長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

ライトウエイThe's it right way?特別連載ブログ小説2

2013年10月30日 07時14分50秒 | 日記

        4 暴力と愛




「…れ……嶺子?!」
 椿亜也は思わず少女のような声を上げて驚愕した。
 玄関先で扉を開けたとき、顔に痣や傷だらけの嶺子が倒れかかってきたからだ。
 他の3人も、騒ぎを聞き付けてやってきて驚いた。
 幸智子は、「警察を……その前に救急車だよね」と言う。と、嶺子が、
「警察や……医者は…いらないわ。何でもないの。何で…もないのよ…」
 とダウン寸前で息絶え絶えに小声で言った。
「…とにかく中に入って! 幸智子さん、救急箱もってきて!」
 椿は嶺子を抱き抱えながら叫ぶように言った。
  とにかく消毒と包帯は巻いた。
 一同は酔いも冷めて、青ざめた顔でソファーに座って沈黙した。
 長く重苦しい空気が部屋に蔓延した。
 もう深夜である。
「もう、最低だね! 嶺子ちゃんがこんなになるまで暴力を振るうなんて…」
 幸智子は吐き捨てるようにいった。
「……嶺子……これが初めてじゃないよね? 何回目?」
 心配して椿が尋ねた。嶺子はソファーに座っていたが、沈黙するだけだった。
 小池も「…女性にこんな顔になるまで暴力なんて…普通は…」と言葉をきった。
「…暴力じゃなんの解決にもならないよ。とんでもない野郎だな、あの野郎は!」
 緑川がいうと、嶺子が入江貞雄を庇った。
「でも……皆、貞雄くんの悪口…いわないで。これは愛なんだよ。貞雄くんの屈折した……私は母子家庭で育っていつも孤独だった。貞雄…くん…も幼いときに両親が出ていって、それで親戚の間をタライ回しにされて……寂しいんだよ。愛なのよ…」
「違う! こんなの…愛じゃないよ! 只の暴力だよ!」
 椿はきっぱりと否定した。嶺子は動揺し狼狽するだけだった。
  深夜、嶺子は亜也のベットで眠った様子だった。
 椿と緑川はベランダで話しをした。
「…とにかく……嶺子をあの男から離さなければ……嶺子は殺されちゃうわ」
 椿の言葉に緑川は、
「そうだな。明日は私が嶺子くんを見守ってるよ。仕事にもいかせない。あの野郎がまたくるかもか知れないからな」と頷いた。
「緑川さん、すいません。私、明日朝に写真撮影の仕事が入ってるの」
「いいよ……私は作家だからね。何処でも仕事は出来るから…大丈夫さ。仕事にいっていいよ。大丈夫、嶺子くんは私が守るよ」
「すいません」
 椿は頭を下げた。

  早朝、緑川は夜なべしたようで眠く、起きた椿に朝の挨拶をした。
「…嶺子はどうです?」
「まだぐっすり眠ってるよ。安心したのだろう」
「幸智子さんや小池さんは?」
「仕事に行った。なんでも朝から会議らしいよ。嶺子くんのこと心配していたよ」
「そうですか……すみません、緑川さん。迷惑をおかけして」
「ははは」緑川は微笑んだ。「いいってことでい」わざとらしく江戸訛りでいった。そして「それより君も大事な仕事があるんだろう? 嶺子くんは私が見守ってるから…行っていいよ」
「すみません……嶺子のことを頼みます。嶺子には仕事場に行かせないで下さい。あいつが仕事場を知っている筈なので…」
「ああ。わかったよ」緑川は頷いた。椿は緑川鷹山が誰にでも優しいことを改めて知った。 椿亜也は嶺子を心配しながら、仕事へと向かった。

  椿の仕事は町中でのファッション雑誌のモデルの仕事だった。
 今年のトレンド(流行)といわれる服を着て、ポーズを決めていく椿…。
「いいね、それそれ」
 先輩のカメラマン、阿部がシャッターを切っていく。阿部はもう四十過ぎのオッサンだが、まだ独身だ。昔はモデルをやっていた様だが、不精髭を生やしてがたいが強くて、元・モデルには少し見えない。椿亜也は阿部のことを先輩として尊敬していた。
 だが、それは愛ではなかった。只のリスペクト(尊敬)で、それ以上の感情はない。
「よし……少し休憩しようか」
 阿部がいうとメイクさんが椿の顔をいじって休憩に入った。と、同時に椿の顔がひきつった。…あいつ…は。遠くであの入江貞雄が背広姿で睨んでいたからだ。
 椿は「すいません。ちょっとトイレ…」
 といってその場から離れると、物陰から携帯電話で、緑川の携帯へ繋いだ。
「……どうした? 椿くん?」
「…嶺子は? 今どうしてます?」
「ああ。今はひとりでTVみてるよ。何かあったの?」
 椿は声をひそめて「あいつがいるんだよ。現場に……私の跡をつけて嶺子の居場所を見付ける気だよ。とにかく嶺子を外出させないで! 私は奴をまくためにちょっと遅くなる」「そう…か。わかった」
 緑川は電話を切った。嶺子は振り向き「緑川さん……亜也なんですって?」
 と何も知らないで尋ねた。
「…ちょっと遅くなるって。ははは」
 緑川は無理に微笑んだ。
 ……あの入江って野郎がね。幸智子くんのいう通りにストーカー化しやがって。

「呑みに連れてってだって?」
 阿部はそう椿亜也に逆質問をした。
「はい。今日……いろいろと先輩にききたいこともあるし……ふたりで…駄目ですか?」「いやあ、いいけど。いつも付き合い悪いお前が珍しいな」
「…そ……そうですかね?」
  ふたりは夜、赤提灯の安っぽい居酒屋にいった。まくためには仕方ない。
 そこでビールを喉に流し込んだ。「どうぞ、先輩」椿は阿部にビールをついだ。
「……先輩、モデルとして成功するコツみたいなものはあるんですか?」
「成功のコツ? 失敗した俺にきくなよ」阿部は冗談をいった。
「失敗なんてそんな。先輩は雑誌で活躍したじゃないですか」
「過去の栄光さ。今じゃカメラ一本だ」
「でも……先輩、カッコイイですよ」
 阿部はにやりと皮肉な笑みを口元に浮かべた。「いいか? 椿。只、綺麗とか可愛いとかそれだけじゃ長くはモデルは続かないんだ。アイドル・タレントなんざ世の中に何万人もいるからな。ルックスだけじゃ駄目だ。すぐ終わるぜ。可愛いだけで通用するのは十代から二十代前半まで…ババアなんか誰も欲しがらない。まあ、話題性も必要だな」
「話題性?」
「作家の世界でよくやるだろ? 『小娘作戦』っていうの? 綿矢とか金原とか川上とかさ。”まだ十代の女の子が書きました。才能は未知数…でも天才を感じる!”とかさ」
 ふたりは笑った。
 確かに綿矢や金原らは『話題性』だけだ。
  居酒屋から出ると夜の東京は寒い感じがした。あいつはいない。うまく”まけた”のかも知れない。誰もいないアーケードの一角で、阿部は椿が思いもよらない行動に出た。 抱きついてきた。酔ってのことだ。「やめて…ください…よ。先輩…!」
 そして、椿の唇を奪った。
「やめろっていってんだろ!」
 椿亜也は咄嗟に阿部を腕で突き飛ばし、走って逃げた。
 くやしかった。何故かわからないが、悔しかった。涙が出た。

  深夜、椿亜也は部屋に戻った。
 緑川が出迎えた。「嶺子は?」
「大丈夫。今、ベットで眠ってるよ」
「そうか…あ! また幸智子さんと小池さんもきてるのか。また酔っ払って雑魚寝?」
「ああ。何かあったの?」
「いや」椿は頭を横にふって「別に何も……ないよ」と弱さを見せない。
「私には何でもいっていいのだよ。悩みは誰かにきいてもらえばサッパリするだろ?」
「別に……悩みなんて…」
 そういう椿の瞳からは涙が流れた。緑川はマザー・テレサのような愛でハグして、椿を慰めた。愛と友情の瞬間だ。「あいつはきてない。もう、嶺子くんには会わせないほうがいいな。危険だから…」
 椿は泣きながら頷いた。

「先輩……私の目をみて下さいよ」
 椿は次の日、撮影現場でよそよそしい阿部に声をかけた。
「私は………別に先輩のことが好きじゃないっていうか。別に尊敬してますけど、それは愛とか恋とかそういうものじゃなく。純粋に尊敬だけなんで。あのことは酒でのことだと思ってます」
 阿部は苦笑いを浮かべて「そ…そうだよな! いやあ、悪かったよ。俺、どうかしてたんだ。かなり酔っ払ってたからな。酒で狂っただけさ。な? 椿」
「……はい」椿は笑みを浮かべて頷いた。
 何にせよ、和解が出来た訳である。
  椿は深夜、マンションに戻った。雨がざあざあと激しく降り始めた。
「おかえり!」
 緑川と小池と幸智子が出迎えた。「遅かったね」
「…すいません。……っていうか何で私の部屋に皆いるんすか。嶺子は?」
 3人は静かな声で「もう眠ってる。疲れたんじゃない?」という。
「そう」椿はほっと胸を撫で下ろした。よかった。
 しばらくして玄関のチャイムが鳴った。
「はい。誰?」椿が扉を開けると、顔がひきつった。入江貞雄だ。黒の背広姿の入江貞雄がびしょ濡れでつっ立っていた。「…何の用ですか?」
「……嶺子いますよね? 返して下さい」
「………いないよ。どうかしたんですか?」怪訝な顔で、椿がいった。
「嶺子出してよ、オカマ」
「いねぇよ! 帰れ!」緑川が玄関にきていった。殺気が籠っていた。玄関の扉を閉めて鍵とチェーン錠をした。くそっ! つけられたか!
 心配して嶺子の様子を見てみると、すやすや眠っている。ほっとした。
 雨は強くなっている。しかし、窓から外を覗いてみると、まだ雨に濡れたまま入江がいるのがわかる。「……まだ居るよ」小池が怖くなっていった。
 椿と緑川と幸智子は何といっていいかわからなかった。
  早朝になり、雨が上がった。
 緑川と椿は外を覗いてみた。……よし、いない。あいつがいない。帰ったのだろう。
「私は少し眠るよ。徹夜だったからね」
 緑川はそういって欠伸をしてベットに向かった。椿はゴミ袋を持って外に捨てようと思った。そんなとき、嶺子が起きてきた。「おはよう、亜也。ゴミ?」
「……う…うん。捨てにいこうと思って」
「私が行くよ。泊めてもらって何もしないのは悪いもん」
 嶺子が微笑んだ。
 あいつがいなくなったことだし、まあいいだろう。「そう? わかった。じゃあ、お願いね」嶺子はゴミ袋を持って、外に出た。しばらくするとゴミ捨て場がある。捨てた。
 と、嶺子はハッとした。
 ずぶ濡れの背広姿で、入江が座っていた。「…さ…貞雄くん?! ズブ濡れで…ずっと私を待っていたの??」
「……嶺子…一緒に帰ろう? ね?」
 嶺子と入江は抱擁した。それをみた椿亜也の方が傷ついた。
 それは、鋭利なナイフで心臓を突かれたような痛み、だった。
         5 揺れる思い





「嶺子…一緒に帰ろう?」
 入江貞雄はずぶ濡れのまま彼女にもたれかかった。
 嶺子は肩を抱いて、抱擁した。何といっていいかわからなかった。でも、未練がある。彼はこんなにも私のことを欲しているのか…。
 タクシーに乗った。貞雄はシートに横になっていた。風邪で熱でもあるのか、虫の息である。…貞雄くん。御免ね。「運転手さん、急いでもらえませんか?」嶺子は焦った。
 朝、起きてきた幸智子が、「あれ? 嶺子ちゃんは?」と尋ねる。
「あ…ううん。ゴミ出しにいった」
 椿亜也はそう動揺して答えると、扉を閉めて無理にひきつった笑い顔をした。
 とにかく椿亜也は、心臓を鋭利なナイフで突かれたように衝撃を受けていた。
 しかし、あんなやつに負ける訳にはいかないとも思った。あの男は、嶺子を不幸にする疫病神だ。貧乏神だ。そうよ。きっと。とにかくそう思った。

  嶺子は、入江貞雄の肩を抱いてマンションの鍵を開けてベットまで運んだ。寝かせる。どうやら風邪をこじらせたのか、熱があるようだ。「貞雄くん……ちゃんと寝てるんだよ。おかゆ作ったらいくね」
「…行かないでくれ」
 咳き込みながら、貞雄がいった。
「でも……」
「……嶺子……行かないでくれ。一緒にまた暮らそう?」
 嶺子は戸惑ったが、決意を述べた。
「ちゃんとしたひとになってくれるなら……。仕事場の前でストーカーみたいなことや暴力をふるわない、我慢強くて忍耐強いひとになって。そうしたら…一緒にいてあげる」
 貞雄は何も答えなかった。「じゃあ、私、行くね?」
「…行かないで! お願いだ。行かないで!」
 咳き込みながら、貞雄は嘆願した。でも…。嶺子は未練を断ち切るには忍び堅い様子であった。無理もない。貞雄は自分のことをまって雨に打たれ、風邪をひいたのだ。
 まあ、本当は自業自得なのだが、田中嶺子はそうは考えられなかった。
 部屋を出て、嶺子は椿亜也の携帯に電話した。
「……嶺子? 今何処なの?」
「うん。ちょっと…私これから会社にいこうと思うの」
「でも…」
「大丈夫だから」
 嶺子は一方的に携帯を切った。その足で、出勤した。当然、無断欠勤をしていた訳だから、怒鳴られる。「すみません! もう一度働かせて下さい!」
 嶺子は頭を下げ続けた。
「あんたの代わりなんていっぱいいるんだからね! これから気をつけてよ!」
 女ボスは辛辣にいった。嶺子はなんとか仕事復帰できたのだ。
  仕事をしながらも、嶺子は自分の携帯を見てしまった。あれだけあった入江貞雄からの電話もメールも一切ない。それが何故か彼女を不安がらせた。
  椿はいらだった。
 嶺子が部屋に戻っても携帯をみてじっとしていたからだ。またぞろ、幸智子や緑川と小池がいた。椿は「そんな携帯……捨てなよ、嶺子! あいつがメアド知ってる携帯でしょう?」と強くいった。
 嶺子は動揺しながらも「そ…そうだね。じゃあ捨てるね」と携帯をゴミ箱に捨てた。
 しかし、椿が拾いあげて、
「ゴ、ゴメン! やっはり捨てなくていい。あ~っ、今の私はあいつと同じだよ。嶺子をしばって命令して…御免」
 椿は頭をふった。嶺子は皆には秘密にして、貞雄の看病を続けていた。未練が断ち切れない。ずるずると長居した。どうしてもそこから抜け出せなかった。
 小池哲哉は妻と別れるために部屋に戻った。しかし、臆病者の小池哲哉はずるずると女房のいいなりになってしまう。携帯で連絡を受けた幸智子は呆れた。
 緑川鷹山の部屋には、緑川と幸智子のふたりっきりになった。
 また幸智子は呑んだくれている。
「ねぇ、先生……私たち…どうしょうか?」
「え?」
 幸智子は冗談で、緑川の唇を奪おうと抱きついた。
 だか、緑川が拒絶した。幸智子を突き放した。そして、はあはあと荒い息で、苦しそうに動揺し、狼狽した。幸智子は茫然としてから、
「……ゴ…ゴメン! 先生がレズだって噂は…嘘だったんだね?」
 緑川は無言で頷いた。


「嶺子くん! パーティに行こうよ!」
  嶺子が仕事場から夕方に降りてくると、路上にいたのは入江ではなかった。
 緑川鷹山だった。
「緑川さん? どうしたんですか?」嶺子は驚いた。
「うん。椿くんがね、実家でパーティを開くってことで迎えに来たのだよ」
 緑川は微笑んだ。嶺子は「パーティ?」と尋ねた。
「とにかく、実家で椿くんたち家族がまってるんだってさ! 君のことを!」
  ふたりは都内の家に着いた。
 それは椿亜也の実家だった。
 嶺子はなつかしがった。「私…ここにくるのは高校生のとき以来です」
 そして、ふたりは亜也の家族に暖かく迎えられた。食事も豪華だった。しかし、長居する訳にはいかない、と緑川は先に帰った。
「…嶺子ちゃん、ここに泊まっていったら? な!」亜也の父親はそういった。
「でも…迷惑では?」
 嶺子が遠慮すると、亜也が微笑んで「迷惑なんかじゃないわ。泊まっていって。ね?」 という。まあ、そういうなら。嶺子はなつかしい亜也の家、亜也の部屋で和んだ。
 癒されっぱなしだった。亜也の両親と姉は優しく、フレンドリーだった。
  夜になり、亜也と嶺子はふたりっきりでベットに寝ていた。
「ねえ、亜也? そういえば高校のときから亜也とはこうしてすごしたよね? なつかしいな」
「…そうだね」
「でも…」嶺子は不思議がった。「亜也の恋話なんて聞いたこともないなぁ。好きなひととかいるの? 亜也」
 亜也は少し動揺した。それから「…うん。いるよ」とかすかに頷いた。
「へえ~っ。どんなひと?」
「方思いなんだ。ずっと。いままで」
 椿亜也はふと寂しい横顔を見せた。嶺子は「ふう~ん。じゃあ、辛いね?」
「…まあね。でもいいんだ。そのひとは私のことなんて何とも思ってない。でもね、嶺子……これだけはいっておくよ」
「なあに?」
 亜也はきっぱりいった。「あの入江って男はあなたを幸せにはできない。もっといい男がいる筈だよ。例えば、女性だけど緑川先生とかみたいな。あのひとは”いいやつ”だよ」 嶺子は無言できいていた。それが、届く筈もない恋だと亜也は思った。


  ある日、椿亜也はチャンスを掴んだ。
 TV帝都のバラエティ番組のカラオケで、歌うことが決まったのだ。全国ネットで、放送されれば椿の名や顔が、知渡る可能性が大だった。
 観客席には嶺子や、旗をもった緑川や幸智子や小池や、亜也の家族が応援していた。
 緑川は嶺子の手に痣があるのに気付いた。が、何もいえなかった。
 タレントによる『カラオケ熱唱』は続く。
 亜也は女の子タレントとして最後近くに登場した。嶺子たちは応援して拍手する。
 そんなとき、嶺子はバックの携帯が振動して、ビクついた。
 誰も気付かなかった。嶺子は誰にもバレないように舞台袖にいって携帯電話を取り出してみた。カメラに写った亜也はそんな嶺子を少し目でおって、それから歌いだした。
 ZARDの『負けないで』だった。
「…もしもし。貞雄くん? 何?」
 入江貞雄は受話器越しに「もう嶺子は部屋に来なくていいよ。ぼく、死ぬから…」と冷静にいう。嶺子は動揺した。…死ぬって…? 自殺するってこと?!
 電話は一方的に切れた。
  収録がおわると、そんな嶺子を緑川や亜也たちが止めようとした。しかし、入江の命が心配な嶺子は、頑としてききいれない。
 そして、嶺子は入江のマンションにひとりで乗り込んだ。
 貞雄は死んではいなかった。自殺予告はデマだったのだ。貞雄は冷酷な顔で、急いでやってきた嶺子を暴行し、レイプした。
 とんでもないことになる、という亜也の言葉が嶺子の頭を過ぎった。
 ……あの入江って男はあなたを幸せにはできない。もっといい男がいる筈だよ。例えば、女性だけど緑川先生とかみたいな。あのひとは”いいやつ”だよ……
         6 秘密





  別の日の午後、緑川鷹山こと希は、ひとりっきりで小説を執筆していた。
 しかし、執筆とはいってもノート・パソコンでの打ち込みだった。
 部屋の電話が鳴った。
「はい。もしもし? ……もしもし? 誰?」
 無言電話だった。
 そんなとき、受話器の向うから「ママ~っ」という幼児の声がかすかに聞こえた。
「ね……姉さん?!」
 緑川は狼狽してすぐに電話を切った。
「どうしましたか? 先生?」
 幸智子がやってきて尋ねた。「…いや、別に何でもないよ」緑川は動揺を隠して、ごまかした。とにかく、最悪だ。また姉さんか…糞ったれめ!
 その頃、椿亜也は病院でカウンセリングを受けているところだった。
 白衣の医者と『性同一性障害』と『SRS…つまり性転換手術』の話しだった。
 タイで手術するしか方法はない。百万円以上の大金が是非とも必要だった。

  ある午前、緑川鷹山は不安になって、嶺子のオフィスをひとりで訪ねた。しばらく様子も見ないし、とにかく不安だったのだ。
 しかし、思ってもみないような言葉をきくことになった。
「田中嶺子? もう仕事辞めましたよ。こっちも無断欠勤とか続いて困ってたの。助かったわ」女ボスは冷酷にいった。
 どういうことだ? 緑川は不安になった。仕事は辞めたというし、嶺子くんは亜也の実家にもマンションの隣の部屋にも帰ってはいない。…ま、まさか?!
 緑川はその足で、入江のマンションに向かった。住所は、嶺子の元・勤め先からきいていた。幾らチャイムを鳴らしても返事がない。緑川はノブに手を伸ばした。開いていた。「嶺子くん? いるのか?」
 そろそろと部屋の中に入ると、嶺子が精魂疲れ果てたような鬱状態で、つっ立っていた。顔や腕には痣や傷が目立つ。「…?!?! 嶺子くん?!」緑川は驚愕して、叫んだ。
 入江は仕事にいったのか、いない様子だった。
「れ…嶺子くん! 外に出よう?」緑川は茫然と突っ立っている嶺子の腕を掴んだ。


  その日の平日正午にファミレスで、緑川と嶺子は向かいあって座った。
 客はあまりいない。気まずい空気だけが流れた。
「……嶺子くん。毎日、何やって暮らしてたんだい?」緑川は心配してきいた。
「…………食事作ったり、洗濯した…り…TV観たり…いろいろ…」
「あいつと別れたほうがいい。今だって顔をそんなにされて…」
「でも…」嶺子は言葉をきった。「皆に迷惑がかかるから…いいよ…私ひとりが我慢すればいいんだし」
「迷惑だなんて……早く病院に行こう。病院でDVだってわかれば…警察も動いてくれるよ。ね?」緑川はそういって嶺子を慰めた。なんて男なのだ、あの入江という男は…。
 道路を歩いているとき、緑川は戦慄した。入江貞雄の姿をみたからだ。
 緑川は嶺子の腕を強引にひっぱって、タクシーに乗せた。
「う…運転手さん! 早く、早くだして!」
 入江がくる。「早く! 運転手さん!」貞雄はタクシーの窓を掴んで止めようとする。「…嶺子! 嶺子、行くんじゃない! 嶺子!」
「う…運転手さん! 早く、早くだして!」タクシーでなんとかまいた。走り出すタクシー。だが、嶺子を亜也や自分の部屋へ戻すのは危険だった。
 あの男が住所を知っている。まず、病院に行って嶺子を診てもらった。
 それから夜になって、嶺子をポケット・マネーでビジネス・ホテルへ泊めさせることにした。嶺子は放心状態で、顔に痛々しい包帯や絆創膏だらけで、ベットに横になった。
「とにかく! あの男と……別れるんだ、いいね? 嶺子くん?」
 嶺子は答えなかった。「とにかく別れることだ! あの男は君を不幸にする!」
 緑川はそういって、部屋をあとにした。
 不安でいっぱいなのは亜也くんも同じだろう。携帯で連絡して事情を説明はした。が、どうにもならないかも知れない。緑川鷹山の心は揺れた。

  小池哲哉は妻と別れることが出来ずに、また深夜、道原幸智子の部屋を訪ねてきた。どうにも申し訳ないような情ない顔で、
「すみません、幸智子さん。ぼく……妻から別居しようっていわれました…」という。
 幸智子は思わず吹き出しそうになった。しかし、それどこじゃない。
 彼女も亜也から、嶺子の事情をきいていたのだ。「あんたねえ、甘えるんじゃないわよ」いってはみたものの、小池は情ない顔のままだ。仕方なく部屋に入れた。
 ボランティア活動してんじゃないのよ、私は??? 何ともいえない苦笑いだった。




「ただいま~っ!」
  次の日の午後三時頃、椿亜也は『母の日のカーネーション』をもって自宅を訪問した。両親はどこかよそよそしい。何かあったのだろうか????
 両親は物陰でコソコソ話しをしている。何だろう?
 姉が、手紙が玄関のポストに入っていたという。
 ワープロ文字で、
『椿亜也はオカマなのに女の子が好き』と書かれてあった。まさか、あの入江って野郎か? 姉や両親は内心心穏やかではない。亜也は動揺しながらも、
「なんだよこんな変な手紙……馬鹿よね。私は心は女の子なんだよ。そんな…訳ないじゃない。手術するためにカウンセリングだって受けてるんだから」と否定した。
「…そうなのか? そうか。そりゃあよかった」
 両親も姉も安心したようだった。傷ついたのは亜也だけだった。あの糞野郎め! ぶっ殺してやりたい! 亜也は殺意さえ覚えた。
  その頃、入江貞雄はスーツ姿で亜也たちのマンションにきていた。
 緑川はひとりでそれを見付けて、
「あんたいいかげんにしなさい!」と注意を促した。「あまりことが大きくなると警察を呼びますよ! DVで警察に逮捕されてもいいっていうんですか?!」
 その言葉は効いた。入江貞雄は舌打ちすると、何処かへと消えた。
 ほっとする緑川は、亜也の携帯へ電話した。事の旨を伝えた。
「……そうか」亜也は携帯を握りながら泣きそうな顔をした。「とにかく……嶺子を私たちで守ろうね」
 緑川は頷いた。「早く帰ってこいよ。嶺子くんは私が連れてくるから」
「ありがとうございます、先生!」
「…いいってことでい」
 緑川は変な江戸訛りで、そういった。
 亜也の頭の中には医者の言葉がぐるぐる回っていた。
 ……”じゃあ、女性になりたいのに、女性が好きなのですね?”………
 それは地獄の淵のような響きだった。                      
        

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ゴルバチョフ×ゴルバチョフ「世界を変えた男・ゴルビー」アンコールブログ連載小説1

2013年10月30日 07時03分35秒 | 日記
 GORBACHEV
                                                GORBACHEV                               

              

     ゴルバチョフ×ゴルバチョフ「世界を変えた男、ゴルビー」
                                    
  まえがき

 80年代後半、ミハイル・セルゲイビッチ・ゴルバチョフという政治家によって世界は大変革をとげた。永遠に続くかと思われた「冷戦」による米ソの軍事競争にピリオドがうたれ、大量殺戮の恐怖もさった。ベルリンの壁が崩壊し、ルーマニアのチャウシェスクが倒れ、東西が対立していた欧州大陸はゴルバチョフのシナリオどおりに、世界平和に向けて突っ走るかに見えた。少なくとも、ヨーロッパには平和がもたらされると誰もが希望に胸を膨らませていた。ただしそれには、ゴルバチョフが失脚しないで、彼の意思を政策に反映できるかぎり、という前提があった。しかし、残念なことに、世界は「新秩序」とは逆方向に激変しつつある。   新思考外交を担ってきたシュワルナゼ元外相が「我が国に独裁がやって来つつある」と拳を振り上げて叫び、辞任した。そして、世界を変えた男・ゴルバチョフも保守派、党、軍らの巧みな復権によって実権を奪われ、失脚させられてしまった。その理由が、健康上の理由というのだからおそれいる。保守派は経済改革をする気もないらしい。ソ連の人々は歴史的にいって、自由だとか私有財産制というものを経験していない。ボルシェビキ革命以来、70年にも及ぶ悪政に苦しめられてきた。だから、経済を知らないのも仕方がないだろう。だが、保守派が権力を掌握した状況にあって、嘘っぱちのペレストロイカ路線で西側に援助してもらうとするのは、完璧に間違いだ。ドブに捨てることにしかならないし、そんな金は西側には1ドルだってないのだ!民族紛争、内戦、さまざまなことが。それによって西側に大量の難民が押し寄せることになる。冷戦体制が崩壊し、ソ連は消滅した。政治家ゴルバチョフは徹底した現実即応型の合理主義者で、機能するものは追及し、機能しないものは放棄する。だから、民族の反乱と経済破綻から来る保守派の反撃をしのぐために彼は権力にしがみついていたのだ。彼の最悪な点は、改革が中途半端であったことだ。保守派がクーデターによって権力を握った。だが、保守派がいくらソ連を動かし、ブレジネフの時代まで逆戻りさせようとしても、民主化や自由化のダイナミックな動きは誰にも止められはしなかった。それらのソビエトの改革がこれからスタートしようとした矢先、改革の旗手であったゴルバチョフが追い落とされてしまった。これはソ連にとって、そして全世界の平和、秩序、ブッシュのいう「新世界秩序」にとっても非常に不幸なことだったといえる。私たちは、まず、ミハイル・ゴルバチョフの人間性、成長過程、心理などを理解しなければなるまい。そして、激動のソ連、ロシア、ゴルバチョフ政治・失脚のすべてをだ。
 この物語を読むことによって、ぼんやりとしていたゴルバチョフ像が、読者の心に、はっきりと鮮明に刻まれることを期待してやまない。




