緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

小林麻央のテレビ出演インタビュー全文!1月9日放送【市川海老蔵に、ござりまする。】

2017年06月27日 16時38分28秒 | 日記






























小林麻央のテレビ出演インタビュー全文!1月9日放送【市川海老蔵に、ござりまする。】



小林麻央(こばやしまお)さんが、2017年1月9日に放送されたテレビ番組「市川海老蔵に、ござりまする。」にて、インタビューに応えてくれた姿がVTRで放送されました。
もう随分長い期間テレビ出演をしていないという事で話題性十分な上に、思ったよりも元気なお顔にホッとしたものです。

実際の収録は1月4日に行われたもので、ウィッグを着けてお顔の血色も非常に良い姿でカメラの前現れた麻央さんが、終始笑顔で思いを語ってくれたインタビュー内容全文を紹介致します。




小林麻央のインタビュー全文

闘病してから1年以上過ぎた時に、私の母と主人と私が話している時に、もう1年以上もこんな迷惑をかけてこれ以上迷惑をかけられないという事を言った事があったんですね。

そしたら主人が
「1年が何だよ。ずっとなんだよ。」
と言ったんですね。

"
麻央のお母さんはずっとお母さんで、俺はずっと麻央の夫で、皆家族なんだよ。
1年が何だよ。
ずっと支えあうんだよ。
"
と言ってくれて、その言葉が凄く嬉しかったですね。




市川海老蔵について語る

次いで
「役者・市川海老蔵という存在について、どのような気持ちでご覧になっていますか?」
という質問には、下記のように語ったのです。

父(十二代目 市川 團十郎)が亡くなってから主人を見ていて、凄く孤独だなと感じる事が多かったんですね。

それはその家族の愛とか埋められる孤独ではなくて、歌舞伎の家に生まれて歌舞伎役者として生きていく上での孤独というのを凄く感じる事が多くなって。
父が亡くなってからの主人というのはそういうものを見せるわけではなく、明るくて前向きで常にポジティブな姿ではあるんですけど、そういう中に主人の孤独を凄く感じる事が多くなっていたんです。

私が病気になって私自身も誰かに話したりとか誰かと共有し切れない苦しみとか悲しみ、どうしようも無い思いというのを私なりに経験した中で、今2年経って主人が以前に言っていた時には理解できなかった考え方とか、そういうものを少し理解できるというか、想像できるようになってきた部分が不思議とあります。
私が病気をして得たものの一つかなと思っています。

そう思うと病気をする前よりもちょっと良いパートナーに(なれたかも)。
もし私がこの病気という試練を乗り越えられた時に、病気をする前よりもちょっと良いパートナーになれるんじゃないかな。

(ここで麻央さんの目からは涙が溢れ出します。ティッシュで拭った後は再度笑顔になり)

なので、役者・市川海老蔵をパートナーとして支えられるチャンスを神様くださいといつも思うんですね。

主人はいつも俯瞰して物事を見るという事を教えてくれれるので、今(がんで)痛いのは事実だけど、もっと世界を広げて観なければいけないというのを思い出させてくれるので、(がんと)闘っていく中で心の前向きな持ちようを主人には教えてもらっていますね。

私が持っているものさしとは違うものさしでの物事の見方を教えてくれるというか、見せてくれるというか。

だから病気になる前には
「何わけ分からない事言っちゃって。」
という事が結構あったのですけど、病気になってからは本当に有難いって。

主人と結婚したからこそ、今私こうやって生きてられるなと思います。
そうじゃなかったら心が死んじゃってたかもしれない。

だから凄く感謝してます。





田中角栄 闇の将軍角栄<コンピュータ付きブルドーザーロッキード事件から40年>小説3

2017年06月25日 06時42分43秒 | 日記




























角栄逮捕という謎に迫る資料を基にしたドキュメントである。

“あの事件は日本にはびこる闇のほんの端っこに過ぎない。ただ、あれ以上は触れられない”(元・特捜検事)

