長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

忠臣蔵 年末年始特別連載<忠臣蔵>赤穂浪士、吉良上野介に天誅!5

2015年12月31日 07時53分35秒 | 日記









         5 準備







  堀部安兵衛は「もう待てぬ!」
  と焦っていた。「とっくに殿の一周忌が過ぎたというのにあの昼行灯め! 放蕩ばかり続けているという……まったくの愚か者だ!」
「待て! 安兵衛! 大石内蔵助殿を信じるのだ!」
 そういったのは義父・堀部弥兵衛だった。
 もうそろそろ浅野家の家臣はバラバラになり、もうあと一年も経てば、仇討ちの数さえ集められなくなるだろう。
「しかし義父上、吉良は老人……いつ死ぬかも知れませぬ!」
「安兵衛! 大石内蔵助殿を信じるのだ! ご家老はきっと考えがあって廓遊びをなされておるのだろう」
「……上杉の間者を糊塗(ごまかす)するためにですか?!」
「そうだと信じたい」
 いっている堀部弥兵衛にも、確信がなかった。
 大石内蔵助が何も考えずに遊んでいるとは思いたくなかった。
 そんな馬鹿な男がいるだろうか?
 いや、いる。大石内蔵助とはそういう男である。しかし、後年、歌舞伎や書物などで内蔵助は上杉たちを騙すために放蕩を続け、女や酒に酔ったふりをしていた…などと改められた。忠臣蔵の主役が、放蕩していただけなのでは不様であるからだ。

 さてここで徳川幕府体制による禄高と年貢について説明しなければならないだろう。 まず大名や家臣の禄高は実収とはだいぶ違っていたという。例えば、赤穂藩浅野内匠頭家は、内匠頭長矩の祖父長直の得た禄高は「五万八千八百九十七石……」などと細かく書いてある。一見するとまことしやかだが、本当の実収は四分の二であったという。農業の収穫だから収益に差があるのは当然だが、同じ「五万石の禄高」……といってもかなり差があった。
 しかし、誰も本音をいわない。
 ……元禄時代は農民への搾取が凄まじかった…というのは樹を見て森をみずだという。 建て前は「六公四民」ということだが、この時代、全国の八割りが農民だった。
 つまり、八割り近くの農民は四割りの米で生活し、二割りだけ収めていた。所詮は米であるから、食べる量にも限りがある。どんな金持ちでもそんなにいらない。
 米ではなく、銭の時代にならなければ、経済の行方の先は見えている。
 そこで米の先物取引(デリバティブ)が生まれた訳だ。

  内蔵助はまたも放蕩を続けていた。
 愛人を囲い、屋敷を借りてお可留というまだ十代の小娘と同棲しだしたのだ。
 これには赤穂浪人たちも呆れた。
 陰から見て、
「あれは怪しい…」
「……なにかあるかも知れぬ」
「子を孕ませるかも知れない。あの昼行灯め!」
 元・家臣たちは陰で激怒となった。あんな小娘と同棲などと……ご家老は頭がどうかしたのではないか?
「お茶どす」
 お可留は縁側で、お茶を飲み大石と語り合って微笑んでいた。
「……お可留は可愛いのう」
 内蔵助は満足そうである。お可留はどうも未通娘(処女)の京娘のようだ。
「……怪しい。夜な夜ないやらしいこともやっているようだ。あの昼行灯め! ふぬけたか! ふぬけめ!」
 赤穂浪人たちは呆れて、場を去った。
 そして、当然ながらお可留は妊娠してしまう。
 お可留はその後、女の子を生むが、その後の詳しい記録がない。
 大石家も女児をひきとらなかったし、お可留に経済的援助もしなかった。所詮は愛人と外子である。内蔵助の妻りくの恨み具合が知れるエピソードではある。
 江戸では吉良上野介が余裕で女を抱いていた。
「……吉良さま! はあはあ…」
「おつや…はあはあ…」
 行為が終わると、吉良は笑って、
「巷では赤穂浪人たちがわしを討ち取るとか申しておる」
「…まあ」
「しかし、やつらは赤穂浪士ではない。あほう浪士じゃ。大石ではない軽石じゃ。わははは…あんな連中恐れるの足りぬわ」
 吉良は馬鹿らしい放蕩を続けている大石内蔵助を軽視するようになっていた。
 歌舞伎や小説では、これが狙いだった、となっている。
つまり、吉良を糊塗(騙す)することが目的だったという訳だ。
 だが、違う。
 大石内蔵助はお可留という小娘とやりたくて”かこった”だけのことだ。
 あまり、不用意に内蔵助を「英雄視」すると歴史がわからなくなる恐れがある。


 元禄十五年秋。
  赤穂浪士・毛利小兵衛太は江戸のアバラ屋で、妻・しのと抱きあっているところだった。長い長い抱擁……
 毛利小兵衛太は「本懐をとげれば、お主ともこうして抱き合うことも出来なくなる。これは今後の生活のたしにしてくれ。額は少ないが……」といって、しのに金三両を渡した。 本懐とは、当然ながら「吉良邸討ち入り」「吉良の御首をとること」である。
「お前さん……本当に討ちいる気なのですか…?」
「当たり前だ! しの…わしは腰抜け侍ではないぞ! 吉良にひとあわ吹かせてやるのだ」「だけどお前さん…」しのは泣いた。「お前さんがいなくなったら、しのは悲しうござりまする。老人の吉良の首などなんの得になるのです?」
「……仇を討つのじゃ。このまま赤穂藩士たちが何もせぬと……腰抜けと一生いわれ続ける。命一代名は末代じゃ! のちに歴史がどちらが正しかったか判断するのじゃ」
「しかし、歴史などといわれましても…」
「もうよい!」
 毛利は訝しがった。「武士の魂のわからぬ女子め」
「わたしは武士の魂より、お前さんの魂のほうが大事ですよ」
 毛利小兵衛太は黙りこんだ。
 確かに、吉良の首をとればいいだけだが、残された妻はどうなるだろう……?
 小兵衛太は、大石内蔵助のような単純な思考回路は持ち合わせていない。
 いろいろ考えると頭が痛くなってきた。
 彼には一晩の熟睡と、女子の慰めが是非とも必要だった。


  吉良邸は増築の真っ最中だった。
 この機会に赤穂浪士たちがスキを狙ってくるのではないかと、上杉の侍たちが辺りを見廻っていた。赤穂の間者が大工姿に化けて、情報収集しているところだった。
「あら、平吾郎さん?」
 吉良邸から出てきたおつやが、平吾郎に声をかけた。
「おつやちゃん!」
 間者は不審に思われないように微笑んだ。
「何をしてらっしゃるの? 平吾郎さん?」
「なにって……おつやちゃんを待ってたんだよぉ。俺はおつやちゃんのことが好きだから」「まぁ」
 おつやは照れた。
 おつやは大工の棟梁の娘だった。父親は吉良邸の図面ももっているはずだ。
 このおつやは売春婦のような性格の女子で、吉良とも何度が寝ている。
 しかし、いつもいやいや抱かれているだけで、男から「愛しておる」「好いておる」といわれたためしがない。おつやは嬉しかった。
 上杉の侍たちがやってきた。
「おい! お主! ここで何をしておる?!」
「いえ……あっしは大工の平吾郎と申しまして……おつやさんに会いに…」
「怪しいやつだ! 赤穂の間者ではあるまいな?!」
「めっそうもない!」
「この怪しいやつめ!」上杉の田舎侍たちは平吾郎にリンチをくわえた。
 ボコボコにされる。
 血だらけになりながら、彼は何とか堀部の開く道場まで着いた。
「どうした?!」
「……上杉の連中に…や…られた。だが、まだ吉良は生きているようだ。…ああして…警護しているところをみると…そう思う」ぜいぜい息をしながら、間者役の男はいった。
「とにかく、誰か医者を!」
「いや……怪しまれる。われらが介護する。まぁ、あがれ!」
 堀部安兵衛は「もう待てぬ!」と苛立った。
「あの……昼行灯め! 今度は小娘らしい」

  京・山科の大石邸には、本蔵の妻・戸無瀬と娘の小滝が訪ねてきていた。
 りくは「主人は外出していまして……」と動揺した。
 まさか小娘の愛人と別の家に住んでいるとはいいだせなかった。
「うかがったのは、主税さまとこの子との縁談を考えなおして頂ければと思いまして…」 内蔵助の妻・りくは「……どういうことです?」と問うた。
「娘がどうしても主税さまを忘れられないと申しまして」
「まあ! 小滝さん。それは本当ですの?」
 小滝は頬を真っ赤にして「はい。わたしは主税さまの妻になりとうござります」という。可愛い娘だ。しかし、主税は、
「それはならぬ」という。
「なぜにござりまするか?! 小滝のことが嫌いでござりまするか?!」
「いや! わしは小滝が大好きである。しかし、吉良のことがある。もうわしは浪人の子……食べさせてやれぬ」
「それはお父上とともに討ちいるということにござりまするか?」
「そうじゃ! わしは卑怯者にはなりとうない!」
「卑怯者けっこうではごさりませぬか……この小滝と一緒になってどこかで誰も知らないところで暮らしてもバチは当たりませぬ。赤子だってつくって……畑を耕し…」
「そのような暮らしは御免こうむる! 主君の仇を討たずして何が侍ぞ?!」
「主税さまはもう侍ではありませぬ! この小滝と結ばれてもいいはずです!」
「……小滝…すまぬ。出来ぬ誘いじゃ」
 主税は後ろ髪引かれる思いで、場を去った。
「………主税さま!」
 小滝は号泣した。
 主税の最期が見える気がした。

  大石内蔵助と息子の主税と共周り四十数名は名をいつわり、江戸へと入った。
 討ち入りの数か月前のことである。
 十月、瀬尾孫左衛門は逃亡しようとして捕まった。しかし、大石は許した。
「孫左衛門……討ち入らないと決めたのじゃな?」
 かれは何もいわなかった。
「吉良邸に討ち入るも討ち入らぬもそちの勝手じゃ。好きにするがよい。ただ頼みがあるのじゃ」
「……頼みとは?」
 やっと瀬尾孫左衛門は声を発した。
「お可留という女がおる。わしの愛人じゃ。守ってやってくれ」
 内蔵助は孫左衛門に四百両渡した。ずっしりと重い。
「……これで足りるじゃろうて」
「ご家老………拙者を信じるのですか? この銭をもってどこかへ逃げるかも…」
「かまわん! お主の好きにせい」
 内蔵助はにやりとした。

  赤穂浪士・毛利小兵衛太は江戸のアバラ屋で、咳き込むことが多くなっていた。
 どうやら労咳(肺結核)のようであった。
 床に伏すことが多くなった。
「早くなおって……みなとともに憎っくき吉良上野介の御首を……頂戴しなければ…」
 雨がざあざあと降ってきた。
「雨は嫌いじゃ。雨がふると体が痛む…ごほごほ」
 小兵衛太は血を吐いた。
「お前さん?!」妻のしのは泣いた。もう主人は永くはないだろう……

  赤穂の間者・平吾郎はおつやに近付いていた。
「おつやちゃんは本当に可愛いねぇ」
「やだぁ、もう平吾郎さんったら…これ、おとっつぁんが持っていた吉良さまの邸宅の図面よ。欲しがってたでしょ?」
「ありがたい」
「でも……どうして吉良さまの邸宅の図面なんてみたいの?」
「あっしは大工だから、大好きなおつやちゃんのおとっつぁんがどんな仕事してるか知りたいだけさ」
「……それだけ?」
「そうとも」
「まさか! ……あなたは赤穂浪士じゃないだろうね?」
 おつやはふざけてきいた。確信はなかった。
「まさか!」平吾郎と称している男は笑った。「それよりご隠居さまはどこに寝てらっしゃるんだい?」
「ここじゃないの? でももう少しで米沢にいくっていってたわよ」
「米沢へ?! 上杉家のところへいくのかい?」
「ええ。そんなこといってたような…」
「とにかく、この図面写させてもらうよ。仕事のためだからさ」
「いいけど……そのまえにやることがあるんじゃないの?」
「なにさ?」
「やだぁ! 抱いてよ、平吾郎さん」
 男はおつやを押し倒し、ふたりは愛しあった。

「なに?! 米沢にいくだと!」
 赤穂浪士たちはいきり立った。米沢にいかれたのでは首はとれない。
 播州赤穂藩の再興はかなわなかった。内匠頭の弟・大学は広島藩お預かりとなり、藩は正式になくなった。
「吉良は年寄りじゃ。すぐに老衰死するかも知れぬ」
「……米沢にいかれたのではおわりじゃ」
 大石内蔵助は、
「よいかみなのもの! 吉良邸に討ち入り、吉良の御首を頂くのじゃ!」と激を飛ばした。「おう!」
 四十七名は声をあげた。そして、泣いた。世にゆう円山会議と神文返しで意見は一致。 ……やっと本懐を遂げる日がきた!                       


忠臣蔵 年末年始特別連載<忠臣蔵>赤穂浪士、吉良上野介に天誅!4

2015年12月31日 07時52分47秒 | 日記








         4 放蕩






  ここで少し、なぜ吉良家と上杉家は親密なのかについて語らなければなるまい。
上杉家とは、当然ながら家祖は上杉謙信である。(拙著『上杉謙信』参照)
 上杉謙信はホモではなかったが変人で、嫁ももらわず子もなかった。
 そこで姉の子を養子(のちの景勝)にし、また北条氏の子(景虎)も養子にした。時代は戦国時代……そんな中、謙信は酒の飲み過ぎによる脳溢血で死んでしまう。
 当然ながら、上杉家は景勝と景虎による内戦「お館の乱」がおこる。
 そこで景勝が勝って上杉二代目として越後(新潟県)に君臨するが、秀吉の天下になると戦わずして景勝は服従する。そして秀吉により会津(福島県)二百七十万石に転封される。   が、やがて秀吉も数年後には死んで、ふたたび石田三成(豊臣・西軍)と徳川家康による東軍が関ケ原で激突。上杉は西側について敗北して、家康により会津(福島県)二百七十万石より出羽米沢(山形県米沢市)三十万石へと減封され、そこに移りすんだ。
 本来なら徳川に歯向かった訳だから、藩取り潰しも考えられた。が、「名門だから…」という理由で禄高と領土を減封されただけで済んだのである。
 そんな上杉家は子宝に恵まれないもので、景勝の次の藩主もまた養子だった。
 謙信から数えて四代目が上杉綱勝で、このひとは二十七歳であやしげな病死をしている。このひとには子も兄弟もいない。かろうじて妹にあたる上杉三の姫・富子と吉良上野介の間に出来た子だけがいた。
 そこで幕府は、
「謙信以来の名門の藩を取り潰すには惜しい」
 として、外孫にあたる吉良三郎を養子として上杉家に迎え、領地を三十万石から十五万石に減封して上杉家を存命させた。この三郎が、のちの上杉綱憲である。
 米沢藩主・上杉綱憲と吉良上野介は親子という訳だ。
 そこで、上杉のものが吉良邸に登場する……という訳である。

  話しを少し戻す。
 赤穂といえば塩である。しかし、元禄時代の前に血ヘドの吐く思いをして改革を行ったのは大石内蔵助ではなかった。それは大野九郎兵衛という男である。
「塩はもう伸びぬ。……わしは赤穂の塩がこれ以上荒れねばとそれだけを心配しておる」 大野は弱音を吐いた。
 せっかく改革を行って塩が軌道にのりかかったときに、また塩業が衰退しだしたのだ。しかも、大野は改革でリストラして人減らしを行っており、藩内での評判は最悪だった。 この大野という男は改革の才能をかわれて六百五十石の家老にまで成り上がったのだが、それでも何もしてない若造の大石内蔵助より序列は下で、禄は半分以下だったという。大野は不満で苦悩していたに違いない。
 しかし、そこに、
「それは違います。よそに新塩田ができたのなら、赤穂はさらにその先をいくやりかたでご改革をすればよろしいではありませぬか。そのための方法はあります」
 といいだす者が現れる。
 小説や映画やテレビドラマでは、石野七郎次という名の若者(架空の人物)として集約されている経済技術官僚である。
 この石野七郎次数正は、実在した五~七人の官僚をひとりに集約した架空の人物である。  この架空の人物のしたことは、戸島新浜の造成、塩の品質統一、俵の規格統一、薪柴の共同購入制度の採用とそれに対する課税(煙役)など、すべて事実として行われたことであるという。また赤穂藩取潰しのあとでも、塩事業管理のために団体(組)がつくられた。 浪人となった赤穂藩士たちが、食いぶちのために始めたものだという。


  播州赤穂城明け渡しから半年が経っていた。
 大石内蔵助は主席家老として残務処理のために江戸にいくことになった。
 上杉は敏感になっていた。
 すでに赤穂には何人もの間者を潜ませていた。
「内蔵助らが吉良邸へ討ちいるのではないか……」そんな憶測が飛び交っていた。
 内蔵助の息子・主税は、
「父上、とうとうやるのですね?」と尋ねた。
 すると内蔵助は、
「残務処理にいくだけじゃ」という。
「吉良の御首は……?」
「それは口外するでないぞ」
「しかし、それでは浪人となった藩士たちが納得しませぬ」
「主税!」内蔵助は強くいった。「急いては事を為損じる」
「……父上! 切腹もせず、討ち入りもせず……われらは世間に嘲笑されていまする」
「笑わせておけばよい」
 内蔵助は賀籠に乗り、共の者たちと江戸へ発った。
 その頃、江戸では堀部安兵護が偽名で町道場を開き、江戸を拠点に不破数右衛門らが吉良邸の様子を探っていた。
「どうだった?」
「上杉の連中がうようよいた! あれは腕がたつ者たちだぞ」
 不破数右衛門は溜め息をついた。
「それにしてもあの『昼行灯』め! もう殿の切腹から半年が経つというのに……なぜ吉良上野介の御首を討らなんだ?!」
 堀部安兵護は「内蔵助さまにも考えがあるのだろう」という。
「考え? ……こうしてる間にもどんどんと赤穂浪人たちが脱落していく……もう限界だ」「相手は老人、老衰でもして死なれたら……仇討ちどころではない」
「われらは笑い者になる」

  大石内蔵助は源蔵らをともない江戸についた。
 討ち入る訳ではなかった。
 まず幕府に顔をみせ、残務処理をして、亡殿・内匠頭の元正室、阿久里のもとを訪ねた。「大石内蔵助にござりまする」
 平伏した。
 まだ若い阿久里は、憔悴していたが、女子の色気はむんむんだった。
 内蔵助は思わず、帆柱立つところだった。
「……ごくろうでござりました」
 阿久里はか細い声でいった。
「ははっ!」
 その一方で、大石が江戸に着いたということで、米沢藩江戸邸の上杉家ではざわざわしていた。頭の少しお留守な綱憲のかわりに、側近で家老の千坂兵部が”内蔵助の動向”を探らせていた。
「どうじゃ? 赤穂たちは動くか?」
「いえ。動きませぬ」
 間者はいった。
「大石は動かぬと?」
「いまのころは…」
 千坂兵部は安堵して、
「やはり昼行灯という大石の噂は本当だったのか。しかし……用心は必要じゃ。なおも大石たちの動向を探れ!」
「はっ!」
 間者は去った。
  大石内蔵助らは山奥に引っ越していた。京の山科である。
 内蔵助の子供はいっぱいいたが、みなからかわれていた。
「赤穂浪士ではなくあほう浪士だ! あほう! あほう!」
「大石ではない軽石じゃ! 軽石じゃ!」
「なにを!」
 内蔵助のちいさな息子がいいかえそうとするが、今度は投石される。
「やめんか!」
 主税がとめた。子供たちは逃げていく。「あほう浪士~っ!」
「相手にするな!」
「しかし兄上、くやしうござりまする!」
「もう少しの辛抱じゃ! 今に世間をあっといわせてやる!」
 主税は願いをこめていった。
 ……かならずわれらは吉良の御首をとってみせる!
「江戸の連中をとめておいてほしい」内蔵助は江戸で元・家臣たちにそう告げて去った。

         
  内蔵助は江戸から戻り京で『廓遊び』にあけくれた。
 京女をはべらかせ、大酒をのみ、女を抱いた。
 いやらしいこともした。今でいうセクハラまがいのこともした。
 夜な夜な女子を相手にいやらしい行為をした。
 大石内蔵助が京・山科に移り住んだのは元禄十五年秋のことであった。
 それからは、仇討ちも忘れ、放蕩にふけった。
 女とのなには気持ちいいもので、内蔵助は快楽に酔っていた。
「忠臣蔵」の研究がすすむ中で、この大石内蔵助の業績らしき業績が見付からないという。このひとはおそらく家柄のよさだけで筆頭家老となり、四十四歳までただ「ムダ飯」を食っていた。それは、大石が千五百石の家老でありながら少年時代を除くと、藩お取潰し前には、一度も江戸にいってないことでもわかる。
 只の無用のひとだった訳だ。
 上杉や吉良を油断させるために放蕩を続けた訳ではなく、自然とそうなっただけのことだ。後で子を孕ませるお可留にしても、セックスが好きで妊娠までさせたのだ。
 こうした「無用の人」が何故あれほどの討ち入りが出来たのであろうか?
 歴史家は常に悩んでいる。
 こういう人物はどこにでもいるが、急に江戸時代の英雄になるのだから歴史は面白い。 たぶん周りの”仇討ち派”の勢いにおされたのであろうが、よくぞ吉良の首をとれたものだ。しかし、こういう無能な思考のひとだからこそ仇討ちという暴力テロを出来たともいえる。インテリならばあとのことを考えて、悩むものだ。
 ……残された妻や子はどうなるだろう? 周囲の評価は? 吉良の御首をとってどうするのか? 歴史に名を残せるか? 銭はどうするか?
 しかし、元来、単純な大石内蔵助はそこまで考えない。
 だからこそ大野九郎兵衛が改革を実行できたのであり、討ち入りまで出来たのだ。
 討ち入りまでの一年九ケ月もの間、浪人たちはいろいろな考えをもっていた。
「仇討ち派」「自然消滅派」「お家復興派」……
 しかし、大石内蔵助は態度を明確にしない。
 もし大石がインテリで、どこかの派閥に力を入れていたらたちまち分裂し、内ゲバがはじまっていただろうという。
  討ち入りの際も計画も立てず、おもに計画は吉田忠左衛門や原惚右衛門や堀部親子に立てさせている。よくいえば「無欲なひと」であり、ハッキリいえば「無能なひと」それが大石内蔵助であった。

  江戸では堀部安兵衛と妻のおそねが愛しあっているところだった。
 夜な夜なあえぎ声やうなる声、エロティックな声がきこえる。
 無理もない。まだ安兵衛は若い。妻だって若くて欲求不満だ。
 いやらしいことも必要なのだ。
 その朝、磯貝や原たちがやってきた。
「あの昼行灯は京で遊びまわっているそうじゃ!」
 磯貝は苦笑いした。
 安兵衛は「敵をあざむき、味方をあざむいているのか……」と大石を評価した。
「甘い! あの男は只、遊んでいるだけじゃ!」
「いや、あの方は上杉の間者たちを欺いているのだ」
「何にしても三月十四日までだ!」
「一周忌か」
 しかし、浅野内匠頭の一周忌がきても大石は動かなかった。
「どういうことなのだ?!」江戸の浪人たちはいぶかしがった。
「もう待てん! われらだけで吉良の御首を!」
「待て! 早まるな!」
「われらには忠義がある!」
「負け惜しみだ!」
 江戸の不穏な動きはおさまることを知らない。
 しかし、大石内蔵助は放蕩をやめなかった。
 芸子たちを抱き、酒を呑み、踊った。
 やがて、内蔵助は外にふらりと出て、茶屋の椅子に泥酔して横になってしまった。
 そこに薩摩藩士・村上が通りかかった。
「これは赤穂のご家老・大石内蔵助殿か!」
 村上は涙目でいった。「敵をあざむくためにこのような放蕩を続けるとは立派な方じゃ。 その勇気は信長公さえも越える。拙者、薩摩藩士・村上平衛門と申す!」
 しかし、内蔵助はぐうすか眠ったままだ。
「格好はどうあれ、その刀はするどく研がれていることでありましょう」
 内蔵助は動かず、酒くさい息で眠っている。
「吉良の首をとるのはこの刀でごわすか?」
 村上は大石の脇差しを手にとり、「この鋭い刃にて敵を…」抜いて見ると錆ついていた。京の女たちは大笑いだ。村上は拍子抜けした。
「いや……しかし、脇差しで無念を晴らす訳もない。この刀こそ……」
 内蔵助の長刀はやっぱり錆びていた。
 どっ! と笑いが起こる。
 村上は激昴して、「馬鹿らしい! この男は本当にふぬけになって放蕩を続けているだけじゃ!」と吐き捨てた。本当にそうだったのであろう。
 村上たちはひきあげた。
 京では嘲笑が止まらない。
       
 ……赤穂浪士ではなく、あほう浪士だ!
 ……あいつは大石ではない。軽石じゃ!
     
