緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.146小説『処女の棺 ジャンヌ・ダルクの生涯』加筆 参考文献 企画進行中

2014年12月31日 14時35分28秒 | 日記






実は今現在は

過去にものした


小説『処女の棺 ジャンヌ・ダルクの生涯』


を加筆している。


理由は過去より、ジャンヌ・ダルクの生涯に関しての研究がかなり進んで、


数十年前にはわからなかった


「ジャンヌ・ダルクの生涯」の参考文献が出てきた事。


今年中に加筆終了の筈が来年になりそう。


ほんの数日後だが(笑)


緑川鷲羽2014年そしてはじまりの2015年へ

フェイスブック<若き天才の野心>facebookマークザッカーバーグ伝アンコール連載3

2014年12月31日 07時51分48秒 | 日記








  話を変える。
  マイクロソフト社は一歩一歩『大企業』へと歩みつつあった。
 はじめは華々しい躍進だった。
 しかし、新世紀頃からITはバヴル化が濃くなりはじめた。その泡は弾けた。
 弾けると、統制されていた経済も政治もボロボロになっていった。
 家庭からは「パソコン家電」といわれた。
 ウインドウズ95も規制され、独占禁止法律で訴えられた。
 ゲイツは政治家の偉いひとに呼ばれた。
 驚いた。
 MS社を分割しろと注文がきたのだ。
 まったく驚きだった。
 いままでシリコンバレーを、いや米国を牽引してきたのはMS社ではなかったのか?!
「この話は断らせていただきます」
「そこをなんとか、引き受けてくれ」
 といわれても、受けることは出来ない。


 それでもまだ無理難題をいわれる。
 今度は「飛行機のソフトをつくってくれ」というのだ。
 飛行機のソフトはIBMでつくるが、調整はマイクロソフトのほうでつくってくれという。
 ビル・ゲイツは社員に激を飛ばして、飛行機用のソフトをつくった。
 社員たちからは、感動がおきた。
 飛行機が飛んだときだ。
「ビル・ゲイツという男はたいしたものだ」
 軍部の大将も感動していた。
 戦争のための飛行機をつくる………
 これは、ビル・ゲイツにとって避けられない選択であった。
 けして、戦争に賛成していた訳ではない。
 しかし、従業員を食べさせてやらなければならない。
 ゲイツは船や戦闘機のソフトをつくり続けた。
  だが、戦争は惨めな敗北におわる。
 中東ではアメリカ人が訳のわからぬ自爆テロで次々と殺されていく…
「ああ…」
 泣きくずれた。声もなく、米国人は泣いた。
 しかし、これからが勝負だ!、と思っている男がいた。
 ゲイツである。
 この頃、MS社は従業員数二万四千人にもおよぶ巨大企業へと成長していた。
  その晩は、寝床でゆっくりと寝て、
「いやぁ、長い一日だったなぁ」
 とゲイツはいったという。
「だけど、これからがMSの始まりだ」
「あなた……すごいこと考えるねぇ」
「ぼくは世界一の経営者になるんだ! 世界一だぜ! そしてこの米国って国を世界一の『技術立国』にするんだ! それがぼくの使命だ!」
「まぁ、『技術立国』? あなたはすごいこと考えよるなあ」
 妻は感動するやら呆れるやら。
 ゲイツは社員に、
「これからはぼくらの時代です。米国は戦争には負けたが、これから経済で勝つつもりで頑張って下さい!」と激を飛ばす。
 拍手と歓声がどっとあがった。
 ビル・ゲイツは40歳になった。若い血がないとマイクロソフトは死ぬ。
 もっかの敵はネットスケープだ。その敵の大将はシリコン・グラフィク創始者、ジム・クラークだ。MSーDOSは運転免許。ウインドウズ95、NT、XP…7…8…は飾り…
 パソコンのソフトは初勤務の秘書のようなもの……
 ゲイツは野心を向きだしにする。
「ぼくは勝つ! 今度も勝つ! 今度も…」

  ゲイツは以前から日本に興味をもっていたという。
 宣伝のため、何度も日本に通っていた間に、親しい日本人も出来ていた。それらも親友は頭の回転が早い。
「日本人っていうのはすごいなぁ」
 ゲイツはそう思った。
 しかし、ホリエモンとは会ってない。孫正義とは会った。
 びっくりしたのはソニーだった。当時の盛田昭夫にあった。
 ソニーのビジネススタイルは……といっても米国流だが、素晴らしいものだった。
「日本はすごい国だなぁ。米国が経済戦争に負けたのもわかる」
 ゲイツにとって豊かな日本の光景は驚きの連続だった。当時の日本は治安もすべてよかった。豊かな時代である。
 ゲイツは思う。
「遠からず、米国にもこういう時代がくる。いやこなけりゃいかんなぁ。勤勉でいいじゃないか。皆平等だ。だが、米国のほうが努力したものが金持ちになれる。
 会社では社長と部下でも、外にでれば仲間同士……米国では考えられない。
 米国もこういう国にしなければならない!」
「いいものはどんどん真似して、技術や哲学を吸収して、生かさなければ駄目だ!」
 マネしたソフト……マイクロソフトの本領はいよいよここから発揮されていく。    
         5 世界一のプログラマ




2003年、ハーバード大学2年生のマーク・ザッカーバーグは、高校時代から腕利きのプログラマーであったが、人付き合いは苦手だった。
 ガールフレンドのエリカを、酒の席で怒らせ、別れることになった。そんな彼が寮の自室に戻り、やけでビールを飲みブログに彼女の悪口を書いていたが、そのうちに「動物と女子大学生を比較して…いや、女の子同士を比較して、投票させたらオモシロイ」と思い立ち、ハーバード中の寮の名簿をハッキングし、女子学生たちの写真を並べてランク付けするサイト作りに取りかかる。
 このサイト“フェイスマッシュ”はたった2時間で22,000アクセスに達し、マークの名前はハーバード中に知れ渡る。これが利用者全世界8億人以上のSNS“フェイスブック”の始まりだった。
2004年。資産家の家に育ち、次期オリンピックにも出場が期待されるボート部のトップ、双子のウィンクルボス兄弟は憤慨していた。自分たちが企画した学内男女のインターネット上の出会いの場“ハーバードコネクション” 立ち上げのためマークに協力を要請していたが、彼は“ザ・フェイスブック(The Facebook)”を立ち上げてしまったのだ。
彼らは、早速、自分の父親の会社の弁護士を介し知的財産の盗用だ、として停止警告を送る。ところが、マークはそんな彼らを無視し、大学の垣根を越えて、その利用者を増やしていった。さらに、ザ・フェイスブックの共同創業者&CFO、エドゥアルド・サベリンとマークはNYへ広告スポンサー候補との会合に出かけ、19歳で“ナップスター(Napstar)”を作ったショーン・パーカーに出会う。
ショーンは、「フェイスブックは、これからも巨大に成長するサイトだ。釣り好きは、小魚を14匹釣っても評価されない。巨大なメカジキを釣ってこそ、評価される。
評価額、10億ドルを目指せ」とアドバイスする。そして、そこまで成長させるためカリフォルニアに来るように持ちかける。
マークはスタッフを増やしサーバーを増設、ショーンは次々に投資家とのミーティングを設定する。それに怒ったエドゥアルドは、会社の口座を凍結することを決意する。一方で、そのことがさらにマークの逆鱗に触れる。「フェイスブックは、絶対にサーバーダウンしない設計が売りの一つだ。それなのに、口座を凍結して、サーバー維持ができないようにしてしまうなんて…利用者を失望させると、サイトは見限られてしまう!」と、エドゥアルドを痛烈に批判した。だが、ショーンの働きかけもあり、出資者が見つかって事なきを得る。株保有率は当初、マークが60%、エドゥアルドが30%程度となっていた。事実上、サイト運営者のナンバー2という地位は保証されていたかにみえた。
ところが、巨大なサイトに変貌していく中で、エドゥアルドは取り残されてしまう。新規株発券に伴い、エドゥアルドの株保有率は0.03%程度にされそうになり、そのことに彼は激怒する。エドゥアルドは創業者としての権利を主張、マークを告訴した。
また、やがてウィンクルボス兄弟も「アイデアを盗用された」と言い、マークを告訴するに至った(ConnectU論争)。
2つの告訴を受けて、マークは「Facebook」を守ろうと抗弁する。その中で友人との関係性悪化に悩んでもいた。裁判前の調停中、新人弁護士に「あなたは嫌な人ではない。嫌な人に見せようとしているだけ。でも、そのことは陪審員に伝わるかどうかは、分からないわ」と言葉をかけられる。そこで思いだされるのが、元恋人、エリカのことだった。ふと思い立ち、彼はエリカのフェイスブック上のページにアクセスする。そして、彼女に友人になって欲しい、とコメントを送る。マークはその後、エドゥアルド、ウィンクルボス兄弟と和解することになる。  
こうして紆余曲折を経てマーク・ザッカーバーグは「若き天才」としてカリスマとなり、「若き天才の野心」は世界最年少の億万長者として、そしてフェイス・ブックのユーザー8億人(2014年度時)という大成功をみせるのである。
 このままザッカーバーグの物語は「現在進行形」で続くだろう。
 成功は億万長者として、そして名声・地位・名誉をもたらした。
 後はノブレス・オブリージュ(社会奉仕)の任務(ミッション)だろう。(「フェイスブック「若き天才の野望」」デビッド・カークパトリック著作 滑川海彦訳 日経BP社出版 参考文献)


 『フェイスブック「若き天才の野心」facebook マーク・ザッカーバーグ伝』おわり。


話を変える。後はビル・ゲイツの物語でおわかれしましょう。
  ゲイツは、渡日して、家電、秋葉原、新宿、TV局や半導体などを見て、「このまんまんだったら米国はおいてかれる」
 と恐ろしくなったという。
 それだけ日本の技術力は当時優れていたのだ。
「………米国はまだまだ外国に学ぶことは多いのだなぁ」
 ゲイツは思う。
 そう思っていたのは共に米国を『技術立国』にした英雄、インテルのアンドリュー・グローヴさんも、同じ思いであった。
 まだまだ米国はこれからだ。まだ技術が足りない……
 そこでゲイツは日本の企業と提携して、技術を得ようと考える。
 まず、どの会社にするか?
 ゲイツは一回目の渡日では満足せず、今度はEUへ渡った。
 その頃、MS社は大きな会社になっていたが、それでも提携が必要だ、とゲイツは思っていた。
 ゲイツには夢があった。
 それは、米国を『技術立国』にすることだ。
 米国製品は「安かろう悪かろう」ではなく「安くて品質のいい長持ちする製品」にすることであった。そのターゲットがゲイツの場合、”ソフト”だった。
 なにしろ『経営の神様』と呼ばれていたゲイツのことである。
 やることも大きい。
 ヨーロッパ・オランダ(現・EU)のフィリップス社に単身乗り込み、提携書にサインした。アイルランドには工場をつくり、中国にも眼を向けた。
”また一緒に取り引きしないか?”
 と誘われて、それで提携したのだという。
 新しい技術関係というのは子を生み出すための夫婦関係のようなものだ。
 だから相手選びには慎重にならざるえない。
「技術提携がうまくいくんもいかんも、自分に相応しい相手を選ぶことに限る」
 ゲイツの考えはそういうものだった。
 相手がどんなに優れた技術をもっていても、相性があわなければうまくいかない。
 人間でも会社でもそれは同じなのだ。
「だから自分の目で、じかに確かめにゃいかん」
 とゲイツはいう。
 フィリップス社は小さい国土の中で、世界有数の技術をもった企業に育った会社だった。その点は初期のMS社と似ていた。
 相性もバッチリだった。
 オランダと米国とは肌の色も同じだ。しかし言語が違う。
 しかし、「そんなもん関係ない」と開きなおるのがゲイツのすごいところだった。もちろん、経済では交流があった。
 戦争と経済は別なのだ。
 ゲイツ哲学を発揮して、米国代表のような気分にひたっていたゲイツだった。

 技術提携といっても、マイクロソフトは教えてもらう立場だったので、技術指導料という形で月謝を払わなければならない。それではあまりにも一方的で、負担も大きい。
 ゲイツはこう提案する。
「たしかにマイクロソフトはあなたのところから教えてもらう立場ですから技術提供料はお支払いします。だけど、そのかわりうちは会社を経営するんだから経営指導料をもらいます。経営も技術ですから」
 これは相手のフィリップ社もびっくりした。
「経営指導料なんてきいたころもない」
 しかし、ゲイツはねばる。
 ついにはフィリップ社も根負けして、「わかりました」と受け入れたという。
 フィリップ社は他にも他社と提携していたが、マイクロソフトは最高にうまくいっている会社だった。フィリップ社は、
「さすがに経営指導料をとるだけの会社だ」と納得した。
 ゲイツは『経営の神様』といつしか呼ばれるようになっていく。
 ときには政治家にも意見をいう。
 するといわれた政治家も、
「そうか! さすがは目のつけどころが違う」といって納得する。
 ゲイツは若い頃、虚弱体質で病気だったせいもあり、”自分を管理”してきた。
 その若い頃の経験と、起業や経営経験が天才的な「経営哲学」を生んだことを見逃してはならない。
 そんな『経営の神様』を世界は放ってはおかない。
 米国のタイム誌がゲイツの”伝説”を取り上げ始める。
”世界のMS社””ウインドウズ”をつくった男………世界中がゲイツを注目しだす。ボサボサの高校生のような顔付きのゲイツの顔写真が表紙をかざる。と、世界は「米国にゲイツあり」と初めて知った。
 というより、ウインドウズは知っていたが、社長がこの米国人だとは知らなかったのである。
 ゲイツは国際会議に出席していう。
「企業経営というのはいろいろあります。たとえば大統領が国を経営するんも経営ですなぁ。またアメリカに無数にあるドラックストアーを経営するんも経営です。それらに共通しているのは、経営者というもんは、いつも自分のやっていることのよしあしがわかって、それに点数をつけられることです」
 また、テレビ対談では時の大統領・クリントンと対談をやったりパフォーマンスまでした。「ヒトラーは破綻したドイツ経済をわずかな間に立て直した。そこまではよかった。しかし、やりかたがまずかったんだと思うんです。全体的な経営ということで方向性が間違っていた。まちがった見通しと方法によって、全ヨーロッパの経営などというだいそれた考えをもち、それで失敗したんだと思います」
 さきに『タイム』にとりあげられると、今度は『ライフ』にとりあげられるゲイツ。
 そのどこか高校生のようなメガネの童顔が表紙に飾られる。
 すると、世界がゲイツに注目する。
 その人気ぶりはすごく、『世界一のソフトをつくった男』として、有名になっていった。この頃、尊敬する米国人は誰か? とアンケートをとったところ、
 ……”ビル・ゲイツ”……
 というのが一番だったそうだ。
 これは、大統領のクリントン(当時)やJFKさえも勝てなかった。それくらい米国人に尊敬されていた。
 なにしろ若い。しかも中退して十九からスタートしたまさに立身出世の英雄である。そのどこか高校生のような風貌と人生は、人々を熱狂させずにはいられないものがあったのだろう。



  九〇年になると世界経済に陰りが見えてきて、不況になった。
 バタバタと会社がつぶれていく。
 MS社も苦しい時期だったが、ゲイツはリストラはしなかったという。
 そのかわり、導入したのが、ワークシェアリング、
 そして、週休二日制度だった。
 ゲイツは先を見ていた。
「こんな不況なんてすぐおわりだ。米国は復活する。そのためにもMSはふんばらにゃあかん。米国を『技術立国』にするんはぼくだぜ!」
 ビル・ゲイツはどこまでも経営の天才だった。
 今苦しいからといって、せっかく育てた『技術屋』をリストラしたら後で困る……
 ゲイツはどこまでも先を見ていたのである。
  そして、やがて米国経済もコンピューター産業も息をふきかえした。
「それみろ!」
 ゲイツはサム・アップした。……これでまた勝てる!
 もはや世界でマルチメディア、あるいはプロードバンドという言葉をきかない日はない。映画好きのゲイツは映画産業をも飲み込むに違いない。なにしろ映画ソフトをすべてもっているほどのオタクなのだ。しかし、日本人は焦ることはない。
 ホリエモンみたいに暴走してても損だけだ。
 ネットが万能な訳ではない。
 ネットでメディアがなくなる訳はない。ネットで服が作れるか? 食べ物が食べれるか! もっと頭をつかいなさい!
 と、いうことだ。
 日本には技術がある。日本は『ものづくり』では世界一だ。
 まだゲイツに勝てる!
 ゲイツの戦略はだいたい読めている。まずOS、次ぎにゲーム、次ぎはインターネット関連、スポーツやメディアや音楽とのコラボ、銀行や財布、映画・CGなどのコンテンツ、化粧や癒しやサロンや医療介護分野、ペット、ロボット……情報…ヴァーチャル・ワールドでのビジネスやM&A(企業買収)……
 だいたいわかる。
 なにせ著者だって昔はプログラマーだったのだから…。
 そして、私のほうが戦略をたてるのがうまい。他人に負けない自信がある。

         6 ネット革命







 ゲイツはナポレオンやリンカーンの大ファンだ。
「ナポレオンの戦争や南北戦争は米国の短い歴史の中でも特筆すべきもんだ。それがなければ米国は植民地になっていた。今日のような発展をとげることもなかったかも知れない」 ゲイツは中でも、ナポレオンが大好きで、その才能、行動力、天才ぶりを高く評価していたという。講演でも度々「ナポレオン」の話がでる。
 いまではゲイツのおかげで、墓もきれいになり、線香をあげる観光客が絶えないという。 彼はMS社の前に十五体の銅像を建てた。それはゲイツが尊敬する人物たちだった。
 トヨタ自動車をつくった豊田佐吉やナポレオン、リンカーンなど……
 また発明家としては、エジソンやマルコーニ、オーム、ファラデーなどが選ばれた。
 エジソンの像は中央においた。
 ゲイツは自分とエジソンをだぶらせる。
「発明王のエジソンは小学校では低能扱いされ、たった三ケ月で退学させられたが、自然化学から学ぶことに長けていた。おどろくほどの才能を発揮した。
 ボクもそうなりたく思う」
 ゲイツは「企業秘密」などといって工場内部をみせないような男ではない。
 堂々と外国人たちやライバル企業に工場見学させた。
 工場を見た一行たちはいっせいに、
「なんとうつくしく明るい工場だろう」と感嘆したという。
 ゲイツにとって企業秘密などどうでもいいことで、「例えマネされてもうちもマネしてるんだしマネされた頃にはMSはもっと先へいってる」
 といったひとつの信念があった。
 また、ゲイツはこの頃より、
「米国にはすぐれた環境がある。観光立国にもならにゃだめだ!」とうったえはじめる。 LAやNY、フロリダ、アラスカ……
 外国人たちが遊べる、楽しめる観光スポットは米国中にある。
 観光は米国の技術との両輪だ!
 ゲイツは日本人の丁寧さ、器用さに尊敬の念をもっていた。
「外国にいくとわかるが、ウェイトレスはどうでもいいようにいかげんにコーヒーをつぐ。これは能率的にやろうとしてのことやろうが、むかつく。
 その点、日本人はお客様に迷惑をかけまいと慎重につぐ……これが日本人のいいところだとぼくは思う。この気配りこそが大事なんだ」
 事業も海外進出などめざましい発展があった。
 すでに40歳となっていた。

 ゲイツは「他社のいいところはマネして、付加価値をつけて売れ」
「いつも一商人なんだと心掛けよ」
「社長は社員のおかげでメシが食えると思え」
 などと言った。
 しかし、ゲイツは思う。
 米国の教育の腐敗………
 ……教育革命…
 これが、次のゲイツの前の解決さねばならぬ”問題”だった。
 この頃から、米国の教育はおかしくなっていった。
 校内暴力、少女売春、ひきこもり、いじめ、麻薬、殺戮、暴走族………
 米国の今の教育のままでは”暗記だけの暗いロボット人間”が大量に排出されるだけだ! ゲイツは教育こそ国の力だと思っていた。
 現在の学生を見るがいい。
 大学生が婦女暴行や痴漢で逮捕され、中学生までもが売春し、「憂える」さえ読めない。「天動説」まで信じている学生までいる。
 ホームレスを集団でリンチして殺すガキや、売春して稼いだ金でホスト通いの女子もいる。平気で親や他人を殺す……
 ゲイツは米国の教育が衰退しているのを知っていた。
 だからこそのソフトだった訳だ。
 ゲイツは嘆いていた。
「このまんまでは米国は終りだ」
 このどうしようもないガキたちをどうするか?
 著者の提案をいおう。
『ボランティア研修』だ。
 老人ホームか、東南アジアやアフリカに点在する難民キャンプに学生をボランティアでいかせて何か月か研修させるのだ。
 自分とは違った世界にいるひとの苦しみを知ってそのひとたちのために献身的に働く。しかも語学まで学べる。他人の痛みもわかる。
 英語なんて話せなくていい。通訳をつけて、学生たちをボランティア研修させるのだ。 そうすれば、他人に平気で罵声を浴びせ掛けたり、嘲笑したり、殺したり売春するガキもいなくなる。もちろん内戦しているところへいけとはいわない。
 ただ、治安が守られて、通訳がいるところで辛い汗をかかせなければ、今のガキたちは変わらない。『ゆとり教育』だの『教育見直し』などの前に、ボランティア研修をさせることだ。そうすればガキどもも変わる。
 教育革命とはそういうことだ。

  ビル・ゲイツはソフトだけでなく、ハードやネットもやる。BASIC…ウィンドウズ…対マック……ネットワーク、ブロードバンドでインターラクティヴ化…ホームページ…ブログ…ツイッター…フェイスブック…
 あのメガネのおかしな男に今後どれだけのことが出来るか……
 見物ではある。


緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.147来年2015年度「ハイパー・インフレ」「デフォルト」対策1増税2歳出削減

2014年12月30日 18時47分13秒 | 日記







来年の日本に何があるのか?


