長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

TPP農業改革は必要!オランダの農業改革を目指せ!「選択」と「集中」農業維新!自動車で儲けろ!

2015年07月31日 19時15分42秒 | 日記








TPP等農作物交渉となると


またも悪辣な農協が農家の恐怖心ばかり煽る。


が、オランダ(NL)の例を観て欲しい。


オランダは九州程の面積人口だが、その国が米国に次ぐ世界第二位の農業大国である。


確かにオランダも改革前は農協みたいな団体が改革反対だった。


鍵は選択と集中である。


改革は必要!臥竜




緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

龍馬とおりょうがゆく維新回天の偉人坂本龍馬とその妻・おりょう(樽崎龍)2017年の女大河か?小説5

2015年07月31日 06時55分12秒 | 日記









 いま京で騒ぎをおこそうとしているのは田中河内介である。田中に操られて、薩摩藩浪人が、尊皇壤夷のために幕府要人を暗殺しようとしている。それを操っているのは出羽庄内藩浪人の清河八郎であったが、大久保一蔵(利道)にはそれは知らなかった。
 幕府要人の暗殺をしようとしている。
「もはや久光公をたよる訳にはいかもんそ!」
 かねてからの計画通り、京に潜伏していた薩摩浪人たちは、京の幕府要人を暗殺するために、伏見の宿・寺田屋へ集結した。
 総員四十名で、中には久光の行列のお供をした有馬新七の姿もあったという。
「もはやわが藩を頼れないでごわす! 京の長州藩と手をむすび、事をおこすでごわそ!」 と、有馬は叫んだ。
「なにごてそんなことを……けしからぬやつらじゃ!」
 久光はその情報を得て、激昴した。寺田屋にいる四十名のうち三十名が薩摩の志士なのである。「狼藉ものをひっとらえよ!」
 京都藩邸から奈良原喜八郎、大山格之助以下九名が寺田屋の向かった。
 のちにゆう『寺田屋事件』である。
「久光公からの命である! 御用あらためである!」
  寺田屋への斬り込みは夜だった。このとき奈良原喜八郎の鎮撫組は二隊に別れた。大山がわずか二、三人をつれて玄関に向かい、奈良原が六名をつれて裏庭にむかった。
 そんな中、玄関門の側で張り込んでいた志士が、鎮撫組たちの襲撃を発見した。又左衛門は襲撃に恐れをなして逃げようとしたところを、矢で射ぬかれて死んだ。
 ほどなく、戦闘がはじまった。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」大山は囁くように命令した。
 あとは大山と三之助、田所、藤堂の四人だけである。
 いずれもきっての剣客である。柴山は恐怖でふるえていた。襲撃が怖くて、柱にしがみついていた。
「襲撃だ!」
 有馬たちは門をしめ、中に隠れた。いきなり門が突破され、刀を抜いた。二尺三寸五分政宗である。田所、藤堂が大山に続いた。
「なにごてでごわそ?」二階にいた西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌は驚いた。悲鳴、怒号……
 大山格之助は廊下から出てきた有馬を出会いがしらに斬り殺した。
 倒れる音で、志士たちがいきり立った。
「落ち着け!」そういったのは大山であった。刀を抜き、道島の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて道縞五郎兵衛の頭を斬りつけた。乱闘になった。
 志士たちはわずか七名となった。
「手むかうと斬る!」
 格之助は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、格之助はすぐに起き上がることができなかった。
 そのとき、格之助は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
 なおも敵が襲ってくる。そのとき、格之助は無想で刀を振り回した。格之助はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
 一階ではほとんど殺され、残る七名も手傷をおっていた。
 これほどですんだのも、斬りあいで血みどろになった奈良原喜八郎が自分の刀を捨てて、もろはだとなって二階にいる志士たちに駆けより、
「ともかく帰ってくだはれ。おいどんとて久光公だて勤王の志にかわりなか! しかし謀略はいけん! 時がきたら堂々と戦おうではなかが!」といったからだ。
 その気迫におされ、田中河内介も説得されてしまった。
 京都藩邸に収容された志士二十二名はやがて鹿児島へ帰還させられた。
 その中には、田中河内介や西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌の姿もあった。  ところが薩摩藩は田中親子を船から落として溺死させてしまう。
 吉之助(西郷隆盛)はそれを知り、
「久光は鬼のようなひとじゃ」と嘆いた。
 龍馬は、京の町をあてもなく彷徨っていた。

   文久二年(一八六二)八月二十一日、『生麦事件』が勃発した。
 参勤交替で江戸にいた島津久光は得意満々で江戸を発した。五百余りの兵をともない京へむかった。この行列が神奈川宿の近くの生麦村へさしかかったところ、乗馬中のイギリス人(女性ひとりをふくむ)四名が現れ、行列を横切ろうとした。
「さがれ! 無礼ものどもが!」
 寺田屋事件で名を馳せた奈良原が外国人たちにいって、駆け寄り、リチャードソンという白人を斬りつけて殺した。他の外国人は悲鳴をあげて逃げていった。
 これが『生麦事件』である。


         4 勝海舟





  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
 教育過程は次のとおりであったという。
 班長担当
    綱索取扱い           週三時間
    演習              週三時間
    規程              週三時間
    地文学             週二時間
 一等尉官担当
    艦砲術             週五時間
    造船              週五時間
    艦砲練習            週六時間
    (歩兵操練監督)
 二等尉官担当
    運転術             週五時間
    数学・代数           週五時間
    帆操縦(測定器・海図・観測)  週九時間
 主計士官担当
    算術              週九時間
 軍医担当
    物理              週三時間
    代学              週三時間
    分析学             週三時間
    包帯術             週三時間
 機関士官担当
    蒸気機関理論
                    週六時間
   飽ノ浦工場建設、蒸気機関監督含む。
 軍人以外の教育担当
    オランダ語・算術教授      週十一時間
    乗馬              週十時間
 海兵隊士官担当
    歩兵操練            週十五時間
    船上操練            週四時間
    一般操練            週三時間
 鼓手担当
    軍鼓練習            週十二時間
 船大工担当
    造船所の操練
 製帆手の担当
    マストの操練
 水兵担当
    水兵の勤務実習
 看護手担当
    医官の手伝い・印刷部の手伝い
 長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚     
志を任命した。
 長崎にいくことになった勝麟太郎(勝海舟)も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
 かねてから麟太郎を支援していた箱根の豪商柴田利右衛門もおおいに喜んだ。
 しかし、その柴田利右衛門は麟太郎が長崎にいる間に病死した。勝海舟は後年まで彼の早逝を惜しんだ。「惜しいひとを亡くした」勝は涙目でいった。
 幕府から派遣される伝習生のうち、矢田堀景蔵、永持や勝麟太郎が生徒監を命じられた。 永持は御目付、奉行付組頭で、伝習生の取締をする。
 海陸二班に別れて、伝習生は長崎に派遣された。
 麟太郎は矢田堀とともに海路をとったという。
 昌平丸という薩摩藩が幕府に献上した船で、一行は九月三日朝、品川沖を出帆した。   
 長さ九十フィートもある洋艦で豪華な船だったが、遠州灘で大時化に遭った。
 あやうく沈没するところだったが、マスト三本すべて切断し、かろうじて航海を続けた。 長州下関に入港したのは十月十一日、昌平丸から上陸した麟太郎たちは江戸の大地震を知った。
「江戸で地震だって? 俺の家は表裏につっかえ棒してもっていたボロ屋だ。おそらく家族も無事ではないな」麟太郎は言葉をきった。「何事もなるようにしかならねぇんだ。俺たちだって遠州灘で藻屑になるところを、あやうく助かったんだ。運を天にまかすしかねぇ」
「勝さん。お悔やみ申す」矢田堀は低い声で神妙な顔でいった。
「いやぁ、矢田堀さん。たいしたことではありませぬ」麟太郎は弱さを見せなかった。
 昌平丸は損傷が激しく、上陸した船員たちもほとんど病人のように憔悴していた。
 長崎に入港したのは十月二十日だった。麟太郎は船酔いするので、ほとんど何も食べることも出来ず、吐き続けた。そのため健康を害したが、やがて陸にあがってしばらくすると元気になった。長崎は山の緑と海の蒼が鮮やかで、まるで絵画の作品のようであった。 長崎の人口は六万人で、神社は六十を越える。
 伝習所は長崎奉行所の別邸で、教師はオランダ人である。幕府が一番やっかいだったのは蒸気機関である。それまで蒸気機械などみたこともなかったから、算術に明るい者を幕府は送り込んできた。
 教育班長のペルス・ライケンは日本語を覚えようともせず、オランダ語で講義する。日本人の通訳が訳す訳だが、いきおいわからない術語があると辞書をひくことになる。
 ペルス・ライケンは生徒達に授業内容を筆記させようとはせず、暗記させようとした。そのため困る者が続出した。
 勝麟太郎と佐賀藩士の佐野常民、中牟田倉之助の三人はオランダ語を解するので、彼等が授業後にレポートを書き、伝習生らはそれを暗唱してようやく理解したという。
 麟太郎はいう。「俺はオランダ語ができるのでだいたいのことはわかるから聞いてくれ。ただし、算術だけは苦手だからきかねぇでほしいな」
 ペルス・ライケンは専門が算術だけに、微分、積分、力学など講義は難解を極めた。
 安政三年十月から十一月まで麟太郎は江戸に一時戻り、長崎の伝習事務を取り扱っていた。幕府は、麟太郎をただの伝習生として長崎にやった訳ではなかった。
 のちの勝海舟である勝麟太郎は、以前からオランダ語をきけたが、ペルス・ライケンの講義をきくうちに話せるようにもなっていた。それで、オランダ人たちが話し合っている内容をききとり、極秘の情報を得て老中阿部伊勢守正弘に通報するなどスパイ活動をさせたのだ。
 やがて奥田という幕府の男が麟太郎を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
 奥田のこの提案により、勝麟太郎は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
 麟太郎は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、麟太郎は隊長役をつとめており明るかった。
 雪まじりの風が吹きまくるなか、麟太郎は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から麟太郎のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた麟太郎は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
 勝麟太郎も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
 彼が長崎に残留したのにはもうひとつ理由があった。麟太郎には長崎に愛人がいたのである。名は梶久といい未亡人である。年はまだ十四歳であったがすでに夫が病没していて未亡人であった。
 縁は雨の日のことである。
 ある雨の日、麟太郎が坂道の途中で高下駄の鼻緒を切らして困っていたところ、そばの格子戸が開いて、美貌の女性がでてきて鼻緒をたててくれた。
「これはかたじけない。おかげで助かった」
 麟太郎は礼を述べ、金を渡した。しかし、翌日、どこで調べてきたのかお久が伝習所に訪ねてきて金をかえした。それが縁で麟太郎とお久は愛しあうようになった。当然、肉体関係もあった。お久はまだ十四歳であったが夫が前にいたため「夜」はうまかったという。 伝習所に幕府の目付役の上司がくると、麟太郎はオランダ語でその男の悪口をいう。
 通訳がどう訳せばわからず迷っていると、麟太郎は、
「俺の片言が訳せないなら言ってやろうか?」とオランダ語で脅かす。
 ある時、その上司の木村図書が麟太郎にいった。
「航海稽古の時、あまり遠方にいかないようだがもっと遠くまでいったらいいのではないか?」
 麟太郎は承知した。図書を観光丸に乗せ、遠くまでいった。すると木村図書はびびりだして「ここはどこだ?! もう帰ってもよかろう」という。
 麟太郎は、臆病者め、と心の中で思った。
 木村図書は人情に薄く、訓練者たちが夜遊びするのを禁じて、門に鍵をかけてしまう。 当然、門をよじのぼって夜の街にくりだす者が続出する。図書は厳重に御灸をすえる。あるとき麟太郎は激昴して門の鍵を打ち壊し、
「生徒たちが学問を怠けたのなら叱ってもよいが、もう大の大人じゃねぇですか。若者の夜遊びくらい大目にみてくだせぇ!」と怒鳴った。
 図書は茫然として言葉も出ない。
 麟太郎がその場を去ると、木村図書は気絶せんばかりの眩暈を覚えた。「なにをこの若造め!」図書は心の中で麟太郎を罵倒した。
 麟太郎を中心とする兵学者たちは、高等砲術や工兵科学の教示をオランダ人たちに要請した。教師たちは、日本人に高度の兵学知識を教えるのを好まず、断った。
「君達はまだそのような高度の技術を習得する基礎学力が備わってない」
 麟太郎は反発する。
「なら私たちは書物を読んで覚えて、わからないことがあったらきくから書物だけでもくれはしまいか?」
 教師は渋々受け入れた。
 研究に没頭するうちに、麟太郎は製図法を会得し、野戦砲術、砲台建造についての知識を蓄えたという。
  安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を      
受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
 カッテンデーキがオランダから到着して新しい学期が始まる頃、麟太郎は小船で五島まで航海練習しようと決めた。麟太郎と他十名である。
 カッテンデーキは「この二、三日は天気が荒れそうだ。しばらく延期したほうがよい」 と忠告した。日本海の秋の天候は変りやすい。が、麟太郎は「私は海軍に身をおいており、海中で死ぬのは覚悟しています。海難に遭遇して危ない目にあうのも修行のうちだと思います。どうか許可してください」と頭を下げた。
 カッテンデーキは「それほどの決意であれば…」と承知した。
 案の定、麟太郎たちの船は海上で暴風にあい、遭難寸前になった。
 だが、麟太郎はどこまでも運がいい。勝海舟は助かった。なんとか長崎港までもどったのである。「それこそいい経験をしたのだよ」カッテンデーキは笑った。
 カッテンデーキは何ごとも謙虚で辛抱強い麟太郎に教えられっぱなしだった。
「米国のペリー堤督は善人であったが、非常に苛立たしさを表す、無作用な男であった」 彼は、日本人を教育するためには気長に粘り強く教えなければならないと悟った。
 しかし、日本人はいつもカッテンデーキに相談するので危ういことにはならなかったのだという。この当時の日本人は謙虚な者が多かったようで、現代日本人とは大違いである。 麟太郎は、さっそく咸臨丸で練習航海に出た。なにしろ百人は乗れるという船である。ここにきて図書は「炊事場はいらない。皆ひとりづつ七輪をもっている」といいだした。 麟太郎は呆れて言葉もでなかった。
「この木村図書という男は何もわかってねぇ」言葉にしてしまえばそれまでだ。しかし、勝麟太郎は何もいわなかった。
          
 薩摩藩(鹿児島県)によると、藩主の島津斉彬が咸臨丸に乗り込んだ。
「立派な船じゃのう」そういって遠くを見る目をした。
 麟太郎は「まだまだ日本国には軍艦が足りません。西洋列強と対等にならねば植民地にされかねません。先のアヘン戦争では清国が英国の植民地とされました」
「わが国も粉骨砕身しなければのう」斉彬は頷いた。
 そんな島津斉彬も、麟太郎が長崎に戻る頃に死んだ。
「おしい人物が次々と亡くなってしまう。残念なことでぃ」
 麟太郎はあいかわらず長崎にいた。

  コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。
 短期間で命を落とす乾性コレラであった。
 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。
 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。

  赤坂田町の留守のボロ屋敷をみてもらっていた旗本の岡田新五郎に、麟太郎はしばしば書信を送った。留守宅の家族のことが気掛かりであったためだ。
 それから幕閣の内情についても知らせてほしいと書いていた。こちらは出世の道を探していたためである。
 麟太郎は岡田に焦燥をうちあけた。
「長崎みたいなところで愚図愚図して時間を浪費するよりも、外国にいって留学したい。オランダがだめならせめてカルパ(ジャワ)にいってみたい」
 はっきりいって長崎伝習所で教えるオランダ人たちは学識がなかった。
 授業は長時間教えるが、内容は空疎である。ちゃんと航海、運用、機関のすべてに知識があるのはカッテンデーキと他五、六人くらいなものである。
「留学したい! 留学したい! 留学したい!」
 麟太郎は強く思うようになった。…外国にいって知識を得たい。
 彼にとって長崎伝習所での授業は苦痛だった。
 毎日、五つ半(午前九時)から七つ(午後四時)まで学課に専念し、船に乗り宿泊するのが週一日ある。しかも寒中でも火の気がなく手足が寒さで凍えた。
「俺は何やってんでい?」麟太郎には苦痛の連続だった。
 数学は航海術を覚えるには必要だったが、勝麟太郎は算数が苦手だった。西洋算術の割り算、掛け算が出来るまで、長い日数がかかったという。
 オランダ人たちは、授業が終わると足速に宿舎の出島に帰ろうとする。途中で呼び止めて質問すると拒絶される。原書を理解しようと借りたいというが、貸さない。
 結局彼らには学力がないのだ、と、麟太郎は知ることになる。
 麟太郎は大久保忠寛、岩瀬忠震ら自分を長崎伝習所に推してくれた人物にヨーロッパ留学を希望する書簡を送ったが、返答はなかった。
 麟太郎はいう。
「外国に留学したところで、一人前の船乗りになるには十年かかるね。俺は『三兵タクチーキ』という戦術書や『ストラテヒー』という戦略を記した原書をひと通り読んでみたさ。しかし孫子の説などとたいして変わらねぇ。オランダ教官に聞いてみたって、俺より知らねぇんだから仕様がないやね」
 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。
 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。
 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。
 オランダ教官は、日本人伝習生の手腕がかなり熟練してきていることを認めた。
 安政五年、幕艦観光丸が艦長矢田堀景蔵指揮のもと混みあっている長崎港に入港した。船と船のあいだを擦り抜けるような芸当だった。そんな芸当ができるとはオランダ人たちは思っていなかったから、大変驚いたという。
 翌年の二月七日、幕府から日本人海軍伝習中止の命が届いて、麟太郎は朝陽丸で江戸に戻ることになった。
 麟太郎は、松岡磐吉、伴鉄太郎、岡田弁蔵とともに朝陽丸の甲板に立ち、長崎に別れを告げた。艦長は当然、勝麟太郎(のちの勝海舟)であった。船は激しい暴風にあい、麟太郎たちは死にかけた。マストを三本とも切り倒したが、暴風で転覆しかけた。
「こうなりゃ天に祈るしかねぇぜ」麟太郎は激しく揺れる船の上で思った。日が暮れてからマストに自分の体を縛っていた綱が切れ、麟太郎は危うく海中に転落するところだった。 だが、麟太郎はどこまでも運がいい。なんとか船は伊豆下田へと辿り着いたのである。「船は俺ひとりで大丈夫だから、お前らは上陸して遊んでこい」
 麟太郎は船員たちにいった。奇抜なこともする。

 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。
 江戸にもどった麟太郎は赤坂元氷川下に転居した。麟太郎は軍艦操練所頭取に就任し、両御番上席などに出世した。
 米国側は、咸臨丸が航行の途中で坐礁でもされたら条約が批准されない、と心配してポーハタン号艦を横浜に差し向けた。
 万延元年(一八六〇)正月二十二日、ポータハン号は横浜を出発した。咸臨丸が品川沖を出向したのは、正月十三日だったという。麟太郎は観光丸こそ米国にいく船だと思った。 が、ハリスの勧めで咸臨丸となり、麟太郎は怒った。
 だが、「つくってから十年で老朽化している」というハリスの判断は正しかった。観光丸は長崎に戻される途中にエンジン・トラブルを起こしたのだ。
 もし、観光丸で米国へ向かっていたらサンドイッチ(ハワイ諸島)くらいで坐礁していたであろう。
 勝麟太郎(のちの勝海舟)は咸臨丸に乗り込んでいた。
 途中、何度も暴風や時化にあい、麟太郎は船酔いで吐き続けた。が、同乗員の中で福沢諭吉だけが酔いもせず平然としていたという。
「くそっ! 俺は船酔いなどして……情ない」麟太郎は悔しがった。
「船の中では喧嘩までおっぱじまりやがる。どうなってんでぃ?」

  やがて米国サンフランシスコが見えてきた。
 日本人たちは歓声を上げた。上陸すると、見物人がいっぱいいた。日本からきたチョンマゲの侍たちを見にきたのだ。「皆肌の色が牛乳のように白く、髪は金で、鼻は天狗のように高い」麟太郎は唖然とした。
 しかし、米国の生活は勝麟太郎には快適だった。まず驚かされたのはアイス、シヤンパン、ダンスだった。しかも、日本のような士農工商のような身分制度もない。女も男と同等に扱われている。街もきれいで派手な看板が目立つ。
 紳士淑女たちがダンスホールで踊っている。麟太郎は「ウッジュー・ライク・トゥ・ダンス?」と淑女に誘われたがダンスなど出来もしない。
 諭吉はあるアメリカ人に尋ねてみた。
「有名なワシントンの子孫はどうしてますか?」
 相手は首をかしげてにやりとし「ワシントンには女の子がいたはずだ。今どこにいるのか知らないがね」と答えた。
 諭吉は、アメリカは共和制で、大統領は四年交替でかわることを知った。
 ワシントンといえば日本なら信長や秀吉、家康みたいなものだ。なのに、子孫はどこにいるのかも知られていない。それを知り彼は、カルチャーショックを受けた。
 カルチャーショックを受けたのは麟太郎も同じようなもの、であった。
 のちの龍馬の師もそれだけ苦労した、ということだ。

