緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

ショパン 神からの旋律ショパンCHOPINフレデリク・ショパンの真実ブログ連載最新版4

2017年04月30日 08時20分25秒 | 日記































 ウィーンにおけるぼくの生活を、多くのひとが「無為の期間」と呼ぶ。
 それは明らかに正しく、正確かも知れない。実際、ぼくはその「無為の期間」を、無気力なまま生活した。その八カ月は、惰性で生きていたような気もする。
 今思えば、本当に「無意味」な時期だった。惰性の時期だった。
 はっきりいって、ぼくはウィーンを最初の訪問地に選んだ。が、そこでダメだった場合どうするか?……それを考えてもいなかった。必ず、ウィーンにいけば成功すると確信していたからだ。
 だが、現実はそうはならない。
 じゃあ、何処へ……?ぼくはパリ行きを考えた。両親やティテュスらはぼくをイタリアにいかせたかったようだが、混乱の中、ヴィザをとるのが困難であった。
 とにかく、ぼくはパリに行くことに決めた。
 フランスは、当時のポーランド人にとって希望の象徴だった。
 フランス革命の自由の思想が彼らを導いており、三国干渉に対抗してポーランドの独立運動を助けるのはフランス以外ないと思われたからだ。事実、暴動の失敗で、こと破れた人々はパリに亡命した。しかし、結局フランスはぼくになんの支援もしなかったし、暴動も傍観した。ぼくはそれにたいして激しく失望し、呪った。
 だが、ぼくは結局パリに行った。
 漸く音楽をリードしようとしていたドイツ人とぼくとの間に軋轢があったこともある。それも原因のひとつだ。
 ぼくがウィーンを発つのはこの年の七月である。
 この時、ぼくはロシア大使館(ぼくは正式にはロシア国籍)で、パスポートのことでごたごたがあったが、結局パリにいくことになった。
 大使館員は、
「ポーランドへ帰ったら?」
 と言った。ぼくは、(帰ったら殺されるので)「それは出来ません」と言った。
「なぜ?」
「……」
「じゃあどこかへ行くのか?」
「はい。フランスにいきます」
「何しに?」
「音楽活動です」ぼくは答えた。それでまたごたごたが起こったが、結局”糞ったれの”ロシア人は承諾した。

「無為の期間」と呼ばれる通り、ぼくがウィーンで制作した作品はあまり多くない。ワルツや歌曲などの小品がほとんどである。しかし、ぼくの代表作ともいえる、「スケルツォ第一番」ロ短調と「バラード第一番」ト短調を作っていることに注目してもらいたい。
「革命」もこの頃生まれている。
 これで、”創作活動では低迷”といえるだろうか?
 出来ることなら、ぼくの心の中に渦巻いている盲目で狂暴な感情に呼びおこされたすべてのひびきをつかって音楽をかいてみたい。ぼくはそう強烈に思う。
 それは、ぎらりと光るような感情だ。それは確実に、しんと光る満月ではない。
 ぼくはやっと太陽になったのだ。

  ぼくはザルツブルグを発ってミュンヘンにいったが、そこで(父親から送られてくるはずの金が届かないので)しばらく滞在し、八月末には演奏会も開いた。そして、その十日後にシュトゥットガルトに着いた時、革命軍の敗北とワルシャワ陥落の報を知った。
ぼくは激しく動揺し、悲しみと無力感に苛まれた。
 ぼくは絶望的な気持ちのまま、手記をしたためた。
 それは、以下のような内容だ。

”…シュトゥットガルトのあちこちの塔の時計が真夜中をつげている。この瞬間にどれだけ多くの人が死体になることだろう。……ワルシャワの郊外は焼かれてしまった。ヤシウはどこにいるのか。ヴィルヘルムはきっと城壁の上で死んだだろう。マルセルは捕虜になったか。神よ、あなたは本当においでなのですか。あなたは復讐はなさらないのですか。モスクワ人たちの犯罪をまだ見足りないのですか。あなた自身がモスクワ人なのですか。……ぼくは一人でここにいる。何もできない。神よ、地球を揺り動かし、いま世に生きるものをそのなかにのみ込ませて下さい。私たちを救いに来ないフランス人を、かぎりなく残酷な苦痛で悩まして下さい……”

 ぼくは絶望し、無力感に苛まれた。そして、ひとり頭を抱え、うつぶして、自分の部屋でおいおいと泣いた。
「ぼくは何も…できない」
 ぼくは涙ながらに独り言をいうことしか出来なかった。               
         パリへ




  ぼくが着いた頃のパリは七月革命後のルイ・フィリップ王政下にあった。
 そこでは、依然として現状打破を声高に叫ぶ革命派と、現状維持の保守派による対立が続いていた。ぼくはそういうのは苦手なので、関わらなかった。
 パリにも、ロマン派の波が押し寄せていた。そのひとつが一八三〇年『エルナニ』(ヴィクトル・ユゴー)やドラクロワの絵画、そして、ベルリオーズの『幻想交響曲』をあげることが出来るであろう。
 ぼくもしだいにそういう動きのなかにのみこまれていくことになる。が、ロマン派の波というものがそんなに強烈だとは、その時のぼくは考えもしなかった。
 ただ、この西欧の大都市の喧騒に圧倒され、自分自身の志をあらたにするしかなかった。「必ず成功しなくては」
 ぼくは心の中で、何度もそう誓った。
 ………必ず成功しなくては!そうでなきゃ終りだ!

”それは最大の美徳であり、また最大の悪徳でもある。一歩あるくごとに性病の薬の広告にぶつかる。騒音や馬鹿騒ぎなど、想像をはるかに越えている。ひとはその「天国」のなかに姿を没してしまうが、それはなにより好都合だ。他人がどんな生活をしているか誰も知りもしないのだから”



 ぼくは、パリの北の地区にあるポアソニエール大通りに「しんと光るような小さな部屋」を借りた。そこは五階にあって、見晴らしがすごくよかった。
 モンマルトルからパンテオンまでパリの一番綺麗なところが見渡せる、信じられない程魅惑的なところだった。
 空は一面のブルーだった。
 そんな青に、ふわふわと雲がゆれて、ほんわりした陽の光りが窓から差し込む。それは幻想的なような景色だった。
 そう、幻想、だ。
 そういうしんと光るような風景は、目の前の不安を少なからず和らげてくれた。
 ぼくは思う。
「……この空はすべての始まりだ」って。
 ぼくは、都会の喧騒の中で、ひとりの芸術家として生きる意味について深く考えた。
 そして、
「ぼくは、必ず成功する」と念じた。それは、マインド・コントロールであった。というより、自己暗示か?とにかく、ポジティヴに考えた。…心の中で。ひっかかるものがないとはいいきれないまでも、とにかく念じた。
「ぼくは、必ず成功する」と。いや、
「成功しなければならないのだ」
 と。

  ぼくを迎えたのは、旧知のラジーヴィウ公爵や、美しいデルフィーヌ・ポトツカ伯爵夫人、そして祖国を追われていた愛国詩人ミツキェヴィチなどのポーランド人だった。
「やあ、ショパン君」
「こぶさたしてます」
 ぼくらは握手を交わした。
「…無事でなによりだ」ラジーヴィウ公爵は笑顔を見せた。
 それから、ワルシャワやウィーンで得た多くの紹介状のおかげでパリの有名な音楽家たち、ロッシーニ、ケルビーニ、パエールなどにも会うことができた。
 しかし、この大都会ではそうしたことは音楽家としての道を開く要因にはならなかった。ただ、会っただけで、”顔みせ”の意味くらいにしかならなかった。
 けして、しんと光るような出会いではない。
 そんなに簡単に光るもんか!
 ぼくが本当に関係をもったのは、当時のピアノの巨匠カルクブレンナーだった。彼はぼくの演奏会をきいて興味を示し、
「君はフィールドの弟子か?」
 と、尋ねた。
「いいえ、違います」ぼくは答えた。
「では誰の弟子だ?」
「ぼくは誰の弟子でもありません」
 ぼくはにこりと言った。
 ぼくの方でもカルクブレンナーのひくピアノに強く魅かれた。
 カルクブレンナーは当時の大家に違いないが、当時の新しい音楽の風潮の中ではいささか時代遅れ……とみられていた。でも、ぼくはそんな風には思わなかった。
 カルクブレンナーは「誰にもくらべられぬほど素晴らしい」そして、「その静かで魅力的なタッチ、比類のない均整感」は神懸かりのように素晴らしい。
 それに比べて、ウィーンできいた若い人気ピアニスト、タールベルクの弾くピアノはあまりいいものではなかった。ひとことでいうと、
「華やかだが、内容に乏しい」のだ。
 その点、カルクブレンナーは「誰にもくらべられぬほど素晴らしい」。




  パリにきてしばらくしたある夜…。
 ぼくはカルクブレンナー氏の邸宅に招かれた。
 月が高く、漆黒の闇が広がり、ときおり月明りが差し込んで辺りをしんと光らせていた。とても静かな夜だった。すべてを包み込むような夜だ。
 ふわふわとした夜だ。
 カルクブレンナーは、
「君はもっと基本を学ぶことだ」とぼくにいった。
「基本ですか?」
「うむ」カルクブレンナーは続けた。「すべては基本が大事なのだ。家を建てるのでもそうだろう?土台がきっちりしてなくて曲がってたりひびがはいったりしたら潰れてしまう。音楽もしかり。基本さえしっかりすれば演奏も魅惑的になる。
 ショパン君、君の演奏は素晴らしい。しかし、私について基本を学べばもっとすごい演奏……聴衆を感動させられるような演奏ができるのだ」
「……聴衆を感動…ですか?」
「うむ。私と三年間一緒に勉強しないか?」
「三年間?」
「うむ」
「………わかりました。考えておきます」
 ぼくは答えた。そして、悪くない、と思った。
 しかし、父さんにそのことを伝えると、父さんとエルスナー氏はかなり厳しいことをいってきた。要するに、ぼくは騙されている……というのだ。
 エルスナー氏は、
「自分の才能の命ずるところに従うべき」だといい、また、
「演奏家であるよりも、作曲家としての道を歩め」
 と言った。
 ぼくはよくよく考えて、その忠告に従ったが、カルクブレンナー氏への信頼の気持ちはかわらなかった。ぼくは、
『ピアノ協奏曲』ホ短調
 をカルクブレンナー氏に捧げた。
 カルクブレンナー氏は、普段はごく普通のひとだが、ピアノを演奏している時は神仏のようにしんと光り輝く。ぼくはそこに魅かれた。

  パリでのデビュー演奏会は、その年の十二月二十五日に予定されたが、都合で翌年に延期され、カルクブレンナー氏の突然の病気などで、やっと二月二十六日に実現した。
 それは、本当にやっとのことだった。
 場所はカデ通りのサル・プレイエルで、プログラムには「声楽・器楽大演奏会」と印刷されていた。当時はいわゆる独奏会は例外的にしかおこなわれておらず、器楽の間に歌や踊りが入るのが普通だった。
 ほくはこの演奏会でヘ短調の協奏曲と『ラ・チ・ダレム・ラ・マーノによる変奏曲』を弾き、聴衆にも快くうけいれられた。それは、新しいロマン派の勃興の時代が到来したというような評価をうけた。それは多分当たりだろう。ぼくはそう思う。
 演奏会が終わると、ぼくは拍手を背に楽屋に戻った。
 そして、ジュースを飲んだ。
 喉が乾いていたし、とても美味しいジュースだった。確か、オレンジ・ジュースだったかな?よく覚えていない。
 楽屋で帰り支度をしていると、若い青年らが訪ねてきた。
 それが、リストとメンデルスゾーンだった。彼等も、ぼくとともに同年期としてロマン派音楽をリードする人物たちであり、ぼくの演奏に”なにか”を発見したようだ。
 それは嬉しいことで、リストとメンデルスゾーンは、
「君を尊敬する」
 と言ってくれた。ぼくはもちろん嬉しかったし、きらきら光る友情のようなものを微かに感じた。それは運命だったのかも知れない。
 陳腐だが、そう思う。
 なぜなら、この後、リストとメンデルスゾーンとは親友同士になったのだから。


