海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「原爆を二度生き延びた男」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2009年03月28日 | 人物
東京発:彼が想像もできない幸運を持ったのか、それとも単に運が悪かったのかまだ、当分、争われるだろう。93才の山口ツトムさんは原爆を二度体験したが生き延びたということはいずれにせよ信じがたい。
この特別な事情を日本の役所は、出来事があってから、60年経って、認めた。山口さんは第二次大戦に広島と長崎で二度のアメリカによる原爆攻撃のこれまで知られた只一人の生き残りである。
山口さんは、仕事で、広島に二ヶ月滞在した。1945年8月6日の朝、彼は二人の同僚である岩永アキラと佐藤クニヨシと一緒に早起きして、汽車で故郷に帰ろうとしていた。駅へ行く途中で、三人は別れ、山口さんは会社に戻ったが、それは幾つかの私的な用事を済ますためだった。旋回する飛行機が広島上空にいた。太平洋戦争の間、重要な供給基地であり、軍事基地だった広島では、珍しいことではなかった。山口さんは、原爆機「エノラ・ゲイ」の爆音を聞いた。8時15分、投下された原爆「リトル・ボーイ」が市の中心、580メートルの上空で爆発した。原爆の破壊力は、目も眩む閃光と想像を絶した振動によって示された。この空襲で、14万人がその場で、また数年後に放射能の浴びた結果死亡した。山口さんは上半身に大やけどを負った。その夜を彼は防空壕の中で過ごした。翌日、応急処置をして、彼は足を引きずりながら、駅へ行った。山口さんは、とにかく家へ帰りたかったので、一番手近の汽車に乗った。
長崎へ帰って、彼は雇い主の三菱重工に帰宅の報告をした。この軍需品の製造工場で、彼は当時オイル・タンカーの設計をしていた。8月9日、午前11時2分、彼は丁度上司に自分が広島でどんな目に会ったかを説明しようとしていたとき、第二の原爆が長崎に投下された。彼はまたもやそれから生き延びた。そこでは、7万人が犠牲となった。山口さんの息子は、59才でガンで死去した。だが、彼自身はまだ元気で、黒い目をして、短く刈った銀髪のこの人からは、多くの善意と智恵とが放たれている。耳だけが殆ど聞こえず、足の力も次第に失われたと、この93才の男性は語るのだ。彼の事例は、今や政府文書に記載された。「それは、若い世代にあの二つの空襲のひどい歴史を物語るでしょう、私が死んだ後も。」
 原爆の被害者と認定されると、犠牲者には援助が認められる。治療は無料だし、埋葬は、国が引き受ける。だが、二つの原爆を生き延びたということが証明された後も、山口さんの受け取るものは、変わらない。
[訳者の感想]ダニエル・シュミット記者の書いた記事です。この山口ツトムさんのことは、私は初めて聞きました。
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