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海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「オサマ・ビン・ラディンの先輩」と題する『ヴェルト・オンライン』の記事。

2007年05月09日 | 人物
彼は聖戦を誓い、テロ攻撃で数千人を殺させた。西欧の兵隊は、彼を毎年、追跡したが、この狂信的な説教者を捕らえることはできなかった。このパシュトウーン族は、巧みに山の中に隠れ、そこから、彼の血なまぐさい攻撃を操った。繰り返し彼は追跡者達の網の目をかいくぐった。
この話は、オサマ・ビン・ラディンについての話でもないし、タリバンの指導者モハメド・オマール師についての話でもない。そうではなくて、それはアリ・カーンまたの名、「イピの説教者」についての話だ。彼はイギリス兵の間では、1930年代から1940年代にかけて、「死刑執行人」として知られていた。この伝説的な戦士は、70年前に今日のアフガニスタンとパキスタンとの間の国境地帯で、悪逆非道を行った。それは、まさに、5年前に連合軍がビン・ラディンを追跡し、タリバン兵が、新たな攻撃を行うために、退却した地域である。
 そこには、明らかな並行性がある。今日のもっとも追求されているテロリスト達と同様、ミルザ・アリ・カーンは、文字通り、険しい峡谷と部族の支配する洞窟のなかに消えたのだ。ワジリスタンは、想像できる限り、最も困難な軍事作戦地域である。「この地域で誰かが見つかりたくないと思ったら、彼は見つけられない」とパキスタンの外交官フセイン・ハッカーニは言う。「近代的な監視テクノロジーを使ってもだめだ。」
このことから、今日、ビン・ラディンやオマール師は、彼らのイスラム主義的先駆者と同様に利益を得ている。
 アリ・カーンの支持者達は、彼に隠れ家を提供し、彼らの熱狂的な信奉者から戦士を募集した。その数は40万人にのぼり、その半分が近代的な銃を持っていた。軍事史の専門家であるアラン・ウオレンは、このパシュトウーン族に「救世主的な次元」を持たせている。
 彼の人物の周りには神話が付きまとっている。彼は、霊的な力で杖を銃に変えた。両手で持てるぐらいのパンで、いつでも多数の人間を手に入れた。いつの間にか、彼の追跡者は興味を失い、別の敵が正面に現れた。ハッカーニは、恐らく1960年頃、自然な死を迎えた。
 1941年にはナチ政府は、ファキルと連絡を取るために、諜報員をカブールに送った。彼は協力者だと見なされた。彼が英国人に対する聖戦を呼びかけたとき、ドイツを引き合いに出したそうである。ドイツの作家であるハンス・ヴァルターは、1941年に『イピの説教者への逃走』という小説の中で、説教者に次のように言わせている。「世界をイギリス人の奴隷支配から救うために、西ヨーロッパで、ある偉大な民族が刀を取った。」
 大英帝国の敵の中で、ミルザ・アリ・カーンは第二次世界大戦の前には、本当にユニークであった。「彼はインドの藩侯が臣下の中に見出した、もっとも断固たるもっともしぶとい相手だった」とミラン・ハウナーは彼の論文「帝国に立ち向かった男」の中で書いている。「ゲリラの指導者としては、彼は敵対する戦闘法の選択では、妥協を知らず、頑固で、躊躇うことがなかった。」
 更にハウナーは、「これには待ち伏せ、誘拐、脅迫など部族の戦争指導の伝統的な方法が含まれていた。」これもオサマ・ビン・ラディンやオマール師と共通である。ミルザ・アリ・カーンは、お金の武器に関して、アフガンの役所に支持されていた。特に彼が彼によって要求された独パシュトウーン族の独立のシンボルとなった後では。タリバンと彼の同盟者が追求している目標は、パシュトウーン族の指導の元にあるイスラム的カリフである。
 1938年7月25日の『ロンドン・タイムズ』のファキルについての記事では、「インド帝国のもっとも荒れ果てた部分は、貧乏で山ばかりのワジリスタンであって、それはインドの領土の北西部にある広さ1万平方キロの土地である。その部族達は英国の支配に一度も従ったことはない。37才のファキルは、熊のように丈夫な男で、自分の名前を、ワジリスタンのイピから取った。
[訳者の感想]「歴史は繰り返される」ということの証明みたいな話です。
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「ボードリヤール、最後の予言者」と題する『ツァイト』紙の記事。

2007年03月10日 | 人物
