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旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

大阪大学探検部々室(2008年)

2008-12-03 | 探検
12月に入って間もない小春日和のある日、ふと思い立って阪大豊中キャンパスへ車で出かけた。探検部で一緒にボルネオへ行き、探検部の顧問を長くしていただいていた海野一隆・名誉教授と平成8年(1996年)12月に訪れて以来だから、実に12年ぶりである。その時は、当時すでに退官しておられた海野先生のボルネオ関係の蔵書が地理学教室の金坂教授の部屋にあって、国立民族学博物館に寄贈するための整理の手伝いが理由であった。その海野先生が2年前の平成18年に亡くなられていて、今回は僕一人。時の流れとはいえ、一抹の寂しさを感じる。

昭和40年(1964年)1月、僕が探検部のボルネオ遠征から帰ると、落成したばかりのコンクリート2階建ての「明道館」と呼ばれている建物の一室に探検部の部室が確保されていた。ボルネオ遠征前は公認団体になったばかりで、部室はなかったのだからとてもうれしかった。僕たちのボルネオ遠征は毎日新聞社の後援を得て、何度も新聞記事になっていたので、学内での知名度が上がり、新参のクラブでありながら新築の建物に早速、部室を確保出来たのだ。

それから43年・・・明道館は健在であった。案内図(画像左下)を見ると、スキューバダイビング部と同居している。探検部発足当時の海洋研究班が、後にスキューバダイビング部になったと聞いていたので、納得。部室のある2階に上がる。 ひときわ目立つ看板(画像右下)!! いかにも探検部らしい??

現役の部員諸君に連絡を取って行ったわけではない上に、活動日ではなかったようで、ドアには鍵がかかっていて、部室を拝見することが出来なかったのは、ちょっと残念。でも四十数年前に僕たちが創設した探検部が変化の激しい時代を乗り越えて生き残っている\(^o^)/ 少しばかり誇らしい気持ちになった。


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知られざる熱帯の美味しい果物・マラン

2008-08-12 | 探検
クセ(悪臭)があるが、濃厚なおいしさで知られる果物といえば、ドリアン。東南アジアの旅でドリアンの季節に巡り合えば必ず食べている。しかし、昭和39年(1964年)ボルネオ島南西部のクチンで食べたドリアンの味に匹敵するものについぞ出会うことが出来ぬままであった。

ところが今回、8月のフィリピン・ミンダナオ島でついに味わうことが出来た。最近のドリアンは品種改良()されているのか、昔ほどの悪臭はしない。アポ山へ向かう道端で売っているドリアンを毎朝買っていって、おやつ代わりにその美味を堪能することが出来た。

ところで表題の果物、
マランMARANG)。ご存じの方はあまり多くは無いと思う。4年前、フィリピン・ネグロス島を訪れた時、初めて味わって「これは美味い」と驚いた。大きなボール状の果皮は柔らかくて手で簡単に割ることが出来る。中には「人差し指の頭」よりやや大きい果肉がぎっしり詰まっている。指先を突っ込んで一握りの果肉をつまみだして、一粒づつ口に入れる。種のまわりの柔らかい果肉の甘さにうっとりする。
クセのない甘さについつい食べ過ぎてしまう。

今回のミンダナオ・アポ山行は、ちょうどマランの季節でもあった。左の画像の如く、アポ山麓のマラン専門店で品定めをして、完熟したものを仕入れていく。山中で疲れて、一息入れる時の口中でとろける甘さ!!画像右の満足そうな顔をご覧いただきたい。疲れは完全に吹っ飛んでしまう。日本にいて、今や世界中のいろいろな果物を味わえる時代だが、マランが店頭に並んでいるのを見たことは無い。これはマランが非常に傷みやすく(果皮が非常にもろい)、輸送がむずかしいからであろう。

果物マニアの方、ぜひ現地で味わって下さいね




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インドネシア・ビアッ(ク)島(パプア州)の戦跡

2008-01-06 | 探検
昭和54年(1979年)ニューギニア島西部への蝶採集の帰途、ニューギニア島から西北方向にある熱帯雨林と白い砂浜に囲まれた東京都ほどの大きさの島、ビアッ(ク)島に降り立った。道ばたで敷物を広げて、唐辛子や野菜を売っていたりして、のどかな南の島の情緒がたっぷりただよっていた。