  パリでのリサイタルは基本的には「成功」だった。
 だが、その成功が音楽家としてのぼくの生活を保証したことにはならなかった。ぼくの演奏も作品も評論家筋には高く評価されたのだが、一般聴衆に大ブームを巻き起こすようなことはなかった。
 オペラ一辺倒の人々にとっては、ぼくの演奏はいささか繊細過ぎて聞きずらい…というようなことでどうもあったらしい。
 確かに、ぼくの演奏は、リストのような派手さで聴衆を圧倒するものでもなければ、タールベルクのように安易な抒情性でひとを喜ばせるようなのではない。そういう意味において、ぼくの繊細なピアノの調べは「うけいれるのに手間がかかる」といったところだろうか?なんにしても、ぼくは限られた聴衆しかもつことができなかった。
 それにしても、ぼくは一八三〇年代の前半には多くのリサイタルをやった。にも関わらず、生活はジリ貧だった。金が儲からず、客が来ず……悲惨な日々が続いた。
「……くそったれめ!」
 ぼくはひとり、舌打ちした。なんてことだろう!所持金がなくなってきて、ズボンの破けたのも直せず、靴もすりきれてきた。食べ物も少なく、病気がまた悪化しだしたり……とにかく悲惨だった。
 明らかに生活に息詰まった。
 ぼくは、
「アメリカに移住しよう」と真剣に考えるようになる。
 しかし……アメリカにいってなんになるのか?
 とにかく、ぼくは悩み、貧乏に頭を抱える日々が続いた。
  しかし、幸福は足早に訪れる。
 ラジーヴィウ公によってロチルド家(イギリス名はロスチャイルド)に紹介され、ぼくはパリの上流階級での名声を確実なものにした。
 また、サロンか?だって?
 それは言わないでほしいな。とにかく、これでぼくは救われたのだから…。
 彼らサロンに集まる人々は、ぼくの音楽に共感し、その子女たちの音楽教師としての仕事がぼくの収入を保証することになった。一八三三年頃にはぼくはパリで一番裕福なポーランド移民の一人となっていた。
 ぼくとサロンのことを少し語ると、ぼくはポーランド時代から上流階級のサロンを中心に演奏やってきていた。ぼく自身、サロンが好きだった。
 極めてリアリストなぼくはサロンの実態をよく分析していて、実態は分かっていた。しかし、同時に、そういう社会でしか自分の音楽は受け入れられないという現実もわかっていた。
 ぼくは自分の心を他人に打ち明けるのは嫌いだ。で、サロンという洗練された社交の場でこそ自分を守れる……ということをぼくは知っていた。
 だから、サロンを中心に演奏をやってきた。
 それのどこが悪いとか悪くないとかそんな問題じゃない!食べていくためにサロンで演奏をやり続けただけだ。
 …………なにが悪い?
 この頃、音楽は大衆のものになりつつあったが、ぼくは大衆と距離をおくような道をあえて選んだ。そして、外の世界との接触の拒否をうけ入れてくれるサロンに住むことを選んだ。
 ぼくは金持ちになって、ひとりの召使いと自家用の馬車をもつような生活を送れるようにまでなった。さらに、社交界では花形のスターにまでのしあがり、パリの著名な音楽家や詩人のハイネとも親交を結んだ。しかし、いつも
「……このままでいいのだろうか…?」
 とは思っていた。
 ぼくの心の中のどんよりした影や孤独が、しだいにぼくの身体を蝕み、ずたずたにしていった。いいようもない孤独感……いいようもない心痛…いいようもない感傷…。
 金持ちになっても、ぼくはそうしたものから逃げることは出来なかった。
 それは、きりりと心を締めつける心痛だ。
 しんとした感傷だ。



******続く(刊行本あるいは電子書籍に続く)*****

緑川鷲羽『北朝鮮戦略』外交アドバイザ緑川は何故外務省OBや政治家より優秀なのか?

2017年04月29日 19時25分34秒 | 日記


























米軍の北朝鮮へのメッセージは先制攻撃ではなく


「アメリカ軍は軍備の備蓄は最高ランクにある。これ以上の抵抗は得策ではない」


という脅しであり、これこそ対話と圧力である。


日本は米軍から早くTHAADシステムを導入せよ!



そして北を中国からも兵糧攻めだ。これからが戦略次第だぞ!戦略的外交だ!


何故、緑川鷲羽ことわたしは軍略や戦略に優れているのか?

簡単である。選挙で勝つことしか考えていない日本の政治家や、

アメリカンスクールやチャイナスクールで学んだ外務省OBには絶対に身につかない兵法を学んだから。

しかも、わたしは暗殺未遂も経験し謀略で敵を謀殺した経験もある。

まあ、安倍晋三には「立派な文章でも印字するだけなら誰にでも出来る(と官僚に騙された)」

「あのひとは統合失調症だ(から役に立たない。と、また官僚に騙された)」

と最低評価だが(笑)むかつくから本当は軍略や戦略をアドバイスしたくなくなった。

ボランティアじゃない。馬鹿扱いされてただでゼロ円で利用だけされるのは嫌だ。

わたしは谷内正太郎や岸田より軍略に兵法に優れているのに!!!

稲田みたいな今村みたいな腰巾着だけは何故か評価する安倍晋三が大嫌いだ。どうせ学歴至上主義だろ(笑)

だから日本外交、安倍晋三外交は負け続けるんだ。最悪!


緑川鷲羽 臥竜   2017/04/29 19:23

おんな城主 直虎と東村アキコ「雪花の虎」の5つの共通点とは?

2017年04月28日 15時22分19秒 | 日記






























おんな城主 直虎と東村アキコ「雪花の虎」の5つの共通点とは?

公開日 : 2017年1月20日 / 更新日 : 2017年2月1日

おんな城主 直虎






NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」にある噂があります。「大人気漫画家・東村アキコが原作を書いているのではないか?」というものです。これは全くのデマです。しかし、東村アキコさんの漫画「雪花の虎」には「おんな城主 直虎」と多くの共通点がありました。ビジュアルもかなり似てるんですよね。




Contents [hide]
1 おんな城主直虎の原作者は東村アキ子?
2 「おんな城主 直虎」と「雪花の虎」5つの共通点2.1 ①主人公がおんな城主
2.2 ②主人公のビジュアル
2.3 ③舞台が戦国時代
2.4 ④タイトルに「虎」
2.5 ⑤東村アキ子原作ドラマ放送中

3 東村アキ子ファンの感想

おんな城主直虎の原作者は東村アキ子?





2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」。2年ぶりの女性主人公の大河ドラマです。おんな城主ときいて、東村アキコさんの人気漫画を思い浮かべた人も多いはず。なかには東村アキコさんの漫画が、大河ドラマ「おんな城主 直虎」の原作だと誤解されている方もいるかもしれません。



MHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」は、森下佳子のオリジナル脚本で原作はありません。※ノベライズ版は発売しています。一方、東村アキコさんの大人気漫画は「雪花の虎」。雑誌「ヒバナ」で連載中のこちらの作品は、東村アキコさんオリジナルの漫画。



しかし混同してしまうのも納得してしまいます。二つの作品には共通点が多いのです。まずタイトルが似てますよね。東村アキコさんのファンである私も「あれ?もしかして東村アキコが原作?」と思ってしまいました。



「おんな城主 直虎」と「雪花の虎」の共通点は、全部で5つありました。




「おんな城主 直虎」と「雪花の虎」5つの共通点





大河ドラマ「おんな城主 直虎」と東村アキコさんの漫画「雪花の虎」の5つの共通点を紹介していきます。まずは一覧で紹介。そのあとで詳しく説明していきます。共通点の多さから、東村アキコ大河ドラマを狙って「雪花の虎」を描いたのではと思われるほど。




【「おんな城主 直虎」と「雪花の虎」の共通点】
=================
1.主人公がおんな城主
2.主人公のビジュアル
3.舞台が戦国時代
4.タイトルに「虎」
5.東村アキ子原作ドラマ放送中



ひとつずつ詳しく紹介していきますね。

①主人公がおんな城主

まず一つ目の共通点「主人公がおんな城主」。「おんな城主 直虎」の大きなテーマが、おんな城主。それぞれの作品の主人公を紹介します。

「おんな城主 直虎」の主人公

大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公は、井伊直虎。戦国時代に実在した武将です。いくつかの史料から直虎は女だったのではないかと言われています。最近では男説も再燃しているようですが、NHK大河ドラマでは「おんな城主」として描かれています。




【井伊直虎とは】

井伊家当主・井伊直盛の一人娘として生まれます。直盛には男の子が生まれなかったため、分家の男と結婚させ、城主の妻となるはずでした。しかし、分家は謀反の罪を着せられ、城主となるはずだった男も逃亡してしまいます。

その後も井伊家に悲劇が訪れ、井伊家の男の跡取りがいなくなってしまいます。そこで女である直虎が城主として目を付けられ、おんな城主となります。


「雪花の虎」の主人公

東村アキコさんが小学館の雑誌「ヒバナ」で連載中の「雪花の虎」の主人公を紹介します。主人公は、景虎。後の上杉謙信です。「雪花の虎」は、上杉謙信女性説をテーマに漫画にしたものです。下で説明している上杉謙信は漫画の中での設定です。




【上杉謙信とは】
上杉家の家臣、長尾氏の家に生まれたのが、景虎。男の子を熱望されていたが、生まれてきたのは女の子。しかし当主・長尾為景は毘沙門天のお告げを信じ、名前を「虎千代(後の上杉謙信)」と名付けます。女として生まれた謙信でしたが、男として育てられます。

この虎千代が成長し、のちの上杉謙信となります。







②主人公のビジュアル

二つ目に紹介する共通点は、主人公のビジュアルです。「おんな城主 直虎」の主人公・直虎も、東村アキコさんの漫画「雪景の虎」の主人公・上杉謙信も頭に白い頭巾をかぶっています。



どちらの主人公も寺で生活をしていたことがあり、白頭巾をかぶっています。直虎は出家。上杉謙信も出家騒動が史実に残っています。二人とも生涯独身であることも共通する点ですね。

「おんな城主 直虎」の主人公



「雪花の虎」の主人公



③舞台が戦国時代

三つ目に紹介する共通点は、時代です。「おんな城主 直虎」と「雪花の虎」の舞台設定はどちらも戦国時代。物語には共通して登場する人物も登場します。特に武田信玄は、どちらの物語にも深く関わりのある人物です。

④タイトルに「虎」

四つ目の共通点は、作品のタイトル。「おんな城主 直虎」「雪花の虎」どちらの作品にも「虎」の文字が入っています。これは主人公の名前に虎が入っていることに関連していますね。



どちらの作品も女が一国の城主となる物語。女である主人公には男らしい名前がついています。

⑤東村アキ子原作ドラマ放送中

最後の共通点は、NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放送期間に東村アキコさんの別の作品のドラマが放送されていることです。2017年1月クールのドラマ「東京タラレバ娘」。吉高由里子さん主演のドラマです。



ドラマの放送中は、原作者である東村アキコさんの名前の露出も増えます。「おんな城主 直虎」と同時期に放送されていることもあって、「おんな城主 直虎」の原作者が東村アキコさんだと勘違いされる事態になっているのでしょう。







東村アキ子ファンの感想







最後に東村アキコさんのファンである、私の感想を書きます。私が「おんな城主 直虎」の存在を知って思い浮かんだのは東村アキコさんの「雪花の虎」でした。上で紹介しているように、二つの作品には共通点が数多くあります。そんなワケでちょっと混同してしまいました。



それぞれ別の人物を主人公にしながらも、戦国時代におんな城主となった人物の人生を描いています。混同してしまうのも無理はないですが、私が混同してしまった一番の理由は「雪花の虎」第4巻の帯の文言でした。



上の画像をみてもらえば分かりますが、「女城主」という言葉が大きく出ています。これは明らかにNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」を意識しての文言だと思います。大河ドラマが放送されると関連書籍も売れますからね。



NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」のヒットとともに、東村アキコさんの「雪花の虎」の知名度も上がっていくと思います。(既に大人気漫画ですが)



同じテーマを扱っている二つの作品。併せてみていくと面白い発見があるかもしれませんよ。


今村前復興相のいうことも一理あり。ただ「東北の方でよかった」の言い方が論外。辞任は当然

2017年04月26日 17時06分06秒 | 日記





























私は「東北の方だからよかった」とは思わないが、


今村前復興相のいう

「あの地震や津波が首都圏で、だったら甚大な莫大な被害になった」というのは


その通りで但し「言い方」が論外であったということだ。



東日本大震災を鑑みて首都圏だったら……


でいい所を


「東北でよかった」


では誰でも激怒する。説明が下手なおっさんだった。代わりの福島出身の担当大臣もあぶなそう(笑)


臥竜  緑川鷲羽 2017/04/26 17:05

小室哲哉「宇多田ヒカルとiPodが音楽界を変えた」<音楽で成功するには?>

2017年04月24日 16時45分25秒 | 日記





























小室哲哉「宇多田ヒカルとiPodが音楽界を変えた」




 近年は、世界的にEDMが音楽のメインストリームになるなか、エレクトロミュージックを早くから取り入れてきた小室哲哉のサウンドへの再評価の機運が高まっている。世界を股にかけ、時代の先端を見続けてきた音楽プロデューサーには、この20年の音楽業界の変化はどう映っているのだろうか。


