長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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小林麻央のテレビ出演インタビュー全文!1月9日放送【市川海老蔵に、ござりまする。】

2017年06月27日 16時38分28秒 | 日記






























小林麻央のテレビ出演インタビュー全文!1月9日放送【市川海老蔵に、ござりまする。】



小林麻央(こばやしまお)さんが、2017年1月9日に放送されたテレビ番組「市川海老蔵に、ござりまする。」にて、インタビューに応えてくれた姿がVTRで放送されました。
もう随分長い期間テレビ出演をしていないという事で話題性十分な上に、思ったよりも元気なお顔にホッとしたものです。

実際の収録は1月4日に行われたもので、ウィッグを着けてお顔の血色も非常に良い姿でカメラの前現れた麻央さんが、終始笑顔で思いを語ってくれたインタビュー内容全文を紹介致します。




小林麻央のインタビュー全文

闘病してから1年以上過ぎた時に、私の母と主人と私が話している時に、もう1年以上もこんな迷惑をかけてこれ以上迷惑をかけられないという事を言った事があったんですね。

そしたら主人が
「1年が何だよ。ずっとなんだよ。」
と言ったんですね。

"
麻央のお母さんはずっとお母さんで、俺はずっと麻央の夫で、皆家族なんだよ。
1年が何だよ。
ずっと支えあうんだよ。
"
と言ってくれて、その言葉が凄く嬉しかったですね。




市川海老蔵について語る

次いで
「役者・市川海老蔵という存在について、どのような気持ちでご覧になっていますか?」
という質問には、下記のように語ったのです。

父(十二代目 市川 團十郎)が亡くなってから主人を見ていて、凄く孤独だなと感じる事が多かったんですね。

それはその家族の愛とか埋められる孤独ではなくて、歌舞伎の家に生まれて歌舞伎役者として生きていく上での孤独というのを凄く感じる事が多くなって。
父が亡くなってからの主人というのはそういうものを見せるわけではなく、明るくて前向きで常にポジティブな姿ではあるんですけど、そういう中に主人の孤独を凄く感じる事が多くなっていたんです。

私が病気になって私自身も誰かに話したりとか誰かと共有し切れない苦しみとか悲しみ、どうしようも無い思いというのを私なりに経験した中で、今2年経って主人が以前に言っていた時には理解できなかった考え方とか、そういうものを少し理解できるというか、想像できるようになってきた部分が不思議とあります。
私が病気をして得たものの一つかなと思っています。

そう思うと病気をする前よりもちょっと良いパートナーに(なれたかも)。
もし私がこの病気という試練を乗り越えられた時に、病気をする前よりもちょっと良いパートナーになれるんじゃないかな。

(ここで麻央さんの目からは涙が溢れ出します。ティッシュで拭った後は再度笑顔になり)

なので、役者・市川海老蔵をパートナーとして支えられるチャンスを神様くださいといつも思うんですね。

主人はいつも俯瞰して物事を見るという事を教えてくれれるので、今(がんで)痛いのは事実だけど、もっと世界を広げて観なければいけないというのを思い出させてくれるので、(がんと)闘っていく中で心の前向きな持ちようを主人には教えてもらっていますね。

私が持っているものさしとは違うものさしでの物事の見方を教えてくれるというか、見せてくれるというか。

だから病気になる前には
「何わけ分からない事言っちゃって。」
という事が結構あったのですけど、病気になってからは本当に有難いって。

主人と結婚したからこそ、今私こうやって生きてられるなと思います。
そうじゃなかったら心が死んじゃってたかもしれない。

だから凄く感謝してます。





田中角栄 闇の将軍角栄<コンピュータ付きブルドーザーロッキード事件から40年>小説3

2017年06月25日 06時42分43秒 | 日記




























角栄逮捕という謎に迫る資料を基にしたドキュメントである。

“あの事件は日本にはびこる闇のほんの端っこに過ぎない。ただ、あれ以上は触れられない”(元・特捜検事)

