天皇一家と諸王
皇后美智子との間に3子がいる。
浩宮徳仁親王(ひろのみや なるひと、1960年(昭和35年) - ) - 皇太子
礼宮文仁親王(あやのみや ふみひと、1965年(昭和40年) - ) - 秋篠宮
紀宮清子内親王(のりのみや さやこ、1969年(昭和44年) - ) - 黒田慶樹夫人
逸話[編集]
誕生[編集]
第5子にして初めて誕生した皇子であっただけに、その誕生は非常な喜びをもって受け止められた。その奉祝ムードは実に盛大なもので、東京市内では提灯行列が出た。軽快な曲調の「皇太子さまお生れなつた」(作詞:北原白秋 / 作曲:中山晋平)との奉祝歌までが作られたほどである。当時小学生であった老人などの中には、前述の歌を未だに記憶しており、すらすらと歌うことができる者もいる(たとえば女優の森光子は2009年(平成21年)の秋の園遊会で、「天皇さまの誕生のときをいまもはっきり覚えている」といい、天皇本人の前で「皇太子さまお生れなつた」のさわりを歌ってみせた)。北原白秋は他にも幼少時代の親王を称える歌「継宮さま」を作詞している。
誕生に際して「日嗣の御子は生れましぬ」との和歌も詠まれており、生まれながらの皇太子であった。
少年時代[編集]
1938年(昭和13年)、三輪車に乗る明仁親王
幼少時代には左利きであったと伝わる。その後、矯正した結果現在は両手利きであるという。
学友たちとは親しく交遊し、臣下の悪童たちに混じって数々の悪戯もしたという。「雨夜の品定め」をした、トンボを油で揚げて食べた、蚊取り線香の容器型のスタンプを作ってノートに押したなどの逸話も伝わっている。
戦時中は奥日光・湯元の南間ホテルに疎開した。この時、昭和天皇から手紙を送られている。
疎開先で戦況についての説明を受けた際、特攻に対して疑問を感じ、「それでは人的戦力を消耗する一方ではないか?」と質問して担当将校を返答に窮させたという。
敗戦時の玉音放送の際にはホテルの2階の廊下に他の学習院生と一緒にいたが、皇太子という立場を慮った侍従の機転によって(内容が内容だけに、何が起こるか分からない)御座所に引き返して東宮大夫以下の近臣とともに放送を聞いた。放送の内容には全く動揺を示さなかったが、放送が終わると静かに涙を流し、微動だにしなかったという。
その後、東宮大夫から玉音放送についての説明を受けるとすぐに悲しみから立ち直り、敗戦からの復興と国家の再建を率いる皇太子、将来の天皇としての決意を固めた。当日の日記にも、強い決意が記された。
一方で戦後の混乱期と重なった思春期には思い悩むことも多く、「世襲はつらいね」などと漏らしたことを学友がのちに明かしている。またそうした辛いときに両親である天皇皇后と別々に暮らさざるを得なかった体験が、後に子供たちを手元で育てることを決意させたともいう。
学友の橋本明とは身分を忘れ本気で喧嘩をするほどの間柄であったと言われる。
学習院時代には馬術部に所属し、高校2年生の秋以降は主将として活躍した。1951年(昭和26年)1月には、第1回関東高校トーナメントにて優勝している。
皇太子時代[編集]
皇太子時代のMGM撮影所見学、1953年(昭和28年)
1952年(昭和27年)、18歳で立太子の礼を挙行。立太子礼に際しては記念切手が発行され、その図案には明仁親王の肖像が選ばれる予定であったが、宮内庁の反対によって実現しなかった。
1953年(昭和28年)6月2日のエリザベス2世戴冠式のために同年3月30日から同年10月12日まで外遊。この前年に、日本は主権を回復しており、明仁親王の訪欧は国際社会への復帰の第一歩と期待された。
出発の際には、皇居から横浜港まで、小旗を持った100万人もの人が見送ったと言う。また、テレビ開局以来初の大規模イベントとなり、各放送局が実況中継した。特にNHKは600ミリ望遠レンズを使用して、甲板に立つ皇太子の姿をアップで撮影することに成功して視聴者を驚かせた。
大型客船プレジデント・ウィルソン号(アメリカン・プレジデント・ライン社所属、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船した。同船には、三島由紀夫も2年前に乗船し渡米するなど、多くの日本人旅行者とも縁の深い船であった。日本人向け遊具で碁盤と碁石も積まれていた。船上では早稲田大学バレーボール部の面々と記念撮影をし、麻雀や将棋、囲碁、卓球なども楽しんだ。特に麻雀はウィルソン号乗船中は乗り合わせた董慶稀(曹汝霖の娘)が幹事を務める一等船客対抗麻雀大会に参加し日本式のみならず中国式の麻雀も楽しんだ。クイーン・エリザベス号に乗り換えてのアメリカからイギリスへの旅路では朝海浩一郎公使や報道陣と公使持参の牌でサザンプトンに着くまで熱中したという。この外遊以降、麻雀は趣味のひとつとなり昭和天皇にも面白さを紹介、弟の常陸宮などとも対局したと言われる。
欧州到着後は西ドイツ・ニュルブルクリンクで1953年F1GP第7戦ドイツGP決勝を観戦。主催者の提案により表彰式のプレゼンターも務め、優勝したジュゼッペ・ファリーナ(フェラーリ所属。戦前からの名選手で、1950年には初代F1チャンピオンを獲得している)を祝福している。つまり、明仁親王は日本人で初めてF1GPの表彰台に上がった人物ということになる。平成初期のF1ブームを思うと、奇縁というべき出来事である。この時には、「競馬より面白い」との言葉を残している。
イギリスでは、第二次世界大戦で敵対国であった記憶は未だ褪せておらず、戴冠式において13番目の席次(前列中央の座席で、隣席はネパール王子)を与えられたが、女王との対面まで長時間待たされた。また女王は、握手は交わしたが視線は交わさなかった。
