緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

TPP農業改革は必要!オランダの農業改革を目指せ!「選択」と「集中」農業維新!自動車で儲けろ!

2015年07月31日 19時15分42秒 | 日記








TPP等農作物交渉となると


またも悪辣な農協が農家の恐怖心ばかり煽る。


が、オランダ(NL)の例を観て欲しい。


オランダは九州程の面積人口だが、その国が米国に次ぐ世界第二位の農業大国である。


確かにオランダも改革前は農協みたいな団体が改革反対だった。


鍵は選択と集中である。


改革は必要!臥竜




緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

龍馬とおりょうがゆく維新回天の偉人坂本龍馬とその妻・おりょう(樽崎龍)2017年の女大河か?小説5

2015年07月31日 06時55分12秒 | 日記









 いま京で騒ぎをおこそうとしているのは田中河内介である。田中に操られて、薩摩藩浪人が、尊皇壤夷のために幕府要人を暗殺しようとしている。それを操っているのは出羽庄内藩浪人の清河八郎であったが、大久保一蔵(利道)にはそれは知らなかった。
 幕府要人の暗殺をしようとしている。
「もはや久光公をたよる訳にはいかもんそ!」
 かねてからの計画通り、京に潜伏していた薩摩浪人たちは、京の幕府要人を暗殺するために、伏見の宿・寺田屋へ集結した。
 総員四十名で、中には久光の行列のお供をした有馬新七の姿もあったという。
「もはやわが藩を頼れないでごわす! 京の長州藩と手をむすび、事をおこすでごわそ!」 と、有馬は叫んだ。
「なにごてそんなことを……けしからぬやつらじゃ!」
 久光はその情報を得て、激昴した。寺田屋にいる四十名のうち三十名が薩摩の志士なのである。「狼藉ものをひっとらえよ!」
 京都藩邸から奈良原喜八郎、大山格之助以下九名が寺田屋の向かった。
 のちにゆう『寺田屋事件』である。
「久光公からの命である! 御用あらためである!」
  寺田屋への斬り込みは夜だった。このとき奈良原喜八郎の鎮撫組は二隊に別れた。大山がわずか二、三人をつれて玄関に向かい、奈良原が六名をつれて裏庭にむかった。
 そんな中、玄関門の側で張り込んでいた志士が、鎮撫組たちの襲撃を発見した。又左衛門は襲撃に恐れをなして逃げようとしたところを、矢で射ぬかれて死んだ。
 ほどなく、戦闘がはじまった。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」大山は囁くように命令した。
 あとは大山と三之助、田所、藤堂の四人だけである。
 いずれもきっての剣客である。柴山は恐怖でふるえていた。襲撃が怖くて、柱にしがみついていた。
「襲撃だ!」
 有馬たちは門をしめ、中に隠れた。いきなり門が突破され、刀を抜いた。二尺三寸五分政宗である。田所、藤堂が大山に続いた。
「なにごてでごわそ?」二階にいた西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌は驚いた。悲鳴、怒号……
 大山格之助は廊下から出てきた有馬を出会いがしらに斬り殺した。
 倒れる音で、志士たちがいきり立った。
「落ち着け!」そういったのは大山であった。刀を抜き、道島の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて道縞五郎兵衛の頭を斬りつけた。乱闘になった。
 志士たちはわずか七名となった。
「手むかうと斬る!」
 格之助は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、格之助はすぐに起き上がることができなかった。
 そのとき、格之助は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
 なおも敵が襲ってくる。そのとき、格之助は無想で刀を振り回した。格之助はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
 一階ではほとんど殺され、残る七名も手傷をおっていた。
 これほどですんだのも、斬りあいで血みどろになった奈良原喜八郎が自分の刀を捨てて、もろはだとなって二階にいる志士たちに駆けより、
「ともかく帰ってくだはれ。おいどんとて久光公だて勤王の志にかわりなか! しかし謀略はいけん! 時がきたら堂々と戦おうではなかが!」といったからだ。
 その気迫におされ、田中河内介も説得されてしまった。
 京都藩邸に収容された志士二十二名はやがて鹿児島へ帰還させられた。
 その中には、田中河内介や西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌の姿もあった。  ところが薩摩藩は田中親子を船から落として溺死させてしまう。
 吉之助(西郷隆盛)はそれを知り、
「久光は鬼のようなひとじゃ」と嘆いた。
 龍馬は、京の町をあてもなく彷徨っていた。

   文久二年(一八六二)八月二十一日、『生麦事件』が勃発した。
 参勤交替で江戸にいた島津久光は得意満々で江戸を発した。五百余りの兵をともない京へむかった。この行列が神奈川宿の近くの生麦村へさしかかったところ、乗馬中のイギリス人(女性ひとりをふくむ)四名が現れ、行列を横切ろうとした。
「さがれ! 無礼ものどもが!」
 寺田屋事件で名を馳せた奈良原が外国人たちにいって、駆け寄り、リチャードソンという白人を斬りつけて殺した。他の外国人は悲鳴をあげて逃げていった。
 これが『生麦事件』である。


         4 勝海舟





  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
 教育過程は次のとおりであったという。
 班長担当
    綱索取扱い           週三時間
    演習              週三時間
    規程              週三時間
    地文学             週二時間
 一等尉官担当
    艦砲術             週五時間
    造船              週五時間
    艦砲練習            週六時間
    (歩兵操練監督)
 二等尉官担当
    運転術             週五時間
    数学・代数           週五時間
    帆操縦(測定器・海図・観測)  週九時間
 主計士官担当
    算術              週九時間
 軍医担当
    物理              週三時間
    代学              週三時間
    分析学             週三時間
    包帯術             週三時間
 機関士官担当
    蒸気機関理論
                    週六時間
   飽ノ浦工場建設、蒸気機関監督含む。
 軍人以外の教育担当
    オランダ語・算術教授      週十一時間
    乗馬              週十時間
 海兵隊士官担当
    歩兵操練            週十五時間
    船上操練            週四時間
    一般操練            週三時間
 鼓手担当
    軍鼓練習            週十二時間
 船大工担当
    造船所の操練
 製帆手の担当
    マストの操練
 水兵担当
    水兵の勤務実習
 看護手担当
    医官の手伝い・印刷部の手伝い
 長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚     
志を任命した。
 長崎にいくことになった勝麟太郎(勝海舟)も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
 かねてから麟太郎を支援していた箱根の豪商柴田利右衛門もおおいに喜んだ。
 しかし、その柴田利右衛門は麟太郎が長崎にいる間に病死した。勝海舟は後年まで彼の早逝を惜しんだ。「惜しいひとを亡くした」勝は涙目でいった。
 幕府から派遣される伝習生のうち、矢田堀景蔵、永持や勝麟太郎が生徒監を命じられた。 永持は御目付、奉行付組頭で、伝習生の取締をする。
 海陸二班に別れて、伝習生は長崎に派遣された。
 麟太郎は矢田堀とともに海路をとったという。
 昌平丸という薩摩藩が幕府に献上した船で、一行は九月三日朝、品川沖を出帆した。   
 長さ九十フィートもある洋艦で豪華な船だったが、遠州灘で大時化に遭った。
 あやうく沈没するところだったが、マスト三本すべて切断し、かろうじて航海を続けた。 長州下関に入港したのは十月十一日、昌平丸から上陸した麟太郎たちは江戸の大地震を知った。
「江戸で地震だって? 俺の家は表裏につっかえ棒してもっていたボロ屋だ。おそらく家族も無事ではないな」麟太郎は言葉をきった。「何事もなるようにしかならねぇんだ。俺たちだって遠州灘で藻屑になるところを、あやうく助かったんだ。運を天にまかすしかねぇ」
「勝さん。お悔やみ申す」矢田堀は低い声で神妙な顔でいった。
「いやぁ、矢田堀さん。たいしたことではありませぬ」麟太郎は弱さを見せなかった。
 昌平丸は損傷が激しく、上陸した船員たちもほとんど病人のように憔悴していた。
 長崎に入港したのは十月二十日だった。麟太郎は船酔いするので、ほとんど何も食べることも出来ず、吐き続けた。そのため健康を害したが、やがて陸にあがってしばらくすると元気になった。長崎は山の緑と海の蒼が鮮やかで、まるで絵画の作品のようであった。 長崎の人口は六万人で、神社は六十を越える。
 伝習所は長崎奉行所の別邸で、教師はオランダ人である。幕府が一番やっかいだったのは蒸気機関である。それまで蒸気機械などみたこともなかったから、算術に明るい者を幕府は送り込んできた。
 教育班長のペルス・ライケンは日本語を覚えようともせず、オランダ語で講義する。日本人の通訳が訳す訳だが、いきおいわからない術語があると辞書をひくことになる。
 ペルス・ライケンは生徒達に授業内容を筆記させようとはせず、暗記させようとした。そのため困る者が続出した。
 勝麟太郎と佐賀藩士の佐野常民、中牟田倉之助の三人はオランダ語を解するので、彼等が授業後にレポートを書き、伝習生らはそれを暗唱してようやく理解したという。
 麟太郎はいう。「俺はオランダ語ができるのでだいたいのことはわかるから聞いてくれ。ただし、算術だけは苦手だからきかねぇでほしいな」
 ペルス・ライケンは専門が算術だけに、微分、積分、力学など講義は難解を極めた。
 安政三年十月から十一月まで麟太郎は江戸に一時戻り、長崎の伝習事務を取り扱っていた。幕府は、麟太郎をただの伝習生として長崎にやった訳ではなかった。
 のちの勝海舟である勝麟太郎は、以前からオランダ語をきけたが、ペルス・ライケンの講義をきくうちに話せるようにもなっていた。それで、オランダ人たちが話し合っている内容をききとり、極秘の情報を得て老中阿部伊勢守正弘に通報するなどスパイ活動をさせたのだ。
 やがて奥田という幕府の男が麟太郎を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
 奥田のこの提案により、勝麟太郎は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
 麟太郎は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、麟太郎は隊長役をつとめており明るかった。
 雪まじりの風が吹きまくるなか、麟太郎は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から麟太郎のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた麟太郎は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
 勝麟太郎も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
 彼が長崎に残留したのにはもうひとつ理由があった。麟太郎には長崎に愛人がいたのである。名は梶久といい未亡人である。年はまだ十四歳であったがすでに夫が病没していて未亡人であった。
 縁は雨の日のことである。
 ある雨の日、麟太郎が坂道の途中で高下駄の鼻緒を切らして困っていたところ、そばの格子戸が開いて、美貌の女性がでてきて鼻緒をたててくれた。
「これはかたじけない。おかげで助かった」
 麟太郎は礼を述べ、金を渡した。しかし、翌日、どこで調べてきたのかお久が伝習所に訪ねてきて金をかえした。それが縁で麟太郎とお久は愛しあうようになった。当然、肉体関係もあった。お久はまだ十四歳であったが夫が前にいたため「夜」はうまかったという。 伝習所に幕府の目付役の上司がくると、麟太郎はオランダ語でその男の悪口をいう。
 通訳がどう訳せばわからず迷っていると、麟太郎は、
「俺の片言が訳せないなら言ってやろうか?」とオランダ語で脅かす。
 ある時、その上司の木村図書が麟太郎にいった。
「航海稽古の時、あまり遠方にいかないようだがもっと遠くまでいったらいいのではないか?」
 麟太郎は承知した。図書を観光丸に乗せ、遠くまでいった。すると木村図書はびびりだして「ここはどこだ?! もう帰ってもよかろう」という。
 麟太郎は、臆病者め、と心の中で思った。
 木村図書は人情に薄く、訓練者たちが夜遊びするのを禁じて、門に鍵をかけてしまう。 当然、門をよじのぼって夜の街にくりだす者が続出する。図書は厳重に御灸をすえる。あるとき麟太郎は激昴して門の鍵を打ち壊し、
「生徒たちが学問を怠けたのなら叱ってもよいが、もう大の大人じゃねぇですか。若者の夜遊びくらい大目にみてくだせぇ!」と怒鳴った。
 図書は茫然として言葉も出ない。
 麟太郎がその場を去ると、木村図書は気絶せんばかりの眩暈を覚えた。「なにをこの若造め!」図書は心の中で麟太郎を罵倒した。
 麟太郎を中心とする兵学者たちは、高等砲術や工兵科学の教示をオランダ人たちに要請した。教師たちは、日本人に高度の兵学知識を教えるのを好まず、断った。
「君達はまだそのような高度の技術を習得する基礎学力が備わってない」
 麟太郎は反発する。
「なら私たちは書物を読んで覚えて、わからないことがあったらきくから書物だけでもくれはしまいか?」
 教師は渋々受け入れた。
 研究に没頭するうちに、麟太郎は製図法を会得し、野戦砲術、砲台建造についての知識を蓄えたという。
  安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を      
受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
 カッテンデーキがオランダから到着して新しい学期が始まる頃、麟太郎は小船で五島まで航海練習しようと決めた。麟太郎と他十名である。
 カッテンデーキは「この二、三日は天気が荒れそうだ。しばらく延期したほうがよい」 と忠告した。日本海の秋の天候は変りやすい。が、麟太郎は「私は海軍に身をおいており、海中で死ぬのは覚悟しています。海難に遭遇して危ない目にあうのも修行のうちだと思います。どうか許可してください」と頭を下げた。
 カッテンデーキは「それほどの決意であれば…」と承知した。
 案の定、麟太郎たちの船は海上で暴風にあい、遭難寸前になった。
 だが、麟太郎はどこまでも運がいい。勝海舟は助かった。なんとか長崎港までもどったのである。「それこそいい経験をしたのだよ」カッテンデーキは笑った。
 カッテンデーキは何ごとも謙虚で辛抱強い麟太郎に教えられっぱなしだった。
「米国のペリー堤督は善人であったが、非常に苛立たしさを表す、無作用な男であった」 彼は、日本人を教育するためには気長に粘り強く教えなければならないと悟った。
 しかし、日本人はいつもカッテンデーキに相談するので危ういことにはならなかったのだという。この当時の日本人は謙虚な者が多かったようで、現代日本人とは大違いである。 麟太郎は、さっそく咸臨丸で練習航海に出た。なにしろ百人は乗れるという船である。ここにきて図書は「炊事場はいらない。皆ひとりづつ七輪をもっている」といいだした。 麟太郎は呆れて言葉もでなかった。
「この木村図書という男は何もわかってねぇ」言葉にしてしまえばそれまでだ。しかし、勝麟太郎は何もいわなかった。
          
 薩摩藩(鹿児島県)によると、藩主の島津斉彬が咸臨丸に乗り込んだ。
「立派な船じゃのう」そういって遠くを見る目をした。
 麟太郎は「まだまだ日本国には軍艦が足りません。西洋列強と対等にならねば植民地にされかねません。先のアヘン戦争では清国が英国の植民地とされました」
「わが国も粉骨砕身しなければのう」斉彬は頷いた。
 そんな島津斉彬も、麟太郎が長崎に戻る頃に死んだ。
「おしい人物が次々と亡くなってしまう。残念なことでぃ」
 麟太郎はあいかわらず長崎にいた。

  コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。
 短期間で命を落とす乾性コレラであった。
 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。
 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。

  赤坂田町の留守のボロ屋敷をみてもらっていた旗本の岡田新五郎に、麟太郎はしばしば書信を送った。留守宅の家族のことが気掛かりであったためだ。
 それから幕閣の内情についても知らせてほしいと書いていた。こちらは出世の道を探していたためである。
 麟太郎は岡田に焦燥をうちあけた。
「長崎みたいなところで愚図愚図して時間を浪費するよりも、外国にいって留学したい。オランダがだめならせめてカルパ(ジャワ)にいってみたい」
 はっきりいって長崎伝習所で教えるオランダ人たちは学識がなかった。
 授業は長時間教えるが、内容は空疎である。ちゃんと航海、運用、機関のすべてに知識があるのはカッテンデーキと他五、六人くらいなものである。
「留学したい! 留学したい! 留学したい!」
 麟太郎は強く思うようになった。…外国にいって知識を得たい。
 彼にとって長崎伝習所での授業は苦痛だった。
 毎日、五つ半(午前九時)から七つ(午後四時)まで学課に専念し、船に乗り宿泊するのが週一日ある。しかも寒中でも火の気がなく手足が寒さで凍えた。
「俺は何やってんでい?」麟太郎には苦痛の連続だった。
 数学は航海術を覚えるには必要だったが、勝麟太郎は算数が苦手だった。西洋算術の割り算、掛け算が出来るまで、長い日数がかかったという。
 オランダ人たちは、授業が終わると足速に宿舎の出島に帰ろうとする。途中で呼び止めて質問すると拒絶される。原書を理解しようと借りたいというが、貸さない。
 結局彼らには学力がないのだ、と、麟太郎は知ることになる。
 麟太郎は大久保忠寛、岩瀬忠震ら自分を長崎伝習所に推してくれた人物にヨーロッパ留学を希望する書簡を送ったが、返答はなかった。
 麟太郎はいう。
「外国に留学したところで、一人前の船乗りになるには十年かかるね。俺は『三兵タクチーキ』という戦術書や『ストラテヒー』という戦略を記した原書をひと通り読んでみたさ。しかし孫子の説などとたいして変わらねぇ。オランダ教官に聞いてみたって、俺より知らねぇんだから仕様がないやね」
 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。
 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。
 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。
 オランダ教官は、日本人伝習生の手腕がかなり熟練してきていることを認めた。
 安政五年、幕艦観光丸が艦長矢田堀景蔵指揮のもと混みあっている長崎港に入港した。船と船のあいだを擦り抜けるような芸当だった。そんな芸当ができるとはオランダ人たちは思っていなかったから、大変驚いたという。
 翌年の二月七日、幕府から日本人海軍伝習中止の命が届いて、麟太郎は朝陽丸で江戸に戻ることになった。
 麟太郎は、松岡磐吉、伴鉄太郎、岡田弁蔵とともに朝陽丸の甲板に立ち、長崎に別れを告げた。艦長は当然、勝麟太郎(のちの勝海舟)であった。船は激しい暴風にあい、麟太郎たちは死にかけた。マストを三本とも切り倒したが、暴風で転覆しかけた。
「こうなりゃ天に祈るしかねぇぜ」麟太郎は激しく揺れる船の上で思った。日が暮れてからマストに自分の体を縛っていた綱が切れ、麟太郎は危うく海中に転落するところだった。 だが、麟太郎はどこまでも運がいい。なんとか船は伊豆下田へと辿り着いたのである。「船は俺ひとりで大丈夫だから、お前らは上陸して遊んでこい」
 麟太郎は船員たちにいった。奇抜なこともする。

 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。
 江戸にもどった麟太郎は赤坂元氷川下に転居した。麟太郎は軍艦操練所頭取に就任し、両御番上席などに出世した。
 米国側は、咸臨丸が航行の途中で坐礁でもされたら条約が批准されない、と心配してポーハタン号艦を横浜に差し向けた。
 万延元年(一八六〇)正月二十二日、ポータハン号は横浜を出発した。咸臨丸が品川沖を出向したのは、正月十三日だったという。麟太郎は観光丸こそ米国にいく船だと思った。 が、ハリスの勧めで咸臨丸となり、麟太郎は怒った。
 だが、「つくってから十年で老朽化している」というハリスの判断は正しかった。観光丸は長崎に戻される途中にエンジン・トラブルを起こしたのだ。
 もし、観光丸で米国へ向かっていたらサンドイッチ(ハワイ諸島)くらいで坐礁していたであろう。
 勝麟太郎(のちの勝海舟)は咸臨丸に乗り込んでいた。
 途中、何度も暴風や時化にあい、麟太郎は船酔いで吐き続けた。が、同乗員の中で福沢諭吉だけが酔いもせず平然としていたという。
「くそっ! 俺は船酔いなどして……情ない」麟太郎は悔しがった。
「船の中では喧嘩までおっぱじまりやがる。どうなってんでぃ?」

  やがて米国サンフランシスコが見えてきた。
 日本人たちは歓声を上げた。上陸すると、見物人がいっぱいいた。日本からきたチョンマゲの侍たちを見にきたのだ。「皆肌の色が牛乳のように白く、髪は金で、鼻は天狗のように高い」麟太郎は唖然とした。
 しかし、米国の生活は勝麟太郎には快適だった。まず驚かされたのはアイス、シヤンパン、ダンスだった。しかも、日本のような士農工商のような身分制度もない。女も男と同等に扱われている。街もきれいで派手な看板が目立つ。
 紳士淑女たちがダンスホールで踊っている。麟太郎は「ウッジュー・ライク・トゥ・ダンス?」と淑女に誘われたがダンスなど出来もしない。
 諭吉はあるアメリカ人に尋ねてみた。
「有名なワシントンの子孫はどうしてますか?」
 相手は首をかしげてにやりとし「ワシントンには女の子がいたはずだ。今どこにいるのか知らないがね」と答えた。
 諭吉は、アメリカは共和制で、大統領は四年交替でかわることを知った。
 ワシントンといえば日本なら信長や秀吉、家康みたいなものだ。なのに、子孫はどこにいるのかも知られていない。それを知り彼は、カルチャーショックを受けた。
 カルチャーショックを受けたのは麟太郎も同じようなもの、であった。
 のちの龍馬の師もそれだけ苦労した、ということだ。

  龍馬は藩命で長州にいって久坂玄瑞や高杉晋作とあったことがある。そこで長州藩士の久坂玄瑞や高杉晋作とあっている。三千世界の烏を殺し…高杉の歌である。            
「土佐の吉田東洋、長州の長井雅楽、薩摩の久光は奸俗ぞ!」
 高杉はいった。「斬らねばなるまい!」
 その言葉通り、武市半兵太らは岡田以蔵らをつかって吉田東洋など開国派たちを次々と斬り殺していった。
 その頃、龍馬は勝海舟の館の門で見張りをしていた。
 勝の娘・孝子が「お父様、あの門で毎晩見張りしているお侍さんは誰です?」ときく。 勝海舟は笑って「あいつは龍さんよ。俺を守っている気なんだろう」
  龍馬はいまでも勝海舟に初対面したことを忘れない。
 千葉重太郎とともに勝の屋敷を訪ねて斬り殺す気でいた。
「相手は開国派……このわしが斬る!」千葉はいった。
 しかし口開一番、勝は度肝を抜かせた。勝は地球儀をみせて「これなんだかわかるけい?」ときいた。千葉重太郎と龍馬は目が点になった。「ここが日本だ」ちっぽけな国だった。「世の中にはいろいろな国があるぜ。メリケン、プロシア、清国、インド、アフリカ、イギリス…イギリスなんざ超大国といわれてるがみろ! こんなちっぽけな島国だ。しかし世界に冠たる大英帝国を築いている……なぜだと思う?」
 龍馬は興奮して「船……船ぜよ!」
「そうだ…軍艦だ! 日本は鎖国でも壤夷でもない。…第三の道…すなわちすみやかに開国して貿易によって儲けて軍艦を備えるこった。佐幕なんざ馬鹿らしいぜ! そのための開国だぜ」
「勝先生! わしば弟子にしてくれませんきにか?!」
 千葉重太郎は呆気にとられたままだったが、龍馬は真剣だった。
「龍さんとやら……あんた面白いやさだね?」                    
         5 壌夷



  ホノルルに着いて、麟太郎たちはカメハメハ国王に謁見した。
 ハワイの国王は三十五、六に見えた。国王の王宮は壮麗で、大砲が備え付けられ、兵士が護衛のため二列に並んでいた。
 ホノルルは熱帯植物が生い茂り、情熱的だ。麟太郎は舌をまいた。
 ハワイに来航する船の大半は捕鯨船である。来島するのはアメリカ、イギリス、その他の欧州諸国、支那人(中国人)もまた多く移住している。
 咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。
 四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣ったという。そしてそれから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。
「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」
 咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。
 午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。
 幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺されたという。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。
 麟太郎は激昴して「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。 役人はいう。
「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」
 麟太郎は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、
「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。
 幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。

 麟太郎は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終     
えたのち、将軍家茂に謁した。
 麟太郎は老中より質問を受けた。
「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびやかに申すがよい」
 麟太郎は平然といった。
「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」
「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」
 麟太郎は苦笑いした。そしてようやく「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」
 老中は激怒して「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。
 麟太郎は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。
「この無礼者め!」
 老中の罵声が背後からきこえた。
 麟太郎が井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、        
「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだという。
 それをきいて呆れた木村摂津守が、「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」 と諫めた。
 この一件で、幕府家臣たちから麟太郎は白い目で見られることが多くなった。
 麟太郎は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば麟太郎は「裏切り者」にみえる。
 実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。
 しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。
 麟太郎の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。
 友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあったという。
 彼は次々と出世をしていく。
 一方、勝麟太郎は反対に、”窓際”に追いやられていった。海軍操練所教授方頭取を免       
職となり、六月二十四日に天守番之頭過人、番書調所頭取介を命じられた。                                
 過人とは、非常勤の意味だという。麟太郎はこの後二年間、海軍と無縁で過ごした。

  左遷先には有名な学者もいたが、麟太郎にはそんな仕事は退屈きわまりない。朝に出勤すると仕事は部下にまかせ、日当たりのいいところで”ごろ寝”ばかりして過ごした。 ……幕府は腐りきっている。
 いつしか、そんな感情を、勝麟太郎(勝海舟)はもつようになっていった。
 当時は、目付役が諸役所を見回り、役人の勤怠を監視していた。そして、麟太郎の行
             
を見咎め、若年寄に報告したという。                 
「勝はいつ出向いても、肩衣もとらず寝転んで、全く仕事をいたしておりませぬ」
 若年寄は、それを老中に上進し、勝海舟は役職を失いかけない立場にたった。
 彼を支援してくれていた開明派の官僚は、井伊大老の暗殺以降みんな失脚していた。
  麟太郎は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。
 内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものであるという。
 アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。
「歴史を振り返っても、国家多端な状況が今ほど激しい時はなかった。
 昔から栄枯盛衰はあったが、海外からの勢力が押し寄せて来るような事は、初めてである。泰平の世が二百五十年も続き、士気は弛み放題で、様々の弊害を及ぼす習わしが積み重なってたところへ、国際問題が起こった。
 文政、天保の初めから士民と友にしゃしを競い、士気は地に落ちた。国の財政が乏しいというが、賄賂が盛んに行われ上司に媚諂い、賄賂を使ってようやく役職を得ることを、世間の人は怪しみもしなかった。
 そのため、辺境の警備などを言えば、排斥され罰を受ける。
 しかし世人は将軍家治様の盛大を祝うばかりであった。
 文政年間に高橋作左衛門(景保)が西洋事情を考究し、刑せられた。天保十年(一八三九)には、渡辺華山、高野長英が、辺境警備を私議したとして捕縛された。
 海外では文政九年(一八一二)にフランス大乱が起こり、国王ナポレオンがロシアを攻め大敗し、流刑に処せられた後、西洋各国の軍備がようやく盛んになってきた。
 諸学術の進歩、その間に非常なものであった。
 ナポレオンがヘレナ島で死んだ後、大乱も治まり、東洋諸国との交易は盛んになる一方であった。
 天保二年、アメリカ合衆国に経済学校が開かれ、諸州に置かれた。この頃から蒸気機関を用い、船を動かす技術が大いに発達した。
 天保十三年には、イギリス人が蒸気船で地球を一周したが、わずか四十五日間を費やしたのみであった。
 世の中は移り変り、アジアの国々は学術に明るいが実業に疎く、インド、支那のように、ヨーロッパに侮られ、膝を屈するに至ったのは、実に嘆かわしいことである」
 世界情勢を知った勝海舟には、腐りきった幕府が嘆かわしく思えた。

 天保五年、水野忠邦が老中となり改革をおこなったが、腐りきった幕府の「抵抗勢力」に反撃をくらい、数年で失脚してしまった。麟太郎は残念に思った。
「幕府は腐りきった糞以下だ! どいつもこいつも馬鹿ばっかりでい」
 水野失脚のあと、オランダから「日本国内の政治改革をせよ」との国王親書が届いた。 しかし、幕府は何のアクションもとらなかった。
 清国がアヘン戦争で英国に敗れて植民地となった……という噂は九州、中国地方から広まったが、幕府はその事実を隠し通すばかりであった。
 ペリー提督の率いるアメリカ艦隊渡来(嘉永六年(一八五三))以降の変転を麟太郎は思った。麟太郎は、水戸斉昭が世界情勢を知りながら、内心と表に説くところが裏腹であったひとという。真意を幕府に悟られなかったため、壤夷、独立、鎖国を強く主張し、士            
気を鼓舞する一方、衆人を玩弄していたというのである。
 麟太郎は、水戸斉昭の奇矯な振る舞いが、腐りきった幕府家臣への憤怒の現れとみる。斉昭が終始幕府を代表して外国と接すれば今のようなことににはならなかっただろうと残念がる。不遇であるため、鎖国、壤夷、などと主張し、道をあやまった。
「惜しいかな、正大高明、御誠実に乏し」
 麟太郎は斉昭の欠点を見抜いた。
「井伊大老にすれば、激動する危険な中で、十四代将軍を家茂に定めたのは勇断だが、大獄の処断は残酷に過ぎた」
 麟太郎は幕臣は小人の群れだとも説く。小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。斉昭にしても井伊大老にしても大人物ではあったが、周りが小人物ばかりであったため、判断を誤った。
「おしいことでい」勝麟太郎は悔しい顔で頭を振った。
 赤坂の麟太郎の屋敷には本妻のたみと十歳の長女夢と八歳の孝、六歳長男の小鹿がいる。益田糸という女中がいて、麟太郎の傍らにつきっきりで世話をやく。麟太郎は当然手をつける。そして当然、糸は身籠もり、万延元年八月三日、女児を産んだ。三女逸である。 他にも麟太郎には妾がいた。麟太郎は絶倫である。
 当時、武士の外泊は許されてなかったので、妻妾が一緒に住むハメになった。

