旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

蝶と辻原登著・闇の奥

2010-07-01 | 
この小説のカバーの帯の「太平洋戦争末期、北ボルネオで気鋭の民族学者・三上隆が忽然と姿を消した」の文字を読んで、僕は1945年(昭和20年)7月に北ボルネオで目撃されたのを最後に消息を絶ったナチュラリスト鹿野忠雄博士を思い起こした。果せるかな巻末の「主要参考文献」中に鹿野自身の著書と共に彼のことを書いた書物が挙がっていた。

僕自身、学生時代に探検部の学術調査隊でボルネオへ行ったので、彼の名前はよく知っていた。「闇の奥」では鹿野忠雄は三上隆となり、大正5年(1916年)生まれで十歳若く設定されている。さらに東京生まれの開成中学卒ではなく和歌山県田辺に生まれ、田辺中学を卒業したことになっている。これは著者、辻原登が和歌山県(日高郡印南町)で生まれ育ったので、彼の故郷に対する深い思い入れのあらわれであろう。

鹿野は昆虫や小動物の採集のみならず地理学、民族学の研究にも没頭してゆく。昭和19年軍属として北ボルネオの少数民族の調査に従事、翌20年7月現地召集に遭い、司令部に向かう途中で消息を絶った。三上も同じような経歴を経て行方不明になってしまっている。

僕が何故「闇の奥」を取り上げたかというと、もちろん蝶、それもシジミチョウが大変重要な役目を担って登場するからである。三上が伝説の矮人族(小人族・ネグリト)と密接な関係を保ちつつ、実は生存しているとの構成の元に物語は展開してゆく。昆虫少年だった三上は田辺中一年生の時に和歌山県大塔山系で初記録となるキリシマミドリシジミの雄を採集した人物としてまず名を挙げる。キリシマミドリシジミという具体的なシジミチョウの名前が飛び出して来たことに正直驚かされた。キリシマミドリシジミはミドリシジミの仲間でも特に翅表の金緑色が美しいクリソゼフィルス属の一種で、裏面の色彩が特異で雄は銀白色がきれいでよく目立つので、指標(案内役)のシジミチョウとしては打って付けである。

紀伊半島の山深くに小人族が住んでいて、太平洋戦争が終わった後、三上の旧友やその教え子たちがミドリシジミに導かれて小人村の入り口へ、二回目はついに小人たちの住む場所へ辿り着き、生きていた三上に会うのだが、この時のミドリシジミもきっとキリシマミドリシジミに違いないと思っている。

遡って、戦後すぐから三上の旧友たちによる何次にもわたる三上捜索が北ボルネオでくりひろげられていた。このくだりでも蝶が何回も登場する。たとえば「金緑色にかがやくネウモエゲニアゲハなどの群が翅をひろげて吸水に集まってくる」の記述がある。著者はとても金緑色に魅かれているようだ(実際とても美しい)が、このアゲハは実は遥か南方のインドネシアのスンバ島特産種でボルネオには生息していない。蝶に詳しくない著者のご愛嬌であろう。

三上は友人に宛てた手紙の中で、僕は蝶道のはてに小人族をみるんだ、と書いていたように、随所に蝶に関する記述が見られる。東南アジア先史民族学で三上と良きライバル関係にあったスペイン系アメリカ人で戦前からマニラに来ていたハウレギ博士が戦中、敵性外国人として日本軍に拘束、収容されていた時、三上は命がけで軍人たちとわたりあい、彼の釈放を勝ち取った。戦後ハウレギは命の恩人、三上を探しに1956年に北ボルネオへ行き、キナバル山麓で三上らしい人かげを見る。人かげが消えたあたりの樹冠の裂け目から、何十匹ものルリシジミが湧き上がるように現われ、舞いはじめた・・・とある。1982(昭和57)年、第三次三上隆捜索団が北ボルネオを訪れた。三上が歌っていたという「イタリアの秋の水仙」なるマレーの春歌をメンバーの一人が歌い出すと・・・そのとき、歌声によびかけられたかのように、サラヤとユーカリの高い樹冠から、白、黄、緑、青、橙、黒、赤、さまざまな色もようの無数の蝶がわきあがって、飛翔しはじめた・・・

まだまだ物語は展開してゆくのだが、小説の要約を紹介するのが目的ではないので、このあたりで止めておくが、何かに深く魅入られた人たちを蝶追い人と見做し、珍しい蝶が彼らをこの世界から切り離された異次元に導いてゆくように、人にとって蝶がいかに魅力的で不思議な存在として受け止められているのか、よくわかる作品といえるのではないだろうか。

なお、著者が「闇の奥」執筆にあたって、参考資料としてニュー・サイエンス社発行の拙著「東南アジアのシジミチョウI、Ⅱ」を買い求めていたことを知り、とても光栄であった。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする