緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.16佐世保同級生殺害事件高校一年女子生徒逮捕!その後

2014年07月31日 17時36分25秒 | 日記
高1女子を殺害容疑、同級生の女子生徒を逮捕・送検 長崎

2014年7月31日


 長崎県警は27日、同県佐世保市の県立高校1年、松尾愛和(あいわ)さん(15)を殺害したとして、同じ高校の同級生の女子生徒(16)=同市=を殺人容疑で緊急逮捕し、発表した。2014年7月29日は殺害された松尾愛和さんの通夜・告別式であった。


県警によると、松尾さんの遺体は首と左手首が切断されていた。県警は、松尾さんの死後に生徒が切断したとみて、死体損壊容疑でも調べた。

愛和さんの両親は「短い命であったが、娘は宝ものであった。娘を愛してくれてありがとう」

 発表によると、女子生徒は26日午後8時ごろ、自宅のマンションで、松尾さんの後頭部を工具で何度も殴ったうえ、ひものようなもので首を絞めて殺害した。


女子生徒はこの部屋で一人暮らしをしていた。「すべて私がやりました」と話しているという。

「ひとを殺してみたかった」

「殺して解体してみたかった」

「人を殺して体の中が見たかった」

「中学生から人殺しに興味があった」(猟奇的な漫画に熱狂。あるミステリー小説家に傾倒

・小学生で給食に洗剤を混入して誰かを殺そうとした(事前に発覚して未遂)。その後クラ

スで浮いた存在になり、不登校に。高校は2日もいっていない・高1殺害事件の犯人である

少女Aの部屋には人体図の書籍や解剖写真の書籍もあったという)

と供述してるという。(長崎県佐世保市の教育関係者も報われない(10年前の2004年佐世保

小6事件以来「命の大切さ」を教育していたから))

とにかく「殺人」の罪の重さを自覚できていないので精神鑑定にかけるという。


 2人は中学と高校が同じで、高校ではクラスも同じだった。


県警によると、松尾さんは26日午後2~3時ごろ、

「遊びに行く」と言って外出。

午後6時40分ごろ、「今から帰る」と母親にメールがあったが、帰宅しなかったため、

午後11時ごろ、両親が110番通報し、捜索願を出した。


27日午前3時20分ごろ、捜査員が女子生徒の部屋を訪れ、室内のベッドで血を流して、仰向けに倒れている松尾さんを見つけた。

 県警によると、ベッドの上には遺体のほか、遺体の切断に使われたとみられる刃物があり、ベッド脇には殺害に使われたとみられる工具も残されていた。


県警は、女子生徒が松尾さんを殺害後、

遺体を切断したとみており、


ほかにも切断しようとしたような痕があったという。

 松尾さんが見つかった際、


女子生徒は室内にはおらず、


マンションの敷地内で身柄を確保された。


当初は「(松尾さんがどうしたのかは)知りません。夕方ごろに別れた」と話し、

関与を否定していたが、

その後、

佐世保署で事情を聴かれ、容疑を認めたという。

 女子生徒は、母親が昨年秋に亡くなった後、父親が今年に入って再婚。


金属バットで父親を殴りつけるなどして警察沙汰になり、父親が放置。

市内で暮らす父親らと別に、4月ごろから一人暮らしをさせてもてあましていた。

 女子生徒と松尾さんが通う高校の校長によると、2人は「普通に親しい関係」で、トラブルなどは把握していないという。

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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.15親のしつけと体罰と教育と道徳と心強さと

2014年07月31日 17時19分51秒 | 日記





しつけと体罰と心強さと  緑川鷲羽 フリージャーナリスト



 法政大学付属高校で修学旅行で男子学生3人が悪さをして先生達が体罰をしたとして問題になったが、私は「体罰はあってはならない」などと思わない。

但し今回は度が過ぎた、ということだ。

平手打ちくらいでいいのに殴る蹴るの暴行をして携帯を破壊して…などやり過ぎた。


体罰は体罰で平手打ちくらいでいいのに殴る蹴るの暴行はやり過ぎた。


私はこうした腐った子供を治すには「ボランティア研修」だと思う。


つまり中学生や高校生のときに1ヶ月間、東南アジア諸国やアフリカの難民キャンプや老人ホームでボランティア研修をさせるのである。

自分とは違ったひと達の為に「無償」で働き、「命とは何なのか」を知る。


これほど有意義な研修もない。

しかも語学まで学べる。

とにかく子供のいる親に言いたい。子供は甘やかさないことです。

ろくな大人にならない。

悪いことをしたら殴ってでも「自分は悪いことをしたんだ」とわからせろ。

自分の子供は「親の鏡」という。

自分の鏡だと思って甘やかさないで厳しく躾よ!

子供の責任をとり、恥をかくのはあなた方なのですよ。頑張ってください。子供には厳しくいってください。

社会的責任を考えるならです。


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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.14関根麻里(29)韓国人歌手K(30)と結婚へ。育んだ愛

2014年07月30日 12時02分55秒 | 日記






日本で活動中の韓国人歌手K(30、本名:カン・ユンソン)が関根麻里(29)と結婚する。

スポーツニッポンは、5年間交際している関根麻里と韓国人歌手Kが結婚する予定で、結婚後も引き続き日本で活動する予定だと30日、報じた。

二人が出会ったのは2009年末、ラジオ番組に一緒に出演してからだ。K-POPのファンだった関根がラジオ出演から1週間後に開かれたKの単独コンサートを観賞したことを機に交際を始め、5年間真剣に付き合ってきた。

同新聞は試練もあったと伝えた。Kが2011年1月に入隊したためだ。しかし、二人は着実に連絡を取り合い、Kが休暇を取ると関根が韓国を訪れ、愛を育んできた。2012年10月に除隊したKは日本で音楽活動を再開し、二人の愛もさらに深まった。

関根は1984年東京生まれで、アメリカのエマーソン大学を首席で卒業し、2006年に芸能界入りした。デビューした年に11個のレギュラー番組に出演するほど注目を浴びた。現在も映画、テレビ、CMなど様々な分野で活動し、人気を得ている。

歌手Kは2005年「over...」で日本の音楽界にデビューした。特に2005年秋に放送されたフジテレビの人気ドラマ「1リットルの涙」のテーマ曲「Only Human」を歌い、大ヒットした。スポーツニッポンはKが甘い声で着実に人気を得ており、8月31日からは全国ツアーを実施する計画だと伝えた。

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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.13イスラエルVSハマス「ガザ地区死傷者1100人以上」虐殺の大地

2014年07月29日 19時32分50秒 | 日記




中東のイスラエルVS


イスラム教原理主義テロ組織ハマス


との戦いで、


ついにガザ地区の死傷者が


1100人以上となった。


多くは一般人だが、


ニュースだけみると


イスラエルが一方的に悪いみたいな姿勢だ。


が、ハマスだって

ロケット砲を何万発もイスラエルに撃ち込み


自爆テロで被害を与えている。

問題は被害者が一般人という事


ハマスが一般人を「人間の盾」にしているんだ!


悪辣なのはハマスのほうだ!



緑川鷲羽・フリージャーナリスト・山形県

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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.11佐世保同級生殺害事件高校一年女子生徒逮捕!告別式

2014年07月29日 19時11分00秒 | 日記






高1女子を殺害容疑、同級生の女子生徒を逮捕・送検 長崎

2014年7月29日


 長崎県警は27日、同県佐世保市の県立高校1年、松尾愛和(あいわ)さん(15)を殺害したとして、同じ高校の同級生の女子生徒(16)=同市=を殺人容疑で緊急逮捕し、発表した。2014年7月29日は殺害された松尾愛和さんの通夜・告別式であった。


県警によると、松尾さんの遺体は首と左手首が切断されていた。県警は、松尾さんの死後に生徒が切断したとみて、死体損壊容疑でも調べた。

愛和さんの両親は「短い命であったが、娘は宝ものであった。娘を愛してくれてありがとう」

 発表によると、女子生徒は26日午後8時ごろ、自宅のマンションで、松尾さんの後頭部を工具で何度も殴ったうえ、ひものようなもので首を絞めて殺害した。


女子生徒はこの部屋で一人暮らしをしていた。「すべて私がやりました」と話しているという。

「ひとを殺してみたかった」

「殺して解体してみたかった」

「人を殺して体の中が見たかった」

と供述してるという。(長崎県佐世保市の教育関係者も報われない(10年前の2004年佐世保小6事件以来「命の大切さ」を教育していたから))

とにかく「殺人」の罪の重さを自覚できていないので精神鑑定にかけるという。


 2人は中学と高校が同じで、高校ではクラスも同じだった。


県警によると、松尾さんは26日午後2~3時ごろ、

「遊びに行く」と言って外出。

午後6時40分ごろ、「今から帰る」と母親にメールがあったが、帰宅しなかったため、

午後11時ごろ、両親が110番通報し、捜索願を出した。


27日午前3時20分ごろ、捜査員が女子生徒の部屋を訪れ、室内のベッドで血を流して、仰向けに倒れている松尾さんを見つけた。

 県警によると、ベッドの上には遺体のほか、遺体の切断に使われたとみられる刃物があり、ベッド脇には殺害に使われたとみられる工具も残されていた。


県警は、女子生徒が松尾さんを殺害後、

遺体を切断したとみており、


ほかにも切断しようとしたような痕があったという。

 松尾さんが見つかった際、


女子生徒は室内にはおらず、


マンションの敷地内で身柄を確保された。


当初は「(松尾さんがどうしたのかは)知りません。夕方ごろに別れた」と話し、

関与を否定していたが、

その後、

佐世保署で事情を聴かれ、容疑を認めたという。

 女子生徒は、母親が昨年秋に亡くなった後、父親が今年に入って再婚。


市内で暮らす父親らと別に、4月ごろから一人暮らしをしていた。

 女子生徒と松尾さんが通う高校の校長によると、2人は「普通に親しい関係」で、トラブルなどは把握していないという。

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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.12創造は習うより慣れろ「作詞曲絵小説も同じ創造」

2014年07月28日 14時10分19秒 | 日記







私はよく小説や


作詞

作曲出来るって


凄いですね、といわれることがあるが


自分では少しも

凄いと思わない。


確かに、


楽器も弾けず

何一つ創造も

できない輩(実妹みたいな)に

「あんなのたいしたことない」(笑)

では苦笑するしかない。

お前何も創れないくせに黙れ!

だよね(笑)



だが創造は習うより慣れろだ。


   緑川鷲羽・フリージャーナリスト・山形県

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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.11佐世保同級生殺害事件高校一年女子生徒逮捕!

2014年07月28日 06時28分10秒 | 日記




高1女子を殺害容疑、同級生の女子生徒を逮捕 長崎

2014年7月27日


 長崎県警は27日、同県佐世保市の県立高校1年、松尾愛和(あいわ)さん(15)を殺害したとして、同じ高校の同級生の女子生徒(16)=同市=を殺人容疑で緊急逮捕し、発表した。


県警によると、松尾さんの遺体は首と左手首が切断されていた。県警は、松尾さんの死後に生徒が切断したとみて、死体損壊容疑でも調べる。



 発表によると、女子生徒は26日午後8時ごろ、自宅のマンションで、松尾さんの後頭部を工具で何度も殴ったうえ、ひものようなもので首を絞めて殺害した疑いがある。


女子生徒はこの部屋で一人暮らしをしていた。「すべて私がやりました」と話しているという。

「ひとを殺してみたかった」

「殺して解体してみたかった」

と供述してるという。(長崎県佐世保市の教育関係者も報われない(10年前の2004年佐世保小6事件以来「命の大切さ」を教育していたから))


 2人は中学と高校が同じで、高校ではクラスも同じだった。


県警によると、松尾さんは26日午後2~3時ごろ、

「遊びに行く」と言って外出。

午後6時40分ごろ、「今から帰る」と母親にメールがあったが、帰宅しなかったため、

午後11時ごろ、両親が110番通報し、捜索願を出した。


27日午前3時20分ごろ、捜査員が女子生徒の部屋を訪れ、室内のベッドで血を流して、仰向けに倒れている松尾さんを見つけた。

 県警によると、ベッドの上には遺体のほか、遺体の切断に使われたとみられる刃物があり、ベッド脇には殺害に使われたとみられる工具も残されていた。


県警は、女子生徒が松尾さんを殺害後、

遺体を切断したとみており、


ほかにも切断しようとしたような痕があったという。

 松尾さんが見つかった際、


女子生徒は室内にはおらず、


マンションの敷地内で身柄を確保された。


当初は「(松尾さんがどうしたのかは)知りません。夕方ごろに別れた」と話し、

関与を否定していたが、

その後、

佐世保署で事情を聴かれ、容疑を認めたという。

 女子生徒は、母親が昨年秋に亡くなった後、父親が今年に入って再婚。


市内で暮らす父親らと別に、4月ごろから一人暮らしをしていた。

 女子生徒と松尾さんが通う高校の校長によると、2人は「普通に親しい関係」で、トラブルなどは把握していないという。

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維新の風と龍馬伝 坂本竜馬と明治維新「船中八策」龍馬の維新回天伝説VOL.5

2014年07月28日 02時28分25秒 | 日記







         7 池田屋の変



  数日後、龍馬は旅支度をした。
 塾生たちは長州にいくのだと思った。
「いや。わしは江戸にいくきに」
「旦那はなぜ東に? 京にいてはまずいんですかい?」藤兵衛がいぶかしがるのもむりはない。京では一触即発の変事がいつおきてもおかしくない。特に、長州は何かやらかすつもりである。
「わしは勝先生に頼まれて軍艦を工面しにいくんじゃ」
 龍馬は笑った。軍艦を手にして、天下をとるかのごとしだ。
「わしはこの乱世を一手におさめるんぜよ」
 いうことだけはおおきい。
 長州は何かやらかすつもりである。無駄死にではあるまい。かれらの武装蜂起は、幕府や日本を動かすかも知れない。しかし、三百年続いた徳川の世がわずか数十人の浪士たちで壊せるはずもない。これはいよいよ薩摩と長州をふっつけて、大軍にして幕府を恫    
喝するしかない。
  龍馬は江戸に着いてすぐ、千葉道場に入った。     
「兵法はすすんだか?」
 貞吉老人は即座にきいた。
「いや、別のことやっちゅうりますきに、いっこうにはかが参りませぬ」
「海軍に夢中になっているのであろう。さな子がまっておるぞ」
 貞吉はにやりと笑った。さな子は年頃の美貌の娘になっている。
 龍馬はさな子の部屋にいくと、「やあ!」と声をかけた。
「龍さん! あいたかったわ!」抱きついてくる。
「……乙女姉さんみたいな臭いがするきに」
「嫌いですか?」
「いや」龍馬は笑って「いい臭いじゃ。わしはこういう臭いが好きじゃ」
「では、さな子も好き?」
「じゃな」龍馬は頷いた。畳みにゆっくりと押し倒した。