1958年生まれ、東京都出身。1984年に自身のユニットTM NETWORKのリーダーとしてデビュー。その後プロデューサーとしてtrf、安室奈美恵、華原朋美、globeなどの作品に関わり、ミリオンヒットを連発した。(写真:中村嘉昭)© NIKKEI STYLE 1958年生まれ、東京都出身。1984年に自身のユニットTM NETWORKのリーダーとしてデビュー。その後プロデューサーとしてtrf、安室奈美恵、華原朋美、globeなどの作品に関わり、ミリオンヒットを連発した。(写真:中村嘉昭)
 「ちょうど98年頃からいろいろなものが予想を上回るスピード感で変化していった。ヒット曲の定義が変わり、パソコンの世界でMP3フォーマットが広まって音楽がデータでやり取りし始められた時期でしたね。

 98年の夏は、ワールドカップ公式アルバムに収録された『TOGETHER NOW』をジャン・ミシェル・ジャール(仏音楽家でユネスコ親善大使)とともに作ったので、大会のセレモニーに出演するためフランスに滞在していました。日本代表チームが初出場した大会だったので、サポーターが現地にもたくさん来て声援を送っていましたね。競技場ではサポーターみんなが『CAN YOU CELEBRATE?』を大合唱して、心を1つにしていました。それを眺めながら、音楽って不思議な力があるんだなって思っていましたね。

 98年の年末はちょうど日本にいたんですが、デビューしたばかりの宇多田ヒカルさんの衝撃がすごかった。大みそかから元旦に切り替わったとき、テレビで『Automatic』のスポットが大量に流れたのを鮮明に覚えています。宇多田さんは、スラングも交えてネイティブな英語を流暢に話すアメリカ育ちの逆輸入なのかと思いきや、お母さんがすごい人(藤圭子)だったり。プロセスや出自など、どこを取っても斬新。それまでの日本の芸能界のスターとは違って、海外のパパラッチが追うような人たちに近いなと感じました。

 当時の僕は、憧れていた海外のミュージシャンの力も借りながら、見よう見まねでできる限りのことをやって、だいぶ近づけたかなという時期でした。でも、そうした枠には収まりきらない子が出てきたんです」




■感じた潮目の変わる時期

 「世間の宇多田さんへの期待感の高さを実感したのは、globeのベストアルバム『CRUISERECORD 1995‐2000』(99年)をリリースする頃でした。それまでにGLAY『REVIEW』(97年)やB'z『B'z The Best“Pleasure”/“Treasure”』(98年)の前例もあり、ヒット曲が並んでいるベスト盤が一番売れる鉄板のアイテムという時代。僕はプロデューサーという立場から、ベスト盤の最高記録を更新したいという思いもありました。でも、当時はインタビューのたびに『宇多田さんの1stアルバムに勝てますか?』って聞かれて、そのたびに答えを濁していたんです(苦笑)。内心は……今だから言いますが、もしかして潮目の変わる時期なのかもしれないと感じていました。

 それ以降は、自分の声で自分の好きな言葉を歌うアーティストが増えていきました。宇多田さんの影響というよりは、彼女をきっかけに、プロデューサーやレコード会社の人の言葉に耳を傾けつつという、音楽業界の暗黙の了解みたいなものがなくなったんだと思います」



 結果、99年に出たglobeのベストアルバムは265万枚以上のセールスとなったが、宇多田の1stアルバム『First Love』はこの年約736万枚を売り上げ、日本記録を樹立した。21世紀に入るとCD市場は急激に失速。ネットの普及に伴って音楽配信サービスがその役割を取って代わった。ITを早くから音楽ビジネスに導入してきた小室にとって、「iPod」の出現が大きなインパクトだったという。

 「01年にiPodが出てきて、音楽との関わり方が大きく変わりました。それ以前のウォークマンは、インドアだけでなく、アウトドアへと場所を選ばずに音楽を聴ける『居場所の変化』を可能にした機器でしたが、 iPodと、それを管理する役割を果たすiTunesは楽曲やアーティスト名や曲名まで全部をデータ化にしたデバイス。あのときアメリカで自分の手持ちのCDをすべてデータ化したのですが、『まだ入るの?』と容量の大きさに驚愕しました。この容量はなかなか1人では埋められない、音楽との距離感が変わっていくのかもしれないなと、ふと思ったりしました。

その頃、ナップスター(※)などの無料ファイル交換ソフトが出現したんですが、当時から僕は否定しない立場でした。まだCDが現金で売れている時代でしたから、こうしたソフト自体を否定したり、コピーガードをかけようという気持ちももちろん分かります。ただ、新しい技術をどう受け入れるかも考えるべきだったと。あの頃にビットコインのような仮想通貨が存在していて、ネット時代の正当な楽曲の価格が議論されていれば、シングル1枚1000円だったものが、現在のように限りなく無料に近いということにはならなかったかもしれませんね」

 CDの売り上げに頼れなくなった00年代。代わってアーティストは、ライブに活路を見いだすようになっていく。

 「最近では、アーティストがメジャーデビューを目標にしていないという話をよく耳にします。それより、07年にマドンナが契約したライブネーションのような世界的なエージェントやイベントと直結している組織と組みたがっている。ライブの重要性が高いからこその発想でしょう。音楽やライブ制作は本人が好きなようにするから、契約先はプロモーションやスポンサードに専念してほしいという考え方は、プロのスポーツ選手の契約とちょっと似ているかもしれませんね」

■いつの時代も驚きが大切

 「ライブの見せ方、演出面の技術は90年代には出そろっていたと思います。70年代にレーザー光線、80年代にバリライト、90年代に入ると大型ビジョンが登場し、大きなオブジェも飛ばしていた。これらは今のライブでも当たり前のように使われています。昨今人気を集めている大型のEDMのフェスの演出は、まさにこれらを集めたものだと思うんです。有機的な風船や花火などを飛ばし、または、光のような手に取れないものを見せて、さらにはLEDを使った鮮明で巨大な映像を楽しむ。エンタテインメントに求められているのはいつの時代も、この驚きなんだと思います。

 もちろん、音響面の進歩もライブの見せ方に影響しています。音響を空中に釣ってもちゃんとお腹に響く音が鳴るようになったり、ギターやマイクなどがワイヤレスになった分、ステージの前後が空いたり自由に動き回れるようになりましたからね。もし80年代にその技術があったら、氷室京介さんのあの(音響システムに足を乗せて歌う)スタイルも生まれなかったんじゃないかな」

※インターネットに接続されたPC間でMP3などのファイルを共有するソフト

「音楽と相性がいいパートナーの1つ、スポーツと組み合わさるとすごいことが起きるということを僕が感じたのは、最初に話したフランスW杯でした。閉会セレモニーに向けて、フランス対ブラジルが決勝戦を戦っている間もずっとリハーサルをしてたんです。だから、試合はどちらが勝っているか負けているかも分からなかった。でも、開催国のフランスがゴールを決めるとラジオを聴いている町中のドライバーが、クラクションを一斉に鳴らすんですよ。様々な(音階の)クラクションが重なり合って、まるで音楽のようだなと思ったし、音楽ってすごい力があるんだなと実感しました。

 日本では20年に、東京オリンピックが開催されます。きっと母国のアスリートが活躍したらフランスW杯のときと同じように、もしくはそれ以上に盛り上がると思うんですよ。ただ、僕が国事であるサミットのイメージソングを手がけた頃と違って一般の人がたくさんの情報を手に入れられる時代。しかもまだ、ロンドンオリンピック(12年)の素晴らしい開会式の記憶も色濃いとも思うので、担当される方はすごいプレッシャーかもしれません。日本だからこそできるエンタテインメント、ひいてはJ‐POPの力を世界中に示す場になることを期待したいです。

 今のJ‐POPシーンを見ると自分で曲や歌詞を書いて歌うだけでなく、SNSを駆使してセルフプロデュースまでする人が増えていますよね。そんな時代だからでしょうが、国内外を問わずプロデューサーはトータルでアーティストを育てるのではなく、トラックメイカーとほぼ同義になってきたなと感じることも増えました。とはいえ、歌うことに特化してプライドを持っているシンガーも少なからずいると思うんです。僕も、そうした方から曲を作ってほしいという要望があれば、きちんとその思いに応えて寄り添える曲を書いていけたらいいなと思っているんです」

(ライター 橘川有子)

フジ『貴族探偵』、また月9視聴率最低更新は必至か…相葉クンが学芸会レベル演技で悲惨

2017年04月18日 19時34分32秒 | 日記





























フジ『貴族探偵』、また月9視聴率最低更新は必至か…相葉クンが学芸会レベル演技で悲惨



© Cyzo 提供
 毎クールのように低視聴率が話題になる、フジテレビの月曜夜9時台の連続ドラマ枠「月9」。その今クール作である『貴族探偵』の第1話が17日、放送された。

 探偵の高徳愛香(武井咲)はある日、“ポルチーニ・パーティー”に参加するため友人の玉村依子(木南晴夏)の別荘を訪問すると、地下の井戸で男性が殺されているのを発見する。さっそく神奈川県警の鼻形雷雨(生瀬勝久)ら刑事が到着し捜査を始め、依子らパーティー参加者5名のなかの誰かが犯人だと宣言。すると、そこにどこからともなく「貴族探偵」だと名乗る男(相葉雅紀)と、その召使いの佐藤(滝藤賢一)、田中(中山美穂)、山本(松重豊)が登場し、貴族探偵と高徳はどちらが先に真犯人を割り出すことができるかを競うことに。しかし、貴族探偵は召使いたちに推理をさせ、自身は釣りを楽しんだりと遊び呆け、高徳の怒りを買う。

【詳細画像はこちら】 http://biz-journal.jp/2017/4/post_18754.html

 そしてついに高徳は玉村が犯人だという結論に達し、貴族探偵と召使い、パーティー参加者、鼻形たちの前で推理を披露するが、山本はその推理にミスがあると指摘。別の参加者が犯人であることを立証し、貴族探偵が勝負に勝つ。

 以上が第1話のあらすじである。コメディータッチのファンタジーものなのだが、視ていて、何を視させられているのか、そしてどこをどう楽しめばよいのかまったくわからず、「これって、相葉クンのファン以外は誰が視るんだろう……」というのが正直な感想である。そう、相葉クンのファン以外に、想定される視聴者層が思いつかないのだ。

 見どころがないわけではない。人格が破綻したダメ刑事・鼻形役を演じる生瀬のやりたい放題の演技は結構笑えるし、冒頭とエンディング部分でちらっと登場する高徳の師匠役・井川遥の癒やしオーラ全開の“美”は、もっと視ていたかった(オープニングの井川の笑顔アップが数秒間続くシーンでは、話題の某ウイスキーのCMへのオマージュだね)。

 さらに、始めから終わりまで、一貫してポルチーニ(とポルパ=ポルチーニ・パーティー)が話題に上っていたのも、意味は不明なんだけどおかしかった。エンディングで武井が自分で料理して食べていたポルチーニのパスタ(味付けは塩のみ)は本当に美味しそうだったしね。ただ、冒頭の井川と武井がポルチーニについてああだこうだと話すシーンは、前クールで人気を集めた『カルテット』(TBS系)を意識しているのが丸出しだったのは、やや残念。

●相葉クンと武井が残念

 しかし、同ドラマで決定的に残念なのが、主役である相葉クンと武井だろう。

 たとえば、生瀬と武井の漫才のような掛け合いをドラマの見どころのひとつに据えようとしている制作サイドの意図はみえるのだが、武井の一本調子の演技が生瀬の好演をぶち壊してしまい、同時にそんな意図もぶち壊されてしまっている。

 さらに最大の難点は、貴族の格好をした相葉クンがまったく貴族に見えず、セリフも棒読みなので、貴族の服を着せられて学芸会に出ているようにしか見えない点だ。セリフの内容も現実離れしているだけに、ただただ違和感しか感じられない。

 せっかく生瀬や滝藤、松重など個性的でおもしろい俳優が揃っているのに、生かしきれておらず、完全なる宝の持ち腐れ感がもったいない。脇を固める彼らベテラン俳優陣の存在感が強いゆえに、かえって軽さが際立ってしまう相葉クンが主役を務めなければならないという不幸が、もう気の毒で仕方ない。そもそも滝藤や松重たちを差し置いて相葉クンが主役というのは、明らかに無理があるでしょ(お金持ちの令嬢・玉村を演じた木南晴夏は結構いい“ズレた女”感を出していたが、第2話以降は出てくるのだろうか……)。

 いずれにせよ、「なぜフジはこのドラマをつくったのか」という疑問と、「また“月9史上最低視聴率”更新へまっしぐら」という悪い予感しかしない同ドラマであった。ジャニーズの威信を守るためにも、健闘を祈りたい。

(文=米倉奈津子/ライター)