本来ならば数十分後には、アンボン島を経由してジャカルタに向け飛び立つ筈のガルーダ航空の飛行機がエンジントラブルのため、立ち往生してしまった。ジャカルタからの交換部品とエンジニアの到着を待つしかなく、翌日までビアッ(ク)島
滞在を余儀なくされた。

この島もまた、太平洋戦争で日本軍が占領した地で、飛行場の建設を進めていたが、1944年5月に上陸した連合軍との戦いで日本軍は壊滅、1万人以上が死亡した。

平坦な島で、日本軍はどのような防衛戦を強いられていたのか、不思議に感じていたが、島の南部にあって、現地の人々が代々住居としていた大きな洞窟を日本軍が占拠し、「西洞窟」と名付けて司令部として使っていたと知り、疑問が解けた。

現地の人の案内で「西洞窟」を訪れた。写真の右上2枚がそれで、最大約2千人の将兵がたてこもったという巨大な洞窟であった。遺骨は見あたらなかったが、飯ごうなどの遺留品が錆びて放置されていた。

日本国政府による「戦没日本人之碑」が建立されていたが、遺骨は多分、「西洞窟」を中心に収集されただけだったのだろう。多数の遺骨がまだ収集されずに残っているのが遺族の努力でわかり、平成19年(2007年)11月、厚生労働省の遺骨収集団が派遣され(写真、左側、朝日新聞記事)、島のあちこちから115体の遺骨を発見、現地で荼毘に付された。島北部で約4千人が死亡したとされているが、残念ながらその方面の収集はいまだ進んでいない。

深夜、故障したエンジンの調整のための爆音が響いてきて、まるで戦死者の魂の号泣を聞いているような思いをしたのが、悲しい記憶として生々しく残っている。

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旅人ひとり ・ I love butterflies !

2007-12-23 | 探検
下に掲げた詩にメロディーと歌をつけた動画「旅人ひとり」を紹介しているので、観賞してくださればまことに幸いである。




とこしえの 精神(こころ)求めて 旅人の 歩み来たれる
うす紅の さくら散りゆき 碧き空 雲の浮かべる
火の山は いずこと問えど その声の 響き空しく
旅人の ひとり彷徨(さまよ)い 涙して 岩に枕す

香り立つ 花畑縫い 群遊ぶ 美しき蝶に 
たおやかな 人の面影 ゆらめいて 心ときめく
移りゆく 世に逆らいて 旅人は 少年の秋(とき)
追い続け やがてかなわぬ 果てしなき 夢と知るのみ

白百合を 手折り抱ける やすらぎは ひとときにして
緑なす 野辺に咲きたる まぼろしの 夢のはかなき
火の山と 見えし炎は 夕映えに うつり消えゆく
火の山を 求め彷徨う 旅人は 永遠の旅路を 

  

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「旅人ひとり」の楽譜、5の1

2007-12-23 | 探検
旅人ひとり」にはメロディが付いている。 楽譜5枚の中のその1である。
ピアノ演奏に歌をつけたものを動画にしているので、観賞していただければまことに幸いである。



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「旅人ひとり」の楽譜、5の2

2007-12-23 | 探検
「旅人ひとり」   楽譜5枚の中のその2

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「旅人ひとり」の楽譜、5の3

2007-12-23 | 探検
「旅人ひとり」   楽譜5枚の中のその3

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「旅人ひとり」の楽譜、5の4

2007-12-23 | 探検
「旅人ひとり」   楽譜5枚の中のその4

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「旅人ひとり」の楽譜、5の5

2007-12-23 | 探検
「旅人ひとり」楽譜5枚の中のその5

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阪大探検部遊子会、 一、二期生同窓会

2007-11-25 | 探検
平成8年(1996年)に長野県の高原で1~7期生が集まった同窓会から11年。平成19年11月、1、2期生のうち8名が出席して、久しぶりに集いを持った。場所は和歌山県紀美野町にある2期生Y君の山荘「Y悠々庵」。