  龍馬はうちわで争っているときじゃないと思っていた。このままでは勝先生のいうように日本は外国の植民地になってしまう。龍馬は薩摩と長州をなかよくさせようと走った。京、土佐、江戸、九州……
 出会った人物は、土佐藩北添、薩摩藩西郷吉之助(隆盛)、熊本藩横井小楠、小松帯刀、紀州藩伊達小次郎、福井藩三岡八郎(由利公正)、越中守大久保一翁……
 そして、師匠・勝海舟(麟太郎)。勝こそが維新のための頭脳であった。
  長州藩ら尊皇壤夷派が七卿を奉じて京都を去った今、家茂の上洛は必然のものとなった。役目は、朝廷を警護し、大阪城にとどまって摂海を防衛することである。
 麟太郎は、九月二日、順動丸で品川沖から大阪へ向かった。                
 老中坂井雅楽頭、大目付渡辺肥後守らが同船している。
 麟太郎は坂井に説く。
「ご上洛にうえは、ただ事変のご質問をなされるばかりにて、鎖港の儀につき、公卿衆に問われようとも、何事もお取りつくろうことなく、ご誠実にご返答なさるのが肝要と存じまする」
 老中がその場しのぎの馬鹿なことをいってもらっちゃ困るのだ。
 八日に紀州和歌山沖を通り、大阪天保山沖に到着したのは九日である。
 麟太郎は、順動丸に乗り込む塾生の坂本龍馬や沢村たちを褒めてやった。
「おぬしどもは、だいぶ船に慣れたようだな。あれだけ揺れても酔わねぇとはたいしたもんでい」
 麟太郎の船酔いはいつまでもなおらない。船が揺れるたびに鉢巻きをして、盥に吐き続ける……おえおえおえ。
 神戸海軍塾は、操練所より先に完成していた。龍馬たちは専称寺から毎日荷物を運んだ。 麟太郎は順動丸を神戸に移動させて、新井某に、航海でいたんだ箇所を修繕させ、十五日の朝、砲台建設箇所を見聞したあと、操練所と海軍塾を見た。
 海軍塾は麟太郎の私塾である。建設費用は、松平春巌から出資してもらった千両で充分まかなえたという。
 佐藤与之助にかわって坂本龍馬が海軍塾塾頭になり、その龍馬が建前入用金を記した帳簿を麟太郎に見せた。
「屋敷地八反余、ならびに樹木代六両とも五十二両。
 建物一ケ所、右引移り。地ならしとも三十両。
 塾三門(約五・四メートル)幅、長さ十間(十八・二メートル)、新規畳健具とも百七                   
十両。ほか台所、雪隠(トイレ)、馬屋、門番所、新規七十七両……」
 ほかにも塀や堀、芝などの代金がこまごまのっていたという。
 麟太郎は感心して「お前は何事も大雑把なやつだと思っていたが、以外とこまごまとした勘定をするのだな」と唸った。
 龍馬は師匠にほめられてぞくぞくと嬉しくなった。
「じゃきに、先生とわしは生い立ちが似ちょうとるきに。わしの祖父も商人だったっきに勘定もこまのこうなるますろう」龍馬は赤黒い顔に笑みを浮かべた。
 麟太郎がみると、塾はまだ未完成で、鉢巻きの人足が土のうをつみあげている最中であった。「龍馬、よくやった!」勝海舟は彼をほめた。
 翌日、ひそかに麟太郎は長州藩士桂小五郎に会った。
 京都に残留していた桂だったが、藩命によって帰国の途中に勝に、心中をうちあけたのだ。
 桂は「夷艦襲来の節、下関の対岸小倉へ夷艦の者どもは上陸いたし、あるいは小倉の繁船と夷艦がともづなを結び、長州へむけ数発砲いたせしゆえ、長州の人民、諸藩より下関へきておりまする志士ら数千が、海峡を渡り、違勅の罪を問いただせしことがございました。
 しかし、幕府においてはいかなる評議をなさっておるのですか」と麟太郎に尋ねた。
 のちの海舟、勝麟太郎は苦笑して、「今横浜には諸外国の艦隊が二十四隻はいる。搭載している大砲は二百余門だぜ。本気で鎖国壤夷ができるとでも思ってるのかい?」
 といった。
 桂は「なしがたきと存じておりまする」と動揺した。冷や汗が出てきた。
 麟太郎は不思議な顔をして「ならなぜ夷艦砲撃を続けるのだ?」ときいた。是非とも答えがききたかった。
「ただそれを口実に、国政を握ろうとする輩がいるのです」
「へん。おぬしらのような騒動ばかりおこす無鉄砲なやからは感心しないものだが、この日本という国を思ってのことだ。一応、理解は出来るがねぇ」
 数刻にわたり桂は麟太郎と話て、互いに腹中を吐露しての密談をし、帰っていった。

  十月三十日七つ(午後四時)、相模城ケ島沖に順動丸がさしかかると、朝陽丸にひか          
れた船、鯉魚門が波濤を蹴っていくのが見えた。
 麟太郎はそれを見てから「だれかバッティラを漕いでいって様子みてこい」と命じた。 坂本龍馬が水夫たちとバッティラを漕ぎ寄せていくと、鯉魚門の士官が大声で答えた。「蒸気釜がこわれてどうにもならないんだ! 浦賀でなおすつもりだが、重くてどうにも動かないんだ。助けてくれないか?!」
 順動丸は朝陽丸とともに鯉魚門をひき、夕方、ようやく浦賀港にはいった。長州藩奇兵隊に拿捕されていた朝陽丸は、長州藩主のと詫び状とともに幕府に返されていたという。         
  浦賀港にいくと、ある艦にのちの徳川慶喜、一橋慶喜が乗っていた。
 麟太郎が挨拶にいくと、慶喜は以外と明るい声で、「余は二十六日に江戸を出たんだが、海がやたらと荒れるから、順動丸と鯉魚門がくるのを待っていたんだ。このちいさな船だけでは沈没の危険もある。しかし、三艦でいけば、命だけは助かるだろう。
 長州の暴れ者どもが乗ってこないか冷や冷やした。おぬしの顔をみてほっとした。
 さっそく余を供にしていけ」といった。
 麟太郎は暗い顔をして「それはできません。拙者は上様ご上洛の支度に江戸へ帰る途中です。順動丸は頑丈に出来ており、少しばかりの暴風では沈みません。どうかおつかい下され」と呟くようにいった。
「余の供はせぬのか?」
「そうですねぇ。そういうことになり申す」
「余が海の藻屑となってもよいと申すのか?」
 麟太郎は苛立った。肝っ玉の小さい野郎だな。しかし、こんな肝っ玉の小さい野郎でも幕府には人材がこれしかいねぇんだから、しかたねぇやな。
「京都の様子はどうじゃ? 浪人どもが殺戮の限りを尽くしているときくが……余は狙われるかのう?」
「いいえ」麟太郎は首をふった。「最近では京の治安も回復しつつあります。新選組とかいう農民や浪人のよせあつめが不貞な浪人どもを殺しまくっていて、拙者も危うい目にはあいませんでしたし……」
「左様か? 新選組か。それは味方じゃな?」
「まぁ、そのようなものじゃねぇかと申しておきましょう」
 麟太郎は答えた。
 ……さぁ、これからが忙しくたちまわらなきゃならねぇぞ…

               
  若き将軍・徳川家茂の上洛は海路よりとられ、やがて上陸した。
 この夜、家茂は麟太郎を召し寄せ、昼間の労をねぎらい、自ら酒の酌をして菓子を与えるという破格の扱いをしたという。
 船は暴風にあい、あくる日、子浦にひきかえした。
 各艦長らは麟太郎を罵り、「上様に陸路での上洛をおすすめいたせ!」といきまいた。 その争論をきいた家茂は「いまさら陸路はできぬ。また、海上のことは軍艦奉行がおるではないか。余もまたその意に任す。けして異議を申すではない」とキッパリ言った。
 この”鶴の一声”で争論は止み、静寂が辺りを包んだ。麟太郎は年若い家茂の決然とした言葉を聞き、男泣きに泣いたという。
  麟太郎は家茂の供をして大阪城に入った。
 勝海舟(勝麟太郎)は御用部屋で、「いまこそ海軍興隆の機を失うべきではない!」と力説したが、閣老以下の冷たい反応に、わが意見が用いられることはねぇな、と知った。
  麟太郎は塾生らに幕臣の事情を漏らすことがあった。龍馬もそれをきいていた。
「俺が操練所へ人材を諸藩より集め、門地に拘泥することなく、一大共有の海局としようと言い出したのは、お前らも知ってのとおり、幕府旗本が腐りきっているからさ。俺はいま役高千俵もらっているが、もともとは四十一俵の後家人で、赤貧洗うがごとしという内情を骨身に滲み知っている。
 小旗本は、生きるために器用になんでもやったものさ。何千石も禄をとる旗本は、茶屋で勝手に遊興できねぇ。そんなことが聞こえりゃあすぐ罰を受ける。
 だから酒の相手に小旗本を呼ぶ。この連中に料理なんぞやらせりゃあ、向島の茶屋の板前ぐらい手際がいい。三味線もひけば踊りもやらかす。役者の声色もつかう。女っ気がなければ娘も連れてくる。
 古着をくれてやると、つぎはそれを着てくるので、また新しいのをやらなきゃならねぇ。小旗本の妻や娘にもこずかいをやらなきゃならねぇ。馬鹿げたものさ。
 五千石の旗本になると表に家来を立たせ、裏で丁半ばくちをやりだす。物騒なことに刀で主人を斬り殺す輩まででる始末だ。しかし、ことが公になると困るので、殺されたやつは病死ということになる。ばれたらお家断絶だからな」

  麟太郎は相撲好きである。
 島田虎之助に若き頃、剣を学び、免許皆伝している。島田の塾では一本とっただけでは勝ちとならない。組んで首を締め、気絶させなければ勝ちとはならない。
 麟太郎は小柄であったが、組んでみるとこまかく動き、なかなか強かったという。
 龍馬は麟太郎より八寸(二十四センチ)も背が高く、がっちりした体格をしているので、ふたりが組むと、鶴に隼がとりついたような格好になったともいう。龍馬は手加減したが、勝負は五分五分であった。
 龍馬は感心して「先生は牛若丸ですのう。ちいそうて剣術使いで、飛び回るきに」
 麟太郎には剣客十五人のボディガードがつく予定であった。越前藩主松平春巌からの指示だった。
 しかし、麟太郎は固辞して受け入れなかった。
  慶喜は、麟太郎が大坂にいて、春嶽らと連絡を保ち、新しい体制をつくりだすのに尽力するのを警戒していたという。
 外国領事との交渉は、本来なら、外国奉行が出張して、長崎奉行と折衝して交渉するのがしきたりであった。しかし、麟太郎はオランダ語の会話がネイティヴも感心するほど上手であった。外国軍艦の艦長とも親しい。とりわけ麟太郎が長崎にいくまでもなかった。 慶喜は「長崎に行き、神戸操練習所入用金のうちより書籍ほかの必要品をかいとってまいれ」と麟太郎に命じた。どれも急ぎで長崎にいく用件ではない。
 しかし、慶喜の真意がわかっていても、麟太郎は命令を拒むわけにはいかない。
 麟太郎は出発するまえ松平春嶽と会い、参与会議には必ず将軍家茂の臨席を仰ぐように、念をおして頼んだという。
 麟太郎は二月四日、龍馬ら海軍塾生数人をともない、兵庫沖から翔鶴丸で出航した。
 海上の波はおだやかであった。海軍塾に入る生徒は日をおうごとに増えていった。
 下関が、長州の砲弾を受けて事実上の閉鎖状態となり、このため英軍、蘭軍、仏軍、米軍の大艦隊が横浜から下関に向かい、攻撃する日が近付いていた。
 麟太郎は龍馬たちに珍しい話をいろいろ教えてやった。                   
「公方様のお手許金で、ご自分で自由に使える金はいかほどか、わかるけい?」
 龍馬は首をひねり「さぁ、どれほどですろうか。じゃきに、公方様ほどのひとだから何万両くらいですろう?」
「そんなことはねぇ。まず月に百両ぐらいさ。案外少なかろう?」
「わしらにゃ百両は大金じゃけんど、天下の将軍がそんなもんですか」
 麟太郎一行は、佐賀関から陸路をとった。ふつうは駕篭にのる筈だが、麟太郎は空の駕籠を先にいかせ後から歩いた。暗殺の用心のためである。
 麟太郎は、龍馬に内心をうちあけた。
「日本はどうしても国が小さいから、人の器量も大きくなれねぇのさ。どこの藩でも家柄が決まっていて、功をたてて大いに出世をするということは、絶えてなかった。それが習慣になっているから、たまに出世をする者がでてくると、たいそう嫉妬をするんだ。
 だから俺は功をたてて大いに出世したときも、誰がやったかわからないようにして、褒められてもすっとぼけてたさ。幕臣は腐りきってるからな。
 いま、お前たちとこうして歩いているのは、用心のためさ。九州は壤夷派がうようよしていて、俺の首を欲しがっているやつまでいる。なにが壤夷だってんでぃ。
 結局、尊皇壤夷派っていうのは過去にしがみつく腐りきった幕府と同じだ。
 誰ひとり学をもっちゃいねぇ。
 いいか、学問の目指すところはな。字句の解釈ではなく、経世済民にあるんだ。国をおさめ、人民の生活を豊かにさせることをめざす人材をつくらなきゃならねぇんだ。
 有能な人材ってえのは心が清い者でなければならねぇ。貪欲な人物では駄目なんだ。まずは藩だとかではなく日本人として考えろ! それが第一でい!」

  麟太郎が長崎にいくと、「長崎には長州藩士たちがはいってきていて、麟太郎を殺す算段をしている」という情報がはいった。
 二十六日、長州藩士たちが蒸気船を訪ねてきた。龍馬と沢村が会った。龍馬はいつでも刀を抜き、斬り殺せるように身構えていた。
「貴公がたは、何のようで先生に会見を希望しとっじゃきにか?」
「軍艦奉行殿にわれらの本意を申しあげとうござりまする」
「じゃきに、本意とはなんですろう?」
 龍馬は今にも刀を抜こうかと、鋭い眼で相手を睨む。
「長州藩は勅命を奉じ、下関を通る外国船を砲撃したのでござる。それが長州藩追放とは納得いきません」
「幕府が異人をそそのかして下関を攻撃させたっちゅうのは嘘じゃがに。先生は米国や英国に交渉して攻撃をとめようとしちゃがてすろう」
 長州藩士たちは「拙者どもは明後日帰国しますから、それまでに勝先生に会いたいのです」と嘆願した。龍馬はそれを勝麟太郎に伝えた。麟太郎は気安く答えた。
「明日は西役所にいって機械買い上げの話をしなくちゃならねぇから、明後日の暮れ六つ(午後六時)に来るがいい、と言ってやれ」

  三月六日、麟太郎は龍馬を連れて、長崎港に入港し、イギリス海軍の演習を見た。
「まったくたいしたもんだぜ。英軍の水兵たちは指示に正確にしたがい、列も乱れない」 その日、オランダ軍艦が入港して、麟太郎と下関攻撃について交渉した。
 その後、麟太郎は龍馬たちにもらした。
「きょうはオランダ艦長にきつい皮肉をいわれたぜ」
「どがなこと、いうたがですか?」龍馬は興味深々だ。
「アジアの中で日本が褒められるのは国人どおしが争わねぇことだとさ。こっちは長州藩征伐のために動いてんのにさ。他の国は国人どおしが争って駄目になってる。
 確かに、今までは戦国時代からは日本人どおしは戦わなかったがね、今は違うんだ。まったく冷や水たらたらだったよ」
 麟太郎は、四月四日に長崎を出向した。船着場には愛人のお久が見送りにきていた。お久はまもなく病死しているので、最後の別れだった。お久はそのとき麟太郎の子を身籠もっていた。のちの梶梅太郎である。
 四月六日、熊本に到着すると、細川藩の家老たちが訪ねてきた。
 麟太郎は長崎での外国軍との交渉の内容を話した。
「外国人は海外の情勢、道理にあきらかなので、交渉の際こちらから虚言を用いず直言して飾るところなければ、談判はなんの妨げもなく進めることができます。
 しかし、幕府役人をはじめわが国の人たちは、皆虚飾が多く、大儀に暗うございます。それゆえ、外国人どもは信用せず、天下の形成はなかなかあらたまりません」
 四月十八日、麟太郎は家茂の御前へ呼び出された。
 家茂は、麟太郎が長崎で交渉した内容や外国の事情について尋ねてきた。麟太郎はこの若い将軍を敬愛していたので、何もかも話した。大地球儀を示しつつ、説明した。
「いま外国では、ライフル砲という強力な武器があり、アメリカの南北戦争でも使われているそうにござりまする。またヨーロッパでも強力な兵器が発明されたようにござりまする」
「そのライフル砲とやらはどれほど飛ぶのか?」
「およそ五、六十町はらくらくと飛びまする」
「こちらの大砲はどれくらいじゃ?」
「およそ八、九町にござりまする」
「それでは戦はできぬな。戦力が違いすぎる」
 家茂は頷いてから続けた。「そのほうは海軍興起のために力を尽くせ。余はそのほうの望みにあわせて、力添えしてつかわそう」
   四月二十日、麟太郎は龍馬や沢村らをひきつれて、佐久間象山を訪ねた。象山は麟太郎の妹順子の夫である。彼は幕府の中にいた。そして、知識人として知られていた。
 龍馬は、麟太郎が長崎で十八両を払って買い求めた六連発式拳銃と弾丸九十発を、風呂敷に包んで提げていた。麟太郎からの贈物である。
「これはありがたい。この年になると狼藉者を追っ払うのに剣ではだめだ。ピストールがあれば追っ払える」象山は礼を述べた。
「てやんでい。あんたは俺より年上だが、妹婿で、義弟だ。遠慮はいらねぇよ」
 麟太郎は「西洋と東洋のいいところを知ってるけい?」と問うた。
 象山は首をひねり、「さぁ?」といった。すると勝海舟が笑って「西洋は技術、東洋は道徳だぜ」といった。
「なるほど! それはそうだ。さっそく使わせてもらおう」
 ふたりは議論していった。日本の中で一番の知識人ふたりの議論である。ときおりオランダ語やフランス語が混じる。龍馬たちは唖然ときいていた。
「おっと、坂本君、皆にシヤンパンを…」象山ははっとしていった。
 龍馬は「佐久間先生、牢獄はどうでしたか?」と問うた。象山は牢屋に入れられた経験がある。象山は渋い顔をして「そりゃあひどかったよ」といった。

