緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

【NHK大河ドラマ 東京とオリンピック】33年ぶりに近代史を描く“クドカン大河”どう見る?

2016年11月27日 13時54分02秒 | 日記





























33年ぶりに近代史を描く“クドカン大河”どう見る?






2019年のNHK大河ドラマの脚本を担当する宮藤官九郎© 芸能ニュース 提供 2019年のNHK大河ドラマの脚本を担当する宮藤官九郎
 先ごろ、脚本家の宮藤官九郎が2019年のNHK大河ドラマの脚本を手掛けることが発表され、“クドカン”ファンたちをざわつかせている。クドカンといえば俳優・松尾スズキが主催の舞台『大人計画』出身の脚本家で、『池袋ウエストゲートパーク』(2000年/TBS系)をはじめ、第29回向田邦子賞を受賞した『うぬぼれ刑事』(2010年/TBS系)など話題作が尽きないが、王道ではなく、どこかサブカル寄りのイメージがあった。だが朝の連続テレビ小説『あまちゃん』(2013年/NHK総合)の大ヒットにより、その人気はお茶の間のものに。今や国民的脚本家の道を歩み始めているクドカンが描く大河ドラマ、しかも近代史の物語はどのような展開になっていくのか? 注目度は高い。

◆数々の名作を経て“若者ウケの脚本家”からも脱却

 宮藤官九郎は1970年生まれの46歳。松尾スズキが主催の舞台『大人計画』に所属する脚本家で、愛称はクドカン。ほかにも俳優、作詞家、作曲家、放送作家、映画監督、ミュージシャンなど数々の肩書を持つ。『大人計画』との出合いは、ボランティアスタッフ募集から松尾の舞台に参加。自ら『大人計画』に電話して、同劇団が脚本・演出家を養成する新設の文芸部に入ったのがきっかけだ。

 当時は北野武監督の映画『キッズ・リターン』(1996年)や、ドラマ『二千年の恋』(2000年/フジテレビ系)で俳優としても出演していたが、そんな彼の名を劇的に有名にしたのは、今や盟友となった俳優・長瀬智也主演のドラマ『池袋ウエストゲートパーク』。その後、『木更津キャッツアイ』(2002年/TBS系)などの脚本を手掛け、阿部サダヲらとのバンド・グループ魂など、その幅広い活動が認められて2003年、ゴールデン・アロー賞特別賞を受賞。2011年には『うぬぼれ刑事』で向田邦子賞を受賞し、2013年『あまちゃん』の大ヒットでは、「朝ドラ人気を復活させた」とまで言われた。「そんなクドカンさんが大河ドラマの脚本を担当するというニュースの驚きは、個人的には斉藤由貴さん主演の昼ドラ『吾輩は主婦である』(2006年/TBS系)以来」と語るのは、長年、クドカンを取材しているテレビ誌のライター。

「クドカンさんはシナリオ教室などに通うことなく、自己流で脚本の技術を学んだ叩き上げ。さらには若者という狭い層に受けるニッチな脚本家と思われていただけに、主婦層が主なターゲットで安定した筆力も必要となる昼ドラでの起用には驚かされました。危ぶまれもしましたが、蓋を開けてみれば同年のギャラクシー賞月間賞を受賞。見事“若者ウケの脚本家”のレッテルから脱却を果たしたのです。その後、朝ドラ『あまちゃん』での成功と成長は言うに及ばず、特筆すべきは2016年の『ゆとりですがなにか』(日本テレビ系)。“ゆとり世代”をテーマにした社会派コメディに挑戦したのですが、ギミックなどを使わなくても充分におもしろいその脚本にテレビ誌の記者たちは唸ったものです。実際、このときのインタビューでクドカンさんは『これまで『木更津~』の“裏”と“表”のようなギミックのある作品を書くのが好きだったが、『ゆとり~』では敢えてこれを止めシンプルに描いた。自身にとって初のチャレンジ』と語っています」(同ライター)

◆小ネタ全開の“クドカン節”が大河ドラマでも展開されるのか?

 そんなクドカンによる大河ドラマのテーマは“オリンピック”。1912年の日本のオリンピック初参加から1964年の「東京オリンピック」開催までの激動の52年間を描く。大河ドラマと言えば、そのイメージは時代劇。舞台となる時代は戦国時代から明治初期までが多く、現代史や近代史が描かれることは稀。だが1984年から1986年までは「近現代三部作」として山崎豊子原作・市川森一ら脚本による『山河燃ゆ』、杉本苑子原作・中島丈博脚本の『春の波涛』、橋田壽賀子オリジナル脚本による『いのち』が放送されており、大河ドラマが近代史を描くのは33年ぶりとなる。

 大河ドラマには“歴史の教科書”的な王道ドラマの印象もあるが、決して史実でガチガチに固められた作品ばかりな訳ではない。とくに当初は歴史“小説”の原作が多かったこともあり、司馬遼太郎原作の『竜馬がゆく』を筆頭に、登場人物を活き活きと描くことに重点を置いた“娯楽作品”または“時代劇の名を借りた青春劇”として成立していた。また実在の人物だけが描かれるわけではなく、大佛次郎原作・岡田茉莉子ら出演の『三姉妹』(1967年)では、初めて架空の人物がヒロインに。1980年にも架空の人物を菅原文太が演じる『黄金の日日』が放送されており、同作では宇崎竜童が音楽を担当。BGMにロック系のギターが流れるというチャレンジングな作品もある。

「権威的、メインストリーム的なイメージがついてしまうと、どうしても挑戦がしづらくなったりフットワークが鈍ったりする。そういった意味で今回のクドカンさんの起用は、大河ドラマが勢いのあった初期~80年代に立ち返ろうとする狙いも見られます。またクドカンさんは過去のインタビューで『決して新しいことをやることが目的ではない。オーソドックスな作風であっても、自分のなかに“新しさ”があればよい』と語っていますが、同時に『見れば宮藤官九郎の作品だと分かる自分らしさも欲しい』とも話しています。“伝統”という大地の上で、少年のように歌い、踊り、笑い、遊ぶ……そんなクドカンさんらしい、これまでに観たこともない大河ドラマがお茶の間を沸かせることになるのではと期待しています」(同)

 『池袋~』に熱狂した視聴者ももう40代以上。クドカンというとターゲットは“若者”のイメージだが、実は幅広い層にファンを持っている。そんな彼が『あまちゃん』の制作陣を得て、どのような大河ドラマを描いてくれるのか。小ネタと細かいやり取り全開の“クドカン節”は外せないだろう。『ゆとり~』のようにギミックなしで真っ直ぐに人間ドラマに向き合うのだろうか。リズム感のある心地よい笑いのなかにじんわりとした心温まる感動が織り込まれる作風が予想できる。

 同じく舞台出身の脚本家で現在放送中の『真田丸』を手がけている三谷幸喜ともその出自、経歴が重なるクドカン。その時代の空気をすくいとったエンタテインメントに仕上げ、幅広い層の共感を得るというウデも似ている。『真田丸』の評判が良いだけにクドカン大河への期待も自然と高まる。1年間という長い期間を通してどのような物語を紡ぎ出すのか、傑作が生まれることを期待して待っていてもよいのではないだろうか。
(文:衣輪晋一)

五稜郭と榎本武揚と北風と<榎本武揚の戊辰戦争維新回天白虎編>維新の風1

2016年11月27日 12時16分18秒 | 日記

























小説 五稜郭と
榎本武揚と北風と


                えのもとたけあき~男たちの選択~
                え ぞ            
               ~蝦夷へ! 幻の蝦夷共和国。
               榎本武揚の「箱館戦争」はいかにしてなったか。~
                ノンフィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


この作品は引用が多くなりましたので引用元に印税の数%を払い、引用料としてお許し願えればと思います。それでも駄目だ、というなら印税のすべてを国境なき医師団にすべて寄付しますので引用をお許しください。けして盗用ではないのです。どうかよろしくお願いします。緑川鷲羽   臥竜
この物語は日本テレビドラマ『五稜郭』(杉山義法氏原作・脚本)から引用しています。よって杉山義法氏側に引用料金として印税から0.78%を支払います。

          あらすじ

  黒船来航…
  幕末、榎本武揚は幕府の海軍副奉行に抜擢された。オランダ帰りの学識者である。奮起して開陽丸という船にのってオランダに留学して知識を得た。先進国を視察した武揚にとって当時の日本はいびつにみえた。彼は幕府を批判していく。だが勝は若き将軍徳川家茂を尊敬していた。しかし、その将軍も死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。 勝海舟に不満をもつ武揚は海軍を保持するが、やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、榎本幕府残党は奥州、蝦夷へ……
 そして箱館戦争勃発。榎本武揚の「蝦夷(北海道)共和国」は五ケ月で官軍につぶされる。切腹しようとしてとめられた榎本は官軍に投降、やがて投獄されるがあまりの知識をもっていたため新政府の要職へ。土方たちの死をもとに榎本は明鏡止水の心だった。

 今から百数十年前、北海道・蝦夷、戊辰戦争は箱館戦争終結の明治二年夏までまたなくてはならない。その蝦夷に共和国をつくったのが榎本武揚である。
「蝦夷には新天地がある! ジャンプしよう!」
 幕府海軍副総裁の榎本は薩長官軍に反発して、奥州(東北)、そして蝦夷(北海道)まで旧幕臣「榎本脱走兵」たちとともにいく。そこで共和国をつくるが、わずか五ケ月で滅ぼされてしまう。   
 幻の「蝦夷共和国」とは何だったのか? 榎本武揚の戦略とは何だったのか?
 それを拙書であきらかにしたい。幕末の英雄・榎本武揚とは………


         1 江戸最後の日





          
  榎本武揚は幸運なひとである。
 学識がゆたかであり、語学に優れて生まれたため、オランダまで幕府の援助で留学までできた。しかも、無事にオランダではスームビング号(開陽丸)まで手にいれた。
 榎本武揚の本名というか、前名は榎本釜次郎といい、慶応三(一八六四)年には三十六歳になっていた。面長だが、口髭を生やし、なかなかの色男である。
 榎本釜次郎は身分に似合わず、気さくで、愛想のいい男だったという。もっとも、寡黙というか無口なほうで、ほとんどいつも読書してるか、昼間採取してきた石や土の整理をしているか、さもなければぼんやりと物思いにふけっていた。
 しかし、黙っていても、眼や口元がたえず誰かに話しかけるように表情に富んでいるので、愛想いいような印象を与えてしまう。
 寡黙な男も、酒には弱い。
 酒がはいると陽気になって、冗談をいう。自慢の口髭を軽く指で撫でながら、冗談をいったり歌を歌ったりしてひとの気をひくのに長けた人物だったようだ。           
 そんな人望があったからこそ、旧幕臣も新選組の土方歳三もついていったのだろう。
 あの「鬼の土方」と恐れられた土方歳三をもひかれた榎本釜次郎とは何だったのだろう。 あの痩身な口髭のサムライは、幕府の要人はまた気さくな、人に慕われる人物で、寡黙な敗者ではあるが英雄である。
 英雄とは、人並み外れた頭脳と、体力と、ひらめき、霊感をもっているものである。榎本釜次郎にはそれがある。西郷隆盛(吉之助)にも、坂本龍馬にも、勝海舟(麟太郎)にも、高杉晋作にもそれがあった。
 大久保一蔵(利道)や桂小五郎(木戸孝允)にもそれがあったが、それは龍馬や高杉よりも大きな資質をもっていた。龍馬は若くして暗殺され、高杉晋作は若くして病死している。それにくらべて大久保利道や桂小五郎(木戸孝允)は維新を生き抜き、新政府の一翼を担った。西郷吉之助(隆盛)も新政府のメンバーに加わったが、士族(元・侍、武士、藩士)たちの御輿にのせられて、「西南戦争」などという馬鹿げた内戦をひきおこしている。西郷隆盛は英雄ではあったが、運がなかった。
 その点では、榎本武揚は敗者ながら運がよかった。
五稜郭に立て籠もり「箱館戦争」を起こして官軍と対立したが、殺されず、のちに明治政府の要職にまでついた。その意味では、最期は、西郷はやぶれ、榎本は勝った……
(大久保利道は維新後十年で暗殺され、木戸孝允も病死しているから、あながちふたりが成功者だった訳ではない。しかし、本当の成功者は最期まで生き残った大久保と木戸だ)
 
