奥アマゾンの先住民と聞くと、青年時代に読んだW.H. ハドスンの「緑の館」が思い浮かぶ。人知の及ばない熱帯林に咲き、そして滅びた哀切な恋物語である。自国の政争に巻き込まれ、逃亡することを余儀なくされた若きヴェネズエラ人(と言っても、スペイン系アメリカ人だが)アベルと、人跡まれなギアナの森の中で暮らす神秘的な少女リマとの出会いから始まり、彼女がなぜか先住民から恐れられていた存在であったことで悲劇的な幕引きになる。リマはおそらく先住民の娘だと思われるのになぜ仲間であるはずの人たちに殺されたのか、僕の心の中で長く深く沈んでいた疑問が表題の「ヤノマミ」という先住民のドキュメンタリーを見て少しわかったような気がした。
ヤノマミ~奥アマゾン原初の森に生きる~はNHKにより2009年に放映され、今年(2012年)10月に再放送されたものである。一方、書籍としてディレクターの国分拓氏による著書「ヤノマミ」が出版(2010年3月)されている。蝶好きの僕にとってはアマゾンといえば、熱帯の彩りも鮮やかな数々の蝶、青光りする翅表で有名なモルフォチョウの宝庫のイメージがまず浮かび、東南アジア島嶼のシジミチョウしか追わない僕でさえその魅力に誘われ一度だけだが、訪れたことがある。ヤノマミとは彼ら自身の言葉で「人間」という意味で、これは僕が学生時代に探検部の一員としてボルネオの先住民と一緒に暮らした時にダヤ(ッ)族の人たちがダヤ(ッ)とは「人」のことを指すのだと言っていたことと通ずるものがある。
ヤノマミはアマゾンの最も深いジャングル、ブラジルとヴェネズエラにまたがる深い森の中にに暮らす先住民で、推定二万五千人から三万人が二百以上の集落に分散して暮らしている。取材班が訪れた大きな家(シャボノ)は円形をしていて、真ん中は広場になっていて、167人が共同で暮らしていた。
シャボノがどのような構造をしているのかを示しているのが、下に掲げる画像である。アジアの熱帯地方で見られる高床式ではなく、平屋建てで寝る時はハンモックを使う。これによって高床と同じように毒虫などから身を守るのであろう。
しかし一旦下の画像のような土砂降りになると床はどうなるのか、地面に溝のような切れ込みが目につかなかったので、気にかかるところである。
国分氏は著書で述べている「原初の森は深く、美しかった。目が眩むほどの蝶が水辺で群れていた」
また「アマゾンで最も美しいといわれるモルフォが舞ってきた。僕らは一瞬目を奪われたが、女たちは誰一人、その青い蝶に関心を示さなかった」
ヤノマミたちは普段から見慣れているから、気にかけないのだろうか。ヤノマミには五十を超える雨の名がある。 アルマジロの雨、チョウの雨、樹の匂いの雨・・・ 彼らはちゃんと蝶を意識している。ヤノマミは考えている。 万物は精霊から成る。
精霊は動物の姿を借りて何かを告げるためにやってくる。
黄色の眼が鮮やかなシジミタテハの仲間と思われる小型の蝶が少年の肩に止まる。やがて、まるで何かを彼に告げるかのように頭髪に移動する。そして「死者からの伝言を運ぶ蝶もいる」のテロップが画面に流れる。巧みなカメラワークに思わず息を呑んだ。
ヤノマミの世界は精霊を中心に回っている。そして精霊と現世の人間との間に一線を画している。ヤノマミの女には出産後の子供の運命が握られている。男は一切関わることはない。子供を人として受け入れないと決めた母親は子供を精霊のまま天に返す。出産後すぐ子供の口に草を詰め、樹上にある白アリの巣に入れる。数日後子供に手を下した女が子供を食べた白アリの巣を燃やす。ヤノマミの女はいつか自分も死に天に昇れば子供と再会できると信じている。ショックな場面である。国分氏も自分の心身が壊れたという。そしてレヴィ・ストロースなる人が言ったという「人間が持つ暴力性と無垢さ」という言葉に救われる。人間は暴力性と無垢さを併せ持つからこそ素晴らしい。人間は神の子でも生まれながらの善人でもなく、暴力性と無垢さが同居するだけの生き物なのだ。
