緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.137「あのひととは一緒に仕事が出来ません」朴槿恵大統領ヒステリー女状態!

2014年11月27日 17時40分01秒 | 日記






 産経元ソウル支局長「暗黒裁判」言論の自由さえ!


 韓国の現職大統領・朴槿恵(パク・クネ)大統領の名誉を棄損したとして、元・産経新聞ソウル支局長の加藤達也氏が韓国国内で拘束され、裁判を受けて車にクレイジーな韓国人たちに生卵を投げつけられて一時騒然とした事件は、深刻だ。
韓国には言論の自由さえないのか?加藤記者がインターネット新聞で書いたことが名誉棄損だ、というなら「暗黒裁判」みたいな卑怯なマネをせず「セウォール号沈没時には朴槿恵大統領はうわさになった男性とは密会していない」とスケジュールやアリバイを明らかにすればいいだけの話である。名誉棄損だ、嘘つきだ、と加藤さんを弾劾するならアリバイを示せばいいではないか!あんな卑怯なことばかりするから韓国人が嫌われるのだ。罪はすべて朴槿恵氏の嘘だ。
何故あんな卑怯で姑息なマネをするのか。これでは朴槿恵氏=コラソン・アキノ氏、ということで、韓国は明らかに北朝鮮みたいではないか。あのような卑怯で卑劣なマネをするから韓国人は嫌われるのだ。朴槿恵大統領がアリバイを示せば、それで一件落着なのに、「密会が真実」だから、裁判で「個人攻撃」「加藤氏の人格攻撃」戦略で「暗黒裁判」にかけているのだろう。
これでは韓国と日本が、インドやパキスタンのような最悪な関係になってしまう。朴槿恵氏はIQは高いのだろうが、どうも最近はヒステリー女みたいな嫌な感じだ。逆サッチャーさんではないが「あのひととは一緒に仕事が出来ない」。
朴槿恵大統領、嘘をつくな!噂になった密会、男性と密会していたと真実を話せ!無罪のひとを「暗黒裁判」にかけて平気でいるな。卑怯なマネをするな。言論の自由くらい韓国だってあるだろう?大韓民国は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)か?
まともになれ、朴槿恵大統領!これ以上日韓関係を破壊するな!日本人の代表として「暗黒裁判」の即時撤回謝罪会見を要求する!「暗黒裁判」を続けるなら世界中に、韓国のおかしさ、韓国のいびつさ、韓国大統領の無能さ、が知れ渡るぞ。
目を覚ませ!朴槿恵大統領!

緑川鷲羽(みどりかわ・わしゅう)・44・フリージャーナリスト・

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岸信介 安保の城の妖怪・岸信介伝「巨魁編」アンコールブログ連載小説VOL.10

2014年11月27日 06時41分20秒 | 日記






確かに「日本の象徴」としての天皇制度は私は否定しない。だけど私は小林よしのりのように天皇を「神格化」したり「ありがたがったり」しない。象徴ではあるが、皇族は政治家や官僚と同じく国民の納める税金で食べさせてやっている「パブリック・サーバント(公僕)」です。何故、「ヒトラーと同じく独裁者と欧米から見られていた昭和天皇・裕仁」が罪に問われなかったのかは分かる。当時、GHQのマッカーサーは「天皇制度」を廃止しようとしていた。が、「天皇制度を廃止したら日本人が内戦を
起こす」「天皇制度を廃止したら日本はまた戦争をする」「天皇制度を廃止したらとんでもない独裁者が出現するかもしれない」というミス・インフォメーション(根拠のない噂)を受け入れて天皇制度を廃止しなかっただけだ。が、天皇制度を廃止しても誰も内戦など起さないし、動乱も独裁者も現れはしなかっただろう。それどころか天皇制度という「昔からの曖昧な制度」を残した為に日本人は「無責任」「批判もなく天皇を崇める」本当に無責任な他人頼りになった。天皇制度は何らかの制度疲労を起こしている。その典型的な例が「雅子さんの精神疾患」や「皇后の失語症」だろう。まあ、私自身がうつ病不眠症の「適応障害」である為に雅子さん(小和田雅子さん)の「痛み」がよくわかります。心の病気は目に見えない部分で普通のひとには「落ち込んでいる」としか見えない。だからうつ病のひとに「頑張れ」と言ってしまう。「頑張らなければならない」ことなどわかっています。でも病気で「頑張れない」のです。私の兄貴(緑川和宏)などは
うつ病の症状どころか病名さえ知らず「お前を大人だと認めていない」といいました。猿には私が「さぼっている」と写ったようです。心ない言葉や罵声、嘲笑がいかにうつ病の患者を傷つけるか?皇太子の家族が住む「東宮御所」が改築されて屋根にはソーラーパネルが付けられたという。先日、あるひとが「明治維新を起こした志士はすごかった。その同じ日本人の血が流れているのにどうして今の日本人は維新の革命を出来ないのか?」と私に聞いてきた。よくある意見ではある。確かに坂本竜馬だの西郷
隆盛だの勝海舟だの桂小五朗(木戸孝允)だの何度もドラマになっている。わが国では明治維新こそ「日本のフランス革命である」という。が、果たして薩摩や長州の藩士達は「日本のフランス革命」を果たしたのであろうか?私は明治維新は「革命」でもなければ「刷新」でもない。所詮は日本のトップが、将軍から天皇に代わったイノベーションに過ぎないと思っている。絶対王制を打ち倒し、過去の土地支配の上に成立する貴族階級をすべて廃止して、「王がどれほどのものだ。ひとりのフランス人に比べればゴミと同じ存在だ」というルソーの有名な言葉に代表される「フランス革命」のパワーとメンタリティは「明治維新」のどこにも見られない。結局、明治維新の志士達は「天皇制」という「昔からの曖昧なシステム」に逃げ込んだだけです。大嘗祭だの即位礼儀という意味のないセレモニーに数十億円という税金が使われたのに誰も咎めない無責任さ。結局、この程度だからナショナリズムと国粋主義の区別もつかない。漫画家だけでなく大学教授まで「侵略戦争」を
否定して「過去の日本人が悪いなんて東京裁判史観だ」だの侵略戦争下での大虐殺や強姦行為を他人事のように「遺憾に思う」だけ。大人の国なら当たり前の謝罪がない。謝罪もしない。賠償金も払わない。他人事のように「遺憾に思う」だけ……。
明治維新のどこが維新の革命なのだろう?只将軍から天皇に首をすげ替えただけだ。(ここから官僚政府が誕生した。それから120年後で官僚独裁制が確立した。官僚独裁制を警戒した経済学者がマックス・ウェーバーだった)結局、この程度だからナショナリズムと国粋主義の区別も出来ない。おまけに天皇のクレームには右翼が銃撃戦争で答える有様である。天皇制を金科玉条のように崇め、誰も逆らわない。曖昧な天皇制にどっぷりとつかり誰も文句が言えない。言った途端に右翼が後ろから銃撃してくる。天皇陛下が悪い訳ではありません。雅子さんが悪い訳ではありません。結局、天皇制を利用している「側近」や「宮内庁の利益集団」「皇室担当マスコミ」の皇産複合体が「元凶」なのである。即位礼儀は別にいいかもしれない。が、現在の天皇陛下が崩御した後に雅子さんが新皇后陛下となり得るか?皇太子に次期天皇陛下の重責が担えるか?後継者はどうするつもりなのか?疑問ばかりです。即位礼儀や成婚50周年記念写真集だのの前に考えることが山積し
ているのである。日本人は天皇陛下万歳という前に自分の頭でよく考えることだ。



本誌(小学館社SAPIO誌2014年3月号より)は特定秘密保護法案に一貫して反対してきた。権力者にとって都合の悪い情報が「秘密」に指定され、永久に隠される懸念があるからだ。軍事ジャーナリストの清谷信一氏は安全保障上の理由から一定の秘密保護は必要としつつも、防衛大臣の記者会見で「秘密に関する取り扱い」について懸念を指摘した。するとどうだろう。国民の知る権利を守らなければならないはずのNHK記者に「質問するな」と妨害されたのである。
軍事ジャーナリスト清谷信一著作小学館SAPIO誌3月号27~28ページ記事参照。*私は具体例として、拙著『防衛破綻』(中公新書ラクレ)について陸上幕僚監部装備部がかつて作成した「正誤表」を取り上げた。それは著者に、つまり私(清谷氏)の著書に誤りがあると指摘したものだが、私はその一部を入手し、指摘されていた「誤り」のほとんどは実際は正しく、「誤正表」になっていた。しかも個人的な意見やウィキペディアから参照したと思われる記述も見られた。
私はそのことを陸幕装備にその点を質したところ「正誤表」の記述のほとんどが誤りだと認めた。だが、開示は、機密なので無理だ、という。ウィキペディアをもとに書かれた文章が機密であろうはずがない。出鱈目な文章を作成しても、「どうせ外部に開示されることはない」と高をくくっているのだ。
防衛大臣は「あとで報道官の方から対応させていただきたいと思います」と回答した。そして会見後、廊下で防衛記者クラブの所属記者と思われる人物から「記者会見で個人的な質問をするな」という言葉を投げかけられた。私がその真意を質すると、彼は「独り事だ」と言った。さらに所属と氏名を尋ねると背を向けて走り去ったのだった。私はこのことをブログに書き、走り去る男の写真も撮影し掲載した。すると、本人から私に連絡があった。その人物はNHK政治部の記者、S氏だった。
「この番号で非通知でも大丈夫ですかね?」と事務所に電話をかけて、事務員に「「清谷先生」とは知らなかったんです」といったという。私は多忙だし、会っても益はないと面会を断った。
しかし、日本の記者クラブは外国と比べて基本的に記者クラブに加盟している新聞や雑誌、フリーランスの記者は参加できない。私はこの道20年のキャリアがあるから「個人的な質問をするな」と恫喝されても委縮しないが、若手の記者は委縮して立派な記者として、育たないだろう。私は海外のプレスにも参加することが多いが「質問するな」等といわれたことは一度もない。国民の知る権利の為にジャーナリストは為政者や権力者と闘わなければならない。取材相手が嫌がる質問も正しい情報や質問ならしつこくぶつけなければならない。NHKは何を考えているのか?
(SAPIO誌の問い合わせにNHKは、電話にて「清谷氏には誠意を持って対応しました。理解を得られず残念です」とコメントした)(小野寺防衛大臣は質問に対し、「何か隠しているという様な懸念を持たれないように努力をいたしますし、また、できるだけもし文章で返せる物がありましたら文章等で返していけるように指示していきたいと思います」と回答。)
*「特定秘密保護法案」にジャーナリズムが反対するのは当たり前のことだ。朝日新聞や東京新聞が「扇情的」だとは全然思わない。民主主義の基本は政府と国民の間にマスコミ・ジャーナリズムが介在しなければ成り立たない。*石破茂氏がいう「国家があってこその言論の自由がある」という論法も間違っている。北朝鮮という国家、中国という国家、韓国という国家には、言論の自由がない。たったこれだけで論破できる。*公務員は権力の僕(しもべ)ではない。公の僕である。いわゆるパブリック・サーバントである。
*公務員を政府・権力の僕にしようというのが「特定秘密保護法」である。(官僚が民を僕にする訳だ。官僚の官僚による官僚の為の国家・霞が関幕府国家だ。)*安倍首相の言う「国家の秘密は衛星写真が99%。国民の生活に影響しない」それなら現行法で対処しなさい。「秘密保護法」を読んだら、政府の恣意的な秘密指定と拡大解釈を避けられないと分かる。(*ここまで小林よしのり氏記事参照・緑川鷲羽加筆2014年3月号小学館SAPIO誌より)




話は変わる。
 慰安婦と挺身隊をごっちゃに認識している方が大半なので、ここで解説したい。
 慰安婦とは風俗業で、確かに強制的とか親の身勝手で風俗職業に就いた女性(当時)も残念ながらいたのかも知れない。だがいわゆる「従軍慰安婦」となると話は別で、日本軍が韓国や朝鮮半島や中国本土で「まるで北朝鮮の拉致」のように、当時の女性を拉致して強制従事させたという資料は現在一枚も見つかっていない。
 確かに、私は従軍慰安婦や侵略戦争はあったと思っているし、過去の日本軍部や日本軍人に国際法上間違いなく被害になったという証拠がある被害者には「日本国としての「謝罪」と「賠償」」はきちんとするべきであると思う。
 だが、歴史的な事をいうと1951年のサンフランシスコ講和条約で「日本の戦後賠償」は終わっている。また条約不参加国の韓国、台湾、シンガポール、インドネシア、フィリピン等にも「戦後賠償」と「国家としての謝罪」は終わっている。
 また韓国には1965年の「日韓基本条約」で韓国に8億ドル賠償しているし、アジア女性基金から100億円の賠償と、当時の小泉首相からの直筆の謝罪文章も郵送している。
 ちなみに挺身隊というのは風俗業ではない。
 挺身隊とは軍人さんの婦人や女子生徒等の勤労団体組織である。NHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」で主人公の梅子や母親がネジつくりや溶接をしたりしていたので見た人もいよう。そういう銃後の活動である。
 当然ながら岸信介の婦人・良子も娘の洋子(安倍晋三氏の母)も挺身隊として軍需工場で働いた経験を持つ。
 信和というのは岸信介の子供で、安倍晋三氏の伯父さんにあたる。洋子の兄だ。
 信和は三歳のとき左足首に異変が起き、小児麻痺と診断されたのだが、両親はなんとか治療法がないものかと必死の努力を続けていた。
 息子が小児麻痺(ダウン症と似てる病)と知ったときの岸の意気消沈ぶりは気の毒なほど憐れであったそうだが、良子が受けた衝撃も大きかった。

「谷底に突き落とされたような気持でした。しばらくは外に出かけるのがいやでした。よそのお子さんが元気に遊んでいられるのを見るのがつらくて」
          (吉本重義「岸信介伝」)
 岸信介は夏になると蚊帳の中で娘の洋子や息子で長男の信和に昔話をおもしろくかたっていたという。
「いつも同じ話なんですが、父の話しぶりがおかしくてなんべん聞いても面白かったです」

 岸信介は同じ山口県出身の北村サヨ(天照皇大神宮教・教祖)に十一年前、
「巣鴨に三年ほど行って来い。魂を磨いたら、総理大臣として使ってやるわい」と言い放ち、しょげかえった家族、村人を仰天させたものだ。
 サヨの予言は的中した。
 岸は選挙区での票集めが胸中にないからサヨの信者ではなかったが、一目置いていたという。
 総理をつかまえて「オイ、岸! どうじゃ」で通したサヨには頭が上がらなかった。
 だが、そんなサヨも昭和四十三年(一九六八年)十二月、すべての体力を使い果たしたように六十八年の生涯を閉じ、いよいよ神様のもとへ帰った。
 岸は葬儀にも出席し、ねんごろに弔っている。

 東京大空襲・大阪大空襲で住む家を焼かれた寛子や良子らは大阪鉄道局の官舎で暮らした。
 だが、またも空襲があり、佐藤栄作は四十度の高熱で倒れ、病気で病院に入院。意識が戻り始めた頃に玉音放送(昭和天皇・裕仁による日本国敗戦ラジオ放送)が聴こえてきたのだという。
 同時に岸信介は戦犯容疑で逮捕だという。
 岸信介は巣鴨プリズンの檻の中の人間となった。
 
 名にかへてこのみいくさの正しさを
  来世までも語り伝へん

 どうせ死刑だと思って、名より実をとる、とばかりに牢屋に入る前にそういう辞世の句をつくった。
 手紙好きの岸信介は娑婆への執念を見せ始める。手紙を数えきれない程家族に送った。
 結局は岸信介は戦犯とはならずだった。運がいい、岸信介は思ったろう。巣鴨拘置所から出てきた岸はがりがりに痩せて髭がぼうぼうで親戚縁者も「このひと誰?」というように、みんな遠巻きにみていた。
「俺だよ、岸だよ、よし子さん、栄作」
 声でやっと確認できたようだ。
「タバコを一本くれ、うまい寿司でも食べたい!」
 岸信介は娑婆に出ていったのはそれだったという。
(「絢爛たる悪運 岸信介伝」工藤美代子著作 幻冬舎九十六~二百七十三ページ)
                               






話は変わる。
  昭和三十年代の新潟は、豪雪と夏は豪雨の被害を頻繁に受けていた。
 三十九年の豪雨は前例のないほど激しく、角栄が蔵相となった頃のことであった。
「越山会査定」が始まったのもこの頃だという。
 越山会員は、道路整備、災害対策、豪雪対策、除雪などで連日東京に陳情にいっていた。四十年代に入ると、角栄は公共事業の誘致を増やしていった。
 新潟の公共事業は、「越山会」が独占したという。
 角栄にはもっとも近い大手建設業社(ゼネコン)がいて、その下にいもづる式に、中小零細建設業社がいる。
 角栄はその建設業者に公共事業を次々と発注し、キックバックを得ていた。
 新潟の建設業者は、「越山会」に入らなければ事業の獲得もできない。
 それだけ、角栄は地元に強い権力をもっていた。
 中小の企業が、”談合告発”でもすれば、「越山会」は噛み付いた。
「越山会に逆らって長岡で事業ができるならばやってみろ!」
 新潟三区の公共工事は「越山会」がしきっており、業者たちは工事が終わると謝礼金を払うことが決められていた。
 下請けは謝礼金を出さないかわりに、工事単価を削られたという。
 角栄は中央政治の調整、地元への公共事業誘導、用地買収の操作、謝礼金など集金システムをつくっていた。
 それら金脈は完璧なもので、証拠をいっさい残さなかった。
しかし、角栄には「闇の将軍」としてのイメージはない。
 それは多分に、大金を集めても私腹を肥やさず、どんどんバラまいた結果だろう。
 それが例え汚い金であったとしても、困っているときに金で支援を受ければ喜ばしいことだ。恩を感じるだろう。
 著者の愚兄などは、角栄とはまるでちがう。
 著者の愚兄は一円もださないくせに、ありがたくないくだらん説教をたれる。他人に説教をたれるだけの人徳もないのにも関わらず……
 愚兄など何の役にも立たない。
 くだらん説教などだけで支援金が無ければ、馬鹿らしいだけだ。
 角栄は貧しい農民の子として生まれ、貧乏を経験しているから、そこら辺のことは熟知していたのであろう。
 実に興味をそそられる、不思議な人物だといわねばならない。
 角栄は陳情団体をさばく調整のうまさによって、金を集めたという。
 昭和四十一年十二月二日、角栄は自民党幹事長を辞任した。任期はわずか一年間であった。
 角栄に暗い疑惑があったため辞めさせられたのである。
 しかし、角栄はそんなことぐらいなんということはない。平然としていた。
「おらは首相にいつかなる。幹事長などどうでもいいべ」
 角栄はそう思っていた。
 高度経済成長期にはいると、新潟の子供は大学に入る者が多くなる。
 しかし、県内に就職先は少ない。
 電電公社(現NTT)、国鉄(現JR)など、角栄にはコネがある。新潟三区の若者をどんどんそこへ就職斡旋した。
 もちろん、子供の就職先を紹介してくれた親は角栄に一票入れる。
 越山会によって就職できた者は、のちに一万人をこえたといわれる。
 就職と結婚、交通事故取り消しなどの恩恵を受けたものは角栄に必ず一票入れる。角栄はそこまで計算して斡旋したのである。
 角栄は、政官財らに餞別として大金を渡した。運転手にも頭を下げて謙虚さをパフォーマンスする。こうした行動は、エリート官僚から政界入りした政治家には理解できない。 昭和四十年、角栄が山一救済のときにつかった日銀融資のアイデアは、「あ、これあるじゃないか」と角栄が日銀法に目を通して適用したのだという。
 角栄はひとを憎まない。
「にくんでなにがいいことある?」というのだ。
 松下幸之助も井深大もまたひとを憎まなかった。
 田中角栄にはインテリにありがちの自意識過剰”がない。むしろ、自分に関する恐怖さえある。それが謙虚さになる。
「もう偉くなったのだから、ここら辺で偉ぶってもいいだろう?」
 ときかれると、角栄は、
「おれってちっとも偉くなんてないよ」と答えたという。
 角栄はまだ五十歳にもならない。
 四十三年十一月三十日、無役のあと角栄は、第二次佐藤内閣で、自民党幹事長に復帰することになった。
 前幹事長の福田は大蔵大臣になった。
 福田は角栄の最大のライバルだった。
 高等小学校しか出てない角栄とは違い、福田は東大を卒業している。
 角栄は金の力と現実的思想でひとを魅了し、福田は経済成長路線をとりつづければ弊害があこると考える保守である。
 昭和三十九年の東京オリンピックでは、福田は、公共投資は財政破綻をまねく、と慎重だった。しかし、角栄は金満政治にどっぷりとつかっており、聞く耳をもたない。
 そんな中、戦後の政治家の英雄・吉田茂が昭和四十二年十月二十四日、死んだ。享年八十九歳だった。
 角栄は福田と元首相岸信介に追い落とされた。そのことは同年の佐藤内閣改造人事で、角栄が自民党総務会長になれなかったことでわかるという。
 福田は対角栄に全力をそそいだ。
「いや、佐藤首相あっての田中であって、田中あっての佐藤内閣ではないのだからよい。おれは三十代で大臣にしてもらった恩がある」
 角栄は憾み節は吐かない。

 角栄は幹事長に復帰した。
 これには裏があるという。福田と岸が角栄を官房長官にさせて力をそごうとした。しかし、角栄は「おらは官房長官にはならねぇよ」といって幹事長になった……という次第である。のちに角福戦争ともよばれる戦いは前哨戦を迎えていた。
 角栄はもうはっきりと次期自民党総裁を射程に収めていたのだという。
 福田は岸派のプリンスといわれていたが、佐藤首相とも仲が深い。
 福田が大蔵省の陸軍兼鉄道担当主計官であったとき、佐藤は鉄道省次官であった。
 佐藤は実兄の岸を強く支持する福田に、好意をもっていたという。
 自民党総裁を目指す角栄にとって、福田はもっとも警戒するライバルであった。
 角栄は五十歳になった。
 自民党幹事長として精力的に働いている。
「高速鉄道を日本中に作りたい。二十年来考えておりましてな」
 角栄は記者にいう。そして、卓上のベルを何度も鳴らす。
「おいっ!」
 秘書がすっとんでくる。
「かばんのなかの鉄道の書類っ!」
 地方からの陳情団体がごあいさつしにくる。秘書が番をつげる。
「はいっ!」
 とたって角栄の前で陳情をする。まるで病院の待合室だ。
 陳情は一分か三分、ダメなものはダメとはっきりいう。
 角栄は例のダミ声で答える……

 角栄が幹事長になっての最初の難題は「大学運営臨時措置法」の成立であった。
 当時、ベトナム戦争反対とするヒッピーたちが暴れまわっており、また中国では百万を越える紅衛兵が毛沢東のプロパガンダ(大衆操作)で暴れまわっていた。
 角栄はそうした若者たちを抑える策を考えていた。
 抗議集会はやはりおこなわれた。
 若者たちは火炎ビンなどで暴れ、機動隊が鎮圧にあたった。
 当時の衆議院議長は重宗雄三(しげむね・ゆうぞう)という男である。
 いつまでも議会開始のベルを鳴らさない。
「あのじいさん、ぶったたいてやる!」
 角栄が怒って重宗のところへいくと、
「早くベルを鳴らせ! じじい!」と怒鳴る。
 議長は、
「角さん、あんたが怒るのも無理はないが、ちゃんとオヤジ(佐藤首相)と話したかね?」 などと取り合わない。
 角栄は忍耐強い性格であったが、この老人には腹が立ってしかたなかった。
「なにいってんだ! じいさん! 学生たちはゲバ棒もって騒いでいる。親は自分たちが食うものも削って倅や娘に仕送りしてるんだ。
 ところが、学生はゲバ棒で埋まっている。先生たちは教壇にもたてない。みんな真っ青になってんだ! 早くベルを鳴らせ! じじい!」
 角栄の努力で、法案は成立した。
 法案成立によって、大学紛争は沈静化していった。
 角栄は時期をまっていた。
 田中の人脈は金からでたものであるが、その人脈を通してさまざまな情報がはいってくる。抜群の”情報網”をもっていた。

  世は安保闘争の最中であった。
 四十四年十一月、佐藤首相はニクソン大統領と沖縄返還交渉のため渡米した。
 出発の前日は、全学連が羽田で店舗や車に火炎瓶をなげて燃やしたため、首相は首相官邸からヘリで羽田にむかったという。
 首相はニクソンに核なし本土並返還を主張したが、受け入れらないと思っていた。しかし、昭和四十七年に返還されて、成果を得た。
 このとき、日米は繊維貿易で交渉中で、日本の安い繊維商品のまえで米国の繊維業者は次々と潰れていた。ニクソンは、日本の繊維業者の輸出を制限するように佐藤首相に申し出た。佐藤は答えた。
「前向きに検討します」
 例の有名な言葉である。
 ニクソンはそれが「イエス」だと思った。
 しかし、佐藤の言葉は単なるリップ・サービスだった。
 ……ホワード・ポスチャー(前向き)で検討する…
 これは日本では何もしないということで、野党もそれを承知している。しかし、かりにも一国の首相が国際舞台で、単なるリップ・サービスをいうとはニクソンも思わない。
 ふたりは、にこやかに握手して別れた。
 しかし、日本は繊維商品の輸出を制限するどころか、輸出攻撃をしかけ、米国の繊維企業はバタバタ潰れていく。
 ………騙された!
 ニクソンは舌打ちしたという。

  四十三年冬、佐藤が角栄を幹事長に再任したのは、角栄をひきたてるつもりではなく、しかたなくだった。
 福田は党内で人脈もなく、角栄に幹事長をまかせるしかない。
 福田は明治三十八年生まれで、残された政治家生命は少ない。佐藤が三選されれば、福田の出る幕はない。
 しかし、佐藤は福田よりも首相三選のほうを選んだ。
 角栄は十期目の当選を果たした。
 この年、梶山清六、羽田孜や、小沢一郎らが初当選していた。
 角栄は自分の夢を語った。
「上越新幹線と高速道路をやったら、政界から引退する」
 選挙の結果、自民党は躍進した。
 野党社会党(現・社会民主党)は百三十人から九十人に激減した。
 自民党議員のうち佐藤派は角栄に資金援助や応援してもらっているので、佐藤派というより田中派といってもよかった。

 昭和四十五年(一九七〇)一月十四日、第三次佐藤内閣が発足した。
 角栄は、党幹事長に留任する。
 その裏側には、水面下での福田対角栄の戦いがあった。
 佐藤は角栄だけでも辞めさせようとしたが、前尾、中曽根、三木に反対されたために、新人事は、結局撤回せざる得なかったのである。
 福田は大蔵大臣、角栄は幹事長である。
 角栄は新自動車税を立法したが、首相や自動車団体から反対されて、撤回している。
 福田は、
「いやぁ、角さんも今度はまかされたよ」と苦笑いしたという。
 角福戦争はまさに絶頂期だった。
 はたや小卒の実力者・角栄、かたや東大卒のエリート福田……
 ようするに学歴だけでは角栄は駄目だが、ブルドーザーのような実力が角栄にはあったということ。その点、福田にはそれがなかった。
 昭和四十六年、角栄はインタビューに答えている。
「うん、まあ政治家はね、正直ですよ。世に喧伝されているほど不正直じゃない」
 あなたの実力は、資金調達能力ですか?
「カネなんてたいしたもんじゃない。カネを政治の条件にするのは間違いだね。政治家はアイデア・マンじゃなきゃあ」
 第三次佐藤改造内閣で、やはり角栄は通産相、福田は外相になった。
 この頃、ベトナム戦争の泥沼に嵌まっていた米国は、中国と国交樹立する。
 キッシンジャー国務長官と、周恩来首相との話し合いがついたのである。
 ニクソン・ショックと呼ばれる出来事である。
 日本のマスコミは「頭越し外交だ!」などと連日報道したが、今にみられる日本のマスコミの姿勢となんらかわらない。表面だけしか報道しない。
 また、ドルと金とのペッグが外され、またもや日本は「ショック」を受けた。
 井の中のかわずは少しのことでも衝撃を受ける。
 福田外相は「中国と米国は国交を回復する。台湾への支援はすぐに中止できないが、南ベトナムより撤退し、中国に北ベトナムを説得してもらい和平を結ぶ」
 と、米国外交官よりいわれ、騙された。
 米国大統領ニクソンはついに北京を訪れ、毛沢東や周恩来らと対面し、ガッチリと握手をかわしたので、ある。                              
         7 大衆の宰相



晩年
政財界に幅広い人脈を持ち、愛弟子の福田赳夫と田中角栄による自民党内の主導権争い(角福戦争)が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。また、御殿場の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、「自主憲法制定国民会議」を立ち上げる(1969年、現「新しい憲法をつくる国民会議」)など自主憲法論に関し積極的な発言を続けた。
1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で長女洋子の娘婿であり後年岸派を福田赳夫から継承する安倍晋太郎が山口1区(当時)で落選。地元山口県での影響力低下が取りざたされる。岸は同選挙区選出の自民党議員・周東英雄の後援会長を務めていた藤本万次郎の自宅を現職総理大臣である佐藤栄作と二人で訪れ、安倍後援会会長への就任を要請する。藤本を後援会長として迎えた安倍は1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で復活を果たし、岸の影響力も旧に復した。
1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙では、側近の1人今松治郎の秘書だった森喜朗が自民党の公認得られず無所属新人として旧石川1区で出馬する際、岸の秘書中村長芳に岸の応援を懇願してきた森の要望を快諾し、岸の応援で陣営に勢いがつき初当選を果たした森は生涯恩義を忘れていない。
弟の佐藤政権が憲法改正などの問題に取り組まないことに苛立ち、首相再登板を模索したこともあったとされる。しかしそのために具体的な行動を起こした形跡はなく、後継者たる福田赳夫の首相就任を悲願としていた。1972年(昭和47年)の自民党総裁選挙で福田が田中角栄に完敗したときは、気の毒なほどに落胆していたという。
1974年(昭和49年)にはシンクタンクである協和協会を設立。また、1976年(昭和51年)10月には“民主主義・自由主義体制を尊重しつつ、政党・派閥を超えて、国家的課題を検討・推進する”政治団体「時代を刷新する会」を設立。
1979年(昭和54年)10月7日の衆議院解散を機に、地盤を吹田に譲り、政界引退。国際連合から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価された。



 話は変わる。
 安倍晋三氏の両親(安倍晋太郎と岸洋子)との結婚は昭和二十六年頃であるという。
 洋子さんの風貌は前述したように目の下がぬぼーっとして両頬がブルドックみたいにたれている。安倍晋三氏のあの顔は母親似祖父似であろう。
「政治部の記者で、安倍寛(かん)の息子なら申し分ないじゃないか。見合いの話、進めるけどいいな」
 岸信介が洋子にそう念を押したのが半年前である。安倍晋太郎は毎日新聞の記者で、洋子の伯父の佐藤栄作の番記者であるという。
 だから見合いの話となり、結婚したのだ。
 子供は三人。長男が寛信(三菱商事)でウシオ電機の牛尾治郎の娘と結婚している。次男が晋三(政治家)で森永製菓の財閥の娘・昭恵と結婚(子供なし)、三男の信夫(元住友商事)は岸家の養子にだされた。
 昭和三十五年夏、岸が退陣表明したあとの党内は、混乱を極めた。
 池田のあとに佐藤がおり、佐藤のあとには将来後継者にとおす福田赳夫がいた。
 そのかわり割を食ったのが藤山愛一郎である。
 藤山は巣鴨プリズンから身ひとつででた岸に資金援助してきた。
 義理がある岸だったが、岸は藤山を見捨てた。
「なにしろ安保締結のときの外相だし、私が辞めた理由と重なることも話したんだけどもね」(岸信介「岸信介の回想」)
 岸は、藤山、大野、盟友川島にも恨まれた。
 理念、情熱、実行力、どれをとっても岸側近として党人脈一番だった川島だが、最後は岸は池田、福田という官僚派をドラスティックに選んだ。
 その後の藤山は自派「愛正会」を形成(星野二郎、江崎真澄、小泉純也(小泉純一郎元首相の父親)、福家俊一など)して、以後総裁選に三回参戦するがいずれも敗退。
 藤山コンツェルンといわれた巨額の私財も使い果たし、「井戸塀政治家」といわれたのだという。(生まれる前の話なので知らないのだ(笑))
 
 岸が暴漢にナイフで刺されたのは昭和三十五年七月十四日である。
 藤山、池田、石井の総裁選挙は決選投票までいったが池田隼人が総裁に決まった。
 その興奮冷めやまぬ中、祝賀のレセプションで、岸が席につくと、岸にひとりの暴漢が走り寄り、左太腿(ふともも)を背後から何か所もナイフで刺すという事件が発生し、現場の会場には大量の流血の跡が残ったほどだった。
 右翼結社に所属する荒巻退助と名乗る男は、その場で逮捕されたが、動機も不明のままだった。
 ここでも日頃から岸が指摘していた警備の甘さが露呈した訳だ。
 救急車で赤坂の前田外科病院へ搬送されたが、見舞客にも慌てず騒がず「ナニ、この程度で済んでよかったよ」と笑顔で答えた。
 当時六歳くらいだった安倍晋三氏は、祖父の病院に見舞いに行ったときのショックを次のようにいった。
「病院に入っていったらね、秘書官の中村長芳さんが祖父の履いていた靴をボクに見せるんですよ。靴の底に血がもう固まってましたが大量ににね、溜まっていてすごいショックだったのを覚えています」
 この六〇年安保では社会党の河上丈太郎が刺されたり、日比谷公会堂で社会党の浅沼委員長が刺殺されるなどした。
 (「絢爛たる悪運 岸信介伝」工藤美代子著作 幻冬舎 三百十七~四百三十九ページ)

 昭和五十年(一九七五年)五月には、すこぶる元気であった佐藤栄作が築地の料亭で財界人と懇談している最中に脳溢血で倒れるという事態が起きた。
 佐藤はそのまま昏睡状態が続き、六月三日死去。
 七十四歳で急逝した佐藤は日本武道館で国葬が執り行われ、葬儀委員長は前総理の田中角栄だった。現職総理が岸・佐藤と縁の薄い三木武夫だったことからの人選と思われる。
 弟を亡くして五年たった昭和五十五年(一九八〇年)六月十四日、今度は最愛の伴侶の妻の良子に心不全で先立たれた。
 この後「隠し子騒動」等あったが岸は「安保の城の妖怪」であり続けた。
 岸は盟友の病気見舞いが義理固いものだったという。
 かつて病床で「三木武夫だけは病気見舞いにきても追い返せ」といっていた岸だったが、九十歳になる岸は昭和六十一年(一九八六年)の夏に三木武夫の病室に会いに行っている。
 岸の娘婿の安倍晋太郎は岸信介の跡取り的な立場であったが、平成三年(一九九一年)、膵臓癌の為に享年六十七歳で死去する。
 岸信介は晩年、ひとにあえば「安倍をよろしく頼むよ」というのが口癖になっていたという。安倍晋三は父・晋太郎の地盤を受け継いだが、亡くなった三宅さん(政治評論家)によると「演説がやたらと下手であった」という。
 岸の最期の闘病は、苦しむでもなく、むしろ穏やかな最期であった。
 夜になると走馬灯のように昔の記憶が頭をよぎったことだろう。
 幼いころにおんぶした佐藤寛子が、
「義兄さん、弱気を出しちゃ駄目よ! 頑張るのよ!」と手を握って励ました。
 岸信介は寝たきりになる。
 その寛子も昭和六十二年四月、岸より四か月早く、くも膜下出血で急逝してしまう。
 寛子の急死などとても話すわけにもいかず、家族は病室のテレビを消していたという。
 昭和六十二年(一九八九年)八月五日、岸は肺炎を併発し、七日朝になって容体が急変する。
 岸信和夫妻、安倍晋太郎夫妻ら親族が駆けつけて見守る中、十五時四十一分心不全のため静かにみまかった。
「アンポ、ハンタイ!」と安保闘争の怒号のなか遊んだ孫の祝賀には出席できなかったが、そのかわり日取りの迷惑もかけなかった。
 九十歳と九か月の大往生の生涯で、あった。
(「絢爛たる悪運 岸信介伝」工藤美代子著作 幻冬舎 三百十八~四百七十五ページ)
 最期は田中角栄の最期まで、の流れである。








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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.136自己啓発本おすすめ書籍孔子『論語』C・フィールド『わが息子よ、…』

2014年11月26日 17時10分55秒 | 日記





現代では様々な学者による自己啓発本などが溢れ返っている。


勿論、それぞれ一読の価値はあるのだろう。


しかし、僕が推薦したい本は


孔子の『論語』と


チェスターフィールド著書の

『わが息子よ、君はどう生きるか』。


処世術に国境も言語も人種も時代も関係ない。


推薦本を読むも読まぬも個人の自由だ。


臥竜

緑川鷲羽2014

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アメリカ2013年大作映画『ゼロ・グラビティ』”宇宙空間遭難””重力ゼロの無重力浮遊”は圧巻!

2014年11月26日 11時21分46秒 | 日記








     映画『ゼロ・グラビティ』何故日本人は出来ない?