  麟太郎は、わが息子ほどの年頃の家茂が、いとおしくてたまらない。
 彼は御前を退出したのち、龍馬たちにいった。
「あんな明敏な上様が、ばかどもに取り巻かれて、邪魔ばかりされ、お望みのようにお動きにおなりねぇのをみると、本当に涙がこぼれるよ」
 その”馬鹿ども”幕臣たちにはこういった。
「あいつらの心中は読めてるさ。鎖国なんてできっこねぇのを知りながら、近頃天狗党だのという過激派がはびこってるんで、恐れてるだけさ。しかも、その場しのぎに大言壮語しやがる。真に憎むべきは奴らだよ」                        
 麟太郎はこの年、安房守に出世した。安房とは現在の千葉県のことである。


  新選組の血の粛清は続いた。
 必死に土佐藩士八人も戦った。たちまち、新選組側は、伊藤浪之助がコブシを斬られ、刀をおとした。が、ほどなく援軍がかけつけ、新選組は、いずれも先を争いながら踏み込み踏み込んで闘った。土佐藩士の藤崎吉五郎が原田左之助に斬られて即死、宮川助五郎は全身に傷を負って手負いのまま逃げたが、気絶し捕縛された。他はとびおりて逃げ去った。 土方は別の反幕勢力の潜む屋敷にきた。
「ご用改めである!」歳三はいった。ほどなくバタバタと音がきこえ、屋敷の番頭がやってきた。「どちらさまで?」
「新選組の土方である。中を調べたい!」
 泣く子も黙る新選組の土方歳三の名をきき、番頭は、ひい~っ、と悲鳴をあげた。
 殺戮集団・新選組……敵は薩摩、長州らの倒幕派の連中だった。

「外国を蹴散らし、幕府を倒せ!」
 尊皇壤夷派は血気盛んだった。安政の大獄(一八五七年、倒幕勢力の大虐殺)、井伊大老暗殺(一八六〇年)、土佐勤王党結成(一八六一年)………

 壤夷派は次々とテロ事件を起こした。
  元治元年(一八六四)六月、新選組は”長州のクーデター”の情報をキャッチした。         
 六月五日早朝、商人・古高俊太郎の屋敷を捜査した。
「トシサン、きいたか?」
 近藤はきいた。土方は「あぁ、長州の連中が京に火をつけるって話だろ?」
「いや……それだけじゃない!」近藤は強くいった。
「というと?」
「商人の古高を壬生に連行し、拷問したところ……長州の連中は御所に火をつけてそのすきに天子さま(天皇のこと)を長州に連れ去る計画だと吐いた」
「なにっ?!」土方はわめいた。「なんというおそるべきことをしようとするか、長州者め! で、どうする? 近藤さん」
「江戸の幕府に書状を出した」
 近藤はそういうと、深い溜め息をもらした。
 土方は「で? なんといってきたんだ?」と問うた。
「何も…」近藤は激しい怒りの顔をした。「幕臣に男児なし! このままではいかん!」 歳三も呼応した。「そうだ! その通りだ、近藤さん!」
「長州浪人の謀略を止めなければ、幕府が危ない」
 近藤がいうと、歳三は「天子さまをとられれば幕府は賊軍となる」と語った。
 とにかく、近藤勇たちは決断した。

  池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だったという。このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、           
副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかったという。
 最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。新選組はさっそく捜査を開始した。そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。
 池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。
 桂小五郎は「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。
 ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。
 あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。
 いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にだんだら染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。
「新選組だ! ご用改めである!」
 近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がそれに続いた。
「桂はん…新選組です」芸者が彼につげた。桂小五郎は「すまぬ」といい遁走した。
 近藤は廊下から出てきた土佐脱藩浪人北添を出会いがしらに斬り殺した。
 倒れる音で、浪人たちが総立ちになった。
「落ち着け!」そういったのは長州の吉田であった。刀を抜き、藤堂の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて藤堂の頭を斬りつけた。藤堂平助はころがった。が、生きていた。兜の鉢金をかぶっていたからだという。昏倒した。乱闘になった。
 近藤たちはわずか四人、浪人は二十数名いる。
「手むかうと斬る!」
 近藤は叫んだ。しかし、浪人たちはなおも抵抗した。事実上の戦力は、二階が近藤と永倉、一階が沖田総司ただひとりであった。屋内での乱闘は二時間にもおよんだ。
 沖田はひとりで闘い続けた。沖田の突きといえば、新選組でもよけることができないといわれたもので、敵を何人も突き殺した。
 沖田は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、沖田はすぐに起き上がることができなかった。
 そのとき、沖田は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
 なおも敵が襲ってくる。そのとき、沖田は無想で刀を振り回した。沖田はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
 新選組は近藤と永倉だけになった。しかし、土方たちが駆けつけると、浪人たちは遁走(逃走)しだした。こうして、新選組は池田屋で勝った。
 沖田は病気(結核)のことを隠し、「あれは返り血ですよ」とごまかしたという。
 早朝、池田屋から新選組はパレードを行った。
 赤い「誠」の旗頭を先頭に、京の目抜き通りを行進した。こうして、新選組の名は殺戮集団として日本中に広まったのである。江戸でもその話題でもちきりで、幕府は新選組の力を知って、隊士をさらに増やすように資金まで送ってきたという。

「坂本はん、新選組知ってますぅ?」料亭で、芸子がきいた。龍馬は「あぁ…まぁ、知ってることはしっちゅぅ」といった。彼は泥酔して、寝転がっていた。
「池田屋に斬りこんで大勢殺しはったんやて」とはのちの妻おりょう。
「まあ」龍馬は笑った。「やつらは幕府の犬じゃきに」
「すごい人殺しですわねぇ?」
「今はうちわで争うとる場合じゃなかきに。わしは今、薩摩と長州を連合させることを考えちゅう。この薩長連合で、幕府を倒す! これが壤夷じゃきに」
「まぁ! あなたはすごいこと考えてるんやねぇ」おりょうは感心した。
 すると龍馬は「あぁ! いずれあいつはすごきことしよった……っていわれるんじゃ」と子供のように笑った。
 その夜、おりょうと龍馬は愛しあった。龍馬は彼女との結婚を考えるようになる。わしにはぴったりな女子ぜよ! おりょうは男好きする女である。この女となら……

  十二日の夕方、麟太郎の元へ予期しなかった悲報がとどいた。前日の八つ(午後二時)       
頃、佐久間象山が三条通木屋町で刺客の凶刀に倒れたという。
「俺が長崎でやった拳銃も役には立たなかったか」
 勝麟太郎は暗くいった。ひどく疲れて、目の前が暗く、頭痛がした。
 象山はピストルをくれたことに礼を述べ、広い屋敷に移れたことを喜んでいた。しかし、象山が壤夷派に狙われていることは、諸藩の有志者が知っていたという。
「なんてこった!」
 のちの勝海舟(麟太郎)は嘆いた。
「勝先生……どげんすっとじゃろう?」龍馬はその報をきいて、勝海舟がどんな動きをみせるか、興味を、もった。


  朝は開国、夜は壤夷といわれた土佐藩主・山内容堂の”大獄”がはじまった。
 岡田以蔵は勝海舟の元を離れ、土佐(高知県)にもどったところを土佐藩士たちに取押さえられた。
 以蔵は最初、刀を抜いて殺そうと思ったが、勝のいう言葉を思いだして刀を抜かなかった。この土佐の山内容堂の”大獄”は尊皇壤夷たちを土佐からすべて殺戮してしまおうと     
いうものだった。まるで幕府の井伊大老のやったのちにゆう”安政の大獄”のままだ。
 岡田以蔵は籠にいれられて拷問を受けた。
 土佐の開国派だった吉田東洋たちを殺したというのだ。
 それをやったのが岡田以蔵らであり、黒幕がいるというのである。
 黒幕の容疑で、武市半平太も牢獄にいれられた。
 しかし、武市半平太は『白札』だったために拷問は受けない。
 ただ、質問を受けた。
「吉田東洋さまや京で土佐藩士たちを殺戮指示したのはお主か?」
 武市半平太は答えない。
「もう一度きくぞ! 吉田東洋さまを殺すようにいったのは貴様か?!」
「………土佐藩士は口を割りますまい」
「なに?!」
 岡田以蔵はさらに拷問を受けた。石のぎざぎざ石床に座らされ、脚に石を積まれて木刀で殴られる。それでも以蔵は悲鳴をあげるだけで、口を割らない。
 ……以蔵耐えよ……
 武市半平太は遠くの悲鳴をききながら、考えた。
 ………以蔵がすべてのことをひとりでやったとあれば私は助かるかも知れない…
 虫のいい考えである。
 すべて岡田以蔵に罪をかぶせようというのだ。
 東洋たちの暗殺指示者は間違いなく武市半平太である。
 岡田以蔵はさらに拷問を受けた。
 他の土佐勤皇党の連中は次々と斬首される。
 岡田以蔵は口を割らないままに夜になった。
 龍馬は武市半平太や岡田以蔵たちの逮捕の報をお田鶴さまからきくと、駆け出した。
「龍馬さま~っ! いっても無駄です! 殺されますよ!」
 しかし、龍馬は土佐にむけて駆け出した。
  武市半平太は意を決した。
 ………以蔵がすべてのことをひとりでやったとあれば私は助かるかも知れない…
 武市は夜、自分の息のかかった武士を牢屋に呼んだ。
「……用意したか?」
「はっ。これが毒薬にござりまする。これをまぜたおにぎりを以蔵に食べさせまする」
 ひそひそいった。
 すべては岡田以蔵すべてに罪をかけようとした。
 岡田以蔵は薄暗い牢屋で横になっていた。拷問で、ぐったりと地面に横になっている。
             
彼は武市半平太を先生と呼んでおり、弟子だった。
 謀殺しようと、武士の男は横たわる以蔵の牢に入り、水とおにぎりをやった。
「武市先生からの差し入れだ。ろくなもの食ってないのだろう」
 岡田以蔵はおにぎりを貪るように食べた。そして、吐いた。
「先生が………わしを殺そうとしおった……先生が…」
 武士は動揺して、バレた、という顔をした。
 以蔵は藩の役人にすべてを話した。
 吉田東洋などの暗殺指示者が武市半平太であることや土佐勤皇党の関与……
「わしは土佐藩のものではない。勝海舟先生の弟子の岡田以蔵じゃ!」
 岡田以蔵は斬首された。享年二十八歳。また、武市半平太は武士として切腹して果てた。享年三十七だった。武市半平太には愛する妻・富子がいた。
 龍馬が駆けつけたときはすでに手遅れ、富子は号泣して龍馬を困らせた。
 姉の乙女はそんな龍馬を叱った。
 龍馬は雪のふりしきる中、以蔵たちの墓にいき、号泣した。
「……以蔵さん。武市さん……おんしらの命うばったのは…身分じゃ。わしは……身分も何もない国にこの日本国を…そう日本をつくるきに…」
 龍馬は墓にすがって、男泣きに泣いた。
 すべては幕府が悪い藩が悪い……この国は回天させねばならん!
 それが龍馬の信念になっていく。
「まずは薩摩と長州をくっつけて新しい政府ばつくるぜよ! それしかないきに!」

                             
         8 薩長同盟





  麟太郎(勝海舟)は妹婿佐久間象山の横死によって打撃を受けた。
 麟太郎は元治元年(一八六四)七月十二日の日記にこう記した。
「あぁ、先生は蓋世の英雄、その説正大、高明、よく世人の及ぶ所にあらず。こののち、われ、または誰にか談ぜん。
 国家の為、痛憤胸間に満ち、策略皆画餅」
 幕府の重役をになう象山と協力して、麟太郎は海軍操練所を強化し、わが国における一大共有の海局に発展させ、ひろく諸藩に人材を募るつもりでいた。
 そのための強力な相談相手を失って、胸中の憤懣をおさえかね、涙を流して龍馬たちにいった。
「考えてもみろ。勤皇を口にするばか者どもは、ヨーロッパの軍艦に京坂の地を焼け野原にされるまで、目が覚めねぇんだ。象山先生のような大人物に、これから働いてもらわなきゃならねぇときに、まったく、なんて阿呆な連中があらわれやがったのだろう」

                
  長州の久坂玄瑞(義助)は、吉田松陰の門下だった。
 久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期にはあの高杉晋作がいた。ともに若いふたりは吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。
 玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。龍馬と晋作は馬が合った。晋作はやがて龍馬より先に労咳(結核)で死ぬ。が、彼の奇兵隊や開国の志は、龍馬の未来絵図を描かせるに十分であった。
 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?
 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。
 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。
 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……
 松陰は思う。
 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……
 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。
 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。
 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。
 しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。幕府に睨まれるのを恐れた長州藩(薩摩との同盟前)はかれを処刑してしまう。
 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。  
 …吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。
  文久二(一八六二)年十二月、久坂玄瑞は兵を率いて異人の屋敷に火をかけた。紅蓮の炎が夜空をこがすほどだったという。玄瑞は医者の出身で、武士ではなかった。
 しかし、彼は”尊皇壤夷”で国をひとつにまとめる、というアイデアを提示し、朝廷工作までおこなった。それが公家や天子(天皇)に認められ、久坂玄瑞は上級武士に取り立てられた。彼の長年の夢だった「サムライ」になれたのである。
 京での炎を、麟太郎も龍馬も目撃したという。
 久坂玄瑞は奮起した。
  文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長      
州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。
 薩摩からの使者は西郷隆盛だった。
「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じやっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」
 軟弱にして知能鮮しといわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放してしまう。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。
 かれは納得がいかず、長州の二千の兵をひきいて京にむかった。
 幕府と薩摩は、御所に二万の兵を配備した。
  元治元年(一八六四)七月十七日、石清水八幡宮で、長州軍は軍儀をひらいた。
 軍の強攻派は「入廷を認められなければ御所を攻撃すべし!」と血気盛んにいった。
 久坂は首を横に振り、「それでは朝敵となる」といった。
 怒った強攻派たちは「卑怯者! 医者に何がわかる?!」とわめきだした。
 久坂玄瑞は沈黙した。
 頭がひどく痛くなってきた。しかし、久坂は必死に堪えた。
  七月十九日未明、「追放撤回」をもとめて、長州軍は兵をすすめた。いわゆる「禁門の変」である。長州軍は蛤御門を突破した。長州軍優位……しかし、薩摩軍や近藤たちの新選組がかけつけると形勢が逆転する。
「長州の不貞なやからを斬り殺せ!」近藤勇は激を飛ばした。
 久坂玄瑞は形勢不利とみるや顔見知りの公家の屋敷に逃げ込み、
「どうか天子さまにあわせて下され。一緒に御所に連れていってくだされ」と嘆願した。 しかし、幕府を恐れて公家は無視をきめこんだ。
 久坂玄瑞、一世一代の危機である。彼はこの危機を突破できると信じた。祈ったといってもいい。だが、もうおわりだった。敵に屋敷の回りをかこまれ、火をつけられた。
 火をつけたのが新選組か薩摩軍かはわからない。
 元治元年(一八六四)七月十九日、久坂玄瑞は炎に包まれながら自決する。享年二十五 火は京中に広がった。そして、この事件で、幕府や朝廷に日本をかえる力はないことが日本人の誰もが知るところとなった。
  麟太郎の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、麟太郎は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのりジエノサイド(大量殺戮)を繰り返しているという。
 龍馬と麟太郎は有志たちの死を悼んだ。


