長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.137「あのひととは一緒に仕事が出来ません」朴槿恵大統領ヒステリー女状態!

2014年11月27日 17時40分01秒 | 日記






 産経元ソウル支局長「暗黒裁判」言論の自由さえ!


 韓国の現職大統領・朴槿恵(パク・クネ)大統領の名誉を棄損したとして、元・産経新聞ソウル支局長の加藤達也氏が韓国国内で拘束され、裁判を受けて車にクレイジーな韓国人たちに生卵を投げつけられて一時騒然とした事件は、深刻だ。
韓国には言論の自由さえないのか?加藤記者がインターネット新聞で書いたことが名誉棄損だ、というなら「暗黒裁判」みたいな卑怯なマネをせず「セウォール号沈没時には朴槿恵大統領はうわさになった男性とは密会していない」とスケジュールやアリバイを明らかにすればいいだけの話である。名誉棄損だ、嘘つきだ、と加藤さんを弾劾するならアリバイを示せばいいではないか!あんな卑怯なことばかりするから韓国人が嫌われるのだ。罪はすべて朴槿恵氏の嘘だ。
何故あんな卑怯で姑息なマネをするのか。これでは朴槿恵氏=コラソン・アキノ氏、ということで、韓国は明らかに北朝鮮みたいではないか。あのような卑怯で卑劣なマネをするから韓国人は嫌われるのだ。朴槿恵大統領がアリバイを示せば、それで一件落着なのに、「密会が真実」だから、裁判で「個人攻撃」「加藤氏の人格攻撃」戦略で「暗黒裁判」にかけているのだろう。
これでは韓国と日本が、インドやパキスタンのような最悪な関係になってしまう。朴槿恵氏はIQは高いのだろうが、どうも最近はヒステリー女みたいな嫌な感じだ。逆サッチャーさんではないが「あのひととは一緒に仕事が出来ない」。
朴槿恵大統領、嘘をつくな!噂になった密会、男性と密会していたと真実を話せ!無罪のひとを「暗黒裁判」にかけて平気でいるな。卑怯なマネをするな。言論の自由くらい韓国だってあるだろう?大韓民国は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)か?
まともになれ、朴槿恵大統領!これ以上日韓関係を破壊するな!日本人の代表として「暗黒裁判」の即時撤回謝罪会見を要求する!「暗黒裁判」を続けるなら世界中に、韓国のおかしさ、韓国のいびつさ、韓国大統領の無能さ、が知れ渡るぞ。
目を覚ませ!朴槿恵大統領!

緑川鷲羽(みどりかわ・わしゅう)・44・フリージャーナリスト・

岸信介 安保の城の妖怪・岸信介伝「巨魁編」アンコールブログ連載小説VOL.10

2014年11月27日 06時41分20秒 | 日記






確かに「日本の象徴」としての天皇制度は私は否定しない。だけど私は小林よしのりのように天皇を「神格化」したり「ありがたがったり」しない。象徴ではあるが、皇族は政治家や官僚と同じく国民の納める税金で食べさせてやっている「パブリック・サーバント(公僕)」です。何故、「ヒトラーと同じく独裁者と欧米から見られていた昭和天皇・裕仁」が罪に問われなかったのかは分かる。当時、GHQのマッカーサーは「天皇制度」を廃止しようとしていた。が、「天皇制度を廃止したら日本人が内戦を
起こす」「天皇制度を廃止したら日本はまた戦争をする」「天皇制度を廃止したらとんでもない独裁者が出現するかもしれない」というミス・インフォメーション(根拠のない噂)を受け入れて天皇制度を廃止しなかっただけだ。が、天皇制度を廃止しても誰も内戦など起さないし、動乱も独裁者も現れはしなかっただろう。それどころか天皇制度という「昔からの曖昧な制度」を残した為に日本人は「無責任」「批判もなく天皇を崇める」本当に無責任な他人頼りになった。天皇制度は何らかの制度疲労を起こしている。その典型的な例が「雅子さんの精神疾患」や「皇后の失語症」だろう。まあ、私自身がうつ病不眠症の「適応障害」である為に雅子さん(小和田雅子さん)の「痛み」がよくわかります。心の病気は目に見えない部分で普通のひとには「落ち込んでいる」としか見えない。だからうつ病のひとに「頑張れ」と言ってしまう。「頑張らなければならない」ことなどわかっています。でも病気で「頑張れない」のです。私の兄貴(緑川和宏)などは
うつ病の症状どころか病名さえ知らず「お前を大人だと認めていない」といいました。猿には私が「さぼっている」と写ったようです。心ない言葉や罵声、嘲笑がいかにうつ病の患者を傷つけるか?皇太子の家族が住む「東宮御所」が改築されて屋根にはソーラーパネルが付けられたという。先日、あるひとが「明治維新を起こした志士はすごかった。その同じ日本人の血が流れているのにどうして今の日本人は維新の革命を出来ないのか?」と私に聞いてきた。よくある意見ではある。確かに坂本竜馬だの西郷
隆盛だの勝海舟だの桂小五朗(木戸孝允)だの何度もドラマになっている。わが国では明治維新こそ「日本のフランス革命である」という。が、果たして薩摩や長州の藩士達は「日本のフランス革命」を果たしたのであろうか?私は明治維新は「革命」でもなければ「刷新」でもない。所詮は日本のトップが、将軍から天皇に代わったイノベーションに過ぎないと思っている。絶対王制を打ち倒し、過去の土地支配の上に成立する貴族階級をすべて廃止して、「王がどれほどのものだ。ひとりのフランス人に比べればゴミと同じ存在だ」というルソーの有名な言葉に代表される「フランス革命」のパワーとメンタリティは「明治維新」のどこにも見られない。結局、明治維新の志士達は「天皇制」という「昔からの曖昧なシステム」に逃げ込んだだけです。大嘗祭だの即位礼儀という意味のないセレモニーに数十億円という税金が使われたのに誰も咎めない無責任さ。結局、この程度だからナショナリズムと国粋主義の区別もつかない。漫画家だけでなく大学教授まで「侵略戦争」を
否定して「過去の日本人が悪いなんて東京裁判史観だ」だの侵略戦争下での大虐殺や強姦行為を他人事のように「遺憾に思う」だけ。大人の国なら当たり前の謝罪がない。謝罪もしない。賠償金も払わない。他人事のように「遺憾に思う」だけ……。
明治維新のどこが維新の革命なのだろう?只将軍から天皇に首をすげ替えただけだ。(ここから官僚政府が誕生した。それから120年後で官僚独裁制が確立した。官僚独裁制を警戒した経済学者がマックス・ウェーバーだった)結局、この程度だからナショナリズムと国粋主義の区別も出来ない。おまけに天皇のクレームには右翼が銃撃戦争で答える有様である。天皇制を金科玉条のように崇め、誰も逆らわない。曖昧な天皇制にどっぷりとつかり誰も文句が言えない。言った途端に右翼が後ろから銃撃してくる。天皇陛下が悪い訳ではありません。雅子さんが悪い訳ではありません。結局、天皇制を利用している「側近」や「宮内庁の利益集団」「皇室担当マスコミ」の皇産複合体が「元凶」なのである。即位礼儀は別にいいかもしれない。が、現在の天皇陛下が崩御した後に雅子さんが新皇后陛下となり得るか?皇太子に次期天皇陛下の重責が担えるか?後継者はどうするつもりなのか?疑問ばかりです。即位礼儀や成婚50周年記念写真集だのの前に考えることが山積し
ているのである。日本人は天皇陛下万歳という前に自分の頭でよく考えることだ。



本誌(小学館社SAPIO誌2014年3月号より)は特定秘密保護法案に一貫して反対してきた。権力者にとって都合の悪い情報が「秘密」に指定され、永久に隠される懸念があるからだ。軍事ジャーナリストの清谷信一氏は安全保障上の理由から一定の秘密保護は必要としつつも、防衛大臣の記者会見で「秘密に関する取り扱い」について懸念を指摘した。するとどうだろう。国民の知る権利を守らなければならないはずのNHK記者に「質問するな」と妨害されたのである。
軍事ジャーナリスト清谷信一著作小学館SAPIO誌3月号27~28ページ記事参照。*私は具体例として、拙著『防衛破綻』(中公新書ラクレ)について陸上幕僚監部装備部がかつて作成した「正誤表」を取り上げた。それは著者に、つまり私(清谷氏)の著書に誤りがあると指摘したものだが、私はその一部を入手し、指摘されていた「誤り」のほとんどは実際は正しく、「誤正表」になっていた。しかも個人的な意見やウィキペディアから参照したと思われる記述も見られた。
私はそのことを陸幕装備にその点を質したところ「正誤表」の記述のほとんどが誤りだと認めた。だが、開示は、機密なので無理だ、という。ウィキペディアをもとに書かれた文章が機密であろうはずがない。出鱈目な文章を作成しても、「どうせ外部に開示されることはない」と高をくくっているのだ。
防衛大臣は「あとで報道官の方から対応させていただきたいと思います」と回答した。そして会見後、廊下で防衛記者クラブの所属記者と思われる人物から「記者会見で個人的な質問をするな」という言葉を投げかけられた。私がその真意を質すると、彼は「独り事だ」と言った。さらに所属と氏名を尋ねると背を向けて走り去ったのだった。私はこのことをブログに書き、走り去る男の写真も撮影し掲載した。すると、本人から私に連絡があった。その人物はNHK政治部の記者、S氏だった。
「この番号で非通知でも大丈夫ですかね?」と事務所に電話をかけて、事務員に「「清谷先生」とは知らなかったんです」といったという。私は多忙だし、会っても益はないと面会を断った。
しかし、日本の記者クラブは外国と比べて基本的に記者クラブに加盟している新聞や雑誌、フリーランスの記者は参加できない。私はこの道20年のキャリアがあるから「個人的な質問をするな」と恫喝されても委縮しないが、若手の記者は委縮して立派な記者として、育たないだろう。私は海外のプレスにも参加することが多いが「質問するな」等といわれたことは一度もない。国民の知る権利の為にジャーナリストは為政者や権力者と闘わなければならない。取材相手が嫌がる質問も正しい情報や質問ならしつこくぶつけなければならない。NHKは何を考えているのか?
(SAPIO誌の問い合わせにNHKは、電話にて「清谷氏には誠意を持って対応しました。理解を得られず残念です」とコメントした)(小野寺防衛大臣は質問に対し、「何か隠しているという様な懸念を持たれないように努力をいたしますし、また、できるだけもし文章で返せる物がありましたら文章等で返していけるように指示していきたいと思います」と回答。)
*「特定秘密保護法案」にジャーナリズムが反対するのは当たり前のことだ。朝日新聞や東京新聞が「扇情的」だとは全然思わない。民主主義の基本は政府と国民の間にマスコミ・ジャーナリズムが介在しなければ成り立たない。*石破茂氏がいう「国家があってこその言論の自由がある」という論法も間違っている。北朝鮮という国家、中国という国家、韓国という国家には、言論の自由がない。たったこれだけで論破できる。*公務員は権力の僕(しもべ)ではない。公の僕である。いわゆるパブリック・サーバントである。
*公務員を政府・権力の僕にしようというのが「特定秘密保護法」である。(官僚が民を僕にする訳だ。官僚の官僚による官僚の為の国家・霞が関幕府国家だ。)*安倍首相の言う「国家の秘密は衛星写真が99%。国民の生活に影響しない」それなら現行法で対処しなさい。「秘密保護法」を読んだら、政府の恣意的な秘密指定と拡大解釈を避けられないと分かる。(*ここまで小林よしのり氏記事参照・緑川鷲羽加筆2014年3月号小学館SAPIO誌より)




話は変わる。
 慰安婦と挺身隊をごっちゃに認識している方が大半なので、ここで解説したい。
 慰安婦とは風俗業で、確かに強制的とか親の身勝手で風俗職業に就いた女性(当時)も残念ながらいたのかも知れない。だがいわゆる「従軍慰安婦」となると話は別で、日本軍が韓国や朝鮮半島や中国本土で「まるで北朝鮮の拉致」のように、当時の女性を拉致して強制従事させたという資料は現在一枚も見つかっていない。
 確かに、私は従軍慰安婦や侵略戦争はあったと思っているし、過去の日本軍部や日本軍人に国際法上間違いなく被害になったという証拠がある被害者には「日本国としての「謝罪」と「賠償」」はきちんとするべきであると思う。
 だが、歴史的な事をいうと1951年のサンフランシスコ講和条約で「日本の戦後賠償」は終わっている。また条約不参加国の韓国、台湾、シンガポール、インドネシア、フィリピン等にも「戦後賠償」と「国家としての謝罪」は終わっている。
 また韓国には1965年の「日韓基本条約」で韓国に8億ドル賠償しているし、アジア女性基金から100億円の賠償と、当時の小泉首相からの直筆の謝罪文章も郵送している。
 ちなみに挺身隊というのは風俗業ではない。
 挺身隊とは軍人さんの婦人や女子生徒等の勤労団体組織である。NHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」で主人公の梅子や母親がネジつくりや溶接をしたりしていたので見た人もいよう。そういう銃後の活動である。
 当然ながら岸信介の婦人・良子も娘の洋子(安倍晋三氏の母)も挺身隊として軍需工場で働いた経験を持つ。
 信和というのは岸信介の子供で、安倍晋三氏の伯父さんにあたる。洋子の兄だ。
 信和は三歳のとき左足首に異変が起き、小児麻痺と診断されたのだが、両親はなんとか治療法がないものかと必死の努力を続けていた。
 息子が小児麻痺(ダウン症と似てる病)と知ったときの岸の意気消沈ぶりは気の毒なほど憐れであったそうだが、良子が受けた衝撃も大きかった。

「谷底に突き落とされたような気持でした。しばらくは外に出かけるのがいやでした。よそのお子さんが元気に遊んでいられるのを見るのがつらくて」
          (吉本重義「岸信介伝」)
 岸信介は夏になると蚊帳の中で娘の洋子や息子で長男の信和に昔話をおもしろくかたっていたという。
「いつも同じ話なんですが、父の話しぶりがおかしくてなんべん聞いても面白かったです」

 岸信介は同じ山口県出身の北村サヨ(天照皇大神宮教・教祖)に十一年前、
「巣鴨に三年ほど行って来い。魂を磨いたら、総理大臣として使ってやるわい」と言い放ち、しょげかえった家族、村人を仰天させたものだ。
 サヨの予言は的中した。
 岸は選挙区での票集めが胸中にないからサヨの信者ではなかったが、一目置いていたという。
 総理をつかまえて「オイ、岸! どうじゃ」で通したサヨには頭が上がらなかった。
 だが、そんなサヨも昭和四十三年(一九六八年)十二月、すべての体力を使い果たしたように六十八年の生涯を閉じ、いよいよ神様のもとへ帰った。
 岸は葬儀にも出席し、ねんごろに弔っている。

 東京大空襲・大阪大空襲で住む家を焼かれた寛子や良子らは大阪鉄道局の官舎で暮らした。
 だが、またも空襲があり、佐藤栄作は四十度の高熱で倒れ、病気で病院に入院。意識が戻り始めた頃に玉音放送(昭和天皇・裕仁による日本国敗戦ラジオ放送)が聴こえてきたのだという。
 同時に岸信介は戦犯容疑で逮捕だという。
 岸信介は巣鴨プリズンの檻の中の人間となった。
 
 名にかへてこのみいくさの正しさを
  来世までも語り伝へん

 どうせ死刑だと思って、名より実をとる、とばかりに牢屋に入る前にそういう辞世の句をつくった。
 手紙好きの岸信介は娑婆への執念を見せ始める。手紙を数えきれない程家族に送った。
 結局は岸信介は戦犯とはならずだった。運がいい、岸信介は思ったろう。巣鴨拘置所から出てきた岸はがりがりに痩せて髭がぼうぼうで親戚縁者も「このひと誰?」というように、みんな遠巻きにみていた。
「俺だよ、岸だよ、よし子さん、栄作」
 声でやっと確認できたようだ。
「タバコを一本くれ、うまい寿司でも食べたい!」
 岸信介は娑婆に出ていったのはそれだったという。
(「絢爛たる悪運 岸信介伝」工藤美代子著作 幻冬舎九十六~二百七十三ページ)
                               






話は変わる。
  昭和三十年代の新潟は、豪雪と夏は豪雨の被害を頻繁に受けていた。
 三十九年の豪雨は前例のないほど激しく、角栄が蔵相となった頃のことであった。
「越山会査定」が始まったのもこの頃だという。
 越山会員は、道路整備、災害対策、豪雪対策、除雪などで連日東京に陳情にいっていた。四十年代に入ると、角栄は公共事業の誘致を増やしていった。
 新潟の公共事業は、「越山会」が独占したという。
 角栄にはもっとも近い大手建設業社(ゼネコン)がいて、その下にいもづる式に、中小零細建設業社がいる。
 角栄はその建設業者に公共事業を次々と発注し、キックバックを得ていた。
 新潟の建設業者は、「越山会」に入らなければ事業の獲得もできない。
 それだけ、角栄は地元に強い権力をもっていた。
 中小の企業が、”談合告発”でもすれば、「越山会」は噛み付いた。
「越山会に逆らって長岡で事業ができるならばやってみろ!」
 新潟三区の公共工事は「越山会」がしきっており、業者たちは工事が終わると謝礼金を払うことが決められていた。
 下請けは謝礼金を出さないかわりに、工事単価を削られたという。
 角栄は中央政治の調整、地元への公共事業誘導、用地買収の操作、謝礼金など集金システムをつくっていた。
 それら金脈は完璧なもので、証拠をいっさい残さなかった。
しかし、角栄には「闇の将軍」としてのイメージはない。
 それは多分に、大金を集めても私腹を肥やさず、どんどんバラまいた結果だろう。
 それが例え汚い金であったとしても、困っているときに金で支援を受ければ喜ばしいことだ。恩を感じるだろう。
 著者の愚兄などは、角栄とはまるでちがう。
 著者の愚兄は一円もださないくせに、ありがたくないくだらん説教をたれる。他人に説教をたれるだけの人徳もないのにも関わらず……
 愚兄など何の役にも立たない。
 くだらん説教などだけで支援金が無ければ、馬鹿らしいだけだ。
 角栄は貧しい農民の子として生まれ、貧乏を経験しているから、そこら辺のことは熟知していたのであろう。
 実に興味をそそられる、不思議な人物だといわねばならない。
 角栄は陳情団体をさばく調整のうまさによって、金を集めたという。
 昭和四十一年十二月二日、角栄は自民党幹事長を辞任した。任期はわずか一年間であった。
 角栄に暗い疑惑があったため辞めさせられたのである。
 しかし、角栄はそんなことぐらいなんということはない。平然としていた。
「おらは首相にいつかなる。幹事長などどうでもいいべ」
 角栄はそう思っていた。
 高度経済成長期にはいると、新潟の子供は大学に入る者が多くなる。
 しかし、県内に就職先は少ない。
 電電公社(現NTT)、国鉄(現JR)など、角栄にはコネがある。新潟三区の若者をどんどんそこへ就職斡旋した。
 もちろん、子供の就職先を紹介してくれた親は角栄に一票入れる。
 越山会によって就職できた者は、のちに一万人をこえたといわれる。
 就職と結婚、交通事故取り消しなどの恩恵を受けたものは角栄に必ず一票入れる。角栄はそこまで計算して斡旋したのである。
 角栄は、政官財らに餞別として大金を渡した。運転手にも頭を下げて謙虚さをパフォーマンスする。こうした行動は、エリート官僚から政界入りした政治家には理解できない。 昭和四十年、角栄が山一救済のときにつかった日銀融資のアイデアは、「あ、これあるじゃないか」と角栄が日銀法に目を通して適用したのだという。
 角栄はひとを憎まない。
「にくんでなにがいいことある?」というのだ。
 松下幸之助も井深大もまたひとを憎まなかった。
 田中角栄にはインテリにありがちの自意識過剰”がない。むしろ、自分に関する恐怖さえある。それが謙虚さになる。
「もう偉くなったのだから、ここら辺で偉ぶってもいいだろう?」
 ときかれると、角栄は、
「おれってちっとも偉くなんてないよ」と答えたという。
 角栄はまだ五十歳にもならない。
 四十三年十一月三十日、無役のあと角栄は、第二次佐藤内閣で、自民党幹事長に復帰することになった。
 前幹事長の福田は大蔵大臣になった。
 福田は角栄の最大のライバルだった。
 高等小学校しか出てない角栄とは違い、福田は東大を卒業している。
 角栄は金の力と現実的思想でひとを魅了し、福田は経済成長路線をとりつづければ弊害があこると考える保守である。
 昭和三十九年の東京オリンピックでは、福田は、公共投資は財政破綻をまねく、と慎重だった。しかし、角栄は金満政治にどっぷりとつかっており、聞く耳をもたない。
 そんな中、戦後の政治家の英雄・吉田茂が昭和四十二年十月二十四日、死んだ。享年八十九歳だった。
 角栄は福田と元首相岸信介に追い落とされた。そのことは同年の佐藤内閣改造人事で、角栄が自民党総務会長になれなかったことでわかるという。
 福田は対角栄に全力をそそいだ。
「いや、佐藤首相あっての田中であって、田中あっての佐藤内閣ではないのだからよい。おれは三十代で大臣にしてもらった恩がある」
 角栄は憾み節は吐かない。

 角栄は幹事長に復帰した。
 これには裏があるという。福田と岸が角栄を官房長官にさせて力をそごうとした。しかし、角栄は「おらは官房長官にはならねぇよ」といって幹事長になった……という次第である。のちに角福戦争ともよばれる戦いは前哨戦を迎えていた。
 角栄はもうはっきりと次期自民党総裁を射程に収めていたのだという。
 福田は岸派のプリンスといわれていたが、佐藤首相とも仲が深い。
 福田が大蔵省の陸軍兼鉄道担当主計官であったとき、佐藤は鉄道省次官であった。
 佐藤は実兄の岸を強く支持する福田に、好意をもっていたという。
 自民党総裁を目指す角栄にとって、福田はもっとも警戒するライバルであった。
 角栄は五十歳になった。
 自民党幹事長として精力的に働いている。
「高速鉄道を日本中に作りたい。二十年来考えておりましてな」
 角栄は記者にいう。そして、卓上のベルを何度も鳴らす。
「おいっ!」
 秘書がすっとんでくる。
「かばんのなかの鉄道の書類っ!」
 地方からの陳情団体がごあいさつしにくる。秘書が番をつげる。
「はいっ!」
 とたって角栄の前で陳情をする。まるで病院の待合室だ。
 陳情は一分か三分、ダメなものはダメとはっきりいう。
 角栄は例のダミ声で答える……

 角栄が幹事長になっての最初の難題は「大学運営臨時措置法」の成立であった。
 当時、ベトナム戦争反対とするヒッピーたちが暴れまわっており、また中国では百万を越える紅衛兵が毛沢東のプロパガンダ(大衆操作)で暴れまわっていた。
 角栄はそうした若者たちを抑える策を考えていた。
 抗議集会はやはりおこなわれた。
 若者たちは火炎ビンなどで暴れ、機動隊が鎮圧にあたった。
 当時の衆議院議長は重宗雄三(しげむね・ゆうぞう)という男である。
 いつまでも議会開始のベルを鳴らさない。
「あのじいさん、ぶったたいてやる!」
 角栄が怒って重宗のところへいくと、
「早くベルを鳴らせ! じじい!」と怒鳴る。
 議長は、
「角さん、あんたが怒るのも無理はないが、ちゃんとオヤジ(佐藤首相)と話したかね?」 などと取り合わない。
 角栄は忍耐強い性格であったが、この老人には腹が立ってしかたなかった。
「なにいってんだ! じいさん! 学生たちはゲバ棒もって騒いでいる。親は自分たちが食うものも削って倅や娘に仕送りしてるんだ。
 ところが、学生はゲバ棒で埋まっている。先生たちは教壇にもたてない。みんな真っ青になってんだ! 早くベルを鳴らせ! じじい!」
 角栄の努力で、法案は成立した。
 法案成立によって、大学紛争は沈静化していった。
 角栄は時期をまっていた。
 田中の人脈は金からでたものであるが、その人脈を通してさまざまな情報がはいってくる。抜群の”情報網”をもっていた。

  世は安保闘争の最中であった。
 四十四年十一月、佐藤首相はニクソン大統領と沖縄返還交渉のため渡米した。
 出発の前日は、全学連が羽田で店舗や車に火炎瓶をなげて燃やしたため、首相は首相官邸からヘリで羽田にむかったという。
 首相はニクソンに核なし本土並返還を主張したが、受け入れらないと思っていた。しかし、昭和四十七年に返還されて、成果を得た。
 このとき、日米は繊維貿易で交渉中で、日本の安い繊維商品のまえで米国の繊維業者は次々と潰れていた。ニクソンは、日本の繊維業者の輸出を制限するように佐藤首相に申し出た。佐藤は答えた。
「前向きに検討します」
 例の有名な言葉である。
 ニクソンはそれが「イエス」だと思った。
 しかし、佐藤の言葉は単なるリップ・サービスだった。
 ……ホワード・ポスチャー(前向き)で検討する…
 これは日本では何もしないということで、野党もそれを承知している。しかし、かりにも一国の首相が国際舞台で、単なるリップ・サービスをいうとはニクソンも思わない。
 ふたりは、にこやかに握手して別れた。
 しかし、日本は繊維商品の輸出を制限するどころか、輸出攻撃をしかけ、米国の繊維企業はバタバタ潰れていく。
 ………騙された!
 ニクソンは舌打ちしたという。

  四十三年冬、佐藤が角栄を幹事長に再任したのは、角栄をひきたてるつもりではなく、しかたなくだった。
 福田は党内で人脈もなく、角栄に幹事長をまかせるしかない。
 福田は明治三十八年生まれで、残された政治家生命は少ない。佐藤が三選されれば、福田の出る幕はない。
 しかし、佐藤は福田よりも首相三選のほうを選んだ。
 角栄は十期目の当選を果たした。
 この年、梶山清六、羽田孜や、小沢一郎らが初当選していた。
 角栄は自分の夢を語った。
「上越新幹線と高速道路をやったら、政界から引退する」
 選挙の結果、自民党は躍進した。
 野党社会党(現・社会民主党)は百三十人から九十人に激減した。
 自民党議員のうち佐藤派は角栄に資金援助や応援してもらっているので、佐藤派というより田中派といってもよかった。

 昭和四十五年(一九七〇)一月十四日、第三次佐藤内閣が発足した。
 角栄は、党幹事長に留任する。
 その裏側には、水面下での福田対角栄の戦いがあった。
 佐藤は角栄だけでも辞めさせようとしたが、前尾、中曽根、三木に反対されたために、新人事は、結局撤回せざる得なかったのである。
 福田は大蔵大臣、角栄は幹事長である。
 角栄は新自動車税を立法したが、首相や自動車団体から反対されて、撤回している。
 福田は、
「いやぁ、角さんも今度はまかされたよ」と苦笑いしたという。
 角福戦争はまさに絶頂期だった。
 はたや小卒の実力者・角栄、かたや東大卒のエリート福田……
 ようするに学歴だけでは角栄は駄目だが、ブルドーザーのような実力が角栄にはあったということ。その点、福田にはそれがなかった。
 昭和四十六年、角栄はインタビューに答えている。
「うん、まあ政治家はね、正直ですよ。世に喧伝されているほど不正直じゃない」
 あなたの実力は、資金調達能力ですか?
「カネなんてたいしたもんじゃない。カネを政治の条件にするのは間違いだね。政治家はアイデア・マンじゃなきゃあ」
 第三次佐藤改造内閣で、やはり角栄は通産相、福田は外相になった。
 この頃、ベトナム戦争の泥沼に嵌まっていた米国は、中国と国交樹立する。
 キッシンジャー国務長官と、周恩来首相との話し合いがついたのである。
 ニクソン・ショックと呼ばれる出来事である。
 日本のマスコミは「頭越し外交だ!」などと連日報道したが、今にみられる日本のマスコミの姿勢となんらかわらない。表面だけしか報道しない。
 また、ドルと金とのペッグが外され、またもや日本は「ショック」を受けた。
 井の中のかわずは少しのことでも衝撃を受ける。
 福田外相は「中国と米国は国交を回復する。台湾への支援はすぐに中止できないが、南ベトナムより撤退し、中国に北ベトナムを説得してもらい和平を結ぶ」
 と、米国外交官よりいわれ、騙された。
 米国大統領ニクソンはついに北京を訪れ、毛沢東や周恩来らと対面し、ガッチリと握手をかわしたので、ある。                              
         7 大衆の宰相



晩年
政財界に幅広い人脈を持ち、愛弟子の福田赳夫と田中角栄による自民党内の主導権争い(角福戦争)が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。また、御殿場の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、「自主憲法制定国民会議」を立ち上げる(1969年、現「新しい憲法をつくる国民会議」)など自主憲法論に関し積極的な発言を続けた。
1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で長女洋子の娘婿であり後年岸派を福田赳夫から継承する安倍晋太郎が山口1区(当時)で落選。地元山口県での影響力低下が取りざたされる。岸は同選挙区選出の自民党議員・周東英雄の後援会長を務めていた藤本万次郎の自宅を現職総理大臣である佐藤栄作と二人で訪れ、安倍後援会会長への就任を要請する。藤本を後援会長として迎えた安倍は1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で復活を果たし、岸の影響力も旧に復した。
1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙では、側近の1人今松治郎の秘書だった森喜朗が自民党の公認得られず無所属新人として旧石川1区で出馬する際、岸の秘書中村長芳に岸の応援を懇願してきた森の要望を快諾し、岸の応援で陣営に勢いがつき初当選を果たした森は生涯恩義を忘れていない。
弟の佐藤政権が憲法改正などの問題に取り組まないことに苛立ち、首相再登板を模索したこともあったとされる。しかしそのために具体的な行動を起こした形跡はなく、後継者たる福田赳夫の首相就任を悲願としていた。1972年(昭和47年)の自民党総裁選挙で福田が田中角栄に完敗したときは、気の毒なほどに落胆していたという。
1974年(昭和49年)にはシンクタンクである協和協会を設立。また、1976年(昭和51年)10月には“民主主義・自由主義体制を尊重しつつ、政党・派閥を超えて、国家的課題を検討・推進する”政治団体「時代を刷新する会」を設立。
1979年(昭和54年)10月7日の衆議院解散を機に、地盤を吹田に譲り、政界引退。国際連合から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価された。



 話は変わる。
 安倍晋三氏の両親(安倍晋太郎と岸洋子)との結婚は昭和二十六年頃であるという。
 洋子さんの風貌は前述したように目の下がぬぼーっとして両頬がブルドックみたいにたれている。安倍晋三氏のあの顔は母親似祖父似であろう。
「政治部の記者で、安倍寛(かん)の息子なら申し分ないじゃないか。見合いの話、進めるけどいいな」
 岸信介が洋子にそう念を押したのが半年前である。安倍晋太郎は毎日新聞の記者で、洋子の伯父の佐藤栄作の番記者であるという。
 だから見合いの話となり、結婚したのだ。
 子供は三人。長男が寛信(三菱商事)でウシオ電機の牛尾治郎の娘と結婚している。次男が晋三(政治家)で森永製菓の財閥の娘・昭恵と結婚(子供なし)、三男の信夫(元住友商事)は岸家の養子にだされた。
 昭和三十五年夏、岸が退陣表明したあとの党内は、混乱を極めた。
 池田のあとに佐藤がおり、佐藤のあとには将来後継者にとおす福田赳夫がいた。
 そのかわり割を食ったのが藤山愛一郎である。
 藤山は巣鴨プリズンから身ひとつででた岸に資金援助してきた。
 義理がある岸だったが、岸は藤山を見捨てた。
「なにしろ安保締結のときの外相だし、私が辞めた理由と重なることも話したんだけどもね」(岸信介「岸信介の回想」)
 岸は、藤山、大野、盟友川島にも恨まれた。
 理念、情熱、実行力、どれをとっても岸側近として党人脈一番だった川島だが、最後は岸は池田、福田という官僚派をドラスティックに選んだ。
 その後の藤山は自派「愛正会」を形成(星野二郎、江崎真澄、小泉純也(小泉純一郎元首相の父親)、福家俊一など)して、以後総裁選に三回参戦するがいずれも敗退。
 藤山コンツェルンといわれた巨額の私財も使い果たし、「井戸塀政治家」といわれたのだという。(生まれる前の話なので知らないのだ(笑))
 
 岸が暴漢にナイフで刺されたのは昭和三十五年七月十四日である。
 藤山、池田、石井の総裁選挙は決選投票までいったが池田隼人が総裁に決まった。
 その興奮冷めやまぬ中、祝賀のレセプションで、岸が席につくと、岸にひとりの暴漢が走り寄り、左太腿(ふともも)を背後から何か所もナイフで刺すという事件が発生し、現場の会場には大量の流血の跡が残ったほどだった。
 右翼結社に所属する荒巻退助と名乗る男は、その場で逮捕されたが、動機も不明のままだった。
 ここでも日頃から岸が指摘していた警備の甘さが露呈した訳だ。
 救急車で赤坂の前田外科病院へ搬送されたが、見舞客にも慌てず騒がず「ナニ、この程度で済んでよかったよ」と笑顔で答えた。
 当時六歳くらいだった安倍晋三氏は、祖父の病院に見舞いに行ったときのショックを次のようにいった。
「病院に入っていったらね、秘書官の中村長芳さんが祖父の履いていた靴をボクに見せるんですよ。靴の底に血がもう固まってましたが大量ににね、溜まっていてすごいショックだったのを覚えています」
 この六〇年安保では社会党の河上丈太郎が刺されたり、日比谷公会堂で社会党の浅沼委員長が刺殺されるなどした。
 (「絢爛たる悪運 岸信介伝」工藤美代子著作 幻冬舎 三百十七~四百三十九ページ)

 昭和五十年(一九七五年)五月には、すこぶる元気であった佐藤栄作が築地の料亭で財界人と懇談している最中に脳溢血で倒れるという事態が起きた。
 佐藤はそのまま昏睡状態が続き、六月三日死去。
 七十四歳で急逝した佐藤は日本武道館で国葬が執り行われ、葬儀委員長は前総理の田中角栄だった。現職総理が岸・佐藤と縁の薄い三木武夫だったことからの人選と思われる。
 弟を亡くして五年たった昭和五十五年(一九八〇年)六月十四日、今度は最愛の伴侶の妻の良子に心不全で先立たれた。
 この後「隠し子騒動」等あったが岸は「安保の城の妖怪」であり続けた。
 岸は盟友の病気見舞いが義理固いものだったという。
 かつて病床で「三木武夫だけは病気見舞いにきても追い返せ」といっていた岸だったが、九十歳になる岸は昭和六十一年(一九八六年)の夏に三木武夫の病室に会いに行っている。
 岸の娘婿の安倍晋太郎は岸信介の跡取り的な立場であったが、平成三年(一九九一年)、膵臓癌の為に享年六十七歳で死去する。
 岸信介は晩年、ひとにあえば「安倍をよろしく頼むよ」というのが口癖になっていたという。安倍晋三は父・晋太郎の地盤を受け継いだが、亡くなった三宅さん(政治評論家)によると「演説がやたらと下手であった」という。
 岸の最期の闘病は、苦しむでもなく、むしろ穏やかな最期であった。
 夜になると走馬灯のように昔の記憶が頭をよぎったことだろう。
 幼いころにおんぶした佐藤寛子が、
「義兄さん、弱気を出しちゃ駄目よ! 頑張るのよ!」と手を握って励ました。
 岸信介は寝たきりになる。
 その寛子も昭和六十二年四月、岸より四か月早く、くも膜下出血で急逝してしまう。
 寛子の急死などとても話すわけにもいかず、家族は病室のテレビを消していたという。
 昭和六十二年(一九八九年)八月五日、岸は肺炎を併発し、七日朝になって容体が急変する。
 岸信和夫妻、安倍晋太郎夫妻ら親族が駆けつけて見守る中、十五時四十一分心不全のため静かにみまかった。
「アンポ、ハンタイ!」と安保闘争の怒号のなか遊んだ孫の祝賀には出席できなかったが、そのかわり日取りの迷惑もかけなかった。
 九十歳と九か月の大往生の生涯で、あった。
(「絢爛たる悪運 岸信介伝」工藤美代子著作 幻冬舎 三百十八~四百七十五ページ)
 最期は田中角栄の最期まで、の流れである。








緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.136自己啓発本おすすめ書籍孔子『論語』C・フィールド『わが息子よ、…』

2014年11月26日 17時10分55秒 | 日記





現代では様々な学者による自己啓発本などが溢れ返っている。


勿論、それぞれ一読の価値はあるのだろう。


しかし、僕が推薦したい本は


孔子の『論語』と


チェスターフィールド著書の

『わが息子よ、君はどう生きるか』。


処世術に国境も言語も人種も時代も関係ない。


推薦本を読むも読まぬも個人の自由だ。


臥竜

緑川鷲羽2014

八重の桜  新島八重の桜と白虎隊とブログ連載アンコール小説<NHK2013年大河ドラマ『八重の桜』>7

2014年11月24日 06時57分15秒 | 日記






ケーベル銃は洋式銃だが、先込め式で火縄銃に毛の生えた程度の性能しかない旧式銃である。
最新式のスペンサー銃と比べれば、性能の差は雲泥である。
山本八重は最新式のスペンサー銃と銃弾100発を持って若松城へ入場していたが、初日に100発全てを撃ちつくし弾切れになったため、以降はケーベル銃を使用したとされている。
旧式銃の弾は若松城で製造できたのだが、スペンサー銃は最新式だったため、弾が製造できなかったのだ。

         6 官軍迫る



またまた話しを変える。まるで落ち着きのない独楽の如く。
  鶴ケ城の庭で、集まった家臣や少年たちに松平容保は激をとばした。
「日本の近代化は余たちがやる! 薩長なにするものぞ! ジャンプだ! この新天地でジャンプだ!」
 一同からは拍手喝采がおこる。
 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……
 会津藩三千余名、福島でのことである。
 少年たちはナギナタをもった姉たちをからかった。
「これ! 貞吉! ふざけている場合ではないですよ!」
 姉のおみねが諫めた。すると弟が、
「ぼくは姉上が母上の御腹の中に落としていったものをつけて生まれたんだ」
 といった。
 意味がわかっておみねは「これ!」と顔を赤くした。
 慶応四年(一六七八)一月二十八日、いよいよ官軍が迫ってきた。
 同年八月には藩主・松平容保は「薩長と戦う! 奸族どもを始末するのだ!」
 と激を飛ばした。
 八月二十三日には食料や弾薬が底をついてきた。
 会津軍八千、官軍二万……
 とても勝てそうにもなかった。
 しかし、会津白虎隊少年たちは火縄銃で交戦していた。
「おれらが負げる訳ね!」
「んだ! おれらが正義だ!」
 しかし、会津は次々と敗走しだす……

  明治二年、榎本脱走軍は蝦夷全土を占領した。
 そこで、榎本武揚らは「蝦夷共和国」の閣僚を士官以下の投票により選出した。
 選挙の結果は左のとおりである。

 総裁      榎本武揚
 副総裁     松平太郎
 海軍奉行    荒井郁之助
 陸軍奉行    大鳥圭助
 箱館奉行    永井玄蕃
 開拓奉行    沢太郎左衛門
 陸軍奉行並   土方歳三

 なお土方は、箱館市中取締裁判局頭取を兼ねることになったという。
 一同はひとりずつ写真をとった。
 土方歳三の有名なあの写真である。しかし、「蝦夷共和国」はつかのまの夢であった。 同年一月中旬、明治政府がついに列強国との局外中立交渉に成功した。ということはつまり米国最新甲鉄艦の買いつけに成功したことを意味する訳だ。
 それまでの榎本武揚は開陽丸を失ったとはいえ、海軍力には自信をもち、いずれは明治政府も交渉のテーブルにつくだろうと甘くみていた。よって、蝦夷での事業はもっぱら殖産に力をいれていた。
 とくに七重村でのヨーロッパ式農法は有名であるという。林檎、桜桃、葡萄などの果樹津栽培は成功し、鉱山などの開発も成功した。
 しかし、「蝦夷共和国」は開陽丸を失ったかわりに官軍(明治政府軍)は甲鉄艦を手にいれたのである。力関係は逆転していた。


  明治二年(一八六七)二月昼頃、江戸の官軍による収容所に訪ねる一行があった。
 佐久とその父・林洞海と兄である。
「良順おじさまにあえないわ」
 佐久はいった。「良順おじさまは賊軍ではないわ。だってお医者さまだもの」
 だが、加賀藩用人・深沢右衛門は「松本良順は賊軍、面会は駄目じゃ」というばかりだ。 林洞海は「今何時かわかりまするか?」とにやりといった。
 深沢は懐中時計を取り出して「何時何分である」と得意になった。
 すると、洞海は最新式の懐中時計を取りだして、
「……この時計はスイス製品で最新型です。よかったらどうぞ」と賄賂を渡した。
「しかし……」
「どうぞ」
 深沢はついに誘惑におれた。
「三十分だけだぞ」
 佐久とその父・林洞海と兄は刑務所の檻に入れられた松本良順と再会した。
「おお! 佐久! それに林殿も…」
 松本良順は歓喜の声をあげた。
 松本良順は仙台で土方歳三らと合流するつもりだったが、持病のリウマチが悪化し神奈川に帰ったところを官軍に捕らえられていた。
「……お元気でしたか?」
 佐久は気遣った。
 すると良順は「わしはとくになんともない。それより……」
 と何かいいかけた。
「…なんですの?」
「官軍が会津まで到達したそうじゃ。公たちを倒すために会津征伐隊などと称しておるそうで……馬鹿らしいだけだ」
「まぁ!」佐久は驚いた。
「公は会津を貸してほしいと明治政府に嘆願しておるという」
「会津は上様さまにとって藩地、十五歳の頃に藩主になって以来ずっと会津のことを考えてきたそうです」
 佐久の兄は、
「公は夢を食うバクだ」と皮肉をいった。
 佐久は「会津公さまは確かにバクですわ。でも、食べるのは夢ばかりではありません。明治政府をも食べておしまいになられますわ」
「これ! 佐久、官軍にきかれたらただじゃおさまらん。物騒なこというな!」
 父は諫めた。
 松平容保の会津処理を岩倉具視は拒否し、容保の「会津共和国」ひいては「榎本脱走軍」は正式に”賊軍”となった。
 同年三月七日、政府海軍は、甲鉄艦を先頭に八隻の艦隊で品川沖を出港した。
 同年三月二十日、榎本脱走軍は軍儀をこらし、政府軍の甲鉄艦を奪取する計画を練った。アイデアは榎本が出したとも土方がだしたともいわれ、よくわからない。

「さぁ、君達はもう自由だ。猪苗代にいる官軍までもどしてあげよう」
 容保たちは捕らえた薩摩藩士たちを逃がしてやった。
 もう三月だが、会津は雪の中である。
 薩摩藩士・田島圭蔵の姿もその中にあった。
 ……なんといいひとじゃ。どげんこつしてもこのお方は無事でいてほしいものでごわす。 田島は涙を流した。
 容保たちにとって薩摩藩士らは憎むべき敵のはずである。しかし、寛大に逃がしてくれるという。なんとも太っ腹な松平容保であった。

 舞台は蝦夷(北海道)である。
「箱館戦争」の命運をわけたのが、甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)であった。最強の軍艦で、艦隊が鉄でおおわれており、砲弾を弾きかえしてしまう。
 官軍最強の艦船であった。
 それらが蝦夷にせまっていた。
 榎本たちは焦りを隠せない。
 ……いまさらながら惜しい。開陽丸が沈まなければ……

  箱館病院では高松凌雲はまだ忙しくはなかった。
 まだ戦は始まってはいない。看護婦はおさえという可愛い顔の少女である。
 土方は龍造という病人をつれてきた。
「凌雲先生、頼みます!」
 土方歳三は凌雲に頭をさげた。
「俺は足軽だ! ごほごほ…病院など…」
 龍造はベットで暴れた。
 おさえは「病人に将軍も足軽もないわ! じっとしてて!」
 とかれをとめた。龍造は喀血した。
 高松凌雲は病室を出てから、
「長くて二~三ケ月だ」と土方にいった。
 土方は絶句してから、「お願いします」と医者に頭をさげた。
「もちろんだ。病人を看護するのが医者の仕事だ」
「……そうですか…」
 土方は廊下を歩いた。
「官軍の艦隊が湾に入りました!」と伝令がきた。
「なにっ?!」
 土方はいい、「すぐにいく!」といって駆け出した。