 
 DVD映画『ゼロ・グラビティ』(2013年アメリカ、監督:アルフォンソ・キュアロン、出演:サンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニー)を観た。基本的には物語は単純そのものでスペースシャトル外の宇宙空間で船外作業する中、事故で宇宙空間に放り出されて、絶望的状況で漂い続けるふたりの宇宙飛行士の運命を描いたものだ。第86回アカデミー賞で監督賞など7部門を受賞した名作で傑作である。不思議に思うのは映画産業が動き始めて100年くらい経っているのにこのような『宇宙空間での浮揚』シーンの連続という作品がこの映画『ゼロ・グラビティ』が初めてであったことだ。そして日本人にはこの『ゼロ・グラビティ』のような映画は創れないのか?ということだ。小学館SAPIO誌でUSJの方が「日本人は漫画やアニメなどゼロから1を生み出す能力が高いが、マーケティング能力が低い為に米国や中国や韓国に真似されておいしいところどり(クリームスキム)されている」という。
その通りだと思う。私も作詞作曲小説特許油絵等創造してきたが、マーケティングが下手で未だに大企業に特許や音楽等を買ってもらえてない。大前研一氏やリヴァンプ社の澤田貴司氏やマッキンゼー・ジャパン社に企画書をおくり、「自分の知的財産権ビジネス(大企業への特許売買)を手伝ってくれませんか?」と提案(もちろん報酬も払って)しても無視されている。音楽は”秋元康氏の評価待ち”である。アイディアが大金に化けなければ知的財産権ビジネスとは言えない。私を含めてこういうマーケティング力の弱点が、ソニーや東芝やパナソニックがアップル社に勝てない原因であると思う。
例えば映画『ゼロ・グラビティ』もヒットの要因は”宇宙浮遊”というアイディアだ。ハリウッドやシリコンバレーにはアイディアマンが蠢いている。しかも、アイディアをアイディアのままにさせず実現させる能力をもった参謀や軍師が沢山いる。
日本でもこういうマーケティング能力や討論力やアイディア力を学校教育で教えて育成するべきである。
 映画『ゼロ・グラビティ』を何故日本人は出来ないのか?能力者がいない訳ではない。マーケティング能力が欠けているからだ。これを伸ばす教育や実習こそが、今の日本人に求められること、なのである。

緑川鷲羽(みどりかわ・わしゅう)・44・フリージャーナリスト・

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八重の桜  新島八重の桜と白虎隊とブログ連載アンコール小説<NHK2013年大河ドラマ『八重の桜』>8

2014年11月26日 07時20分40秒 | 日記







「なにをしている?!」
 会津の家老は直々にやってきた。銃弾や砲弾が飛びかう中でのことである。
「……あ! ご家老!」
「わしがやる!」
 家老は大砲を撃ち始めた。しかし、なかなか当たらない。
 が、奇跡か、砲弾一発が官軍艦に当たり爆発して海に沈んだ。
  猪苗代では白虎隊は飢えと疲れで戦えない……しかし、篠田は敗退を続ける隊員を尻目に、銃弾が飛び交う中を進軍した。森の中で、隊士たちは「これは義の戦だ!」といいあった。
 篠田は、「まだ自決には早いべ! おれらばいなぐなっだら会津は終りだべ?!」ときく。 しかし、隊のものは「んだども官軍には勝でね! 自決しでこそサムライだべ」
「違うべ!」篠田義三郎はにやりとして、「官軍の首ばとるのが侍だべ?!」
 といった。
 そんな中砲撃があり、爆発が近くで起こった。篠田は額から出血した。
 しかし、伊庭八郎は直撃を受けて血だらけで倒れていた。
「伊庭?! だいじょうぶか?」
「………篠田さん…」
 伊庭八郎は脇差しをもって切腹した。「かいしゃぐを!」
 篠田は動揺したが、「分がっだべさ」といい首をはねた。
 砲弾が飛び交う。
「やあああ~っ!」
 大森は進軍する官軍に剣を抜いて叫んだ。
 しかし、官軍は「餓鬼にかまうな!」とかれを無視して進軍していった。
 官軍絶対的優位で、ある。

                           
         8 少年たちの決断




話はまたしても戻り「白虎隊自刃の役」である。
  埃まみれの軍服の坂井順吉は彷徨った。
 あたりには銃弾や砲弾が乱れ飛ぶ。
「みんな…どごさいるだ?」
 坂井は隊からはぐれて生き残った。戦ののち畜産指導などに従事して明治七年福島県で病死している。最期まで、故郷に執着した日本人であった。
 戦がひとやすみしたところで、激しい雨が降ってきた。
 白虎隊の不幸はつづく。
 暴風雨で、また道にまよった。
「城の安否を確かめるまで死ぬ訳にはいがね!」
 西川勝太郎は焦りを感じながらいった。
  八月二十三日午前十一時、官軍と会津軍は市街戦となった。松平容保は城を枕に討ち死にする覚悟であった。城に砲弾が浴びせられる。
「みなのもの! 城を枕に討ち死にするぞ!」
 松平容保は仁羽織りの姿で息巻いた。
 侍の女子たちは強姦されて殺されるくらいなら、と、自殺した。
「くそっ! なぜわれらが賊軍なのじゃ?! 京都で朝廷と天子さまをお守りしたのは会津藩ではないか! 薩長などに屈してなるものか!」
 白虎隊は只、血だらけで山中を進んだ。
 何の希望もなかった。敗戦濃厚である。
「……城はどうなってんだべ」と考えた。
  八月二十三日午前、白虎隊のもとに山内小隊長が現れた。
「隊長!」少年たちは声をあげた。
「敵は大軍……撤退して再起を計れ! 犬死はいがんぞ!」
「しかし……隊長…これは…義の戦でしょう?! 薩長などに屈してなるものか!」
「んだども……人間死んだらおしめぇだべ?」
 そして、また少年たちは隊長を見失った。
 坂井順吉もこのときはぐれている。
 八月二十三日午後、鶴ケ城の近くが炎上した。城はまだ陥落していない……

  榎本は激しい怒りを感じていた。開陽丸を失っただけでなく、蟠竜丸、回天丸、千代田形まで失うとは………なんたることだ!
 沢は「どういうことなんだ?! 森本!」とせめた。
 森本は下を向き、
「坐礁してもう駄目だと思って……全員避難を……」と呟くようにいった。
「馬鹿野郎!」沢は森本を殴った。
「坐礁したって、波がたってくれば浮かんだかも知れないじゃないか! 現に官軍が艦隊を奪取しているではないか! 馬鹿たれ!」
 森本は起き上がり、ヤケになった。
「……負けたんですよ」
「何っ?!」
 森本は狂ったように「負けです。……ジャンプです! ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ!」と踊った。
 沢太郎左衛門も榎本武揚も呆気にとられた。
 武揚は茫然ともなり、眉間に皺をよせて考えこんだ。
 いろいろ考えたが、あまり明るい未来は見えてはこなかった。
  ごりょうかく         
  五稜郭城で、夜を迎えた。
 官軍の攻撃は中断している。
 中島三郎助や土方らは辞世の句を書いていた。
 ……もう負けたのだ。榎本脱走軍たちのあいだには敗北の雰囲気が満ちていた。
「土方くん出来たかね?」
「できました」
「どれ?」
 ………叩かれて頭もたげる菜ずなかな……
 これが土方歳三の辞世の句である。

「土方くん」
 榎本は土方を呼んだ。
「なんですか? 榎本総裁」
 土方歳三は榎本の部屋に向かった。榎本は「実は最後の戦にあたり、君に話がある。近くの農家を用意してある。そこにいって待っていてくれないか?」といった。
「農家? ……なんの話ですか?」
「それはそこで話す。案内させよう」
 榎本は無理に笑顔をつくった。
 土方は訳がわからず、首をかしげた。
 その深夜、案内されて農家についたが、誰もいない。
 土方歳三は農家の中にはいって、蝋燭の薄明りの中、腰の刀を抜き腰掛けた。
「榎本総裁は何を考えているのだ?」
 すると、奥から井上ちか子がきた。
「ちか子さん!」
 土方歳三は驚いた。「なぜここに?」
「榎本総裁にお願いいたしましたの……」ちか子はいった。
「そうですか。……しかし、私はゆっくりとあなたと話していられません。もうすぐ戦もおわるでしょう」
「そうですか…」
「あの世にいったら待っている近藤さんや総司がなんというか。実は楽しみなんですよ」 土方は苦笑した。
「駄目です!」
 ちか子は声をあげた。
 土方は無言になった。
「駄目です! 生き残ってください! 死なないでください!」
 井上ちか子は土方にすがった。
「………ちか子さん」
 ふたりはそのまま一夜を明かした。

  榎本武揚は最後まで一緒だったフランス人ふたりを脱出させることにした。
 カズヌーブとブリュネである。
 外国人ふたりは涙を流した。
 榎本は観極まりながら「カズヌーブさん。ブリュネさん。これは日本人同士の戦いだ。あとはもうよいのです。品川では一緒にジャンプしましたが、もうわれらとともに討ち死にしなくてもよい。お国にかえって活躍してください」
 と頭を下げた。
「いままでありがとう」
 カズヌーブは「日本にあなたのようなひといるかぎり、西洋に追いつくのに百年かからないだろう」と涙声でいった。
 ブリュネは「日本人、少し命そまつにしすぎます。命は大切なものです」
 といい続けた。
「蝦夷共和国万歳! 命大切に……パリであいましょう」
 ふたりは榎本と堅い握手をかわした。
 ブリュネはフランスに戻ったのちに陸軍将軍となり、明治四十四年に死亡している。

  榎本脱走軍は早朝に官軍陣地へ奇襲をかけた。
 榎本軍と官軍がはげしくぶつかりあう。しかし、官軍は多勢に武勢……榎本軍は遁走をよぎなくされる。
 五月十一日、箱館湾の官軍艦隊に「錦の御旗」が掲げられた。
 それを双眼鏡で見て、榎本は深い溜め息をもらし、肩をすくめた。
 榎本はいう。
「十年先、五十年先に俺の考えを誰かが叶えてくれればいい。しかし……百年先では遅過ぎる……」
「……釜さん」沢はなんといっていいかわからなかった。
「この戦は義の戦ぞ! 官軍こそ賊軍だ!」
 榎本は強がりをいった。
「蝦夷共和国は永遠に不滅だ」
  五月十一日、弁台場に砲弾の嵐が舞い飛ぶ。あたりは爆発で、次々と榎本脱走軍の兵士たちが爆死していく。官軍の艦隊は艦砲を雨あられのように撃ってくる……
「べらぼうめ!」
 榎本が大砲設置場にきた。
「総裁! 危険です! 城にいてください!」
「てやんでい! こんなときに城でのんびりしてられるか!」
 榎本武揚は大砲を構え、撃った。撃ち続けた。
 すると、幸運なことに官軍の艦船に命中し、艦隊一隻が撃沈した。
「やったぞ!」
 武揚は歓声をあげた。
 しかし、戦況は榎本脱走軍の不利であった。
 千代ケ岡台の陣地も崩壊寸前、五稜郭にも官軍が迫ってくる………
 榎本は五稜郭城に戻った。
 急ごしらえで軍儀をひらく。
「このままではいかん」
 榎本はいった。
 まさしくその通りである。
 沢太郎左衛門は「官軍とわが軍では兵力が違いすぎるぜ、釜さん……いや、総裁!」
 といって頭をふった。
 榎本武揚は、
「そんなことぐらいわかってるぜ」という。
「じゃあどうする?」
 松平太郎が口をはさんだ。
「……それを今考えるためにこうして軍儀をひらいてるんでぃ」
「しかし……小田原評定じゃねぇんですか?」
 そういったのは星だった。
「とにかく……」
 榎本はいう。
「軍を効果的につかって、奇襲でもなんでもして薩長軍を叩き潰せ!」
 沢は首をひねりながら、
「釜……いや、総裁。そんなことが出来るんなら今頃やってるぜ」という。
 実は、一同は不安でいっぱいなのである。
「……降伏…」
 榎本の首のあたりまでその言葉がでかかった。
 しかし、榎本はそうはいわなかった。
 一同が沈黙する。
「じゃあ、今度は樺太にでもジャンプしますか?」
 星がいったが、誰も笑わなかった。
 榎本は咳払いをしてから、
「とにかくわが軍は徹底交戦のかまえでいく!」と強くいった。
 ……もう負けるのはわかってるじゃねぇか。
 ……総裁はやけになっている。
 一同はそう感じた。

  一本木では、新選組が藪の中にひそんでいた。
 官軍の関所らしいところがあり、官軍の馬や兵士がちらほらと見える。
「島田」
 土方は新選組隊士・島田魁を小声で呼んだ。
「はっ!」
 島田がやってくる。
「……俺が馬にのって近付くから、合図をしたら斬り込め。いいな?」
 土方の言葉に、島田は頷いた。
 新選組はわずか十名まで減っていた。
 しかし、皆、剣客ぞろいである。
 土方は馬にのり、ゆっくりと前にすすんだ。
 かれは新選組の羽織りは着てない。黒い軍服である。
 やがて、官軍の誰かが土方に気付いて、
「おんしら~っ。どこぞのもんじゃ~っ?」と呑気にきく。
 それでも土方は答えず、馬をゆっくりと前にすすませた。側には榎本脱走軍兵士たち数名がひかえている。
「俺が誰だか知ってるか?」
 土方歳三はゆっくりと低い声でいった。
「そげんこつ知らんばい」
 官軍兵士は呑気にいった。
「なら教えてやる」
 土方歳三はゆっくりと低い声で続けた。
「俺の名は土方歳三。新選組副長・土方歳三だ!」
”鬼の土方”の名をきいて、官軍たちは、
 ひいいぃ~っ!
 と悲鳴をあげた。
「かかれ!」
 土方は新選組たちに合図をおくる。
 やあぁあ~っ!
 新選組隊士たちは剣を抜いて襲撃を開始した。
「ひいいぃ~っ! 新選組だぁっ!」
 官軍たちは斬られて地面に横たわっていく。
 血で血を洗う惨状になる。
 土方は自慢の剣で、バッタバッタと官軍を斬り殺していく。
 しかし、それもつかの間だった。
 官軍は銃弾を土方に浴びせかけた。新選組や榎本脱走軍兵士にも……
 土方は胸や脚に銃弾をあびて、落馬し、そのまま動かなくなった。
「……近藤さん…総司……」
 土方歳三は死んだ。
 享年、三十五歳だった。
 新選組も全滅し、”誠”の旗もボロボロになり、地面に散った。

  箱館病院の高竜寺分院を官軍が襲撃した。
「やめて~っ!」
 看護婦や医者がとめたが、官軍たちは怪我人らを虐殺した。この”高竜寺分院での虐殺”は官軍の汚点となる。
 箱館病院にも官軍は襲撃してきた。
 高松凌雲は白衣のまま、官軍に嘆願した。
「武士の情けです! みんな病人です! 助けてください!」
 薩摩の山下は「まさか……おんしはあの有名な高松凌雲先生でこごわすか?」と問うた。「そうだ! 医者に敵も味方もない。ここには薩長の病人もいる」
 薩摩隊隊長・山下喜次郎は、
「……その通りでごわす」と感心した。
 そして、紙と筆をもて!、と部下に命じた。
 ………薩州隊改め
 紙に黒々と書く。
「これを玄関に張れば……官軍も襲撃してこんでごわす」
 山下喜次郎は笑顔をみせた。
「………かたじけない」
 高松凌雲は頭をさげた。
  井上ちか子は土方の遺体をみつけた。
「土方様! ……土方さま!」
 号泣し、遺体にすがった。
”誠”の旗は火で燻って、ボロボロで、地面にある。
 ちか子の目からは涙があとからあとから溢れ出た。
 ……土方さま…
 こののち、井上ちか子は、歴史上から姿を消す。彼女がどうなったのか誰にもわからない。そして、新選組も全滅した。
”誠”の旗と、新選組の麻黄色の山形コスチュームを着るものはひとりもいなくなったのだ。こうして、歴史に殺戮集団として有名になった「新選組」は歴史の波に沈んだ。
 土方歳三の遺体は埋められたのだろうが、いったいどこに埋められたのか誰にも知らないという。現在でも遺体は発見されていない。
 こうして、土方も新選組も滅んだ。
 そして、榎本脱走軍と会津藩の命運も尽きようと、していた。

         9 八重よ白虎隊よ永遠に!




話は戻る。
  明治三年(一八六九)九月十九日、鶴ケ城に着弾……
 容保の妹らが爆撃の被害を受けた。
 容保は駆けつけてきた。
「……兄上……われわはもうだめです」
 妹は血だらけ床に横たわっている。
「それは医者が決めるんだ!」
「……会津の夢捨…てな…いで」
 容保の妹は死んだ。

  箱館病院で、高松凌雲と官軍の黒田了介は会談していた。
「もはや勝負はつき申したばい。榎本どんは共順とばいうとるがでごわそ?」
「……そうです」
「ならば」
 黒田了介は続けた。「是非、榎本どんにおとりつぎを…」
「わかりました」
「あれだけの人物を殺したらいかんど!」
 高松凌雲は頷いた。
 五月十五日、千代ケ岡で榎本武揚と官軍の田島は会談をもった。
「共順など……いまさら」
 榎本は愚痴った。
「涙をのんで共順を」田島はせまる。
「……城を枕に討ち死にしたいと俺はおもっている」
 榎本はにえきらない。危機感をもった田島圭蔵は土下座して嘆願した。
「どうぞ! 涙をのんで共順を!」
 榎本武揚は動揺した。
 そして、「俺の夢はな。この蝦夷を日本一にすることだった。でも…それももうおわりだ。俺はここで死ぬ」
 と溜め息をもらした。
 それから榎本は田島に「少年兵たちを逃がしてほしい」と頼んだ。
「わかりもうした」
 田島は起き上がり、頭を下げた。
「これを黒田さんに渡してくれないか」
 榎本武揚は、分厚い本を渡した。
「……これはなんでごわす?」
「海陸全書の写しです。俺のところに置いていたら灰になる」
 武揚は笑顔を無理につくった。
 黒田参謀は島田から手渡された本を読み、
「みごとじゃ! 殺すには惜しか!」と感嘆の声をあげた。
  少年兵や怪我人を逃がし見送る武揚……
 榎本はそれまで攻撃を中止してくれた島田に頭を下げ、礼した。
 そして、戦争がまた開始される。
 弁台場も陥落。
 残るは千代ケ岡と五稜郭だけになった。
 戦闘で、あの若者・英次郎が銃弾をあびて死んだ。兄・恒次郎も重傷をおう。
「………おさえちゃん…」
 恒次郎は血だらけになりながら、おさえの姿をみた。かたわらに病気の青年がいてもがいている。「いけません! 龍造さん!」
 おさえはとめたが、龍造はよろよろと歩く……官軍と戦うんじゃ!
 しかし、龍造は喀血して倒れてそのまま動かなくなった。
「龍造さん! 龍造さん!」
 おさえは泣いた。
 やがて官軍が攻めてきて、恒次郎も斬られて死んだ。
 官軍が侵攻したあと、山田市之丞はふたりの若者の遺体を発見して、
「こげな子供まで……榎本のど阿呆が!」
 と激昴した。
 山田市之丞は戦争後、法律を学び、日本大学の前身日本法律大学をつくることになる。  五稜郭に籠城する榎本脱走軍たちに官軍からさしいれがあった。
 明日の早朝まで攻撃を中止するという。
 もう夜だった。
「さしいれ?」星はきいた。
「鮪と酒だそうです」人足はいった。
 荷車で五稜郭城内に運ばれる。
「……酒に毒でもはいってるんじゃねぇか?」星はいう。
「なら俺が毒味してやろう」
 沢は酒樽の蓋を割って、ひしゃくで酒を呑んだ。
 一同は見守る。
 沢は「これは毒じゃ。誰も呑むな。毒じゃ毒!」と笑顔でまた酒を呑んだ。
 一同から笑いがこぼれた。
 榎本脱走軍たちの最後の宴がはじまった。
 榎本は少年兵を脱出させるとき、こういった。
「皆はまだ若い。本当の戦いはこれからはじまるのだ。五稜郭の戦いが何であったのか……それを後世に伝えてくれ」
 少年兵たちは涙で目を真っ赤にして崩れ落ちたという。

「……城が……城が燃えている! 城が! …し…ろ…が…」
 白虎隊たち少年兵たちは山中の頂きで、城が炎上しているのを見た。実際には城ではなく近くの城下町が燃えていたのだが……
 少年たちは絶望して、がくりと膝を地面についた。
「……もう……おわりだべさ」
「んだども……」
「侍は降伏してはならね。武士道とは死ぬことだべ?」
「……んだな」
 慶応四年八月二十三日夕方、少年たちは自決した。



  ……ふと容保の後ろ姿がおかしいと大塚雀之丞は思った。
 容保は藩主室にこもったままだ。そこで大塚は様子を見にいった。
 松平容保はボタンを外し、チョッキを外し、腹をひろげて、脇差をもった。
「降伏なぞするか!」
 ……会津公が切腹する!
「大変だ! みんな大変だ!」
 大塚は容保に飛びかかり、切腹をとめた。みんなも集まってくる。
「切腹させてくれ!」
 容保は涙声でうったえる。
 しかし、一同はスクラムを組んで松平容保の脇差をとり、切腹をとめた。
 家臣は「殿! 死ぬのはいつでも出来る! はやまるでない!」といった。
「天子さま(天皇)のお裁きを受けましょう」
 一同は涙を流しながらいった。
 恐ろしいほどの静寂が辺りを包む。
 ……もう……おわったのだ。戦は…おわり……だ…
 会津藩は陥落、官軍に降伏した。
  明治三年(一八六九)五月二十七日、榎本武揚らも官軍に投降した。
 黒田了介は榎本武揚と接見した。
 榎本は「この戦の全責任は私にあります。私は斬首でもかまわないが、他の連中のことを頼みます」と頭を下げた。
「よか! よか! もうおわったことばい!」
 黒田了介は武揚と握手をかわした。
 こうして、「蝦夷共和国」は五ケ月だけの幻に消えた。
  東京では田代老人が、木戸考允(桂小五郎改め)につめよっているところだった。
「……会津公たちをどうする気かね?」
 老人は迫った。
「裁判にかけます」木戸はいった。
「殺す気かね?」
「……裁判次第です」
 老人は声を荒げた。
「人材の浪費は駄目だ! 今この国を思えば……たとえ賊軍だったとしても貴重な人材は残すべきじゃ! 違うかね? 木戸さんよ」
 木戸は感銘をうけた。
 ……まさしくその通りだ!
「わかりました。先生」
 明治三年九月、榎本武揚は江戸の牢獄の中にいた。
 一番牢  新井郁之助
      松岡磐吉
 二番牢  松平太郎
 三番牢  大鳥圭介
 四番牢  永井玄蕃
 五番牢  榎本武揚
      沢太郎左衛門


  戌辰戦争後、松平容保は鳥取藩に預けられ、東京に移送されて蟄居するが、嫡男・容大(かたひろ)が家名存続を許されて華族に立てられた。それから間もなく蟄居を許され、1880年(明治十三年)には日光東照宮の宮司となり、正三位の位を得た。
 そして1893年(明治二十六年)十二月五日に東京・目黒の自宅にて肺炎のため松平容保は死去した。享年五十九……死の前日には明治天皇から牛乳を賜る。
 死ぬまで容保は考明天皇から賜った書簡を竹筒に入れて首からぶらさげて死ぬまで話さなかったという。
 維新については戌辰戦争後は一切語らずであったという。

 松平容保は切腹をまぬがれ、隠居させられた。明治となって、白虎隊の供養碑を建てた。                            
……”幾人の涙は石にそそぐともその名はよよに朽ちじとぞ思う”……
 会津家臣たち一行は北海道に向かった。坂井順吉は北海道にいき、福島県にもどり、昭和二十年八十歳で死んだ。飯沼は自決したが死なずにすみ、生き残り、白虎隊のことを後世のひとに伝えたのち昭和二十七年に死んだ。
 また容保も明治を生抜き、明治時代に隠居先で息をひきとった。

  釈放された榎本武揚は、その知恵のおかげで明治政府に重要視され、次々と出世していく。
 明治五年    北海道開拓泰任出仕
   七年    海軍中将
         ロシア派遣特命全権大使
   十二年   条約改正取調御用掛
   十三年   海軍卿
   十五年   皇居造営事務副総裁
         清国駐在特命全権公使
   十八年   逓信大臣
   二十年   子爵の位
   二十二年  文部大臣
   二十四年  外務大臣
   二十七年  農商務大臣

     …………
  大鳥圭介(学習院院長)、永井尚志(元老院書記)、新井郁之助(初代気象庁長官)、松岡磐吉(獄中で死亡)、松平太郎(北海道を開拓し、初代箱館市長に)、沢太郎左衛門(海軍兵学校教授)、星恂太郎(北海道開拓)、高松凌雲(民間看護隊、日本赤十字の先駆け)、林董三郎(外務大臣)、山内六三郎(鹿児島県知事)……
 明治政府はかれらを保釈したあと、能力を発揮させた。
 明治維新の後の日本はかれらが、蝦夷共和国の彼等が支えたといってもいい。

 明治十年(一八七八)、容保は馬車で北国の島道をすすんでいた。
 保釈後の容保は隠居ののち北海道開拓のための資金ぐりの毎日となった。かつての家来たちも北海道で開拓にいそしんでいる。榎本武揚はよくやっていると噂できいていた。
 榎本武揚のみごとな交渉で、樺太とクリル(千島)列島の領有権を確保したのだという。 しかし、それが源で、日露戦争が勃発するのだが……
 松平容保は馬車を降りた。
 島の崖で、激しい風を受けた。荒波のシベリア海にはかつての仲間たち…土方や近藤たち、白虎隊の少年たちの姿が重なり、容保は涙を流した。
 それがどんな涙であったのか……
 もはや松平容保以外知るところではない。

 話しを少し戻す。
1868月11日(明治2年6月3日)、東京で謹慎中の松平容保に実子の松平容大(まつだいら・かたはる)が生まれる。
松平容大の母親は側室の佐久である。
会津戦争で負けた会津藩は家名断絶となるが、降伏から1年後の1869年12月5日(明治2年11月3日)、松平容保の子・松平容大は家名存続が許された。
松平容大には家督を相続した養子・松平喜徳が居たが、家名存続を許されたのは実子の松平容大だった。
養子の松平喜徳は1873年に弟・松平頼之が死亡する。
と、松平容保との養子縁組を解消し、弟・松平頼之の養子となり、弟・松平頼之の家督を継いでる。
家名存続が許された松平容大は、青森県東部に3万石を拝領し、斗南藩(となみはん)を立藩することになる。
斗南は、漢詩の「北斗以南皆帝州」(北斗星より南はみな帝の治める土地)から名付けたものである。
会津藩は、領地を「青森県東部」か「猪苗代(福島県耶麻郡)」かを選択することが出来た。
会津藩士の中には猪苗代での再興を主張する者多かった。
大河ドラマでは敗北した会津藩士たち男の中に男装した八重もいて、すんでのところで川崎が「女だ! ここに女がいるぞ!」と八重の腕を掴んで官軍に知らせて「逃がす」という場面が見られた。川崎尚之助が八重の命を救った美談だが、本当に大河ドラマの脚本通りの話の流れだったかは謎で、ある。
が、喧々囂々の末、会津藩は青森県東部での存続を選んだ。
会津藩が青森県東部を選んだ理由には諸説があるが、一説によると、重い税金を課していた会津藩は、会津の民から恨まれており、農民もヤーヤー一揆を起こしたことなどから、猪苗代で会津藩・松平家を再興するのは難しいと考え、青森県東部を選んだという。
また、会津藩は多額の借金を作っていたうえ、偽金を製造して流通させていたため、会津地方はハイパーインフレとなり、経済はボロボロになっていたことも青森県東部を選んだ理由とされている。
この新藩で、若き家老となり孤軍奮闘することになる山川大蔵(改名して山川浩)は、荒れ地の不毛地帯のような親藩領土で血のにじむような苦労をしたという。
斗南藩の立藩に伴い、各地で謹慎していた会津藩士は、1870年2月5日(明治3年1月5日)に謹慎が解かれ、1870年5月から新天地となる斗南藩への移住が始まった。
しかし、全ての会津藩士が斗南藩への移住したわけでは無かった。
斗南藩へ行かず、会津に残った会津藩士も多かった。
斗南藩は3万石とされているが、実質は7000石とされる不毛の地だった。
会津23万石(実質30万石とも言われる)から比べれば、実質10分の1以下の収入となり、斗南藩での生活が苦しいことは目に見えていた。
このため、斗南藩士として会津に残った者も居れば、会津藩士の身分を捨てて農民や商人になった者も居た。NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公となる山本八重も、斗南藩へは行かず、会津に残った。
 会津藩は、青森県東部で斗南藩として存続することになり、農業で生計を立てることとなる。
が、農業が上手くいかず、飢えに苦しんでいた。八重の幼馴染・日向ユキや時尾も新藩に行くが、ユキは飢餓と寒波で死にかける。彼女の命を助けたことで、元・新撰組隊士「斎藤一」と時尾は結婚することになる。結婚式の仲人は蟄居中の会津公・松平容保公が務めたという。容保は「ようやく、ひとつの大きな荷物をひとつ下ろせたような気分である」と祝言の席ではらはらと熱い涙を流し、「ふたりとも幸せになるのだぞ」と言った。ふたりは無言のまま平伏したという。
会津時代は農民から搾り取れば良かったが、斗南藩ではそういう訳にはいかず、斗南藩士も自ら農作業に従事しなければならなかった。
そこで、立ち上がったのが、山本八重の夫・川崎尚之助であった。
川崎尚之助は他の会津藩士と同様に猪苗代を経て東京で謹慎した後、斗南藩へ入った。
ただ、川崎尚之助は謹慎が解けた後に京都で滞在していたため、川崎尚之助が斗南藩へ入ったのは、会津藩士よりも数ヶ月遅れた1870年10月のことである。
斗南藩士となった川崎尚之助は「開産掛」に任命され、商取引で利益を上げる仕事に就いた。
農産物が取れない斗南藩にとって貿易は貴重な収入源であり、開産掛は斗南藩を救う重要な仕事だった。
そして、川崎尚之助は商取引を行うため、斗南藩士・柴太一郎と共に貿易の盛んな北海道・函館へと渡り、斗南藩士を名乗る米座省三(よねざ・しょうぞう)と知り合うのであった。
一方、妻の山本八重は戊辰戦争後、斗南藩へ移らず、会津に残った。
 あるとき、ひとりの青年が、元・米沢藩士の知り合いの米沢(現・山形県米沢市)の家に身をよせている八重とうら、みね、佐久の元に伝えにきた。
「なんだっで?あんっつあまが生ぎでる?」
八重は驚愕した。
「死んだものと思っていだ覚馬が生ぎでるなんでえ、仏様もいるんだなっし」
母親も八重も熱い涙を流した。
そして、死んだと知らされていた兄の山本覚馬が生きていることが判明すると、兄・山本覚馬頼って京都へと移った。
 前述したが、会津藩士が住んでいた自宅は、会津藩が所有する社宅のようなもので、会津藩の降伏後は新政府に没収されたため、会津藩士の家族に帰る家は無くなった。
このため、明治政府は、会津に残った会津藩士の家族に塩川周辺の農地を割り振り、帰農を勧めた。
江戸時代は「士農工商」などの身分制度があり、会津藩士は会津藩の家名断絶にともない、「武士」(会津藩士)の身分を失うことになった。
このため、会津藩士は、農民や商人に身分を移す「帰農工商」をする必要があった(ただし、その後、松平容大は家名存続が許されたため、武士の身分を保った)。
 山本八重は会津藩が降伏したとき、会津藩士に混じって謹慎地の猪苗代へと向かったが、女だとバレてしまい追い返されたというのは前述した。大河ドラマでは川崎が八重を助けたみたいに描かれた。
その後、自宅を失った山本八重は、母・山本佐久や姪「山本峰(山本覚馬の娘)」や嫂「山本うら(覚馬の妻=樋口うら)」とともに、山本家の奉公人だった者の家で世話になり、会津の山村で生活していた。
1869年12月5日(明治2年11月3日)に松平容大が家名存続を許され、青森県東部で斗南藩(となみはん)を立藩すると、謹慎が解けた会津藩士は1870年(明治3年)5月に斗南藩への移住を始めた。
しかし、山本八重は斗南藩へは行かずに会津に残った。会津に残った山本八重一家についての詳細は分からないが、針仕事や農業を手伝って、米や野菜を分けてもらいながら生活をしたとされている。
1870年(明治3年)11月ごろ、山本八重ら家族は、米沢に住む米沢藩士・内藤新一郎の元へ出稼ぎに行く。
米沢藩は戊辰戦争時に米沢藩士を会津藩へ砲術修業に出しており、内藤新一郎も砲術修業で会津を訪れていた。
この米沢藩士に砲術を指南したのが、山本八重の夫で会津藩士の川崎尚之助であり、いわば、内藤新一郎は川崎尚之助の弟子だった。
さらに、戦況が悪化に伴い、川崎尚之助の元で修業していた米沢藩士は米沢に戻ったが、内藤新一郎は連絡役として会津に残り、山本八重らが若松城へ入城した日まで山本家に寄宿していた。
こうした縁で、山本八重らは内藤新一郎を頼って仙台を訪れた。
この時の出稼戸籍簿に、山本八重は「川崎尚之助妻」として記録されていることから、山本八重が川崎尚之助と結婚していたことが証明されている。
 1971(明治4年)、山本八重が内藤新一郎の家で世話になっていたとき、「鳥羽・伏見の戦い」で死んだはずの兄・山本覚馬が京都で生きていることが判明する。
会津の新島八重らには、
「山本覚馬は、京都の蹴上から大津ヘ向かう途中に薩摩軍に捕らえられ、四条河原で処刑された」
と伝わっていたが、兄の山本覚馬が生きていたのだ。
どういう経緯で、兄・山本覚馬が生きていた事が判明したのかは判明していない。
山本覚馬は京都で京都府の顧問をしており、京都と米沢を行き来していた米沢藩士が、山本覚馬のことを山本八重に伝えたという説もある。また、山本覚馬から生存を知らせる手紙が届いたという説もある。

1870年9月(明治4年7月)、山本八重は米沢県に通行手形を申請し、1870年9月17日(明治4年8月3日)に山本八重は母・山本佐久や姪(覚馬の娘)「山本みね」を伴って、3人で京都へ向かった。
しかし、山本覚馬の妻「山本うら」は離婚を望んで米沢に残り、その後、斗南藩へ移住した。
妻の「山本うら」が離婚を望んだ理由は不明だが、
「山本覚馬が京都で若い愛人と暮らしている」
という噂を耳にしたため、妻「山本うら」が離婚を望んだという説がある。みねと母・うらは号泣しながら別れたという。
1971年(明治4年)10月、山本八重が母の山本佐久と姪(覚馬の娘)「山本みね」を連れて京都に到着する。
山本八重は数年ぶりに兄・山本覚馬と再開するが、兄との再開は驚きの連続であった。
京都で「鳥羽伏見の戦い」が勃発したとき、山本八重の兄・山本覚馬(やまもと・かくま)は薩摩兵に捕まったが、知り合いの薩摩藩士に助けられ、斬首を免れていた。
そして、山本覚馬は薩摩藩邸で幽閉されていたが、幽閉から1年後の1869年(明治2年)に釈放された。
山本覚馬は幽閉中に、同じく幽閉されていた野沢鶏一に口述筆記を頼み、近代国家のあり方を示した意見書「山本覚馬建白-時勢の儀に付き拙見申し上げ候(通称『管見』)」を書き上げ、新政府軍に提出していた。
山本覚馬が提出した「山本覚馬建白(管見)」は新政府の岩倉具視などに認められたため、山本覚馬は幽閉中も優遇されており、目の治療を受けることが出来たが、1年にわたる幽閉生活で目は完全に失明したうえ、腰を痛めて足を悪くしていた。
釈放後、山本覚馬は兵部省で客員をして働いていたとき、京都府の大参事(現在の副知事に相当)・河田佐久馬(後の河田景与)から顧問就任の要請を受ける。
大参事の河田佐久馬は、山本覚馬が幽閉中に書いた意見書「山本覚馬建白(管見)」を読み、山本覚馬の才能に惚れ込んでいたのである。(実際は、京都復興を推し進めていた部下の槇村正直の要請とも言われている。)
1870年4月28日(明治3年3月28日)、京都府の大参事・河田佐久馬が大政官に山本覚馬の「雇用伺」を提出する。
一方、新政府も山本覚馬が提出した「山本覚馬建白(管見)」を評価しており、山本覚馬を正式に採用しようとしていたところだった。
このころ、京都は1864年8月に起きた「禁門の変(蛤御門の変)」に伴う大火事(どんどん焼け事件)が原因で廃れており、1869年(明治2年)には明治天皇が京都から東京へ引っ越す「東京遷都」が進んでいた。
京都は大政奉還のおかげで、棚からぼた餅的に、首都に返り咲いただけなので、東京に首都が移ることについての影響は少ない。
が、天皇が東京へ引っ越すことは京都の産業にとって大きなダメージだった。
このため、京都府民は東京遷都に大反対した。
新政府は京都府民の反発に頭を抱えていた。
そこで、新政府は、諸外国の情報にも明るい山本覚馬を京都の産業復興の切り札として、京都府の顧問として認めることにした。
そして、「天皇の置き土産」と呼ばれる産業基立金10万両を京都府に残して、東京へと遷都することにした。
京都府は、さらに勧業基立金15万両を新政府から借りることができ、東京遷都と引き替えに、山本覚馬と25万両という大金を手にすることになる。
1870年5月14日(明治3年4月14日)、山本覚馬雇用伺の許可が下り、山本覚馬は京都府の顧問として働くことになる。
その後、木戸孝允の懐刀と言われる槇村正直が、河田佐久馬の後任として京都府の大参事に就任し、1872年(明治5年)に山本覚馬は正式に京都府顧問として就任する。
京都府の知事・長谷信篤(ながたに・のぶあつ)は単なる飾りで、京都府の実権は大参事(府知事)が握っており、槇村正直が京都府の実質的なトップとなる。
槇村正直は長州藩の木戸孝允の懐刀で、産業に関する実績があったため、木戸孝允が京都へ送り込んだ人材とも言われており、京都の産業復興のために辣腕を振うことになる。
一方、山本覚馬は禁門の変(蛤御門の変)のとき、長州軍が立て籠もる鷹司邸を砲撃し、火事を起こして京都を焼け野原にした張本人だった(火事の原因は諸説ある)。
京都を焼け野原にした山本覚馬が、今後は京都府の顧問として京都の産業復興の為に尽力することになる。
京都の産業復興という目的が一致していた山本覚馬と槇村正直の2人は、蜜月の関係で京都改革を推し進めていくのであった。
1869年(明治2年)、幽閉から釈放された山本覚馬(42歳)は、京都で小田時栄(おだ・ときえ)という16歳の少女と同棲を始めた(明治時代に淫行条例のような法律は無いので合法である)。
小田時栄(おだ・ときえ)は小田勝太郎の妹で、目を悪くした山本覚馬の身の回りの世話をし、山本覚馬の目の代わりとなって、山本覚馬の京都時代を支えてきた少女である。
小田時栄は幽閉中も薩摩藩の許可を得て、山本覚馬の世話を続けており、釈放後も山本覚馬と一緒に暮らしていたのである。
1871年(明治4年)、京都府の顧問となった山本覚馬は、京都府の大参事・槇村正直の自宅の隣にある空き家へ引っ越した。
山本覚馬が住むことになる空き家は、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の妾「お芳」の父親で、江戸の町火消しとして有名な新門辰五郎が京都滞在中に住んでいた豪邸(新門辰五郎邸)である。
大参事の槇村正直は、山本覚馬を「山本先生」と呼んで慕っており、槇村正直が山本覚馬に、自宅の隣の空き家を勧めたという。山本覚馬に対する信頼の程がうかがえる。
(注釈:小田時栄の兄・小田勝太郎が、山本覚馬に新門辰五郎邸を斡旋したという説もある。)
山本覚馬への期待はかなりのもので、山本覚馬の月給は30円であったが、後に45円へと昇級している。
新門辰五郎邸は敷地面積は100坪ほどあり、台所の他に5室ある豪邸で、山本覚馬は36円で新門辰五郎邸を購入し、小田時栄と住み始めたのである。
このようななか、会津から妹・山本八重や母「山本佐久」と「山本みね」の3人がやってくる。

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岸信介 安保の城の妖怪・岸信介伝「巨魁編」アンコールブログ連載小説VOL.9

2014年11月25日 07時41分31秒 | 日記







          昭和天皇崩御




 ジュノー博士は、荒廃した中国の町で「広島に原爆が落とされ、一瞬にして数千万人が死亡した。これによって日本は降伏…」というラジオ・ニュースを聞くことになる。
 つねに平和を願っていた彼は愕然となり、それからこう思う。「広島にいかねば…」と。 ジュノーは日本軍に頼み込んで飛行機に乗り、日本に向かう。千島列島に侵攻してきたソ連軍のミサイルをかいくぐって。しかし彼は東京でとめられ、頼んでも「広島」には連れていってもらえなかった。「軍の機密だから」というマッカーサー総司令官につめよった彼は、無惨な子供の死体や焼け野原となった写真をたたきつけていう。
「これが広島です。いまも多くの人々が何の治療もうけられず外部から見捨てられたまま苦しんでいるのです。軍の機密は、人の命より大事なのですか?!」
 死体の山、砂漠のようながれきの町「広島」、薬は底をつき、人々はバタバタと死んでいく。そこに彼がやってくる。「薬がきましたよ」彼のはにかんだ表情がまたすごくいい。こうして何万トンもの薬が届けられ、多くの人々が救われていく。
 去っていくジュノーと日本人医師の別れは、夕暮れの空がとても美しく印象的だ。
「センキュー・ベリーマッチ、ドクタージュノー」
「ザッツ・オーケー」
 ジュノーは八時十五分でとまった駅の時計をみていう。「あれは新しい時代の始まりです。けして戦争をしてはならないという証しです」それはとても感動的な言葉だった。
 しかし彼の意思に反して、世界は、朝鮮や、ベトナム、中東でも、同じ様な過ちを繰り返してしまう。それがとても哀れで仕方がない気持ちを覚えたりもする。……「もし不幸にも戦争がさけられないのなら、せめて治療方のない兵器は使わないで下さい」「戦争がもし不幸に起こっても戦う両者とは別に第三の戦士がいなければならない」

  ジュノーは引退してミズリー州に引き籠もっていたトルーマンと接見した。
 彼は、無惨な子供の死体や焼け野原となった写真をたたきつけていう。
「これが広島です。いまも多くの人々が何の治療もうけられず外部から見捨てられたまま苦しんでいるのです。軍の機密は、人の命より大事なのですか?!」
 トルーマンは「この戦争の全責任は私にある。しかし、米国人の犠牲を最小限におさえるために、戦争を早くおわらせるために仕方のなかったのだ」と頭を下げた。
「それは詭弁でしょう?!」
 ジュノーはトルーマンに迫った。
 しかし、トルーマンは同じことを繰り返すばかりだった。
「……日本人たちをどうする気かね?」
 ジュノーは迫った。
「裁判にかける」トルーマンはいった。
「殺す気かね?」
「……裁判次第だ」
 ジュノーは声を荒げた。
「人材の浪費は駄目だ! 今日本国を思えば……たとえ敵軍だったとしても貴重な人材は残すべきです! 違いますか? 閣下」
 トルーマンは感銘をうけた。
 ……まさしくその通りだ!
「わかりました。ジュノー先生」
 昭和二十五年九月、東篠らA級戦犯は巣鴨の牢獄の中にいた。
 一番牢  東篠英機、木戸孝一、大島浩、武藤章、土肥原賢二、松岡洋石、永野修身
 二番牢  岸信介、重光葵、広田弘毅、賀屋興宜、東郷茂徳、小磯国昭、白鳥敏夫、
 岡敬純、南次郎、大川周明、佐藤賢了、星野直樹、橋本欣五郎、荒木貞夫、嶋田繁太郎、 畑俊六、鈴木貞一
 三番牢  笹川良一、板垣征四郎、木村兵太郎、平沼騏一郎、梅津美治郎、松井石根
 四番牢  児玉誉士夫………

「馬鹿野郎!」
 東篠英機の前の首相、近衛文麿は電話を受けてそういい、そして自殺した。
 東篠英機は東京法廷で「自分には統帥権(軍の指揮権利)がなかった」という。つまり、天皇でも自分でもなく、陸軍がすべてを取り仕切っていたというのだ。
 彼等らは『A級戦犯』と呼ばれて東京裁判で裁かれた。
 しかし、A級戦犯とは『もっとも悪い戦争犯罪者』ではなく、『戦争を指揮した人間』で、BC級は戦争による虐待殺戮などをした戦犯だ。東篠英機らは死刑になった。       
 重光葵は戦後、副首相兼外務大臣になり、賀屋興宜は戦後、法務大臣になった。
 岸信介は戦後、首相になったのは有名だ。あの安倍晋三の祖父だ。
 昭和天皇は戦争末期、防空壕内部で只、頭を低くして陸軍の暴挙を黙認していた。
  1945(昭和20)年、昭和天皇はマッカーサーと会見した。場所はGHQ本部…
 そして、例の写真を撮影した。戦争ではアジア人二千万人、日本人三十四万人が死んだ。 マッカーサーはミス・インフォメーションを信じていた。”天皇制を廃止すれば日本人は激怒して暴動になる”というのだ。それで彼は天皇制を維持することになる。
 たった数週間で「平和憲法」がつくられた。
 極東裁判が開かれ、東条秀樹らは死刑となり、露と消えた。
 昭和天皇は『人間宣言』をする。           
「私は現人神ではない。ただの人間である」
 日本は敗戦により、ほとんど焼け野原となり、浮浪者やホームレス、孤児、餓死者、食料難があり、またパンパンと呼ばれる売春婦たちがアメリカ兵たちに体を売り、外貨を稼いだ。疎開地でも餓死者が出た。GHQではそれでも無視した。
 しかし、日本が破壊されたのは建物や工場や軍事施設といったいわばハードであり、ソフト……つまり人材は守られた。松下幸之助、本田宗一郎、井深大、盛田昭夫、田中角栄、吉田茂、そして皇族たち……世界に冠たる人材は守られ、日本はパックス・アメリカーナ(米国の核の下の平和)により冷戦でも奇跡の経済成長を遂げることになる。
 それは昭和天皇の願いでもあった。
「私は夢は、日本国が平和な、経済大国・技術立国になることである」
  そして、昭和天皇は荒廃した地方を、日本全国を巡幸していった。どこでも歓迎と拍手の嵐である。しかし、沖縄にだけはいかなかった。ひめゆりの生き残った女性は悔しがる。「……昭和天皇には沖縄にきてひめゆりの塔におがんでほしかった……」
 朝鮮戦争、JFK兄弟暗殺、ベトナム戦争の泥沼、日米安保による学生デモ、大阪万博、中東戦争、イラン革命、日米貿易対立、プラザ合意、ウォーターゲート事件……
  昭和四十年には息子の現在の天皇(当時・皇太子明仁)と民間人・美智子との結婚の儀が行われた。孫も出来た。テレビも売れに売れ、日本経済は奇跡の発展を遂げた。
 東京オリンピック、日本の高度経済成長、それにともなう南北貧富の格差…
 田中角栄による中国国交正常化、電電公社、国鉄の民営化………
 昭和の間、天皇はすこやかに静かに暮らした。そして、昭和の暮れ、ガキどもがメルトダウンしだし校内暴力、学力低下があいついでホームレスをリンチで殺したりいろいろ犯罪を犯した。バヴル経済でみんなが浮かれ、株価の意味もわからぬ主婦までもが「財テク」などと称して湯水のように金を遣った。アグリーに不良債権だけがふえた。
 中東情勢が緊迫化して湾岸戦争が勃発、世界同時不況、株価下落……
 石原祐次郎、美空ひばり、田中角栄が、松下幸之助、井深大、本田宗一郎が死んだ。
  昭和天皇・裕仁は病に倒れた。
 多年の苦労と不摂生がわざわいした。病気は進み、喀血は度重なった。
 回復の望みはなかった。
 ……せめて世界が平和になるまで。
 世界平和の業が成るのをこの目でみたい。それが願いだった。
  肌はやつれ、痩せて、骨まで痛むようになった。
 ……沖縄にだけはいきたかった……
 昭和天皇は病の床にあった。
 一九八九年、一月九日、昭和天皇は死を迎える。
 彼が愛してやまなかった日本赤十字委員会の医師たちは「俺がかわってやりたい」と泣いた。
 昭和天皇の死は朝まで気付く者がいなかったという。
 一進一退の病魔が昭和天皇の躰を襲った。
 その夜、昭和天皇は目が覚めた。
 不思議と躰が軽い。
 ……もうおわりだから最後に軽くなったか。
 昭和天皇は気力をふりしぼってようやく起き上がり、負けじと気力を奮いたたせた。
 ……まだ死ぬ訳にはいかぬ。
 ……まだ世界平和をみてはおらぬ。みるまで死ねぬ。
 昭和天皇は不敵な笑みを浮かべた。壁をつたって歩いた。
 ……私はまだ…死……ね…ない。まだやることがある…
 ……まだせめてもう一度平和活動をさ…せてください…被害者への謝罪がまだです…
 窓を開けて夜空を見上げると満天の星空がみえた。
 走馬燈のように懐かしい顔が浮かんだ。
 大正天皇の顔。
 マッカーサーの顔。息子の顔。妻の顔。孫の顔。虐殺した無辜なアジアの民…
 その他の顔、顔……
 裕仁なくして、日本の平和はあり得なかったはずだ…この私が…まだ謝罪してません… 昭和天皇は喀血し、倒れた。そして、その血により溺れ死んだ。
 享年八十七歳……
 元号は『昭和』から『平成』にかわった。故・小渕恵三が『平成』の文字をかかげる。ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊、冷戦終結、同時多発テロ、学力低下、イラク戦争……
 時代は刻々と変わっていく。オゾン層の悪化で環境は破壊の一途を辿り、環境が悪化。 日本は深刻な不況にみまわれた。女性天皇も認められた。愛子ちゃんが天皇になる?
 04年には孫でもあった皇太子が「雅子のキャリアを否定するような発言があった…」と異例の会見をし、また高松宮喜久子(最後の将軍・慶喜の孫で昭和天皇の弟の妻)が十二            
月に他界した。また昭和天皇の孫娘にあたる清子は、05年黒田さんと結婚した。
 中国は世界の工場としてめざましい経済発展を遂げていく……
 イラクや中東、北朝鮮は『ベトナム化』していく、EU(欧州連合)拡大……
 日本の改革も往々として進まない。子供がひとを殺し、自殺率も失業率も高くなる…
 世界大恐慌で何百万人もの失業者が路頭に彷徨う…。平成(今上)天皇はよむ。           
……”戦なき 世を歩みきて 思い出づ かの難き日を 出きし人々”……
 太平洋戦争から六十年以上が過ぎた。すべてが終わった訳ではない。
 しかし、昭和天皇はどんな悪人だったのだろう? どんな善人だったのだろう?
 我々日本人にひとつに疑問をなげかけた。              