  龍馬は藩命で長州にいって久坂玄瑞や高杉晋作とあったことがある。そこで長州藩士の久坂玄瑞や高杉晋作とあっている。三千世界の烏を殺し…高杉の歌である。            
「土佐の吉田東洋、長州の長井雅楽、薩摩の久光は奸俗ぞ!」
 高杉はいった。「斬らねばなるまい!」
 その言葉通り、武市半兵太らは岡田以蔵らをつかって吉田東洋など開国派たちを次々と斬り殺していった。
 その頃、龍馬は勝海舟の館の門で見張りをしていた。
 勝の娘・孝子が「お父様、あの門で毎晩見張りしているお侍さんは誰です?」ときく。 勝海舟は笑って「あいつは龍さんよ。俺を守っている気なんだろう」
  龍馬はいまでも勝海舟に初対面したことを忘れない。
 千葉重太郎とともに勝の屋敷を訪ねて斬り殺す気でいた。
「相手は開国派……このわしが斬る!」千葉はいった。
 しかし口開一番、勝は度肝を抜かせた。勝は地球儀をみせて「これなんだかわかるけい?」ときいた。千葉重太郎と龍馬は目が点になった。「ここが日本だ」ちっぽけな国だった。「世の中にはいろいろな国があるぜ。メリケン、プロシア、清国、インド、アフリカ、イギリス…イギリスなんざ超大国といわれてるがみろ! こんなちっぽけな島国だ。しかし世界に冠たる大英帝国を築いている……なぜだと思う?」
 龍馬は興奮して「船……船ぜよ!」
「そうだ…軍艦だ! 日本は鎖国でも壤夷でもない。…第三の道…すなわちすみやかに開国して貿易によって儲けて軍艦を備えるこった。佐幕なんざ馬鹿らしいぜ! そのための開国だぜ」
「勝先生! わしば弟子にしてくれませんきにか?!」
 千葉重太郎は呆気にとられたままだったが、龍馬は真剣だった。
「龍さんとやら……あんた面白いやさだね?」                    
         5 壌夷



  ホノルルに着いて、麟太郎たちはカメハメハ国王に謁見した。
 ハワイの国王は三十五、六に見えた。国王の王宮は壮麗で、大砲が備え付けられ、兵士が護衛のため二列に並んでいた。
 ホノルルは熱帯植物が生い茂り、情熱的だ。麟太郎は舌をまいた。
 ハワイに来航する船の大半は捕鯨船である。来島するのはアメリカ、イギリス、その他の欧州諸国、支那人(中国人)もまた多く移住している。
 咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。
 四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣ったという。そしてそれから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。
「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」
 咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。
 午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。
 幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺されたという。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。
 麟太郎は激昴して「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。 役人はいう。
「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」
 麟太郎は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、
「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。
 幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。

 麟太郎は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終     
えたのち、将軍家茂に謁した。
 麟太郎は老中より質問を受けた。
「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびやかに申すがよい」
 麟太郎は平然といった。
「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」
「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」
 麟太郎は苦笑いした。そしてようやく「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」
 老中は激怒して「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。
 麟太郎は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。
「この無礼者め!」
 老中の罵声が背後からきこえた。
 麟太郎が井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、        
「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだという。
 それをきいて呆れた木村摂津守が、「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」 と諫めた。
 この一件で、幕府家臣たちから麟太郎は白い目で見られることが多くなった。
 麟太郎は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば麟太郎は「裏切り者」にみえる。
 実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。
 しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。
 麟太郎の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。
 友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあったという。
 彼は次々と出世をしていく。
 一方、勝麟太郎は反対に、”窓際”に追いやられていった。海軍操練所教授方頭取を免       
職となり、六月二十四日に天守番之頭過人、番書調所頭取介を命じられた。                                
 過人とは、非常勤の意味だという。麟太郎はこの後二年間、海軍と無縁で過ごした。

  左遷先には有名な学者もいたが、麟太郎にはそんな仕事は退屈きわまりない。朝に出勤すると仕事は部下にまかせ、日当たりのいいところで”ごろ寝”ばかりして過ごした。 ……幕府は腐りきっている。
 いつしか、そんな感情を、勝麟太郎(勝海舟)はもつようになっていった。
 当時は、目付役が諸役所を見回り、役人の勤怠を監視していた。そして、麟太郎の行
             
を見咎め、若年寄に報告したという。                 
「勝はいつ出向いても、肩衣もとらず寝転んで、全く仕事をいたしておりませぬ」
 若年寄は、それを老中に上進し、勝海舟は役職を失いかけない立場にたった。
 彼を支援してくれていた開明派の官僚は、井伊大老の暗殺以降みんな失脚していた。
  麟太郎は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。
 内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものであるという。
 アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。
「歴史を振り返っても、国家多端な状況が今ほど激しい時はなかった。
 昔から栄枯盛衰はあったが、海外からの勢力が押し寄せて来るような事は、初めてである。泰平の世が二百五十年も続き、士気は弛み放題で、様々の弊害を及ぼす習わしが積み重なってたところへ、国際問題が起こった。
 文政、天保の初めから士民と友にしゃしを競い、士気は地に落ちた。国の財政が乏しいというが、賄賂が盛んに行われ上司に媚諂い、賄賂を使ってようやく役職を得ることを、世間の人は怪しみもしなかった。
 そのため、辺境の警備などを言えば、排斥され罰を受ける。
 しかし世人は将軍家治様の盛大を祝うばかりであった。
 文政年間に高橋作左衛門(景保)が西洋事情を考究し、刑せられた。天保十年(一八三九)には、渡辺華山、高野長英が、辺境警備を私議したとして捕縛された。
 海外では文政九年(一八一二)にフランス大乱が起こり、国王ナポレオンがロシアを攻め大敗し、流刑に処せられた後、西洋各国の軍備がようやく盛んになってきた。
 諸学術の進歩、その間に非常なものであった。
 ナポレオンがヘレナ島で死んだ後、大乱も治まり、東洋諸国との交易は盛んになる一方であった。
 天保二年、アメリカ合衆国に経済学校が開かれ、諸州に置かれた。この頃から蒸気機関を用い、船を動かす技術が大いに発達した。
 天保十三年には、イギリス人が蒸気船で地球を一周したが、わずか四十五日間を費やしたのみであった。
 世の中は移り変り、アジアの国々は学術に明るいが実業に疎く、インド、支那のように、ヨーロッパに侮られ、膝を屈するに至ったのは、実に嘆かわしいことである」
 世界情勢を知った勝海舟には、腐りきった幕府が嘆かわしく思えた。

 天保五年、水野忠邦が老中となり改革をおこなったが、腐りきった幕府の「抵抗勢力」に反撃をくらい、数年で失脚してしまった。麟太郎は残念に思った。
「幕府は腐りきった糞以下だ! どいつもこいつも馬鹿ばっかりでい」
 水野失脚のあと、オランダから「日本国内の政治改革をせよ」との国王親書が届いた。 しかし、幕府は何のアクションもとらなかった。
 清国がアヘン戦争で英国に敗れて植民地となった……という噂は九州、中国地方から広まったが、幕府はその事実を隠し通すばかりであった。
 ペリー提督の率いるアメリカ艦隊渡来(嘉永六年(一八五三))以降の変転を麟太郎は思った。麟太郎は、水戸斉昭が世界情勢を知りながら、内心と表に説くところが裏腹であったひとという。真意を幕府に悟られなかったため、壤夷、独立、鎖国を強く主張し、士            
気を鼓舞する一方、衆人を玩弄していたというのである。
 麟太郎は、水戸斉昭の奇矯な振る舞いが、腐りきった幕府家臣への憤怒の現れとみる。斉昭が終始幕府を代表して外国と接すれば今のようなことににはならなかっただろうと残念がる。不遇であるため、鎖国、壤夷、などと主張し、道をあやまった。
「惜しいかな、正大高明、御誠実に乏し」
 麟太郎は斉昭の欠点を見抜いた。
「井伊大老にすれば、激動する危険な中で、十四代将軍を家茂に定めたのは勇断だが、大獄の処断は残酷に過ぎた」
 麟太郎は幕臣は小人の群れだとも説く。小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。斉昭にしても井伊大老にしても大人物ではあったが、周りが小人物ばかりであったため、判断を誤った。
「おしいことでい」勝麟太郎は悔しい顔で頭を振った。
 赤坂の麟太郎の屋敷には本妻のたみと十歳の長女夢と八歳の孝、六歳長男の小鹿がいる。益田糸という女中がいて、麟太郎の傍らにつきっきりで世話をやく。麟太郎は当然手をつける。そして当然、糸は身籠もり、万延元年八月三日、女児を産んだ。三女逸である。 他にも麟太郎には妾がいた。麟太郎は絶倫である。
 当時、武士の外泊は許されてなかったので、妻妾が一緒に住むハメになった。

  井伊大老のあとを受けて大老となった安藤信正は幕臣の使節をヨーロッパに派遣した。 パリ、マルセーユを巡りロンドンまでいったらしいが、成果はゼロに等しかった。
 小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。只、指をくわえて見てきただけのことである。現在の日本政治家の”外遊”に似ている。
 その安藤信正は坂下門下門外で浪人に襲撃され、負傷して、四月に老中を退いた。在職中に英国大使から小笠原諸島は日本の領土であるか? と尋ねられ、外国奉行に命じて、諸島の開拓と巡察を行ったという。開拓などを命じられたのは、大久保越中守(忠寛)である。彼は井伊大老に睨まれ、左遷されていたが、文久二年五月四日には、外国奉行兼任のまま大目付に任命された。
 幕府のゴタゴタは続いた。山形五万石の水野和泉守が、将軍家茂に海軍白書を提出した。軍艦三百七十余隻を備える幕臣に操縦させて国を守る……というプランだった。
「かような海軍を全備致すに、どれほどの年月を待たねばならぬのか?」
 麟太郎は、将軍もなかなか痛いところをお突きになる、と関心した。
 しかし、列座の歴々方からは何の返答もない。皆軍艦など知らぬ無知者ばかりである。 たまりかねた水野和泉守が、
「なにか申すことがあるであろう? 申せ」
 しかし、何の返答もない。
 大久保越中守の目配せで、水野和泉守はやっと麟太郎に声をかけた。
「勝麟太郎、どうじゃ?」
 一同の目が麟太郎に集まった。
 ”咸臨丸の艦長としてろくに働きもしなかったうえに、上司を憚らない大言壮語する” という噂が広まっていた。
 麟太郎が平伏すると、大久保越中守が告げた。
「麟太郎、それへ参れとのごじょうじゃ」
「ははっ!」
 麟太郎は座を立ち、家茂の前まできて平伏した。
 普通は座を立たずにその場で意見をいうのがしきたりだったが、麟太郎はそれを知りながら無視した。麟太郎はいう。
「謹んで申し上げます。これは五百年の後ならでは、その全備を整えるのは難しと存じまする。軍艦三百七十余隻は、数年を出ずして整うべしといえども、乗組みの人員が如何にして運転習熟できましょうか。
 当今、イギリス海軍の盛大が言われまするが、ほとんど三百年の久しき時を経て、ようやく今に至れるものでござります。
 もし海防策を、子々孫々にわたりそのご趣意に背かず、英意をじゅんぼうする人にあらざれば、大成しうるものにはございませぬ。
 海軍の策は、敵を征伐するの勢力に、余りあるものならざれば、成り立ちませぬ」
 勝海舟(麟太郎)は人材の育成を説く。武家か幕臣たちからだけではなく広く身分を問わずに人材を集める、養成するべき、と麟太郎は説く。
 この年、麟太郎門下の坂本龍馬が訪ねてきた。龍馬は前年の文久二年夏、土佐藩を脱藩し、千葉定吉道場で居候していたが、近藤長次郎に連れられ、麟太郎の屋敷を訪ねてきた。 最初は麟太郎を殺すつもりだったが、麟太郎の壮大な構想をきくうちに感化され、すぐに弟子入りをした。
 龍馬は姉・乙女に手紙を書く。”天下一の英傑・勝麟太郎(勝海舟)先生の弟子になりました。えへんえへん”……


戦後70年特別編成『あの戦争は何故起こり、原爆投下や惨めな敗戦・侵略・虐殺は何故起こったのか?』7

2015年07月31日 06時50分07秒 | 日記








宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)は、天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう祭祀。皇居宮中三殿で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、掌典長(掌典職)らが祭典を行い、天皇が拝礼する小祭がある。
歴史[編集]
近代以前[編集]
中世の順徳天皇は、『禁秘抄』で「禁中作法先神事」と述べたように、天皇は肇国以来「神事」を最優先としている。四方拝などは江戸時代以前から歴代の天皇に引き継がれた行事である。
江戸時代中・後期には水戸学に基づいた尊王論の高まりがあり、新嘗祭など祭祀の再興が盛んになった。
明治期から戦前まで[編集]
今日行われている祭祀の多くは、明治維新期に大宝令、貞観儀式、延喜式などを継承して再編された物である。
天皇の「現人神」としての神格化や神仏分離などに合わせて、途絶えていた祭祀の復興や新たな祭祀の創出が行われた。1871年(明治4年)には「神社は国家の宗祀」との太政官布告が出され、1908年には宮中祭祀について定めた皇室祭祀令が皇室令の一つとして制定された。
宮城内の水田では稲作が行われ、昭和天皇以降は自ら田植えをするようになった。収穫された米は供物として、祭祀の際に用いられている。
戦後[編集]
1945年(昭和20年)に日本が敗戦し、戦後の連合国軍司令部による統治の下で、宮内省は宮内府・宮内庁へと移行される。また、国政と切り離されていた旧皇室典範は日本国憲法施行に合わせて廃止され、全面的に改定された皇室典範は一般法の一つとなった。
これに合わせて、皇室祭祀令など戦前の皇室令も、一旦全て廃止されたものの、宮内庁は内部通牒を出し、「新たに明文の規定がなくなった事項については、旧皇室令に準じて実施すること」を確認している。
現代での位置づけ[編集]
日本国憲法やその下の法律に宮中祭祀についての明文の規定はなく、現在の宮中祭祀も皇室祭祀令に基づいて行われている。また、これに係る予算も皇室の内廷費によって処理されている。このため、多くの憲法学者が、戦後の宮中祭祀を「天皇が私的に執り行う儀式」と解釈するようになった。
宮内庁の公式HPでは、宮中祭祀を「宮中のご公務など」の項で説明している。
また、内閣総理大臣はじめ三権の長が、大祭を中心に一部の祭祀に陪席していることが確認されている。佐藤栄作は首相在任期間中、春季皇霊祭・春季神殿祭、秋季皇霊祭・秋季神殿祭、新嘗祭にほとんど出席しており、NHKスペシャル『象徴天皇 素顔の記録』(2009年4月10日放送、天皇・皇后成婚50周年の記念番組)では、当時の麻生太郎首相ほか三権の長が、春季皇霊祭・春季神殿祭に出席している映像が放映された。
制度としての宮中祭祀が確立して以降の天皇では明治天皇や大正天皇はあまり熱心ではなく、侍従らが代拝するのが主であった。一方で、貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后は非常に熱心であった。
在位後期に侍従長であった入江相政は、昭和40年代から50年代に昭和天皇の高齢を理由とした祭祀の簡略化を推進したことがその日記から伺えるが、昭和天皇は1986年(昭和61年)まで新嘗祭の親祭を続けた。
今上天皇・皇后も祭祀にはきわめて熱心であり、諒闇(服喪中)や病気を除くとほとんどの宮中祭祀に代拝を立てず御自ら出席している。
祭祀に関しては、事前の潔斎と平安装束を着用する事に加え、長時間の正座が必要であり、生前の昭和天皇は祭祀が近づくと、正座してテレビを視聴するなど、意識的に長時間正座することを心がけていたという。今上天皇も新嘗祭の時節が近づくと、昭和天皇と同様に正座の練習をするとのことである。
在位20年を経た2009年(平成21年)以降は、高齢である今上天皇の健康への配慮、負担軽減のため、祭祀の簡略化や調整が計画、実施されている。
概要[編集]
主な祭儀[編集]
太字のものは大祭
1月1日 四方拝(しほうはい)、歳旦祭(さいたんさい)
1月3日 元始祭(げんしさい)
1月4日 奏事始(そうじはじめ)
1月7日 昭和天皇祭(しょうわてんのうさい)
1月30日 孝明天皇例祭(こうめいてんのうれいさい)
2月17日 祈年祭(きねんさい)
春分の日 春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)、春季神殿祭(しゅんきしんでんさい)
4月3日 神武天皇祭(じんむてんのうさい)、皇霊殿御神楽(こうれいでんみかぐら)
6月30日 節折(よおり) 、大祓(おおはらい)
7月30日 明治天皇例祭(めいじてんのうれいさい)
秋分の日 秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)、秋季神殿祭(しゅうきしんでんさい)
10月17日 神嘗祭(かんなめさい)
11月23日 新嘗祭(にいなめさい)
12月中旬 賢所御神楽(かしこどころみかぐら)
12月23日 天長祭(てんちょうさい)
12月25日 大正天皇例祭(たいしょうてんのうれいさい)
12月31日 節折(よおり)、大祓(おおはらい)
毎月1、11、21日 旬祭(しゅんさい)
毎日 日供の儀(にっくにのぎ) 毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)
皇室祭祀令との差異
2月11日 紀元節祭(きげんせつさい)廃止
天長節祭から天長祭へ名称変更
服装[編集]
参列者の服装は、洋装の場合モーニングコート及びアフタヌーンドレス、和装の場合は白襟紋付及びそれに準ずるものとされている。冬期は、外套を着用する事ができる。
参考文献[編集]
高橋紘『象徴天皇』(岩波新書、1987年)
原武史『昭和天皇』(岩波新書、2008年)
八木秀次「宮中祭祀廃止論に反駁する」(「正論」、2008年6月5日付)
NHKスペシャル「象徴天皇 素顔の記録」(NHK、2009年4月10日放送、のちDVD)