  井伊大老のあとを受けて大老となった安藤信正は幕臣の使節をヨーロッパに派遣した。 パリ、マルセーユを巡りロンドンまでいったらしいが、成果はゼロに等しかった。
 小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。只、指をくわえて見てきただけのことである。現在の日本政治家の”外遊”に似ている。
 その安藤信正は坂下門下門外で浪人に襲撃され、負傷して、四月に老中を退いた。在職中に英国大使から小笠原諸島は日本の領土であるか? と尋ねられ、外国奉行に命じて、諸島の開拓と巡察を行ったという。開拓などを命じられたのは、大久保越中守(忠寛)である。彼は井伊大老に睨まれ、左遷されていたが、文久二年五月四日には、外国奉行兼任のまま大目付に任命された。
 幕府のゴタゴタは続いた。山形五万石の水野和泉守が、将軍家茂に海軍白書を提出した。軍艦三百七十余隻を備える幕臣に操縦させて国を守る……というプランだった。
「かような海軍を全備致すに、どれほどの年月を待たねばならぬのか?」
 麟太郎は、将軍もなかなか痛いところをお突きになる、と関心した。
 しかし、列座の歴々方からは何の返答もない。皆軍艦など知らぬ無知者ばかりである。 たまりかねた水野和泉守が、
「なにか申すことがあるであろう? 申せ」
 しかし、何の返答もない。
 大久保越中守の目配せで、水野和泉守はやっと麟太郎に声をかけた。
「勝麟太郎、どうじゃ?」
 一同の目が麟太郎に集まった。
 ”咸臨丸の艦長としてろくに働きもしなかったうえに、上司を憚らない大言壮語する” という噂が広まっていた。
 麟太郎が平伏すると、大久保越中守が告げた。
「麟太郎、それへ参れとのごじょうじゃ」
「ははっ!」
 麟太郎は座を立ち、家茂の前まできて平伏した。
 普通は座を立たずにその場で意見をいうのがしきたりだったが、麟太郎はそれを知りながら無視した。麟太郎はいう。
「謹んで申し上げます。これは五百年の後ならでは、その全備を整えるのは難しと存じまする。軍艦三百七十余隻は、数年を出ずして整うべしといえども、乗組みの人員が如何にして運転習熟できましょうか。
 当今、イギリス海軍の盛大が言われまするが、ほとんど三百年の久しき時を経て、ようやく今に至れるものでござります。
 もし海防策を、子々孫々にわたりそのご趣意に背かず、英意をじゅんぼうする人にあらざれば、大成しうるものにはございませぬ。
 海軍の策は、敵を征伐するの勢力に、余りあるものならざれば、成り立ちませぬ」
 勝海舟(麟太郎)は人材の育成を説く。武家か幕臣たちからだけではなく広く身分を問わずに人材を集める、養成するべき、と麟太郎は説く。
 この年、麟太郎門下の坂本龍馬が訪ねてきた。龍馬は前年の文久二年夏、土佐藩を脱藩し、千葉定吉道場で居候していたが、近藤長次郎に連れられ、麟太郎の屋敷を訪ねてきた。 最初は麟太郎を殺すつもりだったが、麟太郎の壮大な構想をきくうちに感化され、すぐに弟子入りをした。
 龍馬は姉・乙女に手紙を書く。”天下一の英傑・勝麟太郎(勝海舟)先生の弟子になりました。えへんえへん”……


戦後70年特別編成『あの戦争は何故起こり、原爆投下や惨めな敗戦・侵略・虐殺は何故起こったのか?』7

2015年07月31日 06時50分07秒 | 日記








宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)は、天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう祭祀。皇居宮中三殿で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、掌典長(掌典職)らが祭典を行い、天皇が拝礼する小祭がある。
歴史[編集]
近代以前[編集]
中世の順徳天皇は、『禁秘抄』で「禁中作法先神事」と述べたように、天皇は肇国以来「神事」を最優先としている。四方拝などは江戸時代以前から歴代の天皇に引き継がれた行事である。
江戸時代中・後期には水戸学に基づいた尊王論の高まりがあり、新嘗祭など祭祀の再興が盛んになった。
明治期から戦前まで[編集]
今日行われている祭祀の多くは、明治維新期に大宝令、貞観儀式、延喜式などを継承して再編された物である。
天皇の「現人神」としての神格化や神仏分離などに合わせて、途絶えていた祭祀の復興や新たな祭祀の創出が行われた。1871年(明治4年)には「神社は国家の宗祀」との太政官布告が出され、1908年には宮中祭祀について定めた皇室祭祀令が皇室令の一つとして制定された。
宮城内の水田では稲作が行われ、昭和天皇以降は自ら田植えをするようになった。収穫された米は供物として、祭祀の際に用いられている。
戦後[編集]
1945年(昭和20年)に日本が敗戦し、戦後の連合国軍司令部による統治の下で、宮内省は宮内府・宮内庁へと移行される。また、国政と切り離されていた旧皇室典範は日本国憲法施行に合わせて廃止され、全面的に改定された皇室典範は一般法の一つとなった。
これに合わせて、皇室祭祀令など戦前の皇室令も、一旦全て廃止されたものの、宮内庁は内部通牒を出し、「新たに明文の規定がなくなった事項については、旧皇室令に準じて実施すること」を確認している。
現代での位置づけ[編集]
日本国憲法やその下の法律に宮中祭祀についての明文の規定はなく、現在の宮中祭祀も皇室祭祀令に基づいて行われている。また、これに係る予算も皇室の内廷費によって処理されている。このため、多くの憲法学者が、戦後の宮中祭祀を「天皇が私的に執り行う儀式」と解釈するようになった。
宮内庁の公式HPでは、宮中祭祀を「宮中のご公務など」の項で説明している。
また、内閣総理大臣はじめ三権の長が、大祭を中心に一部の祭祀に陪席していることが確認されている。佐藤栄作は首相在任期間中、春季皇霊祭・春季神殿祭、秋季皇霊祭・秋季神殿祭、新嘗祭にほとんど出席しており、NHKスペシャル『象徴天皇 素顔の記録』(2009年4月10日放送、天皇・皇后成婚50周年の記念番組)では、当時の麻生太郎首相ほか三権の長が、春季皇霊祭・春季神殿祭に出席している映像が放映された。
制度としての宮中祭祀が確立して以降の天皇では明治天皇や大正天皇はあまり熱心ではなく、侍従らが代拝するのが主であった。一方で、貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后は非常に熱心であった。
在位後期に侍従長であった入江相政は、昭和40年代から50年代に昭和天皇の高齢を理由とした祭祀の簡略化を推進したことがその日記から伺えるが、昭和天皇は1986年(昭和61年)まで新嘗祭の親祭を続けた。
今上天皇・皇后も祭祀にはきわめて熱心であり、諒闇(服喪中)や病気を除くとほとんどの宮中祭祀に代拝を立てず御自ら出席している。
祭祀に関しては、事前の潔斎と平安装束を着用する事に加え、長時間の正座が必要であり、生前の昭和天皇は祭祀が近づくと、正座してテレビを視聴するなど、意識的に長時間正座することを心がけていたという。今上天皇も新嘗祭の時節が近づくと、昭和天皇と同様に正座の練習をするとのことである。
在位20年を経た2009年(平成21年)以降は、高齢である今上天皇の健康への配慮、負担軽減のため、祭祀の簡略化や調整が計画、実施されている。
概要[編集]
主な祭儀[編集]
太字のものは大祭
1月1日 四方拝(しほうはい)、歳旦祭(さいたんさい)
1月3日 元始祭(げんしさい)
1月4日 奏事始(そうじはじめ)
1月7日 昭和天皇祭(しょうわてんのうさい)
1月30日 孝明天皇例祭(こうめいてんのうれいさい)
2月17日 祈年祭(きねんさい)
春分の日 春季皇霊祭(しゅんきこうれいさい)、春季神殿祭(しゅんきしんでんさい)
4月3日 神武天皇祭(じんむてんのうさい)、皇霊殿御神楽(こうれいでんみかぐら)
6月30日 節折(よおり) 、大祓(おおはらい)
7月30日 明治天皇例祭(めいじてんのうれいさい)
秋分の日 秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)、秋季神殿祭(しゅうきしんでんさい)
10月17日 神嘗祭(かんなめさい)
11月23日 新嘗祭(にいなめさい)
12月中旬 賢所御神楽(かしこどころみかぐら)
12月23日 天長祭(てんちょうさい)
12月25日 大正天皇例祭(たいしょうてんのうれいさい)
12月31日 節折(よおり)、大祓(おおはらい)
毎月1、11、21日 旬祭(しゅんさい)
毎日 日供の儀(にっくにのぎ) 毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)
皇室祭祀令との差異
2月11日 紀元節祭(きげんせつさい)廃止
天長節祭から天長祭へ名称変更
服装[編集]
参列者の服装は、洋装の場合モーニングコート及びアフタヌーンドレス、和装の場合は白襟紋付及びそれに準ずるものとされている。冬期は、外套を着用する事ができる。
参考文献[編集]
高橋紘『象徴天皇』(岩波新書、1987年)
原武史『昭和天皇』(岩波新書、2008年)
八木秀次「宮中祭祀廃止論に反駁する」(「正論」、2008年6月5日付)
NHKスペシャル「象徴天皇 素顔の記録」(NHK、2009年4月10日放送、のちDVD)

歴代天皇陛下一覧

1代   神武天皇   (じんむ)      
2代   綏靖天皇 (すいぜい)    
3代   安寧天皇 (あんねい)    
4代   懿徳天皇 (いとく)    
5代   考昭天皇  (こうしょう)    
6代   考安天皇 (こうあん)    
7代   考霊天皇 (こうれい)    
8代   考元天皇 (こうげん)    
9代   開化天皇 (かいか)    
10代  崇神天皇 (すうじん)    
11代  垂仁天皇  (すいにん)    
12代  景行天皇  (けいこう)    
13代  成務天皇 (せいむ)    
14代  仲哀天皇 (ちゅうあい)    
15代  応神天皇 (おうじん)    
16代  仁徳天皇 (にんとく)    
17代  履中天皇 (りちゅう)    
18代  反正天皇 (きんぜい)    
19代  允恭天皇 (いんぎょう)    
20代  安康天皇 (あんこう)    
21代  雄略天皇 (ゆうりゃく)    
22代  清寧天皇 (せいねい)    
23代  顕宗天皇 (けんそう)    
24代  仁賢天皇 (にんけん)    
25代  武烈天皇 (ぶれつ)    
26代  継体天皇 (けいたい) 皇紀1167-1191 西暦507-531
27代  安閑天皇 (あんかん) 皇紀1191-1195 西暦531-535
28代  宣化天皇 (せんか) 皇紀1195-1199 西暦535-359
29代  欽明天皇 (きんめい) 皇紀1199-1231 西暦539-571
30代  敏達天皇 (びたつ) 皇紀1232-1245 西暦572-585
31代  用明天皇 (ようめい) 皇紀1245-1247 西暦585-587
32代  崇峻天皇 (すいしゅん) 皇紀1247-1252 西暦587-592
33代  推古天皇 (すいこ) 皇紀1252-1288 西暦592-628
34代  舒明天皇 (じょめい) 皇紀1289-1301 西暦629-641
35代  皇極天皇 (こうぎょく) 皇紀1302-1305 西暦642-645
36代  考徳天皇 (こうとく) 皇紀1305-1314 西暦645-654
37代  斉明天皇 (さいめい) 皇紀1315-1321 西暦655-661
38代  天智天皇 (てんじ) 皇紀1321-1331 西暦661-671
39代  弘文天皇 (こうぶん) 皇紀1331-1332 西暦671-672
40代  天武天皇 (てんむ) 皇紀1332-1346 西暦672-686
41代  持統天皇 (じとう) 皇紀1346-1357 西暦686-697
42代  文武天皇 (もんぶ) 皇紀1357-1367 西暦697-707
43代  元明天皇 (げんめい) 皇紀1367-1375 西暦707-715
44代  元正天皇 (げんしょう) 皇紀1375-1384 西暦715-724
45代  聖武天皇 (しょうむ) 皇紀1384-1409 西暦724-749
46代  考謙天皇 (こうけん) 皇紀1409-1418 西暦749-758
47代  淳仁天皇 (じゅんにん) 皇紀1418-1424 西暦758-764
48代  称徳天皇 (しょうとく) 皇紀1424-1430 西暦764-770
49代  光仁天皇 (こうにん) 皇紀1430-1441 西暦770-781
50代  桓武天皇 (かんむ) 皇紀1441-1466 西暦781-806
51代  平城天皇 (へいぜい) 皇紀1466-1469 西暦806-809
52代  嵯峨天皇 (さが) 皇紀1469-1483 西暦809-823
53代  淳和天皇 (じゅんな) 皇紀1483-1493 西暦823-833
54代  仁明天皇 (じんみょう) 皇紀1493-1510 西暦833-850
55代  文徳天皇 (もんとく) 皇紀1510-1518 西暦850-858
56代  清和天皇 (せいわ) 皇紀1518-1536 西暦858-876
57代  陽成天皇 (ようぜい) 皇紀1536-1544 西暦876-884
58代  光考天皇 (こうこう) 皇紀1544-1547 西暦884-887
59代  宇多天皇 (うだ) 皇紀1547-1557 西暦887-897
60代  醍醐天皇 (だいご) 皇紀1557-1590 西暦897-930
61代  朱雀天皇 (すざく) 皇紀1590-1606 西暦930-946
62代  村上天皇 (むらかみ) 皇紀1606-1627 西暦946-967
63代  冷泉天皇 (れいぜい)  皇紀1627-1629 西暦967-969
64代  円融天皇 (えんゆう) 皇紀1629-1644 西暦969-984
65代  花山天皇 (かざん) 皇紀1644-1646 西暦984-986
66代  一条天皇 (いちじょう) 皇紀1646-1671 西暦986-1011
67代  三条天皇 (さんじょう) 皇紀1671-1676 西暦1011-1016
68代  後一条天皇 (ごいちじょう) 皇紀1676-1696 皇紀1676-1696
69代  後朱雀天皇 (ごすざく) 皇紀1696-1705 西暦1036-1045
70代  後冷泉天皇 (ごれいぜい) 皇紀1705-1728 西暦1045-1068
71代  後三条天皇 (ごさんじょう) 皇紀1728-1732 西暦1068-1072
72代  白河天皇 (しらかわ) 皇紀1732-1746 西暦1072-1086
73代  堀河天皇 (ほりかわ) 皇紀1746-1767 西暦1086-1107
74代  鳥羽天皇 (とば) 皇紀1767-1783 西暦1107-1123
75代  崇徳天皇 (すとく) 皇紀1783-1801 西暦1123-1141
76代  近衛天皇 (このえ) 皇紀1801-1815 西暦1141-1155
77代  後白河天皇 (ごしらかわ) 皇紀1815-1818 西暦1155-1158
78代  二条天皇 (にじょう) 皇紀1818-1825 西暦1158-1165
79代  六条天皇 (ろくじょう) 皇紀1825-1828 西暦1165-1168
80代  高倉天皇 (たかくら)     皇紀1828-1840 西暦1168-1180
81代  安徳天皇 (あんとく)     皇紀1840-1845 西暦1180-1185
82代  後鳥羽天皇 (ごとば) 皇紀1843-1858 西暦1183-1198
83代  土御門天皇 (つちみかど) 皇紀1859-1870 西暦1198-1210
84代  順徳天皇 (じゅんとく)     皇紀1870-1881 西暦1210-1221
85代  仲恭天皇 (ちゅうきょう) 皇紀1881-1881 西暦1221-1221
86代  後堀河天皇 (ごほりかわ) 皇紀1881-1892 西暦1221-1232
87代  四条天皇 (しじょう)     皇紀1892-1902 西暦1232-1242
88代  後嵯峨天皇 (ごさが) 皇紀1902-1906 西暦1242-1246
89代  後深草天皇 (ごふかくさ) 皇紀1906-1919 西暦1246-1259
90代  亀山天皇  (かめやま) 皇紀1919-1934 西暦1259-1274
91代  後宇多天皇 (ごうだ) 皇紀1934-1947 西暦1274-1287
92代  伏見天皇 (ふしみ)     皇紀1947-1958 西暦1287-1298
93代  後伏見天皇 (ごふしみ) 皇紀1958-1961 西暦1298-1301
94代  後二条天皇  (ごにじょう) 皇紀1962-1968 西暦1301-1308
95代  花園天皇 (はなぞの)     皇紀1968-1978 西暦1308-1318
96代  後醍醐天皇 (ごだいご) 皇紀1978-1999 西暦1318-1339
97代  後村上天皇 (ごむらかみ) 皇紀1999-2028 西暦1339-1368
98代  長慶天皇 (ちょうけい)     皇紀2028-2043 西暦1368-1383
99代  後亀山天皇 (ごかめやま) 皇紀2043-2052 西暦1383-1392
100代  後小松天皇 (ごこまつ) 皇紀2042-2072 西暦1382-1412
101代  称光天皇 (しょうこう) 皇紀2072-2088 西暦1412-1428
102代  後花園天皇 (ごはなぞの) 皇紀2088-2124 西暦1428-1464
103代  後土御門天皇 (ごつちみかど)皇紀2124-2160 西暦1464-1500
104代  後柏原天皇 (ごかしわばら)皇紀2162-2188 西暦1500-1526
105代  後奈良天皇 (ごなら) 皇紀2188-2219 西暦1526-1557
106代  正親町天皇 (おおぎまち) 皇紀2219-2248 西暦1557-1586 
107代  後陽成天皇 (ごようぜい) 皇紀2248-2273 西暦1586-1611
108代  後水尾天皇 (ごみずのお) 皇紀2273-2291  西暦1611-1629
109代  明正天皇 (めいしょう) 皇紀2291-2305 西暦1629-1643
110代  後光明天皇 (ごこうみょう 皇紀2305-2316 西暦1643-1654
111代  後西天皇 (ごさい) 皇紀2316-2323 西暦1654-1663
112代  霊元天皇 (れいげん) 皇紀2323-2347 西暦1663-1687
113代  東山天皇 (ひがしやま) 皇紀2347-2369 西暦1687-1709
114代  中御門天皇 (なかみかど) 皇紀2369-2395 西暦1709-1735
115代  桜町天皇 (さくらまち) 皇紀2395-2407 西暦1735-1747
117代  後桜町天皇 (ごさくらまち) 皇紀2422-2430 西暦1762-1770
118代  後桃園天皇 (ごももぞの) 皇紀2430-2439 西暦1770-1779
119代  光格天皇 (こうかく) 皇紀2439-2477 西暦1779-1817
120代  仁考天皇 (じんこう 皇紀2477-2506 西暦1817-1846
121代  孝明天皇 (こうめい) 皇紀2506-2526 西暦1846-1866
122代  明治天皇 (めいじ) 皇紀2527-2572 西暦1867-1912
123代  大正天皇 (たいしょう) 皇紀2572-2586 西暦1912-1926
124代  昭和天皇 (しょうわ) 皇紀2586-2649 西暦1926-1989
125代  今上陛下   皇紀2649- 西暦1989-
    

天皇・皇后両陛下の葬儀、17世紀以来の火葬に。宮内庁発表、陵は寄り添う形。 宮内庁は14日、天皇、皇后両陛下の意向を受けて検討を進めてきた「今後の陵と葬儀のあり方」を発表した。陵の墳丘の形状は従来通りで、天皇・皇后陵が隣り合う形にし、敷地面積を昭和天皇・香淳皇后陵の8割程度にする。また江戸時代前期から続いてきた土葬を火葬に変更し、火葬のための新たな儀式を行う。天皇の火葬は1617年の後陽成天皇の葬儀が最後で、葬法の歴史的転換になるが、他に大きな変更はなく、旧皇室喪儀令などに基づく戦前の形式が継続することになった。陵の予定地は東京都八王子市の武蔵陵墓地の大正天皇陵西側になる。宮内庁は昨年4月、新たな陵と葬儀のあり方の検討を行うと表明。両陛下は武蔵陵墓地の用地に余裕がなくなっていることや国民生活への影響を少なくすることを考慮して検討を進めてほしいとの意向を示されていた。また一般社会で火葬が通常化していることなどから火葬を希望された。陵は明治天皇陵から続いている「上円下方」の墳丘形式を踏襲。従来より大きさを縮小した天皇、皇后陵が並び立つように配置する。皇后陵は天皇陵より小さめになる。(2013年11月15日読売新聞記事参照)2013年10月31日の秋の園遊会で天皇陛下に手紙を渡した山本太郎参院議員(無所属)に対し、1日、議員辞職を求める声が相次いだ。自民党の脇雅史参院幹事長は党役員連絡会で「憲法違反は明確だ。二度とこういう事が起こらないように本人が責任をとるべきだ」と要求した。橋下徹氏は「日本国民であれば、法律に書いていなくても、やってはいけないことは分かる。陛下に対してそういう態度振る舞いはあってはならない。しかも政治家なんだから。信じられない」と批判。(2013年11月1日毎日新聞)2013年6月9日、「皇太子さまと雅子様のご成婚から20周年」でした。早いものです。愛子さまも大きく成長された。雅子さまのご病気は依然として予断を許さないがご快復をお祈りいたしたい。雅子さまと皇太子さまは、オランダに公務でいらっしゃった。週刊誌などは「園遊会に欠席したのにオランダにはいった雅子さま」などと批判しているが雅子さまの精神障害(適応障害)が大変重いことがわかっていない。精神病は見えない心の病気だからわからないのだ。どれだけ苦しいか。2012年6月6日、16回目のがん関連手術を受けた仁(ともひと)親王殿下(66)が亡くなられた。「髭の殿下」として慕われたが病気には勝てなかった。イギリスのエリザベス王女が戴冠式のとき、当時19歳の皇太子だった明仁天皇(学習院大学在学中)は列席なさっていますね。また皇太子妃・雅子さまがご体調を崩されたようです。原因としては愛子さまの登校に1年以上同伴してメンタル面でダメージがあったそうです。また政府の検討では「女性宮家は1代限り」だそうです。女性皇族(宮家)の夫や子供は皇族ではないということです。「女性宮家」だのより「旧宮家」から養子をとったりすればいいのでは?とも思いますがね。2012年2月18日天皇陛下の心臓バイパス手術が成功しました。まずはよかった。2015年12月23日天皇明仁が81歳になった。最近は天皇も耳が遠くなり、皇后も病を抱えている。「新年祝賀の義」が開かれてお手振り(笑)しましたね。09年11月12日、政府の式典「平成天皇即位20周年記念式典」が開かれた。それに先立って皇居・宮殿「石橋(しゃっきょう)の間」で(平成)天皇と皇后は記者会見を開いた。天皇は「「象徴」の在り方を今日まで模索中である」という。即位したのは90年11月12日である。私はその当時を覚えている。あの意味不明の「即位の礼」皇居・正殿での醜悪なナショナリズムのオンパレードの「即位礼正殿の儀」という国儀だ。「天皇陛下万歳!皇后陛下万歳!」というあれだ。中国の次世代リーダーの習近平氏と天皇が会見したことで野党自民党や羽毛田宮内庁長官は「30日ルール(天皇と外国の国家元首が会う場合によって30日前に宮内庁に相談するルール)」が破られた。と騒いでいます。が、皇族は官僚や政治家と同じようにパブリックサーバント(公僕)なんです。日本の国益の為に会うのは間違いではありません。また愛子ちゃんがいじめで不登校であるそうですね。この異例の報道は危険だと思います。愛子ちゃんがいじめられているとかは子ども達の話しです。発表してマスコミが報道することで、乱暴をふるったとされる男子小学生は「天皇の孫をいじめた悪童」として社会的に抹殺されたり自殺したりしたら宮内庁や皇室担当マスコミは自殺の責任を取れるのか?可能性はゼロではない。ここでは「天皇論」を展開します。まず「国歌・君が代」ですがおかしいって思いませんか?「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」…主権在民を唄っておいてなんで君が代つまり「天皇の代」が「苔のむすまで未来永劫続け」と唄わなければならないのですか?確かに江戸時代は婚礼の際やらで庶民的な唄であって、「君が代」は古今和歌集の一句であることは知っています。が、この詩に曲が付けられたのは明治13年、天長節(11月3日)に宮中宴会で披露されてからです。つまりここからは「君が代」が「天皇の代」になっ
た訳です。「君が代は天皇の代ではない」など詭弁もいいところです。古来天皇の最も重要なつとめは祭事を行うことといわれ、春秋の皇霊祭、神嘗祭(かんなめさい)、新嘗祭など年間30回にもおよびます。天皇はいわゆる「超能力者」みたいな感じで、神の子孫(イザナギやイザナミやスサノオや天照大神の子孫)といわれています。無論そんな神の子孫な訳ありません。皆さんは天照大神を本当に心から信じられますか?それが答えです。だが天皇制度は推古天皇(608年)から数えても1400年以上の歴史があります。天皇はエンペラー(皇帝)ではなく祭司王です。国家元首で天照大神の弟のニニギノミコトの曾孫が初代・神武天皇です。なお正月の一般参賀は皇室の「長和殿」でいわゆる「お手振り」をやる訳です。ちなみに今の平成天皇(今上天皇)の名前がわからない方もいるかもしれない。昭和天皇は裕仁(ヒロヒト)、平成天皇(今上天皇)は明仁(アキヒト)、皇太子は徳仁(ナルヒト)です。「仁」の字は第56代清和天皇(858
年から876年)の推仁(これひと)で初めて使われ、第70代後冷泉(ごれいぜい)天皇の親仁(チカヒト)以来わずかな例外を除き「仁」を使うのが通例になっている。明治時代から皇子には「仁」皇女には「子」をつけるのが正式に決まった。名前を本名で呼ばないのは「位が高い」から(笑)。生前の事績を称える「諮号(しごう)」明治天皇、大正天皇、昭和天皇、いずれも造年であり、生前は呼ばない。在任中は「今上(きんじょう)天皇」と呼ぶ。天皇皇后および皇太后、太皇太后(たいこうたいごう)を陛下、それ以外の皇族は殿下である。秋篠宮の子供は眞子内親王殿下、佳子内親王殿下、悠仁親王殿下です。天皇皇后および皇族には姓がありません。また天皇には戸籍もありません。即位拒否や退位の自由も「自分の意見をいう権利」もありません。婚姻の自由もありません。まずは宮内庁の「皇族会議」で決まります。明仁天皇(平成天皇)と皇后美智子さんが前にサイパ
ンに慰霊の旅に出て「バンザイクリフ(戦争中に日本人たちが「天皇陛下バンザイ」と叫びながら投身自殺した崖)」で手を合わせた。こんな謝罪は謝罪じゃない。こういったことは昭和天皇がとっくの昔にアジア諸国を回って謝罪の旅に出るべきであって、今更遅いのである。昭和天皇は現人神(あらひとがみ)で軍服をきた、陸海空軍を統べる「大元帥」だったのだから。確かに「人間宣言」をしたが、昭和天皇には「戦争責任」が確実にあった。確かに「日本の象徴」としての天皇制度は私は否定しない。だけど私は小林よしのりのように天皇を「神格化」したり「ありがたがったり」しない。象徴ではあるが、皇族は政治家や官僚と同じく国民の納める税金で食べさせてやっている「パブリック・サーバント(公僕)」です。何故、「ヒトラーと同じく独裁者と欧米から見られていた昭和天皇・裕仁」が罪に問われなかったのかは分かる。当時、GHQのマッカーサーは「天皇制度」を廃止しようとしていた。が、「天皇制度を廃止したら日本人が内戦を
起こす」「天皇制度を廃止したら日本はまた戦争をする」「天皇制度を廃止したらとんでもない独裁者が出現するかもしれない」というミス・インフォメーション(根拠のない噂)を受け入れて天皇制度を廃止しなかっただけだ。が、天皇制度を廃止しても誰も内戦など起さないし、動乱も独裁者も現れはしなかっただろう。それどころか天皇制度という「昔からの曖昧な制度」を残した為に日本人は「無責任」「批判もなく天皇を崇める」本当に無責任な他人頼りになった。天皇制度は何らかの制度疲労を起こしている。その典型的な例が「雅子さんの精神疾患」や「皇后の失語症」だろう。まあ、私自身がうつ病不眠症の「適応障害」である為に雅子さん(小和田雅子さん)の「痛み」がよくわかります。心の病気は目に見えない部分で普通のひとには「落ち込んでいる」としか見えない。だからうつ病のひとに「頑張れ」と言ってしまう。「頑張らなければならない」ことなどわかっています。でも病気で「頑張れない」のです。私の兄貴(緑川和宏)などは
うつ病の症状どころか病名さえ知らず「お前を大人だと認めていない」といいました。猿には私が「さぼっている」と写ったようです。心ない言葉や罵声、嘲笑がいかにうつ病の患者を傷つけるか?皇太子の家族が住む「東宮御所」が改築されて屋根にはソーラーパネルが付けられたという。先日、あるひとが「明治維新を起こした志士はすごかった。その同じ日本人の血が流れているのにどうして今の日本人は維新の革命を出来ないのか?」と私に聞いてきた。よくある意見ではある。確かに坂本竜馬だの西郷
隆盛だの勝海舟だの桂小五朗(木戸孝允)だの何度もドラマになっている。わが国では明治維新こそ「日本のフランス革命である」という。が、果たして薩摩や長州の藩士達は「日本のフランス革命」を果たしたのであろうか?私は明治維新は「革命」でもなければ「刷新」でもない。所詮は日本のトップが、将軍から天皇に代わったイノベーションに過ぎないと思っている。絶対王制を打ち倒し、過去の土地支配の上に成立する貴族階級をすべて廃止して、「王がどれほどのものだ。ひとりのフランス人に比べればゴミと同じ存在だ」というルソーの有名な言葉に代表される「フランス革命」のパワーとメンタリティは「明治維新」のどこにも見られない。結局、明治維新の志士達は「天皇制」という「昔からの曖昧なシステム」に逃げ込んだだけです。大嘗祭だの即位礼儀という意味のないセレモニーに数十億円という税金が使われたのに誰も咎めない無責任さ。結局、この程度だからナショナリズムと国粋主義の区別もつかない。漫画家だけでなく大学教授まで「侵略戦争」を
否定して「過去の日本人が悪いなんて東京裁判史観だ」だの侵略戦争下での大虐殺や強姦行為を他人事のように「遺憾に思う」だけ。大人の国なら当たり前の謝罪がない。謝罪もしない。賠償金も払わない。他人事のように「遺憾に思う」だけ……。
明治維新のどこが維新の革命なのだろう?只将軍から天皇に首をすげ替えただけだ。(ここから官僚政府が誕生した。それから120年後で官僚独裁制が確立した。官僚独裁制を警戒した経済学者がマックス・ウェーバーだった)結局、この程度だからナショナリズムと国粋主義の区別も出来ない。おまけに天皇のクレームには右翼が銃撃戦争で答える有様である。天皇制を金科玉条のように崇め、誰も逆らわない。曖昧な天皇制にどっぷりとつかり誰も文句が言えない。言った途端に右翼が後ろから銃撃してくる。天皇陛下が悪い訳ではありません。雅子さんが悪い訳ではありません。結局、天皇制を利用している「側近」や「宮内庁の利益集団」「皇室担当マスコミ」の皇産複合体が「元凶」なのである。即位礼儀は別にいいかもしれない。が、現在の天皇陛下が崩御した後に雅子さんが新皇后陛下となり得るか?皇太子に次期天皇陛下の重責が担えるか?後継者はどうするつもりなのか?疑問ばかりです。即位礼儀や成婚50周年記念写真集だのの前に考えることが山積し
ているのである。日本人は天皇陛下万歳という前に自分の頭でよく考えることだ。


大島優子主演映画『ロマンス』大島「凄い顔のあくびのシーンがお気に入り」是非映画を観てください!