長期にわたって外遊した結果、単位不足で進級できず留年を回避するため、学習院大学政治学科を中退し聴講生として大学に残った。このため、最終学歴は「学習院大学教育ご終了」(宮内庁ウェブサイトに拠る)としている。なお学習院高等科出身者以外の政治学科同級生に両国高校から現役進学した後の日本会議国会議員懇談会初代会長島村宜伸がいる。島村は1956年(昭和31年)3月に政治学士となり、39年5か月後の1995年(平成7年)8月に村山改造内閣で初入閣し文部大臣の認証を受けている。
1959年(昭和34年)4月10日の結婚の儀の記念切手では、4種のうち10円と30円で皇太子妃と一緒の肖像が発行された。また切手は郵政省から皇室と正田家に「皇太子御成婚記念切手帖」が献上されている。
結婚・独立後も週に一度から数度は参内し、父である昭和天皇と食事を共にすることも多かった。こうした場を通じて帝王学の教授を受けたと言われる。
諸事の決定については独立後も昭和天皇の決裁を仰ぎ、様々な事柄について報告していたと伝わる。
「できないことは口にしない、できることだけを口にする」という信念を持っており、家族が自分の役目をおろそかにしたときには「もうしなくてよろしい」と叱責したこともあった。
昭和天皇からは名代として篤く信頼され「東宮ちゃんがいるから大丈夫」と手放しの賞賛を受けている。
1960年(昭和35年)にシカゴ市長により寄贈された、ミシシッピ川水系原産のブルーギルを皇太子が日本に持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈した。これは当時の貧しい食糧事情を思っての事であったが、ブルーギルは水生昆虫や魚卵・仔稚魚を捕食して日本固有の生態系を破壊するものであったため、後に「今このような結果になったことに心を痛めています」と異例の発言をしている。
即位後[編集]
ファイル:Emperor of Japan - Tenno - New Years 2010.ogv
国民へ向かって新年の挨拶。(2010年)
2005年(平成17年)12月23日、天皇誕生日一般参賀にて
2009年(平成21年)7月15日、ハワイ州ホノルル市にて
2011年4月17日、アメリカ合衆国国務長官ヒラリー・クリントン(左)と
昭和天皇崩御にあたり、相続税4億2800万円を納めた。また、皇居のある千代田区には住民税を納めている。
1992年(平成4年)に、アメリカ合衆国第41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュが来日した際には、皇太子徳仁親王とペアを組んで大統領とマイケル・アマコスト在日本アメリカ合衆国大使のペアとテニスのダブルスで2回対戦し、2回とも勝利している。特に2回目の敗北はブッシュにとってショックだったらしく、その夜に首相官邸で行われた晩餐会の席上にてインフルエンザ発症により倒れてしまった際、妻バーバラ・ブッシュがフォロースピーチでこの敗北をジョークにするなどして話題を呼んだ。
全国各地で発生した自然災害に対して、ともに悲しみ、被災者をいたわる姿勢を見せている。
1991年(平成3年)、雲仙普賢岳噴火の際には、島原からの避難民を床に膝を着いて見舞った。この膝を着いて災害被災者と直に話をする天皇のスタイルはその後も続いており、皇后や皇族も被災地慰問の際にはこれに倣っている。
1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災では、地震発生から2週間後の同年1月31日に現地に入り、スリッパも履かず避難所の床に正座して被災者の話に聞き入った。この姿は日本のみならず、日本国外の新聞にも大きく取り上げられ、反響を呼んだ。被災者に対して「今は苦しい時があるかも知れないがいつかきっと幸福が訪れます。それまで地震なんかに負けず頑張りなさい」と励ました。被災者は天皇の慰めに涙を流したと伝えられた。この際には動転した被災者の少女が皇后に抱きつくという出来事もあったが、咎めることなく暖かく抱きしめた。帰り際には、マイクロバスの窓から手を振って被災者を励ます写真も残されている。
2000年(平成12年)に噴火した三宅島へ、島民の帰島が叶った2006年(平成18年)には、火山ガスの発生の恐れがまだあるにもかかわらず、三宅島を慰問。島民を励ました。
2001年(平成13年)のアメリカ同時多発テロ事件に際してハワード・ベーカー駐日アメリカ大使を通じてブッシュ大統領に見舞いの言葉を贈っている。天皇が天災以外の理由で外国にお見舞いの言葉を贈ったのは前例のないことであり、それについて「皇室は前例を重んじなければなりませんが、その前例の中には前例がないにもかかわらずなされたものもあります。皇室も伝統を重んじつつ、時代の流れに柔軟に対応しなければならないと思います」と説明している。
2004年(平成16年)の新潟県中越地震の際には、自衛隊のヘリコプターで被災地を見舞った。2007年(平成19年)の新潟県中越沖地震に際しては、現地に赴いて被災者を見舞い、また被災者を思う心情から夏の静養を取り止めた。2008年(平成20年)9月8日、新潟県行幸の折り、被害の大きかった旧山古志村(現長岡市)を視察。その後被災者と懇談し、励ましの言葉をかけた。また、中越地震発生4日後に救出された男児(当時2歳)が無事に成長していることを知り、その成長を喜んだ。
2005年(平成17年)の台風14号で大きな害を被った宮崎県・鹿児島県に見舞い金として金一封を贈った。
2007年(平成19年)の能登半島地震に際しては慰問は実現されていないが、「元気になってください」との言葉を寄せた。
2007年(平成19年)10月29日から31日まで、福岡県西方沖地震被災地を見舞うため福岡に行幸した。29日には被災者の暮らす仮設住宅を慰問、当日福岡市内は天皇の宿泊したホテルニューオータニのある中央区を中心として、朝から交通規制が敷かれ、夕方まで渋滞した。しかし警備はホテル敷地内にSPが立ち、柳橋方面に少数の制服警官が配置されるなど最低限のものであり、市内は平素と変わらなかった。29日夕方には提灯行列が出て天皇の訪問を奉祝した。翌30日には同地震により最大の被害を受けた玄界島も慰問した。