ショパン 神からの旋律ショパンCHOPINフレデリク・ショパンの真実ブログ連載最新版3

2017年04月16日 09時05分02秒 | 日記





























         ワルシャワ陥落




  ぼくの作品は一八二九年になって増えていく。
 数が増えただけでなく、そこにぼくの音楽の格段の成熟が見られるというのは、誰の眼でも明らかだ。それ以前の作品は、いまでは演奏されることはあまりないが、この時期以後の作品は盛んに演奏される。
 ぼくは運命の星から黄金の翼を得たのだ。
 そして、その翼でぼくは大空に羽ばたきいろいろな音楽的収穫を手にしたのだ。さらにぼくは、暗い漆黒の夜をもきらきらと明るく照らすように作品をつくり続けた。
 ぼくの音楽的成熟は明らかであった。
 それは、きらきら光る太陽というより、しんと光る満月のような静かな成熟だ。
 この頃、ぼくのポピュラーな作品、『協奏曲』(作品二一)や、『練習曲』(作品一〇)などを書いた。
 ぼくは調子がよかった。
 センスが光っていた。
 あまり知られてないが、この頃、数曲の歌曲も作った。そして、この頃より、「ノクチュルヌ」技法がスタートする。
 この頃を、ぼくの音楽的成熟とみるのはいささか早合点というものかも知れない。というのは、この当時、まだぼくは過去の巨匠の影をひきずっていた。不得意なオーケストレーションでは特にそうで、まだ、成熟期とまではいってないって感じだった。
『協奏曲』第二番(ヘ短調)は、ひきつづいて書いた第一番(ホ短調)(順番が逆になっているのは出版の順)とともにぼくの「初期」の様式の集大成といっても過言ではない。 ただ、しんと光るような成熟期とまではいってないって感じだ。
 ぼくは音楽家としての出発としてオーケストラつきの華やかな楽曲を選んだ。その中の、第一楽章のフンメル風、第二楽章のノクターン風、そして第三楽章の民謡風の楽想は、
いずれもぼくの初期の作品の特徴を示すものだと思う。
 それに比べると、『練習曲』はぼくの個性を示すものといえるかも知れない。
 多分に、オリジナリティがあるのだ。
 多分に、独創性があるのだ。
 ピアノの大家たちは、新しく開発された楽器の特徴を活かすような練習曲を書いており、ぼくはそこからかなりの影響をうけ、自分でも『練習曲』を書こうと思ったのだった。
 とくに、チェルニーの『練習曲』にはかなりの影響を受けた。
 カール・チェルニーはウィーンの作曲家で教師のひとである。
 チェルニー氏は、
「ショパン君、君は天才だ」
「ショパン君、君の演奏は神懸かりのように素晴らしい」
「ショパン君、君の作品は素晴らしい」
 と、沢山お世辞をいってくれた。
 ぼくは、このひとと非常に親しくなって、彼の家に招かれ、二台のピアノで幾度も合わせた。とてもいいひとだが、それだけのひとです。
 性格は優しく、演奏も上手なのだけれど、それだけのひとです。
 天才ではなく、凡人のひとです。
 それだけです。


  ブルーの空にうっすらと雲が流れ、ゆらゆらと揺れていた。
 なんとも静かで、きらりと太陽が光る。それはしんとした感傷だった。なんとも幻想的な風景やパノラマだった。金色の風景のような。
 ぼくは、ティテュスの別荘のテラスの椅子に座り、そんなブルーを見ていた。
 とてもいい眺めで、目の前の不安を少なからずやわらげてくれるかのようだった。
「フリデリク」
 ティテュスがやってきて言った。
「やぁ、ティテュス。何処にいってたんだい?」
「これさ」
 ティテュスは、ジュース入りのグラスを手にもって、掲げた。
「喉が乾いたかと思ってな」
「そう、ありがとう」
 ぼくはジュースを受け取ると、一気に喉に流しこんだ。とても美味しかった。
「フリデリク。君は今…」
「え?」
「君は今…」ティテュスは続けた。「大活躍だな」
「そりゃあどうも」
 ぼくは皮肉をこめて礼をいった。
「ぼくには音楽の才がないから、君の作品の質がわからないが、きいてるととてもいい」「そうかい?」
 ぼくはうけおった。「まぁ、……音楽なんてものは音に依る思想の表現だから、なにもこむずかしいことではないんだ」
「というと?」
「つまり、耳できいて、これはいいな、いい音楽だな、と感じればそれはいい音楽だし、感じなければそれはいい音楽ではないんだ」
「そんなものかい?」
「まぁね」
 ぼくは笑った。
「……ところで」
 ティテュスは話しをかえた。そして、不安気な顔になって、
「連中とまだ密かに会ってるのか?」
「………」
「どうなんだい?」
 ぼくは言葉を飲んだ。そして、心臓が二回打ってから、「革命思想家どもとか?」
「あぁ」
 ティテュスは頷いた。それにたいしてぼくは、
「……なにか問題でも?」
 と逆質問した。
 ティテュスは、「君は当局に睨まれてるぞ」と言った。
「……かまわないさ」
「連中と会うのはやめたほうがいい」
「なんで?」
「当局との軋轢がある。現に、君は政府から金をもらえなかったではないか」
「かまわんさ」ぼくは苦笑いをした。「…当局なんて怖いもんか」
「君は利用されているだけだ。君はこの国一番の音楽家だ。知名度も抜群……人寄せパンダに利用されているだけだ」
「……そうかい?」
「殺される」ティテュスは脅した。「もし革命でも起こって、それで失敗したら……君は殺されるぞ」
「……」 
「生け贄さ」
「ふん」
「象に立ち向かう鼠だ。勝ち目はないぞ」
「…………わからんさ」
 ぼくはとりあえずそう答えた。確かに、象に立ち向かう鼠だ。勝ち目はない。
 それはわかっている。ぼくだって馬鹿じゃない。


  それにしても、この頃、ぼくは二十歳になるかならないかの学生だったのだから、その立場で、『練習曲』を書いた意義は大きい。先人たちのものとはやはり違った視点で見られていいものだろう。しんと光るような曲たちだ。
 ぼくは作品一〇の『練習曲』十二曲につづいてやはり十二曲からなる作品二五の『練習曲』を書いた。その創作期間は一八二九年から一八三六年である。
 ぼくが音楽様式を確立しようとしていた時期に、この『練習曲』を書いた意味は大きい。ぽくはピアノという楽器を、ほかの誰とも違う意味で音楽による表現の武器としたのだ。 この頃より、オーケストラつきの音楽は捨ててしまった。
 その点も、ぼくと他のロマン派音楽家たちとは明らかに違う。
 とにかく、ピアノだけでいこうと決めたのだ。
 それは、きらきら光る太陽のような決意だ。しんと光る満月をやめて、金の翼を得ようと、心に決めたのだ。その金の翼こそ、ぼくの場合はプレイエルのピアノだった訳だ。
 その意味で、『練習曲』の作曲は、ぼくにとっては「音の発見」であった。
『協奏曲』が、ぼくの音楽的青春の総括であるなら、『練習曲』は新たな音の探求に他ならない。さすれば、『ノクチュルヌ』は音楽的成熟の結晶ともいえる。
『協奏曲』も『練習曲』も、やがてぼくは捨ててしまうが、『ノクチュルヌ』は今でもずっと続けている。バラードも一種の大きな『ノクチュルヌ』に他ならない。
(『ノクチュルヌ』というのは、ご存じの通り、フィールドが自分のピアノ小曲を呼ぶのに使った名称だ。フィールドはアイルランド系の出身のピアノの名手で、ぼくはその清らかな旋律に心動かされた。)
 もちろん、フィールドの旋律がぼくの心をティックしたのも事実だが、二十歳のぼくはそれ以上にきらめくような旋律を考えたって訳である。
 ぼくは、金の翼で大空に羽ばたいたのだ。
 むき出しの旋律で、大空に羽ばたいたのだ。
 そんな気がするな、ぼくは。





  一八三〇年をつらつらおもんみると、この年の三月、ぼくはワルシャワの国立劇場で演奏会をひらいた。それは、ウィーンでの報告会という意味もあったが、正式な意味で祖国におけるデビューとなった。切符は三日前には売り切れ。
 ……ぼくは出来たばかりの『協奏曲』(ヘ短調)と旧作(一八二八年)の『ピアノとオーケストラつきの幻想曲』(作品一三)をひいたが、聴衆の反応はきわめて温かいものであった。
 ………『協奏曲』の最初のアレグロは比較的少数の人にしか受け入れられぬはずの曲だったのに、拍手かっさいがわきおこった。しかしそれは、人々が関心をもっているように見せ、玄人ぶるのを上品とした結果だ。アンダージョとロンドは最大の効果を発揮し、ほんとうの感嘆の叫びがきこえた。
 それは、きらきらした”希望”の光であった。
 聴衆の温かい反応に励まされ、ぼくは二回目の演奏会を開いた。それは、第一回に切符を買えなかったひとのためだった。前回にピアノがよく響かなかったという不満に答え、今度はさるロシア軍人のもっていたウィーン製のピアノを使い、評判は更に高まった。
  しかし、それに対してのマスコミの大袈裟な賛辞は、やり切れないほどの馬鹿げたもののように感じた。
 確かに、ほくだって人間だ。褒められれば嬉しい。
 しかし、天才、天才、というだけでは芸がない。自分では、最初のピアノの方がよかったと思っている。それが、わかっちゃいない。
 それに、ぼくはチヤホヤされるのは好きじゃない。群れられるのは御免こうむる。ぼくは狼のように孤高でいたい。演奏会を開いてからというもの、「サイン下さい」「握手して下さい」とばかりいわれ、馬鹿らしく思っている。
 アイドル・タレントじゃないんだから…。


  二度の演奏会を終わって、ぼくは次の『協奏曲』(ホ短調)の作曲にかかった。その頃には、ぼくの出国は周囲の人々の共通の話題となっていて、ぼく自身もそれを天職の命ずる道だと考えていた。しかし、不安もあって、なかなか割り切れなかった。
 ぼくがどうしたかって?
 まだ『協奏曲』を仕上げなければならないと思っていた。「ロンド」はもう出来ていた。だけど、外国なんてぼくをひきつけるものは何もない。来週には、外国に行くことが決まっていたが、それは、天職と常識に従ったまでだった。
 その頃、ぼくは気の狂ったような状態だった。まだ、ワルシャワにいる。出発の日を決める勇気がなかった。もし出てしまったら、一生家に帰れないような気がしたからだ。
 ただ、死ぬために出発するような気がした。
 いずれにしても、聖ミカエル祭までにはウィーンへ旅立つだろう。
 ………永遠に悩み苦しむために運命づけられて…。いや、ぼくの書いていることは皆馬鹿げている。


 ぼくは当時、精神的危機の状態にあった。それは、病気がちの体で、過度にデリケートなぼくが両親や親しいひとたちと離れるにあたってのしんとした感傷に他ならない。
 もちろん、コンスタンツィヤへの忘れがたい思い出や愛着が、ぼくの心の中を嵐のようにごうごうと吹き荒れていたことは否定できない。
 ぼくにとっては、非常に精神的危機の状態であり、青年ショパンの生涯的危機でもあった。それは当たりで、ぼくはそれから祖国へは二度と帰れなくなった…。それは後述する。
  ぼくは身支度を整えて、教会へと向かった。
 空はブルー一色で、透明なものだった。雲がうっすらとゆらゆら揺れていて、とてもいい天気だった。このようないい天気は、目の前の恐怖を少なからずやわらげてくれるかの様だった。秋の幻想のような。
 入り口にいって、立っている男に、
「ワルシャワの青空」
 と言った。暗号なのだ。
「……それと?」
「ロシアの夕暮れ」
 男の問いに、ぼくは無表情のまま答えた。
「…よし」
 男は中に案内した。
 といっても、ぼくは有名人だから、暗号なんて必要ないのだ。本当は。だが、この暗号は「儀礼」なようなものだから必要だったのだ。
 中は殺伐としていて、汚かった。
 しかし、革命家たちのアジトとしては、ピッタリとくるものだ。あまり、革命家たちが綺麗なサロンに集まって暴動の計画を練る……なんてのはきかないから、こうした殺伐とした場所のほうがピッタリとくる。
 なかでは、長椅子がしんと光っていた。そこに男達がいた。
 ぼくは、そんな中で、革命思想家たちと話した。それは、密談で、詳しくは言えない。しかし、そこで「ぼくの名が」当局のブラック・リストに載せられているのを知った。つまり、そういうことで奨学金もダメになったのだ。
 のちに暴動を起こす革命思想家たちは、ぼくに国外脱出を提案した。ぼくは有名人だから、暴動を起こして捕まったら、スケープ・ゴート(生け贄の羊)として殺されるだろう。……というのだ。
 見せしめのために…。
 ぼくは怖くなった。正直、震えた。誰だって命は惜しい。それはぼくだって例外ではないのだ。
「……とにかく、国外へ逃げたほうがよい」
 男は言った。
「それが君のためだ」
「………。」
 ぼくは無言になった。そして、教会を後にした。