確実なのは来年内かはわからんが


「ハイパー・インフレ」「デフォルト(債務不履行)」


である。


少子高齢化で人口が激減するのだから


(つまり借金を返す人がいなくなるから)


当たり前に起こる。

対策は増税、歳出削減、容積率倍増等の成長戦略である。

私は歴史を変える人物になる。


緑川鷲羽2014年そしてはじまりの2015年へ

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.146小説『エノラ・ゲイ 原爆投下』加筆 参考文献 戦後70年記念企画進行中

2014年12月29日 18時30分20秒 | 日記






小説『エノラ・ゲイ 原爆投下』を加筆した。


実際には1980年に出版されていた

松田銑氏日本語訳の


ゴードン・トマス+マックス・モーガン=ウィッツ著作の


参考文献『エノラ・ゲイ ドキュメント原爆投下 Ruin From the Air』が


重要なファクターになった。


戦後70年の来年出版予定



緑川鷲羽2014そしてはじまりの2015

フェイスブック<若き天才の野心>facebookマークザッカーバーグ伝アンコール連載2

2014年12月29日 09時01分28秒 | 日記










 話を変える。
  ビル・ゲイツはハーバード大学在学中に友人とふたりで世界で初めてBASIC言語でのソフト開発に成功した。起業したときはわずか十九歳だったという。
 起業名は『マイクロ・ソフト』……
 創業は1975年である。
 次に基本ソフトとなるDOS(ディスク・オペレーション・システム)の開発に成功した。この時代、まだディスクもCDーRWもなく、紙テープだった。
 彼らはIBMにソフトをもっていこうとパンチングしていたが、徹夜続きだったという。そこで紙テープを床においたままにして仮眠室にむかってグーグーいってると清掃員のオバさんが紙を「ゴミ」だと思って捨てたというのは有名なエピソードだ。
 ガッカリして、またソフトをつくり、紙テープにパンチングする。
 うまく動くかは分からない。
 IBMにもっていって「自信があります」という。
 やってみて読み込むと、ちゃんと便利に動く。
 彼らは内心ビクビクなのだが、心の動揺は隠し通して、「ほら? でしょう?」
 と余裕な笑みを浮かべた。
 あとで溜め息が出たという。
 1978年にたった十一人だった従業員は1993年には一万五千人にもなった。
 パソコン・ブームが後押ししてくれ、年収は倍々ゲームのようにアップしていった。
 楽天の三木谷や孫、ホリエモンもハマった者のひとりだった。
  マーケティグの成果は格差にある。
 ビル・ゲイツのソフトを使わなくても情報は手に入る。しかし、時間がかかる。
 その不便を払ってくれるのがウインドウズであり、ネット社会、ブロードバンドだ。
 ビル・ゲイツは今だに貧乏ゆすりが消えないが、そんな男を越す男は出てくるか?
  彼はまたパラノイド(脅迫神経症)でもあるという。
「……いつ自分よりすごい人間がでてくるか…」
 いつもビクビクしている。
 しかしホリエモンでないことだけは確かだ。孫正義でもちと弱い。
 ビル・ゲイツはドケチでも知られる。
 社員と食事してもいつもワリカン、飛行機はいつもエコノミー・クラス。優しいと思うと急に怒りだす。極度の近眼で少年時代から分厚いメガネをかけていてイジメられた。
 彼はそのイジメを今も忘れない。
 彼は金持ちになることで復讐したのだ。
 だから、自分に不利な相手は叩き潰そうとする。
 IBMを利用してソフト革命をやった男がただのお坊ちゃんな訳がない。
 ちゃんとした戦略とヴィジョンがあったのである。
 しかし、それにしてもケチだ。
 最高級のシャンパン、ドン・ペリニョンを愛飲するかと思えば、
「ぼくはハンバーガーとフランド・ポテトが大好物」などとぬかす。
 最高級のスポーツカーを乗りまわすが、飛行機嫌いで、席はいつもエコノミー・クラスにしか座らない。食事を誰かに奢ったことなどほとんどない。
 しかし、一方で戦略に長けていて、リストラやM&A(企業買収)もいとわない。
”パソコン・オタク”のまま金持ちになった男だ。
 ウインドウズが世界基準となったのも、彼がマーケティングのプロだったからだ。
 WWW(ワールド・ワイド・ウエヴ)で始まるネット社会をつくるため、ゲイツがどんな汚い手を使ったことか……
 マウスで矢印を動かし、ウインドウ(窓)と呼ばれるものをクリックする。またはドラッグする。また別のウインドウ(窓)が出てくる。
 だが、まだアップルやネットスケープやトロンがある。
 日本人がつくったのがトロンだが、家電の大半はトロンで動いている。
 それが、ゲイツには面白くない。
「アイデアというものは誰でももっているが、ほとんどの人間は生かしきれてない。
 それを事業や芸術につなげて対価を得るのが才人というものだ」
 ビル・ゲイツは携帯より小さいパソコンを提案したりもする。
 指で押せないから携帯より小さいパソコンなど無理だ……馬鹿はそう考える。
 声で動かせればいいのだ。
 そこが、凡人とアイデア人間との違いだ。
 凡人は物を見たり聞いたりしてもそれを金にかえることはできない。
 だから、何でも与えられるだけの人間になる。
 ただ、ネットを見て、テレビをみて、音楽を聞く……それを金にかえる努力をしない。活字小説も読まず、マンガばかり読む。だから頭が悪く、道徳のない馬鹿になる。
”憂える”も読めず、ブルネイがどこにあるかもわからない。
 こんな日本には希望がない。
 どいつもこいつも馬鹿か学歴エリートだけだ。
 まだ治安は悪いが、米国のほうが成功の機会は多い。
 このままでは日本の”頭脳”はすべて外国にいってしまう。残念なことだ。     


         3 豪邸と起業





  ソーシャルネットワークというコンセプト(概念)は新しいものではない。初期のフェイスブックの要素の多くは、もともとほかのパイオニア(先人)、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズ等によってすでに開発された。ザッカーバーグの、フェイスブックはパソコン・アイデア40年間の進化の相続人のひとりに過ぎない。
 ザッカーバーグは「フェイスブックでアイデアを盗作された」と大柄な双子兄弟やギーク(パソコン・おたく)に訴えられたが、フェイスブック程度のアイデアはすでに数十年も前に構築されていた。
 但し、インターネットやサーバーや小型化、スマートフォン、携帯電話、タブレット端末と時代がパソコンを家電並みに低価格になった(いわゆるパソコン革命という)からサービスが出来たにすぎない。
 パソコンに詳しいひとならフェイスブック程度のアイデアは数十年前に考案していた。私だって高校生の頃、フェイスブック程度のアイデアは頭の中にあった。だが、時代が追いつかなかった。
 私の高校時代は80年代後半で、インターネットもサーバーも携帯もパソコンも「(動作が)遅い」「(値段が)高い」「(機能が)安っぽい」とダメダメだった。
 だから、私が彼らと同学年くらいで今のようなパソコン革命後なら成功していたろう。実は秘密だがパソコンのインターネット・ソーシャル・ネットワーク・サービスの特許を3つ登録済みだ。
 日本の大企業に何十億円かで購入してもらう予定である。社会奉仕もするが、まあみていてくれたまえ。後で皆があっと驚くから(笑)
 だが、特許名は明かさない。たかられるから(笑)
 フェイスブック程度のアイデアは独創的なアイデアとはいえない。ある意味そういう時代の空気がザッカーバーグにザ・フェイスブックをつくらせ、その名前を思い付かせたともいえるだろう。
 2003年9月、ハーバード大学の4年生、アーロン・グリーンスパンは「ハウスシステム(HouseSystem)」というソーシャルネットワークを立ち上げた。ハーバードの学生同士が講座をとったり、本を借りたり、学生が写真をアップできる「ユニバーサルフェイスブック」。これとは別に、ディヴィヤ・ナレンドラは、2002年12月にハーバード大学向けのソーシャルネットワークのアイデアを得たと主張している。
 ザッカーバーグとフェイスブックを相手取って起こした裁判の膨大な訴訟文章によれば、ナレンドラはその後、「ハーバード・コネクション(HarvardConnection)」というソーシャルネットワークを開発しようとして、ウィンクルヴォス兄弟とチームを組んだ。
 彼ら双子は金髪の長身の白人のワスプ(ワスプとはWASP「ホワイト(白人)、アングロサクソン、プロテスタント」の頭文字。アメリカの保守的な支配層の中心的存在を指す)で、やせっぽちでがり勉のコンピュータおたく風のユダヤ系のザッカーバーグとは両極端だ。
 3人は「フェイスブックは盗作だ!」と訴えた訳だ。裁判は映画通り、ザッカーバーグ側敗訴。だが、大金持ちのザッカーバーグには賠償金の数十億ドルも「たいした痛手」ではない。
 盗作と言えばアップルのアイデアを盗作したビル・ゲイツだ。ウインドウズ等というOS(オペレーションソフト・基本ソフトウェア)をつくり、スティーブ・ジョブズのアイデアを盗作して世界一の大金持ち(総資産7兆円)となった。
 盗作だろうがなんだろうが、悪事ではなく儲ければ勝ちなのだ。
 勿論、ザッカーバーグは「盗作などしていない」と主張した。当たり前である。認める馬鹿はいない。
 ショーンのような経営経験のある人物はフェイスブック社にとって有りがたかった。
 ぼくらは会社のつくり方も、資金のつくり方も皆知らなかった。全部「保守的な」パーカーがやってくれた。
 この連中が以前に買った12年物のフォード・エクスプローラーがとうとう使えなくなった。パーカーが駐車違反の罰金の未納を重ねたために当局に押収されてしまったのだ。
 シールは「5万ドル以下にしておくんだ」と社用車の購入に条件を出した。そこで黒のニッサン・インフィニティFX35を買い込んだ。スポーティーなSUVである。彼らはFX30を「ウォートホグ(イボイノシシ)」と名付けた。Xboxの人気ゲーム、ヘイローに登場する戦車からとった名前だった。
 彼らのおもちゃでさえ高級になっていく。成功者への道はもうすぐゴールである。
(「フェイスブック「若き天才の野望」」デビッド・カークパトリック著作 滑川海彦訳 日経BP社出版 89~135ページ」)







話を変える。
  マイクロソフトは『ゲーム部』という部署をもうけ、おなじみのXboxに本腰をいれることになった。
 発足と同時に若い人材が入ってきたが、それはITバヴルが弾け、泣く泣くシアトルへきた男だった。
「こいつは下請けのだな」
 ビル・ゲイツは感付いた。
 しかし、この男、なかなかプログラミングの技術がすごい。剣豪は相手の剣さばきで腕がわかるというが、ゲイツは相手のパソコンのつかいかたで腕がわかったという。
 ゲイツは感心して「こいつ、おれのとこにくれへんかな?」と思った。
 さっそく男と話して、下請け工場の長とも話して、マイクロソフトにきてもらうことになったのだという。この男はのちに大企業となるある会社の副社長までなったもので、ゲイツの審美眼もさすがだな、と思う。重役陣も技術畑の出身者だ。
 英雄とは、ずばぬけた審美眼と体力、知恵をもっていなければならない。
 ゲイツにはそれがある。
  マイクロソフトというのは徹底した人材主義で知られる。
 ゲイツは、
「物をつくるよりひとをつくるのが先である」
「人材は長い目でみて掘り出せ」
「人間の潜在能力を引き出す」
「人は短所より長所をみるようにする」
「ひたすら求めれば、人材はえられる」
 といって人材やひとづくりの大切さを力説する。
 のちに教育がおかしくなっていく中で、ゲイツが国の教育、親のしつけを憂いたのもそうしたポリシーからだった。
  1990年から2000年にかけて、米国は深刻な不景気にみまわれた。
 この不景気は深刻なもので、大学卒業の人間でも就職先がなかったほどだった。
「大学出たけど…」
 というのが流行語にまでなった。
 しかし、それでもマイクロソフトはどんどんと伸びていった。気がつけば、従業員は二万人にもなっていた。友達たちとわずか三人で始めた会社が、何百倍になったのだ。
 この頃から、ゲイツは、
「企業は社会的責任がある」
「企業で働くひとも、資本も、設備も社会からの預かりもの。だから大事に育てていかなければだめだ。そこから生まれた利益も、社会のために役立たせなければいかん」
 という哲学をもつようになった。
 経営者は企業のトップである前に、道徳のトップでなければならない。
 ゲイツは思いあがっていっている訳ではなかった。
 ちゃんと商いしているなかで、そういう哲学を自然と身につけていったのである。
 ハーバード中退だったが、どっかの大学生よりはよほど優れている。
 ゲイツは、
「ひとづくりをやらなければならない」
 と、現代でいう社員研修や見習い制度、企業内研修などをやっていった。
 ゲイツは自分の知識と経験で、研修をすすめた。
 まるで吉田松陰のようだが、ゲイツの信念に一寸の狂いもない。
 その結果、のちに幹部や重役となる人材が育ってきたからだ。
 ITバヴルが弾けた。
 マイクロソフトのライバル企業もバタバタと倒産していく。マイクロソフトだって例外ではなく、売り上げが半分にまで落ち込んだ。
 もはや企業努力だけではどうしようもない。
 マイクロソフトの倉庫には製品が山積みになってしまった。
「もうこれ以上入りません!」
 倉庫係りが悲鳴をあげる始末だった。
 悪いことは重なるもので、この年ゲイツは病気になり、自宅療養ということになった。元々、体があまりじょうぶではない。そんなところに過労が重なった。
 これは仕方がない。
 しかし、寝ていてもそんな不景気だから、「あれをこうしろ」「これをああしろ」と寝床で指示を出す。
 しかし、不景気で業績は伸びない。
 とうとう幹部たちがやってきて、
「社長、もうだめです。従業員減らしましょう」という。
 しかし、ゲイツはリストラには首を縦には振らない。
「だめだ。人を減らすのだけはやってはだめだ! それだけは絶対にすべではない!」
 従業員を辞めさせるということは、その人たちの生活を奪ってしまうことである。
 今、リストラ、リストラ、と馬鹿のひとつ覚えのようにいっている経営者にきかせたい言葉だ。ゲイツは、リストラの愚かさを見抜いていた。
「だけど、社長、マイクロソフト船は浸水しています。いま荷をおろさないと…」
 そんなことをいう幹部までいる。
 ゲイツは目の前のことにばかりとらわれている幹部を一喝して、
「たしかにマイクロソフト船は浸水してるかもしれない。しかし、だからいうて社員が荷物などと思ったことはぼくはない。手があればそれだけで船に入った水をかきだすことができるじゃないか?!」
 ……うちの社長はやはり眼のつけどころが違うな……
 幹部たちは沈黙した。
 ゲイツは続ける。
「生産を半分にするのは仕方ないだろう。しかし従業員には半分働いてもらう。給与はそのままだ」
「ですが……それだったら会社の負担が重うなるんと違いませんか? 社長」
「たしかに一時はそうかも知れない。けどな、不景気が回復したらそんなもんすぐ取り返せる。いいか、人材は命なんだ。いままでせっかく育ててきた人材を手放すというのは損失のほうが多い。損失は人材損失だ」
 ゲイツはにやりと笑った。
「だけど、条件をだします。社員は半分手があく。その分、倉庫にある商品を売って歩いてもらうんです」
 なるほど、船にはいった水をかきだすとは、そうことか……
「わかりました」
「全力をあげてやります」
 幹部たちは、口々に答えた。
 従業員もこうなるとハリキる。リストラされなければ、営業だってなんだってやる。
 首になったらおわりだが、そうではないならやってやる!
 従業員や幹部は頑張って、ゲイツの言葉に励まされながら売り歩いた。
 結果、二ケ月で山のようだった在庫もなくなった。
 マイクロソフト社は不景気をのりきった。しかし、ゲイツがリストラという消極的判断に走っていたら、従業員はしゃかりきに働き、営業までしただろうか?
 なんでも成せばなるという精神が必要なのだ。
 リストラして、コストダウンなんて考えはとんでもない。
 辞めさせられたほうは、一生を棒に振ることになる。技術をもっていれば別だ。が、今の日本の外国人犯罪をみていると『単純労働者』として不法に雇われ解雇され、それゆえ金ほしさに強盗や空き巣をしているようにしか見えない。
 技術をもたない彼等は、手っ取り早く金になることをするしかないのだ。
 これから日本は少子高齢化で人口が減り、移民を考えなければならないなら単純労働はロボットにでもまかせて、あとは”技術のある外国人労働者”だけを移民としてつれてくるべぎだ。そうでなければ日本はアメリカやフィリピン並の犯罪大国になってしまう。


 ゲイツは豪邸のホールというところに全社員を集めて訓示をした。
「産業人としての使命とは何か!」
 ゲイツは饒舌に語り始める。
「人間は物質だけでは生きられるもんではないし、精神だけで生きられるもんでもない。このふたつが車の両輪のように重なり合ってなければならない。われわれ産業人は、このふたつのうち、ゆたかな物質生活をひとびとにもたらし、その面から幸福を追求することを使命にするものであります。
 われわれはまず二百五十年計画をたてて達成していかなければ駄目だと思う次第であります」
 幹部社員千二百人は、戸惑った顔をした。
 ……二百五十年計画かていわれても……
 しかし、ゲイツは従業員たちにビジョンを与え続ける。
「しかし、ぼくは皆さんに次世代の踏み台になれとかそういうことをいうのではない。みなさんはみなさんで幸福に生きたらいい。ただ、それけだけでなく、次の世代のためによいものを残してほしいのです。一日一日努力してほしいのです。そうすりゃあ、使命感をもって諸君は働けるし、かならずよい結果をもたらせるでしょう」
 壇上のゲイツは熱く語る。
 話しが終わると割れんばかりの大拍手がおこった。
 みんな、眼がきらきら輝いている。
 やるぞ! という気迫がこもっている。
 ゲイツはMS社員にビジョンを与えた。

  ゲイツは忙しくなった。
「社長、これどうしましょう?」
「いや、それはまってくれ」
 だんだんと会社が大きくなると、ゲイツの『鶴の一声』だけで決まらないことが多くなっていった。マイクロソフト社は、コンピュータ・ソフトだけでなく、ゲーム機械までつくるようになっていた。ソフトはほとんどつくっていた。
 そこでゲイツは事業部制を考えつく。
 つまり、ソフトならソフトで担当部署をつくり、そこでソフトの設計企画から営業までやらせる、という組織つくりだった。
 生産から販売まで一貫性をもたせようとはじめたものだ。
 結果は大成功だった。
 いい意味での競争意識が芽生え、他社のメーカーの真似も多くなったが、それでも「もうかればいいのだ」というゲイツの考えでMS社は大きくなっていった。

  あるとき、新聞記者がビル・ゲイツの取材をした。
 この頃、MS社は新進気鋭の企業として注目を浴びていた。
「ゲイツさん。今度ゲームをつくるそうですが、心配はありませんか?」
「なにが心配なのですか?」
 とゲイツ。
「でも、ゲームはソニーや任天堂がシュアを独占してますでしょ? いままでマイクロソフト社はパソコン・ソフトとかネット・ソフトとかはつくってきたが、ゲーム機械ははじめてでしょう?
 それを今、米国で初めてだいじょうぶなのですか?」
 その頃、ゲームといえばソニー、任天堂のような巨大ゲーム・メーカーが競争していた。マイクロソフト社はゲームの知識はなかった。
 それを家庭用のゲーム機をつくるという。
 記者が不安になるのも無理はない。
 ゲイツはいう。
「ゲームっていうのは、その国の先進性の象徴です」
「…はあ」
「家庭にゲームがいくつあるかで、豊かさがだいたいわかります」
「そんなものですか?」
「日本ではすでに家庭にゲームが普及している。みなさんはインテリです。みなさんのご家庭にはどれくらいのゲームがありますか?」
「……残念ながら家の家庭にはまだ米国産ゲームらしきものはありません。PSぐらいです」
「ほらごらんなさい」
 ゲイツは続ける。
「あと何十年後には米国の家庭にはMS社のゲームがあふれるでしょう。”家電”があふれるのです。私はそういう有望な仕事をやるんです。心配しなくてもいいですよ」
「なるほど」
 記者たちは納得した。
 ゲイツは先をみていた。米国を『技術立国』とするために天よりつかわされた男は、そんな使命を知らない間に頭に刻んでいたのである。
 世間は、
「あんななれないことに手をつけてだいじょうぶか?」と思っていた。
 市場はニンテンドウ、ソニー一色だった。シェアは七十パーセントも占めていて、xBOXは売れるのかどうかもわからなかった。
 またライバル企業も数十社あった。
 ゲイツはそれを知っていた。
 しかし、ゲイツは、
「xBOXは新しい皇帝だ。皇帝がふたりいてもいい。しかし、お客さんが買ってくれなきゃ話にならない」と自信たっぷりだった。
「あんたは面白いひとですね」
 日本の問屋はそういって注文してくれた。
「一社だけの独占状態は危険だ」
 ゲイツは訴えていく。
「競争こそ発展の道だ!」こうなるともうビル・ゲイツ教である。


 ゲイツはラジオ出演した。
 新進気鋭の天才経営者というふれこみだった。
 ゲイツはいう。
「ただいま紹介を受けましたビル・ゲイツです。
 私は十代のときにシリコンバレーにやってきて、商い一筋でした。そこには立身出世や儲けが要求されました。しかし、それだけでは商いはやっていけません。
 企業人というものは社会に貢献してこその企業人なのです。
 いままで高価で貴重だったパソコンは今や庶民のものとなり、リニアも多く通るようになりました。ぜいたくだった一部のものが世間にあふれるような時代になりました。
 われわれの会社でつくっているソフトもそうです。
 こうした時代にあたり、われわれはいかに社会に貢献できるかを考えなければなりません。
 この前、公園で浮浪者のようなものが万年筆をもってメモしているのをみて感動しました。万年筆は少し前まではとても高価なものだったのです。
 ほんの一部の金持ちのものだったのです。
 それが大量生産されて、安価になり、誰もが使えるようになりました。そういうことが文化なのではないでしょうか。
 またそうしたまずしい者たちを少しでもなくしていくのもまた文化だと思います」



