旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

メジロが我が家の庭の山茶花に初めて飛来!

2024-03-01 | その他
2024年2月11日昼前、山茶花の花が小刻みに揺れて小鳥らしきものが落ち着きなく枝から枝へ動き回っている。いつもの雀ではない。違う そっと窓際に近づいてスマホをカメラモードにして被写体を追いかけ始めた。花の間でちょこまか動き回られるとさっぱり得体が知れない。
花の隙間から頭が見えた。 メジロだ。 ここは大阪市内、幹線道路の一つ谷町筋にほど近い小さな庭である。やったー
初めてお目にかかった。もちろんこの界隈では見たことはなかった。ちょっと中心部から離れれば珍しい鳥ではないものの、近隣の公園や樹木の多い天王寺区の玉造地区に長年住んでいたのに出会えていなかったので喜びはひとしおであった。
スマホの画像なので画面は粗いが眼の白い縁取りがはっきりと出ている。
よく出会える方にとっては大したことではなかろうが、筆者の喜びはひときわ大きかった。









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大阪府立高津(こうず)高校12期生による小西英博先生追悼会

2024-02-01 | その他
筆者が高校1年生(昭和32年、1957年)の時、担任だった小西英博先生の追悼会で久しぶり‼️に高津(こうず)高校へ行ってきた。先生は厳しいけれど人気があって、筆者は1年の時だけだったが、2年、3年で担任になった生徒にも人気があって、学年の同窓会とは別に小西先生だけの同窓会があるほどだった。そんな同窓会では「今日は当てませんから・・・」と先生が笑いながらおっしゃられて授業兼同窓会が始まったものだった。
先生は筆者の大学卒業後の東南アジア諸国、特にフィリピンとボルネオのシジミチョウの分類における業績にとても関心を示され高く評価してくださっていたので、筆者は同窓会だけでなしに、一人でとか、友達と一緒にとか、先生宅に何度も伺ったり、喫茶店でお会いしたりしていた。
先生の足が不自由になり、施設に入られてからはちょうどコロナ禍の時分でお伺いするわけにいかなくなった上に、筆者の妻が急病で倒れてからはそれどころでなくなって長らくお目にかかれなかった。
去年亡くなられて今年になり有志による追悼会があったので、親しくさせて頂いた先生にようやく手を合わせることができてこころがやすらぎました。

下に同期(12期)で1年生の時に同じクラスだったM君の追悼会を紹介した文章をお借りしました。M君、お世話になりましてありがとうございました。また、写真の一部は高津高校同窓会ホームページに掲載されたものをお借りしました。当日お世話くださった同窓会事務局の方を初めとする事務局の方々にも厚く御礼申し上げます。

「高校12期生による故小西先生の追悼会は去る令和5年(2024年)1月20日、高津高校内クリエイトラボで34名(ほぼ全員82歳)の有志が出席してしめやかに開催されました。
昨年7月に逝去された先生は享年97歳、旧制高津中学出身、広島高等師範卒業後、昭和31年より13年間高津に国語の教師として奉職されるなど高津高校に縁が深く、特に教え子となった12期生にはその忌憚のない物言いながら熱意を持って接せられ人気のあった方です。
会はしめやかながらも和やかな雰囲気の中で執り行われました」

小西英博先生の記念写真を次に掲げます。

追悼会式場の台に先生の写真が飾られていました。


追悼の辞を述べる12期生たちです。



会場はアルコール禁止のため、ミネラルウオーターで献杯。


先生の遺影を囲んで。


1年D組 昭和32年(1957年)、校庭で。筆者は1年生の時、身長は150cmにとどいていなかった。
2年生になってから一挙に173cmにまで伸びた


写真に書かれているように「喜寿記念同窓会(2018年)」です。


(2019年)令和元年5月8日、H君運転の車で先生宅から遠くない外環状線道路沿いの「珈琲館」でYさんと共にお茶のひと時を楽しみました。


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庇を貸して母屋を取られる…の記

2023-07-01 | その他
太平洋戦争が終わって何年後だったのか知らないが、まだ生活が安定していなかった時代、妻の両親が二階建て住宅の角地に面した一、二階の部屋を契約書も交わさずに貸してしまった。借りた住人は懇意にしている工務店に頼み、母屋との板壁一枚を挟んで、下の写真(ずっと後の2020年秋に撮ったものである)のように、本来ならば溝に使う土地にまで迫り出して二階建ての一軒家のように作り変えてしまった。この時に抗議して原状回復してもらっていればよかったのに両親はなぜか黙認してしまった。このことにより長年迷惑を被ることになってしまった。


