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旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

昔、興味に駆られてコンタクトレンズを使っていたことがあった!

2025-06-01 | その他
日本でコンタクトレンズが普及し始めたのは1951年(昭和26年)。普及が本格化したのは1958年だそうである。筆者は学生時代から近視で黒板の文字が見えにくいし、自動車免許証には必須だし、早くからメガネの愛用者であった。
ところがコンタクトレンズの看板を掲げる眼科医院が盛り場などで目に付くようになったからであろうか、1963年にコンタクトレンズを使い始めた。レンズを付けたり外したりに慣れるまで結構時間がかかったような記憶がある。そのうちに慣れたものの結局短期間使用しただけだったので、その間の顔写真はほとんどなかった。昔のアルバムを見ていてコンタクトレンズを使用している写真があったので興味半分で探したら数枚残っていた。

1964年9月出発の探検部のボルネオ遠征隊に加わることになり、遠征中コンタクトレンズが使用できなくなった場合に備えて、結局再びメガネを使用することにし、以来コンタクトレンズ使用に戻らぬまま今日に至っている。


1963年5月、経済学部で同じクラスの成績優秀だった竹内君(左側)と阪大構内の経済学部校舎近くのベンチで。後ろは教養部の建物。


1963年10月、京都府の浄瑠璃寺境内で。


1963年12月、YWCA(YMCAではありません)でのクリスマス パーティーで。並んで立っている神戸女学院の女性と生意気にもパーティーを主催する責任者を引き受けた。


1964年5月4日、5月1日から5日まで探検部の新人歓迎合宿で3班に分かれて別々のルートで大峰山を登り最終日の夕方、河合で合流した時、1期生だけで記念写真を撮ってもらった。右から3人めが筆者。

参考までに1963年4月、眼鏡をかけてる学生服姿の筆者。


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数年後に新種として記載された西表島のホタルの幼虫(メス)を目撃していた❕

2025-05-01 | その他
1991年(平成3年)9月5日から8日までOpenwater Ⅰのスキューバダイビングの認定カードを取るために、楽しい場所でと思い西表島まで行って講習を受けた。
真っ青な海、きれいなサンゴ礁、想像たがわず海の楽園だった。石垣島までは飛行機でその先は高速艇であった。旅館だったかダイビングサービスだったか忘れてしまったが迎えの車で宿に着いた。従業員の方いわく「海が荒れると食事は毎日カレーですよ!」
当時、西表島は観光客やダイビング関係者は多くても、農業や漁業に従事する人たちはほとんどいなかったので、食料品は石垣島からの船便頼りだった。あいにく台風シーズンだったので台風が来ないことを願うしかなかった。

幸い講習中はずっと好天に恵まれ、美しい海を楽しみながらダイビングのスキルを磨いていった。
最終日の前日の7日、カード取得が確実になって、夕食はみはらしの良い高台でインストラクターを交えて受講生全員でバーベキューをすることになった。
下に掲げたのがバーベキュー前の記念写真である。右端がインストラクターのMさん。


筆者のCカード


バーベキューを食べ終えたらすっかり暗くなったので、それぞれ夜道を歩いて帰途についた。道端の草の上に光っている物が目についた。細長くてじっとしている。割と大きかった。筆者はホタルの幼虫、それも新種 チョウ屋(ムシ屋)としての直感が働いた。当時はデジカメがまだなかった時代でフィルムカメラは宿に置いてきていて、カメラを取りに走って行くには遠すぎた。チョウ屋だからまあいいかと思ったもののずっと気になっていた。
その後知ったことであるが、1986年にすでに大場信義氏(横須賀市立自然史博物館)によって発見されたいたが、まだ記載はされていなかったイリオモテボタル(記載は1994年)のメスの幼虫であった。成虫は真冬に発生し、オスの成虫は翅があって飛ぶが、メスは幼虫型で、地上で発光してオスを呼ぶという。
筆者が観たのは9月初旬だから発光しているメスの幼虫であったはずである。
最終的には西表島以外に石垣島と小浜島にも分布することがわかってきた。

石垣島で自然観察ガイドをしているアースカラーネイチャーツアーズのブログに2015年1月29日に撮られたメスの写真が出ていたので紹介する。1月なのでメスの成虫である。筆者が9月に見たのは時期的にメスの幼虫であった。