  ビル・ゲイツは世界一の金持ちになった。
 総資産7兆円……
 彼はシアトルの近くの湖畔に建築費三〇億円、建築年数三年の豪邸に住んでいる。
 敷地面積は四二〇〇坪以上、建坪は一〇〇〇坪を遼かに上回るという。
 百人が入れるホール、客席つきの映画館、プール……
 いたれりつくせりの豪邸だ。しかし、総資産4兆円の彼にとっては”はした金”である。しかし、ドケチ彼はそれでも値切ったほうだという。
 読者の皆さんも釘一本ぐらいは貢献していることだろう。
『二〇〇一年宇宙の旅』が好きなゲイツは、自分の部屋を宇宙船の居住空間のようにしているという。コンピュータによって管理され、防犯装置、カメラ、センサー、スピーカから照明まですべて行き届いている。電脳住宅だ。
 しかし、その豪邸はビル・ゲイツの墓標になるかも知れない。
 皆が、第二、第三のゲイツを狙っている。
 ホリエモンには百年たっても無理だったが、誰かが追い抜くことだってある。
 ……後続は追い抜かれるという運命は誰であれ同じなのだ。
 ゲイツはだが頑張る。
 負けず嫌いの彼は、少年の頃からポーカーでもパソコンでも勝つことを勝利を快感に思って育った。「ウインドウズはもういらなくなるかも知れない」
 ある雑誌で彼は吐露する。
 今のウインドウズでさえ皆がその能力をユーザーが全部使ってないのに、さらにバージョン・アップしても買わないかも知れない。
 それを、本音を吐露した訳だ。
 ウインドウズのシュアは世界で九割を上回っている。あとの1割がアップルのマッキントッシュだ。世界一といってもいい。
 それでもゲイツは不安する。
 ウインドウズがこれだけ伸びたのもIBMがDOSを採用してくれたからだ。
 そんなIBMも中国に陥ちてしまう。もはやパソコンは家電だ。
 しかし、彼には先見性があったといえるだろう。
 会社の大きなスペースにあったどでかいコンピュータを一家に一台にまで普及し、
「ぼくの母親でも机に置いて簡単に操作する時代がくるだろう」
 とみていたからだ。
 こうなると「天才」というしかない。
  しかしMSーDOSは猿マネだった。マックのソフトのパクリだった。
 ウインドウズの仕組みもマックのパクリだった。
 あるプログラマは怒りを隠せない。
「あのビルなんとかという野郎はパクって金持ちになった! ただの猿マネだ! それをTVに出ては何か月も何年も構想を練っただのと抜かして……馬鹿野郎!」
 しかし、勝てば官軍である。
 MSーDOSは互換性をもち、あらゆるメーカーのパソコンに組み入れられていく…
 IBMがソフトを依頼したのもハード造りでいっぱいいっぱいで誰でもいいからやってくれと若造のゲイツらに頼んだのである。それをものの見事にものにした。
 他人の猿マネをして……
 さらにつけくわえるならば彼の母親はIBMの当時の取締役と福祉団体での知り合いだったというラッキーもあった。
 だが、勝てば官軍……勝てば価値が上がるのがビジネスというものだ。
 すでにあるものを取り込み発展させるまるで日本式のようなものがゲイツ流なのだ。
「x BOXでも勝つ!」
 ゲイツは不振なゲーム関連でもコンテンツ強化にのりだした。
 いつまでもソニーや任天堂の天下ではない。
 これはおもしろい。                               
         4 ITバヴルとザッカーバーグとビル・ゲイツ




  パーティーへの招待メールはなかなか仰々しいものだった。トップにマルコム・グラッドウェルの『ティッピング・ポイント』(飛鳥新社刊)の一節が引用されていた。
「きみの周りの世界を見たまえ。ぴったりのタイミングでちょっとひと押しすれば、世界はひっくり返せる」。招待メールにはそれに続いて、「そのとおり、ひっくり返った……」とあった。
 それはパーカーらしいスタイルであった。彼はザ・フェイスブックの成功は既成事実と考えていた。ザッカーバーグ自身でさえ、これほど早く100万ユーザーを達成できたことに驚いていた。
 ダンジェロ、サべリン、それにザッカーバーグの元ルームメイトで広報担当のクリス・ヒューズらがそれぞれ飛行機でやってきた。開発チームの中心人物たちは合法的に飲酒できる年齢に達していなかったが、盛大なパーティーでは飲み続けた。
 フェイスブックの成功はブームをつくり出しつつあった。シリコンバレーでは成功は金を呼び込む。ますます大勢の投資家が電話をかけてくるようになった。だが、ザッカーバーグは相変わらず無関心だった。
 そういう求愛者のひとりがセコイア・キャピタルだった。ベンチャーキャピタルの名門中の名門で、インターネットの巨大企業はその初期に軒並みにセコイアの投資を受けてきた。
 アップル、シスコ、グーグル、オラクル、ペイパル、ヤフー、ユーチューブみなそうである。同時にシリコンバレーではセコイアは情け容赦ないビジネスでも有名だった。
 セコイアはとにかくわが社で会議を開こうともちかけてきた。
 パーカーたちは策を練った。約束の朝、全員が寝坊した。約束は午前8時であった。ザッカーバーグらは「寝坊した」とパジャマにズボンとTシャツという格好でセコイア本社に乗り込んだ。「寝坊した」とは言ったものの、実はわざとだった。
「実はもっとタチの悪いことを考えていたんだ。すっぽかしてしまおうという案も出ていた(笑)」

 ハーバードのカークランド寮時代のクリス・ヒューズの友だちのひとりに、オリビア・マがいた。オリビアの父親はワシントン・ポスト社でM&A担当の上級管理職を務めていた。
 ポスト紙はすでにトライブ・ネットに投資していたがフェイスブックにも興味を示した。学生という有望なターゲットに集中しているところが気に入ったからだった。
 オリビアの父親クリス・マはザッカーバーグから強い印象を受けた。
「私は最初のランチでマークの心理洞察力に驚いた。マークによると、学生には大学の仲間と交流したいという抑えがたい強い欲望がある。そのため、彼らは自分の友だちが今何をしているか、何を考えているか、どこにいるかを夢中で知りたがる。マークはとてもシンプルに、しかも深く物事の本質を見抜いた」
 ワシントン・ポストは3月に極めて多額の投資を予定したタイムシート[投資条件概要書]を提示した。これはベンチャーキャピタル界の術語で「5400万ドルのプレ」と呼ばれる条件だった。プレ、というのは600万ドルの投資の前(プレ)の会社評価が5400万ドルだという意味だ[6000万ドル、マイナス600万ドル]。
 パーカーは興奮した。予想以上の投資額である。彼はサンフランシスコにいるアドバイザーのコンウェイに電話をかけた。
「なんだって?5400万ドルのプレだって?」
「受けろ!そのカモを逃すな!」
 とコンウェイは助言した。しかし、パーカーとザッカーバーグは少しも急いでいなかった。ザッカーバーグの新たな「コンシリエーレ(顧問)」のマット・コーラーは驚くほど情報に通じていた。バイアコム社は7500万ドルでザ・フェイスブックを買収したいと電話をかけてくる。その億万長者への最短ゴールをザッカーバーグは全部蹴った。
 フェイスブックの成功はザッカーバーグの叡智にかかっていた。だが、ザ・フェイスブックは最初の頃はまるで「出会い系サイト」のSNSみたいだった。
 お金も人材も豊富な大企業がある意味、なめて、電話をかけてきたのも納得である。
 だが、2014年にはフェイスブックのユーザーは8億人にまでなった。
 ザッカーバーグはガールフレンドとデート中に深夜強盗にピストルを向けられたこともあるという。だが、咄嗟に車にふたりは飛び乗りそのままエンジンをかけた。とっさに一か八かの賭けに出た。エンジンをかけると車は走りだし、幸い、そのまま走り去ることが出来たという。運がいい。
 この男には天運がついているとしか考えられない。
 一方のショーン・パーカーは「ドラッグ・パーティー」で警察の御厄介になるなどとことん運がない。
 だが、ショーンにはザッカーバーグという『金のなる木』がいる。とことん利用してやれ、と思った事だろう。
 フェイスブックの為の会社ができた。パーカー、コーラー、アンドリーセン、エフルシーに促されてザッカーバーグはリーダーとして経営者としての振る舞うよう務めた。「会社のCEOになるのは、大学の寮で誰かと同室になるのとは大分違う経験だ」
 当たり前である。
(「フェイスブック「若き天才の野望」」デビッド・カークパトリック著作 滑川海彦訳 日経BP社出版142~207 ページ)


フェイスブック<若き天才の野心>facebookマークザッカーバーグ伝アンコール連載1

2014年12月28日 08時04分10秒 | 日記








小説
フェイスブック「若き天才の野心」
-face book-マーク・ザッカーバーグ伝






                ~世界のSNS、フェイスブックをつくった男。
                「若き天才の野心」~
                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ




          あらすじ

2003年、ハーバード大学2年生のマーク・ザッカーバーグは、高校時代から腕利きのプログラマーであったが、人付き合いは苦手だった。
 ガールフレンドのエリカを、酒の席で怒らせ、別れることになった。そんな彼が寮の自室に戻り、やけでビールを飲みブログに彼女の悪口を書いていたが、そのうちに「動物と女子大学生を比較して…いや、女の子同士を比較して、投票させたらオモシロイ」と思い立ち、ハーバード中の寮の名簿をハッキングし、女子学生たちの写真を並べてランク付けするサイト作りに取りかかる。
 このサイト“フェイスマッシュ”はたった2時間で22,000アクセスに達し、マークの名前はハーバード中に知れ渡る。これが利用者全世界8億人以上のSNS“フェイスブック”の始まりだった。
2004年。資産家の家に育ち、次期オリンピックにも出場が期待されるボート部のトップ、双子のウィンクルボス兄弟は憤慨していた。自分たちが企画した学内男女のインターネット上の出会いの場“ハーバードコネクション” 立ち上げのためマークに協力を要請していたが、彼は“ザ・フェイスブック(The Facebook)”を立ち上げてしまったのだ。
彼らは、早速、自分の父親の会社の弁護士を介し知的財産の盗用だ、として停止警告を送る。ところが、マークはそんな彼らを無視し、大学の垣根を越えて、その利用者を増やしていった。さらに、ザ・フェイスブックの共同創業者&CFO、エドゥアルド・サベリンとマークはNYへ広告スポンサー候補との会合に出かけ、19歳で“ナップスター(Napstar)”を作ったショーン・パーカーに出会う。
ショーンは、「フェイスブックは、これからも巨大に成長するサイトだ。釣り好きは、小魚を14匹釣っても評価されない。巨大なメカジキを釣ってこそ、評価される。
評価額、10億ドルを目指せ」とアドバイスする。そして、そこまで成長させるためカリフォルニアに来るように持ちかける。
マークはスタッフを増やしサーバーを増設、ショーンは次々に投資家とのミーティングを設定する。それに怒ったエドゥアルドは、会社の口座を凍結することを決意する。一方で、そのことがさらにマークの逆鱗に触れる。「フェイスブックは、絶対にサーバーダウンしない設計が売りの一つだ。それなのに、口座を凍結して、サーバー維持ができないようにしてしまうなんて…利用者を失望させると、サイトは見限られてしまう!」と、エドゥアルドを痛烈に批判した。だが、ショーンの働きかけもあり、出資者が見つかって事なきを得る。株保有率は当初、マークが60%、エドゥアルドが30%程度となっていた。事実上、サイト運営者のナンバー2という地位は保証されていたかにみえた。
ところが、巨大なサイトに変貌していく中で、エドゥアルドは取り残されてしまう。新規株発券に伴い、エドゥアルドの株保有率は0.03%程度にされそうになり、そのことに彼は激怒する。エドゥアルドは創業者としての権利を主張、マークを告訴した。
また、やがてウィンクルボス兄弟も「アイデアを盗用された」と言い、マークを告訴するに至った(ConnectU論争)。
2つの告訴を受けて、マークは「Facebook」を守ろうと抗弁する。その中で友人との関係性悪化に悩んでもいた。裁判前の調停中、新人弁護士に「あなたは嫌な人ではない。嫌な人に見せようとしているだけ。でも、そのことは陪審員に伝わるかどうかは、分からないわ」と言葉をかけられる。そこで思いだされるのが、元恋人、エリカのことだった。ふと思い立ち、彼はエリカのフェイスブック上のページにアクセスする。そして、彼女に友人になって欲しい、とコメントを送る。マークはその後、エドゥアルド、ウィンクルボス兄弟と和解することになる。  

パソコンの元祖はビル・ゲイツから始まる。といっても最初は猿マネだった。
 IBMから仕事をもらったのが大学生のとき……そして、世界に冠たるマイクロ・ソフト社をふたりの友達と起業する。
 やがて、BASIC開発へ。そこでアイデアマンにして、英雄、米国一の大富豪へとなるビル・ゲイツ…。ウインドウズを(他社からアイデアを拝借して)販売する。
「私どものOSでパソコンは便利になります」あらゆる知恵をいかして、ソフト会社としてマイクロ・ソフトを経営していく。世界一の経営者とまでいわれる。ITバブル崩壊後はX BOXというゲーム機械まで発売するも不発。やがて社員のおかげで経営は安定する。だが、バヴルは弾けた。IBMまで中国に陥ちた。
 ゲイツは嘆く。「パソコンはもはや家電だ」しかし、戦略家ビル・ゲイツの次の一手は? 
 マイクロソフト、ゲイツ会長退任 ナデラ氏、CEO就任2014年2月5日。米マイクロソフト(MS)は4日、創業者のビル・ゲイツ氏が会長を退任したと発表した。
 技術アドバイザーとして社内にとどまり、新しい最高経営責任者(CEO)に就いた副社長のサトヤ・ナデラ氏(46)とともに、経営の立て直しを進める。
 ナデラ氏はインド出身で、1992年にMS入社。
 現在はネット経由で顧客にデータやソフトを提供するクラウド部門を率いる。75年設立のMSの歴史で、創業者ゲイツ氏と前CEOのスティーブ・バルマー氏に次いで3人目のCEOとなる。
 2000年就任のバルマー氏は昨夏に退任の意向を表明。
 大胆な改革を求める投資家は社外から新CEO起用を求め、一時は米フォード・モーターの現職CEOら複数の名前が浮上したが、いずれも消え、結局は内部昇格で落ち着いた。
 ゲイツ氏は会長職はやめたが、新経営陣への影響はある程度、残ることになりそうだ。

       1 世界一の金持ち(若手実業家NO.1)

  
 登場人物の紹介(ちなみにフェイスブックやザッカーバーグ氏の参考文献は、
    インターネット上のウイッキペディアと「フェイスブック「若き天才の野望」」
    デビット・カークパトリック著作 滑川海彦訳 日経BP社出版
    映画「ソーシャル・ネットワーク」(映像資料)等からです。ビル・ゲイツ氏の物語の参考文献は
    あまたのゲイツ本です。「文章が似てる」=「盗作」ではありません。盗作でなく、引用です。裁判とか勘弁してください。)

 マーク・ザッカーバーグ …………フェイスブックの創立者であり、CEO(最高経営責任者)。
 ダスティン・モスコヴィッツ ……ハーバード大学でのザッカーバーグのルームメイト。
                 フェイスブックの共同創立者。縮れ毛で努力家。
 クリス・ヒューズ    …………ハーバード大学でのルームメイト。金髪、ハンサム、ゲイ。
                 フェイスブックの共同創立者。後に退社して2008年大統領選挙戦で
                 オバマ陣営のオンライン戦略チームに参加。
 エドゥアルド・サべリン …………フェイスブックの共同創立者。ハーバード大学でザッカーバーグと知り合う。
                 ブラジルの裕福な実業家の息子。後に、ザッカーバーグを訴えた。
 キャメロン/タイラー・ウィンクルヴォス………… ハーバード大生だった身長195センチの一卵性双生児。
                 ザッカーバーグがフェイスブックの元となるアイデアを盗んだとして訴えた。
 フリシラ・チャン    …………ハーバード大出身のザッカーバーグのガールフレンド。
 ショーン・パーカー   …………ナップスター、プラクソの創立者。ロックスター的ライフスタイルを送る。
                 フェイスブックの初代社長。
 アーロン・シッティング …………優秀なプログラマーであり、デザイナー。フェイスブックに参加。
                 金髪のサーファー・タイプ。
 アダム・ダンジュロ   …………エクスター高校の同級生。プログラミングの天才。フェイスブックの
                 トップ・エンジニアのひとり。長身で物腰柔らかく、内向的性格。
 オーウェン・バン・ナッタ…………アマゾンから転職し、フェイスブックでCOO(最高執行責任者)を務めた。
                 その後、マイスペースのCEOになった。
 ピーター・シール    …………ペイパル創立者で投資家。黒髪の金融の天才。ザ・フェイスブックの取締役。
 リード・ホフマン    …………ソーシャルネットワーク「リンクトイン」の創立者。
                 シリコンバレーであつい信頼を得ているエンジェル投資家。
 ジム・プライヤー    …………ディセル・パートナーズの共同経営者。エネルギッシュな性格で、
                 フェイスブックの取締役に就任した。
 ケビン・エフルシー   …………ジム・プライヤーの部下。フェイスブックを担当。
 ドン・グレアム     …………ワシントン・ポストのCEOで、ザッカーバーグが尊敬する経営者。
 マット・コーラー    …………リード・ホフマンの右腕だったが、フェイスブックの「コンシリエーレ(顧問)」
                 として活躍した。
 シェリル・サンドバーグ …………フェイスブックのCOO(最高執行責任者)。元グーグルの上級幹部で、
                 ザッカーバーグよりも14歳年上の上品で陽気な女性。
      他
(「フェイスブック「若き天才の野望」」デビット・カークパトリック著作 滑川海彦訳 日経BP社出版 ~ページ)   

  2006年夏の終わり頃、ある広報関係者が「マーク・ザッカーバーグに会ってみないか?」と電話をくれるまで、私はフェイスブックについてはごく漠然とした知識しかなかった。
 面白そうに感じたので私(カークパトリック氏)は誘いを受けた。ニューヨークに住み、長年に渡ってフォーチェン誌のテクノロジー担当編集委員を務めていれば、あらゆるテクノロジー企業の経営者と会う機会があるのは当然だ。
 しかしマンハッタンのミッドタウンにあるイル・ガットパルドという洒落たイタリアン・レストランでその青年と会った時には、彼が急速に重要性を増している有望なIT企業のCEO(最高経営責任者)だとはすぐには信じられなかった。
 彼は枝に止まっている小鳥の線画のTシャツにジーンズという姿であった。まったく信じがたいほど、若く見えた! しかしひとたびザッカーバーグが口を開くとすべてが変わった。
「われわれの会社はガスや水道と同様の公益事業です」
「われわれは人々が世界を理解する方法をより効果的なものにしようと試みています。われわれの目的はサイトの滞留時間を最大にすることではない。われわれのサイトを訪問している時間を最大限に有意義なものにしようと努力しているんです」
 ザッカーバーグは無駄な言葉をまったく口にしようとしなかった。彼は会社の目標と自分のビジョンに私の関心を引き付けるのに成功した。そこで私は、
「きみは生まれながらのCEOだね」
 と言った。私なりの最大限の褒め言葉であった。が、彼は侮辱されたような反応を示した。彼は不愉快気に顔をしかめた。そして数分後、
「ぼくは会社を経営したいわけじゃないんです。ぼくにとってビジネスというのは、ぼくの考える目標を達成する手段に過ぎません」
 と言った。なお、その頃のフェイスブックはスマートフォンへのプラットフォーム化の方針転換中であった。
 年間売り上げは10億ドルを超えようとしている。今年アラサ―(30代)になるザッカーバーグは引き続きCEOを務めている。断固たる決意と優れた戦略的見通し、そして少なからず幸運にもたすけられて、ザッカーバーグはフェイスブック社の財政的支配権を完璧に握っている。
 ザッカーバーグの強いリーダーシップがなければ、フェイスブックは間違いなく巨大メディアないしインターネット企業の子会社となっていただろう。買い手は繰り返し巨額の申し出をした。売却を承認すれば何十億ドルという金がザッカーバーグのものになっていたはずだ。
 もっとも彼は自分の会社からどれだけの利益を得るかではなく、「物事を成し遂げる」こと、より多くの人が彼のサービスを使うようになることに興味があった。
 フェイスブックは常に情報が集まる。ウェブリンク、ニュース、日記、写真その他、毎月200億ものコンテンツが投稿される。インターネット最大の写真共有サイトで、毎月30億枚の写真が投稿される。
 フェイスブックの新しいところはプライベートである。互いにプライバシーの保護の為に知り合いとしかリンクしない。
 しかし、プライバシーは困難極まる問題であり、フェイスブックのユーザーだけでなくザッカーバーグにとっても大きな悩みの種だ。
 毎日、長い時間フェイスブックで過ごしている若い人々は、現実世界で物事を体験し、自らを変えていく能力を見失ってしまうのではないか?フェイスブックの「友だち」とはどういう存在なのだろうか?フェイスブックのユーザーにはひとりあたり平均130人の友だちがいる。500人以上の友だちがいるユーザーも珍しくない。しかし本当にそんなにたくさんの友だちをもてるのだろうか?(フェイスブックの友だちの上限数は5000人だ)
 一部のユーザーには、フェイスブックは偽の仲間意識を与え、そのため時間がたつにつれて逆に孤独感が深まるという現象が見られる。
 
 フェイスブックは世界を統合しつつある。世界中の人々、ことに若い人々はフェイスブックを通じて大幅に文化的体験を共有するようになった。
 19歳のひとりの学生のささやかなプロジェクトとしてスタートしたサービスが、今や個人の生活に限らず公的分野にも前代未聞の巨大な影響力を持つようになっている。フェイスブックは社会のコミュニケーションを変え、ビジネスを変え、企業や個人の交渉や交流も変えた。2012年には8億人のアクティブユーザーを抱えている。フェイスブックはグーグルに次いで世界で二番目に訪問数の多いサイトだ。全世界のインターネットユーザーの数は17億人と推定されているから、20%以上がフェイスブックを利用していることになる。
 アメリカのフェイスブックのユーザーは1億800万人、全人口の35.3パーセントである。驚くべき数字だ。カナダも42パーセントがユーザーで、英国やフランスやロシア、日本、アジア諸国、イスラム圏、アフリカ、南米、北欧、東欧等であるという。
 何億人というユーザーが日々利用するコミュニケーション手段が、一私企業に完全にコントロールされているという事実をどう考えるべきだろうか?プライバシーに関わる重要情報を営利企業に預けることで、われわれは自らの自由を危機にさらしていないだろうか?フェイスブックがさらに巨大化し、影響力を世界中に広げるにつれ、こうした数々の疑問から生まれる緊張は高まるに違いない。理解するには、このサービスがマサチューセッツ州ケンブリッジの寮の一室で落ち着きのない不遜な19歳の頭脳から生まれた経緯をまずは知らねばなるまい。
(「フェイスブック「若き天才の野望」」デビット・カークパトリック著作 滑川海彦訳 日経BP社出版より 1~12ページ) 

