緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

緑川鷲羽戦略『米沢維新改革案』現代の上杉鷹山上杉謙信諸葛孔明による船中八策「これで米沢維新」を!

2015年05月30日 20時45分06秒 | 日記









<「米沢市政の課題」緑川鷲羽考案>(1)川中島・武蹄式等の「上杉祭り」・スキー大会の成功*ふるさと納税の景品充実(ポイント制度・一生使えるポイントによる商品選び&高齢者の為にネットだけでなく紙の広報カタログもつくる。体験型も(スキー、さくらんぼ狩り、上杉祭り、人間ドック、森林セラピー等)。米沢牛、ラ・フランスさくらんぼ、NECパソコンなど70種類+笹の一刀彫にふるさと納税者の子供さんの名前をつける)*私が「アニメの殿堂」をつくる、というのは何もデカイ「リトル東京」のようなハコモノをつくる訳ではない。岩手県のオガールエリアのような産業振興施設である。一番集客力があるのは図書館だが、そこに入るのには絶対にフリースペースをつくり通る時見られるようにする。そこで朝市やストリートライブでもクラッシックやロックのライブでもやればいい。勿論、ラーメン店や学習塾や音楽練習スタジオ、レコーディングスタジオ、コーヒーチェーンやTSUTAYAやネットカフェやミスドや牛丼店やドン・キホーテなど民間の店にもはいってもらって、図書館や第二役場施設や子育て無料預り所相談所などの資金(テナント料で)とする。戦国時代や幕末やアニメやマンガのコスプレや写真館も当然そうしたい。ヒト・モノ・カネ・シゴトを重点的にふやす戦略である。全市のトイレもきれいにしたい(女性対策)。米沢市の米沢牛やさくらんぼや梨・林檎・果実・日本酒などの物産品をAmazon経由で是非世界中から購入してもらうような販売ルートを開拓する。*国内外の農業ライバルとの競争に強い米沢市の農業政策の大転換(我が上杉の城下町・米沢市の酪農家の(TPP対策として)『ブランド牛・米沢牛を高品質化で(安価外国牛に)対抗』という戦略は正しいし、全面的に支持したい。さくらんぼも林檎、ラ・フランス、鯉の旨煮もそうだが幾ら外国産より値段が高かろうが『嗜好品』『高品質でおいしくて安全』なら必ず生き残れる。戦略的に米沢を創り直そう。また高スキル主婦の中小企業へのインターシップや子育てしながらの週4日短時間労働等の『中小企業新戦略発掘プロジェクト』も米沢市政で実施したい。待機児童ゼロ、『子育てするなら米沢市で』を目標に私は(出生率1・86の)長野県下郷村のモデルを取り入れて行政のスリム化で予算捻出、子育て世帯に格安住宅や養育費を提供するプランを米沢市政でもやりたい。女性や高齢者、若者の輝ける米沢市にしたい。国家戦略特区に指定してもらって若者の政治参加(17歳で米沢市地方選挙投票権を付与)を進める。生活保護で働ける人々に一人当たり70万円の税金で1年間の職業訓練を受講させ社会労働者復活をバックアップ。安易な外国人単純労働者の受け入れ拒否)*道路などのインフラ整備*公共施設などの米沢市内のトイレをきれいにする(女性対策)*米沢市の市議会議員の給与ゼロと定数削減(議員はボランティア)*観光策など女性の声をとりいれる*観光立市宣言(特化)*コンパクトシティ構想*アニメの殿堂と宮崎駿風大正時代の町並みなどのパノラマ横丁化(上杉神社の東側を大規模に改築し、九里高校校舎は維持しながらも、ガンダムの等身大リアルな立像を建て、大正ロマンの建物やアニメの聖地にして観光立市化)*セキュリティーの強化(テロ防止等)*外国語表示・標識の整備*第二図書館建設中止(ゼネコンへの利権政治からの脱却)*大型バス駐車場の整備*上杉鷹山公レガシーの残し方に関する計画(2)国際競争力の向上と海外企業の誘致*国家戦略特区としてのアジアヘッドクオーター特区の推進*カジノ解禁に伴う総合リゾート(IR)の推進*上杉神社や観光地へのアクセスの推進*米沢市の更なる国際化*米沢の物流等の強化(3)高度な防災都市の実現*道路・橋の老朽化対策*木造家屋密集地の防火対策*ヘリサインの整備*帰宅困難者対策(一時滞在施設確保など)*PF1(住宅の1Fにコンビニやスーパー)(4)高齢者対策・子育て支援*地域包括ケアシステムの構築*訪問介護の充実・認知症患者に対応できる医療機関の充実*介護施設の安全確保*子ども子育て新制度に関する施設の充実*待機児童対策の充実*(5)抜本的な電力対策*電力システム・改革の推進*分散型電源の普及拡大*再生可能エネルギーの普及拡大(6)教育の充実*公立学校の教員定数の充実*私立学校助成の充実*就学支援制度の充実*教育委員会制度の見直し*いじめ対策(7)美しい景観・環境の整備*無電柱化*街路樹の倍増*公園の整備促進*水辺空間の緑化促進*河川の水質浄化*ヒートアイランド対策*地球温暖化対策*自動車排ガス対策(8)地方分権の推進*法人事業税の暫定措置の撤廃(地方税としての還元)*法人住民税の大幅減税*ハローワーク事業の民間企業経営



緑川史観『いわゆる天皇論』今上天皇明仁親王皇后美智子妃殿下 緑川鷲羽版『天皇論』決定版2

2015年05月30日 11時09分24秒 | 日記









天皇制という表現への批判[編集]
思想上の理由から、天皇制という語を忌避して「皇室」という表現もよく用いられ、中にはあえて「国体[注 2]」と表現するケースもみられる。漫画家の小林よしのりは『ゴーマニズム宣言』[要出典]にて「その由来だけでも使うべきではないが、より本質的に言うと天皇は「制度」として存在しているわけではないから使うべきではない」と批判した。谷沢永一は2001年の著書で「天皇制という呼称は、天皇陛下ならびに皇室を、憎み、貶め、罵るための用語であり、国民としては、伝統に即して、皇室、という呼称を用いるのが妥当であろう」と述べ、また谷沢によると、小説家の司馬遼太郎は「天皇制という語は、えぐいことばであり、悪意がインプットされている」と述べたという。
戦前の論評[編集]
「日本の失敗を天皇制のせいだと非難はしても、日本の成功に関して天皇制を褒めることはしなかったのが戦後歴史家たちであるが、これと異なり、明治知識人たちは日本の進歩の功を天皇に帰しはしても、その短所を天皇のせいにはしなかった」という指摘が、明治時代と戦後の天皇制に関する論評の違いについてなされている。
擁護派の意見[編集]
「世界最終戦を経て、全人類が天皇を現人神(あらひとがみ)として信仰し、天皇の霊力によって世界を統一するべきである。」(石原莞爾『世界最終戦論』。天皇の世界征服による世界平和の実現)
大日本帝国陸軍参謀であった石原は、「人類が心から現人神(あらひとがみ)の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。」と主張した。「我らの信仰に依れば、人類の思想信仰の統一は結局人類が日本国体の霊力に目醒めた時初めて達成せられる。更に端的に云えば、現人神(あらひとがみ)たる天皇の御存在が世界統一の霊力である。しかも世界人類をしてこの信仰に達せしむるには日本民族、日本国家の正しき行動なくしては空想に終る。」とも主張した。つまり武力など外道を以ってしては世界中が天皇を尊崇するようにはならない、と述べたのである。
谷沢永一によれば、戦前「天皇制」という言葉は、ごく少数がひそかに使用する以外まったく日本国民に知られておらず、この言葉は日本製ではなく大正12年(1923年)3月15日ソ連共産党が指導するコミンテルンから日本共産党にもたらしたもので、天皇制打倒、天皇制廃止を専一にめざす、天皇と皇室を憎みおとしめ呪う造語であり、戦後になって、日本国民は「天皇制」という言葉を「赤旗」(昭和25年10月20日)により初めて知り、これと呼応するように「民主主義と天皇制はあいいれない」なる議論が発生したとする。
保守派の中西輝政は、ソ連が「天皇制」の廃止に強い執着を見せたのは、1927年のコミンテルンの日本共産党への指令(27年テーゼ)以来、一貫していた「日本革命」を可能にする唯一の道は、ロシアと同様「帝制の打倒」がカギだ、という考えからであり、日本がアメリカ陣営に組み込まれても「天皇制」廃止だけは必ず実現させねば、というのがスターリンの執念であった、そこから戦後日本では左翼・左派勢力は一貫して、不自然なほど「反天皇」「反皇室」を叫び続けることになった、とした。
批判派の意見[編集]
戦前は国体批判そのものが大逆であったため、その思想は地下に潜伏し日の目を見ないものであったか、あるいは徹底的に弾圧される種類のものであった。憲法論においては機関説などが登場し、思想の趣旨として国体批判を意図するものでは全くないために基礎的な学説になったにもかかわらず、超国家主義などの台頭や政党同士の政争により政界を揺るがす大事件に発展した(天皇機関説事件)。無政府主義の主張は許容されず滝川事件なども発生した。
戦後の論評[編集]
第二次世界大戦が終わると、共産主義や近代政治学(前記の丸山眞男ら)の立場などから「天皇制批判」が数多く提議された。1950年代から1960年代には、共産主義者を中心に天皇制廃止論もあった。昭和天皇崩御の際、テレビ朝日の『朝まで生テレビ!』で天皇および「天皇制」の是非について取り上げられた。しかし、これ以降、この問題を積極的に取り上げるマスメディアはほとんどない。
日本共産党は2004年に綱領を改正し、元首化・統治者化を認めないという条件の下、「天皇制」の是非については主権在民の思想に基づき国民が判断すべきである、という趣旨に改めた。
擁護派の意見[編集]
「思想取締りの秘密警察は現在なお活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する。……さらに共産党員であるものは拘禁を続ける……政府形体の変革、とくに天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と考え、治安維持法によって逮捕する」 内務大臣山崎巌、1945年10月
「天皇制の下に他国とは趣の異なったデモクラシーの運用が行われねばならぬ」(安岡正篤・1945年12月)。
「天皇を現人神と仰ぎ奉り皇国を毒する内外一切の勢力を打滅せん事を期す」「大日本帝国憲法の復活」「核武装による皇軍再建」(大日本殉皇会、1961年設立の右翼団体)
「天皇制の下に日本民族の主体性を把握」(治安確立同志会、1952年設立の右翼団体)
「日本の皇室の系図は、まっすぐに神話時代に遡りうる。これは、ギリシャで言えば、アガメムノンの子孫が、ずっと今もギリシャ王であり、イギリスで言えばアルフレッド大王の直系の子孫が、まだ王様である状態に近い感じで、外国人には驚天動地の現実である」(渡部昇一 1990年6月)。
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批判派の意見[編集]
詳細は「天皇制廃止論」を参照
(坂口安吾・1946年6月)「天皇をたゞの人間に戻すことは現在の日本に於て絶対的に必要」。
(宮本百合子・1949年2月)「天皇制が侵略戦争をはじめた」
菅孝行;天皇制は、天皇という聖、被差別者(ex.部落、障碍者、在日韓国・朝鮮人、女性)という賤という相対立する形で成り立っており、そこからの克服こそが求められている

また、特に昭和天皇に関しては第二次世界大戦当時、日本軍の最高指揮権を有していたにもかかわらず、敗戦後にナチス系の勢力を徹底的に追放したドイツや君主制を廃止したイタリアとは違い、軍事裁判でA級戦犯として裁かれることがなかったこともあり左派や諸外国からの批判もあったため、保守派の一部からも昭和天皇退位論が出ていたこともあった。

世論調査[編集]
世論調査の推移を見ると、1990年では「今の象徴天皇のままでよい」を回答に選んだ人73%だったとされ、2000年には象徴天皇を支持したのが8割とされ、2002年には「(天皇は)今と同じ象徴でよい」を回答に選んだ人が86%だったとされる。
NHKが2009年10月30日から11月1日に行った世論調査では、「天皇は現在と同じく象徴でよい」が82%、「天皇制は廃止する」が8%、「天皇に政治的権限を与える」が6%となっている
天皇制絶対主義[編集]
天皇制絶対主義もしくは絶対主義的天皇制とは、日本近代における近代天皇制の体制を講座派において定義した言葉。
明治維新後の政治体制を、絶対主義とみなし「絶対主義天皇制」と規定したのは、主に唯物史観を取り入れた左派の歴史学者である。この場合、明治維新から第二次世界大戦までの日本の政治体制は絶対主義であり、明治維新はブルジョワ的市民革命ではなく、不十分な改革であったと評価される、社会経済史理論の一形態である。
これに対して、「自由主義史観」では、歴史解釈は「類似」し、「平行」する現象の存在により成立するので、幕府が外交権・貿易権を有した江戸時代がすでに絶対主義体制であったと考えられる、としている。
また、啓蒙君主と比較して論じる者や、明治維新を市民革命と比較する視点もある。

小林よしのり『天皇論』主張などウィキペディア参照

概要[編集]
『ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論』の続編にあたる。より正確には『天皇論』の最終章の続編と言うべき内容となっており、皇位継承問題に関する小林の主張が内容の大半を占める。その点に注力するあまりに資料の曲解や理性万能主義の驕りという観点からの批判も多い。
主張[編集]
『ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論』及び関連作品である『皇后論』より引き続いて、また『WiLL』に連載の『本家ゴーマニズム宣言』などと連携して皇位継承問題について女系天皇を容認し、男系維持論者を批判して旧皇族皇籍復帰論に反対している。これらは『天皇論』においての女系天皇反対派からの批判に対しての反論である。容貌の醜悪なカリカチュア化も見られ、男系維持論者の「Y染色体による男系の維持」論について人類の祖とされるラミダス猿人の化石「アルディ」が女性であることから、歴代天皇を醜悪な猿人の姿に戯画化されたアルディのすぐ前に直接の子孫であるかのように描き「アルディが天照大神だったとでも言うのか」と叫ぶ描写がある。男系維持論者・支持者に対しては「男系絶対主義者」後には「男系固執主義者」とし、また男系論者を「皇室論の専門家ではない」と発言。男系維持論者の中でもY染色体論者は少数にもかかわらず、男系維持論者=Y染色体論者などと決め付けた発言もしている。個々の論者に対しても廃太子論などを唱える橋本明、西尾幹二らについて「シナ病」「人でなし」「日本の国情にそぐわない易姓革命を唱えている」などと批判、肖像をゴミあさりや蛸の姿に戯画化し「批判はやっかみである」と発言(ただし一方で竹田恒泰らに対する小林の「ゴミあさり」はそれらをはるかに超えた讒謗である)、小堀桂一郎を「男系派の大ボス」と称するなどしている。このほか「女系になったら腹を切って自害するのか」との発言もあり、著者は「天皇は男系でも女系でも問題ない!」とし、直系優先、女系容認であると主張するが、実際には女系推進の立場に立つと判断できる。『SAPIO』2010年5月12日号以降は今上天皇はじめ、公的機関に公認されたわけでもないのに「女系公認」の語を唱えている。又、女性天皇には、「生涯ご結婚の禁止、御懐妊の禁止」という不文の法があることにも触れていない。
天皇・皇族発言の引用[編集]
自説を主張・補強するに際して権威付けを行うことも多く天壌無窮の神勅を持ち出し女系への支持を訴えたり、昭和天皇、今上天皇をはじめ天皇・皇后の発言を要所で部分的に引用することが多い。引用の際には発言意図を憶測し「女系容認に賛同している」と解釈、「大御心が女系容認だったらどうするのだ」(『SAPIO』2009年12月16日号)など反対者を威嚇することも多く、大御心が女系容認拒否である可能性については全く述べておらず、皇室問題を巡る小林の論敵側の一部からは、天皇を恫喝又は侮辱していると唱える声もある。皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王ら皇族の発言について女系容認論者の推測による解釈のみを載せて論の補強に用いることも行っている(『SAPIO』2010年3月10日号ほか)。
その一方で男系派と看做した皇族へは三笠宮家に対して「親子2代で天皇陛下に心配をかけた」といった趣旨の中傷を行うなど攻撃対象にし旧皇族の男系子孫の代表的人物である竹田恒泰に対しては言動、行動を批判するほか「竹田から小林へ送られたメール」の内容についても触れ人格攻撃としか採りようにない讒謗に終始している。
『SAPIO』2010年5月12日号において昭和天皇が香淳皇后との間に結婚後9年間4人続けて女児が誕生した際、側室を拒否し香淳皇后には「男児が生まれなくとも皇位は弟宮が継げばいいと仰った」と主張しているがこの大御心を現在に当て嵌めると皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王、悠仁親王の現行の皇室典範に定める皇位継承順序となる。
旧皇族復帰の否定[編集]
旧皇族の皇籍復帰については「血が遠い」「400年も遡らなければ天皇に繋がらない」として否定する。否定されるべき代表例として竹田について「父の代から平民」(『SAPIO』2010年5月12日号)と唱えているが、第60代の醍醐天皇が、源姓を賜り臣籍降下した実父・宇多帝の子として臣下の身分に生まれながら皇籍に列したことには全く触れていない。そればかりか皇族の四辻善成が同じく源姓を賜り臣籍降下した後、皇族に戻れなかったという自説に都合のいい事例のみを根拠とし、改めて旧皇族復帰の否定を主張した。また伏見宮流を天皇家との血縁が薄いために軽んじられ、皇籍離脱になって当然であるという描写を行い同家を貶めている。『SAPIO』2010年3月31日号では香淳皇后を侮辱している。男系皇族としては小林の云う通り旧皇族は「血が遠い」が、孝明天皇は伏見宮に譲位を提案されたことがあるし(正確には伏見宮と有栖川宮)、明治天皇は皇子がのちの大正天皇お一人だったということで、いざというときのために永世皇族を強く望まれ、皇女4人を伏見宮系の宮家に嫁がせになられた等の歴史的事実についても触れていない。竹田宮家・朝香宮家・北白川宮家・東久邇宮家は明治天皇の皇女である常宮昌子内親王(竹田宮恒久王妃)・周宮房子内親王(北白川宮成久王妃)・富美宮允子内親王(朝香宮鳩彦王妃)・泰宮聡子内親王(東久邇宮稔彦王妃)が嫁いだ宮家であり、明治天皇の子孫であり女系男子に当たる。東久邇宮家は昭和天皇の第1皇女の照宮成子内親王(東久邇宮盛厚王妃)が嫁いだ宮家で東久邇信彦は昭和天皇の初孫として誕生した皇族で女系の男子に当たる。この事から男系皇族の三笠宮家より「血が近い」血縁者となる。女系賛成の立場なら明治天皇と昭和天皇の女系男子も認めるはずだが、認めていない。
伝統の否定・曲解[編集]
皇室が初代神武天皇から125代今上天皇まですべて男系による継承がなされたことについて日本独自の伝統とは捉えず、中国・朝鮮の家族制度を十分に日本化せず不十分に模倣した「因習」に過ぎないと述べている。更に、儒教に立脚した男系文化が日本に浸透した時期を7世紀であると断言している。なお、中国では易姓革命・王朝交代が何度も起きている。他方、小林は自著の『ゴーマニズム宣言スペシャル・昭和天皇論』の後半で、第38代の天智天皇の治世を描いた中で、即位前の天智帝と実母である斉明天皇が指揮した白村江の戦いを、華夷秩序に対抗するための予防的先制攻撃と位置付け、天智帝の実弟・大海人皇子(後の天武帝)も同様の認識だったと述べている。なお、現実に日本においては律令こそ浸透したものの、科挙や宦官、同姓不婚の原則は定着せず、第40代の天武天皇には天智天皇の娘、持統天皇、大田皇女など4女が嫁いでいる、とされている。この歴史的背景を念頭に入れると、これまでの慣習だった近親婚は以前よりも深く浸透していた可能性があるため、小林の発言にはブレがあるとも解釈できる。
偏向[編集]
女系を認めれば皇位の安定的継承が保障されるかのような言辞を多用し今上天皇の孫・曾孫世代における男子皇族の誕生の可能性は描かず、「将来皇族がいなくなってしまう」と唱える。皇后美智子・皇太子妃雅子がバッシングを受けた事例を挙げ悠仁親王が妃を見つけることの困難さを繰り返し主張する一方、皇籍にとどまる皇族女子、特に愛子内親王が女性皇太子となった場合の配偶者を見つけることの困難さについては全く言及していない。旧皇族の皇籍復帰について「民間に生まれ育った一般人を皇族とする」と批判している一方、女系容認論が「民間で生まれ育った一般人を皇族女子の婿とし皇族とする」制度であることについては全く述べていない。歴史的に女子が皇太子になった事実があると主張しているが天皇の弟が皇太子になった例が多数あることは全く述べていない。ちなみに皇室はこれまで125代のうちで皇位が親→子と継承(直系継承)されたのが66例、兄弟継承が27例、女性天皇は10代8人、女性皇太子は孝謙天皇の1例のみで孝謙天皇は生涯独身であった。女系天皇は史上例がなくすべて男系による継承がなされた。当時の天皇や上皇が直系継承にこだわった結果保元の乱、南北朝の分裂が勃発したことにも触れていない。『SAPIO』2010年5月12日号においては「皇室典範を改正すれば愛子内親王にも皇位継承権はある」と唱え、内親王の皇位継承を主張している。同号においては、「男性は欠陥品」との、差別発言ともとれる主張も行っている。女系容認後の皇位継承順序については、「直系優先・兄弟姉妹間長子優先」を支持し「直系優先・兄弟姉妹間男子優先」(高森明勅などの主張)には反対している。現在の皇位継承順序を変更しない「男系男子優先」については全く言及していない。
日本神話、神道について[編集]
天照大神は女性神である、ならば日本の天皇は女系だったと考えることもできると主張している(『ゴーマニズム宣言スペシャル・天皇論』)。『日本書紀』においては神武天皇以前を神代、以後を人代としている。皇祖神が女神であることと初代神武天皇から第125代の今上天皇まですべて男系による継承がなされたことは同時に成立する概念であるが、神武天皇以降の男系継承の伝統を主張することは「神話と歴史の分断工作」と批判している。
また神社本庁が女系容認に反対しているのは寛仁親王の影響下にあるためと主張しているが、「皇室典範改正問題に関する神社本庁の基本見解」の内容には触れていない。また、神道が天照大神を祀る伊勢の神宮大麻を最も尊ぶ教えであることについては全く述べていない。
秋篠宮家について[編集]
『SAPIO』2010年6月9日号で、秋篠宮文仁親王は天皇になるための教育を受けていないと主張。また、秋篠宮文仁親王は高齢での即位が予想され、「例えば80歳の天皇誕生ということになった時、国民の天皇への関心や求心力は保たれるだろうか」と主張。また、秋篠宮文仁親王の在位期間は短いことが予想され、元号が短期間で変わってしまうと主張。また、皇太子徳仁親王が即位した時点で皇太子が空位になることを指摘し、現行の皇室典範に定める、皇太子徳仁親王から秋篠宮文仁親王への皇位継承を批判している。昭和天皇即位(1926年12月25日)から今上天皇の立太子の礼(1952年11月10日)までの期間、皇太子が空位であったことや、大正が14年数か月であったことは全く述べていない。
『SAPIO』2012年4月4日号で、「現在の皇位継承順位は明らかにおかしい」と主張。『SAPIO』同号では秋篠宮文仁親王を「秋篠宮」と敬称をつけずに表記している。
『新天皇論』第35章で渡部昇一の「秋篠宮家の親王殿下は、皇位継承の順序において、愛子様より下ると断定してよいか」との質問状に対して「私が尊重するのは男系よりも直系だから傍系男子の悠仁親王よりも直系女子の愛子内親王の方が上になる」と回答している。『新天皇論』第36章で女性週刊誌は毎号毎号皇太子妃雅子と愛子内親王の記事ばかりであると指摘し、無意識のうちに庶民が「直系」の正統性を感じてしまうからだと主張している。
なお、『SAPIO』2010年3月10日号、『新天皇論』第13章で、「私の意図は、天皇陛下、皇太子、秋篠宮両殿下に、自由な(心理的)決定権を与えることである」との記載もある。
皇位継承の危機について[編集]
『SAPIO』2010年11月10日号で、6世紀に武烈天皇が嗣子なく崩御し、しばらく皇位は空位とされたが、やがて武烈天皇から10親等離れた継体天皇が践祚した事例をあげ、現在はこの時代以来1500年ぶりの皇位継承の危機であると述べている。実際は、室町時代の称光天皇崩御時と江戸時代中期の後桃園天皇崩御時も皇統断絶の危機であった。前者は伏見宮家から後花園天皇が、後者は閑院宮家から光格天皇が傍系継承することにより乗り切った。光格天皇が現在の皇室の祖先であることや、現在のところ最後の女性天皇である後桜町天皇が光格天皇の後見補佐をしたことについても全く言及していない。
「男系派3つの逃走点について」に関する論争[編集]
小林は、自身の説とは対照をなす男系存続派の問題点として「男系派3つの逃走点について」としてまとめている。しかし、いずれも男系存続派からの反論がきているが、小林自身からの明確な再反論はない。また、論争の中で質問内容の一部も変わってしまっている問題点も散見される。当初の質問は、下記の三つ。
皇族志願の男系男子っているのか?(新天皇論 290頁)、皇籍取得してもいいという旧宮家子孫は実在するのか?(新天皇論 297頁)について、
上記『#皇族志願の男系男子っているのか?(新天皇論 290頁)に関する間違い』参照。
「現代医学」の進歩で必ず男子が生まれるか?(新天皇論 291頁)、側室なしで男系継承が続くか?(新天皇論 297頁)について、
上記『 #側室制度なしに男系継承は不可能に関する間違い』参照
皇祖神は誰か?(新天皇論 292頁)について、
この議論はそもそも「神話と歴史の区別」というところから端を発している。これに対して小林氏は「男系派は、神話を否定した」としている。男系派は『スサノオノミコトが生んだから男系というよりも、天照大神があえて男性神を選び、「わが子孫」により継承するとしたことが、決定的に大事であり、歴代天皇は「神勅」をそのまま受け取り、万世一系により皇位を継承してきた事が重要』としている。

  天皇論!

なお、ここからの『天皇論』の参考文献はウィキペディア、SAPIO誌(小学館)、小林よしのり『天皇論』(小学館文庫)、高谷朝子『宮中賢所物語』(ビジネス社)、高橋紘『平成天皇と皇室』(文藝春秋)、高橋紘『天皇家の仕事 読む「皇室事典」』(文藝春秋)、高橋紘+所功『皇位継承』(文藝春秋)、高橋明勅『日本の可能性』(モラロジー研究所)、原武史『昭和天皇』(岩波新書)、ラビダノート・パール+田中正明編『パール博士「平和の宣言」』(小学館)、半藤一利編『日本のいちばん長い日』(文春新書)など、である。後は皇室関連著書の名もない方のあまたの参考文献である。
盗作ではなく引用である。裁判とか訴訟とか勘弁してください。また、この『いわゆる天皇論』は小林よしのり氏の本がベースになっていますが、氏と著者では考え方が180度違うので改めてご理解お願いいたします。
君が代は日本の国歌であるが、「君が代」とは昔は都々逸や流行歌として謳われていたが、明治時代(明治13年の天長節・11月3日)の宮中晩さん会で明治天皇の前で正式に演奏された。ここから「君が代」=「天皇の世」となった訳である。「君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」ちなみに”さざれ石”とは小石のことで、それが大きな岩になって苔に覆われるくらいの年月、天皇の世が未来永劫続け!と謳わされる訳だ。
天皇は当たり前ながら人間である。現人神(あらひとがみ)から人間になった。人間であるから食べ物も食べるし排泄も子供つくりや育児も趣味もやる。人間なのだ、神格化は絶対にするな!「天皇制度」は当たり前で、行政システムである。官僚も政治家も皇族も公僕(パブリックサーバント)であり、税金で飯を食っていることにはかわりはない。
天皇家は特権階級でもなく贅沢生活などもしてはおらず、あんな皇居みたいな一箇所に閉じ込められて自由がなくかわいそうではある。だが、天皇制度こそ日本の優れた”行政制度”なのである。
「例えば日本では金正恩やヒトラーみたいな独裁者は生まれない。これは天皇のおかげだね」と小林よしのり氏は著作でいうが違う。警察や民主主義や自衛隊・公安がちゃんと機能しているからである。
天皇制度を信じているひとでも『天照大神』や『日本神話』を本気で信じているひとは少数だと思う。天皇は祭祀王であり、まあ祭祀などやるだけ税金の無駄で、超能力者でもないので祈っただけで物事は好転はしない。神社で一般国民が祈るのとなんらかわらない。税金の無駄、でしかない。
<皇室用語集(宮内庁資料)>あ か さ た な は ま や ら わ


歌会始の儀(うたかいはじめのぎ)
毎年1月,天皇・皇后の御前で,一般から詠進して選に預かった歌,選者の歌,召人(めしうど)の歌,皇族のお歌,皇后の御歌(みうた),最後に御製(ぎょせい)を披講(ひこう)する儀式
詠進歌(えいしんか)
歌会始の儀に際して詠進された短歌
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等
園遊会(えんゆうかい)
毎年,春・秋の2回,天皇・皇后が,三権の長等の要人・都道府県の知事等・各界功績者とその配偶者を招いて赤坂御苑で催される饗応の行事
園遊会 最近の園遊会被招待者数
お歌(おうた)
皇后・皇太后以外の皇族がお詠みになった短歌
お題(おだい)
天皇がお定めになった短歌の題
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等
お茶・茶会(おちゃ・ちゃかい)
お客を招いて軽食を供する行事
拝謁・お茶・ご会釈など
御手元金(おてもときん)
皇室経済法の定めるところにより宮内庁の経理に属する公金とされない金銭(皇室経済法第4・6条)
皇室の経済 予算
お成り(おなり)
天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃以外の皇族方が外出されること。
文仁親王同妃両殿下のご日程
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還啓(かんけい)
皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が行啓先からお帰りになること。
皇太子同妃両殿下のご日程
歓迎行事(かんげいぎょうじ)
皇室における国賓の接遇の一つで,国賓をお迎えになる行事
国賓のご接遇 天皇皇后両陛下のご日程
還幸(かんこう)
天皇が行幸先からお帰りになること。
還幸啓(かんこうけい)
天皇・皇后がご一緒に行幸啓先からお帰りになること。
天皇皇后両陛下のご日程
給桑(きゅうそう)
蚕に桑を与えること。大きく育った蚕に,枝付きの桑を与えることを「条桑育じょうそういく」という。
宮中饗宴の儀(きゅうちゅうきょうえんのぎ)
ご即位,立太子,ご結婚などを披露され,祝福を受けられる祝宴
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 天皇皇后両陛下のご日程
宮中午餐(きゅうちゅうごさん)
内外の賓客を招いて宮中において催される昼食会
午餐・晩餐 公賓のご接遇 公式実務訪問賓客のご接遇 天皇皇后両陛下のご日程
宮中晩餐(きゅうちゅうばんさん)
皇室における国賓の接遇の一つで,宮中において催される夕食会
国賓のご接遇 天皇皇后両陛下のおことばなど 天皇皇后両陛下のご日程
宮廷費(きゅうていひ)
儀式,国賓・公賓等の接待,行幸啓,皇族の外国ご訪問など皇室の公的ご活動等に必要な経費,皇室の用に供されている皇室用財産の管理に必要な経費,皇居等の施設整備などに充てられる経費。宮廷費は宮内庁が経理する公金である。(皇室経済法第5条)
皇室の経済 予算
饗宴の儀(きょうえんのぎ)
ご即位,立太子,ご結婚などを披露され,祝福を受けられる祝宴
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼の主な儀式・行事 天皇皇后両陛下のご日程
行啓(ぎょうけい)
皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が外出されること。
皇太子同妃両殿下のご日程
行幸(ぎょうこう)
天皇が外出されること。
行幸啓(ぎょうこうけい)
天皇・皇后がご一緒に外出されること。
行幸啓など(国内のお出まし 天皇皇后両陛下のご日程
御璽(ぎょじ)
「天皇御璽」と刻された天皇の御印(詔書・法律・政令・条約の公布文,条約の批准書,大公使信任状・解任状,全権委任状,領事委任状,外国領事認可状,認証官の官記・免官の辞令などに押印される)
御璽・国璽 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼の主な儀式・行事 宮内庁
御製(ぎょせい)
天皇がお詠みになった短歌(歌会始の儀の中では「おおみうた」という)
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等 天皇皇后両陛下のお歌
供膳の儀(くぜんのぎ)
ご結婚されたお二方が初めて食事をご一緒にされる儀式
勲章親授式(くんしょうしんじゅしき)
天皇が大綬章等の勲章をみずから授与される儀式
勲章親授式 大綬章等勲章親授式
勲章伝達式(くんしょうでんたつしき)
重光章等の勲章を伝達する儀式。重光章等の勲章は内閣総理大臣が伝達し,宮中で行われる。
結婚の儀(けっこんのぎ)
お二方が,賢所において結婚の誓いをされる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事
剣璽(けんじ)
宝剣と神璽のこと
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事
剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ)
天皇が皇位を継承された証(あかし)として剣璽・御璽・国璽を承継される儀式
御璽・国璽 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼
ご引見(ごいんけん)
天皇・皇后が外国元首・王族以外の外国の賓客とお会いになること
ご会見・ご引見など 天皇皇后両陛下のご日程
皇位(こうい)とともに伝わるべき由緒ある物
三種の神器(鏡・剣・璽)・宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)のように皇位とともに承継されるべき由緒ある物(皇室経済法第7条)
皇室の経済 ご即位・大礼
講書始の儀(こうしょはじめのぎ)
毎年1月,天皇が皇后とご一緒に,人文科学・社会科学・自然科学の各分野の権威者のご説明をお聴きになる儀式
講書始 天皇皇后両陛下のご日程
皇嗣(こうし)
皇位を継承することを予定されている皇族
皇族 皇室の経済
講師(こうじ)
歌会始の儀において全句を節をつけずに読む役
歌会始
皇室経済会議(こうしつけいざいかいぎ)
内廷費・皇族費の定額の変更等法律に定める皇室経済関係の重要事項について審議する。衆・参両院の議長・副議長,内閣総理大臣,財務大臣,宮内庁長官,会計検査院長の議員8人で組織される。
皇室の経済 皇室経済会議議員名簿
皇室用財産(こうしつようざいさん)
国有財産中の行政財産に属し,国において皇室の用に供し,又は供するものと決定した財産
皇室用財産 皇室関連施設
講頌(こうしょう)
歌会始の儀において第2句以下を発声に合わせて唱える役
歌会始
皇族費(こうぞくひ)
皇族としての品位保持の資に充てるためのもので,各宮家の皇族に対し年額により支出される。皇族費を算出する基礎となる定額は法律により定められる。皇族費は,各皇族の御手元金となる。このほかに,皇族が初めて独立の生計を営む際や皇族の身分を離れる際の一時金がある。(皇室経済法第6条,皇室経済法施行法第8条)
皇室の経済 予算
皇族譜(こうぞくふ)
天皇・皇后・太皇太后・皇太后以外の皇族の身分に関する事項を登録するもの
天皇・皇族の身位に伴う事項 皇室典範 皇統譜令
皇太子成年式加冠の儀(こうたいしせいねんしきかかんのぎ)
皇太子が成年になった証(あかし)として成年の冠を授けられる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事
皇統譜(こうとうふ)
天皇・皇族の身分に関する事項を登録するもの。いわゆる一般の戸籍にあたるもので,大統譜と皇族譜がある。(皇室典範第26条)
天皇・皇族の身位に伴う事項 関係法令
ご会釈(ごえしゃく)
天皇・皇后が非公式にお会いになること
拝謁・お茶・ご会釈など
ご会見(ごかいけん)
天皇・皇后が外国元首・王族とお会いになること
ご会見・ご引見など 天皇皇后両陛下のご日程
ご帰還(ごきかん)
天皇・皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃以外の皇族方がお成り先からお帰りになること。
文仁親王同妃両殿下のご日程
国璽(こくじ)
「大日本国璽」と刻された国印(勲記に押印される)
御璽・国璽 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼の主な儀式・行事 宮内庁
ご進講(ごしんこう)
天皇・皇后・皇族に学者等が業績などをご説明申し上げること
天皇皇后両陛下のご日程 皇太子同妃両殿下のご日程 文仁親王同妃両殿下のご日程
告期(こっき)
ご結婚の期日を告げること
ご訪問(ごほうもん)
皇室における国賓の接遇の一つで,国賓をお見送りになる行事
国賓のご接遇 天皇皇后両陛下のご日程
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祝賀御列の儀(しゅくがおんれつのぎ)
天皇が即位礼正殿の儀の終了後,広く国民にご即位を披露され,祝福を受けられる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼
上蔟(じょうぞく)
蚕が繭まゆとなるための蔟まぶし(繭まゆづくり専用の器具)へ移すこと。
親任式(しんにんしき)
天皇が内閣総理大臣・最高裁判所長官を任命される儀式
親任式 親任式(ご即位後の件数) 天皇皇后両陛下のご日程
信任状捧呈式(しんにんじょうほうていしき)
新任の外国の特命全権大使が信任状を天皇に捧呈する儀式
信任状捧呈式 信任状捧呈式の際の馬車列 信任状捧呈式(ご即位後の件数) 天皇 天皇皇后両陛下のご日程
新年一般参賀(しんねんいっぱんさんが)
新年に当たり,天皇・皇后が,皇族とご一緒に,国民から祝賀をお受けになる行事
新年祝賀・一般参賀 新年一般参賀要領
新年祝賀の儀(しんねんしゅくがのぎ)
毎年1月1日,天皇が皇后とご一緒に皇族をはじめ三権の長等の要人・在日外交団の長とその配偶者から新年の祝賀をお受けになる儀式
新年祝賀・一般参賀 天皇陛下のご感想(新年に当たり) 宮殿各棟の概要 天皇皇后両陛下のご日程
成年(せいねん)
天皇・皇太子・皇太孫は18年,その他の皇族は20年(皇室典範第22条,民法第4条)
天皇・皇族の身位に伴う事項 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事
成年式(せいねんしき)
皇族が成年に達せられたときに行われる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご略歴
選歌(せんか)
詠進歌の中から選ばれて歌会始の儀において披講される短歌(その作者を「預選者」(よせんじゃ)という)
選者(せんじゃ)
詠進歌の中から選歌を選ぶ者
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等
即位(そくい)
皇嗣が皇位につかれること(皇室典範第4条)
即位後朝見の儀(そくいごちょうけんのぎ)
天皇がご即位後初めて公式に三権の長をはじめ国民を代表する人々に会われる儀式
即位の礼(そくいのれい)
天皇が位につかれたことを公に告げられる儀式。国事行為たる儀式で,剣璽等承継の儀・即位後朝見の儀・即位礼正殿の儀・祝賀御列の儀・饗宴の儀から成る(皇室典範第24条)
即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)
天皇がご即位を公に宣明されるとともに,そのご即位を内外の代表がことほぐ儀式
天皇・皇族の身位に伴う事項 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼 天皇陛下ご即位に際し(平成元年) 天皇陛下お誕生日に際し(平成2年)
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大饗の儀(だいきょうのぎ)
大嘗宮の儀の後,天皇が参列者に白酒(しろき)・黒酒(くろき)・酒肴を賜り,ともに召し上がる儀式
大嘗宮の儀(だいじょうきゅうのぎ)
大嘗祭の中心的儀式で,悠紀殿供饌の儀と主基殿供饌の儀から成る
大嘗祭(だいじょうさい)
天皇がご即位の後,大嘗宮の悠紀殿・主基殿において初めて新穀を皇祖・天神地祇に供えられ,自らも召し上がり,国家・国民のためにその安寧と五穀豊穣などを感謝し祈念される儀式(一連の儀式を総称して用いられることもある)
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご即位・大礼 天皇陛下お誕生日に際し(平成2年)
大統譜(だいとうふ)
天皇・皇后・太皇太后・皇太后の身分に関する事項を登録するもの
天皇・皇族の身位に伴う事項
高御座(たかみくら)
即位の礼において,天皇がおつきになる御座
京都御所一般公開 天皇・皇族の身位に伴う事項
朝見の儀(ちょうけんのぎ)
立太子,ご結婚などに際し,天皇・皇后にごあいさつをされる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 映像で見るご結婚50年のお歩み
天蚕(てんさん)
鱗翅目りんしもくヤママユガ科に属する昆虫を総称して野蚕やさんと呼ぶが,その中の一種が天蚕てんさんである。日本に分布し,クヌギ,コナラ,クリなどを食し,繭まゆは緑色である。
天皇誕生日一般参賀(てんのうたんじょうびいっぱんさんが)
天皇誕生日に際し,天皇が,皇族とご一緒に,国民から祝賀をお受けになる行事
天皇誕生日宴会の儀(てんのうたんじょうびえんかいのぎ)
天皇誕生日に際し,天皇が皇后とご一緒に,三権の長等の要人・都道府県の知事等・各界代表者とその配偶者を招いて催される祝宴の儀式
天皇誕生日祝賀(てんのうたんじょうびしゅくが)
毎年12月23日のお誕生日に,天皇が祝賀をお受けになる行事で,祝賀の儀・宴会の儀・茶会の儀・一般参賀などが行われる。
天皇誕生日祝賀の儀(てんのうたんじょうびしゅくがのぎ)
天皇誕生日に際し,天皇が,皇太子をはじめ皇族・内閣総理大臣・衆参両院議長・最高裁判所長官から祝賀をお受けになる儀式
天皇誕生日茶会の儀(てんのうたんじょうびちゃかいのぎ)
天皇誕生日に際し,天皇が皇后とご一緒に,各国の外交使節団の長とその配偶者を招いて茶会を催され,祝賀をお受けになる儀式
天皇誕生日祝賀・一般参賀 天皇皇后両陛下の記者会見など 天皇皇后両陛下のご日程 天皇誕生日一般参賀要領 天皇誕生日一般参賀(ご即位後の件数)
読師(どくじ)
歌会始の儀における司会役
歌会始
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内廷費(ないていひ)
天皇・内廷にある皇族の日常の費用その他内廷諸費に充てるもので,法律により定額が定められる。内廷費として支出されたものは,御手元金となり,宮内庁の経理に属する公金ではない。(皇室経済法第4条,皇室経済法施行法第7条)
皇室の経済 予算
認証官任命式(にんしょうかんにんめいしき)
認証官(その任免を天皇が認証する官)の任命式
認証官任命式 認証官任命式(ご即位後の件数) 天皇皇后両陛下のご日程
納采(のうさい)
一般の結納にあたるもの
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 映像で見るご結婚50年のお歩み
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拝謁(はいえつ)
天皇・皇后に国内の要人・功績者などが公式にお会いすること
拝謁・お茶・ご会釈など 拝謁・お茶など(ご即位後の件数)
陪聴(ばいちょう)
天皇・皇后・皇族とご一緒にご進講を聴かせていただくこと
歌会始 講書始
掃立て(はきたて)
蟻蚕ぎさん(孵化ふかしたての蚕)を蚕座さんざ(蚕を飼育する道具)に移し,細かく刻んだ桑の葉を与えて飼育を始めること。羽ぼうきを使って蟻蚕ぎさんを蚕座さんざに掃き下ろすことから「掃立て」と呼ばれている。
発声(はっせい))
歌会始の儀において第1句を節をつけて唱える役
歌会始
初繭掻き(はつまゆかき)
繭まゆになった後,約8~10日で繭まゆを蔟まぶしから外すことを収繭しゅうけん(または繭掻まゆかき)といい,その最初の作業を「初繭掻はつまゆかき」と呼ぶ。
文化勲章親授式(ぶんかくんしょうしんじゅしき)
天皇が文化勲章をみずから授与される儀式
勲章親授式 文化勲章親授式(伝達式)(ご即位後の件数) 天皇皇后両陛下のご日程
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御歌(みうた)
皇后・皇太后がお詠みになった短歌
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等 天皇皇后両陛下のお歌
三箇夜餅の儀(みかよのもちのぎ)
ご結婚当夜から3日間にわたって御殿にお祝いの餅を供えられる儀式
御帳台(みちょうだい)
即位の礼において,皇后がおつきになる御座
京都御所一般公開 天皇・皇族の身位に伴う事項 ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事のお写真
召人(めしうど)
天皇から特に召されて短歌を詠む者(その歌を「召歌」(めしうた)という)
歌会始 お題一覧(昭和22年から) 最近のお題及び詠進歌数等 天皇皇后両陛下のお歌
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山つけ(やまつけ)
天蚕てんさんの種を和紙に25粒ほど貼り付けたものをクヌギの枝につけること。
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立太子宣明の儀(りったいしせんめいのぎ)
皇太子であることを公に宣明されるとともに,これを内外の代表が祝われる儀式
立太子の礼(りったいしのれい)
皇太子であることを公に告げられる儀式
ご大喪・ご即位・ご結婚などの行事 ご略歴 主な式典におけるおことば(平成3年) 映像で見るご結婚50年のお歩み
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藁蔟(わらまぶし)
蔟まぶしと呼ばれる蚕が繭まゆづくり専用の器具を藁わらで作ったもの。
天皇皇后両陛下や愛子さまや皇太子皇太子妃は人間であり、小林よしのり氏のように『神格化』したり『金科玉条のように崇拝』する必要もない。 
万世一系(ばんせいいっけい)とは、永久に一つの系統が続くこと。多くは皇室・皇統(天皇の血筋)についていう[1]。「万世一系」の語は、岩倉具視の「王制復古議」(慶応3年10月)が初出であるとされる[2]。

