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旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

大阪大学探検部・創部50周年

2013-12-01 | 探検
阪大に探検部が誕生して50年
創部の頃には50周年記念のイベントをするなどとは夢にも思わなかったことが実現した。
数年前から関西在住の1-7期のOBを中心に2期のO氏の好意で彼の会社の部屋を使って創部から約10年ほどをめどに50周年記念CD作成のための資料収集と編集作業を始めた。時には関東から1期のY氏も参加してくれたりして、有志OB諸君の熱心な共同作業の結果、今年7月に記念CDが完成してOB諸氏の手元に届けることが出来た。


記念大会はちょうど大学祭(銀杏祭)に合わせて11月2~3日に実施した。2日午後、阪急石橋駅から少し坂道を歩いて懐かしの豊中キャンパスの入口の手前、昔、阪大病院分院があり、今は阪大総合学術博物館になっている場所に約35名の老OBが参集した。我々の時代、女性部員は1名もいなくて彩りを添えてもらえなかったのが少し寂しかった(^^;)
全員で探検部部室へ向かう。探検部とほぼ同年齢の二階建ての「明道館」と名付けられた建物があり、ここに各クラブの部室が集まっていて、我が探検部も明道館が建てられた当初からここの住人であったので、懐かしき古巣へ戻る渡り鳥といった風情で部室を訪ねた。数人の現役部員と言葉を交わしながら交代で室内を見せてもらった。室内は我々の時代とは違って、予想していたより整然としていて、スチールの棚やロッカーに装備品や道具類が収められていた。探検部の海洋研究班が独立してスキューバダイビング部になり同居しているとのことであったが、実質的にはほとんど探検部が占拠して使用しているらしい。登録している部員は90名余、実際に活動しているのは30数名、女性部員が3分の1を占めているとのことで、部室が片付いているのは女性部員のおかげかも知れない。


部室見学後、模擬店で賑わう大学祭の中心部へ向かう。人ごみをかき分け探検部の模擬店を探す。ありました ゴマ団子、唐揚げ、そして酒類の水割り、ロック、ストレートがリーズナブルな価格で売られていた。店の前はたちまちOBたちで賑わい出した。


48年前(1965年)、ボルネオ遠征から帰った年の大学祭でマカイ料理と銘打って、ボルネオ先住民イバン族の料理を模して半分に割った竹筒に入れた飯、田螺(タニシ)の入ったスープなどを売ったことを懐かしく思い出した。創部当時は探検部の活動にはもちろん体力は必須であるが、知力も重視しようとの意図で体育会ではなく文化会に所属していた(現在は体育会所属)。


夕方、今夜の50周年記念パーティーの会場であり、宿舎となる箕面観光ホテルへ現役部員4名の参加を得て送迎バスで2班に分かれて向かう。冒頭に物故者に黙祷して、パーティーが始まった。我らが作った探検部が50歳、ここまでよく続いたものである。現役部員の皆さんの挨拶や抱負を聞いて、探検部魂が連綿と引き継がれており、これからも引き継がれてゆくことを確信した実に感慨深いひと時であった。



あくる3日、空模様の怪しい中を予定どうりハイキングのため能勢・妙見山へ向かった。この夏からの異常気象で綺麗な紅葉は期待薄であったが、久しぶりに見る山々の自然はやはり美しく心和ませる風景であった。


降り出した雨の中で肩を寄せ合ってバーベキューの昼食を取りながら、みんなの心の中は50年前の学生時代に戻っていたに違いない

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インドネシア・フローレス島のオーガニックコーヒー

2013-11-01 | 探検
フローレス島と言ってもピンとこない人が多いと思う。東西に長く伸びる多数の島々で形成されるインドネシアだが、観光地などとして知られる大きな島々をのぞいてはあまり日本人にはなじみのない島が多い。ヌサ・トゥンガラ諸島と呼ばれる西はバリ島の東隣りに位置するロンボク島から東はティモール島西部まで約1000の島々から成り立つ地域があるが、この中でほぼ中央に位置し東西500kmにも及ぶ細長い島である。フローレスとは「花」という意味で、15世紀にヨーロッパ人として初めてこの島に着いたポルトガル人が母国語のフローラから付けた名前だそうだ。