2002年(平成14年)2月20日、チェロの師・清水勝雄が死去。その夜、皇后のピアノ伴奏に合わせて演奏を行ない、故人を偲んだ。会見においても、その人柄を回想していた。
2005年(平成17年)6月28日、サイパン島訪問の際には当初の訪問予定に含まれていなかった韓国・朝鮮人慰霊碑(追悼平和塔)に皇后を連れて立ち寄った。これは天皇の意向だったとされている。
2007年(平成19年)の佐賀県行幸の際、到着した天皇を出迎えた市民の一部が自然発生的に『君が代』を歌い始めた際には、その場に足を止め、皇后を促して歌が終わるまでその場に留まり、歌が終わると手を振ってこれに応えた。この訪問に際しては、提灯行列も出るなどの歓迎を受けた。
2008年(平成20年)11月8日、先代の昭和天皇同様、慶應義塾大学創立150周年記念式典に皇后と共に臨席し「おことば」を述べた。
2009年(平成21年)10月11日には、東京海洋大学品川キャンパスで日本魚類学会の年会に参加し、東京海洋大客員准教授を務めるさかなクンと歓談した。さかなクンは懇談中も脱帽せず、そのキャラクターを特徴付けるハコフグの帽子を被ったままであったが、これを非礼とすることはなかった。
2011年(平成23年)3月11日発生の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)については前述のように異例のビデオメッセージを送ったほか、各地の避難所を皇后とともに歴訪している。
2013年(平成25年)4月15日、1泊2日の私的旅行に出掛けた。行き先は長野県で、千曲市にある「あんずの里」を散策した。定例の静養や公的行事の出席ではなく、自ら場所と時期を選んで出掛けた即位後初の私的宿泊旅行である。
人物に関するもの[編集]
1949年(昭和24年)、祖母皇太后節子(後の貞明皇后)とともに
1950年(昭和25年)、妹・貴子内親王とともに
1952年(昭和27年)、父・昭和天皇とともに
1952年(昭和27年)、弟・正仁親王とともに乗馬を楽しむ明仁親王(手前)
1954年(昭和29年)、妹・清宮貴子内親王(右)と、皇太子のプリンス・セダンの前にて
2010年現在使用しているとされる2代目インテグラ(写真は同型北米仕様車)
自動車愛好家であり、大学在学中に自動車の運転を習得。1953年のエリザベス女王戴冠式出席に際してはデイムラーのSOHCをイギリスで購入してきた。独身時代にはしばしば、成婚後もしばらくの間、愛車でドライブを楽しんでおり、国産車では1954年に献上されたプリンス自動車(現:日産自動車)のプリンス・セダン(後年、日産自動車に返還され現存)以降、通算9台のプリンス車を用いた。その中にはプリンスの試作1900ccエンジンを先行搭載した初代スカイラインや、高級車「グランド・グロリア」の車室スペースを延長した特注車も含まれていた。
なおプリンス自動車は旧名をたま自動車と称したが、1952年の最初のガソリン車発売が明仁親王の立太子と同年となったことを記念して社名をプリンスと改めた。以後の自動車献上・提供も含め、同社会長・石橋正二郎の皇室崇敬の念が大きかったことが背景にあった。かつての御料車がプリンス自工開発による日産・プリンスロイヤルだったのはこれらの縁による。
軽井沢において学友の所有するアルファロメオ・1900を運転したこともあり、護衛として警察車が随伴したが、警察の日本製パトカーは性能が劣っていたため、ついていくのに必死の思いであったという。また自動車評論家として知られる徳大寺有恒は、皇太子時代の天皇が運転するスカイラインに対向車として遭遇し、大いに驚いた体験を自著に書き残している。
このほかホンダ・アコード、レジェンドクーペ、インテグラなど、運転したことがあるとされる車種は非常に多い。メカニズムにも通じ、皇太子時代に鳥取県への行幸で公用車運転手が峠越えの運転に馬力不足で難渋した時には、後席から(エンジン負荷を減らすため)「クーラーをお止めなさい」と命じた逸話がある。
現在でもフォルクスワーゲン・ビートルをまれに運転することがあるという。2007年(平成19年)には高齢者講習を受講し、紅葉マークを取得したと伝わる。2010年(平成22年)現在、プライベートで運転するのは1991年(平成3年)製のグレーのホンダ・インテグラ(4ドア仕様・MT)。週末に御所から宮内庁職員用テニスコートへ行く際、助手席に皇后、後部座席に侍従を乗せて運転する姿が放映された。
公務においてもタコグラフの製造工場を見学するなど、自動車との縁が深い。
鉄道に関する関心も深く、学習院大学時代の論文はヨーロッパの鉄道史に関する内容であったと言われる。JR東日本は皇族の公用移動のため専用の御料車を用意しているが、自身は特別扱いを嫌うため、御料列車で移動することは少なく、その意向に従って一般の車両のグリーン車などをお召し列車として貸切使用することが多い。
ビクトリアカナダ空軍基地において軍用機のコクピットに座ったこともあり、写真が残されている。またビクトリアからバンクーバーまではこの空軍機で移動した。同機の機長だったデーブ・アダムソン中佐とは2009年(平成21年)のカナダ訪問の際に再会し、「あなたのことはよく覚えています」と旧交を温めていた。
学生時代(学習院高等科3年の試験が終わった日)、学友である橋本明(橋本龍太郎の従兄弟)に「銀座に行きたい」と相談し、学友が「いつがいいか?」と尋ねると「今日がいい」と答えた。「一人ではなくもう一人連れていこう」と提案し、承諾(もう一人は出雲国造の千家崇彦)。新任だった東宮侍従濱尾実など仕えている周りの人間を「今宵、殿下を目白の方にご案内したい」など騙して抜け出すことに成功し、3人で銀座をぶらついた。このとき銀座4丁目あたりで慶應ボーイ4人と出会い、慶應ボーイは「殿下こんばんは」と挨拶したという。高級喫茶店「花馬車」で橋本の彼女と合流し、皆でお金を出し合い、一杯99円のコーヒーを飲み、洋菓子屋「コロンバン」でアップルパイと紅茶を楽しんだり、満喫したようだが、当然ながらすぐに事件は発覚。大騒ぎになり、居場所を突き止められると、銀座に警察官が20 - 30メートルおきに配置されてしまい、これ以上散策が出来なくなり終了した。また、連れ出した学友は警察と皇室関係者にこっぴどく叱られた。これが有名な「銀ブラ事件」である。