 1974年2月5日未明。NHK報道部社会部に一通のテレックス(Fax)が届く。ガガガッ…当然英文。その内容に社会部のデスクの男は驚愕して用紙を取り出すと、部屋で寝ていた伊達記者を叩き起こした。
「大変だ!とんでもないことだ!早く起きろ、寝ている場合じゃないぞ!」
「……なん…すか。何か…事件…ですか??」
「米国の公聴会でロッキード社のコーチャン副会長兼社長が…日本の政治家や政府高官などに大金の賄賂金を流したと認めた!」
「……え??まさか!」
もはや蜂の巣をつついたような状態にまでなる。まさに寝耳に水。
「賄賂金???5億円?2億円?児玉ルート?21億円?」
まさに大騒動である。
早朝の新聞朝刊の一面はもちろん“ロッキード事件”である。
検察の鬼・吉永祐介は自宅で朝食を取っていた。「おい、新聞!」
朝刊新聞の第一次情報で“丸紅・児玉へ資金か?”との見出し。
「おいおい。あの児玉誉士夫かよ。」
吉永祐介は眼鏡を落としそうになった。
当然、ご飯にみそ汁の質素な朝食である。
児玉誉士夫(こだま・よしお)…政財界の黒幕・戦後最大のフィクサー・国士…戦後の黒幕として何度も名が挙がりながら一度として逮捕されたことがないフィクサー。大黒幕。首領(ドン)。アンタッチャブルな存在…
児玉誉士夫の外見はまるでブルドッグのような坊主頭の老人である。NHKのドキュメントドラマでは俳優の刈谷俊介さんが演じていたが、どちらかと言えば元・ボクサーでタレントのガッツ石松さんみたいだ。もう高齢で病床にあった。
吉永祐介は傘を差し、東京地検検察庁に入庁した。
すぐにマスコミがスクラムを組み、「吉永さん!ロッキード事件では検察はどう動くんですか?」と聴くが吉永祐介は答えず、無言で、扉を閉めた。
「…糞っ!」マスコミは扉を叩く。
…これはおおきな事件になる……もう後戻りはできないぞ。
吉永祐介は覚悟を決めていた。
水面下で捜査をすすめていた検察。そのターゲットは田中角栄ではなくロッキード社の秘密交渉人を務めていた児玉誉士夫であった。
アメリカから明らかにされた賄賂のルートは3つ。まずは総合商社・丸紅の「丸紅ルート、5億円」(田中角栄に流れたとされた)、直接ロッキード社から旅客機トライスターを購入した全日空の「全日空ルート、2億円」(日本の政府高官にも渡ったとされる)、今でも未解決なのが黒幕・戦後最大のフィクサー児玉誉士夫からの「児玉ルート、21億円」である。
今でこそそれだけ?という額だが、40年前ということを考えると×10倍くらいの価格か?
吉永祐介は部下の水野に「児玉に関する極秘資料などをすべて集めてくれ」と命令した。
児玉誉士夫の東京の大豪邸にもマスコミがメディアスクラムで集まっていた。
何度もインターフォンを押して待ち構える。
執事なのか使用人なのかのよぼよぼ老人が玄関内扉を開けて、出てきて、
「児玉さんはおりますか?」
「いやあ。私どもも困っておりまして…児玉は今旅行中でして。連絡が取れないんですよ」
「旅行?どちらに??」
「いやあ。確か、伊豆……とか…。」
マスコミは蜘蛛の巣を散らすように去った。「伊豆だってよ!伊豆だ!」
また丸紅でも同じくメディアスクラムだった。
一連の報道で丸紅にも苦情の電話が殺到し、マスコミが蟻のように集まっていた。
「丸紅さんの意見をお願いします!」
「何かないんですか??あの資料の領収書のサインのヒロシ・イトウ…ってあんたんところの専務だろう?」
「すいません。弊社では現時点では判断しかねまして…明確なお答えができません」
「何だそりゃ?逃げんのか??!!」
「いやあ。そのようなことでは…」
商社マンの課長級の男はしどろもどろになる。
わかるわけもない。サインしたのは専務で、トップクラスの意向というか何だか知らないが上層部の意向であり、下っ端などにわかる訳もない。
だが、世論は児玉憎し、政府高官は誰だ??!!ともう集団ヒステリー状態である。
ロッキード社の書類に「I received ore horded peanuts.」(ピーナッツを100個受領した)という書類に「ヒロシ・イトウ」の署名が。また、ピーナッツではなくピーシーズという謎の文章もあった。「I have received 125(one handed twanty-five)pieces.」
丸紅本社会長室では社長の檜山社長や大久保利春専務らが伊藤博専務を責めていた。
「君はあんな領収書にサインしたのかね?まったく…」檜山は怪訝な顔で言った。
大久保は何か言おうとしたが、言わず、伊藤専務は頭を下げるのみである。
吉永祐介検事長ら検察はやはりターゲットを児玉誉士夫に絞っていた。
「今や日本では一年間に千件もの贈収賄がある。日本が腐ろうとしているのに検察が動かない訳にはいかない!これはまさに八年前のリベンジ(復讐)だ!」
八年前とはちょうど検察庁の人事が一掃され、自殺者まで出た、検察庁や東京地検特捜部の政治家や官僚による「骨抜き事件(いわゆる『日通事件』)」である。
政治家や官僚が60年安保で懲りて検察の力を骨抜きにしようとして自殺者までだしたのだ。
その中で吉永祐介検事や他の検事数人だけは踏ん張った。
マスコミは「検察は八年間も沈黙したままだ」と揶揄するし、検察庁も焦っていたことはいなめない。また、田中角栄逮捕はよくわからない。田原総一朗さんや石原慎太郎さんが言うように“検察の小説(吉永祐介サイドの?)”なのか?それとも軍用機P3C対潜哨戒機を巡る軍産複合体による私刑(死刑?)?なのか?
ベトナム戦争が終結してロッキード社が経営的にいきづまっていたのは確かだ。
よくわからないところは確かにある。だから、何度も「闇だ」「日本の闇だ」と書いている。
我々サイドでは到底田中角栄元・首相の贖罪など無理な話である。
とにかく、三木武夫・首相(当時)がそれを利用したことはわかっている。
児玉誉士夫や小佐野賢治や笹川良一らはCIAのエージェントでもあったから軍産複合体の利権でスケープゴート(いけにえの羊)にされたり、利権がらみの謀略の闇がある。
そこは誰にも触れられない。まさに闇、である。
結局、児玉誉士夫は黒幕として逮捕されるが、すでに主治医の喜多村がいうようにすでに死にかけ、であり、吉永祐介検事長の命令を受けた松田検事らががさ入れと寝たきりの児玉誉士夫の臨床尋問をした。
児玉は屋根裏の隠れ部屋で寝たきりで、出入りは隠し階段。
病状が悪化していたので屋根裏部屋の暗い部屋で児玉誉士夫はふとんで寝たきりだった。
かつて黒幕・戦後最大のフィクサーと恐れられた男は病床でおびえていた。
児玉誉士夫は“第一次FX(F104戦闘機を日本に輸入する秘密代理人として)”名前が挙がっていた。“国士”とも呼ばれた児玉が何故暗躍したのか?“日本の再軍備が悲願”の児玉側と“トライスターや軍用機を日本政府に売りつけたい”ロッキード社の意向が合致した。
児玉はお金に転んだ訳ではない??
「……児玉誉士夫さんですね?」
「………はい。」
「東京地検の松田という検事です。あなたに所得隠し脱税や外為法違反の疑いがかけられています」
「そ……そうですか。」
「ロッキード社のコーチャン副会長はご存知ですね?」
「……はい。」
「お金をもらいましたか?あなたに不利な証言ですから黙秘でもいいのですよ?」
「……もらいました」
「それは…税務処理しましたか?」
「…いいえ。もらった金は…税務申告していません。……不覚です。」
もう畳敷きの布団に寝たきりで、弱弱しい声で話す児玉…
そこにはかつての黒幕・戦後最大のフィクサーのカリスマはなかった。
「署名できますか?あなたに不利な脱税容疑の署名ですが。」
「はい。します。……検事さん。児玉誉士夫の“よしお”の漢字が…思い出せません…。」
「いいですよ。ひらがなでもカタカナでも。」
「…はい。」
児玉はすべてを吐いた訳ではなかった。
署名もして脱税と外為法違反では在宅起訴できたが、肝心の21億円やP3C対潜哨戒機の導入を巡る証拠はとっくに隠滅していた。
秘書が燃やしたと認めた。
書類もハンコもすべて燃やしたという。
脱税や外為で起訴するのが検察にはやっとだった。
その間に国民は怒り狂い、右翼の男がセスナ機で児玉邸に特攻攻撃をして死亡するなど不安定な捜査態勢ではあった。たまり(脱税などで不正に集めた金融資産)もなかったが、病床の児玉が秘書に数億円分の証券の束を見させて認めた。
それで勘弁してくれ、ということだろう。
そんな中、丸紅ルートの中で大物政治家・前首相(当時)の田中角栄の名前があがったのだ。当時の三木武夫首相は大規模な資金力と数を誇る田中派とは一線をかくす、弱小派閥の出身で、クリーンさ、だけが売りであり、国民もはんば呆れて見ていた。
三木は「必ずロッキード事件を解決する。政府高官の全員の名前も公表する」と息巻いた。
マスコミは「三木はクリーンさ、だけが売りだからな」「おいおい。こんなことまでいって大丈夫なのか???」呆れまくっていた。
検察でも堀田力(つとむ)検事らがアメリカに飛び交渉したが日本では当時“司法取引”は認められていなかった。アメリカで出た資料は日本ではつかえない。
かといって、アメリカで罪に問われることを日本でロッキード社のコーチャンなどが証言する筈がない。嘱託尋問、しかない。にしても資料が少ない。
日本の検事二人が秘匿でアメリカまで行って資料をもらったがすぐにマスコミにばれた。
この“L資料”にもどこにもP3Cのことがない。見事に抜け落ちていた。
「試されているのか?」
「…国家ぐるみのクイズか?謀略の臭いがする。“TANAKA”?田中角栄か?」
児玉の通訳の福田太郎は病死する。
また重要参考人も次々と謎の自殺や病死する。
またしても検察の極秘情報は漏れて、「田中角栄」の名前が新聞に踊る。
「くそ、だからいったんだ!」吉永祐介は新聞を見て怒った。「やはり漏れた」
田中角栄は堂々とマスコミや国民に「このロッキード事件はかならず解決されなければならない事件だと私は思うのであります!必ずこの田中角栄が真相をあばいて、必ずやこの田中角栄が無罪であると国民にお約束をする覚悟であります!」と約束する。
だが、国民もマスコミもすでに大騒ぎだった。
「政府高官を死刑にしろ!名前を全部出せ!」「ロッキード事件の真相を全部晒せ!」「田中角栄は豚箱いきにしろ!」
まさに蜂の巣をつついたような騒ぎであり、集団ヒステリー、ともいえた。
まさに最近の集団ヒステリー「脱原発デモ」「戦争法案廃止デモ(戦争法案ではなく安保法案なのだが(笑))」に似ていた。賄賂の請託(せいたく、賄賂の証拠・賄賂をもらったもの渡したものの証言証拠)が必要であったがなかった。
マスコミは現政権の司法長官が『指揮権発動(罪をうやむやにして無罪とする命令)』をすると見ていた。造船疑獄の時も指揮権発動で当時の佐藤栄作首相が無罪となっている。
田中角栄にも指揮権発動されて、無罪になる、そういうことであった。
そういうことではないのが逆に意外だったことだろう。
そのなかでの『田中角栄前首相逮捕』はまさに国民による私刑(死刑)だった。
田中角栄逮捕は丸紅ルートからである。大久保利春の偽証罪での逮捕で大久保が口を割り、続いて逮捕された伊藤博専務が逮捕され尋問された結果、大久保は逮捕された檜山廣・丸紅社長のお供として1972年8月23日に目白の田中角栄邸を訪れ、檜山と角栄との密談のために退席した大久保が田中角栄に“トライスターの請託金(裁判ではトライスターの請託金とされるが実は”P3Cの請託金”ではなかったか?)“何にせよまさに闇である。
1976年7月27日の田中角栄逮捕はまさに請託金を(角栄側は政治献金と主張している)受け取った、という疑惑である。
角栄の弁護士をつとめた外山興三弁護士はいう。
外山「初めから角栄憎し、ロッキード社憎し、のシナリオで進んでいた。検察側の言い分は矛盾であり“検察側の小説”で被告人(角栄本人)は逮捕され、冤罪で被害をこうむった」角栄の娘の田中真紀子は「被告人の冤罪は明らかでまさに名誉棄損であり、被告人(角栄)はまさに冤罪です」という。
ロッキード事件での裁判は18年間にも及び、逮捕された関係者は18人以上にも及んだ。
「私は無罪である!コーチャンなど名前も知らない。陰謀である」。当時、角栄は身の潔白を主張したが、そのあとは沈黙を貫いた。
“田中角栄前首相逮捕!”まさに衝撃だった。
「田中角栄前首相逮捕です!逮捕です!前首相、逮捕です!」
裁判は異例の視聴率をたたき出した。異例の前首相の逮捕…児玉誉士夫や小佐野賢治やら日本の黒幕の名前が加味して疑獄をいっそうと深い闇とした。
「我々のやっていることはドブさらいだ。ドブをさらった後に、綺麗な水を流すか汚い水を流すかはそれこそ国民やマスコミや政治家や官僚がやることだ。検察がやったら“検察ファッショ”になる」
吉永祐介検事は言った。その吉永祐介元・検事も2013年に死亡している。
「田中さん、事件の真相は?」
「うんん。………まあこのお。知らんよ。……」
田中角栄やコーチャン、小佐野賢治、児玉誉士夫、檜山廣丸紅元・会長ら主要容疑者が死亡し、福田太郎ら容疑者も次々に謎の死や自殺や病死を遂げている。
まさに“深い闇”で、ある。
そしてここからはロッキード事件40年目の真実、スクープに迫ろうではないか。
1976年7月27日田中角栄前首相逮捕。首相の犯罪が初めて裁かれたロッキード事件。5億円をうけとったとされた。空前の角栄ブーム。しかし、田中の最大の汚点となったロッキード事件の闇はとざされたままだ。追及したジャーナリスト立花隆も遂に謎に迫れなかった。
ロッキード賄賂金、丸紅ルート(5億円)、児玉誉士夫ルート(21億円)、全日空ルート(2億円)。
本当はP3C(軍用機)の現代までの1兆円(現在まで日本の輸入は100機以上)の利権ではなかったのか?
当時、児玉誉士夫の臨床尋問をした松田昇元・検事「犯罪となるものはなにもない。脱税のみ。P3Cの資料はなかった」
松尾邦弘元・検事「立証できなければ21億円どころか全日空、丸紅、田中角栄までたどりつけない」
 アメリカ合衆国ジョージア州、ここにロッキード・マーティン社がある。
取材で訪れた。日本の自衛隊機や民間航空機もつくる巨大企業だ。
40年前、P3C(対潜哨戒機)の疑惑が挙がった。P3Cや民間旅客機の日本への交渉を一手にひきうけていたのが社長のアーチボルド・C・コーチャン(A・C・KOTCHIAN)である。
ロサンゼルス地方検察所でも日本や世界のマスコミに「ノーコメント」を貫き、すでにこの世を去っていた。白髪の眼鏡のいかにもインテリそうな大丈夫な老人であった。
吉永祐介元・検事が保管していた600点にも及ぶ極秘資料が存在して読んだ。
その資料にコーチャンがP3Cに関して語っていたことが明らかになった。
P3Cは事件にならなかったので証言が世にでないままだった。
コーチャン「児玉誉士夫の役割はP3C導入を日本政府高官に働きかけることだった。(700万ドル・21億円)。日本の大臣はすぐにかわるので特定の人物と仲良くなっても駄目である。児玉は次の通産大臣(現・経済産業大臣)に誰がなるのか教えてくれた。児玉は私の国務省(日本でいう外務省)だった。」
ロッキード社はベトナム戦争終結で経営が悪化し、P3Cや旅客機の売り込みに社運をかけていた。P3Cとは対潜哨戒機のことであり当時の米ソ冷戦下ではソ連の潜水艦を空上で探査発見できる軍用機である。当時のソ連の潜水艦は潜水を一か月も続けられる最先端なレーダーに映りにくいものだった。P3C対潜哨戒機には最新のコンピュータが搭載され米国の軍事の要だった。売り込みの最大の相手は日本だった。
日本では対潜哨戒機の国産化をしようと研究し莫大な研究資金をつかっていたが頓挫した。
大蔵省(現・財務省)の役人に言わせれば「(国産化での研究開発費用は)金がかかりすぎる」ということだった。
児玉誉士夫の闇ルートを介してある男に話をきいた。日吉修二(81歳、日吉は2016年7月11日死去。最後の証言となった)である。日吉は児玉の闇ルートの会社の役員をしていた。これまでロッキード事件を話す事はなかった日吉。
日吉「児玉邸への神風特攻の児玉を見たね。緊張したよ、これが天下の児玉誉士夫か、ってね。何か事を起こすには資金(力)がないと駄目だね、って僕にいうのよ。段ボール5箱分の資料を焼却するように指示された。今に思えばあれがロッキード事件の極秘資料だったのかなあ?と思うね。英文のものもあったしね。」
福田太郎(児玉誉士夫の通訳・事件中に病死)「ロッキード事件で児玉の名前がでると。ロッキードの社長のコーチャンに「児玉に謝っておいてくれ」と、いわれました。児玉が「それは話が違うじゃないか!私に迷惑をかけないといっていたではないか!」と怒りまして私が先生は「しらなかった」といえばいいといいました。」21億円の金の流れは今も闇の中。
堀田力(つとむ、82歳・2016年時)「まだP3Cでいろいろあるはずだが、うまくお金をかすめとる手段はわかっているが深い闇には遂に辿り着けなかった。深い闇に一本の細い光を射しただけなのがロッキード事件。深い闇があって、それ以上はたどりつけなかった。国民としては闇を照らしてくれという期待を裏切り、その点はやはり悔しいというか申し訳ない、というか。」
40年間沈黙を守ってきた人物が取材に応じた。
丸紅元・航空機課長・坂篁一(さか・こういち 87歳・2016年時)。
大久保利春の直属の部下で、ロッキード事件のコーチャン社長と直接交渉をするキーマンだった。坂は事件当時の事件関係者でも知らなかったある内容を口にした。
坂は逮捕された大久保利春の直属の部下で、丸紅の交渉人であった。
坂「丸紅ルートの5億円を提案したのは自分だった。政治献金を出させましょう、と。(1972年8月→トライスター購入?→10月全日空トライスター民間旅客機購入)」
しかし、坂は意外なことを口にした。
坂「全日空がトライスターを購入するのはもう決まっていた。最大のマター(問題)は、P3Cに関すること。それに力を注ぎましょう、と。当時、日本で対潜哨戒機の国産化計画が進んでいて、国産では丸紅は一円も儲からない。P3C導入輸入なら丸紅の利権(口銭・こうせん・口利き料)も大きい」
コーチャン証言「丸紅の大久保は「もし大きな取引をしたいなら5億円は基準レート(価格)だ」といった。日本は最大のマーケットで丸紅からの今後の輸入がだめになるといわれると大変だった。P3Cの売り込みの関係もあり、支払わざる得ないと考えた」
田中角栄の元・側近で大臣も歴任した石井一(81歳2016年時)。
石井は独自の情報ルートでロッキード事件と田中角栄の金脈を探ったという。
石井「田中さんが金をもらったとは考えにくい。なにか巨大な圧力がかかり、田中角栄がスケープゴート(いけにえの羊)になったのではないか?P3Cが本筋だったんじゃないかなあ」
相澤秀之元・大蔵省主計局長(97歳・2016年時)は語る。
相澤「田中さんは事業をしていましたでしょう?だから、何かやるときに財源やお金が大事なのだってちゃんとわかっていましたね。僕たち官僚の中でも田中角栄にお金をもらったひとなんていっぱいいますよ。政治家もいっぱい大金をもらっていた。そういうお金の魔力を知っていたひとですよ。まさに天才です。」
 P3Cの国産化(日本の国産機日本製対潜哨戒機はPXLという)が始まったのは1971年(対潜哨戒機の国産化計画開発)。
「日本独自で国産でまかなうべき。戦後の米軍基地も見直し」とは当時の中曽根康弘防衛庁長官(現・防衛省)。国は国産化に10億1千万の予算をつけていた。しかし、突如、白紙撤回。米国のロッキード社のP3C対潜哨戒機の輸入へと政策がかわった。
国産化計画にたずさわった海自元・航空機装備開発担当の中島又雄(91歳・2016年時)。
中島「国産化をすすめて何億も使って、国産化ならいつでも部品やメンテナンスができると国産化を重視していてそのほうが安心安全だった。だが、アメリカ政府から圧力があったようだね。」
当時、ニクソン政権下の国防長官だったメルビン・レアードは電話での取材に応じた。
防衛庁長官だった当時の中曽根康弘に圧力をかけた、と認めた。
レアード「日本はカネを出してアメリカの経済が潤い、かつ当時のソ連を威嚇してほしかったのです。日本にP3Cを導入することが、アメリカが懐を傷めずに対ソ連戦略をするために必要だったのです。もちろん儲かるのはアメリカですが(笑)」
ソ連の最新の潜水艦はレーダーに映りづらく一か月も海の底に潜水できた。アメリカは日本の対潜哨戒機の国産化をやめさせ、P3C導入を迫ったのだ。
田中角栄を動かし、彼のプロフィールなどの情報を得てプロファイル(人物分析)した。
当時の政府高官「田中角栄はものすごいバイタリティ(生命力)があって、日本語で言うと“したたか者”。権力やお金のつかいかたが凄い」
相澤「P3Cは国産化ではアメリカからの輸入のほうが安い。アメリカからP3Cを導入した方がはるかに安く済むというのが大蔵省の総意だった」
元・ニクソン政権の元・NSC国家安全保障会議の担当補佐官リチャード・アレンはいう。
アレン「日本は最大のお客さまだった。ニクソン大統領とキッシンジャー大統領補佐官が“P3C”を日本に売るべきだと命じたのだ」
ニクソンはロッキード社のあるカリフォルニア州出身。巨額の政治献金をもらっていた。1974年ハワイの日米首脳会談(田中角栄首相、ニクソン米国大統領)で売り込みに圧力がかかった。
P3CとE2C(早期警戒機・E2C自体は1979年のダグラス・グラマン事件において当時の日商岩井の専務・島田三敬・みつひろ・が取り調べで交渉して日本側に売りつけたことを自供したがそのすべてを話す前にビルから飛び降り自殺した)を日本に売りつけた、と。圧力があった。当時の駐日米国大使のホッジソンはいう。
ホッジソン「ロッキード事件はうまくいけば日本側の数人の逮捕者でおわるだろう。三木首相の言うような日本の政府高官名を出すのはできるだけ遅らせるのが得策である。もし、三木首相のいうように日本の政府高官名をだしてしまえば日米関係は泥沼化する。できるだけ高官名は出さずに引き延ばし、できれば高官名がでない方向性が米国や日本国のためである。」米国のロッキード社副会長コーチャン氏もロッキード社日本支社社長のクラッターも日本では尋問さえも受けてはいない。これで公平な裁判といえるのか??
ニクソンとキッシンジャーが、表向きは日本の原子力発電やアメリカ産の商品を買え、ということだったが裏では軍産複合体の利権のためにP3CとE2C導入を迫った。
ハワイ会談後、すぐにP3C国産化白紙撤回が何よりの証拠だ。
中島「角栄がハワイからもどってきたら途端に白紙撤回。これは宰相にしか出来ない。防衛庁長官くらいじゃ出来ない。アメリカ側から圧力があったんでしょう。」
1979年にはダグラス・グラマン事件が起こった。
東京地検特捜部は吉永祐介の指示で島田三敬(みつひろ・1979年ダグラス・グラマン事件で逮捕され尋問で日本政府へのE2C・早期警戒機の輸入の秘密交渉人・すべてを自白する前ビルから飛び降り自殺した)を捜査尋問に当たったのは宗像紀夫検事(当時・むなかたのりお)だった。
島田は宗像に「戦闘機や旅客機の利権で政治家に賄賂を渡した」と認めた。
宗像「戦闘機を購入すれば何百機と収入があるし、メンテナンスも毎年あるし、整備も次期の更新購入もある。ものすごい大金になる。要するにどんなフィー(費用)を払っても入れたい(輸入)、と。いろんなひとをつかってね」
1972年にも島田は働きかけて、ワイロを政治家にわたしたという。
裏金は個人金融資産で。田中角栄の名前もあったが島田は「明日、すべてを話します」といったその深夜、島田はビルから飛び降りて自殺した。
遺書“行くのを御許し下さい 一月三十一日 島田三敬”
裏金が当たり前のような政治家や財界人や官僚へのうらみ節が書いてあったという。
宗像「悪かった。亡くなられた島田さんもお気の毒だったし、吉永祐介さんにも申し訳ないと。期待に応えられず事件の真相も島田さんの死で闇の中…」
元・首相の海部俊樹(かいふ・としき、三木内閣で副官房長官)
海部「三木さんの指示で事件を追及していましたが、政治家のひとたちから反発されたよね。そこまでやらなくてもいいんじゃないか?という声が多かった。心配しておれのところに飛んできて、俊ちゃん、おやじさん(三木首相)にもうやめたらいいんじゃないか、と。外国の資料をもらって国内の悪(ワル)を見せる必要はないよ。(捜査を止める)指揮権を発動すればいいんだよ、ということでおわりじゃないか、それをやれ、と。こうくるわけだ」
三木首相も当時は独自に調査していたが闇に迫れず…
すぐに“三木おろし”が来るが、ロッキード事件の影響で権力基盤の弱い三木武夫首相は国民にげいごうした。
海部「事件が解明できないのは残念。しかし、軍用機ともなると我々の手のおよばないところだから。ね?」
P3Cの現在までのロッキード社の売り上げは1977年から日本だけで1兆円を超える。田中角栄はスケープゴート(いけにえの羊)にされたのだ。無罪ではないだろうが軍産複合体に利用され、捨てられた。それが田中角栄逮捕、であった。
今も、日本国はアメリカに次ぐ世界第二位のP3C保有国である。
リチャード・アレン「田中角栄は日本でいう“したたか者”でタフガイだった。日本の金で米国の懐を満たし利用するのが目的だった」
坂篁一は最後にある文字を送ってきた。
“魑魅魍魎(ちみもうりょう)=おばけ”
坂「おばけにはおばけのお菓子や食べ物がある。おばけは見えない。みんなは契約を決まった万歳!っていうけど本当は決まりかけが一番大事なの。決まったらもう後戻りできないのだからね。」
ロッキード事件から40年、あの田中角栄逮捕の熱狂にかき消された本当の真実とは何だったのか。最新スクープがこれである。
今、空前の角栄ブームの中、我々はこの真実を重く受け止めなければならない。