          ゴルバチョフ大統領の略歴
1931 北コーカサス・スタブロポリ郊外の農家に誕生
1950 モスクワ大学法学部入学
1952 入党(21歳)
1954 哲学科のライサ・ティトレンコと結婚
1955 モスクワ大学卒業、スタブロポリへ帰郷、同地方コムソモール宣伝副部長に 1958 スタブロポリ地方・コムソモーム委第一書記
1962 スタブロポリ地方・党委組織部長
1966 スタブロポリ市党第一書記
1967 通信教育でスタブロポリ農業大学を卒業
1970 スタブロポリ地方党第一書記
1971 党中央委員就任(40歳)
1972 ベルギー訪問
1978 書記局入り、農業担当書記に
1979 政治局員候補
1980 政治局員に昇格(49歳)
1983 国会代表団団長としてカナダ訪問
1984 イデオロギー、組織部門掌握、ナンバー2の座に。英国訪問、サッチャー首相と会談
1985 チェルネンコ死去により書記長就任
1986 第7回党大会でペレストロイカ政策を
1988 最高会議幹部会議長を兼任
1989 人民代議員大会導入。最高会議議長に就任
1990 一党独裁規定を修正、初代大統領に就任
1991 ロンドンサミット出席
     米ソ首脳会議・START調印(モスクワ)
     ゴルバチョフ失脚(八月一九日)復権(八月二十一日)
     党書記長を辞任し、共産党・KGBを解体する。
     中東和平会議開催(スペイン・マドリード、十月)
     ソ連崩壊 ゴルバチョフ大統領辞任





 第一章 混沌・カオス




  確かにそれは、いやな時代だった。
  一九三一年の飢饉のさなか、ミハエル・セルゲイビッチ・ゴルバチョフは濁った川のそばの小さな家で生まれた。スタブロポリのステップ地帯の、うら錆びれた片田舎にだ。 飢饉は天災ではなく、スターリンのせいだった。
 一九二四年のレーニンの死後、スターリン(鋼鉄の人)ことジェガシビリは着々と自らの独裁支配体制の基礎を築いていった。その地位は、三十年ころにはほぼ固まったが、それと同時ころに反スターリン派に対する抹殺が始まった。まずは反スターリン派の主、ブハーリン、ルイコフ、カーメネフらが餌食となる。しかも、その抹殺の対象は、党や軍の上層部には限らなかった。多くの知識人、芸術家、一般市民、兵士、農民までもが、犠牲となっていった。秘密警察は彼の私物となつて猛威をふるい、密告が奨励され「人民の敵」の烙印が押されると、その家族や友人までもが厳しい追及をうけた。しかも、抹殺された2000万人に及ぶ人々は、ほとんど無実の罪だったという。
 そんな鬼畜が、集団農業化政策に抵抗する農民を鎮圧しようとして起こした人為的な飢饉によって、一九三三年秋から一九三四春までにゴルバチョフの故郷の村は人口が三分の二に減ってしまったという。食料も完全に尽きて、キビの薄いスープが命の綱というありさまで、ある村では一歳から二歳の幼児がすべて一人残らずに餓死してしまった。
 だが、そんな時代に育ったからこそ、あのサバイバル本能と行動的・合理的なゴルバチョフが「世界の檜舞台」に現れる結果となった、ともいえる。
 ミーシャ(ミハイルの愛称)の強い生命力は家系のせいでもあったかも知れない。彼の先祖は、ウクライナのコサックだった。先祖は、地主のもとを逃れ、自由をもとめてウクライナから、コーカサスとして知られるスタプロポリ地域の南端の未開拓地に定着した。 広大なロシアのステップ地帯、大草原に蜃気楼がきらきらと揺らめき、鳥がひくく舞い飛び、夕方には雲がうっすらと赤く輝いて地平線の彼方へ沈んでゆく。
 この土地に移住してきた人々は、いまのソ連ではめったに見れない、働くことが大好きでフロンティア精神が旺盛な人々であり、皆、豊かな生活をしたいという熱意にあふれていた。それはいわば、世界各地からアメリカに移住してきた活動的な人々と同じと言える。(ちなみに、コサックとはトルコからにげてきた自由な人々という意味で、彼らがやってきた天然鉱泉(つまり温泉)で有名なスタブロポリは、のちに特権階級が訪れる保養地となった)
 ゴルバチョフの曽祖父がプリボリノエと名づけられた村に入植したのは、一八四O年代のことである。モスクワから汽車で丸一日かかるこのこぢんまりした村は、小さな農村のただずまいが今も残っている。ゴルバチョフの母親が現在住む家は、一九六O年代に建てられたもので、息子がこの家に専用電話回線を引かせ、防犯設備を取り付けさせた。泥と藁を混ぜた小さな小さな生家は、イエゴルリク川という小川のそばにうずくまるように建っていたが、いまはもうない。
「息子とはもう三年以上もあってない」と母親は愚痴る。彼女の名は、マリア・パンテレイエブナ。聖母の名を持つ。
 だけど、心は別に聖母でも何でもない。というより、ロシアの多く農婦にはめずらしく、なんでも自分でして、自分の意見をはっきり述べる、強い女性だ。           教育レベルは低かったが、この強い母親がゴルバチョフにかなり大きな影響を与えた。この母親のイメージが、のちにモスクワ大学で出会うライサ・マクシモブナ・ティトレンコ(現ゴルバチョフ夫人)とオーバーラップしたのだ。ただ、母親との違いは、ライサにはモスクワ大学哲学科博士号をもつほど教養があり、とても美しかったことだった。   そういったことでいえば、ゴルバチョフはマザー・コンプレックスであるといえる。だが、それは全然恥ずかしいことではない。かのウィストン・チャーチルも、リンカーンも、ロナルド・レーガンもそうだったからだ。                      それにしても、数年前までは、かの偉大なる大人物たちよりも、ゴルバチョフのほうがかなり偉大にみえたものだ。現役をしりぞいたいまでは評価できないが、それまでは本当にすごかったと思う。腐敗したブレジネフ時代を生き延び、権力の階段を登るためにひたすら自分を殺し、屈辱に耐え、オベッカを使った。これは並たいていの精神力では出来ないことだ。そしていざ権力を握ると「ペレストロイカ」を打ちだし、外交で大業を成した。内政より外交にまず焦点をおいたところが、いままでのソ連の指導者との違いであり、彼の偉大なところであった。国内からの改革では何もならない、ということを知っていたのだろう。それに、改革には金が必要だ。いままでのように軍備拡張を続け、NATOと対峙していれば金がかかる一方で、どうしようもない。だからこそ、軍拡ゲームに白旗を挙げて西側から援助をうけたのだ。彼が外交に力を入れたのは、国内改革を推進するためだった。まぁ、理由はどうあれ、アメリカとの対峙をやめたことはとても大きな意味をもっていた。あのままだったら、確実に「世界の終り」が来ていたことだろう。その脅威から開放され、新しい秩序を求める道が開かれた。それが冷戦終結の意味だった。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               



             独裁と血の弾圧
                                          「私は生涯で最も短い、つらい演説を行います。私は、ふたつのことを申し上げたい。   まず、昨日、何人かの議員が、ソ連軍の、ペルシャ湾派遣を禁止する宣言が必要だと提案なさいました。しかも、それは一回や二回ではありませんでした。これは我々の忍耐を越えるものです。私は国内国外で合わせて10回以上も、このことについての我が国の政策を説明しています。それは当然、十分考え抜かれたもので、文明国間の国際関係に適したものです。我が国はイラクと友好関係を持っています。しかし、イラクが行った守りの弱い国、クウェートへの侵略に対しては妥協するわけにはいきません。もし妥協すれば新思考外交を確立するため、ここ数年なされてきた我々の努力は帳消しになってしまいます。
 次に私が申したいのは、『内省を辞めさせるのに成功した。次は外相についても考える時期が来た』と言った二人の大佐のことです。この発言は内外のマスコミに流れています。何と大胆な大佐たちなのでしょう。政府の一員に対してそんなことを言うとは。特に名指しはしませんが、この人たちの背後に誰がいるかを考えなければなりません。なぜ誰も彼らに反撃しないんでしょう。なぜ『そんなことはない』と、はっきり言わないのでしょうか。        関連して私個人の心労と名誉について言わせていただきたい。私の意に反して同じ人々が外相は一方的な譲歩をした、無知だ、外相としての資格がないと非難を浴びせかけています。私は深く悩みました。個人的侮辱だから我慢してきました。今、我が国では個人攻撃が、まかり通るようになってしまいました。民主派の同志のみなさん、なぜバラバラになり、逃げ隠れするのです。独裁が近付いて来つつあるのですよ。しかも、誰もどんなものか、誰なのか、どの様に来るのかをしらないのです。                             私は辞任します。私を責めないで下さい。この辞任を私は独裁の到来に対する抗議にしたいのです。私はゴルバチョフ氏に感謝申し上げます。私は彼の友人で仲間です。私は生涯最後の日までペレストロイカ、刷新、民主化の理念を支持します。我々は国際舞台で偉大な仕事をやってきました。これは、私の人間として、市民として、そして共産主義者としての義務でした。私は今、我が国で起こっている出来ごと、国民を待っている試練には妥協できません。私は独裁者は決して成功しないと確信します。未来は民主主義と自由のものだからです」  エドアルド・シュワルナゼは、その日開かれていた人民代議員大会(国会)で、怒りに手を震わせながら、強いグルジア訛りのロシア語でいった。彼は何の迷いもなく、決して後悔などない、誇りと悲しみに満ちた目だった。そしてこれは、文字どおり体を張った演説だった。彼のアピールは保守派のみこしに乗せられたゴルバチョフに対する抗議であり、愛国の情の表れであり、そして全世界に対する警告でもあった。世界はこの突然の辞任に驚き、そしてペレストロイカの危機を知った。だが、この辞任に一番驚愕したのは、ゴルバチョフだった。なぜなら、シュワルナゼは辞任表明の前、事前にゴルバチョフに何の相談もしていなかったからだ。彼が事前に打ち明けた相手は、故郷グルジアにいる家族と二人の側近だけであったという。 (この二人の側近の側近のうちの一人は、タイムラズ・ステパーノフ。元ソ連外務省職員で、「外交協会」のメンバーとしてシュワルナゼの女房役を務めた)                「強大な権力と独裁とを混同されては困る」気味悪いほど静かでていねいな口調で、演壇に立ったゴルバチョフは答えた。怒りや驚きを隠している時、彼はこういう話し方をする。そして、彼は、「シュワルナゼ外相が、この困難な時期に去ることは許しがたい………彼には副大統領になってもらうつもりだった」                           と述べた。非難したすぐ後に既定の方針を述べるという、非常に矛盾したこの発言は、彼が相当うろたえている証拠だ。そしてこのことで、いくつかの事がはっきりした。まず、ゴルバチョフが保守派に実権を奪われただけでなく、改革派からも浮き上がってしまっている事実が分かった。そしてもう一つ、はっきりしてくるのは、軍と産業・官僚、つまり軍産複合体がまた、アメリカとの対立の時代、冷戦を待望していることだ。それは「ペルシャ湾への派兵を禁止する宣言が必要だ」と湾岸戦争のときアルクスニス大佐ら超保守派青年将校が何度もしつこく迫っていたことからも窺える。軍産複合体にとって、シュワルナゼが推し進めてきた多国籍軍によるイラク包囲網への協力は大きな脅威だった。 ゴルバチョフはこのころすでに保守派によって棚上げされていた。そして、シュワルナゼは知っていた。大統領の椅子にしがみついているだけのゴルバチョフが、自分を切って保守派に差し出そうとするのを。だったら、黙って切られるよりは、誇り高いグルジア人らしく自分の方から反撃に出てやろう、シュワルナゼはそう考えたのだ。                                  この辞任演説で保守派はかなりいい気分になった。その中で、一際したり顔になったのが『黒い大佐』こと、保守派青年将校のリーダー、ビクトル・アルクスニスだった。彼をリーダーとするソユーズ(連邦)とは、90年3月、マルクス・レーニン主義に忠実な保守派人民議員によって結成された議会内のグループである。その目的は連邦制の維持と、科学的社会主義の維持にある。つまり、ペレストロイカを挫折させ、時代を逆流させて、『冷戦』体制にもどそうというウルトラ保守派のグループなのだ。メンバーには共産党員や軍人が多く、役500人の人民代議員が参加している。そのリーダーが、狂信的な共産主義者、ラトビア共和国選出のアルクスニス空軍大佐である。そしてこれが一番困りものなのだが、人民代議員(国会議員)の2割以上を傘下に収めているという現状があった。重要法案や憲法改正などには、このグループの賛成がないと成立不可能だった。だから、ゴルバチョフは無視できなかったのだ。  「次は、あいつに辞めてもらわなければな」アルクスニス大佐の口元に、悪魔の笑みが浮かんだ。あいつとは、大佐がその鋭い眼光でにらんでいる、ゴルバチョフであった。      「国内では民族紛争で何千もの人間が命が奪われた。しかもそれらは子供や女、老人が大部分だ。そういう状況をつくったのはゴルバチョフだ。あの男には辞めてもらわなければならない」彼はもういちどニヤリとした。彼はまがりなりにも「勝利」したのだ。だが、勝負はこれからだ。破局にむかっている状況をとめるため、戒厳令をしかなければ!あらゆるストも政治集会も凍結し、立法機関の機能も最高議会から最低レベルの会合まで、さらに共産党をふくむすべての政党、社会団体の活動を一時停止させる。今の状況を救う道はこれしかない。いざとなれば、リトアニアもグルジアも力で踏みつぶしてやる!!                                                          「あなたはその誠実な人柄と実直な仕事ぶりによって国民の間では人気があった。しかもテレビ移りが良く、発言も要所要所を押さえた理論的なものだったため、90年5月に、『ニューズウィーク』誌は、あなたこそ最も可能性のある人物と評しました。あなたはゴルバチョフ大統領に気にいられており、リベラルではあるが保守派にも受け入れられる穏健なところがある、ということでした。たしかに大統領は、権力を政治局から大統領会議に移した時、あなたをメンバーの中にいれている。そのことからも大統領が内政面で、いかにあなたを頼りにしてたかが窺えます。にも関わらず、なぜ12月2日あなたは解任されてしまったのでしょうか?」 アナウンサーは、とてもゆっくり丁寧な口調できいた。               「ある勢力が私の解任を要求していた。アルクスニス大佐、ペトルシェンコ大佐らのグループだ。このことは彼らの発言が証明している。内務省を崩壊させたのは、私の責任だと彼らは言い続けてきたからね」
 バカーチンは冷静さを失わずにそう言った。これは90年12月22日に放送されたあるテレビ番組でのことだった。
 そして、その番組をシュワルナゼは事務所で見ていた。
 あるグループとは、もちろん“ソユーズ“のことだ。彼らは、経済犯罪や民族紛争への対応が手ぬるいとして、バカーチンを攻撃していた。このグループは、保守派(ノーメンクラトゥーラ、軍産複合体、KGB)の意を受けて、突撃隊のような役割を担っていた。 そして最初のターゲットにされたのが、リベラルで“血の弾圧“を嫌うバカーチン内省だった。ゴルバチョフはそれを承知で、権力にしがみつくためにバカーチンという片腕を切って保守派に差し出したのだった。
(これに対する庶民の反発は大きかった。それで仕方なく、ゴルバチョフは91年3月に、バカーチンを何の権限もない安全保障会議のメンバー及び大統領顧問の地位に就かせ、批判をかわさなければならなかった)
  電話がリーンとなった。シュワルナゼはテレビを消し、下唇を噛み締めたまま、受話器をとった。相手はゴルバチョフだった。
「同志エドアルド・アムヴロシェヴィッチ。君の働きぶりは十分に評価をしているし、おかげで世界の情勢を大きく変えることができた。それは君の個人的資質による負うところが大きい。今はまだ国内情勢が混沌としているので、国内にとどまって『副大統領』として一緒に仕事をして欲しい」
「残念ですが、何度電話をかけてこられても無駄です。私の心は変わりません。こういうことはビジネスの取り引きではありません。良い条件を出されたからといって、一度決心したことをひるがえすわけにはいかないのです」
「なぜだ?なぜ突然に辞めてしまうのだ。改革に対する私の心は今も変わっていない。この国を救うために、なにがなんでもがんばらなければと考えている。なのに、私を見捨てて君は去ろうとしている。無責任極まりないとはおもわないのかね?」        

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沙弥(さや)AKB48大島優子主演NHK朝ドラ原作小説アンコール1

2013年10月24日 04時06分21秒 | 日記





沙弥


          さや


                    total-produced&Presented&written by
                     midorikawa Washu
                             緑川 鷲羽






  愁いを含んだ初夏の光りが、米沢市の河川敷に照りつけていた。五月三日、米沢では「上杉祭り」で、「川中島の合戦」が繰り広げられていた。白スカーフ姿の上杉謙信役が白馬に跨がり、武田信玄の本陣へ単身襲いかかる。そして、太刀を振るう。軍配で防ぐ信玄(三太刀七太刀)…。それは、米沢市で行われる上杉祭りのハイ・ライトであった。
 緑川沙弥は、その模様を大勢の観客とともに、眺めていた。
 沙弥は合戦をみながらも、もどかしさを隠し切れず、唇を噛んだ。作家として認められない。そう思うと、寒くもないのに、身体の芯から震えが沸き上がってくる。沙弥の身体は氷のように硬直した。「…どうしたの?沙弥……具合悪いの?」母の良子が問うと、沙弥は「なんでもない…」と言った。
 それは、きらきらした輝くような表情だった。






         あらすじ


  物語は東京から始まる。この物語のストーリー・テラーの黒野ありさは、東京のある大学に通う女子大生だ。そして、彼女のふるさとにはひとりの友達がいた。それは、緑川沙弥という女の子だった。確かに、沙弥はいやな女の子だった。
 意地悪で、自分のことしか考えず、病弱なくせにいつも憎まれ口ばかりたたく。でも、だからといって沙弥はブスではなく、とても綺麗な外見をしていた。そんな外見とヤクザのような言葉使いは、とてもギャップがあった。
 そしてひと知れず執筆活動を続け、作家を夢みている。そんな彼女のことをありさはいろいろ思い出していた。外ズラのいい沙弥が男の子とデートしている場面。彼女とふたりでおこなった幽霊屋敷の探検。犬の散歩にきらきら輝く上杉神社。自分が引っ越したくないといって沙弥に泣きついたこと…。
 都会での暮らしもまあまあだったが、ある日、ありさの元に沙弥から電話がある。「夏休み遊びにこい!」
 こうしてありさと彼女の忘れられない夏が始まる。
 チンピラにからまれていたありさや沙弥をたすけたのが哲哉だった。こうして哲哉と沙弥は仲良くなり、恋が芽生える。ジャズ祭りでも、どこでも一緒のふたり。だが、そんな時、哲哉はチンピラに刺されて死んでしまう。沙弥はナイフをもって復讐を誓う。一見それは簡単なことに思えたのだが…。沙弥は結局、チンピラどもを殺せなかった。そして彼女は入院。でも、彼女の作家デビューが決まりハッピー・エンドへ。

                                   おわり




         米沢と沙弥



 私は、東京のある大学に通う、女子大生だ。
 この物語は、私こと黒野ありさがストーリー・テラー…つまり語り部となってストーリーが展開するファンタジー風少女小説である。例えば、赤毛のアンとか若草物語とかみたいな、ね。そして、主人公は、私のふるさとの米沢市に住む、緑川沙弥である。
 確かに沙弥は嫌な女の子だった。
 病弱なくせに憎まれ口ばかりたたき、気に入らないことがあると暴れる。まったくもって嫌な娘、そんな感じなのだ。「バカヤロー!」「死ね!」「くそったれめ」などと汚い言葉を平気でいう沙弥。でも、彼女には特技がある。それは作家としての能力だ。まぁ、わかりやすくいうと文章がうまい。私はうっとりと思う。沙弥は天才だった。って。
 沙弥が書くのはおもに小説で、恋愛小説がおもだ。もちろんそれだけではなく、エッセイや国際政治経済ジャーナリズム関係のものも書いている。でも「作家先生」ではない。いわば「作家もタマゴ」。でも、浮き沈みの激しい文学界、しかも最近の活字離れ、なかなかペイするのも容易ではあるまい。プロになったはいいが仕事がこないためにHな小説連載で食いつなぐ、などという作家先生にならなければいいが。『失楽園』とか『チャタレイ夫人』みたいな、どうしようもないエロ小説連載とか。まあ、沙弥はプライドが高いから、『失楽園』に対抗して『動物園』、などと書くことはないだろうけどね。でも、金に困ったら執筆したりして。
 なぜ私がこんなに彼女のことを知っているかというと、私は彼女の親友で高校の同級生だったらだ。(もちろん彼女のすべてを知っている訳ではないけどね)
 何度もいうが、私の名前は黒野ありさ。東京の某女子大学に通う女子大生だ。
 年は彼女と同じ十八歳。
 ルックスのことで言えば、私は沙弥に比べればあまりパッとしないが、それでもけっこう可愛い、と自分では思っている。自惚れかなぁ?
 そう、確かに沙弥は美しかった。
 黒色の長い髪、透明に近い白い肌、ふたえの大きな瞳にはびっしりと長いまつ毛がはえている。細い腕や脚はすらりと長く、全身がきゅっと小さくて、彼女はあどけない妖精のような外見をしていた。沙弥の嘆声な顔に、少女っぽい笑みが広がった。少女っぽいと同時に大人っぽくもある。魅力的な、説得力のある微笑だった。私はたちまち怪しんで、一歩うしろにさがった。なんであれ、沙弥の片棒をかつぐのはごめんだ。ただでさえ、私の魂はぼろぼろなのだ。ただ………沙弥は美人だわ。
 細い腕も、淡いピンク色の唇も、愛らしい瞳も、桜の花びらのようにきらきらしていて、それはまるでこの世のものではないかのようにも思えた。
 それぐらい沙弥は美しかったってことだ。
 沙弥は、観光と温泉でもっているような米沢市に住んでいた。米沢市で有名な人物といえば、越後の龍・上杉謙信、上杉景勝、智君・上杉鷹山、軍師・直江兼続、前田慶次、伊達政宗そして町で美少女と有名だった『変人』の緑川沙弥。彼女は、しんと光る満月のようだった。私こと黒野ありさは、観光で静かに活動するような故郷・米沢市を離れて東京の大学に進学した。まぁ、父親の仕事の関係ってこともある。東京での生活もまぁまぁ楽しい。 しかし、一瞬だが、故郷が妙になつかしく恋しく感じることもある。そしてそこで暮らす、沙弥や緑川家の人々のことも。

 緑川沙弥が作家になろうと思ったのはいつ頃だったろう?
 私は前に聞いたことがある。すると彼女は、
「小学校の時に、図書館でゲーテの詩集を読んで、なにがしかのインスピレーションを受けてさ。それで「作家になろう!」って決めたんだ」
 と、にやりと言った。
「ゲーテ?」
「あぁ、そうだ」
 ゲーテの詩集を読んで「作家になろう」と思ったと平然と言ったのだ。だけど、私はそれはちょっと嘘っぽいと思う。だから、
「ゲーテって詩人(注・ゲーテは詩だけでなく小説、音楽、絵画、政治もした)でしょ?詩人じゃなくて作家ってどういうこと?」と尋ねた。
 すると沙弥は「詩じゃあペイしない」といった。
 だから私は「ペイって?」と尋ねると、
「ありさって馬鹿だねぇ。ペイっていうのは儲かるって意味の英語だよ。詩人では儲からないってことを私は言ってんの」
 といって沙弥は私をせせら笑った。
「作家ならペイするの?」
「まぁな」
 沙弥はにやりとして言った。

 しかし、あの病弱な沙弥が作家なんて、なんともピッタリきて笑ってしまう。
 病気がちであるからいつも部屋にいるかベットで横になっている。で、原稿用紙に向かってセッセと小説やらを執筆する、なるほど!って感じがする。
 彼女はちょっとしたことでもすぐ病気になる。冷たい風にちょっと吹かれただけでも、少し気温が高くなっただけでも、冷たい雨に濡れただけでも……すぐに具合が悪くなる。 そのため彼女の母親の良子おばさんは苦労を惜しまず何度も病院につれていき、ちやほやと甘やかし、沙弥はニーチェばりの薬づけで生意気な女の子に育った。しかし、なまじっか普通の生活ができる程度には体が丈夫なので、彼女は本当にわがままで生意気な女の子に育った。わがままで、甘ったれでズル賢い……といったところだ。ひとの嫌がることばかりして、自分のことしか考えない…と、まるで悪女のようだった。
 でも、だからといって彼女はブスではない。それは前述した通りだ。
 私の母は、緑川家の経営するペンション「ジェラ」の隣の家に住んでいた。
 良子おばさんのご主人、つまり沙弥たちの父親はもうすでに亡くなっていて、ペンションはおばさんがひとりできりもみしている。私の父親は東京に単身赴任しているエリート銀行マンだった。が、何を思ったのか、突然脱サラして東京で食堂を始めた。それで私だけでなく、母も東京にきていまでは三人で忙しくやってる、って訳。
 まあ、私は平凡な娘って訳である。
 しかし、沙弥は違う。彼女は平凡ではない。というより少し異常だ。
 緑川沙弥はよく暴れる、きれる、部屋のものを壊したりガラスを割ったりもする。たんに気にいらないといってだ。良子おばさんや彼女の妹のまゆちゃんほどではないが、私も緑川沙弥に被害にあったほうだ。ものを投げられたり、頭をゴツンとやられたり…。それで私が「なにすんのよ!」と怒ると、
「私の機嫌がわるい時に目の前にいるほうが悪い!」
 などとのたまう。どういう理屈だか。こういうのを『屁理屈』というのだ。
  私はよく故郷の米沢市を思い出したりもする。
 私の住んでいた家の自分の部屋の窓からはきらめくような風景がみえたものだ。
 すごく眺めがよくて、窓からはきらきらと輝く上杉神社がみえる。上杉神社は昼には太陽を浴びてきらきらと輝き、夜は月明りが映って輝くような、美しい神社だ。
 私はよく米沢の光景を思い出す。きらきらとした朝日が差し込んで上杉神社が輝く光景を…。それはしんとした静けさの中にあったっけ。
「あたしが死んだら骨は最上川(山形県民の母なる川)にまけ!」といつだったか沙弥は言ってたが、気持ちはわかる。 彼女はよく男の子を騙して上杉神社の前を散歩した。散歩というよりデートだ。とにかく「外ヅラ」だけはいい沙弥はよく男の子と仲よく歩くことが多かった。
 夕暮れ。セピア色が空や森や山々を真っ赤に染め、きらきらと輝く。沙弥はゆっくりゆっくりと歩く。そして、細く白い腕を伸ばす。男の子が彼女の手を取り、沙弥は白い歯をみせてにこりと微笑む。その光景は私にはなんだかとてもかけがえのないものにも思えた。彼女の本性を知っているはずの私の胸にさえ、深いところに響くような、しみわたるような、そんな光景にも思えた。
 緑川沙弥から電話がきたのは、ちょうど私が東京の自宅でそんな物思いに耽っている時だった。ある日、電話がリーンとなった。で、私は「はい、黒野です」と出た。
 すると病院から彼女は電話でいった。
「おい!ありさ。夏休みあるか?」
「え?まあ」
「じゃあ、夏休み米沢に遊びに来い!お前んちの汚ねえボロ食堂からさ」
「いいわよ」
 私はそう言った。
 なにが、「お前んちの汚ねえボロ食堂」よ!と言いそうになったが、やめた。私は無駄なことはしない主義だ。冗談でいってるんだろうし、あの沙弥は絶対にあやまったりしない娘なのだ。それは私が一番よく知っている。
 まぁ、冗談でしょうよ、私は笑った。


  外に出ると、春だというのに外気がむっと暑かった。
 太陽のとても近い昼間頃だ。春だというのにぎらぎらした陽差しが照り付けて、アスファルトやビルに反射して、なんだか変な気分にもなっていた。
「よかったわね、沙弥ちゃん。元気で」
 東京駅に向かうタクシーの中で、母は微笑んだ。「ずうっと昔から作家志望だったものね」
「あれ?お母さん、なんで知ってるの?」
「そりゃあね、沙弥ちゃんにきいたのよ」
「いつ?」
「沙弥ちゃんが小学生の頃よ。「将来は何になりたいの?」ってきいたら「作家!」って言ってたもの」
「へえ~っ。じゃあゲーテの話し、知ってる?」
「まあね、あの話し、ちょっと嘘っぽいけどね」
 私たちはアハハと笑った。
 そして私と見送りの母のふたりは東京駅についた。
 凄いひとだ。夏休みでもないのに、しかも平日なのに、ラッシュのような混み具合だった。まぁ、私は大学までは自転車でいってるのでラッシュの満員電車とか、そういうのは知らないけどね。あと、列車でのチカンとか……。
「あいかわらず…すごいひとね」
 母は呆れていった。
「……ほんと」
 私はなんとなく同意した。

                               


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天と地と人と直江兼続と「愛と上杉の義・直江兼続のすべて」ブログ連載小説5