歴代天皇陛下一覧

1代   神武天皇   (じんむ)      
2代   綏靖天皇 (すいぜい)    
3代   安寧天皇 (あんねい)    
4代   懿徳天皇 (いとく)    
5代   考昭天皇  (こうしょう)    
6代   考安天皇 (こうあん)    
7代   考霊天皇 (こうれい)    
8代   考元天皇 (こうげん)    
9代   開化天皇 (かいか)    
10代  崇神天皇 (すうじん)    
11代  垂仁天皇  (すいにん)    
12代  景行天皇  (けいこう)    
13代  成務天皇 (せいむ)    
14代  仲哀天皇 (ちゅうあい)    
15代  応神天皇 (おうじん)    
16代  仁徳天皇 (にんとく)    
17代  履中天皇 (りちゅう)    
18代  反正天皇 (きんぜい)    
19代  允恭天皇 (いんぎょう)    
20代  安康天皇 (あんこう)    
21代  雄略天皇 (ゆうりゃく)    
22代  清寧天皇 (せいねい)    
23代  顕宗天皇 (けんそう)    
24代  仁賢天皇 (にんけん)    
25代  武烈天皇 (ぶれつ)    
26代  継体天皇 (けいたい) 皇紀1167-1191 西暦507-531
27代  安閑天皇 (あんかん) 皇紀1191-1195 西暦531-535
28代  宣化天皇 (せんか) 皇紀1195-1199 西暦535-359
29代  欽明天皇 (きんめい) 皇紀1199-1231 西暦539-571
30代  敏達天皇 (びたつ) 皇紀1232-1245 西暦572-585
31代  用明天皇 (ようめい) 皇紀1245-1247 西暦585-587
32代  崇峻天皇 (すいしゅん) 皇紀1247-1252 西暦587-592
33代  推古天皇 (すいこ) 皇紀1252-1288 西暦592-628
34代  舒明天皇 (じょめい) 皇紀1289-1301 西暦629-641
35代  皇極天皇 (こうぎょく) 皇紀1302-1305 西暦642-645
36代  考徳天皇 (こうとく) 皇紀1305-1314 西暦645-654
37代  斉明天皇 (さいめい) 皇紀1315-1321 西暦655-661
38代  天智天皇 (てんじ) 皇紀1321-1331 西暦661-671
39代  弘文天皇 (こうぶん) 皇紀1331-1332 西暦671-672
40代  天武天皇 (てんむ) 皇紀1332-1346 西暦672-686
41代  持統天皇 (じとう) 皇紀1346-1357 西暦686-697
42代  文武天皇 (もんぶ) 皇紀1357-1367 西暦697-707
43代  元明天皇 (げんめい) 皇紀1367-1375 西暦707-715
44代  元正天皇 (げんしょう) 皇紀1375-1384 西暦715-724
45代  聖武天皇 (しょうむ) 皇紀1384-1409 西暦724-749
46代  考謙天皇 (こうけん) 皇紀1409-1418 西暦749-758
47代  淳仁天皇 (じゅんにん) 皇紀1418-1424 西暦758-764
48代  称徳天皇 (しょうとく) 皇紀1424-1430 西暦764-770
49代  光仁天皇 (こうにん) 皇紀1430-1441 西暦770-781
50代  桓武天皇 (かんむ) 皇紀1441-1466 西暦781-806
51代  平城天皇 (へいぜい) 皇紀1466-1469 西暦806-809
52代  嵯峨天皇 (さが) 皇紀1469-1483 西暦809-823
53代  淳和天皇 (じゅんな) 皇紀1483-1493 西暦823-833
54代  仁明天皇 (じんみょう) 皇紀1493-1510 西暦833-850
55代  文徳天皇 (もんとく) 皇紀1510-1518 西暦850-858
56代  清和天皇 (せいわ) 皇紀1518-1536 西暦858-876
57代  陽成天皇 (ようぜい) 皇紀1536-1544 西暦876-884
58代  光考天皇 (こうこう) 皇紀1544-1547 西暦884-887
59代  宇多天皇 (うだ) 皇紀1547-1557 西暦887-897
60代  醍醐天皇 (だいご) 皇紀1557-1590 西暦897-930
61代  朱雀天皇 (すざく) 皇紀1590-1606 西暦930-946
62代  村上天皇 (むらかみ) 皇紀1606-1627 西暦946-967
63代  冷泉天皇 (れいぜい)  皇紀1627-1629 西暦967-969
64代  円融天皇 (えんゆう) 皇紀1629-1644 西暦969-984
65代  花山天皇 (かざん) 皇紀1644-1646 西暦984-986
66代  一条天皇 (いちじょう) 皇紀1646-1671 西暦986-1011
67代  三条天皇 (さんじょう) 皇紀1671-1676 西暦1011-1016
68代  後一条天皇 (ごいちじょう) 皇紀1676-1696 皇紀1676-1696
69代  後朱雀天皇 (ごすざく) 皇紀1696-1705 西暦1036-1045
70代  後冷泉天皇 (ごれいぜい) 皇紀1705-1728 西暦1045-1068
71代  後三条天皇 (ごさんじょう) 皇紀1728-1732 西暦1068-1072
72代  白河天皇 (しらかわ) 皇紀1732-1746 西暦1072-1086
73代  堀河天皇 (ほりかわ) 皇紀1746-1767 西暦1086-1107
74代  鳥羽天皇 (とば) 皇紀1767-1783 西暦1107-1123
75代  崇徳天皇 (すとく) 皇紀1783-1801 西暦1123-1141
76代  近衛天皇 (このえ) 皇紀1801-1815 西暦1141-1155
77代  後白河天皇 (ごしらかわ) 皇紀1815-1818 西暦1155-1158
78代  二条天皇 (にじょう) 皇紀1818-1825 西暦1158-1165
79代  六条天皇 (ろくじょう) 皇紀1825-1828 西暦1165-1168
80代  高倉天皇 (たかくら)     皇紀1828-1840 西暦1168-1180
81代  安徳天皇 (あんとく)     皇紀1840-1845 西暦1180-1185
82代  後鳥羽天皇 (ごとば) 皇紀1843-1858 西暦1183-1198
83代  土御門天皇 (つちみかど) 皇紀1859-1870 西暦1198-1210
84代  順徳天皇 (じゅんとく)     皇紀1870-1881 西暦1210-1221
85代  仲恭天皇 (ちゅうきょう) 皇紀1881-1881 西暦1221-1221
86代  後堀河天皇 (ごほりかわ) 皇紀1881-1892 西暦1221-1232
87代  四条天皇 (しじょう)     皇紀1892-1902 西暦1232-1242
88代  後嵯峨天皇 (ごさが) 皇紀1902-1906 西暦1242-1246
89代  後深草天皇 (ごふかくさ) 皇紀1906-1919 西暦1246-1259
90代  亀山天皇  (かめやま) 皇紀1919-1934 西暦1259-1274
91代  後宇多天皇 (ごうだ) 皇紀1934-1947 西暦1274-1287
92代  伏見天皇 (ふしみ)     皇紀1947-1958 西暦1287-1298
93代  後伏見天皇 (ごふしみ) 皇紀1958-1961 西暦1298-1301
94代  後二条天皇  (ごにじょう) 皇紀1962-1968 西暦1301-1308
95代  花園天皇 (はなぞの)     皇紀1968-1978 西暦1308-1318
96代  後醍醐天皇 (ごだいご) 皇紀1978-1999 西暦1318-1339
97代  後村上天皇 (ごむらかみ) 皇紀1999-2028 西暦1339-1368
98代  長慶天皇 (ちょうけい)     皇紀2028-2043 西暦1368-1383
99代  後亀山天皇 (ごかめやま) 皇紀2043-2052 西暦1383-1392
100代  後小松天皇 (ごこまつ) 皇紀2042-2072 西暦1382-1412
101代  称光天皇 (しょうこう) 皇紀2072-2088 西暦1412-1428
102代  後花園天皇 (ごはなぞの) 皇紀2088-2124 西暦1428-1464
103代  後土御門天皇 (ごつちみかど)皇紀2124-2160 西暦1464-1500
104代  後柏原天皇 (ごかしわばら)皇紀2162-2188 西暦1500-1526
105代  後奈良天皇 (ごなら) 皇紀2188-2219 西暦1526-1557
106代  正親町天皇 (おおぎまち) 皇紀2219-2248 西暦1557-1586 
107代  後陽成天皇 (ごようぜい) 皇紀2248-2273 西暦1586-1611
108代  後水尾天皇 (ごみずのお) 皇紀2273-2291  西暦1611-1629
109代  明正天皇 (めいしょう) 皇紀2291-2305 西暦1629-1643
110代  後光明天皇 (ごこうみょう 皇紀2305-2316 西暦1643-1654
111代  後西天皇 (ごさい) 皇紀2316-2323 西暦1654-1663
112代  霊元天皇 (れいげん) 皇紀2323-2347 西暦1663-1687
113代  東山天皇 (ひがしやま) 皇紀2347-2369 西暦1687-1709
114代  中御門天皇 (なかみかど) 皇紀2369-2395 西暦1709-1735
115代  桜町天皇 (さくらまち) 皇紀2395-2407 西暦1735-1747
117代  後桜町天皇 (ごさくらまち) 皇紀2422-2430 西暦1762-1770
118代  後桃園天皇 (ごももぞの) 皇紀2430-2439 西暦1770-1779
119代  光格天皇 (こうかく) 皇紀2439-2477 西暦1779-1817
120代  仁考天皇 (じんこう 皇紀2477-2506 西暦1817-1846
121代  孝明天皇 (こうめい) 皇紀2506-2526 西暦1846-1866
122代  明治天皇 (めいじ) 皇紀2527-2572 西暦1867-1912
123代  大正天皇 (たいしょう) 皇紀2572-2586 西暦1912-1926
124代  昭和天皇 (しょうわ) 皇紀2586-2649 西暦1926-1989
125代  今上陛下   皇紀2649- 西暦1989-
    

天皇・皇后両陛下の葬儀、17世紀以来の火葬に。宮内庁発表、陵は寄り添う形。 宮内庁は14日、天皇、皇后両陛下の意向を受けて検討を進めてきた「今後の陵と葬儀のあり方」を発表した。陵の墳丘の形状は従来通りで、天皇・皇后陵が隣り合う形にし、敷地面積を昭和天皇・香淳皇后陵の8割程度にする。また江戸時代前期から続いてきた土葬を火葬に変更し、火葬のための新たな儀式を行う。天皇の火葬は1617年の後陽成天皇の葬儀が最後で、葬法の歴史的転換になるが、他に大きな変更はなく、旧皇室喪儀令などに基づく戦前の形式が継続することになった。陵の予定地は東京都八王子市の武蔵陵墓地の大正天皇陵西側になる。宮内庁は昨年4月、新たな陵と葬儀のあり方の検討を行うと表明。両陛下は武蔵陵墓地の用地に余裕がなくなっていることや国民生活への影響を少なくすることを考慮して検討を進めてほしいとの意向を示されていた。また一般社会で火葬が通常化していることなどから火葬を希望された。陵は明治天皇陵から続いている「上円下方」の墳丘形式を踏襲。従来より大きさを縮小した天皇、皇后陵が並び立つように配置する。皇后陵は天皇陵より小さめになる。(2013年11月15日読売新聞記事参照)2013年10月31日の秋の園遊会で天皇陛下に手紙を渡した山本太郎参院議員(無所属)に対し、1日、議員辞職を求める声が相次いだ。自民党の脇雅史参院幹事長は党役員連絡会で「憲法違反は明確だ。二度とこういう事が起こらないように本人が責任をとるべきだ」と要求した。橋下徹氏は「日本国民であれば、法律に書いていなくても、やってはいけないことは分かる。陛下に対してそういう態度振る舞いはあってはならない。しかも政治家なんだから。信じられない」と批判。(2013年11月1日毎日新聞)2013年6月9日、「皇太子さまと雅子様のご成婚から20周年」でした。早いものです。愛子さまも大きく成長された。雅子さまのご病気は依然として予断を許さないがご快復をお祈りいたしたい。雅子さまと皇太子さまは、オランダに公務でいらっしゃった。週刊誌などは「園遊会に欠席したのにオランダにはいった雅子さま」などと批判しているが雅子さまの精神障害(適応障害)が大変重いことがわかっていない。精神病は見えない心の病気だからわからないのだ。どれだけ苦しいか。2012年6月6日、16回目のがん関連手術を受けた仁(ともひと)親王殿下(66)が亡くなられた。「髭の殿下」として慕われたが病気には勝てなかった。イギリスのエリザベス王女が戴冠式のとき、当時19歳の皇太子だった明仁天皇(学習院大学在学中)は列席なさっていますね。また皇太子妃・雅子さまがご体調を崩されたようです。原因としては愛子さまの登校に1年以上同伴してメンタル面でダメージがあったそうです。また政府の検討では「女性宮家は1代限り」だそうです。女性皇族(宮家)の夫や子供は皇族ではないということです。「女性宮家」だのより「旧宮家」から養子をとったりすればいいのでは?とも思いますがね。2012年2月18日天皇陛下の心臓バイパス手術が成功しました。まずはよかった。2015年12月23日天皇明仁が81歳になった。最近は天皇も耳が遠くなり、皇后も病を抱えている。「新年祝賀の義」が開かれてお手振り(笑)しましたね。09年11月12日、政府の式典「平成天皇即位20周年記念式典」が開かれた。それに先立って皇居・宮殿「石橋(しゃっきょう)の間」で(平成)天皇と皇后は記者会見を開いた。天皇は「「象徴」の在り方を今日まで模索中である」という。即位したのは90年11月12日である。私はその当時を覚えている。あの意味不明の「即位の礼」皇居・正殿での醜悪なナショナリズムのオンパレードの「即位礼正殿の儀」という国儀だ。「天皇陛下万歳!皇后陛下万歳!」というあれだ。中国の次世代リーダーの習近平氏と天皇が会見したことで野党自民党や羽毛田宮内庁長官は「30日ルール(天皇と外国の国家元首が会う場合によって30日前に宮内庁に相談するルール)」が破られた。と騒いでいます。が、皇族は官僚や政治家と同じようにパブリックサーバント(公僕)なんです。日本の国益の為に会うのは間違いではありません。また愛子ちゃんがいじめで不登校であるそうですね。この異例の報道は危険だと思います。愛子ちゃんがいじめられているとかは子ども達の話しです。発表してマスコミが報道することで、乱暴をふるったとされる男子小学生は「天皇の孫をいじめた悪童」として社会的に抹殺されたり自殺したりしたら宮内庁や皇室担当マスコミは自殺の責任を取れるのか?可能性はゼロではない。ここでは「天皇論」を展開します。まず「国歌・君が代」ですがおかしいって思いませんか?「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」…主権在民を唄っておいてなんで君が代つまり「天皇の代」が「苔のむすまで未来永劫続け」と唄わなければならないのですか?確かに江戸時代は婚礼の際やらで庶民的な唄であって、「君が代」は古今和歌集の一句であることは知っています。が、この詩に曲が付けられたのは明治13年、天長節(11月3日)に宮中宴会で披露されてからです。つまりここからは「君が代」が「天皇の代」になっ
た訳です。「君が代は天皇の代ではない」など詭弁もいいところです。古来天皇の最も重要なつとめは祭事を行うことといわれ、春秋の皇霊祭、神嘗祭(かんなめさい)、新嘗祭など年間30回にもおよびます。天皇はいわゆる「超能力者」みたいな感じで、神の子孫(イザナギやイザナミやスサノオや天照大神の子孫)といわれています。無論そんな神の子孫な訳ありません。皆さんは天照大神を本当に心から信じられますか?それが答えです。だが天皇制度は推古天皇(608年)から数えても1400年以上の歴史があります。天皇はエンペラー(皇帝)ではなく祭司王です。国家元首で天照大神の弟のニニギノミコトの曾孫が初代・神武天皇です。なお正月の一般参賀は皇室の「長和殿」でいわゆる「お手振り」をやる訳です。ちなみに今の平成天皇(今上天皇)の名前がわからない方もいるかもしれない。昭和天皇は裕仁(ヒロヒト)、平成天皇(今上天皇)は明仁(アキヒト)、皇太子は徳仁(ナルヒト)です。「仁」の字は第56代清和天皇(858
年から876年)の推仁(これひと)で初めて使われ、第70代後冷泉(ごれいぜい)天皇の親仁(チカヒト)以来わずかな例外を除き「仁」を使うのが通例になっている。明治時代から皇子には「仁」皇女には「子」をつけるのが正式に決まった。名前を本名で呼ばないのは「位が高い」から(笑)。生前の事績を称える「諮号(しごう)」明治天皇、大正天皇、昭和天皇、いずれも造年であり、生前は呼ばない。在任中は「今上(きんじょう)天皇」と呼ぶ。天皇皇后および皇太后、太皇太后(たいこうたいごう)を陛下、それ以外の皇族は殿下である。秋篠宮の子供は眞子内親王殿下、佳子内親王殿下、悠仁親王殿下です。天皇皇后および皇族には姓がありません。また天皇には戸籍もありません。即位拒否や退位の自由も「自分の意見をいう権利」もありません。婚姻の自由もありません。まずは宮内庁の「皇族会議」で決まります。明仁天皇(平成天皇)と皇后美智子さんが前にサイパ
ンに慰霊の旅に出て「バンザイクリフ(戦争中に日本人たちが「天皇陛下バンザイ」と叫びながら投身自殺した崖)」で手を合わせた。こんな謝罪は謝罪じゃない。こういったことは昭和天皇がとっくの昔にアジア諸国を回って謝罪の旅に出るべきであって、今更遅いのである。昭和天皇は現人神(あらひとがみ)で軍服をきた、陸海空軍を統べる「大元帥」だったのだから。確かに「人間宣言」をしたが、昭和天皇には「戦争責任」が確実にあった。確かに「日本の象徴」としての天皇制度は私は否定しない。だけど私は小林よしのりのように天皇を「神格化」したり「ありがたがったり」しない。象徴ではあるが、皇族は政治家や官僚と同じく国民の納める税金で食べさせてやっている「パブリック・サーバント(公僕)」です。何故、「ヒトラーと同じく独裁者と欧米から見られていた昭和天皇・裕仁」が罪に問われなかったのかは分かる。当時、GHQのマッカーサーは「天皇制度」を廃止しようとしていた。が、「天皇制度を廃止したら日本人が内戦を
起こす」「天皇制度を廃止したら日本はまた戦争をする」「天皇制度を廃止したらとんでもない独裁者が出現するかもしれない」というミス・インフォメーション(根拠のない噂)を受け入れて天皇制度を廃止しなかっただけだ。が、天皇制度を廃止しても誰も内戦など起さないし、動乱も独裁者も現れはしなかっただろう。それどころか天皇制度という「昔からの曖昧な制度」を残した為に日本人は「無責任」「批判もなく天皇を崇める」本当に無責任な他人頼りになった。天皇制度は何らかの制度疲労を起こしている。その典型的な例が「雅子さんの精神疾患」や「皇后の失語症」だろう。まあ、私自身がうつ病不眠症の「適応障害」である為に雅子さん(小和田雅子さん)の「痛み」がよくわかります。心の病気は目に見えない部分で普通のひとには「落ち込んでいる」としか見えない。だからうつ病のひとに「頑張れ」と言ってしまう。「頑張らなければならない」ことなどわかっています。でも病気で「頑張れない」のです。私の兄貴(緑川和宏)などは
うつ病の症状どころか病名さえ知らず「お前を大人だと認めていない」といいました。猿には私が「さぼっている」と写ったようです。心ない言葉や罵声、嘲笑がいかにうつ病の患者を傷つけるか?皇太子の家族が住む「東宮御所」が改築されて屋根にはソーラーパネルが付けられたという。先日、あるひとが「明治維新を起こした志士はすごかった。その同じ日本人の血が流れているのにどうして今の日本人は維新の革命を出来ないのか?」と私に聞いてきた。よくある意見ではある。確かに坂本竜馬だの西郷
隆盛だの勝海舟だの桂小五朗(木戸孝允)だの何度もドラマになっている。わが国では明治維新こそ「日本のフランス革命である」という。が、果たして薩摩や長州の藩士達は「日本のフランス革命」を果たしたのであろうか?私は明治維新は「革命」でもなければ「刷新」でもない。所詮は日本のトップが、将軍から天皇に代わったイノベーションに過ぎないと思っている。絶対王制を打ち倒し、過去の土地支配の上に成立する貴族階級をすべて廃止して、「王がどれほどのものだ。ひとりのフランス人に比べればゴミと同じ存在だ」というルソーの有名な言葉に代表される「フランス革命」のパワーとメンタリティは「明治維新」のどこにも見られない。結局、明治維新の志士達は「天皇制」という「昔からの曖昧なシステム」に逃げ込んだだけです。大嘗祭だの即位礼儀という意味のないセレモニーに数十億円という税金が使われたのに誰も咎めない無責任さ。結局、この程度だからナショナリズムと国粋主義の区別もつかない。漫画家だけでなく大学教授まで「侵略戦争」を
否定して「過去の日本人が悪いなんて東京裁判史観だ」だの侵略戦争下での大虐殺や強姦行為を他人事のように「遺憾に思う」だけ。大人の国なら当たり前の謝罪がない。謝罪もしない。賠償金も払わない。他人事のように「遺憾に思う」だけ……。
明治維新のどこが維新の革命なのだろう?只将軍から天皇に首をすげ替えただけだ。(ここから官僚政府が誕生した。それから120年後で官僚独裁制が確立した。官僚独裁制を警戒した経済学者がマックス・ウェーバーだった)結局、この程度だからナショナリズムと国粋主義の区別も出来ない。おまけに天皇のクレームには右翼が銃撃戦争で答える有様である。天皇制を金科玉条のように崇め、誰も逆らわない。曖昧な天皇制にどっぷりとつかり誰も文句が言えない。言った途端に右翼が後ろから銃撃してくる。天皇陛下が悪い訳ではありません。雅子さんが悪い訳ではありません。結局、天皇制を利用している「側近」や「宮内庁の利益集団」「皇室担当マスコミ」の皇産複合体が「元凶」なのである。即位礼儀は別にいいかもしれない。が、現在の天皇陛下が崩御した後に雅子さんが新皇后陛下となり得るか?皇太子に次期天皇陛下の重責が担えるか?後継者はどうするつもりなのか?疑問ばかりです。即位礼儀や成婚50周年記念写真集だのの前に考えることが山積し
ているのである。日本人は天皇陛下万歳という前に自分の頭でよく考えることだ。


大島優子主演映画『ロマンス』大島「凄い顔のあくびのシーンがお気に入り」是非映画を観てください!

2015年07月30日 21時34分11秒 | 日記




大島優子、無防備な姿に「大丈夫?」 主演映画『ロマンス』予告映像公開

大島優子が主演を務める映画『ロマンス』の予告編が公開 (C)2015 東映ビデオ

大島優子が主演を務める映画『ロマンス』の予告編が公開 (C)2015 東映ビデオ
 女優・大島優子(26)の主演映画『ロマンス』(8月29日公開)の予告編映像が29日、公開された。6年ぶりに映画主演を務める同作で、特急ロマンスカーのアテンダントを熱演している。

 同作の脚本・監督は、映画『百万円と苦虫女』のタナダユキ氏が担当。特急ロマンスカーのアテンダントとして働く北條鉢子(大島)は、ひょんなことから映画プロデューサーを名乗る怪しい中年男性客・桜庭に“母親からの手紙”を読まれてしまい、かつて家族で訪れた箱根の景勝地をめぐって母親を捜すことになる。

 公開された予告映像では、ロマンスカーのアテンダントとして発声練習する様子や、車内販売を行う姿を披露。「ずっと自宅でアテンダントの練習をしていました」とクランクイン前から役作りに励んでいたといい、「鉢子は今の私と同じ26歳という設定です。20代前半とは違い、この年齢になるとなぜか前に踏み出す勇気が持てず、怖くなることがあります。そういう気持ちを抱いている鉢子にとても共感しました」と役柄への思い入れを明かす。

 「タナダワールドにいる自分が何よりもうれしかったです」と完成作に満足げで、「劇中では、『これ大丈夫かな!?(笑)』と思うくらいのぐちゃぐちゃな顔や無防備な姿、とびっきり楽しい表情や切ない感情などたくさん引き出していただきました!」と手応えをにじませている。


 大島優子「すごい顔のあくびのシーンがお気に入り」

 AKB48卒業後、大島優子の初主演映画となる『ロマンス』。タナダユキ監督にとっては『百万円と苦虫女』以来、7年ぶりにオリジナル脚本に挑戦した意欲作。そんな今注目の2人がタッグを組んだ作品『ロマンス』の裏話を主演の大島優子が語った。

――――タナダユキ監督作品に主演された感想は?

「実は『百万円と苦虫女』が大好きで、ずっとタナダユキ監督の作品に出させていただきたいと思っていたんです。女の子の微妙で繊細な揺れ動く気持ちを、ものすごく魅力的に表現されると感じていて。実際の監督は綺麗でお洒落です。朝早くてもメイクもばっちりでいらっしゃいますし(笑)。だから素の自分をさらけだしてお芝居ができました」

――――今回の役はロマンスカーのアテンダントの鉢子役ですが演じてみてどうでしたか?

「アテンダントのお仕事は本当に大変です。電車やバスが揺れていても踏ん張ってがんばらなければならない。実際のアテンダントさんはお客様の接し方も見事で、そうとうモテるんだろうな、と。(笑)」


――――鉢子を振り回す桜庭役の大倉孝二さんはどうでしたか?

「私、ひとを笑わせるお芝居はあまり経験がないので凄いなあ、と(笑)。まるで漫才師の方のようで(笑)お芝居の方なんですが(笑)本業は(笑)私は前はアイドルのAKBでしたが(笑)」

――――本作で大島さんのお気に入りのシーンは?