角地の奥へは駐車場や住宅などがあるので普通の路地部分よりはやや広い道路が通っている。母屋の前面道路は一方通行ながら車には主要道路への近道、中学生には通学路として利用され、もちろん一般の人たちも多く行き来する生活道路である。かように結構交通量がある道路に面している角地なのである。
前面道路にある玄関前に下の2枚の写真のような樹木を植えたので、長年の間に繁茂して道路が狭くなるほどになってしまった。角地から出て来る車と前の道路を行く車が衝突したり、行き交う人たちが車と接触する恐れが大いにあって近隣の人たちや町内会の人たちから危険性を指摘されて、妻は何度も借り主に樹を切っていただくようにお願いしたのにまったく同意してもらえなかった。


一方通行の下りの坂道を右に少しカーブした時に運転席からこの邪魔な樹が突然視界に入り、その先、左側の道から車や人がいきなり出て来るのだから、危険で迷惑この上ない代物である。早くに手を打たないと後々に大変な事態を引き起こすことになる。


困り果てた妻は弁護士さんを煩わせ、家賃を受け取らない代わりに居住者が亡くなったらこの二階建てを明け渡してもらう契約書を作って、署名、押印してもらった。樹を切ってくれない事に業を煮やした近隣の人たちが2020年の秋にこの迷惑な樹を切ってくれた。この時の写真が下の写真である。ずいぶんすっきりとして危険性が無くなり多くの人から感謝された。
 

居住者が亡くなって、2022年夏に明け渡してもらい、解体、更地になった様子が下の写真である。板壁一枚で隣接していた部分がブルーシートで覆われて哀れをとどめている。


2022年12月、改修工事を終えてホッとした。貸し部屋のような物でも一度貸してしまうとこんな事態になるという庇を貸して母屋を取られた顛末である。
物件が明け渡されたことも、母屋が立派に修復されたことも知らずにこの世を去った妻にこの一文を捧げたい。

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妻、緖子が大切にしまってくれていた筆者からの便りと詩

2023-06-01 | その他
2023年2月1日、「My wife Tomoko HAYASHI passed away」のタイトルで本ブログに綴ったように、妻、緖子は2022年12月11日に亡くなった。結婚しておよそ53年後である。
婚約していた1969年(昭和44年)10月2日、筆者は彼女に拙い便りと詩を送っていた。彼女は大切にそれをしまっておいていた。
彼女のやさしさと思いやりはその時代からずっと続いてきた。彼女にこころからの感謝を込めて今一度捧げたい。
(画像をクリックすると大きくなります)



緖子さん、ありがとう。何て表現したらいいのかわからないけど。ほんとにありがとう。
君に初めて会った時から、君は僕の心の中に入り込んでしまいました。毎日毎日君のことを考えない日はありませんでした。何かぼやっとしている時、嬉しい時、苦しい時、ふうっと君のことを思い浮かべてしまうのです。そしてそんな自分に、にやりとしてしまいます。きのうお話ししましたね。嬉しい時にも眠れないって。君と会う日、会った日、何だか寝つかれないのです。
僕の苦しみを君に打ちあけた時、一緒に心配してくれましたね。その夜は僕のことが心配で、心配でたまらなかったって。
僕は果報者です。僕は君を生涯の伴侶に選んだことに誇りを感じます。そして君に悲しい思いをさせて悪かったけど、僕の悩みを聞いてもらってよかったと思っています。
君なしの人生なんて、僕には考えられません。君の助けが必要なのです。苦労させるだろうけど、一緒についてきてくれますね。おかあさんが君にいやだったら、いつでも帰っていらっしゃいなんておっしゃったけど、僕は絶対に君を離さないよ。覚悟して来てくれ。
最後に強迫みたいになってしまって申し訳ない。
工事の音のあいまに(あんまりロマンチックじゃないね)、こおろぎが鳴いているのが聞こえます。君のやさしい声のようです。
すこし眠くなってきました。僕のかわいい緖子、おやすみなさい。

