旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

父はグリコのお菓子、「コロン」の生みの親の一人

2022-07-01 | その他

筆者の父は大阪で太平洋戦争前から煎餅屋を営んでいた。煎餅というと全国的には薄いお餅の生地を焼いて、表面に醤油味などの液体を塗って乾燥させた製品を指しているが、大阪では小麦粉に鶏卵、砂糖、水などを混ぜた生地を、熱した上下2枚の鉄製の型で挟んで焼いた製品を意味する。大阪ではいろんな種類の煎餅が焼かれ売られていたが、たぶんヨーロッパから伝わったものだと思うが、パピロという洋風の名称で、煎餅を焼きたての柔らかい間に巻いた巻煎餅があった。これにマーガリンや砂糖を主原料としたクリームを注入し、幾つかにカットして短くし、高級感を出すためにデザインが印刷されたセロファンで包装されていたクリームパピロという製品もあった。
昭和50年(1975年)前後だったと思うが、グリコの社員の方が2名、クリームパピロのような菓子を製造、販売したいので技術指導をお願いしたいと父を訪ねて来た。工場で実際に製造している現場を社員の方は何回も見て(当時はすべて手作業でやっていた)、グリコのような大規模工場で製造する方法や手段を模索されていたのであろう。父の工場で製造した出来立ての柔らかいパピロの生地を何度となく急いでグリコの工場へ持ち帰って試作に供していた。

グリコが販売している「コロン」というお菓子、ご存知のことと思う。


煎餅屋の作るクリームパピロとは違い、巻煎餅の部分は軽く薄く小さい製品で個々に包装されてはいない。製造工程を機械化し製品を小型化し味わいも変え大量生産するには想像を絶する苦労と努力があったことだろう。「コロン」が世に出たのはもちろん大会社グリコで働く人々の努力の賜物であるが、早くに亡くなった父のささやかな協力があったことと、父の商売を支えながら筆者たち子供を育ててくれた母のことも家族の一員として忘れられない思い出である。その後もお菓子屋さんで「コロン」を目にするたびに、当時のことや父母を懐かしく思い出していた。



筆者が学生時代の1964~65年(昭和39~40年)に探検部の海外遠征隊の一員として長期間滞在していたマレイシアのサラワク州を1998年(平成10年)に再訪した折、州都クチンのスーパーの棚に「コロン」が並んでいるのを見て驚いた。父が関わった商品が遠く離れた地でも売られている現実に感激した。父が存命ならどれほど喜ぶことか うれしくもあり、誇らしくもあった。

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