数年前にコモドオオトカゲで有名なコモド島へ行くためにフローレス島へ降り立った。コモドへは海路しかないので、フローレスの港を利用した。コモドからバリ島への帰途フローレスのホテル内のこじんまりとしたみやげ物店をのぞいてみると、こんな辺鄙な島には珍しいオーガニックのコーヒーが棚に並んでいた。オーガニック食品に目が無い僕は早速手に取ってみた。会社のトレードマークに何と蝶が使われている。オーガニックと蝶、僕の好物だ。あまりコーヒーを飲まない僕だがこの組み合わせは悪くない。下の画像がそのパッケージだ。


フローレスにはたくさんの活火山と休火山があって、これらの火山灰が肥沃でオーガニックコーヒーの栽培に適しているそうだ。甘いチョコレートの味がするとうたっている。帰国してから味見をした。チョコレートの味はよくわからなかったが、とてもおいしくて赤道の向こうからはるばる持ち帰った熱帯の味に舌鼓を打った。

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「旅人ひとり」 

2013-04-16 | 探検

旅人ひとり 林 寿一

僕のブログのテーマソングです。どうかご観賞ください。下に掲げたのはこの動画のジャケットです。


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「面影」 

2011-11-16 | 探検


数年前に紹介した歌曲です。下に掲げたのはこの動画のジャケットです。観賞していただければ幸いです。

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フィリピン・ミンダナオ島アポ山に地熱発電所がある!

2011-06-01 | 探検
福島第一原発の事故の後、わが国では原子力に頼らない発電の方法がいろいろ叫ばれていて、地熱発電もその候補のひとつとして有力視されているようである。

地熱発電とは地熱の熱エネルギーにより発生する水蒸気を利用して蒸気でタービンを回し電気を得る発電のことをいい、大出力ではない(2011年で53万KW)が、日本ではすでに18か所で運転されている(立地上、火山の多い東北地方や九州地方の一部に集中している)が、全発電量に占める割合はわずかに0.3%ほどに過ぎない。

長期間にわたって安定した電力を供給でき、なおかつ事故のリスクも小さいことから、運転や保守点検はごく少数の作業員によって行われている。他の発電と比べてセキュリティ上の懸念も少ないことから、無人で運転されている発電所も多い。ただし、無人の発電所の様子は遠隔地にある発電所等の施設に勤務しているオペレーターからデータ通信を用いて常時監視され、必要に応じて遠隔操作されているそうである。

地熱発電は、自然のエネルギーを利用した地球環境に優しい発電だが、わが国では適地が国立公園内にあったり、温泉地に近い場合は景観を損なうとか、周辺地域の温泉の枯渇を促してしまう可能性があるなど、さまざまの理由で設置が進んでいないのが現状である。

日本では地熱発電プラントのメーカーは数社あり、積極的に海外に進出している。僕がよく行くフィリピンは地熱発電の盛んな国で、発電量としては大したことはないのだが、全発電量に地熱発電量が占める割合が14.4%と世界で一番大きい(2007年)。

僕が蝶の新種をたくさん記載したミンダナオ島のアポ山にも日本の企業が経営している地熱発電所がある。上の画像の赤い矢印の先に蒸気が上がっているのが見られるように、山中の随所でこのような光景に出くわす(下の画像)。


蝶の採集地域に重ならないので、目にしたことはないのだが、1997年に1号機(47メガワット)、1999年に2号機(48メガワット)が完成して、極めて高い稼働率を達成し、順調に運転されているそうである。熱水にはヒ素などの有毒物を含有している可能性が高いとかで、地元住民の間にはヒ素中毒への不安があるようである。真相はわからないのでこれに関してはコメント出来る立場にないが、日本でも原子力に頼らない、かつ化石燃料を使用しないクリーンエネルギーのひとつとして積極的に利用することを考えるべきではないだろうか。

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探検部遊子会のエンブレム入りポロシャツ

2011-05-01 | 探検
昨年10月、蓼科高原で1~4期生が集まった時、遊子会のエンブレムの刺繍が入ったポロシャツをユニフォームにしようということになって、僕が世話役を仰せつかった。というのは僕は前々から個人的に遊子会のエンブレムの刺繍入りのシャツを作っていて、当日着ていってたので、これはいいや! ということになったわけである。