 1974年2月5日未明。NHK報道部社会部に一通のテレックス(Fax)が届く。ガガガッ…当然英文。その内容に社会部のデスクの男は驚愕して用紙を取り出すと、部屋で寝ていた伊達記者を叩き起こした。
「大変だ!とんでもないことだ!早く起きろ、寝ている場合じゃないぞ!」
「……なん…すか。何か…事件…ですか??」
「米国の公聴会でロッキード社のコーチャン副会長兼社長が…日本の政治家や政府高官などに大金の賄賂金を流したと認めた!」
「……え??まさか!」
もはや蜂の巣をつついたような状態にまでなる。まさに寝耳に水。
「賄賂金???5億円?2億円?児玉ルート?21億円?」
まさに大騒動である。
早朝の新聞朝刊の一面はもちろん“ロッキード事件”である。
検察の鬼・吉永祐介は自宅で朝食を取っていた。「おい、新聞!」
朝刊新聞の第一次情報で“丸紅・児玉へ資金か?”との見出し。
「おいおい。あの児玉誉士夫かよ。」
吉永祐介は眼鏡を落としそうになった。
当然、ご飯にみそ汁の質素な朝食である。
児玉誉士夫(こだま・よしお)…政財界の黒幕・戦後最大のフィクサー・国士…戦後の黒幕として何度も名が挙がりながら一度として逮捕されたことがないフィクサー。大黒幕。首領(ドン)。アンタッチャブルな存在…
児玉誉士夫の外見はまるでブルドッグのような坊主頭の老人である。NHKのドキュメントドラマでは俳優の刈谷俊介さんが演じていたが、どちらかと言えば元・ボクサーでタレントのガッツ石松さんみたいだ。もう高齢で病床にあった。
吉永祐介は傘を差し、東京地検検察庁に入庁した。
すぐにマスコミがスクラムを組み、「吉永さん!ロッキード事件では検察はどう動くんですか?」と聴くが吉永祐介は答えず、無言で、扉を閉めた。
「…糞っ!」マスコミは扉を叩く。
…これはおおきな事件になる……もう後戻りはできないぞ。
吉永祐介は覚悟を決めていた。
水面下で捜査をすすめていた検察。そのターゲットは田中角栄ではなくロッキード社の秘密交渉人を務めていた児玉誉士夫であった。
アメリカから明らかにされた賄賂のルートは3つ。まずは総合商社・丸紅の「丸紅ルート、5億円」(田中角栄に流れたとされた)、直接ロッキード社から旅客機トライスターを購入した全日空の「全日空ルート、2億円」(日本の政府高官にも渡ったとされる)、今でも未解決なのが黒幕・戦後最大のフィクサー児玉誉士夫からの「児玉ルート、21億円」である。
今でこそそれだけ?という額だが、40年前ということを考えると×10倍くらいの価格か?
吉永祐介は部下の水野に「児玉に関する極秘資料などをすべて集めてくれ」と命令した。
児玉誉士夫の東京の大豪邸にもマスコミがメディアスクラムで集まっていた。
何度もインターフォンを押して待ち構える。
執事なのか使用人なのかのよぼよぼ老人が玄関内扉を開けて、出てきて、
「児玉さんはおりますか?」
「いやあ。私どもも困っておりまして…児玉は今旅行中でして。連絡が取れないんですよ」
「旅行?どちらに??」
「いやあ。確か、伊豆……とか…。」
マスコミは蜘蛛の巣を散らすように去った。「伊豆だってよ!伊豆だ!」
また丸紅でも同じくメディアスクラムだった。
一連の報道で丸紅にも苦情の電話が殺到し、マスコミが蟻のように集まっていた。
「丸紅さんの意見をお願いします!」
「何かないんですか??あの資料の領収書のサインのヒロシ・イトウ…ってあんたんところの専務だろう?」
「すいません。弊社では現時点では判断しかねまして…明確なお答えができません」
「何だそりゃ?逃げんのか??!!」
「いやあ。そのようなことでは…」
商社マンの課長級の男はしどろもどろになる。
わかるわけもない。サインしたのは専務で、トップクラスの意向というか何だか知らないが上層部の意向であり、下っ端などにわかる訳もない。
だが、世論は児玉憎し、政府高官は誰だ??!!ともう集団ヒステリー状態である。
ロッキード社の書類に「I received ore horded peanuts.」(ピーナッツを100個受領した)という書類に「ヒロシ・イトウ」の署名が。また、ピーナッツではなくピーシーズという謎の文章もあった。「I have received 125(one handed twanty-five)pieces.」
丸紅本社会長室では社長の檜山社長や大久保利春専務らが伊藤博専務を責めていた。
「君はあんな領収書にサインしたのかね?まったく…」檜山は怪訝な顔で言った。
大久保は何か言おうとしたが、言わず、伊藤専務は頭を下げるのみである。
吉永祐介検事長ら検察はやはりターゲットを児玉誉士夫に絞っていた。
「今や日本では一年間に千件もの贈収賄がある。日本が腐ろうとしているのに検察が動かない訳にはいかない!これはまさに八年前のリベンジ(復讐)だ!」
八年前とはちょうど検察庁の人事が一掃され、自殺者まで出た、検察庁や東京地検特捜部の政治家や官僚による「骨抜き事件(いわゆる『日通事件』)」である。
政治家や官僚が60年安保で懲りて検察の力を骨抜きにしようとして自殺者までだしたのだ。
その中で吉永祐介検事や他の検事数人だけは踏ん張った。
マスコミは「検察は八年間も沈黙したままだ」と揶揄するし、検察庁も焦っていたことはいなめない。また、田中角栄逮捕はよくわからない。田原総一朗さんや石原慎太郎さんが言うように“検察の小説(吉永祐介サイドの?)”なのか?それとも軍用機P3C対潜哨戒機を巡る軍産複合体による私刑(死刑?)?なのか?
ベトナム戦争が終結してロッキード社が経営的にいきづまっていたのは確かだ。
よくわからないところは確かにある。だから、何度も「闇だ」「日本の闇だ」と書いている。
我々サイドでは到底田中角栄元・首相の贖罪など無理な話である。
とにかく、三木武夫・首相(当時)がそれを利用したことはわかっている。
児玉誉士夫や小佐野賢治や笹川良一らはCIAのエージェントでもあったから軍産複合体の利権でスケープゴート(いけにえの羊)にされたり、利権がらみの謀略の闇がある。
そこは誰にも触れられない。まさに闇、である。
結局、児玉誉士夫は黒幕として逮捕されるが、すでに主治医の喜多村がいうようにすでに死にかけ、であり、吉永祐介検事長の命令を受けた松田検事らががさ入れと寝たきりの児玉誉士夫の臨床尋問をした。
児玉は屋根裏の隠れ部屋で寝たきりで、出入りは隠し階段。
病状が悪化していたので屋根裏部屋の暗い部屋で児玉誉士夫はふとんで寝たきりだった。
かつて黒幕・戦後最大のフィクサーと恐れられた男は病床でおびえていた。
児玉誉士夫は“第一次FX(F104戦闘機を日本に輸入する秘密代理人として)”名前が挙がっていた。“国士”とも呼ばれた児玉が何故暗躍したのか?“日本の再軍備が悲願”の児玉側と“トライスターや軍用機を日本政府に売りつけたい”ロッキード社の意向が合致した。
児玉はお金に転んだ訳ではない??
「……児玉誉士夫さんですね?」
「………はい。」
「東京地検の松田という検事です。あなたに所得隠し脱税や外為法違反の疑いがかけられています」
「そ……そうですか。」
「ロッキード社のコーチャン副会長はご存知ですね?」
「……はい。」
「お金をもらいましたか?あなたに不利な証言ですから黙秘でもいいのですよ?」
「……もらいました」
「それは…税務処理しましたか?」
「…いいえ。もらった金は…税務申告していません。……不覚です。」
もう畳敷きの布団に寝たきりで、弱弱しい声で話す児玉…
そこにはかつての黒幕・戦後最大のフィクサーのカリスマはなかった。
「署名できますか?あなたに不利な脱税容疑の署名ですが。」
「はい。します。……検事さん。児玉誉士夫の“よしお”の漢字が…思い出せません…。」
「いいですよ。ひらがなでもカタカナでも。」
「…はい。」
児玉はすべてを吐いた訳ではなかった。
署名もして脱税と外為法違反では在宅起訴できたが、肝心の21億円やP3C対潜哨戒機の導入を巡る証拠はとっくに隠滅していた。
秘書が燃やしたと認めた。
書類もハンコもすべて燃やしたという。
脱税や外為で起訴するのが検察にはやっとだった。
その間に国民は怒り狂い、右翼の男がセスナ機で児玉邸に特攻攻撃をして死亡するなど不安定な捜査態勢ではあった。たまり(脱税などで不正に集めた金融資産)もなかったが、病床の児玉が秘書に数億円分の証券の束を見させて認めた。
それで勘弁してくれ、ということだろう。
そんな中、丸紅ルートの中で大物政治家・前首相(当時)の田中角栄の名前があがったのだ。当時の三木武夫首相は大規模な資金力と数を誇る田中派とは一線をかくす、弱小派閥の出身で、クリーンさ、だけが売りであり、国民もはんば呆れて見ていた。
三木は「必ずロッキード事件を解決する。政府高官の全員の名前も公表する」と息巻いた。
マスコミは「三木はクリーンさ、だけが売りだからな」「おいおい。こんなことまでいって大丈夫なのか???」呆れまくっていた。
検察でも堀田力(つとむ)検事らがアメリカに飛び交渉したが日本では当時“司法取引”は認められていなかった。アメリカで出た資料は日本ではつかえない。
かといって、アメリカで罪に問われることを日本でロッキード社のコーチャンなどが証言する筈がない。嘱託尋問、しかない。にしても資料が少ない。
日本の検事二人が秘匿でアメリカまで行って資料をもらったがすぐにマスコミにばれた。
この“L資料”にもどこにもP3Cのことがない。見事に抜け落ちていた。
「試されているのか?」
「…国家ぐるみのクイズか?謀略の臭いがする。“TANAKA”?田中角栄か?」
児玉の通訳の福田太郎は病死する。
また重要参考人も次々と謎の自殺や病死する。
またしても検察の極秘情報は漏れて、「田中角栄」の名前が新聞に踊る。
「くそ、だからいったんだ!」吉永祐介は新聞を見て怒った。「やはり漏れた」
田中角栄は堂々とマスコミや国民に「このロッキード事件はかならず解決されなければならない事件だと私は思うのであります!必ずこの田中角栄が真相をあばいて、必ずやこの田中角栄が無罪であると国民にお約束をする覚悟であります!」と約束する。
だが、国民もマスコミもすでに大騒ぎだった。
「政府高官を死刑にしろ!名前を全部出せ!」「ロッキード事件の真相を全部晒せ!」「田中角栄は豚箱いきにしろ!」
まさに蜂の巣をつついたような騒ぎであり、集団ヒステリー、ともいえた。
まさに最近の集団ヒステリー「脱原発デモ」「戦争法案廃止デモ(戦争法案ではなく安保法案なのだが(笑))」に似ていた。賄賂の請託(せいたく、賄賂の証拠・賄賂をもらったもの渡したものの証言証拠)が必要であったがなかった。
マスコミは現政権の司法長官が『指揮権発動(罪をうやむやにして無罪とする命令)』をすると見ていた。造船疑獄の時も指揮権発動で当時の佐藤栄作首相が無罪となっている。
田中角栄にも指揮権発動されて、無罪になる、そういうことであった。
そういうことではないのが逆に意外だったことだろう。
そのなかでの『田中角栄前首相逮捕』はまさに国民による私刑(死刑)だった。
田中角栄逮捕は丸紅ルートからである。大久保利春の偽証罪での逮捕で大久保が口を割り、続いて逮捕された伊藤博専務が逮捕され尋問された結果、大久保は逮捕された檜山廣・丸紅社長のお供として1972年8月23日に目白の田中角栄邸を訪れ、檜山と角栄との密談のために退席した大久保が田中角栄に“トライスターの請託金(裁判ではトライスターの請託金とされるが実は”P3Cの請託金”ではなかったか?)“何にせよまさに闇である。
1976年7月27日の田中角栄逮捕はまさに請託金を(角栄側は政治献金と主張している)受け取った、という疑惑である。
角栄の弁護士をつとめた外山興三弁護士はいう。
外山「初めから角栄憎し、ロッキード社憎し、のシナリオで進んでいた。検察側の言い分は矛盾であり“検察側の小説”で被告人(角栄本人)は逮捕され、冤罪で被害をこうむった」角栄の娘の田中真紀子は「被告人の冤罪は明らかでまさに名誉棄損であり、被告人(角栄)はまさに冤罪です」という。
ロッキード事件での裁判は18年間にも及び、逮捕された関係者は18人以上にも及んだ。
「私は無罪である!コーチャンなど名前も知らない。陰謀である」。当時、角栄は身の潔白を主張したが、そのあとは沈黙を貫いた。
“田中角栄前首相逮捕!”まさに衝撃だった。
「田中角栄前首相逮捕です!逮捕です!前首相、逮捕です!」
裁判は異例の視聴率をたたき出した。異例の前首相の逮捕…児玉誉士夫や小佐野賢治やら日本の黒幕の名前が加味して疑獄をいっそうと深い闇とした。
「我々のやっていることはドブさらいだ。ドブをさらった後に、綺麗な水を流すか汚い水を流すかはそれこそ国民やマスコミや政治家や官僚がやることだ。検察がやったら“検察ファッショ”になる」
吉永祐介検事は言った。その吉永祐介元・検事も2013年に死亡している。
「田中さん、事件の真相は?」
「うんん。………まあこのお。知らんよ。……」
田中角栄やコーチャン、小佐野賢治、児玉誉士夫、檜山廣丸紅元・会長ら主要容疑者が死亡し、福田太郎ら容疑者も次々に謎の死や自殺や病死を遂げている。
まさに“深い闇”で、ある。
そしてここからはロッキード事件40年目の真実、スクープに迫ろうではないか。
1976年7月27日田中角栄前首相逮捕。首相の犯罪が初めて裁かれたロッキード事件。5億円をうけとったとされた。空前の角栄ブーム。しかし、田中の最大の汚点となったロッキード事件の闇はとざされたままだ。追及したジャーナリスト立花隆も遂に謎に迫れなかった。
ロッキード賄賂金、丸紅ルート(5億円)、児玉誉士夫ルート(21億円)、全日空ルート(2億円)。
本当はP3C(軍用機)の現代までの1兆円(現在まで日本の輸入は100機以上)の利権ではなかったのか?
当時、児玉誉士夫の臨床尋問をした松田昇元・検事「犯罪となるものはなにもない。脱税のみ。P3Cの資料はなかった」
松尾邦弘元・検事「立証できなければ21億円どころか全日空、丸紅、田中角栄までたどりつけない」
 アメリカ合衆国ジョージア州、ここにロッキード・マーティン社がある。
取材で訪れた。日本の自衛隊機や民間航空機もつくる巨大企業だ。
40年前、P3C(対潜哨戒機)の疑惑が挙がった。P3Cや民間旅客機の日本への交渉を一手にひきうけていたのが社長のアーチボルド・C・コーチャン(A・C・KOTCHIAN)である。
ロサンゼルス地方検察所でも日本や世界のマスコミに「ノーコメント」を貫き、すでにこの世を去っていた。白髪の眼鏡のいかにもインテリそうな大丈夫な老人であった。
吉永祐介元・検事が保管していた600点にも及ぶ極秘資料が存在して読んだ。
その資料にコーチャンがP3Cに関して語っていたことが明らかになった。
P3Cは事件にならなかったので証言が世にでないままだった。
コーチャン「児玉誉士夫の役割はP3C導入を日本政府高官に働きかけることだった。(700万ドル・21億円)。日本の大臣はすぐにかわるので特定の人物と仲良くなっても駄目である。児玉は次の通産大臣(現・経済産業大臣)に誰がなるのか教えてくれた。児玉は私の国務省(日本でいう外務省)だった。」
ロッキード社はベトナム戦争終結で経営が悪化し、P3Cや旅客機の売り込みに社運をかけていた。P3Cとは対潜哨戒機のことであり当時の米ソ冷戦下ではソ連の潜水艦を空上で探査発見できる軍用機である。当時のソ連の潜水艦は潜水を一か月も続けられる最先端なレーダーに映りにくいものだった。P3C対潜哨戒機には最新のコンピュータが搭載され米国の軍事の要だった。売り込みの最大の相手は日本だった。
日本では対潜哨戒機の国産化をしようと研究し莫大な研究資金をつかっていたが頓挫した。
大蔵省(現・財務省)の役人に言わせれば「(国産化での研究開発費用は)金がかかりすぎる」ということだった。
児玉誉士夫の闇ルートを介してある男に話をきいた。日吉修二(81歳、日吉は2016年7月11日死去。最後の証言となった)である。日吉は児玉の闇ルートの会社の役員をしていた。これまでロッキード事件を話す事はなかった日吉。
日吉「児玉邸への神風特攻の児玉を見たね。緊張したよ、これが天下の児玉誉士夫か、ってね。何か事を起こすには資金(力)がないと駄目だね、って僕にいうのよ。段ボール5箱分の資料を焼却するように指示された。今に思えばあれがロッキード事件の極秘資料だったのかなあ?と思うね。英文のものもあったしね。」
福田太郎(児玉誉士夫の通訳・事件中に病死)「ロッキード事件で児玉の名前がでると。ロッキードの社長のコーチャンに「児玉に謝っておいてくれ」と、いわれました。児玉が「それは話が違うじゃないか!私に迷惑をかけないといっていたではないか!」と怒りまして私が先生は「しらなかった」といえばいいといいました。」21億円の金の流れは今も闇の中。
堀田力(つとむ、82歳・2016年時)「まだP3Cでいろいろあるはずだが、うまくお金をかすめとる手段はわかっているが深い闇には遂に辿り着けなかった。深い闇に一本の細い光を射しただけなのがロッキード事件。深い闇があって、それ以上はたどりつけなかった。国民としては闇を照らしてくれという期待を裏切り、その点はやはり悔しいというか申し訳ない、というか。」
40年間沈黙を守ってきた人物が取材に応じた。
丸紅元・航空機課長・坂篁一(さか・こういち 87歳・2016年時)。
大久保利春の直属の部下で、ロッキード事件のコーチャン社長と直接交渉をするキーマンだった。坂は事件当時の事件関係者でも知らなかったある内容を口にした。
坂は逮捕された大久保利春の直属の部下で、丸紅の交渉人であった。
坂「丸紅ルートの5億円を提案したのは自分だった。政治献金を出させましょう、と。(1972年8月→トライスター購入?→10月全日空トライスター民間旅客機購入)」
しかし、坂は意外なことを口にした。
坂「全日空がトライスターを購入するのはもう決まっていた。最大のマター(問題)は、P3Cに関すること。それに力を注ぎましょう、と。当時、日本で対潜哨戒機の国産化計画が進んでいて、国産では丸紅は一円も儲からない。P3C導入輸入なら丸紅の利権(口銭・こうせん・口利き料)も大きい」
コーチャン証言「丸紅の大久保は「もし大きな取引をしたいなら5億円は基準レート(価格)だ」といった。日本は最大のマーケットで丸紅からの今後の輸入がだめになるといわれると大変だった。P3Cの売り込みの関係もあり、支払わざる得ないと考えた」
田中角栄の元・側近で大臣も歴任した石井一(81歳2016年時)。
石井は独自の情報ルートでロッキード事件と田中角栄の金脈を探ったという。
石井「田中さんが金をもらったとは考えにくい。なにか巨大な圧力がかかり、田中角栄がスケープゴート(いけにえの羊)になったのではないか?P3Cが本筋だったんじゃないかなあ」
相澤秀之元・大蔵省主計局長(97歳・2016年時)は語る。
相澤「田中さんは事業をしていましたでしょう?だから、何かやるときに財源やお金が大事なのだってちゃんとわかっていましたね。僕たち官僚の中でも田中角栄にお金をもらったひとなんていっぱいいますよ。政治家もいっぱい大金をもらっていた。そういうお金の魔力を知っていたひとですよ。まさに天才です。」
 P3Cの国産化(日本の国産機日本製対潜哨戒機はPXLという)が始まったのは1971年(対潜哨戒機の国産化計画開発)。
「日本独自で国産でまかなうべき。戦後の米軍基地も見直し」とは当時の中曽根康弘防衛庁長官(現・防衛省)。国は国産化に10億1千万の予算をつけていた。しかし、突如、白紙撤回。米国のロッキード社のP3C対潜哨戒機の輸入へと政策がかわった。
国産化計画にたずさわった海自元・航空機装備開発担当の中島又雄(91歳・2016年時)。
中島「国産化をすすめて何億も使って、国産化ならいつでも部品やメンテナンスができると国産化を重視していてそのほうが安心安全だった。だが、アメリカ政府から圧力があったようだね。」
当時、ニクソン政権下の国防長官だったメルビン・レアードは電話での取材に応じた。
防衛庁長官だった当時の中曽根康弘に圧力をかけた、と認めた。
レアード「日本はカネを出してアメリカの経済が潤い、かつ当時のソ連を威嚇してほしかったのです。日本にP3Cを導入することが、アメリカが懐を傷めずに対ソ連戦略をするために必要だったのです。もちろん儲かるのはアメリカですが(笑)」
ソ連の最新の潜水艦はレーダーに映りづらく一か月も海の底に潜水できた。アメリカは日本の対潜哨戒機の国産化をやめさせ、P3C導入を迫ったのだ。
田中角栄を動かし、彼のプロフィールなどの情報を得てプロファイル(人物分析)した。
当時の政府高官「田中角栄はものすごいバイタリティ(生命力)があって、日本語で言うと“したたか者”。権力やお金のつかいかたが凄い」
相澤「P3Cは国産化ではアメリカからの輸入のほうが安い。アメリカからP3Cを導入した方がはるかに安く済むというのが大蔵省の総意だった」
元・ニクソン政権の元・NSC国家安全保障会議の担当補佐官リチャード・アレンはいう。
アレン「日本は最大のお客さまだった。ニクソン大統領とキッシンジャー大統領補佐官が“P3C”を日本に売るべきだと命じたのだ」
ニクソンはロッキード社のあるカリフォルニア州出身。巨額の政治献金をもらっていた。1974年ハワイの日米首脳会談(田中角栄首相、ニクソン米国大統領)で売り込みに圧力がかかった。
P3CとE2C(早期警戒機・E2C自体は1979年のダグラス・グラマン事件において当時の日商岩井の専務・島田三敬・みつひろ・が取り調べで交渉して日本側に売りつけたことを自供したがそのすべてを話す前にビルから飛び降り自殺した)を日本に売りつけた、と。圧力があった。当時の駐日米国大使のホッジソンはいう。
ホッジソン「ロッキード事件はうまくいけば日本側の数人の逮捕者でおわるだろう。三木首相の言うような日本の政府高官名を出すのはできるだけ遅らせるのが得策である。もし、三木首相のいうように日本の政府高官名をだしてしまえば日米関係は泥沼化する。できるだけ高官名は出さずに引き延ばし、できれば高官名がでない方向性が米国や日本国のためである。」米国のロッキード社副会長コーチャン氏もロッキード社日本支社社長のクラッターも日本では尋問さえも受けてはいない。これで公平な裁判といえるのか??
ニクソンとキッシンジャーが、表向きは日本の原子力発電やアメリカ産の商品を買え、ということだったが裏では軍産複合体の利権のためにP3CとE2C導入を迫った。
ハワイ会談後、すぐにP3C国産化白紙撤回が何よりの証拠だ。
中島「角栄がハワイからもどってきたら途端に白紙撤回。これは宰相にしか出来ない。防衛庁長官くらいじゃ出来ない。アメリカ側から圧力があったんでしょう。」
1979年にはダグラス・グラマン事件が起こった。
東京地検特捜部は吉永祐介の指示で島田三敬(みつひろ・1979年ダグラス・グラマン事件で逮捕され尋問で日本政府へのE2C・早期警戒機の輸入の秘密交渉人・すべてを自白する前ビルから飛び降り自殺した)を捜査尋問に当たったのは宗像紀夫検事(当時・むなかたのりお)だった。
島田は宗像に「戦闘機や旅客機の利権で政治家に賄賂を渡した」と認めた。
宗像「戦闘機を購入すれば何百機と収入があるし、メンテナンスも毎年あるし、整備も次期の更新購入もある。ものすごい大金になる。要するにどんなフィー(費用)を払っても入れたい(輸入)、と。いろんなひとをつかってね」
1972年にも島田は働きかけて、ワイロを政治家にわたしたという。
裏金は個人金融資産で。田中角栄の名前もあったが島田は「明日、すべてを話します」といったその深夜、島田はビルから飛び降りて自殺した。
遺書“行くのを御許し下さい 一月三十一日 島田三敬”
裏金が当たり前のような政治家や財界人や官僚へのうらみ節が書いてあったという。
宗像「悪かった。亡くなられた島田さんもお気の毒だったし、吉永祐介さんにも申し訳ないと。期待に応えられず事件の真相も島田さんの死で闇の中…」
元・首相の海部俊樹(かいふ・としき、三木内閣で副官房長官)
海部「三木さんの指示で事件を追及していましたが、政治家のひとたちから反発されたよね。そこまでやらなくてもいいんじゃないか?という声が多かった。心配しておれのところに飛んできて、俊ちゃん、おやじさん(三木首相)にもうやめたらいいんじゃないか、と。外国の資料をもらって国内の悪(ワル)を見せる必要はないよ。(捜査を止める)指揮権を発動すればいいんだよ、ということでおわりじゃないか、それをやれ、と。こうくるわけだ」
三木首相も当時は独自に調査していたが闇に迫れず…
すぐに“三木おろし”が来るが、ロッキード事件の影響で権力基盤の弱い三木武夫首相は国民にげいごうした。
海部「事件が解明できないのは残念。しかし、軍用機ともなると我々の手のおよばないところだから。ね?」
P3Cの現在までのロッキード社の売り上げは1977年から日本だけで1兆円を超える。田中角栄はスケープゴート(いけにえの羊)にされたのだ。無罪ではないだろうが軍産複合体に利用され、捨てられた。それが田中角栄逮捕、であった。
今も、日本国はアメリカに次ぐ世界第二位のP3C保有国である。
リチャード・アレン「田中角栄は日本でいう“したたか者”でタフガイだった。日本の金で米国の懐を満たし利用するのが目的だった」
坂篁一は最後にある文字を送ってきた。
“魑魅魍魎(ちみもうりょう)=おばけ”
坂「おばけにはおばけのお菓子や食べ物がある。おばけは見えない。みんなは契約を決まった万歳!っていうけど本当は決まりかけが一番大事なの。決まったらもう後戻りできないのだからね。」
ロッキード事件から40年、あの田中角栄逮捕の熱狂にかき消された本当の真実とは何だったのか。最新スクープがこれである。
今、空前の角栄ブームの中、我々はこの真実を重く受け止めなければならない。

【会見全文】小林麻央さん死去 海老蔵「今後も『愛』を教わり続ける」

2017年06月23日 16時34分27秒 | 日記































【会見全文】小林麻央さん死去 海老蔵「今後も『愛』を教わり続ける」






© KADOKAWA MAGAZINES 提供
乳がんを公表し、闘病中だったフリーアナウンサーの小林麻央さんが23日に34歳の若さで亡くなった。夫で歌舞伎俳優の市川海老蔵が会見。以下その全文。

「このたびはわざわざご報告するようなことではないかもしれませんけど、今朝、家の前にも多くのマスコミの方がいらっしゃいました。ご報告をするということもひとつ、義務なのかなと思います。昨日、夜に妻・麻央が旅立ちました。それによりましていろいろとございます。その中で家族の時間や、しなくてはならないこと、家族で話すべきこと、子どもたちとのこと、そういったことの時間という中で、思った以上に皆さまに伝わったのが早かったということで急きょこのように皆さまにお時間を作っていただいたのも、多くの方にご迷惑がかからないように。そしてまた、ブログやアナウンサー時代から妻のことを応援してくださった方々にご報告ということでこのような時間を設けさせていただきました。本日はどうぞよろしくお願いいたします」