岩倉具視

伊藤博文
慶応3年10月、岩倉具視は、「皇家は連綿として万世一系礼学征伐朝廷より出で候」(原文カタカナ)と指摘した。
1889年(明治22年)『(旧)皇室典範』制定に当たって伊藤博文は、皇位継承における万世不変の原則として、以下の3項目を挙げた。
第一 皇祚を践むは皇胤に限る
第二 皇祚を践むは男系に限る
第三 皇祚は一系にして分裂すべからず

民間でも大日本帝国憲法に対抗して私擬憲法が盛んに作成されたが、万世一系に言及していない例はほとんどない。万世一系の例外規定を設けているのは『憲法草稿評林』のみで、「臣民中ヨリ皇帝ヲ撰立」と規定し、皇位継承者が断絶した場合の天皇の選挙制を提案した。
起源と正統性[編集]
天皇の起源[編集]
『古事記』と『日本書紀』を編集した人物は、神武天皇から仲哀天皇までの治世を記述した。これは、当代の天皇の正統性を確保するためである。
6世紀までの日本で王朝が次々と交代したか、複数の王朝が異なる地方を同時期に並列して支配していたことを示唆する手がかりが公式の編年誌にあるとする諸説が存在する。
だが、日本の現王朝は6世紀以降には王朝交代した証拠はなく、少なくとも1500年もの間存続している。6世紀に存在した他の君主家で今日なお在位しているものは、世界のどこにもない。
皇室に名字がない事実も、天皇の王朝の古代史に遡る古さを示している。日本人が歴史が始まって以来知っている唯一の王朝だからである。
日本神話[編集]

天照大神
天皇が日本を統治する根拠とされたのは、天照大神が「天壌無窮」に葦原中国を治めよという神勅をニニギ(瓊瓊杵尊)とその子孫に下し、ニニギの曾孫である磐余彦が初代の天皇・「神武天皇」として即位したことによる。
『古事記』には天照大神が孫のニニギに「この豊葦原水穂国は、汝の知らさむ国なり」とある。『日本書紀』には「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」とある。
この記述が、皇室が日本を永遠に統治する歴史的・法的な根拠であるとされた。大日本帝国憲法第1条はこの記述を明文化したものである。日本神話に登場する初代の天皇・神武天皇から現在まで、天皇の王朝が断絶せずに皇室が日本を一貫して統治してきたとする史観を形成し、万世一系は国体において不可欠なものとされていた。
歴史[編集]
「万世一系」論の始まり[編集]
「日本は、王朝交代したことがない点で他国と基本的に異なる」という信念は、日本の王朝と同じくらい古くからあった。この主張について、十数世紀にわたって誇りを抱いたり、不思議に思う人々がいた。
大伴家持(718頃-785)は『万葉集』を編纂した奈良時代有数の歌人である。大伴家持は自分が仕えた聖武天皇を褒め称える次のような和歌を残している(下記の現代語訳は日本学術振興会の英訳から)。

大伴家持
葦原(あしはら)の 瑞穂(みずほ)の国を 天(あま)くだり
しらしめしける 天皇(すめろき)の
神の命(みこと)の 御代(みよ)かさね……
敷きませる 四方(よも)の国には
山川を 広み淳(あつ)みと
奉る 御調宝(みつきたから)は
数え得ず 尽くしも兼ねつ……

? 大伴家持、『万葉集』巻一八

天皇たちの長い家系が 世々代々
この諸地方を治めてきた
深山がつらなり 広き川があまた流れ
数えきれぬ貢(みつ)ぎ物(もの) 尽きせぬ宝を
産みなすこの国を
この和歌では天皇の家系が長いと述べているが、どれほど長いかは言及していない。

聖徳太子
『日本書紀』は、神武天皇が帝国を創建した紀元前660年の第一月第一日を王朝の起点とした。聖徳太子(574-622)は、この日付を初めて定式化した。天皇の王朝に大いなる古さを付与しようとしたのである。実際の建国は1000年後と思われるが、この日付は日本人に自国の建国日として受けとめられた。国体(政治構造)の不変さの証拠とされることもしばしばだった。
神武天皇が創始した王朝は、「神の代」の祖先たちの系譜を引き継いでいるとも信じられていた。そのため、日本の王朝は永遠であり、万世一系であると考えられていた。
中国[編集]
王朝が非常に古いという主張は、自国民を感心させるためだけではなかった。国家としては日本より古いが、歴代王朝は日本より短命とされた中国に感銘を与えるためでもあった。いくつかの事例に照らせば、中国人は日本のこの主張を気にとめ、一目置いていたと言って良い。
『新唐書』は唐の歴史をまとめた史書だが、日本の歴史も略述されている。「神の代」に属す日本の支配者33人がリストアップされている。『日本書紀』などが掲げており、「人の代」に属す歴代天皇58代(神武天皇から光孝天皇まで)も列挙されている。 楊億(ようおく)は『新唐書』の編纂に参加した人物である。平安時代の日本の学僧である然(938-1016)が当時の中国皇帝にもたらした情報について記録を残している。「王家はひとつだけで、64代引き続いておさめてきた(国王一姓相伝六四世)。行政・軍事の官職はすべて世襲である。」という情報をもたらしたという。当時の天皇は円融天皇である。神武天皇に始まる皇統譜によれば、円融天皇はまさしく64代目であり、楊億の記述と合致する。
『宋史』は宋の歴史をまとめた史書である。そのなかの「日本伝」に、北宋の皇帝・太宗の反応を以下のように記述している。

北宋の太宗
(太宗は)この国王は一つの姓で継承され、臣下もみな官職を世襲にしていることを聞き、嘆息して宰相にいうには「これは島夷(とうい。島に住む異民族のこと)にすぎない。それなのに世祚(代々の位)は”か久”(はるかにひさしい)であり、その臣もまた継襲して絶えない。これは思うに、古(いにしえ)の道である。」

? 北宋の太宗

日本人も、王朝の寿命の長短に関する中国との比較論に熱中した。北畠親房(1293-1354)の『神皇正統記』では以下のように論じている。

北畠親房
モロコシ(中国)は、なうての動乱の国でもある。…伏羲(前3308年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王。)の時代からこれまでに三六もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。ひとりわが国においてのみ、天地の始めより今日まで、皇統は不可侵のままである。




緑川史観『いわゆる天皇論』今上天皇明仁親王皇后美智子妃殿下 緑川鷲羽版『天皇論』決定版1

2015年05月30日 11時04分47秒 | 日記






天皇一家と諸王
皇后美智子との間に3子がいる。
浩宮徳仁親王(ひろのみや なるひと、1960年(昭和35年) - ) - 皇太子
礼宮文仁親王(あやのみや ふみひと、1965年(昭和40年) - ) - 秋篠宮
紀宮清子内親王(のりのみや さやこ、1969年(昭和44年) - ) - 黒田慶樹夫人
逸話[編集]
誕生[編集]
第5子にして初めて誕生した皇子であっただけに、その誕生は非常な喜びをもって受け止められた。その奉祝ムードは実に盛大なもので、東京市内では提灯行列が出た。軽快な曲調の「皇太子さまお生れなつた」(作詞:北原白秋 / 作曲:中山晋平)との奉祝歌までが作られたほどである。当時小学生であった老人などの中には、前述の歌を未だに記憶しており、すらすらと歌うことができる者もいる(たとえば女優の森光子は2009年(平成21年)の秋の園遊会で、「天皇さまの誕生のときをいまもはっきり覚えている」といい、天皇本人の前で「皇太子さまお生れなつた」のさわりを歌ってみせた)。北原白秋は他にも幼少時代の親王を称える歌「継宮さま」を作詞している。
誕生に際して「日嗣の御子は生れましぬ」との和歌も詠まれており、生まれながらの皇太子であった。
少年時代[編集]

1938年(昭和13年)、三輪車に乗る明仁親王
幼少時代には左利きであったと伝わる。その後、矯正した結果現在は両手利きであるという。
学友たちとは親しく交遊し、臣下の悪童たちに混じって数々の悪戯もしたという。「雨夜の品定め」をした、トンボを油で揚げて食べた、蚊取り線香の容器型のスタンプを作ってノートに押したなどの逸話も伝わっている。
戦時中は奥日光・湯元の南間ホテルに疎開した。この時、昭和天皇から手紙を送られている。
疎開先で戦況についての説明を受けた際、特攻に対して疑問を感じ、「それでは人的戦力を消耗する一方ではないか?」と質問して担当将校を返答に窮させたという。
敗戦時の玉音放送の際にはホテルの2階の廊下に他の学習院生と一緒にいたが、皇太子という立場を慮った侍従の機転によって(内容が内容だけに、何が起こるか分からない)御座所に引き返して東宮大夫以下の近臣とともに放送を聞いた。放送の内容には全く動揺を示さなかったが、放送が終わると静かに涙を流し、微動だにしなかったという。
その後、東宮大夫から玉音放送についての説明を受けるとすぐに悲しみから立ち直り、敗戦からの復興と国家の再建を率いる皇太子、将来の天皇としての決意を固めた。当日の日記にも、強い決意が記された。
一方で戦後の混乱期と重なった思春期には思い悩むことも多く、「世襲はつらいね」などと漏らしたことを学友がのちに明かしている。またそうした辛いときに両親である天皇皇后と別々に暮らさざるを得なかった体験が、後に子供たちを手元で育てることを決意させたともいう。
学友の橋本明とは身分を忘れ本気で喧嘩をするほどの間柄であったと言われる。
学習院時代には馬術部に所属し、高校2年生の秋以降は主将として活躍した。1951年(昭和26年)1月には、第1回関東高校トーナメントにて優勝している。
皇太子時代[編集]

皇太子時代のMGM撮影所見学、1953年(昭和28年)
1952年(昭和27年)、18歳で立太子の礼を挙行。立太子礼に際しては記念切手が発行され、その図案には明仁親王の肖像が選ばれる予定であったが、宮内庁の反対によって実現しなかった。
1953年(昭和28年)6月2日のエリザベス2世戴冠式のために同年3月30日から同年10月12日まで外遊。この前年に、日本は主権を回復しており、明仁親王の訪欧は国際社会への復帰の第一歩と期待された。
出発の際には、皇居から横浜港まで、小旗を持った100万人もの人が見送ったと言う。また、テレビ開局以来初の大規模イベントとなり、各放送局が実況中継した。特にNHKは600ミリ望遠レンズを使用して、甲板に立つ皇太子の姿をアップで撮影することに成功して視聴者を驚かせた。
大型客船プレジデント・ウィルソン号(アメリカン・プレジデント・ライン社所属、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船した。同船には、三島由紀夫も2年前に乗船し渡米するなど、多くの日本人旅行者とも縁の深い船であった。日本人向け遊具で碁盤と碁石も積まれていた。船上では早稲田大学バレーボール部の面々と記念撮影をし、麻雀や将棋、囲碁、卓球なども楽しんだ。特に麻雀はウィルソン号乗船中は乗り合わせた董慶稀(曹汝霖の娘)が幹事を務める一等船客対抗麻雀大会に参加し日本式のみならず中国式の麻雀も楽しんだ。クイーン・エリザベス号に乗り換えてのアメリカからイギリスへの旅路では朝海浩一郎公使や報道陣と公使持参の牌でサザンプトンに着くまで熱中したという。この外遊以降、麻雀は趣味のひとつとなり昭和天皇にも面白さを紹介、弟の常陸宮などとも対局したと言われる。
欧州到着後は西ドイツ・ニュルブルクリンクで1953年F1GP第7戦ドイツGP決勝を観戦。主催者の提案により表彰式のプレゼンターも務め、優勝したジュゼッペ・ファリーナ(フェラーリ所属。戦前からの名選手で、1950年には初代F1チャンピオンを獲得している)を祝福している。つまり、明仁親王は日本人で初めてF1GPの表彰台に上がった人物ということになる。平成初期のF1ブームを思うと、奇縁というべき出来事である。この時には、「競馬より面白い」との言葉を残している。
イギリスでは、第二次世界大戦で敵対国であった記憶は未だ褪せておらず、戴冠式において13番目の席次(前列中央の座席で、隣席はネパール王子)を与えられたが、女王との対面まで長時間待たされた。また女王は、握手は交わしたが視線は交わさなかった。
長期にわたって外遊した結果、単位不足で進級できず留年を回避するため、学習院大学政治学科を中退し聴講生として大学に残った。このため、最終学歴は「学習院大学教育ご終了」(宮内庁ウェブサイトに拠る)としている。なお学習院高等科出身者以外の政治学科同級生に両国高校から現役進学した後の日本会議国会議員懇談会初代会長島村宜伸がいる。島村は1956年(昭和31年)3月に政治学士となり、39年5か月後の1995年(平成7年)8月に村山改造内閣で初入閣し文部大臣の認証を受けている。
1959年(昭和34年)4月10日の結婚の儀の記念切手では、4種のうち10円と30円で皇太子妃と一緒の肖像が発行された。また切手は郵政省から皇室と正田家に「皇太子御成婚記念切手帖」が献上されている。
結婚・独立後も週に一度から数度は参内し、父である昭和天皇と食事を共にすることも多かった。こうした場を通じて帝王学の教授を受けたと言われる。
諸事の決定については独立後も昭和天皇の決裁を仰ぎ、様々な事柄について報告していたと伝わる。
「できないことは口にしない、できることだけを口にする」という信念を持っており、家族が自分の役目をおろそかにしたときには「もうしなくてよろしい」と叱責したこともあった。
昭和天皇からは名代として篤く信頼され「東宮ちゃんがいるから大丈夫」と手放しの賞賛を受けている。
1960年(昭和35年)にシカゴ市長により寄贈された、ミシシッピ川水系原産のブルーギルを皇太子が日本に持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈した。これは当時の貧しい食糧事情を思っての事であったが、ブルーギルは水生昆虫や魚卵・仔稚魚を捕食して日本固有の生態系を破壊するものであったため、後に「今このような結果になったことに心を痛めています」と異例の発言をしている。
即位後[編集]
ファイル:Emperor of Japan - Tenno - New Years 2010.ogv
国民へ向かって新年の挨拶。(2010年)

2005年(平成17年)12月23日、天皇誕生日一般参賀にて

2009年(平成21年)7月15日、ハワイ州ホノルル市にて

2011年4月17日、アメリカ合衆国国務長官ヒラリー・クリントン(左)と
昭和天皇崩御にあたり、相続税4億2800万円を納めた。また、皇居のある千代田区には住民税を納めている。
1992年(平成4年)に、アメリカ合衆国第41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュが来日した際には、皇太子徳仁親王とペアを組んで大統領とマイケル・アマコスト在日本アメリカ合衆国大使のペアとテニスのダブルスで2回対戦し、2回とも勝利している。特に2回目の敗北はブッシュにとってショックだったらしく、その夜に首相官邸で行われた晩餐会の席上にてインフルエンザ発症により倒れてしまった際、妻バーバラ・ブッシュがフォロースピーチでこの敗北をジョークにするなどして話題を呼んだ。
全国各地で発生した自然災害に対して、ともに悲しみ、被災者をいたわる姿勢を見せている。
1991年(平成3年)、雲仙普賢岳噴火の際には、島原からの避難民を床に膝を着いて見舞った。この膝を着いて災害被災者と直に話をする天皇のスタイルはその後も続いており、皇后や皇族も被災地慰問の際にはこれに倣っている。
1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災では、地震発生から2週間後の同年1月31日に現地に入り、スリッパも履かず避難所の床に正座して被災者の話に聞き入った。この姿は日本のみならず、日本国外の新聞にも大きく取り上げられ、反響を呼んだ。被災者に対して「今は苦しい時があるかも知れないがいつかきっと幸福が訪れます。それまで地震なんかに負けず頑張りなさい」と励ました。被災者は天皇の慰めに涙を流したと伝えられた。この際には動転した被災者の少女が皇后に抱きつくという出来事もあったが、咎めることなく暖かく抱きしめた。帰り際には、マイクロバスの窓から手を振って被災者を励ます写真も残されている。
2000年(平成12年)に噴火した三宅島へ、島民の帰島が叶った2006年(平成18年)には、火山ガスの発生の恐れがまだあるにもかかわらず、三宅島を慰問。島民を励ました。
2001年(平成13年)のアメリカ同時多発テロ事件に際してハワード・ベーカー駐日アメリカ大使を通じてブッシュ大統領に見舞いの言葉を贈っている。天皇が天災以外の理由で外国にお見舞いの言葉を贈ったのは前例のないことであり、それについて「皇室は前例を重んじなければなりませんが、その前例の中には前例がないにもかかわらずなされたものもあります。皇室も伝統を重んじつつ、時代の流れに柔軟に対応しなければならないと思います」と説明している。
2004年(平成16年)の新潟県中越地震の際には、自衛隊のヘリコプターで被災地を見舞った。2007年(平成19年)の新潟県中越沖地震に際しては、現地に赴いて被災者を見舞い、また被災者を思う心情から夏の静養を取り止めた。2008年(平成20年)9月8日、新潟県行幸の折り、被害の大きかった旧山古志村(現長岡市)を視察。その後被災者と懇談し、励ましの言葉をかけた。また、中越地震発生4日後に救出された男児(当時2歳)が無事に成長していることを知り、その成長を喜んだ。
2005年(平成17年)の台風14号で大きな害を被った宮崎県・鹿児島県に見舞い金として金一封を贈った。
2007年(平成19年)の能登半島地震に際しては慰問は実現されていないが、「元気になってください」との言葉を寄せた。
2007年(平成19年)10月29日から31日まで、福岡県西方沖地震被災地を見舞うため福岡に行幸した。29日には被災者の暮らす仮設住宅を慰問、当日福岡市内は天皇の宿泊したホテルニューオータニのある中央区を中心として、朝から交通規制が敷かれ、夕方まで渋滞した。しかし警備はホテル敷地内にSPが立ち、柳橋方面に少数の制服警官が配置されるなど最低限のものであり、市内は平素と変わらなかった。29日夕方には提灯行列が出て天皇の訪問を奉祝した。翌30日には同地震により最大の被害を受けた玄界島も慰問した。
2002年(平成14年)2月20日、チェロの師・清水勝雄が死去。その夜、皇后のピアノ伴奏に合わせて演奏を行ない、故人を偲んだ。会見においても、その人柄を回想していた。
2005年(平成17年)6月28日、サイパン島訪問の際には当初の訪問予定に含まれていなかった韓国・朝鮮人慰霊碑(追悼平和塔)に皇后を連れて立ち寄った。これは天皇の意向だったとされている。
2007年(平成19年)の佐賀県行幸の際、到着した天皇を出迎えた市民の一部が自然発生的に『君が代』を歌い始めた際には、その場に足を止め、皇后を促して歌が終わるまでその場に留まり、歌が終わると手を振ってこれに応えた。この訪問に際しては、提灯行列も出るなどの歓迎を受けた。
2008年(平成20年)11月8日、先代の昭和天皇同様、慶應義塾大学創立150周年記念式典に皇后と共に臨席し「おことば」を述べた。
2009年(平成21年)10月11日には、東京海洋大学品川キャンパスで日本魚類学会の年会に参加し、東京海洋大客員准教授を務めるさかなクンと歓談した。さかなクンは懇談中も脱帽せず、そのキャラクターを特徴付けるハコフグの帽子を被ったままであったが、これを非礼とすることはなかった。
2011年(平成23年)3月11日発生の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)については前述のように異例のビデオメッセージを送ったほか、各地の避難所を皇后とともに歴訪している。
2013年(平成25年)4月15日、1泊2日の私的旅行に出掛けた。行き先は長野県で、千曲市にある「あんずの里」を散策した。定例の静養や公的行事の出席ではなく、自ら場所と時期を選んで出掛けた即位後初の私的宿泊旅行である。
人物に関するもの[編集]

1949年(昭和24年)、祖母皇太后節子(後の貞明皇后)とともに

1950年(昭和25年)、妹・貴子内親王とともに

1952年(昭和27年)、父・昭和天皇とともに

1952年(昭和27年)、弟・正仁親王とともに乗馬を楽しむ明仁親王(手前)

1954年(昭和29年)、妹・清宮貴子内親王(右)と、皇太子のプリンス・セダンの前にて

2010年現在使用しているとされる2代目インテグラ(写真は同型北米仕様車)
自動車愛好家であり、大学在学中に自動車の運転を習得。1953年のエリザベス女王戴冠式出席に際してはデイムラーのSOHCをイギリスで購入してきた。独身時代にはしばしば、成婚後もしばらくの間、愛車でドライブを楽しんでおり、国産車では1954年に献上されたプリンス自動車(現:日産自動車)のプリンス・セダン(後年、日産自動車に返還され現存)以降、通算9台のプリンス車を用いた。その中にはプリンスの試作1900ccエンジンを先行搭載した初代スカイラインや、高級車「グランド・グロリア」の車室スペースを延長した特注車も含まれていた。
なおプリンス自動車は旧名をたま自動車と称したが、1952年の最初のガソリン車発売が明仁親王の立太子と同年となったことを記念して社名をプリンスと改めた。以後の自動車献上・提供も含め、同社会長・石橋正二郎の皇室崇敬の念が大きかったことが背景にあった。かつての御料車がプリンス自工開発による日産・プリンスロイヤルだったのはこれらの縁による。
軽井沢において学友の所有するアルファロメオ・1900を運転したこともあり、護衛として警察車が随伴したが、警察の日本製パトカーは性能が劣っていたため、ついていくのに必死の思いであったという。また自動車評論家として知られる徳大寺有恒は、皇太子時代の天皇が運転するスカイラインに対向車として遭遇し、大いに驚いた体験を自著に書き残している。
このほかホンダ・アコード、レジェンドクーペ、インテグラなど、運転したことがあるとされる車種は非常に多い。メカニズムにも通じ、皇太子時代に鳥取県への行幸で公用車運転手が峠越えの運転に馬力不足で難渋した時には、後席から(エンジン負荷を減らすため)「クーラーをお止めなさい」と命じた逸話がある。
現在でもフォルクスワーゲン・ビートルをまれに運転することがあるという。2007年(平成19年)には高齢者講習を受講し、紅葉マークを取得したと伝わる。2010年(平成22年)現在、プライベートで運転するのは1991年(平成3年)製のグレーのホンダ・インテグラ(4ドア仕様・MT)。週末に御所から宮内庁職員用テニスコートへ行く際、助手席に皇后、後部座席に侍従を乗せて運転する姿が放映された。
公務においてもタコグラフの製造工場を見学するなど、自動車との縁が深い。
鉄道に関する関心も深く、学習院大学時代の論文はヨーロッパの鉄道史に関する内容であったと言われる。JR東日本は皇族の公用移動のため専用の御料車を用意しているが、自身は特別扱いを嫌うため、御料列車で移動することは少なく、その意向に従って一般の車両のグリーン車などをお召し列車として貸切使用することが多い。
ビクトリアカナダ空軍基地において軍用機のコクピットに座ったこともあり、写真が残されている。またビクトリアからバンクーバーまではこの空軍機で移動した。同機の機長だったデーブ・アダムソン中佐とは2009年(平成21年)のカナダ訪問の際に再会し、「あなたのことはよく覚えています」と旧交を温めていた。
学生時代(学習院高等科3年の試験が終わった日)、学友である橋本明(橋本龍太郎の従兄弟)に「銀座に行きたい」と相談し、学友が「いつがいいか?」と尋ねると「今日がいい」と答えた。「一人ではなくもう一人連れていこう」と提案し、承諾(もう一人は出雲国造の千家崇彦)。新任だった東宮侍従濱尾実など仕えている周りの人間を「今宵、殿下を目白の方にご案内したい」など騙して抜け出すことに成功し、3人で銀座をぶらついた。このとき銀座4丁目あたりで慶應ボーイ4人と出会い、慶應ボーイは「殿下こんばんは」と挨拶したという。高級喫茶店「花馬車」で橋本の彼女と合流し、皆でお金を出し合い、一杯99円のコーヒーを飲み、洋菓子屋「コロンバン」でアップルパイと紅茶を楽しんだり、満喫したようだが、当然ながらすぐに事件は発覚。大騒ぎになり、居場所を突き止められると、銀座に警察官が20 - 30メートルおきに配置されてしまい、これ以上散策が出来なくなり終了した。また、連れ出した学友は警察と皇室関係者にこっぴどく叱られた。これが有名な「銀ブラ事件」である。
結婚のパレードは民間放送開始から5年目でまだ高嶺の花だったテレビの普及に大いに貢献した。「ご成婚パレードをテレビで見よう」の宣伝文句が今に伝わっている。
皇太子時代、タイ王室からタイ国民の蛋白質不足について相談を受け、養殖の容易なティラピアを50匹寄贈した。タイではこのティラピアを大いに繁殖させて、バングラデシュの食糧危機に際して50万匹を寄贈した。のちにこの魚には華僑によって「仁魚」という漢名が付けられた。
同じく皇太子時代、インドネシアからの打診を受けてコイの品種改良を行ない、ヒレナガニシキゴイを誕生させている。
靖国神社には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は参拝していない。一方で靖国神社の元宮司である南部利昭には、宮司就任前に「靖国のこと、頼みます」と声をかけている。
昭和天皇と同じく、宮中祭祀にはきわめて熱心であり、諒闇(服喪中)や病気を除くとほとんどの宮中祭祀に代拝を立てず御自ら出席している。
幼少時は豆腐料理を好物とした。成人してからは中華料理を好んだ。
多忙な毎日であっても俗事にも通じていることで知られる。あるミュージシャンとの会話でデーモン閣下の話題が出た折、「ああ、あの白い顔の」とその存在を知っていたことを口にしたエピソードが、デーモンがパーソナリティを務めるラジオ番組で紹介されたことがある。
上記のデーモン閣下の件でも判るように、芸能音楽やスポーツ界の事情にも通じており、芸能音楽やスポーツ界関係者を招いた皇居でのお茶会や赤坂御苑での園遊会が催された際には、出席した各関係者に詳しい質問をする。そのため、天皇に質問された出席者は「陛下が自分のことについてこちらがドキッとするほどお詳しいので恐縮に堪えません」などと記者団に感想を述べることが多い。
ただ「好きなテレビ番組は?」との質問については、「各局の競争が激しいので…」などと回答を拒否するのが普通である。ただし、皇太子時代に一度、『暴れん坊将軍』(テレビ朝日)を好きな番組に挙げた事がある。
時折、くだけた一面も覗かせる。登山時に天皇の姿が見えなくなった折、取材のため同行した新聞記者が天皇のことをうっかり「おとうちゃん」と呼んだところ、記者の背後に突然現れ「おとうちゃんはここにおりますよ」と冗談めかして言い、驚かせたことがある。
皇居がある千代田区は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う計画停電の対象外地域であったが、「国民と困難を分かち合いたい」とする天皇の意向により、皇居は停電時間に合わせ電源を落とした。計画停電の実施が終了した後もこの「自主停電」は続けたという。
2011年7月29日から8月10日、アメリカの調査会社GfKとAP通信が、日本全国の成人1000人を対象に電話で行った世論調査では、各国の元首や首脳についての設問で、天皇は「好き」を70%獲得し、オバマ大統領(同41%)などを大幅に超えて1位であった。
発言[編集]
「ご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げられるお方」
1958年(昭和33年)11月27日、正田美智子が婚約記者会見にて発言した皇太子評。流行語にもなった。
「天皇の歴史というものを知ることによって、自分自身の中に皇族はどうあるべきかということが次第に形作られてくるのではないか」
1977年(昭和52年)、帝王学について
「点数を付けることは出来ないが、まあ努力賞ということで」
1984年(昭和59年)4月10日、銀婚記者会見にて。皇太子妃に対して
この発言は報道陣の爆笑を誘った。
「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません。」
1989年(平成元年)1月9日、即位後朝見の儀にて
「日本国憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると規定されています。この規定と、国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です。」
1998年(平成10年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて
「皆様が雨に濡れて寒いのではと案じています。」
1999年(平成11年)11月20日、在位十年記念式典にて
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。」
2001年(平成13年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて
この発言は内外の興味を強く引き、韓国においても大々的に報道された。桓武天皇#今上天皇の発言も参照。
「私にとっては沖縄の歴史を紐解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました。」
2003年(平成15年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて
母方の祖母・俔子妃が島津家の出身である。
「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね。」 - 東京都教育委員の米長邦雄の「日本中の学校に国旗を掲げ、国歌を斉唱させるのが私の仕事です」という発言に対して
2004年(平成16年)10月28日、秋の園遊会にて
「皇太子の記者会見の発言を契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました。」 - 人格否定発言を受けて
2004年(平成16年)、誕生日に際する文書回答より
「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います。」
「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、(中略)私の皇室に対する考え方は、天皇および皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが(中略)、皇室の伝統ではないかと考えているということです。」
以上、2005年(平成17年)12月19日、誕生日に際する記者会見にて
「これからの日本の教育の在り方については関係者が十分に議論を尽くして、日本の人々が自分の国と自分の国の人々を大切にしながら世界の国の人々の幸せに心を寄せていくように育っていくことを願っています。戦前のような状況になるのではないかということですが、戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。(中略)1930年から1936年の6年間に要人に対する襲撃が相次ぎ、総理または総理経験者4人が亡くなり、さらに総理1人がかろうじて襲撃から助かるという、異常な事態が起こりました。そのような状況下では議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています。」 - 在日外国報道協会代表質問「教育基本法改正に伴い愛国心の表現を盛り込む事が、戦前の国家主義的な教育への転換になるのでは」に対し
2006年(平成18年)6月6日、シンガポール・タイ王国訪問前の記者会見にて
「残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです(中略)いずれ会う機会が増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています。」
2006年(平成18年)12月20日、誕生日に際する記者会見にて
「ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したもの。食用魚として期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています。」
2007年(平成19年)第27回全国豊かな海づくり大会にて。
「皇太子妃が病気の今、家族が皆で、支えていくのは当然のことです。私も、皇后も、将来重い立場に立つ皇太子、皇太子妃の健康を願いつつ、2人の力になっていきたいと願っています。」
2008年(平成20年)12月23日、誕生日に際する文書回答にて
「大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います。」
「2人のそれぞれの在り方についての話合いも含め、何でも2人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。皇后はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活に、いつも笑いがあったことを思い出します。(中略)結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます。」
以上、2009年(平成21年)4月8日、結婚満50年に際する記者会見にて
「今日の世界は決して平和な状態ではあるとはいえません。明るい面として考えられるのは、世界がより透明化し、多くの人々が事実関係が共有できるようになったことです。拉致の問題も、それが行われた当時は今と違って、日本人皆が拉致を事実として認識することはありませんでした。このため拉致が続けられ、多くの被害者が生じたことは返す返すも残念でした。それぞれの家族の苦しみはいかばかりであったかと思います。」
「皇位継承の制度にかかわることについては、国会の論議にゆだねるべきであると思いますが、将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要と思います。2人は長年私と共に過ごしており、私を支えてくれました。天皇の在り方についても十分考えを深めてきていることと期待しています。」
以上、2009年(平成21年)11月11日、即位20年に際する記者会見にて
「(公務の)負担の軽減は,公的行事の場合、公平の原則を踏まえてしなければならないので,十分に考えてしなくてはいけません。今のところしばらくはこのままでいきたいと考えています。私が病気になったときには、昨年のように皇太子と秋篠宮が代わりを務めてくれますから、その点は何も心配はなく、心強く思っています。」
2012年(平成24年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて
「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。」
「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています。」
以上、2013年(平成25年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて
系譜[編集]
明仁(今上天皇) 父:昭和天皇
祖父:大正天皇 曾祖父:明治天皇
曾祖母:柳原愛子
祖母:貞明皇后 曾祖父:九条道孝
曾祖母:野間幾子
母:香淳皇后 祖父:邦彦王(久邇宮) 曾祖父:朝彦親王(久邇宮)
曾祖母:泉萬喜子
祖母:俔子 曾祖父:島津忠義
曾祖母:山崎寿満子
高祖父:孝明天皇
高祖母:中山慶子(明治天皇生母)
系図[編集]

122 明治天皇

123 大正天皇

124 昭和天皇

秩父宮雍仁親王

高松宮宣仁親王

三笠宮崇仁親王

125 今上天皇(平成天皇 明仁)

常陸宮正仁親王

寛仁親王

桂宮宜仁親王

高円宮憲仁親王


皇太子徳仁親王

秋篠宮文仁親王


悠仁親王



著書[編集]
『ともしび 皇太子同妃両殿下御歌集』 宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年(昭和61年)12月 ISBN 9784573143012
『道 平成元年(1)平成10年 天皇陛下御即位十年記念記録集』
宮内庁編、日本放送出版協会、1999年(平成11年)10月 / 新装版2009年(平成22年)9月、ISBN 4140813903
『道 平成11年(2)平成20年 天皇陛下御即位二十年記念記録集』
宮内庁編、日本放送出版協会、2009年(平成22年)9月、ISBN 414081389X
『天皇陛下科学を語る』 宮内庁侍従職監修、朝日新聞出版、2009年10月 ISBN 4023304522
『日本産魚類大図鑑=The fishes of the Japanese archipelago』 東海大学出版会、1984年(昭和59年)12月
ISBN 4-486-05053-3(図版)
ISBN 4-486-05053-3(解説)
ISBN 4-486-05054-1(Text)
論文『ハゼ科魚類の進化』を所収(他に第2版で、ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)、益田一ほか編。
『日本の淡水魚』 山と溪谷社、1989年(平成元年)11月、ISBN 4-635-09021-3
(チチブ類の項目を執筆)、川那部浩哉、水野信彦編・監修
『日本産魚類検索 全種の同定』 東海大学出版会、1993年(平成5年)10月 / 第2版2000年(平成12年)12月 / 第3版2013年(平成25年)3月、ISBN 4486018044
(ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)、中坊徹次編
栄典[編集]

ガーター騎士団員としての紋章
大勲位菊花章頸飾
ガーター勲章 (ガーター騎士団員)(イギリス):1998年5月26日受勲。
レジオンドヌール勲章グランクロワ(フランス)
ドイツ連邦共和国功労勲章特等大十字章(ドイツ)
金羊毛勲章(金羊毛騎士団員)(スペイン)
ラーチャミトラーポーン勲章(タイ)
大チャクリー勲章(タイ)

<ウィキペディアからの引用「天皇制」>
概要[編集]
「天皇制」という用語は「君主制」を意味するドイツ語 Monarchie のマルクス主義者による和訳。1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。[要出典]1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえ、天皇制と規定した。敗戦まで、「天皇制」という用語は反体制であるとみなされていた。
「天皇制」という用語は敗戦とともにごくありふれた日本人のボキャブラリーとなり、天皇制に賛成か反対かなどと世論調査の項目でも用いられるようになった。なお、当時アメリカではEmperor Institution, the Imperial Institutionなどの語が用いられ、その制度の存廃が大きな検討事項とされていた。
以下、古代以来の天皇と政治体制との関わりを中心に解説する。
歴史[編集]
古代[編集]
歴史学上、天皇制は古墳時代に見られたヤマト王権の「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」(あるいは「大王(おおきみ)」)に由来すると考えられている。3世紀中期に見られる前方後円墳の登場は統一政権の成立を示唆しており、このときに成立した大王家が天皇の祖先だと考えられている。大王家の出自については、弥生時代の邪馬台国の卑弥呼の系統を大王家の祖先とする説、大王家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。当初の大王は軍事的な側面だけではなく、祭祀的な側面も持っていたと考えられる。
7世紀後半から中国の政治体制に倣った律令制の導入が進められ、701年の大宝律令によって律令制が確立した。国号(日本)と元号(大宝)が正式に定められ、歴代天皇に漢風諡号が一括撰進された。こうして天皇を中心とした中央集権制が確立し、親政が行われた(古代の国体「建国ノ體」)。710年には平城京に遷都した。
9世紀ごろから貴族層が実質的な政治意思決定権を次第に掌握するようになっていった。10世紀には貴族層の中でも天皇と強い姻戚関係を結んだ藤原氏(藤原北家)が政治意思決定の中心を占める摂関政治が成立した。
11世紀末になると天皇家の家督者たる上皇が実質的な国王(治天の君)として君臨し、政務に当たる院政が始まった。天皇位にある間は制約が多かったものの、譲位して上皇となると自由な立場になり君主としての実権を得た。院政を支えたのは中級貴族層であり、藤原氏(摂関家)の地位は相対的に低下した。
中世[編集]
鎌倉に武家政権が成立すると、天皇・上皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈した。承久の乱では幕府側が勝利を収めた。だが、天皇側の勢力もまだ強く、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇が天皇親政を復活させた。建武の新政参照。
室町幕府が成立すると天皇は南朝・北朝に分裂した(南北朝時代)。長い戦乱が続いた末、室町幕府の3代将軍足利義満によって南北朝の合一が果たされた(1392年)。義満は幕府の権力を強化するとともに、「日本国王」として明皇帝に朝貢する形式で勘合貿易を行った。義満の死(1394年)に際して朝廷は「鹿苑院太上法皇」の称号を贈った(これらのことなどから、義満が皇位を簒奪する意図を持っていたと考える史家もいる)。
8代将軍足利義政の時代に応仁の乱が起こり、やがて戦国時代に入り、幕府の勢力は衰えた。戦乱の世にあって、天皇・朝廷の勢力も衰えていったが、主に文化・伝統の継承者としての役割は存続していた。
近世[編集]
織田信長、豊臣秀吉も天皇の存在や権威を否定せず、政治に利用することによって自らの権威を高めていった。江戸幕府のもとでも天皇の権威は温存されたが、「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とする禁中並公家諸法度が定められ、朝廷の立場は大きく制約されることになった。紫衣事件などにみられるように、年号の勅定などを僅かな例外として政治権力はほとんどなかった。
幕府が学問に儒学の朱子学を採用したことから、覇者である徳川家より「みかど」が正当な支配者であるという尊王論が水戸徳川家(水戸藩)を中心として盛んになった。
尊皇攘夷論[編集]
江戸時代末になると尊皇攘夷論が興り、天皇は討幕運動の中心にまつりあげられた。尊王攘夷論は、天皇を中心とした政治体制を築き、対外的に独立を保とうという政治思想となり、幕末の政治状況を大きく揺るがせた。吉田松陰の唱えた一君万民思想は擬似的な平等思想であり、幕府の権威を否定するイデオロギーともなった。しかし、尊皇攘夷派の志士の一部は天皇を「玉」(ぎょく)と呼び、政権を取るために利用する道具だと認識していた。
明治維新[編集]
江戸幕府が倒れ、明治の新政府は王政復古で太政官制を復活させた。なお、真の統治者が将軍ではなく天皇である事を知らしめるため、当時、九州鎮撫総監が“将軍はいろいろ変わったが、天子様は変わらず血統も絶えずに存在する”という趣旨の文書を民衆に配布している。京都府もやはり天皇支配を周知すべく告諭を行なっている。更に新政府は行幸をたびたび行なった。
ヨーロッパに対抗する独立国家を創出するため、明治政府による中央集権体制が創られた。明治政府は不平を持つ士族の反乱や自由民権運動への対応の中から、議会制度の必要性を認識していった。日本の近代化のためにも、国民の政治への関与を一定程度認めることは必要であり、近代的な国家体制が模索された。モデルになると考えられたのは、ヨーロッパの立憲君主国であった。
憲法下の天皇制[編集]
大日本帝国憲法[編集]
大日本帝国憲法はプロイセン王国やベルギー王国の憲法を参考に作成されたと言われている。伊藤博文は、ヨーロッパでは議会制度も含む政治体制を支える国民統合の基礎に宗教(キリスト教)があることを知り、宗教に替わりうる「機軸」(精神的支柱)として天皇に期待した。
天皇の地位[編集]
大日本帝国憲法第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定められており、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されていた。
天皇の大権[編集]
大日本帝国憲法においては、天皇は以下のように記されていた。
元首で統治権を総攬する。
陸海軍(=軍隊)を統帥する。
帝国議会の協賛を以って立法権を行う。
国務大臣によって輔弼される。
司法権はその名において法律により裁判所が行う。
立憲君主制[編集]
機務六条の締結と大日本帝国憲法の制定により、日本は立憲君主制になったとされる。大日本帝国憲法を起草した伊藤博文も、天皇に絶対君主の役割を期待するようなことはなかった。法文を素直に解釈すると、“万世一系の天皇之を統治す”、“神聖にして侵すべからず”など、大日本帝国憲法においての天皇は大きな権力を持っていたように読めるが、明治以降も、天皇が直接命令して政治を行うことはあまり無く、明治憲法制定後も当初は、藩閥政府が天皇の権威の下に政治を行っていたのが、後には議会との妥協を試みるようになった。この点について「君臨すれども統治せず」という原則をとる現代の日本やイギリスなどの近代的立憲主義とほぼ同じであったという意見がある。
一方、統帥権をはじめとした軍について、議会、内閣の関与が受けられない他、議会の関与を受けない枢密院の力が巨大であること、憲法上にない元老、内大臣が天皇の権威によって、政治に介入できるほか、解釈上法律で基本的人権を無制限に侵害することが可能とも読める(留保を定めた「臣民の義務に反せず法に定める範囲内で」の文言が各所にある)ため、憲法学者の間では外見的立憲主義でしかないとする意見が通説である[要出典]。
統帥権[編集]
衆議院において政府に反対する勢力が多くを占めることを予想して、貴族院に衆議院と同等の権限を持たせている。
実際に政治を運営するのは、天皇でなく元老や内閣(藩閥政府)の各大臣である。行政権は国務大臣の輔弼により天皇が自ら行うものとされた。大日本帝国憲法では、内閣の大臣は天皇を輔弼するもの(総理大臣も他の大臣と同格)と規定された。しかし、最終的な政治決断を下すのは誰か、という点は曖昧にされていた。対外的には、天皇は元首であるが実際の為政者は内閣としていた。内閣は憲法ではなく内閣官制で規定されており、内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの憲法上は対等な地位であった。
この憲法構造が昭和に入ってから野党や軍部に利用され、「軍の統帥権は天皇にあるのだから政府の方針に従う必要は無い」と憲法を拡大解釈して軍が大きな政治的影響力を持つこととなったといわれる(権力の二重構造、統帥権干犯問題)。軍が天皇を担いでクーデターを起こしても、政府がこれを制止鎮圧する術はなかったのである。二・二六事件の際は昭和天皇が、重臣達に「お前達が出来ぬと言うなら朕が直接鎮圧に行く」と述べたため、反乱軍は無条件降伏をしたため、反乱は鎮まった。また、終戦の際、ポツダム宣言の受諾・降伏を決定することが総理大臣に出来ず、天皇の「聖断」を仰ぐ他なかった。しかし、天皇は立憲君主としての立場を自覚していたため、上御一人(最高権力者)であってもこの2例を除いて政治決定を下すことはなかった。こうした政治的主体性の欠如した統治機構を、政治学者の丸山眞男は「無責任の体系」と呼んだ。
なお、明治以降から終戦までの天皇制は、従来の天皇制とは異なる極めて政治的な理由によって、大幅に制度を変えるものであるとして、「絶対主義的天皇制」「近代天皇制」という語が用いられることもある(天皇制ファシズム参照)。
日本国憲法[編集]
日本国憲法第1章が、天皇の地位と国民主権を規定し、日本国憲法第1条が以下の通り定める。
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く

