長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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勝海舟と徳川慶喜~徳川最後の将軍~<維新回天怒涛篇>ブログ連載小説2

2015年11月28日 07時28分38秒 | 日記








 松陰は後年こういっている。
「私がほんとうに修行したのは兵学だけだ。私の家は兵学の家筋だから、父もなんとか私を一人前にしようと思い、当時萩で評判の叔父の弟子につけた。この叔父は世間並みの兵学家ではなくて、いまどき皆がやる兵学は型ばかりだ。あんたは本当の兵学をやりなさい、と言ってくれた。アヘン戦争で清が西洋列強国に大敗したこともあって嘉永三年(1850年)に九州に遊学したよ。そして江戸で佐久間象山先生の弟子になった。
 嘉永五年(1852年)長州藩に内緒で東北の会津藩などを旅行したものだから、罪に問われてね。士籍剥奪や世禄没収となったのさ」
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作『最後の将軍』、童門冬二著作、池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』、津本陽著作『私に帰せず 勝海舟』、日本テレビドラマ映像資料『田原坂』『五稜郭』『奇兵隊』『勝海舟』、NHK映像資料『歴史秘話ヒストリア』『その時歴史が動いた』、『陸奥宗光』上下 荻原延濤(朝日新聞社)、『陸奥宗光』上下 岡崎久彦(PHP文庫)、『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦(PHP文庫)、『勝海舟全集』勝部真長ほか編(頸草書房)、『勝海舟』松浦玲(中公新書)、『氷川清話』勝海舟/勝部真長編(角川文庫)、『坂本龍馬』池田敬正(中公新書)、『坂本龍馬』松浦玲(岩波新書)、『坂本龍馬 海援隊始末記』平尾道雄(中公文庫)、『一外交官の見た明治維新』上下 アーネスト・サトウ/坂田精一(岩波文庫)、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一(東洋文庫)、『幕末外交談』田辺太一/坂田精一校注・訳(東洋文庫)、『京都守護職始末』山川浩/遠山茂樹校注/金子光晴訳(東洋文庫)、『日本の歴史 19 開国と攘夷』小西四郎(中公文庫)、『日本の歴史 18 開国と幕末変革』井上勝生(講談社文庫)、『日本の時代史 20 開国と幕末の動乱』井上勲編(吉川弘文館)、『図説和歌山県の歴史』安藤精一(河出書房新刊)、『荒ぶる波濤』津本陽(PHP文庫)、大河ドラマ『龍馬伝』『徳川慶喜』『篤姫』『新撰組!』『八重の桜』『坂の上の雲』、『花燃ゆ』漫画『おーい!竜馬』一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
なおここから数十行の文章は小林よしのり氏の著作・『ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり「大東亜論 第5章 明治6年の政変」』小学館SAPIO誌2014年6月号小林よしのり著作漫画、72ページ~78ページからの文献を参考にしています。
 盗作ではなくあくまで引用です。前述した参考文献も考慮して引用し、創作しています。盗作だの無断引用だの文句をつけるのはやめてください。
  この頃、決まって政治に関心ある者たちの話題に上ったのは「明治6年の政変」のことだった。
 明治6年(1873)10月、明治政府首脳が真っ二つに分裂。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五人の参謀が一斉に辞職した大事件である。
 この事件は、通説では「征韓論」を唱える西郷派(外圧派)と、これに反対する大久保派(内治派)の対立と長らく言われていきた。そしてその背景には、「岩倉使節団」として欧米を回り、見聞を広めてきた大久保派と、その間、日本で留守政府をに司っていた西郷派の価値観の違いがあるとされていた。しかし、この通説は誤りだったと歴史家や専門家たちにより明らかになっている。
 そもそも西郷は「征韓論」つまり、武力をもって韓国を従えようという主張をしたのではない。西郷はあくまでも交渉によって国交を樹立しようとしたのだ。つまり「親韓論」だ。西郷の幕末の行動を見てみると、第一次長州征伐でも戊辰戦争でも、まず強硬姿勢を示し、武力行使に向けて圧倒な準備を整えて、圧力をかけながら、同時に交渉による解決の可能性を徹底的に探り、土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるという方法を採っている。勝海舟との談判による江戸無血開城がその最たるものである。
 西郷は朝鮮に対しても同じ方法で、成功させる自信があったのだろう。
 西郷は自分が使節となって出向き、そこで殺されることで、武力行使の大義名分ができるとも発言したが、これも武力行使ありきの「征韓論」とは違う。
 これは裏を返せば、使節が殺されない限り、武力行使はできない、と、日本側を抑えている発言なのである。そして西郷は自分が殺されることはないと確信していたようだ。
 朝鮮を近代化せねばという目的では西郷と板垣は一致。だが、手段は板垣こそ武力でと主張する「征韓論」。西郷は交渉によってと考えていたが、板垣を抑える為に「自分が殺されたら」と方便を主張。板垣も納得した。
 一方、岩倉使節団で欧米を見てきた大久保らには、留守政府の方針が現実に合わないものに見えたという通説も、勝者の後付けだと歴史家は分析する。
 そもそも岩倉使節団は実際には惨憺たる大失敗だったのである。当初、使節団は大隈重信が計画し、数名の小規模なものになるはずだった。
 ところが外交の主導権を薩長で握りたいと考えた大久保利通が岩倉具視を擁して、計画を横取りし、規模はどんどん膨れ上がり、総勢100人以上の大使節団となったのだ。
 使節団の目的は国際親善と条約改正の準備のための調査に限られ、条約改正交渉自体は含まれていなかった。
しかし功を焦った大久保や伊藤博文が米国に着くと独断で条約改正交渉に乗り出す。だが、本来の使命ではないので、交渉に必要な全権委任状がなく、それを交付してもらうためだけに、大久保・伊藤の2人が東京に引き返した。大使節団は、大久保・伊藤が戻ってくるまで4か月もワシントンで空しく足止めされた。大幅な日程の狂いが生じ、10か月半で帰国するはずが、20か月もかかり、貴重な国費をただ蕩尽(とうじん)するだけに終わってしまったのだ。
 一方で、その間、東京の留守政府は、「身分制度の撤廃」「地租改正」「学制頒布」などの新施策を次々に打ち出し、着実に成果を挙げていた。
 帰国後、政治生命の危機を感じた大久保は、留守政府から実権を奪取しようと策謀し、これが「明治6年の政変」となったのだ。大久保が目の敵にしたのは、板垣退助と江藤新平であり、西郷は巻き添えを食らった形だった。
 西郷の朝鮮への使節派遣は閣議で決定し、勅令まで下っていた。それを大久保は権力が欲しいためだけに握りつぶすという無法をおこなった。もはや朝鮮問題など、どうでもよくなってしまった。
 ただ国内の権力闘争だけがあったのだ。こうして一種のクーデターにより、政権は薩長閥に握られた。
 しかも彼ら(大久保や伊藤ら)の多くは20か月にも及んだ外遊で洗脳されすっかり「西洋かぶれ」になっていた。もはや政治どころではない。国益や政治・経済の自由どころではない。
 西郷や板垣らを失った明治政府は誤った方向へと道をすすむ。日清戦争、日露戦争、そして泥沼の太平洋戦争へ……歴史の歯車が狂い始めた。
(以下文(参考文献ゴーマニズム宣言大東亜論)・小林よしのり氏著作 小学館SAPIO誌7月号74~78ページ+8月号59~75ページ+9月号61~78ページ参考文献)
この頃、つまり「明治6年の政変」後、大久保利通は政治家や知識人らや庶民の人々の怨嗟(えんさ)を一身に集めていた。維新の志を忘れ果て、自らの政治生命を維持する為に「明治6年の政変」を起こした大久保利通。このとき大久保の胸中にあったのは、「俺がつくった政権を後から来た連中におめおめ奪われてたまるものか」という妄執だけだった。
西郷隆盛が何としても果たそうとした朝鮮使節派遣も、ほとんど念頭の片隅に追いやられていた。これにより西郷隆盛ら5人の参議が一斉に下野するが、西郷は「巻き添え」であり…そのために西郷の陸軍大将の官職はそのままになっていた。この政変で最も得をしたのは、井上馨ら長州汚職閥だった。長州出身の御用商人・山城屋和助が当時の国家予算の公金を使い込んだ事件や……井上馨が大蔵大臣の職権を濫用して民間の優良銅山を巻き上げ、自分のものにしようとした事件など、長州閥には汚職の疑惑が相次いだ。だが、この問題を熱心に追及していた江藤新平が政変で下野したために、彼らは命拾いしたのである。
江藤新平は初代司法卿として、日本の司法権の自立と法治主義の確立に決定的な役割を果たした人物である。江藤は政府で活躍したわずか4年の間に司法法制を整備し、裁判所や検察機関を創設して、弁護士・公証人などの制度を導入し、憲法・民法の制定に務めた。
もし江藤がいなければ、日本の司法制度の近代化は大幅に遅れたと言っても過言ではない。そんな有能な人材を大久保は政府から放逐したのだ。故郷佐賀で静養していた江藤は、士族反乱の指導者に祭り上げられ、敗れて逮捕された。江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に3日前に作られた裁判所で、十分な弁論の機会もなく、上訴も認めない暗黒裁判にかけられ、死刑となった。新政府の汚職の実態を知り尽くしている江藤が、裁判で口を開くことを恐れたためである。それも斬首の上、さらし首という武士に対してあり得ない屈辱的な刑で……しかもその写真が全国に配布された。(米沢藩の雲井龍雄も同じく死刑にされた)すべては大久保の指示による「私刑」だった。
「江藤先生は惜しいことをした。だが、これでおわりではない」のちの玄洋社の元となる私塾(人参畑塾)で、武部小四郎(たけべ・こしろう)はいった。当時29歳。福岡勤皇党の志士の遺児で、人参畑塾では別格の高弟であった。身体は大きく、姿は颯爽(さっそう)、親しみ易いが馴れ合いはしない。質実にて華美虚飾を好まず、身なりを気にせず、よく大きな木簡煙管(きせる)を構えていた。もうひとり、頭山満が人参畑塾に訪れる前の塾にはリーダー的な塾生がいた。越智彦四郎(おち・ひこしろう)という。武部小四郎、越智彦四郎は人参畑塾のみならず、福岡士族青年たちのリーダーの双璧と目されていた。だが、二人はライバルではなく、同志として固い友情を結んでいた。それはふたりがまったく性格が違っていたからだ。越智は軽薄でお調子者、武部は慎重で思慮深い。明治7年(1874)2月、江藤新平が率いる佐賀の役が勃発すると、大久保利通は佐賀制圧の全権を帯びて博多に乗り込み、ここを本営とした。全国の士族は次々に社会的・経済的特権を奪われて不平不満を強めており、佐賀もその例外ではなかったが、直ちに爆発するほどの状況ではなかった。にもかかわらず大久保利通は閣議も開かずに佐賀への出兵を命令し、文官である佐賀県令(知事にあたる)岩村高俊にその権限を与えた。文官である岩村に兵を率いさせるということ自体、佐賀に対する侮辱であり、しかも岩村は傲慢不遜な性格で、「不逞分子を一網打尽にする」などの傍若無人な発言を繰り返した。こうして軍隊を差し向けられ、挑発され、無理やり開戦を迫られた形となった佐賀の士族は、やむを得ず、自衛行動に立ち上がると宣言。休養のために佐賀を訪れていた江藤新平は、やむなく郷土防衛のため指揮をとることを決意した。これは、江藤の才能を恐れ、「明治6年の政変」の際には、閣議において西郷使節派遣延期論のあいまいさを論破されたことなどを恨んだ大久保利通が、江藤が下野したことを幸いに抹殺を謀った事件だったという説が今日では強い。そのため、佐賀士族が乱をおこした佐賀の乱というのではなく「佐賀戦争」「佐賀の役」と呼ぶべきと提唱されている。その際、越智彦四郎は大久保利通を訪ね、自ら佐賀との調整役を買って出る。大久保は「ならばおんしに頼みたか。江藤ら反乱軍をば制圧する「鎮撫隊」をこの福岡に結成してくれもんそ」という。越智彦四郎は引き受けた。だが、越智は策士だった。鎮撫隊を組織して佐賀の軍に接近し、そこで裏切りをして佐賀の軍と同調して佐賀軍とともに明治政府軍、いや大久保利通を討とう、という知略を謀った。武部は反対した。
「どこが好機か?大久保が「鎮撫隊」をつくれといったのだ。何か罠がある」
だが、多勢は越智の策に乗った。だが、大久保利通の方が、越智彦四郎より一枚も二枚も上だった。大久保利通は佐賀・福岡の動静には逐一、目を光らせていて、越智の秘策はすでにばれていた。陸軍少佐・児玉源太郎は越智隊に鉄砲に合わない弾丸を支給して最前線に回した。そのうえで士族の一部を率いて佐賀軍を攻撃。福岡を信用していなかった佐賀軍は越智隊に反撃し、同士討ちの交戦となってしまった。越智隊は壊滅的打撃を受け、ようやくの思いで福岡に帰還した。その後、越智彦四郎は新たな活動を求めて、熊本・鹿児島へ向かった。武部はその間に山籠もりをして越智と和解して人参畑塾に帰還した。
「明治6年の政変」で下野した板垣退助は、江藤新平、後藤象二郎らと共に「愛国公党」を結成。政府に対して「民選議員設立建白書」を提出した。さらに政治権力が天皇にも人民にもなく薩長藩閥の専制となっていることを批判し、議会の開設を訴えた。自由民権運動の始まりである。だが間もなく、佐賀の役などの影響で「愛国公党」は自然消滅。そして役から1年近くが経過した明治8年(1875)2月、板垣は旧愛国公党を始めとする全国の同志に結集を呼びかけ「愛国社」を設立したのだった。板垣が凶刃に倒れた際「板垣死すとも自由は死せず」といったというのは有名なエピソードだが、事実ではない。
幕末、最も早く勤王党の出現を見たのが福岡藩だった。だが薩摩・島津家から養子に入った福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は、一橋家(徳川将軍家)と近親の関係にあり、動乱の時代の中、勤王・佐幕の両派が争う藩論の舵取りに苦心した。黒田長溥は決して愚鈍な藩主ではなかった。だが次の時代に対する識見がなく、目前の政治状況に過敏に反応してしまうところに限界があった。大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)という幕府始まって以来の不祥事を機に勤王の志士の動きは活発化。これに危機感を覚えた黒田長溥は筑前勤王党を弾圧、流刑6名を含む30余名を幽閉等に処した。これを「庚申(こうしん)の獄」という。その中にはすでに脱藩していた平野國臣もいた。女流歌人・野村望東尼(ぼうとうに)は獄中の國臣に歌(「たぐいなき 声になくなる 鶯(ウグイス)は 駕(こ)にすむ憂きめ みる世なりけり」)を送って慰め、これを機に望東尼は勤王党を積極的に支援することになる。尼は福岡と京都をつなぐパイプ役を務め、高杉晋作らを平尾山荘に匿い、歌を贈るなどしてその魂を鼓舞激励したのだった。
この頃、坂本竜馬らよりもずっと早い時点で、薩長連合へ向けた仲介活動を行っていたのが筑前勤王党・急進派の月形洗蔵(つきがた・せんぞう、時代劇「月形半平太(主演・大川橋蔵)」のモデル)や衣斐茂記(えび・しげき)、建部武彦らだった。また福岡藩では筑前勤王党の首領格として羨望があった加藤司書(かとう・ししょ)が家老に登用され、まさしく維新の中心地となりかけていたという。だが、すぐに佐幕派家老が勢力を取り戻し、さらに藩主・黒田長溥が勤王党急進派の行動に不信感を抱いたことなどから……勤王党への大弾圧が行われたのだ。これを「乙丑(いっちゅう)の獄」という。加藤、衣斐、建部ら7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首。野村望東尼ら41名が流罪・幽閉の処分を受け、筑前勤王党は壊滅した。このとき、姫島に流罪となる野村望東尼を護送する足軽の中に15歳の箱田六輔がいた。そして武部小四郎は「乙丑の獄」によって切腹した建部武彦の遺児であった(苗字は小四郎が「武部」に改めた)。福岡藩は佐幕派が多かったが、戊辰の役では急遽、薩長官軍についた。それにより福岡藩の家老ら佐幕派家老3名が切腹、藩士23名が遠島などの処分となった。そして追い打ちをかけるように薩長新政府は福岡藩を「贋札づくり」の疑惑で摘発した。当時、財政難だった藩の多くが太政官札の偽造をしていたという。西郷隆盛は寛大な処分で済まそうと尽力した。何しろ贋札づくりは薩摩藩でもやっていたのだ。だが大久保利通が断固として、福岡藩だけに過酷な処罰を科し、藩の重職5名が斬首、知藩事が罷免となった。これにより福岡藩は明治新政府にひとりの人材も送り込めることも出来ず、時代から取り残されていった。この同じ年、明治8年9月、近代日本の方向性を決定づける重大な事件が勃発した。「江華島(こうかとう・カンファンド)事件」である。これは開国要請に応じない朝鮮に対する砲艦外交そのものであった。そもそも李氏朝鮮の大院君はこう考えていた。「日本はなぜ蒸気船で来て、洋服を着ているのか?そのような行為は華夷秩序(かいちつじょ)を乱す行為である」
華夷秩序は清の属国を認める考えだから近代国家が覇を競う時代にあまりに危機感がなさすぎる。だからといって、砲艦外交でアメリカに開国させられた日本が、朝鮮を侮る立場でもない。どの国も、力ずくで国柄を変えられるのは抵抗があるのだ。日本軍艦・雲揚(うんよう)は朝鮮西岸において、無許可の沿海測量を含む挑発行動を行った。さらに雲揚はソウルに近い江華島に接近。飲料水補給として、兵を乗せたボートが漢江支流の運河を遡航し始めた時、江華島の砲台が発砲!雲揚は兵の救援として報復砲撃!さらに永宗島(ヨンジュンド)に上陸して朝鮮軍を駆逐した。明治政府は事前に英米から武力の威嚇による朝鮮開国の支持を取り付け、挑発活動を行っていた。そしてペリー艦隊の砲艦外交を真似て、軍艦3隻と汽船3隻を沖に停泊させて圧力をかけた上で、江華島事件の賠償と修好条約の締結交渉を行ったのだった。この事件に、鹿児島の西郷隆盛は激怒した。
「一蔵(大久保)どーん!これは筋が違ごうじゃろうがー!」
大久保らは、「明治6年の政変」において、「内治優先」を理由としてすでに決定していた西郷遣韓使節を握りつぶしておきながら、その翌年には台湾に出兵、そしてさらに翌年にはこの江華島事件を起こした。「内治優先」などという口実は全くのウソだったのである。特に朝鮮に対する政府の態度は許しがたいものであった。
西郷は激昴して「ただ彼(朝鮮)を軽蔑して無断で測量し、彼が発砲したから応戦したなどというのは、これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきの行為といわにゃならんど!政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす!」
西郷は、測量は朝鮮の許可が必要であり、発砲した事情を質せず、戦端を開くのは野蛮と考えた。
「そもそも朝鮮は幕府とは友好的だったのでごわす!日本人は古式に則った烏帽子直垂(えぼしひたたれ)の武士の正装で交渉すべきでごわす!軍艦ではなく、商船で渡海すべきでごわんそ!」
西郷は政府参与の頃、清と対等な立場で「日清修好条規」の批准を進め、集結した功績がある。なのに大久保ら欧米使節・帰国組の政府要人は西郷の案を「征韓論」として葬っておきながら、自らは、まさに武断的な征韓を行っている。西郷隆盛はあくまでも、東洋王道の道義外交を行うべきと考えていた。西郷は弱を侮り、強を恐れる心を、徹底的に卑しむ人であった。大久保は西洋の威圧外交を得意とし、朝鮮が弱いとなれば侮り、侵略し、欧米が強いとなれば恐れ、媚びへつらい、政治体制を徹底的に西洋型帝国の日本帝国を建設しようとしたのだ。西郷にとっては、誠意を見せて朝鮮や清国やアジア諸国と交渉しようという考えだったから大久保の考えなど論外であった。だが、時代は大久保の考える帝国日本の時代、そして屈辱的な太平洋戦争の敗戦で、ある。大久保にしてみれば欧米盲従主義はリアリズム(現実主義)であったに違いない。そして行き着く先がもはや「道義」など忘れ去り、相手が弱いと見れば侮り、強いと見れば恐れ、「WASPについていけば百年安心」という「醜悪な国・日本」なのである。

<ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり著作「大東亜論 血風士魂篇」第9章前原一誠の妻と妾>2014年度小学館SAPIO誌10月号59~78ページ参照(参考文献・漫画文献)
明治初期、元・長州藩(山口県)には明治政府の斬髪・脱刀令などどこ吹く風といった連中が多かったという。長州の士族は維新に功ありとして少しは報われている筈であったが、奇兵隊にしても長州士族にしても政権奪還の道具にすぎなかった。彼らは都合のいいように利用され、使い捨てされたのだ。報われたのはほんの数人(桂小五郎こと木戸孝允や井上馨(聞多)や伊藤博文(俊輔)等わずか)であった。明治維新が成り、長州士族は使い捨てにされた。それを憤る人物が長州・萩にいた。前原一誠である。前原は若い時に落馬して、胸部を強打したことが原因で肋膜炎を患っていた。明治政府の要人だったが、野に下り、萩で妻と妾とで暮らしていた。妻は綾子、妾は越後の娘でお秀といった。
前原一誠は吉田松陰の松下村塾において、吉田松陰が高杉晋作、久坂玄瑞と並び称賛した高弟だった。「勇あり知あり、誠実は群を抜く」。晋作の「識」、玄瑞の「才」には遠く及ばないが、その人格においてはこの二人も一誠には遠く及ばない。これが松陰の評価であった。そして晋作・玄瑞亡き今、前原一誠こそが松陰の思想を最も忠実に継承した人物であることは誰もが認めるところだった。一誠の性格は、頑固で直情径行、一たび激すると誰の言うことも聞かずやや人を寄せつけないところもあったが、普段は温厚ですぐ人を信用するお人好しでもあった。一誠は戊辰戦争で会津征討越後口総督付の参謀として軍功を挙げ、そのまま越後府判事(初代新潟県知事)に任じられて越後地方の民政を担当する。
いわば「占領軍」の施政者となったわけだが、そこで一誠が目にしたものは戦火を受けて苦しむ百姓や町民の姿だった。「多くの飢民を作り、いたずらに流民を作り出すのが戦争の目的ではなかったはずだ。この戦いには高い理想が掲げられていたはず!これまでの幕府政治に代って、万民のための国造りが目的ではなかったのか!?」
少年時代の一誠の家は貧しく、父は内職で安物の陶器を焼き、一誠も漁師の手伝いをして幾ばくかの銭を得たことがある。それだけに一誠は百姓たちの生活の苦しさをよく知り、共感できた。さらに、師・松陰の「仁政」の思想の影響は決定的に大きかった。
「機械文明においては、西洋に一歩を譲るも、東洋の道徳や治世の理想は、世界に冠たるものである!それが松陰先生の教えだ!この仁政の根本を忘れたからこそ幕府は亡びたのだ。新政府が何ものにも先駆けて行わなければならないことは仁政を行って人心を安らかにすることではないか!」一誠は越後の年貢を半分にしようと決意する。中央政府は莫大な戦費で財政破綻寸前のところを太政官札の増発で辛うじてしのいでいる状態だったから、年貢半減など決して許可しない。だが、一誠は中央政府の意向を無視して「年貢半減令」を実行した。さらに戦時に人夫として徴発した農民の労賃も未払いのままであり、せめてそれだけでも払えば当面の望みはつなげられる。未払い金は90万両に上り、そのうち40万両だけでも出せと一誠は明治政府に嘆願を重ねた。だが、政府の要人で一誠の盟友でもあった筈の木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治・松陰門下)は激怒して、「前原一誠は何を考えている!越後の民政のことなど単なる一地方のことでしかない!中央には、一国の浮沈にかかわる問題が山積しているのだぞ!」とその思いに理解を示すことは出来なかった。
この感情の対立から、前原一誠は木戸に憎悪に近い念を抱くようになる。一誠には越後のためにやるべきことがまだあった。毎年のように水害を起こす信濃川の分水である。一誠は決して退かない決意だったが、中央政府には分水工事に必要な160万両の費用は出せない。政府は一誠を中央の高官に「出世」させて、越後から引き離そうと画策。一誠は固辞し続けるが、政府の最高責任者たる三条実美が直々に来訪して要請するに至り、ついに断りきれなくなり参議に就任。信濃川の分水工事は中止となる。さらに一誠は暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔となるが、もともと中央政府に入れられた理由が理由なだけに、満足な仕事もさせられず、政府内で孤立していた。一誠は持病の胸痛を口実に政府会議にもほとんど出なくなり、たまに来ても辞任の話しかしない。「私は参議などになりたくはなかったのだ!私を参議にするくらいならその前に越後のことを考えてくれ!」
木戸や大久保利通は冷ややかな目で前原一誠を見ているのみ。
「君たちは、自分が立派な家に住み、自分だけが衣食足りて世に栄えんがために戦ったのか?私が戦ったのはあの幕府さえ倒せば、きっと素晴らしい王道政治が出来ると思ったからだ!民政こそ第一なのだ!こんな腐った明治政府にはいたくない!徳川幕府とかわらん!すぐに萩に帰らせてくれ!」大久保や木戸は無言で前原一誠を睨む。三度目の辞表でやっと前原一誠は萩に帰った。明治3年(1870)10月のことだった。政府がなかなか前原一誠の辞任を認めなかったのは、前原一誠を帰してしまうと、一誠の人望の下に、不平士族たちが集まり、よりによって長州の地に、反政府の拠点が出来てしまうのではないかと恐れたためである。当の一誠は、ただ故郷の萩で中央との関わりを断ち、ひっそりと暮らしたいだけだった。が、周囲が一誠を放ってはおかなかった。維新に功のあった長州の士族たちは「自分たちは充分報われる」と思っていた。しかし、実際にはほんの数人の長州士族だけが報われて、「奇兵隊」も「士族」も使い捨てにされて冷遇されたのだった。そんなとき明治政府から野に下った前原一誠が来たのだ。それは彼の周囲に自然と集まるのは道理であった。しかも信濃川の分水工事は「金がないので工事できない」などといいながら、明治政府は岩倉具視を全権大使に、木戸、大久保、伊藤らを(西郷らは留守役)副使として数百人規模での「欧米への視察(岩倉使節団)」だけはちゃっかりやる。一誠は激怒。
江藤新平が失脚させられ、「佐賀の役」をおこすとき前原一誠は長州士族たちをおさえた。「局外中立」を唱えてひとりも動かさない。それが一誠の精一杯の行動だった。
長州が佐賀の二の舞になるのを防いだのだ。前原一誠は激昴する。「かつての松下村塾同門の者たちも、ほとんどが東京に出て新政府に仕え、洋風かぶれで東洋の道徳を忘れておる!そうでなければ、ただ公職に就きたいだけの、卑怯な者どもだ!井上馨に至っては松下村塾の同窓ですらない!ただ公金をかすめ取る業に長けた男でしかないのに、高杉や久坂に取り入ってウロチョロしていただけの奴!あんな男までが松下村塾党のように思われているのは我慢がならない!松陰先生はよく「天下の天下の天下にして一人の天下なり」と仰っていた。すなわち尊皇である。天子様こそが天下な筈だ!天下一人の君主の下で万民が同じように幸福な生活が出来るというのが政治の理想の根本であり、またそのようにあらしめるのが理想だったのだ!孔孟の教えの根本は「百姓をみること子の如くにする」。これが松陰先生の考えである!松陰先生が生きていたら、今の政治を認めるはずはない!必ずや第二の維新、瓦解を志す筈だ!王政復古の大号令は何処に消えたのだ!?このままではこの国は道を誤る!」その後、「萩の乱」を起こした前原一誠は明治政府に捕縛され処刑された。

