長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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ショパン 神からの旋律ショパンCHOPINフレデリク・ショパンの真実ブログ連載最新版4

2017年04月30日 08時20分25秒 | 日記































 ウィーンにおけるぼくの生活を、多くのひとが「無為の期間」と呼ぶ。
 それは明らかに正しく、正確かも知れない。実際、ぼくはその「無為の期間」を、無気力なまま生活した。その八カ月は、惰性で生きていたような気もする。
 今思えば、本当に「無意味」な時期だった。惰性の時期だった。
 はっきりいって、ぼくはウィーンを最初の訪問地に選んだ。が、そこでダメだった場合どうするか?……それを考えてもいなかった。必ず、ウィーンにいけば成功すると確信していたからだ。
 だが、現実はそうはならない。
 じゃあ、何処へ……?ぼくはパリ行きを考えた。両親やティテュスらはぼくをイタリアにいかせたかったようだが、混乱の中、ヴィザをとるのが困難であった。
 とにかく、ぼくはパリに行くことに決めた。
 フランスは、当時のポーランド人にとって希望の象徴だった。
 フランス革命の自由の思想が彼らを導いており、三国干渉に対抗してポーランドの独立運動を助けるのはフランス以外ないと思われたからだ。事実、暴動の失敗で、こと破れた人々はパリに亡命した。しかし、結局フランスはぼくになんの支援もしなかったし、暴動も傍観した。ぼくはそれにたいして激しく失望し、呪った。
 だが、ぼくは結局パリに行った。
 漸く音楽をリードしようとしていたドイツ人とぼくとの間に軋轢があったこともある。それも原因のひとつだ。
 ぼくがウィーンを発つのはこの年の七月である。
 この時、ぼくはロシア大使館(ぼくは正式にはロシア国籍)で、パスポートのことでごたごたがあったが、結局パリにいくことになった。
 大使館員は、
「ポーランドへ帰ったら?」
 と言った。ぼくは、(帰ったら殺されるので)「それは出来ません」と言った。
「なぜ?」
「……」
「じゃあどこかへ行くのか?」
「はい。フランスにいきます」
「何しに?」
「音楽活動です」ぼくは答えた。それでまたごたごたが起こったが、結局”糞ったれの”ロシア人は承諾した。

「無為の期間」と呼ばれる通り、ぼくがウィーンで制作した作品はあまり多くない。ワルツや歌曲などの小品がほとんどである。しかし、ぼくの代表作ともいえる、「スケルツォ第一番」ロ短調と「バラード第一番」ト短調を作っていることに注目してもらいたい。
「革命」もこの頃生まれている。
 これで、”創作活動では低迷”といえるだろうか?
 出来ることなら、ぼくの心の中に渦巻いている盲目で狂暴な感情に呼びおこされたすべてのひびきをつかって音楽をかいてみたい。ぼくはそう強烈に思う。
 それは、ぎらりと光るような感情だ。それは確実に、しんと光る満月ではない。
 ぼくはやっと太陽になったのだ。

  ぼくはザルツブルグを発ってミュンヘンにいったが、そこで(父親から送られてくるはずの金が届かないので)しばらく滞在し、八月末には演奏会も開いた。そして、その十日後にシュトゥットガルトに着いた時、革命軍の敗北とワルシャワ陥落の報を知った。
ぼくは激しく動揺し、悲しみと無力感に苛まれた。
 ぼくは絶望的な気持ちのまま、手記をしたためた。
 それは、以下のような内容だ。

”…シュトゥットガルトのあちこちの塔の時計が真夜中をつげている。この瞬間にどれだけ多くの人が死体になることだろう。……ワルシャワの郊外は焼かれてしまった。ヤシウはどこにいるのか。ヴィルヘルムはきっと城壁の上で死んだだろう。マルセルは捕虜になったか。神よ、あなたは本当においでなのですか。あなたは復讐はなさらないのですか。モスクワ人たちの犯罪をまだ見足りないのですか。あなた自身がモスクワ人なのですか。……ぼくは一人でここにいる。何もできない。神よ、地球を揺り動かし、いま世に生きるものをそのなかにのみ込ませて下さい。私たちを救いに来ないフランス人を、かぎりなく残酷な苦痛で悩まして下さい……”

 ぼくは絶望し、無力感に苛まれた。そして、ひとり頭を抱え、うつぶして、自分の部屋でおいおいと泣いた。
「ぼくは何も…できない」
 ぼくは涙ながらに独り言をいうことしか出来なかった。               
         パリへ




  ぼくが着いた頃のパリは七月革命後のルイ・フィリップ王政下にあった。
 そこでは、依然として現状打破を声高に叫ぶ革命派と、現状維持の保守派による対立が続いていた。ぼくはそういうのは苦手なので、関わらなかった。
 パリにも、ロマン派の波が押し寄せていた。そのひとつが一八三〇年『エルナニ』(ヴィクトル・ユゴー)やドラクロワの絵画、そして、ベルリオーズの『幻想交響曲』をあげることが出来るであろう。
 ぼくもしだいにそういう動きのなかにのみこまれていくことになる。が、ロマン派の波というものがそんなに強烈だとは、その時のぼくは考えもしなかった。
 ただ、この西欧の大都市の喧騒に圧倒され、自分自身の志をあらたにするしかなかった。「必ず成功しなくては」
 ぼくは心の中で、何度もそう誓った。
 ………必ず成功しなくては!そうでなきゃ終りだ!

”それは最大の美徳であり、また最大の悪徳でもある。一歩あるくごとに性病の薬の広告にぶつかる。騒音や馬鹿騒ぎなど、想像をはるかに越えている。ひとはその「天国」のなかに姿を没してしまうが、それはなにより好都合だ。他人がどんな生活をしているか誰も知りもしないのだから”



 ぼくは、パリの北の地区にあるポアソニエール大通りに「しんと光るような小さな部屋」を借りた。そこは五階にあって、見晴らしがすごくよかった。
 モンマルトルからパンテオンまでパリの一番綺麗なところが見渡せる、信じられない程魅惑的なところだった。
 空は一面のブルーだった。
 そんな青に、ふわふわと雲がゆれて、ほんわりした陽の光りが窓から差し込む。それは幻想的なような景色だった。
 そう、幻想、だ。
 そういうしんと光るような風景は、目の前の不安を少なからず和らげてくれた。
 ぼくは思う。
「……この空はすべての始まりだ」って。
 ぼくは、都会の喧騒の中で、ひとりの芸術家として生きる意味について深く考えた。
 そして、
「ぼくは、必ず成功する」と念じた。それは、マインド・コントロールであった。というより、自己暗示か?とにかく、ポジティヴに考えた。…心の中で。ひっかかるものがないとはいいきれないまでも、とにかく念じた。
「ぼくは、必ず成功する」と。いや、
「成功しなければならないのだ」
 と。

  ぼくを迎えたのは、旧知のラジーヴィウ公爵や、美しいデルフィーヌ・ポトツカ伯爵夫人、そして祖国を追われていた愛国詩人ミツキェヴィチなどのポーランド人だった。
「やあ、ショパン君」
「こぶさたしてます」
 ぼくらは握手を交わした。
「…無事でなによりだ」ラジーヴィウ公爵は笑顔を見せた。
 それから、ワルシャワやウィーンで得た多くの紹介状のおかげでパリの有名な音楽家たち、ロッシーニ、ケルビーニ、パエールなどにも会うことができた。
 しかし、この大都会ではそうしたことは音楽家としての道を開く要因にはならなかった。ただ、会っただけで、”顔みせ”の意味くらいにしかならなかった。
 けして、しんと光るような出会いではない。
 そんなに簡単に光るもんか!
 ぼくが本当に関係をもったのは、当時のピアノの巨匠カルクブレンナーだった。彼はぼくの演奏会をきいて興味を示し、
「君はフィールドの弟子か?」
 と、尋ねた。
「いいえ、違います」ぼくは答えた。
「では誰の弟子だ?」
「ぼくは誰の弟子でもありません」
 ぼくはにこりと言った。
 ぼくの方でもカルクブレンナーのひくピアノに強く魅かれた。
 カルクブレンナーは当時の大家に違いないが、当時の新しい音楽の風潮の中ではいささか時代遅れ……とみられていた。でも、ぼくはそんな風には思わなかった。
 カルクブレンナーは「誰にもくらべられぬほど素晴らしい」そして、「その静かで魅力的なタッチ、比類のない均整感」は神懸かりのように素晴らしい。
 それに比べて、ウィーンできいた若い人気ピアニスト、タールベルクの弾くピアノはあまりいいものではなかった。ひとことでいうと、
「華やかだが、内容に乏しい」のだ。
 その点、カルクブレンナーは「誰にもくらべられぬほど素晴らしい」。




  パリにきてしばらくしたある夜…。
 ぼくはカルクブレンナー氏の邸宅に招かれた。
 月が高く、漆黒の闇が広がり、ときおり月明りが差し込んで辺りをしんと光らせていた。とても静かな夜だった。すべてを包み込むような夜だ。
 ふわふわとした夜だ。
 カルクブレンナーは、
「君はもっと基本を学ぶことだ」とぼくにいった。
「基本ですか?」
「うむ」カルクブレンナーは続けた。「すべては基本が大事なのだ。家を建てるのでもそうだろう?土台がきっちりしてなくて曲がってたりひびがはいったりしたら潰れてしまう。音楽もしかり。基本さえしっかりすれば演奏も魅惑的になる。
 ショパン君、君の演奏は素晴らしい。しかし、私について基本を学べばもっとすごい演奏……聴衆を感動させられるような演奏ができるのだ」
「……聴衆を感動…ですか?」
「うむ。私と三年間一緒に勉強しないか?」
「三年間?」
「うむ」
「………わかりました。考えておきます」
 ぼくは答えた。そして、悪くない、と思った。
 しかし、父さんにそのことを伝えると、父さんとエルスナー氏はかなり厳しいことをいってきた。要するに、ぼくは騙されている……というのだ。
 エルスナー氏は、
「自分の才能の命ずるところに従うべき」だといい、また、
「演奏家であるよりも、作曲家としての道を歩め」
 と言った。
 ぼくはよくよく考えて、その忠告に従ったが、カルクブレンナー氏への信頼の気持ちはかわらなかった。ぼくは、
『ピアノ協奏曲』ホ短調
 をカルクブレンナー氏に捧げた。
 カルクブレンナー氏は、普段はごく普通のひとだが、ピアノを演奏している時は神仏のようにしんと光り輝く。ぼくはそこに魅かれた。

  パリでのデビュー演奏会は、その年の十二月二十五日に予定されたが、都合で翌年に延期され、カルクブレンナー氏の突然の病気などで、やっと二月二十六日に実現した。
 それは、本当にやっとのことだった。
 場所はカデ通りのサル・プレイエルで、プログラムには「声楽・器楽大演奏会」と印刷されていた。当時はいわゆる独奏会は例外的にしかおこなわれておらず、器楽の間に歌や踊りが入るのが普通だった。
 ほくはこの演奏会でヘ短調の協奏曲と『ラ・チ・ダレム・ラ・マーノによる変奏曲』を弾き、聴衆にも快くうけいれられた。それは、新しいロマン派の勃興の時代が到来したというような評価をうけた。それは多分当たりだろう。ぼくはそう思う。
 演奏会が終わると、ぼくは拍手を背に楽屋に戻った。
 そして、ジュースを飲んだ。
 喉が乾いていたし、とても美味しいジュースだった。確か、オレンジ・ジュースだったかな?よく覚えていない。
 楽屋で帰り支度をしていると、若い青年らが訪ねてきた。
 それが、リストとメンデルスゾーンだった。彼等も、ぼくとともに同年期としてロマン派音楽をリードする人物たちであり、ぼくの演奏に”なにか”を発見したようだ。
 それは嬉しいことで、リストとメンデルスゾーンは、
「君を尊敬する」
 と言ってくれた。ぼくはもちろん嬉しかったし、きらきら光る友情のようなものを微かに感じた。それは運命だったのかも知れない。
 陳腐だが、そう思う。
 なぜなら、この後、リストとメンデルスゾーンとは親友同士になったのだから。


  パリでのリサイタルは基本的には「成功」だった。
 だが、その成功が音楽家としてのぼくの生活を保証したことにはならなかった。ぼくの演奏も作品も評論家筋には高く評価されたのだが、一般聴衆に大ブームを巻き起こすようなことはなかった。
 オペラ一辺倒の人々にとっては、ぼくの演奏はいささか繊細過ぎて聞きずらい…というようなことでどうもあったらしい。
 確かに、ぼくの演奏は、リストのような派手さで聴衆を圧倒するものでもなければ、タールベルクのように安易な抒情性でひとを喜ばせるようなのではない。そういう意味において、ぼくの繊細なピアノの調べは「うけいれるのに手間がかかる」といったところだろうか?なんにしても、ぼくは限られた聴衆しかもつことができなかった。
 それにしても、ぼくは一八三〇年代の前半には多くのリサイタルをやった。にも関わらず、生活はジリ貧だった。金が儲からず、客が来ず……悲惨な日々が続いた。
「……くそったれめ!」
 ぼくはひとり、舌打ちした。なんてことだろう!所持金がなくなってきて、ズボンの破けたのも直せず、靴もすりきれてきた。食べ物も少なく、病気がまた悪化しだしたり……とにかく悲惨だった。
 明らかに生活に息詰まった。
 ぼくは、
「アメリカに移住しよう」と真剣に考えるようになる。
 しかし……アメリカにいってなんになるのか?
 とにかく、ぼくは悩み、貧乏に頭を抱える日々が続いた。
  しかし、幸福は足早に訪れる。
 ラジーヴィウ公によってロチルド家(イギリス名はロスチャイルド)に紹介され、ぼくはパリの上流階級での名声を確実なものにした。
 また、サロンか?だって?
 それは言わないでほしいな。とにかく、これでぼくは救われたのだから…。
 彼らサロンに集まる人々は、ぼくの音楽に共感し、その子女たちの音楽教師としての仕事がぼくの収入を保証することになった。一八三三年頃にはぼくはパリで一番裕福なポーランド移民の一人となっていた。
 ぼくとサロンのことを少し語ると、ぼくはポーランド時代から上流階級のサロンを中心に演奏やってきていた。ぼく自身、サロンが好きだった。
 極めてリアリストなぼくはサロンの実態をよく分析していて、実態は分かっていた。しかし、同時に、そういう社会でしか自分の音楽は受け入れられないという現実もわかっていた。
 ぼくは自分の心を他人に打ち明けるのは嫌いだ。で、サロンという洗練された社交の場でこそ自分を守れる……ということをぼくは知っていた。
 だから、サロンを中心に演奏をやってきた。
 それのどこが悪いとか悪くないとかそんな問題じゃない!食べていくためにサロンで演奏をやり続けただけだ。
 …………なにが悪い?
 この頃、音楽は大衆のものになりつつあったが、ぼくは大衆と距離をおくような道をあえて選んだ。そして、外の世界との接触の拒否をうけ入れてくれるサロンに住むことを選んだ。
 ぼくは金持ちになって、ひとりの召使いと自家用の馬車をもつような生活を送れるようにまでなった。さらに、社交界では花形のスターにまでのしあがり、パリの著名な音楽家や詩人のハイネとも親交を結んだ。しかし、いつも
「……このままでいいのだろうか…?」
 とは思っていた。
 ぼくの心の中のどんよりした影や孤独が、しだいにぼくの身体を蝕み、ずたずたにしていった。いいようもない孤独感……いいようもない心痛…いいようもない感傷…。
 金持ちになっても、ぼくはそうしたものから逃げることは出来なかった。
 それは、きりりと心を締めつける心痛だ。
 しんとした感傷だ。



******続く(刊行本あるいは電子書籍に続く)*****

おんな城主 直虎と東村アキコ「雪花の虎」の5つの共通点とは?