天皇が「象徴」の地位にあること、また今後もそうあり続けられるか否かは主権のある日本国民の総意に基づいて決定されるという規定であり、象徴天皇および国民主権を規定するものとなっているのである。
第二条~第八条の構成は次のようになっている。
第2条 皇位の継承
第3条 天皇の国事行為に対する内閣の助言と承認
第4条 天皇の権能の限界、天皇の国事行為の委任
第5条 摂政
第6条 天皇の任命権
第7条 天皇の国事行為
第8条 皇室の財産授受
天皇は日本国憲法の定める特定の国事に関する行為のみを行うとされるようになり、国政に直接関与する権能は有しなくなり、また天皇の国事行為は内閣の助言と承認が必要とされ、内閣がその責任を負う、とされている。
「象徴天皇制」も参照
連合国軍最高司令官総司令部は国家の政体の中心に継続して皇室を維持する方針を採り、一方で昭和天皇によるいわゆる「人間宣言」を請け日本国憲法に国家象徴としての天皇(象徴天皇)の地位を導入する方針を指導した。この方針は昭和天皇の各地への行幸や皇太子結婚などのイベントを通して大衆に浸透し、一定の支持を得るに至った。この大衆の支持を基盤にした戦後の皇室制を松下圭一は大衆天皇制と評した。
憲法学会の学説では日本国憲法下の現行体制を立憲君主制とは捉えず、また天皇は元首ではないとする説と、実質的に元首であるという見解を示す説もある(「君主制(君主が元首である)」と「君主政(君主が執政者である)」では若干意味が違い、「民主政」と「君主政」の両立は有り得ないが、「民主政」と「君主制」は両立され得る)。
日本政府の公式見解(法制局の見解)は以下の通りである。
1973年(昭和48年)6月28日参議院内閣委員会、吉國一郎内閣法制局長官答弁「日本は近代的な意味の憲法を持っているし、憲法に従って政治を行う国家である以上、立憲君主制と言って差し支えないが、ただし明治憲法におけるような統治権の総攬者としての天皇をいただくような立憲君主制ではないことは明らかである」と述べた。
1975年(昭和50年)3月18日、衆議院・内閣委員会において、政府委員の角田礼次郎(内閣法制局第一部長)は、質問に答える形で、旧憲法下の天皇と現在の憲法のもとにおける天皇の権能・地位は非常な違いがあると認め、大きな違い(の一番目)は、現憲法のもとにおける天皇は、第一条に明記されているがごとく、日本国の象徴であり日本国民の象徴であって、一口で言えば非政治的な地位にいることだと思う、とし、第二に、現在の(=現憲法下の)天皇は(旧憲法下では初めから地位を持っていた、とされていたのに対して)、やはり第一条に明記されているごとく、その地位が、主権の存ずる日本国民[注 1]の総意に基づくことだと思う、と述べた。
1988年10月11日参議院内閣委員会、大出峻郎内閣法制局第一部長答弁。(天皇は元首なのか?そうでないのか?といった主旨の問いに対し)『現行憲法(=日本国憲法)においては元首とは何かを定めてはおらず、元首の概念は学問上・法学上いろいろな考え方があるようなので、天皇が元首かどうかは、要は定義次第であると考えている。“元首”の定義として、外交のすべてを通じて国を代表し(かつ)行政権を把握しているとする定義を採用するならば、現行憲法においては天皇は元首ではないということになると思う。しかし、現代には「実質的な国家統治の大権を持っていないくても、国家においていわゆるヘッド(頭)の地位にある者を“元首”と見る」とする見解もあり、そのような定義を採用するならば、天皇は国の象徴であり外交関係では国を代表する面も持っているので、(その場合は)「元首」と言ってもさしつかえないというふうに考えている。』『憲法7条9号の「外国の大使および公使を接受すること」というのは、国事行為として、日本に駐在するために派遣される外国の大使・公使を接受するのであるから、この点では、形式的・儀礼的ではあるが天皇が国を代表する面を有している。それに対して、全権委任状あるいは日本の大使・公使の信任状を発出するのはもともと内閣の権限に属することであり、天皇はあくまでこれを認証するだけである。また批准書、その他の外交文書の作成も、内閣の権限に属することであり、天皇はこれを認証するだけである。そういう意味において、外交関係において国を代表する面を有しているとは言いにくいのではないかと理解している』
アメリカ・中央情報局の『ザ・ワールド・ファクトブック』では、日本の「Government type(政府・統治のタイプ)」としては「a parliamentary government with a constitutional monarchy」とし、「chief of state」としては 「Emperor AKIHITO (since 7 January 1989)」としている。諸外国は一般的に、外交上、日本を天皇を元首とした立憲君主国として扱っている。


緑川史観『いわゆるA級戦犯論』これぞ侵略戦争・昭和戦記の決定版!緑川鷲羽によるA級戦犯論5

2015年05月30日 08時00分41秒 | 日記


 <不起訴のA級戦犯>
 *石原莞爾
  石原 莞爾(いしわら かんじ、明治22年(1889年)1月18日 (戸籍の上では17日)- 昭和24年(1949年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は従四位・勲三等・功三級、「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織内では変わり者だった。
関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、後に東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気のため戦犯指定を免れた。
生涯[編集]
幼少年時代[編集]
明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原啓介とカネイの三男として生まれる。但し戸籍上は1月17日となっている。啓介とカネイは六男四女を儲け、莞爾は三男であるが長男の泉が生後二ヶ月で、二男の孫次が二週間で亡くなり、莞爾が事実上の長男である。四男の次郎は海軍中佐となるが1940年6月に航空機事故で殉職する。 五男の三郎は一歳で亡くなり、六男の六郎は戦後莞爾と共に行動して昭和51年(1976年)まで西山農場で暮らす。長女の元は医者の家へ、二女の志んは軍人の家へ嫁ぎ、三女の豊、四女の貞は24歳でなくなっている。
父親の転勤のため、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であり、まだ小学生でなかった石原を姉が子守のため学校に連れて行った時には教室で大暴れして戸を叩きながら「破るぞ、破るぞ」と怒鳴り散らした。しかし利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると一年生で一番の成績であり、また石原の三年生の頃の成績を見てみると読書や算数、作文の成績が優れていた。 また病弱でもあり、東北帝国大学付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると小児時代に麻疹にかかり種痘を何度か受けている。 石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた。
軍学校時代[編集]
明治35年(1902年)に仙台陸軍地方幼年学校に受験して合格し、入学した。ここで石原は総員51名の中で一番の成績を維持した。特にドイツ語、数学、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で器械体操や剣術などの術科は不得意であった。
明治38年(1905年)には陸軍中央幼年学校に入学し、基本教練や武器の分解組立、乗馬練習などの教育訓練を施された。石原は学校の勉強だけでなく戦史や哲学などの書物をよく読んでいた。田中智学の法華経に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。この上には横山勇、島本正一などがいる。また東京に在住していたため、乃木希典や大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている。
明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入学し、ここでも軍事学の勉強は教室と自習室で済ませ、休日は図書館に通って戦史や哲学、社会科学の自習や名士を訪問した。学科成績は350名の中で3位だったが、区隊長への反抗や侮辱のため、卒業成績は6位であった。
士官学校卒業後は歩兵第六十五連隊に復帰して見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここで軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。南次郎よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて共に「支那革命万歳」と叫んだという。
連隊長命令で不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。受験科目は初級戦術学、築城学、兵器学、地形学、交通学、軍制学、語学、数学、歴史などであり、各科目三時間または三時間半で解答するというものであった。部隊長として勤務することを望んでいた石原は受験に対してやる気はなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく淡々と普段の部隊勤務をこなし、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。しかし合格し、大正4年(1915年)に入学することになる。ここでは戦術学、戦略、軍事史などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を思想や宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。そして大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業した(30期、卒業生は60人)。首席は、鈴木率道であった。卒業論文は北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。
在外武官時代[編集]
ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読みあさった。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者として知られる。大正12年(1923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。そのころ田中智學には「人殺しをせざるをえない軍人を辞めたい」と述べたといわれる。
関東軍参謀時代[編集]
昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手にわずか1万数千の関東軍で日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であったが、その実は石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。
二・二六事件の鎮圧[編集]
昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立った。この時の石原の態度について昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している。 この時、ほとんどの軍中枢部の将校は、反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。安藤輝三大尉は部下に銃を構えさせて石原の登庁を陸軍省入口で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ、陛下の軍隊を私するな!この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ!」と怒鳴りつけ、参謀本部に入った。反乱軍は石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった。また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考えが違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか?」と威嚇的に訊ねられるも、「俺にはよくわからん。自分の考えは軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と言い、「こんなことはすぐやめろ!やめないと討伐するぞ!」と罵倒し、石原の凄まじい気合いにおされて栗原は殺害を中止、事なきを得ている。

 *星野直樹
  星野 直樹(ほしの なおき、1892年4月10日 - 1978年1月26日)は、日本の大蔵官僚、政治家、実業家。(大蔵官僚+軍人官僚)「戦争経済のスペシャリスト」「満州国建設の参画者」「統制経済」の立役者。
満州国では国務院総務長官として腕を振るい、満州国の実力者「弐キ参スケ」の一角を占める。第2次近衛内閣の企画院総裁、東条内閣では内閣書記官長を務め、終戦後にA級戦犯として起訴された。終身禁固刑を受けるも釈放され、その後は旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを歴任した。

 *重光葵(しげみつまもる)は外務大臣としてミズーリ号の甲板で降伏書に調印して国連で演説した。
  重光 葵(しげみつ まもる、1887年(明治20年)7月29日 - 1957年(昭和32年)1月26日)は、第二次世界大戦期の、日本の外交官・政治家である。まれに、「しげみつあおい」と読み間違えられることがある。
来歴・人物[編集]
生い立ち[編集]
大分県大野郡三重町(のち大分県豊後大野市)に士族で大野郡長を務める父・直愿と母・松子の次男として生まれた。しかし母の実家(重光家本家)に子供がなかったため養子となり重光家26代目の当主となった。旧制杵築中学、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業する。
外交官として[編集]
文官高等試験外交科合格後の1911年(明治44年)年9月、外務省に入省(第20回、芦田均・堀内謙介・桑島主計らと同期)、在ドイツ・在英国各公使館書記官、在シアトル領事を経て、各国において日本国公使として勤務していたが、1930年(昭和5年)には駐華公使となる。1931年(昭和6年)9月、日本陸軍の一部が突如満洲を制圧しようと満州事変を引き起こし国際問題となる。これに対し重光は「明治以来積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途をたどって行くことは外交の局に当たっている者の耐え難いところである」(重光著『昭和の動乱』より)と怒り、外交による協調路線によって収めようと奔走。1932年(昭和7年)1月、第1次上海事変が起き重光は欧米諸国の協力の下、中国との停戦交渉を行う。何とか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった同年4月29日、上海虹口公園での天長節祝賀式典において朝鮮独立運動家・尹奉吉の爆弾攻撃に遭い重傷を負う(上海天長節爆弾事件)。重光は激痛の中「停戦を成立させねば国家の前途は取り返しのつかざる羽目に陥るべし」と語り、事件の7日後の5月5日、右脚切断手術の直前に上海停戦協定の署名を果たす。このとき重光の隣でやはり遭難し片目を失った海軍大将の野村吉三郎も、後に外相、そして駐米大使となり、日米交渉の最前線に立つことになる。なお、弁当箱状の爆弾が投げつけられた時、逃げなかったことについて「国歌斉唱中だったから」と答えている。
第1次上海事変を中国が国際連盟に提訴したことを引金に、1933年(昭和8年)2月24日、国際連盟で日本軍の満州での行動を不当とする決議案(リットン報告書)が 賛成42ヵ国 対 反対1ヵ国(日本) で採択された。これを不服とする日本は国際連盟から脱退を宣言し国際社会から孤立していく。このころ重光は「欧米の国々は民主主義民族主義を欧州に実現することに努力した。しかしながら彼らの努力はほとんど亜細亜には向けられなかった。欧米は阿弗利加および亜細亜の大部分を植民地とし亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」と手記を残し、白人による亜細亜支配であれば許されるのかと怒っている。
その後、駐ソ公使(張鼓峰事件、乾岔子島事件に関与)、駐英大使を歴任。特に日英関係が悪化する中での関係好転や、蒋介石政権への援助中止要請などに尽力する一方、欧州事情に関して多くの報告を本国に送っており、その情報は非常に正確なものだった。その重光が欧州戦争に「日本は絶対に介入してはならない」と再三東京に打電したにもかかわらず日本政府は聞き入れず、1940年(昭和15年)9月27日、松岡洋右外相(第2次近衛文麿内閣)が日独伊三国同盟を締結し、アメリカの対日姿勢をより強硬なものにしてしまった。 ( 1941年(昭和16年)12月8日(日本時間)、太平洋戦争が始まる。日本は東南アジアの欧米の植民地を占領。外交官として重光はこれに対し「日本は卑しくも東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば武力的発展は東亜民族の了解を得ることができぬからである」と怒っている。
戦時中の外相[編集]
東條英機内閣・小磯国昭内閣において外相を務める。東條内閣にあっては大東亜省設置に反対、しかしながら、東條首相のブレーンとして自らの主張を現実にするため、1943年(昭和18年)11月の大東亜会議を開くために奔走。人種差別をなくし亜細亜の国々が互いに自主独立を尊重し対等な立場での協力を宣言した。
敗戦国の全権[編集]
降伏文書調印
1945年9月2日東京湾上に停泊の米国戦艦ミズーリ号甲板にて。中央で署名するのが重光全権、その左(写真右端)は加瀬俊一、重光の前方で署名を見守るのはリチャード・サザーランド中将。
重光は敗戦直後に組閣された東久邇宮稔彦王内閣で外務大臣に再任され、日本政府の全権として降伏文書に署名するという大役を引き受ける。1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式において、大本営代表の参謀総長梅津美治郎と共に日本全権として署名を行った。重光はこれを「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点である」と捉え、その時の心境を「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」と詠んでいる。
外相辞任後は、極東国際軍事裁判における外務省関係容疑者の弁護の準備を進めていたが、1946年(昭和21年)4月13日に来日したソ連代表検事のS・A・ゴルンスキーがジョセフ・キーナン首席検事に対して、重光が第二次世界大戦中に東條内閣、小磯内閣で外務大臣を務めたことに対して、重光をA級戦犯として起訴するよう強硬に要求してきた。当初、GHQは重光を戦犯として起訴する意思は皆無で、キーナンをはじめとするアメリカ側検事団も強く反対した。しかし、当時の民主党政権は「要求を受け入れられないのなら、裁判に参加しない」というソ連側の揺さぶりに屈する形となり、マッカーサーも要求を容認さぜるを得なくなった。結局、4月29日の起訴当日に逮捕起訴され、1948年(昭和23年)11月12日に有罪・禁固7年の判決を受けた。裁判においては、高柳賢三・ジョージ・ファーネス両弁護人の尽力などもあって、その判決は禁固7年というA級戦犯の中では最も軽いものとなったが、日本だけではなく当時の欧米のメディアも重光の無罪は間違いないと予想していただけに、有罪判決はソ連を満足させるためのGHQによる政治的妥協であると評する声も多かった。事実、当時の巣鴨プリズンで憲兵を務めていたブルーム大尉は「驚いた。貴下の無罪は何人も疑わぬところであった」と憤りを表し、ケンワージー中佐などは「判決は絶対に覆るはずだ」とまで述べていたという。4年7ヵ月の服役の後、1950年(昭和25年)11月に仮釈放されている。連合国と日本の講和条約の発効後、講和条約の規定に基づいて、日本政府と極東国際軍事裁判に参加した全ての国の政府との合意により、恩赦により刑の執行を終了した。
戦後[編集]
重光は講和条約の発効、公職追放解除後は衆議院議員に3回選出された。改進党総裁・日本民主党副総裁を務めた。改進党総裁であった1952年(昭和27年)に野党首班として内閣総理大臣の座を吉田茂と争い、内閣総理大臣指名選挙の衆議院で2位。続く1953年(昭和28年)の総選挙後、少数与党となった吉田の日本自由党からの連立の呼びかけを拒否する。野党の首班候補として重光の内閣総理大臣指名が現実のものとなりかけたが野党の足並みが乱れ、左右社会党の支持を得られず決選投票で敗北。吉田との会談により閣外協力を受け入れた。その後、鳩山一郎派と合同して日本民主党を結党させる。1955年(昭和30年)の保守合同による自由民主党の結党に参加。
1954年(昭和29年)12月~1956年(昭和31年)12月の期間、第1~3次鳩山一郎内閣で第二次世界大戦中の3回に続いて4回目の外務大臣を務めた。1955年(昭和30年)4月、インドネシアでアジア・アフリカの29カ国が集まるアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開かれ、アジア・アフリカの国々が第三勢力として協力し合う方針を打ち出した。日本はこの会議でアジアの一員として国連加盟の支持を得た。9月1日、重光は国連本部を訪れレセプションを開催し、経済復興した日本が国際社会に貢献できると国連加盟をアピールしたが、12月の国連安全保障理事会でソ連に反対され、常任理事国として拒否権を行使され、国連への加盟は達成できなかった。国連加盟を果たすため、鳩山一郎内閣は国交がなかったソ連との国交回復を目ざし、1956年(昭和31年)7月、重光はモスクワで日ソ国交回復交渉に入るが、北方領土問題が難航し交渉を妥結できなかった。このことから重光は、『日ソ平和条約締結のためには歯舞・色丹の2島のみを返還するというソ連案を受け入れるしかない』という旨の電文を東京に打電した。しかし、鳩山は、重光の提案を拒否し、重光をスエズ会議に送ったうえで、自ら交渉に臨んだ。しかし、北方領土問題を何ら打開できず、米国からは弱腰外交だと批判されたため、鳩山は日ソ平和条約の締結および北方領土問題の解決を棚上げすることとし、10月19日、ソ連との国交回復を意味する日ソ共同宣言だけを行い、これによって『日本の国連加盟に反対しない』旨の内諾をソ連から得た。
国連総会で加盟受諾演説をおこなう重光
同年12月18日、国連総会は加盟76か国の全会一致で日本の国連加盟を承認した。重光は日本の国連加盟が認められたことに対する加盟受諾演説で、「日本は東西の架け橋になりうる」と表明し、国連総会に出席していた加盟国の代表団から拍手で受け入れられた。その直後に国連本部前庭に自らの手で日章旗を高々と掲げた重光は、その時の心境を「霧は晴れ 国連の塔は輝きて 高くかかげし 日の丸の旗」と詠んでいる。帰国前の12月23日、日本では第3次鳩山一郎内閣が総辞職して石橋湛山内閣が成立していたため外相の重光も辞任となる。日本への帰途、同行した加瀬俊一に対して笑顔で「もう思い残すことはない」と語った。
それから一月後の1957年(昭和32年)1月26日、重光は狭心症の発作により神奈川県湯河原町の別荘で急逝した。69歳だった。重光の外務大臣と国際連合への加盟実現の功績に対して、死後に勲一等旭日桐花大綬章が授与された。

 *賀屋興宣(かやおきのり、法務大臣)
  賀屋 興宣(かや おきのり、1889年(明治22年)1月30日 - 1977年(昭和52年)4月28日)は、広島県広島市出身の大蔵官僚、政治家。「統制経済」の立役者。
来歴・人物[編集]
生い立ち[編集]
父は国学者の藤井稜意(いつ)、母は愛国婦人会幹事を務めた賀屋鎌子。4歳の時母の伯父の家を継いで賀屋姓を名乗った。
広島第一中学校(現広島県立国泰寺高校)、第一高等学校、東京帝国大学法科大学政治学科卒。
大蔵省に入省し、主に主計畑を進んだ。官僚時代には陸海軍予算を担当し、少壮軍人達とも親しかった。1927年(昭和2年)ジュネーブ海軍軍縮会議、1929年(昭和4年)にはロンドン海軍軍縮会議に、それぞれ全権団の随員として参加。ロンドン会議では条約の締結賛成だったために、次席随員として参加していた山本五十六と鼻血を出す殴り合いを演じたこともある。
その後は戦時経済政策を方向づけることなどに貢献、いわゆる革新官僚の一人と目され、またその線での活動が目立った。1937年(昭和12年)には第一次近衛内閣で大蔵大臣となり、「賀屋財政経済三原則」を発表して日中戦争戦時の予算の途を開いている。この当時から、石渡荘太郎・青木一男とともに「大蔵省内三羽烏」と呼ばれるようにもなった。
1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦時の東条内閣で再び大蔵大臣を務めて戦時経済を担当したが、東郷茂徳外務大臣と共に米英に対する開戦には終始反対だった。戦時下には戦時公債を濫発し、増税による軍事費中心の予算を組み、戦時体制を支えた。その予算編成は、華北における資源開発や大東亜共栄圏を中心としたブロック経済を想定したものであり、A級戦犯に指名された理由もこの予算編成の責任者だったことに起因したものと考えられている。
A級戦犯から政界復帰へ[編集]
戦後A級戦犯として極東国際軍事裁判で終身刑となり、約10年間巣鴨プリズンに服役。児玉誉士夫によれば、獄中でも「これまで落ちれば、寧ろさっぱりして良いですね」等と悠然としていたという。また、岸信介は、お互い数年間規則正しい生活を強いられたおかげで持病等が無くなり、長生きできるようになったと回想している。賀屋は喘息持ちだったが、獄中生活で完治したという。
裁判では日本の共同謀議について戦勝国から問われたが、これについて賀屋は「軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と語っている。
「逆コース」中の1955年(昭和30年)9月17日に鈴木貞一、橋本欣五郎らと共に仮釈放。1958年(昭和33年)4月7日付けで、同日までにそれぞれ服役した期間を刑期とする刑に減刑された。同年第28回衆議院議員総選挙に旧東京3区から立候補し当選(以後5回連続当選)。
岸信介首相の経済顧問や外交調査会長として日米安全保障条約の改定に取り組んだほか、池田内閣の法務大臣、自民党政調会長などを歴任し、自由民主党右派・タカ派の政治家として有名だった。池田勇人は賀屋を重用し、賀屋は熱心に岸の安保改定と池田の所得倍増政策に尽力した。
1972年(昭和47年)、政界引退(地盤は越智通雄が引き継いだ)。「自由日本を守る会」を組織、中華民国擁護など独自の政治活動を続けた。
アメリカ共和党や中央情報局(CIA)そして中華民国の蒋介石政権に広い人脈を持っていたり、日本遺族会初代会長となる等、国際反共主義勢力、自民党、右翼のトライアングルを結ぶフィクサーとして国内外の右翼人脈を築いた。2007年(平成19年)に開示されたアメリカ国立公文書記録管理局所蔵のある文書には、CIAが作成した日本の反共化を推進するのための現地協力者(行動員)のリストに賀屋の名が連ねられている。
エピソード[編集]
戦没将兵の単なる遺族互助団体だった「日本遺族厚生連盟」を「日本遺族会」と改称し右傾化させた張本人と目されたり、またA級戦犯として有罪判決を受け服役しながらも赦免後に要職に就いたことを批判されたりもしたが、その一方でタカ派ながら過去の敗戦責任を痛感して叙勲を辞退したり、巣鴨で服役中に刑場に向かうA級戦犯を目の当たりにした経験から法務大臣当時は死刑執行に否定的という一面もあった。事実、賀屋が法務大臣だった1964年(昭和39年)は日本の近世以降初めて死刑が実施されない年となった。
石原慎太郎が尊敬する政治家の一人で、「あんなに冷静で、人を食ってて、明晰だった人はいません」と評価している。話し合い、議論して、相手の言うことの筋が通らない場合には徹底的に論破し、軽蔑の上突き放すという、風貌に似合わぬところがあった。剃刀というよりも短刀のような人物だったという。石原は、日本の戦後にかつてはいた大官僚からいい政治家になった人物として賀屋を挙げ、その理由として戦中に軍と戦ったからと述べている。賀屋は初めて日本で統制経済をやった人物と評価し、賀屋自身も「こんな貧乏な国が3年間も戦争できたのは、私の財政のおかげですよ」と言っていたという。
妻とは熱烈な恋愛結婚で、妻の通夜の晩には一晩中妻の体をさすっていた。翌日葬儀屋が棺に遺体を入れるときに「体が温かいですね」と言われるほどだった。
日本社会党の委員長を務めた河上丈太郎とは旧制第一高等学校時代からの友人で、河上が死去したときは追悼文を書いたことでも知られている。
平沼赳夫の平沼家とは近所付き合いがあり、平沼は学生時代には賀屋の孫の家庭教師をしていた。平沼が政治家としての実質的なスタートとなる佐藤栄作の秘書になるのも賀屋の口利きだという。
年譜[編集]
衆議院予算委員会室で秘密会を前に結城豊太郎蔵相(中央)に耳打ちする賀屋次官(右)、昭和12年
1889年(明治22年) - 広島県広島市鷹匠町(現中区本川町)に生まれる。旧姓藤井
1917年(大正6年) - 東京帝国大学法科大学政治学科卒業、大蔵省入省
1927年(昭和2年) - ジュネーブ軍縮会議全権随員
1932年(昭和7年) - 大蔵省予算決算課長
1934年(昭和9年) - 主計局長
1936年(昭和11年) - 理財局長
1937年(昭和12年) - 大蔵次官を経て第1次近衛内閣で大蔵大臣として入閣
1938年(昭和13年) - 貴族院勅選議員に勅任
1939年(昭和14年) - 大谷尊由の後任として北支那開発株式会社第2代総裁に就任
1941年(昭和16年)10月18日 - 東條内閣で大蔵大臣として再入閣
1945年(昭和20年)9月 - A級戦犯の容疑で逮捕拘束
1948年(昭和23年)11月12日 - 極東国際軍事裁判により終身刑の判決を受け服役
1955年(昭和30年)9月17日 - 仮釈放
1956年(昭和31年) - 産業計画会議委員
1958年(昭和33年) - 正式赦免。5月の第28回衆議院議員総選挙に自由民主党公認(旧東京3区)から立候補し初当選、以後5期連続当選
1963年(昭和38年)7月 - 第2次池田内閣 (第3次改造) で法務大臣として入閣、続く第3次池田内閣でも留任
1972年(昭和47年)11月 - 政界引退。
1977年(昭和52年)4月28日 - 死去、満88歳。

戦争犯罪者は時に「勝者の為に犠牲者」になる。彼らだっていい訳ぐらいあるだろう。が、だからと言って、被害者意識丸出しで世界に訴えてもかわらない。小林よしのりは「A級戦犯などいない」という。なら誰が戦争を始めたのであろうか?軍部か?天皇か?何はともあれ「いい訳」で歴史を改ざんされては堪らない。歴史から逃げるな!と言っておわりとしたい。 
   



緑川史観『いわゆるA級戦犯論』これぞ侵略戦争・昭和戦記の決定版!緑川鷲羽によるA級戦犯論4

2015年05月30日 07時59分16秒 | 日記










 *荒木貞夫(文部大臣)
  荒木 貞夫(あらき さだお、1877年(明治10年)5月26日 - 1966年(昭和41年)11月2日)は、日本の陸軍軍人、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。皇道派の重鎮であり、昭和初期の血気盛んな青年将校のカリスマ的存在であった。
1931年(昭和6年)より犬養内閣・齋藤内閣陸相。1934年(昭和9年)、軍事参議官。1935年(昭和10年)、軍功により男爵。1936年(昭和11年)、二・二六事件の粛軍の結果、予備役に編入される。1938年(昭和13年) - 1939年(昭和14年)、第1次近衛内閣・平沼内閣の文相として国民の軍国化教育に邁進した。
略歴[編集]
生い立ち[編集]
東京都狛江市(出生当時は東京府多摩郡)出身。小学校校長で、旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれる。誕生日は木戸孝允の命日でもある。日本中学中退を経て、1897年(明治30年)11月、陸軍士官学校卒業(第9期)。近衛歩兵第1連隊に配属され、第16代連隊旗手をつとめる。1907年(明治40年)11月、陸軍大学校を首席で卒業(「恩賜の軍刀」拝受)。
第一次世界大戦中はロシア従軍武官。シベリア出兵では特務機関長にて参加。その後、憲兵司令官等を歴任。
皇道派のシンボル[編集]
1929年(昭和4年)、陸軍首脳は「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で、第1師団長であった真崎甚三郎を台湾軍司令官として追いやったが、そのときに荒木も左遷される予定であった。しかし、教育総監の武藤信義が「せめて荒木は助けてやってくれ」と詫びを入れる形で、荒木は第6師団長から教育総監部本部長に栄転し東京に残った。武藤はどちらかというと「反宇垣一成」で皇道派の庇護者であったため、統制派の独裁を嫌い、特に荒木を可愛がったらしい。この頃の荒木の人気というのは大変なもので、東京駅のホームは出迎えの青年将校で溢れ、さながら凱旋将軍のようであったという。
憲兵司令官時代から大川周明や平沼騏一郎・北一輝・井上日召といった右翼方面の人物と交流を持っていたことから、1931年(昭和6年)の十月事件においては、橋本欣五郎から首相候補として担がれたが、荒木自身の反対や意見の非統一から計画は頓挫した。
満州事変真っ只中の同年12月に荒木は教育総監部本部長から、荒木の盛り立てを目的とする一夕会の永田鉄山や鈴木貞一らの働きかけで犬養内閣の陸相に就任した。参謀総長には閑院宮元帥を担ぎ出してロボット化を謀り、参謀本部の実質トップとなる参謀次長には真崎を台湾軍司令官から呼び戻して就任させた。荒木の人事は、自分の閥で要職を固め、過激思想の青年将校を東京の第1師団に集めた。この後、荒木・真崎の取り巻き連を皇道派と呼び、それに対抗する勢力を統制派と呼ぶようになった。荒木人事の凄まじさに、「清盛の専横」とか「驕る平氏も久しからず」という恨みの言葉がささやかれるほどであった。しかし、過激青年将校に自重を求める荒木の人気は下降し、次第に四面楚歌に追いやられるようになった。自分で育て、利用してきた過激青年将校たちを、制御できなくなったのである。1934年(昭和9年)1月、ついに荒木は病気を理由に陸相を辞任する。荒木は後任の陸相に腹心の真崎を希望したが、自らが擁立したはずの閑院宮にも反対され、挫折した。
極東国際軍事裁判(東京裁判)における岡田啓介の証言によれば、陸相時代には天皇を退位させて、生後間もない皇太子を即位させる計画を持っていたという。また「熊沢天皇」こと熊沢寛道とのつながりも指摘されている。
1933年(昭和8年)、大阪でゴーストップ事件が発生。陸相であった荒木は「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」と憤慨し、内務省と対立した。
1936年(昭和11年)の二・二六事件の際には、皇道派の首領として青年将校達を裏で支えていたのでは、という疑惑が持ち上がったが、軍の主要人物の中では、一番明確に反乱将校に原隊復帰を呼びかけていた。しかし、荒木はこの事件後の粛軍によって予備役に退かされ、軍人としての第一線からは消えていった。
石原莞爾は荒木のことを徹底的に嫌っていた。石原は皇道派ではなかったが、皇道派と対立する統制派でもなく、思想的理由で荒木を嫌っていたのではなく、荒木の無責任と無能ぶりが我慢ならなかったようである。二・二六事件の只中、陸軍省で荒木と遭遇した石原(当時陸軍大佐)は荒木に向かって「バカ!お前のようなバカ大将がいるからこんなとんでもない事態になるんだ!」と罵倒した。荒木が「陸軍大将に向かってバカとはなんだ!陸軍部内の規律と秩序を考えろ!」と言い返すと石原は「この状況のどこに規律と秩序があるんですか!」と猛然と言い返し、両者はあやうく乱闘になりかけたが、その場にいた安井藤治東京警備軍参謀長が二人をおさえて何とか事なきを得た。石原は真崎のことも嫌悪しており、真崎の差し出した握手を無視したこともあったという。
皇道教育の推進[編集]
文部大臣当時の荒木
1938年(昭和13年)5月26日に、第1次近衛内閣の文部大臣に就任すると同時に、「皇道教育」の強化を前面に打ち出した。国民精神総動員の委員長も務め、思想面の戦時体制作りといったプロパガンダを推し進めた。この頃から、軍部の大学・学園への弾圧が始まり、人民戦線事件や平賀粛学に代表されるような思想弾圧が行われるようになった。
戦後の極東国際軍事裁判においては、文相時代の事柄にも重点が置かれることとなった。裁判の法廷において、証人として出廷した大内兵衛は、検事の尋問に応じて宣誓口供書を提出したうえで、弁護団の反対尋問で、軍事教育を通じて、軍部による学園弾圧が強化されていった過程を「1938年、荒木貞夫文相の時、各大学における軍事教育が一層強制的となり、軍部の学校支配が強化された」「軍事教練は、荒木さんが陸相当時、東大で採用するよう要求があった。この時東大は拒絶したが、1938年に荒木さんが文相になった時、軍事訓練は強制的となった」と証言している。
上記のようなことから、極東国際軍事裁判においても、検事から「荒木は侵略思想を宣伝し、教育・鼓吹した」と指摘されたが、荒木の弁護人である菅原裕は「荒木の宣伝したのは、侵略ではなく皇道であって、侵略思想とは正反対の日本古来の精神主義である」と全面的に否定している。
戦後[編集]
戦後はA級戦犯として逮捕され、巣鴨プリズンに拘置された。極東国際軍事裁判ではのらりくらりとしながらもその堂々とした態度が他の被告人らを奮い立たせたとも言われ、非常に饒舌で罪状認否で起訴状の内容に対し無罪を主張して熱弁を振るい、ウェブ裁判長から注意されたこともあった。判決時にはモーニング姿で被告席に現れた。一方で、重光葵の証言によれば、巣鴨プリズン内のアメリカ人憲兵の不遜な態度に反発するあまりに、親ソ的な言動をとるようになった。当初アメリカ人憲兵は荒木らA級戦犯に対し、非常に大らかな規律・姿勢で対応していたが、彼らの態度が日増しに尊大になっていくことを問題視し、一転して厳格な態度で接するようになったという。
極東国際軍事裁判において、A級戦犯として終身刑の判決を受ける。1955年(昭和30年)に病気のため仮出所し、その後釈放。間もなく健康を回復。以後日本全国を回り、講演や近現代史研究のための史料調査などを行い、積極的に活動した。
1966年(昭和41年)10月末、奈良県吉野郡十津川村の招待で同村を訪問し、同村ゆかりの天誅組・十津川郷士関係の諸史料の調査と講演を行ったが、同年11月1日、宿泊先の「十津川荘」において心臓発作を起こす。佐藤栄作首相へ「日本の未来像は、維新の五箇条の御誓文を主とし、つまらぬ事を付け加えずに、これを達成すること」といった遺言を口述し、翌日死去した。89歳没。墓所は多磨霊園。
1967年(昭和42年)11月、一周忌に際し、十津川村は「荒木貞夫終焉之地碑」を建立。碑文は佐藤栄作の揮毫によるものである。十津川村の厚情に対し、遺族は貞夫の遺品となった「恩賜の軍刀」を村に寄贈。軍刀は現在十津川村歴史民族資料館に展示されている。

 *大島浩(イタリア大使)
  大島 浩(おおしま ひろし、1886年(明治19年)4月19日 - 1975年(昭和50年)6月6日)は、日本の昭和期の陸軍軍人である。最終階級は陸軍中将。
第二次世界大戦前から戦中にかけて駐ドイツ特命全権大使を務め、日独伊三国同盟締結の立役者としても知られる。終戦後の極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けた。ドイツ語が上手いだけの「単純な軍人」。ナチスヒトラーの崇拝者。ゆえに戦犯。
人物[編集]
大島は、陸軍士官学校、及び陸軍大学校を卒業した陸軍軍人であった。1921年(大正10年)、駐在武官補として初めてドイツに赴任、ナチ党とのあいだに強い個人的関係を築くようになった。1938年(昭和13年)には駐ドイツ日本大使に就任、日独同盟の締結を推進し、1940年(昭和15年)に調印された日独伊三国軍事同盟も強力に支持した。終戦後にはA級戦犯として終身刑に処せられ、1955年(昭和30年)まで服役した。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
後の陸軍大臣・大島健一の長男として、岐阜県恵那郡岩村町に生まれた。
その後は東京で育ち、愛日小学校(東京牛込北町)では、後に経済人として経団連会長も務めた石坂泰三と同級であった。1898年(明治31年)、東京府立四中入学、陸軍幼年学校入学資格である1年次修了後、1899年(明治32年)9月、東京陸軍地方幼年学校入学、1904年(明治37年)11月、陸軍中央幼年学校卒業。
幼少期から、在日ドイツ人の家庭に預けられ、ドイツ語教育とドイツ流の躾を受けた。軍人となった後に初めてドイツに駐在した際には、ドイツ人青年に付いてドイツ語を習い、教科書には『ロシア革命』(ローザ・ルクセンブルク著)や、『手紙』(カール・リープクネヒト著)などが用いられていたという。
ドイツ駐在[編集]
1921年(大正10年)以降には、断続的にベルリンに駐在中し、ドイツの政権を得ていたナチス党上層部との接触を深めた。当時、日本国外務省はナチス党とは距離を置く方針であり、独自の行動で同党とのネットワークを構築していた大島は、日独同盟の推進者となっていった。大島の外交思想は、同時期の駐イギリス特命全権大使であり、親英米派であった吉田茂とは対極であった。
その後大島は陸軍中央と提携、駐ドイツ大使であった東郷茂徳を退け、1938年(昭和13年)、自らが駐独大使に就任した。大使就任後には、政治家・外交官でありナチス党幹部のリッベントロップに接近、日独伊三国同盟(1940年締結)による枢軸外交実現のために奔走した。さらに、ナチス党総統 アドルフ・ヒトラーの信任を得るに至った。
ドイツ駐在中は「姿勢から立ち振る舞いに至るまでドイツ人以上にドイツ人的」との評価を受け、一貫して親独政策を主張した。これらのことから、アメリカのジャーナリスト ウィリアム・L・シャイラーは後年、大島を、「ナチス以上の国家社会主義者」と評している。
ドイツ敗戦後[編集]
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)、日本政府は駐スイス公使阪本瑞男からのドイツ第三帝国瓦解との本国電を黙殺、大島による、なおもドイツ有利との誤った戦況報告を重用し続けた。ドイツを一方的に信じ続けた大島によるそれらの暗号電報は、全て連合国側に解読されており、米英の作戦遂行に有利に活用されていた。
同年4月、ソ連赤軍がベルリンに迫ると、大島は一部の高官らと共にドイツ南部の温泉地、バート・ガスタインに避難した。ドイツ敗戦後、大島は連合国によって身柄を拘束されて日本に送還、A級戦犯として起訴されることとなった。
大島は1945年(昭和20年)暮、日本に送還途中のアメリカ合衆国・ニューヨークのホテルにおいて、所持していた日記や機密文書を水洗便所に流した。
極東国際軍事裁判[編集]
大島がA級戦犯として起訴された最大の理由は、日独伊三国同盟の推進にあった。しかし法廷において大島は、「ヒトラーやリッベントロップとは、ほとんど会わなかった」と、事実とは異なる証言をし、また三国同盟を主導したことなど、自身に不利になることには一切言及しなかった。
判事による投票の結果、大島は1票差で絞首刑を免れ、終身刑の判決のもと巣鴨拘置所で服役した。大島は後年、政治家であった広田弘毅などが死刑となったことについて、「(自分のほうが戦争への責任が重いにも拘らず)こうして生きているのが、いつも申し訳ない気がしている」(1965年(昭和40年)頃の発言)などと述べていた。
晩年[編集]
1955年(昭和30年)11月に仮釈放された大島は、神奈川県茅ヶ崎市に隠遁した。
赦免後には、政権政党であった自由民主党から、国政選挙への立候補を度々要請されたが、「自分は国家をミスリードした。その人間が再び公職に就くのは許されない」として断り続けた。公的な場所に現れることすら一切なかった大島は、著作や講演の依頼にも頑として応ぜず、編集者で歴史家の高橋正衛には、「私が語り、書いて、大島個人の主観で歴史家を誤らせるという、三国同盟に次いでまた国民に罪を犯したくない」と語っていた。
日独伊三国同盟の締結を推し進めたことに付いて大島は後年、当時はそれを最善と信じて行動していたが、結果的にはその見通しの誤りが敗戦という結果を招き、その意味で自らに日本国に対しての重大な責任があることを認めていた。

 *佐藤賢了(けんりょう、陸軍省事務局長)
  佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年(明治28年)6月1日 - 1975年(昭和50年)2月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。「黙れ!中佐」。”大人物”の広田弘毅に尊敬と感銘を受け崇拝する軍人。
経歴[編集]
1895年(明治28年)6月1日、石川県河北郡花園村字今町(現・金沢市今町)に生まれる。金沢一中を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校29期を卒業。12月25日、少尉任官、野砲兵第1連隊附。1920年(大正9年)11月26日、陸軍砲工学校高等科卒業(26期)。1921年(大正10年)4月、中尉に昇進。1925年(大正14年)11月27日、陸軍大学校37期を卒業。1926年(大正15年)3月、大尉に昇進。
1930年(昭和5年)5月、アメリカ駐在、米野砲兵第12連隊附。駐在時にはテキサス州で砲兵隊の隊付将校としての経験から、陸軍部内ではその経歴から知米派の扱いを受けた。
黙れ事件[編集]
1936年(昭和11年)8月1日、軍務局課員(軍務課国内班長)。1937年(昭和12年)3月、中佐に昇進。8月、航空兵に任ぜられる。
1938年(昭和13年)3月3日、黙れ事件を起こす。軍務課国内班長として衆議院の国家総動員法委員会において陸軍省の説明員として出席。国会審議で佐藤が法案を説明し、法案の精神、自身の信念などを長時間演説した事に対し、他の委員(佐藤の陸軍士官学校時代の教官でもあった立憲政友会の宮脇長吉など)より「やめさせろ」「討論ではない」などの野次が飛んだが、これを「黙れ!」と一喝。政府側説明員に過ぎない人物の国会議員に対する発言として、板野友造らによって問題視されるも、佐藤が席を蹴って退場したため、委員会は紛糾し散会となった。その後杉山元陸相により本件に関する陳謝がなされたが、佐藤に対し特に処分は下らなかった。作家の半藤一利によれば、戦後のインタビューで佐藤は「国防に任ずる者は、たえず強靱な備えのない平和というものはないと考えておる。そんな備えなき平和なんてもんは幻想にすぎん。その備えを固めるためにはあの総動員法が必要であったのだ」と語ったという。
1940年(昭和15年)2月10日、南支那方面軍参謀副長に就任。松岡・アンリ協定に基づく北部仏印進駐を進めるが、現地における細目協定の成立にもかかわらず、9月23日に日本軍が越境し、仏印軍との衝突に至る。これは富永恭次参謀本部第1部長との謀議によるものであり、国際的な非難を浴び、富永は東部軍司令部付に左遷される。佐藤の上司で謀議に関与しなかった安藤利吉南支那方面軍司令官も責めを負って予備役に編入された。
太平洋戦争[編集]
1941年(昭和16年)3月1日、軍務局軍務課長に就任。東條英機の側近として知られ、巷間「三奸四愚」と呼ばれた側近のうち四愚の一人とされる。陸軍省の軍務課長という立場でありながら、昭和天皇の開戦回避の聖旨に添って動く東條首相兼陸相や、開戦に慎重な武藤軍務局長よりも、田中第1部長を筆頭に開戦に積極的な参謀本部を支持していた。自身も東條の前で日米交渉に消極的な意見を吐き、逆に東條に叱責されている。
1941年10月15日、少将に昇進。12月太平洋戦争勃発。
1942年(昭和17年)4月20日、陸軍省軍務局長に就任。
ガタルカナル増援をめぐる船舶徴用問題に携わる。この方面での作戦に消極的な東條首相兼陸相の意を受け、民間船舶増徴を迫る参謀本部との折衝を繰り返すが、12月5日、田中新一参謀本部第1部長との乱闘事件を引き起こし、翌日には首相官邸において田中が東條を面罵、罷免される事態となる。
1943年(昭和18年)、山本五十六が戦死した際にはミッドウェー海戦の失敗を引き合いに出して「国葬にするのは適当ではない」と東條に進言したが、東條は陸海軍の協調を優先して進言を退けた。
1944年(昭和19年)7月、サイパン失陥によって東條内閣が窮地に立たされると、東條は内閣改造による頽勢の挽回を図り、佐藤もその指示により奔走するが、重臣の抵抗により挫折し東條は退陣を余儀なくされる。東條の失脚後は中央から追われ、支那派遣軍総参謀副長となる。教育総監から陸相に回った杉山元に、蒋介石との和平の途を模索するよう言い含められていたが、現地はそのような状況にはなく成果は挙げられなかった。
1944年9月5日、陸海技術運用委員会が設置され、佐藤は海軍の軍務局長とともに副委員長を務めた。特殊奇襲兵器開発のために陸海民の科学技術の一体化が図られた。
1944年(昭和19年)12月14日支那派遣軍総参謀副長。
戦後[編集]
1945年8月終戦。佐藤は最年少のA級戦犯となり、極東国際軍事裁判で終身刑の判決を受けて服役し、いわゆるA級戦犯では最も遅くまで拘留され1956年(昭和31年)3月31日に釈放。その後は東急管財(現・東急ファシリティサービス)社長を務めた。また、自身の反米体験をもとにベトナム戦争反対運動に参加して話題になり、「共産党は無理だが、社会党の公聴会に呼んでくれないものか」と語った事もある。開戦時の陸軍中枢においてアジアの植民地解放に最も熱心であり、死の直前まで面談者には大東亜戦争(太平洋戦争)は聖戦だったと主張していた。
身長は5尺6寸(169cm)。囲碁が好きであり、岡敬純海軍中将とは囲碁仲間であった。長男は陸軍から戦後、航空自衛隊に入隊し、空将補に昇進、次男は関西電力勤務、三男は早稲田大学教育学部教授。