2015年07月30日 21時34分11秒 | 日記




大島優子、無防備な姿に「大丈夫?」 主演映画『ロマンス』予告映像公開

大島優子が主演を務める映画『ロマンス』の予告編が公開 (C)2015 東映ビデオ

大島優子が主演を務める映画『ロマンス』の予告編が公開 (C)2015 東映ビデオ
 女優・大島優子(26)の主演映画『ロマンス』(8月29日公開)の予告編映像が29日、公開された。6年ぶりに映画主演を務める同作で、特急ロマンスカーのアテンダントを熱演している。

 同作の脚本・監督は、映画『百万円と苦虫女』のタナダユキ氏が担当。特急ロマンスカーのアテンダントとして働く北條鉢子(大島)は、ひょんなことから映画プロデューサーを名乗る怪しい中年男性客・桜庭に“母親からの手紙”を読まれてしまい、かつて家族で訪れた箱根の景勝地をめぐって母親を捜すことになる。

 公開された予告映像では、ロマンスカーのアテンダントとして発声練習する様子や、車内販売を行う姿を披露。「ずっと自宅でアテンダントの練習をしていました」とクランクイン前から役作りに励んでいたといい、「鉢子は今の私と同じ26歳という設定です。20代前半とは違い、この年齢になるとなぜか前に踏み出す勇気が持てず、怖くなることがあります。そういう気持ちを抱いている鉢子にとても共感しました」と役柄への思い入れを明かす。

 「タナダワールドにいる自分が何よりもうれしかったです」と完成作に満足げで、「劇中では、『これ大丈夫かな!?(笑)』と思うくらいのぐちゃぐちゃな顔や無防備な姿、とびっきり楽しい表情や切ない感情などたくさん引き出していただきました!」と手応えをにじませている。


 大島優子「すごい顔のあくびのシーンがお気に入り」

 AKB48卒業後、大島優子の初主演映画となる『ロマンス』。タナダユキ監督にとっては『百万円と苦虫女』以来、7年ぶりにオリジナル脚本に挑戦した意欲作。そんな今注目の2人がタッグを組んだ作品『ロマンス』の裏話を主演の大島優子が語った。

――――タナダユキ監督作品に主演された感想は?

「実は『百万円と苦虫女』が大好きで、ずっとタナダユキ監督の作品に出させていただきたいと思っていたんです。女の子の微妙で繊細な揺れ動く気持ちを、ものすごく魅力的に表現されると感じていて。実際の監督は綺麗でお洒落です。朝早くてもメイクもばっちりでいらっしゃいますし(笑)。だから素の自分をさらけだしてお芝居ができました」

――――今回の役はロマンスカーのアテンダントの鉢子役ですが演じてみてどうでしたか?

「アテンダントのお仕事は本当に大変です。電車やバスが揺れていても踏ん張ってがんばらなければならない。実際のアテンダントさんはお客様の接し方も見事で、そうとうモテるんだろうな、と。(笑)」


――――鉢子を振り回す桜庭役の大倉孝二さんはどうでしたか?

「私、ひとを笑わせるお芝居はあまり経験がないので凄いなあ、と(笑)。まるで漫才師の方のようで(笑)お芝居の方なんですが(笑)本業は(笑)私は前はアイドルのAKBでしたが(笑)」

――――本作で大島さんのお気に入りのシーンは?

「あくびをするシーンです。監督が”もっともっと”と。桜庭となじめなくてのあくびと、なじんでからのおおきなあくび(笑)試写を観てタナダ監督はすごいなあ、と(笑)」

「盗作だ」ベルギーのデザイナーが法的措置へ 2020年東京オリンピックのエンブレム

2015年07月30日 17時47分47秒 | 日記





「盗作だ」ベルギーのデザイナーが法的措置へ 2020年東京オリンピックのエンブレム
執筆者: 安藤健二

投稿日: 2015年07月30日 11時52分 JST 更新: 5時間前

2020年に開催される東京オリンピックのエンブレムについて、ベルギーのデザイナーが「自分のつくったロゴの盗作だ」と訴えて、法的措置を取ることを明らかにした。7月30日、テレビ朝日系のニュース番組「モーニングバード」が報じた。


ベルギー東部のリエージュ劇場のロゴ(左)を制作したオリビエ・ドビさんが、東京オリンピックのエンブレム(右)がデザイン・ロゴともに酷似していると指摘した。ANNの取材に対して彼は、「どんなケースであっても『盗作』と言える。もちろん、何らかの条件が偶然重なることもあるが、(今は)世界のどこにあるものも手に入る時代、疑問を抱かざるを得ない」と話した。

東京オリンピックの組織委員会では「世界中の商標確認をしており、問題ない」との認識を示しているという。

戦後70年特別編成『あの戦争は何故起こり、原爆投下や惨めな敗戦・侵略・虐殺は何故起こったのか?』6

2015年07月30日 06時19分38秒 | 日記









  天皇論!

なお、ここからの『天皇論』の参考文献はウィキペディア、SAPIO誌(小学館)、小林よしのり『天皇論』(小学館文庫)、高谷朝子『宮中賢所物語』(ビジネス社)、高橋紘『平成天皇と皇室』(文藝春秋)、高橋紘『天皇家の仕事 読む「皇室事典」』(文藝春秋)、高橋紘+所功『皇位継承』(文藝春秋)、高橋明勅『日本の可能性』(モラロジー研究所)、原武史『昭和天皇』(岩波新書)、ラビダノート・パール+田中正明編『パール博士「平和の宣言」』(小学館)、半藤一利編『日本のいちばん長い日』(文春新書)など、である。後は皇室関連著書の名もない方のあまたの参考文献である。
盗作ではなく引用である。裁判とか訴訟とか勘弁してください。また、この『いわゆる天皇論』は小林よしのり氏の本がベースになっていますが、氏と著者では考え方が180度違うので改めてご理解お願いいたします。
君が代は日本の国歌であるが、「君が代」とは昔は都々逸や流行歌として謳われていたが、明治時代(明治13年の天長節・11月3日)の宮中晩さん会で明治天皇の前で正式に演奏された。ここから「君が代」=「天皇の世」となった訳である。「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」ちなみに”さざれ石”とは小石のことで、それが大きな岩になって苔に覆われるくらいの年月、天皇の世が未来永劫続け!と謳わされる訳だ。
天皇は当たり前ながら人間である。現人神(あらひとがみ)から人間になった。人間であるから食べ物も食べるし排泄も子供つくりや育児も趣味もやる。人間なのだ、神格化は絶対にするな!「天皇制度」は当たり前で、行政システムである。官僚も政治家も皇族も公僕(パブリックサーバント)であり、税金で飯を食っていることにはかわりはない。
天皇家は特権階級でもなく贅沢生活などもしてはおらず、あんな皇居みたいな一箇所に閉じ込められて自由がなくかわいそうではある。だが、天皇制度こそ日本の優れた”行政制度”なのである。
「例えば日本では金正恩やヒトラーみたいな独裁者は生まれない。これは天皇のおかげだね」と小林よしのり氏は著作でいうが違う。警察や民主主義や自衛隊・公安がちゃんと機能しているからである。
天皇制度を信じているひとでも『天照大神』や『日本神話』を本気で信じているひとは少数だと思う。天皇は祭祀王であり、まあ祭祀などやるだけ税金の無駄で、超能力者でもないので祈っただけで物事は好転はしない。神社で一般国民が祈るのとなんらかわらない。税金の無駄、でしかない。
<皇室用語集(宮内庁資料)>あ か さ た な は ま や ら わ


歌会始の儀(うたかいはじめのぎ)
毎年1月,天皇・皇后の御前で,一般から詠進して選に預かった歌,選者の歌,召人(めしうど)の歌,皇族のお歌,皇后の御歌(みうた),最後に御製(ぎょせい)を披講(ひこう)する儀式
詠進歌(えいしんか)
歌会始の儀に際して詠進された短歌
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等
園遊会(えんゆうかい)
毎年,春・秋の2回,天皇・皇后が,三権の長等の要人・都道府県の知事等・各界功績者とその配偶者を招いて赤坂御苑で催される饗応の行事
園遊会 最近の園遊会被招待者数
お歌(おうた)
皇后・皇太后以外の皇族がお詠みになった短歌
お題(おだい)
天皇がお定めになった短歌の題
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等
お茶・茶会(おちゃ・ちゃかい)
お客を招いて軽食を供する行事
拝謁・お茶・ご会釈など
御手元金(おてもときん)
皇室経済法の定めるところにより宮内庁の経理に属する公金とされない金銭(皇室経済法第4・6条)
皇室の経済 予算
お成り(おなり)
天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃以外の皇族方が外出されること。
文仁親王同妃両殿下のご日程
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還啓(かんけい)
皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が行啓先からお帰りになること。
皇太子同妃両殿下のご日程
歓迎行事(かんげいぎょうじ)
皇室における国賓の接遇の一つで,国賓をお迎えになる行事
国賓のご接遇 天皇皇后両陛下のご日程
還幸(かんこう)
天皇が行幸先からお帰りになること。
還幸啓(かんこうけい)
天皇・皇后がご一緒に行幸啓先からお帰りになること。
天皇皇后両陛下のご日程
給桑(きゅうそう)
蚕に桑を与えること。大きく育った蚕に,枝付きの桑を与えることを「条桑育じょうそういく」という。
宮中饗宴の儀(きゅうちゅうきょうえんのぎ)
ご即位,立太子,ご結婚などを披露され,祝福を受けられる祝宴
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 天皇皇后両陛下のご日程
宮中午餐(きゅうちゅうごさん)
内外の賓客を招いて宮中において催される昼食会
午餐・晩餐 公賓のご接遇 公式実務訪問賓客のご接遇 天皇皇后両陛下のご日程
宮中晩餐(きゅうちゅうばんさん)
皇室における国賓の接遇の一つで,宮中において催される夕食会
国賓のご接遇 天皇皇后両陛下のおことばなど 天皇皇后両陛下のご日程
宮廷費(きゅうていひ)
儀式,国賓・公賓等の接待,行幸啓,皇族の外国ご訪問など皇室の公的ご活動等に必要な経費,皇室の用に供されている皇室用財産の管理に必要な経費,皇居等の施設整備などに充てられる経費。宮廷費は宮内庁が経理する公金である。(皇室経済法第5条)
皇室の経済 予算
饗宴の儀(きょうえんのぎ)
ご即位,立太子,ご結婚などを披露され,祝福を受けられる祝宴
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼の主な儀式・行事 天皇皇后両陛下のご日程
行啓(ぎょうけい)
皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が外出されること。
皇太子同妃両殿下のご日程
行幸(ぎょうこう)
天皇が外出されること。
行幸啓(ぎょうこうけい)
天皇・皇后がご一緒に外出されること。
行幸啓など(国内のお出まし 天皇皇后両陛下のご日程
御璽(ぎょじ)
「天皇御璽」と刻された天皇の御印(詔書・法律・政令・条約の公布文,条約の批准書,大公使信任状・解任状,全権委任状,領事委任状,外国領事認可状,認証官の官記・免官の辞令などに押印される)
御璽・国璽 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼の主な儀式・行事 宮内庁
御製(ぎょせい)
天皇がお詠みになった短歌(歌会始の儀の中では「おおみうた」という)
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等 天皇皇后両陛下のお歌
供膳の儀(くぜんのぎ)
ご結婚されたお二方が初めて食事をご一緒にされる儀式
勲章親授式(くんしょうしんじゅしき)
天皇が大綬章等の勲章をみずから授与される儀式
勲章親授式 大綬章等勲章親授式
勲章伝達式(くんしょうでんたつしき)
重光章等の勲章を伝達する儀式。重光章等の勲章は内閣総理大臣が伝達し,宮中で行われる。
結婚の儀(けっこんのぎ)
お二方が,賢所において結婚の誓いをされる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事
剣璽(けんじ)
宝剣と神璽のこと
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事
剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ)
天皇が皇位を継承された証(あかし)として剣璽・御璽・国璽を承継される儀式
御璽・国璽 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼
ご引見(ごいんけん)
天皇・皇后が外国元首・王族以外の外国の賓客とお会いになること
ご会見・ご引見など 天皇皇后両陛下のご日程
皇位(こうい)とともに伝わるべき由緒ある物
三種の神器(鏡・剣・璽)・宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)のように皇位とともに承継されるべき由緒ある物(皇室経済法第7条)
皇室の経済 ご即位・大礼
講書始の儀(こうしょはじめのぎ)
毎年1月,天皇が皇后とご一緒に,人文科学・社会科学・自然科学の各分野の権威者のご説明をお聴きになる儀式
講書始 天皇皇后両陛下のご日程
皇嗣(こうし)
皇位を継承することを予定されている皇族
皇族 皇室の経済
講師(こうじ)
歌会始の儀において全句を節をつけずに読む役
歌会始
皇室経済会議(こうしつけいざいかいぎ)
内廷費・皇族費の定額の変更等法律に定める皇室経済関係の重要事項について審議する。衆・参両院の議長・副議長,内閣総理大臣,財務大臣,宮内庁長官,会計検査院長の議員8人で組織される。
皇室の経済 皇室経済会議議員名簿
皇室用財産(こうしつようざいさん)
国有財産中の行政財産に属し,国において皇室の用に供し,又は供するものと決定した財産
皇室用財産 皇室関連施設
講頌(こうしょう)
歌会始の儀において第2句以下を発声に合わせて唱える役
歌会始
皇族費(こうぞくひ)
皇族としての品位保持の資に充てるためのもので,各宮家の皇族に対し年額により支出される。皇族費を算出する基礎となる定額は法律により定められる。皇族費は,各皇族の御手元金となる。このほかに,皇族が初めて独立の生計を営む際や皇族の身分を離れる際の一時金がある。(皇室経済法第6条,皇室経済法施行法第8条)
皇室の経済 予算
皇族譜(こうぞくふ)
天皇・皇后・太皇太后・皇太后以外の皇族の身分に関する事項を登録するもの
天皇・皇族の身位に伴う事項 皇室典範 皇統譜令
皇太子成年式加冠の儀(こうたいしせいねんしきかかんのぎ)
皇太子が成年になった証(あかし)として成年の冠を授けられる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事
皇統譜(こうとうふ)
天皇・皇族の身分に関する事項を登録するもの。いわゆる一般の戸籍にあたるもので,大統譜と皇族譜がある。(皇室典範第26条)
天皇・皇族の身位に伴う事項 関係法令
ご会釈(ごえしゃく)
天皇・皇后が非公式にお会いになること
拝謁・お茶・ご会釈など
ご会見(ごかいけん)
天皇・皇后が外国元首・王族とお会いになること
ご会見・ご引見など 天皇皇后両陛下のご日程
ご帰還(ごきかん)
天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃以外の皇族方がお成り先からお帰りになること。
文仁親王同妃両殿下のご日程
国璽(こくじ)
「大日本国璽」と刻された国印(勲記に押印される)
御璽・国璽 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼の主な儀式・行事 宮内庁
ご進講(ごしんこう)
天皇・皇后・皇族に学者等が業績などをご説明申し上げること
天皇皇后両陛下のご日程 皇太子同妃両殿下のご日程 文仁親王同妃両殿下のご日程
告期(こっき)
ご結婚の期日を告げること
ご訪問(ごほうもん)
皇室における国賓の接遇の一つで,国賓をお見送りになる行事
国賓のご接遇 天皇皇后両陛下のご日程
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祝賀御列の儀(しゅくがおんれつのぎ)
天皇が即位礼正殿の儀の終了後,広く国民にご即位を披露され,祝福を受けられる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼
上蔟(じょうぞく)
蚕が繭まゆとなるための蔟まぶし(繭まゆづくり専用の器具)へ移すこと。
親任式(しんにんしき)
天皇が内閣総理大臣・最高裁判所長官を任命される儀式
親任式 親任式(ご即位後の件数) 天皇皇后両陛下のご日程
信任状捧呈式(しんにんじょうほうていしき)
新任の外国の特命全権大使が信任状を天皇に捧呈する儀式
信任状捧呈式 信任状捧呈式の際の馬車列 信任状捧呈式(ご即位後の件数) 天皇 天皇皇后両陛下のご日程
新年一般参賀(しんねんいっぱんさんが)
新年に当たり,天皇・皇后が,皇族とご一緒に,国民から祝賀をお受けになる行事
新年祝賀・一般参賀 新年一般参賀要領
新年祝賀の儀(しんねんしゅくがのぎ)
毎年1月1日,天皇が皇后とご一緒に皇族をはじめ三権の長等の要人・在日外交団の長とその配偶者から新年の祝賀をお受けになる儀式
新年祝賀・一般参賀 天皇陛下のご感想(新年に当たり) 宮殿各棟の概要 天皇皇后両陛下のご日程
成年(せいねん)
天皇・皇太子・皇太孫は18年,その他の皇族は20年(皇室典範第22条,民法第4条)
天皇・皇族の身位に伴う事項 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事
成年式(せいねんしき)
皇族が成年に達せられたときに行われる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご略歴
選歌(せんか)
詠進歌の中から選ばれて歌会始の儀において披講される短歌(その作者を「預選者」(よせんじゃ)という)
選者(せんじゃ)
詠進歌の中から選歌を選ぶ者
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等
即位(そくい)
皇嗣が皇位につかれること(皇室典範第4条)
即位後朝見の儀(そくいごちょうけんのぎ)
天皇がご即位後初めて公式に三権の長をはじめ国民を代表する人々に会われる儀式
即位の礼(そくいのれい)
天皇が位につかれたことを公に告げられる儀式。国事行為たる儀式で,剣璽等承継の儀・即位後朝見の儀・即位礼正殿の儀・祝賀御列の儀・饗宴の儀から成る(皇室典範第24条)
即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)
天皇がご即位を公に宣明されるとともに,そのご即位を内外の代表がことほぐ儀式
天皇・皇族の身位に伴う事項 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼 天皇陛下ご即位に際し(平成元年) 天皇陛下お誕生日に際し(平成2年)
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大饗の儀(だいきょうのぎ)
大嘗宮の儀の後,天皇が参列者に白酒(しろき)・黒酒(くろき)・酒肴を賜り,ともに召し上がる儀式
大嘗宮の儀(だいじょうきゅうのぎ)
大嘗祭の中心的儀式で,悠紀殿供饌の儀と主基殿供饌の儀から成る
大嘗祭(だいじょうさい)
天皇がご即位の後,大嘗宮の悠紀殿・主基殿において初めて新穀を皇祖・天神地祇に供えられ,自らも召し上がり,国家・国民のためにその安寧と五穀豊穣などを感謝し祈念される儀式(一連の儀式を総称して用いられることもある)
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼 天皇陛下お誕生日に際し(平成2年)
大統譜(だいとうふ)
天皇・皇后・太皇太后・皇太后の身分に関する事項を登録するもの
天皇・皇族の身位に伴う事項
高御座(たかみくら)
即位の礼において,天皇がおつきになる御座
京都御所一般公開 天皇・皇族の身位に伴う事項
朝見の儀(ちょうけんのぎ)
立太子,ご結婚などに際し,天皇・皇后にごあいさつをされる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 映像で見るご結婚50年のお歩み
天蚕(てんさん)
鱗翅目りんしもくヤママユガ科に属する昆虫を総称して野蚕やさんと呼ぶが,その中の一種が天蚕てんさんである。日本に分布し,クヌギ,コナラ,クリなどを食し,繭まゆは緑色である。
天皇誕生日一般参賀(てんのうたんじょうびいっぱんさんが)
天皇誕生日に際し,天皇が,皇族とご一緒に,国民から祝賀をお受けになる行事
天皇誕生日宴会の儀(てんのうたんじょうびえんかいのぎ)
天皇誕生日に際し,天皇が皇后とご一緒に,三権の長等の要人・都道府県の知事等・各界代表者とその配偶者を招いて催される祝宴の儀式
天皇誕生日祝賀(てんのうたんじょうびしゅくが)
毎年12月23日のお誕生日に,天皇が祝賀をお受けになる行事で,祝賀の儀・宴会の儀・茶会の儀・一般参賀などが行われる。
天皇誕生日祝賀の儀(てんのうたんじょうびしゅくがのぎ)
天皇誕生日に際し,天皇が,皇太子をはじめ皇族・内閣総理大臣・衆参両院議長・最高裁判所長官から祝賀をお受けになる儀式
天皇誕生日茶会の儀(てんのうたんじょうびちゃかいのぎ)
天皇誕生日に際し,天皇が皇后とご一緒に,各国の外交使節団の長とその配偶者を招いて茶会を催され,祝賀をお受けになる儀式
天皇誕生日祝賀・一般参賀 天皇皇后両陛下の記者会見など 天皇皇后両陛下のご日程 天皇誕生日一般参賀要領 天皇誕生日一般参賀(ご即位後の件数)
読師(どくじ)
歌会始の儀における司会役
歌会始
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内廷費(ないていひ)
天皇・内廷にある皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるもので,法律により定額が定められる。内廷費として支出されたものは,御手元金となり,宮内庁の経理に属する公金ではない。(皇室経済法第4条,皇室経済法施行法第7条)
皇室の経済 予算
認証官任命式(にんしょうかんにんめいしき)
認証官(その任免を天皇が認証する官)の任命式
認証官任命式 認証官任命式(ご即位後の件数) 天皇皇后両陛下のご日程
納采(のうさい)
一般の結納にあたるもの
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 映像で見るご結婚50年のお歩み
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拝謁(はいえつ)
天皇・皇后に国内の要人・功績者などが公式にお会いすること
拝謁・お茶・ご会釈など 拝謁・お茶など(ご即位後の件数)
陪聴(ばいちょう)
天皇・皇后・皇族とご一緒にご進講を聴かせていただくこと
歌会始 講書始
掃立て(はきたて)
蟻蚕ぎさん(孵化ふかしたての蚕)を蚕座さんざ(蚕を飼育する道具)に移し,細かく刻んだ桑の葉を与えて飼育を始めること。羽ぼうきを使って蟻蚕ぎさんを蚕座さんざに掃き下ろすことから「掃立て」と呼ばれている。
発声(はっせい))
歌会始の儀において第1句を節をつけて唱える役
歌会始
初繭掻き(はつまゆかき)
繭まゆになった後,約8~10日で繭まゆを蔟まぶしから外すことを収繭しゅうけん(または繭掻まゆかき)といい,その最初の作業を「初繭掻はつまゆかき」と呼ぶ。
文化勲章親授式(ぶんかくんしょうしんじゅしき)
天皇が文化勲章をみずから授与される儀式
勲章親授式 文化勲章親授式(伝達式)(ご即位後の件数) 天皇皇后両陛下のご日程
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御歌(みうた)
皇后・皇太后がお詠みになった短歌
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等 天皇皇后両陛下のお歌
三箇夜餅の儀(みかよのもちのぎ)
ご結婚当夜から3日間にわたって御殿にお祝いの餅を供えられる儀式
御帳台(みちょうだい)
即位の礼において,皇后がおつきになる御座
京都御所一般公開 天皇・皇族の身位に伴う事項 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事のお写真
召人(めしうど)
天皇から特に召されて短歌を詠む者(その歌を「召歌」(めしうた)という)
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等 天皇皇后両陛下のお歌
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山つけ(やまつけ)
天蚕てんさんの種を和紙に25粒ほど貼り付けたものをクヌギの枝につけること。
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立太子宣明の儀(りったいしせんめいのぎ)
皇太子であることを公に宣明されるとともに,これを内外の代表が祝われる儀式
立太子の礼(りったいしのれい)
皇太子であることを公に告げられる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご略歴 主な式典におけるおことば(平成3年) 映像で見るご結婚50年のお歩み
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藁蔟(わらまぶし)
蔟まぶしと呼ばれる蚕が繭まゆづくり専用の器具を藁わらで作ったもの。
天皇皇后両陛下や愛子さまや皇太子皇太子妃は人間であり、小林よしのり氏のように『神格化』したり『金科玉条のように崇拝』する必要もない。 
万世一系(ばんせいいっけい)とは、永久に一つの系統が続くこと。多くは皇室・皇統(天皇の血筋)についていう[1]。「万世一系」の語は、岩倉具視の「王制復古議」(慶応3年10月)が初出であるとされる[2]。

岩倉具視

伊藤博文
慶応3年10月、岩倉具視は、「皇家は連綿として万世一系礼学征伐朝廷より出で候」(原文カタカナ)と指摘した。
1889年(明治22年)『(旧)皇室典範』制定に当たって伊藤博文は、皇位継承における万世不変の原則として、以下の3項目を挙げた。
第一 皇祚を践むは皇胤に限る
第二 皇祚を践むは男系に限る
第三 皇祚は一系にして分裂すべからず

民間でも大日本帝国憲法に対抗して私擬憲法が盛んに作成されたが、万世一系に言及していない例はほとんどない。万世一系の例外規定を設けているのは『憲法草稿評林』のみで、「臣民中ヨリ皇帝ヲ撰立」と規定し、皇位継承者が断絶した場合の天皇の選挙制を提案した。
起源と正統性[編集]
天皇の起源[編集]
『古事記』と『日本書紀』を編集した人物は、神武天皇から仲哀天皇までの治世を記述した。これは、当代の天皇の正統性を確保するためである。
6世紀までの日本で王朝が次々と交代したか、複数の王朝が異なる地方を同時期に並列して支配していたことを示唆する手がかりが公式の編年誌にあるとする諸説が存在する。
だが、日本の現王朝は6世紀以降には王朝交代した証拠はなく、少なくとも1500年もの間存続している。6世紀に存在した他の君主家で今日なお在位しているものは、世界のどこにもない。
皇室に名字がない事実も、天皇の王朝の古代史に遡る古さを示している。日本人が歴史が始まって以来知っている唯一の王朝だからである。
日本神話[編集]