  話を変える。ここでは「フェイスブック(Facebook)」の創始者、若手実業者ナンバーワンのお金持ちであるマーク・ザッカーバーグ氏と、かつてコンピュータの巨人で世界一のお金持ち「ウインドウズ(Windows)」のビル・ゲイツ氏との立身出世物語のコラボである。
  世界一の金持ち(資産7兆円)……
なお、この作品の参考文献は、「ビル・ゲイツの読み方」飛岡健著作(ごま書房)、田辺秀樹著作、司馬遼太郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、映像資料映画「アマデウス」、あまたのモーツアルト著作本、「そのとき歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」、小学館SAPIO誌などです。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作、無断転載ではなく「引用」です。
 ウイリアム・ヘンリー・ゲイツ三世(通称、ビル・ゲイツ)1965年10月18日生まれ。趣味ピンボール。…パーソナル・コンピュータを「パソコン」と呼び、OS(オペレーション・システム)ウインドウズを作った男はウインドウズ95、ウインドウズNT、ウインドウズXPウインドウズビスタ、ウインドウズ7…8…と破竹の勢いだ。
 しかしxBOXというゲーム機を発売してコケたりもする。
 ゲイツがマイクロソフト社を起業してわずか十年で若き富豪になる。パソコンはもはや一家に一台の『家電』となり、IBMは中国へいった。ITバヴルも弾けた。
 パソコンは使いこなせて当たり前……通常の国ではそうなった。もはやブロードバンドのネット生活は爺さん婆さん主婦まで当たり前になった。
 その革命をしたのが世界一の金持ち、ビル・ゲイツ青年である。
 米国は双子の赤字、日本は一千兆円の債券国…
  ビル・ゲイツは体は強いほうではなく、よく病気したという。
「子供の頃は、すこし泣き虫だった」
 ビル・ゲイツは後年そうふりかえる。
 学校ではビル・ゲイツは成績も態度も普通で、とりたたて「天才」という訳ではなかった。
 学校生活は苦しいものだった。皆からイジメられたという。
 ビル・ゲイツは時代をみる目をもっている。
 そして、ハーバード在学中に起業してしまう。
 十七歳の頃だった。
 しかし、ビル・ゲイツは”コンピュータ”産業の将来もみえていた。
「このまま大型コンピュータ時代が続く訳ない。きっと安く小さくなる。それにはハードだけでなくソフトも必要だ……僕にむくものがないかなぁ?」
 ビル・ゲイツは考えたあげく、発明されてから急速にシェアを延ばしているコンピュータだと考えた。米国の大きな会社や役所にコンピュータが普及している。
「僕はソフトで身をたてにゃいかん。それが僕の仕事のような気がする」
 ビル・ゲイツは目を輝かせた。
「時代は変わる!」
 そう思った。
 先生に「音楽の才能がある」といわれ「音楽家になろうか?」とも考えた。「文才がある」といわれて、作家になろうか?、とも考えた。
 しかし、ビル・ゲイツは世紀末という出発点にあたり、
「僕がやれるのはソフトではないか……?」
 と思うようになっていった。
「ソフトで身を立てる!」
 これがビル・ゲイツの志だった。
 しかし、ソフトで身を立てるといっても、なかなかビル・ゲイツはその一歩を踏めない。ろくな資本金もないのに独立するとは、ビル・ゲイツも冒険をしたものだと思う。
 しかし、ビル・ゲイツというのは一度決めたらやり遂げる男である。
『世界一のソフト会社』をつくる男は、どこまでも大胆だった、のである。

「最高に有能な経営者」「コンピュータの帝王」「パソコン中毒」「世界一の金持ち」ビル・ゲイツは四十代になった。しかし、髪はボサボサ、いつも脂で汚れたメガネをかけて、ネクタイを緩めに締めて、ジャケットの肩にはフケがたまっていて、三十一センチの異様に大きな足をもつがまるで高校生のように童顔で華奢だ。
 それにケチである。
 一九九四年に、部下のメリンダさんと結婚してから少しは外見を気にかけるようになったとはいえ、愛車のフェラーリには飲みかけの牛乳が散らばり異臭を放つ。
 飛行機にはエコノミーにいつも乗る。
「…金がもったいない」あっさりいう。
 頭はいいが、「コンピュータ・オタク」で、学生の頃から徹夜してでもコンピュータに向かったという。頭はすこぶるいい。しかし、感情を出し過ぎる。
 いつもは優しい紳士だが、彼が「こいつは無能だ」と判断すると話しもきいてももらえなくなる。ゲイツにとってはかつて話題だったホリエモン(堀江貴文・元ライブドア社長)など”只の馬鹿”だろう。
 ゲイツは徒手空拳でゼロからスタートした訳ではない。
「金持ちから大金持ちになった」
 という。
 調べてみれば、ゲイツの母方は裕福な銀行家で、富も名声もあり、祖父母が孫のビルに百万ドルを贈与したのは有名な話しだ。
 今、ゲイツに続けとばかりにパソコン・ベンチャーが盛んだが、ホリエモンみたいな醜悪なまねだけはしてはならない。蟻が象に勝つことはありえない。
 ビルにしたって財産があったから起業し、自社のソフトを世界基準までもってこれたのだ。だからビル・ゲイツは自分の害となるような人間は訴えて滅ぼす。
 いま「パソコン・オタク」が多いが、ビル・ゲイツはそのハシリだろう。頭の回転が早く、記憶力がいい。学校ではイジメられたが成績はトップだった。
 なんでも一番がいいと勉強した。
 そのためオタク度が進み、パソコンにのめりこんだ。人付き合いが苦手で、寡黙だという。しかし、彼の母はそういうことも考えて、ボーイスカウトに入隊までさせた。
 だが、治らなかった。
 彼がコンピュータと出会ったのは、シアトルにある進学校、レイク・サイド・スクールだという。もともと裕福な金持ちの子供が通うところだ。まさにアポロ計画があり、IBMの大型コンピュータがもてはやされていた。
 ソフト作りを学んだ。先見性があった訳ではなく、両親にやらされた。
 だが、誰でもビル・ゲイツのようになれる訳ではない。ホリエモンの例をみてもわかる通り、ちゃんとした天才がどこかにないと駄目なのである。
 彼はマーケティングも独学で学び、プロパガンダも独学で学んでいる。
 彼の戦略は、「流行り」をつくることだ。
 例えばウインドウズ95のときの行列はマイクロ・ソフトの「サクラ」だったという。
 しかし、皆が騙され、パソコン・ウインドウズのブームが起こった。
 NECは宣伝に30億円かけたが、マイクロソフトはそんなに宣伝費はかかってない。
 日本のビル・ゲイツ、孫正義の動きも気になる。野球、銀行……次は宇宙か?
 どっちにしてもマック派でないかぎり、東芝だってNECやソニーだって、
「この機種はウインドウズ○○を搭載してます」
 とやってくれる。
 インテルみたいなものである。
 ビル・ゲイツはさらにゲームに眼をつけた。それはそれでいい。
 只、今のところソニーや任天堂よりシュアは伸びない。
 彼に時代が追いついてきている。やがては誰かがビル・ゲイツを追い越す。
 それは、ホリエモンのような虚業家ではなく、もっとマシな人間だろう。

         2 フェイスブック、ウインドウズ誕生





2003年9月、コンピュータ科学専攻で2年生になったばかりのマーク・ザッカーバーグはハーバード大学のカークランド寮の続き部屋の共有室に、幅8フィート(1フィート=30cm・約2メートル40cm)もあるホワイトボードを引きずり込んだ。大型ホワイトボートはギ―ク(コンピュータおたく)たちのお気に入りのブレインストーミング・ツール(戦略頭脳計画の道具)である。
 ホワイトボードはザッカーバーグがその上に書きなぐる図と同様、大きくて不細工だった。学生4人を収容する続き部屋には、このホワイトボードを設置できる壁が一面しかなかった。
 ボードは一面、式や記号で覆われ、色とりどりの線があちこちを結んでいた。ザッカーバーグはよく、マーカーペンを手にホワイトボードを凝視していた。廊下は狭いので誰かが後ろを通る時に、マークはホワイトボードに体を押し付けなければならなかった。
 ザッカーバーグの3人のルームメイトのひとり、ダスティン・モスコヴイッツは回想する。
「彼(ザッカーバーグ)はあのホワイトボードが大好きだったね。彼はどんなアイデアでも……わかりきったことでもいちいち図に描いてみないと気が済まないんだ」
 ザッカーバーグのアイデアの多くはインターネットサービスについてのものだった。彼は他の講義の宿題がいくら大量に残っていようと、果てしないプログラム(コンピュータを動かす電子上の命令のシステム)をコーディング(修正)し続けた。
 コンピュータの画面に憑(つ)かれたように見つめて、新しいパソコンのインターネットのアイデアを思考し続けた(つまりブレーンストーミング)。
 高校生時代のマーク・ザッカーバーグはフェンシング・チームのキャプテンであり、数学、天文学、地理、古文、フランス語、ヘブライ語、古代ギリシャ語の天才で流暢であったという。
 だが、傲慢な性格と内気な為に本当の友達は2人もいないような有様であったという。
 ルームメイトを起業することになるとき誘ったのは友達が極めて少ないことのあらわれだ。
1週間もたたないうちにザッカーバーグは「コースマッチ」と名づけた無邪気なインターネット・ソフトウェアを開発した。彼にとってはほんの遊びだった。(私こと緑川鷲羽も高校生の時、数分で、カーソルを連打して誰が一番早く走らせられるか?のゲームソフトウェアをつくって同級生たちに学校で遊ばせたことがある。私にとってもほんの遊びだった)
「コースマッチ」とはこれはある講義をどの学生が取っているかを知らせて、講座の選択を助けるサービスであった。ユーザーが講座をクリックすると、受講生の一覧が表示される。逆に学生をクリックすると受講している講座(大学は教科制の小中高校ではなく、個人単位で講座を受講して単位を集めてある一定の単位(受講経験)を得なければ進級や卒業ができない)の一覧が現れるという仕組みだ。
 コースマッチで美女と同じ講義を受けるには、名前を入力し検索すればいいのだ。後にザッカーバーグは、多少の後知恵も交えて、
「ぼくはこの時、人々を結びつける方法がいろいろあることを発見した」
 と自慢した。学生時代のザッカーバーグは当時19歳だが、小柄でスリムな体つきでカールした茶色の髪にそばかすで一見15歳にしかみえない。
 だぶだぶのジーンズにTシャツには決まって何かのセリフかイラストがあった。Tシャツには猿のイラストと「コード・モンキー」という文字が見える。
 彼は見知らぬ人々の間にはひどくもの静かに見えたが、それはほんの上っ面だった。ひとたび口を開くと強烈な皮肉が飛び出すのだった。
 ザッカーバーグは相手が言いたいことをすべて言い終わるまで、黙って待つのが常だった。そのあいだ、相手をじっと見据えている。
 相手が喋っているとき、じっと見据えてひとことも口を利かない(つまり相槌もしない)。相手が何か意味あることを発言した時のみ反論する。
 ザッカーバーグは物事をとことん論理的に考える人間だ。彼の筆跡は几帳面で整然としている。さまざまな思考の跡が、小さな字でノートの多くのページを埋め尽くしている。
 ちなみにザッカーバーグは1984年生まれだから、2014年で30歳である。日本のタレントに、ベッキーというハーフ外国人人気女性タレントがいるが同い年な訳だ。
  いろいろなプロジェクトの中で、インターネットが一番続くテーマであった。
 モスコヴィッツはもともとコンピュータを扱った経験はほとんどなかった。しかし、なにがオンラインで意味があり、何が意味がないのか、優れたウェブサイトとはなにか、インターネットが社会の主要な構成要素への道をこのまま進むならどういう現象が起きそうか、といったザッカーバーグからの議論を聞くうちにコンピュータの世界に引き込まれていった。
 クリス・ヒューズにいたっては学年はじめにはコンピューティングに対する興味はゼロだった。しかし、その年の半ばにいたって、ヒューズとオルソンもインターネットのアイデアを議論するようになり、他の3人も議論に加わった。
 ザッカーバーグは天才であり、そんな天才と同じ寮生とはラッキーであったことだろう。しかものちのフェイスブック社の主要幹部にまでなれたのだ。日本的に言えば「鴨がネギを背負ってやってきた」のだ。「棚から牡丹餅」なのだ。
 まあ、ザッカーバーグは友達がいないので、同じ釜の飯の仲間が本当の上での「友達」になったのだろう。
  いずれにせよ、コースマッチの意外な成功で大胆さを増したザッカーバーグは、さらに自分のアイデアを試してみることにした。
 2003年10月にザッカーバーグは「フェイスマッシュ」というサービスをリリースした。このサービスは、彼の不遜で反逆的な一面を初めて見せることになった。
 このサービスの目的は簡単だ。キャンパスで誰が一番「ホット」な人間かを決めるというものだ。
 同性(まあ女性)のバストアップの顔写真がパソコン上の画面の左右に映し出され、タイプな「ホット」と思うほうの顔を選び勝ち進むという簡易・美人コンテストみたいなものである。
 ザッカーバーグは、このソフトウェアを開発した理由として「ある女子学生にものすごく腹が立ったからだ」と書いている。「○○(女性の名前)はビッチ(売春婦)だ。あんまり腹が立ったのでウサはらしにこれを開発した。嘘をつきたくないから言うけど、ぼくは今ちょっとハイになっているかも知れない」
 しかし、確かにフェイスマッシュを面白がる者ばかりではなかった。性差別主義、人種差別主義だという抗議がすぐにふたつの団体……ラテン系女子学生連盟とハーバード黒人女性協会から上がった。
 ザッカーバーグはその後、大学の諮問委員会に招聘される。ザッカーバーグにローウェル寮のパスワードを貸した学生、ルームメイトや隣り続き部屋のジョー・グリーンは倫理規定違反、コンピュータ・セキュリティーの侵害、著作権の侵害、プライバシーの侵害の罪状で告発された。ザッカーバーグは謹慎処分となったが他の3人は軽い処分で済んだ。
 だが、グリーンの父親は大学教授で、ザッカーバーグに「もうすこしで停学や退学だったぞ」と説教するがザッカーバーグは聞く耳をもたない。グリーンの父親は息子にザッカーバーグに関わるなと命令した。この命令は、おそろしく高いものについたことがわかる。
 この事件はある種、ザッカーバーグは「人気ゲームクリエイター」にも似た、人々を熱中させ、使い出したら止められないようなソフトウェアを書く才能があることを示している。
 が、ザ・フェイスブックはプラットフォームに過ぎず、コンテンツ供給はあくまでユーザで、しかもハーバード大学のメールアカウントとサーバー使用という有様であったという。
 コーチマッチとフェイスマッシュ事件で当局とトラブルになった理由の一つが、サービスをハーバード大学のサーバーでホスティングしたことだった。
 だから、ウェブ検索して発見したManage.comというオンライン・ホスティング・サービス会社にクレジットカード番号を送り、月85ドルを払ってサーバーを借りた。
 彼らはビジネスに詳しい同級生のエドゥアルド・サべリンに、フェイスブックの30パーセントの権利と引き換えに少額の投資をし、ビジネス面を手伝ってくれるように頼んだ。
 ジョー・グリーンによるとザッカーバーグから「ビジネスパートナーになってくれ」と誘いを受けたが前述した大学教授の父親が反対してだめに……後になってジョーはこのエピソードを「10億ドルのミスだった」と苦痛な笑いとともに認めることになる。
 なにはともあれ、フェイスブックの前身、ザ・フェイスブックは誕生した。
 当時3年生のアメリア・レスター(わずか5年後には名門ニューヨーカー誌の副編集長に抜擢された)は、こう書いた。
「ザ・フェイスブックは性欲以外のすべての原始的な欲求がそこここに渦巻いていることが見てとれる。帰属欲求、虚栄、そして少なからぬ覗きの欲望」
 ダスティン・モスコヴィッツはパソコンが苦手でプログラムも書けなかったが、ザッカーバーグは彼と雇用契約を結んだ。
「たすけてやるよ」
「ムリだぜ。君はプログラムが出来ないだろう?」
 するとモスコヴィッツは週末実家に帰って『サルでもわかるPERL』とかゆう本を買ってきて詰め込んで「準備OKだ!」という。
 ザッカーバーグは呆れて「あのなあ、このサイトはPERLで書いてあるんじゃないぜ」という。
 そういう状態でも熱意に負けて彼を雇った。
 彼は言う。
「野心ある天才だというだけでは、成功できない。運もよくなけりゃダメなんだ」
「マークは運も野心も天才ももつ人である」
 ちなみにだが、フェイスブックやツイッター等のSNSの儲けのシステムを書いておく。
 ①出会い系サイトのようなお友達・恋人探しサイト(お金を払ってもいいというユーザは必ずいる)
 ②専門家の有料な専門的助言
 ③ネット上のポイント・マイレージだけでなく、マックやスタバ等のリアルな買い物でもマイルやポイントのチャージ
 ④アフェリエイト(広告収入)
 
 サべリンはY2Mという会社に投資話を持ち掛けた。ザッカーバーグらはまだ大学生でのちに起業しながら卒業する。
 だが、フェイスブックの儲け先はほとんどアフェリエイト(広告収入)だけだった。
 最初のうちシリコンバレーは「ザ・フェイスブック」=「セックスに飢えた若者のSNS」としか見ていなかった。
 ザッカーバーグは1999年「ナップスター(Napster)」の発案者で起業家で経営者の経験があるショーン・パーカーという少し年上のカリフォルニアの風来坊と、契約を結んだ。
 ナップスターとは音楽無料配信サイトで、明らかに著作権違反で音楽家がつくった音楽を無料で配信したりダウンロードできるというサイトである。
 当然、音楽家たちに著作権料金もなにも払わないのだから裁判になり、敗訴、その他にショーンはドラッグ(麻薬)パーティーで何度か警察に逮捕されていたりした。日本でもそういう違法サイトをつくって逮捕されたひとがいるが「とんでもない馬鹿」である。音楽作品だって何日もかけて御音楽家が汗水たらして創っているのに、無料で配信されたら金にならない。儲からない。まさに「盗作レイプ」だ。
 だが、ザッカーバーグはショーン・パーカーの経営手腕に賭けることにした。
「釣り好きなら小さい魚を二十匹釣るより、巨大なカジキマグロを一匹釣るのがビジネスだ」
 お前にビジネスの何がわかるのだ?!と言いたいところだが堪えよう。
 とにかくザッカーバーグらはまだ十代である。パーカーはITの異端児と呼ばれたが二十代……だが、彼らは「ザ・フェイスブック」のコーディングを重ねユーザを増やしていった。
 ほとんどの収入は広告収入で、まで小さい規模の頃のザ・フェイスブックは何度も日本円で数百億円の値段を提示されて「我々に今のうちにシステムと特許を売って欲しい」
 と、ザッカーバーグの元に誘いの契約話が何度も何度もきたという。
 だが、ザッカーバーグは断った。
 億万長者になるのは自分の頭と汗で成りたかったのだ。
 そんななか、ザッカーバーグやフェイスブックのことの映画「ソーシャル・ネットワーク」を観てご存じの方もおられるだろうが、タイラー・ウィンクルヴォス、キャメロン・ウィンクルヴォスの長身の一卵性双生児の兄弟と、ディヴィヤ・ナレンドラの3名が連邦裁判所にザッカーバーグを提訴した。3人は、ザッカーバーグがザ・フェイスブックのアイデアを彼らから盗んだと主張していた。
(「フェイスブック「若き天才の野望」」デビッド・カークパトリック著作 滑川海彦訳 日経BP社出版 13~88ページ)







<人口激減問題の対策と課題「人口ボーナス国家を狙え」世界に例をみない人口激減国・日本>

2014年12月25日 14時37分13秒 | 日記




<人口激減問題の対策と課題「人口ボーナス国家を狙え」世界に例を見ない人口激減社会日本国>2014年12月25日・緑川鷲羽
日本のような「人口激減問題」は世界に例がない。1800市町村のうち900市町村はなくなるという。他国ではこういう課題では女性を活用しようとか、“子供を多く生み育てる社会法整備”や「移民政策」を必ずやるからである。現実に仏も独も20年前にやった。
安倍晋三氏は「移民政策は絶対にやらない」と宣言しました。フランスやアメリカは戸籍法そのものをすでに廃止している。出きちゃった婚ならいいが、子供を堕す(いわゆる堕胎・だたい・日本の堕胎数は世界一)はある意味深刻な問題である。
これからは日本の人口ボーナスはなくなり、年間20万人の人口が減っていく激減社会になる。「移民」が嫌なら「子供を沢山産みたくなる」政策をやるしかない。
夫婦別姓、事実婚を安倍晋三は反対の輩である。しかも人口減少対策をこの国はまったくしようともしない。移民政策にしても子育て人口増加にしても20年から40年くらいの期間がかかる政策である。人口が激減して国の借金を返す人がいなくなると自然現象で必ず日本国債は暴落する可能性がある。いや、絶対にそうなる。数年後か?明後日か?数十年後か?必ず日本国債は暴落する。子供を持てば持つだけ優遇税制、減税、支援金、だ。
女性と高齢者とニートを最大限につかっても120万人の労働人口が足りなくなる。移民政策をやらないならフランスやスウェーデンなどの国のような「子育て」「子だくさん政策」をやらなければならない。例えば日本では『地方創生』というが、これは日本だけの特殊な事象で、世界では都市問題なのだ。日本は地方3で都市部が1だから地方を甘やかす。
所詮、地方には自主財源も権限もないのだから『地方創生』と言っても『ふるさと創生』のときみたいに、また税金を地方にバラまくしかない。日本女性の生涯出生率は1.47%である。「子育てするなら日本で」のようなフランスやスウェーデン、フィンランドの子育て政策を導入するしかない。消費税を24%くらいにして高福祉高負担国家・日本だ。
幼稚園・保育園から大学まで給食費も学費も無料、介護も医療費も無料…日本こそフィンランドのような国になるべきだ!日本の皆さん、スウェーデンやフィンランドのような日本に住みたくないですか?!ロジカルシンキングなら「子供がいないなら移民しかない」となりますが、安倍晋三は「移民政策は絶対にやらない」というのであれば、子供を増やすしかない。日本国をスウェーデンやフィンランドのような国にしましょう!