なおここから数十行の文章は小林よしのり氏の著作・『ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり「大東亜論 第5章 明治6年の政変」』小学館SAPIO誌2014年6月号小林よしのり著作漫画、72ページ~78ページからの文献を参考にしています。
 盗作ではなくあくまで引用です。前述した参考文献も考慮して引用し、創作しています。盗作だの無断引用だの文句をつけるのはやめてください。
  この頃、決まって政治に関心ある者たちの話題に上ったのは「明治6年の政変」のことだった。
 明治6年(1873)10月、明治政府首脳が真っ二つに分裂。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五人の参謀が一斉に辞職した大事件である。
 この事件は、通説では「征韓論」を唱える西郷派(外圧派)と、これに反対する大久保派(内治派)の対立と長らく言われていきた。そしてその背景には、「岩倉使節団」として欧米を回り、見聞を広めてきた大久保派と、その間、日本で留守政府をに司っていた西郷派の価値観の違いがあるとされていた。しかし、この通説は誤りだったと歴史家や専門家たちにより明らかになっている。
 そもそも西郷は「征韓論」つまり、武力をもって韓国を従えようという主張をしたのではない。西郷はあくまでも交渉によって国交を樹立しようとしたのだ。つまり「親韓論」だ。西郷の幕末の行動を見てみると、第一次長州征伐でも戊辰戦争でも、まず強硬姿勢を示し、武力行使に向けて圧倒な準備を整えて、圧力をかけながら、同時に交渉による解決の可能性を徹底的に探り、土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるという方法を採っている。勝海舟との談判による江戸無血開城がその最たるものである。
 西郷は朝鮮に対しても同じ方法で、成功させる自信があったのだろう。
 西郷は自分が使節となって出向き、そこで殺されることで、武力行使の大義名分ができるとも発言したが、これも武力行使ありきの「征韓論」とは違う。
 これは裏を返せば、使節が殺されない限り、武力行使はできない、と、日本側を抑えている発言なのである。そして西郷は自分が殺されることはないと確信していたようだ。
 朝鮮を近代化せねばという目的では西郷と板垣は一致。だが、手段は板垣こそ武力でと主張する「征韓論」。西郷は交渉によってと考えていたが、板垣を抑える為に「自分が殺されたら」と方便を主張。板垣も納得した。
 一方、岩倉使節団で欧米を見てきた大久保らには、留守政府の方針が現実に合わないものに見えたという通説も、勝者の後付けだと歴史家は分析する。
 そもそも岩倉使節団は実際には惨憺たる大失敗だったのである。当初、使節団は大隈重信が計画し、数名の小規模なものになるはずだった。
 ところが外交の主導権を薩長で握りたいと考えた大久保利通が岩倉具視を擁して、計画を横取りし、規模はどんどん膨れ上がり、総勢100人以上の大使節団となったのだ。
 使節団の目的は国際親善と条約改正の準備のための調査に限られ、条約改正交渉自体は含まれていなかった。
しかし功を焦った大久保や伊藤博文が米国に着くと独断で条約改正交渉に乗り出す。だが、本来の使命ではないので、交渉に必要な全権委任状がなく、それを交付してもらうためだけに、大久保・伊藤の2人が東京に引き返した。大使節団は、大久保・伊藤が戻ってくるまで4か月もワシントンで空しく足止めされた。大幅な日程の狂いが生じ、10か月半で帰国するはずが、20か月もかかり、貴重な国費をただ蕩尽(とうじん)するだけに終わってしまったのだ。
 一方で、その間、東京の留守政府は、「身分制度の撤廃」「地租改正」「学制頒布」などの新施策を次々に打ち出し、着実に成果を挙げていた。
 帰国後、政治生命の危機を感じた大久保は、留守政府から実権を奪取しようと策謀し、これが「明治6年の政変」となったのだ。大久保が目の敵にしたのは、板垣退助と江藤新平であり、西郷は巻き添えを食らった形だった。
 西郷の朝鮮への使節派遣は閣議で決定し、勅令まで下っていた。それを大久保は権力が欲しいためだけに握りつぶすという無法をおこなった。もはや朝鮮問題など、どうでもよくなってしまった。
 ただ国内の権力闘争だけがあったのだ。こうして一種のクーデターにより、政権は薩長閥に握られた。
 しかも彼ら(大久保や伊藤ら)の多くは20か月にも及んだ外遊で洗脳されすっかり「西洋かぶれ」になっていた。もはや政治どころではない。国益や政治・経済の自由どころではない。
 西郷や板垣らを失った明治政府は誤った方向へと道をすすむ。日清戦争、日露戦争、そして泥沼の太平洋戦争へ……歴史の歯車が狂い始めた。
(以下文(参考文献ゴーマニズム宣言大東亜論)・小林よしのり氏著作 小学館SAPIO誌7月号74~78ページ+8月号59~75ページ+9月号61~78ページ参考文献)
この頃、つまり「明治6年の政変」後、大久保利通は政治家や知識人らや庶民の人々の怨嗟(えんさ)を一身に集めていた。維新の志を忘れ果て、自らの政治生命を維持する為に「明治6年の政変」を起こした大久保利通。このとき大久保の胸中にあったのは、「俺がつくった政権を後から来た連中におめおめ奪われてたまるものか」という妄執だけだった。
西郷隆盛が何としても果たそうとした朝鮮使節派遣も、ほとんど念頭の片隅に追いやられていた。これにより西郷隆盛ら5人の参議が一斉に下野するが、西郷は「巻き添え」であり…そのために西郷の陸軍大将の官職はそのままになっていた。この政変で最も得をしたのは、井上馨ら長州汚職閥だった。長州出身の御用商人・山城屋和助が当時の国家予算の公金を使い込んだ事件や……井上馨が大蔵大臣の職権を濫用して民間の優良銅山を巻き上げ、自分のものにしようとした事件など、長州閥には汚職の疑惑が相次いだ。だが、この問題を熱心に追及していた江藤新平が政変で下野したために、彼らは命拾いしたのである。
江藤新平は初代司法卿として、日本の司法権の自立と法治主義の確立に決定的な役割を果たした人物である。江藤は政府で活躍したわずか4年の間に司法法制を整備し、裁判所や検察機関を創設して、弁護士・公証人などの制度を導入し、憲法・民法の制定に務めた。
もし江藤がいなければ、日本の司法制度の近代化は大幅に遅れたと言っても過言ではない。そんな有能な人材を大久保は政府から放逐したのだ。故郷佐賀で静養していた江藤は、士族反乱の指導者に祭り上げられ、敗れて逮捕された。江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に3日前に作られた裁判所で、十分な弁論の機会もなく、上訴も認めない暗黒裁判にかけられ、死刑となった。新政府の汚職の実態を知り尽くしている江藤が、裁判で口を開くことを恐れたためである。それも斬首の上、さらし首という武士に対してあり得ない屈辱的な刑で……しかもその写真が全国に配布された。(米沢藩の雲井龍雄も同じく死刑にされた)すべては大久保の指示による「私刑」だった。
「江藤先生は惜しいことをした。だが、これでおわりではない」のちの玄洋社の元となる私塾(人参畑塾)で、武部小四郎(たけべ・こしろう)はいった。当時29歳。福岡勤皇党の志士の遺児で、人参畑塾では別格の高弟であった。身体は大きく、姿は颯爽(さっそう)、親しみ易いが馴れ合いはしない。質実にて華美虚飾を好まず、身なりを気にせず、よく大きな木簡煙管(きせる)を構えていた。もうひとり、頭山満が人参畑塾に訪れる前の塾にはリーダー的な塾生がいた。越智彦四郎(おち・ひこしろう)という。武部小四郎、越智彦四郎は人参畑塾のみならず、福岡士族青年たちのリーダーの双璧と目されていた。だが、二人はライバルではなく、同志として固い友情を結んでいた。それはふたりがまったく性格が違っていたからだ。越智は軽薄でお調子者、武部は慎重で思慮深い。明治7年(1874)2月、江藤新平が率いる佐賀の役が勃発すると、大久保利通は佐賀制圧の全権を帯びて博多に乗り込み、ここを本営とした。全国の士族は次々に社会的・経済的特権を奪われて不平不満を強めており、佐賀もその例外ではなかったが、直ちに爆発するほどの状況ではなかった。にもかかわらず大久保利通は閣議も開かずに佐賀への出兵を命令し、文官である佐賀県令(知事にあたる)岩村高俊にその権限を与えた。文官である岩村に兵を率いさせるということ自体、佐賀に対する侮辱であり、しかも岩村は傲慢不遜な性格で、「不逞分子を一網打尽にする」などの傍若無人な発言を繰り返した。こうして軍隊を差し向けられ、挑発され、無理やり開戦を迫られた形となった佐賀の士族は、やむを得ず、自衛行動に立ち上がると宣言。休養のために佐賀を訪れていた江藤新平は、やむなく郷土防衛のため指揮をとることを決意した。これは、江藤の才能を恐れ、「明治6年の政変」の際には、閣議において西郷使節派遣延期論のあいまいさを論破されたことなどを恨んだ大久保利通が、江藤が下野したことを幸いに抹殺を謀った事件だったという説が今日では強い。そのため、佐賀士族が乱をおこした佐賀の乱というのではなく「佐賀戦争」「佐賀の役」と呼ぶべきと提唱されている。その際、越智彦四郎は大久保利通を訪ね、自ら佐賀との調整役を買って出る。大久保は「ならばおんしに頼みたか。江藤ら反乱軍をば制圧する「鎮撫隊」をこの福岡に結成してくれもんそ」という。越智彦四郎は引き受けた。だが、越智は策士だった。鎮撫隊を組織して佐賀の軍に接近し、そこで裏切りをして佐賀の軍と同調して佐賀軍とともに明治政府軍、いや大久保利通を討とう、という知略を謀った。武部は反対した。
「どこが好機か?大久保が「鎮撫隊」をつくれといったのだ。何か罠がある」
だが、多勢は越智の策に乗った。だが、大久保利通の方が、越智彦四郎より一枚も二枚も上だった。大久保利通は佐賀・福岡の動静には逐一、目を光らせていて、越智の秘策はすでにばれていた。陸軍少佐・児玉源太郎は越智隊に鉄砲に合わない弾丸を支給して最前線に回した。そのうえで士族の一部を率いて佐賀軍を攻撃。福岡を信用していなかった佐賀軍は越智隊に反撃し、同士討ちの交戦となってしまった。越智隊は壊滅的打撃を受け、ようやくの思いで福岡に帰還した。その後、越智彦四郎は新たな活動を求めて、熊本・鹿児島へ向かった。武部はその間に山籠もりをして越智と和解して人参畑塾に帰還した。
「明治6年の政変」で下野した板垣退助は、江藤新平、後藤象二郎らと共に「愛国公党」を結成。政府に対して「民選議員設立建白書」を提出した。さらに政治権力が天皇にも人民にもなく薩長藩閥の専制となっていることを批判し、議会の開設を訴えた。自由民権運動の始まりである。だが間もなく、佐賀の役などの影響で「愛国公党」は自然消滅。そして役から1年近くが経過した明治8年(1875)2月、板垣は旧愛国公党を始めとする全国の同志に結集を呼びかけ「愛国社」を設立したのだった。板垣が凶刃に倒れた際「板垣死すとも自由は死せず」といったというのは有名なエピソードだが、事実ではない。
幕末、最も早く勤王党の出現を見たのが福岡藩だった。だが薩摩・島津家から養子に入った福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は、一橋家(徳川将軍家)と近親の関係にあり、動乱の時代の中、勤王・佐幕の両派が争う藩論の舵取りに苦心した。黒田長溥は決して愚鈍な藩主ではなかった。だが次の時代に対する識見がなく、目前の政治状況に過敏に反応してしまうところに限界があった。大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)という幕府始まって以来の不祥事を機に勤王の志士の動きは活発化。これに危機感を覚えた黒田長溥は筑前勤王党を弾圧、流刑6名を含む30余名を幽閉等に処した。これを「庚申(こうしん)の獄」という。その中にはすでに脱藩していた平野國臣もいた。女流歌人・野村望東尼(ぼうとうに)は獄中の國臣に歌(「たぐいなき 声になくなる 鶯(ウグイス)は 駕(こ)にすむ憂きめ みる世なりけり」)を送って慰め、これを機に望東尼は勤王党を積極的に支援することになる。尼は福岡と京都をつなぐパイプ役を務め、高杉晋作らを平尾山荘に匿い、歌を贈るなどしてその魂を鼓舞激励したのだった。
この頃、坂本竜馬らよりもずっと早い時点で、薩長連合へ向けた仲介活動を行っていたのが筑前勤王党・急進派の月形洗蔵(つきがた・せんぞう、時代劇「月形半平太(主演・大川橋蔵)」のモデル)や衣斐茂記(えび・しげき)、建部武彦らだった。また福岡藩では筑前勤王党の首領格として羨望があった加藤司書(かとう・ししょ)が家老に登用され、まさしく維新の中心地となりかけていたという。だが、すぐに佐幕派家老が勢力を取り戻し、さらに藩主・黒田長溥が勤王党急進派の行動に不信感を抱いたことなどから……勤王党への大弾圧が行われたのだ。これを「乙丑(いっちゅう)の獄」という。加藤、衣斐、建部ら7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首。野村望東尼ら41名が流罪・幽閉の処分を受け、筑前勤王党は壊滅した。このとき、姫島に流罪となる野村望東尼を護送する足軽の中に15歳の箱田六輔がいた。そして武部小四郎は「乙丑の獄」によって切腹した建部武彦の遺児であった(苗字は小四郎が「武部」に改めた)。福岡藩は佐幕派が多かったが、戊辰の役では急遽、薩長官軍についた。それにより福岡藩の家老ら佐幕派家老3名が切腹、藩士23名が遠島などの処分となった。そして追い打ちをかけるように薩長新政府は福岡藩を「贋札づくり」の疑惑で摘発した。当時、財政難だった藩の多くが太政官札の偽造をしていたという。西郷隆盛は寛大な処分で済まそうと尽力した。何しろ贋札づくりは薩摩藩でもやっていたのだ。だが大久保利通が断固として、福岡藩だけに過酷な処罰を科し、藩の重職5名が斬首、知藩事が罷免となった。これにより福岡藩は明治新政府にひとりの人材も送り込めることも出来ず、時代から取り残されていった。この同じ年、明治8年9月、近代日本の方向性を決定づける重大な事件が勃発した。「江華島(こうかとう・カンファンド)事件」である。これは開国要請に応じない朝鮮に対する砲艦外交そのものであった。そもそも李氏朝鮮の大院君はこう考えていた。「日本はなぜ蒸気船で来て、洋服を着ているのか?そのような行為は華夷秩序(かいちつじょ)を乱す行為である」
華夷秩序は清の属国を認める考えだから近代国家が覇を競う時代にあまりに危機感がなさすぎる。だからといって、砲艦外交でアメリカに開国させられた日本が、朝鮮を侮る立場でもない。どの国も、力ずくで国柄を変えられるのは抵抗があるのだ。日本軍艦・雲揚(うんよう)は朝鮮西岸において、無許可の沿海測量を含む挑発行動を行った。さらに雲揚はソウルに近い江華島に接近。飲料水補給として、兵を乗せたボートが漢江支流の運河を遡航し始めた時、江華島の砲台が発砲!雲揚は兵の救援として報復砲撃!さらに永宗島(ヨンジュンド)に上陸して朝鮮軍を駆逐した。明治政府は事前に英米から武力の威嚇による朝鮮開国の支持を取り付け、挑発活動を行っていた。そしてペリー艦隊の砲艦外交を真似て、軍艦3隻と汽船3隻を沖に停泊させて圧力をかけた上で、江華島事件の賠償と修好条約の締結交渉を行ったのだった。この事件に、鹿児島の西郷隆盛は激怒した。
「一蔵(大久保)どーん!これは筋が違ごうじゃろうがー!」
大久保らは、「明治6年の政変」において、「内治優先」を理由としてすでに決定していた西郷遣韓使節を握りつぶしておきながら、その翌年には台湾に出兵、そしてさらに翌年にはこの江華島事件を起こした。「内治優先」などという口実は全くのウソだったのである。特に朝鮮に対する政府の態度は許しがたいものであった。
西郷は激昴して「ただ彼(朝鮮)を軽蔑して無断で測量し、彼が発砲したから応戦したなどというのは、これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきの行為といわにゃならんど!政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす!」
西郷は、測量は朝鮮の許可が必要であり、発砲した事情を質せず、戦端を開くのは野蛮と考えた。
「そもそも朝鮮は幕府とは友好的だったのでごわす!日本人は古式に則った烏帽子直垂(えぼしひたたれ)の武士の正装で交渉すべきでごわす!軍艦ではなく、商船で渡海すべきでごわんそ!」
西郷は政府参与の頃、清と対等な立場で「日清修好条規」の批准を進め、集結した功績がある。なのに大久保ら欧米使節・帰国組の政府要人は西郷の案を「征韓論」として葬っておきながら、自らは、まさに武断的な征韓を行っている。西郷隆盛はあくまでも、東洋王道の道義外交を行うべきと考えていた。西郷は弱を侮り、強を恐れる心を、徹底的に卑しむ人であった。大久保は西洋の威圧外交を得意とし、朝鮮が弱いとなれば侮り、侵略し、欧米が強いとなれば恐れ、媚びへつらい、政治体制を徹底的に西洋型帝国の日本帝国を建設しようとしたのだ。西郷にとっては、誠意を見せて朝鮮や清国やアジア諸国と交渉しようという考えだったから大久保の考えなど論外であった。だが、時代は大久保の考える帝国日本の時代、そして屈辱的な太平洋戦争の敗戦で、ある。大久保にしてみれば欧米盲従主義はリアリズム(現実主義)であったに違いない。そして行き着く先がもはや「道義」など忘れ去り、相手が弱いと見れば侮り、強いと見れば恐れ、「WASPについていけば百年安心」という「醜悪な国・日本」なのである。

<ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり著作「大東亜論 血風士魂篇」第9章前原一誠の妻と妾>2014年度小学館SAPIO誌10月号59~78ページ参照(参考文献・漫画文献)
明治初期、元・長州藩(山口県)には明治政府の斬髪・脱刀令などどこ吹く風といった連中が多かったという。長州の士族は維新に功ありとして少しは報われている筈であったが、奇兵隊にしても長州士族にしても政権奪還の道具にすぎなかった。彼らは都合のいいように利用され、使い捨てされたのだ。報われたのはほんの数人(桂小五郎こと木戸孝允や井上馨(聞多)や伊藤博文(俊輔)等わずか)であった。明治維新が成り、長州士族は使い捨てにされた。それを憤る人物が長州・萩にいた。前原一誠である。前原は若い時に落馬して、胸部を強打したことが原因で肋膜炎を患っていた。明治政府の要人だったが、野に下り、萩で妻と妾とで暮らしていた。妻は綾子、妾は越後の娘でお秀といった。
前原一誠は吉田松陰の松下村塾において、吉田松陰が高杉晋作、久坂玄瑞と並び称賛した高弟だった。「勇あり知あり、誠実は群を抜く」。晋作の「識」、玄瑞の「才」には遠く及ばないが、その人格においてはこの二人も一誠には遠く及ばない。これが松陰の評価であった。そして晋作・玄瑞亡き今、前原一誠こそが松陰の思想を最も忠実に継承した人物であることは誰もが認めるところだった。一誠の性格は、頑固で直情径行、一たび激すると誰の言うことも聞かずやや人を寄せつけないところもあったが、普段は温厚ですぐ人を信用するお人好しでもあった。一誠は戊辰戦争で会津征討越後口総督付の参謀として軍功を挙げ、そのまま越後府判事(初代新潟県知事)に任じられて越後地方の民政を担当する。
いわば「占領軍」の施政者となったわけだが、そこで一誠が目にしたものは戦火を受けて苦しむ百姓や町民の姿だった。「多くの飢民を作り、いたずらに流民を作り出すのが戦争の目的ではなかったはずだ。この戦いには高い理想が掲げられていたはず!これまでの幕府政治に代って、万民のための国造りが目的ではなかったのか!?」
少年時代の一誠の家は貧しく、父は内職で安物の陶器を焼き、一誠も漁師の手伝いをして幾ばくかの銭を得たことがある。それだけに一誠は百姓たちの生活の苦しさをよく知り、共感できた。さらに、師・松陰の「仁政」の思想の影響は決定的に大きかった。
「機械文明においては、西洋に一歩を譲るも、東洋の道徳や治世の理想は、世界に冠たるものである!それが松陰先生の教えだ!この仁政の根本を忘れたからこそ幕府は亡びたのだ。新政府が何ものにも先駆けて行わなければならないことは仁政を行って人心を安らかにすることではないか!」一誠は越後の年貢を半分にしようと決意する。中央政府は莫大な戦費で財政破綻寸前のところを太政官札の増発で辛うじてしのいでいる状態だったから、年貢半減など決して許可しない。だが、一誠は中央政府の意向を無視して「年貢半減令」を実行した。さらに戦時に人夫として徴発した農民の労賃も未払いのままであり、せめてそれだけでも払えば当面の望みはつなげられる。未払い金は90万両に上り、そのうち40万両だけでも出せと一誠は明治政府に嘆願を重ねた。だが、政府の要人で一誠の盟友でもあった筈の木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治・松陰門下)は激怒して、「前原一誠は何を考えている!越後の民政のことなど単なる一地方のことでしかない!中央には、一国の浮沈にかかわる問題が山積しているのだぞ!」とその思いに理解を示すことは出来なかった。
この感情の対立から、前原一誠は木戸に憎悪に近い念を抱くようになる。一誠には越後のためにやるべきことがまだあった。毎年のように水害を起こす信濃川の分水である。一誠は決して退かない決意だったが、中央政府には分水工事に必要な160万両の費用は出せない。政府は一誠を中央の高官に「出世」させて、越後から引き離そうと画策。一誠は固辞し続けるが、政府の最高責任者たる三条実美が直々に来訪して要請するに至り、ついに断りきれなくなり参議に就任。信濃川の分水工事は中止となる。さらに一誠は暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔となるが、もともと中央政府に入れられた理由が理由なだけに、満足な仕事もさせられず、政府内で孤立していた。一誠は持病の胸痛を口実に政府会議にもほとんど出なくなり、たまに来ても辞任の話しかしない。「私は参議などになりたくはなかったのだ!私を参議にするくらいならその前に越後のことを考えてくれ!」
木戸や大久保利通は冷ややかな目で前原一誠を見ているのみ。
「君たちは、自分が立派な家に住み、自分だけが衣食足りて世に栄えんがために戦ったのか?私が戦ったのはあの幕府さえ倒せば、きっと素晴らしい王道政治が出来ると思ったからだ!民政こそ第一なのだ!こんな腐った明治政府にはいたくない!徳川幕府とかわらん!すぐに萩に帰らせてくれ!」大久保や木戸は無言で前原一誠を睨む。三度目の辞表でやっと前原一誠は萩に帰った。明治3年(1870)10月のことだった。政府がなかなか前原一誠の辞任を認めなかったのは、前原一誠を帰してしまうと、一誠の人望の下に、不平士族たちが集まり、よりによって長州の地に、反政府の拠点が出来てしまうのではないかと恐れたためである。当の一誠は、ただ故郷の萩で中央との関わりを断ち、ひっそりと暮らしたいだけだった。が、周囲が一誠を放ってはおかなかった。維新に功のあった長州の士族たちは「自分たちは充分報われる」と思っていた。しかし、実際にはほんの数人の長州士族だけが報われて、「奇兵隊」も「士族」も使い捨てにされて冷遇されたのだった。そんなとき明治政府から野に下った前原一誠が来たのだ。それは彼の周囲に自然と集まるのは道理であった。しかも信濃川の分水工事は「金がないので工事できない」などといいながら、明治政府は岩倉具視を全権大使に、木戸、大久保、伊藤らを(西郷らはr留守役)副使として数百人規模での「欧米への視察(岩倉使節団)」だけはちゃっかりやる。一誠は激怒。
江藤新平が失脚させられ、「佐賀の役」をおこすとき前原一誠は長州士族たちをおさえた。「局外中立」を唱えてひとりも動かさない。それが一誠の精一杯の行動だった。
長州が佐賀の二の舞になるのを防いだのだ。前原一誠は激昴する。「かつての松下村塾同門の者たちも、ほとんどが東京に出て新政府に仕え、洋風かぶれで東洋の道徳を忘れておる!そうでなければ、ただ公職に就きたいだけの、卑怯な者どもだ!井上馨に至っては松下村塾の同窓ですらない!ただ公金をかすめ取る業に長けた男でしかないのに、高杉や久坂に取り入ってウロチョロしていただけの奴!あんな男までが松下村塾党のように思われているのは我慢がならない!松陰先生はよく「天下の天下の天下にして一人の天下なり」と仰っていた。すなわち尊皇である。天子様こそが天下な筈だ!天下一人の君主の下で万民が同じように幸福な生活が出来るというのが政治の理想の根本であり、またそのようにあらしめるのが理想だったのだ!孔孟の教えの根本は「百姓をみること子の如くにする」。これが松陰先生の考えである!松陰先生が生きていたら、今の政治を認めるはずはない!必ずや第二の維新、瓦解を志す筈だ!王政復古の大号令は何処に消えたのだ!?このままではこの国は道を誤る!」その後、「萩の乱」を起こした前原一誠は明治政府に捕縛され処刑された。


【北方領土問題解決策】今孔明緑川鷲羽による対露国領土交渉戦略!戦わずして勝つ!!