天照大神
天皇が日本を統治する根拠とされたのは、天照大神が「天壌無窮」に葦原中国を治めよという神勅をニニギ(瓊瓊杵尊)とその子孫に下し、ニニギの曾孫である磐余彦が初代の天皇・「神武天皇」として即位したことによる。
『古事記』には天照大神が孫のニニギに「この豊葦原水穂国は、汝の知らさむ国なり」とある。『日本書紀』には「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」とある。
この記述が、皇室が日本を永遠に統治する歴史的・法的な根拠であるとされた。大日本帝国憲法第1条はこの記述を明文化したものである。日本神話に登場する初代の天皇・神武天皇から現在まで、天皇の王朝が断絶せずに皇室が日本を一貫して統治してきたとする史観を形成し、万世一系は国体において不可欠なものとされていた。
歴史[編集]
「万世一系」論の始まり[編集]
「日本は、王朝交代したことがない点で他国と基本的に異なる」という信念は、日本の王朝と同じくらい古くからあった。この主張について、十数世紀にわたって誇りを抱いたり、不思議に思う人々がいた。
大伴家持(718頃-785)は『万葉集』を編纂した奈良時代有数の歌人である。大伴家持は自分が仕えた聖武天皇を褒め称える次のような和歌を残している(下記の現代語訳は日本学術振興会の英訳から)。

大伴家持
葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国を 天(あま)くだり
しらしめしける 天皇(すめろき)の
神の命(みこと)の 御代(みよ)かさね……
敷きませる 四方(よも)の国には
山川を 広み淳(あつ)みと
奉る 御調宝(みつきたから)は
数え得ず 尽くしも兼ねつ……

大伴家持、『万葉集』巻一八

天皇たちの長い家系が 世々代々
この諸地方を治めてきた
深山がつらなり 広き川があまた流れ
数えきれぬ貢(みつ)ぎ物(もの) 尽きせぬ宝を
産みなすこの国を
この和歌では天皇の家系が長いと述べているが、どれほど長いかは言及していない。

聖徳太子
『日本書紀』は、神武天皇が帝国を創建した紀元前660年の第一月第一日を王朝の起点とした。聖徳太子(574-622)は、この日付を初めて定式化した。天皇の王朝に大いなる古さを付与しようとしたのである。実際の建国は1000年後と思われるが、この日付は日本人に自国の建国日として受けとめられた。国体(政治構造)の不変さの証拠とされることもしばしばだった。
神武天皇が創始した王朝は、「神の代」の祖先たちの系譜を引き継いでいるとも信じられていた。そのため、日本の王朝は永遠であり、万世一系であると考えられていた。
中国[編集]
王朝が非常に古いという主張は、自国民を感心させるためだけではなかった。国家としては日本より古いが、歴代王朝は日本より短命とされた中国に感銘を与えるためでもあった。いくつかの事例に照らせば、中国人は日本のこの主張を気にとめ、一目置いていたと言って良い。
『新唐書』は唐の歴史をまとめた史書だが、日本の歴史も略述されている。「神の代」に属す日本の支配者33人がリストアップされている。『日本書紀』などが掲げており、「人の代」に属す歴代天皇58代(神武天皇から光孝天皇まで)も列挙されている。 楊億(ようおく)は『新唐書』の編纂に参加した人物である。平安時代の日本の学僧である然(938-1016)が当時の中国皇帝にもたらした情報について記録を残している。「王家はひとつだけで、64代引き続いておさめてきた(国王一姓相伝六四世)。行政・軍事の官職はすべて世襲である。」という情報をもたらしたという。当時の天皇は円融天皇である。神武天皇に始まる皇統譜によれば、円融天皇はまさしく64代目であり、楊億の記述と合致する。
『宋史』は宋の歴史をまとめた史書である。そのなかの「日本伝」に、北宋の皇帝・太宗の反応を以下のように記述している。

北宋の太宗
(太宗は)この国王は一つの姓で継承され、臣下もみな官職を世襲にしていることを聞き、嘆息して宰相にいうには「これは島夷(とうい。島に住む異民族のこと)にすぎない。それなのに世祚(代々の位)は”か久”(はるかにひさしい)であり、その臣もまた継襲して絶えない。これは思うに、古(いにしえ)の道である。」

北宋の太宗

日本人も、王朝の寿命の長短に関する中国との比較論に熱中した。北畠親房(1293-1354)の『神皇正統記』では以下のように論じている。

北畠親房
モロコシ(中国)は、なうての動乱の国でもある。…伏羲(前3308年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王。)の時代からこれまでに三六もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。ひとりわが国においてのみ、天地の始めより今日まで、皇統は不可侵のままである。

北畠親房、『神皇正統記』

ヨーロッパ[編集]
16~17世紀のヨーロッパ人も、万世一系の皇統とその異例な古さという観念を受け入れた。日本建国の日付を西暦に計算しなおして紀元前660年としたのは、ヨーロッパ人である。
ドン・ロドリーゴ・デ・ビベロはスペインのフィリピン臨時総督である。『ドン・ロドリゴ日本見聞録』に、日本人について以下のように記述している。
彼らのある種の伝承・記録から知られるのは…神武天皇という名の最初の国王が君主制を始め、統治をおこないだしたのは、主キリスト生誕に先立つこと六六三年も前、ローマ創建から八九年後だということである。日本がまことにユニークな点は、ほぼ二二六〇年のあいだ、同じ王家の血統を引く者一〇八世代にもわたってあとを継いできたことである。

ドン・ロドリーゴ・デ・ビベロ、『ドン・ロドリゴ日本見聞録』

当時の天皇は後水尾天皇で、皇統譜によれば108代目にあたる。
ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンはスペインの貿易商人である。1615年、日本から以下のように報告している。
彼らのもろもろの文書やきわめて古い書物は、最初の日本国王である神武天皇がその治世を始めたのは二二七〇年以上も昔だと明言している。

ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン、(日本からの報告)

ここでも日本建国を紀元前660年としている。
エンゲルベルト・ケンペルは長崎の出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師である。『日本誌』で以下のように説明している。

エンゲルベルト・ケンペル
”宗教的世襲皇帝”の王朝は、キリスト以前の六六〇年がその始まりである。…この年からキリスト紀元一六九三年にいたるあいだ、すべて同じ一族に属する一一四人の皇帝たちがあいついで日本の帝位についた。彼らは、日本人の国のもっとも神聖な創建者である「テンショウダイシン」(天照大神、あまてらすおおみかみ)の一族の最古の分枝であり、彼の最初に生まれた皇子の直系である等々のことを、きわめて誇りに思っている。

エンゲルベルト・ケンペル、『日本誌』

さらに、歴代天皇の名前と略伝を日本語文献のとおりに列記している。
江戸時代[編集]
江戸時代、尊皇家は天皇への尊崇と支持を高めるため、皇室の大変な古さと不変性を強調した。
山鹿素行(やまが そこう、1622~85)は儒学と軍学の大家である。寛文9年(1669年)に著わした『中朝事実』で下のように論じている。

山鹿素行
ひとたび打ち立てられた皇統は、かぎりない世代にわたって、変わることなく継承されるのである。……天地創造の時代から最初の人皇登場までにおよそ二〇〇万年が経ち、最初の人皇から今日までに二三〇〇年が経ったにもかかわらず……皇統は一度も変わらなかった。

山鹿素行、『中朝事実』

とはいえ、江戸時代の知識人全員が、太古的な古さという主張に賛成したわけではない。本多利明(1743~1820)は蘭学を学んだ経世家である。寛政10年(1798年)の論考のなかでこう説いている。「世界最古の国はエジプトで6000年の歴史を有し、中国も3800年の歴史を主張しうるのにたいし、神武天皇即位からは1500年しか経っていないのだから、日本の歴史はずっと短い」。1500年というこの年代は、近代の学者が示唆する3世紀末に驚くほど近いと、ドナルド・キーンは指摘している。
明治時代[編集]

福澤諭吉

新渡戸稲造
明治時代の多くの知識人は、皇室の永続性というドグマを受け入れ、誇りとしていた。福澤諭吉(1835-1901)も、皇室の永続性は近代化を推進する要素だと見なしていた。明治8年(1875年)に執筆した『文明論之概略』の「西洋の文明を目的とす」の一節にて、以下の持論を展開している。
わが国の皇統は国体とともに連綿(れんめん)として外国に比類なし。……君[と]国[との]並立の国体といいて可なり。しかりといえども……これを墨守(ぼくしゅ)してしりぞくは、これを活用して進むにしかず。……君国並立の貴(とうと)き由縁(ゆえん)は、古来わが国に固有なるがゆえに貴きにあらず。これを維持してわが政権をたもち、わが文明を進むべきがゆえに貴きなり。

福澤諭吉、『文明論之概略』

ただ、国の紀元についてのドグマは、その信奉を強制されていたわけではない。新渡戸稲造(1862-1933)はクリスチャンの教育者である。国際連盟の事務局長の職にあったとき、日本国外でだが、公式の場で紀元の正確さにはっきりと疑問を呈している。スウェーデンの首都・ストックホルムで開かれた日本・スウェーデン協会の会合の際、演説のなかで次のように述べた。
本邦最初期の歴史編纂者たちは、八世紀におこなわれていた中国風の年代計算法を採用したがために、干支の六十年周期をおよそ一〇回分数えまちがった、と思われる。このため、本邦の歴史の始まりは六〇〇年ほどさかのぼらされた。……本邦初期の歴史から六世紀を差し引くなら、日本帝国の創建は、通常受け入れられている前六六〇年ではなくして……前六〇年ということになる。こうすれば、神武天皇はジュリアス・シーザーと同時代人ということになる。

新渡戸稲造、(日本・スウェーデン協会の会合の演説より)

戦前[編集]
万世一系は、戦前において、共和制や共産主義革命を否定する根拠とされた。また、日本は君民一体の国柄で、他国のように臣下や他民族が皇位を簒奪することがなく、臣民は常に天皇を尊崇してきたとする歴史観を形成した。さらに、日本は神の子孫を戴く神州であり、延いては世界でも優れた道義国家であるとする発想を生んだ。戦前には、国粋主義と結びついて皇国史観という歴史観を形成した。特に、明治維新から戦中までの期間には、国家公認の史観として重視され、大日本帝国憲法第1条にも記載されていた。
北一輝は戦前の右翼思想の大物である。自筆の『国体論及び純正社会主義』にて、「日本国民は万世一系の一語に頭蓋骨を殴打されことごとく白痴となる」と万世一系を批判した。この著書は刊行後すぐに発禁処分を受けた。
「国体」および「神国」も参照
戦後[編集]

昭和天皇

今上天皇
万世一系はもはや公式のセオリーとはされなくなったが、公式の場での談話や発言からは消えなかった。昭和52年(1977年)8月、那須御用邸での記者会見にて、昭和天皇は次のような説明をした。
国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。

昭和天皇、(1977年8月、那須御用邸での記者会見)

日本国憲法は、天皇の祖先たちへの言及も、王朝の古代史的な古さへの言及もしていない。しかし、皇室の法的地位は、皇位の世襲の原則を再確認することで是認された。昭和41年(1966年)、王朝の起点である2月11日のまま、戦後廃止された「紀元節」がほぼ同義の「建国記念の日」として復活した。
平成2年(1990年)、明仁親王が天皇に即位した。即位にあたり、祖先および神々とのきずなを強調する上代からの儀式、「大嘗祭」が執り行われた。平成11年(1999年)、皇統を褒め称える「君が代」も、国旗国歌法により日本の国歌として確定された。
万世一系がうたわれた実例[編集]
大日本帝国憲法[編集]
詳細は「大日本帝国憲法」を参照
明治22年(1889年)、近代国家の憲法として大日本帝国憲法が公布された。この憲法では、皇室の永続性が皇室の正統性の証拠であることを強調していた。『告文』(憲法前文)には、以下のような文章がある。
…天壤無窮ノ宏謨(こうぼ)ニ循(したが)ヒ惟神(かんながら)ノ宝祚ヲ承継シ…

『大日本帝国憲法』告文

輝かしき祖先たちの徳の力により、はるかな昔から代々絶えることなくひと筋に受け継がれてきた皇位にのぼった朕は…
そして、憲法第1条にて「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定されたのである。近代的な政治文書で「万世一系」のような詩的な文言がもちいられたのは、これが初めてである。「万世一系」のフレーズは公式のイデオロギーの中心となった。学校や兵舎でも、公式な告知や発表文でも、広く使われて周知されていった。
君が代[編集]
詳細は「君が代」を参照
明治13年(1880年)、日本の国歌として『君が代』が採用された。君が代は10世紀に編纂された『古今和歌集』に収録されている短歌の一つである。バジル・ホール・チェンバレンはこの日本の国歌を翻訳した。日本の国歌の歌詞とチェンバレンの訳を以下に引用する。

君が代の楽譜
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで

君が代


チェンバレン
汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで
A thousand years of happy life be thine!
Live on, my Lord, till what are pebbles now,
By age united, to great rocks shall grow,
Whose venerable sides the moss doth line.
日本の国歌も「天皇の治世」を奉祝する歌であり、皇統の永続性(万世一系)がテーマである。世界で最も短い国歌が世界で最も長命な王朝を称えている。
国体の本義[編集]
詳細は「国体の本義」を参照
国体の本義とは、昭和13年(1938年)、「日本とはどのような国か」を明らかにしようとするために、当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物である。万世一系についての主張を以下に引用する。
大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。

国体の本義

その他の「万世一系」論[編集]
朕祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ朕カ親愛スル所ノ臣民ハ即チ朕カ祖宗ノ恵撫慈養シタマヒシ所ノ臣民ナルヲ念ヒ……(大日本帝国憲法発布の詔勅)
大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス(旧皇室典範第一条)
天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)。
詔勅や外交文書の冒頭では、このように「天皇」に対する修飾語として用いられることもあった。
疑義・論争[編集]
万世一系についていくつかの疑問がなされ、大きな論争に発展した。
戦前の論争[編集]
明治44年(1911年)には、国定教科書問題・南北朝正閏論争があった。学校の歴史教科書で「南北朝時代」の用語を使っていた。このことをめぐって、帝国議会で南北朝正閏論が問題化した。それ以降の教科書では、「吉野朝時代」の用語を使うことになった。この問題では、万世一系の概念の中で、皇統の一系(皇統が分立することがない)が問題になった。江戸時代から一般的であった南北朝時代の史観が、明治時代の万世一系では不適当とされた事例である。また、壬申の乱のような皇室での争いは、教科書に記述がなかった。
この問題のように、南北朝問題は、万世一系や皇国史観が史実に基づいているかを考察するうえで重要な問題である。また、古事記や日本書紀などの古代史の研究が進むにつれて、考古学の成果により初期の天皇の実在に疑問が提示されたり(欠史八代)、第26代の継体天皇の即位を王朝交代とする説が出た(現在では、継体天皇は第25代までの天皇とは血のつながりがないとの説も存在する。)。このように、戦前・戦後を通じて、歴史学の観点から万世一系が歴史的な事実であるかについて、疑問が持たれてきた経緯がある。しかし、特に戦前では、不敬罪・治安維持法などの存在などから、皇室の権威にかかわる問題について論争が自由にできなかった。万世一系を否定する見解を徹底して主張した歴史家や知識人は、決して多くはなかった。
国体との関係[編集]
国体の一番の根拠は万世一系であった。それゆえに国体の問題でも深い影響を与えていた。天皇機関説論争の際には、神勅が天皇による直接統治の根拠とされた。『国体の本義』でも、神勅や万世一系が冒頭で強調されている。昭和維新を標榜した一連の変革運動でも、君民一体の思想から、天皇による直接支配こそ社会の閉塞をうちやぶるものであり、「君側の奸」がそれを妨げているという主張がなされた。この問題により、万世一系をめぐる論争は、天皇制の問題と結びついて大きな広がりを持つことになる。
戦後の歴史家[編集]
「戦前の日本で天皇の王朝の非常な古さが国家主義的に悪用されたことに強く反発する戦後の歴史家は、日本における皇室制度と皇室の異例な長命さという意義を軽んじてきた。しかし、そうした彼らでも認めざるをえないのは、皇位を占めている血縁集団が世界最古の在位の君主家だということである。」という指摘が戦後の歴史家に対してなされている。
皇位継承問題[編集]
詳細は「皇位継承問題 (平成)」を参照
第二次世界大戦後、敬宮愛子内親王などの皇族の女子が誕生する一方で、秋篠宮文仁親王誕生以降は悠仁親王の誕生まで約40年もの間皇族の男子が誕生せず、皇位継承の権利を持つ皇族の男子が不足している。このため、皇室典範が早期に改正され、女性天皇が誕生する可能性が高まっていた。このことを背景に、皇統の女系天皇を容認しようとする皇室典範に関する有識者会議などの動きがある。だが、万世一系の伝統が断絶するとして、反対する意見が強く、女系容認には至っていない。

宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)は、天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈ることを目的におこなう祭祀。皇居宮中三殿で行われる祭祀には、天皇が自ら祭典を斎行し、御告文を奏上する大祭と、掌典長(掌典職)らが祭典を行い、天皇が拝礼する小祭がある。

『都会にいけばなんとかなる!夢が叶う!』田舎者たちの幻想・故郷で駄目なら都会はもっと駄目!

2015年07月29日 11時21分56秒 | 日記








地方出身者は必ず都会に行けば(あるいは海外留学すれば)「なんとかなる」


と思う様だが、自分の生まれ故郷で上手くいかない人間が


当たり前だが、都会や海外で上手くいく筈はない。


都会や海外は現実逃避場ではない。


自分の故郷でちゃんとやれない田舎者が都会で上手くいく訳ない。


都会は夢の国でない。舐めるな!臥竜




緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

龍馬とおりょうがゆく維新回天の偉人坂本龍馬とその妻・おりょう(樽崎龍)2017年の女大河か?小説4

2015年07月29日 04時28分03秒 | 日記







話を少し戻す。

  龍馬は江戸に着くと、父に教えられた通りに、まっすぐに内桜田の鍛冶橋御門へゆき、橋を渡って土佐藩邸で草履を脱いだ。
 藩邸にはすでに飛脚があって承知しており、龍馬の住まう長屋へ案内してくれた。
 部屋は三間であったという。
 相住いの武士がいるというがその日は桃井道場に出向いていて留守だった。龍馬は部屋にどすんの腰をおろした。旅による埃が舞い散る。
 部屋はやたらときれいに掃除してある。しかも、机には本が山積みされている。
「こりゃ学者じゃな。こういう相手は苦手じゃきに」
 龍馬は開口したままいった。「相手は学者ですか?」
「いいえ。剣客であります」
「郷士ですな?」  
「いえ、白札です」
 白札とは、土佐藩独自の階級で、準上士という身分である。
「わかった。相住むのはあの魚みてぇな顎の武市半平太じゃな」
 龍馬は憂欝になった。正直、藩でも勤勉で知られる武市半平太と相住まいではやりきれないと思った。

  武市半平太を藩邸の者たちは「先生」と呼んでいた。
「なんじゃ? 大勢で」
 顔はいいほうである。
「先生の部屋に土佐から坂本龍馬という男がきました」
「龍馬がきたか…」
「龍馬という男は先生を学者とばいうとりました」
「学者か?」武市は笑った。
「あの魚みてぇな顎……などというとりました。許せんきに!」
「まあ」武市は続けた。「どうでもいいではないか、そのようなこと」
「天誅を加えまする」
「……天誅?」
「ふとん蒸しにしてくれまする!」
 武市半平太は呆れて、勝手にせい、といった。
 なかまのうちひとりが龍馬の部屋の襖をあけた。すると驚いた。ふんどし姿の裸で、のっそりと立っている。「なんじゃ?! 坂本その格好は?!」
「わしは馬鹿じゃで、こうなっちゅう」
「このお!」
 大勢がやってきた。「かかれ!」
 龍馬に大勢でとびかかった。行灯がかたむき、障子が壊れ、龍馬は皋丸をけったりしたため気絶する者まででる。四半刻ばかりどたばたとさわいでいるうちにヘトヘトになり、龍馬はふとん蒸しで、みんなが乗りかかった。息ができず、死ぬような苦しみになる。
「もうよかが! あかりをつけいや」
 武市半平太がやってきていった。不機嫌な声でいった。龍馬は解放されると部屋を出ていった。

「なぜ先生は龍馬の無礼を咎めなかったのです?」
 と、事件のあときくものがあった。
 武市半平太は「徳川家康も豊臣秀吉も、だまっていてもどこか愛嬌があった。その点、明智光秀にはふたりより謀略性があったが、愛嬌がなかったために天下をとれなかった。英雄とはそういうものだ。龍馬のような英雄の資質のあるものと闘っても無駄だし、損でもある」
「龍馬は英雄じゃきにですか?」
「においはある。英雄になるかも知れぬ。世の中わからぬものぞ」
 そのころ「英雄」は、千葉道場で汗を流していた。
 竹刀をふって、汗だくで修行していた。相手は道場主千葉貞吉の息子重太郎で、龍馬より一つ年上の眼の細い青年である。
 そんな剣豪を龍馬は負かしてしまう。
「一本! それまで!」貞吉が手をあげる。
 重太郎は「いやあ、龍さんにはかなわないな」などという。もう、親しい仲になっている。龍馬は友達をつくるのがうまい。
  江戸での月日は早い。
 もう、龍馬は免許皆伝まじかである。
 そんな千葉道場主の貞吉の息子重太郎には、さな子という妹がいた。二つ違いの妹であり、幼少の頃より貞吉が剣を仕込み、免許皆伝とまではいかなかったが、才能があるといわれていた。色が浅黒く、ひとえの眼が大きく、体がこぶりで、勝気な性格だった。
 いかにも江戸娘という感じである。
 そんな娘が、花見どきの上野で暴漢に襲われかけたところをおりよく通りかかった龍馬がたすけた、という伝説が土佐にはあるという。いや、従姉だったという説もある。
 龍馬はさな子を剣でまかした。
 その頃から、さな子は龍馬に恋愛感情を抱くようになる。
 さな子が初めて龍馬をみたときは、かれが道場に挨拶にきたときだった。
「まぁ」とさな子は障子の隙間から見て「田舎者だわ」と思った。
 と、同時に自分の好むタイプの男に見えた。ふしぎな模様の入ったはかまをきて、髪は篷髪、すらりと背が高くて、伊達者のようにみえる。
「さな子、ご挨拶しなさい」父に呼ばれた。
「さな子です」頭を下げる。
「龍馬ですきに。坂本龍馬ですきに」
「まぁ、珍しい名ですね?」
「そうですろうか?」
「ご結婚はしてらっしゃる?」さな子は是非その答えがききたかった。
「いや、しとらんぜよ」
「まあ」さな子は頬を赤らめた。「それはそれは…」
 龍馬は不思議そうな顔をした。そして、さな子の体臭を鼻で吸い、”乙女姉さんと同じ臭いがする。いい香りじゃきに”と思った。
 さな子はそのときから、龍馬を好きになった。

    
 この頃、龍馬は佐久間象山という男に弟子入りした。
 佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
 象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
 佐久間象山が麟太郎(勝海舟)の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。
 麟太郎は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。

  坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
  桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「草莽掘起は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。


嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、勝海舟が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。麟太郎は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。
  勝海舟が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。麟太郎(勝海舟)は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。麟太郎は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。
  次の日の早朝、朝靄の中、龍馬が集合場所に向かって歩いていた。人通りはない。天気はよかった。
「いゃあ、遅刻したぜよ」と坂本竜馬がやってきた。
 立派な服をきた初老の男が「坂本くん、遅い遅い」と笑った。
「すいません佐久間先生」竜馬はわらった。                      
 この初老の男が佐久間象山だった。佐久間は「おい坂本!」と龍馬にいった。
「黒船をみてみたいか?」
「は?」龍馬は茫然としながら「一度もみたことのないもんは見てみたいですきに」
「よし! 若いのはそれぐらいでなければだめだ。よし、ついてこい!」
 象山は「よいよい!」と笑った。
 象山は馬にのった。龍馬は人足にバケて、荷を運んで浦賀へと進んだ。
 途中、だんご屋で休息した。
 坂本竜馬はダンゴを食べながら「先生は学識があるきに、わしは弟子入りしたんじゃ」「おい坂本」象山はいった。「日本はこれからどうなると思う?」
 龍馬は無邪気に「日本はなるようになると思いますきに」と答えた。
「ははは、なるようにか? ……いいか? 坂本。人は生まれてから十年は己、それから十年は家族のことを、それから十年は国のことを考えなければダメなのじゃぞ」
 佐久間象山は説教を述べた。
  やがてふたりは関所をパスして、岬へついた。龍馬は圧倒されて声もでなかった。すごい船だ! でかい! なんであんなものつくれるんだ?!
 浦賀の海上には黒船が四船あった。象山は「あれがペリーの乗るポーハタン、あちらがミシシッピー…」と指差した。龍馬は丘の上に登った。近視なので眼を細めている。
「乗ってみたいなぁ。わしもあれに乗って世界を見たいぜよ!」
 全身の血管を、感情が、とてつもない感情が走り抜けた。龍馬は頭から冷たい水を浴びせ掛けられたような気分だった。圧倒され、言葉も出ない。
 象山は「坂本。日本人はこれからふたつに別れるぞ。ひとつは何でも利用しようとするもの。もうひとつは過去に縛られるもの。第三の道は開国して日本の力を蓄え、のちにあいつらに勝つ。………それが壤夷というものぞ」といった。
  その年も暮れた。
 正月から年号が嘉永から「安政」にかわり、龍馬も二十歳になった。
 龍馬にとっては感慨があった。
 ……坂本の泣き虫も二十歳か……
 われながら自分を褒めたい気分にもなる。しかし、女をしらない。相手は「坂本さん! 坂本さん!」とそそってくるさな子でもよかったが、なにしろ道場主の娘である。
 女を知りたいと思うあまり、龍馬はお冴のわなにはまってしまう。
 国元でも「女との夜」についていろいろきいてはいた。まるで初陣のときと似ちゅう… とはきいていたが、何の想像もつかない。
 遊郭でお冴に手をひかれふとんに入った。お冴は慣れたもので龍馬を裸にして、自分の服も脱いで「坂本さま」と甘い声をだす。
 そんなとき、龍馬は妙なことをいいだす。「……わしの一物が動かんぜよ」
「まぁ、本当」
 お冴は笑った。龍馬は余りの興奮でインポテンツになってしまったのだ。
「これじゃあ……お冴さんのあそこを突くことも出来んきに…」
 龍馬は動揺した。お冴は父親の仇を討ってくれとも頼んだ。
 それっきり、龍馬は夜の行為ができないままだった。
 さな子はそれをきいて笑ったが、同時に嫉妬もした。「あたしが相手なら大丈夫だったはずよ」さな子は龍馬にホレていた。夜のことまで考えていたくらいである。
 お冴とは二度目の「夜」をむかえた。
 こんどは勃起したが、突然、大地震が襲いかかってきた。
 安政元年十一月三日、江戸、相模、伊豆、西日本で大地震がおこった。
「いかん」
 龍馬はとっさに刀をひろいあげて、「お冴、中止じゃきに」といった。
 立ってることもできない。
 大揺れに揺れる。「逃げるぜよ! お冴!」龍馬は彼女の手をとって外にでると、遊郭の屋敷が崩壊した。
「あっ!」
 お冴は龍馬にしがみついた。
 ……これは大変なことになっちゅう。土佐もどうなったことじゃろう…
 龍馬の脳裏にそんな考えがふとよぎった。
 ………土佐に帰ってみよう

  江戸にいるうちにいつの間にか龍馬は、「おなじ土佐藩士でも、上士は山内家の侍であり、郷士は日本の侍じゃ」と考えるようになっていた。
 土佐城への忠誠心は、土佐郷士は薄いほうである。
 江戸から戻り、土佐を歩くうちに「なんだ。これなら帰らずともよかったぜよ」と思った。土佐では先の大地震の被害がみられない。地盤がかたいのだ。
 龍馬が帰宅すると、「ぼん!」と源おんちゃんが笑顔で出迎えた。
「ぼんさん、お帰りんましたか」
「帰ったきに」龍馬はいった。「おいくりまわりの者(ぶらぶらしている人という意味。土佐弁)じゃきに」
「ぼんが帰りましたえ!」おんちゃんは家のものをよんできた。
 家の者に挨拶した龍馬だったが、やはり乙女はいなかった。嫁いだという。
 龍馬はさびしくて泣きたくなった。
  さっそく龍馬は岡上の家へと向かった。
 すると乙女が出てきて「あら? 龍馬」と娘のような声でいった。可愛い顔で、人妻のようには思えない。「いらっしゃい! あがっていって。主人は外出中だけれど…」
「おらんとですか?」
「ええ」
 龍馬は屋敷の中に入った。
「姉さんとふたりきりだと恥ずかしいぜよ」
「なんで? 姉弟じゃきによ。また昔みたいに足すもうでもやるか?」
「いや」龍馬はにやりと笑った。「また、姉さんの大事なところをみてしまいそうじゃ」 乙女は頬を赤らめ、「他の女のあれはみとらんじゃろうな?」ときいた。
「いや。もうすこしでみれるところじゃったが、みれんかった」
「龍馬も大きくなったね。そんなことまで考える年頃になったきにか」
「もう二十歳じゃもの」
 龍馬は笑った。
  まもなく乙女の旦那、岡上新輔が帰ってきた。かれは龍馬に「おんしは壤夷派か?」 ときく。痩せた背の低いやさ男である。もう四十代のおっさんで禿げである。
 また浮気して乙女に箒で叩かれては逃げた。
「違いますきに」この頃の龍馬には『譲夷』など頭にない。
 龍馬は気を悪くしながら実家へと戻った。
 ……あげな男が旦那では乙女姉さんもかわいそうじゃ…
 実家にいくと客が来る来る。「黒船はみたか?」「江戸にはいい女がいたか?」
 龍馬は馬鹿らしくなって「みとらん。知らん」などといって部屋にもどった。
  しばらくするとお田鶴さまがやってきた。
「龍馬どのに会いにきました」
「え?」
「江戸から帰ってきたときいております。黒船のことについてしりとうごさります」
 龍馬とお田鶴は部屋で向かいあって話した。世間ばなしのあと、
 お田鶴は「汚のうございますね?」という。
「朝から顔を洗ってないですき」
「いいえ。部屋がです」彼女は笑った。
 ふいにお田鶴は「幕府など倒してしまえばいいのです」などと物騒なことをいった。
「いかんきに! お田鶴さま! 物騒なことになるき」
「では、龍馬どのは幕府を支持するのですか? 幕府は腐りきってますよ」
「…じゃきに。たしかにわしもこのままでは日本は滅ぶと思うきに。しかし、家老の妹さまがいうと物騒じゃからいわんほうがいいぜよ」
「わたしは平気です。田鶴が、このひとのためなら、というひとがひとりいます。そういうひとがいれば、田鶴は裸で屋敷を駆け回っても、幕府を批判しても怖くはありませぬ」「………それは誰です?」
「そのひとはあまりにも子供っぽくて、田鶴のことなど何とも思っていないかも知れませぬ」田鶴は龍馬の目をじっとみた。そそるような表情だった。
 ……まさか。わしか?
 純粋無垢な少年のような考えを龍馬はもった。お田鶴さまがわしを好いちゅう?

