旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

探検部が表紙を飾る!阪大スポーツ第35号

2010-08-02 | 探検
2010年初夏に大阪大学体育会発行の新聞(広報誌というべきか)「阪大スポーツ(通称ハンスポ)第35号」を読む機会があった。なんと探検部!の文字が一面を大きく飾っているではないか。右肩に祝・運動部昇格記念の文字が見える。

僕たちがおよそ半世紀前に探検部を作った時は体育会に入るべきか、文化会に入るべきか大いに迷った。当時は海外へ学術調査隊を送ったり、国内でも秘境(まだ残っていたのですよ、何しろ沖縄がまだ外国!だった時代ですから)を探査したりするという明確な目的があったので、当然体力や野営技術を要求されるクラブだった。従って普通なら体育会に所属すべきだったし、事実、他大学の探検部は僕の記憶している限りでは体育会に所属していた。

しかし創設当時の部員たちは体力はもちろん必要だが、頭で勝負しようじゃないかという気運が強く、結局文化会に入ることにしたのだった。とはいえ体育会が主催するマラソン大会に他の運動部に伍して参加していたし、山登りを兼ねて野営技術の習得に努めていたので、文化会と体育会の両方の要素を兼ね備えているクラブだとの自負があった。

下って大阪大学創立60周年記念誌(1991年刊)と大阪大学広報委員会発行の1993年(平成5年)7月31日付「大阪大学の動きNo.146」によると体育系、すなわち体育会所属の公認学生団体として登録されている。いつごろ文化会から体育会に移動したのかは知らないが、両誌とも大学の正式の文書なので、我が探検部は当時既に体育会所属の公認団体であったことをはっきりと証明している。従って冒頭の運動部昇格記念という語句は何を意味しているのか、大(?老)先輩としては理解に苦しむところである。

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マッカーサーの町、フィリピン・サマール島

2010-08-01 | 探検
マッカーサーとはもちろん、太平洋戦争初頭に「I shall return.」の言葉と共にフィリピンを脱出し、1944年10月、劣勢の日本軍を殲滅すべく、レイテ島に上陸したマッカーサー将軍である。

フィリピン人にとっては憎い日本兵を追い払い、祖国に平和を取り戻してくれた恩人である。レイテ島最大の町、タクロバンにあるマッカーサーランディング・メモリアル・パークには彼ら一行がレイテ海岸に上陸した時の姿を模した銅像が建てられている。ここを少し南へ下るとマッカーサーという町もある。だからマッカーサーといえばレイテとなるのだが、レイテ島の北に位置するサマール島南部にはズバリ「マッカーサー将軍、General MacArthur」という名の町(のところ)がある。

サマール島には観光スポットはほとんど無いので、日本人にはあまり馴染みのない島であるが、日本海軍の戦史においては有名な『捷一号作戦「レイテ沖海戦」』の最後の艦隊決戦の場となった「サマール島沖海戦」で知られている。

前日、シブヤン海で戦艦武蔵を失った栗田中将率いる艦隊は1944年10月25日夜明け、ルソン島とサマール島に挟まれたサンベルナルジノ海峡を突破、太平洋に躍り出た。レイテ島へ向け南進中、アメリカ護衛空母部隊と遭遇。戦艦大和の主砲が建造後初めて 敵艦に向かって火を吹き、かくてサマール島沖海戦は始まった。敵艦隊に大打撃を与えながらも後に「謎の反転」といわれるように、栗田艦隊はレイテを目前にしながら突入せず、ボルネオ島ブルネイを目指して反転、帰投していった。作戦目的をついに完遂出来なかったばかりか、栗田艦隊の残存艦は出撃時の半分以下になっていた。

この因縁ある島をレイテの山中にシジミチョウを追ったついでに訪れた。レイテとサマールの間の海峡は狭く、日本の資金と技術援助により建設された全長2.6kmのS字型をした橋でつながれていて、壮麗な眺めを楽しむことが出来た。

サマール島南部の道路を東進後、左に折れて北上し、やがて右手に太平洋が見え始めたところに目指す「マッカーサー将軍」の町があった。上掲の画像の右上がそうである。町の魚市場を覗いてみた。右側中央のように色とりどりの新鮮な魚が所狭しと並べられていた。町の人々は昔の恨みをいささかも見せず、とてもフレンドリーな笑顔で興味津津の日本人を歓迎してくれた。


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