旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

蝶とマーティン・ブース著・暗闇の蝶

2011-10-01 | 
新潮文庫の表紙カバーの銃にとまっているのはヨーロッパキアゲハ(Papillio machaon)である。日本にいるキアゲハとはかなり趣が違っているが、キアゲハの仲間は研究者によって分類の仕方が異なっていて、日本のキアゲハをヨーロッパキアゲハの亜種とみなす場合がある。

英人Martin Boothの小説「A Very Private Gentleman」が原題で、すでに1995年に文藝春秋より「影なき紳士」として出版されている。またTVドラマ「ER緊急救命室」で名を挙げたジョージ・クルーニー主演で「The American」(邦題:ラスト・ターゲット)として映画化されている。「ラスト・ターゲット」や「影なき紳士」のタイトルでは僕の興味を惹かなかったに違いない。読んでみる気を引き起こしたのはひとえに邦訳のタイトルとキアゲハの絵であった。

主人公はミスター・バタフライと呼ばれている銃器の密造人である。当然彼の職業はおおやけに出来ない。世をあざむくために蝶の絵を描く。蝶の絵を描いて金を稼いでいるとみんなが思っているからだ。しかし彼は無理して蝶とつきあっているわけでもなさそうだ。舞台はイタリア中部の自然ゆたかな山あいの町である。少し郊外に出かければ蝶はたくさんいる。小さなものはシジミチョウから上述のキアゲハの如き大型の蝶まで・・・。

小説の一部を紹介しよう。

ヨーロッパキアゲハ、「この生き物をご覧になったことがない方には、人生でこんなに美しいものを知らないのは不幸だとしか申し上げられない。」まるで目の前に蝶の姿が浮かび上がるように詳細な描写が文字で綴られている。「とにかく優美の一言に尽きる。」 吸水に来るキアゲハの生態をゆっくり楽しむ場面に続いて「こんな美しいものを殺してしまえる人間がいることが、私には理解できない。進化の傑作を捕まえ、クロロフォルムで窒息させるか胸部を圧迫するかして命を奪い、コルク板に置いて硬直が進むのを待ち、死に凍りついたその体をガラス張りの箱にピン留めし、光による褪色を防ぐためにカーテンで覆う。そんなまねをしてなんの喜びがあるのか。私に言わせれば、不埒きわまる狂気の極みだ。蝶を殺すことに益はない。」

むやみに殺生はしていないつもりだが、僕には耳の痛い言葉だ。文章は続く、「人間を殺すとなれば、また別の話だが。」と物騒な言葉が漏れ、彼の本性があらわれる。この小説は蝶マニア向けではなく、ガンマニア向けである。ミスター・バタフライは既製の銃の改造だけでなく、まったくのゼロから銃を作ることもある。弾丸も改造したり、あらたに製造したりする。結構これらの作業の工程が詳しく書かれている。彼は今回の仕事を最後に闇の職業から足を洗うつもりだった。しかし彼が「影の住人」と意識している人物に命をねらわれていることが分かり、引退後の平和な生活への望みは捨てざるを得なかった。

そして対決の瞬間がやってきた。銃撃戦の末、ミスター・バタフライは「影の住人」に勝った。死体のそばに転がっていた銃はソシミ821(イタリア製の1983年に世に出た歴史の浅い銃)。「金属が固まりかけた血にべっとりまみれていたが、文字が刻んであるように見え、その最後の行が読み取れた─"我は過たずに殺すであろう"。」
 
ミスター・バタフライが自分の手に成る銃すべてに、彫りつけた短い詩の最後の行に他ならなかった。


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