  そんな中、事件がおこる。
 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このままではわが国は外国の植民地になる!」
 麟太郎は危機感をもった。
「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。
「そうだな……」麟太郎は溜め息をもらした。

  慶応二(一八六六)年、幕府は長州征伐のため、大軍を率いて江戸から発した。
 それに対応したのが、高杉晋作だった。
「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」
 高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分をとわず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。
「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。
 幕府は長州征伐のため、十五万の大軍を率いて侵攻してきた。ここにいたって長州藩は戦わずにして降伏、藩の老中が切腹することとなった。さらに長州藩の保守派は「倒幕勢力」を殺戮していく。高杉晋作も狙われた。
「このまま保守派や幕府をのさばらせていては日本は危ない」
 その夜、「奇兵隊」に決起をうながした。              
 ……真があるなら今月今宵、年明けでは遅すぎる……
 「奇兵隊」決起! その中には若き伊藤博文の姿もあったという。高杉はいう。
「これより、長州男児の意地をみせん!」
 こうして「奇兵隊」が決起して、最新兵器を駆使した戦いと高杉の軍略により、長州藩の保守派を駆逐、幕府軍十万を、「奇兵隊」三千五百人だけで、わずか二ケ月でやぶってしまう。
(高杉晋作は維新前夜の慶応三年に病死している。享年二十九)
 その「奇兵隊」の勝利によって、武士の時代のおわり、が見えきた。

  幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。
 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。
「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」
 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。
 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!
 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。
 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。
 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」
 坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
 話を少し戻す。
  龍馬は慶応二年(一八六六)正月二十一日のその日、西郷隆盛に「同盟」につき会議をしたいと申しでた。場所については龍馬が「長州人は傷ついている。かれらがいる小松の邸宅を会場とし、薩摩側が腰をあげて出向く、というのではどうか?」という。
 西郷は承諾した。「しかし、幕府の密偵がみはっておる。じゃっどん、びわの稽古の会とでもいいもうそうかのう」
 一同が顔をそろえたのは、朝の十時前であったという。薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、吉井幸輔のほか、護衛に中村半次郎ら数十人。長州は桂小五郎ら四人であった。 夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。
幕府はその頃、次々とやってくる外国との間で「不平等条約」を結んでいた。結ぶ……というより「いいなり」になっていた。
 そんな中、怒りに震える薩摩藩士・西郷吉之助(隆盛)は勝海舟を訪ねた。勝海舟は幕府の軍艦奉行で、幕府の代表のような人物である。しかし、開口一番の勝の言葉に西郷は驚いた。
「幕府は私利私欲に明け暮れていている。いまの幕府に日本を統治する力はない」
 幕府の代表・勝海舟は平然といってのけた。さらに勝は「日本は各藩が一体となった共和制がよいと思う」とも述べた。
 西郷隆盛は丸い体躯を動かし、にやりとしてから「おいどんも賛成でごわす」と言った。 彼は勝のいう「共和制」に賛成した。それがダメなら幕府をぶっこわす!
 やがて、坂本龍馬の知恵により、薩長同盟が成立する。
 西郷隆盛らは天皇を掲げ、錦の御旗をかかげ官軍となった。
 勝海舟はいう。「今までに恐ろしい男をふたり見た。ひとりはわが師匠、もうひとりは西郷隆盛である」
  龍馬は慶応二年(一八六六)正月二十一日のその日、西郷隆盛に「同盟」につき会議をしたいと申しでた。場所については龍馬が「長州人は傷ついている。かれらがいる小松の邸宅を会場とし、薩摩側が腰をあげて出向く、というのではどうか?」という。
 西郷は承諾した。「しかし、幕府の密偵がみはっておる。じゃっどん、びわの稽古の会とでもいいもうそうかのう」
 一同が顔をそろえたのは、朝の十時前であったという。薩摩からは西郷吉之助(隆盛)、小松帯刀、吉井幸輔のほか、護衛に中村半次郎ら数十人。長州は桂小五郎ら四人であった。 夕刻、龍馬の策で、薩長同盟は成立した。
 龍馬は「これはビジネスじゃきに」と笑い、「桂さん、西郷さん。ほれ握手せい」
「木戸だ!」桂小五郎は改名し、木戸寛治→木戸考充と名乗っていた。
「なんでもええきに。それ次は頬づりじゃ。抱き合え」
「……頬づり?」桂こと木戸は困惑した。
 なんにせよ西郷と木戸は握手し、連盟することになった。
 内容は薩長両軍が同盟して、幕府を倒し、新政府をうちたてるということだ。そのためには天皇を掲げて「官軍」とならねばならない。長州藩は、薩摩からたりない武器兵器を輸入し、薩摩藩は長州藩からふそくしている米や食料を輸入して、相互信頼関係を築く。 龍馬の策により、日本の歴史を変えることになる薩長連合が完成する。
 龍馬は乙女にあてた手紙にこう書く。
 ……日本をいま一度洗濯いたし候事。
 また、龍馬は金を集めて、日本で最初の株式会社、『亀山社中』を設立する。のちの『海援隊』で、ある。元・幕府海軍演習隊士たちと長崎で創設したのだ。この組織は侍ではない近藤長次郎(元・商人・土佐の饅頭家)が算盤方であったが、外国に密航しようとして失敗。長次郎は自決する。
 天下のお世話はまっことおおざっぱなことにて、一人おもしろきことなり。ひとりでなすはおもしろきことなり。
 龍馬は、寺田屋事件で傷をうけ(その夜、風呂に入っていたおりょうが気付き裸のまま龍馬と警護の長州藩士・三好某に知らせた)、なんとか寺田屋から脱出、龍馬は左腕を負傷したが京の薩摩藩邸に匿われた。重傷であったが、おりょうや薩摩藩士のおかげで数週間後、何とか安静になった。この縁で龍馬とおりょうは結婚する。そして、数日後、薩摩藩士に守られながら駕籠に乗り龍馬・おりょうは京を脱出。龍馬たちを乗せた薩摩藩船は長崎にいき、龍馬は亀山社中の仲間たちに「薩長同盟」と「結婚」を知らせた。グラバー邸の隠し天上部屋には高杉晋作の姿が見られたという。長州藩から藩費千両を得て「海外留学」だという。が、歴史に詳しいひとならご存知の通り、それは夢に終わる。晋作はひと知れず血を吐いて、「クソッタレめ!」と嘆いた。当時の不治の病・労咳(肺結核)なのだ。しかも重症の。でも、晋作はグラバーに発病を知らせず、「留学はやめました」というのみ。「WHY?何故です?」グラバーは首を傾げた。「長州がのるかそるかのときに僕だけ海外留学というわけにはいきませんよ」晋作はそういうのみである。そして、晋作はのちに奇兵隊や長州藩軍を率いて小倉戦争に勝利する訳である。龍馬と妻・おりょうらは長崎から更に薩摩へと逃れた。この時期、薩摩藩により亀山社中の自由がきく商船を手に入れた。療養と結婚したおりょうとの旅行をかねて、霧島の山や温泉にいった。これが日本人初の新婚旅行である。のちにおりょうと龍馬は霧島山に登山し、頂上の剣を握り、「わしはどげんなるかわからんけんど、もう一度日本を洗濯せねばならんぜよ」と志を叫んだ。
 龍馬はブーツにピストルといういでたちであったという。

  麟太郎はいよいよ忙しくなった。
 


  麟太郎はいよいよ忙しくなった。
  幕府の中での知識人といえば麟太郎と西周くらいである。越中守は麟太郎に「西洋の衆議会を日本でも…」といってくれた。麟太郎は江戸にいた。
「龍馬、上方の様子はどうでい?」
 龍馬は浅黒い顔のまま「薩長連合が成り申した」と笑顔をつくった。
「何? まさかてめぇがふっつけたのか?」麟太郎は少し怪訝な顔になった。
「全部、日本国のためですきに」
 龍馬は笑いながらいった。こののち龍馬は京の清風亭で、亀山社中の仲間とともに土佐の後藤象二郎と会談をして、龍馬は土佐藩をも薩長官軍への同調姿勢となすことに成功する。坂本竜馬という名前が有名になって、龍馬は暗殺者から身を守る為に「才谷梅太郎」という仮名をつかうようになる。長崎の貿易商トーマス・グラバー、長崎の豪商・大浦慶(女性)等と商談を成功させる。
 この年、若き将軍家茂が死んだ。勝麟太郎は残念に思い、ひとりになると号泣した。後見職はあの慶喜だ。麟太郎(のちの勝海舟)は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえよう。あとはあの糞野郎か?
 心臓がかちかちの石のようになり、ぶらさがるのを麟太郎は感じていた。全身の血管が凍りつく感触を、麟太郎は感じた。
 ……くそったれめ! 家茂公が亡くなった! なんてこった!
 そんななか、長いこと麟太郎を無視してきた慶喜が、彼をよびだし要職につけてくれた。なにごとでい? 麟太郎は不思議に思った。

  

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偉大なるペテン<小泉の脱原発>小泉純一郎伝(一部文章だけ先行公開2014年執筆中2015年度以降公表予定)4

2014年07月27日 15時39分50秒 | 日記





  最終章 小泉の脱原発と改革

   日本人だけが知らない「洗脳の戦後史」

<我々はいつの間にか「奴隷国化」されてしまった―この闇の歴史を暴く!>2014年8月号小学館SAPIO誌97~107ページ参考文献<奇妙だと思わないか。中国や韓国についてはあれだけ強硬なメディアが、なぜアメリカ相手となると急に黙り込むのか。不思議だと思わないか。集団的自衛権もTPPも規制改革も、本来は対米問題のはずなのになぜアメリカの影が見えなくなっているのか。すべては70年前から続く「洗脳」の歴史によるものだった。>
(1)<奴隷化政策>今も99%の日本人は操られていることを知らない。<NHK、東京地検特捜部、旧通産省、すべてはGHQが作った「洗脳装置」である>認知科学者・苫米地英夫(とまべっち・ひでお)氏(小学館サピオ誌より)
 目下、アメリカはTPPの推進により関税を撤廃させ、日本の企業群を傘下に収めることを企てている。これは単なる経済協定ではなく、日本の富を奪取する、アメリカを裏で支配する者たちの戦略だ。TPPは経済協定の枠を超え、国内法を改正させる条項まである。国民皆保険制度までもが、非関税障壁とされているのだ。
 そもそもアメリカの日本奴隷化政策は戦後、日本人を“洗脳”することから始まった。
1951年9月、世界48カ国とサンフランシスコ平和条約を締結した日本は主権国家として“独立”を果たした。だが、この条約の正文は英語、フランス語、スペイン語によるもので日本語版は準正文扱いになっている。しかも不思議に英文の正文には、独立国家である「inde-pendent」という文字がどこにも存在しないのだ。また吉田茂が読み上げた日本語文章も、事前にアメリカ代表団のウィリアム・J・シーボルトによってチェックされ、書き直されていた。一国のトップによる声明文が他国の外交官に“赤入れ”される屈辱にも日本人は文句もいわず当たり前のように唯々諾々と従った。GHQの戦後6年8か月の間の検閲や悪名高い「ウォー・ギント・インフォメーション・プログラム(WGIP=War Guint Informention Program)」の成果である。「戦争についての罪悪感」を徹底的に日本人に洗脳をかけた訳だ。それは書物、映画、漫画、ラジオ放送(のちにテレビ放送)と長々と続いて、日本人は洗脳で「戦争についての罪悪感」を抱くようになる。それで、「東京大空襲」やら「無差別爆撃」や「広島長崎の原爆」で「大勢の無辜の戦闘員でもない一般市民が大量に殺されて」も、アメリカ人や米国を憎むでもなく「戦争を早く終わらせる為に仕方がなかった犠牲」と敵愾心(てきがいしん)を抱かないように洗脳された。そのようにして戦後も、「日本が高度経済成長が出来たのもアメリカのおかげ」「アメリカ軍のおかげで平和を謳歌出来た(毎年維持費に六千億円払ってるのに)」というアメリカ盲従主義が出来上がった。
日本が得た名ばかりの独立は現在も変わっていない。顕著な例は、日本が今なお国連憲章の敵国条例で「敵国」と認定されていることだ。この条約により、日本が侵略政策を計っていると判断されれば、国連安全保障理事会の許可がなくても近隣諸国は日本を攻撃できる。洗脳されているからこそ「ギブ・ミー・チョコレイト!」であり「アメリカ万歳!」である。日本が真に独立を果たすには、敗戦国は勝戦国に蹂躙されるという歴史に目を向けねばならない。
(2)<海外の視点>南京大虐殺も慰安婦問題も連合国の東京裁判史観から生まれた<英国人記者があえて問う。「日本人はなぜ米国の戦争犯罪を告発しないのか」>
元「フィナンシャル・タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」東京支局長 ヘンリー・S・ストークス氏
 難しい事ではない。広島長崎原爆投下や根拠のない従軍慰安婦問題、東京大阪などへの無差別爆撃……何故に米国の戦争犯罪を「被害者の日本人」がうやむやにするのか?許し、仕方がなかった、というのか?何故に中国や韓国には大声で言えてもアメリカ相手では無口になるのか?こういうと日本人は「では日本人はどうすればいいと思うのですか?」ときくがあまり好きな言葉ではない。逆に聞く。「あなたの答えは? 日本はあなたの国なのだと。」(取材協力・藤田裕行)
(3)<日米安保の真相>安倍首相は祖父の本当の姿を知らない<60年安保闘争はアメリカが仕掛けた「岸信介潰し」だった>
元外務省国際情報局長 孫崎亨(まごさき・うける)氏
世間では岸信介元首相は60年安保を先頭を切って条約締結した対米追随派の代表のようにみられている。確かに日本の政治家やポリシーメーカー(扇動的な人物・政治家やジャーナリスト・テレビ・ラジオコメンテーター等や財界人など大物)は当時アメリカのCIAから毎年200万ドルから1000万ドルも資金が提供されていた。もちろんアメリカにノーと言えない時代だから岸信介も政治献金としてもらっていた。
 だが、岸信介は吉田茂のような対米盲従派ではなかった。旧日米安保条約協定では、米国は日本国のどこにでも自由に基地を設置でき、日本が返還を求めても断る権利を有していた。占領体制を色濃く残した条約・協定で、岸はいきなり破棄させるのは無理だが、部分的にでも返還させようとした。
しかし、在日米軍基地の縮小・返還は、いわば米国の“虎の尾”だ。これを踏もうとする政治家が対米追随者であるはずがない。岸を利用していた米国は、岸の真意に気づき、岸降ろしに動く。それが日本の新聞の岸おろし運動であり、安保闘争になったのだ。いまだに「安保反対!」といっていた団塊の世代は安保条約の本質も条約文も知らないという。
 対米追従派の態度をとりながら日本の真の独立を考えていた岸信介、それに比べれば孫の安倍晋三氏はあまりにも軽い。ナショナリストの顔をした対米盲従派で、「集団的自衛権武力行使」も「日本人の命を守る」のではなく、米軍に援護射撃するだけの話である。
岸信介と安倍晋三氏の政治姿勢は180度違うが、祖父の本当の姿を知って欲しいものだ。
(4)<メディア支配>アメリカ「対日心理計画D27」――日本のマスコミを操作して親米にせよ!<「テレビの父」正力松太郎はCIAから2つの暗号名(コードネーム)が与えられていた>社会学者 有馬哲夫氏  「テレビの父」正力松太郎(民間放送局・日本テレビ創設者)はCIAのエージェントであったのはもはや誰もが知るところだ。正力の任務はやはりアメリカ盲従派をつくること、つまり洗脳である。原爆や大空襲の悲惨さより「戦争を憎む」「自分たちが悪かった」「侵略戦争」「従軍慰安婦」「原発はクリーン」という“洗脳”が彼の、いや、彼らの任務であった。ちなみにコードネームは「ポダム」と「ポジャックポット」である。ラジオではNHK、テレビではNHKに引き続いて日本テレビらがアメリカナイズの“洗脳”を実施したのだ。だからこそ、日本人は「アメリカ人が嫌い」というひとが少ない(英語が分からんからとかいうのは別にして)。
(5)<洗脳の現在>「TPP」「規制緩和」……なぜ日本の国益を損なうことが繰り返されるのか<戦後70年、日本はアメリカに「自発的従属」する国になった>京都大学教授 佐伯啓思(さえき・けいし)氏
米国の典型的な誘導の文句は次のふたつである。「〇〇することは日本の利益になる」。もうひとつは「日本はまだまだ遅れている。今の世界のグローバルスタンダードはこうなっている(竹中平蔵氏らがよくいうセリフ)」という言い方である。すると日本のマスコミ、学者、ジャーナリストの多くがこの誘導に飛びつく。その一方で米国は「日本の判断次第では日米関係が悪化する危険性がある」と「外圧」を仄めかす。すると日本の政治家も「アメリカの言うことが正義だ」「グローバルスタンダードだ」と唯々諾々と従う(前述している“洗脳”によって)日本人が戦後70年も経っていまだに多い。日本人はアメリカ人が親切心から言っていると思っている。「共通の認識を持つ」「日米同盟は世界の基軸」。はたしてそうなのだろうか?アメリカ人のトップであるWASPは肌の色も宗教も人種も何もかも違う黄色人種を「一ランク下だ」と見ている。だから、二回も原爆を落としたのだ。
 だが、日本人は戦争下でおこったことで仕方がない……と、やはり無口になる。これが“洗脳”である。だが、百田尚樹氏のように、ヒステリックに「米国の戦争犯罪」をシャウトしても何も変わらない。もう少し賢く生きるべきだし、戦略的に行動するべきだ。安倍晋三氏では駄目だ、と私が前々から言っているのもこういうことがわからないから、である。戦後70年、まだまだ、日本は主権を回復したとまではいえない。

