緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

nhk2017年大河ドラマ原作「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」出羽国米沢上杉領「米沢藩中興の祖」小説1

2015年04月30日 06時44分42秒 | 日記










米沢藩の中興の祖・不世出の名君
 「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」
師弟の軍旗
上杉鷹山公と尊師・細井平洲先生




                   ~為せば成る!~
                   200年前の行政改革
                  total-produced&wrtten&PRESENTED BY
                    MIDORIKAWA washu
                    緑川 鷲羽
       あらすじ

 上杉治憲(のちの鷹山)が日向(宮崎県)高鍋藩から出羽米沢藩(山形県米沢市)15万石の養子となり藩主となったのは明和四年、17才の頃である。その頃、米沢藩の台所は火の車であった。上杉謙信からの膨大な6千人もの家臣たちを雇い、借金で首がまわらない状況だった。まさに破産寸前だったのである。そのため、家臣たちからは藩を幕府に返上しようという考えまであがった。つまり、現代風にいえば「自主廃業」であった。
 そこで、上杉治憲は決心する。「改革を始めよう!」
 まず治憲の改革は質素倹約から始まった。着るものは木綿、一汁一菜…。しかし、それらは焼け石に水だった。江戸で改革をしてから2年後、治憲は米沢へと初入部する。しかし、そこで待っていたのは家臣の反発と死んだように希望のない領民たちの姿だった。
 しかし、治憲(のちの鷹山)は諦めなかった。なんとかヒット商品を考案し、学問を奨励し、さまざまな改革案を打ち出す。しだいに彼の改革に共鳴してくれる藩士たちもあらわれだす。だが、そうしたことを嫌うものたちもいた。芋川、須田、千坂ら七家である。これらの重役は治憲に対してクーデターをくわだてる。
 のちにゆう『七家騒動』である。
 上杉治憲(のちの鷹山)の改革はここでおわってしまうのか?
 鷹山、一世一代の危機!彼は危機をどう乗り越えるのか?しかし、彼は危機を乗りきり、やがて米沢藩の財政も立て直る。それは彼が亡くなって一年後のことであった。

  われわれはこの小説でなにを学ぶか?
 米沢藩の改革に生涯をかけた鷹山のいき様を描く!渾身の作品の完全版をお読み下さい。貧窮のどん底にあえぐ米沢藩…鷹山と家臣たちは藩政立て直しに渾身する。これは無私に殉じたひとたちの、きらきらとしたうつくしい物語である。       おわり

        the novel is a dramatic interpretation
        of event and character based on public
        soutces and an in complete historical
        record.some scenes and events are
        presented as composites or have been
        hypothesized condensed.

       ~なせば成る、なさねば成らぬ何事も、
               成らぬはひとのなさぬなりけり
                        上杉 鷹山(1751~1822)~

<参考文献・一部>*上杉家御年譜、米沢温故会編*鷹山公世紀、池田成章編、池田成彬*鷹山公偉蹟録、甘糟継成著、上杉神社社務所*米沢市史、米沢市史編さん委員会編*興譲館世紀、松野良寅編著、山形県米沢興譲館高等学校*代表的日本人、内村鑑三著、岩波文庫*上杉鷹山公、今泉亨吉著、米沢信用金庫*上杉鷹山公小伝、今泉亨吉著、御堀端史蹟保存会*人物叢書・上杉鷹山、横山昭男著、吉川弘文館*上杉鷹山のすべて、横山昭男編、新人物往来社*上杉鷹山の人間と生涯、安彦孝次郎著、壮年社*上杉鷹山公と農政、斎藤圭助、有斐閣*米沢燃ゆ 上杉鷹山公、緑川鷲羽*東海市史、東海市史編さん委員会編*近世藩校の総合的研究、笹井助治著、吉川弘文館*名古屋文学史、川島丈内著、川瀬書房*口語訳・嚶鳴館遺草、皆川英哉、ケイアンドケイ*細井平洲・附中西淡淵、鬼頭有一著、明徳出版*細井平洲と教師像、遠藤秀夫著、共同出版*細井平洲先生とその師友点描、東海市立平洲記念館*現代に生きる細井平洲、東海市教育委員会編*細井平洲『小語』注釈、小野重著、東海市教育委員会*嚶鳴館遺稿注釈 初編・米沢編、小野重著、東海市教育委員会*名指導者・上杉鷹山公に学ぶ、鈴村進、三笠書房*細井平洲と上杉鷹山、鈴村進、三笠書房





         序章

                    
  上杉治憲(のちの鷹山)にとって、それは尋常でない光景だった。
 貧しい領民たちががりがりに痩せて、歩いている。いや、首がひんまがった領民たちが、歩いてくるのだ。治憲は息を呑んだ。血色をなくした、泥のような顔であるが、治憲には見覚えがあった。間違いなく、米沢の領民たちである。
 治憲の頭頂から爪先まで、冷気が走り抜けた。手足が目にみえて震えだし、思うように筋肉に力が入らず、指はしばらく、戦慄きながら宙を泳いだ。
 そして、治憲は目がさめ、悪夢から解放された。
「……夢……か…」治憲は額に滲んだ汗を手でふいた。
  治憲が米沢藩の藩主となる数年前、米沢藩は困窮していた。
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」、米沢市立図書館「上杉古文書」「上杉家書状」他、藤沢周平著作「漆の実のみのる国」童門冬二著作「小説 上杉鷹山」NHK映像資料「その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ドラマ 上杉鷹山 二百年前の行政改革」「独眼竜政宗」「葵 徳川三代」「利家とまつ」「信長」「天と地と」「秀吉」「功名が辻」「おんな太閤記」「関ヶ原」「天地人」「軍師官兵衛」、角川ザテレビジョン「大河ドラマ 天地人ガイドブック」角川書店、等です。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。裁判とか勘弁してください。

昔は墨田川が武蔵(むさし)国と下総(しもうさ)国の境界だった。そこで二つの国を結ぶ街道の隅田川界隈を両国と呼んだ。両国には火除地(ひよけち)としてつくられた一帯が両国広小路である。川端には茶屋が立ち並び、その両側には見世物、芝居、講釈などの小屋がひとをあつめている。
その雑踏の中で藁科松伯貞祐(わらしな・しょうはく・さだすけ)は足を止めた。
彼は出羽(でわ・現在の山形県)国米沢(よねざわ)藩に支える医師であり、また学者でもある。昨年宝暦七年(一七五七年)から江戸詰めとなり、桜田門にある上杉邸へ出仕している。俊才の誉れが高く、白皙痩身(はくせきそうしん)の彼は生来病弱だが、今日は気分がいい。
先だってから江戸の噂を耳にしていた。
「両国広小路の平洲先生の講釈を聞くと、毎日の仕事が楽しくなるぞ」
平洲(へいしゅう)先生、通称は細井甚三郎(ほそい・じんざぶろう)といって、尾張(おわり・現在の愛知県東海市)から出てきた学者である。いくつかの大名に招かれて講義に赴くかたわら、浜町(現在の東京都中央区日本橋浜町)に「嚶鳴館(おうめいかん)」という学塾を開いている。そして、度々両国で講釈を小屋で開いては人々を涙と仁愛の世界に導き、いつも黒山の人だかりになるという。
藁科は講釈小屋の人だかりをみて、中に入れずにいたが、平洲先生の語りであろう、よく通るやわらかい声が聞こえてくる。
「よいかな。たとえていえば、この花だ。花がたくさん咲いている木というものはそれは見事なものだ。だが、そうだからといっていつまでもたくさん花をつけていたのでは、しだいに木がひねて実も少なくなり、やがては枯れ枝が多くなって、さしもの銘木も惨めな姿にやつれ果ててしまう。されば、惜しいけれども枝を止め、蕾を透かしてやらねばならぬ。そうすれば木はいつまでも見事な花を楽しませてくれるものだ」
藁科松柏は思わず息を呑んだ。名門上杉家は今まさにそのような状態だ。干ばつや洪水で凶作が続き、藩の財政は極度に緊迫して多額の借財を返す見通しも立たない。改革の声さえ消されるか、押しつぶされ過去の栄光にこだわり、このままでは朽ちて果てる日を待つばかりだ。この先生こそ、米沢藩に是非とも必要なお方である。演壇の平洲は三十歳くらいで、松柏とそれほどかわらなかった。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用12~14ページ>

江戸の儒学にはいくつかの学派があった。朱子学派の林羅山(らざん)、山崎闇斎(あんざい)、陽明学派には中江藤樹(なかえ・とうじゅ)、熊沢番山(くまざわばんざん)、古儀(こぎ)学派には伊藤仁斎(じんさい)、そして古文辞(こぶんじ)学派には荻生徂徠(おぎょうそらい)らがいた。
細井平洲はこれらのどれにも属さないので折衷学派といわれた。その説くところは文字や言葉の解釈ではなく、現実の為政および生活面に学問を生かすことであった。そこで彼は実学者ともいわれる。
尾張国知多郡平島村(現愛知県東海市荒尾町)の富農の家に生まれた平洲は、幼少時代には近くの観音寺の住職義観(ぎかん・義寛ともいう)の教えを受けた。その才知には大人も舌を巻くほどだったが、やがて彼は勉学を進めようと京都に出た。
しばらくして、わが子は京都でどんな暮らしをしているのか案じた父親が訪ねてみると、平洲の家はひどいあばら家で衣食も粗末だった。見かねた父親は五十両という大金を与えたが、当時の平洲の師となるべき人にはついに巡り会わなかった。およそ一年後に帰郷した平洲が持ち帰ってきたものは、二頭の馬の背に積んだおびただしい書物だった。彼は父親からもらった大金をすべて書物を買うのにつかったのである。
その後平洲は、名古屋の中西淡淵(たんえん)に入門する。淡淵は三河挙母(みかわころも・豊田市)出身の儒学者で折衷学派の洗掘者といわれ、自ら「叢桂(そうけい)社」という学塾を開いていた。
彼の教えは高度であり、その卓抜な識見に感服した平洲は人にこう語った。
「図らざりき。わが師の近きにあらんとは(こんな近くにわたしが求めていた理想の先生がおられるとは思ってもみなかった)」
この感動に応えて、淡淵もまた「わが業を助けるのは平洲である」と漏らした。
平洲は中国人から中国語を学び、さらに韻文、漢文、詩文、書道、南画、禅学などの教養も身に着けた。干天の慈雨のように細井平洲は日本屈指の大学者になる。師が主君である尾張藩付家老(つけがろう)竹越山城守に従って江戸に出ると、平洲はあとを追うように江戸に出た。入門して六年目だった。江戸で私塾「嚶鳴館(おうめいかん)」を開塾、だが師は急死する。平洲は十巻にもおよぶ『詩経古伝』を著して声望を高めていたが、伊予西条藩主松平頼淳(よりあつ)が、中国黄檗山(おうばくさん)住職大鵬(たいほう)禅師を迎えたときの通訳を務めたことで、その実力を一段と高く評価されるようになった。この頃、彼の門人はすでに千人を超えていた。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用15~17ページ>

  米沢の冬は厳しい。しんしんと雪が降って、やがて豪雪となり、辺りを一面の銀世界にかえていく。雪が完全に溶けるのは4月頃だ。田畑も城下町の屋敷の屋根も、道も、すべてが真っ白に衣を着て、ときおり照りつける陽射しできらきらとハレーションをおこす。     それはしんとした感傷だ。しかし、そんな幻想とはうらはらに、領民はみんな飢えていた。   若い儒学者の藁科松伯は米沢にいた。藁科は米沢藩の儒学者で、頭脳明晰な男である。彼は確かに不思議な印象を与える人物である。禿頭で、ぴしっと和服を着て、年はまだ三十代にみえる。痩せていて、手足が細く、病気がちである。ちょっと見にも、学者とわかるのだが、瞳だけは大変に光っていて、唯一、力強さを感じさせた。
 弟子の寺脇孫兵衛門が急いでやってきた。その顔には笑顔があった。
「見付かったか!米沢藩のご養子が……」「はっ!」
 松伯はほっと安堵の溜め息をつき、寺脇孫兵衛門は場を去った。手紙は江戸にいる米沢藩の江戸家老・竹俣当綱からだった。米沢藩主・上杉重定公には姫しかなく、このままでは藩は取り潰しになる……そこで養子を取ろうということになったのだ。「なになに、日向高鍋藩主・秋月佐渡守種実公の次男坊で、名は直丸殿…か」藁科松伯は口元に笑みを浮かべた。しかし、そんな平和も一瞬で、彼は胸が苦しくなって激しく咳き込みだした。しかし、もう皆帰って誰もいなかった。
「ごほごほ…」藁科松伯は痛み止めの薬を飲んだ。……それでなんとか胸の劇痛が弱まった。彼は、「はやく江戸にいって直丸殿にお会いしたい!」と強く願った。「私が死ぬ前に…」藁科は医師でもある。だから、自分の病のことはだいたい把握していた。自分がもう長くは生きられないこと……もう生きられない…。
「…私が死ぬまえに是非…直丸殿にあっておきたい。是非…」彼はそう強く願った。
 そして、自分がその名君となるはずのご養子の成長や改革を目のあたりにできぬだろうことを残念がった。…私は死ぬ…だが、米沢のことは……直丸殿に頼るしか……ない。
 藁科松伯と弟子の寺脇や莅戸善政や木村高広らは雪道を歩き、興奮しつつ江戸へと旅立っていった。…雪深いため、ぬかるみ、転び…大変苦労した。
「……いやあ、こわいこわい(疲れた疲れた)」
 藁科松伯は珍しく米沢の方言をいった。
 松伯は江戸生まれで、米沢の人間ではないはずである。しかし、それにしても「自分も米沢の人間でありたい」と思っていた。だから、訛りを使ったのである。
「先生、少し休みますか?」
 弟子の寺脇がいうと、藁科松伯は「いやいや、急ごう!直丸殿に一刻も早く会いたい」「……無理しないでくだされよ、先生」
 莅戸善政がいう。
 木村も笑って「そうそう。先生あっての拙者らですから」といった。
「さようか」
 松伯は笑った。息がきれて、しんどかったが、それでも余裕の素振りをみせた。
  数日後、一行は江戸に辿り着いた。江戸の町は活気にあふれ、人がいっぱい歩いていた。人々の顔には米沢の領民のような暗い影がない。「米沢のひとに比べて江戸の庶民は…」藁科はふいに思った。
  米沢藩の江戸屋敷に着くと、竹俣当綱が一行を出迎えた。
 竹俣当綱は三十七歳。目がキッとつりあがっていて、髭も濃くて、黒い着物を着て、浅黒い肌にがっちりとした体が印象的な男だ。
 屋敷を歩くと、ぎじぎしと音がした。屋根からは雨漏りがする。戸も壊れていてなかなか開かなかった。……財政難で金がないため、直せないのだ。
「ところでご家老」藁科松伯は切り出した。「…ご養子が見つかったそうですな」
「はい、先生。日向高鍋藩主・秋月佐渡守種美公の次男坊で、名は直丸殿と申す」
 竹俣は笑顔でいった。「大変に賢き若君ときいております」
「そうですか…」藁科は微笑み、続けて「ぜひに、一刻も早く…直丸殿にお会いしたい」 と願った。
 竹俣当綱は「先生……わしもまだ会っておらん。だが、今、直丸殿は高鍋藩江戸屋敷にいるときいております。近々、拝謁させて頂きましょう」と言った。
「……直丸殿は今、御年いくつなので?」
「八歳です」
「そうですか」
 藁科松伯は満足気に深く頷いた。「それは重畳」
「……まぁ、いい年頃ではありますな」
「楽しみです」
 松伯はもう一度、満足気に深く頷いた。「…拝謁が楽しみです」
 竹俣当綱は「先生……わしもはよう会いたい」
「我々もでござる」
 莅戸や木村も笑顔をつくった。
 竹俣は「女房殿よりも愛しい方じゃな?」と冗談をいい、一同は笑った。
秋月直丸(あきづき・なおまる)、出羽米沢藩八代藩主・上杉重定(うえすぎ・しげさだ)の養子となり、上杉直丸(うえすぎ・なおまる)公、元服して上杉治憲(うえすぎ・はるのり)公、後年・晩年・上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)公となる。父親は日向(宮崎県)高鍋藩主・秋月佐渡守種美(たねみつ)公で、母親が上杉家の遠縁(米沢藩四代藩主・上杉綱憲の次女・豊姫と黒田長貞(筑前秋月藩主)との娘)の春姫である。
 俗な話をすれば上杉鷹山公は2014年度の大河ドラマだった「軍師 官兵衛」の主人公・黒田官兵衛(如水)の子孫でもある。
 また年末恒例でやる歌舞伎やドラマ「忠臣蔵」の悪役・吉良上野介の子孫でもあるのだ。つまり、治憲公にとっては母方(春姫)の祖母・豊姫の父親が上杉家養子で、吉良上野介の息子・吉良三郎こと上杉綱憲であり、母方の祖父が黒田如水(官兵衛)の親戚の筑前秋月藩主・黒田長貞なのである。
 まさにサラブレッドである。頭脳明晰で忍耐強く、私心がない訳だ。鷹山公の父親と母親はいわゆる「政略結婚」である。上杉綱憲の娘・豊姫と結婚して子を授かった筑前秋月藩主・黒田長貞(ながさだ)公が娘(のちの鷹山公を産む)春姫を、日向高鍋藩主・秋月種美の元に嫁がせた訳だ。
 では、米沢藩第八代藩主・上杉重定(しげさだ)はというと、上杉綱憲の子供・嫡男・上杉吉憲(よしのり・米沢藩第五代藩主)の三男(長男・第六代藩主・宗憲(むねのり)、次男・第七代藩主・宗房(むねふさ))である。
 上杉家は子宝に恵まれない家系である。
 藩祖は「生涯独身」を通した「合戦無敗伝説」の上杉謙信だが、米沢藩では謙信公の息子・姉の仙桃院からの養子・上杉景勝からを米沢藩第一代…と数えるのが一般的だ。
 後述するが上杉家三代目・上杉綱勝(つなかつ)は養子も跡取りも決めないまま若くして病死するのである。
 普通の藩ならば徳川幕府から「お家断絶」されてもおかしくない。だが、会津藩主・保科正之の取り計らいで、上杉綱勝の妹の参姫(さんひめ)と結婚していた幕府高家衆・吉良上野介義央の子供(吉良三郎)を無理やり上杉家第四代藩主とするのである。
 何故、会津藩主・保科正之(ほしな・まさゆき)は上杉家を助けたのか?「上杉家は名門だから」というのもあるだろう。
 しかし、正之は徳川家康の息子・秀忠の愛人との子であり、それを会津藩主としてもらった、という過去を持つ。
 幕末に会津藩に米沢藩が加勢したのも正之への恩である。保科正之には上杉の窮乏が「憐れ」に感じたに違いない。
 確かに米沢藩・上杉藩は、上杉綱憲(つなのり)を米沢藩第四代藩主とすることで「お家断絶」の危機は脱した。
 だが、かわりに領土・禄高を出羽米沢三十万石から、出羽米沢十五万石まで減らされたのだ。新たなる危機は禄高減少である。
 ただでさえ越後七十万石から、上杉景勝の時代、秀吉の命令で会津百二十万石に禄高も領土も増えた。が、歴史通なら当たり前に知るところだが、関ヶ原の合戦で、上杉景勝方は西軍・石田三成方につく。
 結果はやはりであった。関ヶ原では小早川秀秋の寝返りなどでたった一日で(徳川家康方の)東軍の大勝利……その間に東北地方の長谷堂で最上義光軍勢・伊逹政宗軍勢と戦っていた(長谷堂合戦)上杉軍に「西軍大敗・三成敗走」の報が届く。
 上杉軍は焦ったに違いない。知将でも知られる(2009年度大河ドラマ「天地人」の主人公)直江兼続は殿をつとめ、なんとか会津領土に帰還。しかし、その後の戦後処理で、上杉景勝・上杉軍は石田三成(近江の山中で捕えられ京三条河原で斬首)側についたとして会津(福島県)百二十万石から出羽米沢三十万石に禄高を減らされ転譜となる。
 上杉景勝や直江兼続らは、家臣を誰も減らさず六千人の家臣団を引き連れて米沢に転住する。土地も禄高も減らされ、しかも山奥の雪深い盆地に「島流し」にあった訳だ(笑)。
 苦労する訳である。今は上杉の城下町・米沢市には新幹線も通り、豪雪で知られた米沢だったが、最近はそんなに積雪も酷くなくなった。地球温暖化のおかげだろう。
 私の親戚のひとに聞くと、70年くらい前は、米沢の積雪は茅葺屋根の高さと同じくらいだったという。出入りの為にハシゴを玄関から積雪にかけて……モグラみたいに暮らしていたんだという(笑)
 雪国では、冬季には公費で除雪車が深夜道路などの除雪をしてくれる。除雪車は巨大な黄色のトラック程の巨大なものだ。だが、それは田中角栄首相(当時)が、豪雪を「激甚災害」に指定して「公費での除雪」を推進したからだ。
 私は、田中角栄は大嫌いだが(金満政治の元凶の為)、「除雪」に関しては感謝している。しかし、昔はほんとうに豪雪で大変であったろう。昔のひとは偉いものだ。話がそれた。


平洲の講釈が終わるのを待ちかねていた藁科松柏は、改めて挨拶し、是非とも今の話の先にあるものを聞かせていただきたいと懇願した。
快く承知した平洲は浜町の「嚶鳴館」まで松柏を同道すると、求められるままに自分の考えを語り聞かせた。それは辻講釈とは違って、直接経書に基づく高度なものであった。
松柏の身分を聞いた平洲は、特に国を治める指導者のあるべき姿について熱心に語った。それは経世済民(経済)であり、現実主義(リアリズム)であり、論語と算盤、でもあった。“上杉の義”等という理想論ではなく、“成果主義”でもあり、平洲は現実主義者(リアリスト)でもあった。平洲は拝金主義を嫌ったが、同時に綺麗ごとだけの主義も嫌った。平洲は「どんな綺麗事を並べ立てても銭がなければ一粒のコメさえ買えない。それが現実であり、銭は空からは降って来ないし、法令順守(コンプライアンス)を徹底し、論語と算盤で正しいやり方をして努力して善行を尽くせばほとんどの幸福は叶う」という。
平洲の話に時がたつのも忘れて傾倒し、感動を抑えきれず、その場で松柏は平洲に入門した。藁科松柏は本国の米沢にいるときには「菁莪(せいが)館」と名付けた書斎で多くの若者たちの教育にあたっていた。彼の教えを仰ぐ者の中には竹俣美作当綱(たけのまた・みまさく・まさつな)、莅戸(のぞき)九郎兵衛善政、木村丈八高広、神保容助綱忠らがいた。その頃の米沢藩は長年の貧窮に打ちひしがれ、息が詰まるほどの閉塞状態から脱出することも出来ないでいた。しかも、藩主上杉重定は寵臣(ちょうしん)森平右衛門利真(としざね)に籠絡(ろうらく)されて、自ら藩政を改革出来ないでいた。
竹俣当綱や莅戸らは密かに会合を持ち、後述するような森氏への謀殺を謀る訳だが、望みの期待の“改革派の頼りの綱”はわずか九歳の御世継の直丸(直丸→治憲→鷹山)だけであった。松柏は“大人物”細井平洲先生を一門に紹介し、積極的に御世継の教育にと便宜をはかった。「上からの論理ばかりでは“死角”ができる」、「諌言をさまたげ、甘言によっては“大きなツケ”ばかり残る」平洲の主張もごもっともであった。
竹俣も莅戸も木村も神保も平洲門下に列座する。「われわれには臥竜先生と臥竜の卵の御世継さまがおられる」
竹俣は「細井先生はいいが、失礼ながら直丸殿はまだ九歳の童べであろう」とため息をついた。望みがわずか九歳の御世継・秋月直丸、養子縁組で上杉直丸、のちの治憲公、鷹山公で、ある。溺れる者は藁をも掴むというが、何ともたよりない船出、であった。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用17~25ページ>