ここで初めに触れたハドスンの「緑の館」に戻る。先住民に樹上で焼き殺された少女リマは精霊となるべき運命の手を何かの事情ですり抜けて成長したが故に、先住民に憎悪され結局精霊として天に送られたのではないのだろうか。僕にはリマも自分の運命を甘受したように思えてならない。
ヤノマミ~奥アマゾン原初の森に生きる~はNHKにより2009年に放映され、今年(2012年)10月に再放送されたものである。一方、書籍としてディレクターの国分拓氏による著書「ヤノマミ」が出版(2010年3月)されている。蝶好きの僕にとってはアマゾンといえば、熱帯の彩りも鮮やかな数々の蝶、青光りする翅表で有名なモルフォチョウの宝庫のイメージがまず浮かび、東南アジア島嶼のシジミチョウしか追わない僕でさえその魅力に誘われ一度だけだが、訪れたことがある。ヤノマミとは彼ら自身の言葉で「人間」という意味で、これは僕が学生時代に探検部の一員としてボルネオの先住民と一緒に暮らした時にダヤ(ッ)族の人たちがダヤ(ッ)とは「人」のことを指すのだと言っていたことと通ずるものがある。
ヤノマミはアマゾンの最も深いジャングル、ブラジルとヴェネズエラにまたがる深い森の中にに暮らす先住民で、推定二万五千人から三万人が二百以上の集落に分散して暮らしている。取材班が訪れた大きな家(シャボノ)は円形をしていて、真ん中は広場になっていて、167人が共同で暮らしていた。
シャボノがどのような構造をしているのかを示しているのが、下に掲げる画像である。アジアの熱帯地方で見られる高床式ではなく、平屋建てで寝る時はハンモックを使う。これによって高床と同じように毒虫などから身を守るのであろう。
しかし一旦下の画像のような土砂降りになると床はどうなるのか、地面に溝のような切れ込みが目につかなかったので、気にかかるところである。
国分氏は著書で述べている「原初の森は深く、美しかった。目が眩むほどの蝶が水辺で群れていた」
また「アマゾンで最も美しいといわれるモルフォが舞ってきた。僕らは一瞬目を奪われたが、女たちは誰一人、その青い蝶に関心を示さなかった」
ヤノマミたちは普段から見慣れているから、気にかけないのだろうか。ヤノマミには五十を超える雨の名がある。 アルマジロの雨、チョウの雨、樹の匂いの雨・・・ 彼らはちゃんと蝶を意識している。ヤノマミは考えている。 万物は精霊から成る。
精霊は動物の姿を借りて何かを告げるためにやってくる。
黄色の眼が鮮やかなシジミタテハの仲間と思われる小型の蝶が少年の肩に止まる。やがて、まるで何かを彼に告げるかのように頭髪に移動する。そして「死者からの伝言を運ぶ蝶もいる」のテロップが画面に流れる。巧みなカメラワークに思わず息を呑んだ。
ヤノマミの世界は精霊を中心に回っている。そして精霊と現世の人間との間に一線を画している。ヤノマミの女には出産後の子供の運命が握られている。男は一切関わることはない。子供を人として受け入れないと決めた母親は子供を精霊のまま天に返す。出産後すぐ子供の口に草を詰め、樹上にある白アリの巣に入れる。数日後子供に手を下した女が子供を食べた白アリの巣を燃やす。ヤノマミの女はいつか自分も死に天に昇れば子供と再会できると信じている。ショックな場面である。国分氏も自分の心身が壊れたという。そしてレヴィ・ストロースなる人が言ったという「人間が持つ暴力性と無垢さ」という言葉に救われる。人間は暴力性と無垢さを併せ持つからこそ素晴らしい。人間は神の子でも生まれながらの善人でもなく、暴力性と無垢さが同居するだけの生き物なのだ。
ここで初めに触れたハドスンの「緑の館」に戻る。先住民に樹上で焼き殺された少女リマは精霊となるべき運命の手を何かの事情ですり抜けて成長したが故に、先住民に憎悪され結局精霊として天に送られたのではないのだろうか。僕にはリマも自分の運命を甘受したように思えてならない。