旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

阪大探検部が創部2年め(1964年)にして、海外遠征できた大きな理由のひとつ!

2021-03-01 | 探検
探検部初の海外遠征で訪れたボルネオ島・サラワク州の地図


遠征時ボルネオと日本の往復に乗船したノルウエイの貨物船(寄港した地で貨物の積み下ろしをするので、片道3週間かかった


貨物船での往複の航路


1960年代各大学の探検部の主要な活動は「秘境」といわれる国外の地域に調査隊を派遣することにあった。1ドルが360円の時代であり、日本はまだ発展途上の国であったので、如何に費用を調達するかはもちろん大きな問題の一つであったが、それだけでなく目指す目的地(国)へ入国することも容易ではなかった。
入国のためのビザは簡単にはおりない。目的地のそれなりの人物に身元保証人になってもらい、インビテーション・レターを発行してもらわねばならない。遠征隊を送り出すことを目指していたぼくには力強い秘策があった。大手商社に勤務していた姉の夫、つまり義兄が東南アジアとの貿易に従事していたので、強力な取引相手と懇意にしているに違いないと確信していた。義兄に相談すると近々大阪へボルネオから商談に来る華僑に会ってみるか・・・あっさり引き受けてくれたので、飛び上がるほどうれしかった。
建国したばかりのマレーシア連邦サラワク州の州都クチンで手広く商売をしていた華僑のKさんと一介の学生に過ぎなかったぼくは義兄のはからいで数週間後には面談の場を持つことができた。あらかじめ義兄が話を通してくれていたので、Kさんはすぐに身元保証人とインビテーション・レターを引き受けてくれ、その上クチン滞在中は彼の家で世話してくれることにまで話が進んだ。そしてビザがおりるように、当時サラワクの民族研究官として絶大な権力を持っていたサラワク博物館館長の英国人T氏との交渉まで引き受けてくれることになった。
紆余曲折はあったが、初の海外遠征隊はU助教授を隊長に1964年(昭和39年)に出発することができた。出発してからの行動は現在絶版になっているU先生との共著、古今書院発行の「ボルネオの人と風土」に詳しいが、海外遠征実現に最初の具体的な希望を与えてくれたのはいうまでもなく義兄である。初の海外遠征実現の影の功労者といって過言ではない。義兄は今年(2021年)2月9日に亡くなられた。「義兄(にい)さん。本当にありがとうございました。」 ひたすら義兄の冥福を祈るのみである。

下の画像は調査隊の報告書の表紙である。
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