2013年10月16日 04時23分45秒 | 日記
         5 焼き討ち








  織田信長と将軍・足利義昭との確執も顕著になってきていた。
 義昭は将軍となり天皇に元号を「元亀」にかえることにさせた。しかし、信長は「元亀」などという元号は好きではなかった。そこで信長は元号を「天正」とあっさりかえてしまう。足利将軍は当然激怒した。しかし、義昭など信長のロボットみたいなものである。
 義昭は信長に剣もほろろに扱われてしまう。
 かれは信長の元で「殿中五ケ条」を発布、しかし、それも信長に無視されてしまう。
「あなたを副将軍にしてもよい」
 義昭は信長にいった。しかし、信長は餌に食いつかなかった。
 怒りの波が義昭の血管を走った。冷静に、と自分にいいきかせながらつっかえつっかえいった。「では、まろに忠誠を?」
「義昭殿はわしの息子になるのであろう? 忠誠など馬鹿らしい。息子はおやじに従っておればよいのじゃ」信長は低い声でいった。抑圧のある声だった。
「義昭殿、わしのおかげで将軍になれたことを忘れなさるな」
 信長の言葉があまりにも真実を突いていたため、義昭は驚いて、こころもち身をこわばらせた。百本の槍で刺されたように、突然、身体に痛みを感じた。信長は馬鹿じゃない。 しかし、おのれ信長め……とも思った。
 それは感情であり、怒りであった。自分を将軍として崇めない、尊敬する素振りさえみせず、将軍である自分に命令までする、なんということだ!
 その個人的な恨みによって、その感情だけで義昭は行動を起こした。
 義昭は、甲斐(山梨県)の武田信玄や石山本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信、中国の毛利、薩摩(鹿児島県)の島津らに密書をおくった。それは、信長を討て、という内容であったという。
 こうして、信長の敵は六万あまりとふくらんだ。
 そうした密書を送ったことを知らない細川や和田らは義昭をなだめた。
 しかし、義昭は「これで信長もおしまいじゃ……いい気味じゃ」などと心の中で思い、にやりとするのであった。
  義昭と信長が上洛したとき、ひとりだけ従わない大名がいた。
 越前(福井県)の朝倉義景である。かれにしてみれば義昭は居候だったし、信長は田舎大名に過ぎない。ちょっと運がよかっただけだ。義昭を利用しているに過ぎない。
 信長は激怒し、朝倉義景を攻めた。          
 若狭にはいった信長軍はさっそく朝倉方の天筒山城、金ケ崎城を陥した。
「次は朝倉の本城だ」信長は激を飛ばした。
 だが、信長は油断した。油断とは、浅井長政の裏切り、である。
 北近江(滋賀県北部)の浅井長政の存在を軽く見ていた。油断した。
 浅井長政には妹のお市(絶世の美女であったという)を嫁にだした。いわば義弟だ。裏切る訳はない、と、たかをくくっていた。
 浅井長政は味方のはずである…………
 そういう油断があった。義弟が自分のやることに口を出す訳はない。そう思って、信長は琵琶湖の西岸を進撃した。東岸を渡って浅井長政の居城・小谷城を通って通告していれば事態は違っていただろうという。しかし、信長は、”美人の妹を嫁にやったのだから俺の考えはわかってるだろう”、という考えで快進撃を続けた。
 しかし、「朝倉義景を攻めるときには事前に浅井方に通告すること」という条約があった。それを信長は無視したのだ。当然、浅井長政は激怒した。
 お市のことはお市のこと、朝倉義景のことは朝倉義景のこと、である。通告もない、しかも義景とは父以来同盟関係にある。信長の無礼に対して、長政は激怒した。
 浅井長政は信長に対して反乱を起こした。前面の朝倉義景、後面の浅井長政によって信長ははさみ討ちになってしまう。こうして、長政の誤判断により、浅井家は滅亡の運命となる。それを当時の浅井長政は理解していただろうか。いや、かれは信長に勝てると踏んだのだ。甘い感情によって。
  金ケ崎城の陥落は四月二十六日、信長の元に「浅井方が反信長に動く」という情報がはいった。信長は、お市を嫁がせた義弟の浅井長政が自分に背くとは考えなかった。
 そんな時、お市から陣中見舞である「袋の小豆」が届く。
 布の袋に小豆がはいっていて、両端を紐でくくってある。
 信長はそれをみて、ハッとした。何かある………まさか!
 袋の中の小豆は信長、両端は朝倉浅井に包囲されることを示している。
「御屋形様……これは……」秀吉が何かいおうとした。秀吉もハッとしたのだ。
 信長はきっとした顔をして「包囲される。逃げるぞ! いいか! 逃げるぞ!」といった。彼の言葉には有無をいわせぬ響きがあった。戦は終わったのだ。信長たちは逃げるしかない。朝倉義景を殺す気でいたなら失敗した訳だ。だが、このまま逃げたままでは終わらない。まだ前哨戦だ。刀を交えてもいない。時間はかかるかも知れないが、信長は辛抱強く待ち、奇策縦横にもなれる男なのだ。
 ……くそったれめ! 朝倉義景も浅井長政もいずれ叩き殺してくれようぞ!
 長政め! 長政め! 長政め! 長政め! 信長は下唇を噛んだ。そして考えた。            
 ……殿(後軍)を誰にするか……
 殿は後方で追撃くる敵と戦いながら本軍を脱出させる役目を負っていた。そして、同時に次々と殺されて全滅する運命にある。その殿の将は、失ってしまう武将である。誰にしてもおしい。信長は迷った。
「殿は誰がいい?」信長は迷った。
 柴田勝家、羽柴秀吉、そして援軍の徳川家康までもが「わたくしを殿に!」と志願した。 信長は三人の顔をまじまじと見て、決めた。
「サル、殿をつとめよ」
「ははっ!」サル(秀吉)はそういうと、地面に手をついて平伏した。信長は秀吉の顔を凝視した。サルも見つめかえした。信長は考えた。
 今、秀吉を失うのはおしい。天下とりのためには秀吉と光秀は”両腕”として必要である。知恵のまわる秀吉を失うのはおしい。しかし、信長はぐっと堪えた。
「サル、頼むぞ」信長はいった。
「おまかせくださりませ!」サルは涙目でいった。
 いつもは秀吉に意地悪ばかりしていた勝家も感涙し、「サル、わしの軍を貸してやろうか?」といい、家康までもが「秀吉殿、わが軍を使ってくだされ」といったという。
 占領したばかりの金ケ崎城にたてこもって、秀吉は防戦に努めた。
「悪党ども、案内いたせ」
 信長はこういうときの行動は早い。いったん決断するとグズグズしない。そのまま馬にのって突っ走りはじめた。四月二十八日のことである。三十日には、朽木谷を経て京都に戻った。朽木元綱は信長を無事に案内した。
 この朽木元綱という豪族はのちに豊臣秀吉の家臣となり、二万石の大名となる。しかし、家康の元についたときは「関ケ原の態度が曖昧」として減封されているという。だが、それでもかれは「家禄が安泰となった」と思った。
 朽木は近江の豪族だから、信長に反旗をひるがえしてもおかしくない。しかし、かれに信長を助けさせたのは豪族としての勘だった。この人なら天下をとるかも知れない、と思ったのだ。歴史のいたずらだ。もし、このとき信長や秀吉、そして家康までもが浅井朝倉軍にはさみ討ちにされ戦死していたら時代はもっと混沌としたものになったかも知れない。 とにかく、信長は逃げのびた。秀吉も戦死しなかったし、家康も無事であった。
 京都にかろうじて入った信長は、五月九日に京都を出発して岐阜にもどった。しかし、北近江を通らず、千種越えをして、伊勢から戻ったという。身の危険を感じていたからだ。 浅井長政や朝倉義景や六角義賢らが盛んに一向衆らを煽って、
「信長を討ちとれ!」と、さかんに蜂起をうながしていたからである。
 六角義賢はともかく、信長は浅井長政に対しては怒りを隠さなかった。
「浅井長政め! あんな奴は義弟とは思わぬ! 皆殺しにしてくれようぞ!」
 信長は長政を罵った。
 岐阜に戻る最中、一向衆らの追撃があった。千種越えには蒲生地区を抜けた。その際、
                            
蒲生賢秀(氏郷の父)が土豪たちとともに奮起して信長を助けたのだという。
 この時、浅井長政や朝倉義景が待ち伏せでもして信長を攻撃していたら、さすがの信長も危なかったに違いない。しかし、浅井朝倉はそれをしなかった。そして、そのためのちに信長に滅ぼされてしまう運命を迎える。信長の逆鱗に触れて。
 信長は痛い目にあったが、助かった。死ななかった。これは非常に幸運だったといわねばなるまい。とにかく信長は阿修羅の如く怒り狂った。
 皆殺しにしてくれる! そう信長は思った。





  浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃していた。
 秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。
「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。
 しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」 信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。
 岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。
 とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。
 国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。
 目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。そして、いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大変に喜んで、
「よく参られた」と声をかけた。
 とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。そして、信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。
 浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、
「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!
 すると家康が進みでていった。
「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」
 信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。
 家康はうきうきして軍儀の場を去った。
 信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。
 するとサルが「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのででござりましょう? 御屋形様」といった。
「そうよ、サル! さすがはサルじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。
 翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんた。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。
「押せ! 押せ! 押し流せ!」
 朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。
 両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。
 信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。
 浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。
「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」
 秀吉は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。
「ひきあげるぞ、サル」
 秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつもの御屋形らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………
 こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。




  石山本願寺は、三好党がたちあがると信長に正式に宣戦布告した。
 織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見たのだ。
 信長は八月二十日に岐阜を出発した。そして、横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。
 将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。
 本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。
 信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。
「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。
 足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。
 反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。
 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。
  直江兼続は上杉の使者として、岐阜城へと数名で入っている。兼続は魔王・織田信長と対面した。「信長さまは上杉の御見方なのかそうでないのか…」
「のう、兼続。わしは比叡山や石山本願寺を討とうとしている。どう思うか?」
「それは義に劣りまする! 坊主を討つはみ仏に刃を向けるのと同じに御座る!」
「義とは戦の為の口実にすぎない……坊主ではない。金と欲に眼の眩んだ武装集団でしかない。それを殺すのは当たり前だ。天下は綺麗事では取れない」
「お言葉ながら……義がなければ人は野山の獣と同じにござりまする!」
「…ほう」
「い…いえ。謙信公がそう申しておられて…そのぉ」
 信長は笑って「ならば獣でも鬼でもよい。天下を取れるならばこの身、獣鬼にくれてやるわ!」といった。そして座を去ってから秀吉に「あやつの首、上杉に送れ。織田の天下に上杉は無用じゃ」という。秀吉は兼続の命が惜しいと思った。
 そこで兼続の命を、石田佐吉(三成)が救った。刺客から逃れさせ、越後へ帰した。
「あなた様の名は?」兼続はきく。と、石田が「佐吉…羽柴秀吉家臣・石田佐吉じゃ」
「このご恩……この兼続……生涯忘れませぬ!」
 兼続はそういって礼を申した。こうして直江兼続と石田三成ががっちりと組んで、関ケ原で共に戦うことになる。上杉が西軍についたのはここが始まりといっていい。

  信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」
「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。
「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」
「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」
「天罰が下りまするぞ!」
 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。
「わしに反対しようというのか?!」
「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」
 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。                     
「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」
 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”家臣たちは恐ろしくなった。
 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず、日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。
 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。
 天正4年7月、上杉謙信は義の戦いのために上洛を目指して軍を進めた。兼続は17才… 上杉謙信にとって信長は『義に劣る俗物』である。兼続も初陣を飾った。しかし、武功は上げられなかった。智略に優れる兼続だったが、武力では勝つことができなかった。
 上杉軍が魔王・信長と激突……といえば聞えがいい。が、実情は数に勝る織田勢にじりじりと追い詰められていっただけだ。上杉謙信の天命が尽きればそれで終りである。
「御屋形様! いよいよ上杉が義の戦が出来るのですね!?」
「兼続……そちははしゃぎ過ぎるのじゃ」
 寡黙で知られる上杉景勝はそういうだけだ。「とにかく……戦では義父上さまは負けたことがない。上杉は勝つだろう」
「やはり! 我々上杉が義が魔王に勝つので御座いますのですね?」
「おお! そういうことだ」
 景勝は頷いた。
 しかし、事態は急変した。
 織田側で加賀で迎え撃つのは柴田権六勝家である。上杉は多勢に無勢…おされる一方だった。が、豪雪で陣が進められない。兼続ら上田衆は活躍した。が、兼続だけはひとを斬ることが恐ろしくて及び腰になる。すると景虎側の仲間から嘲笑された。
 そこで、事件が起こる。景虎側の家臣・刈安兵庫が「この女子のようなやつめ!」と兼続を挑発した。「何をっ!」兼続はついに挑発にのり、刀を抜いた。
「ほう、やるのか?! この泣き虫の兼続!」
「も…問答無用!」
 ふたりは対峙して鍔ぜりあいをする。そこで「何をしておる!」ととめられた。
 仲間内で争っているようではお先真っ暗だ。兼続は三日後、謙信に呼ばれた。
 上司の景勝は頭を下げた。「いえ……殿っ! この兼続が悪いので…」
「そちは黙れっ! 御屋形様、どうかご無礼お許し下さい!」
 上杉謙信は、今の兼続では戦に出ても負ける、と感想を述べて兼続を越後上田庄に戻し謹慎させた。樋口(直江)兼続にとって、初めての戦はほろ苦いものになった。
 そののち、関東の北条の勇み足と上杉軍の加賀手取川合戦勝利とその混乱で静まった流れで、謙信は越後に戻る事に、なる。そう、いよいよ英雄・上杉謙信の、最期である。 


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天と地と人と直江兼続と「愛と上杉の義・直江兼続のすべて」ブログ連載小説3

2013年10月13日 06時09分05秒 | 日記
        3 堺に着眼





  大河ドラマや映画に出てくるような騎馬隊による全力疾走などというものは戦国時代には絶対になかった。疾走するのは伝令か遁走(逃走)のときだけであった。上級武士の騎馬武者だけが疾走したのでは、部下のほとんどを占める歩兵部隊は指揮者を失ってついていけなくなってしまう。
 よく大河ドラマであるような、騎馬隊が雲霞の如く突撃していくというのは実際にはなかった。だが、ドラマの映像ではそのほうがカッコイイからシーンとして登場するだけだ。     ところが、織田信長が登場してから、工兵と緇重兵(小荷駄者)が独立することになる。早々と兵農分離を押し進めた信長は、特殊部隊を創造した。毛利や武田ものちにマネることになるが、その頃にはもう織田軍はものすごい機動性を増し、東に西へと戦闘を始めることができた。そして、織田信長はさらに主計将校団の創設まで考案する。
 しかし、残念なことに信長のような天才についていける人材はほとんどいなかったという。そのため信長は部下を方面軍司令官にしたり、次に工兵総領にしたり、築城奉行にしたり……と使いまくる。羽柴(豊臣)秀吉、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀ら有能とみられていた家臣の多忙さは憐れなほどであるという。
 上杉謙信の軍が関東の北条家の城を攻略したこともあったが、結局、兵糧が尽きて撤退している。まだ上杉謙信ほどの天才でも、工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離していなかったのである。その点からいえば、織田信長は上杉謙信以上の天才ということになる。
 この信長の戦略を継承したのが、のちの秀吉である。
 秀吉は北条家攻略のときに工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離し、安定して食料を前線に送り、ついには北条家をやぶって全国を平定する。
  また、この当時、日本の度量衡はバラバラであった。大仏建立の頃とくらべて、室町幕府の代になると、地方によって尺、間、升、などがバラバラであった。信長はこれはいかんと思って、度量衡や秤を統一する。この点も信長は天才だった。
 信長はさらに尺、升、秤の統一をはかっただけでなく、貨幣の統一にも動き出す。しかも質の悪い銭には一定の割引率を掛けるなどというアイデアさえ考えた。
 悪銭の流通を禁止すれば、流動性の確保と、悪銭の保有を抑えられるからだ。
 減価償却と金利の問題がなければ、複式記帳の必要はない。仕分け別記帳で十分である。そこで、信長は仕分け別記帳を採用する。これはコンピュータを導入するくらい画期的なことであった。この記帳の導入の結果、十万もの兵に兵糧をとめどなく渡すことも出来たし、安土城も出来た。その後の秀吉の時代には大阪城も出来たし、全国くまなく太閤検地もできた。信長の天才、といわねばなるまい。

  京都に上洛するために信長は堺や京都の商人衆に「矢銭」を要求しようと思った。
「矢銭」とは軍事費のことである。
「サル!」
 信長は清洲城で羽柴秀吉(藤吉郎)をよんだ。サルはすぐにやってきた。
「ははっ、御屋形様! なんでござりましょう」
「サル」信長はにやりとして「堺や京都の商人衆に「矢銭」を要求しろ」
「矢銭、でござりまするか?」
「そうじゃ!」信長は低い声でいった。「出来るか? サル」
「ははっ! わたくしめにおまかせくださりませ!」秀吉は平伏した。
 自分が将軍・義昭を率いて上洛し、天下を統一するのだから、商人たちは戦いもせず利益を得ているのだから、平和をもたらす武将に金をだすべきだ……これが信長の考えだった。極めて現実的ではある。
 サルはさっそく堺にはいった。商人衆にいった。
「織田信長さまのために矢銭を出していただきたい」秀吉は唾を飛ばしながらいった。周りの商人たちは笑った。
「織田信長に矢銭? なんでわてらが銭ださにゃあならんのや?」
「て……」秀吉はつまった。そして続けた。「天下太平のため! 天下布武のため!」
「天下太平のため? 天下布武のため? なにいうてまんねん」商人たちはにやにやした。「天下のため、堺衆のみなみなさまには信長さまに二万貫だしていただきたい!」
「二万貫? そんな阿呆な」商人たちは秀吉を馬鹿にするだけだった。
 京都も渋った。しかし、信長が威嚇のために上京を焼き討ちにすると驚愕して金をだした。しかし、堺は違った。拒絶した。しかも、信長や家臣たちを剣もほろろに扱った。 信長は「堺の商人衆め! この信長をナメおって!」とカッときた。
 だか、昔のように感情や憤りを表面にだすようなことはなかった。信長は成長したのだ。そして、堺のことを調べさせた。
 堺は他の商業都市とは違っていた。納屋衆というのが堺全体を支配していて、堺の繁栄はかれらの国際貿易によって保たれている。納屋衆は自らも貿易を行うが、入港する船のもたらす品物を一時預かって利益をあげている。堺の運営は納屋衆の中から三十六人を選んで、これを会合衆として合議制で運営されていること。堺を見た外国人は「まるでヴィニスのようだ」といっていること………。
 信長は勉強し、堺の富に魅了された。
 信長にとっていっそう魅力に映ったのは、堺を支配する大名がいないことであった。堺のほうで直接支配する大名を欲してないということだ。それほど繁栄している商業都市なら有力大名が眼をぎらぎらさせて支配しようと試みるはずだ。しかし、それを納屋衆は許さなかった。というより会合衆による「自治」が行われていた。
 それだけではなく、堺の町には堀が張りめぐらされ、町の各所には櫓があり、そこには町に雇われた浪人が目を光らせている。戦意も強い。
 しかし、堺も大名と全然付き合いがない訳でもなかった。三好三人衆とは懇篤なつきあいをしていたこともある。三好には多額な金品が渡ったという。
 もっとも信長が魅かれたのは、堺のつくる鉄砲などの新兵器であった。また、鉄砲があるからこそ堺は強気なのだ。
「堺の商人どもをなんとかせねばならぬ」信長は拳をつくった。「のう? サル」
「ははっ!」秀吉は平伏した。「堺の商人衆の鼻をあかしましょう」
 信長は足利義昭と二万五千人の兵を率いて上洛した。
 神も仏も将軍も天皇も崇めない信長ではあったが、この時ばかりは正装し、将軍を奉った。こうして、足利義昭は第十五代将軍となったのである。
 しかし、義昭など信長の”道具”にしかすぎない。
 信長はさっそく近畿一圏の関所を廃止した。これには理由があった。日本人の往来を自由にすることと、物流を円滑にすること。しかし、本当の目的は、いざというときに兵器や歩兵、兵糧などを運びやすくするためだ。そして、関所が物やひとから銭をとるのをやめさせ、新興産業を発展させようとした。
 関所はもともとその地域の産業を保護するために使われていた。近江国や伊勢国など特にそうで、一種に保護政策であり、規制であった。信長はそれを破壊しようとした。
 堺の連中は信長にとっては邪魔であった。また、信長がさらに強敵と考えていたのが、一向宗徒である。かれらの本拠地は石山本願寺だった。
 信長は石山本願寺にも矢銭を求めた。五千貫だったという。石山本願寺側ははじめしぶったが、素早く矢銭を払った。信長は、逆らえば寺を焼き討ちにしてくれようぞ、と思っていたが中止にした。



  第十五代将軍足利義昭が京都にいた頃、三好三人衆が義昭を殺そうとしたことがある。信長は「大事な”道具”が失われる」と思いすぐに出兵し、三好一派を追い落とした。三好三人衆は堺に遁走し、匿われた。信長は烈火の如く激怒した。
「堺の商人め! 自治などといいながら三好三人衆を匿っておるではないか! この信長をナメおって!」信長は憤慨した。焼き討ちにしてくれようか………
 信長はすぐに堺を脅迫しだした。
「自治都市などといいながら三好三人衆の軍を匿っておるではないか! この信長をナメるな!すぐに連中を撤退させよ。そして、前にいった矢銭を提供せよ。これに反する者たちは大軍を率いて攻撃し、焼き討ちにする」
 信長は本気だとわかり、堺の商人たちは驚愕した。
 しかし、べに屋や能登屋などの強行派は、「信長など尾張の一大名に過ぎぬ。わてらは屈せず、雇った浪人たちに奮起してもろうて堺を守りぬこう」と強気だった。
 今井宗久らは批判的で、信長は何をするかわからない「ヤクザ」みたいなものだと見抜いていた。宗久は密かに信長に接近し、高価な茶道具を献上したという。
 堺の町では信長が焼き討ちをおこなうという噂が広がり、大パニックになっていた。自分たちは戦うにしても、財産や妻子だけは守ろうと疎開させる商人も続発する。
 そうしたすったもんだがあって、ついに堺の会合衆は矢銭を信長に払うことになる。
 しかし、信長はそれだけでは満足しなかった。
「雇っている浪人をすべてクビにしろ! それから浪人は一切雇うな、いいか?! 三好三人衆の味方もするな! そう商人どもに伝えよ!」信長は阿修羅のような表情で伝令の武士に申しつけた。堺の会合衆は渋々従った。
「いままで通り、外国との貿易に精を出せ。そのかわり税を収めよ」
 信長はどこまでも強気だった。信長は人間を”道具”としてしかみなかった。堺衆は銭をとる道具だし、義昭は上洛して全国に自分の名を知らしめるための道具、秀吉や滝川一益、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀ら家臣は、”自分の野望を実現させるための道具”、である。信長は野望のためには何でも利用した。阿修羅の如き怒りによって………
 信長は修羅の道を突き進んだ。
 しかし、信長の偉いところは堺の自治を壊さなかったことだ。
 信長が事実上支配しても、自分の管理下に置かなかった。これはなかなか出来ることではない。しかし、信長は難なくやってのけた。天才、といわなければならない。
 この頃、信長の目を輝かせることがあった。外国人宣教師との出会いである。すなわちバテレンのキリスト教の宣教師で、南蛮・ポルトガルからの外人たちである。
 本当はパードレ(神父のこと)といったそうだが、日本では伴天連といい、パードレと呼ばせようとしたが、いつのまにかバテレン、バテレン、と日本読みが広がり、ついにバテレンというようになった。
 キリスト教の布教とはいえローマンカトリックであったという。イエズス会……それが彼等宣教師たちの団体名だ。そして、信長はその宣教師のひとりであるルイス・フロイスにあっている。フロイスはポルトガル人で、船で日本にやってきた若い青い目の白人男であった。フロイスはなかなか知的な男であり、キリスト教をなによりも大切にし、愛していたという。
 天文元年(一五三二)、ルイス・フロイスはポルトガルの首都リスボンで生まれた。子供の頃から、ポルトガルの王室の秘書庁で働いたという。天文十七年(一五四八)頃にイエズス会に入会した。そしてすぐインドに向かい、ゴアに着くとすぐ布教活動を始めた。この頃、日本人のヤジロウと日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルにあったのだという。フロイスは日本への思いを募らせた。日本にいきたい、と思った。
 その年の七月、フロイスは船で九州の横瀬浦に着いた。
 フロイス時に三十一歳、信長も三十一歳であった。同い年なのだ。
 そして、その頃、信長は桶狭間で今川義元をやぶり、解放された松平元康と同盟を結んでいた。松平元康とはのちの徳川家康である。同盟の条件は、信長の娘五徳が、家康の嫡男信康と結婚することであった。永禄六年のことだ。
 日本に着いたフロイスは、まず日本語と日本文化について徹底的に研究勉強した。横瀬浦は九州の長崎である。そこにかれは降りたった訳だ。
 一度日本にきたフランシスコ・ザビエルは一時平戸にいたという。平戸の大名は松浦隆信であったらしいが、宣教師のもたらすキリスト教には関心をほとんど示さず、もっぱら貿易における利益ばかりを気にしていた。
 ザビエルもなかなかしたたかで、部下のバテレンたちに「日本の大名で、キリスト教布教を受け入れない者にはポルトガル船も入港させるな」と命じていたという。
 フロイスの着いたのは長崎の田舎であったから、受け入れる日本人の人情も熱く、素朴であったからフロイスは感銘を受けた。
 ……これならキリスト教徒としてやっていける…
 そんなフロイスが信長に会ったのは永禄十一年のことである。ちょうど信長が足利義昭を率いて上洛したときである。そして、遭遇した。
 謁見場は京都の二条城内であった。
 フロイスをセッテングしたのは信長の部下和田・政である。彼は近江の土豪で、義昭が近江の甲賀郡に逃れてきたときに世話をした恩人であったという。忍者とかかわりあいをもつ。また和田の部下は、有名な高山重友(右近)である。
 右近はキリシタンである。洗礼を受けたのだ。
 フロイスが信長と謁見したときは通訳の男がついた。ロレンソというが日本人である。洗礼を受け、イエズス会に入会し、日本人で最初のイルマン(修道士)となっていた。







  謁見場は京都の二条城内であった。
 フロイスが信長に会ったのは、永禄十二年(一五六九)四月三日のことだった。フロイスは和田に付き添われて、二条城内にはいった。信長は直接フロイスとは会わず、遠くから眺めているだけだった。
 フロイスはこの日、沢山の土産物をもってきていた。美しい孔雀の尾、ヨーロッパの鏡、黒いビロードの帽子……。信長は目の前に並んだ土産物を興味深く見つめたが、もらったのはビロードの帽子だけだったという。他にもガチョウの卵や目覚まし時計などあったが、信長は目覚まし時計に手をふれ、首をかしげたあと返品の方へ戻した。
 立ち会ったのは和田と佐久間信盛である。しかし、その日、信長はフロイスを遠くから見ていただけで言葉を交わさなかった。
「実をいえば、俺は、幾千里もの遠い国からきた異国人をどう対応していいかわからなかったのだ」のちに信長は佐久間や和田にそういったという。
「では……また謁見を願えますか?」和田は微笑んだ。
「よかろう」信長は頷いた。
 数日後、約束通り、フロイスと信長はあった。通訳にはロレンソがついた。
 信長はフロイスの顔をみると愛想のいい笑顔になり、「近うよれ」といった。
 フロイスが近付き、平伏すると、信長は「面をあげよ」といった。
「ははっ! 信長さまにはごきげんうるわしゅう」フロイスはたどたどしい日本語で、いった。かれは南蛮服で、首からは十字架をさげていた。信長は笑った。
 そのあと、信長は矢継ぎ早に質問していった。
「お主の年はいくつだ?」
「三十一歳でごさりまする」フロイスはいった。
 信長は頷いて「さようか。わしと同じじゃ」といい続けた。「なぜ布教をする? ゼウスとはなんじゃ?」
 フロイスは微笑んで「ひとのために役立つキリスト教を日本にも広げたく思います。ゼウスとは神・ゼウス様のことにござりまする」とたどたどしくいった。
「ゼウス? 神? 釈迦如来のようなものか?」
「はい。そうです」
「では、日本人がそのゼウスを信じなければ異国に逃げ帰るのか?」
「いいえ」フロイスは首をふった。「たとえ日本人のなかでひとりしか信仰していただけないとしてもわれわれは日本にとどまりまする」
「さようか」信長は関心した。そして「で? ヨーロッパとやらまでは船で何日かかるのじゃ?」と尋ねた。是非とも答えがききたかった。
「二年」フロイスはゆっくりいった。
「………二年? それはそれは」信長は関心した。そんなにかかるのか…。二年も。さすがの信長も呆気にとられた。そんなにかかるのか、と思った。
 信長は世界観と国際性を身につけていた……というより「何でも知ってやろう」という好奇心で目をぎらぎらさせていた。そのため、利用できる者はなんでも利用した。
 だが、信長には敵も多く、争いもたえなかった。
 他人を罵倒し、殺し、暴力や武力によって服従させ、けして相手の自尊心も感情も誇りも尊重せず、自分のことばかり考える信長には当然大勢の敵が存在した。
 その戦いの相手は、いうまでもなく足利義昭であり、石山本願寺の総帥光佐の一向宗徒であり、武田信玄、上杉謙信、毛利、などであった。
 此頃、お市と江、初、茶々は織田信長の安土城に移されていた。「叔父上は悪魔にございまする!」茶々と初は実父の仇・信長に悪意をもっていた。何も知らないお江は「叔父上に失礼ですよ、姉様、姉上!」という。しかし信長は笑って「悪魔とは面白い。間抜けな神よりいい」などというばかりだ。「お市、いい姫たちを生んだのう」信長はいった。


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天と地と人と直江兼続と「愛と上杉の義・直江兼続のすべて」ブログ連載小説2