  龍馬とは妙な男である。
 せっかくお田鶴との逢引までことが進行したのに、見知らぬ医者の娘の屋敷に忍びこんだ。相棒の馬之助も屋敷に忍びこんだ。「どうぞ。雨戸を外しますから」
「相手は誰じゃ?」
「お徳という娘です」
 龍馬はお徳の部屋へと忍びこんだ。「誰です?」
「龍馬というき。夜ばいにきよった」
 お徳は相手をしてくれた。初めて女を抱く龍馬は興奮しきりだった。インポにはならなかった。ちゃんと勃起した。お徳は寝巻を脱ぎ、あられもない姿になった。
 龍馬も裸になり、オッパイを揉んでしゃぶりついた。そして、あそこをまじかにみて愛撫した。しだいに濡れてくる。お徳は「はあ、はあ…」と息が荒くなる。
 これは突かねば……龍馬はクリトリスを愛撫しながらおもった。                                  
 腟の位置がわからない。するとお徳は龍馬の”いちもつ”を腟へと導いてくれた。
 …はあ、はあ、はあ、龍馬さま…
 …お徳! お徳! ……
 挿入してピストンするまで時間がかかったが、なんとか無事に射精することができた。 龍馬は初セックスで気持ちよかった。が、お徳のほうはいまひとつだったようだ。
 こうして、龍馬は本当の「女」を知った。
 その壮快感のまま、龍馬は江戸へと戻っていった。

  江戸の千葉道場に戻ると、貞吉も重太郎も涙をにじませてよろこんで出迎えてくれた。 ……土佐もいいが、江戸っこは人情がある…
 龍馬はしみじみ思った。
 土佐に帰っている間に、重太郎は妻をもつようになっていた。               
「お八寸というのだ。せいぜい用をいいつけてくれ」
「お八寸です。どうぞよろしくおねがいします」頭を下げる。
 涼しい眼をした、色白の美女である。龍馬のすきなタイプの女性だった。
 ……こりゃいかん。わしがすきになってはいかんぜよ
「龍さんはどうだい? 結婚は……相手ならいないでもないぞ」
「待った!」
 龍馬はとめた。さな子の名がでそうだったからである。

  龍馬がひとを斬ったのはこの頃である。夜、盗賊らしき男たちが襲いかかってきた。龍馬は刀を抜いて斬り捨てた。血のにおいがあたりを包む。
 しかし、さすがは龍馬の剣のすごさである。相手からの剣はすべて打ち返した。
 ひとりを斬ると、仲間であろう盗賊たちはやがて闇の中へ去った。
 腕を龍馬に斬られた男も逃げ去った。
「なんじゃきに! わしを狙うとは馬鹿らしか」
 龍馬はいった。刀の血を払い、鞘におさめた。只、むなしさだけが残った。
 ひとの話しではお冴がコレラで病死したという。お徳より先に、龍馬の初めての女になるはずだった女子である。龍馬は「そうか」といたましい顔をしたという。
 武市半平太はしきりに龍馬に、
「おんしは開国派か? 壤夷派か?」ときく。
「わからんぜよ。わしは佐久間先生のいうことに従うだけじゃきに」龍馬は頭をかいた。 そんな最中、飛脚から手紙が届いた。
 龍馬は驚愕した。父・八平が死んだというのだ。
「どげんした? 坂本くん」武市が尋ねた。
「父が死んだ……みたいです」
 龍馬は肩を落とした。
「それはご愁傷さまだ」武市は同情して声をかけた。「土佐に戻るのかね?」
「いいや。戻らぬき」
 龍馬にはものすごいショックだったらしい。二十二歳になっていた龍馬は、その日から翌年にかけてほとんど剣術修行をするだけだったらしい。逸話が何もないという。
 それだけ父親の死が龍馬にとってはショックだった訳だ。
 ほどなく北辰一刀流の最高位である免許皆伝を受けた龍馬は、千葉道場の塾頭になった。 この当時、長州藩の桂小五郎(のちの木戸考允)は斎藤のもとで神道無念流の塾頭になり、土佐の武市半平太は桃井春蔵(鏡心明智流)の塾頭となっていた。
 ひとくちに、”位は桃井、枝は千葉、力は斎藤”というのだそうだ。
 桂小五郎は、龍馬より二つ年上の二十五歳だった。
「坂本くん。一本どうだい?」
「稽古きにか?」
「そうだ。どちらが強いかやろうじゃないか」桂小五郎には長州(山口県)訛りがない。「あんたと勝負するちゅうんか?」
「そうだ!」
 やがて、仕方なく防具をつけて、ふたりは試合をすることになった。
 対峙すると、この桂小五郎という男には隙がない。龍馬には気になることがあった。自分の胴があいているのだ。桂の剣が襲いかかる。
 龍馬より桂のほうが一枚上手のようである。
 ……どういう手で倒すか?
 桂と対峙して、龍馬に迷いが生じた。……このまんまでは負けるきに!
 龍馬は片手上段でかまえた。桂はびっくりする。こんな手はみたこともない。
 龍馬はさそった。
 ……打つか?
 桂に迷いが生じたところで龍馬は面を打った。
「面あり!」
 あっけなく、桂の負けである。
 ……なんだあれはただの馬鹿胴だったのか…片手上段といい、この男は苦手だ…
 桂は残念がった。
「わたしの負けだよ、坂本くん」桂は正直にいった。
「桂さんもすごかったぜよ」
 ふたりは笑った。

  大阪から一路、龍馬は土佐に戻った。
 途中、盗っとの藤兵衛とわかれて、単身土佐にかえってきた。龍馬にとって江戸出発以来二度目に帰郷である。今度は北辰一刀流の免許皆伝ということもあって、ひとだかりができる。せまい城下では大変な人気者である。
 武市半平太はすでに土佐に戻っていて、城下で郷士、徒士などに剣術を教えていた。その塾の名は「瑞山塾」といい、すでに土佐では人気のある私塾になっていた。瑞山とは武市の雅号のことである。
 龍馬の兄・権平は「龍馬、おんしも塾を開け。金なら出してやる」という。
 すると龍馬は「わしはやめときます。ぶらぶらしときますきに」という。
「ぶらぶら?」
 権平は不満だった。何がぶらぶらじゃきにか? 北辰一刀流の免許皆伝者が…
  龍馬は珍しもの好きである。
 さっそく噂をきき、絵師・河田小竜という男のところへ向かった。
 河田小竜は唯一、日本中を旅して学識をもち、薩摩の砲台や幕府の海軍訓練所にもくわしい。また、弟子のジョン万次郎から米国の知識まで得ていた。
 河田邸はせまっくるしい。そのせまい邸宅にところせましと大きな絵がかざられている。「おんしは坂本のはなたれじゃなかが? 何しにきた?」
 絵を描きながら、河田小竜は龍馬にきいた。「絵師にでもなりたいきにか?」
「いいや。先生の話しばうかがいたいき、きたとです」
「話し?」
「はい。世界の話しです」龍馬はにこにこいった。
 河田小竜は「しょうがないやつだな」と思いながらも、米国の男女平等、身分制度のないこと、選挙のことなどを話した。龍馬に理解できるだろうか?
 小竜は半信半疑だったが、龍馬は「米国には将軍さまも公家もなく、男も女も平等きにかぁ……いやあおどろいた」と感心してしまった。
 龍馬のこのときの感動が、日本を動かすことになるのである。
 そんなとき、一大事が江戸で起こった。
 ……伊井大老が桜田門外で水戸浪人たちに暗殺されたというのだ。伊井直弼大老は幕府の代表のようなものだ。伊井大老が暗殺されるということは幕府の力がなくなるということである。「龍馬! 一大事じゃ!」兄は弟に暗殺のことを伝えた。
 ………これは大変な世の中になるぜよ……龍馬の全身の血が逆流して、頭がくらくらした。眩暈を覚えた。生涯、これほど血のわいたときはない。
 ……よし! わしも何かでかいことするぜよ!
 龍馬はそう思い、興奮してしまった。


         3 脱藩と寺田屋事件




 上海から長崎に帰ってきて、高杉晋作がまずしたことは、船の買いつけだった。
 ………これからは船の時代だ。しかも、蒸気機関の。
 高杉は思考が明瞭である。
 …ペリー艦隊来訪で日本人も目が覚めたはずだ。
 ……これからは船、軍艦なんだ。ちゃんとした軍艦をそろえないとたちまちインドや清国(中国)のように外国の植民地にされちまう。伊藤博文の目は英会話だった。
 一緒に上海にいった薩摩の五代は同年一月、千歳丸の航海前に蒸気船一隻を購入したという。長崎の豪商グラバーと一緒になって、十二万ドル(邦価にして七万両)で買ったという。
 いっているのが薩摩の藩船手奉行副役である五代の証言なのだから、確実な話だ。
 上海で、蒸気船を目にしているから、高杉晋作にとっては喉から手がでるほど船がほしい。そこへ耳よりな話がくる。長崎に着くと早々、オランダの蒸気船が売りにだされているという。値段も十二万ドルとは手頃である。
「買う」
 即座に手にいれた。
 もちろん金などもってはいない。藩の後払いである。
 ……他藩より先に蒸気船や軍艦をもたねば時流に遅れる。
 高杉の二十三歳の若さがみえる。
 奇妙なのは晋作の革命思想であるという。
 ……神州の士を洋夷の靴でけがさない…
という壤夷(武力によって外国を追い払う)思想を捨てず、
 ……壤夷以外になにがあるというのだ!
 といった、舌の根も乾かないうちに、洋夷の蒸気船購入に血眼になる。
 蒸気船購入は、藩重役の一決で破談となった。
「先っぱしりめ! 呆れた男だ!」
 それが長州藩の、晋作に対する評価であった。
 当然だろう。時期が早すぎたのだ。まだ、薩長同盟もなく、幕府の権力が信じられていた時代だ。晋作の思想は時期尚早過ぎた。

  蒸気船購入の話は泡と消えたが、重役たちの刺激にはなった。
 この後、動乱期に長州藩は薩摩藩などから盛んに西洋式の武器や軍艦を購入することになる。
 藩にかえった晋作は、『遊清五録』を書き上げて、それを藩主に献上して反応をまった。 だが、期待するほどの反応はない。
「江戸へおもむけ」
 藩命は冷ややかなものだった。
 江戸の藩邸には、桂小五郎や晋作の上海航海を決めた周布政之助がいる。また、命令を下した藩世子毛利元徳も江戸滞在中であった。
 晋作は、
「しかたねぇな」と、船で江戸へ向かった。
 途中、大阪で船をおり、京に足をのばし藩主・毛利敬親とあった。敬親は京で、朝廷工作を繰り広げていた。
 晋作は上海のことを語り、また壤夷を説くと、敬親は、
「くわして話しは江戸でせい」
 といって晋作の話しをとめた。
「は?」
 晋作は唖然とする。
 敬親には時間がなかった。朝廷や武家による公武合体に忙しかった。
 京での長州藩の評判は、すこぶる悪かった。
 ……長州は口舌だが、実がない!
 こういう悪評を煽ったのは、薩摩藩だった。
 中でも謀略派藩士としても知られる薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)が煽動者である。
 薩摩は尊皇壤夷派の志士を批判し、朝廷工作で反長州の画策を実行していた。
 しかし、薩摩とて尊皇壤夷にかわりがない。
 薩摩藩の島津久光のかかげる政策は、「航海遠略策」とほとんど変りないから質が悪い。 西郷は、
「長州は口舌だが、実がないでごわす」と、さかんに悪口をいう。
 高杉は激昴して、「薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではないか! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけだ!」
 といった。
 そして、続けて、
「壤夷で富国強兵をすべし!」と述べる。
 ……時代は壁を乗り越える人材を求めていた。
 晋作は江戸についた。
 長州藩の江戸邸は、上屋敷が桜田門外、米沢上杉家の上屋敷に隣接している。
 その桜田門外の屋敷が、藩士たちの溜まり場であったという。
 ………薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではない! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけです。
 ……壤夷で富国強兵をすべし!
 ……洋夷の武器と干渉をもって幕府をぶっつぶす!
 討幕と、藩の幕政離脱を、高杉はもとめた。
 ……この国を回天(革命)させるのだ!
 晋作は血気盛んだった。
 が、藩世子は頷いただけであった。
「貴公のいうこと尤もである。考えておこう」
 そういっただけだ。
 続いて、桂小五郎(のちの木戸考允)や周布にいうが、かれらは慰めの顔をして、
「まぁ、君のいうことは尤もだが…焦るな」というだけだった。
「急いては事を仕損じるという諺もあるではないか」
 たしかにその通りだった。
 晋作は早すぎた天才であった。
 誰もかれに賛同しない。薩摩長州とてまだ「討幕」などといえない時期だった。
「高杉の馬鹿がまた先はしりしている」
 長州藩の意見はほとんどそのようなものであった。
 他藩でも、幕府への不満はあるが、誰も異議をとなえられない。
 ……わかってない!
 高杉晋作は憤然たる思いだったが、この早すぎた思想を理解できるものはいなかった。
 長州の本城萩は、現在でも人口五万くらいのちいさな町で、長州藩士たちがはめを外せる遊興地はなかった。そのため、藩士たちはいささか遠い馬関(下関)へ通ったという。 晋作は女遊びが好きであった。
 この時代は男尊女卑で、女性は売り買いされるのがあたり前であった。
 銭され払えば、夜抱くことも、身請けすることも自由だった。
 晋作はよく女を抱いた。
 そして、晋作は急に脱藩を思いたった。
 脱藩にあたり、国元の両親に文を送るあたりが晋作らしい。
「私儀、このたび国事切迫につき、余儀なく亡命仕り候。御両人様へ御孝行仕り得ざる段、幾重にも恐れ入り候」
 晋作は国事切迫というが、切迫しているのは晋作ひとりだった。余儀も晋作がつくりだしたのである。この辺が甘やかされて育ったひとりよがりの性格が出ている。
 晋作は走った。
 しかし、田舎の小藩に頼ったが、受け入れてもらえなかった。
 口では壤夷だのなんだのと好きなだけいえるが、実行できるほどの力はない。
「人間、辛抱が肝心だ。辛抱してれば藩論などかわる」
 晋作はとってつけたような言葉をきき、おのれの軽率を知った。
 ……ちくしょう!
 晋作は、自分の軽率さや若さを思い知らされ、力なく江戸へと戻った。


  龍馬は一八六一年に「土佐勤王党」に参加したが、なんだか馬鹿らしくなっていた。「土佐だけで日本が動く訳じゃなかが。馬鹿らしいきに」
 龍馬は土佐の田舎で、くすぶっていた。
 ……わしは大きなことを成したいぜよ!
 龍馬は次第に「脱藩」を考えるようになっていた。
 ……藩の家来のままじゃ回天(革命)は成らぬがぜよ。
 兄・権平の娘(つまり姪)春猪はいつも「叔父さま! 叔父さま!」と甘えてくる。利発な可愛い顔立ちの娘である。
 春猪には計略があった。龍馬叔父さんと知り合いの娘とを交際させる…という計である。その計は九分まで成功している。
 げんに春猪は、ともかくも龍馬叔父さんを五台山山麓の桃ノ木茶屋までおびきよせたではないか。龍馬が遠くから歩いてくる姿を確認してから、
「ほら!」
 と、春猪は「きたわよ」とお美以にいった。
 お美以は下を向いて恥かしがった。
「お美以さん、だまっていてはだめよ。ちゃんと叔父さんに好きだっていわなきゃ」
 春猪はにこりといった。
「ええ」
 お美以は囁くようにいった。恥ずかしくて消えてしまいそうだ。
 九つのとき、お美以は龍馬に連れられて梅見にいっている。あのころ、龍馬は江戸から一度目にかえってきたときである。龍馬は、お美以の手をひいたり、抱き抱えたりした。しかし、なにしろ十一歳も年上である。九つのお美以としては龍馬は大人である。
 しかし、女の子は九つでもおませである。龍馬を好きになった。
 まあ、これは「はしか」みたいなものである。年頃の女の子は年上の男性を好きになるものだ。まだ子供であるお美以は母に、
「わたくしは、龍馬おじさまのお嫁様になります」といってあわてさせた。
 今、お美以は十代の美少女である。
 しかし、龍馬は彼女を子供扱いした。「お美以ちゃんはいつまでも子供の頃のままじゃきにな」といった。
「そんな……」お美以は泣きそうな顔をした。
「龍馬おじさまは、お美以さんに御無礼ではありませんか?!」
 それを知って春猪は叔父龍馬に食ってかかった。
 龍馬は「子供は子供じゃきに」と笑ったままだ。
 そののち龍馬は源おんちゃんにめずらしく怖い顔をして、
「春猪に、人間の娘をおもちゃにしちゅうなといってくれ」といった。
「おもちゃに?」
「いえばわかるきに。わしは忙しいので出掛ける」
 龍馬は出掛けた。
 春猪は複雑な気持ちでもあった。じつは春猪は龍馬叔父に好意をもっていたのである。 ……初恋……? そうかも知れない。私は龍馬おじさんのお嫁さんになりたい!
 しかし、当の龍馬にはそんなことは知らない。


『脱藩の準備』を龍馬はしはじめた。
 とうぜんながら脱藩には金がいる。刀もほしい。
 龍馬の家は土佐きっての裕福な武家だけに、名刀がしまってある。だが、兄の権平が脱藩を警戒して、刀箪笥に錠をして刀を取り出せなくしていた。
「どげんするきにか…」
 龍馬は才谷屋を訪ねた。才谷屋は坂本家の分家である。坂本家のすぐ裏にあって、こちらも商業を営んでいる。北門が坂本家、南門が才谷屋の店口となっていた。
「伯父さんはいるきにか?」          
 龍馬は暖簾をくぐり、中にはいった。
「ああ、坂本のぼんさま」
 番頭は用心深くいった。というのも、権平に、”龍馬が金か刀の無心に来るかもしれぬが、あれのいうことに応じてはならんぞ”と釘をさされていたからだ。
「あるじはただいま留守でごります」
「伯母さんは?」
「いらっしゃいますが、何やら気分が悪いとおやすみでございます」    
「なら、刀蔵の鍵をもってきてくれんがか」
「……それは」
「本家のわしが頼むのだぞ。わしは奥で酒飲んじゅるきに、持ってきとうせ」
 どんどん入りこむ。
 やがて夕方になった。
「おや、めずらしい。龍馬じゃないかが」
 お市おば(龍馬の祖父の従弟の妻)がいった。その姪の久万、孫の菊恵をつれて朝から遊びにきていたが、龍馬をみつけると笑顔になった。
 しかし、お市おばも龍馬の算段を知っている。……脱藩はなりませぬ!
 散々説教するが、龍馬は(何を寝言ば、ゆうちゅるがか)と思いながら頷いているだけだ。やがて伯父の八郎兵衛が帰ってきた。
「伯父さん。刀ば見せとうせ」
「あっ、龍馬がか」
 龍馬をみただけで顔色を変えた。本家からの情報をすでに掴んでいたからだ。
「刀は駄目だ。それより、家の娘を嫁にしちゅうがかか?」
「嫁などいらん。それより刀みせとうせ」
「これという、刀はないきに」
 嘘だった。豪商だけあって名のある刀が蔵にたんとある。
 しかし、本家との約束で、龍馬には刀を渡さなかった。    
 ……鈍刀だけもって発つか
 龍馬が帰宅すると、兄の権平が「龍馬、才谷屋に何しにいったがぜよ?」といった。
「ほんの、遊びじゃ」
 こんなに警戒されては策も尽きたか……龍馬は部屋で寝転がり一刻ばかり眠った。
 手蝋燭をもってくる人物がいる。それを龍馬の部屋にいれ、行灯に火を移した。
「あぁ、なんだお栄姉さんか」龍馬はほっとした。
 坂本家には女が多い。
 一番上の姉が千鶴で、これは城下の郷士高松家に輿入れして二男一女の母である。三番目の姉が龍馬を育ててくれた乙女で、これも輿入れしている。
 二番目の姉がこのお栄であるが、このお栄は不幸なひとで郷士の柴田家に嫁いだが離縁されて坂本家に出戻ってきていた。
 ……坂本の出戻りさん。
 といえばこのお栄のことで、お栄は出戻りらしくせまい部屋で慎ましく生活していた。華奢な体で、乙女とくらべれば痩せていて、本当に姉妹なのか? と思いたくなる女性だ。「存じてますよ、龍馬。あなたの脱藩がどれだけ家族に迷惑をかけるかかわらないのですか?」
「そげんまでのんきじゃないき」
「脱藩したら二度とお国にもどってこれませんのよ」
「弱ったな」おとなしいお栄姉さんからこんな説教をうけるとは思ってなかった。
「じゃきに、わしは男じゃきに。野心をかなえるためには脱藩しかないんぜよ」
「野心って何?」
「回天ですき。日本をいま一度洗濯するんじゃき」
「……わかりました」
「ほな、姉さん勘弁してくださるのんか」
「勘弁します。それにあなたが欲しがっている陸奥守吉行もわたくしからの贈物としてさしあげます」
「え? なんきに姉さんが陸奥守吉行もっちゅう?」
 龍馬は半信半疑だった。……陸奥守吉行というのは名刀である。
「これはわたくしが離縁したとき、前の夫(柴田義芳)からもらったものです。坂本家のものでも才谷家のものでもありません。あたくしのものです」
 龍馬はお栄姉さんより名刀をもらった。
 これが、お栄の不幸となった。
 龍馬の脱藩後、藩丁の調べで、柴田家の陸奥守吉行の一刀をお栄からもらったことが判明し、柴田義芳は激怒した。坂本家まできて、
「なぜそなたはわしの形身を龍馬にやったのじゃ?!」とお栄をせめた。
 お栄は、そのあと自殺している。
 天命としかいいようがない。天がひとりの姉を離縁とし刀を英雄に授け、そして自殺においこんだ。すべては日本の歴史を変えるために………

  土佐藩参政吉田東洋が、武市の勤王党の手で暗殺された。
 文久二年四月八日、夜、十時過ぎであったという。
 この日は、夕方から雨がふっていた。東洋は学識もあり、剣のうでもすごかった。が、開国派でもあった。そのため夜、大勢に狙われたのだ。
 神影流の剣で立ち向かったが、多勢に武勢、やがて斬りころされてしまう。
「吉田殿、国のために御成仏!」
 東洋は殺された。
  このころ、龍馬は高知城下にはいなかった。
 龍馬の兄の権平は呑気なもので「龍馬はどこいったんぜよ?」などという。武市一派の東洋暗殺にさきだつ十五日前の文久二年三月二十四日、闇にまぎれて脱藩してしまっていた。「いよいよ、龍馬は脱藩したのかのう?」
 もはや公然の秘密である。
 龍馬は神社にお参りしたあと、連れの沢村惚之丞とともにふもとの農家にいった。
「龍馬あ、旅支度せい」
「いや、ひょうたんひとつで結構じゃ」
 ふところには金十両があり、ひょうたんには酒がはいっている。腰にはお栄からの陸奥守吉行がある。「よし! いくぜよ!」
 脱藩とは登山のことであるという。
 土佐の北には四国山脈がある。険しい山道、けもの道を駆けていかねば脱藩は成らぬ。山道には関所、人の目があり、みつかれば刑務所行きである。民家にもとまれない。役人に通報されるからである。寝ず、駆けどおしで、闇の中を駆けた。
 ………”武士がかわらなければ日本はかわらんぜよ”…
 ………”国をかえるには自分がかわらんなきゃならぬ”…
 龍馬は、寝ず、駆けどおしで、けもの道を、闇の中を、駆けた、駆けた。
 こうして、龍馬は脱藩したので、ある。



戦後70年特別編成『あの戦争は何故起こり、原爆投下や惨めな敗戦・侵略・虐殺は何故起こったのか?』5

2015年07月29日 04時17分44秒 | 日記








 *賀屋興宣(かやおきのり、法務大臣)
  賀屋 興宣(かや おきのり、1889年(明治22年)1月30日 - 1977年(昭和52年)4月28日)は、広島県広島市出身の大蔵官僚、政治家。「統制経済」の立役者。
来歴・人物[編集]
生い立ち[編集]
父は国学者の藤井稜意(いつ)、母は愛国婦人会幹事を務めた賀屋鎌子。4歳の時母の伯父の家を継いで賀屋姓を名乗った。
広島第一中学校(現広島県立国泰寺高校)、第一高等学校、東京帝国大学法科大学政治学科卒。
大蔵省に入省し、主に主計畑を進んだ。官僚時代には陸海軍予算を担当し、少壮軍人達とも親しかった。1927年(昭和2年)ジュネーブ海軍軍縮会議、1929年(昭和4年)にはロンドン海軍軍縮会議に、それぞれ全権団の随員として参加。ロンドン会議では条約の締結賛成だったために、次席随員として参加していた山本五十六と鼻血を出す殴り合いを演じたこともある。
その後は戦時経済政策を方向づけることなどに貢献、いわゆる革新官僚の一人と目され、またその線での活動が目立った。1937年(昭和12年)には第一次近衛内閣で大蔵大臣となり、「賀屋財政経済三原則」を発表して日中戦争戦時の予算の途を開いている。この当時から、石渡荘太郎・青木一男とともに「大蔵省内三羽烏」と呼ばれるようにもなった。
1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦時の東条内閣で再び大蔵大臣を務めて戦時経済を担当したが、東郷茂徳外務大臣と共に米英に対する開戦には終始反対だった。戦時下には戦時公債を濫発し、増税による軍事費中心の予算を組み、戦時体制を支えた。その予算編成は、華北における資源開発や大東亜共栄圏を中心としたブロック経済を想定したものであり、A級戦犯に指名された理由もこの予算編成の責任者だったことに起因したものと考えられている。
A級戦犯から政界復帰へ[編集]
戦後A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑となり、約10年間巣鴨プリズンに服役。児玉誉士夫によれば、獄中でも「これまで落ちれば、寧ろさっぱりして良いですね」等と悠然としていたという。また、岸信介は、お互い数年間規則正しい生活を強いられたおかげで持病等が無くなり、長生きできるようになったと回想している。賀屋は喘息持ちだったが、獄中生活で完治したという。
裁判では日本の共同謀議について戦勝国から問われたが、これについて賀屋は「軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と語っている。
「逆コース」中の1955年(昭和30年)9月17日に鈴木貞一、橋本欣五郎らと共に仮釈放。1958年(昭和33年)4月7日付けで、同日までにそれぞれ服役した期間を刑期とする刑に減刑された。同年第28回衆議院議員総選挙に旧東京3区から立候補し当選(以後5回連続当選)。
岸信介首相の経済顧問や外交調査会長として日米安全保障条約の改定に取り組んだほか、池田内閣の法務大臣、自民党政調会長などを歴任し、自由民主党右派・タカ派の政治家として有名だった。池田勇人は賀屋を重用し、賀屋は熱心に岸の安保改定と池田の所得倍増政策に尽力した。
1972年(昭和47年)、政界引退(地盤は越智通雄が引き継いだ)。「自由日本を守る会」を組織、中華民国擁護など独自の政治活動を続けた。
アメリカ共和党や中央情報局(CIA)そして中華民国の蒋介石政権に広い人脈を持っていたり、日本遺族会初代会長となる等、国際反共主義勢力、自民党、右翼のトライアングルを結ぶフィクサーとして国内外の右翼人脈を築いた。2007年(平成19年)に開示されたアメリカ国立公文書記録管理局所蔵のある文書には、CIAが作成した日本の反共化を推進するのための現地協力者(行動員)のリストに賀屋の名が連ねられている。
エピソード[編集]
戦没将兵の単なる遺族互助団体だった「日本遺族厚生連盟」を「日本遺族会」と改称し右傾化させた張本人と目されたり、またA級戦犯として有罪判決を受け服役しながらも赦免後に要職に就いたことを批判されたりもしたが、その一方でタカ派ながら過去の敗戦責任を痛感して叙勲を辞退したり、巣鴨で服役中に刑場に向かうA級戦犯を目の当たりにした経験から法務大臣当時は死刑執行に否定的という一面もあった。事実、賀屋が法務大臣だった1964年(昭和39年)は日本の近世以降初めて死刑が実施されない年となった。
石原慎太郎が尊敬する政治家の一人で、「あんなに冷静で、人を食ってて、明晰だった人はいません」と評価している。話し合い、議論して、相手の言うことの筋が通らない場合には徹底的に論破し、軽蔑の上突き放すという、風貌に似合わぬところがあった。剃刀というよりも短刀のような人物だったという。石原は、日本の戦後にかつてはいた大官僚からいい政治家になった人物として賀屋を挙げ、その理由として戦中に軍と戦ったからと述べている。賀屋は初めて日本で統制経済をやった人物と評価し、賀屋自身も「こんな貧乏な国が3年間も戦争できたのは、私の財政のおかげですよ」と言っていたという。
妻とは熱烈な恋愛結婚で、妻の通夜の晩には一晩中妻の体をさすっていた。翌日葬儀屋が棺に遺体を入れるときに「体が温かいですね」と言われるほどだった。
日本社会党の委員長を務めた河上丈太郎とは旧制第一高等学校時代からの友人で、河上が死去したときは追悼文を書いたことでも知られている。
平沼赳夫の平沼家とは近所付き合いがあり、平沼は学生時代には賀屋の孫の家庭教師をしていた。平沼が政治家としての実質的なスタートとなる佐藤栄作の秘書になるのも賀屋の口利きだという。
年譜[編集]
衆議院予算委員会室で秘密会を前に結城豊太郎蔵相(中央)に耳打ちする賀屋次官(右)、昭和12年
1889年(明治22年) - 広島県広島市鷹匠町(現中区本川町)に生まれる。旧姓藤井
1917年(大正6年) - 東京帝国大学法科大学政治学科卒業、大蔵省入省
1927年(昭和2年) - ジュネーブ軍縮会議全権随員
1932年(昭和7年) - 大蔵省予算決算課長
1934年(昭和9年) - 主計局長
1936年(昭和11年) - 理財局長
1937年(昭和12年) - 大蔵次官を経て第1次近衛内閣で大蔵大臣として入閣
1938年(昭和13年) - 貴族院勅選議員に勅任
1939年(昭和14年) - 大谷尊由の後任として北支那開発株式会社第2代総裁に就任
1941年(昭和16年)10月18日 - 東條内閣で大蔵大臣として再入閣
1945年(昭和20年)9月 - A級戦犯の容疑で逮捕拘束
1948年(昭和23年)11月12日 - 極東国際軍事裁判により終身刑の判決を受け服役
1955年(昭和30年)9月17日 - 仮釈放
1956年(昭和31年) - 産業計画会議委員
1958年(昭和33年) - 正式赦免。5月の第28回衆議院議員総選挙に自由民主党公認(旧東京3区)から立候補し初当選、以後5期連続当選
1963年(昭和38年)7月 - 第2次池田内閣 (第3次改造) で法務大臣として入閣、続く第3次池田内閣でも留任
1972年(昭和47年)11月 - 政界引退。
1977年(昭和52年)4月28日 - 死去、満88歳。

