長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

お江と直江兼続「江 姫たちの戦国」「天地人」アンコール連載3

2012年02月29日 10時36分12秒 | 日記
2 桶狭間合戦




  樋口与六兼続は「信長は義に劣る者ときいている」という。
「では、今川公に負けまするか?」とは弟。
「わからぬ。だが、今川は何万の兵……織田はたった三千だ」
「では勝つのは今川公で?」
「知らぬ。だが、信長はうつけのようにみえるが軍事の天才だという。もしも…というときもあろう」
 兼続はいった。弟・与七実頼は「しかるにそのあるいはとは?」ときく。
「奇襲だ。わしが織田信長ならそうする。要は義元公の首をとればいいのだ」
 兼続はどこまでも明晰だった。「それにしても謙信公の戦は野遊びだ」
「野遊び?」
「信長がどんどん力をつけていくのに……いっこうに天下を狙わぬ」兼続は織田方に驚異の念を抱いていた。このままでは関東守護の座さえ危うい……。
「これ、御屋形様の悪口はけしからぬぞ!」
 父は叱った。名を樋口兼豊(惚右衛門)という。母は泉重蔵(お藤)で、まだ若い兄弟をきちんと躾ていた。
 戦国時代の二大奇跡がある。ひとは中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦、もうひとつが織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。
 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。
  斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長が弟・信行を謀殺したのは前述した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。
 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。
 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。
「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。
「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。
「は?」
「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。
 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。
 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。
 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのよい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。
 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。
 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。
 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。
「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。
 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは               
足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。
 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。信長の勝つ確率は極めて低い。
  今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。
  特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。
 今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。
 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。しかし当の松平元康(のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。
 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。
 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。
 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。なにを夢ごとを。家臣たちは訝しがった。





  松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。
 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。
 今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。今川義元は軍議をひらいた。
「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。
 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」
 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。
 柴田勝家は「そうか……とは? …御屋形! 何か策は?」と口をはさんだ。
 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。宮福太夫という猿楽師に、羅生門を舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。
「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」
 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。
 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。
「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。
「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」
「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」
「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。
「なんて御屋形だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」
「まったくあきれる。あれでも大将か?」
 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」
  信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。
「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」
「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」
「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」
 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。
「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の男がいった。この男こそ、のちの豊臣秀吉である。秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」
「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」
 日吉は迷ってから「奇襲にでればと」
「奇襲?」信長は茫然とした。
「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」
「さしでがましいわ!」信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。
「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。
 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。
「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。
「なんじゃ、猿」
「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」
「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」
「八百あまり」
「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。
「いま何刻じや?」
「うしみつ(午前2時)でごさりまする」猿はいった。
「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」
 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。そして有名な「敦盛」を舞い始める。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。
「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。わずかに長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎の五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。
 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。
「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」
 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。
 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。
 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。
 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」
 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。
「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。
 信長は叫んだ。
「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」
 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。
「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」
 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせ、にやりとした。
「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形である」と感心した。
 織田軍は密かに進軍を開始した。





                
  太子ケ根を登り、丘の上で信長軍は待機した。
 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。嵐の中で部下は「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。
 しかし、信長はその策をとらなかった。
「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」
 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」
 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。山の上から喚声をあげて下ってくる軍に今川本陣は驚いた。
「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。
「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」
 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!
 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。
 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!
「御屋形様をお守りいたせ!」
 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。
「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、新助の人差し指に噛みつき、それを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。
 義元はこの時四十二歳である。                   
「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。
 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。
「勝った! われらの勝利じゃ!」
 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。
  かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。
「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」
「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。
「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。
 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。
 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。
  今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。
 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。
 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。
 これに対して信長は「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。
 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。
 清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方にけっそうをかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。
  清洲城に戻り、酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。
 信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」
 家臣たちは意味がわからず顔を見合わせたという。                


お江と直江兼続「江 姫たちの戦国」「天地人」アンコール連載2

2012年02月29日 10時34分16秒 | 日記




         室町幕府滅亡


  将軍・足利義昭は信玄の死を知らなかった。
 そこでかれは、武田信玄に「信長を討て」と密書を何通もおくった。何も返事がこない。朝倉義景に送っても何の反応もない。本願寺は書状をおくってきたが、芳しくない。
 義昭は七月三日、蜂起した。二条城に武将をいれて、槙島城を拠点とした。義昭に忠誠を尽くす真木氏がいて、兵をあつめた。その数、ほんの三千八百あまり……。
 知らせをきいた信長は激怒した。
「おのれ、義昭め! わしを討てと全国に書状をおくったとな? 馬鹿めが!」信長は続けた。「もうあやつは用なしじゃ! 馬鹿が、雉も鳴かずばうたれまいに」
 七月十六日、信長軍は五万の兵を率いて槙島城を包囲した。すると、義昭はすぐに降伏した。しかし、信長は許さなかった。
”落ち武者”のようなざんばら髪に鎧姿の将軍・足利義昭は信長の居城に連行された。
「ひい~つ」義昭おびえていた。殺される……そう思ったからだ。
「義昭!」やってきた信長が声をあらげた。冷たい視線を向けた。
 義昭はぶるぶる震えた。小便をもらしそうだった。自分の蜂起は完全に失敗したのだ。もう諦めるしかない……まろは……殺される?
「も…もういたしませぬ! もういたしませぬ! 義父上!」
 かれは泣きべそをかき、信長の足元にしがみついて命乞いをした。「もういたしませぬ! 義父上!」将軍・足利義昭のその姿は、気色悪いものだった。
 だが、信長の顔は冷血そのものだった。もう、義昭など”用なし”なのだ。
「光秀、こやつを殺せ!」信長は、明智光秀に命じた。「全員皆殺しにするのじゃ!」
 光秀は「しかし……御屋形様?! 将軍さまを斬れと?」と狼狽した。
「そうじゃ! 足利義昭を斬り殺せ!」信長は阿修羅の如き顔になり吠えた。
 しかし、止めたのは秀吉だった。「なりませぬ、御屋形様!」
「なんじゃと?! サル」
「御屋形様のお気持ち、このサル、いたいほどわかり申す。ただ、将軍を殺せば松永久秀や三好三人衆と同じになりまする。将軍殺しの汚名をきることになりまする!」
 信長は無言になり、厳しい冷酷な目で秀吉をみていた。しかし、しだいに目の阿修羅のような光が消えていった。
「……わかった」信長はゆっくり頷いた。
 秀吉もこくりと頷いた。
 こうして、足利義昭は命を救われたが、どこか地方へと飛ばされ隠居した。こうして、足利尊氏以来、二百四十年続いた室町幕府は、第十五代将軍・足利義昭の代で滅亡した。









         どくろ杯


  信長は珍しく神棚に祈っていた。もう深夜だった。ろうそくの明りで室内は鬼灯色になっていた。秀吉はにこりと笑って、「神に祈っておられるのでか? 御屋形様」といった。そして、はっとした。除くと、神棚には仏像も何もない。ただ鏡があって、そこに信長の顔が写しだされていたからだ。信長は”自分”に祈っていたのだ。
 秀吉はそら恐ろしい気分だったに違いない。
  信長は大軍をすすめ、越前(福井県)に突入した。北近江の浅井長政はそのままだ。一乗谷城の朝倉義景にしてもびっくりとしてしまった。
 義景にしてみれば、信長はまず北近江の浅井長政の小谷山城を攻め、次に一乗谷城に攻め入るはずだと思っていた。しかし、信長はそうではなかった。一揆衆と戦った経験から、信長軍はこの辺の地理にもくわしくなっていた。八月十四日、信長は猛スピードで進撃してきた。朝倉義景軍は三千人も殺された。信長は敦賀に到着している。
 織田軍は一乗谷城を包囲した。義景は「自刀する」といったが部下にとめられた。義景は一乗谷城を脱出し、亥山(大野市)に近い東雲寺に着いた。
「一乗谷城すべてを焼き払え!」信長は命じた。
 城に火が放たれ、一乗谷城は三日三晩炎上し続けた。それから、義景はさらに逃亡を続けた。が、懸賞金がかけられると親戚の朝倉景鏡に百あまりの軍勢でかこまれてしまう。 朝倉義景のもとにいるのはわずかな部下と女人だけ………
 朝倉義景は自害した。享年四十一歳だったという。
  そして、北近江の浅井長政の小谷山城も織田軍によって包囲された。
 長政は落城が時間の問題だと悟った。朝倉義景の死も知っていたので、援軍はない。八月二十八日、浅井長政は部下に、妻・お市(信長の妹)と三人の娘(茶々(のちの秀吉の側室・淀君)、お初、お江(のちの家康の次男・秀忠の妻)を逃がすように命じた。
 お市と娘たちを確保する役回りは秀吉だった。
「さぁ、はやく逃げるのだ」浅井長政は心痛な面持ちでいった。
 お市は「どうかご一緒させてください」と涙ながらに懇願した。
 しかし、長政は頑固に首を横にふった。
「お主は信長の妹、まさか妹やその娘を殺すことはしまい。嫡男は殺されるだろうが」
「しかし…」
「いけ!」浅井長政は低い声でいった。「はやく、いくのだ! さぁ!」
お市は浅井長政に嫁いだ日を思い出した。兄・信長に命じられるまま嫁いだ。浅井長政はお市を見て「そなたは武将のような女子じゃ。しかしその瞳に可憐な女が見える」といったのだ。「女?」お市は長政に惹かれるようになる。すぐに茶々(のちの秀吉の側室・淀君)と初(京極高次の側室)という娘に恵まれた。そして信長に反逆して大勢の織田勢に包囲されながら、小谷城でお市は身ごもった。しかし、お市はお腹の赤子をおろそうとした。薬師に薬をもらった。「これを飲めばお腹のやや(赤子)は流れるのじゃな?」「はっ」そんなとき、幼い茶々が短刀を抜いて初を人質に乱入した。驚いた、というしかない。茶々は「ややを産んでくだされ、母上! ややを殺すならこの茶々も初もこの刀で死にまする!」という。この思いに母・お市は負けた。短刀を取り上げて、「わかった。産もうぞ」といった。娘が生まれた。
 長政は「この姫は近江の湖に生まれし子、名は江じゃ」という。しかし、浅井三姉妹とお市と浅井長政との永遠の別れとなった。お市と茶々、初や側奥女中らは号泣しながら小谷城落城・炎上を見送った。
 秀吉はにこにこしながら、お市と娘たちを受け取った。
 浅井長政は、信長の温情で命を助けられそうになった。秀吉が手をまわし、すでに自害している長政の父・久政が生きているから出てこい、とやったのだ。
 浅井長政は、それならばと城を出た。しかし、誰かが、「久政様はすでに自害している」と声をあげた。そこで浅井長政は、
「よくも織田信長め! またわしを騙しおったか!」と激怒し、すぐに家老の屋敷にはいり、止める間もなく切腹してしまった。
 信長は激しく怒り、「おのれ! 長政め、命だけは助けてやろうと思うたのに……馬鹿なやつめ!」とかれを罵った。
 長男の万福丸は秀吉の家臣によって殺害され、次男の万寿丸は出家処分に…お市は泣きながら、三姉妹とともに織田信長の清洲城に引き取られていった。
 兄・信長と信包の元で、9年間もお市の方は贅沢に幸せに暮らさせてもらった。しかし、気になるのは柴田勝家である。
 勝家はお市の初恋の相手であった。またお市は秀吉をいみ嫌っていた。…サルめ! ハッキリそういって嫌った。

  天正二年(一五七四)の元日、岐阜城内は新年の祝賀でにぎわっていた。
 信長は家臣たちににやりとした顔をみせると、「あれを持ってこい」と部下に命じた。ほどなく、布につつまれたものが盆にのせて運ばれてきた。    
「酒の肴を見せる」
 信長はにやりとして、顎で命じた。布がとられると、一同は驚愕した。盆には三つの髑髏があったからだ。人間の頭蓋骨だ。どくろにはそれぞれ漆がぬられ、金箔がちりばめられていた。信長は狂喜の笑い声をあげた。
「これが朝倉義景、これが浅井久政、浅井長政だ」
 一同は押し黙った。………信長さまはそこまでするのか……
 お市などは失神しそうだった。利家たちも愕然とした。
「この髑髏で酒を飲め」信長は命じた。部下が頭蓋骨の頂点に手をかけると、皿のようになった頭蓋骨の頭部をとりだし、酒をついだ。
「呑め!」信長はにやにやしていた。家臣たちは、信長さまは狂っている、と感じた。酒はもちろんまずかった。とにかく、こうして信長の狂気は、始まった。

  勝家は家臣団五千とともに上杉景勝と戦っていた。そんな中、ふたたび家臣となった者が山城に孤立した。囲まれ、上杉軍にやられるところだった。勝家の部下たちはその者は見殺しにして、このまますすめば上杉景勝の首をとれると進言した。しかし、勝家は首を横にふった。「あやつを見殺しに出来るか!」こうして、その者たちは助けられた。         
 上杉景勝(上杉謙信の甥・謙信の養子・上杉家第二代)は難を逃れた。




  天正四年(一五七六)……
 信長の庇護のもと伊勢(三重県)上野城でお江、茶々、初、お市は暮らしていた。。
「母上ーっ!」背の高い少女が浜辺で貝を拾いながら、浜辺のお市や叔父・織田信包(のぶかね)らに手をいった。可愛い少女である。
「あ!……姉様! ずるい!」
 浅井三姉妹の次女で姉の初が、江の籠の貝を盗みとり自分の籠に入れた。
 お市とともに浜茶屋に座っている背の高い少女こそ、長女・茶々、のちの豊臣秀吉の正室・淀になる茶々(当時十二歳)である。 初と江のふたりは浜茶屋に駆けてきて、
「母上、ひどいのです! 姉様が私の貝を盗むのです」
「失礼な、たまたま貝が私の籠にはいっただけじゃ」
 無邪気なふたりにお市も信包も茶々も笑った。 
 元亀四年(1573年)にお江は生まれ、寛永三年(1626年)に病死するまでの人生である。…墓は徳川家の菩提寺に秀忠とともにある。…
 徳川秀忠はハンサムな顔立ちで、すらりとした痩身な男で、智略のひとであったが、今はまだ只の若者に過ぎない。若き頃より、秀吉の人質になり、軍略を磨くことになるのだが、まだまだ家康・秀吉の方が上であった。
 幼い頃、江は織田信長の馬上での勇々しい姿をみたことがある。安土でのことだった。
 お江はその時の信長の姿を目に焼き付けていた。信長ならば…もしや…私も!「御屋形様は…戦神じゃ! ひとから義をとってしまえば野山の獣と同じだ!」
 織田……の旗印が風にたなびく……英雄・織田信長はお江には眩しく映った。
 まだお江は織田信長が父親の命をうばったなど知らなかった。
 そして、お江に「上杉謙信」「武田信玄」のことをきいた。
「どちらが勝つと思う? 江!」
「謙信に決まってます」
「しかし…」信長は続けた。「武田には山本勘介なる軍師が…」
「そんなやつ、謙信……上杉謙信の足元にもおよばぬはずです!」
 お江は笑った。川中島は現在の新潟県と長野県の間に流れる千曲川のところである。ここで上杉軍と武田軍のこぜりあいが長く続けられていた。上杉謙信とは不思議なひとで、領土を広げようという野心のない人物で、各国の武将の中でも人望があつかった。楽しむが如く戦をし、武田攻めも義によって行っているだけだという。武田の領地である信濃や甲斐を狙っていた訳ではないのだ。すべては村上義清の要請……それだけだった。
   そして、上杉謙信と武田信玄との激戦、川中島の戦いで、ある。

  信州(長野県)・川中島(信州と越後の国境付近)で、武田信玄と上杉謙信(長尾景虎)は激突した。世にいう「川中島合戦」である。戦国時代の主流は山城攻めだったが、この合戦は両軍四万人の戦いだといわれる。
  甲府市要害山で大永元(一五二一)年、武田信玄(晴信)は生まれた。この頃の十六世紀は戦国時代である。文永十(一五四一)年、武田信玄(晴信)は家督を継いだ。信濃には一国を束める軍がない。武田信玄は孫子の「風林火山」を旗印に信濃の四十キロ前までで軍をとめた。それから三~四ケ月動かなかった。
「武田などただの臆病ものよ!」
 信濃の豪族はたかをくくっていた。
 しかし、武田晴信はそんなに甘くはない。
 まず甲斐(山梨県)で軍備を整えた。
 出家もし、剃髪し、晴信から信玄と名をかえた。
 そして、信濃(長野県)の制圧の戦略をもくもくと練っていた。
「御屋形様! 武田の騎馬軍団の勇姿みせましょうぞ!」
 家臣たちは余裕だった。
 信玄も、
「信濃はわしのものとなる。甲斐の兵、武田軍は無敵ぞ」
 と余裕のままだった。
 謙信も「武田の兵を叩きつぶしてくれるわ!」息巻いた。
「いけ! 押し流せ!」
 陣羽織りの信玄の激が飛ぶ。
「うおおおっ!」
 武田の赤い鎧の集団が長槍をもって突撃する。
 信濃の豪族は油断した。そのすきに信玄は騎馬軍団をすすめ、信濃を平定した。領土を拡大していった。彼は、領土の経済へも目を向ける。「甲州法度之次第(信玄家法)」を制定。治水事業も行った。信玄は国を富ませて天下取りを狙ったのである。
 第一次川中島の合戦は天文二十二(一五五三)年におこった。まだ誰の支配地でもない三角洲、川中島に信玄は兵をすすめる。と、強敵が現れる。上杉謙信(長尾景虎)である。謙信はこのときまだ二十二歳。若くして越後(新潟県)を治めた天才だった。謙信は幼い頃から戦いの先頭にたち、一度も負けたことがなかったことから、毘沙門天の化身とも恐れられてもいた。また、謙信は義理堅く、信濃の豪族が助けをもとめてきたので出陣したのであった。上杉軍が逃げる武田軍の山城を陥していき、やがて信玄は逃げた。信玄の川中島侵攻は阻まれた。(二万人の負傷者)
 天文二十三(一五五四)年、武田は西の今川、南の北条と三国同盟を成立させる。それぞれが背後の敵を威嚇する体制ができあがった。
「これで……不倶戴天の敵・上杉謙信を倒せる!」
 信玄は笑った。
 ある日、両軍主領があう機会があった。
 永禄元年五月上杉・武田の和議が起こり、千曲川を隔てて両将が会見したとき、謙信は馬から降り、川岸で会見しようとした。
 すると信玄は礼を重んじることもなく、
「貴公の態度はいかにもうやうやしい。馬上から語ってもよかろうぞ」と放言した。
 信玄には謙信のような「義」「礼」がなかったのである。
 謙信はやはり武田と戦うことを誓った。
 上杉謙信は武諦式をおこない、戦の準備をはじめた。
「……今度の戦で信玄を倒す!」
 謙信は兵に激を飛ばした。
「おう!」
 上杉軍は決起盛んである。
  第二次川中島の合戦は天文二十四(一五五五)年四月に勃発した。
 信玄は上杉が犀川に陣をはったときの背後にある旭山城の山城に目をつける。上杉は犀川に陣をはり、両軍の睨み合いが数か月続く。
 膠着状態のなか、上杉武田両軍のなかにケンカが発生する。
「やめぬか! 義を守れ!」
 謙信は冷静にいって、書状を書かせた。
 謙信は部下に誓約書をかかせ鎮圧したのだ。
 どこまでも「義」のひとなのである。
 信玄は違った。
「おぬしら、働きをしたものには褒美をやるぞ!」
 と、信玄は人間の利益にうったえた。
「欲」「現実」のひとなのである。
 信玄は戦でいい働きをしたら褒美をやるといい沈静化させる。謙信は理想、信玄は現実味をとった訳だ。
 やがて武田が動く。
 上杉に「奪った土地を返すから停戦を」という手紙を送る。謙信はそれならばと兵を引き越後に帰った。
「……信玄を信じよう」
 義の謙信は疑いのない男だ。
 しかし、信玄は卑怯な現実主義者だった。
 第三次川中島の合戦は弘治三(一五五七)年四月に勃発した。
 武田信玄が雪で動けない上杉の弱みにつけこんで約束を反古にして、川中島の領地を奪ったことがきっかけとなった。”信玄の侵略によって信濃の豪族たちは滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊された。そして、民衆の悲しみは絶えない。隣国の主としてこれを黙認することなどできない”
 上杉謙信は激怒して出陣した。上杉軍は川中島を越え、奥まで侵攻。しかし、武田軍は戦わず、逃げては上杉を見守るのみ。これは信玄の命令だった。”敵を捕捉できず、残念である”上杉謙信は激怒する。”戦いは勝ちすぎてはいけない。負けなければよいのだ。 敵を翻弄して、いなくなったら領土をとる”信玄は孫子の兵法を駆使した。上杉はやがて撤退しだす。
 永禄二(一五五九)年、上杉謙信は京へのぼった。権力を失いつつある足利義輝が有力大名を味方につけようとしたためだ。謙信は将軍にあい、彼は「関東管領」を就任(関東支配の御墨付き)した。上杉謙信はさっそく関東の支配に動く。謙信は北条にせめいり、またたくまに関東を占拠。永禄三(一五六〇)年、今川義元が織田信長に桶狭間で討ち取られる。三国同盟に亀裂が走ることに……。
 上杉は関東をほぼ支配し、武田を北、東、南から抑えるような形勢になる。今川もガタガタ。しかも、この年は異常気象で、四~六月まで雨が降らず降れば十一月までどしゃぶり。凶作で飢餓もでた。
 第四次川中島の合戦は永禄四(一五六一)年、五月十七日勃発。それは関東まで支配しつつあった上杉に先手をうつため信玄が越後に侵攻したことに発した。信玄は海津城を拠点に豪族たちを懐柔していく。上杉謙信は越後に帰り、素早く川中島へ出陣した。
 上杉は川中島に到着すると、武田の目の前で千曲川を渡り、海津城の二キロ先にある妻女山に陣をはる。それは武田への挑発だった。
 十五日もの睨み合い…。信玄は別動隊を妻女山のうらから夜陰にまぎれて奇襲し、山から上杉軍を追い出してハサミ討ちにしようという作戦にでる(きつつき作戦)。
 しかし、上杉謙信はその作戦を知り、上杉軍は武田別動隊より先に夜陰にまぎれて山を降りる。
「よいか! 音をたてたものは首を斬り落とすぞ!」
 謙信は家臣や兵に命令した。
 謙信は兵に声をたてないように、馬には飼い葉を噛ませ口をふさぐように命令して、夜陰にまぎれて山を降りた。一糸乱れぬみごとな進軍だった。
 上杉軍は千曲川を越えた。
 九月十日未明、信玄が海津城を出発。永禄四(一五六一)年、九月十日未明、記録によれば濃い霧が辺りにたちこめていた。やがて霧がはれてくると、武田信玄は信じられない光景を目にする。
「……なんじゃと?! 上杉が陣の真ん前に?」
 信玄は驚いた。
 驚きのあまり軍配を地に落としてしまった。
 妻女山にいるはずの上杉軍が目の前に陣をしいていたのだ。上杉軍は攻撃を開始する。妻女山に奇襲をかけた武田別動隊はカラだと気付く。が、上杉軍の鉄砲にやられていく。「いけ! 押し流せ!」
 無数の長槍が交じりあう。
 雲霞の如く矢が飛ぶ。
 謙信は単身、馬で信玄にせまった。
 刀をふる謙信……
 軍配で受ける信玄……
 謙信と信玄の一気討ち「三太刀七太刀」…。
 このままでは本陣も危ない!
 信玄があせったとき武田別動隊が到着し、九月十日午前十時過ぎ、信玄の軍配が高々とあがる。総攻撃!
 ハサミうちにされ、朝から戦っていた兵は疲れ、上杉軍は撤退した。死傷者二万(両軍)の戦いは終了した。「上杉謙信やぶれたり!」信玄はいったという。
 武田信玄は川中島で勝利した。
 上杉はその後、関東支配を諦め、越後にかえり、信玄は目を西にむけた。
 第五次川中島の合戦は永禄七(一五六四)年、勃発した。
 しかし、両軍とも睨みあうだけで刃は交えず撤退。以後、二度と両軍は戦わなかった。 武田は領土拡大を西に向け、今川と戦う。こんなエピソードがある。今川と北条と戦ったため海のない武田領地は塩がなくなり民が困窮……そんなとき塩が大量に届く。それは上杉謙信からのものだった。たとえ宿敵であっても困れば助ける。「敵に塩をおくる」の古事はここから生まれた。
 武田は大大名になった。
 信玄は国づくりにも着手していく。治水工事、高板はたびたび川がはんらんしていた。 そこで竜王の民を移住させ、堤をつくった。
 上杉にも勝ち、金鉱二十もあらたに手にいれた。
 のちに信長は自分の娘を、信玄の息子勝頼に嫁がせている。
 しかし、信玄は信長の一向衆や寺焼き討ちなどをみて、
「織田信長は殺戮者だ! わしが生きているうちに正しい政をしなければ…」
 と考えた。それには上洛するしかない。

  のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。
 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。
 また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。
 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。
 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。
「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。




  信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。
 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。
 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。
 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。           天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。
 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。
 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?
 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。
 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。
 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。
 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に無勢で、結局殺されてしまう。
 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)
 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。
 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。
 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。
 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。
 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。
 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。






  足利義昭が織田信長に「幕府回復のために力を貸していただきたい」と打診していた頃、信長はまだ稲葉山城(岐阜城)攻略の途中であったから、それほど関心を示さなかった。また、天皇からの「天皇領の回復を願いたい」というも放っておいた。
 朝倉義景の一乗谷城には足利義昭や細川藤孝が厄介になる前に、居候・光秀がいた。のちに信長を本能寺で討つことになる明智十兵衛光秀である。美濃の明智出身であったという。機知に飛んだ武士で、教養人、鉄砲の名人で、諸国を放浪していたためか地理や地方の政や商いに詳しかった。
 光秀は朝倉義景に見切りをつけていた。もともと朝倉義景は一国の主で満足しているような男で、とうてい天下などとれる器ではない。このような男の家臣となっても先が知れている。光秀は誇り高い武将で、大大名になるのが夢だ。…義景では……ダメだ。
 光秀は細川藤孝に「朝倉義景殿ではだめだ。織田信長なら、あるいは…」と漏らした。「なるほど」細川は唸った。「信長は身分や家格ではなく能力でひとを判断するらしい。義昭さまを連れていけば…あるいは…」
 ふたりは頷いた。やっと公方様の役に立つかも知れない。こうなったらとことん信長を利用してやる。信長のようなのは利用しない手はない。
 光秀も細川藤孝も興奮していた。これで義昭さまが将軍となれる。…かれらは信長の恐ろしさをまだ知らなかったのだ。信長が神や仏を一切信じず、将軍や天皇も崇めないということを……。光秀たちは無邪気に信長を利用しようとした。しかし、他人に利用される程、信長は甘くない。信長は朝倉義景とは違うのだ。
 光秀も細川藤孝もその気になって、信長に下話した。すると、信長は足利義昭を受け入れることを快諾した。なんなら将軍に推挙する手助けをしてもいい、と信長はいった。
 明智十兵衛光秀も細川藤孝も、にやりとした。
 信長が自分たちの思惑通りに動いたからだ。
 ……これで、義昭さまは将軍だ。してやったり!
 だが、光秀たちは信長が「義昭を利用してやろう」などと思っていることを知らなかった。いや、そんなことは思いもよらなかった。なにせ、光秀たちは古い価値観をもった武士である。誰よりも天皇や室町幕府、足利将軍の崇拝者であり、天皇や将軍を利用しようという人間がいるなど思考の範疇外であったのだ。
 信長は「くだらん将軍だが、これで上洛の口実ができる」と思った。
 信長が快諾したのは、義昭を口実に上洛する、つまり京都に入る(当時の首都は京都)ためである。かれも次第に世の中のことがわかってきていて、ただの守護代の家臣のそのまた家臣というところからの成り上がりでは天下はとれないとわかっていた。ただやみくもに野望を抱き、武力蜂起しても天下はとれないのをわかっていた。
 日本の社会は天皇などが中心の社会で、武家はその家臣というのが通例である。武力だけで天下の道を辿るのは難しい。チンギス・ハンのモンゴルや、秦始皇帝の中国とは違うのだ。天下をとるには上洛して、天皇らを嫌でもいいから奉らなければならない。
 そこで信長は「天下布武」などといいだした。
 つまり、武家によって天下をとる、という天下獲りの野望である。おれは天下をとる。そのためには天皇だろうが、将軍だろうが利用するだけ利用してやる!
 信長は興奮し、心の中で笑った。うつろな笑いだった。
 確かに、今、足利義昭も天皇も「権威を回復してほしい」といってきている。しかし、それは信長軍の武力が台頭してきているからで、弱くなれば身分が違うとバッサリきりすてられるかも知れない。そこで、どの大名も戴くことをためらった足利義昭をひきいて上洛すれば天下に信長の名が轟く。義昭は義輝の弟で、血も近い。なにより恩を売っておけば、何かと利用できる。恩人として、なにかしらの特権や便宜も計られるだろう。信長は狡猾に計算した。
「天下布武」などといったところで、おれはまだ美濃と尾張だけだ。おれは日本中を支配したいのだ。そのために足利義昭を利用して上洛しなくてはならないのだ。
 そのためにはまず第十四代将軍・足利義栄を戴いている三好や松永久秀を滅ぼさなければならない。信長は戦にうって出ることを考えていた。自分の天下のために!
 信長は当時の常識だった「将軍が一番偉い」などという考えをせせら笑った。なにが偉いものか! 偉いのはおれだ! 織田……織田信長だ! この俺に幸運がやってきた!





  足利義昭にしてみれば織田信長などチンピラみたいな男である。かれが越前にいったのも朝倉義景を通して越後の長尾(上杉)景虎(謙信)に頼ろうとしたのだし、また上杉でなくても武田信玄でも誰でもよかった。チンピラ信長などは「腰掛け」みたいなものである。なんといっても上杉謙信や武田信玄は信長より大物に写った。が、上杉も武田も容易に兵を挙げてくれなかった。義昭はふたりを呪った。
 しかし、信長にとっては千載一遇の好機であった。朝倉がどうでようと、足利義昭を利用すれば上洛の大義名分が出来る。遠交近攻で、上洛のさまたげとなるものはいない。
 信長は明智光秀や細川藤孝から義昭の依頼を受けて、伊勢方面に出兵した。滝川一益に北伊勢方面を攻撃させた。そうしながら伊勢の実力者である関一族の総領神戸氏の家に、三男の信孝を養子としておしつけた。工藤一族の総領である長野氏の名を弟信包に継がせたりしたという。信長の狙いは南伊勢の北畠氏である。北畠氏を攻略せねば上洛に不利になる。信長はさらに、
「足利義昭さまが越前にいてはやりにくい。どうか尾張にきてくだされ」と書状をおくった。義昭はすぐに快諾した。永禄十一年(一五六八)七月十三日、かれは越前一乗谷を出発した。朝倉義景には「かくかくしかじかで信長のところにまいる」といった。当然ながら義景は嫌な顔をした。しかし、朝倉義景は北近江一国で満足している、とうてい兵をあげて天下をとるだけの実力も器もないのだから仕方ない。
 上洛にたいして、信長は朝倉義景につかいをだした。義景は黙殺した。六角義賢(南近江の城主)ははねつけた。それで、信長は六角義賢を攻め滅ぼし、大軍を率いて京都にむかった。九月一二日に京都にはいった。足利義昭を京都の清水寺に宿舎として入れ、松永と三好三人衆と対峙した。松永弾正久秀は機を見るのに敏な男で、人質をさしだして和睦をはかった。それがきっかけとなり信長は三好三人衆の軍勢を叩き潰した。
 足利義昭は「こやつらは兄義輝を殺した連中だ。皆殺しにいたせ!」といきまいた。
 しかし信長が「義昭さま、ここは穏便に願う」と抑圧のある声で抑えた。
 永禄十一年(一五六八)十月十八日、足利義昭は将軍に推挙された。第一四代将軍・義栄は摂津の逃れて、やがてそこで死んだ。
「阿波公方・足利義栄の推挙に荷担し、義輝を殺した松永と三好三人衆を京都より追放する」時の帝正親町天皇はそう命じた。
 松永弾正久秀は降伏したものの、また信長と対立し、ついにはかれはおいつめられて爆死してしまう(大事にしていた茶道具とともに爆薬を体にまきつけて火をつけた)。
 直江兼続が織田信長とあったのはこの頃だったという。兼続は「ひとに義がなければ野山の獣と同じでござる!」という。上杉謙信に金色の洛中洛外図屏風を送った信長は「天下を取れるなら鬼にでも魂をくれるわ!」という。信長は義昭のために二条城を造らせた。 足利義昭は非常に喜んだ。これでまろは本物の将軍である。かれは信長に利用されているとはまだ感付いていなかった。「あなたはまろの御父上さまだ」義昭はきしょくわるくいった。信長は答えなかった。当時、信長三十六歳、義昭は三十二歳だった。「あなたは偉大だ。あなたを副将軍としてもよい。なんならもっと…」
「いや」信長は無表情のままきっぱりいった。「副将軍はけっこうでござる。ただし、この信長ひとつだけ願いがござる」
「それは?」
「和泉国の堺と、近江国の大津と草津に、代官所を置かせていただきたい」
 義昭はよく考えもせず、簡単に「どうぞどうぞ、代官所なりなんなり置いてくだされ。とにかくあなたはまろの御父上なのですから」と答えて、にやりとした。気色悪かった。 信長には考えがあった。堺と、大津と草津は陸運の要所である。そこからとれる税をあてにしたのだ。そして信長は京都で、ある人物にあった。それは南蛮人、ルイス・フロイスで、あった。キリスト教宣教師の。                       

お江と直江兼続「江 姫たちの戦国」「天地人」アンコール連載1

2012年02月29日 10時29分00秒 | 日記
小説 お江と直江山城守兼続

   戦国の姫たち

              ~お江の生涯 ~
               
               ~「浅井三姉妹」…
                 茶々、初、お江はいかにしてなったか。~
                 お江の生涯
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  Washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


          あらすじ

  お江は元亀四年(1573年)、近江国(滋賀県)小谷城主・浅井長政と織田信長の妹・お市の三女として生まれた。姉は茶々(のちの淀君)、初。
 生まれたときに父・浅井長政は織田信長にやぶれて自害。お江ら浅井三姉妹はお市とともに信長の庇護下に。やがて織田信長が光秀に「本能寺の変」で殺されると秀吉の庇護下にはいる。茶々は秀吉の側室・淀として秀頼を生む。初は京極高次の正室に。お江は徳川家康の息子で二代将軍・秀忠の正室として三代将軍・家光を生む。豊臣家は家康に滅ぼされ淀・秀頼は自害。徳川の天下へ。信長を伯父さん、秀吉をお義兄さん、家康をお義父さん、とよべる江の生涯はまさに「大河ドラマ」である。
                                おわり

         1 関ヶ原


石田三成は安土桃山時代の武将である。
 豊臣五奉行のひとり。身長156cm…永禄三年(1560)~慶長五年(1600年10月1日)。改名 佐吉、三也、三成。戒名・江東院正軸因公大禅定門。墓所・大徳寺。官位・従五位下治部少輔、従四位下。主君・豊臣秀吉、秀頼。父母・石田正継、母・石田氏。兄弟、正澄、三成。妻・正室・宇喜多頼忠の娘(お袖)。子、重家、重成、荘厳院・(津軽信牧室)、娘(山田室)、娘(岡重政室)
 淀殿とは同じ近江出身で、秀吉亡き後は近江派閥の中心メンバーとなるが、実は浅井氏と石田氏は敵対関係であった。三成は出世のことを考えて過去の因縁を隠したのだ。
「関ヶ原」の野戦がおわったとき徳川家康は「まだ油断できぬ」と言った。
当たり前のことながら大阪城には西軍大将の毛利輝元や秀頼・淀君がいるからである。
 しかるに、西軍大将の毛利輝元はすぐさま大阪城を去り、隠居するという。「治部(石田三成)に騙された」全部は負け組・石田治部のせいであるという。しかも石田三成も山奥ですぐ生けどりにされて捕まった。小早川秀秋の裏切りで参謀・島左近も死に、山奥に遁走して野武士に捕まったのだ。石田三成は捕らえられ、「豊臣家を利用して天下を狙った罪人」として縄で縛られ落ち武者として城内に晒された。「お主はバカのヤツです、三成!」お江はしたり顔で、彼を非難した。
「お前のような奴が天下など獲れるわけあるまいに」
 三成は「わしは天下など狙ってなどおらぬ」とお江をきっと睨んだ。
「たわけ!お義父(徳川家康)さまや主人・秀忠が三成は豊臣家を人質に天下を狙っておる。三成は豊臣の敵だとおっしゃっておったわ」
「たわけはお主だ、お江殿!徳川家康は豊臣家に忠誠を誓ったと思うのか?!」
「なにをゆう、お義父上(徳川)さまが嘘をいったというのか?」
「そうだ。徳川家康はやがては豊臣家を滅ぼす算段だ」
「たわけ」お江は冗談としか思わない。「だが、お前は本当に贅沢などしとらなんだな」
「佐和山城にいったのか?」
「いいえ。でも姉上(茶々(淀君))や姉様(初・京極高次正室(常高院))からきいた。お前は少なくとも五奉行のひとり。そうとうの金銀財宝が佐和山城の蔵にある、大名たちが殺到したという。だが、空っぽだし床は板張り「こんな貧乏城焼いてしまえ!」と誰かが火を放ったらしいぞ」
「全焼したか?」
「ああ、どうせそちも明日には首をはねられる運命だ。酒はどうじゃ?」
「いや、いらぬ」
 お江は思い出した。「そうか、そちは下戸であったのう」
「わしは女遊びも酒も贅沢もしない。主人や領民からもらった金を貯めこんで贅沢するなど武士の風上にもおけぬ」
「ふん。姉上や秀頼を利用する方が武士の風上にもおけぬわ」お江は何だか三成がかわいそうになってきた。「まあ、今回は武運がお主になかったということだ」
「お江殿」
「なんじゃ?」
「縄を解いてはくれぬか?家康に天誅を加えたい」
「……なにをゆう」
「秀頼公とあなたの姉上・淀君様が危ないのだぞ!」
  お江は、はじめて不思議なものを観るような眼で縛られ正座している「落ち武者・石田三成」を見た。「お前は少なくともバカではない。だが、お義父上(徳川)さまが嘘をいうかのう?五大老の筆頭で豊臣家に忠節を誓う文まであるのだぞ」
「家康は老獪な狸だ」
「…そう」
 お江は拍子抜けして去った。嘲笑する気で三成のところにいったが何だか馬鹿らしいと思った。どうせ奴は明日、京五条河原で打首だ。「武運ない奴じゃな」苦笑した。
 次に黒田長政がきた。長政は「三成殿、今回は武運がなかったのう」といい、陣羽織を脱いで、三成の肩にかけてやった。
「かたじけない」三成ははじめて人前で泣いた。