ジャン・ボードリヤールが存在しなかったとしたら、世界には時代感情が一つだけ少なくなっただろう。「ポストモダン」や「時代の終わった後の時代」、「歴史からの別離」についての観念ほど彼の名前に結びついたものはない。ポストモダンについての議論は、1980年代の示唆的な呪文であって、それは他の何ものよりも人々の頭脳を悩ませた。ボードリヤールにとっては、ポストモダンは次のことを意味した。つまり、文明がその沸点を通り過ぎて、これからは、人々を冷やすだろうということを意味した。文明は現場におり、多くのことが起こるだろうが、実際は何も起こらない。出来事はもはや起こらない。起こるとしたら、僅かにディスプレー上のシミュレーションとしてしか起こらない。新しい時代、歴史後の時代には、真理も政治も存在しない。ボドリヤールによれば、ニーチェは、「神の死」という言葉でまだ人々の注意を引きつけることができたが、われわれ最後の近代人は、歴史の消滅と政治の終わりに関わっている。(大学紛争が起こった)1968年の出来事は、事物の歴史的経過の中では最後の痙攣だった。その後では、「現実的なものの苦悶」、「大いなる吸収」、「惨めな消失」が始まった。
ボードリヤールのどの本も、まるで鎮魂曲のように読める。以前には現実と呼ばれたものは、彼にとっては、万能ですべてを支配するメディアの仮象の中に消えた。現実性は、それ自身のシミュレーションと区別できない。商品世界の映像の経済、広告のパンオプティコン的なテロは、世界にその刻印を押している。彼がその主著『シンボル的な交換と死』という主著で書いているように、一切は今や類似性に襲われている。貫徹された近代は、差異や逸脱を認めない。生活のメディア的なルーチンには、もはやいかなる外側も存在せず、一切は僅かにそれ自身のシミュレーションである。「常に同一という地獄」では、まず言葉とそのエネルギーが消え去る。次に主観とその愛が、最後にあらゆる歴史の根源である生きたもの自体が消え去る。
ボードリヤールは、確かに自分の理論に長くは我慢できなかった。ベルリンの壁の崩壊後、「歴史の復活」後、彼は新しくて古い実体の出現を、彼自身の理論の修正の出現を見張っていた。シミュレーションと人工性の彼方にある「真理」と「生」の出現を見張っていた。それと同時に、恐らく彼の知的経歴の中で最も神経をいらだたせる時代が始まった。ボードリヤールは、「神のごとき左翼」に弔鐘を鳴らし、新右翼にこびを売った。フランスの平等主義に対する彼の憎悪は、前例がない。西欧の消費社会が死ねばよいと彼は願った。ボードリヤールは、反啓蒙主義の黙示録記者に変身した。9.11のテロを、彼は、西欧の仮象まっただ中の歴史の合図、現実的なもの復帰だと理解した。反動的な予言者は、自分自身の予言を祝って、イスラム原理主義を抑圧された者達の再帰であり、空虚な自由への回答であると解釈した。ボードリヤールにとっては、原理主義は、「抗体の反逆」であって、アメリカとその生活形式に屈服し、自分の自己憎悪と傲慢と「知」を地の果てまで広めたグローバル化した西欧の一現象だった。
原理主義は、その初めから無垢な世界に復讐し、それを一様性という砂漠に変えた神なき西欧の暗黒面であると彼は主張し続けた。一言で言えば、原理主義的宗教は、そのもっとも神聖な価値を犠牲にし、暇つぶしと、消費の精神性と成長と商品の物神崇拝的な崇拝以外に何もなしえないある文明の情けない空虚の中で破裂したのだ。それは、挑発としての反ヒューマニズムであり、彼の初期の時代のいかがわしい残響である。だが、ボードリヤールの途方もなさは、「不正である」という以外の夢を夢見たことのない武装したメランコリーの一形式でもあった。彼の最も美しい著作の一つである『クール・メモリー』の中で、彼は「反駁されるという気違いじみた希望」と書き留めている。
ジャン・ボードリヤールは、自分は社会学者でもあると言い張った。社会学者の共同体のタブーを破り、歴史哲学的な考察や形而上学的思弁を恐れない社会学者だった。根拠のないアフォリズムと大きな自己意識でもって、彼は己の系列においても自分を道化にし、自分の同僚達を社会についてはいささか理解しているが、人生については何も知らず、結局なんにも理解していないと非難して激怒させた。一切が解体するように定められている近代について何も理解せず、究極の実存的現実つまり死について何も理解しないと非難した。
今週、火曜日、ジャン・ボードリヤールは、77才でパリで死去した。