2013年10月11日 06時02分01秒 | 日記
         2 桶狭間合戦




  樋口与六兼続は「信長は義に劣る者ときいている」という。
「では、今川公に負けまするか?」とは弟。
「わからぬ。だが、今川は何万の兵……織田はたった三千だ」
「では勝つのは今川公で?」
「知らぬ。だが、信長はうつけのようにみえるが軍事の天才だという。もしも…というときもあろう」
 兼続はいった。弟・与七実頼は「しかるにそのあるいはとは?」ときく。
「奇襲だ。わしが織田信長ならそうする。要は義元公の首をとればいいのだ」
 兼続はどこまでも明晰だった。「それにしても謙信公の戦は野遊びだ」
「野遊び?」
「信長がどんどん力をつけていくのに……いっこうに天下を狙わぬ」兼続は織田方に驚異の念を抱いていた。このままでは関東守護の座さえ危うい……。
「これ、御屋形様の悪口はけしからぬぞ!」
 父は叱った。名を樋口兼豊(惚右衛門)という。母は泉重蔵(お藤)で、まだ若い兄弟をきちんと躾ていた。
 戦国時代の二大奇跡がある。ひとつは中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦、もうひとつが織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。
 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。
  斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長が弟・信行を謀殺したのは前述した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。
 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。
 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。
「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。
「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。
「は?」
「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。
 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。
 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。
 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのよい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。
 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。
 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。
 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。
「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。
 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは               
足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。
 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。信長の勝つ確率は極めて低い。
  今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。
  特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。
 今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。
 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。しかし当の松平元康(のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。
 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。
 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。
 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。なにを夢ごとを。家臣たちは訝しがった。





  松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。
 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。
 今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。今川義元は軍議をひらいた。
「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。
 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」
 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。
 柴田勝家は「そうか……とは? …御屋形! 何か策は?」と口をはさんだ。
 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。宮福太夫という猿楽師に、羅生門を舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。
「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」
 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。
 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。
「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。
「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」
「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」
「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。
「なんて御屋形だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」
「まったくあきれる。あれでも大将か?」
 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」
  信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。
「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」
「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」
「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」
 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。
「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の男がいった。この男こそ、のちの豊臣秀吉である。秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」
「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」
 日吉は迷ってから「奇襲にでればと」
「奇襲?」信長は茫然とした。
「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」
「さしでがましいわ!」信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。
「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。
 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。
「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。
「なんじゃ、猿」
「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」
「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」
「八百あまり」
「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。
「いま何刻じや?」
「うしみつ(午前2時)でごさりまする」猿はいった。
「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」
 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。そして有名な「敦盛」を舞い始める。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。
「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。わずかに長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎の五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。
 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。
「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」
 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。
 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。
 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。
 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」
 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。
「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。
 信長は叫んだ。
「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」
 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。
「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」
 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせ、にやりとした。
「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形である」と感心した。
 織田軍は密かに進軍を開始した。





                
  太子ケ根を登り、丘の上で信長軍は待機した。
 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。嵐の中で部下は「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。
 しかし、信長はその策をとらなかった。
「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」
 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」
 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。山の上から喚声をあげて下ってくる軍に今川本陣は驚いた。
「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。
「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」
 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!
 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。
 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!
「御屋形様をお守りいたせ!」
 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。
「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、新助の人差し指に噛みつき、それを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。
 義元はこの時四十二歳である。                   
「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。
 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。
「勝った! われらの勝利じゃ!」
 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。
  かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。
「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」
「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。
「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。
 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。
 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。
  今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。
 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。
 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。
 これに対して信長は「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。
 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。
 清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方にけっそうをかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。
  清洲城に戻り、酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。
 信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」
 家臣たちは意味がわからず顔を見合わせたという。                


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天と地と人と直江兼続と「愛と上杉の義・直江兼続のすべて」ブログ連載小説1(1)

2013年10月09日 07時55分37秒 | 日記







         どくろ杯


  信長は珍しく神棚に祈っていた。もう深夜だった。ろうそくの明りで室内は鬼灯色になっていた。秀吉はにこりと笑って、「神に祈っておられるのでか? 御屋形様」といった。そして、はっとした。除くと、神棚には仏像も何もない。ただ鏡があって、そこに信長の顔が写しだされていたからだ。信長は”自分”に祈っていたのだ。
 秀吉はそら恐ろしい気分だったに違いない。
  信長は大軍をすすめ、越前(福井県)に突入した。北近江の浅井長政はそのままだ。一乗谷城の朝倉義景にしてもびっくりとしてしまった。
 義景にしてみれば、信長はまず北近江の浅井長政の小谷山城を攻め、次に一乗谷城に攻め入るはずだと思っていた。しかし、信長はそうではなかった。一揆衆と戦った経験から、信長軍はこの辺の地理にもくわしくなっていた。八月十四日、信長は猛スピードで進撃してきた。朝倉義景軍は三千人も殺された。信長は敦賀に到着している。
 織田軍は一乗谷城を包囲した。義景は「自刀する」といったが部下にとめられた。義景は一乗谷城を脱出し、亥山(大野市)に近い東雲寺に着いた。
「一乗谷城すべてを焼き払え!」信長は命じた。
 城に火が放たれ、一乗谷城は三日三晩炎上し続けた。それから、義景はさらに逃亡を続けた。が、懸賞金がかけられると親戚の朝倉景鏡に百あまりの軍勢でかこまれてしまう。 朝倉義景のもとにいるのはわずかな部下と女人だけ………
 朝倉義景は自害した。享年四十一歳だったという。
  そして、北近江の浅井長政の小谷山城も織田軍によって包囲された。
 長政は落城が時間の問題だと悟った。朝倉義景の死も知っていたので、援軍はない。八月二十八日、浅井長政は部下に、妻・お市(信長の妹)と三人の娘(茶々(のちの秀吉の側室・淀君)、お初、お江(のちの家康の次男・秀忠の妻)を逃がすように命じた。
 お市と娘たちを確保する役回りは秀吉だった。
「さぁ、はやく逃げるのだ」浅井長政は心痛な面持ちでいった。
 お市は「どうかご一緒させてください」と涙ながらに懇願した。
 しかし、長政は頑固に首を横にふった。
「お主は信長の妹、まさか妹やその娘を殺すことはしまい。嫡男は殺されるだろうが」
「しかし…」
「いけ!」浅井長政は低い声でいった。「はやく、いくのだ! さぁ!」
お市は浅井長政に嫁いだ日を思い出した。兄・信長に命じられるまま嫁いだ。浅井長政はお市を見て「そなたは武将のような女子じゃ。しかしその瞳に可憐な女が見える」といったのだ。「女?」お市は長政に惹かれるようになる。すぐに茶々(のちの秀吉の側室・淀君)と初(京極高次の側室)という娘に恵まれた。そして信長に反逆して大勢の織田勢に包囲されながら、小谷城でお市は身ごもった。しかし、お市はお腹の赤子をおろそうとした。薬師に薬をもらった。「これを飲めばお腹のやや(赤子)は流れるのじゃな?」「はっ」そんなとき、幼い茶々が短刀を抜いて初を人質に乱入した。驚いた、というしかない。茶々は「ややを産んでくだされ、母上! ややを殺すならこの茶々も初もこの刀で死にまする!」という。この思いに母・お市は負けた。短刀を取り上げて、「わかった。産もうぞ」といった。娘が生まれた。
 長政は「この姫は近江の湖に生まれし子、名は江じゃ」という。しかし、浅井三姉妹とお市と浅井長政との永遠の別れとなった。お市と茶々、初や側奥女中らは号泣しながら小谷城落城・炎上を見送った。
 秀吉はにこにこしながら、お市と娘たちを受け取った。
 浅井長政は、信長の温情で命を助けられそうになった。秀吉が手をまわし、すでに自害している長政の父・久政が生きているから出てこい、とやったのだ。
 浅井長政は、それならばと城を出た。しかし、誰かが、「久政様はすでに自害している」と声をあげた。そこで浅井長政は、
「よくも織田信長め! またわしを騙しおったか!」と激怒し、すぐに家老の屋敷にはいり、止める間もなく切腹してしまった。
 信長は激しく怒り、「おのれ! 長政め、命だけは助けてやろうと思うたのに……馬鹿なやつめ!」とかれを罵った。
 長男の万福丸は秀吉の家臣によって殺害され、次男の万寿丸は出家処分に…お市は泣きながら、三姉妹とともに織田信長の清洲城に引き取られていった。
 兄・信長と信包の元で、9年間もお市の方は贅沢に幸せに暮らさせてもらった。しかし、気になるのは柴田勝家である。
 勝家はお市の初恋の相手であった。またお市は秀吉をいみ嫌っていた。…サルめ! ハッキリそういって嫌った。

  天正二年(一五七四)の元日、岐阜城内は新年の祝賀でにぎわっていた。
 信長は家臣たちににやりとした顔をみせると、「あれを持ってこい」と部下に命じた。ほどなく、布につつまれたものが盆にのせて運ばれてきた。    
「酒の肴を見せる」
 信長はにやりとして、顎で命じた。布がとられると、一同は驚愕した。盆には三つの髑髏があったからだ。人間の頭蓋骨だ。どくろにはそれぞれ漆がぬられ、金箔がちりばめられていた。信長は狂喜の笑い声をあげた。
「これが朝倉義景、これが浅井久政、浅井長政だ」
 一同は押し黙った。………信長さまはそこまでするのか……
 お市などは失神しそうだった。利家たちも愕然とした。
「この髑髏で酒を飲め」信長は命じた。部下が頭蓋骨の頂点に手をかけると、皿のようになった頭蓋骨の頭部をとりだし、酒をついだ。
「呑め!」信長はにやにやしていた。家臣たちは、信長さまは狂っている、と感じた。酒はもちろんまずかった。とにかく、こうして信長の狂気は、始まった。

  勝家は家臣団五千とともに上杉景勝と戦っていた。そんな中、ふたたび家臣となった者が山城に孤立した。囲まれ、上杉軍にやられるところだった。勝家の部下たちはその者は見殺しにして、このまますすめば上杉景勝の首をとれると進言した。しかし、勝家は首を横にふった。「あやつを見殺しに出来るか!」こうして、その者たちは助けられた。         
 上杉景勝(上杉謙信の甥・謙信の養子・上杉家第二代)は難を逃れた。




  天正四年(一五七六)……
 信長の庇護のもと伊勢(三重県)上野城でお江、茶々、初、お市は暮らしていた。。
「母上ーっ!」背の高い少女が浜辺で貝を拾いながら、浜辺のお市や叔父・織田信包(のぶかね)らに手をいった。可愛い少女である。
「あ!……姉様! ずるい!」
 浅井三姉妹の次女で姉の初が、江の籠の貝を盗みとり自分の籠に入れた。
 お市とともに浜茶屋に座っている背の高い少女こそ、長女・茶々、のちの豊臣秀吉の正室・淀になる茶々(当時十二歳)である。 初と江のふたりは浜茶屋に駆けてきて、
「母上、ひどいのです! 姉様が私の貝を盗むのです」
「失礼な、たまたま貝が私の籠にはいっただけじゃ」
 無邪気なふたりにお市も信包も茶々も笑った。 
 元亀四年(1573年)にお江は生まれ、寛永三年(1626年)に病死するまでの人生である。…墓は徳川家の菩提寺に秀忠とともにある。…
 徳川秀忠はハンサムな顔立ちで、すらりとした痩身な男で、智略のひとであったが、今はまだ只の若者に過ぎない。若き頃より、秀吉の人質になり、軍略を磨くことになるのだが、まだまだ家康・秀吉の方が上であった。
 幼い頃、江は織田信長の馬上での勇々しい姿をみたことがある。安土でのことだった。
 お江はその時の信長の姿を目に焼き付けていた。信長ならば…もしや…私も!「御屋形様は…戦神じゃ! ひとから義をとってしまえば野山の獣と同じだ!」
 織田……の旗印が風にたなびく……英雄・織田信長はお江には眩しく映った。
 まだお江は織田信長が父親の命をうばったなど知らなかった。
 そして、お江に「上杉謙信」「武田信玄」のことをきいた。
「どちらが勝つと思う? 江!」
「謙信に決まってます」
「しかし…」信長は続けた。「武田には山本勘介なる軍師が…」
「そんなやつ、謙信……上杉謙信の足元にもおよばぬはずです!」
 お江は笑った。川中島は現在の新潟県と長野県の間に流れる千曲川のところである。ここで上杉軍と武田軍のこぜりあいが長く続けられていた。上杉謙信とは不思議なひとで、領土を広げようという野心のない人物で、各国の武将の中でも人望があつかった。楽しむが如く戦をし、武田攻めも義によって行っているだけだという。武田の領地である信濃や甲斐を狙っていた訳ではないのだ。すべては村上義清の要請……それだけだった。
   そして、上杉謙信と武田信玄との激戦、川中島の戦いで、ある。

  信州(長野県)・川中島(信州と越後の国境付近)で、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)は激突した。世にいう「川中島合戦」である。戦国時代の主流は山城攻めだったが、この合戦は両軍四万人の戦いだといわれる。
  甲府市要害山で大永元(一五二一)年、武田信玄(晴信)は生まれた。この頃の十六世紀は戦国時代である。文永十(一五四一)年、武田信玄(晴信)は家督を継いだ。信濃には一国を束める軍がない。武田信玄は孫子の「風林火山」を旗印に信濃の四十キロ前までで軍をとめた。それから三~四ケ月動かなかった。
「武田などただの臆病ものよ!」
 信濃の豪族はたかをくくっていた。
 しかし、武田晴信はそんなに甘くはない。
 まず甲斐(山梨県)で軍備を整えた。
 出家もし、剃髪し、晴信から信玄と名をかえた。
 そして、信濃(長野県)の制圧の戦略をもくもくと練っていた。
「御屋形様! 武田の騎馬軍団の勇姿みせましょうぞ!」
 家臣たちは余裕だった。
 信玄も、
「信濃はわしのものとなる。甲斐の兵、武田軍は無敵ぞ」
 と余裕のままだった。
 謙信も「武田の兵を叩きつぶしてくれるわ!」息巻いた。
「いけ! 押し流せ!」
 陣羽織りの信玄の激が飛ぶ。
「うおおおっ!」
 武田の赤い鎧の集団が長槍をもって突撃する。
 信濃の豪族は油断した。そのすきに信玄は騎馬軍団をすすめ、信濃を平定した。領土を拡大していった。彼は、領土の経済へも目を向ける。「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定。治水事業も行った。信玄は国を富ませて天下取りを狙ったのである。
 第一次川中島の合戦は天文二十二(一五五三)年におこった。まだ誰の支配地でもない三角洲、川中島に信玄は兵をすすめる。と、強敵が現れる。上杉謙信(長尾景虎)である。謙信はこのときまだ二十二歳。若くして越後(新潟県)を治めた天才だった。謙信は幼い頃から戦いの先頭にたち、一度も負けたことがなかったことから、毘沙門天の化身とも恐れられてもいた。また、謙信は義理堅く、信濃の豪族が助けをもとめてきたので出陣したのであった。上杉軍が逃げる武田軍の山城を陥していき、やがて信玄は逃げた。信玄の川中島侵攻は阻まれた。(二万人の負傷者)
 天文二十三(一五五四)年、武田は西の今川、南の北条と三国同盟を成立させる。それぞれが背後の敵を威嚇する体制ができあがった。
「これで……不倶戴天の敵・上杉謙信を倒せる!」
 信玄は笑った。
 ある日、両軍主領があう機会があった。
 永禄元年五月上杉・武田の和議が起こり、千曲川を隔てて両将が会見したとき、謙信は馬から降り、川岸で会見しようとした。
 すると信玄は礼を重んじることもなく、
「貴公の態度はいかにもうやうやしい。馬上から語ってもよかろうぞ」と放言した。
 信玄には謙信のような「義」「礼」がなかったのである。
 謙信はやはり武田と戦うことを誓った。
 上杉謙信は武諦式をおこない、戦の準備をはじめた。
「……今度の戦で信玄を倒す!」
 謙信は兵に激を飛ばした。
「おう!」
 上杉軍は決起盛んである。
  第二次川中島の合戦は天文二十四(一五五五)年四月に勃発した。
 信玄は上杉が犀川に陣をはったときの背後にある旭山城の山城に目をつける。上杉は犀川に陣をはり、両軍の睨み合いが数か月続く。
 膠着状態のなか、上杉武田両軍のなかにケンカが発生する。
「やめぬか! 義を守れ!」
 謙信は冷静にいって、書状を書かせた。
 謙信は部下に誓約書をかかせ鎮圧したのだ。
 どこまでも「義」のひとなのである。
 信玄は違った。
「おぬしら、働きをしたものには褒美をやるぞ!」
 と、信玄は人間の利益にうったえた。
「欲」「現実」のひとなのである。
 信玄は戦でいい働きをしたら褒美をやるといい沈静化させる。謙信は理想、信玄は現実味をとった訳だ。
 やがて武田が動く。
 上杉に「奪った土地を返すから停戦を」という手紙を送る。謙信はそれならばと兵を引き越後に帰った。
「……信玄を信じよう」
 義の謙信は疑いのない男だ。
 しかし、信玄は卑怯な現実主義者だった。
 第三次川中島の合戦は弘治三(一五五七)年四月に勃発した。
 武田信玄が雪で動けない上杉の弱みにつけこんで約束を反古にして、川中島の領地を奪ったことがきっかけとなった。”信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。そして、民衆の悲しみは絶えない。隣国の主としてこれを黙認することなどできない”
 上杉謙信は激怒して出陣した。上杉軍は川中島を越え、奥まで侵攻。しかし、武田軍は戦わず、逃げては上杉を見守るのみ。これは信玄の命令だった。”敵を捕捉できず、残念である”上杉謙信は激怒する。”戦いは勝ちすぎてはいけない。負けなければよいのだ。 敵を翻弄して、いなくなったら領土をとる”信玄は孫子の兵法を駆使した。上杉はやがて撤退しだす。
 永禄二(一五五九)年、上杉謙信は京へのぼった。権力を失いつつある足利義輝が有力大名を味方につけようとしたためだ。謙信は将軍にあい、彼は「関東管領」を就任(関東支配の御墨付き)した。上杉謙信はさっそく関東の支配に動く。謙信は北条にせめいり、またたくまに関東を占拠。永禄三(一五六〇)年、今川義元が織田信長に桶狭間で討ち取られる。三国同盟に亀裂が走ることに……。
 上杉は関東をほぼ支配し、武田を北、東、南から抑えるような形勢になる。今川もガタガタ。しかも、この年は異常気象で、四~六月まで雨が降らず降れば十一月までどしゃぶり。凶作で飢餓もでた。
 第四次川中島の合戦は永禄四(一五六一)年、五月十七日勃発。それは関東まで支配しつつあった上杉に先手をうつため信玄が越後に侵攻したことに発した。信玄は海津城を拠点に豪族たちを懐柔していく。上杉謙信は越後に帰り、素早く川中島へ出陣した。
 上杉は川中島に到着すると、武田の目の前で千曲川を渡り、海津城の二キロ先にある妻女山に陣をはる。それは武田への挑発だった。
 十五日もの睨み合い…。信玄は別動隊を妻女山のうらから夜陰にまぎれて奇襲し、山から上杉軍を追い出してハサミ討ちにしようという作戦にでる(きつつき作戦)。
 しかし、上杉謙信はその作戦を知り、上杉軍は武田別動隊より先に夜陰にまぎれて山を降りる。
「よいか! 音をたてたものは首を斬り落とすぞ!」
 謙信は家臣や兵に命令した。
 謙信は兵に声をたてないように、馬には飼い葉を噛ませ口をふさぐように命令して、夜陰にまぎれて山を降りた。一糸乱れぬみごとな進軍だった。
 上杉軍は千曲川を越えた。
 九月十日未明、信玄が海津城を出発。永禄四(一五六一)年、九月十日未明、記録によれば濃い霧が辺りにたちこめていた。やがて霧がはれてくると、武田信玄は信じられない光景を目にする。
「……なんじゃと?! 上杉が陣の真ん前に?」
 信玄は驚いた。
 驚きのあまり軍配を地に落としてしまった。
 妻女山にいるはずの上杉軍が目の前に陣をしいていたのだ。上杉軍は攻撃を開始する。妻女山に奇襲をかけた武田別動隊はカラだと気付く。が、上杉軍の鉄砲にやられていく。「いけ! 押し流せ!」
 無数の長槍が交じりあう。
 雲霞の如く矢が飛ぶ。
 謙信は単身、馬で信玄にせまった。
 刀をふる謙信……
 軍配で受ける信玄……
 謙信と信玄の一気討ち「三太刀七太刀」…。
 このままでは本陣も危ない!
 信玄があせったとき武田別動隊が到着し、九月十日午前十時過ぎ、信玄の軍配が高々とあがる。総攻撃!
 ハサミうちにされ、朝から戦っていた兵は疲れ、上杉軍は撤退した。死傷者二万(両軍)の戦いは終了した。「上杉謙信やぶれたり!」信玄はいったという。
 武田信玄は川中島で勝利した。
 上杉はその後、関東支配を諦め、越後にかえり、信玄は目を西にむけた。
 第五次川中島の合戦は永禄七(一五六四)年、勃発した。
 しかし、両軍とも睨みあうだけで刃は交えず撤退。以後、二度と両軍は戦わなかった。 武田は領土拡大を西に向け、今川と戦う。こんなエピソードがある。今川と北条と戦ったため海のない武田領地は塩がなくなり民が困窮……そんなとき塩が大量に届く。それは上杉謙信からのものだった。たとえ宿敵であっても困れば助ける。「敵に塩をおくる」の古事はここから生まれた。
 武田は大大名になった。
 信玄は国づくりにも着手していく。治水工事、高板はたびたび川がはんらんしていた。 そこで竜王の民を移住させ、堤をつくった。
 上杉にも勝ち、金鉱二十もあらたに手にいれた。
 のちに信長は自分の娘を、信玄の息子勝頼に嫁がせている。
 しかし、信玄は信長の一向衆や寺焼き討ちなどをみて、
「織田信長は殺戮者だ! わしが生きているうちに正しい政をしなければ…」
 と考えた。それには上洛するしかない。

  のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。
 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。
 また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。
 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。
 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。
「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。




  信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。
 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。
 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。
 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。           天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。
 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。
 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?
 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。
 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。
 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。
 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に無勢で、結局殺されてしまう。
 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)
 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。
 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。
 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。
 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。
 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。
 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。






  足利義昭が織田信長に「幕府回復のために力を貸していただきたい」と打診していた頃、信長はまだ稲葉山城(岐阜城)攻略の途中であったから、それほど関心を示さなかった。また、天皇からの「天皇領の回復を願いたい」というも放っておいた。
 朝倉義景の一乗谷城には足利義昭や細川藤孝が厄介になる前に、居候・光秀がいた。のちに信長を本能寺で討つことになる明智十兵衛光秀である。美濃の明智出身であったという。機知に飛んだ武士で、教養人、鉄砲の名人で、諸国を放浪していたためか地理や地方の政や商いに詳しかった。
 光秀は朝倉義景に見切りをつけていた。もともと朝倉義景は一国の主で満足しているような男で、とうてい天下などとれる器ではない。このような男の家臣となっても先が知れている。光秀は誇り高い武将で、大大名になるのが夢だ。…義景では……ダメだ。
 光秀は細川藤孝に「朝倉義景殿ではだめだ。織田信長なら、あるいは…」と漏らした。「なるほど」細川は唸った。「信長は身分や家格ではなく能力でひとを判断するらしい。義昭さまを連れていけば…あるいは…」
 ふたりは頷いた。やっと公方様の役に立つかも知れない。こうなったらとことん信長を利用してやる。信長のようなのは利用しない手はない。
 光秀も細川藤孝も興奮していた。これで義昭さまが将軍となれる。…かれらは信長の恐ろしさをまだ知らなかったのだ。信長が神や仏を一切信じず、将軍や天皇も崇めないということを……。光秀たちは無邪気に信長を利用しようとした。しかし、他人に利用される程、信長は甘くない。信長は朝倉義景とは違うのだ。
 光秀も細川藤孝もその気になって、信長に下話した。すると、信長は足利義昭を受け入れることを快諾した。なんなら将軍に推挙する手助けをしてもいい、と信長はいった。
 明智十兵衛光秀も細川藤孝も、にやりとした。
 信長が自分たちの思惑通りに動いたからだ。
 ……これで、義昭さまは将軍だ。してやったり!
 だが、光秀たちは信長が「義昭を利用してやろう」などと思っていることを知らなかった。いや、そんなことは思いもよらなかった。なにせ、光秀たちは古い価値観をもった武士である。誰よりも天皇や室町幕府、足利将軍の崇拝者であり、天皇や将軍を利用しようという人間がいるなど思考の範疇外であったのだ。
 信長は「くだらん将軍だが、これで上洛の口実ができる」と思った。
 信長が快諾したのは、義昭を口実に上洛する、つまり京都に入る(当時の首都は京都)ためである。かれも次第に世の中のことがわかってきていて、ただの守護代の家臣のそのまた家臣というところからの成り上がりでは天下はとれないとわかっていた。ただやみくもに野望を抱き、武力蜂起しても天下はとれないのをわかっていた。
 日本の社会は天皇などが中心の社会で、武家はその家臣というのが通例である。武力だけで天下の道を辿るのは難しい。チンギス・ハンのモンゴルや、秦始皇帝の中国とは違うのだ。天下をとるには上洛して、天皇らを嫌でもいいから奉らなければならない。
 そこで信長は「天下布武」などといいだした。
 つまり、武家によって天下をとる、という天下獲りの野望である。おれは天下をとる。そのためには天皇だろうが、将軍だろうが利用するだけ利用してやる!
 信長は興奮し、心の中で笑った。うつろな笑いだった。
 確かに、今、足利義昭も天皇も「権威を回復してほしい」といってきている。しかし、それは信長軍の武力が台頭してきているからで、弱くなれば身分が違うとバッサリきりすてられるかも知れない。そこで、どの大名も戴くことをためらった足利義昭をひきいて上洛すれば天下に信長の名が轟く。義昭は義輝の弟で、血も近い。なにより恩を売っておけば、何かと利用できる。恩人として、なにかしらの特権や便宜も計られるだろう。信長は狡猾に計算した。
「天下布武」などといったところで、おれはまだ美濃と尾張だけだ。おれは日本中を支配したいのだ。そのために足利義昭を利用して上洛しなくてはならないのだ。
 そのためにはまず第十四代将軍・足利義栄を戴いている三好や松永久秀を滅ぼさなければならない。信長は戦にうって出ることを考えていた。自分の天下のために!
 信長は当時の常識だった「将軍が一番偉い」などという考えをせせら笑った。なにが偉いものか! 偉いのはおれだ! 織田……織田信長だ! この俺に幸運がやってきた!