<2015年の日本経済とアベノミクスの失敗「ハイパー・インフレ」と「デフォルト」回避策!増税・歳出削減>

2014年12月23日 19時52分21秒 | 日記






<2015年の日本経済とアベノミクスの失敗「ハイパー・インフレ」と「デフォルト(債務不履行)」回避策は増税消費税20%と歳出削減と都心部の容積率(都市部の日照権廃止)倍増!>2014年12月23日・緑川鷲羽
日本はまだまだ捨てたものではない。聞き飽きたかもしれないが個人金融資産は1600兆円、大企業の内部留保は270兆円もある。だが、日本はもう20年間もデフレ不況から抜け切れていない。大前研一氏は「低欲望社会」といわれる。例えば『フラット35』という金融商品名をご存じだろうか?これは住宅ローンで金利が1.56%を35年間フラット(つまり維持する)という夢のような金融商品である。だが、皆「虚勢」でもされたかのように消費は伸びない。欧米では5%の金利の住宅でも申し込みは殺到するという。誰も投資も消費もせず貯金で世界一の貯金率、アメリカの大富豪より資産があるのに「老後が心配」といい、誰も消費しない。こうなるともう心理が精神的病気だ。
日本と欧州は経済が低迷しているが、アメリカは金利を高めるなど財政は危ないが景気はいい。安倍晋三首相は「円安=国力低下」なのに何故か誇らしげだ。まあ、馬鹿だからだが、例えば安倍晋三は「株高になって日本経済はよくなった!」という。
これもまた馬鹿で無知だ。
日本人の株保有率はわずか15%でしかない。アメリカ人は株保有率が85%(貯金はほとんどなく株だけ大量に持っている)であり、株高で儲かるのはアメリカ人だけだ、とわかる。
2014年度の7月から9月までの経済成長率はアベノミクスの嘘を信じている(安倍晋三の大好きな高学歴で年配の学歴エリートの)エコノミストは「+3.66%」等としていた。
だが、現実は「―1.6%」で、あった。所詮はアベノミクス等というのは失敗しているのだから当たり前の数字だ。だが、安倍ポチのエコノミストや官僚や議員や評論家は『大本営報道』を繰り返すばかり。「100万人の雇用を創り出しました!」と安倍晋三は言う。100万人の非正規社員が創り出された、にすぎない。
このままでは日本は「ハイパー・インフレ」と「デフォルト(債務不履行)」になる。回避策は(1)増税(消費税20%)と(2)歳出削減(年金削減・公務員給与削減・地方に権限と財源移譲)と(3)都心部の容積率(都心部の日照権廃止、おひさまが欲しいなら田舎に住め)の倍増だ。「容積率」とは何か?つまりビルやマンションの上空を(2階から5階や10階にするなどして)商業利用するものだ。それだけで数千兆円規模の経済効果がある。
また、安倍晋三が何故2014年12月14日に「アベノミクス解散総選挙」を行ったのか?これは単に2015年になると経済が悪化して、ちょうど帝国ホテルに泊まっていたノーベル経済賞学者クルードマン氏をわざわざホンダ某氏が官邸に連れてきて、「今なら選挙をしても経済に影響がない」とクルードマン氏に御信託を受けたため(笑)と言う。後は飯島氏谷内氏の戦略(笑)だという。どこまで馬鹿なのだろう?憎たらしい学歴エリート(笑)め!
私は安倍さんが「移民政策はやらない」というのは評価するが、日本の大企業の海外に出て行った工場は日本には戻ってなどこない。理由は単純で、人材がいないし、ブルーカラー希望の人材がいないのである。日本人は皆、中学も高校も大学か専門学校を出る。そういうひとは「工場労働が死ぬほど嫌い」である。で、「マクドナルドやコンビニでバイト」している。海外で新技術の工場をつくって中国やベトナムではブルーカラーの人材は手に入るけれども、日本に戻ってきて同規模の工場は無理である。少子高齢化で人材が少なく、人件費も高く、現在の日本人労働者が海外人より“極めて優秀”な訳でもない。
戦略もないのが日本人の「脛の傷」である。例えば原油価格を低価格にさせたサウジアラビアの戦略を日本人は知らない。サウジはアメリカのシェイルオイル、シェイルガス体制を崩壊させる為に原油価格を安くしている。すべて戦略なのだ。アメリカの「金利上昇」もそう。金利を上昇させるといえば「期待感」から世界中からお金が集まる。すべて戦略なのだ。そういう戦略が日本人にはない。あるのは間抜けな「アベノミクス」のみ(笑)。
例えば中国の習近平国家主席は「ハエ(小物)も虎(大物)も叩く」という。
これも戦略である。更に「狐(裸官(らかん)・中国人官僚の海外逃亡者125万人13兆円規模の不正)」も叩くという。日本に戦略家と呼べるのは孫正義氏や稲森和夫氏など極わずかである。私は飯島勲や谷内正太郎の無能の正体を熟知している。飯島や谷内が安倍晋三にいらない入知恵を耳打ちして、どれだけの産業が崩壊し、どれだけの人材を失ったのか。
もはや日本の危機は避けられない。誰かがこの危機に立ち上がれるのか?“霞が関幕府を倒幕”して、“救国の新世紀維新”、地方分権・道州制度の“大政奉還”、“王政復古の大号令”や霞が関幕府の“瓦解”を誰がやるのか?もはや停滞は許されない。出でよ、新しい日本人よ!今こそ「救国の新世紀維新」の策略・戦略が必要で、ある。


ふわふわのマシュマロのようなキッス(*『恋するフォーチューンクッキー』AKB)hypergroove

2014年12月22日 21時47分27秒 | 日記







********
 
ふわふわマシュマロのようなキッス(*『恋するフォーチューン・クッキー』feat.AKB48)
hyper groove TK-mix 原歌詞・秋元康 加筆歌詞・緑川鷲羽 作曲編曲TKがリミックス

人生苦労が多ければ 誰もが上手く恋ができる? そんなことある訳ないのに WOW…
恋のシステムお手のもの 誰もが可愛けりゃ文句ない 性格より外見が90(%)

ハイウェイの左側には 未来へ進むヴィジョン
昔からあなたはそうね いつの日にも 可愛いい娘(こ)が一番に好きになるの
LALALA… チューニング!
愛してる?

*1 ふわふわのマシュマロのようなキッス 誰もが君を好きになるよ LALALA…
   人生はそんな簡単じゃない
   ふわふわのマシュマロのようなキッス 誰もが君を好きになるの?WOW…
世界地図にも載っていない 「永遠」というパラダイスに
   いつかは辿りつきたいと思う

メアドをちゃんと知らせたのに SNSは大炎上
フェイスブックもLINEも苦手だわ WOW…

家庭的な娘(こ)が好きだなんて 男たちはいうけれども
いつだって美人やアイドルのような 超美人が皆好き
男の子ってまるで単純よ

LALALA…フューチャー!
愛している?

*1 Re-pert×1
LALALA…フューチャー!
愛している?
*1 Re-pert×1



Just Meet LOVE!(*『会いたかった』feat.AKB48)hyper groove 原詞・秋元康 加筆歌詞・緑川鷲羽

2014年12月22日 17時43分09秒 | 日記





JUST Meet LOVE!(*『会いたかった』Feat.AKB48)hyper groove TK mix
原歌詞・秋元康氏 加筆歌詞・緑川鷲羽 作曲・原曲をTKがリミックス

  *1 JUST Meet LOVE×3YAH!JUST Meet LOVE×3YAH! for YOU!

心の赴くまま 走る 風の交差点
   汗がにじんでく スカート ひるがえしながら

   パルピテーション 心はTWINKLE NIGHT
ストレートで行くんだ 脚をふんばって ひたすら 走れ!

  *2 誰よりも 好きだといおう
     誰よりも 大好きだから
     教科書は 教えてはくれない
     誰よりも 愛してといおうよ。

  *1 Re-pert×1

ハイウェイをどんどんとチェイス 走りEURO BEAT
少し恥ずかし気な写真  スカートひるがえし

   パルピテーション 心はWhite NIGHT
ストレートで行くんだ 脚をふんばって ひたすら 走れ!

  *2 Re-pert×2
LALALALALA…
  *1 Re-pert×1
JUST Meet LOVE!


<外交戦略 アメリカの思惑とTPP戦略>日本の先送り体質に失望「アメリカのプレゼンスと卓越外交術」

2014年12月21日 14時50分21秒 | 日記







<外交戦略 アメリカの思惑とTPP戦略>2014年12月21日・緑川鷲羽
目先だけの利益を考えて、本当に重要なものごとを先送りばかりする日本の姿勢は、世界から呆れられている。中でも日本に失望しているのはアメリカである。
オバマ大統領が中間選挙で敗北したことの意味を日本人は理解していない。オバマは移民政策に失敗し、オバマは「大統領令」をすすめて、1100万人のうち500万人の不法移民を強制送還から外すと宣言、共和党はこれに対して「違法であり、大統領と法廷で争う」と息巻いている。共和党が圧勝したということはオバマ大統領・民主党政権がいよいよレイムダック状態になり、労働組合の支援の民主党とオクラホマやコロラドやカンザスなどの農家の支援の共和党がますますTPP等で、今まで以上に日本に圧力をかけてくるという事である。アメリカから「農産品の関税をゼロにせよ」と突きつけられても、日本は防戦一方で、またもや問題を先送りするだけ。まあ、農協や農水族議員などの既得権益を持つ利権団体に配慮しているからだ。
しかし、そんな内輪もめの理屈など、アメリカが納得する訳ない。
交渉、それが国と国との交渉つまり外交交渉であれば、アメリカに「農産物の関税をゼロにせよ」といわれれば、「なるほど。OK。ならその代わりに日本の自動車のアメリカでの関税をゼロにしてくれないか?」と言い返すのが外交というものだ。
日本の農産物は世界一高品質で、味もおいしく、柿にしろコメや林檎や蜜柑にしろ十分に世界で通用する。世界の富裕層が日本の農産物を買ってくれる。これは命を賭けてもいい。
日本人だけが利権団体に配慮して先送りしているだけだ。
外交圧力とはむこうが圧力をかけてきたら圧力で返すのが常套手段であり、それが交渉の駆け引きというものだろう。言葉遊びで「外交とは武器を持たない戦争」「外交とはスーツを着た戦争」「敵を知り己を知れば百戦危うからず」などと言うだけでは駄目だ。
「立派な結果をともなわない行動は立派な行動とは言えない」(カエサル)である。
中国の赤サンゴ密漁も同じだ。日本は「攻めれば引く」という弱腰外交が世界に知れ渡っている。赤サンゴを密漁されれば片っ端から逮捕・捕縛して裁判にかければいい。中国や北朝鮮やロシアならすぐに射殺するような問題なのだ。
古い話だが台湾で独立派の長である李登輝政権が誕生しようとしていた1996年、中国は台湾海峡にミサイルを撃ち込む挑発に打って出た。これに対してアメリカはすぐさま、「インディペンデンス」「ニミッツ」という2隻の空母にイージス艦を派遣して、中国をけん制した。そのときアメリカは、
「お前たち、本当に戦争がしたいのか。それなら受けて立つ」と言ったという。
この一言に中国は震えあがって手を引いた。
この頃のアメリカ軍は世界一である。よく『パックス・アメリカーナ(アメリカの核兵器の傘の下の平和)』というが、そんなものはもう効力が薄くなってきている。アメリカは今も大事な同盟国だが、そのアメリカが大事な時に助けてくれる、と考える愚は避けたい。
日本人が大事な事柄を先送りばかりするから失望されるのであり、いずれは日本はアメリカに見捨てられるかも知れない。金の切れ目が縁の切れ目である。
日本は中国、北朝鮮、ロシアという核保有国に囲まれ、韓国とも仲が悪くなっている。
どうすればいいか?これこそ外交の出番だ。
アメリカのプレゼンスという重要性を確認して、大事な事柄を先送りせず真剣に議論する『大人の国』になるべきなのだ。オバマは「アジアのリバランス」という言葉で中国との関係悪化を避けるほどの弱虫だが、アメリカにはいざというときの軍事力がある。
日本はその軍事力さえないのだからせめて“外交能力だけ”でも持っていなければならない。この日本という国はまさに交渉下手な国であり、国民のIQは高いのだが、外交交渉力はゼロに近い。ここで誰かが外交的な天才が誕生しなければならない。これは日本人が維新だの言う前の“最重要課題”である。い出よ、新しい日本人!



緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.145小保方晴子STAP細胞再現作成なしでの「虚栄心の行方」

2014年12月19日 17時36分24秒 | 日記




stap細胞と小保方氏「虚栄心の行方」


 夢の万能細胞「STAP細胞」を生み出した万能生成可能細胞は、やはり「STAP細胞はありません」でしかなかった。
半年前に小保方氏は「自分は200回STAP細胞を作成した」「自分なりのコツやレシピのようなものがある」と語っていた。世間は強欲な小保方晴子氏を「佐村河内守と同じ」と見るだろう。当たり前だ、敵のいない人間等いないし醜い欲望のない人間等いないのだから。誰もがカネが欲しい、名誉が欲しい、地位が欲しい、有名になりたい、美人になりたい、などと思っている。皆醜いのだ。皆が薄汚く醜く愚かで馬鹿なのだ。世間の人間という生き物は自分を含めて愚かで馬鹿で醜いのだ。
だが、自分の実力や能力を実力以上に世間に認めさせようという風潮はみっともないものである。ホリエモンにも言ったが「金(きん)は地中にあっても金であり、鉛は錦の袋の中にあっても鉛でしかない」みっともない。
少しはホリエモンも小保方晴子氏も小渕優子氏も松島みどり氏も田中真紀子氏も石原慎太郎氏も橋下徹氏も『孔子の論語』にあたってみたらどうだろう?ホリエモンは刑務所を出ても未だに馬鹿げたメンタリティだ。あんな阿呆の著作本などいらないんだよ。人生を反省する為に刑務所にぶちこんだのに意味がない。小保方氏も同じだ。今後、詐欺容疑で理研に提訴されるだろう。世間が詐欺容疑をほっとく訳ない。税金が無駄になったのだ。
我々の税金を無駄にしたのだ。「STAP細胞はありまーす」だの「おぼちゃん」だの人生を世間を馬鹿にしているのか?
あの小保方晴子氏は明らかに詐欺容疑者だ。だが、まるで魔女裁判みたいだから、後は冷静に司法の裁きを彼女に与えるしかない。強欲は身を滅ぼす。「朝(あした)に道を聞けば夕べに死すとも可なり」小保方さん、この格言を座右の銘にせよ!

緑川鷲羽(みどりかわ・わしゅう)・44・フリージャーナリスト・

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.144「活字本」一か月に一冊も読まない「日本人の劣化」無知を恥じる心を

2014年12月18日 15時52分36秒 | 日記







    最近は活字本を月に一冊も読まない日本人が  
  
  大多数だという。


 驚くとともに哀しくなる。 


   漫画やテレビなら楽で簡単だろう。 
 
 確かに私自身も幼いころアニメや漫画にどっぷりつかった世代だ。


 だが、


  だからこそ日本人の劣化を危惧する。


 いい大人が漫画三昧では馬鹿だ。新聞や活字を読み無知を恥じる人間となれ!



緑川鷲羽2014そしてはじまりの2015へ

花燃ゆとその時代吉田松陰と妹の生涯2015年大河ドラマ原作アンコール連載小説7

2014年12月18日 08時06分01秒 | 日記










 翌日、ひそかに勝海舟は長州藩士桂小五郎に会った。
 京都に残留していた桂だったが、藩命によって帰国の途中に勝に、心中をうちあけたのだ。
桂は「夷艦襲来の節、下関の対岸小倉へ夷艦の者どもは上陸いたし、あるいは小倉の繁船と夷艦がともづなを結び、長州へむけ数発砲いたせしゆえ、長州の人民、諸藩より下関へきておりまする志士ら数千が、海峡を渡り、違勅の罪を問いただせしことがございました。
 しかし、幕府においてはいかなる評議をなさっておるのですか」と勝海舟に尋ねた。
 のちの海舟、勝海舟は苦笑して、「今横浜には諸外国の艦隊が二十四隻はいる。搭載している大砲は二百余門だぜ。本気で鎖国壤夷ができるとでも思ってるのかい?」
 といった。
 桂は「なしがたきと存じておりまする」と動揺した。冷や汗が出てきた。
 勝海舟は不思議な顔をして「ならなぜ夷艦砲撃を続けるのだ?」ときいた。是非とも答えがききたかった。
「ただそれを口実に、国政を握ろうとする輩がいるのです」
「へん。おぬしらのような騒動ばかりおこす無鉄砲なやからは感心しないものだが、この日本という国を思ってのことだ。一応、理解は出来るがねぇ」
 数刻にわたり桂は勝海舟と話て、互いに腹中を吐露しての密談をし、帰っていった。

  十月三十日七つ(午後四時)、相模城ケ島沖に順動丸がさしかかると、朝陽丸にひかれた船、鯉魚門が波濤を蹴っていくのが見えた。
 勝海舟はそれを見てから「だれかバッティラを漕いでいって様子みてこい」と命じた。 坂本龍馬が水夫たちとバッティラを漕ぎ寄せていくと、鯉魚門の士官が大声で答えた。「蒸気釜がこわれてどうにもならないんだ! 浦賀でなおすつもりだが、重くてどうにも動かないんだ。助けてくれないか?!」
 順動丸は朝陽丸とともに鯉魚門をひき、夕方、ようやく浦賀港にはいった。長州奇兵隊に拿捕されていた朝陽丸は、長州藩主のと詫び状とともに幕府に返されていたという。      浦賀港にいくと、ある艦にのちの徳川慶喜、一橋慶喜が乗っていた。
 勝海舟が挨拶にいくと、慶喜は以外と明るい声で、「余は二十六日に江戸を出たんだが、海がやたらと荒れるから、順動丸と鯉魚門がくるのを待っていたんだ。このちいさな船だけでは沈没の危険もある。しかし、三艦でいけば、命だけは助かるだろう。
 長州の暴れ者どもが乗ってこないか冷や冷やした。おぬしの顔をみてほっとした。
 さっそく余を供にしていけ」といった。
 勝海舟は暗い顔をして「それはできません。拙者は上様ご上洛の支度に江戸へ帰る途中です。順動丸は頑丈に出来ており、少しばかりの暴風では沈みません。どうかおつかい下され」と呟くようにいった。
「余の供はせぬのか?」
「そうですねぇ。そういうことになり申す」
「余が海の藻屑となってもよいと申すのか?」
 勝海舟は苛立った。肝っ玉の小さい野郎だな。しかし、こんな肝っ玉の小さい野郎でも幕府には人材がこれしかいねぇんだから、しかたねぇやな。
「京都の様子はどうじゃ? 浪人どもが殺戮の限りを尽くしているときくが……余は狙われるかのう?」
「いいえ」勝海舟は首をふった。「最近では京の治安も回復しつつあります。新選組とかいう農民や浪人のよせあつめが不貞な浪人どもを殺しまくっていて、拙者も危うい目にはあいませんでしたし……」
「左様か? 新選組か。それは味方じゃな?」
「まぁ、そのようなものじゃねぇかと申しておきましょう」
 勝海舟は答えた。
 ……さぁ、これからが忙しくたちまわらなきゃならねぇぞ…


 勝海舟は御用部屋で、「いまこそ海軍興隆の機を失うべきではない!」と力説したが、閣老以下の冷たい反応に、わが意見が用いられることはねぇな、と知った。
  勝海舟は塾生らに幕臣の事情を漏らすことがあった。龍馬もそれをきいていた。
「俺が操練所へ人材を諸藩より集め、門地に拘泥することなく、一大共有の海局としようと言い出したのは、お前らも知ってのとおり、幕府旗本が腐りきっているからさ。俺はいま役高千俵もらっているが、もともとは四十一俵の後家人で、赤貧洗うがごとしという内情を骨身に滲み知っている。
  小旗本は、生きるために器用になんでもやったものさ。何千石も禄をとる旗本は、茶屋で勝手に遊興できねぇ。そんなことが聞こえりゃあすぐ罰を受ける。
 だから酒の相手に小旗本を呼ぶ。この連中に料理なんぞやらせりゃあ、向島の茶屋の板前ぐらい手際がいい。三味線もひけば踊りもやらかす。役者の声色もつかう。女っ気がなければ娘も連れてくる。
 古着をくれてやると、つぎはそれを着てくるので、また新しいのをやらなきゃならねぇ。小旗本の妻や娘にもこずかいをやらなきゃならねぇ。馬鹿げたものさ。
 五千石の旗本になると表に家来を立たせ、裏で丁半ばくちをやりだす。物騒なことに刀で主人を斬り殺す輩まででる始末だ。しかし、ことが公になると困るので、殺されたやつは病死ということになる。ばれたらお家断絶だからな」