 *鈴木貞一(ていいち、陸軍中将)など。
  鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年(明治21年)12月16日 - 1989年(平成元年)7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東條英機側近三奸の一人とされる。「サラリーマン軍人」
略歴[編集]
千葉県の地主である鈴木八十吉の長男として生まれ、東京の成蹊学舎、京北中学校を経て、1910年(明治43年)に陸軍士官学校(22期)、1917年(大正6年)に陸軍大学校(29期)を卒業した。元々は満州の森林開発に携わることを志望しており、卒業後も支那問題に関する研究を続けたことから、参謀本部の支那班・作戦課での勤務を命じられ、上海及び北京、武漢に駐在した。
1927年(昭和2年)11月、深山亀三郎らと共に木曜会を結成。1929年(昭和4年)5月19日、永田鉄山・東條英機・板垣征四郎・石原莞爾ら陸軍中堅将校が結成していた二葉会と木曜会が合流して結成された一夕会のメンバーにもなった。1931年(昭和6年)三月事件に参加する。
鈴木は前述の通り、「背広を着た軍人」と呼ばれていたように、実戦部隊での経験はあまり無く、対外的・官僚的な仕事に携わるケースが多かった。1931年(昭和6年)1の満州事変勃発に伴い、軍務局勤務になると同時に、自らが代表となって満蒙班を立ち上げ、ほぼ独断といった状態で満洲政策を推し進めることとなる。その際、白鳥敏夫や森恪と連携して国際連盟脱退論を主張し、軍部における連盟脱退推進派としてその名が知れ渡るようになる。
1933年(昭和8年)に情報機関の新聞班長となるが北京駐在以来、古野伊之助との縁も深い。古野は企画院時代に鈴木門下となった逓信官僚の奥村喜和男とも縁が深い。
1936年(昭和11年)の二・二六事件の際には、山下奉文と共に青年将校の説得に当たった。この時期の鈴木は皇道派に近いポジションにあり事件の青年将校にも同情的であったが、事件以降、巧みに統制派に鞍替えし、やがて東條英機の側近にのぼりつめていった。同じく皇道派に近かった山下が事件以降に不遇に陥り、逆に統制派だった武藤章が後に東條と対立して山下の部下に転じたケースとは対照的である。このことから鈴木を陸軍内部で稀にみるオポチュニストだとする見解も少なくない。
1938年(昭和13年)4月14日に第3軍参謀長、同年12月16日、興亜院政務部長に就任して(~1941年4月)。1940年(昭和15年)8月1日、中将に昇進した。同年12月23日、興亜院総務長官心得に就任した。1941年(昭和16年)4月4日、予備役編入となる。それと同時に、第2次近衛内閣国務大臣兼企画院総裁に就任した。以後、第3次近衛内閣・東條内閣でそれぞれ国務大臣を務める。東條内閣の際には、イギリスのインド植民省を真似て大東亜省を設立して、外務省のアジア関係の権限を全て陸軍が奪い取り、自らが事実上の外務大臣に成り上がろうとしたが、大臣には青木一男が任命されて、失敗に終わっている。
東條内閣時、帝国議会の閣僚席は内閣総理大臣の隣で、東條英機に近い重要閣僚であることを印象づけている。東條内閣発足時の記念撮影でも、東條の横に写っている。ニュース映画では、農林大臣井野碩哉が進み出ようとするのを遮って、最前列に出たのが確認できる。
太平洋戦争開戦直前の1941年(昭和16年)10月-12月の御前会議において、日本の経済力と軍事力の数量的分析結果に基づき、開戦を主張した。会議において鈴木は、ABCD包囲網等により石油が禁輸されてしまった以上、3年後には供給不能となり、産業も衰退し軍事行動も取れなくなり、支那だけではなく満洲・朝鮮半島・台湾も失ってしまうだろう、と主張した。故に、天皇に「座して相手の圧迫を待つに比しまして、国力の保持増進上有利であると確信致します」と述べたうえで、米英蘭と開戦して、南方資源地帯を占領することが必要不可欠だ、ということを説明した。
また、戦後の鈴木へのインタビューによれば、企画院総裁就任の当初、船舶の損耗率の問題で対米戦争は困難という分析結果を発表していたが、東條内閣の成立と同時に、海軍が責任を持って損耗率を抑えるから大丈夫だと主張したため、「心配はない。この際は戦争した方が良い」という見解に変わった、と述べている。加えて、前述の通り、物資がないために開戦に踏み切ったのであって、日中戦争が泥沼化した時点で、既に開戦は不可避だったと認識していた、とも語っている。
1942年(昭和17年)2月に大東亜建設審議会幹事長に就任した。1943年(昭和18年)10月8日に貴族院議員に就任して、内閣顧問、大日本産業報国会会長を務める。
戦後[編集]
終戦後の1945年(昭和20年)12月3日にA級戦犯に指定された。極東国際軍事裁判で鈴木がA級戦犯として告訴された最大の要因は前述の御前会議において開戦を主張したことにあるとされている。終身禁固の判決を受け服役する。1955年(昭和30年)9月17日に橋本欣五郎、賀屋興宣とともに仮釈放されて、1958年(昭和33年)に赦免された。
長年、朝になると発声による健康管理を行っていた。特に巣鴨プリズン収監中は、鈴木の声が獄中の目覚まし代わりになっていたという。NHK特集『スガモ・プリズン解体』(1971年放送)出演時のインタビューでは、東京裁判について「連合軍が我々を裁く根拠がない。そう言ったら、彼らは『人民の名に於いて』とか言った。人民の名などという法的根拠はない。結局、戦争に負けたから、我々は裁かれるのだ」と語っていた。
赦免後は、「電力王」と呼ばれた松永安左エ門の要請で産業計画会議委員へ一度就いたが、岸信介内閣成立後の1959年(昭和34年)に、自民党から参院選出馬への要請を受けるも、「もう私の時代は終わった」「一度、頂点の舵取りを誤った者は、二度とその職に付くべきではない」と拒否して、公的な役職に就くことはなかった。しかし、保守派の御意見番として、自民党の国会議員から意見を求められることが多く、佐藤栄作のブレインとして彼を支え続けたほか、岸信介や福田赳夫、三木武夫とも懇意にしていたと言われている。
NHK特集『戒厳指令 交信ヲ傍受セヨ ~二・二六事件秘録~』(1979年2月26日放送)に出演し、二・二六事件当時の様子を語っている。この番組では、事件当時戒厳司令部によって傍受・録音された鈴木及び家族の肉声が放送されている。この取材および録音内容については、番組のプロデューサーだった中田整一の著書『盗聴 二・二六事件』(文藝春秋、2007年)に記されている。このとき鈴木はすでに90歳であったが、ダンディな服装であらわれ、記憶力や会話もきわめて明晰で、中田を驚かせている。
その後は、1973年(昭和48年)に東京都世田谷区から千葉県山武郡芝山町にある生家に居住して、静かな余生を送った。ちなみに、近所の住民からは「閣下」と呼ばれていたという。
1989年(平成元年)に100歳で没した。A級戦犯としては、唯一平成まで存命した最後の生き残りであった。葬儀は東京都杉並区の福相寺で営まれ、葬儀委員長は福田赳夫が務めた。

 <不起訴のA級戦犯>
 *石原莞爾
  石原 莞爾(いしわら かんじ、明治22年(1889年)1月18日 (戸籍の上では17日)- 昭和24年(1949年)8月15日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。栄典は従四位・勲三等・功三級、「世界最終戦論」など軍事思想家としても知られる。「帝国陸軍の異端児」の渾名が付くほど組織内では変わり者だった。
関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、後に東條英機との対立から予備役に追いやられ、病気のため戦犯指定を免れた。
生涯[編集]
幼少年時代[編集]
明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原啓介とカネイの三男として生まれる。但し戸籍上は1月17日となっている。啓介とカネイは六男四女を儲け、莞爾は三男であるが長男の泉が生後二ヶ月で、二男の孫次が二週間で亡くなり、莞爾が事実上の長男である。四男の次郎は海軍中佐となるが1940年6月に航空機事故で殉職する。 五男の三郎は一歳で亡くなり、六男の六郎は戦後莞爾と共に行動して昭和51年(1976年)まで西山農場で暮らす。長女の元は医者の家へ、二女の志んは軍人の家へ嫁ぎ、三女の豊、四女の貞は24歳でなくなっている。
父親の転勤のため、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であり、まだ小学生でなかった石原を姉が子守のため学校に連れて行った時には教室で大暴れして戸を叩きながら「破るぞ、破るぞ」と怒鳴り散らした。しかし利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると一年生で一番の成績であり、また石原の三年生の頃の成績を見てみると読書や算数、作文の成績が優れていた。 また病弱でもあり、東北帝国大学付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると小児時代に麻疹にかかり種痘を何度か受けている。 石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた。
軍学校時代[編集]
明治35年(1902年)に仙台陸軍地方幼年学校に受験して合格し、入学した。ここで石原は総員51名の中で一番の成績を維持した。特にドイツ語、数学、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で器械体操や剣術などの術科は不得意であった。
明治38年(1905年)には陸軍中央幼年学校に入学し、基本教練や武器の分解組立、乗馬練習などの教育訓練を施された。石原は学校の勉強だけでなく戦史や哲学などの書物をよく読んでいた。田中智学の法華経に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。この上には横山勇、島本正一などがいる。また東京に在住していたため、乃木希典や大隈重信の私邸を訪ね、教えを乞うている。
明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入学し、ここでも軍事学の勉強は教室と自習室で済ませ、休日は図書館に通って戦史や哲学、社会科学の自習や名士を訪問した。学科成績は350名の中で3位だったが、区隊長への反抗や侮辱のため、卒業成績は6位であった。
士官学校卒業後は歩兵第六十五連隊に復帰して見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここで軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。南次郎よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて共に「支那革命万歳」と叫んだという。
連隊長命令で不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。受験科目は初級戦術学、築城学、兵器学、地形学、交通学、軍制学、語学、数学、歴史などであり、各科目三時間または三時間半で解答するというものであった。部隊長として勤務することを望んでいた石原は受験に対してやる気はなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく淡々と普段の部隊勤務をこなし、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。しかし合格し、大正4年(1915年)に入学することになる。ここでは戦術学、戦略、軍事史などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を思想や宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。そして大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業した(30期、卒業生は60人)。首席は、鈴木率道であった。卒業論文は北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士・河井継之助』であった。
在外武官時代[編集]
ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読みあさった。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者として知られる。大正12年(1923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。そのころ田中智學には「人殺しをせざるをえない軍人を辞めたい」と述べたといわれる。
関東軍参謀時代[編集]
昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手にわずか1万数千の関東軍で日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であったが、その実は石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。
二・二六事件の鎮圧[編集]
昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立った。この時の石原の態度について昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している。 この時、ほとんどの軍中枢部の将校は、反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。安藤輝三大尉は部下に銃を構えさせて石原の登庁を陸軍省入口で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ、陛下の軍隊を私するな!この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ!」と怒鳴りつけ、参謀本部に入った。反乱軍は石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった。また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考えが違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか?」と威嚇的に訊ねられるも、「俺にはよくわからん。自分の考えは軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と言い、「こんなことはすぐやめろ!やめないと討伐するぞ!」と罵倒し、石原の凄まじい気合いにおされて栗原は殺害を中止、事なきを得ている。


緑川史観『いわゆるA級戦犯論』これぞ侵略戦争・昭和戦記の決定版!緑川鷲羽によるA級戦犯論3

2015年05月30日 07時56分54秒 | 日記












 <名誉を回復した戦犯>
 *大川周明(しゅうめい、思想家)
  大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年12月6日 - 1957年12月24日)は、日本の思想家。 1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。
なお、東京裁判において民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴されたことでも知られる。しかし、精神障害と診断され裁かれなかった。晩年はコーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究でも知られる。
山形県酒田市出身。祖先は代々「大川周賢」を襲名してきた医者の家系である。荘内中学(現山形県立鶴岡南高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。荘内中学時代は、庄内藩の儒者・角田俊次宅に下宿し、このときに漢学の素養を身につけた。また『南州翁遺訓』(西郷隆盛が遺した言葉を庄内の人々が纏めたもの)を何度も読み、明治政府に批判する西郷の精神を学ぶ。五高時代には、栗野事件(入学試験における学校当局の不正事件)で自ら先頭に立ち活躍した。大学時代は宗教学を学ぶ中で「マルクスを仰いで吾師とした」大川にも唯物論的な社会主義への疑問が芽生えてくるようになる。その後、キリスト教系の新興宗教団体「道会」に加入。大正2年(1913)、道会創立者松村介石に依頼され、歴代天皇の業績を表した『列聖伝(れっせいでん)』の出版を試みたが、実現しなかった。
大学卒業後、インドの独立運動を支援。ラース・ビハーリー・ボースやヘーラムバ・グプタを一時期自宅に匿うなど、インド独立運動に関わり、『印度に於ける國民的運動の現状及び其の由来』(1916年)を執筆。日本が日英同盟を重視して、イギリス側に立つことを批判し、インドの現状を日本人に伝えるべく尽力した。 1918年(大正7年)には満鉄に入社する。これは、初代満鉄総裁の後藤新平に、植民地インドに関する研究論文が評価されたことによる。のち、満鉄東亜経済調査局の編輯(へんしゅう)課長を務める。
また、イスラム教に関心を示すなど、亜細亜主義の立場に立ち、研究や人的交流、人材育成につとめ、また、亜細亜の各地域に於ける独立運動や欧米列強の動向に関して『復興亜細亜の諸問題』(1922年)で欧米からのアジアの解放とともに、「日本改造」を訴えたり、アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード、ケマル・アタチュルク、レザー・パフラヴィーらの評伝集である『亜細亜建設者』(1941年)を執筆した。ルドルフ・シュタイナーの社会三層化論を日本に紹介もしている(「三重国家論」として翻訳)。また、学生時代に参謀本部でドイツ語の翻訳をしており、宇垣一成、荒木貞夫、杉山元、建川美次、東条英機、永田鉄山、岡村寧次らと知己があった。
一方、日本精神復興を唱えて佐藤信淵、源頼朝、上杉謙信、横井小楠らの評伝をまとめ『日本精神研究』(1924年)を執筆。日本史を概観する書物として『日本二千六百年史』(1939年)を著す。同書は大ベストセラーとなるが、当時賊徒とみなされていた北条義時、北条泰時、足利尊氏・直義兄弟を称賛するなどの内容があったため批判され、改訂を余儀なくされる。
大正・昭和期に、北一輝、満川亀太郎らと親交があり、特に北一輝とは上海で2日間語り合い、北が計画している「日本改造」の原稿を託される。その際、北が、「君も命を狙われているだろうから」と仕込み槍を贈られたという逸話がある。日本で普通選挙運動が盛んだった頃、「日本改造」を実践する結社猶存社や、行地社、神武会を結成。貴族院議員の徳川義親侯爵と親交が深く、徳川から金銭的援助を受けており、徳川は、大川やその他日本改造主義者たちの経済的パトロンであった。三月事件・十月事件・血盟団事件など殆どの昭和維新に関与し、五・一五事件でも禁錮5年の有罪判決を受けて服役。
満州事変に際しては首謀者の一人板垣征四郎と親しく、大川の弟子が結成した雄峯会が柳条湖事件や自治指導部などで関わった満州国の建国を支持して在満邦人と満州人民を政治的横暴から救うという視点から「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満州を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満州新国家の建設』)。北守南進を主張していたが、それはあくまでも「日中連携」を不可欠のものとしており、日中間の戦争を望むものではなかった。日中戦争が勃発時大川は獄中にあった。太平洋戦争については、「最後の瞬間までこの戦争を望まず、1940年に、日本がもっと準備を整える時まで、戦争を引き延ばそうと努力した」と記述があるとおり、肥田春充とともに日米戦回避のため開戦前夜まで奔走した。また、戦時中は大東亜省の大東亜共同宣言の作成にも携わった。
戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴された。1946年3月21日に極東軍事裁判被告人選定委員会に提出された報告書によると、訴追の理由として「扇動的な書物を出版し、講演で変革を訴え、超国家主義的右翼団体を結成」「陸軍が合法的独立国家の中国から満州を奪取できるように、満州事変の陰謀をめぐらし計画」が挙げられている。
東京裁判には大川は水色のパジャマを着用し、素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(この場面を記録した映像が現存している。東條は最初は苦笑していたものの、何度も叩かれたため睨みつけたという)、「インダー・コメンジー!(「Inder kommen Sie!、ドイツ語で「インド人よ来たれ」の意。アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、または「イッツア・コメディ!(It's a comedy!、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」、「アイ、アイ・シンク(I, I think)」などと支離滅裂な言動を行ったため、法廷内で失笑を誘った。
15分間の休廷中、オーストラリアのウェッブ裁判長は大川を精神異常と判断し、1947年4月9日、彼を正式に裁判から除外した。大川は米軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、主治医の内村祐之により梅毒による精神障害と診断された。その後の精神鑑定で異常なしとされたが、裁判には戻されず、松沢病院での入院が続いた。入院中、以前より念願であったクルアーン全文の翻訳を完成する。なお東京裁判終了後まもなく退院。東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。
その後は、神奈川県愛甲郡中津村の自宅で過ごし、「瑞穂の国」を築く為の農村復興運動に取り組んだ。大川の墓銘は歴史学者平泉澄の揮毫。

 *木戸幸一(こういち、木戸孝允の孫、父親は宮内省の待従長。内務大臣)
  木戸 幸一(きど こういち、1889年7月18日 - 1977年4月6日)は、日本の官僚、政治家。侯爵。
昭和天皇の側近の一人として東條英機を首相に推薦するなど太平洋戦争前後の政治に関与した。敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、東京裁判において終身刑となったが後に仮釈放された。
生い立ち[編集]
1889年7月18日に東京赤坂において侯爵木戸孝正の長男として生まれた。父の木戸孝正は、明治の元勲である木戸孝允の妹治子と長州藩士来原良蔵の長男である。
学習院高等科では原田熊雄、織田信恒などと同級だった。近衛文麿は一学年下にあたる。「学習院高等科から出た者は、東京の大学が満員だから全部京都大学へ行けというような話」があり、木戸、原田、織田は京都帝国大学法科大学政治学科に入学し、河上肇に私淑した。同校卒業後は農商務省へ入省。農商務省が農林省と商工省に分割の際は、商工省に属することとなる。
公職入り[編集]
1915年に農商務省に入り、工務局工務課長、同会計課長、産業合理局部長などを歴任する。父の死去に伴い、1917年8月30日、侯爵を襲爵し貴族院侯爵議員に就任した(1945年12月27日辞任)。
商工省では臨時産業合理局第一部長兼第二部長を務め、吉野信次と岸信介が起案した重要産業統制法を岸とともに実施した。1930年、友人であった近衛文麿の抜擢により、商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任。
1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて日本の陸軍皇道派が起こした226事件では杉山元や東條英機をはじめとする陸軍統制派と連携して事件の処理を行い、その功績を昭和天皇に認められ、中央政治に関与するようになる。
1937年の第1次近衛内閣で文部大臣・初代厚生大臣、1939年の平沼内閣で内務大臣を歴任。文部大臣兼厚生大臣として1940年に開催予定であった東京オリンピックの開催権返上を決定したのが木戸である。
1940年には近衛と有馬頼寧とともに「新党樹立に関する覚書」を作成し、近衛新体制づくりに関わった。
1940年から1945年に内大臣を務め、従来の元老西園寺公望や元・内大臣牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与し、宮中グループとして、学習院時代からの学友である近衛文麿や原田熊雄らと共に政界をリードした。親英米派でも自由主義者でもなかったが、親独派として知られた。几帳面な官僚主義的性格の持ち主で、天皇の信頼は厚かった。西園寺が首班指名を辞退したのちは、幸一が重臣会議を主催して首班を決定する政治慣習が定着、終戦直後にいたるまで後継総理の推薦には幸一の意向・判断が重要となる。とりわけ1940年11月に西園寺が死去したのちは、木戸は首班指名の最重要人物となった。
東條の首班指名[編集]
開戦の是非を巡る近衛と陸海軍との軋轢と、日米交渉の行き詰まりによって第3次近衛内閣は1941年10月に総辞職した。後継候補としては、陸軍将官でもあった東久邇宮稔彦王による皇族内閣が東條も含めた広い支持を集めており、近衛もこの案を昭和天皇に奏上した。ところが天皇は「若し皇族総理の際、万一戦争が起こると皇室が開戦の責任を採る事となるので良くないと思つた」ために否定的であった。そこで内大臣室にて辞表提出後の近衛と後継について密談した木戸は、及川古志郎海相と東條英機陸相の名を挙げるも、及川では陸軍が陸相を出さないだろうと反論される。こうして後継候補決定に最も影響力を有する2人の間では東條指名で固まった。
同月17日に宮中で開かれた重臣会議において、林銑十郎から東久邇宮の出馬を求める声が挙がった。これに対し、「万一皇族内閣の決定が、開戦ということになった場合を考えると、皇室をして国民の怨府たらしむる恐れなきにあらず」と述べ反対した木戸が東條を推す。すると若槻禮次郎には、東條では外国に対する印象が悪くなる、木戸の考えは「やけのやん八」ではないか、と反論された。かといって及川では陸軍の同意が得られぬと、海軍出身の岡田啓介と米内光政が述べると、代わりの宇垣一成であっても同様と阿部信行が発言した。他にこれといった人物も挙がらぬ中、最終的に阿部、広田弘毅、原嘉道からの賛同を得た木戸は、その日の午後に天皇へ東條を後継内閣首班とすることを奉答した。
木戸が東條を推挙した理由としては様々な説が唱えられてきた。木戸は戦後になって、当時既に対米戦争の開戦と敗北は必至であるとみており、皇族が開戦時の首相では問題になると考えたと述べている。「対米開戦を主張する陸軍を抑えるには現役陸軍大臣で実力者である東條を使うしかなく、また東條の昭和天皇に対する忠誠心は非常に強いので、首相になれば天皇の意向に沿って開戦反対に全力を尽くしてくれるだろう」との考慮があったとされることも多い。昭和天皇も東條の首班指名を聞いて「虎穴にいらずんば虎子を得ずだね」とコメントしていることもこの説の傍証となっている。
木戸も日米戦争の焦点となった支那駐兵問題については撤兵には絶対反対の姿勢をとっており、同じく陸軍統制派の杉山元参謀総長や東條英機陸軍大臣とは連帯関係にあった。
第二次世界大戦初期こそ東條内閣を支えたが、戦局が不利になると和平派重臣と提携して東條を見限り、和平工作に傾倒した。東條内閣、小磯内閣の総辞職を経た戦争末期には、重光葵と2人で終戦工作に取り組み、昭和20年6月には和平方針案の「木戸試案」を作成、鈴木貫太郎内閣の面々や陸海軍に和平方針を説いて回るなど、和平派の中心人物の一人として動いた。徹底抗戦を主張する陸軍に「木戸試案」を納得させたことで和平への動きは大きく高まることになった。その反面、暗殺計画が持ち上がるほど本土決戦派から疎まれた木戸は、8月15日未明には、横浜警備隊長であった佐々木武雄陸軍大尉を隊長として横浜高等工業学校の学生らによって構成された「国民神風隊」によって、平沼や鈴木と同様に自宅を焼き討ちされた(宮城事件)。

 *嶋田繁太郎(海軍大臣)
  嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年(明治16年)9月24日 - 1976年(昭和51年)6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。海兵32期。最終階級は海軍大将。第47代海軍大臣。第17代軍令部総長。A級戦犯として終身刑。
経歴[編集]
1883年(明治16年)9月24日東京府に旧幕臣で神官の嶋田命周の長男として生まれる。実家が神官の家系であることから敬神家であり、毎朝の神社参拝を日課とする、日々の職務を規則正しくこなす、他の軍人に見られるような我の強さが無い、酒も飲まない、政財界との付き合いも一切無い、といった質素で非常に生真面目な人柄だったとも言われる。東京中学を経て、1904年(明治37年)海軍兵学校32期を191人中27番の成績で卒業、海軍少尉候補生。同期に山本五十六・吉田善吾・塩沢幸一・堀悌吉らがいる。1905年(明治38年)5月末、巡洋艦「和泉」において日本海海戦の偵察活動に従事する。1905年(明治38年)8月31日海軍少尉任官。1907年(明治40年)9月28日海軍中尉進級。1909年(明治42年)10月11日海軍大尉に進級。
1910年(明治43年)5月23日 - 海大乙種学生。1913年(大正2年)12月1日海大甲種13期学生、1915年(大正4年)卒業。同年12月13日海軍少佐に昇任。1916年(大正5年)2月10日イタリア大使館付武官着任、1919年(大正8年)帰国。1920年(大正9年)12月1日海軍中佐に進級。1923年(大正12年)12月1日海軍大学校教官。1924年(大正13年)12月1日海軍大佐に進級。1926年(大正15年)12月1日第七潜水隊司令。1927年(昭和2年)美保関事件の軍法会議で、被告となった同期生水城圭次の特別弁護人となり、井上継松とともに責任は耳に障害のある水城を艦長に補職した海軍当局にあると論陣をはった。1928年(昭和3年)8月20日軽巡洋艦多摩艦長。12月10日戦艦比叡艦長。1929年(昭和3年)11月30日海軍少将に進級。第二艦隊参謀長。1930年(昭和5年)12月1日連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長。1931年(昭和6年)12月1日海軍潜水学校校長。
1932年(昭和7年)1月上海事変勃発。同年2月2日第三艦隊参謀長着任、上海に出動。6月28日海軍軍令部第三班長。11月15日海軍軍令部第一班長、軍令部令改正に伴い1933年(昭和8年)10月1日軍令部第一部長。1934年(昭和9年)11月15日海軍中将に進級。1935年(昭和10年)12月2日軍令部次長。1937年(昭和12年)12月1日第二艦隊司令長官。1938年(昭和13年)11月15日呉鎮守府司令長官。1939年(昭和14年)4月13日勲一等瑞宝章受勲。1940年(昭和15年)4月29日功二級金鵄勲章、勲一等旭日大綬章受勲。同年5月1日支那方面艦隊司令長官。11月15日海軍大将に進級、軍事参議官。1941年(昭和16年)9月1日横須賀鎮守府司令長官。
太平洋戦争[編集]
1941年10月18日東條内閣において海軍大臣を拝命(在任:1941年10月18日 - 1944年7月17日)。打診された際は辞退したが、伏見宮博恭王の勧めで受諾した。就任時は不戦派だったが、伏見宮から「速やかに開戦せざれば戦機を逸す」と言葉があり、対米不信、物資への関心からも開戦回避は不可能と判断し、10月30日に海軍省の幹部たちを呼んで「この際戦争の決意をなす」「海相一人が戦争に反対した為戦機を失しては申し訳ない」と述べ、鉄30万トンで対米開戦に同意した。また、海相に就任した嶋田がこれまでの不戦論を撤回し、陸軍に対して協調的態度を取った事により、遂に日米開戦は不可避となった。対米開戦直前、海兵同期の山本五十六は「嶋ハンはおめでたいんだから」と慨嘆したという。
1941年11月30日、軍令部員の高松宮宣仁親王が戦争慎重論を上奏した。この時、召喚された際には昭和天皇の問いに「物も人もともに十分の準備を整えて、大命降下をお待ちしております」と述べた。これに対し昭和天皇が「ドイツが欧州で戦争をやめたときはどうするかね」と訊ねると「ドイツは真から頼りになる国とは思っておりませぬ。たとえドイツが手を引きましても、さしつかえないつもりです」と述べたとされる。
真珠湾攻撃について議会で報告をした際の政治家をはじめとする国民の熱狂ぶりを見て「これからが大変なんだ」と周囲に漏らしたという。
1942年1月第三次ソロモン沖海戦において戦艦比叡と運命を共にしなかった西田正雄艦長を罷免し、査問会も開催せず、即日召集して懲罰人事を行った。山本五十六はこの措置に「艦長はそこで死ねというような作戦指揮は士気を喪失させる」と抗議したが、山本と不仲でもあった嶋田はそれを無視した。1942年12月15日正三位
嶋田は建造中の第二号艦(戦艦武蔵)を中止すべきと毎々意見していたが、待たれたしという意見によって抑えられていた。
海軍内で嶋田は、陸軍に追従する東條英機首相の腰ぎんちゃくの如き振る舞いを揶揄され、「(東條首相の)嶋田副官」のあだ名が付いた。「東條の男メカケ」とまで酷評する声もあった。海軍部内における,他のあだ名として,「しまはん」「ズベ」などと呼ばれていた。 南方方面及び中部太平洋方面の米反攻に伴い海軍部内では海軍のみが戦闘をしているという考えが強くなり、連合艦隊長官古賀峯一大将は、嶋田海相と永野修身軍令部総長に対し陸兵力の同方面進出をたびたび要求するが、困難であり、二人への不満は高まっていった。海軍省でも軍務局2課を中心に嶋田は東條に従属しすぎるという声があった。1944年2月昭和19年度航空機生産に対するアルミニウムの配分で海軍の要求が通らず、大型機の多い海軍は陸軍より航空機を生産できなかったため、嶋田、永野に対する不満はさらに高まった。
1944年2月19日嶋田は責任上辞任を考慮し、海相後任を豊田副武大将、軍令部総長後任を加藤隆義大将にする意向を東條英機首相兼陸相に伝えるが、東條の参謀総長兼任の決意を知り、嶋田も決意と趣旨に賛同して自らは永野修身軍令部総長を更迭し、自分が軍令部総長も兼任する決心をした。
1944年2月21日軍令部総長兼任。嶋田の兼任は戦局が不利なこともあり、部内の風当たりは強く、東條に従属しすぎるという批判を著しく刺激する結果になった。岡田啓介大将は東條内閣の倒閣のため嶋田の更迭を考慮するようになる。嶋田は着任すると陸海の統帥部一体化、航空兵力統合などのXYZ問題の研究を即時打ち切って、研究も禁止した。情報部の実松譲が『アメリカは戦時生産から平時生産にシフトしはじめている』という情報を配布したところ、嶋田軍令部総長に『敵のことをよく書いている。まるで役に立たん』と配布禁止を食った。
1944年6月のマリアナ沖海戦の敗北で、サイパン放棄を決定し、6月25日その後の方針を決めるための元帥会議に出席。会議後、嶋田は、手筈を定め今後の対策を迅速に行うこと、陸軍航空機を海上へ迅速に引き出すこと、(特攻兵器を含む)奇襲兵器促進掛を設けて実行委員長を定めることを省部に指示した。これによって7月1日大森仙太郎が海軍特攻部長に発令された。
嶋田をはじめとする海軍首脳は、陸軍の主張する本土決戦で優秀な若者たちを失うのを恐れ、戦後の日本復興のことを見据え、海軍兵学校の生徒をはじめとする優秀な日本の若者を温存するための処置をとっていた。
サイパン陥落で反東條に併せて反嶋田の動きが起こり、7月17日海相辞任。8月に軍令部総長を辞任。8月2日軍事参議官。1945年1月20日予備役編入。
東京裁判[編集]
終戦後、A級戦犯に指名され、憲兵が身柄拘束の為に高輪の自宅に訪れた際には、英語で「騒ぐな、自分は自殺しない」と言って連行されていった。新聞記者から感想を求められると「腹を切ってお詫び申し上げようと思ったが、ポツダム宣言を忠実に履行せよとの聖旨に沿う為、この日が来るのを心静かに待っていた」と語った。
極東国際軍事裁判では太平洋戦争の対米開戦通告問題につき、「海軍は無通告を主張したことはない」と、元外務大臣東郷茂徳と対立。「われわれは東郷が、われわれの注意によって、まさかああいうばかばかしいことを言おうとは思っておりません。まことに言いにくいのでありますが、彼は外交的手段を使った、すなわち、イカの墨を出して逃げる方法を使った、すなわち、言葉を換えれば、非常に困って、いよいよ自分の抜け道を探すために、とんでもない、普通使えないような脅迫という言葉を使って逃げた」と批判した。
海軍における戦争遂行の最高責任者として死刑は免れない、という予想が大多数を占め、実際に判事の投票では11人中5人が死刑賛成だったが、自己弁護により死刑は免れ、1948年11月12日終身禁固刑判決を受けた。東京裁判での自己弁護はウェブ裁判長が褒めるほど見事なものであった。そのことを憲兵から聞いた嶋田は日記に嬉しかったと記している。終身刑の判決を受けた後、「生きていられる」と言って笑っていたと武藤章が日記に書いている。
1955年仮釈放後赦免される。海上自衛隊の練習艦隊壮行会に出席して挨拶したことがあり、それを聞いた井上成美は「恥知らずにも程がある。人様の前へ顔が出せる立場だと思っているのか」と激怒したという。『昭和天皇独白録』では「嶋田の功績は私も認める」という天皇の発言があり、嶋田について、「知恵があり、見透しがいい」人物としつつ、「部下に対して強硬であったこと」がその不評判の原因だったとしている。
1976年死去。
妻は筑紫熊七陸軍中将の娘嶋田ヨシ、義弟に光延東洋海軍少将がいる。

 *南次郎(朝鮮総監)
  南 次郎(みなみ じろう、1874年(明治7年)8月10日 - 1955年(昭和30年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将正二位勲一等功四級。白髭の好好爺。軍人。大人軍人。
来歴[編集]
大分県国東郡高田町(後・西国東郡高田町、現・豊後高田市)生まれ。1884年(明治17年)7月、叔父・宮崎義一の下に単身上京、9月に鞆絵小学校(現・港区立御成門小)初級入学。その後成績良好のために鞆絵小高等科に進級した。1888年(明治21年)4月、東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)入学。1889年(明治22年)9月、素行不良と数学の成績不振により翌年校長となる勝浦鞆雄から1ヶ月の停学処分を受けたのを機に、かねてから陸軍士官学校志望であったことから、後年児玉源太郎が校長に就任する成城学校へ転校した。1890年(明治23年)4月の17歳の時、陸軍中央幼年学校へ。1892年(明治25年)4月、陸軍士官学校に入校。1895年(明治28年)4月、陸軍士官学校6期卒業。陸軍大学校17期出身。 
生年月日がハーバート・フーヴァー(アメリカ合衆国・第31代大統領)と同じである。偶然にも、南の陸相在任期間(1931年)がフーヴァーの大統領在任期間(1929年 - 1933年)と重なった。
満州事変から朝鮮総督へ[編集]
第2次若槻内閣の陸軍大臣の折に満州事変が勃発する。国際協調を方針とする民政党政権の路線に同期の金谷範三参謀総長とともに寄り添いつつも、陸軍内部の推進運動や世論に突き上げられ、最終的には関東軍に引きづられた。また陸相在任中に部下の軍事課長であった永田鉄山が国家総動員法の策定に関わり出した。1934年(昭和9年)には関東軍司令官に就任する。
1934年(昭和9年)、第8代朝鮮総督になり内鮮一体化を唱え、
民族語の復活
朝鮮語教育の推進
創氏改名
などの政策を行った。朝鮮人の中には抗議の意味を込めて「南太郎」と改名届を出した者もいたとされる。南が朝鮮総督として君臨した6年間に朝鮮人の帝国臣民化政策は推進された(ただし、実際には政務総監の大野緑一郎に全て丸投げしていたとの評もある。)。
後に枢密顧問官、貴族院議員、大日本政治会総裁(翼賛議会下の8割を占める衆議院院内会派)を歴任する。
第二次世界大戦後、満州事変の責任でA級戦犯に指名され、極東国際軍事裁判(東京裁判)で終身禁固刑となる。1954年(昭和29年)、仮出獄。南は軍事思想として、国防は政治に優先すると常に唱えた。外交に関しては、重光葵が認めた『巣鴨日記』(『文藝春秋』昭和27年8月号掲載)によると、巣鴨プリズン内での重光との会話の中で「外交とは軍の行動のしり拭いをすることであったと思っていたが、今度初めて外交の重要性を了解した」と語ったことがあるという。
人物[編集]
生前の南は、「南のある所春風あり」と言われるほどの人情家で、明るくユーモラスな人柄は誰からも慕われたという。重光によると、南の白髭は戦犯の間でも名物となり、巣鴨プリズンにおける獄中生活ですら楽しんでいる様子だったという。

 *畑俊六(しゅんろく、支那軍指令大臣)
  畑 俊六(はた しゅんろく、明治12年(1879年)7月26日 - 昭和37年(1962年)5月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は元帥陸軍大将。偕行社会長。位階勲等は従二位勲一等功一級。
兄・英太郎は陸軍省軍務局長や関東軍司令官を務めた陸軍大将、長男・俊八は陸軍技術大尉。「帝国陸軍の謀略の片棒を担いだ」と歴史家の中では悪評が高い事でも有名である。赤貧洗うが如しの貧乏家庭の会津藩で育った学歴エリート。秀才。
出自[編集]
父は旧会津藩士・畑能賢。6歳のとき四谷尋常小学校入学、のち12歳のときに父の転勤に従い函館へ。函館・弥生小学校高等科4年在学時の13歳のとき一等賞を授与される。父が46歳で死去したことに伴い上京。14歳のときに東京府尋常中学校(のちの東京府立第一中学校)入学。以後、陸軍中央幼年学校を経て、明治33年(1900年)に陸軍士官学校(12期次席)を卒業。中尉で日露戦争に従軍し負傷。明治43年(1910年)に陸軍大学校(22期首席)を卒業する。
ドイツ大使館付武官補佐官・参謀本部作戦班長・参謀本部作戦課長兼軍令部参謀・航空本部長など作戦関係の要職を歴任し、参謀本部第四・第一部長、砲兵監、第十四師団長、昭和11年(1936年)に台湾軍司令官。翌・昭和12(1937年)に陸軍大将に昇任し、軍事参議官・陸軍教育総監を兼任する。同年には、林銑十郎らと共に首班指名候補に推される。南京事件に対して、松井石根大将らの交代を陸軍大臣に進言した。翌・昭和13年(1938年)には松井の代わりに中支那派遣軍司令官となり、徐州戦、武漢作戦を指揮。
昭和14年(1939年)に侍従武官長に就任時も昭和天皇の信任が厚く、「陸相は畑か梅津を選ぶべし」との言葉から侍従武官長をわずか3ヶ月で辞め、同年8月に成立した阿部内閣の陸軍大臣に就任した。天皇は温厚で誠実な俊六を陸相に据えることで、阿部との一中コンビで日独伊三国同盟や支那事変での陸軍の暴走に歯止めを掛けると期待されていたが、膠着状態を脱することはできなかった。なお、陸相在任中に戦陣訓も考案した。
その次の米内内閣でも留任した。しかし、天皇から内閣への協力を厳命されていたにもかかわらず、日独伊三国同盟締結に絡んだ陸軍の命により単独辞職、後任陸相も出せず米内内閣瓦解の原因となった。このことを畑は生涯弁解せず、陸軍の横暴の片棒を担いだという汚名を引き受け続けた。また、後年の東京裁判においても、この米内内閣倒閣の件が、畑の罪状において最も重視されることとなる。
太平洋戦争時[編集]
昭和16年(1941年)に支那派遣軍総司令官となり、在職中の7月に、ドイツ軍の対ソ攻勢に呼応して関東軍特種演習が発動されて対ソ戦が企図されると、畑は野田謙吾総参謀副長及び松谷誠参謀を参謀本部に派遣し、「目下は鋭意支那事変解決に専念の要あり」と具申させ、対ソ戦発動中止の一因を作った。また、大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦に際しても、土橋勇逸総参謀副長と松谷参謀を再度参謀本部に派遣し、前回同様支那事変解決を優先すべきと意見具申したが、塚田攻参謀次長より「支那事変解決のためには米英の対蒋援助を遮断する必要がある」と反論され、具申は通らなかった。昭和19年(1944年)に元帥となる。
昭和20年(1945年)4月、小磯内閣総辞職後の後継を決める重臣会議で東條英機から総理に推されたが、他の重臣達が鈴木貫太郎を推したため総理就任は実現しなかった。 同月、本土決戦に備えて第2総軍(西日本防衛担当、司令部広島市)が設立されると、その司令官となる。同年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、国鉄広島駅付近で被爆するも奇跡的に難を逃れた。被爆直後から畑は広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。その職にて終戦を迎える。
終戦間際の昭和20年(1945年)8月14日10時、昭和天皇は御前会議の開催に先立って元帥会議を召集し、俊六(第二総軍司令官)、杉山元(第一総軍司令官)、永野修身(元軍令部総長)の3元帥より意見を聴取した際、杉山と永野が主戦論を張るなか、畑のみは「担任正面の防御については敵を撃攘し得るという確信は遺憾ながらなしと申上ぐる外ありません」と率直に現状を説明、これが本土決戦の不可能を昭和天皇に確信させることになった。
戦後[編集]
東京裁判での畑俊六
極東国際軍事裁判(東京裁判)では畑は米内内閣倒閣などの罪状を問われてA級戦犯として起訴された。占領軍の見解では、米内内閣は戦前で最後の親英米派内閣であり、前述のように、この米内内閣を倒閣したという理由で畑が起訴されたのである。
米内は弁護側証人として東京裁判に出廷して証言すると、米内は畑のことを徹底的にかばった。新聞記事その他の証拠を提示する検察側の質問に対し「知りません」「わかりません」「思い出せません」「(証拠書類が)よく見えません」「そんなことはありませんでした」などとぼけた証言を繰り返し、ウェッブ裁判長から「こんな愚鈍な首相は私は見たことがない」と面前で侮辱されるほどだったが、米内本人は証言後友人に「裁判長に、大バカ提督と罵られちゃったよ」とニコニコしていたという。米内には、陸相単独辞任・内閣倒閣は畑本人の意思ではなく、陸軍という組織の歯車の一つとして動かざるを得なかったことがよくわかっていたのである。
このおかげで畑は死刑を免れるも、終身禁固の判決を受けた。6年間の服役後、昭和29年(1954年)に仮釈放を受けて出所した。畑はのちに「当時、後難をおそれ、弁護側の証人に立つことを回避するのが一般の雰囲気であったのに、米内大将は敢然(かんぜん)として私の弁護のために法廷に立たれ、裁判長の追及と非難を物ともせず、徹頭徹尾(てっとうてつび)、私が米内内閣の倒閣の張本人でなかったことを弁護されたことは、私の感銘措く能わざるところであって、その高邁(こうまい)にして同僚を擁護する武将の襟度(きんど)は、真に軍人の鑑とすべくこの一時は米内大将の高潔な人格を表象して余りあると信じる」と語り、東京裁判でのこの米内の言動に終生深く感謝感動を忘れなかった。
東京裁判で畑をかばった米内はまもなく死去したが、彼の死後12年を経た昭和35年(1960年)、米内の郷里盛岡の盛岡八幡宮境内に彼の銅像が立てられ、故人ゆかりの人々が集まって除幕式が行われた。その直前に、人目を避けるようにして黙々とあたりの草むしりをする畑が目撃されている。
昭和37年(1962年)、福島県棚倉町にて戦没者慰霊碑除幕式出席中に倒れ没した。82歳没。棚倉城趾には「畑俊六終焉の地」の碑が立っている。