上杉鷹山公は公人、つまり公(おおやけ)のひと、である。
 何故、鷹山公は私心を捨てて、公人となったのか?やはりそこには江戸の学者であり、師匠でもある細井平洲先生による教育のたまものなのである。
 米沢市立図書館は私がよく執筆する際の資料の為に利用する。その米沢市立図書館は二十年くらい前に「上杉鷹山公の伝記漫画」の資料と調査研究をしてマンガ本を刊行したという。(資料を提供して無名の漫画家さんがコミックを描いた)
 当時の図書館員は「鷹山公に関する資料等を調査研究していくと、その人間像が浮き彫りにされ、あたかも私たちの目の前で鷹山公が「為せば成る。米沢の未来のため頑張りなさい。」と優しく励ましてくれるような錯覚におちいる。さらに、現代の私たちに近い、赤裸々な人間「鷹山公」を捜し求めたが、「公は」その姿を現してくれなかった。その分だけ、この漫画は面白味に欠けているかもしれない。鷹山公は「真心の人」であった。自分の信じるところに従って行動し、勇気を持ってあらゆる困難とよく闘った政治家。そして、郷土と民衆を心から愛した世界に誇る代表的日本人である。鷹山公の遺徳とその精神は、私たち米沢人の心の光かも知れない。それは、何時の時代にも消えることなく、我々の生きる道を照らしてくれるものだと信じたい。(「上杉鷹山公物語・監修 横山昭男 作画・小川あつむ」149ページ参照)」と記している。
 当時の米沢市立図書館員たちには「上杉鷹山公」は「現代の私たちに近い「赤裸々な人間像」」を現してくれなかったのかもしれない。まあ、時代だろう。
 二十年前はわからなかったことでも現在ならわかることもある。
 鷹山公が少年期に、利発で天才的な才覚を見せている姿からは普段想像も出来ないくらい涙もろかったり(藁科松伯から米沢藩の惨状を聞き「それは米沢人が憐れである」と涙をはらはら流したり)、幼少期に寝しょうべんがなかなか直らず布団に毎朝「日本地図」を描いていたり……私にはこれでもかこれでもかと「公は」「赤裸々な人間像」を見せてくれる。
 まあ、時代だろう。調べが甘い。夜郎自大も甚だしい。
 宝暦九年(1757年)、三月、秋月直丸は米沢藩主重定の養子に内定している。
 (注・鷹山公の母親・実母・春姫は宝暦七年(1757年)六月九日に三十五歳で病死しているが、この物語では話の流れでまだ生存していることになっている)
 (注・上杉鷹山公の生まれは宝暦元年(1751年)七月二十日、秋月家二男として生まれている。つまり、鷹山公はわずか七歳で実母を亡くしている訳だ)
 実際問題として、上杉重定の放蕩は目を伏せたくなるほどである。
 このひとは馬鹿ではないか?とおもうほど能や贅沢三昧の生活をする。
 でも、まあ、鷹山公や藩士にしたら「反面教師」だ。(注・「反面教師」という諺は中国の毛沢東(マオ・ツートン)の唱えた諺であるからこの時代の人々にはなじみのない諺かも知れない)
 借金まみれの米沢藩で「贅沢三昧」とはこれまた馬鹿野郎だが、まだのちに「七家騒動」をおこすことになる須田満主(みつぬし)ら老中もこの世の春を謳歌し、重定とともに財政悪化の元凶・贅沢三昧な大老・森平右衛門もこの世の春を謳歌していた時代である。
 上杉家の養子になった治憲公(直丸公)は秋月家家老三好善太夫(みよし・ぜんだゆう)に、
「わたしのような小藩からの養子の身分の者が……謙信公からの名門・上杉家の米沢藩をひとりで動かせるだろうか?」
 と不安な心境を吐露したという。
 すると秋月家庭園で、木刀で稽古をつけて、一服していた三好は平伏して
「確かにおひとりでは無理にござりまする」という。
「……やはりそうか」
「されどにござりまする、若。どんな大事業もたったひとりの力では無理なのです。米沢藩上杉家中は名門ゆえ優秀な人材も多いことでしょう。家臣の者たちとともに粉骨砕身なされませ」
 三好善太夫は鷹山公の傅役である。
 彼は少年の鷹山いや治憲に「奉贐書(はなむけたてまつるのしょ)」を送った。三好は鷹山が上杉家に養子に行く前に「殿さまとして守るべきことをしたためた「上言集」と「奉贐書」」を送り、宝暦十年(1760年)十月十九日に治憲が江戸の秋月家一本松邸より上杉家桜田邸へ移りおわったのを見届けたのち十一月二日、五十七歳の生涯を終える。
 鷹山はこの三好からの書状を一生の指針として、善太夫の死に涙をはらはら流したともいう。
 鷹山公は涙もろいのかも知れない。
 江戸から遠い米沢藩の田舎ではのちの竹俣当綱(たけのまた・まさつな)が江戸家老になり、莅戸善政(のぞき・よしまさ)が奉行に、藁科松伯(わらしな・しょうはく)らが米沢藩士としての志を新たにするのだった。
 時代は混沌としていた。改革前夜であり、米沢藩は深い闇の中、にあった。

「当節の、わが藩の借財はいかほどになるのか?」
「されば」
当綱は書院の外の畳敷きに膝をおとした。小考してから言った。
「それは若君にはまだご承知なくともよろしいのではないでしょうか」
答えがないので顔を上げると、直丸がきびしい目で自分を見ていた。当綱が思わず言い直そうとしたのを遮るようにして、直丸が言った。
「竹俣、直丸が若年とみて侮るか?」
「あ、いや」
当綱は顔がどっと熱くなるのを感じた。
「そのようなこころはございません。失礼しました!わが藩の借財は、ざっと十数万両と承知しております」
「………十数万両か」少年世子は衝撃を受けたようだった。だが、当綱はのちの鷹山公の本気度をひしひしと感じた。のちに竹俣当綱は松柏に、
「ご家老も、一本取られましたな」
「一本取られた」
当綱は正直に言った。
「いや、おどろいた。直丸さまはもう大人であられる」
「むろんです。臥竜さまですゆえ」
松柏は言った。
参考文献『漆の実のみのる国(上巻)』藤沢周平著作、文藝春秋出版引用142~143ページ

  こうして竹俣当綱、藁科松伯、莅戸善政、木村高広の四名は、高鍋藩江戸屋敷に徒歩で向かった。江戸の町は活気にあふれ、人がいっぱい歩いている。武家も商人も、女子供にも…人々の顔には米沢の領民のような暗い影がない。「米沢のひとに比べて江戸の庶民は…」藁科はまた、ふいに思った。
 その日は快晴で、雲ひとつなく空には青が広がっていた。すべてがしんと輝いていくかのようにも思えた。きらきらとしんと。すべて光るような。
 高鍋藩邸宅は米沢のそれと同じで、殺風景でぼろくて今にも倒れそうだった。高鍋藩も財政危機で、修繕代が払えないのだ。
 ………貧乏藩は米沢十五万石だけではないのだな。
 竹俣当綱がそう不遜に思っていると、藁科松伯は低い垣根から、邸内を熱心に覗いていた。彼の横顔は笑顔だった。
「…いましたぞ、ご家老」
 と藁科。
 木村も覗き「あの若君が直丸殿ですか?」と竹俣に尋ねた。
 莅戸は「拙者にも見せてください」といった。
 竹俣当綱も垣根から邸内を覗き見て、「…おぉ。あれじゃ、あの方が直丸殿じゃ」と笑顔になった。「本当に賢そうな若じゃ」…邸内の庭では、秋月直丸という若君が剣術に励んでいた。一生懸命に木刀を何度も降り下ろす運動のためか、若君は額に汗をかいていた。直丸は八歳。すらりと細い手足に痩せたしかし、がっちりとした体。ハンサムで美貌の少年である。唯一、瞳だけがきらきら輝いている。
 この、秋月直丸こそが養子となり名を「上杉直丸」と変え、さらに元服後「上杉治憲」と名をかえた、のちの名君・上杉鷹山公そのひとであった。
「……いい顔をしている」
 四人は微笑んで、呟いた。



「……どちら様でしたか?」
 ふいに藁科ら四人に声をかける女がいた。…それが直丸の生母・春だった。(注・歴史的にはこの時期に鷹山公の実母・春は病死しているが、話の流れの為に存命していることにしている)
 確かに、春は美人であった。背も低くて、華奢であったが、三十五歳の着物姿は魅力的なものであった。
「あ、私は藁科松伯と申します。こちらが江戸家老の竹俣殿、こちらは莅戸殿に…木村殿です」
「はぁ」春はそういい、続けて「どちらの国の方です? 江戸の方ではないように思いますけど」
「わかりますか」竹俣は笑って「拙者たちは出羽米沢藩十五万石の上杉家家臣のものです。今日は、藩主・重定公の名代として参りました」
 と丁寧にいった。そして、一行は頭を深々と下げた。
「まぁ!」春は思い出して、「養子の話しですね?直丸の……。こんな外ではお寒いでしょうから、中にお入りくださいまし」と恐縮して一行を屋敷に招いた。

  秋月家江戸邸宅は質素そのものだった。
 …春は、恐縮しながら「申し訳ござりません。今、殿は外出しておりまして…」と言った。…竹俣や藁科らが座敷に案内されて座ると、「……粗末な食べ物ですが。御腹の足しによろしかったらどうぞ」
 と、そばがゆが運ばれた。
「いや! 奥方様、われらなどに気をつかわなくても…」と竹俣。莅戸は食べて「おいしいです」といった。「馬鹿者。……少しは遠慮せぬか」竹俣当綱は彼の耳元で囁くように注意した。秋月の奥方様(春)は笑った。すると藁科と木村も笑った。
「米沢は今どうですの?」                
 春は竹俣に尋ねた。すると竹俣は「政のことでござろうか?」と逆質問した。
「いいえ」春は首をふって笑顔になり、
「気候や風土のことをききましたの」
 といった。
「……それなら、今、米沢は雪景色です。毎日、家臣たちは雪かきに追われて…くたびっちゃくたびっちゃ(疲れた疲れた)といってます」
 竹俣は笑った。
「どうして直丸を上杉家の養子にすることになったのですか? 他にも若君はいっぱいおりますでしょうに」春が言った。すると藁科が、
「いえ。直丸殿ではなければダメなのです。拙者はよく巷で直丸殿の噂を耳にしました」「……どのような?」
「秋月家の次男坊は大変賢く、心優しい方で、学問や剣術に熱心だとか…」
「直丸が? ですか?」
「はい」藁科はにこりと頷いて、続けて「直丸殿のような傑出した若君が…どうしても米沢では必要なのです。ご存じの通り米沢藩の財政は火の車、殿には姫しかなく、この危機を乗り越えるためには傑出した名君が必要なのです」といった。
「…直丸が、名君に?まだ八歳の童子ですのに?」
 春は少し訝し気な顔になった。
「歳は関係ありませんよ、奥方様」莅戸がいうと、続けて藁科松伯が「直丸殿はきっと米沢の名君におなりになります。拙者にはわかります。直丸殿は臥竜なのです」
「……臥竜? まぁ」春はびっくりした。そんな時、直丸の父親・秋月佐渡守種美が屋敷に戻ってきた。春は「少し失礼します。ゆっくりしていてくださいまし」というと、座敷から出て夫を出迎えた。そして「…殿。いかがでしたか?」と夫に尋ねた。
「だめだ。どの商人も金を貸してはくれぬ。日向高鍋藩もここまでか……。疲れた」
 秋月佐渡守は、深く溜め息をつくと、座敷へと向かった。
 そして、座敷に座る「みすぼらしい服を着た四人の侍」を発見し、後退りして障子の陰に隠れてから、「…なんの客だ?ずいぶんガラが悪そうではないか」と春にボソボソと尋ねた。春は「出羽米沢十五万石の家臣の方のようです」と答えた。
「あぁ。そういえば養子の話しか…」
 種美は頷いた。春は「出羽米沢は十五万石。殿の日向高鍋は三万石……養子なんていい話しですこと」と微笑んだ。
「う~む」種美はそう唸ってから、「……とにかく話しをきこう」といい座敷内に入った。「わしは日向高鍋藩藩主、秋月佐渡守種美である。そちらは…?」
 藁科らは平伏してから、自己紹介をした。そして、「直丸殿に是非、拝謁したい次第で参上つかまつった」といった。
「よかろう」秋月佐渡守は満足そうに頷いて「直丸をこっちへ」と家臣に命じた。
 まもなく、八歳の直丸がやってきた。
「…秋月直丸にございます。以後お見知りおきを」
 彼は正座して頭を下げて竹俣らに言葉をかけた。その賢さ、礼儀正しさ、謙虚さは、藁科たちを喜ばせるのに十分だった。……これなら名君になれる。

  竹俣や藁科らは、秋月佐渡守とその次男坊の直丸とわきあいあいと話しをした。時間は刻々と過ぎていく。そろそろ夕方で辺りが暗くなってきたので、藁科が立ち上がり、
「今日は遅いので…これで。さぁ、みんな帰りますぞ」と言った。
「いや、せめて夕食だけでも食べていかれよ」
 佐渡守がとめたが、四人は、せっかくですが、と断った。
 そして、藁科は袋に詰めていた分厚い本を取りだして「これは儒教の書。これは『大学』こちらは孔子の書です。どうぞ」と直丸に手渡した。
 直丸は微笑んで礼をいった。
 藁科らは、黙々と秋月家屋敷を後にした。
 しかし、希望を見つけだした。あの若君は必ず名君になる。米沢を救ってくださる…四人はそう考えていた。…あの若君が米沢の希望だ。
 ………直丸は、さっそく本をめくり、熱心ににこにこ微笑みながら読み始めた。
 父・種美に尋ねられると、
「父上のような名君に、それがしもなりとうございます」
 と、のちの鷹山となる直丸は夢を語ったという。この当時、のちの鷹山公となる少年は「源義経の伝記「義経記」」「織田信長の伝記「信長公記」」「上杉謙信の伝記「越後軍記」」「天才軍師・諸葛孔明の活躍する「三国志記」」に熱中していた。
 なかでも上杉謙信公は養子先の藩祖でもあり治憲は憧れた。「上杉の義」とゆうのに憧れて、よくふざけて「上杉の義なりや!」「これぞ上杉の義なるぞ!」と歌舞伎役者のようにいったという。
 諸葛亮孔明は劉備への「忠義なところ」「軍略に優れたところ」がお気に入りであったという。
 私は諸葛亮孔明のように(米沢・上杉藩に)三顧の礼をもって迎えられるのかなあと無邪気にほほ笑んだりもしている。だが、そう思うと背筋がしゃきんと伸びもする。皆の期待を裏切る訳にはいかない!
 ちなみにのちに上杉鷹山として知られることになる秋月(上杉)直丸(治憲)は、宝暦元年7月20日(1751年9月9日)に誕生している。名を直松、直丸、勝興、治憲、鷹山……と変えた。が、後世では『上杉鷹山』として知られている。



 鷹山公の実母・春は病床の身となる。ごほごほと咳をすることが多くなる。やがて、喀血して本人も驚いたことだろう。
 春はまだ幼き息子・直丸(のちの鷹山公)に「秋になると木々が紅葉で真っ赤や黄色に色づくのは何故か知っていますか?直丸」と聞く。
「わかりません」正直な答えであった。
「木々の紅葉は御屋形である木を守る為、真っ赤や黄色くなってまで御屋形の木を守る為に身代わりになって散っていくのです。お前もそういう君主にならねばなりませぬよ。夢夢「自分は誰よりも偉い」等と天狗になってはなりませぬよ」
「はい!わたくしは母上に誓いまする、きっと立派な殿さまに、紅葉のような絢爛な殿さまになりまする!」
 若き鷹山公(直丸公・治憲公)の志であった。
 のちの鷹山公の実母・春が、三十五歳の花のような生涯を病死という形で果てたのは、この頃である。
 のちの上杉鷹山となる直丸は、幼少期から学問と武道を学んでいる。秋月家も上杉家も文武両道方針で質素倹約の家系である。
 直丸は細井平洲(ほそい・へいしゅう)先生や米沢藩奥医師・藁科松伯らに学び学殖を得た。ここで直丸は猛勉強する訳だが、直丸にはある癖があった。
 彼は何かに集中し過ぎると先生や誰かが声を掛けても耳から聞こえない程に熱中することだ。熱中するものがあると一直線に行動する為に成功を遂げる事も多いが、どこか「過ぎる」ところがあって、間違えたと分かるまで一直線に行動し、自分の正義を曲げない。
 そうしてある創作や政策をひらめかせる。まあ、今でいうならアイデアマンであり、アインシュタインやエジソンのような偉人な訳である。この時期、上杉家・米沢藩主・重定の子供が相次いで病死したり夭折(ようせつ・幼くして死亡)している。
 のちに上杉治憲(のちの鷹山)の正室となる幸姫(よしひめ)が誕生している。
 ちなみにこの頃の竹俣当綱の存在意義は大きい。やがて失脚してしまう運命の竹俣当綱だが、先祖は上杉二十五将のひとりでもある。
 かなり恵まれた環境で育った当綱だが、実母が若くして死んでしまう。当綱の父親は若い娘を後妻に迎え、祝言の席となった。当綱は酒豪でぐいぐい飲んでいた。しかし、同僚で親友の莅戸善政は下戸である。
「まあ、莅戸よ一杯くらいどうじゃ?」
「いいえ。私は下戸ゆえ」
「そうか。だが、舐めるくらいはよかろう?」
「はあ」莅戸は杯に酒を注がれ、舐めるだけ酒を飲んだ。たちまち顔が真っ赤になる。「竹俣殿、わしはやはり……酒は……苦手じゃ」  
 そのまま莅戸はぐったりとなった。病気ではない。舐めた酒に酔った訳だ(笑)
「莅戸は酒を舐めただけで、泥酔してぶっ斃れおった」
 一同は笑った。
 この頃、米沢藩士改革派として台頭してきたのが、この莅戸九郎兵衛(くろうべい)善政と竹俣美作(みまさか)当綱、木村丈八(じょうはち)高広、藁科松伯貞祐(さだすけ)、佐藤文四郎秀周(ひでちか)ら、である。
 宝暦五年(1755年)米沢藩は大飢饉に襲われた。
 多くの餓死者を結果として出してしまう。が、前述の米沢藩士改革派の活躍と藩の「御救い米」等により最低限の死者の数で済んだのである。
 鷹山公の学問の栄達は細井平洲先生と藁科松伯にかかっているといっても言い過ぎではなかった。
 しかし、藁科の寿命は「風前の灯」であった。
 ここ最近咳き込む事が多くなり、医者として自分の病状は「風邪の羅看」と思って江戸の名医に診てもらった。そして、咳き込み喀血して、自分でも驚いたという。
「労咳(ろうがい・肺結核)ですな」いわずもがな、である。
 当時は肺結核は不治の病である。しかも、余命半年だという。
 そうか。わたしは直丸殿、治憲殿の改革を…米沢の藩政改革の一翼ともならず、死んでしまうのか。
 それは絶望ではなかった。改革に自分が参加できないであろう悔しさ、であった。

「次期藩主の治憲殿(鷹山公)は養子ゆえ、粗相もあろうし、いかに人物とはいえ、ご改革などと申してもまだ若年の若君。わしも合力する覚悟である」
愚かな藩主として吉良上野介の息子・上杉三郎綱憲と並ぶほどの無能・前藩主・上杉重定は、まだ自分が愚か者である、という自覚がなかった。
改革を実行する時、一番邪魔になるのが旧体制の干渉と無能者の関与と既得権益である。
竹俣当綱や莅戸善政らは訝しがった。
「大検令とはどれほど実施するのか?」
「十年以上でございます」
「十年?…このわしもか?次期藩主は小国の生まれゆえ、謙信公以来の上杉の格式や家格がわかるまい。わしでよければ治憲殿にいくらでも教えてもよい」
何をいってやがる、当綱や莅戸らは心の中で舌打ちした。
自分が無能とも考えられないのか?この上杉重定という馬鹿殿は。釈迦に説法みたいなものだろうが!なんとも激昴するような気分になった。
参考文献『漆の実のみのる国(上巻)』藤沢周平著作、文藝春秋出版引用169~171ページ


日本個人金融資産1600兆円企業内部留保320兆円「誰もが等しく貧乏になる国」で本当にいいのか?維新を!

2015年04月29日 17時00分24秒 | 日記










日本の個人資産は1600兆円企業内部留保は320兆円で、1%でも動けば景気回復である。


法人税は先進国で相続税・所得税ではゼロが当たり前だ。


大体にして所得減税するのに条件つける所が甘い。


このままならハイパーインフレとデフォルトになる。


景気対策は大増税と歳出削減。低欲望が問題だ。臥竜



大前研一著作『低欲望社会「大志なき時代」の新・国富論』小学館出版
<「皆が等しく貧乏になる国」で本当にいいのか?高齢化と人口減少が加速する中で“欲のない若者”は増え続ける――ピケティもクルーグマンもこの国の現実がわかってない>
緑川鷲羽まとめ<2015年4月30日>(C)大前研一

はじめに「坂の上の雲」を見なくなった日本人

 「株価2万円」に浮かれている場合ではない

2015年3月下旬には00年4月以来15年ぶりに日経平均株価が1万8700円まで回復し、マスコミには「2万円台へ」という文字が躍った。だが、浮かれている場合ではない。
「山高ければ谷多し」というのが株式市場だ。
では、株価はどこで下げに転じるのか? それは基本的に企業のPER(株価収益率。時価総額÷純利益)やEBIT(他人資本を含む資本に対してどの程度の付加価値を創出したかを示す値。税引前当期純利益+支払利息-受取利息)などの指標で判断しなければならない。たとえば、PERは一般的に15倍を下回ると割安、20倍を上回ると割高とされているが、すでに15年2月末時点で東証1部上場企業のPERは19・7倍(金融業を除くと20・4倍)に達している。
しかし、企業の業績が株価に見合うほど良くなっているわけではない。株価上昇は罠だ。トヨタでさえ純利益は前年比16・8%増だ。
つまり、その企業に成長性があり、将来はこれくらいまで利益を稼ぐだろうという予測のもとに、投資家は株を買うのである。日本の株価は身の丈に合っていない。“偽りの相場”にほかならない。
では、なぜエコノミストたちの経済予測は当たらないのか?
結論から言うと現実を知らないからだが、安倍政権となってエコノミストや経営者などやエリート官僚がいろいろな策を次から次へと打ち出したが全部駄目だったのも「現実を知らない」からである。
安倍晋三首相は「有効求人倍率は22年ぶりの高水準」「この春、多くの企業で賃金アップ」などとアベノミクスを誇る。
さらに安倍政権は「株価の上昇は消費につながり、消費が増えれば企業収益が向上して賃金が上昇し、賃金が上がれば消費も増える」という「好循環論」を主張しアベノミクスを正当化した。しかし、日本はアメリカと違って個人がほとんど株を持っていないので、株高で好循環になるという現象は今まで観察されたことがない。株高で賃金が上がる、というのも初耳である。安倍首相の堂々たる演説原稿を誰が書いたのかは知らないが、日本経済の構造を恐ろしいほど知らないことを露呈している。

   世界に類のない「低欲望社会」が出現

安倍政権は危ない。なぜ危ないか?現実政治や現実経済政策などわかっていないからである。アベノミクスを推進してきた経済政策のブレーン、内閣参与の浜田宏一・米エール大学名誉教授や本田悦朗・静岡県立大学教授、さらにノーベル経済学者のクルーグマンなどが、インフレターゲット論などで景気を悪くした。もはや21世紀の日本経済には20世紀の経済対策は当てはまらない。「低欲望時代」というと、多くのひとは、
「デフレで不景気だから仕方ない。景気が回復したらみんなが安心して浪費するだろう」
と、思うと思う。
だが、日本で進行しているのは、そんな一過性の現象ではない。
たしかに、もはやかつての高度経済成長やバブルのような好景気はありえない。だが、不況だからとか、デフレだからとか、時代が、とか政策が悪くて…などといった意味での「低欲望社会」ではない。日本人の若者のDNAが変異した、としか思えないのだ。
「フラット35」という金利が1%台で史上最低金利で35年間固定金利という住宅でも買う人が少ない。アメリカやフランスやイギリスや先進国や途上国でも5%で35年間固定金利でも予約が殺到する。日本人の若者はリーダーとなりたくないし、社長にもオーナーにも監督にもプロデューサーにもディレクターにもならない。昔なら結婚もマイカーも新築一戸建ての家の建築も、団塊世代、団塊ジュニア世代はローンを組んででもやった。いわゆる“肉食系”であり、欲望も夢も大きかった。
「同じ人間が出来る事なら不可能はない」と皆が思っていた。
だが、今の35歳以下の世代はいわゆる「失われた20年」で、子供のころから不況で、好景気をしらない。また、バブル世代の親を「反面教師」にまでしている。
借金やローンを組んでまでマイカーやマイハウスはいらない、等と平気で言う。
携帯世代の彼らは、スマホでネットに繋がるがパソコンを買わず、電話回線やネット回線も自宅に引いていない。スマホでことが足りるからだ。
パソコンが出来ないわけではなく、職場や学校やネットカフェでは器用に使いこなす。
要するに貧乏や食糧難が身についている太平洋戦争時の子供ににている。
ニートや引籠りやうつ病、コンビニで500円の弁当で済ます。多くて一日千円でおわる。
なんとも情けないくらい志も夢もない。
志もなく夢もなく、さらに社会常識もなく、道徳もない。悲惨な若者(まともなひとも多いだろうが)が大手をふって跋扈しているのである。

   ピケティの『21世紀の資本』をどうよむか?