  ついに息子・主税は怒った。
「父上、いいかげんになさりませ!」
「主税……急ぐでないぞ! 急いてはことを為損じる」
「しかし…」主税は続けた。「もう亡殿の一周忌が過ぎました。江戸の元・藩士も「もう待てぬ」と申しております! このような大事なときに女子とたわむれるなど外道にござる!」
「焦るな………上杉の間者が潜んでおる」
「同じ浪人の橋本平左衛門は廓女と心中しました! 父上がはっきりと行動しないからです! 父上が殺したも同然です。他の家臣たちもばらばらです。みないなくなりまする! 父上とわたくしだけでは吉良は討てませぬ!」
「……主税……急ぐでないぞ!」
 内蔵助がまた酒を呑もうと杯を口にもっていくと、ついに主税もキレた。
「馬鹿親父!」
 杯を跳ね飛ばした。
「………主税……急ぐでない」大石内蔵助は余裕の微笑みを口に浮かべた。
  江戸の吉良邸では、出羽米沢の上杉家から腕のたつものが派遣されていた。
 稽古に力が入る。自然と騒がしくなる。
 吉良上野介は「うるさいのう。なにごとじゃ?!」と怪訝な顔でいう。
「綱憲さまからの派遣侍でござります。殿のお命を守るためです」
「ふん! 田舎侍どもめ! あほう侍など攻めてこぬわ!」吉良は笑った。      

忠臣蔵 年末年始特別連載<忠臣蔵>赤穂浪士、吉良上野介に天誅!3

2015年12月31日 07時51分57秒 | 日記









         3 大石内蔵助






  大石内蔵助は、
「城を枕に討ち死にしようぞ!」と血判状を集めていた。
 それに反対する者たちが現れた。いわゆる”仇討ち派”である。
 その中心的人物が、堀部安兵衛、堀部弥兵護義親子と奥田孫太夫、高田郡兵衛などであった。
 それは、浅野家とも内匠頭とも関係なく、御家が断絶となって主君が切腹したのに相手吉良はのうのうと生きているのは武士として禄を食んだものとして面目が立たない、というヒロイズムであるという。
 堀部安兵衛というのは元々は中山安兵衛といって、元禄七年に、友人の菅野六郎左衛門の助太刀に出て、高田の馬場で相手の村上庄左衛門ら三人を斬り殺したことで有名人となり、浅野家詰三百石の堀部弥兵衛の養子になった者だ。
 十石で仕官するのも難しい時代に、養子後、わずか三年で二百石とりの武士になったのだから大変な出世である。そんな安兵衛はスターであり、江戸で広がる”吉良憎し””仇討ち当然”の世論にひどく気にしたのも当然である。
 奥田孫太夫、高田郡兵衛も新参者だった。
 奥田孫太夫は内匠頭の母に付いて鳥羽の内藤家から浅野家に入ったものだが、延宝八年、内藤和泉守忠勝が増上寺で刀傷事件を起こしたために浅野家に居残る形となったという。 内藤家は改易となり、改易となった大名の家臣として負い目を感じていた。
 高田郡兵衛は槍の名手で「槍の郡兵衛」といわれスターだった。
 その腕をかわれて浅野家に仕官したのである。
 その点では堀部安兵衛と似ている。
 これらは「恥をかいてまで生き延びたくない」という面目があった。
 この人物たちは強行に「吉良を討つべし!」と主張し続けたという。


                  
  内蔵助の息子・主税は小滝という小娘と結納までしていた。
 まだ若いふたりである。
 主税はハンサムで、小滝は可愛い顔をした女子だった。
 ふたりは庭を散策していた。
 手を握ると、それだけで小滝は頬を赤らめた。純粋な女子である。
「主税さま………わらわたちは夫婦になるのでごさりまするね?」
 まだ未通娘(処女)の小滝は、主税と結ばれるのを心待ちにしていた。
 いやらしい気持ちはない。
 まだ無垢な小娘である。
 しかし、その愛しの彼は妙なことをいいだす。
「……別れる?」
 小滝とその母、どちらが驚いたかわからないくらいだった。
 大石主税がそういったのだ。
 小滝は可愛い顔に涙を浮かべて、
「なぜでござりまする?! 小滝が嫌いになったのでござりまするか?!」と涙声でいった。「……いやそうではない」
「……では…なぜ? 小滝に悪いところがあるなら改めますゆえ…」
「そうではない。そうではないのだ!」
 主税は無念そうに言った。
「小滝のことを嫌いになったのではないのですね?!」
「……そうじゃ! わしはお主が大好きじゃ」
「なら……なぜでござりまする?! 小滝は悲しうござりまする」
「小滝!」
「…はい」
「われは」主税は無念そうに続けた。「われは父とともに城を枕に死ぬのじゃ」
「えっ?!」
 小滝は驚愕した。「なにゆえ?!」きいた。
「……殿が殿中で「刀傷事件」を起こしたのは知っておろう?」
「………はい。それはもう」
「それで赤穂藩はなくなる。亡君さまの弟君・大学さまの跡目相続も危うい。われら家臣は……幕府への抗議として赤穂城を枕に切腹するのじゃ」
「そんな……主税さま。そんな……!」
「さらばじゃ……小滝!」
「……主税さま。そんな…そんな」
 小滝は歩き去る主税を、泣きながら目でおった。
  江戸の夜の酒場では、堀部安兵衛、高田郡兵衛、片岡源九右衛門、神崎与貞郎らが、「かならず吉良を討とう!」
 と話しあって酒を呑んでいた。
「いまさら血判状などと…馬鹿らしい」
「おじけづくものもいよう」磯貝十兵衛左衛門がやってきていった。ぐいっといっきにいった。「昼行灯め!」
「なにが城を枕に討ち死にじゃ! 吉良の首はどうなる?!」
 そんなとき、一同はぴっとはりつめた。「まて! 女!」
 女と男は逃げ始めた。
「まずい! 上杉の間者か?!」
「待て~っ!」
 女は駆けてどこかへいってしまった。
 しかし、男のほうはやってきた不破数左衛門が斬って捨てた。
 一同は遺体をみた。
「………上杉の間者か?」
「死体だけでわかるまい。血判状のことが上杉に知られたかも知れん」


  廻船門屋・天野屋……
 播州赤穂の塩商人にて大富豪である阿島八十右衛門は、大石と話していた。
「かのようなことになり申し訳ないのですが…」
 大石内蔵助は恐縮した。
「赤穂の塩で一代築きました」
 阿島八十右衛門は「殿が一大事にならしゃれたと………切腹されるとか」
 大石は「まだそのことは内密に」という。
「……藩札(藩の借金・不良再建)は焼いてしまったということに」
 八十右衛門はあっぱれな男だった。
 借金を忘れてくれるという。
  大石内蔵助の妻りくは息子の死に装束の白無垢を縫っていた。
「母上! いままでお世話になりありごとうごさりました」
 主税はいった。
 母は「武士の子として、恥ずかしくない死にかたをしなさい」と涙声でいう。
 主税は服をきた。
「立派な最期を!」
 りくは言った。
「ご安心ください! 武士の息子として最後を飾りましょうぞ!」
 主税はいった。
 りくは台所にいき、奉公人たちに最後の挨拶をした。奉公人たちは泣いて平伏している。「お前たちには世話になりました。お別れです」
 りくに共をさせて下さいという奉公人があった。
 のちに討ち入り後、生き証人となる寺坂吉衛門である。
「なりませぬ、寺坂! そなたは武士ではありませぬ」
「大石さまのお供を!」
「わが旦那さまは切腹するのですぞ!」
「かまいません!」
 寺坂吉衛門はいつまでも平伏していた。
 雨がふってきた。
 老人がきた。
 吉田忠左衛門だった。それでも、寺坂吉衛門は雨に濡れながら平伏していた。
 大石内蔵助は出迎えた。
 そして、寺坂吉衛門に気付いた。
「なにをしておる? 寺坂吉衛門」
「わたくしもご一緒いたしたく…」
「馬鹿者! おぬしは侍でも赤穂藩士でもないのだ! 命を粗末にするな!」
 内蔵助はきつく叱った。
「あっぱれ。奉公人まで”義”を貫こうとする」忠左衛門はほめた。
 大石は折れて、
「わかった。寺坂吉衛門……共をせよ! 亡殿もよろこぶだろうて…」
「ははっ!」
 寺坂吉衛門はさらに平伏した。
  播州赤穂城の中では、家臣一同が白無垢姿だった。死に装束だ。
「………矢頭五衛門、下がれ!」
 内蔵助はいった。
 矢頭五衛門は「なぜでござりまする?! われも赤穂の家臣としてご一緒しとうござりまする!」という。
「お主はまだ十六歳! 死に急ぐでない!」
「下がりませぬ!」
 五衛門はその場で切腹しようとした。「わたくしが最初に!」
「それにはおよばん!」
 内蔵助は強くいった。
 一同が沈黙する。そして、ざわざわと騒がしくなった。
 内蔵助が、
「切腹はしない。わしはお主たちを試したまでのこと」と言い出したからだ。
「どういうことです?! ご家老?!」
「われらが目指すのは吉良の御首それのみ! 仇討ちせず、亡殿がはたして喜ぶだろうかとわしは思う!」
 一同はざわざわとなる。大石は続けた。「もうすでに戦いは始まっておる! 上杉の間者がわれらは切腹すると伝えたであろう。しかし、同じ切腹するのならば吉良の御首を頂いたあとじゃ!」
 一同も「そうだそうだ!」と同調する。
「殿の仇を討たずして切腹しても……吉良が喜ぶだけじゃ!」
「吉良の首を斬りとって殿の墓にささげなければ腹の虫がおさまらぬわ」
 大石は「城は幕府に明け渡す。無血開城じゃ」という。
 なにやらわからぬが、家臣たちは熱っぽくなった。
 ……これは仇討ちしかない。
 しかし、吉良はまだぬくぬくと生き続けていることであろう。老人だからいずれ死ぬだろうが、その前に痛い思いをさせてやろう。
 こうして、城は開城された。
 大石はその早朝、赤穂城内を見てまわった。柱に内匠頭の幼少のおり、つけた刀傷があった。「吉良さえいなければこんなことには……」
 大石内蔵助は残念に思った。
 やがて、幕府の令により、播磨藩や毛利藩の武者たち一同が旗をなびかせて城にやってときた。嘉坂は大石にわびた。
「わしがいながらこんなことに……すまぬ」
「いいえ。これは幕府の決まりでござる」
「わしは内匠頭殿の弟君・大学さまの跡目を幕府に進言するつもりである」
「嘉坂さま! 播磨藩主のあなたさまからのそのお言葉ありがたく思いまする!」
 大石は男泣きした。
「お家再興のために嘆願するぞ! あんずるな大石殿! 上様は頭が堅いが理解ある方じゃ。きっと、弟君・大学さまの跡目となりましょうぞ」
「……たとえ一万石でも……大学さまが浅野家を継がれればありがたき…幸せ…」
「今回のお家断絶は幕府の片落ちじゃ。きっと上様がなんとかしてくださるじゃろう」
 大石は男泣きし崩れた。
  江戸では堀部安兵衛の愛人が、病死した頃だった。
 清水一角は、「ねんごろに弔え」と銭を渡した。
 安兵衛は「吉良め! 吉良め!」と怒りを爆発させている。
 赤穂家臣たちの間では脱落者が多数でた。
 討ち入りのときは四十七人だったのだから、その何倍もの家臣が脱落したことになる。「まて!」
 赤穂家臣の吾平太は船にのった。「待たぬと斬るぞ!」
 しかし、吾平太は、
「仇討ちなどに付き合ってられぬ。ただの浪人では食っていけぬ!」といい船で去った。 このような者が続出した。
 人間は”義”だけでは食べていけない。
 忠義だの忠臣だのといってみたところで、所詮はただの浪人。今でいうフリーターやニートだ。つきあってられない…と思っても無理はない。
 どこかに仕官しなければ給料ももらえない。
  上杉の千坂兵部は「なにっ?! 切腹せず開城しただと?!」と間者からきいた。
 上杉綱憲のブレーンでもあった千坂兵部は、何やらおそろしくなった。
 ………何を考えておる?! 大石内蔵助!

大石内蔵助が江戸へ「東下り」する際、『垣見五郎兵衛』うんぬんでの有名な話はフィクションなのであえて触れない。年末のドラマででも参照して頂きたい。
 その大石内蔵助は紋付き袴姿で、城から出た。
 そして、空虚な気分で城を眺めた。
「主税! よく見ておけ! 赤穂城の見納めぞ!」
 明朝卯の刻、のことであった。
 ……狙うは吉良上野介の御首!
 いよいよ、仇討ちのための長い戦いの始まりでも、あった。            


忠臣蔵 年末年始特別連載<忠臣蔵>赤穂浪士、吉良上野介に天誅!2

2015年12月31日 07時51分07秒 | 日記








         2 刀傷事件と危機






  浅野内匠頭はまた計られた。
殿中に参内したおり、烏帽子ひたたれだったが、他の大名はそうではなかった。
 前日、吉良に烏帽子で…といわれたためにその格好で参内したのだった。
「……どういうことなのじゃ?!」
 内匠頭は狼狽した。
 いろいろな大名が通り過ぎる。
 嘲笑されている。
「……殿。こちらへ」
 背後の襖の奥から囁く声がした。襖が開く。それは浅野家の家臣だった。
 内匠頭は静かに奥にひっこんだ。ゆっくりと襖が閉ざされる。
「殿……こんなこともあろうかと別の制服を用意しておりました」
「おお」内匠頭は家臣の心配りにおそれいった。「でかした」
「さっそく……気付かれぬうちにお着替え下され」
 内匠頭は烏帽子をとり、着替えた。
 そして、心の中で、
 ………おのれ! 吉良上野介め! なぜわしに烏帽子ひたたれで参内せよなどと嘘を申したのじゃ?! 騙して、われを嘲笑させるためか?! 許せぬ!
 と激怒した。
 それでも我慢した。
 嘉坂にいわれたように老人はもうすぐあの世にいく。それまでの辛抱だ。
 わしはまだ二十五……吉良はもう六十過ぎというではないか…
 着替えた内匠頭は、やってきた吉良にお辞儀した。
 吉良上野介は、びっくりしている様子だった。
 ……せっかくわしが浅野に恥をかかせる気でおったのに……
 その顔にはそう書いてあった。
 浅野内匠頭は謙虚な男だった。すぐにつくり笑顔で、
「ごきげんうるわしう」といった。
 吉良は何もいわない。
 浅野内匠頭は「勅使を迎えるには玄関でか、それとも奥でか……? 吉良殿お教え下され」と頭を下げた。
 吉良上野介は、ふん、と鼻を鳴らした。
 そして、「そなたはお迎え役であろう?! そのようなことも知らんのか!」
 と喝破した。強くいいはなった。罵倒に近かった。
「何かと思えば……口をパクパクパクパク……まるで鮒じゃ」
「……吉良殿…」
「お主は鮒じゃ。鮒じゃ。鮒侍じゃ!」
 浅野内匠頭は腹にすえかねた。
 ……鮒侍じゃと?!
 吉良上野介は、まだ嘲笑罵倒をやめない。
 扇子を取りだして、金具の部分で内匠頭の額を叩き、
「お主は鮒じゃ。鮒じゃ。鮒侍じゃ! この鮒侍め!」と悪口をいった。
 内匠頭は、吉良の白髪まじりの顔をぎろりと睨みつけた。
「……なんじゃ? その目は? 鮒侍め! わしを愚弄する気か?!」
「許せぬ!」
 内匠頭は、腰の脇差に手をかけた。
 すると、吉良は、
「ここは殿中じゃぞ!」といい放った。「殿中で刀を抜けばどういうことになるかお主だってわかっておろう?!」
 内匠頭は、愕然となって膝をついた。
 狼狽した。
 しかし、吉良への怒りは抑え切れない。それはぐらぐらと炎のように内匠頭の体に熱を帯びさせた。
 吉良は「できもせんことはせぬことじゃ。わはははは……この鮒侍め!」
 と笑った。
 そして、浅野内匠頭に背を見せて、歩き去ろうと歩きだした。
「鮒侍、鮒侍……わははは」嘲笑はやまない。
 ……吉良め! 吉良め!
 浅野内匠頭は激昴のあまり、顔を真っ赤にして刀に手をかけたままだった。どうにかなりそうだった。怒りが頭中に達して、全身が火照った。
「吉良上野介! 待て~っ!」
 ぎろりと憎しみの目で、六メートル先の吉良に声を発した。
 一同は振り返った。
 その時だった。
 浅野内匠頭は刀を鞘から抜き、駆け出した。そして、吉良上野介に斬り込んだ。
 ハッ! とする吉良……
 そして、前代未聞の事件、「刀傷事件」は起こった。
 吉良上野介は額を斬られ、出血した。ぼたぼたと血がしたたる。
 老人は尻餅をつき、おたおたと狼狽して逃げようとした。
 内匠頭はなおも一撃を加えようとする。
「殿中でござるぞ! 内匠頭殿! 殿中でござるぞ!」
 誰かが浅野内匠頭をはがいじめにした。
「後生でごさる! 吉良にとどめを……後生でごさる!」
「殿中でござるぞ! 内匠頭殿!」
 殿中はパニックになった。
 浅野内匠頭ははがいじめにされて、吉良は担がれて奥に運ばれる。
「後生でごさる! 吉良にとどめを……!」
 内匠頭は、一同にはがいじめにされ、刀を取り上げられた。肩でぜいぜい息をした。
 とうとう観念した。
「……とうとうやってしまったか…浅野内匠頭殿」
 播磨藩主・嘉坂はその姿を遠くから見て、愕然とした。
 幕府目付役がきた。
「幕府目付役・多門伝八郎にござる。刀をこれへ」
 血のついた刀が没収された。「浅野内匠頭殿……こちらへ」
 内匠頭は明らかに狼狽し、動揺していた。茫然と突っ立って、視線もうつろだ。
「こちらへ」
 やっと伝八郎の声がきこえた。
 この「刀傷事件」はすぐに殿中に広まった。赤穂江戸藩邸にもすぐ知らせがきた。
「……ど……どういうことなのじゃ?! 兄上は何故そのようなことを?!」
 内匠頭の弟・浅野大学長広はすぐにやってきて、狼狽した。
 家臣たちにも皆目検討もつかない。
「兄上は本当に殿中で刀を抜いたというのか?!」
 家臣は狼狽しながら「そ……そのようでござる。しかし、今、幕府にて吟味中とか…」「どういうことなのじゃ?! さっぱりわからん!」
浅野内匠頭の正室・阿久里(あぐり・瑤泉院・りょうぜいいん)は何もいわずに只、泣いていた。
 ……殿中で「刀傷事件」を犯したらただではすまない……
 ……相手はどうなったのであろうか…?