基礎以外は設計から施工、完成まですべて彼ひとりで成し遂げた。炭火のいろりや、板をふんだんに使用した和風の浴室などの、昔の日本の生活を思い起こす懐かしい設備があるかと思えば洗浄便座付きトイレやサウナといった現代的なものまで整えられている。屋根は近くの竹林の竹を割竹にして葺き、壁は丸太を柱の溝にはめ込んで、校倉造り風にするなど、随所に彼らしい野趣あふれる工夫が見られる。さすが探検部出身だと感心させられた。

彼が基礎工学部卒のエンジニアだったとはいえ、建築に関してはしろうとなのにまるで大工さんが建てた家にしか見えない。彼の勉強熱心と絶大なる努力には、我々一同、感嘆と賞賛の声をあげるしかなかった。母屋に隣接して、竃(かまど)が設けられ、詰め物入りの大きなローストチキンがこんがりとおいしそうに焼き上げられて、我々を待っていた。

和室のいろりの上には、悠々庵の自家菜園で育った種々の野菜を煮込んだポトフが入った大きな鉄鍋がかけられていた。むかご入りのご飯まで用意されていて、メタボリックシンドロームに注意せねばならない我々世代にはとても食べきれなかった。若き日の食べても食べても太らなかった時代が無性に懐かしかった。デザートは焼きリンゴ。二期生のO君が時間をかけて作ってくれた我らが現役の探検部員だった時の写真のスライドショーを楽しみながら、時の過ぎるのを忘れて深夜まで語り合った。

翌日はY君指導の下でそば打ち。生地が硬いの柔らかいの、そばが太いの細いのとワイワイガヤガヤ、皆が久しぶりに探検部の食当(調理担当)に戻ったように大いに楽しんだ。自分たちが打ったそばの味はもちろん上々で、皆、メタボのことを忘れて何度もおかわりをした。重い荷物を担ぎ、山道をあえぎながら登り下りしたこと、テントのほの暗いランプの下で、翌日に疲れが残るのに若さにまかせて夜遅くまで色々語り合ったことなど、探検部創設時の苦労を知るメンバーばかりだけに、会えば皆、たちまち昔の結束の固かった時代にタイムスリップする。

探検部員だったことを人生の大いなる誇りに出来ることを実感した二日間だった。我々にこのような機会を作ってくれた幹事役の2期生、O君とY君には心から感謝している。

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フィリピン・ネグロス島の闘鶏

2007-11-07 | 探検
僕が蝶の採集や写真撮影のために何度も訪れているネグロス島はサトウキビ畑が多く、砂糖の生産地として有名だが、日本人にはあまり知られていないが、闘鶏が盛んで蝶の宝庫、カンラオン山の麓に何カ所も闘鶏の飼育場がある。

カンラオン山は活火山で、山麓には温泉が湧出している。火山活動は活発で、最近では1996年8月に突然噴火して、山頂に居合わせた20名の登山者が遭難し、うち3名の若者が死亡する惨事が起きている。

カンラオン山の登山道に入る手前に闘鶏飼育場があるので、蝶を求めての登下山で闘鶏の鳴き声やその美しい姿を横目に見ながら通り過ぎていた。

ところが今年(2007年6月)行った時、鶏小屋が空っぽになっている(画像・左)のに気が付いた。同行のフィリピン人に聞くと倒産したのだと言う。まだ数カ所の小さな飼育場では闘鶏がノンビリと餌をついばんでいたので、大規模すぎて、経営がうまくいかなかったのかも知れない。

数年前に闘鶏の卵を日本へ持ち帰って「出し巻き」にして味わったことを懐かしく思い出した。






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オオトカゲ

2007-11-07 | 探検
北ボルネオ東岸のセレベス海へダイビングに行った時、シパダン島で昼食をとっているとジャングルの中からオオトカゲが姿をあらわした。

パンを口先に投げると、とても長い舌をスルスルとのばしたけれど、結局、パンには見向きもしなかった(当然であろうが)。

体長は1.5mを超え、島の王者の貫禄十分であった。




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トカラ列島・宝島

2007-11-07 | 探検
1968年(昭和43年)8月、毎日放送の「歌え! ヤングタウン」という番組で、阪大探検部を取り上げる企画があり、僕は既にOBであったが、現役の阪大探検部員諸君と共に出演する機会があった。部員の中には、トカラ列島の宝島へ出かけたグループがあり、放送中のやりとりで、国内でも交通不便な離島の存在を知り、当時とても興味を持ち、いつか行ってみたいという思いを抱いた。