  すぐに榎本たちは軍儀を開いた。
 大鳥圭介は「なんとしても勝つ!」と息巻いた。
 すると、三鳥が「しかし、官軍のほうが軍事的に優位であります」と嘆いた。
 回天丸艦長の甲賀源吾が「官軍の艦隊の中で注意がいるのが甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)です! 艦体が鉄でできているそうで大砲も貫通できません」
 海軍奉行荒井郁之助は「あと一隻あれば……」と嘆いた。
 土方はきっと怖い顔をして、
「そんなことをいってもはじまらん!」と怒鳴った。
 榎本武揚は閃いたように「ならもう一隻ふやせばいい」とにやりとした。
「……どうやってですか?」
 一同の目が武揚に集まった。
「甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)をかっぱらう!」
 武揚は決起した。「アボルタージだ!」
 アボルタージとは、第三国の旗を掲げて近付き、近付いたら旗を自分たちの旗にかえて攻撃する戦法である。
 荒井郁之助は「アボルタージですか! それはいい!」と同感した。
 家臣たちからは、
「……本当にそれでいいのでしょうか? そんな卑怯なマネ…」
 と心配の声があがった。
 武揚は笑って「なにが卑怯なもんか! アボルタージは国際法で認められた立派な戦法だぜ! 卑怯といえば薩長じゃねぇか。天子さまを担いで、錦の御旗などと抜かして…」「それはそうですが……」
 土方は無用な議論はしない主義である。
「それには私がいきましょう!」
 土方は提案した。
 武揚は躊躇して、
「土方くん。君の気持ちは嬉しいが……犠牲は少ないほうがいい」
 といった。声がうわずった。
「どちらにしても戦には犠牲はつきものです」
「君がいなくなったら残された新選組はどうなるのか考えたことはないのか?」
「ありません。新選組は元々近藤勇先生のもので、私のものではありません」
「しかし……その近藤くんはもうこの世にはいない」
 土方は沈黙した。
「とにかく……私は出陣します! 私が死んだら新選組をお願いします」
 やっと、土方は声を出した。
「……土方くん………」
 榎本は感激している様子だった。
「よし! 回天と蟠竜でやろう!」
 回天丸艦長の甲賀源吾が「よし!」と決起した。
 荒川も「よし! いこう! 甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)をかっぱらう!」
 と決起した。
「よし! よし!」
 榎本は満足して何度も頷いた。
 そして、
「アボルタージだ!」と激を飛ばした。
 ……アボルタージ! アボルタージ! アボルタージ! アボルタージ! ……

  さっそく回天丸に戦闘員たちが乗り込んでいった。
 みな、かなり若い。
 土方歳三も乗り込んだ。
 しかし、土方とてまだ三十五歳でしかない。
 海軍士官・大塚浪次郎も乗り込む。彼は前記した元・彰義隊隊士・大塚雀之丞の弟である。「兄上! しっかりやりましょう! アボルタージを!」
「おう! 浪次郎、しっかりいこうや!」
 大塚雀之丞は白い歯を見せた。
 英語方訳の山内六三郎も乗り込む。
「アボルタージだ!」
 若さゆえか、決起だけは盛んだ。
 しかし、同じ英語方訳の林董三郎だけは乗せてもらえなかった。
「私も戦に参加させてください!」
 董三郎は、回天丸艦長の甲賀源吾に嘆願する。
 が、甲賀は「榎本総裁がおぬしは乗せるなというていた」と断った。
「なぜですか?! これは義の戦でしょう? 私も義を果たしとうごりまする!」
 林董三郎はやりきれない思いだった。
 高松凌雲がそんなかれをとめた。
「榎本さんは君を大事に思っているのだ。英語方訳が蝦夷からいなくなっては困るのだ」「…しかし……」
「君も男ならききわけなさい!」
 董三郎を高松凌雲は説得した。
 こうして、回天丸と蟠竜丸が出帆した。

「官軍がせめて……きたのでしょう?!」
 病院のベットで、龍造は暴れだした。看護婦のおさえは、
「……龍造さん、おとなしくしてて!」ととめた。
 龍造は官軍と戦う、といってきかない。そして、また喀血した。
「龍造のことを頼みます」
 船に乗り込む前に土方は病院により、おさえに頼んでいた。看護のことである。

 舞台はふたたび会津である。
  病院に松平容保がきた。
「あなたが土方さんのお知り合いの女性ですか?」
 容保は不躾な言葉で、井上ちか子に声をかけた。
 ……いやらしい気持ちはない。
「はい殿。京で一緒でした。しかし、もう京はありません。みな死にました。好きな人のために女でもここで戦って死にとうござりまする」
 井上ちか子の言葉を、容保は佐久の声のようにきこえてたまらなくなった。
「井上さん」
「はい」
「……元気で。お体を大切になさってください。戦は必ずこちらが勝ちます」
「しかし……」
「心配はいりません。わが軍の姿勢はあくまで旧幕府と同じ共順……会津は共和国です。明治政府とも仲良くやっていけます」
 容保自身にも、自分の言葉は薄っぺらにきこえた。
「誰か! 誰かきて!」
 おさえが声をあげた。「龍造さんが……!」
「……す、すいません!」
 井上ちか子は病室にむけ駆け出した。
 容保はひとり取り残された。
 かれはひとりであり、また悪いことに孤独でもあった。そうなのだ! 困った!
「……佐久、シャボンをつくってやる約束は果たせそうもない」
 松平容保は、深い溜め息とともに呟いた。
「…佐久……」容保は沈んだ気持ちだった。
 湾には官軍の艦隊が迫ってくる。
 白虎隊が出陣するときはいつも嵐の中であった。
 それは、白虎隊の未来を暗示しているかのよう、であった。


そして再び「会津の役」に戻ろう。
1868年10月11日(慶応4年8月26日=籠城3日目)、若松城を包囲する新政府軍の陣中に笛や太鼓が鳴り響き、会津地方に伝わる獅子舞「彼岸獅子(ひがんじし)」が乱舞する。
何かのお祭りだろうか。
彼岸獅子は賑やかな笛や太鼓に合わせて踊りながら新政府軍の陣中を通って若松城の方へ進んでいく。
新政府軍は薩摩藩と土佐藩を中心とした諸藩の集まりで、様々な武具を着けており、彼岸獅子の一行が敵なのか味方なのかも判断できない常態だった。
新政府軍は呆然と獅子舞の一行を眺めるだけだった。
新政府軍の陣中を抜けた彼岸獅子が若松城へ近づくと城門が開き、彼岸獅子の一行は若松城に入ってしまった。
呆気にとられる新政府軍。
一体、あれは何だったのだろうか。
数日前、新政府軍の侵攻に備えて国境の日光街道の警備にあたっていた会津軍の山川大蔵(後の山川浩)の元に、帰城命令が届いていた。
「城の守りが手薄になっている。敵との戦闘を避けて速やかに帰城せよ」との命令であった。
若松城の危機を知った山川大蔵は急いで若松城へ引き返すが、若松城は新政府軍に包囲されており、無傷で若松城までたどり着くことができない。
そこで、会津藩士の水島純が一計を案じ、会津地方に伝わる獅子舞「彼岸獅子」の行列に扮装して包囲網を突破する計略を、山川大蔵に進言したのだ。
彼岸獅子の計は、新政府軍を欺くことができることと同時に、若松城に居る兵に味方だと教えることが出来る名案だった。
山川大蔵は彼岸獅子の伝わる小松村の村長・大竹重左衛門や斎藤孫左衛門を呼び、彼岸獅子の協力を求めた。
失敗すれば全員が死ぬ危険な作戦であったが、大竹重左衛門は「今こそ、松平家300年の恩顧に報いる時だ」と言い承諾した。
直ぐさま、村長・大竹重左衛門は村人を集めて協議した結果、高野茂吉(30歳)を隊長とした決死隊とも言える彼岸獅子隊10人を編成した。
雄獅子は大竹巳之吉(12歳)、雌獅子は中島善太郎(14歳)に任せた。隊長の高野茂吉(30歳)以外の9人は少年で、最年少は弓持の藤田与二郎(11歳)であった。
そして、1868年10月11日(慶応4年8月26日=籠城3日目)、高野茂吉が率いる彼岸獅子を先頭に、山川大蔵の部隊は敵陣へと進んだのである。
少年達は一瞬たりとも気を許さずに彼岸獅子を演じきり、見事に新政府軍の陣中を突破し、無傷で若松城へ入ることに成功した。
新政府軍はただただ、呆気にとられて彼岸獅子を見送ったという。
彼岸獅子は春の彼岸に行われる、家族の無病息災を願う祭りで、会津に雪解けと春の訪れを知らせる行事でもあった。
当時は娯楽が無く、会津藩士の中にも彼岸獅子を楽しみにしている者が多かった。
「大蔵さあ、援軍にきでくれだのがっす!頼もしいべ」一同は微笑んだ。
山川大蔵の彼岸獅子は、籠城する会津兵に大いに勇気を与えることが出来たという。
その後、見事に役目を果たした彼岸獅子隊は無事に小松村に戻り、1人の被害者も出さなかった。
会津藩の敗戦後の明治4年、小松村の彼岸獅子は、山川大蔵の配慮により、会津藩主・松平容保に彼岸獅子を披露する機会に恵まれた。
このとき、松平容保は「彼岸獅子の入城」の勇気を称えて、小松村の彼岸獅子に会津松平家の会津葵紋の使用を許可した。
現在も会津葵紋の使用が許されているのは、小松彼岸獅子だけである。
籠城2日目から3日目にかけて、会津藩が国境に展開していた主力部隊が続々と帰城してきた。
若松城に籠城する人数は、戦闘員と非戦闘員とを合わせて5000人を超えたという。
山川大蔵の彼岸獅子の入城により、会津藩の士気は高まっていたが、新政府軍に包囲された若松城内は、籠城派と降伏派とに別れて喧々囂々の議論となっていた。
極楽寺の裏切りにより、若松城の弱点となる小田山を新政府軍に占領されたうえ、会津藩は籠城の準備をしていなかったため、若松城には籠城戦に備えるだけの武器や兵糧が無かった。
武器商人から購入したゲベール銃は不良品が多く、会津藩は火縄銃まで持ち出す始末であった。
ゲベール銃は不良品を売りつけられたという説もある。
会津藩の家老は世襲制で、会津の名門9家(会津9家)の出身者しか家老になることが出来ず、身分意識が強いうえ、保守的だった。
このため、会津藩の首脳陣は没落していた。
会津藩は身分制度が強く、優秀でも身分が低ければ出世することができなかった。
秀才と言われた秋月悌次郎が左遷されたのも、下級藩士だったからだ。
また、改革を主張しようものなら、家老の怒りを買い、処罰されるのは必至だった。
西洋銃の導入を訴えた山本覚馬も1年間の禁足を食らったのも、会津藩の家老の反感を買ったからだった。
会津藩は、西日本諸藩の事情に通じていた秋月悌次郎が左遷し、薩摩藩・長州藩と対等に話が出来る神保修理を無実の罪で自害に追いやった。
新政府軍とのパイプ役を切り捨てて、会津藩を戦争へ追いやったのは、会津藩自身であった。
会津藩が恭順派と抗戦派に別れるなか、家老の西郷頼母(さいごう・たのも)は、藩主・松平容保に切腹を迫り、全員玉砕を主張した。
非戦恭順派だった西郷頼母が、藩主・松平容保の切腹および会津藩の玉砕を主張した理由は分からない。
西郷頼母は過去に、京都守護職の就任に反対し続けて、藩主・松平容保の怒りを買い、家老を解任されたていた。
その後、家老に復帰した西郷頼母は、「白河口の戦い」で大軍を率いて白河城の守備にあたったが、新政府軍の参謀・伊地知正治の手勢700人に惨敗し、白河城を奪われるという大失態を犯した。
(実戦経験の無い西郷頼母に、東北諸藩の運命がかかっている白河城の守備を任せたのは、身分が理由との説もある。)
その西郷頼母が、この場に及んで藩主・松平容保に切腹を迫ったため、藩主・松平容保ほか会津藩士が激怒した。
このため、身の危険を感じた西郷頼母は、城の外にいる部隊への伝令を口実に、長男の西郷吉十郎を連れて若松城を抜け出して逃げた。
一説によると、西郷頼母に刺客が送られたが、刺客はあえて西郷頼母を追わなかったとされている。
ただし、刺客説の真相は分からない。
西郷頼母はその後、旧幕府軍の榎本武揚と合流し、北海道の函館へ渡った。
そして、旧幕府軍が降伏すると、西郷頼母は館林藩に幽閉された。
西郷頼母を追放してもなお、会津藩は恭順派と抗戦派に別れて、喧々囂々の議論を続けていた。
しかし、藩主・松平容保は籠城を決め、山川大蔵を軍事総督に抜擢し、梶原平馬を政務総督に抜擢する英断を下した。
こうして、20歳代の2人が、会津藩の軍事・政務の責任者に就き、旧態依然としていた会津藩に新しい風が吹いた。
さらに、藩主・松平容保は、原田対馬に西出丸の守備に就け、海老名季昌を北出丸の守備を任せるなどして、若松城の防衛の責任者に若手を起用。
佐川官兵衛を総督に任命し、首脳陣を一新した。
そして、秋月悌次郎を軍事奉行添役に抜擢するなどして、優秀な若手を次々と起用した。
主・松平容保は、保守的な旧体質を壊し、新しい会津藩を誕生させた。
本当の意味での会津藩の改革が行われたのは、この時である。
会津藩は新体制の元、一致団結し、士気は益々高まった。
いつの世も時代を作るのは若い力なのだ。
会津藩の頼みの綱は、奥羽越列藩同盟の援軍と冬の到来だった。
雪が降れば、新政府軍は移動も食料の搬送も困難となる。
冬まで持ちこたえれば、会津藩にも勝機が出てくる。
1868年10月13日(慶応4年8月28日)、籠城6日目にして若松城に入城した娘子隊(別名「婦女隊」)の中野こう子が、卑怯者の山本八重に
「なぜ娘子隊に加わらなかったのですか」と問うた。
1868年10月8日(籠城1日目)早朝、若松城の城下町に早鐘が鳴り響いたとき、山本八重は若松城に入城することができたが、敵の侵入は早く、早々に城門は閉ざされ、城内に入れなかった者も多かった。
中野竹子は会津藩主・松平容保の義姉・照姫を警護するため、母・中野こう子と妹・中野優子を連れて、若松城へ向かったが、時は既に遅く、若松城の城門は閉ざされていた。
中野竹子は、会津藩士・中野平内の長女で、江戸の会津藩上屋敷で生れ、江戸で育った。
中野竹子は幼い頃から聡明で、文武に優れ、かなりの美人だったという。
また、中野竹子は幼少期から赤岡大助に師事して薙刀(なぎなた)を学び、道場では師範代を務めるほどの腕前であった。
中野竹子は江戸で生活していたが、「鳥羽・伏見の戦い」の後、藩主・松平容保が徳川慶喜から登城禁止を言い渡されて会津へ戻ったことに伴い、中野竹子一家も会津に引き上げていた。
会津の風呂屋は混浴だったため、江戸で生まれ育った中野竹子は風呂屋へは行かず、自宅のタライで入浴していた。
中野竹子は絶世の美女だったため、会津の男はこぞって風呂場を覗きに行ったという。
覗かれたことに激怒した中野竹子は薙刀を振り回し、覗きに来た男を追い払ったという逸話が残っている。
1868年10月8日(籠城1日目)、若松城へ入城できなかった中野竹子は、同じように逃げ遅れた依田まき子・依田菊子(後の水島菊子)・岡村ます子の3人と出会い、娘子隊(婦女隊)を結成した。
(この時、依田菊子は既に髪を切り落としていた。山本八重が髪を切るのは、籠城1日目の夕方あたりなので、依田菊子が髪を切るのは早かった。)
さらに、入城できなかった神保雪子(切腹させられた神保修理の妻)などが続々と薙刀を持って集まり、娘子隊(婦女隊)は20数名に発展した。
娘子隊(婦女隊)は、会津藩が設置した正規軍ではなく、逃げ遅れた女性らが中野竹子らに合流して自然発生した義勇軍的なものである。
この点は、正規軍の白虎隊とは大きく異なる。
娘子隊(婦女隊)は義勇軍なので部隊に名前は無く、後に「娘子隊」または「婦女隊」と呼ばれるようになった。
後に名称が付いた点は、二本松藩の悲劇として知られる「二本松少年兵」と同じである。
 1868年10月8日(籠城1日目)、娘子隊(婦女隊)を結成した中野竹子らは、会津兵から会津藩主・松平容保の義姉・照姫が坂下へ避難したという情報を聞き、照姫を警護するため、坂下へと向かった。
しかし、情報は間違っており、坂下に照姫は居なかった。
中野竹子らはこの日、坂下の法界寺で宿泊し、翌日、照姫を警護するため、若松城へ向かうことにした。
1868年10月9日(籠城2日目)、中野竹子ら娘子隊(婦女隊)は高瀬村に会津軍が駐留している事を知り、高瀬村に駐留している会津藩の家老・萱野権兵衛に従軍を願い出た。
しかし、娘子隊は女ばかりだったため、家老・萱野権兵衛は
「城に帰って女中の仕事をして欲しい」
と言い、従軍を拒否する。会津藩士にとって、女を戦わせることは末代までの恥なのだ。
しかし、中野竹子らは
「戦に加えてくれなければ、この場で自決します」
と言って後に退かないため、家老・萱野権兵衛は仕方なく、旧江戸幕府軍の衝鋒隊への従軍を認めた。
会津藩の「什の掟」には、
「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」
「ならぬことはならぬものです」
という掟があるが、
「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」
という掟があるとおり、「什の掟」は男子のための教えであり、女子には関係が無い。



         7 義の戦い




またも話しがそれる。
  会津湾には官軍艦隊が迫っていた。
 陸上の官軍も侵略の機会を狙っている。
 栃木の黒田了介らは軍儀を開いていた。
「あの餓鬼はどこにいった?!」
 黒田は獅子舞いのかつらをかぶったままだ。餓鬼とは、同じく政府軍会津征伐参謀の山田市之丞のことである。
 ……あの餓鬼が! 軍儀にも出んと昼寝でもしとっとか?!
 栃木の官軍はほとんど薩摩隼人たちである。
「ニセ情報じゃなかとがか?」
 官軍海軍総参謀・石井富之助はそういった。
 黒田は「まだわかんど」という。
「榎本海軍が動きをみせちゅうは本当ではごわさんか?」
「まずは…」黒田了介(のちの清隆。首相)は続けた。「まずはニセ情報かどうかは密偵を出して決めるのがよごわさんか?」
 昼寝から起きたのか、山田市之丞があわててやってきて、
「会津などすぐ陥落する。その前に蝦夷に向かった榎本らに甲鉄艦をとられたらどけんする?」といった。
黒田は激昴して、
「このガキが! なにぬかしとる!」と喝破した。
 しかし山田も負けてはいない。
「アボルタージを知っとっがか?!」
「アボルタージくらいおいも知っとる!」
 黒田は声を荒げた。
「ほんとに知っちゅっがか? あぁ、薩摩(鹿児島県)と違うてすうすうするばい」
「このガキ!」
 黒田は山田に掴み掛かった。
 途端に取っ組み合いの喧嘩になる。
「おいどんをナメるんじゃなか!」
 黒田了介は声を荒げる。
「おいは何も黒田はんばナメとりゃせんが!」
「その言い方が気に入らんのじゃ!」
 官軍の部下たちはふたりをとめた。
「黒田先生も山田先生も……戦うのは薩摩じゃなかど! 戦ばするのは会津ぞ! 榎本ぞ!」
 ふたりはやっと取っ組み合いをやめ、冷静になった。
「……そげなこつ、わかっとっとばい」
 ふたりはいった。

  結局、蟠竜丸ははぐれ、回天丸だけでの「アボルタージ」となった。
 甲鉄艦にはのちの日露戦争の英雄・東郷平八郎が三等士官として乗っていた。
 東郷平八郎まだ若く、軍略も謀略もできない青二才だった。
 東郷は双眼鏡で海原をみながらにやにやと、
「アボルタージって知っとうか?」と仲間にいった。
「……アボルタージ? 知らん」
「まず第三国の国旗を掲げて近付いて、それから自分の旗にして攻撃するのさ」
「そげん卑怯なマネ許されっとでごわすか?」
「いや、卑怯じゃない」
 東郷平八郎は笑った。
「国際法でも認められている立派な策さ」
 そういいながらも、何やら艦船一隻が近付いてくるのが気になった。
「あれはどこの国の艦だ?」
 双眼鏡で覗いて見ると、アメリカの国旗を掲げている。
「………メリケン艦か…」
 東郷平八郎はどこまでも愚鈍だった。
 仲間は「あの船がアボルタージ艦だったら……」という。
「まさか?! 俺は海軍にはいって幕府とも戦ったが実際に”アボルタージ”した艦などみたことないぜ」
 しかし、予想は外れる。
 艦(回天丸)は、米国国旗を下げ、日の丸の国旗にかえた。
 ……”アボルタージ”だ!
「アボルタージ! アボルタージ! 砲撃せよ!」
 東郷たちは動揺を隠せない。
  甲鉄艦に、回天丸はすぐに接近した。
 と、同時に回天丸は砲弾を甲鉄艦に撃ちこむ。が、やはり鉄で弾かれる。
「乗り込め!」
 土方歳三の号令で、回天丸にのっていた榎本脱走軍の兵士や新選組たちが甲鉄艦に乗り込む。目的は、甲鉄艦奪取、アボルタージである。
「斬り込め! 斬り込め!」
 さすがは剣豪・土方歳三である。次々と官軍兵士を斬り殺していく。
 が、もはや時代は剣ではなく銃である。
 すぐに官軍は回転式機関銃を撃ってくると、榎本兵たちはやられていった。
 いわゆる初期のガドリング砲は、大砲ほどの大きさがあった。
 ガドリング砲の銃口が火を吹くたびに、榎本脱走軍兵士たちは撃たれて倒れていく。
「くそったれめ!」
 土方はガドリング砲を撃つ官軍たちの背後から斬り込んだ。そして、ガドリング砲を使って官軍兵士たちを撃っていく。が、戦にはならない。次々と官軍艦隊がやってきて砲撃してくる。土方はひととおりガドリング砲を撃ったところで、回天丸に飛び乗った。
 ……アボルタージは失敗したのだ。
 回天は全速力で甲鉄艦から離れた。遁走した。
 官軍の艦隊や甲鉄艦からも砲撃をうけ、回天丸は大ダメージを受けて、港にもどってきた。アボルタージが失敗したのはいたかった。が、それよりも貴重な兵士たちを失ったのもまたいたかった。
 榎本は、
「こんなことならアボルタージなどしなければよかった。べらぼうめ!」
 と悔がった。
 土方歳三は、なにをいまさらいってやがるんだこの男は! と怒りを覚えた。
 とにかく新選組隊士まで損失を受け、大打撃であった。

  雀之丞の弟・大塚浪次郎が戦死した。
「浪次郎!」
 兄の大塚雀之丞は号泣し、遺体にすがった。
 松平容保がきた。
「君の弟は優秀な人材であった。惜しいことだ」
 とってつけたように、容保はいって労った。
 涙で顔を濡らしながら、雀之丞は、
「弟の死は犬死にですか?! 会津公!」と声を荒げた。
 松平容保は鶴ケ城で立て籠もり、戸惑ってから、
「戦は殺しあいだ。新政府があくまでもわれら会津共和国を認めないなら、戦うしかない。これは”義”の戦ぞ! 会津は新天地だ」
「……しかし…新天地が血に染まりまする!」
「”義”の戦では勝つのはわれらだ。薩長には”義”がない。勝つのはわれらだ!」
 容保はどこまでも強気だった。
「……そうですか……」
 雀之丞は涙を両手でふいて、いった。
「新天地なら義の戦ですね? 弟の死は犬死にではなかったのですね」
「そうだ! 大塚雀之丞……励め!」
「はっ!」
 大塚雀之丞は平伏した。
 そして、ハッとした。
「そうだ! 公! これを!」と何か懐から取り出した。
「……なんだ?」
「これです!」
 大塚雀之丞は赤い財布を差し出した。
「…公の奥様にあってこれを渡されました」
「なに?! 佐久の?!」
 容保は驚いた。
「はい!」雀之丞は笑顔をつくった。「もったいなくて銭は使ってません。これを公に返します」
 容保は無言で何か物思いに耽っていた。
「公!」
「いや、それは君がもっていてくれ……佐久もよろこぶだろうて」
「公の奥様は大変に優しい方で、美人ですし若いですし、公が羨ましいです」
 雀之丞の言葉に、松平容保は笑った。

  明治三年(一八六九)三月十九日江戸……
 勝海舟と妻・たみ子は江戸の屋敷でひなたぼっこをしていた。
 勝は「……徳川家臣にもどって静岡にいこうけぃ」といった。
 たみ子は「それがいいかも知れませんね」と頷く。
 そんな中、「勝の裏切り者! 勝の裏切り者!」と罵声がきこえ、投石された。
 たみ子は驚いて目をとじた。
 ふたたび目を開けると、夫の勝海舟の額から血が流れていた。
「……あ、あなた!」
 しかし、勝海舟は血をふこうともせず、にやりとした。
「裏切り者けっこう! おいらの幕引は間違いじゃねぇってんだ」
 妻・たみ子は唖然として何もいえなかった。
”維新最高の頭脳”勝海舟はその後も長生きし、七十七歳で世を去る。


 そして再び「会津の役」に話しと時代を戻そう。
母成峠を突破して、一気に若松城まで兵を進めた新政府軍だったが、会津藩の猛反撃もあり、東北一と称される会津若松城は簡単に落とせなかった。
新政府軍は兵を退いて、外郭(がいかく=外側の塀)から会津若松城を包囲しており、膠着状態が続いていた。
しかし、新政府軍の別部隊は着々と奥羽越列藩同盟を制圧していた。
元々、東北諸藩の中にも勤王派の藩も存在しており、新政府よりの藩もあった。
が、そのような藩も仙台藩・米沢藩・会津藩に脅迫されて奥羽越列藩同盟に参加させられていた。
このため、新発田藩(新潟県)や三春藩(福島県)のように奥羽越列藩同盟を裏切って、新政府軍に味方したり、特に戦いもせずに簡単に新政府軍に降伏したり、奥羽越列藩同盟を離脱したりする藩もあり、奥羽越列藩同盟は簡単に崩壊した。
1868年10月19日(慶応4年9月4日=籠城12日目)、奥羽越列藩同盟の盟主・米沢藩が新政府軍に降伏する。
米沢藩と新政府側の土佐藩とは縁戚関係にあり、土佐藩が米沢藩に降伏を勧告していた。
藩主の命は保障されていたほか、寛大な処分が約束されていたため、米沢藩は新政府軍に降伏したのだ。
前述しているが米沢藩の子孫として著者がもう一度説明する。元々、米沢藩・上杉家は越後(新潟県)で豊臣秀吉に仕えて(会津・福島県)120万石を有していたが、関ヶ原の戦いでは西軍についたため、徳川家康によって(出羽米沢(山形県米沢市・置賜地方))30万石に減封されていた経緯がある。
米沢藩・上杉家は初代会津藩主・保科正之に御家断絶の危機を救ってもらっており、会津藩には恩義があったが、徳川家には恨みこそあれ、恩義など無かったのだ。
新政府軍への降伏に伴う処罰として米沢藩主・上杉斉憲が隠居すると、上杉茂憲が家督を継ぎ、米沢藩主になる。
すると、上杉茂憲は新政府軍に会津討伐の先鋒を願い出て、朝敵の庄内藩討伐に加わった。
1868年10月25日(籠城18日目)、奥羽越列藩同盟の盟主・仙台藩までもが新政府軍に降伏し、奥羽越列藩同盟が消滅する。
仙台藩は米沢藩からの降伏勧告を受けて、降伏の議論を行う。抗戦派も多かったが、戦況の悪化により、降伏を決定。和睦を打診してみたが、認められず、降伏した。
こうして、奥羽越列藩同盟の盟主となっていた仙台藩・米沢藩が新政府軍に降伏したため、奥羽越列藩同盟は完全に消滅し、会津藩は孤立した。
会津藩は奥羽越列藩同盟からの援軍を頼みの綱に籠城戦を戦っていたが、奥羽越列藩同盟が消滅したため、会津藩は孤立していた。
さらに、各方面を鎮圧した新政府軍が続々と会津に集結しており、会津藩の運命は風前の灯火となっていた。
会津藩が期待できるのは、もはや冬の到来だけだった。
「おらだの味方は冬将軍だげがあ」
会津若松城は、糞尿が溢れ、異臭が甚だしい。
井戸は死体で埋まり、死人は廊下にまであふれていた。
食料の補給路が断たれ、生きている者は黒い飯を食べていた。
城から逃げ出す会津藩士もいた。この会津の役で、八重は鳥羽伏見での弟・三郎に続いて父親・山本権八も亡くしている。父は城に兵糧を運ぶ「決死隊」に志願して、官軍の銃弾に貫かれたのだ。「八重、にしは山本家…の……誇りだ。」担架で城内に運ばれた瀕死の父親はそういって死んだ。「おとっつあまあ!」八重は遺体にすがって号泣したという。
三春藩(福島県)など東北諸藩の裏切りに至り、奥羽越列藩同盟は崩壊。
奥羽越列藩同盟の中心となっていたた仙台藩と米沢藩の両藩も既に新政府軍に降伏したため、会津藩が頼みの綱としていた奥羽越列藩同盟は消滅していた。
さらに会津藩は食糧補給路や連絡路も絶たれており、新政府軍に包囲された会津藩は将棋で言う「詰み」の状態であった。
このようななか、新政府軍の土佐藩士・板垣退助の意向を受けた米沢藩が、会津藩の家老・萱野権兵衛に手紙を送り、降伏を勧告したのである。
新政府軍に降伏した米沢藩も藩主の命は保障されており、会津藩主・松平容保は軍議の結果、降伏の交渉を決定した。
こうして、会津若松城は事実上の落城となった。
1868年11月3日(慶応4年9月19日=籠城27日目)、会津藩主・松平容保は、手代木直右衛門と秋月悌次郎の2人を使者として、米沢陣営に向かわせ、米沢藩を通じて新政府軍の板垣退助に降伏の意志を示した。
(注釈:後に山本八重は甘粕初子を養女にしている。甘粕初子の母方祖父は、会津藩の降伏の使者として活躍した会津藩士・手代木直右衛門である。)
1868年11月4日(慶応4年9月20日=籠城28日目)、新政府軍の板垣退助が、会津藩の使者の手代木直右衛門と秋月悌次郎に対して、降伏を提示する。
降伏の条件は以下の6つだった。
1・22日辰刻を期して、大手門外に降伏と大書した白旗をかかげる。
2・松平容保・喜徳父子は政府軍の軍門に来て降伏を請う。
3・家臣の男子は猪苗代に移って謹慎する。
4・14歳以下60歳以上の男子ならびに女子はどこに居住してもよい。
5・城中の傷病者は青木村に退いて引きこもる。
6・銃器・弾薬はとりまとめて、開城の日に官軍へ引き渡す。
1868年11月5日(慶応4年9月21日=籠城29日目)、手代木直右衛門と秋月悌次郎の2人が帰城した。秋月は白旗をもって官軍が包囲する鶴ヶ城城門前に現れ「開門!降伏すっべ!」と声を張り上げたという。残念なことに真新しい白旗は官軍に没収されてしまう。
降伏の条件を承諾した会津藩主・松平容保は降伏を正式に決定し、全軍に降伏を命じた。やっと一か月ぶりに官軍による砲撃が止んだ。そして、女性には白い旗を縫うように命じた。
しかし、城外を転戦していた佐川官兵衛は、藩主・松平容保の停戦命令を無視して新政府軍と戦った。
1868年11月5日(慶応4年9月21日=籠城29日目)夜、会津若松城の一室では、女性が泣きながら白旗を縫っていた。
白い布は全て包帯として負傷兵に使用していたため、白旗を作るための布が無く、女性は端切れを集めて縫い合わせた。
山本八重はこの時の様子を
「降参の旗は長さ3尺、幅2尺ぐらい、それも小布を多数集め、ようやく縫合したもので、これを縫う者は泣ぎの涙で針先は少しも進まながっだと申しておりやすだ」
と話している。
山本八重は白旗縫いの様子を「申しでおりやすだ」と伝聞として話していることから、山本八重は白旗縫いには参加していなかった、とされている。
1868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)午前10時、若松城の大手門や黒手門などに降伏の白旗が揚がる。
白旗には大きく「降参」と書いてあった。松平容保の義姉・照姫が墨筆で書いたものだ。
会津藩は白旗を掲げ、1ヶ月にわたる籠城戦は終止符を打った。会津藩が降伏して、ついに若松城が落城したのである。
やがて、停戦命令を無視して城外で戦っていた佐川官兵衛も戦いを止め、会津戦争は完全に終わった。
1ヶ月間の籠城戦に耐えた会津若松城は、大量の大砲を浴びており、無残な姿になっていた。
1868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)、甲賀町通の降伏式場で降伏式が行われた。
新政府軍の代表は、薩摩藩の中村半次郎(桐野利秋)だった。
降伏式に出席した松平容保は、降伏書に調印し、中村半次郎に「謝罪書」を提出した。
また、家老・萱野権兵衛は松平容保の寛大な処分を求めて、嘆願書を提出した。
その後、松平容保は若松城へ戻り、家臣に別れを告げ、戦死者に花を手向けると、若松城を出て、妙国寺で謹慎した。
なお、新政府軍を代表として降伏式に出席した中村半次郎は幕末時代に「人斬り半次郎」と恐れられていた剣客だったが、無学だったため、会津藩から受け取った書類の内容を理解できなかったという説もある。
11868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)午後、調印式が終わると、城の受け渡しが行われた。
籠城していた山本八重らは会津若松城の三の丸へと移された。
同日夕方、新政府軍が人員を調べるため、山本八重ら籠城者を桜馬場に集めたが、日が暮れて中止となり、山本八重ら籠城者は三の丸へと戻された。
桜馬場へ集まる時には通路に会津葵(会津藩・松平家の家紋)の提灯がかかっていたが、三の丸へ帰る時には揚羽蝶(あげはちょう)の提灯に変わっていた。
新島八重は揚羽蝶の提灯を観て、
「汚らわしい奸賊どもの提灯が…無念」
と怒りを噛み締めた。奸賊(かんぞく)とは「卑怯な悪人」という意味である。
11868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)深夜12時、山本八重が空を見上げると、見事な月が輝いていた。
山本八重は三の丸を出ると、
「明日の夜は、何国(いづこ)の誰か、ながむらん、なれし御城に、残す月かげ」
という詩を詠み、若松城三の丸の近くにある雑物蔵の壁に詩を刻んだ。
山本八重は「カンザシ」を使って雑物蔵の壁に詩を刻んでいる。この「カンザシ」は髪に差す「簪(かんざし)」とされているが、簪ではなく、鉄砲の部品だったという説もある。
なお、山本八重が雑物蔵の壁に刻んだ詩は、資料により若干の違いがあり、4パターンが記録されている。どれが正しいのか分からない。
1868年11月7日(慶応4年9月23日=籠城31日目)、新政府軍(長州藩)の山県小太郎が入城する。
降伏した松平容保は、新政府軍の山県小太郎に若松城を明け渡す。
開城時に若松城に居た人数(籠城者)は5239人だった。若松城には、大砲51門・小銃2845丁・弾薬22000発・槍1320筋・長刀81振のほか多額の借金が残っていた。
会津藩の死傷者の数は計2977人だった。
その日の朝、新政府軍は籠城して腹を空かした会津藩士のために、握り飯を配った。
新政府軍の配った握り飯は、白米でピカピカしていたため、若松城内では「新政府軍が配る飯には毒が入っている」という噂が流れた。
山本八重は久しぶりに見た白米を気味悪がりながらも、新政府軍が配ってくれたおにぎりを食べた。もちろん、おにぎりに毒は入っていなかった。
また、若松城では
「女は追放になり、男は全員、切腹を命じられる」
などという噂が流れたが、新政府軍の処分は、
「女子供および60歳以上の老人は罪に問わぬものとして放免とし、その他の者は猪苗代で謹慎」
というものだった。
松平容保は会津の役を起こした首謀者として死ぬ覚悟をしていた。が、死罪はまぬかれ蟄居とあいなった。そのかわり、会津藩の家老・萱野権兵衛が容保の罪を一身に被り、白無垢の死に装束で切腹して果てた。
こうして、若松城の城内に居た会津藩士は猪苗代で謹慎し、城外に居た会津藩士は塩川村で謹慎することとなった。
 山本八重は女性なので自由の身となるずだったが、亡き弟・山本三郎を名乗って、他の会津藩士と供に猪苗代へと向かった。
ただ、途中で女だと知られてしまい、「女だ、女が居るぞ」と叫ばれた。大河ドラマでは夫の川崎尚之助が八重を助ける為に叫んだ、とされた。
山本八重は右へ左へと身を隠しながら、猪苗代へ向かうのだが、結局は女だと知られてしまい、追い返されてしまった。
 一方、大砲隊を指揮していた夫・川崎尚之助は、他の会津藩士と同様に猪苗代へ行き謹慎した。
通説では「川崎尚之助は会津藩士では無かったため、若松城開城前に若松城を出た」とされていたが、川崎尚之助は会津藩士として猪苗代を経て東京で謹慎していた事が明になっている。
また、通説では「川崎尚之助は戊辰戦争の最終に山本八重と離婚した」とされているが、川崎尚之助が山本八重と離婚した事を示す資料は見つかっていない。
朝敵となった会津藩は「会賊」と呼ばれていたが、新政府軍に降伏して捕虜となった会津藩士は「会津降人」と呼ばれるようになる。
武士道を重んじる会津藩士にとって、「会賊」「会津降人」と呼ばれることは、非常に屈辱的だったという。
ただし、会津藩士は新政府軍(官軍)を「奸賊(かんぞく)」「官賊」「薩賊長奸」などと呼んでおり、お互い様のようだ。


 話を少し戻そう。
  会津軍の全軍の兵力は二千に過ぎない。
 猪苗代に三百
 郡山に四百 
 白虎隊わずか十九名……
 二本松隊二百
 鶴ケ城隊八百
 城に大砲を設置
 猪苗代にも大砲を設置

           
  若く可愛い看護婦と、会津軍の兵士の若者・英次郎はおさえとデートした。
「君、今好きなひととかいるの?」
 英次郎は勇気をふりしぼってきいた。
 是非とも答えがききたかった。
 おさえは頬を赤らめ、
「えぇ」
 といった。
 純朴な少年の感傷と笑うかも知れないが、英次郎はおさえが自分のことを好きになっていると思った。
「それは誰?」
「…ある人です」おさえは顔を真っ赤にした。
 そして「あのひとはもう治らないとやけになってるんです」と吐露した。
「………治らない? なんだ……俺のことじゃないのか」
「すいません」
「いや!」英次郎は逆に恐縮した。「いいんだよ! そのひと病気治るといいね」
「……はい」
 おさえは可憐に去った。
「ふられたか? 英次郎」
 兄・恒次郎はからかった。弟は「そんなんじゃねぇや!」といった。
 ふたりは相撲を取り始めた。
 兄が勝った。
「元気だせ。もっと可愛い娘がいっぱいいるって」
「だから! ……そんなんじゃねぇって」
 ふたりは笑った。
 まだ恋に恋する年頃である。

  白虎隊の行軍では、若者たちが英雄をかこんでいた。
 英雄とは、あの土佐の坂本龍馬を斬った男・今井信助である。
「今井さんはあの龍馬を斬ったそうですね?!」
「…まぁな」
「龍馬を斬ったときどんな気持ちでしたか?!」
 若者たちは興奮して笑みを浮かべながらきいた。
「うれしかったよ。なんせ薩長をふっつけた売国の男だからな」
「龍馬はどういってましたか? 死ぬとき…」
 若者は興奮で顔をむけてくる。
「なんもいわなかったよ。でもやつは頭を斬られて死んだんだな」
「へぇ~っ」
 若者たちが笑顔で頷いた。
 かれらにとっては龍馬は明らかな”敵”である。

  八月二十六日 猪苗代…
 暴風雨が襲ってきた。白虎隊は指令者を失い迷走した。
 薩摩藩、長州藩など官軍三万が猪苗代へ上陸した。
 会津並びに蝦夷征伐参謀は山田市之丞(二十五歳)である。かれは大村益次郎の弟子であった。
 会津軍は敗退、官軍は鶴ケ城まで迫った。
 城に官軍が艦砲射撃をする。
 次々と会津軍はやられている。会津軍の大砲の弾丸は、官軍の艦隊に届かない。
 猪苗代でも、圧倒的人海戦力で官軍が圧倒的優位にたつ。
 銃撃戦は続く!
 八月三日午前四時、雨があがった。官軍り総攻撃が始まった。
 白虎隊のリーダー篠田義三郎は、「剣のたつやつを集めろ!」と命じた。
「はい!」
 官軍との戦いになった。
 陣内の山田市之丞に黒田了介は、
「ひきのばし策など愚策でごわす!」と文句をいった。
 山田市之丞は、
「……ひきのばしけっこう。どうせ会津軍は自滅する」
「そげんこつわかっとか!」
「そうでごわすか?」
「ふん!」黒田了介は「会津公は賊軍ながらあっぱれな男じゃ。敵ながらあっぱれじゃっどん。殺すには惜しか男じゃ」
 二本松で、郡山で、会津軍やぶれる。
 木之内でもやぶれる。
 湾、でも形勢不利……
 福島海岸でも会津大砲の砲弾は官軍戦艦に当たらない。官軍が城下に迫ったとき会津の女たちは200名が自害したという。幕末のジャンヌダルクというのが山本八重である。斬髪し恐ろしい正確な狙撃で官軍たちを狙撃して殺した。男たちに反対されてもならば死ぬと啖呵をきって戦する女たちもいた。中野竹子優子らの会津娘子隊である。容保の姉・照姫もがんばった。怪我人たちの包帯が尽きると自分の着物を差し出した。

   

八重の桜  新島八重の桜と白虎隊とブログ連載アンコール小説<NHK2013年大河ドラマ『八重の桜』>6

2014年11月23日 08時11分21秒 | 日記







         5 白虎隊



またまた話しは遡る。龍の如く。
「これからどうなさりますの?」
 佐久は大塚雀之丞に尋ねた。「やはり上様さまとご一緒にいかれますの?」
 大塚は恐縮しながら、「会津公の藩邸とは存じませんで…」
「よいのです」
「榎本副総裁が蝦夷にいくというので乗せてもらおうと…」
「えっ?!」
 佐久は驚いた。「榎本さまたちは蝦夷(北海道)へいかれるのですか?」
「そうです。会津公も一緒です。まず、会津、仙台や青森を経て、最終的には蝦夷です」「……蝦夷…」
 佐久は言葉もなかった。
「江戸のかたきは蝦夷です!」大塚雀之丞はそういって、頭を下げて去った。
 義母の古森が、「どうしました? 佐久さん。誰かきましたか?」と起きてきた。
「いいえ。……上様さまかと思いましたが、違いましたわ」
 佐久は動揺しながらいった。
「左様ですか」
 義母が去ると、佐久はひとりきりになって寂しくなった。
 涙が後から後から大きな瞳からこぼれた。
 ………上様さま……このまま会津にいっておしまいになるのですか? ……
 佐久は号泣し、床に崩れおちた。
 …上様さま! 上様さま!
 すると、肩に黒のコートをかける者があった。それは松平容保だった。
「…う…上様さま!」
「佐久!」
 ふたりは抱き合った。佐久は涙を流したままだった。
「上様さまは……蝦夷にいかれるのですね?」
 容保は首をふり「いいや。余は蝦夷にはいかない。会津藩にもどり官軍と好戦する」
「佐久…も……会津にいきとうござりまする…」
「佐久! 頼みがある」松平容保は笑顔を無理につくり頼んだ。「余のまげを切ってくれい。もう武士の世はおわった」
「……わかりました」
 蝋燭の薄明りの中、佐久は旦那・松平容保のちょんまげを鋏で少しづつ切り落とした。容保の全身の血管の中を、なんともいえない感情が……ひとしれぬ感情が駆けめぐり、容保は涙を流した。さまざまな思い出、すでに忘れたとおもっていた感情や風景が、頭の中に走馬燈のように駆けめぐり、一瞬、自分が誰なのかも忘れてしまった。
「佐久! もう……いかねば…」
 最期の別れになる、容保も佐久もそう思った。
 ふたりは抱き合い、抱擁し、そして別れた。
  容保が部下に与えたのは何も軍艦占領法や、航海術だけではなかった。開墾や鉱物、畜産など容保にはそれらは得意分野だった。そこで、まだ新政府が開拓以前だった会津つまり福島県にいき、「新天地」をつくり開拓し、「会津共和国」をつくろうというアイデアに至ったのである。もう藩ではない。共和国だ!

