旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

ボルネオ島で太平洋戦争中に復活した首狩りの風習・3-1

2022-03-01 | 探検
阪大探検部一期生だった僕は1964年(昭和39年)、探検部初の海外遠征隊の一員としてボルネオ・サラワク州へ出かけた。ノルウエーの貨物船で下の図に示した航路を取ってサラワク州のクチンへ行った。

元英国植民地のマレー半島の国々とボルネオ島の北ボルネオとサラワクが合併してマレーシアなる国になったばかりでサラワク州を訪問(入国)するためにはビザの取得が必要であった。
ビザ取得のためのInvitation Letterは商社員だった義兄の商売相手のサラワクの州都クチンの華僑が出してくれていてビザ取得に何の問題もないはずなのに一向にビザがおりない。
華僑に問い合わせると、クチンにあるサラワク博物館館長の英国人トム・ハリソン(Tom Harrisson)氏がOKをしないからのようだった。遠征隊からは直接ハリソン氏に手紙を出し、華僑がハリソン氏に何度もお願いに行ってくれたおかげで予定よりずいぶん遅れたが、ようやくビザがおりて日本を後にすることが出来た。

若き日のトム・ハリソン氏

クチンに到着してから博物館を訪問するたびにハリソン氏との接触を試みたが、館員は「彼は不在だ」とか何やかや理由をつけて結局一度も会うことが出来なかった。遠征隊の隊長の海野先生と僕の共著「ボルネオの人と風土」の中で触れたように、彼は1932年にオックスフォード大学探検隊の一員としてボルネオに来て先住民と知り合い、太平洋戦争末期にパラシュートでボルネオの高原に降下し、先住民に武器弾薬を与えて日本軍を攻撃させた強者で、こんな経歴ゆえに日本人には会いたくないのだろうと勝手に想像していた。

若き日のトム・ハリソン氏と仲間たち


(画像は3-1の最初を除き、すべてナショナルジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)の「Headhunters of World War Ⅱ」のものを使用させていただいた)

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