――麻央さんとの最後のときはどんな言葉を交わされたのでしょう

「そうですね、私は昨日も舞台でございまして、それまで麻耶さんと、麻央のお母さんとずっと看病をしてました。私は舞台が終わった後に、ここで別の撮影がありまして、その後にロビーでまた別の稽古がございました。そのときにお母様からLINEが来てたんですけども、ちょっと僕は見ることができませんでした。約1時間半程遅れて見た内容が『具合が悪いから。ちょっとお医者様が来ていて、家族を呼んだようがいい』というような内容でして、慌てて急いで帰ったわけです。そうして帰りましてまだ麻央はこの世にいてくれて、たまたま、本当にたまたまですけど、私がちょうど妻のそばに座って、ちょっと呼吸が苦しそうだったので、大丈夫かな…おとといまではしゃべれたんですけど昨日はずっとしゃべれずにいたんで。これは不思議な話ですけれど、息を引き取る瞬間、を私は見てました。そのときこれは本当に不思議なんですけど『愛している』と言って。彼女が。その一言を言って…泣いちゃいますよね。その一言、『愛している』と言って本当にそれで、そのまま旅立ちました」

――麻央さんは『愛している』の言葉を受け止めたように思いましたか

「いや、僕が言ったわけじゃなくて彼女が。旅立つ間際に『愛してる』…『る』が聞こえるか聞こえないか分かんないですけど。『愛している』って言って旅立ったのがちょっと、まぁ何ていうんでしょうか。こんなに愛されてたのはよく分かっていたんですけど、最後の最後まで愛してくれいたっていう。何ともいえませんね。すいません、なんか。どうしても昨日の今日で、何の準備もできてなくて。このようなところでお見苦しいところをご覧いれて…」

――最後をご自宅で送ってあげられたのは良かったと思いますか

「それはとても良かったと思います。お母様もお父様も私もお姉様も麻耶さんも、で、子どもたちもずっとそばにいれたのですごく良かったなと。私の父は病院で亡くしてますので、病院のときとは違う、家族の中で家族とともに、一緒にいられた時間というのは、本当にかけがえのない時間を過ごせたと思います」

――お子さんも含めご家族で、皆さんで送ることができたということですか

「そうですね、子どもたちもみてました」

――麻央さんは闘病中辛い中でも勇気と愛情、笑顔を忘れずに戦ってこられた方ですね

「おっしゃる通り、本当に笑顔と勇気と愛情。けっしてブレない自分。そしてどんな状況でも相手のことを思いやる気持ち。まぁ愛ですよね、そういった力が最後までブレず。おとついまで笑顔で話してて。昨日はちょっと調子悪かったんですけど、おとつい、我々家族も急にそういう風になってしまったので、戸惑った部分がすごく大きかったです」

――海老蔵さんからは麻央さんにどんな言葉をかけましたか

「僕ですか?この世にある、ありとあらゆる言葉を耳元で話してました」

――海老蔵さんにとって麻央さんはどんな存在でしたか

「うーん……とにかく、私をどんな部分もどこまでも愛してくれていたんだなと。存在っていうのを……うーん、まぁね存在ね、できればずっと一緒にいて私のが先に逝って彼女にはもっと幸せにもっと楽しく、家族やお友達や、ご家族、麻耶さんやお母さんやお父さま、そして私が役者として成長していく過程をずっと見守ってもらいたかった存在です」

――麗禾ちゃんや勸玄くんの様子は

「麗禾は昨日はずっと麻央のそばを離れませんでした。そして彼女の横でずっと寝ると言って寝てました。うーん、認識はしていると思いますね。勸玄はまだ、分かってはいるんですけど、分かっていないところもあって、今日の朝も横になってるところにふたりが麻央の顔を触ったり足をさすったり、手を握ったり。そういうところを見ると私が今後背負っていくもの、やらなくてはならないこと。子どもたちに対してとても大きなものがあるなと痛感しました。勸玄はまだ、分かってるんですけど、分かっていないと思います」

――奥さまから学んだこと、どういったことを伝えていきたいと思いますか

「元気になったら彼女は、自分が歩んできた過程の病、乳がんやそれに伴う病に対して、自分が治ったらば、あーしたいこうしたい、多くの人の救いになれるような存在になれるようになりたい、というようなことで一生懸命闘病してました。それでブログというものも始めたんです、だから本当にマスコミさんのおかげで、ある意味公になってありがたかったと思います。それでブログというものを始めて、なにかこう同じ病の人たちや苦しんでる方々と悲しみや喜びを分かち合う妻の姿は、まぁ私からすると何か人ではないというか、何というかすごい人だなというか。言い方おかしいですけど。とにかく総合的に教わったこと、そして今後も教わり続けることは『愛』なんだと思いますね」

――麻央さんの姿、思い出される表情は

「どういう表情?全部ですね。初めて会ったときの彼女から今の今日の朝まで全部です」

――笑顔が多いですか?

「そうですね、多かったと思います」

――これまでお話されてきた中で子どもさんへのお話で印象に残っていることは

「子ども?心残りだと思います。ふたりのことについて。どうすればいいんだろうって考えても答えが出なかったものだと思います。ですからいろんなことがあり、今回も子どもたちが出演したり、7月にせがれが出るんですけども、そういうのを観に来ることをひとつの目標としていろんなものを作ったんですけど、うん、まぁでもきっと見てると思うんでね。まだまだ心配で心配でしょうがないんじゃないでしょうか」

――海老蔵さんが託されたことは?

「多すぎて言葉に出せないですね。もちろん今も舞台やってたわけで、このあとも舞台ありますし、来月もすぐありますし。子どもの稽古もありますし。麗禾の成長のことも考えますし。やっぱりこれからまだ5歳と4歳ですから、これからお母さんっていう存在が彼女や彼には非常に重要な存在なわけではないですか、それをやはり失った、それを僕は代わりにはなれないですけど、出来る限りのことをやっていくように、もう、思ってますね」

――麻央さんの言葉で思いだされる言葉は?

「よく言っていた言葉…やはり、言葉というかお姉さん、麻耶さんが調子悪かったときにも例えば私が舞台で非常に疲れたときも、彼女自身はもっと重い病にかかっている、そしてお母様も看病で疲れているときも、麻央のほうがもちろん大変なのに、自分よりも相手のことを心配する優しさ。こういう言葉っていうことじゃなくて、どこまでも相手のことを思う気持ち。これはね、一番多かったですね」

――麻央さんは改めてどんな奥さん?

「そうですね、わかりませんね。僕を変えた奥さんなんじゃないですか、わかりません」

――麻央さんがプロポーズのときに「来世も再来世も一緒に」という言葉が一番響いたとおっしゃっていましたが

「そのつもりです。その話もしました。ですがまぁ僕が愛想尽かされないように頑張んないといけないんだけど」

――その話をしたとき麻央さんは?

「元気なとき? 喜んでましたよね」

――改めて麻央さんに伝えたいことは?

「まだね、昨日の今日なんで。こういうところも全部聞いてると思うんでね、言うことは言わなくても伝わってると思うんで。いつも思ってるよねっていうことですね」

――麻央さんのブログに励まされた方へメッセージを

「麻央のブログや麻央の存在で励まされた方がいらっしゃるということで、今回のこのような形もある意味とらせていただいたと思うんです。実際、そういうことがなければ、このようなことを報告すること自体が、形としてはどうかと思うんです。ですが多くの麻央のことを応援してくださった方、そして麻央と共に戦っている方々、本当に昨日先に旅立ちましたけども、ずっと麻央はきっと皆さまのそばにいると思うので、本当にいろいろありがとうございました」

【訃報】小林麻央さん死去34歳、乳ガン2年半超の闘病生活

2017年06月23日 12時08分32秒 | 日記



































小林麻央さん死去34歳、乳ガン2年半超の闘病生活





 歌舞伎俳優市川海老蔵(39)の妻でフリーアナウンサーの小林麻央(こばやし・まお)さんが22日夜、都内の自宅で亡くなった。34歳だった。麻央さんは14年10月に乳がんと分かり、昨年6月に夫の海老蔵が会見で明かした。その後、骨や肺にも転移したが、同年9月に開設したブログで闘病の様子などを気丈に発信した。今年1月から自宅で療養したが、4月22日に再入院。5月29日に退院し、在宅医療で家族との最後の日々を過ごしていた。関係者によると、20日に最後のブログを更新後、21日に容態が急変した。海老蔵は午後2時半から会見する。

■14年10月の検査で判明

 2年半を超える長い闘いに力が尽きた。

 麻央さんの乳がん判明は14年10月だった。10年に海老蔵と結婚し、長女麗禾ちゃん(5)長男勸玄くん(4)を出産。14年2月に胸のしこりに気が付いた。検査で見つからなかったが、8カ月後の生体検査で乳がんと判明。既に脇のリンパ腫に転移しており、入院して放射線治療などを行ったが、がんであることは極秘にした。


小林麻央© 日刊スポーツ新聞社 小林麻央
 判明から1年8カ月後の16年6月、夫の海老蔵が会見を行い、進行性の乳がんで闘病中と公表した。病状も「かなりのスピードで進行し深刻な状況」と手術もできないと明かした。しかし麻央さんは、がんと気丈に闘い、生き抜く姿勢を鮮明にみせた。同9月に「がんの陰に隠れない」とブログを開設。肺や骨などへの転移も明かすなど、がん判明までの経緯や闘病の様子を報告し、反響を呼んだ。

 10月に乳がん判明から初めて手術を受けたと報告。根治手術ではなく、乳がんの患部や転移した脇のリンパ節を切除する局所コントロール、QOL(生活の質)を落とさずに守るための手術だった。ブログには「これからが闘い。奇跡は先にあると信じています」と完全回復への強い思いを明かした。

 退院し自宅で療養しながら2人の子供が通う幼稚園の運動会にも参加したが、昨年12月に再入院。ブログ登録者は200万人を超え、英国BBCは11月に発表した「今年の女性100人」の1人に選ぶなど世界中の感動を呼んだ。

 今年1月の日本テレビ系「市川海老蔵に、ござりまする」で海老蔵は「(昨年の早い時期に)絶対に治らないレベルの病気だった。早かったら(16年の)3、4、5(月)で多分もうダメだった。夏は絶対無理だと思った」と覚悟していたことを告白。麻央さんもがん公表後、初めてインタビューに登場して「役者、市川海老蔵をパートナーとして支えられるチャンスを神様くださいっていつも思うんです。主人と結婚したからこそ、こうして生きていられる」と気丈に話した。

 放送後に退院し自宅で療養しながら手料理を作ったり、海老蔵と買い物デートに出掛けたり、2人の子供と遊んだりするなど回復の兆しも見えたが、病魔は容赦なく体をむしばんでいった。4月19日に「10日前まで普通に歩けたのに、10歩歩くのもやっとになってしまった」と衰えを明かし同22日に再入院。5月26日には、がんがあごに転移していたことも明かした。

 その後、麻央さんは「(来年の)娘の卒園式には着物で出たい」と母としてのささやかな願いを記した。ブログは今月20日、母の手作りのオレンジジュースを飲む喜びをつづり「皆様にも今日笑顔になれることがありますように」と結んで以降、更新が途絶えていた。

 海老蔵は23日朝にブログを更新し、前日夜から自宅前に集まっていた取材陣にあてたと思われる内容を公表。「2017/06/23」と題し、「人生で一番泣いた日です。マスコミの方々もお察しください。改めてご報告させていただきますので、近隣の方々のご迷惑になるのでひとまずおかえりくださいませ、宜しくお願い致します」とつづった。また、その1時間後のブログでも「なるべく」とのタイトルで、「なるべくいつも通りに過ごします」と記していた。

 海老蔵は23日午後に会見。自らの言葉で最愛の妻について語る。

【リアル『あなたのことはそれほど』】我が儘女に男。優しすぎる男女にマジ駄目人間とは?

2017年06月18日 14時35分00秒 | 日記




































男のわがままをゆるす、優し過ぎる女の本音とは?






わがままをゆるせるのは、愛があるから? 「ゆるす」気持ちの裏にある本音についてお話しします。© All About, Inc. 提供 わがままをゆるせるのは、愛があるから? 「ゆるす」気持ちの裏にある本音についてお話しします。 そもそもダメ男という男もいますが、「優し過ぎる女」の場合、いい男をダメ男にしてしまうということもあります。女性に母性本能がある限り、ダメ男はいなくならないのかもしれません。

シングルファザーさんと交流していると、意外に「優し過ぎる男」も多いことに気づかされます。夫の稼いだお金で、満たされない心を救うためにファッションや自己啓発セミナーに自己投資。挙げ句に、別の男の元へ……なんていう話が、あまりにも多くて驚きます。


ゆるした分だけの「感謝」と「がんばり」を期待している
優し過ぎる女と、優し過ぎる男。そのパートナーとして、「わがままをゆるされてきた男(女)」がいるわけですが、今、もしも、あなたが「わがままをゆるしてもらっている」のであれば、伝えておきたいことがあります。

「わがままをゆるしてくれる」=「それだけ俺(私)のことが好きってこと」と、思っていませんか?

「受け入れること」と「そのまんまのあなたを好きであること」とは、実は微妙に違うのです。ゆるしてもらっている側は、そこを勘違いしてしまうと、気づかないうちに相手が冷めていき、いつか三行半をつきつけられることになりかねません。

優し過ぎる女は、「ゆるす」ことで相手を受け入れようとしているだけで、内心は「前向きになってがんばってくれること」を心のどこかで期待しています。「ゆるす」という努力をした分、むしろ、それに感謝をして「がんばってくれるだろう」と心のどこかで期待しているのです。そこにあぐらをかいて、さらにわがままになる恋人なら、気持ちは少しずつ冷めています(無意識の場合もあります)。

「ゆるしてもらう」状態というのは、言ってみれば、一時的に、心の荷物を預かってもらっているようなもの。預かった側は、それを引き取りにくる日を待ち続けています。

でも、肝心の預けた本人は、すぐに忘れてしまいます。預けられたほうは「いつになったらこの荷物を取りにくるのだろう」と待っています。彼のわがままをゆるす度に、彼女のほうは、大きな荷物をいくつも、いくつも持たされてしまうことになります。そのため、彼女は少しずつ疲弊していきます。そして、あるとき、自分の心身の重さの原因に気づき、急に目が覚めて、ひとりになりたくなってしまうのかもしれません。


「わがままな男」に魅力を感じているわけじゃない
「好きだからゆるす」のは確かです。でも、だからといって、「ゆるしてもらっておいて努力しない男」を魅力的だと感じているわけじゃありません。ゆるす度に、本当は少しずつ冷めているとも言えるかもしれません。



その後の努力を期待して、心を前貸ししているだけなんです。


返してもらえる当てのない「優しさ」の前貸し、というわけです。「優しくしたら、きっと自分も優しくしてもらえるだろう」という、どこかで期待をしてしまうのは、人として当たり前のこと。つまり、わがままをゆるしてもらっているのなら「たくさんの借りを作っていることになるのだ」と自覚したほうがいいのかもしれません。

与える、奪う。貸す、借りる。そういった言葉で、気持ちを計ることについての賛否については今回はさておき、どちらか一方が、与え続けることになると、二人は対等ではなくなりますし、与え続けているほう側が、どうしても立場が上になってしまいます。

男に与え続けることによって女が強くなり、上から目線で男にコメントするようになると、二人の関係を回復するのは非常に難しいものです。ゆるしてもらっておいて、男が「強い女は嫌だ」と言い出すのもよくあること。

「想い」は、循環してこそ気持ちよく寄り添い生きていけるもの。

「持ちつ持たれつ」というシーソーを楽しめることが理想です。彼女に何らかのわがままを受け入れてもらえたなら



・しっかり感謝する

・次のがんばりに繋げる

・相手のわがままも聞いてあげる


ということが、いい関係を築くためには重要です。

また、ついつい「わがまま」を受け入れてしまう女性側も、一度ゆるした「わがまま」を、繰り返す男かどうかをしっかり見極めましょう。二度目では「本当は嫌だ」という気持ちをちゃんと伝え、せめて「仏の顔も三度まで」と、きっぱりけじめをつけましょう。できれば、受け入れるだけじゃなく、あなた自身も、彼にわがままなことをしてみましょう。それを受け入れてくれないようでは、考え直してみたほうがいい関係かもしれません。

【福本清二も中卒ニート】ひきこもり60万人時代のサバイバル!60代のひきこもりも?!