   関ヶ原合戦のきっかけをつくったのは会津の上杉景勝と、参謀の直江山城守兼続である。山城守兼続が有名な「直江状」を徳川家康におくり、挑発したのだ。もちろん直江は三成と二十歳のとき、「義兄弟」の契を結んでいるから三成が西から、上杉は東から徳川家康を討つ気でいた。上杉軍は会津・茨城の山に鉄壁の布陣で「家康軍を木っ端微塵」にする陣形で時期を待っていた。家康が会津の上杉征伐のため軍を東に向けた。そこで家康は佐和山城の三成が挙兵したのを知る。というか徳川家康はあえて三成挙兵を誘導した。
 家康は豊臣恩顧の家臣団に「西で石田三成が豊臣家・秀頼公を人質に挙兵した!豊臣のために西にいこうではないか!」という。あくまで「三成挙兵」で騙し続けた。
 豊臣家の為なら逆臣・石田を討つのはやぶさかでない。東軍が西に向けて陣をかえた。直江山城守兼続ら家臣は、このときであれば家康の首を獲れる、と息巻いた。しかし、上杉景勝は「徳川家康の追撃は許さん。行きたいならわしを斬ってからまいれ!」という。
 直江らは「何故にございますか?いまなら家康陣は隙だらけ…天にこのような好機はありません、何故ですか?御屋形さま!」
 だが、景勝は首を縦には振らない。「背中をみせた敵に…例えそれが徳川家康であろうと「上杉」はそのような義に劣る戦はせぬのだ」
 直江は刀を抜いた。そして構え、振り下ろした。しゅっ!刀は空を斬った。御屋形を斬る程息巻いたが理性が勝った。雨が降る。「伊達勢と最上勢が迫っております!」物見が告げた。
 兼続は「陣をすべて北に向けましょう。まずは伊達勢と最上勢です」といい、上杉は布陣をかえた。名誉をとって上杉は好機を逃した、とのちに歴史家たちにいわれる場面だ。

   石田三成はよく前田利家とはなしていたという。前田利家といえば、主君・豊臣秀吉公の友人であり加賀百万石の大大名の大名である。三成はよく織田信長の側人・森蘭丸らにいじめられていたが、それをやめさせるのが前田利家の役割であった。三成は虚弱体質で、頭はいいが女のごとく腕力も体力もない。いじめのかっこうのターゲットであった。
 前田利家は「若い頃は苦労したほうがいいぞ、佐吉(三成)」という。
 木下藤吉郎秀吉も前田又左衛門利家も織田信長の家臣である。前田利家は若きとき挫折していた。信長には多くの茶坊主がいた。そのうちの茶坊主は本当に嫌な連中で、他人を嘲笑したり、バカと罵声を浴びせたり、悪口を信長の耳元で囁く。信長は本気になどせず放っておく。しかるとにき事件があった。前田利家は茶坊主に罵声を浴びせかけられ唾を吐きかけられた。怒った利家は刀を抜いて斬った。殺した。しかも織田信長の目の前でである。
 信長は怒ったが、柴田勝家らの懇願で「切腹」はまぬがれた。だが、蟄居を命じられた。そこで前田利家は織田の戦に勝手に参戦していく。さすがの信長も数年後に利家を許したという。「苦労は買ってでもせい」そういうことがある前田利家は石田佐吉(三成)によく諭したらしい。いわずもがな、三成は思った。


 浅井長政の裏切り



  織田信長と将軍・足利義昭との確執も顕著になってきていた。
 義昭は将軍となり天皇に元号を「元亀」にかえることにさせた。しかし、信長は「元亀」などという元号は好きではなかった。そこで信長は元号を「天正」とあっさりかえてしまう。足利将軍は当然激怒した。しかし、義昭など信長のロボットみたいなものである。
 義昭は信長に剣もほろろに扱われてしまう。
 かれは信長の元で「殿中五ケ条」を発布、しかし、それも信長に無視されてしまう。
「あなたを副将軍にしてもよい」
 義昭は信長にいった。しかし、信長は餌に食いつかなかった。
 怒りの波が義昭の血管を走った。冷静に、と自分にいいきかせながらつっかえつっかえいった。「では、まろに忠誠を?」
「義昭殿はわしの息子になるのであろう? 忠誠など馬鹿らしい。息子はおやじに従っておればよいのじゃ」信長は低い声でいった。抑圧のある声だった。
「義昭殿、わしのおかげで将軍になれたことを忘れなさるな」
 信長の言葉があまりにも真実を突いていたため、義昭は驚いて、こころもち身をこわばらせた。百本の槍で刺されたように、突然、身体に痛みを感じた。信長は馬鹿じゃない。 しかし、おのれ信長め……とも思った。
 それは感情であり、怒りであった。自分を将軍として崇めない、尊敬する素振りさえみせず、将軍である自分に命令までする、なんということだ!
 その個人的な恨みによって、その感情だけで義昭は行動を起こした。
 義昭は、甲斐(山梨県)の武田信玄や石山本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信、中国の毛利、薩摩(鹿児島県)の島津らに密書をおくった。それは、信長を討て、という内容であったという。
 こうして、信長の敵は六万あまりとふくらんだ。
 そうした密書を送ったことを知らない細川や和田らは義昭をなだめた。
 しかし、義昭は「これで信長もおしまいじゃ……いい気味じゃ」などと心の中で思い、にやりとするのであった。
  義昭と信長が上洛したとき、ひとりだけ従わない大名がいた。
 越前(福井県)の朝倉義景である。かれにしてみれば義昭は居候だったし、信長は田舎大名に過ぎない。ちょっと運がよかっただけだ。義昭を利用しているに過ぎない。
 信長は激怒し、朝倉義景を攻めた。           
 若狭にはいった信長軍はさっそく朝倉方の天筒山城、金ケ崎城を陥した。
「次は朝倉の本城だ」信長は激を飛ばした。
 だが、信長は油断した。油断とは、浅井長政の裏切り、である。
 北近江(滋賀県北部)の浅井長政の存在を軽く見ていた。油断した。
 永禄十年(1567年)浅井長政に信長の命令により、お市の方は嫁いだ。信長にとって浅井はいわば義弟だ。裏切る訳はない、と、たかをくくっていた。お市の共に、利家の弟で、佐脇家の養子にいった佐脇良之が選ばれ、浅井にいき浅井家の家臣となった。良之はおとなしく物静かなタイプだった。…浅井長政は味方のはずである…………
 信長にはそういう油断があった。義弟が自分のやることに口を出す訳はない。そう思って、信長は琵琶湖の西岸を進撃した。東岸を渡って浅井長政の居城・小谷城を通って通告していれば事態は違っていただろうという。しかし、信長は、”美人の妹を嫁にやったのだから俺の考えはわかってるだろう”、という考えで快進撃を続けた。
 しかし、「朝倉義景を攻めるときには事前に浅井方に通告すること」という条約があった。それを信長は無視したのだ。当然、浅井長政は激怒した。
 お市のことはお市のこと、朝倉義景のことは朝倉義景のこと、である。通告もない、しかも義景とは父以来同盟関係にある。信長の無礼に対して、長政は激怒した。
「殿! はやまってはなりませぬ!」お市とは家臣が羨む程の仲の良い夫婦だったが、お市は信長の身を案じた。「市! わしは信長を討つ!」
「……殿?!」お市は動揺した。信長は実の兄であり、長政は愛しい夫である。
 三人の娘、のちに浅井三姉妹と呼ばれる娘にも恵まれたというのに……
(茶々(のちの秀吉側室、秀頼の母)、初(京極高次室)、お江(徳川秀忠室、三代将軍・家光の母)と長男・万福丸、次男・万寿丸が子である)
 信長の政略結婚の駒はほとんどが家臣からの養女であったが、お市の方と松平信康(家康)へ嫁がせた五徳姫は家族だった。また、お市は信長の妹とされ、絶世の美女とされるが、信秀の弟の信光か広良の娘という説もある。また茶々は浅井長政の娘とされるが、晩婚だったためお市の方の『連れ子』という説もある。
 何はともあれ、浅井は信長を裏切った。
 浅井長政は信長に対して反乱を起こした。前面の朝倉義景、後面の浅井長政によって信長ははさみ討ちになってしまう。こうして、長政の誤判断により、浅井家は滅亡の運命となる。それを当時の浅井長政は理解していただろうか。いや、かれは信長に勝てると踏んだのだ。甘い感情によって。
  金ケ崎城の陥落は四月二十六日、信長の元に「浅井方が反信長に動く」という情報がはいった。信長は、お市を嫁がせた義弟の浅井長政が自分に背くとは考えなかった。
 そんな時、お市から陣中見舞である「袋の小豆」が届く。
 布の袋に小豆がはいっていて、両端を紐でくくってある。
 信長はそれをみて、ハッとした。何かある………まさか!
 袋の中の小豆は信長、両端は朝倉浅井に包囲されることを示している。
「御屋形様……これは……」利家が何かいおうとした。利家もハッとしたのだ。
 信長はきっとした顔をして「包囲される。逃げるぞ! いいか! 逃げるぞ!」といった。彼の言葉には有無をいわせぬ響きがあった。戦は終わったのだ。信長たちは逃げるしかない。朝倉義景を殺す気でいたなら失敗した訳だ。だが、このまま逃げたままでは終わらない。まだ前哨戦だ。刀を交えてもいない。時間はかかるかも知れないが、信長は辛抱強く待ち、奇策縦横にもなれる男なのだ。
 ……くそったれめ! 朝倉義景も浅井長政もいずれ叩き殺してくれようぞ!
 長政め! 長政め! 長政め! 長政め! 信長は下唇を噛んだ。そして考えた。    
 ……殿(後軍)を誰にするか……
 殿は後方で追撃くる敵と戦いながら本軍を脱出させる役目を負っていた。そして、同時に次々と殺されて全滅する運命にある。その殿の将は、失ってしまう武将である。誰にしてもおしい。信長は迷った。
「殿は誰がいい?」信長は迷った。
 柴田勝家、羽柴秀吉、そして援軍の徳川家康までもが「わたくしを殿に!」と志願した。 前田利家も「わたくしめを殿に!」と嘆願した。
 信長は四人の顔をまじまじと見て、決めた。
「又左衛門(利家のこと)はわしと一緒にこい! サル、殿をつとめよ」
「ははっ!」サル(秀吉)はそういうと、地面に手をついて平伏した。信長は秀吉の顔を凝視した。サルも見つめかえした。信長は考えた。
 今、秀吉を失うのはおしい。天下とりのためには秀吉と光秀は”両腕”として必要である。知恵のまわる秀吉を失うのはおしい。しかし、信長はぐっと堪えた。
「サル、頼むぞ」信長はいった。
「おまかせくださりませ!」サルは涙目でいった。
 いつもは秀吉に意地悪ばかりしていた勝家も感涙し、「サル、わしの軍を貸してやろうか?」といい、家康までもが「秀吉殿、わが軍を使ってくだされ」といったという。
「又左衛門……やはりお主は御屋形様に愛されておるのう」秀吉は利家にいった。
 占領したばかりの金ケ崎城にたてこもって、秀吉は防戦に努めた。
「悪党ども、案内いたせ」
 信長はこういうときの行動は早い。いったん決断するとグズグズしない。そのまま馬にのって突っ走りはじめた。四月二十八日のことである。三十日には、朽木谷を経て京都に戻った。朽木元綱は信長を無事に案内した。
 この朽木元綱という豪族はのちに豊臣秀吉の家臣となり、二万石の大名となる。しかし、家康の元についたときは「関ケ原の態度が曖昧」として減封されているという。だが、それでもかれは「家禄が安泰となった」と思った。
 朽木は近江の豪族だから、信長に反旗をひるがえしてもおかしくない。しかし、かれに信長を助けさせたのは豪族としての勘だった。この人なら天下をとるかも知れない、と思ったのだ。歴史のいたずらだ。もし、このとき信長や秀吉、そして家康までもが浅井朝倉軍にはさみ討ちにされ戦死していたら時代はもっと混沌としたものになったかも知れない。 とにかく、信長は逃げのびた。秀吉も戦死しなかったし、家康も無事であった。
 京都にかろうじて入った信長は、五月九日に京都を出発して岐阜にもどった。しかし、北近江を通らず、千種越えをして、伊勢から戻ったという。身の危険を感じていたからだ。 浅井長政や朝倉義景や六角義賢らが盛んに一向衆らを煽って、
「信長を討ちとれ!」と、さかんに蜂起をうながしていたからである。
 六角義賢はともかく、信長は浅井長政に対しては怒りを隠さなかった。
「浅井長政め! あんな奴は義弟とは思わぬ! 皆殺しにしてくれようぞ!」
 信長は長政を罵った。
 岐阜に戻る最中、一向衆らの追撃があった。千種越えには蒲生地区を抜けた。その際、蒲生賢秀(氏郷の父)が土豪たちとともに奮起して信長を助けたのだという。
 この時、浅井長政や朝倉義景が待ち伏せでもして信長を攻撃していたら、さすがの信長も危なかったに違いない。しかし、浅井朝倉はそれをしなかった。そして、そのためのちに信長に滅ぼされてしまう運命を迎える。信長の逆鱗に触れて。
 信長は痛い目にあったが、助かった。死ななかった。これは非常に幸運だったといわねばなるまい。とにかく信長は阿修羅の如く怒り狂った。
 皆殺しにしてくれる! そう信長は思った。




         姉川の戦い


  浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃していた。
 秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。
「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。
 しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」 信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。
 岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。
 とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。
 国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。
 目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。そして、いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大変に喜んで、
「よく参られた」と声をかけた。
 とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。そして、信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。
 浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、
「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!
 すると家康が進みでていった。
「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」
 信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。
 家康はうきうきして軍儀の場を去った。
 信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。
 すると利家が「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのででござりましょう? 御屋形様」といった。
「そうよ、イヌ! さすがはイヌじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。
 翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんた。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。
「押せ! 押せ! 押し流せ!」
 朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。
 両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。
 信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。
 浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。このとき、佐脇良之は浅井家臣として戦っていたにも関わらず、あやうくなった利家を救った。浅井を裏切ったのだ。
 佐脇良之は浅井方にも戻れず、利家の屋敷に身をよせ、浪人となった。
「……あれは雀の子かのう?」佐脇良之は茫然と屋根や蒼い空を見上げていた。

「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」
 利家は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。
「ひきあげるぞ、イヌ」
 利家は驚いて目を丸くした。いや、利家だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつもの御屋形らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………
 こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。



         焼き討ち


  石山本願寺は、三好党がたちあがると信長に正式に宣戦布告した。
 織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見たのだ。
 信長は八月二十日に岐阜を出発した。そして、横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。
 将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。
 本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。
 信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。
「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。
 足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。
 反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。
 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。
 信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」
「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。
「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」
「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」
「天罰が下りまするぞ!」
 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。
「わしに反対しようというのか?!」
「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」
 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。    
「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」
 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”秀吉は恐ろしくなった。
 秀吉のみぞおちを占めていた漠然たる不安が、驚異的な形をとりはじめた。かれの本能のすべてに警告の松明がみえていた。「焼き討ちとは…神仏を?」緊張が肩から首にまわって大変なことになったが、秀吉は悲鳴をあげなかった。
 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。
 佐脇良之は炎上する神社の中から赤子を救いだした。これが利家の養女となる。
 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。

        三方が原の戦い



     
  信長にとって最大の驚異は武田信玄であった。
 信玄は自分が天下人となり、上洛して自分の旗(風林火山旗)を掲げたいと心の底から思っていた。この有名な怪人は、軍略に優れ、長尾景虎(上杉謙信)との川中島合戦で名を知られている強敵だ。剃髪し、髭を生やしている。僧侶でもある。
 武田信玄は本願寺の総帥・光佐とは親戚関係で、要請を受けていた。また、将軍・足利義昭の親書を受け取ったことはかれにいよいよ上洛する気分にさせた。
 元亀三年(一五七二)九月二十九日、武田信玄は大軍を率いて甲府を出発した。
 信玄は、「織田信長をなんとしても討とう」と決めていた。その先ぶれとして信玄は遠江に侵攻した。遠江は家康の支配圏である。しかし、信玄にとって家康は小者であった。 悠然とそこを通り、京へと急いだ。家康は浜松城にいた。
 浜松城に拠点を置いていた家康は、信玄の到来を緊張してまった。織田信長の要請で、滝川一益、佐久間信盛、林通勝などが三千の兵をつけて応援にかけつけた。だが、信長は、「こちらからは手をだすな」と密かに命じていた。
 武田信玄は当時、”神将”という評判で、軍略には評判が高かった。その信玄とまともにぶつかったのでは勝ち目がない。と、信長は思ったのだ。それに、武田が遠江や三河を通り、岐阜をすぎたところで家康と信長の軍ではさみ討ちにすればよい……そうも考えていた。しかし、それは裏目に出る。家康はこのとき決起盛んであった。自分の庭同然の三河を武田信玄軍が通り過ぎようとしている。
「今こそ、武田を攻撃しよう」家康はいった。家臣たちは「いや、今の武田軍と戦うのは上策とは思えません。ここは信長さまの命にしたがってはいかがか」と口々に反対した。 家康はきかなかった。真っ先に馬に乗り、駆け出した。徳川・織田両軍も後をおった。 案の定、家康は三方が原でさんざんに打ち負かされた。家康は馬にのって、命からがら浜松城に逃げ帰った。そのとき、あまりの恐怖に馬上の家康は失禁し、糞尿まみれになったという。とにかく馬を全速力で走らせ、家康は逃げた。
 家康の肖像画に、顎に手をあてて必死に恐怖にたえている画があるが、敗戦のときに描かせたものだという。それを家臣たちに見せ、生涯掲げた。
 ……これが三方が原で武田軍に大敗したときの顔だ。この教訓をわすれるな。決起にはやってはならぬのだ。………リメンバー三方が原、というところだろう。
  佐脇良之は善戦したが、三方が原で武田軍の騎馬にやれ、死んだ。信長に家康のもとに左遷せれてからの死だった。利家は泣いた。まつも泣いた。
 さらに、利家の母・たつも死んだ。利家はショックでしばらく寝込んだという。
 秀吉には子がなかった。そのため、利家はおねに頼まれ、四女を秀吉の養女にした。秀吉はよろこび「豪姫じゃ! この子は豪姫じゃ!」とおやした。               
 利家は織田家臣団の中では佐々成政と大変懇篤な付き合いであったという。

 もし信玄が浜松城に攻め込んで家康を攻めたら、家康は完全に死んでいたろう。しかし、信玄はそんな小さい男ではない。そのまま京に向けて進軍していった。
 だが、運命の女神は武田信玄に微笑まなかった。
 かれの持病が悪化し、上洛の途中で病気のため動けなくなった。もう立ち上がることさえできなくなった。伊那郡で枕元に息子の勝頼をよんだ。
 自分の死を三年間ふせること、遺骨は大きな瓶に入れて諏訪湖の底に沈めること、勝頼は自分の名跡を継がないこと、越後にいって上杉謙信と和睦すること、などの遺言を残した。そして、武田信玄は死んだ。
 信玄の死をふして、武田全軍は甲斐にもどっていった。
 だが、勝頼は父の遺言を何ひとつ守らなかった。すぐに信玄の名跡を継いだし、瓶につめて諏訪湖に沈めることもしなかった。信玄の死も、忍びによってすぐ信長の元に知らされた。信長は喜んだ。織田信長にとって、信玄の死はラッキーなことである。
「天はわしに味方した。好機到来だ」信長は手をたたいて喜んだ。




                              

新世紀維新 アンコールブログ連載プロジェクト緑川鷲羽わしゅう6

2012年02月28日 15時02分18秒 | 日記
 日本の警察




  交通事故半減をめざすにはどのようなことをすべきか?
 これはひとつに、交通ルールの徹底、である。とくに、事故にあいやすい子供と老人へのルール徹底は急がれる。交通事故のうち、実に6割が子供と老人が犠牲者になっている。そのため、子供には学校で「信号の渡り方」「対向車の確認」「歩道や自転車での渡り方」などなどを徹底させ、老人はホームや教習所で徹底的に教え込むべきである。
 もちろん、それだけでは足りないので、夜間には蛍光ベルトを体や鞄に貼らせるように法律で義務づけるべきだ。
 それと、シートベルトも、必ず着用を法律で義務づけるべきだ。運転手のシートベルトがセットさせなければエンジンがかからないような車の開発でもいい。また、ETCも義務化して交通渋滞と退役軍人のようなチェックする所員のリストラだ。
 運転中の携帯会話ももっと罰金をあげて、刑務所に懲役させるべきだ。
 よく、赤信号なのに交差点を渡る人間がいるが、そういう者は徹底的に規則で取り締まるべきだと思う。まぁ、立派な規則があればいいってものではない。やはり、ボランティアの「母の会」や警察が模範を示すべきであろう。目を光らせるべきであろう。
 あと大事なのは、ドライバーの意識の問題。よく質の悪いドライバーがいて、交通ルールも守らないようなのがいるが、そういうのには痛い目をあわせればよい。それと、ペーパー・ドライバーやシルバー・ドライバーは危険極まりないので、すぐに再教育が必要だと思う。これは金のないひとには公的資金を導入してでもやるべきだ。そうでなければ、事故を起こされ犠牲者が増えるだけだ。そうなる前に、すぐに再教育が必要だと思う。
 また、夜間、交差点を渡る人間は車から見えにくい。そこで、夜間、交差点を横断する人間がいればセンサーで察知してライトで照らす…というシステムを全国に導入すべきだ。 道路標識については、全国に1万もの標識があるらしいが、ゴチャゴチャして何がなんだかわからないような状況なので、リストラ…というか、標識を減らすべきである。
 つまり、道路標識の一元化が急がれる。
 警察の交通取締の強化については、ただなんとなく「鼠取り」をすればいいのではなく、警察の交通課のひとびとやボランティアが、子供の通学エリアの危険地帯に立ち、指導と監視をするべきだろう。老人についてもそうだが、子供はよく道路の車も見ずに走り出したり、赤信号でも渡ったり、よそ見しておしゃべりしながら道路にはみ出したりするので、こうしたことへの注意と、その危険性を知らしめるべきだ。事故にあってからでは遅い。 その前に交通ルールを頭の中にたたきこませるべきだ。
 それから、最後に必要なのはドライバーや歩行者の「ゆずりあい」の精神である。これは肝要だ。イライラするからといってクラクションを何度も鳴らしたり、歩行者との距離を十分にとらないようなやつは免許を取り上げるべきだ。
 交通事故死はかならず半減、減少ができる。そこで問われているのは、ドライバーや歩行者の「モラル」である。酒酔い運転、わき見運転、歩行者の飛び出し……こうしたことはちゃんとした交通モラルさえあれば、必ず防げる。それを徹底的に教えこまないから、咀嚼しないから、交通事故がいっこうに減らないのだ。
 要は、人間的な「モラル」の問題なのだ。他人のことを考えドライバーや歩行者の「ゆずりあい」の精神を高める。勉強させる。そうした努力と忍耐こそが、交通事故死を減らす一番の方法ではないだろうか。
  日本の治安は悪化していると思う。
 外国に比べれば、最近治安が悪化しているといってもまだまだ日本は安全な国だが、教育の失敗と甘やかし、不法外国人や犯罪組織のネットワーク化で、ひと昔前の安全神話は完全に崩れた。酒鬼薔薇とか、ホームレスリンチ中学生とか、出会系サイト犯罪、ネット犯罪、長崎の11歳のガキが幼児を殺したり、少女が同級生を殺害と……フィリピン並みに治安が悪化している。しかし、銃規制があるためか、アメリカほど銃撃戦みたいなことにはなってない。日本の警察の優位な点は『交番』制度であろう。各地区ごとに警察官を配備して睨みをきかせている。神奈川県警の桶川事件や新潟監禁事件…さまざまな事件があり、警察の検挙率が下がってきている。しかし、それは人員不足と庶民と警察との不仲のせいだ。警察があって安全だったのだが、何かあるとひとをすぐに犯人扱いして、「名前は? 身分は? 生年月日は?」などと職務質問(職質)されると頭にくることもある。 警察も仕事でやってるのだろうが、頭にくるし不快である。
 では、犯罪大国・米国の警察官は”無能”なのか? というとそうではない。日本の治安がよかったのは、海という城壁に囲まれ移民が少なかったこと、戸籍制度があり身分がすぐ判明したこと、銃規制で銃が出回っていないこと、などラッキーな点が多いからだ。 アメリカには銃がごろごろしてるし、麻薬も世界一出回っているし、年間何万人も移民がやってくる。しかも、英語もしゃべれない、何の技術もない、低能労働者が多い。そのため、それらは仕事につけずに犯罪に走るようになる。
 けして、米国の警察は無能などではない。仕方のない理由があるのだ。
  また、性犯罪者は釈放後も監視が必要だ。
  04年暮れ、奈良女児殺人事件の犯人・小林薫被告(当時36歳)が逮捕された。この男、中学生のときに女児にわいせつ行為をして補導され、二十歳でもまた女児八人にわいせつ、二十二歳で今度は女児の首をしめて殺そうとしたという。性犯罪の再犯率は50%である。 日本ほど性犯罪者がのさばっている国はない。その証拠に世界の中で日本は、女性の人身売買と女児アダルトDVD販売のトップになっている。これは憂えるべき事態だ。
 法相や公安委員長は慎重な見解をしてたが、私は『性犯罪者の情報報告通知』は是非やるべきだと思ってた。誰が考えたって、”変態野郎の人権”などよりも”周辺住民の安全”のほうが重視されてしかるべきだ。再犯率がこれだけ高い。親も不安だ。変態野郎が、社会更生のためと称して野放しされている国は世界先進国で日本しかなかった。だから法律は当然だ。性犯罪者は釈放後も監視が必要なのは当たり前のことで識者の意見などいちいち無用だったのだ。

         日本警察の組織

 警察の目的は、警察法二条二項により次のように規定されている。
●個人の生命、身体および財産の保護
●犯罪の予防、鎮圧および捜査
●交通取り締まり、その他公共の安全と秩序の意思背に当たること

   まぁ、わかりやすくいうと、街灯犯罪や交通事故や暴力団の掃討であろう。
 警察の予算は年間だいたい二兆円くらい。警官が二十五万人いる必要があるかはさだかではない。が、世界との比較で警察官ひとりあたりの検挙率を見ると、日本は低レベルにあるという。まぁ、平和な証拠か。というより、検挙率だから、これは大変な事態である。 日本の警察官の四割は外勤で、その主な業務は、犯罪を防止するための巡回業務である。 その非公開ぶりで正義の警察、といういいイメージがもてない。また、交通の取り締まりや「ネズミとり」などは民間に依託してはどうだろう? そんな無意味なことに警官がふりまわされていたのでは肝心な重大事件検挙も危うくなる。
 民間で出来ることは民間でやらせ、警察は”捜査検挙一本”でいくべきだ。

         改革案
*全国民・滞在外国人などすべての指紋と顔写真をデータベース化(スパコンで管理運営)*政治家の企業・団体献金を全面公開 *被害者家族などへの支援対応
*交通・性犯罪ふくめ、重大犯罪を犯した被告の情報は公開し、住民・被害者に知らせる。 刑務所から出たあとも、被害者へのアフターケアする。*夜間車赤外線人間探知義務化*親しみのある警察官をつくるため、警察官に奉仕活動をさせる。*殺人事件時効廃止
*サイバーネット犯罪対策 *暴力団対策 *暴走族対策(一万人いる機動隊を交通に)*自殺や悪質取り立て、悪徳商法などへの相談窓口設置  *カジノ合法化
*メール110番 *懸賞金制度  *被害者への情報通知徹底 *海賊判DVD厳罰
*少年であっても人を殺せば死刑に(11才長崎児童殺害) *偽造クレジットカード対策*日本版”ネゴシェーター”を(米国では1万5千人いる。犯人への説得屋)
*警察官全員に連絡用の携帯電話を無料(通話料別)配布 *FBIのような国家警察
*身内に甘い警察の体質改善    *被害者保護プログラム*ファーミング罰則化
*マーキング被害対策  *似顔絵講座 *『スーパー防犯灯』全国設置義務化
*交通混雑を避けるため大型車の規制、ロードプライシング義務化*取調べ録音画徹底
*デジタル万引きに罰則を  *ドライブ・レコーダーへ設置補助金
*『出会い系サイト』架空口座債権取り立て被害窓口と規制法(被害者の92%が女性)
*警察官を5万人増やし、治安回復を目指す *フィッシング罰則法案成立化
*振り込め詐欺、ヤミ金の「銀行口座」フリーズ(凍結)と銀行員の老人への呼び掛け
(無視することを徹底させる。本人に確認。架空請求の電話番号に連絡しない)
*内部告発保護法の徹底  *逮捕未逮捕者のDNAデータベース化(アクセス制限し)*街灯や警察車両によるパトロールを増やす(犯罪防止) *匿名携帯電話契約禁止
*「情報」は武器! ヤクザやオウムのような犯罪組織を盗聴でも盗撮でもして情報収集(政治家やマスコミや経済人、知識者や外国人や田代のような芸能人も例外ではない)
*テロ組織犯罪対策部隊を強化 *震災パトロール部隊強化 *外国人対策課増員強化
*人身売買偽装結婚カジノ罰則強化(東南アジア女性風俗撲滅)*児童ポルノ規制
*タクシー、郵便配達員、コンビニや商店街と互いに情報交換して情報網確保
*ATMなどスキミング被害などがないように暗証番号+指紋、眼紋で本人確認
*性、児童、精神、殺人犯罪者の刑務所矯正教育改善。退所後も身元情報確認
*スカイマーシャル(航空機に私服警官搭乗)制度強化*列車などへの置き石等厳罰化
*空港・港での外国人らの入国の際、指紋や顔紋、眼紋などで識別し、テロや犯罪を防ぐ*ホテル業者による外国人身元確認制度強化徹底化*窃盗盗難などカード被害賠償と引き出し限度額一日10万円以下までとする。(生体確認とICカード、眼紋確認して犯罪防止)*日本版アンバーアラート(メディアによる誘拐事件報道警報システム)法律設立
*パトカー警察車両に管理用カメラとタフなパソコンを常時設置し、ネットワーク化
      
*個人情報搾取時点で罰則化*ヤミ金裁判行政関与と返還対策 *麌犯少年から逮捕
(麌犯少年とは、犯罪者予備軍の少年のことで、喫煙・恐喝・チカン・強盗等の犯事当者)*少年院にいれてもTV番組でご存じの通り「俺は”年少”いったからもうすんだ」などと最近のガキ(麌犯少年、犯罪青少年)は反省しないから三年間アフリカの難民キャンプで、更生、のためボランティア活動をさせる。仮病や逃亡のときは懲役十年罰金三百万円*違法ダウンロード取締規制強化と厳罰罰金(著作権法により)*ゴミ不法投棄罰則化
*インターネット等犯罪予告実行犯人に厳罰と懲役*ネット詐欺の罰則強化
*治安悪化を受けて、「ひったくり」「途中ねらい」「婦女襲撃」の防犯練習徹底
*刑務所の罪人を過疎地の農業作業に従事させる*ネット自殺の防止徹底*監禁重罰化
*個人情報保護のため”名簿多数閲覧”はさせないことにすること*第三者認証機関設置*マネーロンダリング規制罰則法令化*イモビライザー(盗難防止装置)義務化
*保護監察司養成、高いペイで刑務所出の人間をカンウセラーさせる(監視徹底)
*インターNなどの性、暴力などの有害情報リリースへの削除罰則化*烏鳩等え付罰則化*悪質リフォーム会社対策(500万円以下でも国認可制度)未成年含む*海岸浸食対策*犯罪者や出獄者の監視徹底(監視監養成増加五千人ほど)ICタグと徹底管理
         日本を救うふたつの法案成立
   『人種/差別禁止法案』と『優生保護法廃止法案』

   日本人ほど人種差別や外見などで他人を差別する人種も珍しい。
「ガイジンガイジン!」などとみかけた外国人を指差したり、「こくじ~ん!」「黒~い」「怖~ぃ、助けて!」「フィリピーナ!」などとアメリカ国内なら確実に人種差別発言で警察に逮捕されるようなことを平気でいう。ガキだけでなく、大人もだ。外見だけで他人を嘲笑したり差別したり、投石や罵倒は当たり前のことだと思っている。「バーカ!」
「オカマーっ!」「死ね!」「キモイ」「ペキン現人」「めくら!」「このガキ!」「ボケばばあ!」「気持ち悪い」「禿げ! 禿げ! 禿げ!…」教育の失敗といっていってしまえばそれまでだが、ガキどもだけでなく中学生の子供がいる大人でもこれだ。
 例えば、私が03年のクリスマスイヴの朝にガキに「キモイんだ馬鹿!」と罵倒されたので叱ってやった。すると何の反省もないし、謝罪もしない。ただ、「わあ~っ」などといって走って逃げて、しまいには数日後にガキのゴキブリ父親がやってきて「俺の息子を脅迫しやがって!」などと怒鳴り込んでくる。
 こういうガキや親は日本中にいる。ホームレス殺しや売春娘は珍しくない。こういう連中にどんなに道徳や孔子の『論語』を読ませても無駄だ。ホリエモンや杉村太蔵が理解できないのと同じだ。しかし、このままバカを野放しにしては日本の恥だ。
 そこで『人種/差別禁止法案』の成立だ。ガキや馬鹿大人が罵声などや嘲笑したら証拠がある場合(例えば、録音テープ。そいつの声紋だとわかればいい。声紋は指紋と同じで同じ形のやつは百万人にひとりだ。それか事件時の音つき映像証拠)には懲役1年執行猶予3年罰金百万円…こうすれば馬鹿なやつもむやみに「キモイ」だの「禿げ!」だのといえなくなる。いったら臭い飯食わせ続ければいいのだ。馬鹿に道徳など教えても無駄だ。猫に物理学を教えるようなものだ。臭い飯を食わせなければわからない。断固とした規律と罰則こそが腐ってしまった日本人を変える手段だ。タバコだって同じ。タバコの料金を今の百倍にしたらいいのだ。タバコなど百害あって一利もなし。馬鹿もそれでタバコをやめるだろう。しかも税収も増える。痴漢も同じ。もっと罪を重くしなければやらかす。女性が可哀相だ。痴漢・強姦をしてお尻や胸やアソコ触って捕まれば全国に名前公表と懲役5年だ。特にレイプは被害女性にPTSDまで与えるからもっと重い刑でもいいだろう。 あと『優生保護法廃止法案』の成立だ。これは欠陥があるから廃止にするだけだ。だいたいなんで性同一性問題がもう明るみになってるのに性転換手術を一方的に悪だと決めつけて悩んでいるひとの解決策を封じて、ただ自殺へと追い込むような真似をするのか?
 病院としては悩みが解決しないからいつまでも精神科に通わせて甘い汁が吸えるのだろうが、悩みが解決しないのだから結局自殺しかない。ヤミで劣悪手術しろ!ということだろうが、馬鹿か? 解決策がわかってるのだから策を打て! 馬鹿法案廃止すればいい。 どこの馬鹿がこんな法案つくったのか知らないが、くだらんのはどんどん廃止だ!  

新世紀維新 アンコールブログ連載プロジェクト緑川鷲羽わしゅう5

2012年02月28日 15時01分29秒 | 日記
国土交通省


         旧建設省


  成田空港や関西空港は、いうまでもなく日本国の「玄関」である。1966年の成田空港整備でゼネコンは潤った(開港は78年)。それだけでなく黙ってても道路やホテルや鉄道が整備できる。この利権を漁ったのは千葉県出身の自民党実力者、川島正二郎だった。 羽田空港拡張という案もあったが、川島は地元に利権をもってくるためにゴリ押ししたのだ。この成田、外国人や利用する日本人客には評判がつとに悪い。何より、東京から遠いし、最近(2002年4月)まで一本の滑走路しかない。世界第二位の経済大国の玄関がこのありさまである。不便だし、世界一空港使用料が高い。アメリカや欧州などはいかに日本によらないでアジアにいけるか検討済みだともきく。また、能登空港までできて、次は、静岡や神戸でも空港をつくるという。「オラが村にも空港を! 高速道路を! 新幹線を!」というメンタリティでつくられたことはミエミエだ。
 なぜ日本のインフラ施設は高いのか? それは競争がないからだ。財政的に苦しくなれば空港使用料や搭乗料金をあげればいい……というお役所メンタリティのためだ。
 ETCにしても、ゲートにひとはいらないはずなのに何故か制服の老人がいる。これも競争がないからリストラしない結果だ。また尼崎列車事故を受けて全国のATSを改良型へ全部変えるべきだ。車検もいらない。世界一の技術の車は安全だ!