結婚のパレードは民間放送開始から5年目でまだ高嶺の花だったテレビの普及に大いに貢献した。「ご成婚パレードをテレビで見よう」の宣伝文句が今に伝わっている。
皇太子時代、タイ王室からタイ国民の蛋白質不足について相談を受け、養殖の容易なティラピアを50匹寄贈した。タイではこのティラピアを大いに繁殖させて、バングラデシュの食糧危機に際して50万匹を寄贈した。のちにこの魚には華僑によって「仁魚」という漢名が付けられた。
同じく皇太子時代、インドネシアからの打診を受けてコイの品種改良を行ない、ヒレナガニシキゴイを誕生させている。
靖国神社には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は参拝していない。一方で靖国神社の元宮司である南部利昭には、宮司就任前に「靖国のこと、頼みます」と声をかけている。
昭和天皇と同じく、宮中祭祀にはきわめて熱心であり、諒闇(服喪中)や病気を除くとほとんどの宮中祭祀に代拝を立てず御自ら出席している。
幼少時は豆腐料理を好物とした。成人してからは中華料理を好んだ。
多忙な毎日であっても俗事にも通じていることで知られる。あるミュージシャンとの会話でデーモン閣下の話題が出た折、「ああ、あの白い顔の」とその存在を知っていたことを口にしたエピソードが、デーモンがパーソナリティを務めるラジオ番組で紹介されたことがある。
上記のデーモン閣下の件でも判るように、芸能音楽やスポーツ界の事情にも通じており、芸能音楽やスポーツ界関係者を招いた皇居でのお茶会や赤坂御苑での園遊会が催された際には、出席した各関係者に詳しい質問をする。そのため、天皇に質問された出席者は「陛下が自分のことについてこちらがドキッとするほどお詳しいので恐縮に堪えません」などと記者団に感想を述べることが多い。
ただ「好きなテレビ番組は?」との質問については、「各局の競争が激しいので…」などと回答を拒否するのが普通である。ただし、皇太子時代に一度、『暴れん坊将軍』(テレビ朝日)を好きな番組に挙げた事がある。
時折、くだけた一面も覗かせる。登山時に天皇の姿が見えなくなった折、取材のため同行した新聞記者が天皇のことをうっかり「おとうちゃん」と呼んだところ、記者の背後に突然現れ「おとうちゃんはここにおりますよ」と冗談めかして言い、驚かせたことがある。
皇居がある千代田区は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う計画停電の対象外地域であったが、「国民と困難を分かち合いたい」とする天皇の意向により、皇居は停電時間に合わせ電源を落とした。計画停電の実施が終了した後もこの「自主停電」は続けたという。
2011年7月29日から8月10日、アメリカの調査会社GfKとAP通信が、日本全国の成人1000人を対象に電話で行った世論調査では、各国の元首や首脳についての設問で、天皇は「好き」を70%獲得し、オバマ大統領(同41%)などを大幅に超えて1位であった。
発言[編集]
「ご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げられるお方」
1958年(昭和33年)11月27日、正田美智子が婚約記者会見にて発言した皇太子評。流行語にもなった。
「天皇の歴史というものを知ることによって、自分自身の中に皇族はどうあるべきかということが次第に形作られてくるのではないか」
1977年(昭和52年)、帝王学について
「点数を付けることは出来ないが、まあ努力賞ということで」
1984年(昭和59年)4月10日、銀婚記者会見にて。皇太子妃に対して
この発言は報道陣の爆笑を誘った。
「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません。」
1989年(平成元年)1月9日、即位後朝見の儀にて
「日本国憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると規定されています。この規定と、国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です。」
1998年(平成10年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて
「皆様が雨に濡れて寒いのではと案じています。」
1999年(平成11年)11月20日、在位十年記念式典にて
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています。」
2001年(平成13年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて
この発言は内外の興味を強く引き、韓国においても大々的に報道された。桓武天皇#今上天皇の発言も参照。
「私にとっては沖縄の歴史を紐解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました。」
2003年(平成15年)12月18日、誕生日に際する記者会見にて
母方の祖母・俔子妃が島津家の出身である。
「やはり、強制になるということではないことが望ましいですね。」 - 東京都教育委員の米長邦雄の「日本中の学校に国旗を掲げ、国歌を斉唱させるのが私の仕事です」という発言に対して
2004年(平成16年)10月28日、秋の園遊会にて