 ポーランド出国が、祖国との永遠の別れとなることをぼくは予想していた。
 だが、逃げなければ投獄されるか殺される。そんなのは嫌だ!
 だから、ぼくは出国することに決めた。
 ぼくの「告別演奏」は、十月十二日に行われた。が、政府もマスコミもそれを一切無視した。……当局のブラック・リストにぼくの名が載せられていたからだ。
 それから二十日後の十一月二日にはぼくは祖国を離れるが、暴動の勃発はその月の終りである。だから、ぼくは暴動には加わっていない。
 出発の日、家族とともに馬車でワルシャワ郊外のヴォーラに到着した。その時、エルスナー先生が先にきていて、ギター伴奏つきの男声合唱による自作のカンタータをはなむけとして演奏してくれた。
 エルスナー先生は、
「ショパン君。国外での君の活躍を期待してるよ」
 と励ましてくれた。
「ありがとうございます。頑張ります」
 ぼくは答えた。なんにせよ、頑張ります、と言った。
「これを」
 皆は、銀製のカップをぼくにプレゼントしてくれた。
 ぼくは、
「これは?」と尋ねた。すると彼等は、
「ポーランドの土を入れた銀製のカップだ」
 といった。
「この土を見て、祖国のことを思い出してくれ」
「……土で?」
「あぁ。何か苦しいことや辛いことがあったら、それを見て、元気を出してくれたまえ」「そうか。………ありがとう」
 ぼくは頭を下げた。なんだかとても嬉しかった。ちょうどよい贈物だ。
 きらきら光るような贈物だ。
 送別会では、すべての椅子も窓も壁も、しん光ってみえた。それはきっと、感傷のせいであろう。だけど、ぼくはそういうものを大切にしようと思った。
 神はすべてを救ってはくれない。愛さえもすべては救ってはくれない。でも、ぼくは神のご加護を信じようと思った。いるんだかいないんだかわからない神ではあるが、とにかく信じてみよう、と思った。
 ぼくはここを去る。
 新たな出発。新たな旅立ちだ。
 神と祖国の仲間との別れだ。……そんな気がした。
  旅にはティテュスが同行した。
 ぼくら二人は、ドレスデン、プラハを経て十一月二十三日にウィーンに到着した。
 ワルシャワに暴動がおこるのはその直後の十一月二十九日である。ティテュスはその報をきいてすぐ帰国したが、ぼくはウィーンにとどまった。ぼくもティテュスの後を追ったが馬車にのりおくれてあきらめた、というのは作り話だ。
 真実は、ぼくは帰りたくても帰れなかったのだ。
 もし帰ったら捕まって投獄されるか殺される……ぼくは震えた。
 ………もう母はいないかも知れない、ロシア人に殺されたかも知れない。ぼくは思った。姉や妹は狂わんばかりに抵抗し、父はなすすべもなく…。ぼくはなすすべもなくウィーンにいた。いるだけだった。時おり呻き声を発し、悩み、その苦しみをピアノにぶつけて吐き出した。それしか出来なかった。
 そして、「革命」が生まれた。

  ウィーンは冷たかった。
 学生の頃は優しくしてくれた音楽関係者も、今回はぼくに寛容ではなかった。無料の演奏会の誘いはあったが、そんなもの受け入れられる訳がない。ぼくはボランティア活動している訳じゃないんでから。金がもらえなければ生活していけないではないか。
 出版社のハスリンガーも、ぼくの作品をタダで出版することばかり考えていた。
 八方ふさがりのぼくは「絶対に音楽家として成功しなくては!」と心で叫んだ。
 ぼくの立場を一層悪いものにしたのは、ポーランドの事変であることはいうまでもない。 オーストリーは従来もポーランド分割の当事者だったし、革命の余波を恐れて軍隊を動員していた。で、当然、ぼくは好ましい人物ではなくなっていたのだ。
 ぼくはウィーンの街角で、
「ポーランド人をつくったのは神様の失敗だ」
 という人々の悪口をきかざる得なかった。
「くそったれめ!」
 ぼくは苦虫を噛み潰したような気分で、街を歩いた。そして、「必ず成功しなくては」 と思った。
 ……もうポーランドへは帰れないのだから。父さんの邪魔にならなければ帰れるが、それは無理だ。もう、帰れない。成功するしか道はないのだ。だめなら、自殺だ。
 更に、ウィーンの音楽文化は大家たちの亡きあと廃れてきており、とりあえず音楽消費都市として存在しているだけだった。音楽の中心は北方のドイツに移っていたのだ。
 ウィーンで喜ばれるのは、ランナーやシュトラウスのワルツで、ぼくは”ウィーンの聴衆の趣味はあてにならない…”と感じた。
 そして、
「ウィーンにきたのは失敗だった」
 と思った。
 ティテュスが帰ってからというもの、ぼくにはいろいろな面倒なことばかり一度にふりかかってきた。音楽会、晩餐会、夜会、舞踏会……もううんざりだった。すべてが憂欝で悲しく、そして無気力だった。こんな悪い状態でなければ、ぼくはそういうのは好きなのだが……。
 洋服を着て、靴を履き、サロンでは平静をよそおい、そしてぼくは部屋にかえってピアノの前で荒れ狂った。すべてが憂欝で悲しく、そして無気力だった。
 絶対に音楽家として成功したい、成功しなければならない…というぼくにとって、事態は八方ふさがりだった。そのなかでぼくがとった行動は、必ずしも積極的なものではなかったように今は思う。というより、何にしても無気力だった。
 そうしたなかで、ぼくは毎晩夜会やサロンにでる毎日を送った。
 思えば、ぼくはポーランド時代からずっとサロンに通いつめていた。それは、もちろん踊りにいくのでもなく、食事や談笑するのでもない。ピアノを弾いて金を貰うためだ。
 ぼくはサロンが好きだった。
 そうしたハイソサエティ(高級社会)は、ぼくの心を慰めてくれた。癒してくれた。目の前の恐怖や病気を忘れさせてくれた。
 しかし、ぼくのサロン通いがあまり度が過ぎる…というので、父さんやティテュスや、さらにパリに亡命していたポーランドの愛国詩人ミツキェヴィチなどに度々忠告を受けた。 だが、ぼくはサロンに通いをやめなかった。
 金が手に入るからだ。
 生活のために、食べていくためには金がいる。金ですべてが買える訳ではないが、ほとんどのものや心の安らぎを与えてくれるのはやはり金なのだ。
 聖人ぶって「金などいらぬ」などと言ってみたところで、金がなければ一切のパンさえ買えない。それが現実なのだ。


【上杉謙信が女?】東村アキコ最新作『雪花の虎』が激アツ【歴オタにも話題】

2017年04月15日 19時43分06秒 | 日記


































【上杉謙信が女?】東村アキコ最新作『雪花の虎』が激アツ【歴オタにも話題】
歴史漫画なのにめっちゃ斬新?上杉謙信女性説を漫画化した、大河ロマン。歴史オタクにも話題の、東村アキコ2015最新作『雪花の虎』(ゆきばなのとら)詳細まとめ。(ネタバレなし)

更新日: 2015年07月31日


nyanparariさん









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人気漫画家『東村アキコ』の最新作【雪花の虎】






え…歴史漫画なの?


出典
hi-bana.com




え…歴史漫画なの?


少女マンガじゃなく??







初の歴史大作『雪花の虎』。主人公は、戦国時代に名将とうたわれた上杉謙信。彼が実は「女性」だったという説に基づく衝撃のストーリー



出典
http://www.jp102.net/news-58977.html



















なんと題材は、【上杉謙信・女性説】






え、謙信て、こんなじゃなかったっけ…


出典
www2.harimaya.com




え、謙信て、こんなじゃなかったっけ…


めっちゃヒゲ生えてるけど…







上杉謙信女性説は、越後国の戦国大名上杉謙信が実は女性であったとする説である。 上杉謙信にまつわる逸話、伝説、俗説は数多く存在



出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1%E5%A5%B3%E6%80%A7%E8%AA%AC











けっこう有名な説なんだ…







でもぶっちゃけ、読者層に歴史オタクは少なくない…?






だって、こういうのばっかだったし…


出典
userdisk.webry.biglobe.ne.jp




だって、こういうのばっかだったし…


面倒くさいの読まないよ?







と思ったら…






なんか、めっちゃ斬新だったwww


出典
hakase30mangagame.com




なんか、めっちゃ斬新だったwww


難しい話が続くんで、
「ワープゾーン」用意したよ!

って、え…?








下枠が、完全別空間になってるwww


出典
comic-soon.shogakukan.co.jp




下枠が、完全別空間になってるwww


難しい話を、かいつまんでくれるかと思いきや…
下枠でスムージーの話してるしww

この状態が数ページ続く…










YUKI@Q_RURU_YUKI

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『雪花の虎』の1話の構成めっちゃ笑った(つ∀<。)難しい内容だったけど、とっても読みやすくて分かりやすかったヽ(*´ω`*)ノ♪♫東村先生すごすぎる…(*゚ー゚*)


返信 リツイート いいね 2015.03.13 18:26


最終的にはちゃんと、かいつまんで説明w
長い説明ページ以外は、普通の構成でストーリーが始まります。







歴女に限らず全ての人が楽しめるエンターテインメントになっています



出典
https://twitter.com/hibanaofficial/status/575128052243415040



















歴史苦手でも読める感じな構成です。







肝心の中身は…?








わらうけろころ(oθωθo)@kerotaru1020

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東村アキコの女謙信の話「雪花の虎」面白い。すごく続きが気になる


返信 リツイート いいね 2015.07.28 14:16













チケットと旅券はチョコラが持っている@__chocola____

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雪花の虎やっと読んだ!イイ!!!!日本版ベルばらって感じ!hi-bana.com/works001.html


返信 リツイート いいね 2015.06.01 21:33













でびのん@devinon

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[雪花の虎]東村アキコ_試し読み/ヒバナ=>hibana.tameshiyo.me/TORA00AHIBANA やだー、面白いー、○○が実は女だった!って話大好き(笑)


返信 リツイート いいね 2015.03.24 16:58













俺の名前は夏バテ太郎@jonaaatttthaaan

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東村アキコ「雪花の虎」試し読みだけでも最高に面白い…コミックス買おうな…


返信 リツイート いいね 2015.03.12 15:30













よね@mcz_basser

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やっとヒバナ買えた。雪花の虎面白いなー。東村アキコ先生はやっぱり天才だ。


返信 リツイート いいね 2015.03.11 19:46













しも@asuka_shimo

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雪花の虎おもしろかった 上杉謙信の女性説ってこんな信憑性あるものだったんだ〜


返信 リツイート いいね 2015.03.08 23:02










歴オタにも話題








心@bbtop1104

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やばい、雪花の虎面白い……………。日本史好きとしてはたまらん…………続き読みたい!!!!!!!! いつギャグに転じるのか………………。笑


返信 リツイート いいね 2015.03.08 23:03













らきたP@gtubaP3

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雪花の虎超おもしれえな 春日山城行きたくなった


返信 リツイート いいね 2015.05.27 15:22










ストーリーは…





「上杉謙信が実は女性だった!?」という仮説をもとに、
美しい女武将の一代記を描きます



出典
http://www.jp501.net/article-77774.html



















本気で挑む大河ロマン



出典
hi-bana.com/works001.html



















第1集はまだまだ序章、子供時代の「虎千代」こと謙信の様子が
生き生きと描かれています。
一体彼…もとい、彼女はどんな幼少期を過ごしたのか?
そして、ライバル・武田信玄は――!?



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Amazon.co.jp: 雪花の虎 1 (ビッグ コミックス): 東村 アキコ: 本




















どうやら、ベルばら並みの本気作?


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item.rakuten.co.jp




どうやら、ベルばら並みの本気作?


一代記を描ききる、
大河ドラマのような作品になっていくようです。



nyanparariさん









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イケメンもたくさん出てきますから! 織田信長もそうだし、おすすめは武田信玄。



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http://www.jp102.net/news-58977.html



















じつはけっこう細身でしゅっとした、病弱なイケメンだったらしいという記録もあるんですよ!



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http://www.jp102.net/news-58977.html




















こ…こういうの…かな…www


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xn--eck0aykwc557w08n37e3u1b.com




こ…こういうの…かな…www










織田信長が謙信を好きだったんじゃないか、という説があるんですよ!



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http://www.excite.co.jp/News/woman_clm/20150227/Womaninsight_19150.html?_p=2



















女性に贈るような金屏風をプレゼントしていたり、京都で逢瀬してたり・・・・・・あと、文通も



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http://www.excite.co.jp/News/woman_clm/20150227/Womaninsight_19150.html?_p=2



















まさかの武将同士の恋愛も気になります



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http://www.excite.co.jp/News/woman_clm/20150227/Womaninsight_19150.html?_p=2




















こ…こういう…こと???


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www.gpara.com




こ…こういう…こと???











こっちのほうが、安心感がある気もするけど…w


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senjp.com




こっちのほうが、安心感がある気もするけど…w














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pbs.twimg.com







でも絵はめっちゃ綺麗。かわいいです。







夢は宝塚の演目になることですね!