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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.10 女装男子「男の娘(こ)」空き巣放火で逮捕・送検

2014年07月27日 11時15分08秒 | 日記



東京都内で


女装して空き巣に入って放火した


溝部容疑者(27)

が逮捕・送検された。

普段から「男の娘(こ)」

とよばれる女装男子で、

女装メイド喫茶で

働いていたが、

ギャンブルで借金があったので


空き巣を繰り返したという。


犯罪さえ犯さなければ

女装もメイド姿も自由だ。


悪辣な反社会的行為は許せない

  

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維新の風と龍馬伝 坂本竜馬と明治維新「船中八策」龍馬の維新回天伝説VOL.4

2014年07月27日 04時37分34秒 | 日記




        5 壌夷



  ホノルルに着いて、麟太郎たちはカメハメハ国王に謁見した。
 ハワイの国王は三十五、六に見えた。国王の王宮は壮麗で、大砲が備え付けられ、兵士が護衛のため二列に並んでいた。
 ホノルルは熱帯植物が生い茂り、情熱的だ。麟太郎は舌をまいた。
 ハワイに来航する船の大半は捕鯨船である。来島するのはアメリカ、イギリス、その他の欧州諸国、支那人(中国人)もまた多く移住している。
 咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。
 四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣ったという。そしてそれから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。
「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」
 咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。
 午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。
 幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺されたという。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。
 麟太郎は激昴して「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。 役人はいう。
「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」
 麟太郎は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、
「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。
 幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。

 麟太郎は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終     
えたのち、将軍家茂に謁した。
 麟太郎は老中より質問を受けた。
「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびやかに申すがよい」
 麟太郎は平然といった。
「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」
「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」
 麟太郎は苦笑いした。そしてようやく「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」
 老中は激怒して「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。
 麟太郎は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。
「この無礼者め!」
 老中の罵声が背後からきこえた。
 麟太郎が井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、        
「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだという。
 それをきいて呆れた木村摂津守が、「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」 と諫めた。
 この一件で、幕府家臣たちから麟太郎は白い目で見られることが多くなった。
 麟太郎は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば麟太郎は「裏切り者」にみえる。
 実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。
 しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。
 麟太郎の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。
 友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあったという。
 彼は次々と出世をしていく。
 一方、勝麟太郎は反対に、”窓際”に追いやられていった。海軍操練所教授方頭取を免       
職となり、六月二十四日に天守番之頭過人、番書調所頭取介を命じられた。                                
 過人とは、非常勤の意味だという。麟太郎はこの後二年間、海軍と無縁で過ごした。

  左遷先には有名な学者もいたが、麟太郎にはそんな仕事は退屈きわまりない。朝に出勤すると仕事は部下にまかせ、日当たりのいいところで”ごろ寝”ばかりして過ごした。 ……幕府は腐りきっている。
 いつしか、そんな感情を、勝麟太郎(勝海舟)はもつようになっていった。
 当時は、目付役が諸役所を見回り、役人の勤怠を監視していた。そして、麟太郎の行
             
を見咎め、若年寄に報告したという。                 
「勝はいつ出向いても、肩衣もとらず寝転んで、全く仕事をいたしておりませぬ」
 若年寄は、それを老中に上進し、勝海舟は役職を失いかけない立場にたった。
 彼を支援してくれていた開明派の官僚は、井伊大老の暗殺以降みんな失脚していた。
  麟太郎は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。
 内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものであるという。
 アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。
「歴史を振り返っても、国家多端な状況が今ほど激しい時はなかった。
 昔から栄枯盛衰はあったが、海外からの勢力が押し寄せて来るような事は、初めてである。泰平の世が二百五十年も続き、士気は弛み放題で、様々の弊害を及ぼす習わしが積み重なってたところへ、国際問題が起こった。
 文政、天保の初めから士民と友にしゃしを競い、士気は地に落ちた。国の財政が乏しいというが、賄賂が盛んに行われ上司に媚諂い、賄賂を使ってようやく役職を得ることを、世間の人は怪しみもしなかった。
 そのため、辺境の警備などを言えば、排斥され罰を受ける。
 しかし世人は将軍家治様の盛大を祝うばかりであった。
 文政年間に高橋作左衛門(景保)が西洋事情を考究し、刑せられた。天保十年(一八三九)には、渡辺華山、高野長英が、辺境警備を私議したとして捕縛された。
 海外では文政九年(一八一二)にフランス大乱が起こり、国王ナポレオンがロシアを攻め大敗し、流刑に処せられた後、西洋各国の軍備がようやく盛んになってきた。
 諸学術の進歩、その間に非常なものであった。
 ナポレオンがヘレナ島で死んだ後、大乱も治まり、東洋諸国との交易は盛んになる一方であった。
 天保二年、アメリカ合衆国に経済学校が開かれ、諸州に置かれた。この頃から蒸気機関を用い、船を動かす技術が大いに発達した。
 天保十三年には、イギリス人が蒸気船で地球を一周したが、わずか四十五日間を費やしたのみであった。
 世の中は移り変り、アジアの国々は学術に明るいが実業に疎く、インド、支那のように、ヨーロッパに侮られ、膝を屈するに至ったのは、実に嘆かわしいことである」
 世界情勢を知った勝海舟には、腐りきった幕府が嘆かわしく思えた。

 天保五年、水野忠邦が老中となり改革をおこなったが、腐りきった幕府の「抵抗勢力」に反撃をくらい、数年で失脚してしまった。麟太郎は残念に思った。
「幕府は腐りきった糞以下だ! どいつもこいつも馬鹿ばっかりでい」
 水野失脚のあと、オランダから「日本国内の政治改革をせよ」との国王親書が届いた。 しかし、幕府は何のアクションもとらなかった。
 清国がアヘン戦争で英国に敗れて植民地となった……という噂は九州、中国地方から広まったが、幕府はその事実を隠し通すばかりであった。
 ペリー提督の率いるアメリカ艦隊渡来(嘉永六年(一八五三))以降の変転を麟太郎は思った。麟太郎は、水戸斉昭が世界情勢を知りながら、内心と表に説くところが裏腹であったひとという。真意を幕府に悟られなかったため、壤夷、独立、鎖国を強く主張し、士            
気を鼓舞する一方、衆人を玩弄していたというのである。
 麟太郎は、水戸斉昭の奇矯な振る舞いが、腐りきった幕府家臣への憤怒の現れとみる。斉昭が終始幕府を代表して外国と接すれば今のようなことににはならなかっただろうと残念がる。不遇であるため、鎖国、壤夷、などと主張し、道をあやまった。
「惜しいかな、正大高明、御誠実に乏し」
 麟太郎は斉昭の欠点を見抜いた。
「井伊大老にすれば、激動する危険な中で、十四代将軍を家茂に定めたのは勇断だが、大獄の処断は残酷に過ぎた」
 麟太郎は幕臣は小人の群れだとも説く。小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。斉昭にしても井伊大老にしても大人物ではあったが、周りが小人物ばかりであったため、判断を誤った。
「おしいことでい」勝麟太郎は悔しい顔で頭を振った。
 赤坂の麟太郎の屋敷には本妻のたみと十歳の長女夢と八歳の孝、六歳長男の小鹿がいる。益田糸という女中がいて、麟太郎の傍らにつきっきりで世話をやく。麟太郎は当然手をつける。そして当然、糸は身籠もり、万延元年八月三日、女児を産んだ。三女逸である。 他にも麟太郎には妾がいた。麟太郎は絶倫である。
 当時、武士の外泊は許されてなかったので、妻妾が一緒に住むハメになった。

  井伊大老のあとを受けて大老となった安藤信正は幕臣の使節をヨーロッパに派遣した。 パリ、マルセーユを巡りロンドンまでいったらしいが、成果はゼロに等しかった。
 小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。只、指をくわえて見てきただけのことである。現在の日本政治家の”外遊”に似ている。
 その安藤信正は坂下門下門外で浪人に襲撃され、負傷して、四月に老中を退いた。在職中に英国大使から小笠原諸島は日本の領土であるか? と尋ねられ、外国奉行に命じて、諸島の開拓と巡察を行ったという。開拓などを命じられたのは、大久保越中守(忠寛)である。彼は井伊大老に睨まれ、左遷されていたが、文久二年五月四日には、外国奉行兼任のまま大目付に任命された。
 幕府のゴタゴタは続いた。山形五万石の水野和泉守が、将軍家茂に海軍白書を提出した。軍艦三百七十余隻を備える幕臣に操縦させて国を守る……というプランだった。
「かような海軍を全備致すに、どれほどの年月を待たねばならぬのか?」
 麟太郎は、将軍もなかなか痛いところをお突きになる、と関心した。
 しかし、列座の歴々方からは何の返答もない。皆軍艦など知らぬ無知者ばかりである。 たまりかねた水野和泉守が、
「なにか申すことがあるであろう? 申せ」
 しかし、何の返答もない。
 大久保越中守の目配せで、水野和泉守はやっと麟太郎に声をかけた。
「勝麟太郎、どうじゃ?」
 一同の目が麟太郎に集まった。
 ”咸臨丸の艦長としてろくに働きもしなかったうえに、上司を憚らない大言壮語する” という噂が広まっていた。
 麟太郎が平伏すると、大久保越中守が告げた。
「麟太郎、それへ参れとのごじょうじゃ」
「ははっ!」
 麟太郎は座を立ち、家茂の前まできて平伏した。
 普通は座を立たずにその場で意見をいうのがしきたりだったが、麟太郎はそれを知りながら無視した。麟太郎はいう。
「謹んで申し上げます。これは五百年の後ならでは、その全備を整えるのは難しと存じまする。軍艦三百七十余隻は、数年を出ずして整うべしといえども、乗組みの人員が如何にして運転習熟できましょうか。
 当今、イギリス海軍の盛大が言われまするが、ほとんど三百年の久しき時を経て、ようやく今に至れるものでござります。
 もし海防策を、子々孫々にわたりそのご趣意に背かず、英意をじゅんぼうする人にあらざれば、大成しうるものにはございませぬ。
 海軍の策は、敵を征伐するの勢力に、余りあるものならざれば、成り立ちませぬ」
 勝海舟(麟太郎)は人材の育成を説く。武家か幕臣たちからだけではなく広く身分を問わずに人材を集める、養成するべき、と麟太郎は説く。
 この年、麟太郎門下の坂本龍馬が訪ねてきた。龍馬は前年の文久二年夏、土佐藩を脱藩し、千葉定吉道場で居候していたが、近藤長次郎に連れられ、麟太郎の屋敷を訪ねてきた。 最初は麟太郎を殺すつもりだったが、麟太郎の壮大な構想をきくうちに感化され、すぐに弟子入りをした。
 龍馬は姉・乙女に手紙を書く。”天下一の英傑・勝麟太郎(勝海舟)先生の弟子なりました。えへんえへん”……

  激しい西風を受け、順動丸は正月二十三日の夕方、浦賀港に入り、停泊した。麟太郎は風邪をこじらせていた。麟太郎が風邪で順動丸の中で寝込んでしまったため、兵庫の砲台の位置についての取決めは延期となった。
 この日の午後、坂本龍馬、新宮馬之助、黒木小太郎ら、麟太郎が大阪で開塾した海軍塾生らが順動丸を訪ねた。彼らは塾生仲間だった鳥取藩の岡田星之助が、壤夷派浪人と結託して、麟太郎の命を狙っているので、先手をうって斬るつもりであるという。そして、彼等は落ち着いて話す間もなく引き揚げていった。
 京は物騒で、治安が極端に悪化していた。
 京の町には、薩摩藩、長州藩、土佐藩などの壤夷派浪人があふれており、毎晩どこかで血で血を洗う闘争をしていた。幕府側は会津藩が京守護職であり、守護代は会津藩主・松平容保であった。会津藩は孤軍奮闘していた。
 なかでも長州藩を後ろ盾にする壤夷派浪人が横行し、その数は千人を越えるといわれ、                     
天誅と称して相手かまわず暗殺を行う殺戮行為を繰り返していた。
「危険極まりない天下の形勢にも関わらず、万民を助ける人物が出てこねぇ。俺はその任に当たらねぇだろうが、天朝と幕府のために粉骨して、不測の変に備える働きをするつもりだ」麟太郎はそう思った。とにかく、誰かが立ち上がるしかない。
 そんな時、「生麦事件」が起こる。
 「生麦事件」とは、島津久光が八月二十一日、江戸から京都へ戻る途中、神奈川の手前生麦村で、供先を騎馬で横切ろうとしたイギリス人を殺傷した事件だ。横浜の英国代理公使は「倍賞金を払わなければ戦争をおこす」と威嚇してきた。
「横浜がイギリスの軍港のようになっている今となっては、泥棒を捕まえて縄をなうようなものだが仕方がなかろう。クルップやアームストロングの着発弾を撃ち込まれても砕けねえ石造砲台は、ずいぶん金がかかるぜ」
 麟太郎は幕府の無能さを説く。
「アメリカ辺りでは、一軒の家ぐらいもあるような大きさの石を積み上げているから、直撃を受けてもびくともしねえが、こっちには大石がないから、工夫しなきゃならねえ。砲台を六角とか五角にして、命中した砲弾を横へすべらせる工夫をするんだ」
 五日には大阪の宿にもどった麟太郎は、鳥取藩大阪屋敷へ呼ばれ、サンフランシスコでの見聞、近頃の欧米における戦争の様子などを語った。
 宿所へ戻ってみると、幕府大目付大井美濃守から、上京(東京ではなく京都にいくこと)せよ、との書状が届いていた。目が回りそうな忙しさの中、麟太郎は北鍋屋町専称寺の海軍塾生たちと話し合った。
「公方様が、この月の四日に御入京されるそうだ。俺は七日の内に京都に出て、二条城へ同候し、海岸砲台築き立ての評定に列することになった。公方様は友の人数を三千人お連れになっておられるが、京の町中は狂犬のような壤夷激徒が、わが者顔に天誅を繰り返している。ついては龍馬と以蔵が、身辺護衛に付いてきてくれ」
 龍馬はにやりと笑って、
「先生がそういうてくれるのを待っとうたがです。喜んでいきますきに」
 岡田以蔵も反歯の口元に笑顔をつくり、
「喜んでいきますきに!」といった。
 麟太郎は幕府への不満を打ち明ける。
「砲台は五ケ所に設置すれば、十万両はかかる。それだけの金があれば軍艦を買ったほうがよっぽどマシだ。しかし、幕府にはそれがわからねぇんだ。幕府役人は、仕事の手を抜くこと、上司に諂うことばかり考えている。馬鹿野郎どもの目を覚まさせるには戦争が一番だ」
「それはイギリスとの戦争じゃきにですか?」龍馬はきいた。
 勝麟太郎は「そうだ」と深く頷いた。
「じゃきに、先生はイギリスと戦えば絶対に負けるとはいうとりましたですろう?」
「その通りだ」
「じゃきに、なんで戦せねばならぬのです?」
「一端負ければ、草奔の輩も目を覚ます。一度血をあびれば、その後十年で日本は立て直り、まともな考えをもつ者が増えるようになる。これが覚醒だぜ」
「そりゃあええですのう」龍馬は頷いた。
  京都に入ると、目付きの悪い浪人たちが群れをなして近付いてくるではないか。龍馬と以蔵はいつ斬りこまれてもいいように間合いを計った。
 浪人が声をかけてきた。
「貴公らはいずれのご家中じゃ?」
 以蔵はわめいた。「俺の顔を知らんがか。俺は岡田以蔵じゃ! 土佐の人斬り以蔵を、おんしら、知らんがか?!」
 以蔵は左手で太刀の鯉口を切り、右膝を立て、浪人を睨む。
「これはおみそれした」
 以蔵の名を聞いた浪人が、怯えた表情を隠さず、引き下がった。
 龍馬と勝麟太郎のほうを振り返り、以蔵はいう。
「今の奴がなんぞほざきよったら、両膝を横一文字にないじゃったがに、惜しいことをしたぜよ」以蔵の目が殺気だっているので麟太郎は苦笑した。
「以蔵はひとを斬るのがよほど好きなのだな。だが殺生は控えてくれよ」
 勝海舟(麟太郎)がいうと、以蔵が「じゃきに、先生。わしらが浪人を追っ払わなければ先生は殺されたがったぜよ」と笑った。
 龍馬が「勝先生は直心影流の剣の達人ぜよ。失礼は許さんぜよ」
「先生はいつも剣の鍔と鞘を紐で結んでるがぜ。達人でも剣が抜けなければダメじゃきに」 勝海舟は苦笑いを浮かべて「てやんでい…はははは」と笑った。「その通りだ! しかし以蔵さんよひと斬りはいかんぞ。本物の武士がするこっちゃねぇ。これからは勝の弟子の岡田でいてくれ」
  京で、麟太郎は長州藩の連中と対談した。
「今わが国より艦船を出だして、広くアジア諸国の主に説き、縦横連合して共に海軍を盛大にし、互いに有無を通じ合い、学術を研究しなければ、ヨーロッパ人に蹂躙されるのみですよ。まず初めに隣国の朝鮮と協調し、次に支那に及ぶことですね」
 桂たちは、麟太郎の意見にことごとく同意した。
 麟太郎はそれからも精力的に活動していく。幕府に資金援助を要求し、人材を広く集め、育成しだした。だが、麟太郎は出世を辞退している。「偉くなりたくて活動してるんじゃねぇぜ、俺は」そういう思いだった。
 そんな中、宮中で公家たちによる暗殺未遂事件があった。
 千葉さな子は短刀をもって龍馬の所へきた。「さな子を龍馬さまのお嫁さまにしてくだされ! でなければさな子はこれで死にまする!」龍馬は焦って、
「さな子殿! わしは誰とも結婚せん! わしはこの国を回天差せるんじゃきに!」
 というばかりだ。