ピケティはいわゆるビックデータを際限なく分析している。
だが、結論からいうと当たり前の話しか書いていない。資産があるものが投資して資産を増やす、資産がないものは働く……富める者はますます冨み、貧しい者は置いてけぼりを食らってますます貧しくなるというのは、資本主義の下では当然の帰結である。
ピケティのいう「累進課税」「お金持ち増税」等夢物語で「理想論」であり、累進課税よりフラット課税や付加価値税であろう。
「お金持ち大増税」はヤル気がなくなるし、意味があまりわからない。
やはりピケティは日本については勉強不足である。
確かに彼の言うように海外では格差が広がっているのだろう。いわば宮殿のような豪邸の資産家とホームレスやバラックのスラム街…というイメージだ。
だが、日本国内でホームレスが日本国中にうろつき、スラム街が無数に青森県や北海道や、愛媛県や鹿児島にひろがっているのか?という当たり前の疑問だ。
日本は「誰もが等しく貧乏になる国」なのである。それでいいのか?ということ。
資産課税は一律フラットにする。消費税は10%増税し、24~28%にする。歳出削減も厳格にする。ただし、最終的な消費に対して課税する消費税ではなく、経済活動に伴って発生する付加価値(富の創出)に対し、すべての流通段階で一律に広く課税する付加価値税(VAT/Value Tax)を導入するべきだ。その税額を10%とすれば、日本の付加価値の総額≒GDPが約500兆円だから、税収は50兆円になる。
消費税よりずっとよい税収元だ。
あと、日本のマスコミが流す「ちょい高」ブームは、単なるプロパガンダ(大衆操作)でしかない。逆に高いステーキを食べたら他の費用を削ろうとするだけ。日本には本当の金持ちはごく少数だ。1%もないのではないか?
 日本人の最大の問題は実は「景気・経済政策」でも「外交交渉」でもなく、少子高齢化による「人口減少」問題である。
何が問題か?といえば介護する人間や老人を負担する人口が減れば、介護だけでなく警察や役所や病院などの役所行政機関、ビジネスの労働者、教育産業、サービス産業など大打撃を受けるからである。このままいけば、今後30年、40年経ても日本の労働人口(15~64歳)は増えず、高齢化だけが進むことが確実に予想できる。
ここまでの人口減少を経験した国は未だかつてないのもかかわらず、日本政府はそれを克服するための抜本的な対策を何も打ってこなかった。
人口減少が予想されれば、移民導入とか、フランスやスウェーデンのように子供をたくさん産むことができるように手厚い育児給付金を出したり税金を優遇したりしている。
米沢市でもそうしたい。
また戸籍制度もよくない。
例えば女性が妊娠したとする。そこで日本では事実婚や同性婚が認められていない為に、ケースとしては三つある。一は「できちゃった結婚」、二は「堕胎」、三は「シングルマザー」。だが、圧倒的に堕胎が多い。これも少子化の一例だ。フランスや北欧では40年以上前に戸籍制度をなくしている。戸籍制度があるのは日本と中国と韓国ぐらいだ。
とにかく団塊ジュニアの次の世代がいない。団塊の世代が年金生活者に突入したことで一層の社会保障費が赤字垂れ流しになるだろう。なら、北欧やフランスのような国に日本を変革するしかない。だが、今のような官僚天国で東京の“霞が関幕府(高級官僚)”がこの世の春を謳歌している現状では、よほどの強力なリーダーでも登場しない限り、維新も変革もイノベーションすら無理だ。
安倍政権は官僚のパペット政権で「官僚主導」「官僚に問題を丸投げ」するだけ。
結果として各官僚機関の省益だけが優先される。
官僚の官僚による官僚の為の国家・日本、である。

   高齢者・女性活用でもカバーできない

もともと60歳定年のままであれば、年間80万人が減少する予定だったが、今は40万人程度の減少にとどまっている。つまり、単純計算すれば、年間約40万人は60歳を過ぎても働き続けているということになる。
しかし、高齢者や女性を活用していっても、2030年には約300万人不足、2060年には約1800万人も不足する計算になる。この数字をどうするか?移民?産めよ育てよ運動?
また経済縮小を食い止めるには、人口減少の著しい地方を活性化しなければならないが、無理だ。ひとが足りない。このままではハイパーインフレとデフォルト(日本国債の債務不履行)になってしまう。日本国が没落しスペインやポルトガルやギリシャのようになる。

   フランスは子供が多いほど家計にプラス

日本では、保育実費と大学の学費だけで1人500万円ほどの費用がかかるのに対して、育児給付はそれをカバーできず、合計すると出費のほうが多くなる。第三子となると、育児給付が割り増しになるため若干改善されるが、それでも72万円のマイナスである。
かたやフランスは、大学の学費がほぼ免除されるため、出費が大幅に抑えられる。しかも育児給付は第二子、第三子と子供の数が増えれば増えるほど相当の金額の給付が増加される上、いわゆる「N分のN乗」方式(*後述)によって子供の数が増えるにしたがって所得税が減税されていくため、仮に子供を3人育てると、合わせて1745万円も家計にプラスになる計算だ。
<*「N分のN乗」方式/子供の数が増えれば増えるほど軽減される所得税の課税方式。世帯の所得をいったん家族の人数(N)で割り、適用になる税率を算出し、その後、改めて家族人数を掛けて納税率を決める。>
また、マイナンバー制度はバルト三国のエストニアのeコマースビジネスモデルとは似て非なるものであり、「税金の無駄」でしかない。エストニアの例は後述するが、マイナンバー制度はまたしても「お役所仕事」的で、意味がない。国民番号制度ではなく、大前研一先生が25年以上前から御提唱なされた「国民番号制度」とは似て非なるものだ。
おそらくうまくいかないだろう、と先生は仰る。
とにかく「子育てするなら日本で米沢市で」なら「N分のN乗」方式は導入するしかないですよね。農業は後述するオランダ・モデルで!
 日本の移民は1%しかいない。だが、日本で移民政策をしたら失敗するのは目に見えていますね。人種差別国家ですから(笑)アメリカやシンガポールのようにはいきません。
フランスやドイツでも大失敗しています。
「優秀な移民だけを受け入れる」等だったらいいのですが、そんな都合のいい風にいけばどの国も苦労しませんよね(笑)まあ、看護師や介護士やヘルパーやメイドはフィリピンやタイやインドネシアから“輸入”することです。英語教員も日本語の教員資格がなくてもOKにする。規制緩和ですね。
あとは、若い人に夢と希望を与えることだ。彼らが日本の未来は明るい、自分たちの将来は今よりずっとよくなる、と信じられる明確な国家ビジョンを示し、我々が“坂の上の雲”を見てがむしゃらに働いていた時代のような興奮感を醸成する必要があると思う。
ケネディやレーガンがやったような。

    スキルをがむしゃらに身につけ向上しなければ路頭に迷う社会へ

 今の日本には「プア充」が広がっている。だが、「清貧」とは全く違う。
「皆が貧乏でもいい」「皆と同じでいい」などという社会は亡国の途だ。ハッキリ「やせ我慢」といってもいい。貧乏でいい訳がない。努力して億万長者になり、社会成功でなければ誰も努力しない。お金ですべてが買えるわけではないがお金こそ「悩みをクリヤーにする最強の武器」だ。「猛烈に働き、億万長者に!なんてダサい」「苦労は買ってでもせよ!なんてださださ」そんな社会はクズである。
また、この国の元凶は「でしゃばり老人」による「老害」であり、35歳以下の低欲望社会人である。どちらもやめて欲しい。
老害と言えば政治界、経済界と老人ばかり、だ。
優秀ならいいが、ほとんどはボケがはじまったのでは?(笑)と思えるような老人が多い。
億万長者や社会成功者を目指さない社会体制も変だ。勝つのは誰でも気持ちがいい筈。


    アベノミクスの大失敗「アベノミクスの正体・瓦解策」

 よく安倍晋三首相がアベノミクス(安倍首相の経済政策)というが、すでに策は出尽くした感がある。まず第一の矢「異次元の金融緩和」は日銀が札束を刷りまくってお金じゃぶじゃぶにすれば確かに円安になるだろうし、インフレになるだろう。だが、いつまで給油しながら日本国の車のアクセルを踏み続けるか?だ。ここからは国債暴落(=日銀の破綻)が先か、経済が劇的に回復するのが先か。出口戦略など黒田東彦総裁にある訳はない。この状況で出口戦略が思いつくならまさに天才だ。
第二の矢、20兆円の「経済対策」の効果は公共工事以外に観るべきものはない。
第三の矢、「成長戦略」なども効果はない。私は安倍政権の賞味期限はもうとっくの昔にきれていると考えている。やらなければならないのは「国の仕組みを変える“道州制”」で、地方に権限も財源も移行するまさに『救国の新世紀維新』である。
自主財源も権限もない今の地方自治体のままで、夢みたいなことを幾ら語ったって、実現できない。夢物語の地方版マニュフェストも「慰め」以上の効果はない。
いくら維新だの改革だのいっても、政策や法案を官僚任せならまるでブラックジョークでしかない。トップが将軍から天皇に替わっただけの明治維新より酷い。

   優れたトップはひとつのことだけを言う

駄目な会社の経営者は、改善策を10も20も並べ立て、それらを全部やらせようと檄を飛ばす。しかし、社員は次々に出される指示に追いつけなくなり、結局は何も実現しない。
悪いコンサルタントも同じだ。いいコンサルタントは改善点を一つに絞り込み、その改善点だけを提案する。改善点が20あったら最も効果のある重要項目を戦略を提示するのである。だが、駄目なコンサルタントは何十項目も改善点を列挙して、提示するだけ。
この駄目なコンサルタントをどこかでみたことがないだろうか? そう、まさに今の安倍政権である。
安倍政権は異次元の金融緩和、機動的な財政出動、民間投資を喚起する成長戦略という「三本の矢」によるアベノミクスを掲げ、実に様々な政策を打ち出した。しかし、とどのつまり終着点はさっぱりわからず、何の効果も成果もあげていない。
では、安倍政権の「三つの本質」を挙げてみよう。
ひとつは「証拠もないのに言い切る」という安倍首相の傾向だ。
「福島第一原発の汚染水の制御」や「経済政策」など、いい加減に理解もせずに「だいじょうぶです」「心配はいりません」「制御可能です」などという。
だが、難しいことは官僚任せで、官僚の作文を棒読みしているだけなので、大丈夫(笑)な訳はない(笑)安倍政権は民主党政権より安定して見えるのは官僚にすべて丸投げして、官僚の好き勝手にさせて「政権安定」を演じているだけでしかない。
多くの人は2020年の東京オリンピックで景気が回復する、という。今の日本のような成熟国では、競技や選手村、交通網などを整備する公共工事に税金を注ぎ込んだ分だけの経済効果しかない。要するに安倍首相は、明るい話をして、そのアナウンス効果で景気浮揚を図っているにすぎないのだ。
ふたつは、数えきれないほどの政策を戦略もなく打ちだすこと。駄目コンと同じと前述したが、まさに駄目な見本だ。自民党は節操もないノイジーマイノリティ(騒がしい少数派)の利権政策デパートだから、野党はそのサービス力に勝てない。
だが、民主党政権ももう少し官僚を利用するやり方や戦略さえあれば、あれだけ大失敗もしなかったろう。それにしても安倍政権は無意味な意味不明な政策を乱発している。
みっつが「官僚主義」「官僚主導」「官僚へのすべての丸投げ」と官僚独裁国家である。安倍政権は官僚にコントロールされることで安定化をとりあえず図っている。
思えば第一次安倍政権は完全なる“反官僚”“対官僚”だったから、すぐに大臣が不祥事や病気で辞めたり、政権の崩壊も早かった。まさに安倍晋三氏自身のように「頭も体も心も弱い(CIAの安倍晋三氏の分析)」だった(笑)。その当時と比べて安倍氏が人物になった、とか、キャリアを重ねて政治家としてよくなった、とかではけしてない。
官僚にすべて全部任せて丸投げして「安倍政権は安定している」と芝居を打っているにすぎないのだ。
会社で最も嫌われる上司はどんなタイプか?英語で「マイクロ・マネージャー」すなわち、部下の行動を箸の上げ下ろしまで細かくチェックして、いちいち文句をつける上司である。
部下には意思決定をいっさい任せず、報告書や領収書の瑕疵といった些細な点まで重箱の隅をつつくように管理・干渉することを、否定的な意味をこめて英語で「マイクロ・マネージメント」というのである。
そんな「マイクロ・マネージメント」の典型が安倍政権だ。
日本は完全なる「計画経済国家」と成り果てた。
例えば子供が五歳であるとすると、それからストレートで大学を卒業するまでに17年間、30歳になるまでに25年間もある。その間ずっと領収書をもらって毎年、金融機関に提出しなければならないわけだ。
さらにいえば、子供がスポーツ選手を目指している場合、野球観戦は教育費ではないか?ゲームのプログラマ志望の子供のゲーム代は教育費ではないのか?ディズニーリゾートは教育費じゃないのか?だいたいにして特例的に贈与税や相続税を減税する、というならお金の使い道に条件をつけるのは大きな間違いだ。
そのお金でゲームソフトを買おうが、映画を見ようが、個人の自由である。
あえてお教えすれば「特区」というのも、官僚のおめこぼしというか(笑)実際には官僚がやりたくないが…という事業をあえて認めるのが「特区」制度というものなのだ。
「残業代ゼロ法案」など余計なお世話であるし、「地方創生」などというが地方には自主財源も権限もない。お金をばらまく以外どうしようというのか?
本社を地方に…等馬鹿馬鹿しい。都会で墨田区や湾岸部に本社や営業機能があっても、不便を感じるのが日本の実情だ。東京圏でさえ不便なのに、田舎に本社など移す会社などあるわけない。つまり、現実を知らないとしか思えない。
石破さんはその辺をわかったうえで、地方創生大臣を引き受けたというが、損な役だ。

       女性の活躍できる女性の輝ける社会に!


「配偶者控除」をありがたがるな、と言いたい。夫の所得から課税する分を38万円減らして所得税が安くなる。いわゆる「103万円の壁」だ。このままでいい訳はないが、「廃止する」といえば政治家なら選挙で落選するだろう。国民は「〇〇控除」「〇〇手当」をありがたがり、国から「恵んでもらう」ことが当たり前のようになっているが、そもそもそんなメンタリティ(精神性)のままでは何の改革も維新も創造できない。
女性の社会進出も、要は「家庭内総合課税」か「夫婦別々課税」か?である。
もし、女性を男性と完全に同格にして本当に活用するとともに公平な税負担を実現したいなら方法はそのふたつでしかない。
一つは「家庭内総合課税」である。つまり、一世帯を形成している人たちの中で働いている人の収入は全部合計して“連結決算”にするのだ。そして、その総収入については、現在の日本で最も多い単身世帯の人たちよりも税率を5%なり10%なり低くするという方法だ。ドイツなどは、この税制を導入している。
もう一つは「夫婦別々課税」だ。いま日本では女性のライフコースが非常に多様化している。昔の女性のライフコースは、学校を卒業→就職→結婚→出産→専業主婦か共稼ぎ、もしくは子育てが終わってから再就職、という具合にほとんど単一的だった。しかし、最近の女性のライフコースを調べると、未婚化・晩婚化・離婚・死別などの増加によってワーキングシングル、プラチナ(リタイア)シングル、DINKS(Double Income No Kids)、DEWKS(Double Employed With Kids)、リターナー(子育て後の復職層)、シニア共稼ぎ夫婦、専業主婦、プラチナ夫婦など10以上のパターンに分かれているのだ。
現在以上に女性の社会進出を加速させていくのなら、多様なライフコースに対応した働き方ができるような仕組みを整えると同時に、夫婦別々課税、すなわち夫も妻もそれぞれ単身で独立して稼いだとみなし、夫婦世帯でも単身世帯と同水準の高い税率や保険料負担などを課すのもやむをえないと思う。そうすることで働いている女性たちが税金や年金・保険を自分で払うので、離婚などの自由度も大幅に拡大する。
アメリカでは、全世帯の49%を占める共稼ぎ世帯の場合、女性の方が給与が高い世帯が25%もあるという。日本もそうなるだろう。
そして、江戸時代よりも重い国民税負担率に怒れ、ということ。官僚や役人が北欧や欧米に比べて日本人の税負担率は軽い、というが嘘であり、ペテンである。日本人のひとりあたりの国民税負担率は52%である。だが、北欧や欧米ではそれと同じ負担の国もあるが、北欧などは大学までの学費や医療費も介護料金も無料である。
あと、確かにモラトリアム法案は廃止されたが、銀行は政府から「会社を潰すな」と言われている為に、本来潰れるべき会社が「ゾンビの如く」うようよ彷徨っている。
つまり、それだけ納税者は負担が重くなることだということだが、国民はわかってない。
「戦後って何?」「更地って何?」「詔って何?」「携帯の基地局って何?」という劣化した国民が理解出来ないのも理解できるが、何とも情けない。
まさかと思うが「日本国の初代内閣総理大臣」が誰か?は流石にわかるだろうなあ(笑)。
それといっておくが、日本国民が個人金融資産を1600兆円もっていたり、日本の企業の内部留保が270兆円~320兆円あるのはみなさんご存じの通りで、ある。
しかし、じゃあ「大量の内部留保」を抱えた企業は「守銭奴」なのか?(笑)
そんな訳はない(安倍政権での麻生財務大臣が本当に言った(笑))。単純に説明すれば、日本の大企業が何故それだけの巨額な内部留保を抱えているか?は、まずは海外でのM&A(企業買収と合併)の費用と、「株主への3%時価配当」の費用なんです。
現在の日本には投資先があまりないんですよね。海外投資は2つの利点があって、1つは人件費です。中国人の人件費は日本人の三十分の一、バングラディシュは日に400円、エチオピアは月1200円…。もう1つは、市場開拓(市場拠点の開発)です。
日本に海外の工場が戻ってくる(いわゆる「Jカーブ」)等絶対にありえません。
仮に海外の一万人規模の工場を日本国内に戻して、どうやって一万人のブルーカラーの日本人従業員を集めるのですか?皆、工場労働が嫌だ、というのに。世界一の少子高齢化社会日本でどうやって?人件費の問題は?だから夢物語だというんです。
それと法人税や相続税や贈与税や所得税はほとんどの国でゼロ%です。日本みたいな成熟国が20%の法人税に!とやっても20%足らずではインセンティブ(動機づけ)にならない。
普通ゼロなんです。逆に言えば法人税をあげた方が「税でとられるくらいなら給与を増やそう」、とか、「新規店舗を出そう」、とか、そういうインセンティブ(笑)がありますね。
まあ、会社やひともそれぞれありますがね(笑)人生いろいろ(笑)
ハイパーインフレを防ぐ対策は(1)戦争を起こす(2)ギリシャのように歳出を40%削減する(3)消費税を20%にする、のいずれかだけです。
イギリスやアメリカのような(サッチャーやレーガンのような)優れた改革者リーダーが出現するか、北欧みたいな国民運動で高福祉高負担国家へ進化するか…どちらも無理っぽいですねえ。橋下徹さんも細野豪志さんもそれだけの器があるのか?ないと思う。
一番日本の末路に近いのはスペインやポルトガルのように徐々に没落して悲惨な国になるパターンですよね(笑)それは嫌だ!維新や改革しよう!と思う日本人が多ければいいのですが(笑)劣化が激しい国ですからねえ(笑)
「日本の成長戦略」に関しては別の項で大前先生や私が書いていますが、都会の容積率倍増などですね。あと、田舎に住みたいというひとたちは確実にいます。が、ネックになるのが職業や鉄道やバスなどの交通インフラなどですね。
だが、どうせ田舎で暮らしているひとは老人か負け組です。
皆が東京や大阪に行くのは交通網が便利で職業もいろいろあるからです。インターネットがあれば田舎でも仕事ができるじゃないか、等いかにも書生論ですよね(笑)
基地はいらない、戦争をしなければいい、も当たり前ながら書生論(笑)勝手に基地はいらないし戦争もしないと決めてもミサイルを撃ち込まれればおわりですから(笑)
話がそれた。
どうせ田舎に住むような物好きはいないのだから「都心回帰した人が週末に田舎で遊べる」システムをつくるほうが正しい戦略だと思う。新幹線をつかえば1時間2時間で、静岡や伊豆や北陸や米沢や福島、栃木や茨城、山梨、長野、仙台、と近い。鉄道会社と共同で定期の(ウィークエンド)キップなどを誘致するとか。あるいはアジアの富裕層を狙って日本の田舎を「終の棲家」にしてもらう、とか。
田舎のリゾート化はハワイやオーストラリア等で顕著ですし学ぶなら今ですね。
また、TPPにしろ農業改革にしろ、農協(JA)や減反を廃止しても補助金漬けなら同じことです。政府自民党は農業など守っていませんよ。「農業利権」を守っているだけです(笑)
だから農水省は農業漁民省な訳です。
だからこそ農水省を廃止して「食糧省」を創設するべきなんです。
日本人がベトナムやオーストラリアやタイで大規模農業や大規模酪農をやって、日本へ逆に輸出する。十分可能だし、日本政府が補助金出せば十分計画として行けます。
“食糧安保”だのいまだに言うひとがいますが馬鹿ですね。石油が180日分備蓄している、コメは一年分備蓄している、では日本国が完全に兵糧攻めされたら一日でおわりなんじゃないでしょうか?何も食料も原材料もこなければ「付加価値加工産業国・日本」は成り立たないですから。だいたいにしてどの何という国が日本国を兵糧攻めにするのですか?中国ですか?アメリカですか?韓国ですか?北朝鮮ですか?だから馬鹿だ、というんです。
「農業改革」で言うならオランダ・モデルでしかない。いわゆる攻めの農業です。
オランダ(ネーデルランド)はEUに加盟して、農業の市場が一気に競争原理にさらされたんです。
いまの日本の農業はどうなっているか?前にコメが補助金漬けの上に778%もの関税で守られていることなどを説明したが、このままでは競争力のない日本の農業が世界の中で生き残っていけないことは火を見るより明らかだ。
私が考える農業改革のモデルはオランダだ。国土面積が日本の九州とほぼ同じで人口1686万人の小国だが、実はアメリカに次ぐ世界第二位の約10兆円もの農業輸出国だ(日本の農業輸出額は4000億円でしかない)。なぜブラジルやアルゼンチン、中国、カナダ、オーストラリアなどの国土大国よりも輸出で稼げるのか?
きっかけは国境なきEC(ヨーロッパ共同体・現在のEU・ヨーロッパ連合の前身)の誕生だ。1986年にスペインとポルトガルがECに加盟したことで両国から無関税で安価な農産物が入ってくるようになり、競争力の低いオランダの農民は窮地に立たされた。危機感を抱いたオランダは、まさに“選択と集中”で施設園芸にフォーカスするとともに、農業を農民中心に考えずに「産業」と捉えて地域別に農地と生産品目を集約するなどの改革を断行し、付加価値(=競争力)の高い「クオリティ農業」にシフトして躍進したのである。
いかに「コメ偏重」から脱するか。日本は「コメをつくっていけば食べていける」ようにしたため国際競争力を失ってしまったのである。いわば粗鋼生産だけ続けて自動車を作っていないようなものである。今後はもっと付加価値の高い果実、酪農、葉物野菜、花卉(かき)類などにシフトしなければならない。
そもそも食糧自給率を中心に考えたら、このグローバル社会では競争力はつかない。食糧は世界の最適地で作ればいいのである。輸入できるものであれば、食料は海外の様々な国から輸入できる。実際、オランダは世界第二位の農業輸出国でありながら、穀物の自給率は14%で日本の半分だ。つまり、オランダは足りない食料は世界で最も競争力のある国から安価なものを、安全・安心さえ担保されていれば、平気で輸入しているわけだ。
馬鹿げた「食料自給率維持」と「食糧安保」で、日本の農家はどうなったか?
農家は兼業農家が約100万戸で7割以上に達し、水田作の経営者が132万人で6割余りを占めている。要するに、コメをつくっている兼業農家が大多数なのである。
(1)「自由化」だ。農業保護をやめるとともに、農業・自然・食品安全省(日本で言えば農水省)を解体して経済省(日本で言えば経済産業省)に統合し、農業部、酪農部、水産部、という三つの部局にした。農業も産業だ、ということだ。
(2)「選択と集中」だ。高付加価値農産物にフォーカスして、農業を集約したのである。米沢市でいうなら米沢牛やさくらんぼやラ・フランスやブドウ、リンゴ等に特化する訳だ。
(3)「イノベーション」だ。ITを活用したスマートアグリを展開するとともに、農業大学などを中心とした食料の産業クラスター(集団)、いわば農業のシリコンバレー化をした。食品関連会社約1400社、化学関連会社約70社、研究者約1万人が集まり、日本からもキッコーマンや日本水産、サントリーなどが進出している。
その結果、オランダ農業は特定産品で際立った強みを持つようになった。主な農作物の輸出上位国を見ると、ボリューム型の小麦やトウモロコシ、大豆などはアメリカ、カナダ、ブラジル、アルゼンチンなどの広大な農地を生かして規模を追求する国が上位を占めているのに対し、付加価値を追求するクオリティ農業ではオランダがジャガイモと花卉(かき)類で世界第一位、トマトでメキシコについで世界第二位になっているのだ。
さらにオランダは“ずるい”ことに、国内で生産した農作物を輸出するだけでなく、海外から輸入してきた農作物を加工して輸出する「加工輸出」や、輸入したものをそのまま輸出する「中継貿易」、あるいはオランダに物理的には持ち込まないで産地から顧客に直接発送するエクスチェンジ(電子市場)でも稼いでいる。ココアを50か国から輸入し、チョコレートに加工して輸出、安い国の牛乳を輸入して付加価値が約14倍ものチーズに加工して輸出している。これぞ「農業維新」で、ある。