オスの成虫の写真(当然冬に採集され標本にされたものであろう)がネットに出ていたので紹介する。

1991年9月7日夜、偶然に目撃しただけで標本も写真もないのに、大場氏の大発見に繋がる出会いがあったことが長年筆者の頭に残っているのでチョウの分類を専門にしている一員として楽しい思い出を披露させていただいた。
大場信義氏を始め、アースカラーネイチャーツアーズのブログを書かれた方、またオスの成虫の標本写真をネットで紹介された方に大いなる感謝の言葉を申し上げたい。
誠にありがとうございました。

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造幣局、桜の通り抜け(大阪市) 

2025-03-01 | その他
毎年4月中旬頃の桜(大半は八重桜)の開花時には、造幣局構内旧淀川沿いの全長約560mの通路を一般花見客のために1週間開放している。
筆者は幼児の時に連れていってもらったが、あまりの人ごみに疲れ果てて、二度と行きたいとは思わなかった。
令和6年(2024年)は4月5日から11日までの7日間開催された。筆者はもちろん行かなかったが、長女が見に行って筆者と同姓の名前の桜が2種類あったので、写真を送ってくれた。
下に紹介するので、1か月早く桜を楽しんでいただければ幸いである。

林(はやし)一号(いちごう)


林(はやし)二号(にごう)
立札には「仙台の植木屋、林氏が第2番目に育成した新しい八重桜で花弁数は15~18枚ある。花は淡紫色をしている。」とある。

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メジロが我が家の庭の山茶花に初めて飛来!

2024-03-01 | その他
2024年2月11日昼前、山茶花の花が小刻みに揺れて小鳥らしきものが落ち着きなく枝から枝へ動き回っている。いつもの雀ではない。違う そっと窓際に近づいてスマホをカメラモードにして被写体を追いかけ始めた。花の間でちょこまか動き回られるとさっぱり得体が知れない。
花の隙間から頭が見えた。 メジロだ。 ここは大阪市内、幹線道路の一つ谷町筋にほど近い小さな庭である。やったー
初めてお目にかかった。もちろんこの界隈では見たことはなかった。ちょっと中心部から離れれば珍しい鳥ではないものの、近隣の公園や樹木の多い天王寺区の玉造地区に長年住んでいたのに出会えていなかったので喜びはひとしおであった。
スマホの画像なので画面は粗いが眼の白い縁取りがはっきりと出ている。
よく出会える方にとっては大したことではなかろうが、筆者の喜びはひときわ大きかった。









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大阪府立高津(こうず)高校12期生による小西英博先生追悼会

2024-02-01 | その他
筆者が高校1年生(昭和32年、1957年)の時、担任だった小西英博先生の追悼会で久しぶり‼️に高津(こうず)高校へ行ってきた。先生は厳しいけれど人気があって、筆者は1年の時だけだったが、2年、3年で担任になった生徒にも人気があって、学年の同窓会とは別に小西先生だけの同窓会があるほどだった。そんな同窓会では「今日は当てませんから・・・」と先生が笑いながらおっしゃられて授業兼同窓会が始まったものだった。
先生は筆者の大学卒業後の東南アジア諸国、特にフィリピンとボルネオのシジミチョウの分類における業績にとても関心を示され高く評価してくださっていたので、筆者は同窓会だけでなしに、一人でとか、友達と一緒にとか、先生宅に何度も伺ったり、喫茶店でお会いしたりしていた。
先生の足が不自由になり、施設に入られてからはちょうどコロナ禍の時分でお伺いするわけにいかなくなった上に、筆者の妻が急病で倒れてからはそれどころでなくなって長らくお目にかかれなかった。
去年亡くなられて今年になり有志による追悼会があったので、親しくさせて頂いた先生にようやく手を合わせることができてこころがやすらぎました。

下に同期(12期)で1年生の時に同じクラスだったM君の追悼会を紹介した文章をお借りしました。M君、お世話になりましてありがとうございました。また、写真の一部は高津高校同窓会ホームページに掲載されたものをお借りしました。当日お世話くださった同窓会事務局の方を初めとする事務局の方々にも厚く御礼申し上げます。