「乱心であろう? 乱心であればお咎めなしじゃ」
 伝八郎は、浅野内匠頭を別室で問いただした。
「いえ……乱心ではござらぬ」
「…乱心といいなされ。それで命は助かる」
「乱心ではござらぬ」
 内匠頭はかたくなに首を横にふった。目が遠くをみているようで、辺りを不安にさせた。 伝八郎の側にいた家老は、
「吉良は浅でで……」といおうとした。
 伝八郎は止めて、強くいった。
「吉良上野介はひどく傷をおって、出血がひどく命もあぶない」
 内匠頭はにやりとなった。
 そのまま拘束されていた。
 しかし、吉良上野介はひどい傷をおって出血がひどく命もあぶない、というのは嘘だった。吉良は額を数センチ切っただけで包帯をまけばすむような浅傷だった。
「……何が何だかわけがわからん」
 多門伝八郎はそれを黙ってきいていた。
 吉良の内匠頭への度重なる罵倒など知りようもない。
 息子で、出羽米沢十五万石上杉家に養子に出していた上杉綱憲が江戸藩邸からかけつけてきた。もう、江戸中がこの前代未聞の「刀傷事件」でもちきりだった。
「父上! お怪我のほどは?!」
 綱憲は心配して問うた。
 医師は、
「軽い傷です。傷跡は少し残るでしょうが……命に別条はごさりません」という。
 息子はほっと胸をなでおろすと、
「なぜこのようなことになったのです?」と父に問うた。
 吉良はシラをきり通した。
「わしには何のことだかさっぱりわからん。あの若者が急に斬りつけてきたのじゃ」
「許せぬ! 浅野め!」
「やめい! お主はもう吉良の子ではない。出羽米沢十五万石上杉家の当主ぞ!」
「しかし…」
 綱憲は続けた。「父をこのようにされて、浅野を斬らぬ訳にはまいりませぬ!」
「今は戦国の世にあらずじゃ。綱憲殿……おって幕府からご沙汰があろう」
 吉良はどこまでもシラをきる気だった。
  徳川綱吉将軍の元にも情報が入ってきた。
「なにっ?! 急に斬りつけただと?!」
「はっ!」
「殿中でか?!」
「はっ! さようにござりまする!」
「どういうことでおこったのじゃ?」
 綱吉は是非とも答えがききたかった。
「わかりませぬ。いきなり斬りつけたと……見ていたものがそういいましてござる」
「田舎大名めが! 戦国の世でもあるまいに!」
 徳川綱吉将軍はすぐに命令を発した。
 それは浅野内匠頭の切腹だった。
 驚いたのは、多門伝八郎である。
「浅野内匠頭の切腹はわかるが、吉良上野介はお咎めなしとはどういうことじゃ?! 喧嘩両成敗と幕府規則で決まっておるではないか」
「とにかく上様はそうおおせです。浅野内匠頭のみ切腹をと」
 幕府目付役・多門伝八郎は納得いかなかった。
「そけでは浅野家、赤穂藩があまりにも憐れであろう?!」
「上様のおっしゃることですぞ!」
「納得ならん! なぜ吉良は無罪放免なのじゃ?!」

  浅野内匠頭は一室で、襖に囲まれて幽閉されていた。
「是非、ご切腹の前に殿にあわせて下され! 事情をききたいのです!」
 赤穂藩士・片岡が幽閉先の田村右京太夫邸で嘆願しているところだった。
 幕府目付役・多門伝八郎は、
「幕令により面会はできない。ただ……切腹は庭でと決まった」
「庭?!」片岡は驚いた。「なぜ武士らしく屋敷内で切腹されないのですか? 吉良は?」「幕令である」
 多門伝八郎は、情けをかけた。「ここの廊下を浅野殿が通る……声はかけてはならぬぞ」「はっ! ありがたき幸せ!」
 片岡は庭の満開の桜のもとで平伏していた。
 やがて死に装束の浅野内匠頭が歩いてきた。
 片岡は涙を流して平伏している。
 ちらりと内匠頭が、片岡をみた。
「……無念じゃ」呟くようにいった。歩き去った。片岡は泣き崩れた。
 やがて、浅野内匠頭は庭についた。
 切腹の用意がされ、解釈の侍が刀を構えていた。
 内匠頭は辞世の句を書いた。

 ……”風さそう 花よりもなお我もまた 春の名残りをいかにとせん”……

 内匠頭は衣を脱いで、刀を持ち、やがて頷き切腹した。
 首が落とされる。
 享年二十五歳だった。
  早馬がすぐに江戸を発した。
 向かうは播州赤穂藩である。原惚左衛門、大石瀬左衛門が馬でかけたが、途端に馬がだめになり、夜も寝ずに賀籠にのり、赤穂へと急いだ。
 高輪の泉岳寺で葬儀が開かれた。
 赤穂藩五万石の質素な葬儀だったという。
 浅野内匠頭の妻・阿久里は、集まった江戸藩邸の家臣たちに礼を述べた。
「そなたたち、今までの忠義……大儀であった」
「奥方さま!」
 一同は泣き崩れた。
  上杉綱憲は、
「浅野内匠頭は天命ぞ!」などと上杉江戸藩邸で笑った。
 千坂兵部は諫めた。
「殿! その言葉、けして他言なされまするな! 吉良殿が浅でなどとは決して…」
「……千坂。なぜじゃ?」
 綱憲には考える頭はない。この男に事情を察しろというほうが無理だ。
 もともとこの男は無能で、頭の悪いたちである。
「赤穂藩士たちに命を狙われまする!」
「……命? なぜじゃ?」どこまでも無能な男だ。
「浅野が切腹で、吉良殿が無罪放免では藩士たちが不満をもちます」
「…………なるほど」
「まずは上杉から間者(スパイ)を出して、様子をさぐらせます。吉良殿の警備もいたさねばなりませぬでしょう」
「なるほどのう。頼むぞ」

  江戸から赤穂までは百五十五里である。
 携帯電話もインターネットもない時代、早馬や賀籠では四~五日かかる。そこを、ふたりの家臣たちは三日でついた。夜も寝ず、食事もとらずのまさに死に者狂いの伝達だった。「原惚左衛門! 大石瀬左衛門! 殿よりの知らせ報告の儀これあり!」
 三月十二日の早朝、巳の刻………
 内匠頭切腹が大石内蔵助の元に知らさせた。
「なんじゃと?! 殿がご生外?! 切腹したと申すのか?!」
「……はっ! 残念ながら命果てましてごさりまする!」
「なにゆえ「刀傷」におよんだのじゃ?!」
「存じませぬ」
 大石は訝しがった。「それで相手はどうなった?!」
「吉良上野介はご存命……傷はわかりませぬ」
「なぜじゃ?! なぜ吉良は無罪放免で殿は切腹なのじゃ?! 幕令でも喧嘩両成敗となっておるではないか!」
 大石はついに怒りを爆発させた。
 原惚左衛門は「幕府の片落ちにごさりまする! これを殿より大石殿へと!」
「わしに……? このわしに殿からか?!」
「はっ! 正室・阿久里さまにも弟君・大学さまにも書状はなく、ただ大石だけにと…」 大石内蔵助は書を読んだ。
「……”風さそう 花よりもなお我もまた 春の名残りをいかにとせん”……春の名残……り…を…」
 大石内蔵助は男泣きに泣いた。
「春の名残…り……殿! 殿!」
 一同も泣いていた。
 これでは藩は取り潰しである。
「弟の大学さまを跡取りとは出来ないものか……この際、禄高は減らされても伝統ある赤穂藩の名が残れば……いいが…」
「もし、藩がつぶされるなら……城を枕に討ち死にしましょう…ご家老!」
 一同は悲嘆に暮れた。
 討ち入りの一年九ケ月前のこと、であった。



忠臣蔵 年末年始特別連載<忠臣蔵>赤穂浪士、吉良上野介に天誅!1

2015年12月31日 07時50分16秒 | 日記









小説
 蒼に月に。忠臣蔵
                          ~赤穂浪士”義”

                                をつらぬく~
                 ちゅうしんぐら   ~the best samurai's~
               ~世紀の忠義! 吉良打倒による「討ち入り」。
                 「赤穂の忠義」はいかにしてなったか。~
                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

  ときは元禄。舞台は播州赤穂である。
 播州赤穂城主・浅野内匠頭長矩は、吉良上野介による嫌がらせに憤慨し、刀傷事件を殿中で起こしてしまう。浅野内匠頭長矩は切腹、しかし吉良上野介は御咎めなしだった。
 そのことを知らせれて家臣たちは憤る。「なぜ吉良は無罪放免なのじゃ?!」
 播州赤穂の家老は有名な大石内蔵助である。内蔵助は白無垢姿で切腹しようと家臣たちにいうが、切腹せず城を明け渡し、藩はつぶされる。
 内蔵助はそれから放蕩にふけり、酒や女に明け暮れる。
 しだいに去っていく家臣たち……
 しかし、大石は主君・浅野内匠頭長矩の命日から一年九ケ月後、四十七人の刺客をそろえて江戸の吉良上野介の館へ深夜、討ち入る。上杉からの刺客も倒し、ついに吉良の首をとる。こうして忠臣たちは主君の仇を討ち、切腹して果てた。       おわり
         1 吉良上野介






      
  ときは元禄時代である。
 戦国時代の終り、すなわち徳川家康が天下人となり、大阪夏の陣で豊臣秀頼をやぶって徳川の世をつくって、百年以上過ぎた時代……
 この時代の人々は、上杉謙信や武田信玄、織田信長、秀吉、家康、政宗などを、現在の日本人が明治維新の龍馬や新選組、勝海舟、西郷隆盛、桂小五郎、福沢諭吉などの英雄たちを見るような感覚で見ていたのかも知れない。
 徳川の五代将軍は綱吉である。独裁者だった。文をよく読んだ。
 元禄はことのほか華やかな時代だった。
 将軍も機嫌がいい。
  神田橋の大寺院と中野村のお犬小屋もできあがっていた。目下、巨大な伽藍も建設中だ。将軍は生き物すべてに憐れみをかけていた。絶対平和の世の中を千年ののちまで残すことを念願し、民から殺伐の気を完全になくさなければと信じていたという。
 特に、大好きな犬には保護を続け、野良犬も保護した。
 ……犬将軍とも嘲笑された。
「さがは将軍様、これで犬も人も幸せになったとみなよろこんでおります」
 近習が伝えるそんな報告に、綱吉は目を細めてきいていた。実力者大一等・御側御用人の柳沢保明(のちの吉保)は老中となり、いまや幕府の実力者ナンバー・ワンだった。
 なにより幕府にとって有り難いのは、多年の懸念だった財政難が見事に解決したことだ。金銀改鋳に踏み切って三十万両もの銭が入ってきた。
 しかし、間もなくインフレになった。
 綱吉は母・桂昌院に土産を贈った。
「上様、ありがたく頂きまする」母は、息子を褒め上げた。
「上様のおかげで、みな平和でごりまする。上様は家康公以来の天才的将軍様にござりまする」
「わははは。それはちと大袈裟でござる」
 綱吉は目を細めて笑った。
「しかし、余はまだまだ長生きしなければならぬ。まだ世継ぎが生まれぬ。なぜでしょうか?」
 母は「上様は生まれる前の前世に何か罪でもしたのではござりませぬでしょうか?」
「罪でござりまするか……?」
「上様は戌(犬)年生まれ……犬や生類を憐れんでみては世継ぎも生まれましょう」
 このような女の浅知恵で、世にいう『生類憐れみの令』は発せられた。
 野良犬を蹴っただけで死罪になったり、鶏を食べただけで鞭打ちになった庶民も多かった。まさに馬鹿げた法律である。
 さて、この小説では浅野内匠頭長矩に、吉良上野介が「フナ侍!」などと罵声をあびせかけることになっているが、それは吉良を悪人とするためだ。本物の吉良は領地の三河吉良町では名君といわれているほどの人物である。
 このひとの築いた黄金堤は今も残る立派なものだという。近隣の他領との境界問題や水争いに介入し、みごと解決している。しかも、将軍受けもよく、高い位ももらっている。     一方の、浅野内匠頭長矩が狂気じみた男で、すぐにキレて、刀で発作的に斬りつけたというのも正しくない。このひとは教養人で、書もたしなみ、和歌もつくっていた。
 それまでの諸藩の火消し役にも勤め、「火消し名人」とまでいわれて、江戸庶民にも人気があった。播州赤穂藩ではとりたてて目立った業績はないが、各藩がのきなみ赤字を抱える一方、質素倹約に勤めていたともいう。
 そんなふたりが殺人未遂事件をしかも殿中で犯したのだから、歴史家も不思議に思って、”吉良のいやがらせで…”となった訳だ。
 内匠頭にしても「先日の遺恨覚えたるか!」と叫んで理由も述べず切腹している。
 理由は上野介の自慢話にあるとみていい。
 吉良上野介は運のいい男だった。息子の綱憲を出羽(山形県)米沢十五万石の養子にすることに成功し、他の子供(娘三人)も上杉家に養子に出している。
 かれは出世したと思って自慢気だ。
 ところが大名たちは出世欲などないし、吉良が主張するような努力を評価してなかった。たった四千二百石の吉良が、少しばかりよい縁組を得ても羨ましいことでもなかった。
 だから、吉良の説教など馬鹿らしくてきく耳もたない。
 しかし、吉良は自慢気に説教をたれ、大名の中には「吉良を斬る!」と息巻くものまでいたという。内匠頭も案外そのひとりだったのではないか?
 またこの時代の日本は完全なる非武装国家だった。
 天然の要塞”海”にかこまれたこの国は、モンゴル軍襲来以来、幕末に黒船が来るまで乱らしき乱はなかった。一国平和主義で、長崎の出島以外では貿易さえしてない。
 のちに蝦夷(北海道)や流球(沖縄)を侵略して併合し、台湾や朝鮮も攻めるが、それは幕末近くにやったことだ。
 徳川幕府独裁政権の二百七十年で、日本人は完全に平和ボケしてしまった。
そんな中で、唯一、忠義を貫いた家臣が、赤穂浪士だった訳だ。
 忠臣蔵のような事件が三度も六度も起こっていたら、赤穂浪士たちもそれほど有名にはなっていなかったかも知れない。毎年師走にテレビや映画で放映されることもなかったろう。それだけ平和な世の中だった訳だ。
 だからこその幕末の異変は興味をそそるのだ。我々が勝海舟や西郷隆盛や新選組や高杉晋作や坂本龍馬に抱く感情は、よくあんな国になった世を変えてくれた……という憧れだと思う。
ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」「元禄忠臣蔵」「忠臣蔵」「四十七人の刺客」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。
  話しを戻す。

「大名には伊達を旗本には浅野にする」
 柳沢吉保はつげた。
 舞台は播州赤穂である。
 赤穂城では藩主・浅野内匠頭長矩が熱心に弓の稽古をしているところだった。
 なかなかの色男で、色白で線が細いが、それは若さのせいだろう。
 家老(といっても老人ではない)の大石内蔵助はそんな殿を目を細めてみている。
「いかがじゃ?」
「よろしうございまするな、殿」
「的中したのは二度目じゃ!」
 内匠頭は笑った。
 まだ、内蔵助は何ら業績らしき業績を残していない。家柄がよかったから家老までなれたが、のちに『昼行灯』と陰口を叩かれるほどの呑気で、温和な男だった。
 それだけの男だった。
 まさかこんな人物が、前代未聞の討ち入りを決行するとは誰も思わなかったであろう。元禄三年三月、浅野内匠頭長矩は江戸へ到着した。
 吉良邸は将軍のおひざもとの呉服町にあった。
 播州赤穂の家臣たちは吉良邸宅で土産を渡して、待っていた。それにしても遅い。
 さんざん待たされてから、吉良の家臣が、
「殿はご病気で会えませぬ。日を改めて…」
 などといわれる。
 吉良上野介は激昴していた。病気などではなかった。
「礼儀も知らぬ田舎侍めが! 思い知らせてくれるわ!」
 怒りの元は、伊達藩からの土産より、播州赤穂藩の土産の銭が少なかったからだ。
 そのようなことで吉良は怒っていた。
 肝っ玉のちいさな男である。
  内蔵助の息子は主税といった。まだ若い十代の青年である。
 そんな青年は、未通娘(処女)の娘と庭を散策していた。現代でいうならデートだ。
「主税さま……わらわたちは夫婦になるのでごさりますね」
 娘は頬を赤らめていった。
「そうじゃ。小滝……われらは夫婦ぞ」
 主税はたいそうな色男で細身である。結納の相手は小滝といった。まだ十四歳の小娘である。しかし、美貌の女子であり、それゆえ青年はたいそう満足していた。
 声も外見も可愛い。こんな娘が妻なら満足だ。
  播州赤穂の家臣・岡野金右平衛門は台所に駆け込んだ。
「今度の吉良さまとの食事は精進料理だそうだ」
 金右平衛門はぜいぜいと息をしながら告げた。よほど急いだらしい。
 膳田新左護門、前原仲助、奥田孫太夫は、
「もう三日も前から準備しているのだぞ! いまさらかえろといわれても…」
 と動揺した。
「これは吉良殿の嫌がらせか……?」
 さっそく殿に報告にいった。
「吉良殿の食事が精進料理?」
「はっ」
 家臣は平伏した。
「これは嫌がらせかと…」
 内匠頭は否定した。「吉良殿はそのようなひとではない。しかし、万一にそなえて料理をふたつ用意させよ」
「はっ」
 やがて吉良がきた。
 墨絵にまで文句をいった。「もっときらびやかな屏風にせぬか! この田舎侍め!」
 憤慨していた。
 まだ土産に不満を持っていたのだ。
 食事の時間となった。
”精進料理”が膳で運ばれてきた。
 内匠頭は微笑んで「ご要望の精進料理に御座りまする」といった。
 吉良上野介は、
「そなたはケチか?」などという。
「は?」
「伊達家の邸宅では肉や魚がふんだんに入った料理だったわ。それにくらべて浅野家は食事をケチってこんな料理をだす…」
「しかし、吉良殿は精進料理を、と……」
 吉良は腹を立てて白髪頭をかき、
「わしはしょうぶつ料理といったのじゃ! お主はケチか?! この田舎侍め!」
 と酷く激昴した。
 浅野内匠頭は頭を下げて、
「これは失礼つかまつりました。これへ!」といった。
 すぐに贅沢な魚や肉の料理が運ばれてくる。
 料理を二種類用意していて助かった訳だ。
 吉良は唖然とした。
 しかし「金遣いが荒いのう」とまた悪態をついた。

  その夜のことだった。
 片岡たち家臣がきて、叫ぶようにいった。
「伊達家が江戸屋敷の畳をすべて替えましてござる! 上様がわが藩邸にお立ち寄りとのうえ明日までに畳をすべて新しく替えるようにとのご命令でござりまする!」
 浅野内匠頭は苦虫を噛みしめたような顔になり、
「またしても吉良か!」と呟いた。
 それから「上様参内なら仕方ない! 江戸中の畳職人を集めて、江戸藩邸の畳を今夜中に全部替えよ!」と命じた。
 家臣は「無理です! 二百畳はありまする!」という。
「よけいなことはいうな! とにかく急げ、これは藩の威信がかかっておる!」
「……はっ!」
 さっそく家臣たちは畳屋たちをかきあつめた。
「急げ! 急げ!」
「朝までに畳をすべて新しいものに替えるのじゃ!」
「へい!」畳屋たちは突貫工事のように畳をつくってははめ、つくってははめた。藩邸は畳でいっぱいになる。休んでいる暇もない。
 畳屋の男たちは汗だくになりながら畳替えを行い続けた。
 朝になった。
 やっと畳がすべて新しく入れ替えられた。もう職人たちはくたくたでぐったりしている。 浅野内匠頭はやってきて、
「よくやってくれた! 余は感激した」と声をかけた。
 くたくたになりながらも男たちは平伏した。
「よい。ゆっくり休め」
 ……それにしても吉良め、よくもわしをこ馬鹿にしおって!
 浅野内匠頭は内心、怒りの炎で身が火傷せんばかりだった。
  この時期、浪人だった安兵衛が堀部弥兵衛の養子となって、堀部安兵衛と名乗るようになる。彼には病気の愛人がいた。安兵衛はせんべつに金二両を渡して去った。
 この堀部安兵衛は、討ち入り赤穂浪人たちの中で内蔵助よりも一番知られる侍となる。
「老人のたわごとなどに腹を立てても仕方のないことでごさる。吉良には腹を立てぬようにすればよい」播磨藩の藩主・嘉坂淡路守は、浅野内匠頭と酒を呑みながらいった。
「老人はすぐに怒る。始末のわるいことだ」
「吉良ごときの嫌がらせは無視することじゃ」
「さようにござりまするな」
 浅野内匠頭は内心を吐露した。
「耐えねば耐えねばと思うほど怒りが抑えきれなくなめのです」
「内匠頭殿、あなたに一大事あれば三百もの家臣が路頭に迷うことになりまするぞ。ここは忍耐が肝要でござる。老人などいずれ死ぬ身……もう少しの辛抱ですぞ」
「ありがたき……ご助言、いたみいりまする」
 内匠頭は頭をさげた。
 このように理解ある者もいる。
 余はひとりではない。余の肩に家臣三百と領民たちがいるのだ。
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」、陳舜臣著作、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作、童門冬二著作、池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰らず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「忠臣蔵」「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ」漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。




沙弥 -さやー緑川沙弥20XX年NHK朝ドラ原作<天才小説家緑川沙弥の生涯>5

2015年12月31日 07時46分20秒 | 日記










         緑川沙弥の苦悩




「つらい日々だった。なにをしてもダメで、モラトリアムじゃないか?なんて思った。しかし、その前に賞を一応取ってたので慰めにはなったな。あとはベストセラー出して印税生活だ!っても考えてた。とにかくそのためにはクオリティの高い作品を執筆しなくては!っても思ったな」
 だって。
 まぁ、楽観主義っていえばいいのかどうか…とにかく好ましいスタンスではある。
 はっきりいって、日本はマンガ天国で、活字離れが進んでいる。なんと、一か月に一冊も活字本を読まないという人間が圧倒的だという。だから、出版社もマンガとアイドルのヘア・ヌード以外は出版しないように努めているともきく。活字本は、ビック・ネームの作家やタレントなどの本以外はめったに売れないのだ。だから、執筆の仕事がまったく来ないのは、なにも沙弥のせいじゃない。
 思えば、日本の出版社は勘とアンケートだけで出版するかどうか決める。だから、勢い、絶対に売れるアイドルのヘア・ヌードやコストの安いマンガばかりが出版されるようになるのだ。これは少し情ないことでもある。20才くらいの馬鹿のアイドルのヘア・ヌードなどどうでもいいし、くだらんタレントの暴露本など読むだけ時間のムダというものなのに、それさえ平和ボケの日本人にはわからないのだろうか?
 とにかく、その間、沙弥は新作の執筆を続けたが、鳴かず飛ばず、だったようだ。