2017年04月28日 15時22分19秒 | 日記






























おんな城主 直虎と東村アキコ「雪花の虎」の5つの共通点とは?

公開日 : 2017年1月20日 / 更新日 : 2017年2月1日

おんな城主 直虎






NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」にある噂があります。「大人気漫画家・東村アキコが原作を書いているのではないか?」というものです。これは全くのデマです。しかし、東村アキコさんの漫画「雪花の虎」には「おんな城主 直虎」と多くの共通点がありました。ビジュアルもかなり似てるんですよね。




Contents [hide]
1 おんな城主直虎の原作者は東村アキ子?
2 「おんな城主 直虎」と「雪花の虎」5つの共通点2.1 ①主人公がおんな城主
2.2 ②主人公のビジュアル
2.3 ③舞台が戦国時代
2.4 ④タイトルに「虎」
2.5 ⑤東村アキ子原作ドラマ放送中

3 東村アキ子ファンの感想

おんな城主直虎の原作者は東村アキ子?





2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」。2年ぶりの女性主人公の大河ドラマです。おんな城主ときいて、東村アキコさんの人気漫画を思い浮かべた人も多いはず。なかには東村アキコさんの漫画が、大河ドラマ「おんな城主 直虎」の原作だと誤解されている方もいるかもしれません。



MHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」は、森下佳子のオリジナル脚本で原作はありません。※ノベライズ版は発売しています。一方、東村アキコさんの大人気漫画は「雪花の虎」。雑誌「ヒバナ」で連載中のこちらの作品は、東村アキコさんオリジナルの漫画。



しかし混同してしまうのも納得してしまいます。二つの作品には共通点が多いのです。まずタイトルが似てますよね。東村アキコさんのファンである私も「あれ?もしかして東村アキコが原作?」と思ってしまいました。



「おんな城主 直虎」と「雪花の虎」の共通点は、全部で5つありました。




「おんな城主 直虎」と「雪花の虎」5つの共通点





大河ドラマ「おんな城主 直虎」と東村アキコさんの漫画「雪花の虎」の5つの共通点を紹介していきます。まずは一覧で紹介。そのあとで詳しく説明していきます。共通点の多さから、東村アキコ大河ドラマを狙って「雪花の虎」を描いたのではと思われるほど。




【「おんな城主 直虎」と「雪花の虎」の共通点】
=================
1.主人公がおんな城主
2.主人公のビジュアル
3.舞台が戦国時代
4.タイトルに「虎」
5.東村アキ子原作ドラマ放送中



ひとつずつ詳しく紹介していきますね。

①主人公がおんな城主

まず一つ目の共通点「主人公がおんな城主」。「おんな城主 直虎」の大きなテーマが、おんな城主。それぞれの作品の主人公を紹介します。

「おんな城主 直虎」の主人公

大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公は、井伊直虎。戦国時代に実在した武将です。いくつかの史料から直虎は女だったのではないかと言われています。最近では男説も再燃しているようですが、NHK大河ドラマでは「おんな城主」として描かれています。




【井伊直虎とは】

井伊家当主・井伊直盛の一人娘として生まれます。直盛には男の子が生まれなかったため、分家の男と結婚させ、城主の妻となるはずでした。しかし、分家は謀反の罪を着せられ、城主となるはずだった男も逃亡してしまいます。

その後も井伊家に悲劇が訪れ、井伊家の男の跡取りがいなくなってしまいます。そこで女である直虎が城主として目を付けられ、おんな城主となります。


「雪花の虎」の主人公

東村アキコさんが小学館の雑誌「ヒバナ」で連載中の「雪花の虎」の主人公を紹介します。主人公は、景虎。後の上杉謙信です。「雪花の虎」は、上杉謙信女性説をテーマに漫画にしたものです。下で説明している上杉謙信は漫画の中での設定です。




【上杉謙信とは】
上杉家の家臣、長尾氏の家に生まれたのが、景虎。男の子を熱望されていたが、生まれてきたのは女の子。しかし当主・長尾為景は毘沙門天のお告げを信じ、名前を「虎千代(後の上杉謙信)」と名付けます。女として生まれた謙信でしたが、男として育てられます。

この虎千代が成長し、のちの上杉謙信となります。







②主人公のビジュアル

二つ目に紹介する共通点は、主人公のビジュアルです。「おんな城主 直虎」の主人公・直虎も、東村アキコさんの漫画「雪景の虎」の主人公・上杉謙信も頭に白い頭巾をかぶっています。



どちらの主人公も寺で生活をしていたことがあり、白頭巾をかぶっています。直虎は出家。上杉謙信も出家騒動が史実に残っています。二人とも生涯独身であることも共通する点ですね。

「おんな城主 直虎」の主人公



「雪花の虎」の主人公



③舞台が戦国時代

三つ目に紹介する共通点は、時代です。「おんな城主 直虎」と「雪花の虎」の舞台設定はどちらも戦国時代。物語には共通して登場する人物も登場します。特に武田信玄は、どちらの物語にも深く関わりのある人物です。

④タイトルに「虎」

四つ目の共通点は、作品のタイトル。「おんな城主 直虎」「雪花の虎」どちらの作品にも「虎」の文字が入っています。これは主人公の名前に虎が入っていることに関連していますね。



どちらの作品も女が一国の城主となる物語。女である主人公には男らしい名前がついています。

⑤東村アキ子原作ドラマ放送中

最後の共通点は、NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放送期間に東村アキコさんの別の作品のドラマが放送されていることです。2017年1月クールのドラマ「東京タラレバ娘」。吉高由里子さん主演のドラマです。



ドラマの放送中は、原作者である東村アキコさんの名前の露出も増えます。「おんな城主 直虎」と同時期に放送されていることもあって、「おんな城主 直虎」の原作者が東村アキコさんだと勘違いされる事態になっているのでしょう。







東村アキ子ファンの感想







最後に東村アキコさんのファンである、私の感想を書きます。私が「おんな城主 直虎」の存在を知って思い浮かんだのは東村アキコさんの「雪花の虎」でした。上で紹介しているように、二つの作品には共通点が数多くあります。そんなワケでちょっと混同してしまいました。



それぞれ別の人物を主人公にしながらも、戦国時代におんな城主となった人物の人生を描いています。混同してしまうのも無理はないですが、私が混同してしまった一番の理由は「雪花の虎」第4巻の帯の文言でした。



上の画像をみてもらえば分かりますが、「女城主」という言葉が大きく出ています。これは明らかにNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」を意識しての文言だと思います。大河ドラマが放送されると関連書籍も売れますからね。



NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」のヒットとともに、東村アキコさんの「雪花の虎」の知名度も上がっていくと思います。(既に大人気漫画ですが)



同じテーマを扱っている二つの作品。併せてみていくと面白い発見があるかもしれませんよ。


今村前復興相のいうことも一理あり。ただ「東北の方でよかった」の言い方が論外。辞任は当然

2017年04月26日 17時06分06秒 | 日記





























私は「東北の方だからよかった」とは思わないが、


今村前復興相のいう

「あの地震や津波が首都圏で、だったら甚大な莫大な被害になった」というのは


その通りで但し「言い方」が論外であったということだ。



東日本大震災を鑑みて首都圏だったら……


でいい所を


「東北でよかった」


では誰でも激怒する。説明が下手なおっさんだった。代わりの福島出身の担当大臣もあぶなそう(笑)


臥竜  緑川鷲羽 2017/04/26 17:05

小室哲哉「宇多田ヒカルとiPodが音楽界を変えた」<音楽で成功するには?>

2017年04月24日 16時45分25秒 | 日記





























小室哲哉「宇多田ヒカルとiPodが音楽界を変えた」




 近年は、世界的にEDMが音楽のメインストリームになるなか、エレクトロミュージックを早くから取り入れてきた小室哲哉のサウンドへの再評価の機運が高まっている。世界を股にかけ、時代の先端を見続けてきた音楽プロデューサーには、この20年の音楽業界の変化はどう映っているのだろうか。


1958年生まれ、東京都出身。1984年に自身のユニットTM NETWORKのリーダーとしてデビュー。その後プロデューサーとしてtrf、安室奈美恵、華原朋美、globeなどの作品に関わり、ミリオンヒットを連発した。(写真:中村嘉昭)© NIKKEI STYLE 1958年生まれ、東京都出身。1984年に自身のユニットTM NETWORKのリーダーとしてデビュー。その後プロデューサーとしてtrf、安室奈美恵、華原朋美、globeなどの作品に関わり、ミリオンヒットを連発した。(写真:中村嘉昭)
 「ちょうど98年頃からいろいろなものが予想を上回るスピード感で変化していった。ヒット曲の定義が変わり、パソコンの世界でMP3フォーマットが広まって音楽がデータでやり取りし始められた時期でしたね。

 98年の夏は、ワールドカップ公式アルバムに収録された『TOGETHER NOW』をジャン・ミシェル・ジャール(仏音楽家でユネスコ親善大使)とともに作ったので、大会のセレモニーに出演するためフランスに滞在していました。日本代表チームが初出場した大会だったので、サポーターが現地にもたくさん来て声援を送っていましたね。競技場ではサポーターみんなが『CAN YOU CELEBRATE?』を大合唱して、心を1つにしていました。それを眺めながら、音楽って不思議な力があるんだなって思っていましたね。

 98年の年末はちょうど日本にいたんですが、デビューしたばかりの宇多田ヒカルさんの衝撃がすごかった。大みそかから元旦に切り替わったとき、テレビで『Automatic』のスポットが大量に流れたのを鮮明に覚えています。宇多田さんは、スラングも交えてネイティブな英語を流暢に話すアメリカ育ちの逆輸入なのかと思いきや、お母さんがすごい人(藤圭子)だったり。プロセスや出自など、どこを取っても斬新。それまでの日本の芸能界のスターとは違って、海外のパパラッチが追うような人たちに近いなと感じました。

 当時の僕は、憧れていた海外のミュージシャンの力も借りながら、見よう見まねでできる限りのことをやって、だいぶ近づけたかなという時期でした。でも、そうした枠には収まりきらない子が出てきたんです」




■感じた潮目の変わる時期

 「世間の宇多田さんへの期待感の高さを実感したのは、globeのベストアルバム『CRUISERECORD 1995‐2000』(99年)をリリースする頃でした。それまでにGLAY『REVIEW』(97年)やB'z『B'z The Best“Pleasure”/“Treasure”』(98年)の前例もあり、ヒット曲が並んでいるベスト盤が一番売れる鉄板のアイテムという時代。僕はプロデューサーという立場から、ベスト盤の最高記録を更新したいという思いもありました。でも、当時はインタビューのたびに『宇多田さんの1stアルバムに勝てますか?』って聞かれて、そのたびに答えを濁していたんです(苦笑)。内心は……今だから言いますが、もしかして潮目の変わる時期なのかもしれないと感じていました。

 それ以降は、自分の声で自分の好きな言葉を歌うアーティストが増えていきました。宇多田さんの影響というよりは、彼女をきっかけに、プロデューサーやレコード会社の人の言葉に耳を傾けつつという、音楽業界の暗黙の了解みたいなものがなくなったんだと思います」



 結果、99年に出たglobeのベストアルバムは265万枚以上のセールスとなったが、宇多田の1stアルバム『First Love』はこの年約736万枚を売り上げ、日本記録を樹立した。21世紀に入るとCD市場は急激に失速。ネットの普及に伴って音楽配信サービスがその役割を取って代わった。ITを早くから音楽ビジネスに導入してきた小室にとって、「iPod」の出現が大きなインパクトだったという。

 「01年にiPodが出てきて、音楽との関わり方が大きく変わりました。それ以前のウォークマンは、インドアだけでなく、アウトドアへと場所を選ばずに音楽を聴ける『居場所の変化』を可能にした機器でしたが、 iPodと、それを管理する役割を果たすiTunesは楽曲やアーティスト名や曲名まで全部をデータ化にしたデバイス。あのときアメリカで自分の手持ちのCDをすべてデータ化したのですが、『まだ入るの?』と容量の大きさに驚愕しました。この容量はなかなか1人では埋められない、音楽との距離感が変わっていくのかもしれないなと、ふと思ったりしました。

その頃、ナップスター(※)などの無料ファイル交換ソフトが出現したんですが、当時から僕は否定しない立場でした。まだCDが現金で売れている時代でしたから、こうしたソフト自体を否定したり、コピーガードをかけようという気持ちももちろん分かります。ただ、新しい技術をどう受け入れるかも考えるべきだったと。あの頃にビットコインのような仮想通貨が存在していて、ネット時代の正当な楽曲の価格が議論されていれば、シングル1枚1000円だったものが、現在のように限りなく無料に近いということにはならなかったかもしれませんね」

 CDの売り上げに頼れなくなった00年代。代わってアーティストは、ライブに活路を見いだすようになっていく。

 「最近では、アーティストがメジャーデビューを目標にしていないという話をよく耳にします。それより、07年にマドンナが契約したライブネーションのような世界的なエージェントやイベントと直結している組織と組みたがっている。ライブの重要性が高いからこその発想でしょう。音楽やライブ制作は本人が好きなようにするから、契約先はプロモーションやスポンサードに専念してほしいという考え方は、プロのスポーツ選手の契約とちょっと似ているかもしれませんね」