「高校12期生による故小西先生の追悼会は去る令和5年(2024年)1月20日、高津高校内クリエイトラボで34名(ほぼ全員82歳)の有志が出席してしめやかに開催されました。
昨年7月に逝去された先生は享年97歳、旧制高津中学出身、広島高等師範卒業後、昭和31年より13年間高津に国語の教師として奉職されるなど高津高校に縁が深く、特に教え子となった12期生にはその忌憚のない物言いながら熱意を持って接せられ人気のあった方です。
会はしめやかながらも和やかな雰囲気の中で執り行われました」

小西英博先生の記念写真を次に掲げます。

追悼会式場の台に先生の写真が飾られていました。


追悼の辞を述べる12期生たちです。



会場はアルコール禁止のため、ミネラルウオーターで献杯。


先生の遺影を囲んで。


1年D組 昭和32年(1957年)、校庭で。筆者は1年生の時、身長は150cmにとどいていなかった。
2年生になってから一挙に173cmにまで伸びた


写真に書かれているように「喜寿記念同窓会(2018年)」です。


(2019年)令和元年5月8日、H君運転の車で先生宅から遠くない外環状線道路沿いの「珈琲館」でYさんと共にお茶のひと時を楽しみました。


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庇を貸して母屋を取られる…の記

2023-07-01 | その他
太平洋戦争が終わって何年後だったのか知らないが、まだ生活が安定していなかった時代、妻の両親が二階建て住宅の角地に面した一、二階の部屋を契約書も交わさずに貸してしまった。借りた住人は懇意にしている工務店に頼み、母屋との板壁一枚を挟んで、下の写真(ずっと後の2020年秋に撮ったものである)のように、本来ならば溝に使う土地にまで迫り出して二階建ての一軒家のように作り変えてしまった。この時に抗議して原状回復してもらっていればよかったのに両親はなぜか黙認してしまった。このことにより長年迷惑を被ることになってしまった。


角地の奥へは駐車場や住宅などがあるので普通の路地部分よりはやや広い道路が通っている。母屋の前面道路は一方通行ながら車には主要道路への近道、中学生には通学路として利用され、もちろん一般の人たちも多く行き来する生活道路である。かように結構交通量がある道路に面している角地なのである。
前面道路にある玄関前に下の2枚の写真のような樹木を植えたので、長年の間に繁茂して道路が狭くなるほどになってしまった。角地から出て来る車と前の道路を行く車が衝突したり、行き交う人たちが車と接触する恐れが大いにあって近隣の人たちや町内会の人たちから危険性を指摘されて、妻は何度も借り主に樹を切っていただくようにお願いしたのにまったく同意してもらえなかった。


一方通行の下りの坂道を右に少しカーブした時に運転席からこの邪魔な樹が突然視界に入り、その先、左側の道から車や人がいきなり出て来るのだから、危険で迷惑この上ない代物である。早くに手を打たないと後々に大変な事態を引き起こすことになる。


困り果てた妻は弁護士さんを煩わせ、家賃を受け取らない代わりに居住者が亡くなったらこの二階建てを明け渡してもらう契約書を作って、署名、押印してもらった。樹を切ってくれない事に業を煮やした近隣の人たちが2020年の秋にこの迷惑な樹を切ってくれた。この時の写真が下の写真である。ずいぶんすっきりとして危険性が無くなり多くの人から感謝された。
 

居住者が亡くなって、2022年夏に明け渡してもらい、解体、更地になった様子が下の写真である。板壁一枚で隣接していた部分がブルーシートで覆われて哀れをとどめている。


2022年12月、改修工事を終えてホッとした。貸し部屋のような物でも一度貸してしまうとこんな事態になるという庇を貸して母屋を取られた顛末である。
物件が明け渡されたことも、母屋が立派に修復されたことも知らずにこの世を去った妻にこの一文を捧げたい。

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妻、緖子が大切にしまってくれていた筆者からの便りと詩

2023-06-01 | その他
2023年2月1日、「My wife Tomoko HAYASHI passed away」のタイトルで本ブログに綴ったように、妻、緖子は2022年12月11日に亡くなった。結婚しておよそ53年後である。
婚約していた1969年(昭和44年)10月2日、筆者は彼女に拙い便りと詩を送っていた。彼女は大切にそれをしまっておいていた。
彼女のやさしさと思いやりはその時代からずっと続いてきた。彼女にこころからの感謝を込めて今一度捧げたい。
(画像をクリックすると大きくなります)



