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旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

大阪大学探検部の古式ゆかしきホームページの表紙画像がリニューアルされた!

2024-04-01 | 探検

これがタイトルにあるリニューアルされた表紙画像である。明るく美しい自然を活写していて魅了される


ホームページに以前からある探検部の宣伝画像である。探検部員の集合写真として秀逸である

ホームページ中の文言によれば「2024年3月現在、部員は133名で、文理、男女(6:4)、キャンパスを問わず在籍している」とのことである。

後輩の皆様の健闘に大いに感謝しています。

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大阪大学探検部創部60周年に当たり記念大会を開催

2024-01-01 | 探検
 阪大探検部が産声をあげたのが、昭和38年(1963年)。部員はわずか20名足らずでスタートしたが、翌年のボルネオ遠征を筆頭に少人数の班に分かれて国内外の秘境(当時はまだ残っていた)を訪ねる活動を始めた。
時代の変化と共に海洋班の中でスキューバダイビングをする部員があらわれ、後にスキューバダイビング部として独立、探検部とは袂を分かった。
 昨年の新入生(63期生)は26名で男女比3:1。部員数は120名で近年はほぼこれぐらいの部員で活動している。今は洞窟探検、登山、カヌー、ラフティングなど多岐にわたる活動を行っている。
 創部50年記念大会から5年ごとに記念大会を開催することになり、昨年11月12日、吹田市の大阪メトロ御堂筋線江坂駅近くにある15期のI君経営のホテルで創部60周年記念大会を開催した。OB45名と現役部員30名、総勢75名が集った。現役部員の参加希望は多かったのだが、会場の関係で制限せざるをえなかった。僕たち1期生は6名で幸い全員生存しているが、出席者は4名になった。
 僕たちが創部した時にはこんなに長く探検部が続くとは予想もしていなかった。後輩たちが伝統の火を絶やすまいと連綿として続けてくれた努力の成果に感謝と誇りの気持ちで胸がいっぱいになった。現役、OBの方たちの熱のこもった報告と講演を聞いていると探検部精神を忘れずにがんばってくれているのがよくわかった。世代をこえての交流の現場に立って「探検部を創るのに関わって良かった」・・・感動の思いをこらえることが出来なかった。

下に当日の模様の画像を掲出しますのでどうかご覧ください。




60周年記念品のTシャツ(表・裏)


































早速12月16日には阪大探検部主催で北極冒険家 荻田泰永氏の特別講演が豊中キャンパスの大阪大学会館で催された。


おまけ! 近所のお好み焼き屋さんも60周年でした((´∀`*))

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3-3 知の探検・茸を食草とする蝶がいた!

2023-05-01 | 探検
「知の探検 3-1,3-2」で日本とモンゴルには茸を幼虫時代に食べる蛾が存在することを探求してきた。一方、幼虫時代に茸を食べる蝶の記録は見つけられなくて、茸を食草とする蝶はいないだろうとの思いが、長期間ぼくの頭の中を占めてきた。2017年、はるか離れた中米のコスタリカ(下の地図)で茸を食草とする蝶(それもぼくの専門分野のシジミチョウ・・・但し、ぼくの専門は東南アジアのシジミチョウ)が見つかっていたのだ


2020年にコスタリカ在の探検昆虫学者・西田賢司氏を第一筆者とする研究論文「One side makes you taller: a mushroom-eating butterfly cater ( Lycaenidae) in Costa Rica」が発表されて、茸を食べる(食草とする)蝶なんていないだろうとのぼくの思いは消し飛んでしまった。彼は研究室兼住居の前の林縁に落ちていた「サルノコシカケ科のキノコ」を食べていた幼虫を発見したのだ。たぶん傍に生えていた樹に着生していたキノコだろう。(下の写真)けっこう大きなキノコであるが、無視せずに拾い上げて観察したのだから、さすが西田氏である。
キノコに付いていたシジミの幼虫である。

「知の探検 3-1」の中でムラサキアツバはカワラタケ(サルノコシカケ科)をも食するとの記述があったのを記憶にとどめておいてくださっているだろうか。偶然にも日本の蛾とコスタリカの蝶とがサルノコシカケ科のキノコを食草としている事実にやはり鱗翅目(蝶・蛾)という同じグループに属するのもむべなるかな・・・との思いを強くした。

