長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.146小説『処女の棺 ジャンヌ・ダルクの生涯』加筆 参考文献 企画進行中

2014年12月31日 14時35分28秒 | 日記






実は今現在は

過去にものした


小説『処女の棺 ジャンヌ・ダルクの生涯』


を加筆している。


理由は過去より、ジャンヌ・ダルクの生涯に関しての研究がかなり進んで、


数十年前にはわからなかった


「ジャンヌ・ダルクの生涯」の参考文献が出てきた事。


今年中に加筆終了の筈が来年になりそう。


ほんの数日後だが(笑)


緑川鷲羽2014年そしてはじまりの2015年へ

フェイスブック<若き天才の野心>facebookマークザッカーバーグ伝アンコール連載3

2014年12月31日 07時51分48秒 | 日記








  話を変える。
  マイクロソフト社は一歩一歩『大企業』へと歩みつつあった。
 はじめは華々しい躍進だった。
 しかし、新世紀頃からITはバヴル化が濃くなりはじめた。その泡は弾けた。
 弾けると、統制されていた経済も政治もボロボロになっていった。
 家庭からは「パソコン家電」といわれた。
 ウインドウズ95も規制され、独占禁止法律で訴えられた。
 ゲイツは政治家の偉いひとに呼ばれた。
 驚いた。
 MS社を分割しろと注文がきたのだ。
 まったく驚きだった。
 いままでシリコンバレーを、いや米国を牽引してきたのはMS社ではなかったのか?!
「この話は断らせていただきます」
「そこをなんとか、引き受けてくれ」
 といわれても、受けることは出来ない。


 それでもまだ無理難題をいわれる。
 今度は「飛行機のソフトをつくってくれ」というのだ。
 飛行機のソフトはIBMでつくるが、調整はマイクロソフトのほうでつくってくれという。
 ビル・ゲイツは社員に激を飛ばして、飛行機用のソフトをつくった。
 社員たちからは、感動がおきた。
 飛行機が飛んだときだ。
「ビル・ゲイツという男はたいしたものだ」
 軍部の大将も感動していた。
 戦争のための飛行機をつくる………
 これは、ビル・ゲイツにとって避けられない選択であった。
 けして、戦争に賛成していた訳ではない。
 しかし、従業員を食べさせてやらなければならない。
 ゲイツは船や戦闘機のソフトをつくり続けた。
  だが、戦争は惨めな敗北におわる。
 中東ではアメリカ人が訳のわからぬ自爆テロで次々と殺されていく…
「ああ…」
 泣きくずれた。声もなく、米国人は泣いた。
 しかし、これからが勝負だ!、と思っている男がいた。
 ゲイツである。
 この頃、MS社は従業員数二万四千人にもおよぶ巨大企業へと成長していた。
  その晩は、寝床でゆっくりと寝て、
「いやぁ、長い一日だったなぁ」
 とゲイツはいったという。
「だけど、これからがMSの始まりだ」
「あなた……すごいこと考えるねぇ」
「ぼくは世界一の経営者になるんだ! 世界一だぜ! そしてこの米国って国を世界一の『技術立国』にするんだ! それがぼくの使命だ!」
「まぁ、『技術立国』? あなたはすごいこと考えよるなあ」
 妻は感動するやら呆れるやら。
 ゲイツは社員に、
「これからはぼくらの時代です。米国は戦争には負けたが、これから経済で勝つつもりで頑張って下さい!」と激を飛ばす。
 拍手と歓声がどっとあがった。
 ビル・ゲイツは40歳になった。若い血がないとマイクロソフトは死ぬ。
 もっかの敵はネットスケープだ。その敵の大将はシリコン・グラフィク創始者、ジム・クラークだ。MSーDOSは運転免許。ウインドウズ95、NT、XP…7…8…は飾り…
 パソコンのソフトは初勤務の秘書のようなもの……
 ゲイツは野心を向きだしにする。
「ぼくは勝つ! 今度も勝つ! 今度も…」

  ゲイツは以前から日本に興味をもっていたという。
 宣伝のため、何度も日本に通っていた間に、親しい日本人も出来ていた。それらも親友は頭の回転が早い。
「日本人っていうのはすごいなぁ」
 ゲイツはそう思った。
 しかし、ホリエモンとは会ってない。孫正義とは会った。
 びっくりしたのはソニーだった。当時の盛田昭夫にあった。
 ソニーのビジネススタイルは……といっても米国流だが、素晴らしいものだった。
「日本はすごい国だなぁ。米国が経済戦争に負けたのもわかる」
 ゲイツにとって豊かな日本の光景は驚きの連続だった。当時の日本は治安もすべてよかった。豊かな時代である。
 ゲイツは思う。
「遠からず、米国にもこういう時代がくる。いやこなけりゃいかんなぁ。勤勉でいいじゃないか。皆平等だ。だが、米国のほうが努力したものが金持ちになれる。
 会社では社長と部下でも、外にでれば仲間同士……米国では考えられない。
 米国もこういう国にしなければならない!」
「いいものはどんどん真似して、技術や哲学を吸収して、生かさなければ駄目だ!」
 マネしたソフト……マイクロソフトの本領はいよいよここから発揮されていく。    
         5 世界一のプログラマ




2003年、ハーバード大学2年生のマーク・ザッカーバーグは、高校時代から腕利きのプログラマーであったが、人付き合いは苦手だった。
 ガールフレンドのエリカを、酒の席で怒らせ、別れることになった。そんな彼が寮の自室に戻り、やけでビールを飲みブログに彼女の悪口を書いていたが、そのうちに「動物と女子大学生を比較して…いや、女の子同士を比較して、投票させたらオモシロイ」と思い立ち、ハーバード中の寮の名簿をハッキングし、女子学生たちの写真を並べてランク付けするサイト作りに取りかかる。
 このサイト“フェイスマッシュ”はたった2時間で22,000アクセスに達し、マークの名前はハーバード中に知れ渡る。これが利用者全世界8億人以上のSNS“フェイスブック”の始まりだった。
2004年。資産家の家に育ち、次期オリンピックにも出場が期待されるボート部のトップ、双子のウィンクルボス兄弟は憤慨していた。自分たちが企画した学内男女のインターネット上の出会いの場“ハーバードコネクション” 立ち上げのためマークに協力を要請していたが、彼は“ザ・フェイスブック(The Facebook)”を立ち上げてしまったのだ。
彼らは、早速、自分の父親の会社の弁護士を介し知的財産の盗用だ、として停止警告を送る。ところが、マークはそんな彼らを無視し、大学の垣根を越えて、その利用者を増やしていった。さらに、ザ・フェイスブックの共同創業者&CFO、エドゥアルド・サベリンとマークはNYへ広告スポンサー候補との会合に出かけ、19歳で“ナップスター(Napstar)”を作ったショーン・パーカーに出会う。
ショーンは、「フェイスブックは、これからも巨大に成長するサイトだ。釣り好きは、小魚を14匹釣っても評価されない。巨大なメカジキを釣ってこそ、評価される。
評価額、10億ドルを目指せ」とアドバイスする。そして、そこまで成長させるためカリフォルニアに来るように持ちかける。
マークはスタッフを増やしサーバーを増設、ショーンは次々に投資家とのミーティングを設定する。それに怒ったエドゥアルドは、会社の口座を凍結することを決意する。一方で、そのことがさらにマークの逆鱗に触れる。「フェイスブックは、絶対にサーバーダウンしない設計が売りの一つだ。それなのに、口座を凍結して、サーバー維持ができないようにしてしまうなんて…利用者を失望させると、サイトは見限られてしまう!」と、エドゥアルドを痛烈に批判した。だが、ショーンの働きかけもあり、出資者が見つかって事なきを得る。株保有率は当初、マークが60%、エドゥアルドが30%程度となっていた。事実上、サイト運営者のナンバー2という地位は保証されていたかにみえた。
ところが、巨大なサイトに変貌していく中で、エドゥアルドは取り残されてしまう。新規株発券に伴い、エドゥアルドの株保有率は0.03%程度にされそうになり、そのことに彼は激怒する。エドゥアルドは創業者としての権利を主張、マークを告訴した。
また、やがてウィンクルボス兄弟も「アイデアを盗用された」と言い、マークを告訴するに至った(ConnectU論争)。
2つの告訴を受けて、マークは「Facebook」を守ろうと抗弁する。その中で友人との関係性悪化に悩んでもいた。裁判前の調停中、新人弁護士に「あなたは嫌な人ではない。嫌な人に見せようとしているだけ。でも、そのことは陪審員に伝わるかどうかは、分からないわ」と言葉をかけられる。そこで思いだされるのが、元恋人、エリカのことだった。ふと思い立ち、彼はエリカのフェイスブック上のページにアクセスする。そして、彼女に友人になって欲しい、とコメントを送る。マークはその後、エドゥアルド、ウィンクルボス兄弟と和解することになる。  
こうして紆余曲折を経てマーク・ザッカーバーグは「若き天才」としてカリスマとなり、「若き天才の野心」は世界最年少の億万長者として、そしてフェイス・ブックのユーザー8億人(2014年度時)という大成功をみせるのである。
 このままザッカーバーグの物語は「現在進行形」で続くだろう。
 成功は億万長者として、そして名声・地位・名誉をもたらした。
 後はノブレス・オブリージュ(社会奉仕)の任務(ミッション)だろう。(「フェイスブック「若き天才の野望」」デビッド・カークパトリック著作 滑川海彦訳 日経BP社出版 参考文献)


 『フェイスブック「若き天才の野心」facebook マーク・ザッカーバーグ伝』おわり。


話を変える。後はビル・ゲイツの物語でおわかれしましょう。
  ゲイツは、渡日して、家電、秋葉原、新宿、TV局や半導体などを見て、「このまんまんだったら米国はおいてかれる」
 と恐ろしくなったという。
 それだけ日本の技術力は当時優れていたのだ。
「………米国はまだまだ外国に学ぶことは多いのだなぁ」
 ゲイツは思う。
 そう思っていたのは共に米国を『技術立国』にした英雄、インテルのアンドリュー・グローヴさんも、同じ思いであった。
 まだまだ米国はこれからだ。まだ技術が足りない……
 そこでゲイツは日本の企業と提携して、技術を得ようと考える。
 まず、どの会社にするか?
 ゲイツは一回目の渡日では満足せず、今度はEUへ渡った。
 その頃、MS社は大きな会社になっていたが、それでも提携が必要だ、とゲイツは思っていた。
 ゲイツには夢があった。
 それは、米国を『技術立国』にすることだ。
 米国製品は「安かろう悪かろう」ではなく「安くて品質のいい長持ちする製品」にすることであった。そのターゲットがゲイツの場合、”ソフト”だった。
 なにしろ『経営の神様』と呼ばれていたゲイツのことである。
 やることも大きい。
 ヨーロッパ・オランダ(現・EU)のフィリップス社に単身乗り込み、提携書にサインした。アイルランドには工場をつくり、中国にも眼を向けた。
”また一緒に取り引きしないか?”
 と誘われて、それで提携したのだという。
 新しい技術関係というのは子を生み出すための夫婦関係のようなものだ。
 だから相手選びには慎重にならざるえない。
「技術提携がうまくいくんもいかんも、自分に相応しい相手を選ぶことに限る」
 ゲイツの考えはそういうものだった。
 相手がどんなに優れた技術をもっていても、相性があわなければうまくいかない。
 人間でも会社でもそれは同じなのだ。
「だから自分の目で、じかに確かめにゃいかん」
 とゲイツはいう。
 フィリップス社は小さい国土の中で、世界有数の技術をもった企業に育った会社だった。その点は初期のMS社と似ていた。
 相性もバッチリだった。
 オランダと米国とは肌の色も同じだ。しかし言語が違う。
 しかし、「そんなもん関係ない」と開きなおるのがゲイツのすごいところだった。もちろん、経済では交流があった。
 戦争と経済は別なのだ。
 ゲイツ哲学を発揮して、米国代表のような気分にひたっていたゲイツだった。

 技術提携といっても、マイクロソフトは教えてもらう立場だったので、技術指導料という形で月謝を払わなければならない。それではあまりにも一方的で、負担も大きい。
 ゲイツはこう提案する。
「たしかにマイクロソフトはあなたのところから教えてもらう立場ですから技術提供料はお支払いします。だけど、そのかわりうちは会社を経営するんだから経営指導料をもらいます。経営も技術ですから」
 これは相手のフィリップ社もびっくりした。
「経営指導料なんてきいたころもない」
 しかし、ゲイツはねばる。
 ついにはフィリップ社も根負けして、「わかりました」と受け入れたという。
 フィリップ社は他にも他社と提携していたが、マイクロソフトは最高にうまくいっている会社だった。フィリップ社は、
「さすがに経営指導料をとるだけの会社だ」と納得した。
 ゲイツは『経営の神様』といつしか呼ばれるようになっていく。
 ときには政治家にも意見をいう。
 するといわれた政治家も、
「そうか! さすがは目のつけどころが違う」といって納得する。
 ゲイツは若い頃、虚弱体質で病気だったせいもあり、”自分を管理”してきた。
 その若い頃の経験と、起業や経営経験が天才的な「経営哲学」を生んだことを見逃してはならない。
 そんな『経営の神様』を世界は放ってはおかない。
 米国のタイム誌がゲイツの”伝説”を取り上げ始める。
”世界のMS社””ウインドウズ”をつくった男………世界中がゲイツを注目しだす。ボサボサの高校生のような顔付きのゲイツの顔写真が表紙をかざる。と、世界は「米国にゲイツあり」と初めて知った。
 というより、ウインドウズは知っていたが、社長がこの米国人だとは知らなかったのである。
 ゲイツは国際会議に出席していう。
「企業経営というのはいろいろあります。たとえば大統領が国を経営するんも経営ですなぁ。またアメリカに無数にあるドラックストアーを経営するんも経営です。それらに共通しているのは、経営者というもんは、いつも自分のやっていることのよしあしがわかって、それに点数をつけられることです」
 また、テレビ対談では時の大統領・クリントンと対談をやったりパフォーマンスまでした。「ヒトラーは破綻したドイツ経済をわずかな間に立て直した。そこまではよかった。しかし、やりかたがまずかったんだと思うんです。全体的な経営ということで方向性が間違っていた。まちがった見通しと方法によって、全ヨーロッパの経営などというだいそれた考えをもち、それで失敗したんだと思います」
 さきに『タイム』にとりあげられると、今度は『ライフ』にとりあげられるゲイツ。
 そのどこか高校生のようなメガネの童顔が表紙に飾られる。
 すると、世界がゲイツに注目する。
 その人気ぶりはすごく、『世界一のソフトをつくった男』として、有名になっていった。この頃、尊敬する米国人は誰か? とアンケートをとったところ、
 ……”ビル・ゲイツ”……
 というのが一番だったそうだ。
 これは、大統領のクリントン(当時)やJFKさえも勝てなかった。それくらい米国人に尊敬されていた。
 なにしろ若い。しかも中退して十九からスタートしたまさに立身出世の英雄である。そのどこか高校生のような風貌と人生は、人々を熱狂させずにはいられないものがあったのだろう。



  九〇年になると世界経済に陰りが見えてきて、不況になった。
 バタバタと会社がつぶれていく。
 MS社も苦しい時期だったが、ゲイツはリストラはしなかったという。
 そのかわり、導入したのが、ワークシェアリング、
 そして、週休二日制度だった。
 ゲイツは先を見ていた。
「こんな不況なんてすぐおわりだ。米国は復活する。そのためにもMSはふんばらにゃあかん。米国を『技術立国』にするんはぼくだぜ!」
 ビル・ゲイツはどこまでも経営の天才だった。
 今苦しいからといって、せっかく育てた『技術屋』をリストラしたら後で困る……
 ゲイツはどこまでも先を見ていたのである。
  そして、やがて米国経済もコンピューター産業も息をふきかえした。
「それみろ!」
 ゲイツはサム・アップした。……これでまた勝てる!
 もはや世界でマルチメディア、あるいはプロードバンドという言葉をきかない日はない。映画好きのゲイツは映画産業をも飲み込むに違いない。なにしろ映画ソフトをすべてもっているほどのオタクなのだ。しかし、日本人は焦ることはない。
 ホリエモンみたいに暴走してても損だけだ。
 ネットが万能な訳ではない。
 ネットでメディアがなくなる訳はない。ネットで服が作れるか? 食べ物が食べれるか! もっと頭をつかいなさい!
 と、いうことだ。
 日本には技術がある。日本は『ものづくり』では世界一だ。
 まだゲイツに勝てる!
 ゲイツの戦略はだいたい読めている。まずOS、次ぎにゲーム、次ぎはインターネット関連、スポーツやメディアや音楽とのコラボ、銀行や財布、映画・CGなどのコンテンツ、化粧や癒しやサロンや医療介護分野、ペット、ロボット……情報…ヴァーチャル・ワールドでのビジネスやM&A(企業買収)……
 だいたいわかる。
 なにせ著者だって昔はプログラマーだったのだから…。
 そして、私のほうが戦略をたてるのがうまい。他人に負けない自信がある。

         6 ネット革命







 ゲイツはナポレオンやリンカーンの大ファンだ。
「ナポレオンの戦争や南北戦争は米国の短い歴史の中でも特筆すべきもんだ。それがなければ米国は植民地になっていた。今日のような発展をとげることもなかったかも知れない」 ゲイツは中でも、ナポレオンが大好きで、その才能、行動力、天才ぶりを高く評価していたという。講演でも度々「ナポレオン」の話がでる。
 いまではゲイツのおかげで、墓もきれいになり、線香をあげる観光客が絶えないという。 彼はMS社の前に十五体の銅像を建てた。それはゲイツが尊敬する人物たちだった。
 トヨタ自動車をつくった豊田佐吉やナポレオン、リンカーンなど……
 また発明家としては、エジソンやマルコーニ、オーム、ファラデーなどが選ばれた。
 エジソンの像は中央においた。
 ゲイツは自分とエジソンをだぶらせる。
「発明王のエジソンは小学校では低能扱いされ、たった三ケ月で退学させられたが、自然化学から学ぶことに長けていた。おどろくほどの才能を発揮した。
 ボクもそうなりたく思う」
 ゲイツは「企業秘密」などといって工場内部をみせないような男ではない。
 堂々と外国人たちやライバル企業に工場見学させた。
 工場を見た一行たちはいっせいに、
「なんとうつくしく明るい工場だろう」と感嘆したという。
 ゲイツにとって企業秘密などどうでもいいことで、「例えマネされてもうちもマネしてるんだしマネされた頃にはMSはもっと先へいってる」
 といったひとつの信念があった。
 また、ゲイツはこの頃より、
「米国にはすぐれた環境がある。観光立国にもならにゃだめだ!」とうったえはじめる。 LAやNY、フロリダ、アラスカ……
 外国人たちが遊べる、楽しめる観光スポットは米国中にある。
 観光は米国の技術との両輪だ!
 ゲイツは日本人の丁寧さ、器用さに尊敬の念をもっていた。
「外国にいくとわかるが、ウェイトレスはどうでもいいようにいかげんにコーヒーをつぐ。これは能率的にやろうとしてのことやろうが、むかつく。
 その点、日本人はお客様に迷惑をかけまいと慎重につぐ……これが日本人のいいところだとぼくは思う。この気配りこそが大事なんだ」
 事業も海外進出などめざましい発展があった。
 すでに40歳となっていた。

 ゲイツは「他社のいいところはマネして、付加価値をつけて売れ」
「いつも一商人なんだと心掛けよ」
「社長は社員のおかげでメシが食えると思え」
 などと言った。
 しかし、ゲイツは思う。
 米国の教育の腐敗………
 ……教育革命…
 これが、次のゲイツの前の解決さねばならぬ”問題”だった。
 この頃から、米国の教育はおかしくなっていった。
 校内暴力、少女売春、ひきこもり、いじめ、麻薬、殺戮、暴走族………
 米国の今の教育のままでは”暗記だけの暗いロボット人間”が大量に排出されるだけだ! ゲイツは教育こそ国の力だと思っていた。
 現在の学生を見るがいい。
 大学生が婦女暴行や痴漢で逮捕され、中学生までもが売春し、「憂える」さえ読めない。「天動説」まで信じている学生までいる。
 ホームレスを集団でリンチして殺すガキや、売春して稼いだ金でホスト通いの女子もいる。平気で親や他人を殺す……
 ゲイツは米国の教育が衰退しているのを知っていた。
 だからこそのソフトだった訳だ。
 ゲイツは嘆いていた。
「このまんまでは米国は終りだ」
 このどうしようもないガキたちをどうするか?
 著者の提案をいおう。
『ボランティア研修』だ。
 老人ホームか、東南アジアやアフリカに点在する難民キャンプに学生をボランティアでいかせて何か月か研修させるのだ。
 自分とは違った世界にいるひとの苦しみを知ってそのひとたちのために献身的に働く。しかも語学まで学べる。他人の痛みもわかる。
 英語なんて話せなくていい。通訳をつけて、学生たちをボランティア研修させるのだ。 そうすれば、他人に平気で罵声を浴びせ掛けたり、嘲笑したり、殺したり売春するガキもいなくなる。もちろん内戦しているところへいけとはいわない。
 ただ、治安が守られて、通訳がいるところで辛い汗をかかせなければ、今のガキたちは変わらない。『ゆとり教育』だの『教育見直し』などの前に、ボランティア研修をさせることだ。そうすればガキどもも変わる。
 教育革命とはそういうことだ。

  ビル・ゲイツはソフトだけでなく、ハードやネットもやる。BASIC…ウィンドウズ…対マック……ネットワーク、ブロードバンドでインターラクティヴ化…ホームページ…ブログ…ツイッター…フェイスブック…
 あのメガネのおかしな男に今後どれだけのことが出来るか……
 見物ではある。


緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.147来年2015年度「ハイパー・インフレ」「デフォルト」対策1増税2歳出削減

2014年12月30日 18時47分13秒 | 日記







来年の日本に何があるのか?