緖子さん、ありがとう。何て表現したらいいのかわからないけど。ほんとにありがとう。
君に初めて会った時から、君は僕の心の中に入り込んでしまいました。毎日毎日君のことを考えない日はありませんでした。何かぼやっとしている時、嬉しい時、苦しい時、ふうっと君のことを思い浮かべてしまうのです。そしてそんな自分に、にやりとしてしまいます。きのうお話ししましたね。嬉しい時にも眠れないって。君と会う日、会った日、何だか寝つかれないのです。
僕の苦しみを君に打ちあけた時、一緒に心配してくれましたね。その夜は僕のことが心配で、心配でたまらなかったって。
僕は果報者です。僕は君を生涯の伴侶に選んだことに誇りを感じます。そして君に悲しい思いをさせて悪かったけど、僕の悩みを聞いてもらってよかったと思っています。
君なしの人生なんて、僕には考えられません。君の助けが必要なのです。苦労させるだろうけど、一緒についてきてくれますね。おかあさんが君にいやだったら、いつでも帰っていらっしゃいなんておっしゃったけど、僕は絶対に君を離さないよ。覚悟して来てくれ。
最後に強迫みたいになってしまって申し訳ない。
工事の音のあいまに(あんまりロマンチックじゃないね)、こおろぎが鳴いているのが聞こえます。君のやさしい声のようです。
すこし眠くなってきました。僕のかわいい緖子、おやすみなさい。

     10月2日              寿一
(画像をクリックすると大きくなります)



清らかに咲けるを見たり
白百合の

深きみどりの山裾の
そよ吹く風に我は見る
君がさやけきその姿
我 蝶となり 君が香の
ふくいくたるに酔い痴れん

朝霧に
楚々たる姿白百合の
含みし露をのまんとて
かの花びらに口ふれぬ

星降る夜の草原に
銀のガウンをまといたる
君が姿の淋しげに
我も添い寝の
夢を追う

明るき日射しに
我は舞い
君美しく咲き誇る 

静かな夜のくらやみは
白く映えたる花びらに
宿りし蝶の姿あり
この幸せは蝶と花
結ばれゆかん姿なり

筆者からの「便りと詩」と共に妻の中学1年生(昭和33年、1958年)の時に書いた詩がしまってあった。よほど妻が気に入っていた詩なのだと思うので紹介しておきたい。

私は雨が好き
 
私が寂しい時
雨はお庭の木の葉の上で跳ね
水溜りの水面に 小さな輪をいっぱい描いて
私をそっと 慰めてくれる

私が悲しい時
雨はお部屋の窓のガラスを濡らし
あとから あとから 流れて落ちて
私と一緒に 泣いてくれる

私が嬉しい時
傘も差さずに飛び出して
上を向いて歩いたら
私の顔をピチャピチャ叩き
良かったね と 言ってくれる

だから 私は雨が好き

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My wife Tomoko HAYASHI passed away.

2023-02-01 | その他
You will see the larger size photos, if you click on the original photos.


Tomoko HAYASHI
May 9, 1945 - December 11, 2022
Died at Koudoukai Hospital, Higashinari-ku, Osaka, Japan, at age 77.
Tomoko loved to sing and often sang while doing housework. She and her daughter would even sing together at any given time, and there was always music in the house. Everyone said that time spent with her was a tender time. Everyone who knew her said they loved her because she was so sweet and always had a smile on her face.