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http://www.jp102.net/news-58977.html











並々ならぬ闘志を燃やしてる作者。







男性誌、女性誌、BLなどジャンルの垣根を超えた新形態のコミック雑誌『ヒバナ』



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http://www.womaninsight.jp/archives/119362











小学館から新しく出た、話題の雑誌「ヒバナ」での掲載中。






今後は…イケメンがいっぱい? 武将間恋愛!!?

GENKING 性に悩む人々を激励「バカにしていた奴をやっと見返せた」

2017年04月13日 16時39分06秒 | 日記





























GENKING 性に悩む人々を激励「バカにしていた奴をやっと見返せた」



GENKING© デイリースポーツ/神戸新聞社 GENKING
 タレントのGENKINGが12日、ブログで「性で悩んでいる人へ」として激励の言葉をつづった。「バカにしてた奴や陰口叩いた奴をやっと見返せてたと思って鼻で笑ってるよ」と悩んでいて時期を経て変わることができたと記した。

 GENKINGのもとには毎日、性に悩みを抱えた人がメッセージを送ってくるそうで、「あたしが伝えたいのは、あたし自身がデビューする2年前まで、辛い経験からみんなには受け入れられる訳がないとか、ひねくれてました」と告白。

 しかし、「人生賭けた大勝負でTVでカミングアウトして人生が変わりました」と転機について記した。GENKINGは「悩んでるみんなに伝えたいのは人は変われるってこと。あたしがカミングアウトする前には、何にも無かったメンズ達が最近のあたしを見てギラついてくるなんて良くあること バカにしてた奴や陰口叩いた奴をやっと見返せてたと思って鼻で笑ってるよ 自分自身がこんなに変わるんだとビックリしてる」と自分で自分に驚いていることを記した。

 GENKINGは「たった1回の人生が終わるときに、楽しかったな、幸せだったなって思える人生にしようね」と呼びかけた。

北川景子、大河ドラマ初出演 18年『西郷どん』篤姫役「身が引き締まる思い」

2017年04月13日 07時31分16秒 | 日記






























北川景子、大河ドラマ初出演 18年『西郷どん』篤姫役「身が引き締まる思い」



 女優の北川景子が、NHKで2018年に放送される大河ドラマ『西郷どん』に出演することが12日、同局から発表された。北川は同局のドラマおよび大河ドラマ初出演。主演の鈴木亮平扮する主人公・西郷吉之助(隆盛)と淡い恋模様も描かれる後の篤姫こと於一(おいち)を演じる。

 会見で北川は「とても緊張しています」といいながらも、しっかりとした口調で「いつか出演させていただきたいと目標としていた大河ドラマに携わることができ、光栄ですし、身が引き締まる思いです。過去に篤姫を演じられた先輩方から勉強して、史実からも勉強して、中園ミホさんの脚本のオリジナリティーも大切にしながら、一生懸命務めていきたい」と抱負を語った。

 新たな出演者を迎えて鈴木は「ふんどしを締め直してクランクインに向けて準備したい。何かが動く時、一人ではできない、みんなの力を合わせて明治維新のようなドラマにしていきたい」と気合を入れ直していた。

 この日は主人公の故郷・薩摩(さつま)のキーパーソンを演じるキャストが発表され、有村俊斎(海江田信義)役に高橋光臣、村田新八役に堀井新太、ふき役に高梨臨(大河ドラマ初出演)、赤山靭負役に沢村一樹、幾島役に斉藤由貴、由羅役に小柳ルミ子、島津斉興役に鹿賀丈史、そして、会見は欠席したが維新後、鹿児島県令(知事)となる大山格之助(綱良)役に北村有起哉らが決まった。

 同作は、薩摩藩の下級武士の長男に生まれ、2度の島流し、3度の結婚を経験し、幕末志士の一人として「勇気と実行力」で時代を切り開いた男で、明治維新の立役者でありながら、最期は新政府との戦いに散った西郷隆盛の生涯を描く。

 作家・林真理子氏が『本の旅人』(KADOKAWA)で連載中の『西郷どん!』を原作に、連続テレビ小説『花子とアン』(同局)、『Doctor X外科医~大門未知子~』(テレビ朝日)などを手がけた中園ミホ氏が脚本を執筆。今夏クランクイン予定で、18年1月から全50回放送される。

【直虎】竜宮小僧が初の見切れ出演 演じているのはあの子役

2017年04月10日 14時35分21秒 | 日記






























【直虎】竜宮小僧が初の見切れ出演 演じているのはあの子役



NHK・大河ドラマ『おんな城主 直虎』で竜宮小僧が初登場。演じているのは直虎の少女時代を演じた新井美羽© (C)NHK NHK・大河ドラマ『おんな城主 直虎』で竜宮小僧が初登場。演じているのは直虎の少女時代を演じた新井美羽

 NHKで放送中の大河ドラマ『おんな城主 直虎』(毎週日曜 後8:00 総合ほか)の第14回(9日放送)に、竜宮小僧が初めて見切れ出演した。竜宮小僧は、直虎をはじめ井伊谷で懸命に生きる人々を優しく見つめ励ましている存在で、これまでせりふで語られるのみだったが、本来見えてはいけないものが見えてしまう“見切れ”のような演出で、一瞬映った。さらに、ORICON NEWSの取材に対し、この竜宮小僧を、主人公・直虎の少女時代を演じた子役の新井美羽が演じていることが判明。わざわざ新井をキャスティングしているということは、何かの伏線なのだろうか。

 第4回から主演の柴咲コウにバトンタッチして以降、回想シーンがある時には、オープニングのキャスティングテロップに、「おとわ(回想)」として新井の名前がクレジットされるが、第14回では役名なしで名前だけが表示されていた。

 竜宮小僧は、南渓和尚(小林薫)の説明によると、「知らぬ間に田に苗を植えてくれたり、洗濯物を取り込んでおいてくれたりする、伝説の小僧」(第1回)だ。主人公の直虎は、幼い頃に夫婦約束を交わした直親(三浦春馬)の「竜宮小僧になる」と誓い、出家してからも困っている者がいれば、密かに助ける「竜宮小僧」活動に勤しんだ。そして、井伊家の家督を継いだ虎松(寺田心)の後見、すなわち井伊谷城の城主となる決心をする時にも、「竜宮小僧」が背中を押した。

 第14回では、徳政令をめぐって逃散という農民たちの抵抗にあい、打ちのめされた直虎の後ろ姿を見つめる竜宮小僧が一瞬、見切れた。その後、直虎は徳政(債務の破棄)の実施を認める書状を書き始めるが、そこにどこから(本物の)亀が現れて思い直す。直虎は竜宮小僧のように逃散した農民に代わって田植えを始め、農民たちの心をつかみ一件落着。亀を放ったのは「竜宮小僧」の仕業ではないか、というストーリーが展開された。

 ドラマの中で竜宮小僧に関係するシーンで流れ、「ジブリっぽい」とうわさの「竜宮小僧のうた」も実は新井が歌っている。5月28日に浜松市のアクトシティ浜松で開催される『大河ドラマ「おんな城主 直虎」コンサート ~戦う花・直虎の愛~』に新井も出演し、「竜宮小僧のうた」を生歌で初披露する予定だ。

高橋優、いじめは「一生の爪痕」 創作で心のバランスを保った少年時代

2017年04月09日 19時38分49秒 | 日記

































高橋優、いじめは「一生の爪痕」 創作で心のバランスを保った少年時代

© シネマトゥデイ 提供
 『映画クレヨンしんちゃん 襲来!! 宇宙人シリリ』の主題歌を担当している高橋優にとって、本作の主人公であるしんのすけは小学校時代の憧れの存在だったという。いじめられ、枠からはみ出ることの恐怖を抱いていた少年時代。型にはまらずに、ひょうひょうとしているしんのすけとの出会いは、高橋少年に影響を与えた。

 小学校の時は内向的だったという高橋。休み時間は、同級生が校庭に飛び出していく中で、一人で本を読みながら時間を過ごしていた。だがそんな中、テレビアニメ「クレヨンしんちゃん」が始まり、お尻を出したりと常識から飛び出していくしんのすけの姿に衝撃を受けたという。“普通”という実態のないものにとらわれて、そこから外れることで「変」になることを恐れないようになった。「自分が好きなものを好きでいられる人の方がステキだと思って。それが常識で変だと言われたとしても」。中学校・高校時代、教師から普通の人は歌を歌わずに勉強するものだと言われ続けても、自分が周りとはズレている存在だと引け目を感じることがあっても、彼は歌うことをやめなかった。

 「クッキーを焼くにしても、誰かと同じように焼きあがらなくてもいいじゃないか、いびつな形になってもいいじゃないか、という気持ちがありました」。いじめを受けていた小学校時代、学校で絵の具を食べさせられたり傘をボロボロに破られたり、身体的にも精神的にもダメージを負った。しかし彼は「友達と仲良くしている絵」「テストでいい点を取って両親から褒められている絵」を妄想で描き、心に安らぎを得たという。高橋は「現実と妄想の埋め合わせのような絵を描いていました」と言うが、その渇望は彼を奮い立たせることにつながっている。「ギターを中学校から始めて、コードを覚えてからはその絵の代わりに歌詞を書き始められるようになったんです。そしたら『こうだったらいいのにな』とか『どうしてこうじゃないんだろう』という疑問が曲になって、コード譜になって、曲作りになっていきました。小学校に自分がやっていた作業はずっと恥ずかしいことだと思っていたんですけれども」。


© シネマトゥデイ 提供
 「ハングリー精神って、幸せの中では生まれづらい。僕がこれだけ悔しいなと思ったりするのは、10代の頃にたくさん悔しい思いをしたからだと思っていて。10代の1日は、20代以降の1年に相当する価値がある、という言葉が僕は大好きで。1日いじめられた経験でも、小・中学生の多感な時期に経験すると一生の爪痕になる。いわれのない悪口や罵倒された言葉がいつまでも残るんです。僕はそういわれている人たちのことをほっとけない。だからやり返すじゃなくて、そういう人たちもひっくるめて笑顔になるような、笑い合っている方がステキなことが起こると信じて、歌うモチベーションにしています」。

 「でも『したたかに生きていく』ことはやった方がいいとは思っているんですよ。怒りは怒りのまま表現するよりも、怒りを笑顔でステキなメロディーに乗せてみて『実はこの曲皮肉っぽい!』としてみたりする。そこを楽しんだりしているので、僕、超イヤな奴かもしれないです(笑)」。

 新曲「ロードムービー」は映画最新作から着想を得た「家族愛と異文化コミュニケーション」のテーマを基に作った。歌詞には「つながっているよ」などの温かい言葉なども並んでいる。「くさ~いとか言われそうかもしれないんですが、音楽のいいところは声を大にして言いづらいことも歌えることだと思っていて。実生活では自分でも馬鹿じゃないかとも思うことでも、照れくさい言葉でも歌えるんですよね」。(取材・文:編集部・井本早紀)

映画『映画クレヨンしんちゃん 襲来!! 宇宙人シリリ』は4月15日より全国公開

主題歌を収録した高橋優のシングル「ロードムービー」は4月12日に発売

直虎の登場が遅すぎる!? NHK大河ドラマがつまらない理由【コラムニスト木村和久】

2017年04月09日 19時17分17秒 | 日記
































直虎の登場が遅すぎる!? NHK大河ドラマがつまらない理由【コラムニスト木村和久】




― 木村和久の「オヤ充のススメ」その159 ―

 今年のNHK大河ドラマは、昨年の「真田丸」ロスということもあり、あまり期待をしていませんでした。予想通りというか、登場人物のキャラクターも弱く、話も地味だし、歴史上の人物にしては小物でちょっと魅力に欠ける。そう思って、適当に流していました。まあ3回に1回ぐらい義理で見たって、誰に対する義理だか。受信料にですかね?