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「アマチュア映画は、ケネディの死について論議を呼ぶ詳細を明らかにする」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2007年02月21日 | 人物
ジョン・F.ケネディの暗殺から40年以上経って、ダラスの大通りを通過中の大統領についての新し映像が明るみに出た。これまで公開されなかった個人の映画フィルムは、暗殺90秒前のケネディとジャックリーヌ夫人とを驚くほど近距離から撮影している。この映像は、陰謀説支持者の間の推測を煽るかもしれない。
シネカメラの愛好家であったジョージ・ジェフリーズの40秒間の音のない映像には、最初、大統領を待っている群衆が見られる。大統領の車列がカメラの前を通り過ぎるとき、当時のファースト・レディは、非常に鮮明な鋭さで、彼女がどれほど明るい顔で見物人のほうに視線を投げているかを示している。数瞬間の後、大統領の上着の首のところに大きな皺がよるのが認められる。これは陰謀説を唱える人たちが直ちに飛びついて議論する細部だ。
「私は、この映像をすでにインターネットで陰謀説の立場から見た」とダラスの「六階博物館」の館員のゲイリー・マックは言う。ジェフリーズと彼の義理の息子のウエイン・グラハムとは、このフィルムを同博物館に寄贈した。ケネディの背広の首の後ろで持ち上がっているので、遺体の貫通銃創と背広の首筋の箇所とは一致しない。まさにこの小さな細部が過去数十年間、陰謀説を唱える人達にただ一人の暗殺者しかいなかったという公式の声明を疑わせ、暗殺の背後に多くの射撃手による共謀があったと推測させる切っ掛けを与えた。
ケネディ大統領は、1963年11月22日に射殺された。犯人として、リー・ハーヴェイ・オズワルドが同定されたが、彼もそのすぐ後で射殺された。今日まで、ケネディは、ワシントンの暗黒街の陰謀あるいは兵器産業と結託した、軍の陰謀の犠牲であるという噂が絶えない。陰謀説によれば、マフィアや共産主義キューバも暗殺の背後にいた可能性がある。
[訳者の感想]ザップルーダーが撮った映像でも前から撃たれたと解釈される画面があったと思います。この事件、確かに、オズワルド一人が計画し、実行したと考えるのは難しいような気がします。
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「アンネの父親の手紙、アメリカで見つかる」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の記事。

2007年02月17日 | 人物
 自分の家族をナチから守るために、彼は何週間も入国ビザを求めて努力した。アンネ・フランクの父、オットー・フランクの空しい試みを驚くほどの詳しさで証明する手紙や記録文書が、最近、アメリカで見つかった。ニューヨークの「ユダヤ研究のためのYIVO研究所」が伝えるところによると、それらの文書は、研究所の保管倉庫で発見されたのだが、それらは殆ど30年間そこに置かれ忘れられた。
 約80ページで物語られるこの話は、その感動的な直接性を失っていない。この物語は、オットー・フランクが彼の学友であるナータン・シュトラウス・ジュニアに宛てた手紙から始まる。シュトラウスは、高位の官僚であり、エリノア・ルーズベルトの親しい友達であっただけでなく、ニューヨークのメイシー百貨店の共同所有者の息子として、多くの人間関係を持っていた。
 「君は私がお願いできる唯一の人間だ」とフランクは彼に書いた。だが、彼の入国申請に必要な5千ドルは、十分でなかった。これに続く手紙のやりとりや、役所の文書が記録しているように、繰り返し、彼は新たな障碍の前に立つことなる。
 身元保証人も金もフランク一家には役に立たなかった。なぜ米国がフランク夫妻とその二人の娘であるアンネとマルゴットの入国に対して関心を持つべきかという説明も役に立たなかった。それどころか、フランク一家に肩入れした国務長官も、入国規則を厳格にした官僚主義に対しては歯が立たなかった。
 オットー・フランクの最初の手紙が着いた一月後の1941年6月以降、ドイツに近い親戚のいる人物は誰も入国を許可されなかったのだ。アメリカ人達は、ナチがスパイを送り込むことを、ドイツに親戚を残した避難民が脅されてスパイを働くことを恐れていた。