2017年06月18日 14時10分10秒 | 日記


































「60代のひきこもり」が増えている






「親亡き後」に突入するひきこもりの当事者が増えています。もし、何の対策もしなければ親の支援がなくなった途端、生活は行き詰まり、住まいも追われかねません。「働けない子どものお金を考える会」の代表を務めるファイナンシャル・プランナーの畠中雅子さんが、ひきこもりの子どもを持つ家庭の実態と対策について解説します――。


79歳男性のSOS「私が死んだら息子は……」


関東に地方に住む79歳の男性はこう言います。

「母親(妻)が亡くなって、働けない息子と2人暮らしをしています。もともと息子と会話する機会は少なかったのですが、この1年くらいは、お互いの顔もろくに見ていない状態です。私ももうすぐ80歳です。息子はひとりっ子、私が死んだら路頭に迷わせてしまうのでしょうか……」

独り言とも、SOSとも取れる、しぼり出すような声でした。

私は「働けない子どものお金を考える会」の代表を務めています。この会は、ひきこもり、ニート、あるいは障がいをお持ちのお子さんを抱えるご家族の家計を考える、ファイナンシャル・プランナーの集まりです。

親だけでなく、お子さんの生涯、とりわけ親亡き後をどう生き抜いていくかを模索する「サバイバルプラン」を中心に資金計画を立てるお手伝いをしています。


高齢化した「ひきこもり」が着実に増えている


その活動もはや25年。四半世紀が過ぎました。

アドバイスを始めた頃は、ひきこもりのお子さんの存在が世の中に認知されていたとはいえず、生活設計のアドバイスをすること自体、奇異な目で見られることも少なくありませんでした。同時に、「親が死んだ後の話をするなんて、縁起でもないことを言うな」と、当事者の家族から怒られたこともありました。

25年という時間が流れ、「ひきこもり」という言葉が理解されるようになった今では、私たちが提唱している「サバイバルプラン」を受け入れ、具体的な計画を立て、実行に移してくれるご家庭が増えてきています。

とはいえ、それは、ひきこもりのお子さんの数が増えている現実を表すだけではなく、後述するようにひきこもりの状態から抜け出せないまま、お子さん自身が高齢化している現実も意味しています。


「50代はもう珍しくありません。最近は60代もいます」


私たちが提唱する「サバイバルプラン」とは、働けない状態がこの先も続くと仮定して、親が持つ資産でどうやって生き抜いていくかを考え抜くプランです。

親が持つ資産というと、金融資産だけをイメージする人が多いのですが、不動産活用も重要なポイントです。親亡き後も、住み続けられる住まいを確保できなければ、生活は行き詰まってしまいます。

住まいを確保する方法として、都市部では賃貸併用住宅への建て替えが選択肢になります。一方、地方在住の場合は、老朽化した家から築浅の家への住み替えを促します。また、親に介護が必要になった場合に備えて、親子別居のプランを立てるケースもあります。


「60代のひきもこもり」が増えている: 写真はイメージです© PRESIDENT Online 写真はイメージです
サバイバルプランの具体的な手法については、この連載で徐々に触れていきます。なかでも最近、深刻化しているのは「働けないお子さんの高齢化」です。


親は80代以上というケースが増加「待ったなしの状態」


私のご相談者の中には、お子さん側がすでに60代に入られたケースが何例も出てきています。50代のご相談者は、もう珍しくありません。ご相談者の親御さんの年齢が80代というケースも増えていて、中にはすでに「親亡き後」へ突入している人も出てきています。ひきこもりの高齢化は、待ったなしの状態になってきているのです。

ひきこもりのお子さんが高齢化すると、「就業は絶望的であり、お子さん自身の生活設計など立てられない」と考えるのが一般的かもしれません。しかし、「早めの対処・対策」を立てることによって、親も子もサバイバルすることは可能です。


「全く働けない子ども」が2人以上いる家庭も増えた


「高齢化」のほかに見逃せない問題は、ひとつのご家庭に、「働けない状態のお子さんが複数いる」というケースのご相談が増えていることです。2人とも働けないだけではなく、中には3人や4人のお子さん全員が働けない状態のご家庭もあります。

働けない状態にあっても障がい年金を受給することなどで、サバイバルプランが成り立つケースもありますが、本来なら「親亡き後」に手続きなどで力を貸してくれるはずのご兄弟がいないという、別の問題を抱えていることになります。

さらに親側にとっても子ども側にとっても厳しいのは、親が持つ資産が減ってきていることです。企業業績は改善していますが、給与相場はそれほど上がっていませんし、年金受給額も減っています。


ひきこもりの子を支える親の資産は減っている


私が相談を受け始めた25年前は、ご相談者の多くが、親(お子さんにとっての祖父母)の持つ資産でサバイバルプランが成り立ちました。ところが、時間が経過するごとに親側の資産に余裕のないご家庭が増え、現在、サバイバルプランが成り立つのはご相談者の半分程度に減っています。

サバイバルプランが成り立たないと思われるご家庭こそ、先ほど申し上げたように早めの対策が必要になります。

資産の少ないご家庭は、厳しい現実に向き合わない傾向があります。「子ども自身がなんとか収入を得てくれれば……」といった現実的とはいえないプランしか立てていないケースが多いのです。厳しい現実から逃避しても、明日や明後日の生活に困るわけでもありません。しかしそれは、いつか訪れる「親亡き後」について先送りしたまま、あるいは考えることをフリーズしたままにしているだけです。

「親亡き後」のお子さんの生活を守るためには、この先も働けない状態が続くという現実を受け入れる勇気が、何よりも重要です。資産が少ないご家庭ほど、1日も早くサバイバルプランづくりに取りかからなくてはいけません。


今、働いている子が突如、働けなくなる日


また、ひきこもりの問題というと、ごく一部のご家庭の問題であり、自分の家庭とは関係のない話だと捉える方も多いでしょう。ですが、ひきこもり状態ではなくても、フリーターやニート(仕事も通学も求職もしない)のように、定職についていないお子さんが増えている現状*を考えれば、ひきこもり家庭の状況は決してひとごととは言い切れないはずです。

(*編注)2017年版「子ども・若者白書」によれば「ニート」を含む若年無業者数(15~39歳)は2016年で約77万人と依然高い水準にある(ニートの割合は男性2.8%、女性1.6%)。この白書は調査対象の年齢が39歳までであり、実際は40歳以上の者もかなりの数にのぼると推測できる。

「新卒で働き始めた会社で、老後の手前まで働く」というのは、親の世代には常識として通じても、お子さんたちの世代にとっては難しい現実になってきています。「一生働ける仕事に就く」という願いでさえも、かなわない現実があるのだと受け入れる覚悟が必要です。「働けない状態の子どもを抱える」というリスクは、どのご家庭にも起こりえます。そうした現実を、一人でも多くの方に知っていただきたいと思います。

NMB須藤の結婚発表 冠番組も大混乱…寝耳に水で「やけくその番宣」も

2017年06月18日 14時00分51秒 | 日記




























NMB須藤の結婚発表 冠番組も大混乱…寝耳に水で「やけくその番宣」も







結婚を発表する20位の須藤凜々花(中央)。突然の発表にメンバーも驚きの表情を見せる=沖縄県豊見城市立中央公民館© デイリースポーツ/神戸新聞社 結婚を発表する20位の須藤凜々花(中央)。突然の発表にメンバーも驚きの表情を見…
 「第9回AKB48選抜総選挙」のステージで突然の結婚発表を行った、NMB48・須藤凜々花(20)の冠番組、TBSチャンネル「NMB48須藤凜々花の麻雀ガチバトル! りりぽんのトップ目とったんで!」の公式ツイッターは、17日、「りりぽん、目標の選抜入りはなりませんでしたが、20位!おめでとうございます!!そして、大変混乱しています!!!」と混乱ぶりを伝えた。

 番組スタッフの「りりぽんの冠番組のプロデューサーとして、この後りりぽんからしっかり事情を聞きたいと思います…」との投稿をリツイートし、須藤の発表は番組にも寝耳に水だったもよう。

 その番組スタッフは「このあと24時からはりりぽんのトップ目とったんで!がTBSチャンネルで放送です。※やけくその番宣」とも投稿。「総選挙後、ご本人とお話しました。いろいろ整理した上、またご報告します。」としている。

『透明なゆりかご』作者が語る、日本の死亡原因“本当”の1位が中絶だという現実

2017年06月18日 13時57分56秒 | 日記

































『透明なゆりかご』作者が語る、日本の死亡原因“本当”の1位が中絶だという現実








沖田×華さん 撮影/近藤陽介© 週刊女性PRIME 沖田×華さん 撮影/近藤陽介
 高校時代に看護師見習いとして体験した産婦人科のリアルな実情を描き、発表以来、多くの読者の反響を呼び、今や5巻で260万部(電子含む)を突破する超ヒット漫画となった『透明なゆりかご』。作者の沖田×華(おきた・ばっか)さんに、この作品を通して“伝えたいこと”を聞いた──。

◇   ◇   ◇

 5巻で累計260万部を突破し、じわじわと感動の輪を広げている漫画をご存じだろうか。タイトルは『透明なゆりかご』。作者は沖田×華。彼女が学生時代に見習い看護師をしていた産婦人科医院での実体験で見た残酷な現実と、それと二律背反するような母性愛が描かれた物語だ。

「先日サイン会をやったんですけど、お子さん連れの女性や家族の方たちが多くて。サインしている間、目の前で抱っこされている子どもが私の髪の毛をいじっているのが、すごく可愛くって、私のほうがドキドキしていました(笑)。あとは、医療従事者の方も多く“うちの産科でも話題になっています”と。

 この“ゆりかご”は20年前の話を描いているので“本当なの?”と首をかしげられるかと思ったのですが“感動しました”という感想を多くもらえてうれしかったですね」


希望を見いだせるストーリーを描く


 1話完結で進むストーリーは、すべてが心に突き刺さる。主人公の×華は当時、堕胎された子どものカタチなき亡骸(なきがら)をカメラのフィルムケースのような小さな容器に納めて、業者へ出す役割をしていた。

「そのシーンは、みなさん一様にショックだと言われますね。産科でバイトをし始めてから、日本の死亡原因の本当の1位はアウス(人工妊娠中絶)だということを知ったんです。中絶する女性って“中絶!? なんてだらしない”みたいな目で見られがちですけど、私はなんだか、そこに違和感を感じてしまって。だって女性だけの問題じゃないですよね。その背景には中絶を許す男がいるはずなのに、その男がまったく出てこない。病院をひとりで訪れる女性にしたって、そう。他人には計り知れない事情があって、泣く泣くそのような選択をしている。中絶って常にマイナスなイメージでとられてしまっているけれど、それだけじゃなく、どこかに希望を見いだせる話になるよう、そんな思いで描きました。とはいっても、最初は怖かったです。結婚もしたことない、妊娠もしたことのない私がこのような話を描いて、読者さんからどう思われるのか……。それに、妊娠して出産することだって当たり前のことではない、ということも伝えたくて」

 育児というものは、過酷で重大なこと。ふだん何気なく育てているように見える母たちが本当はものすごい役割を果たしているということを、多くの人は意識していない。

「流産経験や死産、育児に関してダンナの理解が少なかったりと、あてはまる部分が多くあるのか、“この漫画で気が晴れました”と、みなさん言ってくださるので、ホント、描いてよかったなあと思っています。看護師だったのは約5年。あのころは、自分が役に立てる何かがあるなんて、あまり思えませんでした。産科で働いていたときは高校3年生でしたけど、まったく看護師に向いてなかったというか(苦笑)。あのあと、小児内科に3年半、そしてデイサービス、精神科、美容整形外科と、もろもろ。病院も転々としながら、やっぱり向いてないと辞めて、それから漫画家に」

 最初は、風俗漫画からスタート。その後は、『ガキのためいき』(講談社)というアスペルガー障害と診断された自身の実話を描いた連載を。それと同時進行で『ギリギリムスメ』(講談社)をスタートさせた。

「『ギリギリムスメ』は初めてのフィクションだったので、ストーリーを考えているときにパニックを起こしちゃって。“もう、私、できません!”って思ったときに“ゆりかご”のストーリーが浮かんだんです。“あっ! もっといいストーリーが思いついたぞ”と。担当編集さんに持っていったら“『ギリギリムスメ』が先なんで早く描いてください。それが終わったら、ゆりかごの連載を始めましょう”と。

 しかたないと、1度は“ゆりかご”のネーム(文字原稿)を捨てちゃったんですけど、『ギリギリムスメ』が終わったあとに、あらためて“沖田さん、あの連載を始めましょう”と担当さんから言われて……。担当さんがネームをとっていてくれて、“これですよ、沖田さん。『透明なゆりかご』です。これ、描きましょう”と」


“あけみちゃん”と酒場では呼ばれ……


 先日、早くも5巻が発売となった。忙しくはなったものの、生活はほとんど変わっていないという。

「飲んべえだし、よくひとり飲みをして、時折、道路の溝に落っこちたりもします。住んでいるところの駅前の居酒屋へはよく行きます。カウンターの隅っこに座って、老夫婦の会話に耳をそばだてて“ふむふむ、まだエロいことをやってんのか”とか思いながら、お酒を飲む(笑)。新宿の赤ちょうちん的な居酒屋にもよく行きますけど、そこではなぜか“あけみちゃ~ん”と、おっさんたちに呼ばれ、数杯でベロンベロンになって、おっさんと同じようにフラフラになって帰るのがパターン。服にも特に興味がなくて、まだ高校時代のジャージを着ていますが、かなりボロボロになってしまいました。そんなに欲がないのかも。

 不思議です、風俗漫画からスタートした私が、この境地に至っているなんて。でも、まだまだしたいことはあって、“ゆりかご”は今後は取材もしていこうと思っています。不妊治療の現場だって変わってきています。日本の養子事情なんかについても描きたい。昔と今の出産事情は違うだろうし、育児事情も違う。ワンオペ育児で頑張っている方にも、私の漫画を読んで、ストレスを発散してもらえたらうれしいです」

<プロフィール>

おきた・ばっか/漫画家。富山県出身。ペンネームは「起きたばっかり」に由来。漫画『アクション』の新人賞に応募して選外奨励賞を獲得し、26歳で漫画家デビュー。アスペルガーなどの発達障害と共生し、自身が抱える障害を題材とした作品『毎日やらかしてます。アスペルガーで、漫画家で』(2012年)も人気シリーズに。『透明なゆりかご』はじめ、『蜃気楼家族』『ガキのためいき』『ハイスクールばっかちゃん』などヒット作多数。

『あなそれ』波瑠演じる美都に「天罰下る」!? 第9話“中傷ビラばら撒き”シーン視聴者熱狂

2017年06月14日 19時02分31秒 | 日記
































『あなそれ』波瑠演じる美都に「天罰下る」!? 第9話“中傷ビラばら撒き”シーンに視聴者熱狂




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 TBS火曜ドラマ枠で放送中の連続ドラマ『あなたのことはそれほど』が、6月13日に第9話を迎える。現在、3週連続で自己最高視聴率を更新中だが、最終回を目前にまだまだ数字を伸ばしそうだ。

 主人公の渡辺美都(波瑠)が、中学時代の同級生・有島光軌(劇団EXILE・鈴木伸之)との再会を機に、W不倫に溺れる姿を描いた同ドラマ。

「美都の“不倫に一切の罪悪感を覚えない”というキャラが、視聴者の間で『ヤバイ女』と話題になり、さらに美都の夫・涼太(東出昌大)の異常なほどの妻への執着が浮き彫りになったり、有島の妻・麗華(仲里依紗)の静かなる反撃が始まったことで、『続きが気になる!』と視聴者の関心を引いたようです。前週の第8話では13.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録するなど、現在3週連続で自己ベストを更新しています」(芸能ライター)

 第8話では、美都から離婚届を書くよう求められたものの、わざと書き損じて夫婦生活を継続させようとする涼太、また、麗華に不貞を暴露したことで、息苦しい日々を過ごす光軌の姿が描かれた。

「そんな中、美都は自身が妊娠している可能性に気付き、光軌に知らせるか迷う……という展開に。美都は心の中で、『子どもができたって言ったら、有島くん、どんな顔するんだろう』などとつぶやいていましたが、ネット上では『もう有島家に関わらないで!』『有島が責任取ってくれるとでも思ってんのか?』『子どもをネタにして、有島をつなぎ止めるつもりかな。最低すぎる』『美都ってホント気持ち悪い~』などと罵詈雑言が飛び交いました。視聴者が美都への苛立ちを募らせるほど、視聴率がアップしている印象があります」(同)

 また、「有島はもう麗華のことで頭がいっぱいだよね」「美都の入り込む余地なし。ザマアミロ」といった声も。さらに、美都から妊娠の可能性を告げられた涼太が、「僕の子だよ」と言い張る場面には、「怖い」という意見があった半面、その後、涼太が泣き出すと、「なんだかんだで、やっぱり涼ちゃんは可哀想だな」と、しんみりする声も多数上がっていた。

「しかし、続く第9話では、美都を中傷するビラがマンションにばら撒かれるなど、最終回前にして、ひと波乱ありそうです。前週、何かと麗華に関わりたがるママ友・横山皆美(中川翔子)が美都に接触していたため、ネット上では『皆美の仕業かな』と予想する声も多く、視聴者は『美都にどんな天罰が下るか楽しみ!』とワクワクしている様子です」(同)

 最終回に向けて、物語は大きく動くこととなりそうだ。

DVDTBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』新垣結衣星野源熱愛ベストカップル!!!