「あくびをするシーンです。監督が”もっともっと”と。桜庭となじめなくてのあくびと、なじんでからのおおきなあくび(笑)試写を観てタナダ監督はすごいなあ、と(笑)」

「盗作だ」ベルギーのデザイナーが法的措置へ 2020年東京オリンピックのエンブレム

2015年07月30日 17時47分47秒 | 日記





「盗作だ」ベルギーのデザイナーが法的措置へ 2020年東京オリンピックのエンブレム
執筆者: 安藤健二

投稿日: 2015年07月30日 11時52分 JST 更新: 5時間前

2020年に開催される東京オリンピックのエンブレムについて、ベルギーのデザイナーが「自分のつくったロゴの盗作だ」と訴えて、法的措置を取ることを明らかにした。7月30日、テレビ朝日系のニュース番組「モーニングバード」が報じた。


ベルギー東部のリエージュ劇場のロゴ(左)を制作したオリビエ・ドビさんが、東京オリンピックのエンブレム(右)がデザイン・ロゴともに酷似していると指摘した。ANNの取材に対して彼は、「どんなケースであっても『盗作』と言える。もちろん、何らかの条件が偶然重なることもあるが、(今は)世界のどこにあるものも手に入る時代、疑問を抱かざるを得ない」と話した。

東京オリンピックの組織委員会では「世界中の商標確認をしており、問題ない」との認識を示しているという。

戦後70年特別編成『あの戦争は何故起こり、原爆投下や惨めな敗戦・侵略・虐殺は何故起こったのか?』6

2015年07月30日 06時19分38秒 | 日記









  天皇論!

なお、ここからの『天皇論』の参考文献はウィキペディア、SAPIO誌(小学館)、小林よしのり『天皇論』(小学館文庫)、高谷朝子『宮中賢所物語』(ビジネス社)、高橋紘『平成天皇と皇室』(文藝春秋)、高橋紘『天皇家の仕事 読む「皇室事典」』(文藝春秋)、高橋紘+所功『皇位継承』(文藝春秋)、高橋明勅『日本の可能性』(モラロジー研究所)、原武史『昭和天皇』(岩波新書)、ラビダノート・パール+田中正明編『パール博士「平和の宣言」』(小学館)、半藤一利編『日本のいちばん長い日』(文春新書)など、である。後は皇室関連著書の名もない方のあまたの参考文献である。
盗作ではなく引用である。裁判とか訴訟とか勘弁してください。また、この『いわゆる天皇論』は小林よしのり氏の本がベースになっていますが、氏と著者では考え方が180度違うので改めてご理解お願いいたします。
君が代は日本の国歌であるが、「君が代」とは昔は都々逸や流行歌として謳われていたが、明治時代(明治13年の天長節・11月3日)の宮中晩さん会で明治天皇の前で正式に演奏された。ここから「君が代」=「天皇の世」となった訳である。「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」ちなみに”さざれ石”とは小石のことで、それが大きな岩になって苔に覆われるくらいの年月、天皇の世が未来永劫続け!と謳わされる訳だ。
天皇は当たり前ながら人間である。現人神(あらひとがみ)から人間になった。人間であるから食べ物も食べるし排泄も子供つくりや育児も趣味もやる。人間なのだ、神格化は絶対にするな!「天皇制度」は当たり前で、行政システムである。官僚も政治家も皇族も公僕(パブリックサーバント)であり、税金で飯を食っていることにはかわりはない。
天皇家は特権階級でもなく贅沢生活などもしてはおらず、あんな皇居みたいな一箇所に閉じ込められて自由がなくかわいそうではある。だが、天皇制度こそ日本の優れた”行政制度”なのである。
「例えば日本では金正恩やヒトラーみたいな独裁者は生まれない。これは天皇のおかげだね」と小林よしのり氏は著作でいうが違う。警察や民主主義や自衛隊・公安がちゃんと機能しているからである。
天皇制度を信じているひとでも『天照大神』や『日本神話』を本気で信じているひとは少数だと思う。天皇は祭祀王であり、まあ祭祀などやるだけ税金の無駄で、超能力者でもないので祈っただけで物事は好転はしない。神社で一般国民が祈るのとなんらかわらない。税金の無駄、でしかない。
<皇室用語集(宮内庁資料)>あ か さ た な は ま や ら わ


歌会始の儀(うたかいはじめのぎ)
毎年1月,天皇・皇后の御前で,一般から詠進して選に預かった歌,選者の歌,召人(めしうど)の歌,皇族のお歌,皇后の御歌(みうた),最後に御製(ぎょせい)を披講(ひこう)する儀式
詠進歌(えいしんか)
歌会始の儀に際して詠進された短歌
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等
園遊会(えんゆうかい)
毎年,春・秋の2回,天皇・皇后が,三権の長等の要人・都道府県の知事等・各界功績者とその配偶者を招いて赤坂御苑で催される饗応の行事
園遊会 最近の園遊会被招待者数
お歌(おうた)
皇后・皇太后以外の皇族がお詠みになった短歌
お題(おだい)
天皇がお定めになった短歌の題
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等
お茶・茶会(おちゃ・ちゃかい)
お客を招いて軽食を供する行事
拝謁・お茶・ご会釈など
御手元金(おてもときん)
皇室経済法の定めるところにより宮内庁の経理に属する公金とされない金銭(皇室経済法第4・6条)
皇室の経済 予算
お成り(おなり)
天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃以外の皇族方が外出されること。
文仁親王同妃両殿下のご日程
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還啓(かんけい)
皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が行啓先からお帰りになること。
皇太子同妃両殿下のご日程
歓迎行事(かんげいぎょうじ)
皇室における国賓の接遇の一つで,国賓をお迎えになる行事
国賓のご接遇 天皇皇后両陛下のご日程
還幸(かんこう)
天皇が行幸先からお帰りになること。
還幸啓(かんこうけい)
天皇・皇后がご一緒に行幸啓先からお帰りになること。
天皇皇后両陛下のご日程
給桑(きゅうそう)
蚕に桑を与えること。大きく育った蚕に,枝付きの桑を与えることを「条桑育じょうそういく」という。
宮中饗宴の儀(きゅうちゅうきょうえんのぎ)
ご即位,立太子,ご結婚などを披露され,祝福を受けられる祝宴
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 天皇皇后両陛下のご日程
宮中午餐(きゅうちゅうごさん)
内外の賓客を招いて宮中において催される昼食会
午餐・晩餐 公賓のご接遇 公式実務訪問賓客のご接遇 天皇皇后両陛下のご日程
宮中晩餐(きゅうちゅうばんさん)
皇室における国賓の接遇の一つで,宮中において催される夕食会
国賓のご接遇 天皇皇后両陛下のおことばなど 天皇皇后両陛下のご日程
宮廷費(きゅうていひ)
儀式,国賓・公賓等の接待,行幸啓,皇族の外国ご訪問など皇室の公的ご活動等に必要な経費,皇室の用に供されている皇室用財産の管理に必要な経費,皇居等の施設整備などに充てられる経費。宮廷費は宮内庁が経理する公金である。(皇室経済法第5条)
皇室の経済 予算
饗宴の儀(きょうえんのぎ)
ご即位,立太子,ご結婚などを披露され,祝福を受けられる祝宴
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼の主な儀式・行事 天皇皇后両陛下のご日程
行啓(ぎょうけい)
皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が外出されること。
皇太子同妃両殿下のご日程
行幸(ぎょうこう)
天皇が外出されること。
行幸啓(ぎょうこうけい)
天皇・皇后がご一緒に外出されること。
行幸啓など(国内のお出まし 天皇皇后両陛下のご日程
御璽(ぎょじ)
「天皇御璽」と刻された天皇の御印(詔書・法律・政令・条約の公布文,条約の批准書,大公使信任状・解任状,全権委任状,領事委任状,外国領事認可状,認証官の官記・免官の辞令などに押印される)
御璽・国璽 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼の主な儀式・行事 宮内庁
御製(ぎょせい)
天皇がお詠みになった短歌(歌会始の儀の中では「おおみうた」という)
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等 天皇皇后両陛下のお歌
供膳の儀(くぜんのぎ)
ご結婚されたお二方が初めて食事をご一緒にされる儀式
勲章親授式(くんしょうしんじゅしき)
天皇が大綬章等の勲章をみずから授与される儀式
勲章親授式 大綬章等勲章親授式
勲章伝達式(くんしょうでんたつしき)
重光章等の勲章を伝達する儀式。重光章等の勲章は内閣総理大臣が伝達し,宮中で行われる。
結婚の儀(けっこんのぎ)
お二方が,賢所において結婚の誓いをされる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事
剣璽(けんじ)
宝剣と神璽のこと
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事
剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ)
天皇が皇位を継承された証(あかし)として剣璽・御璽・国璽を承継される儀式
御璽・国璽 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼
ご引見(ごいんけん)
天皇・皇后が外国元首・王族以外の外国の賓客とお会いになること
ご会見・ご引見など 天皇皇后両陛下のご日程
皇位(こうい)とともに伝わるべき由緒ある物
三種の神器(鏡・剣・璽)・宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)のように皇位とともに承継されるべき由緒ある物(皇室経済法第7条)
皇室の経済 ご即位・大礼
講書始の儀(こうしょはじめのぎ)
毎年1月,天皇が皇后とご一緒に,人文科学・社会科学・自然科学の各分野の権威者のご説明をお聴きになる儀式
講書始 天皇皇后両陛下のご日程
皇嗣(こうし)
皇位を継承することを予定されている皇族
皇族 皇室の経済
講師(こうじ)
歌会始の儀において全句を節をつけずに読む役
歌会始
皇室経済会議(こうしつけいざいかいぎ)
内廷費・皇族費の定額の変更等法律に定める皇室経済関係の重要事項について審議する。衆・参両院の議長・副議長,内閣総理大臣,財務大臣,宮内庁長官,会計検査院長の議員8人で組織される。
皇室の経済 皇室経済会議議員名簿
皇室用財産(こうしつようざいさん)
国有財産中の行政財産に属し,国において皇室の用に供し,又は供するものと決定した財産
皇室用財産 皇室関連施設
講頌(こうしょう)
歌会始の儀において第2句以下を発声に合わせて唱える役
歌会始
皇族費(こうぞくひ)
皇族としての品位保持の資に充てるためのもので,各宮家の皇族に対し年額により支出される。皇族費を算出する基礎となる定額は法律により定められる。皇族費は,各皇族の御手元金となる。このほかに,皇族が初めて独立の生計を営む際や皇族の身分を離れる際の一時金がある。(皇室経済法第6条,皇室経済法施行法第8条)
皇室の経済 予算
皇族譜(こうぞくふ)
天皇・皇后・太皇太后・皇太后以外の皇族の身分に関する事項を登録するもの
天皇・皇族の身位に伴う事項 皇室典範 皇統譜令
皇太子成年式加冠の儀(こうたいしせいねんしきかかんのぎ)
皇太子が成年になった証(あかし)として成年の冠を授けられる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事
皇統譜(こうとうふ)
天皇・皇族の身分に関する事項を登録するもの。いわゆる一般の戸籍にあたるもので,大統譜と皇族譜がある。(皇室典範第26条)
天皇・皇族の身位に伴う事項 関係法令
ご会釈(ごえしゃく)
天皇・皇后が非公式にお会いになること
拝謁・お茶・ご会釈など
ご会見(ごかいけん)
天皇・皇后が外国元首・王族とお会いになること
ご会見・ご引見など 天皇皇后両陛下のご日程
ご帰還(ごきかん)
天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃以外の皇族方がお成り先からお帰りになること。
文仁親王同妃両殿下のご日程
国璽(こくじ)
「大日本国璽」と刻された国印(勲記に押印される)
御璽・国璽 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼の主な儀式・行事 宮内庁
ご進講(ごしんこう)
天皇・皇后・皇族に学者等が業績などをご説明申し上げること
天皇皇后両陛下のご日程 皇太子同妃両殿下のご日程 文仁親王同妃両殿下のご日程
告期(こっき)
ご結婚の期日を告げること
ご訪問(ごほうもん)
皇室における国賓の接遇の一つで,国賓をお見送りになる行事
国賓のご接遇 天皇皇后両陛下のご日程
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祝賀御列の儀(しゅくがおんれつのぎ)
天皇が即位礼正殿の儀の終了後,広く国民にご即位を披露され,祝福を受けられる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼
上蔟(じょうぞく)
蚕が繭まゆとなるための蔟まぶし(繭まゆづくり専用の器具)へ移すこと。
親任式(しんにんしき)
天皇が内閣総理大臣・最高裁判所長官を任命される儀式
親任式 親任式(ご即位後の件数) 天皇皇后両陛下のご日程
信任状捧呈式(しんにんじょうほうていしき)
新任の外国の特命全権大使が信任状を天皇に捧呈する儀式
信任状捧呈式 信任状捧呈式の際の馬車列 信任状捧呈式(ご即位後の件数) 天皇 天皇皇后両陛下のご日程
新年一般参賀(しんねんいっぱんさんが)
新年に当たり,天皇・皇后が,皇族とご一緒に,国民から祝賀をお受けになる行事
新年祝賀・一般参賀 新年一般参賀要領
新年祝賀の儀(しんねんしゅくがのぎ)
毎年1月1日,天皇が皇后とご一緒に皇族をはじめ三権の長等の要人・在日外交団の長とその配偶者から新年の祝賀をお受けになる儀式
新年祝賀・一般参賀 天皇陛下のご感想(新年に当たり) 宮殿各棟の概要 天皇皇后両陛下のご日程
成年(せいねん)
天皇・皇太子・皇太孫は18年,その他の皇族は20年(皇室典範第22条,民法第4条)
天皇・皇族の身位に伴う事項 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事
成年式(せいねんしき)
皇族が成年に達せられたときに行われる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご略歴
選歌(せんか)
詠進歌の中から選ばれて歌会始の儀において披講される短歌(その作者を「預選者」(よせんじゃ)という)
選者(せんじゃ)
詠進歌の中から選歌を選ぶ者
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等
即位(そくい)
皇嗣が皇位につかれること(皇室典範第4条)
即位後朝見の儀(そくいごちょうけんのぎ)
天皇がご即位後初めて公式に三権の長をはじめ国民を代表する人々に会われる儀式
即位の礼(そくいのれい)
天皇が位につかれたことを公に告げられる儀式。国事行為たる儀式で,剣璽等承継の儀・即位後朝見の儀・即位礼正殿の儀・祝賀御列の儀・饗宴の儀から成る(皇室典範第24条)
即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)
天皇がご即位を公に宣明されるとともに,そのご即位を内外の代表がことほぐ儀式
天皇・皇族の身位に伴う事項 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼 天皇陛下ご即位に際し(平成元年) 天皇陛下お誕生日に際し(平成2年)
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大饗の儀(だいきょうのぎ)
大嘗宮の儀の後,天皇が参列者に白酒(しろき)・黒酒(くろき)・酒肴を賜り,ともに召し上がる儀式
大嘗宮の儀(だいじょうきゅうのぎ)
大嘗祭の中心的儀式で,悠紀殿供饌の儀と主基殿供饌の儀から成る
大嘗祭(だいじょうさい)
天皇がご即位の後,大嘗宮の悠紀殿・主基殿において初めて新穀を皇祖・天神地祇に供えられ,自らも召し上がり,国家・国民のためにその安寧と五穀豊穣などを感謝し祈念される儀式(一連の儀式を総称して用いられることもある)
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼 天皇陛下お誕生日に際し(平成2年)
大統譜(だいとうふ)
天皇・皇后・太皇太后・皇太后の身分に関する事項を登録するもの
天皇・皇族の身位に伴う事項
高御座(たかみくら)
即位の礼において,天皇がおつきになる御座
京都御所一般公開 天皇・皇族の身位に伴う事項
朝見の儀(ちょうけんのぎ)
立太子,ご結婚などに際し,天皇・皇后にごあいさつをされる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 映像で見るご結婚50年のお歩み
天蚕(てんさん)
鱗翅目りんしもくヤママユガ科に属する昆虫を総称して野蚕やさんと呼ぶが,その中の一種が天蚕てんさんである。日本に分布し,クヌギ,コナラ,クリなどを食し,繭まゆは緑色である。
天皇誕生日一般参賀(てんのうたんじょうびいっぱんさんが)
天皇誕生日に際し,天皇が,皇族とご一緒に,国民から祝賀をお受けになる行事
天皇誕生日宴会の儀(てんのうたんじょうびえんかいのぎ)
天皇誕生日に際し,天皇が皇后とご一緒に,三権の長等の要人・都道府県の知事等・各界代表者とその配偶者を招いて催される祝宴の儀式
天皇誕生日祝賀(てんのうたんじょうびしゅくが)
毎年12月23日のお誕生日に,天皇が祝賀をお受けになる行事で,祝賀の儀・宴会の儀・茶会の儀・一般参賀などが行われる。
天皇誕生日祝賀の儀(てんのうたんじょうびしゅくがのぎ)
天皇誕生日に際し,天皇が,皇太子をはじめ皇族・内閣総理大臣・衆参両院議長・最高裁判所長官から祝賀をお受けになる儀式
天皇誕生日茶会の儀(てんのうたんじょうびちゃかいのぎ)
天皇誕生日に際し,天皇が皇后とご一緒に,各国の外交使節団の長とその配偶者を招いて茶会を催され,祝賀をお受けになる儀式
天皇誕生日祝賀・一般参賀 天皇皇后両陛下の記者会見など 天皇皇后両陛下のご日程 天皇誕生日一般参賀要領 天皇誕生日一般参賀(ご即位後の件数)
読師(どくじ)
歌会始の儀における司会役
歌会始
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内廷費(ないていひ)
天皇・内廷にある皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるもので,法律により定額が定められる。内廷費として支出されたものは,御手元金となり,宮内庁の経理に属する公金ではない。(皇室経済法第4条,皇室経済法施行法第7条)
皇室の経済 予算
認証官任命式(にんしょうかんにんめいしき)
認証官(その任免を天皇が認証する官)の任命式
認証官任命式 認証官任命式(ご即位後の件数) 天皇皇后両陛下のご日程
納采(のうさい)
一般の結納にあたるもの
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 映像で見るご結婚50年のお歩み
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拝謁(はいえつ)
天皇・皇后に国内の要人・功績者などが公式にお会いすること
拝謁・お茶・ご会釈など 拝謁・お茶など(ご即位後の件数)
陪聴(ばいちょう)
天皇・皇后・皇族とご一緒にご進講を聴かせていただくこと
歌会始 講書始
掃立て(はきたて)
蟻蚕ぎさん(孵化ふかしたての蚕)を蚕座さんざ(蚕を飼育する道具)に移し,細かく刻んだ桑の葉を与えて飼育を始めること。羽ぼうきを使って蟻蚕ぎさんを蚕座さんざに掃き下ろすことから「掃立て」と呼ばれている。
発声(はっせい))
歌会始の儀において第1句を節をつけて唱える役
歌会始
初繭掻き(はつまゆかき)
繭まゆになった後,約8~10日で繭まゆを蔟まぶしから外すことを収繭しゅうけん(または繭掻まゆかき)といい,その最初の作業を「初繭掻はつまゆかき」と呼ぶ。
文化勲章親授式(ぶんかくんしょうしんじゅしき)
天皇が文化勲章をみずから授与される儀式
勲章親授式 文化勲章親授式(伝達式)(ご即位後の件数) 天皇皇后両陛下のご日程
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御歌(みうた)
皇后・皇太后がお詠みになった短歌
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等 天皇皇后両陛下のお歌
三箇夜餅の儀(みかよのもちのぎ)
ご結婚当夜から3日間にわたって御殿にお祝いの餅を供えられる儀式
御帳台(みちょうだい)
即位の礼において,皇后がおつきになる御座
京都御所一般公開 天皇・皇族の身位に伴う事項 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事のお写真
召人(めしうど)
天皇から特に召されて短歌を詠む者(その歌を「召歌」(めしうた)という)
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等 天皇皇后両陛下のお歌
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山つけ(やまつけ)
天蚕てんさんの種を和紙に25粒ほど貼り付けたものをクヌギの枝につけること。
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立太子宣明の儀(りったいしせんめいのぎ)
皇太子であることを公に宣明されるとともに,これを内外の代表が祝われる儀式
立太子の礼(りったいしのれい)
皇太子であることを公に告げられる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご略歴 主な式典におけるおことば(平成3年) 映像で見るご結婚50年のお歩み
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藁蔟(わらまぶし)
蔟まぶしと呼ばれる蚕が繭まゆづくり専用の器具を藁わらで作ったもの。
天皇皇后両陛下や愛子さまや皇太子皇太子妃は人間であり、小林よしのり氏のように『神格化』したり『金科玉条のように崇拝』する必要もない。 
万世一系(ばんせいいっけい)とは、永久に一つの系統が続くこと。多くは皇室・皇統(天皇の血筋)についていう[1]。「万世一系」の語は、岩倉具視の「王制復古議」(慶応3年10月)が初出であるとされる[2]。

岩倉具視

伊藤博文
慶応3年10月、岩倉具視は、「皇家は連綿として万世一系礼学征伐朝廷より出で候」(原文カタカナ)と指摘した。
1889年(明治22年)『(旧)皇室典範』制定に当たって伊藤博文は、皇位継承における万世不変の原則として、以下の3項目を挙げた。
第一 皇祚を践むは皇胤に限る
第二 皇祚を践むは男系に限る
第三 皇祚は一系にして分裂すべからず

民間でも大日本帝国憲法に対抗して私擬憲法が盛んに作成されたが、万世一系に言及していない例はほとんどない。万世一系の例外規定を設けているのは『憲法草稿評林』のみで、「臣民中ヨリ皇帝ヲ撰立」と規定し、皇位継承者が断絶した場合の天皇の選挙制を提案した。
起源と正統性[編集]
天皇の起源[編集]
『古事記』と『日本書紀』を編集した人物は、神武天皇から仲哀天皇までの治世を記述した。これは、当代の天皇の正統性を確保するためである。
6世紀までの日本で王朝が次々と交代したか、複数の王朝が異なる地方を同時期に並列して支配していたことを示唆する手がかりが公式の編年誌にあるとする諸説が存在する。
だが、日本の現王朝は6世紀以降には王朝交代した証拠はなく、少なくとも1500年もの間存続している。6世紀に存在した他の君主家で今日なお在位しているものは、世界のどこにもない。
皇室に名字がない事実も、天皇の王朝の古代史に遡る古さを示している。日本人が歴史が始まって以来知っている唯一の王朝だからである。
日本神話[編集]