岩倉具視が「果断、勇決、その志は小ではない。軽視できない強敵である」と評し、長州の桂小五郎(木戸孝允)は「慶喜の胆略、じつに家康の再来を見るが如し」と絶賛――。
敵方、勤王の志士たちの心胆を寒からしめ、幕府側の切り札として登場した十五代将軍。その慶喜が、徳川三百年の幕引き役を務める運命の皮肉。
徳川慶喜とは、いかなる人物であったのか。また、なぜ従来の壮大で堅牢なシステムが、機能しなくなったのか。
「視界ゼロ、出口なし」の状況下で、新興勢力はどのように旧体制から見事に脱皮し、新しい時代を切り開いていったのか。
閉塞感が濃厚に漂う今、慶喜の生きた時代が、尽きせぬ教訓の新たな宝庫となる。
『徳川慶喜(「徳川慶喜 目次―「最後の将軍」と幕末維新の男たち」)』堺屋太一+津本陽+百瀬明治ほか著作、プレジデント社刊参考文献参照引用
著者が徳川慶喜を「知能鮮し」「糞将軍」「天下の阿呆」としたのは、他の主人公を引き立たせる為で、慶喜には「悪役」に徹してもらった。
だが、慶喜は馬鹿ではなかった。というより、策士であり、優秀な「人物」であった。
慶喜は「日本の王」と海外では見られていた。大政奉還もひとつのパワー・ゲームであり、けして敗北ではない。しかし、幕府憎し、慶喜憎しの大久保利通らは「王政復古の大号令」のクーデターで武力で討幕を企てた。
実は最近の研究では大久保や西郷隆盛らの「王政復古の大号令」のクーデターを慶喜は事前に察知していたという。
徳川慶喜といえば英雄というよりは敗北者。頭はよかったし、弱虫ではなかった。慶喜がいることによって、幕末をおもしろくした。最近分かったことだが、英雄的な策士で、人間的な動きをした「人物」であった。
「徳川慶喜はさとり世代」というのは脳科学者の中野信子氏だ。慶喜はいう。「天下を取り候ほど気骨の折れ面倒な事なことはない」
幕末の”熱い時代”にさとっていた。二心公ともいわれ、二重性があった。
本当の徳川慶喜は「阿呆」ではなく、外交力に優れ(二枚舌→開港していた横浜港を閉ざすと称して(尊皇攘夷派の)孝明天皇にとりいった)
その手腕に、薩摩藩の島津久光や大久保利通、西郷隆盛、長州藩の桂小五郎らは恐れた。
孝明天皇が崩御すると、慶喜は一変、「開国貿易経済大国路線」へと思考を変える。大阪城に外国の大使をまねき、兵庫港を開港。慶喜は幕府で外交も貿易もやる姿勢を見せ始める。
まさに、策士で、ある。
歴代の将軍の中でも慶喜はもっとも外交力が優れていた。将軍が当時は写真に写るのを嫌がったが、しかし、徳川慶喜は自分の写真を何十枚も撮らせて、それをプロパガンダ(大衆操作)の道具にした。欧米の王族や指導者層にも配り、日本の国王ぶった。
大久保利通や岩倉具視や西郷隆盛ら武力討幕派は慶喜を嫌った。いや、おそれていた。討幕の密勅を朝廷より承った薩長に慶喜は「大政奉還」という策略で「幕府をなくして」しまった。
大久保利通らは大政奉還で討幕の大義を失ってあせったのだ。徳川慶喜は敗北したのではない。策を練ったのだ。慶喜は初代大統領、初代内閣総理大臣になりたいと願ったのだ。
新政府にも加わることを望んでいた。慶喜は朝廷に「新国家体制の建白書」を贈った。だが、徳川慶喜憎しの大久保利通らは王政復古の大号令をしかける。日本の世論は「攘夷」だが、徳川慶喜は坂本竜馬のように「開国貿易で経済大国への道」をさぐっていたという。
大久保利通らにとって、慶喜は「(驚きの大政奉還をしてしまうほど)驚愕の策士」であり、存在そのものが脅威であった。
「慶喜だけは倒さねばならない!薩長連合は徳川慶喜幕府軍を叩き潰す!やるかやられるかだ!」
 慶喜のミスは天皇(当時の明治天皇・16歳)を薩長にうばわれたことだ。薩長連合新政府軍は天皇をかかげて官軍になり、「討幕」の戦を企む。
「身分もなくす!幕府も藩もなくす!天子さま以外は平等だ!」
 大久保利通らは王政復古の大号令のクーデターを企む。事前に察知していた徳川慶喜は「このままでは清国(中国)やインドのように内乱になり、欧米の軍事力で日本が植民地とされる。武力鎮圧策は危うい。会津藩桑名藩五千兵をつかって薩長連合軍は叩き潰せるが泥沼の内戦になる。”負けるが勝ち”だ」
 と静観策を慶喜はとった。まさに私心を捨てた英雄!だからこそ幕府を恭順姿勢として、官軍が徳川幕府の官位や領地八百万石も没収したのも黙認した。
 だが、大久保利通らは徳川慶喜が一大名になっても、彼がそのまま新政府に加入するのは脅威だった。
 慶喜は謹慎し、「負ける」ことで戊辰戦争の革命戦争の戦死者をごくわずかにとどめることに成功した。官軍は江戸で幕府軍を挑発して庄内藩(幕府側)が薩摩藩邸を攻撃したことを理由に討幕戦争(戊辰戦争)を開始した。
 徳川慶喜が大阪城より江戸にもどったのも「逃げた」訳ではなく、内乱・内戦をふせぐためだった。彼のおかげで戊辰戦争の戦死者は最低限度で済んだ。
 徳川慶喜はいう。「家康公は日本を統治するために幕府をつくった。私は徳川幕府を終わらせる為に将軍になったのだ」
NHK番組『英雄たちの選択 徳川慶喜編』参考文献引用


 水戸の徳川分家斉昭は尊皇攘夷派として、攘夷派の過激分子の維新の志士たちの親玉のような存在であった。
 この水戸家が河内の土豪・楠木正成を祀った神社を建立していることも、徳川幕府の『水戸嫌い』を扇動していた。
 徳川幕府は完全に水戸嫌い、である。水戸の斉昭が嫌いということはすなわち息子の一橋慶喜も、嫌い、ということである。
 慶喜は尊皇攘夷思想ではなく、開国派であったが、誰にも相談も出来なかったという。
 言えるとすれば正式な直参家臣ではないが勝海舟ぐらいであったろう。
 『最後の将軍』司馬遼太郎著作(文春文庫)より引用 23~ 30ページ

 黙霖は芸州加茂郡(広島県呉市長浜)生まれの本願寺派の僧侶で、やはり僧だった父の私生児である。幼いときに寺にやられ、耳が聞こえず話せないという二重苦を負いながら、和、漢、仏教の学問に通じ、諸国を行脚して勤王を説いた。周防(すおう)の僧、月性は親友である。
 黙霖は松陰に面会を申し込んだが、松陰は「わが容貌にみるべきものなし」と断り、二人は手紙で論争をした。
 実は松陰は、この時期「討幕」の考えをもっていたわけではなかった。彼が説いたのは、「諌幕(かんばく)」である。野山獄にいた頃にも、少年時代に学んだ水戸学の影響から抜け出せてはいなくて、兄の梅太郎に書いた手紙には、「幕府への御忠義は、すなわち天朝への御忠義」といっていた。
しかし、黙霖との論争で、二十七歳の松陰はたたきのめされた。
「茫然自失し、ああこれもまた(僕の考えは)妄動なりとて絶倒いたし候」「僕、ついに降参するなり」「水戸学は口では勤王を説くが、いまだかつて将軍に諫言し、天室を重んじたためしがないではないか」
そして、黙霖は、松陰に山県大弐が明和の昔に著わした『柳子新論』の筆写本を贈った。
松陰は「勤王」「天皇崇拝主義」に目が覚めたという。
そして松陰は安政三年(一八五六)に、松本村にある「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を受け継いだ。萩の実家の隣にある二間の家だ。
長州藩には藩校の明倫館があるが、藩士の子弟だけがはいり、足軽の子などは入学できなかった。村塾にはこの差別がない。吉田栄太郎(稔麿・としまろ・池田屋事件で死亡)、伊藤俊輔(博文)、山県狂介(有朋)などの足軽の子もいる。その教授内容は、藩学の「故書敗紙のうちに彷徨する」文章の解釈ではなく、生きた歴史を教えることであり、松陰は実践学とも呼べる学問を教えた。塾生は七十人、九十人となる。「飛耳長目(ひじちょうもく)」という変わった学科がある。政治・情報科とでもいうか。松陰が集めてきた内外の最新情報が教えられる。イギリスのインド侵略、十年前のアヘン戦争、支那の太平天国の乱、国内では京都、江戸、長崎の最新情報である。藩士の一部は吉田松陰を危険人物視していた。親の反対をおしきってはいってきた塾生がいた。高杉晋作である。松陰は高杉を「暢夫(のぶお)」と呼び、知識は優れているが学問が遅れている自説を曲げず、と分析していた。
高杉晋作は松下村塾後、江戸の昌平黌(しょうへいこう)へ進学している。
だが、吉田松陰は公然と「討幕」を宣言し始める。尊皇攘夷というよりは開国攘夷、外国の優れた知識と技術を学び、世界と貿易しよう、という坂本竜馬のはしりのようなことを宣言した。それが「草莽掘起」な訳である。だが、松陰の主張は「「討幕」のために武力蜂起するべき」とも過激な論調にかわっていくに至り、長州藩は困惑し、吉田松陰を二度目の野山獄に処した。「武力蜂起して「討幕」とは、松陰先生は狂したとしか思えぬ」桂小五郎は言った。江戸にいる久坂玄瑞や高杉晋作らは、師が早まって死に急ぐのを防ごうとして、桜田の藩邸にいる先輩の桂小五郎に相談したのだ。
晋作が先輩の桂を睨むようにして反論した。「桂さん、僕は先生が狂したとは思えぬ。死ぬ覚悟なんじゃ」
久坂は訊ねた。
「いや、とにかく今は、藩の現状からしても、慎むべき時であろうと思います。桂さん、どうすればいいですか?」一同が桂小五郎をみた。
「松陰先生に自重して頂くにはわれら門下弟子がこぞって絶交することだ。そうすれば先生も考え直すだろう」
晋作以外は、吉田松陰への絶交宣言に同意した。絶交書を受け取った松陰は怒った。
「諸君らはもう書物を読むな。読めばこの自分のようになる。それよりは藩の“はしくれ役人”にでもしてもらいなされ。そうすれば立身出世がしたくなり、志を忘れるでしょうから……」「草莽でなければ人物なし」
松陰は妹婿の玄瑞に逆に絶縁状を送りつけた。
斬首にされた首は門人たちに話しかけるようであった。
「もしもこのことが成らずして、半途に首を刎ねられても、それまでなり」
「もし僕、幽囚の身にて死なば、必ずわが志を継ぐ士を、後世に残し置くなり」
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 吉田松陰「異端の思想家」と萩の青年たち」)』榛葉英治(しんば・えいじ)氏著、プレジデント社刊120~136ページ参考引用

大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂玄瑞役の東出昌大さんが「僕は神様に愛想つかされとんのや」と、松陰の妹の杉文役の井上真央さんにいったのはあながち“八つ当たり”という訳ではなかった。ペリーが二度目に来航した安政元年(一八五四)、長州の藩主は海防に関する献策を玄機に命じた。たまたま病床にあったが、奮起して執筆にとりかかり、徹夜は数日にわたった。精根尽き果てたように、筆を握ったまま絶命したのだ。
それは二月二十七日、再来ペリーを幕府が威嚇しているところであり、吉田松陰が密航をくわだてて、失敗する一か月前のことである。
畏敬する兄の死に衝撃を受け、その涙もかわかない初七日に、玄瑞は父親の急死という二重の不幸に見舞われた。すでに母親も失っている。玄瑞は孤児となった。十五歳のいたましい春だった。久坂秀三郎は、知行高二十五石の藩医の家督を相続し、玄瑞と改名する。六尺の豊かな偉丈夫で色男、やや斜視だったため、初めて彼が吉田松陰のもとにあらわれたとき、松陰の妹文は、「お地蔵さん」とあだ名をつけたが、やがて玄瑞はこの文と結ばれるのである。「筋金入りの“攘夷思想”」のひとである。熊本で会った宮部鼎蔵から松陰のことを聞いて、その思いを述べた。「北条時宗がやったように、米使ハリスなどは斬り殺してしまえばいいのだ」松陰は「久坂の議論は軽薄であり、思慮浅く粗雑きわまる書生論である」と反論し、何度も攘夷論・夷人殺戮論を繰り返す「不幸な人」久坂玄瑞を屈服させる。松陰の攘夷論は、情勢の推移とともに態様を変え、やがて開国論に発展するが、久坂は何処までも「尊皇攘夷・夷狄殺戮」主義を捨てなかった。長州藩は「馬関攘夷戦」で壊滅する。それでも「王政復古」「禁門の変」につながる「天皇奪還・攘夷論」で動いたのも久坂玄瑞であった。これをいいだしたのは久留米出身の志士・真木和泉(まき・いずみ)である。天皇を確保して長州に連れてきて「錦の御旗」として長州藩を“朝敵”ではなく、“官軍の藩”とする。やや突飛な構想だったから玄瑞は首をひねったが、攘夷に顔をそむける諸大名を抱き込むには大和行幸も一策だと思い、桂小五郎も同じ意見で、攘夷親征運動は動きはじめた。
松下村塾では、高杉晋作と並んで久坂玄瑞は、双璧といわれた。いったのは、師の松陰その人である。禁門の変の計画には高杉晋作は慎重論であった。どう考えても、今はまだその時期ではない。長州はこれまでやり過ぎて、あちこちに信用を失い、いまその報いを受けている。しばらく静観して、反対論の鎮静うるのを待つしかない。
高杉晋作は異人館の焼打ちくらいまでは、久坂玄瑞らと行動をともにしたけれども、それ以降は「攘夷殺戮」論には「まてや、久坂!もうちと考えろ!異人を殺せば何でも問題が解決する訳でもあるまい」と慎重論を唱えている。
それでいながら長州藩独立国家案『長州大割拠(独立)』『富国強兵』を唱えている。丸山遊郭、遊興三昧で遊んだかと思うと、「ペリーの大砲は3km飛ぶが、日本の大砲は1kmしか飛ばない」という。「僕は清国の太平天国の乱を見て、奇兵隊を、農民や民衆による民兵軍隊を考えた」と胸を張る。
文久三年馬関戦争での敗北で長州は火の海になる。それによって三条実美ら長州派閥公家が都落ち(いわゆる「七卿落ち」「八月十八日の政変」)し、さらに禁門の変…孝明天皇は怒って長州を「朝敵」にする。四面楚歌の長州藩は四国(米軍、英軍、仏軍、蘭軍)に降伏して、講和談判ということになったとき、晋作はその代表使節を命じられた。ほんとうは藩を代表する家老とか、それに次ぐ地位のものでなければならないのだが、うまくやり遂げられそうな者がいないので、どうせ先方にはわかりゃしないだろうと、家老宍戸備前の養子刑馬という触れ込みで、威風堂々と旗艦ユーリアラス号へ烏帽子直垂で乗り込んでいった。伊藤博文と山県有朋の推薦があったともいうが、晋作というのは、こんな時になると、重要な役が回ってくる男である。
談判で、先方が賠償金を持ち出すと「幕府の責任であり、幕府が払う筋の話だ」と逃げる。下関に浮かぶ彦島を租借したいといわれると、神代以来の日本の歴史を、先方が退屈するほど永々と述べて、煙に巻いてしまった。
だが、長州藩が禁門の変で不名誉な「朝敵」のようなことになると“抗戦派(進発派「正義派」)”と“恭順派(割拠派「俗論党」)”という藩論がふたつにわれて、元治元年十一月十二日に恭順派によって抗戦派長州藩の三家老の切腹、四参謀の斬首、ということになった。周布政之助も切腹、七卿の三条実美らも追放、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)は城崎温泉で一時隠遁生活を送り、自暴自棄になっていた。そこで半分藩命をおびた使徒に(旧姓・杉)文と小田村伊之助(楫取素彦)らが選ばれる。文らは隠遁生活でヤケクソになり、酒に逃げていた桂小五郎隠遁所を訪ねる。「お文さん、伊之助………何故ここに?」「私は長州藩主さまの藩命により、桂さんを長州へ連れ戻しにきました」「しかし、僕にはなんの力もない。久坂や寺島、入江九一など…禁門の変の失敗も同志の死も僕が未熟だったため…もはや僕はおわった人物です」「違います!寅にいは…いえ、松陰は、生前にようっく桂さんを褒めちょりました。桂小五郎こそ維新回天の人物じゃ、ゆうて。弱気はいかんとですよ。…義兄・小田村伊之助(楫取素彦)の紹介であった土佐の坂本竜馬というひとも薩摩の西郷隆盛さんも“桂さんこそ長州藩の大人物”とばいうとりました。皆さんが桂さんに期待しとるんじゃけえ、お願いですから長州藩に戻ってつかあさい!」桂は考えた。…長州藩が、毛利の殿さまが、僕を必要としている?やがて根負けした。文らは桂小五郎ことのちの木戸孝允を説得した。こうして長州藩の偉人・桂小五郎は藩政改革の檜舞台に舞い戻った。もちろんそれは高杉晋作が奇兵隊で討幕の血路を拓いた後の事であるのはいうまでもない。そして龍馬、桂、西郷の薩長同盟に…。しかし、数年前の禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩薩摩藩により朝敵にされたうらみを、長州人の人々は忘れていないものも多かった。彼らは下駄に「薩奸薩賊」と書き踏み鳴らす程のうらみようであったという。だから、薩摩藩との同盟はうらみが先にたった。だが、長州藩とて薩摩藩と同盟しなければ幕府に負けるだけ。坂本竜馬と小田村は何とか薩長同盟を成功させようと奔走した。しかし、長州人のくだらん面子で、十日間京都薩摩藩邸で桂たちは無駄に過ごす。遅刻した龍馬は「遅刻したぜよ。げにまっことすまん、で、同盟はどうなったぜよ?桂さん?」「同盟はなんもなっとらん」「え?西郷さんが来てないんか?」「いや、西郷さんも大久保さんも小松帯刀さんもいる。だが、長州から頭をさげるのは…無理だ」龍馬は喝破する。「何をなさけないこというちゅう?!桂さん!西郷さん!おんしら所詮は薩摩藩か?長州藩か?日本人じゃろう!こうしている間にも外国は日本を植民地にしようとよだれたらして狙ってるんじゃ!薩摩長州が同盟して討幕しなけりゃ、日本国は植民地ぜよ!そうなったらアンタがたは日本人になんとわびるがじゃ?!」こうして紆余曲折があり、同盟は成った。話を戻す。「これでは長州藩は徳川幕府のいいなり、だ」晋作は奇兵隊を決起(功山寺挙兵)する。最初は80人だったが、最後は800人となり奇兵隊が古い既得権益の幕藩体制派の長州保守派“徳川幕府への恭順派”を叩き潰し、やがては坂本竜馬の策『薩長同盟』の血路を拓き、維新前夜、高杉晋作は労咳(肺結核)で病死してしまう。
高杉はいう。「翼(よく)あらば、千里の外も飛めぐり、よろづの国を見んとしぞおもふ」
長州との和睦に徳川の使者として安芸の宮島に派遣されたのが勝海舟であった。
七日間も待たされたが、勝海舟は髭を毎日そり、服を着替え、長州の藩士・広沢兵助や志道聞多などと和睦した。
「勝さん、あんたは大丈夫ですか?長州に尻尾をふった裏切り者!と責められる可能性もおおいにある。勝さんにとっては損な役回りですよ」
「てやんでぃ!古今東西和平の使者は憎まれるものだよ。なあに俺にも覚悟があるってもんでい」
長州の志士たちの予想は的中した。幕臣たちや慶喜は元・弟子の坂本龍馬の『薩長連合』『倒幕大政奉還』を勝海舟のせいだという。勝は辞表を幕府に提出、それが覚悟だった。
だが、幕府の暴発は続く。薩長同盟軍が官軍になり、錦の御旗を掲げて幕府軍を攻めると、鳥羽伏見でも幕府は敗北していく。すべて勝海舟は負けることで幕府・幕臣を守る。だが、憎まれて死んでいく、ので、ある。
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 久坂玄瑞「蛤御門」で迎えた二十五歳の死」)』古川薫氏著、プレジデント社刊137~154ページ+『徳川慶喜(「三―草莽の志士 高杉晋作「奇兵隊」で討幕の血路を拓く」)』杉森久英氏著、プレジデント社刊154~168ページ+映像資料NHK番組「英雄たちの選択・高杉晋作篇」などから文献引用



  

  

【インチキ祈祷師『殺人罪』で逮捕】糖尿病少年インスリン注射でなく祈祷完治、と嘘!オカルト悪徳商法

2015年11月26日 20時19分32秒 | 日記







 病気の人間につけこむオカルト商法!騙されないで!


 先日、糖尿病でインスリン注射が生涯に渡り必要であった小学生男児が、『龍神』をかたり”祈祷で病気を治す”と称する祈祷師に「インスリン注射は必要ない。自分は”龍神”なので”祈祷で糖尿病を完治させる”」といって騙し、その子供が注射を受けなかったために病死して、そのオカルト祈祷師の詐欺男が「殺人罪」で逮捕された。
 わかって欲しいのはこういう輩は日本だけじゃなく世界に複数存在するということ。病気の人があれば必ずその病気の家族の弱みにつけこんでくるオカルト祈祷師や占い師がいる、という現実である。私自身も何故か米沢市に不動教なるオカルト祈祷師がいて家族で過去に騙されてますし(笑)まあ、祈祷して病気が治るなら医者も薬もいらない訳で。うつ病など、ものの見事に治らなかったし、その祈祷師のアドバイスで鬱病の薬をストップしたら、むしろ病状は悪化(笑)して当時の再就職の職もリストラされて無職になりましたし(笑)その馬鹿祈祷師は「病気だから休みながら働かせてといえ」と馬鹿げたことをいうし(笑)そんな甘い職場があるか!バイトじゃないんだから(笑)正規社員の仕事なんだから。まあ、オカルト祈祷師は本当に悪質で当時そいつの財布には万札がぱんぱんにはいっていて、僕は「このオカルト祈祷師どれだけひとを騙してきたんだ?」と首をひねった。
病院の主治医も馬鹿で「そういうことには関与しない」等と他人ごとで(まあ、本当に他人ごとですがね(笑))まあ、当時の主治医も悪い。僕はのちに「ああいうのが米沢市にいるのは悪質だ」と仮名で警察に告発書面を送った。
そのオカルト祈祷師は関西のおばはんで何で関西人が米沢市にいるの!と今思えば怒りだけなんだけど。ああいうのはいかにも関西人ですし、関西人的錬金術ですよね。でも、今回は死人も出たからニュースになり逮捕されたけど、現実は、憲法の宗教の自由との絡みで警察も「不介入」で、野放し状態ですから「神に祈祷したって病気は治らない。病気なら病院に行け!処方薬の薬を飲め!」という当たり前のことを頭にいれて学校でも役所でも警察も広報することですね。
 今回の病死した少年は可哀想だけど、騙すインチキ祈祷師が全部悪いんですよ。病気など祈祷で治る訳ないんですから。100%。インチキ祈祷師もヤクザと同じだとして警察で取締りして欲しい。悪質だから。それが願いです。

  緑川鷲羽・45歳・フリージャーナリスト・山形県米沢市



勝海舟と徳川慶喜~徳川最後の将軍~<維新回天怒涛篇>ブログ連載小説1

2015年11月26日 07時15分21秒 | 日記






小説
  勝海舟と徳川慶喜
            ~徳川最後の将軍~

                 かつかいしゅうととくがわよしのぶ
                ~開国せよ! 龍馬の師・勝海舟の「日本再生論」。
              慶喜の「幕府幕引き」はいかにしてなったか。~
                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

  黒船来航…
  幕末、徳川慶喜は将軍家に生まれてはいなかった。徳川分家の水戸に生まれた。一方の勝海舟は貧乏武士であり、そのため奮起して咸臨丸という船にのってメリケン(アメリカ)に留学して知識を得た。麟太郎の弟子はあの坂本龍馬である。先進国を視察した勝海舟にとって当時の日本はいびつにみえた。勝は幕府を批判していく。だが勝は若き将軍徳川家茂を尊敬していた。しかし、その将軍も死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。勝海舟はなんとかサポートするが、やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、幕府残党は奥州、蝦夷へ……
 勝海舟は官軍と徳川の間をかけもちしながら生き抜く。そして新政府の”知恵袋”として一生を終える。慶喜は若くてし隠居し、最後まで写真趣味に没頭して死んだ。おわり
         1 立志

  <ウィキペディアからの引用>
徳川 慶喜
Tokugawa yoshinobu.jpg
時代 江戸時代末期 - 大正時代
生誕 天保8年9月29日(1837年10月28日)
死没 大正2年(1913年)11月22日
改名 松平七郎麻呂(幼名)→松平昭致→徳川慶喜
別名 字:子邦
号:興山
通称:一橋慶喜
墓所 谷中霊園
官位 参議、権中納言、正二位・大納言兼
右近衛大将、征夷大将軍、内大臣、
従四位、正二位、従一位(明治政府)
幕府 江戸幕府 15代征夷大将軍
(在任1867年 - 1868年)
氏族 徳川氏
(水戸家→一橋家→将軍家→慶喜家)
父母 父:徳川斉昭
母:吉子女王(有栖川宮織仁親王娘)
養父:徳川昌丸、徳川家茂
兄弟 徳川慶篤、池田慶徳、徳川慶喜、
松平直侯、池田茂政、松平武聰、
徳川昭武、喜連川縄氏、松平昭訓、
松平忠和、土屋挙直、松平喜徳、
松平頼之
義兄弟:徳川茂承、華頂宮博経親王'
妻 正室:一条美賀子
側室:一色須賀、新村信、中根幸、他
子 厚、池田仲博、慶久、誠、
勝精、鏡子、蜂須賀筆子 その他
養子:茂栄、家達

生涯[編集]
幼年期[編集]
天保8年(1837年)9月29日、江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として生まれた。 母は正室・吉子女王。幼名は松平七郎麻呂(まつだいら しちろうまろ)。
慶喜は、2代目藩主・光圀に感化され、嫡子以外の男子は国許(水戸)で教育するという斉昭の教育方針に則り、天保9年(1838年)4月(生後7ヶ月)に江戸から水戸に移り、弘化4年(1847年)8月に幕府から一橋徳川家相続の含みで江戸出府を命じられるまで、9年間を同地で過ごした。この間、藩校・弘道館で会沢正志斎らから学問・武術を教授された。慶喜の英邁さは当時から注目されていたようで、斉昭も他家に養子には出さず、長男・慶篤の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。
一橋家相続[編集]
弘化4年(1847年)8月1日、老中・阿部正弘から水戸藩に七郎麻呂(当時は松平昭致)を御三卿・一橋家の世嗣としたいとの第12代将軍・徳川家慶の思召(意向)が伝えられる。これを受けて七郎麻呂は8月15日に水戸を発ち、9月1日に一橋家を相続。12月1日に家慶から偏諱を賜わり慶喜と名乗る。
家慶は度々一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、阿部正弘の諫言を受けて断念している。
将軍継嗣問題[編集]
詳細は「将軍継嗣問題」を参照
嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第13代将軍・徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなかったため、将軍継嗣問題が浮上する。慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。
一橋派は阿部正弘、島津斉彬が相次いで亡くなると勢いを失い、安政5年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定し、将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。
同年、直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印。慶喜は斉昭、福井藩主・松平慶永らと共に登城し直弼を詰問するが、翌・安政6年(1859年)に隠居謹慎処分となる(安政の大獄)。この日は三卿の将軍面会日であり、斉昭や慶永と違って不時登城ではなく罪状は不明のままの処分であった。
なお、慶喜本人は将軍継嗣となることに乗り気ではなかったのか「骨折りは申し訳ないが、天下を取ってから失敗するよりは取らないほうがいい」という内容の手紙を斉昭に送っている。
将軍後見職[編集]

禁裏御守衛総督時代の慶喜
安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変における井伊直弼の死を受け、万延元年(1860年)9月4日に謹慎を解除された。
文久2年(1862年)、島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、勅命を楯に幕府の首脳人事へ介入、7月6日、慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任命させることに成功した。慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行った。
文久3年(1863年)、攘夷の実行について朝廷と協議するため、徳川家茂が将軍としては230年ぶりに上洛することとなったが、慶喜はこれに先駆けて上洛し、将軍の名代として朝廷との交渉にあたった。慶喜は朝廷に対し、攘夷実行を含めた国政全般を従来通り幕府へ委任するか、政権を朝廷に返上するかの二者択一を迫った。しかし朝廷からは、幕府への大政委任を認める一方で「国事に関しては諸藩に直接命令を下すことがあり得る」との見解が表明され、逆に幕府は攘夷の実行を命じられるなど、交渉は不成功に終わった。春嶽が朝廷の要求に反発して政事総裁職の辞表を出す一方で、慶喜はこれを受け入れる姿勢をとり、江戸の幕閣の猛反発を招いた。しかし攘夷の実行は慶喜の本心ではなく、孝明天皇が石清水八幡宮へ行幸しての攘夷祈願において将軍が天皇から節刀を拝受してしまえば攘夷を決行せざるを得なくなるので「風邪発熱」(仮病)と称して家茂の拝謁を急遽取りやめさせている。
江戸に戻った慶喜は、攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として横浜港の鎖港方針を確定させる。八月十八日の政変で長州藩を中心とする尊皇攘夷派が排斥されたのち、公武合体派諸候・幕閣による参預会議に参加すべく再び上洛するが、ここでも横浜鎖港に反対する参預諸候の島津久光・松平春嶽らと慶喜は対立した。薩摩藩による朝廷の主導を警戒した慶喜は、参預諸候を朝廷から排除する動きをみせ、中川宮朝彦親王らとの酒席で故意に泥酔し、同席していた伊達宗城、春嶽、久光を罵倒、さらに中川宮に対し「島津からいくらもらっているんだ」などと暴言を発して体制を崩壊に追い込むなど、手段を選ばぬ交渉を行なった。
禁裏御守衛総督[編集]
参預会議解体後の元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に就任した。以降、慶喜は京都にあって武田耕雲斎ら水戸藩執行部や鳥取藩主・池田慶徳、岡山藩主・池田茂政(いずれも水戸家出身で、慶喜とは兄弟)らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。江戸においては、盟友である政事総裁職・松平直克と連携し、朝廷の意向に沿って横浜鎖港を引き続き推進するが、天狗党の乱への対処を巡って幕閣内の対立が激化し、6月に直克は失脚、慶喜が権力の拠り所としていた横浜鎖港路線は事実上頓挫する。
同年7月に起こった禁門の変においては、慶喜は自ら御所守備軍を指揮し、鷹司邸を占領した長州藩軍を攻撃した際は歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ。これを画期として慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、会津藩・桑名藩らとの提携が本格化することとなる(一会桑体制)。また老中の本庄宗秀・阿部正外が兵を率いて上洛し、慶喜を江戸へ連行しようとしたが、失敗した。一方、長期化していた天狗党の乱の処理を巡っては、慶喜を支持していた武田耕雲斎ら水戸藩勢力を切り捨てる冷徹さを見せた。それに続く第一次長州征伐が終わると、欧米各国が強硬に要求し、幕府にとり長年の懸案事項であった安政五カ国条約の勅許を得るため奔走した。慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、最後には自身の切腹とそれに続く家臣の暴発にさえ言及、一昼夜に渡る会議の末に遂に勅許を得ることに成功したが、京都に近い兵庫の開港については勅許を得ることができず、依然懸案事項として残された。
将軍職[編集]

ナポレオン3世から贈られた軍服姿の慶喜
慶応2年(1866年)の第二次長州征伐では、薩摩藩の妨害を抑えて慶喜が長州征伐の勅命を得る。しかし薩長同盟を結んだ薩摩藩の出兵拒否もあり、幕府軍は連敗を喫した。その第二次長州征伐最中の7月20日、将軍・家茂が大坂城で薨去する。慶喜は朝廷に運動して休戦の詔勅を引き出し、会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結に成功する。
家茂の後継として、老中の板倉勝静、小笠原長行は江戸の異論を抑えて慶喜を次期将軍に推した。慶喜はこれを固辞し、8月20日に徳川宗家は相続したものの将軍職就任は拒み続け、12月5日に将軍宣下を受けようやく将軍に就任した。これは言わば恩を売った形で将軍になることで政治を有利に進めていく狙いがあったと言われるが、就任固辞が「政略」によるとみなせる根拠も「政略」説を否定する根拠もないのが実情である。 この頃の慶喜ははっきりと開国を指向するようになっており、将軍職就任の受諾は開国体制への本格的な移行を視野に入れたものであった。
慶喜政権は会津藩・桑名藩の支持のもと、朝廷との密接な連携を特徴としており、慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上京させるなど、実質的に政権の畿内への移転が推進された。また、慶喜は将軍就任に前後して上級公家から側室を迎えようと画策しており、この間、彼に関白・摂政を兼任させる構想が繰り返し浮上した。 一方、これまで政治的には長く対立関係にあった小栗忠順ら改革派幕閣とも連携し、慶応の改革を推進した。
慶喜はフランス公使・レオン・ロッシュを通じてフランスから240万ドルの援助を受け、横須賀製鉄所や造・修船所を設立し、ジュール・ブリュネを始めとする軍事顧問団を招いて軍制改革を行った。老中の月番制を廃止し、陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を設置した。また、実弟・昭武をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学も奨励した。兵庫開港問題では朝廷を執拗に説いて勅許を得て、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を解散に追い込んだ。
薩長が武力倒幕路線に進むことを予期した慶喜は慶応3年(1867年)10月14日、政権返上を明治天皇に上奏し、翌日勅許された(大政奉還)。従来の通説的見解によれば、慶喜は当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、列侯会議を主導する形での徳川政権存続を模索していたとされる。慶喜は緊迫する政治情勢下で内乱の発生を深く懸念しており、大政奉還による政治体制の再編はその打開策であった。
詳細は「大政奉還」を参照
戊辰戦争[編集]
詳細は「戊辰戦争」を参照