2017年06月14日 18時52分31秒 | 日記






























DVDTBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』を全話観た。


面白い!


星野源さんが童貞な訳はないが(笑)新垣結衣さんと星野源さんって考えるとベストカップルだなあと思った。


ガッキーも、三浦春馬、錦戸亮、生田斗真、岡田将生と華麗な彼氏遍歴だったが


やはり星野源さんみたいなしっかりしたひとがぴったりだ。熱愛騒動もわかる!!!

ふたりはお似合いですね。星野源新垣結衣熱愛結婚の報道を待ちわびますね。(笑)


上杉(長尾)景虎  2017年6月14日

明日は我が身! スマイリーキクチに聞く「ネットのデマ」との戦い方「経験は負のサンプル」

2017年06月13日 16時53分33秒 | 日記































明日は我が身! スマイリーキクチに聞く「ネットのデマ」との戦い方 「僕の経験は負のサンプルです」




 18年もの間、ネット上の「デマ」と闘ってきた男性がいます。お笑い芸人のスマイリーキクチさん(45)です。フェイクニュースも問題化している今、全国各地の学校を飛び回り、子どもたちに自身の体験を伝えています。講演の主眼は、いかにして「デマを広める加害者にならないか」ということ。壮絶な闘いの末に得た教訓を、聞きました。(朝日新聞デジタル編集部・信原 一貴)


なりすましが「許して」
――ネットでのデマや誹謗中傷は、なぜ始まったのですか。

 「突然です。1999年に、10年前の凶悪事件に私が関わっていたというデマが広まりました。巨大ネット掲示板『2ちゃんねる』に『人殺しは死ね』『白状して楽になれよ』などと書き込まれ、それが事務所の公式サイトの掲示板に広がりました。根拠は、私が事件のあった東京・足立区出身で、犯人たちと同じ世代ということだけです」

――拡散していくデマに、どのような思いでしたか。


インタビューに笑顔で答えるスマイリーキクチさん=竹谷俊之撮影© withnews インタビューに笑顔で答えるスマイリーキクチさん=竹谷俊之撮影
 「最初は他人事でしたね。なんだこりゃと。全く僕じゃない、僕の人物像がネットの中に存在している。誹謗中傷に対して、スマイリーキクチを名乗る何者かが『もう過去のことは許して下さい』『私にも人権があります』と書き込んですらいる。私や事務所が公式サイトで否定しても『火のないところに煙はたたない』『事件をもみ消そうとしている』と邪推される」

 「殺す、死ねといった脅迫的な書き込みや、『事件をライブでネタにしていた』といったデマも増え、やむなく事務所の掲示板を閉鎖すると、今度はCMスポンサーに『殺人犯を出すな』と苦情の電話が入るようになりました」

――冷静に考えれば、ありえない話です。

 「世間を揺るがす凶悪犯罪を起こした人間が、芸能事務所にいられるわけがない。事実ならすぐに週刊誌が書き立て、テレビなんて出られなくなる。もっと言うと、事務所がもみ消しに躍起になるほどの存在なら、俺はもっと売れているはずだと。そこになぜ気づかないんだろうと。デマを広める人は、すなわちデマにだまされやすい人です。邪推を重ね、否定する材料に目を向けない。デマを自分の頭で考え、批判的に見ることができないんです」


本当に怖かったこと
――長年のネット中傷に、よく耐えられましたね。

 「もちろん当時、怖くて身の回りを警戒しました。しかし何より怖かったのは、脅迫や中傷自体ではないんです。助けを求めた警察に、相手にされないことの方がよほど怖かった」

 「当時は警察にも、ネットに詳しい人が少ない時代でした。相談しても『書き込みだけでは捜査できない。実際に殺されたら捜査しますよ』とか、『誰もあなたのことを殺人犯だなんて思ってませんよ』とあしらわれる。もう、絶望しかありませんでした。『あなた、ノイローゼなのよ』と言われるのもつらかった。誹謗中傷を受けている立場なのに、俺は正気なのかと自問自答しました」

 「真剣に捜査してくれる刑事さんに出会うまで、9年かかりました。しかもその刑事さんは、私がデマを流された凶悪事件の捜査にも関わっていた。被害を伝えると、すぐに『これはひどいな』と。僕はデマに巻き込まれて運が悪いと言われますが、周りに恵まれました。運がいい方だったんです」


「正義感」の裏側には
――その後、特に悪質な書き込みをした19人を警察が特定し、検挙しました。最終的に起訴には至りませんでしたが、捜査に協力する中でどのような事を感じられましたか。

 「19人の名前や出身地を聞いても、全く知らない人たちでした。年齢は17歳から46歳まで、職業もバラバラ。ただ大半の人に共通していたのは、デマを信じて『正義感からやった』と供述したことです。しかし本当に正義感のある人が集団で、匿名で、誰かを追い詰めるでしょうか。『チンカス、社会のゴミキクチ』なんて書き込むのが、どこが正義なんだと」

――たしかに正義感に駆られることと、他人を「殺す」と脅すこととは、かなりの開きがあります。

 「実際、捜査が進んでいくと『離婚してツラかった』とか『妊娠して不安だった』といった本音の動機が出てきたと、刑事さんからは聞きました。ネットリンチをしたい気持ちに正義感の皮をかぶせて、自分を正当化している」

 「私は被害者なんだ、ネットにだまされたと言い出す人も多かった。2ちゃんねるの書き込みをコピーしただけだと主張した人もいました。なぜ犯罪なんだ、元の書き込みをしたヤツが悪いんだと。他人の言葉は徹底的に責任追及するのに、自分の言葉の責任はとらないのだなと恐ろしく感じました。検事さんからは起訴しなかった理由を『調書にはすぐ謝罪するとあった』と説明されましたが、そのとき、謝罪に来ていた人は一人もいませんでした」

 「ネット炎上防止の講演会などを聞きに行くと、参加者に『悪口を書いちゃダメ』と教えていることが多いんですね。しかし私を中傷した人たちは罪の意識が希薄で、そもそも悪いことをしている自覚が無かった。単に『悪口はダメ』と言って防止策になるのか、いつも疑問を感じています」


怒り感じたら「寝かせて」
――キクチさんは、子どもたちへの講演会でどんなアドバイスをしているのですか。

 「ネットにはフェイクニュースや陰謀論など、人の怒りをあおって拡散を狙う情報にあふれています。ネットの情報に怒りを感じたときほど、その情報を寝かせてくださいと伝えています。それが加害者にならない方法ですと。しかも今、その怒りはSNSなどで簡単に共有できる。共有すると、怒りは増幅します。みんな怒っている、だから俺は異常じゃ無いんだと安心できる。そうして罪の意識がないまま、他人を傷つける加害者になってしまう」

 「この事件は許せない!と思ったときこそ、すぐにツイッターなどで拡散しないでください。数日間、1週間と時間をおく。そのあいだに冷静になるでしょうし、ネットの情報もふるいにかけられて、情報の真偽が明らかになっている可能性があります」

 「そしてネットの情報を疑うこと。知名度の高いサービスでも、情報を書き込んでいるのは匿名の他人であることが多い。たとえばウィキペディアを辞書代わりに使う人も多いですが、ずっと私は自分の項目に『殺人事件に関与』したと書かれていました」

――デマを広められた被害者へのアドバイスはありますか。

 「自分は被害者で、デマを書き込む側が加害者だと明確にすることが大事です。デマを書き込まれて、それに多くの人は抵抗してしまう。何を書いてるんだばかやろうと。これでは街中の殴り合いと同じです。デマには絶対に丁寧な言葉で『そういった事実はありません』『やめてください』と対応することが大事だと思います。その姿勢を貫くことが、警察が万が一動いてくれたときにも大切になってきます」


生きることが「仕返し」
――今年3月にもブログに殺害予告のコメントがあり、NHKでの生放送出演が中止となりました。

 「消えないデジタルタトゥーですね。凶悪事件をネット検索すると、僕の名前がいまだに出てしまう。それは僕の中であきらめているというか。しょうがないなと。ただ、デマであることが知られて、中傷の数は格段に減りました。家には脅迫のコメントなどを印刷したものが段ボール4箱分くらいありましたが、ほとんど捨てました。子どもが物心ついて、父ちゃんが人殺しと書かれたものを見るのは嫌だろうなと」

 「僕の経験は、いわばインターネットの『負のサンプル』です。講演をすると、子どもたちの反応で多いのが『私なら自殺してたと思う』というものですね。耐性のない子どもがネット中傷で命を落とすなんて、あってはならないことです」

 「だからこそ僕は、生きてデマと闘おうと思ってきました。生きて、自分が幸せになること。それがネット中傷を続けてきた人たちへの、最大の仕返しになると思っています」

     ◇

<スマイリーキクチ> 1972年生まれ。1993年にコンビ『ナイトシフト』結成。1994年6月に解散し、以後はピン芸人として「ボキャブラ天国」(フジテレビ)や「爆笑オンエアーバトル」(NHK)などに出演。ネット中傷被害の経験から、講演活動のほか、YouTubeに対処方法の解説動画も掲載している。

【陰謀論】淫行の小出恵介に「ハニートラップ説」が浮上<淫行未成年者飲酒性行為>

2017年06月09日 19時49分39秒 | 日記































【陰謀論】淫行の小出恵介に「ハニートラップ説」が浮上




未成年との飲酒及び不適切な関係が発覚し、無期限活動停止を発表した俳優の小出恵介さん。本日2017年6月9日、今回の件をスクープしたフライデーが発売され、新情報が続々と明らかになっている。

詳細についてはフライデーをご確認いただきたいが、いまネット上でにわかに囁かれているのが「ハニートラップ説」である。その声は決して少なくなく、中にはハニートラップだと確信しているネットユーザーもいるようだ。

・新情報が続々と発覚
この事案が発覚した時点では「未成年との飲酒及び不適切な関係」だけしか判明していなかったが、一夜明けた今日、続々と新情報が舞い込んできた。フライデーによれば、お相手は交際していた女性ではなかった点も、狩野英孝さんとは違うポイントである。

そして最も衝撃的だったのは「女性の同意があったのか微妙」ということだ。こればっかりは真実を確かめようがないが、フライデーで証言している女性のコメントを読む限り同意があったのか疑わしいと言わざるを得ない。ざっくり言えば、女性は被害者として登場している。

だがしかし、ネット上の動きは早く、お相手女性のSNSアカウント及び、女性が友人と「小出恵介さんと寝た」と発言したとされるメッセージが発覚するなど、新情報が次々と浮上している。女性のSNSアカウントやメッセージが本物なのかは不明だが、ネット上では「必ずしも女性が被害者ではないのでは?」という声が多いのだ。

そんな状況から発展し、にわかに囁かれているのが冒頭でもお伝えした「ハニートラップ説」である。ネット上ではハニートラップ説について以下のようなコメントが相次いでいるのでご紹介しよう。

・ネットの声
「小出恵介ハメられたな」
「これは典型的なハニートラップ」
「本当に女性は被害者なのか?」
「そもそもどうやってフライデーはスクープしたのか?」
「もちろん女性はフライデーからお金もらえるんだよね?」
「うーん、誌面に書いてあることが全てだとは思えないな……」
「てか、完全に女性は合意してるんじゃない?」
「写真見る限り、女性が嫌がっている風には見えない」

中には「フライデーに掲載されている男性が全て仕組んだ罠」などの声もあるようだ。

この件はあくまでネット上の噂なのでもちろん真偽は定かではない。だがしかし、例えばツイッターで「小出恵介 ハニートラップ」で検索すると、膨大な量の情報がヒットすることは紛れもない事実である。そして、小出さんと女性に関係があったこともまた事実だ。

参照元:フライデーデジタル
執筆:P.K.サンジュン
イラスト:マミヤ狂四郎
Photo:RocketNews24.