  足利義昭にしてみれば織田信長などチンピラみたいな男である。かれが越前にいったのも朝倉義景を通して越後の長尾(上杉)景虎(謙信)に頼ろうとしたのだし、また上杉でなくても武田信玄でも誰でもよかった。チンピラ信長などは「腰掛け」みたいなものである。なんといっても上杉謙信や武田信玄は信長より大物に写った。が、上杉も武田も容易に兵を挙げてくれなかった。義昭はふたりを呪った。
 しかし、信長にとっては千載一遇の好機であった。朝倉がどうでようと、足利義昭を利用すれば上洛の大義名分が出来る。遠交近攻で、上洛のさまたげとなるものはいない。
 信長は明智光秀や細川藤孝から義昭の依頼を受けて、伊勢方面に出兵した。滝川一益に北伊勢方面を攻撃させた。そうしながら伊勢の実力者である関一族の総領神戸氏の家に、三男の信孝を養子としておしつけた。工藤一族の総領である長野氏の名を弟信包に継がせたりしたという。信長の狙いは南伊勢の北畠氏である。北畠氏を攻略せねば上洛に不利になる。信長はさらに、
「足利義昭さまが越前にいてはやりにくい。どうか尾張にきてくだされ」と書状をおくった。義昭はすぐに快諾した。永禄十一年(一五六八)七月十三日、かれは越前一乗谷を出発した。朝倉義景には「かくかくしかじかで信長のところにまいる」といった。当然ながら義景は嫌な顔をした。しかし、朝倉義景は北近江一国で満足している、とうてい兵をあげて天下をとるだけの実力も器もないのだから仕方ない。
 上洛にたいして、信長は朝倉義景につかいをだした。義景は黙殺した。六角義賢(南近江の城主)ははねつけた。それで、信長は六角義賢を攻め滅ぼし、大軍を率いて京都にむかった。九月一二日に京都にはいった。足利義昭を京都の清水寺に宿舎として入れ、松永と三好三人衆と対峙した。松永弾正久秀は機を見るのに敏な男で、人質をさしだして和睦をはかった。それがきっかけとなり信長は三好三人衆の軍勢を叩き潰した。
 足利義昭は「こやつらは兄義輝を殺した連中だ。皆殺しにいたせ!」といきまいた。
 しかし信長が「義昭さま、ここは穏便に願う」と抑圧のある声で抑えた。
 永禄十一年(一五六八)十月十八日、足利義昭は将軍に推挙された。第一四代将軍・義栄は摂津の逃れて、やがてそこで死んだ。
「阿波公方・足利義栄の推挙に荷担し、義輝を殺した松永と三好三人衆を京都より追放する」時の帝正親町天皇はそう命じた。
 松永弾正久秀は降伏したものの、また信長と対立し、ついにはかれはおいつめられて爆死してしまう(大事にしていた茶道具とともに爆薬を体にまきつけて火をつけた)。
 直江兼続が織田信長とあったのはこの頃だったという。兼続は「ひとに義がなければ野山の獣と同じでござる!」という。上杉謙信に金色の洛中洛外図屏風を送った信長は「天下を取れるなら鬼にでも魂をくれるわ!」という。信長は義昭のために二条城を造らせた。 足利義昭は非常に喜んだ。これでまろは本物の将軍である。かれは信長に利用されているとはまだ感付いていなかった。「あなたはまろの御父上さまだ」義昭はきしょくわるくいった。信長は答えなかった。当時、信長三十六歳、義昭は三十二歳だった。「あなたは偉大だ。あなたを副将軍としてもよい。なんならもっと…」
「いや」信長は無表情のままきっぱりいった。「副将軍はけっこうでござる。ただし、この信長ひとつだけ願いがござる」
「それは?」
「和泉国の堺と、近江国の大津と草津に、代官所を置かせていただきたい」
 義昭はよく考えもせず、簡単に「どうぞどうぞ、代官所なりなんなり置いてくだされ。とにかくあなたはまろの御父上なのですから」と答えて、にやりとした。気色悪かった。 信長には考えがあった。堺と、大津と草津は陸運の要所である。そこからとれる税をあてにしたのだ。そして信長は京都で、ある人物にあった。それは南蛮人、ルイス・フロイスで、あった。キリスト教宣教師の。                       

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天と地と人と直江兼続と「愛と上杉の義・直江兼続のすべて」ブログ連載小説1

2013年10月09日 06時21分08秒 | 日記
小説 天と地と人と直江兼続と



             
               
               
               
               
                total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

  お江は元亀四年(1573年)、近江国(滋賀県)小谷城主・浅井長政と織田信長の妹・お市の三女として生まれた。姉は茶々(のちの淀君)、初。
 生まれたときに父・浅井長政は織田信長にやぶれて自害。お江ら浅井三姉妹はお市とともに信長の庇護下に。やがて織田信長が光秀に「本能寺の変」で殺されると秀吉の庇護下にはいる。茶々は秀吉の側室・淀として秀頼を生む。初は京極高次の正室に。お江は徳川家康の息子で二代将軍・秀忠の正室として三代将軍・家光を生む。豊臣家は家康に滅ぼされ淀・秀頼は自害。徳川の天下へ。信長を伯父さん、秀吉をお義兄さん、家康をお義父さん、とよべる江の生涯はまさに「大河ドラマ」である。
                                おわり

         1 関ヶ原


石田三成は安土桃山時代の武将である。
 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大阪城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大阪城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「お主はバカのヤツです、三成!」お江はしたり顔で、彼を非難した。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに」
 三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」とお江をきっと睨んだ。
「たわけ!お義父(徳川家康)さまや主人・秀忠が三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、お江殿!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、お義父上(徳川)さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」お江は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「いいえ。でも姉上(茶々(淀君))や姉様(初・京極高次正室(常高院))からきいた。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したという。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放ったらしいぞ」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうじゃ?」
「いや、いらぬ」
 お江は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人や領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「ふん。姉上や秀頼を利用する方が武士の風上にもおけぬわ」お江は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「お江殿」
「なんじゃ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公とあなたの姉上・淀君様が危ないのだぞ!」
  お江は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、お義父上(徳川)さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そう」
 お江は拍子抜けして去った。嘲笑する気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴じゃな」苦笑した。
 次に黒田長政がきた。長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。

   関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・茨城の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。
 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。
 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。
 直江らは「何故にございますか?いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか?御屋形さま!」
 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ」
 直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ!刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。
 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。

   石田三成はよく前田利家とはなしていたという。前田利家といえば、主君・豊臣秀吉公の友人であり加賀百万石の大大名の大名である。三成はよく織田信長の側人・森蘭丸らにいじめられていたが、それをやめさせるのが前田利家の役割であった。三成は虚弱体質で、頭はいいが女のごとく腕力も体力もない。いじめのかっこうのターゲットであった。
 前田利家は「若い頃は苦労したほうがいいぞ、佐吉(三成)」という。
 木下藤吉郎秀吉も前田又左衛門利家も織田信長の家臣である。前田利家は若きとき挫折していた。信長には多くの茶坊主がいた。そのうちの茶坊主は本当に嫌な連中で、他人を嘲笑したり、バカと罵声を浴びせたり、悪口を信長の耳元で囁く。信長は本気になどせず放っておく。しかるとにき事件があった。前田利家は茶坊主に罵声を浴びせかけられ唾を吐きかけられた。怒った利家は刀を抜いて斬った。殺した。しかも織田信長の目の前でである。
 信長は怒ったが、柴田勝家らの懇願で「切腹」はまぬがれた。だが、蟄居を命じられた。そこで前田利家は織田の戦に勝手に参戦していく。さすがの信長も数年後に利家を許したという。「苦労は買ってでもせい」そういうことがある前田利家は石田佐吉(三成)によく諭したらしい。いわずもがな、三成は思った。


 浅井長政の裏切り



  織田信長と将軍・足利義昭との確執も顕著になってきていた。
 義昭は将軍となり天皇に元号を「元亀」にかえることにさせた。しかし、信長は「元亀」などという元号は好きではなかった。そこで信長は元号を「天正」とあっさりかえてしまう。足利将軍は当然激怒した。しかし、義昭など信長のロボットみたいなものである。
 義昭は信長に剣もほろろに扱われてしまう。
 かれは信長の元で「殿中五ケ条」を発布、しかし、それも信長に無視されてしまう。
「あなたを副将軍にしてもよい」
 義昭は信長にいった。しかし、信長は餌に食いつかなかった。
 怒りの波が義昭の血管を走った。冷静に、と自分にいいきかせながらつっかえつっかえいった。「では、まろに忠誠を?」
「義昭殿はわしの息子になるのであろう? 忠誠など馬鹿らしい。息子はおやじに従っておればよいのじゃ」信長は低い声でいった。抑圧のある声だった。
「義昭殿、わしのおかげで将軍になれたことを忘れなさるな」
 信長の言葉があまりにも真実を突いていたため、義昭は驚いて、こころもち身をこわばらせた。百本の槍で刺されたように、突然、身体に痛みを感じた。信長は馬鹿じゃない。 しかし、おのれ信長め……とも思った。
 それは感情であり、怒りであった。自分を将軍として崇めない、尊敬する素振りさえみせず、将軍である自分に命令までする、なんということだ!
 その個人的な恨みによって、その感情だけで義昭は行動を起こした。
 義昭は、甲斐(山梨県)の武田信玄や石山本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信、中国の毛利、薩摩(鹿児島県)の島津らに密書をおくった。それは、信長を討て、という内容であったという。
 こうして、信長の敵は六万あまりとふくらんだ。
 そうした密書を送ったことを知らない細川や和田らは義昭をなだめた。
 しかし、義昭は「これで信長もおしまいじゃ……いい気味じゃ」などと心の中で思い、にやりとするのであった。
  義昭と信長が上洛したとき、ひとりだけ従わない大名がいた。
 越前(福井県)の朝倉義景である。かれにしてみれば義昭は居候だったし、信長は田舎大名に過ぎない。ちょっと運がよかっただけだ。義昭を利用しているに過ぎない。
 信長は激怒し、朝倉義景を攻めた。           
 若狭にはいった信長軍はさっそく朝倉方の天筒山城、金ケ崎城を陥した。
「次は朝倉の本城だ」信長は激を飛ばした。
 だが、信長は油断した。油断とは、浅井長政の裏切り、である。
 北近江(滋賀県北部)の浅井長政の存在を軽く見ていた。油断した。
 永禄十年(1567年)浅井長政に信長の命令により、お市の方は嫁いだ。信長にとって浅井はいわば義弟だ。裏切る訳はない、と、たかをくくっていた。お市の共に、利家の弟で、佐脇家の養子にいった佐脇良之が選ばれ、浅井にいき浅井家の家臣となった。良之はおとなしく物静かなタイプだった。…浅井長政は味方のはずである…………
 信長にはそういう油断があった。義弟が自分のやることに口を出す訳はない。そう思って、信長は琵琶湖の西岸を進撃した。東岸を渡って浅井長政の居城・小谷城を通って通告していれば事態は違っていただろうという。しかし、信長は、”美人の妹を嫁にやったのだから俺の考えはわかってるだろう”、という考えで快進撃を続けた。
 しかし、「朝倉義景を攻めるときには事前に浅井方に通告すること」という条約があった。それを信長は無視したのだ。当然、浅井長政は激怒した。
 お市のことはお市のこと、朝倉義景のことは朝倉義景のこと、である。通告もない、しかも義景とは父以来同盟関係にある。信長の無礼に対して、長政は激怒した。
「殿! はやまってはなりませぬ!」お市とは家臣が羨む程の仲の良い夫婦だったが、お市は信長の身を案じた。「市! わしは信長を討つ!」
「……殿?!」お市は動揺した。信長は実の兄であり、長政は愛しい夫である。
 三人の娘、のちに浅井三姉妹と呼ばれる娘にも恵まれたというのに……
(茶々(のちの秀吉側室、秀頼の母)、初(京極高次室)、お江(徳川秀忠室、三代将軍・家光の母)と長男・万福丸、次男・万寿丸が子である)
 信長の政略結婚の駒はほとんどが家臣からの養女であったが、お市の方と松平信康(家康)へ嫁がせた五徳姫は家族だった。また、お市は信長の妹とされ、絶世の美女とされるが、信秀の弟の信光か広良の娘という説もある。また茶々は浅井長政の娘とされるが、晩婚だったためお市の方の『連れ子』という説もある。
 何はともあれ、浅井は信長を裏切った。
 浅井長政は信長に対して反乱を起こした。前面の朝倉義景、後面の浅井長政によって信長ははさみ討ちになってしまう。こうして、長政の誤判断により、浅井家は滅亡の運命となる。それを当時の浅井長政は理解していただろうか。いや、かれは信長に勝てると踏んだのだ。甘い感情によって。
  金ケ崎城の陥落は四月二十六日、信長の元に「浅井方が反信長に動く」という情報がはいった。信長は、お市を嫁がせた義弟の浅井長政が自分に背くとは考えなかった。
 そんな時、お市から陣中見舞である「袋の小豆」が届く。
 布の袋に小豆がはいっていて、両端を紐でくくってある。
 信長はそれをみて、ハッとした。何かある………まさか!
 袋の中の小豆は信長、両端は朝倉浅井に包囲されることを示している。
「御屋形様……これは……」利家が何かいおうとした。利家もハッとしたのだ。
 信長はきっとした顔をして「包囲される。逃げるぞ! いいか! 逃げるぞ!」といった。彼の言葉には有無をいわせぬ響きがあった。戦は終わったのだ。信長たちは逃げるしかない。朝倉義景を殺す気でいたなら失敗した訳だ。だが、このまま逃げたままでは終わらない。まだ前哨戦だ。刀を交えてもいない。時間はかかるかも知れないが、信長は辛抱強く待ち、奇策縦横にもなれる男なのだ。
 ……くそったれめ! 朝倉義景も浅井長政もいずれ叩き殺してくれようぞ!
 長政め! 長政め! 長政め! 長政め! 信長は下唇を噛んだ。そして考えた。    
 ……殿(後軍)を誰にするか……
 殿は後方で追撃くる敵と戦いながら本軍を脱出させる役目を負っていた。そして、同時に次々と殺されて全滅する運命にある。その殿の将は、失ってしまう武将である。誰にしてもおしい。信長は迷った。
「殿は誰がいい?」信長は迷った。
 柴田勝家、羽柴秀吉、そして援軍の徳川家康までもが「わたくしを殿に!」と志願した。 前田利家も「わたくしめを殿に!」と嘆願した。
 信長は四人の顔をまじまじと見て、決めた。
「又左衛門(利家のこと)はわしと一緒にこい! サル、殿をつとめよ」
「ははっ!」サル(秀吉)はそういうと、地面に手をついて平伏した。信長は秀吉の顔を凝視した。サルも見つめかえした。信長は考えた。
 今、秀吉を失うのはおしい。天下とりのためには秀吉と光秀は”両腕”として必要である。知恵のまわる秀吉を失うのはおしい。しかし、信長はぐっと堪えた。
「サル、頼むぞ」信長はいった。
「おまかせくださりませ!」サルは涙目でいった。
 いつもは秀吉に意地悪ばかりしていた勝家も感涙し、「サル、わしの軍を貸してやろうか?」といい、家康までもが「秀吉殿、わが軍を使ってくだされ」といったという。
「又左衛門……やはりお主は御屋形様に愛されておるのう」秀吉は利家にいった。
 占領したばかりの金ケ崎城にたてこもって、秀吉は防戦に努めた。
「悪党ども、案内いたせ」
 信長はこういうときの行動は早い。いったん決断するとグズグズしない。そのまま馬にのって突っ走りはじめた。四月二十八日のことである。三十日には、朽木谷を経て京都に戻った。朽木元綱は信長を無事に案内した。
 この朽木元綱という豪族はのちに豊臣秀吉の家臣となり、二万石の大名となる。しかし、家康の元についたときは「関ケ原の態度が曖昧」として減封されているという。だが、それでもかれは「家禄が安泰となった」と思った。
 朽木は近江の豪族だから、信長に反旗をひるがえしてもおかしくない。しかし、かれに信長を助けさせたのは豪族としての勘だった。この人なら天下をとるかも知れない、と思ったのだ。歴史のいたずらだ。もし、このとき信長や秀吉、そして家康までもが浅井朝倉軍にはさみ討ちにされ戦死していたら時代はもっと混沌としたものになったかも知れない。 とにかく、信長は逃げのびた。秀吉も戦死しなかったし、家康も無事であった。
 京都にかろうじて入った信長は、五月九日に京都を出発して岐阜にもどった。しかし、北近江を通らず、千種越えをして、伊勢から戻ったという。身の危険を感じていたからだ。 浅井長政や朝倉義景や六角義賢らが盛んに一向衆らを煽って、
「信長を討ちとれ!」と、さかんに蜂起をうながしていたからである。
 六角義賢はともかく、信長は浅井長政に対しては怒りを隠さなかった。
「浅井長政め! あんな奴は義弟とは思わぬ! 皆殺しにしてくれようぞ!」
 信長は長政を罵った。
 岐阜に戻る最中、一向衆らの追撃があった。千種越えには蒲生地区を抜けた。その際、蒲生賢秀(氏郷の父)が土豪たちとともに奮起して信長を助けたのだという。
 この時、浅井長政や朝倉義景が待ち伏せでもして信長を攻撃していたら、さすがの信長も危なかったに違いない。しかし、浅井朝倉はそれをしなかった。そして、そのためのちに信長に滅ぼされてしまう運命を迎える。信長の逆鱗に触れて。
 信長は痛い目にあったが、助かった。死ななかった。これは非常に幸運だったといわねばなるまい。とにかく信長は阿修羅の如く怒り狂った。
 皆殺しにしてくれる! そう信長は思った。




         姉川の戦い


  浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃していた。
 秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。
「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。
 しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」 信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。
 岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。
 とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。
 国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。
 目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。そして、いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大変に喜んで、
「よく参られた」と声をかけた。
 とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。そして、信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。
 浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、
「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!
 すると家康が進みでていった。
「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」
 信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。
 家康はうきうきして軍儀の場を去った。
 信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。
 すると利家が「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのででござりましょう? 御屋形様」といった。
「そうよ、イヌ! さすがはイヌじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。
 翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんた。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。
「押せ! 押せ! 押し流せ!」
 朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。
 両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。
 信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。
 浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。このとき、佐脇良之は浅井家臣として戦っていたにも関わらず、あやうくなった利家を救った。浅井を裏切ったのだ。
 佐脇良之は浅井方にも戻れず、利家の屋敷に身をよせ、浪人となった。
「……あれは雀の子かのう?」佐脇良之は茫然と屋根や蒼い空を見上げていた。

「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」
 利家は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。
「ひきあげるぞ、イヌ」
 利家は驚いて目を丸くした。いや、利家だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつもの御屋形らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………
 こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。



         焼き討ち


  石山本願寺は、三好党がたちあがると信長に正式に宣戦布告した。
 織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見たのだ。
 信長は八月二十日に岐阜を出発した。そして、横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。
 将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。
 本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。
 信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。
「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。
 足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。
 反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。
 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。
 信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」
「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。
「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」
「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」
「天罰が下りまするぞ!」
 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。
「わしに反対しようというのか?!」
「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」
 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。    
「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」
 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”秀吉は恐ろしくなった。
 秀吉のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、驚異的な形をとりはじめた。かれの本能のすべてに警告の松明がみえていた。「焼き討ちとは…神仏を?」緊張が肩から首にまわって大変なことになったが、秀吉は悲鳴をあげなかった。
 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。
 佐脇良之は炎上する神社の中から赤子を救いだした。これが利家の養女となる。
 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。

        三方が原の戦い



     
  信長にとって最大の驚異は武田信玄であった。
 信玄は自分が天下人となり、上洛して自分の旗(風林火山旗)を掲げたいと心の底から思っていた。この有名な怪人は、軍略に優れ、長尾景虎(上杉謙信)との川中島合戦で名を知られている強敵だ。剃髪し、髭を生やしている。僧侶でもある。
 武田信玄は本願寺の総帥・光佐とは親戚関係で、要請を受けていた。また、将軍・足利義昭の親書を受け取ったことはかれにいよいよ上洛する気分にさせた。
 元亀三年(一五七二)九月二十九日、武田信玄は大軍を率いて甲府を出発した。
 信玄は、「織田信長をなんとしても討とう」と決めていた。その先ぶれとして信玄は遠江に侵攻した。遠江は家康の支配圏である。しかし、信玄にとって家康は小者であった。 悠然とそこを通り、京へと急いだ。家康は浜松城にいた。
 浜松城に拠点を置いていた家康は、信玄の到来を緊張してまった。織田信長の要請で、滝川一益、佐久間信盛、林通勝などが三千の兵をつけて応援にかけつけた。だが、信長は、「こちらからは手をだすな」と密かに命じていた。
 武田信玄は当時、”神将”という評判で、軍略には評判が高かった。その信玄とまともにぶつかったのでは勝ち目がない。と、信長は思ったのだ。それに、武田が遠江や三河を通り、岐阜をすぎたところで家康と信長の軍ではさみ討ちにすればよい……そうも考えていた。しかし、それは裏目に出る。家康はこのとき決起盛んであった。自分の庭同然の三河を武田信玄軍が通り過ぎようとしている。
「今こそ、武田を攻撃しよう」家康はいった。家臣たちは「いや、今の武田軍と戦うのは上策とは思えません。ここは信長さまの命にしたがってはいかがか」と口々に反対した。 家康はきかなかった。真っ先に馬に乗り、駆け出した。徳川・織田両軍も後をおった。 案の定、家康は三方が原でさんざんに打ち負かされた。家康は馬にのって、命からがら浜松城に逃げ帰った。そのとき、あまりの恐怖に馬上の家康は失禁し、糞尿まみれになったという。とにかく馬を全速力で走らせ、家康は逃げた。
 家康の肖像画に、顎に手をあてて必死に恐怖にたえている画があるが、敗戦のときに描かせたものだという。それを家臣たちに見せ、生涯掲げた。
 ……これが三方が原で武田軍に大敗したときの顔だ。この教訓をわすれるな。決起にはやってはならぬのだ。………リメンバー三方が原、というところだろう。
  佐脇良之は善戦したが、三方が原で武田軍の騎馬にやれ、死んだ。信長に家康のもとに左遷せれてからの死だった。利家は泣いた。まつも泣いた。
 さらに、利家の母・たつも死んだ。利家はショックでしばらく寝込んだという。
 秀吉には子がなかった。そのため、利家はおねに頼まれ、四女を秀吉の養女にした。秀吉はよろこび「豪姫じゃ! この子は豪姫じゃ!」とおやした。               
 利家は織田家臣団の中では佐々成政と大変懇篤な付き合いであったという。

 もし信玄が浜松城に攻め込んで家康を攻めたら、家康は完全に死んでいたろう。しかし、信玄はそんな小さい男ではない。そのまま京に向けて進軍していった。
 だが、運命の女神は武田信玄に微笑まなかった。
 かれの持病が悪化し、上洛の途中で病気のため動けなくなった。もう立ち上がることさえできなくなった。伊那郡で枕元に息子の勝頼をよんだ。
 自分の死を三年間ふせること、遺骨は大きな瓶に入れて諏訪湖の底に沈めること、勝頼は自分の名跡を継がないこと、越後にいって上杉謙信と和睦すること、などの遺言を残した。そして、武田信玄は死んだ。
 信玄の死をふして、武田全軍は甲斐にもどっていった。
 だが、勝頼は父の遺言を何ひとつ守らなかった。すぐに信玄の名跡を継いだし、瓶につめて諏訪湖に沈めることもしなかった。信玄の死も、忍びによってすぐ信長の元に知らされた。信長は喜んだ。織田信長にとって、信玄の死はラッキーなことである。
「天はわしに味方した。好機到来だ」信長は手をたたいて喜んだ。




         室町幕府滅亡


  将軍・足利義昭は信玄の死を知らなかった。
 そこでかれは、武田信玄に「信長を討て」と密書を何通もおくった。何も返事がこない。朝倉義景に送っても何の反応もない。本願寺は書状をおくってきたが、芳しくない。
 義昭は七月三日、蜂起した。二条城に武将をいれて、槙島城を拠点とした。義昭に忠誠を尽くす真木氏がいて、兵をあつめた。その数、ほんの三千八百あまり……。
 知らせをきいた信長は激怒した。
「おのれ、義昭め! わしを討てと全国に書状をおくったとな? 馬鹿めが!」信長は続けた。「もうあやつは用なしじゃ! 馬鹿が、雉も鳴かずばうたれまいに」
 七月十六日、信長軍は五万の兵を率いて槙島城を包囲した。すると、義昭はすぐに降伏した。しかし、信長は許さなかった。
”落ち武者”のようなざんばら髪に鎧姿の将軍・足利義昭は信長の居城に連行された。
「ひい~つ」義昭おびえていた。殺される……そう思ったからだ。
「義昭!」やってきた信長が声をあらげた。冷たい視線を向けた。
 義昭はぶるぶる震えた。小便をもらしそうだった。自分の蜂起は完全に失敗したのだ。もう諦めるしかない……まろは……殺される?
「も…もういたしませぬ! もういたしませぬ! 義父上!」
 かれは泣きべそをかき、信長の足元にしがみついて命乞いをした。「もういたしませぬ! 義父上!」将軍・足利義昭のその姿は、気色悪いものだった。
 だが、信長の顔は冷血そのものだった。もう、義昭など”用なし”なのだ。
「光秀、こやつを殺せ!」信長は、明智光秀に命じた。「全員皆殺しにするのじゃ!」
 光秀は「しかし……御屋形様?! 将軍さまを斬れと?」と狼狽した。
「そうじゃ! 足利義昭を斬り殺せ!」信長は阿修羅の如き顔になり吠えた。
 しかし、止めたのは秀吉だった。「なりませぬ、御屋形様!」
「なんじゃと?! サル」
「御屋形様のお気持ち、このサル、いたいほどわかり申す。ただ、将軍を殺せば松永久秀や三好三人衆と同じになりまする。将軍殺しの汚名をきることになりまする!」
 信長は無言になり、厳しい冷酷な目で秀吉をみていた。しかし、しだいに目の阿修羅のような光が消えていった。
「……わかった」信長はゆっくり頷いた。
 秀吉もこくりと頷いた。
 こうして、足利義昭は命を救われたが、どこか地方へと飛ばされ隠居した。こうして、足利尊氏以来、二百四十年続いた室町幕府は、第十五代将軍・足利義昭の代で滅亡した。









    

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至誠の魂 勝海舟・龍馬の師勝麟太郎の戦略と日本再生論小説4

2013年10月08日 06時29分41秒 | 日記
         4 和睦と新選組




 京都にしばらくいた勝麟太郎は、門人の広井磐之助の父の仇の手掛かりをつかんだ話をきいた。なんでも彼の父親を斬り殺したのは棚橋三郎という男で、酒に酔っての犯行だという。
「紀州藩で三郎を捕らえてもらい、国境の外へ追い出すよう、先生から一筆頼んでくださろうか?」
 麟太郎は龍馬の依頼に応じ、馬之助に書状をもたせてやった。
 馬之助は二十七日の朝に戻ってきて、「棚橋らしい男は、紀州家にて召しとり、入牢させ吟味したところ、当人に相違ないとわかったがです」
  麟太郎は海軍塾の塾長である出羽庄内出身の佐藤与之助、塾生の土州人千屋寅之助と馬之助、紀州人田中昌蔵を、助太刀として紀州へ派遣した。龍馬は助太刀にいかなかった。「俺は先生とともに兵庫へいく。俺までいかいでも、用は足るろう」龍馬はいった。
  棚橋は罠にかかった鼠みたいな者である。不埒をはたらいた罰とはいえ、龍馬は棚橋の哀れな最期を見たくなかった。
 六月二日、仇討ちは行われた。場所は紀州藩をでた、和泉山中村でおこなわれた。 見物人が数百人も集まり、人垣をつくり歓声をあげる中、広井磐之助と助太刀らと棚橋三郎との闘いが行われた。広井と棚橋のふたりは互いに対峙し、一刻(二時間)ほど睨み合っていた。そして、それから広井が太刀を振ると、棚橋の右小手に当たり血が流れた。さらに斬り合いになり、広井が棚橋の胴を斬ると、棚橋は腸をはみだしたまま地面に倒れ、広井はとどめをさした。

  大阪より麟太郎の元に飛脚から書状が届いたのは、六月一日のことだった。
 なんでも老中並小笠原図書頭が先月二十七日、朝陽丸で浦賀港を出て、昨日大阪天保山沖へ到着したという。
 何事であろうか? と麟太郎は思いつつ龍馬たちをともない、兵庫港へ帰った。
「この節は人をつかうにもおだててやらなけりゃ、気前よく働かねぇからな。機嫌をとるのも手間がかからぁ。近頃は大雨つづきで、うっとおしいったらありゃしねぇ。図書頭殿は、いったい何の用で来たんだろう」
 矢田堀景蔵が、日が暮れてから帆柱を仕立てて兵庫へ来た。
「図書頭殿は、何の用できたのかい?」
「それがどうにもわからん。水野痴雲(忠徳)をはじめ陸軍奉行ら、物騒な連中が乗ってきたんだ」
 水野痴雲は、旗本の中でも武闘派のリーダー的存在だ。
「図書頭殿は、歩兵千人と騎兵五百騎を、イギリス汽船に乗り込ませ、紀伊由良港まで運んでそこから大阪から三方向に別れたようだ」
「京で長州や壤夷浮浪どもと戦でもしようってのか?」
「さあな。歩兵も騎兵もイギリス装備さ。騎兵は六連発の銃を持ってるって話さ」
「何を考えているんだか」
 大雨のため二日は兵庫へとどまり、大阪の塾には三日に帰った。

 イギリスとも賠償問題交渉のため、四月に京とから江戸へ戻っていた小笠原図書頭は、やむなく、朝廷の壤夷命令違反による責めを一身に負う覚悟をきめたという。
 五月八日、彼は艦船で横浜に出向き、三十万両(四十四万ドル)の賠償金を支払った。 受け取ったイギリス代理公使ニールは、フランス公使ドゥ・ペルクールと共に、都の反幕府勢力を武力で一掃するのに協力すると申しでた。
 彼らは軍艦を多く保有しており、武装闘争には自信があった。
 幕府のほうでも、反幕府勢力の長州や壤夷浮浪どもを武力弾圧しようとする計画を練っていた。計画を練っていたのは、水野痴雲であった。
 水野はかつて外国奉行だったが、開国の国是を定めるために幕府に圧力をかけ、文久二年(一八六二)七月、函館奉行に左遷されたので、辞職したという。
 しばらく、痴雲と称して隠居していたが、京の浮浪どもを武力で一掃しろ、という強行論を何度も唱えていた。
 麟太郎は、かつて長崎伝習所でともに学んだ幕府医師松本良順が九日の夜、大阪の塾のある専称寺へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。
「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃した。商船は逃げたが、一万ドルの賠償金を請求してきた。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃した。
 水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきたのでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出た。
 その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたんだ」
 アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。
「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたという」
「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」
「そう。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げたが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうだ。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はない。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だとさ」
 将軍家茂は大阪城に入り、麟太郎の指揮する順動丸で、江戸へ戻ることになった。
 小笠原図書頭はリストラされ、大阪城代にあずけられ、謹慎となった。

  由良港を出て串本浦に投錨したのは十四日朝である。将軍家茂は無量寺で入浴、休息をとり、夕方船に帰ってきた。空には大きい月があり、月明りが海面に差し込んで幻想のようである。
 麟太郎は矢田堀、新井らと話す。
「今夜中に出航してはどうか?」
「いいね。ななめに伊豆に向かおう」
 麟太郎は家茂に言上した。
「今宵は風向きもよろしく、海上も静寂にござれば、ご出航されてはいかがでしょう?」 家茂は笑って「そちの好きにするがよい」といった。
 四ケ月ぶりに江戸に戻った麟太郎は、幕臣たちが激動する情勢に無知なのを知って怒りを覚えた。彼は赤坂元氷川の屋敷の自室で寝転び、蝉の声をききながら暗澹たる思いだった。
 ………まったくどいつの言うことを聞いても、世間の動きを知っちゃいねえ。その場しのぎの付和雷同の説ばかりたてやがって。権威あるもののいうことを、口まねばかりしてやがる。このままじゃどうにもならねぇ………
 長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる”報復”だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。
 セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。
 コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。
 長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。
 高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。
 武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。  薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。
 鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。        その日、生麦でイギリス人を斬り殺した海江田武次(信義)が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。
  翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。
 ニールは応じなかったという。
「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」

  島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜きた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛               
門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。
 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
 奈良原は答書を持参していた。
 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
 ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」
 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。
 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
 薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」
 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。
 それもどうにも噛み合わない。
 一、加害者は行方不明である。
 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなに ごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。