  勝海舟は相撲好きである。
 島田虎之助に若き頃、剣を学び、免許皆伝している。島田の塾では一本とっただけでは勝ちとならない。組んで首を締め、気絶させなければ勝ちとはならない。
 勝海舟は小柄であったが、組んでみるとこまかく動き、なかなか強かったという。
 龍馬は勝海舟より八寸(二十四センチ)も背が高く、がっちりした体格をしているので、ふたりが組むと、鶴に隼がとりついたような格好になったともいう。龍馬は手加減したが、勝負は五分五分であった。
 龍馬は感心して「先生は牛若丸ですのう。ちいそうて剣術使いで、飛び回るきに」
 勝海舟には剣客十五人のボディガードがつく予定であった。越前藩主松平春嶽からの指示だった。
 しかし、勝海舟は固辞して受け入れなかった。
  慶喜は、勝海舟が大坂にいて、春嶽らと連絡を保ち、新しい体制をつくりだすのに尽力するのを警戒していたという。
 外国領事との交渉は、本来なら、外国奉行が出張して、長崎奉行と折衝して交渉するのがしきたりであった。しかし、勝海舟はオランダ語の会話がネイティヴも感心するほど上手であった。外国軍艦の艦長とも親しい。とりわけ勝海舟が長崎にいくまでもなかった。 慶喜は「長崎に行き、神戸入りし、練習用金のうちより書籍ほかの必要品をかいとってまいれ」と勝海舟に命じた。どれも急ぎで長崎にいく用件ではない。
 しかし、慶喜の真意がわかっていても、勝海舟は命令を拒むわけにはいかない。
 勝海舟は出発するまえ松平春巌と会い、参与会議には必ず将軍家茂の臨席を仰ぐように、念をおして頼んだという。
 勝海舟は二月四日、龍馬ら海軍塾生数人をともない、兵庫沖から翔鶴丸で出航した。
 海上の波はおだやかであった。海軍塾に入る生徒は日をおうごとに増えていった。
 下関が、長州の砲弾を受けて事実上の閉鎖状態となり、このため英軍、蘭軍、仏軍、米軍の大艦隊が横浜から下関に向かい、攻撃する日が近付いていた。
 勝海舟は龍馬たちに珍しい話をいろいろ教えてやった。
「公方様のお手許金で、ご自分で自由に使える金はいかほどか、わかるけい?」
 龍馬は首をひねり「さぁ、どれほどですろうか。じゃきに、公方様ほどのひとだから何万両くらいですろう?」
「そんなことはねぇ。まず月に百両ぐらいさ。案外少なかろう?」
「わしらにゃ百両は大金じゃけんど、天下の将軍がそんなもんですか」
 勝海舟一行は、佐賀関から陸路をとった。ふつうは駕籠にのる筈だが、勝海舟は空の駕籠を先にいかせ後から歩いた。暗殺の用心のためである。
 勝海舟は、龍馬に内心をうちあけた。
「日本はどうしても国が小さいから、人の器量も大きくなれねぇのさ。どこの藩でも家柄が決まっていて、功をたてて大いに出世をするということは、絶えてなかった。それが習慣になっているから、たまに出世をする者がでてくると、たいそう嫉妬をするんだ。
 だから俺は功をたてて大いに出世したときも、誰がやったかわからないようにして、褒められてもすっとぼけてたさ。幕臣は腐りきってるからな。
 いま、お前たちとこうして歩いているのは、用心のためさ。九州は壤夷派がうようよしていて、俺の首を欲しがっているやつまでいる。なにが壤夷だってんでぃ。
 結局、尊皇壤夷派っていうのは過去にしがみつく腐りきった幕府と同じだ。
 誰ひとり学をもっちゃいねぇ。
 いいか、学問の目指すところはな。字句の解釈ではなく、経世済民にあるんだ。国をおさめ、人民の生活を豊かにさせることをめざす人材をつくらなきゃならねぇんだ。
 有能な人材ってえのは心が清い者でなければならねぇ。貪欲な人物では駄目なんだ」


  三月六日、勝海舟は龍馬を連れて、長崎港に入港し、イギリス海軍の演習を見た。
「まったくたいしたもんだぜ。英軍の水兵たちは指示に正確にしたがい、列も乱れない」 その日、オランダ軍艦が入港して、勝海舟と下関攻撃について交渉した。
 その後、勝海舟は龍馬たちにもらした。
「きょうはオランダ艦長にきつい皮肉をいわれたぜ」
「どがなこと、いうたがですか?」龍馬は興味深々だ。
「アジアの中で日本が褒められるのは国人どおしが争わねぇことだとさ。こっちは長州藩征伐のために動いてんのにさ。他の国は国人どおしが争って駄目になってる。
 確かに、今までは戦国時代からは日本人どおしは戦わなかったがね、今は違うんだ。まったく冷や水たらたらだったよ」
 勝海舟は、四月四日に長崎を出向した。船着場には愛人のお久が見送りにきていた。お久はまもなく病死しているので、最後の別れだった。お久はそのとき勝海舟の子を身籠もっていた。のちの梶梅太郎である。
 四月六日、熊本に到着すると、細川藩の家老たちが訪ねてきた。
 勝海舟は長崎での外国軍との交渉の内容を話した。
「外国人は海外の情勢、道理にあきらかなので、交渉の際こちらから虚言を用いず直言して飾るところなければ、談判はなんの妨げもなく進めることができます。
 しかし、幕府役人をはじめわが国の人たちは、皆虚飾が多く、大儀に暗うございます。それゆえ、外国人どもは信用せず、天下の形成はなかなかあらたまりません」
 四月十八日、勝海舟は家茂の御前へ呼び出された。
 家茂は、勝海舟が長崎で交渉した内容や外国の事情について尋ねてきた。勝海舟はこの若い将軍を敬愛していたので、何もかも話した。大地球儀を示しつつ、説明した。
「いま外国では、ライフル砲という強力な武器があり、アメリカの南北戦争でも使われているそうにござりまする。またヨーロッパでも強力な兵器が発明されたようにござりまする」
「そのライフル砲とやらはどれほど飛ぶのか?」
「およそ五、六十町はらくらくと飛びまする」
「こちらの大砲はどれくらいじゃ?」
「およそ八、九町にござりまする」
「それでは戦はできぬな。戦力が違いすぎる」
 家茂は頷いてから続けた。「そのほうは海軍興起のために力を尽くせ。余はそのほうの望みにあわせて、力添えしてつかわそう」
 四月二十日、勝海舟は龍馬や沢村らをひきつれて、佐久間象山を訪ねた。象山は勝海舟の妹順子の夫である。彼は幕府の中にいた。そして、知識人として知られていた。
 龍馬は、勝海舟が長崎で十八両を払って買い求めた六連発式拳銃と弾丸九十発を、風呂敷に包んで提げていた。勝海舟からの贈物である。
「これはありがたい。この年になると狼藉者を追っ払うのに剣ではだめだ。ピストールがあれば追っ払える」象山は礼を述べた。
「てやんでい。あんたは俺より年上だが、妹婿で、義弟だ。遠慮はいらねぇよ」
 勝海舟は「西洋と東洋のいいところを知ってるけい?」と問うた。
 象山は首をひねり、「さぁ?」といった。すると勝海舟が笑って「西洋は技術、東洋は道徳だぜ」といった。
「なるほど! それはそうだ。さっそく使わせてもらおう」
 ふたりは議論していった。日本の中で一番の知識人ふたりの議論である。ときおりオランダ語やフランス語が混じる。龍馬たちは唖然ときいていた。
「おっと、坂本君、皆にシヤンパンを…」象山ははっとしていった。
 龍馬は「佐久間先生、牢獄はどうでしたか?」と問うた。象山は牢屋に入れられた経験がある。象山は渋い顔をして「そりゃあひどかったよ」といった。




  新選組の血の粛清は続いた。
 必死に土佐藩士八人も戦った。たちまち、新選組側は、伊藤浪之助がコブシを斬られ、刀をおとした。が、ほどなく援軍がかけつけ、新選組は、いずれも先を争いながら踏み込み踏み込んで闘った。土佐藩士の藤崎吉五郎が原田左之助に斬られて即死、宮川助五郎は全身に傷を負って手負いのまま逃げたが、気絶し捕縛された。他はとびおりて逃げ去った。 土方は別の反幕勢力の潜む屋敷にきた。
「ご用改めである!」歳三はいった。ほどなくバタバタと音がきこえ、屋敷の番頭がやってきた。「どちらさまで?」
「新選組の土方である。中を調べたい!」
 泣く子も黙る新選組の土方歳三の名をきき、番頭は、ひい~っ、と悲鳴をあげた。
 殺戮集団・新選組……敵は薩摩、長州らの倒幕派の連中だった。

「外国を蹴散らし、幕府を倒せ!」
 尊皇壤夷派は血気盛んだった。安政の大獄(一八五七年、倒幕勢力の大虐殺)、井伊大老暗殺(一八六〇年)、土佐勤王党結成(一八六一年)………

 壤夷派は次々とテロ事件を起こした。
  元治元年(一八六四)六月、新選組は”長州のクーデター”の情報をキャッチした。六月五日早朝、商人・古高俊太郎の屋敷を捜査した。
「トシサン、きいたか?」
 近藤はきいた。土方は「あぁ、長州の連中が京に火をつけるって話だろ?」
「いや……それだけじゃない!」近藤は強くいった。
「というと?」
「商人の古高を壬生に連行し、拷問したところ……長州の連中は御所に火をつけてそのすきに天子さま(天皇のこと)を長州に連れ去る計画だと吐いた」
「なにっ?!」土方はわめいた。「なんというおそるべきことをしようとするか、長州者め! で、どうする? 近藤さん」
「江戸の幕府に書状を出した」
 近藤はそういうと、深い溜め息をもらした。
 土方は「で? なんといってきたんだ?」と問うた。
「何も…」近藤は激しい怒りの顔をした。「幕臣に男児なし! このままではいかん!」 歳三も呼応した。「そうだ! その通りだ、近藤さん!」
「長州浪人の謀略を止めなければ、幕府が危ない」
 近藤がいうと、歳三は「天子さまをとられれば幕府は賊軍となる」と語った。
 とにかく、近藤勇たちは決断した。

  池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だったという。このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかったという。
 最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。新選組はさっそく捜査を開始した。そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。
 池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。
 桂小五郎は「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。
 ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。
 あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。
 いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にだんだら染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。
「新選組だ! ご用改めである!」
 近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がそれに続いた。
「桂はん…新選組です」幾松が彼につげた。桂小五郎は「すまぬ」といい遁走した。
(幾松は維新のとき桂の命を何度もたすけ、のちに結婚した。桂小五郎が木戸考允と名をかえた維新後、木戸松子と名乗り、維新三傑のひとりの妻となるのである)
 近藤は廊下から出てきた土佐脱藩浪人北添を出会いがしらに斬り殺した。
 倒れる音で、浪人たちが総立ちになった。
「落ち着け!」そういったのは長州の吉田であった。刀を抜き、藤堂の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて藤堂の頭を斬りつけた。藤堂平助はころがった。が、生きていた。兜の鉢金をかぶっていたからだという。昏倒した。乱闘になった。
 近藤たちはわずか四人、浪人は二十数名いる。
「手むかうと斬る!」
 近藤は叫んだ。しかし、浪人たちはなおも抵抗した。事実上の戦力は、二階が近藤と永倉、一階が沖田総司ただひとりであった。屋内での乱闘は二時間にもおよんだ。
 沖田はひとりで闘い続けた。沖田の突きといえば、新選組でもよけることができないといわれたもので、敵を何人も突き殺した。
 沖田は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、沖田はすぐに起き上がることができなかった。
 そのとき、沖田は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
 なおも敵が襲ってくる。そのとき、沖田は無想で刀を振り回した。沖田はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
 新選組は近藤と永倉だけになった。しかし、土方たちが駆けつけると、浪人たちは遁走(逃走)しだした。こうして、新選組は池田屋で勝った。
 沖田は病気(結核)のことを隠し、「あれは返り血ですよ」とごまかしたという。
 早朝、池田屋から新選組はパレードを行った。
 赤い「誠」の旗頭を先頭に、京の目抜き通りを行進した。こうして、新選組の名は殺戮集団として日本中に広まったのである。江戸でもその話題でもちきりで、幕府は新選組の力を知って、さらに増やすように資金まで送ってきたという。

「坂本はん、新選組知ってますぅ?」料亭で、芸子がきいた。龍馬は「あぁ…まぁ、知ってることはしっちゅぅ」といった。彼は泥酔して、寝転がっていた。
「池田屋に斬りこんで大勢殺しはったんやて」とは妻のおりょう。
「まあ」龍馬は笑った。「やつらは幕府の犬じゃきに」
「すごい人殺しですわねぇ?」
「今はうちわで争うとる場合じゃなかきに。わしは今、薩摩と長州を連合させることを考えちゅう。この薩長連合で、幕府を倒す! これが壤夷じゃきに」
「まぁ! あなたはすごいこと考えてるんやねぇ」おりょうは感心した。
 すると龍馬は「あぁ! いずれあいつはすごきことしよった……っていわれるんじゃ」と子供のように笑った。

 この年、近藤の妾、深雪太夫が病死した。
 近藤は駆けつけたがすでに手遅れ、深雪太夫は近藤勇の腕の中で死んだ。近藤は初めて泣いた。悲しかった。せっかくの俺の女子が……
 近藤の全身の血管の中を、悲しみが、悲しい感情が駆けめぐった。涙が瞼を刺激した。近藤は、これはいかん、と上を向いて堪えた。しかし、涙はあとからあとから溢れ、やがて彼は号泣した。
  深雪太夫には妹がいたという。これまた美女で、名を孝子といった。
 寂しさからだろうか……近藤勇は孝子を、次の妾、とした。
 新選組崩壊のわずか数年前のことであった。

  『禁門の変』で長州藩が朝敵となると、桂小五郎はのちの妻・幾松の援助金などでなんとか生き続けた。その逃げ足の速さから、新選組から『逃げの小五郎』といわれ、京に潜伏していた桂小五郎。あるときは僧侶、あるときは女装して芸子、あるときは太鼓持ち、あるときは下僕…と変装して京で情報収集をしていた。幾松や他の芸子たちにもてた女たらしの桂は、女子たちに守られ、新選組たちの凶刀から逃げ続けた。
「そこのもの、桂小五郎を見なかったか?」
 新選組隊士たちから聞かれた下僕に変装した桂は、「いえ。あっしはそげな奴はみとりまへん」という。まだマスコミも何もなかった時代で、誰も桂の真顔は知らない。
「…そうか。ん?!」
 桂はびくついた。「何でおまっか?」
「お主、桂ではないか?」
「そげな……わてはそんな悪人とは違います。ひと違いどす」
 そこにきたのが幾松だった。「これ、お前、何をやっとんのや!」
 幾松は桂の胸倉を掴み、頬に平手打ちした。「桂小五郎のような悪人に間違われるなんて……この店の恥どす! はよう新選組のみなさまに謝りや! この又兵衛!」
 幾松はまた平手打ちした。
 これにはさすがの新選組隊士も弱り、「もうよい、芸子! 又兵衛とやらすまなかったな。これは詫びだ、少ないがとっておけ!」と銭袋を投げて店から出ていった。
 誰もいなくなってから、幾松は桂に土下座して、
「すんまへん、桂はん! 芸子如きが武士である貴方さまに平手打ちなど…すんまへん!」「いや、いいってことよ幾松。……それより礼をいうぞ。危ないところだった」
 桂は益々、幾松にホレこんでいく。しかし、この桂小五郎、やたらと女にもてる。そして幾松だけでなく、色々な女に手を出し、子供まで孕ませるなど女色の限り……
 それでも幾松の桂への思いは消えなかった。
  桂は新選組たちの目を盗み、橋の下でホームレス同然の生活をしたり、放浪した。
 幾松は乞食となった桂に『握り飯』などを届けて、サポートした。
  だが、新選組も馬鹿ではない。幾松が桂の愛人だと知って、駐屯所に呼びだし、縄で縛って木刀で拷問にかける。
「桂はどこだ?! 言え!」
 しかし、幾松は口を割らなかった。この根性にはさすがの近藤勇も土方も感嘆したという。幾松はそれ程までに桂という男を愛していたのだ。

「先生! 桂先生!」
 長州の連中が呼ぶと、
「馬鹿者! ”先生”…と呼ぶな! 新選組や見廻組たちが私の命を狙っているのだぞ」 と恐怖の顔をした。
 しがない『うどん屋』のようなことまでしている。
「マズイ……こんなうどんで金とってたんですか?」
「やかましい! 私はこれから長州へ帰るぞ。京のことや幕府や朝廷の動きを文で知らせよ。これは命令だ」
 桂はホームレスのような格好のまま指令を出した。


  十二日の夕方、勝海舟の元へ予期しなかった悲報がとどいた。前日の八つ(午後二時)、佐久間象山が三条通木屋町で刺客の凶刀に倒れたという。
「俺が長崎でやった拳銃も役には立たなかったか」
 勝海舟は暗くいった。ひどく疲れて、目の前が暗く、頭痛がした。
 象山はピストルをくれたことに礼を述べ、広い屋敷に移れたことを喜んでいた。しかし、象山が壤夷派に狙われていることは、諸藩の有志者が知っていたという。


  麟太郎はいよいよ忙しくなった。
  幕府の中での知識人といえば麟太郎と西周くらいである。越中守は麟太郎に「西洋の衆議会を日本でも…」といってくれた。麟太郎は江戸にいた。
「龍馬、上方の様子はどうでい?」
 龍馬は浅黒い顔のまま「薩長連合が成り申した」と笑顔をつくった。
「何? まさかてめぇがふっつけたのか?」麟太郎は少し怪訝な顔になった。
「全部、日本国のためですきに」
 龍馬は笑いながらいった。こののち龍馬は京の清風亭で、亀山社中の仲間とともに土佐の後藤象二郎と会談をして、龍馬は土佐藩をも薩長官軍への同調姿勢となすことに成功する。坂本竜馬という名前が有名になって、龍馬は暗殺者から身を守る為に「才谷梅太郎」という仮名をつかうようになる。長崎の貿易商トーマス・グラバー、長崎の豪商・大浦慶(女性)等と商談を成功させる。
 この年、若き将軍家茂が死んだ。勝麟太郎は残念に思い、ひとりになると号泣した。後見職はあの慶喜だ。麟太郎(のちの勝海舟)は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえよう。あとはあの糞野郎か?
 心臓がかちかちの石のようになり、ぶらさがるのを麟太郎は感じていた。全身の血管が凍りつく感触を、麟太郎は感じた。
 ……くそったれめ! 家茂公が亡くなった! なんてこった!
 そんななか、長いこと麟太郎を無視してきた慶喜が、彼をよびだし要職につけてくれた。なにごとでい? 麟太郎は不思議に思った。

