旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

樺 美智子さんと蝶

2014-06-01 | 
1960年(昭和35年)、僕のもっとも多感な年頃であった。日米新安保条約への改定を巡ってわが国に大きな騒動が起こった年である。1951年に締結された安保条約は岸信介内閣によって改定の交渉が行われ、1960年1月に岸を長とする全権団が訪米、アイゼンハワー大統領と会談し、1月19日に新条約が調印された。

新条約の承認をめぐる国会審議が始まり、安保廃棄を掲げる日本社会党の抵抗により事態は紛糾した。また、改定により日本が戦争に巻き込まれる危険が増すなどの懸念により、反対運動が高まってきた。まだ第二次世界大戦終結から日が浅く、人々の「戦争」に対する拒否感が強かったことや、東條内閣の閣僚であった岸本人への反感があったことも影響し、6月15日、デモで全学連主流派が衆議院南通用門から国会に突入した際、機動隊がデモ隊と衝突し、デモに参加していた東大の学生、樺(かんば)美智子さんが死亡した。22歳であった。この時の様子はラジオで中継され、僕は何も出来ない非力な自分を腹立たしく思っていた。

それから半世紀余が過ぎた今春、僕は意外なことを知った。樺さんは当時代々木のアパートに住んでいたのだが、大家さんが彼女の死後、残された荷物を整理していたら、中型のドイツ型標本箱6箱とその年出版された白水隆先生の「原色台湾蝶類大図鑑」が出てきたという。


標本箱の中には採集品と思われる台湾の蝶の標本が入っていた。・・・思われるというのは、破損した標本があって、標本業者から買ったような完全品ばかりではなかったからである。虫好きの甥がいた大家さんは本と標本入りのドイツ箱を彼にやった。現存するのはドイツ箱と図鑑で標本は姿を消している。両親がこれらの品々を娘の遺品だと思っていたら、大家さんに処分を任せる筈はない。真の所有者は一体誰だったのだろう。まだ外国へ自由に行ける時代ではなかったし、当時ドイツ箱も白水先生の図鑑も高価な品で僕も購入するには勇気?がいったことを覚えている。今の世ならいざ知らず、この時代、蝶マニアの女性はまず考えられないし、女性だったら両親に遠慮することなく大切な品を返してもらおうとするだろう。

彼女に自分の大事なものを託せる男性。お互いに信頼できる関係であったに違いない。標本は彼自身が採集したものとは限らない。台湾の留学生から入手したものかも知れない。事が国を、国民を巻き込む大きな問題に発展してしまって男性は名乗り出ることが出来ぬまま、大切な二人の思い出が葬り去られてしまった。僕の青年時代に起こった忘れ得ぬ大きな出来事の片隅に僕の大好きな蝶が密かに関わっていたことを知り、感慨無量であった。

蝶に縁があった彼女を思い起こすよすがとして彼女の墓誌を下に記す。

「最後に」

誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ

1956年 美智子作


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