だが、キューバに逃げようとしたオットー・フランクの試みも失敗した。先ず、自分自身のためのビザ申請は、確かに認められたが、それが彼の手に渡ったかどうかは、もはや確かめられない。それは無駄だったかもしれない。ヴィザ発行の数日後、ヒトラーは、アメリカに宣戦布告し、その後、キューバは、入国を取り消したからである。新しい発見は、これらの日々の心を締め付けるドラマを見せつける。「YIVO研究所」は、それらの記録文書を、文書館からの文書や写真で補って、3月20日まで展示する。
[訳者の感想]アンネ・フランクの父オットーがアメリカに移住しようとあらゆる努力をしていた証拠が65年後に明らかになったようです。
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「コロンブスは、残酷で貪欲で嘘つきだった」と題する『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の記事。

2006年12月10日 | 人物
クリストフォロ・コロンブスは、1506年5月20日に死んだ。今年で彼の死後500年経つことになる。予期しない文書館の発見が彼の人となりについての歴史像を根本的に変えたので、この記念の年は、静かに過ぎようとしている。シマンカスの文書館で、司書のイザベル・アギーレは、偶然に公開された文書束に属さない書類の束に出くわした。
それが1500年にフランシスコ・ボバディラがイザベラ女王とフェルディナンド国王の依頼でヒスパニオーラ島でのコロンブスが行状について行った調査についての記録の同時代の写しだることが彼女にはすぐ分かった。イザベル・アギーレは、文書を写し、コロンブス研究の最も重要な専門家の一人であるコンスエロ・ヴァレラに見せたところ、彼女はこの発見の意義を直ちに認めた。
ボバディラがこのような調査を行ったことは知られていた。なぜなら、さまざまの史料がそれについて語っていたからである。しかし、これらの史料は、すべてコロンブスの影響がかかっており、ボバディラの調査結果を否定していた。直ちにスペイン宮廷に送られた原文は、行方不明のままであった。ボバディラは、彼をスペインへ送り返そうとした艦隊が沈没した際に溺死したから、彼は自分の調査結果を自分で裏書きすることができなかった。何世紀もの間に作り上げられた偉大な発見者という教訓的な像は、それゆえ本質的な点で維持されたままであった。コンスエロ・ヴァレラが新たに発見された記録を去る5月にコロンブスの故郷ジェノアで彼の死後500年を記念して開かれた開かれた国際会議で公表するまでは。彼女は、文書の内容をかいつまんで報告し、包括的な研究の形で間もなく公刊すると告知した。この研究は最近公刊された。(Consuelo Valera, la caida de Cristobar Colon.El juicio de Bobadela.Edicion y transucription de Isabel Aguirre,Marcial Pons Historia,Madrid,2006).
ボバディラがアメリカに派遣された理由は、コロンブスの重大な職権乱用を非難する多くの訴えが国王の耳に入ったからだった。密使は、1500年8月23日にサン・ドミンゴに到着した。このとき、コロンブスは、島の別のところにいた。彼が審問官の到着を耳にしたとき、彼は抵抗を組織しようとしたが、自分がスペイン人移住者のところでもインディオのところでも支持を見出さないだろうということをすぐに見抜いた。それゆえ、彼はサン・ドミンゴに帰り、ボバディラのところに出頭した。ボバディラは、副王としての地位を解任するという国王の指令を手渡した。直ちに調査にとりかかった。そのために、彼は22人のスペイン人を召喚した。その中には、副王の忠実な召使いがおり、彼らはコロンブスの行状について証言をするように期待されていた。
尋問は、前代未聞の重大さをともなう出来事を明るみに出した。すべての僧職者によって一致してコロンブスに対して出された非難は、彼が宣教師による土着民の洗礼を組織的に妨げたということであった。それに対する同意を彼はさまざまの言い逃れによって拒んだ。その背後には、土着民を奴隷としてスペインに売り飛ばすという意図があった。それは彼らが洗礼を受けてしまうと、不可能だった。コロンブスの態度は、彼が生涯、信仰の闘志だという振りをし、その原住民をキリスト教徒に改宗させるために、新世界を発見したという功績を要求したことを考えると、特にスキャンダルだと見なされたに違いない。
新世界の発見者の深い信仰心が疑われたことは一度もなかった。