2016年11月26日 21時21分00秒 | 日記

































今のプーチン政権は千載一遇の好機なのである。早めに日露安保条約を締結して、「50年間シベリア独占開発権」を握り100兆円出す代わりに石油・天然ガス等を日本にただ同然で50年間提供してもらう。大体にしてロシアにとって北方領土等、9時間もの本土の時差の範囲、でしかないのだ。馬鹿の一つ覚えみたいにヒステリックに「北方領土を返せ!」と日本人が70年間も叫ぶもんだから反発しているに過ぎない。プーチン政権は現在あまり国内人気がない。チャンスだ。国内の人気が高いうちは国民に対して、かつてのメドベージェフ大統領(当時)みたいに「ロシア人の意地」を誇示する必要があるが、今なら変な国民へのPRもいらない。対中韓国戦略としてもロシア・モンゴル・中央アジアは抑えたい。私がNSC局長だったら。どうせ局長は学歴エリートか(笑)「資源外交」が何かもわからない「一流大学をご卒業」になった「インテリ(笑)」の「学歴エリート」がせっかくの国家安全保障会議(NSC)局長では日本は救われない。只、同じ歴史の繰り返しである。安倍首相は、「立派な戦略」でも「紙に書くだけならば誰にだって出来る」、と、私の才覚を恐れる「エリート官僚(笑)」の口車にのっている。愚かだ。誰にでも出来るなら誰も苦労しない。この創造力・戦略力こそ今の日本人に必要なのだ。私は「キャリア試験廃止」「公務員給与削減・ボーナス廃止」をする人間だから、官僚が恐れる。連中にとっては、只の「鬱病のガキ」かも知れない。だからこそ、政府には必要な「軍師」なのだがなあ(笑)。(2013年10月10日緑川鷲羽より安倍晋三首相へ)
20世紀の古いマクロ経済理論に基づいたアベノミクスでは日本の反転攻勢のきっかけにならないことは、すでに指摘してきた。日本の突破口として私が大いに期待しているのはロシアだ。逆に、にっちもさっちもいかないのが中国、韓国。両国のメディアや教育システムが、あれだけ反日一色に染まると、関係改善のきっかけが見つからない。韓国の朴槿恵政権などは(父親とは正反対で)反日的な言動を政権のエネルギーに換えている側面があるから、大統領任期の5年間は放っておいたほうがいい。中国にしても経済成長が鈍化して国内の不満が今後高まっていく中で、不満のはけ口にしてきた日本との関係が良化するとは思えない。習近平体制が持つかどうかの問題もあるし、バブル崩壊となれば余波は日本にも及ぶ。中国、韓国にしても日本から買わざるをえない機械や部品はたくさんあるから経済的な付き合いは粛々とやっているわけで、目下、中韓との関係改善に外交的なエネルギーを注いでも、アップサイドの要因はない。企業経営の常道を適用すれば、こうした近隣諸国とは一線を画して、大きく動く可能性が出てきたロシアに集中的なエネルギーを注ぐことで、日本経済に刺激を与えることを考えるべきだ。日本にとって心強いのは2012年5月にプーチン大統領が戻ってきたことだ。プーチン大統領といえば柔道の有段者で週に1度は鮨屋に行くほどの鮨好きで、日本と日本文化に対して深い敬意と愛情を持っている。前任者のメドベージェフ大統領といえば、日本を挑発するために悪天候の中、わざわざ国後島に降り立った。彼は北方領土問題についても全く自分の意見を持っていない、情報不足のロシア人の典型的な振る舞いをした。こんなトップとの話し合いは時間の無駄だが、日本贔屓のプーチン大統領なら話は別だ。今年4月、安倍晋三首相が日本の総理大臣として10年ぶりにロシアを公式訪問したのは、政府もプーチン大統領を停滞している日ロ関係を動かせる相手と見込んでいるからだ。プーチン大統領の人気が、ロシアで落ち込みを見せていることも、日本にとって都合がいい。人気がある間は、国内に気兼ねして北方領土の返還交渉に応じられないが、今のプーチン大統領なら「I don't care」(気にしない)だ。プーチン大統領が、日本との関係を正常化することがロシアのためになる、と思えば状況は一気に進展する。そもそも極東の小島など、全土で時差が10時間もあるロシアにとっては“誤差”の範囲でしかない。しかし日本側が史実を曲げて「北方領土は日本固有の領土」などと盛んに喧伝するものだから、ロシアは態度を硬化してきたのである。北方領土の歴史認識に関しては、日本側に問題がある。日本の教育では、日本がポツダム宣言を受諾した後に旧ソ連軍が北方領土を不法占拠したように教えているが、史実は異なる。ヤルタ会談やカイロ会談などの戦勝権益に関する話し合いで、当時のスターリンは対日参戦の見返りとして北海道の北半分を要求した。しかしアメリカのルーズベルト大統領はこれを認めずに、「南樺太を返還して千島列島の内南クリル(北方四島)をロシアが取る」代案を示した。最終的に決着したのはトルーマン大統領の時代で、旧ソ連は“正式な戦利品”として北方四島を含む千島列島を得たのだ。明治以前の帰属は双方に言い分があって不明だが、明確な事実は日露戦争以降、日本が南樺太(南サハリン)と千島列島(クリル列島)を領有していたこと。そして第2次大戦の結果、戦勝国の旧ソ連は南樺太と千島列島を奪い取ったのではなく、“戦利品”として与えられたということだ。おかげで敗戦国の日本はドイツのような「国土の分断」を免れた。こうした視点が日本の歴史認識に欠けている。こういった話は、尖閣問題における中国の姿勢と通じるところがある。“日ソ不可侵条約に反して宣戦布告なく北方四島を占領した”と日本では信じられているが、樺太と異なり、旧ソ連軍の侵攻・占領は終戦後である。北方領土の四島一括返還論にしても、「北方四島は日本固有の領土であり、四島が揃って返ってこなければ日ロ平和条約は結ばない」と外務省が言い出したのも、1956年のダレス米国務長官と重光葵外務大臣のロンドンでの会談がきっかけだ。当時、領土交渉が進展して日ソ関係がよくなることを警戒したダレスは、沖縄返還の条件として、旧ソ連に対して「(呑むはずのない)四島一括返還」を求めるように重光に迫った。つまり、四島一括返還論は旧ソ連に対する“アメリカの嫌がらせ”から始まっているのだ。戦争終了後、10年間もの間、日本はそのような要求はしていなかった。外務省は長い間「北方四島返る日、平和の日」と書いた垂れ幕を、屋上から掲げていたが、アメリカの忠犬ポチとしての同省の性格がよく出ている。安倍首相との首脳会談でプーチン大統領は、他国との領土問題を解決した方式として係争領土を等分する「面積等分」を紹介したという。北方領土問題に関しても「面積等分論」を持ち出す可能性は高く、日本政府と外務省は過去のペテンを国民にきちんと説明し、これを受け入れるべきだ。そして直ちに「日ロ平和条約」を締結すべきだ。四島の面積等分なら、歯舞、色丹、国後の3島と択捉島の一部が還ってくる。択捉に関しては面積等分で島の3分の1程度で軍事境界線のような線引きをして中途半端に返してもらうのなら、「島全体を日ロの共同管理」にする手もある。日ロが接近しすぎるとアメリカが妬くし、択捉上空は重要な航空路でもあるため、共同管理にアメリカを加えてもいい。実は、北方領土問題でロシアの最大の関心は領土ではない。そこで生活しているロシア人の処遇についてだ。旧ソ連が崩壊したとき、ウクライナやカザフスタン、ベラルーシ、バルト3国などに暮らすロシア人はロシアに引き揚げる場所も資金もなかったので、それぞれの国に残って国籍をもらった。旧ソ連が横暴を極めていた時代の裏返しで、在留ロシア人が各国でいじめられたり、虐げられている話がロシアで伝えられている。親戚や友人などもひどく気をもんでいて、内政上は、大切な問題なのである。北方領土に暮らすロシア人が同じ憂き目に遭うことをプーチン大統領は憂慮しているはずで、解決策を提示しなければいけない。キーワードは「寛容」で、少なくとも3つのオプションが考えられる。第1は日本国籍を与える。第2は、グリーンカードのような形で居住権を与えて、ロシア国籍は残す。3つ目は一時支度金のようなものを支払って、本人が希望するところに移住してもらう。このような人道的な選択肢を与えて優遇する国はいまだかつてないから、ロシア人も感激するし、日ロ友好に前向きになってもらえるだろう。領土問題を解決し、平和条約を締結すれば互いの行き来も投資も非常に楽になる。すでにエネルギー分野のビジネスは動き出していて、サハリンで発電した400万キロワットの電力を直流高圧送電で日本に送るプロジェクトがサハリン地方政府から出ている。400万キロワットといえば「原発4基分」である。海底ケーブルを使えば、これを東北電力や東京電力の管内まで持ってこられる。サハリン側は25年の実動を目標にしているが、急げば5年以内に可能だろう。これに刺激を受けたのがウラジオストクで、バイカル湖から東のオイルやガスがパイプラインでウラジオストクに集まってくるプロジェクトが進行中だ。これをLNG(液化天然ガス)で輸出したり、海底パイプラインを敷設して直接日本に持ってきたり、現地で発電した電力を(東電の送電網が完備している)直流高圧送電で、新潟の柏崎・刈羽などに送る案が有力である。日本海側に受け入れ基地を造れば、福井や新潟など、退潮する原発を代替する産業拠点となり、環日本海経済圏の重要基地として期待できる。そうすれば、新潟、富山、石川、福井などで、LNGやガスパイプラインの陸揚げ基地争奪戦となるだろう。「日ロ経済連携」の第1ラウンドはエネルギーであり、ガスパイプラインや直流高圧送電で日本とロシアがシームレスにつながる。この意味は非常に大きい。カタールなどからバカ高いLNGを買っている日本としては、価格交渉力がアップするだけでなく、アメリカのシェールガスに涎を垂らす必要もなくなるからだ。第2ラウンドは、日本企業の輸出基地を極東ロシアに展開することだ。極東ロシアに工業団地を建設し、現地で組み立てて、シベリア鉄道でサンクトペテルブルクなどの西部の主要都市、さらにヨーロッパに製品を送るのだ。極東ロシアの生産拠点とシベリア鉄道による陸送ルートを確立すれば、対ロ輸出の枠組みが広がる。また、先々、ロシアがEUに加入すれば日本はEUの隣国となり、産業政策上、非常に重要な基地ができる。産業と仕事が少ない極東ロシアでの雇用創出は、願ったり叶ったりだ。さらに、日本海を挟んで、子供や学生などの人的交流も活発に進めて、両国にある警戒感や猜疑心を解きほぐしていく。第3ラウンドは原子力。日本は核廃棄物の最終処分場を持っていないし、中間貯蔵施設すら圧倒的に不足している。そうした施設の受け入れにロシアの広大な国土の一部を使わせてもらう。ロシアが不得意なことを日本が補完し、日本にできないことをロシアに助けてもらうのだ。北方四島にこだわるあまり、関係の深化が手つかずだった日ロ関係には、互いの閉塞状況を打ち破って突破口となりうる経済的に魅力ある項目がいくらでもある。安倍政権は気合を入れて今年中に平和条約を締結し、目玉の乏しい第3の矢(成長戦略)に本稿で述べたような前向きなロシアプログラムを加えるべきではなかろうか。(大前研一レポート2013年7月31日「北方領土は日本の領土」という外務省のペテンのカラクリ)2013年4月29日、安倍首相が訪露し、モスクワのクレムリンでプーチン大統領と首脳会談をしました。まあ、日本人も「馬鹿の一つ覚え」みたいに「北方領土を返せ!返せ!」ではなく、ロシアとの間でシベリア共同開発や日露間の経済交流を密にしてから「ところで北方領土ですが…」という外交センスが欲しい。「日露安全保障条約」「まずは二島返還」で「ひきわけ」「はじめ」ということだよ。ロシアのイシャエフ極東発展相は2013年2月27日、北方領土問題について日露がまず四島の共同開発を通じて協力関係を築き、そのうえで解決を将来の世代に委ねるべきだとの見解を表明しました。またプーチン大統領と森喜朗元首相の会談について「首脳会談に繋がる建設的な会談だった」と評価し、首脳会談での成果に期待するという。だが、大前先生はイシャエフ氏には申し訳ないが日露の共同開発を日本側が受け入れることはないだろうといいます。「共同開発」となれば「帰属問題」を明確にする必要もあり、パスポートの問題など細かい点の調整も必要となる。四島一括返還を主張しているだけでは堂々巡りになるだけなので意味がない。だから森氏とプーチン氏との間で「今年中にいくつかの策をだして、それをベースにまた話し合いましょう」と上手な言い回しをしている。日本の北方領土の歴史認識はある意味尖閣に対する中国に似ている。中国が最近トーンダウンしているのも「歴史的には台湾の問題だ」と中国人が気付いたからです。そもそも日本が「北方四島一括返還」を主張したのは1956年の米ダレス国務長官と重光外務大臣との会談がきっかけです。米国は北方領土問題が解決して当時のソ連と日本が近づくのを嫌がり、「沖縄返還」の条件として、ソ連に「四島一括返還請求」することを求めたのです。要するに米国の嫌がらせです。森氏は正しく理解していますが、政治家やジャーナリストの中にもこの事実を知らないひとが沢山います。

【結果論の集団ヒス脱原発】原子力ムラ無縁の緑川だから言える現実主義原発論!!

2016年11月26日 21時11分08秒 | 日記





















小林よしのり著作「ゴーマニズム宣言スペシャル 脱原発論」小学館刊行「読書感想文」フリージャーナリスト緑川鷲羽わしゅう。




まず私が主張したいのは、私は「原子力ムラ」の人間ではなく、「利権」とも無縁であるということ。マンガチックな「原発ブラボー再稼働」でもないということ。そして小林よしのり氏の本を読んで、「首相官邸の前で、集団ヒステリーでお祭りデモに参加している連中と同じだ」という感想だ。確かに福島原発事故や乳飲み子の母や赤ん坊が泣いている映像を観たら誰だって「脱原発」になるのが人情だ。しかし、したり顔で「脱原発」を主張するなど赤ん坊でも出来る事なんだよ。小林氏は「一時的に電力が足りなくなって企業が出ていく?その程度の企業なら外国にどうぞ」という。現実がわかっていない。電力不足が「一時的」な訳ないだろう。企業は漫画家とは違う。1円2円の円高、電力料金で中小零細企業(全体の99%)は採算をとっている。そんな企業が中国やベトナム、インド、ミャンマーに出ていけば二度と帰って来ない。深刻な失業率になるだろう。漫画家の替りなど幾らでもいるが、職場の替りはない。また小林氏は「自分が9歳の頃(1956代)には原発はおろか火鉢しかなかった。大学生の頃漫画家デビューしたが(1970年代)、九州ではまだ原発はなくても幸せであった」という。現代エネルギー革命や、産業イノベーションがわかっていない。氏が学生や幼かった頃にはなかったスパコン、コンピュータやハイテク家電、スマートフォン、高品質テレビ、(節電)家電、クーラー…なにより電気がなければ水道の水さえ流れない。そういう基本的な事がわかっていない。悪戯に原発の危険や人々の恐怖心を煽り「原発は安全じゃない」と断罪する。これでは農家の恐怖心ばかり煽る農協と同じではないか。絶対に安全なものなどこの世に存在しない。車も飛行機もバスも全部「危険」であろう。何より太陽光や風力といういわゆる「再生可能エネルギー」が電力の1%であり、原発分はいままで30%であり、その分がすべて火力に特化しているから(電力の約99%)「電力不足」「電力料金値上げ」があるのであって、火力発電のエネルギー源の価格高騰に触れられていない。今「円高」であるので石油やガスの値段は高くない。だが、石油・ガスの価格高騰は続いている。価格高騰問題に触れられていないのは違和感がある。原発分の30%のキャパシティを太陽光・風力ではカバー出来ないのだ。それが現実だ。小林氏はあまりに感情に流され、プラグマティズムやコンストラクティブな思考を怠っている。只の「お涙頂戴」の「感情論」に騙されて、したり顔で「脱原発」では救われない。4号機の核燃料棒プールの危機など、政府も関係者も皆知っている。プロパガンダで原子力発電とオウム真理教を結び付けて描いているが、原子力を再稼働したり原発を廃炉にしながら新エネルギー開発(メタンハイドレード、シェールガス、地熱発電、新潟沖の未知の石油)していくのが「ヒトラー」(笑)だとでもいいたいのか?TPP交渉は「ナチス」(笑)か?私も政府の「冷温停止状態」「安全宣言」など信じていない。3・11の事故後すぐ私は「メルトダウン」もしくは「メルトスルー」していると思っていたのだ。だが「危険だ、危険だ」といっていても仕方ない。小林氏は「安全だというならお前が福島に住んでみろ!」という。私は福島ではないがすぐ近くの米沢(福島市郡山市のすぐ隣り)に住んでいるが健康だ。氏のいう「原発の代替案」が太陽光や風力では「お先真っ暗」だ。むしろ大事なのは「脱原発」と「原発再稼働」を二極化しないことだ。原発を求めている人々すべて賄賂をもらっているとか、右翼と決めつける氏こそ「左翼」になった「元・右翼」である。どっちみち福島原発事故で「新規原発開発」も「既存の原発再稼働」も殆どムリで、30年後には自然と「脱原発」になる。原発は全部停まるのだ。私だって将来的には「脱原発」の人間だ。氏の漫画は「感情論」であり「結果論」である。事故を観て恐怖を感じ、集団ヒステリー集団アレルギー、感情論を「プロパガンダ漫画」で描いているに過ぎない。こんなものでまともな代替案もなく、したり顔で「脱原発」を叫ぶなど、まさに「団塊の世代の安保闘争」「集団ヒステリーお祭りデモ」だ。マンガチックであり、主張が「子供」である。本書は一読の価値は確かにある。だが、氏がオウムテロの時のように脅迫に晒されているのは甚だ不幸ではあるが、こんなひとがジャーナリストの仲間とは、日本も甚だ「呑気な国」である。                
2012年10月1日青森県下北半島の大間原発(Jパワー)の再建設が始まりました。集団ヒステリーの「脱原発」ポピュリスト達はまた反発しています。が、Jパワーの会長は「原則40年稼働させたい」と現実的思考です。こういう現実がわかるひとの台頭は喜ばしい限りです。2012年9月27日「指定廃棄物(核のゴミ)」最終処理場が千葉県・宮城県・群馬県・栃木県・茨城県に決まりました。2012年9月20日「原子力規制委員会」が発足です。委員長・田中俊一氏。経団連など財界は「原発2030年代ゼロ」に反対していて、米倉氏が政府戦略会議辞職です。まあ、現実が見えている人々には当たり前の意見ですね。理由は後述しています。政府はとうとう「30年代原発ゼロ」を決定してしまいました。まさにポピュリズム(大衆迎合)です。でも閣議決定は見送りであるという。経済界からのはんぱつのおかげですよ。現実が見えない人たち(脱原発論者)には困ったものです。政府エネルギー戦略会議は「核燃料サイクルを維持」する方針を固め、もんじゅを研究炉にし、30年代に原発ゼロも併記するといいます。「2030年原発ゼロ」目標が、世論の圧力で明文化された。青森県の三村知事が、核燃料サイクル堅持を要望しています。国民の7割が脱原発をしたり顔で主張し、古川国家戦略担当大臣を枝野経済産業大臣も「脱原発」を決めてしまいたいといいます。やめて欲しいのはあと数か月後にはなくなる民主党政権(当時)(当時)に今後数十年続くエネルギー政策を付け焼刃で決めてほしくないということです。脱原発をし、原発をゼロにすると三十年後には核燃料再生が不要になります。青森県は結果として「核燃料永久貯蔵地」になってしまいます。青森県は「中間貯蔵地」であり「永久貯蔵地」という話になると話は違ってくると思います。事故調(福島原発事故調査委員会)のレポートは本質を突いていない。事故とは物理的な原因が起こり、波紋のように広がるものです。管首相(当時)や斑目委員長(当時)や枝野官房長官(当時)が悪かったうんぬんの前に物理的な自証を考えるべきです。「もう少しいい人材と英雄や天才的人物がいれば事故は防げた」とは思いません。全電源が地震や津波で喪失したら原子炉は冷やせないし、核は暴走する。どんな天才がいようが事故は(遅らせることは出来たかもしれないが)発生したと思います。設計上の問題であり、人材・組織の問題ではないからです。事故調のレポートは「犯人捜し」で、「脱原発論者」は「ポピュリスト(大衆迎合主義者)」だと私は断言します。理由は後述します。南海トラフの巨大地震被害想定は死者32万人、浸水1015平方キロでそうです。10分以内の避難で14万人減、100%耐震化で3万人減です。備えあれば憂いなし、ということですか。全国の工業団地に万単位のメガソーラー計画があるそうです。だが、どんなに太陽光パネルを張り巡らせても原発分の3割は無理なんですよ。現在の技術では。だから単純にしたり顔で無策で「脱原発!」と声高に叫んでも集団ヒステリーだ、というんですよ。原発の将来を考える国民会議並びに国家エネルギー戦略会議は「1930年代前半に原発ゼロに」との結果になりました。東京電力福島第一原子力発電所事故の原因などを政府の事故調査・検証委員会は2012年7月23日最終報告書をまとめ、野田首相に提出した。被害が拡大した根源的問題として「東電も国も安全神話にとらわれていた」と指摘。危機管理対策の練り直しを促したとのこと。我が師・大前研一先生は政府と国双方のレポートを読み「率直に言ってどちらも役に立たないな」といいます。原因は津波?なら福島第二原発や東海第二原発は何故大丈夫であったのか?違いは「外部電源」です。福島第一原発は地震で外部電源がやられ、さらに津波で非常用電源もやられてメルトダウンしたのです。「外部電源」さえ無事なら大丈夫なんです。また「活断層の傍に原発あるから危険…脱原発!」というのには私は与しません。なら新潟の地震のとき柏崎刈羽原発は何故大丈夫だったのか?「脱原発デモ」など改革でも革命でも何でもない。くだらん「集団ヒステリー」でしかない。「再生可能エネルギー(太陽光・風力)」で原発分の30%のキャパはカバーできない。「集団ヒステリーデモ」などやめるべきだ。変なガキが「(nhkクロ現で「脱原発デモ」を取り上げることで)デモがないとかいっていたおっさんも黙るな」と悪口を書き込んでいた。私緑川鷲羽わしゅうは「デモがない」などといっていない。原子力規制委員会で委員長として田中俊一氏が内定しました。田中氏は放射線物理の専門家です。が、私は残念です。我が師・大前研一先生こそ委員長・規制庁長官にふさわしいと思っていたからです。福島第一原発の事故調査委員会で電力会社(東電)と民主党(官邸・当時)・政府・当局が地震、津波対策を先送りしたことを「事故の根本的原因」と指摘し「自然災害ではなく人災」と断定しました。我が師・大前研一先生は「人災は一致するが、其のうえで「交流電源が長期的な損失を前提にしなくていい」という事故調のスタンスに問題があった」といいます。それに事故調は原子炉の分析を行っていません。原子炉内部にはいれない、ということで関係者1000人からアンケートをとり分厚い調査書を作成しただけ。こんなもの馬鹿馬鹿しい週刊誌やワイドショーと同じです。「外部電源」に触れられてないが「外部電源」が損失すれば3・11と同じことになります。再生可能エネルギー20年20%買い取りですが今は再生可能エネルギーのほうが、値段が高く誰も買いません。夜間の電力料金引き下げも再生可能エネルギー20年20%も原発フル稼働しないと無理です。このままヒステリーで「脱原発」ムードでは日本の自殺です。皆さん目を覚ましてください。原発と原爆は違います。皆さんは誰かと同じでいい、皆脱原発というし、みたいな、「団塊世代の安保闘争」みたいな馬鹿はやめて目覚めてください。