【会見全文】小林麻央さん死去 海老蔵「今後も『愛』を教わり続ける」

2017年06月23日 16時34分27秒 | 日記































【会見全文】小林麻央さん死去 海老蔵「今後も『愛』を教わり続ける」






© KADOKAWA MAGAZINES 提供
乳がんを公表し、闘病中だったフリーアナウンサーの小林麻央さんが23日に34歳の若さで亡くなった。夫で歌舞伎俳優の市川海老蔵が会見。以下その全文。

「このたびはわざわざご報告するようなことではないかもしれませんけど、今朝、家の前にも多くのマスコミの方がいらっしゃいました。ご報告をするということもひとつ、義務なのかなと思います。昨日、夜に妻・麻央が旅立ちました。それによりましていろいろとございます。その中で家族の時間や、しなくてはならないこと、家族で話すべきこと、子どもたちとのこと、そういったことの時間という中で、思った以上に皆さまに伝わったのが早かったということで急きょこのように皆さまにお時間を作っていただいたのも、多くの方にご迷惑がかからないように。そしてまた、ブログやアナウンサー時代から妻のことを応援してくださった方々にご報告ということでこのような時間を設けさせていただきました。本日はどうぞよろしくお願いいたします」

――麻央さんとの最後のときはどんな言葉を交わされたのでしょう

「そうですね、私は昨日も舞台でございまして、それまで麻耶さんと、麻央のお母さんとずっと看病をしてました。私は舞台が終わった後に、ここで別の撮影がありまして、その後にロビーでまた別の稽古がございました。そのときにお母様からLINEが来てたんですけども、ちょっと僕は見ることができませんでした。約1時間半程遅れて見た内容が『具合が悪いから。ちょっとお医者様が来ていて、家族を呼んだようがいい』というような内容でして、慌てて急いで帰ったわけです。そうして帰りましてまだ麻央はこの世にいてくれて、たまたま、本当にたまたまですけど、私がちょうど妻のそばに座って、ちょっと呼吸が苦しそうだったので、大丈夫かな…おとといまではしゃべれたんですけど昨日はずっとしゃべれずにいたんで。これは不思議な話ですけれど、息を引き取る瞬間、を私は見てました。そのときこれは本当に不思議なんですけど『愛している』と言って。彼女が。その一言を言って…泣いちゃいますよね。その一言、『愛している』と言って本当にそれで、そのまま旅立ちました」

――麻央さんは『愛している』の言葉を受け止めたように思いましたか

「いや、僕が言ったわけじゃなくて彼女が。旅立つ間際に『愛してる』…『る』が聞こえるか聞こえないか分かんないですけど。『愛している』って言って旅立ったのがちょっと、まぁ何ていうんでしょうか。こんなに愛されてたのはよく分かっていたんですけど、最後の最後まで愛してくれいたっていう。何ともいえませんね。すいません、なんか。どうしても昨日の今日で、何の準備もできてなくて。このようなところでお見苦しいところをご覧いれて…」

――最後をご自宅で送ってあげられたのは良かったと思いますか

「それはとても良かったと思います。お母様もお父様も私もお姉様も麻耶さんも、で、子どもたちもずっとそばにいれたのですごく良かったなと。私の父は病院で亡くしてますので、病院のときとは違う、家族の中で家族とともに、一緒にいられた時間というのは、本当にかけがえのない時間を過ごせたと思います」

――お子さんも含めご家族で、皆さんで送ることができたということですか

「そうですね、子どもたちもみてました」

――麻央さんは闘病中辛い中でも勇気と愛情、笑顔を忘れずに戦ってこられた方ですね

「おっしゃる通り、本当に笑顔と勇気と愛情。けっしてブレない自分。そしてどんな状況でも相手のことを思いやる気持ち。まぁ愛ですよね、そういった力が最後までブレず。おとついまで笑顔で話してて。昨日はちょっと調子悪かったんですけど、おとつい、我々家族も急にそういう風になってしまったので、戸惑った部分がすごく大きかったです」

――海老蔵さんからは麻央さんにどんな言葉をかけましたか

「僕ですか?この世にある、ありとあらゆる言葉を耳元で話してました」

――海老蔵さんにとって麻央さんはどんな存在でしたか

「うーん……とにかく、私をどんな部分もどこまでも愛してくれていたんだなと。存在っていうのを……うーん、まぁね存在ね、できればずっと一緒にいて私のが先に逝って彼女にはもっと幸せにもっと楽しく、家族やお友達や、ご家族、麻耶さんやお母さんやお父さま、そして私が役者として成長していく過程をずっと見守ってもらいたかった存在です」

――麗禾ちゃんや勸玄くんの様子は

「麗禾は昨日はずっと麻央のそばを離れませんでした。そして彼女の横でずっと寝ると言って寝てました。うーん、認識はしていると思いますね。勸玄はまだ、分かってはいるんですけど、分かっていないところもあって、今日の朝も横になってるところにふたりが麻央の顔を触ったり足をさすったり、手を握ったり。そういうところを見ると私が今後背負っていくもの、やらなくてはならないこと。子どもたちに対してとても大きなものがあるなと痛感しました。勸玄はまだ、分かってるんですけど、分かっていないと思います」

――奥さまから学んだこと、どういったことを伝えていきたいと思いますか

「元気になったら彼女は、自分が歩んできた過程の病、乳がんやそれに伴う病に対して、自分が治ったらば、あーしたいこうしたい、多くの人の救いになれるような存在になれるようになりたい、というようなことで一生懸命闘病してました。それでブログというものも始めたんです、だから本当にマスコミさんのおかげで、ある意味公になってありがたかったと思います。それでブログというものを始めて、なにかこう同じ病の人たちや苦しんでる方々と悲しみや喜びを分かち合う妻の姿は、まぁ私からすると何か人ではないというか、何というかすごい人だなというか。言い方おかしいですけど。とにかく総合的に教わったこと、そして今後も教わり続けることは『愛』なんだと思いますね」

――麻央さんの姿、思い出される表情は

「どういう表情?全部ですね。初めて会ったときの彼女から今の今日の朝まで全部です」

――笑顔が多いですか?

「そうですね、多かったと思います」

――これまでお話されてきた中で子どもさんへのお話で印象に残っていることは

「子ども?心残りだと思います。ふたりのことについて。どうすればいいんだろうって考えても答えが出なかったものだと思います。ですからいろんなことがあり、今回も子どもたちが出演したり、7月にせがれが出るんですけども、そういうのを観に来ることをひとつの目標としていろんなものを作ったんですけど、うん、まぁでもきっと見てると思うんでね。まだまだ心配で心配でしょうがないんじゃないでしょうか」

――海老蔵さんが託されたことは?

「多すぎて言葉に出せないですね。もちろん今も舞台やってたわけで、このあとも舞台ありますし、来月もすぐありますし。子どもの稽古もありますし。麗禾の成長のことも考えますし。やっぱりこれからまだ5歳と4歳ですから、これからお母さんっていう存在が彼女や彼には非常に重要な存在なわけではないですか、それをやはり失った、それを僕は代わりにはなれないですけど、出来る限りのことをやっていくように、もう、思ってますね」

――麻央さんの言葉で思いだされる言葉は?

「よく言っていた言葉…やはり、言葉というかお姉さん、麻耶さんが調子悪かったときにも例えば私が舞台で非常に疲れたときも、彼女自身はもっと重い病にかかっている、そしてお母様も看病で疲れているときも、麻央のほうがもちろん大変なのに、自分よりも相手のことを心配する優しさ。こういう言葉っていうことじゃなくて、どこまでも相手のことを思う気持ち。これはね、一番多かったですね」

――麻央さんは改めてどんな奥さん?

「そうですね、わかりませんね。僕を変えた奥さんなんじゃないですか、わかりません」

――麻央さんがプロポーズのときに「来世も再来世も一緒に」という言葉が一番響いたとおっしゃっていましたが

「そのつもりです。その話もしました。ですがまぁ僕が愛想尽かされないように頑張んないといけないんだけど」

――その話をしたとき麻央さんは?

「元気なとき? 喜んでましたよね」

――改めて麻央さんに伝えたいことは?

「まだね、昨日の今日なんで。こういうところも全部聞いてると思うんでね、言うことは言わなくても伝わってると思うんで。いつも思ってるよねっていうことですね」

――麻央さんのブログに励まされた方へメッセージを

「麻央のブログや麻央の存在で励まされた方がいらっしゃるということで、今回のこのような形もある意味とらせていただいたと思うんです。実際、そういうことがなければ、このようなことを報告すること自体が、形としてはどうかと思うんです。ですが多くの麻央のことを応援してくださった方、そして麻央と共に戦っている方々、本当に昨日先に旅立ちましたけども、ずっと麻央はきっと皆さまのそばにいると思うので、本当にいろいろありがとうございました」

【訃報】小林麻央さん死去34歳、乳ガン2年半超の闘病生活

2017年06月23日 12時08分32秒 | 日記



































小林麻央さん死去34歳、乳ガン2年半超の闘病生活





 歌舞伎俳優市川海老蔵(39)の妻でフリーアナウンサーの小林麻央(こばやし・まお)さんが22日夜、都内の自宅で亡くなった。34歳だった。麻央さんは14年10月に乳がんと分かり、昨年6月に夫の海老蔵が会見で明かした。その後、骨や肺にも転移したが、同年9月に開設したブログで闘病の様子などを気丈に発信した。今年1月から自宅で療養したが、4月22日に再入院。5月29日に退院し、在宅医療で家族との最後の日々を過ごしていた。関係者によると、20日に最後のブログを更新後、21日に容態が急変した。海老蔵は午後2時半から会見する。

■14年10月の検査で判明

 2年半を超える長い闘いに力が尽きた。

 麻央さんの乳がん判明は14年10月だった。10年に海老蔵と結婚し、長女麗禾ちゃん(5)長男勸玄くん(4)を出産。14年2月に胸のしこりに気が付いた。検査で見つからなかったが、8カ月後の生体検査で乳がんと判明。既に脇のリンパ腫に転移しており、入院して放射線治療などを行ったが、がんであることは極秘にした。


小林麻央© 日刊スポーツ新聞社 小林麻央
 判明から1年8カ月後の16年6月、夫の海老蔵が会見を行い、進行性の乳がんで闘病中と公表した。病状も「かなりのスピードで進行し深刻な状況」と手術もできないと明かした。しかし麻央さんは、がんと気丈に闘い、生き抜く姿勢を鮮明にみせた。同9月に「がんの陰に隠れない」とブログを開設。肺や骨などへの転移も明かすなど、がん判明までの経緯や闘病の様子を報告し、反響を呼んだ。

 10月に乳がん判明から初めて手術を受けたと報告。根治手術ではなく、乳がんの患部や転移した脇のリンパ節を切除する局所コントロール、QOL(生活の質)を落とさずに守るための手術だった。ブログには「これからが闘い。奇跡は先にあると信じています」と完全回復への強い思いを明かした。

 退院し自宅で療養しながら2人の子供が通う幼稚園の運動会にも参加したが、昨年12月に再入院。ブログ登録者は200万人を超え、英国BBCは11月に発表した「今年の女性100人」の1人に選ぶなど世界中の感動を呼んだ。

 今年1月の日本テレビ系「市川海老蔵に、ござりまする」で海老蔵は「(昨年の早い時期に)絶対に治らないレベルの病気だった。早かったら(16年の)3、4、5(月)で多分もうダメだった。夏は絶対無理だと思った」と覚悟していたことを告白。麻央さんもがん公表後、初めてインタビューに登場して「役者、市川海老蔵をパートナーとして支えられるチャンスを神様くださいっていつも思うんです。主人と結婚したからこそ、こうして生きていられる」と気丈に話した。

 放送後に退院し自宅で療養しながら手料理を作ったり、海老蔵と買い物デートに出掛けたり、2人の子供と遊んだりするなど回復の兆しも見えたが、病魔は容赦なく体をむしばんでいった。4月19日に「10日前まで普通に歩けたのに、10歩歩くのもやっとになってしまった」と衰えを明かし同22日に再入院。5月26日には、がんがあごに転移していたことも明かした。

 その後、麻央さんは「(来年の)娘の卒園式には着物で出たい」と母としてのささやかな願いを記した。ブログは今月20日、母の手作りのオレンジジュースを飲む喜びをつづり「皆様にも今日笑顔になれることがありますように」と結んで以降、更新が途絶えていた。

 海老蔵は23日朝にブログを更新し、前日夜から自宅前に集まっていた取材陣にあてたと思われる内容を公表。「2017/06/23」と題し、「人生で一番泣いた日です。マスコミの方々もお察しください。改めてご報告させていただきますので、近隣の方々のご迷惑になるのでひとまずおかえりくださいませ、宜しくお願い致します」とつづった。また、その1時間後のブログでも「なるべく」とのタイトルで、「なるべくいつも通りに過ごします」と記していた。

 海老蔵は23日午後に会見。自らの言葉で最愛の妻について語る。

【リアル『あなたのことはそれほど』】我が儘女に男。優しすぎる男女にマジ駄目人間とは?

2017年06月18日 14時35分00秒 | 日記




































男のわがままをゆるす、優し過ぎる女の本音とは?






わがままをゆるせるのは、愛があるから? 「ゆるす」気持ちの裏にある本音についてお話しします。© All About, Inc. 提供 わがままをゆるせるのは、愛があるから? 「ゆるす」気持ちの裏にある本音についてお話しします。 そもそもダメ男という男もいますが、「優し過ぎる女」の場合、いい男をダメ男にしてしまうということもあります。女性に母性本能がある限り、ダメ男はいなくならないのかもしれません。

シングルファザーさんと交流していると、意外に「優し過ぎる男」も多いことに気づかされます。夫の稼いだお金で、満たされない心を救うためにファッションや自己啓発セミナーに自己投資。挙げ句に、別の男の元へ……なんていう話が、あまりにも多くて驚きます。


ゆるした分だけの「感謝」と「がんばり」を期待している
優し過ぎる女と、優し過ぎる男。そのパートナーとして、「わがままをゆるされてきた男(女)」がいるわけですが、今、もしも、あなたが「わがままをゆるしてもらっている」のであれば、伝えておきたいことがあります。

「わがままをゆるしてくれる」=「それだけ俺(私)のことが好きってこと」と、思っていませんか?