     10月2日              寿一
(画像をクリックすると大きくなります)



清らかに咲けるを見たり
白百合の

深きみどりの山裾の
そよ吹く風に我は見る
君がさやけきその姿
我 蝶となり 君が香の
ふくいくたるに酔い痴れん

朝霧に
楚々たる姿白百合の
含みし露をのまんとて
かの花びらに口ふれぬ

星降る夜の草原に
銀のガウンをまといたる
君が姿の淋しげに
我も添い寝の
夢を追う

明るき日射しに
我は舞い
君美しく咲き誇る 

静かな夜のくらやみは
白く映えたる花びらに
宿りし蝶の姿あり
この幸せは蝶と花
結ばれゆかん姿なり

筆者からの「便りと詩」と共に妻の中学1年生(昭和33年、1958年)の時に書いた詩がしまってあった。よほど妻が気に入っていた詩なのだと思うので紹介しておきたい。

私は雨が好き
 
私が寂しい時
雨はお庭の木の葉の上で跳ね
水溜りの水面に 小さな輪をいっぱい描いて
私をそっと 慰めてくれる

私が悲しい時
雨はお部屋の窓のガラスを濡らし
あとから あとから 流れて落ちて
私と一緒に 泣いてくれる

私が嬉しい時
傘も差さずに飛び出して
上を向いて歩いたら
私の顔をピチャピチャ叩き
良かったね と 言ってくれる

だから 私は雨が好き

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My wife Tomoko HAYASHI passed away.

2023-02-01 | その他
You will see the larger size photos, if you click on the original photos.


Tomoko HAYASHI
May 9, 1945 - December 11, 2022
Died at Koudoukai Hospital, Higashinari-ku, Osaka, Japan, at age 77.
Tomoko loved to sing and often sang while doing housework. She and her daughter would even sing together at any given time, and there was always music in the house. Everyone said that time spent with her was a tender time. Everyone who knew her said they loved her because she was so sweet and always had a smile on her face.

Tomoko was born as the eldest daughter of Mitsuo Yahata in 1945. Raised in Osaka
City, she graduated from High School Attached to Osaka Kyoiku University Tennoji
Campus, Tennoji-ku, which produced the 2012 Nobel Prize winner in Physiology of
Medicine, Shinya Yamanaka, and the Akutagawa Prize-winning author,
Noboru Tsujihara, etc.
While studying English literature at Osaka Women's University, she also served as
the head of the ESS (English Speaking Society) club. After graduation, she helped
her father's company, Yahata Koundo, a manufacturer of party horns, to export its
products to the U.S., using her English ability. In 1970, she married
Hisakazu Hayashi, the eldest son of Matsutaro Hayashi, the president of
Osaka Senbei Matsuya,
a traditional Japanese confectionary company. After their marriage, she took charge
of the Hayashi family's household chores, raising their two daughters, Mio and
Natsumi, and supporting her husband, Hisakazu, an amateur butterfly researcher
specializing in Southeast Asian Lycaenid butterflies. With her dedicated support,
Hisakazu discovered many new butterfly species in the Phillippines and Borneo,
and some of them were named after the entire member of the Hayashi family.
After Hisakazu gave up his family's traditional Japanese confectionary company,
Tomoko helped Hisakazu start an English cram school, which produced
many students.
Later, she assisted in managing the building where the traditional Japanese
confectionary company was headquartered. Her devotion continued with Hisakazu's
father, Matsutaro Hayashi (died in 1978 at the age of 67),
and mother, Toshiko Hayashi (died in 1997 at the age of 87), Tomoko's father,
Mitsuo Yahata (died in 2005 at the age of 90), and mother,
Fumi Yahata (died in 2015 at the age of 95).
In December 2019, just a year and a half after she was happy to finally have some time to herself after giving up the building and retiring, she suffered an aortic heart
dissection that caused her to suffer a stroke. She was 74 years old. Paralyzed on
the left side of her body, with brain damage and a tracheotomy, she spent
most of her time in bed at the hospital but worked hard at rehabilitation for the sake of her family.
However, due to the COVID-19 pandemic, visits were restricted during
her three years in the hospital, and she was rarely able to see her family.
The only means of communication was an iPad the family left with a medical
social worker at the hospital. On December 10, 2022, Hisakazu reported with
some photos that Natsumi, her second daughter, had successfully completed
her first semester at Knox College, where she was officially hired and began
working after receiving her master's degree from Florida State University
in the United States. It happened the day after her medical social worker
showed the message to her and messaged her family with some photos
and videos that she was eating well. After receiving a phone call from the hospital
that Tomoko's condition had suddenly deteriorated, Hisakazu rushed to the hospital,
but he could not see her alive. For her family, it was a regretful ending to her life,
having let her die after three long years of solitude in the hospital.
Her family can only hope that her loneliness will be healed and she will rest in peace.
Her family hopes that the Deramas tomokoae, which Japanese name is Tomoko
Yumedori Kirara Shijimi
lycaenid butterfly, named by Hisakazu, will continue to
fly freely in the sky with her name on it, for her sake.