【秀頼身長二百体重二百】体格があまりにも違すぎ 豊臣秀頼の父親は秀吉ではなかった!?

2016年11月26日 15時48分39秒 | 日記

































体格があまりにも違すぎ 豊臣秀頼の父親は秀吉ではなかった!?





編集部F: それにしても、まったくまとまらないですね、豊臣方は……。先週(11月20日放送)の『真田丸』でも早く戦わせろと憤った浪人衆が勝手に徳川方に攻め込もうとしました。結局、真田信繁(幸村)がうまく立ち振る舞って、事なきを得た形になりましたが。

小日向えり: ただ、夜討ちの大将、塙団右衛門が存在感を放っていましたね。木札、今でいう名刺を配った目立ちたがり屋の武将です。日本で初めて名刺を配った人物かもしれませんね。

編集部F: あと、印象的だったのは、豊臣秀頼と信繁のやり取りですね。それまで秀頼は母である茶々の顔色をうかがってばかりだったので、信繁は秀頼に総大将としてリーダーシップを取ってほしいと願い、その思いを伝えました。秀頼もその気になったのは良かったのですが、織田有楽斎などにそそのかされて「徳川と和睦する」という誤った判断を下してしまいました。そこで信繁が茶々に密かに手を回して、それを食い止めようとし、秀頼が混迷を極めてしまったのです。最初、信繁は秀頼に直接諫言もせずに随分とドライだなと思ったのですが、これは目標(勝利)を達成するには手段を選ばないということの表れだと痛感しました。

小日向: そうそう、秀頼と言えば、実は豊臣秀吉の子どもではないという俗説があるのをご存じですか?

編集部F: え、そうなんですか!?

小日向: 秀頼は身長197センチメートル、体重161キログラムだったという記録が残っているほど、大男だったと言われています。一方、父親の秀吉は140センチほどだったようで、あまりにも体格が違いすぎるため、実の子どもではないという説があるのだと思います。

編集部F: それで、父は誰だと言われているのですか?

小日向: 大野治長です。治長は、長身、色白、イケメンだったそうで、秀頼に通じるところがあります。

 秀吉は天下を獲ってから、多くの側室を抱え、側室にせずとも一夜限りの相手をした女性がたくさんいたようです。宣教師のルイス・フロイスは『日本史』の中で、大坂城には300人ほどの女性がいて、宮殿というよりも遊郭のようだったと記しています。それでも秀吉になかなか子どもが生まれなかったのですから、秀頼の出自を疑う気持ちも分からないでもありません。

編集部F: 治長はどのような人物なのでしょうか?

小日向: ドラマでも紹介されている通り、母は大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)です。大蔵卿局は茶々の乳母でした。真田丸の中では、最近やけに大蔵卿局が権力を持っているのが気になりますよね(笑)。治長は、そんな母の紹介で秀吉のお世話をする馬廻り衆になって、豊臣家に仕えるようになりました。

編集部F: えっと、治長の実母が茶々の乳母なのですよね。すると二人は、身分は違えど兄妹的な距離感にあったわけで、その間に秀頼が生まれたというのは……。なかなかセンシティブですね。

小日向: まぁ、戦国時代には同じ血筋同士の結婚はよくあることですから。

編集部F: ちなみに、治長はどのような最期だったのですか?

小日向: 大坂夏の陣で徳川軍に追い詰められ、大坂城本丸近くの山里曲輪で秀頼や茶々、大蔵卿局などとともに自害しました。享年47歳だったようです。

編集部F: 秀頼もそうですが、治長も母親がすぐ近くで目を光らせていて、さぞかしやりにくかっただろうと思います。ただ、母のおかげで豊臣家の中枢にいられたのも事実ですから、どちらが治長の人生にとって良かったのかは分かりませんね。

 ドラマの中で、真田昌幸の母・とりが死ぬ間際に放った「人は誰も宿命(さだめ)を持って生まれてくる。遅いも早いもない。おのが宿命に気付くか気付かぬか」というセリフが胸に刺さりましたが、治長がもし早く生まれていても、そのころの豊臣家は錚々たる武将がいたので、ますます何とも言えませんね。

【大島優子無双疾風ロンド】下着がスケてる…!大島優子のセクシー衣装にムロ熱視線

2016年11月26日 15時40分02秒 | 日記






























下着がスケてる…!大島優子のセクシー衣装にムロ熱視線





© シネマトゥデイ 提供
 女優の大島優子が26日、丸の内TOEIで行われた映画『疾風ロンド』の初日舞台あいさつに、下着が透けたセクシーな衣装で登場した。この日はほかに阿部寛、大倉忠義(関ジャニ∞)、ムロツヨシ、濱田龍臣、志尊淳、吉田照幸監督も来場した。

 直木賞作家・東野圭吾のベストセラー小説を映像化した本作。大学の研究所施設から盗まれた危険な生物兵器の回収を命じられた研究員の奮闘を描き出す。初日を迎え、満席の場内を見渡した阿部は「今年の春に撮った映画ですが、いよいよ公開ということで、あっという間。観ていただくのが楽しみです」と笑顔。

 大倉も本作PR期間中は、劇中で披露する振り向き姿がカッコいい“振り向き王子”としてたくさんそのシーンを再現したといい、「この映画で振り向くショットを作っていただき、番宣で散々振り向いた結果、こういう初日を迎えられてうれしく思います」と充実した表情を見せた。

 さらに大島が「この作品で観ていただきたいのは、スキーやスノーボードのアクションシーン。体感型というか、一緒に滑っている感じを味わっていただきたいですね」とあいさつ。続くムロが「本当は映画の話をしたいんですが、どうしても気になることがありまして。大島さんそれ、透けているのはありなんですよね」とツッコみ。


 「こういうのなんです。こういうスタイルなんです」とムロをたしなめた大島は、「だから入ってくる前にしゃべっていても、絶対に(ムロの)目線が下にいくんですよ。チラチラ見ているなと思って」と暴露。「見ますよ! すごいセクシーなんですもん」と慌てたムロだったが、「男性陣は見ないようにしている」という大島の言葉に、「僕は見ますけどね。どうぞ大島をよろしくお願いします」とめげずにあいさつし、会場は笑いに包まれた。

 長野県野沢温泉スキー場の全面協力で撮影された本作ということで、スタッフやキャスト陣のコミュニケーションも万全だったようだ。「志尊くんとは2度くらいご飯を食べていて。でも年下で先輩ばかりだったからか、打ち解けるのに2時間くらいかかった」というムロに対して、志尊は「でもムロさんと初めて会ったとき、『志尊くん、僕と飲みに行ってくれる?』と聞いてくれて。一瞬天使に見えました」と証言。思わず満面の笑みで「いい先輩だろ~!」と上機嫌なムロだった。(取材・文:壬生智裕)

映画『疾風ロンド』は全国公開中

【ゲス&ベッキー】ベッキー、かつては怒鳴り散らした社内に、恥を忍んで頭を下げて仕事嘆願か

2016年11月26日 15時34分30秒 | 日記






































ベッキー、かつては怒鳴り散らした社内に、恥を忍んで頭を下げて仕事嘆願か





© Cyzo 提供
 1月に発覚した人気ロックバンド、ゲスの極み乙女。の川谷絵音との不倫騒動を経て、5月にテレビ復帰を果たしたベッキーは現在、“恥を忍んで”同じ事務所のお笑い芸人たちに頭を下げてでも仕事を獲得する姿勢をみせているという。

【詳細画像はこちら】http://biz-journal.jp/2016/11/post_17293.html

 今回の騒動でベッキーは、これまでのレギュラー番組をすべて失い、ゼロからの復帰。現在のレギュラーは、BSの音楽番組1本になった。その復帰の姿を、民放各局の情報番組はもちろん、スポーツ紙や週刊誌などがこぞってキャッチしようと動き、これまでポップで元気いっぱいだったキャラクターからすっかり大人の女性に変貌した姿を、計らずともお披露目することになった。しかし、その後はメディアの前に姿を現す機会はめっきり減った。

 そんなベッキーは21日、メディアの不意を突くように、今年初めて開催されたサンミュージック所属のお笑い芸人たちによる『サンミュージックお笑い祭~今年はいろいろあったけど!それでも元気に笑わせよう!!~』に登場。タイトルに不倫騒動をにおわせるものはあるが、事前告知はないサプライズゲストとして登場した。

 同事務所のお笑い班のスタッフがベッキーに直接打診したところ、二つ返事で受けたという。ベッキーと仕事をしたこともあるテレビ関係者は語る。

「お笑いライブとなれば、世間から忘れられたい不倫騒動をまたイジられることは間違いありません。ベッキーは、とても繊細な子です。本心では出たくはなかったと思いますよ。それでも出たというのは、やはり事務所にかけた迷惑に対する懺悔の気持ちでしょう」

 一方で、他の芸能事務所関係者は語る。

「ベッキーは『なんでもいいから仕事をください』と、事務所内のお笑い班のスタッフにも頭を下げているようです。今回の復帰の早さにも表れていますが、もともと仕事が生きがいのようなタイプなので、とにかく仕事がしたいのでしょう。彼女は20代で事務所の稼ぎ頭となってしまったこともあり、人を見て態度を変えるなど、当時は事務所内での評判は決して良くなかったです。社内の人は自分の稼ぎで養っているわけですから、スタッフのちょっとした失敗をとことん追及して怒鳴り散らすこともよくありました。そんなスタッフに今になって頭を下げても、もらえる仕事は自虐的なイベントでも仕方がないでしょう。ある意味で社内的な嫌がらせにもみえます」