  春が近付き、ぽかぽかと暖かくなってくると、桜が満開に咲いて、とても幻想的な雰囲気にもなるしウットリとした気持ちにもなるものだ。
 そういえば、私が田舎から引っ越す前にはよく緑川家の飼い犬「ルーカス」を散歩に連れていったものだ。そして、私が去ると、その散歩の勤めはあの緑川沙弥の役目となっていたようだ。でも、あの強烈な性格の沙弥のことだから、またルーカスをいじめてるのかな?少しそこら辺が、私には心配だったのをおぼえている。いや、真剣にルーカスの身を心配した。
 のちに弟子・銀音寺さやかの話しによると、
「仕事の依頼のない日々は、緑川先生は、いやがる犬を連れて散歩するかワープロに向かってました。その合間に食事するか情報収集、って感じでした」
 と、いう。やはり、ルーカスは散歩にいやいや付き合わされていたようだ。
(ちなみに「ルーカス」はセントバーナードのオスで、真っ白で優しい性格の犬である) 散歩は早朝にいくことが多かったという。銀音寺さやかも沙弥に付き合って早起きしてやってきていた。早朝の湖はきらりと輝いてみえたという。きらきらと朝日が差込んで、春風に湖の波間が幾重にもできて、ハレーションをおこす。どこまでも続くような静寂、それはしんとした感傷にも似ていた。
 緑川沙弥は早朝に起き出して、自分の運動がてらルーカスを連れて散歩にいく。それは私が考えるにいいことだと思う。部屋でじっと寝ているよりは散歩でもしていた方がいいに決まっている。特に、沙弥のような病気がちの人間にとっては。
  ある日の朝の散歩でのことだ。
 雲ひとつなく晴れ上がり、湖も山々もきらきらと輝いても見えたという。
「こら、ルーカス!あんまり早く歩くな!」
 沙弥は皮ひもを持って歩きながら、言った。
「あの……先生」
「なんだ?ブスさやか」
「作家になるためにはどんなことをしたらいいのでしょうか?」
「なんだよ、突然に」
「お願いします。教えて下さい!」
 銀音寺さやかは歩きながら頭をさげた。それに対して、沙弥は、
「そうだな。努力しろ」
「……努力…ですか?」
「あぁ。後、作品イコール商品だから商品をいっぱいもて!で、その自分の作品のクオリティ(品質)を限界まで高めて……それで文学賞に郵送しろ」
「持ち込みは?」
「そりゃあダメだな。はっきり言って、日本の出版社は『持ち込みの作品』はまともに読まないんだ。結局、期待して郵送してもボツになるのがオチだぜ」
「そうですか…」
「それと…」沙弥は心臓が二回打ってから続けた。「ぜったいにコピーをとっておけよ。出版社が作品を返却しない…連絡もしない…まったくの無視ってことも多いからな」
「そんなものなのですか?…知りませんでした」
「まぁ、現実は厳しいってことだな。どっかの脳天気なアニメとかみたいに処女作がいきなり文学新人賞とかとって作家デビュー…大活躍!…なんていうのはフィクションで、いきなり作家になれる訳じゃないんだ。ぜったい賞に10回以上は落ちるって」
「……そうですか」
「だから……諦めるな。一度や十度くらい文学賞に落ちたってな。…私のいう努力っていうのはそういう意味さ」
 さやかと沙弥は湖の砂辺に腰をおろした。
 ルーカスはワンワンと吠えながら、遠くまで走っていってしまった。
「で………緑川先生は文学賞に何回くらい落ちたのですか?」
「そうだな。百回ぐらいだな」
 沙弥は愛嬌たっぷりにそういってアハハと笑った。もちろん百回は冗談だろう。でも、どうも五〇回くらいは落ちたようだ。それでも諦めなかったところが沙弥らしい。
 銀音寺さやかもつられて笑った。
「こら、ルーカス!もどってこい!」
「……先生は犬が大好きなんですね」ほんわりいった。
「まさか、大嫌いさ」
 沙弥は愛嬌たっぷりの横顔のまま、にやりと微笑んだ。それは、とてもほのぼのとした平和な一日の出来事だった。とにもかくにも、緑川沙弥と銀音寺さやかはこうしたほんわりとした感じの毎日を過ごしていたのであった。
「大嫌いだよ………犬なんて、さ」
 沙弥は平然とひとりごとをぼそぼそ言ってから、湖を見ていた。細い前髪がそよ風にさらさらとゆれていた。少し肌寒いためか赤くなった頬は血管が透けるようにみえ、瞳がきらきらと光を反射して輝いてみえた、という。
 それにしてもこの時、彼女はなにを思っていたのだろう?


「くだらん本だ!」
 沙弥は吐き捨てるように言った。それは、嫉妬ではなかったように私は思う。きっと、朱美里の本のことではなく、マンガ雑誌やヘア・ヌードの氾濫する日本という国自体を、「くだらん!」と言っていたのかも知れない。私は今、そう思う。
 とにかくも、こうして沙弥のライバル・朱美里は大活躍し、緑川沙弥は『鳴かず飛ばず』という結果になり、それがかなり続いた。『緑川沙弥は爪を研ぐ日々を…』と言えば聞えはいいが、単に、仕事の依頼もなく陰鬱に暮らしていた、というのが真実だった。
 これじゃあ、司馬仲達vs諸葛孔明、どころではない。アリとキリギリスだ。でも、結局、蟻が勝つんだけど、ね。


  話しは違うが、私の故郷米沢の湖はすべてを受け止めて、包み込み、許してくれるような感じがする。朝は朝日を浴びて波間がきらきらと輝いて、夕方にはオレンジ色というかセピア色というか、とにかく眩いばかりに美しく輝く。ほんわりとした様な、ふわふわとしたような湖を、私はよく思い出す。そして、むしょうに故郷に帰りたくなる。それはきっと、しんとした感傷というものだろう。あの頃の、沙弥がいた頃の故郷に帰りたい、そして、彼女の顔が見たい。なんともいいようのない感傷だ。きらきらとした思い、だ。

「なんだか嫌な天気になってきたわね」
 ペンション『ジェラ』に向かって歩いていた時、さやかが、雨でも降りだしそうなグレーの曇り空を見上げて、そう言った。
「あ。雨」
 やがてやっぱりポツンポツンと雨が降り出してきた。薄暗い灰色の雲の隙間から透明な雨のしずくがパラパラと落ちて、まわりの道路も何もかもを濡らしていく。銀音寺さやかは急いでペンションに駆け込むと、
「先生のお母さん、雨!」と、言った。先生のお母さん、こと、沙弥の母親の良子おばさんは「あら、本当!」と呑気にいうと、大慌てで洗濯物のシーツやらを取り込み始めた。それに、さやかも「私も手伝います」といって手伝った、という。
 …やがて雨はどんどん激しくなっていく。空も湖もかすみ、なにか湿ったような匂いだけが辺りにただよっていた。雨で髪の毛が濡れたので、さやかはタオルで拭きつつ、ロビーの椅子に腰掛けた。
「ありがとね、さやかちゃん。助かったわ」
 良子おばさんはそういってニコリとした。
「いいえ。あら?……緑川先生はどこですか?」
「沙弥?……あの子は確か、散歩に行ったようね。また羽黒神社におまいりにでもいったのかしらね」
「おまいり……ですか?」
「そう」
 おっとりとおばさんは言った。そして、「そういえば…沙弥、傘持っていかなかったわ」と続けた。「大変だ!それじゃあ、先生、濡れちゃいますね?」
「そうね、雨に濡れるのはあの娘の病気によくないわ」
 さやかは「じゃあ、私、先生の迎えにいきます!」と言った。そして、傘を二本持って、とにかく外へと駆け出した。
 雨はやがて強くなり、ザアザアと音をたてて降りつけてきた。薄暗い灰色の雲から大粒の雨が落ちてくる。それは何か、空が泣いている、ようにも思えたという。
 やがて、さやかが羽黒神社につくと、賽銭箱の前で祈っている緑川沙弥を発見した。彼女はひとりぼっちで寂しそうだった。
「先生!緑川先生!」
「あぁ……さやかか」声をかけると、沙弥がぼんやりと答えた。
 銀音寺さやかは「迎えにきました……先生」と言って手に持った傘を沙弥に渡した。これで濡れることもない。先生が風邪でも引いたら大変だ。でも、これでもう安心。さやかはそう思ったという。
「先生。……なにを一生懸命に祈ってらっしゃったんですか?」
「まぁ、いろいろさ」
「そうですか。あの……先生?」
「なんだ?」
「実は……悪い知らせがあります。あの……朱美里です」
「またその話しか?」沙弥は横顔のままイヤそうに言った。「前にきいたよ。本だろ?」「いえ!あの………朱美里が『茶川賞』をとったんです!」
「なんだって?!」仰天した。
「とったんです」さやかはオドオドと続けた。「さっきテレビでやってました。朱美里がブラウン管の中でマスコミのカメラのフラッシュを一身に浴びて……それで…その…」
 沙弥はしばらく黙っていたという。そして、しばらく経ってから、寂しく微笑し、「そうか…」と言った。続けて、「正直…やられたって感じではあるな」と呟いた。そして、しばらくゴホゴホと咳き込み始めた。
「先生……でも、『茶川賞』どころか先生ならノーヴェル文…先生?」
 銀音寺さやかは次の瞬間、驚愕してしまった。「先生!」…なぜなら、沙弥が苦しそうに咳こみながらゴボコボと喀血したからだ。
「緑川先生!……先生!どっどっ…どうしたんですか!?」
  さやかは強烈な光りを眉間に食らって、背筋に冷たい水をかけられたように驚愕した。
  しばらくして喀血も治まって、ハンカチで口元の血をふきながら、沙弥は雨空を見上げて、「なんでもないよ、さやか。気にすることはない。私には喀血なんて日常茶飯事だからな。私は平気さ。……とにかくうちのババァには言うなよ」
 と平然と言った。
「はぁ……平気ですか」
「あぁ」
「あの………」さやかはモジモジと困りながら尋ねた。「あの……緑川先生のように作家として執筆することには、本当に、意義があるのでしょうか?」
「あるよ!」
「すみません……でも、作家の活動というのは、いつもこんなものなのでしょうか?…つまり……他の、例えば、朱美里のような皆に支持される華々しいものと比べて、先生のような地味な活動と……どちらが本流なのでしょうか?」
「どちらも同じさ。いや……同じだなんて思うのは私だけかな」
「……同じとは?」
「さやか。……お前は”自分がかならず死ぬ”ということを知っているか?」
「は?」
「たいていの人間にとって”死”なんて架空の恐ろしい”お話し”だろうが……病気をわずらう私にとっては、それは、ほとんど日常的な……物理的現実なんだ」
「?……突然なんの話しですか?さっぱりわかりません?」
「作家になれる人間や賞をとれる人間が少ないのは……何も才能がないからじゃない。世界中の誰もが、たった四年や五年で諦めてしまうからなんだ。
 まぁ、無理もない。むくわれるかどうかもわからない価値のないことに自分の人生をムダに使う人間は少ないからな。だが、私は違う!
 ………というより、そういうむくわれるかどうかわからない戦いには慣れてるんだよ。なんたって、私は、もう何十年も病気と闘ってきたからな。いいか、さやか!作家になりたかったら、けして諦めるな!くじけるな!」
 沙弥はそう言って、ニヤリと微笑んだ。
「けして諦めるな!くじけるな!」
 それは、さやかよりも自分へのメッセージだったのか?それは、もう今となってはわからない。でも、多分、そうだったに違いない。私はそう思う。


  この頃、沙弥に「(お前の執筆作品は)ひとの読む水準に達してないんだよ!」といって彼女を罵倒したM田利一と「あなたのプランは純過ぎるんじゃあ?」といった毛稲東と、彼女の実兄で馬鹿の緑川和宏は、放蕩の限りを尽くしていたという。昼間から大酒し、若い女を抱き、贅沢し、ギャンブルに嵌まり、遊びまくったときいている。このどうしようもない三人は文字通り墜落していった。
 馬鹿にありがちな人生の罠に嵌まり、放蕩におぼれた。沙弥の実兄の緑川和宏は沙弥の夢を「それは甘えだろ?お前を大人だと認めていない」と一刀両断にした。和宏が実母にコンビニ経営がうまくいってなくて仙台から借金しにきた夜で、ある。沙弥は自分の病状どころか病名さえ知らずの無知の実兄に激怒した。そのまま玄関にあった灰皿を和宏に投げつけた。額に当たり、和宏は流血、沙弥は「お前はばばあに借金しにきたんだろう?どっちが子供だ!」と怒鳴った。和宏は「ちくしょう」と額を手で抑え逃げ去った。そのまま仙台に遁走したのだ。
「俺はなんでもできるんだ!俺中心に世界が回ってるんだ!」
 そう笑ったとき、この男たちは地獄へ向かって、すべりおちていった。



捜査幹部ら現場で献花=世田谷一家殺害15年ー東京。早く犯人自首しろ!

2015年12月30日 18時28分48秒 | 日記










捜査幹部ら献花 世田谷一家殺害
捜査幹部ら現場で献花=世田谷一家殺害15年―東京

(時事通信) 16:00

 宮沢みきおさん一家4人が殺害された現場で献花し、一礼する警視庁の中村格刑事部長=30日午前、東京都世田谷区
 宮沢みきおさん一家4人が殺害された現場で献花し、一礼する警視庁の中村格刑事部長=30日午前、東京都世田谷区
(共同通信)
 東京都世田谷区で会社員宮沢みきおさん=当時(44)=一家4人が殺害された事件から15年となった30日、警視庁の捜査幹部らが現場で献花し、事件解決を改めて誓った。

 献花式は事件当時のまま保存されている宮沢さん宅前で行われ、成城署捜査本部の捜査員ら計約30人が参列した。中村格刑事部長が献花した後、全員で黙とうをささげた。

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「殺されたと言われても、意味が分からなかった」

<世田谷一家殺害>にいなちゃん今も心の中に きょう15年
(毎日新聞) 12月29日 23:13
長男の布団に犯人の血液…世田谷一家殺害15年
(読売新聞) 12月29日 16:49
7:01

NHK朝ドラが1~3位を独占!1位『あさが来た』2位『マッサン』3位『まれ』”あさ来た”大ヒット!

2015年12月30日 18時25分10秒 | 日記





NHK朝ドラが1―3位 ドラマ視聴率
NHK朝ドラが1〜3位を独占 15年ドラマ視聴率

(日刊スポーツ) 16:15

「あさが来た」ヒロインの波瑠
「あさが来た」ヒロインの波瑠
(日刊スポーツ)
 今年放送されたテレビドラマの平均視聴率(ビデオリサーチ調べ、関東地区。12月30日現在)で、NHK連続テレビ小説(朝ドラ)が1、2、3位を独占していることが30日分かった。
 今年の1位は「あさが来た」で12月4日に27・2%を記録した。12月に入って25%超えを連発しており、新年からの記録更新も視野に入る。2位は「マッサン」で3月20日に25・0%を記録した。おかげでウイスキーも一躍ブームに。3位は「まれ」で22・7%を記録している。

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紅白でNMBは「365日の紙飛行機」を歌う

朝ドラ視聴者のさや姉「冗談抜きで、毎回涙が出る」
(スポニチアネックス) 12月29日 16:39
「あさが来た」第13週平均は24・1%!13週連続大台超え
(スポニチアネックス) 12月28日 10:03

いきもの水野 今年は紅白警備員から制止!サポートメンバーと誤認

2015年12月30日 18時21分57秒 | 日記









いきもの水野 紅白で警備員制止
いきもの水野 今年は紅白警備員から制止!サポートメンバーと誤認

(スポニチアネックス) 16:27

「いきものがかり」(左から水野良樹、吉岡聖恵、山下穂尊)
「いきものがかり」(左から水野良樹、吉岡聖恵、山下穂尊)
(スポニチアネックス)
 大みそかの「第66回NHK紅白歌合戦」(後7・15)に8回目の出場をする3人組バンド「いきものがかり」のリーダー・水野良樹(33)が30日、自身のツイッターを更新。この日、東京・渋谷のNHKホールで行われたリハーサルに参加したが、入り口でサポートメンバーに間違えられ、警備員に止められたことを明らかにした。

 「安心してください、止められましたよ」と今年の流行語を用いて報告。「今回は本番衣装でギターを抱えての『すみません、サポートメンバーの方はパスをみせてください』でした。過去に密着カメラが同行していたのに止められる、自動改札型の機械なのに止められる…などの経験を持つ自分としては想定の範囲内です」と自虐的につづった。

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紅白リハーサル会見の話題

【紅白】金爆・鬼龍院「もう歌は緊張しない」理由
(Smartザテレビジョン) 08:01
【紅白】高橋みなみ、卒業延期も「イリュージョンに失敗したら」
(スポーツ報知) 12月29日 18:11

【戦争は二度と繰り返してはならない】戦争世代の戦場での死を無駄にせず戦争をしない事!

2015年12月30日 15時57分24秒 | 日記










NHKドラマ『マッサン』を観ている。


戦中世代が赤紙(召集令状)をもらってどんな気持ちで戦場に行ったか?

どんな気持ちで戦死し、抑留され、あるいは戦場で戦ったか?

彼らの死を無駄にしない為にも


二度と戦争を起こさない事だ。


永久的平和こそ彼らの死を無駄にしない国策だ。


正義の戦争等ない!臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2016年へ!臥竜  緑川鷲羽2016ReBORN上杉謙信

米沢燃ゆ 上杉鷹山公<為せば成る大河ドラマ篇>鷹山公ブログ連載小説2

2015年12月30日 08時42分15秒 | 日記












「……どちら様でしたか?」
 ふいに藁科ら四人に声をかける女がいた。…それが直丸の生母・春だった。(注・歴史的にはこの時期に鷹山公の実母・春は病死しているが、話の流れの為に存命していることにしている)
 確かに、春は美人であった。背も低くて、華奢であったが、三十五歳の着物姿は魅力的なものであった。
「あ、私は藁科松伯と申します。こちらが江戸家老の竹俣殿、こちらは莅戸殿に…木村殿です」
「はぁ」春はそういい、続けて「どちらの国の方です? 江戸の方ではないように思いますけど」
「わかりますか」竹俣は笑って「拙者たちは出羽米沢藩十五万石の上杉家家臣のものです。今日は、藩主・重定公の名代として参りました」
 と丁寧にいった。そして、一行は頭を深々と下げた。
「まぁ!」春は思い出して、「養子の話しですね?直丸の……。こんな外ではお寒いでしょうから、中にお入りくださいまし」と恐縮して一行を屋敷に招いた。

  秋月家江戸邸宅は質素そのものだった。
 …春は、恐縮しながら「申し訳ござりません。今、殿は外出しておりまして…」と言った。…竹俣や藁科らが座敷に案内されて座ると、「……粗末な食べ物ですが。御腹の足しによろしかったらどうぞ」
 と、そばがゆが運ばれた。
「いや! 奥方様、われらなどに気をつかわなくても…」と竹俣。莅戸は食べて「おいしいです」といった。「馬鹿者。……少しは遠慮せぬか」竹俣当綱は彼の耳元で囁くように注意した。秋月の奥方様(春)は笑った。すると藁科と木村も笑った。
「米沢は今どうですの?」                
 春は竹俣に尋ねた。すると竹俣は「政のことでござろうか?」と逆質問した。
「いいえ」春は首をふって笑顔になり、
「気候や風土のことをききましたの」
 といった。
「……それなら、今、米沢は雪景色です。毎日、家臣たちは雪かきに追われて…くたびっちゃくたびっちゃ(疲れた疲れた)といってます」
 竹俣は笑った。
「どうして直丸を上杉家の養子にすることになったのですか? 他にも若君はいっぱいおりますでしょうに」春が言った。すると藁科が、
「いえ。直丸殿ではなければダメなのです。拙者はよく巷で直丸殿の噂を耳にしました」「……どのような?」
「秋月家の次男坊は大変賢く、心優しい方で、学問や剣術に熱心だとか…」
「直丸が? ですか?」
「はい」藁科はにこりと頷いて、続けて「直丸殿のような傑出した若君が…どうしても米沢では必要なのです。ご存じの通り米沢藩の財政は火の車、殿には姫しかなく、この危機を乗り越えるためには傑出した名君が必要なのです」といった。
「…直丸が、名君に?まだ八歳の童子ですのに?」
 春は少し訝し気な顔になった。
「歳は関係ありませんよ、奥方様」莅戸がいうと、続けて藁科松伯が「直丸殿はきっと米沢の名君におなりになります。拙者にはわかります。直丸殿は臥竜なのです」
「……臥竜? まぁ」春はびっくりした。そんな時、直丸の父親・秋月佐渡守種美が屋敷に戻ってきた。春は「少し失礼します。ゆっくりしていてくださいまし」というと、座敷から出て夫を出迎えた。そして「…殿。いかがでしたか?」と夫に尋ねた。
「だめだ。どの商人も金を貸してはくれぬ。日向高鍋藩もここまでか……。疲れた」
 秋月佐渡守は、深く溜め息をつくと、座敷へと向かった。
 そして、座敷に座る「みすぼらしい服を着た四人の侍」を発見し、後退りして障子の陰に隠れてから、「…なんの客だ?ずいぶんガラが悪そうではないか」と春にボソボソと尋ねた。春は「出羽米沢十五万石の家臣の方のようです」と答えた。
「あぁ。そういえば養子の話しか…」
 種美は頷いた。春は「出羽米沢は十五万石。殿の日向高鍋は三万石……養子なんていい話しですこと」と微笑んだ。
「う~む」種美はそう唸ってから、「……とにかく話しをきこう」といい座敷内に入った。「わしは日向高鍋藩藩主、秋月佐渡守種美である。そちらは…?」
 藁科らは平伏してから、自己紹介をした。そして、「直丸殿に是非、拝謁したい次第で参上つかまつった」といった。
「よかろう」秋月佐渡守は満足そうに頷いて「直丸をこっちへ」と家臣に命じた。
 まもなく、八歳の直丸がやってきた。
「…秋月直丸にございます。以後お見知りおきを」
 彼は正座して頭を下げて竹俣らに言葉をかけた。その賢さ、礼儀正しさ、謙虚さは、藁科たちを喜ばせるのに十分だった。……これなら名君になれる。