スペインの市場に提供された沢山の奴隷は、イザベラ女王を不安にしたが、コロンブスは、反乱者として戦争で捕虜となった未洗礼の原住民が奴隷として売られたのだと断言した。現実は違っているように見えた。コロンブスは、島の村々で手入れを行い、その際に、スペインから連れてきた犬が投入された。コロンブスは植民地でも残酷な統治を行ったが、そこでは、彼は彼の兄弟のディエゴとバルトロメオの助けを借りて本当の恐怖統治を行った。彼は常に自分の特権を乱用し、彼の部下達のための生活物資や支払いをけちり、移住民を文字通り飢えさせた。そのわけは、食糧はこの島では乏しく、スペインから持ってこられたものは、彼によって厳しく保管されたからである。それ以外に、彼は住民からその所有を奪い、抵抗を非常な過酷さで罰した。反抗的な住民を裁判なしで絞首刑にした。その際、彼は拷問を適用し、手や鼻や耳を切り取るというような体罰を加えた。それどころかある義理の兄弟を死ぬまで拷問した。その兄弟は宮廷にコロンブスの悪行に対する告訴状を手渡すのにフランス人の手を借りたのだった。
ボバディラの報告書は、他の史料やそれに基づく歴史記述が伝えてきた伝統的なコロンブス像とはかなりこととなる像を描いている。嘘つきで、腐敗して、残酷だったので、コロンブスは、つまらないミスに対して厳罰を加えたのに対して、ケチ、所有欲、拘束されない冨への欲望が彼の性格の主要な様相として際だっている。コロンブスの手紙の中では、しばしば、黄金の追求について語られているが、その際常に、失敗した場合には、宮廷の恩顧を失い、究極的にはより高い宗教的目標に奉仕する彼の金のかかる探検旅行のための金を失っただろうと断言するのが常であった。
調査が終わった後で、ボバディラは、コロンブスと彼の二人の兄弟を捕らえ、スペインに送った。そこで彼らは法廷に立たされる予定であった。西暦1500年11月20日、コロンブスは、カディスに到着したが、新世界の発見者として彼の声望が大きかったため、現地の役所は、彼が個人的に宮廷で自己弁護できるように、彼を釈放した。12月17日、彼はグラナダで国王夫妻に出迎えられ、そこで彼は告訴状に部分的に反論することができた。彼の発見者としての否定できない功績に基づいて、ボバディラによって押収された品物は返却された。だが、副王の職は取り戻すことができなかった。それは植民地における間違った統治に対する非難が信じられたという明らかな証拠である。彼が第一次のアメリカ旅行以来国王と結んだ約束に基づいて彼が手に入れた独占権は、剥奪された。他の航海者達にも新世界への発見の旅を企てることが許された。
コロンブスは、もう一度「大海の提督」とい肩書きでアメリカに航海した。この最後の航海は失敗に終わった。1504年に彼は病気になり、借金を抱えてスペインに帰国した。あらゆる暗黒面にもかかわらず、伝統的なコロンブス像のうちで、彼の企ての大胆さと、地平線上のただ一つの小さな雲から台風が近づいていることを予測した偉大な航海者の非常な大胆さが残ったのだ。
[訳者の感想]コロンブス像ももはや嘗ての栄光を失ったようです。この書評の筆者はロベルト・ザッペリという人です。
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「皇居に喜び--男子だった。」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2006年09月06日 | 人物
東京発:日本で40年以来始めてまた天皇家に親王が生まれた。秋篠宮妃紀子は、水曜日の朝、帝王切開で第三子を出産した。
これでもって、多くの日本人の願いが満たされた。というわけは、世界で最も古い王家は、次の次の世代の男系の後継者がいないために、断絶する危機に脅かされていたからだ。この男の子は、継承順位では、彼の伯父である浩宮と父の秋篠宮(40)の次になる。「これはいい知らせだ」と小泉純一郎首相は喜んだ。39才の母親と子供の健康状態は良好であると、日本のメディアは報道している。
「男の子ですって!嬉しいわ」とテレビに写った家庭の主婦は言う。新聞は号外を発行し、テレビは早朝から特別番組を放映している。出勤途中の多くの日本人は、ラジオやカーテレビで喜ばしいニュースを知った。「これで継承順位は確実になった」と男系継承の伝統の賛成者であるある大学教授は胸をなでおろしている。
政府は数ヶ月前まで男系継承者がいないために女性の天皇を導入する最初の一歩を企てていた。それでもって、雅子妃の娘愛子が、いつか皇位を継承する見込みを持ったであろうが。だが、彼女の従弟の誕生によって、これは阻まれる。にもかかわらず、かなり多くの人たちは、これで皇太子妃が重荷を下ろすことを期待している。
 彼女は、皇太子妃として皇位継承者を産まねばならないという重圧に苦しんできた。だが、多くの観察者は、皇太子妃に対する圧力は弱まる可能性は少ないと見ている。むしろ、彼女の義妹が未来の皇位継承者を産んだということによって、自分の地位が低下するのを体験しなければならないだろう。かなり前から病んでいる皇太子妃の支持者が恐れているのは、日本のメディアが今度は雅子と紀子とどちらがより良い妃殿下かという競争を始めることである。
 この男の子は秋篠宮妃紀子と秋篠宮との間にできた第三子である。赤ん坊は体重2,558グラム、身長48.8センチであると宮内庁は発表した。両親には既に佳子と真子という11才と14才の二人の娘がいる。愛育病院で生まれた彼女たちの弟は平均より少し小さいが、このことは赤ん坊の成長にとって問題ではない、と言われている。
[訳者の感想]『ヴェルト』紙に日本についての記事が載るのは余り多くはないのですが、今度のご出産については割合詳しい報道をしているという証拠に日本語に訳して見ました。ドイツ語には敬語がないのでちょっとぞんざいな表現になっています。
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「なぜ私は60年間の沈黙を破ったか」と題するギュンター・グラスとの対話。

2006年08月14日 | 人物
戦後六十一年経って、初めて作家ギュンター・グラスは、彼が戦争末期に武装SSの隊員であったと告白した。15才の少年として、彼はヒトラー青年団の一人として、Uボートの乗組員に志願し、17才で武装SSに属する「フルンツベルク」師団に勤務するよう召集された。九月に出版される予定の『タマネギの皮を剥くとき』という彼の思い出についての著作において、グラスは、ダンツィヒにおける彼の子供時代や彼がすんでのところで死にかけた兵士としての戦争の終わりの日日や捕虜時代や、戦後の混乱期を描いている。
--あなたの本には『タマネギの皮をむくとき』という表題がついています。この本はタマネギとどう関係があるのですか?
グラス:私はこの本の形式を見つけなければならず、それは非常に難しかったのです。われわれの回想やわれわれの自己イメージが欺瞞的でありうるし、実際に欺瞞的だということ自明の真理です。われわれは体験を美化し、劇的にし、逸話に纏め上げます。あらゆる文学的な回想が示す疑わしいものを私はこの形式において透けて見えるようにし、響かせようとしたのです。それゆえ、「タマネギ」なのです。タマネギの皮をむく場合、つまり書く場合には、皮を剥くたびに、文を書くたびに、何かが明らかに読み取り可能になります。そうすると、失われたものが再び生き生きしたものになるのです。
--どういう理由で、あなたは回想を書き留めることになったのですか?
グラス:それは難産だったとは言いません。ですが、私が回想を書き始めるまでは、私にはある抵抗を乗り越えることが必要でした。なぜならば、私には自伝に対する基本的な抗議があるからです。自伝には事態がかくあって他ではありえないということを読者に教え込もうとするものが多いのです。これを私はもっと開かれたものにしようと思いました。だから、この形式は私にとって大事なのです。
--あなたの本は、子供時代にまで遡っています。だが、あなたの一番古い思い出から始まるのでなくて、始まりは、あなたが12才で戦争が始まったときです。あなたはなぜこの節目を選んだのですか?
グラス:戦争は、中心点であり、主要な点です。それは私の子供時代の終わりを記し付けています。なぜならば、戦争とともに、初めて物事が外から家庭の中に働きかけるようになったからです。ポーランドの郵便局に勤めていた私の叔父は見かけなくなりました。彼はもはや私たちの家を訪問せず、私達は彼の子供達と遊ばなくなりました。それから彼は即決裁判で射殺されたと噂されました。それまで私の家に出入りしていた私の母のカシュバイ人の親戚は、突然、来ては迷惑だということになりました。戦争末期になって、大叔母さんが町へやった来て、農家かから農作物やもって来て、石油を持っていきました。それは田舎では手に入らなかったのです。こうして、物資が窮乏したために、再び家族的なまとまりが生まれました。ですが、私の両親たちは、一度は現実に同調したのです。
--あなたは、あなたの回想と物語作家としての才能のために繰り返し外からの刺激を求めています。タマネギやあなたのお好きなバルト海の琥珀はあなたの飛躍するのを助けています。あなたが材料を入手する家族の文書館はないのですか?