  幕臣の中でキモがすわっている者といえば、麟太郎だけである。
 長州藩士広沢兵助らに迎合するところがまったくない。単身で敵中に入っているというのに、緊張の気配もなかったという。しかし、それは剣術の鍛練を重ねて、生死の極みを学んでいたからである。
 麟太郎は和睦の使者として、宮島にきた事情を隠さず語った。
「このたび一橋公(慶喜)が徳川家をご相続なされ、お政事むきを一新なさるべく、よほどご奮起いたされます。
 ついては近頃、幕府の人はすべて長州を犲狼のごとく思っており、使者として当地へ下る者がありません。それゆえ不肖ながら奉命いたし、単身山口表へまかりいでる心得にて、途中出先の長州諸兵に捕らわれても、慶喜公の御趣意だけは、ぜひとも毛利候に通じねばならぬとの覚悟にて、参じました」
 止戦の使者となればよし、途中で暴殺されてもよし、麟太郎は慶喜がそう考えていることを見抜いていた。麟太郎はそれでも引き受けた。すべては私ではなく公のためである。 広沢はいった。
「われらは今般ご下向の由を承り、さだめて卓抜なる高論を承るものと存じて奉っておりますが、まずご誠実のご心中を仰せ聞かせられ、ありがたきしだいにごりまする」
 ……こいつもなかなかの者だな…麟太郎は内心そう思い苦笑した。
 幕府の使者・勝海舟(勝麟太郎)は、いろいろあったが、長州藩を和睦させ、前述したように白旗を上げさせたのである。勝麟太郎はそれから薩長同盟がなったのを知っていた。 当の本人、同盟を画策した弟子、坂本龍馬からきいたのである。
 だから、麟太郎は、薩長は口舌だけの智略ではごまかされないと見ていた。小手先のことで終わらせず、幕府の内情を包み隠さず明かせば、おのずから妥協点が見えてくると思った。
「けして一橋公は兵をあげません。ですから、わかってください。いずれ天朝より御沙汰も仰せ出されることでしょう。その節は御藩においてご解兵致してください」
 虫のいい話だな、といっている本人の麟太郎も感じた。
 薩長同盟というのは腐りきった幕府を倒すためにつくられたものだ。兵をあげない、戦わない、だから争うのはやめよう………なんとも幼稚な話である。
 麟太郎は広島で、征長総督徳川茂承に交渉の結果を言上したのち、大目付永井尚志に会い、長州との交渉について報告した。その夜広島を発して、船で大坂に向ったが船が暴風雨で坐礁し、やむなく陸路で大坂に向った。大坂に着いたのは、九日未明の八つ(午前二時)頃だったという。
 慶喜の対応は冷たかった。
 ……この糞将軍め! 家茂公がなくならなければこんな男が将軍につくことはなかったのに……残念でならねぇ。
  麟太郎は、九月十三日に辞表を提出し、同時に、薩摩藩士出水泉蔵が、同藩の中原猶介へ送った書簡の写しに自分の意見を加え、慶喜に呈上した。出水泉蔵こと松本弘安は、当時ロンドン留学中だったという。
 彼の書簡の内容は、麟太郎がかねて唱えていた内容と同じだった。            
「インドでは、わが邦のように諸候が多く、争っている。
 ある諸候はイギリスに援助を乞い、ある諸候はフランスに援助を乞い、その結果、英仏のあらそいがおこり、この結果インドの国土は英、仏の手に落ちた。
 清国もまた、英国にやぶれた。アジアはヨーロッパよりよほど早く発展したが、いまはヨーロッパに圧倒されている。
 わが邦をながく万国と協調するためには、国家最高の主君が、古い考えを捨て、海外三、四の大国に使節を派遣すべきである。日本全土を統一したとしても、他国と親交を結ばなければ、独立は困難である。諸候が日本を数百に分かち、欧風の開化を導入することは、不可能である。
 西洋を盛大ならしめたのは、コンパニー、すなわち工商の公会(会社)である。
 諸候、公卿に呼びかけ、日本の君主を説得し、その命を大商人らに伝え、大商諸候あい合してコンパニーとなり、全国一致する。
 そのうえで天皇が外国使節を引見し、勅書を外国君主に賜り、使節を外国につかわし、将軍、諸候、人民が力をあわせ事業をおこせば、日本はアジアの大英国となるだろう」
 麟太郎は、九月十八日に二条城に登城し、慶喜に「今後も軍艦奉行になれ」と命令され、麟太郎はむなしく江戸に戻ることになった。
 麟太郎は、幕臣たちからさまざまな嫌がらせを受けた。しかし、麟太郎はそんなことは いっこうに気にならない。只、英語のために息子小鹿を英国に留学させたいと思っていた。
  長い鎖国時代、幕府が唯一門戸を開けたのがオランダだった。そのため外国の文化を吸収するにはオランダ語が必要だった。しかし、幕末になり英国や米国が黒船でくると、オランダより英国のほうが大国で、米英の貿易の力が凄いということがわかり、英語の勉強をする日本人も増えたという。
 福沢諭吉もひのひとりだった。
 横浜が開放されて米国人やヨーロッパとくに英国人が頻繁にくるようになり、諭吉はその外国人街にいき、がっかりした。彼は蘭学を死にもの狂いで勉強していた。しかし、街にいくと看板の文字さえ読めない。なにがかいているかもわからない。
 ……あれはもしかして英語か?
 福沢諭吉は世界中で英語が用いられているのを知っていた。あれは英語に違いない。これからは、英語が必要になる。絶対に必要になる!
 がっかりしている場合ではない。諭吉は「英語」を習うことに決めた。
 福沢諭吉は万延元年(一八六〇)の冬には、咸臨丸に軍艦奉行木村摂津守の使者として乗り込み、はじめて渡米した。船中では中浜(ジョン)万次郎から英会話を習い、サンフランシスコに着くとウェブスターの辞書を買いもとめたという。
 九月二十二日、京都の麟太郎の宿をたずねた津田真一郎、西周助(西周)、市川斉宮は、福沢諭吉と違い学者として本格的に研究していた。
 慶応二年、麟太郎の次男、四郎が十三歳で死んだ。
 二十日には登営し、日記に記した。
「殿中は太平無事である。こすっからい小人どもが、しきりに自分の懐を肥やすため、せわしなく斡旋をしている。憐れむべきものである」
 二十四日、自費で長男小鹿をアメリカに留学させたい、と麟太郎は願書を出した。
  江戸へ帰った麟太郎は、軍艦奉行として忙しい日々をおくった。
 品川沖に碇泊している幕府海軍の艦隊は、観光丸、朝陽丸、富士山丸など十六隻であったという。まもなくオランダに発注していた軍艦開陽丸が到着する。開陽丸は全長二七〇フィート、馬力四〇〇……回天丸を上回る軍艦だった。
 麟太郎の長男小鹿は、横浜出港の客船で米国に理由学することになった。麟太郎は十四歳の息子の学友として氷解塾生である門人を同行させた。留学には三人分で四、五千両はかかる。麟太郎はこんなときのことを考えて蓄財していた。
 オランダに発注していた軍艦開陽丸が到着すると、現地に留学していた榎本釜次郎(武揚)、沢太郎左衛門らが乗り組んでいたという。
  麟太郎は初めて英国公使パークスと交渉した。
 麟太郎は「伝習生を新規に募集しても、軍艦を運転できるまでには長い訓練期間が必要である。そのため、従来の海軍士官、兵士を伝習生に加えてもらいたい。
 イギリス人教師には、幕府諸役人との交渉などの、頻雑な事務をさせることなく、生徒の教育に専念するよう、しかるべき措置を講じるつもりである」
 と強くいった。
 パークスは麟太郎の提言を承諾した。
 そして、麟太郎の批判の先は幕府の腐りきった老中たちに向けられていく。
「パークスのような、わきまえのない、ひたすら弱小国を恫喝するのを常套手段としている者は、国際社会の有識者から嘲笑されるのみである。
 彼のように舌先三寸でアジア諸国をだまし、小利を得ようとする行為は、イギリス本国の信用を失わしめるものである」
 麟太郎はするどく指摘していく。
「イギリスとの交渉は浅く、それにひきかえオランダとは三百年もの親交がある。オランダがイギリスより小国だからとしてオランダを軽蔑するのは、はなはだ信義にもといる行いでありましょう」
 麟太郎はこののちオランダ留学を申しでる。しかし、この九ケ月後に西郷と幕府との交渉があった。もし、麟太郎がオランダに留学していたら、はたして『江戸無血開城』を行える人材がいただろうか? 幕末の動乱はどうなっていただろうか?

  江戸から横浜へ、パークスと交渉する日が続いた。麟太郎は通訳のアーネスト・サトウとも親交を結んだ。麟太郎はのちにいっている。
「俺はこれまでずいぶん外交の難局にあたったが、しかしさいわい一度も失敗はしなかったよ。外交については一つの秘訣があるんだ。
 心は明鏡止水のごとし、ということは、若いときに習った剣術の極意だが、外交にもこの極意を応用して、少しも誤らなかった。
 こういうふうに応接して、こういうふうに切り抜けようなどと、あらかじめ見込みをたてておくのが世間のふうだけれど、それが一番悪いよ。
 俺などは何にも考えたり、もくろんだりすることはせぬ。ただただ一切の思慮を捨ててしまって、妄想や邪念が、霊智をくもらすことのないようにしておくばかりだ。
 すなわち、いわゆる明鏡止水のように、心を磨ぎすましておくばかりだ。
 こうしておくと、機に臨み変に応じて事に処する方策の浮かび出ること、あたかも影の形に従い、響きの声に応ずるがごとくなるものだ。
 それだから、外交に臨んでも、他人の意見を聞くなどは、ただただ迷いの種になるばかりだ。
 甲の人の意見をきくと、それも暴いように思われ、また乙の人の説を聞くと、それも暴いように思われ、こういうふうになって、ついには自分の定見がなくなってしまう。
 ひっきょう、自分の意見があればこそ、自分の腕を運用して力があるが、人の知恵で動こうとすれば、食い違いのできるのはあたりまえさ」

  新選組の近藤と土方は徳川家の正式な家臣となった。徳川幕府のやぶれかぶれだったのだが、これで彼等は念願だった「サムライ」になれたのである。
  近藤勇は見廻組与頭格(旗本、上級武士)、土方歳三は見廻組肝煎格(御家人)、沖田たちも見廻組(御家人)となった。幕府としては「賊軍」となった以上、ひとりでも家臣、部下がほしかった。そこで百姓出身の新選組でも家来にしたのである。
”困ったときの神だのみ”……ではないが、事実はその通りだった。
  薩長は徳川慶喜の追放について御所で密談した。しかし、そこは天皇の御前である。岩倉はしきりに徳川慶喜を死罪にし、幕府を解散させるべきだと息巻いた。その頃、幕府の重鎮・小栗上野介は「幕府から商社をつくろう」と画策していた。
  慶応二(一八六六)年、幕府は第二次長州征伐のため二万の大軍を送った。しかし、薩長同盟軍により、幕府は敗走した出す。第十五代将軍・徳川慶喜はオドオドしていた。いつ自分が殺されるか…そのことばかり心配していた。この男にとって天下などどうてもよかったのである。坂本龍馬は将軍慶喜に「戦か平和かを考えるときじゃきに」といった。 土佐藩は大政奉還建白書を提出した。慶喜は頷いた。慶喜の評判は幕臣たちのなかではよくなかった。ひとことでいえば、無能だ、ということである。
 麟太郎も”慶喜嫌い”であった。
 そして、麟太郎は、幕臣原市の「幕府とフランスを提携させ、薩長を倒す」というアイデアには反対だった。麟太郎は「インドの軼を踏む」といった。
 そんな原市も、腐った不貞なやからに暗殺されてしまう。
 慶喜は恐怖にふるえながら、城内で西周に「西洋の議会制度」「民主主義」などを習って勉強した。しかし、それは無駄におわる。
 慶喜は決心する。
 慶応三年十月、幕府は政権を朝廷に返還した。ここに至るまでに龍馬のいわゆる「船中八策」、後藤象二郎の慶喜への進言があったのだ。のちにゆう『大政奉還』である。勝はいう。「絶世の世!」この奉還を知り、龍馬は感激で泣いたという。
 しかし、薩長同盟軍は京への侵攻をとめなかった。王政復古の大号令が発せられる。幕府はここにきて激怒する。政権を奉還してもまだダメだというのか?
 勝海舟(麟太郎)は「このままでは日本は西洋の植民地になる」と危機感をもった。それを口にすると、幕臣たちから「裏切り者! お前は西郷たちの味方か?!」などといわれた。
 勝は激怒するとともに呆れて「政治は私にあらず公のものだ!」と喝破した。
 薩長同盟軍は徳川慶喜の首をとるまで諦めない気でいた。
 ここにきて龍馬は新政権の設立のために動き出す。「新官制議定書(新制度と閣僚名簿)」を完成させる。しかし、その書を見て、西郷や桂たちは目を丸くして驚いた。
 ……当の本人・坂本龍馬の名が閣僚名簿にないのだ。
「坂本くん、きみの名がないでごわすぞ」西郷が尋ねると、龍馬は笑って、
「わしは役人になりとうて働いてきた訳じゃないきに。わしは海援隊で世界にでるんじゃきにな、ははは」といった。
 慶応三年十二月十三日、近藤勇は銃で左肩をくだかれて、激痛で馬から落ち、のたうちまわった。発砲したのは元新選組隊士だったという。四月、新選組の近藤勇は官軍につかまり、その後処刑された。(沖田総司は病死、土方歳三は榎本武揚とともに北海道までいくも戦死している。それぞれ三十五歳であった)
 京では旧幕府軍と薩長同盟軍がまさに激突しようとしていた。
 ………幕府の連中は負けなきゃ分からねぇんだ。こりゃ見守るしかねぇ。
 麟太郎は単身、船で江戸へ戻った。

龍馬暗殺

 



旧・幕府軍は東北、会津、蝦夷までいったが瓦解……こうして薩摩長州土佐などによる明治新政府ができた。
 しかし、民主主義も経済発展も産業新興もおうおうにして進まない。
 すべては金融システムのなさであるが誰も考えつかない。
 しかし、それをわかっている人間がいた。
 他ならぬ渋沢栄一である。
「戊辰戦争(いわゆる明治維新による官軍(薩摩長州軍)対徳川幕府軍による戦争)」後、桂小五郎改木戸孝允(木戸貫治)や大久保一蔵(利通)、西郷吉之助(隆盛)、岩倉具視らが明治新政府の屋台骨になった。渋沢栄一も元・幕臣仲間の勝海舟(麟太郎)とともに役人となった。だが、枢軸は「維新三傑」といわれた西郷吉之助(隆盛)、木戸孝允(桂小五郎改)、大久保利通(一蔵)である。三傑は日本国家の参謀であり、参与・大臣という存在である。
 そんな中、渋沢の気に食わないのは大久保利通である。渋沢にとって大久保利通は「嫌いな人物」で、大久保のほうも渋沢は「嫌いな人物」で、あった。
 大久保は白亜の豪邸に住み、相当の贅沢な暮らしをしていた。どうも政党助成金や税金を着服・搾取していたようだが、生真面目な渋沢栄一にとっては「とんでもない事」と映る。
「貴公は贅沢が過ぎる! あの白亜の豪邸に毎日洋食フルコースを食ってるそうだな?」
 渋沢が苦い顔をしても、大久保は、
「おいどんは此の国の参与で働いて偉いのでごわす。少しばかり贅沢せてもバチは当たらんでごわすぞ」
「それは違う」渋沢栄一は言った。「人間はみな「誰よりも自分が偉い」と思っている。だが「誰よりも偉い」人間などいない」
「綺麗事じゃっとなあ」
「貴公は「ノブレス・オブリージュ」という言葉を知っているのか?」
「知りもさん」
「「ノブレス・オブリージュ」とは金持ちや社会的地位の高い者には「社会に貢献する責任」があるということじゃ。貴公は論語すら馬鹿にしてよまない。いずれバチがあたるぞ」
「ふん、なんとでもいえ渋沢どん。おいはおいの生き方があるでな」
「官僚などとしょうして宦官みたいな試験馬鹿の役人をつくる人生か?」
「なんとでもいわばよかじゃっどん。此の国はおいと官僚の頭脳でいきている」
「あんさんは呆れたひとじゃ」渋沢は呆れた。
 まだ自分が偉い気になってやがる。救いようもない天狗だ。
 しかし、大久保と渋沢は「水と油」のような関係である。交わることはない。それは「価値観の違い」でもある。「論語と算盤」の渋沢栄一と「権威と独裁」の大久保利通では土台合う筈はない。話を戻す。




  龍馬は宵になると、後藤象二郎と話した。
 場所はきまって、なじみのお慶の清風亭である。
 三日後に後藤は、
「いやあ、まいった。坂本さんはそれほど土佐藩に戻るものが嫌じゃきにか?」ときく。「そうじゃきに」         
 龍馬は顎をなでながら苦笑した。
「世に浪人ほど楽な身分はない。後藤くんは浪人になったことがないからわからないきに」「かといって、あの同盟まで成立させたかのひとが、只の浪人で、新政府の中に名前すらないとはどげんことじゃきにか?」
「わしは役人になりとうて日本中を走りまわった訳じゃないきに」
「じゃきに…」
 後藤は口をつぐんだ。こりゃあまいった、と思った。英雄とはこういうものなのか?
 龍馬と社中を土佐藩にくみいれて、土佐の一翼を担ってもらう気だったが……
 龍馬からすれば、なにをいまさらいってんだ、というところだろう。
「藩士は御免じゃきに」
 龍馬ははっきり言った。龍馬は私立軍艦隊をつくり、天下に名を馳せると野望を語った。そのうえ貿易もする。後藤は、
「坂本さんは日本の政権に野望をもっとるですがか?」と尋ねた。
「いや」
 龍馬は後藤をみた。この男はそんな推測までするのか。
「わしの野望は政ではない。貿易でこの日本を『貿易立国』とするんぜよ」
「貿易?」
「そうじゃ。日本の乱が片付けば、この国を去り、船を太平洋や大西洋に浮かべて、世界を相手に商いがしたいきに」
 後藤は驚いて目を丸くした。こんな大法螺を夢見ている男が日本にいるとは思わなかったからだという。この壮大な夢の前では、壤夷や佐幕や薩長連合などちっぽけなものに見えてきた。ましてや土佐藩士にもどれ……などというのはまさにちっぽけだ。
「後藤さん。これはどうじゃ?」
 龍馬は紙に墨で書いた。
「海援隊」……
「は?」
「意味は、海から土佐藩を援ける、ということじゃ。海とは、海軍、貿易じゃき。海援隊は土佐藩を援けるが、土佐藩も海援隊を援けるがぜよ」
「つまり同格ということじゃきにか?」
「ああ、そうじゃ」
「じゃきに、藩主とおんしが同格なのか?」
「あたりまえだ。アメリカでは身分制度などない。大名も殿様も天皇もない」
「声が大きい! 危険な思想じゃきに」
「その為には倒幕し、大名もそののちなくす」
「大名を? 藩をなくすちゅうがか?」
「時期がくれば……大名も藩もなくす。皆が平等な日本にしたい」
「おのれは……すると龍馬。おんしの勤王は嘘か? 天子さまもいらんと?」
「そげんこついうとらん。天子さまは別じゃ」
 後藤は龍馬という男が怖くなってきた。
 意見があわない筈だ。
 後藤は龍馬のいう「海援隊」を土佐藩の支配下におこうとし、龍馬は藩と同格のかたちでいこうとしている。         
「まんじゅうの形はどうでもいいき。舌を出して餡がなめられればいいんじゃきにな」
 龍馬はいった。餡とは本質であり、利益のことだ。
 後藤とは会ったが、多くは語らず、龍馬は去った。そんな龍馬に、浅黒い顔の中岡慎太郎というやつが訪ねてきた。
(いいやつがきたきに)
 中岡慎太郎は「海援隊じゃけでは片落ちじゃ。陸援隊もつくるべきじゃ」といった。
「それはいいきにな」
 龍馬は頷いた。その陸援隊の隊長をこの中岡慎太郎にさせればよい。


葵のジャンヌダルク 井伊直虎と直政<2017年度女性版NHK大河ドラマ原作>直虎編9

2014年12月17日 09時35分08秒 | 日記









         室町幕府滅亡


  将軍・足利義昭は信玄の死を知らなかった。
 そこでかれは、武田信玄に「信長を討て」と密書を何通もおくった。何も返事がこない。朝倉義景に送っても何の反応もない。本願寺は書状をおくってきたが、芳しくない。
 義昭は七月三日、蜂起した。二条城に武将をいれて、槙島城を拠点とした。義昭に忠誠を尽くす真木氏がいて、兵をあつめた。その数、ほんの三千八百あまり……。
 知らせをきいた信長は激怒した。
「おのれ、義昭め! わしを討てと全国に書状をおくったとな? 馬鹿めが!」信長は続けた。「もうあやつは用なしじゃ! 馬鹿が、雉も鳴かずばうたれまいに」
 七月十六日、信長軍は五万の兵を率いて槙島城を包囲した。すると、義昭はすぐに降伏した。しかし、信長は許さなかった。
”落ち武者”のようなざんばら髪に鎧姿の将軍・足利義昭は信長の居城に連行された。
「ひい~つ」義昭おびえていた。殺される……そう思ったからだ。
「義昭!」やってきた信長が声をあらげた。冷たい視線を向けた。
 義昭はぶるぶる震えた。小便をもらしそうだった。自分の蜂起は完全に失敗したのだ。もう諦めるしかない……まろは……殺される?
「も…もういたしませぬ! もういたしませぬ! 義父上!」
 かれは泣きべそをかき、信長の足元にしがみついて命乞いをした。「もういたしませぬ! 義父上!」将軍・足利義昭のその姿は、気色悪いものだった。
 だが、信長の顔は冷血そのものだった。もう、義昭など”用なし”なのだ。
「光秀、こやつを殺せ!」信長は、明智光秀に命じた。「全員皆殺しにするのじゃ!」
 光秀は「しかし……御屋形様?! 将軍さまを斬れと?」と狼狽した。
「そうじゃ! 足利義昭を斬り殺せ!」信長は阿修羅の如き顔になり吠えた。
 しかし、止めたのは秀吉だった。「なりませぬ、御屋形様!」
「なんじゃと?! サル」
「御屋形様のお気持ち、このサル、いたいほどわかり申す。ただ、将軍を殺せば松永久秀や三好三人衆と同じになりまする。将軍殺しの汚名をきることになりまする!」
 信長は無言になり、厳しい冷酷な目で秀吉をみていた。しかし、しだいに目の阿修羅のような光が消えていった。
「……わかった」信長はゆっくり頷いた。
 秀吉もこくりと頷いた。
 こうして、足利義昭は命を救われたが、どこか地方へと飛ばされ隠居した。こうして、足利尊氏以来、二百四十年続いた室町幕府は、第十五代将軍・足利義昭の代で滅亡した。




 はからずも井伊家の家督を継いだ直虎。出家したため結婚は出来なかったが、何故俗世に戻れたのか?出家した時の名前「次郎法師」(男の名前だったから)。
尼だと二度と俗世には戻れないが、(男の)僧侶なら戻れる。直虎は自分の先の人生を得意の千里眼で見抜いていたのかも知れない。永禄八年(1565年)直虎三十一歳、直虎は女だてらに家督を継ぐ。この頃、上杉謙信や武田信玄、毛利元就、徳川家康や織田信長、北条氏康など戦国大名が地方の国人領主たちを支配しはじめていた。井伊家の領地は戦国大名今川家の支配地。直虎は今川方についていた。
井伊家を継ぐ男子は直親の子(虎松)・のちの直政(万千代)のみ。しかし、未だ、二歳と幼い。ということで直虎が寺から帰国して、かつての許婚(いいなずけ)との永遠の別れに悲しむいとまもなく、直虎が井伊家を継ぐ直政の名代(みょうだい)として、井伊家に戻った。<静岡大学名誉教授(戦国史)の小和田哲男さんは「家をつなぐというのは血縁関係でつなぐだけでなく、今でいう会社組織のトップなので、それを守る使命がある。ただ、当時一般的には(家を継ぐのは)男の役目。普通は養子を迎えれば済んだ話だが、直虎の場合は特殊だった」という。>多くの戦国武将が群雄割拠する戦国時代の中で、直虎は世にも稀な女性の戦国武将として生きることになった。
直虎は赤子の虎松をあやしながら「直親さま、みていてくだされ」と天を拝むのだった。
話を戻す。
「おや、麗。ようやく戻ったかえ」
「母上」
「駿府のれん様から、また珍しい京の菓子が届きましたぞ」
「おばさまから?」
今川の重鎮である関口親永(せきぐち・ちかなが)の奥方れんは井伊家の出だ。夫との間に瀬名(せな)姫という麗とあまりかわらない歳の姫がいる。
「ああ、猪羹(ちょかん)、これは甘葛ではなくて砂糖羊羹ね。麗に食べさせたかったのよ」
麗も年頃だ。母親は化粧をすすめたが、いらぬ。ぶきみだ、という。
白粉も紅もいらぬという。母親の化粧道具を見て、女の顔をつくるのにこれだけのものが必要なのか?と疑問をもった。極めてボーイッシュ(男の子のよう)な麗だった。
十四になったある日、下腹に違和感を覚えて指をやると、股にぬめりがあった。
「まあ、次郎の姫様。おめでたいことですよ」
いわゆる“月のもの(月経・生理)”がとうとう麗にも来たわけだ。
本丸の奥で母や女どもとともに過ごせば、女は一か月か二か月かに一度は、血を流す日があることは知っていた。
きっかけは母の化粧道具の中に、ぽつんと、蒔絵のない箱があったことだ。開けてみると蚕の繭玉があった。いわゆる現代でいうタンポンな訳だ。
「なぜ桶箱(オマル)などに? 厠にいけばよいではありませんか」
麗が言うと、母と侍女が、顔を合わせにんまり笑った。よほど娘の体が成熟したことがうれしいらしい。
「動くと漏れるゆえ、汚れるし、そなたも恥ずかしいであろう。なに、三か月もすれば腹に力を込めれば垂れずに済み、厠でひりだせるようになる。皆、そうしてきたことじゃ。そなたも慣れよう」
始めはさすがに困惑していた麗だったが、なるほど、母の言う通り三か月もすれば慣れた。
だが、この“月のモノ”と“結納”と“おめでたいこと”とは何のことか?よくわからない。大人に聞いても横に揺れて恥ずかしがるばかり。春画等も次郎法師は見たこともなかった。だが、そんなこともいずれはわかること。子供が出来る為に産むために“生理の激痛”がある、と知った。だが、井伊直虎は実際のところ、生涯母親としてお腹を痛める事も、女子の幸せもなかった、という。
すべては井伊家、井伊谷の領民の為に。国の為道の為に。
(『剣と紅』高殿円著作、文藝春秋出版社参考文献文章引用 四〇~九十三ページ)
       