天照大神
天皇が日本を統治する根拠とされたのは、天照大神が「天壌無窮」に葦原中国を治めよという神勅をニニギ(瓊瓊杵尊)とその子孫に下し、ニニギの曾孫である磐余彦が初代の天皇・「神武天皇」として即位したことによる。
『古事記』には天照大神が孫のニニギに「この豊葦原水穂国は、汝の知らさむ国なり」とある。『日本書紀』には「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」とある。
この記述が、皇室が日本を永遠に統治する歴史的・法的な根拠であるとされた。大日本帝国憲法第1条はこの記述を明文化したものである。日本神話に登場する初代の天皇・神武天皇から現在まで、天皇の王朝が断絶せずに皇室が日本を一貫して統治してきたとする史観を形成し、万世一系は国体において不可欠なものとされていた。
歴史[編集]
「万世一系」論の始まり[編集]
「日本は、王朝交代したことがない点で他国と基本的に異なる」という信念は、日本の王朝と同じくらい古くからあった。この主張について、十数世紀にわたって誇りを抱いたり、不思議に思う人々がいた。
大伴家持(718頃-785)は『万葉集』を編纂した奈良時代有数の歌人である。大伴家持は自分が仕えた聖武天皇を褒め称える次のような和歌を残している(下記の現代語訳は日本学術振興会の英訳から)。

大伴家持
葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国を 天(あま)くだり
しらしめしける 天皇(すめろき)の
神の命(みこと)の 御代(みよ)かさね……
敷きませる 四方(よも)の国には
山川を 広み淳(あつ)みと
奉る 御調宝(みつきたから)は
数え得ず 尽くしも兼ねつ……

大伴家持、『万葉集』巻一八

天皇たちの長い家系が 世々代々
この諸地方を治めてきた
深山がつらなり 広き川があまた流れ
数えきれぬ貢(みつ)ぎ物(もの) 尽きせぬ宝を
産みなすこの国を
この和歌では天皇の家系が長いと述べているが、どれほど長いかは言及していない。

聖徳太子
『日本書紀』は、神武天皇が帝国を創建した紀元前660年の第一月第一日を王朝の起点とした。聖徳太子(574-622)は、この日付を初めて定式化した。天皇の王朝に大いなる古さを付与しようとしたのである。実際の建国は1000年後と思われるが、この日付は日本人に自国の建国日として受けとめられた。国体(政治構造)の不変さの証拠とされることもしばしばだった。
神武天皇が創始した王朝は、「神の代」の祖先たちの系譜を引き継いでいるとも信じられていた。そのため、日本の王朝は永遠であり、万世一系であると考えられていた。
中国[編集]
王朝が非常に古いという主張は、自国民を感心させるためだけではなかった。国家としては日本より古いが、歴代王朝は日本より短命とされた中国に感銘を与えるためでもあった。いくつかの事例に照らせば、中国人は日本のこの主張を気にとめ、一目置いていたと言って良い。
『新唐書』は唐の歴史をまとめた史書だが、日本の歴史も略述されている。「神の代」に属す日本の支配者33人がリストアップされている。『日本書紀』などが掲げており、「人の代」に属す歴代天皇58代(神武天皇から光孝天皇まで)も列挙されている。 楊億(ようおく)は『新唐書』の編纂に参加した人物である。平安時代の日本の学僧である然(938-1016)が当時の中国皇帝にもたらした情報について記録を残している。「王家はひとつだけで、64代引き続いておさめてきた(国王一姓相伝六四世)。行政・軍事の官職はすべて世襲である。」という情報をもたらしたという。当時の天皇は円融天皇である。神武天皇に始まる皇統譜によれば、円融天皇はまさしく64代目であり、楊億の記述と合致する。
『宋史』は宋の歴史をまとめた史書である。そのなかの「日本伝」に、北宋の皇帝・太宗の反応を以下のように記述している。

北宋の太宗
(太宗は)この国王は一つの姓で継承され、臣下もみな官職を世襲にしていることを聞き、嘆息して宰相にいうには「これは島夷(とうい。島に住む異民族のこと)にすぎない。それなのに世祚(代々の位)は”か久”(はるかにひさしい)であり、その臣もまた継襲して絶えない。これは思うに、古(いにしえ)の道である。」

北宋の太宗

日本人も、王朝の寿命の長短に関する中国との比較論に熱中した。北畠親房(1293-1354)の『神皇正統記』では以下のように論じている。

北畠親房
モロコシ(中国)は、なうての動乱の国でもある。…伏羲(前3308年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王。)の時代からこれまでに三六もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。ひとりわが国においてのみ、天地の始めより今日まで、皇統は不可侵のままである。

北畠親房、『神皇正統記』

ヨーロッパ[編集]
16~17世紀のヨーロッパ人も、万世一系の皇統とその異例な古さという観念を受け入れた。日本建国の日付を西暦に計算しなおして紀元前660年としたのは、ヨーロッパ人である。
ドン・ロドリーゴ・デ・ビベロはスペインのフィリピン臨時総督である。『ドン・ロドリゴ日本見聞録』に、日本人について以下のように記述している。
彼らのある種の伝承・記録から知られるのは…神武天皇という名の最初の国王が君主制を始め、統治をおこないだしたのは、主キリスト生誕に先立つこと六六三年も前、ローマ創建から八九年後だということである。日本がまことにユニークな点は、ほぼ二二六〇年のあいだ、同じ王家の血統を引く者一〇八世代にもわたってあとを継いできたことである。

ドン・ロドリーゴ・デ・ビベロ、『ドン・ロドリゴ日本見聞録』

当時の天皇は後水尾天皇で、皇統譜によれば108代目にあたる。
ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンはスペインの貿易商人である。1615年、日本から以下のように報告している。
彼らのもろもろの文書やきわめて古い書物は、最初の日本国王である神武天皇がその治世を始めたのは二二七〇年以上も昔だと明言している。

ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン、(日本からの報告)

ここでも日本建国を紀元前660年としている。
エンゲルベルト・ケンペルは長崎の出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師である。『日本誌』で以下のように説明している。

エンゲルベルト・ケンペル
”宗教的世襲皇帝”の王朝は、キリスト以前の六六〇年がその始まりである。…この年からキリスト紀元一六九三年にいたるあいだ、すべて同じ一族に属する一一四人の皇帝たちがあいついで日本の帝位についた。彼らは、日本人の国のもっとも神聖な創建者である「テンショウダイシン」(天照大神、あまてらすおおみかみ)の一族の最古の分枝であり、彼の最初に生まれた皇子の直系である等々のことを、きわめて誇りに思っている。

エンゲルベルト・ケンペル、『日本誌』

さらに、歴代天皇の名前と略伝を日本語文献のとおりに列記している。
江戸時代[編集]
江戸時代、尊皇家は天皇への尊崇と支持を高めるため、皇室の大変な古さと不変性を強調した。
山鹿素行(やまが そこう、1622~85)は儒学と軍学の大家である。寛文9年(1669年)に著わした『中朝事実』で下のように論じている。

山鹿素行
ひとたび打ち立てられた皇統は、かぎりない世代にわたって、変わることなく継承されるのである。……天地創造の時代から最初の人皇登場までにおよそ二〇〇万年が経ち、最初の人皇から今日までに二三〇〇年が経ったにもかかわらず……皇統は一度も変わらなかった。

山鹿素行、『中朝事実』

とはいえ、江戸時代の知識人全員が、太古的な古さという主張に賛成したわけではない。本多利明(1743~1820)は蘭学を学んだ経世家である。寛政10年(1798年)の論考のなかでこう説いている。「世界最古の国はエジプトで6000年の歴史を有し、中国も3800年の歴史を主張しうるのにたいし、神武天皇即位からは1500年しか経っていないのだから、日本の歴史はずっと短い」。1500年というこの年代は、近代の学者が示唆する3世紀末に驚くほど近いと、ドナルド・キーンは指摘している。
明治時代[編集]

福澤諭吉

新渡戸稲造
明治時代の多くの知識人は、皇室の永続性というドグマを受け入れ、誇りとしていた。福澤諭吉(1835-1901)も、皇室の永続性は近代化を推進する要素だと見なしていた。明治8年(1875年)に執筆した『文明論之概略』の「西洋の文明を目的とす」の一節にて、以下の持論を展開している。
わが国の皇統は国体とともに連綿(れんめん)として外国に比類なし。……君[と]国[との]並立の国体といいて可なり。しかりといえども……これを墨守(ぼくしゅ)してしりぞくは、これを活用して進むにしかず。……君国並立の貴(とうと)き由縁(ゆえん)は、古来わが国に固有なるがゆえに貴きにあらず。これを維持してわが政権をたもち、わが文明を進むべきがゆえに貴きなり。

福澤諭吉、『文明論之概略』

ただ、国の紀元についてのドグマは、その信奉を強制されていたわけではない。新渡戸稲造(1862-1933)はクリスチャンの教育者である。国際連盟の事務局長の職にあったとき、日本国外でだが、公式の場で紀元の正確さにはっきりと疑問を呈している。スウェーデンの首都・ストックホルムで開かれた日本・スウェーデン協会の会合の際、演説のなかで次のように述べた。
本邦最初期の歴史編纂者たちは、八世紀におこなわれていた中国風の年代計算法を採用したがために、干支の六十年周期をおよそ一〇回分数えまちがった、と思われる。このため、本邦の歴史の始まりは六〇〇年ほどさかのぼらされた。……本邦初期の歴史から六世紀を差し引くなら、日本帝国の創建は、通常受け入れられている前六六〇年ではなくして……前六〇年ということになる。こうすれば、神武天皇はジュリアス・シーザーと同時代人ということになる。

新渡戸稲造、(日本・スウェーデン協会の会合の演説より)

戦前[編集]
万世一系は、戦前において、共和制や共産主義革命を否定する根拠とされた。また、日本は君民一体の国柄で、他国のように臣下や他民族が皇位を簒奪することがなく、臣民は常に天皇を尊崇してきたとする歴史観を形成した。さらに、日本は神の子孫を戴く神州であり、延いては世界でも優れた道義国家であるとする発想を生んだ。戦前には、国粋主義と結びついて皇国史観という歴史観を形成した。特に、明治維新から戦中までの期間には、国家公認の史観として重視され、大日本帝国憲法第1条にも記載されていた。
北一輝は戦前の右翼思想の大物である。自筆の『国体論及び純正社会主義』にて、「日本国民は万世一系の一語に頭蓋骨を殴打されことごとく白痴となる」と万世一系を批判した。この著書は刊行後すぐに発禁処分を受けた。
「国体」および「神国」も参照
戦後[編集]

昭和天皇

今上天皇
万世一系はもはや公式のセオリーとはされなくなったが、公式の場での談話や発言からは消えなかった。昭和52年(1977年)8月、那須御用邸での記者会見にて、昭和天皇は次のような説明をした。
国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。

昭和天皇、(1977年8月、那須御用邸での記者会見)

日本国憲法は、天皇の祖先たちへの言及も、王朝の古代史的な古さへの言及もしていない。しかし、皇室の法的地位は、皇位の世襲の原則を再確認することで是認された。昭和41年(1966年)、王朝の起点である2月11日のまま、戦後廃止された「紀元節」がほぼ同義の「建国記念の日」として復活した。
平成2年(1990年)、明仁親王が天皇に即位した。即位にあたり、祖先および神々とのきずなを強調する上代からの儀式、「大嘗祭」が執り行われた。平成11年(1999年)、皇統を褒め称える「君が代」も、国旗国歌法により日本の国歌として確定された。
万世一系がうたわれた実例[編集]
大日本帝国憲法[編集]
詳細は「大日本帝国憲法」を参照
明治22年(1889年)、近代国家の憲法として大日本帝国憲法が公布された。この憲法では、皇室の永続性が皇室の正統性の証拠であることを強調していた。『告文』(憲法前文)には、以下のような文章がある。
…天壤無窮ノ宏謨(こうぼ)ニ循(したが)ヒ惟神(かんながら)ノ宝祚ヲ承継シ…

『大日本帝国憲法』告文

輝かしき祖先たちの徳の力により、はるかな昔から代々絶えることなくひと筋に受け継がれてきた皇位にのぼった朕は…
そして、憲法第1条にて「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定されたのである。近代的な政治文書で「万世一系」のような詩的な文言がもちいられたのは、これが初めてである。「万世一系」のフレーズは公式のイデオロギーの中心となった。学校や兵舎でも、公式な告知や発表文でも、広く使われて周知されていった。
君が代[編集]
詳細は「君が代」を参照
明治13年(1880年)、日本の国歌として『君が代』が採用された。君が代は10世紀に編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つである。バジル・ホール・チェンバレンはこの日本の国歌を翻訳した。日本の国歌の歌詞とチェンバレンの訳を以下に引用する。

君が代の楽譜
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで

君が代


チェンバレン
汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで
A thousand years of happy life be thine!
Live on, my Lord, till what are pebbles now,
By age united, to great rocks shall grow,
Whose venerable sides the moss doth line.
日本の国歌も「天皇の治世」を奉祝する歌であり、皇統の永続性(万世一系)がテーマである。世界で最も短い国歌が世界で最も長命な王朝を称えている。
国体の本義[編集]
詳細は「国体の本義」を参照
国体の本義とは、昭和13年(1938年)、「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物である。万世一系についての主張を以下に引用する。
大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。

国体の本義

その他の「万世一系」論[編集]
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ……(大日本帝国憲法発布の詔勅)
大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス(旧皇室典範第一条)
天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)。
詔勅や外交文書の冒頭では、このように「天皇」に対する修飾語として用いられることもあった。
疑義・論争[編集]
万世一系についていくつかの疑問がなされ、大きな論争に発展した。
戦前の論争[編集]
明治44年(1911年)には、国定教科書問題・南北朝正閏論争があった。学校の歴史教科書で「南北朝時代」の用語を使っていた。このことをめぐって、帝国議会で南北朝正閏論が問題化した。それ以降の教科書では、「吉野朝時代」の用語を使うことになった。この問題では、万世一系の概念の中で、皇統の一系(皇統が分立することがない)が問題になった。江戸時代から一般的であった南北朝時代の史観が、明治時代の万世一系では不適当とされた事例である。また、壬申の乱のような皇室での争いは、教科書に記述がなかった。
この問題のように、南北朝問題は、万世一系や皇国史観が史実に基づいているかを考察するうえで重要な問題である。また、古事記や日本書紀などの古代史の研究が進むにつれて、考古学の成果により初期の天皇の実在に疑問が提示されたり(欠史八代)、第26代の継体天皇の即位を王朝交代とする説が出た(現在では、継体天皇は第25代までの天皇とは血のつながりがないとの説も存在する。)。このように、戦前・戦後を通じて、歴史学の観点から万世一系が歴史的な事実であるかについて、疑問が持たれてきた経緯がある。しかし、特に戦前では、不敬罪・治安維持法などの存在などから、皇室の権威にかかわる問題について論争が自由にできなかった。万世一系を否定する見解を徹底して主張した歴史家や知識人は、決して多くはなかった。
国体との関係[編集]
国体の一番の根拠は万世一系であった。それゆえに国体の問題でも深い影響を与えていた。天皇機関説論争の際には、神勅が天皇による直接統治の根拠とされた。『国体の本義』でも、神勅や万世一系が冒頭で強調されている。昭和維新を標榜した一連の変革運動でも、君民一体の思想から、天皇による直接支配こそ社会の閉塞をうちやぶるものであり、「君側の奸」がそれを妨げているという主張がなされた。この問題により、万世一系をめぐる論争は、天皇制の問題と結びついて大きな広がりを持つことになる。
戦後の歴史家[編集]
「戦前の日本で天皇の王朝の非常な古さが国家主義的に悪用されたことに強く反発する戦後の歴史家は、日本における皇室制度と皇室の異例な長命さという意義を軽んじてきた。しかし、そうした彼らでも認めざるをえないのは、皇位を占めている血縁集団が世界最古の在位の君主家だということである。」という指摘が戦後の歴史家に対してなされている。
皇位継承問題[編集]
詳細は「皇位継承問題 (平成)」を参照
第二次世界大戦後、敬宮愛子内親王などの皇族の女子が誕生する一方で、秋篠宮文仁親王誕生以降は悠仁親王の誕生まで約40年もの間皇族の男子が誕生せず、皇位継承の権利を持つ皇族の男子が不足している。このため、皇室典範が早期に改正され、女性天皇が誕生する可能性が高まっていた。このことを背景に、皇統の女系天皇を容認しようとする皇室典範に関する有識者会議などの動きがある。だが、万世一系の伝統が断絶するとして、反対する意見が強く、女系容認には至っていない。

宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)は、天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう祭祀。皇居宮中三殿で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、掌典長(掌典職)らが祭典を行い、天皇が拝礼する小祭がある。

『都会にいけばなんとかなる!夢が叶う!』田舎者たちの幻想・故郷で駄目なら都会はもっと駄目!

2015年07月29日 11時21分56秒 | 日記








地方出身者は必ず都会に行けば(あるいは海外留学すれば)「なんとかなる」


と思う様だが、自分の生まれ故郷で上手くいかない人間が


当たり前だが、都会や海外で上手くいく筈はない。


都会や海外は現実逃避場ではない。


自分の故郷でちゃんとやれない田舎者が都会で上手くいく訳ない。


都会は夢の国でない。舐めるな!臥竜




緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

龍馬とおりょうがゆく維新回天の偉人坂本龍馬とその妻・おりょう(樽崎龍)2017年の女大河か?小説4

2015年07月29日 04時28分03秒 | 日記







話を少し戻す。

  龍馬は江戸に着くと、父に教えられた通りに、まっすぐに内桜田の鍛冶橋御門へゆき、橋を渡って土佐藩邸で草履を脱いだ。
 藩邸にはすでに飛脚があって承知しており、龍馬の住まう長屋へ案内してくれた。
 部屋は三間であったという。
 相住いの武士がいるというがその日は桃井道場に出向いていて留守だった。龍馬は部屋にどすんの腰をおろした。旅による埃が舞い散る。
 部屋はやたらときれいに掃除してある。しかも、机には本が山積みされている。
「こりゃ学者じゃな。こういう相手は苦手じゃきに」
 龍馬は開口したままいった。「相手は学者ですか?」
「いいえ。剣客であります」
「郷士ですな?」  
「いえ、白札です」
 白札とは、土佐藩独自の階級で、準上士という身分である。
「わかった。相住むのはあの魚みてぇな顎の武市半平太じゃな」
 龍馬は憂欝になった。正直、藩でも勤勉で知られる武市半平太と相住まいではやりきれないと思った。

  武市半平太を藩邸の者たちは「先生」と呼んでいた。
「なんじゃ? 大勢で」
 顔はいいほうである。
「先生の部屋に土佐から坂本龍馬という男がきました」
「龍馬がきたか…」
「龍馬という男は先生を学者とばいうとりました」
「学者か?」武市は笑った。
「あの魚みてぇな顎……などというとりました。許せんきに!」
「まあ」武市は続けた。「どうでもいいではないか、そのようなこと」
「天誅を加えまする」
「……天誅?」
「ふとん蒸しにしてくれまする!」
 武市半平太は呆れて、勝手にせい、といった。
 なかまのうちひとりが龍馬の部屋の襖をあけた。すると驚いた。ふんどし姿の裸で、のっそりと立っている。「なんじゃ?! 坂本その格好は?!」
「わしは馬鹿じゃで、こうなっちゅう」
「このお!」
 大勢がやってきた。「かかれ!」
 龍馬に大勢でとびかかった。行灯がかたむき、障子が壊れ、龍馬は皋丸をけったりしたため気絶する者まででる。四半刻ばかりどたばたとさわいでいるうちにヘトヘトになり、龍馬はふとん蒸しで、みんなが乗りかかった。息ができず、死ぬような苦しみになる。
「もうよかが! あかりをつけいや」
 武市半平太がやってきていった。不機嫌な声でいった。龍馬は解放されると部屋を出ていった。

「なぜ先生は龍馬の無礼を咎めなかったのです?」
 と、事件のあときくものがあった。
 武市半平太は「徳川家康も豊臣秀吉も、だまっていてもどこか愛嬌があった。その点、明智光秀にはふたりより謀略性があったが、愛嬌がなかったために天下をとれなかった。英雄とはそういうものだ。龍馬のような英雄の資質のあるものと闘っても無駄だし、損でもある」
「龍馬は英雄じゃきにですか?」
「においはある。英雄になるかも知れぬ。世の中わからぬものぞ」
 そのころ「英雄」は、千葉道場で汗を流していた。
 竹刀をふって、汗だくで修行していた。相手は道場主千葉貞吉の息子重太郎で、龍馬より一つ年上の眼の細い青年である。
 そんな剣豪を龍馬は負かしてしまう。
「一本! それまで!」貞吉が手をあげる。
 重太郎は「いやあ、龍さんにはかなわないな」などという。もう、親しい仲になっている。龍馬は友達をつくるのがうまい。
  江戸での月日は早い。
 もう、龍馬は免許皆伝まじかである。
 そんな千葉道場主の貞吉の息子重太郎には、さな子という妹がいた。二つ違いの妹であり、幼少の頃より貞吉が剣を仕込み、免許皆伝とまではいかなかったが、才能があるといわれていた。色が浅黒く、ひとえの眼が大きく、体がこぶりで、勝気な性格だった。
 いかにも江戸娘という感じである。
 そんな娘が、花見どきの上野で暴漢に襲われかけたところをおりよく通りかかった龍馬がたすけた、という伝説が土佐にはあるという。いや、従姉だったという説もある。
 龍馬はさな子を剣でまかした。
 その頃から、さな子は龍馬に恋愛感情を抱くようになる。
 さな子が初めて龍馬をみたときは、かれが道場に挨拶にきたときだった。
「まぁ」とさな子は障子の隙間から見て「田舎者だわ」と思った。
 と、同時に自分の好むタイプの男に見えた。ふしぎな模様の入ったはかまをきて、髪は篷髪、すらりと背が高くて、伊達者のようにみえる。
「さな子、ご挨拶しなさい」父に呼ばれた。
「さな子です」頭を下げる。
「龍馬ですきに。坂本龍馬ですきに」
「まぁ、珍しい名ですね?」
「そうですろうか?」
「ご結婚はしてらっしゃる?」さな子は是非その答えがききたかった。
「いや、しとらんぜよ」
「まあ」さな子は頬を赤らめた。「それはそれは…」
 龍馬は不思議そうな顔をした。そして、さな子の体臭を鼻で吸い、”乙女姉さんと同じ臭いがする。いい香りじゃきに”と思った。
 さな子はそのときから、龍馬を好きになった。