大坂を脱出する慶喜を描いた錦絵(月岡芳年画)
大政奉還後の政治体制については諸侯会議によって定められるはずであったが、12月、薩摩藩らは政変により朝廷を制圧し、慶喜を新政府から排除した(王政復古)。慶喜には辞官(内大臣の辞職)と納地(幕府領の返上)が命ぜられた。 慶喜は衝突を避けるべく会津・桑名藩兵とともに大坂城に退去し、諸外国の公使らを集めて自身の正当性を主張した。慶喜は越前藩・土佐藩に運動して辞官納地を温和な形とし、年末には自身の議定就任(新政府への参画)がほぼ確定する。
しかし、翌・慶応4年(1868年)に薩摩藩の挑発に乗った慶喜は、会津・桑名藩兵とともに京都に向け進軍し、薩摩藩兵らとの武力衝突に至る。1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍が敗退し形勢不利になったと見るや、まだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、自らが指揮する旧幕府軍の兵に「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」と命を下し、自分は陣中に伴った側近や妾、老中・板倉勝静、老中・酒井忠惇、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬らと共に開陽丸で江戸へ退却した。
軍事的勝利の可能性が十分あったにも関わらず、慶喜がこのような行動を執った動機については幾つかの説がある。近年の説では、慶喜政権が天皇の権威を掌中に収め、それに依拠することによってのみ成立していた政権であったとし、それを他勢力に譲り渡した時点で彼の政治生命は潰え、一連の退却行動に繋がったとする。また、慶喜は鳥羽・伏見の戦いでの撤退原因について、薩摩を討つ覚悟はあっても、天皇(を擁した官軍)に対峙する覚悟が無かったとする説もある。
間もなく、慶喜を朝敵とする追討令が正式に下り、東征大総督・有栖川宮熾仁親王に率いられた新政府軍が東征を開始する。慶喜は、小栗忠順を初めとする抗戦派を抑えて朝廷への恭順を主張。2月には勝海舟に事態収拾を一任して自らは上野の寛永寺大慈院において謹慎する。また、徳川宗家の家督は養子である田安亀之助(後の徳川家達)に譲ることになった。
江戸総攻撃の前に行なわれた海舟と新政府軍参謀・西郷隆盛との交渉により江戸城は4月11日に新政府軍に明け渡された。彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は4月11日午前3時に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かった。水戸では弘道館の至善堂にて引き続き謹慎した後、7月に徳川家が駿府に移封されると、慶喜も駿河の宝台院に移って謹慎した。これにより、徳川家による政権は幕を閉じた。
以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は復活することはなく、慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となった。
余生[編集]

晩年の慶喜
明治2年(1869年)9月、戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き、駿府改め静岡に居住した。生存中に将軍職を退いたのは11代・家斉以来であるが、過去に大御所として政治権力を握った元将軍達とは違い、政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り、「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。
明治30年(1897年)11月に東京の巣鴨に移り住む。翌年には有栖川宮威仁親王の仲介により、皇居となった旧江戸城に参内して明治天皇に拝謁もしている。
明治34年(1901年)12月に小石川区小日向第六天町(現在の文京区春日2丁目)の高台の屋敷に転居し、ここが終焉の地となった。現在、敷地の大半は国際仏教学大学院大学になっている。明治35年(1902年)には公爵に叙せられ、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興し、貴族院議員にも就いて、35年振りに政治に携わることになった。
明治43年(1910年)12月8日、七男の慶久に家督を譲って貴族院議員を辞し、隠居。再び趣味に没頭する生活をおくる。
大正2年(1913年)11月22日、感冒(急性肺炎を併発した)にて死去。享年77(満76歳25日)。徳川歴代将軍としては最長命であった。
年譜[編集]
※明治5年までは天保暦長暦の月日表記。
弘化4年(1847年)
9月1日、一橋家を相続する。
12月1日、慶喜に改名。同日、従三位・左近衛権中将兼刑部卿叙任。
安政2年(1855年)12月3日、一条忠香の養女・美賀と結婚。参議に補任。
安政4年(1857年)、徳川家定の後継問題で有力候補となる。
安政6年(1859年)8月27日、安政の大獄において隠居謹慎蟄居の処分を受ける。
万延元年(1860年)9月4日、隠居謹慎蟄居解除。
文久2年(1862年)
7月6日、一橋家を再相続。同日、(勅命を受け)将軍後見職就任。
11月1日、権中納言に転任。
文久3年(1863年)12月、朝議参預就任。
元治元年(1864年)
3月9日、朝議参預辞任。
3月25日、将軍後見職辞任。同日、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮転職。禁門の変では、抗戦の指揮をとった。
慶応元年(1865年)、10月12日、従二位権大納言昇叙転任を固辞。
慶応2年(1866年)
7月晦日、禁裏御守衛総督辞職。
8月20日、徳川宗家相続。
12月5日、正二位・権大納言兼右近衛大将に叙任。同日、征夷大将軍就任。

慶応3年(1867年)大阪での慶喜
慶応3年(1867年)
9月21日、内大臣転任。右近衛大将如元。
10月14日、大政奉還。
12月9日、征夷大将軍職辞職。
慶応4年(1868年)4月11日、解官。
明治2年(1869年)9月28日、謹慎解除。
明治5年(1872年)1月6日、従四位に復帰。
明治13年(1880年)5月18日、正二位昇叙。
明治21年(1888年)6月20日、従一位昇叙。
明治30年(1897年)11月19日、東京・巣鴨に移住。
明治31年(1898年)3月2日、明治天皇に30年5ヶ月ぶり(大政奉還以来)謁見。
明治33年(1900年)6月22日、麝香間祗候。
明治35年(1902年)6月3日、公爵受爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許された。貴族院議員就任。
明治41年(1908年)4月30日、大政奉還の功により、明治天皇から勲一等旭日大綬章を授与される。
明治43年(1910年)12月8日、慶久に家督を譲って貴族院議員を辞め、隠居。
大正2年(1913年)11月22日(午前4時10分)死去。同日、勲一等旭日桐花大綬章を授与される。
人物[編集]
名前[編集]
幼名は七郎麻呂(しちろうまろ、七郎麿とも)。元服後、初めは実父・徳川斉昭の1字を受けて松平昭致(あきむね)と名乗っていた。その後、一橋徳川家を継ぐ際に当時の将軍・徳川家慶から偏諱(「慶」の1字)を賜い、(「慶」の字が「よろこぶ」の意味を持つことから「よろこぶ」が2つでめでたいの意で)慶喜と改名した。
「慶喜」は「よしのぶ」あるいは通称として「けいき」(有職読み)とも読む。出身地である水戸では「よしのぶ」と呼ばれることが多いが、余生を送った静岡では「けいき」と呼ばれることが多い。
生前の慶喜を知る人によると、慶喜本人は「けいき様」と呼ばれるのを好んだらしく、弟・徳川昭武に当てた電報にも自分のことを「けいき」と名乗っている。慶喜の後を継いだ七男・慶久も慶喜と同様に周囲の人々から「けいきゅう様」と呼ばれていたといわれる。「けいき様」と「けいきさん」の2つの呼び方が確認でき、現代においても少なくなりつつあると思われるが「けいきさん」の呼び方が静岡に限らず各地で確認できる。司馬遼太郎は「『けいき』と呼ぶ人は旧幕臣関係者の家系に多い」とするが、倒幕に動いた肥後藩の関係者も「けいき」と呼んでいたことが確認できる。
また、将軍在職中、江戸幕府の公式な文書等には「よしひさ」と読んだとの記録が残っている。本人によるアルファベット署名や英字新聞にも「Yoshihisa」の表記が残っている。このように「喜」を「ひさ」と読む説についてはこの字を与えられた以下の二名についても同じことが言える。
偏諱を与えた人物[編集]
松平喜徳(実弟)
細川喜廷(喜延とも、のちの細川護久)
幼年時代[編集]
武芸や学問を学ぶことに関しては最高の環境で生まれ育ち、様々な武術の中から手裏剣術に熱心で、手裏剣の達人だった。大政奉還後も、毎日額に汗して手裏剣術の修練を行ない、手裏剣術の達人たちの中で最も有名な人物に数えられる。
寝相が悪く、躾に厳しかった父の斉昭が、寝相を矯正するために寝る際には枕の両側に剃刀の刃を立てさせた。本人は眠った時を見計らって剃刀は取り外すだろうと察知していたが、寝心地は悪く、これを繰り返していくうちに寝相の悪さを克服できた。一方、成人してからは寝る際に暗殺対策として、妻妾二人とYの字になるよう三人で同衾していたという逸話も伝えられる。
幼少の頃の慶喜とされる写真が存在するが、彼が幼少の頃の日本に写真機はまだなかったと考えられるため、本人のものであるかどうかは疑わしい。
一橋家当主として[編集]
病に倒れた家茂の見舞いに訪れたことがあり、その時は普通に会話したという。
文久3年(1863年)末から翌年3月まで京都に存在した、雄藩最高実力者の合議制であった参預会議の体制は、参預諸侯間の意見の不一致からなかなか機能しなかったが、これを危惧した朝廷側の中川宮は、問題の不一致を斡旋しようと2月16日参預諸侯を自邸に招き、酒席を設けた。この席上、泥酔した慶喜は中川宮に対し、島津久光・松平春嶽・伊達宗城を指さして「この3人は天下の大愚物・大奸物であり、後見職たる自分と一緒にしないでほしい」と暴言を吐いた。この発言によって久光が完全に参預会議を見限る形となり、春嶽らが関係修復を模索するが、結局体制は崩壊となった。
将軍として[編集]
英邁さで知られ、実父・斉昭の腹心・安島帯刀は、慶喜を「徳川の流れを清ましめん御仁」と評し、幕威回復の期待を一身に背負い鳴物入りで将軍位に就くと、「権現様の再来」とまでその英明を称えられた。慶喜の英明は倒幕派にも知れ渡っており、特に長州藩の桂小五郎は「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」と警戒していた。
鳥羽・伏見の戦い後の「敵前逃亡」など惰弱なイメージがあったが、大政奉還後に新たな近代的政治体制を築こうとしたことなどが近年クローズアップされ、加えて大河ドラマの放送などもあり、再評価する動きもある。
慶応の改革の一環として建築された横須賀製鉄所は明治政府に引き継がれ、現在もその一部が在日米軍に利用されている。また同時期に幕府陸軍の人員増強やフランス軍事顧問団の招聘が行われたことで、多くの幕臣が西洋式の軍事教育を受ける機会に恵まれた。その中から山岡鉄舟・大鳥圭介・津田真道など、のちに明治政府の官吏・軍人として活躍する人材が輩出されており、明治維新により事実上頓挫した慶応の改革は日本の近代化に少なからず貢献した。
坂本龍馬は大政奉還後の政権を慶喜が主導することを想定していたと指摘する研究者もいる。司馬遼太郎の作品では「大樹(将軍)公、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな、よくも断じ給へるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」との龍馬の評価が引用された。これは坂崎紫瀾が著した容堂伝『鯨海酔候』や渋沢栄一らによって書かれた『徳川慶喜公伝』で紹介されている。ただし、慶喜自身が龍馬の存在を知ったのは明治になってからと言われる。
新政府軍との戦い[編集]
鳥羽・伏見の戦いの最中に大坂から江戸へ退去したことは「敵前逃亡」と敵味方から大きく非難された。この時、家康以来の金扇の馬印は置き忘れたが、お気に入りの愛妾は忘れずに同伴していた、と慶喜の惰弱さを揶揄する者もあった。しかしこの時、江戸や武蔵での武装一揆に抗する必要があったことや、慶喜が朝敵となったことによって諸大名の離反が相次いでおり、たとえ大坂城を守れても長期戦は必至で、諸外国の介入を招きかねなかったことから、やむを得なかったという見方もある。
新政府から「朝敵」とされるとすぐに寛永寺に謹慎した事などから、天皇や朝廷を重んじる心ある者だと評価される(尊王思想である水戸学や、母親が皇室出身であることなどが多分に影響していると思われる)。
明治維新後[編集]

狩猟姿の慶喜

弓を引く慶喜。弓術は毎日150本射るのを日課としていた。晩年医者にやり過ぎを指摘され100本に減らし、100本射るのに3時間かかったと言う。
実業家の渋沢栄一は一橋家の当主だった頃に家臣である平岡円四郎の推挙によって登用した家臣で、明治維新後も親交があった。渋沢は慶喜の晩年、慶喜の伝記の編纂を目指し、渋る慶喜を説得して直話を聞く「昔夢会」を開いた。これをまとめたのが『昔夢会筆記』である。座談会形式で記録されている一部の章では、老齢の慶喜のいわば肉声に触れることができる。「島津久光はあまり好きじゃなかった」「鍋島直正はずるい人だった」と本音を漏らすなど、彼の性格と当時の心境が窺える。慶喜の死後、こうした資料を基に『徳川慶喜公伝』が作られた。
恭順謹慎、江戸無血開城などにより、無血革命に近い状態で政権移譲できたことから、近代日本の独立性が守られ、維新への功績は大きいと評価された。
渋沢栄一、萩野由之は、慶喜の恭順により、京都や江戸が焦土なることをまぬがれ、また、フランスの援助を拒絶したため、外国の介入がなかったとし、維新最大の功績者の一人であったと述べ、特に渋沢は安政の大獄と明治維新の際の謹慎の態度も高く評価している。
鳥谷部春汀は第二の関ヶ原の戦いを回避できたのは慶喜の功績であるなど、行跡・人格・才能とともに日本史上最大の人物の一人と記している。
勝海舟は、皇居参内の翌日、慶喜がわざわざ訪ねて来て、礼を言われたため、生きていた甲斐があったとうれし涙をこぼし、品位を保ちむやみに旧大名と行き来しないようという忠告には、その通りにします、と言われ、書も頼まれたため、うれし涙を飲み込み、さすが水戸家で養育された方だけある、と感心した。
菊池謙二郎は『水戸学論藪』において「ああ他人をして慶喜公の地位に在らしめたらどうであったろう。(略)一意皇室を思い国家を憂えられた其の至誠は、何人が企及し得る所であろうか」と評価している。
朝敵とされた自分を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇に感謝の意を示すため、慶喜は自分の葬儀を仏式ではなく神式で行なうよう遺言した。このため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。京都で歴代天皇陵が質素であることを見て感動したためである。
逸話[編集]
父・斉昭と同じく薩摩産の豚肉が好物で、豚一様(ぶたいちさま、「豚肉がお好きな一橋様」の意)と呼ばれた。西洋の文物にも関心を寄せ、晩年はパンと牛乳を好み、カメラによる写真撮影・釣り・自転車・顕微鏡・油絵・手芸(刺繍)などの趣味に興じた。
将軍時代の慶応3年(1867年)3月から、西周にフランス語を習い、すぐに初歩は理解したが、多忙なため学習を断念した。
攘夷論をめぐり、孝明天皇の側近である中川宮が前日の会談での発言を撤回していることを知った26歳の時、茶碗5杯ほどの冷酒を飲み、帯刀して馬で親王家に押し入り、「殺しに来た!」と詰め寄るもなだめられ、お茶を勧められると「自分で買って飲む」と言った。
鳥羽・伏見の戦いにおいて軍艦開陽丸で江戸へ退却後、江戸城に入った慶喜は、鰻の蒲焼を取り寄せるように奥詰の者に命じ、二分の金を渡したが、時期はずれで一両でなければ入手できず、自らの金を加えて買いもとめた。また慶喜から鮪の刺身を食べたいとの指示があったが、食中毒をおそれて刺身を食膳にあげた例はなく、そのため刺身を味噌づけにして食膳にそなえた。
静岡に住んでいる時、家臣達と一緒に愛用の自転車でサイクリングした(家臣達は走っていた)。その自転車を購入した自転車店は、現在の静岡市葵区紺屋町にあり、近年まで営業していた。
東京・墨田区の向島百花園には慶喜が書いた「日本橋」の文字が彫られた石柱が保存されている。実際に橋として使われていたものである。
趣味としての写真撮影を日常としたがあまり上達しなかった。写真雑誌にもたびたび投稿したが、なかなか採用されなかった。こうした趣味に没頭する生活の中で実弟・昭武との交流を深めていった。なお、曾孫の徳川慶朝はフリーのカメラマンであり、彼によって慶喜の撮影分も含めて徳川慶喜家に所蔵されていた写真類が発見され、整理と編集を行なった上で出版された。写真家の長野重一によれば腕前はセミプロ並みとの評価であるが写真集『将軍が撮った明治』(朝日新聞社)を見る限り、写真が芸術性を帯びてくるのは晩年からであり、単に日記代わりとして撮っていたと、評価している。
油絵にも嗜み、慶喜作とされる油彩画が10点弱確認されている。最初は武家のならいで、狩野派の狩野探淵に絵を学んだ後、静岡では開成所で西洋画法を身につけた中島仰山(鍬次郎)を召して油絵を学んだ。当時は元将軍であっても西洋画材は入手しづらく、時には似たもので代用したという。慶喜の絵は、複数の手本を寄せ集めて絵を構成しており、その結果遠近法や陰影法が不揃いで、画面全体の統一を欠くことが多い。反面、樹の枝や草、岩肌、衣の襞など、細部描写は丁寧で、現代の目では不思議な印象を与える絵となっている。モチーフに川や山がよく登場する事や、絵から絵を作る作画方法から、油絵という西洋の画法を使いつつも、作画姿勢は山水画を貴ぶ近世の文人の意識が強く残っているといえる。なお、慶喜の風景画の殆どに決まって橋が描かれており、近世から近代への橋渡しをした慶喜と故ありげな符号である。
北海道江差町の国道229号に、名前に因んだ「慶喜トンネル」が存在する。
大正5年(1916年)に徳川慶久により「徳川慶喜公歌集」が編纂され、平成25年(2013年)に松戸市戸定歴史館から解題等を付けた復刻本が限定500部で刊行された。
家庭・親族[編集]
安政2年(1855年)12月3日、一条美賀と結婚(維新後に美賀子と改名)。美賀との間には女子(瓊光院殿池水影現大童女)が安政5年(1858年)7月16日に誕生するも、7月20日に早世。以後、美賀との間に子女は生まれず、明治になって誕生した10男11女は皆、二人の側室との間に儲けた子女である。公爵となり徳川慶喜家を継いだ七男・慶久や、勝海舟の婿養子となった十男・精、伏見宮博恭王妃となった九女・経子などである。なお、慶久の子女には、徳川慶光や高松宮宣仁親王妃となった喜久子らがいる。
明治天皇は義理の弟に当たる(正室の一条美賀子が昭憲皇太后の義姉であるため)。
正室:一条美賀(維新後に美賀子と改名)(今出川公久娘、一条忠香養女、天保6年7月19日 - 明治27年7月9日)
側室:一色須賀(一色貞之助定住娘、天保9年4月26日 - 昭和4年)
側室:新村信(松平政隆娘、新村猛雄養女、嘉永5年頃 - 明治38年2月8日)
長男:敬事(明治4年6月29日 - 明治5年5月22日)
長女:鏡子(明治20年3月23日結婚、徳川達孝夫人、明治6年6月2日 - 明治26年9月29日)
三女:鉄子(明治23年12月30日結婚、徳川達道(一橋茂栄の子)夫人、明治8年10月27日 - 大正10年12月10日)
五男:仲博(鳥取藩主家池田氏第14代当主、侯爵・貴族院議員、大正天皇侍従長、明治23年2月25日池田輝知養子、明治10年8月28日 - 昭和23年1月1日)
六男:斉(明治11年8月17日 - 明治11年11月28日)
六女:良子(明治13年8月24日 - 明治13年9月29日)
九女:経子(明治30年1月9日結婚、伏見宮博恭王妃、明治15年9月23日 - 昭和14年8月18日)
七男:慶久(公爵・貴族院議員、華族世襲財産審議会議長、明治17年9月2日 - 大正11年1月22日)
十一女:英子(明治44年4月29日結婚、徳川圀順夫人、明治20年3月22日 - 大正13年7月5日)
十男:精(伯爵、浅野セメント重役、明治32年1月20日勝海舟婿養子、明治21年8月23日 - 昭和7年7月11日)
側室:中根幸(中根芳三郎長女、天保7年頃 - 大正4年12月29日)
次男:善事(明治4年9月8日 - 明治5年3月10日)
三男:琢磨(明治5年10月5日 - 明治6年7月5日)
四男:厚(男爵・貴族院議員、東明火災保険取締役、明治7年2月21日 - 昭和5年6月12日)
次女:金子(明治8年4月3日 - 明治8年7月22日)
四女:筆子(明治28年12月26日結婚、蜂須賀正韶夫人、明治9年7月17日 - 明治40年11月30日)
五女:脩子(明治11年8月17日 - 明治11年10月8日)
七女:浪子(明治28年12月7日結婚、松平斉(松平斉民の九男)夫人、明治13年9月17日 - 昭和29年1月13日)
八女:国子(明治34年5月7日結婚、大河内輝耕(大河内輝声の長男)夫人、明治15年1月23日 - 昭和17年9月11日)
十女:糸子(明治39年5月19日結婚、四条隆愛夫人、明治16年9月18日 - 昭和28年10月11日)
死産:男子(明治17年8月22日死産)
八男:寧(明治18年9月22日 - 明治19年7月2日)
九男:誠(男爵・貴族院議員、明治20年10月31日 - 昭和43年11月11日)
死産:女子(明治24年6月2日死産)
妾:芳(新門辰五郎の娘)
慶喜を題材とした作品[編集]
小説
『徳川慶喜』(山岡荘八)
『徳川慶喜の英略』(谷恒生)
『最後の将軍-徳川慶喜-』(司馬遼太郎)
映画
『徳川一族の崩壊』(1980年、平幹二朗)
テレビドラマ
『徳川慶喜』(1998年、NHK大河ドラマ、本木雅弘)


この人物は、将軍家にうまれていない。
徳川将軍家の分家である水戸(みと)の徳川家にうまれた。水戸を御三家(ごさんけ)のひとつという。御三家は、水戸のほかに、紀州、尾張がある。
この御三家のうち水戸がもっとも石高がすくなく、官位も他の二家が大納言(だいなごん)であるのに対して、中納言でしかない。それに将軍家に嗣子(しし)がいない場合、紀州・尾張から入ることはあっても水戸から入ることはなかった。
いわば、一格さげて差別されてきている。
もっとも、ただひとつの点で他の二家よりも優遇されていた。当主は参勤(さんきん)交代の義務はなく江戸屋敷に常設する特権があたえられていたことであった。
江戸の将軍と同じで江戸にいていいし、水戸に帰るのも自由であった。そんな訳で、ということで、
「天下の副将軍」
と、いわれた。『水戸黄門』こと”水戸光圀”はご先祖である。テレビドラマのように全国行脚はしてはいないが(笑)
 父親は烈公斉昭(れっこう・なりあき)である。
 尊皇攘夷派の斉昭は天下の志士たちから敬慕された。
烈公斉昭の正室は、京からきた。有栖川宮家(ありすがわのみやけ)の王女で、未婚のころは登美宮(とみのみや)吉子といった。
 吉子は大変な美貌の皇女で、斉昭には他にわき腹の男子がいたが、家督は当然ながら正室の子が継ぐ。まず一児を得た。これが鶴千代、のちの水戸家十代慶篤(よしあつ)である。
 成人して京都ふうの柔和な顔になった。性格がよわく、斉昭ごのみの威張ったところがない。斉昭は失望した。かならずしも吉子の腹での子供ではないが二郎麿、三郎麿、四郎麿、五郎麿、六郎麿、と生まれた。
 しかし、うち二と五が吉子の腹であった。二は早世し、五は少年になるにつれてやわくなり、斉昭は、
「京の血の濃さよ」
 と言った。五は鳥取藩に養子に出され、鳥取藩主池田慶徳(よしのり)となる。
 ほどなく吉子の腹から慶喜が生まれた。
 七郎麿(しちろうまろ)と名付けられた。
「この子は、武家の血か宮家の血か」
 斉昭は将来有望なのは七郎麿ではないか?と思ったという。
 そう、この赤子こそのちの徳川最後の将軍、徳川慶喜、そのひとである。
 斉昭は七郎麿の誕生後、政治的な事情で、常陸(ひたち)水戸城にいたため、七郎麿は父母の目に触れることはなかった。
 慶喜が十歳のとき、斉昭はひさびさで国へかえり、成長した慶喜をはじめて見た。
「あの子だけはちがう」と、家臣たちの前で人相見のようなことをいった。京の堂上ふうではないというのである。
 天晴(あっぱれ)、名将とならん。されどよくせば手にあまるべし。
「武士は寝相をよくするものぞ」
 斉昭はまだ少年の慶喜の寝相をよくしようと、ぐにゃりとした寝相を改めさせ、万が一に寝どころを襲われたときも、刀を握って賊を斬れるようにと右手が常につかえるような寝相を考案した。
 考案というより特訓で、二本の剃刀を”つの”のように立てて、ひっそりと寝返ぬかぎり頭や顔が切れるようにした。
 この特訓は晩年まで慶喜の寝相のよさの要因となる。
 だが、この七郎麿が、兄たちの度重なる早世と夭折で、のちに水戸の副将軍となり、徳川将軍家になり、最後の将軍となるので、ある。
 幕府家老の中山は、
「ペリーじゃと?そげな異人追い返せばよいではないか!?」
とのべた。おりしも一八五三年、ぺルリ(ペリー)の黒船来航で、ある。
(馬鹿家老だな。ぺルリの黒船の威力や背後関係、政治経済も知らぬ。)
 と、阿部正弘老中は思った。悪名高いが有能な井伊大老の前の大老は阿部正弘である。
 幕府だって馬鹿じゃない。ぺルリの脅しに屈服した訳じゃないが異国の技術にはさすがに度肝を抜かれた。
 蒸気機関、アームストロング砲、機関銃、ゲベール銃、ミニエー銃………尊皇攘夷など荒唐無稽である。
 だが、斉昭は攘夷思想である。それが徳川慶喜を悩ませた。
 将軍家の養子は水戸、紀州、尾張の御三家だが、ほかに、「御三卿」の家から選ばれる。御三卿とは一橋、清水、田安の三家であった。その一橋家に慶喜が入った。
 次期将軍の可能性がある。というどころではない。現在、尾張家には世継ぎすらもいない。紀州家の子はまだ赤子同然。しかも、将軍・家定はリトル・インテリジェンス(知恵後れ)である。
 時代は、慶喜を必要としているかのようだった。
 『最後の将軍』司馬遼太郎著作(文春文庫)より引用 7~18ページ

吉田松陰は吉田矩方という本名で、人生は1830年9月20日(天保元年8月4日)から1859年(安政6年10月27日)までの生涯である。享年30歳……
 通称は吉田寅次郎、吉田大次郎。幼名・虎之助。名は矩方(よりかた)、字(あざな)は義卿(ぎけい)または子義。二十一回猛士とも号する。変名を松野他三郎、瓜中万二ともいう。長州藩士である。江戸(伝馬町)で死罪となっている。
 尊皇壤夷派で、井伊大老のいわゆる『安政の大獄』で密航の罪により死罪となっている。名字は杉虎次郎ともいう。養子にはいって吉田姓になり、大次郎と改める。
 字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の名は尊皇家の高山彦九郎おくり名である。1830年9月20日(天保元年8月4日)、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)に叔父である山鹿流兵学師範である吉田大助の養子になるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。吉田松陰の初めての伝記を示したのは死後まもなく土屋瀟海(しょうかい)、名を張通竹弥之助という文筆家で「吉田松陰伝」というものを書いた。が、その出版前の原稿を読んだ高杉晋作が「何だ! こんなものを先生の伝記とすることができるか!」と激高して破り捨てた為、この原稿は作品になっていない。
 また別の文筆家が「伝記・吉田松陰」というのを明治初期にものし、その伝記には松陰の弟子の伊藤博文や山県有朋、山田顕義(よしあき)らが名を寄せ寄稿し「高杉晋作の有名なエピソード」も載っている。天保六年(1835年)松陰6歳で「憂ヲ憂トシテ…(中訳)…楽ヲ享クル二至ラサラヌ人」と賞賛されている。

  松陰は後年こういっている。
「私がほんとうに修行したのは兵学だけだ。私の家は兵学の家筋だから、父もなんとか私を一人前にしようと思い、当時萩で評判の叔父の弟子につけた。この叔父は世間並みの兵学家ではなくて、いまどき皆がやる兵学は型ばかりだ。あんたは本当の兵学をやりなさい、と言ってくれた。アヘン戦争で清が西洋列強国に大敗したこともあって嘉永三年(1850年)に九州に遊学したよ。そして江戸で佐久間象山先生の弟子になった。
 嘉永五年(1852年)長州藩に内緒で東北の会津藩などを旅行したものだから、罪に問われてね。士籍剥奪や世禄没収となったのさ」
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作『最後の将軍』、童門冬二著作、池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』、津本陽著作『私に帰せず 勝海舟』、日本テレビドラマ映像資料『田原坂』『五稜郭』『奇兵隊』『勝海舟』、NHK映像資料『歴史秘話ヒストリア』『その時歴史が動いた』、『陸奥宗光』上下 荻原延濤(朝日新聞社)、『陸奥宗光』上下 岡崎久彦(PHP文庫)、『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦(PHP文庫)、『勝海舟全集』勝部真長ほか編(頸草書房)、『勝海舟』松浦玲(中公新書)、『氷川清話』勝海舟/勝部真長編(角川文庫)、『坂本龍馬』池田敬正(中公新書)、『坂本龍馬』松浦玲(岩波新書)、『坂本龍馬 海援隊始末記』平尾道雄(中公文庫)、『一外交官の見た明治維新』上下 アーネスト・サトウ/坂田精一(岩波文庫)、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一(東洋文庫)、『幕末外交談』田辺太一/坂田精一校注・訳(東洋文庫)、『京都守護職始末』山川浩/遠山茂樹校注/金子光晴訳(東洋文庫)、『日本の歴史 19 開国と攘夷』小西四郎(中公文庫)、『日本の歴史 18 開国と幕末変革』井上勝生(講談社文庫)、『日本の時代史 20 開国と幕末の動乱』井上勲編(吉川弘文館)、『図説和歌山県の歴史』安藤精一(河出書房新刊)、『荒ぶる波濤』津本陽(PHP文庫)、大河ドラマ『龍馬伝』『徳川慶喜』『篤姫』『新撰組!』『八重の桜』『坂の上の雲』、『花燃ゆ』漫画『おーい!竜馬』一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。

【天皇制は特権階級でも権威でもない】今上天皇美智子皇后さまのおやさしさに勝る日本人なし!