成虫、すなわち羽化したシジミチョウ(メス)である。学名はElectrostrymon denarius  西田氏は和名を「ドウイロチュウベイ(銅色中米)カラスシジミ」と呼んでいる。家の近くで幼虫が見つかるぐらいだから普通種であろう。西田氏はこれをきっかけにこのシジミチョウをいろいろな視点から調査や研究をしてみたら面白いのではないか・・・それこそが論文のタイトルにふさわしいと思っておられる。キノコを食べる蝶 すばらしい発見である。
本稿中、地図を除く画像は西田氏他の論文から借用させていただいた。ここに記して厚くお礼を申し上げる。

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3-2 知の探検・蒙古に茸を食草とする蝶は存在するのか? (その2)

2023-04-01 | 探検
前回で述べた結果、やはり茸を食草とする鱗翅目(蝶・蛾)は蝶ではなくて蛾のようであるとわかったところで、本題の「茸を食草とする蒙古の蛾は?」に移ることにする。


モンゴル(蒙古)では上掲のような草原(森林ステップ、ステップ)が国土の60%を占めている。モンゴルへ茸栽培の指導に行かれた日本人研究者の「モウコシメジとモンゴルのきのこ事情」というホームページが目に止まったので、ひょっとすると「草原の記」の蒙古茸はモウコシメジを指しているのでは、と思い読んでみた・・・モウコシメジは、草原に発生するきのこで、全体は白色で傘の径が5~15cm、表面は平滑だが後に亀裂を生じる。古い子実体では褐色を帯びる。傘の周辺は幼時内側に巻きこんでいるが、後に開く。ヒダは白い。柄は短く、長さ2~7cmで、ずんぐりしている。柄は中実で肉質はしっかりしている。乾燥すると独特の香りがある。発生の時期には、遠くからもきのこ狩りに自動車でやってくる。モウコシメジの生息地は、標高600~1,800mで、土壌中に大量の腐植質(18~20%)を含んでいる所が良いとされる。生息地では、6~8月に年降水量の60~70%が集中し、8月上旬が子実体発生の最盛期になる。草原では放牧を行っているので、家畜の糞や枯れた草が発酵してできた腐植質がモウコシメジの絶好の栄養源になっている。モウコシメジの子実体は下に示した画像のように草原上にリング状(菌輪)に発生する。 

モウコシメジのシロ(菌糸層)は、外側へと生育場所を移動するので、リングの直径は毎年大きくなる。モンゴルでは均一な条件の草原が続いているので、直径が数十mの見事なリングが遠くからも数多く見られる。現地人は、馬に乗ってモウコシメジのありかであるリングを見つけ、採りに行くという。ところでモウコシメジ以外のきのこは、もったいないことに、ほとんど利用されていない。・・・
上掲のオレンジ色で表した文章を読むと、前回(3-1)に引用した「草原の記」の蒙古茸はこのモウコシメジを指していると考えて間違いないと思われた。残念ながらこの研究者は蝶・蛾の研究者ではないので、当然蝶や蛾への言及はない。
インターネットを駆使してモウコシメジを食草とする蛾の正体を探ったが、検索で引っかかる材料は残念ながら出てこなかった。モウコシメジを食べる蛾の存在は確実であるが、茸を食べる蝶はやはりいないだろうなとの思いを強く抱きながら今回の「知の探検」を終えようと思った時に大きなニュースが入った。次回の「3-3 知の探検・・・」をお楽しみに。

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3ー1 知の探検・蒙古に茸を食草とする蝶は存在するのか? (その1)

2023-03-01 | 探検

司馬遼太郎の作品に蒙古という国とモンゴル民族を主題とした「草原の記」がある。全編大変興味深い内容が書かれているが、蝶好きのぼくにとって特に見逃せない部分があった。歴史学ではなく当然自然科学の分野であった。ぼくが注目した部分を少し長くて恐縮だが、次に紹介する。