確実なのは来年内かはわからんが


「ハイパー・インフレ」「デフォルト(債務不履行)」


である。


少子高齢化で人口が激減するのだから


(つまり借金を返す人がいなくなるから)


当たり前に起こる。

対策は増税、歳出削減、容積率倍増等の成長戦略である。

私は歴史を変える人物になる。


緑川鷲羽2014年そしてはじまりの2015年へ

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.146小説『エノラ・ゲイ 原爆投下』加筆 参考文献 戦後70年記念企画進行中

2014年12月29日 18時30分20秒 | 日記






小説『エノラ・ゲイ 原爆投下』を加筆した。


実際には1980年に出版されていた

松田銑氏日本語訳の


ゴードン・トマス+マックス・モーガン=ウィッツ著作の


参考文献『エノラ・ゲイ ドキュメント原爆投下 Ruin From the Air』が


重要なファクターになった。


戦後70年の来年出版予定



緑川鷲羽2014そしてはじまりの2015

フェイスブック<若き天才の野心>facebookマークザッカーバーグ伝アンコール連載2

2014年12月29日 09時01分28秒 | 日記










 話を変える。
  ビル・ゲイツはハーバード大学在学中に友人とふたりで世界で初めてBASIC言語でのソフト開発に成功した。起業したときはわずか十九歳だったという。
 起業名は『マイクロ・ソフト』……
 創業は1975年である。
 次に基本ソフトとなるDOS(ディスク・オペレーション・システム)の開発に成功した。この時代、まだディスクもCDーRWもなく、紙テープだった。
 彼らはIBMにソフトをもっていこうとパンチングしていたが、徹夜続きだったという。そこで紙テープを床においたままにして仮眠室にむかってグーグーいってると清掃員のオバさんが紙を「ゴミ」だと思って捨てたというのは有名なエピソードだ。
 ガッカリして、またソフトをつくり、紙テープにパンチングする。
 うまく動くかは分からない。
 IBMにもっていって「自信があります」という。
 やってみて読み込むと、ちゃんと便利に動く。
 彼らは内心ビクビクなのだが、心の動揺は隠し通して、「ほら? でしょう?」
 と余裕な笑みを浮かべた。
 あとで溜め息が出たという。
 1978年にたった十一人だった従業員は1993年には一万五千人にもなった。
 パソコン・ブームが後押ししてくれ、年収は倍々ゲームのようにアップしていった。
 楽天の三木谷や孫、ホリエモンもハマった者のひとりだった。
  マーケティグの成果は格差にある。
 ビル・ゲイツのソフトを使わなくても情報は手に入る。しかし、時間がかかる。
 その不便を払ってくれるのがウインドウズであり、ネット社会、ブロードバンドだ。
 ビル・ゲイツは今だに貧乏ゆすりが消えないが、そんな男を越す男は出てくるか?
  彼はまたパラノイド(脅迫神経症)でもあるという。
「……いつ自分よりすごい人間がでてくるか…」
 いつもビクビクしている。
 しかしホリエモンでないことだけは確かだ。孫正義でもちと弱い。
 ビル・ゲイツはドケチでも知られる。
 社員と食事してもいつもワリカン、飛行機はいつもエコノミー・クラス。優しいと思うと急に怒りだす。極度の近眼で少年時代から分厚いメガネをかけていてイジメられた。
 彼はそのイジメを今も忘れない。
 彼は金持ちになることで復讐したのだ。
 だから、自分に不利な相手は叩き潰そうとする。
 IBMを利用してソフト革命をやった男がただのお坊ちゃんな訳がない。
 ちゃんとした戦略とヴィジョンがあったのである。
 しかし、それにしてもケチだ。
 最高級のシャンパン、ドン・ペリニョンを愛飲するかと思えば、
「ぼくはハンバーガーとフランド・ポテトが大好物」などとぬかす。
 最高級のスポーツカーを乗りまわすが、飛行機嫌いで、席はいつもエコノミー・クラスにしか座らない。食事を誰かに奢ったことなどほとんどない。
 しかし、一方で戦略に長けていて、リストラやM&A(企業買収)もいとわない。
”パソコン・オタク”のまま金持ちになった男だ。
 ウインドウズが世界基準となったのも、彼がマーケティングのプロだったからだ。
 WWW(ワールド・ワイド・ウエヴ)で始まるネット社会をつくるため、ゲイツがどんな汚い手を使ったことか……
 マウスで矢印を動かし、ウインドウ(窓)と呼ばれるものをクリックする。またはドラッグする。また別のウインドウ(窓)が出てくる。
 だが、まだアップルやネットスケープやトロンがある。
 日本人がつくったのがトロンだが、家電の大半はトロンで動いている。
 それが、ゲイツには面白くない。
「アイデアというものは誰でももっているが、ほとんどの人間は生かしきれてない。
 それを事業や芸術につなげて対価を得るのが才人というものだ」
 ビル・ゲイツは携帯より小さいパソコンを提案したりもする。
 指で押せないから携帯より小さいパソコンなど無理だ……馬鹿はそう考える。
 声で動かせればいいのだ。
 そこが、凡人とアイデア人間との違いだ。
 凡人は物を見たり聞いたりしてもそれを金にかえることはできない。
 だから、何でも与えられるだけの人間になる。
 ただ、ネットを見て、テレビをみて、音楽を聞く……それを金にかえる努力をしない。活字小説も読まず、マンガばかり読む。だから頭が悪く、道徳のない馬鹿になる。
”憂える”も読めず、ブルネイがどこにあるかもわからない。
 こんな日本には希望がない。
 どいつもこいつも馬鹿か学歴エリートだけだ。
 まだ治安は悪いが、米国のほうが成功の機会は多い。
 このままでは日本の”頭脳”はすべて外国にいってしまう。残念なことだ。     


         3 豪邸と起業





  ソーシャルネットワークというコンセプト(概念)は新しいものではない。初期のフェイスブックの要素の多くは、もともとほかのパイオニア(先人)、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズ等によってすでに開発された。ザッカーバーグの、フェイスブックはパソコン・アイデア40年間の進化の相続人のひとりに過ぎない。
 ザッカーバーグは「フェイスブックでアイデアを盗作された」と大柄な双子兄弟やギーク(パソコン・おたく)に訴えられたが、フェイスブック程度のアイデアはすでに数十年も前に構築されていた。
 但し、インターネットやサーバーや小型化、スマートフォン、携帯電話、タブレット端末と時代がパソコンを家電並みに低価格になった(いわゆるパソコン革命という)からサービスが出来たにすぎない。
 パソコンに詳しいひとならフェイスブック程度のアイデアは数十年前に考案していた。私だって高校生の頃、フェイスブック程度のアイデアは頭の中にあった。だが、時代が追いつかなかった。
 私の高校時代は80年代後半で、インターネットもサーバーも携帯もパソコンも「(動作が)遅い」「(値段が)高い」「(機能が)安っぽい」とダメダメだった。
 だから、私が彼らと同学年くらいで今のようなパソコン革命後なら成功していたろう。実は秘密だがパソコンのインターネット・ソーシャル・ネットワーク・サービスの特許を3つ登録済みだ。
 日本の大企業に何十億円かで購入してもらう予定である。社会奉仕もするが、まあみていてくれたまえ。後で皆があっと驚くから(笑)
 だが、特許名は明かさない。たかられるから(笑)
 フェイスブック程度のアイデアは独創的なアイデアとはいえない。ある意味そういう時代の空気がザッカーバーグにザ・フェイスブックをつくらせ、その名前を思い付かせたともいえるだろう。
 2003年9月、ハーバード大学の4年生、アーロン・グリーンスパンは「ハウスシステム(HouseSystem)」というソーシャルネットワークを立ち上げた。ハーバードの学生同士が講座をとったり、本を借りたり、学生が写真をアップできる「ユニバーサルフェイスブック」。これとは別に、ディヴィヤ・ナレンドラは、2002年12月にハーバード大学向けのソーシャルネットワークのアイデアを得たと主張している。
 ザッカーバーグとフェイスブックを相手取って起こした裁判の膨大な訴訟文章によれば、ナレンドラはその後、「ハーバード・コネクション(HarvardConnection)」というソーシャルネットワークを開発しようとして、ウィンクルヴォス兄弟とチームを組んだ。
 彼ら双子は金髪の長身の白人のワスプ(ワスプとはWASP「ホワイト(白人)、アングロサクソン、プロテスタント」の頭文字。アメリカの保守的な支配層の中心的存在を指す)で、やせっぽちでがり勉のコンピュータおたく風のユダヤ系のザッカーバーグとは両極端だ。
 3人は「フェイスブックは盗作だ!」と訴えた訳だ。裁判は映画通り、ザッカーバーグ側敗訴。だが、大金持ちのザッカーバーグには賠償金の数十億ドルも「たいした痛手」ではない。
 盗作と言えばアップルのアイデアを盗作したビル・ゲイツだ。ウインドウズ等というOS(オペレーションソフト・基本ソフトウェア)をつくり、スティーブ・ジョブズのアイデアを盗作して世界一の大金持ち(総資産7兆円)となった。
 盗作だろうがなんだろうが、悪事ではなく儲ければ勝ちなのだ。
 勿論、ザッカーバーグは「盗作などしていない」と主張した。当たり前である。認める馬鹿はいない。
 ショーンのような経営経験のある人物はフェイスブック社にとって有りがたかった。
 ぼくらは会社のつくり方も、資金のつくり方も皆知らなかった。全部「保守的な」パーカーがやってくれた。
 この連中が以前に買った12年物のフォード・エクスプローラーがとうとう使えなくなった。パーカーが駐車違反の罰金の未納を重ねたために当局に押収されてしまったのだ。
 シールは「5万ドル以下にしておくんだ」と社用車の購入に条件を出した。そこで黒のニッサン・インフィニティFX35を買い込んだ。スポーティーなSUVである。彼らはFX30を「ウォートホグ(イボイノシシ)」と名付けた。Xboxの人気ゲーム、ヘイローに登場する戦車からとった名前だった。
 彼らのおもちゃでさえ高級になっていく。成功者への道はもうすぐゴールである。
(「フェイスブック「若き天才の野望」」デビッド・カークパトリック著作 滑川海彦訳 日経BP社出版 89~135ページ」)







話を変える。
  マイクロソフトは『ゲーム部』という部署をもうけ、おなじみのXboxに本腰をいれることになった。
 発足と同時に若い人材が入ってきたが、それはITバヴルが弾け、泣く泣くシアトルへきた男だった。
「こいつは下請けのだな」
 ビル・ゲイツは感付いた。
 しかし、この男、なかなかプログラミングの技術がすごい。剣豪は相手の剣さばきで腕がわかるというが、ゲイツは相手のパソコンのつかいかたで腕がわかったという。
 ゲイツは感心して「こいつ、おれのとこにくれへんかな?」と思った。
 さっそく男と話して、下請け工場の長とも話して、マイクロソフトにきてもらうことになったのだという。この男はのちに大企業となるある会社の副社長までなったもので、ゲイツの審美眼もさすがだな、と思う。重役陣も技術畑の出身者だ。
 英雄とは、ずばぬけた審美眼と体力、知恵をもっていなければならない。
 ゲイツにはそれがある。
  マイクロソフトというのは徹底した人材主義で知られる。
 ゲイツは、
「物をつくるよりひとをつくるのが先である」
「人材は長い目でみて掘り出せ」
「人間の潜在能力を引き出す」
「人は短所より長所をみるようにする」
「ひたすら求めれば、人材はえられる」
 といって人材やひとづくりの大切さを力説する。
 のちに教育がおかしくなっていく中で、ゲイツが国の教育、親のしつけを憂いたのもそうしたポリシーからだった。
  1990年から2000年にかけて、米国は深刻な不景気にみまわれた。
 この不景気は深刻なもので、大学卒業の人間でも就職先がなかったほどだった。
「大学出たけど…」
 というのが流行語にまでなった。
 しかし、それでもマイクロソフトはどんどんと伸びていった。気がつけば、従業員は二万人にもなっていた。友達たちとわずか三人で始めた会社が、何百倍になったのだ。
 この頃から、ゲイツは、
「企業は社会的責任がある」
「企業で働くひとも、資本も、設備も社会からの預かりもの。だから大事に育てていかなければだめだ。そこから生まれた利益も、社会のために役立たせなければいかん」
 という哲学をもつようになった。
 経営者は企業のトップである前に、道徳のトップでなければならない。
 ゲイツは思いあがっていっている訳ではなかった。
 ちゃんと商いしているなかで、そういう哲学を自然と身につけていったのである。
 ハーバード中退だったが、どっかの大学生よりはよほど優れている。
 ゲイツは、
「ひとづくりをやらなければならない」
 と、現代でいう社員研修や見習い制度、企業内研修などをやっていった。
 ゲイツは自分の知識と経験で、研修をすすめた。
 まるで吉田松陰のようだが、ゲイツの信念に一寸の狂いもない。
 その結果、のちに幹部や重役となる人材が育ってきたからだ。
 ITバヴルが弾けた。
 マイクロソフトのライバル企業もバタバタと倒産していく。マイクロソフトだって例外ではなく、売り上げが半分にまで落ち込んだ。
 もはや企業努力だけではどうしようもない。
 マイクロソフトの倉庫には製品が山積みになってしまった。
「もうこれ以上入りません!」
 倉庫係りが悲鳴をあげる始末だった。
 悪いことは重なるもので、この年ゲイツは病気になり、自宅療養ということになった。元々、体があまりじょうぶではない。そんなところに過労が重なった。
 これは仕方がない。
 しかし、寝ていてもそんな不景気だから、「あれをこうしろ」「これをああしろ」と寝床で指示を出す。
 しかし、不景気で業績は伸びない。
 とうとう幹部たちがやってきて、
「社長、もうだめです。従業員減らしましょう」という。
 しかし、ゲイツはリストラには首を縦には振らない。
「だめだ。人を減らすのだけはやってはだめだ! それだけは絶対にすべではない!」
 従業員を辞めさせるということは、その人たちの生活を奪ってしまうことである。
 今、リストラ、リストラ、と馬鹿のひとつ覚えのようにいっている経営者にきかせたい言葉だ。ゲイツは、リストラの愚かさを見抜いていた。
「だけど、社長、マイクロソフト船は浸水しています。いま荷をおろさないと…」
 そんなことをいう幹部までいる。
 ゲイツは目の前のことにばかりとらわれている幹部を一喝して、
「たしかにマイクロソフト船は浸水してるかもしれない。しかし、だからいうて社員が荷物などと思ったことはぼくはない。手があればそれだけで船に入った水をかきだすことができるじゃないか?!」
 ……うちの社長はやはり眼のつけどころが違うな……
 幹部たちは沈黙した。
 ゲイツは続ける。
「生産を半分にするのは仕方ないだろう。しかし従業員には半分働いてもらう。給与はそのままだ」
「ですが……それだったら会社の負担が重うなるんと違いませんか? 社長」
「たしかに一時はそうかも知れない。けどな、不景気が回復したらそんなもんすぐ取り返せる。いいか、人材は命なんだ。いままでせっかく育ててきた人材を手放すというのは損失のほうが多い。損失は人材損失だ」
 ゲイツはにやりと笑った。
「だけど、条件をだします。社員は半分手があく。その分、倉庫にある商品を売って歩いてもらうんです」
 なるほど、船にはいった水をかきだすとは、そうことか……
「わかりました」
「全力をあげてやります」
 幹部たちは、口々に答えた。
 従業員もこうなるとハリキる。リストラされなければ、営業だってなんだってやる。
 首になったらおわりだが、そうではないならやってやる!
 従業員や幹部は頑張って、ゲイツの言葉に励まされながら売り歩いた。
 結果、二ケ月で山のようだった在庫もなくなった。
 マイクロソフト社は不景気をのりきった。しかし、ゲイツがリストラという消極的判断に走っていたら、従業員はしゃかりきに働き、営業までしただろうか?
 なんでも成せばなるという精神が必要なのだ。
 リストラして、コストダウンなんて考えはとんでもない。
 辞めさせられたほうは、一生を棒に振ることになる。技術をもっていれば別だ。が、今の日本の外国人犯罪をみていると『単純労働者』として不法に雇われ解雇され、それゆえ金ほしさに強盗や空き巣をしているようにしか見えない。
 技術をもたない彼等は、手っ取り早く金になることをするしかないのだ。
 これから日本は少子高齢化で人口が減り、移民を考えなければならないなら単純労働はロボットにでもまかせて、あとは”技術のある外国人労働者”だけを移民としてつれてくるべぎだ。そうでなければ日本はアメリカやフィリピン並の犯罪大国になってしまう。