 *橋本欣五朗(陸軍大佐)
  橋本 欣五郎(はしもと きんごろう、1890年2月19日 - 1957年6月29日)は、昭和時代の日本の陸軍軍人、政治家(衆議院議員1期)。右翼活動家。たびたびクーデターを試みたが失敗し、極東国際軍事裁判(東京裁判)で訴追された。通称「ハシキン」。「夢想的なドン・キホーテ」。
来歴[編集]
岡山県岡山市に生まれ7歳の時福岡県門司市に移る。高等小学校から1904年9月、熊本陸軍地方幼年学校入学。陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校(23期)から陸軍大学校(32期)に進学し、トルコ公使館付武官。この時、ムスタファ・ケマル・パシャの革命思想に接したことが、その後の遍歴に影響する。そのときから趣味は「革命」となったらしい。
その後、参謀本部ロシア班長となり、1930年に参謀本部の将校らと密かに桜会を組織。三月事件・十月事件を計画するも失敗に終わり、桜会は解散させられる。戦後の東京裁判において、A級戦犯として起訴されたのは、連合国側が三月事件・十月事件を「侵略計画の発端」とした事が最大の要因であると推測されている(木戸幸一も同様の見解を示していた)。
また、1936年2月の二・二六事件の際には、自ら昭和天皇と決起部隊の仲介工作を行い、決起部隊側に有利な様に事態を収拾しようと、陸軍大臣官邸に乗り込んだが、天皇が決起部隊を「暴徒」と呼び、鎮圧するように命じたため、橋本にも責任問題が及び、大佐で予備役へ回される事となる。
その後、日中戦争の勃発に伴い、連隊長として再び召集されたが、南京攻略戦の際の1937年12月12日に、イギリス砲艦レディバード号に被害を与え(レディバード号事件)、さらに日本海軍の攻撃機に南京から脱出する船舶を攻撃するよう命令し、アメリカの砲艦パナイを撃沈し死傷者を出す(パナイ号事件)という責任を取って陸軍砲兵大佐で退役した。
予備役中の1936年に大日本青年党(のち大日本赤誠会に改称)を組織しファシズム運動を展開、近衛文麿首相が掲げる新体制運動にも積極的に協力した。1942年の翼賛選挙で衆議院議員に当選し、翼賛政治会総務に就任した。
極東国際軍事裁判でA級戦犯として起訴され、終身刑。仮釈放後も、獄中で「思い残す こともなけれど 尚一度 大きなことを なして死にたし」と詠んでいた様に、国家改造を志す野心は変わらず、1956年の第4回参議院議員通常選挙全国区に、政党の公認や資金も無い状態で周囲が止めるのも聞かずに無所属で立候補したが、落選している。
1957年6月29日、肺癌により死去。享年67。
橋本には、出獄後に結婚した3度目の妻がいたが、橋本の臨終間際に離婚を申し出て去っていった。葬儀は、三月事件以来サポートを受けていた徳川義親が面倒を見た。
人物[編集]
生前の彼を知る人物の証言によれば、橋本は非常に短気、ヒステリックで常軌を逸した行動が多く、現役時代に受けた懲罰は60回以上にも及ぶという。極東国際軍事裁判の公判中においても、ごく些細な事から激昂し、法廷控室において白鳥敏夫の顔面を眼鏡が飛ぶ程殴打した事がある。
また石原広一郎からは、巣鴨プリズンに拘置されたA級戦犯の中で、若いBC級戦犯にとって最も見本にならない利己主義的な不平を口にする小人物として、豊田副武海軍大将や佐藤賢了陸軍中将と共に名前を挙げられている。
極東国際軍事裁判の際には、全被告の中で唯一アメリカ人の弁護人がつく事を拒絶し続けた。
一方で橋本は、詩の才能に長けていることでも知られていた。重光葵が認めた手記『巣鴨日記』(「文藝春秋」昭和27年8月号掲載)によると、戦時中に、とある朝鮮人男性が東京の帝国ホテルに宿泊した際、給仕の日本人女性に一目惚れし、駆け落ち同然で朝鮮半島へ渡った。しかし日本の降伏を迎え、連合国側の意向で日本人は朝鮮から追われることとなり、女性はその事を苦に、玄界灘に身を投げて自殺してしまった。後にその男性が訪日して橋本のもとを訪れ、女性の墓を男性の故郷に建てる事となったので、墓に刻む詩を書いてもらいたいと橋本に依頼したというエピソードがあったという。
橋本大佐の手記[編集]
十月事件の後、野重砲兵第2連隊長に左遷されていた橋本が、1935年4月末から約40日間かけて書き上げた三月・十月事件、及び満州事変についての記録である。橋本側の視点から、三つの事件の模様が述べられている。1963年に同名の著書を発表した中野雅夫によると、同手記が書籍化された経緯は以下の通りである。
原題は「昭和歴史の源泉」。橋本は五部複写し、それぞれ同志だった長勇少佐・小原重孝大尉・田中弥大尉・天野勇中尉に渡し、残り一部を自ら保存した。しかし、彼らはいずれも後に焼却した。ところが、中野が調査したところ、1961年に歯科医・内田絹子が「手記」の写しを所持していることが判り、5人のうち当時唯一の存命者であった小原によって同一の内容と確認された。橋本は内田宅をアジトとしていた時期があり、彼の頼みで内田が「手記」を一時保管していた際に、自ら筆写し自宅の庭園に埋蔵していた。

 *岡敬純(たかずみ、海軍大臣)
  岡 敬純(おか たかずみ、1890年(明治23年)2月11日 - 1973年(昭和48年)12月4日)は、昭和の海軍軍人、海軍中将、海兵39期、海大21期。
経歴[編集]
大阪市で生まれる。攻玉社を経て、海軍兵学校に入学。中尉の頃から潜水艦勤務が多く、潜水艦艦長、潜水学校教官などを歴任する。
海軍大学校卒業後は軍令部勤務、海軍省臨時調査課長、ジュネーヴ会議全権随員、軍務局第一課長などの中央の勤務が多く、その間の海上勤務は潜水母艦「迅鯨」の艦長くらいである。なお、軍務局第一課長の時には、部下に大のドイツ贔屓といわれた神重徳が、上司には軍務局長に大のドイツ嫌いの井上成美がいた。
1940年(昭和15年)の軍務局長就任と同時に、「陸軍が政策を掲げて海軍に圧力を掛けてくる。海軍はそれまで、それに対応出来なかった。どうしてもここで、陸軍に対応する政策担当者を作らなければならぬ。さもなくば、日本がどちらに持っていかれるかわからぬ」と発言し、軍務局を改編し第二課に国防政策を担当させた。この時第二課長に任命したのが、同郷かつ攻玉社の4年後輩の石川信吾である。岡は石川が二・二六事件の際予備役編入となるのを救ったという経緯もあった。強硬な対英米開戦論者だった石川を軍務局第二課長にあてる人事には、親英米派が多く、石川を異端視していた(通称は「不規弾」。一斉射撃の中で、あらぬ方向に飛んでいく砲弾、という意味)海軍部内からは猛烈な反対を受けるが、岡は強硬に押し通し、この頃から岡・石川の二人が海軍の政策を動かす役割を果たすようになった。この事は、岡は日米開戦派であり、親独派であった事を如実に物語るエピソードであると言える。この事から、戦後、木戸幸一が海軍内で最も対米開戦を強硬に主張した人物として名前を挙げた為、A級戦犯に指定された。
その一方で、ハル・ノートを受け取った際には、あまりのショックから「これではいよいよ開戦のほかはない。今日までの苦心も、ついに水の泡である」と涙を流したとも伝えられている。
沢本頼雄のあと、繰上りの形で海軍次官に就任するが、東條内閣総辞職をうけて成立した小磯内閣の海相に就任した米内光政は、海軍次官については「岡を一夜にして放逐する」とし井上成美を次官とした。岡は鎮海警備府司令長官として中央から遠ざけられている。その後、1945年(昭和20年)6月20日に予備役へ編入された。
太平洋戦争後、極東国際軍事裁判で終身禁錮の判決を受け服役。1954年に仮釈放されているが、その後は亡くなるまで公的な場所に現れる事は殆どなかった。裁判における個人判決文は、岡に対するものが最も短かった。
1958年以降、法務省によって行われた聞き取り調査に答えて、大東亜戦争の結果としてアジアの植民地が独立したと考えるのは自己満足に過ぎぬと指摘した。
人物[編集]
岡は海大では恩賜組であったが、俗に言う秀才タイプではなく、軍人としては体が脆弱で、温厚素朴な人柄であったと伝えられている。また、巧みな交渉術を持ち、会議・交渉の取り纏めに長けていることでも知られていた事から、戦場などの第一線にはあまり出ず、海軍省などの中央部に留まり続け、昇進を果たし続けてきたのも、前述の様な性格・体・素質に起因すると言う説もある。生涯独身だった。


緑川史観『いわゆるA級戦犯論』これぞ侵略戦争・昭和戦記の決定版!緑川鷲羽によるA級戦犯論2

2015年05月30日 07時52分07秒 | 日記










 *土肥原賢二
  土肥原 賢二(どいはら けんじ、明治16年(1883年)8月8日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作に中心的役割を果たす。昭和20年4月には、陸軍三長官(陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の一つ、教育総監も務めた。敗戦後、三長官会議で東久邇宮内閣の陸軍大臣に推挙されたが、下村定が就任。
極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受け処刑される。最終階級は大将。
生い立ち[編集]
岡山県岡山市出身。青山小学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校(16期)卒業、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校(24期)卒業。
活動[編集]
大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。
昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇帝溥儀を隠棲先の天津から脱出させる。
その後、華北分離工作を推進し、土肥原・秦徳純協定を締結。この結果河北省に冀東防共自治政府を成立させた。土肥原は、謀略をも辞さない強硬な対中政策の推進者として昇進を重ね、「満州のローレンス」と畏怖された。日中戦争では1938年6月の五相会議の決定によって土肥原機関を設立した。特務機関畑を中心に要職を歴任し、陸軍士官学校長も務めた。
戦犯[編集]
第二次世界大戦終結後、軍事参事官となった直後、A級戦犯としてGHQに逮捕される。極東国際軍事裁判(東京裁判)においては、特に中国が強硬に極刑を主張した。最終的に死刑の判決が下され、巣鴨プリズン内で絞首刑が執行された。辞世の句は、
「わが事もすべて了りぬいざさらば ここらでさらばいざ左様なら」
「天かけりのぼりゆくらん魂は 君が代千代に護るならべし」
「踏み出せば狭きも広く変わるなり 二河白道もかくやありなん」
その後靖国神社と殉国七士廟に祀られた。「謀略の将軍」「東洋のローレンス」とされていたことから戦後すぐに進駐軍が土肥原の自宅に殺到して「お宝」を期待したが、清廉潔白な土肥原の自宅には「お宝」どころか、ろくな財産もなく、自宅もぼろい借家であり進駐軍は逆に驚いたというエピソードは有名だ。

 *木村兵太郎
  木村 兵太郎(きむら へいたろう、明治21年(1888年)9月28日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の昭和期の陸軍軍人。太平洋戦争(大東亜戦争)後、A級戦犯として逮捕、極東国際軍事裁判にて死刑の判決を受け、絞首刑に処された。最終階級は陸軍大将
略歴・戦歴[編集]
東京都出身。広島一中、広島陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校卒。昔も現代でも「A級戦犯」の中でもっとも知られていないのが木村兵太郎という男である。戦犯になった報を受け手も国民は「誰だっけ?木村って」と首を傾げたほど。まあ、不幸なひとであった。阿南惟幾(あなみ・これちか)の後任の陸軍次官に就任しただけのひと(阿南は敗戦の日、皇居外苑で自決した)である。
昭和14年(1939年)3月から第32師団長、昭和15年(1940年)、関東軍参謀長。昭和16年(1941年)4月から同18年(1943年)3月まで陸軍次官。同年3月から軍事参議官兼兵器行政本部長。昭和19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官。
ビルマからの撤退[編集]
「ビルマ戦役」も参照
昭和20年(1945年)、イギリス軍のビルマ進攻が開始され、ビルマの防衛は危機に瀕していた。木村はイギリス軍のビルマ侵攻を知った時、恐怖で手が震え、何も話すことができなくなるほど動揺し、作戦指導はほぼ不可能な状態に陥っていた。
4月13日、ラングーン北西部の防衛戦を指揮していた第28軍司令官桜井省三中将は、木村に対し、「戦局の推移が迅速でいつラングーンが戦場になるかもわからない。ラングーンが攻撃されてから方面軍司令官が移動しては逃げ出したことになり、作戦指導上困難が生ずる」として、「方面軍司令部を速やかにシヤン高原に前進させ、第一線で作戦を指導すべき」と進言したが、木村はこれを却下した。同様に田中新一方面軍参謀長も「方面軍司令部は敢然としてラングーンに踏みとどまり、いまや各方面で破綻に瀕しつつある方面軍統帥の現実的かつ精神的中心たるの存在を、方面軍自らラングーンを確保することにより明らかにすべき」と主張していたが、司令部の撤退が田中参謀長の出張中に決定された。
4月23日、木村は幕僚とともに飛行機でラングーンを脱出、タイとの国境に近いモールメインへ撤退した。南方軍へは無断の首都放棄であった。前線で苦戦する隷下部隊や、日本が支援したビルマ政府のバー・モウ首相、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース主席、自由インド仮政府初代公使の蜂谷輝雄、石射猪太郎駐ビルマ大使以下日本大使館員及び民間の在留邦人、傷病兵などは置き捨てられた。取り残された人々は、陸路で脱出を試みたが、多くの犠牲者を出した(この時、チャンドラ・ボースは常にインド国民軍部隊の殿を歩き、渡河を行うときなどは最後の兵が渡河を終えるまで川岸を離れなかったという)。なお、木村はこの逃避行の後に陸軍大将に昇進している。
木村を含めたビルマ方面軍司令部の唐突なラングーン放棄により、方面軍の指揮命令系統は大混乱に陥った。イラワジ河西部でイギリス軍と激戦中だった第28軍は敵中に孤立してしまい、のちに脱出する過程で半数以上が死亡するという大きな犠牲を払うことになった。ビルマ戦役における日本軍の戦死者は約14万4千人に達するが、悲惨を極めたと言われるインパール作戦における戦死者は1万8千人と12.5%であり、戦死者の約52%がこの最終段階で発生している。
我が身を逃がすために必要な指揮を怠り、日本と盟友関係にあった外国要人や在留日本人の保護義務も果たさなかった木村の軍司令官としての責任については、ビルマ戦役の生還者を中心に厳しい批判がなされている。

 *武藤章
  武藤 章(むとう あきら、1892年(明治25年)12月15日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。極東国際軍事裁判(東京裁判)で唯一中将として絞首刑判決を受けた。岳父は陸軍次官、関東軍司令官などを歴任した尾野実信大将。
生涯[編集]
熊本県白水村 (現熊本県菊陽町)の地主の家に生まれる。済々黌中学、熊本陸軍地方幼年学校を経て、1913年(大正2年)陸軍士官学校(25期)を卒業。富永恭次・佐藤幸徳・山内正文・田中新一・山崎保代らが同期。
1920年(大正9年)陸軍大学校(32期)卒業。冨永信政、青木重誠、酒井康、中村正雄、酒井直次、西村琢磨、橋本欣五郎らが同期。
1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件に際しては、参謀本部作戦課長として、不拡大方針をたてた上司の作戦部長石原莞爾とは反対に対中国強硬政策を主張し、12月には中支那方面軍参謀副長として現地に赴く。1938年(昭和13年)7月、北支那方面軍参謀副長に転任した。
1939年(昭和14年)3月少将に進み、同9月陸軍省軍務局長となる。1941年(昭和16年)10月、中将に昇進。近衛内閣末期に対米関係が極度に悪化、近衛首相は内閣を投げ出し同年11月に東条内閣が成立する。組閣に当たり天皇より開戦を是とする帝国国策遂行要領白紙還元の御諚が発せられ、東條首相も姿勢を改める。武藤はこれを受け、開戦に逸る参謀本部を制して最後まで対米交渉の妥結に全力を尽くした。
開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條や鈴木貞一、星野直樹らと対立、1942年(昭和17年)4月にゾルゲ事件の発覚等により更迭され、近衛師団長となる。同師団はスマトラ島メダンで作戦中、1943年(昭和18年)6月に近衛第2師団に改編された。
1944年(昭和19年)10月に第14方面軍(フィリピン)の参謀長に就任した。これは第14方面軍司令官に任命された山下奉文の希望によるもので、フィリピンの地で終戦を迎えた。終戦の際、山下に共に切腹することを提案するが、説得され、現地で降伏。山下らが起訴されたマニラ軍事裁判では、逮捕起訴されないどころか、弁護人補佐として出廷し山下らの弁護につとめた。しかしこの裁判ののち、極東国際軍事裁判(東京裁判)に逮捕起訴されるため日本に戻された。
東京裁判で捕虜虐待の罪により死刑判決を受ける。東京裁判で死刑判決を受けた軍人の中で、中将の階級だったのは武藤だけである。死刑の理由については、フィリピンでの捕虜虐待が最重要なものとしてあげられた。しかし前述のように武藤はフィリピン現地での、捕虜虐待などを取扱ったマニラ軍事裁判に訴追されることなく弁護人補佐としてかかわっており、この死刑判決はきわめて矛盾したものとして指摘されることが多い。
武藤は対中国戦争に対しては拡大積極派であったが、盧溝橋事件当時は地位は作戦課長と低く、A級戦犯として処刑されるほどの責任があったとは考えられない。また対米英開戦には陸軍首脳で最も強硬な反対派であったし、判決文で死刑理由とされたフィリピンの現地での捕虜取り扱いの問題に関しても、前述のように、フィリピン現地の裁判では起訴も逮捕もされていない。このため東京裁判の七人の死刑囚の中で、広田弘毅と並んで、死刑判決を受けるべき人間ではなかったという意見もある。(但し、日米の対立が決定的になったのは日中戦争で、不拡大方針に従わず、日本を対米戦争による破滅に追い込むのに大きな役割を果たしたのも武藤であり、日中戦争つまり「日本による中国利権の独占・米英の中国利権の破壊」を推進しながら、米国との和平が保てると考えていたのがおかしいという意見もある)。
武藤の死刑の理由については、検察側の隠し玉的証人として法廷を驚かせた田中隆吉元陸軍少将の「あの男が軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」という証言によるものだという説、また開戦時の東條の腰ぎんちゃく的存在だったとみられたからだという説などがある。しかし前述のように東條と武藤は開戦後すぐに仲たがいしており、死刑を免れた鈴木貞一や星野直樹らの方がよほど東條のイエスマンであった。東條英機は判決後武藤に「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかった」と意外の感を漏らしたとも言われる。また武藤と田中は互いに相手に対して嫌悪感をいだいており、これが田中の証言につながったというふうに説明されることが多い。武藤は田中が軍部内の動きを法廷で暴露し自分を叩く証言をしたことについて、笹川良一に「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と語ったという。これと関連があるのか不明だが、田中は晩年「武藤の幽霊が現れる」と精神不安定の状態に陥り、何度か自殺未遂を起こしている。また、武藤は日頃の言動に問題がある毒舌家であり(後述)、当然人望もなく、生前も死後も擁護する者はほとんどいなかった。
1948年(昭和23年)12月23日に巣鴨プリズンで絞首刑に処された。辞世の句は、
「霜の夜を 思い切ったる門出かな」
「散る紅葉 吹かるるままの行方哉」
であった。また、次のような詩を書き残している。
「西の御殿に 火急な御召し 陸は遠み 船には弱し ままよ船頭さん 夜中じゃあるが 向う岸まで お願い申す 西の殿様 気のよいお方 御馳走たくさん 下さるだろう 還りゃ気ままに 一人で渡る お酒みやげじゃ 寝てござれ」
1978年(昭和53年)、靖国神社に合祀された。

 *松井岩根
  松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日中提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。南京大虐殺の首謀者とされたが虐殺は30万人だというのに当時の南京市の人口は20万人だった。虐殺数30万人(中国政府主張)とは原爆二発分だが、当時の日本は原爆は開発途上であり保有していなかった。
出自[編集]
愛知県名古屋市牧野村出身。旧尾張藩士松井武国、ひさの六男として生まれた。成城学校卒業後、陸軍幼年学校へと進んだ。
在学中、松井が感銘を受けた思想があった。それは川上操六が唱えた「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という見識であった。川上は、日本が将来、ロシアとの戦争を回避することは困難だと断じ、その防備としてアジア全体の秩序を構築し直す必要性を訴えていた。そのための軸となるのは、日本と中国(支那)の良好な提携であるという。この川上の思想に接して強い共鳴を覚えた松井は、中国への興味を改めて深めていった。
幼年学校卒業後、松井は順調に陸軍士官学校へと入学した。
陸軍士官学校(9期次席)卒業後、明治34年陸軍大学校に入学した。明治37年、陸大在学中に日露戦争に従軍した。 この時期の松井が思想的な影響を受けたのは、同郷の先輩にもあたる荒尾精であった。荒尾の思想の根底にあるのは、日中の強い提携である。欧米列強の侵略に対し、アジア諸国が連携しあって対抗していこうというのが、その主張の要であった。
明治39年、陸大(18期首席)を卒業。松井は、前途を嘱望される逸材として、参謀本部への配属となり、一旦、フランスへと派遣された。
中国赴任時代~孫文、蒋介石を支援[編集]
明治40年(1907年)フランスから帰国した松井は、次の勤務先として清国へ派遣された。これは松井が自ら志願してのことであった。日中関係を良好なものとして築きあげることが、日本、更にはアジア全体の安寧に繋がると考えたからである。
明治42年(1909年)、清国滞在中に大尉から少佐へと昇進した。この頃から孫文と深く親交するようになった。
松井は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。陸軍参謀本部宇都宮太郎は三菱財閥の岩崎久弥に10万円の資金を供出させて、これを松井に任せ、孫文を支援するための元金に使わせた。その後も中国国民党の袁世凱打倒に協力した。
松井は日本に留学した蒋介石とも親交があり、昭和2年(1927年)9月、蒋が政治的に困難な際に訪日を働きかけ、田中義一首相との会談を取り持ち事態を打開させた。田中首相は①この際、揚子江以南を掌握することに全力を注ぎ、北伐は焦るなということ、 ②共産主義の蔓延を警戒し、防止せよということ、 ③この①②に対して日本は支援を惜しまないということこの三点を述べた。 最終的に二人のあいだで合意したのは、国民革命が成功し、中国統一が完成した暁には、日本はこれを承認すること。これに対して国民政府は、満洲における日本の地位と特殊権益を認めるーということであった。
松井の秘書田中正明によれば「松井は当時すでに中国は蒋介石によって統一されるであろうという見透しを抱いていた。日本は、この際進んで目下失意の状態にある蒋を援助して、蒋の全国統一を可能ならしむよう助力する。そのためには張作霖はおとなしく山海関以北に封じ、その統治を認めるが、ただし蒋の国民政府による中国統一が成就した暁には、わが国の満蒙の特殊権益と開発を大幅に承認させることを条件とするという構想であった。」
松井構想(蒋介石との連携)の破綻[編集]
ところが、昭和3年(1928年)5月3日、済南事件が起き、陸軍内で蒋介石への批判が相次いで、日中関係は松井の意図に反した方向へと流れていった。
同年6月4日、張作霖爆殺事件が勃発。この事件の発生により、松井が実現させた「田中・蒋介石会談」の合意内容は完全に瓦解した。松井は張作霖を「反共の防波堤」と位置づけていた。それは当時の田中義一首相らとも共通した認識であった。松井は首謀者である関東軍河本大作の厳罰を要求した(この事から、若手の将校の間では松井を頑固者扱いして敬遠する声も多かったと言われている)。しかし、結局うやむやのままになり、昭和天皇の怒りを買って田中義一が首相を辞めることになった。松井構想は音をたてて崩れ落ちた(田中正明の言)。
一方、蒋介石も日本への不信感を濃くした。昭和6年(1931年)9月満州事変、昭和7年(1932年)3月満州国建国を経て、蒋介石の反日の姿勢は間違いなく強まっていった。
大亜細亜協会の活動[編集]
蒋介石との連携によるアジア保全の構想は破綻したものの、松井は昭和8年(1933年)3月1日に大亜細亜協会を設立した(松井は設立発起人、後に会長に就任)。会員には近衛文麿、広田弘毅、小畑敏四郎、本間雅晴、鈴木貞一、荒木貞夫、本庄繁など、錚々たるメンバーであった。「欧米列強に支配されるアジア」から脱し、「アジア人のためのアジア」を実現するためには「日中の提携が第一条件である」とする松井らの「大亜細亜主義」が、いよいよ本格的な航海へと船出した。

<また他のA級戦犯で獄死した人物をあげる>
 *松岡洋右(ようすけ、外務大臣)
  松岡 洋右(まつおか ようすけ、1880年(明治13年)3月4日 - 1946年(昭和21年)6月27日)は、日本の外交官、政治家。松岡洋右は四年間ほぼ寝たきりで敗戦を迎えたが、そんな重病人を連合軍は法廷に引っ張り出した。松岡は病篤い体ながら「俺もいよいよ男になった」といって拘置所に向かったが、開廷二か月足らずで息をひきとった。
アメリカへの留学経験があり、満州国では満鉄総裁として弐キ参スケの一人に数えられた。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に、代表的な外交官ないしは外務大臣として関与した。敗戦後、極東国際軍事裁判の公判中に病死した。外交官同士のジョセフ・グルーと親交があった。
生涯[編集]
アメリカ留学[編集]
1880年(明治13年)に山口県熊毛郡室積村(のち光市室積)にて、廻船問屋の四男として生まれる。
洋右が11歳の時、父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから1893年(明治26年)に留学のため渡米する。アメリカでは周囲の人々からキリスト教の影響を受け、入信に至る。特に来日経験のあるオレゴン州ポートランドのアメリカ・メソジスト監督教会牧師メリマン・ハリス(Merriman Colbert Harris)のあたたかい信仰に見守られつつ、日本自由メソヂスト教会の指導者となる河辺貞吉から大きな影響を受け、洗礼(記録では1893年とある)を受けた。彼は河辺を信仰の父、実父に代わる第二の父とし、終生交わりを大切にした。後年に至っても米国ではメソジスト派の信者と述べ、「キリストの十字架と復活を信じている」と公言していた。アメリカでの生活は苦しく、最初の寄宿先に到着した早々薪割りを命じられるなど、使用人としてのノルマをこなしながら学校へ通わなくてはならなかった。また、たびたび人種差別の被害にあった。この頃の体験が「アメリカ人には、たとえ脅されたとしても、自分が正しい場合は道を譲ってはならない。対等の立場を欲するものは、対等の立場で臨まなければならない。力に力で対抗する事によってはじめて真の親友となれる。」を信条とする彼の対米意識を育んでいった。
ポートランド、カリフォルニア州オークランドなどで勉学の末、オレゴン大学法学部に入学、1900年(明治33年)に卒業する。オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった一方、学生仲間によると、ポーカーの名手だったともいう。
卒業後も滞米し様々の職種で働いていることから、アイヴィー・リーグ等の大学(あるいは大学院)に進学することを目指していたとも考えられるが、母親の健康状態悪化などを理由に1902年(明治35年)、9年振りに帰国する。松岡はアメリカを第二の母国と呼び、英語を第二の母語と呼んでいたが、これは終生変わらなかった。
外務省時代[編集]
帰国後は、東京麹町に山口県人会の寮があったこともあり、駿河台の明治法律学校(明治大学の前身)に籍を置きながら東京帝国大学を目指すことにした。しかし帝国大学の授業内容を調べ、物足りなさを感じた洋右は独学で外交官試験を目指すことを決意。1904年(明治37年)に外交官試験に首席で合格し(一番だったのは英語だけという説もある)、外務省に入省する。なお、この外務省入りはそれほど積極的な動機に基づくのでなく、折からの日露戦争に対する一種の徴兵忌避的意味合いがあったのではないかとの説もある。
外務省では、はじめ領事官補として中華民国上海、その後関東都督府などに赴任。その頃、満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇を得る。松岡の中国大陸での勤務が長かったのは、一説には一旦はベルギー勤務を命ぜられたものの「これからの日本には大陸が大切だから」といって中華民国勤務の継続を望んだともいう。短期間のロシア、アメリカ勤務の後、寺内内閣(外務大臣は後藤新平)のとき総理大臣秘書官兼外務書記官として両大臣をサポート、特にシベリア出兵に深く関与した。1919年(大正8年)からのパリ講和会議には随員(報道係主任)として派遣され、日本政府のスポークスマンとして英語での弁舌に力を発揮、また同じく随員であった近衛文麿とも出会う。帰国後は総領事として再び中華民国勤務となるが、1921年(大正10年)、外務省を41歳の若さで退官。
満鉄から代議士へ[編集]

立憲政友会代議士時代の松岡洋右
退官後はすぐに、上海時代に交友を結んだ山本条太郎の引き抜きにより、南満州鉄道(満鉄)に理事として着任、1927年(昭和2年)には副総裁となる(総裁は山本)。松岡本人も撫順炭鉱での石炭液化プラント拡充などを指導していた。
1930年(昭和5年)、満鉄を退職。2月の第17回衆議院議員総選挙に郷里山口2区から立候補(政友会所属)、当選する。議会内では対米英協調・対中内政不干渉方針とする幣原外交を厳しく批判し、国民から喝采を浴びる事となる。
ジュネーブ総会派遣・連盟脱退[編集]
1931年(昭和6年)の満州事変をうけて、1932年(昭和7年)、国際連盟はリットン調査団を派遣、その報告書(対日勧告案)が9月に提出され、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況だった。報告書の内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではない。しかし報告書は、「9月18日以前原状復帰は現実にそぐわないという認識・満州の自治・日本権益の有効性」を認めながらも結果として「満州を国際管理下に置く事」を提案し、満州を満州国として認めない内容だったため日本国内の世論は硬化、政府は報告書正式提出の直前(9月15日)に満州国を正式承認するなど、政策の選択肢が限定される状況であった。
このような中の10月、松岡は連盟総会に日本首席全権として派遣される。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。「日本の主張が認められないならば国際連盟脱退はやむをえない」は松岡全権の単独行為ではなく、あくまでも日本外務省が想定した最悪のケースであり、脱退を既定路線としてジュネーブに赴いたわけではなく、松岡はできうる限り脱退を避ける方針で連盟総会に臨んだ。
連盟総会は日本に対して厳しい雰囲気の中、開催される。到着早々の松岡は12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの大演説を総会で行う。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のものだった。しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果的だったともいわれる。もっとも、会議場での松岡の「十字架上の日本」と題せられる演説に関しては絶賛の拍手で渦巻いた。仏国代表ボンクール陸相が握手を求めたのを皮切りに、多数の代表・随員が握手を求め、英国代表サイモン外相、陸相ヘールサム卿が松岡に賛辞の言葉を述べた。これら各国代表の賛辞は、演説の内容もさることながら、松岡の英語能力に驚嘆し「日本にもこれほど外国語が堪能な人物がいたのか」と感心した面にもよるものだった。連盟総会において対日批判の急先鋒であったのは、中華民国、スペイン、スイス、チェコ、東南アジアに植民地である「オランダ領東インド」を有するオランダであった。
松岡の「十字架上の日本」の演説の後、「リットン卿一行の満州視察」という満鉄広報課の作成した映画が上映され、各国代表を含め約600人程が観覧した。併合した朝鮮や台湾と同じく多大な開発と生活文化振興を目標とする日本の満州開発姿勢に、日本反対の急先鋒であったチェコ代表ベネシュも絶賛と共に日本の対外宣伝の不足を感じ、松岡にその感想を伝える程であった。当時の文藝春秋の報道によると「松岡が来てから日本はサイレント版からトーキーになった」と会衆は口々に世辞を言ったという。
もっとも、松岡の演説がこのように好評であったことは、満州をめぐる日本の立場を有利にするためにはなんの役にも立たなかった。1933年(昭和8年)2月21日、日本政府はリットン報告書が連盟総会で採択された場合は代表を引き揚げることを決定した。2月24日、軍縮分館で行われた連盟総会で報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム)の圧倒的多数で可決・採択された。松岡はあらかじめ準備していた宣言書を朗読して総会から退場した。この際、松岡が日本語で「さよなら!」と叫んで議場を退場したといわれることもあるが、これは別の事実との混同によって発生した誤りである。
松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていないが、3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)することになる。翌日の新聞には『連盟よさらば!』(以下縦書き見出し)『連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す』の文字が一面に大きく掲載された。「英雄」として迎えられた帰国後のインタビューでは「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。
その後、ジュネーヴからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、ローマでは独裁体制を確立していたベニート・ムッソリーニ首相と会見している。ロンドンでは、満州における日本の行動に抗議する英国市民に遭遇し、松岡は「日本は賊の国だ」と罵られた。
議員辞職・再び満鉄へ[編集]
帰国した松岡は「言うべきことを言ってのけた」「国民の溜飲を下げさせた」初めての外交官として、国民には「ジュネーブの英雄」として、凱旋将軍のように大歓迎された。言論界でも、清沢洌など一部の識者を除けば、松岡の総会でのパフォーマンスを支持する声が大だった。もっとも本人は「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」との意のコメントを出している。
帰国後は「国民精神作興、昭和維新」などを唱え、1933年(昭和8年)12月には政友会を離党、「政党解消連盟」を結成し議員を辞職した。それから1年間にわたって全国遊説を行い、政党解消連盟の会員は200万人を数えたという。このころからファシズム的な論調を展開し、「ローマ進軍ならぬ東京進軍を」などと唱えた。特にみるべき政治活動もないまま1935年(昭和10年)8月には再び満鉄に、今度は総裁として着任する(1939年(昭和14年)2月まで)。1938年(昭和13年)3月のオトポール事件では樋口季一郎と協力してユダヤ人難民を保護している。
外務大臣就任[編集]
1940年(昭和15年)、近衛文麿が大命降下を受け、外務大臣として松岡を指名した。松岡は軍部に人気があり、また彼の強い性格が軍部を押さえるであろうという近衛の目算があった。
外相就任が内定した松岡は「私が外相を引き受ける以上、軍人などに外交に口出しはさせません」と大見得を切った。内閣成立直前の7月19日、近衛が松岡、陸海軍大臣予定者の東條英機陸軍中将、吉田善吾海軍中将を別宅荻外荘に招いて行ったいわゆる「荻窪会談」で、松岡は外交における自らのリーダーシップの確保を強く要求、近衛や東條・吉田も了承した。ところが翌日に東條が持ち込んだ「協議事項」の大部分は外交案件であり、軍部の外交介入は以降も続くことが明白であった。7月22日に成立した第2次近衛内閣で松岡は外相に就任した。
20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。また松岡は以前から外交官批判を繰り広げており、就任直後には公の場で外交官を罵倒した。
当時の大きな外交問題は、泥沼となっていた日中戦争、険悪となっていた日米関係、そして陸軍が主張していたドイツ・イタリアとの三国同盟案であった。松岡は太平洋を挟んだ二大国が固く手を握って、世界の平和を確立すべきと唱えていた。
松岡は就任後、早速香港工作とよばれる重慶国民党政府と汪兆銘政権の合体工作を行った。しかしこの政策は汪兆銘政権を支援していた陸軍の猛反発にあい、工作は打ち切られた。日本が汪兆銘政権を正当な中国政府として承認したのは、松岡の外務大臣在任時である。松岡は「外交がむづかしいことを今更知ったわけではないが、外交一文化の四巨頭会談の了解事項が踏みにじられたのは残念だ。満州国だけを確保して、中国からは全面的に撤退するのが一番良いかと思うが、それは少なくとも当分実行不可能である」と嘆いた。

 *東郷茂徳(しげのり、外務大臣)
  東郷 茂徳(とうごう しげのり、旧字体: 東茂、1882年(明治15年)12月10日 - 1950年(昭和25年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。朝鮮人陶工の子孫。
欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避できなかった。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力した。にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没した。
東郷は剛直で責任感が強く、平和主義者である一方で現実的な視野を併せ持った合理主義者だったが、正念場において内外情勢の急転に巻き込まれて苦慮するケースが多かったと言える。

 *白鳥敏夫(イタリア大使)
  白鳥 敏夫(しらとり としお、1887年(明治20年)6月8日 - 1949年(昭和24年)6月3日)は、大正、昭和期の日本の外交官・政治家。戦前期における外務省革新派のリーダー的存在で、日独伊三国同盟の成立に大きな影響を与えた。東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。外務大臣を務めた外交畑の長老石井菊次郎も叔父にあたる。また外務官僚の出淵勝次は義兄(妻の姉の夫)にあたる。息子に白鳥正人元北陸財務局長。

 *永野修身(おさみ、海軍元帥)
  永野 修身(ながの おさみ、1880年6月15日 - 1947年1月5日)は、日本の海軍軍人、教育者。海軍兵学校28期。最終階級は元帥海軍大将従二位勲一等功五級。第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍三長官全てを経験した唯一の軍人。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。千葉工業大学の創設者。真珠湾奇襲攻撃の発案者。身も心も軍人。元帥。

 *梅津美治朗(よしじろう、参謀総長)
  梅津 美治郎(うめづ よしじろう、明治15年(1882年)1月4日 - 1949年(昭和24年)1月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
終戦時の参謀総長。東京裁判で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。昭和53年(1978年)に靖国神社に合祀される。米艦ミズーリ号で、重光葵とともに敗戦の記帳を共にした軍人。「無言の将軍」「官史型将軍」
経歴[編集]
大分県中津市出身。母の再婚先の是永姓を一時名乗る。中学済々黌を経て、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校(第15期7番)、陸軍大学校(第23期首席)を卒業。関東軍総司令官、参謀総長などを務める。
支那駐屯軍司令官時代の1934年(昭和9年)11月に、宋哲元の部下の馮治安の部隊が熱河省を侵犯し、大灘西方20キロの断木梁に進出し、関東軍が追撃し宋哲元の本拠地近くまで迫った。梅津は宋哲元のとりなしをして、関東軍は追撃を止め引き返した。
昭和10年(1935年)6月に「梅津・何応欽協定」を結ぶ。当時、華北で相次いだ反日活動が国民党の主導によるものとし、その撲滅のため、
河北省内の国民党支部をすべて撤廃
国民党駐河北省の東北軍第51軍、国民党中央軍および憲兵三団の撤退
河北省主席である于学忠の罷免
すべての抗日団体とその活動の取り締まり
といった内容の協定を結んだ。この協定の申し入れについては、当初梅津は全く知らず、駐屯軍の酒井隆参謀長と高橋坦陸軍武官の策謀であったとされている。
その後は寺内寿一陸軍大臣の下に陸軍次官に就任、二・二六事件後に陸軍内の粛正を行った。その際に、陸軍省に軍務課を新設し、陸軍の政治への発言力を強めたのが、皇道派の反発を招いた。一部の右翼活動家からは「梅津は日本の赤化を企図している」という怪文書を撒かれる結果となった。
関東軍総司令官に就任したのはノモンハン事件の責任を取って植田謙吉大将が退いた後で、再三にわたり中央の統制を破って大事件を起こした関東軍参謀の粛正が求められた。太平洋戦争中に関東軍が何の事件も起こさず静謐を保ったのは梅津の功である。のちの東京裁判では、事件の直後(1939年)から5年間の間に関東軍の司令官を務めたという経歴が、前述の「梅津・何応欽協定」と共に最もウェートが置かれる事となる。
終戦時の御前会議では陸軍を代表して本土決戦を主張するが、個人的には本土決戦は不可能だと考えていたらしく、昭和天皇に本土決戦の準備が出来ていないことを明示した極秘資料を提示している。一部将校たちによる本土決戦を求めるクーデター計画を阿南惟幾陸軍大臣から知らされた際は絶対反対を唱え、計画を中止させた。
太平洋戦争の降伏文書調印式全権を依頼されると、降伏に賛成した米内光政、鈴木貫太郎ら海軍首脳が適役であるとして拒否した。しかし、昭和天皇から直々の願いを受けて重光葵らと共に出席する事となり、その際息子に対して二・二六事件とノモンハン事件の事を指し「今度もまた後始末だよ」とぼやいたという。調印式では、持参した万年筆の調子が悪く、副官のものを借りて署名したといわれている。
東京裁判の法廷では、広田弘毅や重光葵等と同様に、証言台には立たず、沈黙を守り続けたが、東郷茂徳の証言内容に対しては、声を荒らげて反論する場面もあった。判決は終身禁固刑が言い渡され、昭和24年(1949年)1月8日、服役中に直腸癌により病没した。梅津は、生涯日記も手記も残さず、病床には、「幽窓無暦日」とだけ書いた紙片が残されていたのみだった。

 *小磯国昭(くにあき、首相)
  小磯 國昭(こいそ くにあき、1880年(明治13年)3月22日 - 1950年(昭和25年)11月3日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功二級。朝鮮総督時代は「朝鮮の虎」と呼ばれていた。自分でも「俺は醜男」という。だが、母親は美形で国昭も中学生くらいまでは美少年だったという。大人になるに従い美形が崩れていき「朝鮮の虎」扱い。同級生は「最初、誰だか分らなかったよ」と苦笑したという。
陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官を歴任後、予備役入りした。その後拓務大臣(第15・17代)、朝鮮総督(第9代)を務め、太平洋戦争中にサイパン失陥を受け辞職した東條英機の後継として1944年に内閣総理大臣(第41代)に就任した。悪化の一途をたどる戦局の挽回を果たせず、中華民国との単独和平交渉も頓挫し、小磯は1945年4月に辞任し鈴木貫太郎に後を譲った。戦後はGHQにより戦犯容疑で起訴され東京裁判で終身刑の判決を受け服役中に死去した。