「いまの日本は蒙古茸(もうこきのこ)だ」
と、当時の中国軍閥の親分のひとりが言ったということを、戦後、なにかの本で読んだことがある。一夜で大きくなり、いずれ消える、というのである。
 それほど、河本大作や板垣・石原たちが、統帥権的冒険に乗りだしてからの日本は、唐突に膨れあがり、それまでの日本の国家行動とは別趣の観があった。いずれ消えるとは、日本もろともにほろびるということらしかった。
 蒙古茸という比喩が、いかにも田舎の軍閥のぬしの言いそうなことで、なにやらおかしい。もっとも、当初、それを読んだとき、私はこの乾いた草原に茸がはえるなどは、まったく知らなかった。
 しかし、雲が湧く以上は、ときに雨がふる。茸がはえてもおかしくはなさそうである。
 ただし、茸にとってはいそがしいにちがいない。天地が湿るやいなや、一夜で大きくならねばならず、でなければ、つぎの日は乾いて枯れてしまいそうにおもわれた。
 この植物のことを私は何十年もわすれていて、1990年にツェベクマさんに再会したとき、一袋の食べものを頂戴した。あけると、灰色の乾燥した茸であった。
「蒙古茸です」
 ツェベクマさんがいった。宝石のように稀少で、珍味だという。
 モンゴル人たちは、サークルをなしているこの茸を遠くからみつけるという。かれらの視力の強さは解剖学的に目の構造がちがうのかとおもえるほどで、雨後、騎走しながら地平線のあたりのかすかな色彩の変化をみつけ、数キロ走って獲る。
「蝶もすばやいんですよ」
 と、鯉渕教授が、教えてくれた。蒙古茸があがるや、蝶たちは飛んできて卵をうみつけるという。鯉渕教授は、亜細亜大学の研究室に乾燥茸をつつんでおいておいたところ、ある日、研究室いっぱいに蝶が飛び舞っていて閉口したらしい。
“満州”は、昭和初年の参謀本部にとっても、蝶の大量孵化をもふくめた蒙古茸のようなものだったかもしれない。

鯉渕教授は生物学ではなく、モンゴル語学の先生なので、この部分を読んで蝶ではなく蛾ではないかと思った。新潮文庫で「草原の記」を読んだ当時(2010年)、茸を食草とする蝶の存在を聞いたことがなかったからである。その後折りに触れて数名の蝶・蛾研究者に尋ねてみたが、どなたも茸を食べる(食草とする)蝶(の幼虫)の存在はご存知なかった。
では蛾の種名は 興味は膨らんだ。残念ながらモンゴル在住の専門家とは縁がなかったので、モンゴルの夜蛾を調べておられる日本のK氏に問い合わせた。モンゴルで茸を食する蛾はご存知なかったが、日本産の蛾は3種ほどいることを教えていただいた。ムラサキアツバ Diomea cre-mata  ナミグルマアツバAnatatha lignea ヨコハマセニジモンアツバ Paragona multisigna-ta などがシイタケの害虫として報告されているとのことであった。このうち古くからシイタケの害虫として知られているムラサキアツバはカワラタケ(サルノコシカケ科)をも食するとの記述があった。サルノコシカケ科の茸を食する蛾の幼虫がいるという事実を記憶にとどめておいていただければ幸いである。下に上述の蛾を3種参考のために図示する。

ムラサキアツバ


ナミグルマアツバ


ヨコハマセニジモンアツバ

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ボルネオ島で太平洋戦争中に復活した首狩りの風習・3-3

2022-05-01 | 探検
一方、先住民にかくまわれていた米兵たちは徒歩でジャングルを一週間かけてハリソンに会いに行った。
       軍人として再びボルネオへやって来たトム・ハリソン

ハリソンは米兵たちを海岸線まで移動させて海路で脱出させるより、高原から空路で脱出させる作戦を選んだ。ところが先住民から滑走路用に使用してよいと示された場所はあいにく湿地であった。使用する機体は軽飛行機であったが、湿地では離着陸は不可能である。そこで先住民の協力を得て竹を板状に割り、湿地に敷いて滑走路を造った。