 ゲイツは豪邸のホールというところに全社員を集めて訓示をした。
「産業人としての使命とは何か!」
 ゲイツは饒舌に語り始める。
「人間は物質だけでは生きられるもんではないし、精神だけで生きられるもんでもない。このふたつが車の両輪のように重なり合ってなければならない。われわれ産業人は、このふたつのうち、ゆたかな物質生活をひとびとにもたらし、その面から幸福を追求することを使命にするものであります。
 われわれはまず二百五十年計画をたてて達成していかなければ駄目だと思う次第であります」
 幹部社員千二百人は、戸惑った顔をした。
 ……二百五十年計画かていわれても……
 しかし、ゲイツは従業員たちにビジョンを与え続ける。
「しかし、ぼくは皆さんに次世代の踏み台になれとかそういうことをいうのではない。みなさんはみなさんで幸福に生きたらいい。ただ、それけだけでなく、次の世代のためによいものを残してほしいのです。一日一日努力してほしいのです。そうすりゃあ、使命感をもって諸君は働けるし、かならずよい結果をもたらせるでしょう」
 壇上のゲイツは熱く語る。
 話しが終わると割れんばかりの大拍手がおこった。
 みんな、眼がきらきら輝いている。
 やるぞ! という気迫がこもっている。
 ゲイツはMS社員にビジョンを与えた。

  ゲイツは忙しくなった。
「社長、これどうしましょう?」
「いや、それはまってくれ」
 だんだんと会社が大きくなると、ゲイツの『鶴の一声』だけで決まらないことが多くなっていった。マイクロソフト社は、コンピュータ・ソフトだけでなく、ゲーム機械までつくるようになっていた。ソフトはほとんどつくっていた。
 そこでゲイツは事業部制を考えつく。
 つまり、ソフトならソフトで担当部署をつくり、そこでソフトの設計企画から営業までやらせる、という組織つくりだった。
 生産から販売まで一貫性をもたせようとはじめたものだ。
 結果は大成功だった。
 いい意味での競争意識が芽生え、他社のメーカーの真似も多くなったが、それでも「もうかればいいのだ」というゲイツの考えでMS社は大きくなっていった。

  あるとき、新聞記者がビル・ゲイツの取材をした。
 この頃、MS社は新進気鋭の企業として注目を浴びていた。
「ゲイツさん。今度ゲームをつくるそうですが、心配はありませんか?」
「なにが心配なのですか?」
 とゲイツ。
「でも、ゲームはソニーや任天堂がシュアを独占してますでしょ? いままでマイクロソフト社はパソコン・ソフトとかネット・ソフトとかはつくってきたが、ゲーム機械ははじめてでしょう?
 それを今、米国で初めてだいじょうぶなのですか?」
 その頃、ゲームといえばソニー、任天堂のような巨大ゲーム・メーカーが競争していた。マイクロソフト社はゲームの知識はなかった。
 それを家庭用のゲーム機をつくるという。
 記者が不安になるのも無理はない。
 ゲイツはいう。
「ゲームっていうのは、その国の先進性の象徴です」
「…はあ」
「家庭にゲームがいくつあるかで、豊かさがだいたいわかります」
「そんなものですか?」
「日本ではすでに家庭にゲームが普及している。みなさんはインテリです。みなさんのご家庭にはどれくらいのゲームがありますか?」
「……残念ながら家の家庭にはまだ米国産ゲームらしきものはありません。PSぐらいです」
「ほらごらんなさい」
 ゲイツは続ける。
「あと何十年後には米国の家庭にはMS社のゲームがあふれるでしょう。”家電”があふれるのです。私はそういう有望な仕事をやるんです。心配しなくてもいいですよ」
「なるほど」
 記者たちは納得した。
 ゲイツは先をみていた。米国を『技術立国』とするために天よりつかわされた男は、そんな使命を知らない間に頭に刻んでいたのである。
 世間は、
「あんななれないことに手をつけてだいじょうぶか?」と思っていた。
 市場はニンテンドウ、ソニー一色だった。シェアは七十パーセントも占めていて、xBOXは売れるのかどうかもわからなかった。
 またライバル企業も数十社あった。
 ゲイツはそれを知っていた。
 しかし、ゲイツは、
「xBOXは新しい皇帝だ。皇帝がふたりいてもいい。しかし、お客さんが買ってくれなきゃ話にならない」と自信たっぷりだった。
「あんたは面白いひとですね」
 日本の問屋はそういって注文してくれた。
「一社だけの独占状態は危険だ」
 ゲイツは訴えていく。
「競争こそ発展の道だ!」こうなるともうビル・ゲイツ教である。


 ゲイツはラジオ出演した。
 新進気鋭の天才経営者というふれこみだった。
 ゲイツはいう。
「ただいま紹介を受けましたビル・ゲイツです。
 私は十代のときにシリコンバレーにやってきて、商い一筋でした。そこには立身出世や儲けが要求されました。しかし、それだけでは商いはやっていけません。
 企業人というものは社会に貢献してこその企業人なのです。
 いままで高価で貴重だったパソコンは今や庶民のものとなり、リニアも多く通るようになりました。ぜいたくだった一部のものが世間にあふれるような時代になりました。
 われわれの会社でつくっているソフトもそうです。
 こうした時代にあたり、われわれはいかに社会に貢献できるかを考えなければなりません。
 この前、公園で浮浪者のようなものが万年筆をもってメモしているのをみて感動しました。万年筆は少し前まではとても高価なものだったのです。
 ほんの一部の金持ちのものだったのです。
 それが大量生産されて、安価になり、誰もが使えるようになりました。そういうことが文化なのではないでしょうか。
 またそうしたまずしい者たちを少しでもなくしていくのもまた文化だと思います」



  ビル・ゲイツは世界一の金持ちになった。
 総資産7兆円……
 彼はシアトルの近くの湖畔に建築費三〇億円、建築年数三年の豪邸に住んでいる。
 敷地面積は四二〇〇坪以上、建坪は一〇〇〇坪を遼かに上回るという。
 百人が入れるホール、客席つきの映画館、プール……
 いたれりつくせりの豪邸だ。しかし、総資産4兆円の彼にとっては”はした金”である。しかし、ドケチ彼はそれでも値切ったほうだという。
 読者の皆さんも釘一本ぐらいは貢献していることだろう。
『二〇〇一年宇宙の旅』が好きなゲイツは、自分の部屋を宇宙船の居住空間のようにしているという。コンピュータによって管理され、防犯装置、カメラ、センサー、スピーカから照明まですべて行き届いている。電脳住宅だ。
 しかし、その豪邸はビル・ゲイツの墓標になるかも知れない。
 皆が、第二、第三のゲイツを狙っている。
 ホリエモンには百年たっても無理だったが、誰かが追い抜くことだってある。
 ……後続は追い抜かれるという運命は誰であれ同じなのだ。
 ゲイツはだが頑張る。
 負けず嫌いの彼は、少年の頃からポーカーでもパソコンでも勝つことを勝利を快感に思って育った。「ウインドウズはもういらなくなるかも知れない」
 ある雑誌で彼は吐露する。
 今のウインドウズでさえ皆がその能力をユーザーが全部使ってないのに、さらにバージョン・アップしても買わないかも知れない。
 それを、本音を吐露した訳だ。
 ウインドウズのシュアは世界で九割を上回っている。あとの1割がアップルのマッキントッシュだ。世界一といってもいい。
 それでもゲイツは不安する。
 ウインドウズがこれだけ伸びたのもIBMがDOSを採用してくれたからだ。
 そんなIBMも中国に陥ちてしまう。もはやパソコンは家電だ。
 しかし、彼には先見性があったといえるだろう。
 会社の大きなスペースにあったどでかいコンピュータを一家に一台にまで普及し、
「ぼくの母親でも机に置いて簡単に操作する時代がくるだろう」
 とみていたからだ。
 こうなると「天才」というしかない。
  しかしMSーDOSは猿マネだった。マックのソフトのパクリだった。
 ウインドウズの仕組みもマックのパクリだった。
 あるプログラマは怒りを隠せない。
「あのビルなんとかという野郎はパクって金持ちになった! ただの猿マネだ! それをTVに出ては何か月も何年も構想を練っただのと抜かして……馬鹿野郎!」
 しかし、勝てば官軍である。
 MSーDOSは互換性をもち、あらゆるメーカーのパソコンに組み入れられていく…
 IBMがソフトを依頼したのもハード造りでいっぱいいっぱいで誰でもいいからやってくれと若造のゲイツらに頼んだのである。それをものの見事にものにした。
 他人の猿マネをして……
 さらにつけくわえるならば彼の母親はIBMの当時の取締役と福祉団体での知り合いだったというラッキーもあった。
 だが、勝てば官軍……勝てば価値が上がるのがビジネスというものだ。
 すでにあるものを取り込み発展させるまるで日本式のようなものがゲイツ流なのだ。
「x BOXでも勝つ!」
 ゲイツは不振なゲーム関連でもコンテンツ強化にのりだした。
 いつまでもソニーや任天堂の天下ではない。
 これはおもしろい。                               
         4 ITバヴルとザッカーバーグとビル・ゲイツ




  パーティーへの招待メールはなかなか仰々しいものだった。トップにマルコム・グラッドウェルの『ティッピング・ポイント』(飛鳥新社刊)の一節が引用されていた。
「きみの周りの世界を見たまえ。ぴったりのタイミングでちょっとひと押しすれば、世界はひっくり返せる」。招待メールにはそれに続いて、「そのとおり、ひっくり返った……」とあった。
 それはパーカーらしいスタイルであった。彼はザ・フェイスブックの成功は既成事実と考えていた。ザッカーバーグ自身でさえ、これほど早く100万ユーザーを達成できたことに驚いていた。
 ダンジェロ、サべリン、それにザッカーバーグの元ルームメイトで広報担当のクリス・ヒューズらがそれぞれ飛行機でやってきた。開発チームの中心人物たちは合法的に飲酒できる年齢に達していなかったが、盛大なパーティーでは飲み続けた。
 フェイスブックの成功はブームをつくり出しつつあった。シリコンバレーでは成功は金を呼び込む。ますます大勢の投資家が電話をかけてくるようになった。だが、ザッカーバーグは相変わらず無関心だった。
 そういう求愛者のひとりがセコイア・キャピタルだった。ベンチャーキャピタルの名門中の名門で、インターネットの巨大企業はその初期に軒並みにセコイアの投資を受けてきた。
 アップル、シスコ、グーグル、オラクル、ペイパル、ヤフー、ユーチューブみなそうである。同時にシリコンバレーではセコイアは情け容赦ないビジネスでも有名だった。
 セコイアはとにかくわが社で会議を開こうともちかけてきた。
 パーカーたちは策を練った。約束の朝、全員が寝坊した。約束は午前8時であった。ザッカーバーグらは「寝坊した」とパジャマにズボンとTシャツという格好でセコイア本社に乗り込んだ。「寝坊した」とは言ったものの、実はわざとだった。
「実はもっとタチの悪いことを考えていたんだ。すっぽかしてしまおうという案も出ていた(笑)」

 ハーバードのカークランド寮時代のクリス・ヒューズの友だちのひとりに、オリビア・マがいた。オリビアの父親はワシントン・ポスト社でM&A担当の上級管理職を務めていた。
 ポスト紙はすでにトライブ・ネットに投資していたがフェイスブックにも興味を示した。学生という有望なターゲットに集中しているところが気に入ったからだった。
 オリビアの父親クリス・マはザッカーバーグから強い印象を受けた。
「私は最初のランチでマークの心理洞察力に驚いた。マークによると、学生には大学の仲間と交流したいという抑えがたい強い欲望がある。そのため、彼らは自分の友だちが今何をしているか、何を考えているか、どこにいるかを夢中で知りたがる。マークはとてもシンプルに、しかも深く物事の本質を見抜いた」
 ワシントン・ポストは3月に極めて多額の投資を予定したタイムシート[投資条件概要書]を提示した。これはベンチャーキャピタル界の術語で「5400万ドルのプレ」と呼ばれる条件だった。プレ、というのは600万ドルの投資の前(プレ)の会社評価が5400万ドルだという意味だ[6000万ドル、マイナス600万ドル]。
 パーカーは興奮した。予想以上の投資額である。彼はサンフランシスコにいるアドバイザーのコンウェイに電話をかけた。
「なんだって?5400万ドルのプレだって?」
「受けろ!そのカモを逃すな!」
 とコンウェイは助言した。しかし、パーカーとザッカーバーグは少しも急いでいなかった。ザッカーバーグの新たな「コンシリエーレ(顧問)」のマット・コーラーは驚くほど情報に通じていた。バイアコム社は7500万ドルでザ・フェイスブックを買収したいと電話をかけてくる。その億万長者への最短ゴールをザッカーバーグは全部蹴った。
 フェイスブックの成功はザッカーバーグの叡智にかかっていた。だが、ザ・フェイスブックは最初の頃はまるで「出会い系サイト」のSNSみたいだった。
 お金も人材も豊富な大企業がある意味、なめて、電話をかけてきたのも納得である。
 だが、2014年にはフェイスブックのユーザーは8億人にまでなった。
 ザッカーバーグはガールフレンドとデート中に深夜強盗にピストルを向けられたこともあるという。だが、咄嗟に車にふたりは飛び乗りそのままエンジンをかけた。とっさに一か八かの賭けに出た。エンジンをかけると車は走りだし、幸い、そのまま走り去ることが出来たという。運がいい。
 この男には天運がついているとしか考えられない。
 一方のショーン・パーカーは「ドラッグ・パーティー」で警察の御厄介になるなどとことん運がない。
 だが、ショーンにはザッカーバーグという『金のなる木』がいる。とことん利用してやれ、と思った事だろう。
 フェイスブックの為の会社ができた。パーカー、コーラー、アンドリーセン、エフルシーに促されてザッカーバーグはリーダーとして経営者としての振る舞うよう務めた。「会社のCEOになるのは、大学の寮で誰かと同室になるのとは大分違う経験だ」
 当たり前である。
(「フェイスブック「若き天才の野望」」デビッド・カークパトリック著作 滑川海彦訳 日経BP社出版142~207 ページ)


<人口激減問題の対策と課題「人口ボーナス国家を狙え」世界に例をみない人口激減国・日本>

2014年12月25日 14時37分13秒 | 日記




<人口激減問題の対策と課題「人口ボーナス国家を狙え」世界に例を見ない人口激減社会日本国>2014年12月25日・緑川鷲羽
日本のような「人口激減問題」は世界に例がない。1800市町村のうち900市町村はなくなるという。他国ではこういう課題では女性を活用しようとか、“子供を多く生み育てる社会法整備”や「移民政策」を必ずやるからである。現実に仏も独も20年前にやった。
安倍晋三氏は「移民政策は絶対にやらない」と宣言しました。フランスやアメリカは戸籍法そのものをすでに廃止している。出きちゃった婚ならいいが、子供を堕す(いわゆる堕胎・だたい・日本の堕胎数は世界一)はある意味深刻な問題である。
これからは日本の人口ボーナスはなくなり、年間20万人の人口が減っていく激減社会になる。「移民」が嫌なら「子供を沢山産みたくなる」政策をやるしかない。
夫婦別姓、事実婚を安倍晋三は反対の輩である。しかも人口減少対策をこの国はまったくしようともしない。移民政策にしても子育て人口増加にしても20年から40年くらいの期間がかかる政策である。人口が激減して国の借金を返す人がいなくなると自然現象で必ず日本国債は暴落する可能性がある。いや、絶対にそうなる。数年後か?明後日か?数十年後か?必ず日本国債は暴落する。子供を持てば持つだけ優遇税制、減税、支援金、だ。
女性と高齢者とニートを最大限につかっても120万人の労働人口が足りなくなる。移民政策をやらないならフランスやスウェーデンなどの国のような「子育て」「子だくさん政策」をやらなければならない。例えば日本では『地方創生』というが、これは日本だけの特殊な事象で、世界では都市問題なのだ。日本は地方3で都市部が1だから地方を甘やかす。
所詮、地方には自主財源も権限もないのだから『地方創生』と言っても『ふるさと創生』のときみたいに、また税金を地方にバラまくしかない。日本女性の生涯出生率は1.47%である。「子育てするなら日本で」のようなフランスやスウェーデン、フィンランドの子育て政策を導入するしかない。消費税を24%くらいにして高福祉高負担国家・日本だ。
幼稚園・保育園から大学まで給食費も学費も無料、介護も医療費も無料…日本こそフィンランドのような国になるべきだ!日本の皆さん、スウェーデンやフィンランドのような日本に住みたくないですか?!ロジカルシンキングなら「子供がいないなら移民しかない」となりますが、安倍晋三は「移民政策は絶対にやらない」というのであれば、子供を増やすしかない。日本国をスウェーデンやフィンランドのような国にしましょう!


<2015年の日本経済とアベノミクスの失敗「ハイパー・インフレ」と「デフォルト」回避策!増税・歳出削減>

2014年12月23日 19時52分21秒 | 日記






<2015年の日本経済とアベノミクスの失敗「ハイパー・インフレ」と「デフォルト(債務不履行)」回避策は増税消費税20%と歳出削減と都心部の容積率(都市部の日照権廃止)倍増!>2014年12月23日・緑川鷲羽
日本はまだまだ捨てたものではない。聞き飽きたかもしれないが個人金融資産は1600兆円、大企業の内部留保は270兆円もある。だが、日本はもう20年間もデフレ不況から抜け切れていない。大前研一氏は「低欲望社会」といわれる。例えば『フラット35』という金融商品名をご存じだろうか?これは住宅ローンで金利が1.56%を35年間フラット(つまり維持する)という夢のような金融商品である。だが、皆「虚勢」でもされたかのように消費は伸びない。欧米では5%の金利の住宅でも申し込みは殺到するという。誰も投資も消費もせず貯金で世界一の貯金率、アメリカの大富豪より資産があるのに「老後が心配」といい、誰も消費しない。こうなるともう心理が精神的病気だ。
日本と欧州は経済が低迷しているが、アメリカは金利を高めるなど財政は危ないが景気はいい。安倍晋三首相は「円安=国力低下」なのに何故か誇らしげだ。まあ、馬鹿だからだが、例えば安倍晋三は「株高になって日本経済はよくなった!」という。
これもまた馬鹿で無知だ。
日本人の株保有率はわずか15%でしかない。アメリカ人は株保有率が85%(貯金はほとんどなく株だけ大量に持っている)であり、株高で儲かるのはアメリカ人だけだ、とわかる。
2014年度の7月から9月までの経済成長率はアベノミクスの嘘を信じている(安倍晋三の大好きな高学歴で年配の学歴エリートの)エコノミストは「+3.66%」等としていた。
だが、現実は「―1.6%」で、あった。所詮はアベノミクス等というのは失敗しているのだから当たり前の数字だ。だが、安倍ポチのエコノミストや官僚や議員や評論家は『大本営報道』を繰り返すばかり。「100万人の雇用を創り出しました!」と安倍晋三は言う。100万人の非正規社員が創り出された、にすぎない。
このままでは日本は「ハイパー・インフレ」と「デフォルト(債務不履行)」になる。回避策は(1)増税(消費税20%)と(2)歳出削減(年金削減・公務員給与削減・地方に権限と財源移譲)と(3)都心部の容積率(都心部の日照権廃止、おひさまが欲しいなら田舎に住め)の倍増だ。「容積率」とは何か?つまりビルやマンションの上空を(2階から5階や10階にするなどして)商業利用するものだ。それだけで数千兆円規模の経済効果がある。
また、安倍晋三が何故2014年12月14日に「アベノミクス解散総選挙」を行ったのか?これは単に2015年になると経済が悪化して、ちょうど帝国ホテルに泊まっていたノーベル経済賞学者クルードマン氏をわざわざホンダ某氏が官邸に連れてきて、「今なら選挙をしても経済に影響がない」とクルードマン氏に御信託を受けたため(笑)と言う。後は飯島氏谷内氏の戦略(笑)だという。どこまで馬鹿なのだろう?憎たらしい学歴エリート(笑)め!
私は安倍さんが「移民政策はやらない」というのは評価するが、日本の大企業の海外に出て行った工場は日本には戻ってなどこない。理由は単純で、人材がいないし、ブルーカラー希望の人材がいないのである。日本人は皆、中学も高校も大学か専門学校を出る。そういうひとは「工場労働が死ぬほど嫌い」である。で、「マクドナルドやコンビニでバイト」している。海外で新技術の工場をつくって中国やベトナムではブルーカラーの人材は手に入るけれども、日本に戻ってきて同規模の工場は無理である。少子高齢化で人材が少なく、人件費も高く、現在の日本人労働者が海外人より“極めて優秀”な訳でもない。
戦略もないのが日本人の「脛の傷」である。例えば原油価格を低価格にさせたサウジアラビアの戦略を日本人は知らない。サウジはアメリカのシェイルオイル、シェイルガス体制を崩壊させる為に原油価格を安くしている。すべて戦略なのだ。アメリカの「金利上昇」もそう。金利を上昇させるといえば「期待感」から世界中からお金が集まる。すべて戦略なのだ。そういう戦略が日本人にはない。あるのは間抜けな「アベノミクス」のみ(笑)。
例えば中国の習近平国家主席は「ハエ(小物)も虎(大物)も叩く」という。
これも戦略である。更に「狐(裸官(らかん)・中国人官僚の海外逃亡者125万人13兆円規模の不正)」も叩くという。日本に戦略家と呼べるのは孫正義氏や稲森和夫氏など極わずかである。私は飯島勲や谷内正太郎の無能の正体を熟知している。飯島や谷内が安倍晋三にいらない入知恵を耳打ちして、どれだけの産業が崩壊し、どれだけの人材を失ったのか。
もはや日本の危機は避けられない。誰かがこの危機に立ち上がれるのか?“霞が関幕府を倒幕”して、“救国の新世紀維新”、地方分権・道州制度の“大政奉還”、“王政復古の大号令”や霞が関幕府の“瓦解”を誰がやるのか?もはや停滞は許されない。出でよ、新しい日本人よ!今こそ「救国の新世紀維新」の策略・戦略が必要で、ある。