2015年11月25日 16時12分39秒 | 日記







左翼は天皇制を勘違いしている。


天皇制は特権階級でもないし皇族は贅沢などしていない。

あんな皇居みたいな狭い所に閉じ込められて自由もなくかわいそうな人達である。


今上天皇陛下や美智子皇后さまの


神がかりなおやさしさに勝てる人種は日本にいない!


天皇制は権威でもない!左翼よ、目を覚ませ!臥竜


 ペンネーム福本清二が偽名で「皇居の何処がせまいんだ?皇族は毎年300億円でぶらぶらしているんだ!お前こそ目を覚ませ!」とまた悪口(笑、私のツイッターに(笑))福本の文章って本人にはわからないらしいが文章にくせがあるからすぐわかるんだよね(笑)
皇族の公務の激務や天皇陛下や皇后さまの御苦労がわからない。
皇室が「特権階級」でもなく「権威」でもないことなど少し考えればわかりそうなものなのにね(笑)まあ、福本は中卒だからな(笑)自分を客観的にみることもできず「インテリゲンチャ」だの「視野狭窄」だの「自殺教唆」だの悪口いっているうちは物事の真理などわからんよ(笑)


緑川鷲羽そして始まりの2016年へ!臥竜  緑川鷲羽2016ReBORN上杉謙信

【英会話上達方法】単語・文法だけ暗記しても駄目!アウトプット(言いたい事)→インプット英会話発音!

2015年11月23日 16時30分29秒 | 日記







おススメの英会話勉強法はコンピュータのスカイプとかでフィリピンやインドの格安の英会話教室で生で外国人のホストと低料金で話すとかネットの英語の授業を聴くとか、字幕付きの洋画を観て発音と意味をノートに写経して反復練習するとかNHKの英会話番組を録画するとか。何でもいいんですよ。英会話なんて才能じゃなく技能でもなく只の言語なんですから(笑)お薦めの勉強方法はイムランさんという方の、現地のひとが発音する通りの(つまり英文すべて棒読み読みではなく)いろいろな箇所をはぶいて発音する、勉強方法です。まずはインターネットでイムランさんの動画を観てみてください。必ず「なるほど」と納得する筈ですよ。イムランさんの言う通りで、どうしても日本人は単語や英文を覚えようとして挫折する、そして学び直してまた挫折…という繰り返しです。これはインプット(英語言語)→アウトプット(自分の言いたいこと)という間違った英会話勉強法が英会話が出来ない最大の難点ですよね(笑)イムランさんではないがまずはアウトプット(自分の言いたいこと)「僕は〇〇です」「はじめまして。仕事は〇〇をしています」「出身は〇〇です。〇〇が有名なんですよ。御存知ですか?食べたことありますか?」「日本の何処に行きたいですか?」というような自分の言いたいこと(日本語)を書いて、その英会話文章を発音を練習する、という流れでないと英会話が成立しません。まるで何処かの大学教授のような英単語を何万語も覚えているが外国人と話せない…などというような本末転倒な残念な人と同じですよ。会話なんですから英語は(笑)日本語で言うなら漢字を何万語も知っているのに日本語を話せない、みたいな(笑)本末転倒ですよ(笑)まず自分がいうセリフを想定してイメージして英会話を話す、という勉強法以外話せるようにはなりません。「こんな中学生レベルの英単語」とあなどるなかれ。まず話せてナンボでしょう?話せないなら単語だけ覚えていても意味なし!それが英語です。なお、 語学というのは必ずすんなりマスター出来るものではありません。天才やIQの高いひとならすぐマスターするでしょうが普通のIQのひとはとにかく積み重ねです。聞き流して覚えるとか英会話の脳を作る為に英会話を何時間も聴くとかいうのは、あまり簡単にマスターできると思わない事。まあ、ダイエットや司法試験や資格試験勉強と同じです。甘い考えではいつまでたっても英会話などマスター出来ませんよ。では。

東日本大震災から5年 最大のドキュメント   『大型時代小説 東日本大震災<緑川史観>』VOL.3

2015年11月23日 08時04分17秒 | 日記









話を少し過去に戻す。未曾有の大震災『東日本大震災』の物語をここから展開したい。
***


物語は西暦2011年(平23成年)3月1日晴れの神奈川県横須賀の近くの住宅から始まる。
主人公の名は鈴木崇(すずき・たかし)で眉目秀麗な色男で、二十一歳である。
背は高い方ではないがきりりとした眉をした痩せた体に、短い髪型で、防衛大学生らしく、浅黒い肌である。このひとこそこの物語の主人公である。
父親の鈴木弘3等陸佐はすでに先の阪神淡路大震災で殉職している。リビングというか仏壇には父親の遺影がある。
母の名は、ゆき子、といい、病弱で、ほぼ寝たきり状態である。
崇には三歳年下の妹がいる。
名を鈴木海荷(うみか)という。十五歳。
美人な方であると思われる。兄に比べて少しおっとりしている性格で当時は当然ながらミニスカートに見せブラ姿で、芸能人風に髪を上で櫛結いしている。家事全般があまり得意ではないが、母親の、ゆき子、が、病気である以上、おさんどんは海荷がやらざる得ない。
海荷は洗濯は好きだが、料理や裁縫が苦手で、いつも同じような関東風料理ばかりつくる。
だから、長男の崇は「また同じ料理かい?」と文句を吐いたわけだ(笑)。
一家の収入は父親の生命保険と防衛大学生である鈴木崇の僅かな勤労奉仕とバイト代だけであるが、極貧というほどでもない。
けっこう敷地にこぎれいな畑をつくり、晴耕雨読とまではいかないがなんとか食糧に困ることはない。次男の鈴木実は工科学校(昔でいう陸軍幼年学校)に行っている。全寮制で、中学生から自衛隊のスペシャリストを目指している。
親戚には酪農をやっている人種もいる。
だが、時代は戦後の平和ぼけ、のバブル経済崩壊後である。
海荷は高校生だったが、母親が病気であり、おさんどんは海荷がせねばならない。
一家は早朝の朝ご飯の時間帯である。
「お兄ちゃん、文句言うんだったら兄ちゃんが朝飯つくり!」
「ぼくは文句をいっているんじゃない。でも、カレーは此れで一週間毎日じゃないか。もっと料理のレパートリーを増やさないといけない訳よ、じゃないと海荷はちゃんとしたところに嫁にいけんよぉ?」
「余計なお世話よ、兄ちゃん。崇兄ちゃんは防衛大学生でいいけど、実兄ちゃん(次男)は工科学校なんよ。崇にいよりたいへんやわ。それよりお母さんに御粥食べさせてやって。親戚のおばあにパイナップルも頂いたから、それも…」
「はいはい。」崇は言った。「でもぉ、お兄ちゃんも防衛大学生でね、今度、僕等も卒業して自衛隊の現場で行くわけよ」
「え?ああ、大島仁(ひとし)ちゃん?そういえば卒業したら3等陸尉(少尉)だって…」
「ああ、ぼくも防衛大卒なら学歴で3等陸尉(少尉)。今日の朝に出陣式が大島の家の前である訳。LINEで連絡取ってあるからね」
「あの大島の兄ちゃん、左脚が悪いのに防衛大学卒とかで、自衛隊かぁ」
「ああ、ぼくもだなあ。自衛隊だもの。すぐに赤紙がくるよ、ぼくのところにも」
「兄ちゃんもちばりゃんとねえ。日の丸と天皇陛下の為に戦わんといかんもんねえ」
母は咳をしながら「これ海荷、食べながら喋っちゃ駄目、行儀悪りいよう」と叱る。
「そうだぞ、海荷」
兄の崇は冗談交じりに海荷を叱る。むくれる海荷。母と兄はそれがおかしくて笑う。
「なによ?もう!お兄ちゃん達より、実兄ちゃんの方が大卒の学歴こそないけどプロフェッショナルなんだからね!」
鈴木崇の親友の大島仁は同じ防衛大学で二十二歳、ある。
ふたりはあわただしく朝食を済ませると、近所の大島仁の家に急いだ。
もう「万歳!万歳!」とやっている。
「大島仁くんの御武運と御出征とご卒業を祈り、ばんざーい!万歳―!」
辺りのひとやおっさんやおばあたちが日の丸を振る。…立派になった!敵をやっつけるんだぞ!
大島仁は鈴木崇よりは一歳年上だが、同じ防衛大学生だった。
生まれつき左脚が悪い体質だったが、痩身でこちらも眉目秀麗で、黒縁眼鏡が印象的な男である。防衛大の制服をきちんと着て、周囲に礼をしている。
「おう!仁!遅れたで、すまんちゃ!」
崇と海荷は走り込んでセーフだった。
「おお!同じく防衛大卒業生の鈴木崇くんだ!ばんざーい!ばんざーい!」
「崇!海荷ちゃん!俺もいよいよお国の役にたてるさー」
「どうも、どうも。大島、進路は決まってんのか?」
大島仁は「決まった!どうも陸上自衛隊らしいんだわ。だけど、どうも仙台駐屯地の防衛省直属の自衛隊特殊工作部隊らしんだが」
「特殊工作部隊?なんねそれ?」
「SEELDZ(シールズ)、防衛省の高杉晋作の“奇兵隊”みたいなもんさー」
「ああ、奇兵隊(笑)よく百六十年も前の話ばするっとねえ仁(笑)さすが日本史歴史学専攻だねえ?(笑)」
「馬鹿だな。SEELDZは警察庁のSATより凄いんだぜ」
「だれよりもさーっと(SAT)ね」
鈴木崇は冗談を言った。大島仁も笑う。海荷は頬を赤らめながら“プレゼント”を渡した。
「ありがとう、海荷ちゃん。」
大島仁は白い歯をみせて笑った。
「俺の心配は親と妹の亜衣のことだよ」
「そうか。心配ないよ。あいちゃん(大島亜衣)、工科学校で今度卒業するんだろう?それにのう、仁……実はなあ、俺も“赤紙”なんだ。大島。しかも僕もSEELDZだ」
亜衣とは、大島仁の可愛がっている高校生の可愛い顔の妹である。
噂をすれば亜衣から兄・仁の元のスマホに電話があった。
「あんちゃん!亜衣だよ。」
「亜衣―!あんちゃん防衛大卒で仙台駐屯地に行くのさ。お前も工科学校卒業だよな?」
「うん」
「おめでとう!」
 大島仁3等陸尉(少尉)は妹に告げた。
鈴木崇は隠しておいた赤紙をはじめて大島仁にみせた。「え?おい!大丈夫かあー?鈴木?」
「ぼくも自衛隊・防衛省直属特殊部隊!SEELDZ兵隊さまよ!少尉(3等陸尉)!死んだおやじの仇をとる!七生報國さ(七回生まれ変わっても日本國を守る)!僕も仙台駐屯地らしいぜ」
「え?お兄ちゃん?え?そんなあ」海荷は驚くより呆れた。なんて勝手な兄だろう。
「鈴木崇。大島仁。」
その男の声でやっとふたりは恩師の狛江研一(こまえ・けんいち防衛大学教授・3等陸佐(大佐)五十三歳)の存在に気付いた。「あ!先生!」
「あ!じゃない」まるでタレントの北大路欣也さんみたいなおじさんの風体のひとである。
これで防衛大学の名物教授というからおそれいる。立派な制服姿だ。
「君たちねえ、死んじゃいかんよ。生きねばねえ。人間生きてなんぼさ」
「それは…そうですが先生、あまり大声ではいわないほうが…」
「そうですよ。非国民扱いを受けますよ、3佐」
鈴木崇と大島仁はひそひそ声でいった。
「だまらっしゃい!命あっての宝物じゃぞ。死んだ人間に何も出来ないのだから」先生は訊く耳をもたない。
ふたりの教え子がおそれるのは近所の“戦争のおじい”こと伊逹五右衛門(だて・ごえもん)おじいみたいになることである。
もう耄碌で、今でいう認知症(能軟化)で、ボケていて、とにかく「戦争しろ!敵を殺せ!」。
戦争の時代なら、それもいいかも知れない。
戦争世代からみれば「勇気のある気骨もの」に見えるだろう。
だが、このおじい、発言が平和な平成の世で、ある。
白髪の長い髪と髭で、なんとなくジャーナリストの徳富蘇峰みたいな風体だ。もう八十数歳のおじいさん、である。ボケていて、近所を徘徊し、「戦争をしろ!戦争!せんそーう!」とクレイジーに叫ぶ。ボケていると知っている人間ならいいが、時代は平和な世である。
「なんだとこの非国民!」
「非国民!非国民!」
群衆は非国民伊逹五右衛門おじい、に投石したり、罵声を浴びせかける。
鈴木崇や大島仁たちは「このひとは認知症(能軟化)なんです!病気なんです!」と庇うが、庇いきれるものではない。
非国民!と投石の流れ石が額に当たって流血した鈴木崇を介抱したのが、狛江先生の一人娘の綺麗な御嬢さん、狛江晴香(十七歳、仙台大学生)、であった。
まさかふたりに愛や恋心が芽生えるとは当の本人たちも思わない。
だが、朱に交われば赤くなる、である。最近は伊逹五右衛門老人は徘徊が酷くなり、行方不明状態である。
「崇さん、兵隊さんだってねえ?だいじょうぶ?」
「心配ないよ!ぼくはお国の為に戦う!国民の生活と財産と命を守る!」
「……外敵に自衛隊で勝てると思う?」
「……」
「うちのお父さんも言うじゃない?“死んだらおわりだ”って。死んだらおわりじゃない?」
「ならどうしろと?」崇は教授のひとり娘・狛江晴香に食ってかかった。
意味がない。どうせ答えはない。只、死なないで帰ってきて程度だ。
だが、その愛情が『犬死』をためらわせた。
「崇君には生きて戻ってきて欲しいの」
「しかし…」鈴木崇は大学の校舎で泣いた。只々、狛江晴香が愛しかった。
狛江晴香の母親はジェシカという。
スコットランド人である。つまり、晴香はハーフな訳だ。
スコットランド人の母親と日本人の父親のハーフ(混血)。狛江ジェシカは日本からスコットランドに疎開していた。差別や阻害が酷い為だ。日本でさえ……。
大島仁の母親は大島ふみ、という。
鈴木崇の“もうひとりの母親的”存在、である。
確かにそうだったのかも知れない。大島ふみ、は優しい心が澄んだとてもいいひとである。
鈴木崇に、“自衛隊は国を守る必要な暴力装置”と教えてくれたのもこの大島の母親、大島ふみ、であった。
ちなみに鈴木崇は大卒というか学歴があるために一兵卒というより“3等陸尉(少尉)”である。大島仁のほうも防衛省直属の特殊工作部隊SEELDZの指導的な立場にたたされる。
習志野(SKG)からの凄腕が、一騎当千の凄い人間たちが所属するのが防衛省直属の特殊工作部隊、通称、SEELDZ(シールズ)、である。
「とにかく日本国を守るのは僕達と優秀な自衛隊と工兵部隊だ!」
「やろうぜ!」「よっしゃ!」
ふたりは熱くなった。ICBM(大陸間弾道ミサイル)でもサイバー攻撃でも何でもきやがれってんだ!“優秀な防衛”というものをみせてやる!いずれちゃんとした政治家も現れ、“集団的自衛権”も“駆けつけ警護”も出来るようになるさ!

参考文献『国防論』小林よしのり著作、小学館出版より引用(P198)
現代では自衛隊(つまり事実上の日本軍)は『自衛隊は軍じゃない』という詭弁から、昔のように戦闘艦とか大佐とか少尉とか大将とか呼ばない。まあ、言葉遊びみたいなものだが、戦闘艦は護衛艦とよび、普通、護衛艦が守るのは空母なはずだが、『自衛隊は軍隊じゃない』という詭弁の元では護衛艦(事実上の戦闘艦)が守るのは商船や貨物船や石油やガスを積んだタンカーである。2015年の安保法案の改訂で、もういいのかも知れないが事実上はタンカーの警護も出来ない。“憲法違反”である、という(笑)
馬鹿馬鹿しい。いつまで自衛隊に“足枷”ばかりつけるつもりなんだろう。
ちなみに陸自(陸上自衛隊)のケースだが、昔の階級でいう大将は「陸将(陸上幕僚長)」、中将は「陸将」、少将は「陸将補」、大佐は「1等陸佐」、中佐は「2等陸佐」、少佐は「3等陸佐」、大尉は「1等陸尉」、中尉は「2等陸尉」、少尉は「3等陸尉」、兵曹長は「准陸尉」、上等兵曹は「陸曹長」……等というようになっている。後はウィキペディアででも調べて欲しい。しかし「大佐」「大尉」「大将」「軍曹」などといえばすぐにわかるが、「3尉」「1佐」などといわれても軍事マニアでもなければまずわからない。
何処までも『自衛隊は軍隊じゃない』という詭弁で動いている。
自衛隊隊員は優秀で愛国心あふれる正義の人が多いだけによけいな『足枷』が立派な職務を妨害する、それこそ『足枷』にならねばいいが……。
参考文献『国防論』小林よしのり著作、小学館出版より引用(P197~206、P212~230)
日本の国防を考えるならば、自衛隊は勿論、政府の外交姿勢、国民の覚悟、現在と将来の国際状況など、あらゆる面から論じてみなければならない。漫画家でジャーナリストの小林よしのり氏は月日は遡るが、平成22年3月に呉基地(山口県呉市)や江田島の幹部候補生学校を取材していたという。そのまま引用します。盗作ではなく引用です。出版社は事前に小林氏に引用の許可をお願いします。
呉市は明治以降、海軍と共に発展を遂げてきた。明治22年に呉鎮守府(ちんぶふ)が開庁。さらに戦艦大和などを建造した日本一の海軍工廠(こうしょう)が設置。最盛期には40万人の人口を擁したが、昭和20年には米軍の空襲で軍港、工廠共に壊滅、市街も廃墟と化した。占領下で呉は軍港から貿易港へ、海軍工廠は臨海工業地帯へと転換。そして昭和29年の自衛隊法施行に伴って「海上自衛隊呉地方隊呉地方総監部」が発足した。
戦後一時の中断があったとも言っても、やはり呉は120年にわたる西日本の海の守りの拠点であり、戦前からの歴史のつながりを感じる。
小林よしのり氏の取材には大谷3佐(少佐)という美人の女性幹部をエスコートにつけてきたという。しかも、すごい美人だという。「自衛隊め、わしが漫画で描くからとハニー・トラップを仕掛けてきたか!」小林氏の漫画にはそうある(笑)だが、そのハニー・トラップに引っ掛かったのはわしではない!取材の間中、この美女に鼻の下伸ばしていたのは、軍事ジャーナリストの井上和彦氏だったのだ!という、オチまでついている(笑)
大谷3佐は湾岸戦争に衝撃を受けて大学を中退、丁度、その年、女性に門戸を開いた防衛大学を受験したという、防大の女性第一期生。現在(取材当時)は市谷の防衛省勤務だが、将来は女性初の艦長を目指しているそうだ。(我々と同じバブル世代(笑))
港が近づくと造船工場が見える。IHIMU呉工場、かつては戦艦大和を建造した旧呉海軍工廠である。建造中の大和を覆っていた大屋根の一部や、天井クレーン、修理ドッグは戦後もずっと使用されてきたという。到着すると港には大きなイルカのような黒い潜水艦と護衛艦もいたという。
埠頭には自衛隊員が整列し、微動だにしない。「自衛隊旗」はかつての我が帝国海軍が用いていた「軍艦旗」(旭日旗)と同じデザインである。今の若者はこのデザインを朝日新聞の社旗と勘違いするかも知れないが、違うんだ!誤解もはなはだしい。中国の軍は共産党を守る専属軍!党のために働き、国民にも銃を向ける!自衛隊は国民を守る「隊」だ!「軍」と言えないところがつらいが…
潜水艦「くろしお」に乗せてくれるという。潜水艦上にはしごで乗り移ると枠や柵があるわけではないので、うっかりすると足をすべらせて海におちてしまいそうで緊張する。
何しろ潜水艦は軍事機密の塊である。カメラは原則持ち込み禁止。漫画の資料用に小学館のカメラマンだけ許可され、撮影できる部分だけ撮らせてもらう。もちろん潜水艦の中に入るのは初めてだ。入り口のハッチから垂直の梯子につかまり、降りていくのだが、わしは皮靴の先の尖ったやつを履いてきたため大変だった。こんな取材をさせてくれるならスニーカーで来たのに。
まずは士官室に通され、簡単な艦の説明を受ける。「くろしお」という潜水艦はこの艦が3代目。初代は自衛隊発足の翌年昭和30年代にアメリカから貸与された艦だった。
当時の潜水艦は水上航行が主で、必要な時に潜航したため、通常の船舶に近い「水上船型」だ。その後、水中抵抗の少ない「涙滴(るいてき)型」、さらに、船体空間を広げた「葉巻型」と改良され、この「くろしお」は葉巻型の潜水艦「おやしお」型の第7番艦として平成16年に就役している。
潜水艦の長所はなんといってもその隠密性にある。隠密裏に作戦遂行ができることもさることながら、どこにいるかわからないという潜在脅威による心理効果が多大であり、潜水艦を発見するには大変な時間、兵力、技術を必要とするため、その分、敵を止めておくことができる。
一方で弱点は防御力で、ただでさえ潜航中の船体は強力な水圧との戦いであり、そこを攻撃された場合は非常に脆弱になるそうだ。
中国海軍は平成20年10月に戦艦4隻で津軽海峡を通過する挑発行為を行い…平成22年4月には潜水艦2隻など計10隻で沖縄本島近海を通過するなど、不穏な動きを見せている。これに警戒して、防衛省は10月20日、現在16隻で運用している潜水艦を20隻超まで増やす方針を固めたという。
だが、新しい艦を増やして補強するわけではない。日本政府によって、毎年、防衛費は削られているから、本来なら耐久年数を迎えて交代する潜水艦をメンテナンスして、5年ほど「延命」させる苦肉の策なのだ。
まだまだ尖閣諸島や南沙諸島の侵略行為を止める気配は、中国側には全然ない。海上自衛隊の存在意義は益々大きくなってきている。
一通り艦内を案内してもらう。発令所では潜望鏡を覗かせてもらい、写真を撮ったが、もちろん写っていい、角度の写真で、壁一面を埋める計器類などは一切撮影不可であった。
艦内は細かい区画に区切られていて、その境界では、くぐり戸のような出入り口を身をかがめて通らなければならない。途中、カプセルホテルよりも窮屈そうな部屋があったが、これが艦長室で、艦内で唯一の個室だという。
そして最も艦首に近い区域…といっても移動しているうちにどちらが艦首でどちらが艦尾かわからなくなっていたが、そこには発射菅室で、魚雷が3発静かに光り輝いていた。
これこそが潜水艦の最大の攻撃力、1発で敵艦を沈められる誘導魚雷である。
しかし、驚いたのは、その魚雷のすぐ脇に、人が寝られるスペースを作ってあったことだ。
中国海軍の「第一列島線」は九州、沖縄、フィリピン、ボルネオに至るラインをすでに作戦区域としている。さらに「第二列島線」は伊豆諸島から小笠原諸島、グアム、サイパン、パプアニューギニアに至るラインまで進出を狙っている。
ちなみに潜水艦の艦長は旧ソ連では「少将」が当てられていたという。一般的には艦長は「大佐」が上限だ。つまり、潜水艦にはメンタリティ(精神性)の強い者を乗せないと耐えられないということだ。
海自では潜水艦の乗員はかなり適性検査を厳しくして、耐えられる者しか乗せない。潜水艦の中で精神を病んでしまったら、助けられないからだ。
海自では、今や飛行機の搭乗員よりも潜水艦乗員を探す方が大変になってきている。
潜水艦乗員はプライドがものすごく高い。彼らは「我々は怖いものは何もない」というらしい。護衛艦もP-3Cも全く怖くない、という。世間の人はイージス艦に注目するが、あんなものは「高価格標的艦こんごう型」と言うんだと、彼らは言う。つまり、的(マト)に過ぎないとまでいう。ただし、ヘリコプターは怖いという。空中から魚雷攻撃を受けたらひとたまりもない。空中のヘリを攻撃できないからだ。それさえなければ潜水艦員に言わせれば、「世の中には2種類の船しかない。一つは潜水艦、もう一つは潜水艦に沈められる船である」ということになる。
静かにいかにひそかに潜水できるか?は溶接技術である。潜水艦員は3K労働(危険、汚い、きつい)だが、しかし1K、つまり「栄光」が加わると言う。5年間かけて技術を身につけ、後進に技術を伝えていく。熟練技術者がいるからこそ日本の潜水艦の高度な技術が維持されている。
わしは潜水艦「くろしお」を取材したが、食堂では椅子の中、テーブルの下など、あらゆる場所が食材の貯蔵所になっている。そして便所には「真水の一滴は、血の一滴!!」と、節水を呼び掛ける張り紙が!士官室で昼食をいただいた。メニューはカツカレー。
「そういえば今日は金曜日だったのか。」
一度海上に出ると曜日感覚がなくなってしまうため、それを維持するため、旧海軍以来、金曜日は必ずカレーである。
「海軍カレー」というのが、商品になっているが、海上自衛隊に共通のカレーのレシピがあるわけではなく、各々の艦船ごとに秘伝があるらしい。
防衛省のひとに聞いたことがある。
「呉で潜水艦の乗せてもらったんだけど、乗組員の中にちょっと太っているのがいたんだよね。潜水艦乗りってストレス溜まって食い過ぎるの?」
するとこう答えた。
「丸いハッチから出られる間は大丈夫です!」
「なるほど!」
潜水艦の食事は1日4食で、カロリーが高めに設定されているらしい。そのうち1食は食べなくてもいいのだが、3交代のローテーションで暮らしているので、基本は4食になる。
水上艦も4食だが、いざ沈没となったときに海の上に放り出されても生き残るためには体力が必要な為であるという。あるP3-Cの搭乗員はこういった。
「教官は教育の時、ご飯は絶対食えと。食わないと落ちた時に、生き残れないと。がぶって酔ってても絶対に食えと。そういう指導をされますね」
潜水艦の居住性も昔よりは向上したらしいが、それでもあらゆるところに制約があり、忍耐を強いられることは見ればわかる。しかも、隠密性が命である潜水艦の乗組員は、いつ出航し、いつ帰るかを家族にも言えないらしい。
江田島で幹部候補生と話す機会があった。
「この中で潜水艦志望という人はいるんですか?」
「はい!乗ってました。」
「あなた、魚雷の横で寝た事ある?」
「はい!夏は冷たくて気持ちいいです!」教室にどっ!と笑いが起こる。
普通の人ならぞっとして肝が冷えるが、彼らは感触として身体が冷える感覚を味わえるらしい。大した肝っ玉だ。
「潜水艦は風呂なんかも満足に入れないでしょ?真水の一滴は血の一滴とか書いてあったし。」
「はい。そうです。」
「体や汗や何やらで臭くないのかな?」
「それも潜水艦の匂いというものですので。」
「ひとの体臭だらけになりそうだなあ」
「はっきり言って臭いです!」教室にまたどっ!と笑いがおこる。
傍にいた軍事ジャーナリストの井上和彦氏が「潜水艦に乗っていた人は匂いでわかりますからね。」傍らの海自幹部も「タクシーの運ちゃんもわかるって言ってました。」
「こんな話を聞いても潜水艦志望は変わらない?」
「はい。やはり潜水艦が一番フロント(最前線)に出ていると思うので。常に潜って緊張状態にあって、そういうところを自分も志願してきたので!」
「ほ~~お、すごいね。」
小林よしのり氏は感心しまくりだったという。
潜水艦の抑止力としての効果は大きい。
四方を海に囲まれた海洋国家・日本を守っているのは、潜水艦だといっても過言ではない。日の当たらぬ深海でストレスに耐え、誰にも知られることなく黙々と任務に励む隊員たちよ、頼むぞ!
呉では掃海艇(そうかいてい)「みやじま」も見学した。
海中の魚雷をかたずける(つまり掃海する)船である。
兎に角、何かと五月蠅い日本国民も災害や特に東日本の未曾有の大災害での活躍で、「自衛隊の実力」がわかった筈である。だが、自衛隊の本来の目的は『災害救助』ではなく、『国防・防衛』である。『暴力装置』としての自衛隊で益々、抑止力として頑張ってもらいたい。
マックスウェバーのいう『暴力装置』とは『軍事力』のことではなく、『抑止力』である。例えば警察や自衛隊が力があるからこそ防衛も治安維持も出来るのであり、親が子供より『暴力装置』が強いからこそ犯罪を犯した時しかれるのだ。
自衛隊員は確かに愛国心も能力も高い。だが、政治家も国民も彼らの行動力がそがれるような態度や集団デモなどをして『足枷』になったら駄目だ。