戦争犯罪者は時に「勝者の為に犠牲者」になる。彼らだっていい訳ぐらいあるだろう。が、だからと言って、被害者意識丸出しで世界に訴えてもかわらない。小林よしのりは「A級戦犯などいない」という。なら誰が戦争を始めたのであろうか?軍部か?天皇か?何はともあれ「いい訳」で歴史を改ざんされては堪らない。歴史から逃げるな!と言っておわりとしたい。 
   

<ウィキペディアからの引用「天皇制」>
概要[編集]
「天皇制」という用語は「君主制」を意味するドイツ語 Monarchie のマルクス主義者による和訳。1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。[要出典]1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえ、天皇制と規定した。敗戦まで、「天皇制」という用語は反体制であるとみなされていた。
「天皇制」という用語は敗戦とともにごくありふれた日本人のボキャブラリーとなり、天皇制に賛成か反対かなどと世論調査の項目でも用いられるようになった。なお、当時アメリカではEmperor Institution, the Imperial Institutionなどの語が用いられ、その制度の存廃が大きな検討事項とされていた。
以下、古代以来の天皇と政治体制との関わりを中心に解説する。
歴史[編集]
古代[編集]
歴史学上、天皇制は古墳時代に見られたヤマト王権の「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」(あるいは「大王(おおきみ)」)に由来すると考えられている。3世紀中期に見られる前方後円墳の登場は統一政権の成立を示唆しており、このときに成立した大王家が天皇の祖先だと考えられている。大王家の出自については、弥生時代の邪馬台国の卑弥呼の系統を大王家の祖先とする説、大王家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。当初の大王は軍事的な側面だけではなく、祭祀的な側面も持っていたと考えられる。
7世紀後半から中国の政治体制に倣った律令制の導入が進められ、701年の大宝律令によって律令制が確立した。国号(日本)と元号(大宝)が正式に定められ、歴代天皇に漢風諡号が一括撰進された。こうして天皇を中心とした中央集権制が確立し、親政が行われた(古代の国体「建国ノ體」)。710年には平城京に遷都した。
9世紀ごろから貴族層が実質的な政治意思決定権を次第に掌握するようになっていった。10世紀には貴族層の中でも天皇と強い姻戚関係を結んだ藤原氏(藤原北家)が政治意思決定の中心を占める摂関政治が成立した。
11世紀末になると天皇家の家督者たる上皇が実質的な国王(治天の君)として君臨し、政務に当たる院政が始まった。天皇位にある間は制約が多かったものの、譲位して上皇となると自由な立場になり君主としての実権を得た。院政を支えたのは中級貴族層であり、藤原氏(摂関家)の地位は相対的に低下した。
中世[編集]
鎌倉に武家政権が成立すると、天皇・上皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈した。承久の乱では幕府側が勝利を収めた。だが、天皇側の勢力もまだ強く、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇が天皇親政を復活させた。建武の新政参照。
室町幕府が成立すると天皇は南朝・北朝に分裂した(南北朝時代)。長い戦乱が続いた末、室町幕府の3代将軍足利義満によって南北朝の合一が果たされた(1392年)。義満は幕府の権力を強化するとともに、「日本国王」として明皇帝に朝貢する形式で勘合貿易を行った。義満の死(1394年)に際して朝廷は「鹿苑院太上法皇」の称号を贈った(これらのことなどから、義満が皇位を簒奪する意図を持っていたと考える史家もいる)。
8代将軍足利義政の時代に応仁の乱が起こり、やがて戦国時代に入り、幕府の勢力は衰えた。戦乱の世にあって、天皇・朝廷の勢力も衰えていったが、主に文化・伝統の継承者としての役割は存続していた。
近世[編集]
織田信長、豊臣秀吉も天皇の存在や権威を否定せず、政治に利用することによって自らの権威を高めていった。江戸幕府のもとでも天皇の権威は温存されたが、「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とする禁中並公家諸法度が定められ、朝廷の立場は大きく制約されることになった。紫衣事件などにみられるように、年号の勅定などを僅かな例外として政治権力はほとんどなかった。
幕府が学問に儒学の朱子学を採用したことから、覇者である徳川家より「みかど」が正当な支配者であるという尊王論が水戸徳川家(水戸藩)を中心として盛んになった。
尊皇攘夷論[編集]
江戸時代末になると尊皇攘夷論が興り、天皇は討幕運動の中心にまつりあげられた。尊王攘夷論は、天皇を中心とした政治体制を築き、対外的に独立を保とうという政治思想となり、幕末の政治状況を大きく揺るがせた。吉田松陰の唱えた一君万民思想は擬似的な平等思想であり、幕府の権威を否定するイデオロギーともなった。しかし、尊皇攘夷派の志士の一部は天皇を「玉」(ぎょく)と呼び、政権を取るために利用する道具だと認識していた。
明治維新[編集]
江戸幕府が倒れ、明治の新政府は王政復古で太政官制を復活させた。なお、真の統治者が将軍ではなく天皇である事を知らしめるため、当時、九州鎮撫総監が“将軍はいろいろ変わったが、天子様は変わらず血統も絶えずに存在する”という趣旨の文書を民衆に配布している。京都府もやはり天皇支配を周知すべく告諭を行なっている。更に新政府は行幸をたびたび行なった。
ヨーロッパに対抗する独立国家を創出するため、明治政府による中央集権体制が創られた。明治政府は不平を持つ士族の反乱や自由民権運動への対応の中から、議会制度の必要性を認識していった。日本の近代化のためにも、国民の政治への関与を一定程度認めることは必要であり、近代的な国家体制が模索された。モデルになると考えられたのは、ヨーロッパの立憲君主国であった。
憲法下の天皇制[編集]
大日本帝国憲法[編集]
大日本帝国憲法はプロイセン王国やベルギー王国の憲法を参考に作成されたと言われている。伊藤博文は、ヨーロッパでは議会制度も含む政治体制を支える国民統合の基礎に宗教(キリスト教)があることを知り、宗教に替わりうる「機軸」(精神的支柱)として天皇に期待した。
天皇の地位[編集]
大日本帝国憲法第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定められており、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されていた。
天皇の大権[編集]
大日本帝国憲法においては、天皇は以下のように記されていた。
元首で統治権を総攬する。
陸海軍(=軍隊)を統帥する。
帝国議会の協賛を以って立法権を行う。
国務大臣によって輔弼される。
司法権はその名において法律により裁判所が行う。
立憲君主制[編集]
機務六条の締結と大日本帝国憲法の制定により、日本は立憲君主制になったとされる。大日本帝国憲法を起草した伊藤博文も、天皇に絶対君主の役割を期待するようなことはなかった。法文を素直に解釈すると、“万世一系の天皇之を統治す”、“神聖にして侵すべからず”など、大日本帝国憲法においての天皇は大きな権力を持っていたように読めるが、明治以降も、天皇が直接命令して政治を行うことはあまり無く、明治憲法制定後も当初は、藩閥政府が天皇の権威の下に政治を行っていたのが、後には議会との妥協を試みるようになった。この点について「君臨すれども統治せず」という原則をとる現代の日本やイギリスなどの近代的立憲主義とほぼ同じであったという意見がある。
一方、統帥権をはじめとした軍について、議会、内閣の関与が受けられない他、議会の関与を受けない枢密院の力が巨大であること、憲法上にない元老、内大臣が天皇の権威によって、政治に介入できるほか、解釈上法律で基本的人権を無制限に侵害することが可能とも読める(留保を定めた「臣民の義務に反せず法に定める範囲内で」の文言が各所にある)ため、憲法学者の間では外見的立憲主義でしかないとする意見が通説である[要出典]。
統帥権[編集]
衆議院において政府に反対する勢力が多くを占めることを予想して、貴族院に衆議院と同等の権限を持たせている。
実際に政治を運営するのは、天皇でなく元老や内閣(藩閥政府)の各大臣である。行政権は国務大臣の輔弼により天皇が自ら行うものとされた。大日本帝国憲法では、内閣の大臣は天皇を輔弼するもの(総理大臣も他の大臣と同格)と規定された。しかし、最終的な政治決断を下すのは誰か、という点は曖昧にされていた。対外的には、天皇は元首であるが実際の為政者は内閣としていた。内閣は憲法ではなく内閣官制で規定されており、内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの憲法上は対等な地位であった。
この憲法構造が昭和に入ってから野党や軍部に利用され、「軍の統帥権は天皇にあるのだから政府の方針に従う必要は無い」と憲法を拡大解釈して軍が大きな政治的影響力を持つこととなったといわれる(権力の二重構造、統帥権干犯問題)。軍が天皇を担いでクーデターを起こしても、政府がこれを制止鎮圧する術はなかったのである。二・二六事件の際は昭和天皇が、重臣達に「お前達が出来ぬと言うなら朕が直接鎮圧に行く」と述べたため、反乱軍は無条件降伏をしたため、反乱は鎮まった。また、終戦の際、ポツダム宣言の受諾・降伏を決定することが総理大臣に出来ず、天皇の「聖断」を仰ぐ他なかった。しかし、天皇は立憲君主としての立場を自覚していたため、上御一人(最高権力者)であってもこの2例を除いて政治決定を下すことはなかった。こうした政治的主体性の欠如した統治機構を、政治学者の丸山眞男は「無責任の体系」と呼んだ。
なお、明治以降から終戦までの天皇制は、従来の天皇制とは異なる極めて政治的な理由によって、大幅に制度を変えるものであるとして、「絶対主義的天皇制」「近代天皇制」という語が用いられることもある(天皇制ファシズム参照)。
日本国憲法[編集]
日本国憲法第1章が、天皇の地位と国民主権を規定し、日本国憲法第1条が以下の通り定める。
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く

天皇が「象徴」の地位にあること、また今後もそうあり続けられるか否かは主権のある日本国民の総意に基づいて決定されるという規定であり、象徴天皇および国民主権を規定するものとなっているのである。
第二条~第八条の構成は次のようになっている。
第2条 皇位の継承
第3条 天皇の国事行為に対する内閣の助言と承認
第4条 天皇の権能の限界、天皇の国事行為の委任
第5条 摂政
第6条 天皇の任命権
第7条 天皇の国事行為
第8条 皇室の財産授受
天皇は日本国憲法の定める特定の国事に関する行為のみを行うとされるようになり、国政に直接関与する権能は有しなくなり、また天皇の国事行為は内閣の助言と承認が必要とされ、内閣がその責任を負う、とされている。
「象徴天皇制」も参照
連合国軍最高司令官総司令部は国家の政体の中心に継続して皇室を維持する方針を採り、一方で昭和天皇によるいわゆる「人間宣言」を請け日本国憲法に国家象徴としての天皇(象徴天皇)の地位を導入する方針を指導した。この方針は昭和天皇の各地への行幸や皇太子結婚などのイベントを通して大衆に浸透し、一定の支持を得るに至った。この大衆の支持を基盤にした戦後の皇室制を松下圭一は大衆天皇制と評した。
憲法学会の学説では日本国憲法下の現行体制を立憲君主制とは捉えず、また天皇は元首ではないとする説と、実質的に元首であるという見解を示す説もある(「君主制(君主が元首である)」と「君主政(君主が執政者である)」では若干意味が違い、「民主政」と「君主政」の両立は有り得ないが、「民主政」と「君主制」は両立され得る)。
日本政府の公式見解(法制局の見解)は以下の通りである。
1973年(昭和48年)6月28日参議院内閣委員会、吉國一郎内閣法制局長官答弁「日本は近代的な意味の憲法を持っているし、憲法に従って政治を行う国家である以上、立憲君主制と言って差し支えないが、ただし明治憲法におけるような統治権の総攬者としての天皇をいただくような立憲君主制ではないことは明らかである」と述べた。
1975年(昭和50年)3月18日、衆議院・内閣委員会において、政府委員の角田礼次郎(内閣法制局第一部長)は、質問に答える形で、旧憲法下の天皇と現在の憲法のもとにおける天皇の権能・地位は非常な違いがあると認め、大きな違い(の一番目)は、現憲法のもとにおける天皇は、第一条に明記されているがごとく、日本国の象徴であり日本国民の象徴であって、一口で言えば非政治的な地位にいることだと思う、とし、第二に、現在の(=現憲法下の)天皇は(旧憲法下では初めから地位を持っていた、とされていたのに対して)、やはり第一条に明記されているごとく、その地位が、主権の存ずる日本国民[注 1]の総意に基づくことだと思う、と述べた。
1988年10月11日参議院内閣委員会、大出峻郎内閣法制局第一部長答弁。(天皇は元首なのか?そうでないのか?といった主旨の問いに対し)『現行憲法(=日本国憲法)においては元首とは何かを定めてはおらず、元首の概念は学問上・法学上いろいろな考え方があるようなので、天皇が元首かどうかは、要は定義次第であると考えている。“元首”の定義として、外交のすべてを通じて国を代表し(かつ)行政権を把握しているとする定義を採用するならば、現行憲法においては天皇は元首ではないということになると思う。しかし、現代には「実質的な国家統治の大権を持っていないくても、国家においていわゆるヘッド(頭)の地位にある者を“元首”と見る」とする見解もあり、そのような定義を採用するならば、天皇は国の象徴であり外交関係では国を代表する面も持っているので、(その場合は)「元首」と言ってもさしつかえないというふうに考えている。』『憲法7条9号の「外国の大使および公使を接受すること」というのは、国事行為として、日本に駐在するために派遣される外国の大使・公使を接受するのであるから、この点では、形式的・儀礼的ではあるが天皇が国を代表する面を有している。それに対して、全権委任状あるいは日本の大使・公使の信任状を発出するのはもともと内閣の権限に属することであり、天皇はあくまでこれを認証するだけである。また批准書、その他の外交文書の作成も、内閣の権限に属することであり、天皇はこれを認証するだけである。そういう意味において、外交関係において国を代表する面を有しているとは言いにくいのではないかと理解している』
アメリカ・中央情報局の『ザ・ワールド・ファクトブック』では、日本の「Government type(政府・統治のタイプ)」としては「a parliamentary government with a constitutional monarchy」とし、「chief of state」としては 「Emperor AKIHITO (since 7 January 1989)」としている。諸外国は一般的に、外交上、日本を天皇を元首とした立憲君主国として扱っている。
天皇制という表現への批判[編集]
思想上の理由から、天皇制という語を忌避して「皇室」という表現もよく用いられ、中にはあえて「国体[注 2]」と表現するケースもみられる。漫画家の小林よしのりは『ゴーマニズム宣言』[要出典]にて「その由来だけでも使うべきではないが、より本質的に言うと天皇は「制度」として存在しているわけではないから使うべきではない」と批判した。谷沢永一は2001年の著書で「天皇制という呼称は、天皇陛下ならびに皇室を、憎み、貶め、罵るための用語であり、国民としては、伝統に即して、皇室、という呼称を用いるのが妥当であろう」と述べ、また谷沢によると、小説家の司馬遼太郎は「天皇制という語は、えぐいことばであり、悪意がインプットされている」と述べたという。
戦前の論評[編集]
「日本の失敗を天皇制のせいだと非難はしても、日本の成功に関して天皇制を褒めることはしなかったのが戦後歴史家たちであるが、これと異なり、明治知識人たちは日本の進歩の功を天皇に帰しはしても、その短所を天皇のせいにはしなかった」という指摘が、明治時代と戦後の天皇制に関する論評の違いについてなされている。
擁護派の意見[編集]
「世界最終戦を経て、全人類が天皇を現人神(あらひとがみ)として信仰し、天皇の霊力によって世界を統一するべきである。」(石原莞爾『世界最終戦論』。天皇の世界征服による世界平和の実現)
大日本帝国陸軍参謀であった石原は、「人類が心から現人神(あらひとがみ)の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。」と主張した。「我らの信仰に依れば、人類の思想信仰の統一は結局人類が日本国体の霊力に目醒めた時初めて達成せられる。更に端的に云えば、現人神(あらひとがみ)たる天皇の御存在が世界統一の霊力である。しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむるには日本民族、日本国家の正しき行動なくしては空想に終る。」とも主張した。つまり武力など外道を以ってしては世界中が天皇を尊崇するようにはならない、と述べたのである。
谷沢永一によれば、戦前「天皇制」という言葉は、ごく少数がひそかに使用する以外まったく日本国民に知られておらず、この言葉は日本製ではなく大正12年(1923年)3月15日ソ連共産党が指導するコミンテルンから日本共産党にもたらしたもので、天皇制打倒、天皇制廃止を専一にめざす、天皇と皇室を憎みおとしめ呪う造語であり、戦後になって、日本国民は「天皇制」という言葉を「赤旗」(昭和25年10月20日)により初めて知り、これと呼応するように「民主主義と天皇制はあいいれない」なる議論が発生したとする。
保守派の中西輝政は、ソ連が「天皇制」の廃止に強い執着を見せたのは、1927年のコミンテルンの日本共産党への指令(27年テーゼ)以来、一貫していた「日本革命」を可能にする唯一の道は、ロシアと同様「帝制の打倒」がカギだ、という考えからであり、日本がアメリカ陣営に組み込まれても「天皇制」廃止だけは必ず実現させねば、というのがスターリンの執念であった、そこから戦後日本では左翼・左派勢力は一貫して、不自然なほど「反天皇」「反皇室」を叫び続けることになった、とした。
批判派の意見[編集]
戦前は国体批判そのものが大逆であったため、その思想は地下に潜伏し日の目を見ないものであったか、あるいは徹底的に弾圧される種類のものであった。憲法論においては機関説などが登場し、思想の趣旨として国体批判を意図するものでは全くないために基礎的な学説になったにもかかわらず、超国家主義などの台頭や政党同士の政争により政界を揺るがす大事件に発展した(天皇機関説事件)。無政府主義の主張は許容されず滝川事件なども発生した。
戦後の論評[編集]
第二次世界大戦が終わると、共産主義や近代政治学(前記の丸山眞男ら)の立場などから「天皇制批判」が数多く提議された。1950年代から1960年代には、共産主義者を中心に天皇制廃止論もあった。昭和天皇崩御の際、テレビ朝日の『朝まで生テレビ!』で天皇および「天皇制」の是非について取り上げられた。しかし、これ以降、この問題を積極的に取り上げるマスメディアはほとんどない。
日本共産党は2004年に綱領を改正し、元首化・統治者化を認めないという条件の下、「天皇制」の是非については主権在民の思想に基づき国民が判断すべきである、という趣旨に改めた。
擁護派の意見[編集]
「思想取締りの秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する。……さらに共産党員であるものは拘禁を続ける……政府形体の変革、とくに天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕する」 内務大臣山崎巌、1945年10月
「天皇制の下に他国とは趣の異なったデモクラシーの運用が行われねばならぬ」(安岡正篤・1945年12月)。
「天皇を現人神と仰ぎ奉り皇国を毒する内外一切の勢力を打滅せん事を期す」「大日本帝国憲法の復活」「核武装による皇軍再建」(大日本殉皇会、1961年設立の右翼団体)
「天皇制の下に日本民族の主体性を把握」(治安確立同志会、1952年設立の右翼団体)
「日本の皇室の系図は、まっすぐに神話時代に遡りうる。これは、ギリシャで言えば、アガメムノンの子孫が、ずっと今もギリシャ王であり、イギリスで言えばアルフレッド大王の直系の子孫が、まだ王様である状態に近い感じで、外国人には驚天動地の現実である」(渡部昇一 1990年6月)。
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批判派の意見[編集]
詳細は「天皇制廃止論」を参照
(坂口安吾・1946年6月)「天皇をたゞの人間に戻すことは現在の日本に於て絶対的に必要」。
(宮本百合子・1949年2月)「天皇制が侵略戦争をはじめた」
菅孝行;天皇制は、天皇という聖、被差別者(ex.部落、障碍者、在日韓国・朝鮮人、女性)という賤という相対立する形で成り立っており、そこからの克服こそが求められている

また、特に昭和天皇に関しては第二次世界大戦当時、日本軍の最高指揮権を有していたにもかかわらず、敗戦後にナチス系の勢力を徹底的に追放したドイツや君主制を廃止したイタリアとは違い、軍事裁判でA級戦犯として裁かれることがなかったこともあり左派や諸外国からの批判もあったため、保守派の一部からも昭和天皇退位論が出ていたこともあった。

世論調査[編集]
世論調査の推移を見ると、1990年では「今の象徴天皇のままでよい」を回答に選んだ人73%だったとされ、2000年には象徴天皇を支持したのが8割とされ、2002年には「(天皇は)今と同じ象徴でよい」を回答に選んだ人が86%だったとされる。
NHKが2009年10月30日から11月1日に行った世論調査では、「天皇は現在と同じく象徴でよい」が82%、「天皇制は廃止する」が8%、「天皇に政治的権限を与える」が6%となっている
天皇制絶対主義[編集]
天皇制絶対主義もしくは絶対主義的天皇制とは、日本近代における近代天皇制の体制を講座派において定義した言葉。
明治維新後の政治体制を、絶対主義とみなし「絶対主義天皇制」と規定したのは、主に唯物史観を取り入れた左派の歴史学者である。この場合、明治維新から第二次世界大戦までの日本の政治体制は絶対主義であり、明治維新はブルジョワ的市民革命ではなく、不十分な改革であったと評価される、社会経済史理論の一形態である。
これに対して、「自由主義史観」では、歴史解釈は「類似」し、「平行」する現象の存在により成立するので、幕府が外交権・貿易権を有した江戸時代がすでに絶対主義体制であったと考えられる、としている。
また、啓蒙君主と比較して論じる者や、明治維新を市民革命と比較する視点もある。