 *平沼騏一郎(きいちろう、国本社会長)
  平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、慶応3年9月28日(1867年10月25日) - 昭和27年(1952年)8月22日)は、日本の司法官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。学位は法学博士。号は機外。「右翼の総統」「ファッショの首魁」政治家・平沼赳夫は義理の息子。
大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大学総長(第2代)、大東文化学院総長(初代)、財団法人大東文化協会会頭(第3代)、司法大臣(第26代)、貴族院議員、枢密院副議長(第11代)、枢密院議長(第17・21代)、内閣総理大臣(第35代)、国務大臣、内務大臣(第62代)などを歴任した。
東京控訴院部長や大審院検事局検事を務めたのち、司法省にて民刑局の局長などを経て次官に就任した。その後、大審院検事局にて検事総長に就任し、さらに、大審院の院長を務めた。法曹界で権力を持ち、保守・右派勢力の中心人物として暗躍し、帝人事件や企画院事件を引き起こす。
第2次山本内閣にて司法大臣として入閣を果たす。貴族院議員、枢密顧問官などを経て、枢密院の副議長や議長を務めた。内閣総理大臣に指名され、平沼内閣を組閣した。これにより、三権の長のうち2つを務めたことになる。内閣総理大臣退任後は、第2次近衛内閣にて国務大臣や内務大臣を務めた。太平洋戦争後、極東国際軍事裁判でA級戦犯として訴追される。終身刑の判決を受け、獄中で死去した。
政治以外の活動としては、慶應義塾大学法学部教授、日本大学総長、大東文化学院(のちの大東文化大学)総長、大東文化協会(大東文化大学の設立母体)会頭、皇典講究所(國學院大學の設立母体)副総裁などを務めた。
また、国本社の創設者であり、第2代修養団団長でもある。無窮会の創立者として、相談役、第2代会長、理事などを歴任し、東洋文化学会でも第2代会長を務め、後に東洋文化研究所を創設して、初代所長を務めた。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1867年新暦10月25日(慶応3年9月28日)、津山城下南新座(のちの岡山県津山市)に津山藩士平沼晋(1832年 - 1914年)の次男としてうまれる。 1872年に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、1878年に東京大学予備門入学。1888年帝国大学法科大学(のちの東京帝国大学法科大学、戦後の東京大学法学部)を卒業し、その後司法界で出世していった。
首相就任まで[編集]
明治年間の第1次桂内閣末期、実業界の資金不足のために民間から資金を集める方法が議論され、社債の相談を持ちかけられた司法部の平沼が、社債信託法採用の意見を述べた。当時はまだ先進国でも英国のみに存在する法律であったが、曾禰荒助大蔵大臣に直に頼まれて、池田寅二郎試補を相手にほとんど平沼一人で社債信託法を立案し、審査を経て成立させた。
1908年、刑法改正(現行刑法制定)を機に設置された犯罪者の前科を記録するための方法を検討する「犯罪人異同識別法取調会」の中心メンバーとなる。平沼の報告書に基づいて、指紋による前科登録が導入される事となった。
1910年の幸徳事件(大逆事件)では、検事として幸徳秋水らに死刑を求刑した。
1913年4月、司法大臣の松室致と協力し、「裁判所廃止及名称変更ニ関スル法律」「判事及検事ノ休職並判事ノ転所ニ関スル法律」を成立させ、229人の判事・検事を一挙に休・退職とし、443人にのぼる異動を発令した。それまでの大逆事件などでの功績から、特に1910年代以降、司法部内での検察権の独立が公然と実態化し、絶対的優位化したのにともない、1921年、裁判所構成法改正で検事総長の地位が司法大臣、大審院長と同レベルに引き上げられた。また俗に、平沼 - 鈴木喜三郎 - 小山松吉 ラインが思想検事系列の礎として形容されていった。
政治姿勢はきわめて保守的かつ国粋主義的であり、民主主義や社会主義、またナチズムやファシズム、共産主義といった外来思想を、常に危険視していた。自身の経歴を生かして主に司法界と枢密院に大きな影響力を持ち、これに国本社を中心とした大衆的な支持を加えて、教化運動や自己の政治思想の高調を行ったが、特に国本社は政界の惑星を頭目とする点で、世人の注目を浴びた。
過去、第2次若槻内閣や浜口内閣に対する攻撃、天皇機関説排撃事件などで、元老西園寺公望に嫌われており、本人のつよい希望にもかかわらず首相候補に推されることがなく、また枢密院議長に就任できずに副議長に留め置かれたままであった。そこで平沼は西園寺と彼が育てた立憲政友会を潰すために国策捜査を行わせたとされるが(帝人事件)、彼の意向を受けた検事達の捜査は政友会幹部らの逮捕を優先して裏付けとなる証拠収集があまりにも杜撰であったために、公判では全員無実無根であるとして無罪判決が出されてしまった。
さすがに帝人事件後は慎重を期して西園寺が老齢により政治の表舞台から一歩引いた後に、枢密院議長に就任すると国本社を解散し、親英米派と妥協することでようやく首相の座に就くことができた。
平沼自身も西園寺を敵視しており、戦後、A級戦犯として収監された巣鴨プリズン内における重光葵との会話の中では、「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったことがある。


 

緑川史観『いわゆるA級戦犯論』これぞ侵略戦争・昭和戦記の決定版!緑川鷲羽によるA級戦犯論1

2015年05月30日 07時49分49秒 | 日記







侵略戦争の罪と罰 
 
この作品の参考文献一覧をご紹介します。『東京裁判』(上)(下)児島襄(中公新書)、『東京裁判』(上)(下)朝日新聞東京裁判記者団(朝日文庫)、『私が見た東京裁判』(上)(下)冨士信夫(講談社学術文庫)、『秘録東京裁判』清瀬一郎(中公文庫)、『世界がさばく東京裁判』佐藤和男監修/終戦五十周年国民委員会編(ジュピター出版)、『日本の歴史30十五年戦争』伊藤隆(小学館)
『昭和史をさぐる』伊藤隆(朝日文庫)、『東京裁判 勝者の敗者への報復』新人物往来社戦史室(新人物往来社)、『別冊歴史読本 A級戦犯 戦勝国は日本をいかに裁いたか』(新人物往来社)、『東京裁判の全貌』平塚柾緒/太平洋戦争研究会編(河出文庫)、『看守が隠し撮っていた 巣鴨プリズン未公開フィルム』織田文二/茶園義男監修(小学館文庫)、『東条英機 大日本帝国に殉じた男』松田十刻(PHP文庫) 
『祖父東条英機「一切語るなかれ」』東条由布子(文春文庫)、『大東亜戦争の真実 東条英機宣誓供述書』東条由布子編(WAC)、『週刊日本の100人東条英機』(ディアゴスティー二・ジャパン)、『昭和の発見』花山信勝(朝日新聞社)、『秋霜の人 広田弘毅』渡邊行男(葦出版)、『黙してゆかむ 広田弘毅の生涯』北川晃二(講談社文庫)、『落日燃ゆ』城山三郎(新潮文庫)、『昭和天皇独白録』寺崎英成/マリコ・テラサキ・ミラー(文春文庫)
『秘録 板垣征四郎』板垣征四郎刊行会(芙蓉書房)、『秘録 石原莞爾』横山臣平(芙蓉書房)、『コンビの研究 昭和史のなかの指揮者と参謀』半藤一利(文藝春秋)、『秘録 土肥原賢二 日中友好の捨石』土肥原賢二刊行会編(文藝春秋)、『軍務局長 武藤章回顧録』武藤章/上法快男(芙蓉書房)、『南京事件の総括』田中正明(展転社)、『「南京大虐殺」はこうして作られた』冨士信夫(展転社)、『日本陸軍 指揮官総覧』新人物往来社戦史室(新人物往来社)
『松岡洋右 その人間と外交』三輪公忠(中公新書)、『その時歴史が動いた13』NHK取材班(KTC中央出版)、『東郷茂徳 伝記と解説』萩原延濤(原書房)、『時代の一面』東郷茂徳(原書房)、『危機の外相 東郷茂徳』阿部牧郎(新潮社)、『海よ永遠に 元帥海軍大将永野修身の記録』永野美紗子(南の風社)、『最後の参謀総長 梅津美治郎』上法快男(芙蓉書房)、『葛山鴻爪』小磯国昭(小磯国昭自叙伝刊行会)、『怒り宰相 小磯国昭』中村晃(叢文社)
『平沼騏一郎回顧録』平沼騏一郎(平沼騏一郎回顧録編纂委員会)、『大川周明 ある復古革新主義者の思想』大塚健洋(中公新書)、『決断した男 木戸幸一の昭和』多田井喜生(文藝春秋)、『木戸幸一関係文書』木戸日記研究会編(東京大学出版会)、『南次郎』御手洗辰雄編(南次郎伝記刊行会)、『忠鑑畑元帥』梅谷芳光(国風会本部)、『畑俊六 巣鴨日記』小見山登(日本文化連合会)、『橋本欣五郎一代』田々宮英太郎(芙蓉書房)、『荒木貞夫風雲三十年』有竹修二(芙蓉書房)
『駐独大使 大島浩』鈴木健二(芙蓉書房)、『佐藤健了の証言 対米戦争の原点』佐藤健了(芙蓉書房)、『鈴木禎一氏談話速記録』(上)(下)木戸日記研究所(日本近代史料研究会)、『完本・太平洋戦争』(上)文藝春秋編(文藝春秋社)、『嶋田繁太郎海軍大将裁判中参考資料』、『見果てぬ夢 満州国外史』星野直樹(ダイヤモンド社)、『評伝賀屋興宣』宮村三郎(おりじん書房)、『重光葵 上海事変から国連加盟まで』渡邊行男(中公新書)、『孤高の外相 重光葵』豊田穣(講談社)
『「勝者の裁き」に向き合って』牛村圭(ちくま新書)、『昭和の動乱』(上)(下)重光葵(中公文庫)、『共同研究パル判決書』(上)(下)東京裁判研究会(講談社学術文庫)、『パール判事の日本無罪論』田中正明(小学館文庫)、『國、亡ぼす勿れ 私の遺書』田中正明(展転社)、『平成22年版日本の防衛 防衛白書』(防衛省)、『海をひらく 知られざる掃海部隊』桜林美佐(並木書房)、『そのとき自衛隊は戦えるか』井上和彦(扶桑社)、『ホントに強いぞ自衛隊!』加藤健二郎・古是三春(徳間書店)
『別冊歴史読本 江田島海軍兵学校 写真で綴る江田島教育史』(新人物往来社)、『今こそ知りたい江田島海軍兵学校 世界に通用する日本人を育てたエリート教育の原点』平間洋一・市来俊男・雨倉孝之・影山好一郎・北澤法隆・齋藤義朗・中村梯次・左近允尚敏・長田博・手塚正水(新人物往来社)、『中国大虐殺史なぜ中国人は人殺しが好きなのか』石平(ビジネス社)、『TPPが日本を壊す』廣宮孝信・青木文鷹・監修(扶桑社新書)、『自由貿易は、民主主義を滅ぼす』エマニュエル・トッド(藤原書店)
『原発と日本の未来 原子力は温暖化対策の切り札か』吉岡斉(岩波ブックレット)、『原発のウソ』小出裕章(扶桑社新書)、『福島第一原発「放射能の恐怖」全記録』(FRIDAY6・29増刊号)、『偽善エネルギー』武田邦彦(PHP新書)、『日本は原子爆弾をつくれるか』山田克哉(PHP新書)、『国土学再考「公」と新・日本人論』大石久和(毎日新聞社)、なおここから数行はウィキペディア、『国防論』小林よしのり(小学館)と『いわゆるA級戦犯』小林よしのり(幻冬舎)から引用いたします。盗作ではなく引用です。あらかじめご容赦下さい。裁判とか勘弁してください。
 東条英機が戦犯容疑で逮捕されたのは昭和20(1945)年9月11日、元首相・東条英機大将宅は、進駐軍の車が囲み、外国人記者で騒然としていた。GHQたちが「玄関を開けなさい!」と命令する。
「逮捕状を持っているか?」禿げ頭の東条が窓を開けて訊いた。「拘引命令書を持ってきた。マッカーサー司令部に行く用意をしろ!急げ!」「すぐ行く。」といって東条英機は窓を閉めた。しばらくして銃声が鳴った。
 進駐軍の兵隊たちがドアを蹴り壊して屋内に入ると東条英機は心臓を狙ったのか銃を持ち胸からは血がしたたっていた。進駐軍は焦った。だが、東条英機はまだ息がある。この時、小林よしのり氏の漫画では米軍兵士が東条の服や私物を奪い合った、略奪があった、と描いているが事実ではない。そんな警察機関や軍組織はない。
「一発で死にたかった。……切腹も考えたがともすれば間違いがある。大東亜戦争は正しい戦いだった」東条は荒い息で言った。「天皇陛下万歳」
 開戦当初、勝っていた頃は”我らが東条さん”と、庶民の人気が高かった東条だが、この当時は日本一悪評の人だった。「自殺未遂」の報が流れた時も…「ホントは死ぬ気じゃなかったんじゃないか?」「陸軍大将なのに拳銃の撃ち方も知らないのか?」負けたとたんに国民は手のひらを返した。
 70年経ってもタカ派といわれる政治家までがテレビ番組でこう批判していた。「アメリカ兵は彼が手にしていた拳銃が決して致命傷に至らぬ最小の22口径なのを見て失笑したそうな(笑)。」(石原慎太郎談)。実際に東条英機が使ったのはコルト32口径。女婿の古賀少佐が玉音放送の後、自決に使った銃であった。古賀少佐は銃口をくわえて撃ったため、死体の顔は大きく損壊していた。東条は、米軍が自分の死体を見世物にすると予想し、心臓を撃ったのだ。
 しかし、使い慣れない銃だったため、手元がくるったのだった。
 話を変える。安倍首相靖国神社参拝 第1次政権含め初 現職は小泉氏以来。安倍晋三首相は2013年12月26日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。現職としては、2006年に当時の小泉純一郎首相が参拝して以来7年ぶり。第2次安倍政権発足からちょうど1年での決行で、首相としては初めてとなった。首相の参拝を求める保守層に配慮したとみられる。参拝後、首相は記者団に「日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対し、尊崇の念を表し、手を合わせた」と述べた。中韓両国は、東京裁判のA級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社への首相や閣僚の参拝に反対しており、反発は必至だ。首相は第1次安倍政権のときに参拝しなかったことを「痛恨の極みだ」として、参拝への意欲を強調。12月9日の記者会見では「参拝するか否かを今、申し上げるべきではない」と述べていた。首相は到着殿から拝殿を抜けて、本殿で参拝した。「内閣総理大臣 安倍晋三」名で白い菊を献花した。26日に参拝した理由について、記者団に「安倍政権1年の歩みを報告し、再び戦争の惨禍で人々が苦しむことのないよう決意を伝えるため、この日を選んだ」と強調。「中国、韓国の人の気持ちを傷つける考えは毛頭ない」と述べ、両国の首脳に直接説明したいとの考えを示した。また「戦争の惨禍や、苦しむことのない時代をつくるため、不戦の誓いをした」とも述べた。4月の春季例大祭では「真榊(まさかき)」と呼ばれる供物を、8月15日の終戦記念日には玉串料を私費で奉納した。10月の秋季例大祭でも真榊を納めたが、それぞれ参拝を見送っていた。沖縄県・尖閣諸島や島根県・竹島をめぐり冷え込んだ中韓両国との関係改善に向け、首相は早期の首脳会談開催を呼び掛けてきた。だが今回の参拝により、会談は当面困難となりそうだ。第2次安倍政権では今年4月21~23日の春季例大祭に合わせる形で麻生太郎副総理兼財務相、古屋圭司国家公安委員長が、同月20日には新藤義孝総務相、同月28日には稲田朋美行政改革担当相が参拝した。新藤、古屋両氏は秋の例大祭でも参拝した。小泉元首相の場合、就任した01年は終戦記念日を避け8月13日に参拝。その後も1月や4月、10月に参拝したが、首相として最後の06年は8月15日に参拝した。◎保守層離反に危機感。【解説】安倍晋三首相が靖国神社参拝に踏み切ったのは、これ以上先送りすれば自身を支える保守層の離反を招き、政権基盤に影響しかねないとの危機感があったためだ。仮に見送っても、参拝に反対してきた中韓両国との早期の関係改善は現状では難しいと判断したとみられる。首相の思想や保守層の期待感がどんなものであろうと、一国のトップの行動が国内外に波紋を広げるのは避けられない。政権発足1年の節目で自身の信念に固執した首相には、衆参両院で多数を握る権力者の高揚感さえ垣間見える。参拝見送りを望む政権内の一部の慎重論は封じられた。首相は7月の参院選で幅広く支持を得る狙いから、4月の春季例大祭に合わせた参拝を見送った。参院選後の終戦記念日や秋季例大祭でも、中韓両国との首脳交流再開をにらみ参拝を控えた。ただ、首相の足元では、参拝に期待した保守層を中心に不満が蓄積。就任前の昨年10月に参拝した首相自身も年1回の実施にこだわっていたとされ、年末も自重すれば来春の例大祭まで参拝のタイミングがなくなるため、周辺では待望論が高まりつつあった。日本と中韓の関係悪化を懸念する米国への対応を含め、首相は一層の外交努力を求められる。「首相や閣僚の靖国参拝は憲法の政教分離原則に反する」との批判にも応える必要がある。<靖国神社>東京都千代田区九段北にある神社。国家のために命をささげた人々の御霊(みたま)を慰めることなどを目的に、明治政府が1869年に「東京招魂社」として創建し、79年に靖国神社と改称した。第2次世界大戦などの戦死者246万6000余柱の御霊が祭られている。戦後、国家神道が廃止され、一宗教法人となった。1978年には東京裁判のA級戦犯14人が合祀(ごうし)され、85年に中曽根康弘首相(当時)が戦後初めて公式参拝した。(産経新聞記事参照2013年12月26日木曜日)安倍首相の靖国神社公式参拝は、A級戦犯合祀が「戦争被害者への配慮に欠ける」という事だ。天皇陛下皇族の皆さまも1978年に東条英機らA級戦犯が合祀されてから一度も参拝してない。安倍氏は保守勢力の票の為に参拝した訳だが愚かだ。国の為に死んだ英霊を弔うなら戦犯無縁施設建設しかない筈だ。今年も陛下とともに被災地に訪れられた天皇皇后両陛下には一年でも長生きしてください、と思うだけですね。また神社の教えは「神道(しんとう)」。八百万(やおろず)の神(いろいろな神がいる)という宗教。靖国神社が出来たのは明治2年(1869年)創設(当時は「東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)」という)。1879年(明治12年)に改名・「東京招魂社」→「靖国神社」へ。(靖は安全の安と同じ。国が安泰なようにとの祈りの神社。創設者、大村益次郎(長州藩士・官軍。戊辰戦争の(官軍の)戦没者の英霊を祀る為))。明治・戦前まで宗教は国家宗群(国家神道・天皇崇拝)を国是としていた。戦後にそれらの神社は護国神社となる。国家神道の中心が靖国神社。靖国のご祭神(さいじん・多くの神)の数が「246万6000余柱」。(柱(はしら)は神様を数えるときの単位・第二次大戦の日本人英霊が246万6000人、ということ)。高杉晋作・坂本竜馬・吉田松陰も祀られているが、西郷隆盛(吉之助)は、西南戦争を起こした為に祀られていない。「合祀(ごうし)」とは2柱以上の神を祀ること。別に遺骨を祀るのではなく、名簿に名前を記入するだけ。A級戦犯合祀は密かに1978年におこなわれた。その為、1977年から現在まで天皇陛下(裕仁(昭和天皇)・明仁(平成天皇)含め)や皇室関係者は靖国神社を参拝していない。海外では「YASUKUNI Shrine(シュライン・神社)」ではなく「War Shrine」と呼ぶ。1985年中曽根首相(当時)が公式参拝して(原因①8月15日であった②内閣総理大臣という立場で公式参拝したこと)批判が中国・韓国含め海外からあがった。解決策①A級戦犯の分祀(靖国神社反対)②靖国神社以外他の宗教祀る神社建設(例えば千鳥ケ淵戦没者墓苑)(靖国神社反対*戦没者の英霊が「靖国で会おう」というのに反しているから)。ちなみに全国の宗教法人は18万2253法人もあり、「税金の免除」「小学校や幼稚園の公益事業の運営の免税」等ある訳です。学校法人・公益法人も同じです。宗教法人にも出来ない事があって、風俗業・カジノ・ギャンブル業・投資業です。お守り・お札・おみくじは無税ですが、数珠や線香は課税されます。違いは神社以外でも売っているか?で「数珠」や「線香」はデパートや仏具店でも買えるから駄目なのですね(笑)。伊勢(いせ)神社(天照大御神・アマテラスオオミカミを祀る)の式年遷宮(しきねんせんぐう)は20年に一度の神様のお引越し(戦国時代や戦後すぐの貧乏な時期は遷宮は延期されました。それどころではなかった(笑)訳です)です。総費用は一回550億円。ちなみに天皇の三種の神器は「八咫(やたの)鏡(かがみ・伊勢神宮の祀る神祇はこれ)」「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」「八尺瓊勾玉(やさかたのまがたま)」です。また、神社に飾られている枝は「榊(さかき)」という神聖なもので巻かれているギザギザの紙は「紙垂(しで)」という稲妻をイメージしているのですよ。沖縄の基地はまだ必要なんです。そのかわり沖縄でカジノ合法化とかどう?北朝鮮・中韓問題を考えてね。 第70回終戦戦没者慰霊日である。安倍晋三首相が玉串料だけで「靖国神社公式参拝」しないでよかった。どこまで日中・日韓関係をぼろぼろにすれば気が済むのだ「お坊ちゃん右翼首相(笑)」とにかく学歴に拘らず外交戦略のある人材登用をするしかない。外交は戦争、とわかる人材が官僚政治家にいるか?私にとって「島人(しまんちゅ)を舐めるな」等といった感情論は関係なくて、沖縄に基地が集中しているのは沖縄に貧乏籤を引かせている訳ではない。地政学上有利だから沖縄に基地が集中しているのだ。例えば「非武装中立」等馬鹿でしかない。防衛力がなければやられるだけだ。北朝鮮というテロ国家・独裁国家、中国との尖閣諸島問題、韓国との竹島問題…パックスアメリカーナ(アメリカによる核の下による平和)…。もう少し大人になって考えることだ。後、いっておくが本当の国防軍は在日米軍だ。自衛隊などまともに戦えば3時間ももたない。在日米軍こそが防衛の要だ。よく考えろ。今まで自衛隊が日本国を防衛したか?右翼政治家は軍国主義に走る。このまま日本の外交・防衛は大丈夫か?未来のNSC長官・日本の諸葛孔明・日本のキッシンジャーの緑川鷲羽に任せて欲しい。明確な外交戦略がある。学歴こそないが任せて安心な人材の筈だ。2013年5月27日、橋下徹氏が外国人記者クラブで「いわゆる従軍慰安婦(風俗と戦場の性の問題)」を他国でもあったし、慰安婦を正当化する訳ではないが謝罪する、といった。自国が慰安婦つかっていたけど他国でもやっていたからいいだろう…というあまりに幼稚な話で賛成できない。その意味で歴史家と政治家の歴史認識の乖離は恐ろしい。橋下氏は残念。またここでは「従軍慰安婦問題について詳しく教えてください」ということであるので少しだけ「慰安婦問題」をご説明しましょう。元々は戦前戦中には「慰安婦」とよばれていた女性たちは何故「従軍慰安婦」と呼ばれるようになったか?まず一つ目の転機は1973年千田夏光(せんだかこう)氏が三一出版から「従軍慰安婦」という著作を発表してから「慰安婦」が「従軍慰安婦」と呼ばれるようになります。いまから80年前頃に戦場で性的慰安をしていた女性たちのことで、施設は400か所もあり、帝国日本軍が重要書類をほとんど焼却した為に証拠がほとんど発見するのは不可能です。が、慰安婦は2万人から3万人(20万人から30万人との説も)当然売春婦もいたが甘言で慰安婦になった女性もいたそうです。「従軍慰安婦のばあさんたちは元々売春婦だ」という悪口は当たっていない。二つ目の転機は1991年に元従軍慰安婦であった韓国人老女・金学順(キム・ハクソン)さんが日本政府に謝罪と賠償金を求めて提訴したことです。何故1991年にやっと声をあげたのか?は1987年当時までは韓国は軍事政権であり、「慰安婦=売春婦」と差別を受けるから民主主義政権になり声をあげた訳です。「河野(こうの)談話」とは1993年官房長官であった河野洋平氏が「いわゆる従軍慰安婦については、軍の強制連行や甘言による強制があった。おわびする」という談話のことです。ですが最近になって朝日新聞社が「故・吉田清治氏による一連の従軍慰安婦報道は「誤報」で、日本軍による強制連行はなかった」とやっと謝罪しました。そう強制連行でのいわゆる「従軍慰安婦」はなかったのです。日本側は、1965年日韓基本条約で日本側が5億ドル(160億円)の経済援助をするかわりに韓国側が「請求権の放棄」を約束した為に、「慰安婦問題は解決済み」というスタンスです。だが、悪いと思ってか、1999年から2000年代にかけて「アジア女性基金」という民間の基金で、義捐金を民間から260億円募って、慰安婦というひとたちにひとり200万円と首相の詫び状が贈られています。歴史的なことをいわせてもらえば日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で「戦後賠償」は終了しています。また条約加盟国でなかった韓国、台湾、インドネシア、フィリピン、タイなどの国へも戦後謝罪も賠償もおわっています。1965年には日韓基本条約で韓国に5億ドル(160億円)払い、さらに民間の「アジア女性基金」で100億円払っています。おかしいと思うなら国際政治裁判ハーグで訴訟にて話し合いましょう。だが、韓国の慰安婦だけは韓国国内で「日本人に尻尾を振った売国奴!」と罵られるのをおそれて受け取りを拒否しています。結局政治なのですよ。ちなみに日本の外務省は「慰安婦」のことを「Comfort woman(慰安婦)」と呼ぶが海外では「Sex slaves(性奴隷)」といいます。20万人も拉致した事実はないが。結局政治なのですよ。2013年5月23日、韓国のあるジャーナリストもどきの不貞な輩が「日本の広島長崎への原爆投下は「神の懲罰」であり、ドイツは侵略戦争を謝罪したが「日本は侵略戦争も慰安婦問題も謝罪も賠償もまだだ。神が罰を下したのだ」」等と発言して反発されている。韓国の日本大使館も日本政府も抗議しているが、橋下氏や石原氏や小林よしのり氏らの「誤った侵略戦争否定論」のせいだ。極めて遺憾だし、激しく抗議したい。まず広島長崎の原爆被災者やその霊に謝罪して欲しい。話はそれからだ。大体にして原爆被災者の写真を観た後に同じことが言えるのか?頭のおかしな輩をジャーナリストにするな。2013年5月13日、大阪市長で日本維新の会共同代表の橋下徹氏がいわゆる慰安婦に対しての見解として「慰安婦はけして正当化は出来ないが、他の国もやっていたように、兵士の戦闘の疲労を癒すための風俗施設は必要だったのではないか」という事を発言した。あまりに次元の低い見解であり、到底容認出来ない。また慰安婦などとされた女性、というよりすべての女性の尊厳を侮蔑するものであり大変遺憾であり、激しく抗議したい。2013年4月23日、168人の国会議員が靖国神社を公式参拝した。後述するがもっと中国韓国に反発されないような英霊たちを供養する施設は造れないものか?香港の活動家たちは何故上陸出来たのか?海上保安庁の目をかいくぐって何故上陸出来たのか?ニュースだけではわかりませんね。多分、活動家のバックにお金持ちのパトロンがいてお金を出しているのでしょう(中国政府関係者も含めて)。だが、今回も強制送還で「正解」である。何故なら国民も民主党議員や凡俗の政治家も知らないかつての自民党と中国側との昔の「密約」があったからです。それは(1)中国は、実効支配の原則から尖閣諸島を日本領土として認める。(2)しかし一方で、中国も国内法では領土権を主張できる。というもの。尖閣諸島で逮捕した中国人は「密約」によれば日本で裁判にかけることなく逮捕して中国側に引き渡すのが「正解」であり、「約束」なのです。ゆえに、今回は中国政府も公式には大きく騒ぎ立てるようなことをしていないのです。オスプレイ問題もまた「「軍政」に関わることは米軍に従う」という日米安保条約ならびに「沖縄返還の条件」でもあります。知らないのは国民と民主党政治家と無能集団だけ、というまたまた「お先真っ暗」な状態なのです。ベトナム戦争や湾岸戦争などでも、日本の国防とは関係ない争いでも、米軍が沖縄を利用したのは「約束通り」に米国軍は「軍政」として沖縄をつかったまでなんです。日本政府(国)が合意しているのですから、米国軍人からみれば「当たり前じゃん」ということ。沖縄県知事や県民や日本国民は「沖縄の軍政に文句を言う権限」など密約上ない、のです。北方領土もまたしかり、です。北方領土に関しては森喜朗元首相がその辺を知っていますから森氏に任せるのが正解ですね。残念なことに民主党議員も国民も無知で傲慢です。「脱原発」だの「沖縄に基地いらない」だの無邪気に強く主張はしますが、「外交感覚ゼロ」…まるで「集団ヒステリー」「農民一揆」「団塊世代の安保闘争」です。こういう密約があることさえわからぬでしたり顔で主張してないで、ここはまず反省と熟考の余地を、という事ですね。2015年8月15日は1945年8月15日から70年目の終戦記念日ですね。ですが、韓国の大統領が「日本の天皇(皇后両陛下)は訪韓して謝罪」するべきだ、とお冠です。どうも国内の不満分子の「ガス抜き」のようなんですが至極至言だと思います。本来ならば韓国や中国などのアジアの首脳に促されるまでもなく、「侵略戦争の謝罪と賠償」など昭和天皇・裕仁が何十年も前に、私緑川鷲羽わしゅうなど生まれる遥か昔に「日本国家としての謝罪と賠償」は解決していて当たり前で、私のような戦争世代からみれば「穴の青いガキ」にいわれるまでもない話です。現実が見えていない。私は「国際法上(韓国や中国だけの法廷ではなく)間違いなく過去の日本軍人ならびに日本軍に「被害を受けたことの証拠」」があるなら国家として謝罪し賠償金を払うのは道理である、と思います。日本人はナチスやヒトラーは悪く言うくせに「過去の日本軍部」「無辜の民何万人も虐殺した「真実」」からは逃げますね。国家としてよくないスタンスだと思う。もっとまともな国家・日本でないとこれまた困ったものだと思います。改めて上杉の義と論語と算盤が必要ですね。 戦後70年2015年8月15日は終戦(敗戦)から70年目ですですが、実は8月15日が終戦記念日なのは日本だけです。世界では1945年9月2日が終戦記念日(アメリカでは対日戦勝記念日(VJ Day))です。つまり、東京湾に浮かんだ米国艦ミズーリ号で日本が降伏条約に署名した日です。何故日本では8月15日かは昭和天皇の玉音放送があったからなんです。もちろんラジオでです。当時の方にお聞きすると朝に「正午に天皇陛下からのお言葉がある」と知らされ正午に直立不動で「耐え難きを耐え、忍び難きを…」という玉音放送を聴く訳です。が、当時のひとはよく意味がわからなかった、といいます。その後のアナウンサーの説明でやっと「敗戦」と知り、大人たちは号泣した訳です。日独伊三国同盟対60ヶ国で1億人の兵士が動員されました。ちなみに「第二次世界大戦」は1939年のナチスドイツのポーランド侵攻からのおおまかな大戦のことです。「太平洋戦争」とはアメリカからみた戦争で1937年のABCD包囲網(米国、英国、中国、オランダによる日本への経済制裁)から1941年12月8日の日本軍の真珠湾奇襲攻撃から見た対日戦争です。「大東亜戦争」とは日本側からみた戦争で、当時帝国日本は「大東亜共栄圏」という神国日本がアジア諸国を占領から開放するという「侵略案」からみた戦争です。1945年5月7日にはナチスドイツもイタリアも降伏。後は日本だけになり、「降伏書」が突きつけられますが、日本は「黙殺」。つまり無視して、トルーマンは「しめた。核実験が出来る」と広島と長崎に原爆を落とします。その後、ソ連まで攻め込んできていよいよ駄目だな、とやっとポツダム宣言を日本がのむ訳です。国連の議長と米英仏の大使が参列しました。だが、実は米国では核の被害や死体やらが教えてられていません。「原爆投下は戦争終結を早めた」という詭弁を教えています。またベトナム戦争での枯葉剤での奇形児も教えられていません。まあ、「臭い物に蓋」をしている訳です。日韓併合(侵略)から100年で菅首相(当時)は「痛切な反省と心からのおわび」を表明しました。謝罪みたいですが謝罪ではないという訳のわからぬ表明です。賠償金はどうするのですか?戦争では850万人が戦死しました。民主党政権が靖国神社にかわる国立追悼施設を建設することが明らかになりました。まあ、新たなハコモノか?それとも靖国神社参拝へのアジア諸国からの反発を意識してか?わからないです。長崎の原爆の日(8月9日)70年目がありました。長崎市長は「すべての核武装国のトップは長崎にきてください」と宣言しました。これはオバマ米国大統領のプラハ宣言(核兵器保有国の核兵器廃棄宣言)を受けてのことです。ちなみに「広島の原爆ドーム」は「広島県産業会館」というもので、今、平和公園となっている広場は「中島地区」という4400人が住む住宅街でした。それが、相生町のT字橋をターゲットに原爆を落とされ一瞬にして焦土と化す訳です。何故アメリカが「原爆」を造ったか?はナチスドイツが原爆を開発中で、ドイツ系ユダヤ人のアインシュタインがローズヴェルト大統領に「原爆を開発中するべき」と手紙を送ったからです。で、実験の為に日本に二回も落とした訳です。ですが、今、世界のひとを何億回も皆殺しに出来る程、1発で広島原発の1000万倍の爆発力です。「これはいかん」と思ったのか、国連常任理事国(米国、フランス、英国、中国、ロシア(旧ソ連))が、核拡散防止条約(NPT)をきめこの5カ国以外「核兵器保有」を禁止します。ですが、加盟してないインド、パキスタン、イラン、シリア、北朝鮮などが保有もしくは開発中です。南米でも特にブラジルとアルゼンチンがもめていて「トラテラルコ条約」が批准されブラジル、南ア、リビア、アルゼンチンが「核放棄」します。86年レイキャビク会談でレーガンとゴルバチョフ書記長が会談して東西冷戦が崩壊します。「戦略核兵器(ICBM)」と「戦術核兵器(戦争下で使用される核ミサイル)」があり、「戦略核兵器」を米露が減らそうとしている訳です。が、広島原爆投下の慰霊の日には右翼で元・自衛隊幕僚長の田母神(たもがみ)氏がその広島で「日本の核武装発言」でひんしゅくを買ったという。北朝鮮がいろんな悪辣なことをやると「日本も核兵器を。保有国になるべきだ」などというのが聞かれるが、馬鹿だと思う。核武装などしなくても、在日米軍基地にすでにある。また私は戦争は悪だと思う。またやるべきではないし、自衛隊の「先制攻撃能力を」などという武装論などとんでもないことです。この世界で「戦争が大好きだ」などという馬鹿はいません。が、自衛の為の戦いは自衛隊でなく在日米軍がやってくれます。だから日米安保があるのです。何の為の日米安保ですか?何の為に在日米軍に何十億円も払っているのですか?例えば私はアメリカ軍が軍事行動をするのはおかしいって思いません。例えばナチスドイツや帝国日本軍を連合軍が叩き潰さなければ今頃世界はどうなっていましたか?ユダヤ人や朝鮮人中国人は絶滅させられたかもしれない。が、だからと言って自衛隊がアメリカ軍やロシア軍みたいに戦える訳はありませんよ。自衛隊にそんな能力はありません。よく考えてください。過去の日本人の「侵略戦争」の罪と罰です。過去は過去という訳ありません。過去の日本人による罪と罰は妄想で過去の日本人や皇室天皇をヒーローやヒロインにしても変わらないって思っています。「八紘一宇(はっこういちう)」(皇国日本が侵略されたアジアを救うという建前論)や「大東亜共栄圏」だの言って、アジア諸国を侵略したのはどこの何という国ですか?例えば日本人は過去の戦争を「被害者」として語ります。が、本当に小林よしのりや櫻井よしこがいうような「過去の日本人」は「被害者」だったのでしょうか?「新しい歴史教科書をつくる会」という右翼集団の教科書を横浜市の8区で採用していいのでしょうか?確かに神風特攻隊や回天特攻隊やひめゆり学徒隊や広島長崎の原爆や沖縄戦やシベリア漂流など悲惨でしょうか。東京大空襲など悲惨です。またエノラ・ゲイ(広島に原爆を落とした爆撃機)の元・乗組員のモリス・ジェンプソン氏(87)がいまだに「原爆投下は戦争早期終結の為に必要だった」などという。確かに彼の立場ではそう言い訳するしかありません。だが原爆など投下しなくても戦争早期終結はなったと思います。当時の日本は焼け野原です。誰しも戦う気力すらありませんでした。当然一部の軍人は竹槍でも戦うのであろうが、象に立ち向かう蟻です。が、では我々自身は日本人は被害者だったのでしょうか?何もしていな
いのでしょうか?違います。まず日本が侵略戦争をしたのでしょう?アジアや朝鮮半島中国を侵略して大量の無辜の民(百万人)を虐殺強姦などや暴行をしたのです。確かに過去の戦争での悲惨な体験は語り継ぐべきです。が、それは「前提条件」が付きます。それは「日本人が過去の侵略戦争」をきっちりと謝罪して、間違いなく過去の日本軍人に「被害」を受けたという人には賠償金を払うのが当たり前ではありませんか?また「侵略戦争」や「大虐殺」を「無かった」という人にいうと、確かに「南京大虐殺虐殺人数は30万人」というのは信憑性が薄い。が、30万人でなく1万人でも1000人でも殺されれば「虐殺」なのです。小林よしのりや櫻井よしこに騙されるな。過去の日本人に確実に被害にあったひとには賠償金をきっちり払うことです。日本軍の元捕虜やアジアの殺害・被害を受けた無辜の民にもです。謝罪も賠償金もまだなのに過去の日本人をヒーローヒロインにしても誰も話を聞きません。ガキのたわごとです。まずは侵略戦争での謝罪と賠償金です。それから悲惨な体験を語り継ぐべきです。また河村たかし名古屋市長が南京大虐殺を否定するなどとんでもないことです。確かに30万人のクレデビリティはわからない。が、戦後70年も経って今更蒸し返しても利益はありませんよ。まずは侵略戦争での謝罪と賠償金です。わかりますか?ならいいですね。頑張ってくださいね。それからですよ。
話を戻す。またここでは「いわゆるA級戦犯」について書きます。「A級戦犯って誰か?」と聞くとたいていの「小娘」や「若者」は「東條英機(とうじょうひでき)でヒットラーみたいなひとなんですよね?」というだろう。ならその東條英機のプロフィールを紹介します。
東條英機は明治17年(1864年)から昭和23年(1948年)までの人生である。旧盛岡・南部藩士を父に持つ。薩摩長州藩に敗れた南部藩出身の父は陸軍軍人だったが不遇なままだった。東條英機は陸軍軍人になりのちに首相として敗戦後にピストルで胸を撃って自殺を謀るがなれない銃だった為に胸を外れて、GHQ(連合国総司令部)の医者に救われてのちに東京裁判で死刑になった。東條英機は政治には関心がなく「政治は水商売」と嫌っていたという。父親の後を追って、軍人として陸軍に入った。東條英機達は長州閥一掃をするために改革派閥をつくる。それらが議会の統制を目指す「統制派」と議会を無視して天皇を掲げる「皇道派」に分裂します。東條英機はソ連と小競り合いを起こして「退役」となる筈だった。が、支那事変(侵略)で東條英機達の兵士団は活躍して東條英機は55歳で陸軍大臣(政治家)に推挙されます。昭和15年のことです。東條英機は事務的な官僚気質の政治家で何の野心も謀略性も
ない。その東條英機と対極の人物が満州事変(侵略)を起こした石原莞爾(いしわら・かんじ)だ。東条英機はメモ魔で事務処理能力が高い官僚型天才タイプ、石原莞爾は破滅型天才タイプ。石原と東条は水と油だった。それでいて二人とも自意識過剰といっていいほどプライドが高いことだけは共通していた。
 感情的にまで対立は深まり、東条が陸相の時、自ら指示して石原を予備役に追放してしまった。東条は自分に反抗する者には容赦しない狭量さがあった。その反面、従順な部下や弱者にはとてつもなく優しく、涙もろいという、極端な性格だった。謹厳実直、厳格、生真面目、几帳面、繊細、神経質な東条は、自らの地位を利用して私腹を肥やすなどもってのほかと、清廉で模範的な軍人であり続けた。だが、部下の些細な事でもいちいち論って批判するなどで嫌われた。
 東条英機が陸相時代に作成させたものが悪名高い『戦陣訓(せんじんくん)』である。だが、実はこれは東条の発案ではない。軍記・風土の研究をする今村均中将の発案である。”死して虜囚(りょうしゅう)の辱めを受けず”が戦争末期の玉砕戦法や住民まで及んだ自決の元凶だといわれる。しかし、もともと『軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)』があるのに暗記させられたので、『戦陣訓』は兵隊には不評で、精神主義に偏り過ぎた内容に異論もあったという。
 だが、『戦陣訓』の文章だけで兵隊が自決したというのは、少し短絡的すぎないか?実際の日本軍人の死者行方不明者は370万人だというがその90%以上は飢餓や病気による死亡で、銃弾による戦死よりよほど多かったのだ。但し、小林よしのりがいうような「ハルノートみたいなものをつきつけれれればモナコやルクセンブルグのような国でも戦っただろう(パール判事談。侵略戦争を正当化するペテンで詭弁)」というのは訂正して欲しい。詭弁であり、統帥権=悪、という司馬史観もどうかと思うがあまりに潔くない。東条は太平洋戦争開戦でボロ負けすることがわかっており、開戦の深夜、皇居の方に向かって部屋でひとりで号泣していたという。
”大東亜共栄圏”などという「絵に描いた餅」を根拠に小林よしのりは侵略戦争を正当化するがおかしいのか?侵略戦争の詭弁だと何故気づかないのか?結局、近衛文麿(このえふみまろ)首相は米国のローズヴェルト大統領と会談できないことで政権を投げ出す(近衛文麿は敗戦後に服毒自殺した)。
後任は皇族の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)がいいとなるけど…「皇族が敗戦の責任を取らされるのは如何なものか?」ということで東條英機が突如として首相になる。「貧乏籤」を引かされた訳です。東條英機は何とか戦争回避を模索するが、コーデル・ハルのいわゆる「ハル・ノート」を日本は突き付けられて、軍部が暴走して真珠湾攻撃をしてしまった。まあ、東條英機はスケープ・ゴート(生け贄の羊)にされた感じはある。だが、私は小林よしのりのように東條英機を「英雄視」したりしない。彼は昭和天皇(裕仁)の代わりに死んだのだ。東条は「開戦は私の進言、それは「開戦の詔勅(しょうちょく)」」である。と天皇を守り抜いた。
死刑判決を受けたのは土肥原賢二(陸軍大将)、広田弘毅(こうき、外務大臣、城山三郎著作「落日燃ゆ」の主人公)、板垣征四郎(首相、陸軍大臣)、木村兵太郎(ビルマ軍指令大臣)、松井石根(いわね、上海軍指令大臣)、武藤章(陸軍省総司令)、東條英機(陸軍大臣、首相)である。
ちなみに「A級戦犯」とは「もっとも悪いことをした犯罪者」ではない。戦争を指導した責任者です。B級戦犯は戦場で命令する立場の兵士。C級戦犯は虐殺や強姦や泥棒行為をした兵士です。BC級でも1061人が死刑になっている(映画「私は貝になりたい」参照)。だが、「日本にはA級戦犯などいない」だの「東京裁判はペテン」だの「侵略戦争ではなく大東亜戦争は抑圧されたアジア人の解放の為の聖戦だった」等という大嘘を私はいうのではない。広島長崎の原爆投下は『人体実験』『破壊実証』のために必要であり、アメリカ人が学校で教わるような「戦争早期終結の為の原爆投下」ではないのも知っている。原爆実験をする前に敗戦されては米軍が困るので天皇制度の維持(いわゆる「国体維持」)をあいまいにしていた。原爆実験が済んだので日本側の「ポツダム宣言受諾」をOKしたのだ。歴史は戦勝国の都合のいいように替えられる。臭いものに蓋をして現在も戦争に明け暮れる米軍、中東、世界…これでは文句も言いたくなる。気持ちはわかるがもう少し考えてから発言しなさい。
  いわゆる東京裁判ではアメリカ人のふたりの弁護士、ブレイク二―とファーネスが「事後法で日本人は裁けない」と当たり前だがいった。日本国軍はナチスヒトラーのように世界征服を企んだわけではない。侵略戦争もある程度の虐殺もあったが、ナチスではない。ブレイク二―は法廷でこう発言した。「我々は広島長崎に原爆を投下した者の名を挙げる事が出来る!投下を計画した参謀の名も承認している。その国の元首の名前も我々は承知している。彼らが殺人罪を意識していたか。してはいまい!原爆を投下した者がいる!その者が裁いているのだ!」
 だが、この発言が始まると、(マッカーサー元帥の指示した)「チャーター」で定められたはずの同時通訳が突然止まり、日本語の速記録にもこの発言は記載されなかった。勝者の都合の悪いことは闇から闇へ!、である。

