入塾するような話になっている。
 が、それは話の流れで、実際には高杉晋作も少年期から松陰の教えを受けているのである。
 久坂玄瑞と高杉晋作は今も昔も有名な松下村塾の龍・虎で、ある。ふたりは師匠の実妹・文を「妹のように」可愛がったのだという。
 塾は客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が松陰の元に舞い込むようになった。
 外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を父の借金の返済にあてた。
 しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。松陰はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! ぼくの名を汚すようなマネは許さんぞ!」
 松陰の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。
 
のちの文の二番目の旦那さんとなる楫取素彦(かとり・もとひこ)こと小田村伸之介が、文の姉の杉寿と結婚したのはこの頃である。文も兄である吉田寅次郎(松陰)も当たり前ながら祝言に参加した。まだ少女の文は白無垢の姉に、
「わあ、寿姉やん、綺麗やわあ」
 と思わず声が出たという。松陰は下戸ではなかったが、粗下戸といってもいい。お屠蘇程度の日本酒でも頬が赤くなったという。
 少年時代も青年期も久坂玄瑞は色男である。それに比べれば高杉晋作は馬顔である。
 当然ながら、というか杉文は久坂に淡い懸想(けそう・恋心)を抱く。現実的というか、歴史的な事実だけ書くならば、色男の久坂は文との縁談を一度断っている。何故なら久坂は面食いで、文は「器量が悪い(つまりブス)」だから。
 だが、あえて大河ドラマ的な場面を踏襲するならば文は初恋をする訳である。それは兄・吉田松陰の弟子の色男の少年・久坂義助(のちの玄瑞)である。ふたりはその心の距離を縮めていく。
 若い秀才な頭脳と甘いマスクの少年と、可憐な少女はやがて恋に落ちるのである。雨宿りの山小屋での淡い恋心、雷が鳴り、文は義助にきゃあと抱きつく。可憐な少女であり、恋が芽生える訳である。
 今まで、只の妹のような存在であった文が、懸想の相手になる感覚はどんなものであったろうか。これは久坂義助にきく以外に方法はない。
 文や寅次郎や寿の母親・杉瀧子が病気になり病床の身になる。「文や、学問はいいけんど、お前は女子なのだから料理や裁縫、洗濯も大事なんじゃぞ。そのことわかっとうと?」
 「……は…はい。わかっとう」母親は学問と読書ばかりで料理や裁縫をおろそかにする文に諭すようにいった。
 杉家の邸宅の近くに鈴木家と斎藤家というのがあり、そこの家に同じ年くらいの女の子がいた。それが文の幼馴染の鈴木某や斎藤某の御嬢さんで親友であった。
 近所には女子に裁縫や料理等を教える婆さまがいて、文はそこに幼馴染の娘らと通うのだが、
「おめは本当に下手糞じゃ、このままじゃ嫁にいけんど。わかっとうとか?」などと烙印を押される。
 文はいわゆる「おさんどん」は苦手である。そんなものより学問書や書物に耽るほうがやりがいがある、そういう娘である。
 だからこそ病床の身の母親は諭したのだ。だが、諸国漫遊の旅にでていた吉田寅次郎が帰郷するとまた裁縫や料理の習いを文はサボるようになる。
「寅次郎兄やん、旅はどげんとうとですか?」
「いやあ、非常に勉強になった。百は一見にしかず、とはこのことじゃ」
「何を見聞きしたとですか?先生」
 あっという間に久坂や高杉や伊藤や品川ら弟子たちが「松陰帰郷」の報をきいて集まってきた。
「う~ん、僕が見てきたのはこの国の貧しさじゃ」
「貧しい?せやけど先生はかねがね「清貧こそ志なり」とばいうとりましたでしょう?」
「そうじゃ」吉田松陰は歌舞伎役者のように唸ってから、「じゃが、僕が見聞きしたのは清貧ではない。この国の精神的な思想的な貧しさなんや。東北や北陸、上州ではわずかな銭の為に娘たちを遊郭に売る者、わずかな収入の為に口減らしの為に子供を殺す者……そりゃあ酷かった」
 一同は黙り込んで師匠の言葉をまっていた。吉田松陰は「いやあ、僕は目が覚めたよ。こんな国では駄目じゃ。今こそ草莽掘起なんだと、そう思っとうと」
「草莽掘起……って何です?」
「今、この日本国を苦しめているのは「士農工商」「徳川幕府や幕藩体制」という身分じゃなかと?」
 また一同は黙り込んで師匠の言葉を待つ。まるで禅問答だ。「これからは学問で皆が幸せな暮らしが出来る世の中にしたいと僕は思っとうと。学問をしゃかりきに学び、侍だの百姓だの足軽だのそんな身分のない平等な社会体制、それが僕の夢や」
「それで草莽掘起ですとか?先生」
 さすがは久坂である。一を知って千を知る天才だ。高杉晋作も「その為に長州藩があると?」と鋭い。
「そうじゃ、久坂君、高杉君。「志を立ててもって万事の源となす」「学は人たる所以を学ぶなり」「至誠をもって動かざるもの未だこれ有らざるなり」だよ」
 とにかく長州の人々は松門の者は目が覚めた。そう覚醒したのだ。
 嘉永六年(1853年)六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、松陰が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。松陰は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 幕府の勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。