 9月には宝島社の広告で上半身裸の写真を披露して、これまでのイメージを払拭する衝撃を与えたかに思えたが、本格復帰への道は険しい。

(文=編集部)

【真田丸おんな城主直虎】堺雅人、大河主演に「不義理」はつきもの? 柴咲コウに“珍助言”

2016年11月25日 18時47分30秒 | 日記

































堺雅人、大河主演に「不義理」はつきもの? 柴咲コウに“珍助言”







(左から)柴咲コウ、堺雅人 (C)ORICON NewS inc.© 芸能ニュース 提供 (左から)柴咲コウ、堺雅人 (C)ORICON NewS inc.
 東京・渋谷のNHKで25日、毎年恒例の大河ドラマ主演バトンタッチセレモニーが行われ、放送中の『真田丸』(毎週日曜 後8:00 総合ほか)に主演した堺雅人と、来年1月8日スタートの『おんな城主 直虎』に主演する柴咲コウが出席した。

 堺は、昨年9月1日に長野県でクランクインして以来、今年10月下旬のクランクアップまで、約1年2ヶ月にわたって撮影に参加。「振り返ってみると、いろんな人に不義理をしていたな。あいさつに行かなければいけない人にもあいさつせず、友達にもあまり会わなかったし…」と反省。

 今年9月に撮影が始まった柴咲も「私もすでにそうなっています」と同調すると、堺は「この一年はあきらめた方がいい。柴咲さんも一年間、不義理をするということで、友達に待っててもらってください」と珍アドバイスを送っていた。

 残すところあと放送4回となった『真田丸』(12月18日が最終回)について堺は「真田幸村最後の雄姿が見られることになると思います。今年は最後に赤い甲冑を着て、僕自身にとっても充実した一年でした。いろんなことがあった一年だったと思いますが、幸村と一緒にしめくくっていただけたら」と視聴を呼びかけた。

 堺からバトンを受け取った柴咲は「真田幸村さんは有名な、いろんな方が知っている存在ですけど、私が演じる直虎は地元でもあまり知られていないくらいなので、真田さんのようにいろんな方に認知してもらえるいい機会にしたい」と意気込み。

 「知恵をしぼり団結して困難を切り抜け、発展していく。小国の人びとがどうやって生き残っていったか丁寧に描いていけたら。尼さんの衣装も着慣れてきて、ほっとするモノトーンのカッコいい格好だなと思っています」と幸村の赤備えに負けない思いをのぞかせていた。

 『おんな城主 直虎』は、時代的には、『真田丸』よりも一世代分くらいさかのぼり、戦国時代に男の名で家督を継いだ、遠江(とおとうみ/静岡県西部)井伊家の当主、井伊直虎(いいなおとら)の激動の生涯を描く。直虎は、事実上の当主として、仲間と協力して国を治め、駿河の今川、甲斐の武田、三河の徳川と3つの大国に領地をねらわれる中、幼い世継ぎの命を守ってたくましく生き延び、その後の発展の礎を築いた。その幼い世継が後の井伊直政で、徳川家康の重臣として活躍する。

【まるで自粛とは違う】あくまで金儲けゲス川谷のくだらない新曲にアイドルG売名狙い(笑)

2016年11月23日 17時53分14秒 | 日記






















ゲス不倫の川谷絵音の作詞作曲の


なんたらかんたらとかいう新曲はくだらない。



アイドルユニットもゲス川谷を使って有名になろうと


売名に懸命(笑)


ベッキーや未成年アイドルと不幸の渦。


こんなやつよりセカオワの深瀬や西野カナのほうが才能がある。


川谷曲は売れない。まるで不調TKサウンド(笑)臥竜


緑川鷲羽 臥竜  2016/11/23 17:53

【祝日勤労感謝の日記念】真田丸<大坂夏の陣>先行投稿幸村VS徳川家康!!

2016年11月23日 15時31分49秒 | 日記





























         大坂夏の陣






  慶長二十年(一六十五年)夏、大坂夏の陣の幕がきっておとされた。しかし、大坂城は堀をうめられて丸裸……攻略も容易だった。大坂方はわずかな浪人たちだけで、家康方は全国の大名軍を率きつれている。どちらが勝つのは馬鹿ではもわかることだ。
 そんな中、真田幸村だけは善戦し、単独で家康の本陣まで迫って、もう少しで家康を殺すところまでいった。しかし、それは失敗し、幸村は討ち死にする。
豊臣秀頼は正室で家康の孫娘・千姫を愛していた。二人の間に子供こそなかったが、秀頼は千姫を大事に扱ったという。落城・敗北ではふたりは抱き合った。抱擁である。
千姫は義母の淀君と夫の秀頼とともに一緒に自害しようと思っていた。
「義母上さま!千もお供いたしまする!」千姫はいった。短刀をかかげる。
だが、淀君や秀頼が「ならん!徳川方に逃げのびよ」という。
「幸村!千姫を頼んだぞ!」
「はっ!この幸村、千姫さまを御救い致した後にすぐに冥途へ。後を追いまする」
「あの世でまっておるぞ、幸村!」
「はっ!しばしのお別れにございまする!」
「しかし、千は…千は…義母上!秀頼さま!」千姫は号泣した。
「さらばじゃ、千!」淀君と秀頼は場を去った。
幸村は千姫を大坂城の井戸の中にひとり隠した。「戦がおわったら直江が。」
大坂夏の陣の後、井戸の中の千姫を助けたのは直江兼続だった。
「千姫さまー!上杉家執政、直江山城でござる!」深い井戸の底に叫んだ。
千姫は救われた。薄汚れた千姫が救出されると秀忠や家康は大喜びしたという。
だが、千姫は「直江山城が助けてくれました。…千はおじじさま(家康のこと)を一生許しませぬ!」などという。家康は「な?…千!どうしたのじゃ?どうしたのじゃ?」
徳川家康は狼狽した。話を戻す。
 大坂城を家康は包囲した。何十万という軍勢で、大坂城をかこんだ。やがて大坂城は炎上し、陥落する。
 早朝、秀頼と淀殿は城の外側の蔵にいた。家康はそこも囲った。
「……秀頼殿、このおろかな母を許してくだされ」淀君は泣き崩れた。蔵の中にはふたりと家臣わずかしかいなかった。蔵の窓から朝日がうっすらと差し込んでくる。
「母上……この秀頼、太閤殿下の子として……立派に自害してみせましょうぞ」
 家康は蔵の前で、「蔵に鉄砲を撃ちかけよ!」と兵に命じた。鉄砲が撃たれると、秀頼と淀殿は、蔵にあった火薬に火をつけ、爆発がおこった。
 こうして秀頼と淀殿は死んだ。家康は「たわけ! なぜ死んだ?!」と驚愕の演技をした。「わしは秀頼殿と淀殿を助けようと思うてたのに…」
 秀忠はその演技を見抜けず「なんということだ…」と落胆した。
  しかし、家康はどこまでも狸だった。秀頼には側についていた女子との間に三歳の娘と七歳の男子がいたという。家康はその子らを処分した。つまり、殺した。豊臣家を根絶やしにするためである。落ち武者も虐殺した。何千人も殺した。まるで信長のように。ジェノサイドだ。しかし、これは治安対策と、やはり豊臣家を根絶やしにするためであった。  家康はそのあと、尼となっていた秀吉の妻・高台院(寧々)と寺ではなした。
「もう世は徳川の時代……豊臣家はもうありません」高台院はいった。なぜか、冷静で丁寧な態度であった。
 家康は「高台院さま、この家康、天下太平のため、徳川幕府を開き、平和な世の中をつくりたく思いまする」と丁寧にいった。
「それはよきことです」高台院はいい、続けて「これからは無益な戦がない世の中に……なるのですね?」
「さようにござる、もう戦などなくなりもうす」
 家康は微笑んだ。すべて……おわったのだ。
 その顔は恍惚のものであり、登りつめたひとの顔であった。

話を戻す。
「徳川だの豊臣だのといってばかりでは天下は治められない。今の豊臣には誰もついてはこない。豊臣恩顧だの世迷い言じゃ。現に豊臣恩顧の大名衆はすべて徳川方。そのような豊臣にしてしまった。されど豊臣は百万石から六十五万石になっても一大名でも豊臣が残るならよいではありませんか?滅ぶよりマシです」
高台院(寧々)はいうが、秀頼や淀君は反発した。
「自分には子供がいないからと!あなたさまをこれ限り豊臣のひとだとは思いません!」
「この秀頼、豊臣秀吉の御曹司として徳川と戦いまする!」
……確かに、例え一大名になっても……とは子供がいないからかも知れぬ。
高台院の停戦工作は失敗した。
高台院は淀君と秀頼が籠城した大坂城が炎上している炎を遠くからみる。
涙を流し合掌し黙祷した。真夜中なのに煌煌と明るい炎の明かり……
「お前様。許して下され。私の力がおよばずとうとう豊臣がこんなことに……」
すると秀吉の亡霊が言った。
「おかか!これでええではないがじゃでえ。豊臣は一代でも役を果たした。それでええ。天下を徳川に渡した。おかかの役目もおわったのじゃ。おかか、ごくろうじゃった!」
「お前様………。」
「わしのおかかになり苦労させたのう」
「いいえ。……わたしはお前様のおかかになったこと後悔はありません。またお前様の女房になりとうございまする。できれば戦のない世で……」
「はははは。まっておるぞ、おかか」
亡霊は消えた。
「…お前様。?」
高台院(寧々)は再び涙を流し合掌した。「お前さま。……豊臣はお前様と私だけのものでした。」
高台院(寧々)は再び合掌して涙し、やがて、その場を歩き去った。
豊臣家の滅亡……そして永遠の豊臣…。すべては夢の中。夢の又夢。
こうして寧々の物語は、おわった。


  家康は厠で倒れた。
 すぐに寝室に運び込まれた。家康は虫の息だった。老衰だった。
 床についているあいだ、家康の血管を、思い出が洪水のように駆けめぐった。信長のこと、秀吉のこと、そうしたものではなく、じっさいの出来事ではなく、感情……遠い昔に失ってしまった思い出だった。涙があとからあとから溢れ出た。
 家臣たちは口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえるだろう。心臓がかちかちの石になり垂れ下がると同時に、全身の血管が氷のようになるのを家臣たちは感じた。すべておわりだ。家康公がとうとう死んでしまう。
「わしが……死んだら…日光に東照宮をつくり、わしの亡骸を葬ってくれ…」
 家康はあえぎあえぎだがいった。
「…と、殿!」家臣たちは泣き崩れた。
「わしは…」家康はあえぎあえぎ続けた。「……勝利…したのだろか?」
 空が暗くなり、明るくなり、世界がひっくりかえった。家康が七十五年間抱きつづけた感情が胸から溢れ出て、麻痺した指先を伝って座敷の畳みに零れ落ちた。
 そして、家康は死んだ。
 元和二年(一六一六年)四月十九日、家康死去、享年七十五歳で、あった。

 ……ひとの一生は重き荷を背負いて遠き道を行くが如し、焦るべからず……

  家康の格言で、ある。
 こうして、家康の策により徳川政権は二百六十年続いた。
 家康の知恵の策略の勝利、であった。                

またこの後の話は真田幸村として名高い真田信繁(本名)の最期の徳川との大戦となった『大坂夏の陣』ののちのちの戦話を漫画・劇画『紅蓮の花 真田幸村』上下巻、著者・(漫画)竹谷州史氏・(原作)仲路さとる氏・新潮社出版から引用したい。あくまで引用であり、盗作、無断転用、無断引用ではありません。裁判とか損害賠償とかやめてください。
 