    成長戦略としての「教育改革」

日本の教育は未だに大量生産・大量消費型教育である。「いい人材は?」ときくと、決まって「東大や京都大学やMITやハーバード大学を出た“学歴エリート”」と答える。
大学を出ていれば優れている訳ではない筈だが、大企業の採用基準も“大卒”だからだ。
こんな国で「突出した人間」「天才」を生み出すのは難しい。僕などは艱難辛苦で25年間も努力したからこその「世界的な視野・世界観」であって、ド素人の馬鹿に文句いわれる筋合い等ないし、馬鹿扱いなどされない。「大志」をなくした内向きの若者や、悪口だけの輩などとは違う。世界で戦える傑出した人材育成が重要だ。
日本は大学が多すぎる。減らして、英語授業、ディベート授業、創造力開発、世界に遊学、といこう!だが、大学のランクは学歴や偏差値ではない。「卒業生の給与」でランク付けされるべきだ。儲からなければ意味がない。世界は真面目なだけのひとや協調性だけのひとなど求めていない。アップル社のステーヴ・ジョヴズやアマゾン創業者ジェフ・べゾスのような「シェーカーズ・アンド・シェーパーズ」(世の中を揺さぶって変革する人)を求めているのだ。
ドイツの「デュアルシステム」を参考としたい。
つまり、人材こそ国の宝、という観念から高校生か大学生で「2年間以上職業訓練」をするのだ。その結果、ドイツではいわゆる「雇用のミスマッチ」は解消された。
高学歴でも儲からない人間は下賤だ。「私は大卒」と誇ってみても現状がうつ病の失業者なら「過去の栄光にしがみついているだけ」だ(本当にこういう人物が存在した。しかも、その眼鏡ブスは高卒者を蔑む。自分が敗北者とも認識できないのだ(笑))。
大卒ならいい訳ではなく、学校は「いかに飯を食うスキルを身につける」か、である。
学歴など馬鹿馬鹿しい。過去の栄光などで飯は食えない。
所詮は学歴タレントがクイズ番組で小銭を稼ぐ程度でしかない。
くだらん。


   今こそシステム全体「国家システム全体」を変革する!

前述したように地方行政機関には自主財源も権限もない。
地方に財源も権限も移してくれなければ何も改革は出来ないのだ。だから、僕は米沢市長になったら(多分、選挙費用が用意できずなれないだろうが(笑))米沢市を「アベノミクス経済農業改革特区」と認定してもらって自主財源やオランダ・モデル「農業改革」、「教育改革」、「経済対策」を断行する。上杉鷹山公の改革を完結させるのだ。米沢市ならできる!
また、市議会議員は「無給」とする。海外では地方議員は「無給」が当たり前だ。
普通にボランティアなのだ。リストラはしないが全役人の給与の4割カット、ボーナスなしで財源をつくる。自主財源『米沢市愛郷税』で、(ウィークエンド定期と)観光財産の整備だ。「子育てするなら米沢市で!」とフランス、スウェーデン方式を実行する!
無駄な第二の市立図書館はつくらないし、出来ても図書館にはしない。観光拠点のひとつの施設にする。アニメの殿堂もつくるし、等身大ガンダム立像もつくる。過去の旧・夕張とは違う戦略で。大前研一先生を米沢市に何度か招聘して、「米沢経済対策」を講う。
マイナンバー制度ではなく、エストニアの「eガバナンス」の凄さは米沢市だけでなく、日本政府日本国内全体でやるべき!
「年金保険DB(データベース)」「住民登録DB」「公務員ポータル」「医療保険DB」「納税DB」をネットでつなぎ、一般市民は「市民ポータル」「国民カード」で閲覧でき、行政は省庁間でバラバラだったDBを一括で管理、国民もパスワードやアカウントやIDアドレスで利用でき「電子納税申告」「電子警察」「電子健康管理」「電子教育」「電子会社登録」「電子駐車場管理」、国民にはICチップ内蔵のカードを発行配布する。職業や氏名や生年月日や病歴や犯罪歴や金融資産や住所や家族配偶者履歴など便利にするエストニア・モデルで維新をするべき!エストニアで出来て世界一の技術大国・日本国で出来ない訳はない。
また、巨大な隣国は「つかってナンボ」である。18歳成人制度で日本は変わる!
日本は10%クオリティ国家になる!とにかく心理を和ませる必要がある。
日本人の個人金融資産は1600兆円、企業の内部留保は270~320兆円である。
1%でも動けば景気は格段に活性化する。
「低欲望社会」という心理社会が、この国の病巣だ。
国はビジョンを示し、未来が明るいことを希望があることをわからせるべき。だが、官僚やサラリーマン政治家、二世三世政治家などに期待しても無駄だ。
やるなら国民運動でしかない。
まず動け!僕も出来る限り動く!皆さんも動いてくれ!改革者政治家への応援や投票でもいい。女性政治家への応援でもいい。まず、動いてくれ!
誰がなっても政治家など同じ、ではない。まずは行動だ!まずは隗より始めよ、である。
行動せねば何も動かない。上杉鷹山公も「為せば成る」というではないか。
                         おわり
緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

農協(JA)も減反も廃止でも補助金漬けなら同じ事『オランダ・モデル』農業改革策を早めに打ちだせ!

2015年04月29日 16時25分44秒 | 日記










農協も減反も廃止されても補助金漬けなら同じ事。


農業改革はオランダ・モデルでしかない。


皆が一緒になって貧乏になる国で本当にいいのか?


安倍政権は農業等守っていない。


「農業利権」を守っているだけ(笑)

コメ農業等とっくに崩壊してる。


兎に角地方に財源と権限をくれ!道州制がダメならばだ!臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

軍師黒田官兵衛と石田三成と 天下無双の天才軍師・黒田如水の生涯いよいよ!ブログ連載小説3

2015年04月29日 06時12分15秒 | 日記








小寺(のちの黒田)官兵衛が毛利(注釈:毛利家を代表する吉川家と小早川家を総称して「毛利両川」または「毛利二川」と呼ぶ。)と、三木城主・別所長治に同調して織田信長に反旗を翻した高砂城の城主・梶原景行と明石城の城主・明石左近の2人が小寺官兵衛に降った。
小寺官兵衛は梶原景行と明石左近を羽柴秀吉の元へ連れて行くと、羽柴秀吉はこれを大いに喜んだ。
一方、陸路から播磨へと侵攻した毛利軍の吉川元春と小早川隆景は、5万の大軍で西播磨の上月城(兵庫県佐用郡佐用町)を包囲していた。
尼子勝久を擁する軍師・中山鹿之助は、織田信長から上月城を拝領し、念願の尼子家の復興を成しとけた。
が、宿敵・毛利の大軍に包囲され、尼子家の運命は風前の灯火となっていた。
天正6年(1578年)4月、毛利軍の吉川元春と小早川隆景が率いる5万の大軍が、西播磨(兵庫県)にある上月城を包囲した。
西播磨の最西端にある上月城は、中国征伐の最前線でもあり、羽柴秀吉にとっては重要な城だった。
東播磨では、東播磨最大の勢力で三木城の城主・別所長治が突如として毛利側に寝返っており、羽柴秀吉は三木城攻めの最中であったが、中国征伐の要所となる上月城を見捨てるわけにはいかなかった。
羽柴秀吉は直ぐさま織田信長に援軍を要請すると、摂津の荒木村重と合流し、小寺官兵衛(黒田官兵衛)と共に1万の兵を率いて上月城へ援軍に向かい、高倉山に布陣した。
対する毛利軍は5万という大軍だったので、軍を2手に分け、1方で上月城を包囲し、もう1方で羽柴秀吉の軍勢に対応した。
羽柴秀吉の軍勢は毛利軍と小競り合いを続けるが、勝敗は付かず、膠着状態に陥った。
天正6年(1578年)6月、羽柴秀吉は毛利軍との膠着状態を打破するため、密かに京都へ上り、織田信長に上月城への親征を仰いだ。
しかし、織田信長は羽柴秀吉に、
「上月城の援軍を引き払い、神吉城と志方城を攻め落とし、三木城を包囲せよ」と命じた。
羽柴秀吉は織田信長の命令に逆らうことが出来ず、天正6年(1578年)6月、上月城に差し向けた援軍を引き上げ、書写山(しょしゃざん=兵庫県姫路市)へと戻り、三木城攻めを再開する。
このとき、羽柴秀吉は上月城に居る中山鹿之助に使者を送り、脱出するように促した。
が、中山鹿之助は、
「自分1人だけであれば脱出できるが、全員を連れて脱出することは出来ない」
と言い、上月城に残ったという。
一方、織田信長は羽柴秀吉の要請を受けて織田信忠を総大将する援軍を三木城へ差し向けた。
が、羽柴秀吉に手柄をあげさせるのを嫌う武将が多かったため、織田信忠の援軍は積極的には戦わなかった。
しかし、織田信長の命令により、織田信忠の援軍が神吉城と志方城への攻撃を開始する。
籠城していた神吉城の城主は、大軍を防ぎきれなくなり、切腹して開城した。
神吉城が落ちると、志方城の城主・櫛橋左京進(櫛橋伊定)も兵士の助命と引き替えに、切腹して開城した。
櫛橋左京進は、小寺官兵衛(黒田官兵衛)の妻・櫛橋光の父である。
なお、櫛橋左京進は、小寺官兵衛(黒田官兵衛)の嘆願によって命を助けられたとも伝わっている。
その後、櫛橋氏は黒田家の家臣となった。
さて、上月城で籠城する中山鹿之助らは、羽柴秀吉の援軍が撤退後も籠城を続けていた。
天正6年(1578年)7月、上月城は3ヶ月に渡る籠城を耐え抜いた。
が、尼子勝久ら一族の自刃を条件に兵士の助命が認められたため、尼子勝久は降服を決定する。
城主・尼子勝久は軍師・中山鹿之助に、
「一時なりとも大将にしてくれたことを感謝する」
と感謝し、尼子一族とともに自害して、上月城を開城したという。
尼子家の復興に奔走した中山鹿之助は自刃せずに捕虜となる。
が、安芸へ護送される最中に毛利の刺客・河村新左衛門によって殺害された。
中山鹿之助は、尼子勝久に尼子家の復興を託されて捕虜になったとも、吉川元春を暗殺するために捕虜になったとも伝わる。
しかし、毛利の刺客・河村新左衛門に暗殺されたため、尼子家の復興はここで途絶えた。
さて、備前・備中・美作(いずれも岡山県)を支配する宇喜多直家は、病気と称して第2次・上月城の戦いには参加しておらず、次男・宇喜多忠家を派遣していた。
上月城を落とした毛利軍は、宇喜多直家が織田信長に寝返る。
と、播磨へと侵攻した毛利軍は退路を断たれるため、東へと侵攻せず、本国へと引き揚げた。


 話を戻そう。
 戦国時代の二大奇跡がある。ひとは中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦、もうひとつが織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。
 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。
  斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長は弟・信行を謀殺した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。
 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。
 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。
「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。
「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。
「は?」
「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。「尾張のおおうつけ(阿呆)」と呼ばれて、奇行を続け、馬鹿扱いを受けていたバサラ者の織田信長も成長したものだ。
 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。
 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。
 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのよい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。
 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。
 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。
 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。
「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。
 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。
 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。信長の勝つ確率は極めて低い。
  今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。
  特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。
 今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。
 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。しかし、当の松平元康 (のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。
 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。
 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。
 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。なにを夢ごとを。家臣たちは訝しがった。


         元康の忠義


  松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。
 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。
 今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。今川義元は軍議をひらいた。
「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。
 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」
 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。
 柴田勝家は「そうか……とは? …御屋形! 何か策は?」と口をはさんだ。
 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。宮福太夫という猿楽師に、羅生門を舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。
「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」
 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。
 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。
「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。
「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」
「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」
「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。
「なんて御屋形だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」
「まったくあきれる。あれでも大将か?」
 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」
  信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。
「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」
「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」
「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」
 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。
「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の秀吉はいった。のちの豊臣秀吉、秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」
「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」
 日吉は迷ってから「奇襲にでればと」
「奇襲?」信長は茫然とした。
「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」
「さしでがましいわ!」信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。
「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。
 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。
「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。
「なんじゃ、猿」
「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」
「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」
「八百あまり」
「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。
「いま何刻じや?」
「うしみつ(午前2時)でごさりまする」猿はいった。
「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」 
 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。そして有名な「敦盛」を舞い始める。
 人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべか」 舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。
「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。わずかに長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎の五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。
 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。
「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」
 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。
 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。
 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。
 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」
 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。
「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。
 信長は叫んだ。
「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」
 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。
「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」
 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせ、にやりとした。
「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形である」と感心した。
 織田軍は密かに進軍を開始した。






         桶狭間の合戦

                
  太子ケ根を登り、丘の上で信長軍は待機した。
 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。嵐の中で部下は「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。
 しかし、信長はその策をとらなかった。
「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」
 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」
 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。山の上から喚声をあげて下ってくる軍に今川本陣は驚いた。
「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。
「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」
 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!
 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。
 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!
「御屋形様をお守りいたせ!」
 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。
「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、新助の人差し指に噛みつき、それを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。
 義元はこの時四十二歳である。                      
「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。
 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。
「勝った! われらの勝利じゃ!」
 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。
  かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。
「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」
「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。
「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。
 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。
 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。
  今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。
 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。
 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。
 これに対して信長は「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。
 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。
 ところで、信長は残酷で秀吉はハト派、といういわれかたがある。秀吉は「やたらと血を流すのは嫌いだ」と語ったり、手紙にも書いていたという。しかし、だからといって秀吉が平和主義者だった訳ではない。ただ、感覚的に血をみるのが嫌いだっただけだ。首が飛んだり、血がだらだら流れたり、返り血をあびるのを好まなかっただけだ。秀吉が戦場で負傷したとか、誰かを自ら殺害したとか、秀吉にはそれがない。武勇がない。しかし、その分、水攻、兵糧攻めと頭をつかったやり方をする。まっこうから武力で制圧しようとした信長とは違い、秀吉は頭で勝った。そうした理知的戦略のおかげで短期間で天下をとれた訳だ。

   清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方にけっそうをかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。「勝った! 勝った!」小竹やなかや、さと、とも、も興奮してパレードを見つめた。
「御屋形様! おにぎりを!」
 まだうら若き娘であったおねが、馬上の信長に、おにぎりの乗った盆を笑顔でさしだした。すると秀吉がそのおにぎりをさっと取って食べた。おねはきゃしゃな手で盆をひっこめ、いらだたしげに眉をひそめた。「何をするのです、サル! それは御屋形様へのおにぎりですよ!」おねは声をあらげた。
「ごもっとも!」日吉は猿顔に満天の笑みを浮かべ、おにぎりをむしゃむしゃ食べた。一同から笑いがおこる。珍しく信長までわらった。
  ある夜、秀吉はおねの屋敷にいき、おねの父に「娘さんをわしに下され」といった。おねの父は困った。すると、おねが血相を変えてやってきて、「サル殿! あのおにぎりは御屋形様にあげようとしたものです。それを……横取りして…」と声を荒げた。
「ごもっとも!」
「何がごもっともなのです?! 皆はわたしがサル殿におにぎりを渡したように思って笑いました。わたしは恥ずかしい思いをしました」
「……おね殿、わしと夫婦になってくだされ!」秀吉はにこりと笑った。
「黙れサル!」おねはいった。そして続けた。「なぜわらわがサル殿と夫婦にならなければならぬのです?」
「運命にござる! おね殿!」
 おねは仰天した「運命?」
「さよう、運命にござる!」秀吉は笑った。
  かくして、秀吉はおねと結婚した。結婚式は質素なもので浪人中の前田利家とまつと一緒であった。秀吉はおねに目をやり、今日初めてまともに彼女を見た。わしの女子。感謝してるぞ。夜はうんといい思いをさせてやろう。かわいい女子だ。秀吉の目がおねの小柄な身体をうっとりとながめまわした。ほれぼれするような女子だ。さらさらの黒髪、きらめく瞳、そして男の欲望をそそらずにはおけない愛らしい胸や尻、こんな女子と夫婦になれるとはなんたる幸運だ! 秀吉の猿顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいと同時に大人っぽくもある。かれはおねの肩や腰を優しく抱いた。秀吉の声は低く、厄介なことなど何一つないようだった。
  信長が清洲城で酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」
 家臣たちは意味がわからず顔を見合わせたという。
 永禄三(1560)年、のちの石田三成は生まれた。貧しい農家の生まれである。    
 幼名・左吉という。
 家が貧しく、近江の観音寺に預けられることが決まっていた。
 そして、そこで運命的な出会いをする。また黒田(まだ小寺姓)官兵衛も播磨で「臥竜(野に隠れ世に知られぬ大人物)」と呼ばれ、軍師として織田信長、そして秀吉と運命の出会いをすることになる。
 そう、あの秀吉とである……

      

沖縄県米軍基地(宜野湾市普天間)辺野古移転工事に翁長知事「工事停止令」密約知らぬ無知

2015年04月28日 12時30分46秒 | 日記









日本の主権が回復されて六十三年目の記念日。


沖縄の基地問題も深刻で沖縄人の気持ちも理解出来る。


が、

「基地はいらない」「戦争しなけりゃいい」等書生論だ。


戦争しない基地もたない、等と勝手に決めても


ミサイル撃ちこまれれば終りです。


沖縄人や翁長氏の戦略はゴネて利権利益を引き出す事です。臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

軍師黒田官兵衛と石田三成と 天下無双の天才軍師・黒田如水の生涯いよいよ!ブログ連載小説2

2015年04月27日 06時03分46秒 | 日記











戦国時代末期、天正十年(一五八一年)天下の覇者・織田信長「本能寺の変」にて業火の中に自刃。天正十一年(一五八三年)織田信長の後継者と目された柴田勝家が「賤ヶ獄の戦い」において羽柴筑前守秀吉に敗北、北庄にて自ら腹わたをつまみだし凄絶なる自刃(後妻の信長の妹・お市の方も自刃)。秀吉は天下をほぼ手中にする。
 されどいまだに戦国の世は天下平定のための幾千幾万もの英雄豪傑の血を欲していた。そして、北陸加賀の前田家に天下の傾奇者と名をとどろかせた伝説のいくさ人・前田慶次がいた。
 戦国時代こそいくさ人にとって花の時代であった。
 天正十二年(一五八四年)大坂城。羽柴秀吉は天下にその権勢を誇示するがごとく黄金に輝く巨城大坂城を築いた。北陸の雄・前田利家は臣下の礼をとり築城の祝いに訪れていた。
 秀吉は猿みたいな顔で豪華な着物を羽織り、黄金の茶室にて前田利家に茶を差し出した。
「で…又左(またざ・利家)殿。その傾奇者てにゃいかなるもんだぎゃ?!」
「はっ!」利家は困惑した。「ええ………その、なんと申しますか、異風の姿形を好み異様な振る舞いや突飛な行動を愛する者と申しますか」
 前田利家、かつて槍の又左と呼ばれ豪遊の武将であったが今は秀吉の軍門にくだり、加賀百万石の大大名、又左(又左衛門)は幼名である。「例え御前でも自分の遺志を押し通す命知らずの大馬鹿者といいますか」
 秀吉は朝廷より関白の名代と賜り、もはや家康を除けば天下人NO.1であった。
「そうか、そんな骨のある傾奇者とやらにわしも会ってみたいのう」
 秀吉はにやりとした。まさにサル顔である。「そういやあ、お前さんの甥の慶次とやらは天下に名をとどろかせる傾奇者だとか。一度連れて来い」
「は…はあされど…」
 利家は絶句した。
 あの傾奇者・慶次が関白殿下の前で失礼の振る舞いを見せれば前田家の加賀百万石の家禄も危うい。
 そして歴史に詳しいひとならご存知の通り、慶次は秀吉の前で猿踊りをしてみせるのである。
 太っ腹な秀吉は笑って手を叩いて「われの前でおそれもなく「猿踊り」をするとは慶次、あっぱれなやつである!」と評価して「天下の傾奇者」と評して、慶次が、天下で傾いても罪にならぬという関白勅令を出した。
 慶次もすごいが、秀吉もさすがは天下の器である。
前田利家の正室はおまつ(もしくはまつ)である。美貌で知られたが慶長四年九月、利家の死後その子利長に家康暗殺のもくろみがあるとして家康が加賀に大軍を派遣しようとした時、まつは自ら人質第一号として江戸に下ることにより、前田家を救ったほどの肝の座った女丈夫である。
 まつは十二歳で利家の妻になった。清純な少女のとき、慶次はまつが石垣の花束を摘んでいるのに見とれていた。
 ………麗しき女子じゃ。十一歳も離れた叔父に嫁ぐのか。もったいない。
 まつが石垣の高嶺の花を摘もうとして石垣から落下した。
 慶次と助右兵衛門はまつを救った。
 まつは釈迦如来のような神々しい微笑を浮かべ「かたじけぬ。まあ、ひどい顔、はいご褒美」花をまつは差し出した。「これからもわれをまもってたも」
 慶次はそのときまつに惚れたのだ。