「皇太子の記者会見の発言を契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました。」 - 人格否定発言を受けて
2004年(平成16年)、誕生日に際する文書回答より
「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います。」
「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、(中略)私の皇室に対する考え方は、天皇および皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが(中略)、皇室の伝統ではないかと考えているということです。」
以上、2005年(平成17年)12月19日、誕生日に際する記者会見にて
「これからの日本の教育の在り方については関係者が十分に議論を尽くして、日本の人々が自分の国と自分の国の人々を大切にしながら世界の国の人々の幸せに心を寄せていくように育っていくことを願っています。戦前のような状況になるのではないかということですが、戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。(中略)1930年から1936年の6年間に要人に対する襲撃が相次ぎ、総理または総理経験者4人が亡くなり、さらに総理1人がかろうじて襲撃から助かるという、異常な事態が起こりました。そのような状況下では議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています。」 - 在日外国報道協会代表質問「教育基本法改正に伴い愛国心の表現を盛り込む事が、戦前の国家主義的な教育への転換になるのでは」に対し
2006年(平成18年)6月6日、シンガポール・タイ王国訪問前の記者会見にて
「残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです(中略)いずれ会う機会が増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています。」
2006年(平成18年)12月20日、誕生日に際する記者会見にて
「ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したもの。食用魚として期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています。」
2007年(平成19年)第27回全国豊かな海づくり大会にて。
「皇太子妃が病気の今、家族が皆で、支えていくのは当然のことです。私も、皇后も、将来重い立場に立つ皇太子、皇太子妃の健康を願いつつ、2人の力になっていきたいと願っています。」
2008年(平成20年)12月23日、誕生日に際する文書回答にて
「大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います。」
「2人のそれぞれの在り方についての話合いも含め、何でも2人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。皇后はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活に、いつも笑いがあったことを思い出します。(中略)結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます。」
以上、2009年(平成21年)4月8日、結婚満50年に際する記者会見にて
「今日の世界は決して平和な状態ではあるとはいえません。明るい面として考えられるのは、世界がより透明化し、多くの人々が事実関係が共有できるようになったことです。拉致の問題も、それが行われた当時は今と違って、日本人皆が拉致を事実として認識することはありませんでした。このため拉致が続けられ、多くの被害者が生じたことは返す返すも残念でした。それぞれの家族の苦しみはいかばかりであったかと思います。」
「皇位継承の制度にかかわることについては、国会の論議にゆだねるべきであると思いますが、将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要と思います。2人は長年私と共に過ごしており、私を支えてくれました。天皇の在り方についても十分考えを深めてきていることと期待しています。」
以上、2009年(平成21年)11月11日、即位20年に際する記者会見にて
「(公務の)負担の軽減は,公的行事の場合、公平の原則を踏まえてしなければならないので,十分に考えてしなくてはいけません。今のところしばらくはこのままでいきたいと考えています。私が病気になったときには、昨年のように皇太子と秋篠宮が代わりを務めてくれますから、その点は何も心配はなく、心強く思っています。」
2012年(平成24年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて
「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ、改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。」
「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています。」
以上、2013年(平成25年)12月23日、誕生日に際する記者会見にて
系譜[編集]
明仁(今上天皇) 父:昭和天皇
祖父:大正天皇 曾祖父:明治天皇
曾祖母:柳原愛子
祖母:貞明皇后 曾祖父:九条道孝
曾祖母:野間幾子
母:香淳皇后 祖父:邦彦王(久邇宮) 曾祖父:朝彦親王(久邇宮)
曾祖母:泉萬喜子