参考文献『国防論』小林よしのり著作、小学館出版より引用(P299~310)
わしは、お供を連れて平成22年3月、江田島の幹部候補生学校を取材。
校長・野井健治海将補、副校長・大津雅紀1等海佐に話を聞いた。その日は卒業式前日だった。
野井「海上自衛隊の幹部は全てここ(江田島海上自衛隊幹部候補学校)を卒業しています。卒業式をご覧になって皆さん驚かれるのは国歌斉唱。本当にすがすがしい。大きな声でみんな歌いますので。なかなか大きな声で「君が代」歌える場所ってないんですよ。」
最近は主にスポーツの分野で「日の丸」も「君が代」も普通に接するようになってきたが、まだまだ沖縄や北海道など、カルト的左翼教育と左翼マスコミの洗脳が強い所では「君が代」は封印されている。まったく情けないが…。
小林「赤鬼・青鬼の話を聞きましたか?」
野井「怖いですよ、もう……本当に。」
小林「校長すら怖いのですか?…脱落する人はいないのかな?」
野井「やっぱりおりますね。自信をなくしてしまって。もう自分のイメージと違ったという人もいまして。」
小林「なるほど。そういう現実を聞かせて頂けるのは公明正大でいいですね。」
大津「途中で何人か、適応障害のような形になったりします。慣れてしまえば何とかなるんですけど。やはり小さい頃から団体生活に慣れていないとか、社会性のない人もいますもんでね。」
確かに今は、あらゆる所に「社会性」のない人間が生まれている。「引きこもり」が70万人もいるとNHKがドキュメントでやっていたほどだからな。
野井「大部屋ですし、お風呂も当然、大浴場ですから、本当に自分をさらけ出して、プライバシーがないというか、それに慣れないとちょっときついかなあ…と。」
小林「最初からパイロットになりたいとか、希望する人もいるんですか?」
野井「はい、おります。」
大津「やはり、航空関係が多いですね。海上の中でもP-3C操縦。」
野井「ヘリと航空関係が多いですね。あと艦艇、潜水艦。わりと補給艦ですね。それと地上勤務も人気があるますね。」
小林「一般的にはイージス艦とかが花形なイメージがありますが?」
大津「日本全体、海離れで、あまり船に乗りたがらないですね、若い人は。」
野井「携帯電話が通じなくなるとみんなダメなんですよ。航空部隊なら必ず地上に帰ってきますから。」
大谷3佐も同じことを言っていたが、ケータイの出現によるライフスタイルの変化が、こんなところにまで影響を及ぼしているとは…
だが、卒業を翌日に控えた幹部候補生たちと話してみると、そんな世間の若者たちのような雰囲気は微塵も感じられなかった。そこでこんなことを聞いてみた。
小林「怖いって感覚はないですか?世の中、命だけは惜しいとか、安穏と暮らしたいという人が多いのに、あなた方は日々、自分に緊張を強いて、職務に励まなければいけないわけでしょう?命をかけなきゃならないことに関してどう思いますか?」
卒業生「怖い部分が全くないとは言いません。しかし誰かがやらねばならないことであって、自分にできることであり、努めてそこは、乗り越えていきたいです。」
小林「わしは自衛隊に関して、どこまで描いていいか躊躇する時があります。例えば後方支援とか、なるべく安全な場所への派遣なら「行くべきだ」と言える。でも米軍の最前線では映画「ハート・ロッカー」のように爆弾処理の兵士が特殊防塵服で危険地帯をずんずん歩いていって爆弾の配線を切ったりしている。帰国してもPTSD(心的外傷ストレス障害)に罹る兵士は多い。将来、日本が憲法改正して国軍ができたとき、場合によったら、米軍同様、最前線まで、あなた方を送るべきだと、わしが主張していいのかどうか考えてしまうわけです。もちろん今だって、自衛隊は危険な仕事を国内外でやっているはずです。だがそれを国民は自分のこととして考えていない。ニュースではほとんど伝えられない。保守派の者たちの中には自衛隊の家族のことまで考えることなく、ほとんど自己陶酔のために「勇ましいこと」を主張しているのではないかと疑いたくなる人だっている。わしは、あなた方が命を落として、家族や恋人が悲しむことを考えると筆が鈍りますね。本当に憲法改正をして、米軍と同等の危険を背負ってもいいの?」
卒業生②「自分はやはり望んでやります!」
小林「ほう、すごいね。」
卒業生③「命じられたことは、したいと思います!」
卒業生④「私は、さきほどおっしゃったような「勇ましいこと」を言っている人を含めて、やっぱり守るべきだと思います!」
小林「う~む…さすがだ…」
卒業生⑤「ただ正直、自分自身は望んで来たのでいいんですけど、仲間や部下や、あるいは他の人が、自分の意志のせいで死んでしまったり負傷してしまったりというのは正直言ってちょっと怖いというか不安ではあります。」
幹部「階級的には、彼は、先生がおっしゃった最前線を担うところにおりまして、これから、今言ったように自分の命令で部下を動かすということで、段々本当の怖さをこれからわかってくるところなんですね。」
大谷3佐「幹部候補生ですからね。そういうことでは部下の命も預かる立場になるということですね。」
幹部「死生観というものが海上自衛官としては必要になってくる。」
小林「なるほど。米軍の海兵隊などは粗暴なイメージがあるけど、自衛隊の場合、こうやってみんなの顔を見たらそんな印象がないなあ」
井上和彦「特に船舶立ち入りなんか若い隊員が年取った兵隊を指示して乗り込んでいく。私はいろいろな国の軍隊を見てきましたが、小林先生のいう通り知的な部分が全然違うんですね。向うは軍人になるのは国籍や永住権を取得するためというひともいるし、でも日本ではこれだけ冷遇されて冷たい世論の中で志願して、ものすごい倍率を突破して来るわけだからそれは4万数千人の海自とはいえ、すごい士気の高さを持っているのだろうなと思いますね。外国の軍隊を見てもイギリスのケントって船なんか、海自の船とは比較にならないくらい汚れてますしね。塵は落ちてるし、真鍮をあんなにピカピカに磨くなんてことは全然ないし、よっぽど皆さんのほうが士気は高いと思いますよ。」
小林「皆さん、ぜひとも武人としての強さと共に、優しさや知性を同時に育てて欲しいですね。それがやはり日本の自衛隊の誇りになる。そのような美徳が戦場で人の敬意を集めるし、敬意を集めること自体が勝利につながるのだと思います。現地の人々に尊敬され、敬意を払わなければ、秩序や統率が保てないはずですから。」

卒業式を見た。沖縄の毎年荒れる成人式みたいなおふざけの欠片もない。厳しい倍率をを勝ち抜き、シゴかれた幹部候補生なら当たり前だが、逆に頼もしい。
卒業式では赤鬼が卒業生たちに声をかける。卒業生は家族とあわないまま卒業と同時に次の日から海洋実習がまっている。
「俺の一番好きな言葉を最期に伝えておく!花びらは散る。花は散らない。お前ら今日ここを出て行って俺も来週にはここを後にする!毎年みえるものやみるものも経験も違ってくるし、同じものはない!けれど俺がこの江田島でお前らに伝えたかったことは目に見えない事の方が大事ってことだ!お前らが将来幹部になるにあたって大事なものにきづくのはそんなにすぐじゃない。多分、シバかれた記憶が生々しい今じゃない。俺だって4年目でたまたまこの仕事に就いたから気づいたんだ。それに気づくのはきっとお前らが将来行き詰った時だ!」
いよいよ卒業生が江田島に別れを告げる時。卒業生は楽隊が奏でる「軍艦マーチ」の中、「赤レンガ」の正面玄関から一列縦隊で敬礼しつつ後進。教官や家族の前を通り、各艦隊へと乗り込む。ヘリやP-3Cが壮行飛行を行っている。幕僚長、学校長が帽子を振り、手を振る中、卒業生たちが船出していく。なんともかっこいい。映画のどんなワイドスクリーンでも、3Dでもこの勇壮さは伝わらない。なんというカッコ良さ!相当の技術と訓練がなければこんなに美しく艦隊を動かすことはできまい!
花びらは散る。花は散らない。まさに自衛隊こそが“日本の花”、である。



【悪徳商法中古ノートパソコン販売】千円を1万円で売買。OSさえも付属☓!騙されるな!

2015年11月22日 13時56分08秒 | 日記







新聞とかで『中古パソコンセット格安』等という商品には騙されない事。


中古で売れば千円くらいの片落ちノートPCを


1万7000円とかいって売っている悪徳商法。


しかもwindows等のOSさえ付属してない。


ジャパネット等や専門店から買う事だ。


そういうところならサポートもちゃんとしてる。臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2016年へ!臥竜

東日本大震災から5年 最大のドキュメント   『大型時代小説 東日本大震災<緑川史観>』VOL.2

2015年11月22日 07時28分30秒 | 日記








<大前研一ビジネス・ジャーナル>2015年7月13日
日本に見る課題と解決
2040年に向けて沈みゆく日本。この国はどうなるか
2015/7/13
「強いリーダー」を生み出していくためには何が必要なのか? そのために何をするべきかを長年伝えてきたのが元マッキンゼー日本支社長、アジア太平洋地区会長、現ビジネス・ブレークスルー大学学長の大前研一氏だ。
本連載は大前研一氏総監修により、大前氏主宰経営セミナーを書籍化した第五弾である『大前研一ビジネスジャーナル No.5「2040年の崩壊 人口減少の衝撃/地域活性化の現状と課題」』(初版:2015年5月22日)の内容を一部抜粋、NewsPicks向けに再編集してお届けする。
今回は、日本のリスクに関係する「地域過疎・少子化・移民・教育」といったトピックについて、現状とその課題を大前研一氏に聞いた。(2015.3.30 取材:good.book編集部)
増え始めるゴーストタウン
人口の減少が進み始め、近年ではゴーストタウン化するところが目につくようになってきました。私は昨年(2014年)、バイクで四国を回ったのですが、30年前は25人くらい人が住んでいたという場所に、今は誰もいない。
高知県の奥白髪温泉という昔は温泉があったところも、人どころか温泉さえもなくなってしまいました。2040年には、今よりも相当多くのゴーストタウンができてしまうでしょう。
このような問題に対して、日本政府はどのようなことをするべきなのでしょうか。
人口が減少すると、納税能力はどんどん下がっていきます。従って今よりもますますサービスレベルは落としていかなければならない。すでに日本の年金は、最終勤務年度の給料に比べて、35%程度しかもらえていません。
これは、先進国の中で一番低い。国によっては最終年度に稼いでいた給料の70%ぐらいを年金でもらえるというところもあるし、50%ぐらいが普通です。日本では、2040年になると30%ももらえないと予想されます。
さらに勤労者2人で1人の老人、つまり非勤労者の面倒を見なければならなくなります。こういうすさまじい状況になるわけです。現在の日本は、そういった世界につっこんでいこうとしているのです。
現在の政府が行っているのはばらまき政策に代表されるサービス合戦ばかりです。おそらく、単純な計算をしてみればまったく不可能なことを約束しているのです。
消費税の問題についても、「5%から8%に上げただけで反作用がこんなに出たから、8%を10%にするのは1年半延ばす。10%以上のことはやらない」と政府は言っていますが、単純計算をしても20%まで引き上げないと間に合わない状況です。
現在の日本というものは、見えている将来像が世界のどこよりも暗い像となった国とすらいえるでしょう。その見えている像に対してストレートに考え、それを正直に政治課題として取り上げる人がいない。
これが最大の問題です。タイタニック号が氷山に向かうように、先が見えているにもかかわらず、船上でパーティーをやっているようなものなのです。
意味を失う20世紀の経済原論
今の日本企業は320兆円の内部留保を持ってしまっていて、銀行から借りません。金利が低くても反応しません。じゃあ投資をするのかというと、やっぱり将来が不安だからと投資もしない。
私は日本が今入り込んでいる状況を、“低欲望社会”と呼んでいます。要するに、欲望のない社会です。欲望のない社会にはどういう問題が出てくるかというと、今までの経済原論が全部成り立たなくなるんです。
今までの経済原論というのは、20世紀にジョン・メイナード・ケインズ(※20世紀を代表するイギリスの経済学者。有効需要に基づくマクロ経済学を確立させた)らを中心に作られたもので様々なバリエーションがありますが、金利やマネーサプライ、こういったもので経済を調整していこうという理論です。
例えば、金利を低くすればみんなが借りるようになり、景気は上向くかもしれない。過剰に市場にお金を投入すれば借りる人が増え、設備投資も上向くかもしれない。こういったロジックです。
しかし今、日本は低欲望社会に入ってしまい、これまでの経済原論すべてが成り立たない状況です。だからポール・クルーグマン氏(※アメリカの経済学者、コラムニスト。国際貿易理論に基づき、地域間貿易をモデル化した)や、アベノミクスのアドバイスをしているような人たちが、20世紀の経済原論を振り回しても市場はまったく反応しないというわけです。
我々は今、金利がつかなくてもひたすら貯金をしています。小学校の頃から算数を学んできている国民が、何故金利がつかないところに預金するのか。これは世界の七不思議のひとつです。
普通、金利が安ければ金を借りて、金利が高ければ預金する。現在の日本人は金利の安いところに預金をして、こんなに安いのにお金を借りない。こういう現象は、今までの世界史で起こったことがありません。
このように、日本だけが特殊な状況に入っていることに対して、「20世紀の理論が使えない」と理解している経済学者がゼロである、ここに問題があります。
いずれドイツやイタリアも、おそらく日本のすぐ後を追ってくると思いますが、日本は起こるとわかっている問題に対して何もしていないという極めてユニークな状況になってしまっているのです。
すべての問題の根本は教育に
これらの問題の根本は、日本の教育方法にあります。「教えたことを覚えなさい」ということを前提とした20世紀の教育方法が、「ロジカルに見えているものを全部足し合わせて本質の姿を直視すること」ができない人を生み出してしまったのです。
この姿が直視できていれば、みんなでなんとかしようと考えるはずなんです。見えているものに対して向き合っていない。この結果として、少子化やゴーストタウンの問題が出てくるのです。
これから先は、人口が年間50万人ずつ減っていくといわれています。つまり、徳島県や高知県1個分の人口が減っていくということです。全体から見るとすさまじい勢いで人口が減り、かつ就業人口15~65歳くらいの人たちも今後は計算上、80万人ずつ減ることになります。
実際には定年後も働く人がいるので今のところは40万人程度の減少にとどまっていますが、安定して60万人くらい減っていくようになります。結果、税金を納める人はその分減っていくということです。
こういう状況の時に何も対策を取らないとどうなるか。これは非常に明らかで、ポルトガルやスペインがかつて陥ったように400年くらいは長期衰退という状況になっていくわけです。
では、日本の教育を変えるにはどうするべきか? 今すぐに文部科学省が変わるということは難しいでしょう。
大量生産・大量消費という戦後の日本の国づくりをする上では、アベレージを上げるということが非常に重要でした。世界に追いつけ追い越せという時代でしたから、基本的に答えは欧米にあり、その答えを覚えてしまった方が勝ちという教育が行われたのです。
学校が何を教えるか、日本では国がそれを統制しています。文部科学省が学習指導要領を作っているということは、学校が教えていい答え、教えていい順序を国の方で作ってしまっているということです。
国が指導要領を作るというこの思い上がった考え方が、今の21世紀においては最もだめな考えなのです。本人が興味を持ったらどこまでもやらせるべきでしょう。
指導要領という考え方そのものが、21世紀とあっていません。あくまで指導要領は、追いつけ追い越せという、正解がすでに存在するという時に成り立つものなのです。
21世紀というのは、アメリカにとっても答えがありません。近年の中近東情勢を見ても、それは明白です。そのアメリカについていくことしか、日本は能がない。
中国がアジア・インフラストラクチュア・インベストメント・バンク、AIIB(※中国が提唱し主導する形で設立を目指しているアジア向けの国際開発金融機関。2015年業務開始予定)というものを作った時、各国が続々と加入する中、日本とアメリカは加入しませんでした。アメリカが決めないと日本は意思決定すらできません。
また、今の日本政府は機能不全ですが、それ以前にアメリカ政府にも機能不全があるのです。特に、アメリカ政府の機能不全は、オバマ政権になってから著しい。何をとっても、アメリカが何をやりたいのかわかりません。
現在の日本は、そういう機能不全の国についていくことしかできないのです。これだけ自分で考える力を失っている日本政府、そして学ぶ力だけで考える力を持たせない教育の犠牲者が日本人なのです。これでは問題を解決できないと思います。
「本当は何をやりたいの?」と聞くことから始まる教育
高梨沙羅選手や、羽生結弦選手はどうやって育ったか。指導要領がなかったからよかったのです。彼らの成長は、親、関わった先生、コーチのテーラーメイドの力によるものです。ピアノでもスポーツでもなんでもそうですが、頭角をあらわした子をひっぱることが必要です。
例えば、錦織圭選手を見出したのはソニー創業者・盛田昭夫氏の弟・盛田正明氏です。テニス協会の会長だった氏が個人的に財団を作り、錦織選手をフロリダに留学させたのです。
つまり、盛田氏が個人的な財団の中で才能を伸ばしてやったということです。日本の中では、あのような選手は育ちません。
才能を引き上げることを教育システムとしてうまくできている国はまだありませんが、アメリカの場合にはそういう人間を許容する制度があります。
例えば高校生の娘が宇宙飛行士になりたいと言ったら、宇宙飛行士を育てることをカリキュラムにしている高校があるんです。高校のバラエティがいっぱいあるのです。
私は、教育を変えるのは親しかいないと思っています。だいたい日本の母親というのは2通りしかいません。「サボっているとお父さんみたいになれないよ」とたいしたことのない父親でも良い見本とする母親。
もうひとつは「サボっているとお父さんみたいになるよ」と父親を悪い見本とする母親。そうではなく「あなたの生きたいように生きなさい。その代わり、何をしたいのかちゃんと言ってごらん」といったその会話から親はスタートしなければいけないのです。
ドイツでは約6割の人が職能学校に行きます。小学校の4~5年くらいから将来を親と語り、学校の先生のカウンセリングも受けて、大学に行くのか違う道を行くのかを選びます。職種も350ぐらいあるので、その中で何をやるかを考えていきます。
中学の2年か3年の時から訓練を始めると、18歳くらいまでにはだいたい腕に覚えが出てくる。これは「将来何をやりたいの?」という会話からスタートした結果なのです。日本にはこれがありません。
「勉強しなさい」「宿題しなさい」と言うけれど、宿題をやって学校の先生の言うことを聞いてもろくな子は育たないのです。何故、親は学校の先生の言うことを聞けといって送り出すのでしょうか。
「本当は何をやりたいの?」というところからスタートすると、学校に2日行かなくてもいいから別のことをやってみる。あるいは、会社そのものに高校時代から実習で預かってもらうなどいろいろなアイデアが出てきます。
しかし、日本の場合はその考えを支援する制度がないから、それを2年、3年と続けるのは不安なものになってしまうんですね。ドイツはそこを制度化し、子どもを支援しているということです。
いい学校へ行って、いい会社に行けば、いい生活ができる。これは高度成長期の特徴です。確かにそれは事実でしたが、その時代に育った親が、今の子どもに古い時代の感覚で接しても、その時代はとっくに去ってしまったというところが皮肉なのです。
次回、「少子化対策と地域活性化」に続きます。
*本連載は毎週月曜日に掲載予定です。
BUSINESS JOURNAL大前研一氏
Chapter 4:大前流「電力再編」案
原子力部門には最精鋭を集め、送電部門では東西の垣根をなくせ
2015/6/22
これからのグローバル化社会で戦っていける「強いリーダー」を生み出していくためには何が必要なのか? そのために何をするべきかを長年伝えてきたのが元マッキンゼー日本支社長、アジア太平洋地区会長、現ビジネス・ブレークスルー大学学長の大前研一氏だ。
本連載は大前研一氏総監修により、大前氏主宰経営セミナーを書籍化した第四弾である『大前研一ビジネスジャーナル No.4「迫り来る危機をいかに乗り越えるか」』(初版:2015年3月6日)の内容を一部抜粋、NewsPicks向けに再編集してお届けする。
今回の連載では福島第一原発事故後の日本のエネルギー問題を取りあげ、原発へのyes/noだけではない持続可能なエネルギーミックスについて考える。
大前研一特別インタビュー:混乱の時代を生き抜くため、個人として何ができるのか(5/11)
本編第1回:Chapter 1「原発停止による電力不足、エネルギーコスト上昇の深刻化」(5/18)
本編第2回:Chapter 2「『原発依存度0%』の矛盾。原子力発電の代わりはあるのか」(5/25)
本編第3回:Chapter 2「ポスト福島の、ベストな「エネルギーミックス」は何か」(6/1)
本編第4回:Chapter 2「なぜ、福島第一原発事故の原因解明が進まないのか」(6/8)
本編第5回:Chapter 3「『放射線恐怖症』に陥った日本、原発再稼働の責任を負うのは誰だ」(6/15)
※本特集の基とする原稿は、2013年2月に大前氏が開催したセミナーのものであり、収録から経過した2年のうちに、いくつか古くなってしまった統計情報等が含まれることをご了承いただきたい。しかし、日本がエネルギー戦略においてかかえる課題はいまだ解決されておらず、当時の大前氏による分析は現在も有効なままである。
縦割りから脱却できない経済産業省
電力会社は今後どうするべきか。経済産業省の出した再編案は「発電と送電を分離しましょう」「発電事業への参入を自由化しましょう」というものです。
しかし、その目的は何か。原発をどうするか、送電網をどうするか、今の電力会社が債務超過などに陥ったときどうするか、という肝心なところが抜け落ちています。この点において、経済産業省の本質は震災前と何ら変わりません。あくまでも自分たちの傘下にある電力会社を守りたいという縦割り行政のままなのです。
原発・燃料サイクル・廃炉を一体化して最精鋭を集める
経済産業省はあくまで電力会社を縦割りの中に置き、地方独占で発電だけ自由化すると言っていますが、私はこれでは解決にならないと思います。私の案は、経済産業省の案とはまったく違っています。
まず、電気事業を以下の4つの組織体に再編します。
1. 原子力部門
 2. 送電部門
 3. 発電部門
 4. 配電部門
その中で原子力に関しては、原発、燃料サイクル、それから廃炉を一体化します。あれだけの力を持っている東京電力でも、福島第一原発事故の事態を収拾することができなかった。
この規模の事故が、北陸電力や四国電力で起こったらどうなります? ほぼ100%操縦不能です。セスナしか運転したことがない人に、ジェット機を操縦しろというようなものです。
日本は、国民の核アレルギーをなだめるために、すべての電力会社に原子炉を1基以上抱かせたのです。私は、そのやり方には大反対です。電力会社の社長は、地方の財界のトップなんかやっていて、原子炉の仕組みをきちんと理解しているような人はほとんどいない。
こんな人たちに再稼働をやらせては駄目です。これはもう1ヶ所に最精鋭を集めるしかないでしょう。いざというときのことを考えると、それぞれバラバラに再稼働というのはとんでもないです。
原子炉はすべて一体化、公営の原子力会社を立ち上げる
原子力に関する私の案を、さらに詳しく述べておきます。原子炉はすべて現物出資で一体化して、公営の原子力会社とします。各電力会社、日本原子力発電(※18)、日本原燃(※19)、J-POWER(電源開発)〈※20〉も含め、原子力に関しては、「原子力会社」というひとつの存在の下でやっていく。メーカーには精鋭部隊がいるので、そういう人たちを出向ではなくスカウトしてくる。
チームH2Oプロジェクトでは、東芝、日立製作所、三菱重工業などメーカーの人たちに話を聞きましたが、メーカーには、しっかりした技術と知見を持った人材が確実にいます。ですから、そういう人たちを電力オペレーターとしてスカウトし、採用する。
メーカーの社員は、これまで出入りの業者として電力会社にあごで使われてきたのですが、そのような主従関係が、彼らが仕事を進める上で大きな障害になっていたと思います。
こうして立ち上げた「原子力会社」が、核燃料の処理や廃炉作業、将来的には原発の輸出まですべてのオペレーションを担うというのが私の案です。
※18:日本に商用原子力発電を導入するために設立された電気事業者。東海村・敦賀市に原子力発電所を持つ。
※19:ウランの濃縮・使用済み燃料の再処理や関連事業を行う株式会社。本社は青森県六ヶ所村。
※20:1952年、政府と電力9社の出資で発足した日本最大の卸電気事業者。
東西の境界を越えて電力を融通する
4つの組織体のうち2つ目の送電部門についても、高圧送電網を全国一律にし、公営化します。日本の電力は、関東と関西で周波数が違っており、この境界線を「糸魚川ライン(※21)」と呼んでいますが、この境界を越えて電力を融通する際のサイクル変換も、この会社が責任を持ちます。
現在、日本にある周波数変電所で変換することのできる電力は計100万キロワットほどですが、この4倍の400万キロワットあれば、東西で電力を融通することが可能になります。日本では、北海道と九州の間に事実上の時差が約1時間半あります。
ピーク電力需要が北から南へ降りていくので、ピークに合わせて電力を融通することができれば非常に効率的です。冬に多くの電力を必要とする北の地域と、夏に必要とする南の方で、季節需要に合わせて融通することも可能です。今は地域独占させていますから、自分の地域のピークだけが問題で、互いに融通するという発想はありません。
※21:日本列島のほぼ中央部を南北に横切る活断層「糸魚川―静岡構造線」に沿うように位置する、電源周波数の境界線。
送電部門が日本のコア事業になる
電力自由化が進む米国では、発電部門と送電部門がそれぞれ独立して電力供給を行っています。送電部門にも、小規模な民間業者が多数参入しています。送電線の設備を作るには数年~数十年という時間がかかり、電力の安定供給を維持するためのメンテナンスが欠かせません。
しかし、短期間で利益を上げたい送電業者はコスト削減を優先し、設備投資を怠るようになりました。2003年、北米で起こった大停電※22も、送電トラブルが原因と言われています。安定供給のために、送電部門は安易に自由化すべきではありません。
私の電力再編案では、この送電部門が日本で一番重要なコア事業になると思っています。公営の送電会社が電力を買い取り、配電会社に売ります。太陽光や風力発電で作った3000ボルト以下の電力は配電会社が買い取って、高圧送電網には乗せずにそのまま売るというやり方でいいと思います。
※22:2003年8月、米国北東部およびカナダの五大湖周辺にまたがる広範囲で発生。停電はおよそ29時間にわたって続き、計約5000万人が影響を受けた。
発電の自由化、再生可能エネルギーは限定利用〈発電部門〉
3つ目の発電部門ですが、日本企業だけでなく、外国企業の参入を自由化します。カタール・オーストラリア・カナダ・ロシアなど資源国の企業が日本国内に発電所を建設、直接発電してもらいます。カタールには発電所を建設することのできる企業がありませんので、日本企業に発注が来るはずです。
再生可能エネルギーはあくまでも補助的な利用にとどめます。水力を除いて、5~10%ぐらいがちょうどいいところでしょう。それ以上は途方もないコストがかかります。地熱発電はどんどん推進すべしというのが私の提案です。地熱発電の可能性と課題に関しては、Chapter5で述べます。
配電は地域独占で〈配電部門〉
4つ目の配電部門は地域独占でOKです。現在の電力会社が配電会社になり、太陽光・風力発電で作り出したローカル電力をフィードインタリフで買い取り、企業や家庭に売ります。遅れている電線の地下埋設も配電会社に任せます。
(大前研一向研会定例勉強会『日本のエネルギー問題(2013.2)』を基にgood.book編集部にて編集・収録)
次回、Chapter 5:事業機会となりうる、原発再稼働のために必要な条件に続く。
※本連載は毎週月曜日に掲載予定です。