小林よしのり『天皇論』主張などウィキペディア参照

概要[編集]
『ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論』の続編にあたる。より正確には『天皇論』の最終章の続編と言うべき内容となっており、皇位継承問題に関する小林の主張が内容の大半を占める。その点に注力するあまりに資料の曲解や理性万能主義の驕りという観点からの批判も多い。
主張[編集]
『ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論』及び関連作品である『皇后論』より引き続いて、また『WiLL』に連載の『本家ゴーマニズム宣言』などと連携して皇位継承問題について女系天皇を容認し、男系維持論者を批判して旧皇族皇籍復帰論に反対している。これらは『天皇論』においての女系天皇反対派からの批判に対しての反論である。容貌の醜悪なカリカチュア化も見られ、男系維持論者の「Y染色体による男系の維持」論について人類の祖とされるラミダス猿人の化石「アルディ」が女性であることから、歴代天皇を醜悪な猿人の姿に戯画化されたアルディのすぐ前に直接の子孫であるかのように描き「アルディが天照大神だったとでも言うのか」と叫ぶ描写がある。男系維持論者・支持者に対しては「男系絶対主義者」後には「男系固執主義者」とし、また男系論者を「皇室論の専門家ではない」と発言。男系維持論者の中でもY染色体論者は少数にもかかわらず、男系維持論者=Y染色体論者などと決め付けた発言もしている。個々の論者に対しても廃太子論などを唱える橋本明、西尾幹二らについて「シナ病」「人でなし」「日本の国情にそぐわない易姓革命を唱えている」などと批判、肖像をゴミあさりや蛸の姿に戯画化し「批判はやっかみである」と発言(ただし一方で竹田恒泰らに対する小林の「ゴミあさり」はそれらをはるかに超えた讒謗である)、小堀桂一郎を「男系派の大ボス」と称するなどしている。このほか「女系になったら腹を切って自害するのか」との発言もあり、著者は「天皇は男系でも女系でも問題ない!」とし、直系優先、女系容認であると主張するが、実際には女系推進の立場に立つと判断できる。『SAPIO』2010年5月12日号以降は今上天皇はじめ、公的機関に公認されたわけでもないのに「女系公認」の語を唱えている。又、女性天皇には、「生涯ご結婚の禁止、御懐妊の禁止」という不文の法があることにも触れていない。
天皇・皇族発言の引用[編集]
自説を主張・補強するに際して権威付けを行うことも多く天壌無窮の神勅を持ち出し女系への支持を訴えたり、昭和天皇、今上天皇をはじめ天皇・皇后の発言を要所で部分的に引用することが多い。引用の際には発言意図を憶測し「女系容認に賛同している」と解釈、「大御心が女系容認だったらどうするのだ」(『SAPIO』2009年12月16日号)など反対者を威嚇することも多く、大御心が女系容認拒否である可能性については全く述べておらず、皇室問題を巡る小林の論敵側の一部からは、天皇を恫喝又は侮辱していると唱える声もある。皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王ら皇族の発言について女系容認論者の推測による解釈のみを載せて論の補強に用いることも行っている(『SAPIO』2010年3月10日号ほか)。
その一方で男系派と看做した皇族へは三笠宮家に対して「親子2代で天皇陛下に心配をかけた」といった趣旨の中傷を行うなど攻撃対象にし旧皇族の男系子孫の代表的人物である竹田恒泰に対しては言動、行動を批判するほか「竹田から小林へ送られたメール」の内容についても触れ人格攻撃としか採りようにない讒謗に終始している。
『SAPIO』2010年5月12日号において昭和天皇が香淳皇后との間に結婚後9年間4人続けて女児が誕生した際、側室を拒否し香淳皇后には「男児が生まれなくとも皇位は弟宮が継げばいいと仰った」と主張しているがこの大御心を現在に当て嵌めると皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王、悠仁親王の現行の皇室典範に定める皇位継承順序となる。
旧皇族復帰の否定[編集]
旧皇族の皇籍復帰については「血が遠い」「400年も遡らなければ天皇に繋がらない」として否定する。否定されるべき代表例として竹田について「父の代から平民」(『SAPIO』2010年5月12日号)と唱えているが、第60代の醍醐天皇が、源姓を賜り臣籍降下した実父・宇多帝の子として臣下の身分に生まれながら皇籍に列したことには全く触れていない。そればかりか皇族の四辻善成が同じく源姓を賜り臣籍降下した後、皇族に戻れなかったという自説に都合のいい事例のみを根拠とし、改めて旧皇族復帰の否定を主張した。また伏見宮流を天皇家との血縁が薄いために軽んじられ、皇籍離脱になって当然であるという描写を行い同家を貶めている。『SAPIO』2010年3月31日号では香淳皇后を侮辱している。男系皇族としては小林の云う通り旧皇族は「血が遠い」が、孝明天皇は伏見宮に譲位を提案されたことがあるし(正確には伏見宮と有栖川宮)、明治天皇は皇子がのちの大正天皇お一人だったということで、いざというときのために永世皇族を強く望まれ、皇女4人を伏見宮系の宮家に嫁がせになられた等の歴史的事実についても触れていない。竹田宮家・朝香宮家・北白川宮家・東久邇宮家は明治天皇の皇女である常宮昌子内親王(竹田宮恒久王妃)・周宮房子内親王(北白川宮成久王妃)・富美宮允子内親王(朝香宮鳩彦王妃)・泰宮聡子内親王(東久邇宮稔彦王妃)が嫁いだ宮家であり、明治天皇の子孫であり女系男子に当たる。東久邇宮家は昭和天皇の第1皇女の照宮成子内親王(東久邇宮盛厚王妃)が嫁いだ宮家で東久邇信彦は昭和天皇の初孫として誕生した皇族で女系の男子に当たる。この事から男系皇族の三笠宮家より「血が近い」血縁者となる。女系賛成の立場なら明治天皇と昭和天皇の女系男子も認めるはずだが、認めていない。
伝統の否定・曲解[編集]
皇室が初代神武天皇から125代今上天皇まですべて男系による継承がなされたことについて日本独自の伝統とは捉えず、中国・朝鮮の家族制度を十分に日本化せず不十分に模倣した「因習」に過ぎないと述べている。更に、儒教に立脚した男系文化が日本に浸透した時期を7世紀であると断言している。なお、中国では易姓革命・王朝交代が何度も起きている。他方、小林は自著の『ゴーマニズム宣言スペシャル・昭和天皇論』の後半で、第38代の天智天皇の治世を描いた中で、即位前の天智帝と実母である斉明天皇が指揮した白村江の戦いを、華夷秩序に対抗するための予防的先制攻撃と位置付け、天智帝の実弟・大海人皇子(後の天武帝)も同様の認識だったと述べている。なお、現実に日本においては律令こそ浸透したものの、科挙や宦官、同姓不婚の原則は定着せず、第40代の天武天皇には天智天皇の娘、持統天皇、大田皇女など4女が嫁いでいる、とされている。この歴史的背景を念頭に入れると、これまでの慣習だった近親婚は以前よりも深く浸透していた可能性があるため、小林の発言にはブレがあるとも解釈できる。
偏向[編集]
女系を認めれば皇位の安定的継承が保障されるかのような言辞を多用し今上天皇の孫・曾孫世代における男子皇族の誕生の可能性は描かず、「将来皇族がいなくなってしまう」と唱える。皇后美智子・皇太子妃雅子がバッシングを受けた事例を挙げ悠仁親王が妃を見つけることの困難さを繰り返し主張する一方、皇籍にとどまる皇族女子、特に愛子内親王が女性皇太子となった場合の配偶者を見つけることの困難さについては全く言及していない。旧皇族の皇籍復帰について「民間に生まれ育った一般人を皇族とする」と批判している一方、女系容認論が「民間で生まれ育った一般人を皇族女子の婿とし皇族とする」制度であることについては全く述べていない。歴史的に女子が皇太子になった事実があると主張しているが天皇の弟が皇太子になった例が多数あることは全く述べていない。ちなみに皇室はこれまで125代のうちで皇位が親→子と継承(直系継承)されたのが66例、兄弟継承が27例、女性天皇は10代8人、女性皇太子は孝謙天皇の1例のみで孝謙天皇は生涯独身であった。女系天皇は史上例がなくすべて男系による継承がなされた。当時の天皇や上皇が直系継承にこだわった結果保元の乱、南北朝の分裂が勃発したことにも触れていない。『SAPIO』2010年5月12日号においては「皇室典範を改正すれば愛子内親王にも皇位継承権はある」と唱え、内親王の皇位継承を主張している。同号においては、「男性は欠陥品」との、差別発言ともとれる主張も行っている。女系容認後の皇位継承順序については、「直系優先・兄弟姉妹間長子優先」を支持し「直系優先・兄弟姉妹間男子優先」(高森明勅などの主張)には反対している。現在の皇位継承順序を変更しない「男系男子優先」については全く言及していない。
日本神話、神道について[編集]
天照大神は女性神である、ならば日本の天皇は女系だったと考えることもできると主張している(『ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論』)。『日本書紀』においては神武天皇以前を神代、以後を人代としている。皇祖神が女神であることと初代神武天皇から第125代の今上天皇まですべて男系による継承がなされたことは同時に成立する概念であるが、神武天皇以降の男系継承の伝統を主張することは「神話と歴史の分断工作」と批判している。
また神社本庁が女系容認に反対しているのは寛仁親王の影響下にあるためと主張しているが、「皇室典範改正問題に関する神社本庁の基本見解」の内容には触れていない。また、神道が天照大神を祀る伊勢の神宮大麻を最も尊ぶ教えであることについては全く述べていない。
秋篠宮家について[編集]
『SAPIO』2010年6月9日号で、秋篠宮文仁親王は天皇になるための教育を受けていないと主張。また、秋篠宮文仁親王は高齢での即位が予想され、「例えば80歳の天皇誕生ということになった時、国民の天皇への関心や求心力は保たれるだろうか」と主張。また、秋篠宮文仁親王の在位期間は短いことが予想され、元号が短期間で変わってしまうと主張。また、皇太子徳仁親王が即位した時点で皇太子が空位になることを指摘し、現行の皇室典範に定める、皇太子徳仁親王から秋篠宮文仁親王への皇位継承を批判している。昭和天皇即位(1926年12月25日)から今上天皇の立太子の礼(1952年11月10日)までの期間、皇太子が空位であったことや、大正が14年数か月であったことは全く述べていない。
『SAPIO』2012年4月4日号で、「現在の皇位継承順位は明らかにおかしい」と主張。『SAPIO』同号では秋篠宮文仁親王を「秋篠宮」と敬称をつけずに表記している。
『新天皇論』第35章で渡部昇一の「秋篠宮家の親王殿下は、皇位継承の順序において、愛子様より下ると断定してよいか」との質問状に対して「私が尊重するのは男系よりも直系だから傍系男子の悠仁親王よりも直系女子の愛子内親王の方が上になる」と回答している。『新天皇論』第36章で女性週刊誌は毎号毎号皇太子妃雅子と愛子内親王の記事ばかりであると指摘し、無意識のうちに庶民が「直系」の正統性を感じてしまうからだと主張している。
なお、『SAPIO』2010年3月10日号、『新天皇論』第13章で、「私の意図は、天皇陛下、皇太子、秋篠宮両殿下に、自由な(心理的)決定権を与えることである」との記載もある。
皇位継承の危機について[編集]
『SAPIO』2010年11月10日号で、6世紀に武烈天皇が嗣子なく崩御し、しばらく皇位は空位とされたが、やがて武烈天皇から10親等離れた継体天皇が践祚した事例をあげ、現在はこの時代以来1500年ぶりの皇位継承の危機であると述べている。実際は、室町時代の称光天皇崩御時と江戸時代中期の後桃園天皇崩御時も皇統断絶の危機であった。前者は伏見宮家から後花園天皇が、後者は閑院宮家から光格天皇が傍系継承することにより乗り切った。光格天皇が現在の皇室の祖先であることや、現在のところ最後の女性天皇である後桜町天皇が光格天皇の後見補佐をしたことについても全く言及していない。
「男系派3つの逃走点について」に関する論争[編集]
小林は、自身の説とは対照をなす男系存続派の問題点として「男系派3つの逃走点について」としてまとめている。しかし、いずれも男系存続派からの反論がきているが、小林自身からの明確な再反論はない。また、論争の中で質問内容の一部も変わってしまっている問題点も散見される。当初の質問は、下記の三つ。
皇族志願の男系男子っているのか?(新天皇論 290頁)、皇籍取得してもいいという旧宮家子孫は実在するのか?(新天皇論 297頁)について、
上記『#皇族志願の男系男子っているのか?(新天皇論 290頁)に関する間違い』参照。
「現代医学」の進歩で必ず男子が生まれるか?(新天皇論 291頁)、側室なしで男系継承が続くか?(新天皇論 297頁)について、
上記『 #側室制度なしに男系継承は不可能に関する間違い』参照
皇祖神は誰か?(新天皇論 292頁)について、
この議論はそもそも「神話と歴史の区別」というところから端を発している。これに対して小林氏は「男系派は、神話を否定した」としている。男系派は『スサノオノミコトが生んだから男系というよりも、天照大神があえて男性神を選び、「わが子孫」により継承するとしたことが、決定的に大事であり、歴代天皇は「神勅」をそのまま受け取り、万世一系により皇位を継承してきた事が重要』としている。

米沢市野生動物農作物被害(年間一千万円以上)対策戦略、またも他力本願またもアイディア=タダ?

2015年07月28日 19時13分33秒 | 日記








米沢市が鹿や猪等の農作物被害(年間1千万円以上)の対策を


10年単位で作成するときいて


「どんな?」と訊くと、


「市民から意見を募集します」等という。



何でも他力本願で、


しかも発案に金を払わない。


馬鹿か?例えば山形県に「伊勢参拝と羽黒山信仰をリンク」と入れ智慧したのは私(笑)


損した!臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

大河ドラマ『米沢燃ゆ 上杉鷹山公』原作・緑川鷲羽 脚本・田渕久美子 音楽・大島ミチル監督・園子温

2015年07月28日 18時55分19秒 | 日記











 ……為せば成る為さねば成らぬ何事も、成らぬはひとの為さぬなりけり……。

 ……不況になるたびに、時代が混迷するたびに、上杉鷹山は注目を集める。
 それは、多分に、上杉鷹山が”真実の改革”をおこなったからに他ならない。
                      米沢燃ゆ 上杉鷹山公    おわり 


「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」(大河ドラマ)キャスト
                     原作・緑川鷲羽 脚本・田渕久美子
                     音楽・大島ミチル監督・園子温
       
      上杉鷹山(治憲)…………    木村拓哉(SMAP)
     幸姫 …………    渡辺麻友(AKB48)
上杉直丸(少年期)………    鈴木福
      上杉重定    …………    高橋英樹
      竹俣当綱    …………    中村梅雀
      莅戸善政(大華)…………    風間杜夫
      木村高広    …………    京本政樹
      藁科松伯    …………    高嶋政伸
      お富の方    …………    浅野ゆう子
      佐藤文四郎   …………    今井翼(タッキー&翼)
      旅館の女将   …………    鈴木砂羽
      水沢七兵衛   …………    佐藤B作
      須田満主    …………    平泉成
      黒井半四郎   …………    笹野高史
      細井平洲    …………    寺尾聰
      文四郎の恋人  …………    多部未華子
      色部照長    …………    橋爪功
      紀伊      …………    高島礼子
      七家      …………    北村総一郎・前田吟、柄本明・三浦友和
                      ビートたけし・寺島進
        他  

山口県周南市の連続殺人放火事件、保見光成被告(65)に死刑求刑「妄想性精神異常」無罪なし

2015年07月28日 17時31分04秒 | 日記












山口・周南市の連続殺人放火事件、被告に死刑判決


山口・周南市の連続殺人放火事件、被告に死刑判決
 おととし7月、山口県周南市で同じ集落の男女5人を殺害、被害者の自宅2棟を全焼させたとして、殺人と放火の罪に問われている周南市金峰の保見光成被告(65)の裁判員裁判で、山口地裁は28日午後、求刑通り、保見被告に死刑判決を言い渡しました。(28日15:30)

日本勢スマホのブレイクスルー、イノベーションは丸一日持つバッテリー開発!iPhoneを越えろ!

2015年07月28日 17時10分06秒 | 日記








今やスマホ全盛時代ですが日本勢スマホ会社にボランティアで助言するなら、


iPhoneとは違うスペック


つまり、バッテリー関係ではないか?と僕は思います。


iPhoneは確かにいい商品ですが数時間連続で使っただけで充電がすぐ必要になります。


そこで日本勢は丸一日持つバッテリー開発です。臥竜




緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

戦後70年特別編成『あの戦争は何故起こり、原爆投下や惨めな敗戦・侵略・虐殺は何故起こったのか?』4

2015年07月28日 05時30分15秒 | 日記









 *荒木貞夫(文部大臣)
  荒木 貞夫(あらき さだお、1877年(明治10年)5月26日 - 1966年(昭和41年)11月2日)は、日本の陸軍軍人、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。皇道派の重鎮であり、昭和初期の血気盛んな青年将校のカリスマ的存在であった。
1931年(昭和6年)より犬養内閣・齋藤内閣陸相。1934年(昭和9年)、軍事参議官。1935年(昭和10年)、軍功により男爵。1936年(昭和11年)、二・二六事件の粛軍の結果、予備役に編入される。1938年(昭和13年) - 1939年(昭和14年)、第1次近衛内閣・平沼内閣の文相として国民の軍国化教育に邁進した。
略歴[編集]
生い立ち[編集]
東京都狛江市(出生当時は東京府多摩郡)出身。小学校校長で、旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれる。誕生日は木戸孝允の命日でもある。日本中学中退を経て、1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校卒業(第9期)。近衛歩兵第1連隊に配属され、第16代連隊旗手をつとめる。1907年(明治40年)11月、陸軍大学校を首席で卒業(「恩賜の軍刀」拝受)。
第一次世界大戦中はロシア従軍武官。シベリア出兵では特務機関長にて参加。その後、憲兵司令官等を歴任。
皇道派のシンボル[編集]
1929年(昭和4年)、陸軍首脳は「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で、第1師団長であった真崎甚三郎を台湾軍司令官として追いやったが、そのときに荒木も左遷される予定であった。しかし、教育総監の武藤信義が「せめて荒木は助けてやってくれ」と詫びを入れる形で、荒木は第6師団長から教育総監部本部長に栄転し東京に残った。武藤はどちらかというと「反宇垣一成」で皇道派の庇護者であったため、統制派の独裁を嫌い、特に荒木を可愛がったらしい。この頃の荒木の人気というのは大変なもので、東京駅のホームは出迎えの青年将校で溢れ、さながら凱旋将軍のようであったという。
憲兵司令官時代から大川周明や平沼騏一郎・北一輝・井上日召といった右翼方面の人物と交流を持っていたことから、1931年(昭和6年)の十月事件においては、橋本欣五郎から首相候補として担がれたが、荒木自身の反対や意見の非統一から計画は頓挫した。
満州事変真っ只中の同年12月に荒木は教育総監部本部長から、荒木の盛り立てを目的とする一夕会の永田鉄山や鈴木貞一らの働きかけで犬養内閣の陸相に就任した。参謀総長には閑院宮元帥を担ぎ出してロボット化を謀り、参謀本部の実質トップとなる参謀次長には真崎を台湾軍司令官から呼び戻して就任させた。荒木の人事は、自分の閥で要職を固め、過激思想の青年将校を東京の第1師団に集めた。この後、荒木・真崎の取り巻き連を皇道派と呼び、それに対抗する勢力を統制派と呼ぶようになった。荒木人事の凄まじさに、「清盛の専横」とか「驕る平氏も久しからず」という恨みの言葉がささやかれるほどであった。しかし、過激青年将校に自重を求める荒木の人気は下降し、次第に四面楚歌に追いやられるようになった。自分で育て、利用してきた過激青年将校たちを、制御できなくなったのである。1934年(昭和9年)1月、ついに荒木は病気を理由に陸相を辞任する。荒木は後任の陸相に腹心の真崎を希望したが、自らが擁立したはずの閑院宮にも反対され、挫折した。
極東国際軍事裁判(東京裁判)における岡田啓介の証言によれば、陸相時代には天皇を退位させて、生後間もない皇太子を即位させる計画を持っていたという。また「熊沢天皇」こと熊沢寛道とのつながりも指摘されている。
1933年(昭和8年)、大阪でゴーストップ事件が発生。陸相であった荒木は「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」と憤慨し、内務省と対立した。
1936年(昭和11年)の二・二六事件の際には、皇道派の首領として青年将校達を裏で支えていたのでは、という疑惑が持ち上がったが、軍の主要人物の中では、一番明確に反乱将校に原隊復帰を呼びかけていた。しかし、荒木はこの事件後の粛軍によって予備役に退かされ、軍人としての第一線からは消えていった。
石原莞爾は荒木のことを徹底的に嫌っていた。石原は皇道派ではなかったが、皇道派と対立する統制派でもなく、思想的理由で荒木を嫌っていたのではなく、荒木の無責任と無能ぶりが我慢ならなかったようである。二・二六事件の只中、陸軍省で荒木と遭遇した石原(当時陸軍大佐)は荒木に向かって「バカ!お前のようなバカ大将がいるからこんなとんでもない事態になるんだ!」と罵倒した。荒木が「陸軍大将に向かってバカとはなんだ!陸軍部内の規律と秩序を考えろ!」と言い返すと石原は「この状況のどこに規律と秩序があるんですか!」と猛然と言い返し、両者はあやうく乱闘になりかけたが、その場にいた安井藤治東京警備軍参謀長が二人をおさえて何とか事なきを得た。石原は真崎のことも嫌悪しており、真崎の差し出した握手を無視したこともあったという。
皇道教育の推進[編集]
文部大臣当時の荒木
1938年(昭和13年)5月26日に、第1次近衛内閣の文部大臣に就任すると同時に、「皇道教育」の強化を前面に打ち出した。国民精神総動員の委員長も務め、思想面の戦時体制作りといったプロパガンダを推し進めた。この頃から、軍部の大学・学園への弾圧が始まり、人民戦線事件や平賀粛学に代表されるような思想弾圧が行われるようになった。
戦後の極東国際軍事裁判においては、文相時代の事柄にも重点が置かれることとなった。裁判の法廷において、証人として出廷した大内兵衛は、検事の尋問に応じて宣誓口供書を提出したうえで、弁護団の反対尋問で、軍事教育を通じて、軍部による学園弾圧が強化されていった過程を「1938年、荒木貞夫文相の時、各大学における軍事教育が一層強制的となり、軍部の学校支配が強化された」「軍事教練は、荒木さんが陸相当時、東大で採用するよう要求があった。この時東大は拒絶したが、1938年に荒木さんが文相になった時、軍事訓練は強制的となった」と証言している。
上記のようなことから、極東国際軍事裁判においても、検事から「荒木は侵略思想を宣伝し、教育・鼓吹した」と指摘されたが、荒木の弁護人である菅原裕は「荒木の宣伝したのは、侵略ではなく皇道であって、侵略思想とは正反対の日本古来の精神主義である」と全面的に否定している。
戦後[編集]
戦後はA級戦犯として逮捕され、巣鴨プリズンに拘置された。極東国際軍事裁判ではのらりくらりとしながらもその堂々とした態度が他の被告人らを奮い立たせたとも言われ、非常に饒舌で罪状認否で起訴状の内容に対し無罪を主張して熱弁を振るい、ウェブ裁判長から注意されたこともあった。判決時にはモーニング姿で被告席に現れた。一方で、重光葵の証言によれば、巣鴨プリズン内のアメリカ人憲兵の不遜な態度に反発するあまりに、親ソ的な言動をとるようになった。当初アメリカ人憲兵は荒木らA級戦犯に対し、非常に大らかな規律・姿勢で対応していたが、彼らの態度が日増しに尊大になっていくことを問題視し、一転して厳格な態度で接するようになったという。
極東国際軍事裁判において、A級戦犯として終身刑の判決を受ける。1955年(昭和30年)に病気のため仮出所し、その後釈放。間もなく健康を回復。以後日本全国を回り、講演や近現代史研究のための史料調査などを行い、積極的に活動した。
1966年(昭和41年)10月末、奈良県吉野郡十津川村の招待で同村を訪問し、同村ゆかりの天誅組・十津川郷士関係の諸史料の調査と講演を行ったが、同年11月1日、宿泊先の「十津川荘」において心臓発作を起こす。佐藤栄作首相へ「日本の未来像は、維新の五箇条の御誓文を主とし、つまらぬ事を付け加えずに、これを達成すること」といった遺言を口述し、翌日死去した。89歳没。墓所は多磨霊園。
1967年(昭和42年)11月、一周忌に際し、十津川村は「荒木貞夫終焉之地碑」を建立。碑文は佐藤栄作の揮毫によるものである。十津川村の厚情に対し、遺族は貞夫の遺品となった「恩賜の軍刀」を村に寄贈。軍刀は現在十津川村歴史民族資料館に展示されている。

 *大島浩(イタリア大使)
  大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の昭和期の陸軍軍人である。最終階級は陸軍中将。
第二次世界大戦前から戦中にかけて駐ドイツ特命全権大使を務め、日独伊三国同盟締結の立役者としても知られる。終戦後の極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けた。ドイツ語が上手いだけの「単純な軍人」。ナチスヒトラーの崇拝者。ゆえに戦犯。
人物[編集]
大島は、陸軍士官学校、及び陸軍大学校を卒業した陸軍軍人であった。1921年(大正10年)、駐在武官補として初めてドイツに赴任、ナチ党とのあいだに強い個人的関係を築くようになった。1938年(昭和13年)には駐ドイツ日本大使に就任、日独同盟の締結を推進し、1940年(昭和15年)に調印された日独伊三国軍事同盟も強力に支持した。終戦後にはA級戦犯として終身刑に処せられ、1955年(昭和30年)まで服役した。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
後の陸軍大臣・大島健一の長男として、岐阜県恵那郡岩村町に生まれた。
その後は東京で育ち、愛日小学校(東京牛込北町)では、後に経済人として経団連会長も務めた石坂泰三と同級であった。1898年(明治31年)、東京府立四中入学、陸軍幼年学校入学資格である1年次修了後、1899年(明治32年)9月、東京陸軍地方幼年学校入学、1904年(明治37年)11月、陸軍中央幼年学校卒業。
幼少期から、在日ドイツ人の家庭に預けられ、ドイツ語教育とドイツ流の躾を受けた。軍人となった後に初めてドイツに駐在した際には、ドイツ人青年に付いてドイツ語を習い、教科書には『ロシア革命』(ローザ・ルクセンブルク著)や、『手紙』(カール・リープクネヒト著)などが用いられていたという。
ドイツ駐在[編集]
1921年(大正10年)以降には、断続的にベルリンに駐在中し、ドイツの政権を得ていたナチス党上層部との接触を深めた。当時、日本国外務省はナチス党とは距離を置く方針であり、独自の行動で同党とのネットワークを構築していた大島は、日独同盟の推進者となっていった。大島の外交思想は、同時期の駐イギリス特命全権大使であり、親英米派であった吉田茂とは対極であった。
その後大島は陸軍中央と提携、駐ドイツ大使であった東郷茂徳を退け、1938年(昭和13年)、自らが駐独大使に就任した。大使就任後には、政治家・外交官でありナチス党幹部のリッベントロップに接近、日独伊三国同盟(1940年締結)による枢軸外交実現のために奔走した。さらに、ナチス党総統 アドルフ・ヒトラーの信任を得るに至った。
ドイツ駐在中は「姿勢から立ち振る舞いに至るまでドイツ人以上にドイツ人的」との評価を受け、一貫して親独政策を主張した。これらのことから、アメリカのジャーナリスト ウィリアム・L・シャイラーは後年、大島を、「ナチス以上の国家社会主義者」と評している。
ドイツ敗戦後[編集]
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)、日本政府は駐スイス公使阪本瑞男からのドイツ第三帝国瓦解との本国電を黙殺、大島による、なおもドイツ有利との誤った戦況報告を重用し続けた。ドイツを一方的に信じ続けた大島によるそれらの暗号電報は、全て連合国側に解読されており、米英の作戦遂行に有利に活用されていた。
同年4月、ソ連赤軍がベルリンに迫ると、大島は一部の高官らと共にドイツ南部の温泉地、バート・ガスタインに避難した。ドイツ敗戦後、大島は連合国によって身柄を拘束されて日本に送還、A級戦犯として起訴されることとなった。
大島は1945年(昭和20年)暮、日本に送還途中のアメリカ合衆国・ニューヨークのホテルにおいて、所持していた日記や機密文書を水洗便所に流した。
極東国際軍事裁判[編集]
大島がA級戦犯として起訴された最大の理由は、日独伊三国同盟の推進にあった。しかし法廷において大島は、「ヒトラーやリッベントロップとは、ほとんど会わなかった」と、事実とは異なる証言をし、また三国同盟を主導したことなど、自身に不利になることには一切言及しなかった。
判事による投票の結果、大島は1票差で絞首刑を免れ、終身刑の判決のもと巣鴨拘置所で服役した。大島は後年、政治家であった広田弘毅などが死刑となったことについて、「(自分のほうが戦争への責任が重いにも拘らず)こうして生きているのが、いつも申し訳ない気がしている」(1965年(昭和40年)頃の発言)などと述べていた。
晩年[編集]
1955年(昭和30年)11月に仮釈放された大島は、神奈川県茅ヶ崎市に隠遁した。
赦免後には、政権政党であった自由民主党から、国政選挙への立候補を度々要請されたが、「自分は国家をミスリードした。その人間が再び公職に就くのは許されない」として断り続けた。公的な場所に現れることすら一切なかった大島は、著作や講演の依頼にも頑として応ぜず、編集者で歴史家の高橋正衛には、「私が語り、書いて、大島個人の主観で歴史家を誤らせるという、三国同盟に次いでまた国民に罪を犯したくない」と語っていた。
日独伊三国同盟の締結を推し進めたことに付いて大島は後年、当時はそれを最善と信じて行動していたが、結果的にはその見通しの誤りが敗戦という結果を招き、その意味で自らに日本国に対しての重大な責任があることを認めていた。

 *佐藤賢了(けんりょう、陸軍省事務局長)
  佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年(明治28年)6月1日 - 1975年(昭和50年)2月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。「黙れ!中佐」。”大人物”の広田弘毅に尊敬と感銘を受け崇拝する軍人。
経歴[編集]
1895年(明治28年)6月1日、石川県河北郡花園村字今町(現・金沢市今町)に生まれる。金沢一中を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校29期を卒業。12月25日、少尉任官、野砲兵第1連隊附。1920年(大正9年)11月26日、陸軍砲工学校高等科卒業(26期)。1921年(大正10年)4月、中尉に昇進。1925年(大正14年)11月27日、陸軍大学校37期を卒業。1926年(大正15年)3月、大尉に昇進。
1930年(昭和5年)5月、アメリカ駐在、米野砲兵第12連隊附。駐在時にはテキサス州で砲兵隊の隊付将校としての経験から、陸軍部内ではその経歴から知米派の扱いを受けた。
黙れ事件[編集]
1936年(昭和11年)8月1日、軍務局課員(軍務課国内班長)。1937年(昭和12年)3月、中佐に昇進。8月、航空兵に任ぜられる。
1938年(昭和13年)3月3日、黙れ事件を起こす。軍務課国内班長として衆議院の国家総動員法委員会において陸軍省の説明員として出席。国会審議で佐藤が法案を説明し、法案の精神、自身の信念などを長時間演説した事に対し、他の委員(佐藤の陸軍士官学校時代の教官でもあった立憲政友会の宮脇長吉など)より「やめさせろ」「討論ではない」などの野次が飛んだが、これを「黙れ!」と一喝。政府側説明員に過ぎない人物の国会議員に対する発言として、板野友造らによって問題視されるも、佐藤が席を蹴って退場したため、委員会は紛糾し散会となった。その後杉山元陸相により本件に関する陳謝がなされたが、佐藤に対し特に処分は下らなかった。作家の半藤一利によれば、戦後のインタビューで佐藤は「国防に任ずる者は、たえず強靱な備えのない平和というものはないと考えておる。そんな備えなき平和なんてもんは幻想にすぎん。その備えを固めるためにはあの総動員法が必要であったのだ」と語ったという。
1940年(昭和15年)2月10日、南支那方面軍参謀副長に就任。松岡・アンリ協定に基づく北部仏印進駐を進めるが、現地における細目協定の成立にもかかわらず、9月23日に日本軍が越境し、仏印軍との衝突に至る。これは富永恭次参謀本部第1部長との謀議によるものであり、国際的な非難を浴び、富永は東部軍司令部付に左遷される。佐藤の上司で謀議に関与しなかった安藤利吉南支那方面軍司令官も責めを負って予備役に編入された。
太平洋戦争[編集]
1941年(昭和16年)3月1日、軍務局軍務課長に就任。東條英機の側近として知られ、巷間「三奸四愚」と呼ばれた側近のうち四愚の一人とされる。陸軍省の軍務課長という立場でありながら、昭和天皇の開戦回避の聖旨に添って動く東條首相兼陸相や、開戦に慎重な武藤軍務局長よりも、田中第1部長を筆頭に開戦に積極的な参謀本部を支持していた。自身も東條の前で日米交渉に消極的な意見を吐き、逆に東條に叱責されている。
1941年10月15日、少将に昇進。12月太平洋戦争勃発。
1942年(昭和17年)4月20日、陸軍省軍務局長に就任。
ガタルカナル増援をめぐる船舶徴用問題に携わる。この方面での作戦に消極的な東條首相兼陸相の意を受け、民間船舶増徴を迫る参謀本部との折衝を繰り返すが、12月5日、田中新一参謀本部第1部長との乱闘事件を引き起こし、翌日には首相官邸において田中が東條を面罵、罷免される事態となる。
1943年(昭和18年)、山本五十六が戦死した際にはミッドウェー海戦の失敗を引き合いに出して「国葬にするのは適当ではない」と東條に進言したが、東條は陸海軍の協調を優先して進言を退けた。
1944年(昭和19年)7月、サイパン失陥によって東條内閣が窮地に立たされると、東條は内閣改造による頽勢の挽回を図り、佐藤もその指示により奔走するが、重臣の抵抗により挫折し東條は退陣を余儀なくされる。東條の失脚後は中央から追われ、支那派遣軍総参謀副長となる。教育総監から陸相に回った杉山元に、蒋介石との和平の途を模索するよう言い含められていたが、現地はそのような状況にはなく成果は挙げられなかった。
1944年9月5日、陸海技術運用委員会が設置され、佐藤は海軍の軍務局長とともに副委員長を務めた。特殊奇襲兵器開発のために陸海民の科学技術の一体化が図られた。
1944年(昭和19年)12月14日支那派遣軍総参謀副長。
戦後[編集]
1945年8月終戦。佐藤は最年少のA級戦犯となり、極東国際軍事裁判で終身刑の判決を受けて服役し、いわゆるA級戦犯では最も遅くまで拘留され1956年(昭和31年)3月31日に釈放。その後は東急管財(現・東急ファシリティサービス)社長を務めた。また、自身の反米体験をもとにベトナム戦争反対運動に参加して話題になり、「共産党は無理だが、社会党の公聴会に呼んでくれないものか」と語った事もある。開戦時の陸軍中枢においてアジアの植民地解放に最も熱心であり、死の直前まで面談者には大東亜戦争(太平洋戦争)は聖戦だったと主張していた。
身長は5尺6寸(169cm)。囲碁が好きであり、岡敬純海軍中将とは囲碁仲間であった。長男は陸軍から戦後、航空自衛隊に入隊し、空将補に昇進、次男は関西電力勤務、三男は早稲田大学教育学部教授。