「受け入れること」と「そのまんまのあなたを好きであること」とは、実は微妙に違うのです。ゆるしてもらっている側は、そこを勘違いしてしまうと、気づかないうちに相手が冷めていき、いつか三行半をつきつけられることになりかねません。

優し過ぎる女は、「ゆるす」ことで相手を受け入れようとしているだけで、内心は「前向きになってがんばってくれること」を心のどこかで期待しています。「ゆるす」という努力をした分、むしろ、それに感謝をして「がんばってくれるだろう」と心のどこかで期待しているのです。そこにあぐらをかいて、さらにわがままになる恋人なら、気持ちは少しずつ冷めています(無意識の場合もあります)。

「ゆるしてもらう」状態というのは、言ってみれば、一時的に、心の荷物を預かってもらっているようなもの。預かった側は、それを引き取りにくる日を待ち続けています。

でも、肝心の預けた本人は、すぐに忘れてしまいます。預けられたほうは「いつになったらこの荷物を取りにくるのだろう」と待っています。彼のわがままをゆるす度に、彼女のほうは、大きな荷物をいくつも、いくつも持たされてしまうことになります。そのため、彼女は少しずつ疲弊していきます。そして、あるとき、自分の心身の重さの原因に気づき、急に目が覚めて、ひとりになりたくなってしまうのかもしれません。


「わがままな男」に魅力を感じているわけじゃない
「好きだからゆるす」のは確かです。でも、だからといって、「ゆるしてもらっておいて努力しない男」を魅力的だと感じているわけじゃありません。ゆるす度に、本当は少しずつ冷めているとも言えるかもしれません。



その後の努力を期待して、心を前貸ししているだけなんです。


返してもらえる当てのない「優しさ」の前貸し、というわけです。「優しくしたら、きっと自分も優しくしてもらえるだろう」という、どこかで期待をしてしまうのは、人として当たり前のこと。つまり、わがままをゆるしてもらっているのなら「たくさんの借りを作っていることになるのだ」と自覚したほうがいいのかもしれません。

与える、奪う。貸す、借りる。そういった言葉で、気持ちを計ることについての賛否については今回はさておき、どちらか一方が、与え続けることになると、二人は対等ではなくなりますし、与え続けているほう側が、どうしても立場が上になってしまいます。

男に与え続けることによって女が強くなり、上から目線で男にコメントするようになると、二人の関係を回復するのは非常に難しいものです。ゆるしてもらっておいて、男が「強い女は嫌だ」と言い出すのもよくあること。

「想い」は、循環してこそ気持ちよく寄り添い生きていけるもの。

「持ちつ持たれつ」というシーソーを楽しめることが理想です。彼女に何らかのわがままを受け入れてもらえたなら



・しっかり感謝する

・次のがんばりに繋げる

・相手のわがままも聞いてあげる


ということが、いい関係を築くためには重要です。

また、ついつい「わがまま」を受け入れてしまう女性側も、一度ゆるした「わがまま」を、繰り返す男かどうかをしっかり見極めましょう。二度目では「本当は嫌だ」という気持ちをちゃんと伝え、せめて「仏の顔も三度まで」と、きっぱりけじめをつけましょう。できれば、受け入れるだけじゃなく、あなた自身も、彼にわがままなことをしてみましょう。それを受け入れてくれないようでは、考え直してみたほうがいい関係かもしれません。

【福本清二も中卒ニート】ひきこもり60万人時代のサバイバル!60代のひきこもりも?!

2017年06月18日 14時10分10秒 | 日記


































「60代のひきこもり」が増えている






「親亡き後」に突入するひきこもりの当事者が増えています。もし、何の対策もしなければ親の支援がなくなった途端、生活は行き詰まり、住まいも追われかねません。「働けない子どものお金を考える会」の代表を務めるファイナンシャル・プランナーの畠中雅子さんが、ひきこもりの子どもを持つ家庭の実態と対策について解説します――。


79歳男性のSOS「私が死んだら息子は……」


関東に地方に住む79歳の男性はこう言います。

「母親(妻)が亡くなって、働けない息子と2人暮らしをしています。もともと息子と会話する機会は少なかったのですが、この1年くらいは、お互いの顔もろくに見ていない状態です。私ももうすぐ80歳です。息子はひとりっ子、私が死んだら路頭に迷わせてしまうのでしょうか……」

独り言とも、SOSとも取れる、しぼり出すような声でした。

私は「働けない子どものお金を考える会」の代表を務めています。この会は、ひきこもり、ニート、あるいは障がいをお持ちのお子さんを抱えるご家族の家計を考える、ファイナンシャル・プランナーの集まりです。

親だけでなく、お子さんの生涯、とりわけ親亡き後をどう生き抜いていくかを模索する「サバイバルプラン」を中心に資金計画を立てるお手伝いをしています。


高齢化した「ひきこもり」が着実に増えている


その活動もはや25年。四半世紀が過ぎました。

アドバイスを始めた頃は、ひきこもりのお子さんの存在が世の中に認知されていたとはいえず、生活設計のアドバイスをすること自体、奇異な目で見られることも少なくありませんでした。同時に、「親が死んだ後の話をするなんて、縁起でもないことを言うな」と、当事者の家族から怒られたこともありました。

25年という時間が流れ、「ひきこもり」という言葉が理解されるようになった今では、私たちが提唱している「サバイバルプラン」を受け入れ、具体的な計画を立て、実行に移してくれるご家庭が増えてきています。

とはいえ、それは、ひきこもりのお子さんの数が増えている現実を表すだけではなく、後述するようにひきこもりの状態から抜け出せないまま、お子さん自身が高齢化している現実も意味しています。


「50代はもう珍しくありません。最近は60代もいます」


私たちが提唱する「サバイバルプラン」とは、働けない状態がこの先も続くと仮定して、親が持つ資産でどうやって生き抜いていくかを考え抜くプランです。

親が持つ資産というと、金融資産だけをイメージする人が多いのですが、不動産活用も重要なポイントです。親亡き後も、住み続けられる住まいを確保できなければ、生活は行き詰まってしまいます。

住まいを確保する方法として、都市部では賃貸併用住宅への建て替えが選択肢になります。一方、地方在住の場合は、老朽化した家から築浅の家への住み替えを促します。また、親に介護が必要になった場合に備えて、親子別居のプランを立てるケースもあります。


「60代のひきもこもり」が増えている: 写真はイメージです© PRESIDENT Online 写真はイメージです
サバイバルプランの具体的な手法については、この連載で徐々に触れていきます。なかでも最近、深刻化しているのは「働けないお子さんの高齢化」です。


親は80代以上というケースが増加「待ったなしの状態」


私のご相談者の中には、お子さん側がすでに60代に入られたケースが何例も出てきています。50代のご相談者は、もう珍しくありません。ご相談者の親御さんの年齢が80代というケースも増えていて、中にはすでに「親亡き後」へ突入している人も出てきています。ひきこもりの高齢化は、待ったなしの状態になってきているのです。

ひきこもりのお子さんが高齢化すると、「就業は絶望的であり、お子さん自身の生活設計など立てられない」と考えるのが一般的かもしれません。しかし、「早めの対処・対策」を立てることによって、親も子もサバイバルすることは可能です。


「全く働けない子ども」が2人以上いる家庭も増えた


「高齢化」のほかに見逃せない問題は、ひとつのご家庭に、「働けない状態のお子さんが複数いる」というケースのご相談が増えていることです。2人とも働けないだけではなく、中には3人や4人のお子さん全員が働けない状態のご家庭もあります。

働けない状態にあっても障がい年金を受給することなどで、サバイバルプランが成り立つケースもありますが、本来なら「親亡き後」に手続きなどで力を貸してくれるはずのご兄弟がいないという、別の問題を抱えていることになります。

さらに親側にとっても子ども側にとっても厳しいのは、親が持つ資産が減ってきていることです。企業業績は改善していますが、給与相場はそれほど上がっていませんし、年金受給額も減っています。


ひきこもりの子を支える親の資産は減っている


私が相談を受け始めた25年前は、ご相談者の多くが、親(お子さんにとっての祖父母)の持つ資産でサバイバルプランが成り立ちました。ところが、時間が経過するごとに親側の資産に余裕のないご家庭が増え、現在、サバイバルプランが成り立つのはご相談者の半分程度に減っています。

サバイバルプランが成り立たないと思われるご家庭こそ、先ほど申し上げたように早めの対策が必要になります。

資産の少ないご家庭は、厳しい現実に向き合わない傾向があります。「子ども自身がなんとか収入を得てくれれば……」といった現実的とはいえないプランしか立てていないケースが多いのです。厳しい現実から逃避しても、明日や明後日の生活に困るわけでもありません。しかしそれは、いつか訪れる「親亡き後」について先送りしたまま、あるいは考えることをフリーズしたままにしているだけです。

「親亡き後」のお子さんの生活を守るためには、この先も働けない状態が続くという現実を受け入れる勇気が、何よりも重要です。資産が少ないご家庭ほど、1日も早くサバイバルプランづくりに取りかからなくてはいけません。


今、働いている子が突如、働けなくなる日


また、ひきこもりの問題というと、ごく一部のご家庭の問題であり、自分の家庭とは関係のない話だと捉える方も多いでしょう。ですが、ひきこもり状態ではなくても、フリーターやニート(仕事も通学も求職もしない)のように、定職についていないお子さんが増えている現状*を考えれば、ひきこもり家庭の状況は決してひとごととは言い切れないはずです。

(*編注)2017年版「子ども・若者白書」によれば「ニート」を含む若年無業者数(15~39歳)は2016年で約77万人と依然高い水準にある(ニートの割合は男性2.8%、女性1.6%)。この白書は調査対象の年齢が39歳までであり、実際は40歳以上の者もかなりの数にのぼると推測できる。

「新卒で働き始めた会社で、老後の手前まで働く」というのは、親の世代には常識として通じても、お子さんたちの世代にとっては難しい現実になってきています。「一生働ける仕事に就く」という願いでさえも、かなわない現実があるのだと受け入れる覚悟が必要です。「働けない状態の子どもを抱える」というリスクは、どのご家庭にも起こりえます。そうした現実を、一人でも多くの方に知っていただきたいと思います。

NMB須藤の結婚発表 冠番組も大混乱…寝耳に水で「やけくその番宣」も

2017年06月18日 14時00分51秒 | 日記




























NMB須藤の結婚発表 冠番組も大混乱…寝耳に水で「やけくその番宣」も







結婚を発表する20位の須藤凜々花(中央)。突然の発表にメンバーも驚きの表情を見せる=沖縄県豊見城市立中央公民館© デイリースポーツ/神戸新聞社 結婚を発表する20位の須藤凜々花(中央)。突然の発表にメンバーも驚きの表情を見…
 「第9回AKB48選抜総選挙」のステージで突然の結婚発表を行った、NMB48・須藤凜々花(20)の冠番組、TBSチャンネル「NMB48須藤凜々花の麻雀ガチバトル! りりぽんのトップ目とったんで!」の公式ツイッターは、17日、「りりぽん、目標の選抜入りはなりませんでしたが、20位!おめでとうございます!!そして、大変混乱しています!!!」と混乱ぶりを伝えた。

 番組スタッフの「りりぽんの冠番組のプロデューサーとして、この後りりぽんからしっかり事情を聞きたいと思います…」との投稿をリツイートし、須藤の発表は番組にも寝耳に水だったもよう。

 その番組スタッフは「このあと24時からはりりぽんのトップ目とったんで!がTBSチャンネルで放送です。※やけくその番宣」とも投稿。「総選挙後、ご本人とお話しました。いろいろ整理した上、またご報告します。」としている。

『透明なゆりかご』作者が語る、日本の死亡原因“本当”の1位が中絶だという現実

2017年06月18日 13時57分56秒 | 日記

































『透明なゆりかご』作者が語る、日本の死亡原因“本当”の1位が中絶だという現実








沖田×華さん 撮影/近藤陽介© 週刊女性PRIME 沖田×華さん 撮影/近藤陽介
 高校時代に看護師見習いとして体験した産婦人科のリアルな実情を描き、発表以来、多くの読者の反響を呼び、今や5巻で260万部(電子含む)を突破する超ヒット漫画となった『透明なゆりかご』。作者の沖田×華(おきた・ばっか)さんに、この作品を通して“伝えたいこと”を聞いた──。

◇   ◇   ◇

 5巻で累計260万部を突破し、じわじわと感動の輪を広げている漫画をご存じだろうか。タイトルは『透明なゆりかご』。作者は沖田×華。彼女が学生時代に見習い看護師をしていた産婦人科医院での実体験で見た残酷な現実と、それと二律背反するような母性愛が描かれた物語だ。

「先日サイン会をやったんですけど、お子さん連れの女性や家族の方たちが多くて。サインしている間、目の前で抱っこされている子どもが私の髪の毛をいじっているのが、すごく可愛くって、私のほうがドキドキしていました(笑)。あとは、医療従事者の方も多く“うちの産科でも話題になっています”と。

 この“ゆりかご”は20年前の話を描いているので“本当なの?”と首をかしげられるかと思ったのですが“感動しました”という感想を多くもらえてうれしかったですね」


希望を見いだせるストーリーを描く


 1話完結で進むストーリーは、すべてが心に突き刺さる。主人公の×華は当時、堕胎された子どものカタチなき亡骸(なきがら)をカメラのフィルムケースのような小さな容器に納めて、業者へ出す役割をしていた。

「そのシーンは、みなさん一様にショックだと言われますね。産科でバイトをし始めてから、日本の死亡原因の本当の1位はアウス(人工妊娠中絶)だということを知ったんです。中絶する女性って“中絶!? なんてだらしない”みたいな目で見られがちですけど、私はなんだか、そこに違和感を感じてしまって。だって女性だけの問題じゃないですよね。その背景には中絶を許す男がいるはずなのに、その男がまったく出てこない。病院をひとりで訪れる女性にしたって、そう。他人には計り知れない事情があって、泣く泣くそのような選択をしている。中絶って常にマイナスなイメージでとられてしまっているけれど、それだけじゃなく、どこかに希望を見いだせる話になるよう、そんな思いで描きました。とはいっても、最初は怖かったです。結婚もしたことない、妊娠もしたことのない私がこのような話を描いて、読者さんからどう思われるのか……。それに、妊娠して出産することだって当たり前のことではない、ということも伝えたくて」

 育児というものは、過酷で重大なこと。ふだん何気なく育てているように見える母たちが本当はものすごい役割を果たしているということを、多くの人は意識していない。

「流産経験や死産、育児に関してダンナの理解が少なかったりと、あてはまる部分が多くあるのか、“この漫画で気が晴れました”と、みなさん言ってくださるので、ホント、描いてよかったなあと思っています。看護師だったのは約5年。あのころは、自分が役に立てる何かがあるなんて、あまり思えませんでした。産科で働いていたときは高校3年生でしたけど、まったく看護師に向いてなかったというか(苦笑)。あのあと、小児内科に3年半、そしてデイサービス、精神科、美容整形外科と、もろもろ。病院も転々としながら、やっぱり向いてないと辞めて、それから漫画家に」