<外交戦略 アメリカの思惑とTPP戦略>日本の先送り体質に失望「アメリカのプレゼンスと卓越外交術」

2014年12月21日 14時50分21秒 | 日記







<外交戦略 アメリカの思惑とTPP戦略>2014年12月21日・緑川鷲羽
目先だけの利益を考えて、本当に重要なものごとを先送りばかりする日本の姿勢は、世界から呆れられている。中でも日本に失望しているのはアメリカである。
オバマ大統領が中間選挙で敗北したことの意味を日本人は理解していない。オバマは移民政策に失敗し、オバマは「大統領令」をすすめて、1100万人のうち500万人の不法移民を強制送還から外すと宣言、共和党はこれに対して「違法であり、大統領と法廷で争う」と息巻いている。共和党が圧勝したということはオバマ大統領・民主党政権がいよいよレイムダック状態になり、労働組合の支援の民主党とオクラホマやコロラドやカンザスなどの農家の支援の共和党がますますTPP等で、今まで以上に日本に圧力をかけてくるという事である。アメリカから「農産品の関税をゼロにせよ」と突きつけられても、日本は防戦一方で、またもや問題を先送りするだけ。まあ、農協や農水族議員などの既得権益を持つ利権団体に配慮しているからだ。
しかし、そんな内輪もめの理屈など、アメリカが納得する訳ない。
交渉、それが国と国との交渉つまり外交交渉であれば、アメリカに「農産物の関税をゼロにせよ」といわれれば、「なるほど。OK。ならその代わりに日本の自動車のアメリカでの関税をゼロにしてくれないか?」と言い返すのが外交というものだ。
日本の農産物は世界一高品質で、味もおいしく、柿にしろコメや林檎や蜜柑にしろ十分に世界で通用する。世界の富裕層が日本の農産物を買ってくれる。これは命を賭けてもいい。
日本人だけが利権団体に配慮して先送りしているだけだ。
外交圧力とはむこうが圧力をかけてきたら圧力で返すのが常套手段であり、それが交渉の駆け引きというものだろう。言葉遊びで「外交とは武器を持たない戦争」「外交とはスーツを着た戦争」「敵を知り己を知れば百戦危うからず」などと言うだけでは駄目だ。
「立派な結果をともなわない行動は立派な行動とは言えない」(カエサル)である。
中国の赤サンゴ密漁も同じだ。日本は「攻めれば引く」という弱腰外交が世界に知れ渡っている。赤サンゴを密漁されれば片っ端から逮捕・捕縛して裁判にかければいい。中国や北朝鮮やロシアならすぐに射殺するような問題なのだ。
古い話だが台湾で独立派の長である李登輝政権が誕生しようとしていた1996年、中国は台湾海峡にミサイルを撃ち込む挑発に打って出た。これに対してアメリカはすぐさま、「インディペンデンス」「ニミッツ」という2隻の空母にイージス艦を派遣して、中国をけん制した。そのときアメリカは、
「お前たち、本当に戦争がしたいのか。それなら受けて立つ」と言ったという。
この一言に中国は震えあがって手を引いた。
この頃のアメリカ軍は世界一である。よく『パックス・アメリカーナ(アメリカの核兵器の傘の下の平和)』というが、そんなものはもう効力が薄くなってきている。アメリカは今も大事な同盟国だが、そのアメリカが大事な時に助けてくれる、と考える愚は避けたい。
日本人が大事な事柄を先送りばかりするから失望されるのであり、いずれは日本はアメリカに見捨てられるかも知れない。金の切れ目が縁の切れ目である。
日本は中国、北朝鮮、ロシアという核保有国に囲まれ、韓国とも仲が悪くなっている。
どうすればいいか?これこそ外交の出番だ。
アメリカのプレゼンスという重要性を確認して、大事な事柄を先送りせず真剣に議論する『大人の国』になるべきなのだ。オバマは「アジアのリバランス」という言葉で中国との関係悪化を避けるほどの弱虫だが、アメリカにはいざというときの軍事力がある。
日本はその軍事力さえないのだからせめて“外交能力だけ”でも持っていなければならない。この日本という国はまさに交渉下手な国であり、国民のIQは高いのだが、外交交渉力はゼロに近い。ここで誰かが外交的な天才が誕生しなければならない。これは日本人が維新だの言う前の“最重要課題”である。い出よ、新しい日本人!



緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.145小保方晴子STAP細胞再現作成なしでの「虚栄心の行方」

2014年12月19日 17時36分24秒 | 日記




stap細胞と小保方氏「虚栄心の行方」


 夢の万能細胞「STAP細胞」を生み出した万能生成可能細胞は、やはり「STAP細胞はありません」でしかなかった。
半年前に小保方氏は「自分は200回STAP細胞を作成した」「自分なりのコツやレシピのようなものがある」と語っていた。世間は強欲な小保方晴子氏を「佐村河内守と同じ」と見るだろう。当たり前だ、敵のいない人間等いないし醜い欲望のない人間等いないのだから。誰もがカネが欲しい、名誉が欲しい、地位が欲しい、有名になりたい、美人になりたい、などと思っている。皆醜いのだ。皆が薄汚く醜く愚かで馬鹿なのだ。世間の人間という生き物は自分を含めて愚かで馬鹿で醜いのだ。
だが、自分の実力や能力を実力以上に世間に認めさせようという風潮はみっともないものである。ホリエモンにも言ったが「金(きん)は地中にあっても金であり、鉛は錦の袋の中にあっても鉛でしかない」みっともない。
少しはホリエモンも小保方晴子氏も小渕優子氏も松島みどり氏も田中真紀子氏も石原慎太郎氏も橋下徹氏も『孔子の論語』にあたってみたらどうだろう?ホリエモンは刑務所を出ても未だに馬鹿げたメンタリティだ。あんな阿呆の著作本などいらないんだよ。人生を反省する為に刑務所にぶちこんだのに意味がない。小保方氏も同じだ。今後、詐欺容疑で理研に提訴されるだろう。世間が詐欺容疑をほっとく訳ない。税金が無駄になったのだ。
我々の税金を無駄にしたのだ。「STAP細胞はありまーす」だの「おぼちゃん」だの人生を世間を馬鹿にしているのか?
あの小保方晴子氏は明らかに詐欺容疑者だ。だが、まるで魔女裁判みたいだから、後は冷静に司法の裁きを彼女に与えるしかない。強欲は身を滅ぼす。「朝(あした)に道を聞けば夕べに死すとも可なり」小保方さん、この格言を座右の銘にせよ!

緑川鷲羽(みどりかわ・わしゅう)・44・フリージャーナリスト・

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.144「活字本」一か月に一冊も読まない「日本人の劣化」無知を恥じる心を

2014年12月18日 15時52分36秒 | 日記







    最近は活字本を月に一冊も読まない日本人が  
  
  大多数だという。


 驚くとともに哀しくなる。 


   漫画やテレビなら楽で簡単だろう。 
 
 確かに私自身も幼いころアニメや漫画にどっぷりつかった世代だ。


 だが、


  だからこそ日本人の劣化を危惧する。


 いい大人が漫画三昧では馬鹿だ。新聞や活字を読み無知を恥じる人間となれ!



緑川鷲羽2014そしてはじまりの2015へ

葵のジャンヌダルク 井伊直虎と直政<2017年度女性版NHK大河ドラマ原作>直虎編9

2014年12月17日 09時35分08秒 | 日記









         室町幕府滅亡


  将軍・足利義昭は信玄の死を知らなかった。
 そこでかれは、武田信玄に「信長を討て」と密書を何通もおくった。何も返事がこない。朝倉義景に送っても何の反応もない。本願寺は書状をおくってきたが、芳しくない。
 義昭は七月三日、蜂起した。二条城に武将をいれて、槙島城を拠点とした。義昭に忠誠を尽くす真木氏がいて、兵をあつめた。その数、ほんの三千八百あまり……。
 知らせをきいた信長は激怒した。
「おのれ、義昭め! わしを討てと全国に書状をおくったとな? 馬鹿めが!」信長は続けた。「もうあやつは用なしじゃ! 馬鹿が、雉も鳴かずばうたれまいに」
 七月十六日、信長軍は五万の兵を率いて槙島城を包囲した。すると、義昭はすぐに降伏した。しかし、信長は許さなかった。
”落ち武者”のようなざんばら髪に鎧姿の将軍・足利義昭は信長の居城に連行された。
「ひい~つ」義昭おびえていた。殺される……そう思ったからだ。
「義昭!」やってきた信長が声をあらげた。冷たい視線を向けた。
 義昭はぶるぶる震えた。小便をもらしそうだった。自分の蜂起は完全に失敗したのだ。もう諦めるしかない……まろは……殺される?
「も…もういたしませぬ! もういたしませぬ! 義父上!」
 かれは泣きべそをかき、信長の足元にしがみついて命乞いをした。「もういたしませぬ! 義父上!」将軍・足利義昭のその姿は、気色悪いものだった。
 だが、信長の顔は冷血そのものだった。もう、義昭など”用なし”なのだ。
「光秀、こやつを殺せ!」信長は、明智光秀に命じた。「全員皆殺しにするのじゃ!」
 光秀は「しかし……御屋形様?! 将軍さまを斬れと?」と狼狽した。
「そうじゃ! 足利義昭を斬り殺せ!」信長は阿修羅の如き顔になり吠えた。
 しかし、止めたのは秀吉だった。「なりませぬ、御屋形様!」
「なんじゃと?! サル」
「御屋形様のお気持ち、このサル、いたいほどわかり申す。ただ、将軍を殺せば松永久秀や三好三人衆と同じになりまする。将軍殺しの汚名をきることになりまする!」
 信長は無言になり、厳しい冷酷な目で秀吉をみていた。しかし、しだいに目の阿修羅のような光が消えていった。
「……わかった」信長はゆっくり頷いた。
 秀吉もこくりと頷いた。
 こうして、足利義昭は命を救われたが、どこか地方へと飛ばされ隠居した。こうして、足利尊氏以来、二百四十年続いた室町幕府は、第十五代将軍・足利義昭の代で滅亡した。




 はからずも井伊家の家督を継いだ直虎。出家したため結婚は出来なかったが、何故俗世に戻れたのか?出家した時の名前「次郎法師」(男の名前だったから)。
尼だと二度と俗世には戻れないが、(男の)僧侶なら戻れる。直虎は自分の先の人生を得意の千里眼で見抜いていたのかも知れない。永禄八年(1565年)直虎三十一歳、直虎は女だてらに家督を継ぐ。この頃、上杉謙信や武田信玄、毛利元就、徳川家康や織田信長、北条氏康など戦国大名が地方の国人領主たちを支配しはじめていた。井伊家の領地は戦国大名今川家の支配地。直虎は今川方についていた。
井伊家を継ぐ男子は直親の子(虎松)・のちの直政(万千代)のみ。しかし、未だ、二歳と幼い。ということで直虎が寺から帰国して、かつての許婚(いいなずけ)との永遠の別れに悲しむいとまもなく、直虎が井伊家を継ぐ直政の名代(みょうだい)として、井伊家に戻った。<静岡大学名誉教授(戦国史)の小和田哲男さんは「家をつなぐというのは血縁関係でつなぐだけでなく、今でいう会社組織のトップなので、それを守る使命がある。ただ、当時一般的には(家を継ぐのは)男の役目。普通は養子を迎えれば済んだ話だが、直虎の場合は特殊だった」という。>多くの戦国武将が群雄割拠する戦国時代の中で、直虎は世にも稀な女性の戦国武将として生きることになった。
直虎は赤子の虎松をあやしながら「直親さま、みていてくだされ」と天を拝むのだった。
話を戻す。
「おや、麗。ようやく戻ったかえ」
「母上」
「駿府のれん様から、また珍しい京の菓子が届きましたぞ」
「おばさまから?」
今川の重鎮である関口親永(せきぐち・ちかなが)の奥方れんは井伊家の出だ。夫との間に瀬名(せな)姫という麗とあまりかわらない歳の姫がいる。
「ああ、猪羹(ちょかん)、これは甘葛ではなくて砂糖羊羹ね。麗に食べさせたかったのよ」
麗も年頃だ。母親は化粧をすすめたが、いらぬ。ぶきみだ、という。
白粉も紅もいらぬという。母親の化粧道具を見て、女の顔をつくるのにこれだけのものが必要なのか?と疑問をもった。極めてボーイッシュ(男の子のよう)な麗だった。
十四になったある日、下腹に違和感を覚えて指をやると、股にぬめりがあった。
「まあ、次郎の姫様。おめでたいことですよ」
いわゆる“月のもの(月経・生理)”がとうとう麗にも来たわけだ。
本丸の奥で母や女どもとともに過ごせば、女は一か月か二か月かに一度は、血を流す日があることは知っていた。
きっかけは母の化粧道具の中に、ぽつんと、蒔絵のない箱があったことだ。開けてみると蚕の繭玉があった。いわゆる現代でいうタンポンな訳だ。
「なぜ桶箱(オマル)などに? 厠にいけばよいではありませんか」
麗が言うと、母と侍女が、顔を合わせにんまり笑った。よほど娘の体が成熟したことがうれしいらしい。
「動くと漏れるゆえ、汚れるし、そなたも恥ずかしいであろう。なに、三か月もすれば腹に力を込めれば垂れずに済み、厠でひりだせるようになる。皆、そうしてきたことじゃ。そなたも慣れよう」
始めはさすがに困惑していた麗だったが、なるほど、母の言う通り三か月もすれば慣れた。
だが、この“月のモノ”と“結納”と“おめでたいこと”とは何のことか?よくわからない。大人に聞いても横に揺れて恥ずかしがるばかり。春画等も次郎法師は見たこともなかった。だが、そんなこともいずれはわかること。子供が出来る為に産むために“生理の激痛”がある、と知った。だが、井伊直虎は実際のところ、生涯母親としてお腹を痛める事も、女子の幸せもなかった、という。
すべては井伊家、井伊谷の領民の為に。国の為道の為に。
(『剣と紅』高殿円著作、文藝春秋出版社参考文献文章引用 四〇~九十三ページ)
       



         どくろ杯


  信長は珍しく神棚に祈っていた。もう深夜だった。ろうそくの明りで室内は鬼灯色になっていた。秀吉はにこりと笑って、「神に祈っておられるのでか? 御屋形様」といった。そして、はっとした。除くと、神棚には仏像も何もない。ただ鏡があって、そこに信長の顔が写しだされていたからだ。信長は”自分”に祈っていたのだ。
 秀吉はそら恐ろしい気分だったに違いない。
  信長は大軍をすすめ、越前(福井県)に突入した。北近江の浅井長政はそのままだ。一乗谷城の朝倉義景にしてもびっくりとしてしまった。
 義景にしてみれば、信長はまず北近江の浅井長政の小谷山城を攻め、次に一乗谷城に攻め入るはずだと思っていた。しかし、信長はそうではなかった。一揆衆と戦った経験から、信長軍はこの辺の地理にもくわしくなっていた。八月十四日、信長は猛スピードで進撃してきた。朝倉義景軍は三千人も殺された。信長は敦賀に到着している。
 織田軍は一乗谷城を包囲した。義景は「自刀する」といったが部下にとめられた。義景は一乗谷城を脱出し、亥山(大野市)に近い東雲寺に着いた。
「一乗谷城すべてを焼き払え!」信長は命じた。
 城に火が放たれ、一乗谷城は三日三晩炎上し続けた。それから、義景はさらに逃亡を続けた。が、懸賞金がかけられると親戚の朝倉景鏡に百あまりの軍勢でかこまれてしまう。 朝倉義景のもとにいるのはわずかな部下と女人だけ………
 朝倉義景は自害した。享年四十一歳だったという。
  そして、北近江の浅井長政の小谷山城も織田軍によって包囲された。
 長政は落城が時間の問題だと悟った。朝倉義景の死も知っていたので、援軍はない。八月二十八日、浅井長政は部下に、妻・お市(信長の妹)と三人の娘(茶々(のちの秀吉の側室・淀君)、お初、お江(のちの家康の次男・秀忠の妻)を逃がすように命じた。
 お市と娘たちを確保する役回りは秀吉だった。
「さぁ、はやく逃げるのだ」浅井長政は心痛な面持ちでいった。
 お市は「どうかご一緒させてください」と涙ながらに懇願した。
 しかし、長政は頑固に首を横にふった。
「お主は信長の妹、まさか妹やその娘を殺すことはしまい。嫡男は殺されるだろうが」
「しかし…」
「いけ!」浅井長政は低い声でいった。「はやく、いくのだ! さぁ!」
お市は浅井長政に嫁いだ日を思い出した。兄・信長に命じられるまま嫁いだ。浅井長政はお市を見て「そなたは武将のような女子じゃ。しかしその瞳に可憐な女が見える」といったのだ。「女?」お市は長政に惹かれるようになる。すぐに茶々(のちの秀吉の側室・淀君)と初(京極高次の側室)という娘に恵まれた。そして信長に反逆して大勢の織田勢に包囲されながら、小谷城でお市は身ごもった。しかし、お市はお腹の赤子をおろそうとした。薬師に薬をもらった。「これを飲めばお腹のやや(赤子)は流れるのじゃな?」「はっ」そんなとき、幼い茶々が短刀を抜いて初を人質に乱入した。驚いた、というしかない。茶々は「ややを産んでくだされ、母上! ややを殺すならこの茶々も初もこの刀で死にまする!」という。この思いに母・お市は負けた。短刀を取り上げて、「わかった。産もうぞ」といった。娘が生まれた。
 長政は「この姫は近江の湖に生まれし子、名は江じゃ」という。しかし、浅井三姉妹とお市と浅井長政との永遠の別れとなった。お市と茶々、初や側奥女中らは号泣しながら小谷城落城・炎上を見送った。
 秀吉はにこにこしながら、お市と娘たちを受け取った。
 浅井長政は、信長の温情で命を助けられそうになった。秀吉が手をまわし、すでに自害している長政の父・久政が生きているから出てこい、とやったのだ。
 浅井長政は、それならばと城を出た。しかし、誰かが、「久政様はすでに自害している」と声をあげた。そこで浅井長政は、
「よくも織田信長め! またわしを騙しおったか!」と激怒し、すぐに家老の屋敷にはいり、止める間もなく切腹してしまった。
 信長は激しく怒り、「おのれ! 長政め、命だけは助けてやろうと思うたのに……馬鹿なやつめ!」とかれを罵った。
 長男の万福丸は秀吉の家臣によって殺害され、次男の万寿丸は出家処分に…お市は泣きながら、三姉妹とともに織田信長の清洲城に引き取られていった。
 兄・信長と信包の元で、9年間もお市の方は贅沢に幸せに暮らさせてもらった。しかし、気になるのは柴田勝家である。
 勝家はお市の初恋の相手であった。またお市は秀吉をいみ嫌っていた。…サルめ! ハッキリそういって嫌った。

