海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「スターリンはこの人間的な輝きを抑圧するのに失敗した」と題する『シドニー・モーニング・ポスト』の記事

2009年11月03日 | 人物
スターリン時代のソヴィエトの作曲家プロコフィエフとショスタコヴィッチの芸術的行為について近年ある激しい議論が荒れ狂った。
一方の側は、彼らはお祝いの作品を書くように強いられたが、彼らはそれらの作品に二重のメッセージを付け加えたので、ソヴィエト連邦の成果は、深く皮肉な発言として聴かれるべきだ主張する。ショスタコヴィッチの第五交響曲に付けられたフィナーレがその例だ。
音楽学者リチャード・タラスキンに率いられた他の側は、彼らが作曲したこれらの作品は、その理想に従って生きる芸術の失敗を代表していると主張する。
「シドニー交響楽団」を指揮するウラジーミル・アシュケナージの「プロコフィエフ・フェティバル」は、これらの論証をテストする機会を与える。
皮肉は、プロコフィエフのスタイルの自然な部分であって、それは彼の作品にその表現的な鋭さを与えたものとなっている。けれども、全体として見ると、最初のプログラムで演奏されたどちらの交響曲も、--第一次世界大戦中に書かれた「交響曲第一番」と第二次大戦が勝利に向かって転換しつつあったときにお祝いに書かれた「第五交響曲」--表面の価値とは何か違ったものと見なされるべきだ。
「交響曲第一番(古典的交響曲)」は、ストラヴィンスキーの新古典派的作品に先行しており、華々しく、ところどころ渋く、ハイドンのスタイルで交響曲を再創造しようとする常に楽しい試みである。リズムやハーモニーやオーケストレーションには小気味の良い現代的ひねりが加えられている。
アシュケナージは、人間的な輝きを引き出すために木管楽器のバランスを取るように指揮した。第三楽章では、アシュケナージは、折り返しの点でマジカルな輝きを達成するようにこの楽章を作り上げたが、コンサートマスターのディーン・オルディングは、弦楽器に強度を集中するように促した。
前半では、ボリス・ベルキンは、「ヴァイオリン協奏曲第二作品63番」を達者に演奏し、陰鬱な妄想から人を惹きつける人間的な暖かさや熱狂的な残忍さにまで及んだ。
プログラムの前半では、瞬間的に規律の逸脱があったにも関わらず、「第五交響曲」の演奏は、アシュケナージが「シドニー交響楽団」を最善へともたらすように上手く扱うことができるという正確さと楽しみの例であった。
[訳者の感想]音楽批評を翻訳したのはこれが初めてですが、このピーター・マッカラムという評論家の表現はかなり難解で手こずりました。もう二度と音楽批評は翻訳しないつもりです。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「ますます多くのイラク人が... | トップ | 「バーレーン王国にとっての... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

人物」カテゴリの最新記事