  勝が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。松下村塾からは維新三傑のひとり桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸考充)や、禁門の変の久坂玄瑞や、奇兵隊を組織することになる高杉晋作など優れた人材を輩出している。
 吉田松陰は「外国にいきたい!」
 という欲望をおさえきれなくなった。
 そこで小船で黒船まで近付き、「乗せてください」と英語でいった。(プリーズ、オン・ザ・シップ)しかし、外国人たちの答えは「ノー」だった。
 この噂が広まり、たちまち松陰は牢獄へ入れられてしまう。まさに大獄の最中である…

  吉田松陰はあっぱれな「天才」であった。彼の才能を誰よりも認めていたのは長州藩藩主・毛利敬親(たかちか)公であった。公は吉田松陰の才能を「中国の三国志の軍師・諸葛亮孔明」とよくだぶらせて話したという。「三人寄れば文殊の知恵というが、三人寄っても吉田松陰先生には敵わない」と笑った。なにしろこの吉田松陰という男は十一歳のときにはもう藩主の前で講義を演じているのである。
「個人主義を捨てよ。自我を没却せよ。我が身は我の我ならず、唯(た)だ天皇の御為め、御国の為に、力限り、根限り働く、これが松陰主義の生活である。同時に日本臣民の道である。職域奉公も、この主義、この精神から出発するのでなければ、臣道実践にはならぬ。松陰主義に来たれ!しこうして、日本精神の本然に立帰れ!」
  これは山口県萩市の「松陰精神普及会本部」の「松陰精神主義」のアピール文であり、吉田松陰先生の精神「草莽掘起」の中の文群である。第二次世界大戦以前は、吉田松陰の「尊皇思想」が軍事政権下利用され、「皆、天皇に命を捧げる吉田松陰のようになれ」と小学校や中学校で習わされたという。天皇の為に命を捧げるのが「大和魂」………?
 さて、では吉田松陰は「天皇の為に身を捧げた愛国者」であったのであろうか?そんな者であるなら私はこの「昇り竜の如く 雲井龍雄とその時代」という小説を書いたりしない。そんなやつ糞くらえだ。
 確かに吉田松陰の「草莽掘起」はいわゆる「尊皇攘夷」に位置するようにも映る。だが、吉田松陰の「草莽掘起」「尊皇攘夷」とは日本のトップを、「将軍」から「天皇」に首を挿げ替える「イノベーション(刷新)」ではないと思う。
 確かに300年もの徳川将軍家を倒したのは薩長同盟軍だ。中でも吉田松陰門下の長州藩志士・桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、井上聞多などは大活躍である。しかるに「吉田松陰=尊皇攘夷派」と単純解釈する者が多い。
 それこそ「木を見て森を見ず論」である。
 「草莽掘起=尊皇攘夷」だとしたら明治維新の志士たちの「開国政策」「脱亜入欧主義」「軍備拡張主義」「富国強兵政策」は何なのか? 彼らは松陰の意に反して「突然変異」でもしたというのか? それこそ「糞っくらえ」だ。
 ちなみに著者(緑川鷲羽わしゅう)のブログ(インターネット上の日記)のタイトルも「緑川鷲羽 上杉奇兵隊日記「草莽掘起」」だ。だが、著者は「尊皇思想」も「拝皇主義」でもない。吉田松陰は戦前の「軍国主義のプロパガンダ(大衆操作)」の犠牲者なのである。
 吉田松陰は「尊皇攘夷派」ではなく「開国派」いや、「世界の情勢を感じ取った「国際人」」であるのだ。それを忘れないで欲しいものだ。
  