  天正二年(一五七四)の元日、岐阜城内は新年の祝賀でにぎわっていた。
 信長は家臣たちににやりとした顔をみせると、「あれを持ってこい」と部下に命じた。ほどなく、布につつまれたものが盆にのせて運ばれてきた。    
「酒の肴を見せる」
 信長はにやりとして、顎で命じた。布がとられると、一同は驚愕した。盆には三つの髑髏があったからだ。人間の頭蓋骨だ。どくろにはそれぞれ漆がぬられ、金箔がちりばめられていた。信長は狂喜の笑い声をあげた。
「これが朝倉義景、これが浅井久政、浅井長政だ」
 一同は押し黙った。………信長さまはそこまでするのか……
 お市などは失神しそうだった。利家たちも愕然とした。
「この髑髏で酒を飲め」信長は命じた。部下が頭蓋骨の頂点に手をかけると、皿のようになった頭蓋骨の頭部をとりだし、酒をついだ。
「呑め!」信長はにやにやしていた。家臣たちは、信長さまは狂っている、と感じた。酒はもちろんまずかった。とにかく、こうして信長の狂気は、始まった。


井伊家は井伊谷をおさめながら今川氏の命令もきく、いわば中間管理職のような身分だった。国人領主の苦労①「戦費のねん出」。年貢(米)制度だったが、戦費は増える一方で領主たちの台所はいつまでも火の車。かといって、年貢を増やせば百姓一揆を招き、収入さえ失う可能性もある。そのために時には食事や酒をふるまい、年貢を気持ちよく払うように百姓たちのご機嫌取りも国人領主の仕事であった。国人領主の苦労②「領民への気遣い」。
領民の気持ちによりそい、時には相談や離縁やケンカの仲裁までしたとか。
一方で戦国大名にもたえずごきげんうかがい。少しでも怠惰や怠慢や反抗的と疑われたら、お家断絶だからだ。国人領主の苦労③「大名に絶対服従」。板挟みに耐えかねて、勝手に村を売った領主もいたほどだ。直虎の作戦は花押(かおう・資料浜松市博物館『直虎花押の文』)花押とはサインのことで、大名の男が書くものだった。家康や信長、信玄や秀吉、謙信、伊逹政宗のような花押をつかうもの=大地をおさめる男性。直虎が「男性とみられるように花押を使った」可能性は大だ。意識的に花押をつかっていた。
対外的には直虎が女性だと知られていなかったのではないか?女性の領主だと、攻められる可能性もあった。花押だけでなく、「直虎」といういかにも武将らしい名前も領主となってからつかいはじめた。花押と名前で男のふり。まさに策士である。

  勝家は家臣団五千とともに上杉景勝と戦っていた。そんな中、ふたたび家臣となった者が山城に孤立した。囲まれ、上杉軍にやられるところだった。勝家の部下たちはその者は見殺しにして、このまますすめば上杉景勝の首をとれると進言した。しかし、勝家は首を横にふった。「あやつを見殺しに出来るか!」こうして、その者たちは助けられた。         
 上杉景勝(上杉謙信の甥・謙信の養子・上杉家第二代)は難を逃れた。




  天正四年(一五七六)……
 信長の庇護のもと伊勢(三重県)上野城でお江、茶々、初、お市は暮らしていた。
「母上ーっ!」背の高い少女が浜辺で貝を拾いながら、浜辺のお市や叔父・織田信包(のぶかね)らに手をいった。可愛い少女である。
「あ!……姉様! ずるい!」
 浅井三姉妹の次女で姉の初が、江の籠の貝を盗みとり自分の籠に入れた。
 お市とともに浜茶屋に座っている背の高い少女こそ、長女・茶々、のちの豊臣秀吉の正室・淀になる茶々(当時十二歳)である。 初と江のふたりは浜茶屋に駆けてきて、
「母上、ひどいのです! 姉様が私の貝を盗むのです」
「失礼な、たまたま貝が私の籠にはいっただけじゃ」
 無邪気なふたりにお市も信包も茶々も笑った。 
 元亀四年(1573年)にお江は生まれ、寛永三年(1626年)に病死するまでの人生である。…墓は徳川家の菩提寺に秀忠とともにある。…
 徳川秀忠はハンサムな顔立ちで、すらりとした痩身な男で、智略のひとであったが、今はまだ只の若者に過ぎない。若き頃より、秀吉の人質になり、軍略を磨くことになるのだが、まだまだ家康・秀吉の方が上であった。
 幼い頃、江は織田信長の馬上での勇々しい姿をみたことがある。安土でのことだった。
 お江はその時の信長の姿を目に焼き付けていた。信長ならば…もしや…私も!「御屋形様は…戦神じゃ! ひとから義をとってしまえば野山の獣と同じだ!」
 織田……の旗印が風にたなびく……英雄・織田信長はお江には眩しく映った。
 まだお江は織田信長が父親の命をうばったなど知らなかった。
 そして、お江に「上杉謙信」「武田信玄」のことをきいた。
「どちらが勝つと思う? 江!」
「謙信に決まってます」
「しかし…」信長は続けた。「武田には山本勘介なる軍師が…」
「そんなやつ、謙信……上杉謙信の足元にもおよばぬはずです!」
 お江は笑った。川中島は現在の新潟県と長野県の間に流れる千曲川のところである。ここで上杉軍と武田軍のこぜりあいが長く続けられていた。上杉謙信とは不思議なひとで、領土を広げようという野心のない人物で、各国の武将の中でも人望があつかった。楽しむが如く戦をし、武田攻めも義によって行っているだけだという。武田の領地である信濃や甲斐を狙っていた訳ではないのだ。すべては村上義清の要請……それだけだった。
   そして、上杉謙信と武田信玄との激戦、川中島の戦いで、ある。

  信州(長野県)・川中島(信州と越後の国境付近)で、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)は激突した。世にいう「川中島合戦」である。戦国時代の主流は山城攻めだったが、この合戦は両軍四万人の戦いだといわれる。
  甲府市要害山で大永元(一五二一)年、武田信玄(晴信)は生まれた。この頃の十六世紀は戦国時代である。文永十(一五四一)年、武田信玄(晴信)は家督を継いだ。信濃には一国を束める軍がない。武田信玄は孫子の「風林火山」を旗印に信濃の四十キロ前までで軍をとめた。それから三~四ケ月動かなかった。
「武田などただの臆病ものよ!」
 信濃の豪族はたかをくくっていた。
 しかし、武田晴信はそんなに甘くはない。
 まず甲斐(山梨県)で軍備を整えた。
 出家もし、剃髪し、晴信から信玄と名をかえた。
 そして、信濃(長野県)の制圧の戦略をもくもくと練っていた。
「御屋形様! 武田の騎馬軍団の勇姿みせましょうぞ!」
 家臣たちは余裕だった。
 信玄も、
「信濃はわしのものとなる。甲斐の兵、武田軍は無敵ぞ」
 と余裕のままだった。
 謙信も「武田の兵を叩きつぶしてくれるわ!」息巻いた。
「いけ! 押し流せ!」
 陣羽織りの信玄の激が飛ぶ。
「うおおおっ!」
 武田の赤い鎧の集団が長槍をもって突撃する。
 信濃の豪族は油断した。そのすきに信玄は騎馬軍団をすすめ、信濃を平定した。領土を拡大していった。彼は、領土の経済へも目を向ける。「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定。治水事業も行った。信玄は国を富ませて天下取りを狙ったのである。
 第一次川中島の合戦は天文二十二(一五五三)年におこった。まだ誰の支配地でもない三角洲、川中島に信玄は兵をすすめる。と、強敵が現れる。上杉謙信(長尾景虎)である。謙信はこのときまだ二十二歳。若くして越後(新潟県)を治めた天才だった。謙信は幼い頃から戦いの先頭にたち、一度も負けたことがなかったことから、毘沙門天の化身とも恐れられてもいた。また、謙信は義理堅く、信濃の豪族が助けをもとめてきたので出陣したのであった。上杉軍が逃げる武田軍の山城を陥していき、やがて信玄は逃げた。信玄の川中島侵攻は阻まれた。(二万人の負傷者)
 天文二十三(一五五四)年、武田は西の今川、南の北条と三国同盟を成立させる。それぞれが背後の敵を威嚇する体制ができあがった。
「これで……不倶戴天の敵・上杉謙信を倒せる!」
 信玄は笑った。
 ある日、両軍主領があう機会があった。
 永禄元年五月上杉・武田の和議が起こり、千曲川を隔てて両将が会見したとき、謙信は馬から降り、川岸で会見しようとした。
 すると信玄は礼を重んじることもなく、
「貴公の態度はいかにもうやうやしい。馬上から語ってもよかろうぞ」と放言した。
 信玄には謙信のような「義」「礼」がなかったのである。
 謙信はやはり武田と戦うことを誓った。
 上杉謙信は武諦式をおこない、戦の準備をはじめた。
「……今度の戦で信玄を倒す!」
 謙信は兵に激を飛ばした。
「おう!」
 上杉軍は決起盛んである。
  第二次川中島の合戦は天文二十四(一五五五)年四月に勃発した。
 信玄は上杉が犀川に陣をはったときの背後にある旭山城の山城に目をつける。上杉は犀川に陣をはり、両軍の睨み合いが数か月続く。
 膠着状態のなか、上杉武田両軍のなかにケンカが発生する。
「やめぬか! 義を守れ!」
 謙信は冷静にいって、書状を書かせた。
 謙信は部下に誓約書をかかせ鎮圧したのだ。
 どこまでも「義」のひとなのである。
 信玄は違った。
「おぬしら、働きをしたものには褒美をやるぞ!」
 と、信玄は人間の利益にうったえた。
「欲」「現実」のひとなのである。
 信玄は戦でいい働きをしたら褒美をやるといい沈静化させる。謙信は理想、信玄は現実味をとった訳だ。
 やがて武田が動く。
 上杉に「奪った土地を返すから停戦を」という手紙を送る。謙信はそれならばと兵を引き越後に帰った。
「……信玄を信じよう」
 義の謙信は疑いのない男だ。
 しかし、信玄は卑怯な現実主義者だった。
 第三次川中島の合戦は弘治三(一五五七)年四月に勃発した。
 武田信玄が雪で動けない上杉の弱みにつけこんで約束を反古にして、川中島の領地を奪ったことがきっかけとなった。”信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。そして、民衆の悲しみは絶えない。隣国の主としてこれを黙認することなどできない”
 上杉謙信は激怒して出陣した。上杉軍は川中島を越え、奥まで侵攻。しかし、武田軍は戦わず、逃げては上杉を見守るのみ。これは信玄の命令だった。”敵を捕捉できず、残念である”上杉謙信は激怒する。”戦いは勝ちすぎてはいけない。負けなければよいのだ。 敵を翻弄して、いなくなったら領土をとる”信玄は孫子の兵法を駆使した。上杉はやがて撤退しだす。
 永禄二(一五五九)年、上杉謙信は京へのぼった。権力を失いつつある足利義輝が有力大名を味方につけようとしたためだ。謙信は将軍にあい、彼は「関東管領」を就任(関東支配の御墨付き)した。上杉謙信はさっそく関東の支配に動く。謙信は北条にせめいり、またたくまに関東を占拠。永禄三(一五六〇)年、今川義元が織田信長に桶狭間で討ち取られる。三国同盟に亀裂が走ることに……。
 上杉は関東をほぼ支配し、武田を北、東、南から抑えるような形勢になる。今川もガタガタ。しかも、この年は異常気象で、四~六月まで雨が降らず降れば十一月までどしゃぶり。凶作で飢餓もでた。
 第四次川中島の合戦は永禄四(一五六一)年、五月十七日勃発。それは関東まで支配しつつあった上杉に先手をうつため信玄が越後に侵攻したことに発した。信玄は海津城を拠点に豪族たちを懐柔していく。上杉謙信は越後に帰り、素早く川中島へ出陣した。
 上杉は川中島に到着すると、武田の目の前で千曲川を渡り、海津城の二キロ先にある妻女山に陣をはる。それは武田への挑発だった。
 十五日もの睨み合い…。信玄は別動隊を妻女山のうらから夜陰にまぎれて奇襲し、山から上杉軍を追い出してハサミ討ちにしようという作戦にでる(きつつき作戦)。
 しかし、上杉謙信はその作戦を知り、上杉軍は武田別動隊より先に夜陰にまぎれて山を降りる。
「よいか! 音をたてたものは首を斬り落とすぞ!」
 謙信は家臣や兵に命令した。
 謙信は兵に声をたてないように、馬には飼い葉を噛ませ口をふさぐように命令して、夜陰にまぎれて山を降りた。一糸乱れぬみごとな進軍だった。
 上杉軍は千曲川を越えた。
 九月十日未明、信玄が海津城を出発。永禄四(一五六一)年、九月十日未明、記録によれば濃い霧が辺りにたちこめていた。やがて霧がはれてくると、武田信玄は信じられない光景を目にする。
「……なんじゃと?! 上杉が陣の真ん前に?」
 信玄は驚いた。
 驚きのあまり軍配を地に落としてしまった。
 妻女山にいるはずの上杉軍が目の前に陣をしいていたのだ。上杉軍は攻撃を開始する。妻女山に奇襲をかけた武田別動隊はカラだと気付く。が、上杉軍の鉄砲にやられていく。「いけ! 押し流せ!」
 無数の長槍が交じりあう。
 雲霞の如く矢が飛ぶ。
 謙信は単身、馬で信玄にせまった。
 刀をふる謙信……
 軍配で受ける信玄……
 謙信と信玄の一気討ち「三太刀七太刀」…。
 このままでは本陣も危ない!
 信玄があせったとき武田別動隊が到着し、九月十日午前十時過ぎ、信玄の軍配が高々とあがる。総攻撃!
 ハサミうちにされ、朝から戦っていた兵は疲れ、上杉軍は撤退した。死傷者二万(両軍)の戦いは終了した。「上杉謙信やぶれたり!」信玄はいったという。
 武田信玄は川中島で勝利した。
 上杉はその後、関東支配を諦め、越後にかえり、信玄は目を西にむけた。
 第五次川中島の合戦は永禄七(一五六四)年、勃発した。
 しかし、両軍とも睨みあうだけで刃は交えず撤退。以後、二度と両軍は戦わなかった。 武田は領土拡大を西に向け、今川と戦う。こんなエピソードがある。今川と北条と戦ったため海のない武田領地は塩がなくなり民が困窮……そんなとき塩が大量に届く。それは上杉謙信からのものだった。たとえ宿敵であっても困れば助ける。「敵に塩をおくる」の古事はここから生まれた。
 武田は大大名になった。
 信玄は国づくりにも着手していく。治水工事、高板はたびたび川がはんらんしていた。 そこで竜王の民を移住させ、堤をつくった。
 上杉にも勝ち、金鉱二十もあらたに手にいれた。
 のちに信長は自分の娘を、信玄の息子勝頼に嫁がせている。
 しかし、信玄は信長の一向衆や寺焼き討ちなどをみて、
「織田信長は殺戮者だ! わしが生きているうちに正しい政をしなければ…」
 と考えた。それには上洛するしかない。

  のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。
 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。
 また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。
 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。
 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。
「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。




  信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。
 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。
 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。
 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。           天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。
 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。
 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?
 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。
 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。
 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。
 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に無勢で、結局殺されてしまう。
 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)
 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。
 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。
 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。
 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。
 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。
 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。


『蜂前(はちまき)神社文書』では直虎の領主としての才能も。(今川家との間で交わされた書状)に徳政令(とくせいれい・借金棒引き命令)。天候不良で不作。井伊谷の領民(百姓)の訴えで今川家は井伊家に徳政令を出せと命令。しかし、台所は火の車。徳政令を出せば、(お金・不足分を出している)商人が破綻してしまう。そうなれば井伊家は資金調達できなくなる可能性があった。しかし、徳政令を出さなければ生活費にも窮する農民が一揆を起こす可能性もある。井伊谷は大混乱である。だが、これは今川方が井伊家の領地を奪うのが本当の目的であった。
<駒澤大学副学長(戦国社会史)久保田昌希氏「残された資料から見て井伊谷徳政令をめぐる動きをどう仕切っていくか、どう平和をもたらすか、瀬戸際に直虎は立たされていた。農民たちもどう動いていくか、非常に混迷した状況に立たざる得なかった。徳政令をめぐって直虎は非常に慎重に行動している。政治的には徳政令発行をじらして時間をかせぎ、商人も守った」>




緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.143安倍晋三「アベノミクス独裁」の開始「細野民主橋下維新同盟を!」

2014年12月15日 18時45分19秒 | 日記









『アベノミクス』とは

ウナギのかば焼きの

     ”ウナギのない臭いだけ”の商法だ。


   悪辣安倍晋三「アベノミクス独裁」の始まりだ。


野党の敗北というより自民党の圧勝である。


    海江田民主党党首は落選辞任するが


  後任は細野豪志氏であってほしい。


細野民主党と橋下維新を同盟させ「救国の新世紀維新」を起動する!