 侵略戦争の罪と罰 
 
安倍首相靖国神社参拝 第1次政権含め初 現職は小泉氏以来。安倍晋三首相は2013年12月26日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。現職としては、2006年に当時の小泉純一郎首相が参拝して以来7年ぶり。第2次安倍政権発足からちょうど1年での決行で、首相としては初めてとなった。首相の参拝を求める保守層に配慮したとみられる。参拝後、首相は記者団に「日本のために尊い命を犠牲にされたご英霊に対し、尊崇の念を表し、手を合わせた」と述べた。中韓両国は、東京裁判のA級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社への首相や閣僚の参拝に反対しており、反発は必至だ。首相は第1次安倍政権のときに参拝しなかったことを「痛恨の極みだ」として、参拝への意欲を強調。12月9日の記者会見では「参拝するか否かを今、申し上げるべきではない」と述べていた。首相は到着殿から拝殿を抜けて、本殿で参拝した。「内閣総理大臣 安倍晋三」名で白い菊を献花した。26日に参拝した理由について、記者団に「安倍政権1年の歩みを報告し、再び戦争の惨禍で人々が苦しむことのないよう決意を伝えるため、この日を選んだ」と強調。「中国、韓国の人の気持ちを傷つける考えは毛頭ない」と述べ、両国の首脳に直接説明したいとの考えを示した。また「戦争の惨禍や、苦しむことのない時代をつくるため、不戦の誓いをした」とも述べた。4月の春季例大祭では「真榊(まさかき)」と呼ばれる供物を、8月15日の終戦記念日には玉串料を私費で奉納した。10月の秋季例大祭でも真榊を納めたが、それぞれ参拝を見送っていた。沖縄県・尖閣諸島や島根県・竹島をめぐり冷え込んだ中韓両国との関係改善に向け、首相は早期の首脳会談開催を呼び掛けてきた。だが今回の参拝により、会談は当面困難となりそうだ。第2次安倍政権では今年4月21~23日の春季例大祭に合わせる形で麻生太郎副総理兼財務相、古屋圭司国家公安委員長が、同月20日には新藤義孝総務相、同月28日には稲田朋美行政改革担当相が参拝した。新藤、古屋両氏は秋の例大祭でも参拝した。小泉元首相の場合、就任した01年は終戦記念日を避け8月13日に参拝。その後も1月や4月、10月に参拝したが、首相として最後の06年は8月15日に参拝した。◎保守層離反に危機感。【解説】安倍晋三首相が靖国神社参拝に踏み切ったのは、これ以上先送りすれば自身を支える保守層の離反を招き、政権基盤に影響しかねないとの危機感があったためだ。仮に見送っても、参拝に反対してきた中韓両国との早期の関係改善は現状では難しいと判断したとみられる。首相の思想や保守層の期待感がどんなものであろうと、一国のトップの行動が国内外に波紋を広げるのは避けられない。政権発足1年の節目で自身の信念に固執した首相には、衆参両院で多数を握る権力者の高揚感さえ垣間見える。参拝見送りを望む政権内の一部の慎重論は封じられた。首相は7月の参院選で幅広く支持を得る狙いから、4月の春季例大祭に合わせた参拝を見送った。参院選後の終戦記念日や秋季例大祭でも、中韓両国との首脳交流再開をにらみ参拝を控えた。ただ、首相の足元では、参拝に期待した保守層を中心に不満が蓄積。就任前の昨年10月に参拝した首相自身も年1回の実施にこだわっていたとされ、年末も自重すれば来春の例大祭まで参拝のタイミングがなくなるため、周辺では待望論が高まりつつあった。日本と中韓の関係悪化を懸念する米国への対応を含め、首相は一層の外交努力を求められる。「首相や閣僚の靖国参拝は憲法の政教分離原則に反する」との批判にも応える必要がある。<靖国神社>東京都千代田区九段北にある神社。国家のために命をささげた人々の御霊(みたま)を慰めることなどを目的に、明治政府が1869年に「東京招魂社」として創建し、79年に靖国神社と改称した。第2次世界大戦などの戦死者246万6000余柱の御霊が祭られている。戦後、国家神道が廃止され、一宗教法人となった。1978年には東京裁判のA級戦犯14人が合祀(ごうし)され、85年に中曽根康弘首相(当時)が戦後初めて公式参拝した。(産経新聞記事参照2013年12月26日木曜日)安倍首相の靖国神社公式参拝は、A級戦犯合祀が「戦争被害者への配慮に欠ける」という事だ。天皇陛下皇族の皆さまも1978年に東条英機らA級戦犯が合祀されてから一度も参拝してない。安倍氏は保守勢力の票の為に参拝した訳だが愚かだ。国の為に死んだ英霊を弔うなら戦犯無縁施設建設しかない筈だ。今年も陛下とともに被災地に訪れられた天皇皇后両陛下には一年でも長生きしてください、と思うだけですね。また神社の教えは「神道(しんとう)」。八百万(やおろず)の神(いろいろな神がいる)という宗教。靖国神社が出来たのは明治2年(1869年)創設(当時は「東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)」という)。1879年(明治12年)に改名・「東京招魂社」→「靖国神社」へ。(靖は安全の安と同じ。国が安泰なようにとの祈りの神社。創設者、大村益次郎(長州藩士・官軍。戊辰戦争の(官軍の)戦没者の英霊を祀る為))。明治・戦前まで宗教は国家宗群(国家神道・天皇崇拝)を国是としていた。戦後にそれらの神社は護国神社となる。国家神道の中心が靖国神社。靖国のご祭神(さいじん・多くの神)の数が「246万6000余柱」。(柱(はしら)は神様を数えるときの単位・第二次大戦の日本人英霊が246万6000人、ということ)。高杉晋作・坂本竜馬・吉田松陰も祀られているが、西郷隆盛(吉之助)は、西南戦争を起こした為に祀られていない。「合祀(ごうし)」とは2柱以上の神を祀ること。別に遺骨を祀るのではなく、名簿に名前を記入するだけ。A級戦犯合祀は密かに1978年におこなわれた。その為、1977年から現在まで天皇陛下(裕仁(昭和天皇)・明仁(平成天皇)含め)や皇室関係者は靖国神社を参拝していない。海外では「YASUKUNI Shrine(シュライン・神社)」ではなく「War Shrine」と呼ぶ。1985年中曽根首相(当時)が公式参拝して(原因①8月15日であった②内閣総理大臣という立場で公式参拝したこと)批判が中国・韓国含め海外からあがった。解決策①A級戦犯の分祀(靖国神社反対)②靖国神社以外他の宗教祀る神社建設(例えば千鳥ケ淵戦没者墓苑)(靖国神社反対*戦没者の英霊が「靖国で会おう」というのに反しているから)。ちなみに全国の宗教法人は18万2253法人もあり、「税金の免除」「小学校や幼稚園の公益事業の運営の免税」等ある訳です。学校法人・公益法人も同じです。宗教法人にも出来ない事があって、風俗業・カジノ・ギャンブル業・投資業です。お守り・お札・おみくじは無税ですが、数珠や線香は課税されます。違いは神社以外でも売っているか?で「数珠」や「線香」はデパートや仏具店でも買えるから駄目なのですね(笑)。伊勢(いせ)神社(天照大御神・アマテラスオオミカミを祀る)の式年遷宮(しきねんせんぐう)は20年に一度の神様のお引越し(戦国時代や戦後すぐの貧乏な時期は遷宮は延期されました。それどころではなかった(笑)訳です)です。総費用は一回550億円。ちなみに天皇の三種の神器は「八咫(やたの)鏡(かがみ・伊勢神宮の祀る神祇はこれ)」「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」「八尺瓊勾玉(やさかたのまがたま)」です。また、神社に飾られている枝は「榊(さかき)」という神聖なもので巻かれているギザギザの紙は「紙垂(しで)」という稲妻をイメージしているのですよ。沖縄の基地はまだ必要なんです。そのかわり沖縄でカジノ合法化とかどう?北朝鮮・中韓問題を考えてね。 第68回終戦戦没者慰霊日である。安倍晋三首相が玉串料だけで「靖国神社公式参拝」しないでよかった。どこまで日中・日韓関係をぼろぼろにすれば気が済むのだ「お坊ちゃん右翼首相(笑)」とにかく学歴に拘らず外交戦略のある人材登用をするしかない。外交は戦争、とわかる人材が官僚政治家にいるか?私にとって「島人(しまんちゅ)を舐めるな」等といった感情論は関係なくて、沖縄に基地が集中しているのは沖縄に貧乏籤を引かせている訳ではない。地政学上有利だから沖縄に基地が集中しているのだ。例えば「非武装中立」等馬鹿でしかない。防衛力がなければやられるだけだ。北朝鮮というテロ国家・独裁国家、中国との尖閣諸島問題、韓国との竹島問題…パックスアメリカーナ(アメリカによる核の下による平和)…。もう少し大人になって考えることだ。後、いっておくが本当の国防軍は在日米軍だ。自衛隊などまともに戦えば3時間ももたない。在日米軍こそが防衛の要だ。よく考えろ。今まで自衛隊が日本国を防衛したか?右翼政治家は軍国主義に走る。このまま日本の外交・防衛は大丈夫か?未来のNSC長官・日本の諸葛孔明・日本のキッシンジャーの緑川鷲羽に任せて欲しい。明確な外交戦略がある。学歴こそないが任せて安心な人材の筈だ。2013年5月27日、橋下徹氏が外国人記者クラブで「いわゆる従軍慰安婦(風俗と戦場の性の問題)」を他国でもあったし、慰安婦を正当化する訳ではないが謝罪する、といった。自国が慰安婦つかっていたけど他国でもやっていたからいいだろう…というあまりに幼稚な話で賛成できない。その意味で歴史家と政治家の歴史認識の乖離は恐ろしい。橋下氏は残念。またここでは「従軍慰安婦問題について詳しく教えてください」ということであるので少しだけ「慰安婦問題」をご説明しましょう。元々は戦前戦中には「慰安婦」とよばれていた女性たちは何故「従軍慰安婦」と呼ばれるようになったか?まず一つ目の転機は1973年千田夏光(せんだかこう)氏が三一出版から「従軍慰安婦」という著作を発表してから「慰安婦」が「従軍慰安婦」と呼ばれるようになります。いまから80年前頃に戦場で性的慰安をしていた女性たちのことで、施設は400か所もあり、帝国日本軍が重要書類をほとんど焼却した為に証拠がほとんど発見するのは不可能です。が、慰安婦は2万人から3万人(20万人から30万人との説も)当然売春婦もいたが甘言で慰安婦になった女性もいたそうです。「従軍慰安婦のばあさんたちは元々売春婦だ」という悪口は当たっていない。二つ目の転機は1991年に元従軍慰安婦であった韓国人老女・金学順(キム・ハクソン)さんが日本政府に謝罪と賠償金を求めて提訴したことです。何故1991年にやっと声をあげたのか?は1987年当時までは韓国は軍事政権であり、「慰安婦=売春婦」と差別を受けるから民主主義政権になり声をあげた訳です。「河野(こうの)談話」とは1993年官房長官であった河野洋平氏が「いわゆる従軍慰安婦については、軍の強制連行や甘言による強制があった。おわびする」という談話のことです。ですが最近になって朝日新聞社が「故・吉田清治氏による一連の従軍慰安婦報道は「誤報」で、日本軍による強制連行はなかった」とやっと謝罪しました。そう強制連行でのいわゆる「従軍慰安婦」はなかったのです。日本側は、1965年日韓基本条約で日本側が5億ドル(160億円)の経済援助をするかわりに韓国側が「請求権の放棄」を約束した為に、「慰安婦問題は解決済み」というスタンスです。だが、悪いと思ってか、1999年から2000年代にかけて「アジア女性基金」という民間の基金で、義捐金を民間から260億円募って、慰安婦というひとたちにひとり200万円と首相の詫び状が贈られています。歴史的なことをいわせてもらえば日本は1951年のサンフランシスコ講和条約で「戦後賠償」は終了しています。また条約加盟国でなかった韓国、台湾、インドネシア、フィリピン、タイなどの国へも戦後謝罪も賠償もおわっています。1965年には日韓基本条約で韓国に5億ドル(160億円)払い、さらに民間の「アジア女性基金」で100億円払っています。おかしいと思うなら国際政治裁判ハーグで訴訟にて話し合いましょう。だが、韓国の従軍慰安婦だけは韓国国内で「日本人に尻尾を振った売国奴!」と罵られるのをおそれて受け取りを拒否しています。結局政治なのですよ。ちなみに日本の外務省は「従軍慰安婦」のことを「Comfort woman(慰安婦)」と呼ぶが海外では「Sex slaves(性奴隷)」といいます。20万人も拉致した事実はないが。結局政治なのですよ。2013年5月23日、韓国のあるジャーナリストもどきの不貞な輩が「日本の広島長崎への原爆投下は「神の懲罰」であり、ドイツは侵略戦争を謝罪したが「日本は侵略戦争も従軍慰安婦問題も謝罪も賠償もまだだ。神が罰を下したのだ」」等と発言して反発されている。韓国の日本大使館も日本政府も抗議しているが、橋下氏や石原氏や小林よしのり氏らの「誤った侵略戦争否定論」のせいだ。極めて遺憾だし、激しく抗議したい。まず広島長崎の原爆被災者やその霊に謝罪して欲しい。話はそれからだ。大体にして原爆被災者の写真を観た後に同じことが言えるのか?頭のおかしな輩をジャーナリストにするな。2013年5月13日、大阪市長で日本維新の会共同代表の橋下徹氏(44)がいわゆる従軍慰安婦に対しての見解として「従軍慰安婦はけして正当化は出来ないが、他の国もやっていたように、兵士の戦闘の疲労を癒すための風俗施設は必要だったのではないか」という事を発言した。あまりに次元の低い見解であり、到底容認出来ない。また慰安婦などとされた女性、というよりすべての女性の尊厳を侮蔑するものであり大変遺憾であり、激しく抗議したい。2013年4月23日、168人の国会議員が靖国神社を公式参拝した。後述するがもっと中国韓国に反発されないような英霊たちを供養する施設は造れないものか?香港の活動家たちは何故上陸出来たのか?海上保安庁の目をかいくぐって何故上陸出来たのか?ニュースだけではわかりませんね。多分、活動家のバックにお金持ちのパトロンがいてお金を出しているのでしょう(中国政府関係者も含めて)。だが、今回も強制送還で「正解」である。何故なら国民も民主党議員や凡俗の政治家も知らないかつての自民党と中国側との昔の「密約」があったからです。それは(1)中国は、実効支配の原則から尖閣諸島を日本領土として認める。(2)しかし一方で、中国も国内法では領土権を主張できる。というもの。尖閣諸島で逮捕した中国人は「密約」によれば日本で裁判にかけることなく逮捕して中国側に引き渡すのが「正解」であり、「約束」なのです。ゆえに、今回は中国政府も公式には大きく騒ぎ立てるようなことをしていないのです。オスプレイ問題もまた「「軍政」に関わることは米軍に従う」という日米安保条約ならびに「沖縄返還の条件」でもあります。知らないのは国民と民主党政治家と無能集団だけ、というまたまた「お先真っ暗」な状態なのです。ベトナム戦争や湾岸戦争などでも、日本の国防とは関係ない争いでも、米軍が沖縄を利用したのは「約束通り」に米国軍は「軍政」として沖縄をつかったまでなんです。日本政府(国)が合意しているのですから、米国軍人からみれば「当たり前じゃん」ということ。沖縄県知事や県民や日本国民は「沖縄の軍政に文句を言う権限」など密約上ない、のです。北方領土もまたしかり、です。北方領土に関しては森喜朗元首相がその辺を知っていますから森氏に任せるのが正解ですね。残念なことに民主党議員も国民も無知で傲慢です。「脱原発」だの「沖縄に基地いらない」だの無邪気に強く主張はしますが、「外交感覚ゼロ」…まるで「集団ヒステリー」「農民一揆」「団塊世代の安保闘争」です。こういう密約があることさえわからぬでしたり顔で主張してないで、ここはまず反省と熟考の余地を、という事ですね。2013年8月15日は1945年8月15日から68年目の終戦記念日ですね。ですが、韓国の大統領が「日本の天皇(皇后両陛下)は訪韓して謝罪」するべきだ、とお冠です。どうも国内の不満分子の「ガス抜き」のようなんですが至極至言だと思います。本来ならば韓国や中国などのアジアの首脳に促されるまでもなく、「侵略戦争の謝罪と賠償」など昭和天皇・裕仁が何十年も前に、私緑川鷲羽わしゅうなど生まれる遥か昔に「日本国家としての謝罪と賠償」は解決していて当たり前で、私のような戦争世代からみれば「穴の青いガキ」にいわれるまでもない話です。現実が見えていない。私は「国際法上(韓国や中国だけの法廷ではなく)間違いなく過去の日本軍人ならびに日本軍に「被害を受けたことの証拠」」があるなら国家として謝罪し賠償金を払うのは道理である、と思います。日本人はナチスやヒトラーは悪く言うくせに「過去の日本軍部」「無辜の民何万人も虐殺した「真実」」からは逃げますね。国家としてよくないスタンスだと思う。もっとまともな国家・日本でないとこれまた困ったものだと思います。改めて上杉の義と論語と算盤が必要ですね。 戦後68年2012年8月15日は終戦(敗戦)から68年目ですですが、実は8月15日が終戦記念日なのは日本だけです。世界では1945年9月2日が終戦記念日(アメリカでは対日戦勝記念日(VJ Day))です。つまり、東京湾に浮かんだ米国艦ミズーリ号で日本が降伏条約に署名した日です。何故日本では8月15日かは昭和天皇の玉音放送があったからなんです。もちろんラジオでです。当時の方にお聞きすると朝に「正午に天皇陛下からのお言葉がある」と知らされ正午に直立不動で「耐え難きを耐え、忍び難きを…」という玉音放送を聴く訳です。が、当時のひとはよく意味がわからなかった、といいます。その後のアナウンサーの説明でやっと「敗戦」と知り、大人たちは号泣した訳です。日独伊三国同盟対60ヶ国で1億人の兵士が動員されました。ちなみに「第二次世界大戦」は1939年のナチスドイツのポーランド侵攻からのおおまかな大戦のことです。「太平洋戦争」とはアメリカからみた戦争で1937年のABCD包囲網(米国、英国、中国、オランダによる日本への経済制裁)から1941年12月8日の日本軍の真珠湾奇襲攻撃から見た対日戦争です。「大東亜戦争」とは日本側からみた戦争で、当時帝国日本は「大東亜共栄圏」という神国日本がアジア諸国を占領から開放するという「侵略案」からみた戦争です。1945年5月7日にはナチスドイツもイタリアも降伏。後は日本だけになり、「降伏書」が突きつけられますが、日本は「黙殺」。つまり無視して、トルーマンは「しめた。核実験が出来る」と広島と長崎に原爆を落とします。その後、ソ連まで攻め込んできていよいよ駄目だな、とやっとポツダム宣言を日本がのむ訳です。国連の議長と米英仏の大使が参列しました。だが、実は米国では核の被害や死体やらが教えてられていません。「原爆投下は戦争終結を早めた」という詭弁を教えています。またベトナム戦争での枯葉剤での奇形児も教えられていません。まあ、「臭い物に蓋」をしている訳です。日韓併合(侵略)から100年で菅首相(当時)は「痛切な反省と心からのおわび」を表明しました。謝罪みたいですが謝罪ではないという訳のわからぬ表明です。賠償金はどうするのですか?戦争では850万人が戦死しました。民主党政権が靖国神社にかわる国立追悼施設を建設することが明らかになりました。まあ、新たなハコモノか?それとも靖国神社参拝へのアジア諸国からの反発を意識してか?わからないです。長崎の原爆の日(8月9日)65年目がありました。長崎市長は「すべての核武装国のトップは長崎にきてください」と宣言しました。これはオバマ米国大統領のプラハ宣言(核兵器保有国の核兵器廃棄宣言)を受けてのことです。ちなみに「広島の原爆ドーム」は「広島県産業会館」というもので、今、平和公園となっている広場は「中島地区」という4400人が住む住宅街でした。それが、相生町のT字橋をターゲットに原爆を落とされ一瞬にして焦土と化す訳です。何故アメリカが「原爆」を造ったか?はナチスドイツが原爆を開発中で、ドイツ系ユダヤ人のアインシュタインがローズヴェルト大統領に「原爆を開発中するべき」と手紙を送ったからです。で、実験の為に日本に二回も落とした訳です。ですが、今、世界のひとを何億回も皆殺しに出来る程、1発で広島原発の1000万倍の爆発力です。「これはいかん」と思ったのか、国連常任理事国(米国、フランス、英国、中国、ロシア(旧ソ連))が、核拡散防止条約(NPT)をきめこの5カ国以外「核兵器保有」を禁止します。ですが、加盟してないインド、パキスタン、イラン、シリア、北朝鮮などが保有もしくは開発中です。南米でも特にブラジルとアルゼンチンがもめていて「トラテラルコ条約」が批准されブラジル、南ア、リビア、アルゼンチンが「核放棄」します。86年レイキャビク会談でレーガンとゴルバチョフ書記長が会談して東西冷戦が崩壊します。「戦略核兵器(ICBM)」と「戦術核兵器(戦争下で使用される核ミサイル)」があり、「戦略核兵器」を米露が減らそうとしている訳です。が、広島原爆投下の慰霊の日には右翼で元・自衛隊幕僚長の田母神(たもがみ)氏がその広島で「日本の核武装発言」でひんしゅくを買ったという。北朝鮮がいろんな悪辣なことをやると「日本も核兵器を。保有国になるべきだ」などというのが聞かれるが、馬鹿だと思う。核武装などしなくても、在日米軍基地にすでにある。また私は戦争は悪だと思う。またやるべきではないし、自衛隊の「先制攻撃能力を」などという武装論などとんでもないことです。この世界で「戦争が大好きだ」などという馬鹿はいません。が、自衛の為の戦いは自衛隊でなく在日米軍がやってくれます。だから日米安保があるのです。何の為の日米安保ですか?何の為に在日米軍に何十億円も払っているのですか?例えば私はアメリカ軍が軍事行動をするのはおかしいって思いません。例えばナチスドイツや帝国日本軍を連合軍が叩き潰さなければ今頃世界はどうなっていましたか?ユダヤ人や朝鮮人中国人は絶滅させられたかもしれない。が、だからと言って自衛隊がアメリカ軍やロシア軍みたいに戦える訳はありませんよ。自衛隊にそんな能力はありません。よく考えてください。過去の日本人の「侵略戦争」の罪と罰です。過去は過去という訳ありません。過去の日本人による罪と罰は妄想で過去の日本人や皇室天皇をヒーローやヒロインにしても変わらないって思っています。「八紘一宇(はっこういちう)」(皇国日本が侵略されたアジアを救うという建前論)や「大東亜共栄圏」だの言って、アジア諸国を侵略したのはどこの何という国ですか?例えば日本人は過去の戦争を「被害者」として語ります。が、本当に小林よしのりや櫻井よしこがいうような「過去の日本人」は「被害者」だったのでしょうか?「新しい歴史教科書をつくる会」という右翼集団の教科書を横浜市の8区で採用していいのでしょうか?確かに神風特攻隊や回天特攻隊やひめゆり学徒隊や広島長崎の原爆や沖縄戦やシベリア漂流など悲惨でしょうか。東京大空襲など悲惨です。またエノラ・ゲイ(広島に原爆を落とした爆撃機)の元・乗組員のモリス・ジェンプソン氏(87)がいまだに「原爆投下は戦争早期終結の為に必要だった」などという。確かに彼の立場ではそう言い訳するしかありません。だが原爆など投下しなくても戦争早期終結はなったと思います。当時の日本は焼け野原です。誰しも戦う気力すらありませんでした。当然一部の軍人は竹槍でも戦うのであろうが、象に立ち向かう蟻です。が、では我々自身は日本人は被害者だったのでしょうか?何もしていな
いのでしょうか?違います。まず日本が侵略戦争をしたのでしょう?アジアや朝鮮半島中国を侵略して大量の無辜の民(百万人)を虐殺強姦などや暴行をしたのです。確かに過去の戦争での悲惨な体験は語り継ぐべきです。が、それは「前提条件」が付きます。それは「日本人が過去の侵略戦争」をきっちりと謝罪して、間違いなく過去の日本軍人に「被害」を受けたという人には賠償金を払うのが当たり前ではありませんか?また「侵略戦争」や「従軍慰安婦」「南京大虐殺」を「無かった」という人にいうと、確かに「南京大虐殺虐殺人数は30万人」というのは信憑性が薄い。が、30万人でなく1万人でも1000人でも殺されれば「虐殺」なのです。小林よしのりや櫻井よしこに騙されるな。過去の日本人に確実に被害にあったひとには賠償金をきっちり払うことです。従軍慰安婦だけでなく日本軍の元捕虜やアジアの殺害・被害を受けた無辜の民にもです。謝罪も賠償金もまだなのに過去の日本人をヒーローヒロインにしても誰も話を聞きません。ガキのたわごとです。まずは侵略戦争での謝罪と賠償金です。それから悲惨な体験を語り継ぐべきです。また河村たかし名古屋市長が南京大虐殺を否定するなどとんでもないことです。確かに30万人のクレデビリティはわからない。が、戦後64年も経って今更蒸し返しても利益はありませんよ。まずは侵略戦争での謝罪と賠償金です。わかりますか?ならいいですね。頑張ってくださいね。それからですよ。
またここでは「いわゆるA級戦犯」について書きます。「A級戦犯って誰か?」と聞くと入江紗綾あたりのような「小娘」は「東條英機(とうじょうひでき)でヒットラーみたいなひとなんですよね?」というだろう。ならその東條英機のプロフィールを紹介します。
東條英機は明治17年(1864年)から昭和23年(1948年)までの人生である。旧盛岡・南部藩士を父に持つ。薩摩長州藩に敗れた南部藩出身の父は陸軍軍人だったが不遇なままだった。東條英機は陸軍軍人になりのちに首相として敗戦後にピストルで胸を撃って自殺を謀るがなれない銃だった為に胸を外れて、GHQ(連合国総司令部)の医者に救われてのちに東京裁判で死刑になった。東條英機は政治には関心がなく「政治は水商売」と嫌っていたという。父親の後を追って、軍人として陸軍に入った。東條英機達は長州閥一掃をするために改革派閥をつくる。それらが議会の統制を目指す「統制派」と議会を無視して天皇を掲げる「皇道派」に分裂します。東條英機はソ連と小競り合いを起こして「退役」となる筈だった。が、支那事変(侵略)で東條英機達の兵士団は活躍して東條英機は55歳で陸軍大臣(政治家)に推挙されます。昭和15年のことです。東條英機は事務的な官僚気質の政治家で何の野心も謀略性も
ない。その東條英機と対極の人物が満州事変(侵略)を起こした石原莞爾(かんじ)だ。
近衛文麿(このえふみまろ)首相は米国のローズヴェルト大統領と会談できないことで政権を投げ出す(近衛文麿は敗戦後に服毒自殺した)。
後任は皇族の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)がいいとなるけど…「皇族が敗戦の責任を取らされるのは如何なものか?」ということで東條英機が突如として首相になる。「貧乏籤」を引かされた訳です。東條英機は何とか戦争回避を模索するが、コーデル・ハルのいわゆる「ハル・ノート」を日本は突き付けられて、軍部が暴走して真珠湾攻撃をしてしまった。まあ、東條英機はスケープ・ゴート(生け贄の羊)にされた感じはある。だが、私は小林よしのりのように東條英機を「英雄視」したりしない。彼は昭和天皇(裕仁)の代わりに死んだのだ。
死刑判決を受けたのは土肥原賢二(陸軍大将)、広田弘毅(こうき、外務大臣、城山三郎著作「落日燃ゆ」の主人公)、板垣征四郎(首相、陸軍大臣)、木村兵太郎(ビルマ軍指令大臣)、松井石根(いわね、上海軍指令大臣)、武藤章(陸軍省総司令)、東條英機(陸軍大臣、首相)である。
ちなみに「A級戦犯」とは「もっとも悪いことをした犯罪者」ではない。戦争を指導した責任者です。B級戦犯は戦場で命令する立場の兵士。C級戦犯は虐殺や強姦や泥棒行為をした兵士です。BC級でも1061人が死刑になっている(映画「私は貝になりたい」参照)。

ちなみに戦争の犯罪の定義があります。(1)一般住人非戦闘員に危害を加えてはならない(2)軍事目標以外を攻撃してはならない(3)不必要な苦痛を与える残虐な兵器を使ってはならない。(4)捕虜を虐待してはならない。確かに連合国軍人も虐殺をしたが日本兵士だって虐殺はしています。原爆投下は確かに許せない戦争犯罪です。が、だからといって「被害者意識丸出し」で世界に訴えても何もかわらないのですね。
1945年、日本はポツダム宣言を受けて「(無条件ではなく条件つき)降伏」をします。すべては少なくとも欧米は「天皇・裕仁こそヒットラーだ」と見ていた。が、結果は天皇の罪を東條英機や広田弘毅がすべてかぶり、A級戦犯として極東軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けて死んだのだ。彼らは処刑台に向かう前に「天皇陛下万歳!大日本帝国万歳!」と三唱して処刑された。
また他のA級戦犯で獄死した人物をあげる。松岡洋右(ようすけ、外務大臣)、東郷茂徳(しげのり、外務大臣)、白鳥敏夫(イタリア大使)、永野修身(おさみ、海軍元帥)、梅津美治朗(よしじろう、参謀総長)、小磯国昭(くにあき、首相)、平沼騏一郎(きいちろう、国本社会長)。

名誉を回復した戦犯。大川周明(しゅうめい、思想家)、木戸幸一(こういち、木戸孝允の孫、内務大臣)、嶋田繁太郎(海軍大臣)、南次郎(朝鮮総監)、畑俊六(しゅんろく、支那軍指令大臣)、橋本欣五朗(陸軍大佐)、岡敬純(たかずみ、海軍大臣)、荒木貞夫(文部大臣)、大島浩(イタリア大使)、佐藤賢了(けんりょう、陸軍省事務局長)、鈴木貞一(ていいち、陸軍中将)など。

不起訴のA級戦犯。重光葵(しげみつまもる)は外務大臣としてミズーリ号の甲板で降伏書に調印して国連で演説した。賀屋興宣(かやおきのり、法務大臣)などですね。
戦争犯罪者は時に「勝者の為に犠牲者」になる。彼らだっていい訳ぐらいあるだろう。が、だからと言って、被害者意識丸出しで世界に訴えてもかわらない。小林よしのりは「A級戦犯などいない」という。なら誰が戦争を始めたのであろうか?軍部か?天皇か?何はともあれ「いい訳」で歴史を改ざんされては堪らない。歴史から逃げるな!と言っておわりとしたい。 
       天皇論!
 
天皇・皇后両陛下の葬儀、17世紀以来の火葬に。宮内庁発表、陵は寄り添う形。 宮内庁は14日、天皇、皇后両陛下の意向を受けて検討を進めてきた「今後の陵と葬儀のあり方」を発表した。陵の墳丘の形状は従来通りで、天皇・皇后陵が隣り合う形にし、敷地面積を昭和天皇・香淳皇后陵の8割程度にする。また江戸時代前期から続いてきた土葬を火葬に変更し、火葬のための新たな儀式を行う。天皇の火葬は1617年の後陽成天皇の葬儀が最後で、葬法の歴史的転換になるが、他に大きな変更はなく、旧皇室喪儀令などに基づく戦前の形式が継続することになった。陵の予定地は東京都八王子市の武蔵陵墓地の大正天皇陵西側になる。宮内庁は昨年4月、新たな陵と葬儀のあり方の検討を行うと表明。両陛下は武蔵陵墓地の用地に余裕がなくなっていることや国民生活への影響を少なくすることを考慮して検討を進めてほしいとの意向を示されていた。また一般社会で火葬が通常化していることなどから火葬を希望された。陵は明治天皇陵から続いている「上円下方」の墳丘形式を踏襲。従来より大きさを縮小した天皇、皇后陵が並び立つように配置する。皇后陵は天皇陵より小さめになる。(2013年11月15日読売新聞記事参照)2013年10月31日の秋の園遊会で天皇陛下に手紙を渡した山本太郎参院議員(無所属)に対し、1日、議員辞職を求める声が相次いだ。自民党の脇雅史参院幹事長は党役員連絡会で「憲法違反は明確だ。二度とこういう事が起こらないように本人が責任をとるべきだ」と要求した。橋下徹氏は「日本国民であれば、法律に書いていなくても、やってはいけないことは分かる。陛下に対してそういう態度振る舞いはあってはならない。しかも政治家なんだから。信じられない」と批判。(2013年11月1日毎日新聞)2013年6月9日、「皇太子さまと雅子様のご成婚から20周年」でした。早いものです。愛子さまも大きく成長された。雅子さまのご病気は依然として予断を許さないがご快復をお祈りいたしたい。雅子さまと皇太子さまは、オランダに公務でいらっしゃった。週刊誌などは「園遊会に欠席したのにオランダにはいった雅子さま」などと批判しているが雅子さまの精神障害(適応障害)が大変重いことがわかっていない。精神病は見えない心の病気だからわからないのだ。どれだけ苦しいか。2012年6月6日、16回目のがん関連手術を受けた仁(ともひと)親王殿下(66)が亡くなられた。「髭の殿下」として慕われたが病気には勝てなかった。イギリスのエリザベス王女が戴冠式のとき、当時19歳の皇太子だった明仁天皇(学習院大学在学中)は列席なさっていますね。また皇太子妃・雅子さまがご体調を崩されたようです。原因としては愛子さまの登校に1年以上同伴してメンタル面でダメージがあったそうです。また政府の検討では「女性宮家は1代限り」だそうです。女性皇族(宮家)の夫や子供は皇族ではないということです。「女性宮家」だのより「旧宮家」から養子をとったりすればいいのでは?とも思いますがね。2012年2月18日天皇陛下の心臓バイパス手術が成功しました。まずはよかった。2013年12月23日天皇明仁が80歳になった。最近は天皇も耳が遠くなり、皇后も病を抱えている。2011年1月2日、「新年祝賀の義」が開かれてお手振り(笑)しましたね。09年11月12日、政府の式典「平成天皇即位20周年記念式典」が開かれた。それに先立って皇居・宮殿「石橋(しゃっきょう)の間」で(平成)天皇と皇后は記者会見を開いた。天皇は「「象徴」の在り方を今日まで模索中である」という。即位したのは90年11月12日である。私はその当時を覚えている。あの意味不明の「即位の礼」皇居・正殿での醜悪なナショナリズムのオンパレードの「即位礼正殿の儀」という国儀だ。「天皇陛下万歳!皇后陛下万歳!」というあれだ。中国の次世代リーダーの習近平氏と天皇が会見したことで野党自民党や羽毛田宮内庁長官は「30日ルール(天皇と外国の国家元首が会う場合によって30日前に宮内庁に相談するルール)」が破られた。と騒いでいます。が、皇族は官僚や政治家と同じようにパブリックサーバント(公僕)なんです。日本の国益の為に会うのは間違いではありません。また愛子ちゃんがいじめで不登校であるそうですね。この異例の報道は危険だと思います。愛子ちゃんがいじめられているとかは子ども達の話しです。発表してマスコミが報道することで、乱暴をふるったとされる男子小学生は「天皇の孫をいじめた悪童」として社会的に抹殺されたり自殺したりしたら宮内庁や皇室担当マスコミは自殺の責任を取れるのか?可能性はゼロではない。ここでは「天皇論」を展開します。まず「国歌・君が代」ですがおかしいって思いませんか?「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」…主権在民を唄っておいてなんで君が代つまり「天皇の代」が「苔のむすまで未来永劫続け」と唄わなければならないのですか?確かに江戸時代は婚礼の際やらで庶民的な唄であって、「君が代」は古今和歌集の一句であることは知っています。が、この詩に曲が付けられたのは明治13年、天長節(11月3日)に宮中宴会で披露されてからです。つまりここからは「君が代」が「天皇の代」になっ
た訳です。「君が代は天皇の代ではない」など詭弁もいいところです。古来天皇の最も重要なつとめは祭事を行うことといわれ、春秋の皇霊祭、神嘗祭(かんなめさい)、新嘗祭など年間30回にもおよびます。天皇はいわゆる「超能力者」みたいな感じで、神の子孫(イザナギやイザナミやスサノオや天照大神の子孫)といわれています。無論そんな神の子孫な訳ありません。だが天皇制度は推古天皇(608年)から数えても1400年以上の歴史があります。天皇はエンペラー(皇帝)ではなく祭司王です。国家元首で天照大神の弟のニニギノミコトの曾孫が初代・神武天皇です。なお正月の一般参賀は皇室の「長和殿」でいわゆる「お手振り」をやる訳です。ちなみに今の平成天皇(今上天皇)の名前がわからない方もいるかもしれない。昭和天皇は裕仁(ヒロヒト)、平成天皇(今上天皇)は明仁(アキヒト)、皇太子は徳仁(ナルヒト)です。「仁」の字は第56代清和天皇(858
年から876年)の推仁(これひと)で初めて使われ、第70代後冷泉(ごれいぜい)天皇の親仁(チカヒト)以来わずかな例外を除き「仁」を使うのが通例になっている。明治時代から皇子には「仁」皇女には「子」をつけるのが正式に決まった。名前を本名で呼ばないのは「位が高い」から(笑)。生前の事績を称える「諮号(しごう)」明治天皇、大正天皇、昭和天皇、いずれも造年であり、生前は呼ばない。在任中は「今上(きんじょう)天皇」と呼ぶ。天皇皇后および皇太后、太皇太后(たいこうたいごう)を陛下、それ以外の皇族は殿下である。秋篠宮の子供は眞子内親王殿下、佳子内親王殿下、悠仁親王殿下です。天皇皇后および皇族には姓がありません。また天皇には戸籍もありません。即位拒否や退位の自由も「自分の意見をいう権利」もありません。婚姻の自由もありません。まずは宮内庁の「皇族会議」で決まります。明仁天皇(平成天皇)と皇后美智子さんが前にサイパ
ンに慰霊の旅に出て「バンザイクリフ(戦争中に日本人たちが「天皇陛下バンザイ」と叫びながら投身自殺した崖)」で手を合わせた。こんな謝罪は謝罪じゃない。こういったことは昭和天皇がとっくの昔にアジア諸国を回って謝罪の旅に出るべきであって、今更遅いのである。昭和天皇は現人神(あらひとがみ)で軍服をきた、陸海空軍を統べる「大元帥」だったのだから。確かに「人間宣言」をしたが、昭和天皇には「戦争責任」が確実にあった。

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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.135大阪市長橋下徹氏大阪府松井知事『国政選挙立候補とりやめ』は大英断

2014年11月24日 12時50分09秒 | 日記






 橋下徹氏「国政選挙立候補とりやめ」は英断

 今回の2014年度『アベノミクス解散総選挙』で、大阪市長の橋下徹氏と大阪府の松井知事の「国政選挙立候補とりやめ」に関しては英断だと思う。大体にして貧すれば鈍するではないが、維新の党の存在価値が危ないからといって、急に国政に進出してもあまりうまくいくはずはありません。せっかく『大阪都構想』を進めている段階なのに、衆議院議員になっていったい何がしたいのでしょうか?
橋下徹氏や松井氏が選挙に出れば当然当選するでしょうが、急に首相だの大臣だのになれる訳ないでしょう。
それどころか国務政治家に橋下徹氏や松井氏がなったら『大阪都構想』は誰が進めるのですか?大体にして橋下徹氏は本当は何がしたいのでしょうか。日本維新の党だの維新の党だの船中八策だの『日本の維新』といい幕末の坂本竜馬の真似事で『船中八策』を発表しても、肝心の『今様竜馬』が大阪から一歩も出ないなら、何が日本の維新ですか?
だから言っているでしょう。「橋下徹さんまずは大阪だけでおやんなさい」、って。
確かにプロパガンダ(大衆操作)として、自分と幕末維新の英雄・坂本竜馬を重ねて宣伝するのは妙案だと、は思います。
ですが、あの「慰安婦発言」後では、まるで子供騙し、ですよね。竜馬になって何処の党と何処の党をふっつけて同盟合党させるのか。民主党と維新の党と次世代の党等『(共産党以外の)野党連合』はやらねばならない。自民党に対抗できる二大政党制が理想だ。だが、まずは橋下さん『大阪都構想』の後にそれはおやんなさい。あなたの第一は「大阪都構想」であり「国の為道の為」は第二の筈です。今は安倍政権と闘うには機が熟していない。今回は安倍自民党公明党の圧勝になる。
自民党公明党独裁体制に国民の不満が爆発したときこそ千載一遇の好機です。
だからこそ、今回の橋下徹氏の「国政選挙立候補とりやめ」は大英断。まずは橋下さん「大阪だけでまずはおやんなさい」。

緑川鷲羽(みどりかわ・わしゅう)・44・フリージャーナリスト・

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八重の桜  新島八重の桜と白虎隊とブログ連載アンコール小説<NHK2013年大河ドラマ『八重の桜』>7

2014年11月24日 06時57分15秒 | 日記






ケーベル銃は洋式銃だが、先込め式で火縄銃に毛の生えた程度の性能しかない旧式銃である。
最新式のスペンサー銃と比べれば、性能の差は雲泥である。
山本八重は最新式のスペンサー銃と銃弾100発を持って若松城へ入場していたが、初日に100発全てを撃ちつくし弾切れになったため、以降はケーベル銃を使用したとされている。
旧式銃の弾は若松城で製造できたのだが、スペンサー銃は最新式だったため、弾が製造できなかったのだ。