グラス:難民の子供なので、--私は現在80才になんなんとしていますが、相変わらず自分を難民の子と称しています--私は何も持っていません。私はこの本の中で、ボーデン湖やニュルンベルクで育った私の仲間は、相変わらず、学籍簿や子供時代のいろいろなものを持っています。私には何もないのです。全部失われました。私の母が保存していた数枚の写真がすべてです。それゆえ、私は不利な状況に置かれていたのですが、その状況は、物語を作る場合には、有利だと言うことが分かりました。
--子供時代の失われた宝の中には、あなたの最初の長編小説の原稿もあったのですね。
グラス:そうです。あれは13世紀の大空位時代を舞台にした歴史小説でした。でも私は自分の架空の人物には我慢ができませんでした。第一章の終わりに、彼らは皆死んでしまいました。だから書くことが無くなってしまった。だが、私はともかくも学んだのは、登場人物は経済的に扱わなければいけないということでした。トウラ・ポークリーフケやオスカー・マツェラート(『ブリキの太鼓』の主人公)は、最初の登場を生き延び、後の本の中に再び登場しました。
--あなたは、ニュルンベルク裁判でのバルドウーア・フォン・シーラッハの告白を聞いて、初めてドイツ人がユダヤ人の大量殺戮を犯したということを確信したと繰り返し書いています。だが、今になって、あなたは初めて自分が武装SSのメンバーだったことについて語っています。なぜ今ごろになってなのですか?
グラス:そのことが私を圧迫していたのです。60年間も沈黙してきたことが、私がこの本を書いた理由の一つです。これはいつか話されなければならなかった。
--あなたについて起こったことは、あなたはあなたが小隊にいた時に、初めて確認したのですか。それともあなたが召集令状を受け取ったときに、知ったのですか?
グラス:今でははっきりしません。というわけは、実際とうだったかが確かでないからです。召集令状の頭書で分かったのか、あるいは署名した人物の階級で分かったのか、それとも私がドレスデンに着いてから初めて気がついたのか。私にはもはや分かりません。
--当時、あなたは、武装SSであるということがどういうことを意味するかについて戦友と話したことはありませんでしたか?それはさいころのように振り回されていると感じた若い人たちの間でテーマではなかったのですか?
グラス:小隊では、私が本の中に書いたとおりでした。他には何もなかったのです。私は黄疸を持ち込みました。だが、それはニ、三週間続きました。(以下省略)
[訳者の感想]戦後ドイツ文学の代表者といえるギュンター・グラスが戦争末期、武装SSのメンバーだったと告白したことがドイツの知識人の間で大きな話題になっています。
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「キアヌ・リーヴスの悲劇的な人生」と題する『シドニー・モーニング・ポスト』紙の記事。

2006年06月08日 | 人物
この41歳になる映画俳優は、1999年に死産した娘の死と2001年に車の衝突で死んだ妻のジェニファー・サイムを相変わらず悼み続けていると言う。
サイムは、1997年にデヴィッド・リンチが監督した『ロスト・ハイウエイ』で小さな役を演じた。彼女とリーヴスは、2000年に離婚していた。
「愛する人たちが去ってしまったとき、われわれは孤独だ」と彼は雑誌記者に語った。
「僕は彼らの人生の一部であることができず、彼らが僕の人生の一部でなくなったことを淋しく思う。もし、彼らがここにいたら、現在はどんなだったろうか、僕たちは一緒に何をしただろうかと考えるんだ。決して起こらなかったいろいろな出来事があるのを残念に思う。」彼は「これはフェアでない。これは不条理だ」と付け加えた。
「僕はあまり孤独にならないように努力した。でもそれは格闘だったよ。僕は結婚したい。子供が欲しい。それは山の頂上にあるんだ。まず山に登り始めなくてはならない。やってみるよ。時間を呉れたまえ」と彼は言う。
 しかし、7月にオーストラリアで上映される『レイク・ハウス』でサンドラ・ブロックと主演するリーヴスは、自分が私生活で転換点に到達したと言う。
「いろいろな人を喪失した後では、人生には、再生の行為が必要だと思う」と彼は言う。
「われわれは打ちのめされることを拒否しなければならないのだ。人生は続いていくのだからね。」
 彼は最初の家を買った。それはある場所に根を生やすための新しい「やり直し」への一歩である。子供時代、彼は母のパトリシアが何度も引っ越しをし、そういう人生のやり方を採用するのを見てきた。
「僕は放浪生活をしてきたんだ」と彼は言う。
「僕の中にはちょっとジプシー風のところがあって、そういう生き方には意味があるように思える。僕は定住することができなかった。それから僕は40歳になった。あの誕生日は酷かったな。多分自分が成長したことを知っているからだ。」