■いつの時代も驚きが大切

 「ライブの見せ方、演出面の技術は90年代には出そろっていたと思います。70年代にレーザー光線、80年代にバリライト、90年代に入ると大型ビジョンが登場し、大きなオブジェも飛ばしていた。これらは今のライブでも当たり前のように使われています。昨今人気を集めている大型のEDMのフェスの演出は、まさにこれらを集めたものだと思うんです。有機的な風船や花火などを飛ばし、または、光のような手に取れないものを見せて、さらにはLEDを使った鮮明で巨大な映像を楽しむ。エンタテインメントに求められているのはいつの時代も、この驚きなんだと思います。

 もちろん、音響面の進歩もライブの見せ方に影響しています。音響を空中に釣ってもちゃんとお腹に響く音が鳴るようになったり、ギターやマイクなどがワイヤレスになった分、ステージの前後が空いたり自由に動き回れるようになりましたからね。もし80年代にその技術があったら、氷室京介さんのあの(音響システムに足を乗せて歌う)スタイルも生まれなかったんじゃないかな」

※インターネットに接続されたPC間でMP3などのファイルを共有するソフト

「音楽と相性がいいパートナーの1つ、スポーツと組み合わさるとすごいことが起きるということを僕が感じたのは、最初に話したフランスW杯でした。閉会セレモニーに向けて、フランス対ブラジルが決勝戦を戦っている間もずっとリハーサルをしてたんです。だから、試合はどちらが勝っているか負けているかも分からなかった。でも、開催国のフランスがゴールを決めるとラジオを聴いている町中のドライバーが、クラクションを一斉に鳴らすんですよ。様々な(音階の)クラクションが重なり合って、まるで音楽のようだなと思ったし、音楽ってすごい力があるんだなと実感しました。

 日本では20年に、東京オリンピックが開催されます。きっと母国のアスリートが活躍したらフランスW杯のときと同じように、もしくはそれ以上に盛り上がると思うんですよ。ただ、僕が国事であるサミットのイメージソングを手がけた頃と違って一般の人がたくさんの情報を手に入れられる時代。しかもまだ、ロンドンオリンピック(12年)の素晴らしい開会式の記憶も色濃いとも思うので、担当される方はすごいプレッシャーかもしれません。日本だからこそできるエンタテインメント、ひいてはJ‐POPの力を世界中に示す場になることを期待したいです。

 今のJ‐POPシーンを見ると自分で曲や歌詞を書いて歌うだけでなく、SNSを駆使してセルフプロデュースまでする人が増えていますよね。そんな時代だからでしょうが、国内外を問わずプロデューサーはトータルでアーティストを育てるのではなく、トラックメイカーとほぼ同義になってきたなと感じることも増えました。とはいえ、歌うことに特化してプライドを持っているシンガーも少なからずいると思うんです。僕も、そうした方から曲を作ってほしいという要望があれば、きちんとその思いに応えて寄り添える曲を書いていけたらいいなと思っているんです」

(ライター 橘川有子)

フジ『貴族探偵』、また月9視聴率最低更新は必至か…相葉クンが学芸会レベル演技で悲惨

2017年04月18日 19時34分32秒 | 日記





























フジ『貴族探偵』、また月9視聴率最低更新は必至か…相葉クンが学芸会レベル演技で悲惨



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 毎クールのように低視聴率が話題になる、フジテレビの月曜夜9時台の連続ドラマ枠「月9」。その今クール作である『貴族探偵』の第1話が17日、放送された。

 探偵の高徳愛香(武井咲)はある日、“ポルチーニ・パーティー”に参加するため友人の玉村依子(木南晴夏)の別荘を訪問すると、地下の井戸で男性が殺されているのを発見する。さっそく神奈川県警の鼻形雷雨(生瀬勝久)ら刑事が到着し捜査を始め、依子らパーティー参加者5名のなかの誰かが犯人だと宣言。すると、そこにどこからともなく「貴族探偵」だと名乗る男(相葉雅紀)と、その召使いの佐藤(滝藤賢一)、田中(中山美穂)、山本(松重豊)が登場し、貴族探偵と高徳はどちらが先に真犯人を割り出すことができるかを競うことに。しかし、貴族探偵は召使いたちに推理をさせ、自身は釣りを楽しんだりと遊び呆け、高徳の怒りを買う。

【詳細画像はこちら】 http://biz-journal.jp/2017/4/post_18754.html

 そしてついに高徳は玉村が犯人だという結論に達し、貴族探偵と召使い、パーティー参加者、鼻形たちの前で推理を披露するが、山本はその推理にミスがあると指摘。別の参加者が犯人であることを立証し、貴族探偵が勝負に勝つ。

 以上が第1話のあらすじである。コメディータッチのファンタジーものなのだが、視ていて、何を視させられているのか、そしてどこをどう楽しめばよいのかまったくわからず、「これって、相葉クンのファン以外は誰が視るんだろう……」というのが正直な感想である。そう、相葉クンのファン以外に、想定される視聴者層が思いつかないのだ。

 見どころがないわけではない。人格が破綻したダメ刑事・鼻形役を演じる生瀬のやりたい放題の演技は結構笑えるし、冒頭とエンディング部分でちらっと登場する高徳の師匠役・井川遥の癒やしオーラ全開の“美”は、もっと視ていたかった(オープニングの井川の笑顔アップが数秒間続くシーンでは、話題の某ウイスキーのCMへのオマージュだね)。

 さらに、始めから終わりまで、一貫してポルチーニ(とポルパ=ポルチーニ・パーティー)が話題に上っていたのも、意味は不明なんだけどおかしかった。エンディングで武井が自分で料理して食べていたポルチーニのパスタ(味付けは塩のみ)は本当に美味しそうだったしね。ただ、冒頭の井川と武井がポルチーニについてああだこうだと話すシーンは、前クールで人気を集めた『カルテット』(TBS系)を意識しているのが丸出しだったのは、やや残念。

●相葉クンと武井が残念

 しかし、同ドラマで決定的に残念なのが、主役である相葉クンと武井だろう。

 たとえば、生瀬と武井の漫才のような掛け合いをドラマの見どころのひとつに据えようとしている制作サイドの意図はみえるのだが、武井の一本調子の演技が生瀬の好演をぶち壊してしまい、同時にそんな意図もぶち壊されてしまっている。

 さらに最大の難点は、貴族の格好をした相葉クンがまったく貴族に見えず、セリフも棒読みなので、貴族の服を着せられて学芸会に出ているようにしか見えない点だ。セリフの内容も現実離れしているだけに、ただただ違和感しか感じられない。

 せっかく生瀬や滝藤、松重など個性的でおもしろい俳優が揃っているのに、生かしきれておらず、完全なる宝の持ち腐れ感がもったいない。脇を固める彼らベテラン俳優陣の存在感が強いゆえに、かえって軽さが際立ってしまう相葉クンが主役を務めなければならないという不幸が、もう気の毒で仕方ない。そもそも滝藤や松重たちを差し置いて相葉クンが主役というのは、明らかに無理があるでしょ(お金持ちの令嬢・玉村を演じた木南晴夏は結構いい“ズレた女”感を出していたが、第2話以降は出てくるのだろうか……)。

 いずれにせよ、「なぜフジはこのドラマをつくったのか」という疑問と、「また“月9史上最低視聴率”更新へまっしぐら」という悪い予感しかしない同ドラマであった。ジャニーズの威信を守るためにも、健闘を祈りたい。

(文=米倉奈津子/ライター)

ショパン 神からの旋律ショパンCHOPINフレデリク・ショパンの真実ブログ連載最新版3

2017年04月16日 09時05分02秒 | 日記





























         ワルシャワ陥落




  ぼくの作品は一八二九年になって増えていく。
 数が増えただけでなく、そこにぼくの音楽の格段の成熟が見られるというのは、誰の眼でも明らかだ。それ以前の作品は、いまでは演奏されることはあまりないが、この時期以後の作品は盛んに演奏される。
 ぼくは運命の星から黄金の翼を得たのだ。
 そして、その翼でぼくは大空に羽ばたきいろいろな音楽的収穫を手にしたのだ。さらにぼくは、暗い漆黒の夜をもきらきらと明るく照らすように作品をつくり続けた。
 ぼくの音楽的成熟は明らかであった。
 それは、きらきら光る太陽というより、しんと光る満月のような静かな成熟だ。
 この頃、ぼくのポピュラーな作品、『協奏曲』(作品二一)や、『練習曲』(作品一〇)などを書いた。
 ぼくは調子がよかった。
 センスが光っていた。
 あまり知られてないが、この頃、数曲の歌曲も作った。そして、この頃より、「ノクチュルヌ」技法がスタートする。
 この頃を、ぼくの音楽的成熟とみるのはいささか早合点というものかも知れない。というのは、この当時、まだぼくは過去の巨匠の影をひきずっていた。不得意なオーケストレーションでは特にそうで、まだ、成熟期とまではいってないって感じだった。
『協奏曲』第二番(ヘ短調)は、ひきつづいて書いた第一番(ホ短調)(順番が逆になっているのは出版の順)とともにぼくの「初期」の様式の集大成といっても過言ではない。 ただ、しんと光るような成熟期とまではいってないって感じだ。
 ぼくは音楽家としての出発としてオーケストラつきの華やかな楽曲を選んだ。その中の、第一楽章のフンメル風、第二楽章のノクターン風、そして第三楽章の民謡風の楽想は、
いずれもぼくの初期の作品の特徴を示すものだと思う。
 それに比べると、『練習曲』はぼくの個性を示すものといえるかも知れない。
 多分に、オリジナリティがあるのだ。
 多分に、独創性があるのだ。
 ピアノの大家たちは、新しく開発された楽器の特徴を活かすような練習曲を書いており、ぼくはそこからかなりの影響をうけ、自分でも『練習曲』を書こうと思ったのだった。
 とくに、チェルニーの『練習曲』にはかなりの影響を受けた。
 カール・チェルニーはウィーンの作曲家で教師のひとである。
 チェルニー氏は、
「ショパン君、君は天才だ」
「ショパン君、君の演奏は神懸かりのように素晴らしい」
「ショパン君、君の作品は素晴らしい」
 と、沢山お世辞をいってくれた。
 ぼくは、このひとと非常に親しくなって、彼の家に招かれ、二台のピアノで幾度も合わせた。とてもいいひとだが、それだけのひとです。
 性格は優しく、演奏も上手なのだけれど、それだけのひとです。
 天才ではなく、凡人のひとです。
 それだけです。


  ブルーの空にうっすらと雲が流れ、ゆらゆらと揺れていた。
 なんとも静かで、きらりと太陽が光る。それはしんとした感傷だった。なんとも幻想的な風景やパノラマだった。金色の風景のような。
 ぼくは、ティテュスの別荘のテラスの椅子に座り、そんなブルーを見ていた。
 とてもいい眺めで、目の前の不安を少なからずやわらげてくれるかのようだった。
「フリデリク」
 ティテュスがやってきて言った。
「やぁ、ティテュス。何処にいってたんだい?」
「これさ」
 ティテュスは、ジュース入りのグラスを手にもって、掲げた。
「喉が乾いたかと思ってな」
「そう、ありがとう」
 ぼくはジュースを受け取ると、一気に喉に流しこんだ。とても美味しかった。
「フリデリク。君は今…」
「え?」
「君は今…」ティテュスは続けた。「大活躍だな」
「そりゃあどうも」
 ぼくは皮肉をこめて礼をいった。
「ぼくには音楽の才がないから、君の作品の質がわからないが、きいてるととてもいい」「そうかい?」
 ぼくはうけおった。「まぁ、……音楽なんてものは音に依る思想の表現だから、なにもこむずかしいことではないんだ」
「というと?」
「つまり、耳できいて、これはいいな、いい音楽だな、と感じればそれはいい音楽だし、感じなければそれはいい音楽ではないんだ」
「そんなものかい?」
「まぁね」
 ぼくは笑った。
「……ところで」
 ティテュスは話しをかえた。そして、不安気な顔になって、
「連中とまだ密かに会ってるのか?」
「………」
「どうなんだい?」
 ぼくは言葉を飲んだ。そして、心臓が二回打ってから、「革命思想家どもとか?」
「あぁ」
 ティテュスは頷いた。それにたいしてぼくは、
「……なにか問題でも?」
 と逆質問した。
 ティテュスは、「君は当局に睨まれてるぞ」と言った。
「……かまわないさ」
「連中と会うのはやめたほうがいい」
「なんで?」
「当局との軋轢がある。現に、君は政府から金をもらえなかったではないか」
「かまわんさ」ぼくは苦笑いをした。「…当局なんて怖いもんか」
「君は利用されているだけだ。君はこの国一番の音楽家だ。知名度も抜群……人寄せパンダに利用されているだけだ」
「……そうかい?」
「殺される」ティテュスは脅した。「もし革命でも起こって、それで失敗したら……君は殺されるぞ」
「……」 
「生け贄さ」
「ふん」
「象に立ち向かう鼠だ。勝ち目はないぞ」
「…………わからんさ」
 ぼくはとりあえずそう答えた。確かに、象に立ち向かう鼠だ。勝ち目はない。
 それはわかっている。ぼくだって馬鹿じゃない。