         6 官軍迫る



またまた話しを変える。まるで落ち着きのない独楽の如く。
  鶴ケ城の庭で、集まった家臣や少年たちに松平容保は激をとばした。
「日本の近代化は余たちがやる! 薩長なにするものぞ! ジャンプだ! この新天地でジャンプだ!」
 一同からは拍手喝采がおこる。
 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……
 会津藩三千余名、福島でのことである。
 少年たちはナギナタをもった姉たちをからかった。
「これ! 貞吉! ふざけている場合ではないですよ!」
 姉のおみねが諫めた。すると弟が、
「ぼくは姉上が母上の御腹の中に落としていったものをつけて生まれたんだ」
 といった。
 意味がわかっておみねは「これ!」と顔を赤くした。
 慶応四年(一六七八)一月二十八日、いよいよ官軍が迫ってきた。
 同年八月には藩主・松平容保は「薩長と戦う! 奸族どもを始末するのだ!」
 と激を飛ばした。
 八月二十三日には食料や弾薬が底をついてきた。
 会津軍八千、官軍二万……
 とても勝てそうにもなかった。
 しかし、会津白虎隊少年たちは火縄銃で交戦していた。
「おれらが負げる訳ね!」
「んだ! おれらが正義だ!」
 しかし、会津は次々と敗走しだす……

  明治二年、榎本脱走軍は蝦夷全土を占領した。
 そこで、榎本武揚らは「蝦夷共和国」の閣僚を士官以下の投票により選出した。
 選挙の結果は左のとおりである。

 総裁      榎本武揚
 副総裁     松平太郎
 海軍奉行    荒井郁之助
 陸軍奉行    大鳥圭助
 箱館奉行    永井玄蕃
 開拓奉行    沢太郎左衛門
 陸軍奉行並   土方歳三

 なお土方は、箱館市中取締裁判局頭取を兼ねることになったという。
 一同はひとりずつ写真をとった。
 土方歳三の有名なあの写真である。しかし、「蝦夷共和国」はつかのまの夢であった。 同年一月中旬、明治政府がついに列強国との局外中立交渉に成功した。ということはつまり米国最新甲鉄艦の買いつけに成功したことを意味する訳だ。
 それまでの榎本武揚は開陽丸を失ったとはいえ、海軍力には自信をもち、いずれは明治政府も交渉のテーブルにつくだろうと甘くみていた。よって、蝦夷での事業はもっぱら殖産に力をいれていた。
 とくに七重村でのヨーロッパ式農法は有名であるという。林檎、桜桃、葡萄などの果樹津栽培は成功し、鉱山などの開発も成功した。
 しかし、「蝦夷共和国」は開陽丸を失ったかわりに官軍(明治政府軍)は甲鉄艦を手にいれたのである。力関係は逆転していた。


  明治二年(一八六七)二月昼頃、江戸の官軍による収容所に訪ねる一行があった。
 佐久とその父・林洞海と兄である。
「良順おじさまにあえないわ」
 佐久はいった。「良順おじさまは賊軍ではないわ。だってお医者さまだもの」
 だが、加賀藩用人・深沢右衛門は「松本良順は賊軍、面会は駄目じゃ」というばかりだ。 林洞海は「今何時かわかりまするか?」とにやりといった。
 深沢は懐中時計を取り出して「何時何分である」と得意になった。
 すると、洞海は最新式の懐中時計を取りだして、
「……この時計はスイス製品で最新型です。よかったらどうぞ」と賄賂を渡した。
「しかし……」
「どうぞ」
 深沢はついに誘惑におれた。
「三十分だけだぞ」
 佐久とその父・林洞海と兄は刑務所の檻に入れられた松本良順と再会した。
「おお! 佐久! それに林殿も…」
 松本良順は歓喜の声をあげた。
 松本良順は仙台で土方歳三らと合流するつもりだったが、持病のリウマチが悪化し神奈川に帰ったところを官軍に捕らえられていた。
「……お元気でしたか?」
 佐久は気遣った。
 すると良順は「わしはとくになんともない。それより……」
 と何かいいかけた。
「…なんですの?」
「官軍が会津まで到達したそうじゃ。公たちを倒すために会津征伐隊などと称しておるそうで……馬鹿らしいだけだ」
「まぁ!」佐久は驚いた。
「公は会津を貸してほしいと明治政府に嘆願しておるという」
「会津は上様さまにとって藩地、十五歳の頃に藩主になって以来ずっと会津のことを考えてきたそうです」
 佐久の兄は、
「公は夢を食うバクだ」と皮肉をいった。
 佐久は「会津公さまは確かにバクですわ。でも、食べるのは夢ばかりではありません。明治政府をも食べておしまいになられますわ」
「これ! 佐久、官軍にきかれたらただじゃおさまらん。物騒なこというな!」
 父は諫めた。
 松平容保の会津処理を岩倉具視は拒否し、容保の「会津共和国」ひいては「榎本脱走軍」は正式に”賊軍”となった。
 同年三月七日、政府海軍は、甲鉄艦を先頭に八隻の艦隊で品川沖を出港した。
 同年三月二十日、榎本脱走軍は軍儀をこらし、政府軍の甲鉄艦を奪取する計画を練った。アイデアは榎本が出したとも土方がだしたともいわれ、よくわからない。

「さぁ、君達はもう自由だ。猪苗代にいる官軍までもどしてあげよう」
 容保たちは捕らえた薩摩藩士たちを逃がしてやった。
 もう三月だが、会津は雪の中である。
 薩摩藩士・田島圭蔵の姿もその中にあった。
 ……なんといいひとじゃ。どげんこつしてもこのお方は無事でいてほしいものでごわす。 田島は涙を流した。
 容保たちにとって薩摩藩士らは憎むべき敵のはずである。しかし、寛大に逃がしてくれるという。なんとも太っ腹な松平容保であった。

 舞台は蝦夷(北海道)である。
「箱館戦争」の命運をわけたのが、甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)であった。最強の軍艦で、艦隊が鉄でおおわれており、砲弾を弾きかえしてしまう。
 官軍最強の艦船であった。
 それらが蝦夷にせまっていた。
 榎本たちは焦りを隠せない。
 ……いまさらながら惜しい。開陽丸が沈まなければ……

  箱館病院では高松凌雲はまだ忙しくはなかった。
 まだ戦は始まってはいない。看護婦はおさえという可愛い顔の少女である。
 土方は龍造という病人をつれてきた。
「凌雲先生、頼みます!」
 土方歳三は凌雲に頭をさげた。
「俺は足軽だ! ごほごほ…病院など…」
 龍造はベットで暴れた。
 おさえは「病人に将軍も足軽もないわ! じっとしてて!」
 とかれをとめた。龍造は喀血した。
 高松凌雲は病室を出てから、
「長くて二~三ケ月だ」と土方にいった。
 土方は絶句してから、「お願いします」と医者に頭をさげた。
「もちろんだ。病人を看護するのが医者の仕事だ」
「……そうですか…」
 土方は廊下を歩いた。
「官軍の艦隊が湾に入りました!」と伝令がきた。
「なにっ?!」
 土方はいい、「すぐにいく!」といって駆け出した。


  すぐに榎本たちは軍儀を開いた。
 大鳥圭介は「なんとしても勝つ!」と息巻いた。
 すると、三鳥が「しかし、官軍のほうが軍事的に優位であります」と嘆いた。
 回天丸艦長の甲賀源吾が「官軍の艦隊の中で注意がいるのが甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)です! 艦体が鉄でできているそうで大砲も貫通できません」
 海軍奉行荒井郁之助は「あと一隻あれば……」と嘆いた。
 土方はきっと怖い顔をして、
「そんなことをいってもはじまらん!」と怒鳴った。
 榎本武揚は閃いたように「ならもう一隻ふやせばいい」とにやりとした。
「……どうやってですか?」
 一同の目が武揚に集まった。
「甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)をかっぱらう!」
 武揚は決起した。「アボルタージだ!」
 アボルタージとは、第三国の旗を掲げて近付き、近付いたら旗を自分たちの旗にかえて攻撃する戦法である。
 荒井郁之助は「アボルタージですか! それはいい!」と同感した。
 家臣たちからは、
「……本当にそれでいいのでしょうか? そんな卑怯なマネ…」
 と心配の声があがった。
 武揚は笑って「なにが卑怯なもんか! アボルタージは国際法で認められた立派な戦法だぜ! 卑怯といえば薩長じゃねぇか。天子さまを担いで、錦の御旗などと抜かして…」「それはそうですが……」
 土方は無用な議論はしない主義である。
「それには私がいきましょう!」
 土方は提案した。
 武揚は躊躇して、
「土方くん。君の気持ちは嬉しいが……犠牲は少ないほうがいい」
 といった。声がうわずった。
「どちらにしても戦には犠牲はつきものです」
「君がいなくなったら残された新選組はどうなるのか考えたことはないのか?」
「ありません。新選組は元々近藤勇先生のもので、私のものではありません」
「しかし……その近藤くんはもうこの世にはいない」
 土方は沈黙した。
「とにかく……私は出陣します! 私が死んだら新選組をお願いします」
 やっと、土方は声を出した。
「……土方くん………」
 榎本は感激している様子だった。
「よし! 回天と蟠竜でやろう!」
 回天丸艦長の甲賀源吾が「よし!」と決起した。
 荒川も「よし! いこう! 甲鉄艦(ストーン・ウォール・ジャクソン号)をかっぱらう!」
 と決起した。
「よし! よし!」
 榎本は満足して何度も頷いた。
 そして、
「アボルタージだ!」と激を飛ばした。
 ……アボルタージ! アボルタージ! アボルタージ! アボルタージ! ……

  さっそく回天丸に戦闘員たちが乗り込んでいった。
 みな、かなり若い。
 土方歳三も乗り込んだ。
 しかし、土方とてまだ三十五歳でしかない。
 海軍士官・大塚浪次郎も乗り込む。彼は前記した元・彰義隊隊士・大塚雀之丞の弟である。「兄上! しっかりやりましょう! アボルタージを!」
「おう! 浪次郎、しっかりいこうや!」
 大塚雀之丞は白い歯を見せた。
 英語方訳の山内六三郎も乗り込む。
「アボルタージだ!」
 若さゆえか、決起だけは盛んだ。
 しかし、同じ英語方訳の林董三郎だけは乗せてもらえなかった。
「私も戦に参加させてください!」
 董三郎は、回天丸艦長の甲賀源吾に嘆願する。
 が、甲賀は「榎本総裁がおぬしは乗せるなというていた」と断った。
「なぜですか?! これは義の戦でしょう? 私も義を果たしとうごりまする!」
 林董三郎はやりきれない思いだった。
 高松凌雲がそんなかれをとめた。
「榎本さんは君を大事に思っているのだ。英語方訳が蝦夷からいなくなっては困るのだ」「…しかし……」
「君も男ならききわけなさい!」
 董三郎を高松凌雲は説得した。
 こうして、回天丸と蟠竜丸が出帆した。

「官軍がせめて……きたのでしょう?!」
 病院のベットで、龍造は暴れだした。看護婦のおさえは、
「……龍造さん、おとなしくしてて!」ととめた。
 龍造は官軍と戦う、といってきかない。そして、また喀血した。
「龍造のことを頼みます」
 船に乗り込む前に土方は病院により、おさえに頼んでいた。看護のことである。

 舞台はふたたび会津である。
  病院に松平容保がきた。
「あなたが土方さんのお知り合いの女性ですか?」
 容保は不躾な言葉で、井上ちか子に声をかけた。
 ……いやらしい気持ちはない。
「はい殿。京で一緒でした。しかし、もう京はありません。みな死にました。好きな人のために女でもここで戦って死にとうござりまする」
 井上ちか子の言葉を、容保は佐久の声のようにきこえてたまらなくなった。
「井上さん」
「はい」
「……元気で。お体を大切になさってください。戦は必ずこちらが勝ちます」
「しかし……」
「心配はいりません。わが軍の姿勢はあくまで旧幕府と同じ共順……会津は共和国です。明治政府とも仲良くやっていけます」
 容保自身にも、自分の言葉は薄っぺらにきこえた。
「誰か! 誰かきて!」
 おさえが声をあげた。「龍造さんが……!」
「……す、すいません!」
 井上ちか子は病室にむけ駆け出した。
 容保はひとり取り残された。
 かれはひとりであり、また悪いことに孤独でもあった。そうなのだ! 困った!
「……佐久、シャボンをつくってやる約束は果たせそうもない」
 松平容保は、深い溜め息とともに呟いた。
「…佐久……」容保は沈んだ気持ちだった。
 湾には官軍の艦隊が迫ってくる。
 白虎隊が出陣するときはいつも嵐の中であった。
 それは、白虎隊の未来を暗示しているかのよう、であった。


そして再び「会津の役」に戻ろう。
1868年10月11日(慶応4年8月26日=籠城3日目)、若松城を包囲する新政府軍の陣中に笛や太鼓が鳴り響き、会津地方に伝わる獅子舞「彼岸獅子(ひがんじし)」が乱舞する。
何かのお祭りだろうか。
彼岸獅子は賑やかな笛や太鼓に合わせて踊りながら新政府軍の陣中を通って若松城の方へ進んでいく。
新政府軍は薩摩藩と土佐藩を中心とした諸藩の集まりで、様々な武具を着けており、彼岸獅子の一行が敵なのか味方なのかも判断できない常態だった。
新政府軍は呆然と獅子舞の一行を眺めるだけだった。
新政府軍の陣中を抜けた彼岸獅子が若松城へ近づくと城門が開き、彼岸獅子の一行は若松城に入ってしまった。
呆気にとられる新政府軍。
一体、あれは何だったのだろうか。
数日前、新政府軍の侵攻に備えて国境の日光街道の警備にあたっていた会津軍の山川大蔵(後の山川浩)の元に、帰城命令が届いていた。
「城の守りが手薄になっている。敵との戦闘を避けて速やかに帰城せよ」との命令であった。
若松城の危機を知った山川大蔵は急いで若松城へ引き返すが、若松城は新政府軍に包囲されており、無傷で若松城までたどり着くことができない。
そこで、会津藩士の水島純が一計を案じ、会津地方に伝わる獅子舞「彼岸獅子」の行列に扮装して包囲網を突破する計略を、山川大蔵に進言したのだ。
彼岸獅子の計は、新政府軍を欺くことができることと同時に、若松城に居る兵に味方だと教えることが出来る名案だった。
山川大蔵は彼岸獅子の伝わる小松村の村長・大竹重左衛門や斎藤孫左衛門を呼び、彼岸獅子の協力を求めた。
失敗すれば全員が死ぬ危険な作戦であったが、大竹重左衛門は「今こそ、松平家300年の恩顧に報いる時だ」と言い承諾した。
直ぐさま、村長・大竹重左衛門は村人を集めて協議した結果、高野茂吉(30歳)を隊長とした決死隊とも言える彼岸獅子隊10人を編成した。
雄獅子は大竹巳之吉(12歳)、雌獅子は中島善太郎(14歳)に任せた。隊長の高野茂吉(30歳)以外の9人は少年で、最年少は弓持の藤田与二郎(11歳)であった。
そして、1868年10月11日(慶応4年8月26日=籠城3日目)、高野茂吉が率いる彼岸獅子を先頭に、山川大蔵の部隊は敵陣へと進んだのである。
少年達は一瞬たりとも気を許さずに彼岸獅子を演じきり、見事に新政府軍の陣中を突破し、無傷で若松城へ入ることに成功した。
新政府軍はただただ、呆気にとられて彼岸獅子を見送ったという。
彼岸獅子は春の彼岸に行われる、家族の無病息災を願う祭りで、会津に雪解けと春の訪れを知らせる行事でもあった。
当時は娯楽が無く、会津藩士の中にも彼岸獅子を楽しみにしている者が多かった。
「大蔵さあ、援軍にきでくれだのがっす!頼もしいべ」一同は微笑んだ。
山川大蔵の彼岸獅子は、籠城する会津兵に大いに勇気を与えることが出来たという。
その後、見事に役目を果たした彼岸獅子隊は無事に小松村に戻り、1人の被害者も出さなかった。
会津藩の敗戦後の明治4年、小松村の彼岸獅子は、山川大蔵の配慮により、会津藩主・松平容保に彼岸獅子を披露する機会に恵まれた。
このとき、松平容保は「彼岸獅子の入城」の勇気を称えて、小松村の彼岸獅子に会津松平家の会津葵紋の使用を許可した。
現在も会津葵紋の使用が許されているのは、小松彼岸獅子だけである。
籠城2日目から3日目にかけて、会津藩が国境に展開していた主力部隊が続々と帰城してきた。
若松城に籠城する人数は、戦闘員と非戦闘員とを合わせて5000人を超えたという。
山川大蔵の彼岸獅子の入城により、会津藩の士気は高まっていたが、新政府軍に包囲された若松城内は、籠城派と降伏派とに別れて喧々囂々の議論となっていた。
極楽寺の裏切りにより、若松城の弱点となる小田山を新政府軍に占領されたうえ、会津藩は籠城の準備をしていなかったため、若松城には籠城戦に備えるだけの武器や兵糧が無かった。
武器商人から購入したゲベール銃は不良品が多く、会津藩は火縄銃まで持ち出す始末であった。
ゲベール銃は不良品を売りつけられたという説もある。
会津藩の家老は世襲制で、会津の名門9家(会津9家)の出身者しか家老になることが出来ず、身分意識が強いうえ、保守的だった。
このため、会津藩の首脳陣は没落していた。
会津藩は身分制度が強く、優秀でも身分が低ければ出世することができなかった。
秀才と言われた秋月悌次郎が左遷されたのも、下級藩士だったからだ。
また、改革を主張しようものなら、家老の怒りを買い、処罰されるのは必至だった。
西洋銃の導入を訴えた山本覚馬も1年間の禁足を食らったのも、会津藩の家老の反感を買ったからだった。
会津藩は、西日本諸藩の事情に通じていた秋月悌次郎が左遷し、薩摩藩・長州藩と対等に話が出来る神保修理を無実の罪で自害に追いやった。
新政府軍とのパイプ役を切り捨てて、会津藩を戦争へ追いやったのは、会津藩自身であった。
会津藩が恭順派と抗戦派に別れるなか、家老の西郷頼母(さいごう・たのも)は、藩主・松平容保に切腹を迫り、全員玉砕を主張した。
非戦恭順派だった西郷頼母が、藩主・松平容保の切腹および会津藩の玉砕を主張した理由は分からない。
西郷頼母は過去に、京都守護職の就任に反対し続けて、藩主・松平容保の怒りを買い、家老を解任されたていた。
その後、家老に復帰した西郷頼母は、「白河口の戦い」で大軍を率いて白河城の守備にあたったが、新政府軍の参謀・伊地知正治の手勢700人に惨敗し、白河城を奪われるという大失態を犯した。
(実戦経験の無い西郷頼母に、東北諸藩の運命がかかっている白河城の守備を任せたのは、身分が理由との説もある。)
その西郷頼母が、この場に及んで藩主・松平容保に切腹を迫ったため、藩主・松平容保ほか会津藩士が激怒した。
このため、身の危険を感じた西郷頼母は、城の外にいる部隊への伝令を口実に、長男の西郷吉十郎を連れて若松城を抜け出して逃げた。
一説によると、西郷頼母に刺客が送られたが、刺客はあえて西郷頼母を追わなかったとされている。
ただし、刺客説の真相は分からない。
西郷頼母はその後、旧幕府軍の榎本武揚と合流し、北海道の函館へ渡った。
そして、旧幕府軍が降伏すると、西郷頼母は館林藩に幽閉された。
西郷頼母を追放してもなお、会津藩は恭順派と抗戦派に別れて、喧々囂々の議論を続けていた。
しかし、藩主・松平容保は籠城を決め、山川大蔵を軍事総督に抜擢し、梶原平馬を政務総督に抜擢する英断を下した。
こうして、20歳代の2人が、会津藩の軍事・政務の責任者に就き、旧態依然としていた会津藩に新しい風が吹いた。
さらに、藩主・松平容保は、原田対馬に西出丸の守備に就け、海老名季昌を北出丸の守備を任せるなどして、若松城の防衛の責任者に若手を起用。
佐川官兵衛を総督に任命し、首脳陣を一新した。
そして、秋月悌次郎を軍事奉行添役に抜擢するなどして、優秀な若手を次々と起用した。
主・松平容保は、保守的な旧体質を壊し、新しい会津藩を誕生させた。
本当の意味での会津藩の改革が行われたのは、この時である。
会津藩は新体制の元、一致団結し、士気は益々高まった。
いつの世も時代を作るのは若い力なのだ。
会津藩の頼みの綱は、奥羽越列藩同盟の援軍と冬の到来だった。
雪が降れば、新政府軍は移動も食料の搬送も困難となる。
冬まで持ちこたえれば、会津藩にも勝機が出てくる。
1868年10月13日(慶応4年8月28日)、籠城6日目にして若松城に入城した娘子隊(別名「婦女隊」)の中野こう子が、卑怯者の山本八重に
「なぜ娘子隊に加わらなかったのですか」と問うた。
1868年10月8日(籠城1日目)早朝、若松城の城下町に早鐘が鳴り響いたとき、山本八重は若松城に入城することができたが、敵の侵入は早く、早々に城門は閉ざされ、城内に入れなかった者も多かった。
中野竹子は会津藩主・松平容保の義姉・照姫を警護するため、母・中野こう子と妹・中野優子を連れて、若松城へ向かったが、時は既に遅く、若松城の城門は閉ざされていた。
中野竹子は、会津藩士・中野平内の長女で、江戸の会津藩上屋敷で生れ、江戸で育った。
中野竹子は幼い頃から聡明で、文武に優れ、かなりの美人だったという。
また、中野竹子は幼少期から赤岡大助に師事して薙刀(なぎなた)を学び、道場では師範代を務めるほどの腕前であった。
中野竹子は江戸で生活していたが、「鳥羽・伏見の戦い」の後、藩主・松平容保が徳川慶喜から登城禁止を言い渡されて会津へ戻ったことに伴い、中野竹子一家も会津に引き上げていた。
会津の風呂屋は混浴だったため、江戸で生まれ育った中野竹子は風呂屋へは行かず、自宅のタライで入浴していた。
中野竹子は絶世の美女だったため、会津の男はこぞって風呂場を覗きに行ったという。
覗かれたことに激怒した中野竹子は薙刀を振り回し、覗きに来た男を追い払ったという逸話が残っている。
1868年10月8日(籠城1日目)、若松城へ入城できなかった中野竹子は、同じように逃げ遅れた依田まき子・依田菊子(後の水島菊子)・岡村ます子の3人と出会い、娘子隊(婦女隊)を結成した。
(この時、依田菊子は既に髪を切り落としていた。山本八重が髪を切るのは、籠城1日目の夕方あたりなので、依田菊子が髪を切るのは早かった。)
さらに、入城できなかった神保雪子(切腹させられた神保修理の妻)などが続々と薙刀を持って集まり、娘子隊(婦女隊)は20数名に発展した。
娘子隊(婦女隊)は、会津藩が設置した正規軍ではなく、逃げ遅れた女性らが中野竹子らに合流して自然発生した義勇軍的なものである。
この点は、正規軍の白虎隊とは大きく異なる。
娘子隊(婦女隊)は義勇軍なので部隊に名前は無く、後に「娘子隊」または「婦女隊」と呼ばれるようになった。
後に名称が付いた点は、二本松藩の悲劇として知られる「二本松少年兵」と同じである。
 1868年10月8日(籠城1日目)、娘子隊(婦女隊)を結成した中野竹子らは、会津兵から会津藩主・松平容保の義姉・照姫が坂下へ避難したという情報を聞き、照姫を警護するため、坂下へと向かった。
しかし、情報は間違っており、坂下に照姫は居なかった。
中野竹子らはこの日、坂下の法界寺で宿泊し、翌日、照姫を警護するため、若松城へ向かうことにした。
1868年10月9日(籠城2日目)、中野竹子ら娘子隊(婦女隊)は高瀬村に会津軍が駐留している事を知り、高瀬村に駐留している会津藩の家老・萱野権兵衛に従軍を願い出た。
しかし、娘子隊は女ばかりだったため、家老・萱野権兵衛は
「城に帰って女中の仕事をして欲しい」
と言い、従軍を拒否する。会津藩士にとって、女を戦わせることは末代までの恥なのだ。
しかし、中野竹子らは
「戦に加えてくれなければ、この場で自決します」
と言って後に退かないため、家老・萱野権兵衛は仕方なく、旧江戸幕府軍の衝鋒隊への従軍を認めた。
会津藩の「什の掟」には、
「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」
「ならぬことはならぬものです」
という掟があるが、
「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」
という掟があるとおり、「什の掟」は男子のための教えであり、女子には関係が無い。



         7 義の戦い




またも話しがそれる。
  会津湾には官軍艦隊が迫っていた。
 陸上の官軍も侵略の機会を狙っている。
 栃木の黒田了介らは軍儀を開いていた。
「あの餓鬼はどこにいった?!」
 黒田は獅子舞いのかつらをかぶったままだ。餓鬼とは、同じく政府軍会津征伐参謀の山田市之丞のことである。
 ……あの餓鬼が! 軍儀にも出んと昼寝でもしとっとか?!
 栃木の官軍はほとんど薩摩隼人たちである。
「ニセ情報じゃなかとがか?」
 官軍海軍総参謀・石井富之助はそういった。
 黒田は「まだわかんど」という。
「榎本海軍が動きをみせちゅうは本当ではごわさんか?」
「まずは…」黒田了介(のちの清隆。首相)は続けた。「まずはニセ情報かどうかは密偵を出して決めるのがよごわさんか?」
 昼寝から起きたのか、山田市之丞があわててやってきて、
「会津などすぐ陥落する。その前に蝦夷に向かった榎本らに甲鉄艦をとられたらどけんする?」といった。
黒田は激昴して、
「このガキが! なにぬかしとる!」と喝破した。
 しかし山田も負けてはいない。
「アボルタージを知っとっがか?!」
「アボルタージくらいおいも知っとる!」
 黒田は声を荒げた。
「ほんとに知っちゅっがか? あぁ、薩摩(鹿児島県)と違うてすうすうするばい」
「このガキ!」
 黒田は山田に掴み掛かった。
 途端に取っ組み合いの喧嘩になる。
「おいどんをナメるんじゃなか!」
 黒田了介は声を荒げる。
「おいは何も黒田はんばナメとりゃせんが!」
「その言い方が気に入らんのじゃ!」
 官軍の部下たちはふたりをとめた。
「黒田先生も山田先生も……戦うのは薩摩じゃなかど! 戦ばするのは会津ぞ! 榎本ぞ!」
 ふたりはやっと取っ組み合いをやめ、冷静になった。
「……そげなこつ、わかっとっとばい」
 ふたりはいった。

  結局、蟠竜丸ははぐれ、回天丸だけでの「アボルタージ」となった。
 甲鉄艦にはのちの日露戦争の英雄・東郷平八郎が三等士官として乗っていた。
 東郷平八郎まだ若く、軍略も謀略もできない青二才だった。
 東郷は双眼鏡で海原をみながらにやにやと、
「アボルタージって知っとうか?」と仲間にいった。
「……アボルタージ? 知らん」
「まず第三国の国旗を掲げて近付いて、それから自分の旗にして攻撃するのさ」
「そげん卑怯なマネ許されっとでごわすか?」
「いや、卑怯じゃない」
 東郷平八郎は笑った。
「国際法でも認められている立派な策さ」
 そういいながらも、何やら艦船一隻が近付いてくるのが気になった。
「あれはどこの国の艦だ?」
 双眼鏡で覗いて見ると、アメリカの国旗を掲げている。
「………メリケン艦か…」
 東郷平八郎はどこまでも愚鈍だった。
 仲間は「あの船がアボルタージ艦だったら……」という。
「まさか?! 俺は海軍にはいって幕府とも戦ったが実際に”アボルタージ”した艦などみたことないぜ」
 しかし、予想は外れる。
 艦(回天丸)は、米国国旗を下げ、日の丸の国旗にかえた。
 ……”アボルタージ”だ!
「アボルタージ! アボルタージ! 砲撃せよ!」
 東郷たちは動揺を隠せない。
  甲鉄艦に、回天丸はすぐに接近した。
 と、同時に回天丸は砲弾を甲鉄艦に撃ちこむ。が、やはり鉄で弾かれる。
「乗り込め!」
 土方歳三の号令で、回天丸にのっていた榎本脱走軍の兵士や新選組たちが甲鉄艦に乗り込む。目的は、甲鉄艦奪取、アボルタージである。
「斬り込め! 斬り込め!」
 さすがは剣豪・土方歳三である。次々と官軍兵士を斬り殺していく。
 が、もはや時代は剣ではなく銃である。
 すぐに官軍は回転式機関銃を撃ってくると、榎本兵たちはやられていった。
 いわゆる初期のガドリング砲は、大砲ほどの大きさがあった。
 ガドリング砲の銃口が火を吹くたびに、榎本脱走軍兵士たちは撃たれて倒れていく。
「くそったれめ!」
 土方はガドリング砲を撃つ官軍たちの背後から斬り込んだ。そして、ガドリング砲を使って官軍兵士たちを撃っていく。が、戦にはならない。次々と官軍艦隊がやってきて砲撃してくる。土方はひととおりガドリング砲を撃ったところで、回天丸に飛び乗った。
 ……アボルタージは失敗したのだ。
 回天は全速力で甲鉄艦から離れた。遁走した。
 官軍の艦隊や甲鉄艦からも砲撃をうけ、回天丸は大ダメージを受けて、港にもどってきた。アボルタージが失敗したのはいたかった。が、それよりも貴重な兵士たちを失ったのもまたいたかった。
 榎本は、
「こんなことならアボルタージなどしなければよかった。べらぼうめ!」
 と悔がった。
 土方歳三は、なにをいまさらいってやがるんだこの男は! と怒りを覚えた。
 とにかく新選組隊士まで損失を受け、大打撃であった。

  雀之丞の弟・大塚浪次郎が戦死した。
「浪次郎!」
 兄の大塚雀之丞は号泣し、遺体にすがった。
 松平容保がきた。
「君の弟は優秀な人材であった。惜しいことだ」
 とってつけたように、容保はいって労った。
 涙で顔を濡らしながら、雀之丞は、
「弟の死は犬死にですか?! 会津公!」と声を荒げた。
 松平容保は鶴ケ城で立て籠もり、戸惑ってから、
「戦は殺しあいだ。新政府があくまでもわれら会津共和国を認めないなら、戦うしかない。これは”義”の戦ぞ! 会津は新天地だ」
「……しかし…新天地が血に染まりまする!」
「”義”の戦では勝つのはわれらだ。薩長には”義”がない。勝つのはわれらだ!」
 容保はどこまでも強気だった。
「……そうですか……」
 雀之丞は涙を両手でふいて、いった。
「新天地なら義の戦ですね? 弟の死は犬死にではなかったのですね」
「そうだ! 大塚雀之丞……励め!」
「はっ!」
 大塚雀之丞は平伏した。
 そして、ハッとした。
「そうだ! 公! これを!」と何か懐から取り出した。
「……なんだ?」
「これです!」
 大塚雀之丞は赤い財布を差し出した。
「…公の奥様にあってこれを渡されました」
「なに?! 佐久の?!」
 容保は驚いた。
「はい!」雀之丞は笑顔をつくった。「もったいなくて銭は使ってません。これを公に返します」
 容保は無言で何か物思いに耽っていた。
「公!」
「いや、それは君がもっていてくれ……佐久もよろこぶだろうて」
「公の奥様は大変に優しい方で、美人ですし若いですし、公が羨ましいです」
 雀之丞の言葉に、松平容保は笑った。

  明治三年(一八六九)三月十九日江戸……
 勝海舟と妻・たみ子は江戸の屋敷でひなたぼっこをしていた。
 勝は「……徳川家臣にもどって静岡にいこうけぃ」といった。
 たみ子は「それがいいかも知れませんね」と頷く。
 そんな中、「勝の裏切り者! 勝の裏切り者!」と罵声がきこえ、投石された。
 たみ子は驚いて目をとじた。
 ふたたび目を開けると、夫の勝海舟の額から血が流れていた。
「……あ、あなた!」
 しかし、勝海舟は血をふこうともせず、にやりとした。
「裏切り者けっこう! おいらの幕引は間違いじゃねぇってんだ」
 妻・たみ子は唖然として何もいえなかった。
”維新最高の頭脳”勝海舟はその後も長生きし、七十七歳で世を去る。


 そして再び「会津の役」に話しと時代を戻そう。
母成峠を突破して、一気に若松城まで兵を進めた新政府軍だったが、会津藩の猛反撃もあり、東北一と称される会津若松城は簡単に落とせなかった。
新政府軍は兵を退いて、外郭(がいかく=外側の塀)から会津若松城を包囲しており、膠着状態が続いていた。
しかし、新政府軍の別部隊は着々と奥羽越列藩同盟を制圧していた。
元々、東北諸藩の中にも勤王派の藩も存在しており、新政府よりの藩もあった。
が、そのような藩も仙台藩・米沢藩・会津藩に脅迫されて奥羽越列藩同盟に参加させられていた。
このため、新発田藩(新潟県)や三春藩(福島県)のように奥羽越列藩同盟を裏切って、新政府軍に味方したり、特に戦いもせずに簡単に新政府軍に降伏したり、奥羽越列藩同盟を離脱したりする藩もあり、奥羽越列藩同盟は簡単に崩壊した。
1868年10月19日(慶応4年9月4日=籠城12日目)、奥羽越列藩同盟の盟主・米沢藩が新政府軍に降伏する。
米沢藩と新政府側の土佐藩とは縁戚関係にあり、土佐藩が米沢藩に降伏を勧告していた。
藩主の命は保障されていたほか、寛大な処分が約束されていたため、米沢藩は新政府軍に降伏したのだ。
前述しているが米沢藩の子孫として著者がもう一度説明する。元々、米沢藩・上杉家は越後(新潟県)で豊臣秀吉に仕えて(会津・福島県)120万石を有していたが、関ヶ原の戦いでは西軍についたため、徳川家康によって(出羽米沢(山形県米沢市・置賜地方))30万石に減封されていた経緯がある。
米沢藩・上杉家は初代会津藩主・保科正之に御家断絶の危機を救ってもらっており、会津藩には恩義があったが、徳川家には恨みこそあれ、恩義など無かったのだ。
新政府軍への降伏に伴う処罰として米沢藩主・上杉斉憲が隠居すると、上杉茂憲が家督を継ぎ、米沢藩主になる。
すると、上杉茂憲は新政府軍に会津討伐の先鋒を願い出て、朝敵の庄内藩討伐に加わった。
1868年10月25日(籠城18日目)、奥羽越列藩同盟の盟主・仙台藩までもが新政府軍に降伏し、奥羽越列藩同盟が消滅する。
仙台藩は米沢藩からの降伏勧告を受けて、降伏の議論を行う。抗戦派も多かったが、戦況の悪化により、降伏を決定。和睦を打診してみたが、認められず、降伏した。
こうして、奥羽越列藩同盟の盟主となっていた仙台藩・米沢藩が新政府軍に降伏したため、奥羽越列藩同盟は完全に消滅し、会津藩は孤立した。
会津藩は奥羽越列藩同盟からの援軍を頼みの綱に籠城戦を戦っていたが、奥羽越列藩同盟が消滅したため、会津藩は孤立していた。
さらに、各方面を鎮圧した新政府軍が続々と会津に集結しており、会津藩の運命は風前の灯火となっていた。
会津藩が期待できるのは、もはや冬の到来だけだった。
「おらだの味方は冬将軍だげがあ」
会津若松城は、糞尿が溢れ、異臭が甚だしい。
井戸は死体で埋まり、死人は廊下にまであふれていた。
食料の補給路が断たれ、生きている者は黒い飯を食べていた。
城から逃げ出す会津藩士もいた。この会津の役で、八重は鳥羽伏見での弟・三郎に続いて父親・山本権八も亡くしている。父は城に兵糧を運ぶ「決死隊」に志願して、官軍の銃弾に貫かれたのだ。「八重、にしは山本家…の……誇りだ。」担架で城内に運ばれた瀕死の父親はそういって死んだ。「おとっつあまあ!」八重は遺体にすがって号泣したという。
三春藩(福島県)など東北諸藩の裏切りに至り、奥羽越列藩同盟は崩壊。
奥羽越列藩同盟の中心となっていたた仙台藩と米沢藩の両藩も既に新政府軍に降伏したため、会津藩が頼みの綱としていた奥羽越列藩同盟は消滅していた。
さらに会津藩は食糧補給路や連絡路も絶たれており、新政府軍に包囲された会津藩は将棋で言う「詰み」の状態であった。
このようななか、新政府軍の土佐藩士・板垣退助の意向を受けた米沢藩が、会津藩の家老・萱野権兵衛に手紙を送り、降伏を勧告したのである。
新政府軍に降伏した米沢藩も藩主の命は保障されており、会津藩主・松平容保は軍議の結果、降伏の交渉を決定した。
こうして、会津若松城は事実上の落城となった。
1868年11月3日(慶応4年9月19日=籠城27日目)、会津藩主・松平容保は、手代木直右衛門と秋月悌次郎の2人を使者として、米沢陣営に向かわせ、米沢藩を通じて新政府軍の板垣退助に降伏の意志を示した。
(注釈:後に山本八重は甘粕初子を養女にしている。甘粕初子の母方祖父は、会津藩の降伏の使者として活躍した会津藩士・手代木直右衛門である。)
1868年11月4日(慶応4年9月20日=籠城28日目)、新政府軍の板垣退助が、会津藩の使者の手代木直右衛門と秋月悌次郎に対して、降伏を提示する。
降伏の条件は以下の6つだった。
1・22日辰刻を期して、大手門外に降伏と大書した白旗をかかげる。
2・松平容保・喜徳父子は政府軍の軍門に来て降伏を請う。
3・家臣の男子は猪苗代に移って謹慎する。
4・14歳以下60歳以上の男子ならびに女子はどこに居住してもよい。
5・城中の傷病者は青木村に退いて引きこもる。
6・銃器・弾薬はとりまとめて、開城の日に官軍へ引き渡す。
1868年11月5日(慶応4年9月21日=籠城29日目)、手代木直右衛門と秋月悌次郎の2人が帰城した。秋月は白旗をもって官軍が包囲する鶴ヶ城城門前に現れ「開門!降伏すっべ!」と声を張り上げたという。残念なことに真新しい白旗は官軍に没収されてしまう。
降伏の条件を承諾した会津藩主・松平容保は降伏を正式に決定し、全軍に降伏を命じた。やっと一か月ぶりに官軍による砲撃が止んだ。そして、女性には白い旗を縫うように命じた。
しかし、城外を転戦していた佐川官兵衛は、藩主・松平容保の停戦命令を無視して新政府軍と戦った。
1868年11月5日(慶応4年9月21日=籠城29日目)夜、会津若松城の一室では、女性が泣きながら白旗を縫っていた。
白い布は全て包帯として負傷兵に使用していたため、白旗を作るための布が無く、女性は端切れを集めて縫い合わせた。
山本八重はこの時の様子を
「降参の旗は長さ3尺、幅2尺ぐらい、それも小布を多数集め、ようやく縫合したもので、これを縫う者は泣ぎの涙で針先は少しも進まながっだと申しておりやすだ」
と話している。
山本八重は白旗縫いの様子を「申しでおりやすだ」と伝聞として話していることから、山本八重は白旗縫いには参加していなかった、とされている。
1868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)午前10時、若松城の大手門や黒手門などに降伏の白旗が揚がる。
白旗には大きく「降参」と書いてあった。松平容保の義姉・照姫が墨筆で書いたものだ。
会津藩は白旗を掲げ、1ヶ月にわたる籠城戦は終止符を打った。会津藩が降伏して、ついに若松城が落城したのである。
やがて、停戦命令を無視して城外で戦っていた佐川官兵衛も戦いを止め、会津戦争は完全に終わった。
1ヶ月間の籠城戦に耐えた会津若松城は、大量の大砲を浴びており、無残な姿になっていた。
1868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)、甲賀町通の降伏式場で降伏式が行われた。
新政府軍の代表は、薩摩藩の中村半次郎(桐野利秋)だった。
降伏式に出席した松平容保は、降伏書に調印し、中村半次郎に「謝罪書」を提出した。
また、家老・萱野権兵衛は松平容保の寛大な処分を求めて、嘆願書を提出した。
その後、松平容保は若松城へ戻り、家臣に別れを告げ、戦死者に花を手向けると、若松城を出て、妙国寺で謹慎した。
なお、新政府軍を代表として降伏式に出席した中村半次郎は幕末時代に「人斬り半次郎」と恐れられていた剣客だったが、無学だったため、会津藩から受け取った書類の内容を理解できなかったという説もある。
11868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)午後、調印式が終わると、城の受け渡しが行われた。
籠城していた山本八重らは会津若松城の三の丸へと移された。
同日夕方、新政府軍が人員を調べるため、山本八重ら籠城者を桜馬場に集めたが、日が暮れて中止となり、山本八重ら籠城者は三の丸へと戻された。
桜馬場へ集まる時には通路に会津葵(会津藩・松平家の家紋)の提灯がかかっていたが、三の丸へ帰る時には揚羽蝶(あげはちょう)の提灯に変わっていた。
新島八重は揚羽蝶の提灯を観て、
「汚らわしい奸賊どもの提灯が…無念」
と怒りを噛み締めた。奸賊(かんぞく)とは「卑怯な悪人」という意味である。
11868年11月6日(慶応4年9月22日=籠城30日目)深夜12時、山本八重が空を見上げると、見事な月が輝いていた。
山本八重は三の丸を出ると、
「明日の夜は、何国(いづこ)の誰か、ながむらん、なれし御城に、残す月かげ」
という詩を詠み、若松城三の丸の近くにある雑物蔵の壁に詩を刻んだ。
山本八重は「カンザシ」を使って雑物蔵の壁に詩を刻んでいる。この「カンザシ」は髪に差す「簪(かんざし)」とされているが、簪ではなく、鉄砲の部品だったという説もある。
なお、山本八重が雑物蔵の壁に刻んだ詩は、資料により若干の違いがあり、4パターンが記録されている。どれが正しいのか分からない。
1868年11月7日(慶応4年9月23日=籠城31日目)、新政府軍(長州藩)の山県小太郎が入城する。
降伏した松平容保は、新政府軍の山県小太郎に若松城を明け渡す。
開城時に若松城に居た人数(籠城者)は5239人だった。若松城には、大砲51門・小銃2845丁・弾薬22000発・槍1320筋・長刀81振のほか多額の借金が残っていた。
会津藩の死傷者の数は計2977人だった。
その日の朝、新政府軍は籠城して腹を空かした会津藩士のために、握り飯を配った。
新政府軍の配った握り飯は、白米でピカピカしていたため、若松城内では「新政府軍が配る飯には毒が入っている」という噂が流れた。
山本八重は久しぶりに見た白米を気味悪がりながらも、新政府軍が配ってくれたおにぎりを食べた。もちろん、おにぎりに毒は入っていなかった。
また、若松城では
「女は追放になり、男は全員、切腹を命じられる」
などという噂が流れたが、新政府軍の処分は、
「女子供および60歳以上の老人は罪に問わぬものとして放免とし、その他の者は猪苗代で謹慎」
というものだった。
松平容保は会津の役を起こした首謀者として死ぬ覚悟をしていた。が、死罪はまぬかれ蟄居とあいなった。そのかわり、会津藩の家老・萱野権兵衛が容保の罪を一身に被り、白無垢の死に装束で切腹して果てた。
こうして、若松城の城内に居た会津藩士は猪苗代で謹慎し、城外に居た会津藩士は塩川村で謹慎することとなった。
 山本八重は女性なので自由の身となるずだったが、亡き弟・山本三郎を名乗って、他の会津藩士と供に猪苗代へと向かった。
ただ、途中で女だと知られてしまい、「女だ、女が居るぞ」と叫ばれた。大河ドラマでは夫の川崎尚之助が八重を助ける為に叫んだ、とされた。
山本八重は右へ左へと身を隠しながら、猪苗代へ向かうのだが、結局は女だと知られてしまい、追い返されてしまった。
 一方、大砲隊を指揮していた夫・川崎尚之助は、他の会津藩士と同様に猪苗代へ行き謹慎した。
通説では「川崎尚之助は会津藩士では無かったため、若松城開城前に若松城を出た」とされていたが、川崎尚之助は会津藩士として猪苗代を経て東京で謹慎していた事が明になっている。
また、通説では「川崎尚之助は戊辰戦争の最終に山本八重と離婚した」とされているが、川崎尚之助が山本八重と離婚した事を示す資料は見つかっていない。
朝敵となった会津藩は「会賊」と呼ばれていたが、新政府軍に降伏して捕虜となった会津藩士は「会津降人」と呼ばれるようになる。
武士道を重んじる会津藩士にとって、「会賊」「会津降人」と呼ばれることは、非常に屈辱的だったという。
ただし、会津藩士は新政府軍(官軍)を「奸賊(かんぞく)」「官賊」「薩賊長奸」などと呼んでおり、お互い様のようだ。