 そしたら、なんと女城主直虎としての登場が12回目のラストですから、びっくり仰天。もちろん主人公の幼少期のマルコメ茶坊主としては初回から出ていますが、タイトルの「直虎」と名乗り、城主になるのが、12回目のラストシーンというわけです。


日刊SPA!© SPA! 提供 日刊SPA!
 12回目のオンエアって民放ドラマじゃ、ワンクールが13回程度ですから、次回は最終回ですよ。これはどう考えても引っ張り過ぎでしょ。普通、前振りの部分は1回か2回ぐらいで、コンパクトにまとめて颯爽と直虎登場にします。さすが天下のNHKは時代の流れに逆行した本格的なドラマ作りに、いたく感服しております。

 過去の例を見ても、大河ドラマに関しては、総じて下馬評通りの視聴率になることが多いです。最近だと「花燃ゆ」とかね。「花燃ゆ」の場合、吉田松陰が亡くなったら、ネタが減るからって、前半で結構引っ張ったように思えます。今回は逆引っ張りで、直虎登場以降はまだ面白いだろうと、前半を小出しにしたのではないでしょうか。

 というわけで13回目から、直虎の大活躍が始まるかと思いました。でも、う~ん、以前よりは面白いですが、もうちょっと頑張って欲しいなと。結局、直虎のアイデアで農民たちの年貢帳消し、すなわち徳政令問題を解決します。その解決の仕方がユニークというか、斬新と言うか。まるで一休さんを見ているようなって、直虎は坊主だってば。

 従来の大河ドラマって、英雄の豪快さや躍動感が魅力ですよね。それが例え女性でも。小池知事もコスプレした、リボンの騎士のサファイアにしても、男まさりだけど、実は女のコなのというギャップがいいのです。今のところ、女に何が出来るんだ的演出ですから、ここらへんも早々と切り上げ、豪傑の部分を、見たいと思います。

 ◆NHK大河ドラマ好きオヤジが提案する改革案

 ここで歴代の大河ドラマを顧みて、ちょっとした改革案を提言します。受信料を払っているのですから、一応何か言う権利はあると思いますし。

①個人的にはたまに大河ドラマを見ない年があってもいい

 ドラマはワンクール3か月時代のご時世、1年を通して見るのは体力的にもスケジュール的にもしんどいです。だから今年は流しておこうと、視聴者が決めても仕方がないかもしれません。3年に1回ぐらいは、外した作品があったほうが見なくて済むから、むしろ、助かるかも。

②放送時間の謎

 大河ドラマは、BSや再放送を含めて何回もオンエアしますが、日曜の午後6時のBSでのオンエアが理解できません。あれは誰が見るのか? 民放のアニメの時間帯にぶつけなくても、と思いますが。早く寝るおじいちゃんに対して、オンエアしてるのか? そんなことはないだろうと思いますが、日曜6時は、まだ多くの方が外出中もしくは、帰宅時間ぐらいでしょ。

 以前は、BSで確か午後10時頃に放送をしていました。6時の放送をやめて、ぜひ夜10時に放送してほしい。だったら、日曜の夜に見るかもしれない。多少つまらなくても。

③大河ドラマ決定のプロセスの公開と候補作を選ぶ段階でアンケートを実施

 最終決定権はもちろんNHKで構いませんが、候補作を3つぐらい出してアンケート調査をして、盛り上げるのもいいのでは。あくまで参考ですが、あまりにも人気がないのを強硬して制作するのも、いかがなものかとは思いますよ。

④1年1作方式をやめる

 やはり時代の流れでしょうか。1年間同じドラマで引っ張るのは、時代的に無理だと思います。スタジオジブリの高畑勲&宮崎駿両氏はアニメ「母を訪ねて三千里」に携わっていたとき、毎週「マルコは今日も、お母さんに会えませんでした、で終わるのがしんどくて」とコメントをしていましたから。あの巨匠たちですら1年間通してドラマを作るのは、難しいと言ってるのです。

 朝ドラのように、半年作品にして東京と大阪の制作に分けるとか、あるいはプロダクションに投げるとかで、やっていかないとしんどいかもしれません。

 手始めに、ドラマ「坂の上の雲」の影響で、11月でオンエアを終えた「天地人」方式もありますし。別に秋終了で、終わってから歴史ドラマを流す必要もないし。むしろ企業ドラマみたいなのでもいいし。そういう工夫が必要かも知れません。

⑤公募もあり得る

 大河ドラマ=歴史物という括りで選ぶとしたら、歴史上の人物は限りがあります。あまり知らない人は視聴率が悪いし。ということは、歴史的事件や英雄を軸に、どう切るか誰の目線で描くかということですよね。それこそ歴史学者、磯田道史先生などにお聞きして公募委員会を作り、吟味するのもありかなと。新たな発掘は難しいので、過去の歴史作品のディフォルメでもいいと思うんですよ。いろいろ考えましょうよ。

■木村和久(きむらかずひさ)■

トレンドを読み解くコラムニストとして数々のベストセラーを上梓。ゴルフやキャバクラにも通じる、大人の遊び人。現在は日本株を中心としたデイトレードにも挑戦

龍馬伝 坂本龍馬の真実<維新船中八策回天編>緑川版龍馬がゆくvol.3

2017年04月09日 19時03分04秒 | 日記




























 話をかえる。
若い頃の栄一は尊王壤夷運動に共鳴し、文久三年(一八六三)に従兄の尾高新五郎とともに、高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地襲撃を企てた。
 しかし、実行は中止され、京都に出た渋沢栄一は代々尊王の家柄として知られた一橋・徳川慶喜に支えた。
 話しを前に戻す。
  天保五年(一八三四)、栄一は十二歳のとき御殿を下がった。
 天保八年十五歳のとき、家斉の嫡男が一橋家を継ぐことになり、一橋慶昌と名乗った。当然のように栄一は召し抱えられ、内示がきた。
 一橋家はかの将軍吉宗の家系で、由緒ある名門である。栄一は、田沼意次や柳沢吉保のように場合によっては将軍家用人にまで立身出世するかもと期待した。
 一橋慶昌の兄の将軍家定は病弱でもあり、いよいよ一橋家が将軍か? といわれた。
 しかし、そんな慶昌も天保九年五月に病死してしまう。栄一は十六歳で城を離れざるえなくなった。
 しかし、この年まで江戸城で暮らし、男子禁制の大奥で暮らしたことは渋沢にとってはいい経験だった。大奥の女性は彼を忘れずいつも「栄さんは…」と内輪で話したという。城からおわれた渋沢栄一は算盤に熱中した。
 彼は家督を継ぎ、鬱憤をまぎらわすかのように商売に励んだ。
 この年、意地悪ばばあ殿と呼ばれた曾祖母が亡くなった。
 栄一の父は夢酔と号して隠居してやりたいほうだいやったが、やがて半身不随の病気になり、死んだ。
 父はいろいろなところに借金をしていたという。
 そのため借金取りたちが栄一の屋敷に頻繁に訪れるようになる。
「父の借財はかならずお返しいたしますのでしばらくまってください」栄一は頭を下げ続けた。プライドの高い渋沢にとっては屈辱だったことだろう。
 渋沢は学問にも勤しんだ。この当時の学問は蘭学とよばれるもので、蘭…つまりオランダ学問である。渋沢は蘭学を死に物狂いで勉強した。
 本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。
 あるとき、本屋で新刊の孔子の『論語』を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」渋沢は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで渋沢は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、孔子の『論語』はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら渋沢はきいた。
「四谷大番町にお住まいの与力某様でござります」
 渋沢は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると栄一は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、渋沢は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い渋沢栄一でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  渋沢は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 渋沢の住んでいるのは本所江戸王子で、与力の家は四谷大番町であり、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、渋沢は写本に通った。
あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。渋沢は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。渋沢は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。栄一は売らなかった。その栄一による「論語の写し」は渋沢栄一記念館に現存している。

  渋沢は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により渋沢の名声は世に知られるようになっていく。渋沢はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」
 大飢饉で、渋沢も大変な思いをしたという。
 徳川太平の世が二百五十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 渋沢はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、渋沢も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
「火事場泥棒」的に尊皇攘夷の旗のもと、栄一は外国人宿泊館に放火したり、嵐のように暴れた。奇兵隊にも入隊したりもしている。松下村塾にも僅かな期間だが通学した。
 だが、吉田松陰は渋沢栄一の才に気づかぬ。面白くないのは栄一である。
 しかし、渋沢栄一は「阿呆」ではない。軍事力なき攘夷「草莽掘起」より、開国して文化・武力・経済力をつけたほうがいい。佐久間象山の受け入りだが目が覚めた。つまり、覚醒した。だが、まだ時はいまではない。「知略」「商人としての勘」が自分の早熟な行動を止めていた。今、「開国論」を説けば「第二・佐久間象山」でしかない。佐久間象山はやがて幕府の「安政の大獄」だか浪人や志士だのいう連中の「天誅」だかで犬死するだろう。
 俺は死にたくない。まずは力ある者の側近となり、徐々に「独り立ち」するのがいい。
 誰がいい? 木戸貫治(桂小五郎)? 頭がいいが「一匹狼的」だ。西郷吉之助(隆盛)?
薩摩(鹿児島県)のおいどんか? 側近や家来が多すぎる。佐久間象山? 先のないひとだ。坂本龍馬? あんな得体の知れぬ者こっちが嫌である。大久保一蔵(利通)? 有力だが冷徹であり、どいつも「つて(人脈)」がない。
 渋沢栄一は艱難辛苦の末、わずかなつて(人脈)を頼って「一橋慶喜」に仕官し、いつしか慶喜の「懐刀」とまでいわれるように精進した。根は真面目な計算高い渋沢栄一である。
 頭のいい栄一は現在なら「東大法学部卒のエリート・キャリア官僚」みたいな者であったにちがいない。
 一橋慶喜ことのちの徳川慶喜は「馬鹿」ではない。「温室育ちの苦労知らずのお坊ちゃん」であるが、気は小さく「蚤の心臓」ではあるが頭脳麗しい男ではある。
 だが、歴史は彼を「阿呆だ」「臆病者だ」という。
「官軍に怯えて大阪城から遁走したではないか」
「抵抗なく大政奉還し、江戸城からもいち早く逃げ出した」
  歴史的敗北者だ、というのだ。あえて「貧乏くじ」を引く策は実は渋沢栄一の「策」、「入れ知恵」ではあった。
 まあ、「結果」よければすべてよし、である。
 


坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。大河ドラマ『花燃ゆ』では、伊原剛志さん演ずる龍馬が長州の松下村塾にやってきて久坂(旧姓・杉)文と出会う設定になっていた(大河ドラマ『花燃ゆ』第十八回「龍馬!登場」の話)。足の汚れを洗う為の桶の水で顔を洗い、勝海舟や吉田松陰に傾倒している、という。松陰亡き後の文の『第二部 幕末篇』のナビゲーター(水先案内人)的な存在である。文は龍馬の底知れない存在感に驚いた。「吉田松陰先生は天下一の傑物じゃったがに、井伊大老に殺されたがはもったいないことじゃったのう」「は、はあ。……あの…失礼ですが、どちらさまで?」「あ、わしは龍馬!土佐の脱藩浪人・坂本竜馬ぜよ。おまんはもしかして松陰先生の身内かえ?」「はい。妹の久坂文です」「ほうか。あんたがお文さんかえ?まあ、数日前の江戸の桜田門外の変はざまあみさらせじゃったがのう」「さ…桜田門外の変?」「おまん、知らんがか?幕府の大老・井伊直弼が桜田門外で水戸浪人たちに暗殺されよったきい」「えっ?!」「まずは維新へ一歩前進ぜよ」「…維新?」桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩郷士の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
 
 話を過去に戻す。
桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「尊皇攘夷は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。

 和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。
 和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        
 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。


「懐剣じゃと?」
 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
 和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
  この頃、文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
  家茂は妻・和宮と話した。
 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」
 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
  薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。
 話しを少し戻す。

長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
 当然、晋作も長崎に滞在して、出発をまった。
 藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
 使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
 二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
 …それにしてもまたされる。
 窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
 しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった(遊郭からもらいうけたというのはこの作品上の架空の設定。事実は萩城下一番の美女で、武家の娘の井上雅(結婚当時十五歳)を、高杉晋作は嫁にした。縁談をもってきたのは父親の高杉小忠太で、息子の晋作を吉田松陰から引き離すための縁談であったという。吉田松陰は、最後は井伊大老の怒りを買い、遺言書『留魂録』を書いたのち処刑される。処刑を文たちが観た、激怒…、は小説上の架空の設定)。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
 ……自分のことしか考えられないのである。
 しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
  当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
 しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。大阪経済の発展につとめ、のちに大阪の恩人と呼ばれた男である。
 晋作は上海にいって衝撃を受ける。
 吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
 こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
 ……壤夷鎖国など馬鹿げている!
 それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
 上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
 しかし、すぐに捕まって処刑される。
 日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
 ……俺には回天(革命)の才がある。
 ……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
 高杉晋作は革命の志を抱いた。
 それはまだ維新夜明け前のことで、ある。