    
 この頃、龍馬は佐久間象山という男に弟子入りした。
 佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
 象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
 佐久間象山が麟太郎(勝海舟)の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。
 麟太郎は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。

  坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
  桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「草莽掘起は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。


嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、勝海舟が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。麟太郎は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。
  勝海舟が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。麟太郎(勝海舟)は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。麟太郎は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。
  次の日の早朝、朝靄の中、龍馬が集合場所に向かって歩いていた。人通りはない。天気はよかった。
「いゃあ、遅刻したぜよ」と坂本竜馬がやってきた。
 立派な服をきた初老の男が「坂本くん、遅い遅い」と笑った。
「すいません佐久間先生」竜馬はわらった。                      
 この初老の男が佐久間象山だった。佐久間は「おい坂本!」と龍馬にいった。
「黒船をみてみたいか?」
「は?」龍馬は茫然としながら「一度もみたことのないもんは見てみたいですきに」
「よし! 若いのはそれぐらいでなければだめだ。よし、ついてこい!」
 象山は「よいよい!」と笑った。
 象山は馬にのった。龍馬は人足にバケて、荷を運んで浦賀へと進んだ。
 途中、だんご屋で休息した。
 坂本竜馬はダンゴを食べながら「先生は学識があるきに、わしは弟子入りしたんじゃ」「おい坂本」象山はいった。「日本はこれからどうなると思う?」
 龍馬は無邪気に「日本はなるようになると思いますきに」と答えた。
「ははは、なるようにか? ……いいか? 坂本。人は生まれてから十年は己、それから十年は家族のことを、それから十年は国のことを考えなければダメなのじゃぞ」
 佐久間象山は説教を述べた。
  やがてふたりは関所をパスして、岬へついた。龍馬は圧倒されて声もでなかった。すごい船だ! でかい! なんであんなものつくれるんだ?!
 浦賀の海上には黒船が四船あった。象山は「あれがペリーの乗るポーハタン、あちらがミシシッピー…」と指差した。龍馬は丘の上に登った。近視なので眼を細めている。
「乗ってみたいなぁ。わしもあれに乗って世界を見たいぜよ!」
 全身の血管を、感情が、とてつもない感情が走り抜けた。龍馬は頭から冷たい水を浴びせ掛けられたような気分だった。圧倒され、言葉も出ない。
 象山は「坂本。日本人はこれからふたつに別れるぞ。ひとつは何でも利用しようとするもの。もうひとつは過去に縛られるもの。第三の道は開国して日本の力を蓄え、のちにあいつらに勝つ。………それが壤夷というものぞ」といった。
  その年も暮れた。
 正月から年号が嘉永から「安政」にかわり、龍馬も二十歳になった。
 龍馬にとっては感慨があった。
 ……坂本の泣き虫も二十歳か……
 われながら自分を褒めたい気分にもなる。しかし、女をしらない。相手は「坂本さん! 坂本さん!」とそそってくるさな子でもよかったが、なにしろ道場主の娘である。
 女を知りたいと思うあまり、龍馬はお冴のわなにはまってしまう。
 国元でも「女との夜」についていろいろきいてはいた。まるで初陣のときと似ちゅう… とはきいていたが、何の想像もつかない。
 遊郭でお冴に手をひかれふとんに入った。お冴は慣れたもので龍馬を裸にして、自分の服も脱いで「坂本さま」と甘い声をだす。
 そんなとき、龍馬は妙なことをいいだす。「……わしの一物が動かんぜよ」
「まぁ、本当」
 お冴は笑った。龍馬は余りの興奮でインポテンツになってしまったのだ。
「これじゃあ……お冴さんのあそこを突くことも出来んきに…」
 龍馬は動揺した。お冴は父親の仇を討ってくれとも頼んだ。
 それっきり、龍馬は夜の行為ができないままだった。
 さな子はそれをきいて笑ったが、同時に嫉妬もした。「あたしが相手なら大丈夫だったはずよ」さな子は龍馬にホレていた。夜のことまで考えていたくらいである。
 お冴とは二度目の「夜」をむかえた。
 こんどは勃起したが、突然、大地震が襲いかかってきた。
 安政元年十一月三日、江戸、相模、伊豆、西日本で大地震がおこった。
「いかん」
 龍馬はとっさに刀をひろいあげて、「お冴、中止じゃきに」といった。
 立ってることもできない。
 大揺れに揺れる。「逃げるぜよ! お冴!」龍馬は彼女の手をとって外にでると、遊郭の屋敷が崩壊した。
「あっ!」
 お冴は龍馬にしがみついた。
 ……これは大変なことになっちゅう。土佐もどうなったことじゃろう…
 龍馬の脳裏にそんな考えがふとよぎった。
 ………土佐に帰ってみよう

  江戸にいるうちにいつの間にか龍馬は、「おなじ土佐藩士でも、上士は山内家の侍であり、郷士は日本の侍じゃ」と考えるようになっていた。
 土佐城への忠誠心は、土佐郷士は薄いほうである。
 江戸から戻り、土佐を歩くうちに「なんだ。これなら帰らずともよかったぜよ」と思った。土佐では先の大地震の被害がみられない。地盤がかたいのだ。
 龍馬が帰宅すると、「ぼん!」と源おんちゃんが笑顔で出迎えた。
「ぼんさん、お帰りんましたか」
「帰ったきに」龍馬はいった。「おいくりまわりの者(ぶらぶらしている人という意味。土佐弁)じゃきに」
「ぼんが帰りましたえ!」おんちゃんは家のものをよんできた。
 家の者に挨拶した龍馬だったが、やはり乙女はいなかった。嫁いだという。
 龍馬はさびしくて泣きたくなった。
  さっそく龍馬は岡上の家へと向かった。
 すると乙女が出てきて「あら? 龍馬」と娘のような声でいった。可愛い顔で、人妻のようには思えない。「いらっしゃい! あがっていって。主人は外出中だけれど…」
「おらんとですか?」
「ええ」
 龍馬は屋敷の中に入った。
「姉さんとふたりきりだと恥ずかしいぜよ」
「なんで? 姉弟じゃきによ。また昔みたいに足すもうでもやるか?」
「いや」龍馬はにやりと笑った。「また、姉さんの大事なところをみてしまいそうじゃ」 乙女は頬を赤らめ、「他の女のあれはみとらんじゃろうな?」ときいた。
「いや。もうすこしでみれるところじゃったが、みれんかった」
「龍馬も大きくなったね。そんなことまで考える年頃になったきにか」
「もう二十歳じゃもの」
 龍馬は笑った。
  まもなく乙女の旦那、岡上新輔が帰ってきた。かれは龍馬に「おんしは壤夷派か?」 ときく。痩せた背の低いやさ男である。もう四十代のおっさんで禿げである。
 また浮気して乙女に箒で叩かれては逃げた。
「違いますきに」この頃の龍馬には『譲夷』など頭にない。
 龍馬は気を悪くしながら実家へと戻った。
 ……あげな男が旦那では乙女姉さんもかわいそうじゃ…
 実家にいくと客が来る来る。「黒船はみたか?」「江戸にはいい女がいたか?」
 龍馬は馬鹿らしくなって「みとらん。知らん」などといって部屋にもどった。
  しばらくするとお田鶴さまがやってきた。
「龍馬どのに会いにきました」
「え?」
「江戸から帰ってきたときいております。黒船のことについてしりとうごさります」
 龍馬とお田鶴は部屋で向かいあって話した。世間ばなしのあと、
 お田鶴は「汚のうございますね?」という。
「朝から顔を洗ってないですき」
「いいえ。部屋がです」彼女は笑った。
 ふいにお田鶴は「幕府など倒してしまえばいいのです」などと物騒なことをいった。
「いかんきに! お田鶴さま! 物騒なことになるき」
「では、龍馬どのは幕府を支持するのですか? 幕府は腐りきってますよ」
「…じゃきに。たしかにわしもこのままでは日本は滅ぶと思うきに。しかし、家老の妹さまがいうと物騒じゃからいわんほうがいいぜよ」
「わたしは平気です。田鶴が、このひとのためなら、というひとがひとりいます。そういうひとがいれば、田鶴は裸で屋敷を駆け回っても、幕府を批判しても怖くはありませぬ」「………それは誰です?」
「そのひとはあまりにも子供っぽくて、田鶴のことなど何とも思っていないかも知れませぬ」田鶴は龍馬の目をじっとみた。そそるような表情だった。
 ……まさか。わしか?
 純粋無垢な少年のような考えを龍馬はもった。お田鶴さまがわしを好いちゅう?

  龍馬とは妙な男である。
 せっかくお田鶴との逢引までことが進行したのに、見知らぬ医者の娘の屋敷に忍びこんだ。相棒の馬之助も屋敷に忍びこんだ。「どうぞ。雨戸を外しますから」
「相手は誰じゃ?」
「お徳という娘です」
 龍馬はお徳の部屋へと忍びこんだ。「誰です?」
「龍馬というき。夜ばいにきよった」
 お徳は相手をしてくれた。初めて女を抱く龍馬は興奮しきりだった。インポにはならなかった。ちゃんと勃起した。お徳は寝巻を脱ぎ、あられもない姿になった。
 龍馬も裸になり、オッパイを揉んでしゃぶりついた。そして、あそこをまじかにみて愛撫した。しだいに濡れてくる。お徳は「はあ、はあ…」と息が荒くなる。
 これは突かねば……龍馬はクリトリスを愛撫しながらおもった。                                  
 腟の位置がわからない。するとお徳は龍馬の”いちもつ”を腟へと導いてくれた。
 …はあ、はあ、はあ、龍馬さま…
 …お徳! お徳! ……
 挿入してピストンするまで時間がかかったが、なんとか無事に射精することができた。 龍馬は初セックスで気持ちよかった。が、お徳のほうはいまひとつだったようだ。
 こうして、龍馬は本当の「女」を知った。
 その壮快感のまま、龍馬は江戸へと戻っていった。

  江戸の千葉道場に戻ると、貞吉も重太郎も涙をにじませてよろこんで出迎えてくれた。 ……土佐もいいが、江戸っこは人情がある…
 龍馬はしみじみ思った。
 土佐に帰っている間に、重太郎は妻をもつようになっていた。               
「お八寸というのだ。せいぜい用をいいつけてくれ」
「お八寸です。どうぞよろしくおねがいします」頭を下げる。
 涼しい眼をした、色白の美女である。龍馬のすきなタイプの女性だった。
 ……こりゃいかん。わしがすきになってはいかんぜよ
「龍さんはどうだい? 結婚は……相手ならいないでもないぞ」
「待った!」
 龍馬はとめた。さな子の名がでそうだったからである。

  龍馬がひとを斬ったのはこの頃である。夜、盗賊らしき男たちが襲いかかってきた。龍馬は刀を抜いて斬り捨てた。血のにおいがあたりを包む。
 しかし、さすがは龍馬の剣のすごさである。相手からの剣はすべて打ち返した。
 ひとりを斬ると、仲間であろう盗賊たちはやがて闇の中へ去った。
 腕を龍馬に斬られた男も逃げ去った。
「なんじゃきに! わしを狙うとは馬鹿らしか」
 龍馬はいった。刀の血を払い、鞘におさめた。只、むなしさだけが残った。
 ひとの話しではお冴がコレラで病死したという。お徳より先に、龍馬の初めての女になるはずだった女子である。龍馬は「そうか」といたましい顔をしたという。
 武市半平太はしきりに龍馬に、
「おんしは開国派か? 壤夷派か?」ときく。
「わからんぜよ。わしは佐久間先生のいうことに従うだけじゃきに」龍馬は頭をかいた。 そんな最中、飛脚から手紙が届いた。
 龍馬は驚愕した。父・八平が死んだというのだ。
「どげんした? 坂本くん」武市が尋ねた。
「父が死んだ……みたいです」
 龍馬は肩を落とした。
「それはご愁傷さまだ」武市は同情して声をかけた。「土佐に戻るのかね?」
「いいや。戻らぬき」
 龍馬にはものすごいショックだったらしい。二十二歳になっていた龍馬は、その日から翌年にかけてほとんど剣術修行をするだけだったらしい。逸話が何もないという。
 それだけ父親の死が龍馬にとってはショックだった訳だ。
 ほどなく北辰一刀流の最高位である免許皆伝を受けた龍馬は、千葉道場の塾頭になった。 この当時、長州藩の桂小五郎(のちの木戸考允)は斎藤のもとで神道無念流の塾頭になり、土佐の武市半平太は桃井春蔵(鏡心明智流)の塾頭となっていた。
 ひとくちに、”位は桃井、枝は千葉、力は斎藤”というのだそうだ。
 桂小五郎は、龍馬より二つ年上の二十五歳だった。
「坂本くん。一本どうだい?」
「稽古きにか?」
「そうだ。どちらが強いかやろうじゃないか」桂小五郎には長州(山口県)訛りがない。「あんたと勝負するちゅうんか?」
「そうだ!」
 やがて、仕方なく防具をつけて、ふたりは試合をすることになった。
 対峙すると、この桂小五郎という男には隙がない。龍馬には気になることがあった。自分の胴があいているのだ。桂の剣が襲いかかる。
 龍馬より桂のほうが一枚上手のようである。
 ……どういう手で倒すか?
 桂と対峙して、龍馬に迷いが生じた。……このまんまでは負けるきに!
 龍馬は片手上段でかまえた。桂はびっくりする。こんな手はみたこともない。
 龍馬はさそった。
 ……打つか?
 桂に迷いが生じたところで龍馬は面を打った。
「面あり!」
 あっけなく、桂の負けである。
 ……なんだあれはただの馬鹿胴だったのか…片手上段といい、この男は苦手だ…
 桂は残念がった。
「わたしの負けだよ、坂本くん」桂は正直にいった。
「桂さんもすごかったぜよ」
 ふたりは笑った。

  大阪から一路、龍馬は土佐に戻った。
 途中、盗っとの藤兵衛とわかれて、単身土佐にかえってきた。龍馬にとって江戸出発以来二度目に帰郷である。今度は北辰一刀流の免許皆伝ということもあって、ひとだかりができる。せまい城下では大変な人気者である。
 武市半平太はすでに土佐に戻っていて、城下で郷士、徒士などに剣術を教えていた。その塾の名は「瑞山塾」といい、すでに土佐では人気のある私塾になっていた。瑞山とは武市の雅号のことである。
 龍馬の兄・権平は「龍馬、おんしも塾を開け。金なら出してやる」という。
 すると龍馬は「わしはやめときます。ぶらぶらしときますきに」という。
「ぶらぶら?」
 権平は不満だった。何がぶらぶらじゃきにか? 北辰一刀流の免許皆伝者が…
  龍馬は珍しもの好きである。
 さっそく噂をきき、絵師・河田小竜という男のところへ向かった。
 河田小竜は唯一、日本中を旅して学識をもち、薩摩の砲台や幕府の海軍訓練所にもくわしい。また、弟子のジョン万次郎から米国の知識まで得ていた。
 河田邸はせまっくるしい。そのせまい邸宅にところせましと大きな絵がかざられている。「おんしは坂本のはなたれじゃなかが? 何しにきた?」
 絵を描きながら、河田小竜は龍馬にきいた。「絵師にでもなりたいきにか?」
「いいや。先生の話しばうかがいたいき、きたとです」
「話し?」
「はい。世界の話しです」龍馬はにこにこいった。
 河田小竜は「しょうがないやつだな」と思いながらも、米国の男女平等、身分制度のないこと、選挙のことなどを話した。龍馬に理解できるだろうか?
 小竜は半信半疑だったが、龍馬は「米国には将軍さまも公家もなく、男も女も平等きにかぁ……いやあおどろいた」と感心してしまった。
 龍馬のこのときの感動が、日本を動かすことになるのである。
 そんなとき、一大事が江戸で起こった。
 ……伊井大老が桜田門外で水戸浪人たちに暗殺されたというのだ。伊井直弼大老は幕府の代表のようなものだ。伊井大老が暗殺されるということは幕府の力がなくなるということである。「龍馬! 一大事じゃ!」兄は弟に暗殺のことを伝えた。
 ………これは大変な世の中になるぜよ……龍馬の全身の血が逆流して、頭がくらくらした。眩暈を覚えた。生涯、これほど血のわいたときはない。
 ……よし! わしも何かでかいことするぜよ!
 龍馬はそう思い、興奮してしまった。


         3 脱藩と寺田屋事件




 上海から長崎に帰ってきて、高杉晋作がまずしたことは、船の買いつけだった。
 ………これからは船の時代だ。しかも、蒸気機関の。
 高杉は思考が明瞭である。
 …ペリー艦隊来訪で日本人も目が覚めたはずだ。
 ……これからは船、軍艦なんだ。ちゃんとした軍艦をそろえないとたちまちインドや清国(中国)のように外国の植民地にされちまう。伊藤博文の目は英会話だった。
 一緒に上海にいった薩摩の五代は同年一月、千歳丸の航海前に蒸気船一隻を購入したという。長崎の豪商グラバーと一緒になって、十二万ドル(邦価にして七万両)で買ったという。
 いっているのが薩摩の藩船手奉行副役である五代の証言なのだから、確実な話だ。
 上海で、蒸気船を目にしているから、高杉晋作にとっては喉から手がでるほど船がほしい。そこへ耳よりな話がくる。長崎に着くと早々、オランダの蒸気船が売りにだされているという。値段も十二万ドルとは手頃である。
「買う」
 即座に手にいれた。
 もちろん金などもってはいない。藩の後払いである。
 ……他藩より先に蒸気船や軍艦をもたねば時流に遅れる。
 高杉の二十三歳の若さがみえる。
 奇妙なのは晋作の革命思想であるという。
 ……神州の士を洋夷の靴でけがさない…
という壤夷(武力によって外国を追い払う)思想を捨てず、
 ……壤夷以外になにがあるというのだ!
 といった、舌の根も乾かないうちに、洋夷の蒸気船購入に血眼になる。
 蒸気船購入は、藩重役の一決で破談となった。
「先っぱしりめ! 呆れた男だ!」
 それが長州藩の、晋作に対する評価であった。
 当然だろう。時期が早すぎたのだ。まだ、薩長同盟もなく、幕府の権力が信じられていた時代だ。晋作の思想は時期尚早過ぎた。

  蒸気船購入の話は泡と消えたが、重役たちの刺激にはなった。
 この後、動乱期に長州藩は薩摩藩などから盛んに西洋式の武器や軍艦を購入することになる。
 藩にかえった晋作は、『遊清五録』を書き上げて、それを藩主に献上して反応をまった。 だが、期待するほどの反応はない。
「江戸へおもむけ」
 藩命は冷ややかなものだった。
 江戸の藩邸には、桂小五郎や晋作の上海航海を決めた周布政之助がいる。また、命令を下した藩世子毛利元徳も江戸滞在中であった。
 晋作は、
「しかたねぇな」と、船で江戸へ向かった。
 途中、大阪で船をおり、京に足をのばし藩主・毛利敬親とあった。敬親は京で、朝廷工作を繰り広げていた。
 晋作は上海のことを語り、また壤夷を説くと、敬親は、
「くわして話しは江戸でせい」
 といって晋作の話しをとめた。
「は?」
 晋作は唖然とする。
 敬親には時間がなかった。朝廷や武家による公武合体に忙しかった。
 京での長州藩の評判は、すこぶる悪かった。
 ……長州は口舌だが、実がない!
 こういう悪評を煽ったのは、薩摩藩だった。
 中でも謀略派藩士としても知られる薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)が煽動者である。
 薩摩は尊皇壤夷派の志士を批判し、朝廷工作で反長州の画策を実行していた。
 しかし、薩摩とて尊皇壤夷にかわりがない。
 薩摩藩の島津久光のかかげる政策は、「航海遠略策」とほとんど変りないから質が悪い。 西郷は、
「長州は口舌だが、実がないでごわす」と、さかんに悪口をいう。
 高杉は激昴して、「薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではないか! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけだ!」
 といった。
 そして、続けて、
「壤夷で富国強兵をすべし!」と述べる。
 ……時代は壁を乗り越える人材を求めていた。
 晋作は江戸についた。
 長州藩の江戸邸は、上屋敷が桜田門外、米沢上杉家の上屋敷に隣接している。
 その桜田門外の屋敷が、藩士たちの溜まり場であったという。
 ………薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではない! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけです。
 ……壤夷で富国強兵をすべし!
 ……洋夷の武器と干渉をもって幕府をぶっつぶす!
 討幕と、藩の幕政離脱を、高杉はもとめた。
 ……この国を回天(革命)させるのだ!
 晋作は血気盛んだった。
 が、藩世子は頷いただけであった。
「貴公のいうこと尤もである。考えておこう」
 そういっただけだ。
 続いて、桂小五郎(のちの木戸考允)や周布にいうが、かれらは慰めの顔をして、
「まぁ、君のいうことは尤もだが…焦るな」というだけだった。
「急いては事を仕損じるという諺もあるではないか」
 たしかにその通りだった。
 晋作は早すぎた天才であった。
 誰もかれに賛同しない。薩摩長州とてまだ「討幕」などといえない時期だった。
「高杉の馬鹿がまた先はしりしている」
 長州藩の意見はほとんどそのようなものであった。
 他藩でも、幕府への不満はあるが、誰も異議をとなえられない。
 ……わかってない!
 高杉晋作は憤然たる思いだったが、この早すぎた思想を理解できるものはいなかった。
 長州の本城萩は、現在でも人口五万くらいのちいさな町で、長州藩士たちがはめを外せる遊興地はなかった。そのため、藩士たちはいささか遠い馬関(下関)へ通ったという。 晋作は女遊びが好きであった。
 この時代は男尊女卑で、女性は売り買いされるのがあたり前であった。
 銭され払えば、夜抱くことも、身請けすることも自由だった。
 晋作はよく女を抱いた。
 そして、晋作は急に脱藩を思いたった。
 脱藩にあたり、国元の両親に文を送るあたりが晋作らしい。
「私儀、このたび国事切迫につき、余儀なく亡命仕り候。御両人様へ御孝行仕り得ざる段、幾重にも恐れ入り候」
 晋作は国事切迫というが、切迫しているのは晋作ひとりだった。余儀も晋作がつくりだしたのである。この辺が甘やかされて育ったひとりよがりの性格が出ている。
 晋作は走った。
 しかし、田舎の小藩に頼ったが、受け入れてもらえなかった。
 口では壤夷だのなんだのと好きなだけいえるが、実行できるほどの力はない。
「人間、辛抱が肝心だ。辛抱してれば藩論などかわる」
 晋作はとってつけたような言葉をきき、おのれの軽率を知った。
 ……ちくしょう!
 晋作は、自分の軽率さや若さを思い知らされ、力なく江戸へと戻った。