橋本環奈『彼女とデートなう。に使っていいよ*笑』超絶!天使すぎる橋本環奈写真

2017年06月07日 12時55分10秒 | 日記
































橋本環奈


『彼女とデートなう。に使っていいよ*笑』


超絶!天使すぎる橋本環奈写真

【2017年NHK大河ドラマおんな城主直虎ネタバレ】おんな城主井伊直虎あらすじと物語コア

2017年06月04日 17時35分24秒 | 日記































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話を変える。
 井伊麗姫(のちの井伊次郎法師のちの井伊直虎、2017年NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』ではおとわ)は駿河遠江国(現在の静岡浜松市)井伊谷城で生まれた。生年月日不明(おおよそだが天文五年(1536年))…天文十年(1541)の駿河遠江国(するが・とおとうみ)では井伊直虎と井伊直親がわんぱくに育っていた。
子供の麗(のちの次郎法師・井伊直虎 大河ドラマではおとわ)と亀之丞(のちの井伊直親)と家臣筋の鶴丸(のちの小野政次)は遊んでいた。山を駆け、野を駆け、三人の絆は深い深いものとなった。森でかくれんぼをしていて、麗(大河ドラマではおとわ)は「亀!鶴丸!こっち!こっち!」と呼ぶ。麗はフクロウの巣の赤ちゃんを見つけた。
「わああっ、可愛い」3人の子供はほっこりとした笑顔になった。
井伊家の元祖となった井伊家の祖先で井伊家の始まりとなったのは井伊家の井戸(現在も井伊谷に保存されている)を三人は眺めた。「この井戸に井伊家の祖・初代さま井伊共保(ともやす)公が捨てられていて拾われた。これが井伊家のはじまりである!」
「だが、何故、井戸に捨てられたのに溺れ死ななんだ?」
「きっと井戸端に捨てられたのじゃ」
「なるほど!」
子供時代は浜松の天白磐座(てんぱく・いわくら)遺跡(1500年前からあるとされる古代祭祀遺跡)を遊びまわっていた筈である。井伊家は代々、この天白磐座遺跡を祀る王の末裔でもある。戦国時代は男だけの城主・大名だったが直虎以外のおんな城主はいる。
一は“男勝りの城主 立花誾千代(ぎんちよ)”筑前(いまの福岡県)で永禄十一年、島津の大軍が攻めてきた立花山の戦いで、島津軍を追い払った。二は、“おんな戦国大名 寿桂尼(じゅけいに)(今川義元の母)”四十年に渡っていっさいを取り仕切り今川家繁栄の礎を築いた。今川を有力大名におしあげた知略家である。そんなおんな城主のひとりが直虎。
麗・おとわの父親の直盛は心やさしい性格で生け花が趣味。麗・おとわに「麗・おとわ、お主がこの井伊家井伊谷の領主としてあとを継ぐか?」とおどおど訊いて、幼い麗・おとわは「え?わたしはずうっと最初からわたしがあとをつぐと思っていましたが…違うんですか?」といわれて困惑する。
「そんな訳はあるまい!」逆に母親の千賀は教育母親的な女性で、おとわが亡くなる四年前まで生きていた。おとわが悪戯や悪い口をきくとおしりぺんぺんしてしつけた。
やがて、幼いうちに麗(のちの次郎法師・井伊直虎)と亀之丞は大きくなったら結婚することを誓う。曾祖父の井伊直平(なおひら)が、麗の叔父で亀之丞の父親の井伊直満(なおみつ)の息子と麗(おとわ)を許嫁とした。井伊家本家では嫡男が出来なかったからだ。
「麗……わしたちは夫婦になるのじゃ」
「わかった。亀之丞」
「しかし…わしのような病弱な男の嫁で嫌ではないか?」
「亀、何を言う!そなたには笛があるではないか。」
「わしは笛を吹くことしかできぬ。鶴丸のように頭がいい訳でもない。麗・おとわのように体が丈夫な訳でもない。何の意味も無い存在なのじゃ!出来損ないなのじゃ!」
「ばかもの!」麗・おとわは亀之丞の頬を平手打ちした。
「おまえは意味があっていきておる!われの未来の旦那さまになるのであろう?!!情けないことをいうでない!いうでない!」
「……麗・おとわ…。」
「亀は立派な男子(おのこ)じゃ!のう?!!お前が戦えぬならわれがかわりに戦う。亀、お前が領主が出来ないならわれがかわりに領主となろう!」
「わかった。わしはもっと強い男子になる。みていてくれ!」
「おう!われも綺麗な嫁になるからみていてくれ!」
ふたりは笑顔になった。
 直虎と亀之丞が許嫁(いいなずけ)の関係になったのは直虎五歳のことである。
だが、亀之丞は井伊家の亀の父親が暗殺され井伊家当主が桶狭間で討ち死にすると隠遁生活にはいる。
 麗(おとわ)の父親は、井伊22代宗主直盛(なおもり)である。直盛の幼名は、江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』に「虎松」とある。「虎丸」とする説もあるが、いずれにせよ、虎の目を持つ人間であったのであろう。
 一方、麗(大河ドラマではおとわ)の母は、ドラマでは新野千賀(ちか)となっている。新野氏は、今川氏の庶子家で、御前崎市新野の地頭(この当時の「地頭」は「領主」の意)であった。井伊家と新野氏・娘との結婚は、今川氏との結びつきを深めるための政略結婚だったとされている。
 こうした両親のもと、麗(おとわ)が生まれた場所は井伊谷(いいのや・静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)の井伊氏居館と伝えられている。
 が、残念ながら直盛夫妻が授かった子は「麗(おとわ)」のみで、井伊家の宗主であるにも関わらず息子に恵まれなかった。
 そこで井伊20代宗主直平(なおひら・おとわの曽祖父)が、「男子が生まれなかった場合は、わしの息子の井伊直満(なおみつ)の子・亀之丞と、麗(おとわ)を結婚させる。亀之丞に井伊家を継がせるのだ」と決めた。
 麗(おとわ)が、まだ2~3歳の時だったという。
 「麗(おとわ)」と呼ばれていた時代、彼女は宗家の娘として、何不自由なく過ごしていた。 が、間もなく悲劇が起きる。
「これから駿河の今川さまの屋敷に行って参る」
「………」
「いかがした?亀之丞?」
「父上、領内でよからぬ噂がたっておりまする。今川様のところへはいかぬほうがよいかと。」
「何じゃ。亀、お主までこの父親を疑うのか?井伊直満は北条に内通していると。馬鹿者」
「しかし、今川義元公は…」
「考えすぎじゃ。わしは今川屋敷にまいる」
 だが、やはりだった。今川義元に責められた。「お主は北条に内通しているのであろう?!」
「いいえ、そのようなことは…陰謀にございまする!」
「だまれ!井伊直満!」
井伊直満は右目を戦で負傷していたため眼帯を独眼竜政宗のようにしていた。直満の北条への内通書が示される。ばれた!!う…ぐああ!案の定、今川義元は今川舘内で家臣達に直満を包囲させて、「殺せ!」の命令で井伊亀之丞(のちの井伊直親)の父親は殺された。「一豪族ふぜいが……まろを舐めるな!」
今川義元は吐き捨てるように言った。
井伊直満の首が届けられる。
全員、戦慄した。「書状には井伊家を滅ぼす、と書いてあるぞ!井伊家を、と!」
「そんな馬鹿な!!??」「今川家から攻められたら井伊谷などひとたまりもない!」
「どうしたらいい??!!」「このままなら井伊家滅亡じゃぞ!!」
井伊直満(亀之丞の父)が今川義元に誅殺されてしまった。
「父上―!父上-!」亀之丞は号泣した。
さらに、今川からは亀之丞を殺せとの命令が出ていたが井伊家は逃がした。
曾祖父の井伊直平がきて「小野か?小野が今川へ直満を売ったのか?!」
「おじじさま。今は時がありません」
「まだ九歳の亀之丞を殺すつもりか?!!今川の命令に従うつもりか?!!」
当時のならいで息子の亀之丞(当時9歳)にも殺害命令が出されたのだ。直虎の許婚者であり、井伊家宗主候補だった亀之丞は、かくして信州へと亡命し、消息不明となってしまう。「麗・おとわ、必ずそなたの元に帰ってまいる!」
「まっておるぞ、亀!」
亀之丞が姿をくらまして、亀之丞かと思って今川家の家臣達は農民姿のおとわを捕らえた。
「井伊亀之丞だな?」母親の千賀らはおとわがいないこと気づいて「おとわは何処じゃ?」
ひそひそ守り役のたけにきく。たけは「申し訳ありません。わたくしが目を離したすきに」
「亀之丞らしき小僧を捕らえたぞー!」男達の声が井伊谷に響く。
しかし、それはおとわだった。深夜の山中であった。
直盛や千賀らが「それは亀之丞ではありません!」「そうです!井伊家のひとり娘のおとわでございます」「何?」「何故小僧の格好をしていた!?何故逃げた!?」
おとわは「竜宮小僧を探しておったのじゃ」といういい訳を貫いて、それで許された。
のちにおとわは両親に井戸端で亀の笛を見つけて無性に駆けだし、亀の従者である今村藤七郎に出くわして、笛を渡す機会を得たという話をした。
「笛を届けてくれたのか?ありがとう、おとわ」
「亀の大事な笛ではないか。」
「この笛は亡き父上に買ってもらった大事なもの。本当にかけがえのないものだった」
「絶対に死ぬな!亀…生きのびて…」
「俺はもっともっと強くなって必ずおとわを迎えにくる!」
涙をこらえる亀之丞……おとわ…
そして逃亡……「とにかく若!お逃げください!」「しかし……井伊家は?」
「井伊亀之丞!覚悟―!」「ぐうっ。おのれー!」「若!逃げまするぞ!若!!」
斬り合いの末、井伊亀之丞(のちの直親)らは逃亡した。
直満の葬儀が行われる。今川家の手先である小野和泉守政直が今川の姫と小野の息子・鶴丸を結婚させて井伊家を継がせるという策を披露する。すると激怒した井伊直平が刀を抜いた。「貴様ー!最初からそのつもりであったなー!」しかし直盛が曾祖父直平を羽交い締めにして止めた。「やめてくだされ!おじじさま!」
鶴丸はおとわに「わが父上は今川に直満おじさんを売って、今度のわしとおとわとの婚儀はその褒美なのじゃ」と下唇を噛みしめる。
おとわは家出をした。自分がいなくなれば問題はなくなる、と思ったからだ。
しかし、山中の乞食に拾われ、井伊谷に戻された。
天文13(1544)年、直虎十歳で、伊井谷の家臣のひとりが直親を殺そうと暗殺団の刺客を送ったことで、井伊家の次期惣領だった筈の井伊直親(亀之丞)は信濃(長野県)の松源寺(長野県下伊那郡)へ身を隠す。それは直虎へも秘密であった。
逃がしたことも生きているか死んでいるかもすべて秘密…知られればたちまち駿河の今川に攻め滅ばされてしまう。すべては遠江の領地・井伊谷の井伊家のためであった。
生きているのか死んでいるのかもわからないまま、直虎は傷心で過ごした。
すべては井伊直親の命を守る為である。
鶴丸(のちの小野政次)の父親・小野和泉守政直が井伊直親を殺そうとしたからだ。
鶴丸改め小野政次に父の小野政直は「お前もいずれわしのようになる」と忠告した。
「父上!母上!亀之丞は何処へいかれたのですか??!!お教えくだされ!亀はどこへ?」
だが、両親は答えられない。そんな傷心の麗は考えた。
若かりし麗(おとわ)が絶望の底へ突き落とされたのは想像に難くない。
 当時の女性の結婚適齢期は13歳前後と言われている。その年頃になった麗(おとわ)は、なぜか自分で自分の髪を切り、大叔父の南渓和尚(なんけい・龍潭寺二世住職)の元へ出向いた。出家だ!家出して出家すれば亀をまてるし、鶴丸と夫婦にならないですむ。
そう考えて自分で刃物で髪を切りつづけた。おかしな頭になる。
そんなとき今川家からおとわを人質に出せ、という命令が下る。
「人質など反対じゃ!戦をしようぞ!もはや戦しかない!」直平は激昴して叫ぶ。
だが、おとわと従者は今川家の城にいく。今川の軍師・太原雪斎(たいげん・せっさい)に気に入られるおとわ。また、のちに徳川家康の正室になることになる瀬名(のちの築山殿)に出会い、瀬名はおとわのへんてこの頭髪に笑い転げる。美少女である。
井伊家の人質の佐名姫(南谿和尚の妹)を、おとわに守り役のたけは耳元で、
「今川さまのお手つきになられたという女性ですよ。」と気の毒そうに囁く。
今川の寿桂尼(じゅけいに 義元の母親)はおとわの出家を認める。
今川舘では今川義元の嫡男・龍王丸と瀬名たちが蹴鞠(けまり)で勝負していた。龍王丸(たつおうまる・のちの今川氏真)に勝てば何でも望みを叶える、と知っておとわは蹴鞠勝負をして勝つ!
「この!何度も何度も卑怯だぞ!」
「このおとわを井伊谷の戻してほしいのです。そのかわり出家しますからどうぞこの望みを叶えてくだされ!」
おとわの必死の懇願に無口の今川義元も「よかろう」と認めた。
井伊谷に帰ったおとわは龍譚寺にすぐに行った。
「出家したい。尼の名前を付けて欲しい」
 それを聞いた麗(おとわ)の両親(直盛・千賀)は驚いて、「尼の名だけは付けるな」と南渓和尚に迫ったという。両者の板挟みにあった和尚は、親の意を汲んだ「次郎」という俗名と、娘の意を汲んだ「法師」という僧名を合わせ、「次郎法師」と名付けた。
「亀之丞以外の男には嫁がない!わたしは龍譚寺(りょうたんじ)に出家いたす!」
「え?!!何を…!馬鹿げたことだ!やめるんだ!」
「いいえ。亀が戻るまで出家しまする。但し、次郎法師・井伊直虎として。」
 おんなの覚悟である。こうして次郎法師・井伊直虎は誕生する。
南谿和尚は「そなたは何故にここに来た?」と問うた。
「出家を親にさせられました」
「出家とはなんぞ?」
「お坊様に……なること?」
「僧?……僧とはなんぞ?」
「僧?……毛のないひとですか?」
「では、頭の禿げ上がった爺は僧か?毛のない蛙は僧か?」
厳しい修行に音を上げたおとわはわずか一日で井伊谷城に逃げ帰ってくる。
母の千賀は「たったの一日で逃げ帰ってくるとは情けない」たけも「辛抱を学びなされ」
「ムリムリ!修行は厳し過ぎるのじゃ!わしは姫じゃぞ!」
「馬鹿者!」母親の千賀の雷が落ちた。
龍譚寺に戻されたおとわは腹が減った。しかし、僧たちは「托鉢(たくはつ)をしてまいれ!」という。「托鉢?」「家の前で念仏を唱え、その托鉢鉢に供物をもらうのじゃ」
おとわは井伊谷の食べ物屋にいき、出鱈目な念仏を唱えて「腹が減った!食べ物をくれ!」
「なんだ?!このガキ!消えろ!」
剃髪しているのでおとわ、姫とはわからない。
腹が減って腹が減って、おとわは村の畑の野菜にかじりついた。
それを鶴丸にみつかってしまう。泣き出すおとわ。
だが、食べ物屋の水瓶を運んでいっぱいにして働くとおとわはつけものを托鉢してもらった。「腹が減った!これが托鉢か……われこそ竜宮小僧じゃ。」がつがつ食べ笑顔を見せた。
昊天が「何故次郎法師を迎え入れたか?」ときき、南谿は「あの娘は特別な虎の目をもっておる。井伊家の初代さま井伊共保さまもそうであったろう。あの子供こそ竜宮小僧じゃ。」
「われが井伊家を守るのじゃ!」出家した井伊直虎・次郎法師は極寒の中、滝行をする。
冷たい滝にうたれながら般若心経を唱えた。すべては井伊家の為の祈り、である。
次郎法師は出家したので坊主頭の少女である。姫時代は馬で駆けた。おとわの乳母はたけ。
次郎法師は禅の修行や般若心経などの念仏も修行した。現在の禅の修行はひとと向かい合ってのものだが、戦国時代当時は壁に向かって瞑想し禅で念仏をそらんじた。
龍譚寺では兄弟子の傑山などが弓矢や槍の稽古をする。「次郎法師!おなごだからと手加減せぬぞ!かかってまいれ!」だが、兄弟子たちは次郎法師を生涯守ることも誓う。僧兵だ。
教育係の僧侶・昊天も、次郎法師に学問や歴史経世済民などを教えるのである。
「雑巾になりきれー!寺の掃除をしっかりとやるのじゃー!」「おおっー!」
「志を大事にせよ!ひとは志次第でどうとでもなる!井伊谷や龍譚寺だけが世界ではないぞ!お前は学べ!しゃかりきに学べ!のう次郎法師!」
「はい!われは学びまする!井伊家、井伊谷、すべての国のために!われは井伊谷に生まれようござりました!」井伊直虎・次郎法師は志をたてる。
天文二十二年(1554年)、亀之丞が井伊谷を去ってから十年もの歳月が経っていた。
鶴丸は小野但馬守政次と元服して名を改めていた。直盛も四十七歳になった。
井伊家筆頭家老小野政直が息子の小野政次と次郎法師を結婚させようとした。
次郎法師は「そうなれば両家のわだかまりもとけるのう」
政次は「亀のことはいいのか?」ときいた。
次郎法師は「もし、生きておったとしても亀には別の人生がとっくにあろう。」
「それでおとわはいいのか?」
「いいもわるいもない。わしは文句を言える身ではない」
こんな評定は荒れて当然である。しかし、今川の息のかかった小野政直のいいようにことがすすんだ。だが、政直は病気で倒れる。
死ぬ前に政直は息子に「お前は俺を醜いと思っているだろうがお前もこのわしと同じようになる!いずれ…わしと同じとなるぞ。」といい、その後病死した。
こうしたことでやっと十年ぶりに亀之丞は井伊谷に帰ってくることができた。
「俺はおとわと一緒になるつもりじゃ。」直親(亀之丞)はいう。長い長い間待ち望んでいた言葉。しかし……
「われこそ次郎法師!井伊直虎である!!」
のちに、そう男装し、赤備えの兵で武装した馬上の直虎は跡継ぎの虎松(のちの井伊直政)がわずかに二歳の赤子で跡継ぎの男子がいなくなったために、次郎法師が井伊直虎となり発した。
一度は諦めた井伊家の存続であった。だが、没落する。今川家などに攻められて城もすべて失ったことがある。龍譚寺で一計をこうじて義理の息子・井伊直政を徳川家康に仕官させ、“松下”からふたたび井伊を名乗ることを家康に認めさせた。
晩年、直虎は祐圓尼(ゆうえんに)と号し、母・千賀(祐椿尼・ゆうちんに)と龍譚寺で過ごし1582年死亡した。織田信長の暗殺・本能寺の変の数ヶ月後、であった。
話を戻す。
実は小野政次は次郎法師・のちの井伊直虎に懸想(けそう・恋愛感情)をしていて、幼い頃の絆はどこへやら、亀之丞改め井伊直親(なおちか)と対立するようになる。
「鶴?いかがした?何故わしを狙う?われらが戦うのは井伊家のため、麗のため。」
「だまれ!わしは…もう鶴丸ではない、この井伊谷の領土を狙う小野政次だ!」
井伊直虎の曾祖父・井伊直平は「麗(大河ドラマではおとわ)!ようやくこの時が来た!亀之丞を連れ戻すぞ!戻ってまいるぞ!」と龍譚寺で笑顔になった。
「しかし、わし井伊直平が領主のときに今川軍にやぶれて今川領となり、息子達も傷だらけになった。亀の暗殺された直満も直盛の父親も戦で負傷した。じゃから、わしは今川家が憎い。憎いのじゃ!今川義元は殺してやりたい!もはや、戦じゃ!戦しかないのじゃ!」
麗・おとわの曾祖父・井伊直平の今川家への憎悪はすざましい。亀の父親が独眼になったのも今川家との合戦で、である。ちなみに井伊谷(いいのや)とは「井の国」とも呼ばれ、竜宮小僧(りゅうぐうこぞう)の守る浜名湖の北側の小国(静岡県浜松市井伊谷)である。
最初、この遠江の井伊谷の領地は今川家が攻めてきて支配して、次に徳川家康に攻められ、北からは武田軍が攻めてきた。交通の要所であり、戦国武将の欲しい領土だった。
ちなみに井伊家とは幕末に安政の大獄をやって、桜田門外の変で水戸浪人に暗殺された井伊直弼大老は、井伊直虎・井伊直政の子孫である。井伊直弼は直政から十三代目の子孫。