テスト飛行の結果、着陸出来ても離陸には距離が足りないのが分かり(離陸テストの時、ハリソンが乗った機体は離陸できずに横転したが、幸い彼を含めけが人は出なかった。)、さらに竹敷きの滑走路を伸ばし救出作戦に挑戦、1945年6月に無事米兵たちの空路を使っての救出に成功した。

            先住民の集落でのトム・ハリソン



ハリソンは連合軍からの本格的な進攻が始まるまで待つようとの命令を無視し、彼は先住民たちにゲリラ攻撃の開始を命じた。先住民たちに毒を塗った吹き矢での攻撃を初め、イギリスやオランダの植民地になってからは禁止されていた首狩りをゲリラ攻撃作戦として先住民に推奨。持ってきた日本兵の首に対して賞金を与えていた。さすがにこれらの行為は連合軍の中でも異端視されていたようである。

          竹敷きの滑走路脇に掲げられたどくろ


       日本軍憲兵隊長のどくろ・・・だとの説明であった。

ハリソンがクチンでわれわれ日本人に会いたくない、というよりも避けていたと感じたのはこういう経歴の持ち主だったからだと今にしてよく分かった次第である。

(画像は3-1の最初を除き、すべてナショナルジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)の「Headhunters of World War Ⅱ」のものを使用させていただいた)

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ボルネオ島で太平洋戦争中に復活した首狩りの風習・3-2

2022-04-01 | 探検
2019年、ナショナルジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)のテレビ番組で「Headh-unters of World War Ⅱ」のタイトルを目にして、閃くものがあった。ひょっとしてトム・ハリソン(以下、敬称略)のことが出て来るかも・・・!
「出て来るかも」どころか、彼を主体に描かれたドキュメンタリー風の映画であった。1944年11月、日本海軍の空母がブルネイに向かっている(のちのレイテ島沖海戦に参加するためと思われる)との情報で米軍のB24爆撃機が攻撃のため出動、日本軍の対空砲火を浴びて1機が墜落し、数人がパラシュートでボルネオ山中に降下し生き残った米兵たちは先住民にかくまわれた。

B24墜落地点

彼らを救うために英軍将校が送り込まれた。この英軍将校がトム・ハリソンであった。

彼はオックスフォード大学の探検隊の一員としてボルネオに行き、先住民と暮らし、彼らの生活や習慣、伝統をよく知り、入れ墨までしていた。

現地のことをよく知るハリソンを英軍はボルネオ奪還のための強力な人材として起用していた。英軍少佐になっていたハリソンはオーストラリアの特殊部隊と協力し、1945年3月ボルネオ島北西中央部の先住民ケラビット族が支配する高原近くにパラシュートで降下、対日ゲリラ戦に協力するよう彼らに医薬品を配った。


(画像は3-1の最初を除き、すべてナショナルジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)の「Headhunters of World War Ⅱ」のものを使用させていただいた)

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ボルネオ島で太平洋戦争中に復活した首狩りの風習・3-1

2022-03-01 | 探検
阪大探検部一期生だった僕は1964年(昭和39年)、探検部初の海外遠征隊の一員としてボルネオ・サラワク州へ出かけた。ノルウエーの貨物船で下の図に示した航路を取ってサラワク州のクチンへ行った。

元英国植民地のマレー半島の国々とボルネオ島の北ボルネオとサラワクが合併してマレーシアなる国になったばかりでサラワク州を訪問(入国)するためにはビザの取得が必要であった。
ビザ取得のためのInvitation Letterは商社員だった義兄の商売相手のサラワクの州都クチンの華僑が出してくれていてビザ取得に何の問題もないはずなのに一向にビザがおりない。
華僑に問い合わせると、クチンにあるサラワク博物館館長の英国人トム・ハリソン(Tom Harrisson)氏がOKをしないからのようだった。遠征隊からは直接ハリソン氏に手紙を出し、華僑がハリソン氏に何度もお願いに行ってくれたおかげで予定よりずいぶん遅れたが、ようやくビザがおりて日本を後にすることが出来た。