  龍馬は一八六一年に「土佐勤王党」に参加したが、なんだか馬鹿らしくなっていた。「土佐だけで日本が動く訳じゃなかが。馬鹿らしいきに」
 龍馬は土佐の田舎で、くすぶっていた。
 ……わしは大きなことを成したいぜよ!
 龍馬は次第に「脱藩」を考えるようになっていた。
 ……藩の家来のままじゃ回天(革命)は成らぬがぜよ。
 兄・権平の娘(つまり姪)春猪はいつも「叔父さま! 叔父さま!」と甘えてくる。利発な可愛い顔立ちの娘である。
 春猪には計略があった。龍馬叔父さんと知り合いの娘とを交際させる…という計である。その計は九分まで成功している。
 げんに春猪は、ともかくも龍馬叔父さんを五台山山麓の桃ノ木茶屋までおびきよせたではないか。龍馬が遠くから歩いてくる姿を確認してから、
「ほら!」
 と、春猪は「きたわよ」とお美以にいった。
 お美以は下を向いて恥かしがった。
「お美以さん、だまっていてはだめよ。ちゃんと叔父さんに好きだっていわなきゃ」
 春猪はにこりといった。
「ええ」
 お美以は囁くようにいった。恥ずかしくて消えてしまいそうだ。
 九つのとき、お美以は龍馬に連れられて梅見にいっている。あのころ、龍馬は江戸から一度目にかえってきたときである。龍馬は、お美以の手をひいたり、抱き抱えたりした。しかし、なにしろ十一歳も年上である。九つのお美以としては龍馬は大人である。
 しかし、女の子は九つでもおませである。龍馬を好きになった。
 まあ、これは「はしか」みたいなものである。年頃の女の子は年上の男性を好きになるものだ。まだ子供であるお美以は母に、
「わたくしは、龍馬おじさまのお嫁様になります」といってあわてさせた。
 今、お美以は十代の美少女である。
 しかし、龍馬は彼女を子供扱いした。「お美以ちゃんはいつまでも子供の頃のままじゃきにな」といった。
「そんな……」お美以は泣きそうな顔をした。
「龍馬おじさまは、お美以さんに御無礼ではありませんか?!」
 それを知って春猪は叔父龍馬に食ってかかった。
 龍馬は「子供は子供じゃきに」と笑ったままだ。
 そののち龍馬は源おんちゃんにめずらしく怖い顔をして、
「春猪に、人間の娘をおもちゃにしちゅうなといってくれ」といった。
「おもちゃに?」
「いえばわかるきに。わしは忙しいので出掛ける」
 龍馬は出掛けた。
 春猪は複雑な気持ちでもあった。じつは春猪は龍馬叔父に好意をもっていたのである。 ……初恋……? そうかも知れない。私は龍馬おじさんのお嫁さんになりたい!
 しかし、当の龍馬にはそんなことは知らない。


『脱藩の準備』を龍馬はしはじめた。
 とうぜんながら脱藩には金がいる。刀もほしい。
 龍馬の家は土佐きっての裕福な武家だけに、名刀がしまってある。だが、兄の権平が脱藩を警戒して、刀箪笥に錠をして刀を取り出せなくしていた。
「どげんするきにか…」
 龍馬は才谷屋を訪ねた。才谷屋は坂本家の分家である。坂本家のすぐ裏にあって、こちらも商業を営んでいる。北門が坂本家、南門が才谷屋の店口となっていた。
「伯父さんはいるきにか?」          
 龍馬は暖簾をくぐり、中にはいった。
「ああ、坂本のぼんさま」
 番頭は用心深くいった。というのも、権平に、”龍馬が金か刀の無心に来るかもしれぬが、あれのいうことに応じてはならんぞ”と釘をさされていたからだ。
「あるじはただいま留守でごります」
「伯母さんは?」
「いらっしゃいますが、何やら気分が悪いとおやすみでございます」    
「なら、刀蔵の鍵をもってきてくれんがか」
「……それは」
「本家のわしが頼むのだぞ。わしは奥で酒飲んじゅるきに、持ってきとうせ」
 どんどん入りこむ。
 やがて夕方になった。
「おや、めずらしい。龍馬じゃないかが」
 お市おば(龍馬の祖父の従弟の妻)がいった。その姪の久万、孫の菊恵をつれて朝から遊びにきていたが、龍馬をみつけると笑顔になった。
 しかし、お市おばも龍馬の算段を知っている。……脱藩はなりませぬ!
 散々説教するが、龍馬は(何を寝言ば、ゆうちゅるがか)と思いながら頷いているだけだ。やがて伯父の八郎兵衛が帰ってきた。
「伯父さん。刀ば見せとうせ」
「あっ、龍馬がか」
 龍馬をみただけで顔色を変えた。本家からの情報をすでに掴んでいたからだ。
「刀は駄目だ。それより、家の娘を嫁にしちゅうがかか?」
「嫁などいらん。それより刀みせとうせ」
「これという、刀はないきに」
 嘘だった。豪商だけあって名のある刀が蔵にたんとある。
 しかし、本家との約束で、龍馬には刀を渡さなかった。    
 ……鈍刀だけもって発つか
 龍馬が帰宅すると、兄の権平が「龍馬、才谷屋に何しにいったがぜよ?」といった。
「ほんの、遊びじゃ」
 こんなに警戒されては策も尽きたか……龍馬は部屋で寝転がり一刻ばかり眠った。
 手蝋燭をもってくる人物がいる。それを龍馬の部屋にいれ、行灯に火を移した。
「あぁ、なんだお栄姉さんか」龍馬はほっとした。
 坂本家には女が多い。
 一番上の姉が千鶴で、これは城下の郷士高松家に輿入れして二男一女の母である。三番目の姉が龍馬を育ててくれた乙女で、これも輿入れしている。
 二番目の姉がこのお栄であるが、このお栄は不幸なひとで郷士の柴田家に嫁いだが離縁されて坂本家に出戻ってきていた。
 ……坂本の出戻りさん。
 といえばこのお栄のことで、お栄は出戻りらしくせまい部屋で慎ましく生活していた。華奢な体で、乙女とくらべれば痩せていて、本当に姉妹なのか? と思いたくなる女性だ。「存じてますよ、龍馬。あなたの脱藩がどれだけ家族に迷惑をかけるかかわらないのですか?」
「そげんまでのんきじゃないき」
「脱藩したら二度とお国にもどってこれませんのよ」
「弱ったな」おとなしいお栄姉さんからこんな説教をうけるとは思ってなかった。
「じゃきに、わしは男じゃきに。野心をかなえるためには脱藩しかないんぜよ」
「野心って何?」
「回天ですき。日本をいま一度洗濯するんじゃき」
「……わかりました」
「ほな、姉さん勘弁してくださるのんか」
「勘弁します。それにあなたが欲しがっている陸奥守吉行もわたくしからの贈物としてさしあげます」
「え? なんきに姉さんが陸奥守吉行もっちゅう?」
 龍馬は半信半疑だった。……陸奥守吉行というのは名刀である。
「これはわたくしが離縁したとき、前の夫(柴田義芳)からもらったものです。坂本家のものでも才谷家のものでもありません。あたくしのものです」
 龍馬はお栄姉さんより名刀をもらった。
 これが、お栄の不幸となった。
 龍馬の脱藩後、藩丁の調べで、柴田家の陸奥守吉行の一刀をお栄からもらったことが判明し、柴田義芳は激怒した。坂本家まできて、
「なぜそなたはわしの形身を龍馬にやったのじゃ?!」とお栄をせめた。
 お栄は、そのあと自殺している。
 天命としかいいようがない。天がひとりの姉を離縁とし刀を英雄に授け、そして自殺においこんだ。すべては日本の歴史を変えるために………

  土佐藩参政吉田東洋が、武市の勤王党の手で暗殺された。
 文久二年四月八日、夜、十時過ぎであったという。
 この日は、夕方から雨がふっていた。東洋は学識もあり、剣のうでもすごかった。が、開国派でもあった。そのため夜、大勢に狙われたのだ。
 神影流の剣で立ち向かったが、多勢に武勢、やがて斬りころされてしまう。
「吉田殿、国のために御成仏!」
 東洋は殺された。
  このころ、龍馬は高知城下にはいなかった。
 龍馬の兄の権平は呑気なもので「龍馬はどこいったんぜよ?」などという。武市一派の東洋暗殺にさきだつ十五日前の文久二年三月二十四日、闇にまぎれて脱藩してしまっていた。「いよいよ、龍馬は脱藩したのかのう?」
 もはや公然の秘密である。
 龍馬は神社にお参りしたあと、連れの沢村惚之丞とともにふもとの農家にいった。
「龍馬あ、旅支度せい」
「いや、ひょうたんひとつで結構じゃ」
 ふところには金十両があり、ひょうたんには酒がはいっている。腰にはお栄からの陸奥守吉行がある。「よし! いくぜよ!」
 脱藩とは登山のことであるという。
 土佐の北には四国山脈がある。険しい山道、けもの道を駆けていかねば脱藩は成らぬ。山道には関所、人の目があり、みつかれば刑務所行きである。民家にもとまれない。役人に通報されるからである。寝ず、駆けどおしで、闇の中を駆けた。
 ………”武士がかわらなければ日本はかわらんぜよ”…
 ………”国をかえるには自分がかわらんなきゃならぬ”…
 龍馬は、寝ず、駆けどおしで、けもの道を、闇の中を、駆けた、駆けた。
 こうして、龍馬は脱藩したので、ある。



米沢市野生動物農作物被害(年間一千万円以上)対策戦略、またも他力本願またもアイディア=タダ?

2015年07月28日 19時13分33秒 | 日記








米沢市が鹿や猪等の農作物被害(年間1千万円以上)の対策を


10年単位で作成するときいて


「どんな?」と訊くと、


「市民から意見を募集します」等という。



何でも他力本願で、


しかも発案に金を払わない。


馬鹿か?例えば山形県に「伊勢参拝と羽黒山信仰をリンク」と入れ智慧したのは私(笑)


損した!臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

大河ドラマ『米沢燃ゆ 上杉鷹山公』原作・緑川鷲羽 脚本・田渕久美子 音楽・大島ミチル監督・園子温

2015年07月28日 18時55分19秒 | 日記











 ……為せば成る為さねば成らぬ何事も、成らぬはひとの為さぬなりけり……。

 ……不況になるたびに、時代が混迷するたびに、上杉鷹山は注目を集める。
 それは、多分に、上杉鷹山が”真実の改革”をおこなったからに他ならない。
                      米沢燃ゆ 上杉鷹山公    おわり 


「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」(大河ドラマ)キャスト
                     原作・緑川鷲羽 脚本・田渕久美子
                     音楽・大島ミチル監督・園子温
       
      上杉鷹山(治憲)…………    木村拓哉(SMAP)
     幸姫 …………    渡辺麻友(AKB48)
上杉直丸(少年期)………    鈴木福
      上杉重定    …………    高橋英樹
      竹俣当綱    …………    中村梅雀
      莅戸善政(大華)…………    風間杜夫
      木村高広    …………    京本政樹
      藁科松伯    …………    高嶋政伸
      お富の方    …………    浅野ゆう子
      佐藤文四郎   …………    今井翼(タッキー&翼)
      旅館の女将   …………    鈴木砂羽
      水沢七兵衛   …………    佐藤B作
      須田満主    …………    平泉成
      黒井半四郎   …………    笹野高史
      細井平洲    …………    寺尾聰
      文四郎の恋人  …………    多部未華子
      色部照長    …………    橋爪功
      紀伊      …………    高島礼子
      七家      …………    北村総一郎・前田吟、柄本明・三浦友和
                      ビートたけし・寺島進
        他  

山口県周南市の連続殺人放火事件、保見光成被告(65)に死刑求刑「妄想性精神異常」無罪なし

2015年07月28日 17時31分04秒 | 日記












山口・周南市の連続殺人放火事件、被告に死刑判決


山口・周南市の連続殺人放火事件、被告に死刑判決
 おととし7月、山口県周南市で同じ集落の男女5人を殺害、被害者の自宅2棟を全焼させたとして、殺人と放火の罪に問われている周南市金峰の保見光成被告(65)の裁判員裁判で、山口地裁は28日午後、求刑通り、保見被告に死刑判決を言い渡しました。(28日15:30)

日本勢スマホのブレイクスルー、イノベーションは丸一日持つバッテリー開発!iPhoneを越えろ!

2015年07月28日 17時10分06秒 | 日記








今やスマホ全盛時代ですが日本勢スマホ会社にボランティアで助言するなら、


iPhoneとは違うスペック


つまり、バッテリー関係ではないか?と僕は思います。


iPhoneは確かにいい商品ですが数時間連続で使っただけで充電がすぐ必要になります。


そこで日本勢は丸一日持つバッテリー開発です。臥竜




緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

龍馬とおりょうがゆく維新回天の偉人坂本龍馬とその妻・おりょう(樽崎龍)2017年の女大河か?小説3

2015年07月27日 02時40分17秒 | 日記











坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。大河ドラマ『花燃ゆ』では、伊原剛志さん演ずる龍馬が長州の松下村塾にやってきて久坂(旧姓・杉)文と出会う設定になっていた(大河ドラマ『花燃ゆ』第十八回「龍馬!登場」の話)。足の汚れを洗う為の桶の水で顔を洗い、勝海舟や吉田松陰に傾倒している、という。松陰亡き後の文の『第二部 幕末篇』のナビゲーター(水先案内人)的な存在である。文は龍馬の底知れない存在感に驚いた。「吉田松陰先生は天下一の傑物じゃったがに、井伊大老に殺されたがはもったいないことじゃったのう」「は、はあ。……あの…失礼ですが、どちらさまで?」「あ、わしは龍馬!土佐の脱藩浪人・坂本竜馬ぜよ。おまんはもしかして松陰先生の身内かえ?」「はい。妹の久坂文です」「ほうか。あんたがお文さんかえ?まあ、数日前の江戸の桜田門外の変はざまあみさらせじゃったがのう」「さ…桜田門外の変?」「おまん、知らんがか?幕府の大老・井伊直弼が桜田門外で水戸浪人たちに暗殺されよったきい」「えっ?!」「まずは維新へ一歩前進ぜよ」「…維新?」桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩郷士の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
  桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「尊皇攘夷は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。

 和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。
 和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        
 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
 和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
  この頃、文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
  家茂は妻・和宮と話した。
 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」
 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
  薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。
 話しを少し戻す。

長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
 当然、晋作も長崎にら滞在して、出発をまった。
 藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
 使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
 二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
 …それにしてもまたされる。
 窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
 しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった(遊郭からもらいうけたというのはこの作品上の架空の設定。事実は萩城下一番の美女で、武家の娘の井上雅(結婚当時十五歳)を、高杉晋作は嫁にした。縁談をもってきたのは父親の高杉小忠太で、息子の晋作を吉田松陰から引き離すための縁談であったという。吉田松陰は、最後は井伊大老の怒りを買い、遺言書『留魂録』を書いたのち処刑される。処刑を文たちが観た、激怒…、は小説上の架空の設定)。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
 ……自分のことしか考えられないのである。
 しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
  当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
 しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。大阪経済の発展につとめ、のちに大阪の恩人と呼ばれた男である。
 晋作は上海にいって衝撃を受ける。
 吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
 こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
 ……壤夷鎖国など馬鹿げている!
 それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
 上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
 しかし、すぐに捕まって処刑される。
 日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
 ……俺には回天(革命)の才がある。
 ……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
 高杉晋作は革命の志を抱いた。
 それはまだ維新夜明け前のことで、ある。



            
  龍馬(坂本龍馬)にももちろん父親がいた。
 龍馬の父・坂本八平直足は養子で山本覚右衛門の二男で、年わずか百石の百表どりだった。嘉永から文政にかけて百表三十何両でうれたが、それだけでは女中下男や妻子を養ってはいけない。いきおい兼業することになる。質屋で武士相手に金の貸し借りをしていたという。この頃は武士の天下などとはほど遠く、ほとんどの武士は町人から借金をしていたといわれる。中には武士の魂である「刀」を売る不貞な輩までいた。坂本家は武家ではあったが、質屋でもあった。
 坂本家で、八平は腕白に過ごした。夢は貿易だったという。
 貧乏にも負けなかった。
 しかし、八平の義父・八蔵直澄は年百石のほかに質屋での売り上げがはいる。あながち貧乏だった訳ではなさそうだ。
 そのため食うにはこまらなくなった。
 それをいいことに八平は腕白に育った。土佐(高知県)藩城下の上町(現・高知県本丁節一丁目)へ住んでいた。そんな八平も結婚し、子が生まれた。末っ子が、あの坂本龍馬(龍馬・紀(直陰)直柔りょうま・きの・(なおかげ)なおなり)である。天保六年(一八三五)十一月十五日が龍馬の誕生日であった。
 父・八平(四十二歳)、母・幸(こう・三十七歳)のときのことである。
 高知県桂浜……
 龍馬には二十一歳年上の兄権平直方(二十一歳)、長姉千鶴(十九歳)、次姉栄(十歳)、三姉乙女(四歳)がいて、坂本家は郷士(下級武士)であったが本家は質屋だった。
 龍馬は、表では威張り散らしている侍が、質屋に刀剣や壺などをもってきてへいへいと頭を下げて銭を借りる姿をみて育った。……侍とは情なき存在じゃきに。幼い龍馬は思った。
 幸は懐妊中、雲龍奔馬が胎内に飛び込んだ夢をみた。そのため末っ子には「龍馬」と名付けたのである。
 いろいろと騒ぎを起こす八平の元で、龍馬は順調に育った。幸も息子を可愛がった。
 しかし、三歳を過ぎた頃から龍馬はおちこぼれていく。物覚えが悪く、すぐに泣く。
 いつまでも”寝小便”が治らなかった。
「馬鹿」なので、塾の先生も手を焼く。すぐ泣くのでいじめられる。
 そんな弘文三年に、龍馬は母を亡くした。龍馬が十二歳のときだった。
 母のかわりに龍馬を鍛えたのが、「坂本のお仁王様」と呼ばれた三歳年上のがっちりした長身の姉・乙女だった。
 乙女は弟には容赦なく体罰を与えて”男”として鍛え上げようとした。
「これ! 龍馬! 男のくせに泣くな!」
 乙女は、びいびい泣く龍馬少年の頬をよく平手打ちした。しかし、龍馬はさらに泣く。  
 いじめられて友達もいないから、龍馬は折檻がいやで堪らない。
「泣くな! これ龍馬! 男は泣いたらいかんきに!」
 乙女は龍馬を叩いたり蹴ったりもした。しかし、けして憎い訳じゃない。すべては立派な男にするためだ。しかし、近所からは”「坂本のお仁王様」がまた馬鹿弟をいじめている”……などと噂される。乙女も辛かったろう。しかし、乙女はけして妥協しない。
 龍馬は少年時代から孤独であった。
 兄姉があり、末っ子だから当然うるさいほど甘やかされてもよさそうなものなのに、そうではなかった。龍馬が利発な子なら好かれたろう。
 だが、龍馬は逆に皆に無視されることになった。それは生まれたときから顔に大きな黒子があったり、背中に黒い毛が生えていたりしたからであろう。栄姉などは龍馬を不気味がったりもしたという。そのうえ龍馬は少しぼ~っとしていて、物覚えが悪く、いつも泣く。剛気をよろこぶ土佐の風土にあわぬ者とし「ハナタレ」と呼ばれ、いつもいじめられた。そんな中で乙女だけが、イライラと龍馬を叱ったり世話をやいた。
「龍馬。あなたはちゃんとした立派な男に……いいえ英雄になりなさい!」
「……じゃきに…」龍馬は泣きながらいった。         
「泣くな! 男じゃろ?! あんさんは女子じゃきにか?」乙女は叱った。
 そして続けて「あんたが生まれたとき、あたしたちはびっくりしました。黒子が顔にあって、背中にふさふさ毛が生えちゅう。じゃきにな龍馬、母上は嘆いたのよ。でも、あた            
しが慰めようとして、これは奇瑞よ。これは天駆ける龍目が生まれたのよ……って」
 龍馬はようやく泣きやんだ。
「あとはあなたの努力次第じゃ。ハナタレのままか、偉いひとになるか」
 高知で「ハナタレ」と呼ばれるのは白痴のことである。それを龍馬の耳にいれまいとして乙女はどれだけ苦労したことか。しかし、今はハッキリと本人にいってやった。
 この弟を一人前の男にしなくては……その思いのまま乙女は弟をしつけた。
「あんさんは何かあるとすぐ泣くので、皆いっちゅう。金で侍の株は買えるがもともと商人じゃ。泣虫なのはあたりまえじゃきに…と。悔しくないのきにか?!」
 愛情を込めて、乙女はいった。しかし、龍馬にはわからない。
 乙女はいろいろな手で弟を鍛えた。寝小便を直すのに叱り、励まし、鏡川へ連れていっていきなり水の中に放りこんで無理に泳がせたり、泣いているのに何べんでも竹刀を持ち直させて打ちすえたり………いろいろなことをした。
 そんな龍馬も成長すると、剣の腕もあがり、乙女のおかげで一人前の男になった。
 十九歳の頃、龍馬は単身江戸へむかい剣術修行することになった。
 乙女はわが子のような、弟、龍馬の成長に喜んだ。
 乙女は可愛い顔立ちをしていたが、からだがひとより大きく、五尺四、五寸はあったという。ずっとりと太っていてころげると畳みがゆれるから、兄権平や姉の栄がからかい、「お仁王様に似ちゅう」
 といったという。これが広がって高知では「坂本のお仁王様」といえば百姓町人まで知らぬ者はいない。乙女は体が大きいわりには俊敏で、竹刀を使う腕は男以上だった。末弟に剣術を教えたのも、この三歳年上の乙女である。
 龍馬がいよいよ江戸に発つときいて、土佐城下本町筋一丁目の坂本屋敷には、早朝からひっきりなしに祝い客がくる。客はきまって、
「小嬢さまはぼんがいなくなってさぞ寂しいでしょう?」ときく。
 乙女は「いいえ。はなたれがいなくなってさっぱりしますきに」と強がりをいう。
 龍馬が十二歳のときに母親が死んでから、乙女は弟をおぶったり、添い寝をしたりして育ててきた。若い母親のような気持ちがある。それほど龍馬は手間のかかる子供だった。 いつもからかわれて泣いて帰る龍馬は、高知では「あのハナタレの坂本のぼん」と呼ばれて嘲笑されていた。泣きながら二丁も三丁も歩いて帰宅する。極端な近視でもある。
 父親はひとなみに私塾(楠山塾)にいれるが、毎日泣いて帰ってくるし、文字もろくすっぽ覚えられない。みかねた塾の先生・楠山庄助が「拙者にはおたくの子は教えかねる」といって、塾から排斥される。
 兄の権平や父の八平も「とんでもない子供だ。廃れ者だ」と嘆く。
 しかし、乙女だけはくすくす笑い、「いいえ。龍馬は日本に名をのこす者になります」などという。
「寝小便たれがかぜよ?」
「はい」乙女は強く頷いた。
 乙女の他に龍馬の支援者といえば、明るい性格の源おんちゃんであったという。源おんちゃんは「坊さんはきっと偉いひとになりますきに。これからは武ではなく商の時代ですき」という。