 大坂冬の陣で大坂城は外堀どころか内堀まで埋め立てられ、天下に名高い難攻不落の大坂城は、徳川家康の謀略により裸城になりいよいよもって「豊臣家滅亡」「大坂壊滅」が現実になりそうだった。大坂の町人や商人や百姓衆も「今度ばかりは大坂もおしまいや!」「ひいいい~つ!お助け!」幕府軍数十五万の大軍が大坂の町に着々と進軍、明日にも大坂は戦火の海に沈む。「民百姓さえ豊臣の敗北を悟っています」大坂の寿司の屋台で、間者が町人に化けて、ある武将にいう。「我が主・幕府軍総大将徳川家康公は故国信濃一国にてあなたを買い受けると仰せです。これ以上は無意味、どうぞ幕府方にお越しください」
「お断りだ。狸にもらった国なんぞ、翌日木の葉に変わるかもしれん」そういったのは大坂方浪人・真田幸村である。「狸殿に伝えろ!俺はあんたにもらう国よりもこの上方の旨い寿司のほうがいい、と」
「真田殿……わが徳川幕府軍は十五万、大坂方はせいぜい寄せ集めの七万から八万でしょう?どちらが勝つかは馬鹿でもわかること。しかも、難攻不落といわれた大坂城もいまや裸城、死ぬだけですぞ」
「おおかたわしの首が縦にふらねば斬って帰れの命だろう?」幸村は鼻で笑った。「欲しいと言ったり殺せと言ったりご苦労なことだ」
「どうあってもお心かわりは………」
「ない」
「だが……死にまするぞ」
「死の際に燃える紅蓮の炎もある。胸が高鳴らないか……?狸を殺るにはよい日和だ」
 一方、徳川数十万を迎え撃つ覚悟の豊臣の大坂城には豊臣家重臣・大野治長が、
「こんな時に浪人衆は何をしておる!」と苛立っていた。参謀方の真田は幕府方の兄と内通の噂があり、幕府に寝返るのでは?というのだ。秀吉の遺児・豊臣秀頼は「大野…まあ、待とう。かの者らは皆、名に聞こえたいくさ人、それなりの戦支度があるのじゃろう」
「秀頼さま……」
 大坂方はもうみんな死を覚悟している。だが、死に場所を求めて大坂浪人衆の毛利勝永(もうり・かつなが)、大坂浪人・後藤又兵衛(ごとう・またべい)、大坂浪人・薄田兼相(すすきだ・かねすけ)、豊臣家家臣・木村重成(きむら・しげなり)、大坂浪人・明石全登(あかし・たけのり)、大坂浪人・元・四国の大名・長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)らが集まった。これに遅れて参陣した大坂浪人・真田幸村を加えこれらが『大坂夏の陣大坂浪人・七人衆』という。1615年5月、江戸幕府初代将軍徳川家康は全国の軍勢を率い大坂城へ出撃!その数実に15万……。豊臣方の寄せ集めの浪人衆約8万をはるかに超える精鋭である。前年の冬の陣からわずか半年、それはまさに家康の宿願・天下安寧・徳川の天下、豊臣抹殺への峻烈な表明であった。
「斥候(せっこう)から得た情報によると京より発した幕府軍は二手に別れ南下中。明日にもこの大坂城は15万もの軍勢に取り囲まれます」
毛利勝永は地図をみていった。
薄田は「これじゃあ、まさに風前の灯火ってやつだ」と笑った。
「河内方面の徳川秀忠隊は12万人、いかに秀忠が戦下手とはいえこれをまともに相手にするのは無謀だな」
「しかし、大和方面の徳川家康隊はわずか三万人!これはまさに千載一遇の好機!」
「幕府の総大将は家康!この首をとれば敵軍は瓦解し、戦局優位です!」
「これだから戦を知らぬ青二才は……お主はこれが家康の罠とわからんのか?!」
長宗我部はいった。「確かに大和方面軍はわずか3万……しかしこの陣には戦の天才・奥州の伊逹政宗が従軍しておる!」
「なにい?あの今孔明独眼竜伊逹政宗が!?」
一同は重い空気に押しつぶされそうになる。秀頼は「どちらを選んでも地獄というわけか……」とがくりとする。重い沈黙。すると、
「いけませんなあ!明日が戦というときにまるでお通夜ではありませんか!」と真田幸村が来た。「幸村!」「幸村殿!」一同に活気が戻った。「なにせ敵は齢七十にて今生にすがる古狸だ!あの家康より強いやつらのやり方をすればいい!織田信長公、太閤殿下(豊臣秀吉公)、御屋形さま(武田信玄公)、上杉謙信公、毛利元就公……この戦、大坂方の桶狭間である!つまりは奇襲!周りの大軍勢には目もくれず京より大坂に向かう家康隊の側面を一挙に奇襲する!敵方はこの戦で城を落とし……秀頼殿を討たねばならぬ。だが、こちらは家康の首さえ取れば再び豊臣家が天下人になれる!目標は凡人狸爺家康の首のみ!」
皆の顔に血の気が戻ってきた。「恐れるものは何もない。俺たちは死人の軍勢なのだから」
一同は、不敵に笑い始める。これは……もしかすると勝てるかも……
大和方面隊は後藤又兵衛と薄田兼相!河内別働隊は長宗我部盛親と木村重成、主力部隊・毛利勝永、明石全登と真田幸村は先発隊に続き大和方面へ!
一六一五年五月五日、大坂夏の陣の大坂七人衆が出撃する。大坂方は浪人たちの寄せ集めではあるが、家康に主君を殺された恨みがあり、士気は高い。徳川家康は齢七十にして重臣の本多正純に「かような殿は初めてじゃ……あれではもはや…天下に妄執する餓鬼!」といわれるほど天下を喜んだ。もはや誰も敵ではない。
 信長も秀吉も信玄も謙信も今川も毛利もない。わしの……天下じゃ!もはや豊臣家もおわりじゃ!家康は若かりし頃の『三方ヶ原の役』での武田信玄との戦いで惨敗し、馬上で糞尿まみれになったまま馬で逃げた悪夢を思い出した。自分には武田信玄や上杉謙信、毛利元就、織田信長、豊臣秀吉、真田幸村、竹中半兵衛、黒田如水(官兵衛)やらのような天才がないことは家康が自分自身でよくわかっていた。だからこそ誰よりも耐えた、誰よりも待った。信玄と謙信が準備し、織田がつき、羽柴がこねし天下餅、骨もおらずに食うは徳川………それがどうした!何が悪い!最後に勝ったものが勝者じゃろうが!
 だが、家康だって馬鹿ではない。大坂攻めでわずか3万あまりだけの大和方面隊にはいかに天下無双の独眼竜伊逹政宗軍がいようとも危ない。家康は、大和方面隊に影武者をたて、自分は隠れて河内方面隊の息子・秀忠軍十二万の中に紛れた。
家康は「桶狭間のような奇襲も敵方に真田幸村がいるなら有り得る」と慎重だった。
と、同時にこれで天下人に、歴史に天下の徳川家康の名前が刻まれることを興奮せざる得ない様子であった。
初戦の朝は深い濃霧で大坂方の脚はすすまない。
「大坂方め、運にも見放されたか」家康は笑いがとまらない。しかも、大坂方は大和方面を奇襲しようという行動であるので、ますます徳川有利である。大和方面の先鋒・後藤又兵衛隊は獅子奮迅の戦いをしたが何せ多勢に武勢である。何倍もの敵を倒せる訳もない。しかも、「大和方面の家康は影武者じゃ!」との情報で、もはやこれまでと高をくくった。
五月六日、緒戦は家康に軍配があがった。影武の首をとっても意味はない。後藤隊は残った兵士三百のうち二百を後続隊に残し、自分と百余りの兵で、小松山で幕府軍とやりあった。さすがは豪傑で知られる後藤又兵衛隊だが、所詮は多勢に武勢、後藤はまるで牛若丸を守る弁慶の如く、伊逹政宗隊と片倉小十郎(二代目)により戦死させられた。後続隊の薄田兼相隊も見事な最期であったという。一方の河内方面のほうが十二万兵であるから、こちらこそ敵は多勢に武勢、木村重成が戦死、長宗我部は一旦、大坂城に退いた。
後藤基次(又兵衛)は押し寄せる大軍に果敢に挑んだという。
後藤は押し寄せる黒田長政勢を長槍で蹴散らす。「かかれーっ!突撃―っ!」
軍勢は黒田勢有利なるも、さすがは武勇で知れた後藤基次である。長槍で何万騎もの軍勢を震え上がらせる。小松山後藤軍三千VS敵・幕府黒田長政軍三万兵……
「やあっ!どううっ!」後藤基次の長槍で、次々に兵士が殺られていく。
………ひいいいっ!逃げろ!ばけものだーっ!
「逃げるなーっ!黒田武士の恐ろしさを思い知らせよー!」
そう叫ぶ黒田長政も心理は戦々恐々としている。「こちらは多勢に武勢じゃぞ!黒田の名に泥を塗るな!突撃―っ!」
やがて、後藤基次の左肩に銃弾が当たる。
後藤基次の巨体が崩れた。と、同時に銃弾が数発…後藤基次の胸や腹に当たる。
「ぐっ!………負けぬぞ、長政!秀頼殿、おさらばで…御座る…!」
血を吐きながら、後藤基次は最期の力で長槍をぶん投げた。
その槍は馬上の黒田長政の左肩に突き刺さった。「ぐあああっ!」
焼肉の鉄板みたいな鎧兜の黒田長政は馬上から落下してもだえた。
………ぐあああっ!ひいいいいっ!又兵衛め、又兵衛めーっ!
その姿をみた後藤基次は最期の奉公をおえたとばかりに人生の最期を迎える。
黒田勢の一斉射撃に蜂の巣にされた後藤基次は「…殿!申し…訳………御座らん。殿!」
と、叫ぶと巨体は血だらけで地面へと崩れた。そして死んだ。
享年六十歳………天才軍師・後藤基次の魂は竜の如く、天昇した。
「後藤殿! 後藤殿はおられぬか??!!」
数時間後、薄田隼人は少数精鋭軍と化して、霧が晴れた後、徳川軍勢に突撃した。
「?!!」隼人は後藤の死骸を発見する。
「貴様らーっ!よくも後藤殿を!!!」
さすがは豪遊磊落の薄田隼人。敵勢を踏み散らすように大量殺戮していく。
「皆殺しにしろーっ!後藤殿の仇を討てーっ!豊臣家の為に敵を蹴散らせ!」
そんな薄田兼相も銃撃で蜂の巣にされる。
なおも槍で敵将の首を斬りかかる。「ばけものめ!首をとれーっ!」
「…負けぬ!……負けぬぞーっ!家康―っ!秀頼さまーっ!」
「ばけもの!死ねーっ!」
「ぐあああっ!」
薄田の首は落ちた。
徳川勢の長槍で斬首されたのだ。「殿―っ!」家臣たちも徳川勢に銃殺されていく。
多勢に武勢、だ。薄田兼相は、こうして戦死した。魂は竜の如く後藤基次の元へ昇天する。
 明石全登隊は行方不明に、真田幸村には十代の息子・真田大助がいたが真田幸村が「大助よ、大坂方の秀頼さまにご出陣の下知をいただきに戻れ!」という。「しかし…父上!」
「これは命令じゃ!大坂城にて秀頼さまを守り秀頼さまとともに生きよ!」
真田大助は涙をはらはら流しながら「はっ!」といい、騎馬で大坂城に戻っていった。
五月六日の夜、真田幸村、毛利勝永、長宗我部らは戦線を退いて、大坂城にほど近い天王寺に集結、最後の軍議を開く。城の防備は無に等しく、大坂方は一か八かの翌日の夜戦に望みを託す他になかった。それは事実上の背水の陣…………
家康は愉悦の絶頂にあった。七十年の生涯求め続けた完全な天下が目前なのである。
「散々わしを見下した豊臣が、明日!滅ぶ!わははは、あの世で歯噛みするがいい!秀吉め!」
「家康さま!まだ戦は明日も…」
「ふははは!笑止千万!死にぞこないの浪人と餓鬼に何ができる?!明日、わしはすべての武士の頂点に立つ!すべての!」
 翌日、その死にぞこないの真田幸村・毛利勝永部隊は正面から突破しようと騎馬軍団で突撃しようと全速力で迫った。慶長二十年(一六一七)五月七日、もはや戦はおわりじゃ、と鎧や具足を脱いだ家康の前に真田幸村が迫るのである。
最初に立ちふさがるのは幕府先鋒越前大名・松平忠直軍隊(家康の次男・秀康の息子)である。「もはや多勢に武勢!大坂方の大将の首をとれば恩賞は思いのままだぞ!」
「進め!立ち止まるな!家康の首以外は目もくれるな!」兜に鹿の角の紅蓮の炎、真田隊が突っ走ってくる。
そこに間者が「う、裏切りだ―!紀州の浅野長晟(ながあきら)が大坂に寝返った!」
「我らの背後に迫っているぞー!」とやる。「ひいいいつ!」「にげろー!」浅野長晟はこの時4万の大軍を率いていた。長晟の父・長政は豊臣五奉行のひとりであり、裏切りの情報に信憑性があった。無論、幸村が放った内偵による流言である。だが、これにより越前兵は統率を失い、もはや幸村の敵ではない。
 また幸村は自分の影武者を何人もいろいろな場所に出現させる手にも出た。
駆ける!駆ける幸村!紅蓮の炎のような部隊が家康本陣に迫ってくる。
「ひいいいいいっ!何じゃ!わしは誰と戦っておるのじゃ?!」
「家康さまお逃げくだされ!」
「ひいいいいぃぃっ!」
やがて徳川の幔幕が切り裂かれ馬上から真田幸村が斬り込む。
「家康!覚悟!その首を血でかざれー!」
だが、家康は馬で逃げた。失禁しながらも信玄から逃げた三方が原のときのように遁走した。逃げても、逃げても幸村が追ってくる。「家康―!家康―!」
「ひいいいっ!誰かたすけてー!ひいいいつ!」


*****続く(刊行本または電子書籍に続く)続く*****

おいどん!巨眼の男西郷隆盛<2018年大河ドラマ『西郷どん』記念>船中八策篇x

2016年11月20日 17時35分48秒 | 日記































 続く<刊行本または電子書籍に続く>続く


<参考文献>
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、『ネタバレ』、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』、津本陽著作『私に帰せず 勝海舟』、司馬遼太郎著作『竜馬がゆく』、『陸奥宗光』上下 荻原延濤(朝日新聞社)、『陸奥宗光』上下 岡崎久彦(PHP文庫)、『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦(PHP文庫)、『勝海舟全集』勝部真長ほか編(頸草書房)、『勝海舟』松浦玲(中公新書)、『氷川清話』勝海舟/勝部真長編(角川文庫)、『坂本龍馬』池田敬正(中公新書)、『坂本龍馬』松浦玲(岩波新書)、『坂本龍馬 海援隊始末記』平尾道雄(中公文庫)、『一外交官の見た明治維新』上下 アーネスト・サトウ/坂田精一(岩波文庫)、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一(東洋文庫)、『幕末外交談』田辺太一/坂田精一校注・訳(東洋文庫)、『京都守護職始末』山川浩/遠山茂樹校注/金子光晴訳(東洋文庫)、『日本の歴史 19 開国と攘夷』小西四郎(中公文庫)、『日本の歴史 18 開国と幕末変革』井上勝生(講談社文庫)、『日本の時代史 20 開国と幕末の動乱』井上勲編(吉川弘文館)、『図説和歌山県の歴史』安藤精一(河出書房新刊)、『荒ぶる波濤』津本陽(PHP文庫)、日本テレビドラマ映像資料『田原坂』『五稜郭』『奇兵隊』『白虎隊』『勝海舟』、NHK映像資料『歴史秘話ヒストリア』『その時歴史が動いた』大河ドラマ『龍馬伝』『篤姫』『新撰組!』『八重の桜』『坂の上の雲』、『花燃ゆ』漫画『おーい!竜馬』一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、NHK『大河ドラマ 龍馬伝ガイドブック』角川ザテレビジョン、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
『竜馬がゆく(日本テレビ・テレビ東京)』『田原坂(日本テレビ)』『五稜郭(日本テレビ)』『奇兵隊(日本テレビ)』『勝海舟(日本テレビ)』映像資料『NHKその時歴史が動いた』『歴史秘話ヒストリア』映像参考資料等。
 「文章や物語が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく、引用です。
大河ドラマ『翔ぶが如く』、司馬遼太郎著作『翔ぶが如く』、他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。