長袖と半袖を作ることになったが、問題はシャツのカラーである。ネービーブルーが良いと決まったが、実は僕が着ていたのは、ピマ・ポロといってシルクのような光沢と、しなやかな肌ざわりが売り物の上質のコットンを使った製品で、編み目の粗い普通のメッシュ・ポロほど色揃えが豊富ではない。案の定、皆が希望するネービーブルーは無くて、よく似た名称のトゥルーネービーはほぼブラックに近い色合いで、次に希望が出ていたダークグリーン(エバーグリーン)は品切れで入荷の予定はないとのことだった。

仕方が無いので、サードベスト?のカラーということで、ダークコバルトブルーにした。上掲の画像のシャツがそれである。ダークなる言葉が入っているが、結構明るく見える。年令よりも若返ったつもりで、思いきって着用することになっている。

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阪大探検部遊子会、1~4期生の集い

2010-11-01 | 探検
10月24~25日、長野県茅野市の蓼科高原にある「アートランド・ホテル蓼科」に1~4期生のおよそ半数にあたる18名が集った。卒業後初めて会うOBともすぐに探検部時代に戻って、旧交をあたためた。ここ数年のうちに大病を患ったOBたちも持ち前の探検部魂で病気を克服し、元気な顔を見せていた。

翌日はゴルフ組と観光組にわかれて行動した。ゴルフをしたことのない僕はもちろん観光組。ピラタス蓼科ロープウエイで標高2237mの横岳山頂へ上がり、付近を散策して北八ヶ岳の紅葉を楽しむ予定であった。ゴルフ組は無事プレイを楽しんだとのことであったが、観光組はハプニング続きで、ちょいとしんどい目をした。まず、ロープウエイ山麓駅行きのバスに乗り遅れ(フロントの人が、バスがホテルの敷地内・・・車寄せ・・・に入ってくるので、とのことだったので、安心して皆でおしゃべりに夢中になっていて、気がついた時にはバスがホテルの玄関にお尻を向けて上がって行く時で、遅かりし・・・・)、結局タクシーを呼んでもらう羽目になった。

山頂駅に着くとガスって視界はほとんどゼロ、横殴りの雨、それでも完全装備の数名は勇躍出発したが、寄る年波?には勝てず、しばらくして引き返してきた。あきらめて山麓駅に下りたが、次のバスまでは間がありすぎて、地元の人のホテルまで3キロの言葉を信じて歩き始めたものの1時間以上歩いたのに目指すホテルに辿りつかない!途中、昼食に立ち寄った「蕎麦屋」で近道を聞いてホテルに帰りついたのは、何と出発してから2時間半後、昼食時間を差し引くと2時間ほど歩いた勘定になる。地元の人の3キロは多分直線距離だったのだろう(笑)

まあ、歩いている時は雨に降られず、道路沿いの美しい紅葉を楽しめたのが救いだった。

観光組ではなくてハイキング組になった顛末である。

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探検部が表紙を飾る!阪大スポーツ第35号

2010-08-02 | 探検
2010年初夏に大阪大学体育会発行の新聞(広報誌というべきか)「阪大スポーツ(通称ハンスポ)第35号」を読む機会があった。なんと探検部!の文字が一面を大きく飾っているではないか。右肩に祝・運動部昇格記念の文字が見える。

僕たちがおよそ半世紀前に探検部を作った時は体育会に入るべきか、文化会に入るべきか大いに迷った。当時は海外へ学術調査隊を送ったり、国内でも秘境(まだ残っていたのですよ、何しろ沖縄がまだ外国!だった時代ですから)を探査したりするという明確な目的があったので、当然体力や野営技術を要求されるクラブだった。従って普通なら体育会に所属すべきだったし、事実、他大学の探検部は僕の記憶している限りでは体育会に所属していた。

しかし創設当時の部員たちは体力はもちろん必要だが、頭で勝負しようじゃないかという気運が強く、結局文化会に入ることにしたのだった。とはいえ体育会が主催するマラソン大会に他の運動部に伍して参加していたし、山登りを兼ねて野営技術の習得に努めていたので、文化会と体育会の両方の要素を兼ね備えているクラブだとの自負があった。

下って大阪大学創立60周年記念誌(1991年刊)と大阪大学広報委員会発行の1993年(平成5年)7月31日付「大阪大学の動きNo.146」によると体育系、すなわち体育会所属の公認学生団体として登録されている。いつごろ文化会から体育会に移動したのかは知らないが、両誌とも大学の正式の文書なので、我が探検部は当時既に体育会所属の公認団体であったことをはっきりと証明している。従って冒頭の運動部昇格記念という語句は何を意味しているのか、大(?老)先輩としては理解に苦しむところである。