  話を変える。
秀吉方の前田利家に敵対する武将・佐々成政の軍は、慶次たちのわずかな手勢である末森城に籠城している軍勢を攻めていた。
 慶次は『大ふへん者』なるマントを着飾り、石垣を登り攻めようとする佐々軍勢にしょうべんを食らわせた。
 普通の武将でも戦場になればいちもつは縮こまり、しょうべんどころか大便さえでないほどになるのが普通である。
 だが、慶次のいちもつはおおきく、しょうべんもじゃあじゃあ出る。
 さすがは「傾奇者」である。
 籠城戦の末に前田利家たちの援軍がきて、佐々成政は白旗をあげて秀吉の軍門に下った。
 面白いのは慶次の行動である。
 恩賞を媚びるでもなく、加賀の城(尾山城・金沢城)で例の巨馬にのり、天守閣の利家に向けてケツをむき出し、オナラをして「屁でも食らいやがれ!」という。
 かつて秀吉が賤ヶ獄で籠城する柴田勝家に尻をむけたが、慶次もそれをやった。
「慶次! おのれ信長さまの甲冑を持ち出したことを詫びぬどころか…尻を向けやがったな!」
 利家は激怒するが、慶次は平気の平左である。
 そのまま加賀金沢城下も出て脱藩、京に行き京で「天下の傾奇者・前田慶次」と畏怖されるまでになるのである。

漫画・劇画『花の慶次』では、慶次が、忍者の里に行って決闘したり、忍者軍団を一刀両断にする展開になるがフィクションである。
 大体にして本当の忍者(いわゆる間者)は上杉(上杉家の間者は「軒猿(のきざる)」という)であれ武田であれ織田、羽柴であれ諜報工作員である。英語で言うならスパイだ。
 映画や劇画で登場するような、空を飛んだり、木々の枝上から枝上をムササビが走るように飛んだりできる訳がない。
 いかに忍者といえど人間であり、そんなことが出来るなら何でもありになってしまう。本来は要人警護と諜報活動と暗殺等が仕事である。
 所詮は「漫画的表現」でしかない。でも、映像化では、CGとか特撮やワイヤーアクションやアニメーションでいいのではないか?
 前田慶次と直江兼続・上杉景勝・伊逹政宗との出会いは史実通りである。
 が、摩利支天のおばばさまが二十歳程の美貌のまま年をとらず戦神として雨を降らす等はよくわからない。いかにも漫画的でもあるし、そういうカリスマ教祖が戦国の世にもいたとしても不思議ではない。
 上杉景勝と直江兼続との「佐渡の役」は歴史上の事実ではあるがここでは触れないでおく。
 また、「佐渡の役」に前田慶次が参戦したかはよくわからない。
 本当に「佐渡の役」で前田慶次が八面六臂な活躍をしたのか?そういう参考文献と運悪く出会えずよくわからない。
 すくなくとも米沢市立図書館の「上杉家の歴史」を調べたが発見できなかった。「佐渡の役」は省く。原稿の枚数に限りがあるのだ。
 それに戦闘やアクションシーンをどう活字で表現すればいいのか?私は脚本家ではない。映画監督でも映像作家でもない。作家・プランナー・ストラテジスト・フリージャーナリストであり、それ以上でもそれ以下でもない。そういうのは映像化で存分にやって欲しい。
 人生のほとんどを大国の人質として過ごした真田幸村と、前田慶次の出会いは歴史上は正しいかはよくわからない。
 また、幸村の元・部下の猿飛佐助(真田十勇士のひとりの架空の人物)の妹で想い人・沙霧(さぎり・架空の逸話上の人物)が盲目となり、一度は自殺しようとして兄にとめられて、
「わしがお主の目や手足になる」と兄・猿飛佐助が坊主になり沙霧が「幸村さまには沙霧は死んだとお伝えください。今の盲目の私をみれば…お優しい方ゆえきっと私めを妻にしようとするでしょう。でも、目の見えない私が嫁では足手纏いになるだけです」
 と涙した。そこで幸村は正体を明かさずに沙霧と対面し、涙の別離になるのは歴史上の真実ではない。テレビの歴史の番組でも放送されていたが、当然ながら猿飛佐助、霧隠才蔵などの真田十勇士(猿飛佐助・霧隠才蔵・三好伊三入道・穴山小助・望月六郎・筧十蔵・根津甚八・海野六郎・由利鎌之助・三好清海入道)等というのは架空の家臣である。江戸時代、明治・大正・昭和初期に子供向けの小説などであまりの真田幸村人気で「架空の十勇士」が生まれた。
 当然、猿飛佐助などという人物は存在しないから、盲目になった猿飛佐助の妹(漫画『花の慶次第七巻』(原作・隆慶一郎氏・作画・原哲夫氏)のエピソードは架空小説・漫画上の架空のお話である。
 話が重複しますが、歴史に詳しい方ならご存知かもしれませんが「真田十勇士」なる猿飛佐助、雲隠才蔵などというのはフィクションの架空の忍者軍団である。
 慶次は秀吉の北条攻めでも活躍しているが、ここでは省く。
 また劇画・漫画『花の慶次』では後半、慶次が琉球(沖縄県)に行って八面六臂な活躍をしたかのようなストーリーとなっている。
 前田慶次が琉球に現れたという参考文献や歴史書を少なくとも私(著者)は知らないからこれも省く。
 どうも慶次ほどの「天下無双の傾奇者」にもなると話に尾ひれ背びれがつく。
 歴史家もいかにも「いい加減」であるものだ。
 しかし、それであっても劇画・漫画『花の慶次』の息もつかせぬようなストーリー展開は「さすが!」である。この漫画が1989年に週一のペースで漫画雑誌に連載されていたという事実も驚愕するしかない。こんな凄い上手な話の基盤もしっかりした面画を一週間たらずの〆切で連載するとは、もはや脱帽するしかない。
 なお、参考までに以下に劇画『花の慶次』第四巻、第五巻、六巻、七巻、八巻の一部を引用したい。この物語(小説)を読んだ後、劇画・漫画『花の慶次』を読むもよいし、漫画『花の慶次』を読んでからこの物語(小説)を読むのもいずれも個人の自由である。
 詳しい痛快な戦闘シーンや喧嘩沙汰はやはり、「映像」や「劇画」の力には勝てない。悔しいが、活字離れが進んでいる原因は、「映像」や「劇画いわゆる漫画」では想像力がいらずそのまま直接にダイレクトに伝わる為に「見ているだけでいいから楽」ということだ。
 だから、楽しみたい世代には「漫画」や「映像」が愛される。活字では「読めない漢字の解読」や「想像力を働かせて読む」という困難がともなう。これが、意外に脳の運動に良いし、IQ(知能指数)を高める手段とおとなとしての成長になる。しかし、水は高い所から低い所に流れるのは道理で、楽に逃げる若者たちを私緑川鷲羽は責めることは出来ない。若き日の私もそうだったから(笑)。
 だが、それでも劇画・漫画『花の慶次』から物語の一部を引用したい。
 季節は風薫る五月である。京の借家の縁側で、慶次は「ひどいもんだ………だから、女はいかん」と横になり、右手で頭をぼりぼりかいてごろごろして考え込んでいた。
 前田利家の正室のまつに、
「お目見えとなったら関白殿を怒らせるのだけはやめて頂きます。精々笑わせて差し上げればいい。さもないと前田家は潰れ、私は路頭に迷うことになります」
 と、天女のような微笑みでいわれたことを頭の中で回想していた。「勝手なもんだ」慶次はごろんと仰向けになった。
「旦那………なにボケッとしてるんですか?逃げましょ!旦那と秀吉のこった、合う筈がない。会いに行くのは死ににいくのと同じだ」
 捨丸は小柄な元・加賀忍者である。荷造りして、逃げよう、という。元・忍びの勘が慶次の死を察したのかも知れない。
「たわけ!」慶次は怒鳴った。「それでは利家殿がそうしむけたと秀吉が邪推するに決まってるだろ!おまつ殿が路頭に迷う!」
 慶次はどうしたものか迷いに迷った。京の徳川屋敷では家康と服部半蔵が囲碁を打っていた。「家康さま、前田慶次の関白殿下へのお目見えでは慶次殿は不利かと」
「そうだのう。傾奇者は自己流の傾奇者としての流儀しか持たない。変に秀吉殿の気に入る挨拶をしただけでは命も危ない」
「万事休す、ですな」
「惜しい。あれほどの天下無双の傾奇者。傾奇者の意地を通せば…死ぬか………惜しいのう。惜しい命じゃ。」
「慶次殿が秀吉にうまく取り入る様なマネをしたら、傾奇者の恥さらしだと京中の嘲笑の的…もはや京にはおられますまい」
 家康は、囲碁の碁石を右手でいっぱい掴んで囲碁版のうえにざああっと落として「打つ手なしか」という。
「御意!」
 前田利家はもう絶望と緊張と慚愧で、どうにかなりそうだった。関白秀吉の前で甥の慶次が失礼な態度をとったら慶次は打ち首、前田家・加賀百万石も没収され路頭にまよう。
 屋敷で盆栽の剪定ではさみを使うが心ここにあらずで、枝をすべて切ってしまう。
「殿!ああっ盆栽の枝が…」「ああっ!しもうた!うう」「殿、御気を確かに!」
「やかましい!糞慶次~~く~慶次のせいで前田家もわしもおわる……クソッタレ!」
 慶次はしばらく悩んでいたが、釣りで釣って桶に入れて置いた桶に、死んだ魚が浮いているのに発想を得た。そうか!
 さらに奇行は続く。明日には関白殿下にお目見えするのに夕方の暮れなずむ陽の外で遊女らと歌い踊りどんちゃん騒ぎをしてしまう。
「旦那!いいんですかい?!明日はお目見えでしょう?こんなところでこんなことしてる場合ですか?」
「捨丸、実はな。いい方法を考えたんだ。これなら、前田家も安泰だし、おまつ殿も路頭に迷うこともなく…いやそれどころか叔父御が天下をとれるかも知れねえぜ」
「どんな方法です?」
「死んだ魚は水をはねない」
「は?!」
「誰もぬれずにすむ」
「だ…旦那そいつはまさか」
「殺るんだよ、秀吉を」慶次の目は真剣である。
 
 慶次はやはり傾奇者らしい服装を注文し、普通の三倍は厚いのではないかとも思われる短刀を、手にした。
 ………まさか?本当に秀吉を?馬鹿な?冗談だろう?捨丸はびくびくものである。
 一方で、京都奉行職の前田玄以は嬉しくて仕方ない。あの自分に恥をかかせた慶次が、関白殿下の前で馬鹿な事をやって処刑されるのは九分九厘確実である。
 前田慶次はこれでおわり、だ。何が傾奇者だ…何が天下無双の傾奇者だ! この玄以さまに恥をかかせおって!
 そして、いよいよ、聚楽第で、秀吉と天下無双の傾奇者・前田慶次とのお目見えの日となった。
 巨大な馬に乗り、慶次は門前で降り立った。「髑髏(しゃれこうべ・どくろ)の紋所に…虎皮の裃とは………!!」「そのような姿で御前に出るなど不謹慎な!」家臣たちは反発した。
「そうですか?」
 しかし、前田玄以は心の中で………”ふふ、いいぞ。それがお前の死に装束だ”…とほくそ笑んでから言葉では次のように言った。
「いやいや、殿下には当節はやりの傾奇者が見たいとの所望でござる。本日ばかりは多少無礼な服装でも差し支えござるまい」 
「それはありがたきお言葉、さればとくとご覧(ろう)ぜよ!」
 慶次は背中を向けた。そして両足の股を開くと、陣羽織の隙間から、ぽん!、といえばいいのか尻に”猿の赤いケツ”があしらわれている。
「そ…それはサルのケツ……!!」玄以は戦慄した。冷や汗と体の震えが止まらない。
「はい!いや~~玄以殿にそのようにほめていただけるとは」
 玄以は愕然とした。恐怖で失禁しそうだった。「い…いかん、いかん!それはいかん!」
 ………こやつ…わしを道連れにする魂胆か!!
「いやあ~~玄以殿にお許しを頂き安心しもうしたぞ!!」慶次は顔を振り向いてウインクをした。どこまで豪胆な男なんだ?!
やがて聚楽第の謁見の間である。
 間には全国の有力大名20名はどが勢ぞろいしていた。
 そこには落ち着かぬで冷や汗をかいている前田利家の姿もあるのである。秀吉はにやりとした。……ふん、わしのことを”サルサル”いっていた”槍の又左”もこれでおわりか?くくく、こりゃあいい。立場はもう逆転してるんだぎゃあ!
 やがて慶次がやってきた。「前田慶次にござりまする!」大男なので鴨居(かもい)で頭が隠れている。
 ………ほおっ。大男とは聞いていたが、おおきすぎて頭が鴨居に隠れている。ぬう、慶次が頭をさげて鴨居をくぐる。ぽん!
 慶次は髪の毛を右片方に思い切り片寄せ、髷(まげ)を結っていた。そのためまるで顔がひきつった様な錯覚をおこさせた。
 当然、見物人の大名たちは両横に列して座っている。……何だ?天下無双の傾奇者ときいていたが? こけおどしか? 恰好だけは派手だが、たいしたことないな。
 う…何い?!
 慶次が平伏するとともに首をまげ顔を右に向けて、平伏した。「!?」「ああっ!」「なっ!」
 この時、全員が初めてこの髷の意味がわかった。見事な傾きぶりだった。たしかに、髷は秀吉に正対している。頭を見る限り慶次は平伏して見えるのである。だが、顔は横を向いている。
 つまり、慶次は秀吉に頭をさげることを平然と拒絶したのだ。これは歴史上の実話であり、漫画的表現や小説的架空話でもない。傾奇者にとって天下人など何者でもない。この髷はその思いを露骨に示していた。
 髷だけは平伏するが、本当の俺はそっぽを向いているんだよ。そういっているのである。見事な根性であった。大名たちは寂(せき)として声も出ない。正直の所、度肝を抜かれていた。
 だが、秀吉もまた一箇(こ)の傾奇者である。そんな慶次の気持ちなど一目でわかっていた。ならばこそここで怒るような秀吉ではなかった。
「うわはははは」秀吉は大笑いした。大名たちは冷や汗ものだが、つられて笑った。顔がひきつった。
「面白いな。こんな趣向は初めて見た。なんとも変わった髷ではないか…ははは」
 慶次は頭を挙げてにこりとした。と、同時に聚楽第の謁見の間が広すぎて秀吉を刺し殺すのは無理だと悟った。
 ならば、と、慶次は猿踊りをはじめた。ひとりで猿回しの踊りを踊ったのである。それは滑稽だが笑いをさそう芸でもあった。
 秀吉が猿面冠者(さるめんかんじゃ)と呼ばれるほど猿に似ていたのは周知の事実である。あの尻を関白殿下に見せたら大変なことになる。大名たちは戦慄し、全員の顔が顔面蒼白である。
 そして慶次は赤い”サルのケツ”を秀吉に見せた。
 秀吉は笑い続けたが、……なんでこいつはわざわざわしを怒らせようとしているのか?死にたいのか?と疑問に思っていた。
「はははは」「うきぃ!うきぃ!」……しかしこの猿芸は行き過ぎじゃ!笑い転げて見せるのも限度がある。いつまでも馬鹿にされ続けては関白の沽券(こけん)に関わる。
 秀吉が隣の小姓の刀にすすっと手をそっとのばすと家康が驚愕と戦慄の顔をした。
「ふかははは」……家康のやつなにに驚いておったのか……?まさかあの舞いにはなにか理由が……!!
「はははは」……試すか……秀吉は鮮やかな絵柄の扇子をひろげ、何尺もの遠きにいる慶次へゆっくり投げてみた。
 ばしっ!慶次が扇子をばしっとつかんだ。ぐく!……今、見たのは確かに殺気!この男、死ぬ気どころか、わしを殺す気なのだ!!きゃつはわしを誘い出そうとしておったのだ!
 ……ちい! ばれたか!狒々親爺(ひひおやじ)がいくさ人(にん)の顔になったわ!
「どうも!」慶次は今にも飛びかかろうという感じだが、遠い。届かないだろう。
 猿踊りで誘い込もう、そして斬り殺そうとしたがダメだ。
「まずは座れ!」慶次は諦めて深いため息を吐くとどかりと不敵にその場に座った。
「……で、なぜだ?」
 ……そうだ。なんでわざわざ猿芸など……するのだ? そんなに死にたいのか信じられん奴だ。
 居並ぶ諸大名たちはこの言葉の意味をとり違えていた。これは、なぜ自分を殺そうと決意したのかという意だ。慶次と家康だけがその真の意味を悟った。
「……さて~~」
「何びとかのためか!?」
「まさか!ははは」慶次は笑った。そして本当に考えた。おまつのため……ではないなあ。本当は、何故、なんだろう……
 とうとう秀吉が怒鳴った。「理由(わけ)がない筈はあるまい!よく考えろ!」……理由もなく殺されてたまるか!
 大名たちは……よく考えろとは異な仰せ……!と戦慄する。
「あ……」慶次は思いついた。「左様……強いて申さば……意地とでも申しましょうか」
「?! 意地だと?! ……傾奇者の意地と申すか」
「人としての意地でござる!」
 慶次はいった。
 そ……そうかわかった!! 関白であろうと牢人であろうと同じ人である。面白半分に人が人を呼びつけて晒し者にしていいわけがない。慶次は秀吉を刺すことで、秀吉もまた一人の人であるということを証明し、その思い上がりに鉄槌を下そうとしたのだ。
 この男……絶対に飼い慣らぜぬ獣…殺すか!! 秀吉のこの反応は恐怖に対する最も自然な反応である。そして、一座の諸大名もこの息の詰まる状態を抜け出すために秀吉が慶次を斬ることを期待していた。
 だが、秀吉もまた一箇の傾奇者である。当たり前の反応に身を委せることを嫌う性癖がある。ゆえに、大名たちの思い通りに振る舞うのは癪だった。それに、自分がこの男に恐怖を抱いたことを知られたくなかった。
「…………その意地……あくまで立て通すつもりか……?!」
「やむを得ませんな」
「……立て通せると思うか!!」
「手前にはわかりませぬ」慶次は悪戯小僧のようなほわっとした笑みで答えた。
「!」……こやつなんとも素直な男じゃ。なんとも素直な含羞(はにかみ)の微笑み……秀吉は、昔、浅井朝倉軍に追い詰められた信長軍の殿(しんがり)をつとめて信長公を助けた時の、加勢してくれた若き家康のような人物を見て、惚れた。惚れこんだ。
「見事にかぶいたものよ。大義であった!」
「はっ!」慶次は「大義であったとは家名を背負わぬ一傾奇者に仰せられておるのか?」
「ん?」
 自分の振るまいは利家とは関係ないと大名たちの前で明言することによって、前田家に非を及ばせぬように秀吉に釘を刺しているのだ。それは、まさしく慶次がおまつに対する思い以外の何ものでもなかった。
「ふ……無論だ。わしは傾奇者を見たいと所望した。それが叶い、もう用は済んだ」
 慶次は微笑してまた顔を横にして平伏する。「手前にはとうてい真似ができません。天下人たるもの思い通りに振る舞えぬことさぞや難儀でござりましょう」
 見破られたか。ふっ。秀吉は何故か爽快な気分になった。
 慶次が去る。
 と、秀吉は「誰か舞わぬか?」と所望した。
 諸大名たちは躊躇した。慶次のあとに下手な踊りを舞えば首が飛ぶ。
「ならばこの家康が百姓踊りを」家康は頭巾を頭に巻いて、百姓踊りをしたという。極端な短足にでっぽりと家康は肥えている。
 百姓踊りは笑いをさそう滑稽さであった。秀吉は腹を抱えて笑った。そして「慶次を呼び戻せ!褒美をやるのを忘れた」という。
 慶次は「半刻後に出頭する」と伝えてくれ、といい、きっちり半刻後慶次は現れた。
 今度はちゃんとした鮮やかな色どりの裃姿である。おお!なんと見事な!「可観小説」にあるこのくだりの描写を引用して見よう。
「今度(このたび)は成程くすみたる程に古代に作りし、髪をも常に決直し、上下衣服等迄平生に改め、御前進退度に当り、見事なる体也。」
 秀吉は「何故その恰好を?」と訊いた。
「傾奇者はもう用がないと申されたので、こたびはひとりの武士(もののふ)として前田慶次郎利益(とします)まかりこしました」
 そしてちゃんと平伏した。礼儀をちゃんと守った、げにもゆかしい武者ぶりであった。古典はおろか古今の典礼にも通じ、諸芸能まで極めたと噂される当代稀有の教養人の姿がそこにはあった。
 大柄な躰がいっそう涼しげで匂うような男ぶりである。とても半刻前の『傾奇者』とは思われなかった。
「気に入った!今後どこでもその意地を立て通せ、余が許す!」秀吉の傾奇御免の御意は慶次に今後どこででも誰が相手でも勝手気ままに振るまっていい、ということである。

 そしてこの『傾奇御免の令』のおかげか慶次はあらゆる武者たちに命を狙われることにもつながる。
 眩しすぎる陽の光は無能ものにとって無性にムカムカするものだ。凡人は天才の心の苦労がわからず、天才の血反吐の努力も判断もできず、ただ嫉妬して、嫌味や悪罵やいやがらせや罵倒や批判をするのみである。
 慶次が「この男は凄い」という男がいた。
 それは秀吉政権の五大老のうちの会津百二十万石もの大大名の上杉景勝と、執政・直江兼続である。
 上杉謙信の名声からだけではなかった。上杉の人間が骨の髄まで義、仁義で出来ている、と理解したからだ。
 上杉の義、忠義は質素倹約だけではなく、家臣も領民も心優しく、温かい。
 慶次は『上杉家』に『上杉の義』『上杉謙信』『上杉景勝』『直江兼続』に、漢(おとこ)として惚れたのである。
 だからこその、上杉家への仕官であったのだ。