You will see the larger size photo, if you click on the original photo.
Tomoko Yumedori Kirara Shijimi


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「コロン」にはこんなに種類がある!(5-5)

2022-12-01 | その他
「ロングコロン」には普通のチョコレート味以外にも下に掲げるような種類も販売されていて、父がささやかながら製造に寄与した「コロン」がこんなに息長く多種類の商品として販売されていることがわかり、グリコの会社に感謝すると共にあらためて父の業績に感じ入った次第である。



長々と「コロン」についての筆者のブログにお付き合いくださいまして、誠にありがとうございましたm(__)m

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「コロン」にはこんなに種類がある!(5-4)

2022-11-01 | その他
お菓子屋さんの店頭では見かけないが、なが~いなが~いコロンの棒と銘打った「ロングコロン」をネット上で見つけた。普通のコロンの大きさ(長さ)は約1.7㎝だが、ロングコロンは約26.5cmもある ケースのサイズは約32.3cmもある!!

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「コロン」にはこんなに種類がある!(5-3)

2022-10-01 | その他
普通のコロンと大きさは同じだが、地域限定の味を持たせている。
「信州巨峰」


「とちおとめ苺」

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「コロン」にはこんなに種類がある!(5-2)

2022-09-01 | その他
大人のさくら抹茶


大人のミルク


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グリコの「コロン」にはこんなに種類がある!(5-1)

2022-08-01 | その他
前月のブログに筆者の父と「コロン」の関わりを書いたが、「コロン」の現状を知りたくなって調べてみた(^.^) 以前からある小さなサイズの「コロン」はいろんな種類が出ていた。

「あっさりミルク」の箱の中身を出してみた。
<img


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父はグリコのお菓子、「コロン」の生みの親の一人

2022-07-01 | その他

筆者の父は大阪で太平洋戦争前から煎餅屋を営んでいた。煎餅というと全国的には薄いお餅の生地を焼いて、表面に醤油味などの液体を塗って乾燥させた製品を指しているが、大阪では小麦粉に鶏卵、砂糖、水などを混ぜた生地を、熱した上下2枚の鉄製の型で挟んで焼いた製品を意味する。大阪ではいろんな種類の煎餅が焼かれ売られていたが、たぶんヨーロッパから伝わったものだと思うが、パピロという洋風の名称で、煎餅を焼きたての柔らかい間に巻いた巻煎餅があった。これにマーガリンや砂糖を主原料としたクリームを注入し、幾つかにカットして短くし、高級感を出すためにデザインが印刷されたセロファンで包装されていたクリームパピロという製品もあった。
昭和50年(1975年)前後だったと思うが、グリコの社員の方が2名、クリームパピロのような菓子を製造、販売したいので技術指導をお願いしたいと父を訪ねて来た。工場で実際に製造している現場を社員の方は何回も見て(当時はすべて手作業でやっていた)、グリコのような大規模工場で製造する方法や手段を模索されていたのであろう。父の工場で製造した出来立ての柔らかいパピロの生地を何度となく急いでグリコの工場へ持ち帰って試作に供していた。