    緑川鷲羽2014そして始まりの2015へ

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.143安倍晋三「アベノミクス独裁」の開始「ポンコツ安倍官邸と無能参謀」

2014年12月15日 17時28分09秒 | 日記






安倍晋三 「アベノミクス独裁」の開始


  2014年12月14日安倍政権は任期を二年残しての解散総選挙の暴挙に出て、まんまと大勝利してしまった。「アベノミクスの失敗を隠しての解散総選挙ではありません」と安倍首相は言っていたがいかにも苦しい。実態はそういうことだろうが。
自民党だけで300議席以上、公明党も議席を増やしたが意外に、日本共産党も議席をわずかだが増やした。
2014年4月から消費税を5%から8%に税率を引き上げて、なんと消費が5兆円も落ち込んだ。そこで安倍政権は5.5兆円の補正予算を組んで対策を講じたが「アベノミクスは失敗」した。その失敗を隠すために、それと傷のついた内閣のリセットの為だけに700億円もの費用をかけて「アベノミクス解散総選挙」を行った。その際、安倍首相は「アベノミクスで雇用が増えて、内定率もあがった。行き過ぎた円高デフレも解消された」といっていた。ちょっと待ってよ、といいたい。雇用が増えたのは正社員ではない契約派遣社員だ。また、大企業の工場はもう海外の人件費の安いところにとっくの昔に移っており、日本人の人件費が少しばかり安くなったとしても「(単純作業のルーチンワーク的)製造業工場」等日本国内に戻って等こない。安倍さんがいう日本に大企業の工場が戻ってきた、などという話は枝葉末節的なほんの数パーセントのごく稀なケースであり、「安かろう悪かろう外国製品」を嫌う、「高額でも品質の良いメイドインジャパン製品を購買する購買者向け」でしかない。それを大企業全体ととらえるというところが安倍さんの頭の悪さ、だ。
「アベノミクス」はウナギのかば焼きの”ウナギのない臭いだけ”の商法である。アベノミクスとやらで儲けたのは一部のお金持ちだけ。ほとんどの一般庶民は恩恵にもおこぼれにもあずかっていない。安倍政権は「アベノミクスの失敗が表面化する前」に手を打った。消費税の再増税を2017年4月に延長したのは英断ではあるが、それ以外は何ら汲むべき酌量の余地はない。
アベノミクスは失敗した!景気はよくならないし、このままでは財政も内政も外交もレイムダック状態になる。安倍自民党公明党圧勝の独裁が始まるだけだ。そして日本国の運命は悲惨な地獄になる。安倍晋三「アベノミクス独裁」の間抜けさ、だけでも国民はわかっておくべきだろう。野党も情けなく分裂したので自民公明圧勝は意外ではない。独裁が始まる!日本国のおわりの始まり、である。

緑川鷲羽(みどりかわ・わしゅう)・44・フリージャーナリスト・

葵のジャンヌダルク 井伊直虎と直政<2017年度女性版NHK大河ドラマ原作>直虎編8

2014年12月15日 06時48分59秒 | 日記







  のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。
 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。
 また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。
 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。
 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。
「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。




  信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。
 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。
 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。
 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。           天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。
 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。
 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?
 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。
 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。
 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。
 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に無勢で、結局殺されてしまう。
 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)
 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。
 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。
 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。
 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。
 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。
 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。


『蜂前(はちまき)神社文書』では直虎の領主としての才能も。(今川家との間で交わされた書状)に徳政令(とくせいれい・借金棒引き命令)。天候不良で不作。井伊谷の領民(百姓)の訴えで今川家は井伊家に徳政令を出せと命令。しかし、台所は火の車。徳政令を出せば、(お金・不足分を出している)商人が破綻してしまう。そうなれば井伊家は資金調達できなくなる可能性があった。しかし、徳政令を出さなければ生活費にも窮する農民が一揆を起こす可能性もある。井伊谷は大混乱である。だが、これは今川方が井伊家の領地を奪うのが本当の目的であった。
<駒澤大学副学長(戦国社会史)久保田昌希氏「残された資料から見て井伊谷徳政令をめぐる動きをどう仕切っていくか、どう平和をもたらすか、瀬戸際に直虎は立たされていた。農民たちもどう動いていくか、非常に混迷した状況に立たざる得なかった。徳政令をめぐって直虎は非常に慎重に行動している。政治的には徳政令発行をじらして時間をかせぎ、商人も守った」>




  足利義昭が織田信長に「幕府回復のために力を貸していただきたい」と打診していた頃、信長はまだ稲葉山城(岐阜城)攻略の途中であったから、それほど関心を示さなかった。また、天皇からの「天皇領の回復を願いたい」というも放っておいた。
 朝倉義景の一乗谷城には足利義昭や細川藤孝が厄介になる前に、居候・光秀がいた。のちに信長を本能寺で討つことになる明智十兵衛光秀である。美濃の明智出身であったという。機知に飛んだ武士で、教養人、鉄砲の名人で、諸国を放浪していたためか地理や地方の政や商いに詳しかった。
 光秀は朝倉義景に見切りをつけていた。もともと朝倉義景は一国の主で満足しているような男で、とうてい天下などとれる器ではない。このような男の家臣となっても先が知れている。光秀は誇り高い武将で、大大名になるのが夢だ。…義景では……ダメだ。
 光秀は細川藤孝に「朝倉義景殿ではだめだ。織田信長なら、あるいは…」と漏らした。「なるほど」細川は唸った。「信長は身分や家格ではなく能力でひとを判断するらしい。義昭さまを連れていけば…あるいは…」
 ふたりは頷いた。やっと公方様の役に立つかも知れない。こうなったらとことん信長を利用してやる。信長のようなのは利用しない手はない。
 光秀も細川藤孝も興奮していた。これで義昭さまが将軍となれる。…かれらは信長の恐ろしさをまだ知らなかったのだ。信長が神や仏を一切信じず、将軍や天皇も崇めないということを……。光秀たちは無邪気に信長を利用しようとした。しかし、他人に利用される程、信長は甘くない。信長は朝倉義景とは違うのだ。
 光秀も細川藤孝もその気になって、信長に下話した。すると、信長は足利義昭を受け入れることを快諾した。なんなら将軍に推挙する手助けをしてもいい、と信長はいった。
 明智十兵衛光秀も細川藤孝も、にやりとした。
 信長が自分たちの思惑通りに動いたからだ。
 ……これで、義昭さまは将軍だ。してやったり!
 だが、光秀たちは信長が「義昭を利用してやろう」などと思っていることを知らなかった。いや、そんなことは思いもよらなかった。なにせ、光秀たちは古い価値観をもった武士である。誰よりも天皇や室町幕府、足利将軍の崇拝者であり、天皇や将軍を利用しようという人間がいるなど思考の範疇外であったのだ。
 信長は「くだらん将軍だが、これで上洛の口実ができる」と思った。
 信長が快諾したのは、義昭を口実に上洛する、つまり京都に入る(当時の首都は京都)ためである。かれも次第に世の中のことがわかってきていて、ただの守護代の家臣のそのまた家臣というところからの成り上がりでは天下はとれないとわかっていた。ただやみくもに野望を抱き、武力蜂起しても天下はとれないのをわかっていた。
 日本の社会は天皇などが中心の社会で、武家はその家臣というのが通例である。武力だけで天下の道を辿るのは難しい。チンギス・ハンのモンゴルや、秦始皇帝の中国とは違うのだ。天下をとるには上洛して、天皇らを嫌でもいいから奉らなければならない。
 そこで信長は「天下布武」などといいだした。
 つまり、武家によって天下をとる、という天下獲りの野望である。おれは天下をとる。そのためには天皇だろうが、将軍だろうが利用するだけ利用してやる!
 信長は興奮し、心の中で笑った。うつろな笑いだった。
 確かに、今、足利義昭も天皇も「権威を回復してほしい」といってきている。しかし、それは信長軍の武力が台頭してきているからで、弱くなれば身分が違うとバッサリきりすてられるかも知れない。そこで、どの大名も戴くことをためらった足利義昭をひきいて上洛すれば天下に信長の名が轟く。義昭は義輝の弟で、血も近い。なにより恩を売っておけば、何かと利用できる。恩人として、なにかしらの特権や便宜も計られるだろう。信長は狡猾に計算した。
「天下布武」などといったところで、おれはまだ美濃と尾張だけだ。おれは日本中を支配したいのだ。そのために足利義昭を利用して上洛しなくてはならないのだ。
 そのためにはまず第十四代将軍・足利義栄を戴いている三好や松永久秀を滅ぼさなければならない。信長は戦にうって出ることを考えていた。自分の天下のために!
 信長は当時の常識だった「将軍が一番偉い」などという考えをせせら笑った。なにが偉いものか! 偉いのはおれだ! 織田……織田信長だ! この俺に幸運がやってきた!





  足利義昭にしてみれば織田信長などチンピラみたいな男である。かれが越前にいったのも朝倉義景を通して越後の長尾(上杉)景虎(謙信)に頼ろうとしたのだし、また上杉でなくても武田信玄でも誰でもよかった。チンピラ信長などは「腰掛け」みたいなものである。なんといっても上杉謙信や武田信玄は信長より大物に写った。が、上杉も武田も容易に兵を挙げてくれなかった。義昭はふたりを呪った。
 しかし、信長にとっては千載一遇の好機であった。朝倉がどうでようと、足利義昭を利用すれば上洛の大義名分が出来る。遠交近攻で、上洛のさまたげとなるものはいない。
 信長は明智光秀や細川藤孝から義昭の依頼を受けて、伊勢方面に出兵した。滝川一益に北伊勢方面を攻撃させた。そうしながら伊勢の実力者である関一族の総領神戸氏の家に、三男の信孝を養子としておしつけた。工藤一族の総領である長野氏の名を弟信包に継がせたりしたという。信長の狙いは南伊勢の北畠氏である。北畠氏を攻略せねば上洛に不利になる。信長はさらに、
「足利義昭さまが越前にいてはやりにくい。どうか尾張にきてくだされ」と書状をおくった。義昭はすぐに快諾した。永禄十一年(一五六八)七月十三日、かれは越前一乗谷を出発した。朝倉義景には「かくかくしかじかで信長のところにまいる」といった。当然ながら義景は嫌な顔をした。しかし、朝倉義景は北近江一国で満足している、とうてい兵をあげて天下をとるだけの実力も器もないのだから仕方ない。
 上洛にたいして、信長は朝倉義景につかいをだした。義景は黙殺した。六角義賢(南近江の城主)ははねつけた。それで、信長は六角義賢を攻め滅ぼし、大軍を率いて京都にむかった。九月一二日に京都にはいった。足利義昭を京都の清水寺に宿舎として入れ、松永と三好三人衆と対峙した。松永弾正久秀は機を見るのに敏な男で、人質をさしだして和睦をはかった。それがきっかけとなり信長は三好三人衆の軍勢を叩き潰した。
 足利義昭は「こやつらは兄義輝を殺した連中だ。皆殺しにいたせ!」といきまいた。
 しかし信長が「義昭さま、ここは穏便に願う」と抑圧のある声で抑えた。
 永禄十一年(一五六八)十月十八日、足利義昭は将軍に推挙された。第一四代将軍・義栄は摂津の逃れて、やがてそこで死んだ。
「阿波公方・足利義栄の推挙に荷担し、義輝を殺した松永と三好三人衆を京都より追放する」時の帝正親町天皇はそう命じた。
 松永弾正久秀は降伏したものの、また信長と対立し、ついにはかれはおいつめられて爆死してしまう(大事にしていた茶道具とともに爆薬を体にまきつけて火をつけた)。
 直江兼続が織田信長とあったのはこの頃だったという。兼続は「ひとに義がなければ野山の獣と同じでござる!」という。上杉謙信に金色の洛中洛外図屏風を送った信長は「天下を取れるなら鬼にでも魂をくれるわ!」という。信長は義昭のために二条城を造らせた。 足利義昭は非常に喜んだ。これでまろは本物の将軍である。かれは信長に利用されているとはまだ感付いていなかった。「あなたはまろの御父上さまだ」義昭はきしょくわるくいった。信長は答えなかった。当時、信長三十六歳、義昭は三十二歳だった。「あなたは偉大だ。あなたを副将軍としてもよい。なんならもっと…」
「いや」信長は無表情のままきっぱりいった。「副将軍はけっこうでござる。ただし、この信長ひとつだけ願いがござる」
「それは?」
「和泉国の堺と、近江国の大津と草津に、代官所を置かせていただきたい」
 義昭はよく考えもせず、簡単に「どうぞどうぞ、代官所なりなんなり置いてくだされ。とにかくあなたはまろの御父上なのですから」と答えて、にやりとした。気色悪かった。 信長には考えがあった。堺と、大津と草津は陸運の要所である。そこからとれる税をあてにしたのだ。そして信長は京都で、ある人物にあった。それは南蛮人、ルイス・フロイスで、あった。キリスト教宣教師の。                       


直虎は決断した。直虎は徳政令見送りを決定。商人を保護、井伊家の経済的安定を最優先した。しかし、ハッキリ徳政令を出さない、といえば今川家への「謀反」ともとられかねないのでいわず、「しばらくお待ちを」と時間稼ぎをしている。その間に商人を守る為に徳政令の特別措置をつくり、後で今川家も認めざる得なかった。
農民たちが一揆を起こさないようにその行動にさいしんの注意をはらっていた。今川家、農民たち、商人たち、とのバランスをとりつづける女策士である。
そんなとき今川家から文が届く。『太以曲事二候(はなはだもってくせごとにそうろう)』<徳政令を先延ばしするのは許せん、と今川家は自分たちの企てが上手くいかず、苛立った>しかし、直虎は脅しに屈せずに、さらに時間稼ぎ。裏で商人への徳政令無効を整える。時間稼ぎは一年半にもおよんだ。永禄十一年(1568年)十一月九日、直虎は徳政令を出す。しかし、直虎のたくみな根回しで今川氏が狙っていたような、「大混乱し、領地今川家への没収」、もなかった。また直虎はお世話になった龍譚寺の資産も守った。
領地を守ったおんな城主直虎で、あった。

         2 桶狭間合戦




  樋口与六兼続は「信長は義に劣る者ときいている」という。
「では、今川公に負けまするか?」とは弟。
「わからぬ。だが、今川は何万の兵……織田はたった三千だ」
「では勝つのは今川公で?」
「知らぬ。だが、信長はうつけのようにみえるが軍事の天才だという。もしも…というときもあろう」
 兼続はいった。弟・与七実頼は「しかるにそのあるいはとは?」ときく。
「奇襲だ。わしが織田信長ならそうする。要は義元公の首をとればいいのだ」
 兼続はどこまでも明晰だった。「それにしても謙信公の戦は野遊びだ」
「野遊び?」
「信長がどんどん力をつけていくのに……いっこうに天下を狙わぬ」兼続は織田方に驚異の念を抱いていた。このままでは関東守護の座さえ危うい……。
「これ、御屋形様の悪口はけしからぬぞ!」
 父は叱った。名を樋口兼豊(惚右衛門)という。母は泉重蔵(お藤)で、まだ若い兄弟をきちんと躾ていた。
 戦国時代の二大奇跡がある。ひとつは中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦、もうひとつが織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。
 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。
  斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長が弟・信行を謀殺したのは前述した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。
 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。
 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。
「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。
「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。
「は?」
「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。
 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。
 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。
 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのよい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。
 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。
 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。
 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。
「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。
 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは               
足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。
 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。信長の勝つ確率は極めて低い。
  今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。
  特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。
 今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。
 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。しかし当の松平元康(のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。
 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。
 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。
 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。なにを夢ごとを。家臣たちは訝しがった。





  松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。
 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。
 今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。今川義元は軍議をひらいた。
「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。
 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」
 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。
 柴田勝家は「そうか……とは? …御屋形! 何か策は?」と口をはさんだ。
 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。宮福太夫という猿楽師に、羅生門を舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。
「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」
 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。
 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。
「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。
「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」
「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」
「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。
「なんて御屋形だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」
「まったくあきれる。あれでも大将か?」
 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」
  信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。
「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」
「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」
「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」
 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。
「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の男がいった。この男こそ、のちの豊臣秀吉である。秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」
「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」
 日吉は迷ってから「奇襲にでればと」
「奇襲?」信長は茫然とした。
「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」
「さしでがましいわ!」信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。
「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。
 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。
「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。
「なんじゃ、猿」
「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」
「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」
「八百あまり」
「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。
「いま何刻じや?」
「うしみつ(午前2時)でごさりまする」猿はいった。
「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」
 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。そして有名な「敦盛」を舞い始める。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。
「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。わずかに長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎の五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。
 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。
「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」
 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。
 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。
 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。
 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」
 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。
「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。
 信長は叫んだ。
「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」
 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。
「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」
 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせ、にやりとした。
「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形である」と感心した。
 織田軍は密かに進軍を開始した。





                
  太子ケ根を登り、丘の上で信長軍は待機した。
 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。嵐の中で部下は「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。
 しかし、信長はその策をとらなかった。
「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」
 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」
 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。山の上から喚声をあげて下ってくる軍に今川本陣は驚いた。
「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。
「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」
 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!
 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。
 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!
「御屋形様をお守りいたせ!」
 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。
「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、新助の人差し指に噛みつき、それを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。
 義元はこの時四十二歳である。                   
「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。
 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。
「勝った! われらの勝利じゃ!」
 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。
  かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。
「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」
「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。
「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。
 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。
 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。
  今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。
 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。
 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。
 これに対して信長は「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。
 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。
 清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方にけっそうをかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。
  清洲城に戻り、酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。
 信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」
 家臣たちは意味がわからず顔を見合わせたという。                 
        3 堺に着眼





  大河ドラマや映画に出てくるような騎馬隊による全力疾走などというものは戦国時代には絶対になかった。疾走するのは伝令か遁走(逃走)のときだけであった。上級武士の騎馬武者だけが疾走したのでは、部下のほとんどを占める歩兵部隊は指揮者を失ってついていけなくなってしまう。
 よく大河ドラマであるような、騎馬隊が雲霞の如く突撃していくというのは実際にはなかった。だが、ドラマの映像ではそのほうがカッコイイからシーンとして登場するだけだ。     ところが、織田信長が登場してから、工兵と緇重兵(小荷駄者)が独立することになる。早々と兵農分離を押し進めた信長は、特殊部隊を創造した。毛利や武田ものちにマネることになるが、その頃にはもう織田軍はものすごい機動性を増し、東に西へと戦闘を始めることができた。そして、織田信長はさらに主計将校団の創設まで考案する。
 しかし、残念なことに信長のような天才についていける人材はほとんどいなかったという。そのため信長は部下を方面軍司令官にしたり、次に工兵総領にしたり、築城奉行にしたり……と使いまくる。羽柴(豊臣)秀吉、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀ら有能とみられていた家臣の多忙さは憐れなほどであるという。
 上杉謙信の軍が関東の北条家の城を攻略したこともあったが、結局、兵糧が尽きて撤退している。まだ上杉謙信ほどの天才でも、工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離していなかったのである。その点からいえば、織田信長は上杉謙信以上の天才ということになる。
 この信長の戦略を継承したのが、のちの秀吉である。
 秀吉は北条家攻略のときに工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離し、安定して食料を前線に送り、ついには北条家をやぶって全国を平定する。
  また、この当時、日本の度量衡はバラバラであった。大仏建立の頃とくらべて、室町幕府の代になると、地方によって尺、間、升、などがバラバラであった。信長はこれはいかんと思って、度量衡や秤を統一する。この点も信長は天才だった。
 信長はさらに尺、升、秤の統一をはかっただけでなく、貨幣の統一にも動き出す。しかも質の悪い銭には一定の割引率を掛けるなどというアイデアさえ考えた。
 悪銭の流通を禁止すれば、流動性の確保と、悪銭の保有を抑えられるからだ。
 減価償却と金利の問題がなければ、複式記帳の必要はない。仕分け別記帳で十分である。そこで、信長は仕分け別記帳を採用する。これはコンピュータを導入するくらい画期的なことであった。この記帳の導入の結果、十万もの兵に兵糧をとめどなく渡すことも出来たし、安土城も出来た。その後の秀吉の時代には大阪城も出来たし、全国くまなく太閤検地もできた。信長の天才、といわねばなるまい。