  城下でも見晴らしのいい一角に、小栗流日根野弁治の道場があった。龍馬はそこで剣術をまなんだ。道場の近くには潮江川(現在の鏡川)が流れている。
 日根野弁治は土佐城下でも指折りの剣術使いで、柔道にも達していたという。
 もともと小栗流というのは刀術のほかに拳術、柔道などを複合したもので、稽古も荒っぽい。先生は稽古のときに弟子の太刀が甘いと、「そんなんじゃイタチも斬れんきに!」 と弟子をよく叱ったという。そして、強い力で面をうつ。
 あまりに強い竹刀さばきだから、気絶する者まででてくる。十四歳の龍馬もずいぶんとやられた口だったらしい。
 毎日、龍馬は剣術防具をかついで築屋敷から本町筋一丁目の屋敷にもどってくると、姉の乙女がまっている。
「庭にでなさい! あたしが稽古をつけちゃるきに!」これが日課だったという。また防具をつけなければならない。乙女はふりそでを襷でしばり、竹刀をもったきりである。
「今日のおさらい。龍馬!」
 今日ならったようにうちこめという。
「女子だと思ってみくびったらいかんぜよ!」
 みくびるどころか、龍馬の太刀を乙女はばんばんとかわし打ち込んでくる。龍馬は何度か庭の池へ突き落とされかける。はいあがるとまた乙女は突く。
 父・八平がみかねて「乙女、いかげんにせぬか」ととめる。
 すると乙女は「ちがいます」という。可愛い顔だちである。
「何が違うきにか?」
「龍は雨風をうけて昇天するといいますから、わたしが龍馬を昇天させるためにやってるのです。いじめではありませぬ」
「馬鹿。わしは龍馬が可哀相だといってるんじゃなかが。お前がそんなハッタカ(お転婆娘)では嫁入り先がなくなるというとるんじゃきに」
「……わたしは嫁にはいきませぬ」
「じゃあどうするんじゃ?」
「龍馬を育てます」
「馬鹿ちんが。龍馬だってすぐ大きくなる。女子は嫁にいくと決まっておろう」
 乙女は押し黙った。確かに…その通りではある。
 ………龍馬は強い!
 こう噂されるようになったのは日根野道場の大会でのことである。乙女も同席していたが「あれがあの弟か?」と思うほど相手をばったばったと叩きのめしていく。
 まるで宮本武蔵である。
 兄・権平や父・八平も驚き「これはわしらの目が甘かった。龍馬は強い。江戸へ剣術修行をさせよう。少々、金がかかるがの」といいあった。
「あの弟なら剣で飯が食えます。江戸から戻ったら道場でもやらせましょう父上」
 さっそく日根野にいうと、「江戸の北辰一刀流がいいでしょう。あの子なら剣術道場をもてます」と太鼓判をおす。
「千葉周作先生のところですな?」
 名前ぐらいは知っている。「そうですきに」坂本家は土佐一番の金持ち郷士だったが、身分は、家老福岡家御預郷士、ということであり、江戸にいくには藩の許しが必要だった。
 八平はさっそく届けを出した。
「龍馬、よろこびやれ! ゆるしがでたぜよ!」
 乙女が龍馬の部屋に駆け込んで笑顔になった。
「はあ」と龍馬が情なくいう。「ノミが口の中にはいった…苦か」
 ……やはり龍馬は普通じゃない。

  龍馬がいよいよ江戸へ旅たつ日がきた。嘉永六年三月十七日のことである。
 坂本家では源おんちゃんが門をひらき、提灯をぶらさげる。父・八平は「権平、龍馬はどこじゃ?」ときく。
「さぁ、さきほどからみえませんが…」
 龍馬は乙女の部屋にいた。別れの挨拶のためである。しかし、「挨拶はやめた」という。「どげんしたとです?」乙女は不思議がってきいた。
 龍馬はいう。「乙女姉さん、足ずもうやろう。こどものときからふたりでやってきたんだから、別れにはこれがいい。それとも、坂本のお仁王様が逃げるきにか?」
「逃げる? まさか!」
 乙女は龍馬の口車にのってしまう。「一本きりですよ、勝負は」
 乙女はすそをめくり、白いはぎを出して両手でかかえた。あられもない姿になったが、龍馬はそんな姉をみなれている。
 姉弟は十分ほどあらそったがなかなか勝負がつかない。乙女が龍馬の足をはねた瞬間、「乙女、ご開帳じゃ」と権平が声を出す。
「えっ?!」
 その乙女の隙をついて龍馬は乙女の足をすくいあげ、乙女をあおむけざまに転がした。股の大事な部分までみえた。
「どうだ!」
「卑怯です!」
「なにしちゅう!」権平が声を荒げた。「もうすぐ夜明けじゃ、龍馬支度せい」

「まじないですから、龍馬、この小石を踏みなされ」
 乙女がいうと、龍馬は「こうですか?」とちょっとふんだ。
「これで厄除けと開運になるきに」
「姉さん。お達者で。土佐にこんど戻ってくるときには乙女姉さんは、他家のひとになっちゅうますろう」
 乙女は押し黙った。しかし、龍馬は知っていた。乙女には去年の冬ごろから縁談があった。はなしは進み、この夏には結婚するという。相手は岡上新輔という長崎がえりの蘭学医で、高知から半日ばかりの香美群山北という村に住んでいるという。
 ただ背丈が乙女より三寸ほど低いのが乙女には気にいらない。
 それでも乙女は、
「こんどかえったら山北へあそびにいらっしゃい」とうれしそうにいった。
「なにしちゅう!」権平が声を荒げた。「もうすぐ夜明けじゃ、龍馬支度せい」
  土佐は南国のために、唄が好きなひとがおおく、しかも明るいテンポの唄しかうけない。どんな悲惨な話しでも明るい唄ってしまう。別れでも唄を唄えといわれ、
「わしは歌えんきに」
 と龍馬は頭をかいた。もう旅支度も整い、出発を待つだけである。
「では、龍馬おじさまにかわって私がうたってしんぜまする」           
 といったのは兄・権平の娘の春猪だった。春猪は唄がうまい。
 そろそろ夜明ける。龍馬が今から踏み越えようとしている瓶岩峠の空が、紫色から蒼天になりはじめた。今日は快晴そうである。
  道中、晴天でよかった。
 龍馬は、阿波ざかいのいくつもの峠を越えて、吉野川上流の渓谷に分け入った。
 渓谷は険しい道が続く。
 左手をふところに入れて歩くのが、龍馬のくせである。右手に竹刀、防具をかつぎ、くせで左肩を少し落として、はやく歩く。
 ふところには銭がたんとある。龍馬は生まれてこのかた金に困ったことがない。
  船着き場の宿につくと、この部屋がいい海が見える、と部屋を勝手にきめて泊まろうとする。「酒もってきちゅうきに」龍馬は宿の女中にいう。
 土佐者には酒は飲み水のような物だ。
 女中は「この部屋はすでに予約がはいっておりまして…」と困惑した。
「誰が予約しちゅう?」   
「ご家老さまの妹さまのお田鶴さまです」
 龍馬は口をつぐんでから、「なら仕方ないき。他の部屋は?」
「ありますが海はみえませぬ」
 龍馬は首を少しひねり、「ならいい。わしは浜辺で寝るきに」といって浜辺に向かった。        
  お田鶴はそれをきいて、宿から浜辺へいった。
「まぁ、やはり坂本のせがれじゃ」
 お田鶴は、砂の上にすわった。土佐二十四万石の家老の妹だけあって、さすがに行儀がいい。龍馬は寝転んだままだ。
「龍馬どのとおっしゃいましたね?」
「そうじゃきに」
「江戸に剣術修行にいらっしゃる」
「そうじゃ」
「兄からいろいろきいています」
 龍馬は何もいわなかった。
 坂本家と福岡家は、たんに藩の郷士と家老というだけの間柄ではない。藩の財政が逼迫したときは、家老は豪商の坂本家に金をかりてくることが多い。このため坂本家は郷士の身分でありながら家老との縁は深い。
 ちなみに坂本家の先祖は、明智左馬之助光春だったという。明智左馬之助は、信長を殺            
した明智光秀の親類で、明智滅亡後、長曽我部に頼って四国に流れついた。
 そこで武士にもどり、百石の郷士となった。
 坂本という、土佐には珍しい苗字は、明智左馬之助が琵琶湖のほとりの坂本城に在城していたことからつけられたのだという。
「龍馬どの。こんなところにいられたのでは私が追い出したように思われます。宿にもどってください」と、お田鶴がいった。
「いいや。いいきにいいきに。わしはここで十分じゃきにな」
 龍馬はそういうだけだ。
  船が出たのは翌朝だった。
 船に龍馬とお田鶴と共の者がのった。「龍馬殿、この中にいられますように」
「いいきにいいきに」龍馬はやかた船の外にいってしまった。好きにさせろ、という顔つきであった。そのあと老女のはつがお田鶴にささやいた。
「ずいぶんとかわった者ですね。噂では文字もろくに読めないそうですね」
「左様なことはありません。兄上がもうされたところでは、韓非子というむずかしい漢籍を、あるとき龍馬どのは無言で三日もながめておられたそうです」
「三日も?」はつは笑って「漢字がよめないのにですか?」
「いいえ。姉の乙女さんに習って読めますし書けます。少々汚い字だそうですが」
「まんざら阿呆でもないのでございますね」
 老女は龍馬に嫌悪感をもっている。
「阿呆どころか、その漢節を三日もよんで堂々と論じたそうです。意味がわからなかったようですけれど……きいているほうは」   
「出鱈目をいったのでしょう」
 老女は嘲笑をやめない。お田鶴はそれっきり龍馬の話題に触れなかった。


「わしを斬るがか?!」
 龍馬はじりじりさがって、橋のたもとの柳を背後にして、相手の影をすかしてから、刀を抜いた。夜だった。月明りでぼんやりと周りが少しみえる。
 ……辻斬りか?
 龍馬は「何者だろう」と思った。剣客は橋の真ん中にいるが、龍馬は近視でぼんやりとしか見えない。よほど出来る者に違いない。龍馬はひとりで剣を中段にかまえた。
 橋の向こうにぽつりと提灯の明りが見える。龍馬は、
「おい! 何者じゃさにか?!」と声を荒げた。「人違いじゃなかがか?!」
 ところが相手は、声をめあてに上段から斬りこんできた。鍔ぜりあいになる。しかし、龍馬は相手の体を蹴って倒した。相手の男は抵抗せず、
「殺せ!」という。
 ちょうど町人が提灯をもって歩いてきたので、この男の顔ば明りで見せちゅうきに、と龍馬は頼んだ。丁寧な口調だったため町人は逃げる時を失った。
「こうでござりますか」
 すると龍馬は驚愕した。   
「おんし、北新町の岡田以蔵ではなかが!」
 後年、人斬り以蔵とよばれ、薩摩の中村半二郎(のちの桐野利秋)や肥後の河上彦斎とともに京洛を戦慄させた男だった。
 以蔵は「ひとちがいじゃった。許してもうそ」と謝罪した。
「以蔵さん、なぜ辻斬りなんぞしちゅっとか?!」
 ふたりは酒場で酒を呑んでいた。「銭ぜよ」
「そうきにか。ならわしが銭をやるきに、もう物騒な真似はやめるんじゃぞ」
「わしは乞食じゃないき。銭なら自分で稼ぐ」以蔵は断った。
「ひとを斬り殺してきにか?!」龍馬は喝破した。以蔵は何もいえない。
 龍馬は「ひとごろしはいかんぜよ! 銭がほしいなら働くことじゃ!」といった。
 ふたりは無言で別れた。(以蔵は足軽の身分)
 龍馬は、もう昔の泣き虫な男ではなかった。他人に説教までできる人間になった。
 ……これも乙女姉さんのおかげぜよ。
 龍馬は、江戸へ足を踏み入れた。

         2 黒船来る!




伊藤博文の出会いは吉田松陰と高杉晋作と桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)であり、生涯の友は井上聞多(馨)である。伊藤博文は足軽の子供である。名前を「利助」→「利輔」→「俊輔」→「春輔」ともかえたりしている。伊藤が「高杉さん」というのにたいして高杉晋作は「おい、伊藤!」と呼び捨てである。吉田松陰などは高杉晋作や久坂玄瑞や桂小五郎にはちゃんとした号を与えているのに伊藤博文には号さえつけない。
 伊藤博文は思った筈だ。
「イマニミテオレ!」と。
  明治四十一年秋に伊藤の竹馬の友であり親友の井上馨(聞多)が尿毒症で危篤になったときは、伊藤博文は何日も付き添いアイスクリームも食べさせ「おい、井上。甘いか?」と尋ねたという。危篤状態から4ヶ月後、井上馨(聞多)は死んだ。
 井上聞多の妻は武子というが、伊藤博文は武子よりも葬儀の席では号泣したという。
 彼は若い時の「外国人官邸焼き討ち」を井上聞多や渋沢栄一や高杉晋作らとやったことを回想したことだろう。実際には官邸には人が住んでおらず、被害は官邸が全焼しただけであった。
 伊藤は井上聞多とロンドンに留学した頃も回想したことだろう。
 ふたりは「あんな凄い軍隊・海軍のいる外国と戦ったら間違いなく負ける」と言い合った。
 尊皇攘夷など荒唐無稽である。
 
  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。

 渋沢は決心して元治元年の二月に慶喜の家臣となったが、慶喜は弟の徳川民部大輔昭武とともにフランスで開かれる一八六七年の万国博覧会に大使として行くのに随行した。 慶応三年一月十一日横浜からフランスの郵船アルヘー号で渡欧したという。

坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
 話を少し戻す。

小型機が住宅街に墜落 3人死亡5人けが東京都調布市2015年7月26日(日)午前11時頃!悲惨事故

2015年07月26日 19時05分00秒 | 日記







小型機が住宅街に墜落 3人死亡5人けが 東京
7月26日 18時20分

小型機が住宅街に墜落 3人死亡5人けが 東京
26日午前11時ごろ、東京・調布市の住宅街に小型機が墜落して住宅3棟が焼け、警視庁によりますと、小型機に乗っていた2人と住宅にいて巻き込まれた女性1人の合わせて3人が死亡しました。
また、小型機に乗っていた3人と住宅にいた女性2人の合わせて5人がけがをして病院に運ばれました。警視庁は業務上過失致死傷の疑いもあるとみて捜査を始めました。
26日午前11時ごろ、東京・調布市富士見町の住宅街に小型機が墜落しました。
東京消防庁によりますと、現場付近では黒い煙が上がり、小型機のほか、住宅3棟と車2台の合わせて220平方メートルが焼けました。
また、周辺の住宅6棟も被害を受けました。警視庁によりますと、小型機に乗っていた男性2人と、住宅の2階にいて巻き込まれた女性1人の合わせて3人が死亡しました。
また、小型機に乗っていた男性3人がけがをし、亡くなった女性と同じ住宅にいた女性1人と、隣の住宅にいた女性1人の合わせて5人がけがをして病院に運ばれました。
警視庁によりますと、5人のうち小型機の1人は重傷とみられ、残る4人は意識ははっきりしているということです。
墜落した小型機の機体の整備や管理を行っている「日本エアロテック」や搬送先の病院によりますと、小型機には、横浜市港北区の川村泰史機長(36)と東京・練馬区の早川充さん、東京・港区の森口徳昭さん(36)と東京・文京区の花房剛さん(35)、それに名前の読み方は分かりませんが、埼玉県三郷市の田村康之さん(51)の合わせて5人が搭乗していたということです。
午前11時に調布飛行場を離陸して伊豆大島に向かい、日帰りで調布飛行場に戻る計画だったということです。
会社によりますと、川村機長は操縦士の養成事業などを行う会社の社長をしていて、これまでの飛行時間は600時間から700時間だということです。
ふだんは、小型機の操縦士を目指す人たちを後部座席に乗せて飛行することが多いということです。
小型機が墜落した現場は東京・調布市富士見町の住宅が建ち並ぶ地域で、周辺には商店や中学校、それにテニスコートや少年野球場などの運動施設があります。
また、現場から500メートルほどの所には調布飛行場があります。
調布飛行場では26日午後1時半すぎ、警視庁捜査1課の腕章を付けた捜査員数人が飛行場の管理事務所やターミナルビルに入りました。
また、飛行場の近くにあり、墜落した小型機の運航・管理を行っている「日本エアロテック」の事務所にも、午後2時すぎから警視庁の捜査員数人が出入りしています。
関係者から墜落した小型機の運航状況などについて説明を求めているものとみられ、警視庁は業務上過失致死傷の疑いもあるとみて捜査を進めています。
小型機操縦の機長は
墜落した小型機の運航・管理を行っている、「日本エアロテック」によりますと、小型機を操縦していたのは、川村泰史機長(36)です。
川村機長は、調布飛行場の敷地内に本社を置く小型機のパイロットを養成する会社、「シップ・アビエーション」の社長を務めていて、大阪の関西空港のウェブサイトによりますと、おととし関西空港で開かれた、パイロットを目指す子どもたちに向けた講演会で講師を務めていました。
このイベントの案内文に掲載されたプロフィールによりますと、川村機長は、アメリカと日本で訓練し、パイロットの資格を取得したあと、墜落した小型機の運航会社の「日本エアロテック」に入社し、おととし4月には飛行訓練の会社を設立して、社長に就任するとともに「主席飛行教官」を務めていると記されています。
調布市の対応
小型機が墜落した事故を受けて調布市役所では、総合防災安全課の職員が事故現場の周辺を回るなどして被害状況の把握に努めています。また、今回の事故で住宅が被害を受けた住民から要望があった場合には、近くに避難所を設けることも検討しているということです。
専門家「高度上がらない段階でトラブルか」
全日空の元機長で航空評論家の樋口文男さんは、今回、墜落した小型機について「このクラスの小型機は仮にエンジンが止まってもグライダーのように滑空できるので、パイロットは非常時には滑空しながら飛行場に引き返したり、河川敷など安全な場所を探して不時着したりする訓練を受けている」と話しています。
そのうえで、「離陸直後に住宅街に墜落している状況からすると、高度が上がっていない段階でトラブルが起きたのではないか」と分析しています。現段階で考えられる事故の原因について、「エンジンの不調や燃料が行き渡らないといったトラブルのほか、パイロット自身の体調に緊急の事態があった可能性もあると」と話しています。

第13回開高健ノンフィクション大賞朝日新聞記者三浦英之氏(41)盗作疑惑『虹色のトロツキー』模倣か?

2015年07月26日 14時05分21秒 | 日記








第13回開高健ノンフィクション大賞の


朝日新聞記者・三浦英之氏(41)の



『五色の虹~満州建国大学卒業生たちの戦後~』


って内容が安彦良和先生漫画『虹色のトロツキー』のパクリじゃないか(笑)



何が朝日新聞記者だ?


盗作疑惑だ。


そんなんでいいなら私の作品は全文学賞受賞だ(笑)


盗作疑惑だ。臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!