  それにしても、この頃、ぼくは二十歳になるかならないかの学生だったのだから、その立場で、『練習曲』を書いた意義は大きい。先人たちのものとはやはり違った視点で見られていいものだろう。しんと光るような曲たちだ。
 ぼくは作品一〇の『練習曲』十二曲につづいてやはり十二曲からなる作品二五の『練習曲』を書いた。その創作期間は一八二九年から一八三六年である。
 ぼくが音楽様式を確立しようとしていた時期に、この『練習曲』を書いた意味は大きい。ぽくはピアノという楽器を、ほかの誰とも違う意味で音楽による表現の武器としたのだ。 この頃より、オーケストラつきの音楽は捨ててしまった。
 その点も、ぼくと他のロマン派音楽家たちとは明らかに違う。
 とにかく、ピアノだけでいこうと決めたのだ。
 それは、きらきら光る太陽のような決意だ。しんと光る満月をやめて、金の翼を得ようと、心に決めたのだ。その金の翼こそ、ぼくの場合はプレイエルのピアノだった訳だ。
 その意味で、『練習曲』の作曲は、ぼくにとっては「音の発見」であった。
『協奏曲』が、ぼくの音楽的青春の総括であるなら、『練習曲』は新たな音の探求に他ならない。さすれば、『ノクチュルヌ』は音楽的成熟の結晶ともいえる。
『協奏曲』も『練習曲』も、やがてぼくは捨ててしまうが、『ノクチュルヌ』は今でもずっと続けている。バラードも一種の大きな『ノクチュルヌ』に他ならない。
(『ノクチュルヌ』というのは、ご存じの通り、フィールドが自分のピアノ小曲を呼ぶのに使った名称だ。フィールドはアイルランド系の出身のピアノの名手で、ぼくはその清らかな旋律に心動かされた。)
 もちろん、フィールドの旋律がぼくの心をティックしたのも事実だが、二十歳のぼくはそれ以上にきらめくような旋律を考えたって訳である。
 ぼくは、金の翼で大空に羽ばたいたのだ。
 むき出しの旋律で、大空に羽ばたいたのだ。
 そんな気がするな、ぼくは。





  一八三〇年をつらつらおもんみると、この年の三月、ぼくはワルシャワの国立劇場で演奏会をひらいた。それは、ウィーンでの報告会という意味もあったが、正式な意味で祖国におけるデビューとなった。切符は三日前には売り切れ。
 ……ぼくは出来たばかりの『協奏曲』(ヘ短調)と旧作(一八二八年)の『ピアノとオーケストラつきの幻想曲』(作品一三)をひいたが、聴衆の反応はきわめて温かいものであった。
 ………『協奏曲』の最初のアレグロは比較的少数の人にしか受け入れられぬはずの曲だったのに、拍手かっさいがわきおこった。しかしそれは、人々が関心をもっているように見せ、玄人ぶるのを上品とした結果だ。アンダージョとロンドは最大の効果を発揮し、ほんとうの感嘆の叫びがきこえた。
 それは、きらきらした”希望”の光であった。
 聴衆の温かい反応に励まされ、ぼくは二回目の演奏会を開いた。それは、第一回に切符を買えなかったひとのためだった。前回にピアノがよく響かなかったという不満に答え、今度はさるロシア軍人のもっていたウィーン製のピアノを使い、評判は更に高まった。
  しかし、それに対してのマスコミの大袈裟な賛辞は、やり切れないほどの馬鹿げたもののように感じた。
 確かに、ほくだって人間だ。褒められれば嬉しい。
 しかし、天才、天才、というだけでは芸がない。自分では、最初のピアノの方がよかったと思っている。それが、わかっちゃいない。
 それに、ぼくはチヤホヤされるのは好きじゃない。群れられるのは御免こうむる。ぼくは狼のように孤高でいたい。演奏会を開いてからというもの、「サイン下さい」「握手して下さい」とばかりいわれ、馬鹿らしく思っている。
 アイドル・タレントじゃないんだから…。


  二度の演奏会を終わって、ぼくは次の『協奏曲』(ホ短調)の作曲にかかった。その頃には、ぼくの出国は周囲の人々の共通の話題となっていて、ぼく自身もそれを天職の命ずる道だと考えていた。しかし、不安もあって、なかなか割り切れなかった。
 ぼくがどうしたかって?
 まだ『協奏曲』を仕上げなければならないと思っていた。「ロンド」はもう出来ていた。だけど、外国なんてぼくをひきつけるものは何もない。来週には、外国に行くことが決まっていたが、それは、天職と常識に従ったまでだった。
 その頃、ぼくは気の狂ったような状態だった。まだ、ワルシャワにいる。出発の日を決める勇気がなかった。もし出てしまったら、一生家に帰れないような気がしたからだ。
 ただ、死ぬために出発するような気がした。
 いずれにしても、聖ミカエル祭までにはウィーンへ旅立つだろう。
 ………永遠に悩み苦しむために運命づけられて…。いや、ぼくの書いていることは皆馬鹿げている。


 ぼくは当時、精神的危機の状態にあった。それは、病気がちの体で、過度にデリケートなぼくが両親や親しいひとたちと離れるにあたってのしんとした感傷に他ならない。
 もちろん、コンスタンツィヤへの忘れがたい思い出や愛着が、ぼくの心の中を嵐のようにごうごうと吹き荒れていたことは否定できない。
 ぼくにとっては、非常に精神的危機の状態であり、青年ショパンの生涯的危機でもあった。それは当たりで、ぼくはそれから祖国へは二度と帰れなくなった…。それは後述する。
  ぼくは身支度を整えて、教会へと向かった。
 空はブルー一色で、透明なものだった。雲がうっすらとゆらゆら揺れていて、とてもいい天気だった。このようないい天気は、目の前の恐怖を少なからずやわらげてくれるかの様だった。秋の幻想のような。
 入り口にいって、立っている男に、
「ワルシャワの青空」
 と言った。暗号なのだ。
「……それと?」
「ロシアの夕暮れ」
 男の問いに、ぼくは無表情のまま答えた。
「…よし」
 男は中に案内した。
 といっても、ぼくは有名人だから、暗号なんて必要ないのだ。本当は。だが、この暗号は「儀礼」なようなものだから必要だったのだ。
 中は殺伐としていて、汚かった。
 しかし、革命家たちのアジトとしては、ピッタリとくるものだ。あまり、革命家たちが綺麗なサロンに集まって暴動の計画を練る……なんてのはきかないから、こうした殺伐とした場所のほうがピッタリとくる。
 なかでは、長椅子がしんと光っていた。そこに男達がいた。
 ぼくは、そんな中で、革命思想家たちと話した。それは、密談で、詳しくは言えない。しかし、そこで「ぼくの名が」当局のブラック・リストに載せられているのを知った。つまり、そういうことで奨学金もダメになったのだ。
 のちに暴動を起こす革命思想家たちは、ぼくに国外脱出を提案した。ぼくは有名人だから、暴動を起こして捕まったら、スケープ・ゴート(生け贄の羊)として殺されるだろう。……というのだ。
 見せしめのために…。
 ぼくは怖くなった。正直、震えた。誰だって命は惜しい。それはぼくだって例外ではないのだ。
「……とにかく、国外へ逃げたほうがよい」
 男は言った。
「それが君のためだ」
「………。」
 ぼくは無言になった。そして、教会を後にした。

 ポーランド出国が、祖国との永遠の別れとなることをぼくは予想していた。
 だが、逃げなければ投獄されるか殺される。そんなのは嫌だ!
 だから、ぼくは出国することに決めた。
 ぼくの「告別演奏」は、十月十二日に行われた。が、政府もマスコミもそれを一切無視した。……当局のブラック・リストにぼくの名が載せられていたからだ。
 それから二十日後の十一月二日にはぼくは祖国を離れるが、暴動の勃発はその月の終りである。だから、ぼくは暴動には加わっていない。
 出発の日、家族とともに馬車でワルシャワ郊外のヴォーラに到着した。その時、エルスナー先生が先にきていて、ギター伴奏つきの男声合唱による自作のカンタータをはなむけとして演奏してくれた。
 エルスナー先生は、
「ショパン君。国外での君の活躍を期待してるよ」
 と励ましてくれた。
「ありがとうございます。頑張ります」
 ぼくは答えた。なんにせよ、頑張ります、と言った。
「これを」
 皆は、銀製のカップをぼくにプレゼントしてくれた。
 ぼくは、
「これは?」と尋ねた。すると彼等は、
「ポーランドの土を入れた銀製のカップだ」
 といった。
「この土を見て、祖国のことを思い出してくれ」
「……土で?」
「あぁ。何か苦しいことや辛いことがあったら、それを見て、元気を出してくれたまえ」「そうか。………ありがとう」
 ぼくは頭を下げた。なんだかとても嬉しかった。ちょうどよい贈物だ。
 きらきら光るような贈物だ。
 送別会では、すべての椅子も窓も壁も、しん光ってみえた。それはきっと、感傷のせいであろう。だけど、ぼくはそういうものを大切にしようと思った。
 神はすべてを救ってはくれない。愛さえもすべては救ってはくれない。でも、ぼくは神のご加護を信じようと思った。いるんだかいないんだかわからない神ではあるが、とにかく信じてみよう、と思った。
 ぼくはここを去る。
 新たな出発。新たな旅立ちだ。
 神と祖国の仲間との別れだ。……そんな気がした。
  旅にはティテュスが同行した。
 ぼくら二人は、ドレスデン、プラハを経て十一月二十三日にウィーンに到着した。
 ワルシャワに暴動がおこるのはその直後の十一月二十九日である。ティテュスはその報をきいてすぐ帰国したが、ぼくはウィーンにとどまった。ぼくもティテュスの後を追ったが馬車にのりおくれてあきらめた、というのは作り話だ。
 真実は、ぼくは帰りたくても帰れなかったのだ。
 もし帰ったら捕まって投獄されるか殺される……ぼくは震えた。
 ………もう母はいないかも知れない、ロシア人に殺されたかも知れない。ぼくは思った。姉や妹は狂わんばかりに抵抗し、父はなすすべもなく…。ぼくはなすすべもなくウィーンにいた。いるだけだった。時おり呻き声を発し、悩み、その苦しみをピアノにぶつけて吐き出した。それしか出来なかった。
 そして、「革命」が生まれた。

  ウィーンは冷たかった。
 学生の頃は優しくしてくれた音楽関係者も、今回はぼくに寛容ではなかった。無料の演奏会の誘いはあったが、そんなもの受け入れられる訳がない。ぼくはボランティア活動している訳じゃないんでから。金がもらえなければ生活していけないではないか。
 出版社のハスリンガーも、ぼくの作品をタダで出版することばかり考えていた。
 八方ふさがりのぼくは「絶対に音楽家として成功しなくては!」と心で叫んだ。
 ぼくの立場を一層悪いものにしたのは、ポーランドの事変であることはいうまでもない。 オーストリーは従来もポーランド分割の当事者だったし、革命の余波を恐れて軍隊を動員していた。で、当然、ぼくは好ましい人物ではなくなっていたのだ。
 ぼくはウィーンの街角で、
「ポーランド人をつくったのは神様の失敗だ」
 という人々の悪口をきかざる得なかった。
「くそったれめ!」
 ぼくは苦虫を噛み潰したような気分で、街を歩いた。そして、「必ず成功しなくては」 と思った。
 ……もうポーランドへは帰れないのだから。父さんの邪魔にならなければ帰れるが、それは無理だ。もう、帰れない。成功するしか道はないのだ。だめなら、自殺だ。
 更に、ウィーンの音楽文化は大家たちの亡きあと廃れてきており、とりあえず音楽消費都市として存在しているだけだった。音楽の中心は北方のドイツに移っていたのだ。
 ウィーンで喜ばれるのは、ランナーやシュトラウスのワルツで、ぼくは”ウィーンの聴衆の趣味はあてにならない…”と感じた。
 そして、
「ウィーンにきたのは失敗だった」
 と思った。
 ティテュスが帰ってからというもの、ぼくにはいろいろな面倒なことばかり一度にふりかかってきた。音楽会、晩餐会、夜会、舞踏会……もううんざりだった。すべてが憂欝で悲しく、そして無気力だった。こんな悪い状態でなければ、ぼくはそういうのは好きなのだが……。
 洋服を着て、靴を履き、サロンでは平静をよそおい、そしてぼくは部屋にかえってピアノの前で荒れ狂った。すべてが憂欝で悲しく、そして無気力だった。
 絶対に音楽家として成功したい、成功しなければならない…というぼくにとって、事態は八方ふさがりだった。そのなかでぼくがとった行動は、必ずしも積極的なものではなかったように今は思う。というより、何にしても無気力だった。
 そうしたなかで、ぼくは毎晩夜会やサロンにでる毎日を送った。
 思えば、ぼくはポーランド時代からずっとサロンに通いつめていた。それは、もちろん踊りにいくのでもなく、食事や談笑するのでもない。ピアノを弾いて金を貰うためだ。
 ぼくはサロンが好きだった。
 そうしたハイソサエティ(高級社会)は、ぼくの心を慰めてくれた。癒してくれた。目の前の恐怖や病気を忘れさせてくれた。
 しかし、ぼくのサロン通いがあまり度が過ぎる…というので、父さんやティテュスや、さらにパリに亡命していたポーランドの愛国詩人ミツキェヴィチなどに度々忠告を受けた。 だが、ぼくはサロンに通いをやめなかった。
 金が手に入るからだ。
 生活のために、食べていくためには金がいる。金ですべてが買える訳ではないが、ほとんどのものや心の安らぎを与えてくれるのはやはり金なのだ。
 聖人ぶって「金などいらぬ」などと言ってみたところで、金がなければ一切のパンさえ買えない。それが現実なのだ。


【上杉謙信が女?】東村アキコ最新作『雪花の虎』が激アツ【歴オタにも話題】

2017年04月15日 19時43分06秒 | 日記


































【上杉謙信が女?】東村アキコ最新作『雪花の虎』が激アツ【歴オタにも話題】
歴史漫画なのにめっちゃ斬新?上杉謙信女性説を漫画化した、大河ロマン。歴史オタクにも話題の、東村アキコ2015最新作『雪花の虎』(ゆきばなのとら)詳細まとめ。(ネタバレなし)

更新日: 2015年07月31日


nyanparariさん









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人気漫画家『東村アキコ』の最新作【雪花の虎】






え…歴史漫画なの?


出典
hi-bana.com




え…歴史漫画なの?


少女マンガじゃなく??







初の歴史大作『雪花の虎』。主人公は、戦国時代に名将とうたわれた上杉謙信。彼が実は「女性」だったという説に基づく衝撃のストーリー



出典
http://www.jp102.net/news-58977.html



















なんと題材は、【上杉謙信・女性説】






え、謙信て、こんなじゃなかったっけ…


出典
www2.harimaya.com




え、謙信て、こんなじゃなかったっけ…


めっちゃヒゲ生えてるけど…







上杉謙信女性説は、越後国の戦国大名上杉謙信が実は女性であったとする説である。 上杉謙信にまつわる逸話、伝説、俗説は数多く存在



出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1%E5%A5%B3%E6%80%A7%E8%AA%AC











けっこう有名な説なんだ…







でもぶっちゃけ、読者層に歴史オタクは少なくない…?