       道路公団改革問題


  道路族にとって最大の関心事は整備計画の9342キロ全線を建設することだ。すでに7236キロが開通しており、残り2106キロの整備が最大の焦点となっている。
 残りの道路建設には約16兆円かかるとみられており、国土交通省はこのうち3兆円を国と地方の直轄事業で行い、残り13兆円を新会社(03年10月24日、道路公団総裁藤井治芳氏から政治家の元民間人に総裁リリーフした)に移行するという。
 道路公団に限らず特殊法人に投入される税金は5兆3000億円にものぼり、加えて郵便貯金が財政投融資という形で莫大な額が投入されている。その結果、コスト無視の法人と化し、国民に法外な使用料を要求したりする。だからこそ、道路四公団分割民営化は必要なのだ。民主党がいうような「高速道路無料化」などはバカげている。高級レストランで食事をし、タダです、といわれ帰宅したら請求書が向う隣家の分まで届く…という荒唐無稽なものだ。高速道路を利用するのは10台に1台だから、残り9台は使ってないのに払わされる訳だ。一刻も早く民営化し、アウト・ソーシングなどでコスト認識を身につけさせること。1956(昭和31)年に日本の高速道路は30年で無料化するなどといっていた。しかし、72年の田中角栄内閣によって反古にされ、道路は政治家たちの利権となった。はやく、そんな政治家や官僚たちから利権を取り上げるべきだ。
  日本中無駄な道路、ハコものばかりだ。「バッハホール」だの「日本ブラームスホール」だの名前だけで、ちっともペイしない。稼働率は十%にも満たないという。ゼネコンは政治家と癒着し、道路や、学校、病院、老人ホームをつくった。そして、こんどは美術館やコンサートホールだ。その財源は国債と道路財源である。国土交通省はゼネコンと組んで甘い汁を吸い続けている。そして、天下りでもそう。
 天下り禁止法案をつくるべきだ! しかも早急に!
 まず、特殊法人から手をつけなければ何もかわらない。
 それには天下り先で、退職金と給与に上限を設けるべきだ。月給は「官庁を退職したときの半分」とし、退職金も、三年で三〇〇万円、五年で五〇〇万円で十分だ。
 ハッキリいって官僚は「退職金利権」の温存のために改革に反対しているのだ。
 また全国の役所には「なんでもやる課」をつくり、老人介護、高齢者宅の雪払いやスズメ蜂駆除などなんでもやらせる課がほしい。

         改革案

*川辺川ダム・諫早干拓・吉野川河口堰の即時中止
*品質の画一化 *航空機での酒など有料化(タダだと知ってガブ呑、大トラ酒乱防止)*劣化住宅・施設は10年以内なら無料修繕 *バラスト水処理義務化
*公共事業の見直し(国基準ではなく、身のたけにあった事業。地方への補助金を見直す。 コスト削減。国の補助金に頼らず、市民参加でコスト削減を計る。いらないものはつく らない。補助金をなくせば7割がよくなる)
 大規模修繕や新規事業だけでなく(地方負担4割)普通修繕(地方全額負担)も見直し*談合対策(談合バスターズ設立、電子入札、郵便入札導入)
*「虫食い土地」を無料で見直し、開発・利用
*失業者の住宅ローン支払い延期
*不良債権不動産の格付け*痴漢対策のため女性専用列車設置義務化
*路上駐車、違法駐車対策として、都心に無料地下駐車場を複数建設
*建設リサイクル法案(手抜き住宅・建築物に厳しい罰則)
*道路整備特別財源(25兆円)を一般道路化税に



         いらないものはいらない


「渋滞で走れない低速道路」「料金だけはあがり、ムダにおわった東京湾高速道路(東京アクアライン)」「平均通勤時間が一時間」「年に何回かしかつかわれないコンサート・ホール」「田舎村の城」「熊しか通らない三斜線道路」「だれも通らないご立派な橋」、「田んぼの真ん中のオペラ・ハウス」
 ………日本中いらないものだらけだ。
 すべてはゼネコン救済と政治家の利権である。
  戦後、国道の舗装率がわずか三割だったものが、高度成長期に一〇〇%になり、モータリゼーションでインフラはすべてととのった。しかし、道路はまだまだ作られている。 政治家は日本国中に高速道路をめぐらせなければ気がすまないのだ。一八兆円もの金が公共事業につかわれ、その結果、建設業だけは日本中に六五〇万社もあるという笑えない話になっている。
 東京湾高速道路(東京アクアライン・建設費一兆五千億円)にしても、半分橋で半分トンネルだが、受注した業者が橋建設会社とトンネル建設会社だったためだ。まるで漫才だ。 たとえば道路の延長距離は、日本はアメリカの四・四倍、ドイツの一・五倍になっている。にもかかわらず渋滞は続くし、スピードも出せない。
 つまり、日本は他国に比べて道路が少ないのではなく、悪いのである。曲がりくねった道をそのままにして舗装したり、つくりやすいルートで高速道路をつくる。ドライバーのことなど考えてもいない。”つくりっぱなし”……なのである。
 国民は、いらないものはいらない、ときっぱりいうべきだ。
「あの道に信号を設置して」とか「ここに高速道路を…」などとおねだりはやめることだ。  ”建設”自体が自己目標となり、国民への奉仕を忘れている。そのため、整備内容縦割りから地域別の独立整備組織を創設すること、チェック機能の確立、私権制度の充実、管理・調整のみで個別の整備に関する計画・執行部門はもたないようにする、地方に局を移行し独立機関とする、など考えられよう。


           旧国土庁



  国土は財産である。われわれの生活に密接に関わっているだけでなく、空気、水、食料、木材、鉱物、資源などを提供してくれる。ところが、日本の国土は一面コンクリートで覆われている。自然を破壊し、めだかも絶滅の危機にあるという。
 日本の地価は世界一で、アメリカの何倍もする。東京都の地価だけでアメリカが二国かえる、という話は有名だ。いや、これは異常である。至る所、コンクリートづけ、それか緑を……などと杉ばかり植えたため「花粉症」の現代人が大勢でた。
 国土は、コンクリートと無意味なテニス・コート、ゴルフ場などでアグリーそのものである。そのくせ、使用するときはかなりの時間と金をとられる。
 まるでボッタクリ国家だ。
 国土を計画し管理し整備するときには、総理大臣直属の国家機関とし、外部の民間機関によるチェックをおこない、少数精鋭グループとし、予算はプロジェクトベースで、単年度制としない、などが考えられるだろう。





         旧運輸省


  日本の運輸ほど非効率なものはないのではないだろうか? 運輸には海運業(内外船、外航船)、陸運業(鉄道、バス、トラック)、航空業があり、いずれもコスト高である。 たとえば旧運輸省は宅急便などの合理的な業者が登場すると、道路運送法を盾に「全国三万七〇〇〇のトラック業者のほとんどは零細企業なので、保護するのは務め」とばかりにトラック免許の発行をしぶったという。
 また規制のために、沖縄にいくよりハワイにいったほうが安い……などという馬鹿なこともおきている。それでも規制を緩和も撤廃もしない。官僚にとっては規制=利権だし、国民の利益よりも省益のほうが大事だからだ。
 日本では地価がバブル期の三分の一にまで下がったというのに通行料は下がるどころか上りつづけている。首都高速は七〇〇円。阪神高速は六〇〇円……東京・新潟間だと六九五〇円もかかり、東京・青森だと一万三五〇〇円もかかるという。通行料の高さは建設一族が甘い汁を吸いつづけている結果だ。
 道路公団には子会社が六七もある。そのほとんどが黒字(規制で競争がないため)、道路公団はまさに「親方日の丸」である。普通の企業なら倒産して当然でも生き続け、自民党の道路族は「国民のみなさまの不便を解消するために高速道路を…」などと抜かす。
 子会社ばかり黒字なのは、天下り先の確保である。
 くだんの馬鹿漫画家は「官僚は難しい試験を突破して官僚となった。給料が少ないのだから天下りして高給をとって当然」などと馬鹿ぶりを発揮していたが、なぜわからないのだろう。天下りのアグリーさが……
 一〇年で三くらいの会社をかわれば退職金だけで六〇〇〇万から一億円。それに週に二、三日出勤するだけで一五〇〇万~二五〇〇万ぐらいの年俸が約束されるのだ。
 こんな馬鹿な話はない。漫画家にはそれがわからないのだろうか?
 ETCを義務化して、退役軍人のような老人を追っ払えば、高速料金は二〇〇円にできる。それでもオツリがくるくらいだ。

         改革案

*建設官僚と公団、他の官僚の天下りを禁止する
*子会社を整理する  *民間化、分社化
*ETC義務化、料金所廃止
*道路公団分割民営化促進
*丸投げ処罰法成立
*政治家の介入をふせぐため、計画の途中で当初の見積もりより一〇%以上総工費があがった場合、チェック機関にゆだね、必要ならば計画廃止
*横田基地の民間空港化  *ハイジャック対策  *羽田空港国際便化
*PICS(ピックス・視覚障害者に声などで知らせる信号)義務化
*AMIS(エーミス・交通情報受信サービス)義務化
*ETC義務化   *羽田空港国際便化
*公共事業電子入札化







         厚生労働省




         改革案

*育休者のために代替要員で戦力カヴァー(元社員とか)負荷はかかるが少子化対策!
*男女育児休暇10歳まで拡充(女性が馬鹿をみない制度)行動計画の実行*頭痛専門育成*サービス残業処罰法 *過労死(年間360人)対策 *SARS等の疾病対策
*薬をわかりやすい名前にして医療事故をなくす *社会保険庁廃止民営化
*HIV(エイズ)患者も”障害者”と認知 *罰則を含めた具体的子育て支援策を
*新薬の承認は一ケ月以内に *医療通訳制度 *乳ガン保存治療統一化*製造派遣禁止*「脳死」は死亡とし、同意なくても移植に参加してもらう(子供も)死んだら焼くだけ。*「盲導犬」育成を国で補助  *女性・青少年の勤労・医療支援*年金兼業労働者支援*ドクターヘリ全国導入 *ビジネス・ナビゲータ育成(中小企業の優れた技術発展者)*携帯電話なとでネット診断  *患者とのコミニュケーションと診断研修*子宮頸癌ワクチン無料接種
*しゃべれない障害者のために110、119番連絡網整備を*自殺防止対策(鬱など)*電子カルテ(基本的にカルテは誰でも読めるように。またレントゲンも患者が保有でき ること)導入  *少子高齢化抜本対策(子供数に応じて減税、育児介護補助金、育児休暇日男女拡大、出産する女性が馬鹿をみない社会を! 子育て減税)*子育て減税
*患者取換え事故に、バーコード管理(SIDS) *会社託児所完備*学費減税
*安楽死法律化   *科学的根拠に基ずく医療(EBR)*不妊治療税費負担
*ダイオキシン対策 *出来高払い廃止 *役人にも公果主義を*AED無料配布義務化*インフルエンザ等のワクチン接種、六五歳以上は無料*インフォームドC徹底情報公開*遺伝子人間クローン禁止 *介護ヘルパーのIT連携*癌カンファレンスと種瘍医師
*医療ミス防止のため情報公開(例えばインターネットのホームページで医者のプロフィ ールや略歴、生存率や薬の情報。技術研修拡充) *癌専門医育成(米国は日本の7倍)*代理母を認める(代理母反対の理由。女性を道具のようにつかってる、リスク、子供の 福祉、子供の親権) *3歳児検診確認(いつまでも来ないとネグレクト殺人恐れ)
*ボケ早期発見のために年継続健康診断でテストを*骨髄ASL患者のため胎児細胞移植ガイドライン規定作成*ペット動物の避妊手術を義務化 *ICタグつき医薬品義務化
*骨髄バンク登録義務化、臍帯血も提供義務化 *脱法ドラッグ規制罰則化
*白ナンバー(認可無)車でも介護老人移動を認める。国が補助する*アスベスト全対応*PET(ペット)診断(ブドウ糖の量により1mm単位の癌がみつけられる)に助成金を*海外の優秀な薬は申請から一ケ月で通す。特に癌治療薬など*鬱精神病治療費補助
*「住基ネット」による情報漏れの対策  *育児休暇を3歳まで(今、1歳)延長
*「骨髄提供者」に国からボーナスをやる。 *医師免許更新制*抗癌剤専門医師全国へ*寝たきりゼロ作戦(筋肉トレーニングやリハビリなど)*対癌戦略(全国治療ネット)*40歳以上の成人者の60%が三大成人病(癌・脳卒中・心筋…)の予備群、三年に一度づつの健康ドック検診義務化(費用患者負担) *献血者に五百円図書券配り率アップ
*年千八百時間労働厳守(サービス残業、時間外低賃金労業に罰則強化)
*過労死になったらその会社に厳罰を(懲役もありえる)*道徳低下対策(救急車有料)*40歳未満の成人にも介護保険料を払わせる *認知症のための官製健康保険
*08年の墨東病院事件のような『産婦人科医不足』のために年棒と人員NICUアップ!(いわゆるコンビニ受診をやめ、罰則化。軽症患者が緊急患者の邪魔をしたら罰金百万円)(軽症患者は地元の開業医に診察させ、中央の病院は緊急患者だけを診る)
(訴訟リスクの軽減。訴訟リスクを減らすためにメディエーター(仲介人)の診察徹底)(女医サポートや医療秘書の導入。患者と医療関係者の関係改善。医療費抑制政策廃止)(HIVからエイズへの流行情報と検査徹底(感染爆発パンデミックで日本で15万人へ))(エイズ検査率は0.1%。学校や会社などで匿名検査国立体制徹底。検査バス徹底)

        年金問題


  もうじき日本は超高齢化、少子化時代をむかえる。現在、年金をもらっている老人と給付者との比率は五対一だが、二〇二〇年には二・三対一にまで縮まるという。こうなると若いひとたちの負担が増える。国民年金は国民すべてを対象とした制度で、毎月六十歳まで一万(将来は三万~五万)円払うように義務づけられている。が、三〇年後には老人になっても月に『おこずかい』程度(三万円)くらいしかもらえないという。
 若者はそれを知って「馬鹿らしい」と払ってない。未納者は千四〇〇万人もいるという。 現在、支給は六十五歳からで、現状だと月に六万五〇〇〇円。しかし、超高齢化社会となると二〇年後には半減するとみられる。少子化で、給付が一万のままならうまくやってもらえる年金は三万くらいだろう。支払い金を二万から三万にしなければとてもやっていけないのは明白だ。しかし、そうなると国民から反発がある。
 只でさえ年金未納者が大勢いるのに、ますます払わない人間が出てくるだろう。
 そこで、
一、「支払わない者受給できず」の原則をつらぬく(社会的弱者以外)
二、「専業主婦からも保険料をとる」(介護中の妻、弱者以外)
三、「消費税への安易な転化をせず、財政投融資やゼネコン救済金、PKO金から」
四、六〇〇〇億円を越す事務費を減らし、将来、事務民営化
五、少子化問題を考え、もっと子供を産んでもらう(ひとりにつき大学まで月20万円)
六、安楽死を認める
七、年金制度一元化
 としたらどうだろう?


        少子化対策は


  日本の女性が子供を産む数は1973年、いわゆるオイル・ショックの年に2・14、翌年には2・1を割りこんだ。80年代にもちなおしの胎動はあったが、低迷し、90年には1%を割り込んだ。未婚化もこの10年で54%増加したという。これは女性が働くようになり、出産してキャリアを失うのは嫌だ…と思いはじめたからだ。また、バヴル崩壊後における「中絶」も増えたという。「子育てや教育にお金がかかるから」という理由がさも多くて63%。若い層に多い。また、「高年齢で産むのはいや」という熟年カップルも多い。 子供の有無別にみると、子供のいないカップルで検査や治療をうけたことのあるのが25・5%。子供のいないカップルの4分の1はなんらかの検査をうけているという。なにはともあれ、この少子化で、今後の年金生活は間違いなく窮屈で、貧困なことになりそうだ。

      年金、生命保険の予定利率引き下げは是か非か

  生命保険会社は、バブル期に販売した年5~6%という高利率の保険商品の「逆ザヤ」に苦悩している。現在は死差率(死亡率の見込みと実際の率)、費差率(経費の見込みと実際の率)で穴埋めしているが、いつまでも続けられるものではない。不良債権をかかえている生保も多く、このまま放置しておけば経営破綻の危機がある。国民の9割も加入している生保のシステムを守るためには「逆ザヤ」の解消が必要だ。
 まず、リスクを国民に説明し、契約者保護を急ぐことだ。
 もちろん、利率を引き下げるということは、保険契約の明記してある解約返戻金(満期前に解約した場合の払戻金)や満期保険金を減額することになる。
 厚生年金も簡易保険も利率を引き下げることができるのに生保だけはダメだ……などというのはおかしな話だ。
  また、年金についても65歳から支給、保険徴収料アップ、給付金ダウン…らしいが、どこかの70代の老人はこういっていた。「年金がいろいろ問題があるのもわかるが相互信頼であり、社会のルールなのだから年金はちゃんと払え。払わない奴は後で文句いうな」 当然のことではある。が、この投書のひとは70代。一番少なく年金を払い、今一番多く年金を支給されている世代である。そういうひとがいうとまるで「わしのところへちゃんと金くれ」といっているようで思わず笑ってしまう。相互信頼だ、ルールだ、などといってみたところで年金は破綻するかも知れないし、小子化でもらえても雀の涙だろう。
 今の老人はいいかもしれないが、これからの私たちにとっては問題先送りの「国民年金」はリスクが大き過ぎる。払わないのも納得なのだ。すぐにやらなければならないのは年金と401Kとの並立だろう。年金のクリデビリティが薄らいでいる今だからこそ、改革が必要なのである。

         医療のネットワークを!


  小手先では何もかわらない。薬づけが検査づけになるだけである。保険料赤字額は二百数兆円、(91年20兆円…02年30兆円…03年204兆円。ちなみに国家資産は70兆円)
 外来で入院する患者は米国の三~四倍の長さで入院させられる。私も通院したことがあるが、ひとだけはいっぱいいるのに何時間もまたされる。薬をもらうだけで一時間待ったこともある。癌告知でもそうだろう。
 日本では癌患者に告知しないのが原則となっている。海外ではかならず告知するが、日本人の家族はそれをやめてほしいと嘆願するという。
「夫がかわいそうだから告知はやめてください」
 ある僧侶がいて、末期癌だったそうだ。が、その僧侶は「わたしは修行していて癌であと数年で死ぬといわれてもひるまない。告知してください」といった。
 で、医者が「末期の癌で、後数年の命」と告知すると、その僧侶は動揺し、三ケ月後に苦悩のあまり自殺したという。修行をした僧侶でさえそんなものなのだ。
 しかし、余命も知らされず、どうして残された人生を悔いなくおくれるだろうか?
 癌は告知する、というルールをつくるべきだ。
  また病院間でもネットで提携し、連合をつくるべきである。癌ネット、脳死ネット…などいろいろ考えられそうだ。同じ病気でも別な病院にいくたびに初診料をとられるのはいいかげんにしてほしいと思う。ネットで繋がっていればそういうこともなくなる。
  カルテやレントゲンは患者のものとして患者に渡すべきだ。
 病院の株式会社化、国立病院の民営化も急がれる。
 つまり、医療も産業のひとつと位置づけ、治療価格を自由競争し、患者に選択権を与えるのである。また、コンビニやあらゆる店、レストラン、居酒屋、ゴルフ場、旅館などでも薬を売っていいことにすればいい。そうしたところで危ない薬など売る訳はないのだから。薬局の白衣の薬剤師からしか薬が買えないなどというのは不自由だ。
 コンビニだけでなく、いろいろな店で手軽に薬が手に入れば、急な頭痛、風邪、下痢などのときに困らないであろう。
 また脳動脈瘤などの手術のリスク提示や、病院が手術結果や情報をインターネットのホームページで公開すれば、どこの病院が安全かわかるだろう。
 セカンド・オピニオンも徹底すべきだ。またタバコは百害あって一利もなし。タバコ税と料金を百倍にすれば、いかに馬鹿なスモーカーでもやめる努力をする。馬鹿は他人に迷惑をかけることさえわからないし、理論も説得も無駄だ。だが、自分が金かかるとなればどんな馬鹿だってタバコをやめる努力をする。もっと頭をつかうことだ。       


新世紀維新 アンコールブログ連載プロジェクト緑川鷲羽わしゅう4

2012年02月28日 15時00分55秒 | 日記
 文部化学省



        日本教育について

  日本の教育は今まではどういう教育だったかというと、「大量規格生産用の労働者」を作り出す教育であった。いわゆる昭和17年体制である。「大量規格生産用の労働者」というのはどういう労働者か?というと、わかりやすくいえば工場の流れ作業用の労働者ということになる。同じパソコン、同じTV、同じ車…そういうライン製造のための労働者を作る……それが今までの教育であった。規格製品には独創性は危険である。だから、今までの教育は創造性を悪とみなして、創造をさせなかった。なぜなら、工場の部品に自分だけの名前や改良をくわえられては困るからだ。だから、小学校はまだしも、中学生からは受験詰め込み教育や偏差値教育で、独創の根を絶つようにした。また、流れ作業は退屈であるから、それに我慢できるように個性を生かさず、欠点を克服するような教育をした。 すべて「大量規格生産用の労働者」である個性のない「平均的人間」をつくる教育であったのだ。「まんまる人間」「平均的人間」をつくる教育とは何か?それはずばりいうと、平均的に一律に同じ教育をすることである。そのために有効だったのが「学区制度」である。例えば、A地区に住む子供はA学校、B地区に住む子供はB学校…といったぐあいにやると平均化する。かりにA学校で音楽を重点的にやる…などとやれば音楽好きの一部の子供は喜ぶだろうが、他の子供は困ってしまう。そこで平均化が計られる訳だ。教科書検定などもその類いだ。私はこの「学区制度」「検定」をなくすべきだと主張したい。
 つまり学区を廃止して、越境通学を認め、個性ある学校をつくるべきなのだ。
 そうすれば、自分の頭で考え、議論できる子供も生まれる。
 では、創造性や道徳を育むにはどうすればよいか?
  それは、活字や新聞をよみ、「なぜこうなるのだろう?」と常に頭を働かせる教育をすることだ。…新聞を読む。とくに編集員のコラムや読者投稿はためになる。その他に経済欄、政治欄、ベタ記事…。なんでも知識開発にプラスになるから読ませる。
 そして、一週間に一回は投書させるのだ。もちろん掲載されることはめったにないが、それでも自分でテーマを決め、情報を集め、短い行数、限られた行数に文章をまとめることは頭の体操に繋がる。テーマが政治や法案なら勉強し、政策通になれるし、テーマが経済ならエコノミストのような気分になれる。教育についてなら教師の気持ちがわかってくるし、近所の子供のことなら子供の気持ちや劣化などがわかるようになる。
 そう考えると、載らなくてもいいから投書するのはいいことである。勉強になるし、頭の回転も早くなる。なにより、知識武装できる。諸葛孔明は晴耕雨読の日々で才能を開花させたらしいが、投書はそれと同じ位よい結果を生む。だから投書授業をさせるべきだ。 また、リーダーを育てる特別教育があってもいいし、ディベート授業があってもいい。そういう独創性のある教育が今、求められているのだ。社会人(警察官、弁護士、小店主、医者…)から話しをきく教育があってもいい。IQよりもEQなのだ。また頭がバカになるからくだらんTV番組はあまり長時間みせないように親は注意したらいい。
  日本の子供がおかしくなってから二十年くらいになる。そのプロセスで偏差値教育から学校週五日やゆとり教育などという学力低下原因の愚策教育までうまれた。
 しかし、日本の子供の”劣化”は深刻さを増している。子供に「将来なんになりたい?」ときくと、私や私の父母の世代なら「野球選手」とか「サッカー選手」とかいうところだ。 しかし今の子供の実に七割はこういう。「お金持ちになりたい」と。理由は簡単。お金があればなんでもできるから…。このどうしようもない拝金主義、拝点主義はどうしたらいいのか?
 私はボランティア研修教育だと思う。東南アジア、あるいはアフリカに点在する難民キャンプで、数か月間のボランティア研修をさせるのだ。まったく自分と違った世界に住む人々の苦悩を目のあたりにして、彼等のために働く。これほど国際性や思いやり道徳を身につけさせる理想的な手段はない。文部科学省は一秒でも早くこの私案を実施してほしい。 とにかく教育の基本は、社会に出たときに社会に迷惑をかけない人間にすることだ。嘘をつかない。いいつけを守る。年上には敬語をつかう。やっていいことと悪いことの判断をつける。挨拶をする。他人を騙さない。借金は必ず返す。他人の欠点を暴かない。他人を嘲笑しない。……一見あたり前のようだが、今の日本人の子供にはこの基本が欠けている。それを修正する教育を早めに実施しないと、日本という国は確実に滅びるであろう。 なぜなら、教育こそが国の盛衰の鍵となるからである。
  その教育が、その教育に携わる人間が「聖職者」ではなくなりつつある。そのいい例が、教師による女子児童着替え盗撮や暴行事件であろう。また、犯罪を犯さなくてもマニュアルだけで動く「サラリーマン教師」がばっこしている。日教組でハチマキをまいてデモをする教師はさすがに減ったらしいが、そんな輩を子供が尊敬するはずもない。しかも親の躾欠如と甘やかしで、”くだらん”ガキが次々に社会に出荷されていく。
 こんな日教組や文部化学省など廃止すべきだ。また、教師がサラリーマンだと自分で思っているのなら、タイムカードを導入し、優秀な教師のギャラを上げるようにしたらいい。 つまり競争原理を教師に課すのだ。
 マニュアル「指導要領」も廃止すべきだ。マニュアルがないと困るサラリーマン教師も多いときく。「総合学習」では何をすればいいかわからず、猫も杓子もボランティアや英会話のための外国人招集に走っている。子供に教える筈の教師がマニュアルに頼っているのだから愚かさここに極まれりだ。
 意外かも知れないが、日本の最高学府・東京大学にしても世界の大学ランキングでは100位にも入らないほど低レベルなのだ。大学卒=優秀、と思っているのは日本人だけだ。 この際思い切って助成金をカットして大学の進学率を減らし、少数精鋭にすべきだ。
         教育改革案

 *「つまずき」発見のため前学校の「連携」、「評価」カード。朝、土曜日復習授業
 *02年より週休二日制となったが、学力低下が著しく進んでいるので廃止
 *文部省の教科書検定、監査、指示の廃止。文章化。地方にまかせる。
 *介護ボランティアの授業  *中学高校大学在学中に職業模擬研修
 *右脳開発授業(記憶術、早読法、英会話、討論、企画、交渉、創造力育成など)
 *ダイオキシン対策のため、学校の炉をなくす*合唱授業*朝御飯食べる教育躾
 *高校・大学で「新人社員研修」を「社会就労経験」を*卒業後経済援助しない
 *IT教育の充実   *読解力低下対策で、月二冊の活字本を読ませ作文書かせる
 *キレやすい不良学生に道徳授業をする *食育*淫行為罰則*親の責任強化罰則化
 *給食費は学校にもっていくと不良に盗まれるので、銀行口座への振り込みへ
 *海外の危機管理テスト *国家公務員試験(いわゆるキャリア廃止)一元化か廃止
 *学力低下改善のため補修授業を*論語を修養させる*スキミングハッキング防止教育 *過去の日本軍による侵略行為の教育を *新しい歴史教科書会なる右翼の教科書廃止 *障害者へも優しい教育を *外国国内での危機管理教育「フリーズくらいわかれ!」 *不適格な”先生”を校長やPTA、教育委員会が判断して、事務職などに左遷するか  教育しなおす。または、ひどいときは教員免許取り消しにする*基本体力つけさせる *学校で先生も禁煙  *旧文部省の解体・民営化 *教師の年更新制(人格テスト) *学校の株式会社化、教師のFA制度 *保幼併合、2歳児童受入れ(待期児童減少策) *世界のリーダーとしてのリーダー授業の愚策をやめる*肥満喫煙飲酒の恐怖教育
 *飛び級を認める      *自殺未遂、鬱、引き籠もりのケア授業
 *創造力開発プログラム授業 *信賞必罰の徹底*性行為性病の危険の教育
 *民間人先生(教員免許の見直し)*教師を在職中前に3年間社会で実務経験させる
 *30人学級許可(補助金支給)  *教師免許更新制度確立*創造力育成教育
 *男女共同参画(ジェンダー)授業と性教育強化 *ゆとり教育廃止(土曜日も授業) *オウムなどのカルト集団の恐ろしさ、麻薬、ヤクザの恐ろしさを教育する
 *全国学校教師と受ける学生向けのセクハラ対策マニュアルと対応
 *日本版「盲流」の外国人と子供の教育とケアと雇用保護
         日本の学歴主義は不滅

  日本の学歴主義は不滅である。どんな会社でも、ちいさな本屋でも「学歴=実力」と勘違いしている。だから、企業の採用内容はどれも「四年制大学卒業または卒業見込みの方で…」などとなる。学歴で判断するのが日本人であるため、事務職で面接にいっても大学を出てないと「ガソリンスタンドで」といわれたり、または「事務職もうやってない」などと嘘をつかれ「工場で…」などということになる。
 どこまでも学歴を重視するのが日本人なのである。だが、学歴ではなく学力が大事なのである。例えば、戦後世界に冠たる企業をつくりあげたリーダーたちの中には、松下幸之助、本田宗一郎などでもわかるように小学校しか出てないものたちだ。学歴だけで判断して、こいつは高学歴だからいいアイデアを出すだろう、いいデイベートをするだろう、などと考えてひとを採用するから会社が倒産したり、汚職が発覚したり、たやすくネズミ構にひっかかったりするのである。前に私がいたNECにもそうした学歴人間がいた。そのエリート君、会議でのアイデアが思い浮かばなかった。で、どうしたか? 私のアイデアをパクって、私の発言のまえにさも自分のアイデアのように発表したのである。あのときのエリート君の、何の罪悪感もないにやにやした気色悪い顔を、今もわすれることができない。 そいつが今や米沢NECのエリートと呼ばれているというからなにをいわんやかなである。日本は完全に教育に失敗した。このままではこの国はダメになる。それは誰もがわかっていることのはずだ。

         「ゆとり」教育は学力低下を招く



  政府の「教育改革国民会議」の議題で、侃々諤々と議論されて決定されたのは2002年に実施した、いわゆる新課程の導入である。
「ゆとり教育」などといって子供の覚える科目を少なくし、できるだけ外で遊ばせる……などといった本末転倒な改革案だ。これは日本の初中教育の基本的機能を崩壊しかねないような危険をはらんでいる。もし、本当に教育改革をしたいなら改悪ではなく、真剣に改革案を出すべきだろう。識者はこの新課程の導入を返上しなければならない。
 私は、「ゆとり」教育の実施が、現実の実態を理解しない空理・空論に基ずくものであり、学生たちの基礎学力を確実に低下させるものだと思う。(実際低下した)
「生きる力」を学生たちに与えるという基本方針をうたいあげた文部省(現・文部科学省)は、第16期中央教育審議会を経て、98年11月に小・中学校学習指導要領全面改正を、99年2月に高校第7次学習指導要領全面改正をそれぞれ告示し、双方とも02年4月から実施した。要するに、英語や数学などの既存の科目の時間を大幅に減らして、意味不明の「総合学習」の科目を導入しようというものだ。小学校2年生の算数から不等号の式を、5年生のそれから台形と多角形の面積を、6年生のそれから比の値を削減することなどをふくむ、小・中学校での各教科の内容の削減、移行統合、軽減、集約・統合・重要点化は膨大な数にのぼり、結果として科目の授業時間は25~42%削減されることになった。
 公立中学では私立中学の半分しか英語を教えない。
「…おちこぼれを出さないために」文部科学省の役人は胸を張る。しかし、教育改革とは落ちこぼれ対策なのか?と思ってしまう。大事なのはビリになっても、頑張らせて少しでも上にいく努力させる、努力の大切さを教えることではないか?
 また、「生きる力を育てる」とか「創造力を養う」などといってるが、そういう能力は学校では教えられない。その子供子供で実体験や人生を歩むうちに身につくのがそれで、学校で教えられると思うほうがおかしい。傲慢としか思えない。
 大学の教育課程を卒業した先生たちに過度の期待をかけてはいけない。今もとめられている教育や教育者は「聖職者」でもなければ「金八先生」でもない。英語なら英語のスペシャリストだ。生徒にうまく技術を習得させられるひとだ。
 その意味で、大切なのは授業を減らすことではなく、プロの教師育成のはずだ。それが急務なのだ。「ゆとり」教育は学力低下を招いた。しかし、そんなことは火を見るよりあきらかだったではないか。



         少年犯罪のバッコ



  この数年ほど「少年犯罪」が激増している。
 例の「酒鬼薔薇」「11歳長崎少女」(殺人鬼の少女は小6)「愛知主婦殺人」(犯人の少年は「ひとを殺す経験がしたかった」と動機をいった。)「バス・ジャック」「栃木リンチ殺害事件」「岡山、山口、金属バット殺人事件」「愛知ストーカー殺人」「名古屋五千万恐喝」「大分、一家6人殺傷事件」「山口、母子殺人」「17歳少年による歌舞伎町爆発テロ」「17歳少年による渋谷金属バット通り魔事件」「12歳少年による幼児殺害」…。          「集団ホームレス殺し」。成人女性を監禁してハサミで耳朶を切り落としたコギャル…。 売春、恐喝、万引き、いじめ、拉致、ホームレス殺し、殺人、強盗、放火……。
 これらに共通していることはなんだろう?
       
 私は「犯人たちの社会常識のなさ」「親の躾の欠如」だと思う。
 たとえば、例の「酒鬼薔薇」や「愛知主婦殺人」の少年は、「ひとを殺す経験がしたかった」という動機でひとを殺した。酒鬼薔薇(当時14歳)は、知り合いの小学生男児を殺し、首を切断して校門に置き、「愚鈍な警察諸君、ぼくを捕まえてみたまえ」などと犯行文を警察に送った。しかも、死刑にもならず社会にでてきた。作家になりたいという。
「愛知主婦殺人」の少年は、「ひとを殺す経験がしたかった」という悪夢を抑えきれず、見ず知らずの主婦をナイフでメッタ刺しにして殺した。
「大分、一家6人殺傷事件」の当時15歳の少年は、「風呂場の覗きを注意された」などという些細なことで恨みをもち、被害者の家を深夜襲撃して次々と刺した。
 このような鬼畜は遺族にとっては「殺してやりたい」「死刑にしろ」と思うだろう。それは当然の話だ。許されるなら「自分の手で殺して復讐したい」と遺族なら考えるだろう。 しかし、現行の少年法では、「酒鬼薔薇」も「愛知主婦殺人」の犯人も死刑にならない。無期懲役ぐらいもなかなかならない。これでは遺族もやりきれないだろう。
 前に、「酒鬼薔薇」の顔写真が雑誌に掲載されて大きな社会問題になった。でも、私は「顔ぐらいなんだ!」と思う。死刑にならないだけましではないか。
 もちろん少年法を守れ!顔を載せるな!という意見もわかる。しかし、殺された被害者の遺族の気持ちを思えばそんなことはいえないはずだ。
 はっきりいって、こういう鬼畜どもは「死刑」にするのに限る。いま現在でもこの少年らは殺人をしたことに対してなんの反省も謝罪もしてない。しかし、死刑になる……とわかったら少しは謝罪する気持ちになるに違いない。
 まずリスクを与えること。悪いことをして人を殺したら、少年であっても死刑になる、顔写真と名前公開……というシステムを早くつくってほしい。さらなる少年法の見直しがもとめられる。

         仙台幸町中学事件と奉仕道徳授業の重要性


「最近の若者は質が悪くてね」
 これは古代エジプト時代からいわれたことだ。しかし、現在の日本の若者にいかにもピッタリと嵌まってしまい思わず悩んでしまう。…殺人、強姦、いじめ、バス・ジャック、万引き、集団徒党行動、リンチ、売春、恐喝、強盗、麻薬…。「最近の若者は質が悪い」とは日本人青少年のことか? と思わずおもってしまう。
 しかし、この事態はなにも最近になって出てきたことではない。例えば、私こと著者が宮城県仙台市幸町に住んでいた89年頃、近所の中学生たちがなんの理由もなく一年以上にもわたって私や私のアパートにむかって「バーカ!」「禿げ!」「死ねーっ!」「殺すぞ!」「バイバイ馬鹿!バイバイ馬鹿!」などと罵声を浴びせかけ投石嘲笑する事件があった。 何度も中学生たちに注意したが効果なし。それどころか、注意しても、一団のうちの女子中学生達3人はニヤニヤ笑っているだけだった。こんなことが続き、堪忍袋の緒もついにきれて私は校長に通達した。それで地元報道され、それは教育委員会に知れ、全国報道された。それでも罵声投石中学生男女たち(当時)は反省も後悔も懺悔も何もなかった。 それどころか「よくもチクリやがって」などと思っているだけだったろう。
 現に、その報道から三日後、私の住んでいたアパートの隣のひとのバイクが盗まれている。その数日前に幸町男子中学生(当時)らが「あいつの(私のか?)バイク盗んでやる」などとヘラヘラ笑って語っているのをきいているから、100%確実にそのガキらが盗んだのだろう。私への嫌がらせというかテロというか…。なんとも醜悪だ。
 自分達が悪いのにも関わらずそれも理解もできず、逆恨みして「テロ」をしかける中学生たち……。あんなやつらが大人になって社会の一輪となっているかとおもうと背筋が寒くなる。こりゃあ日本も終りだ、とさえ思う。
 そして、この時代に「奉仕道徳授業があったら…」と今更ながら思う。
 もし、奉仕道徳授業があったら”罵声投石少年少女たち”も少しは『マシな人間』になっていたかも知れないからだ。今更ながら惜しい。もし彼等彼女らがまともだったら…。 しかし、いくらいっても過去は変えられない。
 元”罵声投石少年少女たち”らは自分達のメンタリティで、自分のモラールやレゾン・デートルやコンシィエンスを見つけるしかない。出来ないだろうがやるしか未来はない。 もしあの当時に、奉仕道徳授業があったら”罵声投石少年少女”も少しは『マシな人間』になっていたかも知れない……そう思うとつくづく残念でならない。




         考えなければならない移民受け入れ



  日本経済の中・長期的見通しには悲観論がともなう。悲観論のもとは、いわゆる少子高齢化である。人口が07年頃から急激に減少し、老齢化が急速にやってきて経済が先細りする。なにか手はないのだろうか?
 日本の女性の出産率をあげる?無理だ。女性の社会進出が進み、共働きが当たり前の時代。それに今の日本の不況や青少年犯罪や子供の育児の大変さ、そんなこんなで出産しない女性が多い。結婚しない。もしくは、ひとりだけ子供を産んであとはやめておく、といった日本人女性が多い。これはやむおえない。まさかチャウシェスク時代のルーマニアのように、子供を産んだ数だけ減税し金がもらえる……などという馬鹿な政策はとれない。 とすれば手はひとつしかない。「移民受け入れ」である。外国人の帰化および就労を大幅に増大させることである。アメリカにしてもヨーロッパにしても白人の人口は減ってきていて、日本と同じような状態だ。しかし、これらの国は外国から移民を受け入れて、アフリカ系、ヒスパニック系の人口が増加してその減少をカバーしている。
 日本は国籍・出入国管理問題には厳しく、外国人を締め出すような法律になっている。在日韓国人でさえ、前まで「指紋押捺」の義務があったほどだ。もちろん、外国人が犯罪を犯すケースも多く、心配する向きもわからないではない。何百万という移民を受け入れるということはリスクもともなう。日本は国籍について血統主義をとっていて、フランスやドイツよりも帰化の条件は厳しい。帰化のためには法務大臣の許可が必要で、たとえ許可に必要な客観的要件を備えていても許可しないこともある。
 また、帰化の条件として「素行が善良であること」という非常に抽象的な法律もある。よって行政の裁量の範囲は極めて広い。(テストを受けさせ資格や技能もつ外国人だけを移民として認めよ!)日本の出入国管理法が単純労働者の入国を原則として認めていないのは、広く知られている。研修や就学のために入国したものが、特別に許可を受ければ (19条2項)、限定的には外国人も単純労働に就くことが認められているが、これはあくまで例外。また、一定の技術、技能、知識をもった外国人の入国は認められているが、これもポジリスト(入国条件の具体的列挙)だから、例えば、介護の専門家などは法律を変えない限り、入国させられない。
 アメリカ経済がうまくいっているのは、いわゆるITによってである。そのためにはアジア系アメリカ人(主に中国人やインド人)の移民技術者の力が役にたった。彼等がシリコンバレーに移住して、アメリカ経済が活性化したのである。そういうことが日本でもできないものか?…と思う。日本に、中国系のベンチャー・キャピタリストやインド系のシステム・エンジニアが移住すれば、日本経済にとってプラスである。
 早急に、日本の国籍・出入国管理法を改正し、移民受け入れを考える時期にきている。
         IT革命