勝海舟 至誠の魂 勝海舟<維新船中八策篇>坂本竜馬の師・海舟の不屈の魂X

2016年11月20日 17時33分57秒 | 日記


































 続く<刊行本または電子書籍に続く>続く



略年譜[編集]
• 天保9年(1838年)7月27日、家督相続し、小普請組に入り、40俵扶持。
• 安政2年(1855年)
• 1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用となる。
• 7月29日、海軍伝習重立取扱となる。
• 8月7日、小普請組から小十人組に組替。
• 安政3年(1856年)
• 3月11日、講武所砲術師範役となる。
• 6月30日、小十人組から大番に替わる。
• 安政6年(1859年)
• 5月、伊予松山藩が武蔵国神奈川(現在の横浜市神奈川区)に築造した砲台設計する。
• 11月24日、アメリカ派遣を命ぜられる。
• 安政7年(1860年)
• 1月13日、品川から咸臨丸出航。
• 2月26日、サンフランシスコに入航。
• 閏3月8日、サンフランシスコを出航。
• 改元して万延元年5月6日、品川沖に入航。
• 5月7日、江戸に帰府。
• 6月24日、天守番頭過人・蕃書調所頭取助となる。石高400石取りとなる。
• 文久元年(1861年)9月5日、天守番頭格・講武所砲術師範役に異動。
• 文久2年(1862年)
• 7月4日、二の丸留守居格軍艦操練所頭取に異動。
• 閏8月17日、軍艦奉行並に異動。役高1,000石。
• 文久3年(1864年)
• 2月5日、摂海警衛及び神戸操練所運営を委任される。
• 改元して元治元年5月14日、作事奉行次席軍艦奉行に異動し、役高2,000石。大身となり、武家官位の従五位下安房守に任官。
• 11月10日、軍艦奉行を罷免され、寄合席となる。
• 慶応2年(1866年)5月28日、町奉行次席軍艦奉行に復職。
• 慶応3年(1867年)3月5日、海軍伝習掛を兼帯。
• 慶応4年(1868年)
• 1月17日、海軍奉行並に異動。役高5,000石。列座は陸軍奉行並の上。
• 1月23日、陸軍総裁に異動。列座は若年寄の次座。
• 2月25日、陸軍総裁を免じ、軍事取扱に異動。
• 3月13日・14日、薩摩藩江戸藩邸にて西郷隆盛と会見。同日、江戸城無血開城。
• 明治2年(1869年)
• 7月13日、諱を安芳と改める。
• 7月18日、維新政府の外務大丞に任官。
• 8月13日、外務大丞を辞す。
• 11月23日、兵部大丞に任官。
• 明治3年(1870年)6月12日、兵部大丞を辞す。
• 明治5年(1872年)
• 5月10日、海軍大輔に任官。
• 6月15日、従四位に昇叙し、海軍大輔如元。
• 明治6年(1873年)10月25日、参議に転任し、海軍卿を兼任。
• 明治7年(1874年)2月18日、正四位に昇叙し、参議・海軍卿如元。
• 明治8年(1875年)
• 4月25日、元老院議官に異動。
• 4月27日、元老院議官を辞表を提出。
• 11月28日、元老院議官を辞す。
• 明治20年(1887年)
• 5月9日、伯爵を受爵。
• 12月、従三位に昇叙。
• 明治21年(1888年)
• 4月30日、枢密顧問官に任官。
• 10月、正三位に昇叙し、枢密顧問官如元。
• 明治22年(1889年)
• 5月8日、枢密顧問官辞表を提出するが、翌日却下。
• 12月、勲一等瑞宝章を受ける。
• 明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に当選するものの辞退。
• 明治27年(1894年)6月30日、従二位に昇叙し、枢密顧問官如元。
• 明治29年(1896年)10月27日、枢密顧問官辞表を提出するが、11月4日、却下。
• 明治31年(1898年)2月26日、勲一等旭日大綬章を受ける。
• 明治32年(1899年)
• 1月19日、死去。
• 1月20日、贈正二位。法名:大観院殿海舟日安大居士。



<参考文献>
なお、この物語の参考文献はウィキペディア、『ネタバレ』、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』、津本陽著作『私に帰せず 勝海舟』、司馬遼太郎著作『竜馬がゆく』、『陸奥宗光』上下 荻原延濤(朝日新聞社)、『陸奥宗光』上下 岡崎久彦(PHP文庫)、『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦(PHP文庫)、『勝海舟全集』勝部真長ほか編(頸草書房)、『勝海舟』松浦玲(中公新書)、『氷川清話』勝海舟/勝部真長編(角川文庫)、『坂本龍馬』池田敬正(中公新書)、『坂本龍馬』松浦玲(岩波新書)、『坂本龍馬 海援隊始末記』平尾道雄(中公文庫)、『一外交官の見た明治維新』上下 アーネスト・サトウ/坂田精一(岩波文庫)、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一(東洋文庫)、『幕末外交談』田辺太一/坂田精一校注・訳(東洋文庫)、『京都守護職始末』山川浩/遠山茂樹校注/金子光晴訳(東洋文庫)、『日本の歴史 19 開国と攘夷』小西四郎(中公文庫)、『日本の歴史 18 開国と幕末変革』井上勝生(講談社文庫)、『日本の時代史 20 開国と幕末の動乱』井上勲編(吉川弘文館)、『図説和歌山県の歴史』安藤精一(河出書房新刊)、『荒ぶる波濤』津本陽(PHP文庫)、日本テレビドラマ映像資料『田原坂』『五稜郭』『奇兵隊』『白虎隊』『勝海舟』、NHK映像資料『歴史秘話ヒストリア』『その時歴史が動いた』大河ドラマ『龍馬伝』『篤姫』『新撰組!』『八重の桜』『坂の上の雲』、『花燃ゆ』漫画『おーい!竜馬』一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、NHK『大河ドラマ 龍馬伝ガイドブック』角川ザテレビジョン、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
『竜馬がゆく(日本テレビ・テレビ東京)』『田原坂(日本テレビ)』『五稜郭(日本テレビ)』『奇兵隊(日本テレビ)』『勝海舟(日本テレビ)』映像資料『NHKその時歴史が動いた』『歴史秘話ヒストリア』映像参考資料等。
 「文章や物語が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく、引用です。
他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。


『ガキ使』年末特番でベッキーの日テレ復帰説に「笑えない」の声 “本物の”SMAP出演を

2016年11月18日 07時58分36秒 | 日記



























『ガキ使』年末特番でベッキーの日テレ復帰説に「笑えない」の声 “本物の”SMAP出演を期待する声も







 年末恒例の年越し特番『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(日本テレビ系)の“絶対に笑ってはいけないシリーズ”の今年のタイトルが『絶対に笑ってはいけない科学博士24時!』に決定したことが16日に明らかになったのだが、ネット上では「ベッキーのサプライズ出演があるのでは?」と臆測する声が広まっている。

笑うとお尻を叩かれる、という罰を受けてしまう、“絶対に笑ってはいけないシリーズ”は、大みそか特番としては今年で11年目を迎え、「さすがにマンネリ化している」との指摘がありつつも、莫大な制作費にものいわせ、その年に話題となった豪華なゲストが次々と出演することもあり、毎年、民放ではトップクラスの視聴率を獲得している。それだけに、毎年この時期になると、ゲストが誰なのかと臆測する声が飛び交うのが常になっているのだが、今年、最も芸能界を騒がせたといっても過言ではないベッキーが出演するのではないか、と予想する声は、群を抜いて多いといえる。


© Otapol 提供
「川谷絵音との不倫騒動後、一旦、芸能活動を自粛したベッキーは、夏頃を境に、徐々に活動を活発化させ、すでにTBSやフジテレビなど、他の民放番組への出演は果たしているのですが、『世界の果てまでイッテQ!』や『天才!志村どうぶつ園』などといった人気番組のレギュラーを務めていた日本テレビにはまだ復帰していないことから、『ガキ使スペシャルでサプライズ復帰するのでは?』と臆測する声が、業界内でも広まっています。ただ、仮にゲスト出演したとしても、いまだに不倫騒動で批判を浴びているだけに、『出てきたら、絶対に笑わない』『本当に笑えない演出になってしまう』などと否定的な声が寄せられています」(芸能関係者)

 今年、ベッキー&川谷の不倫騒動に勝るとも劣らない程に、芸能界を騒然とさせたといえば、SMAP解散騒動が挙げられるが、昨年の放送では中居正広が出演していただけに、「5人全員で登場したら、超サプライズになる」と期待する声が寄せられている。

「昨年、中居がサプライズゲストとして登場した際には、中居以外のメンバーが全員偽者の“偽SMAP”として登場し、『似てないけど面白い』と話題になったものの、SMAPファンからは『どうせなら全員本物が良かった』と惜しむ声が寄せられていました。それだけに、SMAPファンからは『今年は本物のSMAP全員で出演して欲しい』『ガキ使からの紅白で締めくくり、が最高なんだけど』などと、NHKが出演オファーに躍起になっているとウワサされる『紅白歌合戦』への出演も含め、期待する声が日毎に増しているようです」(同)

 しかし、昨年の放送で中居だけが出演したことに関して、「全員にオファーしたけど断られたのでは?」と臆測する声や、仮に出演したとしても、「ぎこちない雰囲気を醸し出したら、番組がしらけてしまう」などと指摘する声も飛び交っている。

2016流行語大賞ノミネート発表 「PPAP」「都民ファースト」「ゲス不倫」など30語

2016年11月18日 07時56分11秒 | 日記






























2016流行語大賞ノミネート発表 「PPAP」「都民ファースト」「ゲス不倫」など30語







2016流行語大賞候補30語発表 (C)ORICON NewS inc.© 芸能ニュース 提供 2016流行語大賞候補30語発表 (C)ORICON NewS inc.
 今年最も話題となった言葉を選ぶ『2016 ユーキャン新語・流行語大賞』(現代用語の基礎知識選)のノミネート30語が17日、同賞事務局より発表された。

 今年の芸能界を席巻した「ゲス不倫」とその引き金となった「文春砲」「センテンススプリング」がノミネート。日本中が夢中になったスマホゲーム「ポケモンGO」や、今年7月に就任した小池百合子都知事に関連する「アスリートファースト」「都民ファースト」「盛り土」「レガシー」なども選ばれた。

 そのほか芸能界では、ピコ太郎の世界的大ヒット曲「PPAP」、昨年末の『M-1グランプリ』で優勝したトレンディエンジェル・斎藤司の「斎藤さんだぞ」が選出。大ヒット映画『君の名は。』と舞台になった土地をめぐる『聖地巡礼』、同じくヒット作『シン・ゴジラ』や大きな話題となったアニメ『おそ松さん』、朝ドラ『あさが来た』で主人公がたびたび口にする「びっくりぽん」、日本中を驚かせた「SMAP解散」などもノミネートされた。

 スポーツジャンルでは、広島カープの緒方孝市監督が2試合連続サヨナラホームランを打った鈴木誠也選手を評した「神ってる」、リオ五輪バドミントンで金メダルを獲得した「タカマツペア」、サッカー日本代表の長友佑都選手がタレント・平愛梨と交際宣言した際に発言した「(僕の)アモーレ」などもノミネートされている。

 トップテンと年間大賞は、来月1日に発表される。

◇ノミネート30語は以下の通り
アスリートファースト/新しい判断/歩きスマホ/EU離脱/AI/おそ松さん/神ってる/君の名は。/くまモン頑張れ絵/ゲス不倫/斎藤さんだぞ/ジカ熱/シン・ゴジラ/SMAP解散/聖地巡礼/センテンススプリング/タカマツペア/都民ファースト/トランプ現象/パナマ文書/びっくりぽん/文春砲/PPAP/保育園落ちた日本死ね/(僕の)アモーレ/ポケモンGO/マイナス金利/民泊/盛り土/レガシー

大島優子「楽屋では下着で踊ってる…」衝撃の告白にTOKIO唖然

2016年11月17日 14時42分24秒 | 日記



























大島優子「楽屋では下着で踊ってる…」衝撃の告白にTOKIO唖然





大島優子、衝撃の告白にTOKIO唖然 クランクイン!© Hollywood Channel 提供 大島優子、衝撃の告白にTOKIO唖然 クランクイン!
 女優の大島優子が16日、フジテレビのトーク番組『TOKIOカケル』に出演。楽屋で下着姿で踊るという衝撃の素顔を明かし、TOKIOメンバーや、映画『疾風ロンド』で共演した同じくゲストの阿部寛を驚かせていた。またAKB48在籍時代を振り返り、「メンバーはみんな笑えるブスだった」と自虐的な発言をして笑わせた。

 まずAKB48時代の2010年と2012年の選抜総選挙で1位となった時のことを振り返った大島。「ファンのみんなが土台になって山を積み上げてくれて、それでトップになれて山頂からの景色を見れた。自分で上がり切ったものと人が押し上げてくれたものとでは感動の種類が違う」と語った。

 日頃からの努力として握手会でのエピソードを紹介。「頑張ってください」などの励ましの言葉のほか、「何カップですか?」などきわどいことを聞かれることもあったという。人気を維持するには「そういうことにも対応できるように」答えていたと聞き、驚くTOKIOのメンバーたち。長瀬智也が「何て言うの?」と尋ねると、大島は「ワールドカップ」と答え、笑わせていた。

 そんな大島だが、「衣装に着替えたりする時、楽屋で脱ぐじゃないですか、服を。脱いだままの格好で『うえ~』って踊ったりする」と衝撃の告白。TOKIOのメンバーたちが唖然とする中、長瀬が「何のために踊るの?」と問うと、「解放感」と即答。国分が「(上半身)おブラ(だけ)なわけですよね」とヒヤヒヤした表情で語りながら、「それは見てみたいものですよね」と笑っていた。

 AKB48を卒業してから2年。「私が入ってた時と、今テレビで観るAKBは違う感じが…」としみじみと語った大島。それは「みんな可愛い」からと語り、「私たちがいた時は可愛くなかったから。みんなブスだった。デビュー当時の写真を見ると、すごい笑えるブス」と笑う。国分から「誰が一番笑えるブスだった?」と聞かれたが、さすがにそれには笑いながら言葉を濁し、「水準は上がってますよ。今の時代に私がAKBに入ったら完全に埋れてる」と吐露していた。