 渋沢は三菱の創始者・岩崎弥太郎と対立している。岩崎はひとりでどんどん事業を展開すべきだといい、渋沢は合本組織がいいという。
 渋沢は岩崎を憎まなかったが、友人の益田孝、大倉喜八郎、渋沢喜作などが猛烈に岩崎を批判するものだから、岩崎は反対派の大将が渋沢栄一だと思ってひどく憎んだという。 こうしてのちに明治十三年、仲直りもせず岩崎は五十二歳で死んだ。                                
         6 和睦と新選組




 京都にしばらくいた勝麟太郎は、門人の広井磐之助の父の仇の手掛かりをつかんだ話をきいた。なんでも彼の父親を斬り殺したのは棚橋三郎という男で、酒に酔っての犯行だという。
「紀州藩で三郎を捕らえてもらい、国境の外へ追い出すよう、先生から一筆頼んでくださろうか?」
 麟太郎は龍馬の依頼に応じ、馬之助に書状をもたせてやった。
 馬之助は二十七日の朝に戻ってきて、「棚橋らしい男は、紀州家にて召しとり、入牢させ吟味したところ、当人に相違ないとわかったがです」
 麟太郎は海軍塾の塾長である出羽庄内出身の佐藤与之助、塾生の土州人千屋寅之助と馬之助、紀州人田中昌蔵を、助太刀として紀州へ派遣した。龍馬は助太刀にいかなかった。「俺は先生とともに兵庫へいく。俺までいかいでも、用は足るろう」龍馬はいった。
 棚橋は罠にかかった鼠みたいな者である。不埒をはたらいた罰とはいえ、龍馬は棚橋の哀れな最期を見たくなかった。
 六月二日、仇討ちは行われた。場所は紀州藩をでた、和泉山中村でおこなわれた。
 見物人が数百人も集まり、人垣をつくり歓声をあげる中、広井磐之助と助太刀らと棚橋三郎による決闘が行われた。広井と棚橋のふたりは互いに対峙し、一刻(二時間)ほど睨み合っていた。そして、それから広井が太刀を振ると、棚橋の右小手に当たり血が流れた。さらに斬り合いになり、広井が棚橋の胴を斬ると、棚橋は腸をはみだしたまま地面に倒れ、広井はとどめをさした。

  大阪より麟太郎の元に飛脚から書状が届いたのは、六月一日のことだった。
 なんでも老中並小笠原図書頭が先月二十七日、朝陽丸で浦賀港を出て、昨日大阪天保山沖へ到着したという。
 何事であろうか? と麟太郎は思いつつ龍馬たちをともない、兵庫港へ帰った。
「この節は人をつかうにもおだててやらなけりゃ、気前よく働かねぇからな。機嫌をとるのも手間がかからぁ。近頃は大雨つづきで、うっとおしいったらありゃしねぇ。図書頭殿は、いったい何の用で来たんだろう」
 矢田堀景蔵が、日が暮れてから帆柱を仕立てて兵庫へ来た。
「図書頭殿は、何の用できたのかい?」
「それがどうにもわからん。水野痴雲(忠徳)をはじめ陸軍奉行ら、物騒な連中が乗ってきたんだ」
 水野痴雲は、旗本の中でも武闘派のリーダー的存在だ。
「図書頭殿は、歩兵千人と騎兵五百騎を、イギリス汽船に乗り込ませ、紀伊由良港まで運んでそこから大阪から三方向に別れたようだ」
「京で長州や壤夷浮浪どもと戦でもしようってのか?」
「さあな。歩兵も騎兵もイギリス装備さ。騎兵は六連発の銃を持ってるって話さ」
「何を考えているんだか」
 大雨のため二日は兵庫へとどまり、大阪の塾には三日に帰った。

 イギリスとも賠償問題交渉のため、四月に京とから江戸へ戻っていた小笠原図書頭は、やむなく、朝廷の壤夷命令違反による責めを一身に負う覚悟をきめたという。
 五月八日、彼は艦船で横浜に出向き、三十万両(四十四万ドル)の賠償金を支払った。 受け取ったイギリス代理公使ニールは、フランス公使ドゥ・ペルクールと共に、都の反幕府勢力を武力で一掃するのに協力すると申しでた。
 彼らは軍艦を多く保有しており、武装闘争には自信があった。
 幕府のほうでも、反幕府勢力の長州や壤夷浮浪どもを武力弾圧しようとする計画を練っていた。計画を練っていたのは、水野痴雲であった。
 水野はかつて外国奉行だったが、開国の国是を定めるために幕府に圧力をかけ、文久二年(一八六二)七月、函館奉行に左遷されたので、辞職したという。
 しばらく、痴雲と称して隠居していたが、京の浮浪どもを武力で一掃しろ、という強行論を何度も唱えていた。
 勝海舟は、龍馬が九日の夜、大阪の塾のある専称寺へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。
「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃したとです。商船は逃げちゅうが、一万ドルの賠償金を請求してきたきに。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃しました。
 水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきちゅうでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出たとです。
 その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたとです」
 アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。
「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたちゅうが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたちゅうことじゃきに」
「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」
「そうじゃきに。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げちゅうが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうです。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はなかとです。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だということじゃきに」
 将軍家茂は大阪城に入り、麟太郎の指揮する順動丸で、江戸へ戻ることになった。
 小笠原図書頭はリストラされ、大阪城代にあずけられ、謹慎となった。

  由良港を出て串本浦に投錨したのは十四日朝である。将軍家茂は無量寺で入浴、休息をとり、夕方船に帰ってきた。空には大きい月があり、月明りが海面に差し込んで幻想のようである。
 麟太郎は矢田堀、新井らと話す。
「今夜中に出航してはどうか?」
「いいね。ななめに伊豆に向かおう」
 麟太郎は家茂に言上した。
「今宵は風向きもよろしく、海上も静寂にござれば、ご出航されてはいかがでしょう?」 家茂は笑って「そちの好きにするがよい」といった。
 四ケ月ぶりに江戸に戻った麟太郎は、幕臣たちが激動する情勢に無知なのを知って怒りを覚えた。彼は赤坂元氷川の屋敷の自室で寝転び、蝉の声をききながら暗澹たる思いだった。
 ………まったくどいつの言うことを聞いても、世間の動きを知っちゃいねえ。その場しのぎの付和雷同の説ばかりたてやがって。権威あるもののいうことを、口まねばかりしてやがる。このままじゃどうにもならねぇ………
 長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる”報復”だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。
 セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。
 コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。
 長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。
 高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。
 武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。  薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。
 鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。        その日、生麦でイギリス人を斬り殺した海江田武次(信義)が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。
  翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。
 ニールは応じなかったという。
「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」

 島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜きた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛                 
門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。
 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
 奈良原は答書を持参していた。
 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
 ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」
 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。
 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
 薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」
 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。
 それもどうにも噛み合わない。
 一、加害者は行方不明である。
 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。


  キューパ総督は薩摩藩の汽船を拿捕することにした。
 四つ(午前十時)頃、コケット号、アーガス号、レースホース号が、それぞれ拿捕した汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。
 鶴丸城がイギリス艦隊の射程距離にあるとみて、久光、忠義親子は本陣を千眼寺に移した。三隻が拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。
 七月二日は天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。
 ニールたちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。
 正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、イギリス兵たちは驚いて飛び上がった。
 たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であったという。
 イギリス艦隊も砲弾の嵐で応戦した。
 薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如くイギリス艦隊から砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。
 左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だったという。そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。
 イギリス艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。
 紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシヤンパンで祝った。
  イギリス艦隊が戦艦を連れて鹿児島にいくと知ったとき、麟太郎は英国海軍と薩摩藩軍のあいだで戦が起こると予知していた。薩摩藩前藩主斉彬の在世中、咸臨丸の艦長として接してきただけに「斉彬が生きておればこんな戦にはならなかったはずでい」と惜しく思った。「薩摩は開国を望んでいる国だから、イギリスがおだやかにせっすればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみてたから火傷させられたのさ。 しかし、薩摩が勝つとは俺は思わなかったね。薩摩と英国海軍では装備が違う。
 いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわってねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからのイギリスの対応が見物だぜ」

  幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。
 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。

 この頃、庄内藩(山形県庄内地方)に清河八郎という武士がいた。田舎者だが、きりりとした涼しい目をした者で、「新選組をつくったひと」として死後の明治時代に”英雄”となった。彼は藩をぬけて幕府に近付き、幕府武道指南役をつくらせていた。
 遊郭から身受けた蓮という女が妻である。清河八郎は「国を回天」させるといって憚らなかった。まず、幕府に武装集団を作らせ、その組織をもって幕府を倒す……まるっきり尊皇壤夷であり、近藤たちの思想「佐幕」とはあわない。しかし、清河八郎はそれをひた隠し、「壬生浪人組(新選組の前身)」をつくることに成功する。
 その後、幕府の密偵を斬って遁走し暗殺されることになる。

 文久三(一八六三)年一月、近藤勇に、いや近藤たちにチャンスがめぐってきた。それは、京にいく徳川家茂のボディーガードをする浪人募集というものだった。その頃まで武州多摩郡石田村の十人兄弟の末っ子にすぎなかった二十九歳の土方歳三もそのチャンスを逃さなかった。当然、親友で師匠のはずの近藤勇をはじめ、同門の沖田総司、山南敬助、井上源三郎、他流派ながら永倉新八、藤堂平助、原田左之助らとともに浪士団に応募したのは、文久二年の暮れのことであった。
 微募された浪士団たちの初顔合わせは、文久三(一八六三)年二月四日であった。
 会合場所は、小石川伝通院内の処静院であこなわれたという。
 幕府によって集められた浪人集は、二百三十人だった。世話人であった清河によって、隊士たちは「浪人隊」と名づけられた。のちに新微隊、そして新選組となる。
 役目は、京にいく徳川家茂のボディーガードということであったが、真実は京には尊皇壤夷の浪人たちを斬り殺し、駆逐する組織だった。江戸で剣術のすごさで定評のある浪人たちが集まったが、なかにはひどいのもいたという。
 京には薩摩や長州らの尊皇壤夷の浪人たちが暗躍しており、夜となく殺戮が行われていた。将軍の守護なら徳川家の家臣がいけばいいのだが、皆、身の危険、を感じておよび腰だった。そこで死んでもたいしたことはない”浪人”を使おう……という事になったのだ。「今度は百姓だからとか浪人だからとかいってられめい」
 土方は江戸訛りでいった。
「そうとも! こんどこそ好機だ! 千載一遇の好機だ」近藤は興奮した。
 すると沖田少年が「俺もいきます!」と笑顔でいった。
 近藤が「総司はまだ子供だからな」という。と、沖田が、「なんで俺ばっか子供扱いなんだよ」と猛烈に抗議しだした。
「わかったよ! 総司、お前も一緒に来い!」
 近藤はゆっくり笑顔で頷いた。

 「浪人隊」の会合はその次の日に行われた。武功の次第では旗本にとりたてられるとのうわさもあり、すごうでの剣客から、いかにもあやしい素性の不貞までいた。
 処静院での会合は寒い日だった。場所は、万丈百畳敷の間だ。公儀からは浪人奉行鵜殿            
鳩翁、浪人取締役山岡鉄太郎(のちの鉄舟)が臨席したのだという。
 世話は出羽(山形県)浪人、清河八郎がとりしきった。
 清河が酒をついでまわり、「仲良くしてくだされよ」といった。
 子供ならいざしらず、互いに素性も知らぬ浪人同士ですぐ肩を組める訳はない。一同はそれぞれ知り合い同士だけでかたまるようになった。当然だろう。
 そんな中、カン高い声で笑い、酒をつぎ続ける男がいた。口は笑っているのだが、目は異様にぎらぎらしていて周囲を伺っている。
「あれは何者だ?」
 囁くように土方は沖田総司に尋ねた。この頃十代後半の若者・沖田は子供のような顔でにこにこしながら、
「何者でしょうね? 俺はきっと水戸ものだと思うな」
「なぜわかるんだ?」
「だって……すごい訛りですよ」
 土方歳三はしばらく黙ってから、近藤にも尋ねた。近藤は「おそらくあれば芹沢鴨だろう」と答えた。
「…あの男が」土方はあらためてその男をみた。芹沢だとすれば、有名な剣客である。神道無念流の使い手で、天狗党(狂信的な譲夷党)の間で鳴らした男である。
「あまり見ないほうがいい」沖田は囁いた。