若き日のトム・ハリソン氏

クチンに到着してから博物館を訪問するたびにハリソン氏との接触を試みたが、館員は「彼は不在だ」とか何やかや理由をつけて結局一度も会うことが出来なかった。遠征隊の隊長の海野先生と僕の共著「ボルネオの人と風土」の中で触れたように、彼は1932年にオックスフォード大学探検隊の一員としてボルネオに来て先住民と知り合い、太平洋戦争末期にパラシュートでボルネオの高原に降下し、先住民に武器弾薬を与えて日本軍を攻撃させた強者で、こんな経歴ゆえに日本人には会いたくないのだろうと勝手に想像していた。

若き日のトム・ハリソン氏と仲間たち


(画像は3-1の最初を除き、すべてナショナルジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)の「Headhunters of World War Ⅱ」のものを使用させていただいた)

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阪大探検部が創部2年め(1964年)にして、海外遠征できた大きな理由のひとつ!

2021-03-01 | 探検
探検部初の海外遠征で訪れたボルネオ島・サラワク州の地図


遠征時ボルネオと日本の往復に乗船したノルウエイの貨物船(寄港した地で貨物の積み下ろしをするので、片道3週間かかった


貨物船での往複の航路


1960年代各大学の探検部の主要な活動は「秘境」といわれる国外の地域に調査隊を派遣することにあった。1ドルが360円の時代であり、日本はまだ発展途上の国であったので、如何に費用を調達するかはもちろん大きな問題の一つであったが、それだけでなく目指す目的地(国)へ入国することも容易ではなかった。
入国のためのビザは簡単にはおりない。目的地のそれなりの人物に身元保証人になってもらい、インビテーション・レターを発行してもらわねばならない。遠征隊を送り出すことを目指していたぼくには力強い秘策があった。大手商社に勤務していた姉の夫、つまり義兄が東南アジアとの貿易に従事していたので、強力な取引相手と懇意にしているに違いないと確信していた。義兄に相談すると近々大阪へボルネオから商談に来る華僑に会ってみるか・・・あっさり引き受けてくれたので、飛び上がるほどうれしかった。
建国したばかりのマレーシア連邦サラワク州の州都クチンで手広く商売をしていた華僑のKさんと一介の学生に過ぎなかったぼくは義兄のはからいで数週間後には面談の場を持つことができた。あらかじめ義兄が話を通してくれていたので、Kさんはすぐに身元保証人とインビテーション・レターを引き受けてくれ、その上クチン滞在中は彼の家で世話してくれることにまで話が進んだ。そしてビザがおりるように、当時サラワクの民族研究官として絶大な権力を持っていたサラワク博物館館長の英国人T氏との交渉まで引き受けてくれることになった。
紆余曲折はあったが、初の海外遠征隊はU助教授を隊長に1964年(昭和39年)に出発することができた。出発してからの行動は現在絶版になっているU先生との共著、古今書院発行の「ボルネオの人と風土」に詳しいが、海外遠征実現に最初の具体的な希望を与えてくれたのはいうまでもなく義兄である。初の海外遠征実現の影の功労者といって過言ではない。義兄は今年(2021年)2月9日に亡くなられた。「義兄(にい)さん。本当にありがとうございました。」 ひたすら義兄の冥福を祈るのみである。

下の画像は調査隊の報告書の表紙である。

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ルソンカラスアゲハ撮影・探検紀行

2020-01-01 | 探検
フィリピン・マニラの暑さを逃れる避暑地として知られるルソン島北部山岳地帯にあるバギオに通ずる険しい山々を這い上がるベンゲット道路が日本人の並々ならぬ努力によって完成したのは明治30年代後半で、織田作之助の小説「わが町」を読むと難工事の様子がよくわかる。そのバギオのサント・トーマス山でルソンカラスアゲハAchillides chikae)と呼ばれる美しい蝶が1965年(昭和40年)に発見され、若かった僕の心をときめかせた。
その後、近隣の高山(アマヤオ山、イヌリタン山)にも生息することが確認された。


現在はワシントン条約附属書Ⅰに指定され採集や標本の所有が厳しく規制されているので、現状を探るための観察行を計画。サント・トーマスは発見当時、既に頂上まで車道があったので今も生息しているとは思えず、しかも頂上付近は立ち入り禁止になっているので、別の州のアクセスが容易な町はずれの小高い丘で、1~2mの高さを緩やかに飛んでいるとの記述に出会い、高齢の僕でもOKだと2019年6月後半に出かけた。