 話を少し戻そう。
  会津軍の全軍の兵力は二千に過ぎない。
 猪苗代に三百
 郡山に四百 
 白虎隊わずか十九名……
 二本松隊二百
 鶴ケ城隊八百
 城に大砲を設置
 猪苗代にも大砲を設置

           
  若く可愛い看護婦と、会津軍の兵士の若者・英次郎はおさえとデートした。
「君、今好きなひととかいるの?」
 英次郎は勇気をふりしぼってきいた。
 是非とも答えがききたかった。
 おさえは頬を赤らめ、
「えぇ」
 といった。
 純朴な少年の感傷と笑うかも知れないが、英次郎はおさえが自分のことを好きになっていると思った。
「それは誰?」
「…ある人です」おさえは顔を真っ赤にした。
 そして「あのひとはもう治らないとやけになってるんです」と吐露した。
「………治らない? なんだ……俺のことじゃないのか」
「すいません」
「いや!」英次郎は逆に恐縮した。「いいんだよ! そのひと病気治るといいね」
「……はい」
 おさえは可憐に去った。
「ふられたか? 英次郎」
 兄・恒次郎はからかった。弟は「そんなんじゃねぇや!」といった。
 ふたりは相撲を取り始めた。
 兄が勝った。
「元気だせ。もっと可愛い娘がいっぱいいるって」
「だから! ……そんなんじゃねぇって」
 ふたりは笑った。
 まだ恋に恋する年頃である。

  白虎隊の行軍では、若者たちが英雄をかこんでいた。
 英雄とは、あの土佐の坂本龍馬を斬った男・今井信助である。
「今井さんはあの龍馬を斬ったそうですね?!」
「…まぁな」
「龍馬を斬ったときどんな気持ちでしたか?!」
 若者たちは興奮して笑みを浮かべながらきいた。
「うれしかったよ。なんせ薩長をふっつけた売国の男だからな」
「龍馬はどういってましたか? 死ぬとき…」
 若者は興奮で顔をむけてくる。
「なんもいわなかったよ。でもやつは頭を斬られて死んだんだな」
「へぇ~っ」
 若者たちが笑顔で頷いた。
 かれらにとっては龍馬は明らかな”敵”である。

  八月二十六日 猪苗代…
 暴風雨が襲ってきた。白虎隊は指令者を失い迷走した。
 薩摩藩、長州藩など官軍三万が猪苗代へ上陸した。
 会津並びに蝦夷征伐参謀は山田市之丞(二十五歳)である。かれは大村益次郎の弟子であった。
 会津軍は敗退、官軍は鶴ケ城まで迫った。
 城に官軍が艦砲射撃をする。
 次々と会津軍はやられている。会津軍の大砲の弾丸は、官軍の艦隊に届かない。
 猪苗代でも、圧倒的人海戦力で官軍が圧倒的優位にたつ。
 銃撃戦は続く!
 八月三日午前四時、雨があがった。官軍り総攻撃が始まった。
 白虎隊のリーダー篠田義三郎は、「剣のたつやつを集めろ!」と命じた。
「はい!」
 官軍との戦いになった。
 陣内の山田市之丞に黒田了介は、
「ひきのばし策など愚策でごわす!」と文句をいった。
 山田市之丞は、
「……ひきのばしけっこう。どうせ会津軍は自滅する」
「そげんこつわかっとか!」
「そうでごわすか?」
「ふん!」黒田了介は「会津公は賊軍ながらあっぱれな男じゃ。敵ながらあっぱれじゃっどん。殺すには惜しか男じゃ」
 二本松で、郡山で、会津軍やぶれる。
 木之内でもやぶれる。
 湾、でも形勢不利……
 福島海岸でも会津大砲の砲弾は官軍戦艦に当たらない。官軍が城下に迫ったとき会津の女たちは200名が自害したという。幕末のジャンヌダルクというのが山本八重である。斬髪し恐ろしい正確な狙撃で官軍たちを狙撃して殺した。男たちに反対されてもならば死ぬと啖呵をきって戦する女たちもいた。中野竹子優子らの会津娘子隊である。容保の姉・照姫もがんばった。怪我人たちの包帯が尽きると自分の着物を差し出した。

   

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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.134億万長者で出馬?(笑)米沢市長・外相・NSC局長なら

2014年11月23日 12時28分12秒 | 日記






知的財産権ビジネス(特許の大企業への売買交渉)


はマッキンゼー・ジャパン等の


プロにやってもらうしかない。


億万長者になれなきゃ私を馬鹿扱いした敵に復讐が出来ない。


ノブレス・オブリージュ(社会奉仕)


は必ずする。



真の米沢市長、民間登用外務大臣・NSC局長こそ私緑川鷲羽だ。



億万長者こそ成功



緑川鷲羽2014

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八重の桜  新島八重の桜と白虎隊とブログ連載アンコール小説<NHK2013年大河ドラマ『八重の桜』>6

2014年11月23日 08時11分21秒 | 日記







         5 白虎隊



またまた話しは遡る。龍の如く。
「これからどうなさりますの?」
 佐久は大塚雀之丞に尋ねた。「やはり上様さまとご一緒にいかれますの?」
 大塚は恐縮しながら、「会津公の藩邸とは存じませんで…」
「よいのです」
「榎本副総裁が蝦夷にいくというので乗せてもらおうと…」
「えっ?!」
 佐久は驚いた。「榎本さまたちは蝦夷(北海道)へいかれるのですか?」
「そうです。会津公も一緒です。まず、会津、仙台や青森を経て、最終的には蝦夷です」「……蝦夷…」
 佐久は言葉もなかった。
「江戸のかたきは蝦夷です!」大塚雀之丞はそういって、頭を下げて去った。
 義母の古森が、「どうしました? 佐久さん。誰かきましたか?」と起きてきた。
「いいえ。……上様さまかと思いましたが、違いましたわ」
 佐久は動揺しながらいった。
「左様ですか」
 義母が去ると、佐久はひとりきりになって寂しくなった。
 涙が後から後から大きな瞳からこぼれた。
 ………上様さま……このまま会津にいっておしまいになるのですか? ……
 佐久は号泣し、床に崩れおちた。
 …上様さま! 上様さま!
 すると、肩に黒のコートをかける者があった。それは松平容保だった。
「…う…上様さま!」
「佐久!」
 ふたりは抱き合った。佐久は涙を流したままだった。
「上様さまは……蝦夷にいかれるのですね?」
 容保は首をふり「いいや。余は蝦夷にはいかない。会津藩にもどり官軍と好戦する」
「佐久…も……会津にいきとうござりまする…」
「佐久! 頼みがある」松平容保は笑顔を無理につくり頼んだ。「余のまげを切ってくれい。もう武士の世はおわった」
「……わかりました」
 蝋燭の薄明りの中、佐久は旦那・松平容保のちょんまげを鋏で少しづつ切り落とした。容保の全身の血管の中を、なんともいえない感情が……ひとしれぬ感情が駆けめぐり、容保は涙を流した。さまざまな思い出、すでに忘れたとおもっていた感情や風景が、頭の中に走馬燈のように駆けめぐり、一瞬、自分が誰なのかも忘れてしまった。
「佐久! もう……いかねば…」
 最期の別れになる、容保も佐久もそう思った。
 ふたりは抱き合い、抱擁し、そして別れた。
  容保が部下に与えたのは何も軍艦占領法や、航海術だけではなかった。開墾や鉱物、畜産など容保にはそれらは得意分野だった。そこで、まだ新政府が開拓以前だった会津つまり福島県にいき、「新天地」をつくり開拓し、「会津共和国」をつくろうというアイデアに至ったのである。もう藩ではない。共和国だ!

  榎本らは船のデッキにいた会津公・松平容保の前で平伏していた。
 容保は謹慎中だった。
 幕府はいまや風前の灯……
 しかし、幕臣たちにとって松平容保は絶対的な存在であった。
「和泉守(榎本武揚)、戦は余ののぞむところではない」
 容保は平伏している家臣たちにいった。涙声だった。
 武揚たちは平伏したままだ。
「路頭に迷う家臣たちのことを思うと……夜も寝れぬ」
 容保はめずらしく感情的になっていた。涙を流した。武揚らはさらに平伏した。
「和泉守、家臣たちの力になってやれ」
「上様!」
 武揚は声をあげた。
「なんだ? 和泉守」
「われら幕臣たちは「新天地」にいきとうござりまする!」
 平伏したまま武揚はいった。
「”新天地”とは? どこじゃ?」
「蝦夷……にござりまする」
「蝦夷(北海道)?」容保は頭を回転させながら「蝦夷にいって何とする?」
 とやっときいた。
「われら幕臣たちは「新天地」……”蝦夷”にいって共和国をつくり申しまする!」
 榎本武揚はいった。
「共和国?」
 容保の目が点になった。
「蝦夷共和国にござる!」
「……しかしのう、和泉守。幕府の姿勢は共順じゃ。新政府が許すか?」
 武揚は顔をあげた。
「われらの姿勢はあくまで幕府と同じ共順です。只、蝦夷で共和制の一翼になるだけにござりまする。いわば蝦夷藩といったところでしょうか…」
「蝦夷藩?」
「はっ!」
 武揚はまた顔を下げ、平伏した。
 容保は何がなんだかわからなくなり、「ええい。苦しゅうない。みな面をあげい」
 といった。急に平伏していた幕臣たちが顔を向けた。
 ぎょっ、とした。
 みな揚々たる顔である。
 みなの顔には「新天地」への希望がある。
「すぐに蝦夷へ向かうのか?」
 容保は是非とも答えがききたかった。
 武揚は「いえ。まずは会津、仙台に立ち寄ります」と答えた。
「なるほどのう。会津であるか…余の故郷であるな」
 容保がどこまで理解しているのか、榎本武揚には解明するすべもなかった。
「会津から…せ……仙台から蝦夷へか。それはよいな」
「はっ!」
 榎本武揚らは再び平伏した。「会津さま!」榎本は催促した。
「とにかく私も会津にいきまする。官軍と一戦交えまする! 榎本武揚と励みまする!」「そうか」
 容保はそういうと、船のデッキにいった。
 蟠竜丸、慶応四年(一八六七)七月二十八日のことである。
「兄上! お達者で!」
 松平容保や兄・徳川慶勝は手をふった。

  松平容保はさっそく筆をとる。
「王政復古の大号令が発せられるも、それは薩長が朝廷工作のために発せられたに過ぎない。当然ながら天子さま(天皇のこと)はお大事ではあるが、その天子さまを掲げて、官軍などといっては、これまで三百年も朝廷や天子さまをお守りしてきた徳川幕府はどうなるのか。さてさて、幕府以外にこの日本国を束ねる力があるだろうか。
 私はないという。
 なぜならば、薩長には外交力も軍事力も欠けているからである。
錦切れどもは尊皇壤夷などといってはいるが、尊皇はいいとしても、壤夷などと本気でできると思っているのか。
 思っているとしたら救いがたい。
 今やらなければならないのは徳川家を中心とした共和制をつくり、軍備を整え、慶喜公がこの国の大統領となって「開国」することである。
 この国を外国にも誇れる国にすることである。
 そこで外国との窓口として「会津共和国」「蝦夷共和国」が必要なのだ。
 国の礎は、経済である。あの広大な大地をもつ蝦夷なら、開拓すれば経済的に自立できる。そして、会津藩、桑名藩、蝦夷藩ともいうべき「新天地」となるのである。
 新政府とわれらは争う気はない。
 われらの姿勢は幕府と同じ共順である。
 しかし、新政府が「会津、蝦夷共和国」を認めないなら、一戦交える覚悟である」

  このような内容の激文を、松平容保は書き、二通は勝海舟のもとへ送った。
 勝海舟はそれを読み、深刻な顔をした。
 ……まだ戦う気でいやがるのか。救いようもねぇやつだ。……
 勝は大きな溜め息をもらした。
「会津はとんでもねぇやつを藩主にしちまったもんだ」
 勝には、幕臣軍(今後は榎本脱走軍と呼ぶ)に勝ち目がないのがわかっていた。確かに、軍艦はある。大阪城から盗んだ軍資金もあるだろう。
 しかし、榎本脱走軍には勝ち目がない。
 錦切れどもは天子さまを掲げている。
 て、こたぁ官軍だ。榎本脱走軍は、賊軍、となるのだ。
 まだ会津藩らが戦うらしいが、どうせすぐに負ける。
 ……わかりきったことじゃねぇか。
 維新最大の頭脳、勝海舟には榎本脱走軍の将来がみえていた。
 しかし、それは明るいものではなかった。


「お父上、上様さまはもう会津へいかれたのですか?」
 朝、佐久は心配顔で父親にきいた。実家の父が会津江戸藩邸に訪ねてきていた。
 佐久の父・田代孫兵衛は、
「いや、まだ榎本副総裁の開陽丸は品川沖にあるそうだ」
 と答えた。
「まぁ!」
 佐久は驚いた顔をした。
「まだ品川にいて官軍にやられないのですか?」
「今、大急ぎで、幕臣たちが舟で開陽丸に向かっているそうだ」
「……そうですの…」
 佐久の不安は消えない。
 そんな中、大好きなおじいちゃま、こと田代老人が供をつれて訪ねてきた。
「まぁ! おじいちゃま!」
 佐久はお転婆娘のようにはしゃいだ。
「佐久! 元気でおったか?!」
「はい」
 すると、青年がふたり頭を下げた。
 それは英国留学よりもどった林洞海の五男・英国留学生、林董三郎とその甥、パリ万博随行員・山内六三郎である。
「まぁ、董三郎。六ちゃんも」
 いよいよ佐久はうれしくなった。
「姉上! 会津公に輿入れなされたとか……おめでとう」
 董三郎は遅ればせながらお祝いを述べた。
 父の友人・林洞海は浮かない顔をする。
「……どうしましたの? 先生」
「いやあ、董三郎たちが釜さんと一緒に蝦夷にいくってきかぬのだ」
「まぁ!」佐久は驚いた。
「われらは蝦夷にいきます! こうして英国留学できたのも幕府のおかげです!」
 董三郎たちは決起盛んな質である。
 それに若さも手伝っている。
「……しかし…蝦夷など…」林洞海は訝しがった。
「幕府がいま危ないからこそ、われわれが立ち上がるのです! 薩長だけで維新はなりません、蝦夷でこそ壤夷ができるのではないでしょうか?」
 田代老人がハッとした。
「この連中のいう通りじゃ。幕府のおかげで留学までできた!」
 林洞海は「先生!」と諫めた。
 すると老人は涙声になって、土下座して「このふたりを開陽丸に乗せてやってくれ!」 と嘆願した。「……先生…」
 董三郎たちは「これは義の戦です! 幕府軍(榎本脱走軍)は多勢に武勢……薩長なんぞに負ける訳がありません。江戸のかたきは会津…そして蝦夷です!」
 と息巻いた。
 そして、土下座して父に許しを乞うた。
「勝手にせい!」
 林洞海は訝しい顔でいった。
  船着き場では小舟にのり、幕臣たちが海原に浮かぶ開陽丸に乗るために急いでいた。 林董三郎とその甥、山内六三郎も舟にのった。
 そんな騒動の中、船着き場に白衣の医者が現れた。自分も乗せてくれ、という。
「あなたは?」
「わたしは元・幕府奥医師、高松凌雲だ」
 高松凌雲はいった。
 高松凌雲といえば幕府医師の中でも名医として知られ、フランスに留学して知識を得て、のちに日本赤十字運動の草分けとなる医者である。
「これは! 凌雲先生でしたか! 先生もわれらとともに行って頂けるとは…ありがたいかぎりです!」
 幕臣のひとりは笑顔になった。
 凌雲は「いっておくが、わたしは戦をしにいくんじゃない。負傷したひとたちをたすける、治療するためにいくのだ。その負傷者が例え幕臣でも薩長でも、差別なく治療する」「……そうですか」
「それでもいいなら乗せてくれ!」
 高松凌雲は舟に乗り、海原に浮かぶ開陽丸に向かった。
  その頃、榎本武揚と勝海舟は江戸で会談していた。
「榎本さんよ、どうしてもいくっていうのかい? 会津蝦夷くんだりまで?」
「勝さん、幕府軍(榎本脱走軍)を甘くみちゃいけない。ぜったいに会津…蝦夷で勝つよ」 いよいよ勝は激昴する。
「目を覚ませ! 榎本武揚! 歴史に愚をさらすだけだ!」
「われらは勝つ!」
「この……大馬鹿野郎!!」
 勝海舟は席を蹴って去った。「おいらの幕引は間違いじゃなかったな」
 しかし、勝はあの高松凌雲まで榎本脱走軍に合流したことを知って唖然としたという。 ……なんてこった!

  松平容保が開陽丸に戻ると、いよいよ一同はいき揚々たる顔になる。
 いよいよ「新天地」に向かうのだ!
 一同は甲板の中央に立つ松平容保に注目している。
「冗談ではない! この船を幕府の幕引につかわれては余はたまらない!」
 容保はいう。すると沢が、「その通りです! 冗談じゃねぇ!」
 家臣たちも「会津公がまげを落としたなら、俺たちも…」
 といって、刀を抜き、ちょんまげを切りおとした。
「まずは奥州(東北)戦争を助けるために会津、仙台にいく!」
 榎本は激を飛ばす。
「そして、「新天地」に向かうのだ!」
 部下たちは揚々たる顔である。
「蝦夷に新しい国をつくる! 蝦夷共和国だ! 薩長の新政府なんぞ糞くらえだ! 共順など糞くらえだ! 我々は「新天地」に向けてジャンプする!」
 一同は歓声をあげた。
 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……
 高松凌雲も甲板でそんな幕臣たちを笑顔でみている。
「榎本さん。わたしは軍にはいったわけじゃない。赤十字の精神で治療や介護をしていく」「……凌雲先生! それでいいですよ」
 武揚は笑った。
 そんな中、フランス人ふたりが軍服のままやってきた。
 流暢な日本語で「榎本さん、わたしたちも仲間にいれてください」と嘆願した。
「しかし、フランス軍の兵士を乗せていく訳にはいかん」
松平容保はしぶり、榎本武揚は躊躇した。
「それでは旧幕府軍(榎本脱走軍)とフランス軍がふっついたことになる。蝦夷共和国そのものが朝敵にされかねない」
「会津公も困るぞ」
 フランス人のひとりカズヌーブは「わたしたちは仏軍抜けてきました」という。
 もうひとりのフランス人、ブリュネは、
「わたしたちあなたたちと同じサムライになります。フランスのサムライです。どうかお供させてください」と頭を下げた。
 榎本は笑顔になり、
「わかった! フランスのサムライもふくめて我々は「新天地」に向けてジャンプする!」 ……ジャンプ! ジャンプ! ジャンプ! ……
 林董三郎、山内六三郎を英語方にした。
 慶応四年(一八六七)八月十八日、八隻の幕府艦隊を引き連れ、松平容保らは「榎本脱走軍」を東京から会津、仙台へと向かわせた。
 田代老人はその艦隊を見送った。
 孫娘で、容保の側室である佐久も涙で見送った。
「佐久、会津公たちは確かに賊軍になったが……歴史が、ふたたび公たちを評価してくれる日がくる」
「……そうでしょうか?」
「何年後か、何十年後か……もしかしたら百年ののち公たちの戦がけして無駄ではなかったということを日本人は知るのじゃ。そうでなきゃいかんのよ」
 佐久は何も答えなかった。
 只、遠ざかる艦隊を見送っていた。

  大時化となり、台風の暴風雨が榎本脱走艦隊を襲った。
 艦隊が横に縦に揺れ続ける。
 …それは榎本脱走軍の未来を暗示しているような天候だった。
  いっぽう会津では八月二十五日、会津公が藩にもどった。桑名藩、米沢藩、庄内藩、仙台藩があいついで官軍に降伏していた。会津近辺でも戦闘が開始された。
 会津同新館(病院)で治療にあたるのは松本良順である。
「ちか子さん、もっと包帯だ! 早く!」
 看護士は、井上ちか子ら数名のみである。井上ちか子はまだ若い女だ。しかし、病人の看護で埃まみれ、汗まみれで看護にあたっていた。
 そんな病院に土方歳三が軍服姿で刀をもち、現れた。
「土方さま!」
 井上ちか子は驚いて声をあげた。京であっていらい四年ぶりの再会であった。
「……ちか子さん。わたしはこれから仙台にいき、榎本武揚海軍副総裁と合流します」
「どこへ? もう新選組の役目はおわったでしょうに…」
 土方は沈黙した。
 そして、やっと「蝦夷にいきます。なんでも旧幕臣たちで蝦夷を開拓して”蝦夷共和国”をつくるとか……」と答えた。
 明治元年(一八六八)のことである。
 榎本脱走軍が仙台についたのは、なんと宇都宮からの敗戦から半年後であったという。 土方はいう。
「わかりません。幕府が滅んだのに幕臣だけは生き延び蝦夷に共和国をつくることは納得できません。幕府の死は私の死です。侍らしく、戊辰戦争もおわれば切腹しましょう」
「いや…」榎本は説得する。「命を粗末にしてはならない。まず、将来、日本や蝦夷の将来を考えてもらいたい。土方くん、新選組にだって未来があったはずだ。幕臣にだって未来があってもいい」
 榎本脱走艦隊は土方ら新選組や会津藩士ら旧幕臣三千名をつれて蝦夷へむかった。
 蝦夷とは現在の北海道のことである。もう冬で、雪が強風にあおられて降っていた。

  榎本脱走艦隊が蝦夷鷲木湾へ着いたとき、もう真冬で蝦夷は真っ白な冬景色だった。 開陽丸の甲板もすぐに白い雪におおわれた。
「蝦夷は寒いのう」
 榎本武揚脱走軍は北海道に着くと、全軍を二軍に分かち、大鳥圭介は、第二大隊遊撃隊、伝習第二小隊、第一大隊一小隊を総監し、本道大野から箱館に向かうことになった。
いっぽう土方たち新選組残党と額兵隊(隊長星恂太郎)と陸軍隊とを率いて川汲の間道から進軍した。
 土方歳三は陸軍奉行並という。その他、竹中重固(陸軍奉行)、桑名藩主松平定敬、老中板倉勝静、唐津藩主小笠原長行ら大名が蝦夷地に着いていた。
 深い雪の中の進軍であった。
 土方歳三は五稜郭に向かった。
 中には怪我人の幕臣まで出陣するといい、高松凌雲に止められた。
 
  のちに青森の松前藩士が榎本脱走軍のひとりを斬ったことで、松前藩と榎本脱走軍との戦いが始まった。戦闘は数時間でおわり、剣で土方たち新選組残党が奮起した。
「土方くんたちを暖かく迎えてやれ」
 榎本武揚は江差に上陸して五稜郭城を占拠していた。
 しかし、そんなとき不運はおこる。
 暴風雨で波は高かったが、まさか船が沈むとは榎本武揚ですら思っていない。しかし、激しい風と雪、波でしだいに開陽丸の船体がかたむき、沈みかけた。
 それを海岸でみていた榎本武揚は動揺して、
「船が……! 開陽丸が沈む!」と狼狽して叫んだ。
 家臣たちに止められなければ海の中に歩いていったことであろう。
 土方がやってきた。
「俺の四年間の結晶が……開陽丸が沈む!」
 武揚は涙声だった。
 土方はそんな情ない榎本を殴り「この西洋かぶれが!」と罵倒した。
 そうしているあいだにも遠くで開陽丸が沈んでいく。
「開陽丸が! 開陽丸が! あの船がなくなれば蝦夷共和国はおわりだ…あぁ」
 土方は「蝦夷共和国?! そんなもの幻だ!」といった。
 やがて、巨大な開陽丸の船体は海に沈み、海の藻屑へと消えた。
「あぁ……開陽丸が…………すまない皆、すまぬ」
 榎本は涙を流して部下たちにわびた。
 土方は何もいわなかった。
 その頃、会津にまで官軍は迫っていた。
 会津征伐軍参謀には山田市之丞と、同じく征伐軍参謀・黒田了介(のちの黒田清隆首相)が福島県まで進軍していた。ゆくゆくは蝦夷である。
 参謀は獅子舞のようなかつらをつけている。
「まずは飯じゃ! 飯! おお寒い。東北は薩摩と比べようもないほどさむいのう」
 山田はそういうと栃木城で暖をとった。
「この餓鬼が……当たり前じゃっどん。薩摩と東北では天気がちがうでごわそ!」
 参謀・黒田了介は、まだ若い二十五歳の山田市之丞と同じ位なのが我慢がならない。
「おいどんだけで会津や蝦夷にいった幕府残党を征伐ばするでごわす!」
 黒田はいったが受け入れられなかった。
 その間も、山田の若造は「飯じゃっどん! 温こう飯じゃっどん!」
 とさわいでいる。
 ……この糞餓鬼が……
 参謀・黒田了介は舌打ちした。

「来るならこい!」
 松平容保は鶴ケ城でそう呟いた。
 官軍なにするものぞ、会津藩の力みせてくれようぞ!
 ……今度の官軍との戦いでは藩士だけでなく女子や少年たちも戦ってもらうしかない。彼は少年たちの突撃隊の名前を紙に筆が書いた。
 ”白虎隊”……
 集められた少年たちは十九~二十歳たち十九名、女子も武装して集まった。
 官軍は猪苗代まで迫っている。少年たちは鶴ケ城から出陣しなければならない。
 その中には生き残りの少年、当時十六歳の飯沼貞吉の姿もあった。

 そして再び話しは「会津の役」である。
1868年10月7日、十六橋を押さえた新政府軍は、若松城の北東わずか数kmに位置する戸ノ口原まで迫った。
新政府軍は援軍が加わり、ますます勢いは盛んになっていた。
「なにが官軍だ!会津は逆賊じゃねえず!」
これを迎え撃つのは、「鬼の官兵衛」という異名をもつ、会津藩一の猛将・佐川官兵衛(さがわ・かんべえ)である。
「敵を戸ノ口原で防ぎ、十六橋の東へ追い払う」
と豪語する佐川官兵衛は、強清水村(こわしみず村)に本陣を置き、戸ノ口原で新政府軍を迎え撃つ準備をしていた。
しかし、会津軍は主力部隊を国境に展開しており、若松城に残っている兵はわずかで、戸ノ口原に集まった兵は、敢死隊(かんしたい)や奇勝隊(きしょうたい)などの義勇軍(非正規軍)を主とする1000人程度であった。
このため、白虎隊は予備隊という位置づけで、戦争に参加する予定は無かったが、戦争に駆り立てられることになる。
1868年10月7日午後2時、会津藩主の松平容保は警護の白虎隊(士中一番隊と士中二番隊)を従え、滝沢本陣に到着する。
(注釈:松平容保は松平喜徳に家督を譲っており、松平容保を前藩主であるが、便宜上、松平容保を藩主と表記する。)
そのころ、滝沢本陣には十六橋から敗走してきた会津兵が続々と押し寄せていた。
さらに、戸ノ口原から戻ってきた会津藩士・塩見常四郎が援軍を求めてきた。
すると、隊長の日向内記(ひなた・ないき)が率いる白虎隊(士中二番隊)が援軍に名乗りを上げた。
藩主・松平容保はこれを許可し、白虎隊(士中二番隊)を戸ノ口原への援軍に向かわせる。
と、白虎隊(士中一番隊)を引き連れて若松城へと引き返した。
予備隊として編成された白虎隊(士中二番隊)は実戦経験を積んでおらず、白虎隊(士中二番隊)にとってはこれが初陣である。
白虎隊(士中二番隊)は当初、ヤーゲル銃という火縄銃に毛の生えた程度の洋式銃を装備していた。
が、ヤーゲル銃は役に立たないため、武器担当役人を脅迫し、馬上銃を手に入れていた。馬上銃はヤーゲル銃とは比べものにならないほど扱いやすかったという。
白虎隊(士中二番隊)が装備していた馬上銃は「マンソー銃」(マンソー騎銃)だと推測されている。馬上銃がマンソー銃だった事を裏付ける資料は無いが、ここではマンソー銃としておく。
一方、白虎隊(士中一番隊)も出陣を懇願したが、藩主・松平容保を警護する任務があるため、仕方なく、藩主・松平容保に伴って若松城へと引き上げた。
初陣となる白虎隊(士中二番隊)37名は、隊を2つに別れて戸ノ口原を目指した(その後、合流している)。
(注釈:白虎隊士中二番隊の人数については諸説があるが、ここでは定説となっている37人説を採用する。)
合流した白虎隊(士中二番隊)37名は舟石(地名)に達すると、戦場から砲撃の音などが聞こえ始めたため、白虎隊(士中二番隊)は舟石茶屋に携帯品を預け、馬上銃(マンソー銃)に銃弾を込めた。
このとき、白虎隊(士中二番隊)は携帯していた食料も舟石茶屋に預けたという説もある。
1868年10月7日午後4時、舟石茶屋に携帯品を預けて身軽になった白虎隊(士中二番隊)37名は、強清水村を経由して、戸ノ口原の側にある菰槌山(こもづちやま)に到着する。
白虎隊(士中二番隊)は菰槌山に布陣し、塹壕を掘って菰槌山から新政府軍を狙撃した。菰槌山では敢死隊(かんしたい)も戦っていた。
大砲の援軍も駆け付け、会津軍は新政府軍をいったん退けることに成功した。
この日、白虎隊(士中二番隊)は食料を携帯していないため、敢死隊から握り飯を分けてもらい飢えをしのいだ。
白虎隊(士中二番隊)は敢死隊と供に菰槌山で新政府軍を迎え撃つ予定であったが、篠田儀三郎が進軍を主張する。
白虎隊員も篠田儀三郎の意見に賛同し、白虎隊(士中二番隊)は菰槌山を敢死隊に任せて前線へと向かうことにした。
ここから、酒井峰治と飯沼貞吉の証言が大きく違うため、白虎隊(士中二番隊)は、
「挟撃作戦部隊(酒井峰治)」と
「前線突入部隊(飯沼貞吉)」
の2手に別れた可能性がある。ただ、詳しいことは分からない。
ここでは、飯盛山で自害する白虎隊(士中二番隊)16名が焦点を当てたあらすじを紹介するため、「前線突入部隊(飯沼貞吉)」のあらすじを紹介する。
1868年10月7日夜、日が暮れ、雨も降り出したため、前戦を目指していた白虎隊(士中二番隊)は進軍を停止し、野営することにした(台風が近づいており、天候は悪かった)。
その後、隊長の日向内記(ひなた・ないき)は軍議に参加するため、1人で白虎隊(士中二番隊)を離れた。
隊長の日向内記が白虎隊を離れた理由は、食料を調達するためとされてる。
強清水村の本陣での軍議に参加するためという説もあるが、真相は分からない。
1868年10月8日午前5時ごろ、夜が明け始めても隊長・日向内記が戻ってこないため、日向内記に変わって篠田儀三郎が指揮を執り、白虎隊(士中二番隊)を進軍させた。
やがて、白虎隊(士中二番隊)は、水の無い溝を発見し、溝に身を隠した。
そして、進軍して来た新政府軍をめがけて側面から発砲する。
奇襲攻撃を受けた新政府軍は一時、混乱したものの、直ぐに応戦。
多勢に武勢で、新政府軍の反撃に遭った白虎隊(士中二番隊)は総崩れとなり、ちりぢりとなって敗走する。
追っての兵から逃れて、白虎隊(士中二番隊)は野営地までたどり着くと、白虎隊員は、わずか16人となっていた。
白虎隊(士中二番隊)はここで休息を取る。
白虎隊員16人の中には昨夜の残飯を所持している者がいたため、残飯を水の中に放り込み、16名はそれを食べて飢えをしのいだ。
そして、16人では戦うことも出来ないことから、白虎隊(士中二番隊)は若松城まで退却し、体勢を立て直すことにした。
白虎隊(士中二番隊)は菰槌山で握り飯を分けて貰った敢死隊(かんしたい)の宿舎にたどり着くが、既に新政府軍に攻撃された後で、死体が散乱していた。
白虎隊(士中二番隊)は敵兵を避けつつ若松城を目指していたが、滝沢峠で敵兵に遭遇。
白虎隊(士中二番隊)は敵兵だとは気づかず、合い言葉をかけるが、敵兵が発砲してきた。
この砲撃で白虎隊(士中二番隊)の永瀬雄治が腰を負傷する。
白虎隊(士中二番隊)は永瀬雄治を背負って敵兵から逃げた。
やがて、白虎隊(士中二番隊)16名は洞窟「弁天洞門」を通って飯盛山に落ち延びた。
16名が飯盛山の山頂に着いたのは1868年10月8日午前11時頃のことであった。
藩主の松平容保は負傷兵のために、若松城の西隣にある藩校「日新館」を解放し、救護所(病院)としていた。
日新館には、江戸から逃れてきた医師・松本良順と弟子が居り、松本良順の指揮の下で負傷兵の治療が行われていた。
会津藩の女性は日新館で負傷兵の治療を行っており、ボランティア看護婦のようなことをやっていた。
1868年10月8日早朝、戸ノ口原を突破した新政府軍が城下町へ押し寄せると、会津藩は若松城の城門を閉ざした。
そして、会津藩は、若松城の西に隣接する藩校「日新館」が敵の拠点に使われることを恐れ、日新館に火矢を放ったのである。
火は瞬く間に藩校「日新館」を包んで燃え上がった(日新館の焼き討ち事件)。
一説によると、藩校「日新館」の火事を飯盛山から見ると、まるで若松城が燃えているように見えるという。
白虎隊が見た火には諸説あり、山本八重は自害した白虎隊について、
「官軍に来られ、仕方なぐ米を運べれるだけ城内に運んで、十八倉(米倉)を焼いてしまったのっす。んだげんじょ、味方がこごから見んど、ちょうど三の丸の森がございやして、城の方へ見えがから、城が焼けでしまったと思って、みんな割腹して死んだんだべなあ」と話している。
飯盛山の山頂に登った白虎隊(士中二番隊)が若松城を見ると、既に若松城が炎上していた。
大砲の音も絶え間なく鳴り響いている。
城下町からも火の手が上がっている。滝沢街道を見ると、新政府軍の長蛇の列が街道を埋め尽くしていた。
「し……城が燃えでる。あああぁ…」
「おれらの会津が負げだ。もう、おわりだんべ」
白虎隊(士中二番隊)の井深茂太は
「んだげんじょ、若松城は天下の名城じゃ、燃えででも、まだ落ちてないず。君主さまが健在である以上、無益な死は避けるべきだべ。南方から入城すっぺ」と主張する。
一方、敵陣に切り込んで1人でも多くの敵を殺すべきだ、と主張する隊員もおり、白虎隊は喧々囂々の議論となった。
しかし、最終的に篠田儀三郎が
「敵陣に突入するにしても、若松城へ戻るにしても、16人では成功の可能性が低い。もし、敵に捕まって辱めを受ければ、藩主の名を汚すことになる。潔く自害することこそ、武士の本分である」
と説得し、白虎隊(士中二番隊)16人は自害することになった。
腹を切る者も居れば、喉を突く者も居る。白虎隊(士中二番隊)の篠田儀三郎ら16人は会津藩士としての誇りを貫き、見事に自刃に倒れたのである。
なお、山本八重が砲術を教えた伊東悌次郎は、白虎隊(士中二番隊)の隊員として戦ったが、飯盛山に到達する前に戸ノ口原(不動滝)で戦死したとされている。
一般的に飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)は19名とされているのは、飯盛山で自害した16人に、戸ノ口原(不動滝)で戦死した白虎隊(士中二番隊)の伊東悌次郎・津田捨蔵・池上新太郎の3人を加えたものである。
さらに、その後、別行動で飯盛山へとたどり着いて、自害した石山虎之助を加えて、自害した白虎隊(士中二番隊)を20人とする説もある。
また、白虎隊は総数340人程度の部隊だが、一般的に白虎隊といえば、飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)20人を差す場合が多い。
白虎隊15人が自刃に倒れ、介錯の役目を終えた白虎隊(士中二番隊)の西川勝太郎が最後に自害しようとしたところ、山下を通る農民を見つけた。西川勝太郎は農民を呼び寄せて問うと、農民は滝沢に住む農民だという。
そこで、西川勝太郎は、
「我々は若干の金を持っている。みんなの金と刀を報酬とするので、我々の死体を地中深くに埋め、我々の首が敵の手に渡らないようにして欲しい」
と頼んで、自害した。
こうして、飯盛山へ落ち延びた白虎隊(士中二番隊)16人が自害すると、埋葬を頼まれた農民は、自害した白虎隊(士中二番隊)の体をまさぐり、金や刀を奪っていく。
農民が白虎隊(士中二番隊)の飯沼貞吉(いいぬま・さだきち)の懐に手を入れて金品を探していとき、意識を取り戻した飯沼貞吉は、敵かと思い、農民の腕を掴んだ。飯沼貞吉は何か言おうとしたが、喉から空気が漏れて、上手く喋れない。
飯沼貞吉は刀で喉を突いて、他の白虎隊(士中二番隊)とともに自害していたが、急所を外して死に切れずに気を失っていた。
そこで、農民が懐に手を入れたため、飯沼貞吉は意識を取り戻したのだ。
驚いた農民は
「死に急ぎなさるな。私達の隠れている山までお連れいだします」
と言い、その場を誤魔化し、飯沼貞吉を八ヶ森の岩山まで運んだ。
そして、農民は
「水をくんで参ります」
と言い残して、飯沼貞吉の刀を盗んで姿を消した。もちろん、農民が戻ってくることは無かった。
農民は白虎隊(士中二番隊)の西川勝太郎から白虎隊の死体を埋めるように頼まれていた。
が、農民は白虎隊の死体を埋めずに、金や刀だけ盗んで逃げ去ったのだ。
その後、近くを通りかかった農民・渡部佐平が、うめき声のようなものを聞き、飯沼貞吉を発見する。
渡部佐平は山に隠れ住んでおり、薪を取りに向かうところだった。
このとき、渡部佐平は隠れ家で「印出ハツ」という女性をかくまっていた。
印出ハツは会津兵の足軽・印出新蔵の妻で、「戦争に行く」と言って家を飛び出した息子を探しており、渡部佐平の隠れ家で世話になっていた。
(注釈:印出ハツの息子は白虎隊に入隊しているという説があるが、白虎隊の名簿にはそれらしき人物は見当たらない。)
隠れ家に戻った渡部佐平が、印出ハツに、負傷した白虎隊員を見かけたことを教えると、印出ハツは「私の息子かもしれない」と言い、飯沼貞吉が倒れている場所へと急いだ。
残念ながら、印出ハツは息子と再会できなかったが、負傷した飯沼貞吉を隠れ家へ連れて帰って手当てしてやった。
3日3晩、寝ずの看病をした結果、飯沼貞吉は一命を取り留めた。
しかし、新政府軍による残党狩りが始まったため、印出ハツは飯沼貞吉を連れ出し、塩川を経て山中の不動堂にたどり着いた。
そして、飯沼貞吉は不動堂で会津藩の敗戦を迎えた。
会津藩降伏後の飯沼貞吉の行動は分からない。
会津藩の敗戦後は他の会津藩士と同様に、猪苗代や東京で謹慎したという説もあるが、真偽は不明である。
飯沼貞吉はその後、飯沼貞雄と改名し、逓信省の電信技師として働いた。
晩年は仙台に住み、1931年(昭和6年)に死亡した。
享年79歳であった。
墓は宮城県仙台市にある輪王寺に建てられた。
飯沼貞吉は生涯、故郷の会津に戻ることは無かった。
その後、会津出身者が仙台に飯沼貞吉の墓があることを知る。
これが合祀運動に発展し、1957年(昭和32年)に行われた「戊辰戦争後九十年祭」で、飯盛山に飯沼貞吉の墓が建てられた。
飯沼貞吉は息子に
「会津で祭りたいという希望があれば、これを渡せ」
と遺言し、歯と髪を託しており、飯盛山の墓には歯と髪が納められている。
なお、飯沼貞吉の合祀については会津藩関係者の反対もあり、飯沼貞吉の墓は、自害した白虎隊(士中二番隊)19人の墓から離れた場所に建てられている。
飯沼貞吉の墓を建てたのも財団法人「前島会仙台支部」となっている。
当時は
「切腹に失敗するなど、会津藩士の恥」
「少年ばかりの墓に、年寄りを入れるのは不釣り合いだ」
などと、飯沼貞吉の墓を白虎隊の墓に入れる事に反対する声があったという。
埋葬を頼まれた農民(盗賊)が自害した白虎隊(士中二番隊)から盗んだ刀などは、会津藩城下町の骨董品屋などで売られていた。
会津藩の敗戦後、飯盛山で自害した白虎隊(士中二番隊)・西川勝太郎の母親・西川せき子は、偶然、骨董品屋で息子・西川勝太郎の刀を見つけ、買い戻すことができたのであった。
若松城の城門近くに、会津藩の家老の西郷頼母(さいごう・たのも)の家老屋敷があり、この家老屋敷で西郷頼母一族21人が自刃に倒れた。
西郷頼母一族の自刃があったのは、家老の西郷頼母が国境警備にあたっている時のことである。
1868年10月8日(慶応4年8月23日)早朝、城下町に早鐘が鳴り響き、藩士の家族が続々と若松城に向かうなか、西郷頼母の一族21人は西郷頼母の家老屋敷に集まっていた。
西郷頼母の母親・西郷律子は
「女が城に居ては足手まといになる。されど、敵の手に落ちて辱めを受けるわけにはいかない」
と言い、辞世の句を詠むと、自刃に倒れた。
西郷頼母の妻・西郷千恵子は義母・西郷律子の後に続き、まだ自害できない幼い我が子を刺した。
そして、妻の西郷千恵子は我が子の死を確認すると、返す刀で自分の喉を貫き、会津藩士の妻としての役目を果たした。こうして、西郷頼母の家族9人が自害した。
また、別室に集まった西郷頼母の縁者12人も西郷律子らに続き自害した。この日、西郷頼母の家老屋敷では一族21人が自殺した。
「むごかぁ、じゃけんど会津の女子は立派じゃきに」
そのむごたらしい遺体を発見して、合掌したのは官軍の板垣退助と中島信行であったとされる。
一方、若松城まで到達した新政府軍・土佐藩の中島信行は、若松城の近くにある屋敷を一軒一軒、調べていた。中島信行は大きな屋敷に鉄砲を撃ち込む。しかし、反応が無いので、屋敷内を捜索した。
土佐藩士・中島信行が長い廊下を渡って1室の障子を開けると、女子供が自刃に倒れて死んでいた。
それは西郷頼母の一族21人だった。
しかし、17~18歳の女が1人まだ息を残していた。
年齢から考えて、女は西郷頼母の長女・西郷細布子(16歳)だとされている。
西郷細布子は母に頼らずに自害したが、急所を外して自殺に失敗し、意識がもうろうとしていた。西郷細布子はもうろうとしながらも、障子を開けた中島信行の気配に気づくと、
「敵か、味方か」と問うた。
土佐藩士の中島信行が
「安心せい、味方じゃ」
と答えると、西郷細布子は力を振り絞って懐刀を差し出し、介錯を頼んだ。
中島信行は「御免」と言い、西郷細布子の首を落としてやった。
(注釈:西郷頼母の家老屋敷に入ったのは、土佐藩士・中島信行とされているが、中島信行は土佐藩を脱藩しており、会津戦争に加わっていないため、別人の可能性がある。多分、板垣退助であろう)
会津藩士の家族の中には、西郷頼母一族と同じように新政府軍の辱めを受けることを危惧して、自害した者が大勢居た。
柴五郎の家族も自害している。
内藤介右衛門の家族も面川泰雲寺で自害している。
戊辰戦争で死んだ会津藩の女性の数は計230人に上ったという。
1868年10月8日(慶応4年8月23日=籠城戦の初日)、籠城初日の会津城には老兵や予備隊のはか水戸藩の兵など約300人の兵士しか残っていなかった。
会津藩は主力部隊を国境に展開しており、帰城命令は出ていたが、主力部隊は未だに帰ってきていなかった。
会津藩は籠城戦を想定していなかったので、籠城の準備は出来ておらず、弾薬や食糧の搬入も出来ていなかった。
山本八重が若松城に入城したとき、会津兵は城内で刀を抜き、入城してきた婦女子に
「例え女中でも、卑怯なまねは許しませんぞ」と叫んでいた。
足手まといになる乳飲み子を殺してきたのだろうか、入城してきた女性の中には服が血に染まった者も居り、城内は殺伐としていた。
会津藩は若松城三の丸に進入していた新政府軍の間者3人が捕まえ、拷問の末、首を切り、間者3人の首を廊下に吊して晒し首にしていた。
そのころ、若松城の外では、会津藩の家老・神保内蔵助と家老・田中土佐の2人が甲賀町口の守備にあたり、新政府軍を食い止めていた。
しかし、多勢に無勢で、敵に包囲されると、
「んだげんじょ、会津の未来だげが心残りだべ。逆賊などといわっちぇ…悔しいだげだべした」
「もうこれでおわりだべなあ」
「んだなあ、死んで会津の汚名が晴れだらいいげんじょなあ」
「悔やまれんのは若殿さまが京都守護職になられたどぎ、わしら家老が一斉に腹かっさばいでお止しどげば…」
「んだなあ、会津が守護職にさえならねば……いまさらながら悔やまれるべ」
「死んだあとに生まれ変わっても…会津……会津に生まれでくんべ」
長い沈黙の末、辞世の句を書くと、
 神保内蔵助や田中土佐は自害した。
町奉行の日向左衛門も出陣し、大町口郭門の守備について新政府軍を食い止めていた。
日向左衛門は、山本八重の幼なじみ日向ユキの父である。
日向左衛門は銃撃戦の末に負傷し、祖母の実家へ落ち延びて竹藪の中で自害した。
会津藩の必死の抵抗も空しく、新政府軍は怒濤のごとく若松城へ押し寄せた。
最初に若松城に到達したのは、甲賀町口郭門を突破してきた土佐藩であった。
雷鳴のごとく会津軍を切り裂いて侵攻した新政府軍であったが、ここで勢いが止まる。
天下の要塞・若松城の門は固く閉ざされていたのだ。
台風の影響で雨が降っていたため、城外では火縄銃や旧式の洋式銃は全く役に立たなかった。
が、若松城には狙撃用の窓があるため、火縄銃がようやく効果を発揮し、近づく新政府軍を寄せ付けなかった。
一方、若松城へ入城した山本八重は、スペンサー銃を担いで戦闘が始まっている北出丸へ駆け付けた。
 いわゆる戊辰戦争の末期、会津藩(現在の福島県)に薩長官軍が「天皇の印」である「錦の御旗」を掲げて、会津城下まで進攻し、会津藩士たちや藩主・松平容保の籠城する「鶴ヶ城(会津若松城)」に雨霰の如く大砲弾や鉄砲を浴びせかける。「いいが?!よぐ狙っで撃ちなんしょ!」若松城には、この物語の主人公・山本八重が、スペンサー銃で武装し、男装して少年鉄砲隊を率いている。
「確かに薩長軍は数は多い。んだげんじょ、軍を指揮する敵を倒せばいいがら!」そういって城壁から官軍の指揮者を狙った。さすがに、「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサム・ウーマン」である。官軍指揮者の獅子舞のかつらのようなものをかぶった大山巌(西郷隆盛のいとこ)の脚に弾丸を命中させる。
「よし、命中んだ」
少年兵たちも笑顔になった。
「やっだあ!」
「ほれ、にしらもようっぐ狙っで撃ちなんしょ」
「はい!」
 会津藩の戊辰戦争はまだまだおわりそうもない。
八重は髪も短くして、若い少年兵のリーダー的な存在にまでなった。
「なして会津が逆賊なんだず!会津は京の都で天子さま(考明天皇のこと)や幕府を守っで戦ったのだべした。なら会津に義があるべず!」八重は男装のまま下唇を噛んだ。
味方の兵に
「女に何が出来る」
と笑われたが、山本八重はスペンサー銃を構えると、次々と土佐兵を撃ち殺していく。
山本八重が持つスペンサー銃は、最新式の洋式銃で、元込め式の7連発のライフル銃だった。
元込め式なので弾の挿入も早く、バネ仕掛けになっており、7連射できる。
火縄銃を2発撃つ間に、スペンサー銃は数発も撃てる。
スペンサー銃は、当時「元込め7連発」と呼ばれて恐れられた銃である。
若松城へ詰め寄った新政府軍の土佐藩は、山本八重の正確な狙撃に苦しみ、後退を余儀なくされた。
山本八重は見事に土佐兵を退けたのである。
1868年10月8日午前、会津藩は若松城の西隣にある藩校「日新館」が新政府軍の拠点に利用されることを恐れ、日新館に火矢を放って焼き払った(日新館の放火事件)。
さらに会津藩は新政府軍が隠れる場所を無くすため、城外の屋敷にも火矢を放って燃やした。
戸ノ口原へ援軍に向かった白虎隊(士中二番隊)のうち16人が、飯盛山へたどり着いたのは、会津藩が藩校「日新館」に火矢を放ったころだった。
1868年10月8日午前11時ごろ、戸ノ口原の戦いで敗走した白虎隊(士中二番隊)16名が飯盛山へと落ち延びた。
飯盛山から城下町を観ると、若松城は燃えており、城下町の至るところから火の手が上がっていた。
一説によると、藩校「日新館」は若松城の西に隣接しており、飯盛山から若松城を観ると、日新館が燃えると、あたかも若松城が燃えているように見えるという。
前述したが、白虎隊(士中二番隊)の中には「敵陣に切り込んで討ち死にしよう」という意見もあったが、「敵の手に落ちて辱めを受けては、主君の名を汚す」として、白虎隊(士中二番隊)16人は自害したのであった。
やがて、新政府軍の後続部隊が到着する。攻めあぐねた土佐藩に変わり、若松城を攻撃するのが薩摩藩士・大山巌(おおやまいわお)である。
1868年10月8日(慶応4年8月23日)午後、大砲隊を指揮する薩摩藩士・大山巌は火縄銃の届かない安全圏に大砲を配置し、若松城をめがけて砲撃を開始した。
薩摩藩士・大山巌は火縄銃の射程外に布陣しているため、火縄銃しかない会津兵はなすすべ無く、砲撃を受けるだけだった。
しかし、山本八重はスペンサー銃を構えて1発の銃弾を放つと、薩摩兵の大砲が止んだ。
山本八重が放った銃弾は薩摩藩士・大山巌の右大腿部を貫いたのだ。
正確に言えば、山本八重が薩摩藩士・大山巌を撃ったという証拠は無い。
が、火縄銃の射程200メートルに対してスペンサー銃は射程800メートルあり、遠方の大山巌に弾が届く銃は山本八重のスペンサー銃だけだったため、山本八重が大山巌を狙撃したとされている。
山本八重に撃たれた薩摩藩士・大山巌は戦線を離脱し、新政府軍は攻勢を弱める。山本八重は再び新政府軍を退けた。
一方、国境の警備に当たっていた家老・西郷頼母や家老・原田対馬(はらだ・つしま)などの部隊が、敵の隙を尽きて若松城へ帰城した。
国境警備に当たっていた会津藩の主力部隊の一部だが、家老・西郷頼母らの帰城により、会津藩の士気があがった。
さらに、山本八重らは城壁の石垣を押し出し、穴を開けると、大砲を突っ込み、城壁に空いた穴から新政府軍を砲撃した。
この時に山本八重らが落とした石垣は、今も若松城のお堀に沈んでおり、お堀の水が少なくなると、石垣が出現する。
新政府軍はその後も攻撃を続けたが、日が暮れ始めたため、攻撃を終了し、一度兵を退いた。会津藩は山本八重のおかけで、籠城戦の初日を無事に乗り切ったのである。
しかし、会津藩は籠城戦の備えをしていないうえ、多くの指揮官を失っており、首脳陣は抗戦派と降伏派に別れていた。
1868年10月8日(籠城戦の初日)昼、土佐軍を退けた山本八重は藩主・松平容保に出陣を談判したが、藩主・松平容保は
「女まで出陣させたとしては会津藩の恥だ」と言い、山本八重の出陣を禁じた。
山本八重以外にも、多くの女性が薙刀を持ち、出陣の許可を求めたが、
「会津藩士が女の手を借りたとあっては、末代までの恥である」
として、誰一人として出陣は許可されなかった。
女を戦いに参加させることは、武士道を貫く会津藩士にとっては恥ずべき行為なのである。
さらに、会津藩の家訓「会津家訓十五箇条(御家訓)」の第4条には「婦人女子の言、一切聞くべからず」と記されており、女性の山本八重が出陣を懇願しても、一切、聞き入れてもらえるはずも無かった。
山本八重らがいくら談判しても女の出陣は認められない。会津藩の教え「什の掟」にも「ならぬことは、ならぬものです」とある。
仕方なく出陣を諦めた山本八重は、負傷兵の治療にあたっていたが、会津兵が新政府軍に夜襲を行う計画があることを知る。
これも前述したが、そこで、山本八重は夜襲なら、敵兵も女か男か判断できないと思い、髪を切り落として男装し、亡き弟・山本三郎として夜襲に加わることにした。
山本八重は髪を切り落とそうとするが、自分ではなかなか切れないため、自宅の裏側に住んでいる幼なじみの高木時尾(たかぎ・ときを)に頼んで髪を切り落としてもらった。
男装をして戦ったのは山本八重だけではなく、娘子隊(婦女隊)らも男装で新政府軍と戦ったが、城内で断髪した女性は山本八重が初めだという。
髪を切り落とした山本八重は腰に刀を差し、ゲベール銃を担いで、夜襲隊に加わって城外へ出ると、闇夜に紛れて敵兵に切り込んだ。
夜襲を受けた新政府軍は混乱して同士討ちを始めたが、援軍が到着すると、体制を立て直し、反撃してきた。
当初より、夜襲隊は深入りしないと決めていたため、山本八重らは適度に新政府軍の兵士に攻撃を加えると、裏道を通って早々と若松城へと引き上げた。
なお、山本八重はこのような活躍から、「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれている。
しかし、当時、山本八重のことを「幕末のジャンヌダルク」と呼んだ事を示す文献はないため、「幕末のジャンヌダルク」は近代になってメディアが付けたキャッチフレーズだとされている。
また、山本八重といえばスペンサー銃だが、若松城篭城戦の初日の夜襲からはケーベル銃を使用しており、以降はスペンサー銃は登場しない。