  隊士二百三十四人が京へ出発したのは文久三年二月八日だった。隊は一番から七番までわかれていて、それぞれ伍長がつく。近藤勇は局長でもなく、土方も副長ではなかった。 近藤たち七人(近藤、沖田、土方、永倉、藤堂、山南、井上)は剣の腕では他の者に負けない実力があった。が、無名なためいずれも平隊士だった。
 浪人隊は黙々と京へと進んだ。
  浪人隊はやがて京に着いた。
 その駐屯地での夜、清河八郎はとんでもないことを言い出した。
「江戸へ戻れ」というのである。「これより浪士組は朝廷のものである!」
 この清河八郎という男はなかなかの策士だった。この男は「京を中心とする新政権の確立こそ譲夷である」との思想をもちながら、実際行動は、京に流入してくる諸国脱藩弾圧のための浪人隊(新選組の全身)設立を幕府に献策した。だが、組が結成されるやひそかに京の倒幕派に売り渡そうとしたのである。
 浪士たちは反発した。清河はひとりで江戸に戻った。いや、その前に、清河は朝廷に働きかけ、組員(浪士たち)が反発するのをみて、隊をバラバラにしてしまう。
 近藤たちは京まできて、また「浪人」に逆戻りしてしまった。
 勇のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、脅威的な形をとりはじめていた。彼の本能すべてに警告の松明がついていた。その緊張は肩や肘にまでおよんだが、勇は冷静な態度をよそおった。
「ちくしょうめ!」土方は怒りに我を忘れ叫んだ。
 とにかく怒りの波が全身の血管の中を駆けぬけた。頭がひどく痛くなった。
(清河八郎は江戸へ戻り、幕府の密偵を斬ったあと、文久三年四月十三日、刺客に殺されてしまう。彼は剣豪だったが、何分酔っていて敵が多すぎた。しかし、のちに清河八郎は明治十九年になって”英雄”となる)

  壬生浪士隊は次々と薩摩や長州らの浪人を斬り殺し、ついに天皇の御所警護までまかされるようになる。登りつめた! これでサムライだ!
 土方の肝入で新たに採用された大阪浪人山崎蒸、大阪浪人松原忠司、谷三十郎らが隊に加わり、壬生浪人組は強固な組織になった。芹沢は粗野なだけの男で政治力がなく、土方や山南らはそれを得意とした。近藤勇の名で恩を売ったり、近藤の英雄伝などを広めた。                   
 そのため、パトロンであるまだ若い松平容保公(会津藩主・京守護職)も、
「立派な若者たちである。褒美をやれ」と家臣に命じたほどだった。
 そして、容保は書をかく。
 ……………新選組
「これからは壬生浪人組は”新選組”である! そう若者たちに伝えよ!」
 容保は、近藤たち隊に、会津藩の名のある隊名を与えた。こうして、『新選組』の活動が新たにスタートしたのである。

 新選組を史上最強の殺戮集団の名を高めたのは、かれらが選りすぐりの剣客ぞろいであることもあるが、実は血も凍るようなきびしい隊規があったからだという。近藤と土方は、いつの時代も人間は利益よりも恐怖に弱いと見抜いていた。このふたりは古きよき武士道を貫き、いささかでも未練臆病のふるまいをした者は容赦なく斬り殺した。決党以来、死罪になった者は二十人をくだらないという。
 もっとも厳しいのは、戦国時代だとしても大将が死ぬば部下は生き延びることができたが、新選組の近藤と土方はそれを許さなかった。大将(伍長、組頭)が討ち死にしたら後をおって切腹せよ! …というのだ。
 このような恐怖と鉄の鉄則によって「新選組」は薄氷の上をすすむが如く時代の波に、流されていくことになる。
 龍馬は「新選組」のことをきいて、「馬鹿らしいぜよ」と思った。「そんな農民や浪人出身の連中に身辺警護をまかせなければならねぇ世になったきにか?」
 龍馬にはそれが馬鹿らしい行為であるとわかっていた。
 だが、京は浪人たちが殺戮の限りを尽くしている。浪人でもいないよりはマシだ。
 そんなおり幕府が長州藩の追放を決定した。どうやら薩摩の謀略らしい……
「世の中、どうなっちまうのかねぇ」龍馬は頭をひねった。
 しかし、龍馬とて脱藩して、今はただの浪人である。
「わしはもっとでかいことしたいぜよ!」
 龍馬は心の中で叫んだ。

         

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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.9Amazon本や音楽やらそのようなもの「炎の仁将 大谷吉継 歴史読本編集部」

2014年07月26日 19時06分06秒 | 日記










<炎の仁将 大谷吉継のすべて>歴史読本編集部(新人物文庫)
5つ星のうち 5.0 悲劇の大名・武将 大谷吉継のすべてがここに! 2014/7/26
By 緑川鷲羽
 基本的には大谷吉継の人生や歴史的な事はわかっている気持ちであった。でも、知らないような歴史的偉人のエピソードが満載で、楽しめた!私がこの本書を購入しようと何故に思ったか?簡単である。この本や他の何十作の関連本を参考文献に伝記小説をものする為の資料・参考文献としての価値が高い、と思ったからである。この本でますます吉継が好きになるのと同時にますます徳川家康が嫌いになる。
世の中は「どんなに汚いことをしようが勝って社会的な成功を掴み歴史に勝者として認められた者が勝者」という。
確かにそうなんだろうけど、私のプライドが許さない。
上杉の義にも反している。人に義がなければ「野山の獣」と同じである。
石田三成・大谷吉継が関ヶ原で家康東軍に敗れたとき、どんなに悔しかったろうか?その答えがこの書にある。



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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.9「あるメーカーの高品質オールインワンシンセ」期待大!購入予定

2014年07月25日 22時25分27秒 | 日記



ある作詩作曲でのパフォーマンスを充実させるために新型オールインワンシンセ購入予定

     緑川鷲羽・44・フリージャーナリスト・山形県

あるメーカーの


オールインワンシンセで

「これはパフォーマンスが物凄い」

というシンセサイザを発見した。

これまで私はヤマハのV50を使用してきたが

もう古い楽器でDTMも駄目。


まあ、高性能製品があるからいい作品が創造できる訳でない。


凡人は有名バンドのコピーや猿真似が精々。


才能の違いだな。


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偉大なるペテン<小泉の脱原発>小泉純一郎伝(一部文章だけ先行公開2014年執筆中2015年度以降公表予定)3

2014年07月25日 19時38分09秒 | 日記







     9・11同時多発テロ


  国際テロの黒幕、オサマ・ビンラディン指示による米国同時多発テロは、二〇〇一年九月十一日、朝八時四十五分(米国時間)に勃発した。まず、NYの世界貿易センタービル(北塔)にハイジャックされた旅客機が突撃(八時四十五分(米国時間))。続いて、ビル南塔に二機目のハイジャックされた旅客機が突撃(九時〇三分)。さらに九時四十三分、ワシントンの国防総省(ペンタゴン)に三機目のハイジャックされた旅客機が突撃。十時〇五分、世界貿易センタービル崩壊。四機目のハイジャックされた旅客機がペンシルバニア郊外に墜落(十一時五十九分(ブッシュ大統領(当時)を狙っていたが乗客に阻止された)) 同時多発テロはTVカメラが見ている目の前で勃発し、六千人が犠牲になり、世界が震撼した。激突して炎上するビル……落下する人々…ビルの倒壊…。
 まるでハルマゲドンのようだった。
「オー・マイ・ゴッド!(あぁ、神様なんてこと…)」米国人たちは泣きながら叫んだ。「愛している」……ペンシルバニア州ピッツバーグ南東に墜落したユナイテッド航空93便の一部の乗客が、家族にハイジャックされた機内から「最期の電話」をかけたという。AFP通信によると、カリファルニア州に住むマーク・ビンガムさんは、母親に機内から…「3人の男に乗っ取られている。爆弾をもっているようだ」と電話したという。「もう会えないかも知れない。愛している」との言葉に、母親が「わたしもよ」と答えると電話は切れた。自身の携帯電話で、ペンシルバニア州の緊急電話に連絡したひともいる。
 ……皆、卑劣なテロで殺された…。
  NYは惨状だった。
 世界貿易センタービルの崩壊で、数千人が犠牲となり、なんとか逃げのびた人達も血だらけ……という有様だった。火傷もひどく、熱い煙りを吸い込んで、喉まで火傷していた。 大量の灰と煙り……みんなはパニックになった。
 世界貿易センタービルにテロ攻撃の飛行機が突っ込んだ時、現場近くにいたアメリカ人は噴き上がる炎をみながら「米国そのものが攻撃されたんだ」と叫んだ。ジュリアーニ・ニューヨーク市長(当時)は会見で、同ビルを「米国の経済パワーのシンボル」と呼んだ。  1929年の大恐慌の直後にマンハッタンに完成したエンパイアステートビル(102階建て、381メートル)は、長らく「米国の顔」であった。同ビルは、投資家だけでなく弁護士事務所や人権団体の事務所も数多く入っている。
 一方、73年に完成した110階建て、442メートルの世界貿易センタービルは、世界中の金融機関が集まり、米国経済の牽引車であり、経済のシンボルだった。
 オサマ・ビンラディンはそこを標的にし、ビルも世界経済もメチャクチャにした。
 ブッシュ米国大統領(当時)は「米国はかつて敵を引き倒した。……この日を決して忘れない」と、演説し「これはテロではない。戦争だ!」とこれは、自由社会への宣戦布告、だと述べた。世界もテロにむけて動き、英国、ロシア、ドイツ、韓国、日本、EU……も協力を約束(北朝鮮まで哀悼の意を送った)し、戦争が勃発した。
  タリバン政権は崩壊した。フセイン政権も崩壊した。が、ビンラディンは生きていた。

  オサマ・ビンラディンは1957年にサウジで生まれた。
 父親は、サウジアラビアのモスク建設などで財を成したゼネコン経営者であった。十七番目の子が、オサマである。輝かしい未来を約束された彼は贅沢な生活を送り、ドラ息子として育つ。酒を飲んで放蕩し、ビンラディンはよくイタズラをして親を困らせたという。やがて父が死に、彼は三億ドルもの遺産を受けとる。おりしも、ソ連によるアフガン侵攻が勃発。彼は義勇軍に志願し、金も提供。絶大な支持をうけのである。その頃、のちのタリバンのオマル師や、北部同盟のマスード将軍とも親交をもつ。
 現在、ビンラディンは四十代。身長193~198センチ、85kg、職業不明。歩くときはつえを使う。FBI(米国連邦捜査局)のホームページにある公開手配は、「性格は謙虚」「礼儀正しい」「趣味は詩をつくること」…と伝える。
 しかし、冷酷なテロリストの素顔は隠せない。
「軍服を着ている者と民間人を区別しない。アメリカ人を大勢殺すことがジハード(アッラーよる聖戦)だ」というコメントは米国に対する「予告」だったのかも知れない。
 アフガンにあったアジトは44ケ所、重要拠点は3ケ所で、洞窟のような地下室には衛星電話やテレビやコンピューター、武器庫などがあったという。
 ビンラディンは一ケ所に48時間以上はいない。すぐに移動しているという。お尋ね者のためだ。拘束か殺害はいつになるのか?米軍の爆撃でも死ななかったやつが…。(現在暗殺済み)
  オサマ・ビンラディンという男は痩せた長身で、白いターバンを頭に巻き、髭を延ばしている。鼻筋の高いアラブ人ではあるが、頭はいい方である。記憶力も抜群で、コーランの文も一度でパラパラ見て覚えてしまう。外国語は話せない。英語を最近少しだけマスターしたという。雄弁には語れないが頭脳明晰な男である。
 しかも、オサマ・ビンラディンという男は策略にも長けている。
 ……策略というより、テロか……。
 ビンラディンという悪魔を誕生させたのは2つの事件があった。ひとつは1979年のイラン革命。パーレビ国王が追放され、ホメイニが十年ぶりに帰還し「イスラム原理主義国家」を樹立。そして、ソ連のアフガン侵攻である。ビンラディンは資金とネットワークで義勇軍をつくりアフガンへ。そのビンラディンに目をつけたのがCIA(アメリカ中央情報局)である。CIAはゲリラ軍を訓練し、「武器はアメリカ。金はサウジ」とビンラディンにいわせるほどだった。CIAはスティンガー・ミサイルまで提供した。ソ連に対抗するため…アメリカが悪魔・ビンラディンを育てたのだ。
 もうひとつの悪魔もアメリカは育ててしまった。サダム・フセインである。中東にイランのイスラム原理主義が広がるのを恐れたサダムとアメリカは協力し、アメリカはイラクに武器と金を提供。イラクはイランとの戦争を始める。しかし、引き分け。イラクに残ったのは巨額の債務だけだった。イラクは困窮し、クウェートに侵攻。湾岸戦争が勃発する。 そして、03年、米英軍による「イラク戦争」によって二十四年にも渡ったサダム・フセイン独裁政権が崩壊した。しかし、占領したイラクの治安は悪化、テロ続発である。
  ここで少し、アフガニスタンの歴史について触れてみたい。
 アフガニスタンはイラン、パキスタン、中央アジア諸国にはさまれ、古くから国際的な力が交錯する場所だった。政治的にも軍事的にも、インド、ペルシャ(イラン)、トルコ、中央アジアやアラブなどのさまざまな地域の影響を受け、近代となっても影響は強い。
 アフガンでは19世紀になって、インドを支配していた英国と、中央アジアからの勢力拡大を目指すロシアが対立。親英の立場を明確にしないアフガンと、それに苛立った英国との間で戦争に突入した。1838年から3次にわたる対英戦争の末独立し、1973年には共和制に移行したが、社会主義勢力とイスラム原理主義勢力が対立し混乱した。
 79年9月、民族主義的色彩が濃いアミン首相がクーデターで革命評議会議長に就任すると、危機感を強めたソ連が軍事侵攻した。
 アミン政権は当時、反政府イスラム勢力との紛争が抜き差しならぬ状態になっていた。さらに、同年初めに隣国イランがイスラム革命に成功。アフガン侵攻は、中央アジア諸国への「イスラム革命の輸出」を恐れたソ連がこれを武力で抑え込もうとしたものだった。 その後、ソ連軍と親ソ連政府に対して、イスラム勢力各派が対抗する図式が定着する。この地方の覇権を目指すソ連は軍を駐留し続ける一方、米国もイスラム勢力の反政府軍に武器を供与、米ソの代理戦争の様相をみせ、内戦は泥沼化した。
 結局、ゲリラ戦に消耗したソ連軍は89年に撤退。ナジブラ政権が崩壊すると、今度は反政府勢力各派の路線対立が激化した。反政府イスラム勢力各派には、厳格なイスラム法による支配を目指すグループと比較的穏健なグループがあり、しかも、それがパシュトゥン人(アフガン人)、タジク人などの異なる民族で色分けされていた。
 混乱の中、突然出現したのがタリバンだった。パキスタンの影響を強く受け、次々と支配勢力を広げたタリバンは、98年には全土の95%を支配するまでになった。(5%は北部同盟が死守していた)20年間にもおよぶ内戦と干ばつや饑餓、伝染病、人権弾圧……アフガンは瀕死の状態だった。タリバン勢力を正式に承認しているのはパキスタンとUAEとサウジアラビアの3ケ国だったが、3国とも米国の圧力で断交した。そして、戦闘は開始された。……タリバンは米国の空爆と北部同盟により壊滅し、首都カブールも拠点・カンダハルも放棄、タリバンはやぶれた。
だが、今はタリバン勢力は復活、アメリカはビンラディンは殺害したものの戦火を消すことは出来ずじまいであった。
この頃の日本の転機が「イラクへの自衛隊の派遣(二〇〇一年九月)」である。当時は、保守派や今は故人となってしまった後藤田正晴氏や、民主党ら議員や官僚は大反対ムードである。「自衛隊員は危険地域にいくのでは?」「自衛隊員が戦死したらどうするんだ?」
皆が甘ったるいことをホザいていた。そこで私が当時(本名で)「「自衛隊が戦闘地帯や危険地帯に行くのではないか?」等と野党は質問するが荒唐無稽もいいところで、危険地帯だから戦車やロケット砲をもった軍隊が行くのであって、安全地帯なら民間がいけばいいだけの話だ。大体にして中東の石油に90%以上依存している日本が「日本はテロが恐いので行きません。そのかわり中東の石油だけは安定的に下さい」等という論理が国際政治下で通用すると思っているのか?!」と喝破したことがあった。
実際問題としてそうだと思ったし、私は間違ってはいない。むしろ「後藤田老人は元「カミソリ参謀」というわりには愚鈍だな」、と不遜だがそう感じてもいた。(後藤田氏は故人)
まあ、私は小泉に援護射撃した形だった。
そんなこんなで自衛隊が初の海外派遣(イラクの戦地への)が実行された。
が、その現地の陸上自衛隊の様子をレポートで見て、正直、唖然とした。
イラクに派遣した陸上自衛隊の隊員は、何重にも厚いブロック塀や鉄線で守られた基地の奥の方で皆して防弾チョッキやヘルメット等完全防備で「死への恐怖」で、ぶるぶる震えて塊り一歩も外に出なかったのだという。何じゃそりゃ。国民の税金で食べさせてやっている軍隊(自衛隊)がそんなんじゃ、安心して国防を任せられない。
まさに、税金の無駄遣い、であった。
現在の安倍政権の「集団的自衛権武力行使容認」問題も同じようなケースになるだけだ。
だが、私は今なら後藤田正晴氏の気持ちもわかる。
さすがは「カミソリ参謀」だ。未来を予知したようなご判断や発言であった。