 最初は、風俗漫画からスタート。その後は、『ガキのためいき』(講談社)というアスペルガー障害と診断された自身の実話を描いた連載を。それと同時進行で『ギリギリムスメ』(講談社)をスタートさせた。

「『ギリギリムスメ』は初めてのフィクションだったので、ストーリーを考えているときにパニックを起こしちゃって。“もう、私、できません!”って思ったときに“ゆりかご”のストーリーが浮かんだんです。“あっ! もっといいストーリーが思いついたぞ”と。担当編集さんに持っていったら“『ギリギリムスメ』が先なんで早く描いてください。それが終わったら、ゆりかごの連載を始めましょう”と。

 しかたないと、1度は“ゆりかご”のネーム(文字原稿)を捨てちゃったんですけど、『ギリギリムスメ』が終わったあとに、あらためて“沖田さん、あの連載を始めましょう”と担当さんから言われて……。担当さんがネームをとっていてくれて、“これですよ、沖田さん。『透明なゆりかご』です。これ、描きましょう”と」


“あけみちゃん”と酒場では呼ばれ……


 先日、早くも5巻が発売となった。忙しくはなったものの、生活はほとんど変わっていないという。

「飲んべえだし、よくひとり飲みをして、時折、道路の溝に落っこちたりもします。住んでいるところの駅前の居酒屋へはよく行きます。カウンターの隅っこに座って、老夫婦の会話に耳をそばだてて“ふむふむ、まだエロいことをやってんのか”とか思いながら、お酒を飲む(笑)。新宿の赤ちょうちん的な居酒屋にもよく行きますけど、そこではなぜか“あけみちゃ~ん”と、おっさんたちに呼ばれ、数杯でベロンベロンになって、おっさんと同じようにフラフラになって帰るのがパターン。服にも特に興味がなくて、まだ高校時代のジャージを着ていますが、かなりボロボロになってしまいました。そんなに欲がないのかも。

 不思議です、風俗漫画からスタートした私が、この境地に至っているなんて。でも、まだまだしたいことはあって、“ゆりかご”は今後は取材もしていこうと思っています。不妊治療の現場だって変わってきています。日本の養子事情なんかについても描きたい。昔と今の出産事情は違うだろうし、育児事情も違う。ワンオペ育児で頑張っている方にも、私の漫画を読んで、ストレスを発散してもらえたらうれしいです」

<プロフィール>

おきた・ばっか/漫画家。富山県出身。ペンネームは「起きたばっかり」に由来。漫画『アクション』の新人賞に応募して選外奨励賞を獲得し、26歳で漫画家デビュー。アスペルガーなどの発達障害と共生し、自身が抱える障害を題材とした作品『毎日やらかしてます。アスペルガーで、漫画家で』(2012年)も人気シリーズに。『透明なゆりかご』はじめ、『蜃気楼家族』『ガキのためいき』『ハイスクールばっかちゃん』などヒット作多数。

前田利家とまつ 戦国の偉大なるナンバー2<巨魁妄動戦国時代編>連載小説3

2017年06月18日 03時47分28秒 | 日記




































         桶狭間の合戦


            
  太子ケ根を登り、丘の上で信長軍は待機した。
 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。嵐の中で部下は「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。
 しかし、信長はその策をとらなかった。
「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」
 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」
 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。山の上から喚声をあげて下ってくる軍に今川本陣は驚いた。
「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。
「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」
 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!
 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。
 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!
 この合戦を、利家の父・利昌は遠くからみていた。家臣が「犬千代殿はどこに?」ときくと、「ほら。あそこじゃ」と指差した。「親よのう。子のことはすぐわかる」
 利昌は遠くの息子の奮戦を眺めた。表情はおだやかであった。
「御屋形様をお守りいたせ!」
 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。
「大将! 義元の首を!」利家のたったひとりの家臣・村井又兵衛(長頼)が利家にいった。「又兵衛!」利家は叫んだ。「お前が首をとれ!」
「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、新助の人差し指に噛みつき、それを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。
 義元はこの時四十二歳である。
「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。
 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。
「勝った! われらの勝利じゃ!」
 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。
  かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。
「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」
「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。
「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。
 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。
 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。
  今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。
 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。
 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。
 これに対して信長は「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。
 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。
前田利家の父・前田利昌は高台の馬上で戦での息子(前田利家)の活躍を見ていたという。
「大殿、よく利家さまを見つけられますなあ」家臣の奥村家福が関心すると、利昌は、
「やはり、親よのう。息子をすぐに、見つけてしまえる。時代は変わるぞ。織田さまは今川をやぶられた。あっぱれじゃ。もう思い残すことはない」
前田利家の父親・前田利昌はそのあとに亡くなっている。
母親のたつは家督をついだ次男・利家の正室・まつに瓶にぎっしり入った銭を見せ、その“へそくり”を贈り物とした。「まつ。侍大将の妻は正直だけでは駄目じゃぞ。お金がなくともあるといいなさい。お金を払わねば、家臣は忠義で命を殿様にささげてはくれないんじゃぞ」
もっともである。こうしてやがてたつも死ぬのである。

   清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方にけっそうをかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。「勝った! 勝った!」小竹やなかや、さと、とも、も興奮してパレードを見つめた。
「御屋形様! おにぎりを!」
 まだうら若き娘であった寧々が、馬上の信長に、おにぎりの乗った盆を笑顔でさしだした。すると秀吉がそのおにぎりをさっと取って食べた。寧々はきゃしゃな手で盆をひっこめ、いらだたしげに眉をひそめた。「何をするのです、サル! それは御屋形様へのおにぎりですよ!」寧々は声をあらげた。
「ごもっとも!」日吉は猿顔に満天の笑みを浮かべ、おにぎりをむしゃむしゃ食べた。一同から笑いがおこる。珍しく信長までわらった。
  ある夜、秀吉は寧々の屋敷にいき、寧々の父に「娘さんをわしに下され」といった。寧々の父は困った。すると、寧々が血相を変えてやってきて、「サル殿! あのおにぎりは御屋形様にあげようとしたものです。それを……横取りして…」と声を荒げた。
「ごもっとも!」
「何がごもっともなのです?! 皆はわたしがサル殿におにぎりを渡したように思って笑いました。わたしは恥ずかしい思いをしました」
「……寧々殿、わしと夫婦になってくだされ!」秀吉はにこりと笑った。
「黙れサル!」寧々はいった。そして続けた。「なぜわらわがサル殿と夫婦にならなければならぬのです?」
「運命にござる! 寧々殿!」
 寧々は仰天した「運命?」
「さよう、運命にござる!」秀吉は笑った。

 話を少し戻す。
織田信長は桶狭間においてわずか三千の兵で数万の今川義元軍をやぶり、義元の首をとった。大勝利であった。その戦には寧々の父親も参戦していたのだという。
勝利軍は清洲城下に凱旋してきた。当然ながら高級武士に怪我は少ない。
足軽や輜重兵らが傷だらけで続々と徒歩で歩いて帰ってくる。だが、”勝ち戦”であることが彼らの足を軽くした。
寧々と妹のややは義父・浅野孫左衛門の姿を探していた。
「どなたか、義父の浅野孫左衛門の姿を見ませんでしたか?」
「おっ!」猿のような顔の足軽の藤吉郎(のちの秀吉)が寧々に声をかけた。「そなたの義父なら見かけたぞ!」
「本当にござりまするか?義父は無事ですか?」
「おう!少し怪我したがのう。無事じゃ安心せい!」
「怪我を…?」
「心配いらん。すぐにわしがこの木下藤吉郎が連れてくるでな。安心せい。」
「…藤吉郎さま?何故に義父をご存じですの?」
「ははは。主は寧々殿であろう?城下でも美人で有名じゃからのう。自然とわかるのよ、まっちょれ」藤吉郎はどこかへいってしまった。
すると馬に乗った武人を見た。それが寧々の初恋のひと、前田犬千代(のちの又左衛門利家)であった。「犬千代さま!あ!義父上!」
「寧々殿!そちの義父上なら足首を少し怪我をしたが無事じゃ。歩けぬのでわしの馬にのせたのよ」
寧々や妹ややは恐縮してしまった。「そんな犬千代さま。おそれおおい」
「寧々殿、いらぬ遠慮じゃ。同じ織田の兵の仲間じゃで」
のちの前田利家はハンサムで男も惚れるような大丈夫だった。優しい男である。
そして今は藤吉郎が利家の”馬廻り”をしていた。
「犬千代さま、ありがとうござりまする」
「かたじけないことにござりまする」
寧々と妹のややは頭を下げた。寧々は利家に惚れ込んだ。
次に藤吉郎が連れてきた戦傷老人は”他人”だった。「寧々殿!父上を…!え、違う?」
「藤吉郎、孫左衛門を寧々殿の家までお送りしろ」犬千代は命じた。
「はっ!前田さま!」
この瞬間、藤吉郎は寧々に惚れた。猿みたいな小汚い藤吉郎だったが、寧々が犬千代を好きなことなど知る訳もない。……よい女子じゃなあ。猿はでれでれ言ったという。
やがて、寧々は犬千代には許嫁のまつという女性がいることを知ってしまう。
寧々は失恋した。悔しくてただ悔しくて泣いた顔を桶の水でじゃばじゃば洗った。
藤吉郎と寧々が結婚するとは寧々本人にもわからなかった。
畑仕事をしていると寧々にぞっこん惚れ込んでいる藤吉郎がきた。
「おお!寧々殿、わしも畑仕事の手伝いをしようかのう?」
「けっこうです!足軽の方には畑仕事はわかりますまい」
わざとじゃないがついつんつんとした声で寧々はいった。
「わははは」藤吉郎は笑って「わしはのう、今でこそ足軽じゃが、もとは百姓のせがれじゃぞ。野良仕事は得意なんじゃ。わしは中村村の百姓の子供として生まれたがのう。八歳で家出していろいろやった。薬売りや商人やがまの油売り…生活のためにあらゆる仕事をやったものじゃで。今川の家来の足軽じゃったこともある。松下さまの家来で、松下さまの木下であやかって木下…木下藤吉郎としたんじゃ。じゃが、織田の殿様が好きになって織田についた。そしてどうじゃ?織田さまが勝った!織田信長さまこそ天下に号令されるに値する方じゃ」
「そうですか。藤吉郎さま。興味ありません」
「寧々殿。何を意地をはっておるのだ?」
「意地などはってはおりませんわ。失礼な」
「いやあ。それはどうかのう。寧々殿。寧々殿は犬千代さまに惚れておったのじゃろう?」
「な!失礼な!」
「まあ、素直にのう。確かに犬千代さまは男前じゃ。じゃが、惚れる相手が悪い」
「何故に?!」
「犬千代さまは武家の名門のお方じゃ。おまつさまも赤子の頃より犬千代さまのおかかにきまっておったのじゃ」
「えっ?赤子?」
「わしはどうじゃ?寧々殿。わしが相手では駄目か?」
寧々は押し黙った。
「猿殿には猿殿にふさわしい女子がいるじゃねいですかねえ?」
「それが寧々殿よ。のう?」
「だまらっしゃい!何故猿殿と一緒にならねばならんのですか?」
「それは…」藤吉郎はもったいぶった。「わしのかか(妻・母親)になってもうそ、寧々殿」
「なんでです?!何故わたしなんです?」
「惚れたんじゃ。寧々殿に惚れたんじゃ」
「…」寧々は動揺した。…惚れたって……この猿のような顔の足軽が?わたしを??


  かくして、秀吉は寧々と結婚した。結婚式は質素なもので浪人中の前田利家とまつと一緒であった。秀吉は寧々に目をやり、今日初めてまともに彼女を見た。わしの女子。感謝してるぞ。夜はうんといい思いをさせてやろう。かわいい女子だ。秀吉の目が寧々の小柄な身体をうっとりとながめまわした。ほれぼれするような女子だ。さらさらの黒髪、きらめく瞳、そして男の欲望をそそらずにはおけない愛らしい胸や尻、こんな女子と夫婦になれるとはなんたる幸運だ! 秀吉の猿顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいと同時に大人っぽくもある。かれは寧々の肩や腰を優しく抱いた。秀吉の声は低く、厄介なことなど何一つないようだった。
藤吉郎と寧々は翌日、中村村に出かけた。辺り一面田んぼや畑である。その萱葺屋根の百姓の身分が秀吉の出自であった。
畑では秀吉の母親のなか(のちの大政所)ときい(のちの朝日)や小一郎(のちの秀長)らが畑仕事をしていた。
「よう!おっかさま!小一郎!きい!」秀吉は笑顔で声をかけるが母親のなかはあからさまに嫌な顔をして「なんの用じゃ?藤吉郎。わしらは百姓じゃ。足軽だかの戦をする子供などおらの子供じゃねえ!」などという。
「そんなおっかさま。嫁を連れてきたんじゃ!」
「……嫁?」
「そうじゃ、嫁じゃ!ほれ、みい!名前は寧々じゃ。きれいな女子じゃろう?」
「知るか!藤吉郎、足軽をやめねば家にあげんでのう!」
「おっかさま?何を怒っちゅで?足軽の何がいかんでえ?」
「侍は嫌いなんじゃ。足軽もひとを殺すにはかわりない。百姓でええでないが?」
小一郎が言葉を挟んだ。「まあまあ、おっかさま。兄さんがせっかく嫁っこ連れてきたんじゃけい。まあ、話をききましょう。」
「嫌じゃ!嫌じゃ!侍は嫌いじゃ!」
なかは畑仕事を放り出して、質素な萱葺屋根の木造家屋に姿を消した。
「おっかさま!おっかさま?!ありゃ、玄関が開かん。かんぬきをかけよったんじゃな?」
寧々はずっと戸惑っていたが、やっと声を出した。
「お母上様、寧々と申します。どうかお話をお聞き下され」
部屋の奥からなかが「ならば寧々さんとやら、藤吉郎に足軽をやめて百姓に戻るように説得してちょ!頼むでい。のう?」
寧々は息を呑んだ。そして言った。「それは出来ません。藤吉郎さま、いや、旦那様は足軽として織田信長様に仕えると決めたのです。男子一塊の志です。何故にその志をくじけましょうや?」
「よくいった!さすがはわしのおかかじゃ!」
藤吉郎は寧々を褒めた。そういうことなら仕方ない。なかは諦めた。
玄関をあけて「……まあ、中にはいりんしゃい。小雨がふってきた。濡れるでのう。」
藤吉郎は母親のなかに結婚を認めてもらった。「まあ、結婚はふたりのことじゃで」
藤吉郎はやがて薪当番の役目を織田方から勧められ、実績をあげてどんどん出世していく。
弟の小一郎(のちの秀長)や妹婿の甚兵衛や弥助や喜助らも家来とした。
寧々を驚かせたのは盗賊として有名な蜂須賀小六や子分のガンマクや新兵衛なども藤吉郎は家来としたことだという。寧々はあまりの旦那さまの勢いに戸惑う事が多かった。
だが、寧々は持ち前の包容力と機敏でおきゃんな性格で立ち向かう。
「旦那様、夕飯を食べなしゃれ」
「おお!うまい!さすがわしのおかかじゃ!おかかを女房としてわしは家宝ものよ!」
藤吉郎、のちの秀吉は笑った。
織田勢が美濃攻めで、藤吉郎の秘策『墨俣一夜城』が完成する。
この一夜城をもってして織田信長は美濃の斉藤龍興を攻め滅ぼすことに成功する。
だが、藤吉郎、いや秀吉と名前を変えた木下秀吉はうかない顔だった。
「いかがなされました?旦那様?」
「………わしの働きは何であったのかのう?おかか。」
「どうされた?」
「あれだけ活躍したのに信長さまは褒美もくれにゃあで。わしは出世もできんでえら」
「まあ、出世がなんですの?出世より、お前様には思う存分働いて思う存分元気に生きてくだされば、怪我や命がなくならなければ、わたしは満足ですよ。私も強くなります。それではダメなのですか?」
「しかし……出世せんでば意味がないでちょ。頑張って報われなければ駄目だがね」
「お前様!お前様は織田信長公をすきになったとおっしゃった。そのすきな殿を疑われる気ですか?!」
「……いや、信長様は信じちょうでよ。じゃが…」
「ならば励みなされ!かりにも御屋形さまを疑うとは何事ですか?!」
「…おかか。」
「懸命に励めば絶対にその努力は報われる。後のことはこの寧々がやりますゆえ。」
「……おかか。」秀吉は思いを変えた。気づいた。そうだ、わしにはこのおかかがおる!
「わかった!おかか、御屋形さまを信じて頑張ろう!よういった!それでこそわしのおかかじゃ!」
 秀吉は大声で笑った。

