5 準備
堀部安兵衛は「もう待てぬ!」
と焦っていた。「とっくに殿の一周忌が過ぎたというのにあの昼行灯め! 放蕩ばかり続けているという……まったくの愚か者だ!」
「待て! 安兵衛! 大石内蔵助殿を信じるのだ!」
そういったのは義父・堀部弥兵衛だった。
もうそろそろ浅野家の家臣はバラバラになり、もうあと一年も経てば、仇討ちの数さえ集められなくなるだろう。
「しかし義父上、吉良は老人……いつ死ぬかも知れませぬ!」
「安兵衛! 大石内蔵助殿を信じるのだ! ご家老はきっと考えがあって廓遊びをなされておるのだろう」
「……上杉の間者を糊塗(ごまかす)するためにですか?!」
「そうだと信じたい」
いっている堀部弥兵衛にも、確信がなかった。
大石内蔵助が何も考えずに遊んでいるとは思いたくなかった。
そんな馬鹿な男がいるだろうか?
いや、いる。大石内蔵助とはそういう男である。しかし、後年、歌舞伎や書物などで内蔵助は上杉たちを騙すために放蕩を続け、女や酒に酔ったふりをしていた…などと改められた。忠臣蔵の主役が、放蕩していただけなのでは不様であるからだ。
さてここで徳川幕府体制による禄高と年貢について説明しなければならないだろう。 まず大名や家臣の禄高は実収とはだいぶ違っていたという。例えば、赤穂藩浅野内匠頭家は、内匠頭長矩の祖父長直の得た禄高は「五万八千八百九十七石……」などと細かく書いてある。一見するとまことしやかだが、本当の実収は四分の二であったという。農業の収穫だから収益に差があるのは当然だが、同じ「五万石の禄高」……といってもかなり差があった。
しかし、誰も本音をいわない。
……元禄時代は農民への搾取が凄まじかった…というのは樹を見て森をみずだという。 建て前は「六公四民」ということだが、この時代、全国の八割りが農民だった。
つまり、八割り近くの農民は四割りの米で生活し、二割りだけ収めていた。所詮は米であるから、食べる量にも限りがある。どんな金持ちでもそんなにいらない。
米ではなく、銭の時代にならなければ、経済の行方の先は見えている。
そこで米の先物取引(デリバティブ)が生まれた訳だ。
内蔵助はまたも放蕩を続けていた。
愛人を囲い、屋敷を借りてお可留というまだ十代の小娘と同棲しだしたのだ。
これには赤穂浪人たちも呆れた。
陰から見て、
「あれは怪しい…」
「……なにかあるかも知れぬ」
「子を孕ませるかも知れない。あの昼行灯め!」
元・家臣たちは陰で激怒となった。あんな小娘と同棲などと……ご家老は頭がどうかしたのではないか?
「お茶どす」
お可留は縁側で、お茶を飲み大石と語り合って微笑んでいた。
「……お可留は可愛いのう」
内蔵助は満足そうである。お可留はどうも未通娘(処女)の京娘のようだ。
「……怪しい。夜な夜ないやらしいこともやっているようだ。あの昼行灯め! ふぬけたか! ふぬけめ!」
赤穂浪人たちは呆れて、場を去った。
そして、当然ながらお可留は妊娠してしまう。
お可留はその後、女の子を生むが、その後の詳しい記録がない。
大石家も女児をひきとらなかったし、お可留に経済的援助もしなかった。所詮は愛人と外子である。内蔵助の妻りくの恨み具合が知れるエピソードではある。
江戸では吉良上野介が余裕で女を抱いていた。
「……吉良さま! はあはあ…」
「おつや…はあはあ…」
行為が終わると、吉良は笑って、
「巷では赤穂浪人たちがわしを討ち取るとか申しておる」
「…まあ」
「しかし、やつらは赤穂浪士ではない。あほう浪士じゃ。大石ではない軽石じゃ。わははは…あんな連中恐れるの足りぬわ」
吉良は馬鹿らしい放蕩を続けている大石内蔵助を軽視するようになっていた。
歌舞伎や小説では、これが狙いだった、となっている。
つまり、吉良を糊塗(騙す)することが目的だったという訳だ。
だが、違う。
大石内蔵助はお可留という小娘とやりたくて”かこった”だけのことだ。