ちなみに戦争の犯罪の定義があります。(1)一般住人非戦闘員に危害を加えてはならない(2)軍事目標以外を攻撃してはならない(3)不必要な苦痛を与える残虐な兵器を使ってはならない。(4)捕虜を虐待してはならない。確かに連合国軍人も虐殺をしたが日本兵士だって虐殺はしています。原爆投下は確かに許せない戦争犯罪です。が、だからといって「被害者意識丸出し」で世界に訴えても何もかわらないのですね。
1945年、日本はポツダム宣言を受けて「(無条件ではなく条件つき)降伏」をします。すべては少なくとも欧米は「天皇・裕仁こそムッソリーニ、ヒットラーだ」と見ていた。が、結果は天皇の罪を東條英機や広田弘毅がすべてかぶり、A級戦犯として極東軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けて死んだのだ。彼らは処刑台に向かう前に花山信勝(しんしょう)という教誨師(きょうかいし、矯正施設や刑務所で受刑者・協会信者の為に祈る宗教者)にお経をあげてもらい「天皇陛下万歳!大日本帝国万歳!」と三唱して処刑された。
 <処刑された軍人たち>

 *東条英機
  東條 英機(とうじょう ひでき、1884年(明治17年)7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級。現在の百科事典や教科書等では新字体で東条 英機と表記されることが多い。
陸軍大臣、内閣総理大臣(第40代)、内務大臣(第64代)、外務大臣(第66代)、文部大臣(第53代)、商工大臣(第25代)、軍需大臣(初代)などを歴任した。
永田鉄山の死後、統制派の第一人者として陸軍を主導し、現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任(在任期間は1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月18日)。
在任中に大東亜戦争(太平洋戦争)が開戦。権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、慣例を破って陸軍大臣と参謀総長を兼任した。敗戦後に拳銃自殺を図るが、連合国軍による治療により一命を取り留める。その後、連合国によって行われた東京裁判にてA級戦犯として起訴され、1948年(昭和23年)11月12日に絞首刑の判決が言い渡され、1948年(昭和23年)12月23日、巣鴨拘置所で死刑執行された。享年65(満64歳)。

 *広田弘毅
  広田 弘毅(ひろた こうき、旧字体:廣田、1878年(明治11年)2月14日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の外交官、政治家。勲等は勲一等。旧名は丈太郎(じょうたろう)。
外務大臣(第49・50・51・55代)、内閣総理大臣(第32代)、貴族院議員などを歴任した。石屋の倅から立身出世して位を極めたが、戦後の極東軍事裁判で文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け死刑となった。
1878年(明治11年)2月14日、福岡県那珂郡鍛冶町(のち福岡市中央区天神三丁目)の石材店を営む広田徳平(通称:広徳)の息子として生まれた。初名は丈太郎(じょうたろう)。徳平は箱崎の農家の息子で、広田家に徒弟で入り真面目さと仕事熱心が買われ、子どもがいなかった広田家の養子になった。
今日でも福岡市の東公園内にある亀山上皇像の銘板には設置に功績があった石工として徳平の名が刻まれている。『広田弘毅伝』などによると、当時の広田家はひどく貧しかったというが、親族によるとそれほど貧しくはなかったという。また徳平は条約改正に反対し、大隈重信外相に爆弾を投げつけて重傷を負わせた来島恒喜のために立派な墓碑を寄贈した。来島は玄洋社の社員であり、広田家と玄洋社の間につながりがあったことを示している。
福岡市立大名小学校、高等小学校卒業後、予科を経て福岡県立修猷館(のち福岡県立修猷館高等学校)に入学した。同窓生には同期で外交官となった平田知夫がいる。広田は幼少期から柔道、書道を得意としており、玄洋社の所有する柔道場で稽古をしていた。後に柔道場が新築された時の落成式では総代を務めている。このころ玄洋社の社員となった。
当初は家計への負担をかけないために陸軍士官学校への進学を志望していたが、修猷館時代に起きた三国干渉に衝撃を受け、外交官を志した。修猷館卒業直前、帰依している禅宗の僧侶に相談に行き、「おまえが自分で自分に責任を持てると思うなら自分で名前を考えろ」と言われ「弘毅」と改名した。「弘毅」は『論語』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅(「弘」とは広い見識、「毅」とは強い意志力)ならざるべからず)から採られた。当時は改名が難しく1年間は僧籍に入る必要があったが、1年間寺に入ったということにしてもらった。
修猷館卒業後、平田とともに上京し第一高等学校、東京帝国大学法学部政治学科に学んだ。学費は玄洋社の平岡浩太郎が提供している。また頭山満の紹介で副島種臣、山座円次郎、内田良平や杉山茂丸の知遇を得た。内田の紹介で講道館に入り、また山座には特に気に入られた。山座は広田らに外交関連の小冊子の発行を依頼し、1903年(明治36年)には満州・朝鮮の視察を命じている。日露戦争時には捕虜収容所で通訳を行い、ロシア情報の収集に当たった。大学卒業後の1905年(明治38年)に高等文官試験外交科を受けるが、英語が苦手で落第、ひとまず韓国統監府に籍を置いて試験に備えた。赴任直前に玄洋社幹部・月成功太郎の次女で、広田らの下宿生活の手伝いをしていた静子と結婚した。静子との結婚前には元外相・加藤高明の紹介で三菱財閥の令嬢との縁談が持ち上がったが、これを断っている。翌年の高等文官試験外交科では、合格者11人のうち、首席で合格して外務省に入省した。同期に吉田茂、武者小路公共、池邊龍一、林久治郎らがいる。 

 *板垣征四郎
  板垣 征四郎(いたがき せいしろう、1885年(明治18年)1月21日 - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は従四位・勲一等瑞宝章・功三級(昭和13年6月3日時点)。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。石原莞爾の親分的な存在。指揮者・小沢征爾の名が、小沢の父親と親交のあったふたりの名前からきていることはよく知られている。
関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を決行し、第二次世界大戦においては第7方面軍司令官として終戦を迎えた。戦後は東京裁判にて死刑判決を受け処刑される。元参議院議員の板垣正は次男。
岩手県岩手郡沼宮内村(現・岩手町)出身。仁王尋常小学校、盛岡中学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校(16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業。
祖父・佐々木直作は盛岡藩士族で、藩校作人館の教授や藩主の侍講、郡奉行格勘定奉行を務めるなど藩の中心人物の一人であった。戊辰戦争の秋田戦争で盛岡藩が敗れると、新政府により藩の責任者として楢山佐渡、那珂通高と共に江戸へ護送され、増上寺に幽閉される。後に釈放されると、岩手郡沼宮内の地に隠遁し板垣桑蔭を名乗るようになる。征四郎は日記の中で「祖父桑蔭は聖賢に近し」「文武兼備の聖人」「儒学の蘊奥を究めた」と記しており、非常に尊敬していた様子が窺える。父・板垣政徳は気仙郡郡長、女学校校長を務めた。家の宗旨は日蓮宗である。
盛岡中学では三級上に米内光政、一級上に金田一京助や及川古志郎、野村胡堂などが、一級下には石川啄木が居た。陸軍幼年学校時代は生徒監だった大越兼吉から厳しい訓育を受けた。大越が日露戦争の奉天会戦で戦死すると、その遺児である大越喜久子と後に結婚することとなる。陸軍士官学校は第16期で岡村寧次や土肥原賢二、永田鉄山や小畑敏四郎らと同期で交友も深く、板垣も二葉会、一夕会に所属していた。

 

『運命の悪戯か(笑)』無神論者・緑川鷲羽の神憑りの謎(笑)神ではなく運命が『今は是をやれ!』と!

2015年05月28日 17時52分05秒 | 日記










僕は無神論者であり、神などいない、と思いながら

神社で鈴を鳴らして祈る(笑)。

実際、神などいないと思う程の地獄を経験したし。


だが、何故か面白いように欲しい情報が沢山掴めたり


いいヒントが得られたり最近は神憑りのようだ。


神などいないが運命が私に


「今は是をやれ」という事なのだろうか。臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

『悪口で褒められる人間等絶対にいない』という事実『悪口の天才』=『醜悪な愚か者』処世術ではなく常識

2015年05月26日 18時08分01秒 | 日記









日常生活で大事なのは


「悪口をいって褒められることは絶対にない」

という事実である。


最近の若者にもそういう人間は多いが、

悪口などいっても誰も褒めてはくれないし、


皆が嫌な気分になるだけである。

しかも、悪口の対象から恨まれ復讐される。

こんな馬鹿な行動があろうか?

悪口の天才等只の愚だ。臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

誰でも苦労・地獄の経験ある「私だって薬飲んでる」は白痴であり愚かな苦労自慢!限って鬱病知らず

2015年05月25日 18時42分39秒 | 日記









当たり前の話だが誰だって苦労して地獄をみているのである。

自己中心的な人間程

「自分の苦労・地獄」を語りたがる。


苦労している人や障害に直面している人がいても、

「私だって薬飲んでる」というのである。


誰が言ったかは臥せるが


「自分だって苦労してる」の自慢である。


馬鹿は死ななきゃ治らん。臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

nhk2015年度大河ドラマ原作花燃ゆ「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹の生涯<維新回天編>ブログ連載8

2015年05月25日 04時26分17秒 | 日記











  安政六年(1859年)、30歳の吉田松陰は牢獄にいた。10月27日の朝があけると靄が晴れ、満天の青空になった。虹まで架かっている。「これは…」吉田の心はもう昇天していた。
 もう何の憂いもない。只、自分なきあとの長州藩、日本国、天子様、いや憂いはある。だが、もうおわりなのだ。「もうおわりなのだ」言葉にすると楽になった。
 だが、松陰は斬首になるときに涙を流した。
 命惜しさからではない。日本の行く末を憂いての涙だった。
 ……草奔掘起を! 桂くん…久坂くん……高杉くん……伊藤くん…文…
 さらばじゃ!
  柵外では涙をいっぱい目にためた伊藤俊輔(博文)と妹の文が、白無垢の松陰を見守っていた。「せ…先生!」「寅にい!にいやーん」松陰はいった。「至誠にして動かざるもの、いまもってあらざるや」
  首がはねられる。すべてはおわった。少なくとも吉田松陰が生きていたなら、維新はもっと早くに終り、明治政府も円滑に動いたろう。西郷隆盛の内戦もなかったろうし、朝鮮や清国(中国)との軋轢や、露国や米国との関係もかわっていたろう。
 しかし、すべては無能の徳川幕府の罪である。
 歴史は動く。
 少なくとも、死んだ彼の弟子たちは動かさなければと思っていた。
 十月二十九日、桂小五郎らが吉田松陰の遺骸を受け取りに奔走し、小塚原回向院大屋敷・常安寺に葬った。享年・三十歳……それは壮絶な最期で、あった。
   話を元に戻す。


 嘉永二年(1849年)、20歳となった吉田松陰は6月、藩命で、日本海沿岸から赤馬が関(下関)にかけて海防の事情を調査してこんな感想を歴史に残している。「余遠(おとこ)に於いて懐を発し食を忘れ、辺防を論究す「講孟余話」「講孟箚記」」
 嘉永三年(1850年)、21歳となった吉田松陰は九州に遊学し、長崎・平戸で「海外情報」「国際情報」を生で体感したという。この経験が、吉田松陰の一番最初の伝記本では「ここで「草莽掘起」という革命思想に至った」と書いているが、本当のところは?でしかない。
 寛永四年(1851年)、22歳となった吉田松陰は兵学のため藩主らと江戸に向かった。若き藩主・毛利敬親公にとって松陰は「便利な懐刀」である。頭が切れ、世界情勢に詳しい。
「知恵袋」
 と言っても過言ではない。そんな「知恵袋」は江戸で安穂良斎、古賀茶渓、山鹿楽水、佐久間象山、勝麟太郎(勝海舟)らに学んだ。島山新三郎、宮部鼎蔵らとも友好な関係になりさらに「知恵」と「徳」を積んだ。しかし、吉田松陰は感情を抑えるのは苦手である。
 不当手形で、諸国漫遊し、全国を観て回り、南は薩摩の諸島から北は東北の奥までひとりで「視察」に行ってしまう。当然、幕府や長州藩にも内緒の「諸国漫遊」であるから、当時は許されざる大罪人である。でも、松陰は「諸国漫遊」が何故「幕府の許可・藩の許可」が必要なのか?わからない。だから東北の小さな小藩に「亡命したい」と申し出た。
 その藩も「なんだか胡散くさい輩がきたな」と思い、幕府に通報した。
 幕府は最初酷く怒った。
 しかし毛利公が庇い、死罪はまぬがれた。が、結局、江戸に戻ったところを「藩命」がきて、松陰は渋々ながら長州藩に帰った。毛利公は「泣いて馬謖を斬る」思いで、家禄を没収して、一家離散、松陰は杉家の育(はぐくみ・居候)となる。
 だが、長州藩には吉田松陰あり、である。彼の学識はいまや国士無双とまでになっている。こんな重要な人物を長州藩は「捨てる」訳はない。「捨てる」というより「殺してなくそう」とするとすれば、それは徳川幕府だろう。井伊大老の「安政の大獄」の前夜、時期なら今だ。
    話を戻す。

         4 奇策謀策






  伊藤博文と井上聞多が「岩倉使節団(団長・岩倉具視)」に参加したのは阿呆でも知っている。伊藤はアメリカ春蔵ことジョセフ・ヒコとアーネスト・サトウと知り合った。高杉晋作は天才であり、天才特有の破滅型の高飛車な面もある。自分より偉いと思ったのは結局・師匠・吉田松陰だけだったろう。仲間は兄貴分の桂小五郎と同期の久坂玄瑞だけであったろう。
 西郷吉之助(隆盛)も天才ではあったろう。が、この「鹿児島のおいどん」は維新後は大コケ、元武士らの神輿にのせられて「西南戦争」など起こしている。訳のわからぬ人物である。     
  長州藩(山口県)に戻るとき、高杉晋作は歩くのではなく「駕籠」をつかった。
 歩くと疲れるからである。
 しかし、銭がかかる。
 が、銭はたんまりもっている。
 ここらあたりが高杉らしい。
 駕籠に乗り、しばらくいくと関所が見えてきた。
 晋作は駕籠を降りずに通過しようとして、
「長州藩士高杉晋作、藩命によりまかり通る!」
 と叫んで通過しかけた。
 関所での乗り打ちは大罪であり、小田原の関所はパニックになる。押し止めようとした。 晋作は駕籠の中で鯉口を切り、
「ここは天下の公道である。幕府の法こそ私法ではないか! そんな法には俺は従わなぬわ!」といって、関所を通過してしまった。
 晋作が京に到着したのは三月九日であった。
 ……学習院御用掛を命ずる。
 晋作のまっていたのはこの藩命だった。
「……なんで俺ばっかなんだ」
 晋作は愚痴った。
 同僚は「何がだ?」ときく。
「俺ばっかりコキ使われる。俺の論文はロクに読まなかったくせに…」
「まぁ、藩は高杉くんに期待しておるのだろう」
「期待? 冗談じゃない。幕府の顔色ばかり気にしているだけだよ」
 同僚は諫めた。
「あまり突出するのはいいことじゃないぞ。この国では出る杭は打たれるって諺もある」 とってつけたような同僚の言葉に、晋作は苦笑した。
 ……俺は出る杭なのだ。何もわかっちゃいねえ。
 徳川家茂は「公武合体」によって、京にいき天皇に拝謁しなければならなくなっていた。 ……将軍に天皇を拝ませる。
 壤夷派は昴揚した。将軍が天皇に拝謁すれば、この国の一番上は天皇だと国民に知らしめることができる。
 それを万民に見せようと、行幸が企画された。
 晋作より先に京に入った久坂は、得意満面だったという。
 将軍上洛、行幸扈従は、長州藩の画策によりなったのである。いや、というより久坂の企画によって決まったのである。
 ……馬鹿らしい。
 晋作は冷ややかだった。
 学習院集議堂はうららかな春の暖かさに満ちている。
「もったいない。それだけ金を使う余裕があるなら軍艦が買えるじゃないか」
「お前に軍艦の話をされるとは思わなかった」
 久坂は苦笑した。晋作が船酔いするのを知っている。
 家茂上洛による朝廷の入費は長州藩の負担だった。計画したのが長州藩だから当然だが、その額は十万両を越えたという。
 久坂は、
「この行幸は無駄ではない」といい張る。
「義助よ、天子(天皇)にもうでただけで天下が動くか?」
「動くきっかけにはなる」
 久坂玄瑞は深く頷いた。

  行幸では、将軍の周りを旗本が続いた。天皇御座の車駕、関白は輿、公家は馬にのっていた。後陣が家茂である。十七歳の色白の貴公子は白馬の蒔絵鞍にまたがり、単衣冠姿で太刀を帯びた姿は華麗である。
 行列が後陣に差し掛かったとき、晋作が
「いよっ! 征夷大将軍!」
 と囃して、並いる長州藩士たちの顔色を蒼白にさせた……
 というのは俗説である。
 いかに壤夷の敵であってもあの松陰門下の晋作が天子行幸の将軍を野次る訳がない。
 もし、野次ったのなら捕りおさえられられるだろうし、幕府が発声者の主を詮議しないはずがない。しかし、そうした事実はない。
 京にきて、晋作は予想以上に自分の名が有名になっていることを知った。有名なだけでなく、期待と人望も集まっていた。米国公使暗殺未遂、吉田松陰の改葬、御殿山焼討ち、壤夷派は晋作に期待していた。
 学習院ではみな開国とか壤夷とか佐幕とかいろいろいってるが、何の力もない。
 しかし、晋作とてこの頃、口だけで何も出来ない藩士であった。
 この頃、西郷吉之助(隆盛)は薩摩と会津をふっつけて薩会同盟をつくり、長州藩追い落としにかかる。長州藩の大楽源太郎は「異人が嫌い」という人種差別で壤夷に走った狂人で、のちに勝海舟や村田蔵六(大村益次郎)や西郷隆盛や大久保一蔵(利道)らを狙い、晋作や井上聞多まで殺そうとしたことがある。
 大楽は頭が悪いうえに単純な性格で、藩からも「人斬り」として恐れられた。
 維新後までかれは生き残るが、明治政府警察に捕まり、横死している。
 晋作は何もできない。好きでもない酒に溺れるしかなかった。
 晋作は将軍家茂暗殺の計画を練るが、またも失敗した。
 要するに、手詰まり状態になった。
「誰だ?」
 廊下に人の気配があった。
「晋作です」
「そうか、はいれ」
 説教してやらねばならぬ。そう思っていた周布はぎょっとした。
「なんだその様は?!」
 晋作は入ってきたが、頭は剃髪していて、黒い袈裟姿である。
「坊主になりました。名は西行法師にあやかって……東行法師とはどうでしょう?」
「馬鹿らしい。お前は馬鹿だ」
 周布は呆れていった。

「晋作どうすればいい。長州は手詰まり状態だ」
 久坂はいった。
 すると晋作はにやりと笑って、
「戦の一字、あるのみ。戦いを始めろ」
「幕府とか?」
「違う」晋作は首を横にふった。「外国とだ」
 この停滞した時局を打破するには、外国と戦うしかない。
「しかし……勝てる訳がない」
「勝てなくてよい。すぐに負けて幕府に責任をとらせろ」
「……悪知恵の働くやつだな、お前は」
 久坂は唖然としていった。
「おれは悪人だよ」晋作は笑った。


  大阪より勝海舟の元に飛脚から書状が届いたのは、六月一日のことだった。
 なんでも老中並小笠原図書頭が先月二十七日、朝陽丸で浦賀港を出て、昨日大阪天保山沖へ到着したという。
 何事であろうか? と勝海舟は思いつつ龍馬たちをともない、兵庫港へ帰った。
「この節は人をつかうにもおだててやらなけりゃ、気前よく働かねぇからな。機嫌をとるのも手間がかからぁ。近頃は大雨つづきで、うっとおしいったらありゃしねぇ。図書頭殿は、いったい何の用で来たんだろう」
 矢田堀景蔵が、日が暮れてから帆柱を仕立てて兵庫へ来た。
「図書頭殿は、何の用できたのかい?」
「それがどうにもわからん。水野痴雲(忠徳)をはじめ陸軍奉行ら、物騒な連中が乗ってきたんだ」
 水野痴雲は、旗本の中でも武闘派のリーダー的存在だ。
「図書頭殿は、歩兵千人と騎兵五百騎を、イギリス汽船に乗り込ませ、紀伊由良港まで運んでそこから大阪から三方向に別れたようだ」
「京で長州や壤夷浮浪どもと戦でもしようってのか?」
「さあな。歩兵も騎兵もイギリス装備さ。騎兵は六連発の銃を持ってるって話さ」
「何を考えているんだか」
 大雨のため二日は兵庫へとどまり、大阪の塾には三日に帰った。

 イギリスとも賠償問題交渉のため、四月に京とから江戸へ戻っていた小笠原図書頭は、やむなく、朝廷の壤夷命令違反による責めを一身に負う覚悟をきめたという。
 五月八日、彼は艦船で横浜に出向き、三十万両(四十四万ドル)の賠償金を支払った。 受け取ったイギリス代理公使ニールは、フランス公使ドゥ・ペルクールと共に、都の反幕府勢力を武力で一掃するのに協力すると申しでた。
 彼らは軍艦を多く保有しており、武装闘争には自信があった。
 幕府のほうでも、反幕府勢力の長州や壤夷浮浪どもを武力弾圧しようとする計画を練っていた。計画を練っていたのは、水野痴雲であった。
 水野はかつて外国奉行だったが、開国の国是を定めるために幕府に圧力をかけ、文久二年(一八六二)七月、函館奉行に左遷されたので、辞職したという。
 しばらく、痴雲と称して隠居していたが、京の浮浪どもを武力で一掃しろ、という強行論を何度も唱えていた。
 勝海舟は、かつて長崎伝習所でともに学んだ幕府医師松本良順が九日の夜、大阪の塾のある専称寺へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。
「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃した。商船は逃げたが、一万ドルの賠償金を請求してきた。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃した。
 水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきたのでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出た。
 その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたんだ」
 アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。
「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたという」
「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」
「そう。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げたが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうだ。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はない。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だとさ」
 将軍家茂は大阪城に入り、勝海舟の指揮する順動丸で、江戸へ戻ることになった。
 小笠原図書頭はリストラされ、大阪城代にあずけられ、謹慎となった。

  由良港を出て串本浦に投錨したのは十四日朝である。将軍家茂は無量寺で入浴、休息をとり、夕方船に帰ってきた。空には大きい月があり、月明りが海面に差し込んで幻想のようである。
 勝海舟は矢田堀、新井らと話す。
「今夜中に出航してはどうか?」
「いいね。ななめに伊豆に向かおう」
 勝海舟は家茂に言上した。
「今宵は風向きもよろしく、海上も静寂にござれば、ご出航されてはいかがでしょう?」 家茂は笑って「そちの好きにするがよい」といった。
 四ケ月ぶりに江戸に戻った勝海舟は、幕臣たちが激動する情勢に無知なのを知って怒りを覚えた。彼は赤坂元氷川の屋敷の自室で寝転び、蝉の声をききながら暗澹たる思いだった。
 ………まったくどいつの言うことを聞いても、世間の動きを知っちゃいねえ。その場しのぎの付和雷同の説ばかりたてやがって。権威あるもののいうことを、口まねばかりしてやがる。このままじゃどうにもならねぇ………
 長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる”報復”だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。
 セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。
 コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。
 長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。
 高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。
 武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。  薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。
 鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。その日、生麦でイギリス人を斬り殺した海江田武次(信義)が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。
 翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。
 ニールは応じなかったという。
「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」

 島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜にきた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。
 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
 奈良原は答書を持参していた。
 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
 ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」
 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。
 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
 薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」
 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。
 それもどうにも噛み合わない。
 一、加害者は行方不明である。
 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなに ごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。

        
  キューパ総督は薩摩藩の汽船を拿捕することにした。
 四つ(午前十時)頃、コケット号、アーガス号、レースホース号が、それぞれ拿捕した汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。
 鶴丸城がイギリス艦隊の射程距離にあるとみて、久光、忠義親子は本陣を千眼寺に移した。三隻が拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。
 七月二日は天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。
 ニールたちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。
 正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、イギリス兵たちは驚いて飛び上がった。
 たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であったという。
 イギリス艦隊も砲弾の嵐で応戦した。
 薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如くイギリス艦隊から砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。
 左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だったという。そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。
 イギリス艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。
 紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシヤンパンで祝った。
  イギリス艦隊が戦艦を連れて鹿児島にいくと知ったとき、勝海舟は英国海軍と薩摩藩のあいだで戦が起こると予知していた。薩摩藩前藩主斉彬の在世中、咸臨丸の艦長として接してきただけに「斉彬が生きておればこんな戦にはならなかったはずでい」と惜しく思った。「薩摩は開国を望んでいる国だから、イギリスがおだやかにせっすればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみてたから火傷させられたのさ。 しかし、薩摩が勝つとは俺は思わなかったね。薩摩と英国海軍では装備が違う。
 いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわってねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからのイギリスの対応が見物だぜ」

  幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。
 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。

  毛利藩(長州藩)藩主らは「そうせい候」と仇名を残した。
 幕政改革案をだしてくると、「ようろう。そうせい」という。また、勤皇派弾圧意見をいっても「そうせい」という。
 だが、毛利敬親・元徳が愚か者だった訳ではないという。
 幕末の混乱期の長州藩は、他藩とは事情がことなっていた。長州藩の「日本改革思想」というのは幕府を改革するだけで、倒幕までは考えていなかった。しかし、晋作や久坂やらが暴走し、「そうせい」としかいえなかった。
  薩摩の島津斉彬にしても、越前福井の松平春嶽、土佐の山内容堂にしても口では壤夷とはいうが、倒幕までは考えていなかった。
 長州藩には吉田松陰という思想家がつくりあげた画期的な政治思想が劇的に藩内に広がり倒幕派になってしまった。
 松陰の思想は、
尊皇壤夷、大政奉還、であった。
 そんな中、井上聞多と伊東博文が長州藩留学生としてロンドンにいくことになった。 晋作もいきたいと思ったが、晋作は長州藩の「知恵袋」である。
 いかせる訳にはいかない。

  山口に着いた晋作は外国人のように裾を刈りあげ、髪形を洋風にした。彼は死ぬまでその髪形のままだったという。
 毛利父子は晋作の帰郷に喜んだ。
「馬関の守りが破れ、心もとない。その方を頼みとしたい」
 毛利敬親(もうり・たかちか)はそう命じた。
「おそれながら、手前は十年のお暇を頂いております」
「お暇はいずれやる。今は非常の時である」
 毛利元徳(もうり・もとのり)はいう。
「うけたまわりました」
 晋作は意外とあっさり承諾し、騎馬隊をつれて馬関(下関)にむかった。その夜のうちにはついたのだから、まさに「動けば雷電の如し」の疾さである。
 この頃、白石正一郎という富豪が幕末の勇士たちに金銭面で支援していたという。
 …周布政之助、久坂玄瑞、桂小五郎、井上聞多、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保一蔵、月照……
 その中で、白石が最大の後援を続けたのが高杉晋作であり、財を傾け尽くした。

「俺は様式の軍隊を考えている。もはや刀や鎧の時代ではない。衣服は筒袖にズボン、行軍用に山笠、足は靴といきたいが草鞋で代用しよう。
 銃も西洋的な銃をつかう。それに弾薬、食費に宿舎……ひとり半年分で一人当たり四百両というところかな」
 ……小倉白石家をつぶす気か…?
「民兵軍の名は『奇兵隊』である」晋作は自慢気にいう。これが借金する男の態度か。 
たった長州一藩で『尊皇攘夷』の攘夷決行をして、夷狄艦隊に大砲で攻撃したのは久坂玄瑞をリーダーとする長州藩士である。だが、“尊皇攘夷”など荒唐無稽であった。
すぐに武器弾薬軍艦で勝る外国艦船隊による報復の雨あられのアームストロング砲の報復攻撃を受けて、長州藩の領地・下関は火の海にされ焼野原と化す。外国をみてきた高杉晋作は久坂玄瑞の攘夷をこころよく思っていなかった。そこで身分を問わず百姓・商人や下級武士や漁民、力士、町人などで『奇兵隊』を結成する。結成場は小倉白石家の豪邸。
「君たちに身分の差は関係ない。だが、僕は例え百姓だろうが町人だろうが侍の操り人形になれというのではない。自らの知恵と志で最新銃で松陰先生の志を貫徹するのじゃ!」
高杉晋作は奇兵隊の総裁だった。銃・大砲や剣の訓練をする。軍規を制定した。
一方の久坂は長州藩巻き返しの為に京都の三条実美らと『もう一度の攘夷決行』『今度は全藩での攘夷決行』を謀ろうとする。
「危険です!久坂さんが今、京に出れば長州下関の大敗で勢いづいている開国派やら勤皇攘夷反対派に命を狙われますよ!」しかし久坂は「この国を変える為に尊皇攘夷が必要なんだ!俺の命などくれてやる!攘夷を天子さまにもう一度お考え頂くのだ!」
高杉は「くだらん!久坂、現実をみろ!長州藩、いやお前は負けたんじゃ!これから我らは長州の為にふたりでいかねば!その為の奇兵隊なんじゃ」
「それはお前がやればいい」
「久坂!攘夷など成らん!外国とは戦をしてはならんのだ。僕は奇兵隊で長州を救う為に働く覚悟じゃ!その為に松下村塾の双璧の僕と久坂、お前が必要なんじゃ!」
「わかっている。ああ、俺は外国に完膚なきまでに敗北した。下関は火の海と化し、焦土と化した。大勢の同志も死んだ。だが、だから、攘夷なんだ!」
「異国にあれだけ負けたんだ。他藩は動かん。奇兵隊こそ長州藩に必要なんだ。僕は必ず奇兵隊で歴史を動かす大業を遂げるつもりだ!一緒にやろう、久坂!」
「俺は京で朝廷工作だ。俺は死ぬかもしれんが後の戸締りは頼んだぞ、晋作」
「死して大業が成るなら死すべし、生きて大業が成るなら生きるべし!……松陰先生のおっしゃったことだ!久坂、無駄死にはするなよ!」
「ああ、当たり前だ」久坂はひとり、京へ向かった。


        

 5 禁門の変






 のちに『禁門の変』または『蛤御門の変』と呼ばれる事件を引き起こしたとき、久坂玄瑞は二十五歳の若さであった。妻の久坂(旧姓・杉)文は二十二歳でしかない。得意の学問で故郷の長州藩萩で「女子・松陰」等とも呼ばれるようにまで成長していた。若者は成長が早い。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と会津藩(福島県)の薩会同盟ができ、長州藩が幕府の敵とされた時期だった。
  吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
 伊藤は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の松陰が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。「先生!」意外にも松陰は微笑んだ。
「……伊藤くん。文。ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」
「先生! せ…先生!」「寅にい!にいやーん!にいやーん!」
 やがて松陰は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。鋭い光を放つ刀が天に構えられる。「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」「ごめん!」閃光が走った……
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。
  文久二(一八六二)年十二月、久坂玄瑞は兵を率いて異人の屋敷に火をかけた。紅蓮の炎が夜空をこがすほどだったという。玄瑞は医者の出身で、武士ではなかった。
 しかし、彼は”尊皇壤夷”で国をひとつにまとめる、というアイデアを提示し、朝廷工作までおこなった。それが公家や天子(天皇)に認められ、久坂玄瑞は上級武士に取り立てられた。彼の長年の夢だった「サムライ」になれたのである。
 京での炎を、勝海舟も龍馬も目撃したという。
 久坂玄瑞は奮起した。
  文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。
 薩摩からの使者は西郷隆盛だった。
「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じやっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」
 軟弱にして知能鮮しといわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放してしまう。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。
 かれは納得がいかず、長州の二千の兵をひきいて京にむかった。
 幕府と薩摩は、御所に二万の兵を配備した。
  元治元年(一八六四)七月十七日、石清水八幡宮で、長州軍は軍儀をひらいた。
 軍の強攻派は「入廷を認められなければ御所を攻撃すべし!」と血気盛んにいった。
 久坂は首を横に振り、「それでは朝敵となる」といった。
 怒った強攻派たちは「卑怯者! 医者坊主に何がわかる?!」とわめきだした。
 久坂玄瑞は沈黙した。
 頭がひどく痛くなってきた。しかし、久坂は必死に堪えた。
  七月十九日未明、「追放撤回」をもとめて、長州軍は兵をすすめた。いわゆる「禁門の変」である。長州軍は蛤御門を突破した。長州軍優位……しかし、薩摩軍や近藤たちの新選組がかけつけると形勢が逆転する。
「長州の不貞なやからを斬り殺せ!」近藤勇は激を飛ばした。
 久坂玄瑞は形勢不利とみるや顔見知りの公家の屋敷に逃げ込み、
「どうか天子さまにあわせて下され。一緒に御所に連れていってくだされ」と嘆願した。 しかし、幕府を恐れて公家は無視をきめこんだ。
 久坂玄瑞、一世一代の危機である。彼はこの危機を突破できると信じた。祈ったといってもいい。だが、もうおわりだった。敵に屋敷の回りをかこまれ、火をつけられた。
 火をつけたのが新選組か薩摩軍かはわからない。
この禁門の変で長州軍として戦った土佐郷士の中には、吉村寅次郎・那須信吾らと共に大和で幕府軍と戦い、かろうじて逃げのびた池内蔵太(いけ・くらた)もいた。そして中岡慎太郎も……。桂小五郎と密約同盟を結んだ因州(鳥取藩)は、当日約束を破り全く動かない。桂小五郎は怒り、有栖川宮邸の因州軍に乗り込んだ。
「御所御門に発砲するとは何ごとか?!そのような逆賊の長州軍とは、とても約束など守れぬわ!」
「そんな話があるかー!」
 鯉口を斬る部下を桂小五郎がとめた。「……それが因州のお考えですか……では……これまでであります!」
 武力抗争には最後まで反対した久坂玄瑞は、砲撃をくぐり抜け、長州に同情的であった鷹司卿の邸に潜入し、鷹司卿に天皇への嘆願を涙ながらに願い出たが、拒絶された。鷹司邸は幕府軍に包囲され、砲撃を受けて燃え始めた。久坂の隊は次々と銃弾に倒れ、久坂も足を撃たれもはや動かない。
「入江、長州の若様は何も知らず上京中だ。君はなんとか切り抜けてこの有様を報告してくれ。僕たちはここで死ぬから……」
 入江九一(いりえくいち)、久坂玄瑞、寺島忠三郎……三人とも松陰門下の親友たちである。
 右目を突かれた入江九一は門内に引き返し自決した。享年二十六歳。……文。すまぬ。久坂は心の中で妻にわびた。
「むこうで松陰先生にお会いしたら…ぼくたちはよくやったといってもらえるだろうかのう」
「ああ」
「晋作……僕は先にいく。後の戸締り頼むぞ!」
 久坂玄瑞享年二十五歳、寺島忠三郎享年二十一歳………。
 やがて火の手は久坂らの遺体数十体を焼け落ちた鷹司卿邸に埋まった。風が強く、京の街へと燃え広がった。  
 元治元年(一八六四)七月十九日、久坂玄瑞は炎に包まれながら自決する。
「文、文、……あいすまぬ!先に涅槃にいく俺を許してくれ……」文……!久坂は鋭い一撃を自分の首に与え、泣きながら自決した。
 享年二十五 火は京中に広がった。そして、この事件で、幕府や朝廷に日本をかえる力はないことが日本人の誰もが知るところとなった。
  勝海舟の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、勝海舟は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのりジエノサイド(大量殺戮)を繰り返しているという。
 勝海舟は有志たちの死を悼んだ。長州の久坂文の元に、生前の夫・久坂玄瑞から手紙が届いた。それは遺書のようでもあり、志を示したような手紙でもあった。その手紙は結局、久坂玄瑞が妻・文におくった最初で最後のたった一通の手紙となる。
 のちに久坂文は未亡人となり、杉家に戻り、長州藩邸宅で女中として働くようになる。文は39~40歳。自身の子どもは授からなかったが、毛利家の若君の教育係を担い、山口・防府(ほうふ)の幼稚園開園に関わったとされ、学問や教育にも造詣が深い。
 この時期姉の小田村寿こと楫取寿が病死し、文がやがて後妻として楫取素彦と再婚する際に「最初の旦那様・久坂玄瑞の手紙とともに輿入れ」することを条件にしたのは有名な話である。
 楫取素彦は討幕派志士として活躍した松島剛蔵の弟で、長州藩の藩校・明倫館で学んだ。松陰の死後は久坂文とともに松下村塾で塾生たちを指導し、松陰の意思を受け継ぐ教育者として有名になる。
 のちに楫取素彦は群馬県令(知事)となる。当然、再婚した文は群馬までついていく。子供は出来ないなりに、養子をもらうが思春期となった養子は若い異性と「かけおち」しようとしたり、素彦が不倫したりと、楫取文の人生はまるで小説のようだ。 
(注訳・この小説の架空の設定。実際は→*久坂玄瑞、楫取素彦のいずれの間にも子はいない。久坂家は素彦と前妻である寿の次男である粂次郎を養子にして跡を継がせたが、後に玄瑞の京都妻・辰路の子・秀次郎を跡継ぎとし、粂次郎は楫取家へ戻している。粂次郎はその後、楫取道明を名乗って楫取家を継ぎ、道明の死後はその子・三郎が跡を継いだ。道明の兄(素彦と寿の長男)希家は、素彦の元の養家である小田村の家名を継いでいる。)
最初の旦那様である久坂玄瑞を失った久坂(杉)文は長州藩の藩内の仕事につくことになる。とはいっても政(まつりごと・政治)にあらず。殿様やその女房さまらの世話や江戸藩邸の“世子(次の藩士の嫡男)”らの教育係である。
文は立派な内掛けを着せてもらい、藩の大奥のようなところでもまれていく。当然、人間関係にも苦労したことだろう。何せあの“禁門の変”の久坂玄瑞の元・嫁、である。
大河ドラマ『篤姫』のような事件も多かったし、当然、身分の違いによるいじめもあったに違いない。大河ドラマ『花燃ゆ』はドラマだから架空の展開も多かった。慣れぬ習慣…
だが、文は気丈に振る舞った。毛利藩の第十三代藩主は毛利敬親(たかちか)公で正室は都美子さまといった。文は幼い世子の教育にも力をいれたという。
「さあ、若君。まずは大学の本からはじめまするよ。次に論語、儒教を学びましょう」
「……藩主は民の父・母。天下は天下の天下なり」
「よろしい。では、次の行を」
文は自らの子供には恵まれなかったが、幼い世子の教育や養育で、癒された気分になったことだろう。玄瑞の死を受け止められるようになるにはまだまだ時間がかかった。だが、時間が解決してくれそうだった。文はこうして笑顔をとりもどしていく。
(玄瑞は結婚後まもなく京都・江戸に遊学したり尊皇攘夷運動を率いて京都を拠点に活動するなど不在がちであり、元治元年7月19日(1864年8月20日)、禁門の変が起こり玄瑞は奮闘ののち自害した。玄瑞の死後、次姉の夫・小田村伊之助が玄瑞の遺稿や文に宛てた書簡21通をまとめて「涙袖帖(るいしんちょう)」と題した。また、伊之助は22歳にして未亡人となった文の境遇を憐れみ、その身を案じている。
慶応元年(1865年)、文は藩世子毛利定広正室・安子の女中、およびその長男興丸の守役を勤めており、美和子(美和)の名もこの頃から使い始めている。)

 
会津藩預かり新選組の近藤と土方は喜んだ。”禁門の変”から一週間後、朝廷から今の金額で一千万円の褒美をもらったのだ。それと感謝状。ふたりは小躍りしてよろこんだ。 銭はあればあっただけよい。
 これを期に、近藤は新選組のチームを再編成した。
 まず、局長は近藤勇、副長は土方歳三あとはバラバラだったが、一番隊から八番隊までつくり、それぞれ組頭をつくった。一番隊の組頭は、沖田総司である。
 軍中法度もつくった。前述した「組頭が死んだら部下も死ぬまで闘って自決せよ」という目茶苦茶な恐怖法である。近藤は、そのような”スターリン式恐怖政治”で新選組をまとめようした。ちなみにスターリンとは旧ソ連の元首相である。
  そんな中、事件がおこる。
 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このままではわが国は外国の植民地になる!」
 勝海舟は危機感をもった。
「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。
「そうだな……」勝海舟は溜め息をもらした。



  雨戸を叩く音がした。
「誰だ?」
 我に返った晋作の声に、戸外の声が応じた。
「山県であります」  
 奇兵隊軍監の山県狂介(のちの有朋)であった。
 秋のすずしい季節だったが、夜おとずれた山県は汗だくだった。しかし、顔色は蒼白であった。晋作の意中を、すでに察しているかのようだった。
 晋作は自ら農民たちを集めて組織していた『奇兵隊』と縁が切れていた。禁門の変のあと、政務役新知百六十石に登用されたのち、奇兵隊総監の座を河上弥市にゆずっていたのである。しかし、そんな河内も藩外にはなれた。三代目奇兵隊総監は赤根武人である。 しかし、奇兵隊士は晋作を慕っていた。
 ちなみに松下村塾生の中で、久坂玄瑞は医者ながらも藩医であったため、二十五石の禄ながら身分は藩士だった。山県狂介は中間、赤根武人は百姓身分。伊東俊輔(のちの博文)は百姓だったが、桂小五郎に気にいられ、「桂小五郎育」であった。

「おそうなってすんません」
 襖が開いて、鮮やかな色彩の芸者がやってきて、晋作の目を奪った。年の頃は十七、八くらいか。「お糸どす」
 京の芸者宿だった。
 お糸は美貌だった。白い肌、痩体に長い手足、つぶらな大きな瞳、くっきりとした腰周り、豊かな胸、赤い可愛い唇……
「あら、うちお座敷まちがうたようどす」
 晋作は笑って、
「お前、お糸というのか? いい女子だ。ここで酌をせい」
「……せやけど…」
「ここであったのも何かの縁だ」晋作はいった。
 高杉晋作はお糸に一目惚れした。しかし、本心は打ち明けなかったという。
 恋というものは、「片思い」のほうが素晴らしいものだ。
 いったんつきあえば、飯の世話や銭、夜、いろいろやらねばならない。しかし「片思い」ならそんな余計なことはほっておける。
 そんな中、徳川幕府は長州に追い討ちをかけるように、三ケ条の要求をつきつけた。
 一、藩主は城を出て寺院に入り、謹慎して待罰のこと。
 一、長州藩が保護する五名の勤王派公家の身柄を九州に移すこと。 
 一、山口城を破毀すること。
 どれも重い内容である。
 この頃、幕府は第二次長州征伐軍を江戸より移動させていた。
 その数は十五万だった。

 島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜にきた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。
 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
 奈良原は答書を持参していた。
 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
 ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」
 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。
 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
 薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」
 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。
 それもどうにも噛み合わない。
 一、加害者は行方不明である。
 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。

  幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。
 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。


「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」
 高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分をとわず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。
 農民兵士たちに黒い制服や最新の鉄砲が渡される。
「よし! これで侍どもを倒すんだ!」
「幕府をぶっつぶそうぜ!」百姓・商人あがりの連中はいよいよ興奮した。
「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。「今こそ、長州男児の肝っ玉を見せん!」
 秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ十五万は長州にむけて出陣した。
  元政元年十一月二十一日、晋作はふたたび怒濤の海峡を越え、馬関(下関)に潜入した。第二次長州征伐軍の総監は、尾張大納言慶勝である。
 下関に潜入した晋作はよなよな遊郭にかよい、女を抱いた。
 そして、作戦を練った。
 ……俺が奇兵隊の総監に戻れば、奇兵隊で幕府軍を叩きのめせる!
「このまま腐りきった徳川幕府の世が続けば、やがてオロシヤ(ロシア)が壱岐・対馬を奪い、オランダは長崎、エゲレス(イギリス)は彦島、大阪の堺あたりを租借する。フランスは三浦三崎から浦賀、メリケン(アメリカ)は下田を占領するだろう。
 薩摩と土佐と同盟を結ばなければだめだ」
 晋作の策は、のちに龍馬のやった薩長同盟そのものだった。
  高杉晋作はよくお糸のところへ通うようになっていた。
「旦那はん、なに弾きましょ?」
「好きなものをひけ」

 ……三千世界の烏を殺し
     お主と一晩寝てみたい…
    
 後年、晋作作、と伝えられた都々逸である。

  薩摩の西郷吉之助(隆盛)は長州にきて、
「さて、桂どんに会わせてほしいでごわす」といった。
 あの巨体の巨眼の男である。
 しかし、桂小五郎は今、長州にはいなかった。
 禁門の変や池田屋事件のあと、乞食や按摩の姿をして、暗殺者から逃げていた。
 消息不明だというと、
 今度は、「なら、高杉どんにあわせてほしいでごわす」と太い眉を動かしていう。
 晋作は二番手だった。
「高杉さん、大変です!」
「どうした?」
 高杉は酔っていた。
「西郷さんがきてます。会いたいそうです」           
「なに? 西郷? 薩摩の西郷吉之助か?」
 高杉は驚いた。こののち坂本龍馬によって『薩長同盟』が成るが、現時点では薩摩は長州の敵である。幕府や会津と組んでいる。
「あの西郷が何で馬関にいるのだ?」
「知りません。でも、高杉さんに会いたいと申しております」
 高杉は苦笑して、
「あの西郷吉之助がのう。あの目玉のどでかいという巨体の男が…?」
「あいますか? それとも斬り殺しますか?」
「いや」
 高杉は続けた。「西郷の側に”人斬り半次郎”(中村半次郎のちの桐野利秋)がいるだろう。めったなことをすれば俺たちは皆殺しだぜ」
「じゃあ会いますか?」
「いや。あわぬ」
 高杉ははっきりいってやった。
「あげなやつにあっても意味がない。幕府の犬になりさがった奴だ。ヘドが出る」
 一同は笑った。

 竜馬は薩摩藩お抱えの浪人集として、長崎にいた。
 のちに「海援隊」とする日本初の株式会社「亀山社中」という組織を元・幕府海軍訓練所の仲間たちとつくる。
 すべては日本の国の為にである。
 長州藩が禁門の変等という「馬鹿げた策略」を展開したことでいよいよもって長州藩の命運も尽きようとしていた。
 京に潜伏中の桂小五郎は乞食や女郎などに変装してまで、命を狙う会津藩お抱えの新撰組から逃げて暮らした。「逃げの小五郎」………のちに木戸孝允として明治政府の知恵袋になる男は、そんな馬鹿げた綽名をつけられ嘲笑の的になりさがっていた。
 だが、桂小五郎の志まで死んだ訳ではない。
 勿論、竜馬たちだって「薩摩の犬」に成り下がった訳ではなかった。
 ここにきて坂本竜馬が考えたのは、そう、薩摩藩と長州藩の同盟による倒幕……薩長同盟で、ある。
 だが、それはまだしばらく時を待たねばならない。
  そんな中、事件がおこる。
 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このままではわが国は外国の植民地になる!」
 麟太郎は危機感をもった。
「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。
「そうだな……」麟太郎は溜め息をもらした。


  

TMNETWORKの大ファンFANKS 親友はいないが一匹狼その感動が作詞作曲文学絵画の天賦の才に!