祖母:俔子 曾祖父:島津忠義
曾祖母:山崎寿満子
高祖父:孝明天皇
高祖母:中山慶子(明治天皇生母)
系図[編集]
122 明治天皇
123 大正天皇
124 昭和天皇
秩父宮雍仁親王
高松宮宣仁親王
三笠宮崇仁親王
125 今上天皇(平成天皇 明仁)
常陸宮正仁親王
寛仁親王
桂宮宜仁親王
高円宮憲仁親王
皇太子徳仁親王
秋篠宮文仁親王
悠仁親王
著書[編集]
『ともしび 皇太子同妃両殿下御歌集』 宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年(昭和61年)12月 ISBN 9784573143012
『道 平成元年(1)平成10年 天皇陛下御即位十年記念記録集』
宮内庁編、日本放送出版協会、1999年(平成11年)10月 / 新装版2009年(平成22年)9月、ISBN 4140813903
『道 平成11年(2)平成20年 天皇陛下御即位二十年記念記録集』
宮内庁編、日本放送出版協会、2009年(平成22年)9月、ISBN 414081389X
『天皇陛下科学を語る』 宮内庁侍従職監修、朝日新聞出版、2009年10月 ISBN 4023304522
『日本産魚類大図鑑=The fishes of the Japanese archipelago』 東海大学出版会、1984年(昭和59年)12月
ISBN 4-486-05053-3(図版)
ISBN 4-486-05053-3(解説)
ISBN 4-486-05054-1(Text)
論文『ハゼ科魚類の進化』を所収(他に第2版で、ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)、益田一ほか編。
『日本の淡水魚』 山と溪谷社、1989年(平成元年)11月、ISBN 4-635-09021-3
(チチブ類の項目を執筆)、川那部浩哉、水野信彦編・監修
『日本産魚類検索 全種の同定』 東海大学出版会、1993年(平成5年)10月 / 第2版2000年(平成12年)12月 / 第3版2013年(平成25年)3月、ISBN 4486018044
(ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)、中坊徹次編
栄典[編集]
ガーター騎士団員としての紋章
大勲位菊花章頸飾
ガーター勲章 (ガーター騎士団員)(イギリス):1998年5月26日受勲。
レジオンドヌール勲章グランクロワ(フランス)
ドイツ連邦共和国功労勲章特等大十字章(ドイツ)
金羊毛勲章(金羊毛騎士団員)(スペイン)
ラーチャミトラーポーン勲章(タイ)
大チャクリー勲章(タイ)
<ウィキペディアからの引用「天皇制」>
概要[編集]
「天皇制」という用語は「君主制」を意味するドイツ語 Monarchie のマルクス主義者による和訳。1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。[要出典]1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえ、天皇制と規定した。敗戦まで、「天皇制」という用語は反体制であるとみなされていた。
「天皇制」という用語は敗戦とともにごくありふれた日本人のボキャブラリーとなり、天皇制に賛成か反対かなどと世論調査の項目でも用いられるようになった。なお、当時アメリカではEmperor Institution, the Imperial Institutionなどの語が用いられ、その制度の存廃が大きな検討事項とされていた。
以下、古代以来の天皇と政治体制との関わりを中心に解説する。
歴史[編集]
古代[編集]
歴史学上、天皇制は古墳時代に見られたヤマト王権の「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」(あるいは「大王(おおきみ)」)に由来すると考えられている。3世紀中期に見られる前方後円墳の登場は統一政権の成立を示唆しており、このときに成立した大王家が天皇の祖先だと考えられている。大王家の出自については、弥生時代の邪馬台国の卑弥呼の系統を大王家の祖先とする説、大王家祖先の王朝は4世紀に成立したとする説、など多くの説が提出されており定まっていない。当初の大王は軍事的な側面だけではなく、祭祀的な側面も持っていたと考えられる。
7世紀後半から中国の政治体制に倣った律令制の導入が進められ、701年の大宝律令によって律令制が確立した。国号(日本)と元号(大宝)が正式に定められ、歴代天皇に漢風諡号が一括撰進された。こうして天皇を中心とした中央集権制が確立し、親政が行われた(古代の国体「建国ノ體」)。710年には平城京に遷都した。
9世紀ごろから貴族層が実質的な政治意思決定権を次第に掌握するようになっていった。10世紀には貴族層の中でも天皇と強い姻戚関係を結んだ藤原氏(藤原北家)が政治意思決定の中心を占める摂関政治が成立した。
11世紀末になると天皇家の家督者たる上皇が実質的な国王(治天の君)として君臨し、政務に当たる院政が始まった。天皇位にある間は制約が多かったものの、譲位して上皇となると自由な立場になり君主としての実権を得た。院政を支えたのは中級貴族層であり、藤原氏(摂関家)の地位は相対的に低下した。
中世[編集]
鎌倉に武家政権が成立すると、天皇・上皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈した。承久の乱では幕府側が勝利を収めた。だが、天皇側の勢力もまだ強く、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇が天皇親政を復活させた。建武の新政参照。
