旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

ボルネオ島で太平洋戦争中に復活した首狩りの風習・3-3

2022-05-01 | 探検
一方、先住民にかくまわれていた米兵たちは徒歩でジャングルを一週間かけてハリソンに会いに行った。
       軍人として再びボルネオへやって来たトム・ハリソン

ハリソンは米兵たちを海岸線まで移動させて海路で脱出させるより、高原から空路で脱出させる作戦を選んだ。ところが先住民から滑走路用に使用してよいと示された場所はあいにく湿地であった。使用する機体は軽飛行機であったが、湿地では離着陸は不可能である。そこで先住民の協力を得て竹を板状に割り、湿地に敷いて滑走路を造った。

テスト飛行の結果、着陸出来ても離陸には距離が足りないのが分かり(離陸テストの時、ハリソンが乗った機体は離陸できずに横転したが、幸い彼を含めけが人は出なかった。)、さらに竹敷きの滑走路を伸ばし救出作戦に挑戦、1945年6月に無事米兵たちの空路を使っての救出に成功した。

            先住民の集落でのトム・ハリソン



ハリソンは連合軍からの本格的な進攻が始まるまで待つようとの命令を無視し、彼は先住民たちにゲリラ攻撃の開始を命じた。先住民たちに毒を塗った吹き矢での攻撃を初め、イギリスやオランダの植民地になってからは禁止されていた首狩りをゲリラ攻撃作戦として先住民に推奨。持ってきた日本兵の首に対して賞金を与えていた。さすがにこれらの行為は連合軍の中でも異端視されていたようである。

          竹敷きの滑走路脇に掲げられたどくろ


       日本軍憲兵隊長のどくろ・・・だとの説明であった。

ハリソンがクチンでわれわれ日本人に会いたくない、というよりも避けていたと感じたのはこういう経歴の持ち主だったからだと今にしてよく分かった次第である。

(画像は3-1の最初を除き、すべてナショナルジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)の「Headhunters of World War Ⅱ」のものを使用させていただいた)

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