2015年05月24日 19時28分16秒 | 日記











実は僕はTMNETWORKの大ファン、つまりFANKSである。


一匹狼のフリージャーナリストだから


親友というかそういうベタベタしたものは好まぬ。

昔、学生時代、友達のような感じだった(実際は違った)


友達モドキとTMで盛り上がった。


その感動が作詞作曲と文学と絵画の僕の天才を育てた。臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

侵略戦争の罪と罰 昭和戦争史観・A級戦犯・天皇・昭和天皇史観改めて加筆決定!「司馬史観」から俯瞰へ

2015年05月24日 09時24分15秒 | 日記









僕は昭和戦史・A級戦犯史観・天皇・昭和天皇史観を改め加筆することと決めた。

誰かさんみたいに

「日本にA級戦犯等いない」

「侵略戦争や虐殺はなかった」

「東京裁判はペテン」

「大東亜戦争は抑圧されたアジア人を救う自衛の戦争」

等馬鹿げた考えでない。

侵略戦争の大義名分やペテンは理解の上で。臥竜


緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

nhk2015年度大河ドラマ原作花燃ゆ「花燃ゆ」とその時代 吉田松陰と妹の生涯<維新回天編>ブログ連載7

2015年05月24日 06時39分20秒 | 日記











 黙霖は芸州加茂郡(広島県呉市長浜)生まれの本願寺派の僧侶で、やはり僧だった父の私生児である。幼いときに寺にやられ、耳が聞こえず話せないという二重苦を負いながら、和、漢、仏教の学問に通じ、諸国を行脚して勤王を説いた。周防(すおう)の僧、月性は親友である。
 黙霖は松陰に面会を申し込んだが、松陰は「わが容貌にみるべきものなし」と断り、二人は手紙で論争をした。
 実は松陰は、この時期「討幕」の考えをもっていたわけではなかった。彼が説いたのは、「諌幕(かんばく)」である。野山獄にいた頃にも、少年時代に学んだ水戸学の影響から抜け出せてはいなくて、兄の梅太郎に書いた手紙には、「幕府への御忠義は、すなわち天朝への御忠義」といっていた。
しかし、黙霖との論争で、二十七歳の松陰はたたきのめされた。
「茫然自失し、ああこれもまた(僕の考えは)妄動なりとて絶倒いたし候」「僕、ついに降参するなり」「水戸学は口では勤王を説くが、いまだかつて将軍に諫言し、天室を重んじたためしがないではないか」
そして、黙霖は、松陰に山県大弐が明和の昔に著わした『柳子新論』の筆写本を贈った。
松陰は「勤王」「天皇崇拝主義」に目が覚めたという。
そして松陰は安政三年(一八五六)に、松本村にある「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を受け継いだ。萩の実家の隣にある二間の家だ。
長州藩には藩校の明倫館があるが、藩士の子弟だけがはいり、足軽の子などは入学できなかった。村塾にはこの差別がない。吉田栄太郎(稔麿・としまろ・池田屋事件で死亡)、伊藤俊輔(博文)、山県狂介(有朋)などの足軽の子もいる。その教授内容は、藩学の「故書敗紙のうちに彷徨する」文章の解釈ではなく、生きた歴史を教えることであり、松陰は実践学とも呼べる学問を教えた。塾生は七十人、九十人となる。「飛耳長目(ひじちょうもく)」という変わった学科がある。政治・情報科とでもいうか。松陰が集めてきた内外の最新情報が教えられる。イギリスのインド侵略、十年前のアヘン戦争、支那の太平天国の乱、国内では京都、江戸、長崎の最新情報である。藩士の一部は吉田松陰を危険人物視していた。親の反対をおしきってはいってきた塾生がいた。高杉晋作である。松陰は高杉を「暢夫(のぶお)」と呼び、知識は優れているが学問が遅れている自説を曲げず、と分析していた。
高杉晋作は松下村塾後、江戸の昌平黌(しょうへいこう)へ進学している。
だが、吉田松陰は公然と「討幕」を宣言し始める。尊皇攘夷というよりは開国攘夷、外国の優れた知識と技術を学び、世界と貿易しよう、という坂本竜馬のはしりのようなことを宣言した。それが「草莽掘起」な訳である。だが、松陰の主張は「「討幕」のために武力蜂起するべき」とも過激な論調にかわっていくに至り、長州藩は困惑し、吉田松陰を二度目の野山獄に処した。「武力蜂起して「討幕」とは、松陰先生は狂したとしか思えぬ」桂小五郎は言った。江戸にいる久坂玄瑞や高杉晋作らは、師が早まって死に急ぐのを防ごうとして、桜田の藩邸にいる先輩の桂小五郎に相談したのだ。
晋作が先輩の桂を睨むようにして反論した。「桂さん、僕は先生が狂したとは思えぬ。死ぬ覚悟なんじゃ」
久坂は訊ねた。
「いや、とにかく今は、藩の現状からしても、慎むべき時であろうと思います。桂さん、どうすればいいですか?」一同が桂小五郎をみた。
「松陰先生に自重して頂くにはわれら門下弟子がこぞって絶交することだ。そうすれば先生も考え直すだろう」
晋作以外は、吉田松陰への絶交宣言に同意した。絶交書を受け取った松陰は怒った。
「諸君らはもう書物を読むな。読めばこの自分のようになる。それよりは藩の“はしくれ役人”にでもしてもらいなされ。そうすれば立身出世がしたくなり、志を忘れるでしょうから……」「草莽でなければ人物なし」
松陰は妹婿の玄瑞に逆に絶縁状を送りつけた。
斬首にされた首は門人たちに話しかけるようであった。
「もしもこのことが成らずして、半途に首を刎ねられても、それまでなり」
「もし僕、幽囚の身にて死なば、必ずわが志を継ぐ士を、後世に残し置くなり」
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 吉田松陰「異端の思想家」と萩の青年たち」)』榛葉英治(しんば・えいじ)氏著、プレジデント社刊120~136ページ参考引用

大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂玄瑞役の東出昌大さんが「僕は神様に愛想つかされとんのや」と、松陰の妹の杉文役の井上真央さんにいったのはあながち“八つ当たり”という訳ではなかった。ペリーが二度目に来航した安政元年(一八五四)、長州の藩主は海防に関する献策を玄機に命じた。たまたま病床にあったが、奮起して執筆にとりかかり、徹夜は数日にわたった。精根尽き果てたように、筆を握ったまま絶命したのだ。
それは二月二十七日、再来ペリーを幕府が威嚇しているところであり、吉田松陰が密航をくわだてて、失敗する一か月前のことである。
畏敬する兄の死に衝撃を受け、その涙もかわかない初七日に、玄瑞は父親の急死という二重の不幸に見舞われた。すでに母親も失っている。玄瑞は孤児となった。十五歳のいたましい春だった。久坂秀三郎は、知行高二十五石の藩医の家督を相続し、玄瑞と改名する。六尺の豊かな偉丈夫で色男、やや斜視だったため、初めて彼が吉田松陰のもとにあらわれたとき、松陰の妹文は、「お地蔵さん」とあだ名をつけたが、やがて玄瑞はこの文と結ばれるのである。「筋金入りの“攘夷思想”」のひとである。熊本で会った宮部鼎蔵から松陰のことを聞いて、その思いを述べた。「北条時宗がやったように、米使ハリスなどは斬り殺してしまえばいいのだ」松陰は「久坂の議論は軽薄であり、思慮浅く粗雑きわまる書生論である」と反論し、何度も攘夷論・夷人殺戮論を繰り返す「不幸な人」久坂玄瑞を屈服させる。松陰の攘夷論は、情勢の推移とともに態様を変え、やがて開国論に発展するが、久坂は何処までも「尊皇攘夷・夷狄殺戮」主義を捨てなかった。長州藩は「馬関攘夷戦」で壊滅する。それでも「王政復古」「禁門の変」につながる「天皇奪還・攘夷論」で動いたのも久坂玄瑞であった。これをいいだしたのは久留米出身の志士・真木和泉(まき・いずみ)である。天皇を確保して長州に連れてきて「錦の御旗」として長州藩を“朝敵”ではなく、“官軍の藩”とする。やや突飛な構想だったから玄瑞は首をひねったが、攘夷に顔をそむける諸大名を抱き込むには大和行幸も一策だと思い、桂小五郎も同じ意見で、攘夷親征運動は動きはじめた。
松下村塾では、高杉晋作と並んで久坂玄瑞は、双璧といわれた。いったのは、師の松陰その人である。禁門の変の計画には高杉晋作は慎重論であった。どう考えても、今はまだその時期ではない。長州はこれまでやり過ぎて、あちこちに信用を失い、いまその報いを受けている。しばらく静観して、反対論の鎮静うるのを待つしかない。
高杉晋作は異人館の焼打ちくらいまでは、久坂玄瑞らと行動をともにしたけれども、それ以降は「攘夷殺戮」論には「まてや、久坂!もうちと考えろ!異人を殺せば何でも問題が解決する訳でもあるまい」と慎重論を唱えている。
それでいながら長州藩独立国家案『長州大割拠(独立)』『富国強兵』を唱えている。丸山遊郭、遊興三昧で遊んだかと思うと、「ペリーの大砲は3km飛ぶが、日本の大砲は1kmしか飛ばない」という。「僕は清国の太平天国の乱を見て、奇兵隊を、農民や民衆による民兵軍隊を考えた」と胸を張る。
文久三年馬関戦争での敗北で長州は火の海になる。それによって三条実美ら長州派閥公家が都落ち(いわゆる「七卿落ち」「八月十八日の政変」)し、さらに禁門の変…孝明天皇は怒って長州を「朝敵」にする。四面楚歌の長州藩は四国(米軍、英軍、仏軍、蘭軍)に降伏して、講和談判ということになったとき、晋作はその代表使節を命じられた。ほんとうは藩を代表する家老とか、それに次ぐ地位のものでなければならないのだが、うまくやり遂げられそうな者がいないので、どうせ先方にはわかりゃしないだろうと、家老宍戸備前の養子刑馬という触れ込みで、威風堂々と旗艦ユーリアラス号へ烏帽子直垂で乗り込んでいった。伊藤博文と山県有朋の推薦があったともいうが、晋作というのは、こんな時になると、重要な役が回ってくる男である。
談判で、先方が賠償金を持ち出すと「幕府の責任であり、幕府が払う筋の話だ」と逃げる。下関に浮かぶ彦島を租借したいといわれると、神代以来の日本の歴史を、先方が退屈するほど永々と述べて、煙に巻いてしまった。
だが、長州藩が禁門の変で不名誉な「朝敵」のようなことになると“抗戦派”と“恭順派”という藩論がふたつにわれて、元治元年十一月十二日に恭順派によって抗戦派長州藩の三家老の切腹、四参謀の斬首、ということになった。周布政之助も切腹、七卿の三条実美らも追放、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)は城崎温泉で一時隠遁生活を送り、自暴自棄になっていた。そこで半分藩命をおびた使徒に(旧姓・杉)文と小田村伊之助(楫取素彦)らが選ばれる。文らは隠遁生活でヤケクソになり、酒に逃げていた桂小五郎隠遁所を訪ねる。「お文さん、伊之助………何故ここに?」「私は長州藩主さまの藩命により、桂さんを長州へ連れ戻しにきました」「しかし、僕にはなんの力もない。久坂や寺島、入江九一など…禁門の変の失敗も同志の死も僕が未熟だったため…もはや僕はおわった人物です」「違います!寅にいは…いえ、松陰は、生前にようっく桂さんを褒めちょりました。桂小五郎こそ維新回天の人物じゃ、ゆうて。弱気はいかんとですよ。…義兄・小田村伊之助(楫取素彦)の紹介であった土佐の坂本竜馬というひとも薩摩の西郷隆盛さんも“桂さんこそ長州藩の大人物”とばいうとりました。皆さんが桂さんに期待しとるんじゃけえ、お願いですから長州藩に戻ってつかあさい!」桂は考えた。…長州藩が、毛利の殿さまが、僕を必要としている?やがて根負けした。文らは桂小五郎ことのちの木戸孝允を説得した。こうして長州藩の偉人・桂小五郎は藩政改革の檜舞台に舞い戻った。もちろんそれは高杉晋作が奇兵隊で討幕の血路を拓いた後の事であるのはいうまでもない。そして龍馬、桂、西郷の薩長同盟に…。しかし、数年前の禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩薩摩藩により朝敵にされたうらみを、長州人の人々は忘れていないものも多かった。彼らは下駄に「薩奸薩賊」と書き踏み鳴らす程のうらみようであったという。だから、薩摩藩との同盟はうらみが先にたった。だが、長州藩とて薩摩藩と同盟しなければ幕府に負けるだけ。坂本竜馬と小田村は何とか薩長同盟を成功させようと奔走した。しかし、長州人のくだらん面子で、十日間京都薩摩藩邸で桂たちは無駄に過ごす。遅刻した龍馬は「遅刻したぜよ。げにまっことすまん、で、同盟はどうなったぜよ?桂さん?」「同盟はなんもなっとらん」「え?西郷さんが来てないんか?」「いや、西郷さんも大久保さんも小松帯刀さんもいる。だが、長州から頭をさげるのは…無理だ」龍馬は喝破する。「何をなさけないこというちゅう?!桂さん!西郷さん!おんしら所詮は薩摩藩か?長州藩か?日本人じゃろう!こうしている間にも外国は日本を植民地にしようとよだれたらして狙ってるんじゃ!薩摩長州が同盟して討幕しなけりゃ、日本国は植民地ぜよ!そうなったらアンタがたは日本人になんとわびるがじゃ?!」こうして紆余曲折があり、同盟は成った。話を戻す。「これでは長州藩は徳川幕府のいいなり、だ」晋作は奇兵隊を決起(功山寺挙兵)する。最初は80人だったが、最後は800人となり奇兵隊が古い既得権益の幕藩体制派の長州保守派“徳川幕府への恭順派”を叩き潰し、やがては坂本竜馬の策『薩長同盟』の血路を拓き、維新前夜、高杉晋作は労咳(肺結核)で病死してしまう。
高杉はいう。「翼(よく)あらば、千里の外も飛めぐり、よろづの国を見んとしぞおもふ」
長州との和睦に徳川の使者として安芸の宮島に派遣されたのが勝海舟であった。
七日間も待たされたが、勝海舟は髭を毎日そり、服を着替え、長州の藩士・広沢兵助や志道聞多などと和睦した。
「勝さん、あんたは大丈夫ですか?長州に尻尾をふった裏切り者!と責められる可能性もおおいにある。勝さんにとっては損な役回りですよ」
「てやんでぃ!古今東西和平の使者は憎まれるものだよ。なあに俺にも覚悟があるってもんでい」
長州の志士たちの予想は的中した。幕臣たちや慶喜は元・弟子の坂本龍馬の『薩長連合』『倒幕大政奉還』を勝海舟のせいだという。勝は辞表を幕府に提出、それが覚悟だった。
だが、幕府の暴発は続く。薩長同盟軍が官軍になり、錦の御旗を掲げて幕府軍を攻めると、鳥羽伏見でも幕府は敗北していく。すべて勝海舟は負けることで幕府・幕臣を守る。だが、憎まれて死んでいく、ので、ある。
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 久坂玄瑞「蛤御門」で迎えた二十五歳の死」)』古川薫氏著、プレジデント社刊137~154ページ+『徳川慶喜(「三―草莽の志士 高杉晋作「奇兵隊」で討幕の血路を拓く」)』杉森久英氏著、プレジデント社刊154~168ページ+映像資料NHK番組「英雄たちの選択・高杉晋作篇」などから文献引用

         3 艱難辛苦



 


  上海から長崎に帰ってきて、高杉晋作がまずしたことは、船の買いつけだった。
 ………これからは船の時代だ。しかも、蒸気機関の。
 高杉は思考が明瞭である。
 …ペリー艦隊来訪で日本人も目が覚めたはずだ。
 ……これからは船、軍艦なんだ。ちゃんとした軍艦をそろえないとたちまちインドや清国(中国)のように外国の植民地にされちまう。伊藤博文の目は英会話だった。
 一緒に上海にいった薩摩の五代は同年一月、千歳丸の航海前に蒸気船一隻を購入したという。長崎の豪商グラバーと一緒になって、十二万ドル(邦価にして七万両)で買ったという。
 いっているのが薩摩の藩船手奉行副役である五代の証言なのだから、確実な話だ。
 上海で、蒸気船を目にしているから、高杉晋作にとっては喉から手がでるほど船がほしい。そこへ耳よりな話がくる。長崎に着くと早々、オランダの蒸気船が売りにだされているという。値段も十二万ドルとは手頃である。
「買う」
 即座に手にいれた。
 もちろん金などもってはいない。藩の後払いである。
 ……他藩より先に蒸気船や軍艦をもたねば時流に遅れる。
 高杉の二十三歳の若さがみえる。
 奇妙なのは晋作の革命思想であるという。
 ……神州の士を洋夷の靴でけがさない…
という壤夷(武力によって外国を追い払う)思想を捨てず、
 ……壤夷以外になにがあるというのだ!
 といった、舌の根も乾かないうちに、洋夷の蒸気船購入に血眼になる。
 蒸気船購入は、藩重役の一決で破談となった。
「先っぱしりめ! 呆れた男だ!」
 それが長州藩の、晋作に対する評価であった。
 当然だろう。時期が早すぎたのだ。まだ、薩長同盟もなく、幕府の権力が信じられていた時代だ。晋作の思想は時期尚早過ぎた。

  蒸気船購入の話は泡と消えたが、重役たちの刺激にはなった。
 この後、動乱期に長州藩は薩摩藩などから盛んに西洋式の武器や軍艦を購入することになる。
 藩にかえった晋作は、『遊清五録』を書き上げて、それを藩主に献上して反応をまった。 だが、期待するほどの反応はない。
「江戸へおもむけ」
 藩命は冷ややかなものだった。
 江戸の藩邸には、桂小五郎や晋作の上海航海を決めた周布政之助がいる。また、命令を下した藩世子毛利元徳も江戸滞在中であった。
 晋作は、
「しかたねぇな」と、船で江戸へ向かった。
 途中、大阪で船をおり、京に足をのばし藩主・毛利敬親とあった。敬親は京で、朝廷工作を繰り広げていた。
 晋作は上海のことを語り、また壤夷を説くと、敬親は、
「くわして話しは江戸でせい」
 といって晋作の話しをとめた。
「は?」
 晋作は唖然とする。
 敬親には時間がなかった。朝廷や武家による公武合体に忙しかった。
 京での長州藩の評判は、すこぶる悪かった。
 ……長州は口舌だが、実がない!
 こういう悪評を煽ったのは、薩摩藩だった。
 中でも謀略派藩士としても知られる薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)が煽動者である。
 薩摩は尊皇壤夷派の志士を批判し、朝廷工作で反長州の画策を実行していた。
 しかし、薩摩とて尊皇壤夷にかわりがない。
 薩摩藩の島津久光のかかげる政策は、「航海遠略策」とほとんど変りないから質が悪い。 西郷は、
「長州は口舌だが、実がないでごわす」と、さかんに悪口をいう。
 高杉は激昴して、「薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではないか! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけだ!」
 といった。
 そして、続けて、
「壤夷で富国強兵をすべし!」と述べる。
 ……時代は壁を乗り越える人材を求めていた。
 晋作は江戸についた。
 長州藩の江戸邸は、上屋敷が桜田門外、米沢上杉家の上屋敷に隣接している。
 その桜田門外の屋敷が、藩士たちの溜まり場であったという。
 ………薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではない! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけです。
 ……壤夷で富国強兵をすべし!
 ……洋夷の武器と干渉をもって幕府をぶっつぶす!
 討幕と、藩の幕政離脱を、高杉はもとめた。
 ……この国を回天(革命)させるのだ!
 晋作は血気盛んだった。
 が、藩世子は頷いただけであった。
「貴公のいうこと尤もである。考えておこう」
 そういっただけだ。
 続いて、桂小五郎(のちの木戸考允)や周布にいうが、かれらは慰めの顔をして、
「まぁ、君のいうことは尤もだが…焦るな」というだけだった。
「急いては事を仕損じるという諺もあるではないか」
 たしかにその通りだった。
 晋作は早すぎた天才であった。
 誰もかれに賛同しない。薩摩長州とてまだ「討幕」などといえない時期だった。
「高杉の馬鹿がまた先はしりしている」
 長州藩の意見はほとんどそのようなものであった。
 他藩でも、幕府への不満はあるが、誰も異議をとなえられない。
 ……わかってない!
 高杉晋作は憤然たる思いだったが、この早すぎた思想を理解できるものはいなかった。
 長州の本城萩は、現在でも人口五万くらいのちいさな町で、長州藩士たちがはめを外せる遊興地はなかった。そのため、藩士たちはいささか遠い馬関(下関)へ通ったという。 晋作は女遊びが好きであった。
 この時代は男尊女卑で、女性は売り買いされるのがあたり前であった。
 銭され払えば、夜抱くことも、身請けすることも自由だった。
 晋作はよく女を抱いた。
 そして、晋作は急に脱藩を思いたった。
 脱藩にあたり、国元の両親に文を送るあたりが晋作らしい。
「私儀、このたび国事切迫につき、余儀なく亡命仕り候。御両人様へ御孝行仕り得ざる段、幾重にも恐れ入り候」
 晋作は国事切迫というが、切迫しているのは晋作ひとりだった。余儀も晋作がつくりだしたのである。この辺が甘やかされて育ったひとりよがりの性格が出ている。
 晋作は走った。
 しかし、田舎の小藩に頼ったが、受け入れてもらえなかった。
 口では壤夷だのなんだのと好きなだけいえるが、実行できるほどの力はない。
「人間、辛抱が肝心だ。辛抱してれば藩論などかわる」
 晋作はとってつけたような言葉をきき、おのれの軽率を知った。
 ……ちくしょう!
 晋作は、自分の軽率さや若さを思い知らされ、力なく江戸へと戻った。

 天保五年、水野忠邦が老中となり改革をおこなったが、腐りきった幕府の「抵抗勢力」に反撃をくらい、数年で失脚してしまった。勝海舟は残念に思った。
「幕府は腐りきった糞以下だ! どいつもこいつも馬鹿ばっかりでい」
 水野失脚のあと、オランダから「日本国内の政治改革をせよ」との国王親書が届いた。しかし、幕府は何のアクションもとらなかった。
 清国がアヘン戦争で英国に敗れて植民地となった……という噂は九州、中国地方から広まったが、幕府はその事実を隠し通すばかりであった。
 ペリー提督の率いるアメリカ艦隊渡来(嘉永六年(一八五三))以降の変転を勝海舟は思った。勝海舟は、水戸斉昭が世界情勢を知りながら、内心と表に説くところが裏腹であったひとという。真意を幕府に悟られなかったため、壤夷、独立、鎖国を強く主張し、士気を鼓舞する一方、衆人を玩弄していたというのである。
 勝海舟は、水戸斉昭の奇矯な振る舞いが、腐りきった幕府家臣への憤怒の現れとみる。斉昭が終始幕府を代表して外国と接すれば今のようなことににはならなかっただろうと残念がる。不遇であるため、鎖国、壤夷、などと主張し、道をあやまった。
「惜しいかな、正大高明、御誠実に乏し」
 勝海舟は斉昭の欠点を見抜いた。
「井伊大老にすれば、激動する危険な中で、十四代将軍を家茂に定めたのは勇断だが、大獄の処断は残酷に過ぎた」
 勝海舟は幕臣は小人の群れだとも説く。小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。斉昭にしても井伊大老にしても大人物ではあったが、周りが小人物ばかりであったため、判断を誤った。
「おしいことでい」勝海舟は悔しい顔で頭を振った。
 赤坂の勝海舟の屋敷には本妻のたみと十歳の長女夢と八歳の孝、六歳長男の小鹿がいる。益田糸という女中がいて、勝海舟の傍らにつきっきりで世話をやく。勝海舟は当然手をつける。そして当然、糸は身籠もり、万延元年八月三日、女児を産んだ。三女逸である。 他にも勝海舟には妾がいた。勝海舟は絶倫である。
 当時、武士の外泊は許されてなかったので、妻妾が一緒に住むハメになった。

 京は物騒で、治安が極端に悪化していた。
 京の町には、薩摩藩、長州藩、土佐藩などの壤夷派浪人があふれており、毎晩どこかで血で血を洗う闘争をしていた。幕府側は会津藩が京守護職であり、守護代は会津藩主・松平容保であった。会津藩は孤軍奮闘していた。
 なかでも長州藩を後ろ盾にする壤夷派浪人が横行し、その数は千人を越えるといわれ、天誅と称して相手かまわず暗殺を行う殺戮行為を繰り返していた。
「危険極まりない天下の形勢にも関わらず、万民を助ける人物が出てこねぇ。俺はその任に当たらねぇだろうが、天朝と幕府のために粉骨して、不測の変に備える働きをするつもりだ」勝海舟はそう思った。とにかく、誰かが立ち上がるしかない。
 そんな時、「生麦事件」が起こる。
 「生麦事件」とは、島津久光が八月二十一日、江戸から京都へ戻る途中、神奈川の手前生麦村で、供先を騎馬で横切ろうとしたイギリス人を殺傷した事件だ。横浜の英国代理公使は「倍賞金を払わなければ戦争をおこす」と威嚇してきた。
「横浜がイギリスの軍港のようになっている今となっては、泥棒を捕まえて縄をなうようなものだが仕方がなかろう。クルップやアームストロングの着発弾を撃ち込まれても砕けねえ石造砲台は、ずいぶん金がかかるぜ」
 勝海舟は幕府の無能さを説く。
「アメリカ辺りでは、一軒の家ぐらいもあるような大きさの石を積み上げているから、直撃を受けてもびくともしねえが、こっちには大石がないから、工夫しなきゃならねえ。砲台を六角とか五角にして、命中した砲弾を横へすべらせる工夫をするんだ」
 五日には大阪の宿にもどった勝海舟は、鳥取藩大阪屋敷へ呼ばれ、サンフランシスコでの見聞、近頃の欧米における戦争の様子などを語った。
 宿所へ戻ってみると、幕府大目付大井美濃守から、上京(東京ではなく京都にいくこと)せよ、との書状が届いていた。目が回りそうな忙しさの中、勝海舟は北鍋屋町専称寺の海軍塾生たちと話し合った。
「公方様が、この月の四日に御入京されるそうだ。俺は七日の内に京都に出て、二条城へ同候し、海岸砲台築き立ての評定に列することになった。公方様は友の人数を三千人お連れになっておられるが、京の町中は狂犬のような壤夷激徒が、わが者顔に天誅を繰り返している。ついては龍馬と以蔵が、身辺護衛に付いてきてくれ」
 龍馬はにやりと笑って、
「先生がそういうてくれるのを待っとうたがです。喜んでいきますきに」
 岡田以蔵も反歯の口元に笑顔をつくり、
「喜んでいきますきに!」といった。
 勝海舟は幕府への不満を打ち明ける。
「砲台は五ケ所に設置すれば、十万両はかかる。それだけの金があれば軍艦を買ったほうがよっぽどマシだ。しかし、幕府にはそれがわからねぇんだ。幕府役人は、仕事の手を抜くこと、上司に諂うことばかり考えている。馬鹿野郎どもの目を覚まさせるには戦争が一番だ」
「それはイギリスとの戦争じゃきにですか?」龍馬はきいた。
 勝海舟は「そうだ」と深く頷いた。
「じゃきに、先生はイギリスと戦えば絶対に負けるとはいうとりましたですろう?」
「その通りだ」
「じゃきに、なんで戦せねばならぬのです?」
「一端負ければ、草奔の輩も目を覚ます。一度血をあびれば、その後十年で日本は立て直り、まともな考えをもつ者が増えるようになる。これが覚醒だぜ」
「そりゃあええですのう」龍馬は頷いた。

  京で、勝海舟は長州藩の連中と対談した。
「今わが国より艦船を出だして、広くアジア諸国の主に説き、縦横連合して共に海軍を盛大にし、互いに有無を通じ合い、学術を研究しなければ、ヨーロッパ人に蹂躙されるのみですよ。まず初めに隣国の朝鮮と協調し、次に支那に及ぶことですね」
 桂たちは、勝海舟の意見にことごとく同意した。
 勝海舟はそれからも精力的に活動していく。幕府に資金援助を要求し、人材を広く集め、育成しだした。だが、勝海舟は出世を辞退している。「偉くなりたくて活動してるんじゃねぇぜ、俺は」そういう思いだった。
 そんな中、宮中で公家たちによる暗殺未遂事件があった。

「暗殺か…」
 晋作は苦い顔をする。
 壤夷のために行動する晋作であったが、暗殺という陰湿な行為は好きではなかった。
 そのくせ、長井雅楽を暗殺する!、といいだしたりしたのも晋作である。
 しかし、計画企画はするが、実行はしていない。
 いつも言い出すのは晋作だったが、暗殺を成功させたことはない。一件も遂行に至っていない。
「よし、俺たちも生麦やろう!」
 大和弥八郎が甲高い声をあげた。
 ……高杉は江戸で豪遊している。
血気盛んな者たちが、集まってくる。寺島忠三郎、有吉熊次郎、赤根武人……
 計画だけは着々とすすんでいた。
 暗殺目標は米国公使タウンゼント・ハリス、場所は横浜、決行日は十一月十三日と決めた。その日は日曜日で、ハリスはピクニックにいくことになっていたという。
「井上、百両用意してくれ。軍資金だ」
「しかし……」
「なんだ?」
 井上聞多は困った顔をして「百両などという大金は俺には用意できん。どうすればいいのだ?」という。
 高杉は渋い顔になり、
「それは俺もわからん」といった。
 だが、その暗殺計画も瓦解してしまう。
 しかし、「外国の公使を殺せば国が滅びる」といわれていた時代に公使暗殺を思いつく晋作は、ずばぬけていたともいえる。
 久坂は晋作が暗殺犯とならないかったのを見てほっとした。
 と、同時に「俺が暗殺する。公使の館を焼き討ちするのだ」と心の中で思った。
 久坂玄瑞は盟約書を作成した。
 長州藩士たちの革命分子をひとつにまとめる規則とリストである。
 その数は二十二人……
 高杉晋作、久坂玄瑞、山田顕義、野村和作、白井小助、堀真五郎、佐々木男也、滝弥太郎、滝鴻二郎、佐々木次郎四郎、伊藤俊輔(博文)……
 長州藩の中核を担う連中が名をつらねた。
「藩内に三十人の死士が得れば、長州藩を掌握できる。長州藩を握れば天下の事は成る」 晋作の持論だという。
 しかし、晋作の思い通りになるほど世の中は簡単には動かない。
「晋作は何を始める気だ?」
 久坂玄瑞は晋作に疑問をもった。

  吉田松陰が死罪になってから三年がたつ。
 晋作は江戸を発して長州にもどっていった。師の墓に手をあわせ、涙した。
 以後、晋作は死ぬまで江戸の地を踏むことはなかった。

 少し話を戻す。
弘化二年(1845年)吉田松陰は十六歳で、山田亦介(またすけ、羽田清風の甥)について長沼流兵学術を学んだ。亦介は世界情勢に明るく、松陰はこの男によって「本物の世界」を体感した。亦介は「これが地球儀だ。我が国は何処だと思う?」ときく。松陰は初めて地球儀を見たのだわかる訳はない。ちなみに最初に丸い地球儀を見たのは織田信長である。400年前に信長は「地球が丸いこと」「日本はちっぽけな島国なこと」「世界には強国が有象無象にあること」を理解したのだからさすがは「戦国時代の天才」である。
 吉田松陰はおくればせながら「地球が丸いこと」「日本はちっぽけな島国なこと」「世界には強国が有象無象にあること」を理解した。「我が国はこんなに小さいのですねえ。まいりました」松陰は唖然という。だが、キツネ目の眼光は「世界への興味心」でギラギラ輝いている。この感動がのちの「草莽掘起」「外国船への亡命」へと繋がる。
 弘化三年(1846年)17歳となった松陰は外患に深い関心をもち、海防のことを論究している。「我が国は海で囲まれている。あのペルリ(ペリー)と申す舶来人が乗る黒船艦隊をやぶるには海防を徹底的に考慮せねば我が国は夷狄により瓦解する」
 吉田松陰が「尊皇攘夷派」というのは間違いだ。「草莽の志士」とやらは「外国の軍事力」を軽く観ていたが、あの松陰が「外国軍と長州藩・薩摩藩・徳川幕府軍との格差」がわからなかった訳はない。吉田松陰が「尊皇思想」というのも嘘だ。
 もしその(尊皇思想)考えがあったにせよ、のちの「官軍」つまり薩長同盟軍が「錦の御旗」や天皇を利用したように「将棋の王将の駒」「天皇という名の道具」としてからの思想だろう。吉田松陰は日本共産党や皇民党ではないのだ。
  嘉永元年(1848年)19歳となった吉田松陰は1月、初めて独立の師範となった。
  そんな松陰だから黒船浦賀来航の報を江戸でえた彼の心は躍った。
「心甚だ急ぎ飛ぶが如し、飛ぶが如し」(六月四日、瀬能吉次郎宛)
 それと同時に、この黒船を目の前に見た松陰は、来るべき天下の動勢を予見した。
「敦れ天下の瓦解遠からざるべし。方今天下疲弊の余、江戸に大戦始まり、諸候これの役に駆使せられれば必ず命に甚へざらん。且つ又幕府天下の心を失ふこと久し」(七月二十六日、杉梅太郎宛)
 外圧を前にして当面のことを糊塗(こと)しようとする幕府、幕臣の中では「夷狄排除論」的な意見が多い。その中で勝麟太郎(勝海舟)と佐久間象山だけが「世界情勢」を見抜いている。吉田松陰は佐久間象山や勝麟太郎に文をよせるとともに独自の政治思想「草莽掘起(そうもうくっき)」を発案して長州藩を「草莽の志士たち」でまとめようとした。
 だが、「外国にいきたい! 外国の文化・経済・政治・言語…それらを自分の眼で見たい」という感情、いやもう欲望であり夢であり。それを叶えたいと門人の金子重輔(じゅうのすけ、重之助)と共にとうとう小舟で黒船に近づき「プリーズ・オン・ザ・シップ!(黒船にのせてくれ)」と嘆願するに至る。しかし、外人さんたちの答えは「ノー(駄目だ)!」である。
 なら銭金を見せたが「そういう問題ではない」という風に外国人たちは首を横にふるばかりだ。かくして吉田松陰の外国への亡命は瓦解した。なら幕府や長州藩にそのことを「秘密」にすればまだ松陰にも「勝機」はあったかもしれない。ジョン万次郎というラッキーな輩もいたのだから。だが、くそ真面目な松陰はこの「亡命失敗」をカクカクシカジカだ、と江戸の奉行所にいい自首してしまう。こうして彼は囹圄(れいご)の人となった。
  ……かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂………
 吉田松陰は自己を忠臣蔵の赤穂浪士の已むに已まれぬ魂と重ねた。
「馬鹿なやつ」江戸の侍や町民はかわら版やかぜの噂できき、嘲笑した。「一体何をしたかったんだ?、その馬鹿」 
奉行所で吉田松陰と弟子の金子を取り調べたのは黒川嘉兵衛という「いいひと」であった。黒川はよく「いいひと」「物腰が柔らかい」「聞き上手」といわれる。人間というものは大体にして「自分のこと」は話すが、「他人のこと」には注意を払わないものだ。
 だが、黒川はまず他人の話を粘り強く聴いてから、「なるほど。だがこういうこともあるんではないかい?」と反駁した。しかし、吉田松陰はどんなことがあっても「師匠の佐久間象山に密航をそそのかされた」ことだけは話さない気でいた。
 徳川幕府にとって「攘夷など無理、すみやかに開国して外国の武力、文化、教育を取り入れろ!」という開国派な象山は「目の上のたんこぶ」であり、「俺は日本のナポレオンだ!」と豪語する傲慢チキな佐久間象山は幕臣にとって「恥」でしかない。
「俺にどんどんと腰の強い女をよこせ! 俺の子供は「天才」だろうから俺の子供たちで日本を改革する!」象山は確かに天才学者だったのだろうが、こんなことばかりゆうひとは幕府にとっては邪魔であり、死んでほしい人物である。
「なんのために外国船にのりこもうとしたのだい?」
「外国にいって外国の文化、教育、軍事力、外交力など学びたかったのです」
「…この英文の紙は佐久間象山の筆跡のようだが」
「いいえ。確かにぼくは先生に書いてもらいましたが密航はぼくのアイデアです」
「アイデアとは何だい?」
「アイデアとは発想です」
「あくまで佐久間象山は関係ないと申すのかい?」
「オフコースであります」
「今度は何だ?」
「オフコースとはその通りという英語であります」
「佐久間象山の関与さえ認めれば罰しない。それでも佐久間象山の関与を認めないのか?」
「オフコース」
 黒川は吉田松陰という男が哀れに思えた。別に密航くらい自首しなければ罰せられない。なんでこの男は自首したのか?佐久間象山は許せないが、この男は許したい。弟子の金子重輔という長州の足軽という男も…。だが、江戸町奉行・井戸対馬守は「死罪」を命じた。
 対馬守の眼は怒りでぎらついていたが、その怒りは吉田松陰や金子にではなかった。
「死罪」は裏で糸を引いているであろう奸物・佐久間象山へのあてつけであった。
 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?
 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。
 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。
 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……
 松陰は思う。
 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……
 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。
 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。
 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。
安政元年(1854年)、25歳になった吉田松陰は上陸した米軍に「投夷書」を渡し、夜、門人・金子重輔とともに小舟で黒船に向かった。港では、「やめてください、先生!」と止める桂小五郎と友人の坂本龍馬がいた。龍馬は松陰の「異国への熱い思い」を知り、
「吉田松陰先生、わしも黒船に乗りたいがです!」という。
「馬鹿者!」
 吉田松陰は龍馬の頬を平手打ちした。「異国に行く道は僕と金子の道だ。君は自分の道をいけ!」
「…じゃきに。わしも世界をば観てみたいががです!」
「そうか。ならあとで来なさい。メリケン(アメリカ)で待っておるぞ」
「…先生!駄目です!幕府に見つかれば死罪ですよ!」
 桂小五郎は止めるが、松陰は聞かず沖にでてしまった。そして前述の通り、世界漫遊の夢はもろくも瓦解、松陰は江戸の奉行所に自首した。4月、江戸伝馬町牢獄に、やがて野山獄に移された。金子重輔は獄中で病死した。松陰は金子の獄死に号泣したという。元々、金子重輔は染物屋の商人だった。それを足軽として「藩士」へと推薦したのが吉田松陰である。ぼくのせいで金子くんが…ぼくのせいだ。だが、牢獄には高須久子という女と富永有隣らと同囚となった。高須という女は知識に明るく、吉田松陰も驚く程の「博学」で「歌詠み」であった。個人的につまり、女性として懸想(けそう・ラブ)したかどうかは知らない。
  吉田松陰は男であり、男色(ホモ)ではなく、しかも「絶倫であった」ときくから、懸想くらいはしたのであろう。久子がデブスなら話は別だが。
 歴史記には高須久子は相当「美人」であったとされている。
 そのうえ「博学」「薄幸」であれば惚れない方がどうかしている。吉田松陰は囚人たちの間で「獄内俳句の会」を結成していく。どこまでも「学問」のひとである。
  ……かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂……
  ……親思ふこころにまさる親ごころけふの育ずれ何ときくらん………

   しかし、松陰は諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。幕府に睨まれるのを恐れた長州藩(薩摩との同盟前)はかれを処刑してしまう。
 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。
 …吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
「何をいうのだ?その吉田松陰とやらは…」
 井伊直弼大老は「草莽掘起論」を長州藩の過激派が主張する「尊皇攘夷論」と勘違いした。
「この国の為にならぬ尊皇攘夷派は一掃(皆殺し)してしまえ」
 井伊大老の「安政の大獄」とは一言で言えばそういうことで、ある。
「何故に私の志がわからぬ! 徳川幕府は開国しかないと知りながら只、今あることに糊塗するだけだ。このまんまではこの国が瓦解して、外国の植民地にされてしまう!」
「黙れ! 何が草莽掘起じゃっ?! 攘夷など出来ると思うとるのか、おまはんは!」
 吉田松陰は牢獄で拷問を受け、痣や傷だらけになりながら「攘夷ではない! 開国だ! 外国の軍備や知識をとりいれ、開国するのが「草莽掘起論」です!」
「せからしか!」
 後ろ手で縄縛りにされ、木刀で殴られた松陰は気絶した。しかし、容赦なく冷水が浴びせられる。「おまはんは危険分子じゃっ! どうせ死罪じゃ!」
 気絶した松陰は悪夢を見た。いや、実際「悪夢」は「現実」であるのだ。今度ばかりは、毛利公も「助け舟」を出せない。奉行所の裁きは、当たり前のように「死罪」であった。
 吉田松陰は白い囚人服のまま、その夜、此の世で最後の夜月をみた。涙が溢れてきた。ああ、この思いをいったいこの広い世界で、誰が、誰が、理解できるだろう。
 …桂くん、久坂くん、高杉くん、佐久間さん、文、勝さん、殿、天子さま……
  吉田松陰はそのときはじめて「自己の完成」を知った。「成程、ひとしらずして憤らず、とはこういうことか、孔子とはこういうことで語ったのだな?」
 思わず、口元が緩んだ。最期だからこうなったんだ。なるほどな。