次郎法師直虎の許嫁(いいなずけ・亀之丞・のちの井伊直親・なおちか)が帰郷する。
だが、麗は「亀が戻ってきたところでわしは出家の身じゃ。何もかわるまいに。」
亀之丞は馬で井伊谷の城に帰ってきた。
直虎が二十一歳のころである。弘治元(1555)年、直親は戻ってくる。
だが、直虎はすでに出家していて……
しかし、そこは先の見えるおなごである。その当時、尼になれば結婚も俗世にかえるのも不可能であった。だが、直虎は僧侶、つまり、男として次郎法師として出家し龍譚寺に行っていた。僧侶とて結婚することは出来ないが俗世に戻ることは出来る。
武田信玄も上杉謙信だって僧侶となり、俗世に戻っている。
亀之丞は馬で悠々と戻ってきた。
直虎の父へ平伏し、「井伊亀之丞、ただいま戻りました」と告げる。
「おおきうなったのう鶴丸!麗も。戻ったぞ、麗!わしが戻れたのも麗がいてこそだ!」
元服して亀之丞改め“井伊肥後守直親”となる。
「立派になった。立派になった」
直虎の父親・井伊直盛は目を細めた。
「これで井伊家も安泰じゃあ」数少ない家臣達が喜んだ。酒席である。
だが、しかし、もはや出家した直虎の出る幕はない。
ちなみにのちの井伊直政の命をすくったのは井伊家家臣・新野左馬助、である。
おとわの還俗はいつになるやら。龍譚寺の南谿和尚はとんちを披露する。次郎法師に言う。
「昔、趙と言う国の道威という王がふたりの大臣のうちひとりをやめさせることになった。王はふたりの大臣、中と伯に饅頭(まんじゅう)を二個ずつ与えた。中は一つを食べ、もうひとつを飢えた子供に与えた。伯は一つを食べ、もうひとつはながらくもっていてカビさせてしまった。さて、王はどちらを大臣として雇った?」
次郎法師は自信ありげに「中でしょう!饅頭をカビさせてはいみがない!」
南谿和尚はにやにや嗤っている。
「え?……違うのですか?」
「よおっく、考えてもみよ。次郎法師」南谿和尚は笑顔のままだ。
直親は次郎法師・おとわを死んだことにして別人として妻に迎えるという策をだした。
だが、次郎法師はその策にのらなかった。
そこで饅頭とは志である、と知る。
「われは死なない。われは一個の饅頭なのだ。饅頭をひとつ食べれば腹が減ったのをしのげる。しかし、二個食べてしまえばもしも本当に困ったときに食べられない。われはカビた饅頭になる。カビた饅頭となって井伊家を守る!」
その決意をきいた直親はしのという女性と結婚することになる。
「すまない、麗・おとわ。じゃが、仕方ないことなんだ。」
 直親はうしろから直虎を抱擁するが、………涙をぬぐってから、次郎法師井伊直虎は振りほどいた。
「何がじゃ?」
「わしは命を狙われて隠遁生活じゃった。その頃にいつもわしを気遣ってくれたのが今の妻・しの、なんだ」
「煩悩に負けたからじゃろう?!亀!見損なったぞ!」
「それもある。それについては……すまん、麗・おとわ。すまん。すまん。」
「………もはや、われは麗・おとわではない。次郎法師じゃ。」
「そうであったな。次郎法師さま。井伊家のおんな城主井伊直虎さま。」
「これ。ふざけるでない。」
 ふたりは笑った。
井伊直親は曾祖父の井伊直平の隠れ棚田に感嘆する。「これは…見事な…」
「これが井伊家の砦じゃ」直平は隠れ棚田・川名(かわな)を自慢する。
直親は筆頭家老の小野政次にこの棚田を検地の範囲から外してくれ、と頼む。
「おとわのためにともに井伊谷を守ろう!」
政次は「俺はおまえのそういうところが嫌いなのじゃ」子供の頃の嘘偽りない表情だった。
瀬名(のちの築山殿)は三河からの人質・松平元信(のちの元康・徳川家康)と結婚させられた。姉さん女房であった。“三河のぼんやり”家康は陰で馬鹿にされていた。
直親としのが結婚して丸四年。さっぱり子供が出来なかった。
しのはあらゆる薬草を飲み、食べ物を食べた。子供が欲しい!欲しい!
次郎法師も昊天に妊娠するによい薬草をきくが高額で一禅僧に買える額ではない。そこで次郎法師は亀之丞の亡き父親に買ってもらっていた笛と対の鼓を小野家の政次に見せた。
「何で俺が次郎法師の鼓を買って、高価な薬草を手に入れてしのに渡さねばならなんだ?」
「父上や母上に知られたくはないからじゃ。鶴。いや、政次殿、頼む。」
だが、薬草をしのは断った。受け取らなかった。
しのが妊娠する前は次郎法師としのとの関係はいまでゆう元カノと今カノの戦いでバチバチしていた。「次郎さまはしのに子供が出来なければよいと思うてらっしやるのでしょう?!」
「何を馬鹿なことをいうのじゃ!それでも井伊家の惣領の嫁か!!」
あるときはしのは懐剣をもって脅迫した。次郎法師は「殺したいならころすがいい!」
やがて織田信長の命令で徳川家康は瀬名(築山殿)と子供(竹千代と亀姫)らを殺した。
直虎の父親・直盛は今川家に従って織田攻めに加わった。「これから今川義元さまにしたがい、織田を成敗することとなった!」「えいえいおーっ!えいえいおーっ!」
今川軍は二万五千、織田勢は三千人……まさか誰も今川がやぶれるとは思わない。
井伊直親も参戦しようとしたが、井伊直盛にとめられた。「お主は御曹司じゃ!井伊谷に残ってくれ!」「しかし!わしも刀や槍の稽古を積んできました!」「残ってくれ!」
だが、奇跡の桶狭間合戦が起こる。今川義元は織田信長に討ち取られ、直盛らも戦死する。
直虎の父が桶狭間合戦で死に、直親らもやがて今川家臣に斬り殺された。
しんしんと雪が降る中、血だらけで雪原で横たわった直親は、
「……井伊谷は何処じゃ……おとわ………鶴…無念じゃ。」血を吐いて死んだ。
悲しみに暮れる井伊谷の井伊家……次郎法師は念仏を唱えながら号泣する。
直親の遺体に触ろうとした次郎法師にしのは涙ながらに怒鳴った。
「さわるでない!われの夫じゃ!」
しのは妊娠し、出産していた。直親の嫡男・虎松(のちの井伊直政)である。
龍譚寺の井戸では奇跡が起こっていた。枯れた井戸だったが、みずがわきあがってきたのだ。だが、井伊直虎・次郎法師は不吉な予感を感じて、念仏を唱える。
小野政次がしのの父親を殺して討ち死にするに至って、次郎法師は決意する。
先だって唯一の成人男性の曾祖父の井伊直平さまも病死(毒殺の疑いも)した。もはやおんなしか残っておらぬ。残されたのは赤ん坊の虎松(のちの直政)だけ………
直親の遺体が届くと、直虎は決心する。井伊家は亀之丞の息子(のちの井伊直政)がおおきくなるまでわたしが守る!!おなごなれど“おんな城主井伊直虎”として生きよう!井伊家はわれが守る!
ちなみに直親の妻しのは恋しい直親と仲の良い元・許嫁の直虎に嫉妬して、理不尽な物言いもしたらしい。どこの時代でもある愛憎劇である。
元・いいなずけの井伊直親が暗殺されたとき、息子の虎松(のちの井伊直政)はわずかに二歳の赤子……これでは惣領は勤まらない。そこで次郎法師が“直虎”と男装し男のなりで惣領となった。ここでおんな城主井伊直虎が誕生する。
「わたしが…このおなごの身のわたし…次郎法師、井伊直虎がこの井伊谷の当主となる!必ずや井伊家を再興し必ず井伊家を家族をもりたてる!必ず時代を歴史をかえるほどに精進する!この井伊直虎がおんな城主である!わかったか!」
直虎は赤備えの馬の上で覚悟を決めた。
「いざ!井伊直虎まかり通る!われこそが井伊直虎である!」
 それは“おんな城主井伊直虎”の誕生だった。
井伊直虎は次郎法師が独創した男装の大名の名前であった。
「井伊次郎法師・井伊直虎、ただいま井伊谷(いいのや)に帰って参りました」
「おお、麗・おとわ。いや、おんな城主井伊直虎さまじゃな。」
尼姿の直虎を母の祐椿尼や家臣団は迎えた。「万歳-!万歳-!」
赤備えの馬で男装して赤い着物で馬で行軍する。赤備えの兵、僧兵もいる。
まさに“おんな謙信”の如き、である。
直虎は領民思いの優しいおんな城主だった。凱旋行軍である。
農民が領土を巡って対立して裁いてもらおうと直虎の元に訪れると「個人の田畑ではなく、村で共有する田畑ではどうか?」と名裁き。井伊家の家系が苦しいとき領地の商人から銭を借りた。利息はあっても年貢までの辛抱である。領民から里芋などを贈られると酒宴を開いて直虎自身が酌をしたりもしたという。まるで名君・上杉鷹山公の如きおんな城主だ。
気配りの女性であり、人情味あふれるおんな城主直虎、である。
今川義元が御屋形さまで、義元の息子が今川氏真(うじざね)、義元の母親が寿桂尼(じゅけいに)であり、今川家には三河の松平家からの人質がいた。これが松平元康、つまりのちの徳川家康である。少年の人質・家康は今川家のおんな瀬名・のちの築山殿を正室にむかえる。悪女であり、妖艶な美形の女性である。能で般若の面で家康を恫喝する。
小心者の徳川家康はそんな姉さん女房の尻に敷かれることになる。
ちなみの小野政次の父親は井伊家筆頭家老だったが、「こいつ邪魔だなあ」と思われていた。
井伊直虎は男装だけではなく男性の戦国大名がつかった花押(かおう・いわゆる書状のサイン)もつかった。だが、遠江の領地を狙う今川義元は謀略をしかけてくる。
まずは徳政令を出して遠江の領地を大混乱にして奪おうと考えた。
だが、おんな城主井伊直虎は時間稼ぎをして結局、領民や商人や百姓の身を守った。
商人などに徳政令免除書を発行したのである。
しかし、そんな井伊家もやがて今川家に城も領地も奪われる。
大河ドラマでは井伊直親の隠し子である高瀬なる娘が武田領より伊井谷にやってきた。
本当の直親の忘れ形見であるという。そして、盗賊集団・竜雲党との因縁……
直虎と瀬戸方久らは浜名湖の南の商人の町・気賀(きが)へ。物見遊山の直虎たちであったが、ひとりの少年が直虎にぶつかってきた。「……ん?銭袋がない。こらー!かえせー!」
盗人の少年を猪突猛進に追いかける直虎。しかし、逆に盗賊集団・竜雲党に拉致監禁される。直虎は「縄をほどけ!わしは井伊家の頭領の井伊直虎じゃ!このままならそちらを死刑にするぞ!」とわめき散らす。そこに現れたのが竜雲党の頭である竜雲丸だった。
「そなた……あのときの?!」「あのときの尼殿さまじゃねえか。」「そなたらは泥棒を生業にしていたのか……」「泥棒?……おれからすれば大名のほうがよっぽど泥棒じゃねえか。泥棒も泥棒、大泥棒でさあ。」「大名のどこが泥棒なのだ?」「ガキでもわかる理屈でさあ。大名は百姓から年貢をとる。これは泥棒じゃないか」「しかし、井伊家の領土で取れたコメを年貢として取り立てているだけじゃ。領地が井伊家のものだから当たり前であろう?」
「それが泥棒の始まりでさあ。では、何故にここからここまでが俺らの土地じゃ、と決められる?搾取も許される???」「それは……その昔に井伊家が朝廷や天子さまより領土を頂いたからだ」「どうも……話が通じねえなあ」
やがて、人質から解放された直虎は思う。「確かに大名は泥棒かも知れん。ならば泥棒として奪うだけじゃない世をつくるぞ!」
竜雲党を井伊家の領土の木こりとして取り分を七分三分で話をつける直虎。「何で俺らに??」「そなたたちには技能がある。生かさぬ手はない!!もったいない。のう?!!」
こうして竜雲党は悶着や騒動を起こしながらも井伊家の直虎の家来、傭兵部隊へとなる。
「その木の切り方は違いやす。こうでさあ。」竜雲丸は直虎の手をとって教えるが、直虎は頬を赤くして心臓をばくばく高鳴らさせる。古かろうがもう乙女でなかろうが、中身は女の子なのである。直之は「あれは何処ぞかで見た顔の男!ああ!盗人の男ではないですか!!」と反発するが、「過ぎたことはよかろう」と直虎にいなされる。
寿桂尼も年を取り、腰の曲がった老婆になる。それでも斜陽著しい今川家を守る為に策を弄していた。駿府の今川屋敷に直虎をよぶ。寿桂尼は直虎に直親のことをきくが、直虎は「世の中は綺麗事だけではやっていけません。確かに恨みはあるでしょうがこれも戦国の常」という。寿桂尼は、孫の氏真に「直虎はわれがいつも政をするときに自分にいいきかせていることをいった。井伊家の城主は今川をたすけない」と、遺言して死ぬ。
また、直虎の乳母だったたけが病気になり、倒れたときは直虎は馬でたけを彼女のふるさとまで送り、看取った。たけの代わりにたけの外見そっくりの姪・梅があらたに直虎の侍女となる。去る者があればあらたにおとずれるものもあるである。
次第に織田や松平(徳川)や武田の脅威が迫る。武田信玄対徳川家康……武田信玄の死……織田対武田の長篠の戦い……武田今川の滅亡と、井伊谷の敗北と流浪の日々へ………
武田が今川との同盟の契りをやぶったのは織田信長による策略であったとも。武田は今川を捨て、尾張の織田家と庇護配下の三河の松平(徳川)家康と同盟を結べば西の憂いもなくなる。駿河を狙う松平(徳川)にも、南の海が欲しい武田にも大事な策であった。
だが、織田はその密約を反故にして武田や今川を駆逐する………
没落した時代に、今川義元が桶狭間で討ち死にし、武田家や徳川家の侵攻で今川氏真の今川家は滅びる。駿河や遠江の領地・井伊谷をあらたに支配したのは徳川家康だった。
井伊直虎と義理の息子・虎松(のちの井伊直政)は龍譚寺に身を寄せるしかない。
そんな中おこったのが長篠の戦いである。
尾張の新興勢力である織田信長軍に今川は滅亡させられ武田信玄は病死、武田軍御曹司武田勝頼は討ち取られた。
そして駿河の今川家も甲斐信濃の武田家も滅んだ。
直虎の母親の千賀(祐椿尼)は井伊家の山城で壁に向かって号泣した。旦那の井伊直盛が桶狭間の戦いで戦死したときだ。……もはや井伊家に男子はいない。…おわった…
それは絶望だった。しかし、龍譚寺から次郎法師が帰ってきた。
「母上!心配めされるな!この次郎法師が井伊直虎としてこの井伊家を継ぎまする!」
「次郎法師…」尼になった母親は涙を流した。「よう帰った。よう帰った!」
徳政令を出す迄に地元の成金商人・大河ドラマでは瀬戸方久を家臣として、領地を与え、村への徳政令(商人に百姓の借金を棒引きにする命令)を年貢によってなしにするという直虎のアイディアだった。しかし、農民らは伊井谷を乗り越えて、直接、今川氏真に徳政令を要求した。直虎は村の集団に瀬戸方久を人質にとられ、「徳政令を出さねば方久の命はない」と恫喝。しかし、直虎は農村の稲を僧侶たちとともに植え始める。「そんなことをしてもおらだらはほだされないぞ!」しかし、直虎は「確かにお主らの村は瀬戸方久の所領とした。しかし、井伊家の借金のためではないぞ。方久が村の領主となれば年貢が入る。これでそなたたちの借金は年貢で払われる」「徳政令のほうがいいだで!」「目先のことばかり考えるではない!確かに徳政令をだせばお主らの村の借金はなくなる。だが、今後、また借金ができたら?凶作にまたなったらどうする?確かに方久は強欲じゃ。なれど自らの所領となれば銭を得たくてお主らのいいように銭をうむ妙案も考え、お主らを大事に扱おうぞ。今の井伊家には銭も人材もいない。今は方久のような裸一貫から豪商になりあがったような人材が大事なのじゃ!勿論百姓のお主らもじゃ!われを信じてくれぬか!!?」「………初めから……そういってくれれば。」「んだんだ。」「田植えじゃ。田植えじゃ。」
二度も太守である今川家の命に背いたことで直虎は呼び出しをくらう。「おなごじゃからとおおめにみてはくれないですかのう?」南溪和尚は「無理だろうのう。向こうの実質的な太守もおなご(寿桂尼)じゃからのう。おなごじゃからと馬鹿にすることもないかわりにおなごじゃからとおおめにもみてもくれないじゃろう」
こうして直虎は駿河の今川屋敷に召喚される。道中、今川からの刺客たちが直虎の命を狙うが、傑山・昊天ら僧兵に命を守られる。直虎は「お主はどうやって領土を豊かにする?」という寿桂尼の問いに「民を潤しまする。大名や武家は、百姓の年貢あっての家禄でござりますれば、国が潤えば民百姓も豊かに暮らせまする」「……なるほど。さすがは出家上がりに直虎なる男名を名乗り井伊谷を治めるおんな城主じゃ。このおんな大名寿桂尼、感心した。井伊谷の領主は直虎…そちじゃ!」こうして、井伊直虎は牛歩戦術で時間をかせぎ2年半後、徳政令を出す。瀬戸方久は領地で綿毛の栽培のアイディアまで出したという。今川家が滅んだのはその半年後の永禄十三年(1569)である。徳川家康と武田家が密約を結び、井伊谷三人衆(鈴木重時しげとき・近藤康用やすもち・菅沼忠久すがぬま・ただひさ)の手引きで徳川が遠江から武田が駿河から侵攻して今川家を滅亡させたのだ。
この後、盗賊、竜雲丸たちと直虎は出会い、ひと悶着があり、井伊家・井伊谷を守る。
さて、武田信玄につくか?それとも徳川家康(松平元康)につくべきか?
そこで井伊直虎は亡き元・いいなずけの井伊直親の“徳川びいき”を思い出す。
「ここは徳川さまに義理の息子を仕官させるしかない。井伊家の未来はこの小童に託されている。見ていてくだされ、直親さま。」
まず、井伊直虎は、三河(愛知県 新城市)の鳳来寺(ほうらいじ)で学問好きの家康に好かれようと、幼い虎松(のちの井伊直政)に学問をしこんだ。また未亡人となっていた直親の元・妻しのを徳川家の重臣の松下源太郎と再婚させた。
政略結婚である。直虎は義理の息子を家康に仕官させようと就職活動に知恵をねった。
井伊直虎は自ら鮮やかな小袖を縫って十五歳の直政に着せて、鷹狩りの徳川家康と対面させて仕官させた。天正3(1575)年2月15日のことである。
「家康さま。ある尼と若い者があいたいと申して参上していまする」
普通は大大名の徳川家康にあえる筈はない。だが、直虎は家康の鷹狩りの日を調べて参上したのだった。徳川の幔幕の中の徳川家康は「誰じゃ?まあ、こんな遠くの山中だ。逢おう」家康は尼姿の直虎と立派な裃烏帽子直垂すがたの直政にあった。
「実は虎松(のちの井伊直政)は松下源太郎さまの実子ではなく、本当の父親は井伊家の井伊直親というわれの元・許嫁であり、直親も徳川さまに仕官したいと希望していました」
「…ほう。」
「しかし、暗殺され井伊家は没落いたしました。われらは徳川さまに頼るしかない!」
直政も「家康さま!禄は少なくてもかまいません!何でもやりますのでどうか家臣にしてくだされ!お願い申します!」
家康は井伊直政をただならぬ者と感じた。(「徳川実記」より)
「わかった!これよりこの徳川家康の、わしのそばにおれ!」
「ありがたき幸せ!」
喜び合う直虎と直政。……これで井伊家も安泰じゃあ。その後、井伊直政は“井伊の赤鬼”と恐れられていく。大出世をするのだ!のちに彦根藩三十五万石、五人もの幕府大老を出すにいたる。徳川幕府の屋台骨であり、徳川四天王のひとりである。
徳川家康は直政の力量をわかり、家臣に取り立てた。
そこからが鯉もかくあらんという大出世を井伊直政はする。
家康の暗殺を未遂におわらせ、本能寺の変(天正10(1582)年6月2日)で織田信長が死ぬと、近くにいた徳川家康をすくう。
いわゆる伊賀(三重県)超えで、徳川家康を三河の城まで守った。
そこで、井伊家は近江の彦根に領地をあらたに与えられ、直政は武功により“孔雀尾具足陣羽織(くじゃくおぐそくじんばおり)”を与えられた。
井伊直虎が死ぬのはこの伊賀超えの三ヶ月後、享年四十七歳、であった。
井伊家の繁栄を確証したかのような死、であった。
墓は元いいなずけの井伊直親のとなり、であった。そこで彼女は永遠の眠りに、ついている。