  竹俣や藁科らは、秋月佐渡守とその次男坊の直丸とわきあいあいと話しをした。時間は刻々と過ぎていく。そろそろ夕方で辺りが暗くなってきたので、藁科が立ち上がり、
「今日は遅いので…これで。さぁ、みんな帰りますぞ」と言った。
「いや、せめて夕食だけでも食べていかれよ」
 佐渡守がとめたが、四人は、せっかくですが、と断った。
 そして、藁科は袋に詰めていた分厚い本を取りだして「これは儒教の書。これは『大学』こちらは孔子の書です。どうぞ」と直丸に手渡した。
 直丸は微笑んで礼をいった。
 藁科らは、黙々と秋月家屋敷を後にした。
 しかし、希望を見つけだした。あの若君は必ず名君になる。米沢を救ってくださる…四人はそう考えていた。…あの若君が米沢の希望だ。
 ………直丸は、さっそく本をめくり、熱心ににこにこ微笑みながら読み始めた。
 父・種美に尋ねられると、
「父上のような名君に、それがしもなりとうございます」
 と、のちの鷹山となる直丸は夢を語ったという。この当時、のちの鷹山公となる少年は「源義経の伝記「義経記」」「織田信長の伝記「信長公記」」「上杉謙信の伝記「越後軍記」」「天才軍師・諸葛孔明の活躍する「三国志記」」に熱中していた。
 なかでも上杉謙信公は養子先の藩祖でもあり治憲は憧れた。「上杉の義」とゆうのに憧れて、よくふざけて「上杉の義なりや!」「これぞ上杉の義なるぞ!」と歌舞伎役者のようにいったという。
 諸葛亮孔明は劉備への「忠義なところ」「軍略に優れたところ」がお気に入りであったという。
 私は諸葛亮孔明のように(米沢・上杉藩に)三顧の礼をもって迎えられるのかなあと無邪気にほほ笑んだりもしている。だが、そう思うと背筋がしゃきんと伸びもする。皆の期待を裏切る訳にはいかない!
 ちなみにのちに上杉鷹山として知られることになる秋月(上杉)直丸(治憲)は、宝暦元年7月20日(1751年9月9日)に誕生している。名を直松、直丸、勝興、治憲、鷹山……と変えた。が、後世では『上杉鷹山』として知られている。



 鷹山公の実母・春は病床の身となる。ごほごほと咳をすることが多くなる。やがて、喀血して本人も驚いたことだろう。
 春はまだ幼き息子・直丸(のちの鷹山公)に「秋になると木々が紅葉で真っ赤や黄色に色づくのは何故か知っていますか?直丸」と聞く。
「わかりません」正直な答えであった。
「木々の紅葉は御屋形である木を守る為、真っ赤や黄色くなってまで御屋形の木を守る為に身代わりになって散っていくのです。お前もそういう君主にならねばなりませぬよ。夢夢「自分は誰よりも偉い」等と天狗になってはなりませぬよ」
「はい!わたくしは母上に誓いまする、きっと立派な殿さまに、紅葉のような絢爛な殿さまになりまする!」
 若き鷹山公(直丸公・治憲公)の志であった。
 のちの鷹山公の実母・春が、三十五歳の花のような生涯を病死という形で果てたのは、この頃である。
 のちの上杉鷹山となる直丸は、幼少期から学問と武道を学んでいる。秋月家も上杉家も文武両道方針で質素倹約の家系である。
 直丸は細井平洲(ほそい・へいしゅう)先生や米沢藩奥医師・藁科松伯らに学び学殖を得た。ここで直丸は猛勉強する訳だが、直丸にはある癖があった。
 彼は何かに集中し過ぎると先生や誰かが声を掛けても耳から聞こえない程に熱中することだ。熱中するものがあると一直線に行動する為に成功を遂げる事も多いが、どこか「過ぎる」ところがあって、間違えたと分かるまで一直線に行動し、自分の正義を曲げない。
 そうしてある創作や政策をひらめかせる。まあ、今でいうならアイデアマンであり、アインシュタインやエジソンのような偉人な訳である。この時期、上杉家・米沢藩主・重定の子供が相次いで病死したり夭折(ようせつ・幼くして死亡)している。
 のちに上杉治憲(のちの鷹山)の正室となる幸姫(よしひめ)が誕生している。
 ちなみにこの頃の竹俣当綱の存在意義は大きい。やがて失脚してしまう運命の竹俣当綱だが、先祖は上杉二十五将のひとりでもある。
 かなり恵まれた環境で育った当綱だが、実母が若くして死んでしまう。当綱の父親は若い娘を後妻に迎え、祝言の席となった。当綱は酒豪でぐいぐい飲んでいた。しかし、同僚で親友の莅戸善政は下戸である。
「まあ、莅戸よ一杯くらいどうじゃ?」
「いいえ。私は下戸ゆえ」
「そうか。だが、舐めるくらいはよかろう?」
「はあ」莅戸は杯に酒を注がれ、舐めるだけ酒を飲んだ。たちまち顔が真っ赤になる。「竹俣殿、わしはやはり……酒は……苦手じゃ」  
 そのまま莅戸はぐったりとなった。病気ではない。舐めた酒に酔った訳だ(笑)
「莅戸は酒を舐めただけで、泥酔してぶっ斃れおった」
 一同は笑った。
 この頃、米沢藩士改革派として台頭してきたのが、この莅戸九郎兵衛(くろうべい)善政と竹俣美作(みまさか)当綱、木村丈八(じょうはち)高広、藁科松伯貞祐(さだすけ)、佐藤文四郎秀周(ひでちか)ら、である。
 宝暦五年(1755年)米沢藩は大飢饉に襲われた。
 多くの餓死者を結果として出してしまう。が、前述の米沢藩士改革派の活躍と藩の「御救い米」等により最低限の死者の数で済んだのである。
 鷹山公の学問の栄達は細井平洲先生と藁科松伯にかかっているといっても言い過ぎではなかった。
 しかし、藁科の寿命は「風前の灯」であった。
 ここ最近咳き込む事が多くなり、医者として自分の病状は「風邪の羅看」と思って江戸の名医に診てもらった。そして、咳き込み喀血して、自分でも驚いたという。
「労咳(ろうがい・肺結核)ですな」いわずもがな、である。
 当時は肺結核は不治の病である。しかも、余命半年だという。
 そうか。わたしは直丸殿、治憲殿の改革を…米沢の藩政改革の一翼ともならず、死んでしまうのか。
 それは絶望ではなかった。改革に自分が参加できないであろう悔しさ、であった。

「次期藩主の治憲殿(鷹山公)は養子ゆえ、粗相もあろうし、いかに人物とはいえ、ご改革などと申してもまだ若年の若君。わしも合力する覚悟である」
愚かな藩主として吉良上野介の息子・上杉三郎綱憲と並ぶほどの無能・前藩主・上杉重定は、まだ自分が愚か者である、という自覚がなかった。
改革を実行する時、一番邪魔になるのが旧体制の干渉と無能者の関与と既得権益である。
竹俣当綱や莅戸善政らは訝しがった。
「大検令とはどれほど実施するのか?」
「十年以上でございます」
「十年?…このわしもか?次期藩主は小国の生まれゆえ、謙信公以来の上杉の格式や家格がわかるまい。わしでよければ治憲殿にいくらでも教えてもよい」
何をいってやがる、当綱や莅戸らは心の中で舌打ちした。
自分が無能とも考えられないのか?この上杉重定という馬鹿殿は。釈迦に説法みたいなものだろうが!なんとも激昴するような気分になった。
参考文献『漆の実のみのる国(上巻)』藤沢周平著作、文藝春秋出版引用169~171ページ


         公の教育と立志



               
  上杉鷹山公は今でも米沢の英雄である。
 もちろん、上杉家の祖、藩祖・上杉謙信公も英雄ではあるが、彼は米沢に生前来たことがない。米沢に藩を開いたのは、その甥の上杉景勝である。(謙信の遺骨も米沢に奉られている) その意味で、米沢といえば「上杉の城下町」であり、米沢といえば鷹山公、鷹山公といえば米沢……ともいえよう。山形県の米沢市は「米沢牛」でも有名だが、ここではあえて触れない。鯉の甘煮、米沢織物……これらも鷹山公の改革のたまものだが後述する。
 よく無知なひとは「山形県」ときくと、すぐに「ド田舎」とか「田んぼに茅葺き屋根の木造家屋」「後進県」などとイメージする。たぶん「おしん」の影響だろうが、そんなに嘲笑されるようなド田舎ではない。山口県や青森県、高知県などが田舎なのと同じように山形県も「ふつうの田舎」なだけである。
のちの鷹山こと上杉治憲は偉大な改革を実行していった。だが、残念ながらというべきか彼は米沢生まれではない。治憲は日向(宮崎県)高鍋藩主(三万石)秋月佐渡守種美の次男として宝暦元年(1751年)七月二十日、江戸麻布一本松の邸に生まれている。高鍋は宮崎県の中部の人口二万人くらいの町である。つまり、治憲は、その高鍋藩(三万石)から米沢藩(十五万石)への養子である。
 血筋は争えない。
 鷹山公の家系をみてみると、公だけが偉大な指導者になったのではないことがわかる。けして、上杉治憲(のちの鷹山)は『鳶が鷹を生んだ』などといったことではけしてない。しかし、この拙著では公の家系については詳しくは触れないでおこうと思う。
 大事なのは、いかにして上杉鷹山のような志やヴィジョンを持ったリーダーが誕生したのか? ということであろう。けして、家柄や家格…ではない。そうしたことだけが重要視されるのであれば馬鹿の二世タレントや歌舞伎役者の息子などが必ず優れている…ということになってしまう。そんなことはあり得ない!
 それどころかそうした連中はたんなる「七光り」であり、無能なのが多い。そういった連中とは鷹山公は確実に違うのだ。
 では、鷹山公の教育はどのようにおこなわれていったのだろうか?
 昔から『三つ子の魂、百まで』…などといわれているくらいで、幼少期の教育は重要なものである。秋月家ではどのような教育をしてきたのかはわからない。しかし、学問尊重の家柄であったといわれているから、鷹山はそうとうの教育を受けてきたのだろう。
 米沢藩第八代目、上杉重定の養子になったのは、直丸(のちの鷹山)が九才の時である。当時、重定公は四十才になっていたが、長女の弥姫が二才で亡くなり、次女の幸姫は病弱で、後継者の男の子はいなかった。もし男の子が生まれなければ、そして重定にもしものことがあれば、今度こそ米沢藩はとりつぶしである。その為、側近らや重定はじめ全員が「養子をもらおう」ということになった。そこで白羽の矢がたったのが秋月家の次男ぼうの直丸(のちの鷹山)であった。
 上杉重定はのちにこう言っている。
「わしは能にばかり夢中になって贅沢三昧だった。米沢藩のために何ひとついいことをしなかった。しかし、案外、わしがこの米沢を救ったのかも知れない。あの治憲殿を養子に迎えたことで…」
話しを戻す。
 米沢藩の藩校・興譲館に出勤して藁科は家学を論じた。次第に松伯は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。莅戸らにとって兵学指南役で米沢藩士からも一目置かれているという師匠・藁科松伯の存在は誇らしいものであったらしい。松伯は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」若き松伯は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで松伯は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら松伯はきいた。
「大町にお住まいの与力某様でござります」
 松伯は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると松伯は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、松伯は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い藁科松伯でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  松伯は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 松伯の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、松伯は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。松伯は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。松伯は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  松伯は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により松伯の名声は世に知られるようになっていく。松伯はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない。だから労咳になどに罹ったのだ」



  明和四年(1764年)十二月、米沢藩江戸屋敷…。
 その日は11月というのに暖かく、また天気のいい日よりだった。太陽は遠くのほうにあったが、きらきらとした朝日が屋敷や庭に差し込んでいた。
 どこまでも透明なような雲が浮かんでいて、いい天気だった。しんと輝くような晴天である。             
 そんな中、上杉直丸(のちの鷹山)は細井平洲先生のもとに歩いていった。
 細井平洲は江戸でもなうてのエリートで、教育者で、教育のスペシャリストだった。そして、難しい学問を身につけていてもそれを気取らず、それどころか難しいことをわかり易くひとに教えるような人物だった。平洲は当時、四十代。不精髭を生やしていたが細身で、学者肌のインテリで、がっちりとした首や肩が印象的な人物であった。どこかクールな印象を受けるが、頭がいいだけでなく性格もよかった。
 人柄もよく、ちょうどよい中年で、とても優しいひとだったという。
 それゆえ、上杉重定は細井平洲先生をたいへん気に入り、養子である直丸の教育係に抜擢したのだった。
 上杉直丸(のちの鷹山)は細井平洲先生の待つ部屋に足を踏み入れた。そして、畳に手をつき頭を下げて、
「……上杉直丸でございます」
 とハッキリとした口調で言った。
「細井平洲と申します。藩主・重定公から直丸殿の教育をまかされました」と言った。そして続けて、
「…直丸殿はやがて米沢十五万石の藩主となられるお方です。習うのは王公の学です。学問は世の中の役に立たなければなんにもなりません。幕府の守る朱子学も学問のための学問になっています。賢き藩主は民の父母……という諺があります。どういう意味か「大学」にしたがって勉強してみましょう」と優しい口調で言った。
「はい」
 直丸は答えた。そして、台にのった本をひろげて、
「民の望むことを望み、民とともに生きること。賢き藩主は民の父母……」と読み始めた。それは上杉直丸(のちの鷹山)の立志の始まりでもあった。
 あるとき、直丸は木登りから落ちて怪我をしたことがある、そのときの右肘の傷は晩年まで痕になって残る程であった。
 だが、命が危ない程の怪我ではなかった。藁科松伯のほうが棺桶に右足が一歩入っている状態である。なのに藁科松伯は、病気をおして正装してまで江戸藩邸に出向き、直丸を労わっている。
「われのことなどよい。それより藁科松伯先生の病のほうがよほど深刻では?」
 直丸が訊くのももっともである。
 藁科松伯は「拙者如きは只の風邪にござる」と嘘をいった。直丸は叱った。真実が耳に入っていたからだ。
「藁科松伯先生、無理をなさるな。養生なされよ」
 すると藁科松伯は涙を流し、「かたじけありません、直丸公……拙者如きが……そのような温かいお言葉…」
 ふたりははらはらと涙を流し、号泣した。
 そして藁科松伯は志を公に託した。こののち直丸から上杉治憲と名を変えた鷹山公が、米沢藩に初入部する頃、藁科松伯の寿命は尽きている。
 ちなみに佐藤文四朗には好きな女子がこの頃より出来た。
 奥女中で米沢藩江戸屋敷の春猪(はるい・仮名・童門冬二先生の小説では“みすず”という名前)という若い女性である。だが、一目ぼれの片思いであった。
 何度か話すうちにお互い惹かれあうようになるのだ。だが、それはもう少し時間が必要、であった。


翌明和二年(一七六五年)、当綱は国家老に昇格して米沢へ戻った。
そして次の年、直丸は元服して治憲(はるのり)と名乗る。さらに翌四年四月、藩主重定は家督を譲って引退し、上杉治憲が藩主となる。時に十七歳であった。
なお、上杉家では藩祖である謙信を初代としているが、米沢藩主としては次の景勝(かげかつ・上杉謙信の姉・仙桃院からの養子)が最初になるので、こらから数えて治憲は九代目藩主(上杉家では十代目)ということになる。
爽やかな風が頬を撫でていく春の江戸桜田の上杉藩邸で、治憲は空を見上げて、志を確かにするのだった。松柏や美作から上杉家米沢藩の窮状は聞かされていた。そこで改革をするのは自分しかいないではないか!と思ったのだ。家督を継いだ以上は、何が何でも再建しなければならない。今日こそがその第一歩の、戦国時代で言えば初陣である。
若い藩主は重い使命感に武者震いを覚えた。その興奮を鎮めるように机に向かうと彼は自ら筆をとり、墨痕鮮やかに「民の父母」と大書した。
そして、その下に小さく「受け次て国の つかさの身となれば 忘るまじきは」と三行に分けて書き上げた。君主たる者は民の父母にならなければならない、これは『大学』にも説かれている為政者の基本姿勢である。
慶応元年(一八六五年)米沢市の林泉寺(りんせんじ・米沢市南西部・直江兼続の菩提寺)の学寮から出火したことがある。このとき隣の春日神社にも類焼の危機が迫った。急を知った住職が貴重品を運び出そうとしたが、その中から治憲の人知れず奉納していた誓詩が発見された。
そこにも自ら「民の父母」となることを第一と自覚し、文武の道に励むこと、礼儀正しくすること、賞罰に不公平のないことなど、自分自身への戒めが五か条にわたって記され、末尾には署名したうえに血判が捺されていた。
もし、林泉寺に火事がなければ、この誓詞は発見されなかった。治憲は翌九月、やはり国元の白子神社に藩政の再建の宣言した誓詞を奉納しているが、これも明治二十四年(一八九一年)になって初めて発見されている。この虚心誠実な治憲の前にこれからも呆れるほどの艱難辛苦が襲いかかってくる。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用32~40ページ>

♪松葉を腰にさし
 ゆずり葉を手にもち
 お正月がゆさゆさ
 ござった、ござった……
子供たちの歌声は元気である。米沢にも明和九年(一七七二年)の新春が訪れた。
古来米沢には「正月お手掛け」というしきたりがある。年始に客が来ると主人は三方(さんぽう)に松葉、昆布、串柿、榧(かや)の実、勝栗、蜜柑、馬尾藻(ほんだわら)などを飾り、客に「お手をお掛け候え」と勧める。客は三方に手を掛け、そこで双方が年始の挨拶を交わす(『米沢市史』)。
米沢藩恒例の鉄砲上覧も一月十六日に挙行され、この年は諸事順調に滑り出すかと思われた。ところが二月十九日、江戸で大火が発生した。江戸の上杉家藩邸屋敷も全焼しているが、後述しているのであえてここではこう述べるにとどめよう。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用68~70ページ>

