海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「ヒズボラを巡って、反戦運動分裂」と題する『シュピーゲル』誌の記事。

2006年07月25日 | 国際政治
ベイルート発:彼らは、またやって来た。確かに、ベイルート中心にある殉教者広場に集まったデモ参加者は土曜日にはまだ70人そこそこだった。25人は白い服を着た女性で、40人は黒い服を着た抗議者だ。彼らは黙祷の時間には二週間前のイスラエルの爆撃以来殺された子供達を悼んだ。だが、レバノンに対するイスラエルの継続する空襲によって、ますます多くの人たちが街頭に繰り出すだろう。
 第一次大戦の終わりにオスマン帝国の軍隊によって処刑されたレバノン人の殉教者のための記念碑の周りが、「ベイルートの春」と言われた反シリアの集合場所となったのは、一年半前のことだった。今晩、もっと大きな集会がCNN放送が「レバノン杉革命」と呼んだ抗議運動と結びつくはずである。
 だが、ゼイナ・アル・カリは、参加者の数は2005年の集会の参加者の数に達するとは思わない。「あの当時の大デモを繰り返すというのはすばらしい夢です。でも、多くの人々は家を出るには不安があります」と30才の女性芸術家は言う。「その上、無数のベイルート市民は外国に避難するか市街の背後の山に避難した。」アル・カリは、先週水曜日のイスラエルの空襲に対する最初の抗議デモのオルガナイザーだった。約300人の若いレバノン人男女は、殉教者広場にある国連の司令部から、港に接している欧州連合の代表部まで行進した。
 デモ参加者は、「グッチ革命」とからかわれたシリアの占領軍に対する去年の反乱の参加者よりももっと色とりどりの服装をしていた。殉教者広場からキリスト教徒が居住しているゲマイゼ地区のヨーロッパ風の喫茶店までは、歩いて5分しかかからない。レバノンで「独立闘争」と呼ばれた抗議デモの参加者のかなりの人たちは、演説や歌の間にカプチーノ・コーヒーを煽り、その後で日常の仕事に戻った。
 約50あるNGOは、「命のために」という名称の下に連合した。彼らの最大の目標は、「即時停戦」である。「私達は、国際社会を動かして、できるだけ早く集中して人道の危機に反応してもらいたいの」とアル・カリは言う。
 イスラエル軍とシーア派民兵組織「ヒズボラ」との間の軍事的紛争が始まって以来、彼女は、ベイルートへ避難して来た難民の援助のために努力している。www.beirutupdate.blogpost.comで、彼女は戦争日記をつけている。「私は9.11のテロの際、ニューヨークにいた。テロ攻撃から二ヶ月たったニューヨークは、今日のベイルートと同じ臭いがした。」
 彼女の芸術家生活において、アル・カリは、いつも1975年から1990年までの内戦を題材にした。「将来は、私は花しか描かないだろうと思うわ」と彼女は笑う。流血のレバノン内戦が終わって15年たって普通の安定した社会秩序の中にいるという夢は、終わった。恐らく若いデモ参加者にとって主たる動機の一つは、戦争が早く終わって彼らの願望を街頭に実現することである。
 先週水曜日の最初のデモの際、裂け目は明らかであった。アル・カリは、NGO連合体の「命のために」と一緒に国連司令部から欧州連合代表部まで歩いたが、50人の同調者は、再建された歴史的な中心部の上のほうに置かれている国連司令部の前に留まった。イスラエル領内の砲撃停止を彼らは間違っていると考えた。なせならば、武装抵抗に対するヒズボラの権利は神聖であるからだ。
 彼のレバノン人の妻と同様、「フランス・レバノン技術大学センター」で若い技術者を教えているチエリー・レヴィ・タジネは、この分裂を「典型的にレバノン的」だと見なす。この夫婦は、ヒズボラ同調者のところに留まった。レヴィ・タジネが書いたビラを読むと、その理由がわかる。「最近の出来事は、イスラエル首相オルメルトがファシストであることを明らかにした。彼はそれよりももっと悪い戦争指導者だ。なぜならば、彼は平和には時があり、戦争にも時があることを知らないからだ。」
 ヒズボラによるイスラエル人の砲撃については一言も書かれていない。これでは、ヒズボラに批判的な「命のために」と同盟者になるわけには行かない。
[訳者の感想]フランス人がヒズボラを支持し、レバノン人がヒズボラにもロッケット砲撃をやめろといっているのが面白いと思いました。
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