室町幕府が成立すると天皇は南朝・北朝に分裂した(南北朝時代)。長い戦乱が続いた末、室町幕府の3代将軍足利義満によって南北朝の合一が果たされた(1392年)。義満は幕府の権力を強化するとともに、「日本国王」として明皇帝に朝貢する形式で勘合貿易を行った。義満の死(1394年)に際して朝廷は「鹿苑院太上法皇」の称号を贈った(これらのことなどから、義満が皇位を簒奪する意図を持っていたと考える史家もいる)。
8代将軍足利義政の時代に応仁の乱が起こり、やがて戦国時代に入り、幕府の勢力は衰えた。戦乱の世にあって、天皇・朝廷の勢力も衰えていったが、主に文化・伝統の継承者としての役割は存続していた。
近世[編集]
織田信長、豊臣秀吉も天皇の存在や権威を否定せず、政治に利用することによって自らの権威を高めていった。江戸幕府のもとでも天皇の権威は温存されたが、「天子諸芸能ノ事、第一御学問也」とする禁中並公家諸法度が定められ、朝廷の立場は大きく制約されることになった。紫衣事件などにみられるように、年号の勅定などを僅かな例外として政治権力はほとんどなかった。
幕府が学問に儒学の朱子学を採用したことから、覇者である徳川家より「みかど」が正当な支配者であるという尊王論が水戸徳川家(水戸藩)を中心として盛んになった。
尊皇攘夷論[編集]
江戸時代末になると尊皇攘夷論が興り、天皇は討幕運動の中心にまつりあげられた。尊王攘夷論は、天皇を中心とした政治体制を築き、対外的に独立を保とうという政治思想となり、幕末の政治状況を大きく揺るがせた。吉田松陰の唱えた一君万民思想は擬似的な平等思想であり、幕府の権威を否定するイデオロギーともなった。しかし、尊皇攘夷派の志士の一部は天皇を「玉」(ぎょく)と呼び、政権を取るために利用する道具だと認識していた。
明治維新[編集]
江戸幕府が倒れ、明治の新政府は王政復古で太政官制を復活させた。なお、真の統治者が将軍ではなく天皇である事を知らしめるため、当時、九州鎮撫総監が“将軍はいろいろ変わったが、天子様は変わらず血統も絶えずに存在する”という趣旨の文書を民衆に配布している。京都府もやはり天皇支配を周知すべく告諭を行なっている。更に新政府は行幸をたびたび行なった。
ヨーロッパに対抗する独立国家を創出するため、明治政府による中央集権体制が創られた。明治政府は不平を持つ士族の反乱や自由民権運動への対応の中から、議会制度の必要性を認識していった。日本の近代化のためにも、国民の政治への関与を一定程度認めることは必要であり、近代的な国家体制が模索された。モデルになると考えられたのは、ヨーロッパの立憲君主国であった。
憲法下の天皇制[編集]
大日本帝国憲法[編集]
大日本帝国憲法はプロイセン王国やベルギー王国の憲法を参考に作成されたと言われている。伊藤博文は、ヨーロッパでは議会制度も含む政治体制を支える国民統合の基礎に宗教(キリスト教)があることを知り、宗教に替わりうる「機軸」(精神的支柱)として天皇に期待した。
天皇の地位[編集]
大日本帝国憲法第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第3条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定められており、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されていた。
天皇の大権[編集]
大日本帝国憲法においては、天皇は以下のように記されていた。
元首で統治権を総攬する。
陸海軍(=軍隊)を統帥する。
帝国議会の協賛を以って立法権を行う。
国務大臣によって輔弼される。
司法権はその名において法律により裁判所が行う。
立憲君主制[編集]
機務六条の締結と大日本帝国憲法の制定により、日本は立憲君主制になったとされる。大日本帝国憲法を起草した伊藤博文も、天皇に絶対君主の役割を期待するようなことはなかった。法文を素直に解釈すると、“万世一系の天皇之を統治す”、“神聖にして侵すべからず”など、大日本帝国憲法においての天皇は大きな権力を持っていたように読めるが、明治以降も、天皇が直接命令して政治を行うことはあまり無く、明治憲法制定後も当初は、藩閥政府が天皇の権威の下に政治を行っていたのが、後には議会との妥協を試みるようになった。この点について「君臨すれども統治せず」という原則をとる現代の日本やイギリスなどの近代的立憲主義とほぼ同じであったという意見がある。
一方、統帥権をはじめとした軍について、議会、内閣の関与が受けられない他、議会の関与を受けない枢密院の力が巨大であること、憲法上にない元老、内大臣が天皇の権威によって、政治に介入できるほか、解釈上法律で基本的人権を無制限に侵害することが可能とも読める(留保を定めた「臣民の義務に反せず法に定める範囲内で」の文言が各所にある)ため、憲法学者の間では外見的立憲主義でしかないとする意見が通説である[要出典]。
統帥権[編集]
衆議院において政府に反対する勢力が多くを占めることを予想して、貴族院に衆議院と同等の権限を持たせている。
実際に政治を運営するのは、天皇でなく元老や内閣(藩閥政府)の各大臣である。行政権は国務大臣の輔弼により天皇が自ら行うものとされた。大日本帝国憲法では、内閣の大臣は天皇を輔弼するもの(総理大臣も他の大臣と同格)と規定された。しかし、最終的な政治決断を下すのは誰か、という点は曖昧にされていた。対外的には、天皇は元首であるが実際の為政者は内閣としていた。内閣は憲法ではなく内閣官制で規定されており、内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの憲法上は対等な地位であった。