  当時の米沢藩は精神的にも財政的にも行き詰まっていた。藩の台所はまさに火の車であり、滅亡寸前のあわれな状態だった。
 上杉謙信時代は、天下の大大名であった。越後はもとより、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内までもが勢力圏であった。八〇万とも九〇万石ともよばれる大大名だったのだ。
 八〇万とも九〇万石ともよばれる領地を得たのは、ひとえに上杉謙信の卓越した軍術や軍事戦略の天才のたまものだった。彼がいなければ、上杉の躍進は絶対になかったであろう。…上杉謙信は本名というか前の名前は長尾景虎という。上杉家の初代、上杉謙信こと長尾景虎は越後の小豪族・長尾家に生まれ、越後を統一、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内にまで勢力圏を広げた人物だ。
 だが、上杉謙信は戦国時代でも特殊な人物でもあった。
 まず「不犯の名将」といわれる通り、生涯独身を通し、子を儲けることもなかった。一族親類の数が絶対的な力となる時代に、あえて子を成さなかったとすれば「特異な変人」といわざるえない。
 また、いささか時代錯誤の大義を重んじ、楽しむが如く四隣の諸大名と戦をし、敵の武田信玄に「塩」をおくったりもした。「義将」でもある。損得勘定では動かず、利害にとらわれず、大義を重んじ、室町時代の風習を重んじた。
 上杉家の躍進があったのも、ひとえにこの風変わりな天才ひとりのおかげだったといっても過言ではない。
 しかし、やがて事態は一変する。
 一五七〇年頃になると織田信長なる天才があらわれ、越中まで進出してきたのである。ここに至って、上杉謙信は何度か上洛を試みる。結果は、織田の圧倒的な兵力と数に押され、ジリジリと追い詰められていっただけだった。戦闘においては謙信の天才的な用兵によって優勢だったが、やがて信長の圧倒的な兵力に追い詰められていった。
 そんな時、一五七八年三月、天才・上杉謙信が脳溢血で、遺書も残す間もなく死んだ。それで上杉家は大パニックになった。なんせ後継者がまったく決まってなかったからだ。 上杉の二代目の候補はふたりいた。
 ひとりは関東の大国・北条家からの謙信の養子、三郎景虎であり、もうひとりが謙信の姉の子、景勝である。謙信の死後、当然のように「御館(おたて)の乱」とよばれる相続争いの戦が繰り広げられる。景勝にとってはむずかしい戦だった。なんといっても景虎には北条という後ろ盾がある。また、ぐずぐすしていると織田に上杉勢力圏を乗っ取られる危険もあった。 ぐずぐずしてられない。
 しかし、景勝はなんとか戦に勝つ。まず、先代からの宿敵、武田勝頼と同盟を結び、計略をもって景虎を追い落とした。武田勝頼が、北条の勢力が越後までおよぶのを嫌がっていた心理をたくみに利用した訳だ。武田勝頼方からは同盟の証として、武田信玄の娘(勝頼の妹)・菊姫が上杉景勝に輿入れした。
 だが、「御館の乱」という内ゲバで上杉軍は確実に弱くなった。しかし、奇跡がおこる。織田信長がテロルによって暗殺されたのだ。これで少し、上杉は救われた。しかしながら、歴史通の方ならご存知の通り同盟を結んだ武田家は滅亡してしまう。
 それからの羽柴秀吉と明智光秀との僅か十三日の山崎合戦にはさすがに出る幕はなかったが、なんとか「勝馬」にのって、秀吉に臣従するようになる。
 だが、問題はそのあとである。
 豊臣秀吉の死で事態がまた一変したのだ。
 秀吉の死後、石田三成率いる(豊臣)西軍と徳川家康率いる東軍により関ケ原の戦いが勃発。…上杉は義理を重んじて、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。上杉は勢力圏から見れば、徳川家康率いる東軍に加わった方が有利なハズである。仙台の伊達も山形の最上も越後の堀も、みんな徳川方だった。しかし、上杉景勝は、「徳川家康のおこないは大義に反する」という理由だけで、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。
 しかし、上杉景勝の思惑に反して、徳川との戦いはなかった。関ケ原役で上杉のとった姿勢は受け身が多かった。賢臣直江兼続は西軍と通じていたが、上杉全体としては西軍に荷担していた訳ではなかったようだ。
 ただし、家康には独力で対抗し、家康が五万九千の会津討伐軍をひきいて攻めてくると、上杉は領地白河の南方革籠原に必殺の陣を敷いて待ち受けたという。
 だが、家康が石田三成の挙兵を聞いて小山から引き返したので、景勝は追撃を主張する賢臣直江兼続以下の諸将を押さえて会津に帰った。のちに名分に固執して歴史的な好機を逸したというわれる場面だ。しかし、ほかの最上攻めも、伊達攻めも、もっぱら向こうから挑発してきたので出兵しただけで、受け身であったことはいがめない。
 しかるに、結果は、上杉とは無縁の関ケ原で決まってしまう。その間、景勝はもっぱら最上義光を攻め、奥羽・越後に勢力を拡大……しかし、関ケ原役で西軍がやぶれ、上杉は翌年慶長六年、米沢三十万石に格下げとなってしまう。このとき景勝が、普代の家臣六千人を手放さずに米沢に移ったのは、戦国大名として当然の処置と言える。
 西側が敗れたとの報を受け、上杉ではもう一度の家康との決戦…との気概がみなぎった。しかし、伏見で外交交渉をすすめていた千坂景親から、徳川との和平の見込みあり、との報告が届いたので、景勝は各戦場から若松城内に諸将を呼び戻して、和平を評議させた。 そして和平したのである。景勝は家臣大勢をひきつれ、米沢へ移った。これが、米沢藩の苦難の始まりである。
  当時の米沢は人口6217人にすぎない小さな町であり、そこに六千人もの家臣をひきつれて転封となった訳であるのだから、その混乱ぶりはひどかった。住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。また、それから上杉家の後継者の子供も次々と世を去り、途絶え、米沢三十万石からさらに半分の十五万石まで減らされてしまった。
 しかし、上杉謙信公以来の六千人の家臣はそのままだったから、経費がかさみ、米沢藩の台所はたちまち火の車となったのである。
  人口六千人の町に、同じくらいの数の家臣をひきつれての「引っ越し」だから、その混雑ぶりは相当のものだったろう。しかも、その引っ越しは慶長六年八月末頃から九月十日までの短い期間で、家康の重臣で和睦交渉のキーパーソンだった本多正長の家臣二名を監視役としておこなわれた。
 混乱する訳である。
 米沢を治めていた直江兼続は、自分はいったん城外に仮屋敷を建て、そこに移って米沢城に上杉景勝をむかいいれることにした。が、他の家臣は、いったん収公した米沢の侍町や町人町にそれぞれ宿を割り当てることにした。その混乱ぶりはひどかった。住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。
 そのような暮らしは長く続くことになる。
 引っ越しが終りになった頃は、秋もたけなわである。もうすぐ冬ともいえた。米沢は山に囲まれた盆地で、積雪も多く、大変に寒いところだ。上杉の家臣にとっては長く辛い冬になったことだろう。
 十一月末に景勝が米沢城に移ってきた頃には、二ノ丸を構築し、さらに慶長九年には四方に鉄砲隊を配置した。それでもなお完璧ではなく、この城に広間、台所などが設置されたのは時代が元和になってからのことである。
 上杉景勝はどんな思いで、米沢に来たのだろうか?
 やはり最初は「………島流しにあった」と思ったのかも知れない。
 米沢藩が正規の体制を整えるまでも、紆余曲折があった。決して楽だった訳ではない。家臣の中には、困窮に耐えかねて米沢から逃げ出す者も大勢いた。それにたいして藩は郷村にたいして「逃亡する武士を捕らえたものには褒美をやる」というお触れを出さざる得なかった。また、「質素倹約」の令も続々と出したが、焼け石に水、だった。
 しかし当時は、士農工商とわず生活はもともと質素そのものだった。中流家臣だとしても家は藁葺き屋根の掘立て小屋であり、そんなに贅沢なものではない。ただ、仕用人を抱えていたので台所だけは広かった。次第に床張りにすることになったが、それまでは地面に藁を敷いて眠っていたのだという。また、中流家臣だとしても、食べ物は粥がおもで、正月も煮干しや小魚だけだった。
 武家にしてこのありさまだから、農工商の生活水準はわかろうというものだ。

  上杉家の困窮ぶりはすでに述べた。しかし、上杉とはそれだけでなく、子宝や子供運にも恵まれていなかった。大切な跡継ぎであるハズの子も病気などで次々亡くなり、ついには米沢十五万石まで領地を減らされてしまったのだ。
 また、有名なのが毒殺さわぎである。
 有名な「忠臣蔵」の悪役、吉良上野介義央に、である。この人物は殿中で浅野内匠頭に悪態をつき、刀傷騒動で傷を負い、数年後に、忠臣たち四十七人の仇討ち……というより暴力テロルで暗殺された人物だ。その人物に、上杉家の藩主は毒殺された……ともいわれている。
 寛文四年五月一日、米沢藩主・上杉播磨守綱勝は江戸城登城のおり、鍛治橋にある吉良上野介義央の邸宅によった。
 綱勝の妹三姫が吉良上野介義央の夫人となっていて、義央は綱勝の義弟にあたる。その日、綱勝は吉良邸によりお茶を喫した後、桜田屋敷に帰った。問題はその後で、夜半からひどい腹痛におそわれ、何度も何度も吐瀉し、お抱えの医師が手をつくしたものの、七日卯ノ刻に死亡した。
 あまりにも早急な死に、一部からは毒殺説もささやかれたが、それより上杉にとって一大事だったのは、綱勝に子がなかったということだ。
 当時の幕法では、嫡子のない藩は「お取り潰し」である。
 さぁ、上杉藩は大パニックになった。
 しかし、その制度も慶安四年に改められて、嫡子のいない大名が死のまぎわに養子なりの後継者をきめれば、「お取り潰し」は免れるようになった。が、二十七才の上杉綱勝にはむろん末期養子の準備もなかった。兄弟もすべて早くに亡くなっていた。
 景勝から三代目、藩祖・謙信から四代目にしての大ピンチ……である。この危機にたいして、家臣の狼狽は激しかった。しかし、なんとか延命策を考えつく。
 まず、
 米沢藩は会津藩主・保科正之を頼り、吉良上野介義央の長子で、綱勝の甥の三郎(齢は二才)をなんとか奔走して養子につける事にした。…これで、米沢十五万石に減らされたが、なんとか米沢藩は延命した。
 だが、
 吉良三郎改め上杉綱憲を養子として向かえ、藩主としたのは大失敗だった。もともとこの人物は放蕩ざんまいの「なまけもの」で、無能で頭も弱く、贅沢生活の限りを尽くすようになった。城を贅沢に改築したり、豪華な食事をたらふく食べ、女遊びにうつつを抜かし……まったくの無能人だったのだ。旧ソビエトでいうなら「ブレジネフ」といったところか?
 もともと質素倹約・文武両道の上杉家とはあいまみれない性格の放蕩人……。これには上杉家臣たちも唖然として、落胆するしかなかった。
 それから、会津時代から比べて領土が八分の一まで減ったというのに、家臣の数は同じだったから、財政赤字も大変なものだった。
 もともと家臣が多過ぎてこまっていた米沢藩としては、減石を理由として思い切って家臣を削減(リストラ)して藩の減量を計るべきだという考えは当然あったろう。すでに藩が防衛力としての武士家臣を雇う時代ではないからだ。
 四十六万石の福岡藩に匹敵する多すぎる家臣は、藩の負担以外のなにものでもなかったから、家臣をリストラしても米沢藩が世間の糾弾を受けることにはならないはずだった。 だが、今度の騒動で、藩の恩人的役割を果たした保科正之は、家臣召放ちに反対した。 米沢藩はその意見をききいれ、棒禄半減の措置で切り抜けようとして悲惨な状況になるのだが、それでも家中に支給すべき知行(米や玄米など)の総計は十三万三千石となり、残りを藩運営の経費、藩主家の用度金にあてると藩財政はにわかに困窮した。
 だが、形のうえでは救世主となった上杉喜平次(三郎)あらため綱憲は贅沢するばかりで、何の手もうたない。綱憲は、ただの遊び好きの政治にうとい「馬鹿」であった。
  こうして数十年……上杉家・米沢藩は、長く苦しい「冬の時代」を迎えることになる。借金、金欠、飢饉…………まさに悲惨だった。
  明和三年(1767年)、直丸という名から治憲と名を改めた十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は米沢藩主となった。が、彼を待っていたのは、膨大な赤字だった。
 当時の米沢藩の赤字を現代風にしてみると、
  収入 6万5000両…………130億円
  借金 20万両    …………400億円
 という具合になる。
 売り上げと借金が同じくらいだと倒産。しかし、米沢藩は借金が3倍。………存在しているほうが不思議だった。米沢藩では農民2 .85人で家臣ひとりを養っていた。が、隣の庄内藩では9人にひとり……だから赤字は当然だった。
 しかし、米沢藩では誰も改革をしようという人間は現れなかった。しかし、そんな中、ひとりのリーダーが出現する。十七才の上杉治憲(のちの鷹山)そのひとである。
「改革をはじめないかぎり、この米沢藩は終りだ。……改革を始めよう! 米沢を生き返らせよう!」
 十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は志を抱くのだった。






男版阿部定小番一騎被告「俺の嫁と浮気しやがって!」不倫男性弁護士局部切り取り!続報

2015年12月29日 14時21分57秒 | 日記
週刊朝日







局部切断事件 ドロドロ不倫裁判 被害弁護士の痛々しい現在

(週刊朝日 2016年1月1-8日号掲載参照) 2015年12月25日(金)配信








猟奇的な事件、裁判の行方は…
 男性弁護士、A氏(42)の局部を枝切りバサミで切断し、トイレに流すという猟奇的な事件の裁判の行方が今、注目されている。

 傷害罪などに問われているのは元プロボクサーで慶応大学法科大学院生だった小番(こつがい)一騎被告(25)。

 検察側は、A弁護士と小番被告の妻Bさんが不倫関係にあったと指摘。11月末に開かれた第2回公判で、男女関係を克明に記した冒頭陳述を読み上げた。

 Bさんは専属事務員としてA弁護士の事務所で働いていたが、2人が初めて性的関係を持ったのは14年12月末。以来、ラブホテルなどで6回にわたって関係を重ね、セーラー服のコスプレでカラオケに興じることもあった。

 小番被告とけんかしたBさんが「A氏にセクハラされた」「2回だけ関係を持った」などと嘘を言ったことも事件の要因になった。

 A弁護士が関係を強要したと考えた小番被告は15年8月、Bさんを伴い事務所に向かう。パンチを浴びせてA弁護士を昏倒させ、犯行に及んだ。局部が根元から1センチ程度しか残っていないためA弁護士は小便器で排尿できず、血尿が出ていたという。 だが、気丈にも事件後数日で職場復帰した。知人の法曹関係者が語る。

「事件の日は木曜日でしたが、週明けには勤務されていた。前とまったく変わらない様子で仕事をしているようです。事務所の弁護士たちも事件については触れないようにしている。Aさんは企業法務が専門で、破産や企業再生などの大きな仕事を手掛けてきた。

沙弥 -さやー緑川沙弥20XX年NHK朝ドラ原作<天才小説家緑川沙弥の生涯>4

2015年12月29日 08時36分24秒 | 日記








         小説家志望




  今、ぞぐぞくと「作家志望」の日本人が増えているという。
 カルチャー・スクールで、とか、新人賞狙いで、とか、とにかく増えてるという。一説には1万人は志望者がいるらしい。もちろん全員が全員、品質の高いものを書く訳ではな            
いから1万人の下剋上…ってことでもあるまい。
 当時の沙弥もそのひとりだった。
 なぜ、作家に憧れるひとが多いのだろう?直木賞作家の高橋義夫氏によれば、勘違いからだろう、って言ってた。作家になれば楽ができる、とか、原稿とぺんだけでいいから手軽、とか、出版してすぐにベストセラーで金持ちになれる、とか思ってるんじゃないですか?それで作家志望者が増えてるんでしょう。って言ってた。
 こういうひとたちは(自分もなのであまり大声ではいえないが)日本の出版不況がわかってないのかも知れない。今や日本人のほとんどは一ケ月に一冊の活字本も読まない、って現実がわかってないのだ。
 日本の出版社の編集員は、上司から、「作家に出版しようとか間違ってもいうな」と釘をさされているという。出版して売れる本は、日本ではマンガかゲーム戦略本かヘア・ヌード、アイドルの写真集、と相場が決まっている。活字本は、有名作家や有名タレントのものでもないかぎり売れない。「くよくよするな」とかいう本もあるが、あれは外人有名作家だから売れるのであって、内容はD・カーネギーの「道は開ける」のパクリ。ただの、パクリ、だ。「ハリー・ポッター」なんてのは宮崎駿のアニメと指輪物語のパクリだ。
 まぁ、出版されて売れただけマシだけどね。

  沙弥ももちろん、その「作家志望」の人物のひとりだった。彼女は、なにかというと執筆していたな。内容は知らないが、だいたい分かる。それらを執筆して、推敲を重ね、コピーをとって郵送する。でも、当時は沙弥の作品は認められることはなかった。「あなたは一生一般向きのちゃんとした小説は書けませんぞ」などといわれたり、「ひとの読む水準に達してないんだよ」などと罵倒されたりしたという。作品を出版社に送っても、ボールのようにポンポンと(出版を断って)原稿が戻されることがしばしばあったという。それならいいんだが、何の返答もしない作品の返却もしない”まったくの無視”ってのも多かったという。
「物書きになる、などという野心はいますぐ捨てて、裁縫や料理でも習ったらよい」      
 と、戒める人間までいた。
 まぁ、最初は誰でもこんなものである。
 いきなりベストセラー作家とか青木賞、ノーヴェル…などというのはある訳がない。沙弥にしたってそれくらいわかっていただろう。
 G・B・Sやモンゴメリやオールコットもそうだった。

  高校時代の沙弥も、やっぱり病気がちだった。執筆は順調とはいえ、出版や文学賞もダメで、陰鬱な日々が続いた。こうして長編小説が五編できた。この頃には例の「ゴルバチョフxゴルバチョフ」や「小説・上杉鷹山」「あゆみ」「北朝鮮よさらば」「西郷隆盛」「勝海舟」「アンネ・フランク」………などの作品も完成していたが、誰も審美眼がなくてその凄さがわからなかった。私も実は、知らなかった。だって沙弥は原稿を読ませてくれないのだから、わかるハズもない。
 沙弥は、その原稿をあらゆる出版社に送ったが全部突き返された。次作を是非拝見したいという出版社もあるにはあったが、どの出版社も頑として受け付けない。
 ちなみに沙弥の作品は、文章に問題があった訳ではない。思想に問題があったのである。
 そんなこんなで心労が溜まり病状が悪化して、沙弥はその年の9月に入院してしまった。 私が沙弥が倒れたってきいたのは、近くの湖をみていた時のことだった。
「ありさお姉ちゃーん!大変ーっ!」
 っていって、まゆちゃんが駆けてきて大声でいった。「……どうしたの?」
「はあ…はあ…お姉ちゃんが倒れたの!大変!」
「……沙弥が?!」
 私は焦り捲ってきいた。
 …沙弥が倒れた………沙弥が……
 私はあぁと空を見上げた。
 沙弥はすぐに入院してしまった。私は真っ赤な顔をしてうんうんうなりながら、救急車で運ばれる沙弥をただ見送った。それはほんとうに緊迫した瞬間だった。…確かに、沙弥はこれまでも何度も入院はしていた。しかし、倒れたのはこれが初めてだった。……そんなこともあってものすごく切ない気持ちになった。
「だいじょうぶかなぁ?お姉ちゃん」
 病院へ向かうタクシーの中で、まゆちゃんが寂しく呟いた。
「だいじょうぶよ、まゆちゃん。沙弥が入院するなんて……いままでだっていっぱいあったじゃない」私は明るく装って、言った。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「本当?」
「えぇ、そう。心配ないって…」
 私は言った。でもそれはまゆちゃんに言ったのではなかった。自分に言いきかせたのだ。 …沙弥はだいしょうぶだ……って、自分に。
「そうね」
 まゆちゃんはゆっくりと頷いた。その瞳はどこか遠くをみているような感じで、心細く見えた。私はそんなまゆちゃんの胸の中にあるものが痛いほどわかった。
 きっと、このまま沙弥が遠くにいってしまいそうな不安にかられたんだろう。私もつらかったけど、「だいじょうぶよ」って無理に笑顔をつくり、
「きっとまた元気になって、ガラスとか割って暴れるわよ」
 と冗談をいった。
「そうね。きっと……」
 私たちは青空の下で、確信したように頷いていた。
  やがて夕暮れとなり、やっと面会が許された。
 辺りはセピア色だった。そのベットに沙弥が寝ていた。それはかけがえのないほど可愛くって、しかし、今にでもすうっといなくなってしまいそうな表情だった。沙弥はすやすやと眠っていた。まるで白雪姫のように。
 医者の先生は「だいじょうぶ」といった。大丈夫なのだ!沙弥は今回はだいじょうぶ、なんだか私は、胸に熱いものが込み上げてきて、涙がでそうになった。
 沙弥、沙弥、愛してるよ、だからずっと死なないで、少なくとも私より先に死なないで。私はそう祈った。
「………お姉ちゃん…」
 まゆちゃんは眠っている沙弥の手をにぎり、呟いた。
 私はすっと側により、まゆちゃんの肩をそっと抱いてあげた。とにかく安心した。医者もだいじょうぶっていってくれてるし、沙弥だってすぐによくなるに違いない。
 私はニコリとした。

  それからしばらくして、私は沙弥の見舞いにいった。
 すると沙弥は起きていて、ベットの机の原稿に向かっていた。またまた執筆だ。
「……沙弥、だいじょうぶなの?そんなに気合い入れて」
「あぁ、ありさか。だいじょうぶさ。書かなきゃ作家になれねぇだろ?」
「…そりゃあ……そうだけど」
 私は笑った。そして、
「どんなの書いてるの?」と、尋ねた。
「内緒……まあ、伝記物だよ」
「伝記物?」
「あぁ」
「誰の?読ませてよ…」
「ダメ!」沙弥は拒否した。出版が決まり、本になってから読ませるっていうのだ。
 いつになることやら、ってその時、私はそう思った。
  私こと黒野ありさの父がエリート銀行員だったころは今や昔。
 なにを思ったか、ありさパパは「脱サラだ!食堂始めるぞ」なんて言い出して、それで本当に銀行を辞めてしまった。それが私が高校生の頃…。そして父は、東京から地元に帰ってきて「修行」の日々となった。
 コックというか食堂の料理人の修行だ。「料理」の。
 この高校時代、私はほんとうに忙しかった。なんせ東京の大学受けるって決めてたからだ。とにかく有名大学や難関大学は避けて、私でも入れる大学を、と思った。私は天才ではないし、頭もあまりよくない。沙弥のほうが頭はいい。(でも、沙弥は大学にいかないっていってた)とにかく、私は大学ならどこでもいいって思ってた。そう思いながら受験勉強をコツコツしていた。
 父は東京で食堂を始めるって言ってたので、私も母も、”東京に一緒に行こう”って決めてた。
  その頃、沙弥は?というと、趣味に没頭していた。
 まず、パソコン。今ならウインドウズやヤフー、エクセル、ワードとかインターネット、Eメール、なんていろいろあるんだろうけど、沙弥のやっていた頃は、ベーシックだのマシン語やコボル…などなどで、彼女はつまんないゲームを一生懸命作っていたっけ。
 それから作詞・作曲。
 シーケンサやリズムマシンなど内臓のオールインワン・シンセサイザを購入(もちろんローン)して意味不明の曲を作曲し、詩をいれてた。これはちょうど沙弥が、TM NETWORKの小室サウンドにインスピレーションを受けて「音楽」にインスパーンしたもので、あまりきいたことないから曲の品質まではわからない。でも、プロに編曲してもらえばイケるかもしれない。あとは沙弥ではないボーカルだろう。(沙弥は音痴なのだ)
 それから絵。
 これは沙弥が「宮崎駿アニメ」に影響を受けてやっていたもので、油絵やデザイン画、自分の作品のキャラクター・デザインなど、いろいろ描いていたっけ。油絵の方はルノワールに影響を受けたという。
 そして執筆。
 はっきりいって沙弥は、前述の3分野よりも作家として才があるように思う。作家だけにしとけばいいのに、音楽やら絵やらパソコン、と欲張る必要はないのだ。
”二兎追うものは一兎も得ず”なんてね。
 すると沙弥は、
 ”成せば成る、成さねば成らぬ何事も、成らぬはひとの成さぬなりけり”…と上杉鷹山の格言を言ってニヤリとした。
「…成せば成る?」
「あぁ」
 沙弥は強く言った。で、私は相手にしないことにした。