「旦那!石田三成様がおいでになりました」
 慶次のかまえる京の屋敷に三成が訪ねてきた。しかも武装兵に屋敷を取り囲ませて。
「きっと旦那が京に戻ったことを嗅ぎつけてきたんでしょう。どうしますか?」
「かまわんさ!とおせ!」
 慶次は言った。部下は、慶次が京のキリシタンの木像を磔にしたのを見て、昔、「へいへい!これが治部だ!こせこせしていて滑稽でしかも残忍極まる。とても人間の類とは思えんな!」と大声で罵倒して、京を去ったのを思い出していた。
 今や石田治部は豊臣天下の大宰相である。
 そのことで三成が現れたのは明白であった。
「慶次殿、京での暴言、堺沖での大騒動…これはもはや太閤殿下に対する反駁以外の何ものでもない!」
「………で、手前にどうしろと?」
 三成はにやりとした。「なにも追放にしようと言っている訳ではありません。ただ………朝鮮に行ってもらいたい。そして現地で朝鮮の内情をつぶさに調べ、太閤殿下に見たままをご報告して頂きたい…この戦がいかに無益であるかを…」
 同席していた直江兼続は、三成ほどの男がわざわざ一介の浪人である慶次のところまで来た意味を悟った。
 三成たちはこれまで秀吉に対し、朝鮮・明国の状態を隠し、秀吉が知らないのをいいことに嘘の情勢を知らせてきた。しかし、これ以上嘘をつき通せなくなったときに慶次に真実を語らせ、これまでの嘘をごまかそうと。三成はただ莫大な戦費を費やすことによって豊臣政権の基盤が弛むのが心配だった。そのため慶次を使って時間かせぎをしたかったのだ。
「返事は?」
「…まずは茶でも飲め」
 三成はお椀のお茶を飲み「さすがは天下無双の傾奇者、茶もうまい」と褒めた。
「だろう、馬のしょうべんをまぜたからな」慶次はにやりとした。慶次のいたずらぶりは有名である。三成は「貴様!」と怒鳴り、お茶碗を投げつけた。
 慶次は三成をボコボコにする。
「治部、貴様のやることはいちいち手が込みすぎておる!石田三成ともいわれる者が首一つ失うのがそれほど恐いか?命が惜しいのか!」
 三成は顔面蒼白である。
「そんなにこの”いくさ”を止めたければ命懸けで太閤に掛け合えばいいではないか!わざわざ俺を使ってまわりくどいことをするな!自分でまいた種は自分で刈りとれ!死してこの”いくさ”を止めてみろ!」
 慶次は喝破した。兼続は………確かにその通りだが、それは慶次殿だからこそ言えること…並の人間にはそれは出来ぬのだ………「前田殿、この男は仮にも治部少輔(じぶしょうゆう)、それまでになされ、さっ、三成殿手をかしましょう」
 三成は醜態を見せた。
「うう………うるさい!うるさい!馬鹿!阿呆!鬼畜!天魔!」涙を流し「貴様に何が…何がわかる!天下百年の計のかけらも判るまい!」
 醜態は続く。「だいたい貴様は今まで何をした!?この無益で無謀で残忍な”いくさ”を避けるために一体何をしたというのだ!?古今未曾有の”いくさ”が迫るのも知らず、知っても止めようとせず太平楽に、だらだらと生きてきた貴様たちにわしらを裁くどんな資格がある!言ってみろ!どんな資格があるんだ!」
 前田慶次は号泣しながら迫る三成に懐から洟紙を取りだし、
「洟(はな)をふかれよ」といった。
 三成は洟をふいた。直江山城は「治部殿、今日のことは見なかったことにしまする。いきましょう」といった。
「そうだな」
 三成は意味深な顔で頷いたという。
(劇画・漫画『花の慶次』隆慶一郎著作(原作)原哲夫作画(漫画・絵)新潮社コミックス参考文献参照)

 
 豊臣秀吉がまだ木下の姓を名乗り、長浜城主の当時召し抱えたのが、後年五奉行の一人として徳川家康に対抗した関ヶ原の立役者、石田三成その人である。この三成の推挙によって秀吉の近習となり、秀吉の一字をもらって吉継と名乗り、秀吉から次第にその才能を認められ、越前敦賀(つるが)城主となって五万石の大名となったのが大谷吉継である。吉継は九州豊後の国主大友宗麟の家臣大谷盛治の子と伝えられ、はじめ紀之介と称した。
 加藤清正や福島正則のように、一番槍の武勇でならす武闘派と、石田三成や大谷吉継のような官僚肌の二極に豊臣政権は分裂していた。
 石田三成はやりたくもない朝鮮侵略で、武功をあげたい福島正則や加藤清正らに恩賞も与えられず、武闘派らの憎しみを秀吉にかわって一身にかぶった。
 明治以前の日本の不治の病がふたつある。明治以前の日本にはひとつに労咳(ろうがい・肺結核)という不治の病と、天刑の病とされる癩病(らいびょう・ハンセン病)である。
 大谷吉継は父親と同じく、癩病にむしばまれており父親は全身不随になって死ぬのだが、息子の吉継も癩病で身体中に膿が出来、殆ど歩けず眼もほとんど見えない状態まで病状は悪化する。そこで或る時の数奇屋(すきや)での秀吉主催の茶会である。大谷吉継も三成も共に招かれて出席した。すでに癩病が進んでいた吉継は、その頃の会合にはめったに出席しなかった。おそらく秀吉は、そんな吉継を慰めようとして招いたらしい。その席での茶は回し飲みであった。
 自分の所に回ってきた茶碗に口を当てた時、吉継の緊張は極度に高まっていた。丹田に力を込めて、吉継は作法通りに茶を啜った。その途端、なにやら鼻水のようなものが一滴、茶碗の中にしたたり落ちてしまった。はっとする吉継は気も転倒する思いであった。列席の武将たちの目は、血膿のはいった茶碗に注がれた。さすがの吉継も手がふるえ、次席の小西行長に茶を回すことができない。不気味な沈黙が一座を支配した。気の毒そうに目を伏せる者もいた。列座の大名たちは成り行きいかんとかたずを飲んで見まもった。その時、かたわらに進み出た石田三成は、刑部の手からとっさに茶碗を受け取ると、並み居る人たちに無礼を詫びた後一息に茶をすすり飲んでしまった。吉継の目には、きらりと涙が光った。この世における二人の友情はこの一瞬、底知れぬ深さに結ばれた。
 関ヶ原での合戦に「お主には人望がないからやめておけ」と何度も諌めた大谷刑部吉継は、佐和山城に三成に呼ばれて駕籠でやってきた。この時、癩病にむしばまれた義継の身体は血膿にまみれ、眼は視力を全く失った姿であった。そこで三成は、家康挟撃の大事をはじめて打ち明けたのである。驚いた吉継は、時期尚早であるとして三成を諌め、この企てを思いとませようとした。しかし、三成の計画はすでに引き返せぬところまで進んでおり、吉継の諌めを聞くことは出来なかった。見えぬ目に涙を流しながら、翌日もまた翌日も、三成を諌め続けた。
 こうして一六〇〇年七月十一日、刑部は意を決して、三成に命を捧げるため佐和山城に入った。迎えに出た三成は吉継の手を取って「刑部」とただ一言、声は涙につまった。
(小説『雲井龍雄 米沢に咲いた滅びの美学』田宮友亀雄著作 遠藤書店6~12ページ参考文献参照)




話を少し戻す。
天正5年(1577年)11月29日、家臣・生田木屋之介の活躍により、佐用城を落とした小寺官兵衛(黒田官兵衛)は、続いて、上月景貞が守る上月城を(兵庫県佐用郡佐用町)攻めた。
(注釈:上月城の城主は、赤松政範だったという説もあるが、ここでは上月景貞説を採用しておく。)
上月景貞は上月城に籠城しており、羽柴秀吉の軍が上月城を包囲していると、備前・備中・美作の3国(3国とも岡山県)を支配する毛利側の宇喜多直家の援軍が到着した。
宇喜多直家の軍は羽柴秀吉軍を外巻きに包囲し、羽柴秀吉は上月景貞と宇喜多直家とに挟まれ、劣勢に立たされた。
上月城に籠城していた上月景貞は、これを好機とみると、上月城から打って出た。
羽柴軍の先鋒・別所重棟は、上月景貞軍の先鋒を防ぎきれずにピンチを迎える。
すると、小寺官兵衛は手勢を率いて出陣し、先鋒・別所重棟を助け、上月景貞軍の先鋒を押し返した。
しかし、上月景貞はすぐさま第2陣を差し向け、先鋒隊と入れ替わるように第2陣が小寺官兵衛の部隊を攻撃した。
これを見た羽柴秀吉は「小寺官兵衛を討たすな」と命じ、羽柴秀吉の本陣の2部隊を投入。小寺官兵衛は援軍を得て勢いづき、敵軍を退けた。
羽柴秀吉は、上月景貞を上月城に押し返すと、背後に居る宇喜多直家を攻撃し、宇喜多直家を撃退した。
小寺官兵衛の活躍に満足した羽柴秀吉は、小寺官兵衛に秘蔵の名馬を与え、諸将に、
「良い馬が欲しければ、小寺官兵衛のように手柄をあげよ。この秀吉は物惜しみはせんぞ」
と言い、士気を鼓舞した。
(ちなみに、黒田官兵衛は倹約家で、後に「(値段の)高い馬には乗るな。戦場で馬を下りたとき、馬の行方が気になっていては、戦に集中できない。馬は乗り捨てられる安い馬にしろ」と話している。)
さて、上月城を包囲し羽柴秀吉側は、家臣・生駒親正の活躍により、上月城の水補給路を絶った。
水が無いと籠城できないため、城兵は謀反を起こし、城主・上月景貞の首を差し出して羽柴秀吉に降服を願い出た。
しかし、羽柴秀吉は謀反を起して降服してきた城兵を許さず、城兵が逃げられないように上月城の城門を外側から封印したうえで、上月城を攻め立てて城兵を皆殺しにした。
さらに、羽柴秀吉は上月城の女・子供を捕らえて、毛利側との国境で、女は磔にして殺し、子供は槍でついて殺して見せしめとした。このとき、200人ほどの女・子供(非戦闘員)が処刑された。
こうして上月城が落ちると、織田信長は、尼子家の復興に命を賭ける中山鹿之助に上月城を与えた。
尼子家は出雲の守護大名であったが、毛利元就に侵略され、領土を奪われた。尼子家の軍師・中山鹿之助は尼子勝久を擁立して、尼子家の復興に奔走し、織田信長を頼っていた。
中山鹿之助は織田信長から上月城を与えられ、念願の尼子家の復興を成し遂げたのである。
織田信長にしてみれば、尼子家にとって毛利家は宿敵なので、尼子勝久や中山鹿之助なら命を賭けて毛利軍と戦い、また絶対に毛利側に寝返らないという狙いがあった。
さて、上月城を落として播磨(兵庫県)を平定した羽柴秀吉は、上月城を中山鹿之助に任せると、織田信長に報告するため、安土城へと凱旋した。
織田信長は羽柴秀吉の播磨平定を大いに喜び、羽柴秀吉に愛用の乙御前の茶釜や領地を与えた。羽柴秀吉はそのまま安土城に留まり、安土城で天正6年(1578年)の正月を迎えた。
天正6年(1578年)、小寺官兵衛(黒田官兵衛)33歳の幕開けであった。
天正6年(1578年)2月、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が33歳の事である。
羽柴秀吉は中国征伐の今後の方針を問うため、加古川城(兵庫県加古川市)に諸将を集めて軍議を開いた(加古川評定)。
ところが、加古川評定の直後、加古川評定に参加していた三木城の城主・別所長治が、突如として中国の毛利輝元に寝返り、織田信長に反旗を翻したのである。
三木城の城主・別所長治は東播磨8郡を治める東播磨最大の勢力で、隣接する摂津(大阪府)の三好家に対抗するため、播磨では、いち早く織田信長に属していた城主である。
三木城の城主・別所長治は、織田信長の中国征伐で先手を務め、中国征伐後は播磨一国を賜る心づもりであった。
しかし、別所長治の思惑とは裏腹に、羽柴秀吉というよそ者が中国征伐の責任者として播磨に乗り込んできたため、このままでは、播磨は羽柴秀吉に奪われるという危惧があった。
一方、毛利輝元に庇護されている15代将軍・足利義昭は、室町幕府崩壊後も地方の大名に依然として権力を保持しており、各地に檄を飛ばして第3次織田信長包囲網を形成し、織田信長に対抗していた。
そのようななか、三木城の城主・別所長治は、15代将軍・足利義昭の調略を受け、突如として毛利側へと寝返り、織田信長に反旗を翻したのである。
(注釈:別所長治は加古川評定で意見を無視されたため、毛利側に寝返ったというエピソードは、後世の創作である。)
すると、三木城の城主・別所長治は東播磨で大きな影響力を持っていたため、周辺の豪族が別所長治に同調し、東播磨の豪族が一斉に織田信長に反旗を翻したのである。
三木城の城主・別所長治に同調しなかったのは、加古川城の城主・糟屋武則と阿閉城(あべじょう)の城主・別所重棟の2人だけであった。
これに驚いたのが小寺官兵衛(黒田官兵衛)である。
小寺官兵衛の妻・櫛橋光の父で志方城の城主・櫛橋左京進(櫛橋伊定)が、別所長治に同調して織田信長に反旗を翻したのである。
さらに、小寺官兵衛の親戚に当たる明石城の明石左近までもが、別所長治に同調して織田信長に反旗を翻したのである(注釈:黒田官兵衛の母親が明石家の明石岩[岩姫]です)。
「この織田信長を舐めおって!必ず討ち取るぞ!」
天正6年(1578年)2月、三木城の城主・別所長治が織田信長に反旗を翻すと、織田信長は烈火のごとく怒り、羽柴秀吉と小寺官兵衛(黒田官兵衛)に三木城討伐を命じた。
さて、東播磨にある阿閉城(あべじょう)の城主・別所重棟は、三木城の城主・別所長治の伯父であったが、2人は仲が悪かったので、別所長治の離叛に同調しなかった。
そこで、羽柴秀吉は阿閉城の城主・別所重棟を呼び寄せて尋問すると、別所重棟は、
「播磨大明神に誓って、三木城の離叛には関与していません」
と答えた。
このため、羽柴秀吉は別所重棟を味方に取り込み、別所重棟に別所長治の説得を命じた。
別所重棟は三木城を訪れて別所重棟を説得したが、別所重棟は説得に応じないため、羽柴秀吉は三木城の攻撃を決定したのである。
天正6年(1578年)3月、羽柴秀吉は小寺官兵衛の進言により、姫路城から書写山(兵庫県姫路市)へと本陣を移し、三木城討伐を開始する。
天正6年(1578年)3月13日、越後(新潟県)の上杉謙信が病死する。第3次織田信長包囲網に加わっていた上杉謙信の死により、包囲網は弱まる。
上杉謙信が死んだのは、小寺官兵衛(黒田官兵衛)が33歳の出来事であった。
「軍神が死んだか。神でも死ぬのじゃな」当たり前である。
一方、中国の毛利輝元は、三木城の城主・別所長治が寝返った事を好機に、一気に播磨(兵庫県)を制圧するため、陸路と海路の両面から播磨へと侵攻を開始したのである。
天正6年(1578年)4月1日、海路を進んだ毛利軍8000人は、東播磨の別府(兵庫県加古川市)上陸する。
と、別所重棟の居城・阿閉城(あべじょう)を取り囲んだ(阿閉城の戦い)。
[注釈:阿閉城(あべじょう)ではなく、阿閇城(あえじょう)や別府城とする説もあるが、ここでは阿閉城とする。]
東播磨で三木城の城主・別所長治に同調しなかったのは、加古川城の城主・糟屋武則と阿閉城の城主・別所重棟の2人だけだった。
このため、中国の毛利輝元は、阿閉城と加古川城を落とし、三木城の別所長治と協力して西播磨の姫路へと侵攻する算段であった。
さて、この阿閉城には小寺官兵衛(黒田官兵衛)が500人の手勢を率いて援軍に駆けつけていた。
阿閉城に籠もる小寺官兵衛は、家臣に、
「この城が要害でないことが幸いしている。敵は大軍に頼んで、鉄砲用の盾も持たずに、攻め込んでくるだろう。我らは反撃せずに敵を十分に引きつけ、鉄砲が外れない距離まで来たら、一気に鉄砲を撃つ。弓鉄砲を持っていない者は、石を投げよ。私は櫓に上り、敵が鉄砲に恐れを成した頃に、合図を送るから、合図があれば、城門を開けて打って出よ。そうすれば、敵は大崩れするであろう」
と命じた。
やがて、毛利軍が阿閉城への攻撃を開始した。
が、阿閉城は要害ではなかったため、毛利軍は大軍を頼りにして、鉄砲用の盾も付けずに、通常の盾を並べて阿閉城へと押し寄せた。
阿閉城の兵は小寺官兵衛の命令通り、息を潜めており、毛利軍が城壁近くまで来たところで、一斉掃射を始めた。
毛利軍は鉄砲用の縦を持ってきていなかったので、一斉掃射によって多くの兵士を失った。
さらに、頃合いを見て小寺官兵衛が太鼓を鳴らすと、小寺官兵衛の手勢が城門を開いて打って出た。
毛利軍は鉄砲で死傷した者も多く、小寺官兵衛の手勢を防ぐことが出来ず、一戦もすると無く総崩れとなり、敗走した。
小寺官兵衛の手勢は毛利軍を追撃し、散々と討取った。
阿閉城の戦いでの活躍を聞いた織田信長は、大いに喜び、羽柴秀吉に馬を与えた。羽柴秀吉は、
「今回の手柄は小寺官兵衛のものである」
と言い、この馬を小寺官兵衛に与えた。
小寺官兵衛は「戦功は母里太兵衛によるものである」と言い、この馬を母里太兵衛に与えた。
 大河ドラマでは一年間ものクールで放送される為、官兵衛と初恋の女性との「恋愛」や「死別」等様々描かれた。執筆時(2014年1月)では大河ドラマ「軍師官兵衛」は放送スタートしたばかり。で、まだ主人公の黒田官兵衛役のアイドル俳優・岡田准一さんが流暢に演じ始めた放送段階である。出生地・播磨での出来事、初恋、天下人・織田信長への仕官、秀吉との出会い…この物語でも触れていこう。だが、まずは歴史に戻ろう。

軍師黒田官兵衛と石田三成と 天下無双の天才軍師・黒田如水の生涯いよいよ!ブログ連載小説1

2015年04月26日 07時23分25秒 | 日記









軍師 黒田官兵衛と石田三成と


              ~天下に挑んだ男の人生!戦わずして勝つ!~

                くろだかんべいといしだみつなり
           ~「軍師」黒田官兵衛と「策士」石田三成の戦略と真実! 
                 今だからこそ、軍師黒田官兵衛と三成
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  MIDORIKAWA washu
                   緑川  鷲羽
 this novel is a dramatic interoretation
 of events and characters based on public
 sources and an in complete historical record.
 some scenes and events are presented as
 composites or have been hypothesized or condensed.
        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

*(本作の歴史説明文群はネットウィキペディアや「ネタバレ」等の記事を参照しています。ちなみにこの作品の参考文献は「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」「軍師官兵衛」司馬遼太郎著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、「軍師 黒田官兵衛」高橋直樹著作(潮出版社)、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛ガイドブック」TOKYO NEWS MOOK、等である。ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。裁判とか勘弁してください。盗作ではなくあくまで引用です。) 
)

       軍師 黒田官兵衛と石田三成と あらすじ

<記事の一部に「ネタバレ」からの引用がある為「出版時」に印税の0.39%を引用元に>

  播磨の小寺政職の家老黒田官兵衛は、自分でも惚れ惚れする才能を持っており、別所や赤松といった播磨の大名達との戦いでも自慢の頭脳を使い小寺家を勝利に導く実力者である。
小競り合いが続く播磨とは違い中央では織田信長が勢力を拡大しており、情報収集に余念のない官兵衛はいずれ信長の勢力は中国地方にまで及び、毛利家との長い戦いが始まると予測していた。
毛利家と織田家との力の差を感じた官兵衛は、成り上がりの信長を嫌い、毛利家を頼ろうとする小寺家を始めとする播磨の豪族達を説得し、面識のあった織田家重臣荒木村重を通じて信長に協力を伝える。
信長でさえ気兼ねする猛将荒木村重に対し、苦手意識はあるが何故か友人になりたいと思う官兵衛の前に、羽柴秀吉という織田家の重臣が現れると一目見た官兵衛は秀吉に大きな力を感じる。
秀吉が中国方面の指揮を執ると知った官兵衛は、出来る限りの協力をするが播磨の豪族達は信長の傲慢な態度と恐ろしい性格や行動を知ると、播磨最大の勢力別所家を中心に反織田同盟を結び小寺家も参加していた。
自慢の才能で織田家から莫大な褒美を得ようと考えていた官兵衛は驚き、すぐさま小寺家は織田家へ戻るよう説得をするも聞き入れられなかった。
同時期、信長を倒し自分が天下を獲ってみたい夢を持つ村重は、毛利・本願寺と結んで叛乱を起こすと、主君政職より村重が織田に戻るならば小寺も織田側に就くと言われた官兵衛は、友人とも呼べる村重ならば自分が説得すれば織田に戻ると信じ村重の許へと向かう。
だが政職と手を結んでいた村重は、官兵衛を牢屋に閉じ込められるてしまう。黒田官兵衛を描いた作品です。豊臣秀吉を支えた竹中半兵衛は清廉潔白で欲のない人物とされる事に対し、腹黒い描写がされる事が多い黒田官兵衛ですが、この作品ではまさにそんな官兵衛です(笑)。
自分の頭の良さと弁論の巧さを使い、自分が仕えた人物に天下を獲らせてやるという設定だけ見ると嫌な人物ですが、不思議にも作中の官兵衛に悪い印象を抱きません。
官兵衛に人間臭さを感じると共に、常人とは少し外れた思考能力に微笑しさを感じたからであり、普通ならば嫌われる型の人間を嫌味がないように巧く描いたからです。
主人公官兵衛もさる事ながら、登場人物の多くが癖のある人物ばかりで官兵衛と比べても見劣りしませんが、それでも個性的な人々の中でも埋もれない強さを官兵衛は持っておりました(笑)。
秀吉が尾張に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。三成は秀吉の重臣・幼名・左吉である。十歳の頃より秀吉に支え、山崎、牋ケ獄の合戦で武功をあげて出世した。桶狭間合戦で、大国・駿河の大将・今川義元の首をとる信長。そして、その頃、三成は生まれた。三成が本当に得意だったのは貿易や検地などだった。決して勇気がない訳ではなかったが合戦は苦手だったようだ。小田原城水攻めでは自分のほうが溺れ掛けている。秀吉の死後は家康と並ぶ実力者となった。しかし、福島正則や加藤清正など武力自慢の武将に攻められ、一時、領地佐和山に隠居している。だが、野心を捨てた訳ではなく家康が会津討伐に向かうと毛利や上杉などと連携して挙兵した。そして、関ケ原の戦いへ… だが、小早川秀秋の寝返りで西軍はやぶれ、三成は遁走して捕らえられ三成は首をはねられた。その後、大坂冬の陣、夏の陣で徳川家康の天下になり、家康は死んだ。そして徳川幕府は二百七十年続いた。幕末の維新の英雄は私の各小説に詳しい。
 三成はその徳川政治を変えようとした最初の男だった。それだけに幕末の龍馬、勝海舟、西郷隆盛や木戸考充(桂小五郎)、高杉晋作と同じように評価されてしかるべきである。 平成の官僚霞ヶ関幕府末期の今、石田三成は再評価されてしかるべきだと著者は思う次第である。三成こそが独裁者への最初の反抗者だったからだ。       おわり