あまり、不用意に内蔵助を「英雄視」すると歴史がわからなくなる恐れがある。
元禄十五年秋。
赤穂浪士・毛利小兵衛太は江戸のアバラ屋で、妻・しのと抱きあっているところだった。長い長い抱擁……
毛利小兵衛太は「本懐をとげれば、お主ともこうして抱き合うことも出来なくなる。これは今後の生活のたしにしてくれ。額は少ないが……」といって、しのに金三両を渡した。 本懐とは、当然ながら「吉良邸討ち入り」「吉良の御首をとること」である。
「お前さん……本当に討ちいる気なのですか…?」
「当たり前だ! しの…わしは腰抜け侍ではないぞ! 吉良にひとあわ吹かせてやるのだ」「だけどお前さん…」しのは泣いた。「お前さんがいなくなったら、しのは悲しうござりまする。老人の吉良の首などなんの得になるのです?」
「……仇を討つのじゃ。このまま赤穂藩士たちが何もせぬと……腰抜けと一生いわれ続ける。命一代名は末代じゃ! のちに歴史がどちらが正しかったか判断するのじゃ」
「しかし、歴史などといわれましても…」
「もうよい!」
毛利は訝しがった。「武士の魂のわからぬ女子め」
「わたしは武士の魂より、お前さんの魂のほうが大事ですよ」
毛利小兵衛太は黙りこんだ。
確かに、吉良の首をとればいいだけだが、残された妻はどうなるだろう……?
小兵衛太は、大石内蔵助のような単純な思考回路は持ち合わせていない。
いろいろ考えると頭が痛くなってきた。
彼には一晩の熟睡と、女子の慰めが是非とも必要だった。
吉良邸は増築の真っ最中だった。
この機会に赤穂浪士たちがスキを狙ってくるのではないかと、上杉の侍たちが辺りを見廻っていた。赤穂の間者が大工姿に化けて、情報収集しているところだった。
「あら、平吾郎さん?」
吉良邸から出てきたおつやが、平吾郎に声をかけた。
「おつやちゃん!」
間者は不審に思われないように微笑んだ。
「何をしてらっしゃるの? 平吾郎さん?」
「なにって……おつやちゃんを待ってたんだよぉ。俺はおつやちゃんのことが好きだから」「まぁ」
おつやは照れた。
おつやは大工の棟梁の娘だった。父親は吉良邸の図面ももっているはずだ。
このおつやは売春婦のような性格の女子で、吉良とも何度が寝ている。
しかし、いつもいやいや抱かれているだけで、男から「愛しておる」「好いておる」といわれたためしがない。おつやは嬉しかった。
上杉の侍たちがやってきた。
「おい! お主! ここで何をしておる?!」
「いえ……あっしは大工の平吾郎と申しまして……おつやさんに会いに…」
「怪しいやつだ! 赤穂の間者ではあるまいな?!」
「めっそうもない!」
「この怪しいやつめ!」上杉の田舎侍たちは平吾郎にリンチをくわえた。
ボコボコにされる。
血だらけになりながら、彼は何とか堀部の開く道場まで着いた。
「どうした?!」
「……上杉の連中に…や…られた。だが、まだ吉良は生きているようだ。…ああして…警護しているところをみると…そう思う」ぜいぜい息をしながら、間者役の男はいった。
「とにかく、誰か医者を!」
「いや……怪しまれる。われらが介護する。まぁ、あがれ!」
堀部安兵衛は「もう待てぬ!」と苛立った。
「あの……昼行灯め! 今度は小娘らしい」
京・山科の大石邸には、本蔵の妻・戸無瀬と娘の小滝が訪ねてきていた。
りくは「主人は外出していまして……」と動揺した。
まさか小娘の愛人と別の家に住んでいるとはいいだせなかった。
「うかがったのは、主税さまとこの子との縁談を考えなおして頂ければと思いまして…」 内蔵助の妻・りくは「……どういうことです?」と問うた。
「娘がどうしても主税さまを忘れられないと申しまして」
「まあ! 小滝さん。それは本当ですの?」
小滝は頬を真っ赤にして「はい。わたしは主税さまの妻になりとうござります」という。可愛い娘だ。しかし、主税は、