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偉大なるペテン<小泉の脱原発>小泉純一郎伝(一部文章だけ先行公開2014年執筆中2015年度以降公表予定)2

2014年07月25日 14時34分12秒 | 日記








田中真紀子外務大臣更迭

 確かに田中真紀子女史の演説は文句なく素晴らしい。聴く者を惹きつけ、聴く者を魅了する。父親の田中角栄氏も演説がうまかったらしい(私は1970年生まれなのでわからないのだが、血は争えない、と多くの田中角栄支持者は言う)。だが、確かにうまいがその演説はバラク・オバマ米国大統領(当時)のようなスマートなものではない。ほとんどが悪口やゴシップの類である。だが、あれだけ話題になるほどの演説をする人物も日本人には珍しい。天才、といってもいい。彼女に本当に父上角栄氏のような「政治的な才能・人事力・官僚操作力」があれば、天下も夢ではない。それだけ演説力だけは素晴らしい。天才だ。
だが、今となっては誰にとっても田中真紀子首相(笑)など只のブラックジョークだろう。
それは「日本のおわり」を意味する。小沢一郎総理大臣(笑)よりタチが悪い(笑)。
だが、ここでは少しフィクション(架空物語)を交えて、日本社会の「骨の髄までの「男尊女卑」」と「女性の立ち位置・立場」「女性蔑視社会の問題」「男尊女卑など糞食らえ!」というのを創作したい。(注訳・参考文献は『空飛ぶ広報室』有川浩著作から参考にしたい)
TBSのテレビドラマ化ではヒロインの因幡某というマスコミ関係の女性は、女優の新垣結衣さんがフレッシュに演じていた。猿真似するつもりはない。
だが、その因幡さんを、帝都テレビのガツガツした美貌のマスコミ関係の若い女性を「上杉桃子」と名付けて、話を展開してみよう。基本的には私は有川浩(ありかわ・ひろ)さんのような女性(有川浩さんは男性のようだが実は売れっ子の女性作家である。女性の立場での作品はまことに素晴らしい)ではないので信憑性が薄いことになるかも知れない。
だが、私だって「女性の可能性」を信じている。
私だって「男尊女卑」など糞っくらえ、だ!
帝都テレビ(架空の民放テレビ局)の駆け出しの女性マスコミ関係者の、若い、ちょっと美貌の女性レポーター上杉桃子。20代後半で、がつがつした上昇志向の強い、女性である。
一流大学卒とまではいかないが(だからこそ同期に「出世レース」で差をつけられている)けっこういい大学卒である。がつがつしていて上昇志向が強いが、桃子はきわめて凡庸なのかも知れない。たまに「自衛隊」を「自衛軍」、「団塊の世代」を「ダンコンのせだい」、「(テニスの)シャラポワは天が二物を与えたんですね」を「シャラポワは天が“にもつ”をあたえたんですね」と言い間違う。きわめてジャーナリストでありたいとも願い、「女性だってやればできるのよ」というポジティブな女性だ。外見は知らん。新垣結衣氏と同じイメージでいいんじゃないだろうか。自分が正義だと思うと周りが見えなくなるらしく、極めて自分本位な一面ものぞかせる。美貌なだけに非常に「残念」なひとである。
桃子は「「女性は女性、男性は男性」としてしか見られない「男尊女卑的な日本の社会・仕事観・人生観」」を嫌悪に思っている。そして、上杉桃子の尊敬できる女性・同性は当時の田中真紀子女史であるのだった。
「田中真紀子先生、大ファンです!私はあなたのような女性になりたいんです!」
 真紀子はにやりとしたまま桃子の話を聞いていた。
この架空の物語では田中真紀子外務大臣(当時)を、ドラマ『空飛ぶ…』の女優の水野真希演ずる「中身がおっさん」の女性として設定したい。まさに中身がおっさん(笑)である。
「だれが女性だって?」
 真紀子はガマガエルのような声で、大臣プレスでおどけて見せた。
「とうとう性別まで忘れましたか?大臣」
“取り巻き”は苦笑した。
「ケツ見せて糞して寝てなさいってか?」
一同は爆笑した。
「田中真紀子先生、面白い!」
「女捨ててますね!」
同期の政治家は面白がる。
すると上杉桃子は「そうじゃないですよね?大臣!計算ですよね?」と鋭い。
「計算って?(笑)駄目だなこりゃ、なんてな(笑)」
真紀子は茶化した。

「おう!上杉なんたら! 糞してるか?!」
ある秋の日の国会議事堂内の廊下で、真紀子はひとりっきりの上杉桃子に声をかけた。レポートの仕事で来ていたがカメラマンと照明のおやっさんはディレクターに携帯で呼ばれて、遠くで何故か電話越しに我鳴っている。また、トラブルかなあ?
「真紀子先生、聞いて下さいよ」
「どうした?」
上杉桃子はある話を始めた。
それは報道局の別の班へヘルプで派遣されたときの屈辱であった。その班長は勿論というか中年男性で、桃子の記事のゲラ原文をチェックしては文句をつける。一方の男性の新人の新米のレポーターとはえらい扱いの違いである。
ディスクに座った班長である報道局の中年オヤジ部長はいかにも業界人という感じだ。
「なんだ?上杉!このゲラは?!文章が悪い!全部やり直しだ!」
赤ペンでばつを書かれゲラを叩き返された。
それに対して新米の男性レポーターのゲラは赤線が少ない。「米田!てにをは、を気おつけろといつもいっとるだろ!やり直し!」
「はい!」
桃子は米田のゲラ原稿の文章をみて自分のと比べてみた。どこがそんなに違うのか?そこで上杉桃子は策を練った。また、いつものように上杉桃子と新人米田は部長にゲラを渡し、ゲラ・チェックをしてもらいにいった。桃子と米田は、チェックを待つために部長のディスクの前で並んでつっ立っている。「書き直し!」椅子に座ったままの部長はまたも桃子のゲラは全部赤点だ。だが、部長は笑顔で「おお、米田!いい原稿書けるようになってきたじゃないか!その調子でいけ!」と褒めた。
しかし、褒められた筈の米田某というスーツにネクタイの新米は喜ぶことも出来ず、微妙な顔をしてどぎまぎした表情をするだけだ。「どうした?米田」
すると隣の桃子がにやりと含み笑いをした。
「お褒め頂いてありがとうございます!実はこの米田の原稿は私が書いた原稿で、米田のゲラはこっちです」桃子は、米田の100点満点の答案用紙のようなゲラ原稿と、自分が持っている原稿を取り換えた。「す、すいません!」米田は冷や汗をかきながら謝るのみ。
部長も「あちゃ!」という顔をした。
そのエピソードを聞いて真紀子は何故か憤った。
「馬鹿なお嬢ちゃんね!そんなことあんたがヘルプの派遣だから出来る事でしょうが?」
「あ!はあ、まあ」桃子には意外だった。褒めてもらえると思ったが。
「あんたは派遣されているだけですぐいなくなるからいいけど、同じ部署で長年いる仲で同じ事出来る?それこそ社内いじめの標的だわね」
「でも悔しいじゃないですか!只、女だ、というだけで馬鹿にされて!」
「悔しかったら結果を残しなさい!」
「でも、いつの時代もこうなのですか?女は「女を武器にする」か「女を捨てて生きていくか」それしか選択肢がないなんて悔しくないですか?」
「しょうがないじゃないの!日本っていうのは「骨の髄まで「男尊女卑社会」」なんだから!」
「それを変えるのが政治家やマスメディアの力じゃないんですか?」
真紀子は苦笑した。「どうやって?!革命?維新?」
同時に田中真紀子は自分が若い頃に、「これだから女は…」「だから女は駄目なんだ」「目白のお姫様……悪口だけ…これだから女は…」等と女性蔑視発言や陰口を受けて、誰もいない女子トイレで悔しくて泣いたことを回想していた。あの頃より、自分は強くなっただろうか。あの頃はまあ今だってそうな訳だが、ストレスのあまり円形脱毛症(つまり10円ハゲ)にまでなって驚愕した。おびえた子犬のように立ち尽くした。
その頃より自分は強く逞しくなっただろうか?だが、それのせいで自分は「女を捨てた」?
馬鹿な。そんな筈は、ない。そんな馬鹿なことは………ない。そう、ないに違いない。
そんなとき議会室から飛び出してきた女性衆議院議員だろうか?そのレディーススーツ姿の若い議員の女性(辛村小百合衆議院議員・高知3区選出・架空の人物)が廊下の隅っこでちじこまって嗚咽を漏らしていた。辛村議員は議会での国会答弁で質疑応答にたち、原稿を朗読していた。そんなときにおやじ議員たちから女性蔑視ともとれる野次を受けた。
「……という訳で金融機関からの国債による国の借金はおよそ1000兆円に迫る勢いであり、これ以上の無駄な公共事業による景気浮揚策は未来の子供達に借金のツケをオーダーするようなもので…」
”早く結婚した方がいいんじゃないか?””結婚しとらんらしいぞ””お前が早く結婚して子供産んでから発言したほうがいい””子供もいないのに少子化対策や財政問題のツケを将来の子供に?””わははは(笑)”
そのときは必死に顔に笑顔を無理に作って耐えた。が、議席に戻ると涙が、悔しくて涙があふれ出てきた。そこで思わず感極まって会議場を後にしたのだ。
桃子は慰めようと近寄ろうとするが、真紀子が止めた。
「やめなさい!甘やかしちゃ駄目!」
「でも………彼女、このまま政治家辞めちゃうかも…」
「辞めたけりゃ辞めりゃいいのよ。あんた国会議員の女性の比率しってる?僅か数パーセント……男は80パーセント以上。ここ(政界)はまだまだ男の世界なのよ!少し野次られたくらいで辞めるような甘ちゃんなら、さっさと辞めりゃいい。政治家になりたいってやつは、五萬といるのよ。しかも政治家は、国民の税金から歳費(給与)もらってるの」
「でも……じゃあ……女性は耐えるしかないんですか?お嬢ちゃんだのお姫様だの馬鹿にされて、騙されて……こんなんじゃあんまりです!せめて……女性だってやればできるんだって証明できるものがないんでしょうか?このままじゃあんまりです!」
その問いに真紀子は「ふふ、まあみてなさい」という。
そして田中真紀子は天才的な演説をして周りを圧倒していく。と、同時に辛村議員の野次に触れて、「このような野次は小泉構造改革並びにグローバルスタンダードに反するものでありとても恥ずべき「男尊女卑」「女性蔑視」発言としてマスコミは野次犯を特定し、謝罪させるべきものと思いますがいかがか?!」と間違いを正した。
後で辛村議員が「ありがとうございます!勉強になりました!」と真紀子に頭を下げにきたのは言うまでもない。まさに田中真紀子さまさま、である。
そんな田中真紀子が外務大臣となったのは第一次小泉内閣発足当初のことであった。

  田中真紀子外務大臣更迭と外務省改革

田中真紀子元外務大臣は、まちがいなく小泉総裁誕生の立役者の一人である。総裁選の街頭演説で、小泉総理(当時)とともに選挙カーに上がり、懸命に総理の応援演説をしている姿は多くの方が覚えておられることと思う。
実際、彼女の演説は実に素晴らしい。聞く者を飽きさせない、いつの間にか彼女の世界に引き込まれずにはいられなくなるあの話術、身振り、抑揚、弁舌のうまさは天賦のものというほかはない。あれだけの演説ができる政治家は、永田町三十年の私の記憶でもそうはいない。父君である田中角栄元総理もまた天才的な演説家であった。角栄総理の演説を知る者はみな、血は争えないものだと感心したものである。
 一九九八年の総裁選(小泉にとっては二回目の総裁選)は、小渕元総理、梶山静六元官房長官、小泉の争いであった。この総裁選を彼女が「凡人、軍人、変人の争い」と喝破したことでも有名である。最近では石原慎太郎元都知事の再びの国政活動を「暴走老人」、選挙に落選した自分自身を「老婆の休日」といっている。石原氏は「やはり真紀子さんは天才だね」という。よく小泉元総理を「ワンフレーズ総理」とか言う人がいるが、ワンフレーズで物事を表現する能力という意味では彼女の方が上かもしれない。
 最初の組閣で、田中真紀子さんは外務大臣に就任した。本人の希望だったとも言われているが、真実のほどは分からない。総理は、こと人事については私にも一切解説したり後口上を言ったりしないので、本当にわからない。
当時の外務省は、外交機密費流用問題で国民の強い批判を浴びており、外務省改革は急務かつ不可避の課題だった。その意味で、田中大臣の行動力(というか破壊力)に期待するところは非常に大きかった。彼女を外務大臣に起用した真意も、きっとそのあたりにあったのではないだろうか。
外務省はいろいろな意味で問題のある役所であった。重要な外交情報が総理に上がってこなかったり、外遊日程や総理会談のセットでも、官邸の意向と関係なく事務的にお膳立てをして、総理はそのシナリオにしたがっておればいいといわんばかりのブリーフを平気でしたりする。海外勤務が長いからなのかどうか知らないが、組織としての統率が極めて弱く、個々の幹部職員が個人の判断で勝手に記者に情報を漏らしたりすることもある。語学グループ別の「スクール」「派閥」があり、在外公館では大使は王様気分で、女性スキャンダルも多かった。田中真紀子元大臣が「外務省というところは伏魔殿だ」と言ったが、それはある意味で当たっていると私は今でも思っている。
国民もまた田中外相(当時)の行動力(というか破壊力)に期待した。マスコミも女性たち(つまりワイドショー奥様方たち)も高評価であった。
だが、就任早々、田中真紀子大臣(当時)は米国務省の知日派の中心人物であるアーミテージ国務副長官(当時)との会談を一方的にキャンセルし外務省を慌てさせた。その後もことあるごとに事務方と衝突し、それがマスコミの恰好の話題となり、ワイドショーを沸かせた。(注訳・この当時、私緑川鷲羽は「田中真紀子大臣不要論」を新聞で(本名で)記事を新聞に掲載した。)事件のたびにワイドショーは外務省の慇懃無礼さや秘密体質を批判。ごく短期間で事務の秘書官が四人も交代し、中には体調を崩し入院する者も出始める。話を聞けば仕事以前の問題で、些細なことで満座の前で叱りつけ、直立不動で声をあげて何度も「すいませんでした」と言わせてみたり、指輪の紛失を「職員が盗った」と言って、国会最中に同じものを買わせに秘書官をデパートに走らせてみたり、「職場の部下」と「家事使用人」の区別がついていない(某新聞での表現)としかいえないような使い方をした結果で、どちらかというと外務省職員のほうが被害者だった。だが、女性の味方のワイドショーは外務職員をやっつてけて!とまた喝采をおくるのみ。当然、外交の仕事どころか交渉どころの話ではない。外務省憎しの田中大臣相手に、信頼して情報を上げたり、熱心にブリーフィングしたりする外務職員はこうなればいなくなるのは当たり前である。
こうして田中真紀子元外務大臣は、小泉に大臣を更迭されたのである。
それにしてもマスコミは同情的な報道をし、真紀子が涙目で「残念ですねえ、一生懸命やってたんですけどねえ。更迭だそうです」というときも報道は、けしからん節、の報道(とにかくワイドショーだけは)に終始した。自業自得であり、何ら酌量の余地はない。
女性だからとか、そんなことではなく事務仕事をする事務方を信頼もせず泥棒呼ばわりし、家事手伝いの使用人並みに扱えば誰だって怒る。外務官僚は中でもプライドの高いことで知られる。田中元大臣のようなひとはやはり組織の長にだけはなってはならない。
<「小泉官邸秘録」飯島勲著作 日本経済新聞社出版 107~118ページ>

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