         1 桶狭間合戦と官兵衛と三成誕生

<記事の一部に「ネタバレ」からの引用がある為「出版時」に印税の0.39%を引用元に>
夜更けの本陣に、当時のセンサーともいうべき「鳴子板」の音が鳴り響いた。黒田官兵衛(くろだ・かんべい)は、耳をすます。やがて足音が近づいてきた。軍師の寝床に近づいた栗山善助(くりやま・ぜんすけ)が官兵衛を呼んだ。「一大事でござりまする、軍師殿」「入れ」栗山は戸を開けると手に持った書状を差し出した。「この書状を毛利陣営に運ぼうとした明智の使者が、先ほど鳴子板にか?」「ははっ!」「明智の使者をとらえたのは誰じゃ?」「益田与助(ますだ・よすけ)にござる」書状には明智の署名もある。「すぐに筑前殿(ちくぜんどの・羽柴秀吉)の陣に参ろう」官兵衛は書状を懐へしまい立った。三十七歳なのにもう杖をついている。すでに病で片足があまり動かない。皺だらけの顔は疱瘡みたいにかさかさだ。頭巾をかぶっているが、すでにつるつるの禿げ頭で、ある。秀吉本陣は毛利攻めの水攻めの途中だ。軍師殿は「明智光秀が主君・秀吉の上司・天下人織田信長を討ったこと」に驚かない。軍師は策を練る。「このまま毛利と和睦して「中国大返し」だ。謀反人・明智光秀を討てば筑前殿の天下じゃ」天下に名だたる天才・軍師「黒田官兵衛」の策略の見せ所で、ある。「秀吉殿、いよいよ御武運が開かれましたな!謀反人・光秀を討ち果たし、殿が天下人となる好機でござりまする!」軍師黒田官兵衛は言った。
大河ドラマでは度々敵対する石田治部少輔三成と黒田官兵衛。言わずと知れた豊臣秀吉の2トップで、ある。黒田官兵衛は政策立案者(軍師)、石田三成はスーパー官僚である。
参考映像資料NHK番組『歴史秘話ヒストリア「君よ、さらば!~官兵衛VS.三成それぞれの戦国乱世~」』<2014年10月22日放送分>
三成は今でいう優秀な官僚であったが、戦下手、でもあった。わずか数千の北条方の城を何万もの兵士で囲み水攻めにしたが、逆襲にあい自分自身が溺れ死ぬところまでいくほどの戦下手である。(映画『のぼうの城』参照)*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。
三成は御屋形さまである太閤秀吉と家臣たちの間を取り持つ官僚であった。
石田三成にはこんな話がある。あるとき秀吉が五百石の褒美を三成にあげようとするも三成は辞退、そのかわりに今まで野放図だった全国の葦をください、等という。秀吉も訳が分からぬまま承諾した。すると三成は葦に税金をかけて独占し、税の収入で1万石並みの軍備費を用意してみせた。それを見た秀吉は感心して、三成はまた大出世した。
三成の秀吉への“茶の三顧の礼”は誰でも知るエピソードである。*映像資料「歴史秘話ヒストリア」より。


         今川義元


 天文15年11月29日(1546年12月22日)辰の刻(午前8時)、姫路城の城主・小寺(こでら)職隆(黒田職隆 くろだ・もとたか)に子供「万吉」が生まれた。この万吉が後の黒田官兵衛である。
黒田官兵衛が生まれたとき、姫路城は雪で覆われていた。これは、英雄が生まれる吉兆が出ていたのだという。
父・小寺職隆(黒田職隆)は播磨(兵庫県)にある御着城(ごちゃくじょう)の城主・小寺政職に仕えており、姫路城の城主を任されていた。母親は明石城主・明石宗和(明石正風)の娘・明石岩(岩姫)である。
このとき、父・黒田職隆は、小寺政職から「小寺」姓を拝領し、小寺家の一門になっているため、「小寺職隆」を名乗っていた。「職隆」の「職」も小寺政職(こでら・まさもと)より、一字を拝領したものである。
「万吉! わしが父じゃあ!」赤子の万吉を職隆はあやした。母も笑顔だ。
 赤子の万吉(のちの黒田官兵衛)はくったくもない笑顔を浮かべている。
「この子はきっと将来凄い人物になるやも知れん」
「まあ、旦那様、もう親馬鹿に御座りまするか?」妻の明石岩も笑った。
「戦国のすごい大名、ダメでもよき武将になるのだぞ、万吉」
 万吉は生まれてきたとき、体になにやら怪我のような傷跡があったという。
「これは聖痕じゃ!」
 と親戚縁者の間で話題になったという。
 しかも生まれてから何か月も髪の毛が生えてこない。「禿頭(とくとう・ハゲ)は遺伝じゃな」職隆は苦笑した。
 また寝小便もなかなか治らない。だが、父親も母親も、子供だから仕方ない、と思ってあえて注意はせず折檻もしなかった。
 万吉少年は、剣の腕がからしき駄目であった。万吉は父親から木刀での修行でぼこぼこにされて初めて「自分には腕力も剣で勝つ技能も備わっていないこと」を思い知った。
 初めて父親の小寺職隆に叱られ、「本ばかり読んで剣の稽古をさぼってばかりいるから弱いのだ、馬鹿者!」と、暗い蔵にお仕置きの為に放りこまれ閉じ込められた。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 母上!父上! もう……さぼりませぬからだしてください!うええん」泣いた。
 母親はかわいそうに思って、蔵から出してやろうとしたが、父親がとめた。
「万吉! お主は剣が弱い! 姫路の外様大名では将来が目に見えている!それではどうするか?!」
父親は幼い万吉少年に諭した。そんなことは幼い万吉にわかる筈もない。父親は「腕力がないなら頭で、軍略で勝負せい!」
 万吉は泣いてばかりだ。軍略等と幼い少年にわかる筈もない。
 そんな幼子に父親は三国志の英雄・蜀国の劉備玄徳に三顧の礼で迎えられた天才軍師・諸葛亮孔明の話を始めた。
「孔明もお主のように幼子のとき泣き虫で弱虫じゃった。じゃがのう万吉、孔明は晴耕雨読の学問で大人物になった。お主の生きる道はわしはそれだと思うのじゃ」
「……孔明?軍略?学問?」
「そうじゃ、今は戦国の乱世、下克上の時代じゃ。じゃが、ひとりくらい弓矢・刀ではなく軍略で下克上する強者もいてもいい」
「わかりました、父上さま。必ず、この万吉、学問・軍略で天下を目指しまする」
「よくいった!」父親は褒めた。
 あるとき母親の明石岩は、晩秋に紅葉に色づく木々を万吉に見せて、
「万吉、お前は腕力も力も剣才もない。孔明のように軍略で身をたてなさい。紅葉は赤や黄色となり木々の命を守る為身代わりとなって散って死ぬのです。お前は「紅葉のような外様大名」におなりなさい」と励ました、という。
 その言葉で、万吉は「紅葉のような軍師、日本の諸葛亮孔明のようになりたい」と志を抱いた。
 万吉は泣き虫で寝小便たれで弱いために「いじめ」のかっこうの標的であった。だが、万吉のちの官兵衛は思った筈だ。イマニミテオレ、と。
 万吉は姫路城主・小寺(黒田)職隆(もとたか)の嫡男で、播磨国(現在の兵庫県)の姫路地方だけの弱小外様大名の若君である。祖父は黒田重隆(しげたか)といい元・目薬屋で播磨国で「播磨国御着(ごちゃく)の主・小寺家」に仕官し、家老にとりたてられ姫路の領地を得た。
 万吉の母親は明石岩(いわ)といい美貌の女性であるが病弱である。あるとき万吉は「父上は嫌いです」という。と母親は叱った。父上はわざとお前に厳しく当たるのですよ、と説明した。獅子が我が子を谷底に落とすがの如く、だと。だが、母親は咳き込みやがて血を吐いた。
 祖父の黒田重隆は薬草に詳しい。ふと、播磨の敵国・龍野・赤松領土の竜神池に大変に病に効く薬草がある、といってしまう。少年万吉と少女・おたつは薬草を摘みに敵国・赤松領土にはいった薬草はみつけたが敵国武士に捕えられた。父親・小寺(黒田)職隆は赤松の城にいった。
 赤松城主は「母の為に薬草を摘みにはるばる敵国である龍野・赤松領土までくるとはよき息子じゃのう?」といい続けて「播磨御着の小寺氏より赤松の家来にならぬか?」
 「それは何度もお断りしていることです。わが黒田家は播磨御着の小寺氏に家老まで取り立てられ、恩義があります。一介の目薬屋から姫路領土を得て外様大名になれたのも、小寺政職さまのおかげで、裏切れません」
 「では、ご嫡男を人質としてもか?」
 襖の奥では赤松の家来集がいつでも斬りかかれるように待機している。殺気がすごい。「答えは同じです」
 赤松は唸るように「なるほど」という。そしてわらった。「わははは、ざれごとじゃ」
 こうして万吉とおたつは姫路に帰還できた。「母上! 薬草です!」万吉少年は悪気もなく母にいった。病床の母親は万吉を平手打ちした。「馬鹿者! お前は父上や自分自身を危険にさらした。あのままお前も父上も殺されてもおかしくわなかったのですよ!」
 万吉は詫びた。母は「お主の傅役の母里小兵衛(もり・こへい)は「自分の責任だ」といい殿の留守中に切腹しようとしました。私は「死ぬのはならぬ!死ぬならわたしも一緒に死ぬ」と止めました。お前はとんでもないことをしでかしたのですよ?」
 「すみません、母上。もういたしませぬ!いたしませぬ!」泣いた。母は泣きながら「……わかればよい。それより薬草をもらいましょう。ありがとう万吉」「母上、一日も早く病を治してくだされ!」
 だが、母・いわは永禄五年(1559年)病死した。万吉は大変なショックなことだったろう。
 この頃、播磨国・御着・小寺領土では野武士が妙に狼藉を働かせていた。小寺家老・石川某が小寺(黒田)職隆に謀反の疑いをかけるための謀であったという。万吉少年は森の中で野武士に指示を出す「石川某の家臣を目撃」して、父親に石川某が退散した後打ち明けた。
 父は「なら何故石川の家臣らがいるところでゆわななんだ?」ときく。
 「三略いわく、謀は密なるもってよしとする。あの場でいえば私も父上も斬り殺されていたかも知れません。安全の為です」
 万吉はいう。父は微笑んで「あい分かった!」といい石川某や家臣を殺させ、「濡れ衣」を晴らしたという。
 万吉の傅役・母里小兵衛の息子は母里武兵衛(もり・ぶへい)といい幼馴染で、子供の頃より、万吉少年を「若殿さま」といい仕えた家臣である。やがて青年となった官兵衛の身代わりに(命を助けて)死ぬ運命である。
 「武兵衛! しっかりいたせ!」
 「若殿さ…ま……さらばでごさる……」武兵衛は最後まで官兵衛の味方であった。
 なお、現在は黒田官兵衛を「くろだ・かんべえ」と発音するが、当時の発音では「くろだ・くわんべえ」または「くろだ・くゎんぴょうえ」と発音したとされる。
 黒田官兵衛の赤いお椀をひっくり返したような甲冑は「朱漆塗合子形兜(しゅうるしぬり・ごうすかぶと)」という。ちなみに信長に仕官した際贈呈された刀は国宝「圧切長谷部(へしきり・はせべ)」だ。
黒田官兵衛の諱(いみな・本名)は「孝高(よしたか)」である。幼名は「万吉」と言い、成人して「黒田勘兵衛」→「黒田官兵衛」を名乗り、その後に「黒田如水(くろだ・じょすい)」と名乗った。
また、黒田官兵衛はキリスト教の洗礼を受けており、クリスチャンネームを「ドン・シメオン(外国語で「耳を傾ける」という意味)」と言い、「黒田シメオン」「小寺官兵衛シメオン」などと表記する場合もある。
 黒田官兵衛の黒田家は、元を正せば、宇多天皇の末裔とされる名家・源氏で、源成頼の時代に近江国蒲生郡佐々木(現滋賀県近江八幡市)に居を構えたことから、佐々木の姓を名乗るようになる。
やがて、佐々木家は京極家と六角家に分家する。その後、京極家の京極宗清(きょうごく・むねきよ)が近江の黒田村に居を構えたことから、京極家から分家し、黒田姓を名乗るようになった。
黒田家は京極家に仕えていたが、1511年(室町時代)に黒田官兵衛の曾祖父・黒田高政が手柄を立てるために「船岡山合戦」で抜け駆けして、軍令に背いたため、将軍・足利義稙の怒りを買った。
佐々木氏の謝罪によって曾祖父・黒田高政は許されたが、近江から追放となったため、曾祖父・黒田高政は同族を頼って、備前の福岡村(岡山県瀬戸内市長船町福岡)へと移り住んで、福岡村に土着した。
後に黒田家が治める豊前(大分県+福岡県西部)が福岡県という名称になったのは、黒田家が備前(岡山県)の福岡村に土着したことに由来する。
1521年(大永元)、播磨・備前・美作の守護大名・赤松家で謀反があり、赤松家の重臣で備前の守護代を務めていた浦上宗村が播磨守護職の赤松義村を討ち、播磨は内乱へと発展した。
大永3年(1523年)に曾祖父・黒田高政は備前(岡山県)の福岡村で病死し、次男の黒田重隆が家督を継いだ。この黒田重隆が黒田官兵衛の祖父である。
曾祖父・黒田高政の死後、備前の福岡村は浦上宗村に侵略されたため、祖父・黒田重隆は福岡村を出て播磨(兵庫県)へと移り住んだ。
やがて、祖父・黒田重隆は「黒田入道(黒田宗卜)」を名乗って播磨の姫路へと移り住み、姫路で有力な豪族にまで成長した。
なお、黒田家には、秘伝の目薬「玲珠膏(しゅれいこう)」の調合方法が伝わっている。このため、祖父・黒田重隆は玲珠膏の販売によって財を成したとされているが、玲珠膏を販売して財を成す話は創作である。
 だが、こうした家系であるからこそ「一介の目薬屋から天下を動かす大軍師になった」と後世、「お百姓さんから天下人になった豊臣秀吉」と同列に扱われる、まさに下克上を体現した人物といわれるのだ。
2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」では、主人公をジャニーズ・アイドル・グループV6のイケメン「岡田准一」さんが演じていたが、本物の官兵衛は禿頭で醜い顔で杖をつかねば歩けない程の「病人」である。「軍略家」でこそあるものの本当に自分ひとりで闘うのは苦手である。
 祖父・黒田重隆が姫路で有力な豪族となり、一帯を支配するようになったころ、全国には下克上の嵐が吹き荒れ、全国各地で争いが始まっていた。
このころの播磨は、播磨守護大名の赤松家が衰退して大小の豪族が割拠しており、姫路周辺では、赤松家の一族で、御着城(兵庫県姫路市御国野町)を本拠地とする大名・小寺政職(こでら・まさもと)が勢力を誇っていた。
天文13年(1544年)、姫路の豪族に成長していた祖父・黒田重隆は、乱世を生き残るため、御着城の城主・小寺政職(こでら・まさもと)に仕えることにした。
祖父・黒田重隆は小寺家で頭角を現し、小寺政職は祖父・黒田重隆を重用し、父・黒田職隆もかわいがった。
父・黒田職隆は非常に優秀だったので、小寺政職は父・黒田職隆を家老に付かせようとしたが、新参者を家老にしては譜代の臣からの反発するため、小寺政職は父・黒田職隆を一門に迎え入れ、家老にしようと考えた。
そこで、天文14年(1545年)、小寺政職は明石城主・明石宗和(明石正風)の娘・明石岩(岩姫)を養女とし、父・黒田職隆と結婚させると、父・黒田職隆に「小寺」の姓を与えて一門に加え、「職」の一字も与えた。
(注釈:これ以降、黒田職隆は「小寺職隆」を名乗るようになるが、話が複雑に成りすぎるため、「黒田職隆」で統一する。)
そして、譜代の家臣が小寺家一門になった父・黒田職隆を尊敬するようになると、小寺政職は父・黒田職隆を筆頭家老に任じ、姫路城の城主に抜擢したのである。
現在の国宝・姫路城は、江戸時代に池田輝政が改修したもので、この時の姫路城の規模は分からない。この時の姫路城は居館ていどの規模で、父・黒田職隆が城と呼べる程度の規模に改修したとされる。
こうして、父・黒田職隆に姫路城の城主となった翌年の天文15年11月29日(1546年12月22日)、姫路城で幼名「万吉」こと黒田官兵衛が誕生したのである。

  石田三成は安土桃山時代の武将である。
 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大阪城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大阪城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「バカのヤツよのう、三成!」福島正則は酒臭い顔で、酒瓶を持ちふらふらしながら彼を嘲笑した。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに、はははは」
 三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」と正則をきっと睨んだ。
「たわけ!徳川さまが三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、正則!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、徳川さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」福島正則は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「そうだ。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したのさ。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放った」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうだ?」
「いや、いらぬ」
 福島正則は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人や領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「へん。なんとでもいえ」福島正則は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「正則」
「なんだ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公と淀君様が危ないのだぞ!」
  福島正則は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、徳川さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そうか」
 正則は拍子抜けして去った。嘲笑する気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴だな」苦笑した。
 次に黒田長政がきた。官兵衛の息子・長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。

   関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・白河口の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。
 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。
 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。
 直江らは「何故にございますか?いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか?御屋形さま!」
 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ」
 直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ!刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。
 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。

   石田三成はよく前田利家とはなしていたという。前田利家といえば、主君・豊臣秀吉公の友人であり加賀百万石の大大名の大名である。三成はよく織田信長の側人・森蘭丸らにいじめられていたが、それをやめさせるのが前田利家の役割であった。三成は虚弱体質で、頭はいいが女のごとく腕力も体力もない。いじめのかっこうのターゲットであった。
 前田利家は「若い頃は苦労したほうがいいぞ、佐吉(三成)」という。
 木下藤吉郎秀吉も前田又左衛門利家も織田信長の家臣である。前田利家は若きとき挫折していた。信長には多くの茶坊主がいた。そのうちの茶坊主は本当に嫌な連中で、他人を嘲笑したり、バカと罵声を浴びせたり、悪口を信長の耳元で囁く。信長は本気になどせず放っておく。しかるとにき事件があった。前田利家は茶坊主に罵声を浴びせかけられ唾を吐きかけられた。怒った利家は刀を抜いて斬った。殺した。しかも織田信長の目の前でである。
 信長は怒ったが、柴田勝家らの懇願で「切腹」はまぬがれた。だが、蟄居を命じられた。そこで前田利家は織田の戦に勝手に参戦していく。さすがの信長も数年後に利家を許したという。「苦労は買ってでもせい」そういうことがある前田利家は石田佐吉(三成)によく諭したらしい。いわずもがな、三成は思った。


「北条氏政め、この小田原で皆殺しにでもなるつもりか?日本中の軍勢を前にして呑気に籠城・評定とはのう」
 秀吉は笑った。黒の陣羽織の黒田官兵衛は口元に髭をたくわえた男で、ある。顎髭もある。禿頭の為に頭巾をかぶっている。
「御屋形さま、北条への使者にはこの官兵衛をおつかい下され!」
秀吉は「そうか、官兵衛」という。「軍師・官兵衛の意見をきこう」
「人は殺してしまえばそれまで。生かしてこそ役に立つのでございます」続けた。「戦わずして勝つのが兵法の最上策!わたくしめにおまかせを!」
 そういって、一年もの軟禁生活の際に患った病気で不自由な左脚を引きずりながら羽柴秀吉が集めた日本国中の軍勢に包囲された北条の城門に、日差しを受け、砂塵の舞う中、官兵衛が騎馬一騎で刀も持たず近づいた。
「我は羽柴秀吉公の軍師、黒田官兵衛である!「国滅びて還らず」「死人はまたと生くべからず」北条の方々、命を粗末になされるな!開門せよ!」
 小田原「北条攻め」で、大河ドラマでは岡田准一氏演ずる黒田官兵衛が、そういって登場した。堂々たる英雄的登場である。この無血開城交渉で、兵士2万~3万の死者を出さずにすんだのである。
ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、池波正太郎著作、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。

「かぶき者」「傾奇者」と書く。「傾(かぶ)く」とは異風の姿形を好み、異様な振る舞いや突飛な行動を愛することをさす。
 現代のものに例えれば権力者にとってめざわりな『ツッパリ』ともいえるが、真の傾奇者とは己の掟のためにまさに命を賭した。そして世は戦国時代。ここに天下一の傾奇者がいた。
 その男の名は前田慶次(まえだ・けいじ、正しくは慶次郎)である。戦国時代末期、天正十年(一五八二年)早春………
 上州(群馬県)厩橋城(うまやばしじょう)に近い谷地で北条家との決戦をひかえ滝川一益の軍勢より軍馬補充のため野生馬狩りが行われていた。
「野生馬を谷に追い込んだぞ!」「一頭も残すな!ことごとく捕えよ!!」
 するとまさに大きく悠々しい黒い野生馬がこちらをみた。
 野生馬を長年見てきた農夫や百姓男たちがぶるぶる震えて「お……逃げ下さいまし」ひいい~っ!と逃げ出した。
「? 何を馬鹿馬鹿しい」奉行は不快な顔をした。
「御奉行あれを!」
 その黒い野生馬が突進してくる。「矢だ!は……早う矢を放て!」
 ぎゃーあああっ!たちまち三、四、五人が黒い野生馬に踏み殺された。うがあ!奉行は失禁しながら逃げた。
 滝川勢の拠点・厩橋城で報告を受けた滝川一益(たきがわ・かずます、関東征伐を企てる織田信長の関東派遣軍の軍団長)は「恐るべき巨馬で土地の者の話ではなんと悪魔の馬と申すそうだ。その馬を殺せ、益氏!」と城内で言う。
「ごほんん」「さもないとこの土地では馬は手に入らん」「これはお断りいたそう」滝川益氏(ますうじ、一益の従弟。常に滝川軍の先鋒を務める荒武者である)は髭を指でこすりながら断った。
「悪魔の馬などを殺す役目…誰が引き受けましょうか。いくさ人は古来、験(げん)をかつぐもので、その馬を討てば神罰が下りましょう。命がいくつあっても足りません」
「軍馬が足りぬでは戦にならぬぞ」
 益氏の次男で前田利家の兄・利久に養子にやられたのが前田慶次である。傾奇者で派手な服装にザンバラ髪で身の丈六尺五寸(一九七センチ)をこえる大柄の武士で父益氏の軍団にあってその傾奇者ぶりと棲まじいいくさ人ぶりで知られていた。
 眉目淡麗な色男であり、怪力で、器の広いまさに男の中の男である。
「そうだ、慶次にやらせよう」
 慶次ははははと笑い、「できませぬな。犬や猫なら殺せますがそんないい馬なら誰が殺せますか?殺すより飼いならして愛馬としたい」
「何だとこの野郎!今まで何人もの兵がその悪魔の馬に殺されとるのじゃぞ?!」
「悪魔?」慶次は嘲笑した。「悪魔と言えば織田信長じゃ。第六天魔王じゃとか?」
「これ!信長さまを呼び捨てにするな、そちの首がとぶぞ!」
 慶次は聞く耳もたない。
 しかも暴れ馬を格闘することもなく本当に愛馬にして、「松風」と名前をつけて合戦に参加するのだからやはり前田慶次は凄い男だ。
 滝川軍は北条軍と合戦しようという腹だ。
 巨大な馬に乗り、巨大な傘をさす男が北条方の城門に寄る慶次である。
 北条方が鉄砲を撃ちかけると傘で防いだ。「な!あれは鉄傘か?!あの男、あんな軽々と…」
 北条勢は戦慄した。悪魔だ。敵に悪魔が鬼が味方しておる。
 北条勢ががくがく震え、もはや戦意消失しかけているところに、北条氏邦の侍大将・古屋七郎兵衛という荒武者が馬で開いた城門から現れた。
「わしは古屋と申す!貴殿、名は?!」
「前田慶次!つまらん戦で命を捨てるな!」
 たちまちに慶次は古屋の片腕を斬りさった。
 だが、あっぱれなる古屋である。「北条魂、みせん!」古屋は自分の刀で自分の首を斬りすてた。
 おおお~つ!これで北条の戦意は復活した。
 慶次は「北条武士も見事也!いずれ戦場であいまみれようぞ!」といい去った。
 まさに「傾奇者」である。



首相官邸へのド素人ドローン侵入犯人逮捕「首相官邸テロ容易?」危機感のない国と安倍晋三の間抜け

2015年04月25日 19時33分28秒 | 日記









首相官邸へのドローン侵入容疑で脱原発派の犯人が自首し逮捕された。


福井の小浜市出身だという。行動は脱原発(笑)だという。何の問題もない訳はない。


今回は爆弾やサリン化学兵器などのテロはなかったが、


政府要人一国の首相の官邸にド素人がドローンを飛ばせる。


しかも、二週間も発見されない。


オウム真理教(アレフ、光の輪)や北朝鮮のようなテロリストの爆破テロも十分容易に可能と。


この国大丈夫なの?臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

映画『ばしゃ馬さんとビックマウス』観賞 主演・麻生久美子。脚本監督「映像ありき」過酷小説も過酷

2015年04月25日 05時39分12秒 | 日記










映画『ばしゃ馬さんとビックマウス』を観た。


主演の麻生久美子さんと関ジャニのひとがプロの脚本家を目指す内容だ。


脚本家・映画監督志望は小説より「映像ありき」だから


ハードルが高いし、過酷な世界だなあ、と感じた。


漫画や小説や音楽ならそれだけで完結してる。


が、何処でもプロは過酷な世界。臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

NHK木曜時代劇『かぶき者慶次』前田慶次晩年役・藤竜也さんのいぶし銀の演技2017年大河『米沢燃ゆ』

2015年04月24日 11時37分49秒 | 日記








木曜ドラマ『かぶき者慶次』第三話も最高でしたねえ。


藤竜也さんのいぶし銀の好演技で絶好調!