         どくろ杯


  信長は珍しく神棚に祈っていた。もう深夜だった。ろうそくの明りで室内は鬼灯色になっていた。秀吉はにこりと笑って、「神に祈っておられるのでか? 御屋形様」といった。そして、はっとした。除くと、神棚には仏像も何もない。ただ鏡があって、そこに信長の顔が写しだされていたからだ。信長は”自分”に祈っていたのだ。
 秀吉はそら恐ろしい気分だったに違いない。
  信長は大軍をすすめ、越前(福井県)に突入した。北近江の浅井長政はそのままだ。一乗谷城の朝倉義景にしてもびっくりとしてしまった。
 義景にしてみれば、信長はまず北近江の浅井長政の小谷山城を攻め、次に一乗谷城に攻め入るはずだと思っていた。しかし、信長はそうではなかった。一揆衆と戦った経験から、信長軍はこの辺の地理にもくわしくなっていた。八月十四日、信長は猛スピードで進撃してきた。朝倉義景軍は三千人も殺された。信長は敦賀に到着している。
 織田軍は一乗谷城を包囲した。義景は「自刀する」といったが部下にとめられた。義景は一乗谷城を脱出し、亥山(大野市)に近い東雲寺に着いた。
「一乗谷城すべてを焼き払え!」信長は命じた。
 城に火が放たれ、一乗谷城は三日三晩炎上し続けた。それから、義景はさらに逃亡を続けた。が、懸賞金がかけられると親戚の朝倉景鏡に百あまりの軍勢でかこまれてしまう。 朝倉義景のもとにいるのはわずかな部下と女人だけ………
 朝倉義景は自害した。享年四十一歳だったという。
  そして、北近江の浅井長政の小谷山城も織田軍によって包囲された。
 長政は落城が時間の問題だと悟った。朝倉義景の死も知っていたので、援軍はない。八月二十八日、浅井長政は部下に、妻・お市(信長の妹)と三人の娘(茶々(のちの秀吉の側室・淀君)、お初、お江(のちの家康の次男・秀忠の妻)を逃がすように命じた。
 お市と娘たちを確保する役回りは秀吉だった。
「さぁ、はやく逃げるのだ」浅井長政は心痛な面持ちでいった。
 お市は「どうかご一緒させてください」と涙ながらに懇願した。
 しかし、長政は頑固に首を横にふった。
「お主は信長の妹、まさか妹やその娘を殺すことはしまい。嫡男は殺されるだろうが」
「しかし…」
「いけ!」浅井長政は低い声でいった。「はやく、いくのだ! さぁ!」
お市は浅井長政に嫁いだ日を思い出した。兄・信長に命じられるまま嫁いだ。浅井長政はお市を見て「そなたは武将のような女子じゃ。しかしその瞳に可憐な女が見える」といったのだ。「女?」お市は長政に惹かれるようになる。すぐに茶々(のちの秀吉の側室・淀君)と初(京極高次の側室)という娘に恵まれた。そして信長に反逆して大勢の織田勢に包囲されながら、小谷城でお市は身ごもった。しかし、お市はお腹の赤子をおろそうとした。薬師に薬をもらった。「これを飲めばお腹のやや(赤子)は流れるのじゃな?」「はっ」そんなとき、幼い茶々が短刀を抜いて初を人質に乱入した。驚いた、というしかない。茶々は「ややを産んでくだされ、母上! ややを殺すならこの茶々も初もこの刀で死にまする!」という。この思いに母・お市は負けた。短刀を取り上げて、「わかった。産もうぞ」といった。娘が生まれた。
 長政は「この姫は近江の湖に生まれし子、名は江じゃ」という。しかし、浅井三姉妹とお市と浅井長政との永遠の別れとなった。お市と茶々、初や側奥女中らは号泣しながら小谷城落城・炎上を見送った。
 秀吉はにこにこしながら、お市と娘たちを受け取った。
 浅井長政は、信長の温情で命を助けられそうになった。秀吉が手をまわし、すでに自害している長政の父・久政が生きているから出てこい、とやったのだ。
 浅井長政は、それならばと城を出た。しかし、誰かが、「久政様はすでに自害している」と声をあげた。そこで浅井長政は、
「よくも織田信長め! またわしを騙しおったか!」と激怒し、すぐに家老の屋敷にはいり、止める間もなく切腹してしまった。
 信長は激しく怒り、「おのれ! 長政め、命だけは助けてやろうと思うたのに……馬鹿なやつめ!」とかれを罵った。
 長男の万福丸は秀吉の家臣によって殺害され、次男の万寿丸は出家処分に…お市は泣きながら、三姉妹とともに織田信長の清洲城に引き取られていった。
 兄・信長と信包の元で、9年間もお市の方は贅沢に幸せに暮らさせてもらった。しかし、気になるのは柴田勝家である。
 勝家はお市の初恋の相手であった。またお市は秀吉をいみ嫌っていた。…サルめ! ハッキリそういって嫌った。

  天正二年(一五七四)の元日、岐阜城内は新年の祝賀でにぎわっていた。
 信長は家臣たちににやりとした顔をみせると、「あれを持ってこい」と部下に命じた。ほどなく、布につつまれたものが盆にのせて運ばれてきた。    
「酒の肴を見せる」
 信長はにやりとして、顎で命じた。布がとられると、一同は驚愕した。盆には三つの髑髏があったからだ。人間の頭蓋骨だ。どくろにはそれぞれ漆がぬられ、金箔がちりばめられていた。信長は狂喜の笑い声をあげた。
「これが朝倉義景、これが浅井久政、浅井長政だ」
 一同は押し黙った。………信長さまはそこまでするのか……
 お市などは失神しそうだった。利家たちも愕然とした。
「この髑髏で酒を飲め」信長は命じた。部下が頭蓋骨の頂点に手をかけると、皿のようになった頭蓋骨の頭部をとりだし、酒をついだ。
「呑め!」信長はにやにやしていた。家臣たちは、信長さまは狂っている、と感じた。酒はもちろんまずかった。とにかく、こうして信長の狂気は、始まった。


井伊家は井伊谷をおさめながら今川氏の命令もきく、いわば中間管理職のような身分だった。国人領主の苦労①「戦費のねん出」。年貢(米)制度だったが、戦費は増える一方で領主たちの台所はいつまでも火の車。かといって、年貢を増やせば百姓一揆を招き、収入さえ失う可能性もある。そのために時には食事や酒をふるまい、年貢を気持ちよく払うように百姓たちのご機嫌取りも国人領主の仕事であった。国人領主の苦労②「領民への気遣い」。
領民の気持ちによりそい、時には相談や離縁やケンカの仲裁までしたとか。
一方で戦国大名にもたえずごきげんうかがい。少しでも怠惰や怠慢や反抗的と疑われたら、お家断絶だからだ。国人領主の苦労③「大名に絶対服従」。板挟みに耐えかねて、勝手に村を売った領主もいたほどだ。直虎の作戦は花押(かおう・資料浜松市博物館『直虎花押の文』)花押とはサインのことで、大名の男が書くものだった。家康や信長、信玄や秀吉、謙信、伊逹政宗のような花押をつかうもの=大地をおさめる男性。直虎が「男性とみられるように花押を使った」可能性は大だ。意識的に花押をつかっていた。
対外的には直虎が女性だと知られていなかったのではないか?女性の領主だと、攻められる可能性もあった。花押だけでなく、「直虎」といういかにも武将らしい名前も領主となってからつかいはじめた。花押と名前で男のふり。まさに策士である。

  勝家は家臣団五千とともに上杉景勝と戦っていた。そんな中、ふたたび家臣となった者が山城に孤立した。囲まれ、上杉軍にやられるところだった。勝家の部下たちはその者は見殺しにして、このまますすめば上杉景勝の首をとれると進言した。しかし、勝家は首を横にふった。「あやつを見殺しに出来るか!」こうして、その者たちは助けられた。         
 上杉景勝(上杉謙信の甥・謙信の養子・上杉家第二代)は難を逃れた。




  天正四年(一五七六)……
 信長の庇護のもと伊勢(三重県)上野城でお江、茶々、初、お市は暮らしていた。
「母上ーっ!」背の高い少女が浜辺で貝を拾いながら、浜辺のお市や叔父・織田信包(のぶかね)らに手をいった。可愛い少女である。
「あ!……姉様! ずるい!」
 浅井三姉妹の次女で姉の初が、江の籠の貝を盗みとり自分の籠に入れた。
 お市とともに浜茶屋に座っている背の高い少女こそ、長女・茶々、のちの豊臣秀吉の正室・淀になる茶々(当時十二歳)である。 初と江のふたりは浜茶屋に駆けてきて、
「母上、ひどいのです! 姉様が私の貝を盗むのです」
「失礼な、たまたま貝が私の籠にはいっただけじゃ」
 無邪気なふたりにお市も信包も茶々も笑った。 
 元亀四年(1573年)にお江は生まれ、寛永三年(1626年)に病死するまでの人生である。…墓は徳川家の菩提寺に秀忠とともにある。…
 徳川秀忠はハンサムな顔立ちで、すらりとした痩身な男で、智略のひとであったが、今はまだ只の若者に過ぎない。若き頃より、秀吉の人質になり、軍略を磨くことになるのだが、まだまだ家康・秀吉の方が上であった。
 幼い頃、江は織田信長の馬上での勇々しい姿をみたことがある。安土でのことだった。
 お江はその時の信長の姿を目に焼き付けていた。信長ならば…もしや…私も!「御屋形様は…戦神じゃ! ひとから義をとってしまえば野山の獣と同じだ!」
 織田……の旗印が風にたなびく……英雄・織田信長はお江には眩しく映った。
 まだお江は織田信長が父親の命をうばったなど知らなかった。
 そして、お江に「上杉謙信」「武田信玄」のことをきいた。
「どちらが勝つと思う? 江!」
「謙信に決まってます」
「しかし…」信長は続けた。「武田には山本勘介なる軍師が…」
「そんなやつ、謙信……上杉謙信の足元にもおよばぬはずです!」
 お江は笑った。川中島は現在の新潟県と長野県の間に流れる千曲川のところである。ここで上杉軍と武田軍のこぜりあいが長く続けられていた。上杉謙信とは不思議なひとで、領土を広げようという野心のない人物で、各国の武将の中でも人望があつかった。楽しむが如く戦をし、武田攻めも義によって行っているだけだという。武田の領地である信濃や甲斐を狙っていた訳ではないのだ。すべては村上義清の要請……それだけだった。
   そして、上杉謙信と武田信玄との激戦、川中島の戦いで、ある。

  信州(長野県)・川中島(信州と越後の国境付近)で、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)は激突した。世にいう「川中島合戦」である。戦国時代の主流は山城攻めだったが、この合戦は両軍四万人の戦いだといわれる。
  甲府市要害山で大永元(一五二一)年、武田信玄(晴信)は生まれた。この頃の十六世紀は戦国時代である。文永十(一五四一)年、武田信玄(晴信)は家督を継いだ。信濃には一国を束める軍がない。武田信玄は孫子の「風林火山」を旗印に信濃の四十キロ前までで軍をとめた。それから三~四ケ月動かなかった。
「武田などただの臆病ものよ!」
 信濃の豪族はたかをくくっていた。
 しかし、武田晴信はそんなに甘くはない。
 まず甲斐(山梨県)で軍備を整えた。
 出家もし、剃髪し、晴信から信玄と名をかえた。
 そして、信濃(長野県)の制圧の戦略をもくもくと練っていた。
「御屋形様! 武田の騎馬軍団の勇姿みせましょうぞ!」
 家臣たちは余裕だった。
 信玄も、
「信濃はわしのものとなる。甲斐の兵、武田軍は無敵ぞ」
 と余裕のままだった。
 謙信も「武田の兵を叩きつぶしてくれるわ!」息巻いた。
「いけ! 押し流せ!」
 陣羽織りの信玄の激が飛ぶ。
「うおおおっ!」
 武田の赤い鎧の集団が長槍をもって突撃する。
 信濃の豪族は油断した。そのすきに信玄は騎馬軍団をすすめ、信濃を平定した。領土を拡大していった。彼は、領土の経済へも目を向ける。「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定。治水事業も行った。信玄は国を富ませて天下取りを狙ったのである。
 第一次川中島の合戦は天文二十二(一五五三)年におこった。まだ誰の支配地でもない三角洲、川中島に信玄は兵をすすめる。と、強敵が現れる。上杉謙信(長尾景虎)である。謙信はこのときまだ二十二歳。若くして越後(新潟県)を治めた天才だった。謙信は幼い頃から戦いの先頭にたち、一度も負けたことがなかったことから、毘沙門天の化身とも恐れられてもいた。また、謙信は義理堅く、信濃の豪族が助けをもとめてきたので出陣したのであった。上杉軍が逃げる武田軍の山城を陥していき、やがて信玄は逃げた。信玄の川中島侵攻は阻まれた。(二万人の負傷者)
 天文二十三(一五五四)年、武田は西の今川、南の北条と三国同盟を成立させる。それぞれが背後の敵を威嚇する体制ができあがった。
「これで……不倶戴天の敵・上杉謙信を倒せる!」
 信玄は笑った。
 ある日、両軍主領があう機会があった。
 永禄元年五月上杉・武田の和議が起こり、千曲川を隔てて両将が会見したとき、謙信は馬から降り、川岸で会見しようとした。
 すると信玄は礼を重んじることもなく、
「貴公の態度はいかにもうやうやしい。馬上から語ってもよかろうぞ」と放言した。
 信玄には謙信のような「義」「礼」がなかったのである。
 謙信はやはり武田と戦うことを誓った。
 上杉謙信は武諦式をおこない、戦の準備をはじめた。
「……今度の戦で信玄を倒す!」
 謙信は兵に激を飛ばした。
「おう!」
 上杉軍は決起盛んである。
  第二次川中島の合戦は天文二十四(一五五五)年四月に勃発した。
 信玄は上杉が犀川に陣をはったときの背後にある旭山城の山城に目をつける。上杉は犀川に陣をはり、両軍の睨み合いが数か月続く。
 膠着状態のなか、上杉武田両軍のなかにケンカが発生する。
「やめぬか! 義を守れ!」
 謙信は冷静にいって、書状を書かせた。
 謙信は部下に誓約書をかかせ鎮圧したのだ。
 どこまでも「義」のひとなのである。
 信玄は違った。
「おぬしら、働きをしたものには褒美をやるぞ!」
 と、信玄は人間の利益にうったえた。
「欲」「現実」のひとなのである。
 信玄は戦でいい働きをしたら褒美をやるといい沈静化させる。謙信は理想、信玄は現実味をとった訳だ。
 やがて武田が動く。
 上杉に「奪った土地を返すから停戦を」という手紙を送る。謙信はそれならばと兵を引き越後に帰った。
「……信玄を信じよう」
 義の謙信は疑いのない男だ。
 しかし、信玄は卑怯な現実主義者だった。
 第三次川中島の合戦は弘治三(一五五七)年四月に勃発した。
 武田信玄が雪で動けない上杉の弱みにつけこんで約束を反古にして、川中島の領地を奪ったことがきっかけとなった。”信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。そして、民衆の悲しみは絶えない。隣国の主としてこれを黙認することなどできない”
 上杉謙信は激怒して出陣した。上杉軍は川中島を越え、奥まで侵攻。しかし、武田軍は戦わず、逃げては上杉を見守るのみ。これは信玄の命令だった。”敵を捕捉できず、残念である”上杉謙信は激怒する。”戦いは勝ちすぎてはいけない。負けなければよいのだ。 敵を翻弄して、いなくなったら領土をとる”信玄は孫子の兵法を駆使した。上杉はやがて撤退しだす。
 永禄二(一五五九)年、上杉謙信は京へのぼった。権力を失いつつある足利義輝が有力大名を味方につけようとしたためだ。謙信は将軍にあい、彼は「関東管領」を就任(関東支配の御墨付き)した。上杉謙信はさっそく関東の支配に動く。謙信は北条にせめいり、またたくまに関東を占拠。永禄三(一五六〇)年、今川義元が織田信長に桶狭間で討ち取られる。三国同盟に亀裂が走ることに……。
 上杉は関東をほぼ支配し、武田を北、東、南から抑えるような形勢になる。今川もガタガタ。しかも、この年は異常気象で、四~六月まで雨が降らず降れば十一月までどしゃぶり。凶作で飢餓もでた。
 第四次川中島の合戦は永禄四(一五六一)年、五月十七日勃発。それは関東まで支配しつつあった上杉に先手をうつため信玄が越後に侵攻したことに発した。信玄は海津城を拠点に豪族たちを懐柔していく。上杉謙信は越後に帰り、素早く川中島へ出陣した。
 上杉は川中島に到着すると、武田の目の前で千曲川を渡り、海津城の二キロ先にある妻女山に陣をはる。それは武田への挑発だった。
 十五日もの睨み合い…。信玄は別動隊を妻女山のうらから夜陰にまぎれて奇襲し、山から上杉軍を追い出してハサミ討ちにしようという作戦にでる(きつつき作戦)。
 しかし、上杉謙信はその作戦を知り、上杉軍は武田別動隊より先に夜陰にまぎれて山を降りる。
「よいか! 音をたてたものは首を斬り落とすぞ!」
 謙信は家臣や兵に命令した。
 謙信は兵に声をたてないように、馬には飼い葉を噛ませ口をふさぐように命令して、夜陰にまぎれて山を降りた。一糸乱れぬみごとな進軍だった。
 上杉軍は千曲川を越えた。
 九月十日未明、信玄が海津城を出発。永禄四(一五六一)年、九月十日未明、記録によれば濃い霧が辺りにたちこめていた。やがて霧がはれてくると、武田信玄は信じられない光景を目にする。
「……なんじゃと?! 上杉が陣の真ん前に?」
 信玄は驚いた。
 驚きのあまり軍配を地に落としてしまった。
 妻女山にいるはずの上杉軍が目の前に陣をしいていたのだ。上杉軍は攻撃を開始する。妻女山に奇襲をかけた武田別動隊はカラだと気付く。が、上杉軍の鉄砲にやられていく。「いけ! 押し流せ!」
 無数の長槍が交じりあう。
 雲霞の如く矢が飛ぶ。
 謙信は単身、馬で信玄にせまった。
 刀をふる謙信……
 軍配で受ける信玄……
 謙信と信玄の一気討ち「三太刀七太刀」…。
 このままでは本陣も危ない!
 信玄があせったとき武田別動隊が到着し、九月十日午前十時過ぎ、信玄の軍配が高々とあがる。総攻撃!
 ハサミうちにされ、朝から戦っていた兵は疲れ、上杉軍は撤退した。死傷者二万(両軍)の戦いは終了した。「上杉謙信やぶれたり!」信玄はいったという。
 武田信玄は川中島で勝利した。
 上杉はその後、関東支配を諦め、越後にかえり、信玄は目を西にむけた。
 第五次川中島の合戦は永禄七(一五六四)年、勃発した。
 しかし、両軍とも睨みあうだけで刃は交えず撤退。以後、二度と両軍は戦わなかった。 武田は領土拡大を西に向け、今川と戦う。こんなエピソードがある。今川と北条と戦ったため海のない武田領地は塩がなくなり民が困窮……そんなとき塩が大量に届く。それは上杉謙信からのものだった。たとえ宿敵であっても困れば助ける。「敵に塩をおくる」の古事はここから生まれた。
 武田は大大名になった。
 信玄は国づくりにも着手していく。治水工事、高板はたびたび川がはんらんしていた。 そこで竜王の民を移住させ、堤をつくった。
 上杉にも勝ち、金鉱二十もあらたに手にいれた。
 のちに信長は自分の娘を、信玄の息子勝頼に嫁がせている。
 しかし、信玄は信長の一向衆や寺焼き討ちなどをみて、
「織田信長は殺戮者だ! わしが生きているうちに正しい政をしなければ…」
 と考えた。それには上洛するしかない。

  のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。
 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。
 また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。
 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。
 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。
「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。




  信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。
 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。
 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。
 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。           天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。
 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。
 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?
 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。
 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。
 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。
 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に無勢で、結局殺されてしまう。
 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)
 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。
 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。
 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。
 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。
 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。
 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。


『蜂前(はちまき)神社文書』では直虎の領主としての才能も。(今川家との間で交わされた書状)に徳政令(とくせいれい・借金棒引き命令)。天候不良で不作。井伊谷の領民(百姓)の訴えで今川家は井伊家に徳政令を出せと命令。しかし、台所は火の車。徳政令を出せば、(お金・不足分を出している)商人が破綻してしまう。そうなれば井伊家は資金調達できなくなる可能性があった。しかし、徳政令を出さなければ生活費にも窮する農民が一揆を起こす可能性もある。井伊谷は大混乱である。だが、これは今川方が井伊家の領地を奪うのが本当の目的であった。
<駒澤大学副学長(戦国社会史)久保田昌希氏「残された資料から見て井伊谷徳政令をめぐる動きをどう仕切っていくか、どう平和をもたらすか、瀬戸際に直虎は立たされていた。農民たちもどう動いていくか、非常に混迷した状況に立たざる得なかった。徳政令をめぐって直虎は非常に慎重に行動している。政治的には徳政令発行をじらして時間をかせぎ、商人も守った」>