グリコが販売している「コロン」というお菓子、ご存知のことと思う。


煎餅屋の作るクリームパピロとは違い、巻煎餅の部分は軽く薄く小さい製品で個々に包装されてはいない。製造工程を機械化し製品を小型化し味わいも変え大量生産するには想像を絶する苦労と努力があったことだろう。「コロン」が世に出たのはもちろん大会社グリコで働く人々の努力の賜物であるが、早くに亡くなった父のささやかな協力があったことと、父の商売を支えながら筆者たち子供を育ててくれた母のことも家族の一員として忘れられない思い出である。その後もお菓子屋さんで「コロン」を目にするたびに、当時のことや父母を懐かしく思い出していた。



筆者が学生時代の1964~65年(昭和39~40年)に探検部の海外遠征隊の一員として長期間滞在していたマレイシアのサラワク州を1998年(平成10年)に再訪した折、州都クチンのスーパーの棚に「コロン」が並んでいるのを見て驚いた。父が関わった商品が遠く離れた地でも売られている現実に感激した。父が存命ならどれほど喜ぶことか うれしくもあり、誇らしくもあった。

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チャドクガとの闘い

2021-04-01 | その他
2020年1月、新型コロナウィルスはまだまだ遠い国での出来事ぐらいの認識しかなかった頃である。まわりをビルやマンションに囲まれたわが家の小さな庭に下の画像のようにサザンカが咲き誇っていた。


それから半年余りの8月、新型コロナの第2波に日本は脅かされていた。わが家の庭にも脅威が忍び寄っていた。緑に覆われていたサザンカの葉がどんどんなくなり、残った葉も枯れて茶色く縮れて哀れな姿になってきた。庭に降りてサザンカの木に近寄って驚いた 毛虫(もちろんチャドクガの幼虫)があちこちの枝や幹にびっしりと張り付いている。

埼玉県鶴ヶ島市HPより

今まで殺虫剤など使ったことはなかったのだがやむおえない。暑さの中、長袖シャツに長ズボン、手袋にマスク姿でスプレー式の殺虫剤を散布した。幼虫がパラパラと地面に落ちるだろうと思っていたのにぴくりともしない。スプレーも空になったのでその日は駆除をあきらめた。手袋と長袖シャツの間に隙間があって手首の肌がわずかに露出していたのであろう。その夜から両手首を中心に体全体に紅い発疹が出始めて痒いやら痛いやらでエライ目にあった。幸い皮膚の症状は一週間ほどでおさまったが、このままではサザンカが全滅する。新型コロナとは闘う手段は持っていないが、チャドクガ相手ならやってやる。ぼくの闘争心に火が付いた。

下図は二女がぼくのいでたちをスケッチしたものである。当時は退治することに夢中になって画像で記録を残すことは頭からスッポリと抜けていた😢
 
インターネットで退治する方法を検索した結果バーナーでの焼殺しかないと判断し実行した。もちろん新型コロナへの憎しみが後押ししてくれた。炎で焼かれても木肌にへばりついたままで落ちない。新型コロナもこのようにひつこい存在なのだろうな!!と感じた。結局、後日スクレーパーを使って掻き落として根絶した。
秋になってサザンカの木に初々しい浅緑の若葉が多数生えてきた 12月ごろから咲き始めた花は、1年前とは比べ物にならないが、救出作戦に応えて少ないながらもぼくの目を楽しませてくれた。



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和歌山県・白浜温泉のクツエビ(セミエビ)

2020-02-01 | その他
昨年(2019年)11月、兄弟皆(姉、弟二人)が元気でこの年齢まで生きながらえてきたことに感謝して、子供時代両親とともによく訪れた和歌山県白浜温泉に集った。昔、和歌山県からお手伝いさんとして来ていた女性の実家から(イセエビと比べると)クツエビなる不細工なエビを送っていただいて食したことが話題に上った。僕個人としても成人してから屋久島で食べたことがある。味はイセエビに負けず劣らず美味であった。ただ(人間から見て)容姿が劣るので主に産地で消費され、一般の市場に出回ることはまずなかった。