  沙弥がモラトリアム的なことをやっている間、私こと黒野ありさは受験勉強に励んでいた。沙弥の文学作品はボツだらけ、絵や音楽、脚本にいたってはゴミ扱いだった。
 それでも彼女は諦めなかった。
”なせば成る、なさねば成らぬ何事も、成らぬはひとのなさぬなりけり”、である。
 私も諦めなかった。
 受験勉強中、何度も沙弥が邪魔しにきて、「サクラチル」だのと何度も言ったり、くだらないおしゃべりで邪魔したりしてきた。でも、私は相手にしなかった。
 そして、遂に私はやりとげた。沙弥のイヤガラセにもめげず成し遂げた。そう、大学に合格したのだ。そして、東京の大学にいくため、と、父親が東京で『黒野食堂』をつくるので一緒に上京するっていうので、皆に「さよなら」を言った。
 私の母は、本当に長い間、父が単身赴任で東京にいるときから、家族皆で暮らす日をまっていた。ほんとうに長い間まっていたのだ。
 今は亡き私のお婆ちゃん(父の母)の看病をしながら、ひたすら待っていた。
 そしてやっと家族三人で暮らせる日がきたのだ。
 母はそんなに強い性格のひとではない。しかし、さしてつらそうでもなく見えた。それはそう明るくふるまっていたせいもあろう。とにかく母は明るくふるまい、強くふるまっていた。それは、こんなの何でもないわ、っていう強がりだったのかも知れない。
 愚痴にしても笑っていうので、きいてる良子おばさんも愚痴にきこえなかったに違いない。母はそんなひとだ。
 とにかく母と私の二人で父を待って暮らした日々は、私たちの多くのものを見せてくれた。
 うららかな春が近付き、気温もなんとなくポカポカと暖かくなってきて、いざここを離れるとなるといろいろ考えてしまった。窓から見える山々も、澄んだ空も湖も、なにもかもが明るく私の胸にしみわたるような気がした。そして、私がいなくなったら沙弥はどうするんだろう?、って思った。
 田舎暮らしの最後の頃、私は緑川家に飼われていたルーカスという名前の犬をよく散歩に連れていくようになった。ルーカスは白くて大きいセントバーナードのオスだ。
 散歩は早朝にいくことが多かった。早朝の湖はきらりと輝いて見えた。きらきらと朝日が差し込んで、春風で湖面に幾重もの小波がたち、ハレーションをおこす。どこまでも続くような静寂、それはしんとした光景だった。
 いつ頃からか、沙弥も散歩についてくるようになった。それは好ましいことだと私は思った。やはり部屋でじっとしているよりは散歩でもしたほうがいいにきまってる。特に、沙弥のような病気がちな人間にとっては。

「ねえ、湖みにいこうよ……沙弥」
 と私はこの土地を離れる前に彼女に言った。初春の荒れた湖を近くでみてなんになるのか、だけどどうしても私はみてみたかったのだ。
「あ?…しょうがねぇな」
 沙弥はしぶしぶ言った。
 初春の荒れた湖。
 つめたい風とあたたかい風がまざったような春風がふいて、やわらかく頬にあたった。だが、それはやはりつめたい。山の頂きにはまだ残雪が残っている。さすがにこんな光景をみようなんて物好きもいないらしく、人影はなかった。だけど不思議なもので、湖を見ていると、寒かろうが暑かろうが、独りだろうと大勢だろうと、そんなことは忘れてしまう。何か別の世界に引き込まれたような、それでいてはかないような湖の光景…。
 ずうっとずうっと見てても飽きないだろう。だけど今まではあまりにも身近にありすぎて、波の音や森の匂いや切ないほどの風景も、なにも改めて思うことはなかった。
 私はこの土地を離れることも、この湖を離れることもないだろう、と今までは思っていた。だけどそれは違った・これからはこの土地や仲良しの友達とも別れてしまわなければならないのだ。私が生まれ育った場所から突然に、私の存在が消えてしまう。いろいろななつかしい思い出とともに…。そんな現実を受けとめるには、あまりにも私は若すぎて、とても心細かった。
「沙弥、私、本当はここを離れたくない!ずうっとずうっと、皆と一緒に湖を眺めながら暮らしたい」と私は思わず泣きそうになりながら言った。
「バーカ」
 と沙弥は寂しげな横顔のままいった。長い黒髪が冷たい風に揺れていた。あんまり寒いので白い肌は少し赤くほてり小刻みに震えていて、それでも瞳だけはきらきら輝いていた。…それから、しばらくの静寂をやぶるように沙弥はフト、平然と言った。
「バーカだね。何かを得るときにはなにかを失うってのは当たり前のことじゃないか。それがわかんないなんて、ありさってガキだねぇ」
「でも……」
「胸をときめかす思い出だとかなつかしい光景だとかなんてさぁ……東京いったらすぐに忘れちまうさ。人生には出会いもあれば別れもある。それが普通じゃないか?」
「う、うん」
「まぁ、心配すんなよ」沙弥はいやりと笑い、続けて「あたしだってすぐに東京にいくさ。作家になって文壇デビューしたらさぁ。……まぁ、『作家先生』ってとこだな。そうしたら上京って訳。そんときは身分が違うからな、ありさとあたしは」
「どんな風に…?」
「作家先生と凡人の学生……ってね」
「なにいってんだか」
 ふたりは笑った。
「あっちついたら手紙出すわ」と、私は思い出したように明るく言った。
「あぁ」彼女は横顔のまま答えた。
「小説……どんなの書いてるの?」
「秘密」
「教えてよ、ねぇ」
「うるさいんだよ、ブス。とにかく……風邪ひいちまいそうだから帰ろうよ」
 沙弥は悪態をつきながら言った。
 でも、それはなんとなくはかないような愛しいような、そんな風にも見えた。

  それから私は近所のひとに別れをいったり、同級生だった女の子たちに別れをいったり、高校時代にちょっと付き合っていた男の子に「さよなら」をいったり、いろいろした。そんな律義なところは母親ゆずりだな、と私はひとりで思った。沙弥なら誰にもなにもいわずに出ていっちゃうんだろうけど、私にはそんなことはできない。これは性格の違いだ。 母も母で、近所のひとみんなに挨拶してまわっていた。それはきらきらと輝くようなやさして思い出でもある。そしてそれらを思い出す時、私は胸がきゅんとしめつけれられるような感傷を感じるのだ。
  ここで、沙弥にきいた入院中の面白いエピソードを紹介したい。
 まず、入院中、病棟で遭遇した変態男・T橋和則……
 この男、知恵遅れでつるっ禿げで四十二歳で、とにかくおかしいという。つるっつるの頭をタオルで磨き、よだれをたらしながら「ウォーター! ウォーター!」とフルチンで(やだぁ!)踊りながら近付いてくる。
 処女で、男と寝たこともない沙弥だったが、気味が悪くて戦慄した。
 そして、おもいっきり蹴りをくらわしたという。
 和則は顔面に蹴りを受けて気絶したという。
 そして、デブスのA達みゆき……
 このお笑いタレントの山田花子のような娘はレズで、沙弥に何度も抱きついては「好きよ」などといったという。S藤記子というクレイジーなオバさんは沙弥に、
「あなた皇太子妃?」などときいて「握手して! 握手して!」などという。
 オペラ男・O島三平は病棟で「マリア マリア マリア…」とずっと狂って歌っていたという。沙弥は嫌になって「早く退院させてくれ」と頼む。
 すると主治医の竹田聡先生は「きみの病状が改善してからね」という。
 地獄のような日々だった……とのちに沙弥は回想してたっけ。           


【創造できてナンボ】ひやかしや悪口だけで何も創作出来ぬなら”凡庸”天才とは創造力!!

2015年12月28日 15時59分36秒 | 日記









ゼロから1を生むのが芸術家であり神髄である。


例えば編集者とかアレンジャとか

小説は書けないが編集が上手い、

作詩作曲は出来ないがアレンジを編集するのがうまいとか、


僕はそういうひとを何万人も見てきた。

ゼロから生みだせないなら”凡庸”ということ。


創造できてナンボだ!TK宇多田しかり!臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2016年へ!臥竜  緑川鷲羽2016ReBORN上杉謙信

米沢燃ゆ 上杉鷹山公<為せば成る大河ドラマ篇>鷹山公ブログ連載小説1

2015年12月28日 04時52分46秒 | 日記










米沢藩の中興の祖・不世出の名君
 「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」
師弟の軍旗
上杉鷹山公と尊師・細井平洲先生




                   ~為せば成る!~
                   200年前の行政改革
                  total-produced&wrtten&PRESENTED BY
                    MIDORIKAWA washu
                    緑川 鷲羽
       あらすじ

 上杉治憲(のちの鷹山)が日向(宮崎県)高鍋藩から出羽米沢藩(山形県米沢市)15万石の養子となり藩主となったのは明和四年、17才の頃である。その頃、米沢藩の台所は火の車であった。上杉謙信からの膨大な6千人もの家臣たちを雇い、借金で首がまわらない状況だった。まさに破産寸前だったのである。そのため、家臣たちからは藩を幕府に返上しようという考えまであがった。つまり、現代風にいえば「自主廃業」であった。
 そこで、上杉治憲は決心する。「改革を始めよう!」
 まず治憲の改革は質素倹約から始まった。着るものは木綿、一汁一菜…。しかし、それらは焼け石に水だった。江戸で改革をしてから2年後、治憲は米沢へと初入部する。しかし、そこで待っていたのは家臣の反発と死んだように希望のない領民たちの姿だった。
 しかし、治憲(のちの鷹山)は諦めなかった。なんとかヒット商品を考案し、学問を奨励し、さまざまな改革案を打ち出す。しだいに彼の改革に共鳴してくれる藩士たちもあらわれだす。だが、そうしたことを嫌うものたちもいた。芋川、須田、千坂ら七家である。これらの重役は治憲に対してクーデターをくわだてる。
 のちにゆう『七家騒動』である。
 上杉治憲(のちの鷹山)の改革はここでおわってしまうのか?
 鷹山、一世一代の危機!彼は危機をどう乗り越えるのか?しかし、彼は危機を乗りきり、やがて米沢藩の財政も立て直る。それは彼が亡くなって一年後のことであった。

  われわれはこの小説でなにを学ぶか?
 米沢藩の改革に生涯をかけた鷹山のいき様を描く!渾身の作品の完全版をお読み下さい。貧窮のどん底にあえぐ米沢藩…鷹山と家臣たちは藩政立て直しに渾身する。これは無私に殉じたひとたちの、きらきらとしたうつくしい物語である。
『上杉の義』とは?Ⓒマサ村田さん
2014-05-08 00:17:40
テーマ:戦国
今回は、大河ドラマなどで『義の武将』として知られる上杉謙信の『義』について考えてみました。
一般には、荒れ狂う戦国時代の嵐の中で、上杉謙信は見返りを求めないで助けを求める軍勢の為に戦を助成したり、将軍家を敬い幕府より官位官職を得て大義名分の下に行動を行った武将として知られています。
これをして、上杉家は『義』という指針を持って家中をまとめたと言うのが有名です。
さてここで、義とは何ぞや?という事を考えてみます。
儒教の教えには、五徳の精神(仁・義・礼・智・信)というのがあります。
仁は、人を思いやる心。
義は、私欲にとらわれず成すべき事に当たる心。(利による行動と対比される)
礼は、仁の人を思いやる心を体現した行い。
智は、知識を持つこと。(学問)
信は、信頼の心。自らは言明を違えずに約束を守り、他者には偽りを言わず誠実である。
という意味ですが、この中の『義』という、私利私欲で動かずに大きな志を軸に行動する。
これを上杉謙信が実行して来たとさせれていて、それがこの上杉家の家風と言われています。
これは謙信が一度、家臣達の裏切りに合い、世を捨てて仏門に身を捧げようとした事があり、慌てた重臣達の引き留めにより、自身を毘沙門天の化身であるとして、この『義の誠心』と言われる行動を取り出した事に由来します。
この後、武田信玄に信濃を追われてきた村上軍に、奪還後の領土安堵を約束して共に武田軍に対して軍を出します。
そして、将軍から関東官僚という位を拝して、その大義名分を基に関東へ兵を出しました。
さらに謙信は、海に面した領土を持たぬ武田領に対して、当時の隣国であった北条、今川が武田領に対して塩止めを行った際には、武田領への塩の交易を禁止しませんでした。
この事は後に『敵に塩を送る』ということわざになり、現代に受け継がれています。
ライバルの信玄は亡くなる際に、こういった上杉謙信の行動原理を理解していた為に『自らの死後は謙信を頼れ』と語った逸話も残されています。
その後も、将軍足利義昭からの命により、信長討伐に向けて立ち上がろうとしています。
この上杉謙信は、類まれな軍才を持っていて、戦の強さはずば抜けていました。
また、自国の民の為に金銀山を開発したり交易などにも力を入れさせて良政を敷き、人心をまとめ上げています。
謙信の死後に跡目を相続した景勝もこういった謙信の行動規範にならい、秀吉死後の家康による僭王を認めませんでした。
これにより、関ヶ原の前哨戦となる上杉討伐が起こる訳ですが、討伐軍が遠征途中で上方より三成挙兵の知らせを受けて、軍を取って返す事になった際には、三成軍との挟み撃ちを試みるチャンスにも拘わらず、後方より逃げる敵を打つのは上杉の義に反すると言って景勝は追撃を中止します。
戦国末期のこういった話しが、義の上杉というイメージを私達に伝え残しています。
この事から上杉の『義』というのは、私欲を捨てて五徳の誠心を体現するという事だと考えられている訳です。
ただし、これらの上杉の『義』という語り方は実は、江戸時代になってから称されるようになっています。
折しも、家康により天下が治められて戦の時代が終わると、戦国期の荒くれた武士達の考え方を改めさせなければならなくなり、その意識改革を推し進める為に儒教の誠心という考え方が導入されて行きました。
その導入過程において、謙信、景勝らの上杉勢の行ってきた行動規範を『義』と呼ぶことで、江戸期における一つの精神的支柱としてもてはやされた可能性が高いのです。
ですから、当時において上杉謙信や景勝の口から、上杉の『義』という言葉が発せられた訳ではありません。
むろん、数々の謙信の取った行動に対しての、リスペクトも含めた家風というのは確かにあったようですが、義を大義名分にして行動していたというのは少し怪しいのです。
上杉謙信の行動してきた事を検証してみると、先に書いた多くの遠征も、ある種の農繁期が終わった農民の出稼ぎ行動や、現地にて行われた奴隷狩りといった行動が側面にはあったようです。
また、関東官僚という関東攻めの口実(大義名文)を得た事で、再三に関東攻めを繰り返していましたが、手強い北条に対して農繁期には兵を引かなければならず、結果として攻め切ることが出来なかったというのが現状のようです。
さらに塩止めの件も、他の大名が塩の流通を止めているのならば、武田への塩の販売は商業ベースでは実入りの良い商売という側面もありました。
また、謙信死後の跡目相続である御館の乱等は、とても『義』を受け継ぐ者達の争いとはいえません。
この争いに勝った景勝が、その後に徳川遠征軍の追撃を『義』により取り止めたという逸話に対しては、その事実すら怪しいようです。
こうして考えると私には、上杉の『義』というのは、謙信が幾度となく家臣達に裏切られて一度は仏門に入ろうとした経緯から、裏切りなく人を指揮して従えさせるには、目的や大義名分が必要だと考えた事による、合理的判断基準にしたがって行った数々の行動が、後の徳川の世における儒教の誠心普及に上手くマッチングして作られたイメージの様に感じています。
何だかこう書くと上杉謙信は、ずるがしこくて計算高い様に取られがちですが、そうでは無くて逆に、この戦国時代という中においては、常に表裏一体の考え方をする曲者達が多い中で、その者達を一定の目的や大義名分を持たせて一本化する事できちんとまとめ上げていた事を考えると、上杉謙信という人のすごさが解る気がします。
その目的や大義名分がしっかりしていたからこそ、後の世で『義』という言葉に置き換えられて上杉のイメージが生まれたのだと考えています。       おわり

        the novel is a dramatic interpretation
        of event and character based on public
        soutces and an in complete historical
        record.some scenes and events are
        presented as composites or have been
        hypothesized condensed.

       ~なせば成る、なさねば成らぬ何事も、
               成らぬはひとのなさぬなりけり
                        上杉 鷹山(1751~1822)~

<参考文献・一部>*上杉家御年譜、米沢温故会編*鷹山公世紀、池田成章編、池田成彬*鷹山公偉蹟録、甘糟継成著、上杉神社社務所*米沢市史、米沢市史編さん委員会編*興譲館世紀、松野良寅編著、山形県米沢興譲館高等学校*代表的日本人、内村鑑三著、岩波文庫*上杉鷹山公、今泉亨吉著、米沢信用金庫*上杉鷹山公小伝、今泉亨吉著、御堀端史蹟保存会*人物叢書・上杉鷹山、横山昭男著、吉川弘文館*上杉鷹山のすべて、横山昭男編、新人物往来社*上杉鷹山の人間と生涯、安彦孝次郎著、壮年社*上杉鷹山公と農政、斎藤圭助、有斐閣*東海市史、東海市史編さん委員会編*近世藩校の総合的研究、笹井助治著、吉川弘文館*名古屋文学史、川島丈内著、川瀬書房*口語訳・嚶鳴館遺草、皆川英哉、ケイアンドケイ*細井平洲・附中西淡淵、鬼頭有一著、明徳出版*細井平洲と教師像、遠藤秀夫著、共同出版*細井平洲先生とその師友点描、東海市立平洲記念館*現代に生きる細井平洲、東海市教育委員会編*細井平洲『小語』注釈、小野重著、東海市教育委員会*嚶鳴館遺稿注釈 初編・米沢編、小野重著、東海市教育委員会*名指導者・上杉鷹山公に学ぶ、鈴村進、三笠書房*細井平洲と上杉鷹山、鈴村進、三笠書房





         序章

                    
  上杉治憲(のちの鷹山)にとって、それは尋常でない光景だった。
 貧しい領民たちががりがりに痩せて、歩いている。いや、首がひんまがった領民たちが、歩いてくるのだ。治憲は息を呑んだ。血色をなくした、泥のような顔であるが、治憲には見覚えがあった。間違いなく、米沢の領民たちである。
 治憲の頭頂から爪先まで、冷気が走り抜けた。手足が目にみえて震えだし、思うように筋肉に力が入らず、指はしばらく、戦慄きながら宙を泳いだ。
 そして、治憲は目がさめ、悪夢から解放された。
「……夢……か…」治憲は額に滲んだ汗を手でふいた。
  治憲が米沢藩の藩主となる数年前、米沢藩は困窮していた。
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」、米沢市立図書館「上杉古文書」「上杉家書状」他、藤沢周平著作「漆の実のみのる国」童門冬二著作「小説 上杉鷹山」NHK映像資料「その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ドラマ 上杉鷹山 二百年前の行政改革」「独眼竜政宗」「葵 徳川三代」「利家とまつ」「信長」「天と地と」「秀吉」「功名が辻」「おんな太閤記」「関ヶ原」「天地人」「軍師官兵衛」、角川ザテレビジョン「大河ドラマ 天地人ガイドブック」角川書店、等です。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。裁判とか勘弁してください。

昔は墨田川が武蔵(むさし)国と下総(しもうさ)国の境界だった。そこで二つの国を結ぶ街道の隅田川界隈を両国と呼んだ。両国には火除地(ひよけち)としてつくられた一帯が両国広小路である。川端には茶屋が立ち並び、その両側には見世物、芝居、講釈などの小屋がひとをあつめている。
その雑踏の中で藁科松伯貞祐(わらしな・しょうはく・さだすけ)は足を止めた。
彼は出羽(でわ・現在の山形県)国米沢(よねざわ)藩に支える医師であり、また学者でもある。昨年宝暦七年(一七五七年)から江戸詰めとなり、桜田門にある上杉邸へ出仕している。俊才の誉れが高く、白皙痩身(はくせきそうしん)の彼は生来病弱だが、今日は気分がいい。
先だってから江戸の噂を耳にしていた。
「両国広小路の平洲先生の講釈を聞くと、毎日の仕事が楽しくなるぞ」
平洲(へいしゅう)先生、通称は細井甚三郎(ほそい・じんざぶろう)といって、尾張(おわり・現在の愛知県東海市)から出てきた学者である。いくつかの大名に招かれて講義に赴くかたわら、浜町(現在の東京都中央区日本橋浜町)に「嚶鳴館(おうめいかん)」という学塾を開いている。そして、度々両国で講釈を小屋で開いては人々を涙と仁愛の世界に導き、いつも黒山の人だかりになるという。
藁科は講釈小屋の人だかりをみて、中に入れずにいたが、平洲先生の語りであろう、よく通るやわらかい声が聞こえてくる。
「よいかな。たとえていえば、この花だ。花がたくさん咲いている木というものはそれは見事なものだ。だが、そうだからといっていつまでもたくさん花をつけていたのでは、しだいに木がひねて実も少なくなり、やがては枯れ枝が多くなって、さしもの銘木も惨めな姿にやつれ果ててしまう。されば、惜しいけれども枝を止め、蕾を透かしてやらねばならぬ。そうすれば木はいつまでも見事な花を楽しませてくれるものだ」
藁科松柏は思わず息を呑んだ。名門上杉家は今まさにそのような状態だ。干ばつや洪水で凶作が続き、藩の財政は極度に緊迫して多額の借財を返す見通しも立たない。改革の声さえ消されるか、押しつぶされ過去の栄光にこだわり、このままでは朽ちて果てる日を待つばかりだ。この先生こそ、米沢藩に是非とも必要なお方である。演壇の平洲は三十歳くらいで、松柏とそれほどかわらなかった。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用12~14ページ>

江戸の儒学にはいくつかの学派があった。朱子学派の林羅山(らざん)、山崎闇斎(あんざい)、陽明学派には中江藤樹(なかえ・とうじゅ)、熊沢番山(くまざわばんざん)、古儀(こぎ)学派には伊藤仁斎(じんさい)、そして古文辞(こぶんじ)学派には荻生徂徠(おぎょうそらい)らがいた。
細井平洲はこれらのどれにも属さないので折衷学派といわれた。その説くところは文字や言葉の解釈ではなく、現実の為政および生活面に学問を生かすことであった。そこで彼は実学者ともいわれる。
尾張国知多郡平島村(現愛知県東海市荒尾町)の富農の家に生まれた平洲は、幼少時代には近くの観音寺の住職義観(ぎかん・義寛ともいう)の教えを受けた。その才知には大人も舌を巻くほどだったが、やがて彼は勉学を進めようと京都に出た。
しばらくして、わが子は京都でどんな暮らしをしているのか案じた父親が訪ねてみると、平洲の家はひどいあばら家で衣食も粗末だった。見かねた父親は五十両という大金を与えたが、当時の平洲の師となるべき人にはついに巡り会わなかった。およそ一年後に帰郷した平洲が持ち帰ってきたものは、二頭の馬の背に積んだおびただしい書物だった。彼は父親からもらった大金をすべて書物を買うのにつかったのである。
その後平洲は、名古屋の中西淡淵(たんえん)に入門する。淡淵は三河挙母(みかわころも・豊田市)出身の儒学者で折衷学派の洗掘者といわれ、自ら「叢桂(そうけい)社」という学塾を開いていた。
彼の教えは高度であり、その卓抜な識見に感服した平洲は人にこう語った。
「図らざりき。わが師の近きにあらんとは(こんな近くにわたしが求めていた理想の先生がおられるとは思ってもみなかった)」
この感動に応えて、淡淵もまた「わが業を助けるのは平洲である」と漏らした。
平洲は中国人から中国語を学び、さらに韻文、漢文、詩文、書道、南画、禅学などの教養も身に着けた。干天の慈雨のように細井平洲は日本屈指の大学者になる。師が主君である尾張藩付家老(つけがろう)竹越山城守に従って江戸に出ると、平洲はあとを追うように江戸に出た。入門して六年目だった。江戸で私塾「嚶鳴館(おうめいかん)」を開塾、だが師は急死する。平洲は十巻にもおよぶ『詩経古伝』を著して声望を高めていたが、伊予西条藩主松平頼淳(よりあつ)が、中国黄檗山(おうばくさん)住職大鵬(たいほう)禅師を迎えたときの通訳を務めたことで、その実力を一段と高く評価されるようになった。この頃、彼の門人はすでに千人を超えていた。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用15~17ページ>

