旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

T.G.Howarthさん(元・大英自然史博物館)が亡くなられた

2015-09-01 | 

2015年4月8日、99歳で亡くなられた。氏は大英自然史博物館・1957年発行の紀要「A REVISION OF THE GENUS NEOZEPHYRUS SIBATANI AND ITO」で日本のゼフィルス愛好者のあいだではつとに知られていて、1973年秋には婦人同伴で訪日され、日本鱗翅学会・関東支部と近畿支部で「英国におけるゴウザンゴマシジミMaculinea arion LINNAEUS(現在、和名はアリオンゴマシジミになっている)の保護」について講演していただいた。
この時の訪問記と講演内容は学会誌「やどりが76号、77号」に詳しく載っている。

1942年2月15日、氏は26歳の誕生日を英国の軍属としてシンガポールで迎えたが、折悪しくこの日、彼の地の英軍は日本の軍門に降った。氏は捕虜として半年間シンガポールで過ごし、その後朝鮮半島に移送され、日本の敗戦まで計3年半に及ぶ抑留生活を余儀なくされた。氏にとって幸いなことに収容所の所長は理解ある人物で、氏に昆虫研究を続けることを許可し、もちろん監視付きであったが、採集に出かけ標本や幼虫などを所持し、次に掲げる画像の如く検閲済の朱印付きであるものの観察記録を残すことも認められた。


氏の行動は幕末の混沌とした日本におけるシーボルトの姿を彷彿とさせるものがある。この間の研究成果を氏は1949年に下の画像「極東の捕虜収容所での昆虫学、1941年―45年(PRISON CAMP ENTOMOLOGY IN THE FAR EAST, 1941/45)」として発表した。



これには新種の蛾の記載まで含まれている(下の画像)。


氏は大の親日家であったが、氏の戦時中の体験が大いに影響しているのは想像に難くない。私は1972年から73年の1年間大英自然史博物館に留学したのだが、氏は当時鱗翅目のセクション長の職に在り、一介のアマチュアに過ぎぬ私に専門家と分け隔てなく接し、丁寧に指導していただき、助手まで付けてくださった。

余談であるが、滞在中国立科学博物館の黒沢良彦博士夫妻がお出でになり、数日間ではあったが博士と机を並べ、館内を案内したことや、一緒に氏のお宅を訪ねたことが懐かしく蘇ってくる。

さて、氏は博物館を退官後、南西部のドーセット州に居を構え、研究仲間、蝶友たちとの交流の日々を送っていた。私への便りには常に住まい周辺に現れる蝶たちへのあたたかい眼差しに満ちたニュースが書き添えられていた。昨年末のクリスマスカードには氏が抑留されていた北朝鮮で終戦間際にナミアゲハ Papilio xuthus LINNAEUSの終齢幼虫を見つけ、その蛹を開放と共に英国に持ち帰ることが出来、見事に自然史博物館で羽化したことが綴られていた。
「それは素晴らしい瞬間だったよ!」

平和な世界に再び帰って来ることが出来た蝶を愛する氏が残した最後の言葉にふさわしいものであった。
謹んで氏のご冥福を祈るのみである。

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