 *鈴木貞一(ていいち、陸軍中将)など。
  鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年(明治21年)12月16日 - 1989年(平成元年)7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東條英機側近三奸の一人とされる。「サラリーマン軍人」
略歴[編集]
千葉県の地主である鈴木八十吉の長男として生まれ、東京の成蹊学舎、京北中学校を経て、1910年(明治43年)に陸軍士官学校(22期)、1917年(大正6年)に陸軍大学校(29期)を卒業した。元々は満州の森林開発に携わることを志望しており、卒業後も支那問題に関する研究を続けたことから、参謀本部の支那班・作戦課での勤務を命じられ、上海及び北京、武漢に駐在した。
1927年(昭和2年)11月、深山亀三郎らと共に木曜会を結成。1929年(昭和4年)5月19日、永田鉄山・東條英機・板垣征四郎・石原莞爾ら陸軍中堅将校が結成していた二葉会と木曜会が合流して結成された一夕会のメンバーにもなった。1931年(昭和6年)三月事件に参加する。
鈴木は前述の通り、「背広を着た軍人」と呼ばれていたように、実戦部隊での経験はあまり無く、対外的・官僚的な仕事に携わるケースが多かった。1931年(昭和6年)1の満州事変勃発に伴い、軍務局勤務になると同時に、自らが代表となって満蒙班を立ち上げ、ほぼ独断といった状態で満洲政策を推し進めることとなる。その際、白鳥敏夫や森恪と連携して国際連盟脱退論を主張し、軍部における連盟脱退推進派としてその名が知れ渡るようになる。
1933年(昭和8年)に情報機関の新聞班長となるが北京駐在以来、古野伊之助との縁も深い。古野は企画院時代に鈴木門下となった逓信官僚の奥村喜和男とも縁が深い。
1936年(昭和11年)の二・二六事件の際には、山下奉文と共に青年将校の説得に当たった。この時期の鈴木は皇道派に近いポジションにあり事件の青年将校にも同情的であったが、事件以降、巧みに統制派に鞍替えし、やがて東條英機の側近にのぼりつめていった。同じく皇道派に近かった山下が事件以降に不遇に陥り、逆に統制派だった武藤章が後に東條と対立して山下の部下に転じたケースとは対照的である。このことから鈴木を陸軍内部で稀にみるオポチュニストだとする見解も少なくない。
1938年(昭和13年)4月14日に第3軍参謀長、同年12月16日、興亜院政務部長に就任して(~1941年4月)。1940年(昭和15年)8月1日、中将に昇進した。同年12月23日、興亜院総務長官心得に就任した。1941年(昭和16年)4月4日、予備役編入となる。それと同時に、第2次近衛内閣国務大臣兼企画院総裁に就任した。以後、第3次近衛内閣・東條内閣でそれぞれ国務大臣を務める。東條内閣の際には、イギリスのインド植民省を真似て大東亜省を設立して、外務省のアジア関係の権限を全て陸軍が奪い取り、自らが事実上の外務大臣に成り上がろうとしたが、大臣には青木一男が任命されて、失敗に終わっている。
東條内閣時、帝国議会の閣僚席は内閣総理大臣の隣で、東條英機に近い重要閣僚であることを印象づけている。東條内閣発足時の記念撮影でも、東條の横に写っている。ニュース映画では、農林大臣井野碩哉が進み出ようとするのを遮って、最前列に出たのが確認できる。
太平洋戦争開戦直前の1941年(昭和16年)10月-12月の御前会議において、日本の経済力と軍事力の数量的分析結果に基づき、開戦を主張した。会議において鈴木は、ABCD包囲網等により石油が禁輸されてしまった以上、3年後には供給不能となり、産業も衰退し軍事行動も取れなくなり、支那だけではなく満洲・朝鮮半島・台湾も失ってしまうだろう、と主張した。故に、天皇に「座して相手の圧迫を待つに比しまして、国力の保持増進上有利であると確信致します」と述べたうえで、米英蘭と開戦して、南方資源地帯を占領することが必要不可欠だ、ということを説明した。
また、戦後の鈴木へのインタビューによれば、企画院総裁就任の当初、船舶の損耗率の問題で対米戦争は困難という分析結果を発表していたが、東條内閣の成立と同時に、海軍が責任を持って損耗率を抑えるから大丈夫だと主張したため、「心配はない。この際は戦争した方が良い」という見解に変わった、と述べている。加えて、前述の通り、物資がないために開戦に踏み切ったのであって、日中戦争が泥沼化した時点で、既に開戦は不可避だったと認識していた、とも語っている。
1942年(昭和17年)2月に大東亜建設審議会幹事長に就任した。1943年(昭和18年)10月8日に貴族院議員に就任して、内閣顧問、大日本産業報国会会長を務める。
戦後[編集]
終戦後の1945年(昭和20年)12月3日にA級戦犯に指定された。極東国際軍事裁判で鈴木がA級戦犯として告訴された最大の要因は前述の御前会議において開戦を主張したことにあるとされている。終身禁固の判決を受け服役する。1955年(昭和30年)9月17日に橋本欣五郎、賀屋興宣とともに仮釈放されて、1958年(昭和33年)に赦免された。
長年、朝になると発声による健康管理を行っていた。特に巣鴨プリズン収監中は、鈴木の声が獄中の目覚まし代わりになっていたという。NHK特集『スガモ・プリズン解体』(1971年放送)出演時のインタビューでは、東京裁判について「連合軍が我々を裁く根拠がない。そう言ったら、彼らは『人民の名に於いて』とか言った。人民の名などという法的根拠はない。結局、戦争に負けたから、我々は裁かれるのだ」と語っていた。
赦免後は、「電力王」と呼ばれた松永安左エ門の要請で産業計画会議委員へ一度就いたが、岸信介内閣成立後の1959年(昭和34年)に、自民党から参院選出馬への要請を受けるも、「もう私の時代は終わった」「一度、頂点の舵取りを誤った者は、二度とその職に付くべきではない」と拒否して、公的な役職に就くことはなかった。しかし、保守派の御意見番として、自民党の国会議員から意見を求められることが多く、佐藤栄作のブレインとして彼を支え続けたほか、岸信介や福田赳夫、三木武夫とも懇意にしていたと言われている。
NHK特集『戒厳指令 交信ヲ傍受セヨ ~二・二六事件秘録~』(1979年2月26日放送)に出演し、二・二六事件当時の様子を語っている。この番組では、事件当時戒厳司令部によって傍受・録音された鈴木及び家族の肉声が放送されている。この取材および録音内容については、番組のプロデューサーだった中田整一の著書『盗聴 二・二六事件』(文藝春秋、2007年)に記されている。このとき鈴木はすでに90歳であったが、ダンディな服装であらわれ、記憶力や会話もきわめて明晰で、中田を驚かせている。
その後は、1973年(昭和48年)に東京都世田谷区から千葉県山武郡芝山町にある生家に居住して、静かな余生を送った。ちなみに、近所の住民からは「閣下」と呼ばれていたという。
1989年(平成元年)に100歳で没した。A級戦犯としては、唯一平成まで存命した最後の生き残りであった。葬儀は東京都杉並区の福相寺で営まれ、葬儀委員長は福田赳夫が務めた。

 <不起訴のA級戦犯>
 *石原莞爾
  石原 莞爾(いしわら かんじ、明治22年(1889年)1月18日 (戸籍の上では17日)- 昭和24年(1949年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は従四位・勲三等・功三級、「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織内では変わり者だった。
関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、後に東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気のため戦犯指定を免れた。
生涯[編集]
幼少年時代[編集]
明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原啓介とカネイの三男として生まれる。但し戸籍上は1月17日となっている。啓介とカネイは六男四女を儲け、莞爾は三男であるが長男の泉が生後二ヶ月で、二男の孫次が二週間で亡くなり、莞爾が事実上の長男である。四男の次郎は海軍中佐となるが1940年6月に航空機事故で殉職する。 五男の三郎は一歳で亡くなり、六男の六郎は戦後莞爾と共に行動して昭和51年(1976年)まで西山農場で暮らす。長女の元は医者の家へ、二女の志んは軍人の家へ嫁ぎ、三女の豊、四女の貞は24歳でなくなっている。
父親の転勤のため、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であり、まだ小学生でなかった石原を姉が子守のため学校に連れて行った時には教室で大暴れして戸を叩きながら「破るぞ、破るぞ」と怒鳴り散らした。しかし利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると一年生で一番の成績であり、また石原の三年生の頃の成績を見てみると読書や算数、作文の成績が優れていた。 また病弱でもあり、東北帝国大学付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると小児時代に麻疹にかかり種痘を何度か受けている。 石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた。
軍学校時代[編集]
明治35年(1902年)に仙台陸軍地方幼年学校に受験して合格し、入学した。ここで石原は総員51名の中で一番の成績を維持した。特にドイツ語、数学、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で器械体操や剣術などの術科は不得意であった。
明治38年(1905年)には陸軍中央幼年学校に入学し、基本教練や武器の分解組立、乗馬練習などの教育訓練を施された。石原は学校の勉強だけでなく戦史や哲学などの書物をよく読んでいた。田中智学の法華経に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。この上には横山勇、島本正一などがいる。また東京に在住していたため、乃木希典や大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている。
明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入学し、ここでも軍事学の勉強は教室と自習室で済ませ、休日は図書館に通って戦史や哲学、社会科学の自習や名士を訪問した。学科成績は350名の中で3位だったが、区隊長への反抗や侮辱のため、卒業成績は6位であった。
士官学校卒業後は歩兵第六十五連隊に復帰して見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここで軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。南次郎よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて共に「支那革命万歳」と叫んだという。
連隊長命令で不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。受験科目は初級戦術学、築城学、兵器学、地形学、交通学、軍制学、語学、数学、歴史などであり、各科目三時間または三時間半で解答するというものであった。部隊長として勤務することを望んでいた石原は受験に対してやる気はなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく淡々と普段の部隊勤務をこなし、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。しかし合格し、大正4年(1915年)に入学することになる。ここでは戦術学、戦略、軍事史などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を思想や宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。そして大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業した(30期、卒業生は60人)。首席は、鈴木率道であった。卒業論文は北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。
在外武官時代[編集]
ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読みあさった。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者として知られる。大正12年(1923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。そのころ田中智學には「人殺しをせざるをえない軍人を辞めたい」と述べたといわれる。
関東軍参謀時代[編集]
昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手にわずか1万数千の関東軍で日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であったが、その実は石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。
二・二六事件の鎮圧[編集]
昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立った。この時の石原の態度について昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している。 この時、ほとんどの軍中枢部の将校は、反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。安藤輝三大尉は部下に銃を構えさせて石原の登庁を陸軍省入口で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ、陛下の軍隊を私するな!この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ!」と怒鳴りつけ、参謀本部に入った。反乱軍は石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった。また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考えが違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか?」と威嚇的に訊ねられるも、「俺にはよくわからん。自分の考えは軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と言い、「こんなことはすぐやめろ!やめないと討伐するぞ!」と罵倒し、石原の凄まじい気合いにおされて栗原は殺害を中止、事なきを得ている。

 *星野直樹
  星野 直樹(ほしの なおき、1892年4月10日 - 1978年1月26日)は、日本の大蔵官僚、政治家、実業家。(大蔵官僚+軍人官僚)「戦争経済のスペシャリスト」「満州国建設の参画者」「統制経済」の立役者。
満州国では国務院総務長官として腕を振るい、満州国の実力者「弐キ参スケ」の一角を占める。第2次近衛内閣の企画院総裁、東条内閣では内閣書記官長を務め、終戦後にA級戦犯として起訴された。終身禁固刑を受けるも釈放され、その後は旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを歴任した。

 *重光葵(しげみつまもる)は外務大臣としてミズーリ号の甲板で降伏書に調印して国連で演説した。
  重光 葵(しげみつ まもる、1887年(明治20年)7月29日 - 1957年(昭和32年)1月26日)は、第二次世界大戦期の、日本の外交官・政治家である。まれに、「しげみつあおい」と読み間違えられることがある。
来歴・人物[編集]
生い立ち[編集]
大分県大野郡三重町(のち大分県豊後大野市)に士族で大野郡長を務める父・直愿と母・松子の次男として生まれた。しかし母の実家(重光家本家)に子供がなかったため養子となり重光家26代目の当主となった。旧制杵築中学、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業する。
外交官として[編集]
文官高等試験外交科合格後の1911年(明治44年)年9月、外務省に入省(第20回、芦田均・堀内謙介・桑島主計らと同期)、在ドイツ・在英国各公使館書記官、在シアトル領事を経て、各国において日本国公使として勤務していたが、1930年(昭和5年)には駐華公使となる。1931年(昭和6年)9月、日本陸軍の一部が突如満洲を制圧しようと満州事変を引き起こし国際問題となる。これに対し重光は「明治以来積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途をたどって行くことは外交の局に当たっている者の耐え難いところである」(重光著『昭和の動乱』より)と怒り、外交による協調路線によって収めようと奔走。1932年(昭和7年)1月、第1次上海事変が起き重光は欧米諸国の協力の下、中国との停戦交渉を行う。何とか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった同年4月29日、上海虹口公園での天長節祝賀式典において朝鮮独立運動家・尹奉吉の爆弾攻撃に遭い重傷を負う(上海天長節爆弾事件)。重光は激痛の中「停戦を成立させねば国家の前途は取り返しのつかざる羽目に陥るべし」と語り、事件の7日後の5月5日、右脚切断手術の直前に上海停戦協定の署名を果たす。このとき重光の隣でやはり遭難し片目を失った海軍大将の野村吉三郎も、後に外相、そして駐米大使となり、日米交渉の最前線に立つことになる。なお、弁当箱状の爆弾が投げつけられた時、逃げなかったことについて「国歌斉唱中だったから」と答えている。
第1次上海事変を中国が国際連盟に提訴したことを引金に、1933年(昭和8年)2月24日、国際連盟で日本軍の満州での行動を不当とする決議案(リットン報告書)が 賛成42ヵ国 対 反対1ヵ国(日本) で採択された。これを不服とする日本は国際連盟から脱退を宣言し国際社会から孤立していく。このころ重光は「欧米の国々は民主主義民族主義を欧州に実現することに努力した。しかしながら彼らの努力はほとんど亜細亜には向けられなかった。欧米は阿弗利加および亜細亜の大部分を植民地とし亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」と手記を残し、白人による亜細亜支配であれば許されるのかと怒っている。
その後、駐ソ公使(張鼓峰事件、乾岔子島事件に関与)、駐英大使を歴任。特に日英関係が悪化する中での関係好転や、蒋介石政権への援助中止要請などに尽力する一方、欧州事情に関して多くの報告を本国に送っており、その情報は非常に正確なものだった。その重光が欧州戦争に「日本は絶対に介入してはならない」と再三東京に打電したにもかかわらず日本政府は聞き入れず、1940年(昭和15年)9月27日、松岡洋右外相(第2次近衛文麿内閣)が日独伊三国同盟を締結し、アメリカの対日姿勢をより強硬なものにしてしまった。 ( 1941年(昭和16年)12月8日(日本時間)、太平洋戦争が始まる。日本は東南アジアの欧米の植民地を占領。外交官として重光はこれに対し「日本は卑しくも東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば武力的発展は東亜民族の了解を得ることができぬからである」と怒っている。
戦時中の外相[編集]
東條英機内閣・小磯国昭内閣において外相を務める。東條内閣にあっては大東亜省設置に反対、しかしながら、東條首相のブレーンとして自らの主張を現実にするため、1943年(昭和18年)11月の大東亜会議を開くために奔走。人種差別をなくし亜細亜の国々が互いに自主独立を尊重し対等な立場での協力を宣言した。
敗戦国の全権[編集]
降伏文書調印
1945年9月2日東京湾上に停泊の米国戦艦ミズーリ号甲板にて。中央で署名するのが重光全権、その左(写真右端)は加瀬俊一、重光の前方で署名を見守るのはリチャード・サザーランド中将。
重光は敗戦直後に組閣された東久邇宮稔彦王内閣で外務大臣に再任され、日本政府の全権として降伏文書に署名するという大役を引き受ける。1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式において、大本営代表の参謀総長梅津美治郎と共に日本全権として署名を行った。重光はこれを「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点である」と捉え、その時の心境を「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」と詠んでいる。
外相辞任後は、極東国際軍事裁判における外務省関係容疑者の弁護の準備を進めていたが、1946年(昭和21年)4月13日に来日したソ連代表検事のS・A・ゴルンスキーがジョセフ・キーナン首席検事に対して、重光が第二次世界大戦中に東條内閣、小磯内閣で外務大臣を務めたことに対して、重光をA級戦犯として起訴するよう強硬に要求してきた。当初、GHQは重光を戦犯として起訴する意思は皆無で、キーナンをはじめとするアメリカ側検事団も強く反対した。しかし、当時の民主党政権は「要求を受け入れられないのなら、裁判に参加しない」というソ連側の揺さぶりに屈する形となり、マッカーサーも要求を容認さぜるを得なくなった。結局、4月29日の起訴当日に逮捕起訴され、1948年(昭和23年)11月12日に有罪・禁固7年の判決を受けた。裁判においては、高柳賢三・ジョージ・ファーネス両弁護人の尽力などもあって、その判決は禁固7年というA級戦犯の中では最も軽いものとなったが、日本だけではなく当時の欧米のメディアも重光の無罪は間違いないと予想していただけに、有罪判決はソ連を満足させるためのGHQによる政治的妥協であると評する声も多かった。事実、当時の巣鴨プリズンで憲兵を務めていたブルーム大尉は「驚いた。貴下の無罪は何人も疑わぬところであった」と憤りを表し、ケンワージー中佐などは「判決は絶対に覆るはずだ」とまで述べていたという。4年7ヵ月の服役の後、1950年(昭和25年)11月に仮釈放されている。連合国と日本の講和条約の発効後、講和条約の規定に基づいて、日本政府と極東国際軍事裁判に参加した全ての国の政府との合意により、恩赦により刑の執行を終了した。
戦後[編集]
重光は講和条約の発効、公職追放解除後は衆議院議員に3回選出された。改進党総裁・日本民主党副総裁を務めた。改進党総裁であった1952年(昭和27年)に野党首班として内閣総理大臣の座を吉田茂と争い、内閣総理大臣指名選挙の衆議院で2位。続く1953年(昭和28年)の総選挙後、少数与党となった吉田の日本自由党からの連立の呼びかけを拒否する。野党の首班候補として重光の内閣総理大臣指名が現実のものとなりかけたが野党の足並みが乱れ、左右社会党の支持を得られず決選投票で敗北。吉田との会談により閣外協力を受け入れた。その後、鳩山一郎派と合同して日本民主党を結党させる。1955年(昭和30年)の保守合同による自由民主党の結党に参加。
1954年(昭和29年)12月~1956年(昭和31年)12月の期間、第1~3次鳩山一郎内閣で第二次世界大戦中の3回に続いて4回目の外務大臣を務めた。1955年(昭和30年)4月、インドネシアでアジア・アフリカの29カ国が集まるアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開かれ、アジア・アフリカの国々が第三勢力として協力し合う方針を打ち出した。日本はこの会議でアジアの一員として国連加盟の支持を得た。9月1日、重光は国連本部を訪れレセプションを開催し、経済復興した日本が国際社会に貢献できると国連加盟をアピールしたが、12月の国連安全保障理事会でソ連に反対され、常任理事国として拒否権を行使され、国連への加盟は達成できなかった。国連加盟を果たすため、鳩山一郎内閣は国交がなかったソ連との国交回復を目ざし、1956年(昭和31年)7月、重光はモスクワで日ソ国交回復交渉に入るが、北方領土問題が難航し交渉を妥結できなかった。このことから重光は、『日ソ平和条約締結のためには歯舞・色丹の2島のみを返還するというソ連案を受け入れるしかない』という旨の電文を東京に打電した。しかし、鳩山は、重光の提案を拒否し、重光をスエズ会議に送ったうえで、自ら交渉に臨んだ。しかし、北方領土問題を何ら打開できず、米国からは弱腰外交だと批判されたため、鳩山は日ソ平和条約の締結および北方領土問題の解決を棚上げすることとし、10月19日、ソ連との国交回復を意味する日ソ共同宣言だけを行い、これによって『日本の国連加盟に反対しない』旨の内諾をソ連から得た。
国連総会で加盟受諾演説をおこなう重光
同年12月18日、国連総会は加盟76か国の全会一致で日本の国連加盟を承認した。重光は日本の国連加盟が認められたことに対する加盟受諾演説で、「日本は東西の架け橋になりうる」と表明し、国連総会に出席していた加盟国の代表団から拍手で受け入れられた。その直後に国連本部前庭に自らの手で日章旗を高々と掲げた重光は、その時の心境を「霧は晴れ 国連の塔は輝きて 高くかかげし 日の丸の旗」と詠んでいる。帰国前の12月23日、日本では第3次鳩山一郎内閣が総辞職して石橋湛山内閣が成立していたため外相の重光も辞任となる。日本への帰途、同行した加瀬俊一に対して笑顔で「もう思い残すことはない」と語った。
それから一月後の1957年(昭和32年)1月26日、重光は狭心症の発作により神奈川県湯河原町の別荘で急逝した。69歳だった。重光の外務大臣と国際連合への加盟実現の功績に対して、死後に勲一等旭日桐花大綬章が授与された。

 

緑川鷲羽は(当たり前だけど(笑))ゲイでもホモでもオカマでもない!女性が好き。男は正直キモい

2015年07月27日 17時49分38秒 | 日記









  よく緑川鷲羽(つまり私)は顔とか雰囲気から「オカマですか?」とか「ゲイですか?」とか、
「キモい」「オカマ」「気持ち悪い顔の野郎!(馬鹿の実の妹が電話で本気で言った(笑))」とか
よく言われるが(笑)正直、ゲイでもホモでもオカマでもない(笑)。というか、野郎(男性)等どこがいいのか?さっぱりわからない。男なんて蒼いヒゲとか胸毛とかぼうぼうのすね毛とか腕毛とか正直「気持ち悪い」としか思えない。やはり、どんなに経験を積んでもやはり女性しか愛せない。
 でも、元・男性とかでもちゃんと手術とかして膣とかつくって、声も手術して体が女性なら別に僕は「キモい」とか「どうせ元・男だろう?」とは思わないけどね。だってそれってイジメだから。
 女性からも嫌われる緑川鷲羽ですが(笑)(よく女学生とかから陰口や悪口を言われます(笑))、男性など好きになれない(当然、恋愛対象として。人間としてとか人物としてではない)。
なんでマツコ・デラックスさんとか氷川きよしさんとかミッツ・マングローブさんとか織田裕二さんとか平井堅さんとかまっきーとかタッキーさんとか「よく野郎など愛せるなあ」と逆に感心してしまいます。
 だって、男なんてキモいし、ホモやゲイやレズのセックスって肛門、唇プレイでしょう?結局。
まあ、女性とのセックスもまあ膣プレイな訳だけど(笑)当たり前だが(笑)
 僕はいやらしい男や女やデブスやスモーカーや酔っ払いが大嫌いで。精力の薬の「強い男が好き」みたいな美人局やヤリまんみたいな輩は大嫌いです。セックス自体に飽きたというか、もうそういう俗っぽいの嫌いなんです。キモいから。
もう5年近くヌードもエロ本も観てないし、セックスもオナニーもしてない。早漏じゃないし、夜に夢精することもない。
 何故なら(ゲイだからじゃなく「セックスが大嫌いだから」”去勢手術したから”(子供も嫌い(笑)))。
 つまり、そういうことです。別に手術して「膣つくって」男に抱かれる、とか、性転換する訳じゃない!
セックスやオナニーが兎に角嫌だった。嫌いだった。
 僕は「悟り」を開きたかったのです。セックスやオナニーや恋愛やくだらん自分の子供とか、そういうのと無縁でいたかった。子供がつくれないなら男じゃない、という女や男は言うかも知れないけど、じゃあ、セックスやオナニーに未来や幸福はあるんですか?只の快楽や現実逃避じゃないですか!
 僕は確かに童貞ではなかった。が、セックスが嫌いだった。兎に角嫌いだった。
もっとちゃんとした人間になりたかった。酒やたばこをたしなまないのも同じ理由です。
 僕は「子供が8人いる」とか「5人いる」とかの人間を「うらやましい」と思わない。
ただ、「セックスが好きなキモい夫婦だな」くらいに苦笑してしまいます。
 でも、そういう性欲がなければ人類は滅ぶんでしょうが(笑)。
確かに、童貞ではないが、確実に「隠し子」とかはいません。ちゃんと避妊はちゃんとしたから。
そのうえで「セックスとオナニーがキモい」といっているのです。
 ベッキーや中谷美紀にレズ疑惑があるそうですが、まあ、ホモよりはレズのほうがキモくないかな(笑)みたいな(笑)
 とにかく僕はホモでもオカマでもゲイでもない。でも、子供作りは絶対にしません。
 キモいから。セックス嫌い、だから。子供はいません。僕が億万長者や財産を築けば「(お金目当てで)緑川鷲羽の子供(隠し子)を育てている」とかいう馬鹿女が確実に現れるでしょう。
でも、それは60000パーセントないから。DNA検査をすれば「緑川鷲羽の子供ではない」とすぐわかる。
 また、女性を暴行したとか強姦したとか幼馴染の女性とか(笑)いないし100パーセント嘘だから。お金目当てだから。そこは抜かりはない。後、財産相続・遺産相続でも『遺留分』は実の両親・兄妹・姪っ子・親戚などすでに『全員遺留分廃止処分』にしているから。理由は明確な名誉棄損。(前述した馬鹿妹の「キモい顔の野郎」実の馬鹿兄の「このなまけもの!お前を大人だと認めていない!」)など。
死後は、火葬代、骨の最上川散骨代以外は全額ユニセフに寄付します。
 まあ、両親がボケとか徘徊とか認知症、寝たきりとか介護ホーム入りとかなら印税からお金は出しますよ。
でも、兄妹とか親戚とか『(遺産相続などの)棚ぼた』は確実にない(笑)ということ。
 世の中舐めるな!ということ(笑)お前らに一円だって渡すものか!くず人間ども!
とにかく億万長者になって公人として『救国の新世紀維新』『米沢維新』『ノブレスオブリージュ(社会奉仕)』だ!長生き出来なくても諸葛孔明や上杉謙信公や上杉鷹山公、坂本龍馬などのように国の為に動く!
 必ず国を動かしてみせる!民間登用外相、民間登用NSC局長として、米沢市長として!
 誰にも頼まれてないが、ここが僕のポテンシャルの見せ所だ!

  では。ここまで『緑川鷲羽の志』、でした。  淡泊以明志 寧静以致遠   臥竜