  米沢の冬は厳しい。しんしんと雪が降って、やがて豪雪となり、辺りを一面の銀世界にかえていく。雪が完全に溶けるのは4月頃だ。田畑も城下町の屋敷の屋根も、道も、すべてが真っ白に衣を着て、ときおり照りつける陽射しできらきらとハレーションをおこす。     それはしんとした感傷だ。しかし、そんな幻想とはうらはらに、領民はみんな飢えていた。   若い儒学者の藁科松伯は米沢にいた。藁科は米沢藩の儒学者で、頭脳明晰な男である。彼は確かに不思議な印象を与える人物である。禿頭で、ぴしっと和服を着て、年はまだ三十代にみえる。痩せていて、手足が細く、病気がちである。ちょっと見にも、学者とわかるのだが、瞳だけは大変に光っていて、唯一、力強さを感じさせた。
 弟子の寺脇孫兵衛門が急いでやってきた。その顔には笑顔があった。
「見付かったか!米沢藩のご養子が……」「はっ!」
 松伯はほっと安堵の溜め息をつき、寺脇孫兵衛門は場を去った。手紙は江戸にいる米沢藩の江戸家老・竹俣当綱からだった。米沢藩主・上杉重定公には姫しかなく、このままでは藩は取り潰しになる……そこで養子を取ろうということになったのだ。「なになに、日向高鍋藩主・秋月佐渡守種実公の次男坊で、名は直丸殿…か」藁科松伯は口元に笑みを浮かべた。しかし、そんな平和も一瞬で、彼は胸が苦しくなって激しく咳き込みだした。しかし、もう皆帰って誰もいなかった。
「ごほごほ…」藁科松伯は痛み止めの薬を飲んだ。……それでなんとか胸の劇痛が弱まった。彼は、「はやく江戸にいって直丸殿にお会いしたい!」と強く願った。「私が死ぬ前に…」藁科は医師でもある。だから、自分の病のことはだいたい把握していた。自分がもう長くは生きられないこと……もう生きられない…。
「…私が死ぬまえに是非…直丸殿にあっておきたい。是非…」彼はそう強く願った。
 そして、自分がその名君となるはずのご養子の成長や改革を目のあたりにできぬだろうことを残念がった。…私は死ぬ…だが、米沢のことは……直丸殿に頼るしか……ない。
 藁科松伯と弟子の寺脇や莅戸善政や木村高広らは雪道を歩き、興奮しつつ江戸へと旅立っていった。…雪深いため、ぬかるみ、転び…大変苦労した。
「……いやあ、こわいこわい(疲れた疲れた)」
 藁科松伯は珍しく米沢の方言をいった。
 松伯は江戸生まれで、米沢の人間ではないはずである。しかし、それにしても「自分も米沢の人間でありたい」と思っていた。だから、訛りを使ったのである。
「先生、少し休みますか?」
 弟子の寺脇がいうと、藁科松伯は「いやいや、急ごう!直丸殿に一刻も早く会いたい」「……無理しないでくだされよ、先生」
 莅戸善政がいう。
 木村も笑って「そうそう。先生あっての拙者らですから」といった。
「さようか」
 松伯は笑った。息がきれて、しんどかったが、それでも余裕の素振りをみせた。
  数日後、一行は江戸に辿り着いた。江戸の町は活気にあふれ、人がいっぱい歩いていた。人々の顔には米沢の領民のような暗い影がない。「米沢のひとに比べて江戸の庶民は…」藁科はふいに思った。
  米沢藩の江戸屋敷に着くと、竹俣当綱が一行を出迎えた。
 竹俣当綱は三十七歳。目がキッとつりあがっていて、髭も濃くて、黒い着物を着て、浅黒い肌にがっちりとした体が印象的な男だ。
 屋敷を歩くと、ぎじぎしと音がした。屋根からは雨漏りがする。戸も壊れていてなかなか開かなかった。……財政難で金がないため、直せないのだ。
「ところでご家老」藁科松伯は切り出した。「…ご養子が見つかったそうですな」
「はい、先生。日向高鍋藩主・秋月佐渡守種美公の次男坊で、名は直丸殿と申す」
 竹俣は笑顔でいった。「大変に賢き若君ときいております」
「そうですか…」藁科は微笑み、続けて「ぜひに、一刻も早く…直丸殿にお会いしたい」 と願った。
 竹俣当綱は「先生……わしもまだ会っておらん。だが、今、直丸殿は高鍋藩江戸屋敷にいるときいております。近々、拝謁させて頂きましょう」と言った。
「……直丸殿は今、御年いくつなので?」
「八歳です」
「そうですか」
 藁科松伯は満足気に深く頷いた。「それは重畳」
「……まぁ、いい年頃ではありますな」
「楽しみです」
 松伯はもう一度、満足気に深く頷いた。「…拝謁が楽しみです」
 竹俣当綱は「先生……わしもはよう会いたい」
「我々もでござる」
 莅戸や木村も笑顔をつくった。
 竹俣は「女房殿よりも愛しい方じゃな?」と冗談をいい、一同は笑った。
秋月直丸(あきづき・なおまる)、出羽米沢藩八代藩主・上杉重定(うえすぎ・しげさだ)の養子となり、上杉直丸(うえすぎ・なおまる)公、元服して上杉治憲(うえすぎ・はるのり)公、後年・晩年・上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)公となる。父親は日向(宮崎県)高鍋藩主・秋月佐渡守種美(たねみつ)公で、母親が上杉家の遠縁(米沢藩四代藩主・上杉綱憲の次女・豊姫と黒田長貞(筑前秋月藩主)との娘)の春姫である。
 俗な話をすれば上杉鷹山公は2014年度の大河ドラマだった「軍師 官兵衛」の主人公・黒田官兵衛(如水)の子孫でもある。
 また年末恒例でやる歌舞伎やドラマ「忠臣蔵」の悪役・吉良上野介の子孫でもあるのだ。つまり、治憲公にとっては母方(春姫)の祖母・豊姫の父親が上杉家養子で、吉良上野介の息子・吉良三郎こと上杉綱憲であり、母方の祖父が黒田如水(官兵衛)の親戚の筑前秋月藩主・黒田長貞なのである。
 まさにサラブレッドである。頭脳明晰で忍耐強く、私心がない訳だ。鷹山公の父親と母親はいわゆる「政略結婚」である。上杉綱憲の娘・豊姫と結婚して子を授かった筑前秋月藩主・黒田長貞(ながさだ)公が娘(のちの鷹山公を産む)春姫を、日向高鍋藩主・秋月種美の元に嫁がせた訳だ。
 では、米沢藩第八代藩主・上杉重定(しげさだ)はというと、上杉綱憲の子供・嫡男・上杉吉憲(よしのり・米沢藩第五代藩主)の三男(長男・第六代藩主・宗憲(むねのり)、次男・第七代藩主・宗房(むねふさ))である。
 上杉家は子宝に恵まれない家系である。
 藩祖は「生涯独身」を通した「合戦無敗伝説」の上杉謙信だが、米沢藩では謙信公の息子・姉の仙桃院からの養子・上杉景勝からを米沢藩第一代…と数えるのが一般的だ。
 後述するが上杉家三代目・上杉綱勝(つなかつ)は養子も跡取りも決めないまま若くして病死するのである。
 普通の藩ならば徳川幕府から「お家断絶」されてもおかしくない。だが、会津藩主・保科正之の取り計らいで、上杉綱勝の妹の参姫(さんひめ)と結婚していた幕府高家衆・吉良上野介義央の子供(吉良三郎)を無理やり上杉家第四代藩主とするのである。
 何故、会津藩主・保科正之(ほしな・まさゆき)は上杉家を助けたのか?「上杉家は名門だから」というのもあるだろう。
 しかし、正之は徳川家康の息子・秀忠の愛人との子であり、それを会津藩主としてもらった、という過去を持つ。
 幕末に会津藩に米沢藩が加勢したのも正之への恩である。保科正之には上杉の窮乏が「憐れ」に感じたに違いない。
 確かに米沢藩・上杉藩は、上杉綱憲(つなのり)を米沢藩第四代藩主とすることで「お家断絶」の危機は脱した。
 だが、かわりに領土・禄高を出羽米沢三十万石から、出羽米沢十五万石まで減らされたのだ。新たなる危機は禄高減少である。
 ただでさえ越後七十万石から、上杉景勝の時代、秀吉の命令で会津百二十万石に禄高も領土も増えた。が、歴史通なら当たり前に知るところだが、関ヶ原の合戦で、上杉景勝方は西軍・石田三成方につく。
 結果はやはりであった。関ヶ原では小早川秀秋の寝返りなどでたった一日で(徳川家康方の)東軍の大勝利……その間に東北地方の長谷堂で最上義光軍勢・伊逹政宗軍勢と戦っていた(長谷堂合戦)上杉軍に「西軍大敗・三成敗走」の報が届く。
 上杉軍は焦ったに違いない。知将でも知られる(2009年度大河ドラマ「天地人」の主人公)直江兼続は殿をつとめ、なんとか会津領土に帰還。しかし、その後の戦後処理で、上杉景勝・上杉軍は石田三成(近江の山中で捕えられ京三条河原で斬首)側についたとして会津(福島県)百二十万石から出羽米沢三十万石に禄高を減らされ転譜となる。
 上杉景勝や直江兼続らは、家臣を誰も減らさず六千人の家臣団を引き連れて米沢に転住する。土地も禄高も減らされ、しかも山奥の雪深い盆地に「島流し」にあった訳だ(笑)。
 苦労する訳である。今は上杉の城下町・米沢市には新幹線も通り、豪雪で知られた米沢だったが、最近はそんなに積雪も酷くなくなった。地球温暖化のおかげだろう。
 私の親戚のひとに聞くと、70年くらい前は、米沢の積雪は茅葺屋根の高さと同じくらいだったという。出入りの為にハシゴを玄関から積雪にかけて……モグラみたいに暮らしていたんだという(笑)
 雪国では、冬季には公費で除雪車が深夜道路などの除雪をしてくれる。除雪車は巨大な黄色のトラック程の巨大なものだ。だが、それは田中角栄首相(当時)が、豪雪を「激甚災害」に指定して「公費での除雪」を推進したからだ。
 私は、田中角栄は大嫌いだが(金満政治の元凶の為)、「除雪」に関しては感謝している。しかし、昔はほんとうに豪雪で大変であったろう。昔のひとは偉いものだ。話がそれた。


平洲の講釈が終わるのを待ちかねていた藁科松柏は、改めて挨拶し、是非とも今の話の先にあるものを聞かせていただきたいと懇願した。
快く承知した平洲は浜町の「嚶鳴館」まで松柏を同道すると、求められるままに自分の考えを語り聞かせた。それは辻講釈とは違って、直接経書に基づく高度なものであった。
松柏の身分を聞いた平洲は、特に国を治める指導者のあるべき姿について熱心に語った。それは経世済民(経済)であり、現実主義(リアリズム)であり、論語と算盤、でもあった。“上杉の義”等という理想論ではなく、“成果主義”でもあり、平洲は現実主義者(リアリスト)でもあった。平洲は拝金主義を嫌ったが、同時に綺麗ごとだけの主義も嫌った。平洲は「どんな綺麗事を並べ立てても銭がなければ一粒のコメさえ買えない。それが現実であり、銭は空からは降って来ないし、法令順守(コンプライアンス)を徹底し、論語と算盤で正しいやり方をして努力して善行を尽くせばほとんどの幸福は叶う」という。
平洲の話に時がたつのも忘れて傾倒し、感動を抑えきれず、その場で松柏は平洲に入門した。藁科松柏は本国の米沢にいるときには「菁莪(せいが)館」と名付けた書斎で多くの若者たちの教育にあたっていた。彼の教えを仰ぐ者の中には竹俣美作当綱(たけのまた・みまさく・まさつな)、莅戸(のぞき)九郎兵衛善政、木村丈八高広、神保容助綱忠らがいた。その頃の米沢藩は長年の貧窮に打ちひしがれ、息が詰まるほどの閉塞状態から脱出することも出来ないでいた。しかも、藩主上杉重定は寵臣(ちょうしん)森平右衛門利真(としざね)に籠絡(ろうらく)されて、自ら藩政を改革出来ないでいた。
竹俣当綱や莅戸らは密かに会合を持ち、後述するような森氏への謀殺を謀る訳だが、望みの期待の“改革派の頼りの綱”はわずか九歳の御世継の直丸(直丸→治憲→鷹山)だけであった。松柏は“大人物”細井平洲先生を一門に紹介し、積極的に御世継の教育にと便宜をはかった。「上からの論理ばかりでは“死角”ができる」、「諌言をさまたげ、甘言によっては“大きなツケ”ばかり残る」平洲の主張もごもっともであった。
竹俣も莅戸も木村も神保も平洲門下に列座する。「われわれには臥竜先生と臥竜の卵の御世継さまがおられる」
竹俣は「細井先生はいいが、失礼ながら直丸殿はまだ九歳の童べであろう」とため息をついた。望みがわずか九歳の御世継・秋月直丸、養子縁組で上杉直丸、のちの治憲公、鷹山公で、ある。溺れる者は藁をも掴むというが、何ともたよりない船出、であった。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用17~25ページ>



上杉鷹山公は公人、つまり公(おおやけ)のひと、である。
 何故、鷹山公は私心を捨てて、公人となったのか?やはりそこには江戸の学者であり、師匠でもある細井平洲先生による教育のたまものなのである。
 米沢市立図書館は私がよく執筆する際の資料の為に利用する。その米沢市立図書館は二十年くらい前に「上杉鷹山公の伝記漫画」の資料と調査研究をしてマンガ本を刊行したという。(資料を提供して無名の漫画家さんがコミックを描いた)
 当時の図書館員は「鷹山公に関する資料等を調査研究していくと、その人間像が浮き彫りにされ、あたかも私たちの目の前で鷹山公が「為せば成る。米沢の未来のため頑張りなさい。」と優しく励ましてくれるような錯覚におちいる。さらに、現代の私たちに近い、赤裸々な人間「鷹山公」を捜し求めたが、「公は」その姿を現してくれなかった。その分だけ、この漫画は面白味に欠けているかもしれない。鷹山公は「真心の人」であった。自分の信じるところに従って行動し、勇気を持ってあらゆる困難とよく闘った政治家。そして、郷土と民衆を心から愛した世界に誇る代表的日本人である。鷹山公の遺徳とその精神は、私たち米沢人の心の光かも知れない。それは、何時の時代にも消えることなく、我々の生きる道を照らしてくれるものだと信じたい。(「上杉鷹山公物語・監修 横山昭男 作画・小川あつむ」149ページ参照)」と記している。
 当時の米沢市立図書館員たちには「上杉鷹山公」は「現代の私たちに近い「赤裸々な人間像」」を現してくれなかったのかもしれない。まあ、時代だろう。
 二十年前はわからなかったことでも現在ならわかることもある。
 鷹山公が少年期に、利発で天才的な才覚を見せている姿からは普段想像も出来ないくらい涙もろかったり(藁科松伯から米沢藩の惨状を聞き「それは米沢人が憐れである」と涙をはらはら流したり)、幼少期に寝しょうべんがなかなか直らず布団に毎朝「日本地図」を描いていたり……私にはこれでもかこれでもかと「公は」「赤裸々な人間像」を見せてくれる。
 まあ、時代だろう。調べが甘い。夜郎自大も甚だしい。
 宝暦九年(1757年)、三月、秋月直丸は米沢藩主重定の養子に内定している。
 (注・鷹山公の母親・実母・春姫は宝暦七年(1757年)六月九日に三十五歳で病死しているが、この物語では話の流れでまだ生存していることになっている)
 (注・上杉鷹山公の生まれは宝暦元年(1751年)七月二十日、秋月家二男として生まれている。つまり、鷹山公はわずか七歳で実母を亡くしている訳だ)
 実際問題として、上杉重定の放蕩は目を伏せたくなるほどである。
 このひとは馬鹿ではないか?とおもうほど能や贅沢三昧の生活をする。
 でも、まあ、鷹山公や藩士にしたら「反面教師」だ。(注・「反面教師」という諺は中国の毛沢東(マオ・ツートン)の唱えた諺であるからこの時代の人々にはなじみのない諺かも知れない)
 借金まみれの米沢藩で「贅沢三昧」とはこれまた馬鹿野郎だが、まだのちに「七家騒動」をおこすことになる須田満主(みつぬし)ら老中もこの世の春を謳歌し、重定とともに財政悪化の元凶・贅沢三昧な大老・森平右衛門もこの世の春を謳歌していた時代である。
 上杉家の養子になった治憲公(直丸公)は秋月家家老三好善太夫(みよし・ぜんだゆう)に、
「わたしのような小藩からの養子の身分の者が……謙信公からの名門・上杉家の米沢藩をひとりで動かせるだろうか?」
 と不安な心境を吐露したという。
 すると秋月家庭園で、木刀で稽古をつけて、一服していた三好は平伏して
「確かにおひとりでは無理にござりまする」という。
「……やはりそうか」
「されどにござりまする、若。どんな大事業もたったひとりの力では無理なのです。米沢藩上杉家中は名門ゆえ優秀な人材も多いことでしょう。家臣の者たちとともに粉骨砕身なされませ」
 三好善太夫は鷹山公の傅役である。
 彼は少年の鷹山いや治憲に「奉贐書(はなむけたてまつるのしょ)」を送った。三好は鷹山が上杉家に養子に行く前に「殿さまとして守るべきことをしたためた「上言集」と「奉贐書」」を送り、宝暦十年(1760年)十月十九日に治憲が江戸の秋月家一本松邸より上杉家桜田邸へ移りおわったのを見届けたのち十一月二日、五十七歳の生涯を終える。
 鷹山はこの三好からの書状を一生の指針として、善太夫の死に涙をはらはら流したともいう。
 鷹山公は涙もろいのかも知れない。
 江戸から遠い米沢藩の田舎ではのちの竹俣当綱(たけのまた・まさつな)が江戸家老になり、莅戸善政(のぞき・よしまさ)が奉行に、藁科松伯(わらしな・しょうはく)らが米沢藩士としての志を新たにするのだった。
 時代は混沌としていた。改革前夜であり、米沢藩は深い闇の中、にあった。

「当節の、わが藩の借財はいかほどになるのか?」
「されば」
当綱は書院の外の畳敷きに膝をおとした。小考してから言った。
「それは若君にはまだご承知なくともよろしいのではないでしょうか」
答えがないので顔を上げると、直丸がきびしい目で自分を見ていた。当綱が思わず言い直そうとしたのを遮るようにして、直丸が言った。
「竹俣、直丸が若年とみて侮るか?」
「あ、いや」
当綱は顔がどっと熱くなるのを感じた。
「そのようなこころはございません。失礼しました!わが藩の借財は、ざっと十数万両と承知しております」
「………十数万両か」少年世子は衝撃を受けたようだった。だが、当綱はのちの鷹山公の本気度をひしひしと感じた。のちに竹俣当綱は松柏に、
「ご家老も、一本取られましたな」
「一本取られた」
当綱は正直に言った。
「いや、おどろいた。直丸さまはもう大人であられる」
「むろんです。臥竜さまですゆえ」
松柏は言った。
参考文献『漆の実のみのる国(上巻)』藤沢周平著作、文藝春秋出版引用142~143ページ

  こうして竹俣当綱、藁科松伯、莅戸善政、木村高広の四名は、高鍋藩江戸屋敷に徒歩で向かった。江戸の町は活気にあふれ、人がいっぱい歩いている。武家も商人も、女子供にも…人々の顔には米沢の領民のような暗い影がない。「米沢のひとに比べて江戸の庶民は…」藁科はまた、ふいに思った。
 その日は快晴で、雲ひとつなく空には青が広がっていた。すべてがしんと輝いていくかのようにも思えた。きらきらとしんと。すべて光るような。
 高鍋藩邸宅は米沢のそれと同じで、殺風景でぼろくて今にも倒れそうだった。高鍋藩も財政危機で、修繕代が払えないのだ。
 ………貧乏藩は米沢十五万石だけではないのだな。
 竹俣当綱がそう不遜に思っていると、藁科松伯は低い垣根から、邸内を熱心に覗いていた。彼の横顔は笑顔だった。
「…いましたぞ、ご家老」
 と藁科。
 木村も覗き「あの若君が直丸殿ですか?」と竹俣に尋ねた。
 莅戸は「拙者にも見せてください」といった。
 竹俣当綱も垣根から邸内を覗き見て、「…おぉ。あれじゃ、あの方が直丸殿じゃ」と笑顔になった。「本当に賢そうな若じゃ」…邸内の庭では、秋月直丸という若君が剣術に励んでいた。一生懸命に木刀を何度も降り下ろす運動のためか、若君は額に汗をかいていた。直丸は八歳。すらりと細い手足に痩せたしかし、がっちりとした体。ハンサムで美貌の少年である。唯一、瞳だけがきらきら輝いている。
 この、秋月直丸こそが養子となり名を「上杉直丸」と変え、さらに元服後「上杉治憲」と名をかえた、のちの名君・上杉鷹山公そのひとであった。
「……いい顔をしている」
 四人は微笑んで、呟いた。