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岸信介 安保の城の妖怪・岸信介伝「巨魁編」アンコールブログ連載小説VOL.8

2014年11月22日 03時21分01秒 | 日記







    6 敗戦と巣鴨プリズン


          ポツダム宣言




  甲板で、榎本中将は激をとばした。
「日本の勝利は君たちがやる! 鬼畜米英なにするものぞ! 神風だ! 神風特攻隊で米英軍の艦隊を駆逐するのだ!」
 若い日本兵一同は沈黙する。
 ……神風! 神風! 神風! ……
 榎本陸軍千余名、沖縄でのことである。地上戦戦没者二十万人……

 七月七日、トルーマン米国大統領はドイツのポツダムに着いた。
 そこで、「ポツダム宣言」を受諾させ、日本などの占領統治を決めるためである。
 会議のメンバーは左のとおりである。

 アメリカ合衆国     ハリー・S・トルーマン大統領
 ソビエト連邦      ヨゼフ・スターリン首相
 イギリス        ウィンストン・チャーチル首相               
 中華民国(中国)    蒋介石国民党総裁(対日戦争のため欠席)


  なおトルーマンは会議議長を兼ねることになったという。
 一同はひとりずつ写真をとった。そして、一同並んで写真をとった。
 有名なあの写真である。しかし、トルーマンは弱気だった。
 彼は国務省にあのジェームズ・バーンズを指名したばかりだった。
 トルーマンは愛妻ベスに手紙を送る。
 ……親愛なるベスへ。私は死刑台の前まで歩いているような気分だ。
 ……失敗したりしないか。ヘマをやらかさないか、頭の中は不安でいっぱいだ。
 議題は、
  一、ソ連対日参戦
  二、天皇制維持
  三、原爆投下(米国しか知らない秘密事項)
 
 七月十六日、トルーマンの元に電報が届く。
 ……手術は成功しました。ただ術後経過はわかりません。
              ヘンリー・スティムソン

 つまり、手術とは原爆の実験のこと。それに成功した。ということはつまり米国最新の兵器開発に成功したことを意味する訳だ。
 トルーマンは「ヤルタの密約」を実行するという。
 つまり、八月十五日に日本攻撃に参戦するというのだ。
 それまでのソ連はドイツ戦で大勢の兵士を失ったとはいえ、軍事力には自信をもち、いずれは米国政府も交渉のテーブルにつくだろうと甘くみていた。よって、ソ連での事業はもっぱら殖産に力をいれていた。
 とくにヨーロッパ式農法は有名であるという。林檎、桜桃、葡萄などの果樹津栽培は成功し、鉱山などの開発も成功した。
 しかし、「ソヴィエト連邦」は兵力を失ったかわりに米国軍は核を手にいれたのである。力関係は逆転していた。


  一九四五年八月昼頃、日本陸軍総裁山本五十六はプロペラ機に乗って飛んでいた。
 東南アジアのある場所である。
「この戦争はもうおわりだ」
 五十六はいった。「われわれは賊軍ではない。しかし、米国を敵にしたのは間違いだ」 だが、部下の深沢右衛門は「総統、米軍が賊軍、われらは正義の戦しとるでしょう」というばかりだ。
 五十六は「今何時かわかりるか?」とにやりといった。
 深沢は懐中時計を取り出して「何時何分である」と得意になった。
 すると、五十六は最新式の懐中時計を取りだして、
「……この時計はスイス製品で最新型だ。妻にもらった」といった。
 そんな中、米軍は山本五十六の乗る大型のプロペラ機をレーダーと暗号解析でキャッチした。米軍はただちに出撃し、やがて五十六たちは撃墜され、玉砕してしまう。
  Bー29爆撃機が東京大空襲を開始したのはこの頃である。黒い編隊がみえると東京中パニックになったという。「急げ! 防空壕に入るんだ!」爆弾のあれ霰…一面火の海になる。その威力はすごく阪神淡路大地震どころの被害ではない。そこら中が廃墟と化して孤児があふれた。火の海は遠くの山からも見えたほどだという。10万人が死んだ。
 しかしリアクションの東京大空襲だった。被害者意識ばかりもってもらっても困るのだ。……恐ろしい戦争の影が忍び寄ってきて……勝手になにもしないで忍び寄ってきた訳じゃない。侵略戦争の果ての結果だった。しかし、これで幼い子供たちが親兄弟を失い、女の子は体を売り、男の子は闇市で働くことになる。がめつい農家は傲慢さを発揮し、高価な着物などと米や野菜を交換した。日本人はその日の食事にもことかく有様だった。


「……お元気でしたか?」
 スティムソンはトルーマンを気遣った。
 するとトルーマンは「私はとくになんともない。それより……」
 と何かいいかけた。
「…なんでしょうか?」
「あれが完成まで到達したそうじゃ。ジャップたちを倒すために『聖なる兵器』などと称しておるそうで……馬鹿らしいだけだ」
「馬鹿らしい?」H・スティムソンは驚いた。
「日本軍は満州を貸してほしい国連に嘆願しておるという」
「日本軍はドイツのように虐殺を繰り返しているそうです。罰が必要でしょう」
 トルーマンは、
「そうだな。どうせ原爆の洗礼を受けるのは黄色いジャップだ」と皮肉をいった。
 スティムソンは「確かに……しかし日本の技術力もあなどれません。戦争がおわって経済だけが問われれば、日本は欧米に迫ることは確実です」
「あの黄色が?」
 トルーマンは唖然ときいた。
  日本軍の満州処理を国連は拒否し、日本軍は正式に”賊軍”となった。
 同年、米国海軍は、甲鉄艦を先頭に八隻の艦隊で硫黄島に接近していた。
 同年、米国軍は軍儀をこらし、日本の主要都市に原爆を落とす計画を練った。アイデアはバーンズが出したともトルーマンがだしたともいわれ、よくわからない。
 ターゲットは、新潟、東京、名古屋、大阪、広島、長崎……
 京都や奈良は外された。

「さぁ、君達はもう自由だ。日本にいる家族までもどしてあげよう」
 連合国総指揮者・マッカーサーたちは捕らえた日本軍人たちを逃がしてやった。
 もう八月だが、マッカーサーは原爆投下のことを知らされてない。
 捕虜の中に田島圭蔵の姿もその中にあった。
 ……なんといいひとじゃ。どげんこつしてもこのお方は無事でいてほしいものでごわす。 田島は涙を流した。
 米軍たちにとって日本軍人らは憎むべき敵のはずである。しかし、寛大に逃がしてくれるという。なんとも太っ腹なマッカーサーであった。
「硫黄島戦争」の命運をわけたのが、甲鉄艦であった。最強の軍艦で、艦隊が鉄でおおわれており、砲弾を弾きかえしてしまう。
 米軍最強の艦船であった。
 それらが日本本土にせまっていた。
 日本軍部たちは焦りを隠せない。
 ……いまさらながら惜しい。原爆があれば……

  野戦病院ではジュノー博士は忙しく治療を続けていた。
 もうすぐ戦は終わる。看護婦は李春蘭という可愛い顔の少女である。
 中国人は龍雲という病人をつれてきた。
「ジュノー先生、頼みます!」
 中国人はジュノー医師に頭をさげた。
「俺は農民だ! ごほごほ…病院など…」
 龍雲はベットで暴れた。
 李春蘭は「病人に将軍も農民もないわ! じっとしてて!」
 とかれをとめた。龍雲は喀血した。
 ジュノー病室を出てから、
「長くて二~三ケ月だ」と中国人にいった。
 中国人は絶句してから、「お願いします」と医者に頭をさげた。
「もちろんだ。病人を看護するのが医者の仕事だ」
「……そうですか…」
 中国人は涙を浮かべた。

  すぐに大本営の日本軍人たちは軍儀を開いた。
 軍部は「なんとしても勝つ! 竹やりででも戦う!」と息巻いた。
 すると、三鳥が「しかし、米軍のほうが軍事的に優位であります」と嘆いた。
 回天丸艦長の甲賀が「米軍の艦隊の中で注意がいるのが甲鉄艦です! 艦体が鉄でできているそうで大砲も貫通できません」
 海軍奉行荒井は「あと一隻あれば……」と嘆いた。
 軍人はきっと怖い顔をして、
「そんなことをいってもはじまらん!」と怒鳴った。
 昭和天皇は閃いたように「ならもうやることはひとつ」といった。
「……どうなさるのですか?」
 一同の目が天皇に集まった。
「あと一年以内に朕は降伏すべきであると思う。沖縄では戦争で民間人が犠牲になった」 天皇は決起した。「あと一年以内に降伏である」


  ツィツィンエルホーン宮殿で『ポツダム会議』が開かれていた。
 ソ連対米英……
 スターリンは強気だった。
 どこまでもソ連の利益にこだわる。
 トルーマンはスターリンに失望した。
「…神様は七日間で世界をつくったのに……われわれは何週間もここで議論している」
 会議は回る。
 余興で、ヴァイオリンとピアノの演奏があった。

 ………スターリンはすべて自分勝手になんでも決めようとする。私はソ連に、いやスターリンに幻滅した。………
            トルーマン回顧録より

  そんな中、米国アリゾナ州ロスアラモスで原爆実験成功という報が入ってきた。
 ……壮大で戦慄。まさに空前に結果。爆発から30秒後に辺りが火の海になった。全能の神の手に触れたかのように震えを感じた。………
               オッペンハウアー博士回顧録より

 トルーマンは自信を取り戻した。
 この最新兵器があれば、ジャップたちを終戦に導かせられる。
 原爆の人体実験までできるではないか……
 ……ソ連抜きで日本に勝てる!
 ”手術は八月十五日以降なら、八月十日なら確実でしょう”
 トルーマンはスターリンに、
「われわれはとてつもない兵器を手にいれました」といった。
 その当時、情報をつかんでなかったスターリンはきょとんとする。
 しかし、チャーチルは情報を握っていた。
 チャーチルは「なにが卑怯なもんか! 兵器使用は国際法で認められた立派な戦法だ。卑怯といえばジャップじゃないか。天皇を担いで、正義の戦争などと抜かして…」
「それはそうですが……」
 チャーチルは無用な議論はしない主義である。
「原爆使用はいかがでしょう」
 チャーチルは提案した。「原爆を脅しとして使って、実際には使わずジャップの降伏を待つのです」
 トルーマンは躊躇して、
「確かに……犠牲は少ないほうがいい」
 といった。声がうわずった。
「どちらにしても戦には犠牲はつきものです」
「原爆を落とすのはジャップだよ。黄色いのだ」
「そういう人種偏見はいけませんな」
「しかし……原爆を使わなければ米兵の血が無用に流れる」
 チャーチルは沈黙した。
「とにかく……実際には使わずジャップの降伏を待つのです」
 やっと、チャーチルは声を出した。
「……首相………」
 トルーマンは感激している様子だった。

  さっそくゼロ戦に戦闘員たちが乗り込んでいった。
 みな、かなり若い。
 鈴木歳三も乗り込んだ。
 しかし、鈴木とてまだ三十五歳でしかない。
 海軍士官・大塚浪次郎も乗り込む。「神風だ! 鬼畜を倒せ!」
「おう! 浪次郎、しっかりいこうや!」
 大塚雀之丞は白い歯を見せた。
 英語方訳の山内六三郎も乗り込む。
「神風だ!」
 若さゆえか、決起だけは盛んだ。
 しかし、同じ英語方訳の林董三郎だけは乗せてもらえなかった。
「私も戦に参加させてください!」
 董三郎は、隊長の甲賀源吾に嘆願する。
 が、甲賀は「総裁がおぬしは乗せるなというていた」と断った。
「なぜですか?! これは義の戦でしょう? 私も義を果たしとうごりまする!」
 林董三郎はやりきれない思いだった。
 高松がそんなかれをとめた。
「総裁は君を大事に思っているのだ。英語方訳が日本からいなくなっては困るのだ」
「…しかし……」
「君も男ならききわけなさい!」
 董三郎を高松は説得した。
 こうして、神風特攻隊は出陣した。

「日本軍がせめて……きたのでしょう?!」
 病院のベットで、龍雲は暴れだした。看護婦の李春蘭は、
「……龍雲さん、おとなしくしてて!」ととめた。
 龍雲は日本軍と戦う、といってきかない。そして、また喀血した。
「龍雲のことを頼みます、ジュノーさん」
 病院に蒋介石総裁がきた。
「あなたがジュノー博士か?」
 蒋は不躾な言葉で、ジュノーに声をかけた。
「ジュノーさん」
「はい」
「……元気で。お体を大切になさってください。戦は必ずこちらが勝ちます」
「しかし……」
「心配はいりません。わが軍の姿勢はあくまで共順……中華民国は共和国です。連合軍とも仲良くやっていけます」
 蒋介石自身にも、自分の言葉は薄っぺらにきこえた。
「誰か! 誰かきて!」
 李春蘭が声をあげた。「龍雲さんが……!」
「……す、すいません!」
 ジュノーは病室にむけ駆け出した。
         

 生還





  スイス人医師、マルセル・ジュノー博士は海路中国に入った。
 国際赤十字委員会(ICRC)の要請によるものだった。
 当時の中国は日本の侵略地であり、七〇万人もの日本軍人が大陸にいたという。中国国民党と共産党が合体して対日本軍戦争を繰り広げていた。
 当時の日本の状況を見れば、原爆など落とさなくても日本は敗れていたことがわかる。日本の都市部はBー29爆撃機による空襲で焼け野原となり、国民も戦争に嫌気がさしていた。しかも、エネルギー不足、鉄不足で、食料難でもあり、みんな空腹だった。
 米国軍の圧倒的物量におされて、軍艦も飛行機も撃沈され、やぶれかぶれで「神風特攻隊」などと称して、日本軍部は若者たちに米国艦隊へ自爆突撃させる有様であった。
 大陸の七〇万人もの日本軍人も補給さえ受けられず、そのため食料などを現地で強奪し、虐殺、強姦、暴力、侵略……16歳くらいの少年まで神風特攻隊などと称して自爆テロさす。 ひどい状態だった。
 武器、弾薬も底をついてきた。
 もちろん一部の狂信的軍人は”竹やり”ででも戦ったろうが、それは象に戦いを挑む蟻に等しい。日本はもう負けていたのだ。
 なのになぜ、米国が原爆を日本に二発も落としたのか?
 ……米国軍人の命を戦争から守るために。
 ……戦争を早くおわらせるために。
 といった米国人の本心ではない。つまるところ原爆の「人体実験」がしたかったのだ。ならなぜドイツには原爆をおとさなかったのか? それはドイツ人が白人だからである。 なんだかんだといっても有色人種など、どうなろうともかまわない。アメリカさえよければそれでいいのだ。それがワシントンのポリシー・メーカーが本音の部分で考えていることなのだ。
 だが、日本も日本だ。
 敗戦濃厚なのに「白旗」も上げず、本土決戦、一億日本民族総玉砕、などと泥沼にひきずりこもうとする。当時の天皇も天皇だ。
 もう負けは見えていたのだから、                      
 ……朕は日本国の敗戦を認め、白旗をあげ、連合国に降伏する。
 とでもいえば、せめて原爆の洗礼は避けられた。
 しかし、現人神に奉りあげられていた当時の天皇(昭和天皇)は人間的なことをいうことは禁じられていた。結局のところ天皇など「帽子飾り」に過ぎないのだが、また天皇はあらゆる時代に利用されるだけ利用された。
 信長は天皇を安土城に連れてきて、天下を意のままに操ろうとした。戊辰戦争、つまり明治維新のときは薩摩長州藩が天皇を担ぎ、錦の御旗をかかげて官軍として幕府をやぶった。そして、太平洋戦争でも軍部は天皇をトップとして担ぎ(何の決定権もなかったが)、大東亜戦争などと称して中国や朝鮮、東南アジアを侵略し、暴挙を繰り広げた。
 日本人にとっては驚きのことであろうが、かの昭和天皇(裕仁)は外国ではムッソリーニ(イタリア独裁者)、ヒトラー(ナチス・ドイツ独裁者)と並ぶ悪人なのだ。
 只、天皇も不幸で、軍部によるパペット(操り人形)にしか過ぎなかった。
 それなのに「極悪人」とされるのは、本人にとっては遺憾であろう。
 その頃、日本人は馬鹿げた「大本営放送」をきいて、提灯行列をくりひろげていただけだ。まぁ、妻や女性子供たちは「はやく戦争が終わればいい」と思ったらしいが口に出せば暴行されるので黙っていたらしい。また、日本人の子供は学童疎開で、田舎に暮らしていたが、そこにも軍部のマインド・コントロールが続けられていた。食料難で食べるものもほとんどなかったため、当時の子供たちはみなガリガリに痩せていたという。
 そこに軍部のマインド・コントロールである。
 小学校(当時、国民学校といった)でも、退役軍人らが教弁をとり、長々と朝礼で訓辞したが、内容は、                   
 ……わが大和民族は世界一の尚武の民であり、わが軍人は忠勇無双である。
 ……よって、帝国陸海軍は無敵不敗であり、わが一個師団はよく米英の三個師団に対抗し得る。
 といった調子のものであったという。
 日本軍の一個師団はよく米英の三個師団に対抗できるという話は何を根拠にしているのかわからないが、当時の日本人は勝利を信じていた。
 第一次大戦も、日清戦争も日露戦争も勝った。     
 日本は負け知らずの国、日本人は尚武の民である。
 そういう幼稚な精神で戦争をしていた。
 しかし、現実は違った。
 日本人は尚武の民ではなかった。アメリカの物量に完敗し、米英より戦力が優っていた戦局でも、日本軍は何度もやぶれた。
 そして、ヒステリーが重なって、虐殺、強姦行為である。
 あげくの果てに、六十年後には「侵略なんてなかった」「731部隊なんてなかった」「南京虐殺なんてなかった」
 などと妄言を吐く。
 信じられない幼稚なメンタリティーだ。
 このような幼稚な精神性を抱いているから、日本人はいつまでたっても世界に通用しないのだ。それが今の日本の現実なのである。

  一九四五年六月………
 マルセル・ジュノーは野戦病院で大勢の怪我人の治療にあたっていた。
 怪我人は中国人が多かったが、中には日本人もいた。
 あたりは戦争で銃弾が飛び交っており、危険な場所だった。
 やぶれかぶれの日本軍人は、野蛮な行為を繰り返す。
 ある日、日本軍が民間の中国人を銃殺しようとした。
「やめるんだ!」
 ジュノーは、彼らの銃口の前に立ち塞がり、止めたという。
 日本軍人たちは呆気にとられ、「なんだこの外人は?」といった。
 ……とにかく、罪のないひとが何の意味もなく殺されるのだけは願い下げだ!
 マルセル・ジュノー博士の戦いは続いた。


 戦がひとやすみしたところで、激しい雨が降ってきた。
 日本軍の不幸はつづく。
 暴風雨で、艦隊が坐礁し、米英軍に奪われたのだ。
「どういうことだ?!」
 山本五十六は焦りを感じながら叱った。
 回天丸艦長・森本は、
「……もうし訳ござりません!」と頭をさげた。
「おぬしのしたことは大罪だ!」
 山本は激しい怒りを感じていた。大和を失っただけでなく、回天丸、武蔵まで失うとは………なんたることだ!
「どういうことなんだ?! 森本!」とせめた。
 森本は下を向き、
「坐礁してもう駄目だと思って……全員避難を……」と呟くようにいった。
「馬鹿野郎!」五十六の部下は森本を殴った。
「坐礁したって、波がたってくれば浮かんだかも知れないじゃないか! 現に米軍が艦隊を奪取しているではないか! 馬鹿たれ!」
 森本は起き上がり、ヤケになった。
「……負けたんですよ」
「何っ?!」
 森本は狂ったように「負けです。……神風です! 神風! 神風! 神風!」と踊った。 岸信介も山本五十六も呆気にとられた。
 五十六は茫然ともなり、眉間に皺をよせて考えこんだ。
 いろいろ考えたが、あまり明るい未来は見えてはこなかった。
  大本営で、夜を迎えた。
 米軍の攻撃は中断している。
 日本軍人たちは辞世の句を書いていた。
 ……もう負けたのだ。日本軍部のあいだには敗北の雰囲気が満ちていた。
「鈴木くん出来たかね?」
「できました」
「どれ?」

  中国の野戦病院の分院を日本軍が襲撃した。
「やめて~っ!」
 看護婦や医者がとめたが、日本軍たちは怪我人らを虐殺した。この”分院での虐殺”は日本軍の汚点となる。
 ジュノーの野戦病院にも日本軍は襲撃してきた。
 マルセル・ジュノーは汚れた白衣のまま、日本軍に嘆願した。
「武士の情けです! みんな病人です! 助けてください!」
 日本の山下は「まさか……おんしはあの有名なジュノー先生でこごわすか?」と問うた。「そうだ! 医者に敵も味方もない。ここには日本人の病人もいる」
 関東軍隊長・山下喜次郎は、
「……その通りです」と感心した。
 そして、紙と筆をもて!、と部下に命じた。
 ………日本人病院
 紙に黒々と書く。
「これを玄関に張れば……日本軍も襲撃してこん」
 山下喜次郎は笑顔をみせた。
「………かたじけない」
 マルセル・ジュノーは頭をさげた。

  昭和二十年(一九四五)六月十九日、関東軍陣に着弾……
 山下喜次郎らが爆撃の被害を受けた。
 ジュノーは白衣のまま、駆けつけてきた。
「………俺はもうだめだ」
 山下は血だらけ床に横たわっている。
「それは医者が決めるんだ!」
「……医療の夢捨…てんな…よ」
 山下は死んだ。
  野戦病院で、マルセル・ジュノー博士と日本軍の黒田は会談していた。
「もはや勝負はつき申した。蒋介石総統は共順とばいうとるがでごわそ?」
「……そうです」
「ならば」
 黒田は続けた。「是非、蒋介石総統におとりつぎを…」
「わかりました」
「あれだけの人物を殺したらいかんど!」
 ジュノーは頷いた。
 六月十五日、北京で蒋介石総統と日本軍の黒田は会談をもった。
「共順など……いまさら」
 蒋介石は愚痴った。
「涙をのんで共順を」黒田はせまる。「……大陸を枕に討ち死にしたいと俺はおもっている。総統、脅威は日本軍ではなく共産党の毛沢東でしょう?」
 蒋介石はにえきらない。危機感をもった黒田は土下座して嘆願した。
「どうぞ! 涙をのんで共順を!」
 蒋介石は動揺した。
 それから蒋介石は黒田に「少年兵たちを逃がしてほしい」と頼んだ。
「わかりもうした」
 黒田は起き上がり、頭を下げた。
 そして彼は、分厚い本を渡した。
「……これはなんです?」
「海陸全書の写しです。俺のところに置いていたら灰になる」
 黒田は笑顔を無理につくった。
 蒋介石は黒田参謀から手渡された本を読み、
「みごとじゃ! 殺すには惜しい!」と感嘆の声をあげた。
  少年兵や怪我人を逃がし見送る黒田……
 黒田はそれまで攻撃を中止してくれた総統に頭を下げ、礼した。
 そして、戦争がまた開始される。
 旅順も陥落。
 残るはハルビンと上海だけになった。
  上海に籠城する日本軍たちに中国軍からさしいれがあった。
 明日の早朝まで攻撃を中止するという。
 もう夜だった。
「さしいれ?」星はきいた。            
「鮪と酒だそうです」人足はいった。
 荷車で上海の拠点内に運ばれる。
「……酒に毒でもはいってるんじゃねぇか?」星はいう。
「なら俺が毒味してやろう」
 沢は酒樽の蓋を割って、ひしゃくで酒を呑んだ。
 一同は見守る。
 沢は「これは毒じゃ。誰も呑むな。毒じゃ毒!」と笑顔でまた酒を呑んだ。
 一同から笑いがこぼれた。
 大陸関東日本陸軍たちの最後の宴がはじまった。
 黒田参謀は少年兵を脱出させるとき、こういった。
「皆はまだ若い。本当の戦いはこれからはじまるのだ。大陸の戦いが何であったのか……それを後世に伝えてくれ」
 少年兵たちは涙で目を真っ赤にして崩れ落ちたという。

  日本軍たちは中国で、朝鮮で、東南アジアで暴挙を繰り返した。
 蘇州陥落のときも、日本軍兵士たちは妊婦と若い娘を輪姦した。そのときその女性たちは死ななかったという。それがまた不幸をよぶ。その女性たちはトラウマをせおって精神疾患におちいった。このようなケースは数えきれないという。
 しかし、全部が公表されている訳ではない。なぜかというと言いたくないからだという。中国人の道徳からいって、輪姦されるというのは恥ずかしいことである。だから、輪姦             
れて辱しめを受けても絶対に言わない。
 かりに声をあげても、日本政府は賠償もしない。現在でも「侵略などなかったのだ」などという馬鹿が、マンガで無知な日本の若者を洗脳している。
  ジュノー博士は衝撃的な場面にもでくわした。
 光景は悲惨のひとことに尽きた。
 死体だらけだったからだ。
 しかも、それらは中国軍人ではなく民間人であった。
 血だらけで脳みそがでてたり、腸がはみ出したりというのが大部分だった。
「……なんとひどいことを…」
 ジュノーは衝撃で、全身の血管の中を感情が、怒りの感情が走りぬけた。敵であれば民間人でも殺すのか……? 日本軍もナチスもとんでもない連中だ!
 日本軍人は中国人らを射殺していく。
 虐殺、殺戮、強姦、暴力…………
 日本軍人は狂ったように殺戮をやめない。
 そして、それらの行為を反省もしない。
 只、老人となった彼等は、自分たちの暴行も認めず秘密にしている。そして、ある馬鹿のマンガ家が、
 …日本軍人は侵略も虐殺も強姦もしなかった……
 などと勘だけで主張すると「生きててよかった」などと言い張る。
 確かに、悪いことをしたとしても「おじいさんらは間違ってなかった」といわれればそれは喜ぶだろう。たとえそれが『マンガ』だったとしても……
 だが、そんなメンタリティーでは駄目なのだ。
 鎖国してもいいならそれでもいいだろうが、日本のような貿易立国は常に世界とフルコミットメントしなければならない。
 日中国交樹立の際、確かに中国の周恩来首相(当時)は「過去のことは水に流しましょう」といった。しかし、それは国家間でのことであり、個人のことではない。
 間違った閉鎖的な思考では、世界とフルコミットメントできない。
 それを現在の日本人は知るべきなのだ。

  民間の中国人たちの死体が山のように積まれ、ガソリンがかけられ燃やされた。紅蓮の炎と異臭が辺りをつつむ。ジュノー博士はそれを見て涙を流した。
 日本兵のひとりがハンカチで鼻を覆いながら、拳銃を死体に何発か発砲した。
「支那人め! 死ね!」
 ジュノーは日本語があまりわからず、何をいっているのかわからなかった。
 しかし、相手は老若男女の惨殺死体である。
「……なんということを…」
 ジュノーは号泣し、崩れるのだった。

  自然のなりゆきだろうか、ジョンとジェニファーは恋におちた。ハワイでのことである。マイケルを失ったジェニファー、オードリーを失ったジョン……
 愛の行為は、ジョンにもジェニファーにもいまだかってないほどすばらしかった。ジョンの疲れがひどく丁寧に優しく、おだやかにするしかなかったからか、それはわからない。 裸のままシーツにぐったりと横たわり、唇をまた重ねた。
「ふたりとも恋人をなくした」
 ジョンがいうと、ジェニファーは「そうね。でも、もうひとりじゃないわ」といった。 しかし、奇跡がおこる。マイケルが生還したのだ。死んではいなかったのだ!
「ぼくの恋人をとりやがった!」マイケルとジョンは喧嘩になった。ジョンは謝った。
 しかし、ジェニファーはマイケルとよりをもどすことはなかった。
「なぜ? ……もう一度やりなおそう!」
「駄目。わたし妊娠してるの……ジョンの子よ」彼女の言葉に、マイケルは衝撃を受けた。 

          原爆投下





  東京湾にも米国艦隊が迫っていた。
 沖縄の米軍も本土上陸の機会を狙っている。
 ハワイ沖の空軍らは軍儀を開いていた。
「あの男はどこにいった?!」
 マイケルはいった。あの男とは、同じく米国太平洋艦隊空軍のクロード・エザリーである。
 ……あの男が! 会議にも出ないで昼寝でもしてるのか?!
 ハワイ沖はほとんど米軍の支配化である。
「原爆か……」
 広島に原爆を落とすことになる爆撃機・エノラゲイの機長、ポール・ティベッツは興奮した。これからこの原爆を……ジャップめ!
 ジョンは「まだわかりません」という。
「大統領が原爆投下の動きをみせているのは本当なんですか?」
「まずは…」爆撃機・エノラゲイの機長、ポール・ティベッツは続けた。「まずは出撃の準備をしろということだ」
 昼寝から起きたのか、クロード・エザリー軍曹がやってきて、
「ジャップに原爆をとられたらどうする?」といった。   
 ポール・ティベッツは激昴して、
「このガキが! なにぬかしとる!」と喝破した。
 しかしエザリーも負けてはいない。
「この原爆(ドラム管ほどけっこう大きい)はリトルボーイといい、ウラニウム弾である」「それぐらい俺も知っとる!」
 エノラゲイの機長、ポール・ティベッツは声を荒げた。
 ……”トゥ・ヒロヒト(裕仁に贈る)……
 エザリーやマイケルたちは原爆ミサイルにチョークで落書きした。
「これでジャップたちは降伏する。原爆落とされ、あたりはまっ黄色だ!」
 そういったのはエザリーだった。

  七月二十四日、広島などへの原爆投下にむけて、リトル・ホワイトハウスでバーンズは『宣言』をつくる。
 トルーマンは思う。
 ……米英だけで決めてよいものか。中国にも打電しよう。
 トルーマンは重慶の蒋介石に「二十四時間以内に返事するように」と打電した。
 その間も、スティムソンは「天皇制の維持を…」とバーンズ国務長官にうったえていた。 七月二十四日、記念写真。チャーチル、トルーマン、スターリン……
 トルーマンは原爆投下の命令書を出す。
 ターゲットは、広島、小倉、新潟、長崎に変更された。
 ……原爆は日本に対してつかわれるだろう。爆弾は子や女子ではなく軍事拠点に。ジャップは降伏しないだろうが、シグナルにはなる……
                 トルーマン回顧録より

 蒋介石は日本への原爆投下を受諾した。
 こうして、『ポツダム宣言』は発表された。しかし、サインはすべてトルーマンの代筆であったという。降伏せねば全滅する。
 しかし、日本はそれを黙殺していまう。

