旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

インドネシア・ビアッ(ク)島(パプア州)の戦跡

2008-01-06 | 探検
昭和54年(1979年)ニューギニア島西部への蝶採集の帰途、ニューギニア島から西北方向にある熱帯雨林と白い砂浜に囲まれた東京都ほどの大きさの島、ビアッ(ク)島に降り立った。道ばたで敷物を広げて、唐辛子や野菜を売っていたりして、のどかな南の島の情緒がたっぷりただよっていた。

本来ならば数十分後には、アンボン島を経由してジャカルタに向け飛び立つ筈のガルーダ航空の飛行機がエンジントラブルのため、立ち往生してしまった。ジャカルタからの交換部品とエンジニアの到着を待つしかなく、翌日までビアッ(ク)島
滞在を余儀なくされた。

この島もまた、太平洋戦争で日本軍が占領した地で、飛行場の建設を進めていたが、1944年5月に上陸した連合軍との戦いで日本軍は壊滅、1万人以上が死亡した。

平坦な島で、日本軍はどのような防衛戦を強いられていたのか、不思議に感じていたが、島の南部にあって、現地の人々が代々住居としていた大きな洞窟を日本軍が占拠し、「西洞窟」と名付けて司令部として使っていたと知り、疑問が解けた。

現地の人の案内で「西洞窟」を訪れた。写真の右上2枚がそれで、最大約2千人の将兵がたてこもったという巨大な洞窟であった。遺骨は見あたらなかったが、飯ごうなどの遺留品が錆びて放置されていた。

日本国政府による「戦没日本人之碑」が建立されていたが、遺骨は多分、「西洞窟」を中心に収集されただけだったのだろう。多数の遺骨がまだ収集されずに残っているのが遺族の努力でわかり、平成19年(2007年)11月、厚生労働省の遺骨収集団が派遣され(写真、左側、朝日新聞記事)、島のあちこちから115体の遺骨を発見、現地で荼毘に付された。島北部で約4千人が死亡したとされているが、残念ながらその方面の収集はいまだ進んでいない。

深夜、故障したエンジンの調整のための爆音が響いてきて、まるで戦死者の魂の号泣を聞いているような思いをしたのが、悲しい記憶として生々しく残っている。

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