BUSINESS JOURNAL大前研一氏
Chapter 4:大前流「電力再編」案
原子力部門には最精鋭を集め、送電部門では東西の垣根をなくせ
2015/6/22
これからのグローバル化社会で戦っていける「強いリーダー」を生み出していくためには何が必要なのか? そのために何をするべきかを長年伝えてきたのが元マッキンゼー日本支社長、アジア太平洋地区会長、現ビジネス・ブレークスルー大学学長の大前研一氏だ。
本連載は大前研一氏総監修により、大前氏主宰経営セミナーを書籍化した第四弾である『大前研一ビジネスジャーナル No.4「迫り来る危機をいかに乗り越えるか」』(初版:2015年3月6日)の内容を一部抜粋、NewsPicks向けに再編集してお届けする。
今回の連載では福島第一原発事故後の日本のエネルギー問題を取りあげ、原発へのyes/noだけではない持続可能なエネルギーミックスについて考える。
大前研一特別インタビュー:混乱の時代を生き抜くため、個人として何ができるのか(5/11)
本編第1回:Chapter 1「原発停止による電力不足、エネルギーコスト上昇の深刻化」(5/18)
本編第2回:Chapter 2「『原発依存度0%』の矛盾。原子力発電の代わりはあるのか」(5/25)
本編第3回:Chapter 2「ポスト福島の、ベストな「エネルギーミックス」は何か」(6/1)
本編第4回:Chapter 2「なぜ、福島第一原発事故の原因解明が進まないのか」(6/8)
本編第5回:Chapter 3「「放射線恐怖症」に陥った日本、原発再稼働の責任を負うのは誰だ」(6/15)
※本特集の基とする原稿は、2013年2月に大前氏が開催したセミナーのものであり、収録から経過した2年のうちに、いくつか古くなってしまった統計情報等が含まれることをご了承いただきたい。しかし、日本がエネルギー戦略においてかかえる課題はいまだ解決されておらず、当時の大前氏による分析は現在も有効なままである。
縦割りから脱却できない経済産業省
電力会社は今後どうするべきか。経済産業省の出した再編案は「発電と送電を分離しましょう」「発電事業への参入を自由化しましょう」というものです。
しかし、その目的は何か。原発をどうするか、送電網をどうするか、今の電力会社が債務超過などに陥ったときどうするか、という肝心なところが抜け落ちています。この点において、経済産業省の本質は震災前と何ら変わりません。あくまでも自分たちの傘下にある電力会社を守りたいという縦割り行政のままなのです。
原発・燃料サイクル・廃炉を一体化して最精鋭を集める
経済産業省はあくまで電力会社を縦割りの中に置き、地方独占で発電だけ自由化すると言っていますが、私はこれでは解決にならないと思います。私の案は、経済産業省の案とはまったく違っています。
まず、電気事業を以下の4つの組織体に再編します。
1. 原子力部門
 2. 送電部門
 3. 発電部門
 4. 配電部門
その中で原子力に関しては、原発、燃料サイクル、それから廃炉を一体化します。あれだけの力を持っている東京電力でも、福島第一原発事故の事態を収拾することができなかった。
この規模の事故が、北陸電力や四国電力で起こったらどうなります? ほぼ100%操縦不能です。セスナしか運転したことがない人に、ジェット機を操縦しろというようなものです。
日本は、国民の核アレルギーをなだめるために、すべての電力会社に原子炉を1基以上抱かせたのです。私は、そのやり方には大反対です。電力会社の社長は、地方の財界のトップなんかやっていて、原子炉の仕組みをきちんと理解しているような人はほとんどいない。
こんな人たちに再稼働をやらせては駄目です。これはもう1ヶ所に最精鋭を集めるしかないでしょう。いざというときのことを考えると、それぞれバラバラに再稼働というのはとんでもないです。
原子炉はすべて一体化、公営の原子力会社を立ち上げる
原子力に関する私の案を、さらに詳しく述べておきます。原子炉はすべて現物出資で一体化して、公営の原子力会社とします。各電力会社、日本原子力発電(※18)、日本原燃(※19)、J-POWER(電源開発)〈※20〉も含め、原子力に関しては、「原子力会社」というひとつの存在の下でやっていく。メーカーには精鋭部隊がいるので、そういう人たちを出向ではなくスカウトしてくる。
チームH2Oプロジェクトでは、東芝、日立製作所、三菱重工業などメーカーの人たちに話を聞きましたが、メーカーには、しっかりした技術と知見を持った人材が確実にいます。ですから、そういう人たちを電力オペレーターとしてスカウトし、採用する。
メーカーの社員は、これまで出入りの業者として電力会社にあごで使われてきたのですが、そのような主従関係が、彼らが仕事を進める上で大きな障害になっていたと思います。
こうして立ち上げた「原子力会社」が、核燃料の処理や廃炉作業、将来的には原発の輸出まですべてのオペレーションを担うというのが私の案です。
※18:日本に商用原子力発電を導入するために設立された電気事業者。東海村・敦賀市に原子力発電所を持つ。
※19:ウランの濃縮・使用済み燃料の再処理や関連事業を行う株式会社。本社は青森県六ヶ所村。
※20:1952年、政府と電力9社の出資で発足した日本最大の卸電気事業者。
東西の境界を越えて電力を融通する
4つの組織体のうち2つ目の送電部門についても、高圧送電網を全国一律にし、公営化します。日本の電力は、関東と関西で周波数が違っており、この境界線を「糸魚川ライン(※21)」と呼んでいますが、この境界を越えて電力を融通する際のサイクル変換も、この会社が責任を持ちます。
現在、日本にある周波数変電所で変換することのできる電力は計100万キロワットほどですが、この4倍の400万キロワットあれば、東西で電力を融通することが可能になります。日本では、北海道と九州の間に事実上の時差が約1時間半あります。
ピーク電力需要が北から南へ降りていくので、ピークに合わせて電力を融通することができれば非常に効率的です。冬に多くの電力を必要とする北の地域と、夏に必要とする南の方で、季節需要に合わせて融通することも可能です。今は地域独占させていますから、自分の地域のピークだけが問題で、互いに融通するという発想はありません。
※21:日本列島のほぼ中央部を南北に横切る活断層「糸魚川―静岡構造線」に沿うように位置する、電源周波数の境界線。
送電部門が日本のコア事業になる
電力自由化が進む米国では、発電部門と送電部門がそれぞれ独立して電力供給を行っています。送電部門にも、小規模な民間業者が多数参入しています。送電線の設備を作るには数年~数十年という時間がかかり、電力の安定供給を維持するためのメンテナンスが欠かせません。
しかし、短期間で利益を上げたい送電業者はコスト削減を優先し、設備投資を怠るようになりました。2003年、北米で起こった大停電※22も、送電トラブルが原因と言われています。安定供給のために、送電部門は安易に自由化すべきではありません。
私の電力再編案では、この送電部門が日本で一番重要なコア事業になると思っています。公営の送電会社が電力を買い取り、配電会社に売ります。太陽光や風力発電で作った3000ボルト以下の電力は配電会社が買い取って、高圧送電網には乗せずにそのまま売るというやり方でいいと思います。
※22:2003年8月、米国北東部およびカナダの五大湖周辺にまたがる広範囲で発生。停電はおよそ29時間にわたって続き、計約5000万人が影響を受けた。
発電の自由化、再生可能エネルギーは限定利用〈発電部門〉
3つ目の発電部門ですが、日本企業だけでなく、外国企業の参入を自由化します。カタール・オーストラリア・カナダ・ロシアなど資源国の企業が日本国内に発電所を建設、直接発電してもらいます。カタールには発電所を建設することのできる企業がありませんので、日本企業に発注が来るはずです。
再生可能エネルギーはあくまでも補助的な利用にとどめます。水力を除いて、5~10%ぐらいがちょうどいいところでしょう。それ以上は途方もないコストがかかります。地熱発電はどんどん推進すべしというのが私の提案です。地熱発電の可能性と課題に関しては、Chapter5で述べます。
配電は地域独占で〈配電部門〉
4つ目の配電部門は地域独占でOKです。現在の電力会社が配電会社になり、太陽光・風力発電で作り出したローカル電力をフィードインタリフで買い取り、企業や家庭に売ります。遅れている電線の地下埋設も配電会社に任せます。
(大前研一向研会定例勉強会『日本のエネルギー問題(2013.2)』を基にgood.book編集部にて編集・収録)
次回、Chapter 5:事業機会となりうる、原発再稼働のために必要な条件に続く。
※本連載は毎週月曜日に掲載予定です。


BUSINESS JOURNAL大前研一氏著作
Chapter 3:福島第一原発事故後の原子力政策
なぜ、福島第一原発事故の原因解明が進まないのか
2015/6/8
これからのグローバル化社会で戦っていける「強いリーダー」を生み出していくためには何が必要なのか? そのために何をするべきかを長年伝えてきたのが元マッキンゼー日本支社長、アジア太平洋地区会長、現ビジネス・ブレークスルー大学学長の大前研一氏だ。
本連載は大前研一氏総監修により、大前氏主宰経営セミナーを書籍化した第四弾である『大前研一ビジネスジャーナル No.4「迫り来る危機をいかに乗り越えるか」』(初版:2015年3月6日)の内容を一部抜粋、NewsPicks向けに再編集してお届けする。
今回の連載では福島第一原発事故後の日本のエネルギー問題を取りあげ、原発へのyes/noだけではない持続可能なエネルギーミックスについて考える。
大前研一特別インタビュー:混乱の時代を生き抜くため、個人として何ができるのか(5/11)
本編第1回:Chapter 1「原発停止による電力不足、エネルギーコスト上昇の深刻化」(5/18)
本編第2回:Chapter 2「『原発依存度0%』の矛盾。原子力発電の代わりはあるのか」(5/25)
本編第3回:Chapter 2「ポスト福島の、ベストな「エネルギーミックス」は何か」(6/1)
※本特集の基とする原稿は、2013年2月に大前氏が開催したセミナーのものであり、収録から経過した2年のうちに、いくつか古くなってしまった統計情報等が含まれることをご了承いただきたい。しかし、日本がエネルギー戦略においてかかえる課題はいまだ解決されておらず、当時の大前氏による分析は現在も有効なままである。
福島第一原発の事故原因を報道しない大手マスコミ
原子力政策の第一歩は福島第一原発の事故原因を解明することです。実は、もう解明はできています。できているけれども、当事者たちがそれを明らかにしたがらない。私は東京電力の原子力改革監視委員をやっています。
事故原因の解明を進め、東電も100%それに合意したので、結果を発表しました。ところが全国紙がそれを書かない。NHKでもニュースになりませんでした。
3.11の後、1年半にわたって東電と一緒に嘘をついてきた手前、今さら書けないというのです。東電がいくらお詫びして「真実はこうでした」と明らかにしても、これを報道すれば、自分たちも嘘をついていたと認めることになってしまう。
これは第二次大戦のときとよく似ています。ミッドウェー海戦の後、日本は大規模な戦闘では一度も勝っていないのですが、NHKも朝日新聞も「勝利」「転進」と言い続けました。
戦後はこれまでの論調を180度翻して、「皆あの戦争は勝つと思っていなかった」と書いた。福島第一原発の事故に関する報道も、似たような状況になっています。原子力安全・保安院(※8)と東電の発表を、大本営発表のように鵜呑みにして報道し続けたので、真実が明らかになっても今さら書けないのです。
まずは事故原因の解明・分析。ここをしっかりやらない限りは、国民は納得しないし、特に今後再稼働が問題になる原発の地元住民は絶対に受け入れないでしょう。
原因を解明した上で対策を立て、それから地元に説明をしていくという順序が望ましいのですが、事故から時間が経過してしまった今となっては非常に難しいです。
※8:2012年9月に廃止され、原子力規制委員会へ移行。
 東電は、なぜ真実を隠し続けたのか
東電は、なぜ1年半も真実を隠し続けたのか。私の調査によると、最初は能力不足で分からなかった。彼ら自身もそのことを認めています。
次に、事故原因は分かってきたけれど、地元に対して繰り返してきた説明と、真実があまりにも違うのでとても言えなかったという段階がありました。その後、「さる筋」からの圧力で言えなくなってしまった。
圧力とはどういうことか。当時の民主党政府は「冷温停止をもって安全宣言をしたい」と言って、冷温停止状態になるのを待っていました。しかし、冷温停止というのは、あくまで原子炉が存在する場合に意味があることなのです。
今回のように、炉心がメルトダウン(溶融)し、圧力容器をメルトスルー(溶けた燃料が容器の外に漏出)して、格納容器の底に溜まっている状況では、いくら水を注入してもなかなか冷えない。冷温停止するわけがないのです。
そうと分かっていながら、冷温停止をもって安全宣言をしたいという政府のために、「燃料が溶けています」と言えなくなってしまったのです。私は一人でそのことを主張し続けましたが、結局2011年の12月になるまで、東電も保安院も政府も、「溶けています」とは言えませんでした。
2011年12月、当時の野田首相は「冷温停止」が実現、原発事故は「収束」したと発表しましたが、炉心が溶けてなくなっているのに、冷温停止するはずがない。専門家から見ると間の抜けたことですが、事故後数日間で当然分かっていたようなことがずっと隠されてきたのです。
福島第一原発の事故原因については「物理的な解明」が不足している
福島第一原発の事故原因を解明するために、4つの事故調査委員会が設置されました。政府事故調、国会事故調、民間事故調、それから東電の中にも事故調がありました。図-14を見ていただくと分かるように、いずれの事故調の結論も三面記事の域を出ていません。
 一番いけないのは、原発事故を津波のせいにしたことです。「想定を超える津波のために起こった」と結論付けたのですが、実は技術的に分析すると、津波のせいで事故が起こったのではないとはっきり分かります。
私と、当時原子力担当相だった民主党の細野豪志さんは、「チームH2Oプロジェクト」と銘打って、事故原因の解明に取り組みました。
 福島第一原発・1~4号機と5、6号機の運命を分けたもの
その事故原因について1枚、重要な図を見てください(図-15)。東日本大震災直後、各原発の電源に何が起こったか、比較検証した結果をまとめたものです。
福島第一原発の1号機から4号機まで、3号機のバッテリーが2個動いた以外はすべての電源が喪失していました。バッテリーだけでは、データは読めますが冷却用のポンプは動かせません。
ここで重要なことは、福島第一原発において、外部交流電源が6回線すべて落ちていたということです。それも、津波の前の地震で全喪失しています。
津波が来る前の時点で外部電源が落ち、非常用ディーゼル電源が立ち上がっていた。そして、45分後に来た津波によって非常用ディーゼル電源が水没したのです。
福島第一原発の5、6号機は過酷事故に進展することなく冷温停止しました。1~4号機同様、外部電源はすべて喪失していたのですが、6号機の上に置いてあった空冷のディーゼル電源が動いた。
なぜ上に置いてあったかというと、空冷だからフィンが大きい。大きすぎて地下に置けなかったので、屋根の上に設置したのです。それで津波を免れました。そのディーゼル電源を見ると、フィンの空気取り入れ口のちょっと下まで水が来ています。
首の皮一枚で6号機の非常用ディーゼル電源が動いて6号機を冷やし、余力で5号機も冷やした。5つあったディーゼル電源のうち、たった1つだけが生き残っていて、その発電機が5号機と6号機を止めたのです。
東海、女川でも外部電源が喪失していた
5、6号機が生き残ったもうひとつの理由は、震災後5、6号機を担当したのが、実は東芝の社員だったということです。
当時福島第一原発の所長だった吉田昌郎さんは、6機もの原発を東電だけで見るのはとても無理だというので、1~4号機に集中して、5、6号機を出入り業者の東芝に任せました。
電力会社というのは、技術的な面でメーカーに頼っているところがあります。特に地方の電力会社は、メーカーに丸投げです。ですから、このように危機的な状況に陥ったとき、オペレートする力を持っていない会社が多いのです。
いずれにしても東芝の人たちは、自分たちが造った福島第一原発の5、6号機を止めることに成功しました。
東海第二原発でも外部電源が喪失し、非常用ディーゼル電源により首の皮一枚で惨事を免れました。女川原発では、東日本大震災直後は外部電源も生きていましたが、震度6の余震が来たときに、外部電源がすべて喪失しました。しかし、これも非常用のディーゼル電源が残っていたので事なきを得たのです。
外部電源の弱さと「安全指針」が原発事故の本質的な原因
このように見ていくと、日本の原発の場合、外部電源の弱さが問題だということが分かります。
しかし、実は原子力安全委員会(※9)の安全指針に「外部電源は喪失することを考えなくていい」と書いてあります。日本のようにネットワークがしっかりしたところで、外部電源が長期喪失することはない、と。
つまり、この指針が誤っていた。事故の本質的な原因はそこにあるのです。
それなのに、世界中に向けて「想定外の津波が来たせいでこんなことになりました」と言ったので、「私たちの国にはあんなに大きな津波は来ないから大丈夫だ」と世界は安心してしまったのです。
※9:2012年9月に廃止され、原子力規制委員会へ移行。
日本のステーション・ブラックアウト(全電源喪失)対策
すべての電源がストップすることをステーション・ブラックアウトと言います。テロリストの攻撃、たとえば飛行機が突っ込んでも起こります。原因が津波であれ地震であれ、ステーション・ブラックアウトは世界の原発で起こり得る共通の脅威です。
米国は9.11テロ後の2002年、各原発に対しステーション・ブラックアウト対策を取れという指針を出しています。
NRC(米国原子力規制委員会)が出した『B.5.b(※10)』という通達です。2006年、米国ではすべての原子炉がステーション・ブラックアウト対策を取っています。日本はこの通達を知りながら、皆知らん顔をした。経済産業省が握りつぶしたのです。
※10:原発に対する攻撃への対策を、各原発に義務付ける命令。
(大前研一向研会定例勉強会『日本のエネルギー問題(2013.2)』を基にgood.book編集部にて編集・収録)
次回、「Chapter 3:『放射線恐怖症』に陥り、『活断層オタク』がいる日本」に続く。
※本連載は毎週月曜日に掲載予定です。


BUSINESS JOURNAL大前研一著作
Chapter 2:エネルギーバランスと再生可能エネルギーの問題点
ポスト福島の、ベストな「エネルギーミックス」は何か
2015/6/1
これからのグローバル化社会で戦っていける「強いリーダー」を生み出していくためには何が必要なのか? そのために何をするべきかを長年伝えてきたのが元マッキンゼー日本支社長、アジア太平洋地区会長、現ビジネス・ブレークスルー大学学長の大前研一氏だ。
本連載は大前研一氏総監修により、大前氏主宰経営セミナーを書籍化した第四弾である『大前研一ビジネスジャーナル No.4「迫り来る危機をいかに乗り越えるか」』(初版:2015年3月6日)の内容を一部抜粋、NewsPicks向けに再編集してお届けする。
今回の連載では福島第一原発事故後の日本のエネルギー問題を取りあげ、原発へのyes/noだけではない持続可能なエネルギーミックスについて考える。
大前研一特別インタビュー:混乱の時代を生き抜くため、個人として何ができるのか(5/11)
本編第1回:Chapter 1「原発停止による電力不足、エネルギーコスト上昇の深刻化」(5/18)
本編第2回:Chapter 2「『原発依存度0%』の矛盾。原子力発電の代わりはあるのか」(5/25)
※本特集の基とする原稿は、2013年2月に大前氏が開催したセミナーのものであり、収録から経過した2年のうちに、いくつか古くなってしまった統計情報等が含まれることをご了承いただきたい。しかし、日本がエネルギー戦略においてかかえる課題はいまだ解決されておらず、当時の大前氏による分析は現在も有効なままである。
原子力、火力、水力…。各発電方式の特徴
発電方式には、それぞれの特徴があります。その特性を見きわめた上で、ベストミックスを見出す必要があるのです。図-8を見ていただきたい。
まず、流れ込み式の水力・地熱発電は平均稼働率が80%以上ですから、ベース供給力として使えます。石炭火力・原子力もベース供給力です。石炭火力は、蒸気機関車と同じで、蒸し続けなければ駄目です。基本的には燃やし続けるしかないので、ベース供給力と考えるべきでしょう。
LNGやその他のガスによる発電は運転コストが安く、需要変動に対応して若干の調整をすることが可能な「ミドル供給力」です。「ピーク供給力」の石油火力・調整池・揚水発電は、需要に応じてフォローするという使い方に向いています。
 原発依存度0%になると、「揚水発電」が意味をなさなくなる
「揚水発電」というのは、あまり馴染みのない言葉かもしれません。これは夜間の安い電力を使って、下の池から上の池に水を汲み上げておき、昼間、電力使用がピークになる時間帯にその水を落とす力で発電するという方法です。
日本は「神流川(かんながわ)発電所」という世界最大の揚水発電所をはじめ、多くの揚水発電所を持っています。原発は夜間も稼働し続けていますから、その余剰電力を揚水に回せば、効率よく発電することができます。
原子力をベースロードに、需要変動を揚水などの発電方法で吸収して、ベストミックスの状態にあったというのが3.11以前の日本でした。
日本における揚水発電の存在意義は、原発が夜間に作り出した余剰電力の活用ですから、原発依存度を0%にするのであれば、揚水発電所も意味をなさなくなります。
再生可能エネルギーの特徴と、地熱発電の課題
次に図-9を見ていただきたい。再生可能エネルギーには、いずれも際立った特徴があります。一般水力はほぼ開発され尽くしているので、水力発電に関しては、設備の小さい「小水力発電」が開発の中心になるでしょう。
バイオマス(※6)は日本の場合、現在の倍ぐらいまで増やせると思います。ただ、都市ごみなどが原料なので、「都市のごみを倍出せ」と言っても実際には難しい。
 有望なのは地熱です。日本は、世界3位のポテンシャルを持っています。
しかし、日本の場合、温泉組合と自然公園法がネックとなり、世界でもっとも地熱がやりにくい。温泉組合は、泉質や湯量、周辺環境への影響を懸念しています。自然公園法では、国が指定した自然公園内での発電所建設が原則禁止されています。
こういった事情もあり、地熱開発を進めようとすると、10~20年という長い時間がかかります。ポテンシャルがありながら、なかなか開発を進めることができないのです。
※6:動植物などから生まれた生物資源を燃焼したりガス化して電力を作る発電方式。廃材や家畜の糞尿、生ごみ、古紙などからエネルギーを生み出すことができる。
再生可能エネルギーにかかるコスト
 再生可能エネルギーにはどのくらいコストがかかるのか。図-10を見てください。原子力・石炭火力・LNG、これらのコストが1キロワットあたり8~10円です。原子力は、廃炉の問題を含めるとおよそ倍ぐらいになりますから、20円と考えていいでしょう。
太陽光はフィードインタリフで42円(編集部注・2015年3月時点で37円)。「フィードインタリフ」と言うと利益が出るように思えますが、前述したように、蓄電池などの設備にかかる費用を考えると、実際にはさらにコストがかかる。
洋上風力は、デンマークのように遠浅の海岸があるところでは効率がいいですが、日本には遠浅の海岸がほとんどありません。仮にあっても漁業権が発生するため、発電機1基あたり数億円の費用がかかります。
ですから実験としてやってみるのは自由ですが、採算は合わないでしょう。陸上風力も、日本の場合、非常に稼働率が低いという問題を抱えています。
世界の再生可能エネルギーコスト
各国の電気料金を比較してみましょう(図-11)。再生可能エネルギーのフィードインタリフを取り入れたドイツやイタリアでは電気料金が高くなっています。ドイツは2022年までにすべての原発を閉鎖すると正式決定しました。
再生可能エネルギーの導入を推進していますが、コストの問題をはじめ課題も多く、ドイツの電力構成は、未だその半分を石炭火力が占めています。もう一方のイタリアは国民投票の結果に基づいて、原発を新設しないと決めています。
 欧州では国境や海をまたぎ、互いに電力を融通できるようになっています。フランスが原子力で作った電力をイタリアやドイツが輸入するという構造です。電力が足りなくなっても、よその国から輸入できる環境があればこそ、すべての原発を閉鎖するという政策を実現できるのです。
日本の場合、原発をゼロにして電力不足に陥った場合、外国から輸入する方法は非常に限定されています。
全体のバランスを見て、最適なエネルギーミックスを考える必要がある
これまで述べてきたように、エネルギーミックスというのは、コスト、CO2の排出、リスクなどを含め、それぞれの発電方法を正確にプロファイルした上で考えなければならない国家戦略です。
そういった議論を経ることなく、稼働率の平均が12%にすぎない太陽光発電があたかも救世主であるかのような印象を与えてしまったことが、民主党政権(当時)(当時)のお粗末さです。自民党政権になっても、さしたる前進はありません。
福島第一原発事故の後、日本のエネルギー問題に対して抜本的な仕切り直しをして、国民に説明するということを、自民党はまだやっていません(※7)。
※7:2014年4月、政府は中長期のエネルギー政策の指針となる「エネルギー基本計画」を閣議決定。安全性を確認した上で、原発の再稼働を進めると明記した。
 (大前研一向研会定例勉強会『日本のエネルギー問題(2013.2)』を基にgood.book編集部にて編集・収録)
次回、「Chapter 3:なぜ、福島第一原発事故の原因解明が進まないのか」に続く。
※本連載は毎週月曜日に掲載予定です。


【hyper groove YAMAHAMOXF6,8】超万能オールインワンシンセサイザー『鬼に金棒』

2015年11月21日 07時23分01秒 | 日記








まず僕は25年前に当時の最先端のYAMAHAオールインワンシンセサイザーV50というものを過去に購入した。当時から抜群の才能で名曲(自画自賛(笑))を打ち込んでいった。だが、ボーカルが見つからず自分の声も嫌いだった為と精神疾患を患い、音楽どころではなくなった。
でも小説との二本柱として最近、復活を最近させた。だが、音楽会社は古いシンセの限界を感じて採用しない。
そこでYAMAHA社に「21世紀のV50はどういうオールインワンシンセですか?」と尋ねたら「MOXF6,MOXF8です」と回答があった。
YAMAHA社のシンセのいいところは音源音色(ピアノとかフォークギターとかバイオリンやストリングス等)本当に音源が豊富でたくさんありしかもそれさえも加工できること。また、パフォーマンスモードという(いわゆるリズムマシン)がついているのでドラマーも不要。エフェクターもあり不要。これは打ち込み的な音楽家には強い『鬼に金棒』的な最強の武器なシンセだと思う。
また音源のパートも16トラックもある。音源の中にはサンプリング音源のようなものもある。当たり前ながらオーケストラヒット(オケヒット)や稲妻の音やまさに「かゆいところに手が届く音源のハイパフォーマンス」。また、打ち込みもパソコンがなくともmoXF6やmoXf8の画面を見ながらの打ち込みも可能。しかもV50のように操作は簡単明快。打ち込み録音のほかにリアルタイム録音なども当たり前ながら可能で大変に万能である。まさに「21世紀のV50」である。これは僕にとっては『打ち出の小槌』であろう。まあ、音楽的才能がないひとには無用の長物ですが。
後、TMNETWORKのライブでTK・小室哲哉さんがライブパフォーマンスでTRANCE-MIXみたいなパフォーマンスをやっていたがこの一台で再現できますよ。そういう玄人にも素人にも万能な『打ち出の小槌』です。なにより音源の品質がいい。さすがYAMAHA社ですよね。

【パリ同時多発テロ】国際的ハッカー集団アノニマス「IS攻撃」見直したぞ、アノニマス!

2015年11月18日 12時56分57秒 | 日記







『パリ同時テロ』を受けて国際的ハッカー集団アノニマスが


ISをサイバー攻撃すると発表。


最近までアノニマスを、


只のおかしなPCヲタクの集団、としか(笑)


思っていなかったが見直した!


どうかISを壊滅させ、北朝鮮のほうも頼む!

ISも北朝鮮独裁国家もいらない。


日本が資金援助で必ず潰せ!臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年あるいは2016年へ!臥竜

小説 中国の長兄 周恩来<中国の偉大なる名宰相>ブログ連載小説3

2015年11月17日 08時01分05秒 | 日記






         上海出発・孫文の死


  暗い雲がたちこめ、やがて、その隙間から、ぽつんぽつんと冷たい雨が降り出した。そして、それはどんどんと多くなり、ざあざあと辺りを黒く濡らしていった。なんとも物悲しいような午後の時だ。
 周恩来は実家の軒下で、降り落ちる大粒の雨をみていた。母・冬児氏は忙しく洗濯物をとりこんでから、一息ついた。そして、息子のとなりに「よっこいしょ」と座った。
「雨ね」
「雨だね」
 当たり前のことを言ってみた。そう、雨…だ。みればわかる。
 それからしばらくして、母・冬児氏は、
「恩来、将来は何になりたいの?」と、突然のように尋ねた。
 周恩来はすぐに「孫文先生のようになりたいと思ってるんだ」
 とあたりまえのように答えた。そして、にこりと微笑んだ。
「そう。じゃあ…よっぽど勉強しないとねぇ」
「うん。わかってる。だから、今、一生懸命やってるんだ。いい成績をとって賞をもらうのが目的なんだ。偉くなるには、まず自分がひとより抜きんでることが大事だからね。そのためにはなんでもするよ」
「そう」
 母・冬児は深く頷いた。そして、
「じゃあ、日本行きの話もいいのね?」
 と尋ねた。客家(はっか)系の人間として教育に熱心だった母も父・胎能も、息子に米国行きを勧めていた。しかし、それだけの経済的余裕はなかった。なら日本はどうだろうか? 日本は明治維新から六十年あまりで西洋列強と肩を並べるまでになり、中国を搾取していた。周恩来は「教師」になるのが夢だった。
 とにかく、教えるのが好きだったのだ。
 恩来は日本に留学し、経済と日本語と政治あらゆるものを学んだ。またもや安い豆腐を食べ、日本食のとりこになった。日本からあらゆるものを吸収しようとした。
 そんな一九一七年、ロシアでレーニンによる革命がおこる。日本の新聞でも大きく取り扱われたが、ここでも周青年はぼんやりと新聞を読むだけだった。
 かれは社会主義を学んだ。そして、一日の時間割りを決めることになる。
 一日十三時間を勉強や、本や新聞を読むことにあてて、食事は他に三時間半、睡眠は七時間とする。
 中国はこの頃、西洋列強の国々に搾取されていた。英仏に植民地とされていた。中国の知識人たちはこれに腹をたてたが、今は象に立ち向かう蟻である。
 周恩来は日本で学んだあと、資産家の助けもあって、フランスに渡った。この頃には、英語と日本語、フランス語ができるようになっていた。
 周は、フランス人とも互角にわたりあった。
  当時、欧米に留学するのは一種の流行りであり、周恩来も例外ではなかったのである。これは「勤工倹学」と呼ばれるもので、ヨーロッパなどで働きながら学ぼうという中国人の運動であった。フランスに渡ったのは1万3千人ほど。その運動の中には、のちの「長兄」・周恩来がいた。(毛沢東は留学試験に落ちていけなかったという)

  一九二○年、9月11日。上海。
 物憂げな秋の陽射しに照らされた上海のポピュラ並木が微風でゆらゆら揺れていた。聞こえてくるのはカモメのカン高い鳴き声ばかりである。
 しかし、平穏な時代ではなかった。中国の上海などには日本やイギリスなど外国列強が支配し、わがもの顔でのさばっていたのだ。周恩来はショックを受けていた。上海の店や街のあちこちに「犬と中国人入るべからず」という看板がたっていたからだ。犬と中国人…? われわれは犬と同じ扱いか?
「この野郎め!」
 周は、そんな罵声を浴びせ掛けられてステッキで殴られる中国人の男を目撃したりもした。その男は何をした訳でもない。ただ中国人というだけで殴られたのだ。これは彼にとって屈辱以外のなにものでもなかった。「このままでは中国は外国の植民地になる」孫文の言葉を、周は思い出していた。このままでは…中国は……。
 やがて港についた。
 故郷の景色は、あまりにも身近にあり過ぎて、毎日歩いた道や草の匂いもあらためておもうこともなかった。だけどこれからは、この土地を離れて、中国さえも離れて、友達や両親とも別れてくらさなければならないのだ。
 だが、周恩来はこの上海の土地をも心にとどめようとはしなかった。はやくフランスへ渡って認められたい。…それらのことで胸がいっぱいだったのだ。期待と焦り、情熱と野心……青年時代に誰もがもつものである。
「がんばって……しっかりやりなさい」
 父・胎能は船に乗り込もうとする翔宇(恩来)に言った。
「体に気をつけて、しっかりやるのよ。けして諦めたりしちゃダメよ」
 母は寂しそうに言った。
「だいじょうぶだよ。ここまできたんだ、僕はけして諦めたりしないし、逃げたりしないよ」
 と周は自信たっぷりな微笑みのままいった。
 彼の頬は少しほてり、瞳だけがきらきらと輝いてもいた。
 彼は船に乗り込んで、大声で「じゃあ、元気で!」
 と、手をふった。
  こうして周恩来は、八十四名の四川省出身の青年とともにフランスへ渡るべく上海を出発していった。


  周恩来はフランスに渡るとさっそく、『中国共産党ヨーロッパ支部』を設立した。
 彼はなんとなくぼうっとした感じで、夜空にぽっかりと浮かぶ青白い月をジッとみた。うららかな夜風が頬に当たり、心地よかった。
「人生はバランスで、何かを勝ち得て何かを失っていく。…走っても走っても追い付けない現実……」
 すべてがあまり昔と変わらない気分だった。だけど、こんな気分もやがて秋風のように通りすぎてしまうのも、また確かだった。そして、彼の耳に訃報がまいこむ。
 一九二五年三月十三日、革命思想家・孫文が死亡したのだ。
「革命いまだならず」
 孫文はこういい残したという。




         小平との出会い


  フランスに来て、学校へいって、工場で働いて、希賢(小平)は一生懸命やった。しかし、がんばりがたりなかった。授業についていけず、フランス語もなにをいってるのかもわからずに落ちこぼれ、わずか三週間で学校をやめてしまったのだ。
 それで、希賢ことのちの小平は工場で一日を過ごすようになる。
「くそっ。孫文先生のように……か。くそったれめ!」
 希賢はくやしくてほぞを噛んだ。なにが孫文先生…だ!なんてこった!
 彼はくやしくてくやしくてしょうがなかった。しかし、腐ってばかりもいられない。食べるためには働かなくてはならない。希賢は何時間も重労働をすることになる。この当時、フランスは第一次世界大戦で働き手を数多く失っており、中国人はその「穴埋め」として安い給料で働かされていた。少し偏見になるが、現在の日本でいうなら、在日イラン人や在日フィリピン人といったポジションだ。
 彼は工場の宿舎に仲間の中国人30人と寝泊まりをしていた。そして、やけっぱちからだろうか?仲間とトランプでカケをすることが多くなったという。のちに仲間のひとりは、「小平にはユーモアがあった」
 と語っている。
  やり場のない焦り、工場のジメジメしたふとん…。それらは希賢を失望させるのに充分だった。もう、なにもかもくそっくらえだ!そんな気分だった。