   
  キューパ総督は薩摩藩の汽船を拿捕することにした。
 四つ(午前十時)頃、コケット号、アーガス号、レースホース号が、それぞれ拿捕した汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。
 鶴丸城がイギリス艦隊の射程距離にあるとみて、久光、忠義親子は本陣を千眼寺に移した。三隻が拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。
 七月二日は天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。
 ニールたちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。
 正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、イギリス兵たちは驚いて飛び上がった。
 たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であったという。
 イギリス艦隊も砲弾の嵐で応戦した。
 薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如くイギリス艦隊から砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。
 左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だったという。そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。
 イギリス艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。
 紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシヤンパンで祝った。
  イギリス艦隊が戦艦を連れて鹿児島にいくと知ったとき、麟太郎は英国海軍と薩摩藩軍のあいだで戦が起こると予知していた。薩摩藩前藩主斉彬の在世中、咸臨丸の艦長として接してきただけに「斉彬が生きておればこんな戦にはならなかったはずでい」と惜しく思った。「薩摩は開国を望んでいる国だから、イギリスがおだやかにせっすればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみてたから火傷させられたのさ。 しかし、薩摩が勝つとは俺は思わなかったね。薩摩と英国海軍では装備が違う。
 いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわってねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからのイギリスの対応が見物だぜ」

  幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。
 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。

 この頃、庄内藩(山形県庄内地方)に清河八郎という武士がいた。田舎者だが、きりりとした涼しい目をした者で、「新選組をつくったひと」として死後の明治時代に”英雄”となった。彼は藩をぬけて幕府に近付き、幕府武道指南役をつくらせていた。
 遊郭から身受けた蓮という女が妻である。清河八郎は「国を回天」させるといって憚らなかった。まず、幕府に武装集団を作らせ、その組織をもって幕府を倒す……まるっきり尊皇壤夷であり、近藤たちの思想「佐幕」とはあわない。しかし、清河八郎はそれをひた隠し、「壬生浪人組(新選組の前身)」をつくることに成功する。
 その後、幕府の密偵を斬って遁走し暗殺されることになる。

 文久三(一八六三)年一月、近藤勇に、いや近藤たちにチャンスがめぐってきた。そ                        
れは、京にいく徳川家茂のボディーガードをする浪人募集というものだった。
 その頃まで武州多摩郡石田村の十人兄弟の末っ子にすぎなかった二十九歳の土方歳三もそのチャンスを逃さなかった。当然、親友で師匠のはずの近藤勇をはじめ、同門の沖田総司、山南敬助、井上源三郎、他流派ながら永倉新八、藤堂平助、原田左之助らとともに浪士団に応募したのは、文久二年の暮れのことであった。
 微募された浪士団たちの初顔合わせは、文久三(一八六三)年二月四日であった。
 会合場所は、小石川伝通院内の処静院であこなわれたという。
 幕府によって集められた浪人集は、二百三十人だった。世話人であった清河によって、隊士たちは「浪人隊」と名づけられた。のちに新微隊、そして新選組となる。
 役目は、京にいく徳川家茂のボディーガードということであったが、真実は京には尊皇壤夷の浪人たちを斬り殺し、駆逐する組織だった。江戸で剣術のすごさで定評のある浪人たちが集まったが、なかにはひどいのもいたという。
 京には薩摩や長州らの尊皇壤夷の浪人たちが暗躍しており、夜となく殺戮が行われていた。将軍の守護なら徳川家の家臣がいけばいいのだが、皆、身の危険、を感じておよび腰だった。そこで死んでもたいしたことはない”浪人”を使おう……という事になったのだ。「今度は百姓だからとか浪人だからとかいってられめい」
 土方は江戸訛りでいった。
「そうとも! こんどこそ好機だ! 千載一遇の好機だ」近藤は興奮した。
 すると沖田少年が「俺もいきます!」と笑顔でいった。
 近藤が「総司はまだ子供だからな」という。と、沖田が、「なんで俺ばっか子供扱いなんだよ」と猛烈に抗議しだした。
「わかったよ! 総司、お前も一緒に来い!」
 近藤はゆっくり笑顔で頷いた。

 「浪人隊」の会合はその次の日に行われた。武功の次第では旗本にとりたてられるとのうわさもあり、すごうでの剣客から、いかにもあやしい素性の不貞までいた。
 処静院での会合は寒い日だった。場所は、万丈百畳敷の間だ。公儀からは浪人奉行鵜殿           
鳩翁、浪人取締役山岡鉄太郎(のちの鉄舟)が臨席したのだという。
 世話は出羽(山形県)浪人、清河八郎がとりしきった。
 清河が酒をついでまわり、「仲良くしてくだされよ」といった。
 子供ならいざしらず、互いに素性も知らぬ浪人同士ですぐ肩を組める訳はない。一同はそれぞれ知り合い同士だけでかたまるようになった。当然だろう。
 そんな中、カン高い声で笑い、酒をつぎ続ける男がいた。口は笑っているのだが、目は異様にぎらぎらしていて周囲を伺っている。
「あれは何者だ?」
 囁くように土方は沖田総司に尋ねた。この頃十代後半の若者・沖田は子供のような顔でにこにこしながら、
「何者でしょうね? 俺はきっと水戸ものだと思うな」
「なぜわかるんだ?」
「だって……すごい訛りですよ」
 土方歳三はしばらく黙ってから、近藤にも尋ねた。近藤は「おそらくあれば芹沢鴨だろう」と答えた。
「…あの男が」土方はあらためてその男をみた。芹沢だとすれば、有名な剣客である。神道無念流の使い手で、天狗党(狂信的な譲夷党)の間で鳴らした男である。
「あまり見ないほうがいい」沖田は囁いた。


  隊士二百三十四人が京へ出発したのは文久三年二月八日だった。隊は一番から七番までわかれていて、それぞれ伍長がつく。近藤勇は局長でもなく、土方も副長ではなかった。 近藤たち七人(近藤、沖田、土方、永倉、藤堂、山南、井上)は剣の腕では他の者に負けない実力があった。が、無名なためいずれも平隊士だった。
 浪人隊は黙々と京へと進んだ。
  浪人隊はやがて京に着いた。
 その駐屯地での夜、清河八郎はとんでもないことを言い出した。
「江戸へ戻れ」というのである。
 この清河八郎という男はなかなかの策士だった。この男は「京を中心とする新政権の確立こそ譲夷である」との思想をもちながら、実際行動は、京に流入してくる諸国脱藩弾圧のための浪人隊(新選組の全身)設立を幕府に献策した。だが、組が結成されるやひそかに京の倒幕派に売り渡そうとしたのである。
 浪士たちは反発した。清河はひとりで江戸に戻った。いや、その前に、清河は朝廷に働きかけ、組員(浪士たち)が反発するのをみて、隊をバラバラにしてしまう。
 近藤たちは京まできて、また「浪人」に逆戻りしてしまった。
 勇のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、脅威的な形をとりはじめていた。彼の本能すべてに警告の松明がついていた。その緊張は肩や肘にまでおよんだが、勇は冷静な態度をよそおった。
「ちくしょうめ!」土方は怒りに我を忘れ叫んだ。
 とにかく怒りの波が全身の血管の中を駆けぬけた。頭がひどく痛くなった。
(清河八郎は江戸へ戻り、幕府の密偵を斬ったあと、文久三年四月十三日、刺客に殺されてしまう。彼は剣豪だったが、何分酔っていて敵が多すぎた。しかし、のちに清河八郎は明治十九年になって”英雄”となる)

  壬生浪士隊は次々と薩摩や長州らの浪人を斬り殺し、ついに天皇の御所警護までまかされるようになる。登りつめた! これでサムライだ!
  土方の肝入で新たに採用された大阪浪人山崎蒸、大阪浪人松原忠司、谷三十郎らが隊に加わり、壬生浪人組は強固な組織になった。芹沢は粗野なだけの男で政治力がなく、土方や山南らはそれを得意とした。近藤勇の名で恩を売ったり、近藤の英雄伝などを広めた。     
        
 そのため、パトロンであるまだ若い松平容保公(会津藩主・京守護職)も、
「立派な若者たちである。褒美をやれ」と家臣に命じたほどだった。
 そして、容保は書をかく。
 ……………新選組
「これからは壬生浪人組は”新選組”である! そう若者たちに伝えよ!」
 容保は、近藤たち隊に、会津藩の名のある隊名を与えた。こうして、『新選組』の活動が新たにスタートしたのである。
 新選組を史上最強の殺戮集団の名を高めたのは、かれらが選りすぐりの剣客ぞろいであることもあるが、実は血も凍るようなきびしい隊規があったからだという。近藤と土方は、いつの時代も人間は利益よりも恐怖に弱いと見抜いていた。このふたりは古きよき武士道を貫き、いささかでも未練臆病のふるまいをした者は容赦なく斬り殺した。決党以来、死罪になった者は二十人をくだらないという。
 もっとも厳しいのは、戦国時代だとしても大将が死ぬば部下は生き延びることができたが、新選組の近藤と土方はそれを許さなかった。大将(伍長、組頭)が討ち死にしたら後をおって切腹せよ! …というのだ。
 このような恐怖と鉄の鉄則によって「新選組」は薄氷の上をすすむが如く時代の波に、流されていくことになる。
 麟太郎は「新選組」のことをきいて、「馬鹿らしいねぇ」と思った。「そんな農民や浪人出身の連中に身辺警護をまかせなければならねぇ世になったか?」
 勝にはそれが馬鹿らしい行為であるとわかっていた。
 だが、京は浪人たちが殺戮の限りを尽くしている。浪人でもいないよりはマシだ。
 そんなおり幕府が長州藩の追放を決定した。どうやら薩摩の謀略らしい……
「世の中、どうなっちまうのかねぇ」麟太郎は頭をひねった。            


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織田信長と濃姫「信長魂燃ゆ」アンコールブログ小説「序章・「序」」

2013年10月07日 19時29分00秒 | 日記
小説 濃姫とうつけ天下!
     織田信長と濃姫


                 ーおだ のぶなが King of Zipangー
                ~「天才名将」織田信長の戦略と真実!                        今だからこそ、織田信長

                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ



         信長 あらすじ

  織田信長が尾張に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。父・信秀が死ぬと、彼は葬儀のとき香を位牌に投げつけた。「尾張のうつけ殿(あほう)」と呼ばれた。しかし、反対勢力を抑え、一国の主になる。有名な斎藤道三との会談、なんといっても織田信長を有名にしたのは桶狭間合戦で、大国・駿河の大将・今川義元の首をとったことだ。そして、秀吉の墨俣一夜城築城。サル(秀吉)は信長の絶対的信用を得る。そして、さらに奇跡がやってくる。足利将軍が手元に転がりこんできたのだ。信長は将軍を率いて上洛、しかし将軍はロボットみたいなものだった。将軍は怒り、諸大名に信長を討つように密かに書状を送る。妹・お市を嫁にやり義兄弟同然だった浅井らがうらぎり、武田信玄などの脅威で、信長は一時危機に。しかし、機転で浅井朝倉連合に勝利、武田信玄の病死という奇跡が重なり、信長は天下統一「天下布武」を手中におさめようとする。彼は鬼のような精神で、寺や仏像を焼き討ちに。足利将軍も追放する。しかし、それに不満をもったのは家臣・明智光秀だった。信長の家臣・柴田勝家は北陸、滝川一益は関東、秀吉は中国……ときは今、雨がしたしる五月かな、明智光秀は謀反を決意する。そして、中国・九州攻めのため秀吉と合流しようとわずか百の手勢で京へ向かう信長。しかし、本能寺で光秀に攻撃され、本能寺は炎上、織田信長は自害し、すべてが炎につつまれる。
 信長、四十九歳、天下統一「天下布武」間近のことであった。      おわり

1マムシの姫

 斉藤道三(さいとうどうざん)は美濃の国の領主である。禿で頭部はたんこぶのようにもりあがり、髭ずらで体躯のいい中年男である。元々は下流武士の子で、寺の僧になり、油売りになった。其の頃の名は庄九郎。油売りとして美濃の守護・土岐(とき)氏の家臣・長井長弘(ながいながひろ)の元を行き来していた縁で、その家臣の養子となる。土岐氏の主、盛頼を、その弟をそそのかして追放し、次に長弘を殺し、長井氏の養子になる。そして斉藤利国が死ぬと斉藤利政を名乗り、ついに土岐氏を追放して美濃領主となった。別名「マムシの道三」という。(明応3年(1494年)から弘治2年(1556年))
 時は戦国時代である。
美濃に美貌の姫がいた。そう斉藤道三の娘・濃姫、である。
濃姫は帰蝶ともいうが、只、見目麗しゅうだけでなく薙刀も得意である。美濃の稲葉山城では濃姫は「喜平次、その程度ですか!」と薙刀の竹刀で、竹刀で打ちかかってくる弟(まだ少年)を打ち据えた。濃姫は20代にちかい。
「そこまでじゃ!」斉藤道三は座からたちあがってにやりとした。
「まいりました姉上」
弟の喜平次や孫四朗は頭を下げた。
天気が良い。春の空にはトンビが優雅に飛んでいる。
「姫が男子であったらのう」
道三はがははと笑った。家臣の堀田道空(ほったどうくう)も「姫なら大殿さまでさえ負かすやも」とほほ笑んだ。
「このマムシの道三が?ははは。濃は武芸、書道、文武両道、しかも美しい。どの殿方にもいますぐ嫁げる」
道三は笑ったが目は真剣であった。姫をあのうつけにのう。
うつけ殿…織田信長に?

 戦国時代、美濃(岐阜南部)には斉藤道三、尾張(愛知県)には織田信秀、駿河(静岡県)の今川義元、甲斐(山梨県)の武田晴信(信玄)、越後(新潟県)の長尾景虎(上杉謙信)など群雄闊歩の食うか食われるかの時代である。
「縁談? 濃姫に?」
濃姫の母、小見の方は城内で聞いた。「まさかあの「うつけ(阿呆)」の信長にござりまするか?」
「そうじゃ」道三はにやりとした。
座して下座にいる濃姫は「政略結婚でござりますな?」という。
「さすがじゃな、濃。それとなあ」
「兄上にござりましょう?」
濃姫は鋭い推理もする。
「そうだ。義竜がわしを狙っておる。あやつは母親(濃姫らとは別の母親)と同じで考えが甘い。わしを倒せば美濃が手に入ると本気で思っておる。馬鹿モノじゃ」
「父上は守りを固める為に尾張に濃を嫁がせ、やがては尾張を食らう気でしょうなあ」
「…そうじゃ。濃姫。腰元には名務野(かがみの)の方をつかせよう」
「これをもたす」
 道三は脇刺を濃姫にもたせた。「もし、婿殿が本当にうつけ(阿呆)ならこの脇刺で殺せ」
濃姫は「わかりませぬよ、父上。この脇刺で父上の首をとるかも」
ふたりは笑った。
とにかく嫁ぐのはもう決まったことだ。
織田信長…うつけ殿? 顔はどうであろうか? うつけ顔であろうか?
何にしても気にかかるのは兄上じゃ。義竜兄者は父上に敵愾心あらわじゃ。自分は父上・道三の子ではなく、追放された土岐氏の子じゃなどと申して…。
「マムシの子は生まれるとき親の体を食いちぎって出てくるという」
「わかっております。私もマムシの娘ゆえ」
濃姫は笑った。道三も笑う。
マムシ道三の謀略に信長が? うつけならありうる。本当にうつけなのであろうか?

 尾張(おわり、愛知県)末森城では織田信長の父親・織田信秀と家臣の柴田権六(柴田勝家)が歩きながら話をしていた。
「あのうつけが嫁をもらったぐらいでまともになるものか」
信秀は吐き捨てるように怪訝な顔で言った。
柴田は「やはり、家督は利発で頭脳明瞭な弟君・信行さまにとは我ら家臣団の総意にございます」という。
「総意? まあ、あれにも困りものじゃ。この尾張だけでなく駿河や美濃にも「うつけ殿」と悪い噂がたっているという」
「ですから信長さまは廃嫡して、弟君の信行さまをと」
「権六、わかっておる」
しばらくすると信秀の若い側室・岩室が信秀の赤子を抱きながら、やってきてほほ笑んだ。
「おお、岩室」赤子をあやした。岩室の腰元はお袖と、いう。

 尾張の那古野城でも、信長の母親・土田御前と信長の弟・信行が座敷で話していた。
「大殿は今日も末森城かのう」
 土田御前は優鬱な気分である。
「そうでしょうなあ。まあ家督のことでしょう」とは信行。
「それじゃ、あの阿呆には隠居でもしてもらって信行、お主が尾張の大将にとな」
信行は「わたくしに野心はありません。兄上と家督を争うなど考えたことも御座らぬ」
「しかし、ひとには器というものがあってのう」
そうしているうちに信長の教育係の平手政秀じじいがやってきた。
「おお、平手のじいや、信長はどこにおる?」土田御前は尋ねた。
「さあ~て、野遊びか、川泳ぎか…」
「あのうつけめ、婚礼の日時がちかいのはしっておろうに!」
平手は「すべてこのじいのせいにございまする」と平伏する。
「もうよい! じいのせいではないわ。嫁ぐ濃姫の尾張方の腰元は雪乃がよい。心を許さず美濃のマムシ姫を見張るのじゃぞ」
 雪乃は平伏する。

 美濃の稲葉山城では輿入れの準備が整い、蒼天の中に濃姫の金色の衣装がはえていた。
「父上は?」濃姫は美貌なまま母親・小見の方にきいた。
「どうやら政にいそがしいとか…」
「そうですか」濃姫はふと寂しい目をした。この美濃の稲葉山城にはもう戻れぬやも知れない。母は「これはお守りです。私だと思いなさい」とお守りを姫にわたした。
「丈夫に過ごすのですよ」
「乱世の世にて…」
「戦の世でも娘の幸せを願うのが母じゃ」
ふたりは泣いた。
やがて濃姫は輿にのり美濃をあとにした。加納から笹松、そして一宮…美濃と尾張の国境で「とめなさい」と濃姫は輿から降りた。国境には川が流れている。しばらく茫然と風景を眺めていると茶筅に子汚い服装のばさらものらしき男が「はよう進め!」と川から部下たちに命令していた。部下数十人も川を上っている。「何が見えまするか~?」
部下の声にそのばさらものは顔をあげ、上流の山の頂から見える戦の煙を観た。
「闇じゃ! また闇がみえる! そこ、おそい」
…何者でございましょう? 何たるうつけ者であるが…。闇か? 只者ではない。
濃姫はこのときまさかこの男こそ織田信長なのだと、わかる訳はない。
「姫様、急ぎましょう」名務野はせかした。
やがて濃姫は尾張の那古野城に着いた。
もう夕方頃である。
「美濃領主・斉藤道三が娘、濃に御座ります」
那古野城の座敷の下座で、濃姫は頭をさげた。「うわさ通りの美女でござるのう」
そういったのは上座の織田信秀だ。座には信行と土田御前はいたが、肝心の信長の姿はない。「濃姫の手であのうつけをまともにしていただきたい」信秀はいう。
「あのう、…あなたさまが信長さまでしょうか?」
濃姫は信行にきいた。
信行は笑って「いいえ。わたしは弟の信行に御座る」
「では、信長さまはいずこに?」
「平手のじい、信長はどこじゃ?」信秀は平手政秀じいを叱りつける。
「すべて、この平手のじいのせい…」
「もうよい!」
 信秀は怒った。濃姫の傍に座していた信行は「兄上は今頃、山ですもうをとっているか、はたまた畑の野菜をくすねているやら」と無邪気に笑っていた。
 寝室に案内されると濃姫に名務野は「やはりうつけでございましたね」と耳元で囁いた。「名務野殿、城内を案内いたす」「ははっ」濃姫はひとりになった。
「ほう、お前が美濃の姫か」
 汚い服装で髪を茶筅にして、いかにもばさらもののような男がひとりで濃姫に声をかけて近付いてきた。濃姫は危険を察知したのか?脇刺を構えた。川でみた男だ。
「ほう、剣術ができるのか?」
「ちかずくと斬りまするよ!」
 だが、その男は姫の剣をかわし、手をねじって剣を落とさせた。「気に入ったわしは信長じゃ!織田信長じゃ!」
「ええっ?!」濃姫は信じられない顔をした。確かにうつけもの…しかし顔は美形である。
「美濃のマムシの姫、名は?」
「……濃、濃にござりまする」
「そうかお濃、これからふたりで戦っていこうぞ!」
 この男が、うつけ信長? しかし、本当にうつけなのであろうか?
 濃姫はひとをみる眼は確かである。そんな濃姫でさえ、織田信長はわからないひとであった。馬鹿や阿呆なのか…? はたまたその奥底に謀略をもつものか…? わからぬ。


  尾張は織田家が治める。
しかし、信長や織田信秀より、清州城の織田彦五郎信友こそが本家筋にあたるのだ。
織田彦五郎といえば謀略性のある「食えぬ男」である。彼も信長嫌いである。
彦五郎は「あのうつけが嫁をもらったぐらいでまともになる筈ないであろうが」
と発言も食えない。「われら織田本家筋は利発である信行さまこそ尾張の領主になるべきだと思うとる」
柴田権六は「信長さまは夜、飯を食いに濃姫の館による程度、男女の夜の結びもまだかと」
という。「やはりうつけじゃな?」とは彦五郎。
「信行さましか尾張の領主は務まりません」
一同は「信行さま支持!」と盛り上がった。夜の宴でのことである。

 濃姫の元には午前のうちに信長の母ごぜ・土田御前が訪ねていた。
「甘やかしたのでうつけになりました。どうか、姫から家督を信行に譲り隠居するようにと助言してたもれ」
「はあ」濃姫は何と言っていいかわからない。すると平手のじいが来た。
「これは姫様、土田御前さま、どのようなお話を?」
「…女子同士のたわいもない話にて…」
濃姫は誤魔化した。土田御前が去ると、平手のじいが信長さまにちゃんとした格好を…とこちらも注文してきた。姑には廃嫡せよ、守り役からはちゃんと躾けよといわれ…。
濃姫は複雑な気分であった。
 その夜も信長は小汚い服装で濃姫の館にやってきた。
「濃、代筆を頼む!」
「…は?はあ」
濃姫は筆と紙に向かった。信長はとなりで大根をほうばりながら「一筆まいらせそうろう。世に女子は星の数ほどあれど…」「ちょ、ちょっと殿? わたくしに何をお書かせですか?」
「恋文じゃ」
 信長はにやりとした。「…恋文…」濃姫は呆れた。
「世にそなたほどの女子はおらん。わしのこの思いをさけるならあなたさまの子まで天罰が下るだろう」「え? 子持ちの女子に?」
「わしのものになってくれ、岩室殿!」
「岩室殿? 殿のお父上のご側室さまですよ?」
濃姫は呆れるしかない。
 当然、織田信秀は怒った。「信長! なんじゃこの文は?!」
「恋文にございます。濃は文字も美しゅうございましょう?」
信長は「わかりませぬか?おやじさま?わからねば尾張はあやういですぞ」と不敵な顔である。「黙れ、うつけ!」織田信秀は激昴した。
「すべてはこの平手のじいが悪いのです。殿と姫様は平手のじいへの嫌がらせで」
「そのようなことは…」濃姫は下座で平伏するじいに目をむけた。そして、ハッとなった。
なるほど、そういうことか……。やはり殿はうつけではない。なんという智謀…マムシの父上には悪いが「日本一」じゃ。岩室殿に恋文を送ったのは父親である信秀さまに「若い女子」にばかりかまけると命取りになるとの忠告。野山を駆け回るのは野山の地形を熟知してやがて美濃や駿河いや天下を取ろうという戦略のために兵を鍛えているため…なんという智謀。うつけは仮面、その奥には日本一の智謀の将の顔がある。
濃姫は理解した。あの方はやはりただものじゃない。

「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか」
 信長はこの「敦盛」の歌が好きだ。わしの運命は五十年だ、と魂に願えば今何を成すべきか見えてくる。人間五十年。五十年。信長は生涯、その言葉を心に刻んだ。うつけ(阿呆)といわれた。鬼とも呼ばれた。しかし、信長は抑圧や神仏のたぐいから身を守った。いや、鬼神のような怒りで、すべて払いのけた。信長を揺り動かしたのは、その怒りと天下人としての野心だった。そして、人々は信長を鬼、狼のように恐れた。
 しかし、鬼は鬼……退治されるものだ。
 ひとは狼や熊や鬼を恐れるけれども、けしてそれらに服従することはない。なんとか殺して恐怖から逃れたいと思う。しかし、信長にはそれがわからなかった。
 信長の信じていたものは自分のみ。他人を信じず、恐怖によって他人を動かそうとした。 鬼のような恐怖によって。
                             
  織田信長が尾張(愛知県)に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。
 父・信秀は尾張の守護代で、駿河(静岡県)の今川や美濃(岐阜県)の斎藤らと血で血を洗う戦いを繰り広げていた。その父・織田信秀もやがて死んだ。
 尾張の万松寺での葬儀となったが、信長は喪主にもかわらず葬儀に参列しなかった。
 祖父・織田信定は「信長はどうしておるのだ? あやつは喪主ではないか」と怪訝な顔で家臣に尋ねた。寺では皆が礼服を着てきちんと列をつくって正座しており、喪主の座だけは空席であった。信定は「あやつめ! うつけ(阿呆)も極まったか」と呟いた。
 葬儀には、信長の弟・信行が正装で座についていた。信行は眉目な青年で、二枚目の歌舞伎役者のような人物で、頭もよく、控え目で、うつけの信長よりも当主らしく見えた。 そのため、亡き信秀の重臣・柴田勝家も林通勝も”織田家の当主は弟・信行さまがよろしかろうに…”と思っていた。うつけ殿では織田家もあやうい…そう思っていた。
「兄上は何をなさっておるのか……」信行は心の中で思った。不快であった。
 信長は一日中狩りをしていた。ひどく汚れていた。埃とどろだらけになった。
 数人の僧侶が声をそろえ経を唱え、そろそろ親族の焼香を促しはじめた時、信長はやっとあらわれた。皆は首だけ動かして、背後からどかどか歩いてくる信長を見て、驚いて声もだせぬほどであった。信長は、狩のときの姿のままだった。髪を茶せんに巻き立てて、狩りで散々走り回ったおかげで、服はよれよれで汚れていた。
 信長は歩いて、喪主の座に辿りつき、胡座をかいた。
「信長……なんなのだその格好は!」祖父・織田信定は呟くように戒めようと彼にいった。しかし、信長は「あいすまぬな」と横顔のまま不敵にいうだけだった。
「弟の信行を見習ったらどうだ?!」
 信定の言葉に、信長は信行のほうに視線をなげかけた。弟は不快な表情を浮かべていた。ふん、と思った信長は立ち上がった。その汚れた格好のままで、祭壇まで近付いた。そして、いきなり香をつかんだ。するとどうだろう。信長の頭に血がのぼった。問題ばかりのこしてのこのこ死にやがって! このくそおやじ! 怒りの波が全身の血管を駆けめぐった。そして、その怒りのまま、信長は香をぱっと父の位牌に投げつけた。列席者は呆気にとられた。当然だろう。そんなことをする人間などそれまでいなかったのだから。
 柴田勝家と林通勝は顔を見合わせ、「殿のうつけも極まれり」と呟いた。
 しかし、信長はそれがどこ吹く風、といった感じで、葬儀の席をたち、またどこかへいってしまったという。「あの大うつけめ!」祖父・織田信定は絶句した。

  信長は苦労知らずの坊っちゃん気質がある。浮浪児だったのちの豊臣秀吉(サル、日吉、または木下藤吉郎)や、六歳のころから十二年間、今川や織田の人質だったのちの徳川家康(松平元康)にくらべれば育ちのいい坊っちゃんだ。それがバネとなり、大胆な革命をおこすことになる。また、苦労知らずで他人の痛みもわからぬため、晩年はひどいことになった。そこに、私は織田信長の悲劇をみる。
 この戦国時代、十六世紀はどんな時代だったであろうか。
 実際にはこの時代は現代よりもすぐれたものがいっぱいあった。というより、昔のほうが技術が進んでいたようにも思われると歴史家はいう。現代の人々は、古代の道具だけで巨石を積み、四千年崩壊することもないピラミッドをつくることができない。鉄の機械なくしてインカ帝国の石城をつくることもできない。わずか一年で、大阪城や安土城の天守閣をつくることができない。つまり、先人のほうが賢く、技術がすぐれ、バイタリティにあふれていた、ということだ。
 戦国時代、十六世紀は西洋ではルネッサンス(文芸復興)の時代である。ギリシャ人やローマ人がつくりだした、彫刻、哲学、詩歌、建築、芸術、技術は多岐にわたり優れていた。西洋では奴隷や大量殺戮、宗教による大虐殺などがおこったが、歴史家はこの時代を「悪しき時代」とは書かない。
 日本の戦国時代、つまり十五世紀から十六世紀も、けして「悪しき時代」だった訳ではない。群雄かっ歩の時代、戦国大名の活躍した時代……よく本にもドラマにも芝居にも劇にも歌舞伎にも出てくる英雄たちの時代である。上杉謙信、武田信玄、毛利元就、伊達政宗、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家、そして織田信長、この時代の英雄はいつの世も不滅の人気である。とくに、明治維新のときの英雄・坂本龍馬と並んで織田信長は日本人の人気がすこぶる高い。それは、夢やぶれて討死にした悲劇によるところが大きい。坂本龍馬と織田信長は悲劇の最期によって、日本人の不滅の英雄となったのだ。
 世の中の人間には、作物と雑草の二種類があると歴史家はいう。
 作物とはエリートで、温室などでぬくぬくと大切に育てられた者のことで、雑草とは文字通り畦や山にのびる手のかからないところから伸びた者たちだ。斎藤道三や松永久秀や怪人・武田信玄、豊臣秀吉などがその類いにはいる。道三は油売りから美濃一国の当主となったし、秀吉は浮浪児から天下人までのぼりつめた。彼らはけして誰からの庇護もうけず、自由に、策略をつかって出世していった。そして、巨大なる雑草は織田信長であろう。 信長は育ちのいいので雑草というのに抵抗を感じる方もいるかもしれない。しかし、小年期のうつけ(阿呆)パフォーマンスからして只者ではない。
 うつけが過ぎる、と暗殺の危機もあったし、史実、柴田勝家や林らは弟の信行を推していた。信長は父・信秀の三男だった。上には二人の兄があり、下にも十人ほどの弟がいた。信長はまず、これら兄弟と家督を争うことになった。弟の信行はエリートのインテリタイプで、父の覚えも家中の評判もよかった。信長はこの強敵の弟を謀殺している。
 また、素性もよくわからぬ浪人やチンピラみたいな連中を次々と家臣にした。能力だけで採用し、家柄など気にもしなかった。正体不明の人間を配下にし、重役とした。滝川一益、羽柴秀吉、細川藤孝、明智光秀らがそれであった。兵制も兵農分離をすすめ、重役たちを城下町に住まわせる。上洛にたいしても足利将軍を利用し、用がなくなると追放した。この男には比叡山にも何の感慨も呼ばなかったし、本願寺も力以外のものは感じなかった。 これらのことはエリートの作物人間ではできない。雑草でなければできないことだ。