だって、こういうのばっかだったし…


出典
userdisk.webry.biglobe.ne.jp




だって、こういうのばっかだったし…


面倒くさいの読まないよ?







と思ったら…






なんか、めっちゃ斬新だったwww


出典
hakase30mangagame.com




なんか、めっちゃ斬新だったwww


難しい話が続くんで、
「ワープゾーン」用意したよ!

って、え…?








下枠が、完全別空間になってるwww


出典
comic-soon.shogakukan.co.jp




下枠が、完全別空間になってるwww


難しい話を、かいつまんでくれるかと思いきや…
下枠でスムージーの話してるしww

この状態が数ページ続く…










YUKI@Q_RURU_YUKI

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『雪花の虎』の1話の構成めっちゃ笑った(つ∀<。)難しい内容だったけど、とっても読みやすくて分かりやすかったヽ(*´ω`*)ノ♪♫東村先生すごすぎる…(*゚ー゚*)


返信 リツイート いいね 2015.03.13 18:26


最終的にはちゃんと、かいつまんで説明w
長い説明ページ以外は、普通の構成でストーリーが始まります。







歴女に限らず全ての人が楽しめるエンターテインメントになっています



出典
https://twitter.com/hibanaofficial/status/575128052243415040



















歴史苦手でも読める感じな構成です。







肝心の中身は…?








わらうけろころ(oθωθo)@kerotaru1020

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東村アキコの女謙信の話「雪花の虎」面白い。すごく続きが気になる


返信 リツイート いいね 2015.07.28 14:16













チケットと旅券はチョコラが持っている@__chocola____

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雪花の虎やっと読んだ!イイ!!!!日本版ベルばらって感じ!hi-bana.com/works001.html


返信 リツイート いいね 2015.06.01 21:33













でびのん@devinon

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[雪花の虎]東村アキコ_試し読み/ヒバナ=>hibana.tameshiyo.me/TORA00AHIBANA やだー、面白いー、○○が実は女だった!って話大好き(笑)


返信 リツイート いいね 2015.03.24 16:58













俺の名前は夏バテ太郎@jonaaatttthaaan

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東村アキコ「雪花の虎」試し読みだけでも最高に面白い…コミックス買おうな…


返信 リツイート いいね 2015.03.12 15:30













よね@mcz_basser

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やっとヒバナ買えた。雪花の虎面白いなー。東村アキコ先生はやっぱり天才だ。


返信 リツイート いいね 2015.03.11 19:46













しも@asuka_shimo

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雪花の虎おもしろかった 上杉謙信の女性説ってこんな信憑性あるものだったんだ〜


返信 リツイート いいね 2015.03.08 23:02










歴オタにも話題








心@bbtop1104

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やばい、雪花の虎面白い……………。日本史好きとしてはたまらん…………続き読みたい!!!!!!!! いつギャグに転じるのか………………。笑


返信 リツイート いいね 2015.03.08 23:03













らきたP@gtubaP3

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雪花の虎超おもしれえな 春日山城行きたくなった


返信 リツイート いいね 2015.05.27 15:22










ストーリーは…





「上杉謙信が実は女性だった!?」という仮説をもとに、
美しい女武将の一代記を描きます



出典
http://www.jp501.net/article-77774.html



















本気で挑む大河ロマン



出典
hi-bana.com/works001.html



















第1集はまだまだ序章、子供時代の「虎千代」こと謙信の様子が
生き生きと描かれています。
一体彼…もとい、彼女はどんな幼少期を過ごしたのか?
そして、ライバル・武田信玄は――!?



出典
Amazon.co.jp: 雪花の虎 1 (ビッグ コミックス): 東村 アキコ: 本




















どうやら、ベルばら並みの本気作?


出典
item.rakuten.co.jp




どうやら、ベルばら並みの本気作?


一代記を描ききる、
大河ドラマのような作品になっていくようです。



nyanparariさん









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イケメンもたくさん出てきますから! 織田信長もそうだし、おすすめは武田信玄。



出典
http://www.jp102.net/news-58977.html



















じつはけっこう細身でしゅっとした、病弱なイケメンだったらしいという記録もあるんですよ!



出典
http://www.jp102.net/news-58977.html




















こ…こういうの…かな…www


出典
xn--eck0aykwc557w08n37e3u1b.com




こ…こういうの…かな…www










織田信長が謙信を好きだったんじゃないか、という説があるんですよ!



出典
http://www.excite.co.jp/News/woman_clm/20150227/Womaninsight_19150.html?_p=2



















女性に贈るような金屏風をプレゼントしていたり、京都で逢瀬してたり・・・・・・あと、文通も



出典
http://www.excite.co.jp/News/woman_clm/20150227/Womaninsight_19150.html?_p=2



















まさかの武将同士の恋愛も気になります



出典
http://www.excite.co.jp/News/woman_clm/20150227/Womaninsight_19150.html?_p=2




















こ…こういう…こと???


出典
www.gpara.com




こ…こういう…こと???











こっちのほうが、安心感がある気もするけど…w


出典
senjp.com




こっちのほうが、安心感がある気もするけど…w














出典
pbs.twimg.com







でも絵はめっちゃ綺麗。かわいいです。







夢は宝塚の演目になることですね!



出典
http://www.jp102.net/news-58977.html











並々ならぬ闘志を燃やしてる作者。







男性誌、女性誌、BLなどジャンルの垣根を超えた新形態のコミック雑誌『ヒバナ』



出典
http://www.womaninsight.jp/archives/119362











小学館から新しく出た、話題の雑誌「ヒバナ」での掲載中。






今後は…イケメンがいっぱい? 武将間恋愛!!?

GENKING 性に悩む人々を激励「バカにしていた奴をやっと見返せた」

2017年04月13日 16時39分06秒 | 日記





























GENKING 性に悩む人々を激励「バカにしていた奴をやっと見返せた」



GENKING© デイリースポーツ/神戸新聞社 GENKING
 タレントのGENKINGが12日、ブログで「性で悩んでいる人へ」として激励の言葉をつづった。「バカにしてた奴や陰口叩いた奴をやっと見返せてたと思って鼻で笑ってるよ」と悩んでいて時期を経て変わることができたと記した。

 GENKINGのもとには毎日、性に悩みを抱えた人がメッセージを送ってくるそうで、「あたしが伝えたいのは、あたし自身がデビューする2年前まで、辛い経験からみんなには受け入れられる訳がないとか、ひねくれてました」と告白。

 しかし、「人生賭けた大勝負でTVでカミングアウトして人生が変わりました」と転機について記した。GENKINGは「悩んでるみんなに伝えたいのは人は変われるってこと。あたしがカミングアウトする前には、何にも無かったメンズ達が最近のあたしを見てギラついてくるなんて良くあること バカにしてた奴や陰口叩いた奴をやっと見返せてたと思って鼻で笑ってるよ 自分自身がこんなに変わるんだとビックリしてる」と自分で自分に驚いていることを記した。

 GENKINGは「たった1回の人生が終わるときに、楽しかったな、幸せだったなって思える人生にしようね」と呼びかけた。

北川景子、大河ドラマ初出演 18年『西郷どん』篤姫役「身が引き締まる思い」

2017年04月13日 07時31分16秒 | 日記






























北川景子、大河ドラマ初出演 18年『西郷どん』篤姫役「身が引き締まる思い」



 女優の北川景子が、NHKで2018年に放送される大河ドラマ『西郷どん』に出演することが12日、同局から発表された。北川は同局のドラマおよび大河ドラマ初出演。主演の鈴木亮平扮する主人公・西郷吉之助(隆盛)と淡い恋模様も描かれる後の篤姫こと於一(おいち)を演じる。

 会見で北川は「とても緊張しています」といいながらも、しっかりとした口調で「いつか出演させていただきたいと目標としていた大河ドラマに携わることができ、光栄ですし、身が引き締まる思いです。過去に篤姫を演じられた先輩方から勉強して、史実からも勉強して、中園ミホさんの脚本のオリジナリティーも大切にしながら、一生懸命務めていきたい」と抱負を語った。

 新たな出演者を迎えて鈴木は「ふんどしを締め直してクランクインに向けて準備したい。何かが動く時、一人ではできない、みんなの力を合わせて明治維新のようなドラマにしていきたい」と気合を入れ直していた。

 この日は主人公の故郷・薩摩(さつま)のキーパーソンを演じるキャストが発表され、有村俊斎(海江田信義)役に高橋光臣、村田新八役に堀井新太、ふき役に高梨臨(大河ドラマ初出演)、赤山靭負役に沢村一樹、幾島役に斉藤由貴、由羅役に小柳ルミ子、島津斉興役に鹿賀丈史、そして、会見は欠席したが維新後、鹿児島県令(知事)となる大山格之助(綱良)役に北村有起哉らが決まった。

 同作は、薩摩藩の下級武士の長男に生まれ、2度の島流し、3度の結婚を経験し、幕末志士の一人として「勇気と実行力」で時代を切り開いた男で、明治維新の立役者でありながら、最期は新政府との戦いに散った西郷隆盛の生涯を描く。

 作家・林真理子氏が『本の旅人』(KADOKAWA)で連載中の『西郷どん!』を原作に、連続テレビ小説『花子とアン』(同局)、『Doctor X外科医~大門未知子~』(テレビ朝日)などを手がけた中園ミホ氏が脚本を執筆。今夏クランクイン予定で、18年1月から全50回放送される。

【直虎】竜宮小僧が初の見切れ出演 演じているのはあの子役

2017年04月10日 14時35分21秒 | 日記






























【直虎】竜宮小僧が初の見切れ出演 演じているのはあの子役



NHK・大河ドラマ『おんな城主 直虎』で竜宮小僧が初登場。演じているのは直虎の少女時代を演じた新井美羽© (C)NHK NHK・大河ドラマ『おんな城主 直虎』で竜宮小僧が初登場。演じているのは直虎の少女時代を演じた新井美羽

 NHKで放送中の大河ドラマ『おんな城主 直虎』(毎週日曜 後8:00 総合ほか)の第14回(9日放送)に、竜宮小僧が初めて見切れ出演した。竜宮小僧は、直虎をはじめ井伊谷で懸命に生きる人々を優しく見つめ励ましている存在で、これまでせりふで語られるのみだったが、本来見えてはいけないものが見えてしまう“見切れ”のような演出で、一瞬映った。さらに、ORICON NEWSの取材に対し、この竜宮小僧を、主人公・直虎の少女時代を演じた子役の新井美羽が演じていることが判明。わざわざ新井をキャスティングしているということは、何かの伏線なのだろうか。

 第4回から主演の柴咲コウにバトンタッチして以降、回想シーンがある時には、オープニングのキャスティングテロップに、「おとわ(回想)」として新井の名前がクレジットされるが、第14回では役名なしで名前だけが表示されていた。

 竜宮小僧は、南渓和尚(小林薫)の説明によると、「知らぬ間に田に苗を植えてくれたり、洗濯物を取り込んでおいてくれたりする、伝説の小僧」(第1回)だ。主人公の直虎は、幼い頃に夫婦約束を交わした直親(三浦春馬)の「竜宮小僧になる」と誓い、出家してからも困っている者がいれば、密かに助ける「竜宮小僧」活動に勤しんだ。そして、井伊家の家督を継いだ虎松(寺田心)の後見、すなわち井伊谷城の城主となる決心をする時にも、「竜宮小僧」が背中を押した。

 第14回では、徳政令をめぐって逃散という農民たちの抵抗にあい、打ちのめされた直虎の後ろ姿を見つめる竜宮小僧が一瞬、見切れた。その後、直虎は徳政(債務の破棄)の実施を認める書状を書き始めるが、そこにどこから(本物の)亀が現れて思い直す。直虎は竜宮小僧のように逃散した農民に代わって田植えを始め、農民たちの心をつかみ一件落着。亀を放ったのは「竜宮小僧」の仕業ではないか、というストーリーが展開された。

 ドラマの中で竜宮小僧に関係するシーンで流れ、「ジブリっぽい」とうわさの「竜宮小僧のうた」も実は新井が歌っている。5月28日に浜松市のアクトシティ浜松で開催される『大河ドラマ「おんな城主 直虎」コンサート ~戦う花・直虎の愛~』に新井も出演し、「竜宮小僧のうた」を生歌で初披露する予定だ。

高橋優、いじめは「一生の爪痕」 創作で心のバランスを保った少年時代

2017年04月09日 19時38分49秒 | 日記

































高橋優、いじめは「一生の爪痕」 創作で心のバランスを保った少年時代

© シネマトゥデイ 提供
 『映画クレヨンしんちゃん 襲来!! 宇宙人シリリ』の主題歌を担当している高橋優にとって、本作の主人公であるしんのすけは小学校時代の憧れの存在だったという。いじめられ、枠からはみ出ることの恐怖を抱いていた少年時代。型にはまらずに、ひょうひょうとしているしんのすけとの出会いは、高橋少年に影響を与えた。

 小学校の時は内向的だったという高橋。休み時間は、同級生が校庭に飛び出していく中で、一人で本を読みながら時間を過ごしていた。だがそんな中、テレビアニメ「クレヨンしんちゃん」が始まり、お尻を出したりと常識から飛び出していくしんのすけの姿に衝撃を受けたという。“普通”という実態のないものにとらわれて、そこから外れることで「変」になることを恐れないようになった。「自分が好きなものを好きでいられる人の方がステキだと思って。それが常識で変だと言われたとしても」。中学校・高校時代、教師から普通の人は歌を歌わずに勉強するものだと言われ続けても、自分が周りとはズレている存在だと引け目を感じることがあっても、彼は歌うことをやめなかった。

 「クッキーを焼くにしても、誰かと同じように焼きあがらなくてもいいじゃないか、いびつな形になってもいいじゃないか、という気持ちがありました」。いじめを受けていた小学校時代、学校で絵の具を食べさせられたり傘をボロボロに破られたり、身体的にも精神的にもダメージを負った。しかし彼は「友達と仲良くしている絵」「テストでいい点を取って両親から褒められている絵」を妄想で描き、心に安らぎを得たという。高橋は「現実と妄想の埋め合わせのような絵を描いていました」と言うが、その渇望は彼を奮い立たせることにつながっている。「ギターを中学校から始めて、コードを覚えてからはその絵の代わりに歌詞を書き始められるようになったんです。そしたら『こうだったらいいのにな』とか『どうしてこうじゃないんだろう』という疑問が曲になって、コード譜になって、曲作りになっていきました。小学校に自分がやっていた作業はずっと恥ずかしいことだと思っていたんですけれども」。