  京都に上洛するために信長は堺や京都の商人衆に「矢銭」を要求しようと思った。
「矢銭」とは軍事費のことである。
「サル!」
 信長は清洲城で羽柴秀吉(藤吉郎)をよんだ。サルはすぐにやってきた。
「ははっ、御屋形様! なんでござりましょう」
「サル」信長はにやりとして「堺や京都の商人衆に「矢銭」を要求しろ」
「矢銭、でござりまするか?」
「そうじゃ!」信長は低い声でいった。「出来るか? サル」
「ははっ! わたくしめにおまかせくださりませ!」秀吉は平伏した。
 自分が将軍・義昭を率いて上洛し、天下を統一するのだから、商人たちは戦いもせず利益を得ているのだから、平和をもたらす武将に金をだすべきだ……これが信長の考えだった。極めて現実的ではある。
 サルはさっそく堺にはいった。商人衆にいった。
「織田信長さまのために矢銭を出していただきたい」秀吉は唾を飛ばしながらいった。周りの商人たちは笑った。
「織田信長に矢銭? なんでわてらが銭ださにゃあならんのや?」
「て……」秀吉はつまった。そして続けた。「天下太平のため! 天下布武のため!」
「天下太平のため? 天下布武のため? なにいうてまんねん」商人たちはにやにやした。「天下のため、堺衆のみなみなさまには信長さまに二万貫だしていただきたい!」
「二万貫? そんな阿呆な」商人たちは秀吉を馬鹿にするだけだった。
 京都も渋った。しかし、信長が威嚇のために上京を焼き討ちにすると驚愕して金をだした。しかし、堺は違った。拒絶した。しかも、信長や家臣たちを剣もほろろに扱った。 信長は「堺の商人衆め! この信長をナメおって!」とカッときた。
 だか、昔のように感情や憤りを表面にだすようなことはなかった。信長は成長したのだ。そして、堺のことを調べさせた。
 堺は他の商業都市とは違っていた。納屋衆というのが堺全体を支配していて、堺の繁栄はかれらの国際貿易によって保たれている。納屋衆は自らも貿易を行うが、入港する船のもたらす品物を一時預かって利益をあげている。堺の運営は納屋衆の中から三十六人を選んで、これを会合衆として合議制で運営されていること。堺を見た外国人は「まるでヴィニスのようだ」といっていること………。
 信長は勉強し、堺の富に魅了された。
 信長にとっていっそう魅力に映ったのは、堺を支配する大名がいないことであった。堺のほうで直接支配する大名を欲してないということだ。それほど繁栄している商業都市なら有力大名が眼をぎらぎらさせて支配しようと試みるはずだ。しかし、それを納屋衆は許さなかった。というより会合衆による「自治」が行われていた。
 それだけではなく、堺の町には堀が張りめぐらされ、町の各所には櫓があり、そこには町に雇われた浪人が目を光らせている。戦意も強い。
 しかし、堺も大名と全然付き合いがない訳でもなかった。三好三人衆とは懇篤なつきあいをしていたこともある。三好には多額な金品が渡ったという。
 もっとも信長が魅かれたのは、堺のつくる鉄砲などの新兵器であった。また、鉄砲があるからこそ堺は強気なのだ。
「堺の商人どもをなんとかせねばならぬ」信長は拳をつくった。「のう? サル」
「ははっ!」秀吉は平伏した。「堺の商人衆の鼻をあかしましょう」
 信長は足利義昭と二万五千人の兵を率いて上洛した。
 神も仏も将軍も天皇も崇めない信長ではあったが、この時ばかりは正装し、将軍を奉った。こうして、足利義昭は第十五代将軍となったのである。
 しかし、義昭など信長の”道具”にしかすぎない。
 信長はさっそく近畿一圏の関所を廃止した。これには理由があった。日本人の往来を自由にすることと、物流を円滑にすること。しかし、本当の目的は、いざというときに兵器や歩兵、兵糧などを運びやすくするためだ。そして、関所が物やひとから銭をとるのをやめさせ、新興産業を発展させようとした。
 関所はもともとその地域の産業を保護するために使われていた。近江国や伊勢国など特にそうで、一種に保護政策であり、規制であった。信長はそれを破壊しようとした。
 堺の連中は信長にとっては邪魔であった。また、信長がさらに強敵と考えていたのが、一向宗徒である。かれらの本拠地は石山本願寺だった。
 信長は石山本願寺にも矢銭を求めた。五千貫だったという。石山本願寺側ははじめしぶったが、素早く矢銭を払った。信長は、逆らえば寺を焼き討ちにしてくれようぞ、と思っていたが中止にした。



葵のジャンヌダルク 井伊直虎と直政<2017年度女性版NHK大河ドラマ原作>直虎編7

2014年12月14日 07時19分26秒 | 日記





 信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」
「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。
「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」
「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」
「天罰が下りまするぞ!」
 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。
「わしに反対しようというのか?!」
「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」
 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。    
「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」
 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”秀吉は恐ろしくなった。
 秀吉のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、驚異的な形をとりはじめた。かれの本能のすべてに警告の松明がみえていた。「焼き討ちとは…神仏を?」緊張が肩から首にまわって大変なことになったが、秀吉は悲鳴をあげなかった。
 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。
 佐脇良之は炎上する神社の中から赤子を救いだした。これが利家の養女となる。
 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。

この頃、井伊家を継ぐ男子は直親の子(虎松)・のちの直政(万千代)のみ。しかし、未だ、二歳と幼い。ということで直虎が寺から帰国して、かつての許婚(いいなずけ)との永遠の別れに悲しむいとまもなく、直虎が井伊家を継ぐ直政の名代(みょうだい)として、井伊家に戻った。<静岡大学名誉教授(戦国史)の小和田哲男さんは「家をつなぐというのは血縁関係でつなぐだけでなく、今でいう会社組織のトップなので、それを守る使命がある。ただ、当時一般的には(家を継ぐのは)男の役目。普通は養子を迎えれば済んだ話だが、直虎の場合は特殊だった」という。>多くの戦国武将が群雄割拠する戦国時代の中で、直虎は世にも稀な女性の戦国武将として生きることになった。
直虎は赤子の虎松をあやしながら「直親さま、みていてくだされ」と天を拝むのだった。
話を戻す。
「おや、麗。ようやく戻ったかえ」
「母上」
「駿府のれん様から、また珍しい京の菓子が届きましたぞ」
「おばさまから?」
今川の重鎮である関口親永(せきぐち・ちかなが)の奥方れんは井伊家の出だ。夫との間に瀬名(せな)姫という麗とあまりかわらない歳の姫がいる。
「ああ、猪羹(ちょかん)、これは甘葛ではなくて砂糖羊羹ね。麗に食べさせたかったのよ」
麗も年頃だ。母親は化粧をすすめたが、いらぬ。ぶきみだ、という。
白粉も紅もいらぬという。母親の化粧道具を見て、女の顔をつくるのにこれだけのものが必要なのか?と疑問をもった。極めてボーイッシュ(男の子のよう)な麗だった。
十四になったある日、下腹に違和感を覚えて指をやると、股にぬめりがあった。
「まあ、次郎の姫様。おめでたいことですよ」
いわゆる“月のもの(月経・生理)”がとうとう麗にも来たわけだ。
本丸の奥で母や女どもとともに過ごせば、女は一か月か二か月かに一度は、血を流す日があることは知っていた。
きっかけは母の化粧道具の中に、ぽつんと、蒔絵のない箱があったことだ。開けてみると蚕の繭玉があった。いわゆる現代でいうタンポンな訳だ。
「なぜ桶箱(オマル)などに? 厠にいけばよいではありませんか」
麗が言うと、母と侍女が、顔を合わせにんまり笑った。よほど娘の体が成熟したことがうれしいらしい。
「動くと漏れるゆえ、汚れるし、そなたも恥ずかしいであろう。なに、三か月もすれば腹に力を込めれば垂れずに済み、厠でひりだせるようになる。皆、そうしてきたことじゃ。そなたも慣れよう」
始めはさすがに困惑していた麗だったが、なるほど、母の言う通り三か月もすれば慣れた。
だが、この“月のモノ”と“結納”と“おめでたいこと”とは何のことか?よくわからない。大人に聞いても横に揺れて恥ずかしがるばかり。春画等も次郎法師は見たこともなかった。だが、そんなこともいずれはわかること。子供が出来る為に産むために“生理の激痛”がある、と知った。だが、井伊直虎は実際のところ、生涯母親としてお腹を痛める事も、女子の幸せもなかった、という。
すべては井伊家、井伊谷の領民の為に。国の為道の為に。――紅はいらぬ、剣をもて!
(『剣と紅』高殿円著作、文藝春秋出版社参考文献文章引用 四〇~九十三ページ)
       
 三方が原の戦い



     
  信長にとって最大の驚異は武田信玄であった。
 信玄は自分が天下人となり、上洛して自分の旗(風林火山旗)を掲げたいと心の底から思っていた。この有名な怪人は、軍略に優れ、長尾景虎(上杉謙信)との川中島合戦で名を知られている強敵だ。剃髪し、髭を生やしている。僧侶でもある。
 武田信玄は本願寺の総帥・光佐とは親戚関係で、要請を受けていた。また、将軍・足利義昭の親書を受け取ったことはかれにいよいよ上洛する気分にさせた。
 元亀三年(一五七二)九月二十九日、武田信玄は大軍を率いて甲府を出発した。
 信玄は、「織田信長をなんとしても討とう」と決めていた。その先ぶれとして信玄は遠江に侵攻した。遠江は家康の支配圏である。しかし、信玄にとって家康は小者であった。 悠然とそこを通り、京へと急いだ。家康は浜松城にいた。
 浜松城に拠点を置いていた家康は、信玄の到来を緊張してまった。織田信長の要請で、滝川一益、佐久間信盛、林通勝などが三千の兵をつけて応援にかけつけた。だが、信長は、「こちらからは手をだすな」と密かに命じていた。
 武田信玄は当時、”神将”という評判で、軍略には評判が高かった。その信玄とまともにぶつかったのでは勝ち目がない。と、信長は思ったのだ。それに、武田が遠江や三河を通り、岐阜をすぎたところで家康と信長の軍ではさみ討ちにすればよい……そうも考えていた。しかし、それは裏目に出る。家康はこのとき決起盛んであった。自分の庭同然の三河を武田信玄軍が通り過ぎようとしている。
「今こそ、武田を攻撃しよう」家康はいった。家臣たちは「いや、今の武田軍と戦うのは上策とは思えません。ここは信長さまの命にしたがってはいかがか」と口々に反対した。 家康はきかなかった。真っ先に馬に乗り、駆け出した。徳川・織田両軍も後をおった。 案の定、家康は三方が原でさんざんに打ち負かされた。家康は馬にのって、命からがら浜松城に逃げ帰った。そのとき、あまりの恐怖に馬上の家康は失禁し、糞尿まみれになったという。とにかく馬を全速力で走らせ、家康は逃げた。
 家康の肖像画に、顎に手をあてて必死に恐怖にたえている画があるが、敗戦のときに描かせたものだという。それを家臣たちに見せ、生涯掲げた。
 ……これが三方が原で武田軍に大敗したときの顔だ。この教訓をわすれるな。決起にはやってはならぬのだ。………リメンバー三方が原、というところだろう。
  佐脇良之は善戦したが、三方が原で武田軍の騎馬にやれ、死んだ。信長に家康のもとに左遷せれてからの死だった。利家は泣いた。まつも泣いた。
 さらに、利家の母・たつも死んだ。利家はショックでしばらく寝込んだという。
 秀吉には子がなかった。そのため、利家はおねに頼まれ、四女を秀吉の養女にした。秀吉はよろこび「豪姫じゃ! この子は豪姫じゃ!」とおやした。               
 利家は織田家臣団の中では佐々成政と大変懇篤な付き合いであったという。

 もし信玄が浜松城に攻め込んで家康を攻めたら、家康は完全に死んでいたろう。しかし、信玄はそんな小さい男ではない。そのまま京に向けて進軍していった。
 だが、運命の女神は武田信玄に微笑まなかった。
 かれの持病が悪化し、上洛の途中で病気のため動けなくなった。もう立ち上がることさえできなくなった。伊那郡で枕元に息子の勝頼をよんだ。
 自分の死を三年間ふせること、遺骨は大きな瓶に入れて諏訪湖の底に沈めること、勝頼は自分の名跡を継がないこと、越後にいって上杉謙信と和睦すること、などの遺言を残した。そして、武田信玄は死んだ。
 信玄の死をふして、武田全軍は甲斐にもどっていった。
 だが、勝頼は父の遺言を何ひとつ守らなかった。すぐに信玄の名跡を継いだし、瓶につめて諏訪湖に沈めることもしなかった。信玄の死も、忍びによってすぐ信長の元に知らされた。信長は喜んだ。織田信長にとって、信玄の死はラッキーなことである。
「天はわしに味方した。好機到来だ」信長は手をたたいて喜んだ。




         室町幕府滅亡


  将軍・足利義昭は信玄の死を知らなかった。
 そこでかれは、武田信玄に「信長を討て」と密書を何通もおくった。何も返事がこない。朝倉義景に送っても何の反応もない。本願寺は書状をおくってきたが、芳しくない。
 義昭は七月三日、蜂起した。二条城に武将をいれて、槙島城を拠点とした。義昭に忠誠を尽くす真木氏がいて、兵をあつめた。その数、ほんの三千八百あまり……。
 知らせをきいた信長は激怒した。
「おのれ、義昭め! わしを討てと全国に書状をおくったとな? 馬鹿めが!」信長は続けた。「もうあやつは用なしじゃ! 馬鹿が、雉も鳴かずばうたれまいに」
 七月十六日、信長軍は五万の兵を率いて槙島城を包囲した。すると、義昭はすぐに降伏した。しかし、信長は許さなかった。
”落ち武者”のようなざんばら髪に鎧姿の将軍・足利義昭は信長の居城に連行された。
「ひい~つ」義昭おびえていた。殺される……そう思ったからだ。
「義昭!」やってきた信長が声をあらげた。冷たい視線を向けた。
 義昭はぶるぶる震えた。小便をもらしそうだった。自分の蜂起は完全に失敗したのだ。もう諦めるしかない……まろは……殺される?
「も…もういたしませぬ! もういたしませぬ! 義父上!」
 かれは泣きべそをかき、信長の足元にしがみついて命乞いをした。「もういたしませぬ! 義父上!」将軍・足利義昭のその姿は、気色悪いものだった。
 だが、信長の顔は冷血そのものだった。もう、義昭など”用なし”なのだ。
「光秀、こやつを殺せ!」信長は、明智光秀に命じた。「全員皆殺しにするのじゃ!」
 光秀は「しかし……御屋形様?! 将軍さまを斬れと?」と狼狽した。
「そうじゃ! 足利義昭を斬り殺せ!」信長は阿修羅の如き顔になり吠えた。
 しかし、止めたのは秀吉だった。「なりませぬ、御屋形様!」
「なんじゃと?! サル」
「御屋形様のお気持ち、このサル、いたいほどわかり申す。ただ、将軍を殺せば松永久秀や三好三人衆と同じになりまする。将軍殺しの汚名をきることになりまする!」
 信長は無言になり、厳しい冷酷な目で秀吉をみていた。しかし、しだいに目の阿修羅のような光が消えていった。
「……わかった」信長はゆっくり頷いた。
 秀吉もこくりと頷いた。
 こうして、足利義昭は命を救われたが、どこか地方へと飛ばされ隠居した。こうして、足利尊氏以来、二百四十年続いた室町幕府は、第十五代将軍・足利義昭の代で滅亡した。




 はからずも井伊家の家督を継いだ直虎。出家したため結婚は出来なかったが、何故俗世に戻れたのか?出家した時の名前「次郎法師」(男の名前だったから)。
尼だと二度と俗世には戻れないが、(男の)僧侶なら戻れる。直虎は自分の先の人生を得意の千里眼で見抜いていたのかも知れない。永禄八年(1565年)直虎三十一歳、直虎は女だてらに家督を継ぐ。この頃、上杉謙信や武田信玄、毛利元就、徳川家康や織田信長、北条氏康など戦国大名が地方の国人領主たちを支配しはじめていた。井伊家の領地は戦国大名今川家の支配地。直虎は今川方についていた。
井伊家を継ぐ男子は直親の子(虎松)・のちの直政(万千代)のみ。しかし、未だ、二歳と幼い。ということで直虎が寺から帰国して、かつての許婚(いいなずけ)との永遠の別れに悲しむいとまもなく、直虎が井伊家を継ぐ直政の名代(みょうだい)として、井伊家に戻った。<静岡大学名誉教授(戦国史)の小和田哲男さんは「家をつなぐというのは血縁関係でつなぐだけでなく、今でいう会社組織のトップなので、それを守る使命がある。ただ、当時一般的には(家を継ぐのは)男の役目。普通は養子を迎えれば済んだ話だが、直虎の場合は特殊だった」という。>多くの戦国武将が群雄割拠する戦国時代の中で、直虎は世にも稀な女性の戦国武将として生きることになった。
直虎は赤子の虎松をあやしながら「直親さま、みていてくだされ」と天を拝むのだった。
話を戻す。
「おや、麗。ようやく戻ったかえ」
「母上」
「駿府のれん様から、また珍しい京の菓子が届きましたぞ」
「おばさまから?」
今川の重鎮である関口親永(せきぐち・ちかなが)の奥方れんは井伊家の出だ。夫との間に瀬名(せな)姫という麗とあまりかわらない歳の姫がいる。
「ああ、猪羹(ちょかん)、これは甘葛ではなくて砂糖羊羹ね。麗に食べさせたかったのよ」
麗も年頃だ。母親は化粧をすすめたが、いらぬ。ぶきみだ、という。
白粉も紅もいらぬという。母親の化粧道具を見て、女の顔をつくるのにこれだけのものが必要なのか?と疑問をもった。極めてボーイッシュ(男の子のよう)な麗だった。
十四になったある日、下腹に違和感を覚えて指をやると、股にぬめりがあった。
「まあ、次郎の姫様。おめでたいことですよ」
いわゆる“月のもの(月経・生理)”がとうとう麗にも来たわけだ。
本丸の奥で母や女どもとともに過ごせば、女は一か月か二か月かに一度は、血を流す日があることは知っていた。
きっかけは母の化粧道具の中に、ぽつんと、蒔絵のない箱があったことだ。開けてみると蚕の繭玉があった。いわゆる現代でいうタンポンな訳だ。
「なぜ桶箱(オマル)などに? 厠にいけばよいではありませんか」
麗が言うと、母と侍女が、顔を合わせにんまり笑った。よほど娘の体が成熟したことがうれしいらしい。
「動くと漏れるゆえ、汚れるし、そなたも恥ずかしいであろう。なに、三か月もすれば腹に力を込めれば垂れずに済み、厠でひりだせるようになる。皆、そうしてきたことじゃ。そなたも慣れよう」
始めはさすがに困惑していた麗だったが、なるほど、母の言う通り三か月もすれば慣れた。
だが、この“月のモノ”と“結納”と“おめでたいこと”とは何のことか?よくわからない。大人に聞いても横に揺れて恥ずかしがるばかり。春画等も次郎法師は見たこともなかった。だが、そんなこともいずれはわかること。子供が出来る為に産むために“生理の激痛”がある、と知った。だが、井伊直虎は実際のところ、生涯母親としてお腹を痛める事も、女子の幸せもなかった、という。
すべては井伊家、井伊谷の領民の為に。国の為道の為に。
(『剣と紅』高殿円著作、文藝春秋出版社参考文献文章引用 四〇~九十三ページ)
       