利家は妹のようなまつを可愛がった。しかし、寧々に懸想(ラブ)していたという。「しかし世の中わからん。何で寧々殿はあんな猿顔の秀吉などいいんだ?わしのほうが顔はいいのに」利家はまだ少女のまつに愚痴った。子供の頃から荒子城で居候のように育ったまつは「苦労人」である。「好きになるのに理由などありはしません。利家さまにはわたくしがおるではありませんか。それともわたくしでは不服ですか?」  
 利家は只、納得したように頷くしかない。「不服ではないがのう…」
 かくして、秀吉は寧々と結婚した。結婚式は質素なもので浪人中の利家とまつ(利家二十二歳、まつ十二歳、2男9女に恵まれる)と一緒であった。利家はまつを見た。あのあどけない幼女だったまつが、こんなに可愛い娘になり、嫁になってくれた。利家は嬉しかった。本当に。心よりの底から。
  信長が清洲城で酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」
 家臣たちは意味がわからず顔を見合わせたという。

  利家の父・前田利昌が死んだ。知らせをきいた利家だったが、戦の準備で葬儀に出席できなかった。そこで、利家は神社で号泣しながら、信長に「御屋形様! 『敦盛』を! わたくしめにみせてくだされ!」と嘆願した。
 信長は「誰か死んだか?」と尋ねた。利家は答えず、涙をぼろぼろ流し続けた。
 信長は『敦盛』を舞いはじめた。
 ……人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり、一度生をえて滅っせぬもののあるものか………
  それは、信長からのレクイエムだった。利家は只、号泣するのみ、だった。

『あなそれ』波瑠演じる美都に「天罰下る」!? 第9話“中傷ビラばら撒き”シーン視聴者熱狂

2017年06月14日 19時02分31秒 | 日記
































『あなそれ』波瑠演じる美都に「天罰下る」!? 第9話“中傷ビラばら撒き”シーンに視聴者熱狂




© Cyzo 提供
 TBS火曜ドラマ枠で放送中の連続ドラマ『あなたのことはそれほど』が、6月13日に第9話を迎える。現在、3週連続で自己最高視聴率を更新中だが、最終回を目前にまだまだ数字を伸ばしそうだ。

 主人公の渡辺美都(波瑠)が、中学時代の同級生・有島光軌(劇団EXILE・鈴木伸之)との再会を機に、W不倫に溺れる姿を描いた同ドラマ。

「美都の“不倫に一切の罪悪感を覚えない”というキャラが、視聴者の間で『ヤバイ女』と話題になり、さらに美都の夫・涼太(東出昌大)の異常なほどの妻への執着が浮き彫りになったり、有島の妻・麗華(仲里依紗)の静かなる反撃が始まったことで、『続きが気になる!』と視聴者の関心を引いたようです。前週の第8話では13.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録するなど、現在3週連続で自己ベストを更新しています」(芸能ライター)

 第8話では、美都から離婚届を書くよう求められたものの、わざと書き損じて夫婦生活を継続させようとする涼太、また、麗華に不貞を暴露したことで、息苦しい日々を過ごす光軌の姿が描かれた。

「そんな中、美都は自身が妊娠している可能性に気付き、光軌に知らせるか迷う……という展開に。美都は心の中で、『子どもができたって言ったら、有島くん、どんな顔するんだろう』などとつぶやいていましたが、ネット上では『もう有島家に関わらないで!』『有島が責任取ってくれるとでも思ってんのか?』『子どもをネタにして、有島をつなぎ止めるつもりかな。最低すぎる』『美都ってホント気持ち悪い~』などと罵詈雑言が飛び交いました。視聴者が美都への苛立ちを募らせるほど、視聴率がアップしている印象があります」(同)

 また、「有島はもう麗華のことで頭がいっぱいだよね」「美都の入り込む余地なし。ザマアミロ」といった声も。さらに、美都から妊娠の可能性を告げられた涼太が、「僕の子だよ」と言い張る場面には、「怖い」という意見があった半面、その後、涼太が泣き出すと、「なんだかんだで、やっぱり涼ちゃんは可哀想だな」と、しんみりする声も多数上がっていた。

「しかし、続く第9話では、美都を中傷するビラがマンションにばら撒かれるなど、最終回前にして、ひと波乱ありそうです。前週、何かと麗華に関わりたがるママ友・横山皆美(中川翔子)が美都に接触していたため、ネット上では『皆美の仕業かな』と予想する声も多く、視聴者は『美都にどんな天罰が下るか楽しみ!』とワクワクしている様子です」(同)

 最終回に向けて、物語は大きく動くこととなりそうだ。

DVDTBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』新垣結衣星野源熱愛ベストカップル!!!

2017年06月14日 18時52分31秒 | 日記






























DVDTBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』を全話観た。


面白い!


星野源さんが童貞な訳はないが(笑)新垣結衣さんと星野源さんって考えるとベストカップルだなあと思った。


ガッキーも、三浦春馬、錦戸亮、生田斗真、岡田将生と華麗な彼氏遍歴だったが


やはり星野源さんみたいなしっかりしたひとがぴったりだ。熱愛騒動もわかる!!!

ふたりはお似合いですね。星野源新垣結衣熱愛結婚の報道を待ちわびますね。(笑)


上杉(長尾)景虎  2017年6月14日

明日は我が身! スマイリーキクチに聞く「ネットのデマ」との戦い方「経験は負のサンプル」

2017年06月13日 16時53分33秒 | 日記































明日は我が身! スマイリーキクチに聞く「ネットのデマ」との戦い方 「僕の経験は負のサンプルです」




 18年もの間、ネット上の「デマ」と闘ってきた男性がいます。お笑い芸人のスマイリーキクチさん(45)です。フェイクニュースも問題化している今、全国各地の学校を飛び回り、子どもたちに自身の体験を伝えています。講演の主眼は、いかにして「デマを広める加害者にならないか」ということ。壮絶な闘いの末に得た教訓を、聞きました。(朝日新聞デジタル編集部・信原 一貴)


なりすましが「許して」
――ネットでのデマや誹謗中傷は、なぜ始まったのですか。

 「突然です。1999年に、10年前の凶悪事件に私が関わっていたというデマが広まりました。巨大ネット掲示板『2ちゃんねる』に『人殺しは死ね』『白状して楽になれよ』などと書き込まれ、それが事務所の公式サイトの掲示板に広がりました。根拠は、私が事件のあった東京・足立区出身で、犯人たちと同じ世代ということだけです」

――拡散していくデマに、どのような思いでしたか。


インタビューに笑顔で答えるスマイリーキクチさん=竹谷俊之撮影© withnews インタビューに笑顔で答えるスマイリーキクチさん=竹谷俊之撮影
 「最初は他人事でしたね。なんだこりゃと。全く僕じゃない、僕の人物像がネットの中に存在している。誹謗中傷に対して、スマイリーキクチを名乗る何者かが『もう過去のことは許して下さい』『私にも人権があります』と書き込んですらいる。私や事務所が公式サイトで否定しても『火のないところに煙はたたない』『事件をもみ消そうとしている』と邪推される」

 「殺す、死ねといった脅迫的な書き込みや、『事件をライブでネタにしていた』といったデマも増え、やむなく事務所の掲示板を閉鎖すると、今度はCMスポンサーに『殺人犯を出すな』と苦情の電話が入るようになりました」

――冷静に考えれば、ありえない話です。

 「世間を揺るがす凶悪犯罪を起こした人間が、芸能事務所にいられるわけがない。事実ならすぐに週刊誌が書き立て、テレビなんて出られなくなる。もっと言うと、事務所がもみ消しに躍起になるほどの存在なら、俺はもっと売れているはずだと。そこになぜ気づかないんだろうと。デマを広める人は、すなわちデマにだまされやすい人です。邪推を重ね、否定する材料に目を向けない。デマを自分の頭で考え、批判的に見ることができないんです」


本当に怖かったこと
――長年のネット中傷に、よく耐えられましたね。

 「もちろん当時、怖くて身の回りを警戒しました。しかし何より怖かったのは、脅迫や中傷自体ではないんです。助けを求めた警察に、相手にされないことの方がよほど怖かった」

 「当時は警察にも、ネットに詳しい人が少ない時代でした。相談しても『書き込みだけでは捜査できない。実際に殺されたら捜査しますよ』とか、『誰もあなたのことを殺人犯だなんて思ってませんよ』とあしらわれる。もう、絶望しかありませんでした。『あなた、ノイローゼなのよ』と言われるのもつらかった。誹謗中傷を受けている立場なのに、俺は正気なのかと自問自答しました」

 「真剣に捜査してくれる刑事さんに出会うまで、9年かかりました。しかもその刑事さんは、私がデマを流された凶悪事件の捜査にも関わっていた。被害を伝えると、すぐに『これはひどいな』と。僕はデマに巻き込まれて運が悪いと言われますが、周りに恵まれました。運がいい方だったんです」


「正義感」の裏側には
――その後、特に悪質な書き込みをした19人を警察が特定し、検挙しました。最終的に起訴には至りませんでしたが、捜査に協力する中でどのような事を感じられましたか。

 「19人の名前や出身地を聞いても、全く知らない人たちでした。年齢は17歳から46歳まで、職業もバラバラ。ただ大半の人に共通していたのは、デマを信じて『正義感からやった』と供述したことです。しかし本当に正義感のある人が集団で、匿名で、誰かを追い詰めるでしょうか。『チンカス、社会のゴミキクチ』なんて書き込むのが、どこが正義なんだと」

――たしかに正義感に駆られることと、他人を「殺す」と脅すこととは、かなりの開きがあります。

 「実際、捜査が進んでいくと『離婚してツラかった』とか『妊娠して不安だった』といった本音の動機が出てきたと、刑事さんからは聞きました。ネットリンチをしたい気持ちに正義感の皮をかぶせて、自分を正当化している」

 「私は被害者なんだ、ネットにだまされたと言い出す人も多かった。2ちゃんねるの書き込みをコピーしただけだと主張した人もいました。なぜ犯罪なんだ、元の書き込みをしたヤツが悪いんだと。他人の言葉は徹底的に責任追及するのに、自分の言葉の責任はとらないのだなと恐ろしく感じました。検事さんからは起訴しなかった理由を『調書にはすぐ謝罪するとあった』と説明されましたが、そのとき、謝罪に来ていた人は一人もいませんでした」

 「ネット炎上防止の講演会などを聞きに行くと、参加者に『悪口を書いちゃダメ』と教えていることが多いんですね。しかし私を中傷した人たちは罪の意識が希薄で、そもそも悪いことをしている自覚が無かった。単に『悪口はダメ』と言って防止策になるのか、いつも疑問を感じています」


怒り感じたら「寝かせて」
――キクチさんは、子どもたちへの講演会でどんなアドバイスをしているのですか。

 「ネットにはフェイクニュースや陰謀論など、人の怒りをあおって拡散を狙う情報にあふれています。ネットの情報に怒りを感じたときほど、その情報を寝かせてくださいと伝えています。それが加害者にならない方法ですと。しかも今、その怒りはSNSなどで簡単に共有できる。共有すると、怒りは増幅します。みんな怒っている、だから俺は異常じゃ無いんだと安心できる。そうして罪の意識がないまま、他人を傷つける加害者になってしまう」

 「この事件は許せない!と思ったときこそ、すぐにツイッターなどで拡散しないでください。数日間、1週間と時間をおく。そのあいだに冷静になるでしょうし、ネットの情報もふるいにかけられて、情報の真偽が明らかになっている可能性があります」

 「そしてネットの情報を疑うこと。知名度の高いサービスでも、情報を書き込んでいるのは匿名の他人であることが多い。たとえばウィキペディアを辞書代わりに使う人も多いですが、ずっと私は自分の項目に『殺人事件に関与』したと書かれていました」

――デマを広められた被害者へのアドバイスはありますか。

 「自分は被害者で、デマを書き込む側が加害者だと明確にすることが大事です。デマを書き込まれて、それに多くの人は抵抗してしまう。何を書いてるんだばかやろうと。これでは街中の殴り合いと同じです。デマには絶対に丁寧な言葉で『そういった事実はありません』『やめてください』と対応することが大事だと思います。その姿勢を貫くことが、警察が万が一動いてくれたときにも大切になってきます」


生きることが「仕返し」
――今年3月にもブログに殺害予告のコメントがあり、NHKでの生放送出演が中止となりました。

 「消えないデジタルタトゥーですね。凶悪事件をネット検索すると、僕の名前がいまだに出てしまう。それは僕の中であきらめているというか。しょうがないなと。ただ、デマであることが知られて、中傷の数は格段に減りました。家には脅迫のコメントなどを印刷したものが段ボール4箱分くらいありましたが、ほとんど捨てました。子どもが物心ついて、父ちゃんが人殺しと書かれたものを見るのは嫌だろうなと」

 「僕の経験は、いわばインターネットの『負のサンプル』です。講演をすると、子どもたちの反応で多いのが『私なら自殺してたと思う』というものですね。耐性のない子どもがネット中傷で命を落とすなんて、あってはならないことです」