「よし! 黄色いジャップに原爆の洗礼だ!」
 マイケルは無邪気だった。
 それは当然で、誰も原爆の破壊力など知らないからだった。
「これで戦争も終わる!」ジョンもいった。
 雲がたちこめている。
  結局、エノラゲイは日本上陸を飛んだが新潟は見えず…しかし、広島だけは雲の隙間があった。
 マイケルたちはまだ若く、軍略も謀略もできない青二才だった。
 ジョンは双眼鏡で広島をみながらにやにやと、
「広島上空異常なし!」と仲間にいった。
「……原爆ってどれくらい死ぬんだ?」とマイケル。
「知らない。しかし、相手は黄色だぜ。知ったことか」
「国際法でも認められている立派な策さ」
 そして、一九四五年八月六日午前八時十五分、広島に原爆が投下された。
「目がつぶれるから直視するな!」ティベッツ機長は叫んだ。
 双眼鏡で覗いて見ると、きのこ雲があがっている。
「………やった!…」
「うひょ~っ!」
 エノラゲイ機内に歓声があがった。
 仲間は「これてジャップも降伏だ……」という。
 しかし、予想は外れる。
 日本は、黙ったままだ。
 ……”原爆の洗礼”だ!
「原爆! 原爆! 投下せよ!」
 トルーマンたちは動揺を隠せない。
  一九四五年八月九日長崎上空に、爆撃機ボックス・カーが接近した。そこにはマイケルたちは乗ってなかった。同時に爆撃機はプルトニウム爆弾を投下する。午前十一時二分。「くたばれ!」
 トルーマンの号令で、爆撃機にのっていた米軍兵士たちが原爆を二発もおとした。
 この原爆で二十万人もの民間人が犠牲になったという。


「斬り込め! 斬り込め!」
 日本軍は中国で次々と中国兵士を斬り殺していく。
 が、もはや時代は剣ではなく銃である。
 すぐに中国軍は回転式機関銃を撃ってくると、日本兵たちはやられていった。
 いわゆる初期のガドリング砲は、大砲ほどの大きさがあった。
 ガドリング砲の銃口が火を吹くたびに、日本軍兵士たちは撃たれて倒れていく。
「くそったれめ!」
 谷中はガドリング砲を撃つ中国軍たちの背後から斬り込んだ。そして、ガドリング砲を使って中国軍たちを撃っていく。が、戦にはならない。次々と米国艦隊がやってきて砲撃してくる。谷中小将はひととおりガドリング砲を撃ったところで、日本軍車に飛び乗った。 ……中国への進出(侵略)は失敗したのだ。
 日本軍は全速力で遁走した。
 日本は原爆を二発もうけて、大ダメージを受けた。アジア侵略が失敗したのはいたかった。が、それよりも貴重な兵士たちを失ったのもまたいたかった。
 東条は、
「こんなことなら戦争などしなければよかった」
 と悔がった。
 鈴木貫太郎は「なにをいまさらいってやがるんだこの男は!」と怒りを覚えた。
 とにかく原爆で損失を受け、大打撃であった。

  雀之丞の弟・大塚浪次郎が戦死した。
「浪次郎!」
 兄の大塚雀之丞は号泣し、遺体にすがった。
 榎本中将がきた。
「君の弟は優秀な人材であった。惜しいことだ」   
 とってつけたように、榎本はいって労った。
 涙で顔を濡らしながら、雀之丞は、
「弟の死は犬死にですか?! 中将!」と声を荒げた。
 榎本は戸惑ってから、
「戦は殺しあいだ。連合軍があくまでもわれら日本帝国を認めないなら、戦うしかない。これは”義”の戦ぞ!」
「……しかし…日本が血に染まりまする!」
「”義”の戦では勝つのはわれらだ。米英には”義”がない。勝つのはわれらだ!」
 榎本はどこまでも強気だった。
「……そうですか……」
 雀之丞は涙を両手でふいて、いった。
「義の戦ですね? 弟の死は犬死にではなかったのですね」
「そうだ! 大塚雀之丞……励め!」
「はっ!」
 大塚雀之丞は平伏した。

           
  若く可愛い看護婦と、日本脱走軍の兵士の若者・英次郎は李春蘭とデートした。
「君、今好きなひととかいるの?」
 英次郎は勇気をふりしぼってきいた。
 是非とも答えがききたかった。
 李春蘭は頬を赤らめ、
「えぇ」
 といった。
 純朴な少年の感傷と笑うかも知れないが、英次郎は李春蘭が自分のことを好きになっていると思った。
「それは誰?」
「…ある人です」李春蘭は顔を真っ赤にした。
 そして「あのひとはもう治らないとやけになってるんです」と吐露した。
「………治らない? なんだ……俺のことじゃないのか」
「すいません」
「いや!」英次郎は逆に恐縮した。「いいんだよ! そのひと病気治るといいね」
「……はい」
 李春蘭は可憐に去った。
「ふられたか? 英次郎」
 兄・恒次郎はからかった。弟は「そんなんじゃねぇや!」といった。
 ふたりは相撲を取り始めた。
 兄が勝った。
「元気だせ。もっと可愛い娘がいっぱいいるって」
「だから! ……そんなんじゃねぇって」
 ふたりは笑った。
 まだ恋に恋する年頃である。

  ガダルカナルの戦地では、若者たちが英雄をかこんでいた。
 英雄とは、米国兵士を何百人と殺した男・今井信助である。
「今井さんは鬼畜米英を斬ったそうですね?!」
「…まぁな」
「斬ったときどんな気持ちでしたか?!」
 若者たちは興奮して笑みを浮かべながらきいた。
「うれしかったよ。なんせ鬼畜だからな」
「鬼畜はどういってましたか? 死ぬとき…」
 若者は興奮で顔をむけてくる。
「なんもいわなかったよ。でも連中は頭を斬られて死んだんだな」
「へぇ~っ」
 若者たちが笑顔で頷いた。
 かれらにとっては米兵は明らかな”敵”である。


  木之内と伊庭八郎は、敗退を続ける隊員を尻目に、銃弾が飛び交う中を進軍した。森の中で、ふたりは「これは義の戦だ!」といいあった。
 伊庭八郎は、「木之内! 日本にすごい武器がおとされたって知ってるか?」ときいた。 しかし、木之内は「知ってる。しかし、おれは最後まで戦う! お国のためだ」
「そうか」伊庭八郎はにやりとして、「まだサムライがいるんだな」
 といった。
「その拳銃の弾はあと何発残ってる?」
「いっぱつ…」
「そうか」
 そんな中砲撃があり、爆発が近くで起こった。木之内は額から出血した。
 しかし、伊庭八郎は直撃を受けて血だらけで倒れていた。
「伊庭さん?! だいじょうぶですか?」
「………木之内…」
 伊庭八郎は脇差しをもって切腹した。「かいしゃくを!」
 木之内は動揺したが、「分かりました」といい銃口を伊庭八郎のこめかみに当てて引き金をひいた。
 砲弾が飛び交う。
「やあああ~っ!」
 木之内は進軍する米国軍に剣を抜いて叫んだ。
 しかし、米軍はかれを射殺して進軍していった。
 米軍絶対的優位で、ある。
  長崎にも原爆投下され、日本大本栄は動揺した。すぐに閣僚会議が開かれた。軍部はポツダム宣言など受け入れれば国体が壊れる…と反発した。大和魂が死ぬ…とまでいう。 鈴木貫太郎首相は穏健派で知られた。御前会議にもっていく。そこで裕仁の聖断を受ける。昭和天皇は「本土決戦では日本国そのものが滅亡する。忍び堅きを忍び…世界のひとたちを不幸にするのは避け、この地の日本人たちがひとりでも多く生き残って繁栄の道を進んでほしい。武装解除で、朕は別によいが指導者たちが戦犯として裁かれるのは辛いが日本国が滅ぶよりいい」という。8月10日、日本は条件付き降伏をする。しかし陸軍がいきりたっていた。しきりにクーデターで軍による政権をつくり世界と戦うなどと馬鹿げたことをくりかえす。そんなだから空襲はますます激しくなる。日本中火の海だ。
 8月12日、外務省は降伏状を訳していた。…”サブジェクト トウ”…『従属する』…陸軍や海軍ら軍部は「これでは天皇制が維持されず奴隷と同じである! 陛下のためにならない!」という。そこで鈴木首相は最後の懸けにでる。もう一度の天皇の聖断である。 御前会議が開かれる。天皇の前ではクーデターも文句もない。昭和天皇はいう。
「戦争はこれ以上は無理だと思う。ポツダム宣言を朕は受諾する。もう終戦である」という。こうしてすべて決まった。愚鈍だった天皇が、最後は役にたった訳である。

  そして、一九四五年八月十五日敗戦……
”耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び…”
 昭和天皇(裕仁)の声がラジオから流れてくる。日本軍敗戦、ポツダム宣言を受諾したのだ。やっと、泥沼のような戦争は終わった。
 日本国中、焼け野原だった。
 しかも、戦後は食料難がおそい餓死者まででた。
 日本を占領するためにきたのがマッカーサー元帥だった。パイプをくわえながらプロペラ機のタラップをおりてくる。「アイル・ビー・バック」……の宣言通り彼は日本に戻ってきた。連合国総指令部(GHQ)は、さっそく日本を統治しはじめた。
 憲法(いわゆる平和憲法)をわずか二週間でつくりあげる。
 マルセル・ジュノー博士は荒廃した中国の町で、「広島と長崎に原爆が落とされ、一瞬にして何万人ものひとが犠牲になった」というニュースをラジオできいた。
 ジュノーは思う。「広島へいかなければ…」
『戦争は悪で人殺しだ』……多くのひとたちはそう思っている。確かに、戦争は悪でありひと殺しである。ただし、その悪によってもっと強大な悪を叩き潰すこともできるのだ。 例えば、太平洋戦争で連合軍が帝国日本やナチス・ドイツを叩き潰さなければ今頃、ヨーロッパやアジア諸国はどうなっていただろう? 確かに広島長崎の原爆、東京大空襲、沖縄戦、シベリア抑留、学徒出陣、神風…それらは悲惨なことだ。しかし、被害者意識ばかりもってもらっては困るのだ。じゃあナチスや帝国日本はあの戦争で何をやったのか? 虐殺侵略したじゃないか! ヒトラーや帝国日本はなにをしたのか?
 なぜ日本人は被害者意識だけしかもてないのだろう。なぜ靖国に参拝し続けるのだろう。反日デモがおきたとき著者はそう問いつづけた。だが、日本人からの反応はなかった。只、さあや(前のペンネームが咲絢(さあや))だの11歳美少女Fカップ…だのと馬鹿げたことをいわれただけだ。著者は「日本軍による侵略がなかった」と主張する右翼の小林よしのりを攻撃した。しかし、それは中国のためでも韓国や東南アジアのためでもない。
 日本人の精神の改革のためだった。でも、何にもかわらない。しかし、信じるしかない。太平洋戦争が間違った、侵略戦争であったということを…日本人たちが誰もがわかるまで……。                           
        
         

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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.134解散衆院選挙山形2区から出馬?「アベノミクス解散総選挙」

2014年11月21日 19時08分53秒 | 日記





「アベノミクス解散総選挙」の間抜けさ


  2014年11月21日安倍政権は任期を二年残しての解散総選挙の暴挙に出た。「アベノミクスの失敗を隠しての解散総選挙ではありません」と安倍首相は言うがいかにも苦しい。実態はそういうことだろうが。
2014年4月から消費税を5%から8%に税率を引き上げて、なんと消費が5兆円も落ち込んだという。そこで安倍政権は5.5兆円の補正予算を組んで対策を講じたが「アベノミクスは失敗」した。その失敗を隠すために、それと傷のついた内閣のリセットの為だけに700億円もの費用をかけて「アベノミクス解散総選挙」を行うのだ。その際、安倍首相は「アベノミクスで雇用が増えて、内定率もあがった。行き過ぎた円高デフレも解消された」という。ちょっと待ってよ、といいたい。雇用が増えたのは正社員ではない契約派遣社員だ。また、大企業の工場はもう海外の人件費の安いところにとっくの昔に移っており、日本人の人件費が少しばかり安くなったとしても「(単純作業のルーチンワーク的)製造業工場」等日本国内に戻って等こない。安倍さんがいう日本に大企業の工場が戻ってきた、などという話は枝葉末節的なほんの数パーセントのごく稀なケースであり、「安かろう悪かろう外国製品」を嫌う、「高額でも品質の良いメイドインジャパン製品を購買する購買者向け」でしかない。それを大企業全体ととらえるというところが安倍さんの頭の悪さ、だ。
今回の「アベノミクス解散総選挙」では私の選挙区の山形二区には「これは!」というような候補者はいない。凡庸な学歴エリートだけだ。意味がない。こんな連中にしか投票できないなんて不幸だ。安倍政権は「アベノミクスの失敗が表面化する前」に手を打った。消費税の再増税を2017年4月に延長したのは英断ではあるが、それ以外は何ら汲むべき酌量の余地はない。
アベノミクスは失敗した!景気はよくならないし、このままでは財政も内政も外交もレイムダック状態になる。安倍自民党公明党圧勝の独裁が始まるだけだ。そして日本国の運命は悲惨な地獄になる。「アベノミクス解散総選挙」の間抜けさ、だけでも国民はわかっておくべきだろう。野党も情けなく分裂しているから自民公明圧勝は間違いない。独裁が始まるぞ!日本国のおわりの始まり、である。

緑川鷲羽(みどりかわ・わしゅう)・44・フリージャーナリスト

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緑川鷲羽「一日千秋日記」VOL.134解散衆院選挙山形2区から出馬?米沢市長・外相・NSC局長なら

2014年11月21日 11時41分50秒 | 日記





私緑川鷲羽は解散衆議院選挙で

山形2区から政治家として出馬するのではないか?と


前から尋ねられる。


どうも2区の最強候補にみられている(笑)

だが、確かにさそいを受けた事もあったが、


全部お断りしている。


米沢市長選挙で米沢市長以外の政治家

(民間登用外務大臣とNSC局長は別)



には絶対ならない。


緑川鷲羽2014

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八重の桜  新島八重の桜と白虎隊とブログ連載アンコール小説<NHK2013年大河ドラマ『八重の桜』>5

2014年11月21日 07時20分25秒 | 日記





 一月二十三日の夜中に、麟太郎は陸軍総裁、若年寄を仰せつけられた。
「海軍軍艦奉行だった俺が、陸軍総裁とは笑わせるねえ。大変動のときにあたり、三家三卿以下、井伊、榊原、酒井らが何の面目ももたずわが身ばかり守ろうとしている。
 誰が正しいかは百年後にでも明らかになるかもしれねぇな」
 麟太郎は慶喜にいう。
「上様のご決心に従い、死を決してはたらきましょう。
 およそ関東の士気、ただ一時の怒りに身を任せ、従容として条理の大道を歩む人はすくなくないのです。
 必勝の策を立てるほどの者なく、戦いを主張する者は、一見いさぎよくみえますが勝算はありません。薩長の士は、伏見の戦いにあたっても、こちらの先手を取るのが巧妙でした。幕府軍が一万五、六千人いたのに、五分の一ほどの薩長軍と戦い、一敗地にまみれたのは戦略をたてる指揮官がいなかったためです。
 いま薩長勢は勝利に乗じ、猛勢あたるべからざるものがあります。
 彼らは天子(天皇)をいただき、群衆に号令して、尋常の策では対抗できません。われらはいま柔軟な姿勢にたって、彼等に対して誠意をもってして、江戸城を明け渡し、領土を献ずるべきです。
 ゆえに申しあげます。上様は共順の姿勢をもって薩長勢にあたってくだされ」
 麟太郎は一月二十六日、フランス公使(ロッシュ)が役職についたと知ると謁見した。その朝、フランス陸軍教師シャノワンが官軍を遊撃する戦法を図を広げて説明した。和睦せずに戦略を駆使して官軍を壊滅させれば幕府は安泰という。
 麟太郎は思った。
「まだ官軍に勝てると思っているのか……救いようもない連中だな」
  麟太郎の危惧していたことがおこった。
 大名行列の中、外国人が馬でよこぎり刀傷事件がおこったのだ。生麦事件の再来である。大名はひどく激昴し、外人を殺そうとした。しかし、逃げた。
 英国公使パークスも狙われたが、こちらは無事だった。襲ってきた日本人が下僕であると知ると、パークスは銃を発砲した。が、空撃ちになり下僕は逃げていったという。
 二月十五日まで、会津藩主松平容保は江戸にいたが、そのあいだにオランダ人スネルから小銃八百挺を購入し、海路新潟に回送し、品川台場の大砲を借用して箱館に送り、箱館湾に設置した大砲を新潟に移すなど、官軍との決戦にそなえて準備をしていたという。
(大山伯著『戊辰役戦士』)

  薩長の官軍が東海、東山、北陸の三道からそれぞれ錦御旗をかかげ物凄い勢いで迫ってくると、徳川慶喜の抗戦の決意は揺らいだ。越前松平慶永を通じて、「われ共順にあり」という嘆願書を官軍に渡すハメになった。
 麟太郎は日記に記す。
「このとき、幕府の兵数はおよそ八千人もあって、それが機会さえあればどこかへ脱走して事を挙げようとするので、おれもその説論にはなかなか骨がおれたよ。
 おれがいうことがわからないなら勝手に逃げろと命令した。
そのあいだに彼の兵を越えた三百人ほどがどんどん九段坂をおりて逃げるものだから、こちらの奴もじっとしておられないと見えて、五十人ばかり闇に乗じて後ろの方からおれに向かって発砲した。
 すると、かの脱走兵のなかに踏みとどまって、おれの提灯をめがけて一緒に射撃するものだから、おれの前にいた兵士はたちまち胸をつかれて、たおれた。
 提灯は消える。辺りは真っ暗になる。おかげでおれは死なずにすんだ。
 雨はふってくるし、わずかな兵士だけつれて撤退したね」


  旧幕府軍と新選組は上方甲州で薩長軍に敗北。
 ぼろぼろで血だらけになった「誠」の旗を掲げつつ、新選組は敗走を続けた。
 慶応四年一月三日、旧幕府軍と、天皇を掲げて「官軍」となった薩長軍がふたたび激突した。鳥羽伏見の戦いである。新選組の井上源三郎は銃弾により死亡。副長の土方歳三が銃弾が飛び交う中でみずから包帯を巻いてやり、源三郎はその腕の中で死んだ。
「くそったれめ!」歳三は舌打ちをした。
 二週間前に銃弾をうけて、近藤は療養中だった。よってリーダーは副長の土方歳三だった。永倉新八は決死隊を率いて攻め込む。官軍の攻撃で伏見城は炎上…旧幕府軍は遁走しだした。
 土方は思う。「もはや刀槍では銃や大砲には勝てない」
 そんな中、近藤は知らせをきいて大阪まで足を運んだ。「拙者の傷まだ癒えざるも幕府の不利をみてはこうしてはいられん」
 それは決死の覚悟であった。
 逃げてきた徳川慶喜に勝海舟は「新政府に共順をしてください」と説得する。勝は続ける。「このまま薩長と戦えば国が乱れまする。ここはひとつ慶喜殿、隠居して下され」
 それに対して徳川慶喜はオドオドと恐怖にびくつきながら何ひとつ言葉を発せなかった。 ……死ぬのが怖かったのであろう。
 勝は西郷を「大私」と呼んで、顔をしかめた。

 西郷隆盛は「徳川慶喜の嘘はいまにはじまったことではない。慶喜の首を取らぬばならん!」と打倒徳川に燃えていた。このふとった大きな眼の男は血気さかんな質である。
 鹿児島のおいどんは、また戦略家でもあった。
 ……慶喜の首を取らぬば災いがのこる。頼朝の例がある。平家のようになるかも知れぬ。幕府勢力をすべて根絶やしにしなければ、維新は成らぬ……
  江戸に新政府軍が迫った。江戸のひとたちは大パニックに陥った。共順派の勝海舟も狙われる。一八六八年(明治元年)二月、勝海舟は銃撃される。しかし、護衛の男に弾が当たって助かった。勝は危機感をもった。
 もうすぐ戦だっていうのに、うちわで争っている。幕府は腐りきった糞以下だ!
 勝海舟は西郷隆盛に文を送る。
 ……”わが徳川が共順するのは国家のためである。いま兄弟があらそっているときではない。あなたの判断が正しければ国は救われる。しかしあなたの判断がまちがえば国は崩壊する”………
  官軍は江戸へ迫っていた。
  慶喜は二月十二日朝六つ前(午前五時頃)に江戸城をでて、駕籠にのり東叡山塔中大慈院へ移ったという。共は丹波守、美作守……
 寺社奉行内藤志摩守は、与力、同心を率いて警護にあたった。
                    
 慶喜は水戸の寛永寺に着くと、輪王寺宮に謁し、京都でのことを謝罪し、隠居した。
 山岡鉄太郎(鉄舟)、関口ら精鋭部隊や、見廻組らが、慶喜の身辺護衛をおこなった。  江戸城からは、静寛院宮(和宮)が生母勧行院の里方、橋本実麗、実梁父子にあてた嘆願書が再三送られていた。もし上京のように御沙汰に候とも、当家(徳川家)一度は断絶致し候とも、私上京のうえ嘆願致し聞こえし召され候御事、寄手の将御請け合い下され候わば、天璋院(家定夫人)始めへもその由聞け、御沙汰に従い上京も致し候わん。
 再興できぬときは、死を潔くし候心得に候」
 まもなく、麟太郎が予想もしていなかった協力者が現れる。山岡鉄太郎(鉄舟)、である。幕府旗本で、武芸に秀でたひとだった。
 文久三年(一八六三)には清河八郎とともにのちの新選組をつくって京都にのぼったことがある人物だ。山岡鉄太郎が麟太郎の赤坂元氷川の屋敷を訪ねてきたとき、当然ながら麟太郎は警戒した。
 麟太郎は「裏切り者」として幕府の激徒に殺害される危険にさらされていた。二月十九日、眠れないまま書いた日記にはこう記する。
「俺が慶喜公の御素志を達するため、昼夜説論し、説き聞かせるのだが、衆人は俺の意中を察することなく、疑心暗鬼を生じ、あいつは薩長二藩のためになるようなことをいってるのだと疑いを深くするばかりだ。
 外に出ると待ち伏せして殺そうとしたり、たずねてくれば激論のあげく殺してしまおうとこちらの隙をうかがう。なんの手のほどこしようもなく、叱りつけ、帰すのだが、この難儀な状態を、誰かに訴えることもできない。ただ一片の誠心は、死すとも泉下に恥じることはないと、自分を励ますのみである」
 鉄太郎は将軍慶喜と謁見し、頭を棍棒で殴られたような衝撃をうけた。
  隠居所にいくと、側には高橋伊勢守(泥舟)がひかえている。顔をあげると将軍の顔はやつれ、見るに忍びない様子だった。
 慶喜は、自分が新政府軍に共順する、ということを書状にしたので是非、官軍に届けてくれるように鉄太郎にいった。
 慶喜は涙声だったという。
 麟太郎は、官軍が江戸に入れば最後の談判をして、駄目なら江戸を焼き払い、官軍と刺し違える覚悟であった。
 そこに現れたのが山岡鉄太郎(鉄舟)と、彼を駿府への使者に推薦したのは、高橋伊勢守(泥舟)であったという。
 麟太郎は鉄太郎に尋ねた。
「いまもはや官軍は六郷あたりまできている。撤兵するなかを、いかなる手段をもって駿府にいかれるか?」
 鉄太郎は「官軍に書状を届けるにあたり、私は殺されるかも知れません。しかし、かまいません。これはこの日本国のための仕事です」と覚悟を決めた。
 鉄舟は駿府へ着くと、宿営していた大総督府参謀西郷吉之助(隆盛)が会ってくれた。鉄太郎は死ぬ覚悟を決めていたので銃剣にかこまれても平然としていた。
 西郷吉之助は五つの条件を出してきた。
 一、慶喜を備前藩にお預かり
 一、江戸城明け渡し
 一、武器・軍艦の没収
 一、関係者の厳重処罰
 西郷吉之助は「これはおいどんが考えたことではなく、新政府の考えでごわす」
 と念をおした。鉄舟は「わかりました。伝えましょう」と頭を下げた。
「おいどんは幕府の共順姿勢を評価してごわす。幕府は倒しても徳川家のひとは殺さんでごわす」
 鉄舟はその朗報を伝えようと馬に跨がり、帰ろうとした。品川宿にいて官軍の先発隊がいて「その馬をとめよ!」と兵士が叫んだ。
 鉄舟は聞こえぬふりをして駆け過ぎようとすると、急に兵士三人が走ってきて、ひとりが鉄舟の乗る馬に向け発砲した。鉄舟は「やられた」と思った。が、何ともない。雷管が発したのに弾丸がでなかったのである。
 まことに幸運という他ない。やがて、鉄太郎は江戸に戻り、報告した。麟太郎は「これはそちの手柄だ。まったく世の中っていうのはどうなるかわからねぇな」といった。
 官軍が箱根に入ると幕臣たちの批判は麟太郎に集まった。
 しかし、誰もまともな戦略などもってはしない。只、パニックになるばかりだ。
 麟太郎は日記に記す。
「官軍は三月十五日に江戸城へ攻め込むそうだ。錦切れ(官軍)どもが押しよせはじめ、戦をしかけてきたときは、俺のいうとおりにはたらいてほしいな」
 麟太郎はナポレオンのロシア遠征で、ロシア軍が使った戦略を実行しようとした。町に火をかけて焦土と化し、食料も何も現地で調達できないようにしながら同じように火をかけつつ遁走するのである。


  官軍による江戸攻撃予定日三月十四日の前日、薩摩藩江戸藩邸で官軍代表西郷隆盛と幕府代表の勝海舟(麟太郎)が会談した。その日は天気がよかった。陽射しが差し込み、まぶしいほどだ。
 西郷隆盛は開口一発、条件を出してきた。
      
 一、慶喜を備前藩にお預かり
 一、江戸城明け渡し
 一、武器・軍艦の没収
 一、関係者の厳重処罰
  いずれも厳しい要求だった。勝は会談前に「もしものときは江戸に火を放ち、将軍慶喜を逃がす」という考えをもって一対一の会談にのぞんでいた。
 勝はいう。
「慶喜公が共順とは知っておられると思う。江戸攻撃はやめて下され」
 西郷隆盛は「では、江戸城を明け渡すでごわすか?」とゆっくりきいた。
 勝は沈黙する。
 しばらくしてから「城は渡しそうろう。武器・軍艦も」と動揺しながらいった。
「そうでごわすか」
 西郷の顔に勝利の表情が浮かんだ。
 勝は続けた。
「ただし、幕府の強行派をおさえるため、武器軍艦の引き渡しはしばらく待って下さい」 今度は西郷が沈黙した。
 西郷隆盛はパークス英国大使と前日に話をしていた。パークスは国際法では”共順する相手を攻撃するのは違法”ときいていた。
 つまり、今、幕府およんで徳川慶喜を攻撃するのは違法で、官軍ではなくなるのだ。
 西郷は長く沈黙してから、歌舞伎役者が唸るように声をはっしてから、
「わかり申した」と頷いた。
  官軍陣に戻った西郷隆盛は家臣にいう。
「明日の江戸攻撃は中止する!」
 彼は私から公になったのだ。もうひとりの”偉人”、勝海舟は江戸市民に「中止だ!」と喜んで声をはりあげた。すると江戸っ子らが、わあっ!、と歓声をあげたという。
(麟太郎は会見からの帰途、三度も狙撃されたが、怪我はなかった)
 こうして、一八六八年四月十三日、江戸無血開城が実現する。
 西郷吉之助(隆盛)は、三月十六日駿府にもどり、大総督宮の攻撃中止を報告し、ただちに京都へ早く駕籠でむかった。麟太郎の条件を受け入れるか朝廷と確認するためである。 この日より、明治の世がスタートした。近代日本の幕開けである。          

そして話しは再び「会津の役」である。
会津藩は朝敵となってしまった。
会津藩は京都守護職について京都から討幕派を排除し、庄内藩は江戸市中取締役に就いて江戸から討幕派を排除していた。
このため、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府軍(明治政府)は会津藩・庄内藩を「朝敵」として討伐に乗り出した。
会津藩主の松平容保は、新撰組などを使って京都から尊王攘夷派(長州藩士)を排除したうえ、第1次長州討伐で陸軍総裁を勤めたことから、新政府側の長州藩から強く恨まれていたのである。
一方、江戸市中取締役についていた庄内藩は、江戸の薩摩藩邸を襲撃しており、新政府側の薩摩藩と強い遺恨があった。
このようななか、江戸から会津藩に戻った藩主・松平容保は、養子の松平喜徳(まつだいら・のぶのり)へ家督を譲って謹慎して、恭順を示した。
ただ、会津藩の姿勢は「武装恭順」であった。
長州藩は第1次長州討伐の結果、主戦派が粛正され、非戦派となった。
が、その後、高杉晋作らのクーデターにより、主戦派が台頭し、長州藩は武装恭順へと転身した。
しかし、江戸幕府は長州藩の武装恭順を認めず、再び長州藩を討伐するため、兵を挙げた(第2次長州討伐)。
そもそも江戸幕府側が長州藩の武装恭順を認めなかったのだから、会津藩の武装恭順など認められはずがないことは明だった。
 1868年2月10日(慶応4年1月17日)、新政府軍は「会津攻めの希望を聞き入れる」として、仙台藩に会津藩の討伐を命じる。
しかし、仙台藩は会津攻めなど主張しておらず、抗議する。
1868年2月10日(明治4年1月17)、新政府は米沢藩に仙台藩の補佐を命じる。
米沢藩は会津藩に恩義があるため、勅命といえど簡単に従うことは出来ない。
初代会津藩主・保科正之のとき、米沢藩の第3代藩主・上杉綱勝は実子も養子も無いまま急死した。
跡取りを決めずに米沢藩主・上杉綱勝が死んだため、米沢藩・上杉家は御家断絶になるはずであったが、初代会津藩主・保科正之の取り計らいにより、家名存続が許されていた。(「忠臣蔵」で有名な吉良上野介の息子の吉良三郎(上杉綱憲・上杉綱勝の遠縁の子供))
このため、米沢藩は会津藩に強い恩義があり、会津藩を裏切って会津を攻めることは出来ない。
なお、米沢藩・上杉家は御家断絶を免れ、上杉綱憲が家督を継いだが、米沢藩は30万石から15万石へと減封となり、財政難に陥っている。
減封された15万石の領地は幕府直轄となり、その後、福島藩なっている。あまり八重とは関係ないが米沢藩といえば「中興の祖・上杉鷹山公」が有名である。
一方、新政府は東北諸藩に檄を飛ばして、会津藩・庄内藩への討伐を命じる。
が、東北諸藩は東北同士で無駄な戦争をしたくないという思惑があり、態度を決めかねていた。
 1868年3月(慶応4年2月)、新政府は東北を平定するため、奥羽鎮撫総督府(おううちんぶそうとくふ)を組織した。奥羽鎮撫総督府は討伐軍ではなく、東北を鎮撫(ちんぶ)する組織だった。
奥羽(おうう)とは、東北地方の古い呼び方で、鎮撫(ちんぶ)とは、暴動を鎮めて民を安心させることである。
新政府は「東北の平定は東北の兵を持って行う」との方針を取っており、奥羽鎮撫総督府に与えられた兵はわずかであった。
これは、東征大総督(征討大将軍)の有栖川宮熾仁親王が率いる新政府軍が江戸城攻略にあたるため、奥羽鎮撫総督府に兵力を割けなかったため、とされている。
 奥羽鎮撫総督府の発足早々、参謀に就任していた薩摩藩の黒田清隆や長州藩の品川弥二郎ら首脳陣数名が辞任していまう。
このため、公卿の九条道孝を総督とした首脳陣に一新する。
こうして、黒田清隆らの後任として、長州藩の世良修蔵(せら・しゅうぞう)と薩摩藩の大山格之助の2人が、下参謀に就任することなったのである。
首脳を一新した奥羽鎮撫総督府は、公卿の九条道孝(くじょう・みちたか)が総督を務めた。
副総督は公卿の沢為量(さわ・ためかず)で、参謀は公卿の醍醐忠敬である。
世良修蔵と大山格之助の2人は下参謀であった。
が、これは公卿と位を同列にしないための配慮であり、形式上の物だった。
要職についた公卿3人は戦いの経験なども無く、半分は飾り物であり、実質的には下参謀の世良修蔵と大山格之助の2人が奥羽鎮撫総督府の主導権を握っていた。
この結果、奥羽鎮撫総督府は討伐派が体勢を占めることとなり、鎮撫とは名ばかりで、実質的な討伐軍になるのであった。
しかし、奥羽鎮撫総督府の兵力はわずか570人で、奥羽鎮撫総督府が単独で会津藩・庄内藩を攻略することは不可能だった。
そこで、奥羽鎮撫総督府は東北の雄藩・仙台藩に強く出兵を迫ったのである。
会津藩に同情的な仙台藩は、奥羽鎮撫総督府に、会津藩の降伏を受け入れる条件を尋ねた。
これに対して世良修蔵が突き付けた条件は、松平容保の斬首に加え、松平喜徳の監禁と若松城の開城という厳しい内容だった。
会津藩がこのような条件を飲むはずがなかった。
1868年4月19日、会津藩に同情的な仙台藩であった。
が、仙台藩内にも
「新政府軍の命令に従うべき」との意見もあり、会津藩へ進軍することとなった。
仙台藩の進軍を知った会津藩は、仙台藩に降伏の使者を送る。
会津藩に同情する仙台藩は、表向きは藩境で戦争をするふりをして、裏で署名嘆願について協議することにした(会津救済運動)。
1861年5月(慶応4年4月29)、会津藩・仙台藩・米沢藩の家老が、宮城県の関宿に集まり、署名嘆願について協議する(関宿会議)。
会津藩・松平容保は第1次長州討伐で陸軍総裁を務めたとき、長州藩の家老3人を切腹させ、参謀4人を斬首している。
このため、仙台藩は奥羽鎮撫総督府に謝罪嘆願を取り次ぐ条件として、会津藩に「鳥羽・伏見の戦い」の首謀者の首を差し出すことを求めた。
会津藩の家老・梶原平馬は、
「帰って戦の準備をする」
と激怒するが、戦を避けたい仙台藩・米沢藩は、
「会津一国の命と、1人の命とどちらが大事か考えろ。首を差し出せば、後のことは責任を持つ」
と言って家老・梶原平馬を説得し、関宿会議は終了した。
一方、奥羽鎮撫総督府の総督・九条道孝は、会津藩に、
「謝罪嘆願すれば、寛大な処分を下す」と謝罪を勧告する。
仙台藩・米沢藩による会津嘆願運動に加え、奥羽鎮撫総督府の総督・九条道孝からの謝罪勧告があったため、「鳥羽伏見の戦い」での首謀者の首を差し出せば、会津藩の謝罪は認められる公算が大きかった。
そのころ、江戸では江戸城の無血開城が行われ、徳川慶喜に寛大な処分が下されており、会津藩も謝罪嘆願すれば、九条道孝の勧告通りに寛大な処分が下る見込みだった。
しかし、会津藩では、
「『鳥羽・伏見の戦い』の責任は徳川慶喜の処分で決着している」
という意見も強く、意見が分かれていた。
その結果、会津藩主の松平容保は関宿会議の結果を無視して、奥羽鎮撫総督府に、
「会津藩は徳川家の処分を見届けるまでは、謝罪はできない」
という宣戦布告を叩き付けたのである。
 1868年(慶応4年)6月10日、仙台藩士・姉歯武之進(あねは・たけのしん)らが、福島藩の城下町にある宿屋「金沢屋」に宿泊している奥羽鎮撫総督府の参謀・世良修蔵を襲撃して暗殺する。
同日、会津藩が奥州街道の要となる白河城(別名「小峰城」)へと兵を進める。
白河城は白河藩(福島県白河市)阿部家が治めていたが、このとき、白河城は城主不在のまま、二本松藩と仙台藩の兵が駐留していた。
白河藩の藩主・阿部正外(あべ・まさとう)は1866年に神戸開港問題で江戸幕府老中を罷免となり、阿部正静が家督を受け継いだ。
が、阿部正静は棚倉城(福島県東白川郡)への国替えを命じられたため、白河城は江戸幕府直轄となっていた。
このため、白河藩は城主がおらず、幕府の命令で二本松藩が白河城に駐留していた。
その後、新政府成立後は奥羽鎮撫総督府から会津藩討伐命令を受けた仙台藩と二本松藩の兵が白河城に駐留していた。
 会津藩が白河城を攻めると、白河城に駐留していた仙台藩と二本松藩は、示し合わせたかのように撤退する。
白河城には奥羽鎮撫総督府の兵も駐留していた。
が、ごく少数だったため、仙台藩らの兵が撤退すると、奥羽鎮撫総督府の兵は撤退を余儀なくされた。
こうして会津藩は白河城を無傷で手に入れると、新政府軍を迎え撃つために守りを固めた。
白河城は東北地方の入り口となる重要な場所で、白河城を押さえていれば会津のみならず、東北諸藩の本土が安全になるため、白河城の墨守は戦略上の最重要課題だった。
さらに、白河城を押さえていれば、恭順派の三春藩(福島県)の裏切りを監視できるため、白河城を守ることには大きな意味があった。
1868年6月12日、斉藤一が率いる新撰組130名が白河城に入城する。
6月19日には家老に復帰した西郷頼母(さいごう・たのも)や若年寄・横山主税らも入城する。
奥羽越列藩同盟が成立すると、二本松藩などの援軍も加わり、東北の防衛拠点となる白河城の兵力は2500人に膨れあがった。
会津軍を指揮する総大将は、会津藩の家老・西郷頼母である。非戦派で実戦経験の無い西郷頼母が、東北の運命を背負う一戦で総大将を務める理由は分らない。
 一方、宇都宮城(栃木県)を攻撃していた新政府軍の参謀・伊地知正治(いぢち・まさはる=薩摩藩)は、白河藩が会津藩の手に落ちたことを知ると、兵を北へと進め、会津藩が守る白河城へと迫った。
会津軍勢2500人に対して、新政府軍の伊地知正治の手勢は、わずか700人余りだったが、伊地知正治の軍は精鋭揃いだった。
1868年6月20日、新政府軍の伊地知正治が白河城に攻撃を開始する。
伊地知正治は軍を3つに分け、正面の本隊が敵の注意を引きつけると、左右に回った2部隊が側面から攻撃をかけた。
兵力の差では勝っていた会津藩であった。
が、洋式銃を有する新政府軍の前に惨敗し、白河城はあっさりと新政府軍の手に落ちてしまった。
白河城は奥州街道の要所であり、東北への入り口となる。
白河城を新政府軍に押さえられると、会津本国が危険にさらされる。
会津藩は奥羽越列藩同盟の援軍を得て体制を立て直すと、白河城を奪還するため新政府軍を攻め立てた。
一方、白河城の新政府軍にも新政府軍の参謀・板垣退助らが援軍に駆け付けており、士気は益々盛んになっており、会津軍を寄せ付けなかった。
このようななか、援軍に駆け付けていた新政府軍の参謀・板垣退助が、手薄となった棚倉藩(福島県)を攻撃するため、白河城から棚倉藩へと兵を進めた。
これを好機とみた会津藩は、棚倉藩へ援軍を向けず、白河城を奪い返す作戦に出た。
しかし、会津藩は7度も白河城を攻めたものの、洋式銃を有する新政府軍に歯が立たたなかった。
激戦に次ぐ激戦の末、1868年8月31日、会津軍は最後の攻撃に出るが、白河城を落とすことは出来ず、白河城を諦めた。
1868年9月14日には周辺での小競り合いも無くなり、100日間にわたる「白河口の戦い」が終結する。
同盟軍の死者は927人、新政府軍の死者は113人だったとされている。
会津藩は「白河口の戦い」で、横山主税など優秀な指揮官を失い、大きな損失を出した。
そして、戦略上で重要な白河城を失ったことで、奥羽越列藩同盟には崩壊の序曲が流れ始める。
 手薄となった棚倉藩(福島県棚倉町)へ進軍した新政府軍の板垣退助が棚倉藩を落とすと、三春藩(福島県三春町)は奥羽越列藩同盟を裏切って新政府軍に降伏する。
仙台藩は三春藩に監視の兵を配置していたのだ。
が、白河城を新政府軍に奪われたため、監視の兵に三春藩を拘束するほどの力は無くなっており、新政府軍が棚倉藩を落とすと、三春藩は新政府軍に使者を送って恭順を示したのだ。
奥羽諸藩からみれば三春藩が新政府軍に寝返ったようにみえる。
が、元々、三春藩は勤王派(新政府側)で、仙台藩の圧力を受けて奥羽列藩同盟に参加した経緯がある。
三春藩は奥羽列藩同盟に参加する際も、新政府に、
「同盟に参加しなければ、滅ぼされるため、仕方なく同盟に参加する」
と事情を説明しており、本来は新政府側の立場にあった。
しかし、三春藩は東北の裏切り者とされ、
「三春狐」
と呼ばれて東北諸藩から批判されて遺恨を残した。
特に仙台藩からは強く恨まれていたという。
一説によると、「淺川の戦い」でも三春藩の裏切り行為があったとされているが、真相は分からない。
ちなみに、奥羽越列藩同盟を裏切ったのは三春藩だけでなく、本荘藩や秋田藩や弘前藩も新政府に寝返った。
本荘藩や秋田藩などのように新政府側に寝返り、東北戦争後の処分で知行が増えている藩もある。
また、積極的に動かず、処分を受けなかった藩も多い。
 三春藩(福島県)が奥羽越列藩同盟を裏切って新政府軍に寝返ると、三春藩の後を追うように守山藩(福島県)も新政府軍に恭順を示して降伏する。
守山藩の藩主・松平家は水戸藩・徳川家の流れをくむ。
が、守山藩は特に行動を起こすこと無く、新政府軍に降伏している。
こうして三春藩・守山藩が降伏したため、新政府軍の板垣退助は無傷で三春藩を通過。
地の利を知る三春藩の道案内で、新政府軍の板垣退助は、二本松藩(福島県)へと兵を進めたのである。
 1868年9月15日、新政府軍の参謀・板垣退助に攻められた二本松城が落城し、二本松藩が降伏する。
二本松藩は白河城(白河口の戦い)などに主力部隊を派遣しており、新政府軍の板垣退助に留守を突かれる形となっていた。
三春藩・守山藩が抵抗せずに降伏したため、新政府軍の板垣退助は一気に兵を北へと進めて二本松藩へ迫っており、二本松藩には主力部隊を呼び戻す程の時間は無かった。
さらに、新政府軍の別部隊が側面から二本松藩へ迫っており、二本松藩は絶体絶命の危機に瀕していた。
老兵しか居ない二本松藩は降伏しても仕方の無い状況だった。
が、家老の丹羽富穀(にわ・とみたけ)が、
「死を賭して信義を守るは、二本松武士の本懐である」
と徹底抗戦を主張したため、二本松藩は新政府軍に交戦することになった。
このため、二本松藩は少年兵までも戦場へ投入することになる。少年兵は最新式の洋式銃(元込式のスナイドル銃とされている)を装備しており、新政府軍を困らせたが、多勢に無勢で新政府軍の勢いを止めることが出来ず、二本松城は陥落してしまう。
二本松藩の少年兵は15歳と16歳で構成されていた。
が、藩存亡の危機に直面しているため、特例により年齢を引き下げられ、12歳から17歳の少年で構成されていた(指揮官は除く)。
二本松城の戦いで散った二本松藩の少年兵は正規軍ではなく、隊に名前は無かったが、後に「二本松少年隊」と呼ばれるようになり、会津藩の白虎隊と並ぶ戊辰戦争の悲劇として知られることになる。
一般的に「二本松少年隊の悲劇」として知られるのは、二本松少年隊62名のうち、木村銃太郎が率いて大壇口で戦った二本松少年隊25名である。
二本松藩士の家庭では食事の度、母親が子供に切腹の作法を教え、武士の心得を教えており、少年兵といえども、地元の農民が「武士の子とマムシには手を出すな」として恐れるほどであった。
「二本松少年隊の悲劇」となる大壇口の戦いは、戊辰戦争で最も激しい戦いだったとされるが、会津藩の白虎隊や若松城籠城戦が有名になったため、二本松少年隊の悲劇はあまり知られていない。
 白河城と二本松城を落とした新政府軍は、攻略方針で意見が分かれた。
速やかに東北を平定するためには、根っ子となる会津藩を枯らすべきか、枝葉となる奥州列藩同盟の東北諸藩を刈るべきか。
江戸に居る参謀・大村益次郎は「枝葉を刈れば、根っ子は枯れる」と主張した。
一方、二本松城に居る参謀・伊地知正治と板垣退助の2人は、「根っ子を刈れば、枝葉は枯れる」と主張した。
軍議の結果、現地に居る伊地知正治らの意見が採用され、新政府軍は根っ子(会津藩)を刈って枝葉(奥州列藩同盟)を枯らす作戦に出た。
既に秋が訪れており、冬になって東北地方が雪で覆われれば、薩摩や長州が中心となっている新政府軍は不利になる。
「冬がくれんば戦は会津の優位になるはずだんべ!」
冬が来る前に逆賊の会津藩を討つ必要があった。
 川崎尚之助との結婚を機に砲術を禁止されていた山本八重(後の新島八重)であった。
が、「鳥羽・伏見の戦い」や「白河口の戦い」の戦況を聞き、1968年6月ごろから、戦争に備えて砲術の訓練を再開する。
22歳になった山本八重の砲術は、人に教えるレベルまで達しており、山本家に遊びに来た白虎隊にも砲術を教えていた。
ただ、白虎隊はフランス式の訓練を取り入れており、遊びに来た白虎隊員は、山本八重が教えるまでもなく、一通りのことは出来ていた。
会津藩の上級藩士は、
「鉄砲は下級武士の武器だ」
「武士が腹ばいになれるか」
と激怒していたが、若い白虎隊にはそのような抵抗が無く、洋式銃を受け入れて積極的に射撃の訓練を受けていたのだ。
 白虎隊は15歳から17歳までで編成される予定だったが、
「15歳では重い銃を扱うのは難しい」
という理由で16歳と17歳で編成することになった。
山本八重の東隣に住んでいた伊東悌次郎(いとう・ていじろう=15歳)は年齢が1歳足りないため、白虎隊に入れずに悔しがり、山本八重に砲術を習いに来ていた。
山本八重は機を織りながら伊東悌次郎に鉄砲の撃ち方を教えるが、発砲すると大きな音がするため、伊東悌次郎は驚いて目を閉じてしまう。
新島八重は
「臆病者!臆病者!お前のような臆病者には教えぬ」
と罵倒すると、伊東悌次郎は
「次は目を閉じない」と言い、再び銃を構える。
結局、伊東悌次郎は3度目で発砲しても目を閉じなくなったため、山本八重は伊東悌次郎に鉄砲の撃ち方を教えてやった。
やがて、伊東悌次郎が一通りのことが出来るようになると、山本八重は射撃の動作を妨げになることを理由に、伊東悌次郎の下髪を切り落とす。
すると、山本八重は母・山本佐久に
「厳格な伊東家の許可無しに、髪を切るとは何事ですか」
と、こっぴどく叱られてしまうのであった。
その後、伊東悌次郎は年齢を改竄して白虎隊(士中二番隊)に入り、「戸ノ口原の戦い」で死んでいる。山本八重は死ぬまで、戦死した伊東悌次郎のことを悲しんだ。
 山本八重の2番目の夫になる新島襄は、山本八重(新島八重)との結婚生活を通じて、そして山本八重から聞いた戊辰戦争の話しから、会津人は「スパルタ人」のような人種だと考えていた。
スパルタとは、古代ギリシャ時代の軍事国家で、独特の軍事教育制度を有することから「スパルタ教育」の語源になった国である。