  榎本らは船のデッキにいた会津公・松平容保の前で平伏していた。
 容保は謹慎中だった。
 幕府はいまや風前の灯……
 しかし、幕臣たちにとって松平容保は絶対的な存在であった。
「和泉守(榎本武揚)、戦は余ののぞむところではない」
 容保は平伏している家臣たちにいった。涙声だった。
 武揚たちは平伏したままだ。
「路頭に迷う家臣たちのことを思うと……夜も寝れぬ」
 容保はめずらしく感情的になっていた。涙を流した。武揚らはさらに平伏した。
「和泉守、家臣たちの力になってやれ」
「上様!」
 武揚は声をあげた。
「なんだ? 和泉守」
「われら幕臣たちは「新天地」にいきとうござりまする!」
 平伏したまま武揚はいった。
「”新天地”とは? どこじゃ?」
「蝦夷……にござりまする」
「蝦夷(北海道)?」容保は頭を回転させながら「蝦夷にいって何とする?」
 とやっときいた。
「われら幕臣たちは「新天地」……”蝦夷”にいって共和国をつくり申しまする!」
 榎本武揚はいった。
「共和国?」
 容保の目が点になった。
「蝦夷共和国にござる!」
「……しかしのう、和泉守。幕府の姿勢は共順じゃ。新政府が許すか?」
 武揚は顔をあげた。
「われらの姿勢はあくまで幕府と同じ共順です。只、蝦夷で共和制の一翼になるだけにござりまする。いわば蝦夷藩といったところでしょうか…」
「蝦夷藩?」
「はっ!」
 武揚はまた顔を下げ、平伏した。
 容保は何がなんだかわからなくなり、「ええい。苦しゅうない。みな面をあげい」
 といった。急に平伏していた幕臣たちが顔を向けた。
 ぎょっ、とした。
 みな揚々たる顔である。
 みなの顔には「新天地」への希望がある。
「すぐに蝦夷へ向かうのか?」
 容保は是非とも答えがききたかった。
 武揚は「いえ。まずは会津、仙台に立ち寄ります」と答えた。
「なるほどのう。会津であるか…余の故郷であるな」
 容保がどこまで理解しているのか、榎本武揚には解明するすべもなかった。
「会津から…せ……仙台から蝦夷へか。それはよいな」
「はっ!」
 榎本武揚らは再び平伏した。「会津さま!」榎本は催促した。
「とにかく私も会津にいきまする。官軍と一戦交えまする! 榎本武揚と励みまする!」「そうか」
 容保はそういうと、船のデッキにいった。
 蟠竜丸、慶応四年(一八六七)七月二十八日のことである。
「兄上! お達者で!」
 松平容保や兄・徳川慶勝は手をふった。

  松平容保はさっそく筆をとる。
「王政復古の大号令が発せられるも、それは薩長が朝廷工作のために発せられたに過ぎない。当然ながら天子さま(天皇のこと)はお大事ではあるが、その天子さまを掲げて、官軍などといっては、これまで三百年も朝廷や天子さまをお守りしてきた徳川幕府はどうなるのか。さてさて、幕府以外にこの日本国を束ねる力があるだろうか。
 私はないという。
 なぜならば、薩長には外交力も軍事力も欠けているからである。
錦切れどもは尊皇壤夷などといってはいるが、尊皇はいいとしても、壤夷などと本気でできると思っているのか。
 思っているとしたら救いがたい。
 今やらなければならないのは徳川家を中心とした共和制をつくり、軍備を整え、慶喜公がこの国の大統領となって「開国」することである。
 この国を外国にも誇れる国にすることである。
 そこで外国との窓口として「会津共和国」「蝦夷共和国」が必要なのだ。
 国の礎は、経済である。あの広大な大地をもつ蝦夷なら、開拓すれば経済的に自立できる。そして、会津藩、桑名藩、蝦夷藩ともいうべき「新天地」となるのである。
 新政府とわれらは争う気はない。
 われらの姿勢は幕府と同じ共順である。
 しかし、新政府が「会津、蝦夷共和国」を認めないなら、一戦交える覚悟である」

  このような内容の激文を、松平容保は書き、二通は勝海舟のもとへ送った。
 勝海舟はそれを読み、深刻な顔をした。
 ……まだ戦う気でいやがるのか。救いようもねぇやつだ。……
 勝は大きな溜め息をもらした。
「会津はとんでもねぇやつを藩主にしちまったもんだ」
 勝には、幕臣軍(今後は榎本脱走軍と呼ぶ)に勝ち目がないのがわかっていた。確かに、軍艦はある。大阪城から盗んだ軍資金もあるだろう。
 しかし、榎本脱走軍には勝ち目がない。
 錦切れどもは天子さまを掲げている。
 て、こたぁ官軍だ。榎本脱走軍は、賊軍、となるのだ。
 まだ会津藩らが戦うらしいが、どうせすぐに負ける。
 ……わかりきったことじゃねぇか。
 維新最大の頭脳、勝海舟には榎本脱走軍の将来がみえていた。
 しかし、それは明るいものではなかった。


「お父上、上様さまはもう会津へいかれたのですか?」
 朝、佐久は心配顔で父親にきいた。実家の父が会津江戸藩邸に訪ねてきていた。
 佐久の父・田代孫兵衛は、
「いや、まだ榎本副総裁の開陽丸は品川沖にあるそうだ」
 と答えた。
「まぁ!」
 佐久は驚いた顔をした。
「まだ品川にいて官軍にやられないのですか?」
「今、大急ぎで、幕臣たちが舟で開陽丸に向かっているそうだ」
「……そうですの…」
 佐久の不安は消えない。
 そんな中、大好きなおじいちゃま、こと田代老人が供をつれて訪ねてきた。
「まぁ! おじいちゃま!」
 佐久はお転婆娘のようにはしゃいだ。
「佐久! 元気でおったか?!」
「はい」
 すると、青年がふたり頭を下げた。
 それは英国留学よりもどった林洞海の五男・英国留学生、林董三郎とその甥、パリ万博随行員・山内六三郎である。
「まぁ、董三郎。六ちゃんも」
 いよいよ佐久はうれしくなった。
「姉上! 会津公に輿入れなされたとか……おめでとう」
 董三郎は遅ればせながらお祝いを述べた。
 父の友人・林洞海は浮かない顔をする。
「……どうしましたの? 先生」
「いやあ、董三郎たちが釜さんと一緒に蝦夷にいくってきかぬのだ」
「まぁ!」佐久は驚いた。
「われらは蝦夷にいきます! こうして英国留学できたのも幕府のおかげです!」
 董三郎たちは決起盛んな質である。
 それに若さも手伝っている。
「……しかし…蝦夷など…」林洞海は訝しがった。
「幕府がいま危ないからこそ、われわれが立ち上がるのです! 薩長だけで維新はなりません、蝦夷でこそ壤夷ができるのではないでしょうか?」
 田代老人がハッとした。
「この連中のいう通りじゃ。幕府のおかげで留学までできた!」
 林洞海は「先生!」と諫めた。
 すると老人は涙声になって、土下座して「このふたりを開陽丸に乗せてやってくれ!」 と嘆願した。「……先生…」
 董三郎たちは「これは義の戦です! 幕府軍(榎本脱走軍)は多勢に武勢……薩長なんぞに負ける訳がありません。江戸のかたきは会津…そして蝦夷です!」
 と息巻いた。
 そして、土下座して父に許しを乞うた。
「勝手にせい!」
 林洞海は訝しい顔でいった。
  船着き場では小舟にのり、幕臣たちが海原に浮かぶ開陽丸に乗るために急いでいた。 林董三郎とその甥、山内六三郎も舟にのった。
 そんな騒動の中、船着き場に白衣の医者が現れた。自分も乗せてくれ、という。
「あなたは?」
「わたしは元・幕府奥医師、高松凌雲だ」
 高松凌雲はいった。
 高松凌雲といえば幕府医師の中でも名医として知られ、フランスに留学して知識を得て、のちに日本赤十字運動の草分けとなる医者である。
「これは! 凌雲先生でしたか! 先生もわれらとともに行って頂けるとは…ありがたいかぎりです!」
 幕臣のひとりは笑顔になった。
 凌雲は「いっておくが、わたしは戦をしにいくんじゃない。負傷したひとたちをたすける、治療するためにいくのだ。その負傷者が例え幕臣でも薩長でも、差別なく治療する」「……そうですか」
「それでもいいなら乗せてくれ!」
 高松凌雲は舟に乗り、海原に浮かぶ開陽丸に向かった。
  その頃、榎本武揚と勝海舟は江戸で会談していた。
「榎本さんよ、どうしてもいくっていうのかい? 会津蝦夷くんだりまで?」
「勝さん、幕府軍(榎本脱走軍)を甘くみちゃいけない。ぜったいに会津…蝦夷で勝つよ」 いよいよ勝は激昴する。
「目を覚ませ! 榎本武揚! 歴史に愚をさらすだけだ!」
「われらは勝つ!」
「この……大馬鹿野郎!!」
 勝海舟は席を蹴って去った。「おいらの幕引は間違いじゃなかったな」
 しかし、勝はあの高松凌雲まで榎本脱走軍に合流したことを知って唖然としたという。 ……なんてこった!

  松平容保が開陽丸に戻ると、いよいよ一同はいき揚々たる顔になる。
 いよいよ「新天地」に向かうのだ!
 一同は甲板の中央に立つ松平容保に注目している。
「冗談ではない! この船を幕府の幕引につかわれては余はたまらない!」
 容保はいう。すると沢が、「その通りです! 冗談じゃねぇ!」
 家臣たちも「会津公がまげを落としたなら、俺たちも…」
 といって、刀を抜き、ちょんまげを切りおとした。
「まずは奥州(東北)戦争を助けるために会津、仙台にいく!」
 榎本は激を飛ばす。
「そして、「新天地」に向かうのだ!」
 部下たちは揚々たる顔である。
「蝦夷に新しい国をつくる! 蝦夷共和国だ! 薩長の新政府なんぞ糞くらえだ! 共順など糞くらえだ! 我々は「新天地」に向けてジャンプする!」
 一同は歓声をあげた。
 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……
 高松凌雲も甲板でそんな幕臣たちを笑顔でみている。
「榎本さん。わたしは軍にはいったわけじゃない。赤十字の精神で治療や介護をしていく」「……凌雲先生! それでいいですよ」
 武揚は笑った。
 そんな中、フランス人ふたりが軍服のままやってきた。
 流暢な日本語で「榎本さん、わたしたちも仲間にいれてください」と嘆願した。
「しかし、フランス軍の兵士を乗せていく訳にはいかん」
松平容保はしぶり、榎本武揚は躊躇した。
「それでは旧幕府軍(榎本脱走軍)とフランス軍がふっついたことになる。蝦夷共和国そのものが朝敵にされかねない」
「会津公も困るぞ」
 フランス人のひとりカズヌーブは「わたしたちは仏軍抜けてきました」という。
 もうひとりのフランス人、ブリュネは、
「わたしたちあなたたちと同じサムライになります。フランスのサムライです。どうかお供させてください」と頭を下げた。
 榎本は笑顔になり、
「わかった! フランスのサムライもふくめて我々は「新天地」に向けてジャンプする!」 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……
 林董三郎、山内六三郎を英語方にした。
 慶応四年(一八六七)八月十八日、八隻の幕府艦隊を引き連れ、松平容保らは「榎本脱走軍」を東京から会津、仙台へと向かわせた。
 田代老人はその艦隊を見送った。
 孫娘で、容保の側室である佐久も涙で見送った。
「佐久、会津公たちは確かに賊軍になったが……歴史が、ふたたび公たちを評価してくれる日がくる」
「……そうでしょうか?」
「何年後か、何十年後か……もしかしたら百年ののち公たちの戦がけして無駄ではなかったということを日本人は知るのじゃ。そうでなきゃいかんのよ」
 佐久は何も答えなかった。
 只、遠ざかる艦隊を見送っていた。

  大時化となり、台風の暴風雨が榎本脱走艦隊を襲った。
 艦隊が横に縦に揺れ続ける。
 …それは榎本脱走軍の未来を暗示しているような天候だった。
  いっぽう会津では八月二十五日、会津公が藩にもどった。桑名藩、米沢藩、庄内藩、仙台藩があいついで官軍に降伏していた。会津近辺でも戦闘が開始された。
 会津同新館(病院)で治療にあたるのは松本良順である。
「ちか子さん、もっと包帯だ! 早く!」
 看護士は、井上ちか子ら数名のみである。井上ちか子はまだ若い女だ。しかし、病人の看護で埃まみれ、汗まみれで看護にあたっていた。
 そんな病院に土方歳三が軍服姿で刀をもち、現れた。
「土方さま!」
 井上ちか子は驚いて声をあげた。京であっていらい四年ぶりの再会であった。
「……ちか子さん。わたしはこれから仙台にいき、榎本武揚海軍副総裁と合流します」
「どこへ? もう新選組の役目はおわったでしょうに…」
 土方は沈黙した。
 そして、やっと「蝦夷にいきます。なんでも旧幕臣たちで蝦夷を開拓して”蝦夷共和国”をつくるとか……」と答えた。
 明治元年(一八六八)のことである。
 榎本脱走軍が仙台についたのは、なんと宇都宮からの敗戦から半年後であったという。 土方はいう。
「わかりません。幕府が滅んだのに幕臣だけは生き延び蝦夷に共和国をつくることは納得できません。幕府の死は私の死です。侍らしく、戊辰戦争もおわれば切腹しましょう」
「いや…」榎本は説得する。「命を粗末にしてはならない。まず、将来、日本や蝦夷の将来を考えてもらいたい。土方くん、新選組にだって未来があったはずだ。幕臣にだって未来があってもいい」
 榎本脱走艦隊は土方ら新選組や会津藩士ら旧幕臣三千名をつれて蝦夷へむかった。
 蝦夷とは現在の北海道のことである。もう冬で、雪が強風にあおられて降っていた。

  榎本脱走艦隊が蝦夷鷲木湾へ着いたとき、もう真冬で蝦夷は真っ白な冬景色だった。 開陽丸の甲板もすぐに白い雪におおわれた。
「蝦夷は寒いのう」
 榎本武揚脱走軍は北海道に着くと、全軍を二軍に分かち、大鳥圭介は、第二大隊遊撃隊、伝習第二小隊、第一大隊一小隊を総監し、本道大野から箱館に向かうことになった。
いっぽう土方たち新選組残党と額兵隊(隊長星恂太郎)と陸軍隊とを率いて川汲の間道から進軍した。
 土方歳三は陸軍奉行並という。その他、竹中重固(陸軍奉行)、桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静、唐津藩主小笠原長行ら大名が蝦夷地に着いていた。
 深い雪の中の進軍であった。
 土方歳三は五稜郭に向かった。
 中には怪我人の幕臣まで出陣するといい、高松凌雲に止められた。
 
  のちに青森の松前藩士が榎本脱走軍のひとりを斬ったことで、松前藩と榎本脱走軍との戦いが始まった。戦闘は数時間でおわり、剣で土方たち新選組残党が奮起した。
「土方くんたちを暖かく迎えてやれ」
 榎本武揚は江差に上陸して五稜郭城を占拠していた。
 しかし、そんなとき不運はおこる。
 暴風雨で波は高かったが、まさか船が沈むとは榎本武揚ですら思っていない。しかし、激しい風と雪、波でしだいに開陽丸の船体がかたむき、沈みかけた。
 それを海岸でみていた榎本武揚は動揺して、
「船が……! 開陽丸が沈む!」と狼狽して叫んだ。
 家臣たちに止められなければ海の中に歩いていったことであろう。
 土方がやってきた。
「俺の四年間の結晶が……開陽丸が沈む!」
 武揚は涙声だった。
 土方はそんな情ない榎本を殴り「この西洋かぶれが!」と罵倒した。
 そうしているあいだにも遠くで開陽丸が沈んでいく。
「開陽丸が! 開陽丸が! あの船がなくなれば蝦夷共和国はおわりだ…あぁ」
 土方は「蝦夷共和国?! そんなもの幻だ!」といった。
 やがて、巨大な開陽丸の船体は海に沈み、海の藻屑へと消えた。
「あぁ……開陽丸が…………すまない皆、すまぬ」
 榎本は涙を流して部下たちにわびた。
 土方は何もいわなかった。
 その頃、会津にまで官軍は迫っていた。
 会津征伐軍参謀には山田市之丞と、同じく征伐軍参謀・黒田了介(のちの黒田清隆首相)が福島県まで進軍していた。ゆくゆくは蝦夷である。
 参謀は獅子舞のようなかつらをつけている。
「まずは飯じゃ! 飯! おお寒い。東北は薩摩と比べようもないほどさむいのう」
 山田はそういうと栃木城で暖をとった。
「この餓鬼が……当たり前じゃっどん。薩摩と東北では天気がちがうでごわそ!」
 参謀・黒田了介は、まだ若い二十五歳の山田市之丞と同じ位なのが我慢がならない。
「おいどんだけで会津や蝦夷にいった幕府残党を征伐ばするでごわす!」
 黒田はいったが受け入れられなかった。
 その間も、山田の若造は「飯じゃっどん! 温こう飯じゃっどん!」
 とさわいでいる。
 ……この糞餓鬼が……
 参謀・黒田了介は舌打ちした。

「来るならこい!」
 松平容保は鶴ケ城でそう呟いた。
 官軍なにするものぞ、会津藩の力みせてくれようぞ!
 ……今度の官軍との戦いでは藩士だけでなく女子や少年たちも戦ってもらうしかない。彼は少年たちの突撃隊の名前を紙に筆が書いた。
 ”白虎隊”……
 集められた少年たちは十九~二十歳たち十九名、女子も武装して集まった。
 官軍は猪苗代まで迫っている。少年たちは鶴ケ城から出陣しなければならない。
 その中には生き残りの少年、当時十六歳の飯沼貞吉の姿もあった。

 そして再び話しは「会津の役」である。
1868年10月7日、十六橋を押さえた新政府軍は、若松城の北東わずか数kmに位置する戸ノ口原まで迫った。
新政府軍は援軍が加わり、ますます勢いは盛んになっていた。
「なにが官軍だ!会津は逆賊じゃねえず!」
これを迎え撃つのは、「鬼の官兵衛」という異名をもつ、会津藩一の猛将・佐川官兵衛(さがわ・かんべえ)である。
「敵を戸ノ口原で防ぎ、十六橋の東へ追い払う」
と豪語する佐川官兵衛は、強清水村(こわしみず村)に本陣を置き、戸ノ口原で新政府軍を迎え撃つ準備をしていた。
しかし、会津軍は主力部隊を国境に展開しており、若松城に残っている兵はわずかで、戸ノ口原に集まった兵は、敢死隊(かんしたい)や奇勝隊(きしょうたい)などの義勇軍(非正規軍)を主とする1000人程度であった。
このため、白虎隊は予備隊という位置づけで、戦争に参加する予定は無かったが、戦争に駆り立てられることになる。
1868年10月7日午後2時、会津藩主の松平容保は警護の白虎隊(士中一番隊と士中二番隊)を従え、滝沢本陣に到着する。
(注釈:松平容保は松平喜徳に家督を譲っており、松平容保を前藩主であるが、便宜上、松平容保を藩主と表記する。)
そのころ、滝沢本陣には十六橋から敗走してきた会津兵が続々と押し寄せていた。
さらに、戸ノ口原から戻ってきた会津藩士・塩見常四郎が援軍を求めてきた。
すると、隊長の日向内記(ひなた・ないき)が率いる白虎隊(士中二番隊)が援軍に名乗りを上げた。
藩主・松平容保はこれを許可し、白虎隊(士中二番隊)を戸ノ口原への援軍に向かわせる。
と、白虎隊(士中一番隊)を引き連れて若松城へと引き返した。
予備隊として編成された白虎隊(士中二番隊)は実戦経験を積んでおらず、白虎隊(士中二番隊)にとってはこれが初陣である。
白虎隊(士中二番隊)は当初、ヤーゲル銃という火縄銃に毛の生えた程度の洋式銃を装備していた。
が、ヤーゲル銃は役に立たないため、武器担当役人を脅迫し、馬上銃を手に入れていた。馬上銃はヤーゲル銃とは比べものにならないほど扱いやすかったという。
白虎隊(士中二番隊)が装備していた馬上銃は「マンソー銃」(マンソー騎銃)だと推測されている。馬上銃がマンソー銃だった事を裏付ける資料は無いが、ここではマンソー銃としておく。
一方、白虎隊(士中一番隊)も出陣を懇願したが、藩主・松平容保を警護する任務があるため、仕方なく、藩主・松平容保に伴って若松城へと引き上げた。
初陣となる白虎隊(士中二番隊)37名は、隊を2つに別れて戸ノ口原を目指した(その後、合流している)。
(注釈:白虎隊士中二番隊の人数については諸説があるが、ここでは定説となっている37人説を採用する。)
合流した白虎隊(士中二番隊)37名は舟石(地名)に達すると、戦場から砲撃の音などが聞こえ始めたため、白虎隊(士中二番隊)は舟石茶屋に携帯品を預け、馬上銃(マンソー銃)に銃弾を込めた。
このとき、白虎隊(士中二番隊)は携帯していた食料も舟石茶屋に預けたという説もある。
1868年10月7日午後4時、舟石茶屋に携帯品を預けて身軽になった白虎隊(士中二番隊)37名は、強清水村を経由して、戸ノ口原の側にある菰槌山(こもづちやま)に到着する。
白虎隊(士中二番隊)は菰槌山に布陣し、塹壕を掘って菰槌山から新政府軍を狙撃した。菰槌山では敢死隊(かんしたい)も戦っていた。
大砲の援軍も駆け付け、会津軍は新政府軍をいったん退けることに成功した。
この日、白虎隊(士中二番隊)は食料を携帯していないため、敢死隊から握り飯を分けてもらい飢えをしのいだ。
白虎隊(士中二番隊)は敢死隊と供に菰槌山で新政府軍を迎え撃つ予定であったが、篠田儀三郎が進軍を主張する。
白虎隊員も篠田儀三郎の意見に賛同し、白虎隊(士中二番隊)は菰槌山を敢死隊に任せて前線へと向かうことにした。
ここから、酒井峰治と飯沼貞吉の証言が大きく違うため、白虎隊(士中二番隊)は、
「挟撃作戦部隊(酒井峰治)」と
「前線突入部隊(飯沼貞吉)」
の2手に別れた可能性がある。ただ、詳しいことは分からない。
ここでは、飯盛山で自害する白虎隊(士中二番隊)16名が焦点を当てたあらすじを紹介するため、「前線突入部隊(飯沼貞吉)」のあらすじを紹介する。
1868年10月7日夜、日が暮れ、雨も降り出したため、前戦を目指していた白虎隊(士中二番隊)は進軍を停止し、野営することにした(台風が近づいており、天候は悪かった)。
その後、隊長の日向内記(ひなた・ないき)は軍議に参加するため、1人で白虎隊(士中二番隊)を離れた。
隊長の日向内記が白虎隊を離れた理由は、食料を調達するためとされてる。
強清水村の本陣での軍議に参加するためという説もあるが、真相は分からない。
1868年10月8日午前5時ごろ、夜が明け始めても隊長・日向内記が戻ってこないため、日向内記に変わって篠田儀三郎が指揮を執り、白虎隊(士中二番隊)を進軍させた。
やがて、白虎隊(士中二番隊)は、水の無い溝を発見し、溝に身を隠した。
そして、進軍して来た新政府軍をめがけて側面から発砲する。
奇襲攻撃を受けた新政府軍は一時、混乱したものの、直ぐに応戦。
多勢に武勢で、新政府軍の反撃に遭った白虎隊(士中二番隊)は総崩れとなり、ちりぢりとなって敗走する。
追っての兵から逃れて、白虎隊(士中二番隊)は野営地までたどり着くと、白虎隊員は、わずか16人となっていた。
白虎隊(士中二番隊)はここで休息を取る。
白虎隊員16人の中には昨夜の残飯を所持している者がいたため、残飯を水の中に放り込み、16名はそれを食べて飢えをしのいだ。
そして、16人では戦うことも出来ないことから、白虎隊(士中二番隊)は若松城まで退却し、体勢を立て直すことにした。
白虎隊(士中二番隊)は菰槌山で握り飯を分けて貰った敢死隊(かんしたい)の宿舎にたどり着くが、既に新政府軍に攻撃された後で、死体が散乱していた。
白虎隊(士中二番隊)は敵兵を避けつつ若松城を目指していたが、滝沢峠で敵兵に遭遇。
白虎隊(士中二番隊)は敵兵だとは気づかず、合い言葉をかけるが、敵兵が発砲してきた。
この砲撃で白虎隊(士中二番隊)の永瀬雄治が腰を負傷する。
白虎隊(士中二番隊)は永瀬雄治を背負って敵兵から逃げた。
やがて、白虎隊(士中二番隊)16名は洞窟「弁天洞門」を通って飯盛山に落ち延びた。
16名が飯盛山の山頂に着いたのは1868年10月8日午前11時頃のことであった。
藩主の松平容保は負傷兵のために、若松城の西隣にある藩校「日新館」を解放し、救護所(病院)としていた。
日新館には、江戸から逃れてきた医師・松本良順と弟子が居り、松本良順の指揮の下で負傷兵の治療が行われていた。
会津藩の女性は日新館で負傷兵の治療を行っており、ボランティア看護婦のようなことをやっていた。
1868年10月8日早朝、戸ノ口原を突破した新政府軍が城下町へ押し寄せると、会津藩は若松城の城門を閉ざした。
そして、会津藩は、若松城の西に隣接する藩校「日新館」が敵の拠点に使われることを恐れ、日新館に火矢を放ったのである。
火は瞬く間に藩校「日新館」を包んで燃え上がった(日新館の焼き討ち事件)。
一説によると、藩校「日新館」の火事を飯盛山から見ると、まるで若松城が燃えているように見えるという。
白虎隊が見た火には諸説あり、山本八重は自害した白虎隊について、
「官軍に来られ、仕方なぐ米を運べれるだけ城内に運んで、十八倉(米倉)を焼いてしまったのっす。んだげんじょ、味方がこごから見んど、ちょうど三の丸の森がございやして、城の方へ見えがから、城が焼けでしまったと思って、みんな割腹して死んだんだべなあ」と話している。
飯盛山の山頂に登った白虎隊(士中二番隊)が若松城を見ると、既に若松城が炎上していた。
大砲の音も絶え間なく鳴り響いている。
城下町からも火の手が上がっている。滝沢街道を見ると、新政府軍の長蛇の列が街道を埋め尽くしていた。
「し……城が燃えでる。あああぁ…」
「おれらの会津が負げだ。もう、おわりだんべ」
白虎隊(士中二番隊)の井深茂太は
「んだげんじょ、若松城は天下の名城じゃ、燃えででも、まだ落ちてないず。君主さまが健在である以上、無益な死は避けるべきだべ。南方から入城すっぺ」と主張する。
一方、敵陣に切り込んで1人でも多くの敵を殺すべきだ、と主張する隊員もおり、白虎隊は喧々囂々の議論となった。
しかし、最終的に篠田儀三郎が
「敵陣に突入するにしても、若松城へ戻るにしても、16人では成功の可能性が低い。もし、敵に捕まって辱めを受ければ、藩主の名を汚すことになる。潔く自害することこそ、武士の本分である」
と説得し、白虎隊(士中二番隊)16人は自害することになった。
腹を切る者も居れば、喉を突く者も居る。白虎隊(士中二番隊)の篠田儀三郎ら16人は会津藩士としての誇りを貫き、見事に自刃に倒れたのである。
なお、山本八重が砲術を教えた伊東悌次郎は、白虎隊(士中二番隊)の隊員として戦ったが、飯盛山に到達する前に戸ノ口原(不動滝)で戦死したとされている。
一般的に飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)は19名とされているのは、飯盛山で自害した16人に、戸ノ口原(不動滝)で戦死した白虎隊(士中二番隊)の伊東悌次郎・津田捨蔵・池上新太郎の3人を加えたものである。
さらに、その後、別行動で飯盛山へとたどり着いて、自害した石山虎之助を加えて、自害した白虎隊(士中二番隊)を20人とする説もある。
また、白虎隊は総数340人程度の部隊だが、一般的に白虎隊といえば、飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)20人を差す場合が多い。
白虎隊15人が自刃に倒れ、介錯の役目を終えた白虎隊(士中二番隊)の西川勝太郎が最後に自害しようとしたところ、山下を通る農民を見つけた。西川勝太郎は農民を呼び寄せて問うと、農民は滝沢に住む農民だという。
そこで、西川勝太郎は、
「我々は若干の金を持っている。みんなの金と刀を報酬とするので、我々の死体を地中深くに埋め、我々の首が敵の手に渡らないようにして欲しい」
と頼んで、自害した。
こうして、飯盛山へ落ち延びた白虎隊(士中二番隊)16人が自害すると、埋葬を頼まれた農民は、自害した白虎隊(士中二番隊)の体をまさぐり、金や刀を奪っていく。
農民が白虎隊(士中二番隊)の飯沼貞吉(いいぬま・さだきち)の懐に手を入れて金品を探していとき、意識を取り戻した飯沼貞吉は、敵かと思い、農民の腕を掴んだ。飯沼貞吉は何か言おうとしたが、喉から空気が漏れて、上手く喋れない。
飯沼貞吉は刀で喉を突いて、他の白虎隊(士中二番隊)とともに自害していたが、急所を外して死に切れずに気を失っていた。
そこで、農民が懐に手を入れたため、飯沼貞吉は意識を取り戻したのだ。
驚いた農民は
「死に急ぎなさるな。私達の隠れている山までお連れいだします」
と言い、その場を誤魔化し、飯沼貞吉を八ヶ森の岩山まで運んだ。
そして、農民は
「水をくんで参ります」
と言い残して、飯沼貞吉の刀を盗んで姿を消した。もちろん、農民が戻ってくることは無かった。
農民は白虎隊(士中二番隊)の西川勝太郎から白虎隊の死体を埋めるように頼まれていた。
が、農民は白虎隊の死体を埋めずに、金や刀だけ盗んで逃げ去ったのだ。
その後、近くを通りかかった農民・渡部佐平が、うめき声のようなものを聞き、飯沼貞吉を発見する。
渡部佐平は山に隠れ住んでおり、薪を取りに向かうところだった。
このとき、渡部佐平は隠れ家で「印出ハツ」という女性をかくまっていた。
印出ハツは会津兵の足軽・印出新蔵の妻で、「戦争に行く」と言って家を飛び出した息子を探しており、渡部佐平の隠れ家で世話になっていた。
(注釈:印出ハツの息子は白虎隊に入隊しているという説があるが、白虎隊の名簿にはそれらしき人物は見当たらない。)
隠れ家に戻った渡部佐平が、印出ハツに、負傷した白虎隊員を見かけたことを教えると、印出ハツは「私の息子かもしれない」と言い、飯沼貞吉が倒れている場所へと急いだ。
残念ながら、印出ハツは息子と再会できなかったが、負傷した飯沼貞吉を隠れ家へ連れて帰って手当てしてやった。
3日3晩、寝ずの看病をした結果、飯沼貞吉は一命を取り留めた。
しかし、新政府軍による残党狩りが始まったため、印出ハツは飯沼貞吉を連れ出し、塩川を経て山中の不動堂にたどり着いた。
そして、飯沼貞吉は不動堂で会津藩の敗戦を迎えた。
会津藩降伏後の飯沼貞吉の行動は分からない。
会津藩の敗戦後は他の会津藩士と同様に、猪苗代や東京で謹慎したという説もあるが、真偽は不明である。
飯沼貞吉はその後、飯沼貞雄と改名し、逓信省の電信技師として働いた。
晩年は仙台に住み、1931年(昭和6年)に死亡した。
享年79歳であった。
墓は宮城県仙台市にある輪王寺に建てられた。
飯沼貞吉は生涯、故郷の会津に戻ることは無かった。
その後、会津出身者が仙台に飯沼貞吉の墓があることを知る。
これが合祀運動に発展し、1957年(昭和32年)に行われた「戊辰戦争後九十年祭」で、飯盛山に飯沼貞吉の墓が建てられた。
飯沼貞吉は息子に
「会津で祭りたいという希望があれば、これを渡せ」
と遺言し、歯と髪を託しており、飯盛山の墓には歯と髪が納められている。
なお、飯沼貞吉の合祀については会津藩関係者の反対もあり、飯沼貞吉の墓は、自害した白虎隊(士中二番隊)19人の墓から離れた場所に建てられている。
飯沼貞吉の墓を建てたのも財団法人「前島会仙台支部」となっている。
当時は
「切腹に失敗するなど、会津藩士の恥」
「少年ばかりの墓に、年寄りを入れるのは不釣り合いだ」
などと、飯沼貞吉の墓を白虎隊の墓に入れる事に反対する声があったという。
埋葬を頼まれた農民(盗賊)が自害した白虎隊(士中二番隊)から盗んだ刀などは、会津藩城下町の骨董品屋などで売られていた。
会津藩の敗戦後、飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)・西川勝太郎の母親・西川せき子は、偶然、骨董品屋で息子・西川勝太郎の刀を見つけ、買い戻すことができたのであった。
若松城の城門近くに、会津藩の家老の西郷頼母(さいごう・たのも)の家老屋敷があり、この家老屋敷で西郷頼母一族21人が自刃に倒れた。
西郷頼母一族の自刃があったのは、家老の西郷頼母が国境警備にあたっている時のことである。
1868年10月8日(慶応4年8月23日)早朝、城下町に早鐘が鳴り響き、藩士の家族が続々と若松城に向かうなか、西郷頼母の一族21人は西郷頼母の家老屋敷に集まっていた。
西郷頼母の母親・西郷律子は
「女が城に居ては足手まといになる。されど、敵の手に落ちて辱めを受けるわけにはいかない」
と言い、辞世の句を詠むと、自刃に倒れた。
西郷頼母の妻・西郷千恵子は義母・西郷律子の後に続き、まだ自害できない幼い我が子を刺した。
そして、妻の西郷千恵子は我が子の死を確認すると、返す刀で自分の喉を貫き、会津藩士の妻としての役目を果たした。こうして、西郷頼母の家族9人が自害した。
また、別室に集まった西郷頼母の縁者12人も西郷律子らに続き自害した。この日、西郷頼母の家老屋敷では一族21人が自殺した。
「むごかぁ、じゃけんど会津の女子は立派じゃきに」
そのむごたらしい遺体を発見して、合掌したのは官軍の板垣退助と中島信行であったとされる。
一方、若松城まで到達した新政府軍・土佐藩の中島信行は、若松城の近くにある屋敷を一軒一軒、調べていた。中島信行は大きな屋敷に鉄砲を撃ち込む。しかし、反応が無いので、屋敷内を捜索した。
土佐藩士・中島信行が長い廊下を渡って1室の障子を開けると、女子供が自刃に倒れて死んでいた。
それは西郷頼母の一族21人だった。
しかし、17~18歳の女が1人まだ息を残していた。
年齢から考えて、女は西郷頼母の長女・西郷細布子(16歳)だとされている。
西郷細布子は母に頼らずに自害したが、急所を外して自殺に失敗し、意識がもうろうとしていた。西郷細布子はもうろうとしながらも、障子を開けた中島信行の気配に気づくと、
「敵か、味方か」と問うた。
土佐藩士の中島信行が
「安心せい、味方じゃ」
と答えると、西郷細布子は力を振り絞って懐刀を差し出し、介錯を頼んだ。
中島信行は「御免」と言い、西郷細布子の首を落としてやった。
(注釈:西郷頼母の家老屋敷に入ったのは、土佐藩士・中島信行とされているが、中島信行は土佐藩を脱藩しており、会津戦争に加わっていないため、別人の可能性がある。多分、板垣退助であろう)
会津藩士の家族の中には、西郷頼母一族と同じように新政府軍の辱めを受けることを危惧して、自害した者が大勢居た。
柴五郎の家族も自害している。
内藤介右衛門の家族も面川泰雲寺で自害している。
戊辰戦争で死んだ会津藩の女性の数は計230人に上ったという。
1868年10月8日(慶応4年8月23日=籠城戦の初日)、籠城初日の会津城には老兵や予備隊のはか水戸藩の兵など約300人の兵士しか残っていなかった。
会津藩は主力部隊を国境に展開しており、帰城命令は出ていたが、主力部隊は未だに帰ってきていなかった。
会津藩は籠城戦を想定していなかったので、籠城の準備は出来ておらず、弾薬や食糧の搬入も出来ていなかった。
山本八重が若松城に入城したとき、会津兵は城内で刀を抜き、入城してきた婦女子に
「例え女中でも、卑怯なまねは許しませんぞ」と叫んでいた。
足手まといになる乳飲み子を殺してきたのだろうか、入城してきた女性の中には服が血に染まった者も居り、城内は殺伐としていた。
会津藩は若松城三の丸に進入していた新政府軍の間者3人が捕まえ、拷問の末、首を切り、間者3人の首を廊下に吊して晒し首にしていた。
そのころ、若松城の外では、会津藩の家老・神保内蔵助と家老・田中土佐の2人が甲賀町口の守備にあたり、新政府軍を食い止めていた。
しかし、多勢に無勢で、敵に包囲されると、
「んだげんじょ、会津の未来だげが心残りだべ。逆賊などといわっちぇ…悔しいだげだべした」
「もうこれでおわりだべなあ」
「んだなあ、死んで会津の汚名が晴れだらいいげんじょなあ」
「悔やまれんのは若殿さまが京都守護職になられたどぎ、わしら家老が一斉に腹かっさばいでお止しどげば…」
「んだなあ、会津が守護職にさえならねば……いまさらながら悔やまれるべ」
「死んだあとに生まれ変わっても…会津……会津に生まれでくんべ」
長い沈黙の末、辞世の句を書くと、
 神保内蔵助や田中土佐は自害した。
町奉行の日向左衛門も出陣し、大町口郭門の守備について新政府軍を食い止めていた。
日向左衛門は、山本八重の幼なじみ日向ユキの父である。
日向左衛門は銃撃戦の末に負傷し、祖母の実家へ落ち延びて竹藪の中で自害した。
会津藩の必死の抵抗も空しく、新政府軍は怒濤のごとく若松城へ押し寄せた。
最初に若松城に到達したのは、甲賀町口郭門を突破してきた土佐藩であった。
雷鳴のごとく会津軍を切り裂いて侵攻した新政府軍であったが、ここで勢いが止まる。
天下の要塞・若松城の門は固く閉ざされていたのだ。
台風の影響で雨が降っていたため、城外では火縄銃や旧式の洋式銃は全く役に立たなかった。
が、若松城には狙撃用の窓があるため、火縄銃がようやく効果を発揮し、近づく新政府軍を寄せ付けなかった。
一方、若松城へ入城した山本八重は、スペンサー銃を担いで戦闘が始まっている北出丸へ駆け付けた。
 いわゆる戊辰戦争の末期、会津藩(現在の福島県)に薩長官軍が「天皇の印」である「錦の御旗」を掲げて、会津城下まで進攻し、会津藩士たちや藩主・松平容保の籠城する「鶴ヶ城(会津若松城)」に雨霰の如く大砲弾や鉄砲を浴びせかける。「いいが?!よぐ狙っで撃ちなんしょ!」若松城には、この物語の主人公・山本八重が、スペンサー銃で武装し、男装して少年鉄砲隊を率いている。
「確かに薩長軍は数は多い。んだげんじょ、軍を指揮する敵を倒せばいいがら!」そういって城壁から官軍の指揮者を狙った。さすがに、「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサム・ウーマン」である。官軍指揮者の獅子舞のかつらのようなものをかぶった大山巌(西郷隆盛のいとこ)の脚に弾丸を命中させる。
「よし、命中んだ」
少年兵たちも笑顔になった。
「やっだあ!」
「ほれ、にしらもようっぐ狙っで撃ちなんしょ」
「はい!」
 会津藩の戊辰戦争はまだまだおわりそうもない。
八重は髪も短くして、若い少年兵のリーダー的な存在にまでなった。
「なして会津が逆賊なんだず!会津は京の都で天子さま(考明天皇のこと)や幕府を守っで戦ったのだべした。なら会津に義があるべず!」八重は男装のまま下唇を噛んだ。
味方の兵に
「女に何が出来る」
と笑われたが、山本八重はスペンサー銃を構えると、次々と土佐兵を撃ち殺していく。
山本八重が持つスペンサー銃は、最新式の洋式銃で、元込め式の7連発のライフル銃だった。
元込め式なので弾の挿入も早く、バネ仕掛けになっており、7連射できる。
火縄銃を2発撃つ間に、スペンサー銃は数発も撃てる。
スペンサー銃は、当時「元込め7連発」と呼ばれて恐れられた銃である。
若松城へ詰め寄った新政府軍の土佐藩は、山本八重の正確な狙撃に苦しみ、後退を余儀なくされた。
山本八重は見事に土佐兵を退けたのである。
1868年10月8日午前、会津藩は若松城の西隣にある藩校「日新館」が新政府軍の拠点に利用されることを恐れ、日新館に火矢を放って焼き払った(日新館の放火事件)。
さらに会津藩は新政府軍が隠れる場所を無くすため、城外の屋敷にも火矢を放って燃やした。
戸ノ口原へ援軍に向かった白虎隊(士中二番隊)のうち16人が、飯盛山へたどり着いたのは、会津藩が藩校「日新館」に火矢を放ったころだった。
1868年10月8日午前11時ごろ、戸ノ口原の戦いで敗走した白虎隊(士中二番隊)16名が飯盛山へと落ち延びた。
飯盛山から城下町を観ると、若松城は燃えており、城下町の至るところから火の手が上がっていた。
一説によると、藩校「日新館」は若松城の西に隣接しており、飯盛山から若松城を観ると、日新館が燃えると、あたかも若松城が燃えているように見えるという。
前述したが、白虎隊(士中二番隊)の中には「敵陣に切り込んで討ち死にしよう」という意見もあったが、「敵の手に落ちて辱めを受けては、主君の名を汚す」として、白虎隊(士中二番隊)16人は自害したのであった。
やがて、新政府軍の後続部隊が到着する。攻めあぐねた土佐藩に変わり、若松城を攻撃するのが薩摩藩士・大山巌(おおやまいわお)である。
1868年10月8日(慶応4年8月23日)午後、大砲隊を指揮する薩摩藩士・大山巌は火縄銃の届かない安全圏に大砲を配置し、若松城をめがけて砲撃を開始した。
薩摩藩士・大山巌は火縄銃の射程外に布陣しているため、火縄銃しかない会津兵はなすすべ無く、砲撃を受けるだけだった。
しかし、山本八重はスペンサー銃を構えて1発の銃弾を放つと、薩摩兵の大砲が止んだ。
山本八重が放った銃弾は薩摩藩士・大山巌の右大腿部を貫いたのだ。
正確に言えば、山本八重が薩摩藩士・大山巌を撃ったという証拠は無い。
が、火縄銃の射程200メートルに対してスペンサー銃は射程800メートルあり、遠方の大山巌に弾が届く銃は山本八重のスペンサー銃だけだったため、山本八重が大山巌を狙撃したとされている。
山本八重に撃たれた薩摩藩士・大山巌は戦線を離脱し、新政府軍は攻勢を弱める。山本八重は再び新政府軍を退けた。
一方、国境の警備に当たっていた家老・西郷頼母や家老・原田対馬(はらだ・つしま)などの部隊が、敵の隙を尽きて若松城へ帰城した。
国境警備に当たっていた会津藩の主力部隊の一部だが、家老・西郷頼母らの帰城により、会津藩の士気があがった。
さらに、山本八重らは城壁の石垣を押し出し、穴を開けると、大砲を突っ込み、城壁に空いた穴から新政府軍を砲撃した。
この時に山本八重らが落とした石垣は、今も若松城のお堀に沈んでおり、お堀の水が少なくなると、石垣が出現する。
新政府軍はその後も攻撃を続けたが、日が暮れ始めたため、攻撃を終了し、一度兵を退いた。会津藩は山本八重のおかけで、籠城戦の初日を無事に乗り切ったのである。
しかし、会津藩は籠城戦の備えをしていないうえ、多くの指揮官を失っており、首脳陣は抗戦派と降伏派に別れていた。
1868年10月8日(籠城戦の初日)昼、土佐軍を退けた山本八重は藩主・松平容保に出陣を談判したが、藩主・松平容保は
「女まで出陣させたとしては会津藩の恥だ」と言い、山本八重の出陣を禁じた。
山本八重以外にも、多くの女性が薙刀を持ち、出陣の許可を求めたが、
「会津藩士が女の手を借りたとあっては、末代までの恥である」
として、誰一人として出陣は許可されなかった。
女を戦いに参加させることは、武士道を貫く会津藩士にとっては恥ずべき行為なのである。
さらに、会津藩の家訓「会津家訓十五箇条(御家訓)」の第4条には「婦人女子の言、一切聞くべからず」と記されており、女性の山本八重が出陣を懇願しても、一切、聞き入れてもらえるはずも無かった。
山本八重らがいくら談判しても女の出陣は認められない。会津藩の教え「什の掟」にも「ならぬことは、ならぬものです」とある。
仕方なく出陣を諦めた山本八重は、負傷兵の治療にあたっていたが、会津兵が新政府軍に夜襲を行う計画があることを知る。
これも前述したが、そこで、山本八重は夜襲なら、敵兵も女か男か判断できないと思い、髪を切り落として男装し、亡き弟・山本三郎として夜襲に加わることにした。
山本八重は髪を切り落とそうとするが、自分ではなかなか切れないため、自宅の裏側に住んでいる幼なじみの高木時尾(たかぎ・ときを)に頼んで髪を切り落としてもらった。
男装をして戦ったのは山本八重だけではなく、娘子隊(婦女隊)らも男装で新政府軍と戦ったが、城内で断髪した女性は山本八重が初めだという。
髪を切り落とした山本八重は腰に刀を差し、ゲベール銃を担いで、夜襲隊に加わって城外へ出ると、闇夜に紛れて敵兵に切り込んだ。
夜襲を受けた新政府軍は混乱して同士討ちを始めたが、援軍が到着すると、体制を立て直し、反撃してきた。
当初より、夜襲隊は深入りしないと決めていたため、山本八重らは適度に新政府軍の兵士に攻撃を加えると、裏道を通って早々と若松城へと引き上げた。
なお、山本八重はこのような活躍から、「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれている。
しかし、当時、山本八重のことを「幕末のジャンヌダルク」と呼んだ事を示す文献はないため、「幕末のジャンヌダルク」は近代になってメディアが付けたキャッチフレーズだとされている。
また、山本八重といえばスペンサー銃だが、若松城篭城戦の初日の夜襲からはケーベル銃を使用しており、以降はスペンサー銃は登場しない。

岸信介 安保の城の妖怪・岸信介伝「巨魁編」アンコールブログ連載小説VOL.8

2014年11月22日 03時21分01秒 | 日記







    6 敗戦と巣鴨プリズン


          ポツダム宣言




  甲板で、榎本中将は激をとばした。
「日本の勝利は君たちがやる! 鬼畜米英なにするものぞ! 神風だ! 神風特攻隊で米英軍の艦隊を駆逐するのだ!」
 若い日本兵一同は沈黙する。
 ……神風! 神風! 神風! ……
 榎本陸軍千余名、沖縄でのことである。地上戦戦没者二十万人……