  インターネットのもたらす衝撃は、一国政府の対応できる範囲を越えていることがある。OECD(経済協力開発機構)がインターネット利用者の国際比率を発表した。このなかでは人口千人あたりのホスト数がある。一二〇を越えるフィンランドを最高に、シンガポール、米国、韓国、アイスランド、スウェーデン、カナダ、ノルウェー、デンマーク、ニュージーランド、オーストラリアと続き、ここまでは六〇を越えている。ちなみに日本は二〇で、一九位だった。この差は工業社会の到達度ではない。「自由」の到達度だ。
 インターネットは趣味にだけでなく、ビジネスにも使われている。インターネットでビジネスとビジネスが「市」をつくり、世界中がつながっている。値決めや取引の習慣が激変すれば、既得権のようなものが一挙に崩れるだろう。それを規制を通じて阻止しようかどうしようかによって、インターネットの利用環境は規定されるのだ。
 インターネットでは英語がつかえるかどうかが問題だが、世界中につながり、自由に情報を発信したり自らが主役になれることを考えるとそれほど障害ではない。
 とりわけ情報処理や設計という仕事において、国境を越えた協動性のネットワークが広がった。IT(情報通信技術)によって、例えば網走の田舎にいるひとがコンピュータ・ネットワークによって沖縄や東京、大阪ばかりでなくNYにもLAにもパリにもロンドンにもアフリカにもつながる訳だ。そして、気にいった商品をクリックして、DHL(国際宅急便)で自宅に届けてもらう……ということも出来る訳だ。また、世界中から情報を瞬時に集められる。発信できる。これがIT革命の凄さである。
 しかし、日本にはまだ規制がある。たとえば、薬をインターネットで日本で売ろうとしても規制があるため売れない。また、著作権の問題で、TV画像などが送れない。
 日本政府もIT革命に乗遅れないように戦略を考えているようだが、規制がどこまで撤廃されるかどうか…。とても不安だ。日本では通信速度も遅いし、常時接続でもない。
 無駄な公共事業で橋や道路をつくる金があるなら、ITインフラを充実させるべきだ。今、日本のITインフラは遅れている。
 例えば、低速インターネットでは、すでに日本は米国に勝てる。米国は利用者6000万人、韓国は100万人、日本は8000万人だ。超高速インターネットいわゆる光ファイバー(によるブロードバンド)なら、勝てる。なぜなら米国より日本は国土が狭く、光ファイバーを張り巡らせるのにそんなに費用も時間もかからない。しかも民間にやらせれば需要が60兆円にもなる。とにかく、IT革命は第二次産業革命といっても過言ではないのだが、政府の関知できる規模を越えている。ITと日本経済との適合性がかかっている。これらは明らかに政策を越えているのだ。

         急増する児童虐待




  ここ数年、急激に児童虐待が増加している。
 日本政府もあわてて『児童虐待防止法案』を可決、00年11月20日より施行された。しかし、現状はお寒いもので、まったく虐待は減っていない。
 児童虐待の実に94パーセントは両親であるという。「泣きやまない」「自分になつかない」「可愛くない」「邪魔だ」などという(他にもあるだろうが)そうした理由で自分の子供を蹴ったり殴ったりして大怪我をおわせるという。ときには殺してしまう。
「躾としてやった」
 などという親もいるが、骨折させたり殺したり餓死させたりするのは「躾」ではない。たんなる犯罪である。ましてや小学生女子にセックスを強要する義父などというのはもはや論外である。
 ……「ユミ(仮名)ちゃん、いいだろ?」50代の義父は小学生女子のユミちゃんの服を   脱がせ裸にし、ベットに仰向けにしてのしかかってきた。
   「ユミちゃん、仲良くしよう」
    重いのと痛みに悲鳴をあげそうになったが息を殺して耐えた。そして、おわるの    をじっと待った。痛みと恥ずかしいのと怒りと屈辱感でユミちゃんは泣いた。…  あまりにも悲惨な事件である。
 この50代の義父はのちに訴えられたが、「自分は何も悪いことはしてない」「ユミちゃんのほうから誘ってきたのだ」「ユミちゃんは母親にお父さん(義父)と仲良くしていい?ときいて自分からセックスを誘ってきたのだ」などと言い逃れを言っているという。
 まったくこういう人間には怒りを覚える。
  虐待の相談窓口が市や町の『児童相談センター』だが、相談が1年間に1万件もかかってくるという。(虐待死児童は60人ほど)センターには人手が少なく、予算も限られている。それで希望を失ってセンターを辞める若手職員が大勢いるという。中年職員もノイローゼにかかって病院送り……などというのが現状だ。なぜこうなるのかというと、予算が少ないのと、行革で職員を増やせないからだ。
 急いで政治家が法案を通したが、受け皿やシステムが揃ってないために悲惨なことになっている。役立たずの自衛隊に2兆円もかける余裕がある(ないはずだが)のなら児童虐待対策にも、もっと予算を振り分けるべきだ。
 それが政策というものだろう。このままでは益々児童が殺されていくだけだ。
  日本の教育は完全に失敗した。酒鬼薔薇は特殊だろうが、どこかでガキどもがホームレスを集団リンチで殺さない日はないほどだ。教育維新とでもよべるものが必要である。

         改善しなければならない女性の人身売買

  日本は落ちたりとはいえ、世界第二位の経済大国である。技術力は世界一である。しかし、恥ずかしいことに『女性の人身売買』でも世界一である。
(中には自主的に金目当てできている女性もいるが)東南アジアや中国、韓国や東欧あたりの発展途上国から”性欲の奴隷”として女性を連れてきて売買し、風俗でいかがわしいことをさせている。極論として、「男性誌に女性のヌードがあっていかん…」などとあるが、それは恋人のいない野郎がオナるためで、女性がヨン様や義経の滝沢やキムタクのヌードでオナニーするのと同じである(児童ポルノ問題はまた別)。ただ、人身売買の場合は裏にヤクザ組織がある。資金源になっている。夜な夜な街角に立つ日本人や外国人女性は売春が目的だ。そのために売られてきたりする。要するに裏社会の日本のアグリーさを示している。
 早めに、全国民・前在住外国人の指紋と顔写真を警察庁のスパコンでデータベース化して管理運営し、ヤクザの撲滅運動を強めないと、人身売買問題などは改善しないだろう。  また現在60%の育児休業普及率を100%にし、女性の社会進出、自立への道をつくっていき少子化をとめ、子育ての素晴らしさを実感させる制度がほしい。
 女性や弱者や負け組(犬)と呼ばれる人々がチャレンジできる、学歴ではない判断基準をつくり待機児童率ゼロにせねば少子高齢化社会は改善もしないし子供もふえない。
 ほとんどの成人が「子供なんかいらない」といえば日本は滅んでしまうのだ。
 それから若者が定住できる地方都市に確立。地方・家庭・教師が連携し「子育てするなら日本」の確立。幼小一貫教育もいいだろう。不登校をなくすため、全国一律に33少人数学級を実現すればできる。質の高い教師の育成もかかせない。私学も振興したらいい。
 社会力アップのため高校生には職業模擬実習をさせれば離職率も20%まで減らせる。
 さらにスポーツや文化の推進で世界に通用するスポーツマンやウーマン育成、高齢後も続けられるスポーツ振興にしていただきたい。
 スクール・ミーティングもやろう! 学力低下原因の「ゆとり教育」も廃止しよう!
 道徳授業に孔子の「論語」を暗記、実践させよう!
 教育とは国民の財産である。それは人がすべてを作っていくからである。
 その当たり前のことにもう一度戻ってみよう。



新世紀維新 アンコールブログ連載プロジェクト緑川鷲羽わしゅう2

2012年02月28日 14時58分53秒 | 日記
経済産業省


         二十一世紀の日本は……



  景気を本格的に回復させ、雇用拡大を実現するためには、民間需要を掘り起こし、内需を拡大させる必要がある。現在における眠っている需要に対した新しい仕事・産業の掘り起こしによって経済を再生させなければならない。失業率も下げなければならない。それには公共事業の転換、福祉などの雇用育成、観光などの新規雇用を増やさなければならない。役人に金融資は無理だ。役人が成功できるのはギャンブルだけ。悪戯に税金をムダに遣うだけで「新銀行東京」などといって競争原理で敗れて滅ぶ企業や工場を救うのは時代の趨勢とはあわない。なぜ、競争の原理がわからないのか?
 また、高齢者の暮らしや、子育て、介護などで不安解消のための需要と消費を拡大させなければならない。住宅や自動車ローンも見直す必要がある。高速道路の一部無料化(40兆円の債務がある)も公共事業を削減すれば並立できる。
 知的財産権を強化し、「技術大国・日本」を再生させなければならない。確かに、単純作業の工場は中国にシフトしていくだろう。人件費が日本人の30分の1なのだから当たり前である。しかし、日本には他国がマネできない技術がある。それを掘り起こし、活用するのが構造改革というものなのだ。
 財政投融資を為替や株式に投資する前に、有望な中小企業や起業家に投資すべきだ。そのさいは国が融資を決めるとどうしても「お役所仕事」でコストを考えない恐れありなので、融資判断は民間エコノミストや機関にまかせること。
 中小企業予算を7倍にし、政府系融資の個人保証撤廃も必要だ。
  そして、国の借金の早期処理も必要、また今後、中小金融機関において貸出を行う機能(リレーシュンシップバンキング機能)を強化し、地方の活性化を図らなければならない。また、産業再生機構を活用し、行き過ぎた個人保証として問題が指摘される「包括根保証」を見直す。また、高齢者や障害者やホームレスのためのセーフティ・ネットを設ける。起業家やリストラーズ(リストラされた人)にもそれを行うべきだ。
 また、光ファイバーを日本全国に張り巡らせ、インターネット・ビジネス先進国を目指すべきだ。(IT利用者八千万件以上)

  経済危機から脱しただけでは、二十一世紀の日本の将来は暗い。
 経済危機から雇用危機に、さらにデフレ・スパイラルになり、国家危機になっている。 世界第2位の経済大国とはいえ、儲かるのは大企業だけ。個人金融資産(プライベート・キャピタル)が1500兆円ある…などといっても年金や老後や医療保険に不安があり動かない。「いま買うべきではない」と皆思ってる。
 政治は茶番、学歴社会の排除もリップ・サービスで、どこまでも「学歴」で判断する日本の企業人事担当者……。負債は何十兆円以上にもなり、特に、北海道や東北、近畿、四国、九州は非常にひどい経済状況だ。どうしてもいっておきたいのは、この国のいい加減なエコノミストにだ。
 なんとか総研とか官僚の傘下のようなエコノミストやジャーナリストや財界人たちは、不況が深刻になると必ず口裏をあわせたように「日本の金融機関への公的資金導入やむなし」とか「大規模減税!」「公共投資で景気対策を」「法人税の減税」などといい加減な考えで発言してきた。この人達は恥を知るべきだ。
 彼らは毎年暮れになると、「来年の春頃には景気は上向く」とか「秋頃には景気回復もありえる。経済成長率は大幅に上向く…」などと10年間もいい続けてきた。もちろん勘でいっているだけで、真実ではない。性懲りもなく何年間もそんな嘘っぱちを口走り、ハズレつづけてきた。その結果、税金を大量にスッて足りなければ60年先から赤字国債という形で借りてきてムダなものに使ってしまう。景気が回復しつつあるのだけは救いだが…
 また、歴代の大臣も、銀行がつぶれるたびに「もうない」などと、あやふやに言ってきた。そういいながら十数行もつぶれれば誰も信用しなくなるのは当然だ。

 また、財界も何もわかっちゃいない。(大企業はリストラで儲けた)
 景気対策、ゼロ金利解除、円安誘導、減税……すべてがいきあたりばったりで、あげくの果てに「法人税の減税」などと馬鹿なことをいいだす。状況がわかっていれば絶対にやらないことをやり、状況がわかっていれば絶対にいわないことを言い出して、状況は益々悪くなっている。米国の景気減速にともなって日本も景気減速基調にある…。
 いまいっせいに起こっている「法人税の減税」「10兆円所得税」「金融やゼネコンへの公的資金導入」などの考えよりもっといい提案をしたい。まず不況対策には、一五〇〇兆円の個人資産の金利(利息でなく利回り)の引上げ、SOHO減税、非収益資産の現金化…などだ。特に、SOHO減税は、役にたつと思う。
 景気をよくしながら、同時に、二十一世紀の情報化社会に対応できるような人材を育てようという、投資だ。これなら景気もよくなって、と同時に今いっぱいいるような、暗記だけの「学歴エリート」、自分の頭で考えられない「偏差値エリート」も駆逐できる。
 金融危機から脱し、それと同時に人材も育ち、教育の失敗から生まれた酒鬼薔薇や仙台元・s町中学生たち(罪もない社会人に対して1年に渡り罵声投石嘲笑した)とかの「鬼畜」も駆逐できる。もちろん教育には私も考えた「ボランティア研修、授業」も必要だが、特に、SOHO減税は、役にたつと思う。
 将来へのビジョンも描けると思う。
 政府はこの10年間くらいで、景気対策と称して六十兆円くらいスッている。なぜダメだったのかの反省もなく、「また減税しかない」「公共投資しかない」などと言っている。国民の消費が動かないのは将来に不安があるからである。国のヴィジョンがまったく見えないからだ。目につくのは激しいリストラ、倒産、大気汚染、青少年犯罪、官僚や政治家らのモラルの低下…。1500兆円は将来に不安があるかぎり動かない。住宅減税の駆け込み需要でマンションなどが売れている。が、住宅は、地価が外国に比べて何倍も高いのだから、下げるところまで下げてからの話だろう。それに、不動産は株と違って、下がっても「買い」が入らない。住宅需要も今はいいが、これから先の団塊jrの世代の投資が終われば、これからはあまり期待薄だ。
 今、「団塊ジュニア」の世代が住宅の買い、改築、が終われば住宅需要は「冬の時代」を迎える。エチレン・サイクルや半導体サイクルのように、住宅・不動産需要にもサイクルがあって、それはエチレン・サイクルや半導体サイクルよりもずっと長いサイクルなのだ。値段が安くなっても「買い」がこないのが商業不動産や住宅の特徴だ。それがなんにもわかっちゃいない。
 財界人も何もわかっちゃいない。
「景気対策のために法人税を下げろ!」などと言ってるのだ。
 これなど、いかに経済がわかってないか、の証拠のようなものだ。きっと財界のお偉いさんの老人たちは自分で会計とか経理とか財務処理とかしたこともないのだろう。親の七光りやコネ、偶然か学歴だけで「社長」や「会長」になっただけの人達なのだろう。
 今、日本は史上最低の低金利だ。この低金利で、投資をしないのは「投資するアイデア」がないか、将来への不安、かのいずれかだろう。いまほど投資しやすい時はない。低金利で、土地もひとも金も、物資も、商品素材、原料も、安く、また余っているからだ。
 だから法人税など関係ないのである。大体、日本の法人の六割は法人税を払ってないではないか。
 企業の投資が動かないのは、また、将来への不安、からだ。
 だから、いま必要なのは、「加速償却」という方法だと思う。つまり、「加速償却」という方法でSOHO減税を……という訳である。SOHOは必要だと思う。例えば、七〇年代、日本はロボット王国となった。それに一番効果があったのは、「加速償却」という通産省の特別税制優遇処置だった。普通、5~8年かかっていた機械の償却を2年でやってくれた。わかりやすく言えば、100万円の機械を買うと、工場のオーナーに50万円戻してくれたのである。これは効いた。
 こうした「加速償却」が今、できないものか?できるのではないか?
 そのように私は思ってしまうのだが、なぜやらないのか?…疑問が残るばかりだ。
 国全体の債務(借金)が一千兆円…うち地方債が百数兆円、国債だけで百数兆円もある。この膨大な赤字を返せるのか…?そこが問われていて、それと改革ができなさそう…と外国人投資家に思われて、円高の株安になっているのです。
 まず、リストラです。日本企業にとって、いま必要なリストラとはバブル期に作った過剰な債務・過剰な設備・過剰な雇用を削減することです。これが先送りされてきたことが日本の経済成長を抑えた原因となっているんです。この三つの過剰が解消されれば日本経済は本来二%成長も可能です。いま日本では、構造改革が必要だ…といわれてますがこれは、国の「リストラ」と考えてください。日本に必要な構造改革のひとつは国の借金をはじめとする過去の腐った部分を処理するという取り組みです。これは「守りの改革」ですね。で、一方で「攻めの改革」も必要で、それは人材教育やIT教育や雇用創造です。
 中年のオヤジさんにとって、リストラは深刻です。この言葉は、解雇や給料カットなどと考えられますが、本来の意味はリストラクチャリング、つまり再構築という前向のものです。
 これはいろいろ理由があるのですが、バブル崩壊後、資産の価値が下がったことがあげられます。GDP(国内総生産)は国民の生活の水準みたいなもので注目されます。
 GDPの伸び率を経済成長率といいますが、日本は八〇年代には年に四%成長していました。それが、九〇年に入って一%成長しかできなくなりました。でも、ここが重要なんですが、バブルのときに比べて、今のほうが一〇%豊かになっているんです。もちろん平均だから下がったひともいるけど、不況といわれながらバヴルのときより平均成長率が一〇%伸びてる。日本というのはすごい国ですよね。
 本来なら、日本は二%から二・五%成長ができるはずなんです。では、なぜ二%成長ができないか? というと、当然ながら莫大な債務…つまり借金があるからなんです。いかに立派なプロジェクトがあろうと、巨大な借金を抱えていたら投資できませんよね?危なくて…。つまり、日本は今、そういう投資ができない融資ができない状態なんです。
 巨大な借金がある限り、成長率は戻りません。どんなに公共投資をしても、大幅な所得税減税をしても、借金があるかぎり成長は望めないのです。
 日本経済を再生させる方法はひとつしかありません。過大な借金を早く取り除くことです。
『失われた十年』は、経営者が責任をのがれるため借金を償却せず、政府がひたすら公共事業を続ける…かつての大蔵省も借金を隠し通す…という十年でした。今、借金を償却しなければ未来はありません。
 それと、バブル期にふくらんだ過大な雇用と設備の償却です。もし、成長率がこのまま一%なら、所得が二倍になるのに九〇年かかります。でも二%なら三十五年で所得が二倍になるのです。この差は大きい。
 成長率をとりもどすためにリストラが必要です。IT革命の雇用も必要。今、不況だ不況だ、といわれながら八社に一社は過去最高益をあげている会社があるということを知るべきです。
  失業は社会の不安を増大させる大問題です。加えて、経済学的にいえば、人材というかけがえのない資源を有効に使っていない状態であり、問題であります。日本企業は、これまで経済が落ち込むなかで雇用を維持してきたばかりか、労働者に対する配分を増やしてきました。しかし、これからは労働者に対する配分を抑えなくてはならない。
 労働組合は賃金を上げろ!というでしょうが、もう十分あげてきたのです。ということは、これからGDPが上がっても賃金はアップしないという可能性があります。
 また、ワークシェアで給料カットやサービス残業など増えるでしょうが、失業してしまうよりはマシです。では、どうすればいいか?これは秘策があります。
 たとえば、今、日本の個人金融資産は一五〇〇兆円あります。これはイギリスやフランスやドイツの個人金融資産を足した額より膨大です。この一五〇〇兆円の利回りをあげればいいのです。仮に、利回りが一%上がっただけで十五兆円もの金が国民にもたらされます。三%あがれば四二兆円。消費税の十七%に相当します。
 あと、緊縮財政しかない。…景気を完全な回復にもってきてから財政再建……というのはあってない。それは政策でもなんでもなく「当たり前」のことである。(景気と財政再建の)二兎を追わなければならない。数年後にはどうなるのか?財政赤字は何%で、経済成長率は何%か?それを明確にしなければならない。
 日本政府は世界最大の借金を背負い込んだ。問題解決には、税率を引き上げるか、歳出をカットするしかない。今の政府はゼネコン救済のために公共事業をやり、まったく逆のことをしている。今後、債券市場は暴落する可能性もあり、そうなれば国債を発行している金融機関への影響は計り知れない。10年間ぐらい公共投資を控えるなどするしかない。 都市部より地方が優先され、消費者より生産者が優遇される日本経済の実態を、都市部の人々は感じ始めている。近い将来、政府は本気で「構造改革」を断行するに違いない。それでも、景気が回復しても構造的な問題は解決しないだろう。
 問題なのは、貯蓄率が高いこと。国、地方合わせた借金一千兆円(国民ひとりあたり一千万円の借金)に対し1500兆円の民間貯蓄がある。しかし、貯蓄はどんどん下がる。8年か10年後、団塊の世代がまとめて貯蓄を取り崩すタイミングがある。誰も困ってないから世界最大の赤字があっても日本人はひょうひょうと生活している。
 借金と貯蓄のバランスが崩れれば、国債相場が値崩れする。つまり、高金利になる。そうなる…と人々が思った瞬間、金利が上がってインフレになって混乱に突入する。そうなる可能性は十分ある。明確なのは日本の人口は07年から減り始めたということ。人口が減少し始めてからでは財政再建はできない。今が再建の最後のチャンスなのだ。目的は、一五〇〇兆円の利回りを高くして国民生活を豊かにすることですね。現在、一五〇〇兆円の五十%は預貯金にかたよっています。それを市場にださせればすぐ景気は回復し、国民に利益が生まれます。しかし、利回りを高く…といいましたが、そうなると低金利でなんとかもっていた過大な債務を抱えた企業がバタバタと潰れます。ですから、すぐに運用利回りをあげれない。パニックになりますから。
 いずれにしても、一五〇〇兆円の五十%が預貯金に偏っているのは異常です。金融ビックバンはそうした過大な資産の運用利潤を上げることなんです。金融…というのは経済で金を融通すること。今まではハイ・リスク、ハイリターンな国債やデリバティブしかなかったものが投資信託などの金融商品が出てきている。これがビックバンの成果なんです。 でも、預金ってローリスク、ローリターンですよね?でも、まだ日本人は投資信託には余り興味がないようです。投資信託というのは、個別に人々から小額の資金を集め、それをファンド・マネージャーという専門の投資家が株などに運用して、利潤を投資家にもどすという商品です。これがまだ理解されてないのです。また。ノンバンクなんかもわかられてないんじゃないかな。ノンバンクとは「銀行でない金融機関」です。銀行なら預金で資金を集められますが、ノンバンクはそれができません。でも、社債という形で資金を集めます。これも新規の金融商品です。
 銀行はとくに一九九〇年代後半から貸し出しを抑制しだしました。この背景にあるのはBIS規制と呼ばれる国際ルールなんです。
  BISというのは国際決済銀行のことです。国際ルールとは、BISが自己資本比率を八%まで維持するようにってルールです。自己資本比率とは、貸し出しなどで運用しているリスク資産を分母として、自己資本を分子として割る比率です。銀行の貸し出し抑制は企業の資金繰りに大きな影響力を持っています。日本の銀行の貸し渋り、はがしが深刻化しています。日本の金融は弱い過ぎるんですよ。銀行の貸し出しの抑制は企業の資金繰りに大きな影響力をもっています。また、自己資本比率にしてもトリックがあって、八%の中に含み益四十五%含ませてもいいってなってます。自己資本とはもともとの資本金に法定準備金、剰余金で構成されるのですが、それにプラスしていいとなってる。このため、含み益(株や土地、債券など)がプラスされ、景気がいいときはいいんですが、悪くなるとバタッと少なくなってしまうのです。
 日本の経済の実体はデュアル・エコノミー(二重経済)。つまり、一〇%ほどの世界的に通用する産業(トヨタやソニー、リコー、キャノン、パナソニックなど。それから技術のある中小優良企業)と九〇%にもおよぶ何ひとつ世界に通用しない農業に代表されるような産業…補助金づけで甘やかされてきた産業(農林水産や証券や金融、ゼネコン、サービスなど)の二重構造…これが日本経済の実体だ。六〇年から九〇年とまったく変わってない。
 だから、一気に規制を撤廃とか大幅緩和してしまうと九〇%の弱い弱い産業はどんどんツぶれていき、失業率もうなぎ登りになるに違いない。だが、もちろん規制緩和や構造改革は必要で、我慢しなくてはならないのですが…。
  なぜ世界が「経済サヴァイバル」モードになったのかを考えていくと、割と単純だ。 90年までの世界では、世界的に競争している資本主義経済の中にいる人というのはだいたい二七億人だった。あとのひとは壁の向うにいた訳だ。もちろんソ連も向こう側だった。ところが冷戦構造が終わった。軍事的に…というよりもその人たちが同じマーケットにはいってきた。ソ連がロシアになって市場経済になり、東欧も市場経済になる。アジアでも13億人の中国やベトナムが入ってきた。そして、今、地球の市場経済人口は六十億人までなった。二倍以上増えた訳だ。これはチャンスなんです。マーケットが広がった訳だから。で、世界中で競争が激化して、「経済サヴァイバル」モードになった。
 人口が二倍になってマーケットも増えたということは、それだけ競争も激しくなる。それを我々は避けては生きられない。じゃあ、我々のコミュニティ、共同体のあり方を考えるうえで、今まで日本は競争をしてきたのか?という自問自答をしなければならない。
 日本は間違いなく市場経済の国であり、民主主義の国であるから、プルラリズム(多元主義)の国だったはずなんだけど、一部そうではないところがあった。
 コメなどの農作物と金融です。日本金融は、いわゆる護送船団方式でプルラリズムじゃなかった。
 銀行員はいまでも多額のサラリーをもらい、多額のボーナスをもらっている。競争といえば、いかに待ち時間を短くするかだけだった(笑)…。いっぽう、政府の規制がなくて自助努力だけでやっているところはいいものが出てくる。自動車産業などだ。
 二十世紀に入って一九二〇年までを「変革の時代」というように、その期間に「独占禁止法」ができ、労働組合の権利が認められるようになった。
 そして、二十一世紀…新たな問題が持ち上がっている。その典型が、アジアの資本移動です。外国の資本が自由にタイに流れ、インドネシアに流れ、マレーシアに流れたから八〇年代以降のアジアの奇跡が起こった。ところが一端ダメになるとその反動はすごい。すごい勢いでそれらの国から資本が逃げ出すんです。その逃げ足はすごく早い。
 その制度をなんとかしようといった人がいます。ノーベル賞をとったトービンです。このエール大学教授(故人)は、「トービン・タックス」と称して、国際的な取り引きには税金をかけたうえで自由にやらせたらいいんだ、と言ったのです。そうすれば逃げ足も鈍るだろうと。アジア危機を目にして、このタックスも利用価値はあると思います。
 チリとタイでも同じ事をやったのです。たとえば外国人がバンコクの銀行にお金を預けようとすると、ふつうより高い率の準備預金というものを積まなきゃいけない。その積んでおく比率を高くした。預金の一部をリザーブしておかなければならないのです。こういう形で、外国人がバンコクでバーツ建ての通貨を持とうというとき、少し余分にお金がかかるシステムにしたのです。
 そういうのは普通は国際的にいっせいにやらなきゃならない。しかし、案は日本からは出てこないんですよね。いつも出てくるのはアメリカか欧州で、日本は賛成か反対かいうだけ。ガット・ウルグアイラウンド(現・WTO)が始まったのは八六年。九三年にコメ輸入自由化で合意した。その間、貿易のシステムをどうするか?という案がアメリカからは一〇〇も二〇〇も出ている。欧州からも五〇でている。しかし、日本からはゼロなんです。ゼロ。
  これからの日本は付加価値でいくべきだ。中国人の人件費が日本人の30/1なのだから、単純労働はすべて中国にいくだろう。しかし、日本は世界一の技術をもっている。より高品質なものをつくれば大丈夫だ。IT家電、有機EL、環境リサイクルビジネスなど何十兆円産業がゴロゴロある。しかも、それは中国人ではできない。
 中国は単純労働工場国に過ぎない。
  企業の目的は商いで金をもうけることである。金儲けを考えないひとは経営者となってはならない。また、日本人の中には、金の亡者のような、『**ちゃんイカ』で『鯉御殿』をつくったバカがいるが、一外に否定してはならない。金を儲けるのは悪いことではない。只、使い道について論じるべきだ。

 旧通産省(現・経済産業省)が日本の企業を育てたと考えているとしたらそいつは馬鹿である。旧通産省は企業の足ばかりひっぱってきた。日本の車メーカーが多すぎるから、アメリカのビックスリー(GM、フォード。クライスラー)ぐらいに統合しようと余計なことをしたし、ホンダが自動車に進出しようとすると「業界が混乱する」と止めようとまでした。官僚が有望産業を育てることは不可能である。なぜなら、ビジネス感覚がゼロだからだ。旧通産省は何もしなかったから産業が育った。産業育成には、財務省による資金と、文部省による徹底した『工場労働者』にしたてあげるための教育、そして、マッカーサーによる財閥解体、建設省などのインフラ整備のおかげてある。
 旧通産省(現・経済産業省)など何もしてない。トロンだって、CD、MD、DVD、有機ELだって民間からのアイデアだ。また高額所得者公示は個人情報保護のため廃止!  またエネルギーは日本では自立できない。中東からの石油(全体の八〇%がなければなにもできない。なのに、日本海で石油のボーリングなどをやってしまう。何もでてこないのにである。膨大な金をつくってほんの数量しか石油が出ないのに事業は継続され続けている)や原子力にしたって、隠蔽は許されないことだが、原子力の安全性もまともに説明できず、東京では停電か? などという事態にまでなったこともある。日本の官僚はペーパーを書くのがうまいが、議論が出来ないのだ。経済産業省のするべきことは、会社の保護ではない。例えば、低公害車(ハイブリッドとかアイドリングストップ車)などの普及と、IT普及だけだろう。戦後の日本を代表する松下、ソニー、ホンダ、ヤマハ、NTT、トヨタ、シャープという会社は、企業家という天才たちがいかに産業にとって大切さがわかる。旧通産省(現・経済産業省)の貢献は、これらを株主、法、カネ不足、人材不足、組合…などといった産業の敵から守ってくれたことだけだ。これから経済産業省がやらなければならないのは、ビジョンを国家レベルに移すこと、中小企業庁は道州に移す、産業新興は企業の自主性にまかせること、地方局はすべて道州の企業庁に移管すること……だろう。経済産業省はすべて民間にまかせて、何もせず、傍観していればよい。   


新世紀維新 アンコールブログ連載プロジェクト緑川鷲羽わしゅう1

2012年02月28日 14時56分31秒 | 日記
 5分!でわかる日本改革案

新世紀維新
                        Innovation!
緑川鷲羽上杉奇兵隊日記「日本復興篇」
                            Recovery of new japan
               ~歴史的維新!渾身の書き下ろし  戦わずして勝つ
                緑川鷲羽の戦略戦術!
                total-produced&PRESENTED&written by
                  Midorikawa Washu
                  緑川  鷲羽
                  
          plan is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.
 ”たとえ全世界を手に入れても、自らの魂を失ったなら何の利益があるだろう”                 アタイ伝16の26

      この国はどうなってしまうのか?

      日本盛衰の岐路に問う 警世の書

 第一部 改革





  DEFCON ONE

  JAPAN  2012





     日本国憲法 前文(緑川私案)


  日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれわれの子孫の繁栄と自由と恵沢の確保のため、激動する国際情勢を認識し、冷厳なる現実を直視し、自らの意志と能力で国際性を発揮し、前の戦争のような虐殺、侵略、戦禍を避け、日本国民並びに諸外国の繁栄を確保する。侵略戦争を二度とおこすことなく、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は清廉、潔白にして厳粛な信託によっておこなわれるものであって、権威は国民に由来し、国民の代表者は国民の福利、人権、言論、らの自由を提供する。国家は国民のためのものであって、けして代表者のものではない。国家は国民のための国家であり、けして代表者のための国家ではない。この憲法は、かかる原則に基ずくものであり、これに反するいっさいの憲法、法令、天皇からの詔を排除する。
 日本国民は、激動する国際情勢を認識し、冷厳なる現実を直視し、自らの意志と能力で国際性を発揮し、われわれのみならず諸外国の安全と生存のため、断固とした決意で、悪と対峙し、謙虚な姿勢と断固たる行動によって問題を解決する道を選択する。
 われわれは、諸外国との交流を広め、分かち合い、貿易立国として他国との経済、政治、人的交流などを積極的に行い、われわれのみならず諸外国の安全と生存のため、断固とした決意で、悪と対峙し、謙虚な姿勢と断固たる行動によって問題を解決する。
 日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて国際情勢を理解し、崇高な理想と現実成果の達成することを誓う。



         まえがき


  最近、景気減速し、世界大恐慌で何百万人も失業者が路頭を彷徨った。この日本という国は前代未聞の危機に瀕している。先進国では最大の借金国、失業率も高い。アメリカの格付け会社がAaを与えているのはトヨタだけ(かつては数十社会あった)。さらに構造改革は抵抗勢力という壁にぶつかっている。教育、年金、小子化問題、中東や北朝鮮をめぐる外交……すべてが危機的状態だ。国民やマスコミも改革を邪魔する勢力を血祭りにあげるどころか、ワイドショー感覚でみるだけで国家ビジョンを打ち出せないでいる。官僚も政治家も自分の利益しか考えていない。
 意外かも知れないが、米国も構造改革を支持している。それはオールド・ヨーロッパを認めないのと同じく、オールド・ジャパンを認めない……ということだ。アームストロングAT&T会長は「日本の敵は時間だ」と、問題を先送りする日本を批判している。 そして、市場原理導入のはずの小泉改革(当時)も「ダイエーを国家ぐるみで救済」というドジを踏む。米国は、巨大企業エンロンやKマートを”市場原理に任せて”容赦なく倒産させた。ひるがえって日本は………
 福沢論吉は「競争」といい、ケインズも「競争が市場を豊かにする」といった。大手銀行がつぶれても市場は大丈夫だ。現に、北海道拓殖銀行も長銀もつぶれたが日本社会をひっくり返すような事態にはならなかったではないか。死にかけた種を保護するということは生態系を崩す。もはやこの国にはリフォームと破壊、競争、革新が必要だ。
 日本人は改革ときくとすぐに成果があがり豊かになる気でいるが、例えば米国のレーガンやブッシュ・シニアが改革をし、経済が豊かになったのは十年後のクリントンの時代だった。それだけ改革とは時間がかかるものなのだ。もはや構造改革をしなければ日本の沈没を免れないというのは世界の常識だ。そして、改革に必要なのは支持率ではなく、国民の怒りだ。
  はっきりいって国会議員は「タダ乗り権利」をもっている。新幹線や飛行機、タクシーに乗るとき、税金で面倒みてもらえる。彼らは国庫から毎月支給されるのだ。議員は給料に相当する歳費(年間一六一万円)とボーナスに相当する期末手当(年間七八二万円)さらに立法に関する調査費用(立法事務費)として毎月一人六十五万円支給されている。 馬鹿らしいと思わないか?! 政治家は参議院を廃止し、衆議院百人くらいでも十分ではないか。また民間登用ももっと必要だ。「選挙で選ばれてないものに責任とれるか?」などという馬鹿らしいことをいってないで、もっとしっかりした政治をやってほしい。
  日本経済は景気減速にある。課題も多い。第一に、史上最低の低金利にもかかわらずほとんどの企業は借金返済に回っている。90年代に崩れたバランスシート(貸借対照表)の修理に走っているからだ。この十年で、資産は85・7%も下がり、1500兆円の資産が失われてしまい、現在、何十兆円の借金返済におわれ、失われた需要は実にGDPの14%にも相当する。貯蓄があるのに、それが循環しないことが問題なのだ。
 ただちに実行しなけけばならないことがある。第一は、日本経済を足元から引き摺りおろしている国の借金処理の加速、と、構造改革。その二は、歳出削減と財政出動で、官から民への、中央から地方への改革の視点変換である。霞ヶ関の常識では『廃止』は『名前がなくなる』だけでしかない。天下り利権の106独立法人は廃止民営化しなければ国が滅びる。大胆で計画的な財政出動によって需要を拡大、物価、地価、株価の下落をとめることだ。その三は、税制改革と金融自由化の加速。特定目的会社、不動産証券化、住宅ローン債権など、既に整えた制度を活用し、取引がさかんになる税制措置を急ぐことだ。その四は規制撤廃だ。サッチャーやレーガンがやったように競争と産業活性化を急ぐことだ。たとえば米国では1980年代に、狭い意味でのサービス産業で2000万人の雇用が創出された。90年代にはさらに1500万人増えている。日本はどうか。この十年でサービス産業は400万~500万人増えたが、その分第2次産業が減ってしまい差し引きゼロだ。高齢者雇用活性化が必要。需要は、教育、看護、医療、福祉、レジャー、旅行だ。これらを活性化、自由化すれば1000万人の雇用がみこめる。その五は金融の不良債権国有化。最後は、膨大な1500兆円(その75%保有者は五十歳以上)のほとんどをもつ高齢者の貯蓄の活用が必要である。職場を離れた高齢者がどれだけ楽しみに、もしくは子や孫に金を使える社会にするのか……その具体策が今、問われているのである。
 高齢者が楽しく暮らし、誇りをもって生きれる社会、次の世代が希望をもって生きれる社会をつくりだすことこそ今、求められているのだ。

         なぜ改革が必要なのか?