  月のとても高い夜だ。
 希賢はひと気のない街の歩道を、ふらふらとひとりで歩いていた。ふらふらとは、アルコールがかなりはいっているためで、彼は、酒瓶を片手にもってラッパ飲みしながら歩いていたのだった。
 希賢はふらふら歩きながら、やがて誰かにぶつかって尻餅をついた。
「だいじょうぶかね?君」
「この野郎」
 希賢はろれつがまわらない口調のまま、おきあがると肩をいからせた。
しかし、ぶつかった青年…たぶん20代前半であろう青年は、希賢に反論することもなかった。どちらかが悪いとしても、それは希賢の方であろう。なにせ酒にぐでんぐでんに酔っ払い…勝手にひとにぶつかったのだから…。しかし、相手は文句はいわなかった。相手は紳士だった。そして、彼は、冷静に、と自分にいいきかせてもいた。
「だいぶ酔っ払っているようだね?君も中国人かい?」
「あぁ。」
 希賢は男を注意ぶかく観察した。その紳士は二十四歳くらいの堂々たる中国人男性で、インテリ風の髪と、もの静かな、好感をもてる顔をしていた。しかし、目は、知的だった。「僕も酒をだいぶ飲むが…君のように酒に酔われたりはしない。君は酒をやめたほうがいいね」
「よけいなお世話さ」
「ははは…そりゃあそうだ。僕は…周恩来だ。君の名は?」
 周恩来が知りたいのは、このイモのような顔をした酔っ払いの名前だった。彼はそれを礼儀ただしく尋ねた。
「……希賢」
「ほう。」周はそういい続けて、「とてもいい名前だね」といった。
 名前をきいてどうするんだ?!こっちは機嫌が悪いんだ!あばれるぞ!腹立ちまぎれにその言葉が希賢の喉まで出かかったが、ぐっとのみこんだ。
「だいぶ嫌なことがあったようだね?どうだろう……僕の支部へこないかい?」
 周恩来はおだやかにいった。
 この優しい言葉に希賢はおそれいった。この男は紳士だ!しかも自分と比べて、はるかに知的で親切のようだ。しかし、「支部」ってなんだろう?まぁ、いいか。いってやるよ。
 これが周恩来と小平の運命的な出会いだった。こののち四十年にも渡って続く友情の始まりだった。そして、「支部」とはまちがいなく中国共産党の仏支部のことだった。

  次の日より、希賢は「支部」へ出入りすることになった。フランス語もろくに話せない小平は、フランス人とも優雅に渡りあう周にひかれた。周恩来は中国共産党の仏支部の若きリーダー…。希賢は工場をやめて、周の所へ出入りするようになっていった。
 彼に与えられた仕事は「ガリ版刷り」だ。そう、共産党の機関紙を刷るのだ。
 希賢は「ガリ版刷り」が非常にうまかったという。そのため、周恩来や仲間たちから「ガリ版博士」と呼ばれ、愛されるようになる。
  一九一九年、ロシアでレーニンによる共産主義革命が成功する。
 そして、希賢は、20歳で、周に勧められて共産党に入党するのである。のちに小平はその時のことをふりかえり、娘の毛毛にいっている。
「あのころ入党するのはたやすいことではなかった。あんな時代だったから共産党に入るのは重大なことだった。それこそすべてを捧げたんだ。何もかもをね」

  一方、北京では学生や労働者たちの集会が開かれていた。北京の天安門広場には何万人もの人々が集まっていた。ざわつく聴衆…。
 ある男がさっそくアジ(煽動論説)をはりだした。
「諸君!我々はいま激しい屈辱と怒りにうちふるえている!
 パリで開かれた世界大戦の講和会議において、当然、敗戦国ドイツのもっていた山東省における利権はわが国に返還されるものと期待していた!
 しかし、どうか?!
 講和会議はわが山東省青島をドイツから日本へゆずることを決議したのだ!
 このままではやがて中国は世界地図から消え去り、我々は外国の奴隷にされてしまう!もはや、我々中国人が頼れるのは、我々自身でしかないのだ!
 諸君、
 いまこそ決起すべきときなのだ!
 われわれの手でわが中国を守ろう!!
 立て、同志諸君!」
 津波のような喚声があがった。こうしてアジの成功によって、北京大学を中心とする北京の大学19校・約三○○○名の学生はデモ行進をおこない、日本との秘密協議に協力した交通総長公邸を襲い、警官隊と激しく衝突した。
  
「諸君、北京のニュースを聞いたか?!」
 周恩来はいささか興奮ぎみに、仲間の中国共産党員にきいた。ここは中国共産党フランス支部のアジトだった。
「えぇ!」ひとり同志が答えた。そして続けて「北京で大学生たちが行った五・四運動の火は上海・天津・南京にも広がり、一般の市民や労働者もこれに同調していっせいにストライキにはいったって聞きました!」
「いままで中国では革命運動はなんども試行錯誤を重ねてきたが、こんどの五・四運動は重大な意義があると思う!」
 周恩来は胸を熱くしながら言った。そして、
「つまり今度の運動は、反帝国主義、反封建主義の旗印のもと一致団結してたちあがったということだ!
 諸君、時はきたれりだ!!」
 といい、周につられて希賢も拳を天にふりあげていた。
 それはのちの小平の革命精神へのはじまりの時であった。



         北  伐

 1925年。奨学金の打ち切りに抗議して、中国人がパリ中国公使館に押しかけ、占拠するという事件が勃発した。それによりフランス政府は国内の中国共産党員らを指名手配。そのリストの中には、21歳の希賢の名前もあった。彼はこのころより共産ゲリラのレッテルを貼られることになる。第一次国共合作……
  一九二六年七月。
 莊介石は国民党総司令官として北方軍閥打倒のため軍をおこした。これを北伐という。 八月、漢陽・漢口占領。
 十月、武昌占領。
 十一月、九江・南昌占領!
 国民党軍の北伐は、軍閥の圧政に苦しむ民衆に歓呼をもってむかえられた。北伐軍の行くところ農民・労働者は積極的に協力し、道案内や食糧運搬から暴動やストによる後方 乱も行った。そのため、北伐軍は、江西・湖南・湖北・安徽…とく各省で軍閥軍をやぶる快進撃をつづけ、十一月には国民党の中央政府が武漢に成立した。
「莊将軍!このようすでは三月には上海へ入城できますな!」
 莊介石の部下がニヤリといった。それに対して莊は、
「ウム。予想外の快進撃だったな」としらじらしく答えた。
「はっ!」部下はニガ虫を噛み潰したような顔になり、「しかしですよ将軍……共産党のやつらはこの北伐の成功は、自分達の大衆組織の圧力によるところが大きいと宣伝していることをご存じですか?」
「知っておる」
「共産党勢力はここ一年でいちじるしく拡大しております。このままのさばらせておくのは危険と考えますが……」
「うむ。」莊介石は狂喜の微笑を口元に浮かべてから「時期がきたということだな」
 といって、腰のサーベルを抜いて空をきってから、
「共産党との鎖を断つのだ!!」
 と断言した。
 もはや共産党など国民党にとって邪魔でしかない。すべて駆逐してしまうのだ!
  一九二七年。莊介石による上海クーデターが勃発する。
 三月二十六日、莊介石のひきいる国民党北伐軍上海入城。そして四月十二日午前四時、莊介石は反共クーデターをひきおこした!
 四月十三日正午。市内宝山路にて抗議行進をする共産党員・労働者に北伐軍第二師団が急襲をくわえて三○○名を虐殺。おりからの豪雨で宝山路に血の河が流れたという。

 ”北方軍閥と通じ、革命を破壊せんとする反動分子を一掃した!
  これを煽動した共産党と袂をわかつ!!”
          莊介石、上海声明 一九二七年四月

「諸君、静まれ!」
 朱徳・南昌軍将軍は多数の兵に告げた。「ただいまより、わが南昌鉄軍は国民党政府に対して武装蜂起する!」
 一同は静まりかえる。朱徳は続けた。
「諸君ら連隊もこれに加わってもらう!いいか?!」
 これにたいして、すぐさま、「おーっ!」という怒号のような歓声があがった。

”1927年8月1日早朝。
  南昌において、朱徳・賀竜らに指揮された一万の鉄軍が歴史的な南昌蜂起を行った! これが中国赤軍の始まりである”
          毛沢東

 こうして国民党と共産党の内戦が勃発することになる。この内戦は37年までつづくが、結果は国民党の退敗。…国民党の莊介石らは台湾に逃げ延びて独立政府をつくることになる。台湾と中共(中国共産党)の仲の悪さも、原因はここにあるといってもよい。
 とにかく泥沼の内戦の始まりであった。




         毛沢東という男


  一九二七年上海。
 周恩来は6年ぶりに欧州より帰国した。中国は泥沼の内戦の真っ直中にあった。そして、この頃より周恩来は「革命」思想をもちはじめる。
 いつ殺されてもおかしくない中、フランス帰りのエリートとみられていた周恩来は上海湾に浮かぶ船に呼び出された。この船の中で中国共産党の秘密会議が開かれるのだ。
 船室で繰り返される激しい議論。ソ連で教育を受けた党執行部、王明らの主張は労働者による「都市からの革命」であった。しかし、中国の都市労働者などたった1割。周には机上の空論に思えた。そんな中、ひとりの男が立ち上がっていった。
「都市からの革命など無意味だ。中国の9割を占める農民を主体とした「農村からの革命」をおこなわなくては勝つことができない。現実から学ばなくては真実はみえてこないのだ」 この男こそ、のちの中国の国家主席となる毛沢東そのひとであった。
 現実から学ばなくては真実はみえてこない……その言葉は周の胸に深く響いた。その通り!現実から学ばなくては真実はみえてこないのだ。
  中国共産党の政治局員となった周に、ソ連幹部から命令が下る。国民党を懺滅し、共産党の支配地を拡大せよ。この頃、周恩来は潁超という女性と結婚したばかり。しかし彼は、妻を実家に帰し、戦いに明け暮れるようになる。彼の作戦は単純で卑劣だった。
 負けるとわかればすぐに撤退し、その上、アヘン業者からアヘンを奪いとり市民に売りつけた。それで得た金をもとに兵を集めたのだ。とにかく生き残るためになんでもやった。 しかし、かれと妻との間には子がいなかった。(養子があの江沢民である)
 だが非現実的なことをしいるソ連派に嫌気がさして、周恩来は毛沢東の農民軍に参加するようになる。
 現実から学ばなくては真実はみえてこない……。周恩来は毛沢東に急速に接近していく。周恩来はインテリの軍師として毛をサポートし出した。




         長   征


  戦いは国民党軍の一方的優勢のうちに一年間続いた。長期包囲作戦のため、ソビエト区内の戦死者・飢餓者は百万人を越した。
 一九三四年七月十五日、瑞金。
 毛沢東ら共産党軍は、敗退し、会議を開いていた。毛は机をたたいて主張した。
「このままでは座して死ぬのみだ!
 我々のとる道はただひとつ、敵の包囲網を破って、この江西根拠地から全軍撤退することだ!」
「しかし……コミンテルンからはソビエト政権地区を死守せよとの指令がきていますが…」 その部下の言葉を遮るように毛は、
「われわれはコミンテルンのために戦ってるのではない!われわれは中国解放のために戦っているのだ!」
 と怒鳴りちらした。
「毛沢東同志、支持!」
 そういって椅子から立ち上がったのは、誰あろう、革命に身を投じて毛と合流した周恩来そのひとであった。
 周恩来、ときに三十〇歳。
「おぉっ、周同志」
「毛同志のいうとおり、我々は中国人民の解放のために戦っているのだ!!その解放のために着実に努力してきた!しかし、このままソビエト政権地区にとどまれば、敵軍にすべて蹂躙されてしまう!それをさけるために、紅軍は転進すべきだ!」
「そうだ」毛はいきまいて早口のままいった。「同志諸君、このままむざむざと解放の芽を踏み躙られてはならない!この解放の芽を守り、さらに中国全土にその花を咲かせるためには紅軍はあらたな転生の進軍に出動するのだ!」
 こうして一九三四年、十月十六日。毛沢東以下約10万の紅軍主力は長征の第一歩をふみだすのだった。
 国民党の包囲網を破って、瑞金から呉起鎮までの一万二千キロの進軍……この怒濤のような進軍こそが「長征」と呼ばれるものである。
 そんな中、周恩来は「一度目の失脚」を味わうことになる。
「周恩来同志を政治局員から一党員に後格する」
 毛沢東がソ連派幹部との政治闘争にやぶれたのだ。失脚にうちひしがれた。



【エンジェル・ハート(日本テレドラマ)】冴羽遼役上川隆也、高島礼子、三吉彩花、ブラザートム最高!

2015年11月16日 17時49分45秒 | 日記







日本テレビドラマ『エンジェル・ハート』を楽しみに観ている。


冴羽遼役が上川隆也さんでイメージにぴったり!


グラスハート役の三吉彩花や

刑事役の高島礼子や海坊主のブラザートム…


まさに実写版最高作!


イメージ通りだ!


最近の日テレドラマはデスノートといいいい作品揃いである。


その調子だ(笑)臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年あるいは2016年へ!臥竜

【パリ同時多発テロ】残虐殺戮集団ISを爆撃したい程憎む!無辜の民が何百人犠牲!許さぬ!

2015年11月15日 17時19分22秒 | 日記







パリ同時テロは遺憾だし、無辜の民間人を何百人も殺したテロリスト集団は

ほんとうに怒りを覚えるし


私に軍事的な力があるならISを爆撃させて滅ぼしたい。


今年日本人も殺されましたしね。


やくざより酷いISテロ集団は


北朝鮮とほぼ同じ残虐で無慈悲な殺戮集団です。


世界の力でISを壊滅させよう!臥竜




緑川鷲羽そして始まりの2015年あるいは2016年へ!臥竜

小説 中国の長兄 周恩来<中国の偉大なる名宰相>ブログ連載小説2

2015年11月14日 07時59分24秒 | 日記








大前研一<人間力の時代>世界が注目する近未来の巨大市場の真実<「眠れる巨象」インドは中国にはなれない>SAPIO誌2015年度3月号 まとめ緑川鷲羽2015年2月20日
今や中国は経済規模でも軍事費でも「世界第二位の大国」となった。アジアで覇権主義的な対外拡大政策を加速し、領海問題などで周辺諸国との軋轢が今後ますます予想される。日本は経済にせよ、安全保障にせよ、「ポスト中国」を見つけることが急務である。その筆頭がインドとされているが、同国の将来については大前氏は意外な言葉を口にした。
▼民主主義は経済を阻害する
「眠れる巨象」はいつ目覚めるのか。中国経済が翳りを見せつつある今、世界の投資家たちの注目はインドに集まっている。
インドは、現在の人口が12億5000万人超で、2028年までに中国を抜いて世界第一の人口大国になると言われている。また2014年就任したナレンドラ・モディ首相は改革派として知られ、今後の経済成長が大いに期待される。
たしかに潜在能力は高い。インドには現在10%の中間層がいるとされ、これは日本の全人口に匹敵する。この人たちは教育レベルが高く、非常に優秀で英語が堪能だ。かなりの人は欧米の大学に留学して修士課程や博士課程を修了し、海外でビジネスマン、医師、弁護士、会計士などとして活躍している。
たとえばマイクロソフトのサトヤ・ナデラCEOやペプシコのインドラ・ヌーイCEOをはじめ、「フォーチュン500」(米『フォーチュン』誌が年1回発表する全米上位500社の総収入ランキング)のうち300社以上にインド人の副社長以上がいる(日本人は1人もいない)。かつては海外に行きっぱなしだったこうしたインド人は、母国に戻ったりしてインド経済発展に拍車をかけている。
では、眠れる巨象は今、まさに起き上がらんとしているのか。残念ながら「NO」である。
なぜか? インドはイギリスの植民地だった名残で早くから「民主主義」が根づいてしまったからである。意外かもしれないが、途上国での民主主義の発達は、経済成長を阻害するのだ。
▼小平の欺瞞に気づきだした
中国と対比すればわかりやすいだろう。中国が短期間のうちにあれほどの経済成長を達成したのは、共産党一党独裁下の地方トップによる「計画経済」のおかげである。
実は、小平以後の中国は経済政策を地方に分権化し、市長と市の共産党書記に全権を与えている。とくに市長は会社で言えば事業部長のようなもので、絶大な権限を持っている。ただし、市長の人事権は北京にあり、市長が出世するためには10%以上の経済成長を維持しなければならず、7%成長を2年続けて下回ると更迭されるという習慣があった。
市長にしておおきいのは「選挙」を経る必要がないことだ。その為官僚の腐敗も不正隠し財産も凄い。が、小平は改革開放の基本原則として「先に豊かになれる者から豊かになれ。そして落伍した者を助けよ」という先富論を唱えたが、それは欺瞞だった。経済発展から取り残された貧困層は約7億人に達し、富裕層との格差は広がる一方だ。
この20年間に生活がほとんど向上してないということに気づきだした貧困層の不満を抑えるため、習近平・国家主席は「トラもハエも叩く」と大号令をかけて汚職撲滅キャンペーンを展開しているわけだ。
今後の中国の未来は決して明るくないが、市長によって全権を委ねた計画経済によって中国が世界第二位の経済大国にのしあがったことは確かである。
▼パソコンよりもパンを求める
その対極にあるのがインドだ。「世界最大の民主主義国家」のインドでは18歳以上の全国民に選挙権が付与されている。したがって、有権者の大半を占める年間所得3000ドル未満のBOP(Base of the Pyramid)と呼ばれる貧困層の支持を得られるかどうかが、政治家たちにとって最大の感心ごとになる。日本の場合も貧しいころは富裕層にしか選挙権がなかった。インドは中国のように貧困層7億人を斬り捨てることができない。インドの政治家たちは選挙のたびに貧困層対策を考えなければならない。
インドの場合、識字率はまだ約74%で、道路、水道、電気などのインフラが整備されていないために自給自足の原始的な営みをしている地域はざらにある。そういう社会では、民衆は未来の安定よりも明日の生活の糧を求めるのが常である。親の収入がなくかわりに子供を働きにだし、その稼ぎを収奪して家計を成り立たせている貧困層も多い。
ナイドゥ・州首相は地元の選挙で一度、「私は皆さんにコンピュータではなく、パンと水を与える」というキャンペーンを繰り広げた対立候補に敗れたという(現在州首相に返り咲いている)。民衆は将来の役に立つパソコンではなく、日々の空腹を満たすパンと水を選んだのである。インド人の1人当たり1GDPは現在約1500ドルだが、実は1人当たりGDPが100ドル台から3000ドルに達成するプロセスには高いハードルがある。
途上国に民主主義を導入すると、みんなに投票権を与えたがゆえに経済発展できないという弊害があるのだ。民主主義が生み出す「途上国のジレンマ」である。
▼まもなくモディ政権はレームダック化する?
いったん民主主義を脇に置いて独裁的な手法で1人当たりGDPが3000ドルを超える段階まで突き進み、教育を十分に普及させる、それから冨を分配する――というやり方しかないのかも知れない。モディ首相の経済政策「モディノミクス」に内外から期待が集まっている。だが、就任から1年以上たっても、まだ国内で何の成果も上げていない。だから海外では人気者だが、国内では徐々に人気がなくなっている。あと1年もたてばレームダック化すると思う。
民主主義は常に正しい答えを出すとは限らない。無知で判断力の乏しい大衆が意思決定に参加する民主主義は「衆愚主義」に陥る。
少なくとも教育が社会の底辺まで行き渡るまでは、インドに過度な期待をしないほうが賢明だろう。
~大前研一ニュースの視点~2015年11月13日<中台関係、南シナ海~中国には台湾を運営するノウハウがない>
<*中台関係 1949年の中台分裂後初の首脳会談*南シナ海 「航行の自由」作戦 米国側はどう報じているのか?>
▼ 中国との首脳会談の定例化は、馬英九氏の最後の一仕事
中国の習近平国家主席と台湾の馬英九総統は7日、シンガポールで会談しました。
両首脳は中国と台湾が不可分の領土であるとする「一つの中国」の原則のもと、経済・文化交流を拡大することを確認しました。
双方どちらも「1つの中国」を主張していますが、思い描いている「1つの中国」像は異なります。
中国:中華人民共和国(毛沢東)であり、台湾:中華民国(蒋介石)となります。
実際のところ、両者が1つの国になることがあるのか?というと、私は難しいと感じています。
さらにいえば、今の中国に台湾を飲み込む資格がありません。
台湾は中国系の国家として初めて民主主義国家として国家元首を決める国になりました。
人口2300万人、憲法、通貨、軍隊などの統治機構を持っており、国境も明確です。
主権国家論でいえば、完全に1つの国として成り立っています。
中国は香港と同じように、掠め取ろうと画策するかも知れませんが、軍隊の強さや米国との関係性を見ても、完全に征服するのは至難の業だと思います。
また、中国では台湾を征服したところで、今の台湾を運営するノウハウがないので、経営が成り立たないでしょう。
台湾には危機感を抱えている人が多く、そのため語学の勉強に励み、米国への留学などにも積極的で起業をする人も多くいます。
技術力、経営力は群を抜いています。北京語が話せる高スキルの人材です。
このような人たちが、資本主義について何もわからない中国に来てくれたことで、中国はかなり助けられています。鴻海は100万人の雇用を生み出しています。
中国と台湾の関係性は、「今まで通り」で何も問題がありません。
ではなぜこのタイミングで両首脳会談が行われたのか?というと、私は馬英九総統の「最後の一仕事」だと思っています。
来年1月の総統選では蔡英文氏が台湾総統になることが、ほぼ確実と言われています。
馬英九氏が今年から中国との首脳会談を再開し、「定例化」することで来年以降、蔡英文氏も中国との関係性を築きやすくなります。
そこを見据えて、馬英九氏が最後の台湾への貢献として実現させたのだと思います。
▼ 南シナ海問題に、日本は関係を持たないほうがいい
「南シナ海『航行の自由』作戦、米国側はどう報じているのか?」という記事が一部メディアに掲載されました。
戦略学者の奥村真司氏が米国サイトの記事を紹介・解説しています。
領海と経済的排他水域の領有権について、国連海洋法条約の定義を示す一方、米国と中国でその解釈が異なると指摘しました。
現在の米国の行動はまだメッセージ性が弱いものの、我々は情勢を注視していく必要があるとしています。
米国も中々いい加減な国で、国連海洋法に基づいて12カイリに入っていると主張していますが、そもそも米国は国連海洋法を批准していません。慣例として守っているという形です。
一方の中国は国連海洋法を批准していますが、守っていません。
中国は、かつて日本が沖ノ鳥島の周辺の岩礁を埋め立て、護岸工事を行った事例を参考にして「領土」として主張しているので、日本としてもあまり大きな批判はしにくいかも知れません。
米国というのは、常に自国の正当性を主張する国ですから、日本が一緒になってこの手の問題に絡むと非常に厄介だと思います。
私としては、今回の問題には関係を持たないのが一番得策だと思いますが、米国に要請される可能性はあるでしょう。
何とか突っぱねて、米国に巻き込まれないようにしてもらいたいところです。



<池上彰緊急スペシャル「よく分からない中国のナゾ」2014年11月29日フジテレビ番組放送分>(C)池上彰(C)フジテレビ(文章まとめ)緑川鷲羽2014年12月13日
(1)日中首脳会談のナゾ→中国側の条件は*日本の首相が靖国神社を参拝しないことを明言する*尖閣諸島に領土問題があることを認める<これに関しては日本側は*首相の終戦の日の参拝しない*領土問題ではいろいろな意見があるのだろう、という官僚的な玉虫色決着>結果、日中首脳会談実現(官僚や飯島氏や谷内氏の勝利ではない)
会談に臨んだ習近平国家主席はしかめっ面で目も合わせず握手し、安倍晋三のときだけ背後に国旗がなく、背後は中国では「負け組の代表色」の“ブルー(青色)”
まあ中国側も日本の首相と会わなければならない必要があった。
<経済問題>*対中国貿易輸出額の推移((反日で)2011年から右肩下がり60%から-40%までがくんと右肩下がり)
*日本からの投資(対中)減っている。*日本から中国への投資・会社進出なしに中国商務省・沈丹陽報道官「政治関係の悪化は明らかに投資に影響している。双方にとって不利益だ」(2014年6月7日)
<アメリカからの圧力>*アメリカにとっても中国は経済で大事。中国の軍事力が大きくなっているしアメリカはことを争いたくない。
習近平氏は首脳会議で「日本は歴史を鑑(かがみ・戒めとなる事情や前例)とし引き続き平和国家の道を歩んでほしい(*習近平が日本が平和国家であると認めた)」
会談では(1)『海上連絡メカニズムの構築』(2013年2月ロックオン(中国艦が))(2014年5月日本機と中国戦闘機ニアミス)
(2)赤サンゴ(中国船200隻・小笠原諸島)密漁を禁止に
習近平のしかめっ面は*中国で「親日」と見られると失脚の危険性大だから。国内ではあいかわらず反日教育をしているし、失脚の例が1986年の中曽根康弘首相(当時)と胡耀邦総書記(当時・のちに失脚)が有名である。
(2)なんでココまで反日なの?
*反日人は中国人の86%(*日本が釣魚島(ちょうぎょとう・尖閣諸島)を国有化したから64%)(*侵略した歴史をきちんと謝罪しないから59.6%)
*反中人の日本人は96%(*国際ルールをやぶるような行為をするから55.1%)(*資源やエネルギー、会社などの中国人は自己中だから52.8%)
*抗日映画(対日本軍の中の1943年)のテーマ曲が中国国家に
*中国の映画ドラマは100作中48作品が抗日映画だった。
*『鬼子(グウィズー・残虐な日本兵)はどこへいった』という中国共産党。日本軍は強くて残虐だった。その日本軍を中国共産党軍が(本当は蒋介石の中国国民党軍が)やぶった、と。2015年は中国「抗日戦争と反ファシズム戦争勝利70年」(VS日独伊)
2014年に制定された抗日戦争記念日(1)9月3日「中国人抗日戦争勝利記念日(1945年9月2日日本国が米艦ミズーリ号で敗戦書に署名)」(2)12月13日「南京大虐殺犠牲者国家追悼日(1937年12月13日旧日本軍が当時の首都である南京を陥落してこの日から六週間にわたって放火・虐殺・略奪等を行い30万人を虐殺した(中国の言い分)*注釈原爆でも落とさない限りたった六週間で30万人は虐殺できない。だが、数はどうあれ殺したのは事実)」
<主な抗日記念館>*<北京市「中国人民抗日戦争記念日」><中国国内「“九・一八”歴史記念館」><中国国内「南京大虐殺記念館」><北京市「苑平城(えんへいしょう)盧溝橋(ろこうきょう)」>
いわば今の中国は官僚の腐敗や経済成長での格差拡大のスケープゴート(生贄の羊)として日本国を攻撃しているだけ。だが、中国人は本音では「日本人が大好きだし日本製品の大ファンでもある」我々日本人が感情的にならずおとなしく長い目でみてやろう。
(3)なんで嫌いなはずの日本に旅行にくるの?(タテマエは反日、でも本音は親日)
2014年中国人人気旅行先(トラベラーズアジアパシフック調べ)*2013年10月
<一位日本、二位アメリカ、三位台湾、四位ニュージーランド、五位タイ、六位モルディブ、七位オーストラリア、八位イタリア、九位スイス、十位ギリシャ>
(海外の水道水はまずくて呑めない)(日本のように値段が書いてない)(食糧サンプルもない)
*中国人個人観光ビザ発行条件(緩和前)(対象)<一定の職業上の地位および経済力を有する者・滞在日15日>(緩和後2011年9月)(対象)<一定の経済力を有する者・滞在日15日または30日>何故緩和されたか?は不法労働不法滞在の中国人が減ったからである。
<日本人気ツアーランキング>
*一位、北海道4泊5日温泉とグルメツアー(8000元・約14万4000円)
*二位、大阪・京都・奈良の旅(1699元・約3万500円)
*三位、九州5泊6日温泉とグルメツアー(4365元・約7万8500円)
中国人観光客200万人突破(2014年)!
日本製「メイドインジャパンは高品質で安全!」
<訪日観光客一人あたりの出資>
*一位、中国、約12.1万円、合計23.6万円
*二位、ベトナム、約10.9万円、合計28.6面円
*三位、タイ、約6.1万円、合計13.8万円
*四位、ロシア、約6.6万円、合計21.9万円
*五位、香港、約4.5万円、合計14.8万円
(観光庁2014年7月~9月)
*全中国人の平均年収は30万7000円
エリートは年収900万円(日本でいうと1億円くらい)
*中国共産党が“反日キャンペーン”をしても「反日」は広がってはいない。若い中国人ほど反日感情が薄い。一般の中国人は日中友好を望んでいる。「親日発言」は禁止されてはいない。現在の中国共産党政権の批判をしない限りOKである。
<中国国内人気アニメーションランキング>
   *一位、喜羊羊与灰太狼(ミーヤンヤンとホイタイラン)<中国>
   *二位、名探偵コナン<日本>
   *三位、NARUTO<日本>
   *四位、ドラえもん<日本>
   *五位、ワンピース<日本>
   *六位、クレヨンしんちゃん<日本>
   *七位、スラムダンク<日本>
   *八位、聖闘士星矢<日本>
   *九位、ドラゴンボール<日本>
   *十位、トムとジェリー<米国>
日本アニメ漫画や映画が大ブームである。コスプレ、コミケも繁盛!
*日本ブームを<日流(ルゥチャオ)>といい、日本語学校の人口は100万人を突破した!日本の一番の人気食事は“日本式カレー”であるという。
*中国人も韓国人もタテマエは反日でも、親日家は中国にも韓国にも大勢いる。
(4)こんなに中国経済に依存?
<中国にある外資系企業>45万1800万社/中国にある企業1677万8000社
<日本にある外資系企業>3189社/日本にある企業412万8215社(2013年調べ)
<スマートフォン世界出荷数>
*一位、サムスン電子社(韓国)、3810万台
   *二位、アップル社(米国)、3930万台
   *三位、シャオミ社(中国)、1730万台
   *四位、レノボ社(中国)、1690万台
   *五位、LG電子社(韓国)、1680万台
       その他     、1億5920万台
       合計      、3億2760万台(2013年度)
2013年度のカラーテレビの生産量は世界の出荷数の54%が中国製
でも、何故日本にきて炊飯器や薬や化粧品などを買っていくのか?日本製品の方が性能もよく高品質で安全であるから。
(5)なんで中国は南シナ海を「全部自分のモノ」というのか?
 まあ、当然ながら南シナ海(英語名・スプラトリー諸島)等で石油や天然ガスなどの資源が採れるからだ。だが、歴史的に、という中国人もいる。大航海時代<大航海時代を代表とする航海者>*<1498年にインド航路開拓 バスコ・ダ・ガマ(1460~1519)>*<1492年新大陸発見 クリストファー・コロンブス(1451?~1506)>
しかし、彼らより90年以上前の1405年に中国の大航海時代があったのだという。
その航海者の名は鄭和(ていわ・1371?~1435?)という。
宝船(ほうせん・コロンブスの船の十倍の船)で東アジアやインドやアフリカや中東メッカまで航海して、朝貢(ちょうこう・南シナ海の諸国を実効支配)していた、と。あくまで中国人の主張であるが(笑)その宝船で甲板をくりぬいて穴をあけ麒麟を帝の土産にして運んだのだという(笑)。三沙市(さんさし・西沙諸島・南沙諸島・東沙諸島)もつくり、市役所も完成させた。他人事ではない。尖閣諸島問題を抱える日本も例外とはいくまい。
2011年にはたった2隻であった我が国領土の尖閣諸島への領海侵犯も、2014年には208隻……だが、安倍晋三首相が習近平主席に文句をいうとすぐにいなくなった。あれれれ(笑)
わざとやっていたんじゃないの?と(笑)
ちなみに習近平国家主席のスローガンです。
「中華民族の偉大な復興(明時代に)という中国の夢を実現するため奮闘・努力しなければならない」(2013年3月17日第12期全人代第一回会議)
「役人や政治家の腐敗・汚職問題に鉄槌を下す!ハエ(小もの)も虎(大物)も叩く」