 七月七日、トルーマン米国大統領はドイツのポツダムに着いた。
 そこで、「ポツダム宣言」を受諾させ、日本などの占領統治を決めるためである。
 会議のメンバーは左のとおりである。

 アメリカ合衆国     ハリー・S・トルーマン大統領
 ソビエト連邦      ヨゼフ・スターリン首相
 イギリス        ウィンストン・チャーチル首相               
 中華民国(中国)    蒋介石国民党総裁(対日戦争のため欠席)


  なおトルーマンは会議議長を兼ねることになったという。
 一同はひとりずつ写真をとった。そして、一同並んで写真をとった。
 有名なあの写真である。しかし、トルーマンは弱気だった。
 彼は国務省にあのジェームズ・バーンズを指名したばかりだった。
 トルーマンは愛妻ベスに手紙を送る。
 ……親愛なるベスへ。私は死刑台の前まで歩いているような気分だ。
 ……失敗したりしないか。ヘマをやらかさないか、頭の中は不安でいっぱいだ。
 議題は、
  一、ソ連対日参戦
  二、天皇制維持
  三、原爆投下(米国しか知らない秘密事項)
 
 七月十六日、トルーマンの元に電報が届く。
 ……手術は成功しました。ただ術後経過はわかりません。
              ヘンリー・スティムソン

 つまり、手術とは原爆の実験のこと。それに成功した。ということはつまり米国最新の兵器開発に成功したことを意味する訳だ。
 トルーマンは「ヤルタの密約」を実行するという。
 つまり、八月十五日に日本攻撃に参戦するというのだ。
 それまでのソ連はドイツ戦で大勢の兵士を失ったとはいえ、軍事力には自信をもち、いずれは米国政府も交渉のテーブルにつくだろうと甘くみていた。よって、ソ連での事業はもっぱら殖産に力をいれていた。
 とくにヨーロッパ式農法は有名であるという。林檎、桜桃、葡萄などの果樹津栽培は成功し、鉱山などの開発も成功した。
 しかし、「ソヴィエト連邦」は兵力を失ったかわりに米国軍は核を手にいれたのである。力関係は逆転していた。


  一九四五年八月昼頃、日本陸軍総裁山本五十六はプロペラ機に乗って飛んでいた。
 東南アジアのある場所である。
「この戦争はもうおわりだ」
 五十六はいった。「われわれは賊軍ではない。しかし、米国を敵にしたのは間違いだ」 だが、部下の深沢右衛門は「総統、米軍が賊軍、われらは正義の戦しとるでしょう」というばかりだ。
 五十六は「今何時かわかりるか?」とにやりといった。
 深沢は懐中時計を取り出して「何時何分である」と得意になった。
 すると、五十六は最新式の懐中時計を取りだして、
「……この時計はスイス製品で最新型だ。妻にもらった」といった。
 そんな中、米軍は山本五十六の乗る大型のプロペラ機をレーダーと暗号解析でキャッチした。米軍はただちに出撃し、やがて五十六たちは撃墜され、玉砕してしまう。
  Bー29爆撃機が東京大空襲を開始したのはこの頃である。黒い編隊がみえると東京中パニックになったという。「急げ! 防空壕に入るんだ!」爆弾のあれ霰…一面火の海になる。その威力はすごく阪神淡路大地震どころの被害ではない。そこら中が廃墟と化して孤児があふれた。火の海は遠くの山からも見えたほどだという。10万人が死んだ。
 しかしリアクションの東京大空襲だった。被害者意識ばかりもってもらっても困るのだ。……恐ろしい戦争の影が忍び寄ってきて……勝手になにもしないで忍び寄ってきた訳じゃない。侵略戦争の果ての結果だった。しかし、これで幼い子供たちが親兄弟を失い、女の子は体を売り、男の子は闇市で働くことになる。がめつい農家は傲慢さを発揮し、高価な着物などと米や野菜を交換した。日本人はその日の食事にもことかく有様だった。


「……お元気でしたか?」
 スティムソンはトルーマンを気遣った。
 するとトルーマンは「私はとくになんともない。それより……」
 と何かいいかけた。
「…なんでしょうか?」
「あれが完成まで到達したそうじゃ。ジャップたちを倒すために『聖なる兵器』などと称しておるそうで……馬鹿らしいだけだ」
「馬鹿らしい?」H・スティムソンは驚いた。
「日本軍は満州を貸してほしい国連に嘆願しておるという」
「日本軍はドイツのように虐殺を繰り返しているそうです。罰が必要でしょう」
 トルーマンは、
「そうだな。どうせ原爆の洗礼を受けるのは黄色いジャップだ」と皮肉をいった。
 スティムソンは「確かに……しかし日本の技術力もあなどれません。戦争がおわって経済だけが問われれば、日本は欧米に迫ることは確実です」
「あの黄色が?」
 トルーマンは唖然ときいた。
  日本軍の満州処理を国連は拒否し、日本軍は正式に”賊軍”となった。
 同年、米国海軍は、甲鉄艦を先頭に八隻の艦隊で硫黄島に接近していた。
 同年、米国軍は軍儀をこらし、日本の主要都市に原爆を落とす計画を練った。アイデアはバーンズが出したともトルーマンがだしたともいわれ、よくわからない。
 ターゲットは、新潟、東京、名古屋、大阪、広島、長崎……
 京都や奈良は外された。

「さぁ、君達はもう自由だ。日本にいる家族までもどしてあげよう」
 連合国総指揮者・マッカーサーたちは捕らえた日本軍人たちを逃がしてやった。
 もう八月だが、マッカーサーは原爆投下のことを知らされてない。
 捕虜の中に田島圭蔵の姿もその中にあった。
 ……なんといいひとじゃ。どげんこつしてもこのお方は無事でいてほしいものでごわす。 田島は涙を流した。
 米軍たちにとって日本軍人らは憎むべき敵のはずである。しかし、寛大に逃がしてくれるという。なんとも太っ腹なマッカーサーであった。
「硫黄島戦争」の命運をわけたのが、甲鉄艦であった。最強の軍艦で、艦隊が鉄でおおわれており、砲弾を弾きかえしてしまう。
 米軍最強の艦船であった。
 それらが日本本土にせまっていた。
 日本軍部たちは焦りを隠せない。
 ……いまさらながら惜しい。原爆があれば……

  野戦病院ではジュノー博士は忙しく治療を続けていた。
 もうすぐ戦は終わる。看護婦は李春蘭という可愛い顔の少女である。
 中国人は龍雲という病人をつれてきた。
「ジュノー先生、頼みます!」
 中国人はジュノー医師に頭をさげた。
「俺は農民だ! ごほごほ…病院など…」
 龍雲はベットで暴れた。
 李春蘭は「病人に将軍も農民もないわ! じっとしてて!」
 とかれをとめた。龍雲は喀血した。
 ジュノー病室を出てから、
「長くて二~三ケ月だ」と中国人にいった。
 中国人は絶句してから、「お願いします」と医者に頭をさげた。
「もちろんだ。病人を看護するのが医者の仕事だ」
「……そうですか…」
 中国人は涙を浮かべた。

  すぐに大本営の日本軍人たちは軍儀を開いた。
 軍部は「なんとしても勝つ! 竹やりででも戦う!」と息巻いた。
 すると、三鳥が「しかし、米軍のほうが軍事的に優位であります」と嘆いた。
 回天丸艦長の甲賀が「米軍の艦隊の中で注意がいるのが甲鉄艦です! 艦体が鉄でできているそうで大砲も貫通できません」
 海軍奉行荒井は「あと一隻あれば……」と嘆いた。
 軍人はきっと怖い顔をして、
「そんなことをいってもはじまらん!」と怒鳴った。
 昭和天皇は閃いたように「ならもうやることはひとつ」といった。
「……どうなさるのですか?」
 一同の目が天皇に集まった。
「あと一年以内に朕は降伏すべきであると思う。沖縄では戦争で民間人が犠牲になった」 天皇は決起した。「あと一年以内に降伏である」


  ツィツィンエルホーン宮殿で『ポツダム会議』が開かれていた。
 ソ連対米英……
 スターリンは強気だった。
 どこまでもソ連の利益にこだわる。
 トルーマンはスターリンに失望した。
「…神様は七日間で世界をつくったのに……われわれは何週間もここで議論している」
 会議は回る。
 余興で、ヴァイオリンとピアノの演奏があった。

 ………スターリンはすべて自分勝手になんでも決めようとする。私はソ連に、いやスターリンに幻滅した。………
            トルーマン回顧録より

  そんな中、米国アリゾナ州ロスアラモスで原爆実験成功という報が入ってきた。
 ……壮大で戦慄。まさに空前に結果。爆発から30秒後に辺りが火の海になった。全能の神の手に触れたかのように震えを感じた。………
               オッペンハウアー博士回顧録より

 トルーマンは自信を取り戻した。
 この最新兵器があれば、ジャップたちを終戦に導かせられる。
 原爆の人体実験までできるではないか……
 ……ソ連抜きで日本に勝てる!
 ”手術は八月十五日以降なら、八月十日なら確実でしょう”
 トルーマンはスターリンに、
「われわれはとてつもない兵器を手にいれました」といった。
 その当時、情報をつかんでなかったスターリンはきょとんとする。
 しかし、チャーチルは情報を握っていた。
 チャーチルは「なにが卑怯なもんか! 兵器使用は国際法で認められた立派な戦法だ。卑怯といえばジャップじゃないか。天皇を担いで、正義の戦争などと抜かして…」
「それはそうですが……」
 チャーチルは無用な議論はしない主義である。
「原爆使用はいかがでしょう」
 チャーチルは提案した。「原爆を脅しとして使って、実際には使わずジャップの降伏を待つのです」
 トルーマンは躊躇して、
「確かに……犠牲は少ないほうがいい」
 といった。声がうわずった。
「どちらにしても戦には犠牲はつきものです」
「原爆を落とすのはジャップだよ。黄色いのだ」
「そういう人種偏見はいけませんな」
「しかし……原爆を使わなければ米兵の血が無用に流れる」
 チャーチルは沈黙した。
「とにかく……実際には使わずジャップの降伏を待つのです」
 やっと、チャーチルは声を出した。
「……首相………」
 トルーマンは感激している様子だった。

  さっそくゼロ戦に戦闘員たちが乗り込んでいった。
 みな、かなり若い。
 鈴木歳三も乗り込んだ。
 しかし、鈴木とてまだ三十五歳でしかない。
 海軍士官・大塚浪次郎も乗り込む。「神風だ! 鬼畜を倒せ!」
「おう! 浪次郎、しっかりいこうや!」
 大塚雀之丞は白い歯を見せた。
 英語方訳の山内六三郎も乗り込む。
「神風だ!」
 若さゆえか、決起だけは盛んだ。
 しかし、同じ英語方訳の林董三郎だけは乗せてもらえなかった。
「私も戦に参加させてください!」
 董三郎は、隊長の甲賀源吾に嘆願する。
 が、甲賀は「総裁がおぬしは乗せるなというていた」と断った。
「なぜですか?! これは義の戦でしょう? 私も義を果たしとうごりまする!」
 林董三郎はやりきれない思いだった。
 高松がそんなかれをとめた。
「総裁は君を大事に思っているのだ。英語方訳が日本からいなくなっては困るのだ」
「…しかし……」
「君も男ならききわけなさい!」
 董三郎を高松は説得した。
 こうして、神風特攻隊は出陣した。

「日本軍がせめて……きたのでしょう?!」
 病院のベットで、龍雲は暴れだした。看護婦の李春蘭は、
「……龍雲さん、おとなしくしてて!」ととめた。
 龍雲は日本軍と戦う、といってきかない。そして、また喀血した。
「龍雲のことを頼みます、ジュノーさん」
 病院に蒋介石総裁がきた。
「あなたがジュノー博士か?」
 蒋は不躾な言葉で、ジュノーに声をかけた。
「ジュノーさん」
「はい」
「……元気で。お体を大切になさってください。戦は必ずこちらが勝ちます」
「しかし……」
「心配はいりません。わが軍の姿勢はあくまで共順……中華民国は共和国です。連合軍とも仲良くやっていけます」
 蒋介石自身にも、自分の言葉は薄っぺらにきこえた。
「誰か! 誰かきて!」
 李春蘭が声をあげた。「龍雲さんが……!」
「……す、すいません!」
 ジュノーは病室にむけ駆け出した。
         

 生還





  スイス人医師、マルセル・ジュノー博士は海路中国に入った。
 国際赤十字委員会(ICRC)の要請によるものだった。
 当時の中国は日本の侵略地であり、七〇万人もの日本軍人が大陸にいたという。中国国民党と共産党が合体して対日本軍戦争を繰り広げていた。
 当時の日本の状況を見れば、原爆など落とさなくても日本は敗れていたことがわかる。日本の都市部はBー29爆撃機による空襲で焼け野原となり、国民も戦争に嫌気がさしていた。しかも、エネルギー不足、鉄不足で、食料難でもあり、みんな空腹だった。
 米国軍の圧倒的物量におされて、軍艦も飛行機も撃沈され、やぶれかぶれで「神風特攻隊」などと称して、日本軍部は若者たちに米国艦隊へ自爆突撃させる有様であった。
 大陸の七〇万人もの日本軍人も補給さえ受けられず、そのため食料などを現地で強奪し、虐殺、強姦、暴力、侵略……16歳くらいの少年まで神風特攻隊などと称して自爆テロさす。 ひどい状態だった。
 武器、弾薬も底をついてきた。
 もちろん一部の狂信的軍人は”竹やり”ででも戦ったろうが、それは象に戦いを挑む蟻に等しい。日本はもう負けていたのだ。
 なのになぜ、米国が原爆を日本に二発も落としたのか?
 ……米国軍人の命を戦争から守るために。
 ……戦争を早くおわらせるために。
 といった米国人の本心ではない。つまるところ原爆の「人体実験」がしたかったのだ。ならなぜドイツには原爆をおとさなかったのか? それはドイツ人が白人だからである。 なんだかんだといっても有色人種など、どうなろうともかまわない。アメリカさえよければそれでいいのだ。それがワシントンのポリシー・メーカーが本音の部分で考えていることなのだ。
 だが、日本も日本だ。
 敗戦濃厚なのに「白旗」も上げず、本土決戦、一億日本民族総玉砕、などと泥沼にひきずりこもうとする。当時の天皇も天皇だ。
 もう負けは見えていたのだから、                      
 ……朕は日本国の敗戦を認め、白旗をあげ、連合国に降伏する。
 とでもいえば、せめて原爆の洗礼は避けられた。
 しかし、現人神に奉りあげられていた当時の天皇(昭和天皇)は人間的なことをいうことは禁じられていた。結局のところ天皇など「帽子飾り」に過ぎないのだが、また天皇はあらゆる時代に利用されるだけ利用された。
 信長は天皇を安土城に連れてきて、天下を意のままに操ろうとした。戊辰戦争、つまり明治維新のときは薩摩長州藩が天皇を担ぎ、錦の御旗をかかげて官軍として幕府をやぶった。そして、太平洋戦争でも軍部は天皇をトップとして担ぎ(何の決定権もなかったが)、大東亜戦争などと称して中国や朝鮮、東南アジアを侵略し、暴挙を繰り広げた。
 日本人にとっては驚きのことであろうが、かの昭和天皇(裕仁)は外国ではムッソリーニ(イタリア独裁者)、ヒトラー(ナチス・ドイツ独裁者)と並ぶ悪人なのだ。
 只、天皇も不幸で、軍部によるパペット(操り人形)にしか過ぎなかった。
 それなのに「極悪人」とされるのは、本人にとっては遺憾であろう。
 その頃、日本人は馬鹿げた「大本営放送」をきいて、提灯行列をくりひろげていただけだ。まぁ、妻や女性子供たちは「はやく戦争が終わればいい」と思ったらしいが口に出せば暴行されるので黙っていたらしい。また、日本人の子供は学童疎開で、田舎に暮らしていたが、そこにも軍部のマインド・コントロールが続けられていた。食料難で食べるものもほとんどなかったため、当時の子供たちはみなガリガリに痩せていたという。
 そこに軍部のマインド・コントロールである。
 小学校(当時、国民学校といった)でも、退役軍人らが教弁をとり、長々と朝礼で訓辞したが、内容は、                   
 ……わが大和民族は世界一の尚武の民であり、わが軍人は忠勇無双である。
 ……よって、帝国陸海軍は無敵不敗であり、わが一個師団はよく米英の三個師団に対抗し得る。
 といった調子のものであったという。
 日本軍の一個師団はよく米英の三個師団に対抗できるという話は何を根拠にしているのかわからないが、当時の日本人は勝利を信じていた。
 第一次大戦も、日清戦争も日露戦争も勝った。     
 日本は負け知らずの国、日本人は尚武の民である。
 そういう幼稚な精神で戦争をしていた。
 しかし、現実は違った。
 日本人は尚武の民ではなかった。アメリカの物量に完敗し、米英より戦力が優っていた戦局でも、日本軍は何度もやぶれた。
 そして、ヒステリーが重なって、虐殺、強姦行為である。
 あげくの果てに、六十年後には「侵略なんてなかった」「731部隊なんてなかった」「南京虐殺なんてなかった」
 などと妄言を吐く。
 信じられない幼稚なメンタリティーだ。
 このような幼稚な精神性を抱いているから、日本人はいつまでたっても世界に通用しないのだ。それが今の日本の現実なのである。

  一九四五年六月………
 マルセル・ジュノーは野戦病院で大勢の怪我人の治療にあたっていた。
 怪我人は中国人が多かったが、中には日本人もいた。
 あたりは戦争で銃弾が飛び交っており、危険な場所だった。
 やぶれかぶれの日本軍人は、野蛮な行為を繰り返す。
 ある日、日本軍が民間の中国人を銃殺しようとした。
「やめるんだ!」
 ジュノーは、彼らの銃口の前に立ち塞がり、止めたという。
 日本軍人たちは呆気にとられ、「なんだこの外人は?」といった。
 ……とにかく、罪のないひとが何の意味もなく殺されるのだけは願い下げだ!
 マルセル・ジュノー博士の戦いは続いた。


 戦がひとやすみしたところで、激しい雨が降ってきた。
 日本軍の不幸はつづく。
 暴風雨で、艦隊が坐礁し、米英軍に奪われたのだ。
「どういうことだ?!」
 山本五十六は焦りを感じながら叱った。
 回天丸艦長・森本は、
「……もうし訳ござりません!」と頭をさげた。
「おぬしのしたことは大罪だ!」
 山本は激しい怒りを感じていた。大和を失っただけでなく、回天丸、武蔵まで失うとは………なんたることだ!
「どういうことなんだ?! 森本!」とせめた。
 森本は下を向き、
「坐礁してもう駄目だと思って……全員避難を……」と呟くようにいった。
「馬鹿野郎!」五十六の部下は森本を殴った。
「坐礁したって、波がたってくれば浮かんだかも知れないじゃないか! 現に米軍が艦隊を奪取しているではないか! 馬鹿たれ!」
 森本は起き上がり、ヤケになった。
「……負けたんですよ」
「何っ?!」
 森本は狂ったように「負けです。……神風です! 神風! 神風! 神風!」と踊った。 岸信介も山本五十六も呆気にとられた。
 五十六は茫然ともなり、眉間に皺をよせて考えこんだ。
 いろいろ考えたが、あまり明るい未来は見えてはこなかった。
  大本営で、夜を迎えた。
 米軍の攻撃は中断している。
 日本軍人たちは辞世の句を書いていた。
 ……もう負けたのだ。日本軍部のあいだには敗北の雰囲気が満ちていた。
「鈴木くん出来たかね?」
「できました」
「どれ?」

  中国の野戦病院の分院を日本軍が襲撃した。
「やめて~っ!」
 看護婦や医者がとめたが、日本軍たちは怪我人らを虐殺した。この”分院での虐殺”は日本軍の汚点となる。
 ジュノーの野戦病院にも日本軍は襲撃してきた。
 マルセル・ジュノーは汚れた白衣のまま、日本軍に嘆願した。
「武士の情けです! みんな病人です! 助けてください!」
 日本の山下は「まさか……おんしはあの有名なジュノー先生でこごわすか?」と問うた。「そうだ! 医者に敵も味方もない。ここには日本人の病人もいる」
 関東軍隊長・山下喜次郎は、
「……その通りです」と感心した。
 そして、紙と筆をもて!、と部下に命じた。
 ………日本人病院
 紙に黒々と書く。
「これを玄関に張れば……日本軍も襲撃してこん」
 山下喜次郎は笑顔をみせた。
「………かたじけない」
 マルセル・ジュノーは頭をさげた。

  昭和二十年(一九四五)六月十九日、関東軍陣に着弾……
 山下喜次郎らが爆撃の被害を受けた。
 ジュノーは白衣のまま、駆けつけてきた。
「………俺はもうだめだ」
 山下は血だらけ床に横たわっている。
「それは医者が決めるんだ!」
「……医療の夢捨…てんな…よ」
 山下は死んだ。
  野戦病院で、マルセル・ジュノー博士と日本軍の黒田は会談していた。
「もはや勝負はつき申した。蒋介石総統は共順とばいうとるがでごわそ?」
「……そうです」
「ならば」
 黒田は続けた。「是非、蒋介石総統におとりつぎを…」
「わかりました」
「あれだけの人物を殺したらいかんど!」
 ジュノーは頷いた。
 六月十五日、北京で蒋介石総統と日本軍の黒田は会談をもった。
「共順など……いまさら」
 蒋介石は愚痴った。
「涙をのんで共順を」黒田はせまる。「……大陸を枕に討ち死にしたいと俺はおもっている。総統、脅威は日本軍ではなく共産党の毛沢東でしょう?」
 蒋介石はにえきらない。危機感をもった黒田は土下座して嘆願した。
「どうぞ! 涙をのんで共順を!」
 蒋介石は動揺した。
 それから蒋介石は黒田に「少年兵たちを逃がしてほしい」と頼んだ。
「わかりもうした」
 黒田は起き上がり、頭を下げた。
 そして彼は、分厚い本を渡した。
「……これはなんです?」
「海陸全書の写しです。俺のところに置いていたら灰になる」
 黒田は笑顔を無理につくった。
 蒋介石は黒田参謀から手渡された本を読み、
「みごとじゃ! 殺すには惜しい!」と感嘆の声をあげた。
  少年兵や怪我人を逃がし見送る黒田……
 黒田はそれまで攻撃を中止してくれた総統に頭を下げ、礼した。
 そして、戦争がまた開始される。
 旅順も陥落。
 残るはハルビンと上海だけになった。
  上海に籠城する日本軍たちに中国軍からさしいれがあった。
 明日の早朝まで攻撃を中止するという。
 もう夜だった。
「さしいれ?」星はきいた。            
「鮪と酒だそうです」人足はいった。
 荷車で上海の拠点内に運ばれる。
「……酒に毒でもはいってるんじゃねぇか?」星はいう。
「なら俺が毒味してやろう」
 沢は酒樽の蓋を割って、ひしゃくで酒を呑んだ。
 一同は見守る。
 沢は「これは毒じゃ。誰も呑むな。毒じゃ毒!」と笑顔でまた酒を呑んだ。
 一同から笑いがこぼれた。
 大陸関東日本陸軍たちの最後の宴がはじまった。
 黒田参謀は少年兵を脱出させるとき、こういった。
「皆はまだ若い。本当の戦いはこれからはじまるのだ。大陸の戦いが何であったのか……それを後世に伝えてくれ」
 少年兵たちは涙で目を真っ赤にして崩れ落ちたという。

  日本軍たちは中国で、朝鮮で、東南アジアで暴挙を繰り返した。
 蘇州陥落のときも、日本軍兵士たちは妊婦と若い娘を輪姦した。そのときその女性たちは死ななかったという。それがまた不幸をよぶ。その女性たちはトラウマをせおって精神疾患におちいった。このようなケースは数えきれないという。
 しかし、全部が公表されている訳ではない。なぜかというと言いたくないからだという。中国人の道徳からいって、輪姦されるというのは恥ずかしいことである。だから、輪姦             
れて辱しめを受けても絶対に言わない。
 かりに声をあげても、日本政府は賠償もしない。現在でも「侵略などなかったのだ」などという馬鹿が、マンガで無知な日本の若者を洗脳している。
  ジュノー博士は衝撃的な場面にもでくわした。
 光景は悲惨のひとことに尽きた。
 死体だらけだったからだ。
 しかも、それらは中国軍人ではなく民間人であった。
 血だらけで脳みそがでてたり、腸がはみ出したりというのが大部分だった。
「……なんとひどいことを…」
 ジュノーは衝撃で、全身の血管の中を感情が、怒りの感情が走りぬけた。敵であれば民間人でも殺すのか……? 日本軍もナチスもとんでもない連中だ!
 日本軍人は中国人らを射殺していく。
 虐殺、殺戮、強姦、暴力…………
 日本軍人は狂ったように殺戮をやめない。
 そして、それらの行為を反省もしない。
 只、老人となった彼等は、自分たちの暴行も認めず秘密にしている。そして、ある馬鹿のマンガ家が、
 …日本軍人は侵略も虐殺も強姦もしなかった……
 などと勘だけで主張すると「生きててよかった」などと言い張る。
 確かに、悪いことをしたとしても「おじいさんらは間違ってなかった」といわれればそれは喜ぶだろう。たとえそれが『マンガ』だったとしても……
 だが、そんなメンタリティーでは駄目なのだ。
 鎖国してもいいならそれでもいいだろうが、日本のような貿易立国は常に世界とフルコミットメントしなければならない。
 日中国交樹立の際、確かに中国の周恩来首相(当時)は「過去のことは水に流しましょう」といった。しかし、それは国家間でのことであり、個人のことではない。
 間違った閉鎖的な思考では、世界とフルコミットメントできない。
 それを現在の日本人は知るべきなのだ。

  民間の中国人たちの死体が山のように積まれ、ガソリンがかけられ燃やされた。紅蓮の炎と異臭が辺りをつつむ。ジュノー博士はそれを見て涙を流した。
 日本兵のひとりがハンカチで鼻を覆いながら、拳銃を死体に何発か発砲した。
「支那人め! 死ね!」
 ジュノーは日本語があまりわからず、何をいっているのかわからなかった。
 しかし、相手は老若男女の惨殺死体である。
「……なんということを…」
 ジュノーは号泣し、崩れるのだった。

  自然のなりゆきだろうか、ジョンとジェニファーは恋におちた。ハワイでのことである。マイケルを失ったジェニファー、オードリーを失ったジョン……
 愛の行為は、ジョンにもジェニファーにもいまだかってないほどすばらしかった。ジョンの疲れがひどく丁寧に優しく、おだやかにするしかなかったからか、それはわからない。 裸のままシーツにぐったりと横たわり、唇をまた重ねた。
「ふたりとも恋人をなくした」
 ジョンがいうと、ジェニファーは「そうね。でも、もうひとりじゃないわ」といった。 しかし、奇跡がおこる。マイケルが生還したのだ。死んではいなかったのだ!
「ぼくの恋人をとりやがった!」マイケルとジョンは喧嘩になった。ジョンは謝った。
 しかし、ジェニファーはマイケルとよりをもどすことはなかった。
「なぜ? ……もう一度やりなおそう!」
「駄目。わたし妊娠してるの……ジョンの子よ」彼女の言葉に、マイケルは衝撃を受けた。 

          原爆投下





  東京湾にも米国艦隊が迫っていた。
 沖縄の米軍も本土上陸の機会を狙っている。
 ハワイ沖の空軍らは軍儀を開いていた。
「あの男はどこにいった?!」
 マイケルはいった。あの男とは、同じく米国太平洋艦隊空軍のクロード・エザリーである。
 ……あの男が! 会議にも出ないで昼寝でもしてるのか?!
 ハワイ沖はほとんど米軍の支配化である。
「原爆か……」
 広島に原爆を落とすことになる爆撃機・エノラゲイの機長、ポール・ティベッツは興奮した。これからこの原爆を……ジャップめ!
 ジョンは「まだわかりません」という。
「大統領が原爆投下の動きをみせているのは本当なんですか?」
「まずは…」爆撃機・エノラゲイの機長、ポール・ティベッツは続けた。「まずは出撃の準備をしろということだ」
 昼寝から起きたのか、クロード・エザリー軍曹がやってきて、
「ジャップに原爆をとられたらどうする?」といった。   
 ポール・ティベッツは激昴して、
「このガキが! なにぬかしとる!」と喝破した。
 しかしエザリーも負けてはいない。
「この原爆(ドラム管ほどけっこう大きい)はリトルボーイといい、ウラニウム弾である」「それぐらい俺も知っとる!」
 エノラゲイの機長、ポール・ティベッツは声を荒げた。
 ……”トゥ・ヒロヒト(裕仁に贈る)……
 エザリーやマイケルたちは原爆ミサイルにチョークで落書きした。
「これでジャップたちは降伏する。原爆落とされ、あたりはまっ黄色だ!」
 そういったのはエザリーだった。

  七月二十四日、広島などへの原爆投下にむけて、リトル・ホワイトハウスでバーンズは『宣言』をつくる。
 トルーマンは思う。
 ……米英だけで決めてよいものか。中国にも打電しよう。
 トルーマンは重慶の蒋介石に「二十四時間以内に返事するように」と打電した。
 その間も、スティムソンは「天皇制の維持を…」とバーンズ国務長官にうったえていた。 七月二十四日、記念写真。チャーチル、トルーマン、スターリン……
 トルーマンは原爆投下の命令書を出す。
 ターゲットは、広島、小倉、新潟、長崎に変更された。
 ……原爆は日本に対してつかわれるだろう。爆弾は子や女子ではなく軍事拠点に。ジャップは降伏しないだろうが、シグナルにはなる……
                 トルーマン回顧録より

 蒋介石は日本への原爆投下を受諾した。
 こうして、『ポツダム宣言』は発表された。しかし、サインはすべてトルーマンの代筆であったという。降伏せねば全滅する。
 しかし、日本はそれを黙殺していまう。

「よし! 黄色いジャップに原爆の洗礼だ!」
 マイケルは無邪気だった。
 それは当然で、誰も原爆の破壊力など知らないからだった。
「これで戦争も終わる!」ジョンもいった。
 雲がたちこめている。
  結局、エノラゲイは日本上陸を飛んだが新潟は見えず…しかし、広島だけは雲の隙間があった。
 マイケルたちはまだ若く、軍略も謀略もできない青二才だった。
 ジョンは双眼鏡で広島をみながらにやにやと、
「広島上空異常なし!」と仲間にいった。
「……原爆ってどれくらい死ぬんだ?」とマイケル。
「知らない。しかし、相手は黄色だぜ。知ったことか」
「国際法でも認められている立派な策さ」
 そして、一九四五年八月六日午前八時十五分、広島に原爆が投下された。
「目がつぶれるから直視するな!」ティベッツ機長は叫んだ。
 双眼鏡で覗いて見ると、きのこ雲があがっている。
「………やった!…」
「うひょ~っ!」
 エノラゲイ機内に歓声があがった。
 仲間は「これてジャップも降伏だ……」という。
 しかし、予想は外れる。
 日本は、黙ったままだ。
 ……”原爆の洗礼”だ!
「原爆! 原爆! 投下せよ!」
 トルーマンたちは動揺を隠せない。
  一九四五年八月九日長崎上空に、爆撃機ボックス・カーが接近した。そこにはマイケルたちは乗ってなかった。同時に爆撃機はプルトニウム爆弾を投下する。午前十一時二分。「くたばれ!」
 トルーマンの号令で、爆撃機にのっていた米軍兵士たちが原爆を二発もおとした。
 この原爆で二十万人もの民間人が犠牲になったという。


「斬り込め! 斬り込め!」
 日本軍は中国で次々と中国兵士を斬り殺していく。
 が、もはや時代は剣ではなく銃である。
 すぐに中国軍は回転式機関銃を撃ってくると、日本兵たちはやられていった。
 いわゆる初期のガドリング砲は、大砲ほどの大きさがあった。
 ガドリング砲の銃口が火を吹くたびに、日本軍兵士たちは撃たれて倒れていく。
「くそったれめ!」
 谷中はガドリング砲を撃つ中国軍たちの背後から斬り込んだ。そして、ガドリング砲を使って中国軍たちを撃っていく。が、戦にはならない。次々と米国艦隊がやってきて砲撃してくる。谷中小将はひととおりガドリング砲を撃ったところで、日本軍車に飛び乗った。 ……中国への進出(侵略)は失敗したのだ。
 日本軍は全速力で遁走した。
 日本は原爆を二発もうけて、大ダメージを受けた。アジア侵略が失敗したのはいたかった。が、それよりも貴重な兵士たちを失ったのもまたいたかった。
 東条は、
「こんなことなら戦争などしなければよかった」
 と悔がった。
 鈴木貫太郎は「なにをいまさらいってやがるんだこの男は!」と怒りを覚えた。
 とにかく原爆で損失を受け、大打撃であった。

  雀之丞の弟・大塚浪次郎が戦死した。
「浪次郎!」
 兄の大塚雀之丞は号泣し、遺体にすがった。
 榎本中将がきた。
「君の弟は優秀な人材であった。惜しいことだ」   
 とってつけたように、榎本はいって労った。
 涙で顔を濡らしながら、雀之丞は、
「弟の死は犬死にですか?! 中将!」と声を荒げた。
 榎本は戸惑ってから、
「戦は殺しあいだ。連合軍があくまでもわれら日本帝国を認めないなら、戦うしかない。これは”義”の戦ぞ!」
「……しかし…日本が血に染まりまする!」
「”義”の戦では勝つのはわれらだ。米英には”義”がない。勝つのはわれらだ!」
 榎本はどこまでも強気だった。
「……そうですか……」
 雀之丞は涙を両手でふいて、いった。
「義の戦ですね? 弟の死は犬死にではなかったのですね」
「そうだ! 大塚雀之丞……励め!」
「はっ!」
 大塚雀之丞は平伏した。

           
  若く可愛い看護婦と、日本脱走軍の兵士の若者・英次郎は李春蘭とデートした。
「君、今好きなひととかいるの?」
 英次郎は勇気をふりしぼってきいた。
 是非とも答えがききたかった。
 李春蘭は頬を赤らめ、
「えぇ」
 といった。
 純朴な少年の感傷と笑うかも知れないが、英次郎は李春蘭が自分のことを好きになっていると思った。
「それは誰?」
「…ある人です」李春蘭は顔を真っ赤にした。
 そして「あのひとはもう治らないとやけになってるんです」と吐露した。
「………治らない? なんだ……俺のことじゃないのか」
「すいません」
「いや!」英次郎は逆に恐縮した。「いいんだよ! そのひと病気治るといいね」
「……はい」
 李春蘭は可憐に去った。
「ふられたか? 英次郎」
 兄・恒次郎はからかった。弟は「そんなんじゃねぇや!」といった。
 ふたりは相撲を取り始めた。
 兄が勝った。
「元気だせ。もっと可愛い娘がいっぱいいるって」
「だから! ……そんなんじゃねぇって」
 ふたりは笑った。
 まだ恋に恋する年頃である。

  ガダルカナルの戦地では、若者たちが英雄をかこんでいた。
 英雄とは、米国兵士を何百人と殺した男・今井信助である。
「今井さんは鬼畜米英を斬ったそうですね?!」
「…まぁな」
「斬ったときどんな気持ちでしたか?!」
 若者たちは興奮して笑みを浮かべながらきいた。
「うれしかったよ。なんせ鬼畜だからな」
「鬼畜はどういってましたか? 死ぬとき…」
 若者は興奮で顔をむけてくる。
「なんもいわなかったよ。でも連中は頭を斬られて死んだんだな」
「へぇ~っ」
 若者たちが笑顔で頷いた。
 かれらにとっては米兵は明らかな”敵”である。


  木之内と伊庭八郎は、敗退を続ける隊員を尻目に、銃弾が飛び交う中を進軍した。森の中で、ふたりは「これは義の戦だ!」といいあった。
 伊庭八郎は、「木之内! 日本にすごい武器がおとされたって知ってるか?」ときいた。 しかし、木之内は「知ってる。しかし、おれは最後まで戦う! お国のためだ」
「そうか」伊庭八郎はにやりとして、「まだサムライがいるんだな」
 といった。
「その拳銃の弾はあと何発残ってる?」
「いっぱつ…」
「そうか」
 そんな中砲撃があり、爆発が近くで起こった。木之内は額から出血した。
 しかし、伊庭八郎は直撃を受けて血だらけで倒れていた。
「伊庭さん?! だいじょうぶですか?」
「………木之内…」
 伊庭八郎は脇差しをもって切腹した。「かいしゃくを!」
 木之内は動揺したが、「分かりました」といい銃口を伊庭八郎のこめかみに当てて引き金をひいた。
 砲弾が飛び交う。
「やあああ~っ!」
 木之内は進軍する米国軍に剣を抜いて叫んだ。
 しかし、米軍はかれを射殺して進軍していった。
 米軍絶対的優位で、ある。
  長崎にも原爆投下され、日本大本栄は動揺した。すぐに閣僚会議が開かれた。軍部はポツダム宣言など受け入れれば国体が壊れる…と反発した。大和魂が死ぬ…とまでいう。 鈴木貫太郎首相は穏健派で知られた。御前会議にもっていく。そこで裕仁の聖断を受ける。昭和天皇は「本土決戦では日本国そのものが滅亡する。忍び堅きを忍び…世界のひとたちを不幸にするのは避け、この地の日本人たちがひとりでも多く生き残って繁栄の道を進んでほしい。武装解除で、朕は別によいが指導者たちが戦犯として裁かれるのは辛いが日本国が滅ぶよりいい」という。8月10日、日本は条件付き降伏をする。しかし陸軍がいきりたっていた。しきりにクーデターで軍による政権をつくり世界と戦うなどと馬鹿げたことをくりかえす。そんなだから空襲はますます激しくなる。日本中火の海だ。
 8月12日、外務省は降伏状を訳していた。…”サブジェクト トウ”…『従属する』…陸軍や海軍ら軍部は「これでは天皇制が維持されず奴隷と同じである! 陛下のためにならない!」という。そこで鈴木首相は最後の懸けにでる。もう一度の天皇の聖断である。 御前会議が開かれる。天皇の前ではクーデターも文句もない。昭和天皇はいう。
「戦争はこれ以上は無理だと思う。ポツダム宣言を朕は受諾する。もう終戦である」という。こうしてすべて決まった。愚鈍だった天皇が、最後は役にたった訳である。

  そして、一九四五年八月十五日敗戦……
”耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び…”
 昭和天皇(裕仁)の声がラジオから流れてくる。日本軍敗戦、ポツダム宣言を受諾したのだ。やっと、泥沼のような戦争は終わった。
 日本国中、焼け野原だった。
 しかも、戦後は食料難がおそい餓死者まででた。
 日本を占領するためにきたのがマッカーサー元帥だった。パイプをくわえながらプロペラ機のタラップをおりてくる。「アイル・ビー・バック」……の宣言通り彼は日本に戻ってきた。連合国総指令部(GHQ)は、さっそく日本を統治しはじめた。
 憲法(いわゆる平和憲法)をわずか二週間でつくりあげる。
 マルセル・ジュノー博士は荒廃した中国の町で、「広島と長崎に原爆が落とされ、一瞬にして何万人ものひとが犠牲になった」というニュースをラジオできいた。
 ジュノーは思う。「広島へいかなければ…」
『戦争は悪で人殺しだ』……多くのひとたちはそう思っている。確かに、戦争は悪でありひと殺しである。ただし、その悪によってもっと強大な悪を叩き潰すこともできるのだ。 例えば、太平洋戦争で連合軍が帝国日本やナチス・ドイツを叩き潰さなければ今頃、ヨーロッパやアジア諸国はどうなっていただろう? 確かに広島長崎の原爆、東京大空襲、沖縄戦、シベリア抑留、学徒出陣、神風…それらは悲惨なことだ。しかし、被害者意識ばかりもってもらっては困るのだ。じゃあナチスや帝国日本はあの戦争で何をやったのか? 虐殺侵略したじゃないか! ヒトラーや帝国日本はなにをしたのか?
 なぜ日本人は被害者意識だけしかもてないのだろう。なぜ靖国に参拝し続けるのだろう。反日デモがおきたとき著者はそう問いつづけた。だが、日本人からの反応はなかった。只、さあや(前のペンネームが咲絢(さあや))だの11歳美少女Fカップ…だのと馬鹿げたことをいわれただけだ。著者は「日本軍による侵略がなかった」と主張する右翼の小林よしのりを攻撃した。しかし、それは中国のためでも韓国や東南アジアのためでもない。
 日本人の精神の改革のためだった。でも、何にもかわらない。しかし、信じるしかない。太平洋戦争が間違った、侵略戦争であったということを…日本人たちが誰もがわかるまで……。                           
        
         

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.134解散衆院選挙山形2区から出馬?「アベノミクス解散総選挙」

2014年11月21日 19時08分53秒 | 日記





「アベノミクス解散総選挙」の間抜けさ


  2014年11月21日安倍政権は任期を二年残しての解散総選挙の暴挙に出た。「アベノミクスの失敗を隠しての解散総選挙ではありません」と安倍首相は言うがいかにも苦しい。実態はそういうことだろうが。
2014年4月から消費税を5%から8%に税率を引き上げて、なんと消費が5兆円も落ち込んだという。そこで安倍政権は5.5兆円の補正予算を組んで対策を講じたが「アベノミクスは失敗」した。その失敗を隠すために、それと傷のついた内閣のリセットの為だけに700億円もの費用をかけて「アベノミクス解散総選挙」を行うのだ。その際、安倍首相は「アベノミクスで雇用が増えて、内定率もあがった。行き過ぎた円高デフレも解消された」という。ちょっと待ってよ、といいたい。雇用が増えたのは正社員ではない契約派遣社員だ。また、大企業の工場はもう海外の人件費の安いところにとっくの昔に移っており、日本人の人件費が少しばかり安くなったとしても「(単純作業のルーチンワーク的)製造業工場」等日本国内に戻って等こない。安倍さんがいう日本に大企業の工場が戻ってきた、などという話は枝葉末節的なほんの数パーセントのごく稀なケースであり、「安かろう悪かろう外国製品」を嫌う、「高額でも品質の良いメイドインジャパン製品を購買する購買者向け」でしかない。それを大企業全体ととらえるというところが安倍さんの頭の悪さ、だ。
今回の「アベノミクス解散総選挙」では私の選挙区の山形二区には「これは!」というような候補者はいない。凡庸な学歴エリートだけだ。意味がない。こんな連中にしか投票できないなんて不幸だ。安倍政権は「アベノミクスの失敗が表面化する前」に手を打った。消費税の再増税を2017年4月に延長したのは英断ではあるが、それ以外は何ら汲むべき酌量の余地はない。
アベノミクスは失敗した!景気はよくならないし、このままでは財政も内政も外交もレイムダック状態になる。安倍自民党公明党圧勝の独裁が始まるだけだ。そして日本国の運命は悲惨な地獄になる。「アベノミクス解散総選挙」の間抜けさ、だけでも国民はわかっておくべきだろう。野党も情けなく分裂しているから自民公明圧勝は間違いない。独裁が始まるぞ!日本国のおわりの始まり、である。

緑川鷲羽(みどりかわ・わしゅう)・44・フリージャーナリスト

八重の桜  新島八重の桜と白虎隊とブログ連載アンコール小説<NHK2013年大河ドラマ『八重の桜』>5

2014年11月21日 07時20分25秒 | 日記





 一月二十三日の夜中に、麟太郎は陸軍総裁、若年寄を仰せつけられた。
「海軍軍艦奉行だった俺が、陸軍総裁とは笑わせるねえ。大変動のときにあたり、三家三卿以下、井伊、榊原、酒井らが何の面目ももたずわが身ばかり守ろうとしている。
 誰が正しいかは百年後にでも明らかになるかもしれねぇな」
 麟太郎は慶喜にいう。
「上様のご決心に従い、死を決してはたらきましょう。
 およそ関東の士気、ただ一時の怒りに身を任せ、従容として条理の大道を歩む人はすくなくないのです。
 必勝の策を立てるほどの者なく、戦いを主張する者は、一見いさぎよくみえますが勝算はありません。薩長の士は、伏見の戦いにあたっても、こちらの先手を取るのが巧妙でした。幕府軍が一万五、六千人いたのに、五分の一ほどの薩長軍と戦い、一敗地にまみれたのは戦略をたてる指揮官がいなかったためです。
 いま薩長勢は勝利に乗じ、猛勢あたるべからざるものがあります。
 彼らは天子(天皇)をいただき、群衆に号令して、尋常の策では対抗できません。われらはいま柔軟な姿勢にたって、彼等に対して誠意をもってして、江戸城を明け渡し、領土を献ずるべきです。
 ゆえに申しあげます。上様は共順の姿勢をもって薩長勢にあたってくだされ」
 麟太郎は一月二十六日、フランス公使(ロッシュ)が役職についたと知ると謁見した。その朝、フランス陸軍教師シャノワンが官軍を遊撃する戦法を図を広げて説明した。和睦せずに戦略を駆使して官軍を壊滅させれば幕府は安泰という。
 麟太郎は思った。
「まだ官軍に勝てると思っているのか……救いようもない連中だな」
  麟太郎の危惧していたことがおこった。
 大名行列の中、外国人が馬でよこぎり刀傷事件がおこったのだ。生麦事件の再来である。大名はひどく激昴し、外人を殺そうとした。しかし、逃げた。
 英国公使パークスも狙われたが、こちらは無事だった。襲ってきた日本人が下僕であると知ると、パークスは銃を発砲した。が、空撃ちになり下僕は逃げていったという。
 二月十五日まで、会津藩主松平容保は江戸にいたが、そのあいだにオランダ人スネルから小銃八百挺を購入し、海路新潟に回送し、品川台場の大砲を借用して箱館に送り、箱館湾に設置した大砲を新潟に移すなど、官軍との決戦にそなえて準備をしていたという。
(大山伯著『戊辰役戦士』)

