旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

トモコ ユメドリキララシジミ、フィリピン・ミンダナオ島アポ山

2008-04-06 | 
Deramas 属は稀種が多く、本種も産地は限られていて、レイテ島からの記録があるようだが、確認出来ておらず、確実に分布するのは、ミンダナオ島にあるフィリピン最高峰のアポ山(3144m)のみである。

本種♂の前翅・翅表第4、5、6室には必ず青緑斑があらわれ、前に紹介した トシコ ユメドリキララシジミに見られるような変異はない。

シジミチョウというと飛翔力の弱そうな感じを受けるが、本種は結構風の強い時にも山風に乗って(利用して)飛んでいる。写真の個体も僕の持つ捕虫網のふくらみを見れば一目瞭然の風の強い日に突然あらわれて、葉上に静止したものである。

僕はこのいたずらっこの如き新種のシジミチョウに、僕のような、蝶を追いかけてどこへ行くかも知れない男に思い切って人生を託した妻、緒子(ともこ)の勇気 ! に敬意を表して     Deramas tomokoae H. Hayashi トモコ ユメドリキララシジミと名付けた。

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トシコ ユメドリキララシジミ、フィリピン・レイテ島のチョウ

2008-04-02 | 
太平洋戦争最大の決戦の舞台となったレイテ島。「死んだ兵士たちに」で始まる大岡昇平の力作、「レイテ戦記」はあまりに有名である。

「アイ・シャル・リターン」の言葉を残し、フィリピンを脱出したマッカーサーは、1944年(昭和19年)10月、「アイ・ハヴ・リターンド」の言葉と共に、圧倒的な戦力を率いてレイテ島に上陸した。

この戦いで死亡した日本の将兵は約8万人。参戦した兵士の実に97パーセントが、生きて日本に帰ることが出来なかった。レイテ戦以降の10か月間に、フィリピン全体で戦死した日本兵は47万人に達した。僕の母方の叔父も若くしてこの地で亡くなっている。

レイテ島は熊本県や静岡県とほぼ同じ大きさ、フィリピンで8番目に大きい島である。太平洋戦争当時からレイテ島最大の町である州都、タクロバンを早朝、出発。しらじら明けの中を、米軍が上陸作戦を開始したレイテ湾を左に、南北に細長い島を南下、ほぼ中央に位置するヒロシグ(Hiloshig)で車を降り、バロカゥエ山(Mt.Balocaue)を目指す。標高650mほどの低い山だが、蝶の好採集地だ。

周囲に目を配りながら、山道を歩く。ふと小型の黒っぽい蝶が視界を横切ったかと思うと、葉上に舞い降り、黒地に鮮やかな青緑色を輝かせて誇らしげに翅を大きく広げた。Deramasユメドリキララシジミ) だ!  思わず心の中で叫んでいた。デジカメのモニターのピントが合った瞬間、素早くシャッターを押す。一瞬、モニターにあらわれた静止画像を見て、うまく撮れているのを確認、胸をなでおろす。なんと僕が母、敏子の名前を付けて新種として記載したトシコ ユメドリキララシジミ  Deramas toshikoae H. Hayashi ではないか !!   僕の良き理解者であった母は上述の如く、戦争で大事な弟をここフィリピンで失っている。母はフィリピンの山野を訪れることは無かったが、母の名前の付いた蝶が無謀な戦争で命を落とした弟の終焉の地で舞っているのだと思うと少しは心が安らぐ思いがする。

本種は当初、レイテ特産種と思われたが、ミンダナオ島とミンドロ島にも産することがわかった。♂の前翅・翅表第4、5、6室に青緑斑が全く無いものから、2~3個あらわれるものまで変異があるが、裏面の色彩や♂の交尾器により、近縁の種と識別出来る。

フィリピンには小型のきれいな甲虫、ゾウムシの仲間が幾つも分布するが、蝶を追うついでに目に付いた可愛いいゾウムシを撮影、一興として図示した。

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