         下剋上


  信長の生きた時代は下剋上の時代であった。
「応仁の乱」から四十年か五十年もたつと、権威は衰え、下剋上の時代になる。細川管領家から阿波をうばった三好一族、そのまた被官から三好領の一部をかすめとった松永久秀(売春宿経営からの成り上がり者)、赤松家から備前を盗みとった浦上家、さらにそこからうばった家老・宇喜多直家、あっという間に小田原城を乗っ取った北条早雲、土岐家から美濃をうばった斎藤道三(ガマの油売りからの出世)などがその例であるという。
 また、こうした下郎からの成り上がりとともに、豪族から成り上がった者たちもいる。   三河の松平(徳川)、出羽米沢の伊達、越後の長尾(上杉)、土佐の長曽我部らがそれであるという。中国十ケ国を支配する毛利家にしても、もともとは安芸吉田の豪族であり、かなりの領地を得るようになってから大内家になだれこんだ。尾張の織田ももともとはちっぽけな豪族の出である。
 また、この時代の足利幕府の関東管領・上杉憲政などは北条氏康に追われ、越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃げてきて、その姓と職をゆずっている。足利幕府の古河公方・足利晴氏も、北条に降った。関東においては旧勢力は一掃されたのだという。
 そして、こんな時代に、織田信長は生まれた。


         父の死


  織田信長の父・信秀は守護代の一家老の身分から、一国の当主にのしあがった。血で血を洗う戦いの連続であった。そんな頃、信長は生まれた。天文三年(一五三四)三月あるいは五月のことであったという。生まれた場所は那古野の城(勝幡城という説もある)といわれる。生まれた信長は吉法師と名付けられ、守り役は林通勝、平手政秀、青山与三右衛門、内藤勝介らとされた。
 吉法師には乳母が与えられた。しかし、赤子の信長には悪いくせがあって、癇が強くてすぐに乳母の乳首を噛みちぎったという。そのため、乳母はすぐに辞退するものが続出した。そこで養徳院という女が乳母になった。彼女は赤子の信長に折檻を加えたという。
 赤子に言葉でいってもわかる訳はない。そこで手で殴った。平手政秀がそのことで彼女を注意すると、養徳院は「しつけのためにやっているのです」というだけだった。
 平手が報告すると信秀は「それでよい。それですこしは吉法師も、なんでも自分の思い通りに世の中は動かんと知るだろう」と笑った。
 平手はそのあと、養徳院に何もいわなくなった。

  吉法師は那古野城で成長した。六歳のとき、父・信秀が出陣した。吉法師は留守役となっていたが、無邪気に女物の衣を着て、広間を走りまわるのであった。
「いけません、吉法師さま! それは女子の着物です!」守り役の女中ははしゃぎまわる彼のあとをおった。「わたしが御殿に叱られます」女中は今にも泣き出しそうだった。
 鎧姿に血だらけのざんばら頭で、信秀は城にかえった。
 城内を歩くと、家臣や女中たちが廊下の端で平伏した。妻・るいが「御屋形様、ごくろうでございました」と信秀にいった。
「うむ。勝ち戦じゃ!」信秀は頷いて、続けた。「吉法師はどこじゃ?」
 すると、るいが「吉法師をこれへ」と家臣に命じた。やがて、女子の着物を肩にはおった吉法師がやってきた。それを見て、信秀に怒りの波が襲いかかった。
 どうしようもなく腹が立った。何をこのうつけ童子め! がつんとぶん殴った。
 吉法師は茫然と立ち尽くした。そして、なぜか父の手などについた血に恐怖を覚えた。「なんだ。血を見て怖がっておるのか? この馬鹿者!」
 信秀は血だらけの右手で触り、吉法師の顔を血だらけにした。吉法師は声も出せない。「血を恐れてはならん! 戦とは血をみることじゃ!」信秀は激昂して息子にいった。
「るい! お前が甘やかして育てるから、吉法師はこんなに弱いうつけ童子になった」
「……申し訳ござりませぬ」るいは平伏した。
 とにかく、うつけ童子みたいなのは糞っくらえだ。戦で、さんざん疲れまくっているというのに息子は女子の着物でかぶきやがる。馬鹿者め!
  織田信秀には天下人としての野心はなかった。天皇に献上品を送ったりしているけど、天下を狙おうなどと不遜なことは考えてもいなかった。せめての願いは尾張のほかに三河あたりを支配したかっただけだ。美濃の斎藤道三と争うのでもなく、仲良くやっていきたい……などと甘いことを思っていた。

  やがて吉法師は那古野城主になった。まだ六歳の頃である。
 吉法師が上座に座ると、幼年の若殿に家臣たちは平伏した。すると、吉法師の端整な顔に童子っぽい笑みが広がった。童子っぽいとともに大人っぽくもある。魅力的な、説得力のある微笑だった。平手はたちまちあやしんで首を振った。なんであれ、うつけ殿の片棒をかつぐのは願い下げだ。
 信長少年は弓を市河大助に、鉄砲を橋本一巴に、剣術を平田三位に学んだという。
 子供の頃から合戦遊びが大好きで、城のそばの河原にいくと、子供たちと一緒に合戦遊びをした。信長の陣営は数が少なく、負けてばかりいた。そこで信長は陣の兵士たちに金を与え、「先に半分やる。残りは勝ったらやる」といった。すると、信長の陣は奮闘し、やがて勝利した。合戦は銭で勝てることもあるのか。銭は一度に与えてはならないのか。 信長少年は感慨無量であった。この話をきいた越後の宇佐加美という武将は「その子はきっとすぐれた大将になるだろう」と感心したという。
 本当かどうかわからないが、こんなエピソードもある。信長少年が大阪の天王寺にいったとき、名もない武士たちが「俺がひとかどの大将になったらこんな名にする」といって砂に棒で字を書いていたという。そこに”信長”という名があった。
「俺はその名が好きだ」吉法師はいった。武士たちは嘲笑した。すると吉法師は「何がおかしい。”信長”というのは天下をとる名だぞ」といった。
 しかし、武士たちは、何をこわっぱめ、と嘲笑するだけだったという。
「その名が気にいった。旅の土産がわりにその名をくれ」
「わはは、いいともさ。好きなだけもってけ」武士たちは笑った。こうして、吉法師は元服し、織田信長と名乗ることになる。
 しかし、その頃の信長は天下人どころか、大うつけ(阿呆)と呼ばれて評判になる。両袖をはずしたカタビラを着て、半袴をはいていた。髪は茶せんにし、紅やもえ色の糸で巻きあげた。腰にはひうち袋をいくつもぶらさげている。町で歩くときもだらだら歩き、いつも柿や瓜を食らって、茫然としていた。娘たちの尻や胸を触ったりエッチなこともしたという。側の家臣も”赤武者”にしたてた。
 かれらが通ると道端に皆飛び退いて避けた。そして、通り過ぎると、口々に「織田のうつけ殿」「大うつけ息子」と罵った。
  一五五二年春、信長のうつけが極まった頃、父・信秀が病気になった。
 毒をもられたのか、何なのかわからぬが織田信秀は激しい腹痛と嘔吐感で、末盛城城内で倒れた。すぐに薬師が呼ばれ、ふとんで安静となったが、助からないのは明らかであった。うつけ姿の信長と、きちんとした身形の弟・信行がすぐやってきた。他の息子や姫はもう忘却の彼方である。ただ、妹の市だけは急ぎやってきた。
 信長の妹・市は絶世の美女であり、賢い女であったという。
 危篤の父・信秀が急にがばっと起き上がり一同は息を呑んだ。「敵じゃ! はよう刀をよこせ!」信秀が発狂したように叫んだ。その目は狂気のそれだった。あまりのことにさすがの信長も一瞬冷静さを失った。
「敵じゃ! 敵じゃ! 敵じゃ! 押し流せ!」信秀は荒い息のまま叫び続けた。
「父上! 父上!」信長は父の身を抑えた。
「のぶ……信長! はあはあ、はあはあはあ…信長! 敵じゃ!」
「父上、わかり申した」
 信長は片手を差しのべ、自分がそばについていることを思いださせようと、やさしく父の肩に触れた。「敵じゃ!」彼から視線をそむけたまま、信秀はつぶやいた。「敵を殺せ! 信長! 敵を……」父の言葉にきいたのは勇猛な叫びではなかった。それは苦痛だった。 信長は珍しく父のために胸を痛め、彼とともに心を痛めて、愛にみちた手で父を宥めた。「敵じゃ! はよう陣をとき、出撃せよ!」信長は叫んだ。
 信秀は涙を流した。荒い息で、頷いた。肩を抱く信長の手の感触こそ、父・信秀の崩壊を防ぐ唯一のものだった。死の間際の父はいま、傷つきやすい孤独な心で、信長のほうに震える手を延ばした。「いいぞ……いいぞ信長」かすかな、かなしげな微笑とともに、父は朦朧とした意識のままうわごとをいった。信長は父の頭を胸に抱きよせ、父・信秀の髪に頬を重ねた。
 しばらくして、信秀は息をひきとった。


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2013年10月5日「北朝鮮拉致被害者・横田めぐみさんの真実49歳誕生日「横田めぐみさんは生きている!」」2

2013年10月06日 16時23分18秒 | 日記
         2 めぐみ。


  横田めぐみさんが拉致されたのは1977年11月15日……新潟県新潟市水道町でのことだった。11月にしては穏やかな暖かい日だったという。(著者は7才)
 その時期は拉致とはわからず失踪扱いだったという。めぐみさんには双子の弟がいた。双子の長兄のほうは拓也、弟は哲也という。そして拉致から20年たった1997年1月21日……双子の弟の哲也の結婚が決まった。「おめでとう! 早紀江さん」近所のオバさんたちは祝福した。しかし、早紀江さんはいつも愛娘・めぐみさんのことを思い、陰で泣いていたという。神に祈った。神様仏さま…… どうかめぐみが生きてますように…
  1964年は東京オリンピックの年だった。めぐみさんには双子の弟がいた。双子の長兄のほうは拓也、弟は哲也という。まだ小さい。めぐみさんは13歳だったという。
 めぐみさんの父親・横田滋も、母・横田早紀江さんもまだ若かった。
 10月5日、早紀江さんは出産した。女の子だった。
 早紀江さん(当時28歳)滋さん(当時31歳)だった。「はじめてのお子さんね。でも、女の子ですよ」
 早紀江さんは赤ん坊を抱いてみた。「赤ちゃんってこんなに重いのかなぁ?」
「え? そんなに重いの?」滋さんも抱っこしてみた。「ほんとだ」
 看護婦は「健康な赤ちゃんですね?」という。
 滋さんは名前を考えた。
「名前はひとみかめぐみ…この娘はひとみって感じじゃないな。そうだ! めぐみだ!
横田めぐみ! いい名前だ」
「まあ、あなたったらもう親バカ?」ふたりは笑った。
 そして1977年11月15日……滋さんはタクシーで自宅に向かっていた。
「麻雀すまなかったねえ」
「いいえ。麻雀なんていつでもできますから……それより娘さん心配ですね?」
 滋さんは不安な顔のまま「すぐ帰ってくると思うけど…」という。
 夫婦と先生で探してみた。しかし、いるはずもない。
 先生は暗くなった校舎を探しまわった。滋さんも早紀江さんも探した。しかし見付からない。当たり前である。めぐみさんは北へつれていかれたのだから。
 しかし当時は拉致など知られてなかった。滋さんは警察に電話した。
「すぐきてくれるそうだ」肩をおとした。
 早紀江さんは狼狽しながら「家出かしら…? そういえばめぐみはバトミントンの強化選手に選ばれて大変だっていってたわ……そのプレッシャーから…」
 滋さんはいう。「それはないだろう。そうだ! 小学校時代の広島には友達がいっぱいいるはずだ! そこではないかい?」
 早紀江さんは希望をつかみたくて電話してみた。やはりいない。
 滋さんは不安にかられた。「めぐみは汽車のキップを買ったことないし、そもそも今日がこずかいをあげる日だ。家出なら……こずかいをもらってからいくだろう?」
 そんなとき警察がきた。「横田さん。新潟中央署のものです!」
 めぐみさんはそれまで一度も寄り道も学校を休んだこともないという。警察は警察犬をつかった。身の代金目当ての誘拐と思った……交通事故かも…?
 しかし犬は匂いを見失う。家から1、2分のところだった。横田夫妻は動揺を隠せない。警察は横田夫妻の電話に録音機をつけて時をまった。犯人が誘拐電話をかけてくる時を…「今日はいったん警察のほうは捜査を打ち切ります。明け方から再開しますので今日はお休みください」警察はいう。もう深夜だった。盗聴組はもちろん身をすくめている。
 夫妻はふとんにはいった。眠れる訳はなかった。
 早紀江さんは狼狽しながら「家出かしら…? そういえはめぐみはバトミントンの強化選手に選ばれて大変だっていってたわ……そのプレッシャーから…自殺かも…」
「いや。あの子は広島にいたころ溺れかけたことがある。そういう子は自殺…しない…自殺なんかする訳ない…」滋さんは目をぎゅっとつぶった。めぐみ!
 その前日は滋さんの誕生日だった。つまり11月14日だ。
 めぐみさん(当時13歳)は父親に櫛をプレゼントしたのだった。
 ……あの子が自殺や家出なんかするはずない! そして…20年の時が流れた…
 1997年1月27日……
 衆議院議員秘書をしている兵本達吉さんから電話があった。「めぐみが…生きている?!」白髪頭となった横田滋さんは驚愕してしまった。

  横田夫妻が東京品川区大井に住んでいた頃。めぐみさんの弟がうまれた。双子だった。「あら? みーたん(めぐみさんの愛称)おしめどうするの?」
 若き早紀江さんは洗濯ものを干しながらきいた。まだめぐみさんは小さい。「いいの。ちょうだい!」そういって外出した。驚いた。大きな蛙にオシメをして抱きながら遊んでいたからだ。近所のガキどもが「キモい! キモい!」という。しかし、幼いめぐみちゃんは無邪気に遊んでいる。横田夫妻にとってめぐみちゃんは太陽のような存在だった。
  そして1977年…翌日の16日には県警の機動隊もかけつけて薄明りの午前5時頃から捜査がはじまった。しかし、何もみつからず。夫妻は涙枯れるほど流した。
 …一週間後、誘拐の線は薄いと判断した警察は公開捜査に踏み切った。
 この少女を探してください…横田めぐみ…
 テトラポットの隙間を巡視船が、ボランティアのダイバーたちがテトラポットの底まで潜ってもみた。新潟県警最大規模の大捜査になった。しかし、みつかる訳はない。
 刑事たちは張り込みを続けた。夫妻は心配のあまり眠ることもままならない。
 夜になるとふとんで泣いてばかりいた。
「厳しくしつけ過ぎたのかしら? あの時……だってめぐみは…」
 早紀江さんは泣いた。滋さんも泣いていた。めぐみさんはバトミントンの強化選手に選ばれて「やだな~断ろうかなぁ?」などといっていたという。「あのとき、相談に乗って…れ…ば…手をかしてれば…」
「いや、あの子はそんなことで家出なんかする子じゃない。きっと…めぐみは生きているさ……自殺も家出もない…」
「なら…めぐみは生きてるのかしら?」
「きっと…」
 滋さんはお風呂で男泣きして暮らし、母親の早紀江さんもひとしれず泣いてばかりいたという。もうこの苦しみから逃れたい…でも、息をとめてみても悲しい朝はやってくるのでした。悲しい日々……
 そして1997年1月27日、共産党参議院議員橋本敦の秘書・兵本達吉という初老の眼鏡をかけたオッさんがめぐみさん生存情報を掴んだ。
 それをもどること1987年11月29日、大韓航空機事件がおこり、蜂谷真由美と名乗る金賢姫が捕まり証言していた。李恩恵という日本人拉致被害者が話題になった。
 兵本達吉は横田滋さんを事務所まで呼んで知らせた。「1980年1月7日にサンケイ新聞の朝刊一面を飾った日本海アベック蒸発事件……それから私は拉致問題を研究してきた。これを読んでほしい。横田さん」達吉はペーパーを渡す。
「その文章とお宅のめぐみさんが重なると思う。朝日放送の石高健次というひとが書いた現代コリアの記事がファックスで送られてきたんだ……めぐみさんらしい」
 滋さんはみた。”残酷なものだ。子供なのである…””十三歳の少女が…”
 動揺した。白髪頭の滋さんは「めぐみに間違いない!」と思った。しかし、日本海の新潟のどこの浜かは書かれてない。少女はクラブの帰りだった。海岸から脱出しようとした工作員が目撃されたために捕まえて帰ったのだという。朝鮮語をマスターした。そうしたらお母さんたちのところへ返してくれると嘘をつかれて……それがかなわないとわかり精神に異常をきたしたという。
 ……めぐみ! これはめぐみに間違いありません!

  横田滋さんはめぐみさんを写した写真……例の桜の前での…をみつめて泣いた。あのとき、娘は風疹のあとが顔にあるから写真はやだといったのだ。しかし、桜が散ってしまうからと撮影したのだ。制服姿の……
 兵本のもとにサンケイ新聞の阿部雅美という男がやってきた。そして、事件は公になる。


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2013年10月5日「北朝鮮拉致被害者・横田めぐみさんの真実49歳誕生日「横田めぐみさんは生きている!」」1

2013年10月06日 16時18分40秒 | 日記
小説 悲劇のヒロイン

       めぐみ。


                        Reform of new north korea
           ~めぐみさんは生きている!~

     プランナーストラテジスト・緑川鷲羽による悲劇のヒロイン「横田めぐみ像」!
             悲劇のヒロイン「めぐみ」のすべて!
              total-produced&PRESENTED&written by
                  Midorikawa Washu
                  緑川  鷲羽
                  
          plan is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.
 ”たとえ全世界を手に入れても、自らの魂を失ったなら何の利益があるだろう”                 アタイ伝16の26

      この国はどうなってしまうのか?

      都市盛衰の岐路に問う 警世の書







   あらすじ 1977年、新潟……横田ゆぐみさん(当時13)は北に拉致された。北朝鮮が本当に拉致を認めたのは90年代。それまで横田夫妻ら拉致家族は不安なまま過ごす。やがて小泉首相(当時)が訪朝し、蓮池さんや曽我さんらは帰ってくる。しかし多くの拉致被害者やめぐみさんは死亡とされた。それはそんなめぐみさんに迫る小説である。
         1 拉致



  横田めぐみさんが生まれたのは1964年。ちょうど東京オリンピックが開催された年である。誕生日は10月5日という。生きてれば40代だ。めぐみさんの父親・横田滋さんは女の子がほしかったようで、母・横田早紀江さんも女の子を望んだ。生まれたのはやはり女の子だった。名前はめぐみ……悲劇ヒロイン・横田めぐみさんである。
 生まれてみるとめぐみさんは大きな赤ん坊で看護婦から「御所ちゃん」(御所人形みたいだったから)と呼ばれたという。そんな愛娘が13才のときに北の独裁国家に拉致された訳だ。はっきりいおう、金正恩は「黄色いヒトラー」だ! 倒さなければならない相手である。北は少なくとも金王朝に反対する20万人もの人々を虐殺している。ナチスと同じなのだ。めぐみさんはそんなかの地でどう生活しているのだろう?
 だが、めぐみさんは確実に生きていると私は思う。それは偽遺骨やらでわかる。あまりにも独裁国家の秘密を知っているから死んだことにしているのだ。経済制裁しかない!
 めぐみさんが拉致されたと報道されたのは1997年2月3日のこと。実名で公開されると反響は大きかったらしい。小泉訪朝まで動かしたのだから……
 しかし、甘いと思う。詳しくは後ろの「北朝鮮制裁」で触れるが、まずこういう異常国家はまともに相手にしないことだ。必ず謀略がまっている。
 ヒトラー金正恩を倒さない限り拉致も核も麻薬も偽札も人権弾圧もとまらない。われわれはああいう異常国家と対峙しているのだ…という自覚が必要なのだ。

  横田めぐみさんが拉致されたのは1977年11月15日……新潟県新潟市水道町でのことだった。11月にしては穏やかな暖かい日だったという。(著者は7才)
 そのときは拉致とはわからず失踪扱いだったという。めぐみさんには双子の弟がいた。双子の長兄のほうは拓也、弟は哲也という。そして拉致から20年たった1997年1月21日……双子の弟の哲也の結婚が決まった。「おめでとう! 早紀江さん」近所のオバさんたちは祝福した。しかし、早紀江さんはいつも愛娘・めぐみさんのことを思い、陰で泣いていたという。神に祈った。神様仏さま…… どうかめぐみが生きてますように…
  1977年は東京オリンピックの年だった。めぐみさんには双子の弟がいた。双子の長兄のほうは拓也、弟は哲也という。まだ小さい。めぐみさんは13歳だったという。
 めぐみさんの父親・横田滋も、母・横田早紀江さんもまだ若かった。
「おはよう…お父さん」
 めぐみさんは中学校の制服でバトミントンのクラブをもっていた。「ああ、おはようめぐみ」新聞を見ながら滋さんはいった。
 すぐに友達の女の子が「ヨコー! おはよ~っ!」とくる。
「まって! すぐいくわ!」
 めぐみさんはいつものように玄関から出ようとした。早紀江さんが「今日は暖かいけど夕方寒いよ。コートもっていきなさい」という。
 めぐみさんは「ん~どうしようかなぁ。今日はいいや。置いてく……じゃあ行ってくるね」と友達と出掛けた。それが……めぐみさんの家族たちが見た最期の姿である。
 そしてまた1997年……
 早紀江さんは複雑な心境だった。あの頃…小学生だった拓也も哲也ももう結婚である。時間がどんどん過ぎていく。めぐみちゃんのことはけして忘れてはないけれど……
 寒い日だった。もう還暦の横田夫妻は東京付近のマンションに住んでいた。滋さんは元・日銀マンである。「ただいま。あら?」
 夫の滋さんがソファで深刻な顔して座っている。「どうしたの? お父さん?」
「実は……今日……不思議なことがあったんだ。」
「不思議…」早紀江さんはオウム返しにきいたという。「不思議なことって?」
「実はめぐみが……北朝鮮で生きているそうなんだ…」
「え?! まさか!」
 滋さんは深刻な顔のままだ。「ある議員の秘書の方から連絡があった…」
「じゃあめぐみちゃんは生きてるの?!」
 夫妻は年寄りとなり白髪頭だ。「20年前に行方不明になってから以来……情報らしい情報といえばいいが…本当なのかは…」
「めぐみちゃんが!」早紀江さんは老眼鏡を落としそうになるくらい動揺した。めぐみは北の工作員に拉致された……?? めぐみ!
 早紀江さんは20年前を思いだしていた。
 あのときドォーン! という大きな音がした。夜だった。双子の弟たちもびっくりしたという。「いまの何の音?」若き早紀江さんは不気味がった。双子は「飛行機でも落ちたの?」とラジオをつけてみる。何もない……もう夜の7時をまわったところだった。
「ねぇ、お姉ちゃん、今日何かいってなかった? こんなに遅くなるなんて…」
「何もいってないよ」
「変ねぇ?」
 若き早紀江さんは不安になって外出した。「お母さん、学校までいってみてくるわ」
 隣のお婆さんがみかけて声をかけてきた。
「あら? どこかへお出掛けですか?」
「はい」若き早紀江さんは動揺しながらも「めぐみがまだ帰ってこないので学校まで向かえにいきます」と答えた。もう真っ暗で街灯が光っていた。学校では体育館などに明りがついていて練習をしていた。「なんだ。まだバトミントンの練習してたんだ…」
 覗いてみた。若き早紀江さんは動揺した。めぐみちゃんが……いない!
 体育館のバトミントンの練習をしていた生徒は夕方六時には帰ったという。いよいよおかしい。若き早紀江さんは娘の友達の家にもいってみた。いない! まず帰宅してみた。「お姉ちゃん、帰ってない?!」
 双子は「いないよ。どうしたの?」と動揺する母親にきいたという。
「どうしたんだろう? 学校にもいないのよ」
 若き早紀江さんは電話をかけた。バトミントン部の顧問だった佐藤明雄さんだった。
「え? 横田さん? まだ帰ってないんですか? 変だなぁ。門のところで皆とわいわい笑ってたんだけど……中学生くらいになりますと寄り道も多くなるでしょう? もう少しまってみたらどうですか?」
 しばらくまってみた。しかし帰ってこない。
 若き早紀江さんはもう一度、佐藤さんに電話した。「まだ帰ってない?! じゃあぼくも探してみます」
 母親は夜道で泣く双子を連れて探し歩いた。「めぐみちゃ~ん! どこ~っ!」懐中電灯の明りでなんとか見えるくらい暗くなってきた。双子たちはえんえん泣く。
 若き早紀江さんは荒波の日本海までやってきた。どこにもいない。帰宅すると先生がまっていた。「横田さん! まだ帰りませんか?!」
「はい」
「すぐに警察に知らせたほうがいいのではないですか?」
 そんなとき家の黒電話が鳴った。滋からだった。「あ、私だけど…歓迎会がおわってね。これから麻雀をするので…」
 若き早紀江さんは我鳴った。「お父さん! それどころじゃないわ! めぐみがまだ帰ってきてないの! すぐ戻ってきて!」
「めぐみが……いかんな。わかった」滋さんは狼狽してジャン荘から戻ることにした。
 横田めぐみさんはその夜、北朝鮮の船の船底に閉じ込められていた。
「お母さん! 助けて! お母さん!」
 しかし助けはこない。暗く寒い船底に閉じ込められていた。「お母さん! 助けて! お母さん!」めぐみさんは制服のまま、船の底を手でかきむしった。血がでた。
「助けて! お父さん! お母さん!」
 しかし誰も助けにはこなかった。北の独裁国家へと……船は向かっていた。     


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至誠の魂 勝海舟・龍馬の師勝麟太郎の戦略と日本再生論小説2