「それはならぬ」という。
「なぜにござりまするか?! 小滝のことが嫌いでござりまするか?!」
「いや! わしは小滝が大好きである。しかし、吉良のことがある。もうわしは浪人の子……食べさせてやれぬ」
「それはお父上とともに討ちいるということにござりまするか?」
「そうじゃ! わしは卑怯者にはなりとうない!」
「卑怯者けっこうではごさりませぬか……この小滝と一緒になってどこかで誰も知らないところで暮らしてもバチは当たりませぬ。赤子だってつくって……畑を耕し…」
「そのような暮らしは御免こうむる! 主君の仇を討たずして何が侍ぞ?!」
「主税さまはもう侍ではありませぬ! この小滝と結ばれてもいいはずです!」
「……小滝…すまぬ。出来ぬ誘いじゃ」
主税は後ろ髪引かれる思いで、場を去った。
「………主税さま!」
小滝は号泣した。
主税の最期が見える気がした。
大石内蔵助と息子の主税と共周り四十数名は名をいつわり、江戸へと入った。
討ち入りの数か月前のことである。
十月、瀬尾孫左衛門は逃亡しようとして捕まった。しかし、大石は許した。
「孫左衛門……討ち入らないと決めたのじゃな?」
かれは何もいわなかった。
「吉良邸に討ち入るも討ち入らぬもそちの勝手じゃ。好きにするがよい。ただ頼みがあるのじゃ」
「……頼みとは?」
やっと瀬尾孫左衛門は声を発した。
「お可留という女がおる。わしの愛人じゃ。守ってやってくれ」
内蔵助は孫左衛門に四百両渡した。ずっしりと重い。
「……これで足りるじゃろうて」
「ご家老………拙者を信じるのですか? この銭をもってどこかへ逃げるかも…」
「かまわん! お主の好きにせい」
内蔵助はにやりとした。
赤穂浪士・毛利小兵衛太は江戸のアバラ屋で、咳き込むことが多くなっていた。
どうやら労咳(肺結核)のようであった。
床に伏すことが多くなった。
「早くなおって……みなとともに憎っくき吉良上野介の御首を……頂戴しなければ…」
雨がざあざあと降ってきた。
「雨は嫌いじゃ。雨がふると体が痛む…ごほごほ」
小兵衛太は血を吐いた。
「お前さん?!」妻のしのは泣いた。もう主人は永くはないだろう……
赤穂の間者・平吾郎はおつやに近付いていた。
「おつやちゃんは本当に可愛いねぇ」
「やだぁ、もう平吾郎さんったら…これ、おとっつぁんが持っていた吉良さまの邸宅の図面よ。欲しがってたでしょ?」
「ありがたい」
「でも……どうして吉良さまの邸宅の図面なんてみたいの?」
「あっしは大工だから、大好きなおつやちゃんのおとっつぁんがどんな仕事してるか知りたいだけさ」
「……それだけ?」
「そうとも」
「まさか! ……あなたは赤穂浪士じゃないだろうね?」
おつやはふざけてきいた。確信はなかった。
「まさか!」平吾郎と称している男は笑った。「それよりご隠居さまはどこに寝てらっしゃるんだい?」
「ここじゃないの? でももう少しで米沢にいくっていってたわよ」
「米沢へ?! 上杉家のところへいくのかい?」
「ええ。そんなこといってたような…」
「とにかく、この図面写させてもらうよ。仕事のためだからさ」
「いいけど……そのまえにやることがあるんじゃないの?」
「なにさ?」
「やだぁ! 抱いてよ、平吾郎さん」
男はおつやを押し倒し、ふたりは愛しあった。
「なに?! 米沢にいくだと!」
赤穂浪士たちはいきり立った。米沢にいかれたのでは首はとれない。
播州赤穂藩の再興はかなわなかった。内匠頭の弟・大学は広島藩お預かりとなり、藩は正式になくなった。
「吉良は年寄りじゃ。すぐに老衰死するかも知れぬ」
「……米沢にいかれたのではおわりじゃ」
大石内蔵助は、
「よいかみなのもの! 吉良邸に討ち入り、吉良の御首を頂くのじゃ!」と激を飛ばした。「おう!」
四十七名は声をあげた。そして、泣いた。世にゆう円山会議と神文返しで意見は一致。 ……やっと本懐を遂げる日がきた!