旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

嵐の前の静謐・アポ山の「ミオ ウラオビフタオシジミ」

2008-09-12 | 
外務省の海外安全情報で「渡航の延期をお勧めします」になっているフィリピン・ミンダナオ島の北コタバト州に位置するアポ山へ1月に続いて、8月にも出かけた。以前に述べたように、キリスト教徒が人口の9割を占めるフィリピンであるが、ミンダナオ島ではイスラム教徒がスペイン植民地時代から抵抗を続けてきており、現在ではイスラム武装勢力「モロ・イスラム解放戦線(MILF)」が政府軍と闘争を続けている。

7月初旬に比政府と解放戦線の和平に向けた交渉が大詰めを迎えているとのニュースに接して、何とか良い方向に進展することを祈りながら、1月には出会えなかった、長女・美緒(みお)の名に因んだシジミチョウDacalana mio H. Hayashi, Schroeder & Treadawayミオ  ウラオビフタオシジミ)の写真を今回こそ撮ってやろうと、意気込んでアポ山行の準備を整えていた。

ところが出発直前に、和平交渉決裂かというニュースを読んで、これはちょっとヤバくなってきたなと感じたが、思い切って出かけた。現地では1月と同じようにフィリピン国軍の検問があったが、特に危険を感じずに山中を蝶を追って駆け回り、首尾よく目的の  ミオ ウラオビフタオシジミ ♂、♀の素敵な写真を撮ることが出来た。

ところが、帰国して4日後、2003年の停戦合意以降、最大の武力衝突が発生した。比国軍は2千人を動員、激しい戦闘が起き、比空軍の攻撃機が爆弾を落とし、約16万人の住民が避難した。もし今回のアポ山行がこの武力衝突の時期に重なっていれば、山中に立ち入ることは絶対に不可能だった訳で、運が良かったと胸をなでおろしている。

冒頭のアポ山の写真を見ると、数日後に空軍機が飛びまわる事態になるとは予想もつかない穏やかな姿をしている。正にタイトルの「嵐の前の静謐」の中のアポ山である。

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映画の中の蝶3、「コレクター」

2008-09-01 | 
オックスフォード大学仏文科に学んだジョン・ファウルズによって、1963年(昭和38年)に書かれた説「コレクター(The Collector)」は、「ローマの休日」で有名なウィリアム・ワイラー監督の手で1965年に映画化された。

この映画ほどわれわれ蝶仲間を困惑させたものはない。ただでさえ世間からは変人と見られがちなのに、ますます気味悪い存在に映るようになったに違いない。

社会でも職場でも孤立し、蝶収集が唯一の趣味という、うだつの上がらない銀行員の青年フレディがフットボールの賭けで大金を手に入れ、郊外に別荘を買い、彼の趣味に通じる計画を実行に移した。かねてから憧れていた美術学校に通う若くて美しい女性ミランダを誘拐し、地下室に監禁したのである・・・あたかも蝶を採集し、きれいに展翅し、標本箱に収めるかのように・・・

フレディは自分の夢の実現に懸命であった。彼は手中にしたミランダに対して紳士的に振る舞い、いつか彼女が自分を愛してくれるように願っていた。しかし暴力的な手段で誘拐され、自由を奪われたミランダが根本的に考え方の違う男との生活から逃げ出すために、色々と画策するのは当然の成り行きであった。育ちも、考えも、人生への取り組み方もまったく違う二人が、ある時は少し理解しあったかのように見えたかと思うと、憎しみ合い、心が離れてゆく様子を映画はたくみに描いてゆく。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて(THE CATCHER IN THE RYE)」を巡る会話は彼らの時代を映していて興味深い。

フレディがミランダを標本室に連れて行って、たくさんの蝶の標本を前にして、 It's my hobby.と言うのは当然としても、I am an entomologist. とはどういうつもりだ ! 字幕では「昆虫好きだ」とうまく訳していたが、会話通りだと「僕は昆虫学者なんだ」となって、この程度で学者気どりをするな ! と文句をつけたくなる。

ミランダが標本箱の中の展翅された蝶を覗き込んで「きれいね、でも悲しそう」 「何匹殺したの?」「多くの美しい命を絶ったのね」とつぶやく。これらの言葉は僕の胸にグサリと突き刺さった。

僕が学生時代に蝶を採集していた時、通りがかった若い女性登山者が興味深そうに近寄ってきた。僕は捕虫網の中で羽ばたいている蝶の胸部を指でそっと押えて殺した。これは僕にとっては標本にするための当たり前の行為であったが、彼女は「かわいそうに・・・」という言葉を残して立ち去った。今まで何気なくしていたことなのに、僕はこの一言にとてもショックを受けて、心の痛む思いで山を下った。この出来事が僕を単なる収集ではなく、研究のための収集へと舵を変えるきっかけを作ってくれた。

新種の蝶を見つけよう。そして、自分の手で記載論文を書こう。そうすれば蝶を殺すことは無意味な殺戮ではなくなる。もし山で出会った女性がこの文章を読めば、何と自分勝手な理屈 ! と、また非難されるかも知れないが、彼女のおかげで一介のコレクターに終わることなく、アマチュアながら蝶研究の道に進み、大英(自然史)博物館に留学し、40種近い新種を発見、記載することが出来たのである。行きずりの人であったのに、僕の人生をかくも変え、僕に本当の生きがいを教えてくれることになった彼女に何と感謝してよいかわからない。

さて、話は映画に戻るが、フレディとミランダの関係は様々に揺れ動き、観客はストーリーの息詰まる展開に引き込まれる。結局、逃走をはかったミランダは肺炎にかかって、ついに自由の身になることがかなわぬまま、息をひきとってしまう。何ともやり切れない結末である。ここでフレディが自分の成した行為を深く反省し、馬鹿げた夢の実現を断念すれば、まだ救いはあったのだが、ミランダのケースを教訓に新たな獲物に狙いを付ける場面で映画は終わる。ところどころで、フレディに共感を抱き始めた観客も、最後に彼の異常さは救い難いものになってしまったことを認識させられ、絶望感にうちひしがれてしまう。

サイコサスペンスの先駆的な作品とされる所以である。

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