Tomoko was born as the eldest daughter of Mitsuo Yahata in 1945. Raised in Osaka
City, she graduated from High School Attached to Osaka Kyoiku University Tennoji
Campus, Tennoji-ku, which produced the 2012 Nobel Prize winner in Physiology of
Medicine, Shinya Yamanaka, and the Akutagawa Prize-winning author,
Noboru Tsujihara, etc.
While studying English literature at Osaka Women's University, she also served as
the head of the ESS (English Speaking Society) club. After graduation, she helped
her father's company, Yahata Koundo, a manufacturer of party horns, to export its
products to the U.S., using her English ability. In 1970, she married
Hisakazu Hayashi, the eldest son of Matsutaro Hayashi, the president of
Osaka Senbei Matsuya,
a traditional Japanese confectionary company. After their marriage, she took charge
of the Hayashi family's household chores, raising their two daughters, Mio and
Natsumi, and supporting her husband, Hisakazu, an amateur butterfly researcher
specializing in Southeast Asian Lycaenid butterflies. With her dedicated support,
Hisakazu discovered many new butterfly species in the Phillippines and Borneo,
and some of them were named after the entire member of the Hayashi family.
After Hisakazu gave up his family's traditional Japanese confectionary company,
Tomoko helped Hisakazu start an English cram school, which produced
many students.
Later, she assisted in managing the building where the traditional Japanese
confectionary company was headquartered. Her devotion continued with Hisakazu's
father, Matsutaro Hayashi (died in 1978 at the age of 67),
and mother, Toshiko Hayashi (died in 1997 at the age of 87), Tomoko's father,
Mitsuo Yahata (died in 2005 at the age of 90), and mother,
Fumi Yahata (died in 2015 at the age of 95).
In December 2019, just a year and a half after she was happy to finally have some time to herself after giving up the building and retiring, she suffered an aortic heart
dissection that caused her to suffer a stroke. She was 74 years old. Paralyzed on
the left side of her body, with brain damage and a tracheotomy, she spent
most of her time in bed at the hospital but worked hard at rehabilitation for the sake of her family.
However, due to the COVID-19 pandemic, visits were restricted during
her three years in the hospital, and she was rarely able to see her family.
The only means of communication was an iPad the family left with a medical
social worker at the hospital. On December 10, 2022, Hisakazu reported with
some photos that Natsumi, her second daughter, had successfully completed
her first semester at Knox College, where she was officially hired and began
working after receiving her master's degree from Florida State University
in the United States. It happened the day after her medical social worker
showed the message to her and messaged her family with some photos
and videos that she was eating well. After receiving a phone call from the hospital
that Tomoko's condition had suddenly deteriorated, Hisakazu rushed to the hospital,
but he could not see her alive. For her family, it was a regretful ending to her life,
having let her die after three long years of solitude in the hospital.
Her family can only hope that her loneliness will be healed and she will rest in peace.
Her family hopes that the Deramas tomokoae, which Japanese name is Tomoko
Yumedori Kirara Shijimi
lycaenid butterfly, named by Hisakazu, will continue to
fly freely in the sky with her name on it, for her sake.

You will see the larger size photo, if you click on the original photo.
Tomoko Yumedori Kirara Shijimi


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「コロン」にはこんなに種類がある!(5-5)

2022-12-01 | その他
「ロングコロン」には普通のチョコレート味以外にも下に掲げるような種類も販売されていて、父がささやかながら製造に寄与した「コロン」がこんなに息長く多種類の商品として販売されていることがわかり、グリコの会社に感謝すると共にあらためて父の業績に感じ入った次第である。



長々と「コロン」についての筆者のブログにお付き合いくださいまして、誠にありがとうございましたm(__)m

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「コロン」にはこんなに種類がある!(5-4)

2022-11-01 | その他
お菓子屋さんの店頭では見かけないが、なが~いなが~いコロンの棒と銘打った「ロングコロン」をネット上で見つけた。普通のコロンの大きさ(長さ)は約1.7㎝だが、ロングコロンは約26.5cmもある ケースのサイズは約32.3cmもある!!

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「コロン」にはこんなに種類がある!(5-3)

2022-10-01 | その他
普通のコロンと大きさは同じだが、地域限定の味を持たせている。
「信州巨峰」


「とちおとめ苺」

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「コロン」にはこんなに種類がある!(5-2)

2022-09-01 | その他
大人のさくら抹茶


大人のミルク


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グリコの「コロン」にはこんなに種類がある!(5-1)

2022-08-01 | その他
前月のブログに筆者の父と「コロン」の関わりを書いたが、「コロン」の現状を知りたくなって調べてみた(^.^) 以前からある小さなサイズの「コロン」はいろんな種類が出ていた。