  改革がなぜ必要かといえば、そこに不況ありき、だからである。
 鳩山ではダメで菅ならいい、という単純なことではない。現在の政官業癒着はどこまでも汚い。地方では議員がぞくぞくと選挙違反で逮捕されていく。
 すべては自民党体制と官僚依存体質に問題があるのだ。日本はいま、官主導の保護主義、画一主義と、もたれあい・癒着の構造が行き詰まり、時代とあわなくなってきている。まず、透明で公平・公正な社会のルールをつくらなければならない。そして、規制撤廃などで市場原理を導入しなければならない。次に、地方分権、地方自治に重きをおき、霞ヶ関の官僚の特権を少なくする必要がある。政治家ももっと減らす必要がある。
 政治家の定年をもうけ、七十四歳で定年、それ以上の老人は当選できなくすべきだ。
 能力給も導入すべし。運転免許にはドナーカードをつければいいではないか。
 官僚年金という特権も廃止すべきだ。
 日本の衆参両議院とアメリカの上下議員とも合同委員会をつくるべきだ。メキシコとは三十年まえからやっているのだから。
 また、情報公開も徹底し、財政も考える。相続税、生前贈与税も廃止し、国民の個人金融資産1500兆円を市場にだす必要がある。公共事業もみなおす必要がある。
 コメビジネスは自由化すべぎだ。コメが自由化されて、美味しいササニシキやコシヒカリを買うか、まずいカルフォルニア米、ベトナム米を買うかは消費者の判断にまかせればいい。それを農家がヒステリックに騒ぐから、消費者は結局高い米を買わされることになる。農業・学校の株式会社化もけっこうなことではないか。
 また、官僚を何年間か大手の商社にでもいれて、研修させれば少しはパブリック・サーバント(公僕)としての意識も根ずくはずだ。百兆円ある不良債権も国有化が急がれる。 政治家もそれがわかっているはずだ。しかし、出来ない。そこに独裁ありきだからだ。 天下り率もひどい。約八十%……天下りなど禁止法案でやめさせるべきだ。11年から消費税がふたけたになるという……馬鹿政治家め!


         憲法・政治家・二大政党制


         憲法


  憲法とは国の顔である。その顔が、すでに半世紀も前に一週間あまりでつくられたのだから呆れる。日本人はGHQが与えてくれた平和憲法(どんな国でも戦争憲法などというのはない)を今だに変えようとしない。「憲法改正は戦争への移行だ」などと大まじめでいう政治家さえいる。しかし、先進国では1ジェネレーション(二十五年)で現実にあったものに改正していくのが普通だ。護憲派は「戦争はダメだ」と憲法を改正するのが即戦争開始のように思っているが、馬鹿じゃないか? とさえ私は思う。
 例えば、憲法では「自衛隊は軍隊ではない」と位置付けされている。が、自衛隊は誰がみても軍隊である。また、日本国憲法の前文には「…日本国民は平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」などといっているが、これではテロリストの金正日やビンラディンまでも信頼しなくてはならない。彼等は当然ながら”平和を愛する諸国民”ではない。また「すべての国民は、法の下に平等であって…(14条)」「すべての公務員は、全体の奉仕者であって…(15条②)」となっているが、族議員や天下り官僚はどうなのか?「学問の自由はこれを保証する(23条)」日本人をマニュアル教育し、記憶力だけの不良学生を社会に送り出していることは自由なのか? 「憂える」も読めないような……
「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する(25条)」ホームレスはどうなるのか? 彼等は最低限度の生活を営んでいると行政は考えているのだろうか? 「児童は、これを酷使してはならない(27条③)」今の日本は児童を酷使どころか、甘やかしと躾の欠如で、ホームレスを集団で暴行し殺すガキや11歳長崎少女A、酒鬼薔薇のような連中を大量出荷し、社会に迷惑をかけつづけている。
 また、憲法では裁判は迅速に…となっているが、米国は、連邦ビル爆破犯人ティモシー・マクベイの死刑執行を済ませているに、サリン事件などの麻原彰晃(本名・松本智津夫)は逮捕から8年たってやっと一審「死刑」が出たに過ぎない。これではオウムの被害者はむくわれない。また護憲派の牙城「9条……国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段として、永久にこれを放棄する……」とうのはつまり「善意のない輩が日本を武力で攻めてきても、日本は戦いません」ということだ。
 つまり、国家は国民の生命と財産を守らない、ということだ。




         政治家の選出方法


  日本を悪くしているのは政治家だ。(そして社会保険庁のような糞官僚)
 そこで政治家を選ぶ選出方法を5つ提案する。
①TVディベート

 政見放送や地元マスコミで紹介されるコメントだけでは誰でも同じ「金太郎飴」である。だが、もし地元のNHKや民放がディベート(討論)番組を組んだらどうだろうか。      例えば知事選や市長選の立候補者を地元のマスコミがテレビ局に招請して侃々諤々と議論させるのだ。もちろん生放送で。これなら誰が政策を持ち、誰が実行できるかわかる。
 政見放送みたいな「作文の棒読み」ではなく論争させるのだ。
②国替え
  選挙区の国替えだ。国会議員は同じ選挙区から出馬できないようにする。こうすれば地元に利権をもってきて当選することしか考えられない政治屋は落選する。国は抽選で決めることとする。また新人でも二世や三世や秘書あがりの場合は別の選挙区で、となる。(田中真紀子らのような口だけの、自分では何も出来ない悪口議員を選ぶな!)
③第三者による格付け
  ムーディーズのような機関に政治家(立候補者)の格付けをやってもらう。
④立候補者テスト
  出馬するにはIQテストや一般常識テストなどや論文を提出させるなど、テストにかける。こうすればタレント議員や親の七光り議員はカット・オフできる。
⑤議員人数削減
  4年間で参議院を廃止し、衆議院は100人だけとする。(現在、衆院の定数480、参院は242人)人口が2倍のアメリカが下院435(衆院)、上院100(参院)であることを考えれば日本は100人で十分だ。また、議員特権の廃止も急がれる。「文書通信交通滞在費」など100万円も一ケ月ごとに使われている。無駄である。また議会に出席しただけで「議会雑費」として日額6000円支給されている。無駄ではないのか? どこの世界に出席しただけでそんなに金をやる国があるのか?
 また、小泉は辞退してるが、「永年在職表彰(肖像画100万円、特別交通費月30万円)」などというのも無駄である。



上杉謙信 天と地と不犯の名将・越後の龍アンコール連載小説2

2012年02月27日 14時35分55秒 | 日記
 越後の龍



景虎たち主従六人は、無事に栖吉城に着いた。が、案の定、城主・長尾景信に逗留を断られた。景虎たちを迎え入れれば、また越後に争いがおこる…というのが理由だった。 無理もない。それを景虎は理解した。で、
「おっしゃることごもっともと存ずる。すぐ立ち去るうえ、ご心配なく」
 景虎はそう丁寧に凛然たる態度でいった。                  
 城主・長尾景信や家臣の古志長尾家のみんなは、景虎の利発さに舌を巻いた。
「ついさきごろ元服されたといいながら、まだ幼少にあられるゆえ、さぞや我儘でもいうかと思いきや、なんとも物分かりのよい立派な態度……われら一同、心から感謝いたしまする」
 と言って、八歳の甥・景虎にへりくだった後、長尾景信は新兵衛のほうを向いた。そして、まだ幼少の主君をここまで立派に育て上げたこと、を褒めたたえた。
 新兵衛は、「ありがたきお言葉にございます」と頭を下げた。ぞくぞくするほど嬉しかった。一族の雄に貫禄を示せない者が、一族の主になれる訳がない。若殿さまにはそれがある。若殿さまは「越後の龍」になるに違いない!
「金津新兵衛とやら」
「ははっ」
「先程申した通り、いま景虎殿をお迎えいたすと、とんでもないことになるやも知れぬ。だが、時がくれば……」長尾景信は言葉を濁した。そして続けて言った。「ひとまず栃尾にまいれ。紹介状を書こう。そこで時を待つのじゃ」
「ははっ」
栃尾城も古志長尾家のものだが、いまは本庄実仍という城代にあずけてある。彼は、岩船小泉本庄家のものだが、古志長尾家への忠誠は疑いもない。…そこなら安心だ。
「では、手紙を書くまで」
 長尾景信はそういって、景虎ら六人を城内に入れた。すると、座敷には当の本庄実仍がいた。それで景虎は「なんだこれなら手紙など不要ではないか」と思った。
 それからすぐに、俺に城の鉄壁さを見せて、思わず本音を口外するように手を打っておいたのだな、と気付いた。
  栃尾城は春日山城より小粒だが、展望がよく、天守閣からの眺めは最高だった。
「……いい眺めだ」
 景虎は言った。
「若殿……ここでさらに徳を積んでもらいます。まず、剣も大事ですが、まずは「頭」から鍛えましょう」金津新兵衛はほわっとした笑顔のまま言った。それにたいして、
「あぁ」
 景虎(のちの謙信)はそう頷くのだった。
 こうして天文六年から七年間、景虎(のちの謙信)は武術や学問の鍛練に勤しんだ。年齢でいえば、八歳から十四歳までの果敢にして大切な時期である。また、越後国の歴史や勢力などにも力を入れて勉強した。あらゆる経験者、体験者を呼んで話をきいた。だが、つまらぬおべんちゃらや妄言には怒りをあらわにし、
「もうよい、下がれ!」
と怒鳴り散らしたという。それでも帰らぬ者には太刀を抜く動作をして「帰らねば…斬り殺すぞ!」とさえ言ったという。
しかし、耄碌気味の老人が記憶をたよりに一生懸命思い出そうと話すのには優しく耳を傾け、ごちそうを与え、帰りぎわに金まで与えたという。
 このようにして、景虎(のちの謙信)は自分の才を磨いた。

     
「景虎様は御寝されたか?」
 金津新兵衛が、寝室の外の見張り役・千代松に囁くようにきいた。
「しっ!」
 千代松は今宵が宿直だから、槍をかまえて襖ぎわに控えている。
「まだ読んでおられます。そろそろぽつぽつとお泣きになられるかと思います」
「よし、わかった。しっかり見張ってられよ」
 新兵衛はそろそろと足音をたてぬように遠ざかって、どこかへ姿を消した。千代松は眠気ざましに茶を袋から取りだして、口にふくみ、飲んだ。
 そろそろ泣き声がきこえてきた。……「九郎判官が衣川で腹を召されるところだな」千代丸の勘は当っていた。部屋の中では、景虎が『義経記』を読みながら目を真っ赤にして       く ろうはんがん  みなもとのよしつね    
泣いていた。(九郎判官とは源義経のことだ)                   
 景虎は、源 義経の大ファンで、物心がついた頃からの崇拝者だった。
……景虎がこのようにして夜中に読書に耽り、ひとり泣くのを知るのは、主従六人以外では、くノ一(女忍者)の千代だけだった。
千代は雇主の若狭屋にあやまった情報を流してしまったことに、後悔していた。…景虎が泣いているのは、母恋し…のような心境かひとり寝がさびしくて泣いているのだと思っていた。しかし、それは間違いで、彼は、『義経記』の九郎判官が衣川で腹を召されるところの話が哀れで泣いているのだった。それを知った時、千代は、彼(景虎)と性交して結ばれたいと強く思った。
 千代は女忍者で、若狭屋に雇われていた。もう三十近い年増だったが、鼻スジもよく目がぱっちりとした美人で、少女のようにも見えた。
 彼女は、景虎に惚れてしまったのだ。
 しかし、仲間の男忍者は「お前にたらしこまれたら、あの若者は「色ボケ」になって才能を枯らしてしまう」とひやかすだけだった。
「あら、そうじゃないわ。若君はわれと結ばれれば、さらに男を磨くはずよ」
 千代はにこにこと言った。
 彼女は今、少年に化けて景虎ら主従六人の馬に餌をやったり、からだを洗ってやったりしているから千代松らの会話を盗みきいておおよそのことは把握していた。
「あの若者は、きっといつか天下を獲るやも知れない」
 千代は、わくわくとしたまま思った。


  空の高い季節だった。
 秋の変わりやすい天気で、空のブルーには薄い雲がふわふわと浮いていた。うっすらうらうらとした雲の隙間から、時折、きらきらとした陽射しが照りつけ、辺りが輝いて見えた。陽射しがまぶしいほどで、河辺に反射して、ハレーションをおこしていた。
「いやぁ、いい天気だ」
 景虎はひとりで森の散策をしていた。
 これは、彼の早朝の日課だった。…森をいき、自然と戯れる。自然と同化する。それが精神を安定させ、活力に繋がる。すべて、自分のためだ。
 しかし、その日はいつもと違っていた。
「あっ」
 景虎は言葉をのんでしまった。いつのまにか、可愛らしい少女が目の前にいたからだ。彼女は「薪拾い」をしているようだった。彼女こそ、景虎の「幼い日の忘れえぬ恋人」になる美代だった。彼女はまばゆいばかりの美少女だった。
 美代の顔は小さくて、全身もきゅっと小さくて肌は雪のように白く、全身がきゅっとしまっているが胸は大きく、目が大きくて睫がびっしりと生えている。彼女はまるで彌勒ようだった。「……可愛い。まるで人形のようだ」景虎はドキドキとした。
 しかし彼には不思議だった。なぜ、この女子を見ただけで胸が苦しくなるのだろう?胸が締め付けられるかのようだ。喉も乾く。体が火照ってくるようだ。
 景虎は「恋」したことがなかったために、その気持ちが理解できなかった。
「………こんにちは」
 美代がにこりと微笑む。と、彼はますます真っ赤になった。
 しかし、景虎は心臓が二回打ってから、
「……お、お主の名は?」
 と、きいた。
「美代です。………あなたは?」
「景虎、長尾景虎」
「あら」美代はびっくりして平伏し、「これはこれは若殿様でしたか、申し訳ございません。ご無礼お許し下さい」と言った。
「よいのだ。それより……」
「はい」
「それより、美代殿、明日もここで会おう…明日だけではなく明後日も明々後日も…」
 景虎は照れながら言った。美代も照れて、それからふたりは笑顔を交わした。それは魅力的な笑顔だった。
 こうして、ふたりは誰にも知られずに早朝のデートを重ねることになる。時には、彼らは口吸い(キス)を交わすこともあったろうか?それは誰にもわからない。とにかくふたりは誰にも知られずに恋人として付き合うようになっていった。
 しかし、そんなふたりの蜜月もすぐに終りを告げた。
 美代がひとりで森を歩いていると、急に不良を絵に描いたようなチンピラが向うからやってきた。彼女は「いやだな」と感じた。男達はほんとうになイヤらしくゲヘヘと笑った。まさに性欲剥きだし、だった。まさに汚い格好をした「不良」だった。
 彼女は逃げようとして、駆け出した。が、すぐに行く手を遮られてしまった。
「おい、……気持ちいいことしようぜ」
「きゃああぁ…っ!」
 チンピラたちは彼女を押し倒し、のしかかってきた。美代は必死に抵抗したが、無駄だった。すぐに服をびりびりと破られ、乱暴に扱われ、石に頭をぶつけて気を失ってしまった。男達は腰をつかうためにフンドシを外そうともがいた。はぁはあはあ…。息が荒い。「……げへへ。けっこういい胸してんぜ」
「はやく、俺にも揉ませろ!」
「俺は下がいい!」
 チンピラたちは彼女を「物」のように扱い、性欲を満たそうともがいた。
 そんな時、
「やめろーっ!」と声がした。それは、悲鳴に気付いて駆けてきた景虎だった。
 彼は怒りの声のまま駆け付け、すぐさま男達を刀でと斬りつけた。
「ぐあうぁぁあ!」
「ぎゃあぁ」
 男たちはやがて断末魔の悲鳴をあげて、ドサッと地面に転がって息絶えた。しかし、そのようなクズどもなどどうでもよかった。「美代殿!」景虎はすぐに彼女の元へ近付き、起こそうとした。しかし、彼女は打ちどころが悪かったのか、頭から血をどっと流して、すでに死んでいた。もう、息がなかった。もう、表情を変えることもなかった。
「美代殿! 美代殿っ!」
 景虎は涙ながらに言った。胸が苦しく、悲しかった。瞳に冷たい涙があふれ、何度も頬を伝わって地面にぽたぽたと落ちた。信じられなかった。…昨日まで、あんなに楽しく語りあっていたのに……。
「美代殿っ!」景虎は涙ながらに叫んだ。
 しかし、彼女はもう二度と彼に微笑みを返すことはなかった。
  美代の葬儀には、身分を隠した景虎もいた。当時の葬儀は「土葬」である。景虎の目を涙が刺激したが、彼はまばたきしてなんとか堪えた。そして、
「一生、お前だけを愛する……」
 景虎は、美代の遺体に、そう誓った。

 悲しみを乗り越えた景虎は、また一段と成長した。

 景虎たち六主従の乗る馬六騎は春日山より高い栃尾山を駆け上がり、やがて目的地に着いた。そこからは佐渡島が一望できた。
「佐渡島が大きく見える」景虎がしみじみと言った。それはとても微かな心症が混じっていた。……美代殿……。彼は一瞬、風に飛ばされそうな瞳になった。だが、それも一瞬で、家臣たちに気付かれるほどではなかった。
「そうでしょう」新兵衛がにこりと頷いた。
「昔、父上が佐渡島に渡ったのは……」
「今から三十年ほど前ときいてまする。船出されましたのは越中の浜でしたが、お戻りは浦原津(新潟市)だったときいております。それからこの寺泊を越え、椎谷にて高梨政盛の手勢と合流されたと」
「そうか」
 景虎は頷いた。
景虎が生まれる二十年ほど前、彼の亡父・長尾為景はあわや関東管領・上杉顕定に討ち取られそうになって佐渡島に逃げた。が、やがて形成逆転、上杉顕定を討ち取ったのである。そもそもそ上杉顕定が為景を殺そうとしたのは、実の弟で越後守護の上杉房能を守護代の為景に殺されたからだった。つまり、守護の代官でしかない男が、守護の上杉家や関東管領を虐殺した訳だ。いかに下剋上の時代とはいえ、為景の悪評は広まった。…無理もない。
 景虎はその話をきくのが辛かった。
 しかし、今は亡父・長尾為景の気持ちもわかる。
  景虎は十六歳になっていた。しかし、彼には心休まる時はなかった。恋人の死に悩み、暗殺の影に怯え、亡父の残した地位や権力を奪取して維持しなくてはならない。ただし、馬術、弓術などと大酒を楽しむときには心が安らいだ。ぐっすり眠り、美代のことを忘れ、鬱病から逃れるために酒をしこたま呑むようになっていた。
 しかも、酒がまわると強気で豪気になるため、居候の直臣ばかりでなく誰かれとなく取り立てるものだから、家来はすぐに六騎、七騎と増えていった。
”景虎が挙兵するやもしれない”
 そのような噂もしだいに広がっていった。
 面白くないのは兄の晴景と妹(景虎の姉で、景勝の母)で、「小童(こわっぱ)のくせに生意気な」と思っていた。とくに晴景の妹(景虎の姉で、景勝の母)が輿入れしたばかりの上田(六日町)長尾家では、晴景以後の守護代を自分の家系で……と思っていたのに、まったく視野にいれてもいなかった景虎がしゃしゃり出てきたのだから、面白くなかった。 さて、景虎には兄の晴景と姉だけでなく、五つ年上の兄もいたことになっている。これは資料に信憑性があるかどうか不明だが、その兄が黒田秀忠なる人物に殺されたという。……本当に景虎の兄だったかはさだかではないが、殺された。
 天文十一年、謀反の旗を翻して春日山城に乱入した黒田秀忠に殺されたのだ。
 その訃報が届いた時、景虎は兄・晴景が自分の弟をむざむざ黒田秀忠に殺させたことに怒り心頭だったが、「栃尾の居候(景虎)も殺してしまおう」と近隣の小豪族たちに黒田秀忠がいっているのを知って、「謀反者を成敗さねば!」と思った。
「黒田秀忠討つべし!」                   
 景虎は叫んだ。そして、本庄実仍に、「兄も挙兵するだろうか?」と尋ねた。
「はっ、多分……いや必ず」
「そうか」
 景虎は頷いた。                                


上杉謙信 天と地と不犯の名将・越後の龍アンコール連載小説1

2012年02月27日 14時33分13秒 | 日記
不犯の名将
 上杉 謙信


                      ーうえすぎ けんしんー
                ~「不犯の名将」上杉謙信公の戦略と真実!                     今だからこそ、上杉謙信~

                 total-produced&PRESENTED&written by
                  washu Midorikawa
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.
        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

         あらすじ

長尾虎千代(のちの上杉謙信)は1530年、越後の守護代(守護の代官)長尾為景の末っ子として春日山城に生まれた。生母は栖吉城(長岡市)による。
虎千代が七歳の時、父親の越後の守護代・長尾為景が死ぬと、兄と弟との骨肉の争いが始まる。虎千代は、兄・晴景より逃れ、家臣の新兵衛におんぶされて栖吉城へ。そこで文武に励む。やがて長尾景虎と名を改めた虎千代は、成長し、頭角を現しだす。
しかし、そんな時、黒田秀忠によって守護代(守護の代官)長尾晴景(景虎の兄)が殺されてしまう。そこで初陣。不戦勝をもぎとる。だが、若輩の景虎は、カリスマがほしかった。そこで、「われは毘沙門天の化身なり」と称し、一生不犯を宣言する。
 つまり一生結婚も女とのセックスもしないというのである。しかし、それは若き頃の亡き恋人への貞操だった。いや、絆だった。
武田晴信(信玄)との川中島の合戦では、天才的な謙信の戦略によって優位に。その間、何度か暗殺されかけるが、ある女忍者に命を救われる。それは、若き日の恋人にうりふたつだった。…だが、意気揚々の謙信のもとに疫病神がころがりこんでくる。関東領管・上杉憲政、である。景虎は上杉家を継ぎ、何度か上洛を試みる。しかし、武田信玄や信長の勢力におされ、遂には1578年、志なかばのまま、不世出の天才・上杉謙信は脳溢血のため死んでしまう。享年、四十九歳だった。
 この物語の執筆では、上杉謙信の生涯を通して、人間とは何か?戦略とは何か?人間愛とは何か?というものの理解の指針となるような物語をつくることに努めた。よって、すべてが事実ではない。フィクションも多々入っている。だが、エンターティンメントとしてご理解願いたい。
 では、ハッピー・リーデイグ!
                                   おわり


  愁いを含んだ早夏の光が、戦場に差し込んでいる。上杉軍と武田軍は川中島で激突していた。戦況は互角。有名な白スカーフ姿の上杉謙信は白馬にまたがり、単独で武田信玄の陣へむかった。そして、謙信は信玄に接近し、太刀を浴びせ掛けた。軍配でふせぐ武田信玄。さらに、謙信は信玄に接近し、三太刀七太刀を浴びせ掛けた。焦れば焦るほど、信玄の足の力は抜け、もつれるばかりだ。なおも謙信は突撃してくる。信玄は頭頂から爪先まで、冷気が滝のように走り抜けるのを感じた。「おのれ謙信め!」戦慄で、思うように筋肉に力が入らず、軍配をもった手はしばらく、宙を泳いだ。



         立志


             
  謙信公の名を知らぬ者はいまい。
上杉謙信は特に、越後国(新潟県)と置賜(山形県米沢市)では「英雄」である。「戦国時代」の天才・織田信長が武田信玄とともにもっとも恐れたのが上杉謙信公といわれ、彼は、合戦の天才と称された。上杉家の祖であり、米沢藩を開いた景勝の叔父にあたる。 上杉といえば私の郷里の米沢、米沢といえば上杉だが、上杉謙信は越後国(新潟県)の生まれ育ちで、米沢にきたこともない。天下分け目の「関ケ原の合戦」の後、置賜(山形県米沢市)に転封され米沢を開いたのは、謙信の甥にあたる上杉景勝である。
 また、有名なのが名君・上杉鷹山公だが、ここでは時代が違うのであえてふれない。
 上杉家の、初代・上杉謙信は、天才的戦略により、天下の大大名になった。越後はもとより、関東の一部、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内までも勢力圏を広げた。八〇万石とも九〇万石ともよばれる大大名になった。
 八〇万とも九〇万石ともよばれる領地を得たのは、ひとえに上杉謙信の卓越した軍術や軍事戦略の天才のたまものだった。彼がいなければ、上杉の躍進は絶対になかったであろう。
上杉謙信こと長尾景虎は越後(新潟県)の小豪族・長尾家に亨禄3年(1530年)生まれ、越後を統一、関東の一部、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内までも勢力圏を広げた人物だ。 だが、上杉謙信は戦国時代でも特殊な人物でもあった。
まず「不犯の名将」といわれる通り、生涯独身を通し、子を儲けることも女と性的に交わることもなかった。一族親類の数が絶対的な力となる時代に、あえて子を成さなかったとすれば「特異な変人」といわなければならない。
(この小説で登場するくノ一や幼き日の恋人などは架空の人物でありフィクションである) また、いささか時代錯誤の大義を重んじ、楽しむが如く四隣の諸大名と合戦し、敵の武田信玄に「塩」を送ったりもした「義将」でもある。損得勘定では動かず、利害にとらわれず、大義を重んじ、室町時代の風習を重んじた。
 上杉家の躍進があったのも、ひとえにこの風変わりな天才ひとりのおかげだったといっても過言ではない。
 しかし、やがて事態は一変する。
 一五七〇年頃になると織田信長なる天才があらわれ、越中まで侵攻してきたのである。ここに至って、上杉謙信は何度か上洛を試みる。結果は、織田の圧倒的な兵力と数におされ、ジリジリと追い詰められるだけだった。戦闘においては謙信の天才的な用兵によって優勢だったが、やがて織田信長の圧倒的兵力に追い詰められていく。
そんな時、天正六年(五七八年)三月、天才・上杉謙信が脳溢血で遺書も残す間もなく死んだ。
 それで上杉家は大パニックになった。なんせ後継者がまったく決まってなかったからだ。
  この物語は、この非凡で不世出な天才・上杉謙信の物語である。
 上杉謙信の生涯を通して、人間とは何か?戦略とは何か?人間愛とは何か?というものの理解の指針となるような物語をつくることに努めた。よって、すべてが事実ではない。フィクションも多々入っている。だが、エンターティンメントとしてご理解願いたい。

長尾虎千代(のちの上杉謙信)は1530年、越後の守護代(守護の代官)長尾為景の末っ子として春日山城に生まれた。生母は栖吉城(長岡市)による古志長尾氏の娘である。虎千代が七歳の時(1536年)、父親の越後の守護代・長尾為景が死んだ。
 為景は身まかる前、病の床に伏しながら、虎千代と晴景を呼び付けた。彼は咳混みながら、兄弟仲良く、長尾家を守れといったという。そして倒れ、そのまま死んだ。為景はかっぷくのいい体つきでせ、口髭を生やし、堂々たる人物であったという。
 謙信は幼児期をふりかえり、「父上が死んでから、葬儀の時、俺は甲冑をきせられ葬列に参加した。皆が敵にみえてたいそう怖かった」と家臣に何度も話したという。
 それも実は事実で、彼の父親の死によって、覇権を握ろうという豪族たちが葬儀にかなり参列していたという。もちろん、戦国時代だから、「下剋上」も考えられる訳で、七歳の虎千代(のちの上杉謙信)であっても怖かったろう。
 ……昨日の友は、今日の敵……というのが「下剋上」であり、戦国時代であるのだから。 上杉謙信にとって、父親の葬儀は忘れられない思い出である。
 参列者の中に、謀反を起こした家臣や、下剋上精神の豪族が沢山いたからだ。しかも、虎千代は幼い兄弟のみで、母もすでに亡くなっていてたいそう孤独で脆弱な立場にいた。「いつ、殺されてもおかしくない」
 虎千代(のちの上杉謙信)もさすがに震えただろうか?
 いや、そうではなかった。
 彼は、まだ、なぜ幼い自分や兄弟の命が狙われるのか理解していなかった。…つい先日までは親父のことを「大殿さま!大殿さま!」と呼んでペコペコしてやがったくせに…。
彼(虎千代)は、たったひとりの家臣・金津新兵衛とふたりっきりで、奥座敷に入った。そこには、彼の父親・長尾為景が横たわっていた。
 柩には花がいっぱいしきつめられ、その中に、謙信の亡父・長尾為景が横たわっていた。硬直した「デスマスク」。それはなんとも哀れであった。しかし、その硬直し蒼白くなったその顔は、何かを言い掛けているようにも思えた。
「………いい顔をしている」
 虎千代は呟いた。虎千代は確かに、不思議な印象を与える人物である。年は七歳であったが、がっちりした首や肩がたくましさを示し、目はツリ上がっていて堂々とした印象の子供だった。
 十二月の寒い日だった。
 分厚いグレーの雲から、しんしんと雪が降りしきっていた。しかし、時折、雲の隙間から弱々しい陽の光が差し込んで、辺りを白く照らしていた。それは、とても幻想的で、気が遠くなるほどのしんとした感傷だった。
 彼(虎千代)と、家臣・金津新兵衛は襖から差してくるぼわっとした光を浴びながら、亡骸を見ていた。…それはかつて「越後の龍」とよばれて恐れられた「謙信の亡父・長尾為景」そのひとだった。新兵衛は腹部に収束感を覚えた胃が痛くなり、嘔吐を覚えた。
「「越後の龍」も死ねば…ただの亡骸か…」
 家臣・金津新兵衛がそう不遜なことを思っていると、
「なぁ」
 と、虎千代がきいてきた。
「はっ、なんでございましょう?」
「俺や兄上が弱いので、家来どもが刃向かうのか?」
 新兵衛は即答せず「……はぁ」としばらく迷ってから、
「つづめていえば、そういうことになりましょう」と言った。
「ふん、まるで獣だな」怒りが籠っていた。
「はぁ」
 家臣・金津新兵衛は怪訝なまま溜め息をついた。また 二十七歳の家臣だった。
「この春日山城に住みついている猫や犬ものう、幼き頃に親をなくすと…強い野良に酷い目にあわせられる」
「……はあ」
「要はそれと同一ということじゃ」
 虎千代が言った。新兵衛は改めて、この少年であるはずの虎千代の利発さに驚くのだった。「まったくその通りで」彼は頷いた。
 そして続けて、「そのけだもののような連中が、虎千代さまの命を狙う可能性も大きいかと……」と、真剣に言った。
「俺を殺しにくるというのか?」
「いかにも」
 金津新兵衛は強く言った。「そこで今しばらくは安全のために私や家来とともに行動して下さい」
「……家来? おぬしに家来がいるのか?」
「はっ。恐縮ながら四人だけですが……」
「四人も?」虎千代が驚いたように言った。「俺の家来はお前ひとりだけだ」
「なにをおっしゃいますか。私の家来はすなわち若殿様の家来にございます」
「……そうか」虎千代が言った。「ならば俺が大将になったらその四人をとりたててやる」「ありがたきお言葉にございます。四人も喜びましょう」
 金津新兵衛はにこりと言った。
 ふたりがふり向くと、前とかわらぬ硬直した「デスマスク」があった。
 それは豪族として生き、武将として生き、そして守護代として死んだ長尾為景の最期の表情だった。虎千代(のちの上杉謙信)はこの父親に、自分だってやれるんだ、ということを見せたかったのかも知れない。だが、残念ながら遅すぎた。父親が彼の成功を認めることはもうないのだ。
 失敗を咎めることも、息子のことを誇りに思うことも、もうないのだ。
 豪族の、ただの平凡な武将、守護代で革命の夢ばかり追っていたと決め付けていた父親…。しかし……。虎千代の背後に冷たいものが走った。
「なぁ、新兵衛」虎千代がきいた。「あそこにある刀覚えているか?」
「大殿さまが大事にしていらした名刀でございますか?」
「うむ。おやじの大事な「子供」だったんだ。あのくそったれの刀がさ」彼の声には、怒りをふくんだ苦しさがあった。「おれはあの刀には触れさせてももらえなかった。「名刀だからな」っていうのが親父の口癖だった。「敬意を払わなくては、童子の触るもんじゃない」っていうのさ」彼の声は気味悪いほど横柄で、金津新兵衛は長尾為景の言葉のこだまを聞いていたような気がした。
「もっと幼い時、俺はその糞ったれの刀をこっそり持ち出した」
 金津新兵衛は驚いたような顔をした。
「どうしてそんなことを」新兵衛の視線が虎千代の目にそそがれ、答えを待っていた。
「だって、息子として当然じゃないか!」
 虎千代(のちの上杉謙信)はこわばった声で言った。そして、「それで外で振り回してあそんでた。で…」彼の声が苦悩に満ちたものになった。「見付かった」
「大殿さまに?」
「あぁ、それで俺は暗い蔵の中に閉じ込められた……おやじは冷酷だった。母も助けもしなかった……二日間も」
「それは、ひどい」新兵衛は深いショックを受けて、呟いた。
「怖かったですか?」
「あぁ、最初の恐怖さ。それいらい、俺は父親も母親も信じなくなった。母はすぐ死んだが、父はやっと今……ってところさ」
 自分が家臣として雇われる前に、そんなことが。そんな事情があったのか。息子にたいして決して満足しようとしない、執念深い横暴な父親から逃げ出そうとした少年。自分だってやれるんだということを示したかった少年の物語。しかし、残念ながら遅すぎた。父親や母親が彼の成功をみとめることは決してないだろうし、失敗を咎めることもけしてないだろう。彼のことを誇りに思うこともけしてないのだ。
 虎千代が金津新兵衛に笑顔を見せた。それは”こんなの屁でもないさ”と強がってみせる笑顔だった。
「若殿さま!この刀をお持ちくだされ」
 それから、新兵衛が例の「糞ったれの刀」をもちだして彼に渡した。「これは虎千代さまのものです」
「…………新兵衛」
 虎千代が受け取って「すまぬ」と言った。
  それから、彼等は柩を見送った。
「俺や兄上が弱いので、家来どもが刃向かうのだな」
 虎千代が呟いた。そうしてると、いつのまにか可愛らしい少女が彼のもとに歩いてきて、ちいさな花を差し出した。彼はそれを無言で受け取ると、彼女は身を翻していってしまった。……誰だろう?虎千代は、心臓がどきどきするのを感じた。…なんだろう?この気持ちは……?
 その夜、虎千代は「悪夢」を見た。
 彼が独りふとんで眠っていると、父親の気配を感じた。目を移すと、遠くの座敷に、なんと父親が横たわっていた。その姿はまさに亡霊だった。蒼白く、透明なのだ。
「……虎千代」
 突然、為景の亡霊が息子のほうに顔をむけて言った。「……虎千代、闘え!自由のために…。お前ならやれる。お前には勇気がある。自由のために闘え!」
 虎千代は声も出なかった。そうして動揺していると、亡霊はふっと消えた。
 その次の朝、彼は金津新兵衛にそのことを言ったが、新兵衛は信じず笑うだけだった。…そのようなものはただの「夢」にござる、というのだ。
 そうだろうか?
  まもなく年が改まって、天文六年、虎千代は八歳となった。
 春日山城と目と鼻の先の府内(直江津)に館を構えている守護上杉定実が使いの者をよこして「大事な話があるから虎千代を連れてくるように」と言ってきた。
 金津新兵衛は「すわこそ……若殿さまの身が危ない」と緊張した。
 ……守護は、若殿さまを殺すかも知れない……もしや……。
「若殿さま、申し訳ござらぬが「仮病」を使って頂きたい」
「仮病?」
「はっ、このままでは虎千代さまの身が危うくござる。そこで病気なればのこのこ「虎の巣」へまいらなくてもようございます」
「そうか。……では俺は、炒豆と焼栗を食べ過ぎて腹くだりしたことにしよう。そちはもっともらしい言い訳をいいながら向こうの様子を探ってまいれ」
「はっ」
 金津新兵衛は、まだ八歳であるはずの虎千代の「智将の片鱗」に感動を覚えた。…もしかするとこの若殿さまは本当に大物になるやも知れぬ。…越後国一…いやこの天下一の武将に………。
 新兵衛は家臣たちに「くれぐれも警戒するように」と言って出掛けた。
虎千代はあししげく厠に通った。「腹が痛い、腹が痛い」と言いながら、苦悩の表情で厠に何度も通った。そして、薬師のもってきた薬を、虎千代はわざと大袈裟に呻きつつ飲み込んだ。……あざやかな芝居である。まず家臣に見せて、敵にも嘘が伝わらないようにする。一番みせるのが召使の女たちにである。女は口が軽い。芝居で病気のふり……などと本当のことをいえば、たちまち守護の耳にも入るというもの。女、子供には注意しすぎるということはない。
 だが、だからといって虎千代は「女子嫌い」でもなかった。只、女は愚か、と思っていた。が、嫌いな訳でもなかった。この思いは、冷たかった亡き母親へのコンプレックスであろう。女子など糞っくらえだ!
 まだ、父親の長尾為景が健在で、城のあちこちを自由に歩きまわっていた頃、虎千代は猫や猿が赤ん坊に乳をやるのをみるのが大好きだった。幼い子供が母親の暖かい胸に抱きしめられて乳を飲む……なんとも幸せな気分になったものだ。それにひきかえ、俺の母親は……。虎千代は母を呪った。
「虎千代さま、仮病はつかわなくてよくなりました。さっそく府内(直江津)にまいりましょう」
 戻ってきた金津新兵衛は、言った。
「俺を府内につれていくのか?」
「はい、御屋形様はたいそう優しい方のようで…私の勘違いでございました」
「なんだと?」
 虎千代は怒った。…先程まで「仮病をつかえ」といっておいて、すぐ手の平をかえしたように「さっそく府内(直江津)にまいりましょう」と手前勝手なことをいうので怒ったのだ。金津新兵衛は、守護の上杉定実を虎千代の敵のひとりにあげていた。というのも、父親の長尾為景は守護代のくせに守護・上杉定実を圧迫したり、幽閉したりしたこともあり、さながら家臣を扱うような態度をとったからだ。しかも、上杉定実の養父で、先代の上杉房能(ふさよし)を襲って自害させたこともあったからだ。
 話をきいて虎千代は、
「ならば父上こそ逆臣ではないか?」と言った。
「話だけなればそうでしょう。ただ、御先代さまは守護が無能なため、あえてそのような態度をとったのでありましょう。すべて国人衆のためにです」
「俺が守護なら、そのようなやつの息子は殺してやるわ」
「だから、このようにお守りしておるのです」
「そうか。…………兄上は無事か?」
 虎千代は話題をかえた。
兄上とは、虎千代の兄・長尾晴景のことである。晴景はうらなり顔で凡人だ。死期を悟った長尾為景はこの二十七歳の青年に守護代・当主の座を譲っていた。れっきとした春日山城主であるが、豪族の誰も彼を認めてはいなかった。
 上杉定実の元にいくと、たいそう優しく可愛がられ、りっぱな太刀や馬まで贈られた。「虎千代」は幼名を改め「景虎」ときょうから名乗ることになった。「まことにありがたく存じまする」
 景虎は晴景と定実に平伏して言った。
 越後守護・上杉定実は、色部、黒川、本庄、加地、水原、中条、新発田などの豪族たちを臣従させねば国主にはなれない、と説いた。それから守護は、加地の祖先のことを説いた。そのところ、それは佐々木四郎高綱のことでありましょう、と明晰に景虎が言った。「そちは物知りじゃのう?八歳とは思えん」
 無能の兄・長尾晴景は面目を保とうとして馬脚を現した。「そのようなことはわしも知っておる。佐々木四郎高綱が梶原景時と戦って勝った話しは有名だからな。いい気になるな」
 越後守護・上杉定実は吹き出した。
 …俺は知らなんだ、お前は物知りだのう…と褒めてやればいいのに…この守護代のおつむは弟の半分もない。女色だけは一人前だが…。
「守護代殿、景時は景季の親父じゃ。あまりいいかげんなことを申すと、弟に笑われまするぞ」
 無能の兄は、とたんに恥ずかしさで顔を真っ赤にした。そして、きっと弟を睨んだ。
「景虎殿、わしを亡父のかわりだと思ってよいぞ」
 上杉定実は言った。…馬鹿にするな!お前のような弱いやつを誰が父親などと思うか?!景虎はそう思ったが、ぐっと堪えて言葉にはしなかった。
 こうして、天才・景虎はのちにふたりの凡人に反感を買い、生命を狙われることになる。その危険を逸早く察知したのは、景虎の家臣・金津新兵衛だった。