  薩長の官軍が東海、東山、北陸の三道からそれぞれ錦御旗をかかげ物凄い勢いで迫ってくると、徳川慶喜の抗戦の決意は揺らいだ。越前松平慶永を通じて、「われ共順にあり」という嘆願書を官軍に渡すハメになった。
 麟太郎は日記に記す。
「このとき、幕府の兵数はおよそ八千人もあって、それが機会さえあればどこかへ脱走して事を挙げようとするので、おれもその説論にはなかなか骨がおれたよ。
 おれがいうことがわからないなら勝手に逃げろと命令した。
そのあいだに彼の兵を越えた三百人ほどがどんどん九段坂をおりて逃げるものだから、こちらの奴もじっとしておられないと見えて、五十人ばかり闇に乗じて後ろの方からおれに向かって発砲した。
 すると、かの脱走兵のなかに踏みとどまって、おれの提灯をめがけて一緒に射撃するものだから、おれの前にいた兵士はたちまち胸をつかれて、たおれた。
 提灯は消える。辺りは真っ暗になる。おかげでおれは死なずにすんだ。
 雨はふってくるし、わずかな兵士だけつれて撤退したね」


  旧幕府軍と新選組は上方甲州で薩長軍に敗北。
 ぼろぼろで血だらけになった「誠」の旗を掲げつつ、新選組は敗走を続けた。
 慶応四年一月三日、旧幕府軍と、天皇を掲げて「官軍」となった薩長軍がふたたび激突した。鳥羽伏見の戦いである。新選組の井上源三郎は銃弾により死亡。副長の土方歳三が銃弾が飛び交う中でみずから包帯を巻いてやり、源三郎はその腕の中で死んだ。
「くそったれめ!」歳三は舌打ちをした。
 二週間前に銃弾をうけて、近藤は療養中だった。よってリーダーは副長の土方歳三だった。永倉新八は決死隊を率いて攻め込む。官軍の攻撃で伏見城は炎上…旧幕府軍は遁走しだした。
 土方は思う。「もはや刀槍では銃や大砲には勝てない」
 そんな中、近藤は知らせをきいて大阪まで足を運んだ。「拙者の傷まだ癒えざるも幕府の不利をみてはこうしてはいられん」
 それは決死の覚悟であった。
 逃げてきた徳川慶喜に勝海舟は「新政府に共順をしてください」と説得する。勝は続ける。「このまま薩長と戦えば国が乱れまする。ここはひとつ慶喜殿、隠居して下され」
 それに対して徳川慶喜はオドオドと恐怖にびくつきながら何ひとつ言葉を発せなかった。 ……死ぬのが怖かったのであろう。
 勝は西郷を「大私」と呼んで、顔をしかめた。

 西郷隆盛は「徳川慶喜の嘘はいまにはじまったことではない。慶喜の首を取らぬばならん!」と打倒徳川に燃えていた。このふとった大きな眼の男は血気さかんな質である。
 鹿児島のおいどんは、また戦略家でもあった。
 ……慶喜の首を取らぬば災いがのこる。頼朝の例がある。平家のようになるかも知れぬ。幕府勢力をすべて根絶やしにしなければ、維新は成らぬ……
  江戸に新政府軍が迫った。江戸のひとたちは大パニックに陥った。共順派の勝海舟も狙われる。一八六八年(明治元年)二月、勝海舟は銃撃される。しかし、護衛の男に弾が当たって助かった。勝は危機感をもった。
 もうすぐ戦だっていうのに、うちわで争っている。幕府は腐りきった糞以下だ!
 勝海舟は西郷隆盛に文を送る。
 ……”わが徳川が共順するのは国家のためである。いま兄弟があらそっているときではない。あなたの判断が正しければ国は救われる。しかしあなたの判断がまちがえば国は崩壊する”………
  官軍は江戸へ迫っていた。
  慶喜は二月十二日朝六つ前(午前五時頃)に江戸城をでて、駕籠にのり東叡山塔中大慈院へ移ったという。共は丹波守、美作守……
 寺社奉行内藤志摩守は、与力、同心を率いて警護にあたった。
                    
 慶喜は水戸の寛永寺に着くと、輪王寺宮に謁し、京都でのことを謝罪し、隠居した。
 山岡鉄太郎(鉄舟)、関口ら精鋭部隊や、見廻組らが、慶喜の身辺護衛をおこなった。  江戸城からは、静寛院宮(和宮)が生母勧行院の里方、橋本実麗、実梁父子にあてた嘆願書が再三送られていた。もし上京のように御沙汰に候とも、当家(徳川家)一度は断絶致し候とも、私上京のうえ嘆願致し聞こえし召され候御事、寄手の将御請け合い下され候わば、天璋院(家定夫人)始めへもその由聞け、御沙汰に従い上京も致し候わん。
 再興できぬときは、死を潔くし候心得に候」
 まもなく、麟太郎が予想もしていなかった協力者が現れる。山岡鉄太郎(鉄舟)、である。幕府旗本で、武芸に秀でたひとだった。
 文久三年(一八六三)には清河八郎とともにのちの新選組をつくって京都にのぼったことがある人物だ。山岡鉄太郎が麟太郎の赤坂元氷川の屋敷を訪ねてきたとき、当然ながら麟太郎は警戒した。
 麟太郎は「裏切り者」として幕府の激徒に殺害される危険にさらされていた。二月十九日、眠れないまま書いた日記にはこう記する。
「俺が慶喜公の御素志を達するため、昼夜説論し、説き聞かせるのだが、衆人は俺の意中を察することなく、疑心暗鬼を生じ、あいつは薩長二藩のためになるようなことをいってるのだと疑いを深くするばかりだ。
 外に出ると待ち伏せして殺そうとしたり、たずねてくれば激論のあげく殺してしまおうとこちらの隙をうかがう。なんの手のほどこしようもなく、叱りつけ、帰すのだが、この難儀な状態を、誰かに訴えることもできない。ただ一片の誠心は、死すとも泉下に恥じることはないと、自分を励ますのみである」
 鉄太郎は将軍慶喜と謁見し、頭を棍棒で殴られたような衝撃をうけた。
  隠居所にいくと、側には高橋伊勢守(泥舟)がひかえている。顔をあげると将軍の顔はやつれ、見るに忍びない様子だった。
 慶喜は、自分が新政府軍に共順する、ということを書状にしたので是非、官軍に届けてくれるように鉄太郎にいった。
 慶喜は涙声だったという。
 麟太郎は、官軍が江戸に入れば最後の談判をして、駄目なら江戸を焼き払い、官軍と刺し違える覚悟であった。
 そこに現れたのが山岡鉄太郎(鉄舟)と、彼を駿府への使者に推薦したのは、高橋伊勢守(泥舟)であったという。
 麟太郎は鉄太郎に尋ねた。
「いまもはや官軍は六郷あたりまできている。撤兵するなかを、いかなる手段をもって駿府にいかれるか?」
 鉄太郎は「官軍に書状を届けるにあたり、私は殺されるかも知れません。しかし、かまいません。これはこの日本国のための仕事です」と覚悟を決めた。
 鉄舟は駿府へ着くと、宿営していた大総督府参謀西郷吉之助(隆盛)が会ってくれた。鉄太郎は死ぬ覚悟を決めていたので銃剣にかこまれても平然としていた。
 西郷吉之助は五つの条件を出してきた。
 一、慶喜を備前藩にお預かり
 一、江戸城明け渡し
 一、武器・軍艦の没収
 一、関係者の厳重処罰
 西郷吉之助は「これはおいどんが考えたことではなく、新政府の考えでごわす」
 と念をおした。鉄舟は「わかりました。伝えましょう」と頭を下げた。
「おいどんは幕府の共順姿勢を評価してごわす。幕府は倒しても徳川家のひとは殺さんでごわす」
 鉄舟はその朗報を伝えようと馬に跨がり、帰ろうとした。品川宿にいて官軍の先発隊がいて「その馬をとめよ!」と兵士が叫んだ。
 鉄舟は聞こえぬふりをして駆け過ぎようとすると、急に兵士三人が走ってきて、ひとりが鉄舟の乗る馬に向け発砲した。鉄舟は「やられた」と思った。が、何ともない。雷管が発したのに弾丸がでなかったのである。
 まことに幸運という他ない。やがて、鉄太郎は江戸に戻り、報告した。麟太郎は「これはそちの手柄だ。まったく世の中っていうのはどうなるかわからねぇな」といった。
 官軍が箱根に入ると幕臣たちの批判は麟太郎に集まった。
 しかし、誰もまともな戦略などもってはしない。只、パニックになるばかりだ。
 麟太郎は日記に記す。
「官軍は三月十五日に江戸城へ攻め込むそうだ。錦切れ(官軍)どもが押しよせはじめ、戦をしかけてきたときは、俺のいうとおりにはたらいてほしいな」
 麟太郎はナポレオンのロシア遠征で、ロシア軍が使った戦略を実行しようとした。町に火をかけて焦土と化し、食料も何も現地で調達できないようにしながら同じように火をかけつつ遁走するのである。


  官軍による江戸攻撃予定日三月十四日の前日、薩摩藩江戸藩邸で官軍代表西郷隆盛と幕府代表の勝海舟(麟太郎)が会談した。その日は天気がよかった。陽射しが差し込み、まぶしいほどだ。
 西郷隆盛は開口一発、条件を出してきた。
      
 一、慶喜を備前藩にお預かり
 一、江戸城明け渡し
 一、武器・軍艦の没収
 一、関係者の厳重処罰
  いずれも厳しい要求だった。勝は会談前に「もしものときは江戸に火を放ち、将軍慶喜を逃がす」という考えをもって一対一の会談にのぞんでいた。
 勝はいう。
「慶喜公が共順とは知っておられると思う。江戸攻撃はやめて下され」
 西郷隆盛は「では、江戸城を明け渡すでごわすか?」とゆっくりきいた。
 勝は沈黙する。
 しばらくしてから「城は渡しそうろう。武器・軍艦も」と動揺しながらいった。
「そうでごわすか」
 西郷の顔に勝利の表情が浮かんだ。
 勝は続けた。
「ただし、幕府の強行派をおさえるため、武器軍艦の引き渡しはしばらく待って下さい」 今度は西郷が沈黙した。
 西郷隆盛はパークス英国大使と前日に話をしていた。パークスは国際法では”共順する相手を攻撃するのは違法”ときいていた。
 つまり、今、幕府およんで徳川慶喜を攻撃するのは違法で、官軍ではなくなるのだ。
 西郷は長く沈黙してから、歌舞伎役者が唸るように声をはっしてから、
「わかり申した」と頷いた。
  官軍陣に戻った西郷隆盛は家臣にいう。
「明日の江戸攻撃は中止する!」
 彼は私から公になったのだ。もうひとりの”偉人”、勝海舟は江戸市民に「中止だ!」と喜んで声をはりあげた。すると江戸っ子らが、わあっ!、と歓声をあげたという。
(麟太郎は会見からの帰途、三度も狙撃されたが、怪我はなかった)
 こうして、一八六八年四月十三日、江戸無血開城が実現する。
 西郷吉之助(隆盛)は、三月十六日駿府にもどり、大総督宮の攻撃中止を報告し、ただちに京都へ早く駕籠でむかった。麟太郎の条件を受け入れるか朝廷と確認するためである。 この日より、明治の世がスタートした。近代日本の幕開けである。          

そして話しは再び「会津の役」である。
会津藩は朝敵となってしまった。
会津藩は京都守護職について京都から討幕派を排除し、庄内藩は江戸市中取締役に就いて江戸から討幕派を排除していた。
このため、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍(明治政府)は会津藩・庄内藩を「朝敵」として討伐に乗り出した。
会津藩主の松平容保は、新撰組などを使って京都から尊王攘夷派(長州藩士)を排除したうえ、第1次長州討伐で陸軍総裁を勤めたことから、新政府側の長州藩から強く恨まれていたのである。
一方、江戸市中取締役についていた庄内藩は、江戸の薩摩藩邸を襲撃しており、新政府側の薩摩藩と強い遺恨があった。
このようななか、江戸から会津藩に戻った藩主・松平容保は、養子の松平喜徳(まつだいら・のぶのり)へ家督を譲って謹慎して、恭順を示した。
ただ、会津藩の姿勢は「武装恭順」であった。
長州藩は第1次長州討伐の結果、主戦派が粛正され、非戦派となった。
が、その後、高杉晋作らのクーデターにより、主戦派が台頭し、長州藩は武装恭順へと転身した。
しかし、江戸幕府は長州藩の武装恭順を認めず、再び長州藩を討伐するため、兵を挙げた(第2次長州討伐)。
そもそも江戸幕府側が長州藩の武装恭順を認めなかったのだから、会津藩の武装恭順など認められはずがないことは明だった。
 1868年2月10日(慶応4年1月17日)、新政府軍は「会津攻めの希望を聞き入れる」として、仙台藩に会津藩の討伐を命じる。
しかし、仙台藩は会津攻めなど主張しておらず、抗議する。
1868年2月10日(明治4年1月17)、新政府は米沢藩に仙台藩の補佐を命じる。
米沢藩は会津藩に恩義があるため、勅命といえど簡単に従うことは出来ない。
初代会津藩主・保科正之のとき、米沢藩の第3代藩主・上杉綱勝は実子も養子も無いまま急死した。
跡取りを決めずに米沢藩主・上杉綱勝が死んだため、米沢藩・上杉家は御家断絶になるはずであったが、初代会津藩主・保科正之の取り計らいにより、家名存続が許されていた。(「忠臣蔵」で有名な吉良上野介の息子の吉良三郎(上杉綱憲・上杉綱勝の遠縁の子供))
このため、米沢藩は会津藩に強い恩義があり、会津藩を裏切って会津を攻めることは出来ない。
なお、米沢藩・上杉家は御家断絶を免れ、上杉綱憲が家督を継いだが、米沢藩は30万石から15万石へと減封となり、財政難に陥っている。
減封された15万石の領地は幕府直轄となり、その後、福島藩なっている。あまり八重とは関係ないが米沢藩といえば「中興の祖・上杉鷹山公」が有名である。
一方、新政府は東北諸藩に檄を飛ばして、会津藩・庄内藩への討伐を命じる。
が、東北諸藩は東北同士で無駄な戦争をしたくないという思惑があり、態度を決めかねていた。
 1868年3月(慶応4年2月)、新政府は東北を平定するため、奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)を組織した。奥羽鎮撫総督府は討伐軍ではなく、東北を鎮撫(ちんぶ)する組織だった。
奥羽(おうう)とは、東北地方の古い呼び方で、鎮撫(ちんぶ)とは、暴動を鎮めて民を安心させることである。
新政府は「東北の平定は東北の兵を持って行う」との方針を取っており、奥羽鎮撫総督府に与えられた兵はわずかであった。
これは、東征大総督(征討大将軍)の有栖川宮熾仁親王が率いる新政府軍が江戸城攻略にあたるため、奥羽鎮撫総督府に兵力を割けなかったため、とされている。
 奥羽鎮撫総督府の発足早々、参謀に就任していた薩摩藩の黒田清隆や長州藩の品川弥二郎ら首脳陣数名が辞任していまう。
このため、公卿の九条道孝を総督とした首脳陣に一新する。
こうして、黒田清隆らの後任として、長州藩の世良修蔵(せら・しゅうぞう)と薩摩藩の大山格之助の2人が、下参謀に就任することなったのである。
首脳を一新した奥羽鎮撫総督府は、公卿の九条道孝(くじょう・みちたか)が総督を務めた。
副総督は公卿の沢為量(さわ・ためかず)で、参謀は公卿の醍醐忠敬である。
世良修蔵と大山格之助の2人は下参謀であった。
が、これは公卿と位を同列にしないための配慮であり、形式上の物だった。
要職についた公卿3人は戦いの経験なども無く、半分は飾り物であり、実質的には下参謀の世良修蔵と大山格之助の2人が奥羽鎮撫総督府の主導権を握っていた。
この結果、奥羽鎮撫総督府は討伐派が体勢を占めることとなり、鎮撫とは名ばかりで、実質的な討伐軍になるのであった。
しかし、奥羽鎮撫総督府の兵力はわずか570人で、奥羽鎮撫総督府が単独で会津藩・庄内藩を攻略することは不可能だった。
そこで、奥羽鎮撫総督府は東北の雄藩・仙台藩に強く出兵を迫ったのである。
会津藩に同情的な仙台藩は、奥羽鎮撫総督府に、会津藩の降伏を受け入れる条件を尋ねた。
これに対して世良修蔵が突き付けた条件は、松平容保の斬首に加え、松平喜徳の監禁と若松城の開城という厳しい内容だった。
会津藩がこのような条件を飲むはずがなかった。
1868年4月19日、会津藩に同情的な仙台藩であった。
が、仙台藩内にも
「新政府軍の命令に従うべき」との意見もあり、会津藩へ進軍することとなった。
仙台藩の進軍を知った会津藩は、仙台藩に降伏の使者を送る。
会津藩に同情する仙台藩は、表向きは藩境で戦争をするふりをして、裏で署名嘆願について協議することにした(会津救済運動)。
1861年5月(慶応4年4月29)、会津藩・仙台藩・米沢藩の家老が、宮城県の関宿に集まり、署名嘆願について協議する(関宿会議)。
会津藩・松平容保は第1次長州討伐で陸軍総裁を務めたとき、長州藩の家老3人を切腹させ、参謀4人を斬首している。
このため、仙台藩は奥羽鎮撫総督府に謝罪嘆願を取り次ぐ条件として、会津藩に「鳥羽・伏見の戦い」の首謀者の首を差し出すことを求めた。
会津藩の家老・梶原平馬は、
「帰って戦の準備をする」
と激怒するが、戦を避けたい仙台藩・米沢藩は、
「会津一国の命と、1人の命とどちらが大事か考えろ。首を差し出せば、後のことは責任を持つ」
と言って家老・梶原平馬を説得し、関宿会議は終了した。
一方、奥羽鎮撫総督府の総督・九条道孝は、会津藩に、
「謝罪嘆願すれば、寛大な処分を下す」と謝罪を勧告する。
仙台藩・米沢藩による会津嘆願運動に加え、奥羽鎮撫総督府の総督・九条道孝からの謝罪勧告があったため、「鳥羽伏見の戦い」での首謀者の首を差し出せば、会津藩の謝罪は認められる公算が大きかった。
そのころ、江戸では江戸城の無血開城が行われ、徳川慶喜に寛大な処分が下されており、会津藩も謝罪嘆願すれば、九条道孝の勧告通りに寛大な処分が下る見込みだった。
しかし、会津藩では、
「『鳥羽・伏見の戦い』の責任は徳川慶喜の処分で決着している」
という意見も強く、意見が分かれていた。
その結果、会津藩主の松平容保は関宿会議の結果を無視して、奥羽鎮撫総督府に、
「会津藩は徳川家の処分を見届けるまでは、謝罪はできない」
という宣戦布告を叩き付けたのである。
 1868年(慶応4年)6月10日、仙台藩士・姉歯武之進(あねは・たけのしん)らが、福島藩の城下町にある宿屋「金沢屋」に宿泊している奥羽鎮撫総督府の参謀・世良修蔵を襲撃して暗殺する。
同日、会津藩が奥州街道の要となる白河城(別名「小峰城」)へと兵を進める。
白河城は白河藩(福島県白河市)阿部家が治めていたが、このとき、白河城は城主不在のまま、二本松藩と仙台藩の兵が駐留していた。
白河藩の藩主・阿部正外(あべ・まさとう)は1866年に神戸開港問題で江戸幕府老中を罷免となり、阿部正静が家督を受け継いだ。
が、阿部正静は棚倉城(福島県東白川郡)への国替えを命じられたため、白河城は江戸幕府直轄となっていた。
このため、白河藩は城主がおらず、幕府の命令で二本松藩が白河城に駐留していた。
その後、新政府成立後は奥羽鎮撫総督府から会津藩討伐命令を受けた仙台藩と二本松藩の兵が白河城に駐留していた。
 会津藩が白河城を攻めると、白河城に駐留していた仙台藩と二本松藩は、示し合わせたかのように撤退する。
白河城には奥羽鎮撫総督府の兵も駐留していた。
が、ごく少数だったため、仙台藩らの兵が撤退すると、奥羽鎮撫総督府の兵は撤退を余儀なくされた。
こうして会津藩は白河城を無傷で手に入れると、新政府軍を迎え撃つために守りを固めた。
白河城は東北地方の入り口となる重要な場所で、白河城を押さえていれば会津のみならず、東北諸藩の本土が安全になるため、白河城の墨守は戦略上の最重要課題だった。
さらに、白河城を押さえていれば、恭順派の三春藩(福島県)の裏切りを監視できるため、白河城を守ることには大きな意味があった。
1868年6月12日、斉藤一が率いる新撰組130名が白河城に入城する。
6月19日には家老に復帰した西郷頼母(さいごう・たのも)や若年寄・横山主税らも入城する。
奥羽越列藩同盟が成立すると、二本松藩などの援軍も加わり、東北の防衛拠点となる白河城の兵力は2500人に膨れあがった。
会津軍を指揮する総大将は、会津藩の家老・西郷頼母である。非戦派で実戦経験の無い西郷頼母が、東北の運命を背負う一戦で総大将を務める理由は分らない。
 一方、宇都宮城(栃木県)を攻撃していた新政府軍の参謀・伊地知正治(いぢち・まさはる=薩摩藩)は、白河藩が会津藩の手に落ちたことを知ると、兵を北へと進め、会津藩が守る白河城へと迫った。
会津軍勢2500人に対して、新政府軍の伊地知正治の手勢は、わずか700人余りだったが、伊地知正治の軍は精鋭揃いだった。
1868年6月20日、新政府軍の伊地知正治が白河城に攻撃を開始する。
伊地知正治は軍を3つに分け、正面の本隊が敵の注意を引きつけると、左右に回った2部隊が側面から攻撃をかけた。
兵力の差では勝っていた会津藩であった。
が、洋式銃を有する新政府軍の前に惨敗し、白河城はあっさりと新政府軍の手に落ちてしまった。
白河城は奥州街道の要所であり、東北への入り口となる。
白河城を新政府軍に押さえられると、会津本国が危険にさらされる。
会津藩は奥羽越列藩同盟の援軍を得て体制を立て直すと、白河城を奪還するため新政府軍を攻め立てた。
一方、白河城の新政府軍にも新政府軍の参謀・板垣退助らが援軍に駆け付けており、士気は益々盛んになっており、会津軍を寄せ付けなかった。
このようななか、援軍に駆け付けていた新政府軍の参謀・板垣退助が、手薄となった棚倉藩(福島県)を攻撃するため、白河城から棚倉藩へと兵を進めた。
これを好機とみた会津藩は、棚倉藩へ援軍を向けず、白河城を奪い返す作戦に出た。
しかし、会津藩は7度も白河城を攻めたものの、洋式銃を有する新政府軍に歯が立たたなかった。
激戦に次ぐ激戦の末、1868年8月31日、会津軍は最後の攻撃に出るが、白河城を落とすことは出来ず、白河城を諦めた。
1868年9月14日には周辺での小競り合いも無くなり、100日間にわたる「白河口の戦い」が終結する。
同盟軍の死者は927人、新政府軍の死者は113人だったとされている。
会津藩は「白河口の戦い」で、横山主税など優秀な指揮官を失い、大きな損失を出した。
そして、戦略上で重要な白河城を失ったことで、奥羽越列藩同盟には崩壊の序曲が流れ始める。
 手薄となった棚倉藩(福島県棚倉町)へ進軍した新政府軍の板垣退助が棚倉藩を落とすと、三春藩(福島県三春町)は奥羽越列藩同盟を裏切って新政府軍に降伏する。
仙台藩は三春藩に監視の兵を配置していたのだ。
が、白河城を新政府軍に奪われたため、監視の兵に三春藩を拘束するほどの力は無くなっており、新政府軍が棚倉藩を落とすと、三春藩は新政府軍に使者を送って恭順を示したのだ。
奥羽諸藩からみれば三春藩が新政府軍に寝返ったようにみえる。
が、元々、三春藩は勤王派(新政府側)で、仙台藩の圧力を受けて奥羽列藩同盟に参加した経緯がある。
三春藩は奥羽列藩同盟に参加する際も、新政府に、
「同盟に参加しなければ、滅ぼされるため、仕方なく同盟に参加する」
と事情を説明しており、本来は新政府側の立場にあった。
しかし、三春藩は東北の裏切り者とされ、
「三春狐」
と呼ばれて東北諸藩から批判されて遺恨を残した。
特に仙台藩からは強く恨まれていたという。
一説によると、「淺川の戦い」でも三春藩の裏切り行為があったとされているが、真相は分からない。
ちなみに、奥羽越列藩同盟を裏切ったのは三春藩だけでなく、本荘藩や秋田藩や弘前藩も新政府に寝返った。
本荘藩や秋田藩などのように新政府側に寝返り、東北戦争後の処分で知行が増えている藩もある。
また、積極的に動かず、処分を受けなかった藩も多い。
 三春藩(福島県)が奥羽越列藩同盟を裏切って新政府軍に寝返ると、三春藩の後を追うように守山藩(福島県)も新政府軍に恭順を示して降伏する。
守山藩の藩主・松平家は水戸藩・徳川家の流れをくむ。
が、守山藩は特に行動を起こすこと無く、新政府軍に降伏している。
こうして三春藩・守山藩が降伏したため、新政府軍の板垣退助は無傷で三春藩を通過。
地の利を知る三春藩の道案内で、新政府軍の板垣退助は、二本松藩(福島県)へと兵を進めたのである。
 1868年9月15日、新政府軍の参謀・板垣退助に攻められた二本松城が落城し、二本松藩が降伏する。
二本松藩は白河城(白河口の戦い)などに主力部隊を派遣しており、新政府軍の板垣退助に留守を突かれる形となっていた。
三春藩・守山藩が抵抗せずに降伏したため、新政府軍の板垣退助は一気に兵を北へと進めて二本松藩へ迫っており、二本松藩には主力部隊を呼び戻す程の時間は無かった。
さらに、新政府軍の別部隊が側面から二本松藩へ迫っており、二本松藩は絶体絶命の危機に瀕していた。
老兵しか居ない二本松藩は降伏しても仕方の無い状況だった。
が、家老の丹羽富穀(にわ・とみたけ)が、
「死を賭して信義を守るは、二本松武士の本懐である」
と徹底抗戦を主張したため、二本松藩は新政府軍に交戦することになった。
このため、二本松藩は少年兵までも戦場へ投入することになる。少年兵は最新式の洋式銃(元込式のスナイドル銃とされている)を装備しており、新政府軍を困らせたが、多勢に無勢で新政府軍の勢いを止めることが出来ず、二本松城は陥落してしまう。
二本松藩の少年兵は15歳と16歳で構成されていた。
が、藩存亡の危機に直面しているため、特例により年齢を引き下げられ、12歳から17歳の少年で構成されていた(指揮官は除く)。
二本松城の戦いで散った二本松藩の少年兵は正規軍ではなく、隊に名前は無かったが、後に「二本松少年隊」と呼ばれるようになり、会津藩の白虎隊と並ぶ戊辰戦争の悲劇として知られることになる。
一般的に「二本松少年隊の悲劇」として知られるのは、二本松少年隊62名のうち、木村銃太郎が率いて大壇口で戦った二本松少年隊25名である。
二本松藩士の家庭では食事の度、母親が子供に切腹の作法を教え、武士の心得を教えており、少年兵といえども、地元の農民が「武士の子とマムシには手を出すな」として恐れるほどであった。
「二本松少年隊の悲劇」となる大壇口の戦いは、戊辰戦争で最も激しい戦いだったとされるが、会津藩の白虎隊や若松城籠城戦が有名になったため、二本松少年隊の悲劇はあまり知られていない。
 白河城と二本松城を落とした新政府軍は、攻略方針で意見が分かれた。
速やかに東北を平定するためには、根っ子となる会津藩を枯らすべきか、枝葉となる奥州列藩同盟の東北諸藩を刈るべきか。
江戸に居る参謀・大村益次郎は「枝葉を刈れば、根っ子は枯れる」と主張した。
一方、二本松城に居る参謀・伊地知正治と板垣退助の2人は、「根っ子を刈れば、枝葉は枯れる」と主張した。
軍議の結果、現地に居る伊地知正治らの意見が採用され、新政府軍は根っ子(会津藩)を刈って枝葉(奥州列藩同盟)を枯らす作戦に出た。
既に秋が訪れており、冬になって東北地方が雪で覆われれば、薩摩や長州が中心となっている新政府軍は不利になる。
「冬がくれんば戦は会津の優位になるはずだんべ!」
冬が来る前に逆賊の会津藩を討つ必要があった。
 川崎尚之助との結婚を機に砲術を禁止されていた山本八重(後の新島八重)であった。
が、「鳥羽・伏見の戦い」や「白河口の戦い」の戦況を聞き、1968年6月ごろから、戦争に備えて砲術の訓練を再開する。
22歳になった山本八重の砲術は、人に教えるレベルまで達しており、山本家に遊びに来た白虎隊にも砲術を教えていた。
ただ、白虎隊はフランス式の訓練を取り入れており、遊びに来た白虎隊員は、山本八重が教えるまでもなく、一通りのことは出来ていた。
会津藩の上級藩士は、
「鉄砲は下級武士の武器だ」
「武士が腹ばいになれるか」
と激怒していたが、若い白虎隊にはそのような抵抗が無く、洋式銃を受け入れて積極的に射撃の訓練を受けていたのだ。
 白虎隊は15歳から17歳までで編成される予定だったが、
「15歳では重い銃を扱うのは難しい」
という理由で16歳と17歳で編成することになった。
山本八重の東隣に住んでいた伊東悌次郎(いとう・ていじろう=15歳)は年齢が1歳足りないため、白虎隊に入れずに悔しがり、山本八重に砲術を習いに来ていた。
山本八重は機を織りながら伊東悌次郎に鉄砲の撃ち方を教えるが、発砲すると大きな音がするため、伊東悌次郎は驚いて目を閉じてしまう。
新島八重は
「臆病者!臆病者!お前のような臆病者には教えぬ」
と罵倒すると、伊東悌次郎は
「次は目を閉じない」と言い、再び銃を構える。
結局、伊東悌次郎は3度目で発砲しても目を閉じなくなったため、山本八重は伊東悌次郎に鉄砲の撃ち方を教えてやった。
やがて、伊東悌次郎が一通りのことが出来るようになると、山本八重は射撃の動作を妨げになることを理由に、伊東悌次郎の下髪を切り落とす。
すると、山本八重は母・山本佐久に
「厳格な伊東家の許可無しに、髪を切るとは何事ですか」
と、こっぴどく叱られてしまうのであった。
その後、伊東悌次郎は年齢を改竄して白虎隊(士中二番隊)に入り、「戸ノ口原の戦い」で死んでいる。山本八重は死ぬまで、戦死した伊東悌次郎のことを悲しんだ。
 山本八重の2番目の夫になる新島襄は、山本八重(新島八重)との結婚生活を通じて、そして山本八重から聞いた戊辰戦争の話しから、会津人は「スパルタ人」のような人種だと考えていた。
スパルタとは、古代ギリシャ時代の軍事国家で、独特の軍事教育制度を有することから「スパルタ教育」の語源になった国である。


         4 幕臣遁走





またしても話しを戻す。
  幕府側陸海軍の有志たちの官軍に対する反抗は、いよいよもって高まり、江戸から脱走をはじめた。もう江戸では何もすることがなくなったので、奥州(東北)へ向かうものが続出した。会津藩と連携するのが大半だった。
 その人々は、大鳥圭介、秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人にも達したという。
 大鳥圭介は陸軍歩兵奉行をつとめたほどの高名な人物である。
 幕府海軍が官軍へ引き渡す軍艦は、開陽丸、富士山丸、朝陽丸、蟠龍丸、回天丸、千代田形、観光丸の七隻であったという。
 開陽丸は長さ七十三メートルもの軍艦である。大砲二十六門。
 富士山丸は五十五メートル。大砲十二門。
 朝陽丸は四十一メートル。大砲八門。
 蟠龍丸は四十二メートル。大砲四門。
 回天丸は六十九メートル。大砲十一門。
 千代田形は十七メートル。大砲三門。
 観光丸は五十八ルートル。
 これらの軍艦は、横浜から、薩摩、肥後、久留米三藩に渡されるはずだった。が、榎本武揚らは軍艦を官軍に渡すつもりもなく、いよいよ逃亡した。

  案の定、近藤たちが道草を食ってる間に、官軍が甲府城を占拠してしまった。錦の御旗がかかげられる。新選組は農民兵をふくめて二百人、官軍は二千人……
 近藤たちは狼狽しながらも、急ごしらえで陣をつくり援軍をまった。歳三は援軍を要請するため江戸へ戻っていった。近藤は薪を大量にたき、大軍にみせかけたという。
 新選組は百二十人まで減っていた。しかも、農民兵は銃の使い方も大砲の撃ち方も知らない。官軍は新選組たちの七倍の兵力で攻撃してきた。
 わあぁぁ~っ! ひいいぃ~っ!
 新選組たちはわずか一時間で敗走しだす。近藤はなんとか逃げて生き延びた。歳三は援軍を要請するため奔走していた。一対一の剣での戦いでは新選組は無敵だった。が、薩長の新兵器や銃、大砲の前では剣は無力に等しかった。
 三月二十七日、永倉新八たちは江戸から会津(福島県)へといっていた。近藤は激怒し、「拙者はそのようなことには加盟できぬ」といったという。
 近藤はさらに「俺の家来にならぬか?」と、永倉新八にもちかけた。
 すると、永倉は激怒し、「それでも局長か?!」といい去った。
 近藤勇はひとり取り残されていった。

  近藤勇と勝は会談した。勝の屋敷だった。
 近藤は「薩長軍を江戸に入れぬほうがよい!」と主張した。
 それに対して勝はついに激昴して、「もう一度戦いたいなら自分たちだけでやれ!」
 と怒鳴った。
 その言葉通り、新選組+農民兵五五〇人は千住に布陣、さらに千葉の流山に移動し布陣した。近藤たちはやぶれかぶれな気持ちになっていた。
 流山に官軍の大軍勢がおしよせる。
「新選組は官軍に投降せよ!」官軍は息巻いた。もはや数も武器も官軍の優位である。剣で戦わなければ新選組など恐るるに足りぬ。
 近藤の側近は二~三人だけになった。
「切腹する!」
  近藤は陣で切腹して果てようとした。しかし、土方歳三がとめた。「近藤さん! あんたに死なれたんじゃ新選組はおわりなんだよ!」
「よし……俺が大久保大和という偽名で投降し、時間をかせぐ。そのすきにトシサンたちは逃げろ!」
 近藤は目をうるませながらいった。……永久の別れになる……彼はそう感じた。
「新選組は幕府軍ではない。治安部隊だという。安心してくれ」
 歳三はいった。
 こうして近藤勇は、大久保大和という偽名で官軍に投降した。官軍は誰も近藤や土方の顔など知らない。まだマスコミもテレビもなかった時代である。
 近藤の時間かせぎによって、新選組はバラバラになったが、逃げ延びることができた。「近藤さん、必ず助けてやる!」
 土方歳三は下唇を噛みながら、駆け続けた。

  四月十七日、近藤への尋問がはじまった。
 近藤は終始「新選組は治安部隊で幕府軍ではありませぬ」「わしの名は大久保大和」とシラをきりとおした。
「やめろよ、おい!」
 こらえきれなくなって、官軍屋敷の奥で見ていた男がくってかかった。
「お前は新選組局長、近藤勇だろ!」
「ほざけ!」
「近藤! 俺の顔を忘れたか?!」
男は慇懃にいった。そう、その男こそ新選組元隊士・篠原泰之進だった。
「た……泰之進」
 近藤は凍りついた。何かの間違いではないだろうか? なぜ篠原泰之進が官軍に…?
「近藤! なぜ俺が官軍にいるのか? と思ったろう?」
 彼の勘はさえていた。「俺は勝ってる方になびくんだ。風見鶏といわれようと、俗物とよばれようともかまわんさ! 近藤! お前はおわりだ!」
 近藤勇は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえるだろう。心臓がかちかちの石のようになると同時に、全身の血管が氷になっていくのを感じた。 やつがいったようにすべておわりだ。何も考えることができなかった。
 近藤は頭のなかのうつろな笑い声が雷のように響き渡るのを聞いた。
「死罪だ! 切腹じゃない! 首斬りだ!」
 篠原泰之進は大声で罵声を、縄でしばられている近藤勇に浴びせかけた。これで復讐できた。新選組の中ではよくも冷遇してくれたな! ザマアミロだ!
 近藤は四月二十五日に首を斬られて死んだ。享年三十五だった。最後まで武士のように切腹もゆるされなかったという。近藤は遺書をかいていた。
 ……”孤軍頼け絶えて囚人となる。顧みて君恩を思えば涙更に流れる。義をとり生を捨てるは吾が尊ぶ所。快く受けん電光三尺の剣。兄将に一死、君恩に報いん”
 近藤勇の首は江戸と京でさらされた。

官軍の措置いかんでは蝦夷(北海道)に共和国をひらくつもりである。…麟太郎は榎本の内心を知っていた。
 麟太郎は四月も終りのころ危うく命を落とすところだった。
 麟太郎は『氷川清話』に次のように記す。
「慶応四年四月の末に、もはや日の暮れではあるし、官軍はそのときすでに江戸城へはいっておった頃だから、人通りもあまりない時に、おれが半蔵門外を馬にのって静かに過ぎておったところが、たちまちうしろから官兵三、四人が小銃をもっておれを狙撃した。
 しかし、幸い体にはあたらないで、頭の上を通り過ぎたけれども、その響きに馬が驚いて、後ろ足でたちあがったものだから、おれはたまらずあおむけざまに落馬して、路上の石に後脳を強く打たれたので一時気絶した。
 けれどもしばらくすると自然に生き返って、あたりを見回したら誰も人はおらず、馬は平気で路ばたの草を食っていた。
 官兵はおれが落馬して、それなりに気絶したのを見て、銃丸があたったものとこころえて立ち去ったのであろう。いやあの時は実に危ないことであったよ」
 大鳥圭介を主将とする旧幕府軍は宇都宮へむかった。
四月十六日の朝、大山(栃木県)に向かおうといると銃砲の音がなり響いた。
 官軍との戦闘になった。
 秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人は官軍と激突。そのうち二隊は小山を占領している官軍に攻撃を加えた。
 脱走兵(旧幕府軍)は小山の官軍に包囲攻撃をしかけた。たまらず小山の官軍は遁走した。脱走兵(旧幕府軍)そののち東北を転々と移動(遁走)しだす。
彼等は桑名藩、会津藩と連携した。
 江戸では、脱走兵が絶え間なかった。
 海軍副総裁榎本武揚は、強力な艦隊を率いて品川沖で睨みをきかせている。かれは麟太郎との会合で暴言を吐き、「徳川家、幕府、の問題が解決しなければ強力な火力が官軍をこまらせることになる」といった。麟太郎は頭を抱えた。
 いつまでも内乱状態が続けば、商工業が衰えて、国力が落ちる。植民地にされかねない。「あの榎本武揚って野郎はこまった輩だ」麟太郎は呟いた。
 榎本武揚は外国に留学して語学も達者で、外国事情にもくわしい筈だ。しかし、いまだに過去にしがみついている。まだ幕府だ、徳川だ、といっている。
 麟太郎には榎本の気持ちがしれなかった。
  江戸の人心はいっこうに落ち着かない。脱走兵は、関東、東北でさかんに官軍と戦闘を続けている。
 西郷吉之助(隆盛)は非常に心配した。
「こげん人心が動揺いたすは徳川氏処分の方針が定まらんためでごわす。朝廷ではこの際すみやかに徳川慶喜の相続人をお定めなされ、あらためてその領地、封録をうけたまわるなら人心も落ち着くでごあんそ」

  麟太郎が繰り返し大総督府へ差し出した書状は、自分のような者ではとても江戸の混乱を静めることができない、水戸に隠居している徳川慶喜を江戸に召喚し、人心を安定させることが肝要である……ということである。
 官軍は江戸城に入り、金品を物色しはじめ狼藉を働いた。蔵に金がひとつも残ってない。本当に奉行小栗上野介がどこかへ隠したのか? だが、小栗は官軍に処刑され、実態はわからない。例の徳川埋蔵金伝説はここから生まれている。
 江戸には盗賊や暴力、掠奪、殺人が横行し、混乱の最中にあった。
 麟太郎は西郷に書を出す。
「一 今、苗を植えるべきときに、東三十余国の農民たちは、官軍、諸藩の人夫に駆りだされ苦しんでおり、このままでは今年の秋の収穫がない。来年はどうして生きていくのか。民は国の基本である。
 二 すでに大総督府へ献言しているのに、返答がない。
 三 王政維新について、わが徳川氏の領国を用途に当てられるということである。徳川氏の領土は狭小で、たとえ残らず召し上げられても、わずか四百万石に過ぎない。三百六十万俵前後の実収を、いままったく召しあげられても、大政に従事する諸官の棒給にも足りぬであろう。いわんや海陸の武備は、とてもできないであろう。
 まだ、その名分は正しいとはいえない。もし領国のなかばを減ぜられたとしても、罪のない家臣、その家族をどのようにして養うのか。人の怨みはどこにおちつくだろう。
 今寛典のご処置で、寡君(慶喜)ご宥免のうえ、領国をそのまま下されても、幾何かを朝廷に進献するのは当然である。そうすれば、寡君の誠心により出たものとして、国内の候伯はこれをみて黙止しているだろうか。かならず幾何かの領地を進献するだろう。 そうなれば、大政の御用途、海内の諸事の費用にあてるに充分であろう。そのようにすれば何事もうまく運ぶだろう。
 四 一家に不和を生じたときは、一家は滅亡する。一国不和を生じたときは、その国は滅亡する。国の内外の人心を離散させれば、どうなるのか。
 五 外国のひとたちは朝廷のご処置如何をもって、目を拭い、耳をそばたてて見聞きしている。もしご不当のこがあれば、噂は瞬間に、海外に聞こえるだろう(後訳)」
 官軍が天下をとったことで、侍たちの禄支給が延期されていた。麟太郎は、不測の事態を危惧していた。

                
  彰義隊と官軍は上野で睨み合っていた。
 彰義隊とは、はじめ一橋家の家中有志たちが主君慶喜のために、わずか十七名のて血判状によりできたもので、江戸陥落の今となってやぶれかぶれの連中が大勢集まってきたという。彰義隊は上野に陣をひき、官軍と対峙していた。
上野には法親王宮がいるので、官軍はなかなか強硬な手段がとれない。
 すべては彰義隊の戦略だった。
 江戸はますます物騒になり、夜は戸締まりをしっかりしないといつ殺されてもおかしくないところまで治安は悪化していた。
 彰義隊にあつまる幕臣、諸藩士は増えるばかりであった。
二十二歳の輪王寺宮公現法親王は、旧幕府軍たちに従うだけである。
 彰義隊がふえるにしたがい、市内で官軍にあうと挑発して乱闘におよぶ者も増えたという。西郷は、”彰義隊を解散させなければならぬ”と思っていた。
 一方、勝海舟(麟太郎)も、彰義隊の無謀な行動により、せっかくの徳川幕府の共順姿勢が「絵にかいた餅」に帰しはしないか、と危惧していた。
「これまでの俺の努力が無駄になっちまうじゃねぇか!」麟太郎は激昴した。
 榎本武揚は品川沖に艦隊を停泊させ、負傷者をかくまうとともに、彰義隊に武器や食料を輸送していた。
江戸での大総督府有栖川宮は名だけの者で、なんの統治能力もなかった。
 さらに彰義隊は無謀な戦をおこそうとしていた。
 彰義隊は江戸を占拠し、官軍たちを殺戮していく。よって官軍は危なくて江戸にいられなくなった。安全なところは東海道に沿う狭い地域と日本橋に限られていた。
 江戸市中の取り締まりを行うのも旧幕府だった。
 江戸では、彰義隊を動かしているのが麟太郎で、榎本武揚が品川沖に艦隊を停泊させ、負傷者をかくまうという行動も麟太郎が命令しているという噂が高まった。もちろんそんなものはデマである。
 麟太郎は、彰義隊討伐が実行されないように懸命に努力を続けていた。
 しかし、それは阻止できそうもなかった。

  ある日、薩兵たちが上野で旧幕臣たちと斬りあう事件がおきた。
 薩兵の中に剣に秀でた者がいて、たちまち旧幕臣兵たちふたりが斬られた。そしてたちまちまた六人を殺した。
  彰義隊は本隊五百人、付属諸隊千五百人、総勢二千を越える人数となり、上野東叡山寛永寺のほかに、根岸、四谷に駐屯していた。
 彰義隊は江戸で官軍を殺しまくった。そのため長州藩大村益次郎が、太政官軍務官判事兼東京府判事として、江戸駐屯の官軍の指揮をとり、彰義隊討伐にとりかかることになった。
 西郷隆盛はいう。
「彰義隊といい、何隊というてん、烏合の衆であい申す。隊長はあれどもなきがごとく、規律は立たず、兵隊は神経(狂人)のごたる。紛々擾々たるのみじゃ。ゆえ条理をもって説論できなんだ」
 麟太郎は日記に記す。
「九日 彰義隊東台に多数集まり、戦争の企てあり。官軍、これを討たんとす」
大総督府には西郷以下の平和裡に彰義隊を解散させよう、という穏健派がいたという。 かれらは麟太郎や山岡鉄太郎らと親交があり、越後、東北に広がろうとしていた戦火をおさえようと努力していた。
 彰義隊などの旧幕府軍を武力をもって駆逐しようという過激派もいた。長州藩大村益次郎らである。
  官軍が上野の彰義隊らを攻撃したのは、五月十五日であった。連日降り続く雨で、道はむかるんでいた。彰義隊は大砲をかまえ、応戦した。官軍にはアームストロング砲がある。大砲の命中はさほど正確ではなかったが、アームストロング砲は爆発音が凄い。
 上野に立て籠もる諸隊を動揺させるのに十分な兵器だった。
 やがて砲弾が彰義隊たちを追い詰めていく。西郷も戦の指揮に加わった。
 午前七時からはじまった戦いは、午後五時に終わった。

  彰義隊討伐の作戦立案者は、大村益次郎であった。計画ができあがると、大村は大総督府で西郷吉之助(隆盛)に攻撃部署を指示した。
 西郷は書類をみてからしばらくして、
「薩摩兵をみなごろしにされるおつもりでごわすか?」ときいた。
 大村は扇子をあけたり閉じたりしてから、天井を見上げ、しばらく黙ってから、
「さようであります」と答えたという。
 麟太郎は『氷川清話』に記す。
「大村益次郎などという男がおれを憎んで、兵隊なんかさしむけてひどくいじめるので、あまりばかばかしいから家へひっこんで、それなりに打ったゃっておいた。
 すると大久保利道がきて、ぜひぜひねんごろにと頼むものだから、それではとて、おれもいよいよ本気で肩入れするようになったのだ。
 なにしろ江戸市民百五十万という多数の人民が食うだけの仕事というものは容易に達せられない。そこでおれはその事情をくわしく話したら、さすがに大久保だ。それでは断然遷都の事に決しようと、こういった。すなわちこれが東京今日の繁昌の本だ」 

スパイラル <巨魁妄動編>1989年宮城県仙台市幸町中学生事件アンコールブログ小説6

2014年11月20日 16時00分00秒 | 日記







第四章


「仙台幸町中学事件」

              勃発!