<中華民族約13億人56民族>
*漢族(圧倒的に多い)*モンゴル族*回族*チベット族*ウイグル族*ミャオ族*イ族*チワン族*プイ族*朝鮮族*満州族*トン族*ヤオ族*ペー族*トゥチャ族*ハ二族*カザフ族*タイ族*リー族*リス族*ワ族*シャオ族*高山族*ラフ族*スイ族*ナシ族*トンシャン族*チンポー族*プーラン族*キルギス族*トゥ族*ダゴール族*ムーラオ族*チャン族*サラル族*タジク族*マオナン族*コーラオ族*シボ族*アチャン族*プミ族*ヌー族*ウズベク族*ロシア族*エベンキ族*ボウナン族*ドアン族*ユグル族*タタール族*ロッパ族*ジノー族*トールン族*オロチョン族*ホジェン族*メンパ族*キン族



<人口「10分の1」国家だからできることがある 安倍「対中強硬路線」にメリットなし「中国は使ってナンボ」とこころえよ><世界に飛躍する「人間力の時代」大前研一著作2014年9月9日小学館SAPIO誌10月号より>
福田康夫元首相と習近平国家主席の「極秘会談」をはじめ、日中外交は、尖閣騒動後の絶縁状態から新たな段階にすすみつつある。しかし、そんな折、中国企業の期限切れ食肉問題が再燃し、チャイナリスクがまたしても顕在化した。中国に歩み寄るべきか、それとも、別のパートナーを見つけるべきか。
<台湾は中国の労働力と市場をとことん利用>
今後は中国から避難する日本企業が増える事が予想される。だが、それは大きな間違いであり、知恵がないと思う。なぜなら、「中国は使ってナンボ」だからである。見習うべきは、台湾企業だ。政治的にあれほど微妙な緊張関係にありながら、世界最大のEMS(電子機器の受託生産サービス)企業・鴻海(ホンハイ)機密工業や中国最大の食品メーカー・頂新(ケイマン)などの台湾企業は、中国の労働力と市場をとことん利用することで成長を持続している。台湾と中国の場合、国家レベルでは対立していても、地方レベルでは全く違う。たとえば、台湾の市長や経済人が中国の都市を訪問すると、夜は必ず中国側の市長や書記が“熱烈歓迎”して「我々は北京抜きでやりましょう。我が市の工業園区の発展に協力してください」などと本音トークで投資や企業進出を働きかけ、台湾側もそれに応じて破格の優遇条件を引き出してきた。その結果、今は台湾は中国における最大の投資国となり、鴻海精密工業や頂新をはじめとする台湾系企業が中国の多くの業界で最大の企業に成長するだけでなく、輸出の過半を担うまでになっている。
<「ボリューム国家」から「クオリティ国家」へ>
また、これから日本は「ボリューム国家(経済大国)」のメンタリティを捨て、財布と胃袋のデカイ中国をしたたかに利用して発展するエクセレントな「クオリティ国家」を目指すべきだと思う。日本はまだ「ボリューム国家」として中国と規模で競争しようとしているが、それはもはや不可能だ。相手は人口が日本の10倍以上の13億6000万人もいて、GDPもすでに日本の倍の1000兆円を超えているという現実を直視しなければならない。そもそも中国4000年の歴史を見れば、前半の2000年ほどは日本は存在すらしていなかったのだし。ならば日本は「中国の10分の1でかまわない」と達観し、ボリュームで競わないことが重要だと思う。逆に言えば、中国に負けるのは悔しい、あんな奴らにナメられてたまるか、というようなメンタリティを持つ方が歴史的にはおかしいのである。
 世界を見渡すと、隣に大国のある小国のクオリティ国家(10%国家)は、たいがい成功している。国民1人ひとりや企業の力は、大国より小国のほうが強い場合が多いからだ。
たとえば、ドイツの隣にあるスイス、デンマーク、スウェーデンなどはまさにエクセレントな(はぼ)10%国家である。これらの国の企業は、まずはドイツ人が買ってくれる商品をつくり、使ってくれるサービスを提供することを考える。自国より圧倒的に市場が大きい隣国ドイツで成功することが、他のEU諸国に、さらには世界に打って出るための第一歩だからである。ドイツは最も大切な「お客さん」であり、使ってナンボだと割り切っているのだ。カナダとアメリカ、ニュージーランドとオーストラリアの関係も同様である。そこに小国の劣等感は全くないし、大国のほうも小国を尊敬している。中国との関係もそろそろそういう「クオリティ国家(日本)」と「ボリューム国家(中国)」として関係改善・関係修復を急ぐべきだ。中国はMIRV(1基に複数の核弾頭を搭載し、それぞれ弾頭が異なる目標を攻撃できる弾道ミサイル)を配備している。もし、10発のMIRVが日本の主要都市を狙って飛んできたら、日本は壊滅してしまう。そんな国を相手に余計な火遊びをしないほうがいい。私は中国に迎合しろ、というのではない。中国を活用するべきだと言っているのだ。
<「中国崩壊」のリスクヘッジ>
私は習近平の中国は10年以内に崩壊するとみている。今の中国は中国共産党一党独裁で、北京からすべての都市をコントロールしているが、バブルが弾ければ不満が爆発する可能性があるからだ。バブルが弾けたら、中央政府のきつい締め付けを我慢している人はいないだろう。中央が手ぐすね引けば引くほど反発するだろう。崩壊には2パターンあると思う。ひとつは最悪なパターンで、中国の中央政権習近平政権が急激に崩壊・失脚してしまうもの。これは最悪で、何の得にもならず、中国市場が大暴落し騒乱し、大規模な難民が日本に押し寄せてパニックになる。これは迷惑千万な話で、世界経済がおわってしまう。だから、我々は中国の有識者たちに「中国はゆるやかにドイツのような共和制連邦国家になってください」と誘導することでパニックは防げる。北朝鮮は軟着陸崩壊だ。こうして連邦制度の中国連邦国家が出来れば、省庁の地方に中国人の中にかなり優秀な人も多いから、「どうか日本の技術を教えてください」「日本の企業に来てもらいたい」「日本人の技術者を招聘したい」「国民の民度を上げる方法を教えてください」等という話に発展しやすい。
中国人も馬鹿ではない。「品質ではまだまだ日本製品には敵わない」とわかっている。
安倍政権はインドやバングラディシュなどやタイやフィリピンを中国の代替国としたいようだが、インドはさておき、タイやバングラディシュは人口が少ないから人件費が安いだけで皆が工場に行き始めればすぐに高騰してしまう。バングラディシュやエチオピアなどへ向かう中国企業もあるが、産業基盤整備に10年以上かかるだろう。いずれにしても中国にかわる国はない。日本にとって対中関係を改善することはメリットが多いが、デメリットはない。尖閣諸島・竹島問題などは棚上げではなく「フリーズ状態」にして関係回復したほうがよい。「中国は使ってナンボ」というメンタリティと「クオリティ国家で勝負する」国家ノウハウを学ぶべきなのだ。


<テレビ朝日番組「池上彰の解説塾」2014年8月18日放送分c池上彰>
<中国の正体>
中国についてはモラルの低下(食品汚染・盗作・パクリ)や大気汚染やパンダ、中国共産党一党独裁があると思う。1972年、田中角栄首相と周恩来首相(いずれも当時)の『日中国交正常化』も覚えている方もいるかも知れない(私緑川鷲羽は当時2歳なので、知らない)。あれから月日が経ち、中国は経済力と軍事力を拡大し、世界第二位の経済大国になり、もはや中国なしには世界経済は語れなくなった。ちなみに人口は中国が13億人、インドが12億人、ブラジルが6億人である。中国は一人っ子政策を今でもやっている。一人っ子で甘やかされて育った中国の子供を『小皇帝』と呼ぶ。小皇帝は肥満気味で、ワガママで自己中であるという。ちなみに中国の軍は『中国人民解放軍』といいます。が、中国共産党の為の軍であり、本当の意味で、「人民」の「解放」の為の軍ではありません。
中国共産党の国会にあたるのが『中国全国人民代表会(全人代)』といいます。中国は本当に中国共産党の一党独裁です。他にアクセサリー的な政党がありますが、まさに飾りです。
何故なら憲法で「すべての人は中国共産党に従うこと」と決まっているからです。
選挙権も人事権もない。そもそも中国には選挙がありません。中国ではSNH48(上海のAKB48の中国人版)で、中国人は人気投票ですが、初めて選挙に参加したというひとばかりでした。ですが、中国は社会主義や共産主義国家ではありません。共産主義のような、働いても働かなくても同じ給料、では、経済が破綻するから(旧ソ連がそうだった)です。
だから90年代から中国の優れた指導者・小平氏の進める『社会主義的民主主義(事実上の資本主義化)』で、中国は経済を回してきたのです。人民元の為替相場を意図的に低く(輸出に有利なように)しました。だから輸出する時に安くなるので、中国は儲かります。
日本が円安を狙うこともありうる。が、昔は1ドル380円の固定為替制度であったが、世界の先進国は「変動為替制度」を導入するのに伴い、1972年に日本も導入します。中国は世界第二位の経済大国になっても人民元を低いままにしていて問題視されていますが、元々ああいう国ですから仕方ありません。但し、日本が中国の真似をして「円安為替誘導」みたいなことをしたら、世界中から「袋叩き」にあいますよ(笑)。
2013年の世界のGDP(国内総生産)は1位アメリカ・約16兆8000億ドル、2位中国・約9兆2000億ドル、3位日本・約4兆9000億ドルとなります。
中国は「政治や軍事や外交」などではアメリカとトップ2の顔です。
しかし、「経済の話」になると「我々はまだ発展途上国だから人民元の為替相場をあげるのは無理」といいます。つまり二枚舌外交をしたたかに演じている訳です。中国では不動産も中国共産党のもので、国民は中国の土地を売買できない。レンタルのみです。外国に行くと外国の土地を買える。外国人は中国の土地を買えない。中国人は北海道やらの土地を買いまくっています。
尖閣や南沙諸島に軍を派遣しているのは「資源」が欲しいからです。中国はアフリカの資源を狙って、例えば独裁体制の国でもODAをやっています。日本や欧米諸国は独裁国家やテロ国家には資金を出せないからで、中国は「内政不干渉」といい、中国は得意の人海戦術でアフリカに押し寄せ、今や、アフリカ諸国の殆どに「チャイナタウン」があるといいます(アフリカの中国人19万人)。いわゆる植民地化する訳です。ですが、中国と言えば「安かろう悪かろう」で、中国資本の整備した道路もデコボコで、製品もすぐに壊れる。
だからこそ、世界はメイドインチャイナではなく、安全で安く品質も良いメイドインジャパンを求めるのです。では、どうして中国人のモラルはあれほどまでに低下したのか?
犯人は毛沢東(マオ・ツートン)国家主席(当時)の『大躍進』『文化大革命』という馬鹿げた政策以降です。人民に勉強もさせず、朝から晩まで毛沢東語録を読ませ、儒教的な道徳観を毛沢東は否定したのでした。(孔子の論語本を焚書までした)。資本主義的な思想家も活動家もクビや処刑していった結果が、今の中国という国家と中国人のモラル低下の一翼といっても過言ではありません。儒教を発明した国が、時の権力者がその道徳を「学ばなくていい」ではああなるのは当たり前なのです。第二の毛沢東が習近平国家主席です。
「虎(大物)もハエ(小物)も一緒に汚職者も叩き潰す」習近平は「第二の毛」になりたくて、言論弾圧、サイバーポリス(3万人24時間ネット監視)、中国共産党の文句はすぐ削除、弾圧………だが、中国人は不満だろうがなにせ世論調査そのものが中国にはないのです。実は中国人は日本文化を大好きなのですよ。でも、いうと不利になるから言わないだけ。中国の巨大化が止まらないワケは「人口(13億人)」と「中国共産党の一党独裁(スピーディにお上が命令できる)」にあります。ですが、私は習近平の中国はかならず任期以内に瓦解すると見ています。ですが、そのとき中国の状況やポスト習近平やどのような指導者がでてくるのか………。対岸の火事ではないので不安ではありますね。
<エボラウイルスの恐怖>
今から約38年くらい前(1976年)アフリカ中部のエボラ川付近で初めて感染が確認された(南スーダンの西南・コンゴ共和国の西方側)のが、名前の由来です。最強最悪のウイルスで西アフリカで猛威を振るい(リベリア・ギニア・シエラレオネ)、田舎では多くのエボラ出血熱患者が発生した。が、最近は都市部に広がった。治療法もワクチンもなく、感染すると全身から出血して死に至る猛烈なウイルス感染病である。空気感染はしないが、傷や口などからウイルスが体内に入ることで感染する。病原体はオオコウモリといわれているが詳しくはわからない。潜伏期間は2日~21日である。都市部の人間が船や飛行機で帰国して広まる可能性大(欧州でひとりの帰国者がエボラ症状で死亡したが、感染拡大はストップが運よくできた)。何故こんな猛烈なウイルスのワクチンや治療薬がないのか?は今までアフリカの山奥の田舎だけで起こっていた感染病で、「(感染者は貧困層で)お金にならない」と判断されたためだ。だが、ボコハラムやアルカイダ系のテロリストが「生物兵器」としてアメリカや欧州などに”感染自爆テロ”を起こす可能性だってある。アフリカのゴリラの大量死もエボラが原因だという。ちなみにウイルスなどの危険性ランキングである。(1)天然痘・エボラ・フッサ熱・エイズ(2)インフルエンザ・SARSなど(3)マラリア・はしか・インフルエンザなど(4)ワクチン・人間に有害な病原体



  確かにそれは、いやな時代だった。
 周家はもともと推安の出ではなかった。一族の祖は三百年前から浙江省の有名な都市、紹興に住んでいた。恩来の母は美人で、大きな目が印象的だ。
 一八九八年の飢餓のさなか、母・冬児は周恩来(幼名・大鸞、翔宇)は浙江省で生まれた。浙江省は中国大陸の中央部にあり、交通の便も悪く、まさに「陸の孤島」という感じのところである。しかし、現代中国をゆるがすことになる毛沢東や小平、莊介石などの逸材も、またおなじように地方の田舎出身である。地方からの成り上がり者…だ。そういった意味からいえば周恩来が世界の檜舞台に踊りでたのも当然といえるかも知れない。生家は今も現存する。
 しかし、だからといってけして平穏な時代ではなかったし、周恩来とてラクをして生きていた訳ではない。
 この当時の飢饉は天災のせいで、中国全土でその猛威は荒れ狂っていた。それは、小作人を雇う地主の息子の彼とて例外ではなかったのである。
 この時代、のちの国家首席であり建国の父であり、同時に破壊者でもある毛沢東は同じく生まれたばかりだった。
 周氏は後年、子供の頃を語るとき、「自分には三人の母がいた」と話したという。
 実母は物静かな美貌の女性だったが、学がなかった。
 しかし恩来は実母から忍耐を学んだ。義母・陳氏はよちよち歩きのときから恩来に漢字を教えた。そのため四才のときにはもう数百の単語を読み書きできるようになり、六才のときには基本的な古典を暗唱していた。もうひとりの母は乳母の莊江である。
 周は貧乏なために近所の連中から批判をあびた。しかし、恩来少年は我慢することにした。かれはここで感情を殺すこと、涙をみせないこと、を学んだのだ。
 だが、そんな時代に育ったからこそ、あのサバイバル本能と合理主義的な周恩来が「世界の檜舞台」に現れる結果となった、ともいえる。そう、何度も失脚しても不倒翁のように復活した、あの周恩来が…だ。人間というのは環境に左右されるものだ。惨めな生活を送っていれば惨めな心境の人間になり、環境的に豊かな生活を送っていれば人間として素晴らしい精神を身につけられる。いまの日本人がクダらないメンタリティしかもてないのも、閉鎖的で異常な社会環境のためなのだ。その結果が援助交際・おやじ狩り…という訳である。
(1997年7月1日、香港はイギリスより中国に返還された。しかし、一国両制度とはいえそれは北京政府のサジかげんひとつにかかっている。今後、香港をめぐって言論や人権の問題がかならず持ち上がってくるだろう。金の卵を生むアヒル「香港」はゴーストタウン化するのか?答えはノーである。また、中国の次の狙いは「台湾統一」だ。まず香港の一国両制を実証し、国際世論に「台湾も中国に」といわせるのが狙い。だから、香港の民主派のデモはある程度、大歓迎なのだ。弾圧は絶対にない。しかし、台湾にとっては経済レベルも民主化のどあいも違う中国と統一しても何のメリットもない。台湾とアメリカは中国政府による香港統治がうまくいかないような工作をとることもありえる。その時、中国はジレンマにおちいるだろう)
 習近平が総書記となってしばらく経つ。江沢民も朱鎔基も、李鵬も李瑞環、李嵐清も尉健行も張万年も銭基深も引退。新しい中国が躍々と動き出している。第一世代の毛沢東、第二世代の小平、第三世代の江沢民・朱鎔基……そして、第四世代の胡錦濤、温家宝、呉邦国、呉官正、李長春、羅幹、曹慶林、曽慶紅、黄菊…。第五世代の習近平…。
 中国は習近平総書記によってこれからも改革がすすむだろう。
 江沢民体制からの貿易促進、三つの代表(後述)、さらなる経済政治改革…すべてが劇的にすすむ。習近平は「超エリートだが面白みに欠ける」とよくいわれる。しかし、何も毛沢東や周恩来のようなカリスマがなくてもよいのだ。凡庸な官僚出身の江沢民でも長期政権を実現させたではないか。小平の威光のおかげで。
 とにかく、周恩来は死後も生き続けることは間違いない。少なくとも、スターリンや毛沢東のように、墓にツバを吐き掛けられることはなさそうだ。………
(周恩来の遺体は火葬され、山にまかれた)




         一九一一年


  美男子周恩来は少年の頃、愛らしい顔だったという。
 小柄で一見ひ弱そうだったので、いじめられたり、ときには年上の男の子に殴られることもあった。
 かれは自分を守るために友達を多くつくった。帰りも友達と連れ立ってあるいた。誰も裏切るものはいなかったという。ここで外交のなんたるかを知った訳だ。
 私が見たのは年齢不詳の、だが、おそらくは十代初めと思われる小柄な少年の写真だった。無害そのものに見えた。写真では、洗濯したての質素な服をきちんと着ていた。木綿のシャツと、木綿のズボン。カメラの正面をジッとみてすましている。
「中国の未来を担うのは僕たちだ。僕たちはその任務を回避してはならない!」
 周少年はいったという。
 周恩来は、ジョン・スチュワート・ミルやダーウィンの本ら哲学書をむさぼり読んだ。「黒人奴隷はいつかは解放されるだろう」と作文もかいた。
 授業中に先生に、
「あなたがたはなんのために勉強しているのか?」ときかれ、
 他の生徒は「父を喜ばせるため」とか「生計をたてるため」と答えた。
 が、周恩来は胸を張って、
「僕は中国の決起のために勉強しているのです!」と答えた。
 周一家は貧しさの中にあった。
 周恩来は一九一三年に東関模範学校を卒業した。
 父の胎能は、息子を進学させることにしていた。
 周恩来は、アメリカ資金で北京に設立された名門校清華中学を受験したが、英語の試験で落ちてしまった。
 夏の三ケ月、家庭教師に英語を習い、そのかいあってか一九一三年九月、南開中学に入学できた。そのとき彼は十五歳だった。
 彼が暮らした少年時代は、けして平穏な時代ではなかった。
 こどもの周恩来も大飢饉の恐怖を感じとっていたに違いない。村のどの家からもひとびとが姿を消し始めたからである。食いぶちを減らすために出ていったり、わずかな生活費を稼ぐために娘を売ったり、盲目的に都会へと旅立ったり、餓死したり…それはさまざまだったが、それはひどい悲惨なものだった。
  現在も、農村部では不満が高まっている。沿海部を優遇し過ぎたからだ。しかし周の弟子と自他ともに認める小平は最後の置きみやげに農村部の活性化を考えていた。
 それは、彼の農村部での経験をみれば当然のことと言えよう。
 彼は子供のころ、飢饉で娘を売ったり食べ物がなくて餓死したりする状況をいやというほどみせつけられてきたからだ。しかし、同時に、小平は農民の”おねだり根性”も知っていた。故郷広安に高速道路や高級ホテルなど存在しないのもそれを嫌っていたからである。(しかし、現在、小平の遺言に反して、銅像や高速道路がつくられている)
 田中角栄とは違うのだ。
 ただでさえ地域主義の強い中国で、一定地域だけを優遇すれば中国は瞬時にしてバラバラになってしまう。だからやらなかった。
 小平には「中国全土の政治家である」という心構えがあった、ということだ。日本の政治家とは大違いである。彼らは次の選挙で当選するために自分の選挙区に道路や橋をもってくる新幹線をもってくる…ということしか眼中にない。そうして公共事業を誘致しつつゼネコンにたかって私腹を肥やす。中曽根や竹下や金丸やらなにやらあげたらきりがないくらい、だ。その結果が、赤字国債の乱発…日本全体の赤字998兆円…である。ひどいメンタリティだ。だから、日本の政治家は官僚に好きなようにコントロールされるのだ。 まったく情ない連中である。
 今の日本の政治家はどれをとってみても、古い自民党体質をひきずったような政治家か口ばっかりでなにもしない政治家だけである。そんな連中ばかりが永田町にバッコしているから日本国民の政治離れが深刻化するのだ。
 少しは日本の政治家たちも周恩来や小平をみならってほしいものだ。
”選挙区や地元ではなく、もっと国全体や海のむこうをみるヴィジョンをもて!”
 と、いうこと。………それが大事なのだ。






         孫  文


  うららかな春の陽射しがあたりを照らしていた。春の雲が空の蒼に浮かんでいる。なんともうららかな一日だった。
 こどもの周恩来は中学校の教室にいた。いまはけだるい午後だ。
”今日の中国に必要なのは、満州人王朝を駆逐して漢民族すなわち中国人による中国をつ くること。
  しかも、専制君主制ではない民主共和国をつくることさらにすすんで、民衆の生活を 楽にするために社会改革を行うことだ。
  民族主義・民権主義・民生主義
 この三民主義こそ中国を救う道である。
                      孫文”

  中学生の周恩来は教室で、この孫文の「三民主義」を本で読んで、えらく共鳴した。そして、猛烈に孫文にひかれたという。
「三民主義か…」
 全身に、血管の奥に、なにか熱いものがつたわるのを感じた。なんだろう?とにかく、不思議な感じだ。三民主義か…。これはすごいものに違いない!
 周恩来は弾かれたように椅子から腰をあげ、
「き、君、この孫文ってどんな人だ?!」
 と近くの学生に尋ねた。
「なんだって?」その学生はとてもゆっくり聞きかえしてから「こりゃあ驚いた。きみは孫文先生を知らないのかね?」とボンヤリとした口調でいった。
「井の中の蛙大海を知らず…か」
 もう一人の学生が嘲笑ぎみに笑った。
 まったく信じられない! といった感じだった。あの、有名な孫文先生を知らないなんて…。まったく馬鹿げている。この周というやつはバカに違いない。
「孫文先生は、いまもっとも急進的な革命団体・中国同盟会の総理で、我々の思想的な指導者だぜ!」
 周に声をかけられた学生は真面目な顔をして立ち上がり、言った。
「先生は清朝の弾圧のために、いま日本に亡命中なんだ」
「そう。」もう一人が続いた。「亡命先の日本からその民立報を発刊されているんだ!」「三民主義か…」
 周は胸を熱くしてからふたたび呟いていた。三民主義…これこそ中国を清朝から守る道だ。そうに違いない!
  春風がそよそよと吹いて草の匂いがした。
 周恩来と祖父はほんわりとしたまま、低い草原の丘に座って、地平線のはるか向こうを眺めていた。午後の草原はなんとも爽やかで、目の前の恐怖を少なからずやわらげてくれる。どこまでも青い空、低く飛ぶ鳥、これがほんらいの故郷だ。
 今日はなんだかとてもいい天気だ。ほんわりほんわりとした一日の終りに近い時間…。すべてのものがなんとなくふわりときらりと輝いてもみえる。
「どうだ、翔宇。学校は楽しいか?」
 祖父はまぶしそうな目のまま言った。
「うん」と、周恩来はうなづく。
 それからしばらくして、祖父は、
「そうか、それはよかった」
 と言って、とても満足な、それでいて少し寂しそうな表情をした。そして続けて、
「孫文先生が好きらしいね」と尋ねた。
「うん。大好きだよ。とくに三民主義のところが」
「そうか、ところで三民主義、三民主義っていうけど……孫文先生のおっしゃってらっしゃることがわかっているのかい?」
「ああ」それに対して周恩来は答えた。中学生でも国際政治などが詳しい……
 祖父は真剣な、それでも優しい顔のまま言った。
「いいかい、翔宇。孫文先生はこうおっしゃっている。
 ”わが中国はいまや外敵の利権獲得のために蚕食を受け、危急存亡の時にある!
  これに対し、清朝はいかなる手段を講じたか。なんと、彼ら満人王朝は外国のいうが ままになり屈辱的な条約をつぎつぎと結び、わが中国を外国に売り渡しつつあるのだ!  かかなる売国的な清朝はただちにてんぷくさせて、われわれの手で中国人による中国 をつくらねばならない!
      推進満清
      復興中華
  満人の清朝を打倒し、中華民族の国家を復興しよう!”
 ……とね。わかるかい?」
「わかるよ」
 周恩来は答えた。
 とにかく、打てば響くような頭の良さである。
「だからこそ、中国の決起のときのために僕は勉強してるんだよ」
 平然と、周恩来は、いった。


 ヴェトナム戦争下の中国では周がある策を練ったという。
  当時の周恩来首相(当時)では中国の演説で次のようにいっている。
「中央は、極力アヘンの栽培事業を推し進めようとしている。諸君も知っているように、アヘンとは英訳の名前で、我が国では、別の名前をもっている。科学の視点から見れば”ケシ”といった方がむしろ適切である。
 ヴェトナムでの戦争が、日々、激しくなり、アメリカ帝国主義は、いよいよ革命陣営と雌雄を決しようと、その送り込む兵力を増大しつつあることを、我々はヴェトナムを支援しなければならない。(中訳)…革命事業を助けるためアヘンは有効な手段である」
 アヘン、ヘロイン、モルヒネ…という言葉が聞えが悪いので「特貨」という名でよばれるようになる。(中国は現在でも大陸内部でケシを栽培している)
「アメリカ帝国主義は、ヴェトナムでその牙をむき出しにしている。それをふせぐ有効な手段が麻薬なのだ」
 周はいった。
 周のいった通り、麻薬の効果は絶大だった。売春宿、将校クラブ、野戦病院、バー、ホテルなどの従業員を仲介にして、麻薬は着実にアメリカ兵たちの中に入りこんでいった。 初めは簡単に吸えるアヘンが多かったが、それがモルヒネにかわり、ついにヘロインへとかわる。しかも、純度が九五~九八%という代物だ。
 純度が高ければ高いだけ、中毒になりやすい。
 しかし、それだけの純度の麻薬は米国では四千~五千ドルはする。安くない。しかし、中国にとっては経済的利益は二の次だった。
 アメリカ国内でも人気のない戦争に、しかもいやいや狩り出され、文明から孤立したようなジャングルで戦う若者たちはヤケや諦め感をもっている。自然と麻薬に手がいく…
 麻薬中毒者は狂人と変りがない。味方の将校を敵だと思って銃を撃つものまででてくる。 しかし、米国に戻っても純度の高い麻薬は手にはいらない。”ひとりの麻薬中毒者は、五人の殺人犯に匹敵する”といわれる。麻薬を得るために身内でも殺すことが多々あるからだ。今日のアメリカは、五秒に一度の割合でなんらかの犯罪が起こっている。
 それらは麻薬がらみの殺人や強姦が多いという。
 それほどまでに麻薬は恐ろしいものなのだ。
 中国はヴェトナムで、『麻薬』により巨大帝国アメリカに勝った。
 そして、麻薬の恐ろしさは推して知るべしで、ある。



緑川鷲羽四面楚歌 小説家作家道のり遠し音楽にシフト目標は億万長者(笑)小説音楽は手段

2015年11月12日 15時26分09秒 | 日記







現在小説に行き詰っている。


面白い小説が執筆できなくなった。

完全に才能が涸れた。


来年は音楽にターゲットオンして集中するが


駄目なら自殺するかも知れない。


目標は作家とか芸術家じゃなく億万長者(笑)

小説や音楽は手段なだけ(笑)


僕は億万長者になれなきゃ死んじゃうよ!

もう政治等関係ない!臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年あるいは2016年へ!