2003年(平成15年)7月、奄美地方の梅雨明けを待ってトカラ列島・宝島へ旅立った。昔よりは当然、船は大きくなり、立派になっているが、何日かに一度、鹿児島港を出航した十島村営の船がトカラの各島を寄港してゆく、という図式は変わっていなかった。

紺青の黒潮流れる海を南下、トカラ列島最後の寄港地が宝島である。交通不便な絶海の孤島なので、色々な目的を持った人たちが降り立った。僕のようにスクーバダイビングが目的の者がいるかと思えば、鳥の生態調査の青年、魚釣りでも有名な島なので、将来は釣り師を目指している高校生などで、小さな民宿は賑わった。

釣り師志望の高校生は毎日熱心に磯釣りに出かけて、魚を持ち帰ってくれた。民宿の若き主人はダイビングのインストラクターであると共に島唯一の漁師でもある。・・・ということはダイビングに出かけた日は民宿の客は新鮮な魚にはありつけないということになる。当然、高校生の釣り上げてくる獲物に期待が集まる。

ある日の夕食、民宿の主人が腕を振るって、高校生の釣り上げたヨコシマクロダイを見事な活造り(左上の画像)にして食卓を飾ってくれた。とても美味しかった。同宿の皆は感謝、感激であった。

かの高校生は僕に釣りの手ほどきをしてくれて、釣りの楽しさを教えてくれた。ダイビング中、よくお目にかかる魚を陸上から釣る(画像・下段中)のもまた一興であった。

じっとしていても汗の噴き出す暑い暑い毎日だったが、充実した懐かしい思い出が一杯の宝島への旅であった。

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アマゾン川の夕映え

2007-11-07 | 探検
東南アジア島嶼部のチョウを追いかけてきたので、熱帯アメリカ、特に有名なアマゾン川流域の自然はどういうものか、一度この目で確かめたいという思いがつのり、出かけた。

熱帯雨林のジャングル地帯という点では、一見よく似ているが、島嶼とは違うスケールの大きさに感じ入った。

画像上段に写っている船でアマゾン川を航行したのだが、対岸に見える陸影が実は川の中にある島で、スイスぐらいの大きさだと聞いてビックリした。ブラジル海軍最初の航空母艦「ミナスジェライス」(基準排水量1万5,890トン、2001年退役)が河口から1,400kmばかり上流のこのあたりまで航行して来られたそうで、とにかく何もかもスケールが大きいのだ。(追記:2008年、3万200トンのクルーズ船「ロイヤル・プリンセス」がアマゾン川を遡行して、ここまでやって来ることを知り、驚きを新たにした。)

画像下段左のチョウの模様が「8」の字に見えないだろうか?
翅の裏面の模様が字に見えるので、和名で「ウラモジタテハ」と呼ばれている。

ピラニアを釣るには、肉の切れ端を針につけて、川に放り込んでから竿の先で川面をたたいて、丁度、動物が川に落ちて暴れているような状況を演出して、ピラニアを誘い寄せて釣るのだが、昔、ドキュメンタリー映画で、川に入った牛がピラニアの群に襲われ、見る見る内に食い尽くされていくシーンを見たが、肉食のどう猛な魚を釣るのにふさわしいやり方である。

船頭さんの手伝いに来ていた可愛い娘さんと記念撮影をしたが、二人で持っている入れ物の中身が釣り上げたピラニアである。ピラニアとひとくちにいっても結構、何種類か有るのがわかる。          

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ボルネオ・キナバル山

2007-11-07 | 探検
ボルネオ北部に東南アジアの最高峰キナバル山(4095m)がある。うっそうとしたジャングルに異様な山容を見せて屹立している。

周辺は多種多様な生物の宝庫で生物に興味を抱く者にとっては垂涎の地である。

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