[訳者の感想]テレビで上映された映画「マトリックス・リローデッド」などで見たキアヌ・リーヴスの人生がかなり悲劇的だったことをこの記事で知りました。彼は父親がハワイ生まれの中国人、母親がイギリス人だそうで、オーストラリアに住んでいたこともあるので、オーストラリア人が彼に興味を持つのかもしれません。
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「ニセ伯爵はアメリカ人であることが暴露された」と題する『ガーディンアン』紙の記事。

2006年05月10日 | 人物
 自分はバッキンガム伯爵という英国貴族であり、ハーロウとケンブリッッジ大学で教育を受け、領主の大邸宅を持っていると彼は主張した。だが、昨年、パスポート違反のかどで投獄されて以来、彼は自分の本当の身元を明かすことを拒否したのだ。
 昨日、警察は、イスラエル、南アフリカ、ドイツ、スイスにまで彼の痕跡をたどった結果、謎を解いたと確信した。「バッキンガム伯爵クリストファー・エドワードは、英国風アクセントでしゃべるのを好むフロリダ州クリーンウオーター出身のアルバート・ストップフォードである。」
 「この調査全体は、厄介なものだった。彼が身元を盗んだ男の赤ん坊の母親にとって、バッキンガム伯爵が本当は何者なのかをいぶかってきたこの男の前妻と子供達にとって、そして特にアメリカにいるチャールズ・ストップフォードの家族にとって」とケント州警察のポール・ブラットン刑事は言った。
 ストップフォードの本当の身元は、警察が指紋の照合をやった結果、確証された。彼は米国に移送されるかもしれない。
 ストップフォードの家族が彼に最後に会ったのは、1983年4月だった。翌年、彼は後に妻となるドイツ人のジョデイ某に自分は「クリス・バッキンガム」だと名乗った。
 ケント州警察での公表に先立って、ストップフォードの父親チャールズはスカイ・テレビに対して「写真を見た私の最初の感情は、自分の息子は生きているというホットした気持ちでした。次に感じたのは、これはいったい何だ。なぜあいつはこんなんことをするのかということです」と述べた。
[訳者の感情]他人になりすますというのは、そこから得られる利益とは別に、面白い経験かもしれません。アメリカ人が英国風の発音を真似るにはかなりの努力と才能が必要だったと思います。
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「謎めいたピアノマンは、バイエルン州の出身」と題する『ヴェルト』紙の記事。

2005年08月23日 | 人物
ロンドン・ベルリン発:「ピアノマン」を巡る謎が解けた。言葉を話さない正体不明の男がイギリスの精神病院に送られて、4ヶ月経つが、月曜日に、ベルリンのドイツ外務省は、彼がドイツ人であり、先週土曜日に自宅に帰ったと公表した。彼は20才でバイエルン州の出身であると政府筋は述べた。イギリスの新聞『デイリー・ミラー』によれば、この青年は、何ヶ月も医師達をペテンにかけた。彼は記憶喪失に罹ってもおらず、職業的なピアニストでもない。
この患者は、一度もしゃべらないで、ピアノをうまく弾いたので、「ピアノマン」というあだ名を付けられた。月曜日の『デイリー・ミラー』紙によれば、この青年は、先週、金曜日に突然、口を開いた。「あら、今日は私たちと話をするの?」と看護師が尋ねると、彼は、「うん、そうだよ」と答えた。それに引き続いて、彼は、彼が病院の人たちをだましたことを認めた、と『デイリー・ミラー』紙は述べている。このドイツ人は、以前に精神病患者と仕事をしたことがあり、彼らの行動の仕方をまねしたのである。
この男は、4月7日に、英国東南部の海浜都市シーアネスの海岸で、ずぶぬれになった黒い背広を着たままで海中から現れた。彼が意識が乱れており、言葉を発しなかったので、彼はダトフォードの病院に送られた。『デイリー・ミラー』紙によると、彼はパリで仕事を失った後に、自殺しようとしたのだそうだ。
病院の医師達は、彼に紙と鉛筆を与えた際、彼に音楽的才能があるのを見つけた。その後で彼はピアノを指さした。そこで彼をピアノのところへ連れて行くと、彼はピアノを弾き初め、二時間も弾き続けた。
この事件は、国際的にセンセーションを巻き起こし、英国の行方不明者に関するホットラインでは、この不思議な患者に関する情報が1,000件も寄せられた。ある時は、彼は、チェコの音楽家トマス・ストマドだと言われたり、別の場合には、フランス人の街頭音楽家と同一人だと言われた。
[訳者のコメント]「ピアノマン」の正体がようやく分かったようです。しかし、『ヴェルト』紙は、もっぱら、『デイリー・ミラー』紙の記事の引用に終わっていて、独自の取材は一切していません。ドイツの週刊誌あたりがそのうち追いかけるでしょう。
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