ウイキペディアでは、蝉海老(Scyllarides squamosus)は、セミエビ科に分類されるエビの一種。イセエビと同様温暖な浅海に生息する大型のエビで、食用になる。成体は体長30cmに達し、イセエビに匹敵する大型種である。体表は外骨格が分厚く発達して非常に堅く、背面すべてに顆粒状突起が密生し、その間に短毛が散在する。体色はほぼ全身が赤褐色で、尾扇が黄褐色をしている。インド太平洋の熱帯・亜熱帯域に広く分布し、日本では房総半島以南の太平洋岸で見られる。外洋に面した浅い海の岩礁やサンゴ礁に生息し、イセエビやゾウリエビなどと同所的に分布する。昼は岩陰に潜み、夜になると出歩いて貝類や甲殻類などの小動物を捕食する。
刺し網などによってイセエビと同様に漁獲されるが、宮崎県では市場に流通するほどの量はなく、漁獲地周辺での消費が主流である。身は美味で、ウチワエビやゾウリエビより量も多い。刺身や塩茹でなどで食べられる。市場では1kgあたり2万円の高値がつき、その多くは高級料亭に卸される。地域によっては、モンパ、クツエビ、アカテゴザ、カブトエビとも呼称されるセミエビ属 Scyllaridesは全世界の熱帯・亜熱帯域に多くの種類がある。
日本にはセミエビの他にもう一種コブセミエビ(瘤蝉海老) S. haani (De Haan, 1841) が分布する・・・と記述されている。
下に白浜温泉の料理屋で供された個体(800g)を示す。


料理されて、タイやヒラメの刺身と一緒に盛られている。


味噌汁用に頭部を取り、刺身盛り合わせ風になった。


半身を焼いてもらって味わった。プリプリと弾力性があり、おいしかった


殻を出汁に味噌汁でもいただいた。少しだが、身も残っていて満足した。



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2019年岐阜基地航空祭

2019-12-01 | その他
2019年11月10日、初めて航空自衛隊の航空祭を見物した。前日は岐阜基地近くの各務原航空宇宙記念館を見学、その夜は結構離れた地にある新幹線「岐阜羽島駅」傍のビジネスホテルに宿泊。例年多くの見物客がやって来るとのことで、当日朝早くホテルを出発し岐阜基地に向かった。基地は当然ながら広大なので基地内の移動はシャトルバスを利用、午前は北会場、午後は南会場で見物することにした。
北会場には多くの飛行機が並べられ、間近で観ることが出来た。まず目を引いたのはTPC(Test Pilot Course)設立50周年を迎えた今年の航空祭用に特別に塗装されたT4であった。


見慣れないやや小ぶりの目立つ塗装の飛行機が目に止まった。X2(心神)と呼ばれた実験機でステルス性能を持つ我が国が独自に開発した機体である。何回か試験飛行を繰り返したが、日本の航空技術ではとても実用機になれそうもないということで次期戦闘機として採用されなかったと聞いている。残念ながら再び飛ぶことの出来ない機体の写真を2枚下に掲げた。



去年は曲技飛行で有名な「ブルーインパルス」が岐阜基地に来たとのことであったが、今年は隣の愛知県小牧基地で曲技飛行を披露した後、石川県小松基地に帰投する編隊を観ることが出来たのは幸運であった。


設立50周年を迎えた今年の航空祭用に特別に塗装されたF2、その流麗な機体と特色のある塗色がバッチリ写ったのは幸運であった。F2は当初国産戦闘機として開発される予定であったが、日本の航空機開発技術の進展を警戒した米国が自国のF16にそっくりなものに変えさせたと聞いている。もちろん米国製品の販売にもつながることになった。


岐阜基地航空祭のメインイベント、異機種大編隊である。編隊の形をかえながらの飛行展示は圧巻であった。




下の2枚の画像は2種の迷彩塗装のF2が着陸後タクシング(taxiing)している様子である。


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映画 ドクトルジバゴの中のデモのシーンで使用されていたメロディ

2019-10-01 | その他
映画ドクトルジバゴを観ていて、昔に娘が少女時代に中学の音楽の授業で習ったことがあると言っていた。
デモのシーンで使用されていたメロディです

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