 「だからこそ僕は、生きてデマと闘おうと思ってきました。生きて、自分が幸せになること。それがネット中傷を続けてきた人たちへの、最大の仕返しになると思っています」

     ◇

<スマイリーキクチ> 1972年生まれ。1993年にコンビ『ナイトシフト』結成。1994年6月に解散し、以後はピン芸人として「ボキャブラ天国」(フジテレビ)や「爆笑オンエアーバトル」(NHK)などに出演。ネット中傷被害の経験から、講演活動のほか、YouTubeに対処方法の解説動画も掲載している。

田中角栄 闇の将軍角栄<コンピュータ付きブルドーザーロッキード事件から40年>小説2

2017年06月11日 06時33分57秒 | 日記































田原総一朗×石原慎太郎「田中角栄論」© PRESIDENT Online 田原総一朗×石原慎太郎「田中角栄論」

自身の回顧録『国家なる幻影』(2011)で田中角栄を痛烈に批判した石原慎太郎。しかし2016年、彼は角栄を『天才』と評価した……。田原総一朗と石原慎太郎。2人の論客が振り返る、田中角栄とロッキード事件、そして日本の戦後政治史とは? 対談連載『田原総一朗の次代への遺言』、今回は特別編を掲載します。
改めて、田中角栄を評価する
【田原総一朗】石原さんは、立花隆が「田中角栄研究――その金脈と人脈」を書く前に、「文藝春秋」に厳しい田中批判の論文をお書きになった。僕も読みましたが、非常に厳しい内容でした。田中批判の先鞭をつけた石原さんが、ここへきて田中角栄を評価する文章をお書きになった。これはどういうことですか。
【石原慎太郎】日本の文壇は狭量でね。僕が政治家として売れてくると、逆に作品には偏見を持たれました。たとえば『わが人生の時の時』は野間文芸賞の最有力候補になりましたが、選考委員の吉行淳之介が「こんなもの文学じゃない」って言い出した。それから、いくつかの短編を集めた『遭難者』は金丸信が起訴されて自民党が指弾されたときだったから、一行も書評が出なかった。自分で選んだ道だからしょうがないけど、自分の文学に申し訳なかったね。
ただ、政治家を辞めたら、こんどは早稲田大学の社会学の森元孝さんが『(石原慎太郎の社会現象学)――亀裂の弁証法』という、いい評伝を書いてくれました。これで俺の文学が少し救われた気がしたね。
そのお礼に森さんと会食したのです。その席で彼にこう言われてね。「石原さんの『国家なる幻影』には田中角栄さんが非常に詳しく書かれている。あなた、実は角さんが好きなんじゃないですか」。「たしかにあれほど中世期的でバルザック的(金持ちの好色漢だが異端児・バルザックとは作家の名前)な人間はいない。すごく興味があります」と答えたら、「私はあなたが一人称で書いた作品を愛読している。いっそ角さんを一人称で書いたらどうだろう」と言ってくれた。それで『天才』を書き出したわけです。
石原慎太郎が田中角栄を批判した理由
【田原】でも、もともと石原さんは田中角栄の金権政治を痛烈に批判していましたね。
【石原】角さんが総理になって最初に国政選挙があったときですよ。福田系の候補者がグループ(後の青嵐会・せいらんかい)幹部の集まりにきて「みなさんに共感しているので当選したらグループに入ります」と挨拶をしていきました。その男が「いまから公認料をもらいにいく」というので、誰かが「総裁室は4階だぞ」と教えてやると、「いや、砂防会館の田中事務所でもらいます」という。これにみんな怒ったんです。党の公認料を私的な事務所で渡すとは何事かと。
彼は砂防会館から、3000万円入った袋を持って興奮して帰ってきた。それに加えて2000万円もらったそうな。「いやあ、田中さんは偉大です」なんて言っちゃってね。結局、そいつは本籍福田派だけど現住所田中派になった。それをきっかけに僕は田中金銭批判を始めたのです。
【田原】そもそも青嵐会ができたのは、田中角栄が日中国交正常化をやったときでした。
【石原】日中国交正常化に反対したわけじゃない。反対だったのは航空実務協定。あれはめちゃくちゃでした。
【田原】どういうことですか。
【石原】交渉の中で、北京から外務省に密電が入ったんです。当時の大平(正芳)外務大臣の記者会見で、北京が手なづけた新聞記者に「台湾から飛んでくる飛行機の尾翼には青天白日旗(中華民国・台湾の旗)がついているが、あれを国旗として認めるのか」と質問させるから、必ず否定しろという内容です。当時の外務省の役人は、いまと違って腰抜けじゃなかった。「こんな実務交渉がありますか」と切歯扼腕(せっし・やくわん、歯ぎしりするほど悔しがることの意味。歯ぎしりして腕を握りしめて悔しがる・怒ることの意味)して、僕らに密電を見せてくれた。それで実務協定はいかんと思った。
大平さんは僕の先輩だけど、それから盾突くようになっちゃった。あとで大平さんの秘書から「なぜ盾突いたのか。大平先生は渡辺美智雄よりあなたに期待をしていて、俺の金脈はすべて石原君にくれてやると言ってたのに」と教えられてね。それを聞いて、惜しいことしたなと思ったけど(笑)。
田中角栄のどこがスゴいのか
【田原】石原さんは反田中だったのに、一方で田中さんに魅力を感じていた。どんなところに惚れたんですか。
【石原】包容力というかな。無邪気といえば無邪気なんだな。あるときスリーハンドレッドクラブ(茅ヶ崎市)にあるローンのコートで仲間とテニスをしたんです。みんなは昼飯を食いに玄関に入っていったけど、僕は勝手を知っているから近道してテラスから入った。すると、青嵐会の参議院の代表をしていた玉置和郎(元総務庁長官)が座っていて、こっちを見てバツの悪そうな顔をしている。玉置の表情を見て怪訝に思ったんだろうな。向かいに座っていた人がこちらに振り向いたら、闇将軍の角さんだった。
まずいと思ったよ。青嵐会は角さんに弓を引きましたからね。ところが角さんは、「おい、石原君、久しぶりだ。ちょっと来い」と手招きする。恐る恐る近づいて、「いろいろご迷惑をおかけました。申し訳ありませんでした」と頭を下げたら、角さんが遠くにあった椅子を自分で運んできて、「お互い政治家だろう。気にするな。いいから座れ」と言って、ウエイターにビールまで注文してくれた。僕もバツが悪いから、「先生、照る日も曇る日もありますから、またがんばって再起なさってください」と言ったんだけど、角さんは気にした様子もなくてね。「君、今日テニスか。俺は軽井沢に3つ別荘を持ってる。テニスコートが2つあるんだが、子供や孫に占領されてできねえんだ」と言って笑うんです。しまいには玉置に向かって「テニスはいいんだぞ。短い時間で汗かくから」とテニスの講釈まで始めた。それを見て、この人はなんて人だろうと思ったな。
【田原】なんて人だろうっていうのは、どういう意味ですか。
【石原】何というのかな、端倪すべからざる(たんげい・はじめからおわりまで計り知れない)というか、寛容というか。僕は、この人は不思議な人だと思ってしびれたね。
【田原】田中角栄は石原さんのことをどう思っていたんだろう。
【石原】買ってくれてたんじゃないかな。プロスキーヤーの三浦雄一郎っているでしょう。僕はあいつがヒマラヤのサウスコル大滑降のときに総隊長を務めたんだけど、その縁で参院選の自民の全国候補にしたんです。ただ、あいつは肉体派。候補者として不規則な生活をしているうちにノイローゼになってきた。いつだったか長野で講演会をやるというので様子を見にいったら、建物前の石畳にツェルト(小型テント)を張って三浦がビバーク(野営)していて、ニンジンをかじりながら出てきた。「何してるんだ」と聞いたら、「僕、こうでもしていないともたないんです」と。
そのうちに僕は当時幹事長だった角さんから呼び出されてね。「おい、石原君、これは何だ」と差し出されたのが、三浦から角さんへの手紙でした。そこには僕への悪口が綿々と書いてある。「石原はスポーツマンと称しているけどインチキだ」とかね。長い手紙で、ぜんぶに割り印が打ってありました。角さんはそれを見せて、「こりゃ疲れてるぞ。君がついているかぎり勝つに決まっているんだから、休ませろ」という。おまえがついていれば勝てるだなんて、この人は俺を評価してくれているんだとそのとき思いました。
田中角栄の功績は「日本列島を一つの都市圏」にしたこと
【田原】僕は、田中角栄は人間的なキャラクターだけでなく構想力も一流だったと思う。田中角栄は都市政策大綱というものをつくった。要するに日本列島を一つの大きな都市圏にしようという構想です。
【石原】角さんのおかげで日本は今そうなったじゃないですか。
【田原】そう。北海道から九州まで、どこからどこへ行くのにも1日で往復できるようになった。
【石原】日本中に新幹線と高速道路をめぐらせて、各エリアに地方空港をつくった。それはやはりすごいことですよ。われわれは角さんのつくった現実の中にいる。ヘーゲルは「歴史は他の何にも増しての現実だ」と言ったけど、私たちは現代という歴史の中で生きているのだから、角さんをとても否定できませんよ。
【田原】いまの日本をつくったのは、田中角栄の構想力ですか。
【石原】文明史「勘」だと思う。あの人の、先を見通す力はものすごかった。
【田原】田中角栄は法律を議員立法で33もつくった。これもすごいね。
【石原】すごいですよ。僕は大田区の選出だから、中小零細企業を抑圧する下請け契約を監視する経済Gメンをつくったらどうかという法律を議員提案したことがある。自民党の中では「お前は社会党より左だ」と言われたし、労働組合に持っていったら総評(日本労働組合総評議会)も同盟(日本労働組合総同盟)も両方とも反対した。結局みんな企業側だから、けんもほろろに言われた。議員提案はとても難しいんだ。
【田原】なるほど、石原さんは総評や同盟より左だったんだ(笑)。
【石原】そう言われたね。それから角さんとの絡みでいえば、選挙権を18歳に下げようというキャンペーンもダメだったな。前にキャンペーンをやったことがあって、角さんが幹事長で僕が参議院にいたころ、もう一回、やろうとしたんです。それで「自民党の講堂を貸してください」と頼んだら、「ダメだ」と一笑に付されました。
【田原】なんでダメだったんですか。
【石原】角さんには、「選挙権なんて20歳でも早過ぎるんだよ。あんなの未成熟じゃないか」と言われましたね。いま振り返ると、18歳は反権力、反権威で、自民党のためにならないと思ったのかもしれないけど。
ロッキード事件の最高裁判決はおかしい
【田原】石原さんはロッキード事件をどう見ますか。
【石原】僕は参議員のころから国会議員でただ一人、外人記者クラブのメンバーでした。あのころ古いアメリカ人の記者たちといろんな話をしたけど、連中は異口同音に「あの裁判はおかしい。なぜコーチャン、クラッターに対する反対尋問を許さないのか。免責証言なんてアメリカでも問題になっている」と言っていました。あれはやっぱり日本の裁判にとって恥辱。最高裁は謝罪すべきです。
【田原】僕はずいぶん詳しく調べたけど、少なくとも検察の言っている5億円の場所、日時、全部、間違いだね。
【石原】あれは検事の書いた小説。角さんの秘書の榎本(敏夫)がサインしちゃったけど、わけのわからない話だった。それよりロッキード社に関しては、他にもP3C対潜哨戒機(対潜水艦用の航空機)の導入をめぐる疑惑があったでしょう。ところがP3Cの問題は、児玉誉士夫がつぶしてしまった。
【田原】僕はテレビ朝日の『モーニングショー』に秘書の榎本を呼んで証言させて、2日間、ロッキード事件をやったの。2日目の終わりに「明日はP3Cをやる」と宣言したら、僕とプロデューサーは三浦甲子二(元テレビ朝日専務)に呼ばれて、「絶対P3Cは許さない」と言われた。「それでもやる」って言ったら、「それなら番組をつぶす」とまで言われたよ(笑)。話を戻すと、ロッキードの裁判はおかしかった。石原さんは訴えますか。
【石原】最高裁が間違いを認めることで角さんは浮かばれますよ。俺の本が売れたぐらいじゃどうにもならないけど、あの人の贖罪はしなくちゃいけない。だからあなたも協力してください。
【田原】そうね。ぜひ。
【石原】当時、あの裁判のことで世間に盾突いたのはあなたと渡部昇一だけだった。あなたが角さんと対談するときの話もおもしろかったね。
【田原】目白の田中邸に行って1時間待たされて文句を言ったら、秘書の早坂茂三から「実は昨日、親父から『田原についての資料を一貫目、集めてくれ』っていわれて、いま読んでる」と言われた話ですか。
【石原】普通はあなたがインタビューするんだから、あなたが読む。それなのに逆に「一貫目、買ってこい」って、このあたりが角さんのおもしろいところだね。
福田赳夫との角福戦争
【田原】もう1つ、田中角栄といえば福田赳夫と角福戦争をやった。石原さんは福田赳夫のほうの清和会だった。石原さんから見て、この2人はどうですか。
【石原】福田赳夫なんて問題にならないね。つまらないよ。
【田原】だって福田赳夫の子分じゃないですか。
【石原】いや、子分じゃないですよ。あの人は僕が角さんとやり合ったものだから変に評価してくれて、閣僚にしてくれたけど。
【田原】亀井静香がおもしろいことを言ってました。「田中派というのは軍団で、金もくれる。当選回数があったら、ちゃんと役員や大臣にしてくれる。福田派は、単なるサロンだ」と。
【石原】そうだろうね。僕は福田さんから金をもらったことは一度もない。
【田原】もらっていないの?
【石原】絶対にもらっていない。何人かで福田邸にいったとき、福田さんにみんなに小遣いだといって100万円ずつくれたんですよ。僕は、もらう筋がないから断った。そうしたらおべっか使いの藤尾正行(元文部大臣)が怒って、「なんでもらわないんだ。お前の分を取ってくる」という。「それはやめてくれ」と言って先に帰ったよ。
それからダッカのハイジャックがあったときも福田さんは逃げちゃった。あのとき夜中の2時に閣僚緊急会議があって、僕は「ミュンヘンオリンピックの事件の後、日本もSWATみたいなものをつくったと聞いたけど、本当ならダッカに送り込んだらどうですか」と提案したんだ。すると、官房長官の園田直さんが「ここだけの話だが、実は特別の公務員が20人いくことになっている」と答えで、福田さんも「ほう、ほう」と相槌を打っている。ところが、これはぜんぶウソで、ダッカに行ったのは犯人の面わりに言った公安の刑事3人だけだった。それで「人間の命は地球より重い」といって犯人の要求を飲んだ。みんな騙されたんだよ。
【田原】当時、田中派は汚れたハト、福田派はきれいなタカという言い方があったけど、どうでした?
【石原】そうなの? いや、福田さんはタカじゃなかったな。ただのハトだよ。悪いけど、僕は福田さんに敬意を感じたことはないな。
安倍晋三のいいところはどこ?
【田原】最後に聞きます。石原さんがいまの田中角栄ブームに火をつけたわけだけど、いまどうしてこんなに田中角栄がウケるんだろう?
【石原】ノスタルジーじゃないですか。日本の政治が狭くなってきたからね。安倍君は安倍君でよくやっているけど、民進党の岡田克也っていうのは何ですか。財閥の息子にしちゃシャビー(みすぼらしい・古めかしいの意味)で暗い。あれじゃダメだよ。
【田原】安倍晋三はどうですか。清和会だから石原さんの後輩になる。彼は自分のことを頭がいいと思っていなくて、人の意見をわりによく聞く。これが彼の一番いいところだと思う。
【石原】私の主治医で日本一の救急病院をつくった先生がいるんですが、あるときその人が自衛隊の看護体制はなってないというんですよ。話を聞いてもっともだと思ったから、まず菅義偉君に紹介したの。そうしたら内閣官房の参与になってね。このまえも安倍君がその先生から15分、話を聞いたそうです。これは本気でいろいろ考えている証拠でね。そういう意味では篤実な男だと思いますよ。
なぜいま、田中角栄のような政治家は出てこないのか~田原総一朗
田中角栄のすごいところは2つあります。1つは構想力。1967年に社会党と共産党に支持された美濃部亮吉が東京都知事になりました。それと前後して、神奈川、大阪、京都、名古屋が革新になった。それに危機感を持った田中角栄は、「中央公論」に「自民党の反省」という論文を書きました。
解決策として提示したのが、「日本列島改造論」の下敷きになった都市政策大綱です。日本は太平洋側だけ発展して、日本海側や中日本は取り残されていました。そこで田中角栄は日本を1つの都市にしようと構想しました。具体的には全国に高速道路と新幹線を張り巡らし、各都道府県に空港をつくり、日本の4つの島を橋とトンネルで結び、日帰りでどこでもいけるようにする。そうすれば企業も分散するというわけです。
もう1つは、人間としてのキャラクターです。石原さんも言っていましたが、田中角栄は誰でも受け入れるスケールの大きさがありました。たとえそれが敵対する相手でもです。
昔の自民党は、そうした懐の深さがありました。当時、自民党は田中派と大平派がハト派、福田派と中曽根派がタカ派で、どちらかが主流派になれば反対の派閥が非主流派になってバランスがとれていました。党内で活発な議論をしていたから、当時、野党に関心を持っている人はいなかったですよ。
ここにきて角栄ブームが起きているのは、いまの政治に構想力が足りないせいでしょう。アベノミクスは、第1の矢の金融政策と、第2の矢の財政政策が奏功して株価が上がりました。しかし、第3の矢である成長戦略のための構造改革は進んでいない。構造改革は改革したあとの世界をどうするのかという構想が必要なのに、そこを描き切れていません。もしいま田中角栄がいたら、何かしら新しい構想を打ち出して国民に見せていたでしょう。
どうしていま田中角栄のような政治家が出てこないのか。それは政治家が守りに入ったからでしょう。田中角栄は何もない焼け野原から出発しましたが、いまの政治家は守るものがあって、チャレンジしないのです。
その中でも安倍晋三はチャレンジャーだと思います。誰もできなかった改憲をやろうとしているのだから。ただ、彼は昔の日本に戻そうとしているだけで、やはり新しい構想はない。
そういう意味では、小泉純一郎もチャレンジャーでした。あるとき中川秀直と飯を食べていたら、「いま小泉純一郎が総裁選に出ようかと迷っている。どう思うか」と聞かれました。僕は「田中派と喧嘩するつもりがあるなら支持する」と答えました。当時総理だった森喜朗は竹下登が全面的に支持していたし、その前の小渕恵三、橋本龍太郎は完全に田中派でしたからね。そうしたら中川秀直が階下から小泉純一郎を連れてきた。「本気で喧嘩すると暗殺される可能性があるよ」と言ったら、小泉は「殺されてもやる」と言う。それで僕は支持したのです。
彼は言葉の天才で、選挙では田中派を潰すと言わず、「自民党をぶっ壊す」と言った。それで支持を得て、本当に田中派を潰してしまいました。
いま僕はそれを半分失敗だと思っています。というのも、田中派が弱くなり自民党内のハト派が存在感をなくしてしまったから。安倍晋三が改憲を言い出しても党内で反対意見が出てこないのは、いいことではない。この状況への危機感と、昨今の角栄ブームは無関係ではないでしょう。
自民党は、新しい構想を持ったポスト安倍をそろそろつくるべきです。ただ、いまは見当たらないから困る。小泉進次郎はセンスがあるけど、世代交代にはまだ時間がかかります。そのあたりが自民党の、そして日本の政治の課題でしょう。