         4 幕臣遁走





またしても話しを戻す。
  幕府側陸海軍の有志たちの官軍に対する反抗は、いよいよもって高まり、江戸から脱走をはじめた。もう江戸では何もすることがなくなったので、奥州(東北)へ向かうものが続出した。会津藩と連携するのが大半だった。
 その人々は、大鳥圭介、秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人にも達したという。
 大鳥圭介は陸軍歩兵奉行をつとめたほどの高名な人物である。
 幕府海軍が官軍へ引き渡す軍艦は、開陽丸、富士山丸、朝陽丸、蟠龍丸、回天丸、千代田形、観光丸の七隻であったという。
 開陽丸は長さ七十三メートルもの軍艦である。大砲二十六門。
 富士山丸は五十五メートル。大砲十二門。
 朝陽丸は四十一メートル。大砲八門。
 蟠龍丸は四十二メートル。大砲四門。
 回天丸は六十九メートル。大砲十一門。
 千代田形は十七メートル。大砲三門。
 観光丸は五十八ルートル。
 これらの軍艦は、横浜から、薩摩、肥後、久留米三藩に渡されるはずだった。が、榎本武揚らは軍艦を官軍に渡すつもりもなく、いよいよ逃亡した。

  案の定、近藤たちが道草を食ってる間に、官軍が甲府城を占拠してしまった。錦の御旗がかかげられる。新選組は農民兵をふくめて二百人、官軍は二千人……
 近藤たちは狼狽しながらも、急ごしらえで陣をつくり援軍をまった。歳三は援軍を要請するため江戸へ戻っていった。近藤は薪を大量にたき、大軍にみせかけたという。
 新選組は百二十人まで減っていた。しかも、農民兵は銃の使い方も大砲の撃ち方も知らない。官軍は新選組たちの七倍の兵力で攻撃してきた。
 わあぁぁ~っ! ひいいぃ~っ!
 新選組たちはわずか一時間で敗走しだす。近藤はなんとか逃げて生き延びた。歳三は援軍を要請するため奔走していた。一対一の剣での戦いでは新選組は無敵だった。が、薩長の新兵器や銃、大砲の前では剣は無力に等しかった。
 三月二十七日、永倉新八たちは江戸から会津(福島県)へといっていた。近藤は激怒し、「拙者はそのようなことには加盟できぬ」といったという。
 近藤はさらに「俺の家来にならぬか?」と、永倉新八にもちかけた。
 すると、永倉は激怒し、「それでも局長か?!」といい去った。
 近藤勇はひとり取り残されていった。

  近藤勇と勝は会談した。勝の屋敷だった。
 近藤は「薩長軍を江戸に入れぬほうがよい!」と主張した。
 それに対して勝はついに激昴して、「もう一度戦いたいなら自分たちだけでやれ!」
 と怒鳴った。
 その言葉通り、新選組+農民兵五五〇人は千住に布陣、さらに千葉の流山に移動し布陣した。近藤たちはやぶれかぶれな気持ちになっていた。
 流山に官軍の大軍勢がおしよせる。
「新選組は官軍に投降せよ!」官軍は息巻いた。もはや数も武器も官軍の優位である。剣で戦わなければ新選組など恐るるに足りぬ。
 近藤の側近は二~三人だけになった。
「切腹する!」
  近藤は陣で切腹して果てようとした。しかし、土方歳三がとめた。「近藤さん! あんたに死なれたんじゃ新選組はおわりなんだよ!」
「よし……俺が大久保大和という偽名で投降し、時間をかせぐ。そのすきにトシサンたちは逃げろ!」
 近藤は目をうるませながらいった。……永久の別れになる……彼はそう感じた。
「新選組は幕府軍ではない。治安部隊だという。安心してくれ」
 歳三はいった。
 こうして近藤勇は、大久保大和という偽名で官軍に投降した。官軍は誰も近藤や土方の顔など知らない。まだマスコミもテレビもなかった時代である。
 近藤の時間かせぎによって、新選組はバラバラになったが、逃げ延びることができた。「近藤さん、必ず助けてやる!」
 土方歳三は下唇を噛みながら、駆け続けた。

  四月十七日、近藤への尋問がはじまった。
 近藤は終始「新選組は治安部隊で幕府軍ではありませぬ」「わしの名は大久保大和」とシラをきりとおした。
「やめろよ、おい!」
 こらえきれなくなって、官軍屋敷の奥で見ていた男がくってかかった。
「お前は新選組局長、近藤勇だろ!」
「ほざけ!」
「近藤! 俺の顔を忘れたか?!」
男は慇懃にいった。そう、その男こそ新選組元隊士・篠原泰之進だった。
「た……泰之進」
 近藤は凍りついた。何かの間違いではないだろうか? なぜ篠原泰之進が官軍に…?
「近藤! なぜ俺が官軍にいるのか? と思ったろう?」
 彼の勘はさえていた。「俺は勝ってる方になびくんだ。風見鶏といわれようと、俗物とよばれようともかまわんさ! 近藤! お前はおわりだ!」
 近藤勇は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえるだろう。心臓がかちかちの石のようになると同時に、全身の血管が氷になっていくのを感じた。 やつがいったようにすべておわりだ。何も考えることができなかった。
 近藤は頭のなかのうつろな笑い声が雷のように響き渡るのを聞いた。
「死罪だ! 切腹じゃない! 首斬りだ!」
 篠原泰之進は大声で罵声を、縄でしばられている近藤勇に浴びせかけた。これで復讐できた。新選組の中ではよくも冷遇してくれたな! ザマアミロだ!
 近藤は四月二十五日に首を斬られて死んだ。享年三十五だった。最後まで武士のように切腹もゆるされなかったという。近藤は遺書をかいていた。
 ……”孤軍頼け絶えて囚人となる。顧みて君恩を思えば涙更に流れる。義をとり生を捨てるは吾が尊ぶ所。快く受けん電光三尺の剣。兄将に一死、君恩に報いん”
 近藤勇の首は江戸と京でさらされた。

官軍の措置いかんでは蝦夷(北海道)に共和国をひらくつもりである。…麟太郎は榎本の内心を知っていた。
 麟太郎は四月も終りのころ危うく命を落とすところだった。
 麟太郎は『氷川清話』に次のように記す。
「慶応四年四月の末に、もはや日の暮れではあるし、官軍はそのときすでに江戸城へはいっておった頃だから、人通りもあまりない時に、おれが半蔵門外を馬にのって静かに過ぎておったところが、たちまちうしろから官兵三、四人が小銃をもっておれを狙撃した。
 しかし、幸い体にはあたらないで、頭の上を通り過ぎたけれども、その響きに馬が驚いて、後ろ足でたちあがったものだから、おれはたまらずあおむけざまに落馬して、路上の石に後脳を強く打たれたので一時気絶した。
 けれどもしばらくすると自然に生き返って、あたりを見回したら誰も人はおらず、馬は平気で路ばたの草を食っていた。
 官兵はおれが落馬して、それなりに気絶したのを見て、銃丸があたったものとこころえて立ち去ったのであろう。いやあの時は実に危ないことであったよ」
 大鳥圭介を主将とする旧幕府軍は宇都宮へむかった。
四月十六日の朝、大山(栃木県)に向かおうといると銃砲の音がなり響いた。
 官軍との戦闘になった。
 秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人は官軍と激突。そのうち二隊は小山を占領している官軍に攻撃を加えた。
 脱走兵(旧幕府軍)は小山の官軍に包囲攻撃をしかけた。たまらず小山の官軍は遁走した。脱走兵(旧幕府軍)そののち東北を転々と移動(遁走)しだす。
彼等は桑名藩、会津藩と連携した。
 江戸では、脱走兵が絶え間なかった。
 海軍副総裁榎本武揚は、強力な艦隊を率いて品川沖で睨みをきかせている。かれは麟太郎との会合で暴言を吐き、「徳川家、幕府、の問題が解決しなければ強力な火力が官軍をこまらせることになる」といった。麟太郎は頭を抱えた。
 いつまでも内乱状態が続けば、商工業が衰えて、国力が落ちる。植民地にされかねない。「あの榎本武揚って野郎はこまった輩だ」麟太郎は呟いた。
 榎本武揚は外国に留学して語学も達者で、外国事情にもくわしい筈だ。しかし、いまだに過去にしがみついている。まだ幕府だ、徳川だ、といっている。
 麟太郎には榎本の気持ちがしれなかった。
  江戸の人心はいっこうに落ち着かない。脱走兵は、関東、東北でさかんに官軍と戦闘を続けている。
 西郷吉之助(隆盛)は非常に心配した。
「こげん人心が動揺いたすは徳川氏処分の方針が定まらんためでごわす。朝廷ではこの際すみやかに徳川慶喜の相続人をお定めなされ、あらためてその領地、封録をうけたまわるなら人心も落ち着くでごあんそ」

  麟太郎が繰り返し大総督府へ差し出した書状は、自分のような者ではとても江戸の混乱を静めることができない、水戸に隠居している徳川慶喜を江戸に召喚し、人心を安定させることが肝要である……ということである。
 官軍は江戸城に入り、金品を物色しはじめ狼藉を働いた。蔵に金がひとつも残ってない。本当に奉行小栗上野介がどこかへ隠したのか? だが、小栗は官軍に処刑され、実態はわからない。例の徳川埋蔵金伝説はここから生まれている。
 江戸には盗賊や暴力、掠奪、殺人が横行し、混乱の最中にあった。
 麟太郎は西郷に書を出す。
「一 今、苗を植えるべきときに、東三十余国の農民たちは、官軍、諸藩の人夫に駆りだされ苦しんでおり、このままでは今年の秋の収穫がない。来年はどうして生きていくのか。民は国の基本である。
 二 すでに大総督府へ献言しているのに、返答がない。
 三 王政維新について、わが徳川氏の領国を用途に当てられるということである。徳川氏の領土は狭小で、たとえ残らず召し上げられても、わずか四百万石に過ぎない。三百六十万俵前後の実収を、いままったく召しあげられても、大政に従事する諸官の棒給にも足りぬであろう。いわんや海陸の武備は、とてもできないであろう。
 まだ、その名分は正しいとはいえない。もし領国のなかばを減ぜられたとしても、罪のない家臣、その家族をどのようにして養うのか。人の怨みはどこにおちつくだろう。
 今寛典のご処置で、寡君(慶喜)ご宥免のうえ、領国をそのまま下されても、幾何かを朝廷に進献するのは当然である。そうすれば、寡君の誠心により出たものとして、国内の候伯はこれをみて黙止しているだろうか。かならず幾何かの領地を進献するだろう。 そうなれば、大政の御用途、海内の諸事の費用にあてるに充分であろう。そのようにすれば何事もうまく運ぶだろう。
 四 一家に不和を生じたときは、一家は滅亡する。一国不和を生じたときは、その国は滅亡する。国の内外の人心を離散させれば、どうなるのか。
 五 外国のひとたちは朝廷のご処置如何をもって、目を拭い、耳をそばたてて見聞きしている。もしご不当のこがあれば、噂は瞬間に、海外に聞こえるだろう(後訳)」
 官軍が天下をとったことで、侍たちの禄支給が延期されていた。麟太郎は、不測の事態を危惧していた。

                
  彰義隊と官軍は上野で睨み合っていた。
 彰義隊とは、はじめ一橋家の家中有志たちが主君慶喜のために、わずか十七名のて血判状によりできたもので、江戸陥落の今となってやぶれかぶれの連中が大勢集まってきたという。彰義隊は上野に陣をひき、官軍と対峙していた。
上野には法親王宮がいるので、官軍はなかなか強硬な手段がとれない。
 すべては彰義隊の戦略だった。
 江戸はますます物騒になり、夜は戸締まりをしっかりしないといつ殺されてもおかしくないところまで治安は悪化していた。
 彰義隊にあつまる幕臣、諸藩士は増えるばかりであった。
二十二歳の輪王寺宮公現法親王は、旧幕府軍たちに従うだけである。
 彰義隊がふえるにしたがい、市内で官軍にあうと挑発して乱闘におよぶ者も増えたという。西郷は、”彰義隊を解散させなければならぬ”と思っていた。
 一方、勝海舟(麟太郎)も、彰義隊の無謀な行動により、せっかくの徳川幕府の共順姿勢が「絵にかいた餅」に帰しはしないか、と危惧していた。
「これまでの俺の努力が無駄になっちまうじゃねぇか!」麟太郎は激昴した。
 榎本武揚は品川沖に艦隊を停泊させ、負傷者をかくまうとともに、彰義隊に武器や食料を輸送していた。
江戸での大総督府有栖川宮は名だけの者で、なんの統治能力もなかった。
 さらに彰義隊は無謀な戦をおこそうとしていた。
 彰義隊は江戸を占拠し、官軍たちを殺戮していく。よって官軍は危なくて江戸にいられなくなった。安全なところは東海道に沿う狭い地域と日本橋に限られていた。
 江戸市中の取り締まりを行うのも旧幕府だった。
 江戸では、彰義隊を動かしているのが麟太郎で、榎本武揚が品川沖に艦隊を停泊させ、負傷者をかくまうという行動も麟太郎が命令しているという噂が高まった。もちろんそんなものはデマである。
 麟太郎は、彰義隊討伐が実行されないように懸命に努力を続けていた。
 しかし、それは阻止できそうもなかった。

  ある日、薩兵たちが上野で旧幕臣たちと斬りあう事件がおきた。
 薩兵の中に剣に秀でた者がいて、たちまち旧幕臣兵たちふたりが斬られた。そしてたちまちまた六人を殺した。
  彰義隊は本隊五百人、付属諸隊千五百人、総勢二千を越える人数となり、上野東叡山寛永寺のほかに、根岸、四谷に駐屯していた。
 彰義隊は江戸で官軍を殺しまくった。そのため長州藩大村益次郎が、太政官軍務官判事兼東京府判事として、江戸駐屯の官軍の指揮をとり、彰義隊討伐にとりかかることになった。
 西郷隆盛はいう。
「彰義隊といい、何隊というてん、烏合の衆であい申す。隊長はあれどもなきがごとく、規律は立たず、兵隊は神経(狂人)のごたる。紛々擾々たるのみじゃ。ゆえ条理をもって説論できなんだ」
 麟太郎は日記に記す。
「九日 彰義隊東台に多数集まり、戦争の企てあり。官軍、これを討たんとす」
大総督府には西郷以下の平和裡に彰義隊を解散させよう、という穏健派がいたという。 かれらは麟太郎や山岡鉄太郎らと親交があり、越後、東北に広がろうとしていた戦火をおさえようと努力していた。
 彰義隊などの旧幕府軍を武力をもって駆逐しようという過激派もいた。長州藩大村益次郎らである。
  官軍が上野の彰義隊らを攻撃したのは、五月十五日であった。連日降り続く雨で、道はむかるんでいた。彰義隊は大砲をかまえ、応戦した。官軍にはアームストロング砲がある。大砲の命中はさほど正確ではなかったが、アームストロング砲は爆発音が凄い。
 上野に立て籠もる諸隊を動揺させるのに十分な兵器だった。
 やがて砲弾が彰義隊たちを追い詰めていく。西郷も戦の指揮に加わった。
 午前七時からはじまった戦いは、午後五時に終わった。

  彰義隊討伐の作戦立案者は、大村益次郎であった。計画ができあがると、大村は大総督府で西郷吉之助(隆盛)に攻撃部署を指示した。
 西郷は書類をみてからしばらくして、
「薩摩兵をみなごろしにされるおつもりでごわすか?」ときいた。
 大村は扇子をあけたり閉じたりしてから、天井を見上げ、しばらく黙ってから、
「さようであります」と答えたという。
 麟太郎は『氷川清話』に記す。
「大村益次郎などという男がおれを憎んで、兵隊なんかさしむけてひどくいじめるので、あまりばかばかしいから家へひっこんで、それなりに打ったゃっておいた。
 すると大久保利道がきて、ぜひぜひねんごろにと頼むものだから、それではとて、おれもいよいよ本気で肩入れするようになったのだ。
 なにしろ江戸市民百五十万という多数の人民が食うだけの仕事というものは容易に達せられない。そこでおれはその事情をくわしく話したら、さすがに大久保だ。それでは断然遷都の事に決しようと、こういった。すなわちこれが東京今日の繁昌の本だ」 

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スパイラル <巨魁妄動編>1989年宮城県仙台市幸町中学生事件アンコールブログ小説6

2014年11月20日 16時00分00秒 | 日記







第四章


「仙台幸町中学事件」

              勃発!










         1 罵倒嘲笑投石




  新目真紀の指揮のもと、ゴキブリナチス仙台幸町中学生(89~90年当時)は、何の罪もない緑川鷲羽にテロルを開始しだした。中学生たちの間にはひそかに鷲羽に顔が知れ渡り、罵倒しても嘲笑しても投石してもいいようなムードが密かに学生たちにひろがった。 テロルに真実も根拠もない。理由はない。ただのテロルだ。そのテロルを、不覚ながらも道理木里子は知らなかった。
 仙台幸町中学生たちはストレス発散のために緑川本人やアパートに向けて、「ばーか!×5」「死ね!」「殺すぞ!」「禿げ!×7」「宮崎!」「バイバイ馬鹿! バイバイ馬鹿!」「馬鹿野郎!」と罵声を浴びせかけ、嘲笑し、投石した。時間は下校時の午後が多かった。その当時の中学生たちは本当に鬼畜のようだった。何せ、罵倒期間は一年にもおよんだからである。学校の校長に連絡するまで、鬼畜ガキどものテロルは続いた。しかも悪いことに、やっているのは不良の男ばかりでなく、平凡な男子生徒、そして女も大勢いたことだ。みな、やっていいことと悪いことの区別もつかない。ゴキブリナチスと呼べ! 連中は、新目というアジテーターに煽動され、心の中のもっとも醜い部分を緑川に見せた。鬼畜たちは現在でも反省も何もしていない。それどころか「よくも俺たち(私たち)のことを暴露しやがって! お前などやられて当然なんだ!」などと思っている。いや、はっきり言おう。もう、あのときのガキらは、自分たちが犯した犯罪、テロルのことをすっかり忘れている。もう、何ひとつ中学時代には起こらなかった……などと思っている。これほど始末が悪く、アグリーな連中も珍しい。自分の犯罪さえ忘れ、幸せな生活を送っているだけだ。他人に迷惑をかけたことを反省もせず、只、くだらん合コンとかセックスに勤しむばかりだ。いみじくも人間の心をもっているなら、謝りにこい。
 頼むからゴキブリ子孫だけはつくるな! お前らのガキは絶対「酒鬼薔薇」だ!
 他人や社会に迷惑かけ続けるな! なんで自殺しないのだ? 社会の癌だってもわからないか? ゴキブリどもめ!

       ”死ね! 殺すぞ!”


  宮里悟も、ムシャクシャしていた。
 新目になんか煽動されるものかと思いながら、ふと校舎から七十九銀行に向けてひとりで歩いていると、女子中学生五人が白い壁のアパートに向かって「バーカ! バーカ!」と罵声を浴びせかけ、投石するのを発見した。
 宮里悟はそんな女子に呼応し、石を手にとった。アパートの窓は曇りガラスで、中の人物は見えなかった。しかし、そんなことはどうでもよかった。ゴルフや、成績も落ち、ムシャクシャしていた悟(妹・藍)は、石を握り、そしてアパートにぶん投げた。
「死ね! 殺すぞ!」悟は大声でアパートに向けて怒鳴った。
 彼は、アパートに誰が住んでいるかも知らなかった。ただ、罵倒し、叫んで、スッとした。誰かが罵声をあびせかけている……自分もやろう……ゴキブリナチス仙幸中の鬼畜の中にはそういうやつが多かったという。悟ははあはあと息を荒くして、それからにやりとした。とにかくスッとする。もう何回かやろう。明日も、明後日も、明々後日も。
 彼は狂気の笑みを顔に浮かべた。悟は事件発覚後も、反省せず、現在に至る。
 鬼畜は鬼畜なのだ。

        ”馬鹿! といって鷲羽の兄に殴られた中坊”

  仙台幸町中学生の佐藤光も、受験のことでムシャクシャしていた。こちらのゴキブリ鬼畜も、何も緑川鷲羽のことなど知らなかった。新目のことさえ知らなかったのだ。
 光は土曜日、鷲羽の兄がいたときに(鷲羽だと思って)兄・緑川和宏に「バーカ!」と罵声をあびせかけた。和宏はすぐに出撃、佐藤光という中坊を追いかけ、掴まえ、しめあげてゲンコツを食らわした。光はそのとき泣いたという。しかし、反省など何もせず、光はアパートの前の道路を駆け逃げながら「バーカ!」というようになった。そして、05年26才となった彼は酔っぱらい運転で学生を轢き殺した。深渕も同じだった。

       ”エアガン! 無線で盗聴”


  仙台幸町中学生の上園健司はアイドル・オタクで、いつもアイドルのグラビア水着写真をみては興奮し、オナニーに耽るのであった。この鬼畜の趣味はオナニーと無線での盗聴とシンナーとエアガンである。健司は新目の部下、羽柴秀子の友達だった。(91年当時は11~12歳になる頃)「ねぇ、健司。あの男の電話盗聴できる?」羽柴秀子はいった。
「どこの出身か知りたいのよ。どうせ秋田か福島か山形出身だろうけど」
「オッケー!」上園健司はサムアップをみせた。盗聴…といっても緑川の部屋に盗聴機をしかけた訳ではない。受話器の子機から漏れる電波をキャッチするのである。その際、当然ながら電波を盗むのだから声がきこえなくなったりする。著者の経験で、これは断言できる。上園健司は盗聴した、と。また悪質なゴキブリ攻撃(エアガン発砲)までして黴菌を撒き社会に害を与え続ける。(彼は05年10月に和歌山大阪でヤクやって発砲で逮捕)逮捕時25歳もうすぐ26…しかし…。こうして、オナニー健司は盗聴に成功、緑川鷲羽が山形出身という情報をキャッチしたのである。その後、羽柴秀子らは鷲羽が訛っていると思って(鷲羽は標準語を扱う)山形訛りで彼のことを馬鹿にしだした。
 しかし、上園健司は羽柴秀子にやらせてももらえず、オナニーにばかり耽るのであった。


        ”禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ!”


  仙台幸町中学生の不良グループもまた、罵倒嘲笑投石に加わった。最初から出来が悪くて”不良”なのだから、参加は当然だが、不良から鬼畜になった。
 不良の近藤宏、森川雄一など他6人は気分をスカッとさせるために緑川のアパートに急接近し、「禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ!」といい始めた。曇りガラスで見えないため、鷲羽は最初、中坊が他の(野球部か何かの丸がりの中坊)にいっているのだと思った。しかし、いつまでたっても野球部の中坊は反論しない。次々に鬼畜たちが「禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ!」といい始めた。それでやっと、鬼畜たちが自分に向けていっているのだと鷲羽は気付いた。禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ!禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! 禿げ! …
 鬼畜たちはまるで念仏のように罵声を浴びせかける。怒りの波が、緑川の全身の血管を駆けめぐった。そして、台所にいって包丁を持ち出した。…殺してやる! 鬼畜ガキめ! しかし、すんでのところで理性が勝った。緑川は包丁を握り締めたまま荒い息をして、茫然と立ち尽くした。神様が自分に試練を与え、”日本の教育の失敗”を実感させているとはいえ、あまりにも過酷すぎる。今、あの鬼畜たちは刑務所かヤクザ組織か…。
 だが、結果はよかった。殺したらゴキブリを殺しただけなのに刑務所にいれられる。そんなことは馬鹿らしいだけだ。。ゴキブリナチスどもなど確実に人間として成功しない。メンタリティが低いというのはIQが低いのと同じだ。誰も雇わないし、学歴つけて雇っても中身のゴキブリが出るから最終的には社会のお荷物になる。誰が考えたって「成功」などする訳がない。知恵遅れが経済学者になれないのと同じことだ。

        ”宮崎!”



  仙台幸町中学生の高山正樹も、緑川鷲羽を罵倒したひとりだ。彼の罵倒台詞は「宮崎!」。宮崎駿のことではない。当時、幼女連続殺人を犯したほうの宮崎である。
 高山は緑川の半分のオツムもないのに、緑川のことを嫌い、罵声をあびせかけてきた。やっていいことと悪いことの区別もつかない。高山正樹こそ、当時、幼女連続殺人を犯したほうの宮崎である。高山の趣味はロリータ。とくに小学生の小娘が大好きで、よくロリコン雑誌の幼女ヌード写真をみてはオナニーに耽っていたという。(高山正樹はのちの2002年、仙台市で何人もの幼女をレイプしたとして逮捕され、3月28日に無期懲役となった。(当時・26歳))
 とにかく、そういう変態だった。


        ”バイバイ馬鹿!×6”ゴキブリナチス!


  仙台幸町中学生の阿部京子も、緑川鷲羽を罵倒したひとりだ。
 彼女は高橋瑠美子のような女流漫画家を目指していたが、ボツばかりだった。「ひとのみる水準に達してない」などといわれた。ムシャクシャした。そこで、緑川が耐え切れずに引っ越すときにたまたま(土曜日の午前)みつけ、引っ越しのひとがいるのにもかかわらず鷲羽に「バイバイ馬鹿!×6」と罵声をあびせかけてつづけた。黴菌を飛び散らす… のちに緑川鷲羽の「空城の計」で先生に捕まったが、何ひとつ反省もなにもしなかったという。そして、阿部京子はとうとう漫画家にはなれずじまいだった。当然だろう。鬼畜になにが描けるというのか。マンガ”ゴキブリナチス!罵倒物語”でも描くのか?
        ”擦れ違いざまに「バカ!」と嘲笑ゴキブリ3娘”


  仙台幸町中学生の馬場陽子と吉川秀美はレズ・カップルだった。そして、その友達の遠藤裕子とともに、緑川鷲羽を罵倒した三人組だ。彼女らは自転車で登校のため走っていた鷲羽が通り過ぎた瞬間、「バーカ!」といった。(パンクさせようとガラスを道路に撒いたりもした)鷲羽は、自転車をとめ、振り返り、三人組に注意した。諫めようとした。へらへらへらへらゴキブリ3人娘たちはにやついているだけ……鷲羽はこれはいかんと自転車をとめて、「こら! 何をいっているんだ?! 他人にそんなこといっては駄目だろう!」と諭すようにいった。馬鹿娘たちは悪気など一切ない。ゴキブリのようにふりかえり、ボケ老人が意味もなくへらへら涎をたらして笑っているようにへらへらしている。鷲羽はいろいろと一応『人間』として扱って諭して『ひととしてのありかたや他人に悪口や罵声をあびせかけることの罪』についていったが、馬鹿馬鹿しくなって言葉を切った。
 ゴキブリ娘たちはそれでもへらへらアルツハイマーか?と思うぐらいにやにや笑っている。ヘドがでそうだったが、ゴキブリは自分がゴキブリとわからない。鷲羽はその人間の形をしたゴキブリたちを人間として扱い諭すのは無理だとすぐ分析できた。誰でもできる。NASAのエンジニアじゃなくても……猫をみて猫だ! というのと同じだ。
 鷲羽は「ゴキブリを見て不吉だな」と思って溜め息をもらした。が、ゴキブリ娘たちはそれでも気持ち悪くへらへらしてる。そしてゴキブリが羽根で飛んで黴菌撒き散らすように「わあ~っ」といって校舎の方へ走り去る。校門に誰か『人間』である先生とかはいなかったのだろう。いたらゴキブリ行動くらい叱るだろう。どんな馬鹿な飼い主でも自分の犬が悪さしたら叱るのと同じだ。が、最近では叱らないから飼い犬が他人に迷惑をかけ続ける…酒鬼薔薇や最近ぞくぞく逮捕されたりしている元仙幸中のゴキブリナチスたち(こんなのは人間ではなくただの人間の着ぐるみきたゴキブリだ!)佐世保小6女子みたいな。ゴキブリなら肥溜あたりで勝手にブンブンいってりゃいいのに最近の『ゴキブリ』はやたらと他人に迷惑をかけ続ける。まるでアルツハイマーの幼稚園児のような。いやそれなら親や国が医療費など負担するだけだが、それに加えて動いて黴菌散らして飲んだり食ったりする……だからゴキブリといわれる。迷惑かける『人間のように見えるゴキブリ』
(遠藤裕子は2002年11月、遊園地のゴーカートに乗っていて、マフラーがエンジンにからまり、首がしめつけられる形となり窒息死したという。天誅だろう。神仏もゴキブリがいたら社会に迷惑をかけ続けるというくらいは思ったのだろう。普通はこいつの親がわかって妊娠した時点でおろすとかすれば、社会(体)の癌がとれて少しでもよくなった。が、産んで育ててしまった。ゴキブリは人間の着ぐるみきてるから、なかなかわからない。親としてはゴキブリの足がちょっと出ても「自分の子に限って!」と錯覚だと思いたいだろう。気持ちはわかる。罪のない子供殺したガキが少年院いっても何の反省もせず、馬鹿な親も何かきかれても「もうすんだろ?! 関係ねぇだろ!」…今だにそんな悪は存在する。       

 ”バイク盗み町で罵声”


  仙台幸町中学生の阿部貴俊と阿部清隆、岩佐、山本和仁も、緑川鷲羽を罵倒した四人組だ。彼らはロック・スターを夢見ていたという。ロック・バンド「ゲリラ・テロル」のメンバーで、一生懸命(くだらない)曲をつくり、デモ・テープをレコード会社に郵送していた。しかし、鬼畜にいい曲などつくれるはずもない。
 音楽通の緑川鷲羽に嫉妬し、仙台の街を会社の同僚と歩く彼に、擦れ違いざま「バーカ」と罵声をあびせかけた。阿部にしても岩佐にしても山本にしても、ひとりでは何もできない。しかし、つるむと何でも出来る気になってやってしまう。それがいいことならいいが、イジメや罵倒やテロルと……いいことをひとつもしない。
 ロック・バンド「ゲリラ・テロル」は鳴かず飛ばずで、そのうち自然消滅したという。しかし、鬼畜魂だけは健在で、緑川鷲羽の「空城の計」で捕まったあと、自分たちの犯罪を反省することもなく、(鷲羽のだと思って)アパートの住民のバイクを深夜盗んだ。バイクを盗めば鷲羽が困ると思ってのことである。なんともアグリーなメンタリティだ。
 列車で女子高校生のお尻みて興奮してアソコまで触って警察に捕まる輩と変わらない。 とにかく、こうして鬼畜は反省もなにもせず現在にいたる。
(阿部貴俊は2001年8月30日、調子にのって東京で(多分見知らぬ男だと思うが)誰かに罵声をあびせかけ、ナイフで刺されて死んでいる。享年24歳)
(岩佐は2002年12月30日、仙台市内旅館での会社忘年会で泥酔し、同僚の19歳の男をなぐり殺して逮捕された。当時26歳)
(山本和仁は05年悪徳リフォム詐欺で逮捕。当時26歳)
(阿部清隆は2003年、結婚詐欺(戸籍捏造)で捕まり、刑務所にぶち込まれた)

         ”小学生、傷つけでヤクザ親”


  ゴキブリナチス仙台幸町中学生の罵声嘲笑投石で、仙台幸町小学生の男子学生ふたりは勘違いをした。中学生たちがこぞって競うようにアパートに罵声をあびせかけているので「自分たちもやっていいんだ」などと勘違いした。そこで小学生、佐藤純と金川真大という頭のあまりよくない小学男児ふたりは緑川のアパートに罵声をあびせかけはじめた。(校舎見学をしてみるがいい。いかにもゴキブリの巣って感じだ。宮城県仙台市宮城野区幸町2丁目仙台幸町中学校…いまは役所がゴキブリの巣だって気付かずに建て替えてたかも知れない。この学校の悪質なのはいまだに何ひとつ謝罪もしないこと。こちらが何かいってもチンピラガキ庇うヤクザ親のようだ。いいがかりつけんな! か無言ですごむか。「俺の息子年小いっただろ?!」のようだ。というか現在の校長も何をいってもなんともいわない。あのときもガキの悪さ知ってたのではと思うしかない。だから校長だけに手紙送らないで『策』として握り潰すかも知れないと思ってマスコミやらいろいろな所に書面で知らせた。こいつらは本当に自分たちの学校だけだったら無視してたのだ。だがマスコミとかくるので仕方なく何か謝罪めいたことカメラの前でいった。舌打ちして)
 佐藤純と金川真大というガキは、根っからのバカで、やっていいことと悪いこと、言っていいことと悪いことの区別もつかないありさまだった。親が”極道”で、つまりヤクザでちゃんと躾ないからこういうことになる。で、小学生はもっと(鷲羽を)困らせてやろうと、車のボンネットなどを釘で傷つけた。
 その車は鷲羽のものではなく、兄・和宏のものだった。運よく、和宏はそのガキふたり(佐藤純と金川真大)をひっつかまえた。現行犯逮捕だった。それで、当然ながらそのガキの親に修理代を請求した。(金川真大は94年に仙台市から茨城に転住、08年24歳で無差別殺戮で逮捕、死刑)
 しかし、”極道”の親は金を払わず、鬼畜ガキを叱ることもなかったという。
 そりゃそうだ。深夜にアパートに乱入してきて、「請求書のコピーもってこい! うちの子供だってわざとやった訳じゃねぇんだ! こらっ!」と逆ギレしてすごむのみだからだ。あの親にして、あの子あり…。鷲羽はなんともなさけない気分になった。
 わざとでなくてどうやって車に傷がつくというのか。まさに、あの親にして、あの子あり、だ。この国はどうなってしまったのか。
 今だに、あのときの小学生は反省もなにもしていないという。まさに鬼畜だ。
 そして、”極道”の親のほうは暴力団の抗争に巻き込まれ、死んだという。今、佐藤純と金川真大は、刑務所の中だ。死刑だった。

  この他にもテロルは数えきれないほどあった。
 以上が「仙台幸町中学事件」のほんのエピソードである。当時の鬼畜中学生たちは今、何を思い、この小説を読むのか。何かひとつでも反省や慙愧させたら、それは奇跡である。 われわれ『人間』としてはゴキブリはみたくないだろう。でも『人間の着ぐるみ』着てるからなかなかわからない。しかも今は仙台だけじゃなく東京とか大阪とかでブンブン飛んでゴキブリ子供を産んだりして社会に迷惑かけ続けている。何かゴキブリ発言や行動をすれば「仙幸中だ!」と誰でもわかるが着ぐるみを着てて「人間」に見えるから始末悪い。 まるでハリウッド映画の人間に化けたエイリアン(ゴキブリ)……悪質である。酒鬼薔薇の親とか佐世保のガキもこいつらの親戚か何かなのかも知れない。
 だから酒鬼薔薇は故郷の仙台の寺にいったという訳だ。仙幸中らと結婚とか付き合ったり恋人だのしたら馬鹿をみる。エイズはみえないが感染したらどうなるか? それを考えてほしい。要は同じことで害にしかならないということなのだ。


         2 新目に抗議



   新目真紀のテロルは確実に成功していた。
 何の理由も動機もない連中が、次々に”ターゲット”と決めた緑川鷲羽に罵声を浴びせかけ、嘲笑し、投石したのである。真紀自身も、緑川のアパートに罵声を浴びせ、ストレス発散をするのだった。この新目真紀こそ、「仙台幸町中学事件」の首謀者だった。
 だが、不幸なことにそのテロルのことを、道理木里子は知らなかった。
 そして、あとで知って、動揺した。哀れみで全身が凍りついた。
 木里子にとって、同級生や同じ学校の生徒たちがテロルをしていることは大きなショックであった。しかも、首謀者はあの新目真紀らしいというのだ。
「なんてことを…」木里子は自分が生徒会長になりながら、テロルを認知し防げなかったことに慙愧した。死ぬほど落胆した。なんせ先生にいっても信じてもらえないのである。 そこで、木里子は正面突破を試みた。新目に直談判しようとしたのである。
 当然、最初、新目真紀はしらばっくれた。
「新目さん。あなたが事件の首謀者だってことはわかってるのよ」
 木里子は食いさがった。すると新目は「だったらどうだっていうの!」とわめいた。
「だったら……他の生徒たちが、罪もないひとに攻撃するのをやめさせて」
「知るもんですか! じゃあ」
 新目は多少怒りが静まったところで、ふたりっきりでいた科学室から出ようとした。
 木里子は新目の前にたちはだかり、とうせんぼをした。
「なに……よ」
「個人攻撃をやめさせて」目を炎のようにぎらつかせて、彼女は命令した。「そして、そのひとに謝りにいって」
 新目は口をぽかんと開け、狐につままれたような顔をして彼女を見た。
「緑川ワシハに?! この私が?! ざけんなよ!」憤慨して叫んだ。
 ワシハ…もしくはワシハネに? この私が?! 新目真紀さまが?! 新目はカッカときた。激怒の波が、全身を襲い、一瞬われを忘れた。なにが謝りに…よ! なんでそんなカスに私が?! 私がなぜ??
 新目は、ふん、と鼻を鳴らすと、木里子を押し退けて科学室を出ていった。
 道理木里子は何もいえず、ただ茫然と立ち尽くすのみだった。
   木里子は学校の生徒たちの犯罪のことを先生に話した。しかし、先生たちは「そんな馬鹿なことありえない。うちの学校の生徒に限って…」などと取りあおうともしなかった。まるで教育ママゴンである。ママゴンは「うちの子にかぎって」などというが、それとなんの変りもない。

「待ちなさい!」教室からでていく新目木里子が抗議した。「謝ってよ」
 真紀がいきなり振り向いた。目が危険なきらめきを放っている。
「なんのため?」とわめいた。「このわたしが緑川ワシハなんかに? なんで?」
 木里子は鬼畜のような新目を哀れに思った。心臓は哀れみにしめつけられた。そして、ふと、会ったこともないが、ターゲットにされている緑川というひとも哀れに思った。
「わたしが何したっていうの?!」新目はきいた。
「他人に迷惑をかけてる。いえ……犯罪を犯してるわ!」
 これはグサッときた。新目の現状を明確に示した言葉だった。
「犯罪?! ふん! 私は何も……して……ないわ」
「そうかしら?」
 木里子は冷たく静かな声でつめよった。罠にかけられた。新目真紀はかえす言葉も見つからず、口をとじた。
「それで、緑川さんってひとはこれからどうなるの? ずっと罵倒されたままなの?」
 さっきと同じ、危険なまでに静かな口調で、木里子はきいた。新目は視線をそむけた。「そのぉ……ずっとあのまま……知ったこっちゃないわ。私は…別に…関係ないもの」
 彼女自身の耳にも、その言葉は不完全で、薄っぺらにきこえた。
 木里子の眉がはねあがった。
「ただし、あなたたちだけはストレスを発散して、悩みを解消して。他人を利用して」
「どういう意味よ! 利用してとは!」新目が怒りを爆発させた。神経を配った偽り、細心の注意のもとに保ってきた冷静さ……それがすべて風の中に飛ばされ、冷静さを完全に見失った。「どういう意味?! くそったれの彼を利用してとは!」
 木里子は、新目真紀のこぶしから顔に、そして顔からこぶしに目を移した。これが答えなのだ! 真紀のきつく握ったこぶし……これがすべての答えなのだ。


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