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マッカーサーの町、フィリピン・サマール島

2010-08-01 | 探検
マッカーサーとはもちろん、太平洋戦争初頭に「I shall return.」の言葉と共にフィリピンを脱出し、1944年10月、劣勢の日本軍を殲滅すべく、レイテ島に上陸したマッカーサー将軍である。

フィリピン人にとっては憎い日本兵を追い払い、祖国に平和を取り戻してくれた恩人である。レイテ島最大の町、タクロバンにあるマッカーサーランディング・メモリアル・パークには彼ら一行がレイテ海岸に上陸した時の姿を模した銅像が建てられている。ここを少し南へ下るとマッカーサーという町もある。だからマッカーサーといえばレイテとなるのだが、レイテ島の北に位置するサマール島南部にはズバリ「マッカーサー将軍、General MacArthur」という名の町(のところ)がある。

サマール島には観光スポットはほとんど無いので、日本人にはあまり馴染みのない島であるが、日本海軍の戦史においては有名な『捷一号作戦「レイテ沖海戦」』の最後の艦隊決戦の場となった「サマール島沖海戦」で知られている。

前日、シブヤン海で戦艦武蔵を失った栗田中将率いる艦隊は1944年10月25日夜明け、ルソン島とサマール島に挟まれたサンベルナルジノ海峡を突破、太平洋に躍り出た。レイテ島へ向け南進中、アメリカ護衛空母部隊と遭遇。戦艦大和の主砲が建造後初めて 敵艦に向かって火を吹き、かくてサマール島沖海戦は始まった。敵艦隊に大打撃を与えながらも後に「謎の反転」といわれるように、栗田艦隊はレイテを目前にしながら突入せず、ボルネオ島ブルネイを目指して反転、帰投していった。作戦目的をついに完遂出来なかったばかりか、栗田艦隊の残存艦は出撃時の半分以下になっていた。

この因縁ある島をレイテの山中にシジミチョウを追ったついでに訪れた。レイテとサマールの間の海峡は狭く、日本の資金と技術援助により建設された全長2.6kmのS字型をした橋でつながれていて、壮麗な眺めを楽しむことが出来た。

サマール島南部の道路を東進後、左に折れて北上し、やがて右手に太平洋が見え始めたところに目指す「マッカーサー将軍」の町があった。上掲の画像の右上がそうである。町の魚市場を覗いてみた。右側中央のように色とりどりの新鮮な魚が所狭しと並べられていた。町の人々は昔の恨みをいささかも見せず、とてもフレンドリーな笑顔で興味津津の日本人を歓迎してくれた。


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ボルネオのガキ大将

2010-03-01 | 探検
1969(昭和44)年、東宝系列の「東京映画」制作の「ボルネオ大将 赤道に賭ける」という映画がある。北大路欣也演ずる日本人青年がボルネオを舞台に、トロール漁でエビの大量漁獲に成功、彼の恋人役が栗原小巻という設定である。

北大路欣也にはもちろん歯が立たない上に、金儲けとはおよそ縁のない話だが、この映画の公開から遡ること5年、1964年に阪大探検部のボルネオ学術調査隊の一員として、海ではなく、熱帯雨林の奥深く分け入って、原住民の村に住み込んで彼らと生活を共にした。

当時は海外に出かけること自体が大変困難な時代であり、まして現地の事情がよく分からない、いわゆる秘境へ行くとなると結構ニュース・バリューがあって、毎日新聞社が後援してくれ、現地から、また帰国してからいろいろ記事になるような話題を提供して、紙面を飾ることが出来た。

最近、当時のアルバムを見る必要ができたので懐かしさ一杯でページをめくっていて、上掲の写真が目にとまった。調査は原住民の生活とその自然環境を探るというのが目的であったが、蝶の好きな僕のこと、調査の合間に捕虫網を振ることはもちろん忘れてはいなかった。網を持って一生懸命に蝶を追っかけていると、たちまち子供たちの人気者になった。子供たちが網を貸してと持っていって、珍しい蝶を捕ってくれたこともある。