  風が強い。
 文久二年(一八六二)、東シナ海を暴風雨の中いく艦船があった。
 海面すれすれに黒い雲と強い雨風が走る。
 嵐の中で、まるで湖に浮かぶ木の葉のように、三百五十八トンの艦船が揺れていた。
 この船に、高杉晋作は乗っていた。
「面舵いっぱい!」
 艦長のリチャードソンに部下にいった。
「海路は間違いないだろうな?!」
 リチャードソンは、それぞれ部下に指示を出す。艦船が大嵐で激しく揺れる。
「これがおれの東洋での最後の航海だ! ざまのない航行はするなよ!」
 リチャードソンは、元大西洋航海の貨物船の船長だったという。それがハリファクス沖で時化にであい、坐礁事故を起こしてクビになった。
 船長の仕事を転々としながら、小船アーミスチス(日本名・千歳丸)を手にいれた。それが転機となる。東洋に進出して、日本の徳川幕府との商いを開始する。しかし、これで航海は最後だ。
 このあとは引退して、隠居するのだという。
「取り舵十五度!」
 英国の海軍や船乗りは絶対服従でなりたっているという。リチャードソンのいうことは黒でも白といわねばならない。
「舵輪を動かせ! このままでは駄目だ!」
「イエス・サー」
 部下のミスティは返事をして命令に従った。
 リチャードソンは、船橋から甲板へおりていった。すると階段下で、中年の日本人男とあった。彼はオランダ語通訳の岩崎弥四郎であった。
 岩崎弥四郎は秀才で、オランダ語だけでなく、中国語や英語もペラペラ喋れる。
「どうだ? 日本人たち一行の様子は? 元気か?」
 岩崎は、
「みな元気どころかおとといの時化で皆へとへとで吐き続けています」と苦笑した。
「航海は順調なのに困ったな。日本人はよほど船が苦手なんだな」
 リチャードソンは笑った。
「あの時化が順調な航海だというのですか?」
 長崎港を四月二十九日早朝に出帆していらい、確かに波はおだやかだった。
 それが、夜になると時化になり、船が大きく揺れ出した。
 乗っていた日本人は船酔いでゲーゲー吐き始める。
「あれが時化だと?」
 リチャードソンはまた笑った。
「あれが時化でなければ何だというんです?」
「あんなもの…」
 リチャードソンはにやにやした。「少しそよ風がふいて船がゆれただけだ」
 岩崎は沈黙した。呆れた。
「それよりあの病人はどうしてるかね?」
「病人?」
「乗船する前に顔いっぱいに赤い粒々をつくって、子供みたいな病気の男さ」
「ああ、長州の」
「……チョウシュウ?」
 岩崎は思わず口走ってしまったのを、リチャードソンは聞き逃さなかった。
 長州藩(現在の山口県)は毛利藩主のもと、尊皇壤夷の先方として徳川幕府から問題視されている。過激なゲリラ活動もしている。
 岩崎は慌てて、
「あれは江戸幕府の小役人の従僕です」とあわてて取り繕った。
「……従僕?」
「はい。その病人がどうかしたのですか?」
 リチャードソンは深く頷いて、
「あの男は、他の日本人が船酔いでまいっているときに平気な顔で毎日航海日誌を借りにきて、写してかえしてくる。ああいう人間はすごい。ああいう人間がいえば、日本の国が西洋に追いつくまで百年とかかるまい」と関心していった。
 極東は西洋にとってはフロンティアだった。
 英国はインドを植民地とし、清国(中国)もアヘン(麻薬)によって支配地化した。
 フランスと米国も次々と極東諸国を植民地としようと企んでいる。