***

前田利家とまつ 戦国の偉大なるナンバー2<巨魁妄動戦国時代編>連載小説2

2017年06月04日 11時24分31秒 | 日記































  昼間の河辺で、どじょうを泥から取って、鍋で食べていた利家に、まつの乳母うめが声をかけた。うめは幼い孤児のまつをつれて、諸国を行脚し、仕官の道を探しているところだった。まつはずんぐりとした体躯であり、服は行脚のためか汚れていた。
「そのどじょうを……少しわけてはくださりませぬか?」うめは頭をさげた。
「あん?」利家は”なんじゃい?”という顔をしたが、やがてにやりとして「いいとも」といった。「食べい、食べい」
 まつは頭を深々とさげ、「ありがたいことです」といった。そして続けた。「昨夜から何も食べておりません。ありがたいことです」
 養女のまつは利家の白い歌舞伎顔を見て「こわい」と泣きそうになった。
「あ! これはすまんすまん!」利家は川の水で化粧を落とした。
「どうだ? これで怖くなかろう?」
「はい!」まつはにやりと笑った。
「あんたさまは侍かね?」乳母のうめが利家にきいた。
「只の田舎城主の息子だ。まぁ、いずれは大きな城持ち大名になってみせる。城持ち大名よ」と壮大な夢を語った。利家は泥だらけ垢だらけで、夢を語った。
 うめは笑わなかった。冗談ではなく本気だとわかったからだ。
「城持ち大名? それはいいですわ」
「人間はのう…」利家は言葉を切った。どじょうをほうばった。
「人間というものは努力と知恵と幸運でどんなものにもなれるのよ。ちがうか?」
「………その通りかも…しれませぬなぁ」
 うめは感心し、静かに頷いた。この男はただものじゃない。彼女は、利家の中のなにかを発見した。ただのハッタリ男ではない。光るものがある。
 この男は……ただものじゃない。
「わたしはうめと申します。こちらの子はまつ」
「わしは犬千代(利家)。前田犬千代……しかし、皆はわしのことを、イヌ、イヌ、と嘲笑する。へん! ってんだ」
 利家は無理に笑った。その顔はイヌそのものであった。
「それは?」うめは利家のもつものに目をとめ、「それは鉄砲かえ?」といった。興味津々であった。うめは目をぎらぎらさせた。
「さよう。南蛮鉄砲……種子島だ」利家は包み袋を開け、中の鉄砲を取り出してみせた。「これからは、鉄砲の時代になるぞ、なぁ? まつ」
「さようでござるか」
 うめは大きく頷き、黄色い歯を見せてほわっと笑った。





         立志


  犬千代(利家)は実家にもどった。
 利家の実家は茅葺き屋根の粗末な木造の荒子城で、大変汚いところだ。百姓だか、武門だか、よくわからない。さらに悪いことには狭い。家には父・利昌がいた。このずんぐりとした中年男と利家は仲が良い。
 利家は粥をがつがつ食べた。
「たつ、水、水」利昌が当然のようにいった。
「はい、ただいま」たつが桶の水を汲もうとすると、利家は「水くらい自分でつがんかい」といった。それは反抗期の顔だった。
「犬千代。信長さまの家臣になったからっていい気になりおって」
 利昌がいうと、利家は「何もいい気になどなっておらん。わしの夢はもっと大きいぞ」と夢を語った。
「どんな夢じゃ?」長男・利久が不思議そうな顔できいた。この利久が再婚してつねという女房を得て、そのつねの連れ子がのちの前田慶次郎、である。
「城持ち大名よ! 大名さまよ! 百万石よ!」
 利家は目をぎらぎらさせていった。にやりとした。すると一同は大爆笑して、利家を嘲笑した。「馬鹿だねぇ」「百万石の城持ち大名?! あははは」
 利家は「笑うな! 城持ち大名になるのじゃ! わしは!」と激しく怒った。しかし、一同はにやにや笑うだけだった。……百万石の城持ち大名?! あははは。馬鹿なことを。


  幼女・まつは荒子城にいくため、午後の田んぼ道を歩いた。誰もいなかったが、乳母のうめだけは付き添いで連れ添って歩いていた。
 うめは「いいか? まつ。世の中コツコツ努力して仕事したものが勝つんじゃぞ」と諭した。まつは「はい!」といった。
「あの前田犬千代さまは必ず大きな城持ち大名になる!」
 うめは笑った。そして「もしかしたら、おみゃあは本当に大名の奥方になれるかもしれん」
「……大名?」まつは真剣な顔になって尋ねた。ふたりは足をとめた。
「おうとも」うめはにやにやした。まつもにやにやして「わたしは必ず城持ち大名の奥方になる!」と強くいった。
「そして……」まつは続けた。「そして…天下人の奥方に!」
「天下人の奥方?! 馬鹿じゃねぇおみゃあは」
 ふたりは笑った。

前田利家は通称・又左衛門。槍が得意で「槍の又左」ともよばれた。
 いわゆる「かぶき者」で「かぶき者」とは「傾く(かぶく)」からきている。または「ばさら者」ともいわれた。「ばさら(婆娑羅)」とは「仏教の教に背く者」という言葉からきている。まあ、現代の「ヤンキー」みたいな存在である。つまり「不良」だ。

         2 桶狭間合戦




         今川義元


 戦国時代の二大奇跡がある。ひとは中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦、もうひとつが織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。
 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。
  斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長は弟・信行を謀殺した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。
 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。
 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。
「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。
「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。
「は?」
「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。
 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。
 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。
 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのよい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。
 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。
 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。
 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。
「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたす」義元はいった。
 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。
 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。信長の勝つ確率は極めて低い。
  今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。
  特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。
 今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。
 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしてもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。しかし当の松平元康(のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。
 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。
 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。
 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。なにを夢ごとを。家臣たちは訝しがった。


         元康の忠義


 この時期、利家は拾阿弥という坊主を斬り殺している。拾阿弥が利家の妻・まつの”こうがい”を盗み、悪態をつき、利家を嘲笑し、唾を吐きかけたからだ。利家は信長の面前で拾阿弥を斬り殺し、刀を鞘におさめ、「ご処分を!」と信長にいった。
 信長は烈火のごとく怒り「犬! 斬ったな!」と吠えた。「切腹いたせ!」
「なぜひとを?」まつは利家に必死に尋ねた。
 利家は「ほめてくれると思うたのに!」と不満をもらした。
 まつは「命ですよ…。ひとの命より”こうがい”が大事なのですか?!」と問うた。
 利家は押し黙った。まったくその通りだった。ぐさっ! ときた。
 しかし、柴田勝家が必死に利家の命乞いをし、まつが信長に直談判したため、利家は切腹をまぬがれた。が、浪人となり、ぼろぼろの庵での生活がはじまった。
 秀吉はよくその庵を訪れ、薪を運んでくれた。「寧々殿!」秀吉は寧々に夢中だった。しかし、寧々はまつに会いにきただけで、秀吉などに目もくれなかった。「サル!」寧々は不快感を露にしたという。

  松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。
 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。
 今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。今川義元は軍議をひらいた。
「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。
 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」
 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。
 柴田勝家は「そうか……とは? …御屋形! 何か策は?」と口をはさんだ。
 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。宮福太夫という猿楽師に、羅生門を舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。
「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」
 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。
 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。
「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。
「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」
「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」
「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。
「なんて御屋形だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」
「まったくあきれる。あれでも大将か?」
 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」
  信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。
「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」
「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」
「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」
 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。
「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の秀吉はいった。のちの豊臣秀吉、秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」
「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」
 日吉は迷ってから「奇襲にでればと」
「奇襲?」信長は茫然とした。
「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」
「さしでがましいわ!」信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。
「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。
 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。
「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。
「なんじゃ、猿」
「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」
「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」
「八百あまり」
「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。
「いま何刻じや?」
「うしみつ(午前2時)でごさりまする」猿はいった。
「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」
かれは武装すると、側近に出陣を命じた。そして有名な「敦盛」を舞い始める。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべか」 舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。
「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。わずかに長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎の五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。
 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。
「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」
 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。
 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。
 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。
 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」
 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。
「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。
 信長は叫んだ。
「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」
 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。
「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」
 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせ、にやりとした。
「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形である」と感心した。
 織田軍は密かに進軍を開始した。