子供たちと仲良くなって、言葉は通じなくても童心にかえって一緒に遊びまわっているうちにいつしかガキ大将のような立場になってしまった。写真を見ると子供たちがそれぞれいろんな格好をして自己主張をしている姿が、なんともかわいらしい。大人たちもこの無邪気な日本人青年にこころを開いてくれるようになって、この時ほど蝶研究の趣味を持っていて良かったと思ったことはない。

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コモドオオトカゲ 4、 オトナ(大人)オオトカゲとコドモ(子供)オオトカゲ

2009-10-10 | 探検
コモドオオトカゲはコモド島周辺の島々に約2500頭が生息している。最大の個体では体長3.16m、体重は130kgにもなり、世界にいる約3400種のトカゲの中で最も大きくなる。

変温動物なので、気温が高くなる日中は動きが鈍くなり、日陰などでゴロゴロしているが、気温の低い朝夕は彼らの食事時間でエサを探して活動する。エサは野生の鹿、水牛、豚、馬などである。獲物が近付くのをじっと待ち、近くまで来たところを素早く飛びついて噛みつくという。おとなしくしているから大丈夫だと油断してはならない所以である。

産卵期は僕の訪れた8~9月で、卵の孵化には6ヵ月を要し、初めの3ヵ月ぐらいはメスが見守るが、後はほったらかしだという。オオトカゲを探して島内を歩いていた時に卵をいているメスに出会ったことがある。無事卵からかえった子供は木の上で2~3年を過ごす。これは外敵から身を守るためで、特に大人のオオトカゲに共食いされないようにだという。

従って子供のオオトカゲにお目にかかることはむずかしいのだが、幸運なことに、地上をすばしこく走る子供オオトカゲに出会って写真に撮ることが出来た。おまけに赤い舌まで出してくれている。体長は7~80cmで、レンジャーによると1才ぐらいだろうという。体型はスマートで体表には大人には見られない模様があり、画像を比較してみると、当たり前だが、いかにも新鮮で、初々しい。

画像、「上」の大人のオオトカゲもサービスに舌をちょっとだけだが、見せてくれている。残念ながら瞬間的だったので写真には撮れなかったが、赤い舌は数十センチも伸び、その上、ヘビと同様に、先が二つに割れていてなかなか見ごたえのあるものであった。

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コモドオオトカゲ 3、 孤高!オオトカゲとツー・ショット

2009-10-01 | 探検
ほとんど緑の見られない乾燥しきった山道を登る。丘の上に珍しく丈の低い樹木が繁っているのが見えてきた。手前の岩肌が露出しているところに一頭のコモドオオトカゲが寝そべっている(画像右下)。今まで海岸近くや平地でオオトカゲを見ていたので、へぇ~、こんな高いところにもいるのだ!と意外な感じがした。

彼の視線の先は低い丘の連なりとコモドの碧い海だ。なにか物思いにふけっているように見えるこのオオトカゲ、コモドオオトカゲならぬココウ(孤高)オオトカゲと呼びたくなるような威厳が備わっていた。厚かましくも彼と同じ格好をして(いるつもり\(^o^)/)、ツー・ショットを撮ってもらった。同行のレンジャーは木の枝で作った刺股(さすまた)で、万が一、オオトカゲがこの無鉄砲な男に向かって来た時のために、防御役をしてくれていた。

ちなみに左下の画像はボルネオ北東部のセレベス海にあるシパダン島でドイツのダイバー・カメラマンがかの地のオオトカゲを撮影している場面だが、コモドのオオトカゲに比べると何とかわいらしく見えることか!

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コモドオオトカゲ 2、 これでも熱帯の島なのか!

2009-09-19 | 探検
コモドオオトカゲの生息するコモド島、リンチャ島はサバナ気候帯に属する。シジミチョウを追って東南アジア島嶼の緑溢れる熱帯雨林を見慣れてきた僕はライオンでも出て来そうな荒涼とした光景に「こんな熱帯地方もあるのだ・・・」と正直、ビックリしてしまった。

右上の画像はコモド島の集落である。高床式家屋で主な生業は漁業である。コモド島地域は世界自然遺産に指定されているので、動植物をはじめとして一切の物の採取は禁止されているが、地元の人たちには漁業権が認められている。

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コモドオオトカゲ 1、 インドネシア、ヌサ・トゥンガラ諸島