         どくろ杯


  信長は珍しく神棚に祈っていた。もう深夜だった。ろうそくの明りで室内は鬼灯色になっていた。秀吉はにこりと笑って、「神に祈っておられるのでか? 御屋形様」といった。そして、はっとした。除くと、神棚には仏像も何もない。ただ鏡があって、そこに信長の顔が写しだされていたからだ。信長は”自分”に祈っていたのだ。
 秀吉はそら恐ろしい気分だったに違いない。
  信長は大軍をすすめ、越前(福井県)に突入した。北近江の浅井長政はそのままだ。一乗谷城の朝倉義景にしてもびっくりとしてしまった。
 義景にしてみれば、信長はまず北近江の浅井長政の小谷山城を攻め、次に一乗谷城に攻め入るはずだと思っていた。しかし、信長はそうではなかった。一揆衆と戦った経験から、信長軍はこの辺の地理にもくわしくなっていた。八月十四日、信長は猛スピードで進撃してきた。朝倉義景軍は三千人も殺された。信長は敦賀に到着している。
 織田軍は一乗谷城を包囲した。義景は「自刀する」といったが部下にとめられた。義景は一乗谷城を脱出し、亥山(大野市)に近い東雲寺に着いた。
「一乗谷城すべてを焼き払え!」信長は命じた。
 城に火が放たれ、一乗谷城は三日三晩炎上し続けた。それから、義景はさらに逃亡を続けた。が、懸賞金がかけられると親戚の朝倉景鏡に百あまりの軍勢でかこまれてしまう。 朝倉義景のもとにいるのはわずかな部下と女人だけ………
 朝倉義景は自害した。享年四十一歳だったという。
  そして、北近江の浅井長政の小谷山城も織田軍によって包囲された。
 長政は落城が時間の問題だと悟った。朝倉義景の死も知っていたので、援軍はない。八月二十八日、浅井長政は部下に、妻・お市(信長の妹)と三人の娘(茶々(のちの秀吉の側室・淀君)、お初、お江(のちの家康の次男・秀忠の妻)を逃がすように命じた。
 お市と娘たちを確保する役回りは秀吉だった。
「さぁ、はやく逃げるのだ」浅井長政は心痛な面持ちでいった。
 お市は「どうかご一緒させてください」と涙ながらに懇願した。
 しかし、長政は頑固に首を横にふった。
「お主は信長の妹、まさか妹やその娘を殺すことはしまい。嫡男は殺されるだろうが」
「しかし…」
「いけ!」浅井長政は低い声でいった。「はやく、いくのだ! さぁ!」
お市は浅井長政に嫁いだ日を思い出した。兄・信長に命じられるまま嫁いだ。浅井長政はお市を見て「そなたは武将のような女子じゃ。しかしその瞳に可憐な女が見える」といったのだ。「女?」お市は長政に惹かれるようになる。すぐに茶々(のちの秀吉の側室・淀君)と初(京極高次の側室)という娘に恵まれた。そして信長に反逆して大勢の織田勢に包囲されながら、小谷城でお市は身ごもった。しかし、お市はお腹の赤子をおろそうとした。薬師に薬をもらった。「これを飲めばお腹のやや(赤子)は流れるのじゃな?」「はっ」そんなとき、幼い茶々が短刀を抜いて初を人質に乱入した。驚いた、というしかない。茶々は「ややを産んでくだされ、母上! ややを殺すならこの茶々も初もこの刀で死にまする!」という。この思いに母・お市は負けた。短刀を取り上げて、「わかった。産もうぞ」といった。娘が生まれた。
 長政は「この姫は近江の湖に生まれし子、名は江じゃ」という。しかし、浅井三姉妹とお市と浅井長政との永遠の別れとなった。お市と茶々、初や側奥女中らは号泣しながら小谷城落城・炎上を見送った。
 秀吉はにこにこしながら、お市と娘たちを受け取った。
 浅井長政は、信長の温情で命を助けられそうになった。秀吉が手をまわし、すでに自害している長政の父・久政が生きているから出てこい、とやったのだ。
 浅井長政は、それならばと城を出た。しかし、誰かが、「久政様はすでに自害している」と声をあげた。そこで浅井長政は、
「よくも織田信長め! またわしを騙しおったか!」と激怒し、すぐに家老の屋敷にはいり、止める間もなく切腹してしまった。
 信長は激しく怒り、「おのれ! 長政め、命だけは助けてやろうと思うたのに……馬鹿なやつめ!」とかれを罵った。
 長男の万福丸は秀吉の家臣によって殺害され、次男の万寿丸は出家処分に…お市は泣きながら、三姉妹とともに織田信長の清洲城に引き取られていった。
 兄・信長と信包の元で、9年間もお市の方は贅沢に幸せに暮らさせてもらった。しかし、気になるのは柴田勝家である。
 勝家はお市の初恋の相手であった。またお市は秀吉をいみ嫌っていた。…サルめ! ハッキリそういって嫌った。

  天正二年(一五七四)の元日、岐阜城内は新年の祝賀でにぎわっていた。
 信長は家臣たちににやりとした顔をみせると、「あれを持ってこい」と部下に命じた。ほどなく、布につつまれたものが盆にのせて運ばれてきた。    
「酒の肴を見せる」
 信長はにやりとして、顎で命じた。布がとられると、一同は驚愕した。盆には三つの髑髏があったからだ。人間の頭蓋骨だ。どくろにはそれぞれ漆がぬられ、金箔がちりばめられていた。信長は狂喜の笑い声をあげた。
「これが朝倉義景、これが浅井久政、浅井長政だ」
 一同は押し黙った。………信長さまはそこまでするのか……
 お市などは失神しそうだった。利家たちも愕然とした。
「この髑髏で酒を飲め」信長は命じた。部下が頭蓋骨の頂点に手をかけると、皿のようになった頭蓋骨の頭部をとりだし、酒をついだ。
「呑め!」信長はにやにやしていた。家臣たちは、信長さまは狂っている、と感じた。酒はもちろんまずかった。とにかく、こうして信長の狂気は、始まった。


井伊家は井伊谷をおさめながら今川氏の命令もきく、いわば中間管理職のような身分だった。国人領主の苦労①「戦費のねん出」。年貢(米)制度だったが、戦費は増える一方で領主たちの台所はいつまでも火の車。かといって、年貢を増やせば百姓一揆を招き、収入さえ失う可能性もある。そのために時には食事や酒をふるまい、年貢を気持ちよく払うように百姓たちのご機嫌取りも国人領主の仕事であった。国人領主の苦労②「領民への気遣い」。
領民の気持ちによりそい、時には相談や離縁やケンカの仲裁までしたとか。
一方で戦国大名にもたえずごきげんうかがい。少しでも怠惰や怠慢や反抗的と疑われたら、お家断絶だからだ。国人領主の苦労③「大名に絶対服従」。板挟みに耐えかねて、勝手に村を売った領主もいたほどだ。直虎の作戦は花押(かおう・資料浜松市博物館『直虎花押の文』)花押とはサインのことで、大名の男が書くものだった。家康や信長、信玄や秀吉、謙信、伊逹政宗のような花押をつかうもの=大地をおさめる男性。直虎が「男性とみられるように花押を使った」可能性は大だ。意識的に花押をつかっていた。
対外的には直虎が女性だと知られていなかったのではないか?女性の領主だと、攻められる可能性もあった。花押だけでなく、「直虎」といういかにも武将らしい名前も領主となってからつかいはじめた。花押と名前で男のふり。まさに策士である。

  勝家は家臣団五千とともに上杉景勝と戦っていた。そんな中、ふたたび家臣となった者が山城に孤立した。囲まれ、上杉軍にやられるところだった。勝家の部下たちはその者は見殺しにして、このまますすめば上杉景勝の首をとれると進言した。しかし、勝家は首を横にふった。「あやつを見殺しに出来るか!」こうして、その者たちは助けられた。         
 上杉景勝(上杉謙信の甥・謙信の養子・上杉家第二代)は難を逃れた。




  天正四年(一五七六)……
 信長の庇護のもと伊勢(三重県)上野城でお江、茶々、初、お市は暮らしていた。
「母上ーっ!」背の高い少女が浜辺で貝を拾いながら、浜辺のお市や叔父・織田信包(のぶかね)らに手をいった。可愛い少女である。
「あ!……姉様! ずるい!」
 浅井三姉妹の次女で姉の初が、江の籠の貝を盗みとり自分の籠に入れた。
 お市とともに浜茶屋に座っている背の高い少女こそ、長女・茶々、のちの豊臣秀吉の正室・淀になる茶々(当時十二歳)である。 初と江のふたりは浜茶屋に駆けてきて、
「母上、ひどいのです! 姉様が私の貝を盗むのです」
「失礼な、たまたま貝が私の籠にはいっただけじゃ」
 無邪気なふたりにお市も信包も茶々も笑った。 
 元亀四年(1573年)にお江は生まれ、寛永三年(1626年)に病死するまでの人生である。…墓は徳川家の菩提寺に秀忠とともにある。…
 徳川秀忠はハンサムな顔立ちで、すらりとした痩身な男で、智略のひとであったが、今はまだ只の若者に過ぎない。若き頃より、秀吉の人質になり、軍略を磨くことになるのだが、まだまだ家康・秀吉の方が上であった。
 幼い頃、江は織田信長の馬上での勇々しい姿をみたことがある。安土でのことだった。
 お江はその時の信長の姿を目に焼き付けていた。信長ならば…もしや…私も!「御屋形様は…戦神じゃ! ひとから義をとってしまえば野山の獣と同じだ!」
 織田……の旗印が風にたなびく……英雄・織田信長はお江には眩しく映った。
 まだお江は織田信長が父親の命をうばったなど知らなかった。
 そして、お江に「上杉謙信」「武田信玄」のことをきいた。
「どちらが勝つと思う? 江!」
「謙信に決まってます」
「しかし…」信長は続けた。「武田には山本勘介なる軍師が…」
「そんなやつ、謙信……上杉謙信の足元にもおよばぬはずです!」
 お江は笑った。川中島は現在の新潟県と長野県の間に流れる千曲川のところである。ここで上杉軍と武田軍のこぜりあいが長く続けられていた。上杉謙信とは不思議なひとで、領土を広げようという野心のない人物で、各国の武将の中でも人望があつかった。楽しむが如く戦をし、武田攻めも義によって行っているだけだという。武田の領地である信濃や甲斐を狙っていた訳ではないのだ。すべては村上義清の要請……それだけだった。
   そして、上杉謙信と武田信玄との激戦、川中島の戦いで、ある。

  信州(長野県)・川中島(信州と越後の国境付近)で、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)は激突した。世にいう「川中島合戦」である。戦国時代の主流は山城攻めだったが、この合戦は両軍四万人の戦いだといわれる。
  甲府市要害山で大永元(一五二一)年、武田信玄(晴信)は生まれた。この頃の十六世紀は戦国時代である。文永十(一五四一)年、武田信玄(晴信)は家督を継いだ。信濃には一国を束める軍がない。武田信玄は孫子の「風林火山」を旗印に信濃の四十キロ前までで軍をとめた。それから三~四ケ月動かなかった。
「武田などただの臆病ものよ!」
 信濃の豪族はたかをくくっていた。
 しかし、武田晴信はそんなに甘くはない。
 まず甲斐(山梨県)で軍備を整えた。
 出家もし、剃髪し、晴信から信玄と名をかえた。
 そして、信濃(長野県)の制圧の戦略をもくもくと練っていた。
「御屋形様! 武田の騎馬軍団の勇姿みせましょうぞ!」
 家臣たちは余裕だった。
 信玄も、
「信濃はわしのものとなる。甲斐の兵、武田軍は無敵ぞ」
 と余裕のままだった。
 謙信も「武田の兵を叩きつぶしてくれるわ!」息巻いた。
「いけ! 押し流せ!」
 陣羽織りの信玄の激が飛ぶ。
「うおおおっ!」
 武田の赤い鎧の集団が長槍をもって突撃する。
 信濃の豪族は油断した。そのすきに信玄は騎馬軍団をすすめ、信濃を平定した。領土を拡大していった。彼は、領土の経済へも目を向ける。「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定。治水事業も行った。信玄は国を富ませて天下取りを狙ったのである。
 第一次川中島の合戦は天文二十二(一五五三)年におこった。まだ誰の支配地でもない三角洲、川中島に信玄は兵をすすめる。と、強敵が現れる。上杉謙信(長尾景虎)である。謙信はこのときまだ二十二歳。若くして越後(新潟県)を治めた天才だった。謙信は幼い頃から戦いの先頭にたち、一度も負けたことがなかったことから、毘沙門天の化身とも恐れられてもいた。また、謙信は義理堅く、信濃の豪族が助けをもとめてきたので出陣したのであった。上杉軍が逃げる武田軍の山城を陥していき、やがて信玄は逃げた。信玄の川中島侵攻は阻まれた。(二万人の負傷者)
 天文二十三(一五五四)年、武田は西の今川、南の北条と三国同盟を成立させる。それぞれが背後の敵を威嚇する体制ができあがった。
「これで……不倶戴天の敵・上杉謙信を倒せる!」
 信玄は笑った。
 ある日、両軍主領があう機会があった。
 永禄元年五月上杉・武田の和議が起こり、千曲川を隔てて両将が会見したとき、謙信は馬から降り、川岸で会見しようとした。
 すると信玄は礼を重んじることもなく、
「貴公の態度はいかにもうやうやしい。馬上から語ってもよかろうぞ」と放言した。
 信玄には謙信のような「義」「礼」がなかったのである。
 謙信はやはり武田と戦うことを誓った。
 上杉謙信は武諦式をおこない、戦の準備をはじめた。
「……今度の戦で信玄を倒す!」
 謙信は兵に激を飛ばした。
「おう!」
 上杉軍は決起盛んである。
  第二次川中島の合戦は天文二十四(一五五五)年四月に勃発した。
 信玄は上杉が犀川に陣をはったときの背後にある旭山城の山城に目をつける。上杉は犀川に陣をはり、両軍の睨み合いが数か月続く。
 膠着状態のなか、上杉武田両軍のなかにケンカが発生する。
「やめぬか! 義を守れ!」
 謙信は冷静にいって、書状を書かせた。
 謙信は部下に誓約書をかかせ鎮圧したのだ。
 どこまでも「義」のひとなのである。
 信玄は違った。
「おぬしら、働きをしたものには褒美をやるぞ!」
 と、信玄は人間の利益にうったえた。
「欲」「現実」のひとなのである。
 信玄は戦でいい働きをしたら褒美をやるといい沈静化させる。謙信は理想、信玄は現実味をとった訳だ。
 やがて武田が動く。
 上杉に「奪った土地を返すから停戦を」という手紙を送る。謙信はそれならばと兵を引き越後に帰った。
「……信玄を信じよう」
 義の謙信は疑いのない男だ。
 しかし、信玄は卑怯な現実主義者だった。
 第三次川中島の合戦は弘治三(一五五七)年四月に勃発した。
 武田信玄が雪で動けない上杉の弱みにつけこんで約束を反古にして、川中島の領地を奪ったことがきっかけとなった。”信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。そして、民衆の悲しみは絶えない。隣国の主としてこれを黙認することなどできない”
 上杉謙信は激怒して出陣した。上杉軍は川中島を越え、奥まで侵攻。しかし、武田軍は戦わず、逃げては上杉を見守るのみ。これは信玄の命令だった。”敵を捕捉できず、残念である”上杉謙信は激怒する。”戦いは勝ちすぎてはいけない。負けなければよいのだ。 敵を翻弄して、いなくなったら領土をとる”信玄は孫子の兵法を駆使した。上杉はやがて撤退しだす。
 永禄二(一五五九)年、上杉謙信は京へのぼった。権力を失いつつある足利義輝が有力大名を味方につけようとしたためだ。謙信は将軍にあい、彼は「関東管領」を就任(関東支配の御墨付き)した。上杉謙信はさっそく関東の支配に動く。謙信は北条にせめいり、またたくまに関東を占拠。永禄三(一五六〇)年、今川義元が織田信長に桶狭間で討ち取られる。三国同盟に亀裂が走ることに……。
 上杉は関東をほぼ支配し、武田を北、東、南から抑えるような形勢になる。今川もガタガタ。しかも、この年は異常気象で、四~六月まで雨が降らず降れば十一月までどしゃぶり。凶作で飢餓もでた。
 第四次川中島の合戦は永禄四(一五六一)年、五月十七日勃発。それは関東まで支配しつつあった上杉に先手をうつため信玄が越後に侵攻したことに発した。信玄は海津城を拠点に豪族たちを懐柔していく。上杉謙信は越後に帰り、素早く川中島へ出陣した。
 上杉は川中島に到着すると、武田の目の前で千曲川を渡り、海津城の二キロ先にある妻女山に陣をはる。それは武田への挑発だった。
 十五日もの睨み合い…。信玄は別動隊を妻女山のうらから夜陰にまぎれて奇襲し、山から上杉軍を追い出してハサミ討ちにしようという作戦にでる(きつつき作戦)。
 しかし、上杉謙信はその作戦を知り、上杉軍は武田別動隊より先に夜陰にまぎれて山を降りる。
「よいか! 音をたてたものは首を斬り落とすぞ!」
 謙信は家臣や兵に命令した。
 謙信は兵に声をたてないように、馬には飼い葉を噛ませ口をふさぐように命令して、夜陰にまぎれて山を降りた。一糸乱れぬみごとな進軍だった。
 上杉軍は千曲川を越えた。
 九月十日未明、信玄が海津城を出発。永禄四(一五六一)年、九月十日未明、記録によれば濃い霧が辺りにたちこめていた。やがて霧がはれてくると、武田信玄は信じられない光景を目にする。
「……なんじゃと?! 上杉が陣の真ん前に?」
 信玄は驚いた。
 驚きのあまり軍配を地に落としてしまった。
 妻女山にいるはずの上杉軍が目の前に陣をしいていたのだ。上杉軍は攻撃を開始する。妻女山に奇襲をかけた武田別動隊はカラだと気付く。が、上杉軍の鉄砲にやられていく。「いけ! 押し流せ!」
 無数の長槍が交じりあう。
 雲霞の如く矢が飛ぶ。
 謙信は単身、馬で信玄にせまった。
 刀をふる謙信……
 軍配で受ける信玄……
 謙信と信玄の一気討ち「三太刀七太刀」…。
 このままでは本陣も危ない!
 信玄があせったとき武田別動隊が到着し、九月十日午前十時過ぎ、信玄の軍配が高々とあがる。総攻撃!
 ハサミうちにされ、朝から戦っていた兵は疲れ、上杉軍は撤退した。死傷者二万(両軍)の戦いは終了した。「上杉謙信やぶれたり!」信玄はいったという。
 武田信玄は川中島で勝利した。
 上杉はその後、関東支配を諦め、越後にかえり、信玄は目を西にむけた。
 第五次川中島の合戦は永禄七(一五六四)年、勃発した。
 しかし、両軍とも睨みあうだけで刃は交えず撤退。以後、二度と両軍は戦わなかった。 武田は領土拡大を西に向け、今川と戦う。こんなエピソードがある。今川と北条と戦ったため海のない武田領地は塩がなくなり民が困窮……そんなとき塩が大量に届く。それは上杉謙信からのものだった。たとえ宿敵であっても困れば助ける。「敵に塩をおくる」の古事はここから生まれた。
 武田は大大名になった。
 信玄は国づくりにも着手していく。治水工事、高板はたびたび川がはんらんしていた。 そこで竜王の民を移住させ、堤をつくった。
 上杉にも勝ち、金鉱二十もあらたに手にいれた。
 のちに信長は自分の娘を、信玄の息子勝頼に嫁がせている。
 しかし、信玄は信長の一向衆や寺焼き討ちなどをみて、
「織田信長は殺戮者だ! わしが生きているうちに正しい政をしなければ…」
 と考えた。それには上洛するしかない。