© シネマトゥデイ 提供
 「ハングリー精神って、幸せの中では生まれづらい。僕がこれだけ悔しいなと思ったりするのは、10代の頃にたくさん悔しい思いをしたからだと思っていて。10代の1日は、20代以降の1年に相当する価値がある、という言葉が僕は大好きで。1日いじめられた経験でも、小・中学生の多感な時期に経験すると一生の爪痕になる。いわれのない悪口や罵倒された言葉がいつまでも残るんです。僕はそういわれている人たちのことをほっとけない。だからやり返すじゃなくて、そういう人たちもひっくるめて笑顔になるような、笑い合っている方がステキなことが起こると信じて、歌うモチベーションにしています」。

 「でも『したたかに生きていく』ことはやった方がいいとは思っているんですよ。怒りは怒りのまま表現するよりも、怒りを笑顔でステキなメロディーに乗せてみて『実はこの曲皮肉っぽい!』としてみたりする。そこを楽しんだりしているので、僕、超イヤな奴かもしれないです(笑)」。

 新曲「ロードムービー」は映画最新作から着想を得た「家族愛と異文化コミュニケーション」のテーマを基に作った。歌詞には「つながっているよ」などの温かい言葉なども並んでいる。「くさ~いとか言われそうかもしれないんですが、音楽のいいところは声を大にして言いづらいことも歌えることだと思っていて。実生活では自分でも馬鹿じゃないかとも思うことでも、照れくさい言葉でも歌えるんですよね」。(取材・文:編集部・井本早紀)

映画『映画クレヨンしんちゃん 襲来!! 宇宙人シリリ』は4月15日より全国公開

主題歌を収録した高橋優のシングル「ロードムービー」は4月12日に発売

直虎の登場が遅すぎる!? NHK大河ドラマがつまらない理由【コラムニスト木村和久】

2017年04月09日 19時17分17秒 | 日記
































直虎の登場が遅すぎる!? NHK大河ドラマがつまらない理由【コラムニスト木村和久】




― 木村和久の「オヤ充のススメ」その159 ―

 今年のNHK大河ドラマは、昨年の「真田丸」ロスということもあり、あまり期待をしていませんでした。予想通りというか、登場人物のキャラクターも弱く、話も地味だし、歴史上の人物にしては小物でちょっと魅力に欠ける。そう思って、適当に流していました。まあ3回に1回ぐらい義理で見たって、誰に対する義理だか。受信料にですかね?

 そしたら、なんと女城主直虎としての登場が12回目のラストですから、びっくり仰天。もちろん主人公の幼少期のマルコメ茶坊主としては初回から出ていますが、タイトルの「直虎」と名乗り、城主になるのが、12回目のラストシーンというわけです。


日刊SPA!© SPA! 提供 日刊SPA!
 12回目のオンエアって民放ドラマじゃ、ワンクールが13回程度ですから、次回は最終回ですよ。これはどう考えても引っ張り過ぎでしょ。普通、前振りの部分は1回か2回ぐらいで、コンパクトにまとめて颯爽と直虎登場にします。さすが天下のNHKは時代の流れに逆行した本格的なドラマ作りに、いたく感服しております。

 過去の例を見ても、大河ドラマに関しては、総じて下馬評通りの視聴率になることが多いです。最近だと「花燃ゆ」とかね。「花燃ゆ」の場合、吉田松陰が亡くなったら、ネタが減るからって、前半で結構引っ張ったように思えます。今回は逆引っ張りで、直虎登場以降はまだ面白いだろうと、前半を小出しにしたのではないでしょうか。

 というわけで13回目から、直虎の大活躍が始まるかと思いました。でも、う~ん、以前よりは面白いですが、もうちょっと頑張って欲しいなと。結局、直虎のアイデアで農民たちの年貢帳消し、すなわち徳政令問題を解決します。その解決の仕方がユニークというか、斬新と言うか。まるで一休さんを見ているようなって、直虎は坊主だってば。

 従来の大河ドラマって、英雄の豪快さや躍動感が魅力ですよね。それが例え女性でも。小池知事もコスプレした、リボンの騎士のサファイアにしても、男まさりだけど、実は女のコなのというギャップがいいのです。今のところ、女に何が出来るんだ的演出ですから、ここらへんも早々と切り上げ、豪傑の部分を、見たいと思います。

 ◆NHK大河ドラマ好きオヤジが提案する改革案

 ここで歴代の大河ドラマを顧みて、ちょっとした改革案を提言します。受信料を払っているのですから、一応何か言う権利はあると思いますし。

①個人的にはたまに大河ドラマを見ない年があってもいい

 ドラマはワンクール3か月時代のご時世、1年を通して見るのは体力的にもスケジュール的にもしんどいです。だから今年は流しておこうと、視聴者が決めても仕方がないかもしれません。3年に1回ぐらいは、外した作品があったほうが見なくて済むから、むしろ、助かるかも。

②放送時間の謎

 大河ドラマは、BSや再放送を含めて何回もオンエアしますが、日曜の午後6時のBSでのオンエアが理解できません。あれは誰が見るのか? 民放のアニメの時間帯にぶつけなくても、と思いますが。早く寝るおじいちゃんに対して、オンエアしてるのか? そんなことはないだろうと思いますが、日曜6時は、まだ多くの方が外出中もしくは、帰宅時間ぐらいでしょ。

 以前は、BSで確か午後10時頃に放送をしていました。6時の放送をやめて、ぜひ夜10時に放送してほしい。だったら、日曜の夜に見るかもしれない。多少つまらなくても。

③大河ドラマ決定のプロセスの公開と候補作を選ぶ段階でアンケートを実施

 最終決定権はもちろんNHKで構いませんが、候補作を3つぐらい出してアンケート調査をして、盛り上げるのもいいのでは。あくまで参考ですが、あまりにも人気がないのを強硬して制作するのも、いかがなものかとは思いますよ。

④1年1作方式をやめる

 やはり時代の流れでしょうか。1年間同じドラマで引っ張るのは、時代的に無理だと思います。スタジオジブリの高畑勲&宮崎駿両氏はアニメ「母を訪ねて三千里」に携わっていたとき、毎週「マルコは今日も、お母さんに会えませんでした、で終わるのがしんどくて」とコメントをしていましたから。あの巨匠たちですら1年間通してドラマを作るのは、難しいと言ってるのです。

 朝ドラのように、半年作品にして東京と大阪の制作に分けるとか、あるいはプロダクションに投げるとかで、やっていかないとしんどいかもしれません。

 手始めに、ドラマ「坂の上の雲」の影響で、11月でオンエアを終えた「天地人」方式もありますし。別に秋終了で、終わってから歴史ドラマを流す必要もないし。むしろ企業ドラマみたいなのでもいいし。そういう工夫が必要かも知れません。

⑤公募もあり得る

 大河ドラマ=歴史物という括りで選ぶとしたら、歴史上の人物は限りがあります。あまり知らない人は視聴率が悪いし。ということは、歴史的事件や英雄を軸に、どう切るか誰の目線で描くかということですよね。それこそ歴史学者、磯田道史先生などにお聞きして公募委員会を作り、吟味するのもありかなと。新たな発掘は難しいので、過去の歴史作品のディフォルメでもいいと思うんですよ。いろいろ考えましょうよ。

■木村和久(きむらかずひさ)■

トレンドを読み解くコラムニストとして数々のベストセラーを上梓。ゴルフやキャバクラにも通じる、大人の遊び人。現在は日本株を中心としたデイトレードにも挑戦

『べっぴんさん』全話平均20.3%! 「印象に残らない朝ドラ」と最悪の評価だった理由

2017年04月03日 18時54分48秒 | 日記





























『べっぴんさん』全話平均20.3%! 「印象に残らない朝ドラ」と最悪の評価だった理由



© Cyzo 提供
ニッポンのお茶の間をわかし続ける国民的番組“朝ドラ”――そのあらすじと視聴者からの反響を、サイゾーウーマンが週2回(火・金曜日)お届けします!

『べっぴんさん』(NHK総合/月~土、午前8時) 戦後の焼け野原の中、坂東すみれ(芳根京子)が家族のため、そして女性たちのために子ども服づくりに邁進していく物語。神戸に本社を置く子ども服メーカー「ファミリア」の創業者たちの軌跡をモチーフにしている。

■4月1日(土)/151話(最終回) ついに最終回を迎えた『べっぴんさん』。151話ではキアリス創設者である君枝(土村芳)、明美(谷村美月)、良子(百田夏菜子)、すみれの4人が、すみれの孫・藍(渡邉このみ)に手作りの写真入れをプレゼント。その写真入れには、すみれたちが葉の一つひとつに「勇気、愛情、信頼、希望」という意味を込めた四葉のクローバーが刺繍されていた。

 さらに151話最後のシーンでは、青年時代に良子から「バイクの君」とあこがれられていたすみれの義兄・潔(高良健吾)が、すみれの姉・ゆり(蓮佛美沙子)とともにバイクで登場した。物語初期から登場する神戸の街が見下ろせる高台で、すみれと家族たちが団らんをしている様子も描かれ、「昔のエピソードから思い出深い部分ピックアップしてくれるの素敵」「良子ちゃんがあこがれてた“バイクの君”再登場はうれしかった」「すみれがお母さんに刺繍教えてもらってたのと同じように、すみれがさくらに刺繍教えてるのジーンときた」と絶賛の声が続出。

 しかし、同様に多かったのが「別に見なくても良かったな、って感じの朝ドラだった」「全体通してあんまり印象に残ってない」「なんか地味だったな」「淡々としすぎて、今日もこれが最終回? って感じだったし、盛り上がりに欠けた」という声。「結局、起業についてなのか、家族についてなのか、友情についてなのか、何をメインで見せたいのか、わからなかった」という声が多数上がっているように、物語の主軸がどこにあるのかが不明瞭だったため、全体を通して「印象が薄い」と感じた視聴者が多かったようだ。全151回を通じた平均視聴率は20.3%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と大台に乗せることができたものの、視聴者の評価はパッとせずといったところだ。

 4月29日には、大急のキアリス担当・小山(夙川アトム)とキアリス販売員・悦子(滝裕可里)の恋物語を描いたスペシャルドラマ『恋する百貨店』が放送予定。さらにスピンオフラジオドラマや、特別編のアナザーストーリーも放送が決定している。本放送は終了したが、まだしばらく『べっぴんさん』ロスに陥る心配はなさそうだ。

2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」宮藤作品・阿部サダヲ中村勘九郎

2017年04月03日 18時43分02秒 | 日記





























クドカン大河で阿部サダヲ&勘九郎がW主演




大河ドラマでW主演を務める阿部サダヲ(右)と中村勘九郎© デイリースポーツ/神戸新聞社 大河ドラマでW主演を務める阿部サダヲ(右)と中村勘九郎
 宮藤官九郎(46)が五輪をテーマに脚本を手がける2019年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」にクドカン作品の常連俳優・阿部サダヲ(46)と中村勘九郎(35)がW主演することが決まり、3日、東京・渋谷の同局で発表された。
脚本家宮藤官九郎氏のオリジナルで、1912年のオリンピック初参加までを舞台に、マラソンと水泳のパイオニアを描く。前半はマラソンで五輪に初参加した男、金栗三四(かなくりしそう・中村勘九郎)、後半はオリンピックを呼んだ男、田畑政治(阿部サダヲ)の主役リレーとなる。大河で近現代史を描くのは33年ぶり。

 勘九郎の父、故中村勘三郎さんが99年の大河「元禄繚乱」に主演しており、親子二代での大河主演となる。勘九郎は「歌舞伎俳優なのに近代を演じられる僕の方が、ちょっと勝ったと思います」と笑顔で話した。主演に決まったことを勘三郎さんならどう言ってくれるかとの質問に「『自分も出せ』と、(宮藤氏に)直談判しに行くと思う。『俺が晩年やるよ』と」と笑った。

 宮藤と阿部は同じ劇団「大人計画」の所属で、バンド「グループ魂」で紅白歌合戦にも出演した間柄。

 五輪の歴史を題材にしたオリジナル脚本で、宮藤は大河初挑戦。13年上半期の連続テレビ小説「あまちゃん」以来、2度目のNHK脚本となる。日本がわずか2選手で五輪に初参加した1912年のストックホルム大会から、悲願の自国開催にこぎ着けた1964年の東京オリンピックまでの52年間を描く。

 なお、18年の大河は俳優・鈴木亮平(33)主演の「西郷(せご)どん」に決まっている。








ショパン 神からの旋律ショパンCHOPINフレデリク・ショパンの真実ブログ連載最新版2

2017年04月02日 09時54分29秒 | 日記































         立志



  ぼくは、ワルシャワの高等音楽学校に入学した。
 しかし、ぼくの友人たちはほとんどが特権階級の子弟であって、いずれ相続する「領地」や工場などをもっていた。その点、ぼくにはなにもない。音楽の才能だけだ。
 ぼくは最初のうち、そうした恵まれた人間たちを羨ましく思った。
 ほとんど何の苦労もなく金持ちになれるのだ。その点、ぼくは血の滲むような努力の末にやっと金を稼げる。しかしそれは、彼等の何百分の一のテラ銭だけだ。
 そうした立場が、ぼくを職業音楽家への道へといざなった。
 音楽的天才、絶対音感……それだけがぼくのきらりと光る武器だった。
 父さんは「高校にあと一年いきなさい」といったが、僕は従わなかった。そして、高等音楽学校に入学した。健康には恵まれなかったが、ぼくは一生懸命に生きた。生活した。なんでも吸収しようと努力した。
 その当時、ぼくは手紙を年上の友人にかいた。それは以下のようなものだ。

” ーーこの機会にしらせておくが、ぼくは高校へ行くのはやめた。ドイツ人やポーランド人の医者たちが出来るだけ沢山散歩しろといっているのに、机に六時間もしばられているのは無意味だ。新しい勉強が沢山できるというのに、もう一度同じ授業をききに行くなんてバカ気ている。そう思ってエルスナー先生から一週に六時間、厳格対位法のレッスンをうけている。(中訳)就寝は九時だ。お茶やダンスも禁じられている。
 ぼくの家の主治医・マルケの処方する吐剤の水薬を飲み、馬みたいに燕麦(オートミール)を食べている。(後訳)”