         1 罵倒嘲笑投石




  新目真紀の指揮のもと、ゴキブリナチス仙台幸町中学生(89~90年当時)は、何の罪もない緑川鷲羽にテロルを開始しだした。中学生たちの間にはひそかに鷲羽に顔が知れ渡り、罵倒しても嘲笑しても投石してもいいようなムードが密かに学生たちにひろがった。 テロルに真実も根拠もない。理由はない。ただのテロルだ。そのテロルを、不覚ながらも道理木里子は知らなかった。
 仙台幸町中学生たちはストレス発散のために緑川本人やアパートに向けて、「ばーか!×5」「死ね!」「殺すぞ!」「禿げ!×7」「宮崎!」「バイバイ馬鹿! バイバイ馬鹿!」「馬鹿野郎!」と罵声を浴びせかけ、嘲笑し、投石した。時間は下校時の午後が多かった。その当時の中学生たちは本当に鬼畜のようだった。何せ、罵倒期間は一年にもおよんだからである。学校の校長に連絡するまで、鬼畜ガキどものテロルは続いた。しかも悪いことに、やっているのは不良の男ばかりでなく、平凡な男子生徒、そして女も大勢いたことだ。みな、やっていいことと悪いことの区別もつかない。ゴキブリナチスと呼べ! 連中は、新目というアジテーターに煽動され、心の中のもっとも醜い部分を緑川に見せた。鬼畜たちは現在でも反省も何もしていない。それどころか「よくも俺たち(私たち)のことを暴露しやがって! お前などやられて当然なんだ!」などと思っている。いや、はっきり言おう。もう、あのときのガキらは、自分たちが犯した犯罪、テロルのことをすっかり忘れている。もう、何ひとつ中学時代には起こらなかった……などと思っている。これほど始末が悪く、アグリーな連中も珍しい。自分の犯罪さえ忘れ、幸せな生活を送っているだけだ。他人に迷惑をかけたことを反省もせず、只、くだらん合コンとかセックスに勤しむばかりだ。いみじくも人間の心をもっているなら、謝りにこい。
 頼むからゴキブリ子孫だけはつくるな! お前らのガキは絶対「酒鬼薔薇」だ!
 他人や社会に迷惑かけ続けるな! なんで自殺しないのだ? 社会の癌だってもわからないか? ゴキブリどもめ!

       ”死ね! 殺すぞ!”


  宮里悟も、ムシャクシャしていた。
 新目になんか煽動されるものかと思いながら、ふと校舎から七十九銀行に向けてひとりで歩いていると、女子中学生五人が白い壁のアパートに向かって「バーカ! バーカ!」と罵声を浴びせかけ、投石するのを発見した。
 宮里悟はそんな女子に呼応し、石を手にとった。アパートの窓は曇りガラスで、中の人物は見えなかった。しかし、そんなことはどうでもよかった。ゴルフや、成績も落ち、ムシャクシャしていた悟(妹・藍)は、石を握り、そしてアパートにぶん投げた。
「死ね! 殺すぞ!」悟は大声でアパートに向けて怒鳴った。
 彼は、アパートに誰が住んでいるかも知らなかった。ただ、罵倒し、叫んで、スッとした。誰かが罵声をあびせかけている……自分もやろう……ゴキブリナチス仙幸中の鬼畜の中にはそういうやつが多かったという。悟ははあはあと息を荒くして、それからにやりとした。とにかくスッとする。もう何回かやろう。明日も、明後日も、明々後日も。
 彼は狂気の笑みを顔に浮かべた。悟は事件発覚後も、反省せず、現在に至る。
 鬼畜は鬼畜なのだ。

        ”馬鹿! といって鷲羽の兄に殴られた中坊”

  仙台幸町中学生の佐藤光も、受験のことでムシャクシャしていた。こちらのゴキブリ鬼畜も、何も緑川鷲羽のことなど知らなかった。新目のことさえ知らなかったのだ。
 光は土曜日、鷲羽の兄がいたときに(鷲羽だと思って)兄・緑川和宏に「バーカ!」と罵声をあびせかけた。和宏はすぐに出撃、佐藤光という中坊を追いかけ、掴まえ、しめあげてゲンコツを食らわした。光はそのとき泣いたという。しかし、反省など何もせず、光はアパートの前の道路を駆け逃げながら「バーカ!」というようになった。そして、05年26才となった彼は酔っぱらい運転で学生を轢き殺した。深渕も同じだった。

       ”エアガン! 無線で盗聴”


  仙台幸町中学生の上園健司はアイドル・オタクで、いつもアイドルのグラビア水着写真をみては興奮し、オナニーに耽るのであった。この鬼畜の趣味はオナニーと無線での盗聴とシンナーとエアガンである。健司は新目の部下、羽柴秀子の友達だった。(91年当時は11~12歳になる頃)「ねぇ、健司。あの男の電話盗聴できる?」羽柴秀子はいった。
「どこの出身か知りたいのよ。どうせ秋田か福島か山形出身だろうけど」
「オッケー!」上園健司はサムアップをみせた。盗聴…といっても緑川の部屋に盗聴機をしかけた訳ではない。受話器の子機から漏れる電波をキャッチするのである。その際、当然ながら電波を盗むのだから声がきこえなくなったりする。著者の経験で、これは断言できる。上園健司は盗聴した、と。また悪質なゴキブリ攻撃(エアガン発砲)までして黴菌を撒き社会に害を与え続ける。(彼は05年10月に和歌山大阪でヤクやって発砲で逮捕)逮捕時25歳もうすぐ26…しかし…。こうして、オナニー健司は盗聴に成功、緑川鷲羽が山形出身という情報をキャッチしたのである。その後、羽柴秀子らは鷲羽が訛っていると思って(鷲羽は標準語を扱う)山形訛りで彼のことを馬鹿にしだした。
 しかし、上園健司は羽柴秀子にやらせてももらえず、オナニーにばかり耽るのであった。


        ”禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ!”


  仙台幸町中学生の不良グループもまた、罵倒嘲笑投石に加わった。最初から出来が悪くて”不良”なのだから、参加は当然だが、不良から鬼畜になった。
 不良の近藤宏、森川雄一など他6人は気分をスカッとさせるために緑川のアパートに急接近し、「禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ!」といい始めた。曇りガラスで見えないため、鷲羽は最初、中坊が他の(野球部か何かの丸がりの中坊)にいっているのだと思った。しかし、いつまでたっても野球部の中坊は反論しない。次々に鬼畜たちが「禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ!」といい始めた。それでやっと、鬼畜たちが自分に向けていっているのだと鷲羽は気付いた。禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ!禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! …
 鬼畜たちはまるで念仏のように罵声を浴びせかける。怒りの波が、緑川の全身の血管を駆けめぐった。そして、台所にいって包丁を持ち出した。…殺してやる! 鬼畜ガキめ! しかし、すんでのところで理性が勝った。緑川は包丁を握り締めたまま荒い息をして、茫然と立ち尽くした。神様が自分に試練を与え、”日本の教育の失敗”を実感させているとはいえ、あまりにも過酷すぎる。今、あの鬼畜たちは刑務所かヤクザ組織か…。
 だが、結果はよかった。殺したらゴキブリを殺しただけなのに刑務所にいれられる。そんなことは馬鹿らしいだけだ。。ゴキブリナチスどもなど確実に人間として成功しない。メンタリティが低いというのはIQが低いのと同じだ。誰も雇わないし、学歴つけて雇っても中身のゴキブリが出るから最終的には社会のお荷物になる。誰が考えたって「成功」などする訳がない。知恵遅れが経済学者になれないのと同じことだ。

        ”宮崎!”



  仙台幸町中学生の高山正樹も、緑川鷲羽を罵倒したひとりだ。彼の罵倒台詞は「宮崎!」。宮崎駿のことではない。当時、幼女連続殺人を犯したほうの宮崎である。
 高山は緑川の半分のオツムもないのに、緑川のことを嫌い、罵声をあびせかけてきた。やっていいことと悪いことの区別もつかない。高山正樹こそ、当時、幼女連続殺人を犯したほうの宮崎である。高山の趣味はロリータ。とくに小学生の小娘が大好きで、よくロリコン雑誌の幼女ヌード写真をみてはオナニーに耽っていたという。(高山正樹はのちの2002年、仙台市で何人もの幼女をレイプしたとして逮捕され、3月28日に無期懲役となった。(当時・26歳))
 とにかく、そういう変態だった。


        ”バイバイ馬鹿!×6”ゴキブリナチス!


  仙台幸町中学生の阿部京子も、緑川鷲羽を罵倒したひとりだ。
 彼女は高橋瑠美子のような女流漫画家を目指していたが、ボツばかりだった。「ひとのみる水準に達してない」などといわれた。ムシャクシャした。そこで、緑川が耐え切れずに引っ越すときにたまたま(土曜日の午前)みつけ、引っ越しのひとがいるのにもかかわらず鷲羽に「バイバイ馬鹿!×6」と罵声をあびせかけてつづけた。黴菌を飛び散らす… のちに緑川鷲羽の「空城の計」で先生に捕まったが、何ひとつ反省もなにもしなかったという。そして、阿部京子はとうとう漫画家にはなれずじまいだった。当然だろう。鬼畜になにが描けるというのか。マンガ”ゴキブリナチス!罵倒物語”でも描くのか?
        ”擦れ違いざまに「バカ!」と嘲笑ゴキブリ3娘”


  仙台幸町中学生の馬場陽子と吉川秀美はレズ・カップルだった。そして、その友達の遠藤裕子とともに、緑川鷲羽を罵倒した三人組だ。彼女らは自転車で登校のため走っていた鷲羽が通り過ぎた瞬間、「バーカ!」といった。(パンクさせようとガラスを道路に撒いたりもした)鷲羽は、自転車をとめ、振り返り、三人組に注意した。諫めようとした。へらへらへらへらゴキブリ3人娘たちはにやついているだけ……鷲羽はこれはいかんと自転車をとめて、「こら! 何をいっているんだ?! 他人にそんなこといっては駄目だろう!」と諭すようにいった。馬鹿娘たちは悪気など一切ない。ゴキブリのようにふりかえり、ボケ老人が意味もなくへらへら涎をたらして笑っているようにへらへらしている。鷲羽はいろいろと一応『人間』として扱って諭して『ひととしてのありかたや他人に悪口や罵声をあびせかけることの罪』についていったが、馬鹿馬鹿しくなって言葉を切った。
 ゴキブリ娘たちはそれでもへらへらアルツハイマーか?と思うぐらいにやにや笑っている。ヘドがでそうだったが、ゴキブリは自分がゴキブリとわからない。鷲羽はその人間の形をしたゴキブリたちを人間として扱い諭すのは無理だとすぐ分析できた。誰でもできる。NASAのエンジニアじゃなくても……猫をみて猫だ! というのと同じだ。
 鷲羽は「ゴキブリを見て不吉だな」と思って溜め息をもらした。が、ゴキブリ娘たちはそれでも気持ち悪くへらへらしてる。そしてゴキブリが羽根で飛んで黴菌撒き散らすように「わあ~っ」といって校舎の方へ走り去る。校門に誰か『人間』である先生とかはいなかったのだろう。いたらゴキブリ行動くらい叱るだろう。どんな馬鹿な飼い主でも自分の犬が悪さしたら叱るのと同じだ。が、最近では叱らないから飼い犬が他人に迷惑をかけ続ける…酒鬼薔薇や最近ぞくぞく逮捕されたりしている元仙幸中のゴキブリナチスたち(こんなのは人間ではなくただの人間の着ぐるみきたゴキブリだ!)佐世保小6女子みたいな。ゴキブリなら肥溜あたりで勝手にブンブンいってりゃいいのに最近の『ゴキブリ』はやたらと他人に迷惑をかけ続ける。まるでアルツハイマーの幼稚園児のような。いやそれなら親や国が医療費など負担するだけだが、それに加えて動いて黴菌散らして飲んだり食ったりする……だからゴキブリといわれる。迷惑かける『人間のように見えるゴキブリ』
(遠藤裕子は2002年11月、遊園地のゴーカートに乗っていて、マフラーがエンジンにからまり、首がしめつけられる形となり窒息死したという。天誅だろう。神仏もゴキブリがいたら社会に迷惑をかけ続けるというくらいは思ったのだろう。普通はこいつの親がわかって妊娠した時点でおろすとかすれば、社会(体)の癌がとれて少しでもよくなった。が、産んで育ててしまった。ゴキブリは人間の着ぐるみきてるから、なかなかわからない。親としてはゴキブリの足がちょっと出ても「自分の子に限って!」と錯覚だと思いたいだろう。気持ちはわかる。罪のない子供殺したガキが少年院いっても何の反省もせず、馬鹿な親も何かきかれても「もうすんだろ?! 関係ねぇだろ!」…今だにそんな悪は存在する。       

 ”バイク盗み町で罵声”


  仙台幸町中学生の阿部貴俊と阿部清隆、岩佐、山本和仁も、緑川鷲羽を罵倒した四人組だ。彼らはロック・スターを夢見ていたという。ロック・バンド「ゲリラ・テロル」のメンバーで、一生懸命(くだらない)曲をつくり、デモ・テープをレコード会社に郵送していた。しかし、鬼畜にいい曲などつくれるはずもない。
 音楽通の緑川鷲羽に嫉妬し、仙台の街を会社の同僚と歩く彼に、擦れ違いざま「バーカ」と罵声をあびせかけた。阿部にしても岩佐にしても山本にしても、ひとりでは何もできない。しかし、つるむと何でも出来る気になってやってしまう。それがいいことならいいが、イジメや罵倒やテロルと……いいことをひとつもしない。
 ロック・バンド「ゲリラ・テロル」は鳴かず飛ばずで、そのうち自然消滅したという。しかし、鬼畜魂だけは健在で、緑川鷲羽の「空城の計」で捕まったあと、自分たちの犯罪を反省することもなく、(鷲羽のだと思って)アパートの住民のバイクを深夜盗んだ。バイクを盗めば鷲羽が困ると思ってのことである。なんともアグリーなメンタリティだ。
 列車で女子高校生のお尻みて興奮してアソコまで触って警察に捕まる輩と変わらない。 とにかく、こうして鬼畜は反省もなにもせず現在にいたる。
(阿部貴俊は2001年8月30日、調子にのって東京で(多分見知らぬ男だと思うが)誰かに罵声をあびせかけ、ナイフで刺されて死んでいる。享年24歳)
(岩佐は2002年12月30日、仙台市内旅館での会社忘年会で泥酔し、同僚の19歳の男をなぐり殺して逮捕された。当時26歳)
(山本和仁は05年悪徳リフォム詐欺で逮捕。当時26歳)
(阿部清隆は2003年、結婚詐欺(戸籍捏造)で捕まり、刑務所にぶち込まれた)

         ”小学生、傷つけでヤクザ親”


  ゴキブリナチス仙台幸町中学生の罵声嘲笑投石で、仙台幸町小学生の男子学生ふたりは勘違いをした。中学生たちがこぞって競うようにアパートに罵声をあびせかけているので「自分たちもやっていいんだ」などと勘違いした。そこで小学生、佐藤純と金川真大という頭のあまりよくない小学男児ふたりは緑川のアパートに罵声をあびせかけはじめた。(校舎見学をしてみるがいい。いかにもゴキブリの巣って感じだ。宮城県仙台市宮城野区幸町2丁目仙台幸町中学校…いまは役所がゴキブリの巣だって気付かずに建て替えてたかも知れない。この学校の悪質なのはいまだに何ひとつ謝罪もしないこと。こちらが何かいってもチンピラガキ庇うヤクザ親のようだ。いいがかりつけんな! か無言ですごむか。「俺の息子年小いっただろ?!」のようだ。というか現在の校長も何をいってもなんともいわない。あのときもガキの悪さ知ってたのではと思うしかない。だから校長だけに手紙送らないで『策』として握り潰すかも知れないと思ってマスコミやらいろいろな所に書面で知らせた。こいつらは本当に自分たちの学校だけだったら無視してたのだ。だがマスコミとかくるので仕方なく何か謝罪めいたことカメラの前でいった。舌打ちして)
 佐藤純と金川真大というガキは、根っからのバカで、やっていいことと悪いこと、言っていいことと悪いことの区別もつかないありさまだった。親が”極道”で、つまりヤクザでちゃんと躾ないからこういうことになる。で、小学生はもっと(鷲羽を)困らせてやろうと、車のボンネットなどを釘で傷つけた。
 その車は鷲羽のものではなく、兄・和宏のものだった。運よく、和宏はそのガキふたり(佐藤純と金川真大)をひっつかまえた。現行犯逮捕だった。それで、当然ながらそのガキの親に修理代を請求した。(金川真大は94年に仙台市から茨城に転住、08年24歳で無差別殺戮で逮捕、死刑)
 しかし、”極道”の親は金を払わず、鬼畜ガキを叱ることもなかったという。
 そりゃそうだ。深夜にアパートに乱入してきて、「請求書のコピーもってこい! うちの子供だってわざとやった訳じゃねぇんだ! こらっ!」と逆ギレしてすごむのみだからだ。あの親にして、あの子あり…。鷲羽はなんともなさけない気分になった。
 わざとでなくてどうやって車に傷がつくというのか。まさに、あの親にして、あの子あり、だ。この国はどうなってしまったのか。
 今だに、あのときの小学生は反省もなにもしていないという。まさに鬼畜だ。
 そして、”極道”の親のほうは暴力団の抗争に巻き込まれ、死んだという。今、佐藤純と金川真大は、刑務所の中だ。死刑だった。

  この他にもテロルは数えきれないほどあった。
 以上が「仙台幸町中学事件」のほんのエピソードである。当時の鬼畜中学生たちは今、何を思い、この小説を読むのか。何かひとつでも反省や慙愧させたら、それは奇跡である。 われわれ『人間』としてはゴキブリはみたくないだろう。でも『人間の着ぐるみ』着てるからなかなかわからない。しかも今は仙台だけじゃなく東京とか大阪とかでブンブン飛んでゴキブリ子供を産んだりして社会に迷惑かけ続けている。何かゴキブリ発言や行動をすれば「仙幸中だ!」と誰でもわかるが着ぐるみを着てて「人間」に見えるから始末悪い。 まるでハリウッド映画の人間に化けたエイリアン(ゴキブリ)……悪質である。酒鬼薔薇の親とか佐世保のガキもこいつらの親戚か何かなのかも知れない。
 だから酒鬼薔薇は故郷の仙台の寺にいったという訳だ。仙幸中らと結婚とか付き合ったり恋人だのしたら馬鹿をみる。エイズはみえないが感染したらどうなるか? それを考えてほしい。要は同じことで害にしかならないということなのだ。


         2 新目に抗議



   新目真紀のテロルは確実に成功していた。
 何の理由も動機もない連中が、次々に”ターゲット”と決めた緑川鷲羽に罵声を浴びせかけ、嘲笑し、投石したのである。真紀自身も、緑川のアパートに罵声を浴びせ、ストレス発散をするのだった。この新目真紀こそ、「仙台幸町中学事件」の首謀者だった。
 だが、不幸なことにそのテロルのことを、道理木里子は知らなかった。
 そして、あとで知って、動揺した。哀れみで全身が凍りついた。
 木里子にとって、同級生や同じ学校の生徒たちがテロルをしていることは大きなショックであった。しかも、首謀者はあの新目真紀らしいというのだ。
「なんてことを…」木里子は自分が生徒会長になりながら、テロルを認知し防げなかったことに慙愧した。死ぬほど落胆した。なんせ先生にいっても信じてもらえないのである。 そこで、木里子は正面突破を試みた。新目に直談判しようとしたのである。
 当然、最初、新目真紀はしらばっくれた。
「新目さん。あなたが事件の首謀者だってことはわかってるのよ」
 木里子は食いさがった。すると新目は「だったらどうだっていうの!」とわめいた。
「だったら……他の生徒たちが、罪もないひとに攻撃するのをやめさせて」
「知るもんですか! じゃあ」
 新目は多少怒りが静まったところで、ふたりっきりでいた科学室から出ようとした。
 木里子は新目の前にたちはだかり、とうせんぼをした。
「なに……よ」
「個人攻撃をやめさせて」目を炎のようにぎらつかせて、彼女は命令した。「そして、そのひとに謝りにいって」
 新目は口をぽかんと開け、狐につままれたような顔をして彼女を見た。
「緑川ワシハに?! この私が?! ざけんなよ!」憤慨して叫んだ。
 ワシハ…もしくはワシハネに? この私が?! 新目真紀さまが?! 新目はカッカときた。激怒の波が、全身を襲い、一瞬われを忘れた。なにが謝りに…よ! なんでそんなカスに私が?! 私がなぜ??
 新目は、ふん、と鼻を鳴らすと、木里子を押し退けて科学室を出ていった。
 道理木里子は何もいえず、ただ茫然と立ち尽くすのみだった。
   木里子は学校の生徒たちの犯罪のことを先生に話した。しかし、先生たちは「そんな馬鹿なことありえない。うちの学校の生徒に限って…」などと取りあおうともしなかった。まるで教育ママゴンである。ママゴンは「うちの子にかぎって」などというが、それとなんの変りもない。

「待ちなさい!」教室からでていく新目木里子が抗議した。「謝ってよ」
 真紀がいきなり振り向いた。目が危険なきらめきを放っている。
「なんのため?」とわめいた。「このわたしが緑川ワシハなんかに? なんで?」
 木里子は鬼畜のような新目を哀れに思った。心臓は哀れみにしめつけられた。そして、ふと、会ったこともないが、ターゲットにされている緑川というひとも哀れに思った。
「わたしが何したっていうの?!」新目はきいた。
「他人に迷惑をかけてる。いえ……犯罪を犯してるわ!」
 これはグサッときた。新目の現状を明確に示した言葉だった。
「犯罪?! ふん! 私は何も……して……ないわ」
「そうかしら?」
 木里子は冷たく静かな声でつめよった。罠にかけられた。新目真紀はかえす言葉も見つからず、口をとじた。
「それで、緑川さんってひとはこれからどうなるの? ずっと罵倒されたままなの?」
 さっきと同じ、危険なまでに静かな口調で、木里子はきいた。新目は視線をそむけた。「そのぉ……ずっとあのまま……知ったこっちゃないわ。私は…別に…関係ないもの」
 彼女自身の耳にも、その言葉は不完全で、薄っぺらにきこえた。
 木里子の眉がはねあがった。
「ただし、あなたたちだけはストレスを発散して、悩みを解消して。他人を利用して」
「どういう意味よ! 利用してとは!」新目が怒りを爆発させた。神経を配った偽り、細心の注意のもとに保ってきた冷静さ……それがすべて風の中に飛ばされ、冷静さを完全に見失った。「どういう意味?! くそったれの彼を利用してとは!」
 木里子は、新目真紀のこぶしから顔に、そして顔からこぶしに目を移した。これが答えなのだ! 真紀のきつく握ったこぶし……これがすべての答えなのだ。


スパイラル <巨魁妄動編>1989年宮城県仙台市幸町中学生事件アンコールブログ小説5

2014年11月20日 15時58分33秒 | 日記







  第三章 攻撃計画








        1 新目、緑川罵倒計画




   新目真紀の鬱屈は晴れることはなかった。
 とにかく、優等生の道理木里子が憎かった。あのアマッ! と思っていた。
 真紀は木里子の10分の1の実力も学力も美貌もないのにも関わらず、それを理解していなかった。むしろ、自分の才覚が何故みんな理解できないのか? などと不遜に思ってもいた。茶坊主娘たち(羽柴秀子など)も心の底では、新目真紀より道理木里子のほうが優れていると思っていた。だからよけい真紀は腹が立つのであった。
「頭くるわね!」
 新目は学校の校舎の壁に蹴りをいれた。鬱屈した思いをこぶしにこめて、壁をどんどん叩いた。木里子に対する怒りの波が全身の血管を駆けめぐり、彼女は部下にとめられるまで我を忘れて壁を叩き続けた。それでも怒りはおさまらなかった。
 ターゲットが必要だわ! ストレス発散のためのターゲットが…。
 新目はふと、学校の校舎の近くに引っ越してきたという男のことを思った。そいつがターゲットになるかも知れない。ターゲット……というよりスケープ・ゴート(生け贄の羊)である。自分の鬱屈した思いを忘れるために他人を、罪もない他人を攻撃しようというのだ。なんとも身勝手なオポーチュニズム(ご都合主義)である。
 というより新目たちや、のちの”鬼畜”のやることは犯罪である。
 そして、緑川鷲羽の知らぬ間に、彼は新目の決める”ターゲット”に選択されることになる。哀れ……というより慙愧に耐えない。
 それにしても、犯罪とはこのように短絡的な、思いやりや道徳心、良心を無視した形で勃発してしまうものであろうか。短絡的に、ストレスがたまっているから、とか、むしゃくしゃする、嫌なことを忘れたい……そのような自分勝手な精神で犯罪被害にあうなんて堪らない。他人を傷つける前に自分自身を傷つければいいのだ。自分の胸に手をあてて、自分自身の心について考えればいいのだ。
 たとえば毎晩、解定前に接心し、釈尊に手を合わせる。そして自分の心に耳を傾ける。それこそ公案ではないか。意味がわからなければ辞書を引くなりして勉強しろ。
 仏教徒でなければ、キリストに懺悔するなりしたらいい。
 とにかく他人に、人様に迷惑だけはかけるな。

  道理木里子はこの頃、ひとつの趣味を見つけていた。
 それは執筆だった。エッセイや小説などを書くのだ。もちろん作家になる…などと思ってはいないが、とにかく自分の考えを文章にしていく作業は楽しかった。何か創作したことのあるひとならわかると思うが、完成したときの達成感は素晴らしいものだ。何かを完成させ、達成させ、創作する、こんな素晴らしいことはない。
 また、この頃、緑川鷲羽も小説を書き始める。音楽もつくりはじめる。絵も描きはじめる。のちのプランナー・ストラテジストへの”大躍進”へのステップだった。
 だが、この頃、自分が中学生たちのテロリズムにあうなど緑川は考えてもいなかった。米沢で”臥竜”と畏れられた鷲羽であったが、まさか鼻たれの中学生ごときにテロルで苦しめられるなど思ってもいなかった。彼はまだ二十歳間近の若者である。そんな彼が、まさか中学生たちのテロルで被害にあうとは……なんとむごい!
  団塊の世代、団塊Jrの世代が子供を甘やかし、子供が悪いことをしても「だめだよ~」などとお茶濁しみたいなことをいうだけでしつけない、甘やかし、子供に媚び、子供の姿勢を正そうともしない。その結果、ホームレスをリンチで殺すような、売春を悪ともおもわず体を売るような……そんなガキばっかりが目につく。
 学校のせいではない。親のしつけの欠如の結果だ。
 確かに、「今の若者は…」などというのは古代エジプト時代からいわれた永遠のテーマである。しかし、日本人の子供はいったいどうしちゃったのか? 不思議でたまらない。いったいどうしちゃったの? なぜ、やっていいことと悪いこと、言っていいことと悪いことを判断できないの? その質問の答えは「甘やかし」「躾欠如」である。
 抜本的な日本の子供の改心案がある。私の提唱する「ボランティア研修」である。中高一貫でもいいのだが、そのうちの3ケ月か一か月の期間、アフリカか東南アジアに点在する難民キャンプでボランティアをさせるのだ。それか老人ホームで。自分とは違った世界で生活し、そのひとの苦労を知り、そのひとのために献身的に働く。これほど国際性や思いやり、道徳心、優しさを身につけられる研修もないだろう。
 とにかく日本の子供にはそうした研修が必要だと思う。もちろん滞在研修費は親がだすのだ。研修後、自宅に帰ってきたわが子をみたときの親の顔が目に浮かぶ。研修で、道徳心や国際性や思いやりを身につけて帰ってきたわが子…。自分の子供がひとまわりもふたまわりも成長した姿………。これこそ教育の成果となろう。そういう研修をつめば、よもや、強盗や強姦やホームレス殺しなどする子供もいなくなるだろう。
 教育とは、こうして頭をつかうことである。
「ボランティア研修」は少し突拍子もないことにきこえるかも知れないが、これぐらい抜本的な教育をしないと、日本の国自体がダメになるのではないだろうか? なぜなら、将来の日本を支えていくのは今の子供達だからである。そして、大人もかわろう。子供に媚びを売らず、ちゃんとしつけよう。”大人がかわれば子供もかわる”至言ではないか。



 



         2 ターゲット





「新目さん、わかりました!」
 羽柴秀子が走ってきていった。新目真紀は化学室でタバコをふかしているところであった。新目と部下しかひとはいない。今はけだるい午後だ。
「なにが?」新目はおっとり刀で尋ねた。
 羽柴秀子ははあはあ息をつきながら「あの男です。前にいってた変な男……」
「変な男……? 校舎の近くのアパートに越してきたっていう?」
「そうです!」羽柴秀子は続けた。「その男の名前がわかったんです!」
 彼女は”ターゲット”の名前を告げた。それは、緑川……緑川鷲羽だった。秀子が彼のアパートの前の玄関の表札で確認したのだ。
「緑川? …ワシハ?」
 新目はいった。羽柴秀子は「そうです! ワシハです!」といった。
 ふたりは肝心なところで違っていた。ワシハ…ではなく、鷲羽(わしゅう)である。とにかく、そういうことで緑川鷲羽は”ターゲット”にノミネートされた。
 テロルのターゲットに。
「で? そのワシハはどういうやつなの?」新目は訝し気にきいた。
「変なやつです。変です」
「どういう風に?」
「とにかく変なんです」秀子はいった。答えになってない。
「だったら…」高橋広子がいった。「その男のアパートの前でまちぶせして、顔写真撮るっていうのは?」
「そうそう!」斎藤淳子がこの日初めて発言した。「それがいいですよ。なんといってもターゲットですし、顔写真バッチリ撮って、学校中で罵倒すればいいんですよ」
「スカッとするかもね」新目はにやりとした。
「馬鹿、馬鹿! とか 死ね! とかいって罵声をあびせかけ、投石したり、嘲笑する……スカッとしますよ、きっと。こっちには無害ですしね。その男は学校にチクッたりしないだろうし」
「なんでわかるの? チクッたら?」新目が高橋にきいた。
 高橋広子はいった。「チクッたって怖いもんですか! どうせあの男には私たちの顔や名前も住所もわからないんだから……それにあたしたち女だから殴られたりすることもないし……とにかくあのワシハを罵倒しましょうよ! スカッとしますって」
「よし!」
 新目が、重い腰をあげた。「じゃあ、その男の前でタムロって、やつの顔を撮って、学校中に罵倒するように号令を発することにするわ!」
 こうして、テロルは始動しだした。

  新目真紀、羽柴秀子、高橋広子、斎藤淳子を中心とする十二人の新目一団は、緑川のアパートの前の階段に座り、タムロった。皆、学生服姿だが、もう授業が始まる時刻になっても、新目らはタムロっていた。羽柴秀子はインスタントカメラを周到に準備し、緑川鷲羽の顔をバッチリ撮るのだと決心していた。
 とにかく、ターゲットの顔をバッチリ撮り、学校中のストレス発散のための罵倒人物にするのだ。彼女らには良心のかけらもなかった。
 ただ、自分たちのストレス発散のためのスケープ・ゴートがほしかったのだ。
 例え緑川がどんな人物であろうと、彼女たちには関係がなかった。罵倒投石嘲笑の理由などまったくない。只、ストレス発散できればそれでいいのだ。
 そして、緑川は専門学校の授業出席のために玄関を出た。すると、階段に女子中学生がタムロっているので驚いた。見るからに陰険そうな中女たちで、その顔はアイドルをおっかける”追っかけ娘”のそれではなかった。その顔は誘惑のそれでもなかった。
”連中”は、テロルの相手を確認しに待ち伏せしていただけである。そして、その朝、顔確認がおわった女達は、にやりとした。これで……ストレス発散…だわ。

  学校にもどると、テロリスト娘たちは「顔、撮れた?」とにやにやした。
 羽柴秀子は猿のような顔に満天の笑みを浮かべ、「バッチリです!」といった。
「変なやつだったわね。あいつならターゲットでいいわよ」
 新目は、悪ぶれることもなくいった。「あとは道理木里子を始末すればいいのよ。緑川ワシハと一緒に叩き潰してやるわ!」


  新目真紀は、自宅で、家庭教師に教わっていた。
 教師はなんとあの新田和也である。新米医師で、アルバイトで真紀をみていた。新田は東大卒で、頭だけはいい青年である。実は、真紀と和也は深い仲になっていた。
 この数年、つきっきりで勉強をみているうちに男と女の関係となってしまっていた。
 当然のように、真紀の父親がいなくて家にだれもいなくなったときは、愛を確かめあった。セックスに興じた。真紀は隣人を気にせず、大きな声であえいだ。
 ふたりきりになって愛を確かめあっているときは、新目真紀はしばしばそうだ、と断言することができた。和也は激しく、しかも優しかった。お互い裸でもつれあった。彼女を抱きしめ、和也は熱っぽく思いをこめて唇と腰をからめてくる。真紀は彼が自分のことを大事におもっているのを知っていた。彼女にとって彼は初めての相手だったし、彼にとっては”セックス相手の若い娘”である。処女も奪ったし、真紀は顔はいまいちかも知れないが、こんな若い娘を抱けるなら上等なものだろう。
 真紀は彼が自分を大切におもっていると感じていた。自分をむさぼるように見つめるときのまなざしと、熱のこもった微笑にすべてが現れている……そう思っていた。
 セックスに興じているときには、早朝の”テロル計画”のことなど忘れていた。
 それほど気持ち良かったので、ある。



スパイラル <巨魁妄動編>1989年宮城県仙台市幸町中学生事件アンコールブログ小説4

2014年11月20日 15時57分18秒 | 日記




         第二章 新目の傲慢






        1 新目家の騒動



  大学病院ではそんなにたいしたこともなかった。相変わらず”学歴医者”の新田和也と川田隆は失敗しそうに(つまり医療事故)なったが、長田婦長やベテラン医師の山形や道理が未然に防いでいた。しかし、新田和也にしても川田隆にしてもどうにも、使えそうもなかった。とにかく、記憶力とペーパーテストだけの知識で、クランケの心理や感情に対応できないのである。
 それにしても道理啓二はくたくたに疲れてしまった。まるで”子守”だ。新田も川田も、彼から見れば”赤ん坊”のように目の放せない存在である。なにしろ、いつ医療事故でクランケを殺しかねないのである。本当ならこういう医者はパージ(粛清)できればいいのだが、それは私立病院ならできるだろうが、ここは国と宮城県の直轄運営の国営大学病院である。あからさまに医者をパージなどできないのが現実であった。
  木里子は絶好調であった。
 彼女は勉強もでき、美貌で、しかも優しく、控え目な女の子であったために男子学生や同性の女の子にも人気があった。それにひきかえ新目真紀の評価は最悪だった。元来、イジ悪で鼻持ちならない「天狗」の真紀は嫌われていた。
 少なくとも彼女のことを好きな人物は見当たらなかった。
 茶坊主娘こと、新目の部下たち(羽柴秀子、斎藤淳子、高橋広子)にしても、確かに新目に支えていたが、本当に新目真紀を崇拝しているかといわれれば自信はあまりなかった。 新目が金持ちの娘で、よくゴチ(御馳走)になる。……それだけなのかも知れない。
 とにかく新目真紀はどんどん落ちていった。
 もちろん新目がその没落を心の底でどう思っていたのか知るよしもない。しかし、彼女にしてみれば唇を噛み締めて、じだんだを踏む思いであったであろう。
 新参者の木里子が大人気……しかし、考えてもみれば当然ではないか。
 道理木里子には新目真紀にはないものを持っている。金は新目ほどないかも知れないが、人間的な魅力や優しさ、女性らしい控え目さ、繊細さ、そして何よりも美貌。新目にはないものばかりを木里子はもっている。新目真紀がかなわないのも無理はない。才能……というより天才の違いだ。
 もし新目真紀が道理木里子のような人気や才能を神様からもらえるとしたら、新目真紀は鼻でピーナッツを転がしながらはるばるニュージーランドにいくこともいとわないだろう。バレリーナのチュチュを着けて。


  新目真紀の父は資産家である。
 しかも、そうとうの色もの好きで、新目一郎はよく女遊びを繰り返した。彼は大変、女好きである。しかも、若い肉づきのいい女が好みで、よく札束をひけらかしては玄人の女達をホテルに連れ込み、抱くのであった。
 彼は、セックスが大好きであった。
 とくに大きな乳房とお尻の女性が好みで、愛の行為のときは赤ん坊のようにオッパイにしゃぶりつき……あぁ、なんともおぞましい! とにかく俗人である。
 新目真紀は父親のそんな行為のことも知っていた。
 彼女だってセックスが好きだし、父親がそうだとしても理解できた。
 相手が玄人の女なれば”間違い”も起こるまい……と思うだけであった。素人の小娘ならまだしも、相手はプロだ。客との情事で妊娠する、などとなるはずがない。そうならないための玄人女ではないか。
 しかし、玄人女を相手にしている間はよかった。
 しかし、彼はとうとう素人娘に手をだしてしまう。新目一郎は、社長室で美人の秘書とふたりっきりになったとき、彼女の尻を撫で、胸にしゃぶりついた。
 まだ20歳の秘書は動揺し、「いけません。社長……いけません」とやっとのことで囁くような声を出した。一郎の欲情はおさまらない。とうとう彼は手をスカートの中にいれ、可憐なクレヴァスをパンティの上からまさぐった。彼女の陰部はなぜか濡れていた。
「いけません。社長……いけません。やめて」
 彼女はあえぎあえぎ囁いた。しかし、一郎はやめなかった。
「はあはあ、はあはあ……純子くん。純子くん」
 やがて、ふたりは部屋のソファーに崩れ落ちた。一郎は愛撫をやめなかった。そして、彼女の服をぬがし、自分のズボンをさげた。
”社長は大金持ち…しかも独身……玉の輿…”美人秘書の心の中で、そんな葛藤が起きているのを一郎は考えなかった。ただ愛撫と女の香水の匂い、それにオッパイの感触に酔った。ゆたかな尻、ゆたかなオッパイ、くびれた腰、長い黒髪、赤い唇、締まりのいい陰部……新目一郎はセックスに酔った。彼女ももう抵抗はしなかった。
  愛の行為は一郎にも純子にもすばらしいものだった。一郎が荒々しく振るまい、秘書の純子が控え目に腰をうごかし、腰と唇を激しく重ねあったためか、それはわからない。 もちろん愛の行為……とはいえ、ふたりに愛などない。ただの情事だ。
 裸のままくしゃくしゃのソファに重なって横になり、ぐったりした。部屋にはふたりしかいなかったが、誰かくるかも知れない。一郎は事がおわって余韻を楽しんだあと、すぐにズボンを履いた。純子もティシュで愛液をふくと、パンティーやブラジャーをつけ、服をいそいで着た。”社長は大金持ちで、しかも独身……玉の輿に”美人秘書の心の中で、そんな葛藤が起きているのを一郎は考えなかった。
 新目一郎はセックスが好き。セックス大好き。ただ、その欲望の捌け口として純子の体を求めたにすぎない。愛などないのだ。
 しかし、秘書の純子は妊娠した。
 一郎は狼狽し、それは愛娘の真紀の知るところとなったが、もちろん一郎が秘書純子と結婚するはずはなかった。新目一郎は純子の御腹の中の子をおろさせ、たんまりと慰謝料を支払い、”お払い箱”にした。
 どこまでも新目一郎は自分勝手な男である。
 そして、その遺伝で、新目真紀も冷酷な事件の首謀者となることになる。しかし、それはまだ先のことだ。


         2 恋



  長田婦長は六分間も患者の顔をみていたが、やがて何事もなかったように病室をあとにした。患者は眠っていた。ここのところ容体は良かった。血圧も下がり、食欲も回復し、尿の出が悪いことを除けば、正常そのものだった。
「先生、今日は当直なんですの?」
 長田は医務室の道理啓二に声をかけた。
「いや」啓二は答えた。そして、続けた。「今日は木里子の誕生日なんだよ」
「あらっ。それはおめでたいことですわね」
 婦長は微笑んだ。
「めでたくなんかないさ」啓二は白衣を脱ぎながら皮肉にいった。
「あら、なぜですか? 愛娘さんのお誕生日じゃありませんの」
「う~ん」啓二はわざと唸った。「そりゃあそうなんだが……どうもね」
「どうも? なんですの? 先生にしては珍しく”意味不明”ですわね」
「”意味不明”は傑作だね」
 ふたりは笑った。
「なんていうのかなぁ」道理啓二はいった。「木里子がだんだんと大人になっていくにしたがって……ぼくの手からなくなってしまうようなね、そんな不安があるんだよ」
「あら」婦長は笑った。「男親はどこも同じですのね」
「そうかい?」
「どうせ娘なんていい男をみつけてさっさと嫁にいくんじゃありませんの。一生親と一緒の娘なんて……そのほうがおかしいですわ」
「そうだね」啓二は頷いた。そして「婦長さんのときはどうでした?」と尋ねた。是非とも答えがききたかった。
「わたくしの親ですか? やっぱりわたくしが若い頃は今の先生と同じようなことをいってましたわね。遠い昔ですけど」
「婦長は結婚してましたっけ?」
「いいえ。今だに独身です」
「ほう。それは不思議だ。長田婦長のような美人の女性なら引く手あまただったでしょうに」
「いえ」婦長は微笑みながら「大事なひとと巡りあわなかっただけですわ。今までは…」 啓二が息を呑みこんだあと、喉仏が上下した。婦長は優しい目で、彼をみていた。白衣も、婦長のナース・キャップも、淡い唇の色も、なにもかもきらきらと輝いてみえた。
「……じゃあ、お先に」
 啓二が去ろうとすると、婦長は呼び止めた。
「プレゼントは? 娘さんへの誕生日プレゼントはもう購入なさりましたの?」




         3 患者の死




  道理啓二は夕食をレストランのディナーですました。デートの相手はというと残念ながら長田婦長ではない。愛娘の木里子とふたりっきりである。
「ほら、プレゼントだよ」啓二は微笑んで箱にはいったプレゼントを渡した。
「ありがとう、お父さん」それはネックレスだった。
 木里子はネックレスを大事そうに眺めた。今日は木里子の十五歳目の誕生日であった。「ところで…」
 父・啓二は言葉を濁した。
「なに?」
「木里子……好きな男とかいるのか?」是非答えがききたかった。
「やだぁ」木里子は頬を少しだけ赤らめた。「…いるかもよ」じらした。
「だ、誰だ?! なんて名の男だ?」
 啓二は年甲斐もなく慌てた。冷静に、と焦れは焦るだけ動揺して手がプルプル震えた。「やだぁ、お父さんったら!」
「……だって」
「私が好きなひとは…」木里子は続けた。「お父さんよ! 他に誰かいる?」
 予想もしなかった愛情の波が啓二の全身の血管を走りぬけ、彼は一瞬われを忘れた。心臓が三回打つあいだだったが、自分が誰なのか、目の前にいるのは娘なのか忘れていた。 彼は不意に、愛娘・木里子を亡くなった妻のように思った。顔も体格も、声も、なにもかもが妻そっくりだ。スウェーデン人の。
「そうか」啓二は満足そうに頷いた。
 しかし脳裏には、長田婦長のいった言葉……「どうせ娘なんていい男をみつけてさっさと嫁にいくんじゃありませんの。一生親と一緒の娘なんて……そのほうがおかしいですわ」が歓迎せぬ蜜蜂の群れのように頭のなかでわーんと響いていた。
 どうせ、娘なんて、さっさといい男をみつけて、嫁にいく。
 木里子もいずれ……。啓二は頭を軽くふった。