2013年10月03日 05時25分15秒 | 日記
         2 自由の国





  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
 教育過程は次のとおりであったという。
 班長担当
    綱索取扱い           週三時間
    演習              週三時間
    規程              週三時間
    地文学             週二時間
 一等尉官担当
    艦砲術             週五時間
    造船              週五時間
    艦砲練習            週六時間
    (歩兵操練監督)
 二等尉官担当
    運転術             週五時間
    数学・代数           週五時間
    帆操縦(測定器・海図・観測)  週九時間
 主計士官担当
    算術              週九時間
 軍医担当
    物理              週三時間
    代学              週三時間
    分析学             週三時間
    包帯術             週三時間
 機関士官担当
    蒸気機関理論
                    週六時間
   飽ノ浦工場建設、蒸気機関監督含む。
 軍人以外の教育担当
    オランダ語・算術教授      週十一時間
    乗馬              週十時間
 海兵隊士官担当
    歩兵操練            週十五時間
    船上操練            週四時間
    一般操練            週三時間
 鼓手担当
    軍鼓練習            週十二時間
 船大工担当
    造船所の操練
 製帆手の担当
    マストの操練
 水兵担当
    水兵の勤務実習
 看護手担当
    医官の手伝い・印刷部の手伝い長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚      
志を任命した。
 長崎にいくことになった勝麟太郎も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
 かねてから麟太郎を支援していた箱根の豪商柴田利右衛門もおおいに喜んだ。
 しかし、その柴田利右衛門は麟太郎が長崎にいる間に病死した。勝海舟は後年まで彼の早逝を惜しんだ。「惜しいひとを亡くした」勝は涙目でいった。
 幕府から派遣される伝習生のうち、矢田堀景蔵、永持や勝麟太郎が生徒監を命じられた。 永持は御目付、奉行付組頭で、伝習生の取締をする。
 海陸二班に別れて、伝習生は長崎に派遣された。
 麟太郎は矢田堀とともに海路をとったという。
 昌平丸という薩摩藩が幕府に献上した船で、一行は九月三日朝、品川沖を出帆した。 
 長さ九十フィートもある洋艦で豪華な船だったが、遠州灘で大時化に遭った。
 あやうく沈没するところだったが、マスト三本すべて切断し、かろうじて航海を続けた。 長州下関に入港したのは十月十一日、昌平丸から上陸した麟太郎たちは江戸の大地震を知った。
「江戸で地震だって? 俺の家は表裏につっかえ棒してもっていたボロ屋だ。おそらく家族も無事ではないな」麟太郎は言葉をきった。「何事もなるようにしかならねぇんだ。俺たちだって遠州灘で藻屑になるところを、あやうく助かったんだ。運を天にまかすしかねぇ」
「勝さん。お悔やみ申す」矢田堀は低い声で神妙な顔でいった。
「いやぁ、矢田堀さん。たいしたことではありませぬ」麟太郎は弱さを見せなかった。 
 昌平丸は損傷が激しく、上陸した船員たちもほとんど病人のように憔悴していた。
 長崎に入港したのは十月二十日だった。麟太郎は船酔いするので、ほとんど何も食べることも出来ず、吐き続けた。そのため健康を害したが、やがて陸にあがってしばらくすると元気になった。長崎は山の緑と海の蒼が鮮やかで、まるで絵画の作品のようであった。 長崎の人口は六万人で、神社は六十を越える。
 伝習所は長崎奉行所の別邸で、教師はオランダ人である。幕府が一番やっかいだったのは蒸気機関である。それまで蒸気機械などみたこともなかったから、算術に明るい者を幕府は送り込んできた。
 教育班長のペルス・ライケンは日本語を覚えようともせず、オランダ語で講義する。日本人の通訳が訳す訳だが、いきおいわからない術語があると辞書をひくことになる。
 ペルス・ライケンは生徒達に授業内容を筆記させようとはせず、暗記させようとした。そのため困る者が続出した。
  勝麟太郎と佐賀藩士の佐野常民、中牟田倉之助の三人はオランダ語を解するので、彼等が授業後にレポートを書き、伝習生らはそれを暗唱してようやく理解したという。
 麟太郎はいう。「俺はオランダ語ができるのでだいたいのことはわかるから聞いてくれ。ただし、算術だけは苦手だからきかねぇでほしいな」
 ペルス・ライケンは専門が算術だけに、微分、積分、力学など講義は難解を極めた。
 安政三年十月から十一月まで麟太郎は江戸に一時戻り、長崎の伝習事務を取り扱っていた。幕府は、麟太郎をただの伝習生として長崎にやった訳ではなかった。
 のちの勝海舟である勝麟太郎は、以前からオランダ語をきけたが、ペルス・ライケンの講義をきくうちに話せるようにもなっていた。それで、オランダ人たちが話し合っている内容をききとり、極秘の情報を得て老中阿部伊勢守正弘に通報するなどスパイ活動をさせたのだ。
 やがて奥田という幕府の男が麟太郎を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
 奥田のこの提案により、勝麟太郎は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
 麟太郎は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、麟太郎は隊長役をつとめており明るかった。
 雪まじりの風が吹きまくるなか、麟太郎は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から麟太郎のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた麟太郎は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
 勝麟太郎も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
 彼が長崎に残留したのにはもうひとつ理由があった。麟太郎には長崎に愛人がいたのである。名は梶久といい未亡人である。年はまだ十四歳であったがすでに夫が病没していて未亡人であった。
 縁は雨の日のことである。
 ある雨の日、麟太郎が坂道の途中で高下駄の鼻緒を切らして困っていたところ、そばの格子戸が開いて、美貌の女性がでてきて鼻緒をたててくれた。
「これはかたじけない。おかげで助かった」
 麟太郎は礼を述べ、金を渡した。しかし、翌日、どこで調べてきたのかお久が伝習所に訪ねてきて金をかえした。それが縁で麟太郎とお久は愛しあうようになった。当然、肉体関係もあった。お久はまだ十四歳であったが夫が前にいたため「夜」はうまかったという。 伝習所に幕府の目付役の上司がくると、麟太郎はオランダ語でその男の悪口をいう。
 通訳がどう訳せばわからず迷っていると、麟太郎は、
「俺の片言が訳せないなら言ってやろうか?」とオランダ語で脅かす。
 ある時、その上司の木村図書が麟太郎にいった。
「航海稽古の時、あまり遠方にいかないようだがもっと遠くまでいったらいいのではないか?」
 麟太郎は承知した。図書を観光丸に乗せ、遠くまでいった。すると木村図書はびびりだして「ここはどこだ?! もう帰ってもよかろう」という。
 麟太郎は、臆病者め、と心の中で思った。
 木村図書は人情に薄く、訓練者たちが夜遊びするのを禁じて、門に鍵をかけてしまう。 当然、門をよじのぼって夜の街にくりだす者が続出する。図書は厳重に御灸をすえる。あるとき麟太郎は激昴して門の鍵を打ち壊し、
「生徒たちが学問を怠けたのなら叱ってもよいが、もう大の大人じゃねぇですか。若者の夜遊びくらい大目にみてくだせぇ!」と怒鳴った。
 図書は茫然として言葉も出ない。
 麟太郎がその場を去ると、木村図書は気絶せんばかりの眩暈を覚えた。「なにをこの若造め!」図書は心の中で麟太郎を罵倒した。
 麟太郎を中心とする兵学者たちは、高等砲術や工兵科学の教示をオランダ人たちに要請した。教師たちは、日本人に高度の兵学知識を教えるのを好まず、断った。
「君達はまだそのような高度の技術を習得する基礎学力が備わってない」
 麟太郎は反発する。
「なら私たちは書物を読んで覚えて、わからないことがあったらきくから書物だけでもくれはしまいか?」
 教師は渋々受け入れた。
 研究に没頭するうちに、麟太郎は製図法を会得し、野戦砲術、砲台建造についての知識を蓄えたという。
  安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を 
受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
 カッテンデーキがオランダから到着して新しい学期が始まる頃、麟太郎は小船で五島まで航海練習しようと決めた。麟太郎と他十名である。
 カッテンデーキは「この二、三日は天気が荒れそうだ。しばらく延期したほうがよい」 と忠告した。日本海の秋の天候は変りやすい。が、麟太郎は「私は海軍に身をおいており、海中で死ぬのは覚悟しています。海難に遭遇して危ない目にあうのも修行のうちだと思います。どうか許可してください」と頭を下げた。
 カッテンデーキは「それほどの決意であれば…」と承知した。
 案の定、麟太郎たちの船は海上で暴風にあい、遭難寸前になった。
 だが、麟太郎はどこまでも運がいい。勝海舟は助かった。なんとか長崎港までもどったのである。「それこそいい経験をしたのだよ」カッテンデーキは笑った。
 カッテンデーキは何ごとも謙虚で辛抱強い麟太郎に教えられっぱなしだった。
「米国のペリー堤督は善人であったが、非常に苛立たしさを表す、無作用な男であった」 彼は、日本人を教育するためには気長に粘り強く教えなければならないと悟った。
 しかし、日本人はいつもカッテンデーキに相談するので危ういことにはならなかったのだという。この当時の日本人は謙虚な者が多かったようで、現代日本人とは大違いである。 麟太郎は、さっそく咸臨丸で練習航海に出た。なにしろ百人は乗れるという船である。ここにきて図書は「炊事場はいらない。皆ひとりづつ七輪をもっている」といいだした。 麟太郎は呆れて言葉もでなかった。
「この木村図書という男は何もわかってねぇ」言葉にしてしまえばそれまでだ。しかし、勝麟太郎は何もいわなかった。
   
 薩摩藩(鹿児島県)によると、藩主の島津斉彬が咸臨丸に乗り込んだ。
「立派な船じゃのう」そういって遠くを見る目をした。
 麟太郎は「まだまだ日本国には軍艦が足りません。西洋列強と対等にならねば植民地にされかねません。先のアヘン戦争では清国が英国の植民地とされました」
「わが国も粉骨砕身しなければのう」斉彬は頷いた。
 そんな島津斉彬も、麟太郎が長崎に戻る頃に死んだ。
「おしい人物が次々と亡くなってしまう。残念なことでぃ」
 麟太郎はあいかわらず長崎にいた。

  コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。
 短期間で命を落とす乾性コレラであった。
 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。
 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。

  赤坂田町の留守のボロ屋敷をみてもらっていた旗本の岡田新五郎に、麟太郎はしばしば書信を送った。留守宅の家族のことが気掛かりであったためだ。
 それから幕閣の内情についても知らせてほしいと書いていた。こちらは出世の道を探していたためである。
 麟太郎は岡田に焦燥をうちあけた。
「長崎みたいなところで愚図愚図して時間を浪費するよりも、外国にいって留学したい。オランダがだめならせめてカルパ(ジャワ)にいってみたい」
 はっきりいって長崎伝習所で教えるオランダ人たちは学識がなかった。
 授業は長時間教えるが、内容は空疎である。ちゃんと航海、運用、機関のすべてに知識があるのはカッテンデーキと他五、六人くらいなものである。
「留学したい! 留学したい! 留学したい!」
 麟太郎は強く思うようになった。…外国にいって知識を得たい。
 彼にとって長崎伝習所での授業は苦痛だった。
 毎日、五つ半(午前九時)から七つ(午後四時)まで学課に専念し、船に乗り宿泊するのが週一日ある。しかも寒中でも火の気がなく手足が寒さで凍えた。
「俺は何やってんでい?」麟太郎には苦痛の連続だった。
 数学は航海術を覚えるには必要だったが、勝麟太郎は算数が苦手だった。西洋算術の割り算、掛け算が出来るまで、長い日数がかかったという。
 オランダ人たちは、授業が終わると足速に宿舎の出島に帰ろうとする。途中で呼び止めて質問すると拒絶される。原書を理解しようと借りたいというが、貸さない。
 結局彼らには学力がないのだ、と、麟太郎は知ることになる。
 麟太郎は大久保忠寛、岩瀬忠震ら自分を長崎伝習所に推してくれた人物にヨーロッパ留学を希望する書簡を送ったが、返答はなかった。
 麟太郎はいう。
「外国に留学したところで、一人前の船乗りになるには十年かかるね。俺は『三兵タクチーキ』という戦術書や『ストラテヒー』という戦略を記した原書をひと通り読んでみたさ。しかし孫子の説などとたいして変わらねぇ。オランダ教官に聞いてみたって、俺より知らねぇんだから仕様がないやね」
 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。
 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。
 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。
 オランダ教官は、日本人伝習生の手腕がかなり熟練してきていることを認めた。
 安政五年、幕艦観光丸が艦長矢田堀景蔵指揮のもと混みあっている長崎港に入港した。船と船のあいだを擦り抜けるような芸当だった。そんな芸当ができるとはオランダ人たちは思っていなかったから、大変驚いたという。
 翌年の二月七日、幕府から日本人海軍伝習中止の命が届いて、麟太郎は朝陽丸で江戸に戻ることになった。
  麟太郎は、松岡磐吉、伴鉄太郎、岡田弁蔵とともに朝陽丸の甲板に立ち、長崎に別れを告げた。艦長は当然、勝麟太郎(のちの勝海舟)であった。船は激しい暴風にあい、麟太郎たちは死にかけた。マストを三本とも切り倒したが、暴風で転覆しかけた。
「こうなりゃ天に祈るしかねぇぜ」麟太郎は激しく揺れる船の上で思った。日が暮れてからマストに自分の体を縛っていた綱が切れ、麟太郎は危うく海中に転落するところだった。 だが、麟太郎はどこまでも運がいい。なんとか船は伊豆下田へと辿り着いたのである。「船は俺ひとりで大丈夫だから、お前らは上陸して遊んでこい」
 麟太郎は船員たちにいった。奇抜なこともする。

 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。
 江戸にもどった麟太郎は赤坂元氷川下に転居した。麟太郎は軍艦操練所頭取に就任し、両御番上席などに出世した。
 米国側は、咸臨丸が航行の途中で坐礁でもされたら条約が批准されない、と心配してポーハタン号艦を横浜に差し向けた。
 万延元年(一八六〇)正月二十二日、ポータハン号は横浜を出発した。咸臨丸が品川沖を出向したのは、正月十三日だったという。麟太郎は観光丸こそ米国にいく船だと思った。 が、ハリスの勧めで咸臨丸となり、麟太郎は怒った。
 だが、「つくってから十年で老朽化している」というハリスの判断は正しかった。観光丸は長崎に戻される途中にエンジン・トラブルを起こしたのだ。
 もし、観光丸で米国へ向かっていたらサンドイッチ(ハワイ諸島)くらいで坐礁していたであろう。
 勝麟太郎(のちの勝海舟)は咸臨丸に乗り込んでいた。
 途中、何度も暴風や時化にあい、麟太郎は船酔いで吐き続けた。が、同乗員の中で福沢諭吉だけが酔いもせず平然としていたという。
「くそっ! 俺は船酔いなどして……情ない」麟太郎は悔しがった。
「船の中では喧嘩までおっぱじまりやがる。どうなってんでぃ?」

  やがて米国サンフランシスコが見えてきた。
 日本人たちは歓声を上げた。上陸すると、見物人がいっぱいいた。日本からきたチョンマゲの侍たちを見にきたのだ。「皆肌の色が牛乳のように白く、髪は金で、鼻は天狗のように高い」麟太郎は唖然とした。
 しかし、米国の生活は勝麟太郎には快適だった。まず驚かされたのはアイス、シヤンパン、ダンスだった。しかも、日本のような士農工商のような身分制度もない。女も男と同等に扱われている。街もきれいで派手な看板が目立つ。
 紳士淑女たちがダンスホールで踊っている。麟太郎は「ウッジュー・ライク・トゥ・ダンス?」と淑女に誘われたがダンスなど出来もしない。
 諭吉はあるアメリカ人に尋ねてみた。
「有名なワシントンの子孫はどうしてますか?」
 相手は首をかしげてにやりとし「ワシントンには女の子がいたはずだ。今どこにいるのか知らないがね」と答えた。
 諭吉は、アメリカは共和制で、大統領は四年交替でかわることを知った。
 ワシントンといえば日本なら信長や秀吉、家康みたいなものだ。なのに、子孫はどこにいるのかも知られていない。それを知り彼は、カルチャーショックを受けた。
 カルチャーショックを受けたのは麟太郎も同じようなもの、であった。



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至誠の魂 勝海舟・龍馬の師勝麟太郎の戦略と日本再生論小説1

2013年10月01日 07時13分17秒 | 日記
小説 至誠の魂
     勝海舟
                           戦わずして勝つ

                 KATSUKAISHU~the last samurai ~開国せよ! 龍馬の師・勝海舟の「日本再生論」。
                 「江戸無血開城」はいかにしてなったか。~
                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

  黒船来航…
  幕末、勝海舟(勝麟太郎)は幕府の軍艦奉行に抜擢された。それまでは年五十石の貧乏武士であり、そのため奮起して咸臨丸という船にのってメリケン(アメリカ)に留学して知識を得た。麟太郎の弟子はあの坂本龍馬である。先進国を視察した勝海舟にとって当時の日本はいびつにみえた。勝は幕府を批判していく。だが勝は若き将軍徳川家茂を尊敬していた。しかし、その将軍も死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。
 勝海舟はなんとかサポートするが、やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、幕府残党は奥州、蝦夷へ……
 勝海舟は官軍と徳川の間をかけもちしながら生き抜く。そして新政府の”知恵袋”として一生を終える。墓には勝海舟とだけ掘られたという。           おわり





         1 立志



  勝麟太郎(勝海舟)にももちろん父親がいた。
  麟太郎の父・小吉の実家は男谷家といい、年わずか百石の百表どりだった。嘉永から文政にかけて百表三十何両でうれたが、それだけでは女中下男や妻子を養ってはいけない。 いきおい内職することになる。虫かごを作ったり、傘を張ったり、小鳥を飼って売ったりしていたという。この頃は武士の天下などとはほど遠く、ほとんどの武士は町人から借金をしていたといわれる。中には武士の魂である「刀」を売る不貞な輩までいた。
 男谷家で、小吉は腕白に過ごした。
 貧乏にも負けなかった。
 しかし、小吉の父・男谷平蔵は年百石のほかに勘定組頭の役料が入る。それに小吉の兄彦四郎は勘定役の信濃の代官であったという。あながち貧乏だった訳ではなさそうだ。                     
 平蔵は米山検校から巨額な遺産をもらったという幸運が成った。
 そのため食うにはこまらなくなった。
 それをいいことに小吉は腕白に育った。本所亀沢町へいよいよ仮屋敷を構え、男谷が引っ越すと、離れていたばばあ殿と小吉は一緒になった。はばあ殿は毎日、孫娘の許嫁である小吉に嫌がらせばかりしていたという。
 小吉はそれが嫌で、ばばあ殿が早く死んでくれたら、などと思った。憂さ晴らしに剣術の稽古に励んだ。
  稽古場で小普請組頭の石川という師匠の息子が「こいつの家は年四十石だ」と馬鹿にするので、小吉は頭にきて木刀でその息子をボコボコに叩きのめした。痣だらけにした。
 当然、翌日、師匠に叱られた。

  兄・林大学頭により、小吉は十二歳で学問所に足を運んだ。麟太郎は林大学頭という叔父をもつことになる。小吉は学問よりも馬に乗るのが好きで『大学』を五、六冊ほど覚えたところで追放された。小吉は、運がいい、と自分で思った。
  しかし、小普請組頭や徒士組の家の子が出世するには、人脈がなければ勉強以外にない。 ある日、彼は意地悪するばばあ殿が嫌で嫌で、とうとう家の金を持ち出して家出をした。 江戸の町をぶらぶらしていると侍がいた。
「お侍さん。上方は知ってるかい?」小吉は刀と脇差しを腰に差しながらきいた。
「知ってるさ。京のことならなんでもな。これからいくんだ」
「拙者も一緒でいいかい?」
 小吉は家出をし、京まで辿り着く頃までは所持金もなくなった。わらじもすりきれ、何日も風呂に入ってないから垢まみれの臭い体で乞食しながら歩いた。
 小吉は後悔していた。
 これじゃあ只の乞食だ。
 京で声をかける町人がいた。「おい乞食! どこからきよった?」   
「江戸からだ。俺は乞食じゃねぇ。小普請組頭の武士だ」
 初老の町人は笑った。「そうかそうか。まぁ、風呂に入っていけ。飯も食わしてやる」  小吉は風呂にいれてもらい、たまった垢を落とした。気持ちがよかった。
 江戸に帰ってきたのは半年後だった。途中、箱根で落石にあい、男性のシンボルを怪我したが、治った。そこで狼に食われなかったのは幸運だった……とのちに言われたという。 家出して心を入れ替えて就職活動に勤しんだがやはりうまくいかない。
 小吉は正直すぎて世間の俗物には受け入れられなかったのだという。
 そんな小吉も結婚し、子が生まれた。勝麟太郎(のちの勝海舟)である。文政六年(一八二三)正月三十日が誕生日であった。小吉二十二歳、妻お信二十歳のことである。
 夫婦は喧嘩が絶えなかったという。
 世間でも評判になるくらい喧嘩をした。麟太郎を身籠もったのも、檻の中だったともいわれる。小吉もお信も檻に入れられ、夫婦は「夜」にふけり、身籠もったのだ。
  小吉は檻の中で書を読みふけり、妻となにをして、過ごした。麟太郎は三歳まで檻の中で母親と暮らした。
 いろいろと騒ぎを起こす小吉の元で、麟太郎は順調に育った。お信も息子を可愛がった。  麟太郎には徳川幕府の大奥に勤める女がふたりいたという。ひとりは小吉の姉の亀田という女性。もうひとりは遠縁の阿茶の局という女性だった。
 阿茶の局との縁で、麟太郎は六歳の頃、江戸城のお座敷の縁側まで歩み寄った。      奥座敷から見ていた大御所の家斉(十一代将軍)が「あれは誰であるか?」
 と、尋ねる。小姓は「阿茶の局の縁者にござりまする」と答えた。
「左様か。わが息子(十二代将軍・家慶)の遊び相手にちょうど良い」
「しかし、只の小普請組頭の息子……卑しい身分のものです」
「かまわん! かまわん!」
 家斉のこの言葉で、麟太郎は阿茶の局の部屋で寝起きすることになる。
 悪戯好きだった麟太郎は、女中たちに捕まってはお灸をすえられたが、十三代将軍・家定の生母おみつの方(本寿院)は麟太郎を可愛がって菓子を与えるのだった。
 麟太郎は衣服や食事などなに不自由なく育った。
 彼は志を抱く。
 ………この徳川幕府の中で出世して公僕さまのために働きたい!

  麟太郎が九歳のときに事件はおきた。麟太郎は江戸の屋敷に引っ越し、旗本の家から塾にかよっていた。その道すがら、狂犬が麟太郎の金玉に噛み付いた。
 ぎゃあっ! 叩いてもはたいても犬は離れない。噛み付いたままだ。それに気付いた鳶職が犬を蹴飛ばして、麟太郎を抱えて家に連れて帰って介抱した。
 小吉は知らせを受けて駆けつけた。
「てめぇがぼんやりしてるからこんなことになるんでい! この馬鹿!」
 小吉は息子を散々叱りつけ、駕籠にのせて家に連れてかえった。「痛むか?」
 麟太郎は気絶寸前である。
 医者がきた。傷は深かった。金玉はぶらさがっているが出血がひどくやぶれていた。
 医者は麻酔もせず、傷口を縫った。麟太郎は気絶した。
「家の息子はどうですか? 先生」
「危ない。今晩が山だろう」医者は辛辣だった。しかし、嘘をいう訳にもいかない。
 小吉は愕然とした。俺の息子が……死ぬかも知れぬ。口をぽかんと開け、よだれを垂らしそうになった。世界の終りだ。家族は声をあげて泣く。小吉は「やかましい! 泣くな! 泣いて麟太郎が助かる訳じゃねぇ!」と叱り付けた。
 小吉は神仏に祈った。その晩から井戸端で水垢離をやって、近所の金比羅神社で裸参りにいった。帰ると小吉は息子を一晩中寝ないで自分の肌で抱きしめて、耳元で「しっかりしろ! しっかりしろ!」と囁き続けた。
 近所では「勝という剣術使いは子供の怪我で狂った」と噂になった。
 幸運なことに麟太郎は死ななかった。
 次の日に目を覚ますと粥をすすった。十日ほど療養するうちに起きられるようになった。  麟太郎は再び家斉の嫡男の小姓役を務め、その後三年を大奥で過ごし、天保五年(一八三四)、麟太郎は十二歳のとき御殿を下がった。
  天保八年十五歳のとき、家斉の嫡男が一橋家を継ぐことになり、一橋慶昌と名乗った。当然のように麟太郎は召し抱えられ、内示がきた。
  一橋家はかの将軍吉宗の家系で、由緒ある名門である。麟太郎は、田沼意次や柳沢吉保のように場合によっては将軍家用人にまで立身出世するかもと期待した。                                 
 一橋慶昌の兄の将軍家定は病弱でもあり、いよいよ一橋家が将軍か? といわれた。
 しかし、そんな慶昌も天保九年五月に病死してしまう。麟太郎は残念がった。勝麟太郎は十六歳で城を離れざるえなくなった。
 しかし、この年まで江戸城で暮らし、男子禁制の大奥で暮らしたことは勝麟太郎にとってはいい経験だった。大奥の女性は彼を忘れずいつも「麟さんは…」と内輪で話したという。城からおわれた勝麟太郎は剣術に熱中した。
 彼は家督を継ぎ、鬱憤をまぎらわすかのように剣術鍛練に励んだ。
 この年、意地悪ばばあ殿と呼ばれた曾祖母が亡くなった。
 直心影流の宗家となった従兄弟の男谷精一郎信友の影響で、その流派を習うことになる。 勝麟太郎は後年こういっている。
「俺がほんとうに修行したのは剣術だけだ。俺の家は剣術の家筋だから、親父もなんとか俺を一人前にしようと思い、当時江戸で評判の島田虎之助という人の弟子につけた。この人は世間並みの剣術家ではなくて、いまどき皆がやる剣術は型ばかりだ。あんたは本当の剣術をやりなさい、と言ってくれた」
 麟太郎は島田虎之助(九歳ほど年上。文政十一年(一八一四)九州豊前中津生まれの剣客)の道場に泊まり込んで、掃除洗濯煮炊きまでやり剣術を習った。道場と実家は距離があり、麟太郎が家に帰るときは何時間も歩いたという。
 道場では互いに打ち合い、転んでもすぐたちあがり木刀で殴りあうという荒っぽい稽古がおこなわれていた。そこで麟太郎は心身を鍛えた。
 弘化三年(一八四六)二十四歳の頃、麟太郎と、お民との間に長女夢子をもうけ、嘉永二年(一八四九)十月に次女孝子をもうけた。
 麟太郎の父・小吉は夢酔と号して隠居してやりたいほうだいやったが、やがて半身不随の病気になり、嘉永三年九月四日四十九歳で死んだ。
 小吉はいろいろなところに借金をしていたという。
 そのため借金取りたちが麟太郎の屋敷に頻繁に訪れるようになる。
「父の借財はかならずお返しいたしますのでしばらくまってください」麟太郎は頭を下げ続けた。プライドの高い勝麟太郎にとっては屈辱だったことだろう。
 麟太郎は学問にも勤しんだ。この当時の学問は蘭学とよばれるもので、蘭…つまりオランダ学問である。麟太郎は蘭学を死に物狂いで勉強した。
 彼が結婚したのは弘化二年(一八四五)二十三歳の頃で、ふたりの幼い娘の父となっていた。しかし、禄高はたったの四十一石、妻も病で寝たきりになり……
 貧乏のどん底にいた。しかも、亡父の借金もある。直心影流の免許皆伝となったが、道場で剣術を教えてもたかが知れている。次第に麟太郎は剣術を離れ、蘭学にはまるようになっていく。本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。
 あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」麟太郎は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで麟太郎は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら麟太郎はきいた。
「四谷大番町にお住まいの与力某様でござります」
 麟太郎は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると麟太郎は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、麟太郎は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い勝海舟でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  麟太郎は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 麟太郎の住んでいるのは本所錦糸堀で、与力の家は四谷大番町であり、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、麟太郎は写本に通った。 あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。麟太郎は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。麟太郎は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  麟太郎は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により麟太郎の名声は世に知られるようになっていく。勝麟太郎はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」
 天保六年から七年にかけて大飢饉で、勝海舟も大変な思いをしたという。しかも四十一石と小禄で病妻と幼い妻をかかえている。勝麟太郎の身分は小譜請組頭で、せいぜい四十~五十石がいいところである。出世するためには上役の御機嫌をとったりワイロを配ったりしなければならない。プライドの高い勝海舟(勝麟太郎)にはそれがなかなかできない。 麟太郎には祖父明敏と父小吉からの反骨の気質がある。
(勝海舟の家系はもともとは幕臣ではなく、越後の小大名の家来出身である)
 徳川太平の世が二百五十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 勝海舟はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、麟太郎も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。

  嘉永三年十月、高野長英という男が牢をやぶって麟太郎の元にたずねてきた。
「かくまってほしい」という。
 麟太郎は「私めは幕臣であるため義においてかくまうことはできません」と断った。そして続けて「しかし、あなたがきたことは誰にもいいません」ともいった。
 長英は了解した。長英は何時間にも渡って麟太郎と蘭学について口論したが、やがて萩生氏著作『軍法不審』をくれて帰った。
 勝麟太郎二十八歳、高野長英四十七歳であった。
 高野長英はやがて偽名を使い医者になるが、その名声が高まり町奉行の知るところとなった。逮捕の危機がせまっていたので、長英は江戸の蕎麦屋で家族と夕食を食べ、逃げた。が、すぐ追っ手に襲われ、ひとりを殺し、短刀で喉を突いて自殺した。
 麟太郎は長英の死を嘆いた。……いい人物が次々といなくなっちまう。残念なことだ。「高野さんはどんな逆境でも耐え忍ぶという気持ちが足りなかった。せめて十年死んだ気になっておれば活路が開けたであろうに。だいたい人間の運とは、十年をくぎりとして変わるものだ。本来の値打ちを認められなくても悲観しないで努めておれば、知らぬ間に本当の値打ちのとおり世間が評価するようになるのだ」
 麟太郎は参禅を二十三、四歳までをやっていた。
 もともと彼が蘭学を学んだのは島田虎之助の勧めだった。剣術だけではなく、これから学問が必要になる。というのである。麟太郎が蘭学を習ったのは幕府の馬医者、都甲斧太郎で、高野長英は彼の師匠であった。だから長英は麟太郎の元に助けを求めてきたのだ。
 小吉が亡くなってしばらくしてから、麟太郎は赤坂田町に塾を開いた。氷解塾という蘭学の塾である。家の裏表につっかえ棒をしているあばら家であったという。
 客に対応する応接間などは六畳間で大変にむさくるしい。だが、次第に幸運が麟太郎の元に舞い込むようになった。
 外国の船が沖縄や長崎に渡来するようになってから、諸藩から鉄砲、大砲の設計、砲台の設計などの注文が相次いできた。その代金を小吉の借金の返済にあてた。
 しかし、鉄砲の製造者たちは手抜きをする。銅の量をすくなくするなど欠陥品ばかりつくる。麟太郎はそれらを叱りつけた。「ちゃんと設計書通りつくれ! 俺の名を汚すようなマネは許さんぞ!」
 麟太郎の蘭学の才能が次第に世間に知られるようになっていく。

    
 この頃、麟太郎は佐久間象山という男と親交を結んだ。
 佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
 象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
 佐久間象山が麟太郎の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。
 麟太郎は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。

 嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、麟太郎が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。麟太郎は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 麟太郎は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。

  麟太郎が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。麟太郎は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。麟太郎は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。


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