  そう、ぼくは病気がちだ。
 どうしようもなく健康には恵まれていなかった。
 いつも病気がちで、すぐ熱を出したり、ベットに寝たきり…っていう日が続いた。そんな中でも、具合が悪いのをおして作曲したり演奏したりしてた。今もそうだ。具合が悪い。 小さい頃も、学校の休暇の日には田舎の友だちの家に預けられたり、家族で湯治にでかけたりした。病気がちはつまり虚弱体質ってことで、ぼくは病気にいつも悩まされ続けた。 だから、ぼくは、いるんだかいないんだかわからないような神に祈り続けた。
 ……健康になりますように。よい作品が作れますように。よい演奏ができますように。 って。聖ロフ教会での祈りの日々は続いた。そこは、ぼくが洗礼を受け、両親が結婚式をあげた教会で、ぼくは毎日のようにそこでしんと祈っていた。

  学生時代は平凡なものだった。
 その当時、ぼくはカリカチュア(漫画)にも熱中して、教授たちを漫画で描いたりした。自分でいうのもなんだが、なかなかうまく描けて、満足した。そして、その漫画や、文章で、ぼくは新聞を発行した。シャファルニャ・クーリエという名で。
 新聞というか新聞形式の通信文である。ジャック・ショパン、プチ・ニコラ、ムッシュー・ピションなどの偽名も使って書いた。
 内容はなかなかの出来で、きらきら光る螢のような文章…というよりユーモラスな文だった。以下に文章の例をあげる。

  …八月十一日。フリデリク・ショパン氏は馬にのって競走に参加し、ゴールまでたどりつこうとした。氏は、ジェヴァノフスカ夫人ー自分の足で走ったーには何度やっても勝てなかったがーこれはショパン氏のせいではなく、馬のせいであるールイーズ嬢には勝った。
 …八月十二日。めんどりがびっこをひきはじめ、家鴨は鷲鳥と決闘の最中に片脚をな                          
くした。牝牛が重病になり、今後しばらくは表庭で飼われることになるだろう。
  …八月十三日。ベッター氏はピアノで見事な腕前を披露した。このベルリン出身の名手は感情をいっぱいこめて弾いたので、すべての音符が彼の心臓からではなく、その偉大なお腹から溢れ出るようにおもえたほどである。

  ……どうかな?なかなかいい文章でしょう?
  つまらない?それは君に感性がないからだ。きらきらしたものが心にないからだ。


  高等音楽学校でぼくは、とりあえず対位法と和声のクラスにはいった。
 が、もうひとりの作曲家として歩きだしていたぼくにとって、通常の学生と同じ学習コースでは我慢がならなかった。全面的に受け入れることが出来なかった。
 だからぼくは、
「ぼくはもっといい待遇を受けるべきです」と、教授にいった。
「待遇?」
 教授はききかえしてきた。
「そうです。ぼくはもう作曲して、出版もしています。演奏会ではロシアの皇帝にも認められました。ぼくは凡人とは違うんです」
 ぼくはそう悠々と言った。
 すると、教授が、
「そうかい?」
 と、怪訝なまま(たぶん半分嫉妬で)いった。
 こうして、学校の先生たちはぼくの扱いに苦労しだした。しかし、エルスナー先生だけ       
はぼくの天才を認めていたので、ぼくの我儘を寛容に許してくれた。
 ほわほわとほんわりと、包み込むように。
  ぼくはその当時、オペラに強い関心をもっていた。しかし、作曲するのはオペラよりもピアノ曲がおもだった。この頃の音楽界は、ピアノの多彩にしてピュアな音色による”癒し系”の音楽が流行っており、ぼくもそのトレンドにのったまでだ。
 しかし、当然ぼくのスタイルはシューマンなどとは大きく違っている。ドイツ・ロマン派の音楽路線とは大きく違っている。だが、それがぼくのスタイルなのだ。

  音楽学校に入って、ぼくの創作はしだいに増えていった。
 その中で、当時(一八二六年)でいいなと思った自信作は『マズルカ風ロンド』ヘ長調(作品五)であろう。この創作の中で、ぼくは新しいピアノの作曲技法を試しており、それはほぼ完璧といえるほどいい出来になった。しんと光るような。
 この『マズルカ風ロンド』は、他のマズルカより一番早くに出版されるべきである。
 ぼくの作曲スタイルはこの当時に確立した…という意見があるが、少し違う。なぜなら、ぼくの音楽は常に変化し進化しつづけているからだ。
 川魚は動いて常にエサを食べてないと死ぬらしいが、ぼくも同じだ。いろいろな音楽のスタイルを吸収して咀嚼し、作曲や演奏をしている。一般にいわれるように、ぼくがひとつのスタイルに固持した……などというのは的外れというしかない。
 だいたいにおいて、同じパターンやスタイルだけで創作していたら、またこれか!、という感じになってしまうではないですか。ワン・パターンではスコアは売れない。ぼくは音楽で食べていかなけれけばならないのだから、飽きられたら「終り」ってなもんで、致命傷なのだ。だから、どんなことをしてでも売れるものを作らなければならないのだ。
 そのためなら、ぼくはなんでもする。
 きらきら光るためには、努力が欠かせないのだ。

  翌年(一九二六年)、前述した通り妹のエミリアが死んだ。享年十四歳だった。
 エミリアは才能と美貌の持ち主で人気者であったが病弱で、結核にかかった。死ぬ数か月前にはベットに寝たきりとなった。そして、激しく咳き込み、やがて喀血した。その間、まったく食べずにいたため痩せ細り、本当にエミリアなのかわからないほどだった。
 ぼくはこの妹をとても愛していた。
 それだけに、エミリアの死は大変なショックだった。
 ぼくはいっぱい傷ついた。彼女の墓石には次の句が彫られた。

 美しい果実を夢みて咲く花のように、十四歳の生命の春を終えた。
              エミリア・ショパン 一八二七年四月十日
 その当時、ぼくはチャンスを得た。その年の夏休み、代母のスカルベク夫人にまねかれてストジジェフに滞在し、そのあとでアントン・ラジーヴィウ大公の所領アントニンを訪れたのだ。
 ラジーヴィウ大公はプロシアの皇女を妻としてボズナンに住むポーランド最高の貴族で、自らもチェロを弾き作曲もする「半ばドイツ化した教養人」だった。すごい金持ちで、邸宅は各国の有名音楽家が集まるサロンになっていた程だった。
 なぜぼくが、このような人物に招かれたのかはぼくは知っている。
 父さんだ。
 ぼくの父親のニコラ・ショパンがスカルベク伯に頼み、伯爵が斡旋したのだ。で、ぼくが招かれた…って訳。
 彼等は、ぼくをヨーロッパ楽壇に近付けるよう努力してくれたのだ。
 それは、しんと光る満月のような、きらきらした配慮だ。ピュアな心遣いだ。

「ショパン君、大公のアントン・ラジーヴィウだ、よろしく」
 大公はきらりと笑顔で、広く豪華な邸宅を案内しながら握手を求めてきた。
「はじめまして、よろしくお願いします」ぼくは無理に笑顔をつくって握手した。
「ショパン君の噂はいろいろきいておるよ。ピアノの詩人だとか、名手だとか。わしは君のような天才を尊敬しておる」
「いえ、天才だなんて。……光栄です」
 ぼくはにこりと答えた。
 そして、公は愛娘をぼくに紹介した。
 エリザ嬢とワンダ嬢、である。ふたりとも美貌であったが、ぼくは妹のワンダ嬢に心ひかれた。なんといっていいか、見た瞬間、きらきらとしたオーラを感じたのだ。
 ラジーヴィウ公はぼくを温かくむかえ、その後もいろいろと援助の手をさしのべてくれた。それは、ほんわりと包むような温かい心遣いで、ありがたかった。
 ぼくは公の別荘で、演奏や作曲を手掛けた。
 エリザ嬢はぼくの『ポロネーズ』ヘ短調がえらくお気に入りで、スコアを友人に届けてもらうことになった。ワンダ嬢にはピアノを教えることになった。
 なんといったらいいだろう?
 ワンダ嬢は若く、十七歳の美しい人で、音楽的フィーリングを豊かに持っていた。ここはクレッシェンド、ここはピアノ、ここは早く、ここは遅く…とかいちいち言う必要がないのだ。つまり、音楽の才があったってことだ。
 ぼくは、大公のためにヴァイオリンとチェロとピアノの『トリオ』(作品八)を作曲して贈呈した。その間、ぼくはワンダ嬢に心ひかれ続けた。
 ぼくがピアノを教え、姫のほうでもぼくの肖像画を描くほどであった。
「ショパン様、この絵をみて下さる?」
 ワンダ嬢はぼくに自分の描いた絵を見せた。
「すばらしい」
 ぼくは褒めた。と、姫が、
「ありがとうございますわ」とにこりと微笑んだ。白い歯がきらりと光った。
 ぼくはその瞬間、姫の心に触れた、と思った。
 ひょっとしたら、ぼくと姫はひかれあうかも知れない。とにかく、ぼくは姫の心に触れた。恋愛には奥手で、不器用なぼくだけれど、このまま恋に落ちてしまうかも知れない。そう思った。それは、愛というより、絆だったのかも知れない。きらりと光る希望だったのかも知れない。
 でも、ぼくは気にしなかった。ぼくは姫を愛した。ピュアに愛した。
 そして、姫の心にかすかに触れた……。

  その頃のぼくの作品には『ノクチュルヌ』(ノクターン)がある。作品番号は七二の一とつけた。この『ノクチュルヌ』形式というのは、いってみればぼく自身の投影で、等身大のぼくを写す鏡のようなものだ。多分に、オリジナリティがある。
 ぎらぎら光る太陽…ではなくしんと光る満月。それを写す鏡…。そんな感じなのだ。
 もうひとつは、『ラ・チ・ダレム・ラ・マーノによる変奏曲』(作品二)で、オーケストラつきの作品としてははじめてであった。
 音楽学校二年目で、オーケストレーションの授業が始まっていて、その結果にこの『ラ・チ・ダレム~』が生まれた。これは事実である。
 当時、ピアノを主体とした演奏が一般的で、その演奏家たちは自分の演奏のためにオーケストラつきのものを作曲していて、ぼくもそれに従ったまでである。その当時、ぼくはオーケストラつきの作品をまとめて書いた。『変奏曲』は、その第一号である。
『ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ』とは、いうまでもなくモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』の第一幕でうたわれる有名な二重唱で、ぼくはその旋律を主題にとって作曲した。こうしたことは当時の流行りで、はしかみたいなものだ。
 この『変奏曲』は、今となってはぼくにとってはあまりいいものではないと思う。が、だが、シューマンはこの作品(一八三〇年)のスコアをみて、
「諸君、天才だ、帽子をとりたまえ」
 といったらしい。
 この評価は、ぼくをヨーロッパの中央楽壇へ知らしめるのには十分だった。だが、この程度の変奏曲で「天才、天才」と呼ばれるのはいささか腹が立つ。
 もっとぼくにはいい作品がいっぱいある。
 もっと、きらきら光るものがいっぱいある。
 だから、ぼくはシューマンの評には満足しない。と、いうより、シューマンはこの『変奏曲』のひとつひとつに文学的な説明をいれてるが、そんな必要はどこにもない。音楽というものは耳で聴いて判断するものであって、文学的にこうだからいいとか…こうだから悪いとか……そんなことは馬鹿げている。
 素直な気持ちで聴いて、いいな、と思えばそれでいいのだ。
 それが音楽というものだ。
 その考えを、ぼくは愛した。ものすごいことのようにも思えるし、奇跡にも感じ、またなにげないことのようにも感じる。当たり前のようにうなずいた。なんにせよ、言葉にすると消えてしまうような淡い心をぼくは胸にしまう。先は長い。くりかえしやってくるもので、いつかこの時も、その考えも、夢になってしまうかもしれないのだから。

 ぼくは、ロマン派音楽の歴史やドラマティズムを受け入れ、吸収し、出発しようと心にきめた。きらりと光る存在になろうと決めた。しんと光るような。
 祖国を離れ、パリに定着したあと、ぼくはオーケストラつきの作品を書かなくなった。口の悪い人間は、「ショパンはオーケストレーションの技術が拙劣だったから」というが、それは半分だけ当たっている。確かに、ぼくはオーケストレーションが苦手だ。
 ただし、別に、技術が拙劣……というのではない。
 ぼくの中のロマンティズムや表現、ピュアな旋律というものがオーケストラでは断ち切らなければならない。悲しいかな、ピアノ曲とは違うのだ。
 ぼくはそういうのは我慢がならない。
 自分のロマンティズムが伝わらないのは困るのだ。
 そこで、ぼくはピアノ作曲家というものになろうと決めた。とにかく決めた。それは、暗闇にひとりで放り出された子犬のような覚悟だった。自分で生きなければならない。暗闇の中でのサヴァイバルだ。
 そう、音楽におけるサヴァイバルだ!