現地の山岳住民イフガオ族数人をガイドに登り始めてびっくり 記述とは大違いの道なき急登のルートが待ち構えていた。先行のガイドたちが山刀で回りの枝や下草を払い、道を作りながらの登山で、息を切らしながらひたすら登った。文献に書かれていたのとは違って飛翔速度は早く、高く飛ぶのでカメラのフレーム内に入ってくれない。飽くなき執念の結果の一部の写真を下に掲げる。詳細な撮影紀行は日本蝶類科学学会会誌「Butterfly Science」No.15(2019年11月1日発行)に掲載されている。

ルソンカラスアゲハ・オス


交尾のために高速でメスを追いかけるオス


ようやく撮影出来た飛行中のオス


ルソンカラスアゲハ雌雄の追尾行動だと思い撮った写真を拡大して驚いた。モンキアゲハがルソンカラスアゲハを追いかけていたのだ。付近に両種の食草のハマセンダンと思われる樹があったので、縄張り争いの行動だった可能性が高い。


鳥に捕食されたと思われるルソンカラスアゲハの残骸が地面に落ちていた。       

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55年前にボルネオで「日清焼きそば」を食べました!

2019-05-01 | 探検
昨年(2018年)10月から始まった連続テレビ小説「まんぷく」・・・言わずと知れた日清食品の社長、安藤百福氏の生き方を彷彿させるストーリーを特別な思いで視聴した。僕の高校時代に発売されたチキンラーメンは子供ごころに少し高いなと思ったけど、あまりのおいしさに母がカートン買いしてくれたチキンラーメンを夜食の楽しみに受験勉強に励んだことを懐かしく思い出した。大学時代、探検部の山行では、朝・昼食の調理と跡片付けの手間を短縮するためにチキンラーメンは大活躍し、体力維持のため夕食はしっかり調理したものを食べたが、朝・夕食はチキンラーメンを常食とするほどで大変重宝したものである。
1964年(昭和39年)探検部からボルネオ島へ学術調査隊を派遣することになり、当時日本は発展途上にあり、まだまだ貧しく海外遠征は高嶺の花であったので遠征資金のみならず様々な物資の調達も寄付に頼らざるを得なかった。
食料が不足した場合に備えて日清食品にも白羽の矢を立て、現物の寄付をお願いに行った。ちょうど日清焼きそばの中毒事件(これは小売店の在庫管理のミスで、真夏に日の当たる店先に商品を積み上げて売っていたので古くなった商品の油が酸化し、食中毒事件に発展してしまった)が発生し、会社には回収した商品が積まれていた。そこへ寄付をお願いに行ったので気前よくカートンごといただくことが出来た。もちろん中毒の心配のない製造後日数の浅い商品であった。創部して間もない何の実績もない我が探検部に返品商品とはいえ援助していただき、とてもありがたかった。
かくて他の様々な物資と共にはるばるボルネオへ日清やきそばは旅立ったのである。原住民の村で我らと原住民で味わった日清焼きそばのおいしかったこと もちろん原住民の人たちにも上々の評判であった。まだこのようなインスタント食品が海外では一般的でなかった時代にボルネオで味わった人々がいたというひそかなエピソードを紹介した。当時の包装袋はもちろん残っていないので、下に現在販売されている日清焼きそばの袋の画像を掲げた。


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大阪大学探検部創部55周年記念大会(2018年11月24日)

2019-01-01 | 探検
阪大探検部が産声をあげたのが、昭和38年(1964年)。下は探検部の部旗です。

翌年には人文地理学の海野一隆先生を隊長に初の海外遠征隊をボルネオに送り出しました。僕も一員として加わり原住民の村に住み込んで先生の調査の手伝いをしながら、初めて観る熱帯の美しい蝶を夢中になって追いかけました。以来東南アジアのシジミチョウに魅せられ55年が過ぎました。
5年前には11月初めの大学祭に合わせ50周年記念大会を開きました。今回は昨年(2018年)11月24日、豊中キャンパスの大阪大学会館アセンブリー・ホールで創部55周年記念大会を開催しました。
下の建物は大阪大学会館です。