「若殿さま!……今のうちに逃げましょう」
「逃げる?」
「はっ」新兵衛はうなづいた。「このところ毎週のように悪い噂がきこえてきます」
「噂とは?俺を殺すと……?」
「その通りにございます」新兵衛はふたたび頷いた。「さぁ、逃げましょう。私の家臣のもの四人も一緒に若殿さまをお守りいたします」
「……どこに逃げるというのか?」
 景虎は怪訝なままきいた。
「まぁ、若殿様の母君の実家、栖吉城へいくのが妥当かと」
「………栖吉城か。ならば、そこへいく道程、刺客がくるやも知れぬ。変装してまいろう」「変装?」
「そうだ。山伏の格好が妥当であろう。それならば怪しまれぬ」
 景虎の家臣・金津新兵衛や家臣四人は関心してしまった。……なるほど。さすがは景虎さま、それはいい。山伏か。………こうして六人は山伏の格好となり、山道を急いだ。
「俺がこの峠に陣を張れば、春日山城の兄上を攻め崩せると思うが、どうだ?」
 景虎は言った。新兵衛や家臣四人はハッとした。若殿はもう春日山城攻めを考えてらっしゃる。なんと野望の高き少年だろう。
 しばらくすると、太陽も沈みかけてうっすらと夜がきた。一行は足をとめ、「腹が減った」と景虎は言った。だから、ひとにぎりの家臣の者は用意していた弁当を開けた。
「俺の大好物が入っておるではないか」
景虎は言った。…彼の好物の栗強飯と鮭の酢割だった。「箸をだせ」「はっこれに」弥太郎が箸を差し出すと、景虎は雪の上にどっしりと胡座をかいだ。そして食べようとした。その時、家臣の千代松が、
「お待ち下さい」と言った。
「……なんじゃ?」
「毒味をします。それがしが口にしたものだけをお食べ下され」
 千代松はそういって食べると「旨い」と言った。だから一同は笑った。「よし、食おう」食い始めると、誰かが竹筒の水を差しだした。ごくごくと飲む。
「おや」
 景虎は言った。「これは若狭屋に謀られたぞ」
「なんですと?!毒ですか!?」景虎の家臣・金津新兵衛や家臣四人はうろたえた。しまった!と思った。竹筒に毒を……?しかし、景虎は笑った。
「これは酒じゃ」景虎はまた笑った。「俺は初めて酒を飲んだが、とても旨いものじゃのう、はははは」
 一同はほっとした。
 こうして、景虎は八歳にして「大酒家」の片鱗を見せつけるのだった。       


基地問題 野田首相沖縄訪問仲井真知事と会談「県外移設」困難か

2012年02月27日 10時13分26秒 | 日記
 基地問題
 
 2011年2月26日、野田佳彦首相は初の沖縄訪問を果たした。27日には沖縄県知事・仲井真氏と会談をおこなったがやはり「米軍基地県外移設」は困難であるようだ。沖縄の米軍海兵隊のグアム移転を米国議会が認めなかった。予算は120億円だが、アメリカ議会もねじれだから仕方がない。だから日米政府の在日米軍再編のロードマップ(工程表)で、グアム移転は約8000人から約4700人規模に縮小し、沖縄の普天間基地とは別に進めるという。残り約3300人はオーストラリア、フィリピン、ハワイなどに分散移転させ山口県の岩国基地も候補地になっているという。つまり、「普天間を捨てた(固定化)」訳だ。これに関しても無能外相・玄葉光一郎は「官僚の作文の棒読み」に終始した。なんなんだこの男は!アメリカが金欠で、朝鮮半島有事や中国問題より「国内経済優先路線」でロードマップが変更されたことくらい気付きなさい、ってんだ。だから日本外交はダメなのである。玄葉氏は明らかに「外相としての資質」に欠ける。こういう大臣は一秒でも早く辞任して欲しい。日本政府の本音は「中国軍や北朝鮮が恐いから米海兵隊は日本にいててくれ」というもの。何たってまともに戦えば3時間ももたない自衛隊より米海兵隊のほうが安心だ。またアメリカの本音は「グアムになんかいきたくない、日本が大金資金援助を継続して欲しい」というもの。つまり「ボディーガードしてやるから日本よ毎年5000億円継続的に払え」だ。また「90年代に沖縄で小学生女子(当時)が米兵に性的暴行(レイプ・強姦)された事件」をなんと知らなかったとして野田内閣の一川防衛大臣や山岡消費者大臣らが野党の問責決議案が成立した。辞任しないというが辞任するだろう。また沖縄普天間基地移設問題で2011年11月29日沖縄防衛局局長・田中聡氏がアセス(環境影響評価書)について「犯す前に犯すよっていいますか?」と問題発言をし、更迭されました。女性蔑視以前に沖縄県を馬鹿にしている。沖縄県では米軍兵士による性的暴行(レイプ・強姦)が何十年も前から頻発している。そのことを鑑みねば「人間」ではない。また2011年9月29日の裁判で元・毎日新聞記者・西山太吉さん(80)ら20人が72年の沖縄返還の密約文書公開を迫った一件で、密約文書が「廃棄の可能性」が示されました。これは遺憾なことだと私緑川鷲羽わしゅうは思います。が、そんな昔の事を今更蒸し返しても虚しいだけです。2011年6月21日ワシントンで2プラス2日米外相・防衛相会議があり「辺野古回帰案」で合意しました。が、年度案は決まらずまた日本人政治家の十八番「努力目標」になりました。沖縄県知事は普天間と嘉手納基地統合について負担減なら議論もあり得ると発表しましたね。この普天間基地移設問題では「辺野古移設案」が風前の灯です。2011年6月13日、北澤防衛大臣と仲井真知事の会談では沖縄県知事はV字協議は応じないと協議は決裂しました。オスプレイ配備にも猛反発です。でも「地政学的」に沖縄に基地を置くしかないんです。米国国務省官僚のメア氏が「沖縄人はゆすりたかり、甘ったれ」というような侮辱発言をした事件で、米国国務次官補キャンベル氏がプレスリリースで謝罪しました。メア氏はなにか日本人に「黄色人種・ワンランク下」という差別的考えがあったのでしょうね。ちなみにアメリカ人(いわゆるWASP)というひとたちは大体こんな思想だと考えていたほうが身の為ですよ。メア日本部長が更迭、米国大使が正式に沖縄に謝罪でしたね。「新防衛大綱(たいこう・日本の防衛はどうあるべきかという方針)」が決まりました。何が変わったか?東西冷戦時代の自衛隊(日本軍)の「仮想敵国」はソビエトでした。ですから北海道に戦車(特車)部隊や第二師団が重点的に配置されていました。ちなみに首都圏を守るのは第一師団で練馬にあります。しかし、91年のソ連崩壊で北方の脅威がなくなり、自衛隊はPKOや災害派遣にまわされます。で、最近「尖閣諸島問題」などで南方にイージス艦などを置くことになり「基盤的防衛力」から「動的防衛力(いつでも動ける)」に傾倒します。「動的防衛力」とは偵察や監察を活発にし、日本周辺の多発な事態に対応できるようにすることです。それで陸上自衛隊は減らすのですが、潜水艦は16隻から22隻になり、イージス艦(イージスシステム、「イージスとはギリシャ神話の万能の神・ゼウスが娘に与えた万能の「盾(Aegis)」のことです。イージスシステムは複数のミサイルを探知するコンピューターの塊)を4隻から6隻にする。那覇基地の1個飛行機師団を2個飛行機師団にし、沿海監視部隊を配備したりします。ちなみに潜水艦は日本では16年でスクラップにしますが、もっともつのでスクラップにせず、増やすというものです。よく自衛隊のひとは「特科部隊」といいますが「特科(とっか)」とは「歩兵部隊」のことです。自衛隊は発足時に「軍隊じゃない」という建前で「警察予備隊」という形ではじまったので、そんな風にあいまいに呼ぶのです。では世界との兵力を比較しましょう。アメリカ(人口3億900万人、常備兵力158万人、割合0.2%)、中国(人口13億人、常備兵力229万人、割合0.2%)、韓国(人口4900万人、常備兵力69万人、割合1.4%)、北朝鮮(人口2400万人、常備兵力111万人、割合4.6%)、日本(人口1億3000万人、常備兵力23万人、割合0.2%)などです。また「予備自衛隊」つまり「予備兵」がいて有事のときに駆けつける兵隊が中国では51万人、日本は3万4000人います。戦争の大原則は「守りの3倍の兵力で戦う」ということです。だから日本の20万人の防衛国を叩くなら3倍の60万人で戦うことが必要だという。ですが、北が例えばミサイルを発射準備をしようとしても日本は相手の基地を爆撃できるだけの届くミサイルも飛行機もありません。で、今空自は「空中給油」をやっています。例えばアメリカに向けて発射されたミサイルを迎撃してもいいか?ですが「集団的自衛権の行使」として物議をかもしています。ならMD(ミサイル・ディフェンス)つまり発射されたミサイルを迎撃できるか?ですが無理です。ピストルの弾をピストルの弾で撃ち落とすみたいなものです。また領空(領土と領海(領土から12海里))に入った国籍未確認の飛行機は「スクランブル発進」で撃ち落としていいですが、日本のスクランブル発進は年間150回から200回です。(04年141回、05年229回、06年239回、07年307、08年237回、09年299回)あまりに日常茶飯事に領空侵犯されているため撃墜はしていません。領空侵犯での撃墜はソ連の大韓航空機撃墜事件などは有名ですね。だから、戦争にならない為の「防衛力」が必要な訳です。ちなみに「防衛庁」が「防衛省」になりましたが、「庁」だとトップは長官、「省」だとトップは大臣です。「庁」は所詮は「内閣府管轄の組織」です。それが、「省」になれば「独自の予算」も組めますし、「閣議」を設けたり、「省令」も決められます。菅首相は沖縄の中井真知事に謝罪しました。つまり「普天間基地は辺野古で」ということです。私は「非核三原則」は「木を見て森を見ず」論だと思う。アメリカが核兵器を配備するということは責任を配備するということだ。NATOの例を見ればわかるように、核兵器を配備すればアメリカ大統領とホットラインを結べる司令官を常駐させるなど、アメリカは「配慮」しなければならない。日本の「非核三原則」みたいな「女学生の作文」で北朝鮮と戦えるだろうか?日本政府にはもっと頭をつかって欲しいものだ。2010年11月28日の沖縄県知事選で現職の中井真弘多(なかいま・ひろかず)氏(71)が再選です。普天間基地は膠着状態です。今回は在日米軍基地Wikipediaです。クラスター爆弾禁止条約が発効されました。だが、米国、ロシア、フランスが批准しない条約など意味がありません。まず基地の説明の前に日米安保条約(日米安全保障条約)について説明します。米国は2014年以内のグアム基地移設を断念しました。なんで日本国内に外国の基地や軍隊があるのか?当たり前のことですが戦争で負けたからですよね。で、アメリカ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド軍に占領されます。1951年に吉田茂首相(当時)がサンフランシスコ講和条約に署名してやっと日本は独立します。吉田は狡猾な男でした。当時の日米安保(旧)はボデイガード料と日本の動乱(共産革命のような)をアメリカ軍が鎮圧してもいいものでした。吉田は「番犬」のアメリカに守ってもらって防衛費をかけずその分を経済成長にあてる算段であったそうです。だから、「不平等」でも安保(旧)を結んだのです。そして1960年に「日米安全保障条約(新)」が岸信介首相(当時)の手で結ばれます。当時の日本人は馬鹿でした。大学生高校生サラリーマンは「安保反対!安保反対!」(60年安保闘争)とデモや大学に火をつけるなど馬鹿げた動乱をやらかします。当時の学生らは「日本に米軍をおけば日本がソ連や中国から攻撃を受ける」と抜かしたそうです。だが、岸は正しかった。反対をおさえて署名します。安保デモは660万人も暴れたと聴きます。馬鹿ですね。勝手に米軍が「番犬」になってやるという「おいしい話」を理解できなかったのですかね?馬鹿ですね。そして91年ソ連が崩壊します。そこで、極東(フィリピンより北)からアジア太平洋地域に米軍の防衛範囲が拡大します。これは湾岸戦争、イラク戦争、アフガン戦争や9・11テロがあったからですね。最近も辺野古沿岸案で日米合意しましたね。それに反対した社民党の福島瑞穂大臣が罷免されました。なぜ沖縄だけでなく徳島なのか?は1953年の奄美諸島の日本返還のとき「何かあったら徳之島を」と日米で覚書を交わしていたからです。4月に「鳩山首相も岡田外相も北沢防衛相も信用できない」としてルース米国日本大使が小沢一郎民主党幹事長と普天間基地移設先を会議していたそうです。政府は普天間基地移設先に徳之島を打診したそうですね。平野官房長官が徳之島の7条件(借金棒引きなど)をすべてのむそうですね。徳之島でいいんですか?沖縄から200キロも離れているのですよ。政府原案には「辺野古周辺」と明記されているようです。それにしても鳩山首相の「学べば学ぶにつけ海兵隊の重要性がわかってきて…」などの認識不足は呆れて話になりません。こんな認識しかない首相は一日でも早く辞任するべきです。海兵隊は自衛隊にはない「攻撃力」があります。それがすなわち「抑止力」です。アメリカは大金さえ払ってもらえればグアムに海兵隊を移すでしょう。でも、困るのは日本のほうです。なぜなら自衛隊は憲法上「攻撃力」を持ってはならないからです。沖縄ではまた在日米軍基地兵士(泥酔女兵士)が当て逃げだそうですね。基地はキャンプ・シュワウ゛陸上案と(ホワイト・ビーチ沖案断念で)徳之島案でまとまりました。が、5月決着は絶望的になりました。まさかの辺野古修正案ですね。辺野古陸上案などと言ってますね。首相はまた徳之島の実力者・病気に倒れた徳田虎雄氏に面会、沖縄や徳之島にも訪問した。首相は県外移設を断念、事実上辺野古と徳之島案を示しました。沖縄では9万人基地反対集会がありましたね。「日本に基地は必要ないのです」という「女学生の作文」もありました。でも地政学的に基地は沖縄に必要なんです。北朝鮮の核兵器開発や中国の軍事費拡大など考えてからモノを申してもらえませんか?ボディガード料金として在日米軍に6636億円年間払っています。では、まともに戦えば3時間しかもたない自衛隊でいいんですか?自衛隊では日本国土は守れないのです。在日米軍が「抑止力」なんです。そういうことを考えてから何か言ってください。岡田外相が「核の密約があった」と当たり前のことを認めましたね。ならいざというときグアムまで核をとりに行けというのか?こんな簡単な密約を自民党は50年間も「ない」と言っていました。沖縄密約を開示するよう命令がなされましたね。沖縄県知事と自民党・谷垣総裁は「キャンプ・シュワウ゛陸上案」に反対していますね。名護市の稲嶺市長は民主党政権の「陸上案」の反対集会に出席しました。またセレモニーに過ぎないのですけど社民党は普天間基地移転先を「グアム、サイパン、長崎、佐賀県」国民新党は「嘉手納、キャンプ・シュワウ゛陸上」という案を出していました。まあ、「陸上案」ですね。岩国の核保有(1966年から3ヶ月)を元・駐日米国大使が認めましたね。実は今現在も在日米軍が核保有しています。沖縄基地移設問題の話題の「名護市長選挙」の結果が出ました。何故在日米軍
が必要か?はボディ・ガード料金なんです。米軍基地は716ヵ所320国にあります。ちなみにシュワウ゛とは沖縄戦で戦死した英雄の名前です。「米軍基地いらない」と言ったのはフィリピンのマルコス大統領でした。沖縄密約ですが米国の負担1億1200万ドルを日本が肩代わりする「密約」が推定ですがあったそうです。また普天間基地移転は首相が3月以内に決めるそうです。空自は官製談合でトラブルを起こすし何だかなあこの内閣は…。クラスター爆弾禁止条約が8月に交付されます。批准国は30ヶ国です。社民党と国民新党はグアムサイパンを視察訪問してグアム側は「基地移転困難」サイパン側は「前向き」です。現在は「シュワウ゛陸上案」に北沢防衛相が歓迎して前原、福島瑞穂氏が反対していますね。民主党政権は移設案提示を見送りです。現職の島袋吉和氏(63、名護市返野古基地移設賛成派)が敗れ新人の稲嶺進氏(64、基地移設反対派)が当選しました。これで辺野古移設はなくなりました?地元は激怒していますね。稲嶺名護市長は小沢氏と会談して基地移設反対意見を主張しました。基地移設候補地には徳之島案が出ています。徳之島とは沖縄島と奄美大島との間にあるちっぽけな島です。首脳会議で鳩山首相は普天間基地問題は先送りしました。来年5月まで先送りしましたね。首相は「普天間基地のグアム移転」を否定しました。民主党政府の外交姿勢があまりにお粗末だからこうなるのですがあまり私自身とは関係ありません。沖縄は日本の日本国土の0・5%、沖縄の70%が基地施設です。基地移設とは海兵隊は訓練もしている訳です。移設とは訓練場所や軍人や家族の住まい、空母、戦闘機やヘリコプターの場所も受け入れる場所もあることです。過去の課題をエクスプローラ(検索)していくべきだが、オバマ政権も過去の軍略を踏襲しています。例えば1978年の「思いやり予算」採択まで(米軍基地の費用負担70%)費用負担は全部米国が持っていたんですよ。グアムでもOKだが、地政学上に沖縄が必要なのです。(在日米軍人は2万1000人が沖縄にいるがそのうち6000人がグアムや普天間からシュワヴに移動予定)また軍事費は日本はあげるべきではありません。ある軍事評論家は「中国の軍事費が伸びている」という。が、日本と中国が軍事的に戦うことなどあり得ません。在日米軍費用はボディーガード料金なんです。確かに沖縄県民の苦悩もわかります。爆音、レイプ、ひき逃げ…。しかし北朝鮮などの抑止力なんです。「沖縄に基地は必要ありません」などまさに「女学生」の作文です。日本は米国には勝てないばかりか中国にも勝てないですね。何故在日米軍基地があるか?は1945年の敗戦後で1951年に日米安保地位協定で在日米軍基地が出来ました。核兵器を使わない代わりに85か所、うち33か所(74%が)沖縄だけにあります。沖縄だけに在日米軍基地が集中しているのは地政学の点で有利だったからです。当時は冷戦下でソ連や中国に睨みを効かせる効果上沖縄が有利だったからです。ちなみに沖縄の在日米軍基地は品川区と同じ規模で中にスーパーや郵便局、学校や病院があります。騒音問題は沖縄の在日米軍基地の近くに日本人の住まいがあって、戦闘機の音が騒音なのです。一応、日米で夜間早朝は戦闘機を飛ばさないだの決めている。が、守られていません。沖縄には戦闘機F-15イーグル(1機28億円×54機)あります。最新戦闘機F-22ステルスは1機130億円もします。レーダーに映らない戦闘機である為に日本は買いたいのです。が、売ってくれません。開発中のF-33で我慢してくれという。つまりレーダーに映らない戦闘機をやるとアドバンテージをとられるからです。日米安保協定(1960年締結)でボディーガード料金が全部で年間5656億円在日米軍基地維持管理費用で使っています。普天間基地(の一部の)移転だけで6000億円以上払う訳です。沖縄は在日米軍基地でビジネスしています。実は在日米軍基地は全部グアムに移転しても大丈夫なのです。例えば沖縄基地からハワイまで戦闘機で2時間です。ということは目を西に向ければアフガニスタンやイランロシア中国北朝鮮にすぐ爆撃に行ける訳です。単に地政学上に有利だったから沖縄に在日米軍基地が集中している訳です。しかしながら、言わせてもらえばボディーガード料金が5656億円です。自衛隊はまともに戦うと3時間もちません。だから在日米軍が費用なのです。ボディーガード料金プランです。在日米軍基地移転をして米軍は日本から出ていけ、など馬鹿です。ボディーガード料金なんです。自衛隊では日本は守れません。ボディーガード料金なんです。5656億円はボディーガード料金なんです。
またいわゆる「核密約」は当たり前です(岡田外相は「核密約」を認めましたね2010年1月迄に密約文書を報告するという。密約文書が故・佐藤栄作元首相の私邸から出てきたそうですね。遺族がニクソン米国元大統領と佐藤栄作元首相との沖縄核密約文書を保管していたようです)。外務省は「密約文章」が現存せず、という。つまりとっくの昔に廃棄したということです。(世論は密約認めるべきが60%非核三原則維持は72%)核ミサイルはあって当たり前です。なら有事の時にグアムまで核ミサイルを持って来させるのか?当たり前のことを「密約」などということ自体「平和ボケ」です。核ミサイルがなくて北朝鮮を抑えられますか?常識で考えてください。元・外務省アメリカ局長の吉野文六さん(91)も沖縄基地密約文書を認めていますよ。インド洋のいわゆる「給油活動」ですが、只撤退だけでは駄目です。アフガニスタンへの民事上支援などをやるべきです。湾岸戦争の時は260億ドルも払っても日本は無視された。またアフガニスタン支援でも「人的貢献は困難」として70億ドルの支援金をやるそうです。金だけで活動しないならまた無視されます。民間人は治安の問題でアフガニスタンでは活動出来ません。何も自衛隊にアフガニスタンで戦争しろっていう訳ではありません。が、金だけでは無視されますよ。自衛隊がアフガニスタンで医療支援や学校支援などあるはずです。頑張ってください。 
 

ゴルバチョフxゴルバチョフ アンコールブログ連載小説4

2012年02月26日 11時24分11秒 | 日記
 ナチスドイツと帝国日本という悪の帝国が滅んだことは、とてもいいことだった。しかし、ドイツには原爆を落とさずに、何故アメリカは日本にだけ二発も落としたのか?ソ連に日本を侵略される前に、日本に「降伏宣言」させてソ連をストップしたかったからだ。 だが、ソ連はそんなことでは満足しなかった。八月、原爆投下で及び腰になった日本に宣戦布告し、翌二月、千島・樺太の領土宣言をしたのだ。
 しかし、その頃、ソ連はアメリカの陰謀を知るよしもなかったろう。
 第二次大戦中、アメリカに軍産複合体が誕生したのは第二次世界大戦の頃である。大戦以前から、アメリカ国内では、ウォー・エコノミー(戦争経済)を永年的に維持していく必要性を産業界の大物たちが説いていた。独裁主義にかわって新たな敵、国際共産主義・ソ連の影響力が台頭し始めたからだ。だがそれは、民主主義を脅かす巨大な勢力の誕生も意味していた。
「アメリカの民主主義は、いまや新しい勢力によって脅かされている。それは軍産複合体と呼ばれる力である。軍産複合体の経済力、政治力、そして精神的とまでいえる影響力は、すべての州政府、すべての連邦政府機関に浸透している。この複合体が、われわれの自由と民主的政治過程を破壊することを許してはならない」
 一九六一年、アイゼンハワーが大統領辞任演説で国民に残した警告だった。軍産複合体は、ソ連との兵器近代化競争に打ち勝つため、膨大な補助金を大学の研究室に注ぎ込み、優秀な頭脳を集めて新しい武器開発を求めてきた。そこで得た成果をもとに、軍需産業が大量に生産する。優秀な大学で実験された武器や兵器が、大企業によって大量に生産されるわけである。こうして軍産複合体は、大学研究室と産業と政府がガチリと手を組んで、冷戦という需要を手にして巨大なものとなっていったのだ。
 戦争を無傷で乗り切り、そして莫大な利益を上げた産業界にしてみれば「ウォー・エコノミーを維持するべき!」という意見は当然だった。しかし、ドイツは降伏してしまった。だが、戦争状態といかないまでも、その一歩手前の状況であればかまわない。アメリカ人が納得するような潜在的脅威を秘めた敵…格好の国がある。国際共産主義の代表で、共産革命により世界征服を狙う「ソビエト」だ。
 戦後すぐにイランのアゼルバイジャンに傀儡政権を立て、中東への土台にしようと試したし、ギリシャやトルコでも混乱に乗じて共産革命の後押しを演じている。またチェコスロバキアをはじめとする東欧諸国はソ連圏に飲み込まれつつあった。(一九四七年六月、ハンガリーでは共産党が権力を握り、四八年にはチェコスロバキアも共産化された。一九四七年九月にはアメリカのマーシャル・プランに対抗するためソ連リーダシップのもと、コミンフォルムが結成された)
 アメリカ人にとっては、これはソ連拡張主義以外のなにものでもなかった。
 「布告されていない緊急状態」と軍部が使いだし、新聞・ラジオで頻繁に使われだす。「ソ連との戦争はすぐそこまできている。その時、即座に対応できるよう準備しておかなければならない。ソビエトとつき合うには、武力をもってする以外にはない!」
 スパッツ将軍は「原爆が落ち始めたら、アメリカ本土の防衛は不可能である!そして、もし戦争がおこれば、最初の五時間で四千万人のアメリカ国民が死ぬだろう」といった。「自由は平和よりも尊く、その自由は世界中に自由経済のシステムが確立されてはじめて証明されるものである。表現の自由、信仰の自由、その他の自由は、政府が経済を牛耳るシステム化では絶対に得られない。民主主義と資本主義は切っても切れないものだ。そしてその自由経済の敵は統制経済であり、そのリーダーはソ連である。もしアメリカが一大決意と行動力を持って臨まなければ、ソ連のシステムが世界中に浸透することになる。これを防ぐ最上の手段は、全世界をアメリカ化し、自由経済圏としてしまうことである。もしアジアやアフリカでソ連による革命がおこれば、ソ連の統制経済がしかれることになる。そうなれば、アメリカにとって原料確保のドアが締まるだけでなく、貿易や投資活動地域がいちじるしく縮小されてしまいます。原料補給源を確保し、市場が100パーセント確保されるためには、ソ連の影響を最大限に食い止めなければならないのです」
 トルーマンは、演説で、こう述べた。第二次世界大戦では共に闘ったが、それはなりゆき上であって、もともとアメリカはソビエトの持つシステムに嫌悪感を抱いていた。だから、ソビエトを「悪の帝国」と呼ぼうが「アメリカの敵」と呼ぼうが、不自然ではなかった。                                       しかし、この頃、ソ連は原爆を持っておらず、貴重な労働力となる二千五百万の人口を失い、国土は荒廃しきっており、国内経済の立て直しで必死だった。ヨーロッパ・ロシアの工業地帯は完全な廃墟と化し(ドイツ軍が破壊し、また後退するソ連軍が自らの手で町々を焼き付くしたのだ。もちろん、ドイツ人に渡さないためだけに)、ウクライナではすべての道路が破壊されてしまっていた。これらのことからも、ソ連は第二次世界大戦で最大の被害をうけた国だったともいえる。
 力も状況も、無傷で大戦を乗り越えたアメリカとはまるで違うのだ。こんなソ連がアメリカと戦うなど、客観的にみてもありえないことだった。アメリカの要人たちも、それはよく知っていた。
「アメリカと戦う」なんてことは荒廃したソ連には出来るはずもなかった。だが、けしてソビエトが被害者だ、というのでもない。それは、スターリンとヒトラーの領土に関する密約(モロトフ・リッベントロップ秘密議定書)に基ずき、40年6月、圧倒的な軍事力にものをいわせてソ連がバルト三国を占領・併合してしまったことや、スターリンによる農民・民族・反体制弾圧、カティンの森事件(1940年当時、約1万5千人のポーランド将校がソ連軍に抑留されていた。それら将校をカティンの森で銃殺してしまったのだ。89年まで、ナチスの犯行だと考えられていた)などなど数えられないくらいの行為をみても明白だろう。
 さて、ここで少し「KGB」にふれておこう。レーニンが革命に成功した後の1917年12月7日に、反革命行為とサーボタージュ(破壊工作)取締りのためにつくられたのが、現在のKGBの前身「チェカ」である。
 この政治組織は、国境警備、収容所の建設、軍隊の統制、国外のスパイ活動、反体制への脅し・暗殺・処刑、などなどを、ごく少数の権力者や特権階級(ノーメンクラトゥーラ)を維持するために働いてきた。そしてKGBは、ソビエトで特殊な地位を獲得していった。 初代長官は、レーニンの盟友で、ポーランド人のフェリックス・ジェルジンスキーで、この人物は、革命狩りという名のもとに反対するものを次々に処刑していき、秘密警察の基礎をつくった。レーニンの死後は、グルジア人の後継者スターリンの前衛部隊として活躍するようになる。
 粛清された二人の長官のかわりに、スターリンが選んだのがグルジア人のラヴレンティ・ベリアである。ベリアはおべっかをつかいまくり、無教養な狂人「スターリン」に取り入った。教養と残虐性を持ち合わせたベリアは、第二次世界大戦中にその指導にあたり、元帥となる。戦後、東欧諸国に情報機関をつくり、一方で原爆やロケットを(西側の技術を盗んで)安上がりにつくった。KGBには70万もの要員がいて、世界中の情報を収集したが、情報を分析できる人間がほとんどいなかった。だから西側の製品をかっぱらっても自国で同じものをつくることもできないし、西側政治家の真意もわからない。だからこそ70万もの要員が必要だった。(協力者もいれると一千万いて、ソ連人の3人に一人はKGBとなんらかのつながりがあったらしい)                    KGBとはとどのつまり、特権階級の警察組織である。だからこそ、少しでも特権階級に逆らうものは処刑していったのだ。                         大祖国戦争(第二次世界大戦)は終結した。だが、ソビエト国内の「独裁と血の弾圧」は、以前、なくなる気配がなかったのである。




        
            共産主義とスターリンの死

 ミーシャが一人でトボトボと暗い夜道を歩いていていると、突然、ガラスが激しく割れる音と女の悲鳴が辺りに響き渡った。彼が驚いて振り返った瞬間、草原がブウァッと火の海と化した。なんだ!?秘密警察に連行されていく大勢のひとびとが、断末魔の悲鳴を上げながら猛火に消えていく。なんだかそれは、かつてみた地獄絵図にも似ていた。
「あ!」彼は小さな悲鳴を上げて、飛びのいた。彼の祖父、アンドレイが家畜のように引きずられていくのを目撃したからだ。アンドレイは何度も殴られたのか、顔中傷だらけだった。これじゃあまるで、ほんとうの地獄だ!
 愕然と立ち尽くしていたミーシャは、キッとした表情になり 
「ま、待って!待って!!」
 と叫びながら、必死に駆け出した。しかし、走っても走っても、まるっきり追い付けなかったし、それどころか距離はどんどん広がっていった。アンドレイの悲しげな横顔が遠去かっていく。と、その次の瞬間、猛火が襲いかかってきて彼はギュッと眼をつぶった。 しばらくしてミーシャはふたたびビックリしてしまった。留璃色の光りの中で、草原に茫然と立ち尽くしている自分を発見したからだ。どうしたんだろう?
 天からの陽射しがきらきらと辺りを照らしていた。誰の姿もない。…あ、これは!
 ミーシャの目の前に、サビついて埃に覆われて蔦まで這いまわっているような、スクラップ寸前のソ連軍戦車があった。なんともアーティステック(芸術的)な光景だった。ミーシャは茫然と立ち尽くしてまざまざとそれを見つめ、ほわっとした表情になった。
 サビついた機銃座にすわると、なんだかどうしようもない衝動にかられるのを感じた。 小鳥が低く、大地をかすめるように飛んでいる。ミーシャはそれをおおらかな気持ちで眺めてから、いささか興奮した気分で銃口を小鳥にあわせ、狙いを定めた。
「ダ・ダ・ダ・ダ・ダダッ!」
 もちろん、弾は一発も発射されなかった。彼が自分の口でいっただけだ。だが、それでもミーシャは、なぜだかとても興奮して、うれしくなって微笑んだ。「やった!やっつけたぞ!」
 しかし、その微笑みも、次の瞬間、凍りついてしまった。キャタピラのキュルキュルという音に気付いて振り向いたとたん、数百メートル前方からドイツ軍戦車、大勢の兵隊が迫ってくるのを知ったからだ。彼は小さな悲鳴をあげ、飛びのいた。
 ドイツ軍戦車の砲台が、矢継ぎ早に火を噴いた。直撃はなかったが、ミーシャの近くのの地面や樹木にぶつかり、亀裂が走るとバウッ!と大爆発を起こした。なおも攻撃してくるナチスドイツに底知れぬ恐怖を感じたミーシャは、戦慄し、そして必死に逃げ出した。 だが、その次の瞬間、恐怖は絶頂に達した。ミーシャは、何万人という狂気のナチスドイツ兵に周りをとりかこまれ、行手を遮られてしまったのだ。悲鳴すら掠れ、足を引っ掛けて転んだミーシャに、殺気だったナチス兵たちが容赦なく迫る。
「な、なんだ、いったい…」
 彼は思わず涙声でいった。彼らは、ミーシャの知っているドイツ人とは違っていた。ナチスだ!ナチスどもの狂気の叫びが聞こえる。
「ユダヤ人だ!汚らわしいユダヤ人だ!」
「ユダヤ人を逃がすな!殺せ!ユダヤ人を殺せ!」
「違う!誤解だよ!僕はユダヤ人じゃない!!なんでこんなことをするんだ!?僕たちは同じ人間じゃないか!暴力じゃあ何も解決しない…待て!待って、話せばわかる!」
 彼は手首をつかまれた。と、ナチスは「ヴォァ!」と訳のわからない叫びを上げて、一勢に襲いかかった。ナチスに虐殺されていったユダヤ人の老婆や少女の苦悩な表情が、一瞬、走馬燈のように彼の脳裏をかすめた。…殺される!