「あっさりミルク」の箱の中身を出してみた。
<img


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父はグリコのお菓子、「コロン」の生みの親の一人

2022-07-01 | その他

筆者の父は大阪で太平洋戦争前から煎餅屋を営んでいた。煎餅というと全国的には薄いお餅の生地を焼いて、表面に醤油味などの液体を塗って乾燥させた製品を指しているが、大阪では小麦粉に鶏卵、砂糖、水などを混ぜた生地を、熱した上下2枚の鉄製の型で挟んで焼いた製品を意味する。大阪ではいろんな種類の煎餅が焼かれ売られていたが、たぶんヨーロッパから伝わったものだと思うが、パピロという洋風の名称で、煎餅を焼きたての柔らかい間に巻いた巻煎餅があった。これにマーガリンや砂糖を主原料としたクリームを注入し、幾つかにカットして短くし、高級感を出すためにデザインが印刷されたセロファンで包装されていたクリームパピロという製品もあった。
昭和50年(1975年)前後だったと思うが、グリコの社員の方が2名、クリームパピロのような菓子を製造、販売したいので技術指導をお願いしたいと父を訪ねて来た。工場で実際に製造している現場を社員の方は何回も見て(当時はすべて手作業でやっていた)、グリコのような大規模工場で製造する方法や手段を模索されていたのであろう。父の工場で製造した出来立ての柔らかいパピロの生地を何度となく急いでグリコの工場へ持ち帰って試作に供していた。

グリコが販売している「コロン」というお菓子、ご存知のことと思う。


煎餅屋の作るクリームパピロとは違い、巻煎餅の部分は軽く薄く小さい製品で個々に包装されてはいない。製造工程を機械化し製品を小型化し味わいも変え大量生産するには想像を絶する苦労と努力があったことだろう。「コロン」が世に出たのはもちろん大会社グリコで働く人々の努力の賜物であるが、早くに亡くなった父のささやかな協力があったことと、父の商売を支えながら筆者たち子供を育ててくれた母のことも家族の一員として忘れられない思い出である。その後もお菓子屋さんで「コロン」を目にするたびに、当時のことや父母を懐かしく思い出していた。



筆者が学生時代の1964~65年(昭和39~40年)に探検部の海外遠征隊の一員として長期間滞在していたマレイシアのサラワク州を1998年(平成10年)に再訪した折、州都クチンのスーパーの棚に「コロン」が並んでいるのを見て驚いた。父が関わった商品が遠く離れた地でも売られている現実に感激した。父が存命ならどれほど喜ぶことか うれしくもあり、誇らしくもあった。

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チャドクガとの闘い

2021-04-01 | その他
2020年1月、新型コロナウィルスはまだまだ遠い国での出来事ぐらいの認識しかなかった頃である。まわりをビルやマンションに囲まれたわが家の小さな庭に下の画像のようにサザンカが咲き誇っていた。


それから半年余りの8月、新型コロナの第2波に日本は脅かされていた。わが家の庭にも脅威が忍び寄っていた。緑に覆われていたサザンカの葉がどんどんなくなり、残った葉も枯れて茶色く縮れて哀れな姿になってきた。庭に降りてサザンカの木に近寄って驚いた 毛虫(もちろんチャドクガの幼虫)があちこちの枝や幹にびっしりと張り付いている。

埼玉県鶴ヶ島市HPより

今まで殺虫剤など使ったことはなかったのだがやむおえない。暑さの中、長袖シャツに長ズボン、手袋にマスク姿でスプレー式の殺虫剤を散布した。幼虫がパラパラと地面に落ちるだろうと思っていたのにぴくりともしない。スプレーも空になったのでその日は駆除をあきらめた。手袋と長袖シャツの間に隙間があって手首の肌がわずかに露出していたのであろう。その夜から両手首を中心に体全体に紅い発疹が出始めて痒いやら痛いやらでエライ目にあった。幸い皮膚の症状は一週間ほどでおさまったが、このままではサザンカが全滅する。新型コロナとは闘う手段は持っていないが、チャドクガ相手ならやってやる。ぼくの闘争心に火が付いた。

下図は二女がぼくのいでたちをスケッチしたものである。当時は退治することに夢中になって画像で記録を残すことは頭からスッポリと抜けていた😢
 
インターネットで退治する方法を検索した結果バーナーでの焼殺しかないと判断し実行した。もちろん新型コロナへの憎しみが後押ししてくれた。炎で焼かれても木肌にへばりついたままで落ちない。新型コロナもこのようにひつこい存在なのだろうな!!と感じた。結局、後日スクレーパーを使って掻き落として根絶した。
秋になってサザンカの木に初々しい浅緑の若葉が多数生えてきた 12月ごろから咲き始めた花は、1年前とは比べ物にならないが、救出作戦に応えて少ないながらもぼくの目を楽しませてくれた。



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