会場入り口(アセンブリー・ホール)の光景です。


OBと現役部員が半々、総勢90名余の仲間が集いました。現役部員がたくさん参加してくれたのには感激しました。1年生部員は58期生になります。僕たち1期生にとってちょうど孫の世代に当たります。
僕たちが創部した時にはこんなに長く探検部が続くとは想像もしていませんでした。後輩たちが伝統の火を絶やすまいと連綿として続けてくれた努力の成果に感謝と誇りの気持ちで胸がいっぱいになりました。



本大会の記念に下掲の画像の左胸に今の阪大の学章を取り入れた探検部のマーク、背中に3年生B君の力作の55周年を飾る素晴らしいデザインのTシャツ(OB用に紫、現役用は黒、バーガンディー、ロイヤルブルー、グリーンの4色が作られ、現役諸君の大半がすでに着用してくれていた)と4年生O君編集の200ページの厚さの部誌「あぷろうち・55周年記念特別復刊号」が配られた。




現役、OBの代表たちの熱のこもった報告と講演(僕も下に掲げる画像の如く「探検は蝶を追う・・・ことから始まった」とのタイトルでパワーポイントを使って話をしました。)に続き、


懇親会のため学内のレストラン(下に掲げる画像)へ移動しました。世代をこえての交流の現場に立って「探検部を創るのに関わって良かった」・・・感動の思いをこらえることが出来ませんでした。

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大阪大学探検部OB・ミニ総会・2016年11月13~14日

2016-12-01 | 探検

3年前、すなわち2013年秋、探検部OB1~7期生が創部50年を記念して、大学祭に合わせ集まった。懐かしの部室を訪れ、探検部の模擬店で買い物をし、現役の部員と交流する機会を持った。夜は近隣の箕面(みのお)のホテルで記念総会を催し、現役部員4名も加わり楽しいひと時を持つことができた。

その際、5年後の2018年にはもっと若い期のOBにも参加してもらって、創部55年の総会を開くことが決まった。世話役のOB諸君の尽力で18期生にまで連絡を取ることが出来るようになった。総員で96名である。5期のT君の快気祝いを兼ねて、1~15期生、20人が55年記念総会の相談と懇親のため、11月13日、石川県能登半島の付け根にある和倉温泉に集い一泊した。

12、13、15期の諸君に初めてお目にかかり、彼らはまだまだ若いと羨ましく思った。海を望む部屋からの眺望もすばらしく、探検部が生まれた青春時代に戻って話が弾み、まことに心躍る旅であった。上掲の集合写真はT君の撮影によるものである。皆さん、ありがとう(^.^)

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ヤップ島の人々、その2

2014-03-01 | 探検
先月の「昭和8年と昭和45年のヤップ島の人々」の続きである。新婚旅行で訪れたことは既に述べたが、実はホテルを予約していなかったのである。というよりは予約できなかったのだ。阪急交通社を利用したのだが、当時はJTBほど海外に強くなく、ヤップ島にホテルがあることすら知らなかった。つまり予約不可能ということである。JTBに変えれば予約できたのだろうが、持ち前の探検部魂が燃え上がり、行けば何とかなる!と予約なしで出発した。

ヤップ島唯一のホテル「RAI VIEW INN HOTEL」の中年の白人女性支配人には「なぜ予約して来なかったのか」と強い非難の言葉を浴びせられた。しかし予約していても無駄だったのである。というのはアメリカの議員団が視察旅行に来ていて、予約して来た一般客はホテルに入られずに付近の建設工事人用の粗末な建物に雑居させられていたからだ。

支配人の冷淡な態度に新婚早々の妻は一計を案じた。グアムの空港で買ってきた免税のたばこ1カートンを彼女にプレゼントしたのだ。効果はてきめん。彼女の態度はコロリと変わった。「何とか泊まる所を探してあげましょう」