 ミーシャは悲鳴を上げながら、がばっとベットから飛び起きた。そこは自分の家だった。額は汗ビッショリとなって、窓からはいつものように眩しい朝日が差し込んでいる。夢だったのか……?いや、考えるのはよそう。すべては戦争が悪いんだ。 
「どうしたの、ミーシャ!」
 マリア・パンテレイエブナは大慌てで息子のところに近いづいて、心配気にきいた。ミーシャはひと呼吸ついてから、なんでもない、とほんわり微笑んだ。
  スタブロポリ地方一帯は、ロシアの籠と呼ばれていた。だから村の収穫物はなにもかも中央ロシア人たちに送られ、戦後八年も、村人たちは腹をすかせた辛い毎日を送るはめになった。ミーシャは学校が夏休みになると秋まで畑で働いた。十二歳から十六歳までの少年や小女は、年間最低50日間は働くことが出来たのだ。収穫期には休みなどなかった。 ミーシャを周辺の村の教育の中心地であったスラスノグワルジェイスクへ通わせることになり、マリア・パンテレィエブナは遠く離れた町の市場へ牛を売りにいき、その金で息子に頑丈なブーツを買ってやった。学校までは、冷たい風に吹かれながら三時間も歩かなければならなかったという。だが、ミーシャはそうしたものに順応していった。
「ミーシャ、将来は何になりたいんだい?」
 父親セルゲイ・アンドレビッチが前線から帰ってきてからは、ミーシャは父親の運転するトラクターの助手席に座った。セルゲイはくたくたになりながらも、ミーシャに尋ねた。「外交官になろうと思ってるんだ」
 ミーシャはあたり前のように答えて、額の汗をぬぐってから微笑んだ。
「そうか、外交官か。…じゃあ、よっぽど勉強しないとなぁ」
「うん、わかってる。だから、今、一生懸命やってるんだ。よい成績をあげて金メダルを貰うのが目的なんだ。政治家になるには、まず自分が人より抜きんでることだからね。そのためには何だってするよ」
「お前は認められたい、ただそれだけのためにコムソモール(共産青年同盟)に入って活動したり、一生懸命勉強しているというのかい?」
 しばらくの沈黙の後、父セルゲイは寂しい微笑みのまま、溜め息まじりに尋ねた。
「…違うよ。勉強は政治家としての知識を得るためだし、コムソモールのメンバーになることは成功するための必須条件だからさ。いままでどんなに努力しても、誰も僕のことを認めてはくれなかった。やっぱり、このステップ地帯から抜け出すのには、共産党に認められるしかないんだ。そのためには自分の心や、友人や、恋人よりも、党活動を優先し、惜しみなく忠誠心を捧げること。…利用できるものは何でも利用しなくてはね」
「………お前は、そんなにこの土地がきらいなのか?」
 ミーシャはその質問に、しばらく言葉を失ってしまった。そうではない!そういうことではないんだ。
「そんなことないよ。この土地は、好きだよ。でも…父さんたちには悪いけど…僕はこの土地で、ただの農民として埋もれたくはないんだ。夢を、自分自身の夢を、かなえたいんだ。自分がどこまで出来るのか、試してみたいんだよ。年をとってから、「あぁすればよかった」なんて後悔したくない。途中で投げ出したりもしたくない。成功するためには、この土地を出て、どうしても中央にいかなくてはならないんだよ。とにかく…人間として、男として、このことだけはやり通さなければならないんだ」
 ミーシャは、その胸に秘めた思いを熱っぽく語った。セルゲイは、しばらく自信に満ちあふれた息子の横顔をジッとみていた。政治家か…まぁ、とにかく、夢を持つのはいいことだ。いずれ挫折やもっと困難なことに直面することになったとしても、この息子ならばやっていけるかも知れない。セルゲイは、暖かく包み込むような甘い笑顔で、
「そうか、とにかくがんばれ」と、うなづいた。
「うん。一生懸命努力して…きっといつか、父さんたちが誇れるような偉い政治家になるよ。同志スターリンのようなね」
 あどけない表情のまま、ミーシャはいった。セルゲイは首を小さく振った。
「いいかい、ミーシャ。人間にとって大切なもの、失ってはならないものは人間性なんだ。血も涙もない人間に、まともな政治などできるわけがない。つねに人の気持ちを考え、人の痛みを知ろうとしなければダメだ。政治家であり続けるまえに、血の通った人間であり続けること。このことだけは決して忘れてはならないよ」
「うん、忘れないよ。絶対に、忘れない」
 ミーシャは父に笑顔をみせた。
  十八の夏、ゴルバチョフは社交的に、生き生きと生活していた。そして、党が注目してくれるのを期待して、連日、コンバインを運転し、埃まみれになり、汗だくになりながら、ひたすら働いていた。もちろん勉強も夜おそくまでやって、さらに小説や詩なども読みあさった。とにかく必死だった。何がなんでも認められたかった。無学で何の地位もない両親では、後押しなんかしてもらえない。なにもかもを自分の力でやらなければならないのだ。まずは党の御機嫌をとること、そして自分の能力を認めさせなければならない。 うってつけの人間の機嫌をとる才能を、彼はこの頃にはつかんでいたようだ。彼はこの後、労働赤旗勲章を受けたのだ。これは普通、永年勤務者に贈られるもので、めったにない名誉だった。そしてこれこそ、スタブロポリを出るための切符だった。
 共産党からは、ミーシャはあくまでもスターリン主義に忠実だと思われており、それが党に気にいられたらしい。ミーシャは自分の考えを知られないようにして、巧妙に党を利用できたのだ。このサバイル精神こそが、彼を優れた戦略家にしていくことになる。
 ロシア人のほとんどは、ただ、皇帝やレーニンや共産党に何の疑問も持たずに従うだけだった。そして、スターリンによって「無責任」にまでなってしまった。だが、それらの人々と比べ、あきらかにゴルバチョフは異質であり、違っていた。
 いわば、生まれながらのプラグマティストだったのだ。

 1950年、六月。スターリンと毛沢東がGOサインを出し、突如として北朝鮮軍が38度線を突破し、南下してきた。これがのちにいう、朝鮮動乱である。
 国連軍として参戦した米軍司令官ダグラス・マッカーサーが、北朝鮮人民軍の背後から仁川に上陸、北朝鮮軍を寸断した。戦況が一気に逆転したところで、突然、20万の中国共産党人民志願軍がなだれ込み、国連軍は38度戦まで押しもどされてしまう。あまりの人海戦術に苦戦したマッカーサーは中国軍の後ろ・北朝鮮に原爆投下を進言する。だが、トルーマン大統領(当時)に却下され、マッカーサーは「アジアの紛争にアメリカは関与すべきではない」といったのち解任されてしまう。
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という彼の言葉は、あまりにも有名である。南北朝鮮は分断されて現在に至る。が、この悲劇の元は日本であることを忘れてはならない。  だが、アメリカは彼の言葉には聞く耳もたなかったらしい。彼が忠告したにも関わらず、ベトナムに手をつっこんでいったからだ。

 一九五O年、秋。
 つめたい風が吹いて激しく頬に当たって、凍えるような寒さだった。スタブロポリの景色は、あまりにも身近にあり過ぎて、毎日歩いた道や高原も草の匂いもあらためて思うこともなかった。だけどこれからは、この土地を離れて、友達や両親とも別れて暮らさなければならないのだ。だが、ミハイル・ゴルバチョフはこの土地のすべてを心にとどめようとはしなかった。はやくモスクワにいって認められたい、この土地から抜け出して、政治家になりたい。期待と焦り、青年時代に誰もが持つ、情熱と野心…それらのことで胸がいっぱいだったのだ。規模は小さいにしても、この経験は、誰でも一度はしているはずだ。「がんばって…しっかりやりなさい」
 セルゲイは汽車に乗り込もうとするミハイルにいった。
「体に気をつけて、しっかりやるのよ。けしてあきらめたりしたらダメよ。でも……どうしても、つらくってどうしようもなくなったら、いつでも戻っておいで」
 マリアは寂しそうに、泣きだしそうになりながら言った。
「だいじょうぶだよ。ここまできたんだ、僕はけしてあきらめないし、逃げ出さないよ。それに、何も世界の裏側にいく訳じゃあないんだから…逢おうと思えばいつだってあえるさ」
 とミハイルは自信たっぷりな微笑みのままいって、母と抱き合った。マリア・パンテレイエブナの瞳が、冷たい風に吹き飛ばされそうな、はかないものになった。あんまり寒いので、白い肌は少し赤くほてり、それでもミハイルの瞳だけはきらきら輝いていた。
「いいか、この間いったことはけして忘れてはならないよ。分かってるな?」
 一瞬の静寂をやぶるかのように、セルゲイはフト、呟くように息子の耳元でいった。
「うん、わかってる。……じゃあ、いくよ。きっといつか、かならず偉くなって戻ってくる。今度、このプリボリノエに戻ってくる時は、「書記長」としてだね、きっと」
 彼は冗談めかしの感じで明るめにいった。母マリアはうつむいて、真っ赤になって涙ぐんでいた。あまりの素直な涙に、彼はわざと気付かないふりで列車に乗り込み、ゆっくりと動き出す汽車の窓を開けて、
「じゃあ、二人とも元気で」
 と、いった。
  ミハイルは、故郷に別れを告げるために国内の最高学府であるモスクワ大学への地方特待生の条件を得ていた。学部は法学部だ。彼は法律に興味がなかった。しかし、彼は理学部を受験して落ちてしまい、法学部にいくはめになったらしい。(独裁者の下での法律なんて、独裁者が好き勝手に決めたものでしかない。そのことを彼は知っていた)
 モスクワに初上京する19歳のずんぐりとした小柄な青年には、心はずむ旅だったが、窓から外を荒廃した町々が走り去っていく光景は無惨だった。
「スターリングラード(現在ボルゴグラード)はずいぶんと被害を受けたな。激戦地だったからなぁ。…ボルネジの町も…ロストフの町も…ハリコフ町も…どこもかしこも廃棄とと化している。戦争が終わってから五年も経つというのに…なんということだ!」
 ヨーロッパを吹き荒れた戦争の嵐が、ロシアの大地を破壊しつくしていた。戦後のソ連の現実をみせつけられた野心満々のミハイルは、そうとうショックを受けたに違いない。「祖国を救うために、がんばらなければならない。…そのためにはまず、どんな場所でも他人より抜きんでて、一日も早く認められることだ」
  終着駅モスクワの町は、高層建築が立ち並び、大通り沿って木々がはえている。田舎からでてきたミハイルには、黄金に輝く未来の町にでもみえたことだろう。レーニン丘の頂には、エリートしか入れない、偉大なるモスクワ大学があった。
  コサック帽とくすんだブルーの軍服のような服というミーシャは、荷物を片手にかかえつつ、憧れのモスクワの町に降り立った。そしてすぐに、コムソモール(共産青年同盟)の活動家として役割をはたそうとやっきになったという。
「おい。見ろよ、あれ!…勲章なんかつけて何のつもりだ。戦争にいったわけでもないのにさ」
「それにあの角張った服も変だぜ」
「やだねぇ、田舎者はこれだから…」
 モスクワの洗礼された学生たちは、ミハイルをバカにして笑った。勲章とは、まちがいなくスタブロポリでもらったもので、ゴルバチョフは学生時代ほとんど毎日服の上からぶら下げていたという。それだけ、認められたいという気持ちが強かったわけだ。
 学生時代、ミハイルはスポーツをするよりも、勉強していることが多かった。別に身体が悪かったというわけではない。「田舎者である自分が他人より抜きん出るためには、知識を得て自分の信念を確立するしかない」ということを、他人のあざけりや嘲笑、また都会の空気の中でひしひしと感じていたからに違いない。そしてこう心の中で何度も叫んでいたことだろう。
「いまにみてろよ」、という言葉をだ。
  ただし、けしてかれは内向的な人間ではなく、あくまで外面は社交的だった。それはそうだろう。内向的でイジイジしているのでは何も出来ないし、生きてても仕方がない。 二学期にはいるとミーシャは文化的かつ政治的に自分を磨き上げる努力を始めたという。そしてだんだんと都会的なマナーを身につけて、それを指導者になる手に使い出した。 


ゴルバチョフxゴルバチョフ アンコールブログ連載小説3

2012年02月26日 11時22分48秒 | 日記
 堂々と、ラトビアの独立派どもを踏み潰すことが出来るのだ!!

 1991年1月20日。
 プーゴは地元ラトビアの首都・リガをも血に染めた。
 ラトビア共和国内務省特殊治安部隊、通称・黒ベレー部隊が、七千人の人民戦線のメンバーが立てこもる共和国内務省ビルに奇襲をかけたのは、午後9時をまわった頃だった。 催涙弾が発射され、機関銃の射撃音が辺りに鳴り響く。
 ラトビア共和国内務省特殊治安部隊(プーゴの兵隊)が、なぜ同じ内務省のビルを襲ったのか?その理由はハッキリしていた。リトアニア共産党の場合とおなじで、内務省にも独立派とモスクワ派があったからである。
 黒ベレー部隊は、リトアニアのエリート空挺部隊と違い、アフガンや東欧の帰還兵などの、独立派や改革派を敵視する特攻隊タイプの部隊だった。そもそも部隊結成は、各共和国の組織犯罪、民族騒乱などを防止するためだった。そして、90年になって、独立派のワズニスが共和国内省に就任したため多くの隊員が反発して、プーゴの部隊に走ったのだった。
 残った独立支持者たちは、人民戦線に参加していった。
 そして、その彼らたちが内務省のビルに立て籠もり、醜悪なプーゴ軍と勇敢に戦ったのだ。だが、結果は火を見るより明らかだった。
 一時間半の銃撃戦の末、内務省ビルは占拠されてしまった。この銃撃戦で死亡した市民は、5人だといわれる。そして、ビルの中に立てこもって戦死した勇敢な男たちのなかには、二人のラトビア人警察官も含まれていた。ソ連の人間の中には、なにがなんでも特権にしがみつき、その為には魂さえ売り渡してしまうような人間が多い。だが、この警察官たちは、人間として失ってはならない「良心・人間性」というものを持っていたといえる。そして、彼等は、本当の勇気というものを持っていたのだ。
 改革派のこれからの人生、ソ連のこれからの人生は、けしてバラ色ではない。いろいろな障害にぶつかるはずだし、強大なインフレや失業者も発生し、挫折もあじわうだろう。 だが、こうした人々がいる限り、希望ももてる。まず、ソ連の人々は、「政府がなにをしてくれるのか?を考えるのではなく、祖国のために何ができるか」を考えなければならないだろう。いや、そうした考えがないかぎり何もかわらない、ということを絶対に理解しなければダメなのだ。

 プーゴはラトビアのノーメンクラトゥーラ復活という宿願をとげ、保守派の憎しみを買っていたリトアニアも踏みつぶし、非常に満足した気持ちになった。
「昨日未明の発砲は現地司令官の命令で行われたものであり、私はこれらの悲劇的な出来ごとを、翌日早朝になって始めて知った」
 ゴルバチョフは生気のない顔で語った。マスコミたちは、自分の決定にたいする苦しまぎれの言い分け、と解釈した。大統領ともあろうものが、バルトを血にそめた「血の日曜日」を一週間もたってから知った。それは西側ジャーナリストにとって信じがたいものだったのだ。だが、それは違った。
 ゴルバチョフは事前には何も知らされてなかった。そして、ランズベルギスらの声も彼には届かなかった。なぜなら、保守派に周囲を固められていたからだ。すでにこの頃、ゴルバチョフは保守派に外堀どころか、内堀まで埋められつつあった。          ゴルバチョフは大統領という肩書きにしがみついているだけ、といわれ始めたのはそれからすぐのことだった。






  一九三六年。

  こどもの頃のミーシャ(ミハイル・ゴルバチョフの愛称)は、ハンサムで着こなしもスマートで、まだ髪の毛はふさふさしていたので痣があるなんて誰にもわからなかった。彼は、コサック・スタイルの帽子をかぶって、いつも女の子相手や自分一人で陽気に踊っている、音楽好きの少年だったという。
 そしてミーシャは、隣のおしゃべりな少女、アレクサンドロワ・ヤコベンコのことも好きだったようだ。
 白いスカートがひるがえり、風が髪の毛をみだしても、彼女はかまわず水バケツを天秤棒でかついで、ミーシャの家の前の坂道をよく登ったいう。
 ミーシャは生まれつき議論好きだった。毎日夕方となると、ミーシャと彼女は両方の家の牛を連れ戻しにいった。そのとき、決まってその道すがら言い争いになったという。
 
  茶色に濁った川で泳ぐのはとても楽しい。
 女の子たちは木綿の下着姿で、楽しく笑いながらそろそろと水に入った。その日は雲ひとつなく晴れていて、空の色は何かほわっとしたような青だった。すべてが光りの中できらきらと眩しく見えた。女の子からだいぶ離れて泳いでいた男の子たちが、いたずらな笑みを浮かべながら女の子たちを追い駆け出すと、いつもミーシャが駆け寄って、
「そんなことしちゃあダメじゃないか!」
 と怒鳴りつけたり、いたずらっ子の頭をこづいたりした。
「ありがとう」
 と、アレクサンドロワは微笑んでミーシャを見た。彼女の前髪がひたいにさらさら揺れる。ミーシャの瞳は、陽の光りをうつしてきらきらと輝いていた。
  だが、けして平穏な時代ではなかった。
 こどものミーシャも、スターリンの大粛清のまえぶれとなる恐怖の高まりを感じとっていた。どの家からも人々が姿を消し始めたのである。様々な家で、兄弟や父親や口の軽い連中がいなくなっていった。そして次の日、ミーシャは学校に行ってビックリした。
 突然、教師の顔ぶれがすっかりと変わっていたからだ。なぜって?一晩で、学校の教師が全員逮捕されてしまったからだ。そしてついに、生徒達まで「人民の敵」として追放されていくと、村中に疑心暗鬼と不安が渦巻き、家庭でも、愛するものの前でも、人々は不安な毎日を送るようになった。                           いきなり何のまえぶれもなく、デッチあげの罪で家族が逮捕されないとは、誰も保障できなかった。なぜなら、追放された人達から没収した土地は、密告者のものとなったからだ。ある人はこう言った。「追放される人が出ると、その分だけ食べ物が十分になる」と。それだけ、スターリンのおこした飢餓はすごかったのだ。
  ことの始まりは、スターリンが「階級としてのクーラック(富農)を絶滅する。悪しきクーラックを、一九一八年のブルジョアジーに対するのと同じように扱う」という政策を発表し、地方党の活動家に指示したことから始まっていた。だが、実際にはクーラックは勤勉に働き、最も能率的であった。しかも、(サボり癖のついた農民よりはマシだが)たいして金持ちというわけでもなかった。三頭くらいの牛か馬をもち、一人か二人の小作人を雇っていた程度である。それどころか、彼らを迫害し、追放処分とした平均的な地元役人より収入は少なかったのだ。
 スターリンの目的はハッキリしていた。つまり、階層間の関係を消滅させたかったのだ。共産党が農民をあつめて支配下におけるように、農村に自然に誕生した指導者を粛清するのも、スターリンの目的だった。クーラック狩りは、ナチのユダヤ人迫害とまるで変わらない狂気だった。流刑は何百万という数にふくれあがっていた。
 国家機関が土地と家畜を強制的に没収してから、農民の精神や生活は少しづつおかしくなっていった。牛に餌をやるものも、農機具を修理するものも誰もいなくなっていった。自分のものじゃないから、なにをやっても無駄だと誰もが考えたのだ。ソ連の失敗のもとであり、経済がうまく働かない原因は、こうして人々を次第に「無責任」にさせたことだった。
 抵抗する農民は逮捕され、シベリア送りになった。スタブロポリ地方でも、ゴルバチョフが生まれた頃には、600万もの農家が姿を消していた。北コーカサスの川は膨れ上がった死体で埋まり、暴力と恐怖だけが農民の暮らしとともにあった。

「おとうさん、先生たちが突然変わってしまったんだ」
 農機具の手入れをしていた父親に、帰宅したミーシャはそう驚いたふうにいった。
 いつも頼りになる父親、セルゲイ・アンドレイビッチは慎重に言葉を選んでいった。
「あぁ。…たぶん、どこか他のところに連れていかれたんだよ」
「でも、どうしてなの?誰も悪いことをしているわけじゃないのに」
 セルゲイは一瞬、言葉につまった。確かに、自分の古い友人も、雑草のように抜き取られた。いいやつだった。真っ先にコルホーズに参加した陽気な農夫だった。逮捕されたと聞いた時には、無念な気持ちでいっぱいになったものだ。しかし同時に、「あいつらは人間じゃない」といいきかせることの大事さもわかっていた。有罪となった人間を認めないことが、ここで受け入れてもらえる唯一の道だったからだ。
「いいか、ミーシャ。我々は、ソ連の力を取り戻さなければならないんだ。だからこそ、それに反対して逮捕された『人民の敵』などは否認しなければならないのだよ。お前は小さいから分からないだろうが、祖国に尽くすとはそういうことなんだ」
 一言一言噛み締めるように、セルゲイは息子にいった。だが、息子は納得はしなかった。「わからないよ。先生たちはいい人だったよ。なのに、なんで突然『人民の敵』になってしまうの?そんなのおかしいよ」
「あいつらは人間じゃない。もう、そのことは忘れるんだ、ミーシャ」
 大きな口と穏やかな目をしたもの静かな父親は、無念な気持ちを知られないように、小声でいった。ミーシャはどうしても納得いかなかった。しかし、苦悩がまざまざと父親の顔にあらわれてしまっていたため、ミーシャはそれ以上議論するのをやめてしまった。
  夕食は昨日とおなじ、キビの薄いスープだけだった。それでも食べ物があるだけましな方だった。
 ミーシャのおばあちゃんは、真っ白なバブーシュカを額にきちっと巻いた背の高い女性である。敬虔なロシア正教徒の彼女は、国家の定める無神論に公然と反対して、木造に金箔を塗ったキラキラと輝く聖像をもっていた。スターリンの恐怖政治が最高潮に達すると、ほかの農民と同じように、彼女もその聖像を肖像写真の裏に隠した。それを、とり出して祈るのが彼女の日課のようなものだったのだろう。
 もちろんミーシャはおばあちゃん子だったので、あばあちゃんのことは好きだった。だけど、キリスト教の基本的な価値観を吹き込まれるのには、少し嫌な気もした。ー無理もない。共産党は宗教を禁止し、ヨセフ・スターリンをソ連の父なる神であると定めたし、学校でも子供達は「無神論」の強制されたセリフを毎日くり返し喋らされていたのだ。だが彼は、生まれながらにして、生命への愛、仕事への愛をもっていたのだ。と、親友の一人はのちに語っている。                              そうかも知れない。農民のほうが宗教を大切にするものだ。
 ゴルバチョフの父方の祖父は「中農」だった。中農とは、自分の土地は持っているが、小作人を雇うだけの余裕はない農家のことである。彼は、集団農場化に公然と逆らって、牛や豚の飼育をやめずに、わずかな生産物を売り続けた。厳しい措置をこうじたにも関わらず、コーカサスにかなりの数のそうした個人農場が残っていたことは、スターリンのサディステックな精神に火をつける結果となった。彼等の向上心をそぎ、生き延びる手段として集団農場を受ける気にさせるため、スターリンは、クーラック(富農)とともに中農をも抑圧しようと目論んだ。そして、一九三三年に「強制労働を強引に押しつけ、逆らうものについては、追放・流刑にしても殺してもいい」という権限を持った特使を派遣して実行に移したのだった。                               夜遅くなっても、ミーシャはベットに横たわったままなかなか眠れなかった。
 母方の祖父パンテレイ・エフィーモビッチ・ゴプカロの疲れきった声が、壁を通して、薄っ暗い部屋に微かに響いた。ゴプカロはプロボリノエの集団農場の議長で、家長であった。大柄でがっちりとした体格、茶色の瞳は、明らかにミーシャに受け継がれたようだ。だけど、この頃のミーシャは痩せていて、手も足も驚くほど細かった。
「大家族を養っていくには集団農場しかないと私たちは思ってましたが……今になって思えば、真違っていたんじゃないだろうか。確かに、最初の二年は良かったが、それからは…国が予想収穫量を上回る割り当てを課してからは…割り当てが果たせないので収穫物は一粒残らず没収されてしまい、プリボリノエの農民たちは飢えに苦しむようになっちまった。しかも、もう土地も家畜も自分たちの物じゃないから誰も何もしなくなった。何百年もの間、先祖代々自分たちの土地のあるこの村で暮らしてきたが、こんなに無気力で無責任になったことは一度たりともなかったろう。それは、コサックの誇りがそうさせたからだ。ところがどうだ。今では、村の誰もが疑心暗鬼になって、その誇りさえも捨ててしまった」                                      両手をきつく握り合わせ、目を遠くのあらぬところに泳がせ、苦悩にみちた表情でセルゲイはいった。
「馬鹿なことをいうな。もし誰かに聞かれでもしたら、殺されちまうぞ」
 ゴプカロはオドオドと言いながら、窓の外に誰かがいないか見渡した。誰もいない。
「そうよ。…今は、信じるしかないわ。国は絶対に私たちのこと裏切ったりしないし、私たちのことを考えてくれてる、って。現に、国はアメリカ製のピカピカに光るトラクターをー十三台もプリボリノエに提供してくれたじゃないの」
 がっちりした体格のマリアは、いぶかしげにいった。セルゲイもうなづいた。ゴルバチョフの父親は機械仕掛けの化物がプリボリノエに引き渡された日、あちこちの村から集まってきてポカンとその様子を眺めていた男たちの一人だった。
「スターリンは絶対だ!我々の指導者が間違ったことをするわけがない。我々は何もかんがえず、偉大なる指導者である、スターリン大元帥にしたがえば良いのだ」
 抑圧なスターリン政権に強力し、自分の土地や家畜を手放して安全を手にいれたゴプカロらしい発言だった。
「しかし……我々はおもちゃを与えられつつ、身も心も何もかもを奪われてしまっただけではないか。もし国全体がこのような無気力な状態であったなら、祖国はどうなってしまうのか。このままでは先がみえているのではないか、と毎晩考えてしまうのです」
 嗚咽を飲み込むように、途中でしばしば言葉をとぎらせつつまセルゲイは言った。それは、確かに的を得ていた。スターリンの「恐怖と飢餓」は南部のいうことをきかない農民を骨抜きにするもくろみだったし、共産主義の七十年に及ぶ失敗も、ここから始まっていた。だが、それでもあの頃、ゴルバチョフの家族は国を信じていたのだ。
「バカなことを考えるのはよせ」ゴプカロはけしからんと言った感じでイスから身を起こすと、そのまま場を立ち去った。残されたセルゲイは、ただ悩むばかりだった。
 フト瞳を開けると、目の前にいつものやさしい母親が座っていた。まだ夜中のようで、辺りは真っ暗だった。
「あら、起こしてしまったかしら」
「母さん。神様が夢にでてきたんだ」寝ぼけ気味に、ミーシャはいった。
「そう。神様は何て?」
「何も。………スターリン大元帥とダンスしてた」
「…もう寝なさい」マリアは優しく言った。
「ねぇ、神様はいないって学校では教えられるけど、神様ってほんとはいるのかなぁ」
「えぇ、ソビエト以外にはいるかも知れないわね」
 息子の額にキスをしてから、マリアは寂しく微笑んだ。

  熱気がむっとたちこめて草の匂いがした。
 ミーシャと父方の祖父はほんわりとしたまま、低い草原の丘に座って、地平線のはるか向こうを眺めていた。午後の草原は、なんとも爽やかで、目の前の恐怖を少なからずやわらげてくれる。どこまでも青い空、低く飛ぶ鳥、これがほんらいのプリボリノエだ。
「どうだ、ミーシャ。学校は楽しいか?」
 祖父は、まぶしそうな目で言った。
「うん」と、ミーシャはうなづく。
 それからしばらくして、祖父アンドレイは、
「そうか、それはよかった」
 と言って、とても満足な、それでいて少し寂しそうな表情をした。そして、さらに続けた。
「いいかい、ミーシャ。人間として必要なのは、わが祖国を脅かしているような「暴力」ではない。人間として、われわれがまさに手にいれなければならないのは、互いが互いを愛し合う精神であり、それを理解できる知識だ。無学なもの怠惰なものでは誰にも相手にされないし、そんな人間は国家を破滅させてしまうだろう。ミーシャ、お前にだけは、そんな人間になってほしくないのだ。だから、いいかい。毎日、本を読むようにし、そしてそこから何らかの哲学を学ぶようにしなさい。ひとりひとりの人生はあまりにも短い、一秒たりとも無駄にしないこと。そして歴史を学びなさい。歴史は人類の営みが永遠性をもっていることを教えてくれるだろう。過去から最高のものを受けつぎ、それをもとに価値観や信条をつくりあげる努力をおこたらないことだ。そして、いたずらに大勢の人間とともに行動せぬようにしなさい。本を読み、知性を磨き、自分の意見を確立して行動していくこと。たとえ相手がどんなに大勢であろうと、自分が正しいと思ったら、堂々と自分の考えや信念を誰の前でも言えるような人間になれ。甘い嘘よりも、真実を直視できる勇気をもつこと、そしてそれを人々につたえられる情熱と義務感をもつこと。いいか、そのことを決して忘れてはならないよ。わしがお前に望んでいるのは、そういうことなんだから」 祖父のメッセージは、ゴルバチョフのその後の人生哲学を凝縮したものだった。ミーシャは胸に熱いものが込み上げてくるのをひしひしと感じていたに違いない。人間にとって知性こそが必要なのである。相手が何万人いようとも自分の信念を貫き通せる人間になろう、このさきどうなろうと、勇気と義務感を忘れないようにしよう。祖国のために…。そのためには、まず自分の知性を磨き、人に抜きんでることだ。
「毎晩、夢にみるんだ。お前が、大勢の人々の前に立ち、指導者として喝采をあびている光景を。人々を正しい道に導くお前の姿をね」
 祖父は限りないやさしさに満ちた微笑みでいった。ミーシャはにこりと微笑んで、答えた。「わかったよ、おじいちゃん。本を読むようにするよ」
 二人の間に、真実の絆がもたれた瞬間のようにも見えた。だがその絆も、恐怖の力により、突然に断ち切られることとなる。
  一九三七年に、父方の祖父が逮捕者リストにのせられた。証拠もなにもあったものじゃない。ごく普通の人が密告者に変わり、仲の良い隣人をクーラックと名指しするのである。…ある夜。
 ゴルバチョフの父方の祖父は台所にいたところを秘密警察に引きずり出された。何の理由も告げられなかった。そのごろつきたちは酒や金目のものをかっぱらい、女たちは恐怖におののき悲鳴すら上げられず、家畜のようにひかれていく彼を、ただ泣きながら見ていた。四十人ほどの村人たちとともに、ゴルバチョフの祖父も馬車に閉じ込められる。犠牲者と知り合いだったものが彼らに銃を突きつけ、幼い子供たちまで「クーラック野郎」と呼び、村人はいっせいに罵声を浴びせ掛けていた。まるで家畜以下の扱いだ。
 ゴルバチョフの祖父は収容所七年の刑を宣告された。すべては隣人のせいだった。当局は、老人が集団農場の収穫物から四Oポンドの殼物をくすねてかくしておいたという非難を言葉巧みに引き出したのだ。祖父らはその日のうちに監獄に連行された。それまでの数日の間、与えられたのはスープかお茶だけだった。その為、幼い子供たちはバタバタと死んでいったという。
 祖父が連行された翌朝、ミーシャはいつもと同じ朝を迎えた。濁った川のまわりに霧が立ち込め、時がとまったかのような穏やかな朝だった。あとで、祖母が恐ろしい前夜の出来ごとを苦悩に満ちた口調で話すなんて、彼はその時、考えられなかったことだろう。
 地元の人々は流刑者を無視するように、人間と思わないように、厳しく命じられていた時代だった。感受性の強いミーシャにとって、祖父の存在は「恥」だ、と思う気持ちがじわじわと染みこんでいったに違いない。
 しかし、その祖父は数年後、思いがけなく戻ってきた。スターリンの右腕として粛清を実行していたエスホフが処刑されたからだった。スターリンの恐怖政治の間に「国家の敵」として銃殺されたソ連市民は七八万六O九八人だった。しかもほぼ全員が無罪だった。シベリアで地獄の苦しみを味あわされている中から解放されたことは、祖父にとって幸運なことだったろう。だが、「恥」と思う心はミーシャの角質に張り付いて、離れることはなかった。

 ゴルバチョフが一O歳の時、父親は戦場にいき、五年間会えなくなった。
 父親は戦闘工兵として戦った。ドニエプル川渡河の功に対して勲章をもらっている。
  一九四二年、プリボリノエはドイツ兵に襲われた。ドイツ兵は津波のように押し寄せたが、誰も抵抗はできなかった。機械も馬も牛も、熟練したトラクター運転手も、何もかもを戦争に取られてしまっていたからだ。だが、最初のうち、この地方の人々の一部はドイツ人を歓迎していた。「ドイツ人が、(スターリンから)我々を解放してくれる」と思ったようだ。だが、すぐに化けの皮がはがれた。ドイツ兵は食料とユダヤ人を探した。そしてユダヤ人を集団農場に収容した。そして、女や子供や老人などおかまいなく、近くの川でユダヤ人たちを虐殺していったのだ。
 ヒトラーは、ユダヤ人だけじゃなくソ連人も大嫌いだった。「汚らわしくて、貧乏くさいボルシェビキ」と演説でもはっきりいっていた。それはナチスドイツによるロシア侵攻の野望のファクターの一つとなっていたのだろう。結局のところ、ナチスドイツにしても帝国日本にしても他国の人間を犬ころ以下ぐらいにしか考えていなかった、だからこそああいう馬鹿なことが出来たわけだ。それは、サダム・フセインも同じだ。
 ドイツ占領中、十一歳のゴルバチョフは母親とともに畑で働かされ、なんでもかんでも手作業で収穫させられていた。母親のマリア・パンテレイエブナは十数人の女たちの班長をし、物ごとを実行して誰の前でもはっきりと意見をいうやり方を、ミーシャに身をもって教えた。こうして彼は強い女性を尊敬するようになっていったという。
 ゴルバチョフは頑丈なからだになり、一人息子で活動的だったのでとても大事にされた。ソ連の戦死者は二七OO万人にのぼり、そのほか一五OO万人の男性が負傷したり手足を失ったりしたという。この世代の母親が息子を大事にするのも、そうしたことを考えれば、当然といえるだろう。
 ドイツ軍によるプリボリノエ占領は一九四三年一月まで、約五か月間続いた。ゴルバチョフは党員として出世の階段を上がる努力をつづけているとき、占領地に住んでいたという経歴がバレないように注意していた。なぜなら、ドイツ軍と勇敢に戦った兵士が家族のなかにいるという事実をもってしても、その汚点を拭い去ることは出来なかったからだ。スターリンなどは妄想にこりかたまっていたから、ナチスの強制労働キャンプに収容されていた人達が解放されて戻ってきても、「ナチスの協力者ではないか」と疑って、今度はスターリン強制労働キャンプに送ってしまったぐらいだった。             しかしミーシャはドイツ兵をナチスとはみてなかったし、激しい敵意を抱かなかった。 数人の若いドイツ兵が地元の娘たちといちゃついているところに、ロシア人の少年たちが行き合わせたとき、少年たちは敵意をムキだしにした。だが、ドイツ兵の一人がロシア語を知っていたので、やがて彼らは打ちとけ会った。ミーシャはいった。「スターリンとヒトラーはワインを飲みあっているのに、ロシア兵とドイツ兵は殺し会ってる。でもそれは、われわれのせいではありません」                        一九四三年・二月、スターリングラードでドイツ軍壊滅。六月、コミンテルンの全組織解散。七月、クルクス会戦でドイツ軍に壊滅的打撃。そして一九四四年・四月、レニングラードでドイツ軍を粉砕。その勢いでソ連軍は東欧(八月ブカレスト、九月プラハ、ソフィア、十月ベオグラード、四五年一月ワルシャワ、二月ブタペスト)に侵攻した。この頃、バルト三国はすでにソ連に併合されていたという。
 それから四五年・五月、ドイツが降伏し、八月、日本が原爆を落とされて降伏した。 

ゴルバチョフxゴルバチョフ アンコールブログ連載小説2

2012年02月26日 11時21分12秒 | 日記
「外相という重要なポストを単に嫌になったからといって辞めるほど私は無責任ではありません。苦しみ、考え抜いて得た結果でした。いつ頃から辞任を考えるようになったか、その具体的な日時はハッキリとはいえませんが、反動勢力、保守層の脅威が強くなるにつれ………私独自の結論が必要だと考えるようになりました。今ソ連で起きつつある反社会的な動き、反ペレストロイカ的動きに対して、強力な抗議と警告が絶対に必要だと思ったのです」
「……トビリシの虐殺も、辞任をかんがえる上でのファクターとなったのかね?」
「もちろん、それが大きな要素となったことは間違いない。しかし、もっと大きな問題は、事件の後の様々な出来事にあります。たとえば、事件後人民代議員大会はサプチャーク・レニングラード市長を団長とする調査団を送り込みましたが、これとは別に軍事検事局も独自の調査書を提出しました。最終的に人民代議員大会への報告書は、軍が深く関与した「共同報告書」という形になってしまったのです。これは、とても許せるものではありませんでした」
 シュワルナゼは大きく溜め息をついた。(トビリシ事件は、1989年4月9日グルジア共和国の首府トビリシで起きた。独立をもとめてデモを行っていたグルジア人にソ連正規軍が襲いかかり、公表21人の死者と1100人の負傷者がでた。グルジア側の発表では、死者80名。ゴルバチョフがクレムリンを離れてクリミア半島で静養中の出来事だった。デモ武力制圧の命令を軍に下したのはヤゾフ国防相とされるが、彼のうしろで糸を引いていたのが当時の政治局ナンバー2の地位にあったリガチョフであった)       グルジア出身のシュワルナゼにとって、トビリシの虐殺事件は大変なショックだった。なぜなら、その時彼は中央政府の要職についていたからだ。それにも関わらず、あの虐殺を止められなかった。…彼は、自分自身が許せなかった。と同時に、グルジア人も彼を許してくれないことを痛いほど分かっていた。
 そして、この時、シュワルナゼの顔に映った寂しく孤独な表情は、故郷グルジアに対する郷愁の思いを何よりも雄弁に物語っていた。
「同志エドアルド・アムヴロシュヴィッチ。もう一度考えなおしてくれないか。……きっと後悔することになるぞ」
 ゴルバチョフの言葉に、シュワルナゼはきっぱりといった。
「いいえ、決して後悔しません。それどころか自分のしたことに誇りを持っているくらいです。…残念ながら今日の多くの政治家にとっては、なにがなんでも政治家であり続けること、権力にしがみつくことが一大目標であり、政治家になるためなら自分の魂さえ売り渡すような人間が極めて多い。そうした過程のなかで、人間としての最も重要なものを失っていく。政治家にとって大事なもの、政治家として失ってはならないものとは、人間性であると信じています。血も涙もない人間にまともな政治ができるわけがないのです。このアプローチが私たちの「新思考」の重要なファクターとなってきたはずです。冷戦構造も終り、新しい時代の訪れと共にこのような人間的な面がますます重要になると私は確信しています。もはや、冷たい官僚主義ではもはや政治はやっていけないのです。……そのことを、閣下にわかってほしかったのです」
「……そんなことはとっくにわかっている。何度も言っている通り、改革にたいする私の心はいまも変わらない。なにがなんでも、ペレストロイカを成し遂げなければならないと考えている。しかし、そんなとき、沈みかけた船を見捨てて君は去ろうとしている。どんなに理由をつけようが、このことは無責任極まりないことだ。そうは思わないかね?」  何と言う勝手な言い分だ、シュワルナゼは思った。それから、ふっと深いため息をついて椅子にもたれかかった。
「…閣下は私が辞めたのは無責任だとおっしゃいましたが、その言葉を聞く限り、私がなぜ辞める決心をしたかを全くお考えになってなかったようですね。ただ、仲間が去っていくことに対する怒りしか感じられませんでした。私は政治家としての責任を感じて辞任したのです。改革を国民に約束しておきながら、それを果たせないことに対する責任を感じたからです」
「結論をだすのは、時期尚早だろう。改革には時間が必要なのだ。それは君が一番良く知っているだろう?私は今、全力を尽くして突っ走っている。国内情勢は確かに混沌としており矛盾に満ちているが、まだ事態を好転させるチャンスはあるはずだ」
 ゴルバチョフの言葉がフイにやわらかなものになった。
「もちろん改革に時間がかかるのは知っております。なぜなら、過去七十年間にわたって蓄積された悪政の結果が、一年や二年で変えられるわけがないからです。確かにチャンスはあるでしょう。その鍵をにぎるのは、少し楽観的ですが……革新派の出方です。彼らが、どんな土台や綱領を作って閣下をバック・アップしていくかにかかっていると思います」「……それが分かっていて、なぜ辞めるのだ?私は、君にこれからもバック・アップをしてもらいたいと願っている。…国が今どのような状況にあるかは十分に理解しているつもりだ。今、ソ連は重病にかかっている。だが、きっと助かる。いや、助けなければならないのだ。そのためには、古い体制から新しい体制への出口を探さなければならない。そして、こんな困難な時期だからこそ君の力が必要なのだよ」
 静かで丁寧な口調だった。
 シュワルナゼはちょっとためらった。
「何度もいうが、改革にたいする責任をとるのには時期尚早だ。君の気持ちもわからなくもない。だが、だからといって辞めてどうなる。ソ連という船は沈んでしまうのだ」
「……改革は私たちの夢でした。その改革の、ペレストロイカの旗手が閣下でした。これからのソ連社会を根本から改革できるのはミハイル・ゴルバチョフしかいない。そう信じていました。そして、自分も微力ながらなんとか貢献したい、閣下にどこまでもついていこうと自分自身に誓ったのです。心の底から。何もかもを投げ出してでも、と。
 閣下は驚くべき改革を行いました。素晴らしい仲間も集まりまってきました。ところがいつの間にか、議論だけが先行し、皆の心から改革のことが忘れ去られていきました。しかも、現状を見る限り、これからよくなるという根拠はどこにもない。……私は夢にやぶれました。私には去るしかなかった。だが、信念を捨てたわけではありません」
 しばらくの静寂が辺りを包んだ。それから、ゴルバチョフはひどくつかれたように言った。
「こんな無能な大統領ではもうダメだ、というわけかね?国民のいう通りだ、と…」  「いいえ、そんなことはけしてありません。ただ、現状に満足できないだけです」
「現状は絶対に改善される!私はこれでもベストを尽くしてきたつもりだ。だが、それはけして自分のためではない。すべては祖国のためだ!私のかわりに誰かが改革をやってくれるなら、私はいつでも辞めるつもりでいる。だが、そんな人間がこのソ連にいるかね?国民はエリツィンならやれると考えているようだが、それは無知というものだ。人気とりのために、私への攻撃や保守派のこきおろしばかりやってはいるが、あの男には絶対に限界がある。大衆の前でいい格好ばかりし過ぎるのだ」
 シュワルナゼは二、三度うなづいて、
「おっしゃることは分かります。まがりなりにも今のソ連をひっぱっていけるのは閣下だけです。……それだけにいまの現状に満足できないのです」
「私が保守派に妥協していることか?国民や西側の無責任なジャーナリストたちは、大統領は『保守派の操り人形』になった、などといっているがそれは考え違いというものだ。国民や西側ジャーナリストなどに何が分かる?我々はそうした連中に、そんなことはない、断じてそうではない、というべきなのだ。もちろん保守派にはブレーキをかける。そして叩き潰してやる。だが、いまは時期がわるい。今の我々では勝ち目がないし、たとえ勝っても議会は混乱に陥る。彼等の支持なしでは法案ひとつまとまらない。タイミングというものが大事なのだよ。そして、改革のためには生き残ることが重要なのだ」       ゴルバチョフはひややかに言った。                        シュワルナゼの口元から溜め息がもれた。それは、微量な疲労がまじっていた。
「確かに、ちまたでは閣下は保守派に転落したなどという無責任なことをいう人間が多いことは確かです。それは、西側や我がソ連保守派のプロパガンダに踊らされていっているのでしょうし、そのことはきっといつか世界も理解してくれるでしょう。閣下は偉大なる政治家であり、現状が悪いからといって閣下のことを批判する資格は誰にもありません。ですがその一方で、保守派は時間とともに強力になっていくばかりです。このままでは改革は挫折するかもしれない。このままでは、これまで私たちがおこなってきた努力が、帳消しになってしまいます。…私は残念でなりません……なぜなら、閣下は…」
 シュワルナゼは途中で言葉を切った。これ以上いったらケンカ分かれになってしまう。それは、あまり望むべきことではない。
「私が………何だ?はっきりと言いたまえ、エドアルド・アムヴロシェヴィッチ」
 シュワルナゼは一息ついてから、ひどくつらそうに言った。
「………閣下が保守派を一掃することは、もはや出来ないかもしれません。なぜなら、閣下は保守派にいつも監視されているからです。しかも、いつも閣下のそばにいる保守派の代表は、閣下を意のままにあやつれるほどの力をもっているのです。…ですが、それでも私は諦めません。もう一度、閣下の瞳に、あの頃の輝きがもどることを信じています。私にとって閣下は、世界の何十億というひとびとに希望をあたえた偉大なる政治家です。そして、その思いはどんなに月日が流れようとも変わることはないはずです。…お世話になりました。もう連絡はしないでください。私の決心は絶対に変わりません。閣下…閣下のご恩は生涯忘れません。どうかお体をたいせつに、我々の分もがんばってください」
 ガチャ、と受話器を置いてから、シュワルナゼは目頭に熱いものがこみあげてくるのを感じて、思わず天井を見上げた。どうにもやりきれない気持ちだった。こんなにも自分の無力さを感じたことが、今まであっただろうか?
 ステンド・グラス張りの天窓から、七色の幻想的な光りが彼のもとにそそがれていた。シュワルナゼはジッと天を見上げ、立ち尽くしていた。そしていつのまにか、目の前が薄くぼやけて、見えなくなった。
 ゴルバチョフはしばらく呆然としてから受話器をおいた。             「私が否定されてしまえば、反動の波がペレストロイカを容赦なく洗い流してしまうだろう。……これからが正念場だな」                          窓の外にひろがる冬空を見上げながら彼は呟いた。…なんだか妙に不安な気持ちだ。ゴルバチョフの顔に、一瞬憂いと疲れがよぎった。
 彼はこの時、分からなかった。監視役として自分のそばについている保守派の代表とは誰のことなのか。そして、この後、ビリニュスやラトビアでおこった『血の弾圧』のことも。そして八月十九日に起きた、クーデターのことも……。