 なお、ここから「ロッキード事件」に迫りますが、参考文献資料の第一部はNHK未解決事件File.5ロッキード事件(NHK第一部第二部 実録ドラマ2016年7月23日(土)放送分19時30分~20時23分・21時00分~21時58分)(NHK第三部ロッキード事件ドキュメント放送分2016年7月24日(日)21時00分~21時58分)です。
著作権はNHKにあるものと思いますがどうか引用をお許しください。参考文献・参考資料です。また第二部として田中角栄の人生を小説という形でお読みいただきます。こちらの参考文献は津本陽氏著作『異形の将軍 田中角栄』石原慎太郎氏著作『天才』からです。
引用であり無断盗用でも盗作でもありません。裁判とか勘弁してください。
 またこのドキュメントに登場する人物表(キャスト)を引用しておきます。
「東京地検特捜部」本部長・高瀬禮二(東京地検検察長)、副部長・豊島英二郎(次席検事)、捜査統括・川島興(特捜部長)、主任検事・吉永祐介(特捜副部長)、石黒久暤(本部長)、堀田力(つとむ、検事)、村田恒(検事)、松尾邦弘(検事)、小木篁國隆(検事)、松田晃(検事)、山邉力(検事)、安保賢次(検事)、田山太一郎(事務官、アメリカに極秘資料受け取りに)、水野光昭(事務官、アメリカに極秘資料受け取りに)。
「検察庁」最高検察庁・布施健(検事長)、最高高等検察庁・神谷尚男(検事長)、法務省・安原美穂(刑事局長)。
「政治家」三木武夫(総理・内閣総理大臣)、田中角栄(前首相)。
「商社・丸紅」檜山廣(会長・社長)、大久保利春(専務)、伊藤博(専務)。
「戦後最大のフィクサー・黒幕」児玉誉士夫(こだま・よしお)、妻・児玉蓉子、主治医・喜多村賢一、公設秘書・太刀川恒夫、児玉の通訳・福田太郎。
「ロッキード社」アーチボルド・コーチャン(副会長・社長)。
「NHK社会部報道部」伊達孝雄(記者)、大原浩藏(社会部ディスク)。他

「事件の年表」
    1976年(昭和51年)
      2月4日  米国上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会でロッキード社
           が航空機売り込みのための対日工作を証言
           「ピーナッツ100個受領」の領収書公表
      2月6日  ロッキード社コーチャン副会長が「丸紅・伊藤博専務に支払った
           金が政府高官に渡った」と証言
      2月16日 衆議院予算委員会で証人喚問が始まる。(「記憶にない」)
      2月24日 検察庁、東京国税局、警視庁の三庁合同で丸紅本社や児玉邸など、
           27か所を一斉捜索。三木武夫首相、フォード米大統領に資料の
           提供を求める書簡送る
      3月1日 衆議院予算委員会で第二次証人喚問(「まったく記憶にない」)
      3月4日 児玉誉士夫の臨床取り調べ開始
      3月13日 児玉を約8億5374円分の所得税脱税で起訴
      3月23日 児玉邸に小型機が自爆攻撃、操縦していた自称右翼の男が死亡
      3月24日 米国から資料提供に関する日米司法取り決め調印
      4月2日 田中角栄前首相、田中派の「七日会」事情聴取で「脱会」表明
      4月10日 米国より資料が検察庁に到着
      5月10日 児玉誉士夫、外為法違反で追起訴
      5月13日 自民党の椎名悦三郎副総裁、田中角栄前首相、大平正芳蔵相、
          福田赳夫副総裁が“三木(首相)おろし”を画策判明
      6月10日 児玉の通訳、福田太郎が死亡
      6月22日~7月 特捜部、丸紅、大久保利春、伊藤博、
              全日空、澤雄文会長や専務を外為法違反で逮捕
      8月2日 田中前首相の私設秘書兼運転手・笹原政則自殺
      8月16日 田中や丸紅・檜山、大久保、伊藤を贈収賄で起訴(田中逮捕)
      8月17日 田中前首相、釈放(保釈金2億円)
    1977年(昭和52年)
      1月21日 小佐野賢治を偽証で起訴
      1月27日 丸紅ルート、第一回公判(「記憶にございません」)
    1981年(昭和56年)
      1月26日 児玉ルートで小佐野賢治懲役一年(控訴)
      6月8日 全日空ルートで橋本登三郎服役2年6か月執行猶予3年追徴金
600万円(控訴)
           佐藤孝行服役2年執行猶予3年追徴金200万円(控訴)
    1983年(昭和58年)
      10月12日 丸紅ルート、田中角栄懲役4年・追徴金5億円(控訴)
            檜山、大久保、伊藤ら懲役2年6か月執行猶予4年(控訴)
    1984年(昭和59年)
      1月12日  児玉誉士夫死去につき公訴棄却(脳梗塞)
    1986年(昭和61年)
      11月12日  小佐野賢治死去につき公訴棄却(病死)
    1990年(平成2年)
      2月13日  橋本登三郎死去
    1991年(平成3年)
      12月17日  大久保利春死去
    1993年(平成5年)
      12月24日  田中角栄死去
    1995年(平成7年)
            最高裁結審(上告棄却)有罪確定(ロッキード事件全裁判終了)



 それは一通のテレックス(FAX)から始まった。
“アメリカ公聴会でロッキード社から日本の政府高官に多額の賄賂金受領をコーチャ副会長兼社長が認めた”
この情報で、日本国中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。まさに寝耳に水。
戦後の日本史に大きなインパクトを与え、燦然と輝かしいばかりのカリスマの光を放った男がいる。その男の名は田中角栄。日本政治史上高等教育も受けない身分ながら若くして要職大臣を歴任し、遂には日本の内閣総理大臣にまで登りつめた男である。
そして首相として初めて逮捕までされた男でもある。田中がもらったとされる金は5億円。戦後最大の疑獄ロッキード事件である。小学校しかでていない男、なのにその巨大な集金力と金の力とカリスマが現在、見直されている。
「あんな凄い政治家はいない」「まさに天才」「お金儲けの天才」「天才政治家」今や昭和を代表する人物の人気ナンバーワン(①田中角栄②吉田茂③昭和天皇④マッカーサー元帥)。
そのカリスマ性と出世や社会的成功から、一塊の農民から天下人になった豊臣秀吉にたとえて“今太閤(いま・たいこう)”“コンピューター付きブルドーザー”“キングメーカー”“闇将軍”とまで呼ばれた角栄。今や空前の角栄ブームである。吉田茂を超えた角栄…
最後まで身の潔白を主張したまま亡くなった田中角栄。田中角栄とロッキード事件。
ロッキード(トライスター)から丸紅を通して田中に5億円渡ったという“丸紅ルート”。
ロッキード(トライスター)から全日空を通して2億円が渡り、政府高官へと流れたという“全日空ルート”。しかしそれだけではなく、ロッキード社からの21億円入手ルート(児玉ルート)は未解決のまま。21億円ものお金の渡った場所や政府高官名さえ、わからなかった。東京地検の600点を超す極秘資料の存在が明らかになった。
特捜の鬼・吉永祐介(故人・2013年死去)が密かに記していたものである。
当初、検察は田中角栄とは別の人物を徹底的にマークしていた。
昭和の怪物・闇のフィクサー児玉誉士夫(こだま・よしお)である。児玉に21億円が渡り(児玉ルート)その金が政府高官に渡ったとされる未解決事件…
また児玉は軍用機の交渉にもあたっていたともいう。事件から40年。あの熱狂の中、田中角栄逮捕という謎に迫る資料を基にしたドキュメントである。

“あの事件は日本にはびこる闇のほんの端っこに過ぎない。ただ、あれ以上は触れられない”(元・特捜検事)


【陰謀論】淫行の小出恵介に「ハニートラップ説」が浮上<淫行未成年者飲酒性行為>

2017年06月09日 19時49分39秒 | 日記































【陰謀論】淫行の小出恵介に「ハニートラップ説」が浮上




未成年との飲酒及び不適切な関係が発覚し、無期限活動停止を発表した俳優の小出恵介さん。本日2017年6月9日、今回の件をスクープしたフライデーが発売され、新情報が続々と明らかになっている。

詳細についてはフライデーをご確認いただきたいが、いまネット上でにわかに囁かれているのが「ハニートラップ説」である。その声は決して少なくなく、中にはハニートラップだと確信しているネットユーザーもいるようだ。

・新情報が続々と発覚
この事案が発覚した時点では「未成年との飲酒及び不適切な関係」だけしか判明していなかったが、一夜明けた今日、続々と新情報が舞い込んできた。フライデーによれば、お相手は交際していた女性ではなかった点も、狩野英孝さんとは違うポイントである。

そして最も衝撃的だったのは「女性の同意があったのか微妙」ということだ。こればっかりは真実を確かめようがないが、フライデーで証言している女性のコメントを読む限り同意があったのか疑わしいと言わざるを得ない。ざっくり言えば、女性は被害者として登場している。

だがしかし、ネット上の動きは早く、お相手女性のSNSアカウント及び、女性が友人と「小出恵介さんと寝た」と発言したとされるメッセージが発覚するなど、新情報が次々と浮上している。女性のSNSアカウントやメッセージが本物なのかは不明だが、ネット上では「必ずしも女性が被害者ではないのでは?」という声が多いのだ。

そんな状況から発展し、にわかに囁かれているのが冒頭でもお伝えした「ハニートラップ説」である。ネット上ではハニートラップ説について以下のようなコメントが相次いでいるのでご紹介しよう。

・ネットの声
「小出恵介ハメられたな」
「これは典型的なハニートラップ」
「本当に女性は被害者なのか?」
「そもそもどうやってフライデーはスクープしたのか?」
「もちろん女性はフライデーからお金もらえるんだよね?」
「うーん、誌面に書いてあることが全てだとは思えないな……」
「てか、完全に女性は合意してるんじゃない?」
「写真見る限り、女性が嫌がっている風には見えない」

中には「フライデーに掲載されている男性が全て仕組んだ罠」などの声もあるようだ。

この件はあくまでネット上の噂なのでもちろん真偽は定かではない。だがしかし、例えばツイッターで「小出恵介 ハニートラップ」で検索すると、膨大な量の情報がヒットすることは紛れもない事実である。そして、小出さんと女性に関係があったこともまた事実だ。

参照元:フライデーデジタル
執筆:P.K.サンジュン
イラスト:マミヤ狂四郎
Photo:RocketNews24.

橋本環奈『彼女とデートなう。に使っていいよ*笑』超絶!天使すぎる橋本環奈写真

2017年06月07日 12時55分10秒 | 日記
































橋本環奈


『彼女とデートなう。に使っていいよ*笑』


超絶!天使すぎる橋本環奈写真