  翌日、道理啓二のクランケが死んだ。
 末期癌だったが、年寄りの男性にしてはよく頑張った方だった。彼には子もなかったが、年老いた妻だけがいた。老婆は夫の死に動揺し、号泣し、今にも狂わんばかりに泣いた。死骸にしがみつき、号泣した。その泣きっぷりは見事なもので、関係者の涙をさそった。 長田婦長は片手を差しのべ、自分がそばについていることを思いださせようと老女の肩に触れた。老婆が彼女のほうを向いた。
「……婦長さん。夫は生き返りますか?」
「生き返る?」老女の言葉があまりにも場違いだったため、婦長は自分の耳がほとんど信じられなかった。お婆さんは、ボケ……たか。
「お、お婆さん」指先でそっと老婆の顔を抱きよせて、その場で老婆の目を求めた。
 しかし、老婆は婦長の視線を避けた。
「じつは…」婦長から目をそむけたまま、老婆はつぶやいた。「あたしたち新婚なんですのよ。もうすぐこの御腹の中には赤ちゃんがいて……産まれるんですの」
 婦長は人生のなかでこれほど驚いた事がない、というくらいびっくりした。長田婦長が老婆の声からきいたのは喜びではなかった。苦痛だった。もう何十年も前の新婚時代……老婆はそれを今、ボケた頭で実感しているのだ。
 長田婦長は老婆のために胸を痛め、老婆とともに胸を痛め、老婆の髪をなで、母親が子供をなだめるように、愛にみちた手で老婆をなだめた。心配ないわ、そうなだめた。  

スパイラル <巨魁妄動編>1989年宮城県仙台市幸町中学生事件アンコールブログ小説3

2014年11月20日 15時55分37秒 | 日記





        3 新目真紀と道理木里子




  道理木里子が仙台幸町中学に転校してくるとあれよあれよという間に、木里子は学年トップの成績を冠した。美貌のうえに学力優秀。しかも、さして勉強しなくても木里子は勉強が出来た。新目真紀が何時間もかかって、それこそ家庭教師に教わりながら解く難問も、木里子は数分で解いてみせた。
 面白くないのは新目真紀である。
 真紀はいつも成績がよくないとマズかった。
 確かに、新目真紀は自分がさして頭がいいほうだとは思っていなかった。しかし、父にはそういう姿は見せられない。東大を目指している秀才……そういう姿でなければ見せられないのだ。しかし、現実は厳しい。東大どころか、最近の成績じゃあ”駅伝大学”でさえ危ないようだった。
 真紀はあせった。そして、憤りを覚えた。いや、嫉妬だ。
「面白くないわね」
 新目は教室で下唇を噛んだ。
”茶坊主娘”こと新目の”部下”の高橋広子は、「なんかムシャクシャしますね?」といった。新目真紀は「ほんと」と頷いた。
「何か、ターゲットがないかしら?」真紀はいった。
「ターゲットですか?」
「そう。ここんところ道理木里子のせいでわたしの立場がないわ」
「…道理木里子って最近転校してきた?」
「そう」真紀は続けた。「この新目真紀も木里子にかかっちゃ肩なしよ」
「イジメでもしますか? それとも万引きとか…」広子は笑った。
「そうそう」新目の部下のひとり、斎藤淳子はいった。「校舎の近くに変な男がいましたよ」
「…変?」新目が怪訝な顔できいた。
「そう。どっか変なんです」
 新目の部下のひとり、羽柴秀子はいった。「とにかく、その男がターゲットになるかも知れないわ」
「どんな風に変なの?」新目は是非答えがききたかった。
「とにかく……どっか変なんです」
 羽柴秀子はわらった。
「名前は…?」真紀はしつこくきいた。
「知りません」斎藤淳子は続けた。「でも……今度、調べておきます。アパートの表札でもみて…。あと写真でもとりましょうか? アパートの前で待ち伏せして…」
「そうね。ターゲットだもんね」
 新目真紀はいった。その言葉のどこにも良心も罪悪感もなかった。部下も同じである。とにかく、ストレス発散にはターゲットがいる。罵倒嘲笑投石するターゲットが……。
「とにかく……むしゃくしゃする。面白くないわ」
 新目真紀は、もう一度そういった。


「すごいわね、木里子ちゃん」
 道理木里子が教室に戻ると、友達の由美がほめた。「成績……学年トップだもん。やるう~っ!」
 木里子は照れて「たいしたことないわよ」といった。
 もうひとりの友達の智子は「たいしたことあるわよ。トップなんてやるわね」
「…ちょっと”ヤマ”が当たっただけよ」
 木里子は微笑んだ。
 由美は「またまた。…ガリ勉してるんじゃないの?」といい、智子も「そうよ。あなたなら東大にも入れるわよ、きっと」といった。
「東大? まさか」
「いえ、きっと入れるわ」由美は微笑んだ。
 と、智子は「いえ、木里子ならNASAでもいけるわね」
「NASA(米国航空宇宙局)?」
 三人はわらった。
 面白くないのは新目である。新目真紀は「くそう」と心の中で思った。
(道理木里子め……必ずその鼻をへし折ってやる!)
 とにかく、道理木里子は”面白くない””気に食わない”相手だ。
 早めに、ストレス発散のために……ターゲットを見つけよう。
 罵倒嘲笑投石をする、ターゲットを……。








         4 木里子と英語




  木里子が学年トップになると、周りからは「彼女を学級委員長に」という声が当然のようにあがった。それまで委員長は新目真紀だった。真紀は頑固に辞任を拒否したが、たいして頭のよくない新目より、”天才”の道理木里子のほうがいい…というイメージは払拭できなかった。
 道理木里子は有頂天になるほど馬鹿ではない。
 よく馬鹿なやつは、チヤホヤされるとつけあがって「生意気な態度」を他人にとる。しかし、木里子はそういう馬鹿とは違っていた。
 新目とは違うのである。
 しかし、木里子は新目のことを本当に嫌いになっていた。
 確かに、木里子は前任者・新目真紀を負かして、学級委員長に就任した。だが、はたからみたらそれもしごく当然のことである。しかし、新目はそうは考えなかった。
  保険室には人の気配がなかった。
 木里子は中に入り机に座ると、手にしていたノートを叩き付けるように置いた。理知的で色白な横顔には怒りの表情が残っていた。
 先程まで争った新目真紀の言葉が、脳裏をよぎった。
 新目真紀は、とにかく癇癪のすべてを道理木里子にぶつけたのである。新目は学校では猫をかぶり、けしてその心の奥の”傲慢さ”をみせない娘だが、道理とふたりきりになると癇癪をぶつけてきた。
 ひとの気配のない科学室に呼びだされて、すぐに木里子は飛んでいった。
 科学室でタバコをふかしていた新目は、木里子が入ってくるのを見ると、身構えるかのように慌てて火を消した。
「新目さん。わたしに何かご用?」
 木里子は最初下手に出ようとした。
「う~ん」
 語尾を延ばして、新目は答えた。
「新目さん……タバコ…を?」
「どうだっていいでしょ!」
「そうはいかないわ」
「そりゃどうも」新目はにやりとした。「今度はあんたが委員長だもんね?」
 まだ昼休み中で、学生たちは教室で弁当を食べているか、図書館で昼寝だ。新目と道理のふたりは誰もいない科学室で対峙していた。木里子の瞳はきらきらと輝いていて、新目真紀はまぶしいものをみるように目を伏せた。
「なにがいいたいの?」
「……なにが?!」新目は歯牙をむいた。そして続けた。「あんたが気に食わないのよ!」「気に食わない……?」
 道理木里子は摩訶不思議な顔をした。それが新目の怒りを更に高めた。
「勉強が少しぐらいできるからっていい気にならないでよ!」
 新目は抑圧のある声でいった。
「別に……いい気になんてなってないわ」
(このぉ!)
 新目は頭に血がのぼった。長いこと圧力釜の中にいたため、怒りでどうにかなりそうだった。とにかく、道理木里子は「気に食わない」。……自分よりいい成績をとるなんて!「あんたは勉強ができるからいいけど……他の連中だったら、わたしに反抗できないわよ」「…え?」
「説教くさいことをいうのは簡単だけど、なんならあんたがやってみたらいいのよ。ちょっとまぐれでトップになったからっていい気になって…。わたしは小さい頃から勉強して頑張ってきたのよ。特別な才能をもってるの。他の連中なんて努力不足か才能不足ね。あんたも!」
 新目は鼻を鳴らした。
「新目さん。あなたの話はどこか変よ。勉強してペーパーテストの点がよければ優れていて、悪ければ人間的に劣っているとでもいうの?」
「そうよ!」真紀は歯をぎりぎりいわせてわめいた。木里子はその場で凍りついた。
「わかったわ。……で、わたしにどんな用だったの?」
「なにも。ただ…あんたに注意したかったの。生意気だって」
「よくわかったわ」
 道理木里子は背中に怒りを抱えながらも、科学室をあとにした。
 やがて、部下の羽柴秀子がやってきた。
「新目さん。木里子はとことんまで反抗してくるわよ。調度いいところで折れておかないと大変なことになるわ」
「木里子は生意気よ。ちょっとテストでいい点とったからっていって。結局はまぐれで委員長でしょ?」
「どうかしら。もともと頭がよかったんじゃ…」
「なんですって?!」
「……あ! すいません」
「いやに木里子を弁護するじゃないの」
「新目さんは頭のいい相手なら降参するんですか?」
「自分より頭のいいってことは偏差値もペーパーテストの点もいいってことよ。かなわないってことにならない?」
「新目さんの考えだと偏差値がすべて?」
「頭の良し悪しはペーパーテストでしかわからないわ」
「どうですかね。ペーパーテストだけの判断じゃ、ツメが甘いんじゃ……あ! すいません」
「偏差値テストは神聖なものよ! ほかにどんな優劣判断方法があるっていうの?」
「でも……そうなると新目さん。一生、木里子に頭があがらなくなるんでは?」
 羽柴秀子は皮肉にいった。
「どうして? まぐれでトップになっただけでしょ? 今度からはわたしがトップよ」
 新目真紀はいきまいた。
「木里子は話さないからな。木里子には特技があって…」
「どういう特技なの?」
「ま、そんなこと気にしなければいいと思います」
「そうはいかないわ。話して」
「う~ん」
 羽柴秀子はじらした。そして、続けた。「木里子は英語とドイツ語とフランス語がペラペラらしいですよ。独学でマスターしたって…。今は、中国語を勉強しているそうです。新目さんは外国語からっきし……あ! すいません」
 羽柴秀子は科学室をでた。
 新目真紀は茫然と立ち尽くすのみだった。
















         5 木里子の父




  道理木里子の父・道理啓二は仙台の大学病院に赴任した。
 啓二は控え目な性格で、色男で知的であったため、すぐに看護婦たちの中で”憧れの的”になった。なにせコブつきとはいえ独身のインテリ男である。
 独身の若い看護婦たちは、道理啓二を熱いまなざしでみつめた。
 今年四十歳になる独身の看護婦長・長田順子はそんな看護婦たちを諫めた。が、長田婦長にしても啓二によい印象と好意をもっていた。
 長田順子は、どこか浅野ゆう子のような美貌の女性であったから、ハンサムな道理啓二とはピッタリくる。”お似合い”のふたりであるはずである。
 長田婦長にしたって、道理啓二のことを”まんざらでもない”と思っていた。
 しかし、若い娘のように「好きです!」という訳はない。
「…長田さん。私のクランケは?」
 啓二は白衣姿で、にこりとした。
「はい。このファイルにあります」婦長はにこりとした。
「ありがとう」
 啓二はファイルを受け取った。
 そして、「長田婦長のようなひとがいると頼もしい限りですな」と微笑んだ。
「あら。とんでもございません」
 ふたりは笑った。
「これから、いろいろ至らない点もあるでしょうが……どうかよろしく」
「やですわ、道理先生ったら。わたしなんかに頼られても困りますわ」
「ご謙遜を」
 啓二は言った。

  しばらくすると、道理啓二は医大の問題を次々と発見した。
 みんな、学歴ばかりよくて、暗記だけはできるが……つまり”出来が悪い”のである。「長田婦長、このクランケには薬を出さないように指示してあったはずですが、誰がこんな薬を出したんですか?」
 道理の問いに、長田婦長は神妙なおももちで答えた。
「申し訳ありません。患者さんが急に腹痛を訴えまして…。それで、道理先生が留守でしたので新田先生と川田先生がかわりに…。あの方たちに何をいっても無駄でして…」
 道理啓二は”仕方ない”という感じで頷いた。
 今度の一週間の出張で、信頼のおけるベテランの山形治に頼んでいたのだか、運悪く山形は腹痛で、かわりに一人立ちには懸念のある若い新田和也と川田隆にまかされた。ふたりとも学歴医師で、勉強は出来るが患者の心を知りもしないような”出来そこない”である。道理啓二は不快に思った。
「院長はいらっしゃらなかったのですか?」
「いえ。……四詰の回診とかで」
「回診?」啓二は眉間に皺をよせた。「それを新田君にやらせればよかったのに……院長は何を考えているのかな」
 婦長は神妙な顔のまま押し黙った。
「あの若い”医師もどき”にも困ったものだ」啓二は溜め息を深くついた。
 そう思うと、なぜか怒りの熱が全身の血管を走った気がした。あせるんじゃない…そういう考えも脳裏をかすめた。なんということだ! 学歴さえあればそれでいいというのか! 啓二はガンガンと頭痛のする思いであった。たとえ学歴が必要であったとしても、医者にはもっとも大切なものが必要ではないか!
「長田婦長」
 やっと声がでた。しかし、それは怒りの声ではなく、諦めのまじった声だった。
「…このままで……いいのでしょうか?」
 啓二は途方に暮れた顔でいった。長田婦長は何と答えていいかわからず、ただ茫然と立ち尽くすのみであった。普通の看護婦なら慰めやお茶濁しをいうところだが、長田婦長は真剣な顔をするだけだった。長田婦長はバカじゃない。でも、このままで…いいのか……? このままで?




  道理木里子が”生徒会長”に推挙されると、父親の啓二は喜んだ。
「やったじゃないか、木里子」啓二は愛娘をほめた。その顔は笑顔で、満足感のあるものであった。「生徒会長……それに学年トップの成績。お父さんは鼻が高くなるよ」
「偶然だよ。天狗にならないでね。どうせすぐ成績なんておっこっちゃうんだから」
 木里子は魅惑的な微笑でいった。
「そりゃあ困ったな」
「何が?」
「木里子にはねぇ」啓二は続けた。「木里子には大学くらいはいってほしいって思ってるんだよ。何も一流でなくてもいいんだ。まぁ、いずれ結婚するにしてもね」
「結婚?」木里子は笑った。
「あぁ。木里子だっていい彼とかいるんだろ?」
「やだぁ」木里子は真っ赤になって「いないわよ。もう…お父さんったら!」
「本当かねぇ」啓二は愛娘をからかった。「木里子はなんといっても美人なんだし、いい男なんてすぐ見つかるさ。男がほっとくわけないだろ? 木里子みたいな美人を」
「やだな。何いってるのよ、お父さん。だったらお父さんは?」
「え?」啓二はとぼけた。「なんのことだ?」
「とぼけちゃって!  再婚のことよ」
「う~ん」啓二はそう唸って、肩をすくめ、お茶を喉に流し込んだ。
「ね。どうなの? 好きな女性とかいるの?」
「バカいうんじゃない」興味津々な顔で近付いてきた木里子に、啓二はおどおどと動揺しながらいった。「そんな女性いるもんか」ささやくようにいった。
 しかし、彼の脳裏には長田婦長の顔などが走った。しかし、同時に、死んだ妻の顔も浮かぶのだった。木里子の母、啓二の妻、スウェーデン人の。
「ところで、新しい学校はどうなんだい?」
 啓二は話題をかえた。木里子は笑って、「いい学校生活よ。何も問題はないわよ」
「そうか。そりゃあよかった」
 父は満足して頷いた。しかし、木里子の脳裏には新目真紀の顔や陰鬱な言葉が響くのだった。闇の中で陰鬱な真紀の笑い声が響き、それを恐れた。が、顔には苦悩は出さず、彼女は微笑みを浮かべるだけであった。

  木里子は熟睡できずに狭いベットで寝返りばかりを打ち、夢が波をなして次々に彼女に襲いかかっていた。あざやかであると同時に不吉な夢。何かを追いかける夢。何かに追いかけられる夢。あるいは追いかけて走っている夢。それが自分を幸福にするのか、不幸のどん底に追い込むのか、木里子にはわからなかった。
 朝六時半ごろようやく目を開けた。額は汗でびっしょりだった。



スパイラル <巨魁妄動編>1989年宮城県仙台市幸町中学生事件アンコールブログ小説2

2014年11月20日 15時53分30秒 | 日記

















第一章 仙台幸町中学























         1 道理家




           
  道理木里子は確かに美貌であった。
 年は新目真紀と同じ十五歳であったが、とてもそんな年には見えない。もっと大人びてみえる。そう、木里子は美しかった。
 黒く長い髪、白い透明に近い肌、ふたえの大きな瞳にはびっしりと長い睫がはえていて、伏し目にすると淡い影を落とす。細い手足はすらりと長く、全身がきゅっと小さく、彼女はまるで妖精のようだった。
 しかし、美貌であるからといって道理木里子は「馬鹿」ではない。よく、テレビに出てくるアイドルタレントの美少女は、「馬鹿」が多い。”9×9=86”などという程度だ。 まぁ、座ったままのプリティ・ドール……ってことだろうけど、情ないばかりだ。
 木里子はそういうのとは違う。
 彼女は頭の回転が早く、運動が苦手な以外は特殊な秀才である。
  道理家の祖は米沢にある。
 代々、道理家は出羽米沢十五万石(山形県米沢市)の米沢藩の上杉家重鎮の家来で、木里子はその末裔である。木里子の父・道理啓二の仕事の関係で、仙台に引っ越してきた。 木里子にも父にも訛りはない。きれいな標準語を話す。
 道理啓二は医師であった。
 啓二は外科医であり、スマートな痩せた体躯の男で、細長い顔に縁なし眼鏡はインテリ風である。髪はオールバックで、一寸の隙もないくらいダンディでもある。年はまだ四十七だが、医大の教授のようなイメージである。
 しかし、啓二は優しい性格の男で、”紳士”であった。
 道理家の家訓は「男は無口であれ」で、道理啓二も寡黙な方であったが、けして暗い性格ではない。ひとり娘の木里子とはよく世間話をする。もちろん、仕事が暇なときではあるが…。とにかく、道理家は仙台にきた。
 それは、啓二が、仙台の大学病院に転勤になったからである。
 ふたりは、仙台市内幸町近辺のマンションの一部屋を借りて、米沢から引っ越した。なぜ、ふたり、なのかというと木里子の母(つまり啓二の妻)はすでにこの世のひとではないからだ。木里子の母は欧人で、スウェーデン辺りのひとだったらしいが、木里子を産んですぐ亡くなった。その点は、新目真紀と境遇が一緒である。
 つまり木里子はハーフなのである。
 しかし、だからといって、木里子の瞳が青い訳でも、髪の毛が金髪な訳でもない。彼女は外人っぽい顔だが、普通にみれば日本人そのものである。木里子は結婚三年目で産まれた道理家待望の子供で、大変に可愛がられた。が、もちろん躾も厳しく受けた。父は、母のいない分、木里子には優しく、そして時に厳しくあたった。その結果、道理木里子は優しく道徳感と正義感豊富な娘に育った。
 啓二はそんな愛娘を可愛がった。
 引っ越しは春頃で、ふたりは自家用車で仙台までやってきた。荷物はすでにマンションに着いていた。啓二も木里子も仙台は初めてではなかった。旅行できたことがあったのだ。しかし、観光旅行で訪れるのと引っ越して住むのでは勝手が違う。
 だけど、ふたりは”すぐに仙台に慣れる”という確信があった。ふたりは周囲に順応するのが早いほうだし、仙台は米沢より交通など便利なはずだ。
 なにより、住めば都、というではないか。

「お父さん。疲れた?」
 木里子は玄関まで歩いてきて尋ねた。
「いいや。ちっとも」父は優しく答えた。木里子がドアを開けた。
「わあっ! きれいな部屋ね」
「そうだね」
 ふたりはくったくもなく笑った。とにかく、ハッピーな気分であった。木里子は(仙台でも楽しく過ごせ、友達や親友もいっぱいできるといいわ)などと思っていた。
 仙台は、米沢のように雪がいっぱい降る訳ではない。米沢では木里子は「雪かき」をよく手伝ったが、仙台ではそんな重労働ともオサラバできそうだ。
「ねぇ、お父さん」
 木里子は続けた。「友達できるかな? 米沢のときみたいに…」
「ははは」父は笑った。「出来るさ。いっぱいね。米沢だろうと仙台だろうと、おんなじだよ。要は、木里子次第だよ」
「わたし次第?」
「そう。木里子が優しくて正義感が強くて、誰にでも親切にしてれば……友達なんていっぱいできるさ。自分を信じなさい」
 父・啓二はしんと微笑んだ。それは菩薩のようだった。
「そうだね」木里子も微笑んだ。
 そして、続けた。「わたしね。いっぱい友達が欲しいの」
「…そうか」
「うん。で、勉強もちゃんとするわ。遊ぶだけじゃなくてね」
「それは頼もしい限りだね」
「でも、大学にいくかはわからないわよ」
 木里子は笑った。
 父は「お前の好きなようにしなさい。お父さんは木里子が大学にいかなくてもかまわないよ。何も学歴だけがすべてではないさ」
「そう?」
「大学にいかなくたって成功したひとはいっぱいいるよ」
「そう?でも…あたしが女の子だから? だから学歴なんていらないっていうの?」
「違うよ」父はいった。「木里子が例え女の子じゃなくて男の子だとしても、お父さんは好きにさせるよ。お父さんは日本の学歴偏差値主義はあまり好きではないからね」
「わたしもあまり好きじゃないわ。ペーパーテストでいい点とればそれで”優秀”…だなんておかしいもの」
「あっ」父は皮肉ににやりとして「木里子、評論家みたいなことをいうじゃないか」
「やだあ、お父さんったら」
 ふたりはカラカラ笑った。

  大家さんがきた。白髪まじりの初老の背の低い丸い体躯の爺さんだった。
「道理さん。どうも。大家の増川です」
「これはどうも」木里子の父は微笑んで、大家と握手した。
 すると木里子も「これからよろしくお願いします!」と笑顔で頭を下げた。
 とにかく、これから、この仙台で、新しい生活が始まる。すべてはこれからだ。
 先は長い。すべてがこれからだ。どんなことがあっても、くじけずに明るく生きていこう。たとえ暗闇がきても、健やかなるときも、やめるときも…。とにかく一生懸命やろう! 天国の気分のときも。地獄の釜にいれられようとも……。? 霊感占いじゃないんだから。
 とにかく、道理木里子は仙台にやってきた。そして、仙台幸町中学に通いだした。そして、『仙台S中学事件』が勃発する。しかし、それはこの頃からはまだ一年程先の話しだ。木里子もその事件に巻き込まれることになる。しかし、彼女は、当然ながらそのことは考えもしなかった。
 木里子は、この世の中に、”鬼畜”などいないと思っていた。
 確かに、殺人などを犯す人間はいる。だが、そういうのは特別の話で、まさか自分の周りにそうしたのと一緒のような”鬼畜”がいるとは思いもしなかった。
 木里子はまだ、世間知らず、だったのである。







        2 緑川、仙台アパートへ



    
  緑川鷲羽(みどりかわ わしゅう)は出羽米沢のひとである。
 出身地は道理木里子たちと同じだ。だが、道理家と緑川鷲羽とは面識がない。緑川の先祖は、軍略にすぐれた上杉家の軍師・緑川平蔵。緑川平蔵は、元々は越後の豪族・色部の家臣だったが、長尾景虎(のちの上杉謙信)の台頭とともに上杉家に支官した名のある軍師である。しかし、緑川鷲羽はそうした祖先のようには振る舞わなかった。
 鷲羽は元々、勉学よりも芸術創造のほうが得意である。しかし、なかなか芽がでずにいた。長井の工業高校を卒業すると、工場では働きたくなくて、親に無理をいって仙台のコンピュータ専門学校に進学したのである。
 引っ越しは88年の春で、アパートは仙台宮城野区の仙台幸町中学校の校舎の近くである。そして、この土地で、のちにいう『仙台幸町中学事件』が勃発することになる。
 緑川鷲羽はけして馬鹿ではない。小娘のような顔で、細身のやさ男だが、見ようによってはインテリ風でもある。数学がニガ手なため大学にはいけなかった。
 しかし、中学生に罵倒されるような「馬鹿」ではけしてない。
 もっとも、緑川鷲羽にも問題はある。それは「優し過ぎる」ところである。中坊や中女やときには小学生が罵声を浴びせ掛けてきても、投石してきても、嘲笑しても、「許して」しまう。優しく対応し過ぎる。相手だって人間だから、自分が悪いことをしていると気付くはずだ……などと寛容に対応し過ぎる。
 だが、世の中は鷲羽の思うように甘くはいかない。
 世の中には実際には「鬼畜」のような人間だっているのだ。特に、教育の失敗のせいか、日本の子供は本当にひどい。まぁ、「今の若い者は…」などというのは古代エジプト時代からいわれた永遠のテーマで、そういう議論は天に唾を吐くようなものだ。
 昔から、今の若者はいい…などという大人は珍しいことで、若者が暴走するのもわからないでもない。でも、罵声嘲笑投石だけならまだしも、ホームレスをリンチで殺したり、「ひとを殺す経験がしたかった」などといって見知らぬ老女をメッタ刺しにして殺すのはどうかと思う。日本の教育崩壊で、日本の子供が例の”酒鬼薔薇聖斗””長崎少年A”みたいなのばかりになっていくにつれ、「このままで日本は大丈夫なのだろうか…?」と誰もが思っている。日本の教育崩壊はボディ・ブロウのように効いてくるだろう。なぜなら、日本の将来を背負って立つのは、当たり前の話だが今の子供たちだからだ。
 その意味で、日本の”教育維新”というような抜本的な教育改革が今、求められている。
  仙台へはひとりできた訳ではなかった。
 緑川鷲羽は、母親とともに電車で仙台へ到着した。アパートは宮城県宮城野区の幸町中学の校舎の近くにある。ひとり暮らしではない。暮らすのは兄の緑川和宏と一緒である。 和宏は緑川家としては珍しく”出来の悪い”ほうで、頭があまり働かない男だ。
 拝金主義で、馬鹿で、猿みたいな顔をしている。妻の美和に「猿、猿」と呼ばれているが、けして和宏は「秀吉」にはなれないだろう。頭が悪すぎるのだ。
 鷲羽の兄の癖は”説教”。相手がどんなに困っても一円も出さず、「それは甘えだろ?」「お前を大人だと認めてない」だのと愚にもつかないことをいうだけだ。
 何の役にもたたない。

  季節は春らんまんだった。
 仙台は暖かくて、米沢ではまだ雪景色だというのにこちらはもう桜がちらほら咲きそうだった。「仙台はいいね。暖かくて」鷲羽の母・緑川良子はいった。
「まぁ、米沢とは違うさ」
 鷲羽は笑顔で答えた。
 そして続けて「でも、仙台を治めたのは米沢生まれの伊達政宗だから縁はあるよ。米沢とはね」
「まぁ、そんな古いこといって…」
 ふたりは笑った。
 まだ、緑川鷲羽は、この数か月後に”仙台幸町中学事件”に巻き込まれるとは夢にも思っていなかった。仙台で、夢をかなえる……ただそれだけを考えていた。
”鬼畜”ガキたちの正体も知らずに……。
「とにかくいいところだ。いいことあるよ、きっと」
 緑川鷲羽はもう一度、確信したようにいった。



スパイラル <巨魁妄動編>1989年宮城県仙台市幸町中学生事件アンコールブログ小説1

2014年11月20日 15時50分35秒 | 日記





小説
                    1989~1990
スパイラル 仙幸中


                    「仙台幸町中学事件」
                       ~教育の失敗~



              教育の闇、躾の失敗、アグリー中学生!そして、復讐。
              日本教育の盛衰を占う長編教育小説!
                    total-produced&presented& written by
                       washu  midorikawa
                        緑川  鷲羽



  どうしたら過去のことがわすれられる。過去とは現在のことでしょう。
  そしてまた、未来のこと。   「夜への長い旅路」 オニール



  this novel is a dramatic interoretation
  of events and characters based on public
  sources and an in complete historical record.
  some scenes and events are presented as
  composites or have been hypothesized or condensed.

……この物語は、事実あった事件を元にした小説ですが、フィクションや推測、憶測、架空が混じっています。ご了承ください。道理木里子や新目真紀など架空の人物で、物語設定などフィクションです。……




        スパイラル  小説仙台幸町事件 あらすじ

  偏差値エリートで緑川鷲羽攻撃計画をたてた新目真紀は、1975年に宮城県仙台市青葉区内幸町に生まれた。母はすぐ死に、父親は有名な県議会議員・新目一郎である。新
 目真紀は贅沢な生活を送りながらも、父の思考のもと家庭教師や塾につきっきりで東大を目指している。頭が悪い彼女は、勉強につぐ勉強で、試験の悪夢に嵌まっていく。
 一方、主人公で正義でもある道理木里子は、勉強をほとんどしなくても新目真紀に試験で勝ち、幸町中学の学級委員長にまでなる。新目はライバルを不快に思い、同時に鬱屈した精神状態にまでなる。そんなとき、ストレス発散のターゲットが現れる。
 仙台幸町中学校舎の近くに引っ越してきた専門学校生・緑川である。
 新目真紀は勉強とセックスに溺れながら、緑川攻撃の指揮をとっていく。彼女の指揮のもと、仙台幸町中学生たちは鬼畜ばりで緑川に、罵声、投石、嘲笑をしだす。緑川は悩む。 道理木里子はそんな学生テロを見兼ね、新目真紀を説得しやめさせようとするが…。
 やがて、緑川の空城の計も決まり、新目真紀は窮地に。道理vs新目。偏差値エリートの彼女は道理木里子に反発し、父の自殺で改心し、自殺してしまう。
 道理木里子は心を痛めたまま中学を卒業する。教育の闇、躾の失敗、アグリーな中学生たちの姿が心に重くのしかかる。
  日本教育の盛衰を占う長編教育小説!ついに刊行!
                                  おわり



 プロローグ









  この物語は、ひとりの心やさしき魂をもつ人物が、鬼畜のような中学生たちにボロボロにされ、踏みつけられ復讐する、悲劇である。


         プロローグ


「…ということは、パパは私の成績じゃ不安だっていうの?」
新目真紀は、抑圧のある声でいった。真紀はキツネ目の丸い顔の痩せた体格の娘で、髪はセミロングである。平日の早朝なので、仙台幸町中学の制服姿でもある。場所は、宮城県仙台市宮城野内幸町の豪邸、新目邸。彼女は朝食を食べながら、父親の新目一郎に口をとがらせていっていた。リビングは広く、シャンデリアや彫刻まである。
 新目一郎は県会議員で、傘下にゼネコンやレストランチェーンももつ有名な資産家であった。背広をぴしっと着て、髭顔で、丸い体躯で、今年(89年)で五十歳の中年男だが、とてもそんな風にはみえない。堂々とした威厳のある男である。
 まだ、『仙台幸町中学事件』以前の幸町では、平和なものだった。
 父・新目一郎は娘に期待していた。
「パパはねぇ。真紀に期待してるんだ。お前は東大にストレートで入れる筈だ」
「はい。努力します」真紀の声がしぼんだ。
「だったら……このテストの点は何だ? 七十二点。普通の学生ならこれでもいいかも知れんがお前は東大目指してるんだろ?」
 真紀は押し黙った。
「もっとしっかりやらんか! パパをがっかりさせるな!」
 一郎は強くいった。
 真紀は押し黙ったまま、下唇を強く噛み締め、下を向いた。


  新目真紀は、1975年9月30日、宮城県仙台市に生まれた。
 仙台といえば、日本でも有数の有名地で、東北地方では一番発展している地方都市である。有名なのは牛タンや七夕祭り、そして伊達政宗。前述した通り、新目真紀の父は県会議員で、傘下にゼネコンやレストランチェーンももつ有名な資産家である。名は一郎。母は新目真紀が幼い時に亡くなった。自宅は宮城県仙台市宮城野区内幸町の豪邸、新目邸。 仙台、東北一番の都市……といえばきこえはいいが、どうにも後進性がぬけない。東京と同じように悪いひとや心ない人間も多い。(もちろんいい人間もいるのだろうが…)
”杜の都”…などといえばきこえはいい。しかし、街路樹を無機質に集めて、バーチャルな自然をつくっているに過ぎない。
 自然がない訳ではない。仙台市を車で三十分もいけば、田んぼや山が見えてくる。
 仙台市ならいざ知らず、少しいけば宮城県でも東北弁が聞かれる。
(…だべ。…だっちゃ。…だべさ)といった語尾の訛りは東北共通語である。
 後進性が強い地域ほど役人の地位は高い。伊達藩が宮城県となり、仙台市が生まれ、吸収合併して政令指定都市となって権力が集中するようになってから、東北地方のひとたちの目が仙台にむくようになった。かつては伊達政宗の統治していた伊達藩は、明治維新以後、発展をとげたが、東京に比べればここ数十年、発展から取り残された。
 その間に地方役人の権威は大きくなり、東北の拠点でもある仙台市の役人は、強大な補助金権力を手中に収めていた。
 しかし、中央からの補助金漬という感じは否めない。
 事実、東北の役人のおもな仕事は、参勤交代のような中央回り、である。
 新目真紀はそんな役人を侮蔑し、東大に入り、そういう連中を見下せる立場の特権官僚になるつもりだった。大蔵省(現・財務省)でも厚生省(現・厚生労働省)でも、通産省(現・経済産業省)でも、外務省でも、なんでもよかった。
 単に、エリート官僚に憧れていたのである。

  新目真紀は、仙台の病院で有名県会議員のひとり娘として生まれた。
 父の一郎は資産家で、政治は”趣味”のようなものである。妻(つまり真紀の母)はひとのよい性格だったが、一郎は勝気な性格だった。代々ホテルや建設会社やレストランを継続していくのが天命だと信じていた新目一郎は、戦後すぐにバラックを建てた先代の後をつぎ、次々と多角経営で事業を拡大、高度経済成長期のおかげで失敗せずに事業を拡大していった。
 この時期は景気もよかったから、銀行は湯水のように金を惜しげもなく貸してくれた。 妻(つまり真紀の母)は、有名大学にストレートで入れるほどの才媛ではあった。が、彼女の厳格な父が「女に学問はいらぬ」といって、大学にはいかせなかった。そんな女が、一郎と出会ったのは中学の同窓会でである。
 幸子(真紀の母の名)は、一目で一郎を好きになった。昔は、彼女は一郎をなんともおもってなかったが、その時はじめて、彼を好きになった。
 一郎には際立った才能は特になかったが、事業を拡大するのには頑固に執着した。自分の主張をまげなかった。妻の幸子は、大学教授を父にもつ誇り高い女だったから、そんな傲慢な一郎と”馬があった”のも頷ける。幸子は一郎の裕福な生活に憧れて結婚した。
 高校しかでてない幸子を、大学出の一郎は最初から軽蔑の目で見ていた。
 ただ、彼も三流大学しか出てない。そのため、自分の娘だけは東大にいれ、官僚とか医者とか弁護士にするのが夢であった。そのためには金がいる。
 資産家の一郎にとっては莫大な教育費はなんてこともなく工面できた。
 特に、これといった資産もない幸子の家にとっては一郎の裕福さは魅力だった。幸子も自分の学歴のなさに負い目を感じていて、娘には大学にいってほしいと願っていた。
 幸子は、どこか黒木瞳に似た美貌であったから、一郎は結婚に満足していた。
 しかしどこかで、世継ぎの男の子を産んでほしい……とも願ってもいた。
 だが、長女の真紀が産まれてからは子宝に恵まれなかった。
 一郎は女出入りのほうもお盛んで、多くの愛人と浮き名を流した。しかし、子宝には恵まれず、世継ぎの男の子は手にはいらなかった。子供のことは”当たり”や”運”の問題もあり、仕方がないのだが、一郎は男児がほしくて仕方なかった。
 幸子はすぐに死んだ。
 癌だったが、一部では「旦那の浮気に悩んで自殺した」などという心ない噂もたつほどであった。以後、一郎は幼い娘に家庭教師をつけ、教育ママゴンのようにふるまった。
 幼児のときから東大へ向けての特訓を開始した。
 真紀が産まれたのは昭和五十年頃であったから、物資も豊富で激動の時代でもあった。ちょうど教育崩壊や学校内暴力などが横行した頃であり、この頃から「親の教育の失敗」とか「学校の教育の失敗」などが叫ばれるようにもなっていた。
 が、まさか新目真紀自身が十数年後、『仙台幸町中学事件』の首謀者となろうとは父親だって思ってもいなかったに違いない。
 日本の教育の荒廃は凄まじく、ソニーの井深大(故人)さんもそれを憂い、教育関係の著作を大量に出版して警告を鳴らしたのだという。とにかく、真紀の特訓は続いた。
 父の一郎は妻が死んだショックもあり、愛娘を溺愛した。その溺愛ぶりに女中たちも目を見張った。
 真紀は幼稚園は仙台の外れにあるエリート幼稚園、『仙台栄光インテリジェンス幼稚園』に通わされた。父一郎は愛娘専用の運転手を雇い、往復共にきらびやかな外車で通わせた。幼稚園の汚い送迎バスには乗せなかった。自宅からは往復で一時間くらいかかって、その苦労は並大抵のものではなかった。が、運転手も新目真紀も我慢した。幼いいたいけな少女を毎日送りだす一郎に女中たちは呆れたが、大きな野望を抱く一郎はそんな陰口も歯牙にもかけなかった。
 だが二年間の幼稚園通いが終わると、どういうわけか、新目真紀は近所の幸町小学校に通いだした。平凡な、エリートとは無縁の小学校である。新目真紀は特に運動も芸術活動もしなかった。それより勉強に熱心だった。学校は三流だったから、たいしたライバルもなかった。そのかわり自宅に帰ると家庭教師がつきっきりで予習復習の指導をした。
 真紀には遊び時間はほとんどなかった。
 勉強に集中するように父親に言われていたからだ。
 しかし、「勉強」「勉強」といっても日本の勉強というのは「知育」である。つまり、645年に大化の改新とか、1867年に大政奉還…とか答えを暗記するだけだ。まぁ、いわばペーパーテストでいい点をとるだけの特訓で、本当の意味での教育とは違う。記憶力だけが問われ、クイズの答えを覚えるようなものだ。
 最終的に、「文部科学省○×式クイズ」を突破したものが勝者となり、記憶力だけでも一流大学に入れ、そしてそれからはモラトリアムになる。国家公務員試験や医師や弁護士試験に受かればいいほうで、ほとんどの学生は四年間「遊び」になる。デートだコンパだセックスだ…と遊び捲りになる。しかし、そんな学生でも日本の会社は貴重がり、採用する。一流会社だけでなく中小企業の人事担当者でも「学歴」でひとを判断する。
 大学生のアルバイト募集……などと地方の本屋でもそんな感じだ。
 本屋のアルバイトに学歴がいるのかどうか疑問だが、日本という国では「学歴」というのが最終判断材料となるともいえる。だから、どんなに才能があっても「高卒」とかだと、どうしてもどこか認められない。他人は「こいつは高卒だ」という目でみる。芸術家とかならば別だろうが、サラリーマンや工員は、高卒、中卒だと出世の見込みはまったくないといえる。日本のママゴンたちはそれを知り尽くしているから子供を大学にいれたがるのだ。それは新目一郎も同じだった。
 子供は物覚えが早い。
 普通の子供の三~五倍は勉強するのだから新目真紀の出来は抜群であった。当時の幸町小学校では、真紀のように猛勉強する学生なんていなかったから、学校では新目真紀は秀才で通っていた。だが、それはライバルがいなかったからである。
 小学校の頃の真紀は自信過剰な”天狗”になっていた。
 彼女はいつもどこかで「わたしは頭がいい」と思っていた。「わたしは東大に入るんだから……他の”馬鹿”とは違うのよ」そんな鼻持ちならない感情が、新目真紀の中に芽生              こうもり                   
えていた。ただの”鳥なき里の蝙蝠”であることさえわからなくなっていた。
 中学はまたまた近所の仙台幸町中学に入学した。
 真紀の天下は続いた。小学校は平凡な三流学校であるため、真紀に勉強でかなうものはいなかった。中学入学、そして道理木里子が転校してくるまでは、新目真紀が学校一の秀才であったのだ。
 しかし、ガラスの秀才の栄光、も永くは続かない。
 小学校ではトップを譲ったこともない新目真紀も中学の一学期はクラスで五番目、学年では三十番という父・一郎にすれば衝撃的な成績にまで落ちた。
 家庭教師の首もすげ替えられ、東大出の男の家庭教師が一郎のお眼鏡にかない、つきっきりで勉強の指導をした。
 その甲斐あってか、成績は上がり出したが、学年で三~五番目を行ったり来りするのが真紀の限界であった。
 父の一郎は三流中学よりも、一流の仙台のエリート中学に入れたがったが、真紀はそれを固辞していた。世間的には恵まれた環境の中で勉強に集中していた新目真紀だったが、彼女の表情は暗かった。彼女は自分にまったく自信がもてなかった。確かに小学校のときはトップを誇ってきた。が、そのかわり友達も出来ず、楽しい思い出もなかった。しかも、三流といわれた幸町中学ではトップになれないどころか、屈辱感ばかり味わった。自分が大して頭がよくはなく、特殊な才能もないことは、真紀にはおぼろげながらわかっていた。 ただ、幼稚園の頃からやみくもに勉強ばかりしてきて追い立てられてきたのだから他の子供より頭の回転が早い…と願っていた。
 真紀は自分があまり頭のいいほうではないと感じていた。が、父の一郎は、愛娘は頭がいい、とかたくなに信じていた。
 父に反抗することなどできない育ち方をした新目真紀は、父親に対しては秀才、そして頭がいいというふりをしなくてはならなかった。勉強の目的はいつしか秀才ぶりをみせるだけのパフォーマンスの道具となり、秀才であるふりのための最低限な成績を保つための道具となっていた。
 しかし、道理木里子が転校してきたり、秀才が集まってくるとたちまち真紀は落ち目になっていく。真紀が何日もかかって、家庭教師の助けを借りなければ解けない数式を、道理木里子は数分で苦もなくその場で解いたし、木里子には文才もあった。しかも、平均点がまたいいのである。
 新目真紀は自分には特殊な才能がないことはわかっていた。記憶力はあっても、天才的な創造力とか決断力が欠けていることはわかっていた。だが、日本の受験戦争では、創造力とか決断力が欠けていても何の問題にもならないことも知っていた。
 要は、ペーパーテストがよければエリートになれるのである。
 中学での学校生活は真紀にとって、とてつもなく辛く感じた。道理木里子に嫉妬してもいた。ストレスばかりたまった。あの父親から離れるためには東大に入り、東京に住むしかない、と苛立った。何かストレスを発散できる術を探していた。スケープ・ゴート(生け贄の羊)を探していた。
 そして、やがて新目真紀はターゲットを探しあてた。



八重の桜  新島八重の桜と白虎隊とブログ連載アンコール小説<NHK2013年大河ドラマ『八重の桜』>4

2014年11月19日 07時29分09秒 | 日記






しかし、薩摩藩は「八月十八日の政変」で会津藩と手を組んでいた。
このとき、山本覚馬は聡明だったため、薩摩藩にも名前が知れ渡り、薩摩藩には山本覚馬の才能を認める者が多かった。
捕らえられた山本覚馬は斬首されそうになったが、山本覚馬の才能を認める薩摩藩士に助けられ、九死に一生を得た。
そして、山本覚馬は囚われの身となりながらも、山本覚馬の才能を認める薩摩藩士のおかげで優遇された。
「西郷さん、会津は恭順している。会津だけは戦の火の海にしねでげんじょ!」西郷吉之助(西郷隆盛)に不自由な体で、覚馬は訴え続けた。
 1868年6月、ほとんど失明していた山本覚馬は、同じように幽閉されていた野沢鶏一に口述筆記を頼み、
意見書「山本覚馬建白(管見)」
を書き上げ、新政府(薩摩藩)に提出した。
野沢鶏一は、山本覚馬が京都で開いた蘭学所の教え子である。
山本覚馬建白には、「政権」「議事院」「建国術」「女学」など23項目にわたり、「三権分立」「2議院制」「女性の教育」「学校建設」「西暦の採用」などの近代国家の方針が述べられていた。
この意見書「山本覚馬建白」は、俗に「管見(かんけん)」と呼ばれている。
管見とは、自分の意見をへりくだる時に使用する言葉である。
山本覚馬の意見書「山本覚馬建白(管見)」を読んだ薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀(こまつ・たてわき)らは、山本覚馬の才能を認め、幽閉中の山本覚馬に酒などを差し入れて、さらに優遇した。
山本覚馬が提出した「山本覚馬建白(管見)」は、山本覚馬自身にも、明治政府にも大きな影響を与えることになる。
その後、山本覚馬が京都府大参事(副知事に相当)に認められて京都府顧問になるのも、幽閉中に提出した「山本覚馬建白(管見)」が評価されたからだった。
ちなみに、山本覚馬が幽閉されている薩摩藩邸は、後に山本覚馬が購入し、山本八重の夫となる新島襄が設立した同志社英学校の建設地となっている(現在の同志社大学今出川校)。
一方、山本覚間の世話をしていた少女・小田時栄は、薩摩藩の許可を得て、幽閉中も山本覚馬の世話を続けた。
山本覚馬は幽閉中も優遇されていたものの、1年にわたる幽閉生活中に完全に失明したうえ、脊髄を痛めて足を悪くしてしまうのであった。