この憲法構造が昭和に入ってから野党や軍部に利用され、「軍の統帥権は天皇にあるのだから政府の方針に従う必要は無い」と憲法を拡大解釈して軍が大きな政治的影響力を持つこととなったといわれる(権力の二重構造、統帥権干犯問題)。軍が天皇を担いでクーデターを起こしても、政府がこれを制止鎮圧する術はなかったのである。二・二六事件の際は昭和天皇が、重臣達に「お前達が出来ぬと言うなら朕が直接鎮圧に行く」と述べたため、反乱軍は無条件降伏をしたため、反乱は鎮まった。また、終戦の際、ポツダム宣言の受諾・降伏を決定することが総理大臣に出来ず、天皇の「聖断」を仰ぐ他なかった。しかし、天皇は立憲君主としての立場を自覚していたため、上御一人(最高権力者)であってもこの2例を除いて政治決定を下すことはなかった。こうした政治的主体性の欠如した統治機構を、政治学者の丸山眞男は「無責任の体系」と呼んだ。
なお、明治以降から終戦までの天皇制は、従来の天皇制とは異なる極めて政治的な理由によって、大幅に制度を変えるものであるとして、「絶対主義的天皇制」「近代天皇制」という語が用いられることもある(天皇制ファシズム参照)。
日本国憲法[編集]
日本国憲法第1章が、天皇の地位と国民主権を規定し、日本国憲法第1条が以下の通り定める。
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く
天皇が「象徴」の地位にあること、また今後もそうあり続けられるか否かは主権のある日本国民の総意に基づいて決定されるという規定であり、象徴天皇および国民主権を規定するものとなっているのである。
第二条~第八条の構成は次のようになっている。
第2条 皇位の継承
第3条 天皇の国事行為に対する内閣の助言と承認
第4条 天皇の権能の限界、天皇の国事行為の委任
第5条 摂政
第6条 天皇の任命権
第7条 天皇の国事行為
第8条 皇室の財産授受
天皇は日本国憲法の定める特定の国事に関する行為のみを行うとされるようになり、国政に直接関与する権能は有しなくなり、また天皇の国事行為は内閣の助言と承認が必要とされ、内閣がその責任を負う、とされている。
「象徴天皇制」も参照
連合国軍最高司令官総司令部は国家の政体の中心に継続して皇室を維持する方針を採り、一方で昭和天皇によるいわゆる「人間宣言」を請け日本国憲法に国家象徴としての天皇(象徴天皇)の地位を導入する方針を指導した。この方針は昭和天皇の各地への行幸や皇太子結婚などのイベントを通して大衆に浸透し、一定の支持を得るに至った。この大衆の支持を基盤にした戦後の皇室制を松下圭一は大衆天皇制と評した。
憲法学会の学説では日本国憲法下の現行体制を立憲君主制とは捉えず、また天皇は元首ではないとする説と、実質的に元首であるという見解を示す説もある(「君主制(君主が元首である)」と「君主政(君主が執政者である)」では若干意味が違い、「民主政」と「君主政」の両立は有り得ないが、「民主政」と「君主制」は両立され得る)。
日本政府の公式見解(法制局の見解)は以下の通りである。
1973年(昭和48年)6月28日参議院内閣委員会、吉國一郎内閣法制局長官答弁「日本は近代的な意味の憲法を持っているし、憲法に従って政治を行う国家である以上、立憲君主制と言って差し支えないが、ただし明治憲法におけるような統治権の総攬者としての天皇をいただくような立憲君主制ではないことは明らかである」と述べた。
1975年(昭和50年)3月18日、衆議院・内閣委員会において、政府委員の角田礼次郎(内閣法制局第一部長)は、質問に答える形で、旧憲法下の天皇と現在の憲法のもとにおける天皇の権能・地位は非常な違いがあると認め、大きな違い(の一番目)は、現憲法のもとにおける天皇は、第一条に明記されているがごとく、日本国の象徴であり日本国民の象徴であって、一口で言えば非政治的な地位にいることだと思う、とし、第二に、現在の(=現憲法下の)天皇は(旧憲法下では初めから地位を持っていた、とされていたのに対して)、やはり第一条に明記されているごとく、その地位が、主権の存ずる日本国民[注 1]の総意に基づくことだと思う、と述べた。
1988年10月11日参議院内閣委員会、大出峻郎内閣法制局第一部長答弁。(天皇は元首なのか?そうでないのか?といった主旨の問いに対し)『現行憲法(=日本国憲法)においては元首とは何かを定めてはおらず、元首の概念は学問上・法学上いろいろな考え方があるようなので、天皇が元首かどうかは、要は定義次第であると考えている。“元首”の定義として、外交のすべてを通じて国を代表し(かつ)行政権を把握しているとする定義を採用するならば、現行憲法においては天皇は元首ではないということになると思う。しかし、現代には「実質的な国家統治の大権を持っていないくても、国家においていわゆるヘッド(頭)の地位にある者を“元首”と見る」とする見解もあり、そのような定義を採用するならば、天皇は国の象徴であり外交関係では国を代表する面も持っているので、(その場合は)「元首」と言ってもさしつかえないというふうに考えている。』『憲法7条9号の「外国の大使および公使を接受すること」というのは、国事行為として、日本に駐在するために派遣される外国の大使・公使を接受するのであるから、この点では、形式的・儀礼的ではあるが天皇が国を代表する面を有している。それに対して、全権委任状あるいは日本の大使・公使の信任状を発出するのはもともと内閣の権限に属することであり、天皇はあくまでこれを認証するだけである。また批准書、その他の外交文書の作成も、内閣の権限に属することであり、天皇はこれを認証するだけである。そういう意味において、外交関係において国を代表する面を有しているとは言いにくいのではないかと理解している』
アメリカ・中央情報局の『ザ・ワールド・ファクトブック』では、日本の「Government type(政府・統治のタイプ)」としては「a parliamentary government with a constitutional monarchy」とし、「chief of state」としては 「Emperor AKIHITO (since 7 January 1989)」としている。諸外国は一般的に、外交上、日本を天皇を元首とした立憲君主国として扱っている。