こうなると2017年度大河ドラマに『花の慶次』を!


という声が溢れそう。


けど、次は真田丸で同じ戦国時代だから、ここは『米沢燃ゆ 上杉鷹山公』



女大河『葵のジャンヌダルク井伊直虎と直政』

で願う。臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

TBS木曜ドラマ『ヤメゴク~ヤクザやめて頂きます~』最高!元AKB大島優子好演ヤクザ全員死ね

2015年04月24日 09時56分00秒 | 日記









木曜ドラマ『ヤメゴク~ヤクザやめて頂きます~』


第二話も大島優子の好演技で、最高だった。


昔、菅原文太や高倉健の映画で極道ブームが起きた事もあったらしい。


だが、ヤクザや暴走族(爆音族)らは


善良な市民を騙し、暴力で脅し、大金を詐欺で騙し取るクズだ。


更に麻薬まで売る。


ヤクザ全員死ね!臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

赤い皇帝・習近平VS安倍晋三「(AIIBにおける)金融・資金」「環境汚染対策」ノウハウ!戦略的互恵関係!

2015年04月23日 18時28分07秒 | 日記









習近平が安倍に尻尾をふってきた背景は


「(AIIBにおける)金融機関ノウハウと資金」「環境汚染対策ノウハウ」だ。


しかし、日本がAIIBに入る入らないに関わらず


いわせてもらえば、歴史問題うんぬんゆうが、


毛沢東の方が日本軍より大虐殺してる。

大躍進政策・文化大革命政策で中国人を何千万人も殺した(笑)


日本軍をやぶったのも中国共産党軍ではなく、蒋介石の国民党軍である(笑)臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

ドラマ『四十九日のレシピ』観賞 永作博美・石橋蓮司泣かせる!感動!大島優子も永作博美に必ずなれる!

2015年04月23日 17時30分39秒 | 日記









ドラマ『四十九日のレシピ』を観た。

永作博美、石橋蓮司、二階堂ふみ、岡田将生、


等好演技で最後は泣かせる。


僕は永作さんのファンだけれど、永作さんは既婚者で


お子さんもいるらしく不倫(笑)する訳にもいかぬ。


まあ、永作さんの若い頃=大島優子な訳で(笑)


大島優子に恋愛感情はないけど(笑)臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

萩原流行(ながれ・光男)さん(享年62歳)交通事故死、警察車両護送車関与か?名俳優の犬死

2015年04月23日 14時34分20秒 | 日記







【萩原流行さん死亡】警視庁護送車と接触か 萩原流行さん死亡事故、警部補ら聴取  

2015年4月23日 11時55分 産経新聞
萩原流行さん

 俳優の萩原流行(本名・光男)さん(62)が死亡した交通事故で、警視庁は23日、同庁の護送車が絡んでいた可能性が高いと発表した。

 同庁交通捜査課は自動車運転処罰法違反(過失致死)容疑で、護送車を運転していた高井戸署の男性警部補(55)らから事情を聴いている。

 同課によると、現場は片側3車線の直線道路。左車線を走行していた護送車が中央車線に車線を変更後、中央車線を走行中に転倒した萩原さんのバイクと接触。右車線に投げ出された萩原さんが、後続の別の乗用車にひかれた可能性が高い。バイクが転倒した理由は不明という。

 男性警部補は留置中の容疑者を、同署員2人と病院に護送中だった。警部補らは「ひいた感覚はなかったが、ドンとバイクが転倒した音が聞こえた」と話している。

 死亡事故は22日午後6時5分ごろ、東京都杉並区高円寺南の青梅街道で発生。萩原さんは3月にも同区西荻北の路上でバイクを運転中に転倒し、軽傷を負って病院に搬送された。同月下旬には、昨年10月に乗用車でひき逃げ事故を起こしたとして書類送検されていた。


俳優の萩原流行(ながれ・光男)さんは夫婦で鬱病と闘病と話題になった。
過去の作品『奇兵隊(主演・松平健・高杉晋作役)』の井上聞多(馨)役で新鮮な演技であっただけに死去は残念。最近はテレビでも映画でもとんと観なかった。
闘病中で、つらかったろうし、無念でしたでしょうね。心からお悔やみ申し上げます。御愁傷様。

宮本武蔵 風と武蔵と!剣術の天才・宮本武蔵の生涯いよいよ登場!ブログ連載小説4

2015年04月23日 07時59分44秒 | 日記








         4 決闘! 一乗寺下がり松





「宮本武蔵?」
 おねは京の屋敷で夫・稲本三郎にきいた。もう夜だった。
 三郎は「そうらしい」と頷いた。           
「まぁ」おねは驚いた。「武蔵さんが、宮本武蔵? あの奈良宝蔵院流をやぶった?」
「ああ! 武蔵は偉くなったんだ! あとは吉岡だろう?」
「京の吉岡流? 勝てるの?」
「…わからん。だが、勝てるかもしれん、武蔵なら」
 三郎は興奮しながら汁をすすった。
 するとお幹婆が「千代の失踪は武蔵のせいぞ!」とぼやいた。
「あのなあ、おふくろ。千代はもう子供じゃねぇ。本人がいくっていっていったんだから、武蔵のせいじゃねぇよ」
「やかましいわ!」お幹婆は悪態をついた。
 三郎らは京で刀剣屋をやっていた。しかし、儲からない。佐々木小次郎に”物干し竿”を売った店はすぐ近くのライバル店だった。
 ……こいつは鉄砲をはじめるしかねぇ!
 三郎は思った。
 しかし、妻のおねが「危ない商いですよ」というと、三郎は「商いってものはな、おね。少しくらい危なくなきや儲けられねぇのさ」とにやりとするだけだった。
「この際、徳川でも豊臣でもいい。鉄砲を大量につくって売りさばき儲ける!」
 三郎は救いようのないことを考えていた。


  兵庫之助は柳生の里で、「千代殿!」といった。
 午後の陽射しの薄い日だった。千代は「なんでしょう? 兵庫之助さま」と顔を向けた。「これから近くの寺までいきます。千代殿も一緒にいかかがですか? いい気分転換にもなるでしょう」兵庫之助はにこりといった。
「しかし…」
「なあに。新免武蔵とやらの情報は家臣のものが必ず得ます」
「武蔵さんは本当に京へ?」
「さあ。しかし、変な情報も届いておりまする」
「どのような?」
「宮本武蔵という男が奈良宝蔵院流をやぶったと……」
「……宮本武蔵? 新免武蔵ではなく?」
「はぁ」
 柳生兵庫之助は暗い顔をした。「すみません。お力になれなくて」
「いいえ! このように男どもに乱暴もされず生きていられるのも、兵庫之助さまが助けてくださったおかげです。感謝のしようもありません」
 千代は平伏した。
「いやいや、頭をあげられよ。かたいことはなしです」
「はい」
 ふたりは笑った。
「散歩がてら行きませんか?」
「はい」千代は答えた。
 ふたりは近くの寺まで出掛けた。まだ午後になったばかりの頃である。


  そののち、武蔵は柳生の屋敷を訪ねた。
 夕方だった。
「頼もう!」門の前で大声でいった。家臣がでてきて、「何か用ですか?」ときいた。
「柳生石舟斎殿とお手合わせ願いたい」
 武蔵は頭をさげた。
「柳生では他流試合は行っておりません」
「試合ではありません。吉岡流と闘う前に柳生石舟斎殿とお手合わせしたい次第で…」
「よかろう!」突然、屋敷の廊下から声がした。石舟斎だった。
 彼の姿を見たとき、武蔵は鋭い殺気を感じて、緊張した。見た目は只の老人のようだが、剣の腕はすざまじい…そう感じたのだ。
「わしが柳生石舟斎じゃ。お主は?」
「宮本」武蔵はゆっくりいった。「宮本武蔵」
「宮本武蔵? あの奈良宝蔵院流をやぶった男か?」
「いかにも!」
 石舟斎は笑った。「そんな男がわしと手合わせして何になる? こんなオイボレと手合わせしても無駄とは思わなんだか?」
「……いいえ。是非、吉岡の前に柳生石舟斎殿とお手合わせ願いたい」
「どこから足を運んだ?」
「京からきました」
「そうか。なら、来い。手合わせしてやろう、武蔵」
 道場は夕暮れでセピア色だった。武蔵は竹刀を手にした。石舟斎は何も持たず、手をぶらぶらとして構えた。ふたりは対峙した。
「どうした? 武蔵。かかってこい。手合わせしたいのであろう?」
 やあああぁっ! 武蔵は竹刀を振った。が、交わされ、そのあと竹刀を両手でとられ、突き飛ばされた。何度やっても同じだった。
「力だけでは勝てんぞ! 宮本武蔵!」
 武蔵は眉間に皺をよせ、竹刀を構えたままだ。柳生石舟斎にはスキがなかった。
「武蔵! ……鳥の鳴き声は聞こえたか? 水の音はきこえたか?」
「鳥? 水?」武蔵は狼狽した。
「そうだ。闘っているときにもそれらの音がきこえなければ勝てん。わしと闘っている最中に鳥の鳴き声は聞こえたか? 水の音はきこえたか?」
 武蔵は沈黙し、がくりと膝を落とした。
 ……負けだ。俺の。
「まいりました」武蔵は平伏した。
「武蔵とやら、京からきたそうじゃのう? 新免武蔵という男を知っておるか?」
「それは…」武蔵は狼狽した。「私のことでござりまする。何故その名を…?」
「いや。たいしたことではない。擦れ違いとなったか…」
 柳生石舟斎は舌打ちした。
「ごめん! 京へ戻りまする」武蔵は屋敷から駆け去った。
「待て! 武蔵! 千代殿が…」
 石舟斎の声が追いかけたが、武蔵には届かなかった。

  千代が帰ったのは武蔵が去ってしばらくしてのことだった。
「え?!」石舟斎にすべてをきかされ、彼女は緊張した。驚いた。「宮本武蔵が新免武蔵?」「千代殿」柳生兵庫之助は笑顔をつくり「やっと尋ね人がみつかった訳ですな」
「はい!」
「しかし…」兵庫之助はバツが悪そうな顔になり「私が寺に誘わなければそのひとにあえた訳ですよね? 申し訳ない千代殿」
「いいえ。とんでもありません。私は早速京へ…」
「いや、またれい千代さん。もう夜になる。危ない。出発は明日の朝にしなされ」
 石舟斎は笑顔でいった。


  宮本武蔵が吉岡清十郎への”果たし状”が京の街中に張り出されたのはその四日後だった。武蔵がついに動いたのだ。一度は負けた……しかし、今度はそうはいかない…
 京の住人や客人ら庶民は、その”果たし状”を囲んで食い入るように見ていた。
 その中に稲本三郎の姿もあった。「すげえな武蔵は! あの吉岡と決闘かよ」
 庶民がざわざわしていたとき、千代が人垣をわけるようにすすみ、その書状をみて、
「宮本武蔵! まちがいない武蔵さんだわ」といった。
 すると三郎が気付いて、「千代じゃねぇか!」と笑顔になった。
「あら! 兄上!」
 千代は明るい声を出した。「この宮本武蔵ってひと新免武蔵さんよね?」
「そうとも! 武蔵は偉くなったんだ」なぜか三郎は胸を張った。
「兄上、武蔵さんは今何処へ?」
「知らん。だが、この書状通りの時刻にそこにくるだろう」三郎はどこまでもマイペースだった。「とにかく、おふくろが怒っておるぞ。はよう顔みせにいけ」
「どこへ?」千代は不思議な顔をしてからから笑った。「武蔵さん、いえ宮本武蔵さまはきっと勝ちますわね?」
「おお! 武蔵は強くなったんだ」
 なぜか三郎は胸を張った。
  武蔵はその時、山の中で稽古をしていた。そして、その最中、鳥の鳴き声や水のせせらぎの音をきいた。なんともいえない気持ちだった。全身の血管の中に何か熱いものが駆けめぐるような……
 なんといえばいいのだろう? 不思議な高揚だった。

  数日後の午後、京・蓮台寺野で吉岡清十郎はひとり、木刀を構えて待っていた。
「遅い! 武蔵め、俺に恐れをなして逃げたか?!」
 清十郎はイライラしていた。またも武蔵は遅刻したのだ。しかし、これは武蔵独特の戦略だった。時刻に遅刻して、待たされたほうはイライラして動揺する。そこにスキが出来る。すべては計算ずくである。やがて、武蔵が遅刻してやってきた。
 木刀を構え、対峙する。
 武蔵は太陽を背にしていた。「武蔵! 俺に勝てるとでも思うか! 馬鹿め!」
 清十郎は「勝利」を確信していた。
 …この男、一度は俺にコテンパンにやられたのだ。いくら奈良宝蔵院をやぶったからといっても、俺の敵ではないわ!
 やああぁつ! 武蔵は上段に構えて、吉岡清十郎に向かって駆けた。
 そして、武蔵は身をそらす。するとどうだろう? まぶしい陽の光りが清十郎の視野を一瞬うばった。次の瞬間、武蔵の木刀が吉岡清十郎の右肩をぶち砕いた。
 清十郎は、激痛で木刀を落とし、草むらに倒れた。
「これまで!」
 武蔵は叫んだ。勝った! 俺の勝ちだ!
  彼はガッツポーズで勝利を喜んだ。
 やがて、勝敗の賭をしていた男たちから、武蔵は”接待”をうけた。他人が死ぬか生きるかの試合をしているときに「勝つほうに何文…」とは不謹慎だが、当時の日本人はとにかくそういうことが好きだったという。関ケ原の戦いのときも近隣の百姓たちが面白がって”観戦”していたほどだ。武蔵の勝ちは少なく、その為「同元」ががっぽり稼いだ。
 その為、賭仕掛け人たちの商人が、武蔵を遊郭に招待してくれた訳である。
 そこで、武蔵は吉野太夫という美貌の女とあう。吉野太夫は、太夫らしくめかしこんでいて、紅の唇が妙に鮮やかで、くるりとした目が印象的であった。
 吉岡清十郎は肩をくだかれ、手を切断するはめとなった。吉岡流は焦った。
吉野太夫は武蔵に酒をついだ。武蔵は一気に呑んだ。
 闘いの前の酒は、まずかった。

 その夜、蓮華王院(三十三間堂)の砂場に吉岡清十郎の実弟・吉岡伝七郎が真剣をもって待っていた。月明りで、辺りがうっすらと浮かび上がるかのようだった。
 またも武蔵は遅刻した。戦略だ。篝火で辺りはセピア色だった。
 吉岡伝七郎はイライラしていた。すると、三十三間堂の廊下から、提灯をもった武蔵が歩いてきた。ゆっくりとして殺気はなかった。
「遅いぞ武蔵! 俺をなめるのか?!」伝七郎が怒鳴って、真剣を鞘から抜いてかまえた。 武蔵は提灯を置き、木刀を構えた。「真剣でといったろう?!」
「私はこれで…」武蔵は長い廊下を駆け始めた。勢い、伝七郎も駆け出す。
 やああぁつ! 武蔵は上段に構えて、足をとめた。
 足をとめて、伝七郎は砂でスリップした。武蔵は、一瞬スキをうばった。次の瞬間、武蔵は上から飛びかかり、木刀が吉岡伝七郎の額をぶち砕いた。
 伝七郎は、激痛で木刀を落とし、砂場に倒れた。出血多量で、まもなく死んだ。
「これまで!」
 武蔵は叫んだ。勝った! また俺の勝ちだ!
  吉岡は焦りに焦った。このままでは吉岡流は武門の名おれ……
  今度は吉岡一門たち数十人と決闘するハメとなった。
 武蔵はまたも真剣な勝負をすることになる。今度は真剣での立ち会いで、というのである。しかも、相手は多勢に武勢……だが、ここで負ければ男じゃない。
 だが、吉岡一門たちは銃や槍、弓矢まで用意しているという。
 武蔵はいささか危険を感じていた。
  早朝、靄のかかった中、彼は一乗寺下がり松の決闘の場所を視察にいった。大きな松があった。そこが決闘場所だ。しばらくすると人影がみえた。
「誰だ?!」武蔵は脇差しに手をかけた。
「佐々木小次郎だ。お主が宮本武蔵だな?」長い剣を背負った男がいった。
「……いかにも」
 小次郎は表情を崩すこともなく、「吉岡一門たちは銃や槍、弓矢まで用意している。多勢に武勢……勝てるか? 武蔵」
 武蔵はしばらく沈黙してから、「……勝たねばなりません。負けは死です」といった。「吉岡一門たちは総大将を立ててるぞ。まだ十歳の子供だ。名は壬生又七郎」
「……子供?」
「その子供を斬らなければ勝負は終わらん。それが吉岡一門たちの狙いなのだ」
 佐々木小次郎はハッキリいった。
「……なぜ?」武蔵は疑問をぶつけた。「なぜ、そのことを私に?」
「同じ武芸者として…忠告したかった。逃げたほうがよいぞ、武蔵。多勢に武勢…勝ち目はないに等しい」
 武蔵はしばらく沈黙してから、「……ご忠告有り難く承ります。されど、逃げては武芸者の名折れ。私は逃げません。闘います」と低い声でいった。
「子供を斬れるのか? 武蔵」
 武蔵は沈黙した。みぞおちを占めていた漠然たる不安が、現実のものとなって武蔵の心臓をえぐりだした。見えない血がぽたぽたと地面にしたたった。
……斬らねばなるまい。たとえ……子供でも…

「武蔵! お~い武蔵!」
 午後、寺で自炊していた武蔵に男が声をかけた。それは三郎だった。
「さぶやん……!」武蔵の顔に笑みが浮かんだ。なつかしい再会だった。「さぶやん!
なつかしいなぁ」
「武蔵、強くなったな! 吉岡兄弟をやぶった! 立派になったな」
「いや。立派などと…」                  
 武蔵は照れた。そのとき、「武蔵さん!」と女の声がした。千代だった。
「千代殿?!」武蔵は目を丸くした。驚いた。
「武蔵、一緒に江戸へ行こう。千代も一緒だ。吉岡一門大勢と戦うなんて無理だ。ひとりでは勝てんぞ、武蔵」三郎はいった。
 千代が口元に笑みを浮かべて、近付いた。三郎は「総大将は子供だっていうじゃねぇか。子供を斬ってまで有名になりたいのか?」といった。
 が、武蔵は狼狽し、「千代殿、今はあえん!」と涙声で叫んだ。
「武蔵?」
「……武蔵さん?」
 ふたりが疑問な顔をすると、武蔵は駆けて逃げ去った。「武蔵さん!」
 声が追いかけたが、武蔵には届かなかった。



  ついに決闘の日がきた。
 決闘の場所は「一乗寺下がり松」。吉岡一門たちは銃や槍、弓矢まで用意していた。
 ひたすら武蔵の到着を待った。白い布の陣幕がしかれてあり、陣内には鎧姿の子供が座っていた。総大将の十歳の子供。名は壬生又七郎。
「遅い! 武蔵はまだか?!」またも武蔵は遅刻した。もう昼頃だった。
 見物人たちがざわざわしだした。見物人の中には三郎や千代、お幹婆の姿もあった。
「あれだけの武装した人数に勝てる訳ない! 三之助を見殺しにした武蔵はここで死ぬぬるのじゃ! ざまあみさらせ!」お幹婆は悪態をついた。
 千代は不安になった。「兄上、勝てるでしょうか? あの大人数……」
 三郎は答えなかった。三郎にもからなかった。
 実は、武蔵はすでに決闘の場所は「一乗寺下がり松」に着いていた。
 陣幕の裏の山に潜んでいたのである。
 武蔵は丘の上から陣を見ていた。そして、ある決心を胸に殺気だっていた。武蔵の存在に気付く者はまだいなかった。武蔵はゆっくりと剣を鞘から抜き、二刀構えると、ざざっと鬱蒼と茂る樹海の丘を駆け始めた。ジヤンプする。
「武蔵だ! 武蔵がきたぞ!」やっと吉岡一門たちは気付いた。なんとも遅い反応なのか?それとも武蔵の作戦勝ちか?
 武蔵は陣幕を斬り、総大将の十歳の子供、壬生又七郎に側に近付いた。そして、なんと無抵抗の子供をするどい剣で斬り殺した。血飛沫が飛ぶ。
「総大将を斬った!」
 武蔵は怒鳴るように叫んだ。大声でいった。当然、吉岡一門たちは動揺した。
 年端もいかぬ子供を斬ったことで、見物していた千代は愕然として気を失いそうになった。お幹婆などは「鬼じゃ! 鬼じゃ!」と騒いだ。
「……武蔵」三郎も驚いた。
 しかし、総大将を斬らぬねば闘いはいつまでもおわらない。それはちょうど織田信長が、今川義元の首を奇襲で討ち取ったときと似ている。今川軍はそれだけで総崩れとなった。 千代は頭が痛く、吐き気をもよおしてきた。
 吉岡一門たちは狼狽しながらも武蔵に剣で挑んだ。しかし、バッタバッタとやられていった。つばぜりあい。こてを払い、心臓を突く。武蔵は吉岡の浪人たちを斬り殺し続けた。 武蔵は腕を軽く斬られたが、刀では負けなしだった。
 やがて、吉岡一門たちは総崩れとなった。遁走する者もではじめる。
 宮本武蔵対吉岡一門の「一乗寺下がり松」の闘いは、武蔵の勝利におわった。血だらけになりながら、武蔵は「これまで!」と叫んだ。
 こうして、武蔵は吉岡をやぶったことで天下にその名を轟かせた、のである。