 保守派によるクーデターは、まるでドラッグのように静かに、そして急速に広がり、生き返りつつあったソ連を崩壊の道へと追いやりつつあった。
 ゴルバチョフが保守派に屈したと西側のマスコミからささやかれだしたのは、改革派で、国民に人気のあったバカーチンを更送し、その代わりに保守派のプーゴを就任させた頃からだった。この交代の裏で、保守派の大攻勢が行われた。そのために、ゴルバチョフはノーベル平和賞の授賞式という晴れの舞台にさえ出席することは出来なかったのだ。    結果は無惨なものだった。シュワルナゼ氏が辞意表明し、そしてこの後、あの悲劇につながっていった……。
  ゴルバチョフは高級車のシートにもたれながら、防弾ガラス越しに、寒空にパンや食料を求めて並ぶ行列を凍り付いたような表情で見ていた。               例年よりも行列が長くなっている。そのことは、とてもやりきれるものではなかった。 ではなぜ、昨年、ソ連は小麦が市場空前の豊作だったにも関わらず、こういう状態になってしまったのか?それを、ゴルバチョフは最近になって知ることになった。
「庶民をここまで苦しめているのは保守派であり、ノーメンクラトゥーラだ。彼等は巨大な行政機構をバックに、経済機能をマヒさせるという手を使った。そのサボタージュ作戦は、結果的に大成功を収めた。昨年、我が国では豊作だった。しかし、収穫段階と輸送・貯蔵段階における大掛かりなサボタージュにより、3分の1は収穫されなかったり、輸送段階で横流しされたりした。このツケを払わされるのはいつも庶民だ」
 ゴルバチョフはその事実を、苦々しく心のなかで呟いた。ノーメンクラトゥーラの巧妙なサボタージュとはこうだ。例えば、集団農場・コルホーズで豊作となり、収穫するに人手が足りないから、その農場では政府の機関に一時的に労働者を派遣してほしいと要請する。しかし役所では、そんな労働者はいないと断る。結果として、収穫量は例年とかわらなくなり、また役所はそれを運ぶ大型トラックも倉庫も足りないと口実をつけて回さない。よって、収穫したほとんどのものが腐ってしまい庶民にはなかなか手にはいらなくなる。 これが、俗にゆうペレストロイカ殺しのやり方だった。
 いくらゴルバチョフが市場経済導入による経済の効率化・活性化を叫んでも、市場から商品がなくなっていくのでは、庶民がゴルバチョフを信じられなくなるのも無理からぬことであった。そんな保守派のサボタージュを庶民は当然ながら知るわけもなく、庶民の間からは「ぺレストロイカなんてなんにも良くならないじゃないか」「ブレジネフ時代のほうがよっぽど物があったぞ!こんなことになったのはすべてゴルバチョフのせいだ」という声が飛び出すようになる。それが保守派の狙いだった。
「シュワルナゼの気持ちも、わからないでもないな」
 ゴルバチョフの顔が苦悩にみちたものになった。祖国はほんとうに存亡の危機に直面しているのではないか、そんな不安が一瞬、ゴルバチョフの頭の中によぎった。
 そしてその不安は、ゴルバチョフがソ連法に従うようにリトアニアに要求した翌日に起こった弾圧事件で、さらに深刻なものとなった。

 バカーチンが解任されて、代わって内省に就任したのは、共産党中央統制委員会議長のボリス・プーゴという男だった。それは、世界にとってもショックなことであった。この男のやつてきたことは、ノーメンクラトゥーラの特権擁護や国民を監視することだけで、一度も生産的なポストについたこともない、ただの保守派だからだ。しかも、プーゴの副官役を務めることになる内務第一次官には、元アフガン駐留軍司令官で保守派のリーダーと見られていたボリス・グロモフという人物であった。
 どうしてこんな人事がおこなわれたのか?それはゴルバチョフの力が衰えていたからだ。(ノーメンクラトゥーラは別名、赤い貴族と呼ばれていた。この人々がソ連最大のガンであり、ペレストロイカに強く抵抗しているのだった。この特権階級に属するのは共産党の市委員会の役職者以上、コムソモール(共産主義青年同盟)の幹部、高級官僚、軍の高級将校、官製労働組合の幹部などであり、これ以上のポストがノーメンクラトゥーラである。推定で70万、家族もいれると約240万人が属するといわれる。なぜ彼らがペレストロイカに抵抗するのか、それはノーメンクラトゥーラに生まれればあらゆる特権が保障される、だからその特権を守るだけのために反対しているのだ。
 特権とは、まず行列にならばなくていいことがある。なぜなら、職場や秘密の場所に専用の売店があるからだった。また定期的にキャビアなどの贅沢品や高級輸入品の配給もあり、上質の肉や野菜なども簡単に手にいれられる。そして、ほとんどのノーメンクラトゥーラは別荘(ダーチャ)や高級な自家用車も持てる。(これはインドのカースト制と同じようなものだ)いわば、こうした人々はソ連という不平等社会の支配階級なのである。
 ソ連の消費レベルは世界第77位で、文化レベルもけして高くはなく、バレエやオペラなどは特権階級のものでしかなかった。軍事力だけで経済はダメな巨大なる発展途上国、それを歴代の指導部は国民にしられぬように、KGBという巨大な赤い貴族の番犬と、軍を使って監視してきたのがソビエトの真の姿だった。それをゴルバチョフがグラスノスチ(情報公開)を打ち出し、国民に自分たちの置かれている状況を知らせてしまった。それにより、エリツィンは声を大にしてあらゆる特権を暴きだし、庶民の喝采をあびたのだった。そして、モスクワやレニングラード(ペテルブルク)で行われていた多くの特別配給店や特権階級のレストランでは規模の縮小や廃止に追い込まれた。また、ノーメンクラトゥーラ専用の病院の多くが庶民に解放されることになった)
 そんな、ノーメンクラトゥーラの特権擁護をしてきたプーゴが、30万人もの警察機構の頂点に立ってしまった。内務省は一般警察だけではなく、民族紛争をも鎮圧できる治安軍まで持っている。そしてプーゴは、西側が大嫌いでもあった。それは彼が「我が国に西側からの大量の物資が送られてきているが、それを善意だとおもってはなりません。その物資は有害物質がまざり、放射能に汚染されているのです」と人民代議員大会の演壇で述べたことでも分かる。こんな人間が、なぜバカーチンほどの有能な政治家に代わって内省のポストについてしまったのか?これもひとえに、ゴルバチョフが妥協してしまったからだろう。
 これは確かに、危険以外のなにものでもなかった。
  保守派による、経済機能をマヒさせるサボタージュがうまくいき、90年にはいって経済自由化の混乱の中で、人々の憎しみはKGBなどの抑圧機関から食べ物もくれないゴルバチョフに向かい始めた。そしてKGBの頂点に立つクリュチコフ、ヤゾフ国防相、プーゴらペレストロイカに不満を持つ面々は、それを機会に静かなクーデターを起した。
 クリュチコフは、職権を利用してゴルバチョフの身近ガードを自分の息のかかった職員(KGB第9局)で固めて、ゴルバチョフを誰にも分からないように隔離した。そして、純粋なマルクス主義者であるライサ夫人をも操って、ゴルバチョフを洗脳していった。
 こうした保守派のクーデターは大成功だった。シュワルナゼやバカーチンを追い落とせたし、ゴルバチョフをいいように利用できるようになったからだ。しかし、プーゴはそんなことぐらいでは満足がいかなかった。
 ずっとプーゴは機会を窺っていた。そして、ラトビアを追われてから待ち侘びていた機会は、意外と早くやって来ていた。ゴルバチョフの命令ということにすれば、バルトの反乱分子を鎮圧できるのだ。プーゴは、こみ上げてくる笑いをこらえるのに苦労した。
  オフィスは内装も豪華ですばらしく、壁にかかった絵も、ソファも、まるで帝国ロシア時代の宮殿のようなつくりだった。ある夜、そのオフィスでプーゴとヤゾフによってこんなやりとりがあった。
「元帥、そろそろリトアニアとラトビアを血祭りにあげた方がよいと考えます。このまま奴らをのさばらせておくのは我々のためにならない。できるだけ早く、ペレストロイカ組の首をへし折って、我が祖国の秩序を回復しなければならないのです。元帥、もちろん協力してくださるでしょうね」
 プーゴの真剣な表情に、ヤゾフが声を上げて笑った。
「もちろんだ。(ラトビアより過激で保守派に憎まれている)リトアニアを血祭りにあげられれば、我々は大喜こびだ。よろこんで協力させて頂きますよ」
 ヤゾフはニヤリと笑った。弾圧に使う兵力は、ヤゾフ国防相が付けてくれた。しかも、最強のエリート部隊をである。                            プーゴにとって、血の弾圧は、モスクワ派から独立派への総攻撃であったに違いなかった。その結果は、突然にソ連軍がリトアニアの印刷所を占拠し、そして「血の日曜日」としてあらわれるのであった。

 ソ連軍戦車が動き出したのは、十三日の日曜日未明のことだった。
 停電によって闇に包まれたリトアニアの首都ビリニュスに、戦車の轟音が響き渡る。
「ソ連軍がこのテレビ局のほうへ向かってきています。皆さん、注意してください!」
 ビリニュス放送のアナウンサーはそれから、共和国を守るように国民に叫び続けた。
 ラジオ・テレビ局を守ろうと集まった数百人の独立支持派を蹴散らして、戦車は猛烈な勢いで進んでいく。催涙弾が発射され、機関銃の激しい射撃音が響き渡る。
 送信塔を守るために駆け付けた市民のなかには、戦車のキャタピラに引かれて体がちぎれそうになっている男の人もいた。ソ連の兵士は女性を含めてみんなを殴りまくった。
 通りに集まった数千人のビリニュス市民は「リトアニア、リトアニア」と叫び、侵略者に抵抗するためにお互いの肩を組んで、放送局を取り囲んだ。みな独立への歌を歌いながら、迫ってくるソ連空挺部隊と睨み合ったのだ。
 だが、結果は火を見るよりあきらかだった。
 道をあけさせるために、一台の戦車が空砲を発射した。そして約二十分後、奇襲部隊が窓を壊して建物に侵入した。
「露骨な武力によって放送が妨害されています」と、徹夜で放送を続けていたラジオ・ビリニュスのナウンサーは告げ、そしてこうメッセージを送った。
「私の声が聞こえなくなったら、ここが占領されたということです」
 間もなく放送は途絶えて、ビリニュスの空に空襲警報が鳴り響いた。これは第二次世界大戦以来の異常事態だった。
 戦後始めてビリニュスの空に空襲警報が鳴り響く中、共和国を守るように呼びかけるラジオ放送に応じて街頭に集まった群衆にソ連軍兵士が発砲し、催涙弾を発射していく。上空を飛ぶヘリコプターの音に、時折銃声が混じり、ある老人は「なぜこんなことをするのだ」と涙を流して叫んでいた。
 この衝突だけで少なくても十四人が死亡し、150人以上が負傷したという。
  ランズベルギス・リトアニア最高会議議長は側近とともに、バリケードで封鎖された最高会議場にこもっていた。戦車の動きを封じ込めるためにバスやトラックが通りに止められ、10万以上とみられる独立派市民(小銃や火炎瓶をもった人もいた)が会議場の周辺に集まっていた。皆、侵略者から共和国を守るために立ち上がったのだ。
 ランズベルギス最高議長はかなりあせっていた。善処を求めるためにゴルバチョフ大統領にホットライン(直通電話)を通じて7回も電話をかけたが、
「大統領は食事中で電話に出られない」という側近の冷たい返事しか返ってこなかったからだ。これは意図的に保守派によって仕組まれたものだった。保守派が、ゴルバチョフにつながらないように握り潰したのだ。
  結局、ソ連軍によって、警察や軍、鉄道関係の建物、電報局などが占拠された。
 ソ連軍は、この91年1月13日に起きた事件について、
「リトアニア国家救済委員会の要請に基づいて、反乱分子を武力鎮圧したものだ」と発表し、近く同委員会を正式にリトアニア政府と認めることをにおわせた。
 もちろん、「国家救済委員会」はリトアニア共産党の”親モスクワ派”が中央の保守派の命をうけてデッチ上げた、傀儡組織である。
「私たち中央は、何の指令も出してない。空挺軍は『国家救済委員会』の要請により、独自の判断で出撃したのだ」とプーゴはまことしやかにウソぶいて、批判を突っ撥ねた。
 この武力行使は、軍部が政治的影響力を強めていることの一つの証拠にすぎない。軍は、共和国の独立を絶対に許さない構えを示したのだ。
 その後、軍は夜間外出禁止令を発し、デモとストライキは禁止すると発表。(最高会議は日曜日を服喪日と定め、協会の鐘を鳴らすよう市民に求めた。また政府が倒された場合には、ポーランド訪問中のアルギルダス・サウダルガス外相に全権を委ねることも決まった)
 湾岸危機が緊迫しているさなか、日曜日の武力行使を知ったアメリカは非難の調子を強めた。ベーカー国務長官は、
「ゴルバチョフの『基本的原則』と大きく矛盾している」と避難し、さらに「米ソのパートナーシップはソ連の改革が今後も続くか否かにかかっている」と警告を発して、ソ連に対する食料援助を見直す可能性を示唆した。
 すでに、リベラルな立場で制作されていたテレビ番組「視点」の放映は禁止され、活動を厳しく規制されていた。隣国ラトビアはリトアニアへの武力行使を「軍事テロ」と非難し、ハンガリーへの軍事介入(一九五六年)と同じレベルである、と決め付けた。
 エリツィン・ロシア共和国最高会議議長も、リトアニア弾圧を契機に、
「さまざまな地域で暴力がエスカレートし、大規模な内乱を誘発する可能性がある」と警告した。そう、軍部が今後も、民族主義者への締め付けを強化するのは明らかだった。そして、その危惧は、それから1週間後に現実のものとなる。
 リトアニアを始末したプーゴが、いよいよ宿願であるラトビアの弾圧に乗り出したのだ。今度は、自分の兵隊を使うことにした。
「今度こそ、やつらを始末することができるだ!二度と「独立」などといえないように叩き潰してやる」
 プーゴは心の中でそう呟くと、ニヤリと悪魔の笑みを浮かべた。その目はギラギラと輝き、醜い顔は明らかに興奮していた。もはや、彼の前に立ちはだかるものは何もない。 


ゴルバチョフxゴルバチョフ アンコールブログ連載小説1

2012年02月26日 11時18分40秒 | 日記
 GORBACHEV
                                                                                   GORBACHEV                               

              

     ゴルバチョフxゴルバチョフ
                                    
  まえがき

 80年代後半、ミハイル・セルゲイビッチ・ゴルバチョフという政治家によって世界は大変革をとげた。永遠に続くかと思われた「冷戦」による米ソの軍事競争にピリオドがうたれ、大量殺戮の恐怖もさった。ベルリンの壁が崩壊し、ルーマニアのチャウシェスクが倒れ、東西が対立していた欧州大陸はゴルバチョフのシナリオどおりに、世界平和に向けて突っ走るかに見えた。少なくとも、ヨーロッパには平和がもたらされると誰もが希望に胸を膨らませていた。ただしそれには、ゴルバチョフが失脚しないで、彼の意思を政策に反映できるかぎり、という前提があった。しかし、残念なことに、世界は「新秩序」とは逆方向に激変しつつある。   新思考外交を担ってきたシュワルナゼ元外相が「我が国に独裁がやって来つつある」と拳を振り上げて叫び、辞任した。そして、世界を変えた男・ゴルバチョフも保守派、党、軍らの巧みな復権によって実権を奪われ、失脚させられてしまった。その理由が、健康上の理由というのだからおそれいる。保守派は経済改革をする気もないらしい。ソ連の人々は歴史的にいって、自由だとか私有財産制というものを経験していない。ボルシェビキ革命以来、70年にも及ぶ悪政に苦しめられてきた。だから、経済を知らないのも仕方がないだろう。だが、保守派が権力を掌握した状況にあって、嘘っぱちのペレストロイカ路線で西側に援助してもらうとするのは、完璧に間違いだ。ドブに捨てることにしかならないし、そんな金は西側には1ドルだってないのだ!民族紛争、内戦、さまざまなことが。それによって西側に大量の難民が押し寄せることになる。冷戦体制が崩壊し、ソ連は消滅した。政治家ゴルバチョフは徹底した現実即応型の合理主義者で、機能するものは追及し、機能しないものは放棄する。だから、民族の反乱と経済破綻から来る保守派の反撃をしのぐために彼は権力にしがみついていたのだ。彼の最悪な点は、改革が中途半端であったことだ。保守派がクーデターによって権力を握った。だが、保守派がいくらソ連を動かし、ブレジネフの時代まで逆戻りさせようとしても、民主化や自由化のダイナミックな動きは誰にも止められはしなかった。それらのソビエトの改革がこれからスタートしようとした矢先、改革の旗手であったゴルバチョフが追い落とされてしまった。これはソ連にとって、そして全世界の平和、秩序、ブッシュのいう「新世界秩序」にとっても非常に不幸なことだったといえる。私たちは、まず、ミハイル・ゴルバチョフの人間性、成長過程、心理などを理解しなければなるまい。そして、激動のソ連、ロシア、ゴルバチョフ政治・失脚のすべてをだ。
 この物語を読むことによって、ぼんやりとしていたゴルバチョフ像が、読者の心に、はっきりと鮮明に刻まれることを期待してやまない。

          ゴルバチョフ大統領の略歴
1931 北コーカサス・スタブロポリ郊外の農家に誕生
1950 モスクワ大学法学部入学
1952 入党(21歳)
1954 哲学科のライサ・ティトレンコと結婚
1955 モスクワ大学卒業、スタブロポリへ帰郷、同地方コムソモール宣伝副部長に 1958 スタブロポリ地方・コムソモーム委第一書記
1962 スタブロポリ地方・党委組織部長
1966 スタブロポリ市党第一書記
1967 通信教育でスタブロポリ農業大学を卒業
1970 スタブロポリ地方党第一書記
1971 党中央委員就任(40歳)
1972 ベルギー訪問
1978 書記局入り、農業担当書記に
1979 政治局員候補
1980 政治局員に昇格(49歳)
1983 国会代表団団長としてカナダ訪問
1984 イデオロギー、組織部門掌握、ナンバー2の座に。英国訪問、サッチャー       首相と会談
1985 チェルネンコ死去により書記長就任
1986 第7回党大会でペレストロイカ政策を
1988 最高会議幹部会議長を兼任
1989 人民代議員大会導入。最高会議議長に就任
1990 一党独裁規定を修正、初代大統領に就任
1991 ロンドンサミット出席
     米ソ首脳会議・START調印(モスクワ)
     ゴルバチョフ失脚(八月一九日)復権(八月二十一日)
     党書記長を辞任し、共産党・KGBを解体する。
     中東和平会議開催(スペイン・マドリード、十月)
     ソ連崩壊 ゴルバチョフ大統領辞任





 第一章 混沌・カオス




  確かにそれは、いやな時代だった。
  一九三一年の飢饉のさなか、ミハエル・セルゲイビッチ・ゴルバチョフは濁った川のそばの小さな家で生まれた。スタブロポリのステップ地帯の、うら錆びれた片田舎にだ。 飢饉は天災ではなく、スターリンのせいだった。
 一九二四年のレーニンの死後、スターリン(鋼鉄の人)ことジェガシビリは着々と自らの独裁支配体制の基礎を築いていった。その地位は、三十年ころにはほぼ固まったが、それと同時ころに反スターリン派に対する抹殺が始まった。まずは反スターリン派の主、ブハーリン、ルイコフ、カーメネフらが餌食となる。しかも、その抹殺の対象は、党や軍の上層部には限らなかった。多くの知識人、芸術家、一般市民、兵士、農民までもが、犠牲となっていった。秘密警察は彼の私物となつて猛威をふるい、密告が奨励され「人民の敵」の烙印が押されると、その家族や友人までもが厳しい追及をうけた。しかも、抹殺された2000万人に及ぶ人々は、ほとんど無実の罪だったという。
 そんな鬼畜が、集団農業化政策に抵抗する農民を鎮圧しようとして起こした人為的な飢饉によって、一九三三年秋から一九三四春までにゴルバチョフの故郷の村は人口が三分の二に減ってしまったという。食料も完全に尽きて、キビの薄いスープが命の綱というありさまで、ある村では一歳から二歳の幼児がすべて一人残らずに餓死してしまった。
 だが、そんな時代に育ったからこそ、あのサバイバル本能と行動的・合理的なゴルバチョフが「世界の檜舞台」に現れる結果となった、ともいえる。
 ミーシャ(ミハイルの愛称)の強い生命力は家系のせいでもあったかも知れない。彼の先祖は、ウクライナのコサックだった。先祖は、地主のもとを逃れ、自由をもとめてウクライナから、コーカサスとして知られるスタプロポリ地域の南端の未開拓地に定着した。 広大なロシアのステップ地帯、大草原に蜃気楼がきらきらと揺らめき、鳥がひくく舞い飛び、夕方には雲がうっすらと赤く輝いて地平線の彼方へ沈んでゆく。
 この土地に移住してきた人々は、いまのソ連ではめったに見れない、働くことが大好きでフロンティア精神が旺盛な人々であり、皆、豊かな生活をしたいという熱意にあふれていた。それはいわば、世界各地からアメリカに移住してきた活動的な人々と同じと言える。(ちなみに、コサックとはトルコからにげてきた自由な人々という意味で、彼らがやってきた天然鉱泉(つまり温泉)で有名なスタブロポリは、のちに特権階級が訪れる保養地となった)
 ゴルバチョフの曽祖父がプリボリノエと名づけられた村に入植したのは、一八四O年代のことである。モスクワから汽車で丸一日かかるこのこぢんまりした村は、小さな農村のただずまいが今も残っている。ゴルバチョフの母親が現在住む家は、一九六O年代に建てられたもので、息子がこの家に専用電話回線を引かせ、防犯設備を取り付けさせた。泥と藁を混ぜた小さな小さな生家は、イエゴルリク川という小川のそばにうずくまるように建っていたが、いまはもうない。
「息子とはもう三年以上もあってない」と母親は愚痴る。彼女の名は、マリア・パンテレイエブナ。聖母の名を持つ。
 だけど、心は別に聖母でも何でもない。というより、ロシアの多く農婦にはめずらしく、なんでも自分でして、自分の意見をはっきり述べる、強い女性だ。           教育レベルは低かったが、この強い母親がゴルバチョフにかなり大きな影響を与えた。この母親のイメージが、のちにモスクワ大学で出会うライサ・マクシモブナ・ティトレンコ(現ゴルバチョフ夫人)とオーバーラップしたのだ。ただ、母親との違いは、ライサにはモスクワ大学哲学科博士号をもつほど教養があり、とても美しかったことだった。   そういったことでいえば、ゴルバチョフはマザー・コンプレックスであるといえる。だが、それは全然恥ずかしいことではない。かのウィストン・チャーチルも、リンカーンも、ロナルド・レーガンもそうだったからだ。                      それにしても、数年前までは、かの偉大なる大人物たちよりも、ゴルバチョフのほうがかなり偉大にみえたものだ。現役をしりぞいたいまでは評価できないが、それまでは本当にすごかったと思う。腐敗したブレジネフ時代を生き延び、権力の階段を登るためにひたすら自分を殺し、屈辱に耐え、オベッカを使った。これは並たいていの精神力では出来ないことだ。そしていざ権力を握ると「ペレストロイカ」を打ちだし、外交で大業を成した。内政より外交にまず焦点をおいたところが、いままでのソ連の指導者との違いであり、彼の偉大なところであった。国内からの改革では何もならない、ということを知っていたのだろう。それに、改革には金が必要だ。いままでのように軍備拡張を続け、NATOと対峙していれば金がかかる一方で、どうしようもない。だからこそ、軍拡ゲームに白旗を挙げて西側から援助をうけたのだ。彼が外交に力を入れたのは、国内改革を推進するためだった。まぁ、理由はどうあれ、アメリカとの対峙をやめたことはとても大きな意味をもっていた。あのままだったら、確実に「世界の終り」が来ていたことだろう。その脅威から開放され、新しい秩序を求める道が開かれた。それが冷戦終結の意味だった。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               



             独裁と血の弾圧
                                          「私は生涯で最も短い、つらい演説を行います。私は、ふたつのことを申し上げたい。   まず、昨日、何人かの議員が、ソ連軍の、ペルシャ湾派遣を禁止する宣言が必要だと提案なさいました。しかも、それは一回や二回ではありませんでした。これは我々の忍耐を越えるものです。私は国内国外で合わせて10回以上も、このことについての我が国の政策を説明しています。それは当然、十分考え抜かれたもので、文明国間の国際関係に適したものです。我が国はイラクと友好関係を持っています。しかし、イラクが行った守りの弱い国、クウェートへの侵略に対しては妥協するわけにはいきません。もし妥協すれば新思考外交を確立するため、ここ数年なされてきた我々の努力は帳消しになってしまいます。
 次に私が申したいのは、『内省を辞めさせるのに成功した。次は外相についても考える時期が来た』と言った二人の大佐のことです。この発言は内外のマスコミに流れています。何と大胆な大佐たちなのでしょう。政府の一員に対してそんなことを言うとは。特に名指しはしませんが、この人たちの背後に誰がいるかを考えなければなりません。なぜ誰も彼らに反撃しないんでしょう。なぜ『そんなことはない』と、はっきり言わないのでしょうか。        関連して私個人の心労と名誉について言わせていただきたい。私の意に反して同じ人々が外相は一方的な譲歩をした、無知だ、外相としての資格がないと非難を浴びせかけています。私は深く悩みました。個人的侮辱だから我慢してきました。今、我が国では個人攻撃が、まかり通るようになってしまいました。民主派の同志のみなさん、なぜバラバラになり、逃げ隠れするのです。独裁が近付いて来つつあるのですよ。しかも、誰もどんなものか、誰なのか、どの様に来るのかをしらないのです。                             私は辞任します。私を責めないで下さい。この辞任を私は独裁の到来に対する抗議にしたいのです。私はゴルバチョフ氏に感謝申し上げます。私は彼の友人で仲間です。私は生涯最後の日までペレストロイカ、刷新、民主化の理念を支持します。我々は国際舞台で偉大な仕事をやってきました。これは、私の人間として、市民として、そして共産主義者としての義務でした。私は今、我が国で起こっている出来ごと、国民を待っている試練には妥協できません。私は独裁者は決して成功しないと確信します。未来は民主主義と自由のものだからです」  エドアルド・シュワルナゼは、その日開かれていた人民代議員大会(国会)で、怒りに手を震わせながら、強いグルジア訛りのロシア語でいった。彼は何の迷いもなく、決して後悔などない、誇りと悲しみに満ちた目だった。そしてこれは、文字どおり体を張った演説だった。彼のアピールは保守派のみこしに乗せられたゴルバチョフに対する抗議であり、愛国の情の表れであり、そして全世界に対する警告でもあった。世界はこの突然の辞任に驚き、そしてペレストロイカの危機を知った。だが、この辞任に一番驚愕したのは、ゴルバチョフだった。なぜなら、シュワルナゼは辞任表明の前、事前にゴルバチョフに何の相談もしていなかったからだ。彼が事前に打ち明けた相手は、故郷グルジアにいる家族と二人の側近だけであったという。 (この二人の側近の側近のうちの一人は、タイムラズ・ステパーノフ。元ソ連外務省職員で、「外交協会」のメンバーとしてシュワルナゼの女房役を務めた)                「強大な権力と独裁とを混同されては困る」気味悪いほど静かでていねいな口調で、演壇に立ったゴルバチョフは答えた。怒りや驚きを隠している時、彼はこういう話し方をする。そして、彼は、「シュワルナゼ外相が、この困難な時期に去ることは許しがたい………彼には副大統領になってもらうつもりだった」                           と述べた。非難したすぐ後に既定の方針を述べるという、非常に矛盾したこの発言は、彼が相当うろたえている証拠だ。そしてこのことで、いくつかの事がはっきりした。まず、ゴルバチョフが保守派に実権を奪われただけでなく、改革派からも浮き上がってしまっている事実が分かった。そしてもう一つ、はっきりしてくるのは、軍と産業・官僚、つまり軍産複合体がまた、アメリカとの対立の時代、冷戦を待望していることだ。それは「ペルシャ湾への派兵を禁止する宣言が必要だ」と湾岸戦争のときアルクスニス大佐ら超保守派青年将校が何度もしつこく迫っていたことからも窺える。軍産複合体にとって、シュワルナゼが推し進めてきた多国籍軍によるイラク包囲網への協力は大きな脅威だった。 ゴルバチョフはこのころすでに保守派によって棚上げされていた。そして、シュワルナゼは知っていた。大統領の椅子にしがみついているだけのゴルバチョフが、自分を切って保守派に差し出そうとするのを。だったら、黙って切られるよりは、誇り高いグルジア人らしく自分の方から反撃に出てやろう、シュワルナゼはそう考えたのだ。                                  この辞任演説で保守派はかなりいい気分になった。その中で、一際したり顔になったのが『黒い大佐』こと、保守派青年将校のリーダー、ビクトル・アルクスニスだった。彼をリーダーとするソユーズ(連邦)とは、90年3月、マルクス・レーニン主義に忠実な保守派人民議員によって結成された議会内のグループである。その目的は連邦制の維持と、科学的社会主義の維持にある。つまり、ペレストロイカを挫折させ、時代を逆流させて、『冷戦』体制にもどそうというウルトラ保守派のグループなのだ。メンバーには共産党員や軍人が多く、役500人の人民代議員が参加している。そのリーダーが、狂信的な共産主義者、ラトビア共和国選出のアルクスニス空軍大佐である。そしてこれが一番困りものなのだが、人民代議員(国会議員)の2割以上を傘下に収めているという現状があった。重要法案や憲法改正などには、このグループの賛成がないと成立不可能だった。だから、ゴルバチョフは無視できなかったのだ。  「次は、あいつに辞めてもらわなければな」アルクスニス大佐の口元に、悪魔の笑みが浮かんだ。あいつとは、大佐がその鋭い眼光でにらんでいる、ゴルバチョフであった。      「国内では民族紛争で何千もの人間が命が奪われた。しかもそれらは子供や女、老人が大部分だ。そういう状況をつくったのはゴルバチョフだ。あの男には辞めてもらわなければならない」彼はもういちどニヤリとした。彼はまがりなりにも「勝利」したのだ。だが、勝負はこれからだ。破局にむかっている状況をとめるため、戒厳令をしかなければ!あらゆるストも政治集会も凍結し、立法機関の機能も最高議会から最低レベルの会合まで、さらに共産党をふくむすべての政党、社会団体の活動を一時停止させる。今の状況を救う道はこれしかない。いざとなれば、リトアニアもグルジアも力で踏みつぶしてやる!!                                                          「あなたはその誠実な人柄と実直な仕事ぶりによって国民の間では人気があった。しかもテレビ移りが良く、発言も要所要所を押さえた理論的なものだったため、90年5月に、『ニューズウィーク』誌は、あなたこそ最も可能性のある人物と評しました。あなたはゴルバチョフ大統領に気にいられており、リベラルではあるが保守派にも受け入れられる穏健なところがある、ということでした。たしかに大統領は、権力を政治局から大統領会議に移した時、あなたをメンバーの中にいれている。そのことからも大統領が内政面で、いかにあなたを頼りにしてたかが窺えます。にも関わらず、なぜ12月2日あなたは解任されてしまったのでしょうか?」 アナウンサーは、とてもゆっくり丁寧な口調できいた。               「ある勢力が私の解任を要求していた。アルクスニス大佐、ペトルシェンコ大佐らのグループだ。このことは彼らの発言が証明している。内務省を崩壊させたのは、私の責任だと彼らは言い続けてきたからね」
 バカーチンは冷静さを失わずにそう言った。これは90年12月22日に放送されたあるテレビ番組でのことだった。
 そして、その番組をシュワルナゼは事務所で見ていた。
 あるグループとは、もちろん“ソユーズ“のことだ。彼らは、経済犯罪や民族紛争への対応が手ぬるいとして、バカーチンを攻撃していた。このグループは、保守派(ノーメンクラトゥーラ、軍産複合体、KGB)の意を受けて、突撃隊のような役割を担っていた。 そして最初のターゲットにされたのが、リベラルで“血の弾圧“を嫌うバカーチン内省だった。ゴルバチョフはそれを承知で、権力にしがみつくためにバカーチンという片腕を切って保守派に差し出したのだった。
(これに対する庶民の反発は大きかった。それで仕方なく、ゴルバチョフは91年3月に、バカーチンを何の権限もない安全保障会議のメンバー及び大統領顧問の地位に就かせ、批判をかわさなければならなかった)
  電話がリーンとなった。シュワルナゼはテレビを消し、下唇を噛み締めたまま、受話器をとった。相手はゴルバチョフだった。
「同志エドアルド・アムヴロシェヴィッチ。君の働きぶりは十分に評価をしているし、おかげで世界の情勢を大きく変えることができた。それは君の個人的資質による負うところが大きい。今はまだ国内情勢が混沌としているので、国内にとどまって『副大統領』として一緒に仕事をして欲しい」
「残念ですが、何度電話をかけてこられても無駄です。私の心は変わりません。こういうことはビジネスの取り引きではありません。良い条件を出されたからといって、一度決心したことをひるがえすわけにはいかないのです」
「なぜだ?なぜ突然に辞めてしまうのだ。改革に対する私の心は今も変わっていない。この国を救うために、なにがなんでもがんばらなければと考えている。なのに、私を見捨てて君は去ろうとしている。無責任極まりないとはおもわないのかね?」