  話を少し前に戻す。……
 暗殺された龍馬の策により薩摩藩と長州藩が連携して天子さまを奉って官軍となりせめてきた。容保たちは京にいたが慶喜らとともに遁走しだした。
 逃げてきた徳川慶喜に勝海舟は「新政府に共順をしてください」と説得する。勝は続ける。「このまま薩長と戦えば国が乱れまする。ここはひとつ慶喜殿、隠居して下され」
 それに対して徳川慶喜はオドオドと恐怖にびくつきながら何ひとつ言葉を発せなかった。 ……死ぬのが怖かったのであろう。
 勝は西郷を「大私」と呼んで、顔をしかめた。

  大阪に逃げてきた徳川慶喜は城で、「よし出陣せん! みな用意いたせ!」と激を飛ばした。すわ決戦か……と思いきや、かれの行動は異常だった。それからわすが十時間後、徳川慶喜は船で江戸へと遁走したのだ。
 リーダーが逃げてしまっては戦にならない。
 新選組の局長近藤勇はいう。「いたしかたなし」
 それに対して土方は「しかし、近藤さん。わずか二~三百の兵の前でひれ伏すのは末代までの恥だ。たとえ数名しかいなくなっても戦って割腹して果てよう!」といった。
「いや」近藤はその考えをとめた。「まだ死ぬときじゃない。俺たちの仕事は上様を守ること。上様が江戸にいったのならわれら新選組も江戸にいくべきだ」
「しかし…逃げたんだぜ」
 近藤は沈黙した。そして、新選組は一月十日、船で江戸へと向かった。
  江戸に到着したとき、新選組隊士は百十人に減っていた。

 徳川慶喜の大政奉還の報をうけた江戸の幕臣たちは、前途暗澹となる思いだった。
 大政奉還をしたとしても、天下を治める実力があるのは幕府だけである。名を捨てて実をとったのだと楽観する者や、いよいよ薩長と戦だといきまく者、卑劣な薩長に屈したと激昴する者などが入り乱れたという。
 しかし何もしないまま、十数日が過ぎた。
 京都の情勢が、十二月になってやっとわかってきた。幕臣たちはさまざまな議論をした。 幕臣たちの中で良識ある者はいった。
「いったん将軍家が大政奉還し、将軍職を辞すれば、幕府を見捨てたようなもので、急に回復することはむずかしい。このうえは将軍家みずから公卿、諸候、諸藩会議の制度をたて、その大統領となって政のすべてを支配すべきである。
 そうすれば、大政奉還の目的が達せられる。このように事が運ばなければ、ナポレオンのように名義は大統領であっても、実際は独裁権を掌握すべきである。
 いたずらに大政奉還して、公卿、薩長のなすところに任するのは、すぐれた計略とはいえない」
 小栗忠順(上野介)にこのような意見を差し出したのは、幕臣福地源一郎(桜痴)であったという。福地は続けた。「この儀にご同意ならば、閣老方へ申し上げられ、京都へのお使いは、拙者が承りとうございます」
 小栗は、申出を拒否した。
「貴公が意見はすこぶる妙計というべきだが、第一に、将軍家がいかが思し召しておられるかはかりがたい。
 第二に、京都における閣老その他の腰抜け役人には、とてもなしうることができないであろう。
 しかるに、なまじっかような説をいいたてては、かえって薩長に乗ずられることになり、ますます幕府滅亡の原因となるだろう。だから、この説はいいださないほうがよかろう」 小栗は、福地がいったような穏やかな手段が薩長に受け入れられるとは思っていなかった。
 彼は、薩長と一戦交えるしかないという強行派だったのだ。
  官軍(薩長)の朝廷工作により、徳川幕府の官位をとりあげられ領地も四百万石から二百万石に取り下げられた。これは徳川家滅亡に等しい内容であったという。
 慶喜はいう。
「朝命に異存はないが、近頃旗本らの慷概はいかにもおさえがたい。幕府の石高は、四百万石といわれいるが、実際には二百万石に過ぎない。
 そのすべてを献上すれば、徳川家としてさしつかえることははなはだしいことになる。いたおうは老中以下諸役人へその旨をきかせ、人心鎮定のうえ、お請けいたす。その旨、両人より執秦いたすべし」
 慶喜は、諸藩が朝廷に禄を出すのは別に悪いことではないが、幕府徳川家だけが二百万石も献上しなければならないのに納得いかなかった。
 閣老板倉伊賀守勝静は、慶喜とともに大坂城に入ったとき、情勢が逼迫しているのをみた。いつ薩長と一戦交える不測の事態ともなりかねないと思った。
「大坂にいる戦死たちは。お家の存亡を決する機は、もはやいまをおいてないと、いちずに思い込んでいる。
 今日のような事態に立ち至ったのは、薩藩の奸計によるもので、憎むべききわみであると思いつめ、憤怒はひとかたならないと有様である。会、桑二藩はいうに及ばず、陸軍、遊撃隊、新選組そのほか、いずれも薩をはじめとする奸藩を見殺しにする覚悟きめ、御命令の下りしだいに出兵すると、議論は沸騰している。
 上様(慶喜)も一時はご憤怒のあまり、ご出兵なさるところであったが、再三ご熟慮され、大坂に下ったしだいであった」
 幕府の藩塀として武勇高い諸候も、長州征伐の失敗で自信喪失状態であった。
 幕府の敵は、薩長と岩倉具視という公家であった。
 新政府は今まさに叩き壊そうという幕府の資金で運用されることとなった。
  アーネスト・サトウは、イギリス公使パークスに従い大坂いたとき、京都から遁走して大坂に入る慶喜を見た。彼は、幕府部隊司令官のひとりと道端で立っていた。
 そのときの様子を記している。
「私たちが、ちょうど城の壕に沿っている従来の端まできたとき、進軍ラッパが鳴り響いて、洋式訓練部隊が長い列をつくって行進しているのに会った。
 部隊が通過するまで、私たちは華美な赤い陣羽織を着た男のたっている、反対側の一隅にたたずんでいた。(中訳)
 それは慶喜と、その供奉の人々だった。私たちは、この転落の偉人に向かって脱帽した。慶喜は黒い頭巾をかぶり、ふつうの軍帽をかぶっていた。
 見たところ、顔はやつれて、物悲しげであった。彼は私たちには気付かなかった様子だ。 これにひきかえ、その後に従った老中の伊賀守と備前守は、私たちの敬礼に答えて快活に会釈した。
 会津候や桑名候も、そのなかにいた。そのあとからまた、遊撃隊がつづいた。そして、行列のしんがりには、さらに多数の洋式訓練部隊がつづいた」
 (坂田精一訳『一外交官の見た明治維新』岩波書店)

 薩長に膝をまげてまで平和は望まないが、幕府の方から戦をしかけるのは愚策である。 と、麟太郎はみていた。戦乱を望まずに静かに事がすすめばよし。慶喜が新政府の首相になればよし。
 麟太郎は日記に記す。
「私は今後の方針についての書付を、閣老稲葉殿に差し出し、上様に上呈されるよう乞うた。
 しかし諸官はわが心を疑い、一切の事情をあかさず、私の意見書が上達されたか否かもわからない。
 江戸の諸候は憤怒するばかりで、戦をはじめようとするばかり。
 ここに至ってばかどもと同じ説などうたえるものか」
 江戸城の二の丸大奥広敷長局あたりより出火したのは、十二月二十三日早朝七つ半(午前五時)過ぎのことであった。
 放火したのは三田薩摩屋敷にいる浪人組であった。
 のちに、二の丸に放火したのは浪人組の頭目、伊牟田尚平であるといわれた。尚平は火鉢を抱え、咎められることもなく二の丸にはいったという。
 途中、幕臣の小人とあったが逃げていった。
 将軍留守の間の警備手薄を狙っての犯行であった。
 薩摩藩の西郷(隆盛)と大久保(利通)は京で騒ぎがおこったとき、伊牟田を使い、江戸で攪乱行動をおこさせ江戸の治安を不安定化することにした。
 家中の益満休之助と伊牟田とともに、慶応二年(一八六六)の秋に江戸藩邸におもむき、秘密の任務につくことにした。ふたりは江戸で食うものにも困っている不貞な浪人たちを集めて、飯を与え稽古をさせ、江戸で一大クーデターを起こすつもりだった。
 薩摩藩は平然と人数を集めた。

  麟太郎の本意をわかってくれるひとは何人いるだろうか? 天下に有識者は何人いるだろうか?
 麟太郎は辞職願をこめて書を提出した。
「こののち天下の体勢は、門望(声望)と名分に帰せず、かならず正に帰すであろう。
 私に帰せずして、公に帰するにきまっている。これはわずかの疑いもいれないことである。
 すみやかに天下の形勢が正に帰せざるは、国政にたずさわる要人が無学であることと、鎖国の陋習(ろうしゅう)が正しいと信じ込んでいるからである。
 いま世界の諸国は従来が容易で、民衆は四方へ航行する。このため文明は日にさかんになり、従前の比ではない。
 日本では下民が日々に世界の事情にあきらさまになっており、上層部の者が世情にくらい。このため紛争があいついでおこるのだ。
 硬化した頭脳で旧来の陋法を守っていては、天下は治められない。最近の五、六年間はただ天朝と幕府の問題ばかりをあげつらい、諸候から土民に至るまで、京都と江戸のあいだを奔走し、その結果、朝廷はほしいままに国是を定めようとしている。
 これは名分にこだわるのみで、真の国是を知らないからである。
 政府は全国を鎮撫し、下民を撫育し、全国を富ませ、奸者をおさえ、賢者を登用し、国民にそのむかうところを知らしめ、海外に真を失わず、民を水火のなかに救うのをもって、真の政府といえるだろう。
 たとえばワシントンの国を建てるとき、天下に大功あってその職を私せず、国民を鎮静させることは、まことに羨望敬服するに堪えないところである。
 支配者の威令がおこなわれないのは、政治に私ことがあるからである。奸邪を責めることがてきないのは、おのれが正ではないからである。兵数の多少と貧富によって、ことが定まるものではない。
 ここにおいていう。天下の大権はただひとつ、正に帰するのである。
   当今、徳川家に奸者がいる。陋習者もいる。大いに私利をたくましくする者もいる。怨み憤る者もいる。徒党をつくるやからもいる。大盗賊もいる。
 紛じょうして、その向かうところを知らない。これらの者は、廃することができないものか。私はその方途を知っているが、なにもいわない。
 識者はかならず、これを察するだろう。
 都下(江戸)の士は、両国の候伯に従わないことを憎み、あるいは疑って叛くことを恐れる。これは天下の大勢を知らないからである。両国の候伯が叛いたたところで、決して志を達することはできない。
 いわんやいま候伯のうちに俊傑がいない。皆小さな私心を壊き、公明正大を忘れている。いちど激して叛けば、その下僚もまた主候に叛くだろう。
 大候伯が恐るるに足りないことは、私があきらかに知っている。然るに幕府はそれを察せず、群羊にひとしい小候を集め、これと戦おうとしている。自ら瓦解をうながすものである。なんともばかげたものだ。
 大勢の味方を集めればそれだけ、いよいよ益のないことになる。ついに同胞あい争う原因をつくれば、下民を離散させるだけのことだ。人材はいずれ下民からでるであろう。
 いまの大名武士は、人格にふさわしい待遇を受けているとはいえない。生まれたまま繭にかこまれたようなもので、まったく働かず、生活は下民をはたらかせ、重税を課して、その膏血を吸っている。
 国を宰いる者の面目は、どこにあるのか。
 (中訳)天下に有識者はなく、区々として自説に酔い、醒めた者がいない。
 今日にいたって、開国、鎖国をあげつらう者は、時代遅れとなってしまった。いまに至って、議会政治の議論がおこっている。
 (中訳)こののち人民の識見が進歩すれば公明正大な政治がおこなわれなければならない。権謀によらず、誠実高明な政事をおこなえば、たやすく天下を一新できるだろう。
 才能ある者が世に立ち、天子を奉じ、万民を撫育し、国家を鎮撫すれば、その任を果たすだろう。事情を察することなく戦えば、かならず敗北し、泰平の生活に慣れ、自らの棒禄をもって足りるとせず、重税を万民に課して苦しめ、なお市民にあわれみを乞うて、日を送るとは、武士といえようか。(中訳)
 ねがわくば私心を去って、公平の政事を願うのみである。      海舟狂夫」
 麟太郎は官軍と戦わずして日本を一新しようと思っていた。しかし、小栗上野介ら強行派は薩長との戦の準備をしていた。麟太郎の意見はまったく届かず、また麟太郎のような存在は幕府にとって血祭りにあげられてもおかしくない、緊迫した形勢にあった。

”われ死すときは命を天に託し、高き官にのぼると思い定めて死をおそるるなかれ”
 一八六七年十一月十五日夜、京の近江屋で七人の刺客に襲われ、坂本龍馬は暗殺された。享年三十三歳だった。
 そんな中、新選組に耳よりな情報が入ってきた。
 敗戦の連続で、鬱気味になっていたときのことである。

「何っ? 甲府城に立て籠もって官軍と一戦する?」
 勝阿波守海舟は驚いた声でききかえした。近藤は江戸城でいきまいた。
「甲府城は要塞……あの城と新選組の剣があれば官軍などには負けません!」
 勝は沈黙した。
 ……もう幕府に勝ち目はねぇ。負けるのはわかっているじゃねぇか…
 言葉にしていってしまえばそれまでだ。しかし、勝はそうはいわなかった。
 勝は負けると分かっていたが、近藤たち新選組に軍資金二百両、米百表、鉄砲二百丁、などを与えて労った。近藤は「かたじけない、勝先生!」と感涙した。
「百姓らしい武士として、多摩の武士魂いまこそみせん!」
 近藤たちは決起した。
 やぶれかぶれの旧幕府軍は近藤たちをまた出世させる。近藤は若年寄格に、土方を寄合席格に任命した。百姓出身では異例の大出世である。近藤はいう。
「甲州百万石手にいれれば俺が十万石、土方が五万石、沖田たち君達は三万石ずつ与えられるぞ!」
 新選組からは、おおっ! と感激の声があがった。
 皆、百姓や浪人出身である。大名並の大出世だ。喜ぶな、というほうがどうかしている。 この頃、近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と名のりだす。
 甲陽鎮部隊(新選組)は、九月二十八日、甲州に向けて出発した。
「もっと鉄砲や大砲も必要だな、トシサン」
 近藤はいった。歳三は「江戸にもっとくれといってやるさ」とにやりとした。
  勝海舟(麟太郎)にとっては、もう新選組など”邪魔者”でしかなかった。
 かれは空虚な落ち込んだ気分だった。自分が支えていた幕府が腐りきっていて、何の役にもたたず消えゆく運命にある。自分は何か出来るだろうか?
 とにかく「新選組」だの「幕府保守派」だの糞くらえだ!
 そうだ! この江戸を守る。それが俺の使命だ!
「勝利。勝利はいいもんだな……だが、勝ったのは幕府じゃねぇ。薩摩と長州の新政権だ」 声がしぼんだ。「しかし、俺は幕府の代表として江戸を戦火から守らなければならぬ」 勝は意思を決した。平和利に武力闘争を廃する。
 そのためには知恵が必要だ。俺の。知恵が。
  近藤たちは故郷に錦をかざった。
 どうせなら多摩の故郷にたちよって、自慢したい……近藤勇も土方歳三もそう思った。それが、のちに仇となる。しかし、かれらにはそんなことさえわからなくなっていた。
 只、若年寄格に、寄合席格に、と無邪気に喜んでいた。
 近藤は「左肩はまだ痛むが、こっちの手なら」とグイグイ酒を呑んだという。
 数が減った新選組には、多摩の農民たちも加わった。
 多摩の農民たちは、近藤が試衛館の出張稽古で剣術を教えた仲である。
 土方歳三は姉に、「出世しました!」と勝利の報告をした。
「やりましたね、トシさん」姉は涙ぐんだ。
「それにしても近藤先生」農民のひとりがいった。「薩長が新政府をつくったって? 幕府は勝てるのですか?」
 近藤は沈黙した。
 そして、やっと「勝たねばなるまい!」とたどたどしくいった。「今こそ、多摩の魂を見せん!」

  江戸は治安が悪化していた。
 また不景気と不作で、米価が鰻のぼりになり百姓一揆までおこる有様だった。盗賊も増え、十一月には貧民たちが豪商の館を取り囲み威嚇する。
 民衆は、この不景気は幕府の”無能”のためだと思っていた。
 幕府強行派の小栗上野介らは、京坂の地において、薩長と幕府の衝突は避けられないと見ていたので、薩摩三田藩邸に強引でも措置をとるのは、やむえないと考えていた。
 江戸にいる陸海軍士官らは、兵器の威力に訴え、藩邸を襲撃するのを上策として、小栗にすすめた。小栗はこれを受け、閣老に伝える。
 小栗たち過激派は、薩摩の江戸藩邸を焼き討ちにすれば、大阪にいる閣老たちも、憤然として兵をあげるだろうと考えていた。しかし、朝比奈たちは「一時の愉快を得るために軽挙をなせば大事態を招く」と反対した。
 だが、十二月二十五日、薩摩の江戸藩邸は何の前触れもなく、かたっぱしから大砲をどんどんと撃ちこまれた。たちまち出火し、藩邸は紅蓮の炎に包まれ、焼失した。
 砲撃家たちはまことに愉快な気持ちだった。八王子へと逃げた薩摩浪人三十人ほどは、その地で召し捕られた。相摸へ逃げた浪士たちは、相州萩野山中の大久保出雲守陣屋へ放火した。不意打ちをくらった陣屋では怪我人もでて、武器を奪われた。
 薩摩藩では、薩摩屋敷が焼き討ちされたとき、約五百人のうち邸内にいたのは百人ほどであったという。
 薩摩藩邸焼き討ちについては、幕府海軍局にはまったく知らされてなかった。当時軍艦奉行をつとめていた木村兵庫守(芥舟)は目を丸くして驚いたという。
  慶喜は十二月、将軍の格式をもって、フランス、イギリス、イタリア、アメリカ、プロシア(ロシア)、オランダの、六カ国公使に謁見を許した。
 慶喜は各大使に次のように挨拶した。
「あいかわらず親睦を続けたい」
 六カ国公使たちに同じような言葉を発した。これをきいた大久保(利通)が、岩倉具視に書状を送り、徳川家の勢力を撲滅するのは武力しかない……と説いた。
 そんな中、薩摩藩邸焼き討ち事件が起こったのである。

  慶応三年(一八六七)京では、慶喜の立場が好転していた。尾張、土佐、越前諸藩の斡旋により、領地返上することもなく、新政府に参加する可能性が高くなっていった。
 しかし、十二月、上方にいる会津、桑名や幕府旗本たちに薩摩藩邸焼き討ち事件が知られるようになると、戦意は沸騰した。「薩長を倒せ! 佐幕だ!」いつ戦がおこってもおかしくない状況だった。蟠竜丸という艦船には榎本和泉守(武揚)が乗っており、戦をするしかない、というようなことを口を開くたびにいっていた。
 やがて、薩長と幕府の海軍は戦争状態になった。
 風邪で元旦から寝込んでいた慶喜も、のんびりと横になっている訳にもいかなくなった。寝ている彼のもとに板倉伊賀守がきて「このままでは済む訳はありません。結局上洛しなければ収拾はつかないでしょう」という。
 慶喜は側にあった孫子の兵法をみて、
 「彼を知り、己を知らば百戦危うからず、というのがある。そのほうに聞く、いま幕臣に西郷吉之助(隆盛)に匹敵する人材はおるか?」と尋ねた。
 板倉はしばらく沈黙したのち「………おりませぬ」といった。
「では、大久保一蔵(利通)ほどの人材はおるか?」
「………おりませぬ」
 慶喜は薩長の有名人たちの名をあげたが、板倉はそれらに匹敵する幕臣はおりませんというばかりである。慶喜は殺されないだろうか? と怖くなった。
 この板倉のいう通りだとすれば幕臣に名将がいないことになる。戦は負けるに決まっている。………なんということだ。
 もはや慶喜には、麾下将士の爆発をおさえられない。
 動乱を静めるような英雄的資質はもちあわせていない。
   だが、慶喜は元日に薩賊誅戮の上奉文をつくり、大目付滝川播磨守に持参させたという。つまり、只の傍観者ではなかったということだ。
「討薩表」と呼ばれる上奉文は、つぎのようなものだった。
「臣慶喜が、つつしんで去年九日(慶応三年十二月九日)以来の出来事を考えあわせれば、いちいち朝廷の御真意ではなく、松平修理太夫(薩摩藩主島津忠義)の奸臣どもの陰謀より出たことであるのは、天下衆知の所であります。(中訳)
 奸臣とは西郷、大久保らを指す」
 別紙には彼等の罪状を列挙した。
「薩摩藩奸党の罪状の事。
 一、大事件に衆議をつくすと仰せ出されましたが、去年九日、突然非常御改革を口実として、幼帝を侮り奉り、さまざまの御処置に私論を主張いたしたこと。
 一、先帝(考明天皇)が、幼帝のご後見をご依託された摂政殿下を廃し、参内を止めたこと。
 一、私意をもって官、堂上方の役職をほしいままに動かしたこと。
 一、九門そのほかの警護と称して、他藩を煽動し、武器をもって御所に迫ったことは、朝廷をはばからない大不尊であること。
 一、家来どもが浮浪の徒を呼び集め、屋敷に寝泊まりさせ、江戸市内に押し込み強盗をはたらき、酒井左衛門尉の部下屯所へ銃砲を撃ち込む乱暴をはたらき、そのほか野州、相州方々で焼き討ち強盗をした証拠はあきらかであること」
  当時、京も大坂も混乱の最中にあった。町には乞食や強盗があふれ、女どもは皆てごめにされ、男どもは殺され、さらに官軍が江戸へ向けて出発しつつある。
 しかも、”錦の御旗”(天皇家の家紋)を掲げて……
 京とに向かう幕府軍の総兵力は一万五千であった。伏見街道で直接実戦に参加したのはその半分にも満たない。薩長連合軍(官軍)は一万と称していたが、実際は二千から三千程度である。比較すると十対二、三である。
 幕府軍の総兵力一万五千の一部は、伏見街道で直接実戦に参加した。
 幕府軍の指揮者は、「何倍もの兵力をもつ幕府軍に薩長が戦をしかけてくるはずはない」とたかをくくっている。見廻組が薩長軍の偵察にいき、引き、また引きしているうちに幕府軍は後退をよぎなくされた。幕府軍は脆かった。
 滝川播磨守は、幕軍縦隊を前進させると、薩長は合図のラッパを吹き、街道に設置しておいた大砲が火を噴いた。左右から幕府軍はたたかれた。
 滝川は大目付で、軍隊の指揮能力に欠ける。彼は大砲の轟音にびくつき馬で遁走した。指揮者がこの調子だから、勝てる戦ではない。砲弾で幕府軍たちは殺されたり、怪我したりして皆遁走(逃走)しだす。兵数は五倍の幕府軍はびくつき混乱しながら逃げた。
 幕府軍は大損害を受け、下鳥羽へ退いた。
 江戸にいる麟太郎は、九日に、鳥羽、伏見の戦の情報をはじめて知った。
 麟太郎は日記に記す。
「正月の何日だったか、急に海軍局の奴がきて、偉い方が軍艦でおつきになったという。俺は上様だろうと何だろうと関係ねぇ。今はでる幕じゃねぇといってやったさ。しかし、勝阿波守を呼び出せとしきりにいう。いけないといって出なかった。
 それでも阿波をよべとうるさい。俺を呼ぶ前にもっとやることがあるだろうに、こんなんだから薩長に負けるんだ」
 慶喜が大坂を放棄したことで幕府の運命がまた暗転した。
 麟太郎は「このままではインドの軼を踏む。今はうちわで争っているときじゃねぇ。このままじゃすきを付かれ日本は外国の植民地になっちまう」と危惧した。
 それは、杞憂ではないことを、麟太郎は誰よりもわかっていた。           


救会・救庄のための同盟

 慶應四年(1868年)三月、遅まきながら会津藩では軍制改革が図られた。歳かさの順に「玄武隊」「青龍隊」「朱雀(すざく)隊」「白虎隊」が組織された。
会津藩は京都守護職、庄内藩は江戸市中取締を命ぜられ旧幕府の要職にあり、薩長と対立したために「朝敵」として新政府からの攻撃対象とされ、特に会津藩は幕府派の首魁と目されていた。
会庄両藩の外交の動きは、2011年2月、東京大学史料編纂所箱石大准教授らにより、両藩が当時のプロイセン代理公使マックス・フォン・ブラントを通じて、領有する北海道の根室や留萌の譲渡と引き換えにプロイセンとの提携を模索していたことを示す、ブラントから本国への書簡がドイツ国立軍事文書館で発見されたことにより、明らかになってきた。
この文書において、プロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクは中立の立場から会庄両藩の申し出を断っている。
しかしプロイセン海軍大臣は、日本が混迷している隙をつき、他国同様、領土確保に向かうべきであると進言している。
会津藩内では武装恭順派と抗戦派が対立したが、藩主松平容保は家督を養子の喜徳へ譲り謹慎を行い恭順の意志を示した。
しかし、この武装恭順は認められず、慶応4年(1868年)1月17日、新政府は仙台藩・米沢藩をはじめとする東北の雄藩に会津藩追討を命じた。
3月2日、奥羽鎮撫総督九条道孝が京都をたって3月23日仙台に入った。
鎮撫使は仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫ったため3月27日に会津藩境に出兵した。
が、この間も仙台藩・米沢藩等は会津藩と接触を保って謝罪嘆願の内容について検討を重ねていた。
4月29日、七が宿・関宿にて仙台・米沢・会津藩による談判がもたれ、会津藩が謀主の首級を出し降伏することに一旦同意した。
しかし、数日後にはそれを翻した内容の嘆願書を持参する。これを見て仙台藩は説得を諦めることとなる。
一方、庄内藩では、江戸市中警備を行っていた新徴組を引き上げるのに当たって、その褒賞として最上川西岸の天領を接収してしまう。
4月10日、このことを口実に奥羽鎮撫府は庄内征伐を決め、久保田、弘前両藩に討ち入りを命じた。
14日には副総督沢為量ら討庄軍が仙台を出発して庄内藩の討伐に向かい、奥羽諸藩の兵とともに新庄城を拠点に庄内藩へ侵攻した。
24日に清川口で最初の戦闘が発生したが、庄内軍が薩長軍を撃退する。
この段階では各藩とも戦闘に消極的であった。
会津藩と庄内藩はともに朝敵とされたことから、会津藩は南摩綱紀を庄内藩に派遣、4月10日に庄内藩重役の松平権十郎らと会合を持ち、会庄同盟を結成する。
なお、松平権十郎は米沢藩が同盟に加われば仙台藩も同盟に加わると意見を述べており、この時期に「奥羽列藩同盟」構想の胚芽が出ていると言える。
そのころ庄内藩は、当時日本一の大地主と言われ藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入するなど軍備の強化を進めており、それが会津藩を勇気づけることとなった。
結局、前述の仙台藩の会津出兵による説得は功をなさないものであったと言えよう。
こうした中、閏4月4日米沢藩・仙台藩4家老の名前で、奥羽諸藩に対して列藩会議召集の回状が回された。
閏4月11日、奥羽14藩は仙台藩領の白石城において列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」などを奥羽鎮撫総督に提出した。
しかしこれが却下されたため、閏4月19日諸藩は会津・庄内の諸攻口における解兵を宣言した。
奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵は4月12日に仙台を出発して白河方面に赴き、各地で会津藩への進攻を督促していた。
が、閏4月19日に福島に入り旅宿金沢屋に投宿していた。ここで、同じく下参謀であった薩摩藩大山格之助に密書を書いた。
内容は、鎮撫使の兵力が不足しており奥羽鎮撫の実効が上がらないため、奥羽の実情を総督府や京都に報告して増援を願うものであった。
が、この密書が仙台藩士瀬上主膳や姉歯武之進らの手に渡った。姉歯らは以前から世良修蔵の動向を警戒していたが、密書の中にある「奥羽皆敵」の文面を見て激昂した彼らは、翌日金沢屋において世良修蔵を襲撃した。
世良はピストルで応戦するが不発、あえなく捕らえられ、阿武隈川の河原にて斬首された。
会津赦免の嘆願の拒絶と世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に変更することとなった。
そのためには奥羽諸藩の結束を強める必要があることから、閏4月23日新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。
その後、仙台において白石盟約書における大国強権の項の修正や同盟諸藩の相互協力関係を規定して、5月3日に25藩による盟約書が調印された。
同時に会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。
奥羽列藩同盟成立の月日については諸説あるが、仙台にて白河盟約書を加筆修正し、太政官建白書の合意がなった5月3日とするのが主流のようである。
翌4日には、新政府軍との会談に決裂した越後長岡藩が加盟、6日には新発田藩等の北越同盟加盟5藩が加入し、計31藩による奥羽越列藩同盟が成立した。
幕府総監沢為量率いる新政府軍は庄内討伐のため秋田に滞在しており、世良が暗殺された後は、九条は仙台藩において軟禁状態になっていた。
5月1日、松島に新政府軍の佐賀藩、小倉藩の兵が上陸し、九条の護衛のため仙台城下に入った。
九条は、奥羽諸藩の実情を報告するために副総督沢と合流して上京する旨を仙台藩側に伝えた。
翌15日列藩会議が開かれてこの問題が討議され、九条の解放に反対する意見も出たが、結局九条の転陣が内定し、18日仙台を発って盛岡に向かった。
 奥羽越列藩同盟の政策機関として奥羽越公議府(公議所とも)がつくられ、諸藩の代表からなる参謀達が白石城で評議を行った。
奥羽越公議府において評議された戦略は、「白河処置」及び「庄内処置」、「北越処置」、「総括」であり、全23項目にのぼる。
主に次のような内容で構成される。
白河以北に薩長軍を入れない、主に会津が担当し仙台・二本松も出動する
庄内方面の薩長軍は米沢が排除する
北越方面は長岡・米沢・庄内が当たる
新潟港は列藩同盟の共同管理とする
薩長軍の排除後、南下し関東方面に侵攻し、江戸城を押さえる
世論を喚起して、諸外国を味方につける
このほか、プロシア領事、アメリカ公使に使者を派遣し貿易を行うことを要請している。
上野戦争から逃れ、6月6日に会津に入っていた輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)を同盟の盟主に戴こうとする構想が浮上した。
当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請された。
が、結局6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に出席した。
また、輪王寺宮の「東武皇帝」への推戴も構想にあったとされるが、よくわかっていない。
確かなのは輪王寺宮が会津入りする以前の4月の段階で用語などが天皇扱いされていたこと。
それと、「東武皇帝の閣僚名簿」としていくつかの文書が知られているだけである。
当時の日本をアメリカ公使は本国に対して、
「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」
と伝えており、新聞にも同様の記事が掲載されている。
なお、輪王寺宮は列藩会議への出席に先立ち、7月10日に全国の10万石以上の大名に対して、「動座布告文」と「輪王寺宮令旨」を発令している。
この中で輪王寺宮は諸大名に対して、
『幼君(明治天皇)を操る君側の奸、薩摩・長州を取り除く』
ことを強く主張している。
幼君を字義通りに解釈すれば明治天皇の帝位を認めていることになるが、必ずしも輪王寺宮の即位を否定する根拠とならない。
したがって、輪王寺宮が奥羽越列藩同盟の事実上の元首であったことは間違いない。
が、東武皇帝として即位したかどうか、統一した見解は得られていない。
 奥羽越列藩同盟は、まず列藩会議があり、その下に白石に奥羽越公議府が置かれた。
その後輪王寺宮が盟主に就任し、旧幕府の閣老である板倉勝静、小笠原長行にも協力を仰ぎ、次のような組織構造が成立した。
盟主 : 輪王寺宮
総督 : 仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲
参謀 : 小笠原長行、板倉勝静
政策機関 : 奥羽越公議府(白石)
大本営 : 軍事局(福島)
最高機関 : 奥羽越列藩会議
この結果、形式的には京都新政府に対抗する権力構造が整えられたとする評価もあるが、これらが実際に機能する前に同盟が崩壊してしまったとする説もあり、奥羽越政権としての評価は定まっていない。
戦闘は大まかに庄内・秋田戦線、北越戦線、白河戦線、平潟戦線に分けることができる。
このうち、秋田戦線については久保田藩の新政府への恭順により加わったものである。
なお、同様に新政府側となった弘前藩との間では野辺地で盛岡・八戸両藩と戦闘となっている(野辺地戦争)。
江戸警護役として「薩摩藩邸焼き討ち」を断行した庄内藩(酒井氏)と、列藩同盟に軟禁されていた九条総督を迎え新政府側に転じた久保田藩(佐竹氏)を中心とする戦い。
薩摩藩、長州藩を中心とする新政府は、薩摩藩士、大山綱良を下参謀に、公家、九条道孝を総督にそれぞれ任命して奥羽鎮撫総督府をつくると、薩摩藩兵を海路、仙台藩に送り込んだ。
仙台藩に会津追討を命じた総督府は、庄内藩を討つため仙台から出陣した。
4月24日、いわれなき「朝敵」の汚名を着せられた庄内藩は、清川口から侵攻してきた大山綱良率いる新政府軍を迎え撃った。
新政府軍の侵攻を予想して、豪商、本間家からの献金で最新鋭の小銃を購入し洋化を進めていた庄内藩は、戦術指揮も優秀であったため、新政府軍を圧倒した。
 5月18日に仙台を出た九条総督一行は「伊達の敵といえば」と6月3日に盛岡に入ったが、盛岡藩はいまだ藩論統一をみない、新政府側家老暗殺の動きすらある状態であったことからこれを諦め、盛岡藩は金銭を支払う形で領内退去を願い、総督は6月24日秋田へ出発した。
7月1日、九条一行は秋田にて沢副総督と再会し、東北の新政府軍が秋田に集結することになった。
同藩出身である平田篤胤の影響で尊王論の強かった久保田藩においては、同盟か朝廷かで藩論が二分された。
が、平田学の影響を受けた若い武士により、仙台藩からの使者を斬殺するに至って(このとき盛岡藩士も巻き込まれているが泣き寝入りとなった)、政府軍への参加と庄内藩への進攻を決定した。
仙台藩はこれに怒り久保田領内に侵攻し、庄内藩と共同作戦をとりつつ横手城を陥落させ、久保田城へ迫った。
庄内藩は新政府軍側についた新庄藩、本荘藩、久保田藩へと侵攻する。藩論統一が成されていなかった盛岡藩は仙台藩に恫喝される形で軍を発し、久保田藩領内北部から進入、かねてより仙台藩と親しかった家老楢山佐渡の指揮のもと、町村を焼き払いながら侵攻し、大館城を陥落させ、さらに久保田城の方向に攻め入った。
秋田南部での戦いでは、薩長兵や新庄兵が守る新庄城を数で劣る庄内藩が激戦の末に撃破し、秋田に入った後も、列藩同盟側は極めて優勢に戦いを進めていた。
特に、庄内藩の鬼玄蕃と呼ばれた家老酒井吉之丞は二番大隊を率い奮戦した。
彼は、最初から最後まで負け戦らしい戦闘を経験せず、同盟側の多くが降伏し、庄内領内にも敵が出没するという情勢を受けて、現在の秋田空港の近くから庄内藩領まで無事撤退を完了させて、その手腕を評価された。
秋田北部の戦いでは盛岡藩は大館城を攻略した後、きみまち坂付近まで接近するものの、新政府軍側の最新兵器を持った兵が応援に駆けつけると形勢は逆転し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。
盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた。
結果として、久保田領内はほぼ全土が戦火にさらされることになった。
長岡・米沢藩を中心とした列藩同盟軍と新政府軍との長岡藩周辺及び新潟攻防戦を中心とした一連の戦闘。
北越においては、5月2日(6月21日)の小千谷談判の決裂後、長岡藩は奥羽越列藩同盟に正式に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。
これにより長岡藩と新政府軍の間に戦端が開かれた。
家老河井継之助率いる長岡藩兵は強力な火力戦により善戦するが、5月19日には長岡城が陥落した。
しかし、その後も長岡藩は奮闘し、7月末には長岡城を一時的に奪還したが、この際の負傷が原因で河井継之助は死亡した。
結局長岡城は新政府軍に奪われ、会津へ敗走した。
新潟は列藩同盟側の武器調達拠点であるとともに、阿賀野川を制することにより庄内・会津方面の防衛線としても重要な拠点であった。
新潟は米沢藩を中心に守りを固めていたが、7月25日、新政府軍に寝返った新発田藩の手引きによって新政府軍が上陸。
同月29日には新潟は制圧され、米沢藩は敗走した。謙信公以来、関ヶ原で西軍について負けた以外「無敗伝説」を誇っていたさすがの米沢・上杉藩も最新兵器や物量で優る官軍には、勝てなかった。
会津藩及び奥羽越列藩同盟軍と北上してきた新政府軍との白河口、二本松、日光口、母成峠から若松城下の戦いに至る一連の戦闘。
同盟結成後直ちに白河城を制圧した同盟軍であった。
が、5月1日、薩摩藩士、伊地知正治率いる新政府軍は同盟軍から白河城を奪還する。
以後、白河城をめぐり3か月余りも攻防戦(白河口の戦い)が行われた。
5月1日仙台藩・会津藩等の連合軍は2500以上の大兵を擁しながら白河口の戦いで新政府軍700に大敗し白河城も陥落する。
6月12日には仙台藩・会津藩・二本松藩連合軍が、白河城を攻撃したものの、失敗に終わった。
6月26日には列藩同盟軍が白河から撤退し須賀川へ逃れることとなる。
一方、太平洋側では、6月16日、土佐藩士、板垣退助率いる新政府軍が、海路、常陸国(茨城県)平潟に上陸した。
6月24日、仙台藩兵を主力とする同盟軍は、新政府軍と棚倉で激突した。6月24日には棚倉城が陥落。
さらに、7月13日には、「平城の戦い」が行われた。列藩同盟の準盟主格の米沢藩はこの戦闘には不参加で、同盟軍は平城の戦いに敗れた。
仙台藩兵が退却すると、新政府軍は仙台藩兵を追撃。
7月26日、同盟軍と新政府軍は広野で再び戦い、新政府軍は同盟軍を破った。
その後8月6日には相馬中村藩の降伏により完全に新政府軍が制圧する。
7月26日には勤皇派が実権を得た三春藩が新政府軍に恭順し、二本松方面へ攻撃準備に加わり、7月29日に二本松城が陥落した。
二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標を会津にするか仙台・米沢にするかで意見が分かれた。
が、会津を攻撃することとなった。会津戦争の始まりである。
会津は江戸占領を意図し、南方の日光口を中心に若松から遠く離れた各所に部隊を送っていたが、二本松まで北上していた新政府軍は若松の東の母成峠から攻め、敏速に前進し8月23日には若松城下に突入した。
遠方に兵力があった会津藩は新政府軍の前進を阻止できず、各地の戦線は崩壊し、各地の部隊は新政府の前進を阻止するでもなく若松への帰還を志向し、城下では予備部隊である白虎隊まで投入するがあえなく敗れた。
7月26日まず三春藩が降伏、28日には松前藩で尊王派の正議隊による政変(正議隊事件)が起きて降伏した。
続いて、29日に二本松藩の本拠二本松城が落城した。
次いで8月6日相馬中村藩が降伏。
日本海側の戦線では、新政府軍は新潟に上陸した後、8月いっぱいは下越を戦場に米沢藩と戦っていたが、遂に羽越の国境に迫られた米沢藩は9月4日に降伏、そして12日には仙台藩と、盟主格の二藩が相次いで降伏した。
その後、15日福島藩、上山藩、17日山形藩、18日天童藩、19日会津藩、20日盛岡藩、23日庄内藩と主だった藩が続々と降伏し、奥羽越列藩同盟は完全に崩壊した。
盛岡藩降伏後の9月23日未明、突如として弘前・黒石両藩が盛岡・八戸両藩が守備する野辺地へ侵攻した。
一旦は盛岡・八戸藩が退却するも、反撃に転じ弘前・黒石軍を撃破する。
双方の戦死者は盛岡・八戸両藩が8名なのに対し、弘前・黒石両藩が29名(或いは43名とされる)であり津軽側の大敗であった。
この戦闘の原因は津軽側の実績作りといわれるが不明である。
同様の小競り合いは鹿角郡濁川でも起こっているが、いずれも戦後処理においては私闘とされた。
白石列藩会議から参加した14藩
仙台藩
米沢藩
二本松藩
湯長谷藩
棚倉藩
亀田藩
相馬中村藩
山形藩
福島藩
上山藩
一関藩
矢島藩
盛岡藩
三春藩*
新たに奥羽同盟に参加した11藩
久保田藩(秋田藩)*
弘前藩*
守山藩*
新庄藩*
八戸藩
平藩
松前藩*
本荘藩*
泉藩
下手渡藩
天童藩
奥羽越列藩同盟に参加した北越6藩
長岡藩
新発田藩*
村上藩
村松藩
三根山藩
黒川藩
その他
請西藩
注)*は新政府軍に寝返った藩(進退窮まっての降伏は除く)

         3 江戸無血開城





話を少し戻す。
 大坂からイギリスの蒸気船で江戸へと戻ったのち、福地源一郎(桜痴)は『懐従事談』という著書につぎのようなことを書いている。
「国家、国体という観念は、頭脳では理解していたが、土壇場に追いつめられてみると、そのような観念は忘れはてていた。
 常にいくらか洋書も読み、ふだんは万国公法がどうである、外国交際がこうである、国家はこれこれ、独立はこういうものだなどと読みかじり、聴きかじりで、随分生意気なこともいった。
 そして人を驚かし、自分の見識を誇ったものだが、いま幕府の存廃が問われる有様のなかに自分をおいてみると、それまでの学問、学識はどこかへ吹き飛んだ。
 将来がどうなり、後の憂いがどうなろうとも、かえりみる余裕もなく、ただ徳川幕府が消滅するのが残念であるという一点に、心が集中した」
 外国事情にくわしい福地のようなおとこでも、幕府の危機はそのようなとらえかただった。「そのため、あるいはフランスに税関を抵当として外債をおこし、それを軍資金にあて、援兵を迎えようという意見があれば、ただちに同意する。
 アメリカからやってくる軍艦を、海上でだまし取ろうといえば、意義なく応じる。横浜の居留地を外国人に永代売渡しにして軍用金を調達しようという意見に、名案であるとためらいなく賛成する。(中訳)
 謝罪降伏論に心服せず、前将軍家(慶喜)をお怨み申しあげ、さてもさても侮悟、謝罪、共順、謹慎とはなにごとだ。
 あまりにも気概のないおふるまいではないか。徳川家の社稷に対し、実に不孝の汚名を残すお方であると批判し、そんな考えかたをおすすめした勝(阿波・麟太郎)、大久保越中守のような人々を、国賊のように罵り、あんな奸物は天誅を加えろと叫び、朝廷への謝罪状をしるす筆をとった人々まで、節義を忘れた小人のように憎んだ」
 当時の江戸の様子を福沢諭吉は『福翁自伝』で記している。
「さて慶喜さんが、京都から江戸に帰ってきたというそのときに、サァ大変、朝野ともに物論沸騰して、武家はもちろん、長袖の学者も、医者も、坊主も、皆政治論に忙しく、酔えるかせこせとく、狂するがごとく、人が人の顔をみれば、ただその話ばかりで、幕府の城内に規律もなければ礼儀もない。
 ふだんなれば大広間、溜の間、雁の間、柳の間なんて、大小名のいるところで、なかなかやかましいのが、まるで無住のお寺を見たようになって、ゴロゴロあぐらをかいて、どなる者もあれば、ソッと袖下からビンを出して、ブランデーを飲んでる者もあるというような乱脈になりはてたけれども、私は時勢を見る必要がある。
 城中の外国方の翻訳などの用はないけれども、見物半分に城中に出ておりましたが、その政論良好の一例を見てみると、ある日加藤弘之といま一人誰だったか、名は覚えてませんが、二人が裃を着て出てきて、外国方の役所に休息しているから、私がそこにいって、『やあ、加藤くん、裃など着て何事できたのか?』というと、『何事だって、お逢いを願う』という。
 というのはこのとき慶喜さんが帰ってきて、城中にいるでしょう。
 論客、忠臣、義士が躍起になって『賊を皆殺しにしろ』などとぶっそうなことをいいあっている」

 麟太郎が突然、慶喜から海軍奉行並を命じられたのは慶応四年(一八六八)正月十七日夜、のことである。即座に、麟太郎は松平家を通じて、官軍に嘆願書を自ら持参すると申しでた。
 閣老はそれを許可したが、幕府の要人たちは反対した。
「勝阿波守先生にもしものことがあればとりかえしがつかない。ここは余人にいかせるべきだ」
 結局、麟太郎の嘆願書は大奥の女中が届けることになった。
 正月十八日、麟太郎は、東海道、中仙道、北陸道の諸城主に、”長州は蛤御門の変(一八六四 元治元年)を起こしたではないか”という意味の書を送った。