2009-09-03 | 探検
赤道直下を東西に走る多数の島嶼から成り立っているインドネシア。

8月下旬、観光地バリ島のデンパサール空港を飛び立ったプロペラ機(フォッカー社製)は生物境界線として有名なウォレス線が走っている(もちろん眼に見えるわけはないが)ロンボク海峡を越え東へ、「花」を意味するフローラから名付けられたフローレス島に向かった。

まだ観光地化されていないこの島に降り立った僕は、近隣の島、リンチャ、コモド両島に渡るため、港町ラブハンバジョーから船に乗った。目的は表題にあるコモドオオトカゲに出会うためだ。オオトカゲには種類は違うが、ボルネオ北東部のセレベス海に浮かぶシパダン島にダイビングに出かけた時に出会ったことがある(画像、右)。今回のコモドオオトカゲはコモドドラゴンともいわれるだけあって、かなり迫力がある。シパダンのオオトカゲは知らぬが仏で、すぐ傍までよって撮影した(誰も制止する人がいなかったし、顔付きからみて、優しそう?に見えたので)が、コモドオオトカゲは見るからに凶暴そうだし、肉食で人間を襲うこともあるので、レンジャー付き添いでないと島内は歩けないし、一定の距離を置いて見るように、必ずレンジャ-の指導がある。

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フィリピン、ミンドロ島の山の民・マンニャン族

2009-06-02 | 探検
フィリピンには大小7000以上の島があるが、人が住んでいるのはそのうちの1000ほどである。主要11島のほとんどの島を訪れたが、ミンドロは行ったことがなかった。島の名はスペインの植民地時代に名付けられ、スペイン語でMina de Oro、「金山」を意味しているらしいが、特に有望な金脈があるわけではないので、当時のスペイン人の願望をあらわしただけのネーミングのようである。

5月にマニラから陸路で、ルソン島を南下、ミンドロ島へのアクセス拠点バタンガスの港に着いた。あいにく台風がルソン島中部を横切って西へ進んだため、ルソン、ミンドロ間の海は大荒れ、船は全便欠航していた。それでも波が収まれば出航するかも知れないので、船着き場で待つことにした。同じ期待を持つ人たちで待合い所は人の波で溢れかえらんばかりであった。夜半になってフェリーが出航することになった。船の座席に座れない人が続出。どう考えても定員オーバーだ。

港を出ると船は揺れ出し、横殴りの雨に甲板では傘などまったく役に立たなかった。数年前にフィリピンの海で定員オーバーの船が嵐で沈没して700名以上の犠牲者を出した海難事故のことが頭をよぎる。未明に目的地ミンドロ島のカラパン港に入った時は、正直ホッとした。本来ならば前日の夕刻にはカラパンの宿に到着しているはずが、明け方になってしまい、ミンドロでの初日は山に入るころではなくなった。

翌日になって、ようやく島の最高峰で、フィリピンで三番めに高いハルコン山(Mt.Halcon、2587m)を目指すことが出来た。日本にもいる山蛭だが、ここハルコン山では特に多かった。画像にあるようにガイドの男性の素足に次々とのぼって来る。僕は靴下に長ズボンだから安心しきって、シジミチョウの写真を撮ることに夢中だった。

夜になって宿に戻って、靴や服を脱ぎ始めて、驚いた。靴下、ズボンはもちろんのこと、下着まで血だらけになっていた。蛭は満腹したのか、すでに姿は無かった。シャワーで血を洗い流したが、何カ所にもわたる噛み痕からの出血は止まらない。蛭は噛むと血を吸いやすくするために、血を止まらなくする物質を出すと聞いたような覚えがある。結局、持参の綿と絆創膏で噛み口をしっかりと押えたので、幸い翌朝には出血は止まっていた。以後、ズボンの裾を靴下の中に巻き込んで輪ゴムできつく締めたので、蛭の被害には会わなくなった。

ミンドロ島には山岳地帯にマンニャン族(Mangyan Tribes)と呼ばれる先住民が住んでいる。陸稲やじゃがいもを栽培し、ラタン(籐)や蜂蜜を採取して現金収入を得たり、平地に住んでいる人々の水稲栽培の手伝いで生活している人たちもいるという。ハルコン山中で気さくな彼らと出会ったので、一緒に記念写真に入ってもらったのが、上掲の画像である。

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