  翌一八二八年で特筆すべきことは、秋のベルリン旅行である。
 父さんの友達でワルシャワ大学の教授だったヤロツキが博物学の国際会議に出席するのに同行したが、これはぼくにとって初めての外国旅行で、とても興奮した。
 ぼくは気狂いみたいに興奮し、自分がどうなってしまうかもわからないくらいだった。ベルリンには、スポンティーニのオペラを見るためにいった。
 ベルリンでは、ぼくは沢山オペラを見た。まぁ、有益ではあった。しかしながら、どうもドイツ音楽はしょうに合わない。作曲家も、踊り子も、歌手も一流で素晴らしいのだけれど、なんか違う。肝心なしんと光るような部分が少し違う。
 ベルリンでは、スポンティーニ、ツェルター、メンデルスゾーンなどの有名な音楽家の姿を見かけたが、話しかける勇気がなくてついに親交を結ぶことはなかった。
 まぁ、オペラは有益であった。ただし、ぼくの個性とドイツ的国民性といえばいいのか、ドイツ音楽や風土はぼくにとっては無益に近く、しんと光るものを感じなかった。   

         幸福な日々



  ぼくは十月にワルシャワに戻り、ふたたび音楽学校に通いだした。
 この頃、ぼくはすでに一人の独立した音楽的人格であり、次第に自信を深めていっていた。そして、自ら選んだ道に大胆に乗り出していった。
 十八歳のぼくは、情緒不安定であり、それを唯一の友であるティテュス・ヴァイチェホフスキに話してストレスを発散させていた。それは、きらきらとしたセラピー(癒し)のようでもあった。
 ティテュスはぼくの愛情と理解の要求に答えてくれたのである。
 ティテュス・ヴァイチェホフスキは父さんの教育塾の生徒のひとりで、ぼくのほとんどかけがえのない友人であり、相談相手であった。
 それ以前に同じような存在だったのがヴィアヴォブウォツキという五歳年上の青年で、ぼくは彼におびただしい手紙を送った。それは、かけがえのない、永遠の、夢のような存在であったが、彼は早死してしまう。
 人間は必ず死ぬ。永遠なんてどこにもない。でも、永遠をぼくは信じたかった。
 ぼくはその時、ひとりの部屋で泣いた。悲しかったからだ。涙をぽろぽろ流して泣いた。それは、じんとくるような感傷だ。永遠の悲しみだ。
 そして、彼にかわって現れたのが同年のティテュスである。
 ティテュスは地元の工場経営者の息子で、男性的な性格の持ち主だったが、ぼくの才能を愛して尊敬してくれてた。ぼくはなんというか女性的な性格なので、男らしい男にひかれる。だが、もちろんホモじゃない。そんな誤解を受けるのは心外だ。
 この頃の出来事で特筆すべきなのは、一八二八年春のフンメル(モーツァルト、ハイドン、クレメンティの弟子であったドイツ人の作曲家)、そして翌二九年春のパガニーニのワルシャワ訪問である。すでに、ピアノとヴァイオリンの演奏でそれぞれ時代を代表する巨匠であったこのふたりからはかなりの影響を受けた。
 ピアノの勉強だけでなく、作曲の勉強の刺激ともなった。
 ぼくの初期の作品はしばしばフンメル風といわれ、また間もなく書きはじめた練習曲はパガニーニ(当時のヴァイオリンの名手)から影響を受けたものだった。
 ぼくはうっとりと思う。
 ふたりとの出会いは、音楽的にベストだったんだって。
 そう、ベストだ。
 いずれにしても、両親と友人たちの愛を一身にうけ幸福な日々の中で、ぼくは心の底の音楽的個性を確立していったのである。
 それはたとえば、天国の底にうごめくきらきらしたダイヤのような…茨の山をすすむ勇者のような、そんな感じだ。もう少し、もう少しと努力して煮え滾る釜に入れられるような気もするような。?
 霊感占いじゃないんだから。

  一八二九年七月、ぼくは音楽学校の課程を修了した。
 卒業に際してエルスナー先生は、
「際だった音楽的才能の持ち主」とぼくを評価してくれた。これは、しかし、すでにワルシャワにおける確定した評価といっても差支えないものであった。
 自分でいうのもなんだが…。
 とにかく、ぼくは学生ではなくなって、ひとつの音楽的個性の塊となった。
 しかし、ぼくは思う。
 きらきらした太陽よりも、しんと光る満月でいたいって。あまりぼくは群れられるのが好きではない。もちろん、ぼくだって褒められるのは嬉しい。だが、だからといってチヤホヤと甘くべっとりされるのは鳥肌がたつ。
 ぼくは少し『人間嫌い』なのだ。
 しんと光る満月……。それでいいではないか。

「最近、大活躍だね」
 ティテュスはぼくにいった。
「そう?でもまぁ、頑張ってるよ」ぼくは答えた。
「でも…」
「なんだい?」
「君は間違いなく天才だろう…」
「ありがとう」
「が、」ティテュスは続けた。「自惚れと傲慢は身を滅ぼすっていうから気をつけないとな」
「自惚れと傲慢……?」
「あぁ」
「そうか」
 ぼくは答えた。そして「気をつけるよ」と笑った。
 彼にいわれるまでもなく、ぼくは自惚れと傲慢に気をつけている。傲慢は身を滅ぼすし、格好が悪い。よく、チヤホヤされて傲慢になる人間がいるが、そういうのはセルフ・コントロール(自己抑制)をうまく働かせていないからだろう。
 ぼくはそういうのとは違う。
 しんと光る満月のような人間とは、謙虚で冷静でときに辛辣な人間ということなのだ。
  この年の春には、ワルシャワに革命の気運が盛り上がっていた。
 すでに、四年前の十二月、ペテルブルグには有名なデカブリストの反乱が起こっており、その余波はワルシャワにもうちよせていた。諸強国による数度にわたるポーランド分割は、ぼくら国民の感情をいっそう強固なものにしていた。
 ナポレオンのモスクワ遠征が失敗した後、ロシアとプロシャ、オーストリアがポーランドを三分割したが、事実上ポーランドの大部分はロシアの統治下にあった。
 二十歳となっていたぼくも、この祖国の危機に無関心ではいられなくなっていた。
 ぼくは、革命に関心を強くもっていた。
 だから、革命志向の青年たちと何度も密会した。それでブラック・リストに載ることになり、それでポーランドに帰れなくなるのだが、それは後述する。どちらにしても、その頃、ぼくはもうずば抜けた天才を認められた音楽家であり、国際的な活躍を期待された青年だった。もちろん、そんな期待はぼくの心の中にもしんとあった。
 もちろん、焦りや心の葛藤、挫折、恋愛……いろいろなものもぼくの心にあって、その葛藤の中でぼくは成長と挫折を繰り返した。
 ポーランド出国(というより脱出)までの二年間の生活は辛かった。苦しかった。胸がぎゅっと強く締め付けられるような精神葛藤が続いた。そして、不眠にもなった。
 出国までの二年ちかくのぼくの生活は、内外の緊張の中にあった。
 ぼくが天才かどうかはまだしも、ぼくは精神的に差し迫った状況にあった。
 ………精神の危機の時代、である。
 そのかたわらで、ぼくの音楽的才能は成熟をつづけ、豊かなみのりの時期をむかえた。この当時のぼくの傑作であるふたつの『ピアノ協奏曲』が生まれ、また『練習曲』の多く           よ         
をこの頃に書いた。音に依る思想の表現だ。
 作曲家としてのぼくの真の誕生……といっても過言ではない。
 もちろん、きらきらと光る太陽ではなく、しんと光る満月。……満月としてのぼくの誕生だ。

 出版社の所長のハスリンガーは、ぼくの『ラ・チ・ダレム~』の原稿を送って手にしてながら、まだ出版してなかった。その代り、ぼくに演奏会を開くことを勧めた。
 ハスリンガーは、ぼくの作品を「ウィーンの人々に聴かせれば、作曲に非常に有益だろう。」と、いった。そして、
「みんなが、新聞が、まちがいなく称賛のことばを書きたてるだろう。」
 といった。
 つまり、ぼくの演奏をきいたひとは皆、ぼくの演奏会を開かなければならないってことだ。…馬鹿らしい。馬鹿げている。
 とにかくも、ハスリンガーがやっとぼくの『ラ・チ・ダレム~』の原稿を出版してくれたので、前述のシューマンの「諸君、天才だ、帽子をとりたまえ」の評につながったのである。それにしても出版というものはいつもこんなものなのだろうか?
 すべてが遅い…のだ。

 なんにしても、この頃をぼくの音楽的個性の成熟と単純に呼んでいいものかどうか。その外面の成熟より内面の危機にも、ぼくは向き合っていたような気がする。
 あくまで、一般的な気持ちとして、ぼくは成長しただけではないか?
 音楽家として、作曲家として、演奏家として……。
 きらきら光る螢のように。はかない螢のように。
  音楽学校を卒業したぼくは、単に音楽家としての道を歩み始める……といったこと以前に、というより、国際的な音楽家として世界を席巻するような人間にならなければという思いがあった。周囲のひとも、父さんもそれをぼくに期待していた。
 ぼくは期待されていた。
 父さんのニコラ・ショパンは、この年の四月に大臣のグラボフスキにあてて奨学金の申請の手紙を書いた。が、それは当局によって却下されてしまった。そこには、
「この程度の芸術家を援助するために公共の資金を使用することはできない」
 と、書かれていた。
 これは幾分ぼくとしても不可思議だったが、どうも当局とぼくとの不調和音に影響がありそうだ。なぜなら、「使用」というのは初め「浪費」と書かれていたようだからである。 国家援助の道は絶たれたが、父さんは息子であるぼくの国外雄飛の希望を捨てず、費用を工面してぼくをウィーンへと旅立たせてくれた。
 古典派の影響はうすれつつあったが、依然としてウィーンは音楽の都で、音楽の中心都市であった。そこに、ぼくを旅立たせてくれたのだ。金を工面して。ぼくは父さんに感謝した。父さんはいった。
「フリデリク、父さんはお前を誇りに思うぞ」
「誇りですか?」
「あぁ、お前は間違いなく天才だ。きっと世界的な音楽家になる」
「……そうですか?」
 ぼくはやおら怪訝な顔をした。
 父さんは「お前にできることはなんでもする。父さんたちの期待に答えてくれ」
 と言った。
「わかりました。やれるだけやってみます」
 ぼくは答えた。
 なんにせよそう答えた。それは志であった。きらりと光る希望だった。
 それは、運命だったのかも知れない。ぼくがぼくであるための。運命とはときに過酷で辛辣な鉛のようなもので、羽さえも鉛のようなときがある。しかし、たとえ重くとも、勇気と活力をもって大空に飛びたたなくてはならない。それが運命というものだ。
 ウィーンでのぼくもまさにそれだった。
 人々のすすめで音楽会を開き、それは八月というシーズン外れであったのにも関わらず、催しは好意的に受け入れられた。まさに、鉛の羽ではばたいたのだ。
 ぼくが弾いたのは、『ラ・チ・ダレム・ラ・マーノによる変奏曲』と『クラコヴイヤク風のロンド』というふたつのオーケストラつきの作品だったが、あとのほうはオーケストラとの練習がうまくいかず、ぼくはそれをもとに『自由なファンタジー』を即興演奏したが、幸いに専門家たちの高い評価を得た。ラッキーだった。
 二度目の演奏会はさらに成功をおさめた。
 ぼくは、運命の歯車を感じた。運命という大きな物が音をたててぼくに迫ってくる。いるのかいないのかわからない神様が、ぼくを幸福へと誘うのだ。きらきらしたところへ。音楽の天国へ。果てしない新大陸へ。
 ぼくはうっとりと思う。
 ウィーン行きは成功だった。って。
 ぼくはウィーンが好きになった。
 ……なぜかわからないがドイツ人(ウィーン人)はぼくにびっくりしている。ぼくのほうも何にでもびっくりする彼らにびっくりしている。
『自由なファンタジー』は特に良い出来ではなかったのに拍手喝采で、彼らの物分かりのよさにぼくは助かっている。もちろんこれは皮肉だ。
 ドイツ人(ウィーン人)は単純なのかも知れない。というより、心がピュアなのだろうか?それもベストかも知れない。
 心がおおらかでピュアということは、音楽にたいしても文学にたいしても素直に受け入れる、受け入れやすい…ってことだ。それは例えば、梯子を上る無邪気な子供のような心だ。そういうメンタリティ(精神性)だ。
 ただ、あまりいい出来でもない音楽や文学を受け入れるのもどうかとは思う。
 いいものはいい、悪いものは悪い…という審美眼が大事で、それがない人間は芸術家にはけしてなれない。神様がパスするのを許さないのだ。

  ぼくは八月十九日にウィーンを発ち、プラハやドレスデンを経由してワルシャワに帰った。只、ぼくはそれで一息つくこともなく、次の演奏旅行へと頭を巡らせるしかなかった。本当をいえば、ぼくはウィーンからイタリアへ行くことを考えていた。来年の冬はフーベとパリに行くつもりだが、父さんはぼくをベルリンに行かせたがっている。ベルリンには行きたくないんだが……。
  この頃、ぼくにとって素晴らしい事件があった。
 それは、本当に不幸なことに、その時点で『理想のひと』に出会ってしまったのだ。この六ケ月というもの、自分の気持ちを話さないで、心の中で忠実に仕えてきた。彼女のことを夢みて、その想いの中で『協奏曲』のアダージョを書いた。その時の朝つくった小さな『ワルツ』も彼女から霊感を得たのだった。
 ぼくは恥ずかしながら、その時、恋におちた。初恋だった。
 まるで、ぼくは病気のように彼女に夢中になった。はしかのように。恋のキューピットは目隠しされても相手のハートを射抜く。ぼくのハートもまっぷたつに割れんほどに射抜かれて、地面に熱くぽたぽたおちたのだ。その時点で『理想のひと』に出会ってしまったのだ。
 恋しいひとは、本当に美しい。
 彼女は化粧しなくても美人だ。彼女に化粧など……金にメッキをし、百合の花に香水をふりかけるようなものだ。完璧な美には、飾りはいらない。
 彼女の名は、コンスタンツィヤ・グワトコフスカといって、音楽学校でぼくと同年の声楽科の生徒だった。ぼくは彼女に魅かれた。めろめろに魅かれた。
 コンスタンツィヤは、王宮の管理人の娘で、音楽学校卒業後は多少オペラなどを歌ったらしいが、特別に才能に恵まれていた訳ではない。どうしてぼくがこのような凡庸な娘に魅かれたのか?彼女は男好きする性格で、学生やロシア人将校とも遊んでいたようだ。が、それにも関わらず、ぼくは彼女を愛した。なぜか?
 それは多分に誰の前にも訪れるものである。恋のキューピットの仕業だ。悪戯だ。
 ぼくは彼女を愛したが、もちろんその思いは打ち明けられなかった。ただ、遠くから彼女を眺めることしか出来なかった。
 切ない、一途な恋だ。一方通行の。
 そして、当然ながら、その恋は実ることはなかった。
 コンスタンツィヤ・グワトコフスカは、ぼくの気持ちに気付かないままグラボフスキという金持ちの貴族と結婚してしまったのだ。それで、ぼくの初恋も終わった。失恋だ。
 だが、その初恋が『協奏曲』などに影響したのは事実だが、コンスタンツィヤの人格がぼくの音楽に影響をかなりあたえた訳ではない。なんというかインスピレーション(霊感)はあったが、ぼくが音楽を作り推敲するのには影響はなかったように思う。
 いわゆる、ひとつの、なんというか彼女はただのインスピレーション(霊感)に過ぎなかったのだ。ひとつのヒントだっただけだ。
 そんな気がするな、ぼくは。いまさらながらね。
 もちろん、失恋はショックだった。ぼくはしばし悲しみに暮れた。が、その失恋と挫折が、ぼくに黄金の翼を与えたように思う。運命の星が、ぼくの音楽的才能を高揚させたのだ。
 きっとそうだ!