            
  龍馬(坂本龍馬)にももちろん父親がいた。
 龍馬の父・坂本八平直足は養子で山本覚右衛門の二男で、年わずか百石の百表どりだった。嘉永から文政にかけて百表三十何両でうれたが、それだけでは女中下男や妻子を養ってはいけない。いきおい兼業することになる。質屋で武士相手に金の貸し借りをしていたという。この頃は武士の天下などとはほど遠く、ほとんどの武士は町人から借金をしていたといわれる。中には武士の魂である「刀」を売る不貞な輩までいた。坂本家は武家ではあったが、質屋でもあった。
 坂本家で、八平は腕白に過ごした。夢は貿易だったという。
 貧乏にも負けなかった。
 しかし、八平の義父・八蔵直澄は年百石のほかに質屋での売り上げがはいる。あながち貧乏だった訳ではなさそうだ。
 そのため食うにはこまらなくなった。
 それをいいことに八平は腕白に育った。土佐(高知県)藩城下の上町(現・高知県本丁節一丁目)へ住んでいた。そんな八平も結婚し、子が生まれた。末っ子が、あの坂本龍馬(龍馬・紀(直陰)直柔りょうま・きの・(なおかげ)なおなり)である。天保六年(一八三五)十一月十五日が龍馬の誕生日であった。
 父・八平(四十二歳)、母・幸(こう・三十七歳)のときのことである。
 高知県桂浜……
 龍馬には二十一歳年上の兄権平直方(二十一歳)、長姉千鶴(十九歳)、次姉栄(十歳)、三姉乙女(四歳)がいて、坂本家は郷士(下級武士)であったが本家は質屋だった。
 龍馬は、表では威張り散らしている侍が、質屋に刀剣や壺などをもってきてへいへいと頭を下げて銭を借りる姿をみて育った。……侍とは情ない存在じゃきに。幼い龍馬は思った。
 幸は懐妊中、雲龍奔馬が胎内に飛び込んだ夢をみた。そのため末っ子には「龍馬」と名付けたのである。
 いろいろと騒ぎを起こす八平の元で、龍馬は順調に育った。幸も息子を可愛がった。
 しかし、三歳を過ぎた頃から龍馬はおちこぼれていく。物覚えが悪く、すぐに泣く。
 いつまでも”寝小便”が治らなかった。
「馬鹿」なので、塾の先生も手を焼く。すぐ泣くのでいじめられる。
 そんな弘文三年に、龍馬は母を亡くした。龍馬が十二歳のときだった。
 母のかわりに龍馬を鍛えたのが、「坂本のお仁王様」と呼ばれた三歳年上のがっちりした長身の姉・乙女だった。
 乙女は弟には容赦なく体罰を与えて”男”として鍛え上げようとした。
「これ! 龍馬! 男のくせに泣くな!」
 乙女は、びいびい泣く龍馬少年の頬をよく平手打ちした。しかし、龍馬はさらに泣く。  
 いじめられて友達もいないから、龍馬は折檻がいやで堪らない。
「泣くな! これ龍馬! 男は泣いたらいかんきに!」
 乙女は龍馬を叩いたり蹴ったりもした。しかし、けして憎い訳じゃない。すべては立派な男にするためだ。しかし、近所からは”「坂本のお仁王様」がまた馬鹿弟をいじめている”……などと噂される。乙女も辛かったろう。しかし、乙女はけして妥協しない。
 龍馬は少年時代から孤独であった。
 兄姉があり、末っ子だから当然うるさいほど甘やかされてもよさそうなものなのに、そうではなかった。龍馬が利発な子なら好かれたろう。
 だが、龍馬は逆に皆に無視されることになった。それは生まれたときから顔に大きな黒子があったり、背中に黒い毛が生えていたりしたからであろう。栄姉などは龍馬を不気味がったりもしたという。そのうえ龍馬は少しぼ~っとしていて、物覚えが悪く、いつも泣く。剛気をよろこぶ土佐の風土にあわぬ者とし「ハナタレ」と呼ばれ、いつもいじめられた。そんな中で乙女だけが、イライラと龍馬を叱ったり世話をやいた。
「龍馬。あなたはちゃんとした立派な男に……いいえ英雄になりなさい!」
「……じゃきに…」龍馬は泣きながらいった。         
「泣くな! 男じゃろ?! あんさんは女子じゃきにか?」乙女は叱った。
 そして続けて「あんたが生まれたとき、あたしたちはびっくりしました。黒子が顔にあって、背中にふさふさ毛が生えちゅう。じゃきにな龍馬、母上は嘆いたのよ。でも、あた            
しが慰めようとして、これは奇瑞よ。これは天駆ける龍目が生まれたのよ……って」
 龍馬はようやく泣きやんだ。
「あとはあなたの努力次第じゃ。ハナタレのままか、偉いひとになるか」
 高知で「ハナタレ」と呼ばれるのは白痴のことである。それを龍馬の耳にいれまいとして乙女はどれだけ苦労したことか。しかし、今はハッキリと本人にいってやった。
 この弟を一人前の男にしなくては……その思いのまま乙女は弟をしつけた。
「あんさんは何かあるとすぐ泣くので、皆いっちゅう。金で侍の株は買えるがもともと商人じゃ。泣虫なのはあたりまえじゃきに…と。悔しくないのきにか?!」
 愛情を込めて、乙女はいった。しかし、龍馬にはわからない。
 乙女はいろいろな手で弟を鍛えた。寝小便を直すのに叱り、励まし、鏡川へ連れていっていきなり水の中に放りこんで無理に泳がせたり、泣いているのに何べんでも竹刀を持ち直させて打ちすえたり………いろいろなことをした。
 いじめや剣道の失敗で、龍馬は夜にひとりで家の庭で黙りこくり悩んでいた。
病弱な母・こうが歩いてきて「どうしたの?龍馬………また何か悩みがあるの?」
「いやああの…ぼくは弱虫で臆病だから相手に打ちこめないの。だから、強くなれないんだ」
「そうじゃない。弱虫だからではないの!龍馬は…優しすぎるの。」
そう微笑むとこうは指で地面に字を書いた。……“海”という字だった。
「いい?これは海と呼ぶの。いい?中に母があるでしょう?」
「ああ、これは母上の字?」
「そうよ。お母さんの字。そして…いい?」地面に“憂”と書いた。「これはうれうとよむの。この字の意味は自分だけでなく他人の悩みや哀しみを感じる心。そしてひとが憂と“優”………優しいという意味になるの。“優”は優れている、とも読むの。優しい事は同時に優れていることでもあるの。わかった?」
「でも、それじゃあ勝てないよ。」
「今はいいのよ。そのうち龍馬は強くなる。お母さんは龍馬を信じているわ」
「うん。」
竜馬少年は頷いた。だが、優しい母・こう(幸)はやがて労咳(肺結核)の病気で死んだ。
 そんな龍馬も成長すると、剣の腕もあがり、乙女のおかげで一人前の男になった。
黒船を江戸・神奈川でみた龍馬は黒船をつくりたい、黒船にのってみたい、と思った。
地元の土佐に戻った龍馬は父親の八平や家族をつれて桂浜にいった。
龍馬は「わしは黒船を買ってどうするがかを考えたぜよ」と砂浜に世界地図を櫂で書き始める。「わしは黒船を手にして世界に旅に出るぜよ!」
「まあ、世界?」乙女や栄姉やん義理母らは喜んだ。
「ああ!ここがわしらがいる桂浜…土佐からまず黒船で西へ。清国があるぜよ。いにしえの昔からの歴史のある国じゃそうじゃ。そして、さらに西へ!エジウという国があるがじゃ。そこは砂の国で石で出来た山がいくつもあるらしい」
「石の山?まあ。」春猪は喜んだ。
八平は黙って眺めて、人知れず涙を流す。竜馬は「そして更に西へ!そこには最新文明のあるユーロッパがある。そこは近代文明で蒸気機関の産業革命で世界のエゲレスがあるがじゃ。そしてさらに西へ!そこにはジョン万次郎さんもいったアメリカがあるがじゃ!海で世界を制するがじゃ!」
「そうかそうか。」
父親の八平が死ぬのはその数か月後である。
平井収二郎の妹・加尾との初恋とわかれもあった。土佐上士と下士との諍いを和解させたのも坂本龍馬である。吉田東洋に見込まれる龍馬だったが、東洋は土佐勤王党の武市半平太(瑞山)が大嫌いだった。「わしはおまんの様な狭い認識しかない人間は大嫌いじゃ!」ハッキリ怒鳴って言ってやった。何が勤皇攘夷じゃ!馬鹿者が!今は開国じゃろう!
 十九歳の頃、龍馬は単身江戸へむかい剣術修行することになった。
 乙女はわが子のような、弟、龍馬の成長に喜んだ。
 乙女は可愛い顔立ちをしていたが、からだがひとより大きく、五尺四、五寸はあったという。ずっとりと太っていてころげると畳みがゆれるから、兄権平や姉の栄がからかい、「お仁王様に似ちゅう」
 といったという。これが広がって高知では「坂本のお仁王様」といえば百姓町人まで知らぬ者はいない。乙女は体が大きいわりには俊敏で、竹刀を使う腕は男以上だった。末弟に剣術を教えたのも、この三歳年上の乙女である。
 龍馬がいよいよ江戸に発つときいて、土佐城下本町筋一丁目の坂本屋敷には、早朝からひっきりなしに祝い客がくる。客はきまって、
「小嬢さまはぼんがいなくなってさぞ寂しいでしょう?」ときく。
 乙女は「いいえ。はなたれがいなくなってさっぱりしますきに」と強がりをいう。
 龍馬が十二歳のときに母親が死んでから、乙女は弟をおぶったり、添い寝をしたりして育ててきた。若い母親のような気持ちがある。それほど龍馬は手間のかかる子供だった。 いつもからかわれて泣いて帰る龍馬は、高知では「あのハナタレの坂本のぼん」と呼ばれて嘲笑されていた。泣きながら二丁も三丁も歩いて帰宅する。極端な近視でもある。
 父親はひとなみに私塾(楠山塾)にいれるが、毎日泣いて帰ってくるし、文字もろくすっぽ覚えられない。みかねた塾の先生・楠山庄助が「拙者にはおたくの子は教えかねる」といって、塾から排斥される。
 兄の権平や父の八平も「とんでもない子供だ。廃れ者だ」と嘆く。
 しかし、乙女だけはくすくす笑い、「いいえ。龍馬は日本に名をのこす者になります」などという。
「寝小便たれがかぜよ?」
「はい」乙女は強く頷いた。
 乙女の他に龍馬の支援者といえば、明るい性格の源おんちゃんであったという。源おんちゃんは「坊さんはきっと偉いひとになりますきに。これからは武ではなく商の時代ですき」という。のちの坂本龍馬は剣豪だったが、その剣でひとを斬り殺したことは生涯で一度もなかったといわれる。


『べっぴんさん』全話平均20.3%! 「印象に残らない朝ドラ」と最悪の評価だった理由

2017年04月03日 18時54分48秒 | 日記





























『べっぴんさん』全話平均20.3%! 「印象に残らない朝ドラ」と最悪の評価だった理由



© Cyzo 提供
ニッポンのお茶の間をわかし続ける国民的番組“朝ドラ”――そのあらすじと視聴者からの反響を、サイゾーウーマンが週2回(火・金曜日)お届けします!

『べっぴんさん』(NHK総合/月~土、午前8時) 戦後の焼け野原の中、坂東すみれ(芳根京子)が家族のため、そして女性たちのために子ども服づくりに邁進していく物語。神戸に本社を置く子ども服メーカー「ファミリア」の創業者たちの軌跡をモチーフにしている。

■4月1日(土)/151話(最終回) ついに最終回を迎えた『べっぴんさん』。151話ではキアリス創設者である君枝(土村芳)、明美(谷村美月)、良子(百田夏菜子)、すみれの4人が、すみれの孫・藍(渡邉このみ)に手作りの写真入れをプレゼント。その写真入れには、すみれたちが葉の一つひとつに「勇気、愛情、信頼、希望」という意味を込めた四葉のクローバーが刺繍されていた。

 さらに151話最後のシーンでは、青年時代に良子から「バイクの君」とあこがれられていたすみれの義兄・潔(高良健吾)が、すみれの姉・ゆり(蓮佛美沙子)とともにバイクで登場した。物語初期から登場する神戸の街が見下ろせる高台で、すみれと家族たちが団らんをしている様子も描かれ、「昔のエピソードから思い出深い部分ピックアップしてくれるの素敵」「良子ちゃんがあこがれてた“バイクの君”再登場はうれしかった」「すみれがお母さんに刺繍教えてもらってたのと同じように、すみれがさくらに刺繍教えてるのジーンときた」と絶賛の声が続出。

 しかし、同様に多かったのが「別に見なくても良かったな、って感じの朝ドラだった」「全体通してあんまり印象に残ってない」「なんか地味だったな」「淡々としすぎて、今日もこれが最終回? って感じだったし、盛り上がりに欠けた」という声。「結局、起業についてなのか、家族についてなのか、友情についてなのか、何をメインで見せたいのか、わからなかった」という声が多数上がっているように、物語の主軸がどこにあるのかが不明瞭だったため、全体を通して「印象が薄い」と感じた視聴者が多かったようだ。全151回を通じた平均視聴率は20.3%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と大台に乗せることができたものの、視聴者の評価はパッとせずといったところだ。

 4月29日には、大急のキアリス担当・小山(夙川アトム)とキアリス販売員・悦子(滝裕可里)の恋物語を描いたスペシャルドラマ『恋する百貨店』が放送予定。さらにスピンオフラジオドラマや、特別編のアナザーストーリーも放送が決定している。本放送は終了したが、まだしばらく『べっぴんさん』ロスに陥る心配はなさそうだ。