  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
 長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚志を任命した。
 長崎にいくことになった勝海舟も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
  やがて奥田という幕府の男が勝海舟を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
 奥田のこの提案により、勝海舟は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
 勝海舟は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、勝海舟は隊長役をつとめており明るかった。
 雪まじりの風が吹きまくるなか、勝海舟は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から勝海舟のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた勝海舟は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
 勝海舟も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
  安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
  コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。
 短期間で命を落とす乾性コレラであった。
 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。
 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。

 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。
 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。
 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。
 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。

  幕府の小役人従僕と噂された若者は、航海日誌の写しを整理していた。
 全身の発疹がおさまりかけていた。
 その男は馬面でキツネ目である。名を高杉晋作、長州毛利藩で代々百十万石の中士、高杉小忠太のせがれであるという。高杉家は勘定方取締役や藩御用掛を代々つとめた中級の官僚の家系である。
 ひとり息子であったため晋作は家督を継ぐ大事な息子として、大切に育てられた。
 甘やかされて育ったため、傲慢な、可愛くない子供だったという。
 しかし不思議なことにその傲慢なのが当然のように受け入れられたという。
 親戚や知人、同年代の同僚、のみならず毛利家もかれの傲慢をみとめた。
 しかし、その晋作を従えての使節・犬塚は、
「やれやれとんだ貧乏くじひいたぜ」と晋作を認めなかった。
 江戸から派遣された使節団は西洋列強国に占領された清国(中国)の視察にいく途中である。
 ひとは晋作を酔狂という。
 そうみえても仕方ない。突拍子もない行動が人の度肝を抜く。
 が、晋作にしてみれば、好んで狂ったような行動をしている訳ではない。その都度、壁にぶつかり、それを打開するために行動しているだけである。
 酔狂とみえるのは壁が高く、しかもぶつかるのが多すぎたからである。
「高杉くん。 だいじょうぶかね?」
 晋作の船室を佐賀藩派遣の中牟田倉之助と、薩摩藩派遣の五代才助が訪れた。
 長崎ですでに知り合っていたふたりは、晋作の魅力にとりつかれたらしく、船酔のあいだも頻繁に晋作の部屋を訪れていた。
「航海日録か……やるのう高杉くん」
 中牟田が関心していった。
 すると、五代が、
「高杉どんも航海術を習うでごわすか?」と高杉にきいてきた。
 高杉は青白い顔で、「航海術は習わない。前にならったが途中でやめた」
「なにとぜ?」
「俺は船に酔う」
「馬鹿らしか! 高杉どんは時化のときも酔わずにこうして航海日録を写しちょうとがか。船酔いする人間のすることじゃなかばい」
 五代が笑った。
 中牟田も「そうそう、冗談はいかんよ」という。
 すると、高杉は、
「時化のとき酔わなかったのは……別の病気にかかっていたからだ」と呟いた。
「別の病気? 発疹かい?」
「そうだ」高杉晋作は頷いた。
 そして、続けて「酒に酔えば船酔いしないのと同じだ。それと同じことだ」
「なるほどのう。そげんこつか?」
 五代がまた笑った。
 高杉晋作はプライドの高い男で、嘲笑されるのには慣れていない。
 刀に自然と手がゆく。しかし、理性がそれを止めた。
「俺は西洋文明に憧れている訳じゃない」
 晋作は憂欝そうにいった。
「てことは高杉どんは壤夷派でごわすか?」
「そうだ! 日本には三千年の歴史がある。西洋などたかだか数百年に過ぎない」
 のちに、三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい……
 という高杉の名文句はここからきている。


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