ホテル近くに住んでいるポーターさんというビジネスマンがちょうど商用で留守にするので彼の家に泊まれることになった。「食事はホテルに来て食べるといいわ」 女性支配人は笑顔で言った。上掲の画像は臨時の宿になったポーターさんの家の前でポーズをとる我が頼もしき新妻である。僕を信頼して付いて来て、その上気転を利かしてくれた妻には大いに感謝している。

後年、娘たちには「新婚旅行にホテルの予約もせんと、無茶苦茶やわ」と非難された。



翌日、四つの島から成るヤップ島の中の北側の島マップ島へ小さな船をチャーターして出かけた。昼食用にと、かの女性支配人は生野菜や缶詰めを用意してくれた。マップ島へ着いて海岸で泳いだり、シュノーケリングを楽しんで、さあ、昼食にしようという時になって缶切りが無いことに気付いた。わあっ、どうしよう。ここでも妻が気転を利かした。持参のチョコレートを持って村長さんのところへ缶切りを借りに行ってくれた。鍋が無いので大きな貝殻を鍋代わりに塩水に野菜や缶詰めの中身を入れて煮たてた野趣あふれる昼食が出来あがった。

下はその時、村長さんと記念写真を1枚。


以前に、ヤップ島に放置されていたゼロ戦の残骸と僕の記念写真を紹介したことがあったが、下にその時の妻とゼロ戦、そして僕たちが密かにヤップの伊達(ダテ)親子と呼んでいた格好イイ父と息子とのほほえましいスナップ写真を掲げる。





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昭和8年と昭和45年のヤップ島の人々

2014-02-01 | 探検
ヤップ島、聞いたことはあるがどのあたりにあるのか、すぐに思い浮かぶ人は少ないと思う。地図で見ればおわかりのように、グアム島から南西に700kmあまり、緯度でみるとフィリピン群島南部のミンダナオ島の東方に位置する。浅くて狭い水路(海水)で分かれた四つの小島の総称である。

第一次大戦まではドイツ領、その後太平洋戦争終了まで日本の委任統治領となっていた。現在はミクロネシア連邦の一州になっている。戦前はヤップを含むパラオ、サイパンの島々は日本にとって北方の満州国が「陸の生命線」と呼ばれていたのに対し、「海の生命線」として多くの日本人民間人や軍人が現地の人々と共に暮らしていた。

当時を映した記録映画の存在は知られていたが、無声映画の一部分が残されているだけで、その全貌は不明のままであった。ところが平成8年(1996年)トーキー付きの全フィルムが発見された。傷んでいたフィルムは補修専門家の努力によってよみがえってテレビで公開された。下の画像の「海の生命線・我が南洋群島」(昭和8年・1933年製作)がそれである。
第一級の記録映画と称せられ、当時の現地島民の暮らしぶりが克明に描かれている。上掲の映画のタイトルの下の2枚の画像に注目していただきたい。もちろん時は昭和8年ごろである。「腰みの」のみで上半身裸の女性、そして石貨が写っている。
 
石貨についてはご存知の方も多いと思う。石を円形に加工し、中央に穴を開けている。大きさは肩に担げるサイズから真ん中の画像のようにとても大きなものまである。ヤップでは材料になる石は産出しないのでパラオからカヌーで運ん来たといわれているが、手間暇がかかっているので石貨とよばれるのは当然であろう。

この映画を見ていて、昭和45年新婚旅行でヤップ島に滞在した時と人々の生活様式があまり変わっていないのに深い感慨を覚えた。もちろん昭和45年にはグアムからプロペラ機が就航していたが、3~4日に一便しか飛んでいなかったのでとても不便であった。当時新婚さんはグアムには溢れていたが、ヤップまで来るモノ好きはいなくて、ヤップ唯一のホテルの白人女性オーナーに日本人初のハネムーナーだと言われた。

下に掲げる2枚の画像はその時のもので、腰みのに上半身裸の少女と石貨が昭和8年の映画の場面を彷彿させる。妻が手にしているものは 小さくて観ずらいので恐縮ですが、新婚旅行先でもネットを振って蝶を追いかけていた亭主の収穫物を収めた三角紙を入れてある「三角缶」(チョウ屋にしかわからないかも知れません。ごめんなさいm(__)m)なのです


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